読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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空をまなぶならミリンダ王だね 

ぶろぐったー
ドラクエの龍王の超有名なセリフが世界の半分をお前にやろう
イラン中部のイスファハーンが別名「世界の半分」。国際商業都市として繁栄した。

蜜蜂の八の字ダンスって結社大好きシンボル満載だな
蜜蜂と八jの事アナレンマ太陽軌道

横山紘一『阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門』(幻冬舎新書、2011年(平成23年))


と見rんだ王のやつ読んだらここに追加する予定



みづはし ‏@the_tenth_art 2015年8月9日

デカルトは意識は松果体にあると言った。これは何でも物事を区分けして考えようとするアリストテレス以来の西洋哲学の悪癖。インド哲学では、ミリンダ王の問いに見られるように一つ一つに分解せずに物事を総体として見る考えがあった。車を車たらしめているのは車輪でも座席でもない。全体が車なのだ。


 なにか人に注意をするときは、直前にほめることだ。それが露骨なお世辞であっても、その後の悪印象を薄めてくれる。私たちはほめられた後では、苦言を苦言と感じにくくなる。


T-T ‏@TT32768 2010年10月1日

大乗仏教の「ミリンダ王の問い」では「車輪、イス、その他、どれが車か?」と問われ「どれも車ではない」と答え「手、足、体、どれが私か?」と問われ「どれも私ではない」と答え、「ならば私とは何か?」「それらの集まりだ」つまり「すべての名は「仮」のものだ」とする。多一論もそういうものか。

蒼穹のカウパー ‏@shiomura_kojin 1月20日

ミリンダ王の問い、開幕から「坊さん(偉い)がミリンダ王の前世にゴミを捨てるよう命令するも無視したので殴られ、異常に怯えながらゴミを捨てる」だったので腹を抱えて笑ってる。

ミリンダ王の問いに代表される空
http://libpsy.com/mirinda-kuu/4054/
”この世に存在するものは全て実体はない。

すべて因縁によって存在するようになったのが「空」です。

つまり『色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき)』(この世界の森羅万象は空で、しかも森羅万象は空から発生する)のです。

・・と言われても、まだイマイチイメージがつかめないのではないでしょうか。
この理解が難解至極のために、ヨーロッパの学者からも、仏教内でさえも仏教は「ニヒリズム(虚無主義)、無神論、否定主義」などと批判された歴史があります。

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西洋の論理の伝統であるアリストテレス論理(形式論理学)以来の実在論によれば、有か無かどちらかしかないのです。

しかし、ナーガールジュナが著(あら)わしたインド大乗仏教中観派における空の理論の「空観」。そして彼の代表著作の「中論」。

これらでは「有」とともに「無」をも否定しています。

ここに分かりやすい日本の事例をいくつか挙げておきます。

●江戸時代前期の臨済宗の僧の至道無難(しどうぶなん:1603~1673)は
「草木国土、悉皆成仏」(仮名法語)と歌っています。

『草木も 国土もさらに なかりけり ほとけといふも なおなかりける』

ここでは「仏はいない」と仏教僧が公然と言っています。

●浄土宗の開祖の法然(1133~1212)も「空」が難解すぎて全く理解できず、臨済宗の開祖の栄西(1141~1215)に仏について質問しました。その際に栄西は、

『仏などいない、いるのは狸と狐ばかりである』

と言いました。

●キリスト教の宣教師が、江戸時代に日本に来た時に日本の僧侶が仏像を拝むのを見て、
「仏なんかは塵芥(ちくありた:チリ、ゴミ)だ」と僧を批判しました。
キリスト教では愚像崇拝はいけないことだ、と頭から決め込んでいるのです。
しかし、僧は『仰るとおり、仏など塵(ゴミ)に過ぎない』と言って一喝したというエピソードがあります。
「神はあるか?」と問われれば、(ギリシャのアリストテレスの)形式論理学で言えば「ある」「ない」の二つしかない。
キリスト教やイスラム教では「ある」と答えないと信者にはなれない。
「ない」と答えれば無神論者になる。
しかし仏教では「仏はない」「仏なんぞ塵芥(ゴミ)にすぎない」と答えても立派に仏教徒でありうる。

●愚管抄の著者の慈円(1155~1225)は、

『ひきよせて むすべば柴の 庵にて とくればもとの 野はらなりけり』

と歌っています。これも「空」の歌です。
庵(いおり)とは草木で結んで作った質素な小屋のことで、僧や世捨て人が仮住まいとしていたものです。庵は「建築する」のではなく「結ぶ」と言ったのです。その辺の柴をかき寄せてて結んで作って庵、もし結び目を解いてしまえばそこには何もない。
結べば庵はある。結び目を解けば庵はない。
したがって、あるといえばあるし、ないといえばない。
庵はもともと存在しなかった。が、空(非実在性)は実在を生み出す。
結びさえすれば庵ができる。
庵は存在せず「無」。柴を結んで「有」になる(=空即是色)。結びを解けば庵はなくなる(=色即是空)。

●豊臣秀吉の辞世の句では、

『露(つゆ)と落ち 露と消えぬる わが身かな 浪華(なにわ)のことは 夢のまた夢』

と歌われました。夢とは実在ではないが、夢を見ているときは確かに存在していると思っている。秀吉は貧しい農家で生まれ、足軽、侍大将、摂政関白にまでなったことは現実のことなのか、夢ではいけないのか、現実と思うことが誤りではないのか。すべては仮説ではないのか。
・・空と唯識に対しての大変深い理解をうかがえます。

●織田信長が好んで舞った、能の「敦盛(あつもり)」の、

『人間(じんかん)五十年 下天のうちに比べれば 夢幻のごとくなり』

・・これも空とも考えられます。

●戦国大名の大内義隆(1507~1551)が家臣の陶晴腎(1521~1522)に襲われて殺された折りの辞世の句

『討つものも 討たるるものも もろともに 如露亦如電(にょろやくにょでん) 応作如是観(おうさぜにょぜかん)』

討つ側(陶側)と討たれる側(義隆ら)も、露が落ちるように、また、稲光が一瞬の閃光とともに消え去るように、変転果てしが無いこの世の万物の理である。それは、仏が種々に実身を変幻し、他の容を示現する作業と同じことであろう。私は、これらの事を、ありのままに観じ、自己を捨て去ろう。
・・これも同じく空です。

龍樹(ナーガールジュナ)の空の理論を、
古代ギリシャ哲学のアリストテレスの形式論理学を超えたという意味で
『超論理学』と呼びます。

こう呼ばれるのに至ったにも、西方の形式論理学と、東方の超論理学が正面対決したエピソードがあります。
それが「ミリンダ王の問い」(中村元、早島鏡正・訳)です。

ミリンダ王は、凄まじい権力者で哲学教養も豊かでな人物で、紀元前160~140年頃にインドへ侵入してパキスタンを首府にインドを統合しました。
その際に、ミリンダ王は、インドの真の知的優越者ナーガセーナ長老に会いました。
ここで形式論理学(ミリンダ王)vs 超論理学(ナーガセーナ)のバトルが行われました。

この議論の最後に、ミリンダ王は「空」を悟ります。

ナーガセーナ「王よ、あなたが車でここまでやってきたのなら、何が車であるか告げてください。軸ですか?車輪ですか?車体ですか?」

ミリンダ王「どれも違う。」

王は、ナーガセーナの問いに全て「否」と答えた。
ではそこに車はないのか、そこに存在する車は何なのか。名前だけのものか。

ミリンダ王「軸に縁って、車体に縁って、「車」という名前が起こるのです」

ナーガセーナ「そうです。王よ。あなたは車を正しく理解されました。私自身も、形に縁って、感受作用に縁って、表象作用に縁って、形成作用に縁って、識別作用に縁って、ナーガセーナという名前が起こるのであります。そこで人格的個体は存在しないのです。」

ミリンダ王は、実念論(realism リアリズム:普遍的に概念が実在している立場)だけでなく、唯名論(nominalist ノミナリスト:存在するのは個々のものだけ、普遍的なものは便宜上の名前に過ぎないという者)も克服しました。

この「車の譬(たと)え」は、昔から人々に愛好されたストーリーで仏教入門として最良のものです。

このように車を車輪などのいくつかの構成部分に分解して、車という実体はないと観ずる説明を「析空観(しやつくうがん)」と言い小乗仏教の説く空です。
対して大乗仏教では、ものの存在そのものを空であると見なします。
小乗は、空のみを見て不空を見ないから「但空(たんくう)」で、
大乗は、一切の事物を空であると見なしながら、同時に空でない面も見るから「不但空(ふたんくう)」=中道空(ちゅうどくう)なのです。


『ミリンダ王の問い』(Milinda Pañha, ミリンダ・パンハ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%80%E7%8E%8B%E3%81%AE%E5%95%8F%E3%81%84

『ミリンダ王の問い』
http://hishikai.exblog.jp/8109223/


インド文学・数学・仏教

親としてのインド思想

西洋思想への影響の情報集
http://kawauchi.la.coocan.jp/bukyoeikyo.htm
”わが国では江戸時代のベストセラーかつロングセラーであった『塵劫(じんこう)記』(吉田光由著)に初登場している。これは古くインドの仏典にあり、後、中国の『算法統宗』他各名著に記録され、これがわが国に輸入されたのである。一、十、百、千までは一桁の単位で、万以上は四桁ごとの単位である。

万、億、兆、京、垓、杼、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙(こうがしゃ)、阿憎砥(あぞうぎ)、那由化(なゆた)、不可思議、無量大数[無量(1068)と大数(1072)を別にすることもある]。これらの数詞には仏典由来のものが少なくない。

〔使用例〕千載(1047)一遇[各種国語辞典には「千載(千年)に一回しかあえないようなめったにない好機会(chance of a lifetime)」などとしているが、数学では 載年=(1047)年であり、広辞林(三省堂1941版)では千年一遇としていて、千載一遇は載せていない。]

◆小さな数の呼び名

前掲『塵劫記』に、大きな数の呼び名と共に記録されている。このほうは、分が100分の一で、他は一〇分の一単位となっていて、23桁あり、(10-25)になっている。

分、厘、毛、糸、忽、微、繊、沙、塵、埃、渺、漠、模糊(もこ)、逡巡、須庚(しゅゆ)、瞬息、弾指、刹那、六徳、虚、空、清、浄
(→極微→0→涅槃)  (→極微→原子論) 〔使用例〕塵埃とか、繊細な神経、または説明が暖昧模糊としている。
虚であり、空であり、清であり、浄であるのは、仏教の涅槃への段階でもある。また極微から原子論への進展もある。

[参考〕比の表し方の一つである歩合では、"割”の単位が”分”の前にある。打率が三割二分五厘とか金利などがそれである。割(ten percent,10のマイナス2乗)は日本独特のもの。

しょう‐じょう【清浄】シヤウジヤウ 清くてけがれのないこと。「―潔白」 

〔仏〕悪業の過失や煩悩のけがれをはなれていること。「六根―」(広辞苑)

ごく‐み【極微】〔仏〕(梵語 paramanu) それ以上分割できない物質の最小単位。七つの極微で一微塵を構成し、それらが集まって物質が構成されるとする。極微塵。(広辞苑)

ごくみ<極微>は、梵語パラマーヌ「最も微細な粒子」の訳。あらゆる物質の本質的な構成要素で、見ることも触ることもできないものとされる。現在の原子論は「極微」説に由来するといわれる。(岩本裕著日常仏教語 中公新書288)
(…)
宗教集団としてのピタゴラス派はオリエント風の信仰で、霊を善、肉体を悪とし、霊肉二元論として魂の不死と転生を説く。霊魂の浄化をたんなる祭祀や秘儀にだけでなく、道徳的、政治的活動に、さらに知識の獲得に求めるようにした。霊浄化の手段は純粋の知識の獲得(法門無量誓願学)にテオーリア(静観・理論の意味で、仏教の禅定、仏道無上誓願成)に求められた。

輪廻説のような「東洋的で非ギリシア的な思想」(インドからマケドニア、トラキア起源といわれるオルフェウス教を哲学的に発展させたとされる)はやがてプラトンにもみられるギリシア思想の宗教的潮流となっていく。
(オルフェウス教:レナル・ソレル著、脇本由佳訳、白水社「文庫クセジュ」863)

オルフェウス教は、19世紀以降、墓地の発掘の際に「オルフェウスの金板」が幾つか発見され、それによると、紀元前5~4世紀に遡り、アッテカ(アテナイを含む地域)からシチリア島へ、南イタリアからローマへ伝わったことが証明される。紀元前1~2世紀に宇宙と神々の誕生を説明する新しい説が二つ生まれた。「24の叙事詩からなる聖なる言説」とヒエロニュモスとヘラニコスのものといわれる宇宙誕生譚である。ギリシア各地で「オルフェウスの流れ」が不意に出現してから一千年以上もたった紀元5~6世紀にアテナイとアレキサンドレイアの新プラトン派学者たち(シュリアノス、プロクロス、オリュンピオドス、とくにダマスキオス)が、とりわけオルフェウス教の宇宙と神々の誕生譚に関心を抱くようになり、それを「聖なる書」と見なした。彼等はそれを体系的にプラトンと調和させようと努めることになった。プラトンの著作が一種の神学を伝えると確信していたからだとされる。オルフェウス教の宇宙誕生譚がわたしたちに伝えられるのは、それがギリシア神話に関係づけられるからなのである。そして他方では間接的影響が初期キリスト教に確実に及んだ。聖パウロの神論で、人間の魂はオルフェウス教でいう意味でも、さらにはプラトン的意味でも、「神的なもの」ではない、と断言されていた。オルフェウスは新プラトン派の中心的教義を先取りしていたのだが、その教義を後にキリスト教思想が発展させ、完成することになるのだと説いている。

ピタゴラスの宗教上の意見は輪廻転生の説であり、イタリアのクロトーンにおいて道徳的宗教的教団を組織し、厳格な戒律を布き、宗教的改革家として多大の感化を与えた。(波多野精一著「西洋哲学史要」大日本図書株式会社刊 P34)

釈迦と同時代であり、関係の深さを示す次のような伝説が残っている。
ピタゴラスはシャカと会見し、人間の転生について意見が一致したというギリシアの伝説である。史実は別にして、それほど関係が深かったことに驚いた。

しゃか‐むに【釈迦牟尼】(梵語 ?akyamuni 「牟尼」は聖者の意) 仏教の開祖。その生没年代は、前五六六~四八六年、前四六三~三八三年など諸説がある。インドのヒマラヤ南麓のカピラ城の浄飯王(ジヨウボンノウ)の子。母はマーヤー(摩耶マヤ)。姓はゴータマ(瞿曇クドン)、名はシッダールタ(悉達多)。生老病死の四苦を脱するために、二九歳の時、宮殿を逃れて苦行、三五歳の時、ブッダガヤーの菩提樹下に悟りを得た。その後、マガダ・コーサラなどで法を説き、八○歳でクシナガラに入滅。シャーキヤ‐ムニ。釈尊。釈迦牟尼仏。(広辞苑)

ピタゴラス【Pythagoras】ギリシアの哲学者・数学者・宗教家。サモスに生れ、南イタリアで教団を組織、霊魂の救いを目的とする新宗教を説き、宇宙の調和の原理を数とそれの比例とした。(前570頃 ―)

こんな伝説があるくらいで、仏教思想の影響が大きいと思われ、ギリシア哲学の「アトム」の思想は「極微」によるとされる。(日常仏教語 岩本裕著 中公新書)
(…)
アレクサンドロス大王東征によるヘレニズムと仏教の融合

   (アレクサンドロス大王と東西文明の交流展による)

アレクサンドロス大王の東征の後、中央アジア、インド亜大陸では、クシャーン朝下のガンダーラにおいてグレコ・バクトリア・ローマ・インド・イラン式のガンダーラ仏教美術が誕生した。このガンダーラ美術を再読すると、次のように解することができると説いている。神ではないが、「霊魂の導師的存在」であるギリシア神話の中の海獣(ケートス、トリトン)を重視し、それらが仏教の到彼岸=涅槃=極楽往生のエスコートとして用いられ、やがてその役割が釈迦牟尼仏陀に取って代わられ、仏像が創造されたという新しい見解を提示した。また、ディオニュソス神に関係するエロティックな図像も積極的に用いたが、これらが通説とは異なり、到彼岸=涅槃=極楽往生の至福悦楽を具体的に再現している聖画像であったからである。この交流展では、ギリシアの諸神がガンダーラにおいて仏教や天部の直接モデルとなることを図像学的に示していた。例えば「花綱を担うエロスの浮き彫り」(クシャーン朝、2-3世紀、パキスタン、スワート出土)では、花綱はギリシア起源で死者の霊魂を無事にあの世に導くものと考えられ、エロス(アモール)と共にローマ時代の石棺装飾に多用された。これが仏教美術に採り入れられ、ストゥーパの仏伝図を荘厳していた例などが挙げられる。
さらにギリシア神の「ヘルメス」は「大黒天」となって日本に渡り、また「ヘルメス」は「毘沙門天」となって伝わった。「北風ボレアス」は「風神」となり、「ゼウス+雷てい」は「帝釈天」に、「ヘラクレス+棍棒」は「執金剛」「金剛杵」そして「仁王」となり、「テュケ女神」は「訶梨帝母」となり中央アジア原産の石榴を伴って「鬼子母神」となった。「海獣ケートス」はドラゴンに姿を変え、そして龍となって仏教を守護する。また、菩薩像の首飾りによく見られる像であるという。仏塔基壇などを支える「アトラス神」はギリシア神話で天空を支える巨人神であり、肩でストゥーパを支える。ガンダーラで仏教彫刻に採り入れられたギリシア神は、ヘルメス(メルクリウス神で商業の神、体育・教育施設の守護神)、ヘラクレス神(体育・教育施設の守護神)、ディオニュソス神(バッカス神)、ボレアス神(北風神)、テュケ女神(豊穣と都市の守護神)、ニケ神(勝利の神で、ナイキの語源)、ヘパイストウス神(造化・鍛冶の神)、アトラス神(天空を支える巨人神)、ポセイドン神、ニュクス=ノクス女神(夜の神)、エロスなどが上げられている。このようにギリシア神と仏教の融合は極めて深いものがあったのである。

拝火教の影響─弥勒菩薩と東大寺お水取りの火の行法「だったん」

(…)
バクトリア王国 ミリンダ王の問い

アショカ大王の死後統一力を失ったマウリア王朝。 そのため、西北インドはギリシャ王の支配するところとなった。紀元前の2世紀中頃、現在のアフガニスタンのカーブル近郊で生まれたギリシア人のミリンダ(メナンドロス)王は、紀元前2世紀の後半、この西北インドを支配した。王であるとともに偉大な哲人であった彼は次々とインドの哲学者を論破していく。仏教の思想を論破するため当時の仏教教団の指導者の一人であったナーガセーナ長老と対論を始めた。ナーガセーナ長老はインドの仏教界の中で唯一ミリンダ王と対論することが可能であるだろうと思われるインド随一の哲人であった。

あなたは誰か――ミリンダ王の問い (隔月誌『Paramahamsa』27号より)

今よりおよそ二千年以上も昔のこと、古代ギリシアの人々は地中海世界を征服し、その勢いはインドの西北、現在のアフガニスタン、パキスタン辺りにまで及んでいた。そこにギリシア人たちは王国を建て、中でも繁栄を極めたバクトリア王国は、インド内部にまでその版図を広げた。その最盛期に現れたのがメナンドロス王である。メナンドロス――インド名ミリンダ――は実在した王であり、また仏教には、彼に帰せられる『ミリンダ王の問い』なる準聖典が伝えられている。ギリシア人としての哲学的素養からか、ミリンダ王は征服地であるインドの哲人を訪れたいと考えたようである。当地の仏教サンガを率いていた長老ナーガセーナのもとを訪ね、挨拶を交わし、型通り相手の名を問うところから彼の問いは始まる。
「あなたは名を何と言われますか」
「大王よ、私はナーガセーナとして知られています。だがこの『ナーガセーナ』という者、単なる呼び名であり、標識、記号、ただの言葉に過ぎませぬ。人格の実体などは存在しないのです」
王は、これは異なこと、と、そこに居合わせた人々に呼びかけた。
「皆々方、私の言うことを聞かれい。これなる人物ナーガセーナは、ここに人格の実体がないとおっしゃる。さてこんなことを認めてもよいものだろうか」
そしてさらに長老に問うた。
「もしあなたの言われる通りなら、あなたに布施をする者、それを受けて修行する者などはいったい何者でしょうか。戒を破り罰を受ける者とは誰なるや。言われる通りなら、善も悪も、それを行う者も行わせる者もないし、あなたを殺す者にも罪なしとはなりませぬか。あなたは『私はナーガセーナと知られている』と言われるが、その『ナーガセーナ』とはいったい何ですか。頭髪か、肌か、爪か、歯か」
「そうではありません」
「では肉か筋か骨か、腎臓か心臓かそれとも脳髄か」
「そうではありません」
「では肉体、感覚、思い、性格、意識のいずれかですか」
「違います」
「ならば、そういったものとは別に『ナーガセーナ』があるのですか」
「そうではありません」
「何と!私はあなたに問いを重ねながらも、『ナーガセーナ』が何なのか一向に合点まいりませぬ。それは単なる名称に尽きますのか。とはいえ実体なくして名称のみあるはずもない。あなたの言われることは無茶苦茶ですぞ。『ナーガセーナは存在せず』などとは」
長老ナーガセーナはこれに対しこう問い返した。
「大王よ、あなたは今日ここに歩いてこられましたか、それとも車に乗られてか」
「車に乗ってです」
「さらば、あなたは車の何たるかをご存知であろう。私にそれが何かを教えて下さい。それは轅ですか」
「いえ、そうではありませぬ」
「車軸が車だろうか。それとも車輪か、車室か、車台がそれか」
「そうではありませぬ」
「では、軛か綱か鞭か」
「違います」
「ならばそれらを寄せ集めれば車になりますか」
「そういうわけでもありませぬ」
「となれば、それ以外に車なるものがありますか」
「いや、さにあらず」
「大王よ、私は車が何なのか一向に合点できませぬ。それは名称に過ぎぬのか。あなたの言われることは無茶苦茶ですぞ。さてや皆の衆、このような嘘偽りを果たして認めてもよいものだろうか」
この問答を聞くや、ギリシア人たちは長老に歓呼し、王を励まして言った。
「さあ大王様、精一杯弁論して下さいよ!」
ミリンダ王は長老ナーガセーナにこう抗弁した。
「私は嘘偽りなど申してはおりませぬ。『車』というは、轅・車軸・車輪・車室・車台に依存し、呼び名・標識・記号として成り立つものにござる」
ナーガセーナ長老、ここでわが意得たりと、こう言った。
「よくぞ言われた、大王よ。あなたは車の何たるかが分かっておられる。それとまるで同じですぞ。私ナーガセーナとは、頭髪・肌・爪、骨に肉、心臓に脳髄、感覚、思いなど、もろもろに条件的に依存し、呼び名・標識・記号として成り立つ一方、人格の実体ではござりませぬ」
これにはさすがの大王も歓びの声を上げた。
「驚嘆に堪えません、ナーガセーナ殿!まこと鮮やかな問答であります。尊者ブッダがここにおられたなら、さぞお褒めになったでありましょう。ナーガセーナ殿、お見事」
王と長老の問答はこうして始められた。

賢者の論と王者の論 

以下は有名な「賢者の論」と「王者の論」について語ったくだりである。
ミリンダ王 「尊者ナーガセーナよ。私とともにまた対論しましょう。」
ナーガセーナ長老 「大王よ。もしもあなたが賢者の論をもって対論なさるのであるならば、私はあなたと対論するでしょう。しかし、大王よ。もしもあなたが王者の論をもって対論なさるのであるならば私はあなたと対論しないでしょう。」
ミリンダ王 「尊者ナーガセーナよ。賢者はどのようにして対論するのですか。」
ナーガセーナ長老 「大王よ。賢者の対論においては、解明がなされ、解説がなされ、批判がなされ、修正がなされ、区別がなされ、細かな区別がなされるけれども、賢者はそれによって怒ることがありません。大王よ。賢者は実にこのように対論するのです。」
ミリンダ王 「尊者よ。また王者はどのようにして対論するのですか。」
ナーガセーナ長老 「大王よ。しかるに実に諸々の王者は対論において1つの事のみを主張する。もしそのことに従わないものがあるならば、『この者に罰を加えよ』と言って、そのものに対する処罰を命令する。大王よ。実に諸々の王者はこのように対論するのです。」
ミリンダ王 「尊者よ。私は賢者の論をもって対論しましょう。王者の論をもって対論しますまい。」

ここにおいて長時間にもわたる「ギリシア思想」対「仏教思想」の問答が開始されたのであった。
①時間の起源とは?
ミリンダ王「過去の時間の起源は何ですか。未来の時間の起源は何ですか。現在の時間の起源は何ですか」
ナーガセーナ長老「過去の時間と未来の時間と現在の時間の起源は、無明(一切の煩悩の根源)を表している。無明(一切の煩悩の根源)を縁として行(形成力)が生まれ、形成力を縁として識(認識作用)が生じ、認識作用を縁として名色(心・精神の有する物)が生じ、名色を縁として六処(認識領域)が生じ、認識領域を縁として触(感覚器官による知覚)が生じ、触を縁として受(感受)が生じ、感受を縁として愛(迷妄の執念)が生じ、愛(迷妄の執念)を縁として取(執着)が生じ、執着を縁として有(生存)が生じ、生存を縁として生(誕生)があり、誕生を縁として苦(苦しみ)が生じる。このようにしてこのすべての時間の始源(一切の煩悩の根源)は認識することができない。」
ミリンダ王「尊者ナーガセーナよ、あなたは『始源は認識することができない』と言われましたが、その始源とは何ですか」
ナーガセーナ長老「大王よ、過去の時間がその始源です」
ミリンダ王「尊者ナーガセーナよ、あなたは『始源は認識することができない』と言われましたが、尊者よ、始源はすべて認識できないのですか」
ナーガセーナ長老「大王よ、あるものは認識され、あるものは認識されません」
ミリンダ王「尊者よ、それはいかなるものが認識され、いかなるものが認識されないのですか」
ナーガセーナ長老「大王よ、それよりも以前には全然いかようにも無明(煩悩の根源)が存在しなかったというこの始源は認識されません。しかし以前には存在しなくてもいま生じ、存在してふたたび滅びるというもののこの始源は認識されます」
②輪廻とはなにか?
ミリンダ王「尊者ナーガセナよ、あなたが輪廻と言っているところの、その輪廻とは何ですか」
ナーガセーナ長老「大王よ、この世で生まれたものはこの世で死に、この世で死んだものはあの世に生まれる。あの世で生まれたものはあの世で死に、あの世で死んだものはさらに他所に生まれる。大王よ、このようなものが輪廻です」(77項)
ミリンダ王「尊者ナーガセーナよ、死んでからのち、次の世に生を結ばないものがいますか」
ナーガセーナ長老「ある者は次の世に生を結びますが、ある人は次の世に生を結びません」
ミリンダ王「誰が次の世に生を結び、また誰が次の世に生を結ばないのですか」
ナーガセーナ長老「大王よ、煩悩のある者は次の世に生を結びますが、煩悩のない者は次の世に生を結びません」
ミリンダ王「それでは尊者よ、あなたは次の世に生を結びますか」
ナーガセーナ長老「大王よ、もしも私が執着を持っているなら、次の世に生を結ぶでしょう。またもし執着を持っていなければ、次の世に生を結ばないでしょう」(32項)

長時間にわたりナーガセーナ長老と対論を交わしたミリンダ王は、その後仏教徒になった。

参考書籍:清水書院 森祖道・浪花宣明著「ミリンダ王~仏教に帰依したギリシア人」
       東京書籍 中村元著「仏教経典散策」
       角川ソフィア文庫 増谷文雄・梅原猛著「仏教の思想 智慧と慈悲」
ギリシア科学のベースとなる分析・総合に、仏典(倶舎論)に見られるような五位七十五法表の分析や解脱の考え方や極微の考えが影響しているのではないかと考えられる(私注)。

アレクサンドロス東征以後で、インド王とギリシア王の交流があったことを示す話が伝えられている。このころ、インド王がギリシアにイチジクと酒と哲学者を注文した際、アンティオコス王は、「イチジクと酒はお送りするが、学者の売買は禁止されていて、できない」と返書したという。

くしゃ‐ろん【倶舎論】(梵語 Abhidharmako?a-bhasya) 三○巻。世親の著。玄奘(ゲンジヨウ)の訳。詳しくは阿毘達磨倶舎論。小乗仏教の教理の集大成である「大毘婆沙論」の綱要書。一切諸法を五位七十五法に分け、迷いと悟りについて詳細に論ずる。仏教の基礎的教学書。倶舎。(広辞苑)

せしん【世親】(梵語 Vasubandhu  旧訳は天親テンジン) 西紀320-400年頃、いまのアフガニスタンのペシヤワル(ガンダーラ)に生まれた北西インドの僧。初め小乗仏教を学び、後に兄無着(ムジヤク)に教化されて大乗に入った。兄と共に唱えた唯識仏教は中観学派と並んでインド大乗仏教の二大系統をなした。著「倶舎論」「唯識二十論」「唯識三十頌」「浄土論」など。世親菩薩。ヴァスバンドゥ。(広辞苑)

ガンダーラ【Gandh ra・健駄羅】パキスタン北西部、ペシャーワル地方の古名。紀元前後より数世紀間にわたって、この地を中心にギリシア美術の影響を受けた仏教芸術が発達。ケンダラ。

「ゼロの発見」(少なくとも前2世紀という)に始まるインド数学の発展は、おそらく、クシャン朝からグプタ朝へと成熟してきたものだろう。その時期は、大乗仏教哲学の形成期でもある。

ゼロの記号を数の記号中に人類が用い始めるまで千年を費やしたという。(カヂヨリ著「数学史講義」一戸直蔵訳 大鐙閣刊 P4)

だいじょう‐ぶっきょう【大乗仏教】‥キヤウ 紀元前後頃からインドに起った改革派の仏教。従来の部派仏教が出家者中心・自利中心であったのを小乗仏教として批判し、それに対し、自分たちを菩薩と呼んで在家者を重視し、利他中心の立場をとった。中国・日本・チベットなどの北方仏教はいずれも大乗仏教の流れを受けている。(広辞苑)

インド哲学の特質について、ホルステッドのように、「空虚な無に対して、単に位置・名称・記号のみでなく、有力な力を与えたのは、その母胎たるインド民族の特質による。それは涅槃を能動力につくりかえたのに似る」などの説もある。インドのゼロを涅槃に結びつけるなら、2世紀からの中国数学における負数を陰陽に結びつ:けることは誰でも思いつくかも知れない。

ギリシア数学が「俗界」を否定し、純粋性を求めたことは、仏教の出家修行の考え方の影響ではないか(私注)。

ギリシア懐疑派の始祖、ピロン(前360-270ごろ)はペロポネソス半島のエリス市の人で、アレクサンドロス大王の軍に従って東方へゆき、インドで行者の苦行をみたという。帰国後エリスで学校を開いた。彼は生の終局目標を心の平静(アタラキシア)におき、このためすべての判断をやめること「判断中止」(Pyrrhonism)を説いた。これは仏教の「無分別」と酷似する。(玉井茂著「西洋哲学史 上」青木書房 P145)

あらや‐しき【阿頼耶識】〔仏〕(梵語 alaya-vijnana) 人間存在の根底をなす意識の流れ。経験を蓄積して個性を形成し、またすべての心的活動のよりどころとなる。唯識派で説く。八識の中の第八識。旧訳(クヤク)では阿梨耶識。略して阿頼耶・頼耶・阿梨耶・梨耶とも。

*インド科学の歴史には、グプタの後の時代に、現在まだ知られていないギャップがあるが、これは遠からず埋められるものと期待される。それは大部分インド半島の発展だったように思われる。平野は蛮族の侵入にあまりにもさらされていて、その侵入は、同じ時期にヨーロッパをも侵し、そこの概してギリシア、ペルシャ型の文化を破壊し、11世紀のアフガニスタンのガズニー朝のマハムード王の略奪で絶頂に達した。しかし、デカン高原と、そのさらに南方には、諸文化の一大会合地があったように思われる。すなわち、北方と海上からはギリシア―ローマ文化が、やはり海上からアラブとペルシャの文化が、また陸路による仏教の巡礼と海路による商人とによって中国文化が運ばれてきた。これらの刺激を得た以上当然ながら、繁栄と文化的進歩の諸条件の下にあった土着のインド人の才能は、知識の総合を生みだし、今度はそれが初期のイスラム科学を鼓舞することができた。科学への主な寄与は、数学と化学にあったように思われる。数学上の観念は、その形からみて、またその誤りの点ではおそらくなおさら、初期の中国のものを手本にした証拠がみられるが、インド人はパビロニア人の概念をも発展させたらしく思われる。(バナール著「歴史における科学 1 」 P103)

8世紀以降、ギリシアがイスラムと交代する。ギリシア数学を継承したのは、イスラム世界であった。ギリシアが現世から遮断された純粋性の中に体系を見出したのと反対に、イスラム人は課題の密着することで問題解決の技術に数学を見出した。特にインドの記数法とも結びついて、数量的処理が発達した。ピタゴラス的哲学でなく、ありのままの量として数を処理することになった。この思弁的でない「数概念」は成熟していった。負数や無理数に「数」としての権利を獲得させたものは、哲学や体系ではなく、この日常性であったという。

これは、インドでの出家から在家の日常への大乗仏教の広がりが影響していたのではなかろうかと思える(私注)。
(…)
仏教論理学と認識論  (三枝充悳著 「仏教入門」 岩波新書 p201-206) 

インドでは仏教誕生以前から対論や論争が実にさかんであり、それが論理学の形成を促した。このことは古代ギリシアと類似し、いわゆる論理学が組織的に研究されてその体系を確立したのは、人類史上ギリシアとインドに限られるといってよい。

その論理学を、仏教では「因(理由命題)にもとづく学」(へートゥヴィトヤー、因明いんみょう)と、インド哲学ではニヤーヤ(正理しょうり)と呼ぶ。
仏教論理学の歴史も古い。二世紀ごろの成立と推定される医学書の『チャラカ本集』、漢訳の残る『方便心論』(ナーガールジュナ著述説もある)、ナーガールジュナ著の『廻諍論えじようろん』といったテクストに、論理学への発言が伝えられ、それらに用いられる諸術語は、後代の仏教論理学にもインド論理学のニヤーヤ学派にも、ほぼそのまま共有される。
仏教論理学は精密な理論体系を誇る唯識説において磨かれ、そのひとりディグナーガ(陣那)が、知識論―認識論とともに樹立する。ディグナーガには『プラマーナ・サムッチャヤ』(知識集成論、『集量論じゅりょうろん』と訳されるチベット訳のみ)の主著のほかに、漢訳の『観所縁論』『掌中論ようちゅうろん』『因明正理門論いんみょうしょうりもんろん』などがある。
ディグナーガは、正しい認識(プラマーナ、量という)の根拠として、直接知覚(プラナィヤクシャ、現量)と推論(アヌマーナ、比量)との二種のみを承認し、直接知覚は分別(判断に相当しよう)を離れていて無内容であるが、それに推論が加わることによって具体的な認識として成立するという(このあたりはカントの感性論と分析論とにおける認識の成立と酷似する)。このように推論が効果(アルタクリヤー)を有することは、日常の経験から確認される(この点でアプリオリ…先天的、またトランスツェンデンタール=先験的〔超越論的〕を説くカントから離れる。ただしカントも弁証論では、対象との接触を欠いた理性は仮象を生むという)。さらにディグナーガは、推論を「自分のため(スヴァ・アルタ)の推論」と「他人のため(パラ.アルタ)の推論」とに二分して、その認識論を進め、以後この二種の推論を論証に用いつつ、かれの最大の功績である論理学の確立に向かう(この「他人のための推論」を弁証論と名づける現在の専門家もいるが、それは少なくともカントのいうディアレクテイクとはかなり異なる)。かれはまた、認識の対象を個別(スヴア・ラクシャナ、自相)と普遍(サーマーニャ・ラクシヤナ、共相ぐうそう)とに分け、認識にさいしては両者がかかわると説く。ただし普遍は一種の観念的な存在(分別の所産)にすぎず、独立の個別がただ一回かぎりの刹那ごとに直接の認識の対象となるのであり、存在ではなくて、「他者の排除」を内容とすることを主張する。この排除(アポーハ、離)の話とその応用は、その後の仏教をふくむインド哲学の各学派に重用され、それぞれの認識論のキーワードとして論究される(それはスピノザの説く「否定」がヘーゲルにおいて最重要視された軌跡と類似する)。
ひとこと付加すると、認識の根拠について、上述の直接知覚と推論のほかに、古い資料(たとえぱ『廻諍論えじようろん』など)は「聖典のことば」(アーガマ、聖教量しょうぎょうりょう)と比喩(ウバマーナ、讐喩量)とを加えて四つ(四量)とする。しかし、験伽行派唯識(たとえば『解深密経』、ステイラマティの『唯識三十頒への註釈』)では比喩を除いて三つとし、またディグナーガは「聖典のことば」も推論にふくめて、上述のように二つとする。それは認識の対象が二種(個別と普遍)であることにもとづく。この二根拠(二量)説は、かれ以後の論理学に携わる人々(ダルマキールテイはもとより、バヴイヤなども)に伝えられ、守られた。

ディグナーガの論理学は、推論に関して、理由命題(ヘートゥ、因という)の具えるべき条件を三種として、これを「因の三相」という。その名称のみあげると、遍是宗法性へんぜしゅうほっしよう、同品定有性どうぽんじよううしょう、異品遍無性いほんへんむしょう であり、主として周延しゅうえん関係をいう。また理由命題のあり得る条件を九種あげて、これを九句因(やはり周延に関係して、九種のうち二種のみが正しい因とする)と称する。因の三相はアサンガがすでに説いているが、九句図説はディグナーガの新説とされる。とりわけかれの名は三支作法さんしさほう と呼ばれる新しい推論式の確立によって、インド全体に著名となり、これは新因明しんいんみょう と名づけられる。それはインド論理学(インド正統哲学にあり、またその諸派が採用)の伝統が五つの命題を掲げていた(五分作法ごぷんさほう という)のを、三つの命題(三支)に改革し、かれ以後はインド論理学のすべてに普及した。三支は、宗しゅう(プラナィシュニャー、主張命題。論証されるべきもの)、因いん(へートゥ、理由命題。論証の根拠)、喩ゆ(ドゥリシターンタ、実例。同喩と異喩との二つ)からなる。例はつぎのとおり。

宗……声(音)は無常である

因……(声は)つくられたものであるから

喩……すべてつくられたものは無常である、たえば瓶のように(同喩)。すべて常住のものはつくられたのではない性質をもつ、たとえば虚空のように(異喩)

新因明も因明も論証につねに喩を立てるという特徴があり、その喩は経験にもとづくと考えてよく、その全体は帰納的論理とみなされよう。かれの論理学には、年代不明のシャンカラ・スヴァーミン(商掲羅生しょうからしゅ、天主てんしゅ)の著わした『因明入正理論いんみようにっしようりろん』(玄装訳、サンスクリット本もある)という入門書がある。ディグナーガの論理学は、七世紀のダルマキールティ(法称ほつしよう)によって完成をみる。ダルマキールティの七種の著述がチベットに伝えられるなかで、(1)『正理しょうり一滴論』(『ニヤーヤ・ビンドゥ』、論理学小論)、(2)『量決択りょうけっちゃく』(『プラマーナ・ヴィニシチャヤ』、知識の決定)、(3)『量評釈』(プラマーナ・ヴァールヅティカ、知識批判書)の三部が主著とされ、それぞれ全体または一部にサンスクリット本が発見公刊され、チベット訳は完備する。各本とも諸註釈書があって、同時代にも後代にもいかによく読まれたかが知られる。
ダルマキールティは唯識説によりながら、かなり軽量部きょうりょうぶ に近く、たとえば外界を八識の所産に帰するのではなく、外界の存在は推理されるという。ただし有部うぶ のような外界の素朴実在論的ではなく、外界は推理されるのみと限定する。さらにかれは軽量部の刹那減の説を導入して、対象は刹那減であることを論証し、その意味においては非連続であり、同時にその流れは意識の流れと相応して連続を構想すると主張する。また推論の効果(アルタクリヤー)を重視して、認識の現実性は対象との斉合性であるともいう。
ダルマキールティは認識論にしても、論理学にしても、ほぼすべての問題を網羅し徹底的に論究した。ダルマキールティの全貌解明が現在進められているなかで、かれは仏教論理学を演繹えんえき的ないわゆる三段論法に一新した、と評する専門家もいる。かれの何人かの弟子のうち、デーヴェーンドラブッディなどが知られる。掉尾とうび を飾るかのように、モークシャーカラグプタ(十一―十二世紀)が出て、名著『タルカバーシャー』を著わした。タルカは論理またとくに推論、バーシャーはことばを意味する。この書は、ダルマキールティ説とそれ以後の展開とを、簡潔で内容豊かに紹介し解説して、仏教論理学の最もすぐれた綱要書とされる。
このような諸学問はその後も絶えることなく継承されたが、すでに信者の数も減少し、さらにイスラーム軍による寺院の破壊と出家僧の殺害にみまわれて、その拠点を失い、仏教はインドに衰滅を迎える。

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デカルト【Ren Descartes】フランスの哲学者。近世哲学の祖、解析幾何学の創始者。「明晰判明」を真理の基準とする方法により一切を方法的に疑ったのち、疑いえぬ真理の第一原理として「考える自己」を見いだし、そこから「思惟する精神」と「延長ある物体」とを相互に独立な実体とする二元論の哲学体系を樹立。著「方法序説」「第一哲学についての省察」「哲学原理」「情念論」など。(1596 1650)

スピノザ【Baruch de Spinoza】オランダのユダヤ系哲学者。デカルトの方法をさらに徹底させ純幾何学形式によってその体系を組み上げた。永遠で絶対な自己原因としての神が唯一の実体であり、唯一の存在である(一元論)。すなわち、神即自然(汎神論)。この神の属性中、吾人の認識し得るのは思惟(意識)と延長(拡がり)との二つだけで、世界の万物はこの二属性の諸様態にほかならない。この様態の世界では一切は厳密な必然性に従って生起し、同じく思惟・延長の二様態の合一体としての人間にもまた自由意志というものはあり得ない(決定論)。真の自由は知的観照を通じてこの必然性を「永遠の相の下に」洞察することにあり、これが神に対する知的愛であり、最高の善であるとする。著「エチカ」「知性改善論」「神学政治論」など。(1632 1677)    (仏教入門203頁)

ライプニッツのモナッドと仏教
ライプニッツ【Gottfried Wilhelm Leibniz】ドイツの数学者・哲学者・神学者。微積分学の形成者。モナド論ないし予定調和の説によって、哲学上・神学上の対立的見解の調停を試みた。今日の記号論理学の萌芽も示す。近代的アカデミー(学士院)の普及に尽力。主著「形而上学叙説」「単子論」「弁神論」「人間悟性新論」。(1646 1716)  (仏教入門182頁)

カントと仏教 (仏教入門202頁)
カント【Immanuel Kant】ドイツの哲学者。ケーニヒスベルク大学教授。科学的認識の成立根拠を吟味し、認識は対象の模写ではなく主観(意識一般)が感覚の所与を秩序づけることによって成立すること(コペルニクス的転回)を主張、超経験的なもの(物自体)は科学的認識の対象ではなく、信仰の対象であるとし、伝統的形而上学を否定し、形而上学を批判的基礎づけの学とした。同様に道徳や美的判断の根拠を明らかにし、文化の諸領域を基礎づけた。著に「純粋理性批判」「実践理性批判」「道徳形而上学原論」「判断力批判」など。(1724 1804)

ヘーゲル (仏教入門203頁)
ヘーゲル【Georg Wilhelm Friedrich Hegel】ドイツ古典哲学の代表者。彼の哲学は自然・歴史・精神の全世界を不断の運動・変化・発展の過程として、その内的連関を明らかにしようとした巨大な試みであり、これを絶対的イデー(宇宙的理性または神)の弁証法的発展として把握した(絶対的観念論)。その弁証法はマルクスにより史的唯物論に基づく歴史の論理として批判的に継承され、キルケゴールやフォイエルバッハ、さらにはサルトルの実存主義などにも影響を与えた。主著「精神現象学」「論理学」「エンチクロペディー」「法律哲学綱要」のほか、死後出版された哲学史・歴史哲学・美学・宗教哲学などの講義がある。(1770 1831)

ヘーゲル‐がくは【―学派】(Hegelianer ドイツ) ヘーゲルの哲学を種々の方向へ発展させた人々。ヘーゲルの死後、学派は、 宗教的には正統派的、哲学的には思弁的、政治的には保守的な右派(ガプラー・ヴェルダー・グッシェルら)、 無神論的・唯物論的・急進的な左派または青年ヘーゲル学派(シュトラウス・フォイエルバッハ・シュティルナー・マルクスら)、 中間派(ローゼンクランツ W.Rosenkrantz 1821 1874・エルトマン J.E.Erdmann 1805 1892 ら)の三傾向へ分れ、一九世紀末にようやく萎靡(イビ)したが、二○世紀になって各国のヘーゲル学者を一括して新ヘーゲル学派と呼ぶことがある。

ショーペンハウエルと仏教
ショーペンハウアー【Arthur Schopenhauer】ドイツの哲学者。カントの認識論を現象主義的に徹底させて、世界を表象とみなし、その根本原理は生への盲目的意志であり、人間生活においては意志は絶えず他の意志によって阻まれ、生は同時に苦を意味し、この苦を免れるには意志の滅却・諦観以外にないと説いた。主著「意志と表象としての世界」。(1788 1860)

フォイエルバッハ【Feuerbach】 (Paul Johann Anselm von ~) ドイツの刑法学者。犯罪から遠ざけるために心理強制説を主張し、罪刑法定主義を基礎づけ、近代刑法学の父といわれる。著「現行ドイツ普通刑法教科書」。(1775 1833) (Ludwig ~) ドイツの唯物論哲学者。 Ⅰの子。ヘーゲル哲学を批判し、思弁哲学は神学であり神学の秘密は人間学であるという立場から宗教を批判、マルクス・エンゲルスに多大の影響を与えた。著「キリスト教の本質」など。(1804 1872)

キルケゴールの「主体性が心理」と仏教 (仏教入門182頁)
キルケゴール【S ren Kierkegaard】デンマークの思想家。合理主義的なヘーゲル的弁証法に反対し、人生の最深の意味を世界と神、現実と理想、信と知との絶対的対立のうちに見、個的実存を重視、後の実存哲学と弁証法神学とに大きな影響を与えた。著「あれか、これか」「不安の概念」「死に至る病」など。(1813 1855)

ニーチェ【Friedrich Wilhelm Nietzsche】ドイツの哲学者。実存主義の先駆者。キリスト教倫理思想を弱者の奴隷道徳とし、強者の自律的道徳を説き、この道徳の人を「超人」と称し、これを生の根源にある権力意志の権化と見た。また伝統的形而上学を幻の背後世界として否定し、神の死を告げた。著「ツァラトゥストラはかく語りき」「善悪の彼岸」「権力への意志」など。(1844 1900)

(…)
「創世直後、十の三十二乗分の一(10-32)秒の間に、宇宙が十の百乗倍(10100)に一気に膨張した時期があったという理論です。計算によると、この過程で〈子の宇宙〉〈孫の字笛〉という具合に、次々と宇宙が生まれる。互いに行き来はできませんが、理論的には我々のいるこの宇宙以外にも、宇宙は無数にあることになる。最近ではこういう考え方を<ユニバース>になぞらえて、〈マルチバース〉の理論と呼んでいます」

―宇宙がいったん誕生した後の筋道が見えてきたとすると、今度は「宇宙の始まり」そのものがナゾになってきますね。

「そこが長い間、ビッグバン宇宙論の問題点でした。時間をさかのぽっていくと宇宙が膨張し始めるポイントがある。そこでは宇宙の物質が一点に集まって密度が無限大になる。そこは現在の物理理論が適用できない〈特異点〉と呼ばれます。説明不能なら、宇宙を生み出したのは<神>と言うに等しい。だから、宇宙論には宇宙をスタートさせた<神の最初の一撃>という言葉もある。言ってみれば、この世界には神様の入ってくる<穴>が開いていたわけですね」

「ところが、今ではこの問題を解決してしまう理論さえ出ている。イギリスの宇宙物理学者、スティーブン・ホーキングなどが唱える説がそれです。彼によれば、創世の時の宇宙は我々の生きている時間とは違う〈虚時間〉の中で始まったことになる。この辺の話になると、皆さんキョトンとするんですけどね。要するに、虚数の時間というものを考えると、そこには始まりという点がない。そこからある時、今のような時空が始まった。

--まるで禅問答のような話ですね。

「この理論では、特異点なしで宇宙が始まることができる。いわば、神様が入ってくる穴をふさいでしまったんですね。もちろん、そういう物理法則がなぜあるのかという話になれば、これは説明できないと言うしかありませんが」




(…)


(…)



「ミリンダ王の問い」『バラモン教典,原始仏典』 長尾雅人編、大地原豊訳、中央公論社〈世界の名著 1〉、1969年5月30日。ISBN 978-4-12-400081-8。

「ミリンダ王の問い」『バラモン教典・原始仏典』 長尾雅人編、大地原豊訳、中央公論社〈中公バックス 世界の名著 1〉、1979年2月20日。ISBN 978-4-12-400611-7。

『ミリンダ王の問い インドとギリシアの対決』第1巻、中村元・早島鏡正訳、平凡社〈平凡社東洋文庫 7〉、1963年11月。ISBN 4-582-80007-6。

『ミリンダ王の問い インドとギリシアの対決』第1巻、中村元・早島鏡正訳、平凡社〈ワイド版東洋文庫 7〉、2003年5月。ISBN 4-256-80007-7。

『ミリンダ王の問い インドとギリシアの対決』第2巻、中村元・早島鏡正訳、平凡社〈平凡社東洋文庫 15〉、1964年3月。ISBN 4-582-80015-7。

『ミリンダ王の問い インドとギリシアの対決』第2巻、中村元・早島鏡正訳、平凡社〈ワイド版東洋文庫 15〉、2003年5月。ISBN 4-256-80015-8。

『ミリンダ王の問い インドとギリシアの対決』第3巻、中村元・早島鏡正訳、平凡社〈平凡社東洋文庫 28〉、1964年10月。ISBN 4-582-80028-9。

『ミリンダ王の問い インドとギリシアの対決』第3巻、中村元・早島鏡正訳、平凡社〈ワイド版東洋文庫 28〉、2003年5月。ISBN 4-256-80028-X。

「弥蘭陀王問経」『国訳大蔵経 経部』第12巻、国民文庫刊行会編、山上曹源訳、国民文庫刊行会、1917-1918。



空(くう)とミリンダ王の問い
http://ameblo.jp/healing-quigon/entry-12105936306.html
”では空を理解するための最適なテキストはなんでしょう?

それはズバリ「ミリンダ王の問い」です。このテクストは初期仏典の一つになります。ミリンダ王とは古代のギリシャの哲学王で、古代ギリシャ人らしく論争が好きです。反対にその相手役のナーガセーナ長老はインド人です。ミリンダ王はギリシャの伝統の実在論に立ち、ナーガセーナ長老はアビダルマ派を代表する非実在論者になります。実在論とは、この場合肉体とは別の魂の実在を認めることであり、反対に非実在論は魂の実在を否定する立場です

空の極意を現したものを以下引用します


「大王どの、もしやあなたが車でおいででしたのなら、それがしに車(のなんたるか)を述べてくださいませ。大王どの、轅がくるまでしょうか」
「いや、先生、そうではありませぬ」
「車軸が…車輪が…車室が…車台が…軛が…軛綱が…鞭打ち棒が、車ですか」
「いや先生、そうではありませぬ」
「そうではなくてと、では大王どの、轅・車軸・車輪・車室・車台・轅・轅綱・鞭打ち棒とは別に、車があるというわけですか」
「いや、先生、そうではありませぬ」
「大王どの、それがしはあなたに問いを重ねつつ、車(のなんたるか)をいっかな合点できませぬ。車とは大王どの、単なる名辞に尽きるのか。そえにしても、(存在なくして名辞はないはず、)ここで車とは何ものか。大王どの、あなたは事実無根の虚言をなされますぞ、『車(なるもの)は存在せず』と。大王どの、あなたは普天のもとに覇王たるかた、しかるに何をおそれてうそ偽りを語られるか。ご参集の各位― 五百のギリシア系市民および八千の比丘衆 ―は、それがしの提言を聞かれたい。これなる人物ミリンダ王は、『それがしは車で参りました次第で』などと申しつつ、『大王どの、もしあなたが車でおいでしたのなら、それがしに車(のなんたるか)を述べてくださいませ』と求められる段には、車(なる存在)を確証できぬ始末ですぞ。このこと、はたして是認してよろしかろうか」
このような弁論がなされるや否や、五百のギリシア系市民は長老ナーガセーナに歓呼し、ついでミリンダ王にこういった
「さあて今度は、大王さま、力の及ぶかぎり弁じてくださいませよ」-と
するとミリンダ王は、長老ナーガセーナに向かってこういった
「それがしは、ナーガセーナ長老、うそ偽りしゃべってはおりませぬ。(と申しますのは、)『車』とは、轅・車軸・車輪・車室・車台に依存し(た相関関係のもとに)て、(はじめて)呼称・標徴・記号表出・言語的通念・名のみのものとして成立する(にとどまり、それ自体としての存在はない)のでございます」-と
「よくこそ申された、大王どの、あなたは車(のなんたるか)がおわかりでいらっしゃる。それとまったく同様でございます、大王どの―それがしにつきましても『ナーガセーナ』とは、頭髪・膚毛……脳髄に依存し、様態・感受・知覚・表彰・認識に依存し(た相対関係のもとに)て、(はじめて)呼称・標徴・記号表出・言語的通念・名のみのものとして成立する一方、絶対的次元におきましては、ここに(相即して特定の)人格的実体(が存在するものと)は認められぬ― という次第であります。
(引用終了 太字はブログ主による)

車という概念は、それ単独で存在するのではなく、そのほかの概念に支えられて我々の前に現れます。つまり我々の自我が車という概念を選び出したとき、その下には様々な概念がぶら下がっていうということです。そして空とは概念のなかで一番抽象度の高いTOPに置かれます。一番上なので任意の概念をすべて包摂します。なにもかもを包摂しているのであらゆる状況に対応できます

空を悟ることができればあらゆることに対応が出来るようになります。あらゆる状況に対応できるとは、なにも先手を打つということではなくあらゆる状況を受け入れられる状態のことをいいます。受けいれられるので、常にリラックスしていて前頭前野で思考できます。そしてその抽象度の高い思考が病を治したり、IQが上がったり、生産性があがることを助けるでしょう

世界の名著〈第2〉大乗仏典 (1967年)/中央公論社”


まんどぅーかネットで連載しているリーディング教材のうち、日本語訳部分だけを抜き出したもの
http://www.manduuka.net/i/p/r/index.htm
[出典記号]
ア=アナセンリーダー
高=高楠『巴利語仏教文学講本』
水=水野『パーリ語仏教読本』

まんどぅーか ミリンダ王の問い
自己はない(名前の問い、車のたとえ)(ア55 高4-1)
http://www.manduuka.net/i/p/r/milinda/mi11.htm
”さて、まことにミリンダ王は、尊者ナーガセーナのいる所に近づいた。近づいて尊者ナーガセーナにあいさつした。日常のあいさつの言葉を終えて、一角に座った。尊者ナーガセーナもまた親しくあいさつをかわし、それによってミリンダ王を喜ばせた。
さてミリンダ王は、尊者ナーガセーナにこれを言った。
「尊師はどのように知られていますか。尊者よ、何という名ですか」と。
(ナーガセーナ)「大王よ、私はまことにナーガセーナとして知られています。大王よ、同輩の僧たちは私をナーガセーナと呼びます。にもかかわらず父母はナーガセーナと、またスーラセーナと、またヴィーラセーナと、またシーハセーナと名づけています。にもかかわらず、この、ナーガセーナとよばれるものは、名称、通称、概念、慣用、名のみのものであり、ここに自己は発見されません」と。
そこでミリンダ王はこう言った。
「尊者たちよ、500人のギリシア人と80000人の乞食修行者たちは私のいうことを聞け。このナーガセーナはこう言った。『ここに自己は発見されない』と。これを賞賛することがはたして有益かどうか」と。”


”さてミリンダ王は、尊者ナーガセーナにこれを言った。
「尊者ナーガセーナよ、もし自己が発見されないならば、それでは誰があなたがたに法衣や乞食の食物や寝具や医薬品や必需品を与えるのですか。誰がそれを享受するのですか。誰が道徳を守るのですか。誰が修行を実践するのですか。誰が生物を殺すのですか。誰が与えられないものを取るのですか。誰が姦淫をなすのですか。誰が偽って話すのですか。誰が酒を飲むのですか。誰が五無間業をなすのですか。それゆえによいことはなく、よくないことはなく、よいことやよくないことを、するものもさせるものもなく、善行や悪行の行為の結果である報いはありません。尊師ナーガセーナよ、もしあなたを殺すものがいても、彼の殺生もありません。尊師ナーガセーナよ、あなたには師匠もなく戒を授ける教師もなく具足戒もありません。あなたが『大王よ、同輩の僧たちは私をナーガセーナと呼びます』と言うなら、この場合のナーガセーナとは誰なのですか。尊師よ、いったい髪がナーガセーナなのですか」と。
(ナーガセーナ)「いいえ、大王よ」と。
(ミ)「体毛がナーガセーナなのですか」と。
(ナ)「いいえ、大王よ」と。
(ミ)「爪…(くりかえし)…、歯、皮膚、筋肉、腱、骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、脾臓、肺、腸、腸間膜、胃、大便、胆汁、痰、膿、血液、汗、脂肪、涙、リンパ、唾液、鼻汁、関節滑液、小便、頭における脳が、ナーガセーナなのですか」と。
(ナ)「いいえ、大王よ」と。
(ミ)「尊師よ、いったい物質がナーガセーナなのですか」と。
(ナ)「いいえ、大王よ」と。
(ミ)「感受作用…概念…構成…意識がナーガセーナなのですか」と。
(ナ)「いいえ、大王よ」と。
(ミ)「尊者よ、それなら物質および感受作用および概念および構成および意識がナーガセーナなのですか」と。
(ナ)「いいえ、大王よ」と。
(ミ)「尊者よ、それなら物質・感受作用・概念・構成・意識以外のものがナーガセーナなのですか」と。
(ナ)「いいえ、大王よ」と。
(ミ)「尊者よ、それなら私は質問しても質問してもナーガセーナを発見できません。尊者よ、いったいナーガセーナとは音声だけのことなのですか。それならここにいるナーガセーナは誰なのですか。あなたは偽って『ナーガセーナはいない』とウソの言葉を話しているのですか」と。 ”
http://www.manduuka.net/i/p/r/milinda/mi12.htm


”さて尊者ナーガセーナは、ミリンダ王にこれを言った。
「大王よ、あなたは実に王族で繊細に育ち、非常に繊細でおられます。大王よ、そのあなたが真昼間に、熱せられた土地や熱い砂の上を、固い小石や砂利や砂を踏みつけて、徒歩で来たのなら、足は痛み身体は疲れ心は病み苦痛を伴う身体の意識が起きます。あなたは徒歩で来たのですか、それとも乗り物でですか?」と。
(ミ)「尊者よ、私は徒歩で来たのではなく、車で来ました」と。
(ナ)「大王よ、もしあなたが車で来たのなら、車を私に告げてください。大王よ、いったい轅(ながえ)が車なのですか」と。
(ミ)「いいえ、尊者よ」と。
(ナ)「車軸が車なのですか」と。
(ミ)「いいえ、尊者よ」と。
(ナ)「車輪が…車のかごが…車の杖が…くびきが…手綱が…むちが車なのですか」と。
(ミ)「いいえ、尊者よ」と。
(ナ)「大王よ、いったい轅および車軸および車輪および車のかごおよび車の杖およびくびきおよび手綱およびむちが車なのですか」と。
(ミ)「いいえ、尊者よ」と。
(ナ)「大王よ、それなら轅・車軸・車輪・車のかご・車の杖・くびき・手綱・むち以外のものが車なのですか」と。
(ミ)「いいえ、尊者よ」と。
(ナ)「大王よ、それなら私は質問しても質問しても車を発見できません。大王よ、いったい車とは音声だけのことなのですか。それならここにある車は何なのですか。大王よ、あなたは偽って『車はない』とウソの言葉を話しているのですか。大王よ、あなたはインド全体の王であるのに、何を怖れて偽って言うのですか。尊者たちよ、500人のギリシア人と80000人の乞食修行者たちは私のいうことを聞け。このミリンダ王はこう言った。『私は車で来ました』と。『大王よ、もしあなたが車で来たのなら、車を私に告げてください』と言われて、『車を用意できない』と。これを賞賛することがはたして有益かどうか」”
http://www.manduuka.net/i/p/r/milinda/mi13.htm


”こう言われて、500人のギリシア人たちは尊者ナーガセーナに同意の声をあげて、ミリンダ王にこれを言った。
「大王よ、さあ今こそ、あなたは可能ならば言え」
さてミリンダ王は、尊者ナーガセーナにこれを言った。
「尊者ナーガセーナよ、私は偽って言うのではありません。轅によって、そして車軸によって、そして車輪によって、そして車によって、そして車の杖によって、車という、名称、通称、概念、慣用、名が起こるのです」と。
(ナ)「実に結構です。大王よ、あなたは車を理解なさいました。まさにこのように、私もまた、髪、体毛…脳…物質…意識によって、ナーガセーナという名称…名のみのものが起こりますが、最上義(勝義諦)からは、ここに自己は発見されないのです。大王よ、また女性乞食修行者(比丘尼)ヴァジラーはこのことを世尊の目の前で言いました

♪部分の集積によって車という語があるように要素があって衆生という名がある」と。

(ミ)「尊師ナーガセーナよ、不思議なことです。尊師ナーガセーナよ、驚くべきことです。質問に対するすばらしい知性が出されました。もし仏陀がご存命ならば、同意の声をあげるでしょう。実に結構です。ナーガセーナよ。質問に対するすばらしい知性が出されました」 ”
http://www.manduuka.net/i/p/r/milinda/mi14.htm

”ミリンダ王は、以下の発言からもわかるように、霊魂を感覚する主体として認識していた。

身体の内にある個我は、眼によって形を見、耳によって音を聞き、鼻によって香りを嗅ぎ、舌によって味を味わい、身体によって触れられるべきものに触れ、意によって事象を識別する。それは、ちょうどこの宮殿に座っている我々が、東西南北どの窓からでも眺めたい窓から眺めることができるのと同じことである。[12]

感覚器官が五感ではなくて、仏教的に、眼、耳、鼻、舌、身、意という六処(Sanskrit: Ṣaḍāyatana; Pāli: Saḷāyatana)となっている点は、ギリシア人の主張として不自然であるが、それでもこの発言を仏教徒による完全な創作と断じることはできない。なぜなら、個我(abbhantare jivo)は、他のパーリ語の聖典には見当たらないからである。この観念は、どうやらミリンダ王独自のもののようである。

ナーガセーナは、ミリンダ王に対して、次のように問い返し、霊魂が存在しないと言う。

ここの宮殿に座っている私たちは、これらの窓を開けて、顔を外に出せば、大虚空を通していっそうよく形を見ることができるでしょうが、それと同様に、眼の門が除去されると、内にあるこの個我は大虚空を通して、いっそうよく形を見るのでしょうか。また、耳、鼻、舌、身体が除去された時には、大虚空を通していっそうよく音を聞き、香りを嗅ぎ、味を味わい、触れられるべきものに触れることができるでしょうか。[13]

もしも人間の中に小人がいると想定し、その小人を感覚の主体とする認識モデルを肯定するなら、小人の中にさらに小人を想定しなければならず、無限後退に陥る。霊魂がそういう意味での実体として身体の中に存在するのではないのは、車を解体すると、中から小さな車の実体が出てくるのではないのと同じことである。

ギリシアの一般人はともかくとして、ギリシアの哲学者たちはそのような粗雑な実体主義には陥っていなかった。例えば、アリストテレスは、霊魂と身体が形相と質料、現実態と可能態、実体と偶有性の関係にあると言う。

霊魂は実体、それも可能的に生命を持つ自然的物体の形相という意味での実体であるということになる。しかし、この意味での実体は現実態であり、霊魂はこのような自然的物体の現実態ということになる。しかし、この現実態は知識(エピステーメ)と知識活動(テオーリア)という二通りの意味で言われる。[14]

形相と質料は概念的に区別できても、空間的に切り離すことはできない。だから、アリストテレスの哲学では、霊魂は身体の中の小人ではありえないのである。アリストテレスが認識しているように、霊魂は知識の選別を行う情報システムであり、知識活動は、物質を通じて行われ、また物質を離れては存在しないものの、情報システムを物質と同一視することはできない。

無我(Pāli: anattā; Sanskrit: anātman)説は、上座部仏教における三相(Pali: tilakkhaṇa; Sanskrit: trilakṣaṇa)、大乗仏教における三法印、つまり、仏教をそれ以外の教えから区別する三つの教義のうちの一つであるが、ガウタマ本人の本来の教えは、「自我への執着を捨てよ」という倫理的実践的教説であって、「自我は存在しない」という形而上学的教義ではなかった。ガウタマは、「死後霊魂は存在するか」といった形而上学的に問題に対して答えず、無記(Pāli: avyākata; Sanskrit: avyākṛta)、すなわち、真でも偽でもないものとした。そうした問題について論争をすると、自説への執着が生じ、修行の妨げになるからである。

では、なぜ無我や無常(Pāli: anicca; Sanskrit: anitya)が仏教の三法印あるいは三相になったのだろうか。もしも自我が存在しなければ、自我への執着はなくなる。自我への執着を捨てたいという願望が、自我は存在しないという思い込みにつながったと考えられる。同様に、富や権力が一時的ではかないものであるならば、それらに対する執着もなくなる。物への執着を捨てたいという願望が、すべては無常であるという思い込みにつながったと考えられる。サンユッタ・ニカーヤ2が無我や無常の否定を「悪魔の思想」とするのは、それが自我と物への執着を呼び醒まし、迷いの原因となるからである。

こうした願望を実現するための思い込みは、仏教に特有の思考である。仏教は、女が不浄であるというが、この女性蔑視の思想は、男の修行僧が女性への執着を断ち切るために、女性が汚くて魅力がなければよいのにという願望を抱くようになり、そしてその願望を実現するために、女性は不浄であると思い込むことで出来したものである。

ガウタマの死後、ガウタマを名乗った仏典が数多く書かれたが、ガウタマでない仏教徒がガウタマに成りすますのは、仏教は無我を法印としており、霊魂の実体的同一性を認めないので、自分とガウタマとを区別する理由がないからと説明することもできるが、ガウタマのようになりたいという仏教との願望が、自分はガウタマであるという思い込みに発展した結果であると説明することもできる。
4 : 輪廻説と無我説は矛盾しないのか

インドでは、生き物は、生前の業、すなわち、カルマ(Pāli: kamma; Sanskrit: kárman)の結果、別の生き物に生まれ変わるという輪廻(Pāli, Sanskrit: Saṃsāra)の思想が古くからあり、仏教もこれを受け継ぎ、生死を超えた因果応報説を信者に説いた。古代ギリシアでは、ピタゴラス学派やプラトンなどの例外はあるものの、輪廻転生説は一般的ではなく、ミリンダ王も輪廻転生に関して多くの質問をしている。無我説は、輪廻説と矛盾しているように見えるし、霊魂の実体的同一性を否定すると、因果応報説が倫理的に無意味になるように思えるからだ。

ナーガセーナによると、輪廻の主体は名色(みょうしき; Pāli, Sanskrit: Nāmarūpa)である。名と色のうち、色は色蘊に、名は他の五蘊に対応する。両者は、アリストテレスの哲学における質料と形相との関係に似ているが、名色は、名も色も実体的同一性を持たないという点で、質料や形相とは異なる。現世の名色と来世の名色は異なるが、因果の関係で結ばれているので連続性があることをナーガセーナは以下のような例を用いて説明している。

ナーガセーナ:それは、搾り出された牛乳がしばらくすると酪になり、さらに酪から生蘇となり、生蘇から醍醐となるようなものです。大王よ、牛乳が酪、生蘇、醍醐と同じであるということは正しいでしょうか。

ミリンダ王:尊者よ、そうではありません。それに依存して、他のものが生じたのです。

ナーガセーナ:大王よ、事象の連続はそれと同様に継続するのです。生じるものは、滅びるものとは別のものではあるが、両者はあたかも前後別物でないかのごとく継続しているのです。このように、それは同じでも異なるのでもないものとして、最後の意識に上るのです。[15]

酪、生蘇、醍醐というのは、チーズやバターのような乳製品で、牛乳を乳酸発酵して作る。乳酸発酵によって、分子の形が変わるので、形相は変化するが、質料は自己同一性を維持すると言うことができる。質料が自己同一性を維持すると言っても、素粒子には実体的な自己同一性はないので、量子力学的なミクロのレベルでは非連続的に連続性を観る仏教的世界観の方が正しいと言えなくもないのだが、ここで例に挙げられているようなマクロなレベルでは、そうした解釈は正当化されない。

ナーガセーナは、牛乳を買うという契約が、牛乳が酪となることによって無効にはならないという例を引き合いにして、名色が不連続であっても、輪廻によって前世の悪業を免れることはできない[16]と言う。だから、無我説は、輪廻転生説や因果応報説とは矛盾しないというのであるが、もしも悪業をなす名色とその報いを受ける名色が、たんに因果関係で結ばれているだけで、実体として異なるものであるとするならば、悪業を免れることになるし、もしも悪業を免れることがないというのなら、変動する偶有性とは別に、責任の主体となる人格の実体的同一性を想定しなければならなくなる。

矛盾している教えを和することを仏教では会通(えつう)というが、ナーガセーナの会通は説得力に欠く。その最大の理由は、無我説を「自我に対する執着を捨てよ」という倫理的教義ではなくて「自我は存在しない」という形而上学的教義にしてしまったところにある。自我に執着するから、自我と一緒に輪廻転生を繰り返すのであり、自我への執着を捨てるなら、輪廻転生から解脱することができる。自我への執着を不可能にするために、自我は存在しないということにすると、存在しない自我がなぜ輪廻するのか、なぜ解脱するとなぜ輪廻転生から免れるようになるのかがわからなくなってしまう。 ”
https://www.nagaitoshiya.com/ja/2012/milindapanha/
ギリシアの有の哲学対仏教の無の哲学















お読みくださり感謝します。
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菊池 ‏@kikuchi_8  唯識はユングとフロイトよりはるか格上。思想や哲学は世界をどう解釈するかという「世界観モデル」に過ぎない 

ア随時追加
国際秘密力研究
kokuhiken.exblog.jp
珍しくブログもやっている。


ずっといい忘れてたんだけどさ、私は思想の比較研究がすきなのであって、陰謀論も思想の一種として趣味で研究してるんだ。支配層って思想系の資料は特に改竄やらかすしプロパガンダやらかすから迷惑なんだ。だから支配層叩きもやっているわけよ。嘘からほんとうを見つける作業さ。というの本ブログみても資料集的側面が強いでしょ?

時代が進むごとに、だんだん東洋と中東思想っぽくなるのが西洋思想。 そして自分らは最先端だと言い張る。 東洋中東を取り入れて改悪しただけなのにね。 西洋の最先端思想=古代中東東洋思想を科学的やそ的に改造しただけ。 最先端どころか周回遅れ。 こーさくいんっぽいユングの思想って、阿頼耶識縁起のぱくりっぽい。 仏教は無意識の研究どころか、阿頼耶識という潜在意識を浄化して悪影響を取り除く技術まで紀元前に開発ずみなのにね。
西洋のいう進化って悪化と劣化の間違いなんじゃねーの?

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年5月8日
オカルトと陰謀論のセット売り現象について議論していたのが、いつの間にか霊現象の有無について議論している事になっている怪。

閉店です ‏@lakudagoya 2015年5月8日
@kikuchi_8 いつもこのパターンです。でも、デリケートな問題ではあるようです。

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年5月8日
@lakudagoya 信仰を否定された宗教者の火病反応に近いものを感じますが。しかし、現実には私もねこたさんもオカルト現象自体を否定しているわけでもない。「無記」とお互い言っていただけなわけですよね。それがいつの間にかあのような大炎上になっていて驚きました。

閉店です ‏@lakudagoya 2015年5月8日

@kikuchi_8 うーん、このあたりの事は何故かうまく伝わらないんですね。なので陰謀論とオカルトのセット売りと、オカルトの実在については両論併記か別に話す必要があると思ってます。別に二枚舌ではなくて、うまく説得するにはどうしたらいいか?といつも悩みますね。


菊池 ‏@kikuchi_8 2015年5月8日

@lakudagoya スピと陰謀論は野球とサッカーみたいにジャンルが違うとはっきりおっしゃっているわけですよね。野球もゴルフも趣味だという人は別に二枚舌という訳ではないです。しかし野球のルールをゴルフに適用することはカテゴリーミステイクと。そういうご趣旨と承っているのですが。

閉店です ‏@lakudagoya 2015年5月8日

@kikuchi_8 自分は非魔導師の魔道師研究家なので、ホロスコープやゲマトリアがどのくらい効果があるのかは不明なんですが、そういう力が支配力の源泉になってるかもですね。この場合は、不可視な力を用いてと、それを人を騙す宗教詐欺の道具に使っての2パターンあるのでは?と思いますが。

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年5月8日

@lakudagoya そう思います。魔術という意味でのオカルトは現実に使用されていると思います。タヴィストックの洗脳科学とかはまさにそうで。「自己の意志を強制し人や自然を操作する技術」とクロウリーあたりが魔術を定義してたようですが、これは近代科学の定義にも当てはまりそうです。

閉店です ‏@lakudagoya 2015年5月8日

@kikuchi_8 私はですね、魔術に関してもできるだけ当たり前に説明したいんですよね。潜在意識が現実を規定してるというものがあれば、いじめとかで自閉気味になってる事で人とうまくコミュニケーション取れなかったりする問題がありますよね。仏教ではそれを阿頼耶識と言いますが

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年5月8日

@lakudagoya 魔術を一つの現実的な技術として定義されるお考えは魅力的だと思います。私も唯識は興味あります。人間の思考や行為の積み重ねが、潜在意識のあり方を規定し人格を形成していく、という阿頼耶識縁起の考え方ですね。これはよく考えるとごく当たり前のことなんですよね。

閉店です ‏@lakudagoya 2015年5月8日

@kikuchi_8 私は、スピ系のオカルトを超常現象のように扱う姿勢はどうも苦手なんです。たとえば否定しかされなかった人は自分に自信がない。自信がないから何をやってもうまく行かないみたいな当たり前の話なんですよ。なのでそれを変えるには潜在意識と行動を変えるしか。当たり前の事です

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年5月8日

@lakudagoya それはまさに「現行熏種子 種子生現行」という阿頼耶識縁起そのものですね。表層意識でなされる行動の影響が潜在意識に影響を与え、そこに蓄えられた影響力の残滓がある機縁を得て表層意識に上り具体的な行為として現象する。それがまた潜在意識に・・。という循環です。

閉店です ‏@lakudagoya 2015年5月8日

@kikuchi_8 魔術ってですね、そういう仏教で言われた当たり前の法則を「認識」して現実を操る「認識(グノーシス)」の技なんですよね。まあこういうところは自然科学に対する人文科学のようなところがありますけどね、スピ系の言う大きな事じゃないと思う。こういう姿勢が嫌われます(笑)

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年5月8日

@lakudagoya 唯識も古代の深層心理学だと思います。性的抑圧で一元的に説明する感じのフロイトや集合無意識という形而上学を立てるユングよりも、より現実に即した理論だと私は思います。魔術も要するにそういう現実に即した近代以前からある経験科学という解釈ですね。納得できます。

閉店です ‏@lakudagoya 2015年5月8日

@kikuchi_8 阿頼耶識や倶舎論ですっけ?そっちのほうがユングやフロイトよりも現実に即してますね。オカルトと切り捨てられるものは大抵経験科学なんですが、一応道教呪術でも何でもそうなんですけど、法則性というものを重視しますよね?スピ系はこのあたりの緻密な法則性無視しますしね。

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年5月8日

@lakudagoya 私はそう思っています。阿頼耶識は無記性で、善でも悪でもないという規定は現実的に思います。深層心理に心的実在が宿っているという話でもないです。それなりに経験的に確かめられた限りでの事が理論化されている趣です。法則性より超常性に拘る方が多いのでしょうか?

閉店です ‏@lakudagoya 2015年5月8日

@kikuchi_8 経験則で確かめられた話で仏教などでは既に理論化されてますけど、それが言葉ではなく、体験でしかわからない真理!とか迫ってくるのが苦手なだけで。超常性にこだわる方で私の事を霊的な事体験してないからと見下してくる人は、とても多いですね。量産型イエスキリストさんとか

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年5月8日

@lakudagoyaなるほど。経験はそれなりに言語化しないと人には伝わらないですからね。「歩く」という現象は実際に歩いてみないと分からないにしても、「私は歩く」という表現は普通に通用します。超常性に拘ると、なにがしかの選民意識に囚われがちと思うのは私の偏見でしょうか。

菊池 ‏@kikuchi_8 2016年5月

初期仏教の研究者(仏教の思想第2巻存在の分析より)によると我が国では江戸時代までは仏教の宗派を問わず学僧達が倶舎論や唯識学を「性相学」として学んでいたとの事。仏教の基礎学として哲学的なアビダルマ=論が学ばれていた。往生要集で有名な源信は一面では倶舎論研究の学者だったそうである。

しかし、明治以後は仏教宗派を問わず性相学を学ぶという伝統は廃れてしまったそうだ。ここにも憑依型戦術に侵入された原因の一つを見る。江戸時代までは学僧達が初期仏教や初期大乗の基礎学を修める事で異質な要素の流入を防いでいたが、明治以後はその枠が無くなり神智学などに侵入される隙を生んだ。

「桃栗三年柿八年」にかけて論蔵習得の難しさを例えて「唯識三年倶舎八年」と言われる。こういう格言がある事自体、日本ではアビダルマがしっかり学ばれていた事を物語っている。こういうよき伝統はやはり明治で廃れてしまっている。仏耶一元論や神智学化など、この伝統があれば防止できたはずである。

倶舎論と唯識学を習得したほどの学僧ならば、仏耶一元論や神智学など鼻で笑うはずである。鈴木正三などが切支丹に対したように、徹底的に論破した上で日本の伝統思想を換骨奪胎して西洋化する思想攻勢を完全に防ぎ得たはずである。こういう知的武装が解除されてしまったが故に、侵攻を許したと考える。

唯識では、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識という「心王」(しんのう)と、
貪瞋癡など煩悩の心所や無貪無瞋無癡の善の心所など「心所」(しんじょ)
の組み合わせで心=識の構造を説明する。心王とは心の要素の中心。心所とは心王に付随する心作用である。心王と心所が相応する。

唯識の心王心所論の原型は部派仏教の説一切有部の心・心所論だと思われる。
説一切有部を批判する事で中観派の空の哲学が完成し、空を踏まえた上で、説一切有部のアビダルマを再構成したものが唯識である。唯識とはいわば大乗のアビダルマである。アビダルマとは経・律・論の三蔵の中の論の事である。

唯識は最初ちんぷんかんぷんでよく分からなかったが、興福寺僧侶が書いた「唯識 こころの哲学―唯識三十頌を読む」という解説書を読んだら概要がつかめてきた。興味があられる方がおられたらお勧めする。心理や洗脳の分析はフロイトやユング(彼ら自体が罠だから)ではなく唯識を応用して分析したい。

唯識とフロイトでは、深層心理に対する捉え方が異なる。フロイトは表層意識と対立す深層心理はドロドロした動物的衝動が渦巻く領域という捉え方だと思うが、唯識では、深層心理は表層意識のあり方次第で善にも悪にもなり、深層心理自体は価値的に無記だと見る。唯識の捉え方の方が合理的だと感じる。

フロイトはタヴィストック理論に多大な影響を与え、ユングはグノーシスや錬金術など秘密結社と密接な理論なので、彼らの理論自体が国際秘密力の思想ツールと言える。従って秘密力の心理戦術や洗脳工作を分析する場合には彼らの理論をも俯瞰して見ないといけない。だから日本に根付いた唯識理論を使う。

「なんでこやつは唯識の話ばかりしているのだ?」と疑問に思われた方もいるかもしれないが、唯識の理論をよく使っているのは今述べた理由による。フロイトやユングに対抗しうる日本及び東洋の知的遺産を「破国際秘密力」に応用したいという意図である。この古代心理学は現代でも通用すると考えている。

それそのものが国際秘密力の思想ツールであるフロイトやユングを相対化し、日本人として自前の立脚地に基づいて彼らの心理戦術を分析する場合、唯識理論は極めて貴重な「視点」「枠組み」「武器」となると考える。唯識は奈良時代から日本に根付く伝統なのである。活用させて頂かない手はない。

前にも何度も書いているが思想や哲学は世界をどう解釈するかという「世界観モデル」に過ぎないと考えている。世界を分析する為の「枠組み」である。したがって、特定の思想哲学を絶対化する事は危ない。唯識もそういう態度で活用している。何より唯識自身がそういう態度なのである。そこがよいと思う。

つまり、フロイトやユングなど国際秘密力系の心理理論を相対化する為に唯識の視点・枠組みを活用するという事である。

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年3月26日

@aliceizer ユングは興味深いですね。心とは、集合無意識という共通の場と自我という固有の領域の二つから成る、というお考えでしょうか?私はそれとは違って、「自己」というあり方そのものが間主体的に形成されており、それが同時に固有のものである、と考えています。

菊池 ‏@kikuchi_8 2016年4月9日
易経は「占いの書」と「義理の書」(哲学の書)という二つの側面がある。義理の書として易経が説く人生哲学は「謙虚」に集約されると思う。驕るとろくなことがないという「真理」は古代も今も変わらないのだろう。慎みを宝とした老子や我執を戒める仏教など年月に耐えてきた思想は大体同じことを言う。
易経の説く所では、四季の様に事物には勢いが伸びる時節と縮む時節があり、要するにバイオリズムだが、事物の循環の中でその時その場で適正な行動を選択する「中庸」が重要であるとする。勢いが伸びても驕らず縮んでも落ち込み過ぎない、中正の態度である。直線的な時間観の終末思想とはかなり異なる。

西洋の終末思想では、「世界の終わりが来て救世主が降臨して最終戦争が起きて」という断定的に空想を語るのが特徴だが、易経では「予言」というより、人生や歴史の経験則を「大体こうすれば大過はないのでは?」と人間の身の処し方を諭す形である。前者は宿命論だが、後者は「生き方指南」の趣である。

仏陀が「世界は有限か無限か」など答えの出ない形而上学的問いを「苦の克服」という実践には役に立たない命題として避けた態度を「無記」と言う。妙な終末論やオカルトが陰謀追及者を惑わし「援兵化」する道具になっているが、現実的な命題を中心とする「無記」の態度は誘導防衛策としても適切である。
易経のよい所も、空想的予言を語るのではなくあくまで歴史や人生の経験則に則って生き方の指針を示す所である。陰陽思想も元々は自然の観察から得られた一つの世界観モデルに過ぎない。自然界で四季が循環する様に人事もまたしかり、という解釈である。東洋の古典は現実的であまり飛躍が無い所が良い。

中尾 綾 ‏@ayajet128 2016年4月9日
@kikuchi_8 ユングも易に興味をもってましたね。

菊池 ‏@kikuchi_8 2016年4月9日

@ayajet128 そうですね。ユングは禅や道教など東洋思想にも興味を持っていたようです。でも、正しく解釈していたとは思えませんが。

中尾 綾 ‏@ayajet128 2016年4月9日

@kikuchi_8 ユングはノーベル物理学賞を受賞したヴォルフガング・パウリと共同研究し、同期性と非因果的な連結の原理という論文を。ユング研究所から共著、自然現象と心の構造を刊行。ヘルマン・ヘッセ、ライプニッツも易を高く評価しています。

菊池 ‏@kikuchi_8 2016年4月9日

@ayajet128 ご教示ありがとうございますm(_ _)mライプニッツが易の影響を受けたというのは何かで読んだ記憶があります。量子論の理論物理学者であるニールス・ボーアが易経や老荘思想に傾倒していたようです。







菊池 ‏@kikuchi_8 2016年4月10日

@take35c @ayajet128 ご教示感謝ですm(_ _)m初期仏教が説く生住滅の三相ですね。確かにコンピュータ科学の基礎になった2進法は陰爻と陽爻で万象を表す易経の世界観と似ていると思います。古代の東洋思想ほど、最先端科学が導き出した世界観と似ているという不思議ですね。

(似ているのでなく真似ただけ。
最先端科学=西洋発。
東洋と中東思想の西洋への流入量が増えるにしたがってそれを反映した科学技術が生まれただけ)

竹田 ‏@take35c 2016年4月11日

@kikuchi_8 @ayajet128 全くもってご理解の通りです。
一切はあっという間に滅して、変化している→「一切行無常」。
全ては滅して変化しているので、変わらぬ自分など無い→「一切法無我」。
それが解らず執着したり、身体や意識を自分と思う事で苦の連鎖に→「一切皆苦」。
解らない人のために少し補足すると、刹那滅であるから一切行無常。全てはあっという間に生滅して変化している。 なので一貫して観察する主体などあり得ない。 ところが仏教ではその一貫した主体を「我」としている、故に一切法無我。
菊池 ‏@kikuchi_8 2016年4月12日

@take35c @ayajet128 その通りですね。もし変化しない実体としての「我」があるとすると、「観察」という時間的幅を持った働きは一連の変化の過程なので不可能になります。例えば、甲という事物の一瞬を捉えた視覚Aが永遠に不変であれば、甲の変化する動きを捉えられません。

政志@綺麗な声に憧れる← ‏@nioumasashi 11 分11 分前

@take35c @kitsuchitsuchi @kikuchi_8 @ayajet128 直リンはしないでおきますh ttps://twitter.com/ryomashiro/status/640472463923503105





菊池 ‏@kikuchi_8 2016年5月21日

西洋キリスト教社会では、人と動物の関係に関して二つの見方があるように思う。一つは「人は動物より一段高い」とする見方である。もう一つは「人など所詮動物に過ぎない」という見方である。これは実はどちらも動物蔑視観に基づいている。動物を蔑視した上で人を上にするか否なの違いに過ぎないのだ。

キリスト教では人間は動物より一段高いという前提がある。反対のフロイト思想等は「生物学主義」と言われ、人間を動物と同じ次元に引き下げると批判される。生物学主義は人間など所詮動物だとする。正反対に見えるが、実はどちらも動物蔑視観が前提である。日本人は人も動物も等しく尊いと考える。

フランシス・フクヤマが東洋人は人を動物と同じと考えていると批判していたと記憶している。西洋では「動物は下等」という前提があるので人を動物と同一視したら人を卑しめる事になるのかもしれないが、東洋では人も動物も等しく生命であり尊いとするので「人と動物は同じ」と言っても意味が全く違う。

まとめると、西洋の「人間と動物は同じ」は、「動物は下等」という前提のもと、人間をそこに「引き下げる」というニュアンスであるが、東洋の「人間と動物は同じ」は、「人間も動物も等しく尊い」というニュアンスなのである。前提の違いを無視するととんでもない曲解をしてしまう事になる。

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年1月6日
スッタニパータ1035【 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」】←洗脳防止の指針にもなりうる名句かと。

「 ブッダのことば スッタニパータ」中村元訳(岩波文庫)から引用。碩学・中村元先生のわかりやすい名訳。定番である。一読をお勧めする次第である。


菊池 ‏@kikuchi_8 2月17日
参考。唯識は現在でも十分活用できる考察が多い。個人的にはフロイトやユングなどより参考になった。https://twitter.com/kikuchi_8/status/828258668852371456 …
菊池‏@kikuchi_8 2月5日
唯識が言う対象を識別した際の意識の展開過程
①卒爾心(そつにしん)対象に気づく漠然とした認識)
②尋求心(じんぐしん)「これは何だろう?」と推求する心
③決定心(けつじょうしん)「これは〇〇だ」と判断する心
④染浄心(ぜんじょうしん)対象に執着する心➄等流心(とうるしん)執着心の持続。

菊池 ‏@kikuchi_8 2月
対象認識の発生プロセスを唯識の用語を借りて分析①卒爾心(対象に気づく)②尋求心(「これはなんだろう?」と対象を推求)③決定心(対象について「これは〇〇だ」と判断)④染浄心(対象に愛着や嫌悪が発生)➄等流心(染浄心の継続)
〇「気を付ける」はできれば①~③で行う。④からは誘導の領域。

言葉は強力である。ある言葉を繰り返し刷込まれるとその言葉が示す概念が実在する様な感覚になる(宗教や形而上学)。我々が認識している「世界」も自分で知覚して確かめたものは少なくて(特に国際政治)、大半が誰かが与える情報によって構築されている。だから情報をしっかり吟味する事が不可欠だ。

「意志を強制して対象を操り支配する」というのが「魔術」の本質だが、その定義からすると情報操作や洗脳宣伝、思想工作などはまさに「魔術」そのものだと言える。これらは人間の概念的思考に働きかける。情報も思想も言葉≒概念の塊なので「魔術」を破るには言葉の性質を見破るのが近道だと考える。

言葉の性質の一つが何度か述べている「名と義の相互客塵性(言葉の表記とそれが示す概念・事物の結びつきは本来必然的ではない)」。ある事物をある名称で呼ぶのは社会的な慣習・約束事に基づく。だが、繰り返し使用している内に必然だと思えてくる。西洋のロゴス中心主義はここから来る。魔術の源泉。

ある事物をある名称で呼ぶと実質が無いのにその名称通りの性質があるように思えてきたり(「安倍は愛国保守」等)、証拠もないのに何かの存在を名辞で示すとそれが実在と思えてくる(造物主概念やイデア論など)。ある意味言葉は人間の心理的環境を作り出す力がある。だから魔術師は言葉≒概念を操る。

対「洗脳」「魔術」対策で着目すべき言葉≒概念の性質は主に二つあると思う。
①仮構作用。仮構とは言葉によって事物存在を認識の中に立ち上がらせる作用である。「丸いざらざらしたそれ」を「りんご」として立ち上がらせるなど。知覚が伴わない概念的存在は言葉とイメージ(表象)のみで立ち上がる。

②執着の対象。知覚的存在にしろ概念的存在にしろ、概念によって「それ」として認識された対象は苦(不快)・楽(快)・不苦不楽(どちらでもない)いずれかの値を帯びる。苦は引き離し、楽は引き寄せる。この時点で行動が促される。まとめると言葉の魔術は①対象ひいては環境を作り出し②行動を操る。

言葉の二つの性質①事物存在を認識の中に立ち上げる②認識者の行動を促す。かかる性質を持つ言葉=ロゴスを操作する事で魔術師は人の「(心理的な)環境」を作り人の「行動」を促し操作する。言葉の性質を悪用した技術である。よって対処法は言葉の性質を見破り言葉の魔術を無効化する事と結論できる。

唯識で言う「遍計所執性」とは概念の仮構作用によって立ち上がった事物存在に執着している心理状態を示す。つまり言葉の魔術に嵌められている状態である。「遍計所執性」を破り言葉の魔術に惑わされなくなった心理状態を「円成実性」と名付けた。唯識はある意味「魔術の破り方」そのものだと言える。

吾人が唯識を頻繁に活用しているのは魔術を破る為のヒントがあると見ているからである。国際秘密力は「意志を強制する技術=魔術」を駆使して世界を支配しようとする。印度で1500年以上前に生まれ、日本では1300年以上の歴史を持つ「唯識」という学問は「魔術を解除する方法」としても読める。

一神教や神秘主義などに憑依されていない伝統的学問を活用して魔術を破る。これぞ「破国際秘密力」の醍醐味であると思う。唯識は日本の伝統的学問の中でも極めて論理性が高い。陳那(ディグナーガ)などの論理学を伴うので当然と言えば当然であるが。論理性の高さ故どうしても活用する頻度が高くなる。

とはいえ、唯識を金科玉条にしては元も子もない。どのようなものであれ、あくまで「学問として活用する」「参考程度」という姿勢が大切だと考える。何分1500年以上前のものなので不合理な点も無きにしも非ずである。活用できる部分を活用すべきであろう。思考し活用するのは常に自分自身である。





閉店です ‏@lakudagoya 2017年2月19日
菊池氏のRTにエアリプ。

おばちゃん、それ古典的な記憶術やで。ローマ時代からあるやつ。

4福音書を12宮に関連付けて覚えた強者の話とか。
記憶術って便利やで。
本は一度読めば大抵どの本に何が書いてあったか思い出せる。
商品の棚に置いてあるものも大抵記憶できるから、買い物の無駄足が無くて良いな。
後はインプットに少し時間かかるけど、図書館や大型書店の本棚にどこにあるのか覚えたり。
でも日常のは忘れる。
知識は記憶術を駆使すれば、世界で一番軽い資産になるわけ。
金塊は重くて持ち運べないけど知識や智慧は空気よりも軽いからね。
ほーしゃのー等で脳みそのハードディスクがやられない限り。
あと、記憶術便利なのは一度読めば記憶できるから、本を借りて済ますことができる所かな?
遊牧民が知識や智慧を重んじるのは、持ち運べる中で一番軽い資産だから。
今のようにトラックがあるわけじゃないから、遊牧民は家畜かアクセサリーか知識か智慧くらいしか資産を持てない。
それだから、あまり持っててもしょうがないので溜め込む事があまりないから金離れが良い。

記憶術は古代の哲学者が使ってた通常能力です。
書物文化のあるギリシャ・ローマでも本を丸ごと覚えたりするの普通なのに、書物を使わないケルトとかどうやってたんだろ?
賛歌や詩の文化は文字を持たない地域の記憶術でもあるよ。
ほれヴェーダ宗教。




菊池 ‏@kikuchi_8
西洋思想には「観念論VS唯物論」という両建構造がある。これを「火がついたロウソク」の喩えで「破両建」する。観念論とは「ロウソクがなくても火が単独で燃える」という説である。唯物論は「火はロウソクだ(火は無でロウソクに還元される)」という説である。どちらも不合理である事が分かる。

「火がついたロウソク」の喩えでは火を「精神」に、ロウソクを「身体」「物質」にそれぞれ喩えた。龍樹が「アートマンと心身の不一不異」を論証する為に中論で使った有名な比喩を借りたのである。

「火がロウソク抜きで単独で燃える」とするのは不合理だが、「火は非実在でロウソクは実在なので、火は全てロウソクに還元される」というのも不合理だ。ロウソクに依って火はあるが、だからといって「火はロウソクだ」と還元する事はできない。火とロウソクは同じでも異なるでもない。不一不異である。

「心身と自己」の関係も「火とロウソク」の関係と同様に不一不異である。心身の諸要素を離れて「自己」はないが「自己」は心身の諸要素に還元し尽くされる訳でもない。「音とメロディー」の関係と同じである。個々の「音」を離れて「メロディー」はないが、個々の「音」が「メロディー」なのではない。


たまたま読んだ某印度哲学者の見解があまりに変だと思ったから唐突にこの様な事を書いた。「心身とは別の常住不変のアートマンがある」という見解。証明しようもないが、不合理さは明らかである。「不変」だから心身の動きとは全く無関係で何をしようと影響がないので「努力」などは全く無意味となる。


「無我論」は「自己は無い」論ではなく「実体=自性としての自己は無い」論であり「他に依って(無自性なものとして)自己はある」論と言える。端的に「自己は無い」ではなく「依存関係によって自己はある」と言っている。「常住不変のアートマン」を設定する印度哲学よりこっちの方が合理的だと思う。


印度哲学は国際秘密力研究的にも重要なのでたまに調べるが、印度哲学・仏教哲学クラスタの人々は「アートマンの有無」という形而上学的命題を紀元前さながらに論じている。あまり意味があるとは思えない。定義次第である。「不変」という定義をするなら、あってもなくても全く無意味な概念と言える。

「不変の自己=アートマン」という概念が無意味である事は先に述べた通りである。文字通り「不変」であるなら「自己変革」「自己の向上」という「変化」はありえないので「努力」とか「修行」は全く無意味となるからである。かといって自己=無でもない。変化しつつ持続する。それが「自己」である。


「他に依ってある自己」は「変化しつつ持続する」ので「常住」でも「断滅」でもない。
よって常住論でも虚無論でもない。
そういった両極端を排するのが「中道」である。それはまた現実の観察から得られるので、
仮定と想像に基づく無意味な形而上学的思索=戯論を排する無記の立場でもある。


印度哲学を調べていると、印度哲学や仏教哲学の愛好家達が己の形而上学的見解に固執して無意味な争いをしているのが目に入り、うんざりする事がしばしばである。「ブッダはアートマンを説いたか」などどうでもいい話である。ブッダが説こうと説くまいと「不変のアートマン」は論理矛盾に陥るのだから。

正統印度哲学者など「常住不変のアートマン」に固執する立場からの「無我」説批判は「無我=自己は無い=虚無論」と曲解して藁人形論法の方式で非難する場合が殆ど
である。「無我」とは「自己に常住不変の実体はない→依存関係によって自己はある」という意味なので完全にこの批判は的外れだと言える。


「無我」とは「変化する現象として自己はある」の意味。
端的に「自己は無い」と言っているのではない。
「空」も同様である。「依存関係に基づいて生起する現象としてある」から「空」なのであって「無」ではない。
「空」であるものは「ある」のである。虚無論でも常住論でもない。だから「中道」。



「自己」とは「実体」ではなく一種の「ゲシュタルト」だと考える事も出来る。「自己」は心身の様々な要素(「五蘊」などと言う)に依存して存在するが、個々の心身の要素がそのまま「自己」なのではない。要素に依存して成立するが、要素そのものでもない。「音」に対する「メロディー」と同様である。

要素に依存して成立するゲシュタルトは個々の要素そのものではないが、個々の要素を離れてあるのでもない。
誰が歌っても同じ「桃太郎唱歌」(プロフィール写真にちなむ)であるが、個々の歌い手の「声」「音」は違う。個々の「声」「音」を離れて「唱歌」があるのでもない。要素と全体は相互依存関係


「アートマンという常住不変の実体がないと認識作用も宙に浮いてしまう」とあるインド哲学者が書いていたがそうではないと思う。抽象的に考えるからそういう結論に陥る。認識作用は抽象的ではなく常に具体的なものである。例えば「見る」作用は常に「具体的な何か」を見ている。「見る」一般は無い。

注記。「アートマン観念が無いと認識作用が宙に浮く」とは「Aさんのアートマン」「Bさんのアートマン」がないとある認識作用がAさんのものなのかBさんのものなのかが区別できないという意味である。印度六派哲学の立場に立つ某印度哲学者の所論である。

「アートマン(常住不変な「私」)がないと誰の認識作用か分からなくなる」という事は無い。認識作用の個別具体性を規定するのは抽象的な「私」ではなく認識が行なわれる「場」である身体が置かれた空間的配置である。空間的配置こそが「個」を規定する、と思う。そこに「私」という名称を与えるのだ。

逆に人から個別具体的な属性や作用、性質を全てはぎ取った末に残る「アートマン(私)」は何の特徴も持っていない無色透明で没個性な抽象的存在(「存在」と言えるのかすら疑問)なので、逆にこのアートマン概念を以てしては自他の区別ができなくなる。近代的な「個人」や「自我」の観念にも通じる。


ここで言っているのは一般的に使われる「個性」「個性的」とかの話ではなく、もっと原理的な話です。「個人」「自己」とはどのような条件で存在しているのか?という。人間は抽象的存在ではありえない。必ずある時間のある空間に配置されている。

どんなに「無個性」と言われる人間でも「個別具体性=個性」はどこまでも付きまとう。まず、人は特定の親から生まれ、特定の環境で育ち、ある時間にある空間を占めつつ存在する。この具体的条件を置いて「個人」は存在しえない。ここで論じたのはそういう個人存在が持つ不可避の構造についてである。
「あいつは個性的だ」「個性的でなければいけない」「没個性な人だ」等々の一般的な価値判断の話ではない。「自己」とか「個人」そのものの存立構造の話である。言葉の定義やニュアンスは「名と義の相互客塵性(能記と所記の結合の恣意性)」の為に様々な解釈が可。よって定義のすり合わせが不可欠。


前出印度哲学者は龍樹ら仏教哲学者は「認識主体は無い」と主張したとして批判していたが「認識対象と認識主体の相互依存性」を説いたのであって端的に「認識主体は無い」と言ったのではないだろう。「行為」と「行為者」も同じ。行為と行為者はそれぞれ実体としてあるのではなく相互依存的に成立する。

六派哲学(ヴァイシェーシカなど)の様な実体論に固執すると「存在は実体としてある」と頑なに信じるようになる為か「依存関係による生起=縁起」が見えなくなるので、長年印度哲学を探求してきたような人こそかえって不合理な結論に陥る場合があるようだ。印度哲学クラスタを観察して得た感想である。

「認識作用が属する常住不変の自己がなければ、ある認識作用が誰のものか区別がなくなる」はない。逆にあらゆる性質や属性を捨象した「自己」ではかえって自他の区別ができない。認識作用が誰に属するかを規定するのは、その認識作用が機能する「場」である心身が置かれた空間的時間的配置だと考える。

ある「個人」から具体的な行為、性質、属性等々を全てはぎ取っても残る「自己」とは無色透明なそれこそ無個性な「存在」?である。これでは自他の区別すらつかない。その人が生きてきた環境や履歴を離れて「個性」はない、と言える。抽象的な「自己」「個人」とは実は「個性」とは真逆の概念である。

印度六派哲学の一つヴァイシェーシカ派(勝論派)は「合理主義的実在論」とされる。しかし実体を想定する実在論は「合理的」である事は難しい。何故なら変化する現象と実体の概念は矛盾するからだ。だから実体観を維持しつつ整合性を保とうとすると現象と実在の二元論(二世界論)にならざるを得ない。
「不変の実体」という概念と現実に観察される変化する現象の整合性を取ろうとすると必然的に「実在界」と「現象界」を二分する二世界論になる。「イデア界」を設定したプラトンが典型である。
部派仏教の説一切有部も無常な現象と実体としての「ダルマ」(それ以上分割不能な存在の構成要素)を分けた。

実体論を徹底すると二世界論になるし合理的であろうとすれば無実体論に落ち着く。ヴァイシェーシカ派が実体論に固執しつつも二世界論になっていないのは思考の不徹底さ故だと言える。しかし、それがまた西洋哲学のプラトニズム的伝統とは違った印度哲学の健全な現実感覚をも表しているのかもしれない。

菊池 ‏@kikuchi_8 2月14日
「『認識主体』を認識しようとすると『認識対象』になってしまい『認識主体』を認識する事はできない」と書いた。
所謂無限後退である。これは「認識するもの・認識されるもの」で構成される認識の構造から来る必然。「認識主体」と「認識対象」は常に相対しているので前者が後者になる事はできない。

この事を踏まえた上で神秘主義を分析する。新プラトン主義では「一者」という実在を対象として立てる。そこに認識主体たる自己が合一するという考えだ。これが何故「神秘主義」とされるのか。「認識主体が認識対象になる事はできない」以上「合一」は「神秘」と説明するしかない。要するに「逃げ」だ。

物事を論理的合理的に思考した上で、その限界を見極め沈黙する事と、最初から論理をすっ飛ばして適当なドグマを作って「神秘」と言い張るのでは全く意味が異なる。理性や論理の限界を弁える者は「無記」「沈黙」にはなるが、「神秘主義」にはならない。主義=イズムとは何らかの独断を意味するからだ。

新プラトン主義(西洋神秘主義の原型)は「一者が存在する」という独断と「一者から世界が流出した」という独断と「我が一者と合一する」という独断から構成される。これは理性を限界まで駆使して見極めた、という類のものではない。沈黙とは逆で言葉で明確にドグマを立てているからである。
つまり、新プラトン主義を原型とする西洋神秘主義では、言葉で明確にドグマを説きながら、その非論理性を誤魔化す為に「神秘」を持ち出しているに過ぎないのである。「非合理故に我信ず」の類である。中途半端に言葉を用いて「神秘」を語るくらいなら、最初から何も語らない方が誠実であると言えよう。

菊池 ‏@kikuchi_8 2月13日

自明視されている「精神と物質」というカテゴリーも歴史のある時点で制作されたものかもしれない。古代日本では「モノ」という言葉で精神も物体も表した。仏教で言う「色」とは「いろ・形」の事で視覚という感覚との関連で物質が捉えられている。精神と物質の境界が西洋のカテゴリより曖昧である。

「精神と物質」を巡る様々な主張も収拾がつかない形而上学的命題の一つである。人の経験世界(知覚し認識する世界)の中で視覚や触覚の作用に「物質」という名称を与えた外部化し、それに対する認識主観の側を「精神」とした、という機制かもしれない。思う程「精神」と「物質」の境界は明確ではない。

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年1月6日

@ayajet128 @kitsuchitsuchi なるほど。フランクフルト学派のアドルノの理論がタヴィストック研究所の洗脳科学に大きな影響を与えたそうですね。フロイトがドラック本を書いているのですね。深層心理について研究したフロイトの心理学も洗脳科学の基盤の一つのようです。

中尾 綾 ‏@ayajet128 2015年1月6日

@kikuchi_8 フロイトは1884年、コカについてという有名な論文を書いてました。マリファナじゃないです。コカがインディオの労働に欠かせないものとして使われていることや実験した結果、発見なども記してます。フロイトはアインシュタインと文通してましたね。養老孟司が翻訳してます。

中尾 綾 ‏@ayajet128 2015年1月6日

@kikuchi_8 フロイトは1884年、コカについてという有名な論文を書いてました。マリファナじゃないです。コカがインディオの労働に欠かせないものとして使われていることや実験した結果、発見なども記してます。フロイトはアインシュタインと文通してましたね。養老孟司が翻訳してます。

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年1月6日

@ayajet128 ご教示ありがとうございます。中南米系の麻薬ですね。「アヤワスカ」という植物を神秘主義の実践に用いている人たちがおりますね。インディオがコカを傷口に塗って痛みを緩和させていたという話を読んだことがあります。猶太系の科学者同士で繋がりがあったのですね。>文通

中尾 綾 ‏@ayajet128 2015年1月6日

@kikuchi_8 イエズス会についての社会学的研究はロヨラによって定められた心霊修行がそれに従う人々の全ての行動におのずと与えている影響を調べること。この研究はある特定の社会の栄枯盛衰に作用を及ぼしうる諸条件を、イエズス会の構造の分析から一般的に明るみにだすことになるだろう。

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年1月6日
@ayajet128 おお、これはまさにイエズス会の手口を現代の洗脳科学に応用しようとしたという決定的証拠になりそうですね。まさに「認知操作」の科学的研究以外の何物でもありませんね。ヴァイスハウプトもイエズス会出身でイルミナティの組織構成はイエズス会から影響を受けているそうです。

中尾 綾 ‏@ayajet128 2015年1月6日

@kikuchi_8 アドルノに関する本を借りたのがかなり昔で、今日メモしたノートを見てたらイエズス会がでてきて。自分でもびっくり。当時はイエズス会にあまり注目してなくて。

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年1月6日

@ayajet128 なるほど。すごい発見だと思います。そうやって以前はさほど注目していなかった情報が後々繋がってきて一つの全体像が浮かび上がってくるのが陰謀研究の面白いところですね^^

中尾 綾 ‏@ayajet128 2015年1月7日

@kikuchi_8 タバコを嫌ったヒットラーは覚醒剤の愛好家だった。主治医モレル博士はビタミン剤と偽って覚醒剤の注射をしていた。1942年夏以降依存症状を見せ始める。ナチスドイツはパイロットたちに覚醒剤を支給。英国、連合国、ソ連軍も使用。フロイトはコカイン依存症だった。
トゥーレ協会から勉強した方がいいかも。

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年1月7日

@ayajet128 ご教示ありがとうございます。ヒトラーの演説時とかの異常興奮、自己陶酔はパラノイアだからと説明されることが多いですが、薬物の効果でもあったのですね。納得です。フロイトがコカインに関する本を書いていたことを教えていただきましたが、コカイン依存症だったのですね。








子子子子子(ねここねこ)
‏@kitsuchitsuchi

陰謀追及者必読リスト
※本を出せる陰謀論者のブログや本や講演会は以下(最低限心理操作術と支配層の視点を学んでから)で判断基準が育つまで一切無視しないと信者化!
ネット上に要約があるものもあるので検索推奨
(ネット上で無料で読める)詭弁のガイドライン
チャルディーニ『影響力の武器』

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燈火
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子子子子子(ねここねこ)

19:25 - 2016年11月27日
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子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2016年11月27日

子子子子子(ねここねこ)さんが菊池をリツイートしました

グーラ『論理で人をだます法』
野崎昭弘『詭弁論理学』
架神恭介『完全教祖マニュアル』
マキアヴェリ『君主論』
大田俊寛『現代オカルトの根源』←@kikuchi_8様とねこたさんオススメ
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/801322992584232961 …

子子子子子(ねここねこ)さんが追加
菊池 @kikuchi_8
オカルト好きの人におすすめの本がある。「現代オカルトの根源」大田俊寛著。現代のオカルトの起源が思想史的に解明されている良書。現代の各種思想・思潮というものは必ず過去を遡れば起源やネタ元がある。その辺に自覚的だとどっぷり洗脳されない耐性が身に就くと思う。思想史的な予備知識は…
2件の返信 14件のリツイート 15 いいね
子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2016年11月27日

子子子子子(ねここねこ)さんが子子子子子(ねここねこ)をリツイートしました

ハフ『統計でウソをつく法』
孫子
佐藤優『神学の思考』
聖書(創世記、出エジプト、マルコ伝、黙示録)
魚川祐司『だから仏教は面白い!』
稲生平太郎『定本 何かが空を飛んでいる』
プラトン『国家』
フリース『イメージ・シンボル事典』

子子子子子(ねここねこ)さんが追加
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi
君主論や完全教祖マニュアル以外の良書集↓
https://twitter.com/ououdaiei/status/791890550550990848 …
https://twitter.com/ououdaiei/status/791891112382205952 …
https://twitter.com/ououdaiei/status/791892495584022528 ……
1件の返信 5件のリツイート 6 いいね
子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2016年11月29日

子子子子子(ねここねこ)さんが菊池をリツイートしました

『統計でウソをつく法』
①誰がそういっているのか?出所
②どういう方法で分かったのか?調査方法
③足りないデータはないか?隠されている資料
④いっていることが違ってやしないか?問題のすりかえ
⑤意味があるかしら?どこかおかしくないか?

子子子子子(ねここねこ)さんが追加
菊池 @kikuchi_8
@kitsuchitsuchi 「詭弁論理学」はいいですね。あと、香西秀信氏の「論理病をなおす!」「レトリックと詭弁」「論より詭弁~反論理的思考のすすめ~」なども参考になりました。工作員の駆使する詭弁術の種明かし本としても活用可能だと思います。
1件の返信 10件のリツイート 7 いいね
子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2016年11月29日

knznymmmy”統計でウソをつく法はおもしろいぞおー♥
全くなにひとつも不正なしに統計を出した結果を操作する実例が紹介されてたりする”

必読真偽判定術
史料批判方法
http://1st.geocities.jp/huhito80/F-M-Siryouhihan.html …
歴史学研究法
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%B3%95 …
1件の返信 8件のリツイート 4 いいね
子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2016年11月30日

木下是雄『理科系の作文技術』
”事実(証拠をあげて裏付けできる)と意見(判断、推論)をきっちりわけろ
事実を述べる文に主観に依存する修飾語(意見)を入れない…
ここからは「意見…区切りを明確に…”http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-118.html …

藤村シシン『古代ギリシャのリアル』

井筒俊彦bot ‏@Izutsu_bot 1月27日

ただ、いわゆる客観的現実と、いわゆる主体的意識とが混淆し融合して渾然たる一体をなしたものが現世している。それが見方によって、力点をどこにおくかによって、客体的現実になったり、主体的現実になったりして現れてくるだけのこと。『イスラーム哲学の原像』



読んでくださり感謝しますが、この人のツイートとブログを直接お読みになってくだされば幸いです。
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がこつ王子 我は山の骨也、キマイラ也Χίμαιρα, Chimaira 峨骨 ‏@Chimaera925 

zu随時ついkq中 本当の自分=実在しない嘘。×自分 ○環境から染み付いた癖。
自分なんて存在しない。「癖」=偏り、習慣、傾向のみが存在する。

ずっといい忘れてたんだけどさ、私は思想の比較研究がすきなのであって、陰謀論も思想の一種として趣味で研究してるんだ。支配層って思想系の資料は特に改竄やらかすしプロパガンダやらかすから迷惑なんだ。だから支配層叩きもやっているわけよ。嘘からほんとうを見つける作業さ。というの本ブログみても資料集的側面が強いでしょ?

陰謀論とは陰謀について論ずるものなので、言葉の定義特に中核概念が曖昧だと何を言っているのかわかっていないってことわかったきになっているだけ
言葉に鈍感なものは言葉に操られる
支配層最大の武器はロゴス、つまり理性(ロゴス)的に使用される武器「言葉」(ロゴス
使用は理性的でも効果は感情的であるように言葉を操るのがポイント
自分自身使用者は自身が自身の武器で操られないように気を付けている

リンゴ=リンゴの木からはえるもの
それでもいいをなさないがさらいにひどくなると
リンゴ=リンゴの土から噴き出すものみたいな定義自体が完全にまちがっていたいるする。
X=XのA Aすら間違っている

峨- [人名用漢字] [音]ガ(呉)(漢)山が高くけわしいさま。「峨峨・嵯峨(さが)」[補説]「峩」は異体字。
この人はおそらく神かみを信じていないが、神シンにかなり近い。
魔法使いだよ


峨骨 ‏@Chimaera925 2月14日
視点が変わっても、全部書き割りだね。なんて皮肉なんだ。

峨骨 ‏@Chimaera925 2015年7月17日
古来から神社売春や寺売春、同性愛なんて普通だったし、性はタブーでもなんでもなかった。日本人の伝統だとか価値観だとか言われているものは、キリスト教。
国家神道だってクリスチャンの平田篤胤が現人神思想とスウェーデンボルグ思想を元ネタに創作した和風キリスト教。
ここから価値観が変わった。


峨骨 ‏@Chimaera925 2015年7月30日
大体、陰謀なんざ何処にでもあるし、
少し歴史を見れば権謀術数渦巻く権力闘争に
他国に対するや野望、陰謀など腐るほどある。
人の歴史は殆どそれだ。
それが無い?
運命や行動は全て予定されていて神の予定通りに行動しているとでも?
キリスト教の運命予定説か。どんな手を使っても勝者は肯定される訳だ。


ねこた(基地外勇者様) ‏@lakudagoya 10月20日
@Chimaera925 失礼します。もう峨骨さんならおわかりだと思います。

やつらの世界を支配するペテン術はみんな西洋魔術の技術の応用でできてると思います。
それを考える場合、ロック爺さんが悪い陰謀論なんて意味ないと思いませんか?
敵は知識と技術と思想のトリニティなのに。

峨骨 ‏@Chimaera925 10月20日
@lakudagoya ええ、取替えの利く駒ですから(笑)
排除しても代わりがいるもの。
特権や力があるとしたら、それを与える源泉、根拠となるもの、それを命じたもの、根底となる思想や知識、技術に着目しますね、普通は。

@lakudagoya ただ、思想や源泉だけに言及すると論理の飛躍と取られかねないので、代えの利く部品の役割の一部と認識してそこに繋がるヒトモノカネの流れを追う作業も必要かな。核心部分を見て結論を取り出しても、そこへ至るまでの証明が出来なければどうしようもないので。

ねこた(基地外勇者様) ‏@lakudagoya 10月20日
@Chimaera925 もちろん、その作業が必要なのは言うまでもありません。
ですが、その思想のフィルターを通してやつらにとって金や権力でさて自分の意思をこの世界に押し付けるためのツールに見えます。

この世界をどうにかしたいからあらゆるものを利用するという視点が必要です


使い方わからん ‏@Show_BujuBanton 2017年2月14日
↓宗教(特に十字架)家真っ青
その後顔真っ赤にして反論しそう。

まともな反論なんか出来やしないであろう。

峨骨 ‏@Chimaera925 2017年2月14日
どれを殺して食おうと、選んで殺しているのは一緒だ。選んで殺す対象が違うだけで貴賤は無いし、善悪もない。それを許さないのは、許さないことにして自身の脳内にある序列や貴賤の下位に他者を組み込みたがる者だ。

誰かに代わりに殺して貰って、パッケージで包装された死の匂いのしない商品を食っていると、感覚が麻痺するのかもしれないな。自分の手で殺した事が無いから、それを野蛮だの残酷だなどと簡単に言える。殺さなければ食えない。好き嫌いや善悪の感情論が入り込む余地は無い。

殺して食うのが宗教的な罪ならば、全知全能とやらの神は何故、人が食わねば生きられぬように創造したのやら。
そもそも、何故、そのような行動が取れるやら。
創ったというならば禁じられる以前に、「最初から出来ない」「しようとも思わない」のでは無いのかね。
そうせねばならぬようにしておいて罪?


罪悪感を植え付けておいて、罪悪感を利用して言いなりにする常套手段だな。償えと言いながら、償えと言う連中に奉仕させる。まったくもって馬鹿げたペテンだ。
死がケガレなら、この世はケガレに溢れているな。おー怖い怖い。






絶対的な正義や悪、道徳に不道徳、常識に非常識、法、真理、それらは存在しない。存在するのは解釈。環境や時代、価値観、民族、統治や管理の為のご都合主義、要求、これらによって生み出された解釈でしかない。ある時代と場所で善とされたものが悪となり、また別の場所では善となる。普遍的ではない。

法は宗教的な法ではない。法で裁かれる罪は宗教的な罪とは異なる。便宜上作られたソレに反する者は宗教的な罪を犯した者ではない。マナーや常識も同じだ。しかし、日本では混同されている。故に、それらを利用する者が容易く絶対的な存在であるかのように神格化される。カルト教の運営法そのままだ。



峨骨 ‏@Chimaera925 2月14日

スカル・アンド・ボーンズ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BA …
んで、こっちはイェール大学にある秘密結社。
>ウィリアム・ハンティントン・ラッセルと、従兄弟のサミュエル・ラッセルが1832年に設立した。また彼らはラッセル商会とカルパーリングをも創設した




峨骨 ‏@Chimaera925 2016年7月19日

自由や平等、これもまた呪いだ。自由や平等を万能の魔法のように捉え、他者のそれらを尊重するでもなく勝ち取ろうとする。そうして、自由や平等を与えると偽りの誓約を行った者に空手形一つで支配される。まるで、自由や平等が数限りある特権であるかのように。呪われて勝ち取る為の闘争に呑まれる。


峨骨 ‏@Chimaera925 2016年12月6日
今日も元気だ。酒がうまい。ドーキンスの「神は妄想である」なんぞツッコミ入れながら読んでみる。
社会や国家、貨幣、全部妄想だから、神が妄想でも今更感が。大多数が共有する妄想が常識で現実とされているだけで。

物質やシステム、媒体で括って偶像や呪物にすると、まるでそれらが現実に存在し、影響するかのように振る舞う。生じた事象は、実際はそれらを信じる人々が、それらが真実であるかのように振る舞った結果。偶像や呪物は何もしていない。後からやってきて祝福したり呪ったりして自分の力だとのたまう。

神が世界を作ったなどと言う連中は何故、救世主を崇めるのだろう。
この地上に苦しみが溢れているのは神がそのように作ったのだとしたら、
そんなものの遣いや子なんぞやって来たら、普通に考えて崇めるどころか抹殺するだろうに。
苦しみを与えておいて救済者を遣わして崇めろと言うのだから。


俺よりも遥かに賢いであろう人々が、何故そのような巨大な見えているマッチポンプを無視して崇めるのだろうな。人々を支配し富を集める為に崇めさせる舞台装置として用いる為に、信じなさいと訴えて利益を得る者が全くそれを信じていないのなら話は別だけども。

神の都合でそのように作っておいて贖罪しろって馬鹿かよ。テメェの都合で原発作っておいて、事故が起きたら賠償金を国民に負担しろ、要は責任は国民にあるから賠償しろなどという意味不明な言い掛かりと大して変わらない。

峨骨 ‏@Chimaera925 2016年7月30日
@Chimaera925 人脈は金脈。経歴も金脈。経歴は素晴らしく見えるように、詐欺にならない範囲内で負の側面を省き粉飾する。成功者は競争しない。競争させる事で利益を得る。リスクも犯さない。たまたま成功した者は、その経歴を利用して評論家やセミナーで稼ぐ。ハイリスクを負うのは顧客。

競争や闘争を煽る者は競争しないし、闘争もしない。安全地帯で談合しながら、人々を競争させて利益を得、闘争させて利益を得る。煽動される人々が居なくなれば、彼らは食っていけなくなるから肩書きや経歴を利用してさそれらを煽る。

「私はこれで儲かった、あなたも真似をすれば儲かりますよ」と情報商材やセミナーでそのノウハウを提供する成功者。ノウハウは飯のタネ、独占するからこそ実践する上で強みになる。売れば売るほど陳腐化して参入者が増えて儲からなくなる。それなのに売る理由は一つ。

(中核を抜いて真似されても競合他社になれず地位を逆転されないように劣化させてから売る。
劣化コピーを粗製乱造するのが一番儲かる。
公開されたノウハウは表ノウハウ。裏ノウハウを探し表と合体させて初めて使い物になる)

tyuukakuwonuitearukaramanesaretemokyougoutashaninaranaikarautteiru )





閉店です ‏@lakudagoya 2月14日

人工的なエデンの園で純粋培養で育てられたお嬢様は社会経験ないまま組織の実権を握るけど、男と張り合ってきたフェミよりも社会常識というタガがないので、ものすげーわがままをして組織を潰したりするのよくある。

マジで純粋培養お嬢様はサイコパス以上にこえー存在っすよ!

峨骨 ‏@Chimaera925 2月14日

モノによるけど、行動力のある純粋培養のお嬢様で親が親バカでなまじ権力持ってると手に負えない。あれは災難だった。予想外、想定外の事態に巻き込まれて、学生時代えらい目に遭いかけたな。手も出してねぇし、押し掛けられて抵抗した被害者なのにバカ親が出てきて。親娘揃って人の話を聞かない。

暴走お嬢様よりもヤクザの娘の方がまだマトモだったし、その親もまだ話が通じた。どっちも病んでたけど。人の話を聞かず、人の都合を考えない奴が周りにかたらと多かったな。

@mabatakey 手出してないのに、「娘を傷物にしたな。面貸せや」と呼び出し食らってね。娘の狂言だと理解させて、詫び入れさせるまでが物凄く面倒臭かったよ。

フリーランスでネット関係だよ。アフィやオークションではない。
何でも屋だね。文章書いたり、翻訳したり、テープ起こししたり、特にコレってのは無いよ。国外の仕事だとドル建てで割りがいいから、最近は専ら国外の仕事探して拾っている。
失業保険無いから、働けなくなると詰むので、社保完備のバイトと掛け持ちした方が無難っちゃ無難だろうね。お勧めはしないよ。
風鳴 道草 ‏@mabatakey 2月14日

@Chimaera925 それでも僕はその道に進みたい。ならば、答えはひとつ。弟子にして下さい!

峨骨 ‏@Chimaera925 2月14日

@mabatakey んな大層な者でもないから(笑)堅実な仕事で根気よく実績と信頼を築き上げる、単純で地味で教えるような事は無いよ。必要が学ばねばならない事を教えてくれる。起きた問題が教材だね。必要になった事をその都度学んで身に付けて、手札を増やして、やれる事を増やす。地味だね。
IT革命の時みたいに自分で営業かけて仕事取ってくる手間が無いから楽になったものだよ。
自分ひとりでケツを捲れる範囲をこなして、必要以上に手を拡げすぎないのが鉄則だよ。どうにもならない、なりそうもない仕事は最初から請けてはいけない。安請け合いは出来ないね。ホイホイと安請け合いする奴が居たら信用できない奴だよ。
y 順序つっても、フリーランスの求人フォーラム探して登録して仕事漁るのが手っ取り早いかな。主婦向けで簡単なんて触れ込みの奴は簡単だけどピンハネがな。スキルが無いなら、その分野の派遣なりバイトなり会社に所属してスキル身に付けるのが独学より手っ取り早いだろうね。
とはいえ、日本はこの分野が政策で拡大されて行くのが分かりきっていて、尚且つ派遣の大手も絡んで来るだろうから単価が下がっていくのが分かりきっている。国外の仕事を受注する上で、英語を多少は読み書きできる方が良いだろうね。
あと役立ちそうな事と言えば、税務申告と節税のやり方は調べて活用すべきだ。脱税じゃなくて、あくまで節税。

前世系の純正培養、箱入りお嬢様(山田花子似)は俺を恐怖させた数少ない人間の一人だ。ストーカーはぼちぼち居たけど、あれほどの恐怖は無かった。今なら淡々と対処できるのだろうけど、まだまだ対処に慣れていない当時は強敵。人の話を聞かないから、今でも手こずるだろうが、付け入る隙はやらねぇ。


峨骨 ‏@Chimaera925 2月14日

高級ブランド服としてのバーバリーを買い続ける太客からしたら、低価格路線なんて出されたら安物イメージがしちまうよな。若者にも買いやすい価格帯なんて安価な路線取ったって、若者には金がないんだから無駄無駄無駄ッ!百貨店が業績低迷して買いに来る層は、安物が欲しいわけじゃない。

百貨店というブランドの高級ブランドのイメージを買いに来るわけだ。こいつを中途半端に価格破壊すると店舗の少ない百貨店は特別な商品を売る少数店舗・特化型から、多数店舗・薄利多売型と競い合うハメになる訳だ。最初から規模で負けている。


規模産業にとって、最大の敵はV字カーブの死の谷を越えてくる企業。参入されるとパイの取り分が少なくなる。規模産業同士は買収や経営統合、パートナーになりうる。独占すれば独占禁止法に引っ掛かるから、最終的には寡占。Appleとマイクロソフトの関係。新規参入を阻む利益は一致している。

政治も寡占。寡頭政治、独裁政治ではない。共産はニッチ産業と同じで、あのポジションが一番利益を得る。自民が富裕層や大企業向けの政策を行うから、そこから漏れた層から共産等は支持を受ける。弁証論の正と反と合。反対されることで正は正となり、正があるからこそ反が成立し、権力は維持される。

そして、中央で起きている政治によって決定されると錯覚させる。そこで話し合われ決定したかのように、まるで独立国家であるかのような偽装が可能となる。その偽装が維持される間は、仮初めの権力は特権として機能する。

(陰謀論業界も
①外食チェーンやコンビニのように多売薄利、大規模化、規模産業で収益を上げるか、
②少数の店舗で専門性に特化したニッチな商品 で分かれています。
①はほとんどがひも付き。②にも当然ひも付きがいる。
①にひっかからない層を取り込むのが②)

峨骨 ‏@Chimaera925 2月14日

んで、低価格商品でテコ入れか。一気に大規模展開型に移行できないとV字カーブの谷間に転落してそのまま消滅コースだ。栄枯盛衰だなぁ。
日本企業にありがちだよな。業績悪化すると安売りしてそのまま自爆するヤツ。んで、中の人の待遇が悪化してノルマもキツくなってますます士気が下がる。安くする分、どこかから削らないと採算取れないから従業員から絞る。そして優秀な営業や開発、末端のやり手販売員が抜けていく。

トップダウンで上層部の頭脳が決定した戦略があれば上手く行くと勘違いしている企業は、末端の声なんざ聞き入れないし、業績悪くても末端の努力不足だなんて意味不明なことを言って泥舟でふんぞり返っている。能力と判断力があるヤツは「こいつはヤバいな」と沈みかけた泥舟から逃げる。

あるいは自分が抜けたら大変な事になると、気負って逃げられなくなって、あれこれ抱え込んで自滅する。これも多いな。職場にぶら下がって一日言われた事していればなんとなく安泰だと漠然と考えている層はこんな事にはならないのだが。評価制度なんて言っても、コストカットにしか使われんから

峨骨 ‏@Chimaera925 2016年12月7日

「心が貧しいから貧困になる」なんの事はない、腐れカルトやスピリチュアル、自己啓発と一緒だ。苦しみの種を植え付けて、金や労力を吸い上げ、「苦しいのは修行が足りないから」「成長や進歩していないから」と縛り付けて奴隷にする。そういや、この発言した奴って親学関係者だっけか。

峨骨 ‏@Chimaera925 2016年9月21日

スピリチュアルやクリスチャンサイエンス、ニューエイジ、自己啓発、カルト教ではこの逆を行い欲望や自意識を増大させて破滅へ導くものもあるので、お勧めはしない。よくもあそこまで依存させ、生きた傀儡を作るようなおぞましい手口を広めようと思うものだ。良いことだと思っているなら救いようがない

峨骨 ‏@Chimaera925 2016年10月10日
カルヴァン派の予定説では、神の救済に預かる者は最初から定められている。禁欲的に天職に勤める事で成功する者が選ばれるのではないか、と。ここで言う禁欲とは、目標(利潤の追求)の為に全精力を傾ける禁欲さ。己の才覚や努力で富を為したと考える中産階級や成金から支持を受けた。エリート選民思想

これに嵌まった者は自分が特別だと思うだろうな。天職に禁欲的に励み(利潤の追求をした)己の才覚や努力で富を築いた、俺は特別だ。神に選ばれているに違いない、と。ここから宗教色を脱色すると政商の説くありがたい労道教の教えやビジネス自己啓発になる。神が出せないから成長や感謝、自己実現等と

峨骨 ‏@Chimaera925 2016年6月2日

解決を成長・自己実現に、実践を努力や感謝、ポジティブシンキング等に置き換えると自己啓発になる。日本の労道なんかまんまソレ。成長や自己実現の定義が無いから、都合のいいようにやりたい放題。やってる事も洗脳と変わらん。峨骨 ‏@Chimaera925 2016年6月2日

スピリチュアル系は終末思想もセットで付いてくるから、毒にも薬にもならんどころか毒にしかならねぇ。不安を掻き立てて、実践しても解決しない。解決しないのは実践(信仰)の仕方が悪いのだ、と。信じる者は救われる、救われていないのは信仰が足りないから。正気の頭ならひっかからんのだけど。

峨骨 ‏@Chimaera925 2016年6月2日

エヴァなんかモロにあっち系。シンジ君を家族がキリスト教系のカルト教の信者で、カルト教に入信させられた被害者として見るとタチの悪い自己啓発セミナーアニメに見える。ネガティブなシンジ君を見てポジティブになればいいのに、と思ったら思う壺。正解は「逃げちゃダメだ」の逆。逃げなきゃダメだ

峨骨 ‏@Chimaera925 2016年6月1日

大本の元幹部で生長の家創設者の谷口雅春はクリスチャン・サイエンスの本を幾つも翻訳し、プロテスタント系のカルヴァン主義への反発で生まれたニューソート https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%88 … を光明思想として日本に持ち込む。自己啓発やビジネス自己啓発、ポジティブ思考はコレ

峨骨 ‏@Chimaera925 2016年2月13日

意味や価値、成長や進歩に強迫観念持ったタイプは多感な時期に人格を否定されて育つか、条件付けでしか存在を肯定されなかったケースが多い。洗脳の第一段階の自己否定が完了しているから、あっさり洗脳にかかる。もしくは既に洗脳されている。自己啓発、クリスチャンサイエンス=スピリチュアルとかね

峨骨 ‏@Chimaera925 2015年1月7日

オカルトまがいの子供騙しが蔓延る。オカルトそのものは実在する。大抵の人が想像するようなソレでない。オカルティックなシンボルやレトリックを剥ぎ取れば意識や無意識をコントロールする技術。自己啓発系はオカルトの技法を使って科学の体裁を取るが肝心な部分が嘘なんてざら。毒にしかならん。

峨骨 ‏@Chimaera925 2012年11月16日

オカルト中毒もそうだけど、自己啓発中毒もタチが悪い。疲れて栄養ドリンクを大量に飲んで元気になったつもりになるようなもので、それらは根本的な原因を取り除きはしない。実践したから良くならなくてはいけないと言う脅迫観念と、良くなっていないと言うギャップがまた次の投資を生む。

ライフハックにしても自己啓発にしてもそうだけど、損してはいけない、得しなくてはいけない、利益につながらなくてはいけない、すぐ結果を出さなくてはいけない、時間をコストに一分一秒生産性を上げなくてはいけない、成長しなくてはいけないって思想は生き難くてかなわんだろうな。

峨骨 ‏@Chimaera925 2012年2月3日

自己啓発書や自己啓発セミナー行って自分を洗脳して、心身のバランス崩し、燃え尽きてしまうケースをしばしば見かける。上からの要望はカイゼンで下からの要望は甘え、そうやって押さえつけられなくなって来たら外国人移民させて使い捨ての労働力確保。出来る範囲で生きやすい世の中にして行きたいね。

峨骨 ‏@Chimaera925 2011年12月21日

自己啓発マニュアルにあるような自尊心あるいは自信を得たりポジティブになる手法と言うのは無理がある。RPG風に言うとMPをHPに変換して無理矢理活動せよと言っているようなもの。不自然な催眠やアファメーションを繰り返し、やがてMPが枯渇してバーンアウトを起こす。

峨骨 ‏@Chimaera925 2月14日

セム系一神教派生の労務真理教の教義なんて末端しか信じていない。今の境遇が苦しいのは神からの試練で、信仰(努力)すれば報われる。なんて苦しみを与えて搾り取る側が吹き込んで、それを信じさせる。そうして搾り取って富を築いた者は、自分は努力して報われた。特別な人間だから報われていると。

峨骨 ‏@Chimaera925 2月14日
逃げちゃダメだと言われたときは、逃げるか、逃げられないなら逃げなくてはいけない危険を物理的に排除・抹殺しなくてはいけない。その選択肢をハナから捨てると、逃げるという選択肢が消える。愛だの協調だのと自分に言い訳して自分を騙す間に、その思想にどっぷり漬かったゾンビにされてしまう。

ガキの頃いじめを受けていた事があったけど、そいつらの仲間内に相互不信埋め込んで仲違いさせたり、皆の前で笑いものにして去勢してみたり、教師の前でわざと殴られて停学にしたり色々やってから、俺をいじめるヤツは居なくなったな。現状維持して潰れていたら今の俺は無いだろう。逃げるか排除だ。
話せば分かると言うが、話しても分らないから犬養毅は殺された。話し合いが通じないなら逃げるか消してしまうかしかない。あるいは、手出しできない状況を作るか。手を出すとヤバイと思わせるのが一番手っ取り早い。殺一警百だ。

いじめられている事よりも、他者に危害を加えてはいけないという洗脳が染み付いていて、やり返そうとすると体が拒絶反応起こすのが子供心にキツかったな。あの一線を越えて、境界線を自由に行き来できるようになるまでが長かった。マキャベリ先生ともっと早く出会っていれば少しは違ったかもな。
飼い主を噛もうとして条件反射で動きが止まる犬みたいに暴力や加害が抑制された子供を作るのが学校教育。反抗せず、言われるまま上位者に従い、集団行動を取る管理しやすい人間を製造する。そこから抜けた結果がコレだから、いいんだか悪いんだか。後悔はしていない。

知力でも魅力でも財力でもいい、何か一つ武器があると世渡りが楽になる。相手の有利な土俵でなく、自分の有利な土俵で獲物を待ち構えて狩る。あるいは有利な土俵に行く。モテるってのも、自分の持っている力が有利な場所に行かないと意味が無いのと同じで。自分の武器を発掘して、とりあえず特化させる

何か一つでも特化させていくと、特化のさせかたが解るから非常に効率が良い。どんなつまらない事でも自分だけの特技、自分だけの強み。これを持っているヤツはどんな分野の人間でも話して居ると非常に面白くて為になり、役立つ。全部極めるなんて無理だし、全部極める必要も無い。
表現したいものが無くなってしまったから音楽はもうやる事は無いだろうけれど、そこで培った経験はあちこちで生きている。専門バカは潰しが利かないと言われるけど、潰しの利かせ方が解ると何かと応用が利く。何かを身につけるための情報収集能力や試行錯誤する根気、習熟のコツ、これらは教われない。

情報噛み砕いて自分なりに血肉に変えて応用する技術は誰も教えてくれない。教わって身につくものでもないけれども。これが一番役に立っている。

作曲でコードの組み合わせが出尽くしているように、世の中にある物事や思想なんて大抵出尽くしていて、完全オリジナルでどれとも被らないものなんて存在しない。あらゆるものを咀嚼して、そのエッセンスを盗み、組み合わせて自分なりの理論や思想を構築していく。ゼロから創造する天才は居ない。

天才や奇才がゼロからオリジナルを産み出す、ロマン主義の幻想だ。全て既存の組み合わせ。オリジナリティ溢れる天才や奇才とやらは、その原典が何処にあるか解らないように組み立てただけだ。原典を知り、現代の事情に擦り合わせ、どのように編集し、既存の概念の組み合わせるか、これが重要なセンスだ

あれもパクリ、これもパクリ。先人の技術や知識を積み重ねていく行為を否定している。研究でもなんでも積み重ね。引き継いで次に手渡す財産だ。こいつを独占されると、独占したヤツの一人勝ちになる。模倣の積み重ね、真似び、学びも基礎も無しに一流になった者など居ない。
世阿弥の風姿花伝は良書だぞ。あれはお勧めできる。

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2014年7月6日
@lanekota @ekousagitan @wayofthewind 能面が無表情なのは能は表現しないことで表現する控えめさの権化だから。芸能界における裏社会の暗躍は、世阿弥が「好色・博奕・大酒。三重戒。これ、古人の掟なり」と『風姿花伝』=秘伝書で言う程に当時から深刻でした。

えこうさぎ ‏@ekousagitan 2014年7月6日
@kitsuchitsuchi 「風姿花伝」は世阿弥が本当は口伝だけにとどめておくべきところを、後の事を憂えてやむにやまれず書いたんですよね。将軍家の保護も薄くなった上に近頃の若いもんは、、みたいな。

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2014年7月6日
@lanekota @wayofthewind @ekousagitan ギリシア仮面と伎楽面は後頭部まで包む。能面は顔の前を覆う。能で面をかけられるのは主人公(大抵死者)のみ。
能の多くは最初に脇役が登場し大抵は僧。大袈裟(仏教由来)で喋りまくるのは和風耶蘇でっちあげ伝統多いよ。

猫太”芸能界のヤクザ臭いの大嫌いです”
”天皇崇拝やキリシタンを見破るには、言葉を重んじない日本文化を知るだけでいいですからねー(笑)天皇の神聖さを言葉でまくしたてるのはクリスチャン” 働かざる者食うべからずの元ネタは新約聖書

Hizuru@mirgliP ‏@mirgliPilgrim 2016年12月5日

ココのとこ能楽に関する本を読んでるんだけど、いわゆる能(夢幻能)というのは、旅人が異界に紛れ込んで亡霊と対話し、時間を超越する、日本古来のファンタジー装置であること知った。そのうえ独特の節回しのある謡(うた)によって、観客をトランス状態に誘い込み、異界を体感させるとか何ソレやばい

なんなん ‏@7_nannan 2016年1月27日

>RT くっそワロタwwww

能は旅の僧侶が宿を求める始まりが多いんですよwww
「これは諸国一見の僧にて候…」
とか 決まり文句ですがwwww

菊池 ‏@kikuchi_8 2016年7月9日

能「車僧」の天狗・太郎坊と車僧の問答が哲学的で奥深い。
太郎坊「浮世を車で走り回るとは輪廻の輪を脱していないと見える」
車僧「回る「輪=我」に元々実体などない(=空)のだ。何が回ろうぞ」。
輪=我を実体視する「実体観」に立った生悟りで嘲笑する太郎坊を車僧が「空観」で見事に論破している。

「車僧」では、車僧を「魔道」に引き入れようとする太郎坊は本物の知恵を持つ車僧に打ち負かされる。「人を支配したい」「人を傷つけたい」「人を騙した い」という不純な動機が根底にあるので、国際秘密力や工作員には本当の知恵者はありえない。おまけに彼らには太郎坊のような愛嬌も潔さも無い。

能「車僧」で天狗・太郎坊はもっともらしい理屈とレトリックで車僧を堕落させ「魔道」に引き込もうとする。工作員は高慢で、一見もっともらしい理屈をこねて工作対象者をおかしな道に引き込もうとするが、この天狗の姿とそっくりである。能の筋書きは人間心理の洞察の賜物という感じがする。

初期仏教や唯識のアビダルマの心理論では「怒り」と一口に言ってもいくつかに分けている。まず基本となるのが「瞋」(根本煩悩の一つ)である。
次に随煩悩として「忿」がある。これは杖で相手を殴りたいほどの激しい怒りである。
さらに「恨」。忿が瞬間的な怒りであるのに対して持続的な怒りである。
「恨」とは謂わば「瞋」(怒り)が沈殿して憎悪とか怨念になった感情である。ある対象を思い浮かべて持続的に怒りを持ち続けている状態である。人間だから時には怒る事があるのも当然だが、不快な事が起きても「瞋」の段階で止めた方がよい。「忿」は暴行に結びつくし、「恨」は己自身を蝕んでいく。


(心所(しんじょ、巴: cetasika, チェータシカ、梵: caitasika, チャイタシカ)とは、仏教における心・精神の構成要素・機能。
仏教は西洋よりはるか昔から心理学も無意識の研究も応用も実践もやっていた)


峨骨 ‏@Chimaera925 2016年7月16日

ロマン主義以降、著作物は才能や個性、オリジナリティ、ゼロから創造されるものと考えられるようになった。それまでは模倣から始まる職人的なものだった。守破離、守無しに破や離は不可能。個人が全てを創造するなんてのはお伽噺みたいなものだ。古典的フレーズを使うとパクり扱いでは音楽は作れない。

峨骨 ‏@Chimaera925 2016年9月5日

著作権や特許でガチガチに縛られて「あれがパクリだ」「これがパクリ」なんて騒ぐ世相が何のためのものか解りやすいわな。論文は思い付きだけでは書けないから、参考文献が要る。曲は組み合わせが限られているから、古典に学んで現代風にアレンジする。それをパクリだ金よこせと言われたら何も出来んぞ



参考に。気になる良い記事。渾沌堂主人雑記  {大日本国終焉日記 }
”峨骨 ‏@Chimaera925 2016年10月19日
会がお開きになったのは2時くらいだけど、そこから何時もの自営仲間と話し込む。そいつは話し始めるとまた長い長い。相槌や会話が呼び水になって話題が広がり議論が尽きない。自立とはなんぞやってなお題の話しが結構おもしろかったな。そいつは長い事、自営で生活してきて自分の力でどうにかしてきた

そんな自負があるから、何か自分の中の強みを核とした精神的な自負や能力が自立の条件だとする。俺は自分自身に依存し過ぎるのは危険だと言う。確かに柱となるものを内面に持つのは大事だが、外に広く浅く依存の対象を広げてリスクを分散させて一点によりかからない、中庸であること、これが自立だと。

ゲリラやレジスタンスがセーフハウスや物資の隠し場所を幾つも持つように、再起できる拠点(精神的なものや技術も含め)を幅広く用意しておく事が大事だ。一点豪華主義や決め打ちは視野を狭めて、そこで行き詰ったときに対処出来なくなるではないか、と。人は何かに依存している。依存しているように
見えないほど、蜘蛛の糸のように依存を張り巡らせるのだ。どのみち、何にも依存せず生きることなどできはしないのだから。一つがダメでも次、これが安全だ。奴としては、そうなった時、誰も助けてくれないし社会は厳しいから知恵と経験で乗り切るものだと言っていたが、俺としてはその環境に落ち込む
これこそが下策だと考える。追い詰められる前に安全地帯を幾つも作っておく。一点に依存して重く圧し掛からなければ、そう、宿り木程度の場所を確保しておくくらいならばそう負担ではないだろう、と。どちらも経験から来る考えで間違いでは無いのだろうけど。奴は孤立無援が多かったからな。

一点に依存したとき、その重みに耐えられなくなれば折れてしまう。それでは共倒れになる。自身の心が折れるだけならば、いくらでも再起できるだろうが折れてしまって取り返しの付かないものはいくらでもある。氷の上を歩くように、重みを分散させて歩むのだ。
一芸に秀でる、聞こえは良いけど潰しが利かない。一芸をある程度修めて、それらを修める課程で身に着けたものやそれらの応用で他のものにも通じる事が可能となれば話しは別だが、単なる専門バカになると自身の手にした手法を無理矢理当てはめて全てをどうにかしようとするから破綻が生じる。

自分のできる事、得意な事にしか手を出さなくなる、これは貪欲さが足りない。全く異なる分野や一見関連の無い分野でも視点を変えればいくらでも活用できる。百科全書的な考え方だな。


もともと不器用なので、耳に痛い事もあるけど、大事な話に思う。

百姓すらまともにできないが、ほかにすることがないので、している。

ともわれ、それもあって、ほかの分野にも、興味を持つようにしている。


>一芸に秀でる、聞こえは良いけど潰しが利かない。一芸をある程度修めて、それらを修める課程で身に着けたものやそれらの応用で他のものにも通じる事が可能となれば話しは別だが、単なる専門バカになると自身の手にした手法を無理矢理当てはめて全てをどうにかしようとするから破綻が生じる。


日本人って、この手の破綻が多い。

名投手が、投身自殺や強盗に走ったとかの記事をみて、唖然として悲しくなる。

当人も不器用だったのだろうが、「潰しが効く・応用が効く」という柔軟性や多様性を切り捨てて栄光を手にした悲劇だが、それで栄光すら得られず破滅する人の方こそ多い。

教育も、考え方も、完全に変えないといけないところが、日本にはあると思う・・・


そうしないと、悲しい死滅しかなさそう・・・


ただ、その柔軟性・多様性を切り捨てることにより、斬り捨てられた多くの「か弱き者」の復讐が果たされただけかもしれない・・・。


差別も、ネオコン思想も、確実に復讐されるのだ、因果応報という事で・・・。



お読みくださりありがとうございます。”
http://tyuubukou.blog.shinobi.jp/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%90%91%E3%81%91%E3%81%8B%E3%82%82%E3%80%80%E3%80%80%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%8F%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%8B%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E4%BD%9C%E6%B3%95%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%8B/%E5%8F%82%E8%80%83%E3%81%AB%E3%80%82%E6%B0%97%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E8%89%AF%E3%81%84%E8%A8%98%E4%BA%8B%E3%80%82

峨骨 ‏@Chimaera9252017年2月15日

日本語が母国語の利点ってのは言語的な特性もあるだろうけど、一番は膨大な量の日本や中国の古典が母国語で読めるって点だな。四書五経を始めとした数々の重要な文献が在り、尚且つ古本屋で安価に手に入る。これは貴重だ。なかなか無いよ。

宗教としてのナショナリズムってのはとてつもなく有害だ。宗教ナショナリズムを推進した明治政府は国家神道を道徳という形で強制。国民の道徳だとして宗教、信教の自由の上に置いた。 宗教を愛し、それを守っていくには、それを守らぬ者を憎んだり、迫害したりする必要はない モンテスキュー
末端の使い捨ての兵隊や労働者にするには都合のいい教育なのだろうな。くだらぬ道徳や善良さ、勤勉さを持ち、権威に言われた事を懐疑せず従順に従い、論理を理屈と呼んで好まず、分かりやすい感情論を好んで感情で動く。恐ろしい教育だ。

道徳心や愛国心(教育勅語?)に成績付けるクソカルトな学校への登校を拒否させたら児童虐待の疑いだろ?明治テロ政府は国家神道を宗教ではなく道徳だとして、宗教より上位に置いて教育。先日のサミットは各国首脳を国家神道の聖地伊勢神宮に参拝させる。メディアには報道管制かけて訪問と発表させたか

そもそも、針刺されるくらいでいちいち気にした事が無い。ただ、採血で並ぶときはベテランっぽいおばちゃんの列に並ぶ。不慣れそうな若手は避ける。ここ何年も採血なんてしていないけれども。

峨骨 ‏@Chimaera925 2月13日

自分探し?本当の自分?そんなもの無ェよ。最初からありもしないものを有ると信じさせて、今の自分より良いものだと思わせれば、劣等感を持った連中は簡単に言いなりになる。そうして植え付けられた自分なんて概念は連中の考えた都合のいい概念だ。自分なんざありはしない。環境から染み付いた癖だ。

最初から無いものをあると信じさせておけば、最初から存在しないのだから何とでも言える。主観であるとさえ錯覚させておけば現実に無くとも、信者はそれが現実であるかのように振る舞う。宗教なんざ、まさにそれだ。そして力を持つ。あるいは、あるものを無いと信じさせる。使い古された手口だ。


峨骨
‏@Chimaera925
善玉菌、悪玉菌の分類をいつまで続けるのだろうか。善と悪の呼称で括って本質が見えなくなる。悪玉コレステロールだか悪玉菌だかのように悪を作って退治するナニカを売るには、悪が必要だわな。善玉菌が優勢だと便の滞留時間が短くなり栄養吸収率が下がる、悪玉菌は逆。後者は飢饉や小食の助けになる。

飢餓の時に食料からエネルギーを吸収せずに捨てていたら死んでしまうし、少量の食事で済ませようと思えば後者が優勢であったほうがいい。また、悪玉菌と呼ばれる細菌の毒素は、他の有害な細菌から宿主、人間を守ってくれている。口内細菌なんかでも居なければ口の中にカビが生えてしまう。

無菌室で飼育された、腸内細菌を持たない無菌ラットなんかは病原菌が腸内に入ると大増殖して死んでしまう。適度に群雄割拠して隆中策、天下三分の計よろしく争い釣り合っていてくれたほうが宿主としては都合が良い。まあ、共生関係とはいえ、宿主の体にガタが来ると見切りを付けて殺しに来るんだが。

人間が物を食うとき意識するのは口に入れて楽しみ、腹を満たす感触を楽しみ、それで元気になったと錯覚しておしまい。そこからは臓器や腸内細菌の仕事。そうして、知らず知らずのうちにくたびれ果てた臓器や偏った腸内細菌群に見切りを付けられて大病を患う。大病を予防するには食を慎む所から。

あれを食えば健康になる、元気になると思い込んであれこれ腹に詰め込む。病気になると尚更、あれがいい、これがいいと食う。これがいけない。ものを消化する時はエネルギーを使うから、動物は弱ったときはものを口にせず休養を取り自然治癒に任せる。人間は食や薬でどうにかしようとする。

食わなければ元気になれないと恐れて無理に食い寿命を縮め、薬を飲まねば健康になれないと薬を飲んで症状をごまかし、自然治癒を待つ。あるいは細菌を殺して腸内環境を滅茶苦茶にし、副作用の為に副作用を抑える薬を飲み、更に薬を飲む。得をするのは誰か。少なくとも自分自身ではない。

爪でみるあなたの健康状態 http://www.93tsukada.com/nail/nail.html
一日一食か二食の生活だけど不便を感じた事が無い。爪や舌、髪を見て不足している栄養があればそれを重点的に補うくらいか。自身の健康状態を知る方法はいくらでもある。飯を支度する時間や食う時間を読書に充てられるしな

人間の本来持っている自然治癒力や生命力を伸ばす生活をしていれば、休養を取る事で体力や健康状態が回復する。自然治癒、自己回復せずに外部からの何か、薬や食品を取る事で体力を回復する。ゲームで言えばほっとけば体力回復するゲームと回復アイテムがなければ体力回復しないゲーム。後者はキツい。

そして、回復アイテムを買うには金がかかる、と。実にマゾゲーだ。働いて、働くための健康を維持する為に収入を削り、働く。いつしか、生きるために働くでも、より良く生きるため働くでもなく、働くために生きるになってしまう。

体、内臓を冷やさない事が第一、あとは適度な運動。深い腹式呼吸なら内臓が刺激されて一石二鳥。あとは要らないものを摂取しない。まずはそれが基礎。基本的なことが出来ていないのに後付けで健康になれると言われるモノを飲食しても焼け石に水。却ってよろしくない。

血がドロドロだとかサラサラで健康なんてのは疑似科学。医学的根拠は無い。あれはオカルト。血液を採取して空気に触れれば凝固する。採血して観測する前の時間をずらせば粘性が高いように見せる事ができる。採血前に水を飲んで粘性を低くすることも可能か。血をサラサラにする納豆?腸で分解されるよ。

仮に腸から吸収されて血栓、あるいはたんぱく質を溶かすならたんぱく質分解酵素だな。血を凝固させる血小板が分解されるならば、血が止まらなくなるし、貧血や黄疸、免疫力の低下なんてのも考えうる。何かを食ってもそのまま使われるわけじゃない。肉を食ってもそのまま肉にはならないようにね。

食品で健康や体作りを考えるならボディビルの文献が非常に勉強になる。食って体を大きくする為に多くの被験者(ボディビルダー)が試行錯誤した結果が書いてあるから、下手な栄養学の本より参考になる。

食う回数を減らして、その浮いた金で美味しくて質のいいものを食うのもいいし、粗食にして浮いた金で上質な嗜好品を楽しむのもいい。三食ただ腹を満たすよりもずっと贅沢だ。

ねこた(基地外勇者様) ‏@lakudagoya 10月20日
知り合いの特権階級の姉が亡くなったらしい。相当に不摂生してたから(サシの入った高級にくにくを食べまくってた)仕方ないなと。

あんま食べなくなってやはり峨骨さんが言うように美食をするって内蔵の負担がきついのね。

その人美食しまくりだから50代か60代で果てたのか。

峨骨 ‏@Chimaera925 10月20日
美食を尽くした古代ローマ人ですら、暴飲暴食し味覚や食感を楽しんで吐いていた。

(注釈:ウィテリウス帝は)「食事は常に三度、ときには四度にもわたって、朝食と昼食と夕食と夜更けの酒盛りを摂り、いつも嘔吐によって、どの食事も難無くこなしていた」スエトニウス著『ローマ皇帝伝』

暴飲暴食して嘔吐もせずに全て胃に収めていたら、そりゃね。
水を2リットルほど飲まされたら拷問だと思うのに、砂糖や香料が入った水は飲めてしまう。溺死する事の無いように。溺死しなくともロクな事は無いが。


峨骨 ‏@Chimaera925 9月9日
共産主義社会では、人が人を搾取していると聞く。 一方、資本主義社会ではその逆だ。

(すごいなこの表現。人が人を搾取の逆は人が人を搾取。つまり資本主義も共産主義も搾取の檻ってこと。「その逆」なのに地獄ってことがポイント。逆なのは表面だけで目的は同じってこと。双頭のワシ)






M:tGの名言 フレーバーテキストBOT ‏@mtgFlavor_bot 10月20日

最高の指導者は、その取り巻きが作る。(オンスロートブロック) pic.twitter.com/wOPfQomjTC


あの大魔導士も言っているだろ?自分で単位を創れって。

自身の言葉を縛れば地震で地震の思想を変容させられる
ゲッシュ


MTGってプレイヤー=「人間」の魔法使い」が「神の怒り」と「ハルマゲドン」を使うんですよね(笑)しかも四回(枚)使える(笑)しかも「神の怒り」と「ハルマゲドン」が白属性(笑)まあWrath of God耶蘇教ですな
「解呪」も「暗黒の儀式」も「対抗呪文」もできるしすごいなあ。天使まで使役するしなあ。死者をよみがえらせるしなあ。
それにしてもプレイヤーのライフ20点ってタフなのかよくわかりませんな。ライフが「点」ってのがやばいなあ。ブラストダームは本当にやめてください。



峨骨 ‏@Chimaera925 6分6分前

MTGの初期、神の怒り/Wrath of God(Wrath、七つの大罪の憤怒だ(笑)は
Bury all creatures.全てのクリーチャーを埋葬と書かれていた。当時は破壊して再生できないと生贄に捧げるがテキストで別れていなかった。だから、全てのクリーチャーを生贄とも取れた


峨骨
‏@Chimaera925

青単パーミッションはよく使ったな。相手の手札を予想して、片っ端から打ち消して何もさせない―――ように見えて、実際は手札に打ち消し呪文が無いなんてざら。「ん?その呪文使うなら打ち消すよ」とか「それくらい別にいいよ」と言わんばかりの余裕綽々の態度で手札に土地しか無いなんてよくある。
15:35 - 2016年10月20日
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峨骨 ‏@Chimaera925 10月20日

ブラフや読み合い、詐欺の色。計画通りと思わせて時間を稼ぎ、思考や動きを鈍らせて切り札を潰してロックをかけてこちらがフィニッシャーを出して殴り倒す。処理しきれなかったクリーチャーにライフ残り1点まで削られる事もあるけど、削りきれば良い。押し切れると思わせて置けば手が緩むしな。
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峨骨 ‏@Chimaera925 10月20日

人の嘘や追い詰められた時のブラフを見抜いたり、ポーカーフェイスで腹芸するような場面でもこの経験は結構生かされている。たかがゲームと言われそうだけど、なんだかんだで生きる上で役立っている。英語版のほうが安かったから英語版のブースターばかり買っていたお陰で、英語も多少はね。
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峨骨 ‏@Chimaera925 10月20日

青黒もよく使ったけどカードパワーが残念で色拘束が厳しくて結構難しかった記憶が。対抗呪文が版落ちしてからはパーミッションやれなくなったから、他の色で補うしか無かった。どっちみち嫌がらせと妨害で遅延さえたり相手にやりたい事をさせずに勝つタイプのデッキばかり作っていたな。
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峨骨 ‏@Chimaera925 10月20日

妨害や嫌がらせに対する最大の対抗手段は、常に最善手を打つ事。それができないなら、できないなりにプレッシャーをかけること。手を緩めて妨害や嫌がらせの手段を得られる前に押し切る。逆に逃げ腰になって待ちの姿勢を取ると、そのまま駆け引きできずに場を押さえられて負けてしまう。
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峨骨 ‏@Chimaera925 10月20日

現実の交渉や駆け引きでも同じ事が言えるな。場をコントロールする前に心理をコントロールする。コントロールされれば負ける。特に勝ちパターン持ってる奴はね。その勝ちパターンを崩してやれば、主導権を握られていてもまだやりようがある。相手の得意な戦法で戦うなってのは言うまでもないけれど。
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峨骨 ‏@Chimaera925 10月20日

手札でも場でもなく心理戦で勝つのはよくあった。ゲーム後に手札を見せてもらうと、切り札満載で到底凌ぎ切れず負けるような手札なんてざら。「どうして使わなかった」と聞くと、俺に打ち消されると思った、と答えが返ってくる。余裕の演技なんだ。手札に打ち消し呪文満載なんてそんな事無いから(笑)
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峨骨 ‏@Chimaera925 10月20日

逆に手札に打ち消し呪文が無いと見せかけて切り札出させて打ち消したり、手札に打ち消し呪文が無いから場に出されて、内心焦りつつも計算通りのような表情で手札に反す呪文を使って時間を稼ぐなんてのも。手がそこそこでも心理戦で勝てばどうにか勝ちが拾えた。ブラストダーム、テメェだけはダメだ。
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峨骨 ‏@Chimaera925 10月20日

注:ブラストダームは打ち消し損ねると手札に返せない。そうなると対処不能。そして、こちらはそいつに4回殴られると死ぬ。あれは悪夢のようなクリーチャーだと思っていたら打ち消されないクリーチャーや対抗呪文の弱体化なんてのが来たり、軽量で嫌な能力持ちが居たりと、パーミッションは衰退した。

”Blastoderm / ブラストダーム (2)(緑)(緑)
クリーチャー — ビースト(Beast)

被覆(このクリーチャーは呪文や能力の対象にならない。)
消散3(このクリーチャーは、その上に消散(fade)カウンターが3個置かれた状態で戦場に出る。あなたのアップキープの開始時に、それから消散カウンターを1個取り除く。できない場合、それを生け贄に捧げる。)
5/5”
http://mtgwiki.com/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%A0/Blastoderm


ライブラリーアウト (Library Out/Decked)http://mtgwiki.com/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%88


MtGフレーバーテキストBOT ‏@mtg_bot_ 10月24日
千冊の本を読破した魔術師は強力な魔術師になる。千冊の本を記憶した魔術師は狂気の魔術師になる。 《機知の戦い》



イメージは「多数の呪文書(カード)が置かれた書庫や図書館」や「呪文を扱うための知識」。また、毎ターンカードを引くことから、「未来」や「運命」。
http://mtgwiki.com/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC

MTGは試合になると「デッキ」って言わずに魔法の本が詰まってる「ライブラリー(図書館)
山札切れだと負けちゃうよね 呪文がなくなるからね  本当に魔術師発想だな
カードだからタロットのキャラを戦わせてみたが発送元かな
M:TG Text ‏@MTG_text 2013年11月5日
古代の書はゆっくりと朽ち、その秘密も埃と化していく。しかし、大魔術師の頭の中ではすべての言葉が歌っているのだ。 - 図書館の大魔術師/Magus of the Library
0件の返信 1件のリツイート 4 いいね
• • 是名 ‏@zena_pheno 2015年12月21日
MtGの世界観ではカード=魔法が込められた本って扱いだから、カードが集まったデッキはlibrary=図書館って呼ばれるのです
0件の返信 1件のリツイート 2 いいね
• • あるすと(まよちゃん) ‏@813_my_st 2015年7月5日
私も工様がmtg講習会するっていったら、ライブラリー?図書館ですか???マリガン??、とか言い始めながら参加すると思うよ
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• • アベイズム(信仰) ‏@ELE9o9ELE 2014年6月17日
MTGは試合になると「デッキ」って言わずに魔法の本が詰まってる「ライブラリー(図書館)」っていうから素敵。 さぁ!みんなでやろう!MTG!(ステマ)



峨骨 ‏@Chimaera925
ミームの乗り物に怒ったところでしょうもない。

百科全書、正式なタイトルは「百科全書、または学問・芸術・工芸の合理的辞典」 タイトルを見てピンと来るマニア向け。百科全書第1巻が刊行されると、イエズス会の攻撃を受け、2巻が刊行されると国王の名において発禁されたという曰く付き。 https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4003362411/ref=mp_s_a_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&qid=1473252707&sr=1-1&pi=SL75_QL70&keywords=%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%80%80%E7%99%BE%E7%A7%91%E5%85%A8%E6%9B%B8 …


(ねここねこは今も辞書を引いたり百科事典を読んだりするけど、昔のある時期はまともに文章を読み進められないレベルで引きまくっていた。言葉の定義を考える習慣がつくのでおすすめ)

綺麗でそれっぽい看板を掲げておけば、納得して(言いくるめられて)しまう。子供騙しだが、語彙と思考が制限されると子供騙しに簡単に引っ掛かる。 定義や実体について議論しなくてはならないのに、イメージについてああだこうだと議論にもならん議論をする羽目になるのだ。

呼称がもたらすイメージで解った気にさせて、本質には突っ込ませない。ゲリラ豪雨の指すゲリラはあくまでイメージ上のゲリラであり、ゲリラの定義は含まれない。 法案や団体名でも同じ事だ。その呼称を聞いて中身まで解った気になって、その中身まで見ず、まして議論などしない。故に何の影響力もない

ゲリラ豪雨などと味気ない造語が一般的に用いられるのは語彙力の低下から。ゲリラ(のイメージ)+豪雨の組み合わせで構成されている。定形のイメージをもたらす単語と単語の合成。
オーウェルの1984年では語彙や思考を縛り、党のイデオロギーに反する物事を考えられなくすることに成功している。

読む対象に適切な語彙のプールを選ぶのも要点か。
多くの者に幅広く読まれたいと思うならば、携帯小説程度の語彙量に絞り漢字を減らし、ひらがなやカタカナの容量を増やす。漢字だらけの文章にすれば、変な輩が滅多に噛み付いて来ないという利点もあるが、読者を増やしたいならばお勧めはしない。


ことば選び実用辞典は歌詞を書くときに非常に重宝した。横文字で誤魔化さず、韻を踏みつつ、表現したい内容に適切且つ不自然でない言い回しを探す際に大活躍だ。読むための文章にも緩急が必要だけど、歌詞は緩急だけでなく音の響きやそれの与える心理や印象も重要だからね。漢文や漢詩も役立ったな。

百科辞典の語彙や定義が頭に入っていれば、そこにあるものだけであらゆるものごとを言葉で表現することができる。故事成語や四字熟語、歳時記に親しんでおくとより豊かな表現が可能となるだろう。

有名?アカウントがお勧めの本を紹介しているから、紹介しなさそうな必読書を紹介してみる。
百科辞典、ことば選び実用辞典。このあたりは必須。調べるのではなく繰り返し読む。物事を考える時、頭の中で言語化されている。語彙が少なければ、深く考える事はできないし、それを表現する事もできない。


MTGフレイバーbot ‏@MTG_FTbot 8月31日
単語───辞書の中にいる間は、かくも無垢で無力な物。しかしそのつなげ方を知るものの手にかかれば、その善良かつ邪悪なることよ!
──ナサニエル・ホーソーン
《文書管理人/Archivist(8ED)》

バズワードとは、何か新しい重要な概念を表しているよう見えるが、実際は明確な定義や範囲が定まっていない、都合よく引用される言葉。 「陰謀論」がレッテル張りに悪用される場合も陰謀論はバズワード。 | 読めないニックネーム(再開版)
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-118.html


峨骨 ‏@Chimaera925 10月
呼吸法で息を止める時、よくありがちな間違いは流れは止めない。息を吐ききって下腹部の筋肉が収縮した状態で静止する。この時、肛門を腸に引き込むように閉めた状態。喉で息を止めるイメージは誤り。緩めると息が入ってくる訳だ。緩めて空気が肺に入るに任せて、弛緩させたまま静止。喉で止めない。

水を一気飲みするみたいに喉は開けたまま。これが極意。
歌うときもこうすると、歌がブツ切りにならない。フレーズが途切れても歌の流れが続く。歌わない箇所は休む場所じゃない。歌わない箇所も歌の一部。ここで休むとそこまでの流れが途切れてしまう。

呼吸の訓練では流れを止めない。息は生きること。流れを止めないように意識するとやり易いだろう。もっとも、俺の一番効率の良いやり方に最適化されているから流派(?)ごとにやり方があるだろうけども。

初歩段階では、上体に無駄な力を入れず脱力して息を吐く事を会得する。これを飛ばして吸う段階に行こうとすると無駄な力が入る癖が取れない。濡れた布を詰めた管楽器を思いっきり吹いても楽器は壊れはしないが、声帯は故障する。脱力して息を吐く事を体で覚えるまでは息を吸う事は意識しなくてよい。

一般的な腹式呼吸では腹を前後に膨らませるイメージだが、実際には下腹部の末端から内臓を押し上げるように収縮させ徐々に下腹部が凹み、次に腹部。丁度、切れかけの歯みがき粉のチューブを絞るような感じだ。上に押し上げるような動きだが、イメージでは体が沈み込むように。肩幅に足を開き行うと、

地に根が張ったかのような安定感が感じられるだろう。意識と神経と筋肉を連動させて、より長く細かく制御して段階的に吐けるよう体作りすることで、限界まで声が振り絞ることができる。
声帯に負担をかけず、体に負担をかければかけるほど大きく強く高い声が出せる寸法。

ありがちな誤りが、大きく強く高い声が出そうとして上へ上へ意識を持っていくこと。足を踏ん張って下へ下へ行くのが正しい。喩え悪いけど、トイレで踏ん張るあの感じ。両足上げては踏ん張り利かない訳で。意識を上へ上へ持っていくと息の制御が甘くなり、首周りにも力が入る。

呼吸の訓練はしっかりやっていれば必要な筋肉は勝手についてくる。上体を脱力してから、できるだけ時間をかけて徐々に筋肉を収縮させて息を吸い切った所で静止、筋肉を徐々に緩め吸った時間と同じ長さ息を吸い、静止
。これを繰り返すことで発声に必要な繊細な息の制御が可能となる神経や肉体が作られる

中学の頃、ボーカルのトレーニング本を何冊も読んだけど、まず腹式呼吸について書かれていても一頁程度。具体的には書いてないし、それで身に付いたかどうかも解らない。息が身に付かないのにトレーニングや技術の話。スポーツで言えば競技に必要な知識や体作りが無いのにいきなり競技の技術練習。

下半身の強化は別途必要か。俺の場合、スキー、スケート、剣道、陸上(短距離走と高跳び)でそれなりに鍛えていたから走り込みとスクワット、たまに站樁功 くらいしかやらなかったけど、粘り強く力強い足腰があった方が重心が安定して踏ん張りが効くしパワーも出る感はある。
呼吸の補足:息を吐ききったあとて脱力して自然と入ってくる過程を息を吸うと表現している。腹を膨らませて吸う必要は無い。脱力が身に付かない段階でそれをやれば息を吸おうとして余計な力が入りいつまでも脱力が体得できない。肩が上がって胸式呼吸になってしまい本末転倒。変な癖が付くと遠回りだ。


歌手の歌真似して変な癖や喉を潰しかねない歌癖が付いてしまうと、なかなか治せない。自分自身の手で自身の声の力、魅力を掘り起こさなくてはならないのに、誰かの劣化コピーになってしまいがち。基礎が無いのにそれをしようとすれば、喉を潰しかねない。百害あって一理無しだ。
役者は体作りから入るのに、歌はカラオケ等で誰でも歌えるから軽視されやすい。昔と違ってマイクや音響機器の性能向上で声が拾いやすくなり、編集やエフェクトも簡単に付けられるから声楽ほどは重視されないし、求められてもいないだろうが、何本もライブ演って持たないのはちょっとな。

あの呼吸法は精神状態や力を入れる箇所、呼吸の加減によってツボに嵌まると呼吸するだけで快楽や多幸感が得られるパターンがある。ある種間違ってはいないがそのやり方はお勧めしない。呼吸だけで賢者モードになり日常や健康に支障が出る。それで悟ったなんて勘違いしても不味い。脳内麻薬の錯覚だ。

そのようにはならないように書いているので恐らく危険は無いだろうが、偶然そうなる可能性もあるので。これで得てしまった神秘体験や特別な体験に思えるものは脳内麻薬の産物で錯覚だ。ほどほどに付き合って、快楽や優越感に溺れてはいけない。それは破滅の第一歩。引き返せ。

敢えて心と書かないのは神秘主義やオカルトが入り込まないように。人間、期待すると見たいものを脳内で作り出して見てしまう生き物なので。そっちは無防備に踏み込むと実に危険で、良いことなど何一つ無い。カルトにハマるくらいならまだマシなくらいに。タチが悪いのを拗らせると人間として終わる。

呼吸法で心身を健やかに、歌唱力を向上させ本来持つ声の魅力を引き出す。求めるのはこれくらいで充分だ。神秘体験や特別な力は求めてはいけない。欲や誘惑に囚われないと思っていても、求めないのが無難だ。そんなもの無くても人間は生きられる。いや、手段に依存するくらいなら最初から無い方が良い。

ありがちなカルトのイニシエーションでまやかしの神秘体験をしてカルトにハマる者を見れば危険性は解るだろうから、これくらいで。

人間ってのは、ある環境や条件、前提となる知識が揃うと簡単に神秘体験のようなものを脳内で作り出して体験してしまう
ので、研究する側としては面白いのだけどね。やってはいけない見本だ。それを悪用する連中は軽蔑に値する。風上にも置けん連中だ。恥を知れ、と。

白魔術だの黒魔術だの分類されているように見えるが本質は同じだ。まじないにしても呪い。どれも意識の変容の技術。使い方によっては他人の意思をねじ曲げる技術でもある。戯れに手を出して効果が無ければ幸い、あれば最悪。道具は使う者の倫理観に委ねられる。相手を幸福にするから白など単なる欲目。

カルトの教祖の下半身が大抵暴走するように、精神を鍛えてもいない強い倫理観を持ってもいない欲にまみれた俗物がその手の技術を手にしても、肥大化した強烈な自我や欲望を制御できずに破滅に向かう。それならばまだマシだろう。破滅していないならば、破滅と厄災を振り撒き周囲を巻き込む。

ボイトレの定番なぁ。定番ではないけど、仁義を切るhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E7%BE%A9%E3%82%92%E5%88%87%E3%82%8B のが練習になったな。言い間違えたり迷ったりしたら殺されると自己暗示かけて、追い込みかけてからやると一回だけでも身の入った良い練習になる。多分俺以外にやった奴は居ない。

実践に即したトレーニングでは精神面の強化も取り組むと良いだろうな。ライブやっていると人前で表現する度胸や慣れが生じるけど、慣れっこになる内に自分自身や表現に対する甘さが出てくる。そんな状態で練習したって効果は並。ダラダラやって変なクセ付けるくらいなら、短時間で濃密にやるかな。

発声や身体操作による表現は、それを視聴する観衆、相手がいて成り立つ。だからこそ相手に届けなくてはいけない。聴く相手を意識して、どこに向けて伝えるか意識して発声練習をすると、地声はもちろんマイクに声を乗せる時にも効率よく声を伝達できるようになる。標的に声を当てる感じだ。

あとは自分の発声練習を録音して聞く。この作業が非常に重要。自分で発声して聞こえる声と相手に聞こえる声や録音して聞く声は違う。この齟齬を理解しないで自分の聞こえる自分の声だけで判断してしまうと、自分にとっては良い声でも相手にとってはそうでもないなんてお寒い事態に。客観観は大事だ。

呼吸と脱力の鍛練をしていくと息が効率的に運用できるような体と神経が徐々に作られ、次第に声の出力が上がるので、そこからは呼吸を鍛えつつ声の制御。イメージさせたい声を出す、これが難しい。声に感情を乗せるなんて言うけど、それは相手が感じとるもので自分の感情などどうでもよい。自己満足だ。

自分がこのような感情だから相手にも伝わるはずだと自己陶酔して表現するのはあまりにもお粗末。共感性の高い者には伝わるかもしれないが、そうでない者にも伝えないといけない。このあたりはシビアにやらないと身にならない。独りよがりで終わってしまう。理解されないのは相手が悪いなんてのは最悪。

声に感情を込めるのは技巧であって、感情そのものではない。電話口で謝罪する時、感情を込めて謝るよりも頭を下げた姿勢を取り発声することで声の反響やくぐもり方が変わり、それほど感情を込むていなくても相手に謝意が伝わるなんてのも技巧だわな。自分の感情と相手がどう思うかは別物。

主観はそこまで重要ではない。相手がどう感じるか、相手からどう見えるか、客観視する。これだ。これを意識しないと、自分の思うように自分に対するイメージや感情を操作することができない。この操作こそが一種のカリスマ性を作る。肩書きやら宣伝なんかのハロー効果を使わずにな。

自分自身が作品、キャラクターになるってことだ。誰もがやっている事だけど、意識して行う者は少ない。もっとも、俺のやり方は妖刀を作るような邪道なやり方だろうな。ただ、このやり方は才能や生まれは関係なく身に付けられる技術だ。音感も訓練で鍛えられる。俺は才能なんて言葉は嫌いだ。

勿論、感性だって鍛え上げ育てる事ができる。才能ではない。ゼロから産み出された完全なオリジナルのものなんて無いしな。全ては模倣と組み合わせだ。そうでないように見えるものは出典が解らないか、解らないようにしているだけで全ては既存の組み合わせから作られている。だからこそ全ては模倣から。

その際には良い手本を選ぶのは勿論のこと、癖を模倣しないこと。悪い癖が付くとそこからの修正が困難になる。癖なんてのは意図的に繰り返す事で相手が勝手に癖だの味だのと特別視して錯覚するものだから、後からいくらでも付けられる。徹底した基礎と体作り、そしてオーソドックスな題材の模倣。

基礎と言いながら、全て独学だったりする。今思うと、変な指導者に付くよりはマシ
だったなと。


ねこた(基地外勇者様) ‏@lakudagoya 1時間1時間前

ねこた(基地外勇者様)さんが峨骨をリツイートしました

お見事!この何でもイメージでしか物事を考えない記号的思考は恐ろしいですよね。ナチスのコスプレというわかりやすい「記号」にとらわれていれば、ナチズムはネオリベに化けた事すら気付かない。

実は偶像崇拝禁止ってのはこのイメージ操作を封じる思考なんですよね。仏像の爆破でなく。 RT

ねこた(基地外勇者様)さんが追加
峨骨 @Chimaera925
中傷させてイメージ合戦しておけば肝心の政策の中身について話さなくていいしな。イメージ、心象、心の問題、信仰のお話。信じるか信じないか。中身について論じる事無く、誰も触れる事無く、気付いたら決定していて、あとは騙されたと叫んで終わりさ。信じる者は巣食われる。誤字ではない。



そこに付いている名前などどうでもよい。ネズミに悩んでいて猫を飼うとしよう。この場合、ネズミを捕ってくる猫がもっとも良い猫だ。その猫の血統や見た目などどうでも良い。ネズミを捕ってくる猫かそうではないかではなく、血統や見た目、毛並み、色、そんなものを議論したところで問題は解決しない。


どれだけご大層な名前や肩書きがあったってネズミを捕ってこない(問題を解決しない)のならば、何を選ぼうと一緒だ。ネズミ(問題)に悩まされ続ける。中身を見ない、見せない、中身の無いイメージ戦略、○○劇場、中傷合戦ってのはそういうこった。
ん?どれを選んでもネズミを捕ってこない猫しか居ない?その猫を飼わせようと思ったら、ネズミ(問題)から一旦目をそらさせて、それと関係の無い条件で売り込むだろうな。
よくある定義のすり替え。定義をすり替えて、議論の内容をすり替える。良い猫の定義をすり替える事で、別の猫を選ばせる。



反対されたくない法案にはきれいな名前をつけるのさ。人権救済だの、子供を守るだの、それっぽい名前をね。事前に反対する者に対する負のイメージを抱くように、メディアを使って悪の偶像を提示してそれに嫌悪感を集めさせて、反対する者を同一視させて悪のレッテルを貼りやすいように巧妙にやるんだ。

だからこそ、負のイメージを集める象徴や偶像あるいはアイコンが提示された時は、その下準備だと考えたほうが良い。不満の矛先を逸らし、怒りや憎しみに変換させ無意識に焼き付ける。そうすると焼き付けられたものとの類似点があるものに同じ感情を抱く。これが偏見というものだ。

(仏教も偶像崇拝禁止だったし、キリスト教ですら偶像崇拝禁止だった)

ねこた(基地外勇者様) ‏@lakudagoya 42 分42 分前

おいらは悪の魔導師のイメージ操作を封じたいのだけどそれをやるにはアブラハムの宗教くらいしかないからね。

おねショタおじさんも言ってたけど所詮ニャンゲンはシンボルとイニシエーションだからこの思考回路何万年も続けてきたからイスラム原理主義者みたいにはなれないんだよ。結構無理してる。
まぁ、それでも近代法の解釈法を作り直してイスラームの法解釈の理論を入れて作り直すくらいの事をしたらマトモにはなるかも知れんけど、日本の特権階級は嫌がるだろうね。 言葉とモノの乖離を許さないという事は虚飾的な神話の上に成り立ってる特権階級の立場を破壊するからね。
言葉とモノの乖離を許さない文明は、虚飾性の上に成り立ってるものをすべて破壊するからね。 そうなると「暗殺はカリフ制の華」にしかならないもの。 古代から支配者が偶像崇拝やパンとサーカスに熱心だったのはこれなの。 人間の心の構造は所詮シンボルと儀式なんでそれが自然だから。



所詮、ニャンゲンの人生は神話と儀礼とシンボルなんだよ。それを操る側がいつだって支配者だよ。

だから一般人にはそれらに注意を払わないといけない。

食べられないシンボルを纏うためにバカみたいな努力をしてるのさ。

おいらはそれから逃れたくてもできなくて苦しんだんだ。大変だよ。
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峨骨 ‏@Chimaera925 6月14日
峨骨さんが峨骨をリツイートしました
99%対1%の戦いが仮にあって勝利しても、後から指導者が送り込まれて元の木阿弥。奴隷の存在無しには生活が成り立たないエリートが、それらを自己正当化する為の詭弁を振りかざし、同じように支配する。思想を破壊しなければ無駄骨。
峨骨 ‏@Chimaera925 4月20日

支配者を打ち倒した後、それらを指導した者達が同じ事を行う。または指導者は後からやってくる。
ボルシェビキ革命の七ヶ月前に皇帝は退位していた。その時、レーニンとトロツキーはロシアに居なかった。米国に居たのだ。彼らは強力な支援を受けてボルシェビキ革命の準備が整ってから送り込まれた。

ねこた(ニート勇者Lv.1 実は遊び人) ‏@lakudagoya 2015年5月2日

映画「レッドクリフ」(三国志の赤壁の戦いな)に凄い名言がある。都市国家が国を守ろうと頑張ってる中、おばちゃんが「どうせ支配者が変わっても私たちは年貢の納め先が変わるだけだ」ってね。イルミの思考の罠はまさにこのおばちゃんの言葉に集約されていると言っても過言ではない。


峨骨 ‏@Chimaera925
俺の呼吸と発声の訓練法の話ってあれだ、スカイリムのスゥームやシャウトの訓練法みたいなノリだなと今更ながら。あそこまで破壊力は無いけどな。 スゥーム http://dic.nicovideo.jp/t/a/%E3%82%B9%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%A0
(” スゥームとは、ベセスダ・ソフトワークスのRPG『The Elder Scrolls』シリーズに登場する魔法の一種である。

「Thu'um」「Su'um」「Dragon Shout」「Storm Voice」とも。
概要

スカイリムの住人であるノルドの民に古くから伝わっている魔法であり、「シャウト」「声秘術(せいひじゅつ)」とも呼ばれる。もとは定命の者たちを支配していたドラゴンが使っていたもので、ドラゴン語による魔法「ドラゴンシャウト」を祖とする。スゥームというのはノルド側の呼び名である。

ドラゴン語ではその一語一語に力が宿っている。スゥームは声を発動の鍵としており、それ一語だけでも力を発現できるが、単語を三つ合わせて一セットとして発音することによりさらなる力を発揮する。

使用者によっては強大な力となり、ノルドの英雄タイバー・セプティムもスゥームの強力な使い手であった。その力はタイバー・セプティムがなにか話すだけで雪崩を引き起こす、山一つ動かせるほどだったとか。ちなみにグレイビアードがスゥームで予言を行った際には山の麓にある村が消し飛んだという。

ただし覚えるのは容易ではなく、シャウトの扱いを知らぬ者がただ発音だけまねても効果はない。また、一語習得するだけでも数年という時間を要するため、マスタークラスになるのは至難の業である。

ただし『Skyrim』の主人公はドラゴンボーンであるため、これには当てはまらない例外となる。
→ 「ドラゴンボーン」
スゥーム(シャウト)について

シャウト自体にも意味があり、トレイラームービーで主人公が発しているドラゴンシャウトも以下のように解釈できる。

Fus Ro Dah (揺るぎなき力)

Fus (ファス / フス)
Ro (ロー)
Dah (ダー)

構成ワード"Fus"が(力)、"Ro"が(バランス)、そして"Dah"が(押す)を意味する。

"Fus(力)"のみでは相手をよろめかせる程度しか使えないが、3つ揃うことにより相手を吹き飛ばす強力な魔法となる。”

“ドラゴンボーン(能力者)
八大神の一柱とされている竜神アカトシュに祝福された存在。ドラゴンボーンとは人間の言葉で「竜の血族・竜の血脈 (Dragonborn)」を意味し、ドラゴン語で「ドヴァキン」「ドヴァーキン」ともいう。作中においては、生態系の頂点に立つドラゴンすら恐れる究極のドラゴンスレイヤーである。
ドラゴンと同じく「シャウト能力(スゥーム)」を使うことができ、更に倒したドラゴンの魂や力を吸収する能力を持つ。これにより、本来は不滅の魂を持つはずのドラゴンを完全に倒すことができる。また、シャウトに対する適応力が非常に高く、素養のあるものですら非常に長い年月をかけて会得しなければならないシャウトを、ほんの些細なことで覚え、使えるようになってしまう。 [1]
帝国の皇帝タイバー・セプティムの一族に代々この能力を持つ者がいたことから、皇帝の血族しかドラゴンボーンになれないと考えられていたが、ドラゴンボーンを代々導いてきた組織であるグレイビアードいわく、皇帝以外にも同様の力を持つ者が時代の変わり目にはたびたび現れていたらしい(ドラゴンボーンの祝福はアカトシュが特定の対象を選んで与えるものなので、ドラゴンボーンだった者の子孫だからといってドラゴンボーンになれるわけではないということである)。
また、ドラゴンボーンとなり歴史を築いた者たち(シロディール帝国皇帝)、ドラゴンボーンを補佐する組織(ブレイズ)、ドラゴンボーンを導いてきた組織(グレイビアード)など、地域によってはドラゴンボーンが世界に対して及ぼした影響を示す痕跡が現在も残る。” http://dic.nicovideo.jp/t/a/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%B3)

峨骨 ‏@Chimaera925 6月1日

スピリチュアルや自己啓発、ビジネス系自己啓発が流行る中、それを通して頭の中がクリスチャンに書き換えられている。「強く願い潜在意識に働きかければ実現になる」これはニューソート。魔術と比較すると、「ああ、コレは失敗するわ」ってな方法が書いてある。成功しないから依存して固定客になる。


峨骨 ‏@Chimaera925 5月7日

人間の心理を熟知して、よく練り込まれている。無から価値を産み出すかのような魔術的な手口だ。価値を所有したかのような夢を見ているに過ぎないが、夢は覚めるまで夢とはなかなか解らないし、覚める術を知らねば自分の意思で覚めることも難しい。
峨骨 ‏@Chimaera925 2012年12月13日

プルーストの場合、マドレーヌを紅茶に浸した匂いで主人公が幼年期を回想するのだったか。魔術では特殊な薫香を焚いたりするけど、意識を変容させる上で特殊な香りを嗅ぐのは非常に効率が良いのかもしれん。


峨骨 ‏@Chimaera925 2012年9月17日

仮に拘束され四肢の自由を奪われ真っ暗闇の中にただ一人閉じ込められても精神は自由だ。思索と想像は暗闇を照らしてくれる。魔術とは意識の変容、目覚めたままで夢を見る技術。パンを生み出す技術ではない。最高のパンを食べたクオリアは生み出せるが。




峨骨 ‏@Chimaera925 7月18日

ガラス玉とダイヤをテーブルに置いて、ガラス玉を選ばせ、自身はダイヤを手にする魔術がある。物体そのものには価値が存在しない。物体に人の手で縫い付けられた影のようなものが価値。これは案外簡単にすり替える事ができるのだ。

峨骨 ‏@Chimaera925 7月5日

@lakudagoya あれも面白いですね。偶像崇拝どころか見世物にしてますし。非教徒から見るとイエスが磔にされるアトラクションはシュールです。ああ、魔術の儀式も似たようなものでしたw

ねこた(基地外勇者様) ‏@lakudagoya 7月5日

@Chimaera925 教祖が生贄になった事に感謝するのに、悪魔崇拝の生贄の儀式ガー!って何のブーメランだよとw

聖書学者や考古学者を集めてこんなもの作っちゃうところには脱帽者ですね。日ユ同祖論もお台場にソロモン神殿建てるくらいのことやったら少しは許してやるwって感じです。

峨骨 ‏@Chimaera925 7月5日

@lakudagoya アベルを殺害したカインが殺されないように印まで付ける神ですから。子孫にまで恵まれてますし。神を見習ったんです(笑)

自由に石を切り出せる巨大な虫を遺伝子組み換えで作って、使役する所から開始ですね。日ユとか無茶な事を言うくらいだからそれくらい出来ますよ。


峨骨 ‏@Chimaera925 2012年11月16日

真っ当な魔術だと願望成就より先に理論と精神鍛錬、内観する所から始まるけど、多くの人が手軽に手を出せるオカルトはまず願望ありき。意識の変容を行う技術でしかないものを、欲望塗れで願望器として使う。そりゃ、悪魔憑きとか狐憑きになるわ。低級霊の餌だしな。


峨骨 ‏@Chimaera925 7月7日

新暦の七夕か。人間の都合でコロコロ予定が変わる織姫と彦星もたまったものではないな。
暦なんざ人間が作ったもの。その暦に合わせて都合よく起こる事件や奇跡は人為的に作られたものだ。運命や偶然があるとして、それがわざわざカレンダーを見てやってくる筈がない。占星術や魔術はそれを利用する。



峨骨 ‏@Chimaera925 10月16日
今週も勢いだけで乗り切ったから、ちょっと疲れたな。何時になったら仕事量減るかね。逆に全く無くなるのも、それはそれで恐ろしいのだけども(笑)
20代の頃はビールなんてちっとも旨く感じなくてウイスキーのチェイサー程度にしか思っていなかったが、味覚ってのは変わるものだなァ。

無性にライブがやりたい。あの業界とは関わりたく無いけれども。錆び付いていてお話にならないけどな。歌は歌えばいいものじゃない。体作りが基本、アスリートと一緒だ。思うように身体を操作するための筋肉と神経、声帯操作のトレーニングにあとは呼吸と発声に必要な人体構造の知識、練習で歌う?論外

最低限が出来てないのに歌ってみて練習なんて最悪だ。練習にもならない。変な歌癖が付いてロクな事にならんよ。ポリープやら何やら出来て手術か引退コースだ。スポーツで言えば、練習しないのに練習試合やるようなもん。無茶苦茶だ。今日日は誤魔化し利くから、歌い手なんて単なる素材だけどな。

ねこた(基地外勇者様) ‏@lakudagoya 10月16日
@Chimaera925 これっていわば肉体の訓練ですよね。自分の意思通りに肉体をコントロールするの。イメージ操作に肉体のコントロールが乗ると最強かも。。。ごくり。

前にカラオケでユーミン歌ってる時に音階のイメージと肉体の発声がかぶればこれはやばいと気付きましたで。

峨骨 ‏@Chimaera925 10月16日
@lakudagoya ええ、肉体と神経、脳のコントロールです。ボックス呼吸と組み合わせるのが正しい利用法だったり(笑)身体、呼吸を操作すれば心理状態や脳波も思いのままに再現できますよ。

お、ユーミン歌うんですかい。


尚、対象の呼吸を限定することで意図した心理状態に操作する事も可能。


大抵の人は呼吸が浅く、胸で息をしているから不安にさせるのは比較的簡単。腹式呼吸なんて言っても、大抵腹式呼吸出来ていない。この呼称が誤解の原因かもしれないが。漠然と腹を膨らませても、苦しいだけで意味がない。腹では浅い。吸うとき逆に腹を凹ませてみると丹田、腸の付近が重要だと解る。
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峨骨 ‏@Chimaera925 24 時間24 時間前

息を吸うのはそこまで重要じゃない。腹を凹ませて丹田のあたりがじわりと熱くなる筋肉の動き、これを吐く時に使う。このように息を吐く事で効率よく息を吐き切る事ができる。すると、反動で勝手に空気が入ってくる。歌のブレスコントロールに必要なのがこの筋肉。笑いすぎると痛くなる筋肉もこの付近。

あと意識するのは背筋か。肩を上下させる胸式呼吸では息が調節し辛い。自分の筋肉を意識して、息の強弱をコントロールして声帯を振動させて、そいつを骨や身体を使って増幅してやる、これが極意。あとは最大効率を得るための脱力。慣れると首を振りながらシャウトできるようになるはずだ。


突き詰めると、一番盛り上げるサビのパートを花の香りを嗅ぐ程度の呼吸をひとつしただけで歌えるようになるだろう。無駄を省いて効率化して最後まで吐いた息を使い切るなら肺活量はそこまで関係ない。無駄な力……特に肩や首、舌、喉あたりが主、あるいは変な歌癖があると難しいな。


@lakudagoya ええ、肉体と神経

リラクゼーションのすすめ ~自律訓練法~
http://www.kaimin.info/part/suffer/dia05.html
この自律神経訓練法をプログラムに組み込むと脱力のコツが掴みやすい。催眠誘導なんかにも使われる古典的な手法だけど、なかなか侮れない。
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峨骨 ‏@Chimaera925 23 時間23 時間前

ちなみに、深い腹式呼吸を行うと腸の血行が良くなり、便秘や内臓の冷えの解消の役にも立つはずだ。なかなかハードな運動になる。素早く鼻から息を吐いて吸うのを片方づつ行うと心身が活性化される。満腹時や妊娠、体調不良時は避ける事。深く息を吐けば勝手に入ってくるので、吸うのは意識しなくて良い


四半世紀くらいやると勝手に身につくので、ユルく、気楽に、テキトーに。完全に手探りだったから時間かかったけど、ある程度のポイントがわかっていればそんなにかからない筈だ。

ここでは滅茶苦茶ざっくり書いたけど自分の脳に電極をセットしたり、fMRIで脳を輪切りにしてデータ取ったりもしたので、それなりにネタは色々あったりする。歌の為に歌以外の事をする奴って他に見かけないな。周りは皆、真面目にひたすら歌っていた記憶が。


腹式呼吸の利点は、他には腹が据わる。動じにくくなる。呼吸の重心が胸に行っている時は動揺しやすく、頭に行っているときは文字通り頭に血が上ったりのぼせやすくなる。おかしな手法で能力開発やらやると頭に行きやすいかな。あとは冷静さを失った時なんかはね。そんな時に呼吸を変えると意識が変わる


催眠誘導の弛緩法と組み合わせて寝る前にゆったりと行うと、リラックスして眠れるかもしれん。俺の場合、フランキンセンスとミルラの香を焚いて、固い床の上で死者のポーズで意識を落とさず横になる事で1~2時間くらいで充分な脳の休息が取れる。時間が無い時はこれで仕事に行ったけど健康体だったな



あとは表情・顔の筋肉と姿勢もポイント。顎を突き出した猫背は最悪。胸部や頚椎が圧迫されるから呼吸が浅くなる。わざと浅い呼吸をしてみれば解るけど思考にもやがかかり精神が不安定になる。顎が突き出される事で舌の位置もおかしくなり、口呼吸にもなりやすい。低位舌はロクな事が無い。

姿見を置いて家を出る前に理想的な姿勢を取ってみて身体に覚えこませて正しい・美しい姿勢を習慣化させたり、作業する傍に鏡を置いて表情を確認するのも効果的だ。なんだか、マイ・フェア・レディみたいな話になってきたな。その流れで行くと、本の朗読をして録音し聞く
、これもまた一つの手だ。



姿勢は発声にも影響してくるとはいえ、猫背に慣れると正しい姿勢に必要な筋肉が足りていないので低負荷のチューブトレーニング、アイソメトリクストレーニングやストレッチ、ヨガ等からできるものを軽く行うと良いだろう。まあ、一番は美意識だな。もとの造りが変わらずとも、立ち居振る舞いが変われば


自然と美しく見えるものだ。そうあろうと思う事が一番の近道、かもしれない。あまり気負わず、街中で人間観察して「この姿勢は格好悪いな」と思ったら人の振り見て我が振り直せってな具合に。「見習いたいな」と思えば模倣する。このように動機付ければ人を見ただけでトレーニングが常に意識できる。
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峨骨 ‏@Chimaera925 22 時間22 時間前

常に人の目を意識する、これは結構重要かな。自意識過剰になれって訳じゃなくて、客観的に見て自分がどう見えるか、見られるかを意識する。あるいは、どう見られたいか。自然にこれが意識できるようになると、以前書いた心理誘導の手法を使って自由に自分を演出することができるようになる。守破離だ



やれ本当の自分だ、ありのままの自分だなんだと言うけれど、大切な人や場所に赴くのに全裸で行ったり目脂だらけの顔で行ったりはしない。それに相応しい装いで向かうはずだ。相手も自分も恥をかく。表情や姿勢も一緒。自分らしさは相応しい立ち居振る舞いをして、隠そうとしても内から滲み出るものだ。
0件の返信925 22 時間22 時間前

それは知性だったり品性だったり色気だったりするかもしれない。ちょっとした演出でそれが滲み出ていると相手に錯覚させる。ジョハリの窓を引き合いに出すまでも無く、人間は様々な表情を持っている。それはひょっとしたら、自分の気付いていない一面かもしれない。そう思うと面白いものだ。


まずは脱力。頭のてっぺんにハンガーのフックが付いていて、それに釣られて立っているイメージ。座っている時もこれ。その際に、腹式呼吸のあの熱を持った部位に軽く力を入れてやると骨盤が安定して腹が据わり自然と背筋が伸びる。あとは背骨の一本一本を意識して隙間を開けて筋肉で支えるような感じで


あとは軽く胸を開いて顎を引く。ヤジロベェのように上体が骨盤の直立するようなイメージだ。椅子の背凭れから拳一つ分離れた位置に座ってこの姿勢を取り上体をユラユラさせてみると、腹部に軽く意識を置く事で安定した姿勢になっているのが確認できるだろう。式典でも役に立つ楽な座り方。
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峨骨 ‏@Chimaera925 21 時間21 時間前

この立ち姿で足を肩幅に開くと、非常に歌いやすい。重心が下にあるから安定性が高い。上に意識があると、首や肩に無駄な力が入り喉が絞まったり、ピッチが不安定になったりしやすい。なにより、シャウトしにくい。

腹が据わらないから上体が上手く脱力できずに、ふんばりも利かない。これは歩くときも一緒。ハイヒールを履いて猫背気味に顎を突き出して歩いている残念な姉ちゃんを見てみればわかるけど、頭部と胸部にかけて重心がある。あれではモデルみたいには歩けない。重心の位置が間違った位置にあるからだ。


ねこた(基地外勇者様) ‏@lakudagoya 22 時間22 時間前

@Chimaera925 よくお金持ちがこういった空気や雰囲気のコントロールをするのでどんな秘術があるのかと知りたくてしょうがなかったのですが、こんな秘密があったんですね。

こんな明晰なわかりやすい言葉で雰囲気で相手を洗脳する方法を知れてとても嬉しいです。やっぱ姿勢と座法大事なんですね。いやはや、ひとつひとつにちゃんと意味があって無駄がない美しさがありますね。


峨骨 ‏@Chimaera925 21 時間21 時間前

@lakudagoya 日本の金持ち、成金でそこまでやっているのはあまり見ないですね。声のトレーニングも全く。コントロールの為の重要度は見た目(ファッション・立ち居振る舞い)、声(話し方・リズム・声質)、最後に話す内容。印象はこれらのトータルコーディネートで成り立っています。

ねこた(基地外勇者様) ‏@lakudagoya 23 時間23 時間前

@Chimaera925
ユーミンの歌をカラオケで歌ってもしや。。。と気付いたのですが大当たりでした。

これやばいっすよ。なんて応用の幅が広すぎる技術なんでしょう考えるだけでですよ。
0
峨骨 ‏@Chimaera925 23 時間23 時間前

@lakudagoya かなりはしょったので(本来は本が一冊書ける為)抜けが多い気がしますが、経験が役に立つようなら何より。一応、入門にヤバい情報や手法は省いたので危険は無いかと思われます。
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ねこた(基地外勇者様) ‏@lakudagoya 23 時間23 時間前

@Chimaera925 いやいや、実に素晴らしく要点が纏まっており素晴らしいです。こんな実践アドバイスを集めた本があれば私の宝物になるでしょう。

はい、危ない情報は省いてあり、むしろこんな安全なアドバイスだらけのものはあまりないかもですね。

適格でわかりやすいです。
0件の返信 1件のリツイート 1 いいね
峨骨 ‏@Chimaera925 23 時間23 時間前

@lakudagoya それは良かった。セルフ人体実験して「ん!?まちがったかな」した甲斐があるというものです(笑)

ええ、巷に溢れる自己啓発やスピ系のこの手の情報は危険が一杯で、あまりにも不誠実で、見ていてツッコミ疲れます。時に血の気が引きますね。却って逆効果なんてのも多々。
0件の返信 1件のリツイート 2 いいね
ねこた(基地外勇者様) ‏@lakudagoya 23 時間23 時間前

@Chimaera925 いやいや、ここまで実験する人はレアですし、その記録は殆ど外に出ませんから凄く参考になるのです。

スピ系はほんと血の気が引くのわかりますよ。不誠実というか、意図して大事な所をくり抜いて技術としては危なっかしすぎるのに、陰謀論とセット売りなんて。。。

ねこた(基地外勇者様) ‏@lakudagoya 24 時間24 時間前

@Chimaera925 あ。。。やはりですか。歌などにも使える技術なわけですから隠れな人音楽の世界にも多いでしょうね。

音楽の再現や脳内の理想のイメージを肉体を操作して自由自在にできればこれはやばいかと。

はい。下手くそですけど、はたとカラオケで気付いた人です。
0件の返信 2件のリツイート 1 いいね
峨骨 ‏@Chimaera925 24 時間24 時間前

@lakudagoya 音楽はトランス状態に入る儀式の一つですからね。通じるものがあります。

そのあたりの同期は自分の発声を録音して繰り返し聞き、また発声して録音して聞く作業を繰り返し、自己認識と現象の齟齬を丹念に埋めていくことで可能となるでしょう
。便利な世の中になったものです
0件の返信 1件のリツイート 1 いいね
ねこた(基地外勇者様) ‏@lakudagoya 23 時間23 時間前

@Chimaera925 そうそう。その方法でやれば凄くうまく行きますね。

というかこの方法は、科学技術が発達すればするほど面白いことできるような気がする。

これを見て、おいらがますますこういうのを血眼で見つける事に熱心になりそうです。狩人として(笑)
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峨骨 ‏@Chimaera925 23 時間23 時間前

@lakudagoya VRやリアルな3Dのゲームは便利ですよ。今では動画どころかモーションキャプチャーまで。

ここに体感が加わればより一層面白いことに。それだけ催眠や洗脳を受ける危険性も伴いますが、所詮は道具なので使い方次第です。


マイクもアンプも使わず、声を届ける範囲を決めて壁の素材や反響考慮して歌うには軟弱な事は言っていられなかったから、当時はそりゃもうひたすらトレーニングだったな。感動や衝撃を与えた時、報われた気がしたけど雨の日も雪の日もよく歌ったものだな、我ながら頭がおかしい。
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峨骨 ‏@Chimaera925 10月16日

おかしくなけりゃ、人前で自己表現なんてやれるかよ(笑)「俺の歌を聴け!」なんて普通に頭のおかしな人だろ。狂気の佐多ほど面白い。テレビ出た時は自分でも、「俺を取材するとか正気か?」と思ったな。所詮は過去の話。今、何か表現している訳じゃないから今は大した事は無い。


最初に曲を作ろうと思ったのは中学の時か。作ってみたら出来た。簡単だったな。そこから知識が付くと、編曲で発狂したくなる事実に気が付く訳だけども。日本の歌は愛だの恋だの夢だの希望だの、それしかないのかと気に食わなかったな。それくらいしか商品として求められていないのだろうけどな。
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峨骨 ‏@Chimaera925 10月16日

ドロドロした人間関係やら業界やら、あれさえ無ければな。無くなりはしないだろうし、話題の電2やら大学のアレも似たような事が起きていてああなんだろうなとは思うが、ああいうのがあるから、あの手のモノには一切関わりたくない。人の夢や希望を食い物にする。俺が潔癖過ぎるだけかもしれないが。
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峨骨 ‏@Chimaera925 10月16日

それなりに満たされてしまうと良いものが作れなくなる。歌詞と曲を同時に一日一曲ペースで、編曲していないから完成させたとは言わないが書き溜めてたいた時期なんかは完全に逃避だったな。まともな心理状態ではなかった。表には出せないから内に溜め込む。そんな時ほど創作が捗った。不思議なもので。
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峨骨 ‏@Chimaera925 10月16日

葛藤や苦しみが解消されてしまうと、表現したいものが無くなるのだ。腹が一杯の時に次は何を食べようとか何が食べたいなんて心の底から思わないようにね。

ねこた(基地外勇者様) ‏@lakudagoya
ちゃんとアトキンソンの本を実践で活かすには、あのディクシャというイニシエーションでウン百万ぼったくる、ヨグマタこと相川圭子の本を読んで補完しながら使うとまぁ、使い物になります。

何でアトキンソンの本を読むのにあのぼったくり合宿のおばちゃんの本読まないといけないか意味不明だよw

峨骨
‏@Chimaera925
@lakudagoya アトキンソンの本は忘却のプロセスを組み込むとそれなりに使えます。暗示や魔術で使われるオーソドックスな手法ですな。そうすると引き寄せの法則ではなくなる訳ですが(笑)
あの本に書いてある手法だと引き寄せどころか引き離される危険性が。
強力な執着だけ生まれて、願望が達成されない。そして、その願望が手放せなくなるから、法則にますます依存する。なんともおぞましい手口です。

ねこた(基地外勇者様) ‏@lakudagoya
@Chimaera925そーそーアトキンソンの言ってるのわかりますよ。あれ忘却プロセス入れてないのでダメです。
やっぱカルトビジネス用にデザインされてのかな?w

峨骨 ‏@Chimaera925
@lakudagoya 使われない知識ほど意味の無いものは無いですから。役立てば幸い。

引き寄せはモロに福音派。マルコの福音書11:22~とヨハネの福音書15:7を見れば一目瞭然。(聖書は)神からの言葉だからそうなるのだ、と。そして祈りだから忘却のプロセスが無く欠陥品。

@lakudagoya 引き寄せを入り口にして、疑似科学の権威を使って元ネタの聖書、福音派を自画自賛しつつジーザス・キャンプにご招待なんて使い方も可能でしょうね。宗教色抜いた自己啓発セミナーがその役割を担いそうですが。やることはそう大差無いかと。

@lakudagoya 引き寄せの手法は連中の言う悪魔の魔術書からパクっているあたり、ロックを悪魔の音楽と言いながらクリスチャン・ロックやメタル作って布教活動するのとそっくりですな。

ねこた(基地外勇者様) ‏@lakudagoya
@Chimaera925 こんな見も蓋もないギャグってありませんよねw

ジーザスキャンプの子供洗脳技術もここからでしょう?

いやー、この技術って面白いのはどんなものもあいぽんのカバーというかふりかけの味として使えて色々なうまい棒を捏造できるところですねw

@Chimaera925 いやいや、こうやって個人が押し入れにしまっちゃってる技術が凄いお宝ですから。こういった本で完全に端折られる技術的な説明は私にとってはお宝ですよ。

まぁ、思いっきりに福音左派の匂いがします(笑)実際に引き寄せで強固な洗脳かけたりやってますしねw

ねこた(基地外勇者様) ‏@lakudagoya 46 分46 分前

宝物がひとつ増えたな。

こんな素敵な明晰な言葉で簡潔に内容が語られてる宝物はないよ。

おいら如きには勿体無いくらいだ。

こんなのはもらったらラッキー!と布に包んで大事にするんだ。

ぼったくりヨガの行者のおばちゃんの公式サイトw http://www.science.ne.jp/ このオバハンの本、インド哲学の心の構造を西洋哲学っぽく理解するには結構ベストで、この本でスピリチュアル本を補完しながら読むので保管用にはまぁ使えないことはないね。

峨骨さんが、スピリチュアルやニューソートは不誠実だと言ってたけど、あれデザインしたやつは意図的にやってるね。 おいらはニューソートのご先祖様のアトキンソンの本を取り寄せて読んだんだけど、まぁ、あれは一番大事な所をドーナツのようにくり抜いてインド哲学の用語で誤魔化してたw




リラクゼーションのすすめ ~自律訓練法~
http://www.kaimin.info/part/suffer/dia05.html
”心身がリラックスする時はまず、手足の筋肉が弛緩します。これは、なんとなく手足が重たいという状態です。次に、筋肉が弛緩すると血流がよくなり、足の皮膚の温度が上がって暖かさを感じるようになります。これを、意識の方から手足が重い、暖かいと自己暗示を加えることで本当に心身がリラックスしてくるわけです。

この訓練法は標準練習が段階的に公式化されているため、誰でも自宅で簡単に行うことができます。
自律訓練法の手順

ステップ0
背景公式
ステップ0:背景公式
気持ちが
とても落ち着いている

ステップ1
四肢重感公式
ステップ1:四肢重感公式
両手両足が
とても重たい

ステップ2
四肢温感公式
ステップ2:四肢温感公式
両手両足が
とても温かい

ステップ3
心臓調整公式
ステップ3:心臓調整公式
心臓が静かに
規則正しく打っている

ステップ4
呼吸調整公式
ステップ4:呼吸調整公式
楽に呼吸している

ステップ5
腹部温感公式
ステップ5:腹部温感公式
おなかがとても温かい

ステップ6
額部冷感公式
ステップ6:額部冷感公式
額が気持ちよく涼しい

消去動作
両手の開閉運動

両肘の屈伸運動

大きく背のび

深呼吸

自律訓練法では、特有の生理的変化や意識状態(めまい、脱力感など)が生じることもあるため訓練の後は必ず消去動作(取り消し動作)を行います。

«姿勢»
体全体の筋肉が弛緩しやすいような姿勢がベスト。
椅子に深く腰をかけた姿勢や布団の上で仰向けになって行います。
姿勢

ステップ0から6までが1クールですが、慣れないうちは最初から最後まで全て練習しなくてもかまいません。初めのうちはステップ0から3までというように部分的に行うだけでも、体のリラックス状態を意識的に練習することができるでしょう。できれば眠る前の入眠儀式として毎日行うのが理想的です。”

峨骨 ‏@Chimaera925 6月26日
答えたくない事柄には言葉尻を掴まえて非難し、質問内容をうやむやにし、レッテルを貼り観衆の感情に働きかけ同調させる。ディベートの訓練を受けていない者は、質問に答えられず揚げ足取りした者に正当性を感じる。多数派を味方に付けたから。多数派が正しいとする誤った教育を受けると議論が解らない

@Chimaera925 声がでかく、勝者に見せかけて多数派を味方に付けた者が勝つ。何を言ったかではない。多数派を味方に付けたか、そうでないか。(強そうに見える)強者に従うだけの反知性主義。そこに知能などいらない。強者に媚び、弱者に反逆されないよう、でかい声で強く見せるだけでよい

チンピラは自分を強く見せるのが上手い。威嚇して予想外の言動を取ることで混乱させて主導権を握る。日本の成功者にドロップアウトした元ヤンキーやチンピラみたいな者が多いのはその為。日本の教育を受けた者は、そのような者に従順になるよう教育されている。披雇用者になる訓練しか受けていない。

市民や国民、あるいは雇用者、支配を受けない自由人になる為の必要最低限の教育や訓練を全く受けていない。海外の○○のような人材や経営者が出てこないと言うが、そのような教育も訓練も受けていないのに出てくる筈がない。無理なお話だ。
峨骨さんが追加
峨骨 @Chimaera925
自分は市民だ、国民だと言うけれど、働いて納税し、選挙に行きさえすれば市民や国民だと思っている。市民や国民である必要最低限の教育を受けていない。国家権力側は市民や国民になって貰っては困るのだ。ペテンが見破られるから。効力の無い徒労を繰り返して貰ってガス抜き出来なくなるから。


峨骨 ‏@Chimaera925 6月26日
そして、管理する側は少しだけそのような教育や訓練を受けていれば簡単に支配できる。理系や文系と教育を分割すれば更に支配は簡単になる。どちらが欠けてもアートではない。アートでなければ駄目なのだ。

金持ちや社会的地位の高い者に見える服装や言動をした時と、貧乏そうな服装や言動をした時では態度が明らかに違う。実験してみれば解るだろうが、前者のように見せただけで媚びてすり寄ってくるような、誇りも矜持も美意識も無い者があまりにも多い。だから本物の金持ちはパッと見そうとは解らない。

だから簡単にハリボテの力や権威に目がくらみ騙されて、本当の福の神を見抜けない。観察眼が節穴だ。よく観察すれば成金やチンピラが付けるような下品な高級品でなく、一見高級品に見えないが質や造りが良い衣服や装飾品を身に付けている。あるいは安物か。本物は見せびらかす必要が無い。

当たり障りの無い範囲だと、靴を見れば大まかには解る。足下を見ると昔から言われて、客が上客かそうでないか見極める下足番の仕事。靴に金と手入れの手間を惜しまない者は大抵上客だ。履き潰されていたり、シワや汚れ、踵の減りかた歩き方で職や育ちが大まかに解る。質屋の靴コーナーは面白いぞ。

観察と情報の蓄積、プロファイリングの要領だ。まあ、解っても無粋だから言わないし、職を聞く事も無い。職質じゃあるまいし。この街の酒場に飲みに行くと大抵、初対面の客やバーテンダーですら職質して来やがる。観察眼が無い。相手が自分より上か下か解らないと、態度の取り方すら解らないのだろう。

この手の観察結果や情報を蓄積しておくと、思うがままに相手の自分に対する印象を変えられる。相手に印象付けたい自分の姿に相応しい服装や立ち居振舞いを演出して効果的に、相手に「この人はこういう人だ」と気付かせればいい。自分で気付いた事は外部から植え付けられた偏見でも疑わないものだ。
@Chimaera925 なぜならば、多くの者は実物ではなく、そこから得た自分の頭の中のイメージを見ているからだ。人々は各々、見たいものを都合よく見たいように見て、信じたいものを都合よく信じたいように信じている。

だからこそ不思議なのは、選挙候補者。服装、立ち居振舞いや話し方の訓練をしているのだろうか。確かに人前で話し慣れているようだが、発声が素人。狙っているであろう主題から想像して、必要な声を想定すると、印象付けたい発声が出来ていない。話しの内容が印象に残らなくとも声や姿は印象に残る。

何故、印象操作に最善を尽くさないのか俺には全く理解できないが、党の公認を受けて名前を連呼するだけでハロー効果で安泰ならば、そんなもの必要無いんな。

日頃からそうやって印象操作しているように思われそうだから弁解しておこう。身に付けた知識や技術は自分の欲を満たす為に悪用しないと決めている。暴走しない為の自戒だ。とはいえ、印象なんてものは所詮は偏見。どこまでいっても偏見。真の理解なんて無いし、願ってもいけない。受け入れるだけだ。

自分なんてのもあやふやなものだ。実体がない。自分はこうだと偏見を持っているだけで気付かない側面などジョハリの窓を出すまでもなく、いくらでもある。自分はこうだと決め付けず、自身を観察して様々な顔を見付けて受け入れる。そうして好きな顔をよく観察して、相応しく引き立たせる。

@Chimaera925 あるいは、そのヤンキーやチンピラの社会での上下関係から強者への接し方や弱者を支配する手法を実践しながら技術を本能的に体で覚える。思考力を奪う手段や、支配しやすいカモの探しかた、相手の弱点を見付けて抉る手口、暴力。全能感があるから一般人より行動力がある。
@Chimaera925 仮初めの全能感に指を突っ込んで抉ると赤子のように喚いてすぐに暴力を振るう。本質は臆病なのだ。だからこそ、自分より弱いものや支配しやすいものを目敏く見つけ出し、支配する事で自尊心を満たそうとする。
峨骨 ‏@Chimaera925 6月27日
用意されたシステム下でゲームマスターに勝つには、ゲーム外で勝利するか、チートを使うしかない。完璧なロジックなど存在しないからシステムの脆弱な欠陥、セキュリティーホールはある。しかし、目につく場所にはない。気付いたと察知されれば対策されるから、突くならば一度にやらなければならない。

票を投じる者は何も決定できない。投票を集計する者がすべてを決定するのだ。 ヨシフ・スターリン

>「Yes / No」 >を二元論で問いかける国民投票 二元論に落とし込まれてYESかNOかでしか答えられない白紙委任状がそんなに民主的か?おかしな事を。




峨骨 ‏@Chimaera925 6月25日
タビストック人間関係研究所 wiki >英国支配階級のための国際諜報機関 >最終目的は、英米覇権維持のための国際的な大衆プロパガンダおよび完全な人間の心理操作の追求であり、その手段・技術の研究を行い、成果を実践すること。現在に至るまで数多くの各種の大衆洗脳工作の実施に関与との証言

今回の国民投票の監修にダヴィストック洗脳研究所が関わっていると俺は見ている。寧ろ、技術があって使えば有利になるのなら、使わない方があまりにも不自然。

ヒトラーはダヴィストック洗脳研究所で製造されたって説もある。確かに、独学で心理操作の技術や知識を獲得したか、それを囁いた者が居るはずだ。スピーチを聞いても、心理操作の技術に基づいた訓練を受けているのが解る。現代のプロモーション活動に使われる技術が利用されていて今尚通用する。

英米覇権ってのは寸止めだろうし、ロックフェラーも使いっ走り。話半分でいい。宗教と血統と金融(経済の血液)が本体。国家はそれらを包む包装紙。必要無くなれば包装紙は破り捨てられ、新しいものに変わるだろう。米国なんて東インド会社の北米支社に過ぎない。

不正選挙があるから正しい選挙が存在する。これはペテン師の弁証法。一方を不正とする事で一方を正であると見せかけて、正しい選挙さえすれば良くなると誘導する。 権力を分割統治する手段の一つに組み込めるのならば肯定。仲間内とはいえ立場の違いや利害の対立がある。互いに潰しあって貰うのが良い

ヒュプノスの子、人の夢に入りあらゆる人の姿を取って神のお告げを伝える夢の神の名を持つ男。モスグリーンの服を着た彼が差し出すのは、赤のカプセルと青のカプセル。二つに一つ。しかし、どちらも正解ではない。選べば夢の虜囚。正解は紫のカプセル pic.twitter.com/tJM8EjpGyC
いや、作り物の神の虜囚か。ご都合主義のデウス・エクス・マキナ。機械仕掛けのハリボテ、巨大な舞台装置。夢オチか。

赤にも染まらず、青にも染まらず、中庸であれ。緑は赤と青の構造を作り出した者の遣い。どちらを選んでも行き着く先は緑。提示された選択肢を選ぶ限り、道乗りが異なるだけで行き着く先は同じ。
補足:宗教には思想も含まれる。思想に対する崇拝。

同調圧力などと聞くが、俺はその圧力を感じた事がない。圧力が「ある」と信じているから、実際にあるものとして感じなければならないのではないか。空気を読めなどと言うのは、(権威ある多数派だと信じている)自分に従えと命令し支配する手口。多数決を民主主義とする誤った教育の憐れな犠牲者。

多数派は正しさをどのように証明するのだ?多数決は正しさを証明しない。数の力を正しさと盲目的に信じているだけだ。ある種の力の信仰。強い者が正しい、仮にそうならば証明は必要無いし多数決すら不要。多数派で争いあって最も強い者が決めれば良い。そうして消耗して一人になったら不意討ちしよう。

彼らは絡め手を卑怯だと言う癖に、数の暴力を卑怯だとはちっとも、これっぽっちも思わないし、自身の正しさを疑う事も無い。常に勝者の側に付きたいだけで正しさなど求めない。独自の美学や信念が無いのだ。そして、より力ある者が現れれば媚びる。故に多数と同化できる。

峨骨 ‏@Chimaera925 2011年11月5日
たまに入る喫茶店。店入るなり顔見知りの店員に挨拶しつつアイコンタクト。向こうも頷き返す。水とウェットティッシュのセットと一緒にいつものコーヒー。ブラックしか飲まないので、ミルクは付いて来ない。こんな地味な面にも関わらず、何故かすぐ覚えられるから不思議だ。

オールバックはかなり捗る。セットは髪整えて表面にジェルを撫でつけるだけ。男の世界じゃ、見た目が若いとナメられるので俺は三十路に見られない女顔+童顔なのでオールバック必須。ブローしないで手櫛入れると崩れやすいので、表面だけ固めてやるといい。

髪型や服装や仕草は心理状態を作る。いつもオドオドして自分に自信が無い男は額を出して額と目元を出し、毅然とした態度を心掛けるといい。額は自信や威厳を現す。男と張り合うバリバリのキャリアウーマンが額を出すのもそんな側面がある。形から入っても良い。積み重ねればそれも本物の自分だ。

補足 額は知性も現すので、知的に見られたい場合は額をチラ見せするのも有効。勿論、服装等のトータルコーディネートが重要ではあるが……人は見た目の印象で8割は決まるから、自己演出を考えてコーディネートして行った方が良い。無論、TPOも重要だけどね。

仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、初めて解脱を得、物と拘わらず、透脱自在也……か。なかなか難しいものだな。

同僚のおっさんに役者をやっているのかと問われる。声の通りや声量が圧倒的に違うらしい。昔ちょっと声楽をかじった程度ですと答えておく。実は全力の2割程度で手抜きですと言うのは無粋。17年近く積み重ねたボイトレは伊達じゃないが、そんな事、俺だけが知って居れば良い。結果が全てだ。

他者を敵か味方か分類するのは危険。味方の面をして「あいつは敵だ。お前の事を恨んでいる」本当だろうか?戦場に落ちた剣は誰の味方か解らない。しかし、害意を持った者の手に渡れば危害を及ぼすだろう。害意で目が曇れば、剣を拾う者全てが害意ある者に見える。弱者の恐怖と猜疑は手に負えん。

己の敵意や害意を殺せば、敵を一網打尽にしたに等しい。曇り無き眼で観極め、斬らば斬れ。修羅道は六道輪廻の三善趣に含まれる。

らすこり ‏@lascomini 9月6日
「情報断絶状態にすると脳が情報に飢えるからなんでも肯定的に受け取るので都合のいい情報流しやすい」 「情報過剰状態にすると脳が過負荷状態になって思考能力奪われるから都合のいい情報流しやすい」 洗脳の基本みたいですよ


演出 印象  @Chimaera925 ワード検索+期間限定検索で一連のツイート保存


ねこた(基地外勇者様) ‏@lakudagoya 10月20日
おいらは、様々な思想や宗教や色々な社会運動その他を調べたけどさ、おかしいのは、究極の自立の象徴的思考を切り詰めていくと、消去法でファンタジーの魔導師しか見つからないんだよ。 それ以外はみんなドグマというか依存させる要素が入ってる。 それが世の中のおかしいところなんだよ!

結局、自分の「意思」を世界に押し付けるという視点でやつらの計画が動いてる。 この魔王思想を見誤るとリシャール・コシミズのようにやつらは金が欲しいからやってるとかいうアホな話になるよ。 おいらが魔王討伐の勇者とか言ってるのはこの部分の退治だよ。わかるかな?

その思想を切り詰めていくと、結局は「意思(思想)を実現するための知識と究極の三位一体」しか残らなくなる。 このトリスケリオンの女神様は、誰に憑依してもいいんだぜ? それはあなたを明日から拉致して、徹底して洗脳と教育を施せば魔王が乗る座にはなるわけ。 だから敵の正体はだよ。

ぶっちゃけわかりやすい例はさ、ロードス島戦記でさ、カーラが憑依したサークレットを取った盗賊のウッドチャックがかぶっちゃったでそ? 四十路過ぎのムショから出たすぐ盗賊にもカーラが憑依してさ、しかもそのカーラの憑依は取れてもカーラの知識は残るんだぜ? 魔王の正体ってこれでね?

だからさ、魔王はゲームでよく言うでそ?「私を倒しても第二第三の魔王が現れるだろう」と。 これの正体はこれなんだよ。 だからさ、魔王の製造装置を叩かないといけない。 魔王を生み出すシステムが問題。 魔王を生み出すのは世界を支配する知識と技術を思想で統合した教育体系だよ!

魔王が世界征服をしたくても、その願望はその目的を達成する知識と技術がないと実現しえない。 その三位一体を魂のように結晶化させるには、実現のための知識と技術を思想によって統合して、知識と技術の習得段階が進めば進むほど洗脳がかかるような感じにしないといけない。これが魔王製造法。

人はそいつの人格ではなくて、大部分は技術に動かされてる。 それが嫌なんだよ。おいらはさ。 特に人を動かす技術を持った紐付きどもに洗脳されてる連中にさ、ガッカリしたの。 人の善意なんて技術の前には踏みつけにされる。 特に心理学とか見ると人間の心のロボ化は許せないんだ。

洗脳もさ、あまりに深いとショック療法とかでないと解けないんだよ。 特に五感を使った洗脳なんて説得で解けないのはカルトに接してわかってる。 でもカルトの洗脳を解くには、感情的な技術を駆使したがいいとか言われるけど、それはおいらは嫌いだから地味に啓蒙活動とかむくわれないことしてる

リシャール・コシミズのロック爺さんが何でも悪い陰謀論ってさ、ロック爺さんもロス茶も存在する前からこの支配構造あったんだよ? ロス茶なんてただのサラ金屋ぢゃん。 じゃあ、ロック爺さんがいない時代はこの世はやつらの支配しない天国だったのかね? そーぢゃねーだろ?

ねこた(基地外勇者様) ‏@lakudagoya 10月20日
@Chimaera925 失礼します。もう峨骨さんならおわかりだと思います。 やつらの世界を支配するペテン術はみんな西洋魔術の技術の応用でできてると思います。 それを考える場合、ロック爺さんが悪い陰謀論なんて意味ないと思いませんか? 敵は知識と技術と思想のトリニティなのに。

峨骨 ‏@Chimaera925 10月20日
@lakudagoya ええ、取替えの利く駒ですから(笑)排除しても代わりがいるもの。特権や力があるとしたら、それを与える源泉、根拠となるもの、それを命じたもの、根底となる思想や知識、技術に着目しますね、普通は。

ただ、思想や源泉だけに言及すると論理の飛躍と取られかねないので、代えの利く部品の役割の一部と認識してそこに繋がるヒトモノカネの流れを追う作業も必要かな。核心部分を見て結論を取り出しても、そこへ至るまでの証明が出来なければどうしようもないので。

ねこた(基地外勇者様) ‏@lakudagoya 10月20日
@Chimaera925 もちろん、その作業が必要なのは言うまでもありません。 ですが、その思想のフィルターを通してやつらにとって金や権力でさて自分の意思をこの世界に押し付けるためのツールに見えます。 この世界をどうにかしたいからあらゆるものを利用するという視点が必要です。

峨骨 ‏@Chimaera925 2016年7月6日

100均で買ったシュシュが思いのほか重宝している。家でいちいち使ったらヘタるシリコンゴムの使い捨てのヤツを使うのもな。間違っても、このまま外には出ないが。だいたい男の髪が短いのは古代ローマの慣習から。あとはイングランド内戦のクロムウェル派、ピューリタン。あとは仏革命。西洋文化。

峨骨 ‏@Chimaera925 2016年1月11日

男の化粧や長髪、男色なんかは日本の伝統。現代の男らしさは西洋化した明治以降に作られた価値観。西洋人の価値観を持つ日本人の日本の伝統に対する眼差しは西洋人のソレにも見える。未開や野蛮、途上と異文化を見る時、価値観の根底には西洋が中心にあるのに日本人だと思っている。

峨骨 ‏@Chimaera925 2016年7月24日

カルヴァン派の予定説では、神の救済に預かる者は最初から定めら れており、禁欲的に天職に勤める事で成功する者であるといった思想だ。つまり、富を築いた者はなるべくしてそうなった、と。ここで言う禁欲とは、目標(利潤の追求)の為に全精力を傾ける禁欲さのことを指す。天職思想はルター。

峨骨 ‏@Chimaera925 2016年11月14日

『戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事』だっけか、あれは大本とも関わりのある生長の家の創始者の谷口雅春の言葉だろ。ニューソートを光明思想として日本で紹介した人物。大東亜戦争に負けたのは島国根性に凝り固まった「偽の日本」で、真の「神洲日本国」は負けていないなんてのも迷言。

峨骨 ‏@Chimaera925 8時間8時間前

答えが出ないものは、無理に答えを用意する必要が無い。答えや真理など無くとも世界は回っていく。それが無ければ不安だとするならば、詐欺師どもの用意した、紛い物の答えや真理を掴まされて、いいように使われ、精神も肉体も貪り尽くされる。思想はより良く生きるための道具。信仰するものではない。

峨骨 ‏@Chimaera925 1月1日

それら道具に使われる者は、道具としてそれらを扱う者に使われる。無いものをあると同意させ、信じさせたあるいは存在するかのように振る舞わせただけで影響下に置ける。世界中にこのような呪いは溢れている。無いもの始めから無いものとして否定し解呪するならば、呪いから身を遠ざける事が可能だろう

偶像や呪物、シンボルは道具として使うには便利だ。しかし、それらを崇拝してはいけないし、在るものとして扱ってもいけない。必要な時に作り、その場だけ在るものとして心の底から信じて用が済んだら破棄して忘却する。これをしないで扱うのは危険だし、扱うための訓練も必須。

峨骨 ‏@Chimaera925 2016年10月24日

宗教も企業も道具な。その道具を使う連中に道具のように使われていてはいけない。言葉も単なる道具だ。使うものであって依存したり有り難がるものでもない。道具に従う必要は何処にもない。道具を介するものを見聞きし、感じて、自分の意思で選択する。捕らわれるのも捕らわれぬのも自由自在だ。

峨骨 ‏@Chimaera925 2015年7月16日

サンスクリット語のマントラは呪文や真言を指す言葉として用いられているが、本来はマン(考える)とトラ(道具)を組み合わせた言葉で「考える道具」の意味を持つ。憲法や法、民主主義、人権、思想、哲学は唱えただけで何かが変わるような念仏ではない。これもまた考える道具、思考の歩行器。

峨骨‏@Chimaera925 2月
最も人を殺す生き物に法人が含まれないのがミソだね。

法律よりも法人が優先される不思議の国。労基法よりも法人の都合が優先されているから、労働者は法で守られていない。リヴァイアサン読むまでも無く、本来ならば、力が強く社会的に多大な影響力を持つ法人が、個人、労働者より縛られるはずなのに、「厳しくすると法人が逃げる」だったか?規制緩和。

逃げるぞと脅せば言い分が通り、規制が緩和されるならば、法が存在する意味が無い。どれだけ法人が個人を犠牲にしても、経済を引き合いに出せば通る?とんでもない話だ。金儲けする以前のお話で、倫理観も無ければ個人を守る気も無い。そんな法人に利潤の追求の自由を与えても百害あって一利無しだ。

「小の虫を殺して大の虫を助ける」を地で行く。その大の虫が害しか撒き散らさないくせに「大きすぎて潰せない」なんて言いながら助けるのだから、笑ってしまう。


お客様が神だって言うんならチェーンソーでバラしてもいい訳だ。神だからと横柄な態度を取る奴にとって、神ってのはそういうイメージなんだろうな。そのような傲慢な神が人間に滅ぼされるなんて逸話を知らんのだろうか。神に傅く立場になると言いなりになるようなタイプなのだろうな。

涙を流すのが人間的?涎を垂らしてもそんな事は言われねぇ。どっちも単なる体液だ。人間性の証明では無い。その涙というものに貼り付けられた記号を見て人間性の証明と錯覚する。
そういや、過去に「人間性が無い」と何度か言われた事があったな。同情や共感のポーズを取って思い通りにならないと、「人間性が無い」と言われたものだ。特に「人間性が無い」と言われても何とも思わないけどな。そんなもの定義する者による。誰もが定義を共有する人間性なんざ無い。

定義を受け入れ、罪悪感をまんまと植えつけられてしまえば、人間性という概念上にしか存在しないもので他者に操られ、支配されてしまう。ありもしないものに支配されるのだ。

峨骨‏@Chimaera925 2012年4月17日
ジェンフリは性差を否定して無性人間作るってカルトだ。フェミの元祖フーリエの思想がマルクスに継承され、レーニンが政策を実行。離婚増加、出生率低下、風俗の乱れ、非行少年急増で国が乱れ、スターリンが撤廃。ブルジョアを粉砕せよ、と男『性』を粉砕せよと何が違うのか。わかんねーだろーな。


峨骨‏@Chimaera925 2月14日
絶対的な正義や悪、道徳に不道徳、常識に非常識、法、真理、それらは存在しない。存在するのは解釈。環境や時代、価値観、民族、統治や管理の為のご都合主義、要求、これらによって生み出された解釈でしかない。ある時代と場所で善とされたものが悪となり、また別の場所では善となる。普遍的ではない。

峨骨‏@Chimaera925 2016年1月26日
キリスト教に被れた奴が働かざるもの食うべからずなんて言ったけど、近代になって活用したのはレーニン。不労所得で贅沢三昧の特権階級、資本家や貴族を批判した。今じゃ傷病者や失業者やホームレスを自己責任だ飢えて死ねと叩く言葉に。サテロニケの信徒への手紙では働けない者は食うなとは書いてない

峨骨‏@Chimaera925 2016年4月20日
支配者を打ち倒した後、それらを指導した者達が同じ事を行う。または指導者は後からやってくる。 ボルシェビキ革命の七ヶ月前に皇帝は退位していた。その時、レーニンとトロツキーはロシアに居なかった。米国に居たのだ。彼らは強力な支援を受けてボルシェビキ革命の準備が整ってから送り込まれた。

本人が解説してくれました。

峨骨‏@Chimaera925 2月22日
看板と指導者を変えると、本質的に同じものでも別のものに見える。 https://twitter.com/Chimaera925/status/774056876061274112 …
峨骨‏@Chimaera925 2016年9月9日
共産主義社会では、人が人を搾取していると聞く。 一方、資本主義社会ではその逆だ。













――
お読みくださり感謝しますが、このお方のツイートを直接ご覧くだされば幸いです。
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おねしょた兄貴 

どんどん追加していくよー
”陰謀追及者において重要なイスラム教の特徴
・異端審問の禁止
(人が神に代わって裁くことの禁止)

・多数派は信仰告白が義務
(信仰隠しは少数派の教義のみ)

・神学も法学も、理性と論理的思考も重視
(反知性主義の否定)

・ユダヤ教神学もイスラム神学の理性と合理主義重視派に影響されている
(合理的なものほど異端になるのがキリスト教神学の特徴)


イスラム教徒って工作員に全然向いてないってこと。
信仰隠しを一番するのは新キリスト教系工作員

23470円=おねショタおじさん ‏@douteimaturi さんの傑作
”イスラームでは異端審問をしてはならない事になってます
これは人間があれがムスリムでこれはムスリムではないという文言を封じるためです。
それがわかるのは最期の日な訳で
人間が人間を異端扱いして勝手に裁き殺したなら地獄でやかれる事になります。

陰謀ではお金の流れも重要ですが、もっと重要視せねばならないのは尊厳の流れかもしれません。
むしろ、魔術師退治を考えるなら、尊厳という認識がいかにして作られるかという部分に着目すべきではないかと。

魔術師というものは言葉で人を縛り上げる術に長けていて、そこが魔術の根幹なのです。
例えば、選挙という単語を出すだけでさまざまな言葉が発生します。 不正、民主、多数決などなど、この連想させる力自体が魔術師の魔法なのです。 言葉を支配し、言葉が言葉を繋げる魔術これが最強の魔法です。

謀議論をやる上で必要なもの。 歴史学、神学、心理学、天文学、幾何学、哲学、占星術、数学、帝王学。 特に歴史学と神学、心理学が重要。 基本、歴史に名が残っている先祖の末裔を探し、そいつらが今なにしているかで大体予想がつく。組織もそう、正史を知っていればしっかり繋がる。

紐付きはこの正史の部分を隠そうとするので隠さない人は比較的本物。次に大切なのは神学についてどういう立場をとるかを見る。日本人の95%以上は仏道及びケを信じている人達なのでそうでない場合は立ち位置ありとの判断でその人間の批判の仕方をみて決める。悪魔とか言っちゃうとー評価みたいに

この3つで考えてください 1、反証性 2、論理性 3、合理性
この3つに従ってものを考えれば、そう間違える事はありません
もし、間違えるのであればまず貴方の信じたい事、事実ではない事、思い込みたい事がそこに入っているということです
だから、間違えるのです

わしゃ帰ってきてよく思ったよ 仏法はよくできすぎだし、漢籍はよく完成されてる
まだ、漢籍については戦国策や韓非、孟子しか読んでないけど
この思想と西洋哲学じゃあ2000年遅いことを西洋はやってる こりゃあ、破壊したいし、隔離したいのがよくわかるよ”

工作員=異端審問官
なので異端含め✝系ばかりでイスラム系がゼロ。仏教に詳しい人々に絡む工作員。
私もいつ消されるかわからないので保存お願いします!後悔したいの?
藤原偽天皇”
陰謀追及者において重要なイスラム教の特徴  
イスラム神学と法学の理性の扱いが完全に耶蘇教の右目の中の右目派の基盤でびっくり!
桜井啓子『シーア派』などイスラム資料集
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-130.html

更新中ヘブライ語とアラビア語が似すぎ!どこが日本語?
ヘブライ語(イブリット)とアラビア語勉強メモ
『アラビア語が面白いほど身につく本』アラビア語勉強中
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-126.html


おねショタ魔法使い初級おじさん ‏@douteimaturi 2016年10月25日
中東で日本では毎日、朝に家を出てずっと会社や仕事場に夜遅くまで居て、家に帰るような仕事をして生活をしている、していたと言ったら
「それは人間の社会ではなく、家畜の社会で人間が羊や牛のように屠殺されているので貴方はそのような社会に帰るべきではない」
高々、8ー19時の仕事だったが…
因みに中東では皆、暇や隙があれば茶やコーヒーを飲みます また、大体のお役所や個人商店では昼ご飯後は一回閉めて自宅に帰るなり昼寝したり、子供と遊んだりしてから夕方前に2時間位仕事してから家に帰って家族と一緒に過ごすので仕事はしてますが無駄に働いてはいません
例、個人商店のおっさんの一日 朝礼拝ー二度寝ー朝食、出勤(徒歩5分)ー8時開店テレビ見たり携帯弄ったり世間話ー昼礼拝帰宅後昼食ー昼寝、家族と過ごすー夕方4時再度開店ー夕方と夜の礼拝を店でし、日中と同じ様に仕事ー夜11閉店ー帰宅後シャワーと深夜の礼拝後12時就寝

中東でも立ち仕事やいつ休んでいるんだろう、と思う仕事はありますよ ナン焼き職人とか、ケバブ屋の兄ちゃんや携帯屋の職人とかいますけど日本みたいにストレスが溜まるような働き方はしてませんし、いつどんな時でも茶やコーヒーを飲む瞬間は絶対に忘れません

日本は「過労死や孤独死出来る環境」なんです 例えば、独居老人とか世界にもいますけど毎日親戚が顔出したり、今はSNSがあるから年寄りでも携帯ポチポチしてメールやSNSをしているのはよくある光景です だから、少しでも連絡途絶えたら親族が直ぐ駆けつけますし、大概は周りは知り合いです

毎日、町の礼拝堂に朝来ていた爺さんが今日だけ来なかったとなれば、周りの人が昼前までには爺さんに何かあったかはわかってます つまり、個人が孤独状態に陥るという事は殆どなく、中東で死んで体が腐った状態で発見される事なんて戦場で戦って死んだのに葬られていない死体くらいなものでしょう

こんな事を言うと日本と海外は違うとのたまう人がいるのですけど、はっきり悪いものを自己都合で追認することは絶対不動の悪でしかなく 絶対不動の悪というのは人間の生命環境を狭めたり、汚した上で私益を貪り、そのために詭弁を使うことは絶対不動の悪で絶対不動の悪は相対でほじくり出すのです

中東でもし、現地会社員で親がなくなったので休みが欲しいと言った際に仕事が優先で休むなと言った日本人上司はその瞬間に殴り殺されているか、何か都合の良い鈍器で殴り殺されるか、無視して出て行かれるかの三択でしょう 日本人が中東で商売したら絶対に失敗するというのはこういう部分でしょう



厳しい言い方をすると過労死や孤独死というのはあある程度の相互監視と扶助がある社会であるならば、ありえない現象なのです
特にSNSなどが発達した現代でも孤独死や過労死が発生するという事は社会秩序がない事でしかなく、ロックが言った「万民が万民の敵」というのは日本のことなのです

(ホッブスやルソーではないの?)

こんな事を言うと「日本から出ていけ!」何て短絡的な事を言う人いますけど、実際出て行きましたし帰りたくもないのです それでも帰るのは親、親戚や友人がいるからであり、己が日本という土地に絶対者が創ったのはそれを改めさせる義務からであり、程度の低い感情ではなく義務と命令からなのです



おねショタ魔法使い初級おじさん ‏@douteimaturi 2017年2月13日
ハラール認証の話 そもそもشرکت 会社や法人の存在がハラームなのでそこに関係した上にクルアーンを切り売りする行為は地獄行きなので全部ハラームで地獄に堕ちる為の行為なので地獄で焼かれたかったら食えば? 以上終わり

ルパン@6月からフィンランド移住 ‏@Asena0330 2月12日
マジで日本でイスラム教徒の子供に生まれたら大変だよ。僕は親がガチガチのイスラム教徒だったから、ファストフードだめ、ファミレスもだめ、お祭りもだめ。博多生まれなのに博多ラーメンだめ。中学の打ち上げで何も食べれない。友達には距離置かれるし一種の地獄だよ
あと民族衣装着せられるのが嫌だった。すごい注目浴びて恥ずかしいから小学生には辛かった。そのトラウマで今もすごい人の目を過剰に意識しちゃう。日本にいるイスラム教の偉い宗教家の方は是非日本で生まれたムスリムの子供ができるだけ自由にできるよう働きかけてほしい。




あと酒を飲むイスラム教徒は山ほどいます 留学生の知り合いも「日本酒うめえええええ」と1週間に何度か飲んでいます。しかしこれは破門される案件ではありません。偉い人も「異国の地に住んでもストレスなくイスラムを信仰できる生活をすればいい」と言っていました。
最後に 昨日から「父のせいで」と父のこと書いてきましたが、父は好きです。あくまで「宗教を強制する父が嫌い」なだけで、海外から移住してきて僕を私大にまで行かせてくれた父を心の底から嫌いなわけありません。20歳まで一滴も酒は飲まずにすみましたので。



もしこれから皆さんがイスラム教徒と出会ったら ・最初は寿司屋かうどん屋に連れて行ってください ・こちらから肉、酒の話はしないようにしましょう ・向こうが肉を注文したら日本はハラールじゃないけど大丈夫?と聞いてあげてください ・それで大丈夫と言ったら焼肉に連れて行ってください
逆に父がイスラム教徒でよかったのは、肉が食べれないから寿司屋によく連れて行ってもらったこと。父の友達のムスリムの方達がお小遣いをよくくれた事。仲間意識が強いから僕が小学校でいじめられた時にアラブ系の人10人を引き連れて職員室に文句を言いにいいってくれた事ですね。
ハラールよりもまず先にムスリムの子供達がいじめられない環境作る方が優先だと思う。多感な時期にいじめられるのがどれだけ辛いか、しかも自分で選べないことが原因のせいで。そういういじめや偏見問題よりも給食の方が大事だとは思えない。まず先にハーフや外国人の子供が勉強しやすい環境作りを。

おねショタ魔法使い初級おじさん ‏@douteimaturi 2017年2月13日
うーん こういうのを見ると最低限毎日、五回の礼拝だけはしとけと何食うにしろ必ず「ビスミッラーヒルラフマーニルラヒィーム」と言えばいいよ というのが最低限の線だろうねえ シーア派のイスマイール派以降ならタキーヤで逃げれるけど、スンニ派だったら一番緩く考えてこうだろうねえ

例えば、スンニ派だとアッラーと個人の契約で押しきりますがこれだと「両親が信徒であれば、子も信徒である」のならば、それは個人の契約ではなく集団の契約と考える他なくなるのです
確かに解釈はいく様にもありますが基本はクルアーンの記述と伝承から離れてはできない部分があるのです

で、一番不味いのは棄教宣言でそういう家庭なら最低でも一回はシャハーダ・信仰告白を言ってしまっている可能性があるのでその場合は告白→後日、強制させられたという場合は棄教という扱いになります これが強制させられて信仰告白というならば信徒ではないは使えるのですが逆の場合はだめです
後、日本人は低脳過ぎて勘違いしているけど、宗教というのは生活原理なのです 全ての生活の原理は宗教素地があった上で成り立っているわけで宗教なき生活と生活なき宗教というものはないのです 例えば、お辞儀 これも道・儒教の宗教思想が複雑なお辞儀の体系を産んだ訳でそれは原理なのです
正直、やべえなぁ…と思ったのはどんなにぐうたらで酒や豚食うムスリム・ムスリマでもネットや外の世界で信じていないや棄教宣言は死んでもしないし、するなら命懸けの事なのにフィンランドでしょ…あそこ地味にイスラーム人口が多いので日本の現状をそのまま持って行ったら村十分くらうかも知れんない
これが日本人というのであれば問題はないのですけどねぇ…取り敢えず、両親が信徒である事がバレない事を本気で祈るまでです

うーん やっぱりダメだ、完全に勘違いしている 両親が信徒であれば、強制という定義は使われないので棄教になる で、無理のないと信仰というのは他者から排除されないという意味であって、基本的な信仰行為が邪魔されないのであれば、それは無理のない信仰が成立しているので言い訳にならない



そもそも、イスラームでは破門というのは存在しないが棄教は存在するので如何なるぐうたらな連中でも棄教になる事だけは本気で避ける
これは中東だけではなく、全世界にあるイスラーム集団に追われる事を意味するのでスンニ・シーア・スーフィー・異端派の全てが「敵に回る」のでガチでこれは避けるの
これはイスラームというのがキチガイとか、狂っているじゃなくて、そいつ自身が完全に狂った事を意味しているので日本で言えば、何処でも全裸で自慰しながら、うんこ塗りたくってそこらじゅうをうろつき回るようなものでそれが正しくて、社会的常識何て言ったら精神病院行きでしょ?

だから、そう思ってもそれだけは口に出さないわけ
日本語って、全く言葉に重みがない言語だからそれでいいだろうけど、アラビア語や英語となると意味合いがまたガラッと変わるからその延長を海外に持って行ったらかなり危険というか、普通にリンチ受ける
いやまあ、わかっているだろうけどtl

また、自由というのも勘違いしているなぁ…自由というのは物質的なものではなく、何かを規定した上で成立する自由が本来の自由であって 所謂、形而下の自由というのは本能的な自由でしかないのね
そういうと何故に「何か」が悪を作ったのかというけど、これも頭の程度が知れる質問なのね

「何か」というものは至善なわけで悪は行わないし、悪を用意することはないの
悪を用意しない存在は完全なる善であり、
またその存在は「何をも必要としない、絶対単性」なわけで悪と善でわかれていればそれは必要としている存在であり、それは「何か」ではないわけ、まずここで破綻しているの

(「悪を用意しない存在は完全なる善」
全でも悪でもないあるいは善悪の分類が無意味な存在というカテゴリーが抜けている。
アッラーの善悪の話だから善でも悪でもないカテゴリーはそもそも想定していないのかも。)

では、その「何か」は何を人に与えたのかというと全ての力・知・生の土台を与えたのよ
例えば、包丁の持つ力・知識というのは何かを切ったり、安全に調理したりする為のものだけど、時には人を殺すわけ で、「何か」は人を殺す事を命令したのだろうか?するわけがない、殺す事は悪だからだ

(包丁からあらかじめ人を殺す性質を消去しなかったのはなぜか。
悪の芽を摘み取らない理由はなぜか。
そもそも殺人に使うこと自体を不可能にしなかったのはなぜか。
あと全知全能=結果がわかるのに「試す」や「審判」の理由がわからない。
少なくともシーア派神学はヨブ記は誤りとするらしいが、結果が見えるのになぜそんなことをするのか。
無駄で無意味なことはしないのではなかったのか)

と、すると強制されている・予定という概念は成立しない
なんで?何で悪という事を「何か」が強制して、しかも地獄に堕ちる事を確定させるんだよ?
そんなの善なる存在ではまったくないでしょ? そんなのは単純な論理でわかるわけ、そんな事もわからないのが現代のやそとスンニ派の大部分です
だから、人間にはその「何か」の力と知識を使う能力があり、その能力をどう使うか「だけが」問題なの
これが「何か」の絶対公正性なわけ、これが神学で哲学・ハシタメのご主人様の正体なわけだ 御主人様は古いようで常に新しいのでショタジジイみたいなものだね、やっぱりおねショタに帰結するんや
(自由意志の必要性!
悪をなす能力がありながら善を選んでなすなら善なる存在と言える。
善「しか」なせないならそもそも「善」なる存在なのか?
悪の性質も悪をなす能力もあるがそれをなさないなら善)




面白くわかりやすくする設計図
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-118.html


おねショタおじさん ‏@douteimaturi
じゃあ、支配者は何であんなにオカルトみたいなのが好きなの?
と、聞かれれば儀式に依存しているわけで儀式を大量に作り出して選別しているだけなのです
つまり、儀式依存症なわけでその儀式に漏れる事を恐れるわけなのです
深い知識や意味があるのではなく、儀式を作って自分から依存してるのです

狼たちは知っている ‏@wolvesknow
バラモン教は、自己の権威を高めるために複雑な祭式規定を発達させたんだよな。







森の人 ‏@mountainhermitt 2015年3月15日
ゴールデンカムイ読んでいたら、アイヌ民族は赤子に病魔が近づかないよう汚い名前をつける風習があると描写されていたのだけど、同じ風習がモンゴルにもあるのよね。
タイだと人間だと思われないよう動物の名前をつけたり。
この風習が広まった経過がとても気になる。

丸焼け ‏@maruyake4 2015年3月5日
そういえばゴールデンカムイでアイヌでは魔除けに幼い子供に汚い名前を付ける風習が出てたけど、モンゴルにも似た習慣があるみたいだし日本の幼名(××丸)もおまるから取ってるって聞くからそれぞれ同じ起源があって分散していったのかしら。


樹木 ‏@ichinenjyu 9月5日
「世界の名前」って新書を読んでると複数の国でわざと悪い名前をつけるってことがでてきて、そうするとアイヌの『幼少期は汚い名前で悪霊を遠ざける』のもそう珍しい傾向じゃないのかなって思えてくる

いざよい@自家通販中 ‏@izayoisakenomi 2月3日
グラニアの名前の意味が醜悪って、アイヌの子供が爺さんの尻の穴とか平安時代の子供がくそまろとか(どちらも魔除けで敢えて汚い名前をつけられる)そういうのとは違うんやろ……フィンの名前なんて黄金の髪が美しいから名付けられたんやろ……何故そんな名前をつけられた……呪術か……妄想するで……

おねショタおじさん ‏@douteimaturi 10月
言葉は呪いで祝詞だと思ってください
そして、邪悪でもあり聖善だと解れば、言葉が持っている本来の属性が分かるはずで
言葉は人の思考を縛るんです
すべての両義的なものは言葉から生まれるのでその言葉は何を縛るのか?という、視点で考える事です

特に日本語は抽象的な表現や暗喩が滅茶苦茶多いので言葉が様々な意味を縛りあげるのです
例えば、ネタ
これだけで噺の種や食べ物、様々な言葉を繋げて縛りあげるわけで
言葉を自由に扱うものは様々な言葉や意味を繋げるのです
だから、言葉を創る仕事が悪の下っ端魔術師の主な仕事なのです

では、上級魔導士は何をしているのかと言うと言葉を創るための源を作ってます
それは表現だったり、物質だったり、階級だったり、社会構造
だったり、
単純に考えてください
何で家は家というのですか?
何で猫は猫というのですか?
何で本は本というのですか?
その名前は誰が決定したものですか?
タコという言葉は何で海に住む生き物と空にあげる遊び道具と同じ名前なのですか?
いかという言葉は何で海に住む生き物と体を治す学術、ある標準よりも下のことを同じ発音で発声するのですか?
こういう疑問が出てこないこと、当然とするための言葉作りが上級魔導士の最高魔術で導きの力なのです

つまり、己が魔導士になりたければ言葉を創る苦悩をすればいいのです
言葉を創り、それを独り歩きさせられれば言葉はまるで式神のように人々に取りつくのです
魔導士の仕事は翻訳と言葉の現地化です、
それで全く無関係な文化圏に共通性を創造して、自分が言葉の魔法で人を操るのです

人間は基本何でも出来るように出来ているのです
家も一人で作れるし、物が壊れれば自分で直せるし、多芸に秀でる必要はなく、あれもできるこれもこなせる
それでいいのです
そもそも、分業社会は消費の増大と依存の為にさせられているわけで
秀でていなきゃいけないという妄想や迷信は捨ててください


人類を幸せにできない
思想は全部妄想で出鱈目です、そういったものは完璧なるうそです
それは能力があるものはあるものとしての責任があり、ないものはないものとして責任が免除されている訳なのですが
それが逆転している日本社会は反人類社会でしかないので人類は日本では生きていけないのです

神はいません、但し絶対的なる統治者がいてその知識と神智がこの世界を支配する方法の全てです
要は人類が目指すべき統治法というのは神権、民権でもなく融和した神智政治です それは犠牲を強要する世界ではなく、すべての存在が神智を持っているという世界観であり、其れが最後の日だと信じてます

最後の日というのは全ての存在が神智を得た日であり、全ての存在がこの世界に絶対者に相応しい世界を完結した日でもあるのです
また、それは物質的な意味ではなく精神的に完結した世界とも取れる事ができます
どちらにしろ大乗的、全ての集団が救われる世界というのは精神の共有化にあります

全ての存在には仏性があり、全ての存在には神智がある
要はそれを育てる事ができれば、この世界に仏国土ができ、天国ができ、地獄というものは消えだるわけです
つまりは地獄というのは想像の中にあるのではなく、この世の中にあり
また、地獄を産み出しているのは限定的な善意がその正体でしょう

即ち、己の組織、己の親戚、己の財布、己の家族という限定的な善意によってこの世界に地獄が沢山創られているわけなのです
つまりは執着、または見える範囲での利益共有が交差していくことで私たちは日々地獄をこの世界に増やしている訳なのです
又言葉が増えるというのは執着が増える事を意味します

地獄を減らすには不要な言葉を減らす必要があります
不要な言葉の最たるものがシンボル、象徴です
言葉がこの世に地獄をもたらす種であるならば、シンボルはその果実であり、
果実は種を持ちそれをまた撒き散らすので象徴に意味を持たさない、意味を消す事が地獄を消す方法でしょう

例えば、日の丸
あのシンボルが持つ意味というものを無効化できるのであれば、アレに集団としての帰属性を無効化できますし、
他にもその象徴による儀式体系も認識も滅ぼす事ができます
それにはシンボルを追うのではなく、シンボルを無効化する思想を創造せねばなりません

即ち、魔導士の仕事であるシンボルを追うのではなく、シンボルに力を与えない儀式自体を無効にさせるための構造を作り上げる必要があるのです
しかしながら、それは出来ないでしょう
何故なら、人類史はシンボルと共に歩んできたようなものです
人は滅亡まで表現し、世界に顕現させるからです


(人間から視覚を奪うとどうなる?
目が見えない人もシンボル操作されるの?)

人が絶対に進化しない理由の一つとして、表現をやめない、表現を無効化させずに積んでいくというのがあります
私が絵描きさんしかフォローしない理由も彼らは挫けても表現する事はやめない、やめない故に表現を継続していくことにあります
人類が進化するというのは今迄の表現が無効になる事です

私が言う事の全てが陰謀的な話ではないかもしれませんが様々な陰謀を無効化する術を言っているだけであり、
これを徹底できれば世拾い人になれます
必要な物だけ拾い、不要なモノは鼻からない状態にし、
それは世を捨てたのではなく元からあると勘違いしていた脱いだだけのことなのです

こうやって、魔術師というのは言葉を創るのですが
悪の魔導士は種あり葡萄の様に言葉の中に大量の種を入れては言葉を創り

善の魔導士は種のないぶどうの様にその言葉だけで完結し、
種を作らせない言葉を創り出しては
種ある葡萄を根っこから、種から刈り取るのです
だから、善の魔導士は恐ろしいのです

人の執着の数だけ言葉がある
言葉の数だけ欲求がある
欲求の数だけ執着する
お釈迦様が矛盾する事を言うのは言葉に意味はないということをはっきりさせるために言葉を操っているわけで
矛盾と言っている時点で言葉に意味を求めてしまっているのです
それが執着なわけであり、臨済さんが言うような「頭の上に頭を置くな」というところに帰するわけです


『景徳伝燈録』訳文 - 愛知学院大学 禅研究所
http://zenken.agu.ac.jp/research/25/12.pdf
”宝峯和尚が僧に尋ねられた。 「昔の禅僧は、 一 本のしっかりした道筋をもって、 後輩や初学者を指導している。 貴僧は、 このことを知っていますか」 と。
僧は、 「師にお願いします。 昔の禅僧の 一 本のしっかりした道筋をお示しください」 と言った。
師は、 「そうであるなら、 貴僧はもう既に知っ てしまっています」 と言われた。
僧は、 「頭の上に更に頭を置くというもので、 丁寧もいいところです」 と言った。
師は、 「私、 宝峯は、 ひときまに尋ねるべきではありませんでした」 と言われた。
僧は、 「尋ねることに不都合はありません。 どうぞ質問してください」 と言った。
師は、 「ここ (宝峯院) では、 今まで、 理屈を捏ね回して喋り散らす人は 一 人もいなかった。 出て行きなさい」
と言われた。”



おねショタおじさん ‏@douteimaturi 10月21日

言葉は呪いで祝詞だと思ってください
そして、邪悪でもあり聖善だと解れば、言葉が持っている本来の属性が分かるはずで言葉は人の思考を縛るんです
すべての両義的なものは言葉から生まれるのでその言葉は何を縛るのか?という、視点で考える事です

特に日本語は抽象的な表現や暗喩が滅茶苦茶多いので言葉が様々な意味を縛りあげるのです 例えば、ネタ これだけで噺の種や食べ物、様々な言葉を繋げて縛りあげるわけで言葉を自由に扱うものは様々な言葉や意味を繋げるのです だから、言葉を創る仕事が悪の下っ端魔術師の主な仕事なのです

では、上級魔導士は何をしているのかと言うと言葉を創るための源を作ってます それは表現だったり、物質だったり、階級だったり、社会構造だったり、単純に考えてください 何で家は家というのですか?
何で猫は猫というのですか? 何で本は本というのですか? その名前は誰が決定したものですか?

タコという言葉は何で海に住む生き物と空にあげる遊び道具と同じ名前なのですか? いかという言葉は何で海に住む生き物と体を治す学術、ある標準よりも下のことを同じ発音で発声するのですか? こういう疑問が出てこないこと、当然とするための言葉作りが上級魔導士の最高魔術で導きの力なのです

つまり、己が魔導士になりたければ言葉を創る苦悩をすればいいのです 言葉を創り、それを独り歩きさせられれば言葉はまるで式神のように人々に取りつくのです 魔導士の仕事は翻訳と言葉の現地化です、それで全く無関係な文化圏に共通性を創造して、自分が言葉の魔法で人を操るのです


(ユダヤ教のタナハ=キリスト教視点では旧約 
は当然ヘブライ語原文を翻訳せずに読む。
翻訳には積極的ではない。コーランも。しかしキリスト教はやたらと翻訳に積極的。翻訳こそが魔法の場を作る=陣地作製から)

だから、表現規制を言う連中のどの顔見ても下品で知性を持ち合わせていないのは必定なのは 要は連中が己の頭で解釈出来ないものを言葉にする事が出来ないから、発狂しているのです 私は如何なる表現規制を否定します、それは言葉や表現の発明は人類が滅亡まで続く開拓知ですから

人間は基本何でも出来るように出来ているのです 家も一人で作れるし、物が壊れれば自分で直せるし、多芸に秀でる必要はなく、あれもできるこれもこなせるそれでいいのです そもそも、分業社会は消費の増大と依存の為にさせられているわけで秀でていなきゃいけないという妄想や迷信は捨ててください

人類を幸せにできない思想は全部妄想で出鱈目です、そういったものは完璧なるうそです それは能力があるものはあるものとしての責任があり、ないものはないものとして責任が免除されている訳なのですが それが逆転している日本社会は反人類社会でしかないので人類は日本では生きていけないのです




さとう こうじ ζ Koji Sato ‏@sato11koji33 2月7日
キリスト教におけるお辞儀は神様への尊敬や服従を意味しているので、謝罪にお辞儀が付くという考え方がないと思われます

西欧では謝罪でお辞儀があるみたいですが、腰を曲げるのは男性だけです

イスラム教は対人間へのお辞儀は忌み嫌われ、
ユダヤ教は神様以外へのお辞儀は禁止です





閉店です ‏@lakudagoya 2016年10月15日

日本語でシーア派の情報というと、桜井啓子先生のシーア派の本や、松山洋平さんの「イスラーム神学」が参考になるよ。

でもシーア派ってそれくらいしか情報ないよね。

となるとやっぱペルシャ語情報必須なんだよ。

あとシーア派の説明にはね、スンニ派と違って独自のロジックがあるから。

Shi'@Ali ‏@Al_Muwahhidun 2016年12月5日

@lakudagoya 日本語書籍ですと、慶應義塾大学出版、ムハンマド・ホセイン・タバータバーイー著「シーア派の自画像」がシーア派視点で勉強になるとおもいます。桜井氏のは宗教学、松山氏のはスンナ派護教学の視点からみたシーアですから。





今生はただの遊び、戯れ。来世こそが本当の生。もしも彼らが知っているとしたら。(クルアーン29章64節) 『イスラームの論理』https://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&url=search-alias%3Daps&field-keywords=%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E8%AB%96%E7%90%86 … 『イスラーム法とは何か』
「神」という単語をアラビア語における「イラーフ=真に仕えられるべき/崇拝されるべき者」の意で用いる。



これが、アーダム(アダム)創造以降、地上のあらゆる民に遣わされた使徒(人々に創造主の使信を伝えることを命じられた預言者)が訴えた、「タウヒード(唯一なる者となすこと)」の教えである。使徒たちがもたらしたこの教えを受け入れ、創造主のみを崇拝する者を、アラビア語で「帰依(イスラーム)する者」、ムスリムと呼ぶ。


おねショタ魔法使い初級おじさん ‏@douteimaturi 2016年10月26日

名家が道家や法家などなど、諸派から批判を受けたのは単純で中国古代思想は基本的に現象と言葉の乖離を嫌うので論理学と言っても、起きている現象と離れた論理を説くのを否定します
なので、中国古代思想は名と実を別々に認識出来ながらもそれをくっ付ける事に重きをおきます


おねショタ魔法使い初級おじさん ‏@douteimaturi 2016年10月27日

善の顕現としてはお釈迦様やさまざまな預言者等がここに当たるわけであり、悪の顕現としては世界の悪政者や悪魔と言われる存在がここにあるわけです
その上で神道は世界的な宗教論や哲学論を共有して、論理的に組み立てる事ができるわけなのです
だから、神学が必要で組み立てねばならないわけです
で、えぐい事を言えば神話とかなんて偽書を作ってしまって組立ちまえばいいんです 例えば、当時の日本には文字があったなんて言いたいのであればホツマツタエみたいな粗製品ではなく、古代揚子江や長江で発掘されている文字にアルメニアあたりの文字を拾い上げて当時の音声表記すればいいのです

んで、紙とかも当時位に工業的に劣化させて地面に埋め埋めしたものに大切なのは時代時代によって解釈されたような解釈本をちゃんと用意すること 奈良後期、平安時代、鎌倉時代、室町等々ちゃんと歴史考証加えられているように捏造しなきゃいけません
こんなヤバイ偽書が出てきたら怖いねえ 作ったやつは絶対に確信犯だし、やり口がえぐいし、どうせ馬鹿な学者は歴史考証で騙されるんだろうから、カルトの無自覚的なプロパガンダになるだろうしね でも、こういうのが出てこないのは本当に俗世間の陰謀というやつは小学生向けなんだろうね

こういった、天皇主義者や国体論者が出てこない限り彼等を私は信用しないし、できない まあ、出てくることはないだろうね なぜなら、日本人って超排他的で徹底して考える癖を捨てているから、但し天才が現れたなら神学を組み立て直して、哲人的なものを作り出すかもしれないけどね


現代(西)アルメニア語 単行本 – 2004/1
佐藤 信夫
グルジア語の語彙本9000語
グルジア語文法
アラム語入門―ペルシア帝国の国際公用語キリストの日常語―そして現
古代の歴史ロマン2 アラム語—イエスの誕生、キリスト教の全貌
はじめての古代エジプト語入門≪ヒエログリフ入門≫ (オリエンス語シリーズ)
ヒエログリフの勉強を始めようという方はまず、吉成 薫のヒエログリフ入門、ジャニス・カムリン(斎藤 久美子訳)の古代エジプトのヒエログリフ、マーク・コリア(坂本 真理訳)のヒエログリフ解読法あたりから始めて、もっと例文を解読したいと思ったらこの本を購入するのがいいと思います。発音記号、文字の並び方に惑わされずに知識を深めることができます。(*^。^*)

本の紹介 其の四『アルメニア語文法』
http://iftah-yaa-simsim.cocolog-nifty.com/blog/2006/01/post_720b.html

『基礎アラビヤ語』
  著者:内記良一 出版社:大学書林 
  価格:5,040円(本体4,800円+税)
  発行年月:1983年1月
  ISBN:4475010470
  購入場所:東京・蒲田/駅ビルのサンカマタか
         パリオの書店 
  購入時期:1988年初夏の頃

 中学までフランス語一辺倒でやってきた僕が、高校に入学し初めてフランス語以外で興味を持った外国語がアラビア語でした。この『基礎アラビヤ語』は4冊目の本です。実際は中学の一時期ドイツ語にも手を出し、その時に買った本が3冊目なのですが、今は訳あって手許にないのでまた別の機会に御紹介したいと思います。話をアラビア語との出逢いに戻せば、何故アラビア語だったのかは実はよく覚えていません。と言うよりも、恐らく当時たまたま書店でパラパラとページをめくってみたのが本書で、そこに書かれていたアラビア文字に何となく興味を持ったというただそれだけの理由だったのではないかと思います。

 どうでもいい事なのですが、この本のタイトルが『基礎アラビア語』ではなく『基礎アラビヤ語』となっているところに大学書林らしさを感じてしまいます。先程アラビア語を選んだ特別な理由はないというようなことを言いましたが、この本はよく利用しました。つまり、当時アラビア語の勉強に結構のめり込み、独学で勉強した割には簡単な文章なら書いたり読んだりできるようになりました。この本には別売りテープがありますが(しかし高い!!)、本来が「アラビア語を話し聞く」ということに主眼を置いていないため、アラビア語の会話の勉強は別の本によってだいぶ後になってから始めることになりました。この本は、アラビア語の基礎的な文法事項をクルアーンやアラブの諺などを多数引用し、極めて簡潔に解説した文法書です。文法説明はさっぱりしているのですが、練習問題が豊富なので文法の知識を整理する意味でのドリルとしての使用も適しているかも知れません。内容はガチガチのフスハー(正則アラビア語)の教科書ですが、初めての外国語に接する時は多少お堅い位の共通語(標準語)に接するのが良い、と考えている僕には肌の合った教科書だったと思います。

 因みに、別売りカセットに吹き込まれているアラビア語は完全なるフスハーですから(これも一寸妙な言い方ですが)、口語では一般的に発音されない語尾の格変化部分 や名詞のタンウィーンまでしっかり発音されています。アラブの人からするとよそよそしい、やや肩に力の入ったアラビア語といった印象でしょうか。

アルメニアの公用語「東アルメニア語」および「西アルメニア語」を学ぶためのYoutube動画まとめ
http://tagengo-gakushuu.hatenablog.jp/entry/2015/11/11/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%85%AC%E7%94%A8%E8%AA%9E%E3%80%8C%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%82%A2%E8%AA%9E%E3%80%8D%E3%81%8A%E3%82%88%E3%81%B3

勉強するためでしたら、戸部の本は、中古でも買わないほうがいいですし、ただでももらわないほうがいいです。
戸部の本以外の泰流社の本は、もちろんものによりけりですが、大野徹の「ビルマ語入門」や土井久弥「ヒンディー語入門」などは、よくできたいい本です。

泰流社がつぶれたのは戸部の本のせいだと噂されたほどです。あまりにひどいので、泰流社の本全般の印象が悪くなって、他のいい本も売れなくなったのだと。実際は、それだけじゃなく、いくら私費出版請負でも最低限の内容の保証もないような本の出版を自社名で乱発するような経営方針に問題があったはずですが。

私は語学オタクで、戸部の本は出るたびに立ち読みをしてあきれていました。昔、大学図書館に、友人と連名で、こんなひどい本を購入してはいけないと抗議したことがありますが、寄贈してくるので捨てるわけにいかないという返事でした。

戸部の「ケチュア語入門」などは、あるとき大修館の雑誌「言語」で、原著の誤植までまる写しにした本だと指摘されてことがあります。
「ウズベク語入門」には、口蓋垂閉鎖音を表すキリル文字 Ғ (喉の奥の「ガ」)の発音をカタカナで「ファ」で記してあり、ローマ字の f と勘違いしているのです。
「モンゴル語入門」は、大学書林語学学校の小沢重男の授業の配布教材の一部をそそまま載せ、そのままだったらまだいいのですが、自分で理解しないままこれに間違った説明を書き添えています。
「コンカニ語入門」では、「コンカニ語ってどこの言葉だと思いますか。私もそう思いました」なんてレベルの人に入門書を書いてほしくない。

その他多数の「~語入門」は、ほとんどが種本を、自分で十分に理解しないままに和訳して、そこに誤訳と大量の誤植を加え、さらに不正確な説明を添えただけのものです。しかも、種本が不十分のものが多く、簡単な文法説明のあとは単語集だけというのも多いです。それが100ページもないのに新刊書で1万円前後の値段でした。しかも、種本が何かを記さない本が多い、これはマナーとしても問題です。

以上のような本ですから、知識のない人が戸部の本で学ぶのは危険です。それをわかった上で好事家として収集するのでないかぎり、ただでもおすすめしません。
戸部実之 - 同社で多数の語学書を出版していた人物。
実用アラビア語入門の筆者、どこかで見た名前だと思ったらこの人のアイヌ語入門読んだことあるわ というか幅広い言語の入門テキスト書いてるんだな戸部実之

寝んどロイド・にきⰏⰵⱅⱀⰵⱃ傲慢公 ‏@Medtner1880 2016年5月28日

【戸部実之】
言語オタにとっての有名な地雷
新古書店じゃなくてガチの古本屋に行くとずらっと並んでいて、知らずに買っていく人を想像すると真顔になってしまう
#リプで来たものについて語る

中西裕樹 ‏@baslerhund 2014年3月29日

@a_oik 「戸部実之」で検索をかけるとわかりますが、残念ながらこの辞典はトンデモ本かと思われます。中身を見ずに言うのは良くないのですが、ほぼ間違いないかと……。ご存じだったらすみません。

C.C.Beijing 鈕祜祿・一順 ‏@GolminAlin 2014年9月9日

@BlogJoseph 第2期の語学書の内容がなかなか「トンデモ本」で著者の戸部実之(東京外国語大英米科卒らしい)のナントカ語入門本を高額で各自治体の図書館に売り込んでた時期がありまして…。




P・グラレム ‏@pinkglalem 2015年3月8日

最近たまたまテレビを見る機会があって...そしたら、日本とトルコの友好の歴史みたいなモノをやってたンだョね。...ただ、テレビでも学校の授業でもけして教えない闇の歴史が両国間には存在する。相手の恥部を隠してやった歴史がある。#アルメニア人大虐殺


@pinkglalem 現在でもこの史実をトルコ政府は認めていない。第一次大戦後の軍事法廷で裁かれる予定であったのを、日本と米国は強行に反対した;http://matome.naver.jp/odai/2139045989525696201 …

@pinkglalem この虐殺の理由について調べて行くと、アルメニア人というのは独特の宗派のアルメニア正教徒で、ものすごく初期のキリスト教なんだって。そんでもって、これは推測なんですけど、この宗派はキリスト教成立時の色々な秘密を知っていたンじゃぁないかなぁ?

The Armenian Genocide: http://youtu.be/6A1emayyhmI @YouTube;
المذبحة التركية الإسلامية للأرمنTurkish Islamic massacre of Armenians: http://youtu.be/548lD5SvERk
@YouTube トルコ政府の「移送」は絶滅を意味する暗号として伝達, 実行された...;http://www.geocities.jp/armenahit/genocide.htm … …

ローレライ ‏@rolelei 2015年3月8日

『トルコが親日の理由?』@pinkglalemアルメニア虐殺追求を日本と米国は強行に反対した!


P・グラレム ‏@pinkglalem 2012年10月25日

アケメネス朝 #ペルシャ は当時オリエントに栄えた巨大文明で、エジプト、バビロニアから、トルコ、アルメニア、今のアフガニスタン辺りまであって、その地域の人たちに朝貢させていたという。そこから #アレクサンダー大王 が略奪して持ち帰った物って、何だったのか?


P・グラレム ‏@pinkglalem 2013年12月21日

@lanekota @rideigan グルジェフは元々アルメニア正教でしょう?ペルシャの近くの...イランにはアルメニア人がいっぱい住んでる。彼の弟子ウーペンスキーの著作の中にこの実験の模様が書かれています。別の弟子が(確か)アヘンを用いていたと証言しています。



グルジエフ「エニアグラム講義録」郷尚文訳
ゲオルギイ・イヴァノヴィチ・グルジエフ(Георгий Иванович Гурджиев, George Ivanovich Gurdjieff, 1866年1月13日? - 1949年10月29日)はアルメニアに生まれ、一般に「ワーク」として知られる精神的/実存的な取り組みの主導者として、および著述家・舞踏作家・作曲家として知られる。ロシア、フランス、アメリカなどで活動した。

ギリシャ系の父とアルメニア系の母のもとに当時ロシア領であったアルメニアに生まれ、東洋を長く遍歴したのちに西洋で活動した。20世紀最大の神秘思想家と見なされることもあれば、怪しい人物と見なされることもあるというように、その人物と業績の評価はさまざまに分かれる。

以下のうち(1)から(3)はAll and Everythingと題された著作三部作を為しており、グルジエフはこれらは必ず順番どおりに読むように求めた。もともとロシア語とアルメニア語で書かれたものを生徒たちが英語に翻訳した。

(1) Gurdjieff: Beelzebub’s Tale to His Grandson

グルジエフの主著で原書で千ページを越える超大作。グルジエフはまずこれから読むように強く求めた。若き日の反逆ゆえに宇宙の中央を追放されて惑星地球にやってきた主人公ベルゼバブが宇宙船カルナークのなかで孫に語る人間に関する壮大な物語。宇宙、人間、歴史、文明、芸術、宗教、教育などをめぐるグルジエフの見解が総合的に反映されている。英語版も日本語版も翻訳が二種類ある。

グルジエフ『ベルゼバブの孫への話 - 人間の生に対する客観的かつ公平無私なる批判』 浅井雅志訳、平河出版社
グルジエフ『ベルゼバブが孫に語った物語 - 人間の生に対する客観的で公正な批判』 郷尚文訳、電子書籍:Amazon

(2) Gurdjieff: Meetings with Remarkable Men

自伝的体裁の著作だが、「竹馬に乗って砂嵐のなかを旅する」など、あからさまに実話ではないストーリーも含まれていて、ノンフィクションとはなっていない。父、少年時代の師、青年時代に探求の旅を共にした「真理の探求者」のグループの仲間たちなどを章ごとに取り上げ、彼らの人生の軌跡や彼らと共にした東洋の辺境をめぐる旅などについて語る。最終章「物質的問題について」は、カネをめぐるグルジエフの奇想天外な立ち回りや壮絶な闘いの記録となっている。電子版の新訳は、原書の段階から表記などに細かい誤りが多かった地名や人物名や民族・歴史的事項を再調査のうえ、脚注と地図リンクを付与したものである。

グルジエフ『注目すべき人々との出会い』 星川淳訳、めるくまーる
グルジエフ『注目すべき人々との出会い』(脚注・地図リンク付き新訳版) 郷尚文訳、電子書籍:Amazon

(3) Gurdjieff: Life Is Real Only Then, When ‘I Am’

グルジエフはこの第三集で最終的な知識の開示を計画していたが途中で執筆を断念する。現在はその未完の状態のままに出版されている。

グルジエフ『生は<私が存在し>て初めて真実となる』 浅井雅志訳、平河出版社
グルジエフ『生は<私が存る>ときにのみリアルである』郷尚文訳


⓵「事実と意見を区別」②「思う、感じる、感情表現の禁止」を守れば論理的文章がすぐ書ける!←そんなことより 「丸に十字」「人型の十字架」「エプロン」のマンダ教だ! 青木健『古代オリエントの宗教』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-115.html
”・二世紀のローマで成立したマルキオーン主義は旧約と新約のミスマッチを指摘し、旧約聖書全てと新約聖書の大半を切り捨てて、ルカ書とパウロ書簡のみを採用し、これこそイエスの真意であり正しいキリスト教だと論じた。
これを嚆矢として新約聖書の結集が始まり、エジプトやシリアでは同様の発想に立ったグノーシス主義と呼ばれる諸派が乱立していく。
同じ頃に旧約聖書も新約聖書も否定し(部分的には新約の洗礼者ヨハネを尊重する)、独自のマンダ教聖典を作ったマンダ教がヨルダンで成立した。

・マンダ教の成立(1~2世紀)。
1世紀、ヨルダン川流域で成立

2~3世紀、イラン高原西部へ

3~現代、メソポタミア(西アジアのティグリス・ユーフラテス両河川流域=ほぼイラクの中心部。アルメニア高原からペルシア湾にわたる地域)南部に定住し、現在に至る。
(…)
・ミトラ信仰の聖地アルメニア
アルメニア~小アジア=インド・イラン世界の最西端。
アルメニアは、イラン高原の西端がコーカサス山脈の南麓と交わり、複雑な山岳地形をおりなす地域。メソポタミアと並び、地中海世界との交流が密接。
アルメニアの上がグルジア
アルメニアの右がアゼルバイジャン
アルメニアの左がトルコ
アルメニアの下がイラン。
(トルコの下がシリア。
シリアの左にレバノン。
レバノンのすぐ近くにイスラエルとヨルダン。
シリアの右下にイラク)

古代インドの発音ではミトラ
古代イランではミスラ
中世イランとアルメニアではミフル
ギリシア語・ラテン語ではミトラス
(ソグド語でミール
仏教で弥勒 ミロク
ミは共通。
神智学ではマイトレーヤ)

・56年にパルティア皇帝の分家をアルメニア王として送り込み、アルメニアを藩王国としたあたりから、次第にアルメニア史の輪郭がはっきりしはじめる。
この際にアルメニア語にはイラン語(正確にはそのパルティア方言)の語彙が大量に流入。
アルメニア藩王国は、パルティア王国が224年にササン朝に滅ぼされた後も、ササン朝の王家の宗主権の下で
428年までアルメニアを支配した。この合計372年間も存続したパルティア系の王家のおかげでアルメニアにはイラン文化の影響が大きい。
聖都アニやバヴァンには、
アラマズド(アフラ・マズダー)、ミスラ(ミトラ)、
ヴァハグン(ウルスラグナ)、アナヒト(アナーヒター)など
――アルメニア語には長母音がないのでかなり寸詰まりの名前に変化している――
の神殿が立ち並んだとされている。
このうち、ヴァハグンはヴァン湖の底に沈んでいる得体の知れない水棲動物(普通は竜だと考えられているものの、アルメニア人が移住してくる以前から恐れられていた水中の怪物らしい)を退治した英雄であり、
アナヒトは偶像崇拝や神殿売春を斡旋する女神である。
イラン系の神々の中で最もアルメニア王家に好まれたのがミトラであった。古代イラン人のあいだでは相当崇拝された神だったが、ザラスシュトラの宗教改革の結果、ゾロアスター教の中では六大天使のうちにも入れてもらえないほど零落していた。
が、ゾロアスター教の影響が必ずしも及ばないアルメニアや小アジアなど西方ではその人気を順調に維持していたらしく、今も蒼穹を背景にガルニの丘に聳える神殿は、ミスラに捧げて建立されたものとされる。これはオリエント世界で現在確認される唯一のミトラ神殿遺構としてミトラ教研究で非常に重要。ただし、ヘレニズム風の神殿に見える。現在のその神殿は近代になって再建されたものだそうだ。
イランは地中海世界に比べると独自の文字文化の発達が極端に遅かったので、当時のアルメニアでは文字が発達せず、最盛期の実態が同時代のアルメニア語文献からただちにわかるという性質のものではない。アルメニア文化の開発自体がキリスト教布教の目的でなされており、古典アルメニア語文献といえば、キリスト教の聖職者たちが五世紀以降に執筆したキリスト教文献に限定されるのである。
301年にアルメニアの国教がキリスト教になる。世界初のキリスト教国教化。
404年に学者聖人メスロプ・マシュトツによって考案されたと伝わるアルメニア文字がキリスト教伝道の大きな武器になった。シリア文字やパフレヴィー文字が右から左に書くのに対し、
アルメニア文字はギリシア文字と同じく左から右に書く。
(新約はギリシャ語)
イラン高原の方では文字利用そのものが一般化しておらず、パフラヴィー語文献の大量執筆は9~10世紀にならないと不可能だったのだが、アルメニアでは5世紀の段階でかなりの量の文献を残すことができるようになった。
ローマ帝国では
313年コンスタンティヌスによるキリスト教公認
392年テオドシウス一世によるキリスト教国教化。

ミトラ信仰は、海賊やローマ軍兵士を通じて地中海世界、ローマ帝国に流入したらしい。
地上ではなく地下に密室を掘って男だけで寄り集まり、短剣で牛を屠って再生を経験する儀式を行った。

・キリスト教に土着宗教が習合した東方での最初の事例は、4世紀のアルメニアのミトラ信仰。当時のアルメニアではイラン系のミトラ崇拝が主流を占めていた。
アルメニアはローマ帝国とペルシア帝国の境界線上にあり、古代よりイランの影響力が強く、2世紀頃にはミトラがほとんど主神だった。ミトラ信仰は地中海世界に大きく受容され、2~4世紀にはローマ帝国内でミトラ教として完成される。
が、301年にアルメニア王国がキリスト教を国教として採用するとキリスト教の聖人の中に取り込まれた。

アルメニア藩王国はササン朝ペルシアの属国であるからペルシャは
428年アルメニアへ侵攻し、372年間続いたパルティア系王家を廃してアルメニアを直接統治下に置いた。その際にパフラヴィー語で書かれたゾロアスター教改宗勅令によりアルメニア人にイラン高原の文化への回帰を促したとされる。
が、イラン高原の宗教事情も三世紀を境にすっかり変わっており、パルティア時代のミトラ信仰はサーサーン朝が奨めるズルヴァーン主義に置き換わっていた。アルメニア藩王国としてはミトラ信仰への復帰なら考え直したかもしれないが、見ず知らずのズルヴァーン主義への復帰はおよそ考慮の埒外だったかもしれない。
この五世紀ころササン王朝がいかに激しくアルメニア人キリスト教徒に対してゾロアスター教ズルヴァーン主義に改宗することを迫ったかは、1965年にアルメニアの聖地エチミアジンの原始キリスト教教会内部でパフラヴィー語の銘文の施された拝火壇が発見されたことからも明らかにされている。これが400年代中葉にササン朝の占領軍が原始キリスト教教会を拝火神殿に改修した際の動かぬ証拠だと考えられている。
484年には改宗勅令をペルシャ帝国は撤回した。
56年間も戦争状態に陥っていたのでアルメニア正統使徒教会は451年に開かれたカルケドン公会議に代表を派遣できず、アルメニアのキリスト教教義は自動的に単性論派に分類されてしまった。つまりローマ・カトリック教会とギリシア正教会からは異端視される非カルケドン派教会とみなされてしまった。

アルメニア正統使徒教会はズルヴァーン主義に対しては直接の反駁で応じたが、既に民間信仰化していたミトラ信仰に対してはキリスト教への習合を図った。
アルメニアでは異教の神殿をメヘアン(ミトラの変化形)と呼び、奇岩や洞窟をムヘル(ミトラの変化形)と呼ぶなど、ミトラ信仰の痕跡は比較的保存されている。
三世紀以前のアルメニアではミトラは岩から誕生したとされ、奇岩から泉が湧いている光景への信仰がそのままミトラ信仰を意味していた。
聖ナルセス・フライェツィ(1173年没)の詩では、奇岩からの湧水がそのまま十字架上のイエスの脇腹からの出血とみなされ、人類すべての罪の贖いの象徴とされている。

(ローマ帝国がペルシャの力を削ぐ為にアルメニア藩王国に干渉したのでしょう。

「ミトラ=太陽」は雷と嵐の神の象徴である「ゼウス=牛」を殺します。
晴天VS雷雨。
白人宗教のキリスト教は太陽神ミトラ系ですが、白人が日光に弱いので嵐・雷系のゼウス=ギリシャ神話や、セトや、バアル=生贄教などアンチ太陽信仰要素あり。
キリスト教を作った勢力は恐らくミトラ結社出身。だから教義を盗めたのでしょう。
ミトラ結社の離反者がキリスト教の原型かも。
ギリシャ神話・ローマ神話勢力は、キリスト教と大本教系という白人化された太陽信仰系カルトを批判することがありえます。
新左翼がギリシャ・ローマ神話好きかどうか気になるところ。

宗教を、重視する天体や天気の種類で分けると、
イラン・ペルシャは太陽信仰。
ゾロアスター教の最高神アフラ(アスラ)マズダーがアスラ族にして太陽神。
密教≒ミトラ+拝火+グノーシス+仏教など
の毘盧舎那もアスラ王とウパニシャッドで表現されていて、仏教の密教でも太陽神とされています。
インドのバラモン教の主神がインドラ、後にシヴァに変わりますが両方とも嵐の神です。”



まずは根本的な世界観の理解を



MB13 ‏@MB13 2016年1月30日

話題の松山洋平『イスラーム神学』購入。スンナ派の解説云々、ナサフィー信条和訳も付いてるよ!というような書評を目にしていたので概説的な本なのかと思っていたらとんでもない。ナサフィー信条についての極めて丁寧な訳解が大部分で、えっ、こんなすごい本が日本語で読めていいのかと逆に困惑


正典としてのクルアーン―ヘブライ語聖書・新約との比較分析2007/10
中田考
イスラーム神学

著者/訳者:松山 洋平

日亜対訳 クルアーン――「付」訳解と正統十読誦注解 単行本 – 2014/8/2
中田 考
メヴレヴィー教団(-きょうだん トルコ語Mevlevilik)とはイスラム教のイスラム神秘主義(スーフィズム)の教団の一つ。13世紀にジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207年 - 1273年)によって開基された。
概要
セマー(旋舞)の様子
セマー

メヴレヴィー教団は日本語では旋舞教団といわれ、スカートをはいた信者が音楽にあわせて、くるくると回転をし踊るという宗教行為(セマー)で知られる。これは祈りの手段であり、回転は宇宙の運行を表し、回転することで、神との一体を図るというものである。


教団の中心地はルーミー最期の地であるトルコのコンヤであり、墓廟がある。
スーフィズム教団間を統括するような教理体系は現れなかったが、おおむね一致する教理として次のようなものがある[1]。つまり、創造者である神と被創造物である人間の内的な繋がりを仮定し、強い愛の力によって両者の隔たりを消滅させ、精神的合一を目指すというものである。

スーフィーの修行は階梯にたとえられ、神の与えてくれる心的状態(アフワール)を経験するとひとつ上の段階に移行できる。すべての階梯を登り切ると忘我の境地に至り、霊知(マアリファ)と真理(ハキーカ)と呼ばれる高い意識を永続的に得られると考えられた。

スーフィズムでは禁欲的で厳しい修行を行う。 修行法は様々だが、もっとも重要な行はズィクルと呼ばれる祈祷句を読み上げる儀礼である[2]。神に思念を集中し一心不乱に連祷することでファナー(消滅・消融)と呼ばれるトランス状態に入り神秘体験をする。

ファナーに入るために音楽や踊りも盛んに用いられた。たとえば、白い布状の服を身につけて一心不乱に回る、回旋舞踊(セマー)と呼ばれるものを行い、神との一体化を求めた。スーフィーは導師の指導の下、決められた修行(マカーマート)を段階的にこなし、準備を進める。最終段階では、雑念を捨て去り一心に神の事をのみ考え、神と合一したという悟りが訪れるのを待つ。この境地に至った者は、時として聖者に認められ、崇拝の対象となった。
ルーミーによる著作は『精神的マスナヴィー』、『シャムセ・タブリーズ』、『ルーミー語録』などがあり、とくにルーミーが14年の歳月を費やし著した『精神的マスナヴィー』は全6巻で2万5000句から構成され「ペルシア語のコーラン」と呼ばれている。

メヴレヴィー教団

13世紀に小アジアに興った神秘主義教団。旋回する舞踏を行いながらアッラーとの一体化を求める。
 イスラーム教が西アジア及びその周辺に定着、拡張していく上で大きな意味のあった神秘主義(スーフィズム)をかかげた神秘主義教団(ターリカ)の一つ。13世紀に小アジア(アナトリア)のコンヤでスーフィーの聖者と仰がれたルーミーを中心に組織された。今もコンヤのルーミーの墓廟は、その聖地として巡礼者が多く、また旋回する舞踏によって神との一体感を得るという独特の信仰が守られている。メヴレヴィー(メウレヴィー、メフレヴィーとも表記する)とは、「我らが導師」を意味するマウラーナーというルーミーに対する尊称に由来する。メヴレヴィー教団はオスマン帝国時代にはムラト2世のころから歴代のスルタンの保護を受け、有力な教団として発展した。

聖者ルーミー
 その創始者ジェラレッディン=ルーミー(1207~1273)は、イスラーム神学者の子として現在のアフガニスタンのバルフにまれ、放浪の末、1229年ごろアナトリアのコンヤに定住した。コンヤはルーム=セルジューク朝の都だったので、彼はルーミーと号した。シリアに留学してイスラーム神学を研究していたが、1244年に放浪の托鉢僧シャムス=アッディーン=タブリージーと合い、その生き方に神の愛の完全な像を見いだして、それまでの生活を一変させ、神秘主義のスーフィーとして修行に転じた。神の愛を歌い上げるたくさんの詩を作り、また踊りながら陶酔の境地となって神との一体感を得ようとした。その詩はマスナビーと呼ばれて2万6千句に及び、ペルシア語で書かれ、散文の『ルーミー語録』とともに神秘主義の文化の最高水準とされている。その墓地は現在もコンヤに残されており、信仰を集めている。

Episode 踊る宗教
 メヴレヴィー教団の教義はキリスト教やプラトンの思想も包摂する寛容さにあり、社会の上層部から民衆にまで受けいれられる要素があったが、最大の特色は「音楽に合わせて集団で旋回する」(サマーともいわれる)という舞踏を行うことである。ヨーロッパでは彼らは「踊るデルウィーシュ」Dancing Derwishes と呼ばれた。1925年には他の神秘主義教団と共にその修道場は閉鎖されたが、社会の各層にはなお根強い支持者がいる。<平凡社『イスラム事典』1982 p.378>
 現在、トルコ有数の観光地となっているコンヤでは、メヴレディー教団で行われていた修道者の舞踏が観光用のショーとして行われ、今も白い肖像をまとった踊り手が集団でクルクル旋回する舞踏を見せてくれているという。

参考文献
『コーラン』I, II 訳:藤本 勝次, 伴 康哉, 池田 修
中公クラシックス

『世界文学大系68:アラビア・ペルシア集 精神的マスナヴィー』 訳:蒲生 礼一
筑摩書房

levha.net
13世紀の宗教者/文学者ルーミーの作品読み下しを中心にその周辺から果ては身辺雑記まで。
http://levha.net/

『ルーミー詩撰』はてな館
http://d.hatena.ne.jp/kyoko_nishida/

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 8月4日
ねここねこさんの仏教の記事読んだ。 日蓮宗の箇所なんだが…… アレは元々は天台宗原理主義。 だから天台智顗の教えを知ってないと よく分からない。 法華玄義、法華文句、摩訶止観を読破 してほしいw 天台宗はガチ高度だから、パリサイ派の 悪口集であるキリスト教は足元にも 及ばない

仏教哲学の高度さは、一般人には 掴みにくいと思う。 西洋哲学でも「心の哲学」という 20世紀以降の哲学でようやく 同レベル。(サールとかデネットね) アウグスティヌスやアクィナスと 同じ水準だと考えたらいかんよ?

まぁ、それはさておき、 天台宗で重要なのは「悪は何処から来るか?」 という問題。 この時代の仏教ってのは黎明期の 仏教と違って、この世界は仏が 創造したみたいな教え
になってる。 すると善の存在である仏が何故悪を 創ったのかという疑問が当然起こる。

元々の仏教は創造神がいないので こういう疑問は起こり得なかった。 まぁ、天台智顗は初期仏教の 阿含経(いわゆる今日で言う原始仏教) を低脳と一蹴してたので、創造神の いる法華経をベースに教義を 組み立てているから、当然この 難問にぶつかる。

そこで出たのが「天台性悪説」。 続きは添付論文読んどいて。 http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/36075/1/rel027010.pdf …

カルトでも何でもいいけど、 これぐらいは知識としてあった方がいい。

天台性悪説の考察――仏教における悪の問題――
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/36075/1/rel027010.pdf
悪を「欠如」とする考え方がキリスト教の伝統のなかにある。つまり存在するものは善なのだが,完全に善なる
存在である神にとっては,神以外の存在は不完全なものであり,善が欠如していることになる。そして,世界が全体として完全であるためには,あらゆる段階の不完全さをも含んでいなければならない。このようにして,神の絶対性から悪の存在が説明されたのである。仏教では悪について全く違う考え方をする。さしあたり私は仏教を,あらゆる種類の還元論を
否定するものと大まかに捉えておきたい。ここでいう還元論とは,唯一絶対の存在を想定し,一切の事物をそのような根源に由来するものとして説明しようとする思想の傾向を指している。それに対し,仏教がまず関係性から出発し,あらゆるものの相互依存を「縁起」として説くとするなら,その縁起の網の目から超越する存在などありえないことになる

(…)
天台性悪説とは,狭義には智顗(538-597)の『観音玄義』において説かれた思想であり,その主張の要点は,如来が行為としての悪(修悪)は断じていても,本性としての悪(性悪)は持っているというものである。ひいては,悪は世界の本質(理毒)であり,何か否定されるべきものとして存在するのではないということになる。この性悪説は他の思想的伝統と天台を区別する特徴的な主張であるとされ,中国と日本の天台教学においては一貫して正統なものとみなされてきた。この教説は思想史的にみても非常に興味深い問題を提起しているし,仏教の思想的背景から出てくる独特の倫理と実践を端的に表わしているものとみることもできる。性悪説への導入もかねて,悪についてもう少し一般的な議論を考察の出発点としたい。M. ヴェーバーは,宗教に課された世界の不完全さという問題を,神義論(Theodizee)として一般化した「諸宗教の重要な特性はまさしくこうした要求によって形づくられた。」(ヴェーバー:49)
このような前提から,ヴェーバーは世界宗教における神議論の三つの類型を示した。
1 予定説(キリスト教,イスラム教)
二元論(ゾロアスター教,グノーシス)
3 業・輪廻の思想(仏教,ヒンドゥー教)
予定説においては,全知全能の神が限りなく世界から超越しているが故に,その被造物の世界における善悪のような尺度を神に適用することはできない。人間の運命は神によって決定されており,それは神の御意として人間的に測り知ることはできないものである。また,二元論は世界を神と悪魔,善と悪などに表わされる二つの原理の混濁と戦いの場所として説明する。最後の業の教説とは,輪廻の信仰に基づき,この世における苦難や幸福は過去の行為の結果であると説明する。そして罪業や功徳は来世において必ず報いを受けるとされる。ヴェーバーの関心は宗教と合理主義の関係にあったわけだが,ここでは次の指摘の重要性を確認しておくだけにしたい。 それは, 悪の問題は単に苦難の説明や正当化という問題にとどまらず救済を求める実践と直に結びついているということである。つまりそれは,さまざまな救済の前提あるいは方法として,日常の実践や倫理に重大な影響を及ぼすということである。また「性悪」という言葉は中国の儒教思想における性善・性悪の議論と混同されてしまう恐れがあるかもしれない。通常,孟子が本来人間は善である(性善説)と主張したのに対し,荀子は逆に人間の本性は悪だと(性悪説)反論したとされる。しかし二つの説はこのように単純に対置できるものではない。孟子は善へ向かう傾向が人間に本来的なものだとしたのに対し,荀子は人間の性向の後天的な要素を重視した。だから荀子は性(本質)を「礼」によって変化させることを重視する。つまり性を何か絶対善のような本質的な存在として前提とするか,しないかの議論だとみることもできる。いずれにせよ,ここで重要な点は,儒教的な意味での「性(せい)」はあくまで人間の生得的な本質 心理的傾向と捉えられているのに対し, 仏教でいう「性(svabhāva)(しょう)」とは人間に限らず存在する全ての事物(諸法)に適用される言葉であるということである。したがって仏教の文脈で「性」は悪であるといった場合, それは単なる人間社会の問題にとどまらず, そのまま宇宙観・世界観の問題となることに注意しておきたい。
(…)
闡提とは一闡提(いっせんだい)(icchantika)の略であり,断善根とも訳される。それは悟り・成仏の可能性をもたない者のことをいう。この一闡提の存在をどう考えるかは大乗仏教の伝統においても大きな問題とされ, 『涅槃教』においては全てのものが仏性を持つ(悉有仏性)(しつうぶつしよう)という立場から一闡提の成仏も説かれた。この『観音玄義』の場合,如来と一闡提を対比的に捉えつつも,決定的な断絶というものを両者の間に想定しない 如来は実際の行為としての悪 修悪 は断じているが本質・可能性としての悪(性悪)は具えているという。逆に,一闡提は行為としての善(修善)はないが,本質・可能性としての善(性善)を具えているのである。もし悪を完全に断ち切っていたら,如来は煩悩の世界から切り離され,そこにおいて活動できなくなってしまうだろう。悪を断じていないからこそ 如来は衆生の世界において自在に衆生を救うことができるのである(2)。
その逆もまた言えるだろう。つまり,性善というものが,一闡提に限らず凡夫の成仏の根拠となる
のである。
(…)
四明知礼は, 「即」のさまざまな解釈を示しつつ,天台の立場を明らかにしようとしている。それぞれ異なるものとしての善と悪が合一している(二物相合)のではなく,同一のものの表裏一体の関係において善と悪がある(背面相翻)というのでもない。天台の当体全是とは,悪を切り離したり善に還元することを説くのではなく,善は善,悪は悪としてそのままで即同一であるというのである。
(…)
このようにして中国で確立された天台教学は,日本においては,いわゆる本覚思想 と呼ばれるものを生み出していくのである。本覚思想においては, 「善悪本より自仏なるが故に,迷ひの時も悟りの時も全く欠くることなし。己心所具の法なり。常住にして改めず。」(『三十四箇事書』, 日本思想大系9,169)というように,善と悪の対立関係すらなくなり,悪は悪としてそのまま肯定される,という方向に思想が展開していくことになる
(…)
いわゆる天台教学というものの根幹をなすものが『法華文句』, 『法華玄義, 『摩訶止観』の『天台三大部(5)』といわれるものである。そこで示された智顗の思想において基本となっているのが心を観察すること(観心)である。その際,観の対象(境)とされる心が実は世界そのもの(法)であると観ずることが重要なわけであるが,その心=法のあり方が十界として表される。
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の世界が分けられ,それぞれの世界が分割されつつ,互いを分有しているという世界観が智顗の思想の根幹にある。悟りの世界も迷いの世界も孤立しておらず,相互に関連して成り立っているのであり,つまり心は地獄から仏,悪から善へと様々に転化しうる可能性があるとされる。このような心の捉え方は一闡提の成仏の可能性を「性善」とし,如来の救済の能力を「性悪」とした性悪説の理論的な背景
となるものといえる。
このような天台教学の体系において悪とはいかなる意味を持つものであるのか。仏教でいう悪とはすなわち煩悩のことである(6)。天台では煩悩に三種を数える。見思(けんじ),塵沙(じんじや),無明の三惑である。
まず見思の惑とは見惑と思惑の二つの惑のことである。見惑とは物の道理に迷う知的方面の煩悩のことをいう。すなわち空の道理を知らずに事物には実体があると誤認することで生じる諸々の見解である。思惑とは物事に執着して喜怒哀楽する人間の感情的・身体的方面の煩悩をいう。
次に塵沙の惑とは,菩薩化導障ともいい,菩薩だけがもつ煩悩とされる。誤った社会的知識により,人びとを救済できないことである。最後に無明の惑とは根源的な無知のことで,分別された世界を生み出す煩悩である。
この三惑を観心の実践によって克服していくのが,天台の基本的な主張だといえる。しかし,智顗は単純にこのような悪を消滅させてしまえばよいと考えていたわけではない


凡夫の心の一念に即ち十界を具し 悉く悪業の性相あり ただ悪の性相は即ち善の性相なり
悪によって善あり。悪を離れて善なし。(『法華玄義』,大正33,743c)

このように 善と悪は相対性かつ相互依存的なものだと説かれている 見惑(空を見ないこと)と思惑(貪怒痴)によって実体化(有見)が生じ,その有見が善悪の違いを生むのだから,要するに善と悪は有見(一切法,つまり存在するものを有とみてとらわれるありかた)に由来することでは同じである。悪とは端的にいって, 「心=一切法のありかたを有とみるところに成立するいわば認識論的態度」(新田1975:145)だといえるだろう。

大乗にも亦心は一切法を生ずと明かすは 十界を謂うなり 若し心は是れ有なりと観ずれば
善あり,悪あり。...皆是れ中道実相の法にして畢竟清浄なり。誰かは善,誰かは悪...此十法
の邐迤浅深は皆心より出づ。(『摩訶止観』,大正46,52bc)

「煩悩即菩提」とか「生死即涅槃」といった言葉は智顗の著作のいたるところに見出すことができる。それと同じ事態が「十界互具」という言葉で表されているとしたら,観心の対象とされる諸法の実相も,善と悪をともに含んだものでなければならないはずである

凡夫の一念に皆な十界の識名色等の苦道の性相有り...苦道を離れて別に法身有らず
(『法華玄義』,大正33,744a)

このような主張は性悪説と変わるところはない。それはもちろん,悪の正当化ではない。
「汝今云何ぞ善を呵して悪に就かん。」(『摩訶止観』,大正46,19a)。
悪がそのものとして正当化されるというのは,空へ執着(悪取空)しているものの言葉である

大乗の観心は,悪心を観ずるに悪心にあらず。また悪に即して,しかも善なり。また即ち悪にあらず,善にあらず。善心を観ずるに善心にあらず。また善に即して,しかも悪なり。また善にあらず,悪にあらず。一心を観ずるに即ち三心あり
(『法華玄義』,大正33,778c)

天台教学において悪とは,善と同じ根源をもつものであり,つまり善と悪はともに諸法としてそのまま真理(実相)なのである

4 縁起的世界としての諸法実相
ここで,天台思想の核心を表わす言葉である諸法実相(しよほうじつそう)ということが問題となってくる。現象世界(諸法)がそのままで実相(真実のあり方)なのだ,という考え自体は龍樹にさかのぼることができる。中村元によれば,中論において縁起, 「『縁って生ずること』がそのまま諸法実相として捉えられ」(中村2002:283)ている。このように,諸法と実相との二項対立を立てないことが仏教,特に大乗仏教の根幹をなす考えであったとするなら, 『法華玄義』の解釈は法華経の教説を単に正確に注釈するというよりも,むしろその思想的本質を継承し,解釈しなおしたものといってよいだろう。
(…)
縁起は法の本来的なあり方であり,生滅変化してやまない世間の相も,縁起である限りそのままで法の住,法の位,即ち常住であるということである。つまり世間,これは現実の煩悩の世界といってよいと思うが,それが悟りの世界と同じものだと解釈することができる。「法」と「世間」は究極的には同一の真理をあらわすものである。
(…)
真理と現実の断絶を認めるものではないのである。
世界と断絶していたり,すべてがそこに還元されてしまうような超越的存在のようなものはその前提からしてありえない。それは, 「如来・仏」であろうが「心」であろうが例外ではない
。このような思想が実践的に展開したのが性悪説であるとみることができる。
(…)
天台の説く如来とは,世界から超越しない如来なのである。つまり,如来といっても単に悪を断ち切って別の世界に行ってしまった存在とは全く異なる 「悟り」というものも世界から隔絶された何か別の存在に変身することではない
(…)
また重要なのは,天台教学で心が法であるといわれるとき,法と心のどちらかに一方が還元される,という意味ではないということである。それは「心法を仏法や衆生法の根本とするが如き唯心論的思想とは趣を異にしている。」(安藤1968:138)。
(…)
一心が一切法を生じるという説,心とは別に存在している一切法を一心が認識するという説,また心に一切法が還元されるとする説,このような考えがすべて否定されている。心と一切法は時間的,あるいは空間的に関わるのではない
(…)
ここまで考察してきた天台性悪説の思想構造と特徴をまとめてみれば,すべてが相互依存において成り立つという縁起論的世界観の徹底と,実践的問題意識の追求の二つだといえるだろう。
否定的なものが同一性に回収されない世界を性悪説は説いているといえる。天台の説く世界には中心が無いのである。
性悪説において最も特徴的なのは,救済と修行の基盤・根拠として超越的なものを想定しないということである。超越や還元という考え方こそ,天台思想が批判するものであった。このような観点から性悪説を捉えなおしてみれば,どうなるだろうか。
天台性悪説へ向けられた批判の一つは,その倫理性であった。もちろん悪の正当化であるという理解は誤解である。性悪説は縁起論の正統な理解に基づき,悟りと救済の根拠として説かれた
のである。
(…)
性悪説は一闡提の成仏と如来の救済の根拠として説かれた教説であった。その主張によれば,如来といえども縁起の世界から超越した存在ではない。悪を完全に断じた仏・如来という想定は縁起によって成り立つ世界を否定してしまうからである。如来/一闡提という実体が本性として善/悪を持つと理解すると誤解が生じる。いずれも縁起的存在として理解すべきである。そしてこのような性悪説の主張は,決して異端的なものではなく,天台教学,そして仏教の思想の中で正当化できることを示してきた。性悪説は現世の単純な肯定でも拒否でもなく,超越者や絶対の真理というものの実体化を徹底して避ける縁起思想が実践論となったときに行きつく必然的な帰結なのである。
(…)
田辺は天台教学の用語を借用しつつ, 「区別はありながら,互いに融通し合って相互にもちつもたれつ,相即不離の関係をたもち,動的統一を形造るというのが,空仮中の三諦が円融しておるということなのです。」(田辺2003:70)ということを重視する。このような議論は天台と華厳の論争を想起させる。性悪説とは, 「翻善之悪は理に違し物を損す。不善の相は麁にして上位に通ぜず。」(『探玄記』,大正35,319b)というような華厳がたてる理(真如)の基体的性格(7)に対して唱えられたものであった。田辺は,あらゆるものが善なる一者において階層的に発出し,還元されるプロティノス的な基体論,流出論を批判したのである。(…)
如来が悪でなければならないのは,悪が如来そのものだからなのである。このような意味で,性悪説は超越者のいない倫理である。

(…)
超越者のアプリオリな前提が,他者への暴力やニヒリズムというように袋小路に陥ることは歴史が示してきた。今村仁司は,仏教に別の道を探ろうとしている。

超越存在を否定しても,あるいは超越的な神を除去しても,広義の「宗教的態度」が可能であり,また人倫的行為(仏教でいう慈悲行)が完全に可能であり,その可能性が現実的になるということこそ,仏教が教えるもっとも重要な事実であり,またそこに仏教の最大の特徴があり,人類思想史上卓越した意味がある。(今村2004:456)
(…)
仏教の「自他不二」という対場が決してニヒリズムに陥らず,逆に実践の原理となることを示した歴史的な例もある。寂天(じやくてん)の『菩提行経』は,中観派の立場から他者に対する奉仕の実践を説いている興味深い書物である。
まず仏教というものは知っているだけでは何の意味もなく,実践として具現化されなければ何の意味もないとされる。「口に誦するも身に行わざらば,当に何に喩うる所を得べき。譬えば重病人に空しく薬の力を談ずるが如し。」(大正32,547b)。仏教の実践とは苦しみを避けることであった。「如来及び法とは,有情と平等なり。」(大正32,550a)。このように「自他不二」を観ずれば,自分の苦しみと他人の苦しみは別のものではない 「彼が苦怖より脱せずんば,自らに於て当に何にか勝るべき。」(大正32,554c)。つまり自他が不二であることに,他人の苦しみを救う理由があるのである。「自らの苦を消除せずして,他の苦を消除せんと欲す。」(大正32,554c)。
苦しむことが,苦からの脱却を目指す実践となる。性悪説の意味するところは,この逆説なのである。
「十界互具」というものも,本当は悪人も仏なのだというように還元主義的に誤解してはならないだろう。逆にいえば,仏も本当は悪なのである。このことが示すのは, (十界の)ある状態を特権化してそこに安住してはならないということである それ自身であり続けるものなどない。
全ては変わらずにはいないのだし,分節化された世界に住む以上,行為の網の目から超越(善悪の彼岸)することはできない。これは,各々の存在の状態はつねに流動的な円環のなかにあるということに他ならない。悟りに至った如来としてのあり方も一つの始まりにすぎない。地獄を含むどの世界も一つのあり方であると同時に新しい局面の始まる出発点を示している。このような意味で,われわれは仏の影響の外に出ることはできないともいえよう

(…)
仏教の考える悪の消滅とは,悪という実体が消え去ることではなく,悪を悪たらしめていた条件が解体することであろう。仏・如来というのも超越的な存在ではなく,縁起している世界そのものである。このことの自覚が涅槃である。そこでは,善悪や真偽のような二項対立自体が消え去っているはずである。つまり,涅槃によってこの世界が否定されるのではないということである。何かが否定されたり排除されるのではない。差異は差異としてそのまま法なのである。これこそ,十界互具という言葉で言い表された事態でもある。
このように徹底した縁起論的前提に立てば,実体化された善や悪や絶対神といったものに安住することは決してできないし,安易な現実肯定に陥ることもないだろう。悪はなぜ存在するか,という冒頭の問いに戻るなら,性悪説の立場からはこう答えられるだろう。悪も善(如来)もそのものとしての実体はなく,超越的な存在ではない。両者は救おうとする働きと救われる対象が生み出される働きとして,同一のものなのである。そしてここに, 「救済」と「修行」という実践の根拠を見出すことができるのである。
(…)
仏に性悪があることによって,極悪人が悪をなし,罪を犯すにいたった心情を理解することができ,ひいては救済の能力も出てくるのであり,善のみで悪を知らなければ,悪人を救済することができず,したがって仏の資格にふさわしいものではない。
(…)
悪をめぐる議論は天台だけでなく,仏教全体に関わる問題である。善悪の問題については原始仏教の時代から論じられてきた。仏教にとって悪をなさない,といわれることの根拠は外面的に表れた行為そのものではなく,欲望にある。これが典型的な仏教の考え方だといえるだろう。だから単純に悪がなくなり善だけが残ればよい,というのではない。悪というのは善と同様,欲望がとる一つの形態に過ぎない。逆に,行為をいくら外面的に規制したところで欲望が変わらなければ無意味となる 目指されるべきは欲望のコントロールである 原始仏教では この解脱の道としての善(kusala)と世俗的な意味での対概念である善(puñña)と悪(pāpa)は実は明確に区別されている。”

過去の最低帝国  ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドの創世神話全文公開
”ウパニシャッドというのは古代インドの哲学書。
「奥義の書」とも呼ばれ、基本はヴェーダの解説書でもあります。
言葉的には”近くに座る”という意味が一般的で師匠の側に座って
秘儀を授かるという意味。

そんなウパニシャッド、日本では複数の訳本がある。
高いのと安いのがある。

高いやつは2万5千円以上するので、一般的に入手しやすい
のは文庫系の安いやつだと思います。

「ところが安い文庫はウパニシャッドが全巻載っていない」

またブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドが抜けている場合が多い。
このウパニシャッド、有名人の大哲人ヤージュニャヴァルキヤさんが
活躍するウパニシャッドなのに......
ヤージュニャヴァルキヤは心の哲学とか勉強されている方には
なじみ深い人物だと思います。

皆さんも漫画やアニメで聞いた事がある、「ブラフマン/アートマン」
哲学の大元の人です。

そんな有名なウパニシャッドなのに何故か文庫版では
ことごとく省かれている。
実はブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドにはもう一つ
重要な説話があって、

「それが創造神話である」

インドってのは創造神話のパターンがいくつもあって
中国、北欧神話の様に巨人を切り裂いて天地を作った話や
道教の様に何もない無極から世界が生まれた、世界卵から
生まれた等、世界中の創造神話が集まっているのではないか
ぐらい豊富なのです。
ですから、武術の様にこの創造神話ってのはむしろインドから
世界に広がっていったのではないかとフェイド大帝は考えています。
(実際インド/アーリア人ってのはブリテン島にまで上陸している)

でブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドの創造神話の何が
問題かというと、

「神の正体が何なのかはっきり書いてある」

実はユダヤ教やキリスト教、イスラーム教ってのは
唯一神が何なのか一切教えないんですね。
多分、神様の権威を守るためにわざと教えてないんだと
思いますが。
ただそれがブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドには
はっきり書かれてある。
だから、インド/イラン系宗教に洗脳されやすい日本の出版界ってのは
ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドを闇に葬りたいのだと思います。

そこで、今回はネットにこのブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドの
創造神話を全文載せます。
はっきり言って、この神話を日本国民の目から隠し続けるのは
もはや犯罪レベルと言っても差し支えないぐらいですから。

訳の元本は湯田豊訳版を使います。

以下、本文:
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

初めに、ここには全く何もなかった。まさに死によって、
これは覆われていた、飢えによって。
なぜなら死は飢えだからである。
「私は体を具えるようになろう」と、死は決心した。
そこで死は讃歌を歌いながら行った。
それが讃歌を歌っていたときに、水が生じた。
「まことに私が讃歌を歌っていた時に、私のために水が
 生じた」と。
まさにこれが讃歌の讃歌たる所以である。
このように、この讃歌の讃歌たる所以を知っている人、
その人にはまことに、水が生じる。

讃歌は、まことに、水であった。
そこで水の泡であったもの、それは凝固して大地になった。
死はその上で苦労した。それが労苦によって疲れ、熟した時に、
それの熱=精髄は火になった。

それは自己自身を三重に分けた。
三分の一を太陽に、三分の一を風に。
これが三重に分けられた息である。それの頭は東の方角である。
そして、両腕は南東と北東である。それから、それの尾は
西の方角である。そして、それの両腿は、南西と北西である。
そして、脇腹は南と北である。そして、背は天である。
腹は大気である。胸は大地である。これは水において
確立されている。このように知っている人は、どこへ行こうと、
それが行く所で確立されている。

死は欲した。
「私に第2の自己が生まれる様に!」と。
飢えである死は、その思考によって言葉と性交した。
それの精液であったものは年になった。それよりも以前に
年は存在しなかった。これだけの時間、すなわち、一年だけ
死はそれを保持した。
これだけの時間が過ぎた後で、死はそれを流出した。
それが生まれるや否や、死はそれを呑み込もうとして
口を開けた。
それは”ブハーン”と叫んだ。まさにそれが言語になった。

死は熟慮した。
「まことに、もしも私がこれを殺害するとすれば、私は
 食物をより少なくするであろう」と。
その言葉およびその身体によって、それはおよそここに
存在する全ての物ーリグ・ヴェーダ讃歌、ヤジュル・ヴェーダ
の祭詞、サーマ・ヴェーダのウドギータ、韻律、祭祀、人間
および家畜ーを流出した。
自分が流出したものが何であろうと、死はまさにそれを
喰い始めた。まことにそれは全てを食う(アド)ゆえに
それはアディティと呼ばれる所以である。
このように、このアディティのアディティたる所以を
知っている人は、この一切を喰う人になるのであり、一切は
その人の食物になる。


死は欲した。
「より大きな祭祀によって、私は更に供物を捧げよう!」と。
それは労苦によって疲れ、激しく熱した。それが労苦によって
疲れ、熱した時に、それの栄光=力は立ち去った。
諸生気はまことに栄光=力である。諸生気が立ち去った時に
それの身体が膨らみ始めた。しかし、まさにそれの身体には
思考が存在していた。

死は欲した。
「私のこの身体(死体)は祭祀に適したものになるように!
 この身体によって私は自己を具えるように!」と。
それからその身体は馬になった。それは膨らんだので、
馬祀祭に適したものになった。まさに、それが馬祀祭の
馬祀祭と呼ばれる所以である。
このように馬祀祭を知っているこの人、彼はまことに
馬祀祭を知っている。

とにかく馬を囲い込むことなく、死は、馬を囲い込もうと
考えた。一年後にそれは自己自身のためにそれを屠殺した。
それ以外の家畜を、それは神々に引き渡した。それゆえに
人々はプラジャーパティに属する馬を一切の神々に捧げられた
ものとして屠殺する。

ここで燃えている太陽はまことに馬祀祭である。
年はそれの身体である。この火はアルカである。
これらの世界は、それのもろもろの身体である。
それらの二つは、アルカ(祭火)および馬祀祭りである。
更に、それらはただ一つの神格、まさに死である。
このように知っている人は再死を避ける。
この人に死は到達しない。死は彼の自己になり、
これらの神格の一つになる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

太字にした所に注目して欲しい。
貪り食う死は”アディティ”である
と説かれている。

「アディティとは大女神ディヴのインド版である」

つまり、東條ミトラ教の最高神の正体は死である!

そしてもしアルティメット・まどかのモデルが大女神ディヴで
あるとすると......考えただけでも恐ろしい!

「オタクが”まどか、まどか”と騒いでいる場合じゃない」
「お前ら喰われるぞ、まどかに」

日本のアニメ/コミック業界が広めようとしている
女神信仰、これの正体のおぞましさが理解できましたかな?


はじめましてムックと言います。
今このアニメコミック陰謀論を読んだのですがこれまた興味深いですね。
ミトラ教というのはよくわからんのですがかなり危険な宗教なのですか?
まあ軽くここを読んだ感じですとオカルティックな話だなあと思うのですが
この人達の目的というのが今ひとつわからんのです。
仮にアニメコミックを通してこの宗教の教えを広めたとして具体的に何に
なるのかなあって………

大女神ディヴ=死と解釈するなら人類皆死ぬってことですかね?
私はまどマギはよく知らんのですが制作チームにオカルト信仰者がいて
作品内にその要素を散りばめた所で視聴者にそこまで影響を与えるとは思えないのですが………

仮にこれで洗脳されたとしてもその洗脳力は弱そうですし本気でやるならもっと効率的なやり方があると思います。
結局作品内にオカルト要素を入れてるのは製作者の自己満足であり我々が懸念剃る必要などないでしょう。

ただこういう見方自体は面白いと思います。
私自身陰謀論は嫌いではありませんよ。
[ 2013/07/28 06:12 ] ムック [ 編集 ]
Re: タイトルなし
ムックさん初めまして。
コメント有り難う御座います。

”陰謀論”という書き方をしてしまいましたが、
アニメやマンガに於いてオカルト的な情報や図柄を
入れるのは実際には験担ぎみたいなものだと思います。

フリー・メイソンのシンボル群というのは元々西洋魔術
が起源でして、神社のお守りの護符とかと似た様な物です。
一番最初にアニメ業界やマンガ業界でこういったシンボルを
導入したのが誰かは分かりませんが(多分ディズニーだと思います)
フリー・メイソンのシンボルを入れる事によって作品がよく
売れるかもしれないというような業界慣習があるのではないかな、と
思っています。音楽業界も同じだと思います。

特にこれで誰かを”洗脳”しようだとか、世界を支配してやろう
というような深い意味では使っていないと思います。

まどマギに関しては元々の題材が”魔法”少女物なので
”魔法”の世界観を演出するために美術監督辺りが
フリー・メイソン等の西洋魔術のデザインを
参考にしただけの様な気もします。

ただ、傾向的にこういったデザインを活用する
クリエイターさんが多い様な気はします。
まぁ、日本は信仰の自由が保証されている近代国家
ですから、中には”ガチ”でこういうオカルト思想に
ハマっている人が制作者の中にいたとしても不思議では
ありませんが。
[ 2013/07/28 14:33 ] フェイド大帝 [ 編集 ]
返信ありがとうございます。

験担ぎですか……確かにそういうものにハマっていれば十分ありそうですね。

>特にこれで誰かを”洗脳”しようだとか、世界を支配してやろう
>というような深い意味では使っていないと思います。

まあ実際こんなこと考えてるならもっと効率的な方法がありますからね。
視聴者の限られる深夜アニメで洗脳するったって費用対効果が悪すぎるでしょう。

>フリー・メイソン等の西洋魔術のデザインを
>参考にしただけの様な気もします。

陰謀論やオカルト好きのスタッフが面白半分にこういうネタをいれたらネットでメーソン作品だなんだと騒がれてしまったなんて例もありそうですね。

メーソン作品と言えば以前テレビ東京でエヴァとメーソンのつながりを指摘する番組があったようですがこれって実は日テレにエヴァを奪われたテレ東によるちょっとした嫌がらせとかだったんじゃないでしょうか?

まあ元々エヴァはこういうオカルトアニメの筆頭みたいな感じですが………


>まぁ、日本は信仰の自由が保証されている近代国家
>ですから、中には”ガチ”でこういうオカルト思想に
>ハマっている人が制作者の中にいたとしても不思議では
>ありませんが。

まあ製作者が何教徒であろうと人様に迷惑をかけたりしなければ問題はないと思いますが最近のアニメって昔に比べて随分あからさまにこういうのを全面に出しますよね。昔は出したとしてももう少し薄っすらとしていたように感じますが…………

これはどういうことなんでしょうか?
制作チームにおけるオカルト信仰者が昔より増えたとかそんな感じですかね。
それともお上のご命令?
[ 2013/07/28 18:55 ] ムック [ 編集 ] ”




[ゆっくり朗読] 付喪神絵巻(崇福寺本)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm30556752

付喪神絵巻でわかるように、
付喪神は神道的アニミズムではなく、
真言宗の説く「草木非情 発心修行 成仏」(命あるものが発心修行して成仏できるのであれば、どうして山河草木瓦石瓶盆など命のない物にそれができないといえるだろうか)、
すなわち非情成仏
=草木や国土など情 (こころ) のないものでも仏になれる。
アニミズムと混ざっていてもはや不可分。
霊とか魂≒仏性。
『大般涅槃経』では、仏性を衆生(人間)に限らず、山川草木や生類すべてに仏性があるとする、
「草木国土は悉く皆成仏す」
一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)が説かれた。非常に神道的アニミズムと相性が良い。

[ゆっくり朗読] 付喪神絵巻(国会図書館本系統)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm29742951

[ゆっくり妖怪雑話] 付喪神入門
http://www.nicovideo.jp/watch/sm30058634

[ゆっくり妖怪雑話] 付喪神絵巻考
http://www.nicovideo.jp/watch/sm30264011


おねショタ魔法使い初級おじさん ‏@douteimaturi 2月11日
けものフレンズは無為自然
荘子の無用の用等がけものフレンズの正体なので荘子と老子の説く、小国寡民があの世界
けものフレンズをシーア派的に見ようか? カバンちゃんの正体はعقلアグル、知識及び技術というものは悪意や個人利益等による汚染がない限りは如何なる存在、如何なる状況でも必ず良い結果がやってきて、それは来訪神のように通り過ぎて行くの 知識や技術は必要な時に必要として用いられるのでね
あの世界は無知なのではなく、無用の用と用とする時に用を用いる世界で完知された世界なの
だから、そういう世界では無駄に意味を作り出す言葉は存在する必要がないの 言葉が最低限の世界は象徴も最低限にしか存在しない、それは認識や必要が完全に共有されているから象徴で誤魔化さないの
そして、純然に技術と知識を用いる事が出来るのは困ったことはあっても「不足しているものがない」から
不足しているのものというのは物質的な物から、抽象的なモノまで不足していない世界であり、
不足していないからで不足していないが故に様々な存在がその特性を使い切れる世界なのである
知識が不足すると無知と有知で別れる
物が不足すると過剰と不足で必要と不要で別れる
能力が不足すると無能と有能で別れる
心情が不足すると妬みや嫉妬、傲慢と軽蔑で別れる
シーア派的にはعدلアドル公正・公平が完成された世界であり、このけものフレンズは絶対公平世界と断言でき
ディストピアとか、ユートピアというアホで抽象的な下らない・ゴミ・核廃棄物以下の物ではなく 公正が完成された世界であり、象徴的な思考をする必要のない「用が完結した世界」なのであって、それは荘子が説く世界であり シーア派的にはアッラーの公正で満たされた世界となる

おねショタ魔法使い初級おじさん ‏@douteimaturi 2017年2月13日
象徴があっても、思想があったとしても現代にも出てこないというのは再現性がないもの
再現性がないものは不要なものであるか、元々ないもの
元々ないものであるなら、それは復元のしようがないわけで
元々ないものを復元しよいなんて土台無理ってこと
厳しいけど、意味ある文化なんてそうないんだよ
これも勘違いしているけど、文化というのは根本的にその文化集団に属しているもの以外にとっては全く無意味なの
例えば、食文化なんかわかりやすいけど片方常に米を炊く文化があれば、パンを作る文化があり
米を炊く文化はどこでも米を炊こうとし、その逆もまた真であるのだよね
じゃあ、じゃがいもを茹でる文化の人達にとって米や麦というものは価値があるのだろうか?
食料以上の価値はなく、そこには文化的な意味を持っている物ではないということ
特性帯びるのは文化というか、生活によって発生しているわけで別に何か意味があって行っているものでは根本的にないという事
ここで分かるのは文明は文化の延長では全くないこと
文明はどこの土地だろうが、猫も杓子も関係なく共通した認識の中で共有しあえるものであって、それが文化と文明との大きな違い
で、文明というものには必ず普遍的で不変な知識と技術が存在するのそれを満たさないと文明ではないわけ
言うなれば、米というものを炊く・生産するという技術や知識というのは文明で
その米の食べ方や集団的意味を与えるのが文化と言っていい
んで、シーア派が言うتخت قدرت خدا 全ての力の土台はアッラーさんが用意されたもので文明というのはこの土台を意味するの、それは文化ではないの
なので、全ての種子を集めて保存するというのと全ての知識を集めて保存するというのは全く違うか、真逆な事をしているの
種子=文化
・知識=文明なので種子が幾らあろうとも文明の種にはならんし、
知識さえあれば場合によっては特定の文化を再度発見することができる
なので、文明=知識を集めるの
そんな事を言うと特有の文化が消えていくのはー、と言うのだろうけど
言語何かもそうだけど、何で言語が消えるのかはピジンができないからであり、結局はそれで商売できるのかという事でしかないの
そこから考えるように文化というものは「実用性」によって消える用な代物でしかないのよ
言い方を変えれば、日本のような高度に翻訳文化が発生した土地は様々な文明をつまみ食いした文化を作り出すのが容易いという事でもあるのね だから、文化が素晴らしいというよりも何時でも・如何様にも文明を自由に選択できるというのが強みなわけでそれは文明を盾に文化を守っているとも言える
なので、どっかの文明に被れる必要がないのだからさっさと様々な文明を総合研究して自家薬籠中みたいなものを作り出せばいいわけ
所謂、西洋文化も中華文明もインド文明もイスラーム文明もギリシャ文明も日本にはクソだってわかった・わかっているのなら勝手に作ればいいわけ、ちょー簡単でしょ
思想的に独立するというのはこういう事で思想が独立していれば、文化は不動なの
だから、文化が不動な人々は他の文明は利用しても文化は動かないわけだから、何処にいたって己の中にあるとらわれるべきものは不動なわけ
これが文化を守る魔法でこの魔法はオカルトではなく、反証・合理・論理なのさ
だから、儀式や物質では文化を守ることはできないし、それを守る事が文化を守る事ではないのよ
文化を守るというのはその社会の独立した行動様式を守る事であって、それを弄られると独立した動きができなくなり まるでおもちゃの様に操られては不要になれば捨てられるわけ、でそうなっているよね?
なので、博物学的な英国面・石屋面に堕ちたこと自体が悪の根源なわけ
でも、簡単にそれは捨てれるんだよ?
何でかというと、日本は大量に「自国の言葉と意味で解釈し」翻訳されている古典が腐るほどあるから
なので、困ったら古典を読めばいいし、簡単に帰られるわけこれってかなりの利点なんだよ
例えば、ウルドゥー語やパシュトゥーン語なんかはカントやデカルトですら碌に翻訳されていないし、全部英語となるわけ 但し、英語となるともちろん「英語風の解釈で汚染」されているわけでそこにはその言語独自の意味で解釈されていないわけ その時点でその文化はかなり弱いわけなのだよ
でも、パシュトゥーン人何かがそれでも独自の文化を守れているのはその文化が絶対であり・固定化された生活だからで不動な軸を持っている上に物理的に強い人達だからというのもあるわけ
文化を維持するというのは物理的強さと集団性が必要なのだけど、それは当然ファシズム如きの下らないものではない
そもそも、こういったものを現代の学術的方便で言い回す事が大間違いでファシズムや社会主義という単語以前に彼らはその様な生活をしてきたわけだから、そういった単語で表現する事が意味なく・大間違いなのね
なので、こういった単語はそういう風に見える程度の意味合い以上は持たないし、持てない
なので、そういう風に見える程度の意味合いしかない言葉をそうなければならないとか、それが彼等の固有の文化なんて誇大妄想に取り憑かれる事が迷妄そのものでしかないの
それって、最初商人が来て・やそ乞食が来て・最後に軍隊が来るの精神版なの
だから、左翼というのは文化侵略の手羽先なのよ
それで発生した右翼という発想も文化侵略の手羽先から守るという思想が発生した時点で二元論が発生し、文化探しを始めては物質や儀式としての文化を見つけては己の固有というのを見つけだそうと躍起になるわけ
で、記号化された固有というのは博物でしかないのよ、その時点で完全敗北なのよ
そう考えると西洋の豚共は邪悪で悪辣な流石邪教を捏造するその性癖には驚きを隠せない
イスラームではوطن バタンやأمة ウンマというのには二つ意味がある、
一つは己が属している母集団=故郷と
二つは必ず帰る元がある=イスラームがあり
形而上と形而下で両方の意味での母集団があると見る
なので、形而上での帰る元を想定しない限りは永続的な循環論が続くだけで意味がない
それで捏造したのがヤソ多神教なのだけど、これが大失敗
だって啓典もねえ、預言者がいねえ、思想もねえ、そんなゴミ以下のケツ拭く紙にもならないものを前提にしたので絶望な迄に大失敗したわけ
せめて、仏教か儒教を前提にした上で捏造すりゃ良かったのにただの少しは利口な革命戦士には脳内妄想を外部化するだけの能力がなかったんだろうし、あれってただの英国とフランスの代理戦争以外の意味がないからそこまで手が回らなかったのだろうね
なので、皇道立教会みたいなもん作ったのだけどね
なので、ぜーんーぶ物質で誤魔化したwww
ヤスクンニ神社や軍珍神社みたいな象徴もテンちゃんという物質もテンちゃんだけがする儀式も皇族という象徴もぜーんーぶ物質で物神をこねこねシコシコ作って誤魔化したわけ
で、右も左も物神に取り憑かれているでしょ?
なので、イスラームは全否定すんの
象徴が何故に絶対悪なのかというと、それ自体に全く全然意味がないのにそこに無益に意味を与えてしまうからなんだよ
但し、アッラーがそういう風に作ったのは知恵と知識というものの副産物であり、やっぱりそういう風に認識してしまうのだからそれを外部化するのはやめましょうというのよ
物事って、至極単純で明快で完結しているの もし、そうじゃないのならどっかが間違っているのではなく根本が間違っている事を疑ったほうが早い
確実に土台のどっかが大間違いだから、上に立ち上げているものがズレているわけ
なので、困ったら土台を調べる事 これ以外の方法はまずないです


〔 ピジン言語(Pidgin language、単にPidgin)とは、異言語間の意思疎通のために簡略化された接触用言語。

社会言語学たん ‏@socioling_tan 2016年12月1日
ピジンの具体例はたくさんあるけど、例えばハワイに移住した日系人のピジン英語(英語+日本語)、旧満州国でのピジン日本語(日本語+中国語)などが挙げられるわ。ピジンはベースとなった言語より文法などが簡略化されているのが大きな特徴よ。これを母語とする人間が現れると、クレオールになるわ。

木村接骨院 ‏@kimuraseikotuin 2月9日
ピジンが話されている環境で育った子どもたちが、ピジンをまねするのではなく、一貫性のある文法規則を備えた言語を自然に生み出し…中略…
こうして子どもたちが使うようになった独自の言語を、「クレオール」といい、この現象を「クレオール化」と言う。
─酒井邦嘉『言語の脳科学』p279〕

おねショタ魔法使い初級おじさん ‏@douteimaturi 2月13日
イスラームに存在するのは解釈で解釈全てです
しかも、解釈しその宗教令に辿り着くまでには
アラビア語の語形論サルフとナフブ
クルアーンの読み方と暗記
教条論・アガーエド
ルバイアート・伝承・物語・逸話
歴史とその解釈
の上に科学的知識が入るのでアフカームはイスラームの結晶です

即ち、宗教令を蔑ろするというのは結晶を蔑ろにするのと同じなのですが西洋的な自由思想・実態はただの相対主義に汚染されはじめているのでそれに毒されたバカがしょっちゅうお粗末な宗教令を出す事で信頼がガンガン下がっているのです 例えば、ポケモンGOの話

アズハル大学の学者はポケモンGOをシルク・多神教崇拝とかボケた事を抜かして、失笑されましたがシーア派12イマーム派ウスール学派のイランの学者は単純に社会影響が大きいという社会悪に決めて禁止しました 前者は典型的なローマ法・後者は中国とかでは典型的な社会統治論とかけ離れているのです
イスラームは社会統治論と社会道徳論と社会救済論と社会規範論すべてを合流させたものでそれはあっらーの力と知が生きているから、こういったものが出てきたのです で、それは全て完全に論理・反証・合理で説明されるもので神秘というのはクルアーンと預言者と指導者達の存在で担保されているのです

だんから、イランは憎まれる そりゃそうさ、表面上共産主義にして中身は儒等の合理的社会統治論に変え切った中国と違って、イランは表も裏も社会統治論でやっているから、大量にデマが流される まあ、極右もいるけど、正直他の極右よりもかなり冷静で馬鹿ではないというか極右って学者集団だからね
イランにおいては極左も極右もどっちも学者集団なので活動家というより、学者同士の喧嘩というのが本当のところ しかも、博士とってとかではなくてそこから何十年も学問やっている人が右・左に分かれている訳なのでこれも他の国のレベルとはかけ離れた世界なの、想像ができないだろうけどね

おねショタ魔法使い初級おじさん ‏@douteimaturi 2月14日
イランの薬草学凄い
こいつら食虫植物まで薬草にするし、ケシでシロップ作ったりするし、しかもその作り方が平然と書いてあるから真似できる
朝顔科の植物の花を干したものを15分1リットルの水で煮出して、すぐ様取り除いてこしたものに500gの砂糖かはちみつを混ぜてシロップ作ると書いてある

不眠症の食餌療法とか書いてあって、夜の8時・10時くらいにはこういったものを食べたり、逆に食べるなと書いてあって これが1000pくらいのイランの薬草学百科事典につらつらと書いてある うん、やっぱりあるよ不思議な知識体系と実践思想 多分、他の分野でも発掘すればあると思う

しかも、よくわからないのがニンニクジュースとか、香菜ジュースとか、玉ねぎジュースとか書いてあって他にもイマームサーデック(ع)の伝承を取り上げて野菜や果物の効能についても書かれている うん、やっぱり大学者の知識というものは制限がないから、大学者なのだろうね かなり興奮・驚いた

おねショタ魔法使い初級おじさん ‏@douteimaturi 2月19日
凄い知識や発想というのは石のようにころがっている
石だから拾うものはないが拾うものにとっては如何なる貴金属・宝石に比べる事ができないほどの宝である、宝はものではない
常に認識という叡智の中にしかない

理性は超能力なのだけど、その理性をバンバカ簡単に使えてしかも時には閃きがやってきて世界に光明をついつい差してしまえるようになるには一つのお約束を徹底すればいいだけです
そのお約束が「善悪の判断と基準を確定させる事」これが守れれば、理性や閃きはバンバンやってきます、バンバンです

それでも降ってこない場合はその善悪は相対善・相対悪でしかなく、絶対善・絶対悪ではないという事です
まだまだ、削ったりする事が出来る部分があるという事実なのです
最悪なのは相対善・相対悪を絶対悪・絶対善と決めつける事ですね、
これすると永続に迷いますので形而上を否定するのが無難です

なので、日本で一番資料があって・翻訳されていて・読みやすいのは
形而上をするのであれば孔子・孟子・荀子・朱子・陽明学をやるのが無難で
形而上を絶対殺戮する気なら唯識などの古典仏教と臨済さんとかの古い禅のおっしょさんの文献に当たるのがいいでしょう
それ以外は何一つオススメしません

形而上をやるのなら、本当に良い先生に当たらなきゃいけないけど、
殺すのであれば独学でできます
というかできちゃったからお釈迦様が現れちゃったのだけどね
まあ、お釈迦様が善の化身みたいのを見たとあるけど
あれは後世の真っ赤な嘘ね
だって、生涯形而上的なものを否定した人が見るわけねえじゃん

正しくは無記だけど そういった存在がそういったものを前提に語る事はないわけで
それは無記というのをとった存在の思考ではないのね
そもそも、この世界が悪くなっているのは完全悪が蔓延しているわけで
その完全悪は相対善・相対悪の積み重ねによって誕生したとんでもない奇形児なの

つまり、相対善と相対悪を積み重ねて出てくる結論は簡単で
己以外悪・己だけ善
または己の集団が善・それ以外は悪
という相互が悪と断定する事で全ての存在が悪として戦い出すので
何かはそれだけは絶対に避けるために悪魔を創造したのだけど、
悪魔はあくまでも同じ宗教を信じるものの中にしかいないの

何故なら、悪魔は基本信じているものにしか近づかないし、
ハナから迷っているものはずーっと迷い続けているのだから放置しているの
そういうと「何か」は無力だと完全悪に浸った連中は言うがその為に永続の地獄と天国を用意したわけ
神学って、人間が考える程度の事はちゃんと潰しているから神学なの

ここでわかるだろうけど、宗教を信じないや無神論とか言う人達は完全悪の存在なわけ
これらは己の功利に当たるものだけが善、それ以外は絶対悪と考えているわけで
そのような連中をサイコパスというわけでサイコパスは完全悪な存在なの、
悪魔はサイコパスには近づかないのだって完全悪そのものだからだ

むしろ、シャイターンや悪魔は人を惑わすだけだが完全悪は人間に実害を与える
なので、神学はその完全悪なる悪魔よりも恐ろしい存在が発生させないための防御手段であり
その為に「何か」は法・宗教というものを与えたのです
勿論、人間は自由な存在なので完全悪を発生させる能力と抑える能力があるの

はっきり言うと日本というのは完全悪な社会です、
完全悪の社会では人間は生存できません
ホッブスが懸念したものはこの現代の日本というところで出てきたわけなのです
なので、もしこの地上で一片足りとも光明が差していない社会というのは日本だけでしょう
こればかりは如何なる例外もありません

仏教の弱い所はここで人間は形而上が無くとも広義の宗教を見つけるといいますが、
それは本当に漢字の意味での宗族の教えとなり集団の功利と功利がぶつかるだけの世界になります
んで、それを歴史として顕現したのが中国史なわけで彼等が何故に儒を用いあのような思想体系を産み出したのはその理由です
下は宗族でぶち殺しあっているが
せめて同じ認識を共有する者達だけは殺しあったり、
害をなさないようにしようというお約束が俗習の上にある儒なのです
全ての知識や発見というのは勿論、用意されているのですが
必要によって見つけるのです
歴史という形而下はその意味で最強で強固なものなのです









――
お読みくださり感謝しますが、この人のツイートを直接お読みくだされば幸いです。
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随時追加 成功したいなら失敗例を学べ!失敗例集こそが落語。おすすめ落語集 

工事中というかこれから追加していく
「落語知ってるとね、ケンカにならなくていいっすよ。(…)
ありとあらゆる失敗のパターンが全部入ってるから。
ケンカしてるうちに、何のこたあねえこれじゃまるで『粗忽長屋』だな、
そうおしまいになっちゃうよ。それですんじゃうからね、(…)
昔の教えはそういうの教えたんだろうね、きっと。
こういうことがあるよ、ああいうことがあるよという、
落語ばっかりじゃなくて、いろんな教えをね、したんだ。」
立川談志



落語も仏教派生。説法から誕生。登場人物に坊さんは出て来るが神道家が出てこない。落語用語も仏教系が多い。


まずはマジ美味えこいつを食らいやがれ!(そばだけに)
柳家喬太郎 時そば - コロッケそば
https://www.youtube.com/watch?v=8hGUS397nrg

和風キリスト教の大本教系の生長の家と
キリスト教系の統一教会の
ニコ動のコメントありで見たほうが面白かった。

柳家喬太郎 「時そば」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6899470

壺算~桂米朝・枝雀・立川志の輔【動画】
http://rakugo.ohmineya.com/?p=341
壺算のトリック
http://ch.nicovideo.jp/moriarty/blomaga/ar192276

粗忽長屋 立川談志
https://www.youtube.com/watch?v=UFXQdK-V2o0

粗忽長屋~柳家小さん・立川談志・柳家小三治他【動画】
http://rakugo.ohmineya.com/?p=418

「蜘蛛駕籠」 立川談志
https://www.youtube.com/watch?v=qyaYUjk2ZfI

【動画】古典落語で好きな噺あげてけwwwwwwwwwww
http://sonicch.com/1716.html

☆古典落語最高傑作選☆
https://matome.naver.jp/odai/2143213343910737801?&page=1




――参考資料――

“落語知ってるとね、ケンカにならなくていいっすよ。もうねえ、なんて(ったって)、ありとあらゆる失敗のパターンが全部入ってるから。ケンカしてるうちに、何のこたあねえこれじゃまるで『粗忽長屋』だな、そうおしまいになっちゃうよ。それですんじゃうからね、落(語…)(た)だ、昔の教えはそういうの教えたんだろうね、きっと。こういうことがあるよ、ああいうことがあるよという、落語ばっかりじゃなくて、いろんな教えをね、したんだ。教えを何にも知らなくなっちゃったからね。エー、しょうがなくなっちゃって。”
落語 「蜘蛛駕籠」 立川談志
https://www.youtube.com/watch?v=qyaYUjk2ZfI
13:28~13:52分
()うちは私が補った。()前後は完全に正確でない可能性あり。言いかけてやめたあるいは不明瞭な発音の個所は文字おこしが難しい。
「なんて(ったって)」は途中でいうのをやめたと判断したが、「なんと」などかもしれない。「落(語…)(た)だ、」も速度を0.5倍速にしても聞き取りにくく不正確かも。意味の中核ではないのが幸い。 


立川談四楼 ‏@Dgoutokuji 2013年10月21日
落語と仏教は強いつながりがある。高座、前座がすでに仏教用語で、扇子を前に置いてお辞儀をするのは、そちら側がお客様でこちら側は芸人でございますという結界を意味する。手拭いを符丁で曼荼羅(まんだら)と言うに至っては説明の必要もないだろう。道理で本堂での落語会がしっくりくるはずである。

猫の泉 ‏@nekonoizumi 1月7日

「…芸能の発生には宗教の儀礼がふかく関係し、古代の社会では宗教と芸能とアートは渾然一体となっていた。日本の「語り芸能」や「話芸」は仏教の説教の影響が大きく、説経節、講談、浪曲、落語などには仏教的要素があふれている。江戸時代の落語の祖である策伝上人『醒睡笑』から、…」

中村甄ノ丞あるある早くいいたい ‏@ms06r1a 2011年6月7日

それにテレビもラジオもなかった時代、坊さんは地域随一のインテリで、話も面白かった筈なんだ。落語の祖とされる策伝も坊主だもんね。でも別に現代じゃ坊主はインテリでもなけりゃ面白くもないでしょ。インテリが珍しかった時代じゃないもん。

星山耕太郎 ‏@Kotarohoshiyama 2014年5月17日

初デジタル書籍。円朝の「落語濫觴(らんしょう:起源)」という本を読んだ。なんでも落語の起源は、江戸前期、策伝という坊さんが秀吉に聴かせた宇治拾遺物語だそうで、後に狂歌(笑える短歌)が流行したとき、狂歌即興会で黙って考えてるのもなんだからと、笑える話をしたことで再興したとのこと。






“ 日本の話芸の研究者の関山和夫氏は、「現在でも、落語の世界での「高座」「前座」「マンダラ(手ぬぐい)」「師匠と弟子」「一席・二席」などの用語や、講談でいう「中座読み」「修羅場」などの用語は、全てこうした、高座で演じた、仏教の説教から出たものである」と言われている。そして、日本の独特な話芸の源流には、仏教伝来当初から、言葉に節をつけて、説教(唱導)が、行われていたと言われている。そうした節付説教は、平安末期から鎌倉時代にかけて出現した天台宗の澄憲(1126?~1202)とその子の聖覚(1167~1235)が樹立した「安居院流」と、寛元年間(1243~1247)に定円が創始した「三井寺派」などを中心にして行われていたが、この「安居院流」を樹立した聖覚が、法然上人に帰依して、浄土宗に入り、やがて真宗に伝承され、真宗において、独特の型を生み出し、『節談説教』として、江戸時代から、昭和の初期まで、隆盛を極めた”
落語と仏教  ・・落語の源流はお説教?・・  
http://www.jiin.or.jp/turezure1/rakugo.htm


“落語の祖 策伝上人
第五十五世 策伝上人

戦国時代、誓願寺の第五十五世法主「安楽庵策伝上人」は、優れた説教師であるとともに、松永貞徳・小堀遠州らと親交を深めた文化人でもありました。

策伝上人は、ともすれば小難しくなりがちな「お説教」に、ふとした笑い話を含め、人々に分かりやすく、また親しみやすくお話になられました。またそれらの話を集めた「醒睡笑 (せいすいしょう:八巻)」という書物を著し、それが後世、落語のネタ本となったことで「落語の祖」とも呼ばれ、それにより誓願寺も落語発祥の地として知られております。
(…)
当誓願寺では、毎年十月初旬の日曜日に「策伝忌」を営み、追慕の法要とともに奉納落語会を開催しております。 (日程の詳細は、トップページの行事カレンダーをご参照いただくか、直接当山までお問い合わせ下さい。)
(…)
文人としては、「醒睡笑 (せいすいしょう)」が有名である。元和元年 (1615)から同9年 (1623)にかけて、自らの体験談、見聞録を出来るだけ面白く、さらに諷刺、教訓、啓蒙的な要素を附加して巧みに書き下ろしたものである。その滑稽の縦横なことは、まさに落語の教科書と称えるべきもので、その数々の咄は、落語中興の祖・烏亭焉馬を経て延々今日にまで及んでいるのであって、策伝上人が落語の始祖と言われているのは不自然ではない。 茶人・古田織部が、秀吉の「御咄の衆」 (主君の話し相手となる老巧の士)であった という事実も、策伝上人という笑話の天才が生まれるに至る機智性の血脈を知る上で注目される。

「醒睡笑」を完成するやかねてより隠居の志あった策伝上人は塔頭、竹林院を創立し、境内にあった茶室、安楽庵 (広島県、誓願寺に安楽庵好みと伝えられる八窓の茶室が復元されている)に入り、自ら安楽庵と号した。

寛永19年 (1642)正月8日、89歳で示寂するまで19年間、竹林院を訪れる風流人は絶えなかった。 陰欝な戦乱の世でも常に明るい面に眼を向けて、楽天的に笑い続けることを長寿の妙楽とし、ことに風雅と戯笑に満ちた晩年における生活は、文字通り悠々自適の余生であった。

落語の祖 策伝上人/浄土宗西山深草派 総本山 誓願寺
http://www.fukakusa.or.jp/p016.html


“立川談志師があなたも落語家になれる―現代落語論其2という本のなかでこう述べている。

   私の惚れている落語は、けっして『笑わせ屋』だけではないのです。
   お客さまを笑わせるというのは手段であって、目的は別にあるのです。
   なかには笑わせることが目的だと思っている落語家もいますが、
   私にとって落語とは『人間の業』を肯定しているというところにあります。
   「人間の業」の肯定とは、非常に抽象的ないい方ですが、
   具体的にいいますと、人間、本当に眠くなると
   「寝ちまうもんだ」といっているのです。

   分別のある大の大人が若い娘に惚れ、メロメロになることもよくあるし、
   飲んではいけないと解っていながら酒を飲み
   「これだけはしてはいけない」ということをやってしまうものが、
   人間なのであります。
   こういうことを、八つぁん、熊さん、横町の隠居さんに語らせているのが、
   落語なのであります。(中略)
   落語のなかには、人生のありとあらゆる失敗と恥ずかしさのパターンが入っている。
   落語をしっていると、逆境になった時にすくわれる。
   すくなくとも、そのことを思いつめて死を選ぶことにはなるまい、
   と私は思っている。   

このことは、落語のみならず喜劇全体の本質をも突いている。
喜劇は、人の愚かさに触れ、それを自身に振り返させると同時に、
人の不完全さについて改めて認識させるといった効用がある。”
45.月見座頭
http://choroku569.blog.fc2.com/blog-entry-46.html

“『あなたも落語家になれる―「現代落語論」其(その)二』は、談志が「落語は人間の業の肯定を前提とする一人(いちにん)芸」と定義した名著だ。
 忠臣蔵で例えれば、落語が本来、主題とするのは、亡き主君の敵(かたき)を討った四十七士ではなく、逃げたその他大勢の家臣の方だと本書は説く。大義名分ではなく、小さなことにクヨクヨする人生の、ありとあらゆる失敗と恥ずかしさのパターンが詰まっている落語を知っていれば、「逆境になった時に救われる」のだと。
 さて、読み終わったところで、余韻にひたりながら、ちょっと一杯……よそう、夢になるといけねえ。”
書店員に聞く この落語家を読め!
http://book.asahi.com/reviews/column/2015060500005.html

峨骨 ‏@Chimaera925
叶わなかった者は静かに消えて行くから、願って叶った者だけがそれを語る。願って叶わなかった者の言葉を集めて、どうすれば失敗するのかを研究できれば、願いを現実にする術に近付くだろう。しかし、死人に口なし。死して屍拾う者なし。

ビジネス書にありがちな、「こうすれば成功する」なんて成功体験はクソ程役に立たない。たまたま上手く行っただけで、同じことをして骸を晒したの者は声を上げないのだ。 重要なのは失敗の蓄積。「こうすれば必ず失敗する」これらを集めて失敗の種を潰していくのが近道だろう。
成功体験は勝ち馬に乗りたいワナビーを集めて金儲けするのに役立つ。しかし、そのノウハウが役立つ事はあまり無い。 バブル期に小遣い貰って就活して金持ちになった連中が同じ価値観や生き方を続けて落ちぶれたように、何をやっても上手く行く時代とそうでもない時代があるから、個人の力なんてのは
成功の為の因子のほんの僅かなものなのだろう。その、ほんの僅かなもので明暗が別れる事もあるだろうけどな。
バブル期に成功していた落ちぶれたジジイの成功体験聞いて見れば、成功体験が何の役にも立たないのがよく解る。

スピリチュアルや自己啓発、ビジネス系自己啓発が流行る中、それを通して頭の中がクリスチャンに書き換えられている。「強く願い潜在意識に働きかければ実現になる」これはニューソート。魔術と比較すると、「ああ、コレは失敗するわ」ってな方法が書いてある。成功しないから依存して固定客になる。

悪が存在しなければ存在意義の無い受動的な正義のヒーローよりも、日々試行錯誤を重ねて、何度ヒーローにやられても何度失敗しても諦めずに目的の達成しようとする悪の秘密結社には見習う所が山ほどある。「努力しても報われる補償は無い」「油断すれば足下を掬われる」と数々の教訓を残してくれた。

歴史にしたって勝者の都合の良いように書かれている。だからといって歴史を学ぶ必要が無いわけではない。知らなければ矛盾を探し出す事も不可能だし、人に矛盾を説明する事もできない。歴史を学ばない認めない、われわれの説あるいは教義が正しい。疑うな。心の問題だ。これでは単なる信仰。宗教だ。

彼を知り己を知れば百戦殆うからず 孫子『謀攻』
敵則能戦之、少則能逃之、不若則能避之ともある。
ただ知っていれば勝てる訳ではない。
勝てない敵には勝機を見出す時まで守りを固めるか戦いを避け、勝てる状況を作り出し勝つ。
五行無常勝、四時無常位、日有短長、月有死生
絶対の勝者は無い。

万全な計画や実行力によってそれらが全て計画通りに行っている訳ではない。全て計画通りで絶対的であると見せかけているだけであれは絶対でも全知全能でもない。最適な手を打っているように見せかけて、不十分だったり過剰だったり、不発だったりで大してコントロールできていない。
数打ってそこそこ当たったものがメディアで取り上げられる。失敗に近い成功でも目的達成の為に宣伝を繰り返してそれと認識させたならば、成功に近付けることができる。不発は話題にならない。数打てば当たる。凄腕のナンパ師だって片っ端から声かけて、ようやく一人でも成功例だけ見れば凄腕だ。

起こされた事象は素材。目的に沿ってイメージ操作を行う素材。素材として必要されなければ大してメディアや政府は騒がず、目的があって注目させたい場合は露骨に煽る。本来は時間をかけて刷り込むものを、ここまで露骨にやるのを見る限り定められたスケジュールにあまり余裕が無いのだろう。



捻くれた目で見ると、「なるほど、こうやって権威付けするのか」と見て取れる。アブラメリンは17~8世紀に書かれたドイツ語版、18世紀のヘブライ語版とフランス語版の写本。有り難がらずに同人本くらいの感覚で読むと面白い。14~5世紀のドイツに住んでいたユダヤ人 が著者だと書かれているけど、これもハク付けだろうなと見ている。

The Big O - Rui Nagai - Big-O! https://www.youtube.com/watch?v=PyosK5bielo … THEビッグオーの主人公、ロジャー・スミスは一流の敏腕ネゴシエーター。いつも交渉が失敗して、巨大ロボを呼び出して交渉。最後は暴力がものを言うと教えてくれた作品です。

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聴いてくださり感謝します。
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