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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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五つ子ショップ売上ランキングと更新報告 

随時追加 重要更新事項
この新記事は棒のせいでかなり量が増えた棍棒ではないよ
ドイツ語での研究者以外のイルミナティ情報源を信用するな!『薔薇十字団』と『近世ヨーロッパの思想と社会』が名著。ハズバラboナチス親衛隊への追撃
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-236.html


ロクアカ分析は一つ前だけどそのうちいつものロクアカ集め記事に移動させるよ
そして一つ前の記事は儒教とか論語とかの中国古典メモにする予定
陽明学ってキリスト教徒親和性あるんだよ これ読むと行きたくなりません前の記事に
更新報告へ
これのこと

この記事はまだまだ追加するけどとりあえず最新刊ロクアカ感想躰お『論語』『儒教入門』メモなどどんどん追加 (11/30)
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-235.html

随時サーバルちゃんじゃなくてサバイバルに役立ちそうなこと集 (11/24)
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-234.html

更新 工事完了完成
名前魔法②名前魔術の応用例集め。
グーグル以外の検索エンジンも使え!
悪魔祓いは悪魔に弱っちい名前をつければ簡単!
『新世界より』『ゼロから始める魔法の書』
『DEATH NOTE』 『Waltz』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-208.html


ようやく完成!
名づけの呪術の防衛術は儒教に学べ!
孔子
「適切な名前をつけよ」
「人知を超えたものを語るな」
「死んだらどうなるか知らない」
名前魔法①教科書↓メモ
ネーミング全史、タイトルの魔力、「名づけ」の精神史
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-179.html

万教帰一は他の宗教を滅ぼせが本音なので悪。
スピリチュアル♰のワンネスとアストラルの源流が新プラトン主義と16世紀のパラケルスス派。
オカルト百科の抜粋を後日追加。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-233.html

追加更新
実質ラスボスが中国思想とシステム(孔子と老子=儒教+道教)で
仏教嫌いで白人礼賛の『NieR:Automata』ニーアオートマタ。
『Undertale』、機械学習本メモ予定。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-225.html



満を持してひとまず完成
しばらく内容が増えていく予定
ウルトラな新作出そうだからさすがに完成させた。

311を予告したベガがあるのに、なぜ陰謀追及者はポケモンのガチ考察をしないのか? ポケモンは初代からスピリチュアルと科学賛美! ポケモン明= サン・ムーンの黒幕は、異次元ビーストに憑依された金髪碧眼の白人(レプティリアン)!

随時更新中 311を予告したベガがあるのに、なぜ陰謀追及者はポケモンのガチ考察をしないのか?ポケモンは初代からスピリチュアルと科学賛美! ポケモン明=『ポケットモンスター サン・ムーン』『ポケットモンスター ウルトラサン・ウルトラムーン』考察
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-129.html


以下記事の誤字訂正。
書いてかなりたつと他人の視点になるので誤字脱字をよく発見する。
釈迦自身は世の中を良くしようなんて一切考えていないからね?
自分が言っていることは世の流れに逆らうことだって言っているからね?
この記事は仏教入門におすすめ。
仏教が、釈迦が何を目指していたかを意外と隠したり目を背ける人が多いんだよね。
初期仏教は道徳的になるためでもいい人になるためのものでも生活水準を上げるためのものでもないからね。

ブッダ「女性と目も合わせないニートになれ!」『だから仏教は面白い!』『仏教思想のゼロポイント』『阿頼耶識の発見』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-154.html

真の魔法使いは神秘体験を検証、懐疑、否定、超克、制御、操作、支配、抹殺する。崇めないし信仰しない。神秘は日常そのもの。神、霊、魂、宇宙人の扱い方。語れないものを騙る輩
の記事工事中だけどタイトルに入れるの忘れてるわ



ヘブライ語入門の過去記事に追加しうて更新。アラビア語とヘブライ語は似ていると言い切れる。日常語がかぶっている。人称代名詞があれだけかぶっているのがすごいな。日油同祖論ってこじつけ詐欺かると教義だね
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-126.html

聖書読書メモは最重要なのでどんどん追加していく。
聖書で聖霊は火の鳥だと解釈できるからフェニックスが大好きな支配層。

『旧約聖書』『新約聖書』。ケルビム=四星座のグランドクロス。『ブラッククローバー』,
オウム思想を持つ、ワールドメイトの分派がモデル『劫火の教典』『懲役339年』。随時追加
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-230.html


久しぶりにツイートした

私のツイートと私の発言引用  子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2017年1月9日~
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-143.html

この3つ追加

消えたsage(宣教師工作員軍団)のリンク=ブラックリストだけ見とけばいいよ。良ツイートと記事など2017-10-18~ごろは見るなよ絶対。 new!!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-232.html

『旧約聖書』『新約聖書』。ケルビム=四星座のグランドクロス。『ブラッククローバー』『劫火の教典』『懲役339年』。随時追加
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-230.html

Fate/Grand Order(FGO)の運営こそが人類悪だと暴く統計学と数学の偉大さ!帝愛ムーンに改称すべき『空の境界』『Fate/stay night』マイナス検索「-ユダヤ」で検索すると良質な情報が増えすぎて笑える。統計学者は魔法使いMTG 。 new!!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-231.html

反イエズス会でも啓蒙主義でも反カトリックでも反王政でないのをイルミナティと呼ぶ奴は全員無知か詐欺師!
イエズス会や王侯貴族やバチカンやWASPにイルミナティという間違った名づけをするな!
「光=イルミ」もやめろ!

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-229.html






『プリンセス・プリンシパル』今やっているから見ておくべきニコ動で十日まで無料配信すべての話を公開。
考察は最終話とそのひとつ前の前まで終わり
すごい考察している人のはっお用に応じてまた改変する。

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-219.html


『となりのイスラム』『私はなぜイスラーム教徒になったのか』完成。

スピ、宗教法人、新自由主義、労働教、拝金主義、自己実現教(=エリート主義)を否定するイスラームの弱者救済策!『となりのイスラム』『私はなぜイスラーム教徒になったのか』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-223.html



重要な個所追加

結社名でメイソン以外思い浮かばない奴は読むな!→
ドラえもんの暗記パンとYahoo!とヤプーとラピュタの元ネタはメーソン製
の『ガリヴァー旅行記』!←けものフレンズへも影響?
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-224.html









これやろうかなー
身内にブログ辞めろって言われた時の対策にこれだけ設けましたって見せたいのよん。
武器商人企業だろうが働いて金稼いだら立派らしい労働教対策さ





koujiこうじちゅ隣イスラムとかより前にちょっとずつやってたメモ考察が終わったので上げると言うかこっちが先に終わるとは思わなかったまえまじでかなり前からすこしずつ作ってきた記事が先に終わってしまったぞ
古典 物語部門おすすめ
ガリバー旅行記の分析更新完了芥川龍之介『河童』、『異世界転生したけど日本語が通じなかった』記事だよ
プリンセスプリンシパル7話まで考察終わり
イスラームhitotu 記事完成
いつつごショップやり始めて早速いろいろ売れていてうれしいな

2017/8/31時点で本ブログの一日当たりの来場者数(確か同じ人はカウントしないはず)が80~110。
これかなり多い方らしいよ。


稲生平太郎『定本 何かが空を飛んでいる』

【空飛ぶレイシズム】ってピンと来ませんか?
この本読んでいない人と宇宙人が支配者か談義したくないなあ
って思っちゃうほどの名著であり、有名な本。
ごみ本だらけで当たりを引きにくい宇宙人本の中で私が一番優れていると断言できるレベル。
だから何回も分けて記事にしたでしょ?店に追加した。旧版は絶版でプレミアがついているはずなので古本屋とかで見かけたら確保しといた方がいいよ。アマゾン見たら旧版の方が高価。
魔法入門もあるかもよ。


やっぱりここにR17.9画像を載せようかな。
 一番需要ありそうなので一番上に持ってきた更新報告
ぷりぷり考察挙げた
一応完成
英語の勉強にどうぞ。現代の陰謀論の父はイエズス会士のバリュエル神父!
ベネディクト会修道士でスパイで外交官でタクシス家とつながりありのホーンが、ロビソンにメイソン・イルミナティ陰謀論のネタを提供。
リベラと同じくプロテスタント側の陰謀論者フェルプス(バチカン限定陰謀論)をカトリックのboが叩くのは当然!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-194.html

完成したこの本のメモ
最優先必読書
『実戦スパイ技術ハンドブック』


メモ 
『実戦スパイ技術ハンドブック』
護身術にも最適!
エシュロンの効果範囲や警察車両を追跡できるソフト(オウムが開発)を購入していた警視庁など暴露満載!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-217.html


下の記事だいぶ増えたホーンのところ終わったというかホーンがバリュエルの次に重要
タクシス出てきたぞ
ベネディクト会修道士の暗躍を調べろ!

陰謀論でも欧米で使い古れたものの廃棄場が日本。
おそらくホーンとロビソンは日本語で初紹介では?
ホーンがやばいな




これからの方針
過去の工事中を完了させる
さすがに未完成が多すぎる
更新頻度はいつも通り適当


2016/04/19 【陰謀論のタブー集】
工事中 元祖イルミナティ(反オカルト)設立にロスチャイルド(ヘッセン=親オカルト)が関わっていたなんて大嘘! バチカン陰謀論言っている奴がプロテスタント原理主義で単なるキリスト教の派閥争いだったことに『またかよ』と言いたい。ねここねこのいうキリスト教はそれを中核とするシステムと思想すべて。というかゴッドなんて妄想。部ろっぐったーこの記事の準備 ユダヤ陰謀論者が超嫌がる質問集にする予定~文章技術について私が守っていること②(①の実践編)~
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-119.html


良質動画シリーズ


石田三成と柿とポンペイ
ゆっくりとりとめのない話27
http://www.nicovideo.jp/watch/sm31738823
(ポンペイの貯水槽は
高い位置から
貴族の水道管、
一般市民の水道管、
下級市民の水道管と低くなっており、
つまり水不足で貯水槽の水位が下がると、
高い位置にある金持ちの水道管から水が出なくなる。
金持ちは金で水が買えるから。
金で水が買えない貧乏人は無料で水が供給され続けるようにしている。
非常に公平。
日本は真逆。)


良ツイート






超おすすめ漫画 
ファイアパンチ
完全教祖マニュアル漫画版とも読める。


名言



これ見て気になったら
ジャンププラスで1話を読んで、
他の公開されている話を読んで意味不明な感じになって
買うなり借りるなりするなりして読んでおくれ






これはパンツマン見てて思いついた。
ファイアパンチのモデルの一つってゴーストライダー?
アンパンマン+インドの火の神アグニでもある。
ゾンビに消えない炎を着火して敵に送り込むとか思いついた。








五つ子ショップ


アマゾンへのリンクを私は張っているが何が一番売れたのだろうか?
あ、5000円くらいもらえました。
ありがとうございます!
言っとくけど、2年くらいブログやっててだよ?
アフィリだけで生活している人ってどれだけの化け物だよ!
アマゾンアソシエイトのレポートで
今現在2017/8/13時点での売り上げ冊数ランキング。

1位 6冊

現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇 (ちくま新書)

大田 俊寛 先生のオウム本も読んでおこう。
大田先生はオウムシンパじゃないよ。
日本の宗教学者にオウムシンパがいるから注意ね。
大田先生が誰がオウムシンパか書いてくれているよ。
あと大田先生は日ユ同祖論を否定しているよ。


日本の歴史をよみなおす (全)

もののけ姫のおかげかな?
これ読んでから教科書読むと面白い。

両者とも1位でおかしくないね。


2位 4冊

禅の本―無と空の境地に遊ぶ悟りの世界 (NEW SIGHT MOOK Books Esoterica 3)

このシリーズって質がいいよね。
日蓮があるのはそりゃあ小学館と学研を支配するオーガ家が日蓮宗だからだろう。
空海と親鸞もあるね。

3位 3冊

完全教祖マニュアル (ちくま新書)

この本は抜群に面白いからね。
教祖の視点は経営者の視点であり
つまり支配層の視点であるから、
この視点を獲得することで支配層の動きが読めるようになる。
陰謀を見破れるのは陰謀を企んだ(仮定、思考実験でOK)者だけだ!


イメージ・シンボル事典

高いのにありがとうございます!




4位 2冊

国家 上下

詭弁術の本か、ネットの詭弁のガイドラインを読みながら読むべし!
ソクラテス、プラトン先生、いくらなんでも詭弁つかいすぎだろ。


新訳 君主論 (中公文庫BIBLIO)

この本は抜群に面白いからね。
教祖の視点は経営者の視点であり
つまり支配層の視点であるから、
この視点を獲得することで支配層の動きが読めるようになる。
陰謀を見破れるのは陰謀を企んだ(仮定、思考実験でOK)者だけだ!
大事なことなので2回書きました。


ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法

仏教思想を漢字の熟語なしで説明しているので実に勉強になる。
そりゃあ英語圏の人向けのほうが説明が丁寧になるよね。


チベット密教 修行の設計図

支配層があがめているチベット系スピリチュアルを、
本場チベットの仏教が完全否定していて苦笑いしたぞい。
考えないのはダメだと言っているぞい。
インド由来の思想は論理的思考重視なのが本流だぞい。



非常民の民俗境界―村落社会の民俗と差別


サンカに手を出すな!って明言してて、
偽系図作る仕事があるとか書いてあるすごい本だと紹介したからかな?
なぜ夜這いのほうを買わないんだ!←これだけは言いたかった。


魔法入門

うげ、すさまじい値段だ。
両方とも2万円超えているではないか!
紹介料600円超えってすごいな。
これ新版出ない限り値段もっと上がるぞ。
買ってくださったかた、本当にありがとうございます!
古本屋やフリマなどで格安で買うか、
図書館で借りるか、
英語版買うなどの手がありますので、
高くて読めないとあきらめないでください。
詳しくメモを書いたからメモだけで中核はつかめるだろうけど。


5位 1冊
残念ながら注文数1は多いので割愛
しようと思ったけど少しだけ紹介。
世界シンボル大事典

を1冊買ってくださった方がいらっしゃいます。
ありがとうございます。

実践魔術講座 リフォルマティオ

1冊購入された方へもお礼申し上げます。
同じ人かもしれないな。

ちなみに、高額ランキングは
1位 魔法入門
1974年 角川文庫版
22,450円 紹介料674円

カバラの密儀 出帆新社スピリチュアル・シリーズ版
22,166円 紹介料665円


2位 世界シンボル大事典 14,000円 紹介料420円
3位 実践魔術講座 リフォルマティオ 12000円 紹介料360
4位 イメージ・シンボル事典 8,000円 紹介料240円

紹介料見ると、
アフィリだけで生活している人って万単位のをたくさん売っているのかな。
ちなみに、アマゾンアフィリは5000円は額が貯まらないとお金はもらえません。
マリアはおセックスしてません!



FC2ブログのトップページを固定する方法 個別記事の日付を未来の日付にしてしまう
Posted on 2037.12.31 Thu 23:59:59
あれ9999年にしたのにな。2038年問題が関係しているらしい。
これで一番上に来るから更新報告に使おう。
日頃のご愛顧、誠にありがたき幸せ!
2017/8/14時点で
ブログ拍手数953!


ねえねえ
偉い店長ブログにさ
【この記事はおよそ5分で読めます】これこのブログだととんでもない時間になりそう
下の共有ボタンで共有してもらえると書く気力がわきます。

木戸銭をください。こちらから買い物をすると筆者の収入になります。
欲しいものリストはこちらです。
ってあるんだけどさ私もやろうかな。
五つごショップは実験なのさ。魔法入門売れすぎてびっくり。
他にもお買い上げの方のおかげであふぃりでまた五千円もらえそう
なお二回目ね。つまり今までブログやってきてアフィリでもらえた額がようやく一万円になりそうなのだ。
一万円あれば三冊ぐらい買えるな。十冊じゃないよ

まあ、ねここねこがお金に困って来ているんだなと察してくだされ。
自分の影響力を確かめたいのもある。

ねえ、さゆふらって本当に寄付だけで生きているの?
もぐらさんですらピンチの時に十万円ぐらいもらったていどだっけ?



3M 防護マスク 9210 N95 20枚入
5つ星のうち 3.6 (54)
¥ 3,240
を入れてほしいものリストに入れて公開しようとしたのだが、
こういうことをするまえは必ず念入りに調べる癖をつけておいてよかったぜ。
公開しません。



”注文履歴から、配送状況の確認をクリックします。
画像省略
うわー!全然非公開じゃねえじゃん!w

もちろん、氏名はニックネームにしていれば大丈夫です。

どこぞの県でどこぞの区までがわかっちゃいますね。
区まで絞れれば、根気あるストーカーなら時間の問題でしょう。女性の方は特に注意してくださいませ。”
https://hr-diary.com/kojiki
ほしい物リスト公開乞食はいいけど、住所がちょいバレしますぜ。



え、これってつまり、アマゾンの欲しいものリスト公開してくれたら支援しますよ~って言った人ってまさか!
何市までばれたらまじ身バレするよ。
方法はここではかかないけどストーカーの手口を調べてみたらいいんじゃないかな。

ってか
アマゾン ほしいものリストで検索するとサジェストに 乞食 って出るんだけど。
いや、やりかたとそれをする本人のすごさによるよね。
もぐらさんがやったら支援するぞ。フェイド大帝が復活してそれやっても支援するけどその前にやめてもらうけど何死までばれるっていうよ。もぐらさんは公開済みなのでいいや。え、顔も住所も公開して陰謀追及している奴は怪しいって?もぐらさんって顔とか公開してから急に発言しなくなったような。というかモト嫁がかなり怪以下略蜜罠疑惑が
だってスパイは普通にターゲットと子供作るもん 
人質を作るためにね!




永觀堂雁琳(えいかんどうがんりん) (@ganrim_) さんも


固定ツイートが


” 皆様の喜捨を
永觀堂雁琳で御座います。皆様方​におかれましては益々の御厚誼御​厚情を賜りまして誠に有難う御座​います。”
だし。
高い本ばかりだな。


” 雁琳さんはどうして右翼になったんですか?
over 1 year ago

取り敢えず「どのように」から答えますと、明確に右になったのは、中1の頃、つくる会が出してた扶桑社の『教科書が教えない歴史』を読んでから、でしょうかねぇ。それまでも天皇皇后両陛下は偉い人だと思ってたし、日本の悪さしか教えてくれない学校の歴史教育や平和教育は何かヘンだ、平和憲法なんかで国が守れるのかな、攻めて来たらどうするんだろうなとずっと思ってたのが、そこで一気に繋がった感じでした。中学時代は歴史好き司馬遼太郎好きのネトウヨでしたねぇ。
「どうして」という理由に及びますと、その時から漠然とした感情のレベルで、自国の歴史や文化の連続性を尊ぶ感情や「天皇はずっと続いてるし偉いもんだ」位の尊皇心、祖国に対する愛情や忠誠心があったからでしょうね。
”https://ask.fm/sho36ban

生長の家信者だったら笑う。




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イスラームと中東情報はアラビアと現地語ができる人から得よう!原語無視のクルアーン解釈は粗デマ!『イスラム飲酒紀行』『イスラーム思想を読みとく』『クルアーン入門』 

イスラームと中東の情報源はアラビア語と現地の言語ができる人からでないとデマ度が高い!
英語は不正確。


前記事にシーア兄貴のツイート追加。
シーア派神学をイラン現地で学んでいる人なので大変な価値があるし
本人が言う通り銭を取れるレベル。











酒などについて誤解している人が多そうなのでとまとさんツイートを載せておく。



例えば豚肉。

自販機で売ってるソーセージとか
あるだろ?魚類の。
アレの成分表をチェックして豚の脂
を使用してないか確認する程の
徹底ぶりだぞ?

wikiの言う「緩〜いトルコ人」
の話だぜ?w


#FateGO
#FGO



本来は「酒は人の理性を狂わせるから」
というのが理由ですが、アレは
神の言葉で書かれた本という前提
なので、そこに人間の都合が入り込む
余地が無いんですよ。
「書いてある以上どうしようもない」
ってのが理解出来てない。


要は司法試験を首席で合格した
東大卒の裁判官が法解釈するのとは
次元の違う問題なんですよ。

実際はイスラームの法学者達が
色々解釈をしてはいますけどw

少なくとも何の理由も無く
キャラが酒を簡単に飲むのはマズイ。


文化の違いがある以上、異教徒の
日本人がイスラームについて無知
なのは仕方ないと思いますし、
アラブ人もそこは責めてこないと
思うんですよ。



ただ、きのこみたいなベテランの
プロ作家が入門本に書かれてある
初歩的な知識のリサーチを怠って
いたと言うのは、客観的に見ても
問題ありだと思いますね。

すんごい難しい事を勉強しろ!
ってわけじゃないですから。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2016年8月6日
なんか東方見聞録にアサシン教団が
飲酒してたと書かれてる?
(多分、間違いだと思いますが)
と指摘する人達もいますが、
そもそも人間であるマルコポーロと
神であるアッラーを比較する事自体が
おかしいと気付かなきゃいけない。

#FateGO
#FGO


イスラーム教徒に取ってマルコポーロの
著作なんざどうだっていい。

人間の書いた戯言がなぜ神の言葉を
上回るんだ?ってのが信者のスタンス
でしょう。



返信先: @pteras14さん

面白い事に円卓騎士のしまじロット
は一滴も呑んでない。
戦略会議中だとか言って。

きのこの中では西欧騎士様は超真面目
人間で美化されてるんだろうなー

ヨーロッパでは中世騎士なんざ野蛮で
低脳だったって事が常識なんだけどね。

#FGO
#FateGO



返信先: @pteras14さん

だから、ムハンマドの時代に無かった
酒はカウントされるのか?とか、
日本酒はアラブに無かったからおkって
事にはならないの!

「理性」を失わせる物はジュースでも
駄目なの!

#FateGO
#FGO

これは「神の言葉でも鵜呑みにしない
で自分の頭でちゃんと理解する事が
大切」って説いてる所がミソ。

じゃあ、なんで自爆テロとか起こす
んだよ?ってのは尤もな話で、
実際に実践出来てるムスリムは少数
って事。

理想と現実のギャップって奴さ。

簡単には実現出来ないから「神の法」
であって、「人の限界」ってわけ。
でも努力は続けなさいよ、って事。

一夫多妻制も続きがあって、
「一夫多妻おk。但し全ての妻を平等
に扱う事。それが出来なければ一人で
我慢しとけ」
って書いてある。

これは、絶対に実践不可能だと言われ
てる。全ての嫁を平等に扱うなんて
出来ないから。

でも、これも現実は一夫多妻の家庭も
あるし、徹底して実践するのは困難
だわな。これも「人の限界」ってヤツ。

コーランでは侵略して来た異教徒を
殺しても良いと書かれてる。
但し条件付きなんだ。

まず、相手がやった以上の報復を
してはならない事。
相手を許す事が出来ればこれが最上の徳。そして、
戦闘意思の無い者を攻撃しては
ならない。

これも実際に実践出来てるかと言うと
出来てないわけ。
これも「人の限界」ってヤツ。

つまり「人間は愚か者」ってわけさ。
だから死後、地獄に落とされる奴が
絶えないわけなのさ。






ぐだトマト
‏ @pteras14
2016年8月13日
イスラームもそうだけど、儒教も
四書五経やコーランの「文言」だけ
勉強しても意味無いんだよ‼︎

なぜ?その戒律が重要なのか?
なぜ?孔子はこの徳目を重視したのか?

その背景が重要なんだ。

適当に「親父に孝行しとく?w」って
選んだわけじゃない。

#FGO
#FateGO


後、孔子の引用の「親が三度諫言しても
聞き入れない場合は泣いて従え!」
の文言も解説足らずで間違ってるから
注意な!

これは中国というか、孔子の時代
(つまり春秋時代)の"孝"が何を指してた
のか考えないとダメだ!

この"孝"ってのは"父親"の事。
2件の返信 19件のリツイート 6 いいね
ぐだトマト
‏ @pteras14
2016年8月13日

なぜ"親父"なのか?
ここが重要なんだよ‼︎

つまり"母親"と"父親"の違いは
何か?って事。

2016年8月13日

儒教の世界、というより昔の中国では
"父親"ってのは生理的に"赤の他人"
と捉えれていた。何故か?

赤ちゃんはお母さんのお腹から
出てくるだろ?で、本能的にも
"母親"に対する愛着ってのは勝手に
発生する"自然現象"だと捉えられて
いた。
1件の返信 18件のリツイート 6 いいね
ぐだトマト
‏ @pt

何でか?というと昔の中国人は
「他の動物を良く観察した」んだよ。
で、人間以外の動物の世界でも
"父親"の地位が低かった。
狼は例外的だけど猫とか熊とか
子猫や子熊は母親と暮らすけど、
父親は生殖行為だけしてお別れだろ?
1件の返信 18件のリツイート 6 いいね
ぐだトマト
‏ @pteras14
2016年8月13日

そこで昔の中国人は"赤の他人"で
ある"父親"を大事にする子供に
なればきっと"心の優しい大人"に
育つはずだ!と、考えたの!

これが"孝"のなぜ"父親"を大切に
しないといけないのかの倫理的意義
なんだよ‼︎
1件の返信 21件のリツイート 6 いいね

ぐだトマト
‏ @pteras14

その背景には孔子の生きていた
春秋時代という戦争ばかりやって
人の命の価値がゴミみたいな
時代だったから、ともかく「心の
優しい思いやりのある人間」への
憧れと拘りが強かったのではないかと
言われている。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2016年8月29日

イスラームはシャリーアがあって
ユダヤはタルムードがあって
信者が何をすべきか分かるんだけど、
キリスト教って新訳だけじゃ何したら
良いのかよく分からん。

マタイの山上の垂訓ぐらいじゃないか?
律法っぽいの?

後はパリサイ派の悪口とパウロの
自慢話しか書いてないよな?
1件の返信 5件のリツイート 3 いいね
ぐだトマト
‏ @pteras14

この教会法典って奴が律法に相当
するのかね?

http://d.hatena.ne.jp/ronnor/touch/20110224/1298507486 …

その割には絶版だし、カトリック系の
専門書店にも置いてないんだが……


ぐだトマト
‏ @pteras14
2016年9月3日

何か、キリスト教の律法って何?
のツイートが結構RTされるんだけど、
何でそうツイートしたかって言うと
一番ベースの律法が憲法の役割を
してるから。(イスラームの場合は
厳密に言うとコーランね)

だから、全部元の律法が立法の際の
根拠になってるわけ。

神が作成した前提になって
返信先: @pteras14さん

前提になってるから、不可侵なんだ。
ところが日本もヨーロッパもそういう
前提がないから、憲法を改正出来たり
基本的人権や刑法(慣習法の禁止とか)
を商法や民法で相殺したりとおかしな
事になってる。

「法の下に全国民が平等」とか
嘘っぱちじゃん。
1件の返信 3件のリツイート 4 いいね
ぐだトマト
‏ @pteras14
2016年9月3日

だから、キリスト教の神様は
そういう法律をなんで明確に
示さなかったの?って話。

それがマタイなのか、ユダヤ教の
タルムードの事を言っているのか
新約では不明だから、ヨーロッパ諸国
はそれぞれ妙竹林な憲法をそれぞれ
制定しちゃってる。
0件の返信 3件のリツイート 2 いいね


ぐだトマト
‏ @pteras14
2016年9月2日

大学時代の時、たまたまイスラーム法
の講義も受講出来る変な大学だったん
だけどw(現代じゃ結構普通で東大の
院でも教えてるみたいだけど)、
講義中にお菓子を食ってる学生がいた
んだ。当然、教授に見つかって教授が
激怒したんだ。

なんで怒ったかと言うと、
「公共の場でお菓子を食べた事」
に激怒したんじゃないんだよ。

「全員分のお菓子を用意しなかった事」

が責められたんだ。


その教授が言うには、
お菓子を講義中に食べるのはOK
なんだそうだ。

イスラーム的に間違ってるのは
「お菓子を独り占めした事」なんだ。

「自分だけ」お菓子を食べて「他人」
はお菓子を食べちゃいけないのが
ダメなんだ。

全員がお菓子を食べればそれが一番
「公正」だっていうんだ


ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年2月26日

大学時代にたまたまイスラーム法の
講義を受けた(中東方面とのビジネスを
考慮した経営学的な観点から)から、
色々型月のイスラーム解釈にツッコミ
を入れただけで、別にぐだトマトさん
はイスラームが絶対だとは思ってないよ。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年5月13日

中田考の集英社新書のイスラーム本
立ち読みで全部読んだ。
分かりやすいね。

2017年5月14日

イスラームの本読んでて感じるのは、
あの聖書って書物は西洋人の観念で
読んじゃダメだって事かな。

やっぱり中東人の感覚を持って読まない
とダメだな。

2017年5月14日

ただ、イスラームの専門用語見てる
限りアレ絶対にバラモン教の影響
入ってる。

どーも、大洪水の時代かどうかは
分からないけど、現代のイラン〜インド
の間でとてつもない邪悪が誕生した事
だけは分かる。

それが型月の教義上のアンリ・マンユって
奴なのか分からないけども。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年7月7日
イスラームは取り敢えず中田考氏の
入門本から入ってけば良いと思うよ。
原語無視のクルアーン解釈は粗デマ!

ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年8月15日
紅林せんせー、今度はイスラーム
にハマってるのか……
イスラ"ー"ムと真ん中を伸ばして
ないし"クルアーン"ともまだ呼んで
ないから、初めたばっかかな……

まぁ、イスラーム関係は和本自体が
少ないから社会学者が書いたハズレ本
を引かなきゃ大丈夫だろう。

ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年9月10日

イスラーム圏でもキャバクラとか
行きたがるの本当に勘弁してほしい……

そういう店自体が無いから、結局
オロシャン・マーフィー・フィアー
さんを頼らざるを得なくなる……

ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年8月15日

神を沢山作ってる時点でやはり
イスラーム神学の理解は厳しいな……
人も"漫神"とかいうのになっちゃって
るし。アッラーから見たらそれは
ただの"慢心"だよ。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年10月22日

イスラームってパズル要素が高くて
ムズイのよね……

例えば「その赤ちゃんが将来悪人に
なると確定してるならば、その
赤ちゃんを殺すべし!」という文言
があるのだけど、これだけ読んで
「ああ、赤ん坊を殺して良いんだ」
って早とちりするのは落第ね!

問題はその赤ちゃんが悪人に育つ
のをどう判断するのか?という所で
親が悪人だったら、その子供も必ず
悪人になるのか?とか諸々考慮すると
「誰も分かんねーよ!」=「赤ん坊を殺してはならない」になる。

だから神にしか分からないし、
その神も裁きを下すのはそいつが死んでからだ。

ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年12月12日

いや、外資系だからだよ。
エ口とか口リに厳しい。
文化の違いって奴だと思う。

イスラーム圏に出張で行って、
それでもキャバクラを必死で探すのが
日本文化。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年10月22日

つっても日本人の出張者って、
イスラーム圏でも酒と女を求めるん
だよなぁ……

だから、あっちの駐在員は大変なん
だよ、そういうの手配しないといけ
なくて。では?どうするかと言うと、
ブラック・ラグーンのバラライカ姐
さんに頼む。

2017年10月22日

後、コーランに書いてあるけど、
外国とかでやむを得ない事情の場合
イスラームの規則を不本意で破っても
ペナルティーにならないよ。

理由は「アッラーは誠に慈悲深い」
かららしい。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年7月8日
イスラームに有名な格言があってね。

・相手が間違ってる場合は止めなさい
・それが出来ないなら言葉で説得し
なさい
・それもダメなら少なくとも自分の
の心の中では間違ってると思い
なさい

悪党が絶大な力を持ってても
決して長い物に巻かれるなよって戒め。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年7月6日
返信先: @pteras14さん、@gakky88NSRさん
一つだけ私の経験談で恐縮で
すが、実例を挙げさせて頂き
ますと、日本企業の出張者は
風◯が大好きなのですが…

彼等を接待するのにそういう
お店やお酒を調達、リサーチする
必要がありますがイスラームの
影響が比較的緩いトルコでも
至難の技です。

つまりロシアマフィ◯を頼りますw


ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年12月30日

メガネや微軟社員の方が明らかに
ルソー教に洗脳された産物なのにね。

ルソー教は基本キリスト教文化圏出身
のルソーさんが始めた宗教だから、
コダヤやイスラームと違って原罪は
イエスが磔にされた時点でチャラに
なってる前提。

だから自然の野の獣に戻っても悪に
ならないって考え方。


ぐだトマト
‏ @pteras14
1月29日

しかし、霊肉二元論前提で皆んな
話を進めていて実に興味深い。

厳密に言うとキリスト教とイスラーム
教は三元論、
道教は三元+先天と後天があるから五つで、
バラモン教も基本三元だけど、人間の話で行くと二元論
に限りなく近い。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2月8日

一応ね、イスラーム神学では
何で優先席を年寄りに譲らないと
いけないのか?という論争には
「紙に書いて貼ってあるから」という
結論が出ている。

別にこれが正しいとか間違ってるって
訳じゃなくて、飽くまでイスラーム
だとこう考える人も居るみたいよ
ぐらいのご参考情報。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2月8日

逆に言うとイスラームでは一々細かく
道徳とは何なのか?とシツコク
書かれてるって事だね。
挨拶のやり方とか、TVを観てて
ムカついたらどういう態度を取るのか
とか。

これが良い悪いかは人に拠るけど、
向こうの世界ではこれが採用されてる
よって話。


ははっ!w
フォロワーさんが一人減った
けどひょっとしてイスラーム系の
テ口工作員だと思われちゃった?

まぁ、ぐだトマトさんのイスラーム法
の解釈はシリア系っちゃシリア系
かなぁ。教えてくれた人がシリアに
住んでた人だったので。

ぐだトマトさん自体はムスリム
じゃないよ。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年8月31日

究極的には中国人の言う
命(宿命)>
運>
風水(環境や場所)>
積隠徳(他人に見せないでやるボランティア)>
学問(所謂努力の事)
>……が正解だと思う。

ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年8月25日

古代中国で言う絶対に覆せない
「命(宿命)」を力技でひっくり返す
物語なんて唆るだろう?

例え敗れ去って果てたとしても。
どうせ人間いずれ最期は皆んな灰になるんだ。
"結果"が同じで最初から
定められてるなら、結局は"過程"が
一番重要だったってだけの話だ。

ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年8月18日

日本の年齢差別って本っ当嫌らしい
よね。漫画家に限らずほぼ全部の
職業にあるのだけど。

年齢は中国で言う「命(宿命)」の
部分に入るからね。いくら努力しても
人間、戸籍上若返る事は出来ない
からね。


Desty
‏ @exa_desty
2017年8月18日
返信先: @pteras14さん

自分は年齢差別は反吐が出るぐらいに嫌いですね
なぜ、こんなに年齢差別が蔓延してるんでしょう?
明らかに苦しみが増える原因なのに辞めようとしないのが謎です。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2016年10月23日
中国の占いってその人物が生まれた
時間と場所を重視するのよね。
要するにその人の一生の本当の始まり
の地点だけど、それによって何をやって
も絶対変えれない運命、「宿命」が
存在すると説いてるわけだけど、
それを数学的に西洋人が小難しく
説明した様な感じだな。


ぐだトマト
‏ @pteras14
4月13日
努力で到達出来ない場所を認識した
時、人間にやれる事って基本二つしか
なくて、

⑴結局、努力を続ける
⑵別の道を探す

現代社会だと⑵の事を“適性探し”
と呼ぶ。

ぐだトマトさんは⑴の方が個人的には
好き。理由はコズミックLVで
観たらHomo sapiens sapiens同士
の差なんて誤差の範囲だから。

それともう一つ、生まれた時点で
定められた自分の力ではどうにも
ならない要因の事を、前もツイート
したけど、中国では「宿命」と呼ぶ。
「運命」は中国では後天的に変更が効く要素の事。

「宿命」ってのは国籍とか、
人種とか身体障害の有無、
親が誰か、性別
とかそうゆうの。これは人間の力では
絶対覆らないと中国では言われてる。

ヘラクレスの神話とかもこんなノリ
だよね。

ぐだトマトさんはこの「宿命論」
が嫌いで、じゃあ神様がアンタ
ダメ人間だから自殺しろ!って
言ったら、お前さん大人しくてるてる
坊主するのかぁ?って話。

まぁ、これはどちらかと言うとインド、
中国等のアジア圏特有の価値観なん
だけどね<宿命論

輪廻転生で人生リセット出来る世界観
だから。

哲学理論はインド以東のアジア圏の
方が高度で洗練されてるけど、
宿命論に関してはイスラーム神学の
終末論の考え方の方が好きだ。

イスラームでは「神でさえその人の
一生が終わるまで何のジャッジも
しない」という価値観。

イスラームの方が希望に溢れてる
でしょ?

これは別の捉え方をすれば「貴方の
行動次第で如何様にも将来は変わる
から、神様はちゃんと見てるから、
貴方は努力を続けるべきなんだよ」
と同義。

歴史的にもインドでイスラームに
後期仏教(密教)&ヒンズー教が駆逐
された
(現代ではヒンズー教の方は
復活したけど。イギリス人に都合
いいので)
のにはこういった背景も
あると思うよ?
軍事的な側面だけではなくてね。

密教の方が正しければそりゃあ
お前さん、密教の方がイスラーム
を駆逐したさ。

じゃあ、何でイスラームが日本では
イマイチ普及しなかったかと言うと、
イスラームがやって来てたら天皇と
藤原ファミリー達が全員てるてる坊主
のロールプレイをしないといけないから
都合が悪かったんだろう。



ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年5月13日

中田氏が件の新書で大高忍のマギと
ハルヒに触れている箇所があるんだけど、
マギは世界観がインド/ペルシャ型だって
言ってたよ。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年5月14日

しかし、中田氏が言う様に「人間の
移動を制限しない」事が中東文化だと
言うならば、ますます新約聖書の
「ヨハネの黙示録」の異質さが際立つ。

あれはハッキリとネオエルサレムに
入れる奴と壁の外で歯を食い縛ってる
人間とを明確に隔ててるからね。


中田氏の「神」の定義が中々面白くて、
「神=人間の意志に対して何らかの
強制力を強いる物、命令を下す物」

で、現代の欧米型先進国は「神=金、
国家、領土、企業」。


つまり、日本語の「法人」は本来
「法神」という綴りの方が正確。


「企業の偶像神化」w
こいつぁ良く考えたもんだぜ!
傑作だ!

個人的にノーベルぐだトマト文学賞を
授与したいぐらいw

ぐだトマト
‏ @pteras14
7月10日
ま、元凶はイスラーム先生の言う通り、
組織や法人に人間と同じ人格と人権を
与えたが為に、本物の人間の価値が
チープな存在に成り下がったんだな。

法人はアダムみたいな形状してない
からね。いずれ人類の方を迫害するさ。



ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年10月22日
この前、中田氏が紹介してた松山氏の新書が
“飲酒したとしてもムスリムである事は変わらない”というスタンスだったよ。
飲酒という禁忌の“儀礼的行為”ではなくその“意義”が重要。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2月1日
昔、ハンムラビ法典というのがあってね。
これが所謂「目には目を、歯には歯を」
の語源だと言われている。コダヤ教の
律法も基本はこれと同じ思想という風
に言われている。

で、キリスト教の隣人愛(全て許す)→
イスラーム法はハンムラビの原則は
残すけど、全部許せたら理想、
へと進化。

と言われている。

ハンムラビ法典はある罪に対して
それより同等以下の刑罰しか課せられ
ないとのブレーキの機能も持っていた
と考えられている。



だからイスラーム教って全く関係
ないって。
実際に現地に行って向こうのアラブ系
移民のクソガキ共と話してみろよ。
ただのチンピラだ。半グレとかと
変わらん。







『イスラム飲酒紀行』高野秀行/講談社文庫

題名草不可避w
大砂漠回避ww

本書最大の教訓
イスラーム圏で酒を飲もうとするな!
秘密警察に捕まってもおかしくないぞ!


・カタール ドーハ
(この章は本書のための書き下ろし。
本書(文庫版ではないほう)の発売年は2011年6月。)

イスラムは公共という概念をひじょうに大切にする。
いったん家を出ると
男たちはどんな場合でも女性に気を配らなければならない。
イエメンでは乗り合いバスが混んでくると、
目的地でもなく男子は車を降りて、
女性のために場所を空けていた。
ドバイでも、
エレベータに女性が乗ってくると
それまで乗っていた男性が全員降りなければならないそうだ。
買い物も基本的に男の仕事。
バンコクでは
アラブ人の若い青年が五人とか八人とか女性を引き連れ
ショッピングモールを汗だくで回っているのをよく見かける。
女性だけでは旅行も買い物もできないので
親戚の若い男子が添乗員役で借り出されているのだ。
公共の場ではそれがルールなのだ。
注文をつけまくる女子だちのリクエストを全部聞き、
サイズや色の具合から値段交渉まで汗だくになってやっている男の子の姿を見ると、
イスラムでは女性の地位が低いという説はウソとしか思えなくなる。
だから、ムスリムの男性は女性がいなくなると露骨にほっとする。
以前、焼き肉を食べるときに男女別々に分かれたのだが
これじゃ楽しくないと思うのは異教徒の証拠。
先程まで背筋を伸ばしてベンチに座っていた人たちが
男だけになると
突然寝そべって
ギャハギャハはしゃぎながら飯を食い始めた。
まさに男子校のノリだ、
女性は女性で男がいなくなるとくつろぐという。


(他の本でもイスラーム圏の日常生活の記述を見るに
女性が強い。
私的空間では女性が強く
公共空間では男性が強い
ように社会設計されているのでは?)


・パキスタン
(初出は2008年)
一般にパキスタンでは飲酒は禁じられているが、
闇で売っているところもあるし、
許可証を得れば合法的に飲めるという。
「医者の診断書があれば飲めるんだ。
『この病気の治療にはアルコールが必要だ』ってね。
医者に金を払ってそれを出してもらう人もいる」
日本では医者が患者に飲酒を禁じる
「ドクターストップ」がふつうだが、
こちらでは医者が患者に飲酒を勧める
「ドクターゴー」とでも呼ぶべきものがあるらしい。


・イラン
(初出は2009年)
多くのイスラム諸国では
高級ホテルやレストランで酒が入手可なのだが
イランの法律では完璧に禁止だ。
日本の麻薬と同じ扱いなのだ。

出発前、
日本人のイラン研究者Aさんに話を訊きに行ったとき
「けっこう、みんな隠れて飲んでいるみたい」
と言っていた。
在日イラン人情報でも
「密造ドブロクがある」とか
「トルコからビールを密輸している」
などというのがあった。
研究者Aさんにテヘラン駐在員の人を紹介してもらい、
東京から電話したときである。
彼はこういったのだ。
「酒はあります。
この電話は盗聴されているから詳しくは言えませんが……」
Aさんによれば
外国人の電話は基本的に当局から盗聴されているという。
盗聴だけでない。
街角でカメラを構えて写真を撮っていたら、
私服警官の尾行がつく可能性がある。
スパイもあちこちにいる。
外国人は常に監視下にあると考えたほうがいい。

(イランに限らず、どこの国も盗聴もスパイもやっているのでは?)


イランは昔から酒がふつうに飲まれてきたのだ。
イランを代表する詩人のひとり、
オマル・ハイヤームは中国の李白と並べるほどの
酒仙で
「酒はよきかな」なんて詩を山のように詠んでいる。
そしてイランで彼を否定する人は当局を含めて誰もいない。

会話は簡単ではない。
彼らは英語をまったく話さず、
著者はペルシア語の単語は何ひとつ知らない。
『旅の指さし会話帳 イラン』を取り出して、
酒(マシュルーブ)
という言葉を黙って指さした。
人に聞かれたくない場合、
言葉を発せずに済むというのは素晴らしい利点だ。
酒の項目のとなりには
酔っ払い
という単語もこの本にある。
どうしてイラン篇なのに
酔っ払い
なんて単語が載っているのか不思議だったが
現実に使えるわけである。

酒の密売人たちはスーフィー(ダルヴィーシュ)だった。
ホセインのタクシーに四人で寄り込んだ。
森がいつものように助手席に座り、
バス車内の女性たちにカメラを向けるのを見て、
ホセインとアリーが口々に「危ない」と言った。
たしかに今ここで警察沙汰になったら、
全員が一巻の終わりだ。

彼らは
「イスラムなんかダメだ。
ボクらは信じてない!
ホメイニからイランはダメになった」
とまで言う。

アリーは電子工学を専攻する現役の大学生。
半地下の部屋に招き入れられた。
この家は彼の同級生であるムスタファ君の家で、
ムスタファ君の部屋に一緒に暮らしている。
そしてそのムスタファ君の叔父がホセイン……
とまあそういう関係なのだった。
ちなみにアリーのお父さんはアメリカ留学経験のある元教師・現ビジネスマン、
ムスタファ君のお父さんは電子工学エンジニアだという。

(ホメイニの革命以降イランは反米。
おそらく彼ら密売人は親米)

棚の上に人物写真が二枚ある。
「これはヌルヴァッシュ師というロンドンに亡命中のスーフィー詩人、
もう一枚はゾロアシティ師という百年前のスーフィーの聖者だ」
とアリーは得意げに説明する。

(ゾロアスターを元ネタとしたとしか思えない名前)

イスラムでなくスーフィーという主張は意外だった。

(単に彼らがスンニ派支持なだけかも)

スーフィーは明らかにイスラムの一派。
だが革命以降、イラン政府当局が原理化し、
スーフィーを異端視するようになったと聞く。
当局が
スーフィーは本来のイスラムではないと弾圧するので
スーフィーの信者は
イスラムじゃなくてけっこうと開き直ってしまったらしい。


「パズの中で私服のポリスに捕まって、
写真を消されちゃったんです」
彼はイスラム圏でいつもやっているように
(というのもすごいが)
車内で隠し撮りをしていたら、
急に後ろから背の高い私服の男に肩を叩かれた。
そいつは有無を言わさずカメラを見せろと言う。
森が「ヤバイ」と直感し、
わざと窓の外の景色の画像などを見せたが、そいつは納得しない。
ひったくるようにカメラを取り上げ、
データを最初からチェックし、
女性が写っている画像を全て削除させられたのだという。
森はショックを受けつつも
メモリーカードの中に酒を飲んでる写真がなくてよかった
と安堵もしていた。
エスファハーンでのアリーの家で彼はたんまり
飲酒の写真を撮っていたが
ちょうどメモリーがいっぱいなり交換したあとだったそうだ。
たしかに飲酒の写真が見つかったらただでは済まなかっただろう。
私たちが逮捕されるのはもちろん、
アリーたちの身が危険だ。
外国人に酒を飲ませていたのだから。
やはりイランは怖い。
まったく予想がつかない。
バスに乗る前に酒を買わなかったことも幸いだった。
もし尾行されていたのならその場でアウトだし、
バスの中でも酒の微細な匂いが
あの敏感な秘密警察の男に嗅ぎつけられていたかもしれない。
どっちにしても酒の所持が露見したら、即逮捕、監獄行きだった。

(自業自得すぎるが、運はいいな。
森はしょっちゅう隠し撮りをしている。
犯罪の証拠を写す愚者を連れて行く著者。
法律違反行動を当然のごとくするなよ、
ってそれが目的。
日本だからこそ出せた本だな。
イスラーム圏なら「私の犯罪記録」だもんな。
本書の著者一行以外の人名はすべて偽名かもしれないな)



・トルコ
(初出は2011年3月)
初代大統領ケマル=アタテュルクがなぜ
隠れレストランに毎日通っていたか。
それは昼から酒を飲むのにあの店がいちばん好都合だったからじゃないのか。
彼が大酒飲みだったのは有名。
毎日ラクをボトル一本空けてたっていうし、
死因も肝硬変。
トルコにはいまだに
アタテュルク侮辱禁止法があるので
彼がこれほどのん兵衛だったことがあまり知られていない。


(メイソン≒プロテスタント系反カトリック組織
のメンバーになった理由の一つがアタテュルクが酒飲みだからだろうな。
トルコの欧米化担当結社員。
イスラームは徹底的にヤソ流世俗主義+政教分離を否定するので
日本ほど徹底的に思想侵略がされてないっぽいけど。
いっとくけどトルコで以上のことは言っちゃだめだよ、
侮辱にあたるだろうからね。
下戸だからムスリムになる人がいるのだろう)

・あとがき
なぜイスラム圏に酒があるのか。


現在はイスラム圏になっているが
いまだにイスラムがやってくる前の
土着の習慣を残している土地が少なからずある。
例えば
著者の、スーダン出身の友人によれば
今は厳格なイスラム国家のスーダンも
いま60代の人が若いころは
結婚式などのめでたい場では
酒を飲むのが当たり前どころか飲まないと怒られるほどだったという。
著者が体験した中では
チュニジアのオアシス・バーがそれだろう。
またシリアのドルーズ派も
イスラムの教えと土着の信仰が混交したものだと思う。


異教徒(少数民族)
国民が100%ムスリムである国は存在しない。
仏教徒も酒を飲んではいけないはずだが飲酒が大好き。
キリスト教ではミサにワインが欠かせない。
だからキリスト教徒は絶対にワインを造る。
飲酒現金を建前とするイランでも
アルメニア正教徒だけはワインの製造と飲酒を認められている。


(あれ、飲酒禁止のキリスト教宗派って儀式をどうやっているんだろう?)


イスラムでは酒と賭博と同様に
利子も禁止なので
金貸しや両替という金融業は
歴史的にユダヤ教徒やキリスト教徒の仕事だった。
キリスト教徒は地中海貿易の担い手でもあったから、
イスラム世界が科学や経済の先進地域であった中世も
立場が逆転したルネサンス以降でも
彼らが文明や新しい発明を発信地域に伝えるのに
大きな役割を果たしてきたのは間違いない。
イスラム圏は異教徒も込みで成立していたのではないか。
イスラム圏のムスリムは今でも異教徒に驚くほど寛容で気遣いがある。

(このイスラーム圏のキリスト教徒は正教率が高いだろう。
逆転はルネサンス以降ではなく産業革命以降では?)


ホメイニ師も酒の詩を書いている。
彼が酒飲みなのではない。
酒は
神との合一
信仰の至福
といった宗教的陶酔の象徴らしい。
ハイヤームの言う酒は酒ではないと解釈し自陣に取り込んでしまう、
恐るべし。




神田大介
?認証済みアカウント @kanda_daisuke
2016年2月29日

まめ情報。イランでは国会290議席のうち5議席が宗教少数派に与えられています。そのうち、アルメニア正教の南部選挙区で当選したアブラミアン氏、100%の得票で当選だそうです。ちなみに2290票。テヘラン選挙区の場合、およそ75万票が当選ラインです。





P・グラレム@pinkglalem
2013年12月21日
20世紀の初頭、クロウリーとグルジェフは薬物で人間の思考をコントロールする実験をしていた。
(因みに二人ともクリスチャン)カルトと麻薬は切っても切れない関係にある。
新しい麻薬が開発される度に、神秘思想ブームが起きてる。
アレはカルトを隠れ蓑にした実験なんです。#MKウルトラ

@lanekota @rideigan グルジェフは元々アルメニア正教でしょう?ペルシャの近くの...
イランにはアルメニア人がいっぱい住んでる。彼の弟子ウーペンスキーの著作の中にこの実験の模様が書かれています。別の弟子が(確か)アヘンを用いていたと証言しています。

クロウリーとグルジェフ、731部隊、特攻隊、ゾディアック事件、人民寺院...
関連性の無いよーに見えるこれらの事象や事柄は、実は時系列で縦の線で繋がる。その線は #MKウルトラ

P・グラレム
‏ @pinkglalem
2012年9月23日

「人間は、成長しない。人間は何もする事が出来ない。人間に関するすべての事は、起こる。それらはまさに、生ずるのだ。ただ単に起こっている現象に過ぎない。」....G・I・グルジェフ(神秘思想家、ボルシェビキのスパイ)..



グルジェフの言葉を信じるなら、人間に自由意志は存在しないことになりますね。私達の生活に、希望など存在しないというワケですかね...?
グルジェフの言ってる事は、正しいでしょう。人間に自由意志は存在しません。でも、私達の社会を取り巻いている環境というのは、恣意的なモノではありません。一部の“自分を神だと妄想している”人達が、造り出したモノなのです。神が作り出したモノでも、自然の摂理でもありません。






『イスラーム思想を読みとく』松山洋平



・日本の読者の多くは豚肉を食べないことや礼拝とか
外面的な行為ばかりに関心を寄せる傾向がある。

どうも多くの人によって
イスラームは「戒律の宗教」、
心で信仰するのではなく、何かしらの宗教儀礼をおこなうことで何かを達成・獲得することができる、
「術の体系」のようなものと表現することもできるだろう。

それに対し、信条重視の宗教というのは、
宗教儀礼よりも、
心のなかで対照が真実・事実であることを信じることがより重要視させる、「信条の体系」のような宗教。


・イスラームの教義では、「ムスリムであること」はイスラームの行為規範を守ること、
イスラームのさまざまな宗教行為を実践することを意味するのではない。
人は、心のなかに「信仰」を持つことでムスリムとなる。

「イスラームでは飲酒が禁じられている」はまったく間違いではないが、
「酒を飲んだらムスリムではないはまったくの誤り。
イスラームの基本原則として、「罪を犯してもその人の信仰は消えない」という考え方がある。
ムスリムが酒を飲んだとしても、「そのムスリムが飲酒という罪を犯した」という事実があるだけ。
酒を飲んだその人がムスリムであることが否定されるわけではない。

神によって禁止された行為を犯してもその者の信仰が失われるわけではないのがイスラームで
この立場はスンナ派の神学では定説で
この点でスンナ派の間に見解の相違は存在しない。

単に「神の目から見てムスリムでなくなるわけではない」というだけではなく、
社会的にも、酒を飲んだ人に向かって
「そんなことをするなんておまえはムスリムではない」と言ったり、考えたりすることも禁じられている。

禁酒についていえば
ムスリムの条件は
酒を飲むことを神が禁じていることを心の中で信じ
飲酒を合法な行為とみなさないこと。
心の中で神によって禁止された行為だと信じることのほうが
実際にその行為を慎むことよりも重要視される。

反対に、
たとえ、イスラームが命じているすべての義務行為を果たして、
イスラームが禁じるすべての禁止行為を避けたとしても、
それが神の命であると心の中で信じず、
ただの慣習だと考えれば、その人はムスリムではない。


「またもし、信仰者たちのうちの二派が互いに戦闘をおこなったならば、
おまえたちは両者のあいだを正せ」(クルアーン49:9)

では戦いあう両方の集団が「信仰者」と呼ばれている
戦闘をおこなっているということは、
どちらか一方、あるいは両方共が、誤った根拠によって、
同胞であるムスリムに物理的な攻撃をしかけていることになる。
場合によってはその攻撃の結果同胞を殺害するわけだが
この節では信仰者と呼ばれている。


・イスラームで信仰とは何か、
ムスリムであることはどのようにして成立するかは
神学で
「信仰の構成要素(アルカーン・イマーン)」
も問題として論じられる。

(ロクアカの魔人アルカーンの元ネタ?)

構成要素とは原材料のこと。

この信仰とは宗教とまったく同じ意味ではない。
この場合信仰とはその宗教が提示する信条や信仰行為全体を指している。

本書のここでの信仰はそれと異なる。
神学的に大雑把な言い方になるが
信仰とは
個々の人間が何かを真実を認め、それを受け入れること。

信仰という言葉を宗教や信仰対象ではなく
本書では信じる気持ちと考えてほしい。

本書のテーマであるスンナ派に限定するが

信仰


=心における真実であるとの承認

②=心における真実であるとの承認
 +言葉による告白

②=心における真実であるとの承認
 +言葉による告白
 +体による行為(礼拝や断食など)

上記の共通了解は
行為の有無は
信仰の有無とイコールで結ばれないこと。
信仰があるかどうか、
ムスリムであるかどうかはその人の行為にもとづいて決まるものではない。

クルアーンでは崇拝行為や善行を行う前から信仰者だとされる。


「テロリストもムスリムなのか?」という質問をして
「彼らもまたムスリムです」と答えたとすると
少なからぬ日本人が
テロを正当化したと感じるのは
ある宗教の信者とは
その宗教の規範を実践している者をいう
という感覚が前提にあるから。

「信仰の有無」と「行為の正当性」を分けて考えられないため、
「或る行為をする者がムスリムである」
=「その行為はイスラームで正当化された行為である」と考えてしまう。

一部の日本人から見れば、「テロリストもムスリムなのか?」という質問は、
「テロ行為はイスラーム的に見て正当性を持つのか?」という質問と寸分違わぬ同じ質問に感じられるかもしれない。

しかし、ムスリムにとっては、
だれがムスリムか否かをということと、
その人のおこなった或る行為がイスラーム的に正当化されるか否かということは
まったくもって別問題であり、分けて考えなければならない
行為は正当化されないがムスリムであるという答えもありうる選択肢のひとつ。


・イスラームの根本教義

根本的な教えは
全世界を創造した神こそが真に崇拝に値する存在であり
被造物は創造主以外のいかなる存在をも崇拝するべきではない
という唯一神崇拝のメッセージ。

この創造主は何かに創られた存在ではなく無始なる存在。
永遠の過去から生きており、
すべての存在の根拠となる存在。
永遠の過去とは比喩であり
創造主は過去や未来といった時間の中に位置づけられる者とは考えられない。
神は時間の流れの外にいる。

創造主はまた
ここにいるとか、
あそこにいると指し示すことができる存在ではない。
つまり創造主は世界のなかのいかなる場所にも存在しない。
時間だけでなく空間の制限の中に存在するのでもない。

(つまり人間の探索範囲がいくら広がってもイスラームの否定にはならない)

人間を含む、世界のありとあらゆるものは
この創造主が無から創造したものと信じられる。
したがって創造主は世界のあらゆるものに対して
非限定的な権能を持っている。
被造物は、一瞬たりとも創造主の恩恵なしに存在することはできない。

教義で最重要なのは
創造主こそが唯一の崇拝の対象、
唯一の神であり、
創造主でないものは何であれ、
崇拝し、服従するに値するものではないと信じること。

これがアーダム(アダム)創造以降、
地上のあらゆる民に遣わされた使徒
(人々に創造主の使信を伝えることを命じられた預言者)
が信じた
タウヒード(唯一なる者とみなすこと)
の教え。
使徒たちがもたらしたこの教えを受け入れ
創造主のみを崇拝する者を
アラビア語で
ムスリム
=帰依(イスラーム)する者という。

ラーイラーハイッラッラー
(アッラーの他に神はいない)
は最重要な以上の信条を一言で表したもの。


・信仰が成立する本源的な場は心であり
身体ではない。
「アッラーが彼らの心に、信仰を書き記した」(クルアーン58章22節)
とあるとおり。
よって身体が罪を犯したとしても、それによって心に成立している信仰の存在が否定されるわけではない。

・赦しへの希望を失うことは大罪

クルアーンでは
神が、悔い改める者の罪を帳消しにする慈悲深い存在であることが繰り返し強調されている。
罪を犯した人について、
「彼は地獄に行く」と確信すること、
つまり、悔い改めと赦しへの希望を失うことは、
イスラームでは単なる誤りに留まるものではなく、
禁止される「大罪」に数えられ、場合によっては不信仰に値する罪であるとまで言われる。

(~したら地獄に行くと断言はダメで
行く可能性が高いとかだろうね(個人的印象)と言うならOK?)

「まことに、アッラーの慈悲心に絶望するのは不信仰の民のみである」
(クルアーン12章87節)とある。

ムスリムがどのような罪を犯そうとも、その罪が許される可能性があると信じることが義務となる。
それは、人間の罪がどれほど深くなろうとも、神の慈悲はそれよりも深いのだと認めることでもある。


・ムスリムはムスリムを呪わない。

イスラームで悪を目にしたときは
可能な限りでそれを除去することが求められる。
手(実行権力)によって阻止できるなら手で
手が無理なら口(助言や諫言)によって
口が無理なら心でそれを嫌うことで
その悪に対処すること。


しかしその悪行を行う特定の個人であるムスリムを呪ったり
害があるように祈ったりすることは
大多数の学者の見解では禁止行為とされる。

ムハンマドの言葉としても
「信仰者は、呪詛者ではない」
「あなたがたは、
アッラーの呪いによって、
または彼の怒りによって、
または火獄によって、
たがいに呪いあってはならない」と伝えられている。

酒をやめられないムスリムに対し
他のムスリムが
「アッラーよ、彼を呪い給え」と口走ると
ムハンマドは
「彼を呪ってはならない。
彼はアッラーとその使徒を愛しているのだから」
と言って諫めた話もある。

少数派説では場合によっては特定個人を呪うことも許されると言われるが
いずれにしても
イスラームの教説ではどのようなムスリムに対してであれ良いことを祈願するほうが好ましい。
罪を犯すムスリムがいたら
「彼が呪われるように」
「彼に罰が下るように」と祈るのではなく、
「彼が悔い改め、罪から立ち返るように」
「彼の罪が許されるように」
「彼が導かれるように」
と祈るべきとされる。

自分に害を与える者のためにそのように祈るのはたしかに難しいことだが
そういった場合は
「彼の害が私に及ばないように」
「彼が私から遠ざかるように」
と祈ることが良いと伝えられている。

(シーア兄貴も中田考も呪っているが相手をムスリム・ムスリマとみなしていないからだろう。


中田考
‏ @HASSANKONAKATA
2011年10月18日
統治者の務めとして課されたイスラーム刑法を執行せず、
イスラーム法の支配とムスリムの生命、財産、名誉を守るためのジハードも行わず、使徒صلعمもそのカリフたちも法学祖たちも行わなかったユダヤ教徒の猿真似のハラール認証などで金儲けを図りアッラーの徴を安価で売買する者どもに呪いあれ。


中田考bot
‏ @NakataKo_bot
2016年11月19日
使徒もそのカリフたちも法学祖たちも行わなかったユダヤ教徒の猿真似のハラール認証などで金儲けを図りアッラーの徴を安価で売買する者どもに呪いあれ。「我が徴を安価で買い取るな。アッラーの啓示に基づき統治せぬ者共こそ不信仰者。」(クルアーン5章44節) <2011.10.18>




・「もっとも規範とすべき信者同士であっても、
政治的に対立すれば殺しあうこともあるし、
誤った解釈に陥り、ころしあうこともある」という事実を、
人間の性として受け入れるのがスンナ派の態度です。

イスラームの統治法では
絶対善の正義の官軍が存在し
それに対抗する勢力はすべて悪だという考えはしない。

官軍とはイスラームのスンナ派ではカリフの軍。
カリフに反旗を翻す武装勢力は叛徒(ブガート)と呼ばれる。
叛徒(ブガート)もムスリムであり異教徒とはみなされない。
法的にはムスリムと扱われる。

「戦っているからどちらかが善でどちらかが悪である」という考え方は、
イスラーム的な思考ではない。
戦いあう軍勢のどちらもが善(”正しい”解釈をしているとは限らないが)
ということもあるし、どちらもが罪を犯している場合もある、と考えるのがイスラーム法的な見方。

いずれにしても、ムスリム同士で戦っているからといっても、どちらかの信仰が否定されたりはしない。



返信先: @kitsuchitsuchiさん、@kikuchi_8さん、他

これはイスラームというのがキチガイとか、狂っているじゃなくて、そいつ自身が完全に狂った事を意味しているので
日本で言えば、何処でも全裸で自慰しながら、うんこ塗りたくってそこらじゅうをうろつき回るようなもので
それが正しくて、社会的常識何て言ったら精神病院行きでしょ?

だから、
そう思ってもそれだけは口に出さないわけ
日本語って、全く言葉に重みがない言語だからそれでいいだろうけど、アラビア語や英語となると意味合いがまたガラッと変わるからその延長を海外に持って行ったらかなり危険というか、普通にリンチ受ける

自由というのも勘違いしているなぁ…自由というのは
物質的なものではなく、何かを規定した上で成立する自由が本来の自由であって
所謂、形而下の自由というのは本能的な自由でしかないのね
そういうと何故に「何か」が悪を作ったのかというけど、これも頭の程度が知れる質問なのね

「何か」というものは至善なわけで悪は行わないし、悪を用意することはないの
悪を用意しない存在は完全なる善であり、
またその存在は
「何をも必要としない、絶対単性」なわけで
悪と善でわかれていればそれは必要としている存在であり、それは「何か」ではないわけ、まずここで破綻しているの

では、その「何か」は何を人に与えたのかというと
全ての力・知・生の土台を与えたのよ
例えば、包丁の持つ力・知識というのは何かを切ったり、安全に調理したりする為のものだけど、
時には人を殺すわけ
で、「何か」は人を殺す事を命令したのだろうか?
するわけがない、殺す事は悪だからだ

と、すると強制されている・予定という概念は成立しない
なんで?
何で悪という事を「何か」が強制して、
しかも地獄に堕ちる事を確定させるんだよ?
そんなの善なる存在ではまったくないでしょ?
そんなのは単純な論理でわかるわけ、
そんな事もわからないのが現代のやそ
とスンニ派の大部分です

だから、人間にはその「何か」の力と知識を使う能力があり、その能力をどう使うか「だけが」問題なの
これが「何か」の絶対公正性なわけ、
これが神学で哲学・ハシタメのご主人様の正体なわけだ

御主人様は古いようで常に新しいのでショタジジイみたいなものだね、やっぱりおねショタに帰結するんや”






・過激派を破門しない理由

異端と不信仰は違う

スンナ派にも異端者(ムブタディウ)とい概念がある。
異端者は身体において罪を犯す人について言うのではなく
スンナ派に包摂しえない、
誤った信条を報じるイスラームの宗派や神学的立場にあてがわれる名。

シーア、ハワーリジュ、ムウタズィラ派など
スンナ派に対立する信条をもつ宗派はすべてスンナ派から異端とみなされる。

異端者とみなすことは不信仰とみなすことはおなじではない。
異端者でもおなじムスリムとして扱われる。
異端であるからといって中央から軍が派遣されて攻撃されたり
殲滅させられたりすることはない。
たとえその宗派がイスラームで禁じられる行為をおこなうことが想定されていても
実際に不法行為が顕されるまでは基本的に放置される。
異端審問で拷問したり処刑したりというものは
イスラームではない。

異端者というカテゴリーをさらに超えて
誰かを不信仰者と判断することをタクフィールという。
タクフィール
=不信仰者とみなすこと、不信仰を帰すること。

スンナ派では特定の個人に対するタクフィールはできうる限り避けるべきものとされている。
背教を宣言したわけでもないムスリムについてタクフィールがなされることはめったにない。

ハディースでムハンマドは
「人が他の人を不信仰者と呼べば、
両者のどちらかが不信仰者となる」
と言ったと伝えられる。

不信仰者とみなせば誤った判断をした自分こそが不信仰者になってしまう。


ムスリムの行為は良い方向に解釈する

フスヌッザンヌ(善い方向に解釈する)はムスリムが同胞に接するさいに持つべきとされる指針のひとつ。
例えば
知り合いのムスリムがビール缶の入ったコンビニ袋を手に家に帰っていくのを見てしまったとする。
悪く解釈すれば「この人はビールを飲むんだな」。
しかし
間違ってビールを買ってしまった、
捨てられていた空き缶を拾っただけ(これは善行)、
ノンアルコールビール、
いたずらで入れられた、
ムスリムでない知人の頼みだっただけかも。
このように悪い方向には解釈しないことが
フスヌッザンヌ(善い方向に解釈する)。

限度を越えれば不信仰の宗教と判断することはある。

極端派(グラート)と呼ばれるシーア派の諸派があるが
自分たちの指導者を神、
あるいは神性が宿った存在と考えるため、
スンナ派からはもはやムスリムとはみなされない。

(そりゃあ人が神というのは一神教正統派の最大級のタブーだからね)

八世紀のジャフムを学祖とするジャフム派という宗派があったが
スンナ派の多くの学者は不信仰の宗派と判断した。
が、この派に帰属する人たちを非ムスリムとみなし背教者としては扱わなかった。
ムスリムとして接した。

特性の宗派や思想の不信仰性の判断と、
奉じる個々人の不信仰性の判断はおなじではない。
特定の神学的立場が不信仰であることを種の不信仰といい、
特定個人が不信仰者であることを個の不信仰といって
明確に区別。

神学の学問的な見地から特定の信条の誤りや不信性について議論しつつも
日常生活においてはそうした信条を抱くムスリムとも共存することができる。

特定個人に対するタクフィール回避の仕組みの一つに
無知による免責がある。



・スンナ派神学は大きく二つの陣営に分けることができる。

①思弁神学
(アシュアリー学派とマートゥリィーディー学派)

神学的な論争を行うさいに、
「クルアーンやハディースの引用」のみならず
「理性にもとづく論理的な立論」を神学の典拠として尊重。

(理性と論理重視なのが重要)


②ハディースの徒

伝承主義(アサリーヤ)と呼ばれることもある。
思弁神学と異なり、
「理性にもとづく論理的な立論」を神学の一次的典拠とすることに反対。
クルアーンやハディースといったテクストの文言と、
理性にもとづく論理的な立論を併用するのではなく、
あくまでテクストの文言のみを第一の典拠にするべきだと考える。


両者は対立関係にあるが
時代によって
学者個々人の考え方によってその程度は変化してきた。
非常に激しく衝突することもあれば
互いをおなじスンナ派を構成する潮流の一つ程度に見る場合もある。


本書の図でハディースの徒に含まれる
サラフ主義とは
宗教実践や学派の解釈の中に
初期イスラームにはなかったまがいもの、
あるいは異端的な要素が混入していると考える。
イスラームを純化するためには
クルアーンやハディースのテクストを直接参照し
初期イスラームに帰るべきだと主張。
伝統的な学派システムを否定する
復古主義的な志向性を持つ潮流と形容できる。

サラフ主義の一部はジハード主義(サラフ・ジハード主義)として分類される。
ジハード主義とはシャリーア(イスラーム法)を正しく施行しない現代の為政者は
ジハードの対象
であるとし武力攻撃の対象と考える立場。

宗教色のある主張を物理的な暴力の行使と結びつける
いわゆる過激派と呼ばれる人々はジハード主義に位置づけられる。

ばくぜんと穏健派と呼ばれる人たちは、
本書の思想地図のなかでは
①思弁神学の二学派
②古典的なハディース徒
③サラフ主義のなかのジハード主義ではない人たち

しかし対立構造は複雑で
ジハード主義者とその他が単純に二手に分かれて対立しているわけではまったくない。

思想地図より

思弁神学は伝統的なハディースの徒を時代・論客によって様々な捉え方。

思弁神学とサラフ主義とは基本的に相互に批判、ときに異端視。

伝統的なハディースの徒のうち
比喩的解釈を許容する潮流はサラフ主義を部分的批判。

伝統的なハディースの徒のうち
イブン・タイミーヤなど比喩的解釈を批判する潮流から
サラフ主義が派生。


思弁神学はジハード主義を基本的に異端視。
ジハード主義は思弁神学を異端視。ただし一部共闘を呼びかけ。


・アシュアリー学派が生まれた大きなきっかけのひとつに
ムウタズィラ派と呼ばれる潮流の拡大があった。
ムウタズィラ派は八世紀後半から九世紀に生まれ
一般大衆のみならず為政者にまで支持層を拡大し
スンナ派の強力な敵対勢力となった。

ムウタズィラ派の特徴は理性に基づく論理的な立論を神学の主たる拠点とする。
クルアーンやハディースの表面的な意味よりも
理性を優先させる。
ムウタズィラ派では
神は義なる存在であるから
人間に不信仰や悪行を創造することはありえない」
「神が人間のために創造するのは
行為するための能力であり
おのおのの人間は
この能力を自由に用いて
自分の行為を自分自身で創造する」
と主張。

これ
「アッラーは、すべてのものの創造者である」
(クルアーン39章62節)
などを根拠に
悪行や不信仰を含めた人間がおこなうすべての行為が神の創造の対象とするスンナ派の立場と
まっこうから対立。

極端な理性主義のムウタズィラ派の学者として40歳まで研鑽を積んでいたアシュアリーが
スンナ派に転向しスンナ派を擁護。
アシュアリー学派の誕生。


アシュアリー学派とマートゥリィーディー学派は
神の言葉は神とともに永遠であり生じたり消えたりするものではない、
したがって文字でも音声でもないという立場。

対してハディースの徒は
反対に
アッラーが啓示によって語るとき、
天の民はその声を聞く
とのハディースの文言などを根拠に
神の言葉は文字と音声からなると言う。

(『イスラーム神学』の書評より引用。

”本著のねらいは、イスラーム教・スンナ派の神学を日本の読書人に紹介することにある――同派は日本では「スンニ派」と呼ばれることが多いが、松山さんは本著にて一貫して「スンナ派」と呼んでいる。『イスラーム思想~』でも同様。

スンナ派の神学は、アシュアリー学派とマートゥリィーディー学派、
そして「ハディースの徒」の三つの学派に分けられる。
このうち、前者二学派は抽象的ないし哲学的な思考を重視し、
後者はコーランを文字通りの意味で解釈する、という違いがある。

たとえば、コーランには「神の手」という表現が出てくるが、
前者二学派はこれを比喩だと捉える。
一方後者は、文字通りアッラーには手がある、と考えるのである――ただし松山さんによれば、「ハディースの徒」はさらに細かいグループに分かれており、そのなかには必ずしも文字通りの意味では解釈しないグループもあるというから、注意が必要である。

つづいて法学へ。スンナ派の法学は、以下の四つの学派に分けられる。
すなわち、マーリキー学派、シャーフィイー学派、ハナフィー学派、そしてハンバリー学派である。

これら法学の学派は、かつては上述の三つの神学の学派とは別個の概念であった。が、今日では前者二学派がアシュアリー派、ハナフィー派がマートゥリィーディー学派、そしてハンバリー派が「ハディースの徒」というぐあいに、綺麗な対応関係にあるのだという。”http://j-furusawa.hatenablog.com/entry/2018/05/04/210000



・サラフ
=先達たち、先だった者たち
=イスラーム初期の正しいムスリムたち。
サラフ主義者が言うサラフは第三世代までを指すことがほとんど。

サラフ主義は団体でも教団でもない。


・ジハードが正しい行為であることはイスラームの合意事項。
穏健派と呼ばれる人たちの中でもジハードは徳高い行為とみなされている。

ジハード主義の特徴は
ムスリムに攻撃を加える異教徒だけでなく
ムスリムである不正な為政者や、
その為政者の陣営に与するムスリム、
さらにはときにそういった為政者に対する武装闘争に与しないムスリム全般をも
ジハードの対象とみなすこと。

ジハード主義者ではないサラフ主義者は
為政者への武装闘争はおこなわず、
改革はあくまで教育や啓蒙、
あるいは選挙などの合法的手続きをとおして政治的実権を握ることによっておこなうべきであると考えている。


①ムハンマドの時代を理想の社会とみなす

②イスラーム法を現代によみがえらせようとしている

はサラフ主義者の特徴ではない。

①はサラフ主義者であろうとなかろうと
ムハンマドの時代がイスラームの理想形だと考えており
イスラームの合意事項。
ムハンマドは単に神の言葉を伝えた媒体とみなされているだけでなく
彼の生きざまはムスリムが模範とすべき理想像とされる。
ムハンマドとともに生きた第一世代のムスリムは
もっともすぐれた世代だと信じられている。

②についていえば
シャリーア(イスラーム法)は神によって定められた法規範であり
特定地域でのみ通用する慣習法でも
もはや実地に用いられない中世の法律でもない。


・非ジハード主義の論客は
以下のハディースを好んで引用し
統治者が人々に礼拝を許容している限り、
その統治者に従うことが義務である
と説く。
ハディースにはこうある。
「あなたたちの指導者のうち最善の者たちは
あなたたちが慕い
あなたたちが祝福を祈り、
あなたたちに祝福を祈る者たちである。
あなたたちの指導者のうち最悪な者たちは
あなたたちが憎み
あなたたちを憎み、
あなたたちが呪い、
あなたたちを呪う者たちである」。
こう述べたムハンマドに

「アッラーの使徒よ、
われわれは剣によって彼を退けてはならないのですか」
と尋ねる者があった。

ムハンマドは以下のように答えたと伝えられる。
「否。
彼らがあなたがたの内に礼拝を挙行させている限りは。
あなたたちがあなたたちの権威者に何か嫌うことをみとめたのであれば、
彼の行為を嫌いなさい。
しかし、
手を忠義から離してはならない」。

(礼拝さえ認めておけば反抗されないからと考える圧政者に対してはどう対応するのだろうか)

どのような圧政を敷き、
ムスリムを迫害しようとも
礼拝が許容されている限りはその統治者に反逆してはならない
というのが反ジハード主義者のムスリムの立場。
統治者を罷免する可能性は認められているが
内軍が発生する危険がない限りにおいておこなわれうることだと言われる。

・カリフの擁立は多数派であるスンナ派ではすべての学派の一致した見解。


・イスラームでは戦闘で
相手方の戦闘員以外の人間に物理的攻撃を加えることは許されない。
イスラーム法では敵の戦闘員は成人男性のみと規定される。
女性と子供を攻撃することは禁止で、
これは法学者の一致した見解。
成人男性であっても
老人、身体虚弱者、
精神薄弱者、狂人、
盲者、下半身不随者、
麻痺者、手足の切断されたもの、
右手を切断された者、
(これ利き手という意味?)

雇われ労働者、隠遁した修道者、
商人、職人、
両性具有者、農民などは
細かい議論はいろいろあるが
多数派の見解では攻撃対象とすることは許されない。
それ以外の成人男性は戦闘員として包摂される。

コラテラル・ダメージ(やむを得ないまきぞえの犠牲)
については古典的なイスラーム法学でも詳しく議論がなされてきた。
結論としては
火攻め、
石などの重厚な武器による攻撃
飛び道具による攻撃、
夜襲、
水攻め
などが有効だと考えられる場合は、
女性や子供が被害にある公算が高くとも攻撃をおこなうことが許容される。


・中田考氏『イスラーム 死と聖戦』での
中田氏は
「ダール・イスラーム(イスラーム圏)を拡大する戦いもジハードの一種であるが、
その発動にはカリフの命令が必要であり、
カリフ不在の現時点では、
ジハードは自衛戦争に限定される」
と主張。
また同書で
「『ハディース』においては、
敵を焼き殺すことは禁じられています。
ところが、現代の戦争で用いられる兵器は、
(中略)
人を焼き殺すものばかりです。
(中略)
つまり、大量破壊兵器を用いる現代の戦争は、
あからさまにイスラームの倫理に反するのです」と書いている。

しかしここで中田氏は
個人を火刑で処刑することの禁止の議論

ジハードにおける火攻めの是非の議論
とを混同しているのではないかと
著者は考える。
もっとも、
前者から後者を類推し
火攻めは可能であれば避けたほうが好ましい
という議論はあるが、
禁止・忌避されるとまでは言われない。
ただ、中田氏に似たスタンスで
人道的な理由から
核兵器、化学兵器、
細菌兵器の使用がイスラームにおいては禁じられるという議論は存在する。


・イスラームは唯一の正統教義を決定する公会議のようなものをもたない。


・ジハード
=敵に対する抵抗において努力すること。

敵は
①ムスリムと交戦する異教徒
②悪魔
③自我。

悪魔の誘惑や事故の悪い欲望と戦うことも
ジハードに含まれる。

一部の学者は
大ジハード
=自我との闘い

小ジハード
=異教徒との戦争。


異教徒との戦闘という意味でのジハードでは
戦闘開始の手続き、
戦闘での規律、
戦後処理などが法学で詳細に決められている。

ジハードは殲滅戦ではなく限定戦争。
敵の支配地域の住民をムスリムに強制的に改宗させることもおこなわれない。

ジハードの目的は
一般的には
イスラームとムスリムの防衛、
およびイスラームの宣教が人々に行き届く空間の確保。
近現代では防衛のみがジハードの目的だとする見解も広まっている。

ジハードは聖戦と訳されることがあるが
正戦の訳語が適切かもしれない。
努力、奮闘努力などの訳語を用いる人も増えている。


・イジュティハードの意味は大きく分けて二つ。
①法規定を演繹すること
②法規定を適切に適用すること

本書は①の意味に絞る。


聖職者階級や教会制度をもたないイスラームには
正しい教義を決定する正当な手続きや資格は存在しない。


法学と神学の違い。

法学
=ムスリムが身体でおこなう行為、
あるいは口によって発する言葉を対象とする。
礼拝などを論じる。

神学
=ムスリムが頭のなかで何を信じるべきかを論じる。
創造主が無始なる存在であることや
ムハンマドが預言者であることなど。

(法学
=第三者が認識できる外面的行為について。

神学
=第三者が認識できるとは限らない内心の信仰について)


イジュティハードとは、
j-h-dを語根とする動詞“jitahada”の動名詞で、
「法学者が、個別的な典拠(を精査すること)をつうじて、法規定を演繹することに最善の努力を尽くすこと」。

簡単に言えば、特定の問題についての適切な典拠を見つけ出し、特定の法解釈を独自に/自力で導き出すこと。

一方のタクリードは、
q-l-dを語根とする動詞“qallada”の動名詞で、「証拠や典拠を知ることなく、他人の見解に従うこと」。


タクリードが説かれた背景の一つは
時が進むにつれて、
知識は廃れていく
というイスラームの下降史観がある。

(だんだん良くなるという進歩史観と真逆)






松山洋平編『クルアーン入門』(作品社、2018年)




・松山

ムハンマド逝去後、
クルアーンは第一代カリフのアブー・バクルの指揮のもと
一冊の本の形にまとめられた。
ムスハフ
=クルアーンが物理的な本の形にまとめられたもの。

その後、第三代カリフのウスマーンによってその写本が作られ、
彼はその写本を正本とするようムスリム共同体全体に通達した。
以降現在まですべてこのウスマーン版から複製されたムスハフによって
クルアーンを読んでいる。
クルアーンには単一のクルアーンしか存在せず、
使用言語や宗派によって異なるヴァージョンは存在しない。

(既存の一神教の欠点を克服している)


クルアーンの専門的定義(の一つ)
=ムハンマドの上に下された
奇蹟たる言葉であり
ムスハフの中に書かれ、
タワートゥルによって伝えられ
それを唱えることが崇拝行為
となるもの。

タワートゥル
=なんらかの伝承や情報を伝える代々の世代が
理性的に考えて
虚偽を捏造することを申し合わせることが
想定できないほどの人数に達する状態
を意味する。
イスラームでは
そのように伝えられた伝聞情報は真実として認められる。


上記の定義をみたときに
日本の読者が見落としがちなきわめて重要な点がある。
それは
クルアーンが
ムハンマドが霊感によって発した言葉でも
ムハンマドに啓示をもたらした天使ジブリールの言葉でもなく
そのすべてが創造主アッラーの言葉
だという点である。

イスラームでは
アッラーの言葉というのは
永遠であり
単一であり
スンナ派などの多数派の考えかたでは
アッラーによって創られたもの
つまり被造物ではない。
したがって
アッラーの言葉と聞いたとき
それに人間が言葉を発するときのようなイメージをかぶせるのは誤り。

アッラーの言葉が永遠であるということの意味はこうだ。
アッラーは永遠の存在であり
時間のなかに存在するものではなく
変化を受けつける存在ではない。
彼は、
永遠の昔からそうあったように常にあり続ける。
アッラーは不変である。
そのため、彼は
話し始めたり
話し終えたりということはない。
彼が永遠であれば
必然的に彼の言葉も永遠のものである。

彼の言葉は単一であることの意味もこれと似ている。
彼はあることを発言したのちに
周囲の状況に応じて発される偶発的なものではない。
そのようなことが仮に想定されれば
彼は永遠の存在ではなく
変化する被造物のような存在になってしまう。
したがって
彼の言葉は単一であり
あることを発言したのちに
別のことを発言したりすることはない。
アッラーの言葉は
人間のように周囲の状況に応じて発される偶発的なものではない。
アッラーの言葉が被造物でないことは、
仮に被造物だとすると
アッラーの言葉はアッラーと別の存在となり
被造物でありながら永遠の存在であるアッラーの言葉
が並立して存在することになる矛盾よりわかる。

人間側の解釈が間違うことはありうるし
複数の解釈が生まれることは認められている。


・日本語で通常
啓典と訳される単語は
アラビア語のキターブ(複数形クトゥブ)
であり、書物、本という一般的意味を持つ単語であり
全体としてまとまりで書かれたものなどの意味を持つ。


預言者の正確な数は不明だが
あるハディースでは
預言者は十二万四千人で
そのうち使途は330人と言われる。
ただし預言者や使徒の数を示すハディースは
それほど強い信憑性を持つものではないため
預言者の数は断定しないことが好ましいとされる。

預言者
ナビー
=アッラーから啓示を受けた者全般。

使徒
ラスール
=預言者のうち
人々への使信の伝達
--宣教といってよい--
を特に命じられた者。

啓典はすべての預言者に与えられたのではなく
預言者のうちの使徒にのみ与えられたもの。

使徒の数と同様、啓典の数も明らかではない。

・クルアーンは三段階を経てムハンマドに届けられた


アッラーは第一に
護持された書板
=世界に生じるあらゆる出来事が記された
アッラーによって創造された天の書板
に記した。


護持された書板に記されたクルアーンが
現世の天に位置する
威力の家
という場所に下された。
この
下し
はラマダーン月の
決定(カドル)の夜
に行われた。


現世の天に下されたクルアーンが、
二十数年間をかけて
少しずつムハンマドに啓示された。


・下村

アラビア語の奇蹟を厳密に訳せば
模倣不可能性
となる。

イスラーム教学の
奇蹟の定義

①慣行(=自然法則)を逸脱(超越、破壊)する事柄で


②「挑戦」
(クルアーンが偽作だと言うなら
それを言う彼らに
クルアーンと同じようなものを持って来させよ)
を伴い

③「対抗」
(挑戦への抵抗
=クルアーン同様の一章を持ってくること)
から免れているもの。

イスラームでは
聖書つまり
ユダヤ教の律法の書(タウラー)と
キリスト教の福音書(インジール)は
アッラーから下された啓典とされる。
しかし奇蹟ではない。
聖書は言葉の美しさの点ではクルアーンに及ばず
挑戦も含まれていないために
奇蹟とはみなされない。
クルアーンでは言語表現の美しさ自体が
本質的に重要であるため
奇蹟たりえない翻訳は宗教儀礼に用いられない。

クルアーンの多言語への翻訳はクルアーンそのものとはみなされず
解釈の一種とされるのは
奇蹟性や言語表現の入り組んだ複雑性が翻訳されえないから。

(一神教なのに宗教者が翻訳聖典しか読めないっておかしいもんね)


・松山

ムスハフを構成する紙や、
文言が書かれているインクなどは
アッラーの言葉ではない。
それらは被造物。

多数派の見解では
ムスハフに触れるさい、
ムスリムはイスラーム法に基づく
タハーラ(清浄)状態になければならない。


クルアーンの章句に加え
註釈がかかれた
タフスィール(クルアーン注釈書)
に触れる前にタハーラが必要か否かについては
ある学派では不要である
ある学派では必要であるといった
見解の相違がある。


不信仰者にムスハフを触らせてもよいか

一説では不信仰者にムスハフを触らせることは禁じられる。
タハーラには意志を伴っていなければならず
不信仰者には持てないからだ。
別の説では
不信仰者でもタハーラをその者が行い
入信可能性があるなら触らせることが許容される。
さらに別の説によれば
触らせることが許容されるが
タハーラは不要。
それを義務付ける明白な典拠は存在しないからだ。


ムスハフを地面・床に置くことなど
侮って地面に置くことは学者間の一致した見解として禁じられる。
それをした者がムスリムなら一説では不信仰者となる。

必要があってなら
一説では許容され
一説では忌避され
一説では禁止される。

ムスハフの上に他のものを乗せることは許容されないが
ムスハフの上にムスハフを置くことは構わない。

ムスハフを侮る意図なくムスハフに足を伸ばすことは
一説では避けることが最善であるが禁止も忌避もされないとし
一説では忌避され
一説では禁止される。

便所に持って入ることは
避けられない事情がない限り禁じられる。
一部の学者はムスハフが顕わになっていれば禁じられるが
入れ物にしまわれていれば構わないともいう。

不要となったムスハフの処分方法
焼却処分は多数派が許容。
水に浸してとかすこと
地面に埋めることは
学者間の一致した見解として許容。
ただし浸す水や埋める場所は清浄でなければならない。
細かく引き裂いて処分することが許容されるか否かは見解が分かれる。

非アラビア語に翻訳されたものはもはやクルアーンではないため
上記のムスハフの規定は当てはまらない。

作品社の『日亜対訳 クルアーン』のような
翻訳に加え原文も載っている本の場合
ムスハフと捉えるか
タフスィールと捉えるかには見解の相違がある。

筆者が個人的にやや不安に感じるのは
日本で一般的に見られる本の取り扱い方が
アラブ人などの目には
まるでその本を軽視し
侮辱していると映ることがありそうだという点である。
現代の日本では
本を床に乱雑に置く
その結果、無意識に本を踏む
本を台にしてその上に何か(コップや肘など)を置く
本をぽんと放り投げるなどの行為は
個人差もあるだろうが起こり得ないことではない。
しかし、
イスラーム教圏一般の人がこれらの行為を目にすれば
本を非常に乱暴に扱い
知識全般を軽視し侮っているように感じるだろう。
場合によって何かしら意図的な悪意を感じる人がいてもおかしくない。
あらゆる誤解を生まないためには
ムスハフ、および翻訳書はなるべく丁重に扱うことが好ましいと言える。

(本を乱暴に扱う=知を軽視なので
知を重視するイスラームに反する。

翻訳版クルアーンは解釈書扱いですが
クルアーンと同様に丁寧に扱いましょう)


・松山

クルアーンの各々の章は
複数の節(アーヤ)から構成される。
クルアーンのすべての節の数は
6200といくつかである。
下二桁については学者間に見解の相違があり
4、5、14、15、
19、20、26、36ともいわれる。

この見解の相違は
どこまでがひとつの節であるかについて見解が異なる部分があるからである。


クルアーンには
確固たる節と
曖昧な節があると言われる。

前者
後者の順でいくつかの定義を並べる。

意味が明らか
意味が明らかにされていない

単一の意味にしか解せない
複数の意味に解することができる

廃棄されなかった
廃棄された可能性のある

曖昧な節の効能
より精緻で深遠な解釈がなされる
真意を知るためにさまざまな学問が発展
信徒のさまざまなレベルに合わせて多層的な意味を提供できる



・後藤

最初の日本語訳クルアーンが刊行されたのは
坂本健一『コーラン経』1920年、大正九年。
アラビア語の原文と
当時定番だった複数の英語訳を参照している。
この最初の日本語訳においてアラビア語のアッラーは

主人を意味するRabbは
上帝
と訳された。

(漢訳聖書の影響だろう)


二番目は
高橋五郎・有賀阿馬土共訳『聖香蘭経』1938年、昭和一三年。
1930年代
日本では大東亜共栄圏構想をはじめ
帝国主義によるアジア地域への進出の期待が高まっていた。
回教圏研究所や大日本回教協会、東亜研究所の回教班など
関係の研究機関や組織が次々と設立された。
高橋五郎は聖書和訳の分野で活躍した。
有賀阿馬土は最初期の日本人ムスリム有賀文八郎。
阿馬土はアフマドの当て字だとされる。
アッラーは大神
Rabbは天主となっている。


三番目は
大久保幸次・小林元による部分訳
(1938年から1944年まで月間機関紙『回教圏』に連載)、
大久保幸次「邦訳コーラン」
大久保幸次・鏡島寛之『コーラン研究』刀江書院、1950年に採録。

イスラームに関する十分な専門知識を持ち
アラビア語の原典翻訳を試みたのが
回教圏研究所所長で
トルコ学とイスラーム研究の先駆者的存在であった
大久保幸次である。
回教圏研究所はアジア主義という国策による資金面での後押しを得て成立した。
アッラーは
アルラーフ
(「ル」と「フ」は小文字)
あるいは
神、

Rabbは
主宰
と訳されている。


四番目の日本語訳は大川周明訳注『古蘭』岩波書店、1950年。
東京帝国大学の哲学科で東洋思想と宗教学を修めた大川は
在学中から道会(儒教的キリスト教を掲げた団体)に関係し、
その雑誌『道』に寄稿したり
編集の中心的役割を行ったりした。


(道会は儒教的キリスト教だと明言しているのが素晴らしい。
道会は万教帰一系。
日本のイスラーム人脈には万教帰一人脈が混じっているので注意)


大川はアラビア語の独習を進めつつ
インドから「アハマディヤ協会」発行のアラビア語・英語両文併記のクルアーンを取り寄せたり
ハディースを翻訳し
その抄訳を雑誌『道』に掲載したり
マホメット伝を執筆したりした大川は
熱心なイスラーム研究者であった。
その後大川は
東亜経済調査局に勤め
その理事長となり
1931年の満州事変や翌年の五・一五事件に関与したとして逮捕されるなど

波乱万丈な人生を送りながらもイスラームについて学び続けた。
大川は
アッラーは
アルラーハ
(「ル」と「ハ」は小文字)、


Rabbは

と訳されている。

大川は信徒になることはなかったようである。


(アフマディーヤ発行のものなんて参考しちゃいかんでしょ。
この教団についての説明も本書にある。
大川はA級戦犯を逃れた特権階級)


アハマディア・ムスリム協会とは
1899年にインドで興ったスンナ派イスラームの分派で
イスラーム内のいわば新宗教(新興宗教)で
特徴は
極端な平和主義と
カリフ(宗教指導者)を頂点とした行動に体系化された組織。
現在の本拠地はイギリスにあるが
欧米や西アフリカに多くの信徒をもち
日本にも1930年代以来
パキスタン系の人々を中心に増え始め
現在では日本人配偶者や日本人からの改宗者も含めて200名程度の信徒がいるといわれている。

(インドでできて、本拠地がイギリスの時点で怪しさ満点。
インドと英国って神智学系がらみ?)



2017年6月現在までに刊行されたクルアーン日本語訳の中で
最新なのが
『聖クルアーン日本語訳』で
訳者の澤田達一は
イラン最大の宗教都市ゴムのイスラーム法学院でイスラーム諸学を修めた人物で
日本人初のシーア派聖職者として知られている。
日本語で初のシーア派の解釈をもとにした翻訳。







→敢えて仏教用語を援用することもあった。適応主義的な宣教政策の由縁。
文脈は大きく異なるが、クルアーン日本語訳でも初期は仏教・神道の名称が用いられたこととも呼応して興味深い。宗教概念の翻訳は非常に難しい行為の1つと言えそうだ(宗教の説明に他の宗教・哲学の用語を援用せざるを得ない)


777(ななさん)
‏ @koi_72hiki
2017年12月1日

私はムスリムであり、一時期イスラーム教徒向けの「アルウンマ新聞」を読んでいた。そこには、日本人唯一のシーア派聖職者澤田達一さん、その父親が大本教について肯定的な記事を連載していた。

私自身、出口汪先生のおかげで現代文の全国偏差値は79まで上昇し、「本が読める」ようになった。
それに、私はアート面(茶器や書画)や建築面で大本を高く評価している。


777(ななさん)
‏ @koi_72hiki
2016年2月8日
今さらながら日本人唯一のシーア派の聖職者・澤田達一さんが言っていたことがじわじわ効いてくる。
井筒さんの訳は学者的だと…。
井筒さんの預言者ムハンマドの「三位一体」批判は当てならないと…。



・下村

個人的見解(イジュティハード)

一般的に
イスラーム教学では
知識に到達するための方途を
理性と伝承に分類する。
理性
=考える力、判断能力、推論能力などの
実際的な力であって
能動知性のように高度に思弁的なものではない。

伝承
=従われるべき権威ある存在から
後代に伝えられた内容であり
アッラーのコトバであるクルアーン、
預言者ムハンマドの言行録であるハディース、
教友の言行など。

伝承者A→伝承者B→教友の次世代→教友
のように教友に確実に遡ることができれば
教友の権威に接続しているため啓示の契機として
受け入れられるが
教友の次世代で途切れているものは
教友の次世代が独立した権威となりえないためさらなる精査が必要とされる。

伝承の集成と精査を扱うのがハディース学。
その分野の一つに伝承者批評学がある。
伝承者の資格として重要なのは
信頼性と
厳正性である。

信頼性を有さない者は
1 不信仰者
2 幼児
3 狂人
4 不義者(≒犯罪者)
5 ハディースを捏造していたが悔悟した者
6 不信仰には至らないような教義上の逸脱者
7 ハディースの伝達によって報酬を得ていた者
であるとされ
端的に言えば
利害を離れて正直に真実を語っているかどうかが審査される。

厳正性を有さない者は
1 誘導に引っかかる者
2 孤立した伝承の多い者
3 不注意な伝承の多い者
4 伝承における間違いを指摘されても自説を曲げない頑固者
5 口承との校合(きょうごう)がされていない不十分な写本に基づいて伝承する者

とされる。


(情報の真偽判断にさっそく活用しよう)

教友たちについては全員が例外なく信頼性を有するとされる。
教友の信頼性を担保するのはクルアーン、ハディース、
これらを元にした学者たちの合意であって
合理性では捉えきれない側面がある。




・下村

古い規定が新しい規定によって更新されながらも
古い規定を定めた章句がそのまま残される現象が見られる。
これを規定の廃棄と呼ぶ。
どの章句が廃棄と被廃棄の関係に該当するのか統一見解はない。
「剣の節」による廃棄はより本質的な問題であり
現代の学者は次のようにこれをまとめる。
一般的には
「剣の節」とは

クルアーン9章5節
「それで諸聖月が過ぎたら、
多神教徒たちを見出し次第殺し、捕らえ、包囲し、
あらゆる道で彼らを待ちうけよ。
だが、もし彼らが悔いて戻り、
礼拝を遵守し、
浄財を払うなら、
彼らの道を空けよ。
まことにアッラーはよく赦し給う慈悲深い御方」
(預言者に敵対し、策謀し、
盟約を反故にし、
信仰者たちに無慈悲にふるまうアラブの多神教徒に関する規定)

であるとされるが

同書9章6節
「そしてこぞって多神教徒と戦え、
彼らがこぞっておまえたちと戦うように」
とも言われ一定しない。
6節のほうは相互主義である。

(相互主義
=外交や通商関係で、相手国の自国に対する待遇と同等の待遇を与える主義)

クルアーンは五月雨式に下されたため
中には新しい節の啓示によって古い節の規定が上書きされた
にもかかわらず、古い節がそのまま残るという現象が見られる。
これをナスフ(naskh)つまり既定の廃棄ないし解消と呼び
訳語として廃棄を使われることが多い。
n-s-khを語根とする単語はクルアーンの中に次の四回現れる。

「われらが取り消す(nansakh)か
または忘れさせる節があれば、
それに優るか、
同様のものを持ってくる」
(クルアーン2章106節)
にある取り消す。

他の三カ所は
写し
廃棄し
書き写させていた

n-s-khには言語的には
解消と
移転(書写、転記)
の両義があることがわかる。
専門用語として
ナスフ
=聖法(シャリーア)によって
聖法上の規定を取り上げること

あるいは
=シャリーア制定者が先行する規定を
後行する規定によって取り上げること

と定義される。


現代でも一部の学者は
剣の節が寛容を説く数多くの章句を廃棄したと主張する、
実に嘆かわしいことである、と。
古典期にも剣の節による廃棄が濫用されていると批判する学者はいたが、
彼ですら剣の節による廃棄自体は認めていた。
対し、
イスラーム圏が劣勢に置かれた近現代ではこれを認めていないのは
時代の空気が反映されているのであろう。

マッカ期には弱小であったイスラーム勢力は
強者に忍従し弾圧を受けても放免するようクルアーンに定められていたが
後のマディーナ期の勧善懲悪やジハードの義務によって
廃棄されたとの理解が中世にはあった。

中世で規定は廃棄されるのではなく「忘却」されるのに過ぎないとの見解が出された。
つまりイスラーム勢力が強ければ勧善懲悪などが課され、
弱体化すれば忍従が義務となるとの説である。
現代の学者は忘却理論がご都合主義との批判を受けかねないと注意喚起している。


現代の学者カラダーウィーの議論を見てみよう。
①現代の中道的ウラマーは廃棄の認定に慎重

②イスラームの寛容性を説く論者は廃棄認定を避けるのに対し、
イスラームの絶対的優位性と峻厳さを強調する論者は
剣の節による廃棄を主張。

③どれが剣の節であるか合意はない

④剣の節は無限定な原則論として解釈されるべきではない

⑤啓典は全体が有機的に理解されるべきである。


イスラーム法源学では
酒がクルアーンで段階的に禁止され
これを既定の廃棄の典型例として紹介する。
他方、中世学者でもこれらの節を廃棄の例に含めていない者もいる。
現代の学者は廃棄の条件を詳細にまとめ、
似非廃棄という
忘却、限定、解説などを廃棄と誤認した例を挙げる。

「剣の節」として知られる
クルアーン9章5節
を原因とした廃棄に関し
古典期
(ヒジュラ暦1176年、
西暦1762年没の
シャー・ワリーウッラーまで)
の学者がこれを認めるのに対し、
近現代期はまったく認めていないのは対照的。


ザルカシーの議論いわく:
軽減処置を命じる数多くの節が
剣の節
によって廃棄されたとする多くのクルアーン註釈家たちの主張は脆弱。
これらは忘却対象であり、
つまりすべての命令はその規定を義務とする理由に従って
ある期間に遵守されなければならない。
理由の遷移に伴って
別の規定に遷移するのであって、
廃棄ではない。
廃棄とは解消に他ならず、
決して遵守することが許されないからである。


忘却
=一時停止ないし休眠
(状況に応じて復活可能)。

(預言者に敵対し、策謀し、盟約を反故にし、
信仰者たちに無慈悲にふるまうアラブの多神教徒を殺せというのが剣の節。
異教徒を殺せの異教徒はイスラーム側とかわした約束を破った残酷な異教徒なのが重要。
異教徒を殺せはイスラームの共通見解ではないことも重要。
歴史的に見て、ヤソに比べてイスラームは異教との共存が上手くいっているし、
異教徒を殺せをひたすら実行なんてしていないから、
剣の節を理由とするイスラーム叩きのほとんどは無知に基づく不当だ。
剣の節は条件が限定されていると解釈し
異教徒を積極的に殺さなかったからこそイスラームは生き残ってきたのでは?)



古典期と近現代では廃棄の認定に大きな差異がある。


ザルカーニーいわく
例外や期限の設定による
限定
を廃棄・被廃棄と誤解してはいけない。
解説も同様。


比喩的解釈(タアウィール)


限定は廃棄よりも基準が緩やかであり
矛盾の解消に用いられやすい。

クルアーン2章191節
「しかし禁裏モスクでは
彼らがそこでおまえたちに戦いをしかけるまでは
彼らと戦ってはならない」

クルアーン9章29節
「税(ジズヤ)を収めるまで戦え」



・下村
(基本的に書かれた順にメモしているが
内容が剣の節の解釈なので、
本当はもっと後ろの方の記述だがここに持ってきた)


防衛線の縛りを解くのが
9章5・36・41節。
古典期の議論をまとめると


9章5節は剣の節として知られ
忍耐などを命じる節を廃棄し


戦闘一般を無限定に命じているが


女子供と修道者は除外され
ここで言われる
多神教徒には


背教者が含まれ


啓典の民が除外される可能性があり
クルアーン9章29節によって


啓典の民は人頭税の貢納による停戦が許されるが


偶像崇拝者は庇護民となり得ない可能性がある。
殺せとの表現は無限定であるため


正統カリフ時代に背教者が禁殺された故事も伝えられるが


遺体損壊は禁じられている。
包囲し
とは
10
封鎖を意味し
捕らえよ
とあるとおり
11
敵を捕虜とすることが許され
12
その処遇は
殺害、身代金、恩情の中からカリフが選ぶ。

13
多神教徒が入信すれば戦闘は停止され
14
その後に礼拝や法定喜捨拠出を拒否すれば背教者として討伐対象になる可能性があるが
15
義務を施行すれば停戦される。

他方
近現代の論客である
ムハンマド・アブドゥは9章5節が仮借などを命じる諸章句を廃棄したことはなく
それらは単に忘却されただけであり、
9章5節にある
多神教徒はかつて存在したアラブの多神教徒であったとする。

現代の代表的法学者ズハイリーは

剣の節であると述べながら廃棄・被廃棄の関係について一切言及しない。
多神教徒を殺せ
とは実質的にはすでに存在しなくなった

アラブの多神教徒を対象としており


女子供と修道者は除外され

遺体損壊も

苦痛を長引かせるような殺害方法も許されないとし

当然

焚殺についての故事も伝えない。
アラブの多神教徒は

改宗か殺害かを選ばなければならないが
すでに存在しないため空文化している。

アブー・バクルの背教戦争も

アラビア半島で背教した諸部族を対象としていた。
このように剣の節の対象がアラブの多神教徒であると限定的に解釈することで
全体をすっきりさせている。

ズハイリー(現代の代表的法学者 西暦2015年没)
いわく
多神教徒を殺せ
とは無限定な表現だが
預言者の慣行によって
女子供と修道者、また遺体損壊、
拘束下の者を矢で殺すことが除外され
最も殺害が許されない人々とは宗教者である

殺すのであれば、殺害に最善を期せ
とのハディースが伝えられる。

この節は、
おまえたちに戦いを挑む多神教徒たちを殺せ
の意味であり
アラブの多神教徒は殺されるか
改宗するかである。
啓典の民は9章29節によって本節の規定から除外される。
またハディースには

「おまえたちが多神教徒に遭遇した際には、
彼らをイスラームに呼び招け。
もし彼らが拒絶すれば、ジズヤ(人頭税)の貢納に呼び招け。
もし彼らがそうすれば、彼らから受け取り、
彼らに手出しするな」

とありすべて多神教とを指す一般的表現が用いられているが、
9章5節によってアラブの多神教徒が除外されるのである。


(剣の節という「多神教徒を殺せ」という記述の適用については
学者で意見が分かれており、
「イスラームは積極的に多神教徒を殺せという教え」
というのはデマだとわかる。
どの宗教も自分らの宗教が一番だと言うのは当然であり、
それについては咎められるべきではない。
異教徒への態度(例えば積極的に異教徒を虐殺するなど)
次第では咎められるべきである。

廃棄された個所かどうか確かめずに
コーランのこの個所は悪だと叩いている者に注意。
いきなりクルアーンを読んでもダメな理由。
クルアーンを原文で読み、
かつ多数派解釈と少数派解釈を学んだ人を情報源にしないと
デマをつかまされる可能性が高い。


剣の節についてシーア兄貴が解説してくれることを期待して
それについてRTしたら解説してくれた。
ありがとうございます!
ノスヘとあるが『クルアーン入門』ではナスフ。
母音のつけ方と日本語では完全に表現できないことから来る違いだろう。

蟹ぢから溢れる
🦀
💪
‏ @onesyotasekai
6月16日
あーもう…だから、核汚染ではイスラームの議論何てできるわけねえのになんでするかな虫けら共め
えーとねぇ、第9章悔い改め・更正というのは最後の最期に啓示を受けたもので
この章の重要性は聖地であるマッカに多神教徒が入る事は出来ないという事とその退去時間が4ヶ月ですよという事なのよ

でね、これは前にفتح مکه に ついて知らないと話にならないのだけど…
まー案の定、この悔い改め章とこの話を結びつけて話さない核汚染民(片目を潰された奴隷)ばかりでやんの
あのさぁ…解釈本じゃなくて歴史の流れを理解した上で解釈があるんだよ?
歴史の流れを知らずに解釈本読んでどうするのよ?


(上記のアラビア語は検索すると
Conquest of Mecca
イベント
日付: 西暦630年1月11日 – 西暦632年6月8日
場所: サウジアラビア メッカ
Muslim victory

End of Muslim–Quraysh Wars)

このفتح مکه の 重要性はグライッシュ族が預言者(ص) と約束して
イスラームに帰依しますと行いますと約束したにも関わらず、
破るは戦争ふっかけてくるは未だに過去の陰習をするわで…
アッラーも預言者(ص)もわかってはいたけど嫌になって
最後の最期にこの啓示が降りてきたわけ…で、それがこの啓示なの

で、おいさんが持っている歴史書だとこー箇条書きされている
1、アッラーも預言者(ص) も多神教徒のアホさには嫌気がさした
2、多神教徒はバッジできない
3、カァバ巡礼も不可
4、 4ヶ月やるから聖地から出ていけ、用意出来ないなら助けてやるのと二度と約束はせん
5、多神教徒は天国行けへんで

なので、この章の第1節から129 節も続くこの啓示は
根本的には敵対してくるクライッシュ族や偽改宗
・または偽の教えを説き、
啓示者を唯一なる存在と一緒くたにユダヤ・キリスト教なんかがここに入ってくるわけ
そもそも、25節のフナインの戦争を説明できない奴が騒いでいる時点でお察し


でね、نسخ は廃棄じゃねぇ
「過去の命令をより良いものに変更される」
であって一般的に使われる場合と専門用語として使われる場合は意味が変わる
だから、廃棄として使う場合は
前のアーヤが完全無効化
→じゃー完全に無効化するものを何故啓示で与えたのか?という瑕疵が発生するので
そー表現はしない

おいさんの教科書には条件のひとつに
「ノスヘされる主題は変化しない
(過去啓示の目的や主題ではなくて、その行為等をより良く改良・改善する)」
のであって廃棄と訳すと行われる行為が間違っていたので
捨てるような印象がつけられかねない典型的なクソ翻訳となる
だから、仕事が多いんじゃアホンダラ


で、話戻すけど
よーはこの最期の啓示の前半の目的はアホな同族と
啓示を歪めて拡散しているアホな連中についてと
聖地等の扱いであって
無条件や無理由で虐殺・略奪しろという事ではないの
でね、核汚染ではこーいった背景等を学習できないので
イスラームについては核汚染語の環境では出来る訳がないの



平和はصُلحでسلم は 服従で このسلم が باب أفعال の 形になったものاسلم يسلم اسلام でこのハーブの意味は9つあるのだけど、ここで使われる意味は表明・証言する事
要は形而上に服従・従いますというのがイスラームでفَعال はصفت مشبهه で物人の性質を確定させる事なので従属者がسلام サラーム

こんな初歩の初歩の初歩の初歩何てね…
すこーし調べればホイホイ出てくるものであって、そのホイホイ出てくるものが未だに核汚染語化していないわけ
だーかーら、核汚染語ではイスラームの議論何てできるわけねえというのは
その核汚染語になっていない資料が多すぎて話にならないからなんよ

で、ハッキリ言うけど中東情報を英語で追っている奴はフォローする価値ないです
中東情報は絶対にアラビア語・トルコ語・ペルシャ語・ヘブライ語・ウルドゥー語に現地の言語以外では使えると思わないで下さい
じゃねえとペルシャ民族主義者の妄言を一般的だと誤解したりするので本当に迷惑極まりない


6月17日
あークッソ重要だけど、ナジェスアラビアでの注釈が全てじゃないからね
アレはあくまでもワッハーブ派というスンナ派でも異端な連中の内輪でのنسخ 論であって他の宗派ではまた別の改善論があるのでそれが全てと思わない事
禅宗と浄土真宗は一緒です何て言ったらただのアホでしかないだろ?
正にソレ

だから、中田先生が監修された10大宗派の注釈を入れたクルアーンが重要になってくるわけ
例えばね、宗派によってはおちんちんの皮カットしない
何で?というと、家畜に焼き印等をつけるのを禁じたわけだから、
それと同様におちんちんの皮カットしない(形而上に従う者達の印は不要)のよ

で、核汚染では注釈できた→解釈を原文で当たって知っている→宗派ごとの議論が出来る→その議論の細かいところまで知っている人がいるとなってやーっと形而上に服従する者達の議論が出来るわけ
そもそも、イスラームを宣う連中がアラビア語語形論の知識がねえのに出来るわけねえだろぉ、ドアホ!

前も話したけど、アラビア語は基本3文字で構成されていて読み方や足されたり、引いたりすることで言葉が変化するので
それを理解していないとお話にならないのと
弱動詞や活用変化、語形変化それに語尾変化等を理解していない連中がイスラームの議論を出来るわけがないのよ
だから、出来ないと言っとるの

例えば、أمن و وطن و قوم و حتى و مدد و وفي و حيي と 見た時にどれだけの人がピンとくる?わけわからないでしょ?
ね、その時点でお話しにならないの
で、核汚染に居るクソリマ・クソリム共の殆どですらコレについてわかっていないので議論何てできるわけねえの!
基本がないのに議論が出来るか!

(グーグル翻訳だと
Security and homeland and people and even and extended and in and living))


WATABE Ryoko@khargush1969
2015年8月26日
クルアーンのnaskh(廃棄)の根拠となる節、第2章「雌牛章」106節「われは(啓示の)どの節を取り消しても、また忘れさせても、それに優るか、またはそれと同様のものを授ける」







・下村

クルアーンの章句は
ムフカム(明瞭文)
ムタシャービフ(曖昧文)
に分かれ、
前者が
ナッス
(明文
一義的)、

ザーヒル
(優勢文
多義的だが字義に照らして妥当な文意が有力)、

後者が
ムジュマル
(概括文
多義的で複数の意味に優越がつけられない)、

ムアウワル
(タアウィールされる文
∵通常妥当とされる意味では通用せず不明瞭)
とする四分類説がある。

あるいは
前者がナッス(ナッス以外はすべて多義的)
とザーヒルに、
後者が
ムアウワル
(字義からずらす文
字義から離れている))、

ムシュタラク
(共有文
複数ある文意の間に優劣がつけがたい場合に
共通性を有する)、

ムジュマル
(複数ある文意の間に優劣がつけがたい場合に
個別的)
に分かれるとする五分類説がある。

クルアーン解釈を示す用語には
タフスィール(解明、発見、明示)と
タアウィール(原義「原初へと戻すこと」)
がある。
初期では両者は区別がなかった。
が、区別すべきだとの立場も古くからあり、
中世では

タアウィールが特に
ムタシャービフ(曖昧文)の解釈、
内面的解釈
演繹(見解)による解釈を指すとまとめられ、
時代が下ると特に
暗示的解釈を指すことが慣例となる。

時代にもよるが
タフスィールとタアウィールに
一般 神秘
顕教 秘教
外的 内的
字義 比喩
伝承 見解
といった対称的意味を与えている可能性がある。


クルアーンの中には擬人的な描写がある。
この矛盾については
古典期は大まかに
本義否定・判断停止説
=アッラーが座る、アッラーの顔や目や手などを
日常的な意味ではないことを最低限了解した上で
それ以上は一切不明であり
クルアーンにはそうあるので詮索せず信じるべきだ
というスンナ派の多数説



転義解釈説
=アッラーの顔が本体や
人間が向き合うべき方向を、
目が視力や知覚を
手が権能などを意味する転義であるとする。

に分けられる。


さらに
イブン・タイミーヤに代表される本義と転義の区別を認めない立場からの
本義肯定・判断停止説
が存在し、
現代において支持者を増やしているとの指摘があるが
伝統派の学者から批判を受けてもいる。

本義肯定・判断停止説の
本義肯定
=本義と転義の区別を認めず
 コトバはすべからく本義であるとする立場。
同じ家でも
人間の家と
クモの家では指示される実体が違う。
これは言語の本質的属性によるものであり
本義と転義との区分は恣意的であり無効であるとして
イブン・タイミーヤに代表されるサラフィー主義はこの区別を認めない。


スーフィズム的解釈は暗示による解釈と呼ばれ
例えば
おまえたちに近い不信仰者と戦え
9章123節

おまえたちに近い不信仰者
を自我と解釈する。
内面的・秘義的解釈は
外面的意味を全否定も可能であり
激しく警戒された。
スンナ派伝統主義の通説では
スーフィズム的解釈が外面的意味と共存するなら受容可能だとされる。

(本書では内容が複雑である場合
冒頭に要旨がついていて親切)


・松山

スンナ派は、
教友の捉え方においてシーア派と大きく対立。
スンナ派が
模範的な信仰者
として尊敬の対象とする教友の一部が
シーア派(イマーム派)においては
醜悪な背教者
であると信じられている。

スンナではムハンマドの後の初代カリフはアブー・バクルであり
次がウマル
次がウスマーン
次がアリーとされる。
スンナでは彼らのカリフ位はすべて正統で
四名のいずれもがムスリムが規範とすべき信仰者とされる。
しかしシーアでは
アブー・バクルからウスマーンの三名は
アリーのカリフ位を簒奪した背教者とみなされる。
なおスンナではシーアと異なり
カリフは無謬とみなされず
カリフとなる人間が同時代において最善の人間である必要性も認められません。

シーアではムハンマドの妻アーイシャは背教者とされ
呪詛の対象とされる。
しかしスンナでは
アーイシャは
信仰者たちの母
と呼ばれ
預言者が愛した女性として尊敬と模倣の対象とされる。


・松山

スンナ派は一時婚は禁止
シーア派では一時婚が許容されている

一時婚
=期間を定めた婚姻契約で性交渉が合法となる


スンナ派の理解では
一時婚はムハンマドが生きていた時代に特別な状況下で例外的に許容されたことがあるが
後に恒久的に禁止。
スンナの多くの学者が
一時婚が禁止されたことにムスリムの合意(イジュマーウ)が成立したと主張。

クルアーンでは伴侶と奴隷以外との性交渉が禁止。
一時婚の相手は伴侶でも奴隷でもない。
一時婚を結ぶ女性が妻とみなされない根拠の一つは
彼女と男性のあいだに遺産相続権がないから。

(一時婚が分単位でみなされるとすればムスリムが合法的に風俗に行けるのが
禁止の理由の一つなのだろう)


・平野
(おそらくイスマーイール平野先生とシーア兄貴が言っている人。
平野先生のツイッターアカウントが非常にわかりにくい。
@の後ろにアルファベットでイスマーイールとある)

シーア派(以下これは十二イマーム派を意味する)とスンナ派の
最も大きく異なる教義は
イマーム論。

スンナのイマーム
=共同体の政治指導者カリフ

シーアのイマーム
=啓示を受け取ること以外のすべての権能を
預言者ムハンマドから引き継いだ無謬の指導者。

シーアでは
ムハンマドが彼のいとこで娘婿のアリー(661年没)をイマームとして指名し
アリー以降はムハンマドの娘ファーティマとアリーの間の子孫が
代々イマームとなっていったとされる。


スンナの理解では
クルアーンの編纂はアリー以前の正統カリフたちの功績。
対して
アリー以前の三人のカリフ
(初代アブー・バクル
2 ウマル
3 ウスマーン)
の権威を認めていないシーア派では
クルアーンの書物としての編纂はムハンマドの在世時にすでに完了していたと言われる。
アリーはムハンマドの生前、
もしくは彼の死の直後には完全なムスハフを完成させていたとする。
現代シーア派の解釈では
アリーのムスハフはウスマーン版ムスハフよりも大著であり
クルアーンの章句の意味の説明や注釈も含んでいたとされる。

一方
ウスマーンがクルアーンを一つにまとめたことは
シーア派も認めるイスラーム教徒全体の合意事項。
ウスマーンはウスマーン版以外のすべてのムスハフを焼却させた。
シーアの教義では
使い古したムスハフを処分する場合には
水で洗って文字を消してから処分しないといけない。
しかしウスマーンは水で洗うことなく焼却処分させたため
シーア派は糾弾し
ウスマーンを
諸ムスハフの焚書者
と呼び非難することがある。



表のイマーム図より

初代イマーム アリー
2 ハサン
3 フサイン
4 サッジャード
5 バーキル
6 サーディク
7 カーズィム
8 リダー
9 ジャワード
10 ハーディー
11 アスカリー
12 マフディー


クルアーン改竄説
シーア派はクルアーンの収集にウスマーンが関わったことは認めていた。
しかしその内容がムハンマドに啓示された通りのムスハフかどうかについては
疑念を抱く学者も初期には多くいた。
ウスマーン版が本来の啓示の一部を故意に削除していると主張し、
クルアーン改ざん説
を唱える者たちがいた。
アリーらイマームの名前がクルアーンで一切言及されていないことについては
初期からシーア内に議論されてきた。
10世紀中葉までのクルアーン改竄論者たちは
もともとの啓示にはアリーらのイマーム位を明示する章句が多く含まれていたものの
それらの章句はことごとくウスマーンまでのカリフや教友たちによってクルアーンから削除された
と主張した。

ここで注意すべきは
クルアーン改竄論者たちもウスマーン版ムスハフには人間の言葉が追加されたとは
主張しなかったことである。
すなわち、ウスマーン版ムスハフはそのすべての文言がアッラーから下った
クルアーンの一部ではあるが、
イマームらに言及する章句が意図的に削除された不完全なムスハフであると理解されていた。

クルアーン改竄論者たちは
ムハンマドに啓示された通りのクルアーンが完全に消失した
とは考えなかった。
彼らによれば、
最初にアリーがクルアーンを収集して作ったムスハフには
ウスマーン版が故意に削除した章句も含まれており
アリーはそれを二代イマームとなる息子のハサンに渡し、
そのムスハフは代々イマームたちに継承されていったとされる。
改竄を受けていない真のクルアーンは
イマームたちがそばで守り続けてきたと考えられた。

ウスマーン版ムスハフの完全性の教義の確立
ウスマーン版ムスハフに改竄が疑われたのは
10世紀中葉までであり、
10世紀終わりからはウスマーン版ムスハフに改竄があったという主張が
シーア派内で非難されるようになった。

9世紀後半から10世紀中葉にかけてのシーア派内では
理性的推論を行わずイマームの伝承にのみ依拠して
教義を説明しようとする伝承主義者たちが大きな勢力を持っていたが
11世紀に彼らは徹底的に批判され
理性と伝承の調和を図る潮流がシーア派の圧倒的多数派となったと言われる。
11世紀以降の理性を重視したシーア派学者たちは
10世紀中葉までの伝承主義者たちの主張したいくつかの教義や方法論を批判し
その批判はクルアーン改竄説にまで及んだ。
そもそも伝承主義者の重鎮シャイフ・サドゥーク(991年没)がクルアーン改竄説を批判したように、
10世紀の後半には伝承主義者の中でもウスマーン版ムスハフの内容の完全性が認められるようになっていた。
理性を重視した11世紀の学者たちは、
イマームに帰される伝承を無批判に受け入れたとして10世紀の伝承主義者たちを批判し
クルアーン改竄説を完全に否定した。
このようにして10世紀後半からウスマーン版ムスハフの完全性を信じることが
シーア派の圧倒的主流派の教義に組み込まれることになったのである。

一説では、10世紀の終わり以降、
シーア派の中でクルアーン改竄説を唱えたことが知られている学者は7人しかいないと言われており
全員が伝承主義的傾向を持っているとされる。
一部のスンナ派学者はシーア派が信仰隠し(タキーヤ)を実践することで
クルアーン改竄説を表向きに隠しているだけであると主張してきたが
シーア派はクルアーン改竄説に関する信仰隠しを否定してきた。
シーア派によれば、信仰隠しとは、
生命、財産、名誉に危険が及ぶことが想定されるときに
自らの信仰を隠すことをいう。
シーア派では個人の判断で危険時に信仰隠しを行うことが認められているが
逸脱した教義を信仰隠しによってシーア派の教義として紹介、解説することは禁じられており
クルアーン改竄説を巡っての信仰隠しはないとされる。
そのため10世紀終わりから現在までシーア派の圧倒的多数派は
ウスマーン版ムスハフに一言一句たりとも追加も削除もないと信じてきたと言えるだろう。


現在のシーア派による過去のクルアーン改竄説についての評価
10世紀までのシーア派伝承集の中に
ウスマーン版ムスハフの改竄を指摘する伝承が多く含まれているのは確かである。
9世紀末から10世紀中葉までの多くのシーア派学者がウスマーン版ムスハフの改竄説を支持していた
ことも文献上明らかである。
そのため11世紀以降のシーア派は大きな矛盾を抱えることになった。

ウスマーン版ムスハフの改竄を唱えるイマーム伝承については
イラン革命の指導者でありシーア派の法学権威(マルジャア・アッタクリード)でもあった
ホメイニーはその伝承経路を精査することで
1 薄弱な伝承
2 捏造された伝承
3 真正な伝承
に分けたと伝えられる。
ホメイニーは3だけを考慮すべきだとする。
ホメイニーは
ウスマーン版ムスハフの改竄を伝える伝承の真意は追加や削除のような物理的な改竄ではなく
意味的な改竄であると主張。
クルアーンの改竄を伝えているようにも思える伝承はクルアーンの意味の曲解を指摘し
正しいクルアーンの意味を教示するものであると考えた。
しかしホメイニーはウスマーン版ムスハフにおける章の配列の改竄は認めていた。

彼によれば
朝章(93章)と
広げること章(94章)はもともと同じ一つの章であり、
象章(105章)と
クライシュ章(106章)も一つの章であったという。

現在のイランの最高指導者であるハーメネイーも同様の見解をとっている。

10世紀中葉まで多くの学者がウスマーン版ムスハフの改竄を支持したことは
11世紀以降のシーア派も認めている。
しかしながら、後のシーア派はウスマーン版の改竄を最初に唱えたのはスンニ派だと主張するようになった。
例えば、
ウマルはクルアーンに姦通の石打ち刑を命じるクルアーンの章句があった主張したが
彼を支持する教友が他にいなかったため、
ウマルの伝えた石打ち刑の章句はクルアーンに含まれなかったと伝えられている。
他のスンナ派の伝承では
ウマルはクルアーンが102万7000単語からなると伝えたが
ウスマーン本はその3分の1にも満たないと言われる。
また、ムハンマドの妻アーイシャは部族連合章(33章)が
ムハンマドの生前はウスマーン版より長かったと語ったとされる。
このように正統カリフであるウマルを筆頭に教友たちがウスマーン版の改竄を最初に疑い始めたと
シーア派は考えるようになった。
スンナ派由来の改竄説がイマームたちに帰される伝承の形でシーア派内に持ち込まれたと考えられるようになった。


イマームはクルアーンを知悉していると考えられていて、
無謬なイマームのクルアーンについての知識は
ムハンマドが持つ知識と同等だと考えられている。
イマームは罪からも誤りからも免れた無謬者であるとみなされている。

無謬の根拠は
「アッラーはただ、
家の者たちよ、
おまえたちから汚れを取り除き、
そしておまえたちを完全に清めたいと欲し給うのである」
(33章33節)


上記の
家の者たち
=(シーア派では)ムハンマドの家族
=ムハンマドの血縁のイマームたち。

シーアではクルアーンの中には重層的意味を持つ節が複数存在している。
字義どおりの意味は外面的意味(ザーヒル)と呼ばれ、
その裏側には重層的に隠された、
内面的意味(バーティン)が存在する。
イマームは両方とも、
アッラーがムハンマドに開示したものはすべて知悉しているとされる。

(本書ではアルファベット表記の個所をカタカナになおしたりしているが
私のカタカナ化が誤っている可能性があるので注意。
イマームが無謬である根拠が33・33)


シーアのクルアーン解釈

1 スンナと共通する解釈

一部のシーア派イマームたちはシーア派以外の信徒からもクルアーン解釈の権威と見なされてきた。

預言者たちの物語については
シーアのタフスィールで言及される内容の大半はスンナ派のものと一致。
預言者イーサー(イエス)については
シーア派のタフスィールでは彼が処刑されず天に昇ったこと
イーサーの代わりの人物が磔刑になったことなどが記述されている。
イーサーについてのこのような解釈は
本書第15章でみるようにスンナ派も同様の解釈を行っている。


シーアに特徴的な解釈

シーア派ではムハンマドが生前に一時婚を全面的に合法としており
彼は死ぬまで撤回しなかった。
一時婚はアッラーがクルアーンで合法と認めた制度。
4章24節の
おまえたちが楽しんだ
の語根と
一時婚の語根が同じなので
単に楽しむではなく一時婚という意味であると解釈される。
アラビア語では三つの語根が同じであれば
それらの単語が同系統の意味を持つことが少なからずある。

外面的意味と内面的意味は両立し
一方が他方を破棄することはないことに注意すべき。

シーア派では
14章26節の
悪い木
がイマームたちの敵を指していると解釈する。
悪い木に譬えられたウマイヤ家はクルアーンの中で呪われているとする。
ウマイヤ家とは
アリーと戦い
アリーの死後に二代イマーム、ハサンからカリフ位を簒奪したとみなす
ムアーウィヤ(680年没)や、
三代イマーム、フサイン(680年没)をカルバラーで惨殺した、
ムアーウィヤの息子ヤズィードらウマイヤ朝カリフの血統である。

シーア派の圧倒的多数派である十二イマーム派は
法規定の内面的意味を強調したり
外面的意味を破棄したりすることはなく
法学規定の外面的意味を重視してきた。
そのため十二イマーム派内では
外面的意味の解釈に基づいた法学が発展。


・後藤

旧約の創世記とクルアーンの違い。
クルアーンには肋骨のくだりはなく
男女の区別が強調されない形で
一つの魂
あるいは
男性と女性から
人類が始まったと表現される。
旧約では蛇にそそのかれば女がまず木の実を食べ
それを男に与えたとある。
が、クルアーンでは
二人が(あるいはアーダムが)悪魔の言葉を真に受けた後に二人で木の実を食べたという言葉がある。

(イスラームでは明らかに旧約の創世記の男尊女卑の個所を修正し
どちらが悪いとか優位とかと取られる表現を避けている。
旧約だとまっさきに騙されるのは男ではなく女だという解釈も可能。
もしかしてワンピースの悪魔の実の元ネタってエデンの園の禁断の果実?)


24章30・31節
より
男女の信仰者に
目を伏せ(見ることを禁じられたものを見ず)
陰部を守るように(不倫な関係に使わないように)
とあるが
女性に対してのみ
飾り(美しい部分)を人に見せないように
胸元には覆いを

飾りのうちみずからが隠したものが知られないよう
彼女らの足で打ち鳴らしてはならない
とある。

(胸は性的な部位だととらえているのだろう。
装飾品=財産
なので見せびらかしてはいけない)



4章34節
が男女問題の議論で注目されてきた。
アラビア語の原語を用いつつ直訳すると
以下のようになる。

”男たちは女たちのカウワームである。
アッラーが一方を他方よりもファッダラしたからであり、
彼らが彼らの財産から費やすからである。
良き女性とはカーニタで、、
神が護り給うたがゆえに留守中に護る者たちである。
おまえたちがヌシューズを恐れる女たちは、
よく諭し、寝床で彼女たちを避け、そして打ちなさい。
もし彼女たちがおまえたちに従うなら、
それ以上の方法を探してはならない。
アッラーは崇高にして、
大いなる御方であらせられた。”

カウワームは
指導者や監督者、
管理者、扶養者、保護者など
さまざまに理解しうる単語。

ファッダラも
他より好む
優先する、
上に位置づけるなど
さまざまな意味がある。

カーニタは
従順な(女性)という意味で、

ヌシューズは
敵意や反感、不和という意味で理解されている。
どれをどう組み合わせるかによって男女の関係の理解は大きく異なる。

男性優位の考え方を廃し、
男女同等の思想にもとづきながら解釈したのが
20世紀の有名な思想家サイイド・クトゥブ(1966年没)である。
ムスリム同胞団のイデオローグとして知られた彼が
エジプト政府に思想犯として逮捕された後
獄中で著したといわれるクルアーン注釈書『クルアーンの陰で』には
以下のような記述がある。
アッラーは男女がそれぞれ自らの責務をまっとうできるように必要な能力をお与えになった。
彼は上記の章節を次のように解釈する。
男性が女性のカウワームとされたのは
男性の特性や経験がそれに適しているからであり
男性が女性を扶養する責務を負っているからである。
彼によると
カウワーム=家族の保護者、扶養者。
神はカウワームとなるために特性や経験を
男性にファッダラした(男性優位の含意はない)という。
正しい信仰を持つ女性は当然のこととしてカーニタである。
正しい信仰を持たない女性が起こすのがヌシューズ=不従順や反抗的行為。


クトゥブの議論をさらに広い視野でとらえ直すことで
新しい男女同等論を展開したのが
アメリカでイスラーム学の教鞭をとるアミーナ・ワドゥードである。
アフリカン・アメリカンとしてメソジスト教会の牧師の家に生まれた彼女は
大学在学中の1970年代初頭、
社会での完全な正義の実現を求めてイスラーム教に入信。
ところが彼女が目の当たりにしたのは
家父長的で男性中心的なイスラーム教であった。
ワドゥードは神の真意に由来する本来のイスラーム教があることを信じ、
それを示そうと『クルアーンと女性』を1992年に執筆。
彼女はカーニタもヌシューズも男女双方にもとは用いられてきたことを強調。
カーニタ
=神に対して従順な者。

ヌシューズ
=夫への不従順ではなく夫婦間に不和の種を持ち込むこと。

クルアーンには女性に対して夫に従順であれと命じる言葉はない。
ただし、実際の結婚生活の中で
妻たちは物質的な供給者である夫に従うべきだと考え、
従っていたとも述べている。

以上のワドゥードの読み方に従い
4章34節を訳出すると、次のようになる。

”男たちは(子を産み育てる役割をもつ)女たちの
(物質的・精神的・道徳的・知的・心理的)支援者である。
そのために神は(相続規定の中で)一方の取り分を他方よりも多くし、
男性が財産を費やすようにした。
良き女たちとは神に対して従順で、、
神が守り給うたがゆえに留守中に守る者たちである。
夫婦のあいだに不和を持ち込む心配のある女たちには、
(まずは)よく諭し、(次に)寝床で避け、(それでも駄目なら、軽く)打ちなさい。
もし彼女たちがあなたたちに従うなら、
それ以上の手段に訴えてはならない。
まことにアッラーは崇高にして、
大いなる御方であらせられる。”



「打ちなさい」の解釈
クルアーン注釈書で男性の絶対的優位を強調したイブン・カスィールは
この章の終わりの部分ではこれまでの姿勢を少し軟化させるかのように

忠告しても、あるいは寝床を分けてもきかないのであれば、
力をこめずに彼女たちを打つことが許されていると述べている。
イスラーム初期時代の複数の伝承を引きつつ、
力をこめないことや
怪我を負わせないこと
が求められていると述べている。

クトゥブは打つのは家族を危機的状況に追い込む懸念がある場合にのみ
最後の手段として許されると述べられていた。
ただしそれが妻への精神的・肉体的虐待であってはならないし
怒りに任せて打ってもならないし、
愛情をこめて
しつけのために打つのである。

ワドゥードは
女性を打つという行為の許容とは考えない。
預言者の教友の伝記などに見られるように
当時夫たちは妻たちに暴力をふるっていた。
この啓示の中で
繰り返し打つ
わざと打つ
という意味のダッラバではなく
ダラバ(打つ)という動詞の形を用いたことで
神は男性による女性への無制限の暴力を制限したのである。
彼女はまた、同節が
現代のムスリム男性によるドメスティック・バイオレンスを許容する口実にはなりえないとも指摘。
なぜなら彼らは
諭し、寝床で避け、打つという手順を踏んでいないからだ。

翻訳は翻訳者の解釈が必ず入るから
クルアーンの訳文だけを読んで男尊女卑の邪教だと断じる発言は無価値。
上記のように最低でも中核となる単語はアラビア語の意味を書いている人の解説
を踏まえて判断しないといけない




・松山

マルヤム(マリア)の子イーサー
マルヤムの子、マスィーフ(メシア)たるイーサー(イエス)

自分の子をイーサーと名づけるムスリムも決して少なくない。

マルヤムのもとに天使ジブリール(ガブリエル)が現れ
イーサー誕生の吉報を告げたいわゆる
受胎告知
はムスリムによっても信じられている。
イーサーを処女のまま身ごもり
ひとびとから離れた場所で出産する。
生まれたばかりのイーサーを抱える彼女が
未婚でありながら子供を産んだことに驚いた。

(要は姦通を疑われた)

ゆりかごのなかの幼子が母マルヤムの潔白を人々に証明した。
言葉を話す奇蹟。

(生まれてすぐに大人なみに話せるイエス)

イスラームでは
イーサーは神自身でもなく、
神の位格でもなく、
神の息子でもない。
ムスリムにとって
イーサーは被造物たる人間であり預言者の一人。
受肉の教義はない。
有始なる世界を、
無始なる神と峻別することは
神を唯一永遠の創造主とみなすことの必然的な条件である。
イーサーの神性と三位一体を否定し、
被造物=人間とする点が
イスラームとキリスト教の根本的違い。


イーサーは
土で鳥を形づくり生きた鳥に変え
ハンセン病患者や生来の盲者を治癒し
死者を蘇生させ
人々が食べるものや家に蓄えてある物を言い当てる
奇蹟がクルアーンにある。

クルアーンでは
キリスト教のほとんどの宗派の根本教義である
イエスの十字架上の死が根本から否定される。
よって三日目の復活も否定。
イスラームでは
イーサーは死んでおらず、今現在も生きている
と信じられている。
イーサーは死せずして、生きたまま、
身体をともなって天に上げられた
ことはムスリムの学者間のほぼ一致した見解とされる。


十字架にかけられたのはいったい誰なのか
という点では定説なし。
一説では
身代わりとなりイーサーの顔に変えられたイーサーの側近の一人だと言われ、
別の説では
イーサーを殺そうとしたユダヤ教徒のうち一人の顔が
イーサーの顔に変わりその者が殺されたともいわれる。
あるいは
イーサーが天に上げられてしまい殺害できなかったため
実際には誰も殺していないが
虚偽を言って彼を殺したことを主張したのだともいわれる。

天に生きるイーサーは終末が近づくと再び地上に降り立つ。

(肉体とともに昇天したことが重要。
グノーシスの肉体=悪を脱ぎ捨てよ
という教義の否定。
だがキリストは十字架上で死んでいないとするのは
グノーシスなどキリスト教少数異端派が元ネタだろう。

イスラームはキリスト教の正統多数派要素も
少数異端派要素も取り入れることで
彼らがイスラームに改宗しやすくしつつ、
キリスト教正統多数派の根本教義である
十字架上の死を完全否定している。)


イーサー再臨の根拠は主にハディースに求められる。
イスラームでは審判の前に
現在のこの世界は終末を迎えると信じられる。
しかしそれがいつかはアッラー以外はわからないと
7章187節にある。
イーサーは空から降臨する。

イーサーが空から降り立つとき
大規模な争いが発生している。
この争いはダッジャール(偽救世主)の軍とムスリム軍のあいだで戦われるものである。
イーサーはダマスカスの東側にあるモスクの白い尖塔に
ふたりの天使の羽に肩を置きながら日の出前に降り立つ。
エルサレム近郊に夕刻に降り立つともいわれる。
そしてムスリム軍に加わり
パレスチナのルッド門にダッジャールを追い詰め殺害する。
ムスリム軍はダッジャールに従っていたユダヤ教徒たちの残党を滅ぼす。

(イスラームでは露骨に
キリスト教>ユダヤ教)

ダッジャール軍が消滅したあとに
地中からヤアジュージュ(ゴグ)と
マアジュージュ(マゴグ)が出現する出来事も生じる。
彼らは凶悪で数が多く地を荒廃させる。
しかしイーサーとムスリムたちの祈りに応え
アッラーは彼らを死滅させる。

ヤアジュージュ(ゴグ)と
マアジュージュ(マゴグ)は
現在地中に生息している野蛮な二つの部族である。
かつて
ズル=カルナインが彼らを地球に閉じ込め封印した。

(地底から悪魔が出現する思想の元ネタ?
厄呪呪と魔呪呪という当て字を思いついた。
誤愚と魔誤愚。

ダッジャールを創造したのもアッラーなので自作自演だな。
ムハンマドではなくイエスがダッジャールを殺すのはなぜだろうか)


イーサーの統治のもと
地に平和が満ちる。
イーサーを目撃したことにより
地上に残った啓典の民はユダヤ教徒であれキリスト教徒であれ
全員イスラームに帰依し、諸宗派は統一される。
彼はまた十字架を破壊し
豚を殺す。
啓典の民は存在しなくなるため人頭税が支払われることもなくなる。

(この世はイスラーム教徒だけになるらしい。
十字架なんて普通は崇めないわな。処刑器具だし。
豚がピンポイントで殺されるのか)

その後イーサーは死去しマディーナに埋葬される。
(不死ではない)

イーサーは神性はないが無謬。

イーサーはムスリムによって使われる名であり
アラビア語圏のキリスト教徒はイエスを
ヤスーウと呼ぶ。



・ムスリムからみたブッダ

クルアーンにおけるブッダへの言及の可能性

仏教とその開祖のブッダはクルアーンでは直接言及されていない。

啓典の民の信仰はクルアーンにおいて基本的に認められており
ムスリム支配下の土地においても
特定の税を納めることを条件に自分たちの宗教を実践することを許されていた。
ムスリム統治者のもとで保護される異教徒は
ズィンミー
と呼ばれた。
また実際にムスリム軍の支配下に入った地域では
クルアーンで言及されている三つの宗教以外の宗教に属する人々も同様に
保護されていたといわれている。
たとえば、ペルシアのゾロアスター教徒は啓典の民に加えられていたとされるし
インド亜大陸のヒンドゥー教徒および仏教徒も事実上、
啓典(キターブ)の民として扱われたと考えられている。
シンド(現在のパキスタン南部)は仏教の盛んな地域であったが
八世紀初めにイスラーム帝国の支配下に入った後も
仏教徒は自由に仏像を作ったりしていたようである。


中世のムスリムの仏教観の共通する特徴は
釈迦をイスラームの預言者(ナビー)としてとらえていること。

預言者はそれぞれ神から啓示を受け
自分たちの共同体に教えを説いていたとされる。
教えの内容はタウヒード(神の唯一性)つまり一神教だったが
時がたつにつれて教えに改変が加えられ
もともとの教えから遠いものとなってしまった。
改変や逸脱を正し教えを最も完全に伝える最後の預言者がムハンマド。

すべての使徒は預言者でもある。

地上のすべての人間の共同体には神の心理を伝える使徒が遣わされていて
それぞれ啓典を持ってきた。

ブッダをイスラームの預言者とみなすことは
仏教はもともと一神教であったが
変化により完全な一神教ではなくなったということである。
ちなみにこれは他の預言者の場合と同じく
ブッダの教え自体が間違っていたということにはならない。

中世のムスリムによる仏像の扱い
イスラームでは神に具体的な形を与えて可視化することは厳しく禁じられている。
厳密に言えば禁じられているのはただ像を作ることではなく
被造物である像(いわゆるモノ)を創造主である神として崇拝すること。
クルアーンでは人物や動物などを可視化することは禁じられていない。

ブッダを神と定義できるか難しいところだが
崇敬対象になっているなら偶像の一種だと考えられるであろう。
実際、現代では仏像はイスラームの観点からは許容できないとみなされることが多い。

中世の例を見ると
ムスリムは必ずしも仏像を禁忌したわけではなかったようである。
インド亜大陸に進軍したムスリムは
現地で見つけた仏像を取り立てて破壊することもなかったという。
たとえば現在のアフガニスタンにあたる地域では
ムスリム軍が現地で手に入れた仏像を戦利品として
バグダットに送り返したとされる。

11・12世紀になると
ガズナ朝(977-1186年)やゴール朝(1000-1215年)の軍が
インド亜大陸に攻め込んできた。
このときナーランダー僧院など主要な仏教施設が攻撃されたが
これは主に政治・経済的動機によるものであったといわれている。

中世のインド亜大陸におけるムスリムによる他宗教施設の扱いは
仏教であれヒンドゥー教であれ
かなりあっさりしていた。
像は大抵の場合完全に破壊されることはなく
顔のみが削られた。
攻撃した宗教施設をモスクに転用したり
略奪した像を市場で売ったりすることもあったようである。

ムスリム軍の活動による実質的脅威の感覚を伝えている
最も典型的な例が時輪タントラ。


ムスリムと仏教徒の共存の歴史が長い
スリランカや東南アジア諸国では
本章で紹介してきたブッダに関する見解が
現地のムスリムコミュニティと仏教徒コミュニティの関係を改善する目的で
言及されることがある。

すべての宗教はひとつの真理がさまざまな預言者(仏教ではブッダ)によって
説かれたものであり、
さまざまな宗教の教えは基本的に同一であるというスタンスがとられている。

スーフィーはすべての宗教の目指すものは究極的には同一だという立場をとる傾向にある。


アフマディーヤの指導者たちは
ブッダが神の啓示を受け、
タウヒードを説いたことを示す試みに力を入れた。

(仏典で否定されていることを
否定されていないと示す試みって捏造じゃねーか。
アフマディーヤは万教帰一系だろうね。
仏教は本来一神教だとか、
宗教は多数あるがすべて同じ真理を説くとかは
明らかな詭弁にして
典型的な万教帰一論法。
本当にこいつらは仏教を正確に解釈したためしがないな。

「根本ではない個所つまり倫理道徳では共通点があるが
根本思想は真逆。
多様性を認め、すみわけよう」でいいでしょ。
ブッダは預言者ではなくシャイターンと解釈する方が自然だと思うのだが
なぜしないのだろう?
あれほど根本が真逆なのに
倫理道徳がかなり被っているのが人類の普遍性を感じさせてくれて興味深い。
殺すな盗むな姦淫するな酒を飲むなギャンブルをするな。

神学なら当然、根本思想を否定する側もゴッドが創造したからその意味も考えないといけないからな
仏教に対抗したいなら仏教思想を正確に深く把握しないといけない。
藁人形なんてダメだぞ。


註釈
大乗仏教の三身説では
法身としてのブッダはもともと姿形を持たないが
衆生救済のためにさまざまな形(報身、応身)をとって現れるとされる。
浄土真宗ではこのように具体的な姿形をとったブッダを
方便法身
とも呼んでそれが仮の姿であることを強調しており
仏像も人間の仏法理解のため
あるいは具体的な崇拝対象として便宜的に作られるものであるとしている。
一方
禅などでは執着を断ち切るために仏像などに否定的な姿勢が強調されることもある。

アフマディーヤはイスラーム中では異端視されている。


「我々の外観および認識の創造主」
であるアディブッダはインドネシアの大乗仏教徒が自分たちの神として提示した概念。
インドネシアではイスラームをはじめとして複数の宗教が公認されているが
公認を受ける宗教は唯一神、預言者、および聖典を持っていなければならない。
このため大乗仏教徒はすべてのものの源である「本初仏」アディブッダ
を自分たちの神としている。
一方
上座仏教徒はアディブッダではなく三法(仏法僧)を自分たちの神として提示。

(インドネシアは一神教優遇国家だとわかる。
三つの神聖存在が神って三位一体かな?

夢の回転ユキダマ@8_snowball
1000年以上コーランに従って存続してきた集団が、
現代ヨーロッパでも同じ生活様式を主張すると、「怠惰だ」「社会に寄生している」と激怒されます。

現代人が言う「働く社会人」のいびつ性がよく出ていると思う。

ピザノザウルス@ガリィちゃんはかわいい@pizano1215

「しかし、ホメイニーはウスマーン版ムスハフにおける章の配列の改ざんは認めていた。
彼によれば、「朝章」と「広げること章」はもともと同じ一つの章であり、
「象章」と「クライシュ章」も一つの章であったという。
現在のイランの最高指導者であるハーメネイーも同様の見解をとっている」
松山洋平編『クルアーン入門』p329より



峨骨@Chimaera925
サウジでは民営化と女性の解放と称して労働力の拡大に走るかな。
テレワークの推進だけでなく。車を運転できるようになれば移動できる活動圏内も拡大する訳で。


アジェンダ2030、SDGsの一貫。内政や宗教にまで干渉できちまうとんでもねぇやつ。


パウロ教に改宗させなくても、生活様式や文化、常識をパウロ教にしてしまえば同じこと。


小森健太朗@相撲ミステリの人@komorikentarou
9月17日

私の個人史でいえば、インドから実体験として持ち帰った、マザーテレサに苦しめられているインド民衆の声の数々、それをキリスト教の研究会で発表しても、決してそんなものが存在するとは認めようとしなかった酷薄非道なキリスト教徒の姿と、今のおたく差別を認めない連中の姿がダブってみえます。)


お読みくださり感謝!

【読書メモ】『イランのシーア派イスラーム学教科書』2冊。原語を確かめないルシファー系陰謀論は言葉の定義と成立の経緯を無視した嘘 

非常にレベルの高いイランのシーア派イスラーム神学の教科書2冊のメモの前に
教典の言語で教義を学んでいないなら宗教家失格、
原語を確かめない宗教研究、陰謀論は言葉の定義と成立の経緯を無視した空理空論、
教典の原文が読めないうえに誤訳に基づく教義を平然と説くなら宗教家失格、
中核となる概念は必ず原語を確かめないと根本的に誤解してしまうので注意
だと言っておく。
いくつか実例を挙げる。

仏教の苦(ドゥッカ)=不満足。

一切皆苦だと
人生は全て苦と勘違いされかねない。
原文に忠実に訳すと
一切行苦=無明に基づく心の働きは苦
(無明に基づく心の働きが不満足を産む)。

五蘊盛苦だと
心身それ自体が苦しみと勘違いされかねない。
原文に忠実に訳すと
五蘊取苦=心身への囚われが苦
(心身への囚われが不満足の原因)。

苦しみ(不満足)の原因は執着であり
執着を滅することは可能なので
苦しみ(不満足)は滅することができる
=囚われなければ不満足は消える、
というのが仏教の教えであり救いであり希望である。


原語を確かめることの大切さがらみで他に思い浮かぶのが
西方キリスト教=ヤソ教。
ギリシア語ではなく誤訳ありのラテン語訳をスタンダードにしたり、
五大総主教はすべてゴッドの下に平等でないといけないのに教皇制度を創作したりするなど
一神教基本的規則(聖典は原語で読まないとダメ、聖典に根拠がない法制度を作るな)を否定しまくっている。
ローマのカトリックが病んだ原罪教義を創った主な原因の一つは
五大総主教区の重要度ランキングの一位がローマだったがそこから転落したことによる劣等感だろう。
原罪による堕落説、
ピラミッド型支配構造の教会、
政教分離も西方ヤソ思想であり、
正教(ヤソではなく私がキリスト教と定義しているほう)は否定している。
カトリックから分かれたプロテスタントも
聖書第一主義のくせに聖書原典を牧師が読めなくても構わないうえに
歪んだ原罪思想を継承する宗派(カルヴァン派は悪化させた)があるからどうしようもない。

※全てのプロテスタントが原罪肯定だとは断言していない


耶蘇は聖職者が翻訳聖書に基づく説教しても構わないうえに、
原典に書いてない、誤訳を根拠に聖書の教えだと騙る
=教義のでっち上げ
するんだぞ。
何が唯一神の言葉重視だよ。
クルアーンの翻訳書は註釈扱いであり聖典ではないとするイスラームを見習え。
原典を読めない奴が教会で宣教するな、神学者も名乗るな。ゴッドのロゴスを冒涜するな。

例えば
「心の貧しい人は幸いであるとマタイ福音書にあります」と嘘を吐くな。

マタイの福音書5章3節を
心の貧しい人は幸いだと訳すのは完全な間違い。
間違いなく心の問題だと誤解される。
原文に忠実ならと心ではなく、スピリット、プネウマだから霊でないとおかしい。

より近い意味で訳すなら
「(ゴッドの祝福を受けるので)恵まれている、
霊(プネウマ、スピリット)において貧しい人々は。
天の王国は彼らのものだから。」

KJV訳では
Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.
スピリットにちゃんとなっている。
英訳も翻訳だがこの個所の翻訳は正確なので引用した。


信者でも神学者でもない私に指摘されて恥ずかしくないのか?

延々と語りかねないので読書メモに移る。












イランのシーア派イスラーム学教科書 (世界の教科書シリーズ)
2008/10/27
富田 健次 (翻訳)

本書は十二イマーム・シーア派と道徳に関するイラン政府国定の高校教科書の翻訳であり
高校第一、第二学年度分にあたる。
イスラームで道徳の教科書とは
神学の教科書でもある。
宗教と道徳の授業は一体。
生活=信仰なので当然。
生活と切り離そうとするヤソと一緒にしてはいけない。
一神教なら
生活=信仰
で政教分離なんてありえない
のが基本。

感想は
レベルが高すぎる!
の一言。

道徳に関する授業で論理的思考は大事と書いており
植民地である日本ではひたすら感情論なのと真逆。
神学で重要な認識論も扱う。
形而上のものについて議論するには
人間の認識と経験の限界を定めないと空理空論になるからだ。

暦と教科書の記述を見れば植民地度と独立度を測れる。
イランは独立度が高い。
イランの暦は西暦=キリスト教暦ではない。
CIA王国時代を革命で倒して共和制にした歴史があるから植民支配対策を子供への教育でも実行。
今のイランの統治体制は政教一致の
ヴェラーヤテ・ファギー(フ)
(イスラーム法学者による監督指導)という
お隠れ中の十二代イマームの代理を
イスラーム法学者が務める体制。

メモ
・訳者あとがき

1991年に改訂されたイランの教育制度は
5歳を就学初年度として
9年間の普通課程と
3年間の高等学校
1年間の大学予備課程を基本とする。
義務教育は中学卒業までだがイラン政府は高校進学を強く呼びかけている。
男子校と女子高に分かれており
大学を例外として
男女共学ではない。

この高等学校課程3年間ならびに
大学進学準備コースの1年間、
あわせて4年間を通して
十二イマーム・シーア派のイスラーム学の基礎を学ぶのが
この「イスラームの慧眼」の科目。
このイスラーム学の科目はイラン全国高校共通の必修科目であり
かつ教科書は全国でこの一種類だけ。
訳出した教科書はイランのヒジュラ太陽暦1376年(西暦1997年)発行となっているが
その執筆編纂は本文中に当教科書の執筆時点で1370年(西暦1991年)と記した一文があることにより
1991年になされていたことがわかる。
このシーア派イスラーム学はイラン現体制の公式教義と位置づけることができる。

この書を読まれるとわかるように、
今日のイランの人々が知識として共有する価値観であり
行動規範でもあるが、同時に現代文明、もしくは近代西欧に対する厳しい批判でもある。
こうした近代西欧や現代文明の価値観との相違と反目のなかで
より根源的と思われるのは
西洋中世の知性を代表するスコラ学のトマス・アクィナスにも共通する目的論的自然観を
彼らが基底にもつことであると思われる。
宇宙は神が定めた秩序と目的に向かって動くとする
西洋の中世において支配的であったこの目的論的自然観は
西洋が中世から近代へと転回するとともに機械論的自然観にとって代わられた。

十二イマーム派の宗教の根幹(基本的信仰信条)は
スンナ派とは一部が異なり
①神の唯一性
②預言
③来世・復活
までは両派共通だが
スンナでは
④啓典
⑤天使
⑥定命
からなる六信なのに対して
シーア
④イマーム
⑤神の正義
の五信である。

この差違はギリシャ哲学の影響を受けて理性を重視した
アッバース朝期のムータズィラ神学をアシュアリー神学が駆逐して
このアシュアリー神学がスンナ派の神学となったのに対して
シーア派ではムータズィラ神学の影響を残しているためである。



・教科書本文

イスラームは基本的に強調点として思考の必要性を説いている。
クルアーン(コルアーン)は知識を持たぬことを人間が追い求めないように命じている。
イスラームは知的生活を重視し理性の育成を強調し
思慮と判別の人こそが熟成した人間と見る。
イスラームでは信仰上の諸根幹(神、預言者、最後の審判など基本的信仰箇条)を
思慮することによるのではなく
「模倣や習従」(タグリード)によって受け入れることを認めないほど重要視されている。
イスラームを受け入れるにしても
自らの思考と判別によらず
他人の追随の結果であればその人の入信を許さないほど思慮を重視。
信仰の基礎を受け入れることは強制ではない。

「宗教には無理強いということが禁もつ」
(第二章牝牛256節)

(盲信を否定、論理的思考の重視と反知性主義の否定が12イマーム派。
なら幼少期に正式な入信をさせるな。
棄教したら迫害するんだろ?
成人した元異教徒しか実質守れないな。
惰性と慣習と同調圧力で幼少期に入信しても信仰=善行していると言えるのか?)



・ある民の人々が論理的で正しい思考になれることは、
彼らを害しようともくろむ人に対する最大の防壁である。

・世界観とイデオロギーの集合体をマクタブ(理念)と呼ぶ。


・事実の認識のためにはさまざまな方法がある。
例えば

1 感覚と経験による方法

①直接的な知覚


②間接的な知覚
電流、引力、磁石、原子や電子など。
間接的な知覚は理性による論証のひとつであり
その下地は諸感覚によって用意される。
経験科学の知識の多くはこの方法による。


見えないことは非存在の論拠ではない。


2 理性的な方法
さまざまな事実の一部を知る上で助けとなるもう一つの方法は理性による方法。

間接的な知覚は直接的な諸感覚によって知ったことを基礎に確立される。
(論証の基礎には感覚と経験の側面がある)

しかし理性的な方法では諸感覚はさしたる役割をもたない。

数学は思考と理性的分析によるのみで経験や実験が必要とされない。


3 内面的認識

自分の内部の悲しみや喜び、恐れや疑い、慈しみや憎しみ。
この認識は直接的な認識。
喜びを感じるとき、それを五感や理性の助けによって理解するのではなく
そのような状態を自らの内に直接見いだす。
内面的認識を心の認識とも呼ぶ。


・神を知る方法

神は物質的、肉体的な存在ではないから他の方法で知らなければならない。

①神は間接的な知覚の方法、
感覚と経験で世界の秩序を確認することで知ることができる。
そのあとで理性を利用して、
世界に秩序を与えるもの、
監督者の存在を確定することができる。
ここでは秩序が「徴」であり
これが我々を神の存在〔認識〕へと導く。

②理性的方法も
神の存在を知らせてくれる。
この方法は神を知る方法の中でもっとも完全な方法。
神の存在確認において理性の論拠のひとつは因果証明である。

③内面的な認識でも神を知ることができ、心の認識とも呼ぶ。


・秩序の証明

秩序集合体の出現には最初からひとつの目的があり
その目的に到達するための計画と案を持っている。
特定の状態を選択し、この選択も入念な計算によりなされる。

読み書きができない無知な子供が
タイプライターで数時間遊び、
そのキーを適切に動かして宇宙に関する深遠な問題を論じた
数ページの文章を作ることができるだろうか?
あらゆる秩序は意識を持った監督者をさし示す。

(目的論が正しいことをまず証明してくれ。
こんな秩序だったものが偶然でなされるなどありえず、
意志ある創造主がいるという論法。
しかし、確率ゼロではないので
できるまでずっと放っておいたらできたという反論を否定できない。
あと慈悲深いなどの属性を持つ保証もない。




聖書は一言一句文字通りの意味で真実だとするヤソ福音派は、
ゴッドが時代ごとの価値観の変化すら予想できないと認めているに等しい。
つまりゴッドを過小評価し、被造物の能力を過大評価している。
時代ごとに神学者を配置した意図も無視。
ゴッドは言葉の意味の変遷も当然盛り込んでおっしゃったはず。

万物の根源に人格と意志があるのか疑問。
人格と意志が誕生するための前提=変化が根源。
最初からゴッドが神(じん)格などを具えている状態で存在し、
そこからすべてが始まったという仮説もあるが、
それも時間と因果関係が前提されている。
前述のとおり思考不可で語りえぬので沈黙=無記のほかない。

菊池@kikuchi_8
2月10日
ゴッドの如き人格的統一体が世界を創造し維持していると言うなら、
その人格的統一体を維持しているものは何なのか?となります。
「ゴッドはそれ自体で維持されている」と言うなら、
何故世界にも同じ事が言えないのか?となります。
「時間を創造した」は「創造」自体が時間的過程なので論理矛盾ですね。


祝福されし未完成ブラスト/ダームGoblin Tactician
‏ @kitsuchitsuchi2月10日
有(ゴッド)による有の創造。
無からの創造の無とは何?
空の容器を想定するしかなく
容器=有
すらない完全な無を考えるのは不可能では?
同様に有しかない状態を考えることも不可能では?
無のみも有のみ環境もないのでは?
竜樹の縁起説なら有無は相互依存でしか実在できず
有だけや無だけはない。

空間=被造物としての世界
を空間の外から創ることも想定不可。
空間が創られる前の状態も想像不可。
基準=物差し
が世界に一本しかないのにその物差しの長さは計れない。
同様に
或る時点で時間の外から時間が創造されることも想定不可。
時間的性質=状態変化を意味する言葉は時間に適用できない。

菊池 @kikuchi_82月10日
仰る通りだと思います。
「創造」という概念そのものに
「創造の開始・創造の持続・創造の終了」という時間的過程が内包されてるので
「超時間的な創造」とはそれ自体が論理矛盾だと思います。
無時間的であるなら一連の時間的変化である「創造」という作用(作用一般=時間的変化)を為す事ができません。


祝福されし未完成ブラスト/ダームGoblin Tactician
@kitsuchitsuchi2月10日
全知全能Xの実在の典型的根拠
「世界があまりに精巧だから創造主がいないのは確率的にありえない」
は根拠になっていない。
誕生確率を100%にする神(じん)為的干渉がなくても
諸行無常の変化で成立まで放置と考えれば低確率という根拠は無効。
できたからできた。偶然とも必然とも言える。因果が逆。

既にできてしまった後から理由を考えるからゴッドの意志を想定してしまうだけ。
発生確率=0%
ではなく「>0%(0%より大きい)」なので
『できるまで現象が継続=試行回数が「できるまでずっと」』
なら実質100%。
これを奇跡的な確率だとしてゴッドの実在に結びつけるのは論点先取の詭弁、因果逆転。



・ここでは進化論の正誤を論じるつもりはない。
秩序の論証・論拠は生物が進化論に基づき次第に出現したことが確定されれば
問題になるようなものではない。

存在するものが段階的に創造されたことを受け入れることは
意識をもった監督者の介在をより明白にする。

(進化論は秩序の論証に問題を生じさせない。
つまり、進化論は創造主の存在を否定しないので正しくても誤りでも問題ないということ。
十二イマーム派の公式見解では進化論を否定も肯定もしていない。
キリスト教の一部の派閥が進化論を否定する理由も調べると面白い。
進化論が正しくても別にゴッドによる世界創造は否定されないはずなのだが。
進化の定義によるが。
進化=環境適応による変化なら生物としては当たり前だし)


・ヘジャーブの思想

イスラームの服装を二つの基本的な型である
隠すこと
質素であること
を守ることは重要な結果をもたらす。
一部を次に示す。

①道徳的堕落の阻止
女性の側が遵守することは
男性たちにとって願望や欲望の制御をたやすくし堕落させない原因となる。
男たちが堕落に引き込まれる社会では
女性たちも堕落から遠ざかることができない。


②女性たちの安全

③女性低劣化の阻止

女性がおめかしと見栄を他人である男性たちに見せびらかすとき
彼女たちは低劣で価値のない存在に変わる。

もし女性たちが隠すこと、尊厳を守ること、質素であることを守りながら
その言動やその他の行いにおいて
自らを男性たちの願望の手から遠くに置くならば
女性たちの価値と尊厳は男性の観点において増大する。

ホメイニー師はファトヴァーで
女性たちは近親者以外の男性の気をひく服を着るのを控えるべきであり
チャドルをかぶることが望ましいと説明している。
同様に彼は顔と手は、必要のない限りおめかししないことを強調している。

④浴情に駆られることの代わりとしての活動と建設
職場環境を情欲問題から守る効果的な要因のひとつである。

⑤女性に対する人間的な見方
女性の人間的な地位の代わりに
女性の表面的な見せかけを価値指標としない
(女性の人間としての地位が表面的な魅力の影響を受けない)ことが、
女性が身体を隠すことがもたらすもっとも大事なことである。



はたしてヘジャーブは女性の自由に反するのか?

個人の自由は個人の権利を脅かさず、また
社会という体に害をもたらさない限りにおいて、尊重される。
したがって、社会的公益のほんの一部を遵守することが女性や男性に制約をもたらすとしても
また、社会的道徳と精神的均衡を消滅させないために、
特定の作法様式を守って付き合わねばならないとしても
これを自由の原則に反するとみなすことはできない。
ヘジャーブの境界を無視することは
恐ろしき社会的結果をもたらす。
逆に身体を隠す原則を守ることは
社会における腐敗との闘いの基本の一つである。
今日、先進国の多くを滅亡と罪の淵に立たせている腐敗である。
個人の自由を口実にして服装の境界を踏みにじり
家族の礎の破壊に向けて歩を進めることはできない。


(西欧諸国が植民地化するために現地の女性をファッション、化粧のための消費をさせまくる
というものがあるのでそれを非常に警戒している。
まず女性を狙うのが支配の鉄則。
ヘジャーブを脱ぎたくない理由の一つが
ヘジャーブで隠しているところが恥ずかしい隠すべきところだというものがある。
セクハラや女性の権利や自由や
価値観の押し付けはダメだといことについてやたら言い立てる西欧諸国が
イスラーム圏の恥部観を完全に無視し、
キリスト教的価値観を押し付けていることから、
単に思想で侵略したいだけだとわかる。)



・友愛と友人選び

まず試してから信を置く
事前の試しがない友人関係は通常は長く続かず些細なことで別れる。
イスラームの教えでは
道を共にする者を誰でもたやすくは信頼せず
まず試し、友情に値することが確認されれば、
友人として選ぶできであると勧める。
もちろん、これは他人への不信を勧めているわけではない。
しかし、人を疑わないことがその人を信頼することではない。
イマーム・アリーは次のように言う
「正しい試験のあとに友人を選ぶ人の
友情は永く続き、その絆は確固としている」と。

他の多くの伝承にも次のようにある。
「もし、誰かがあなたに3回怒ったとしても
あなたを悪く言わなければ、その人は友人にふさわしい」と。

友人を選ぶ基準

①賢明さ
②清廉潔白
③称賛される道徳


友情の諸義務

①友人たちの諸権利を守る

②援助
真の友人たちは困難で厳しい状況にあるときに相互に助け合う。

③期待しない
④誠実さ


(日本の道徳の授業がいかにカスかわかる。
そもそも道徳じゃなくて答えの押し付けだし。
信頼できるか疑い、試して確認してから友人にするか決めよという素晴らしいイスラームの教え。
日本の道徳の教科書は子供が触れるゲーム漫画アニメ音楽とかだからな)



・礼拝が終わったあと次のことが勧められる。
34回、神は偉大なり(アッラーホ・アクバル)を唱え
33回、ありがたきかな(アルハムドレッラー)を唱え
33回、神に讃えあれ(ソブハーノッラー)を唱えることである
(ザフラーの神の讃え)。

(足すと100。33意識)


・金曜礼拝
金曜日はイスラームで特別な日であり
聖なるその前夜(シャベ・ジョムエ)が特別な夜であるのは誰にとっても同じ。

・クルアーンでは
地をラクダにたとえる。
地動説。

クルアーンで
神は「二つの東
(井筒訳では夏と冬の日の出の場所と訳注がある)」
と「二つの西」
を用いるとあり
これは地が球形である以外に説明が不可能である。
クルアーンには
「日の出るところ、日の沈むところ
(複数形の諸東、諸西)」
とあり、複数の東西は地が球形であることの結果である。

(天動説も地球平面説も否定。
イスラームは地動説かつ地球球形説)

クルアーンはいくつかの個所で
諸天空は目に見えない諸柱によって支えられているとしている。
イマームは「諸柱があるが、あなたたちには見えない」と言う。
ここで言えることは
今日の諸科学が引力と呼び、
また天球を軌道に保ち
秩序を守る要因とみなしているものは
この節とイマームの解釈から示唆を得ることができる。

(イスラームは科学を敵視しない)

・イマームお隠れの時代にあって
信仰共同体(ウンマ)の手綱取りは
守護法学者(ヴァリーイェ・ファギー)の任務であり
こういった人のヴェラーヤト(守護監督)は
無謬なるイマームたちのヴェラーヤトの枠内。

・イジュテハード
=イスラーム諸法を、その法源の上で
特定の考察基準に基づき努力すること。

法学の諸法源
=聖典、
スンナ(慣行)、
イジュマー(合意、一致した見解)、
理性(アグル)。

イジュマーはときとしてクルアーンやスンナの傍らで
イスラーム法(シャリーア)の指示(ホクム)を確定する証書とみなされる。


・バルザフ(死去と復活審判の間)
義務行為(ヴァージェブ)
推奨行為(モスタハッブ)
忌避行為(マクルーフ)
禁止行為(ハラーム)


(本書ではラマザーン月の規定の翻訳も載っている。
シーア兄貴が訳してツイッターで公開しているやつとおそらく原文が同じ。

本記事へのシーア兄貴のツイート追加。

蟹ぢから溢れる
🦀
💪
‏ @onesyotasekai
いやーね
久しぶりにドブネズミ世界に行ってきたけど、
オリエンタルランドというのはどでかい資金洗浄の場だなと言うのが感想
よーは無いものに信用創造と空想を与えて暴利をとって
その暴利を洗う場所というのが著作権・やりがい商法なのだと痛烈に感じた

で、それに集まる連中は簡単に宣伝に喰われてしまう人達なんだろうと思う
よーは宣伝の賜物であって、
情報商材の先駆けとその蓄積は此処まで動員する事が出来るのかと驚愕もした
別にクソでしかない原価信仰者ではなくて素直な感想として空想なる価値を上げるとこうなるという一結果でありゅね

うーんとね
富田先生は聖知学者ではないから
そういった部分は補填出来ないのでこういうところはおいさんみたいなおねショタおいさんが補填する事になるんだろうね
先ずعقاید 信条論としては 一部ではなくかなりの違いがある
それはأمام イマーム「 正統で正当な現世統治者の存在」である

で、スンナとシーアの伝承並びにدعا ドアー というもの…
日本語で言えばお祈りになるのだけど…場合によっては呪詛となる
例えば、دعا زیارت عاشورا (現世統治者である、フセイン(預言者の孫)の殉教)となるとسلام و لعن を共に百回言う
で、لعن は 呪詛で سلام は 祝詞である
まー内容がすごい


あーちと間違えた、殺し尽くすではなく
イマーム・フセインを殺した全ての人々を呪い続けると言った方が正しかった、済まない

また、イマームを経由した言葉は伝承・ハディースとなるので
シーア派の場合はイマームが存在した、隠れていない分が伝承として扱われるのでスンナ派よりも遙な数の伝承がある
なので、その分信条論が整備され、精微となるので前も言ったように信条論として七割は異なるというのが体感である

で、前に言った通り成人規定があるので宗教的成人規定により信仰が確立される
ここで注意して欲しいのは「信仰は生活である」という事
棄教するというのは「生活をやめる」という事であって、
それは壁にうんこ塗りたくるような段階で発狂したという事と同意義である、
または制限能力者かである

またبقرة 章はマディーナ啓示であり、この無理は禁物であるというのは誰に対してかである
で、256節には続きがある
「真に至福の道は迷誤とは区別されている。
それで邪神を拒み、アッラーを信仰する人は、決して壊れる事のないとってを握ったのである。
アッラーはよく聞き、よくご存知でおられる」

つまり、宗教に強制はない(イブラヒーム澤田訳)と否定されながら、
その後にقَدَ 実に・真にが続いているのは宗教内(イスラーム内)での至福と迷誤の道がないという議論であり、
その外であるبالطاغوت 邪神崇拝については最初から誤りであるというところから始まっているのである事を見落としてはならない

でね…コレはマディーナ啓示であるという事は
根本的に信心深い人達المؤمنين を前提しているわけでその人達やその子孫が一つの概念として棄教するのはありえない
なぜなら、彼らはشهادت した わけで
その 人達は道徳的であり、末裔にもそうあるであろうという性善説的に解釈するとそーいう判断になる

で、じゃー現実問題として棄教した人間がいるではないか?という話になるけど
考えてみ…世界は終わる時が来るという前提ではムスリム・マはそうであったか、居なかったかで裁量されるわけなんよ
だから、彼ら・彼女らはキチガイとして免罪されるのか、棄教として扱われるかは人間が知るよしがないのよ

ただ、目的論に関してはわからないがそうと仮定されている以上はわからない
形而上を前提にすると目的・帰結的世界論へとならざるおえないのでコレばかりはそういう前提下の世界観でしかないとしか言いようがない
言い方を変えれば日本の聖知学徒が苦悩している部分の全てといっても過言ではない

あーコレは中田先生とも話したのだけど、حجاب というのは本来男がするものであって女性がするものではないの
だから、今回オリエンタルランドへ行ったけど…
ホーンとうに目のやり場がなくて困った…
もうね、アッチコッチ見てもあーنگاه گناه があるので焦点を合わせないようにしたり、苦痛だった

んでね、فاطمه زهرا سلام الله については ابو بكر لعنت الله が 焼き殺して、
啓示者の遺産の土地を盗んだせいで
焼き殺し派はクルアーンの解釈を歪めて伝承を無理矢理選択せねばならなかったというご都合主義がある
まーシーア派からすれば、預言者の聖家族を虐げる時点で論外・邪教徒なんだけどね

これでわかるけど、
イスラームは棄教した連中でも必ず帰って来る・こざるおえないという観点があるので
ここらへんは口に出さなきゃいいやという部分があるが
背教や間違ったとされる宗教思想については厳しい
まーでも、焼き殺し派に関しては一切弁解しようがないとおいさん達は考えている

まーこー、一時間徒然と書いたけど、本来はコレで銭こ取れる話なんよ
でも、おいさんはしないよー
だって、食い扶持くらいは働いて稼ぐものだし、そーいう事をするのは嫌だしね
それよりも世界が1毛でも早くおねしょたで満たされる事を祈ってもらいたいね

おねショタはتوحید و عدل و نبوت و امامت و قیامت なので
千の 形而上が持つ良い性質の一つであることは確定しているので
おねしょたでせかいが満ちる事は人類のواخبوات なので仕方が無いのです


黒 点
‏ @kokuten_
2014年10月17日
「イスラームにおける放縦の阻止」
イスラームは諸々の欲望に対し境界を定める。性欲についても境界を定める。性的欲望を満たすことは、ただ結婚によってのみ許される。結婚できる可能性がない場合は、信仰に依拠して自己を制御すべきであり、自己の純潔は一時の興奮・逸脱で失うべきものではない。

『イランのシーア派イスラーム学教科書』富田健次訳 第10講より)




イランのシーア派イスラーム学教科書 II―イラン高校国定宗教教科書【3,4年次版】
― (世界の教科書シリーズ 36)
2012/7/27
富田 健次 (著, 翻訳)


高校3~4相当らしい。

・訳者あとがき

今日の教科書は模様替えをしている。
一説では2001年に版替え。
但し2003年時点はなお当該教科書を使用。

本教科書は神の慣行や運命などの考えにおいて
宿命ではなく自由意志の重要性を強調する。
原子論的宇宙観ではなく新プラトン主義的な流出論的宇宙観や因果律の容認など
スンナ派の古典的神学(アシュアリー神学)との対比を促す
シーア派イスラーム思想の特徴を見ることができ興味深い。

(流出
って言っているし)

・ホメイニー師の思想における10の論題
(の一部を抜粋。)

9.女性の人格と役割

指導者(エマーム)ホメイニーは社会の救済と向上は唯一、
女性たちと男性たちが生活のあらゆる場面でともに参画し
効果的に関わることによってのみ、
可能であると強調した。

気高きクルアーンは人間を作るが女性たちもまた人間を作る。
女性たちの義務は人間作りである。
もしも諸民から人間作りの女性たちを奪えば、
その民は敗北と衰退にさらされ敗北しよう。堕落しよう。

イスラームが定めているヘジャーブは
あなたたちの価値を守るためであることに注意を払われよ。


・バルザフ界(現世と来世の間)における生活

狭間(バルザフ)の世界
=死去するとき魂(ルーフ)が入る、
 現世と来世の間を分かつ境界。

人間は死の瞬間から復活の日(最後の審判の日)までをここで過ごし、
ここでの楽しみを享受、あるいは
不運な人の場合は辛酸を舐める。
復活(ギヤーマト)以前の死後の生活がある。

バルザフは物質的側面を持たない。

忘れてはならぬのは人間の帳簿が死去時に完全に閉じられるのではなく
書き換え可能なこと。
人間の行動には二種類ある。

影響が良きしろ悪しきにしろ一定の制限の内にあり
一定時間と空間の域を越えることはない


なしたときだけでなく将来にも影響が残る
つまり結果は良悪問わず制限ある時空の域を越えて広がる。
影響はきわめて長い時間、時には世の終わりまで続く。

(真に公平に最後の審判を行うには
最後の審判がなされるまでの影響全ても考慮しないといけないから
実に合理的)


・「復活・最後の審判」(ギヤーマト)が近づくと
太陽はぐるぐる巻きにされ星々は落ち、
山々は羊毛のように毟られ粉々となり、塵芥となってまき散らされる。

神の命令により
すべての人々は土塊の粒子のうちから出て
最後の審判の日に集合する場においてあまりに大きく恐怖に満ちた出来事を見る。

魂のみでなく肉体も復活する。
来世は肉体的である。

・性的本能に関するイスラームの見解と対策

1 結婚

2 貞節
イ)視線制御
特に男性にとっては目を警護する。

ロ)有益で建設的な諸活動を行う
学術、芸術、技術、体育、勉学など有益な活動を行う。

3 逸脱への素地を減らす
身を覆う必要性。


ヘジャーブはなぜ婦人だけなのか?
神は男女を同一同様に創造してはおらず
二つの被造物に精神や心理の点から差異が生じている。

男女の禁制遵守による効果

女性の価値を高める


安全さと平穏さの創出


社会の堅固さ
女性たちがその能力をおしゃれと流行〔を追いかけること〕に費やす代わりに、
質素な服を着て、
イスラーム的服装で学校や大学や職場に赴くならばよりたやすくその能力を
活動に振り向けることができ、
進歩の度を勧めることができる。

化粧品や高価な衣服への支出は
とくに流行の期間的変動とともに
耐えがたき経済負担を家計に課して
ときとして家族の不和の原因となる。
それに加えて
こうした破壊的競争に参加する気がなく
あるいは参加できない女性たちは軽蔑される。
実際には、自分の利益だけしか考えていない流行の作り手や
従事者たちに自分と自らの運命や人格を委ねている者たちに
この軽蔑は属するものであるにもかかわらず、である。

(すごいな。
流行を作る側こそ軽蔑されるべきだと言っている)


家族の絆の堅固さ


植民地化の影響との闘い

西洋の植民地主義は
男女関係に禁制(とくにヘジャーブ)があることが
恥ずべき彼らの目的の前途に横たわる障害であるとみなし、これと戦った。

〔パフラヴィー朝第一代国王レザー・シャーとなる〕
レザー・ハーンが英国を介してイランを支配したとき、
改革(!)という語彙のもとで最初にとった施策は
自分を英国植民地主義の代理人として、
ヘジャーブの廃止を宣言し
植民地主義の利益に立ち向かうもっとも堅固な防塞としての
ヘジャーブを取り除いたことである。

(シーア派概説書に国王時代はCIA傀儡政権だとあるので、
英米の植民地だったとわかる。
最初にヘジャーブ廃止を植民地支配のとっかかりにしていることが重要。
女性の服装からまず都合よく変えて支配せよ!
だからヘジャーブ廃止に対してイスラーム系支配層は強く反対する)

トルコでは
アタチュルクが異邦人の手先であり同じ政策を進めた。

(アタチュルクはメイソンだし、
トルコの文字はアルファベットにしたし
EUに入るか否か問題があるし
欧米によるイスラーム侵略の拠点なのがトルコ。
イランにとってはトルコ建国の父は異邦人の手先)


アルジェリアでもフランスが同じ方法をとった。

(ヘジャーブ廃止せよ運動
=欧米の植民地化の第一段階達成のための運動)




・イスラーム諸法令(アフカーム)

戦争捕虜に対する罵りは許されず
彼らに対するイスラーム的道徳を守らねばならない。

イスラームはキサース(同害報復)論で固有の法規をもつ。
不当に生命的被害をこうむった人かその相続人に
同じ被害の刑を犯人に対して下す許可が与えられうる。
こうした刑罰は多くの西洋人たちからすれば驚きで多くは粗野とみなす。
しかし、
イスラームは人間をいとおしみ敬うべきものとみなすために、
犯人が他人たちに害を加える意向を持ったとき、
彼自身にも同じことがなされるとするように法規は作られている。
こうした刑法は犯人が罪業を念頭からぬぐい去る因となり
人間の寛容さと特性に関する最良にして最強の保護であるのは明らか。

驚くべきことは西洋人たちが窃盗の手を切断することや
キヤースの諸令(アフカーム)を粗野で残虐とみなしているが
彼らがもっとも残虐な犯罪を世界の非抑圧者たちや虐げられし者たちの権利に
対して行っていることである。
彼らが一日にて行う無辜の民の殺戮は、
数十年のあいだイスラームの地全体で必要となるキサースよりも多い。
にもかかわらず彼らは自らを人権の擁護者であるとし
イスラーム諸法規は非人間的であるとみなしている。

(NATOによるイスラーム圏への爆撃とかね)


・諸刑罰


ハッド刑〔固定刑〕
刑罰の量が明確に定まった法。
飲酒に対する刑罰は男女ともに70回の鞭打ち


タアズィール刑
量と形が定まっていない刑罰。


キサース


ディヤート(近親者を殺害された慰謝料)

胎児を意図的に流産させるのは
魂が生じた胎児は全額賠償金(殺害)を
それ以前の段階もそれぞれ段階固有の賠償金がある。

(魂が生じる段階っていつごろだろうか)


・幸福を手にする諸々の道は
人間がどこから来て、どこに行き、
いかなる基本的特性を持つかということを知ることにほかならない。
このために人間を知ることはあらゆる問題に優先される。


・人間のルーフ(魂)は生来特別な才能を持つのか
それとも白板のように特別な要求は持たず
その上に描かれるいかなる図絵も人間の要求無く描かれるのか
という問題がある。

(白板はおそらくロックが元ネタだろうね)

人間と動物の差異は
1 意識と選択
2 価値に立脚する


人には二つの傾向性がある。
1 動物と共通の本能もしくは動物的諸傾向

2 人間に固有な優れた傾向
で「天性(フェトラト)」として説明される。
この傾向は誕生当初、潜在的な状態にある(本能的諸願望とは逆)。
人間の天性(フェトラト)は当初、種子であって、
人間存在の土の中に蒔かれていて、
正しい訓育でもって開花し優れた属性と人間性を結実させる。
誤った訓育で、
潜在態が有していることに至らなければ
変形させられた存在物となる。

能力や才能をもつが具現されていない段階にある物事は
潜在態(ビル・クーワ)と呼ばれ
上記の才能が具現されるならば
現実態(ビル・フィウル)と呼ばれる。
リンゴの種はリンゴの木の潜在態(ビル・クーワ)であり
木となったあとはリンゴの木の現実態(ビル・フィウル)である。


さてここで、この講義の最初に提示した問いに答えることができる。
すなわち、人間は何も描かれていない白板のように、
いかなる絵図であろうと受け入れるのではなく
人間の魂(ルーフ)と命は、
生まれた当初から要求をもつこと、
つまり潜在的な傾向と牽引力をもっていて
人間を特定の活動に向けて駆り、
またこの活動のみが人間の魂的(ルーヒー)構造に釣りあう、ということである。


(目的論的人間観。
潜在態とか現実態とかアリストテレス哲学の影響がある)



天性の諸側面

1 真実の追及

2 善への傾向
ここでの善=道徳的卓越性。

(アレテーじゃん)


3 美の愛好
4 崇める傾向性
人間の魂は「神の国」(マルクート)の炎であり
それからの光はみな、人間存在を暖め明るくする。

(魔術カバラのマルクト(王国)を思い出した)


理性(アグル)と自己(ナフス)との闘い
高い傾き(天性)と卑しい傾き(諸本能)の戦い。

「感覚的欲望」(ハヴァーイェ・ナフス)

なおナフスには霊魂という意味と
自己、エゴという意味があるが今回は後者の意味にとった。


創造(タクヴィーン)と立法(タシュリー)の間に完全なる調和と一致がある。


・自由意志(イフティヤール)
人の魂の特徴の一つに自由意志があること明白で自明。


・並列関係の諸原因
=一群の諸要素が互いに傍らにあって
相互の連携で現象をもたらす。

花を育てる場合は庭番、土、水、光や温度といった複数要素の集合が連携しているので
並列関係。

(要は縁起的ネットワークによる成立)


直列関係の諸原因
=第一要素が他の要素に作用し
この第二要素の媒介で第一要素の作用を結果に至らせる。

兵士と司令官の関係は直列関係。

筆を手にして手紙を書く場合も
諸要素が
1 その動きで紙面に文章を書く筆
2 筆を動かす手
3 手を動かす身体の神経系
4 この三つの原因の前提となるあなたの意志
5 意志をもたらすあなたの魂もしくは欲求(ナフス)
なので直列関係。

直列といっても一列ではなくお互いに多様な段階にて存在する。

(こういった議論が続くが要は以下を導くため)

神の天命を信じることはけっして人間の自由意志を否定しない。
神の天命につながりそれを示すものの一つが人間の自由意志である。
人間が自由意志をもつ存在であり自由であることは神の天命に責任がある。
自由意志による行為では意志しないなら、なされない。
いわば原因が完全とならない。
しかし同時に我々と我らの意志、
また我らから生じる行いはすべて神の意志に従属している。
その関係は自然の諸関係のように並列関係ではない。
人間の意志は神の意志と直列関係にあって
人間の自由意志的行為は、
一方において人間自身に帰属するが、
他方においては、より高い水準において
神の意志と関わる。


・存在物の諸階梯

被造物のうちには
哲学用語で
「抽象観念(モジャッラド)
あるいは
非物質的実体
〔天使、質量なき形相である離在知性〕」
と呼ぶ存在がある。
この存在は物質的諸条件をもたず変化変容をしない。

存在の間には階梯があり上下がある。
それぞれは創造されたその階梯の位置に留まり、変化変容はしない。
神は尽きることなき慈愛により創造しており
一つ一つはより低い存在へと向かう存在の恵み流出の媒介となる。

(新プラトン主義の影響だろう)


抽象観念界の次は物質界に至る。
神が物質界で創ったもっとも完全なる存在が人間。
一部の人間は獣よりもさらに卑しく、
一部は天使よりも上位の階梯に達して
天使たちが跪くに価するふさわしさを見いだす。


(一神教は人間は特別すごいというのが基本。
多神教も人間すごいだが他の全動物よりはるかに勝るとまでは言わない)

・クルアーンよりわかるのは
ジンも人間のように自由意志をもち責任をもつ。
ジン創造の根元は火であり
人間のように肉体と魂を持つ。
ジンたちも信者と不信仰者、従順な者と罪を犯す者がいる。
イブリースもジンであったが神に背いている。
人間は総じてジンより高貴であるため
ジンたちからは預言者が選ばれておらず
ジンたちが人間の預言者たちに従う責務を持つ。



神は人間に自由意志を与え
人間をして岐路に立たせ
己の選択でもって神を崇める道を
つまり人間の幸福の道を選び
そのおかげで聖なる慈愛を手にして幸福にいたる。
いかなる種類の慈愛も神への近しさにあるため
クルアーンに基づけば
人間を創った最終的な目的ならびに究極の完成は
神へのちかしさ
もしくは
神への近接である。

(これ正教の人間神化(テオーシス)
=人は神に近づいていくが神にはなれない
の影響がある?)


神が何ゆえ最初から人間に完全さを授けないのかと問うかもしれない。
真実(ハギーガト)は次の通り。
この問いは
いかなる存在物にも最初からいかようにでも完全さを与えることができる
という皮相な考えから出る。
この考えでは人間を虚ろな器とみなしており
漸次その器を水で満たすこともできれば
一挙にあふれさせることもできると見ている。

神の全き慈愛を得るには特別な器量あるいは能力が必要。
この能力あるは器量は自由意志と意識的かつ絶え間なき選択のもとでのみ獲得しうる類のものである。

(なんの努力も実績もなしに完全さは与えないということ)


・道徳諸原則は相対的ではなく絶対的である。

ある行いがある人に対して有徳であり完全さであるならば
すべての人たちにも有徳で完全さとみなされる
人間の完全さとは神に近づく方向において
天性的諸才能が開花することを言うからである。

(一神教系思想は絶対善を認めないと教義が成立しない。
道徳に関しては一神教は本当に根拠が楽。

神定法の一つが現代の過半数の人間が悪と判断するものだとする。
これが絶対善法でありうるか?
最後の審判では個人がなしたことの、最後の審判開始時までの影響まで考慮することを
踏まえると、その法の善悪はその法が適用されなくなった時点で判断すべきとなる。
しかしそのような判断は人間には不可能。
結局、人間には
「絶対善法であるが、今の時代は悪だと人間が愚かにも判断しているにすぎない」
かどうかは判断できない。
人間には絶対善かも絶対悪かも判断することが寿命と認識の限界がある以上できない。
結局、現代の価値基準で判断するしかない。
後世への影響も考えることはできるが正確な予測はできないだろう。
短期的には悪「と現代の価値観で判断されるが」、
長期的には善「なる結果をもたらすだろう」
から全体としては善「だろう」
が限界かな)


・男性と女性は平等だが同類ではない。
イスラームのクルアーンでは
アダムに言及するが
悪魔がイブを騙し、イブがアダムを騙すとは一切述べていない。
クルアーンでは当時普及し、
今日も残っている見解のひとつと厳しく戦い、
女性を誘惑と罪の元凶として難じることから無罪放免した。

(明らかに新約を根拠とする女性蔑視思想批判)

聖なるつながりをもつ偉大な男性の近辺には
常に神と聖なるつながりを持つ一人の偉大な女性がいたと
クルアーンにある。

※メモ自体はここまで


(イスラームの女性蔑視(に見える)要素はヤソ(パウロ教)に比べるとそこまで目立たない印象。
イスラーム圏は
外面=公共空間では男尊女卑に見えるが
内面=家庭空間では女尊男卑に見えるので蔑視といえるか断定できない。
役割を分けただけとも解釈できる。

ヤソの女性蔑視は酷い。
新ヤソの女神教の一派であろうフェミはその反動(人工芝、両建)。
耶蘇の女性蔑視は女神教の否定。
特に敵視していた女神はアルテミス。
新約の使徒行伝19章で
アルテミス教のエフェソス(現トルコ西部)で
「大いなるかな、エフェソス人のアルテミス」と叫ぶ群衆に
パウロが布教を妨害されたとある。

新ヤソが女神重視である理由の一つが
アルテミス=ディアナ崇拝は旧ヤソを否定することになるから。

丸い誕生日ケーキの普及で
現在世界最強の女神はアルテミス。
白い丸い満月ケーキにローソクを刺し
火を灯し
お祝いの歌を詠唱し
火を吹き消す魔術の儀式。
元ネタでは直接生贄に火をつけていたのだろう。
本人が無自覚でも儀式の効果は多少はある。
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/737359555198222336



ビッチ=雌犬はアルテミス=ディアナを意味する褒め言葉だった。
新約教はアルテミスが大嫌いなので悪い意味に変えられた。

ルシファーの元ネタが
ルキフェラ=ディアナ=アルテミス
というねこた説。
太陽と契約と友愛の神ミトラ=太陽の男神崇拝のヤソが
月の女神ルキフェラを敵視するのは当然。

ルシファー=金星は囮。
ルシファーは4世紀のヒエロニムスのラテン語訳聖書で誕生したキリスト教製。
新約の原語は古代ギリシャ語で黙示録の成立は1世紀なので
イエスが明けの明星と名乗っても
4世紀生まれの訳語ルシファーと無関係。
ルシファー=イエス説は同祖論流の成立年代無視の嘘。

ルシファーは新約の原語である古代ギリシャ語に一切登場しない。
言葉の定義と成立の経緯を無視する陰謀論者=無自覚含め工作員がよくやる徒労(デマ)の一つ。
原語を確かめない陰謀論は嘘の塊。
ヘブライ語原典でルシファーとラテン語訳された個所は
ヘレル・ベン・サハル(シャハル)
Helel ben Shaḥar, "day-star, son of the morning"。
英語版ウィキLucifer
https://en.wikipedia.org/wiki/Lucifer
では
天体かは原文で断定できない
ユダヤ・キリスト教の注釈ではバビロンの王ネブカドネザル2世と解釈されているとある。
つまりユダヤ教では悪人であり金星でも天使でも悪魔でもない。

イザヤ書第14章
”…バビロンの王をののしって言う、「あの、しえたげる者は全く絶えてしまった。あの、おごる者は全く絶えてしまった。
…黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。
あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、
雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。
しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。”
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%A4%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#%E7%AC%AC14%E7%AB%A0

でバビロンの王が
”わたしの王座を高く神の星の上におき”
と言うので自身を天体とみなしていないのは明白。

♰ルシファー=金星説は
「ルシファー=金星=金星系女神は悪」の旧ヤソ

「ゴッドは善なる宇宙人」の新ヤソ
の双方に都合がいい。







地中海オリエントに於いては金星神は大体「女神」である。イナンナ、イシュタル、アフロディーテなどである。
エジプトのイシスの元にあるのがシュメールのイナンナだそうなので、イシスを含めてもよいだろう。
地母神である。一方のキリストはホルスやミトラなどの男性の太陽神に原型があると思われる。

キリストのイメージの原型は金星を象徴する中東の女神というより明らかにホルスやミトラなどの中東の男性の太陽神である。前者はマリアのイメージの原型であろう。その辺の歴史的過程を飛ばして、
いきなり「キリスト=ルシファー=金星神」が「イルミナティの教義の根幹」とするのは論として雑すぎる。

一方で黙示録でイエスが「明けの明星」を名乗っている事もまた事実である。この事から基督教では金星を「イエスの星」とするそうである。神智学系では「イエスは金星人」と言っている。
つまりイエスと金星の結びつきを隠すどころか公然とアピールしている。
「イエス=金星」は基督教側の主張という事。

「キリスト=金星」は基督教や神智学の主張である。
実際に「イエス 金星」「キリスト 金星」で検索すると基督教やオカルト界隈のページばかり出てくる。神智学信者でUFOで有名なアダムスキーはイエスは金星人と言った由。「キリスト=金星」は裏権力が隠したい「教義の根幹」どころか彼ら側の主張。

新約聖書の黙示録のみを根拠に「キリスト=ルシファー=金星神」と断定するのは、むしろ基督教に近い立場なのではないだろうか。新約聖書という文献に信頼を置き過ぎているからである。
金星神だけ強調するとホルスやミトラなど中東の太陽神との関係がぼかされていまう。それが狙いなのかもしれない。





某ネコ 休止中
‏ @nekotayasan
1月26日

なえなつさん、ルシファーはディアナだよ。元ネタは。

金星でなくて月の女神。

なえなつさんの考察おもしろいけど、中世すっ飛ばして古代にこだわるのは結社の思想なんで気をつけて欲しい。

だから私は中世にこだわる。





She was seen as free, vigorous, cold, impetuous, unsympathetic, beautiful. 日本語wikiにはないけど、ビッチの事調べたらアルテミス出てきたよ。。




参考資料






ブッダの教えは、苦の認識に始まり、その理由を見極め、解決に取り組む。
その結果、誰でもが苦しみを滅することができる!です。
ですから、今ここにある苦を受け入れるのは確かにスタート地点に着くという意味で大事なのですが、それはブッダの説いた「悟り」ではありません。苦しみの滅尽=悟りです。





松本紹圭 Shoukei Matsumoto
‏ @shoukeim
9月2日

坐禅に通うアメリカ人いわく「キリスト教では人間は一生償えない罪を背負い続けるけど、
仏教では苦を滅することができるのが良い」とか。
なるほど、「人生は苦」という仏教はネガティブ過ぎと言われがちだけど、キリスト教と比べる人にはポジティブにも見えるのか。


秋田犬祭り
‏ @akitakenhachi
9月2日
返信先: @shoukeimさん、@finalventさん

キリスト教は陰謀論と終末論が本質ですから


”・コンスタンチノープル公会議は
信経を決定すると同時に
ローマ帝国内の各都市の重要度によるランキングの問題を討議している。
古いローマを筆頭に
コンスタンチノープル(新ローマ)
アレキサンドリア
アンティオケ
エルサレムという順位が定められる。

しかし古いローマとアレキサンドリアは
新しい都となってまもないコンスタンチノープル(新ローマ)
を二番目に置くのを嫌う。
古いローマはコンスタンチノープル(新ローマ)に競争心を
アレキサンドリアは嫉妬心を燃やしていたからだ。

この順位は都市の重要性からつけられたもので
教義的な理由からでない。
五大総主教はすべて平等であり
各総主教区の父(パパ)的存在である。

この順位づけのあと、
ローマ帝国西側は蛮族の手中にあるようになり
古いローマは自分の道を歩まなければならなくなる。
蛮族の中にあり
他の四総主教区と連帯制が薄れてくると
当然首位の座から去らねばならない。
帝国内の重要な都市のひとつと数えられないからだ。
ローマは首位の座を保持しようとやっきになった。
ここから教義的理由を創作して法皇権というものが考えだされ
東西の違いがすこしずつあらわれてくるようになる。

(教皇自体がローマが他の総主教地区より上位だと権威づけるための
イエスの教えと何の関係もない新設定だから
正教はローマ法皇を認めない。

西のキリスト教は初代教会の伝統を保持する正教から見れば
野蛮な田舎の勝手な教えを捏造する劣化品なのだろう)”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-252.html
【読書メモ】『ギリシャ正教』『正教会の祭と暦』『東方正教会』 。
原罪による堕落説、 ピラミッド型支配構造の教会、
政教分離も西方ヤソ思想であり 正教にはなし!
311年にローマがキリスト教の迫害を停止したのでキリスト教にとって311は特別!


×『リトルウィッチアカデミア』Little Witch Academia  『リトルビッチアカデミア』
○Little Bitch Academia
ビッチは本来は処女・月女神アルテミスの聖なる名。耶蘇が改悪
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-166.html
”メス犬の息子を意味するson of a bitchは元はキリスト教用語。
このサノバビッチは現代は罵倒語だが、
本来は異教の女神の霊的な息子という意味。
異教徒叩きが日常語になった一例。


「ウィッチはビッチ」は耶蘇教が改悪する前は文字通り聖なる呼び名でほめ言葉だった。
リトルビッチアカデミアな件
ダイアナは処女ビッチ!(聖なる称号←耶蘇教が意味を真逆に改悪)
ビッチは本来は処女にして月の女神アルテミスの聖なる添え名。
意味を真逆に改悪したのが耶蘇教。
魔術とお産と吸血鬼の女神ヘカテーはアルテミス=ディアナと同一視された。
ちなみにルパエ(雌狼)は狼神ルパに仕えていた神殿娼婦のことだが、意味を売女=悪名に改悪したのも耶蘇教。
詳しく知りたい方は、ゆっくりと学ぶ吸血鬼シリーズ動画の六話と八話をどうぞ。
つまり、
アルテミス=ディアナ
=ダイアナは処女ビッチ(強調)!
ヘカテーと同一視されたのだから最高の魔女で当然。

メス犬の息子を意味するson of a bitchは元はキリスト教用語。
このサノバビッチは現代は罵倒語だが、
本来は異教の女神の霊的な息子という意味。
異教徒叩きが日常語になった一例。

ゆっくりと学ぶ吸血鬼 第8話後編その1『女神ヘカテとリリスと吸血鬼』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm28804107

ゆっくりと学ぶ吸血鬼 第8話後編その2『女神ヘカテと魔女と吸血鬼』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm28804173
(学術寄りの動画。プロより詳しいっぽい作者。この動画の作者も正教会の情報が少なくて困っている)”

Lucifer
https://en.wikipedia.org/wiki/Lucifer
”According to both Christian [20] and Jewish exegesis, in the Book of Isaiah, chapter 14, the King of Babylon, Nebuchadnezzar II, conqueror of Jerusalem, is condemned in a prophetic vision by the prophet Isaiah and is called the "Morning Star" (planet Venus).[21][22] In this chapter the Hebrew text says הֵילֵל בֶּן-שָׁחַר (Helel ben Shachar, "shining one, son of the morning").[23] "Helel ben Shahar" may refer to the Morning Star, but the text in Isaiah 14 gives no indication that Helel was a star or planet.[24][25]

Later Christian tradition came to use the Latin word for "morning star", lucifer, as the proper name ("Lucifer") of the Devil as he was before his fall.[26] As a result, "Lucifer has become a byword for Satan or the Devil in the church and in popular literature",[4] as in Dante Alighieri's Inferno, Joost van den Vondel's Lucifer, and John Milton's Paradise Lost.[18] However, unlike the English word, the Latin word was not used exclusively in this way and was applied to others also, including Jesus.[27] The image of a morning star fallen from the sky is generally believed among scholars to have a parallel in Canaanite mythology.[28]”

イザヤ書(口語訳)
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%A4%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#%E7%AC%AC14%E7%AB%A0
”第14章

1 主はヤコブをあわれみ、イスラエルを再び選んで、これをおのれの地に置かれる。異邦人はこれに加わって、ヤコブの家に結びつらなり、

2 もろもろの民は彼らを連れてその所に導いて来る。そしてイスラエルの家は、主の地で彼らを男女の奴隷とし、さきに自分たちを捕虜にした者を捕虜にし、自分たちをしいたげた者を治める。

3 主があなたの苦労と不安とを除き、またあなたが服した苦役を除いて、安息をお与えになるとき、

4 あなたはこのあざけりの歌をとなえ、バビロンの王をののしって言う、「あの、しえたげる者は全く絶えてしまった。あの、おごる者は全く絶えてしまった。

5 主は悪い者のつえと、つかさびとの笏を折られた。

6 彼らは憤りをもってもろもろの民を絶えず撃っては打ち、怒りをもってもろもろの国を治めても、そのしえたげをとどめる者がなかった。

7 全地はやすみを得、穏やかになり、ことごとく声をあげて歌う。

8 いとすぎおよびレバノンの香柏でさえもあなたのゆえに喜んで言う、『あなたはすでに倒れたので、もはや、きこりが上ってきて、われわれを攻めることはない』。

9 下の陰府はあなたのために動いて、あなたの来るのを迎え、地のもろもろの指導者たちの亡霊をあなたのために起し、国々のもろもろの王をその王座から立ちあがらせる。

10 彼らは皆あなたに告げて言う、『あなたもまたわれわれのように弱くなった、あなたもわれわれと同じようになった』。

11 あなたの栄華とあなたの琴の音は陰府に落ちてしまった。うじはあなたの下に敷かれ、みみずはあなたをおおっている。

12 黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。

13 あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、


14 雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。

15 しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。

16 あなたを見る者はつくづくあなたを見、あなたに目をとめて言う、『この人は地を震わせ、国々を動かし、

17 世界を荒野のようにし、その都市をこわし、捕えた者をその家に解き帰さなかった者であるのか』。

18 もろもろの国の王たちは皆尊いさまで、自分の墓に眠る。

19 しかしあなたは忌みきらわれる月足らぬ子のように墓のそとに捨てられ、つるぎで刺し殺された者でおおわれ、踏みつけられる死体のように穴の石に下る。

20 あなたは自分の国を滅ぼし、自分の民を殺したために、彼らと共に葬られることはない。どうか、悪を行う者の子孫はとこしえに名を呼ばれることのないように。

21 先祖のよこしまのゆえに、その子孫のためにほふり場を備えよ。これは彼らが起って地を取り、世界のおもてに町々を満たすことのないためである」。

22 万軍の主は言われる、「わたしは立って彼らを攻め、バビロンからその名と、残れる者、その子と孫とを断ち滅ぼす、と主は言う。

23 わたしはこれをはりねずみのすみかとし、水の池とし、滅びのほうきをもって、これを払い除く、と万軍の主は言う」。 ”

マタイの福音書5章3節の和訳について
心の貧しい人は幸いか
http://kanai.hatenablog.jp/entry/2015/07/29/%E5%BF%83%E3%81%AE%E8%B2%A7%E3%81%97%E3%81%84%E4%BA%BA%E3%81%AF%E5%B9%B8%E3%81%84%E3%81%8B
”【比較研究】

<金井試訳> 
恵まれている、霊において貧しい人たちは。
天の王国は彼らのものだから。

<Greek>
Μακάριοι οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι, ὅτι αὐτῶν ἐστιν ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν.

<KJV, RSV, ASV, NIV, ESV> 
Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.

<明治訳>
心の貧しき者は福(さいはひ)なり 天國は即ち其(その)人の有(もの)なれば也

<大正改訳>
幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者。
天國はその人のものなり。

<口語訳>
こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

<新改訳>
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

<新共同訳>
心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

<前田訳>
さいわいなのは霊に貧しい人々、天国は彼らのものだから。

<塚本訳>
ああ幸いだ、神に寄りすがる「貧しい人たち」
天の国はその人たちのものとなるのだから。

<岩波訳>
幸いだ、心の貧しい者たち、天の王国は、その彼らのものである。

<フランシスコ会訳>
自分の貧しさを知る人は幸いである。
天の国はその人たちのものである。



(1) 主要な英訳、大正改訳、金井試訳は、ギリシャ語テクストの始めにある「Μακάριοι」の訳語を始めに置いている。詩文の始めに倒置法で「Μακάριος」を置く用法は、70人訳聖書の詩篇でたびたび見られる(詩篇1:1, 32:1, 112:1, 119:1, 128:1)。大正改訳がせっかく詩文調にして語順を工夫したのに、口語訳は散文調に戻してしまった。前田訳や塚本訳、岩波訳は「幸い」を文頭に置く工夫を凝らしている。


(2) 「Μακάριοι」はここでは、神の「祝福を受ける」という意味である。「幸い」では読者に誤解を与えるかもしれない。主要な英訳はみな「Blessed」と訳している。


(3) 和訳聖書では明治訳から新改訳、新共同訳まで「心が貧しい」という訳が続いている。原文で問題とされているのは「霊」、すなわち神との関係である。これを「心」と訳すのは、読者に誤解を与える。そもそもこれを「心」と訳したのは、モリソンの漢訳聖書であり、それを日本では現代までひきずってしまった。前田訳や塚本訳、フランシスコ会訳は「心」としない工夫を凝らしている。

(4) 福音書記者マタイは「天 τῶν οὐρανῶν」(トーン ウーラノーン)を「神」の代名詞として用いている。「ἡ βασιλεία」(へー バシレイア)は「王国」が正確な訳であり、その原意は「国家」や「国土」ではなくて「王権」や「王の支配」である。これは、一般的な日本人が持つ「天国」の概念とは異なるのではないか。岩波訳はこれに配慮している。



 「ἡ βασιλεία」は「王国」が正確な訳であり、
その原意は「国家」や「国土」ではなくて「王権」や「王の支配」である。これは、一般的な日本人が持つ「天国」の概念とは異なるのではないか。

…イエスは、ガリラヤ湖畔の町カペナウムを拠点として、宣教を開始された(4:12-17)。その使信は次のものであった。
「悔い改めなさい。天の王国が近づいたから」(4:17)。
福音書記者マタイは「天 τῶν οὐρανῶν」(トーン ウーラノーン)を「神」の代名詞として用いている。

  …
  3.霊において貧しい人たち

 イエスは、この「山上の説教」の冒頭で、八つの<幸い>について語っている
 その第一(5:3)。
<心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから>(新改訳)。
<恵まれている、霊において貧しい人たちは。
天の王国は彼らのものだから>(金井試訳) 

 和訳聖書では明治訳から新改訳、新共同訳まで「心が貧しい」という訳が続いている。
原文で問題とされているのは、「霊において τῷ πνεύματι」(トー プニューマティ)、すなわち神との関係である。これを「心」と訳すのは、読者に誤解を与える。「あなたは心が貧しいわね」と言われて、喜ぶ人がいるだろうか。日本語では「心が貧しい」と言う場合、十中八九、悪い意味ではないか。逆説的な教えだとしても、それが「幸いです」となるだろうか。

 「幸いです」と訳された「Μακάριοι」は、ここでは、神から「恵みを受ける」「祝福される」という宗教的な意味を持っている(参照 6:26,32-33, 7:11)。「幸い」では読者に誤解を与えるかもしれない。主要な英訳はみな「Blessed」と訳している。「恵まれている」が適切な訳ではないか、と筆者は考える。


 当時、ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)で指導していたパリサイ派の人たちは、②の「穢れ」を避けることに執心していた。「パリサイ」には「分離する」という意味がある。
そのためユダヤ人でも、
病人、障がい者、売春婦、取税人、
行商人、羊飼い、牧畜人、皮革業者、
ホームレス、女性、子どもなどは、ユダヤ教の礼拝に参加できなかった。それはエルサレムの神殿でも同様である。”


逆境無頼エイジ@M_LH0728
2015年5月13日
「表面的には信仰の人であるが、実践面でその影響が見られない者たちは、
まったく信仰がない者たちであって、他の人たちを欺くために表向き信仰する者たちか、
または、彼らの信仰が弱く、心の奥底まで行き渡っていない者たちである。」
『イランのシーア派イスラーム学教科書』 より。

良い言葉。





微力Power(無気力改め微力)
? @mukiryokupower
6月9日

パキスタン在住中に参加したクルアーン勉強会で教えてもらった話。

施しをする時は相手の負担にならないようにする。精神的かつ物理的に。

相手に負い目を感じさせないように行う。また食べ物は調理し、そのまま食べられる状態が良い。その家には調理器具や調味料が無いかも知れないから...との事。
1件の返信 14件のリツイート 36 いいね

微力Power(無気力改め微力) @mukiryokupower

イスラーム勉強会の続きです。

施しをする者はアッラー(唯一神という意味)から頂いたものを「私自身」が施しをするのではなく、
アッラーからお預かりしているものを、『アッラーが直接相手の方に施す』という気持ちで行う。
とのこと。

ですから相手への優越感等の感情は発生しないはずです。










日本語書籍ですと、慶應義塾大学出版、ムハンマド・ホセイン・タバータバーイー著「シーア派の自画像」がシーア派視点で勉強になるとおもいます。桜井氏のは宗教学、松山氏のはスンナ派護教学の視点からみたシーアですから。





the_mathnawi
‏ @the_mathnawi
5月16日
ムスリム女性の服装についてこれほどかしましく云々されているのだから、
まずその前に「視線を下げなさい」という命令がある、ということももっと知られていてもおかしくないはず。
でもそうはなっていないというのは、多くの人が故意にその部分をオミットしてると思われてもしょうがない。

ハディースのひとつに、道の向こうからやってくる美女にみとれていた連れの若者のあごを、
預言者が「くい」と無言でつまんで反対に向かせた、というのがある。つまり問答無用で「見るな」ということ。
「誘惑された」だの「挑発された」だのと言い訳を並べる余地もないということ。

このハディースには続きがある。この美女が、預言者に宗教上の助言を求めて曰く
「巡礼は義務だと聞きましたが、うちの父はもう老いておりラクダに乗るのもおぼつかないので私が父の代わりに行ってもいいですか」。預言者は「ナアム(はい)」と答えた、というもの。




お読みくださり感謝!

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朱子学は形而上に執着するな、形而下をまずしっかりしろと説き、人格神を認めず神像崇拝も否定なのでヤソにも新ヤソにも叩かれる。土田健次郎『江戸の朱子学』 




まずは儒教の根本思想をどうぞ。
タイトルの本のメモはその後。







孟子の易姓革命論を加えると
「悪行をしてはいけないと3度言われても改めないボスなら
①辞めて去れ
②ボスを殺すor③失脚させ、まともな者を据えよ」。

上への盲従を強いるというデマを流す工作に注意。
儒教も無記でスピ否定。
「適切な名前をつけよ」で詭弁対策。詳細は↓







儒教は原罪否定で基本は性善説で、性悪説も後天的教育でなんとかなるって思想なので結局は性善説。
耶蘇は儒教の性善説も嫌い。原罪否定だから。

葬儀は信者にとって譲れない点なのは重要。
骨の髄までカトリック信者のロヨラのお墓は明確にカトリック式でありユダヤ教式ではない。
@kikuchi_8




KONDOH Michio@kondohmjp
3月4日

論語に「子不語怪力乱神」とある。孔子は人智を超えた不可解なものについては語らなかった。
「否定」ではなく「語らず」なんだ。
僕はほんとは語れないはずのことを科学者面して語っていないか。自省。


すんすけ@tyuusyo
2017年10月1日

すんすけさんがすんすけをリツイートしました

おもしろいのは「怪力乱神」のうち「怪力乱」は
「非理之正,固聖人所不語。」と全否定しているのに、
「神」は「ひょっとしたらあるのかもしれないが理で解明できないもので、
よくわからないものだから軽がろしく語るべきではない」と言われていることで、
非常に正しい懐疑論者の姿勢だと思います

すんすけさんが追加
すんすけ@tyuusyo
2017年10月1日

「怪」はUMA、「力」はトンデモアクション映画の類、
「乱」は医療否定やら偽史、
「神」は朱熹が
「造化之跡にして,不正に非ずといえども、
然れども窮理之至りにあらず,未だ易く明らかならざるものなり、
故に亦た以て軽く人に語らざる也。」というのですから宇宙人や超常現象といってもいい






「儒教は上位者への盲従を説く」との誤解についての解説
https://togetter.com/li/664524
人見基埜アットhitomimotoya196さん
”セウォル号事故で上からの指示を守って死んだ方々の行動までも「儒教の影響」と分析する者がいて、それをまた餌にして愚かなことを書く所謂「ネトウヨ」がいるが、儒教は上下関係盲従思想ではないのだが。

今日はもうしんどいので寝るが、儒者たちが上に逆らっていることを示す文献上の典拠は多いので、明日か明後日にツイートする。

「儒教は上位者への盲従を説く」との誤解がまかり通っているので一言。

『論語』里仁篇(4-18)に次のように言われる。(原文)子曰、事父母幾諫。見志不從、又敬不違、勞而不怨。
(書き下し)子曰く、父母に事るには幾(ようや)くに諫む。志の從はざるを見ては、又敬して違はず、勞しても怨みず。

朱子は、「論語集註」で、この一節を、『礼記』「内則」の「父母有過、下氣怡色、柔聲以諫。諫若不入、起敬起孝、說則復諫。不說、與其得罪於鄉黨州閭、寧孰諫。父母怒、不說、而撻之流血、不敢疾怨、起敬起孝。」を引用して説明する。

(「集註」原文)此章與内則之言相表裏。幾、微也。微諫、所謂父母有過、下氣怡色、柔聲以諫也。見志不從、又敬不違、所謂諫若不入、起敬起孝、悦則復諫也。勞而不怨、所謂與其得罪於郷黨州閭、寧熟諫。父母怒不悦、而撻之流血、不敢疾怨、起敬起孝也。
(書き下し1)此の章、内則の言と相表裏す。幾は微なり。微諫は、所謂「父母過有らば、氣を下し色を怡ばし、聲柔らかにして以て諫む」なり。
(書き下し2)志の從はざるを見ては、又敬して違はずは、所謂「諫め若し入れられざれば、敬を起こし孝を起こし、悦べば則ち復諫む」なり。
(書き下し3)勞して怨みずは、所謂「其の罪を郷黨州閭に得んよりは、寧ろ熟諫せよ。父母怒りて悦ばず、而して之を撻ちて血流るとも、敢へて疾怨せず、敬を起こし孝を起こす」なり。

(訳)この章は、(『礼記』)内則の言葉と表裏一体である。幾は微(かすか)なことである。「幾くに諫む」、つまり、微かに諫めるとは、(「内則」に)言われる、「父母に過失があれば、不満を顔に出さず喜びの表情を作り、声色を柔らかにして諫める」ことである。

(訳2)「志の從はざるを見ては、又敬して違はず」とは、(「内則」に)言われる、「諫めてもし入られないならば、敬愛を起して孝心を起して、父母が喜べば、再び諫める」ことである。

(訳3)「勞しても怨みず」とは、(「内則」に)言われる、「父母がその罪を郷党や州閭(しゅうりょ)で得るよりは、むしろ繰り返して諫めよ。

(訳4)父母が(その諫言を)怒って悦ばず、(あなたを)鞭打って流血の事態となったとしても、決して怒って怨むこともせず、敬愛を起こして孝心を起こす」ことである。

「親が間違っている時であっても盲従する」のではなく、
「たとい親を怒らせ鞭で打たれることになっても、過ちを犯した親を諌めなければならず、鞭打たれても親を怨まないようにせねばならない」と言われているわけだ。

ようするに、「孝」には「親が誤りを犯している時には諌めなければならない」との義務も含まれているわけであり、
「親に盲従」との考えからは程遠い。

親が諌めを受け入れなかった時にはどうするのか。
『礼記』「曲礼下」の「子之事親也、三諫而不聽、則號泣而隨之。」とあるように、
三回諌めて受け入れられなかったなら従わねばならない。
しかし、やはりあくまで諌めた上での話であり「盲従」を強いるのではない。

しかも、これが君臣関係ならばどうなるのか。
『礼記』「曲礼下」の先程の引用部直前には、
「為人臣之禮、不顯諫。三諫而不聽、則逃之。」とある。
三回諫言して聞き入れられなかった時は、その君主の下から去るのが正しいのである。

主君のような社会的権威に対する儒者の態度は「『盲従』ではない」どころではない。

セウォル号事故に関して、儒教を持ち出すのであれば、
むしろ「社会上層部から儒教道徳が失われたことが原因」とするべきではないのか。
規制緩和を進めた政府、利益追求の為に過積載を繰り返していた船会社に対し、
臣下の誰が身命を賭して諫言したというのか。”


『儒教入門』メモ。
『論語』と『史記』の人物評価基準。吉田松陰と安岡正篤で有名な陽明学はキリスト教と相性が良く儒教カルト✝を作りやすい。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-235.html
”諫言は儒教の重要要素。
もともと中国では天子の圧倒的尊貴を言いながら、
同時に臣下の権威が高く説かれることもある。
臣下が皇帝を教導したり諫めたりすることを認めるのも儒教の特色。
中国では諫官として専門の役職がおかれ、
これは官僚を監視する御史台とともに、宰相らの権力が及ばないのを建前とした。
中国では皇帝に直接ものを申せる官職が制度化されているのに対して、
日本では置かれなかった。
しかし諫言は日本儒教においても臣下の必須の義務とされたのであって、
日本の古代や中世において儒教が話題になるときは諫言が問題になる場合が目立つ。
近世でもこのような話がある。徳川家康にある家来が諫言したとき、家康はうなずいて聞いていた。
その家来が去った後、ある臣下がなぜあのような凡庸な内容に耳を貸すのか質問したところ、
家康はそれはわかっているが耳を貸す姿勢が重要だと答えた。
(室鳩巣、『先哲叢談』直諫は一番槍より難し)
儒教は王者が諫言を聞き入れる態度を求める。

また臣下から君主に働きかけるものとしては、
王者を教育する帝王学に儒教が使われたことも重要。
帝王学とは帝王に徳治政治を身につけさせるものであって、皇帝にとっては重荷であった。
北宋の哲宗の教師であった程頤(ていい)、
南宋の寧宗の教師でもあった朱熹はともに皇帝から疎まれた。
ただ帝王がこのような教育を受けることは臣下たちにとっては好ましいことであって、
帝王学として朱子学などの道学は当時の士大夫たちにアピールしたのである。
儒教は単なる上位者への単純な服従を説く教説ではない。
君主への忠誠を要求しながら、同時に君主に対して諫言や教育を行い、
後述するように天災をもとに君主の反省を求める思想でもあった。”

※誤字脱字の一部を修正。


土田健次郎『江戸の朱子学』(筑摩選書)


(儒教入門と同じ著者。



・南宋の朱熹(1130~1200)
の思想が朱子学。
朱子は敬称。

(朱熹の生年と没年はキリがいいから記憶しやすい)

朱子学は道学の一派だったが道学代表になったので
道学が朱子学と同義に使われるようになった。
道学は一般に宋学といわれることが多い。

広義の宋学
=宋代に登場した新たな儒学全般。

教義の宋学
=特に北宋のテイコウ、テイイ兄弟を祖とする学派。
強大は合わせて二程子や二程と呼ばれる。

教義の宋学の祖を周敦頤とすることが常識のように言われているが実際は異なる。
この学派が展開されていく中で
一部で周敦頤評価がなされるようになり、
それを決定づけたのが朱熹だった。
当初はこの学派はあくまでも二程学派だった。

(しゅうとんい が周敦頤に一発変換されて驚いた。
ていい と ていこう は変換されなかった。
変換ですぐに出ない漢字が中国思想の本に多いので
メモに時間がかかるからイヤだ。
実験的にカタカナを使ってみる)


朱子学はベトナムや琉球でも摂取されている。

従来は朱子学のもっている封建思想としての性格が近代化を阻んできたという議論が主流だったが
日本をはじめ朱子学が広がった地域のほうが他地域よりも早く近代化に成功したことから
朱子学がそれなりに近代化に貢献したのではないかという見方も出てきた。

朱子学は儒学史上異例なほどの哲学的密度を持つ思想。

朱子学の教理では
理気二元論が有名。
朱子学では理を肯定し
気を否定的に見ることから二元論とはいえず
理の思想であるという意見もある。
朱子学ではあらゆる善は理に帰着させ
気はそれ自体では善でも悪でもないが
この世の悪は気が理の発現をくらますことに起因すると考えることから
このような見方が出てくる。

しかし思想の骨格は二元論というべきもの。
朱子学は
世界の万事万象を理と気に還元させ、
理と気が相互変換不可能であることから
二元論。

気は定義が困難。
英訳、アメリカでよく使用された
物質的力
(material forces)
にしても違和感を免れない。
日本では幸田露伴が
「におい」と解釈した。
単なる香臭だけでなく
色の艶(てり)
声の韻
剣の光
人の容(かたち)なども
においであると言う。
やや日本語の「けはい」にも似ていようか。
そのものならではの性格を感じさせるものが気なのであって
なかなか核心をついている。

(雰囲気?
雰囲「気」
空気)

イギリスのニーダムは
マター=エナジー
matter=energy
として解釈。
時には物質 マター
時にはエネルギー エナジー
として立ち現れるものということ。

物質とエネルギーを分けて発想するのはヨーロッパでも近世の考えで
それ以前は両者は同じものとして見られ
時には物質として時にはエネルギーとして捉えられたという。

物体はすべて気でできていると朱子学では考えるが
この場合は物質としての気。
同時に朱子学では世界のエネルギーの働きも気といわれる。
肉体は気でできているが、
起こす種々の働き、
具体的には話したり動作したり思考したりといったことも
すべて気と言われる。

筆者は以下のように整理したことがある。

気(狭義の気=エネルギー)+質(物質)
=気(広義の気)

(光が粒子であり波動というのに似ている。

中国思想では見えないものもとにかく具体的。

怪力乱神を語らずが孔子の姿勢なので
形而上思想が発達しにくかったのだろう)



朱熹が気に期待したのが
作用や運動の側面。

気は陰陽と五行の二つの側面を持つ。
陰陽は関係概念。
満月は日に対しては陰だが
三日月に対しては陽。

五行は物質的素材の面が強い。

特に陰陽が重要で
このモデルは男女。
男が陽
女が陰で
陰陽の関係に入ると子供が生まれる。
宇宙に満ちている気が陰陽関係に入ることで新たな物を生み出し
それがまた次の物を生み出していく。
これが生生であって世界全体は限りなく変化していく。

朱熹は気の作用の代表として
感応と消長がある。

感応
=感(働きかけ)
 +応(反応)。

陰陽では
男が働きかけ
女が応じて
子供が生まれる。

いわば作用である。


消長
=消(衰退)
 +長(成長)。

春から夏では長
秋から冬へは消。
気全体は自身のエネルギーにより消長という
自己運動を引き起こしていく。
いわば運動。

朱熹は消長は感応の一つであるとする。
春が感で夏は応。
夏がまた感となり秋が応となる。
空間的な感応が時間化されている。

朱熹は感応を
外感(異なる気同士が感応する)、
消長を
内感(その気の内部で感応する)とする。
要するに
消長も感応に含みこまれる。

感応には法則と秩序がありそれが理。
このような比喩をあげる。
リンゴが木から落ちることは
リンゴという気の塊が
地面という気の塊にむかって大気という気の中を移動しているということ。
我々は気の移動を見ているだけ。
そこには明らかに引力の法則の実在が想定できる。
その法則を理という。
引力の法則自体は知覚できない。
このように経験できないものを形而上という。
対して
経験できるものを形而下という。
両語は『易経』繋辞上伝の語であるが
朱熹は
形而上を経験できないもの
形而下を経験できるものとした。

安田二郎氏は
形而上を形をとりえないもの
形而下を形をとりうるものと明確に説明した。

形をとりうるものとは
たとえば薄い空気のようなものは知覚できないが
それを圧縮していけばいつかは知覚しうるというように
経験できる可能性を持つことである。

対して形而上はいかなる状況でもそれ自体では経験しえないもの。
引力法則は具体的な物が動かない限り自己を現せない。
宇宙に物がなければ引力法則は無に等しい。
つまり
理は気がないかぎり自己を現せない。
気はそれが物として認識できるときは必ずそこに理が存在する。

(形而上のものは定義上、経験で確かめられない
ので推論するしかないものなので
経験で確かめられないから本当かわからないという批判もされる。
推論が正しいと結論できるなら存在しないとおかしい
存在するはずだとと想定されるものが形而上存在。
形而下がなければ形而上を考察することは不可能。
形而上が源泉であるという点では
形而上>形而下
だが
形而下なしには形而上の無に等しいという点では
相互依存。
でも一神教の形而上絶対創造主は相互依存しない存在のはず。



保立道久@zxd01342
1月27日

『易経』繋辞伝に
「形而上なるもの、これを『道』といい、形而下なるものを『器』という」とある。
「道」を「形而上」というのは、形を超越した世界(形のない世界)ということであり、これは老子が「道」を「無形」「無物の象」などと定義したことを取り入れたものである。
「器=形あるもの」も老子の語法を延長したものである。
この繋辞伝がメタフィジックを「形而上学」と訳す理由となった。形而上学という語の淵源が老子にあったことは日本哲学では意識されていない。それは彼らがヨーロッパ中心主義への屈服と無教養の中にいたことの証拠である。どうしようもない。

kouteika@kouteika
2008年9月9日

是故形而上者、謂之道。形而下者、謂之器。
化而裁之、謂之変。推而行之、謂之通。挙而措之天下之民、謂之事業。
(『易経』繋辞上伝第十二)/
原典がこうなのだから、初めから対になって観念されたとしても不思議ではなかったか。)


筆者は引力の例をあげたが
この場合はリンゴの移動が物。
朱熹は物は事であるとする。
物は事(事態)。
この世界は気の海である。
気の一部を一つの事(事態)として切り取ることが可能な場合
それが物。
リンゴも、
リンゴの移動も移動の軌跡が意識対象として一個性をもつゆえに
物である。
この
意識対象としての一個性とは
気の一部に一つの意味を賦与できるということ。
我々が一個の事態として認識するということは
その時点でその事態に意味を見いだしている。
安田二郎氏は理を意味と解釈したがそれは
物の枠組みを成り立たせているのが意味だから。
物として意識した時点で実は既に暗々裏に意味を見いだしているのである。
朱熹は一つの物には
一つの理があるとした。
物として捉えた時点で
その対象にその枠組みに意味を与えているものがあるということ。
それを改めて意識化するのが理の認識。

リンゴは宇宙の充満している気の一部分である。
それが五行が混ざったものである。
しかしそこに一つの物を意識し、
それがリンゴであると認識した。
それは宇宙に遍満する気の一部分にリンゴという意味が賦与できたからである。
今度がリンゴが落下するときに落下の軌跡を意識する場合であるが、
それも落下という軌跡を一つの物(事態)として意識したということであり
それはそこに引力の法則という意味が賦与できたのである。

作用や運動が起っていれば
具体的にそれらが行われていなくても
そこに働きを引き起こす特定機能を感知できれば
それは物。

朱熹は椅子の理について
椅子が四本足であることをあげる。
四本足であることによって座るという機能が意識されるがゆえに
そこに物が見いだされ
かくてその物の理が認識される。
足を切って腰かけるのにちょうどよい高さになれば
今度は椅子としての機能が意識されて椅子という物となる。
この世界のいかなる部分で枠をとるかで
物は変わるが、それでも物理法則が何ら変わるわけではない。
この機能とは作用・運動の潜在型と言ってもよい。
いずれにしても機能、作用、運動によって特定の場ができるからこそ理が問題にできる。

朱熹はテイイの議論をもとに
1 それぞれの物にはそれぞれの理がある

2 それぞれの物は異なる

3 しかしそれぞれの理は究極には一である

とする。
これが朱熹がテイイから継承し拡大した
理一分殊
(理は一であって分は殊である)
の論。
分(持ち前)がそれにふさわしい特殊性を発揮している時にこそ
その理は一なのである。
机は机、椅子は椅子のときにこそ
机と椅子を含むすべての理は一なのである。
これを図式化すれば
X=Xであり
XにAを代入すればA=A
BならばB=Bで
それがまっとうされたときに
X=Xが一貫して立ち現れる。

(なぜ抽象的な理論を詳しくメモしているのかというと
それが朱熹の具体的に~すべきの根拠だから。
形而上が形而下の根拠だから)


この理論は人間関係にも適用される。
それが
論語 顔淵篇の
「父父たり。子子たり。君君たり。臣臣たり。」であって
父が父らしく子が子らしく
君が君らしく臣が臣らしいとき
つまりX=Xのときにこそ
理一
が現れるのである。
ここに世界の秩序性が際立つ思想が生まれる。
朱子学が社会秩序の妥協ない発揮を求める思想とされるのは
このような個別の差等を完全に発揮させることこそが
全体の一体を完遂させられるとするからである。

人が対象を意識するのは
対象と人心が感応しているのである。
その感応が本来の法則通りに動くときが
理にのっとった状態である。
つまり道徳とは心の動きの法則なのであって
道徳通りに心が動いている状態こそが
人心に理が実現している姿である。
リンゴが地面に落ちるときに引力の法則(理)が顕現するのと同じこと。

朱熹は心を
性と情にわける。


=気
=経験できる形而下の心の動き。


=その心の動きの秩序・法則(形而上)、
=理。

性の通りに情が動いているときが善であり
気のエネルギーの歪みから
性の通りに情が動いていない時に悪が発生する。

つまり性=理は徹底的に善であり
情=気はそれ自体は無価値的であるが
悪の原因になりうるがゆえに警戒される。

朱子学では理を徹底して善なるものとし
現実には自然界も人心も必ずしも理の通りに動いていない。
それは気のアンバランスに由来する。
気の歪みを正し
理にのっとった動きにする必要がある。
これを
気質を変化する
と言う。
人は学問や修養によって自己の気のアンバランスを修正し
心が理(道徳)の通りに動くようにすることが求められる。
気のバランス修正のために必要なのが学問と修養。
学問は格物と言われる。
朱熹は礼記の一篇だった大学を独立して表彰し
分中の格物の語を
物に格(いた)る
と読んで
物の理に到達する
ことと解釈した。
正確な事物の理の把握こそが学問であり、
中核には経書の学習があった。
極めて明確に経学の位置づけがなされたことが
古典教養主義というべきものを涵養し
東アジア教養教育の基盤形成に朱子学が大きく貢献することになる。

修養とは居敬(あるいは持敬)である。
これは意識対象に敬虔な気持ちで接し続けることである。
朱熹はテイイを継承し
主一無適
(一を主として適(ゆ)くこと無し)

整斉厳粛
を言うことが多い。
つまり心を専一に対象を集中させ
同時に心身の威儀を正すことで
心の善なる本来的機能を開かせようとするのである。
人間がみな聖人になれるということは
こころの性が善だからであり
それを意識のうえで実現させようというわけである。

自分が自分の心を見つめることに朱熹は否定的であった。
そうすると限りない思い込みの世界におちいるし
そもそも常に外界の事物に触発されて刻々と変化する心の修養としては有効ではない。
それに論理的にも
見る心と見られる心という二つの心が同時に存在してしまうことになる。
善への方向付けを念頭に意識を次々と立ち現れてくる外界の事物に集中することで
人間の聖性を発現させようとするのである。
この居敬の修養こそが朱子学が展開した地域で
仏教にとってかわる儒学の修養方法として大きく作用した。

朱子学ではこのように個人の内的完成を目指すが
その先には儒学の最終目標である国家、
世界の安定があるのは言うまでもない。
朱子学では個々の人間が道徳的になってこそ思想の社会は実現すると考えるのであって
最初から政治的効果をねらう方向の思想には批判的。

朱子学は極めて厳格な道徳主義を持つものとして知られている。
朱子学の重要な前提は万人が聖人に到達できること。
人間の道徳的可能性を信ずるぶん現実の人間に厳しくなる。
欠けている部分をクローズアップするのであって
マイナス思考の傾向をもつ。

理論的にも朱子学にはリゴリズムを引き起こす要素は確かにあった
朱熹の一物一理の理論とは
一つの物には一つだけ理があるという主張。
物とは事態であり
一つの事態に一つだけしか理を認めないということである。
一定状況の中で複数の心の動き方を許容しないということを意味する。
この不寛容がリゴリズムにつながる。
朱熹は新たな道徳を発明してはいない。
基本的には伝統的な徳目を反芻しているだけであって
問題なのはその徳目の固定のしかたなのである。
一物一理を説きながらも理の内容を軽々に理解できると朱熹は言っていない。
ところが
後の朱子学では圧倒的な支配力をもつ秩序や規範を無反省に理の内容とし
それ以外の理の内容を主張する者に対しては断罪する傾向も生じた。

問題は朱熹は理は説いたが
理の内容の判定基準を明確に示さなかったこと。
それゆえ理の内容として複数の候補が考えられることになり
その選択には往々にして(好ましくない事態がよくあるさま)
外的な拘束力の強さが反映しがちになる。
朱子学が元の時代に国教化されると
政府公認の規範や世間の道徳的慣行がそのまま理とみなされることになり
それゆえ朱子学といえば体制教学であると言われるようになった。
伊東仁斎や
清朝の載震(タイシン)が
朱子学の理の思想は上位者や強者にとって有利に
下位者や弱者にとっては不利に作用するとして批判したのは有名な話。

(理の内容しだいで権力者の支配用にも
革命側の正統性用にもなるのが朱子学)



・朱熹が生まれたのは
1130年、
中国の北半分を異民族の金に制圧されてから三年後である。
南宋は中国全土の統治がかなわなくなった地方政権であり
金に対する不安と屈辱を感じながらも
次第にそれなりの安定を見せていく。
しばしば朱子学の特色とされる
大義名分と尊王攘夷の四字熟語は
朱熹の文献にはない。
二文字ずつの使用例はある。
尾藤正英氏などが指摘していたが
今ではデータベース検索で容易に確認可能。
この言葉を頻用しているはずだという先入観はまずとり除いたほうがよい。

朱熹は大義名分の語を使わない。
朱熹の文献における尊王攘夷の語について。
尊王攘夷は朱熹では特に強烈な主張ではない。


もちろん朱熹は金に敵愾心を持っていたし
失地回復を念願していた。
金に対するスタンスとして当時あげられていた三つの選択肢
守(防衛)
戦(主戦)
和(講和)
のうち朱熹は守に近い立場。
防衛に専念し国力を充実させ将来の国土復活を期する立場。

朱熹個人の思想といわゆる朱子学のイメージの間にずれがある。


・儒史学の常識とは
漢から唐にかけての儒学を訓詁学(経書の字句を考証する学)の時代
宋から明にかけての儒学を義理学(経書から哲学的内容を抽出する学)の時代
とするものである。
宋から変容し、宋の朱子学
明の陽明学という見方。


・朱熹が没したのは1200年。
それは慶元偽学の禁と呼ばれる弾圧の嵐の中であった。
後、朱子学は次第に南宋の朝廷に食い込んでいく。
その流れが元に入っていく。
元は当初は朱子学に限らず儒学を軽視していたが
統治の必要から次第に方針を変え
公務員試験である科挙を再開しその標準解釈として朱子学を採用。
朱子学の国教化であり明、清にも引き継がれていく。

このような朱子学はいつ日本に入ったのか。
流入とは何をもっていうのか。
書籍の輸入と言うなら鎌倉初期に寧波あたりで仕入れれば
当然朱子学関係のものが混ざってくるのであり話は簡単。
しかし流入とはいわない。
流入と言えるのは
その思想が日本で一定の理解を持たれ
影響が出ていることが条件のはず。
影響というのも
朱子学の注が経書の解釈に採用されたレベルでは不十分で
思想として咀嚼され表現されるようになってこそ言える。

(こういうことをきちんと考えて書いている本は良書)


年代的に早いのが臨済宗の栄西(1141~1215年)などが
南宋に留学して多くの書物を持ち帰ったことから
朱子学の紹介者と言われてきた。

南北朝あたりになると
虎関師錬(1278~1346年)が禅宗の僧侶のなかでいちはやく道学を論難した。

玄恵(?~1350)が道学を正しいとみなし、
朝廷で開講してから二程子と朱熹の経書の新解釈が中心となったと、
室町時代の一条兼良の『尺素往来』にある。
少なくとも経書解釈の領域では道学が主導権を取り始めたことになる。

明経道の清原宣賢(のぶかた 1475~1550)は孟子から二程子にいたる学統を重視し
道学に対する傾倒を見せている。
たとえば『孟子抄』はいたるところで朱熹の『四書集註』を引用して解説しているが
まだ禅と儒学の融合論を見せ、
神道との連結も見える(彼は吉田神道の吉田兼倶の三男であった)。
(のち清原宗賢(むねかた)の養嗣子(ようしし)となり清原家となる)

しかし彼は儒学と仏教の区別もしているのであって
道学の知識の程度が低くなかったことがわかる。

南北朝前後までには朱子学が日本にかなり受容されてきたことが言われてきた。

平安から鎌倉時期の日本の説話文学における儒学の記載を調べたが
特に君主を諫める諫言の必要性が言われるときに儒学が意識されていることが多かった。



・北畠親房『神皇正統記』は
資治通鑑の司馬光と同じく魏を正統とする。
親房の魏正統論は資治通鑑からではなく
志磐(しばん)『仏祖統紀』に依拠したものであることが指摘されている。

神皇正統記の執筆意図は
神代より正理にてうけ伝えつるいわれを述べむことを志して
と親房自身が書いているように
皇室こそが政権の正統である根拠を鮮明にすること。
親房は日本国民がすべて皇室に忠誠を尽くすべきことを強調している。

(日本国民って概念が親房にあるの?)

神皇正統記では空海を密教の正統としている箇所がある。
親房は神道家であるとともに真言宗の僧侶でもあった。

(当時の正統は天台宗。
神皇正統記は吉野朝廷(いわゆる南朝)の正統性を述べた歴史書。
南朝と真言宗優遇、完全に今の皇室。
だから教科書に必ず載る。
立川流の本尊が狐だから狐優遇。





村手 さとし
‏ @mkmogura
2011年10月28日

ちなみに、天皇すり替えは、
先程の神社全庁=国家神道官幣社、
源氏=鎌倉、長州、真言宗、などの要素にわけることができ、
仏教部門のこのイベントの主軸は高野山になります。真言立川流という真言密教繋がりですね


村手 さとし
‏ @mkmogura
2014年5月31日
@lanekota 反撃しません。真言立川流を盛り上げ、神道馬鹿とキリスト教を共食いさせるように仕掛けます

原理主義的な宗教は、貞操観念への締め付けはどれも厳しいからね。
天皇の正統宗教がセックスカルトだとしられたら、いろいろマズすぎるし、キリスト教原理主義と歩調以前に妥協点がみつからなくなるだろうなと、








加藤拓雅
‏ @totutotudojin
2014年2月4日

『神皇正統記』で名高い北畠親房には、真言密教についての著作があることを、最近知った。 『真言内証義』というもので、1345年、53歳の時の著書。 なお、彼は出家もしており、僧名は覚空。


齊藤朗純yosizumi saitou
‏ @yosizumis
2010年9月1日

後醍醐天皇は大覚寺等で、その所領の多くは八条院領であった。
北畠親房は村上源氏、文観は醍醐寺系の真言立川流の僧。つまり役者は変わっても同じ芝居がかかっている。)


朱子学の道統とは政権の正統性とは関係なく
純粋に道の問題。
古代の聖王は正統と道統の両者を兼ね備えていたが
肝心の孔子や朱熹は道統だけを受け継いだとするのであって
正統と道統が重なることを前提にしていない。

南北朝前後から儒学を専門的に伝える博士家をはじめ
貴族、僧侶らも新註(朱子学の注。朱子学以前は古註という)
を利用しはじめたと文献にある。


・一般に江戸時代の朱子学の嚆矢としては
藤原 惺窩(ふじわら せいか[1561~1619])をあげるのが常。
藤原 惺窩(ふじわら せいか[1561~1619])が
仏教の補助学であった朱子学を
仏教から独立させようとしたからである。
藤原 惺窩(ふじわら せいか[1561~1619])は藤原定家の子孫。
僧侶であったが明に渡ろうとして果たせず
秀吉の朝鮮出兵時に捕虜として日本に連れてこられた朝鮮のカンハンと交友を結び
後に儒者としての姿勢を強めた。
林羅山、松永尺五、堀杏庵などの弟子がいる。
惺窩の朱子学は純粋な朱子学ではなく
朱熹のライバルの陸九淵の思想が混在したものとされる。

惺窩は
格物を
物に格(いた)る=事物の理に到達する
ではなく
物を格(さ)る=心の塵を除く
という
林兆恩の説を取っているので
この朱子学の肝ともいえる個所で朱子学を採用していない。

林兆恩は儒教、仏教、道教の合一を説いた
三一教で知られ朱子学者ではない。
彼は
人の一心には至理がみな備わっていて
儒になろうとすれば儒
道になろうとすれば道
仏になろうとすれば仏
我にあるのであって
外にあるのではない
という。

・もともと朱子学は仏教、特に禅宗、および禅宗を理論化するときに使用された華厳教学から影響を受けていた。
それは心に関心を集中させ
しかもその心を外界と内心の反応関係に絞りこむものであった。
朱子学の最大の関心事は聖人に到達するために心の情況を刷新していくこと。
刷新とは外界に対して的確に内心が反応する状態に変革していくこと。
朱子学は仏教を批判する。
朱子学は外界に対して道徳的に心が反応することこそが自然であり本来的であるとする。
対して仏教はそのような道徳性に対する意識を消すことで自然かつ本来的な心が発動すると見る。
禅宗の悟りの境地は結果的には反社会的にはならないのであるが
本来の心を生き生きと発動させるために最初から道徳への意識を無化することを強調し
儒家から見れば反道徳ということになる。

ただいずれも外界に対する内心の自然かつ本来的な発動を理想とすることには変わりはない。
朱子学も最終的には心が道徳(=理)どおりに動くこと、
つまり道徳に完全に乗っかる状態が恒常化することで
道徳を意識する必要がなくなる。

(道徳は典型的な物語だから仏教では超えるべきもの。
仏教はそもそも道徳的になることが目的ではない。
戒律を守ることが結果的に道徳的と言われるだけ)

明になると陽明学が登場し仏教のみならず朱子学とも対抗していく。
陽明学では心に本来具わる道徳的直観力を重視する。
そしてその直観力に身をゆだねようとする。
朱子学は心の動きを道徳=理に沿わせようとするが
それが確実に理に沿っているか客観的に検証しようという志向が常にあった。

陽明学から見ればそのような姿勢は心が本来持つダイナミズムを阻害するものであった。
陽明学は心の直観力を重視することから外的な規範や区分けへの意識が朱子学より薄くなり
儒教、仏教、道教の区別への意識も薄くなる傾向が出てくる。

(ここだけ読むと陽明学は好き勝手やる思想だと曲解されまくりそうだ)


・中国医学は道教と親和性をもつ。
道教は肉体の不老不死を希求するから。
対して儒学は肉体の養生などよりも
義に沿った出処進退を追求するゆえに
医学とは接点が薄かったが
宋くらいから次第に両者が結びつくケースが出てきた。

儒医
=儒者であり医者である存在。
中国では宋から増え始めたが
日本でも江戸時代には非常に目立つ。
医者であるのは儒者だけでは召し抱えられでもしない限り
なかなか生計を立てるのが困難だったからでもある。

儒学では老いた両親の介護が孝のもとに重視されるが
そのときに医学の知識は必要であった。

心の安定が肉体に影響し養生とつながるという考えが
道学から派生的に出てきた。
朱熹ら道学者は肉体的関心が肥大するのを喜ばなかったが
肉体と精神の相関関係は気にしていた。
朱子学内部では過度の肉体的関心は押しとどめられているが
医学にはそれなりの影響を与えた。
当時の医学を学ぶ場合には朱子学の知識をもっていた方が有利であり
林羅山の講演は医者にとっては干天の慈雨であったのだろう。
これも朱子学受容の経路の一つ。


ここで補記しておくべきなのは
戦国、安土桃山時代に盛んであり
信長や秀吉ももっていた天道(てんとう)信仰も
江戸時代の儒学隆盛への橋渡しの一つになった可能性があることだ。
江戸時代初期の儒教的啓蒙書にもしばしば天道が出てくる。
天道信仰は善悪に対して天が禍福で対応するという考えと
天が運命的に人間に禍福を降すという考えの両面が併存していて
天道の語がキリスト教のデウス(神)や
朱子学の理にあてられたりしていることは以前から注意されてきた。

しかし朱子学では天の意志を言うときですら
天が万物を限りなく生生していくその方向性のこととするのであって
主宰的性格を天道に見るような神秘的傾向が薄いことには注意
しておく必要がある。


朱子学は江戸時代の体制教学と見なされることが多い。
一物一理思想からくる道徳的不寛容と
理が抽象的でしかも内容の決定基準が定式化されていないがゆえに
政府が求める秩序とか既存の価値観とかの物理的な力が入り込みやすかったからである。
さらに朱子学の自力主義が人々に受け身ではなく積極的に現実の秩序の網の目に参入することを鼓舞した。

しかし朱子学は単に権力側に唯々諾々とつき従うばかりであったわけではない。
朱熹も彼が尊敬するテイイもともに弾圧をこうむったように
その原理主義的性格は時に鋭い現状批判になりうる面を持っていた。
当初から儒学はもとより儒学全般が徳川政権のイデオロギーとして機能していたわけではない。
朱子学のみを目して江戸時代の体制を補佐した思想と断定することには慎重にならざるをえない。


そもそも中国、日本の近世に儒学が適合したのは
前代に比して官僚社会が成熟したから。
それとともに宗教が政府の統制下におかれ
その権威と権力が後退したからだ。
寺院は政権の統治下。
中国でも宋からは仏教も道教も国家の統制による組織化が進み
朝鮮王朝では仏教が抑え込まれた。
江戸時代の武士は軍人としての機能を保持しながらも基本的には官僚。
儒学は軍人の為ではなく官僚の思想。
儒者は殉死を忠義として称揚することなく否定。
山鹿素行(反朱子学)も山崎闇斎(厳格な朱子学)も殉死否定論者。

(どうみても坊さん、仏教が一番当時は強い)

・林羅山の理当心地神道は江戸時代に新展開を見せた儒家神道の嚆矢とされるが
惺窩を中心にした京学派の神道理解の流れにあり
出口延佳(渡会延佳)ら伊勢外宮の神官たちに影響をあたえていく。

(大本の出口~の元ネタ?。
神道勢力が反仏教でもある儒教を取り入れてもおかしくない)


・朱熹は心の本来的機能を発揮させる意識の持ち方に力をいれる。
それが居敬の修養法。

陽明学では心の本来的発動に身をゆだねることを主張する。
自身が直感的に核心を持てるものが理なのであって
心即理がそれ。
陽明学は理を否定してないし
朱子学を批判する諸儒で理自体を否定した者はほとんどいない。
彼らがいうのは朱子学の理の内容が間違っていること。

朱子学では人欲を否定するところに天理を見いだしたが
陽明学などでは人欲にそったところに天理を見いだすようになった。

・心の問題に全関心をしぼりこみ
心を内心と外界の反応関係に見るという姿勢を
道学は禅から継承した。
朱子学のいう聖人とは
「思わずして得
(ことさら意識しなくても
心のはたらきが自然にうまくいく)」
(中庸)

「心の欲する所に従って矩をこえず
(内心が外界に反応するままにしておいても
道徳から逸脱しない)」
(論語 為政篇)

という心境の所有者であり
外界に常に内心が自然かつ的確に反応する人間のこと。

儒学では天と人の合一をいう伝統がある。

(これ中国でグノーシスな儒教もどきカルトを作るのに利用されてそう。
無論、儒教の天はゴッドではない)

天人分離論もあったが必ずしも主流ではなかった。
天人分離論は天を敬うが天の文脈を人事に介入させないもので
特に天譴説を批判する。
天譴説とは政治の善し悪しが天候に影響するもので
災害が起これば政治に問題があるとする。
災害は頻繁に起こるからそのたびに責任論を発生させてしまうと
政策の一貫性が取れなくなる。
ゆえに両者を切り離し政策の持続性を維持しようとするときに
分離論は有効。
政治が天候にまで影響する思想は
災害は頻繁に起こるため
それに応じて政治をチェックする回数も多くなるのであって
かくて限りなく増大する帝王の権力を抑制する意味もあったという
うがった見方もある。

(人の諫言より強力なことがあるが
制御できないのが難点)


天譴思想を後退させる議論が唐くらいから起こり
宋以後主流となるという研究がなされている。
天譴思想を後退させてしまうと
天人合一論が崩れてしまいそうだが
朱子学は天人合一論自体は維持した。
朱熹も人事と自然界の感応関係自体は否定していない。
朱熹にとっての天と人の合一は
自然界と人の心の合一論にまでスライドされていく性格のものだったからだ。
これは朱熹の先行する道学者たちが
天と人を
物と我
外と内
と並列したうえで
両者の一体を言うのを受けていて
突き詰めれば内心と外界の関係の問題になる。
天の理と人の理が一貫していることは
自然界の法則性と人心の法則性が一貫していることであり
天のもつ神秘的要素を後退させる。

・儒者が哲学的自己主張をするときに
必ずといってよいほど取り上げたのは
天人論と性説であり、
性説では性にいかに善悪を付与するかが議論の中心。

孟子は生得の心のうちの善への可能性を性とし
殉死は動物性に陥ってしまう側面を性としたのであり
心には二側面があることを両者とも認めていた。

性善説、性悪説、性善悪混、
性三品、性無善悪などが出てくるが
性の内実はばらばらだった。
朱子学によりはっきりと性の善の部分と悪へ流れる部分が分けられた。
それが
本然の性
気質の性。

本然の性
=完全に善である理のままの部分。


気質の性
=理のみならず気を伴う生まれつき。

孟子のいう性は本然の性であり
現実の人間の善悪混在の生まれつきは気質の性。

朱熹は
人間の心を
性と情の統合体と解釈。
この場合の性は本然の性でそのまま理。
情は外界に触発されて働く気であり
気のエネルギーの歪みから悪の本になる。

陽明学は善の根拠を理気に分割する以前の心そのものに見る。


・朱子学における個人と社会の関係で有名なのは
『大学』に見える八条目をめぐる議論。
八条目とは
格物、
致知、
誠意、正心、修身、

斉家、
治国、平天下
であって、
格物から修身までが個人の修養、
斉家から平天下までが家庭を含めた社会への感化。
なお最後の平天下は
天下を統治することではなく
それぞれの天職を務めることを通して天下の安定に貢献することだと
朱熹はしている。
これは自己の内面を完全な人格である聖人に向かって向上させようとする内的欲求と
近世社会が求める分業完遂の要請を両立をさせるものであった。
このように個人の修養が社会への貢献に直結することを朱子学では求める。
その際に重要なのは個人の内面が道徳的に完璧であってこそ
社会への貢献も完全になるという思想を持っていること。
朱熹の
修己治人
(しゅうこ〈き〉ちじん
おのれを修め
人を治む)
つまり
自己の修養を行い
他人を感化するという語は
しばしば儒教の理念を端的に語るものとされた。
八条目の順序を見てもわかるように
朱子学では個々の人間の自己完成があってこそ
理想的な社会が形成されると考えた。
しかしこれではいつまでたっても実現の見込みはない。
そこで社会の政治的安定を優先させ
その中で人々の心性の安定を図る永嘉学派、
永康学派のいわゆる事功派の思想が対抗として意味を持つ。

朱子学では公私について
心が公であればその人間のの社会活動は全て公であるとし
公で塗り固めようとする。
対して
心の領域はあくまでも私であって
その複数の私が調和を得るところに公を見るという思想が
明の中期位から見るようになった。
明末清初の黄宗羲(こうそうぎ 1610~1695)が
人間は
自私(自己本位)であり
自利(自己利益誘導)が自然であり
それをもとに社会を構想しなければならない
としたのは
その流れをくむ。

(蟹ぢから溢れる??@onesyotasekai5月27日
修身
斉家
治国
平天下の前には
格物
致知
誠意
正心があって、暴力の前段階があるのよ
つまり、人間は何かを行使する際には暴力が付きまとうのだけど、
その暴力というものの正体というのは
モノの道理
・その道理に至る為の知識
・知識に対して誠実に行い考え
・それが正しいと揺るがない心ある事が大前提なにょ

つまり、そこで行使される暴力というのは
善悪の基準が確固とし
・己らの中で確かな知識と経験に裏付けられ
・この世に誠意と誠実なモノとして訴えられ
・それは不動な正義として大義を抱えたものが身を修めた上での
暴力を行使する事が叶うわけなのね
で、それは民族叙事詩か宗族の教えにしかないのよ

で、コレは悪とか善で片付けられる話では全くなくて
修身したものにとっては「そうでしかないないもの」という
善悪・正義不正義とか相対的な価値観を木っ端微塵に破壊し尽くした純然でしかないものなの
要は憎悪とか、破壊とかではなくそれは外側の人間の感想でしかなくて中の正気ではないのよ

だから、軽々しく暴力と言ってもいいけど
その暴力は何で出来ているのかを踏まえて言わない限りはただの言葉でしかないのよ
だから、言葉をただの言葉にしなかった宗族の教えを追う事が出来るのであるならば、
それこそ修められた暴力という極致に至れるわけなのよ
ね、ちょー簡単で分かりやすいっしょ)


・儒教では欲望のすべてが否定されるわけではない。
善を実現したいとか人を助けたいのも欲望。
しかし多くの場合欲望は警戒すべきものとして扱われるのは
悪の原因が欲望だから。
朱子学では善なる欲望の存在を認めつつ
悪を引き起こす因子として欲望を警戒し
最初から理を意識して規制をかける傾向がある。
朱子学はその原理主義的性格が危険とみなされ朱熹やその先輩のテイイは弾圧を受けた
のであるが
それが官学の位置を占めると
秩序からの逸脱をチェックする思想として機能しがちになった。
これは革命思想のマルクス主義が
国是となったとたんに統制思想に早変わりしたのに似ている。


・仁斎学と朱子学の対比


朱子学は四書が中核
仁斎は論語と孟子が絶対の典拠。


朱子学が義理(意味)、文勢(血脈)、事証の読書法を示したが
仁斎は意味と血脈によって論語と孟子を一貫して解釈しようとした。


朱子学が天道についても持論の理気論を展開したのに対し
仁斎は天道については
一元気の生生
のみを唱えた。


朱子学が天道と人道を一貫する道(理)を強調したが
仁斎は学の綱領として
性、道、教をあげたうえで
道を人道に限った。


朱子学が性を本然の性と気質の性に分けたが
仁斎は性を気質の性とした。


朱子学が詩経の詩で作者と読者の分離を掘り起こしたのに対し
仁斎は詩経の経書としての意味を読者側に帰した。


朱子学が易経を占い書としたが
仁斎は易経を道徳を説いた書として
占いに関係する部分を否定。

朱子学が大学と中庸を駆使して形而上的思考を繰り出すことを
仁斎は両書を否定して阻止。
なお仁斎は大学は
朱子学でいうような孔子および弟子の曾子の語を記した書物ではないとして否定するが
中庸については論語と孟子の内容に合致するところにのみ意義を認める。
あくまで論語と孟子が典拠で
特に論語は
最上至極宇宙第一の書
とまでたたえられた。
なお実際には論語と孟子とでもずれがある。

朱子学も陽明学も自己の心に理があるとしたからこそ自力主義が説けたのだが
仁斎は自力のみで自分を高められるとは思わない。
自分の心をいくら探っても性が単なる生まれつきだけである以上
そこから進みようがない。
必要なのは
最初から他者の中に自己を投げ入れ
それと同時に他者から自己に投げかけられる視線も共有することで
道を獲得していくことなのである。
仁斎が
十人が十人わかり行えるのが道であることを再三強調する。

・仁斎と対照的な存在が山崎闇斎である。
両者は京都で道路を隔てて塾を営み
文字通りライバル的存在だったことが有名。

・朱子学の有名な仁の定義に
仁は愛の理、心の徳
という語がある。
愛の理とは
愛という理ではなく
愛という形で発言する理
である。
朱熹は愛をそのまま理とすることを激しく否定。
人の心のうちの性の部分は理であって、
具体的に仁義礼智=四徳である。
心のうちの情の部分は気であり
具体的に愛、宜、恭、別=四端。
孟子では惻隠、羞悪、辞譲、是非
と表現されている。
気であるというのは
情とは心の具体的な動き
つまりエネルギーの発動であって実感できるものだからだ。
その情には情を情たらしめている理=性があり
それが仁義礼智。
相互関係は
愛ー仁
宜ー義、
恭ー礼
別ー智

であり
仁は愛に対応する理となる。
朱熹は仁をそのまま愛とすることを拒否し
愛に対応する理とする。

対して
仁斎は朱子学の理気論を否定し
仁を愛と断言。

・朱熹は仁と孝悌が次元を異にすることを明確にする。
仁は愛の理(愛という形で発言する理)
であり心の徳。
仁は人の心に具わる四つの徳の中の一つで
四つの情のうち愛に対応する理
という意味。
朱熹は
仁を性=理
愛を情=気
とし両者の相関を説くとともに
仁をそのまま愛とする混同を戒める。

孝悌は具体的な心の動きであるから
仁とは次元を異にしていなければならない。
朱熹は仁と孝悌を
性と情
体と用の関係だとする。
孝悌はあくまでも仁を具体的に実践するときの現われの一つであり
仁そのものあるいは根本ではないとする。


朱熹
心と宇宙を包括的関係でとらえ
心に具わる理を原理化

仁斎
日常実践道徳こそが道の本質
(朱熹を否定)

荻生徂徠
社会全体の組織や制度を見る視点を持つのが
儒教の本質
(仁斎は個人道徳しか考えていないとする)

徂徠にとって
仁斎のように日常道徳のみにかかわるのがなぜ問題なのかといえば
日常の個々の場でのあり方は
社会全体のシステムの把握を抜かしては見通せないから。

(戦術と戦略の関係を思い出す。
個々で見れば善行でも
全体で見れば悪行である場合がある)


徂徠は仁斎と同じく
性を気質の性とし
それぞれの人間の生まれつきは変わらないとする
気質不変化を説いた。
二人とも朱子学の問題意識と用語を使って自己の思想を開陳する。


・江戸時代に朱子学が基礎教養化した。
江戸時代は朱子学のみが圧倒的勢力を持っていたわけではなかった。

儒学の経書の代表である四書の知識は江戸時代で文化的活動をするさいに必須。
この四書というくくり自体が朱子学のものであり
四書の最もスタンダードな注釈書が
朱熹の『四書集注』だった。
この本の江戸時代の発行部数は膨大。

朱子学の歴史書といえば
『資治通鑑綱目』であり
本書は朱熹が計画し
後学の手になった大分な歴史書。
北宋の司馬光の資治通鑑の歴史観を修正し
それにあわせて整理しなおした歴史書。
江戸時代に作成された歴史書に規範としての大きな影響を与えた。
林家の儒者たちが作り幕府が発行した『本朝通鑑』の手本は資治通鑑の方が
『資治通鑑綱目』も強く意識されていた。
対して
水戸で作成された大日本史は紀伝体を採用しながらも
『資治通鑑綱目』を手本の一つとする。

朱子学の正統論が幕末の尊王の思潮の母胎。


・三国志にて
資治通鑑では魏が正統、
朱熹は蜀が正統としたのは有名。

正統論で重要なのは

天下には王は一人しかいない


その王に万人が忠誠を尽くす

この一君万民は必ずしも常に日本の常識ではなかった。
対して中国の正統論は朱子学に限らず
王は一人しか認めない。

正統論は中世対象として一つの政権しか認めない、
つまり一君万民。

朱子学では天下統一して二代続けば正統。
つまり焚書坑儒した秦も正統。
儒教的には暴君の王朝として有名な隋も
文帝、煬帝と天下を二代にわたって統治したので正統。

(朱熹の正統認定表などがそのまま載っている

[筆記][歴史][江戸時代][儒教]土田健次郎『江戸の朱子学』筑摩選書
https://katawareboshi01.g.hatena.ne.jp/mori-tahyoue/20150106
をどうぞ)

三国では蜀が正統なのは
蜀は漢(これも正統)の王族だから。
蜀の正式名称は漢。
朱子学では正統王朝が地方政権になっても王朝を継承しているなら正統。
別に蜀の劉備が人格者だったからではなく単なる継承の問題。

朱子学では天下統一し二代にわかり継続したことは
天がその王家に天下統治の命令を降した証拠。

簒賊は
帝位を簒奪し正統を侵犯して次世代に伝えなかった者をいう。
次世代につなげられないと正統ではなく簒賊。


皇統論

かかる正統論を日本に当てはめると、
最初に日本を統一して二代以上継続したのは皇室であり、
しかもその皇室が地方政権になっても存続はしているのであるから、
皇室こそが正統ということになる。

ここで特に重要なのは、朱子学の正統論においては、現実に全国的な権力を握っている政権よりも、
地方政権に落ち込んでいても以前の正統の王家を継承するものがあれば、
そちらの方を正統と認定することである。
必然的に忠誠を尽くす対象は天皇に帰結する。


道統
とは天下に覇ただ一つの道があるという議論。
道統こそ万人が従うべきもの。

丸山真男氏は
山崎闇斎学派の正統論を論じた際に
正統を次の二つに分けている。


教義・世界観を中核とする正統
Orthodoxyと


統治者または統治体系を主体とする
正統Legitimacy。

中国式の正統論では
1は道統
2は正統
となる。

朱熹の道統論では
堯舜禹の三代と殷湯王、
周文王と武王まで道が伝わり
それを継承したのが孔子とする。
孔子以後は曾子、子思、孟子と伝わった。
しかし孟子以後は暗黒時代が続き
再び明らかにしたのが北宋の周敦頤 (しゅうとんい)
と程顥 (ていこう) と程頤 (ていい)。
彼らの思想を引き継いだのが朱熹自身。

武王までは王者であり正統でもあった。
孔子以後は道統と正統が分離する。

ところで先に述べたように北畠親房は三種の神器を徳の象徴とした。
それを直接的に『中庸』に出てくる
知、仁、勇という「天下の達徳」に割り当てたのは
一条兼良『日本書紀纂疏』
であるが、
兼良の場合は同時に仏教の般若、法心、解脱にも当てているのであって、
儒教的にしぼりこんでいるわけではない。
それが江戸時代になると、
儒教の「天下の達徳」に一本化する議論が多くなる
(たとえば山鹿素行『中朝事実』神器章など)。
三種の神器は徳の象徴であり、
それを伝える天皇は徳を伝える存在なのである。
朱子学流にいえば
正統である皇室が
道統をも請け負ったことになりこれが皇統である。


(『日本書紀纂疏』(にほんしょきさんそ)という
『日本書紀』の注釈書を一条兼良が享保6 (1721) 年に出したのが重要。
日本書紀は偽書ではないと今は考えている。
古事記は偽書だと今は考えている。
太安万侶の墓が都合よく見つかったからといって
古事記が偽書でない証明にはならないので注意。
太安万侶が実在の人物である可能性が高まっただけ。


墓誌発見で偽書説は否定されたか。
http://www.geocities.jp/yasuko8787/o-010.htm
”墓誌が発見されたことで、太安萬侶の実在は証明されたが、
墓誌は古事記については何も書いてないのだから、
『古事記』偽書説の否定にはつながらない。


新聞や週刊誌がこのような「墓誌発見=『古事記』偽書説の反証」という発言を伝えると、
多くの人が疑問も持たず、そういうものだと思い込んでいることが、問題である。

なお、太安麻呂という名は、続日本紀に5回も登場する。
しかし、『古事記』撰録についてはなにも書かれていない。
”)


かかる皇統の存在は、中国や朝鮮に対する優位と認識された。
それには正統と道統の両者をあわせもち、しかも万世一系ということが大きかった。
朱子学の正統論は日本にあてはめると必然的に皇統重視に帰結する。

儒教が認める帝位継承方式は

世襲
親から子へ


禅譲
高徳の君主から高徳の臣下へ


革命
極悪の君主から有徳の君主へ
これだけは武力を伴う


ただ現実の権力の頂点に立つ将軍こそが日本の正統なる支配者であるという見方のほうが
当初多かったのは当然。
朱子学者でのごく代表的な例のみあげれば
新井白石が朝鮮との関係を対等にするために
将軍の称号を日本国大君から格上げして
日本国王に改めようとしたのは有名であり
また山崎闇斎学派の佐藤直方も皇室を正統と認めていない。

江戸時代は幕府、藩、天皇という複数の権威の均衡によって
調和を保っていたがその構図が崩れ
天皇一尊の尊王思想へと傾斜していくには朱子学的教養が作用していたが
それに拍車をかけたのは外国からの圧力。


・朱熹は人情を全面的に否定しているのではない。
親孝行の徳は親に対する人情をベースにしている。
朱子学では人情が理を逸脱することを警戒するのであり
それが人情の自然な発露に対する消極的な姿勢となって現れる。


・伝統的な易経解釈には

象数易
易経には必ずしも書いていない

(無数に存在するこの世界の事象を
易経に出てくる具体的事物に象徴させたもの)や

(宇宙の数理)
の体系を導入して易経を解釈。
天文学や暦学などが援用され
一種の宇宙論的広がりを持つ。


義理易
易経の本文から思想を抽出し解釈。
道家的立場と儒家的立場のものがある。

易経は本来は占いの書であるが
歴代注釈者たちは実際占いで使用する書物という以上に、
そこから宇宙の理法や宇宙に即した人間の生き方の理論を引き出そうとした。

象数易も易経本文の内容を問題にするし
義理易も易経本文にすでに象や数の議論が入っている以上
象数易の要素も入っているのであり
全体の方向性で分けられるということである。

朱熹以前にこの二つの方向性の違いがはっきりと自覚されていた。
朱熹はあえて易経は実際に占いをするときに使用する書物とした。
易経の中核部分は占いの結果が出た時
該当箇所を見てなすべき行為を決定するための文章。
朱熹は繋辞伝をはじめとした部分は理論書としての性格を認めてはいたし
象数の体系には強い関心を持っていた。
対して
仁斎は占いを全面的に否定する。
仁斎は易経を
儒家の易と
筮家の易
(卜筮(ぼくぜい)で占う者の易)
の部分を分け
そのうえで
筮家の易を否定。
仁斎にとっては占い自体が否定すべきもの。

占いは未来の結果を予知したうえで自分の行動を決定するもの。
これは功利的な思考であり
結果などは気にしないでただ行為の善悪のみを問題にする姿勢とは背馳する。
仁斎は孟子の義利の弁、
つまり道義と功利の弁別に重きを置いた。
仁斎は
動機の道徳性の尊重と
占いは矛盾すると指摘。

もし占いをしてその結果次第で行為を決定するとなると
道徳性が関与する余地はなくなる。
そこで朱熹は
占い結果として得た卦辞や爻辞の文章は
有徳者あるいは正しいものであればそのまま妥当するが
徳がない者とか不正の者の場合はそうはならないとする。
朱子語類より
「人がはっきりと道理を認識できていたならば、
いまさら占いをする必要はない」
同書より
「人が卜筮で疑惑を決するより、
道理として為すべきなら、
もとより為すべきだし、
道理として為すべきでなければ、
もともと為すべきではないのであって、
それ以上占いを用いる必要があろうか。
ある種の事で、
吉か凶か道理の岐路があり、
対処しきれぬ時、
占いを行うのである。
放火、殺人、汚職などといったことは、
ともかく為すべきではないのであって、
まさか占いなどはしまい。
また官吏になって汚職や追従、不正な昇進なども、
まさか占いなどはしまい」

朱熹自身、生涯二回しか占った形跡がなく、
しかも両方とも弟子が占筮し、
そのうち一回は朱熹本人すらその場にいなかった。
晩年のいわゆる慶元偽学の禁の中で
あくまで中央で節を通してがんばるか
退いて教育と著述に励み道を伝えるかのいずれかを選択する段になって
占いをたてた話は有名であり
そのときはこの二回のうちの一回
(当人がその場にいたが実際に占筮したのは弟子)にあたる。
朱熹は占いと道徳の背反する関係に気がついていた。
仁斎は朱子学の易経観を否定するに至った。



・朱熹の経書解釈方法
以下の三者がそろってこそ経書の十分な理解ができるとしている。

1義理(意味)
2文勢(血脈)
3事証

義理
とは個々の語の意味と特に思想的含意

文勢
とは文の流れ
文脈に違い意味だが
同時にそこには道の顕現という意味も付随

事証
とは傍証

個々の語の内容、文脈、文献上の傍証がそろうことを
朱熹は要求する。

(語の意味
文脈上の意味
根拠となる記述
この三つは真に重要な基本中の基本なので早速実践すること!)


・朱子学は本来神秘的要素を受け付けにくい思想。


日本では朱子学は神道と直接結合した。
神道側が仏教から独立する過程で道学的なものを利用してきたが
同時に朱子学という外来思想が日本思想として土着されるときの一つ現われでもあったと思われる。

・朱子学の鬼神論

朱子学の鬼神についての議論をまとめたのが
朱熹の弟子の陳淳の『性理字義』の鬼神の条。
鬼神を次の四項目で整理している。
1 鬼神本意(本来の意味)

2 祭祀祀典(祭祀の原理としての鬼神の側面)

3 淫祀(鬼神をもちだす民間の迷信の否定)

4 妖怪(妖怪としての鬼神の否定)

朱子学が認めるのは祭祀の原理としての鬼神とか
宇宙の霊妙な作用としての鬼神とかであって
民間信仰や新興宗教に出てくるような鬼神は否定。

陳淳の議論であるが朱熹の鬼神論とずれているわけではない。

朱熹が鬼神を張載 (ちょうさい)の
「鬼神は、二気(陰陽)の良能なり」という語と
テイイの
「鬼神は、造化の迹(あと)なり」という語をもとにすることは知られている。
またテイイ
「功用を以て之を鬼神と謂う」もよく引用される。
これらはいずれも陰陽、天地の作用のこと。
鬼神は陰陽の気のすぐれた働きであり
気による宇宙生成の一つのあらわれ。

テイイの造化の迹(あと)とは天地創造の一端が具体化したものということであり
自然の運行のこと。
朱熹の基本的立場は鬼神とは陰陽の二つの気の働きにすぎないとし
鬼神は気にほかならない
とまで言う。
鬼神を陰陽の霊というように
霊妙な働きではあるのだが
しかしそれも結局は陰陽の範囲を出ないのであって
それを超越する人格神的なるものは登場しない。

朱熹の鬼神論は中国思想史の中では神秘的要素を最小限にとどめる傾向。
朱熹は孔子などの聖人に対する信仰をもち
何回も雨乞いの祈祷を行い
儀礼を重視したが
人格的神なものを設定しない。
朱熹は神秘的現象を宗教的に拡張していくことを警戒。
朱熹は天には人の罪悪を批判する天帝は存在しないという。
朱熹は孔子を祭るときに孔子の塑像を安置することには否定的。
確かに祭祀を行うときは霊魂が感応することもあるが
それはいくら霊妙であっても結局は気の感応なのであって
そこから人格神的存在が常に独立して存在するわけではない。
朱熹は古人が壇を作って祭祀をするとき、
その心が気の感応を引き起こすものの、
祭祀が終われば散るだけであって、
それを今人が神像を作ったりしているのは誤っているとする。
霊妙な現象が起こってもそれは祭祀のときだけで
常に霊的な人格神が独立して存在しているのではないので
神像は無用。
朱熹は鬼神を重視せず
把握が容易でない鬼神にかまけることを戒める内容が多い。
追求すべき事物の理は
もっと生身の人間にとって切実であり
明確な理解が得られるものに求められるべきなのである。
朱熹は鬼神を最重要事ではない
第二著(二番手)の問題とする。

(まともな陰謀追及者
は私が知る限り全員、
朱子学と同じく
鬼神=形而上の霊的存在
に執着せず二の次。
まずは
物的証拠=形而下
を最優先。

対して
形而上を最優先にし
形而下の物証を二の次にする者は
平気で藁人形する者が多い。
形而下がなければ形而上を考察することは不可能なのに
形而上の妄想に基づき
ひたすら物証と異教を曲解し続ける。
真理や真実を連呼するが
事件の真相からはどんどん遠ざかる
ヤソと新ヤソ系の魔境中毒者。

後者の形而上を最優先にし物証を曲解する藁人を
陰謀論者=無自覚含め工作員
だと定義する。


朱熹は人格神を認めず
神像崇拝も否定し
形而上に執着するなと説く。
∴ヤソ(ゴッドは人格神)と新ヤソ(形而上精神世界)が朱子学を叩く。

ネット記事つまみ食いで食中毒キメるのも藁人の特徴。
本書は朱子学の解説だが朱子学以外の重要知識も増える良書であり
ネット情報に頼る弊害を痛感する。)



・中国の霊魂論としての鬼神論は観念的な議論の場ではなく
祭祀と連動している。
儒教の祭祀は神主(木主)つまり位牌が中心。
神主に魂を乗り移らせる。
霊魂は魂(陽の気)と魄(陰の気)に分かれ
魂は神主に移り
魄は墓にとどまる。
廟に安置した神主に遺族が祈る。
子供は親の気を受け継いでいるから実の子であれば必ず祈りによって
親の魂は活性化する。
それは
父子一気
だから。
中国や朝鮮で養子を嫌がるのはそのため。


日本に神主が入ってくるのは南北朝時代頃と言われていて
それも仏教の位牌としてだった。
本来輪廻転生の仏教に位牌はない。
儒教の影響で宋代頃に取り入れられたと言われる。
位牌が日本で一般的に普及したのは江戸時代中期とされる。


朱熹は父祖の気と子の気が感応することには絶対的な確信がある。

朱熹は気は馬、理は馬に乗る人とした。
理には運動因はない。
本書の著者の比喩では
理は線路
気は電車。

神道家で儒教の教理を受け入れる者は江戸以前からあり
中世の伊勢神道や吉田神道はその代表
であるが
それは仏教からの独立のために儒教
場合によっては道教の文献を引くという性格のものであって
朱子学とそれ以外の思想を明確に区別しているわけではない。

(儒家神道は日本的に変形させた儒教)

神道では
心は神明の舎
という語を重視するが
山崎闇斎も重視する。

闇斎の神道の師といえば第一に吉川惟足。

神道と仏教には伝授があるが
朱子学にはない。
経書の権威と人の心の普遍性をもとにして
誰でも道に参与できる立場から道の公開性を強調。

・王学(陽明学)左派とされる李贄(リシ 李卓吾)
は、外的規範よりも心の持つ実感力を重視する王陽明の思想をさらに押し進め
全ての価値判断の根拠を限りなく心の実感に一元化していく。
有名な童心説では
まだ借り物の既成の価値観や通念に染まっていない
絶仮純真、最初一念の本心
である童心こそが真心であり
それが経学だの常識だのを学ぶことによってくらまされていくとする。
「六書、論語、孟子は道学の口実であり
偽物の溜まり場である」と言う。

(ここまでくるともはや儒教ではないのでは?
ルソー教と仲良くできそうな思想だな!
既成の価値観や通念なしの童心のままだと
体は大人、心は幼児になるので
気に入らないとすぐ泣きわめいたりするのでは?)



幕末の陽明学には
良知帰寂派(右派)、
良知修証派(正統派)に心を寄せる者が多く
良知現成派(左派)には批判的であった。
例外的に左派を好んだ者が
東沢瀉(ひがしたくしゃ)、奥宮 慥斎(おくのみや ぞうさい)、吉田松陰。

(奥宮慥斎
おくみやぞうさい
[生]文化8(1811)
[没]1877
佐藤一斎に学ぶ。弟子に中江兆民。
李贄と(東洋の)ルソーはつながっている)


参考資料
今のところなし。


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