読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

04 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 06

工事中 支配層のカルト「地獄教(仮称)」と聖典の中身を推定。フェイド大帝の過去の最低帝国の引用とオカルト百科などから考察資料。置き場所に困ったもの集め。一切皆苦の永続のために、地獄せよヤバいアニメ見つけたRWVYと同じ制作会社。昔こっぽりにゃんこの目! 過保護上等だこらー 更新報告更新報告香水ン報告随時追加とブログったー 

ずいじついかちゅうー 偶像。癒し。これから地獄なので。





シンボル





教義

フェイド大帝
「あくまで個人的な持論なのだが、日本の古代の
豪族や皇族、貴族は”地獄教”を信仰していたのではないかと
思われる。

これは仏教等で説かれる六道輪廻の地獄界の”無間地獄”という
最凶の苦しみを体現する地獄をこの世に実現し、全ての衆生を
この”無間地獄”に恒久的に叩き落すことを根本思想とした
宗教のことである。

実は、仏教やキリスト教、イスラーム教の唱える”地獄”
なんてものはだれも見た事がない。もちろん”天国”もそうだ。
まともな神学者なら”天国”が実在するのかを研究したりするの
だろうが、(天国が存在するならそれがどこにあるのかとか)
”地獄”が実在するか、それはどこにあるのかに関心を抱く
人間は実際には少数だろう。
”地獄”なんか実在しても何も良い事ないしね。

ところが、この世に実際に”地獄”(宗教の説く様な)がないことに
実に落胆してしまう変なサディストの人間達がいる。
そういう人達は”じゃあ人工的に地獄を作り出せば良いのではないか?”
と考えるわけだ。
ただこの思想は完全に狂人の考えであり、まともな精神を持った
人間の物ではない。こんなことを考えつく人間が実際に
いたとしてもそのコミュニティにおける例外中の例外だろう。
ところがこの狂った考えが宗教化し、こういった狂人サディスト
達を次々と量産する宗教が”地獄教”だ。」

このぐちゃぐちゃなかんじこそが地獄にふさわしい。

地獄教って日本教+労働教が一番近そうなんだけど。
耶蘇の悪いところを悪化させ、良いところすら抜いたもの。
生きているだけで幸せとは私にはとてもじゃないが思えないよ。

地獄教(仮称)の教義
=釈迦が「これをやると幸せになれないからやめなさい」と言ったこと意地でもやめないことが手段にして目的であり、地獄を現世に顕現させ維持せよという強迫観念。

最高神=死=飢え=食(≒食欲。捕食=破壊)。
頭、両腕、両足、尻尾がある。
※仏教の餓鬼で性格はがきかつヒスお嬢様。パンドラ。

“死は欲した。
「私に第2の自己が生まれる様に!」と。
飢えである死は、その思考によって言葉と性交した。
それの精液であったものは年になった。それよりも以前に
年は存在しなかった。これだけの時間、すなわち、一年だけ
死はそれを保持した。“
より、
言葉(ロゴス。聖書の神)は死より下位。
死が言葉と性交し、死の精液が時間となる。
死は時間も創造した。
ズルワーンやカーラやクロノスより上。
死は人間も創造した。
そして食べる。
生贄の儀式も創造。
アルカ(祭火)は死からの流出物。
(ハンターハンターのアルカはおそらくここから)

聖典の文章予測
・一切皆苦の永続のために、地獄せよ。
・偶像崇拝せよ。邪悪の物質化こそが偶像作成である。

(ししんちきょうだん が参考になるかも。
偶像作成も崇拝も禁止ならステルス化が楽。
内なる神が内なる邪神。
生きとし生けるものには皆死ぬ要素があるから平等に苦しめ。
肉体は邪神殿であるから邪悪で充満させよ。



・インド仏教を研究せよ。そして教えと真逆のことを実行せよ。欲望を抑える要素を全て抜け。我欲こそが聖典である。


実行部隊=無自覚含め信者


地獄教について以下の分類をしながら考えていたのだが以下の分類が終わっていないがのせていおく。
分類せよ、統合せよ。
支配層の派閥分けは自分なりにしないといつまでも他人の概念の虜だよ。
Avs反A 
はわかりやすいが、この対立が複数あって相互に絡み合ってややこしいのが現実。
零割か十割かで考えてはいけない。親Aと反Aは濃度で測るべき。
忘れるなかれ、
「共倒れしない程度に手加減して対立。大衆や下っ端工作員がいくら大量死しようが“手加減”である」


政府陣営
桃太郎(教科書に桃太郎採用)
国家神道=天皇一神教=異端派✝
創価学会(から派生)=仏教風耶蘇

黒住教=神道風グノーシス寄り耶蘇。
(教祖が天照と合一。天皇教も天照側なのでこちら)

vs

金神=うらたろう(桃太郎が退治した鬼)陣営
金光教=神道風グノーシス寄り耶蘇。

大本教=神道風グノーシス寄り耶蘇。
(出口家を天皇家に代わる地上の権力者にしようとする啓示が聖典にあり)

大本教派生の有象無象
(有象無象過ぎて桃太郎寄り派閥もある)

立正佼成会=反創価。
(金光教と仲良し)




グラレムさんが創価は大本教の最初の分派と言っていたけど、私は上記より懐疑的。あの家系図の出所が知りたい。
大本「から」創価が派生ではなく、創価も大本も同じ工場「地獄教(仮称)」から派生し、もとから対立するように作られたのでは?
カルト政府vs反政府カルトの壮大な茶番。
ヒスお嬢様「地獄と地獄、どっちが大事なの?」
みたいな超絶地獄。
パンドラ・地獄・地獄の陰惨位一体(いんさんみいったい)。

グラレムさんは無神論者だと何度も宣言。カトリックを最大級に叩いているから大東社寄り。私は工作員認定はしていない。
イスラムを作ったのはカトリックではないよ。カトリックが迫害した異端派がイスラムを作るのに関与。

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地獄教史料

ヤバいアニメ見つけたRWVYと同じ制作会社。
緑=世界連邦色と丸に×シンボルで名前がX線=原子力。
相棒が英国の内イングランドで名前がヴァヴ=6。
EUと英国。
男性器を服ごしに触れ合わせる決めポーズのホモホモしい内容。
敵が右目のみ海賊=北欧かな。














日本語字幕付き
X-Ray & Vav Episode 1
http://www.nicovideo.jp/watch/sm25011551


XゴリΩサン‏ @ZtttttN 2014年6月29日
ハイリア人てアーリア人?ルピーだしインド? #ゼルダの伝説



 ほーこくほーこく過保護上等だこらー
いいから劫火の教典の今週の話から読むんだ。ネットでタダ読みできるから最新話ち第一話は。過保護上等だこらー
来週の話はメシアが復活する場面だろうから必見だぞ。
私はとまとさんが紹介してから毎週読んでいるぞ。
ぐだトマト‏ @pteras14 17時間17時間前
劫火の教典 第3巻、相変わらず凄いな…… これはねこたさんも読んだ方がいい。 キリスト教におけるイエス復活の真実 とその意義に限りなく迫ってる…… 後、「懲役339年」の頃と比べて 絵がめちゃくちゃ上手くなってる……




「信用できる陰謀追及者」(団体含む)認定するならね、最低でも一年はその人のツイートやブログ記事を見ないと判定できないよ。そんなに簡単に「信用」してはいけない。だってこの信用は「依存」「新たな消費の対象」って意味でしょ?
信用した時点では大丈夫でもこれからそうとは限らないでしょ?
ワイドショーとゴシップ好きのテレビのコピー機(一応自由ある意思決定している人間らしい)を笑えんよ。


オルフェウス教とストア派の重要情報集。『オルフェウス教』『世界の名著13』(『スキピオの夢』)『』『』『』『』『』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-146.html
にかなり加。


ーー
特典が欲しかったのでアイデア大全狩ったぞ。該当記事更新タルムード思考法がすさまじいぞ。巧妙な宣伝文句にしといた。

いっとくけど共謀罪が採決される前から都合の悪い奴は消されているからね?
抑圧の空気の悪化が目的でしょ。自粛こそが最強のファシズムだから。
私の記事は少なくとも重要そうなのは記事の青文字タイトルの上で右クリックして名前を付けて保存して紙に印刷もしておくれ。
重要そうな本は紙で買って手もとに置くこと。できれば個人書店で買うこと。私はアマゾンなしで行けるなら本屋で買う。
一つ前の記事が完成しない理由を述べよ
ツイッターが共謀罪検閲の性だよ!
よくある伏字の仕方ももう対策されているんだろうね。
ほしい情報が全然でないのさ
なぜRTできないのかわからいツイートもある。政治無関係なのにRTできないんだよ?
あとツイートは削除されましたが出過ぎ。
タイムライン、リスト、本人のアカウント直接、比べると本人のアカウント直接行くべき。
すくなくとも必読なら直接いくこと。
タイムラインは見てはいけない。露骨に操作されている。リストでも抜けがある=検索がダメ、情報受け取りがダメ、意図的操作など。
ツイッター内で期間検索しても抜けがあるから、一連のツイートを自分への変身と言う形で繋げてくれないと全部読めないことあり。ッ私がお気に入りしまくってふぁぼろぐやっているのはこの帰還検索にひっからい対策。








わかりやすいものを求めることはわかりやすければ嘘でもOKになりやすい。

【ゆっくり解説】3分でわかるカヤカベ教
http://www.nicovideo.jp/watch/sm31248530

(天照は阿弥陀仏だとするなど、神道に偽装。廃仏毀釈も避けられてお得)


ほでりそ‏ @uma6661 2015年2月28日
カヤカベ教の存在を知って、宗教を密告から逃れながら何世代も語り継いでいくゲーム考えついた。


(面白そう。
教義を最初に定める。それをいくつかに分けてアイテム扱いにする。
アイテム所持者からアイテムを得るか、口伝者から聞くかで教義ゲット。
教典という文字聖典があるなら楽だけどなあ。
迫害される側って口伝重視っぽいし。証拠押さえられないようにね。
主人公の立場って中途半端に教義が知らない状態で自分らの所属団体の上層部がしにまくったか殺されたりしたから復元せざるを得なくなったってことにしたらどうか。
口伝の場合は聞くのであり、音声のみ。聞き直しはOKだが回数制限あり。
つまりプレイヤーが覚えないといけない。プレイヤーのメモはOK。
キャラである主人公がメモをとれるか(アイテム化)は教義による。文字にすること厳禁なら少なくともその信者の周りではメモとれない。離れるととれるが見つかってはいけない。
これだと既存宗教でなくてもいける。口伝のみで文字起こし禁止なら難易度最大。日本語だと口伝だけだとまずいけどね。同音異義語が多すぎるから。
つまり日本語は書き言葉で漢字で同音異義を分けること前提の言語。
なんの宗教かあらかじめプレイヤーにわからない設定もいいかも。
明治より前のキリシタン禁止したならヤソ異端とかでないとおかしくなるから舞台設定をどうするか。日蓮宗不受不施派(ふじゅふせは)かキリシタンか、よほど勢力を持つ新仏教系でない限り弾圧されないからなあ。
中世カトリック圏舞台の方がよさそう。
世代ごとの話にするとか。
偽装で外面の教義を変更するとか。
でも何百年もあってばれても問題ない世の中になって公開するか否かでエンディング変わるとかさ。
誰か作ってください)






金光教とか秘湯…前の記事大幅増帆ああヤバいぜエ

オルフェウス教も追加したニーチェとストア派とエピクロスの関係も書いた。
「私は、ゲー(大地)と、星芒輝くウゥラノス(天空)の子だが、私が属するのは、天空の種族である」って唱えるオルフェウス教

蒸気はまた+カモ。
タロット記事も増補というかタロットの宇宙って本のメモついかちゅう。
空をまなぶならミリンダ王だねの記事も足した

ぶろぐったー
も教祖と使徒の設定と教義をもっとひねれよ。設計図何回使いまわすんだよ。現教主はこの世界連邦日本宗教委員会代表委員4名の1人。日本会議と世界連邦はセットで世界連邦が本体。下の資料引用も読んでくださいな色付けといたよとかいあてアルコン高校黒住とかの記事が超重要。 世界連邦推進で人脈にワールドメイトあって草不可避この記事が大摩邇(おおまに)に転載されて草不可避。
ろとるうっちに
初代ウルトラマンの第18話「遊星から来た兄弟」が一番やばいな。
支配層そのまんま。
凶悪宇宙人 ザラブ星人が敵。
ザラブ星人が東京を放射性物質の霧で覆う。
ザラブ星人が東京にまいた放射能の霧は400レントゲン(4シーベルト)。
ミリがないからね?
ザラブ=兄弟。
ザラブが兄で、地球人は弟と言う。
メイソン系ユニテリアンのシュヴァイツァーが人類皆兄弟といいつつ
白人は兄で黒人は弟と言って白人優位思想なのを思い出す。
友好的なふりをしつつ、ザラブ星人はウルトラマンの変身して町を破壊。
偽旗作戦。
しかも18。
プロテスタント側のメーソン叩き?
カトリック寄りのグノーシスならOK?
ちなみに初代にはダゴンが原爆をみにつけながら暴れる話がある。

初代仮面ライダーも地下核爆破で人工地震を起こそうとする話があるし、特撮も結社側。
とかをリトルウィッチ記事書いといた ねこたさんのツイート見ればなぜ魔女学院にウルトラマンなのかわかるおしりごっこ。
もうこのブログったー独立させようか迷う




ぶろぐったー りとるういっち最新話まで更新完了ってツイッターのアカウント名のところで告知したけどここにも快特。
フランス系カトリックのリギョール神父が日本で最初の陰謀論本を出しその内容がメーソン叩き。
しかもこの神父がカレルギーの嫁にカトリック思想を教える。
ということでリギョール本ネットで読めるので読書再会。いつ読み終わるかわからんけどな。ちょう読みにくい。旧字体で文体古いのもあるが何より紙面が汚い。この記事の一つ前の博士予定記事は陰謀本メモになっちゃったぜ。いんぼうろんほんよまないわたしだけどせんぜんのはよもうとおもっている。ひらがなによるじょしりょくあぴーる。昔の本読むと意地でも漢字表現使ってやる心意気がすごい。ーー

オルフェウス教記事にく予定だけどニーチェはストア派の自然に従って生きろを完全否定だからね!あとタロット記事も増補するよ。黒住も天理も金光も世界連邦側

―――
地獄教史料


オカルト百科 傑作選でも作るか?傑作ばかりなんだけど。
【ニューエイジ編】まどマギ再考
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-479.html
"最近見つけたまどマギ関連の記事でようやくマトモなのが
出てきた。

ttp://happism.cyzowoman.com/mt/mt-search.fcgi?IncludeBlogs=19&tag=まどマギ&limit=30

まともと言っても入門レベルの記事内容でしかないが......

巷ではまどマギの元ネタはニーチェ哲学だとか、映画の「ドニー・ダーコ」
だとか言い張る頓珍漢な所まである。

本屋に入ったら速攻アニメ/ラノベ/マンガコーナーにヘッドダイブ
するような人間しかいないようなアニメ業界で、ニーチェなんか
高尚な物を読んでいる奴なんていないだろう。

ニーチェを読んでいるオタクなんて下記URLの管理人ぐらいのものだ。
「俺の彼女がニーチェだなんて」
ttp://hallucinyan.hatenablog.com/entry/2012/10/09/183752

ところで一番最初の記事に出てくる「カルマ論」、「アセンション論」
は過去の最低帝国の方が早くから取り扱っている。

しかし、いきなり「ゼータ・レチクル星人」なんて単語を出した所で
アニオタは何がなんだか理解できるわけない。

そもそも一般人は西洋魔術の歴史すらしらない。

「まずは下記サイトの記事を全部読め」

ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/hytsuka1.htm

オカルト知識のまとめサイトだが、中々よくまとまっている。
この程度の知識がなければ「まどマギ」のレビューなんて
とてもじゃないがまともに出来るレベルにはない。


さて、問題の「ゼータ・レチクル星人」だが、
一般人はこの単語がどこから出てきたかも分からない
だろう。

実はこの手のスピ業界の宇宙人は”中○薫”だとか、
”K福の科学”のような新興宗教等で主に扱われている。
その本流はアメリカの新興宗教の教義にあるのだが、
まぁ、彼らの場合は故・太田竜の紹介したデービッド・アイク
の著作辺りから引っぱってきているのだろう。
デービッド・アイクの唱えるレプティリアン人の特徴が
こういった新興宗教の紹介する宇宙人の特徴と瓜二つだからだ。
そもそも世界を裏で支配する邪悪な宇宙人という概念は
デービッド・アイクが邦訳されるまで日本では聞いた事がなかった
と記憶している。
このデービッド・アイクというイギリス人、元々はプロサッカー選手
で政治家だったらしいが、彼がこういったトンデモ理論に
目覚めたのはある大物の助力があってのことだ。
その大物とはベティ・シャインである。
(この事はアイクの著作の作者プロフィールに
 書いてある)
ベティ・シャインとはもうすでに故人だがスピ業界の
大物だ。
最近彼女の本が再出版されたので大きな本屋さんの
精神世界コーナーで探せばすぐに見つかるだろう。
しかし、彼女の本は大した内容ではないのだが
デービッド・アイクにレプティリアン論を吹き込んだ
事実からするとただの物好きな”スピおばさん”ではない。
実は西洋の(主にアメリカ)のスピ業界というのは
上述の”西洋近代魔術”の延長線上にあるのだ。
元を辿ると”黄金の夜明け団”と”神智学”に根っこがある。

残念なことにグーグルで”まどマギ”と”黄金の夜明け団/神智学”
で検索をかけても筆者のブログしか引っかからない。
最近のアニメ・ブロガーはよほど不勉強なのか良く分からないが
宮部みゆきのように”まどマギ”を観ても感激で涙をこぼすぐらいの
知能しか持ち合わせていないようだ。

ところで、このスピ業界の「ゼータ・レチクル星人」というのは
属に言う「地球文明異星人起源説」の一つにあたるのだが
この説、実は大きく三つの潮流があることをご存知の読者は
恐らくいないだろう。

実はこの「地球文明異星人起源説」のタネ本は主に3系統ある。

 1)時を超える聖伝説 Bob Fickes著
 2)ラー文書  カーラ・L・ルカート (著), ジェームズ・マッカーティ (著)
 3)フラワー・オブ・ライフ ドランヴァロ・メルキゼデク著
   プリズム・オブ・リラ リサ ロイヤル (著), キース プリースト (著)

まぁ、本屋さんで探せばすぐ見つかると思う。
この三系統、微妙に登場する宇宙人や天使、年表がそれぞれ若干
異なる。

で「ゼータ・レチクル星人」というのは3)のプリズム・オブ・リラ
に出てくる宇宙人の名だ。
そこで当然出てくる質問は

「アイクの爬虫類人はどの系統に属するの?」

という質問だ。

答えは3)である。アイクの提示する年表が
この3)の著作に出てくる年表をそのまま
なぞっている。
恐らく大元のベティ・シャインがこの3)系列
に属していたのだろう。

陰謀論の大家のデービッド・アイクとフリー・メイソン
アニメと揶揄されている”まどマギ”が共に同じ理論を
下敷きにしているのは実に興味深い。
これに日本の新興宗教界だとか陰謀論屋がこぞって
ぶら下がっているわけだ。

ところで上述の三冊の中でどれか一冊ということで
あればドランヴァロのフラワー・オブ・ライフを
オススメする。ガチでヤバイ内容だからだ。
アメリカの真の変態の気違い度は直木賞作家
どころのレベルではない。

このドランヴァロ・メルキゼデク、実は元ヒッピーで
ある。(作者プロフィールに書いてある)
また、ネットで調べればすぐ分かるが本名を
デイビッド・ペローネというらしい。
実はドランヴァロの作者プロフィールでは
彼は若い頃、スピ業界ではなく魔術結社に
属していたことが分かる。
この魔術結社はカナダにあるらしく、その名を
「メルキゼデク騎士団」というらしい。
実はこの魔術結社、現代ではもう存在しない。
ところがこの結社の団長は相変わらず活動を続けている
様で各地で講演を行っているようである。
この団長の話が興味深いのだが、ドランヴァロは
実はこの魔術結社から”破門”にされている。
理由は彼がCIAの潜入捜査官ではないかと疑われた
ためだ。
この「メルキゼデク騎士団」、ドランヴァロの
著作によると日本からの留学生も結構通っていた
らしい。(多分ここの卒業生が俗にイルミナティ
と呼ばれている連中ではないかと筆者は睨んでいる)
そういえばベンジャミン・フルフォードもカナダ人
だったな。(笑)

実はかの福島原発の事故の時もこの「メルキゼデク騎士団」
の元団員達が怪しい動きをしていた。
東電内部の人間にしか分かり得ない様な情報を持っていたし
原発事故への唯一の対処方法はやたらと騒がずに日本人が
”禅”の心を取り戻すことだとほざいていた。
この”禅の心”という奴は、何もするなの意味である。
あの当時、日本政府とマスコミがこぞって垂れ流した
風評被害のデマ報道と実に”親和性”のある内容である。

ちなみにドランヴァロの派閥には大物の元女優の
シャーリー・マクレーンがいる。
この女も変なスピ本を出しているので本屋で探せば
すぐ見つかるだろう。
だが、アメリカ人に言わせるとこのシャーリー・マクレーン
こそ真のイルミナティらしい。イルミナティの幹部は
マクレーンの他にもいるらしいが一応このオバサンが
一番有名なのであえて言及してみた。

こう考えてみると「まどマギ」を単なる萌えアニメ
として扱うのは間違っていると言わざるを得ない。
少なくとも宮部みゆきや山本弘が一時興奮して
すまされるような作品ではない。
(ところで山本弘は反陰謀論で有名なのだが上述の
 オカルト解説サイトの管理人にちょっかいを
 出してコテンパンに返り討ちにされた過去を持つ。
 だから陰謀論を扱う割には山本弘の著作に
 魔術関連の記述が全くないのはこういった
 事情がある)

こういった背景を考えながら「まどマギ」という
作品を改めて観てみると実に面白く視聴できるだろう。

さて、劇場版新作はどういったネタを仕込んで
くるのやら......"

にせ救世主サバタイ・ツヴィ
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/sabatai.htm
"サバタイ・ツヴィ・ベン・モルデカイは、1626年トルコのスミルナのゲットーに生まれた。
 当時スミルナは、スペインを追放されたユダヤ人達が、各地を転々としながら移住を続けたどり着いた場所で、相当数の人口を抱えていたようである。
 サバタイ・ツヴィの父親は、貿易業で財を築いた富裕層の人であり、息子をラビにするべく、ユダヤ学院で学ばせる。
 しかし、彼は正統的なユダヤ神学には関心が持てず、ルーリア派のカバラ思想に興味を示す。そこで、彼は厳しい禁欲と苦行、瞑想を通じて天使や神との接触を望んだ。真冬の海で沐浴をしたり、長期間に渡る断食なども敢行した。
 彼が、自分を救世主だと信じ込むようになったのは、おそらく1648年のことらしい。
 もともと、ユダヤ教にはメシア待望論があることは言うまでもないことだろう。一部のカバリスト達が「ゾハール」を解釈し、1648年に救世主が現れると予言していた。さらに、ウクライナで大規模なユダヤ人の大虐殺が起こり、終末論的な雰囲気がユダヤ社会を覆っていた。
 そんな中、サバタイ・ツヴィは、聖四文字の名を叫びながら、我こそはメシアなり、といった内容の説教を始めた。
 一部に同調者が出たものの、殆どの人々は彼を狂人とみなした。評価は殆ど得られず、彼は生まれ故郷のスミルナから追放されてしまう。

 彼は、その後、各地のゲットーを旅して回る。
 正式なラビの資格を持たないのに、宗教儀式を行うなどして、ほうぼうでトラブルを引き起こした。
 しかしながら、その学識は本物で、多くの友人を作り、尊敬も集めていたのも事実である。

 彼は1660年にカイロに辿り付く。
 そこで彼はユダヤ人有力者でカバラ主義者のラフィエル・ヨゼフ・ハラビの支持を得る。
 続いて彼は、聖都エルサレムへと向かう。しばらく彼は、目立った行動は行わず、祈りと修行に明け暮れる生活を送る。
 しかし、ここで大きな転機が訪れる。
 トルコ政府がエルサレムのユダヤ人達に無理難題を吹っかけて来たのだ。多額の税金の支払いを命じ、「支払いができないのなら、街から追放する」という命令である。この時、ツヴィは、この危機を救う。密使としてカイロに戻り、大富豪のハラビに助けを求めたのだ。ユダヤ人の富豪は、同胞の救出のためなら、喜んで財を投げ出す。ハラビは、エルサレムのユダヤ人達に代って、税金を立て替えてくれた。
 これにより、ツヴィは、大きな支持を集めた。
 
 妻のサラと出会ったのもこの頃だ。
 彼女は、ユダヤ人大虐殺の生存者で、強引に入れられたキリスト教の修道院から脱出して、ポーランドからカイロまで逃げてきたという凄い経歴の持ち主。さらに、彼女もまたカバラの信望者で、自分は将来、メシアの妻になると固く信じ込んでいた。
 ツヴィは、サラと結婚する。彼女も、一種のカリスマを持っており、支持者を集める大きな力となった。

 さらに、彼のパプテスマのヨハネの役をすることになるカバリストの学者ナタン・ガザッティとも出会う。
 ガザッテイもまた、近いうちメシアが現れると予言しており、ツヴィこそ、その人だと固く信じ込んだ。
 これで、役者は揃ったことになる。

 エルサレムのラビ達は、彼を危険視し始める。
 するとツヴィは、自分達の本拠地をガザへと移す。
 そして、彼は自分こそユダヤの救世主である、と正式に宣言した。
 それと平行して、ヨーロッパ各地のゲットーに、支持を呼びかける回覧文書を送った。
 信じがたいことだが、凄まじい数のユダヤ人達が、これに同調した。
 もちろん、ラビ達は、これをインチキであると糾弾し、ツヴィの信望者を破門にするような強硬手段も取ったが、さして効果は無かった。
 さらに、ラビ達の中からも、ツヴィに同調する者が、少なからず出始めた。その中には、ユダヤ教会の有力者も居た。

 ツヴィは、続いて本拠地を、ガザから生まれ故郷のスミルナに移した。
 住民達は、彼を大きな熱狂で迎え、彼はスミルナの実権を掌握する。
 彼の噂は遠くイギリスにまで伝わり、多くのユダヤ人達が、彼を本物の救世主と信じたという。

 1666年、ツヴィは、スミルナからコンスタンチノープルへと移動する。
 そこで彼は、彼を危険視するトルコ政府によって逮捕され、城に幽閉される。
 しかし、丁重な扱いを受け、贅沢な部屋を用意され、まるで王侯貴族のような生活を送った。

 しかし、その数ヵ月後、彼はトルコ皇帝(スルタン)のモハメッド4世に呼び出された。
 スルタンは、彼に「イスラムに改宗するか、死刑になるか?」の二者択一を強いる。
 ここで、彼はあっさりとイスラム教に改宗してしまうのである。

 彼のイスラム改宗のニュースは、あっという間に世界じゅうのユダヤ人達の間に広まり、このサバタイ・ツヴィ運動は、始まった時と同じように、あっという間に萎んでしまった。
 そして、彼に同調した高名なラビが10人ほど処刑される。
 ツヴィは、その後、ユダヤ教の祈りを行っているところを目撃され、トルコより追放された。
 そして、アルバニアの小さな町で1676年に死亡した。

 ここで驚くべきことだが、ツヴィがイスラム教に改宗した後も、彼を救世主とする運動は消滅はしなかったということだ。イスラム教徒の支持者すら居た。
 彼らは、ツヴィのこの改宗は、一種の「秘儀」であり、イニシエーションのようなものと考えた。
 こうしたサバタイ主義は、実に18世紀まで生き延びたのである。

 しばしば、ユダヤ教カバラ衰退の責任の一端は、このサバタイ・ツヴィにあるとされる。
 と言うのも、サバタイ主義の思想は、キリスト教に類似した所があり、多くのラビ達によって、異端とみなされた。彼はゾハールにある「父、母、子」の三原理を、キリスト教の三位一体に酷似した思想に置き換えた考え方を持っていたのである。
 事実、サバタイ主義者には、キリスト教に魅力を感じ、改宗する者も多かったという。
 さらに、サバタイ主義者にはカバリストが多かった。
 正統派のラビ達は、サバタイ運動を批判するのに熱心な余り、カバラまでもを異端視しはじめるのである。


 もちろん、全てのユダヤ人カバリストが、サバタイ運動に参加したわけではない。
 ツヴィを激しく批判したカバリストも少なくなかったし、中にはポーランドの高名なカバリスト、ネヘミヤ・コーエンのように、ツヴィを批判したばっかりに、彼の信者に命を狙われた者すら居たのである。

 それはともかく、ユダヤ社会では、このサバタイ・ツヴィの名は、「にせ救世主」として忌まわしいものになってしまった。

 このサバタイ・ツヴィの再評価が始まったのは、20世紀に入ってからである。
 そう、あのG・ショーレムによって成された。
 ショーレムは、決してサバタイ運動のグノーシスもどきの思想が混入したカバラを、全面評価しているわけではない。
 彼は、こんな感じのことを言う。
 「凄まじい迫害、虐殺、追放を受けた来たユダヤ人の中に、激しい緊張感が生じ、それがメシア待望論を生み出すのは当然の結果ではないか? ある日、それが突然爆発する。サバタイ運動とは、そういうものではないのか?」
 熱烈なシオニストたる彼は、自分の内にツヴィのそれと似たものを見たのであろう。


「カバラ」 箱崎総一 青土社
「ユダヤ教神秘主義」 G・ショーレム 法政大学出版局"

イサク・ルリア
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/shinpi/isakururia.htm
”カバラの歴史の中でも非常に重要な地位を占めるイサク・ルリアは、1534年エルサレムでアシュケナジー・ユダヤ人の家で生まれた。…
 彼は1550年代に、ナイル川の島の一軒家に住み、そこで7年間にもおよぶ隠遁生活に入る。そこでカバラの研究と瞑想に明け暮れた。彼が家族に会うのは、安息日か祭りの日だけだったという。
 この間、ほとんど言葉も話さず、たまに喋っても、それは全て古代ヘブライ語であったという。
 1558年、彼は「ゾハール」の研究と、同時代のカバラの大家モーゼス・コルドベロの研究を始める。彼はコルドベロを「われらの師」と呼んで尊敬した。事実、彼の思想体系はコルドベロの思想を基盤の一つにしている。
 例えば、アツィルト、ブリアー、イエツィラー、アッシャーの4世界の概念は従来の「ゾハール」研究では、あまり重視されてはいなかった。しかし、それに注目したのがコルドベロであり、さらにこれを重要視して、カバラの重要な教義に据えたのが、ルリア達であるという。
 事実、ルリアはコルドベロと親交を持った。両者の関係は互いを尊敬し合いながらも馴れ合うこともなく、どことなく冷たい関係であったらしい。
 …
 彼の弟子は30人ほどいたが、彼らは毎週金曜日に会合をもって、カバラの研究を行った。
 ルリアは、自分の思想を系統だてて文章にはしなかった。したがって、著書は一冊も無い。現存するのは、散発的な原稿が多い。
 彼の重要な書は、弟子達によって記述された言行録であり、「聖なる獅子の著作」や「ゾハール注釈」が有名で、いずれも弟子との対話形式で書かれている。
 他に彼の高弟のハイム・ビタルによって、思想がまとめられ、「八つの門」という本にもなっている。

 また、彼の死後、様々な伝説が生み出され、そうした伝説を集めた本「聖なる獅子への賞賛」、「奇跡」なども出版された。
 「獅子(アリ)」とは、ルリアの尊称である。しばしば彼は、この名で呼ばれる。
 また、彼の弟子たち、サークルの会員たちを「仔獅子」と呼ばれることもある。


 ルリアのサークルは極めて秘密主義の強いもので、彼の死後もこの秘密主義はしばらく続いた。
 彼の高弟でサークルの後継者のハイム・ビタルも、この秘密主義にこだわっており、彼らの研究成果が、本となって公開されるのは、このビタルの死後である。実にルリアの死後50年以上を過ぎてからのことである。
 こうしたルリア学派の書物は1629年頃から出版され、ビタル編集によるルリア思想の本がオランダで1648年に出された。
 …
 ルリアの思想は、あっというまにヨーロッパ中のカバリストの間に広がり、非常に大きな影響を与えた。

 ルリアの考える瞑想は極めて禁欲的であった。
 彼によると、カバリストは、精神を集中し、強い意志をもって、ひたすら思索を行わなければならないとした。「ゾハール」に没頭し続け、カバラの教義を暗証し、祈りと瞑想に浸りきること。こうすることによって、人は神性に近づき、結果的に世界の救済にもつながると考えた。

 彼は、同時に輪廻転生を信じた。霊魂がどの程度の精神的あるいは道徳的レベルに達したかによって、それにふさわしい形で、転生すると考えた。
 彼は幻視を頻繁に体験し、預言者エリヤと交感し秘儀を伝授されたという。
 伝説によると、さらに一種の予知能力を身に付け、人と会う前にその人間の特徴が分かるようになり、その人の輪廻転生についても分かるようになったという。さらに、蝋燭の炎を見つめることにより、未来を幻視したり、死者の魂と交信したりすることも出来るようになったという。
 また、彼は神の名前によって、悪魔祓いを行った。
 さらに、人相術をみとめ、弟子を選ぶ際に、人相術を用いていたほどである。
 
 ルリアは「ゾハール」の思想を発展させた。流出の概念を研究するのに、グノーシス主義に極めて近い思想を取り込んだのも彼である。
 また彼は、瞑想をも重視し、彼と彼の弟子たちは、様々な幻視体験をする。ルリア自身も、自分を天界にまで飛ばし、古代の賢人たちとも会見をしたという。
 彼もまた、カバラの中興の祖の一人である。
 彼によって、これまで曖昧としていたカバラの理論は統合された思想体系となり、新しい専門用語が多く作られ、シンボリズムの体系も複雑化した。
 ルリアによると、原始にはイデアが存在し、これが流出の過程を支配する。宇宙の創造は二重に進行するもので、一つは「神性の産出」であり、もう一つは「神性の退廃」である。流出は、この2つの過程が基本的な要素となっている。
 これは世界の創造には退廃が内在することにもつながり、ゆえに世界の創造には、心理的なドラマが起こる。これが縮小したものが人間の心であり、祈りであり、祈りによってもたらされる効果であるという。
 ルリアの思想の中で特に重要なものがツィムツーム思想と呼ばれるものだ。これは「集中」とか「収縮」とも訳される。あるいは、「退却」、「撤退」とも訳される。
 宇宙の存在は、神に内における「収縮」によって成されるという思想だ。これは彼独自のアイン・ソフの概念を構築した。
 もう一つが「容器の破裂」説であり、この破裂によって作り出された欠損の回復、再構築説である。これはクリフォトの思想とも密接につながっている重要な思想である。
 これらは、後世のカバリスト達に非常に大きな影響を与えてゆくことになるのである。
 
 ルリア派のカバラは、少なくとも1625年頃から、ユダヤ教カバラの主流派となった。
 そして、ユダヤ教における、国籍を越えて伝播した最後の思想運動でもあったという。
 彼が後世のカバラに残した影響は計り知れない。


「ユダヤ教神秘主義」 G・ショーレム 法政大学出版局
「カバラ」 箱崎総一 青土社
「カバラ Q&A」 エーリッヒ・ビショップ 三交社
「カバラーの世界」 パール・エプスタイン 青土社”


仏教勉強の進捗
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-573.html
”仏教編に関してなのだが、

実は”永平寺修行記”を読んでどうしても分からないことが
出て来てしまった......

というのも余りにも”日本の仏教”というものが
インドの仏教とかけ離れ過ぎていて、両者が全く
繋がらないのだ。これはチベット仏教も一緒で、
チベット仏教や中国仏教はまだインドとの繋がりが
見られるが、”日本仏教”は完全に異質なのだ。
なんかオリジナルの宗教になってしまっている。

遠く離れたインドの仏教と差異が出るのはまぁ、
百歩譲って分かるとしても、元の中国仏教とも
違うってどういうことよ?

多分、日本に仏教が来た時に日本の権力者達が
相当オリジナル仏教を改造したのではないかと
思われる。

”永平寺修行記”の内容なんて現代のイジメ社会の
構図その物だ。オリジナルの仏教と全然関係がない。

多分、古代の日本の権力者(豪族?天皇?)達は
仏教の教え自体は恐らくどうでも良く、自分達の
邪悪な意図に基づいた支配を正当化する宗教が
新たに欲しかっただけなのではないかと思う。

それが何故、古事記や日本書紀のような神道系
の土着宗教じゃ駄目だったのか?
恐らく、日本人だけで仏教の様な高度な理論体系
を持つ宗教をオリジナルで作れなかったからだと
思われる。

いずれにせよ連中の邪悪な思想は古事記や日本書紀にも
ベースとして組み込まれているはずである。
あくまで個人的な持論なのだが、日本の古代の
豪族や皇族、貴族は”地獄教”を信仰していたのではないかと
思われる。

これは仏教等で説かれる六道輪廻の地獄界の”無間地獄”という
最凶の苦しみを体現する地獄をこの世に実現し、全ての衆生を
この”無間地獄”に恒久的に叩き落すことを根本思想とした
宗教のことである。

実は、仏教やキリスト教、イスラーム教の唱える”地獄”
なんてものはだれも見た事がない。もちろん”天国”もそうだ。
まともな神学者なら”天国”が実在するのかを研究したりするの
だろうが、(天国が存在するならそれがどこにあるのかとか)
”地獄”が実在するか、それはどこにあるのかに関心を抱く
人間は実際には少数だろう。
”地獄”なんか実在しても何も良い事ないしね。

ところが、この世に実際に”地獄”(宗教の説く様な)がないことに
実に落胆してしまう変なサディストの人間達がいる。
そういう人達は”じゃあ人工的に地獄を作り出せば良いのではないか?”
と考えるわけだ。
ただこの思想は完全に狂人の考えであり、まともな精神を持った
人間の物ではない。こんなことを考えつく人間が実際に
いたとしてもそのコミュニティにおける例外中の例外だろう。
ところがこの狂った考えが宗教化し、こういった狂人サディスト
達を次々と量産する宗教が”地獄教”だ。

ユダヤ人達に言わせると、昔の古代エジプトや旧ナチ・ドイツ
等でこの”地獄教”が流行った。
当然インドにもある。
中世ヨーロッパのキリスト教にも”地獄教”は存在した。
現在では日本の”地獄教”が恐らくインドと肩を並べて世界で
最も歴史が長いのではないかと思われる。

そういうわけでインドの仏教を勉強しただけでは日本の
仏教=地獄教は全く理解できない。


今まで、日本仏教には全然興味がなかったので勉強して
こなかったが、やはり日本仏教も勉強しなければ
まともな記事は書けないのではないかと最近思う。

そこで、ヒンドゥー教の勉強からやり直して日本仏教まで
勉強しようと思っている。

取りあえず、ヒンドゥー教の”バガヴァット・ギーター”、
”マヌ法典”、”カーマスートラ”は読み終わった。
バラモン教の”ウパニシャッド”も完読した。
今、原始仏教の”スッタニパータ”を読んでいる。
続いて”ダンマパダ”、”大涅槃経”を読んだら、
大乗に移って、”法華経”を始め主要教典を一通り
読むつもりだ。
その後、空海、親鸞、道元、法然、日蓮の
主要著書を読んで、最後に古事記と日本書紀を
読むつもりだ。

なので大変時間が掛かって申し訳ないが
仏教編はもう少し待ってほしい。
仏教編が終わったら、次はユダヤ三兄弟の
研究に入る予定でこれにはタルムードと
ユダヤ・カバラも含める予定だ。

道教から始めてなんでこんな回りくどい事を
やるかというと、やはり世界三大宗教である
仏教、キリスト教、イスラーム教はやはり
先に語っておいた方がいいと思ったからだ。
改運するにせよ、何をするにせよやはり上記
三つは知っておくべきだと考えている。

将来的にはサンスクリット語、アラビア語、古典
ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語も読める様に
ならないとやはりいけないと思う。
魔術師を名乗るのであらば。

後、学生時代に挫折したIT関係も最近再トライしたい
思いがあって、特に苦手だったネットワーク廻りと
プログラミングをやりたい。
Python, Java, C/C++, アセンブリの順がいいらしいが。
(Perlをやるかどうかは迷っている)
昔と比べて資料も充実してきているしね......

しかし、言語ばっかりやっているな......
なんか、いろんな意味で”ウィザード”を
目指している様な気がする......

平日の夜は宗教書を読んで、週末にITを勉強する
計画でスケジュールを組み直してみたいと考えている。



>>ユダヤ人達に言わせると、昔の古代エジプトや旧ナチ・ドイツ
等でこの”地獄教”が流行った。

もしよろしければ出典を教えては貰えないでしょうか?
私も大変興味深いと思いますので……。
ナチ・ドイツに関しては体制支配の為にチベット僧からチベット仏教を通して所謂その”地獄教”を学んだのですかね。気になります。
[ 2013/12/03 01:56 ] - [ 編集 ]
はじめまして
こんばんわ。はじめまして。ねこたと申します。
フェイド大帝の陰謀論の解釈やアニメや宗教の記事など、大変に碩学な方と見えてとてもとても感動いたしました。

フェイド大帝はウィザードを目指してると言われましたが、自分的には魔術を魔術として学び、実践する人をマジシャンで、魔術を修め、更に血肉にな るまで消化した上で様々な諸学を修め、魔術を知識や色々なものと組み合わせて使えるすごい人をウィザードではないかな?と思います。

日本はマジシャンどころかウィザードなんてほとんどいませんけど。

フェイド大帝がゾーハルやタルムードまで読み込まれることに大変感動いたしました。応援しておりますので、よろしくお願いします。
[ 2013/12/04 02:32 ] 魔法使いハンターねこた [ 編集 ]
Re: タイトルなし
どうも、今日は。

> もしよろしければ出典を教えては貰えないでしょうか?
> 私も大変興味深いと思いますので……。
> ナチ・ドイツに関しては体制支配の為にチベット僧からチベット仏教を通して所謂その”地獄教”を学んだのですかね。気になります。

ある特定の書物や著書に拠って......というよりは、
知人のユダヤ人やドイツ占領時代のヨーロッパを体験された方から
直接ヒアリングした情報に基づいております。
ですので、学術的な根拠とかそう言った堅苦しい話ではありません。

旧ドイツ軍に関してはその人の話ですとかなり惨いことも
行っていたらしく......本等には書かれていない様な
生の体験を聞かせて頂いて大変勉強になりました。

まぁ、戦争は人間をダメにするということでしょうか?

昔、見たアメリカのアトランティス伝説の解説ドキュメンタリー
によると、ヒトラーに思想的な影響を与えたのはブラバツキーの
神智学であるとそのDVDでは言っていました。
(すみません。DVDのタイトルまでは覚えていないです)
ブラバツキーは生前、インドにかなりハマっていたようですから
バラモン教やヒンドゥー教の輪廻思想の影響があるのかも
しれませんね。
[ 2013/12/04 18:54 ] フェイド大帝 [ 編集 ]

Re: はじめまして
ねこたさん、今日は。
こちらこそ宜しくお願いいたします。

日本の魔法・ファンタジーの解説本だとカバラの
”天使ラジエルの書”が失われてしまって無いとか書かれていて
悲しいですよね。

実は、アレ、ヘブライ語からの英訳本なら存在するんですけどね......
まぁ、本当に天使から貰ったわけではないと思いますけど。(笑)

> こんばんわ。はじめまして。ねこたと申します。
> フェイド大帝の陰謀論の解釈やアニメや宗教の記事など、大変に碩学な方と見えてとてもとても感動いたしました。
>
> フェイド大帝はウィザードを目指してると言われましたが、自分的には魔術を魔術として学び、実践する人をマジシャンで、魔術を修め、更に血肉になるまで消 化した上で様々な諸学を修め、魔術を知識や色々なものと組み合わせて使えるすごい人をウィザードではないかな?と思います。
>
> 日本はマジシャンどころかウィザードなんてほとんどいませんけど。
>
> フェイド大帝がゾーハルやタルムードまで読み込まれることに大変感動いたしました。応援しておりますので、よろしくお願いします。
[ 2013/12/04 18:59 ] フェイド大帝 [ 編集 ]

ラジエルの書存在するんですか
こんばんわ。お返事ありがとうございます。
へーラジエルの書の英訳存在するんですか。知りませんでした。
しかし、日本の魔術界周辺ってそういったガセネタ多いですね。陰謀論もそうですけど。

ゾーハルはいつかカバラセンター発行のやつに挑戦してみたいですね。本家ユダヤのカバリストの方はタルムードを散々勉強した上でカバラーやるんですし、恐ろしい世界です。
[ 2013/12/04 20:27 ] 魔法使いハンターねこた [ 編集 ]
今日は久しぶりにブログを拝見しました。
たまには格闘技武道ネタもやって下さい。
[ 2013/12/05 09:56 ] 園田 [ 編集 ] ”

「ジョン・カーター」と「まどかマギカ」
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-419.html
“ご無沙汰しております。
PCがぶっ壊れていたので中々更新できない状態でした。

久しぶりに映画のレビューでも...

・ジョン・カーター:

ピクサーの実写映画だったかな? ジョン・ラセター氏の名前が
エンドクレジットで出てたが...
基本的には宮崎駿の「天空の城のラピュタ」のオマージュか?

 ・女が空から落ちてくる→男が受け止める
 ・飛行石みたいなのが出てくる
 ・石が言葉で起動する(バルスーム)
 ・女神の遺跡みたいなのにツタが絡まっている
 ・メインルームがラピュタの中みたい。更に機能は石で起動させる
 ・主人公のおっさんがコナンちっく

もとは小説らしいので... 偶然かもしれませんがまぁラセターさん、
宮崎さんと仲いいみたいだし
何か両者での交流があってもおかしくはないかな。

ところで本題は別の所にあるのですが、この映画、多分訳が
分からない箇所が多いかと...
裏で操っているハゲ達は何者?女神とは何だったの?...

実はこれ明らかにインド・アーリヤ神話群(アメリカ人のお気に入りのネタ)
からインスピレーションを受けている。

インド・アーリヤ(今のイラン辺り)というとインドや中東の
イメージがありますが実は古代では結構広範囲にその文化圏を
広げていたらしく西ヨーロッパのケルト文化圏も
基本的にこの中に含まれていると考えられる。
(モヘンジョ・ダロの粘度筒に掘ってある初期シヴァ神の座禅姿が
 ケルトの神ケルヌンノスにそっくり)
つまりヨーロッパ人(つまりアメリカ人)の遠いご先祖様なんですねぇ〜。
そりゃ映画にもしたくなりますわっと。

で、あのハゲ達は服装からしても分かると思いますが昔のインドの
バラモン僧にそっくりなんですね。
アイルランドの神族の名をトゥアハ・デ・ダナンと呼ぶのですが
これは「女神ダナの息子達」という意味で女神ダナが何かというと
大陸のドナウ川を表しているらしい。
ダナはシュメール(現イラク)の最高神アヌに対応すると
言われていますが
まぁ、モデルは神々の母ティアマットさんでしょう。
アーリアの神話群はゾロアスターのアヴェスターより前の物が
現存しないので(アーリア教は基本的に文字を残さない、
口伝で弟子に伝える風習)
基本的にはインドのヴェーダ教と大体同じだと考えても
差し支えないでしょう。
ちなみにケルトのドルイド教も文字で教えを残さないらしいです。
理由は「文字で書物を残すと弟子が暗記する能力が衰えるから」
だと言われています。

が、こいつらは基本的に「嘘つき」なので本当は自分たちの
貴重な知識を他者(つまり他カースト)
に漏らさないために秘密主義を徹底しているだけの保守主義のようです。
(どこかの国みたいですね)

なぜそう考えるのかというとインドの哲学書で「ウパニシャッド」
という分厚いヴェーダの解説書があるのですが、
そこにはっきりと書いてあるからです。
バラモン達にとって「この世で唯一死なないもの=仏教でいう空」
であると考えられています。
この「空」とは一体なんぞや?というと仏教の小難しいお経が
連想されてそんなの分かんねーよと言いたくなるかもしれませんが
これはそんなに難しい話ではなくて、

 「言葉は空でできている」

と書かれてありますし、インドの医学書のアーユルヴェーダ
には空が何なのかもっと詳しく書いてあります。

ではなぜ人の話す言葉が永遠なのか。

ウパニシャッドには次の様に書いてあります。

 「言葉(知識&経験)は父から子へ伝えることができる。
  つまり子が父の教えを吸収しきれば父親の知識と経験は
  永遠に生き続けるだろう」

だからバラモンさんはヴェーダの丸暗唱を
重視するんですねぇ。

ところでこのウパニシャッドには「神の正体」が
何なのかちゃんと書いてあります。
キリスト教やコダヤ教がもったいぶって「神の隠された名前」
とか何とか呼んでいるやつですね。
神は全能のスーパーマンなので正体なんてわからねーよ
とこうくるわけです。

 「実は神の正体=死」

よく古代の天地創造の際の神格で「カオス」(ギリシャ神話)
だとか、「ユミール」(北欧)、「盤古」(中国)とかの
巨人神が出てきますがこれらの正体も「死」

つまり「創造神=死」

では生命は何故創造神によって作り出されたか。
最もな質問です。
その答えもちゃんとウパニシャッドには書いてあります。

古代インドでは「パワー」とは「相手を食べれるかどうか」
と同義です。
つまりライオンがウサギより強いのはライオンがウサギを
食べれるからです。
人間は基本的になんでも食ってしまうので地上の王者に
ふさわしい理屈になります。
しかし、

 「死はなんでも食尽す」

「死」は宇宙最強なんですねぇ。
で、宇宙創造の時に生まれてくる物を片っ端食ってたんですよ「死」は。

しかしある時気づいたんですねぇ。

 「食うの少し我慢すれば、こいつら増えるんじゃね?
  そうしたらもっと沢山食える!!」

この考え方が根本的にあるんですねぇ。インド・アーリア文化には。
で、困ったことにこの文化を見事に真に受けてしまったのが
アメリカの南部の連中。
だからジョン・カーターさんはバージニア出身なわけです。
あ、ちなみにサークはみたまんま古代インドの腕が
沢山あるアスラみたいですね。

「つまりコツは、飼って、増やして、食う(空う)」

農耕文明のいっちょ上がりです。
カインもアベルを殺しちゃうわけです。

というわけであのハゲ達は自分達のために
(女神「死」に家畜を生け贄として捧げるために)
火星人を飼い殺しにしていたわけです。

余談ですが古代インドやゾロアスター教では火が
とても重要です。
火ってのは地上から天への橋渡しと考えられていました。
火は物質を燃やして「煙」へと変えるのでつまり物質を
空へと変換する機能をもつわけです。
原始仏典にはお釈迦様がゾロアスター教徒の兄弟を
改宗させるエピソードがありますが、大日経の
「一切偏知印」というマークの横にいる二人の男が
そうです。
(ちなみにこのマーク、某秘密結社の有名シンボルマークに
 そっくりです。
 一応某結社が吹聴しているエジプト起源ということで
 ヒエログリフとか遺物品とか調べてみましたが某マークは
 エジプトでは出てきません。
 唯一出てきたのが大日経でした。なぜかな?んん?)
つまり、古代インドでは動物の生け贄を捧げるときは
火に投げ入れていたんですねぇ。
これが現代の仏教の護摩のルーツなわけです。
ちなみに古代ドルイド達は人間の生け贄を藁人形に
つめて燃やしてました。

そんな素晴らしい文化ですから、もちろん現代アメリカ人達の
ハートも鷲掴み(矢と草も掴んでいますが)
「俺たちのご先祖様カッケー!!」
ということで似た様映画が沢山ハリウッドで量産されるわけです。

ちなみに日本では某秘密結社はデマでただの
社交クラブだと言っていますが
ヨーロッパやアメリカでは18世紀ぐらいから
そのクラブに入るのが手っ取り早く
貴族やお金持ちのお友達を増やす手段
として人気だったそうです。
(Facebookみたいですね)
18世紀より前は建築家や彫刻家しか
そのクラブに入っていなかったので
だれも入会しなかったみたいです。
18世紀ぐらいにフランスでエジプト建築ブームが
起きて貴族やお金持ちが
沢山入会したので我も我もとみんな入会したのです。
女の子目当てでギルドに入会するネットゲーマーみたいですね。

で、映画の評論本で「ハリウッドを笑い飛ばせ」という本が
最近出ました。
著者はUCLA(カリフォルニアの有名な映画学校がある大学)の
卒業生で映画監督さんらしいです。
この本の最後に著者の自伝だと思われるミニ小説があります。
内容はUCLA入試〜卒業&その後を語っています。
著者含めて主要人物が4人出てきます。

 ハーバード卒(経営学専攻)の秀才君一名
 元TV局員のマイケル・ムーアにのナイスガイ一名
 北島マヤなみの才能を持つ女優志望のお姉さん一名
 著者と思われる青年一名

この中で明らかに成功するのはハーバード卒の
秀才君だけです。
お姉さんは枕営業で荒んでしまい、
マイケル・ムーア似のお兄さんは才能が
無いとか言って自主退学してしまいます。

でマイケル・ムーア兄さんのその後ですが何と
小説家として成功を収めてしまいます。
その理由が

 「某秘密結社のコネをフル活用した」

はっきりとそう書いてあります。
アメリカでは常識なんですねぇ。

いやぁ、ハリウッド映画は流石奥が深い。参りました。
「素晴らしきかな人生」のような本当に良い映画を
もっと作ってください。

お願いしますよ本当に。キャプラン万歳!
あ、後結婚式シーンはもういいです。コッポラ作品でお腹いっぱいです。
平成ガンダムの偽シャアも結構です。

・まどかマギカ

さてジョン・カーターでの説明が長くなってしまいましたが
ご存知の通り「魔法少女まどかマギカ」最近評論家達に
絶賛されまくって調子に乗りまくっている
虚淵玄原作のリミテッド・アニメです。
ちなみにこの時期放映されたアニメで絶賛されているのは
「ドラえもん新鉄人兵団」、「あの日みた花〜」、
「廻るピングドラム」、「まどかマギカ」
の4作です。ピングドラムはウテナとセーラームーンで
有名な幾原監督作品です。

で、私の結論は「あの日みた花〜」がダントツで(フジテレだけど)
次点でドラえもん、残りの二つは合いませんでした。
ウテナやセーラームーンは好きでしたが
ピングドラムは駄目だったみたい。
ピングドラムもまどかも宗教臭いんですよね。
それも19世紀のアメリカやドイツ辺りで流行ってたタイプの。

特に「まどか」は第一話はリアルタイムで見ましたがあまりにも
出来がショボすぎ...うわあぁっ!!!なにをするっーー!!

だってマミさん歩く時振った手スカート貫通してるやん。
カンベンして。

ですがあまりにも評論家が絶賛するもんで
レンタルショップの料金吊上げるわで
みんな借りまくるしでようやく最後の2巻を除いて
観ることができました。(残りは脚本を本屋で立ち読みしました)

一時期メーソン作品だとか、エンデのネバーエンディング
ストーリーのオマージュだとか言われてた
「まどかマギカ」ですが...

「これ実践スパイ技術ハンドブックが
元ネタやん」

キュウベェはMI6とSASで特殊訓練を受けてたようです。

虚淵玄はガンマニアらしい(マブラブの作者のインタビュー記事によると)
ので上述の本読んでても不思議ではないですね。

ちなみに上述の本はスパイの仕事のマニュアル本なんですが
その内容がキュウベエの行動パターンそっくり。
この本によるとスパイに一番大切なスキルは
「平気でウソをつけること」らしいです。
また、諜報機関の正スパイは決して自分で
作戦を実行しないそうです。
必ずエージェントと呼ばれるその辺のニートを
たらし込んで危険な仕事を全部やらせるそうです。
この「たらし込み」の技術が凄くて魔法少女の
リクルート方法そっくりです。
つまり「まどかマギカ」ってノンフィクション作品なんですね。

ちなみにキュウベェのデザインって元ネタはギーグ様かな?
ゲームブック版のギーグに比べたら小悪党って感じだけど。

あ、あとエンドクレジットのラストで魔女の左目の中を
まどかが赤ちゃん体制でクルクル回っているシーン。
あれ上でも書いたけどゾロアスター教生け贄が元ネタです。
左目ってのはメーソンのプロビデンスの目
(1ドル札の裏のピラミッドアイ)
のモチーフですが、大日経では炎の三角の中を卍が
クルクル回っている図で表されています。
この卍はビシュヌ神の胸毛と言われていますが
要は動物の生け贄ですね。それを火の中に投げ込んでいる。
ちなみにこの卍が左回りか右回りかで意味が異なります。
確か創造or破壊を表しています。
こう考えると旧ナチのハーケンクロイツが
変な方向に傾いているのも中々興味深いでしょ?

つまりあのエンドクレジットは「まどか」という
少女を生け贄にするために
炎の中に放り投げて焼かれている図なわけです。
魔女裁判?犠牲なくしては社会は平和になれない。
まさに「まどかマギカ」のテーマその物ピッタリですね。

あ、あと余談ですが冲方丁との対談本でガンダムの富野監督が
メーソンネタとかアニメキャラとかと現実の区別がつかない
大人(主に政治家と映像業界人を指していると思われる)は
アホだと言っていました。
深い指摘ですね。なんせ100人のアホが本まで
出しちゃうぐらいですから。


*補足:「まどかマギカ」の良い所も挙げておいた方が良いかな...
    リミテッド・アニメでもストーリーと台詞回しに力を入れれば
    話題作を作れることが証明できたことかな?
    セルアニメの場合、動きが減る=枚数減=アニメーターの給料が減る
    があるので一応に良い所とは言えないかもしれませんが...
    3DCGアニメに関してだけ言うとリアルに見せようとすると
    ライティングだとか、テクスチャとかにやたらと投資しないと
    いけないのでその分モーション部分に時間を割きづらく
    なってしまうので...
    昔よく安い制作環境/設備でも脚本&動き(アニメ部分)が
    良ければ傑作が作れるんだっ!!...と師匠が言ってたもんで...”

【ヴェーダ・バラモン教編】輪廻転生の起源【Part4】
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-612.html
“インド系の思想の中に”輪廻転生”という概念がある。
サンサーラだとかカーラチャクラと呼ばれているものね。

普通に日本で暮らしていれば”輪廻転生”というのは
大体”生まれ変わり”の理論だという認識が一般的だろう。
少女マンガやアニメでも良く使われるネタなので
結構身近なテーマなのではなかろうか?

さて、この”輪廻転生”、ちょっと政治学を齧った
インテリ達に取っては、「支配者のための好都合理論」
というふうに認識されている。
どういう事かと言うと、例えば「貴方が貧乏だった」
と仮定しよう。
貧乏であることに不満である貴方は最寄りの「金持ち父さん」
にクレームを付ける。「世の中は不公平だ!」、と。
そこで「金持ち父さん」がすかさず反論する。

「君が貧乏なのは君が前世で悪人だったからだよ。
 逆に金持ちの人は前世で善人だったから金持ちなんだ。
 だから君も今生は我慢して金持ちの人の奴隷をこなして
 いれば、来世は金持ちに生まれるかもよ?」

こんな滅茶苦茶な理論、得するのは現在の権力者達だけだ!
インテリ達はこう唱える。

では、こんな邪悪な思想がインドでどのように誕生したか?


今回はこれを探っていこう。

まず、エコ信者じゃなくても構わないが、

「リサイクル理論」から始めよう。

「リサイクル」というのは使用済みのペットボトルを
再利用したりアルミ缶から新しいアルミ缶を作ったりする
例のアレのことだが、定義としては

「全ての自然現象はある一定のサイクルに従って循環する」

が、適切だろう。

例えば、”水”の循環等が分かり易い。

 ①海水が蒸発する
 ②蒸発した水分が雲になる
 ③雲から雨が降る
 ④雨が地下に吸収され、川に合流する
 ⑤川が海に流れ、また①海水に戻る
 
 以下、繰り返し。

食物連鎖も循環する。

 ①草が生える
 ②牛が草を食べる
 ③人間が牛を食べる
 ④人間が死んで土に還る
 ⑤土からまた①草が生える

 以下、繰り返し。

以上、挙げた例はいずれも初歩的な理科だが、
当然、古代インドでも発見されており、
バラモン達の一般教養の一つであった。

この”循環/リサイクル”という概念はおおよそ
生物であれば植物、人間問わず全てに当てはまる。

バラモン達にとっての関心はやはり「人の一生」だろう。

いくら人類が全ての動物の頂点に立ち、文明の力によって
世界を支配したとしても、いつかは死んで土塊へと戻る。

なぜ人間は死ななければならないのか?

これこそが古代のバラモン達の最大の命題であった。

答えは創造神の正体から辿ると明白だ。

「創造神のエサとして生物は創造されたのだから
生物はいずれ死ななければならない」

ただし、古代アーリア人の様に狩猟で視界に入った動物を
手当たり次第狩って食べていたのでは効率が悪い。

それは創造神も同じだ。

つまり人間や動物を家畜のように飼育し、増やすことはできないか?

そこで、創造神が編み出した最高のシステムこそが

”時の循環=カーラ・チャクラ=サンサーラ=輪廻”なのだ。

人間の一生短しと言えども、誕生してから一瞬で死ぬわけではない。

時にはある一定の速度がある。

つまり誕生してから死ぬまでにある”一定のタイムラグ”があるわけだ。

この”一定のタイムラグ”の中で生物は繁殖行動を取り、
子孫を増やすのである。
創造神のエサとなるために。

ところで古代ギリシャ神話の子供を生け贄にして食べてしまう
クロノスという神が”時の神”であることは興味深い。

また、ユダヤのヤハウェも”産めよ、増えよ”と命令したり、
アブラハムの息子を生け贄にしようとしたりしたことは
興味深い。

この辺りの事情が分かってくると、アベルとカインの物語で
なぜ神はアベルの捧げものを選んだのか明確になってくる。

アベルの捧げものは”動物”。
カインは”野菜”。

つまり”動物”は食物連鎖上、”野菜=植物”の上位に
くる生物である!

即ちヴェーダ教の理論で行けば”動物”は”草を食べる”ので、

当然、草のパワーも吸収して取り込んである。

つまりヤハウェに取っては”野菜”を貰うより”動物”を
貰った方が得なのだ。

以上の事から、バラモン達は人間の肉体もこの”輪廻”の呪縛
からは逃れられず、創造神にひたすら搾取される存在で
あることに嘆いていた。
この苦しみは相当なものである。

宗教というのは得てして、”自分は何のために生まれて来たのか?”
を問うものであるが、

それがただ他人の食料になるだけだなんて!

こんな酷い世の中がどこにある?

そう、輪廻に閉ざされたこの現実世界こそが
地獄の中の地獄なのだ!

では人間に救いはないのか?

そこで思い出して頂きたいのが”アートマン思想”である。

そう、人間の本体は”肉体”ではなく、”魂”にこそあると。

この”魂”とはそもそも何なのか?

この”魂”という”人間”、これは何で出来ているのか?

ここでインド哲学特有の異常な分類作業が生まれる。

魂は視界だ!
魂は味覚だ!
魂は聴覚だ!

等々。

バラモン達が出した最終結論は、

魂とは”息”である!

という結論だ。

これは何故かと言うと、人間は目を閉じたり、耳を塞いでも生きていられるが

呼吸だけは止めたら死んでしまう。


つまり生命の本質とは”呼吸=息”にあるのだ!

ということに気付くのである。

では、この”息”がどうして生まれ変わりの影響を受けるのだろうか?

それは人間自身がその生涯において生命の
本質=魂は”肉体”であると
錯覚してしまうことに
問題があるのだ!

本来、永遠であるはずの人間=息=魂=アートマンが本能的な肉体の
欲望に捕らわれることによって魂が死の際に肉体から離れなくなって
しまうから、輪廻転生してしまうのだ!

え〜い!修行して魂だけの存在になるぞ!

これがヨガの始まりである。


正直、今回の話は非常に重要だ。
これが良く理解出来ていないと、何故仏教が
生まれたのかも分からなくなる。

では、次回はなぜ”ヨガ”をするのかについて考察しよう。


ウパニシャッド―翻訳および解説
湯田 豊

※ちなみに安い文庫版ではなく、高い方のウパニシャッド
 を薦めるのには理由がある。
 文庫版のウパニシャッドは未完全の状態で重要な創造神話
 や儀式、哲学の章が丸ごと割かれている。
 現状の日本ではフェイド大帝が紹介する上記のウパニシャッドが
 一番内容が揃っていて抜けが少ない。英語の分かる方なら
 海外のサイトで無料で入手できるが、和訳がどうしても
 欲しい場合はやはり多少の出費は避けられない。



ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドの創世神話全文公開
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-501.html
“ウパニシャッドというのは古代インドの哲学書。
「奥義の書」とも呼ばれ、基本はヴェーダの解説書でもあります。
言葉的には”近くに座る”という意味が一般的で師匠の側に座って
秘儀を授かるという意味。

そんなウパニシャッド、日本では複数の訳本がある。
高いのと安いのがある。

高いやつは2万5千円以上するので、一般的に入手しやすい
のは文庫系の安いやつだと思います。

「ところが安い文庫はウパニシャッドが全巻載っていない」

またブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドが抜けている場合が多い。
このウパニシャッド、有名人の大哲人ヤージュニャヴァルキヤさんが
活躍するウパニシャッドなのに......
ヤージュニャヴァルキヤは心の哲学とか勉強されている方には
なじみ深い人物だと思います。

皆さんも漫画やアニメで聞いた事がある、「ブラフマン/アートマン」
哲学の大元の人です。

そんな有名なウパニシャッドなのに何故か文庫版では
ことごとく省かれている。
実はブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドにはもう一つ
重要な説話があって、

「それが創造神話である」

インドってのは創造神話のパターンがいくつもあって
中国、北欧神話の様に巨人を切り裂いて天地を作った話や
道教の様に何もない無極から世界が生まれた、世界卵から
生まれた等、世界中の創造神話が集まっているのではないか
ぐらい豊富なのです。
ですから、武術の様にこの創造神話ってのはむしろインドから
世界に広がっていったのではないかとフェイド大帝は考えています。
(実際インド/アーリア人ってのはブリテン島にまで上陸している)

でブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドの創造神話の何が
問題かというと、

「神の正体が何なのかはっきり書いてある」

実はユダヤ教やキリスト教、イスラーム教ってのは
唯一神が何なのか一切教えないんですね。
多分、神様の権威を守るためにわざと教えてないんだと
思いますが。
ただそれがブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドには
はっきり書かれてある。
だから、インド/イラン系宗教に洗脳されやすい日本の出版界ってのは
ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドを闇に葬りたいのだと思います。

そこで、今回はネットにこのブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドの
創造神話を全文載せます。
はっきり言って、この神話を日本国民の目から隠し続けるのは
もはや犯罪レベルと言っても差し支えないぐらいですから。

訳の元本は湯田豊訳版を使います。

以下、本文:
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

初めに、ここには全く何もなかった。まさに死によって、
これは覆われていた、飢えによって。
なぜなら死は飢えだからである。

「私は体を具えるようになろう」と、死は決心した。
そこで死は讃歌を歌いながら行った。
それが讃歌を歌っていたときに、水が生じた。
「まことに私が讃歌を歌っていた時に、私のために水が
 生じた」と。
まさにこれが讃歌の讃歌たる所以である。
このように、この讃歌の讃歌たる所以を知っている人、
その人にはまことに、水が生じる。

讃歌は、まことに、水であった。
そこで水の泡であったもの、それは凝固して大地になった。
死はその上で苦労した。それが労苦によって疲れ、熟した時に、
それの熱=精髄は火になった。

それは自己自身を三重に分けた。
三分の一を太陽に、三分の一を風に。
これが三重に分けられた息である。それの頭は東の方角である。
そして、両腕は南東と北東である。それから、それの尾は
西の方角である。そして、それの両腿は、南西と北西である。
そして、脇腹は南と北である。そして、背は天である。
腹は大気である。胸は大地である。これは水において
確立されている。このように知っている人は、どこへ行こうと、
それが行く所で確立されている。

死は欲した。
「私に第2の自己が生まれる様に!」と。
飢えである死は、その思考によって言葉と性交した。
それの精液であったものは年になった。それよりも以前に
年は存在しなかった。これだけの時間、すなわち、一年だけ
死はそれを保持した。
これだけの時間が過ぎた後で、死はそれを流出した。
それが生まれるや否や、死はそれを呑み込もうとして
口を開けた。
それは”ブハーン”と叫んだ。まさにそれが言語になった。

死は熟慮した。
「まことに、もしも私がこれを殺害するとすれば、私は
 食物をより少なくするであろう」と。
その言葉およびその身体によって、それはおよそここに
存在する全ての物ーリグ・ヴェーダ讃歌、ヤジュル・ヴェーダ
の祭詞、サーマ・ヴェーダのウドギータ、韻律、祭祀、人間
および家畜ーを流出した。
自分が流出したものが何であろうと、死はまさにそれを
喰い始めた。まことにそれは全てを食う(アド)ゆえに
それはアディティと呼ばれる所以である。
このように、このアディティのアディティたる所以を
知っている人は、この一切を喰う人になるのであり、一切は
その人の食物になる。


死は欲した。
「より大きな祭祀によって、私は更に供物を捧げよう!」と。
それは労苦によって疲れ、激しく熱した。それが労苦によって
疲れ、熱した時に、それの栄光=力は立ち去った。
諸生気はまことに栄光=力である。諸生気が立ち去った時に
それの身体が膨らみ始めた。しかし、まさにそれの身体には
思考が存在していた。

死は欲した。
「私のこの身体(死体)は祭祀に適したものになるように!
 この身体によって私は自己を具えるように!」と。
それからその身体は馬になった。それは膨らんだので、
馬祀祭に適したものになった。まさに、それが馬祀祭の
馬祀祭と呼ばれる所以である。
このように馬祀祭を知っているこの人、彼はまことに
馬祀祭を知っている。

とにかく馬を囲い込むことなく、死は、馬を囲い込もうと
考えた。一年後にそれは自己自身のためにそれを屠殺した。
それ以外の家畜を、それは神々に引き渡した。それゆえに
人々はプラジャーパティに属する馬を一切の神々に捧げられた
ものとして屠殺する。

ここで燃えている太陽はまことに馬祀祭である。
年はそれの身体である。この火はアルカである。
これらの世界は、それのもろもろの身体である。
それらの二つは、アルカ(祭火)および馬祀祭りである。
更に、それらはただ一つの神格、まさに死である。
このように知っている人は再死を避ける。
この人に死は到達しない。
死は彼の自己になり、
これらの神格の一つになる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

太字にした所に注目して欲しい。
貪り食う死は”アディティ”である
と説かれている。

「アディティとは大女神ディヴのインド版である」

つまり、東條ミトラ教の最高神の正体は死である!

そしてもしアルティメット・まどかのモデルが大女神ディヴで
あるとすると......考えただけでも恐ろしい!

「オタクが”まどか、まどか”と騒いでいる場合じゃない」
「お前ら喰われるぞ、まどかに」

日本のアニメ/コミック業界が広めようとしている
女神信仰、これの正体のおぞましさが理解できましたかな?



はじめましてムックと言います。
今このアニメコミック陰謀論を読んだのですがこれまた興味深いですね。
ミトラ教というのはよくわからんのですがかなり危険な宗教なのですか?
まあ軽くここを読んだ感じですとオカルティックな話だなあと思うのですが
この人達の目的というのが今ひとつわからんのです。
仮にアニメコミックを通してこの宗教の教えを広めたとして具体的に何に
なるのかなあって………

大女神ディヴ=死と解釈するなら人類皆死ぬってことですかね?
私はまどマギはよく知らんのですが制作チームにオカルト信仰者がいて
作品内にその要素を散りばめた所で視聴者にそこまで影響を与えるとは思えないのですが………

仮にこれで洗脳されたとしてもその洗脳力は弱そうですし本気でやるならもっと効率的なやり方があると思います。
結局作品内にオカルト要素を入れてるのは製作者の自己満足であり我々が懸念剃る必要などないでしょう。

ただこういう見方自体は面白いと思います。
私自身陰謀論は嫌いではありませんよ。
[ 2013/07/28 06:12 ] ムック [ 編集 ]
Re: タイトルなし
ムックさん初めまして。
コメント有り難う御座います。

”陰謀論”という書き方をしてしまいましたが、
アニメやマンガに於いてオカルト的な情報や図柄を
入れるのは実際には験担ぎみたいなものだと思います。

フリー・メイソンのシンボル群というのは元々西洋魔術
が起源でして、神社のお守りの護符とかと似た様な物です。
一番最初にアニメ業界やマンガ業界でこういったシンボルを
導入したのが誰かは分かりませんが(多分ディズニーだと思います)
フリー・メイソンのシンボルを入れる事によって作品がよく
売れるかもしれないというような業界慣習があるのではないかな、と
思っています。音楽業界も同じだと思います。

特にこれで誰かを”洗脳”しようだとか、世界を支配してやろう
というような深い意味では使っていないと思います。

まどマギに関しては元々の題材が”魔法”少女物なので
”魔法”の世界観を演出するために美術監督辺りが
フリー・メイソン等の西洋魔術のデザインを
参考にしただけの様な気もします。

ただ、傾向的にこういったデザインを活用する
クリエイターさんが多い様な気はします。
まぁ、日本は信仰の自由が保証されている近代国家
ですから、中には”ガチ”でこういうオカルト思想に
ハマっている人が制作者の中にいたとしても不思議では
ありませんが。
[ 2013/07/28 14:33 ] フェイド大帝 [ 編集 ]
返信ありがとうございます。

験担ぎですか……確かにそういうものにハマっていれば十分ありそうですね。

>特にこれで誰かを”洗脳”しようだとか、世界を支配してやろう
>というような深い意味では使っていないと思います。

まあ実際こんなこと考えてるならもっと効率的な方法がありますからね。
視聴者の限られる深夜アニメで洗脳するったって費用対効果が悪すぎるでしょう。

>フリー・メイソン等の西洋魔術のデザインを
>参考にしただけの様な気もします。

陰謀論やオカルト好きのスタッフが面白半分にこういうネタをいれたらネットでメーソン作品だなんだと騒がれてしまったなんて例もありそうですね。

メーソン作品と言えば以前テレビ東京でエヴァとメーソンのつながりを指摘する番組があったようですがこれって実は日テレにエヴァを奪われたテレ東によるちょっとした嫌がらせとかだったんじゃないでしょうか?

まあ元々エヴァはこういうオカルトアニメの筆頭みたいな感じですが………


>まぁ、日本は信仰の自由が保証されている近代国家
>ですから、中には”ガチ”でこういうオカルト思想に
>ハマっている人が制作者の中にいたとしても不思議では
>ありませんが。

まあ製作者が何教徒であろうと人様に迷惑をかけたりしなければ問題はないと思いますが最近のアニメって昔に比べて随分あからさまにこういうのを全面に出しますよね。昔は出したとしてももう少し薄っすらとしていたように感じますが…………

これはどういうことなんでしょうか?
制作チームにおけるオカルト信仰者が昔より増えたとかそんな感じですかね。
それともお上のご命令?
[ 2013/07/28 18:55 ] ムック [ 編集 ] ”


カント「道徳形而上学の基礎付け」、ニーチェ「道徳の系譜学」読了
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-503.html
カント「道徳形而上学の基礎付け」、ニーチェ「道徳の系譜学」を読んだ。

その名の通り、道徳の本です。
何でこんなものを読んだのかというと、近所の本屋さんって
大体サンデル教授の本置いているんだよね。そうそうハーバードの
白熱教室の正義論の先生ね。
ブームはとっくに去ったと言えどもいまだに田舎の本屋では
現役みたい。
で、ロールズの「正義論」もゲットしてあるんだけどこれに入る
前にカントとニーチェを読んでおこうというわけ。

まっこうモグラさんの所でもカントの道徳学は扱っていたので
陰謀論の解釈にも役立つかと思って。
ロールズの本読んだら最終的にはサンデルの主著を読んでおこうと
思っている。

とりあえず、また小説作法本の続きに入る前に東條ミトラ教の
聖典なる”ケウル”をゲットできたのでこれをまず読んでみようと思う。

一応要約すると、

 ・カント: 善というのは善い意志とかいうのから発生する。
      問題は、社会にその善を浸透させるにはルール作りが必須。
    そのルールというのは個人の欲求(欲望)が絡んではダメで
      かつ全ての構成員にとって普遍的なルールじゃないといけない。
      →論理思考で普遍的な道徳ルールを作ろう!という結論。
      問題はこんなことが実際に人間にできるかどうかという所。
      人間はロボットじゃないんで、どうしても主観(欲求)が
      絡まざるを得ないのではないかと。
      この場合、まっこうモグラさんの解釈のように、
      「人民はバカ」という結論にならざるを得ない。
       バカな人民を指導する”イルミナティ”さんが必要だという
       理屈ね。問題は”イルミナティ”さんも人間が構成員のはずなので
       結局バカしかいないんじゃないの?というツッコミが生じる。

 ・ニーチェ: 個人的にニーチェってただのDQNだと思うのだが......
        隠喩が多くて読みづらいのよね......
        ともかくニーチェが言うには古代と現代で善の定義が
        180度逆転していると説いている。
        古代では強い人間の行動が善で、こいつらが弱者を
        痛めつけることは自然の弱肉強食に忠実に従っている
        だけだから、自然界においての善そのものである。
        ところがイジメられていた連中がルサンチマンから
        強者の暴力行動を”悪”とみなした。
        逆にイジメられている人達こそ”善”だと。
        この理屈を世間一般に広めたのがキリスト教を
        初めとした隣人愛や神の犠牲を必要とする大宗教。
        ところが人間は動物の一員なのでいくら理屈で飾ったとしても
        生きるためには誰かをイジメて優越感を感じないといけない。
        しかし他者をイジメるのは宗教で禁じてしまったので
        じゃあ”自分”をイジメればいいんじゃね?
        この行為がニーチェの言う”道徳”。

ニーチェはキリスト教的な犠牲神を否定しているので
こう考えてみると”まどマギ”をニーチェ的と評論した
レビューがいかに頓珍漢か分かるはず。
まぁ、アニオタもネットの検索情報だけじゃなくて
ちゃんと本人の著作を読みましょうってことかな?


インド宇宙論大全
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-605.html
Amazonのアフィ機能で、自分の設定したショップで商品が
紹介出来る機能がある。
この機能を使って、フェイド大帝が蓄えた膨大な書物や、
マニアックなアニメ、漫画等を皆さんに紹介していきたい。

今回は初めてなので、テストも兼ねた投稿です。
インド宇宙論大全
(2011/01)
定方 晟

商品詳細を見る
バラモン教から大乗仏教までジャイナ教も含めた古代インドの宇宙論を詳細に
紹介した本。
シュメール山(仏教の須弥山)というデッカイ山を中心に世界が出来ている
という理論の大本がこのインドの宇宙論にある。
北欧等の世界樹、イグドラジルも恐らくイランの世界樹思想から来ているのだろう。
イランのアーリア人と兄弟のインド・アーリアでは樹木から山に代わっただけだ。

○○ユガ等の天文学的な数字が特徴の古代インド。本書を読めば、実は結構いい加減に
決めた数字だと分かる。(笑)
 現代の新興宗教やスピリチュアル業界では古代インド人の考えたこれらの数字を
過剰に取り上げスゴイ知識等と吹聴する。
この本を読んでいればそれらの嘘を簡単に見破ることができる。


フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 5月2日
あの豚を飼ってる村の話は、そもそも 豚肉を食べちゃいけないユダヤ教で、 なぜ豚を飼っていたのかという所なんだと。

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 5月2日
え〜い、フェイド大帝が安上がりな お札や、藁人形のエネルギー補充の 仕方を教えちゃる! 神棚とかお供え物するだろ? まぁ、塩、水、酒、水なら お金かかんないし〜 と思うかもしれない。 実はあれ、月光に晒す事によって チャージ出来る様に中国道教 では出来ている。

正にソーラーエネルギーならぬ
ルナエネルギー!

あの怪しい雑誌で満月の夜に財布
を振ると金運が上がるという呪いも
こっから来てるのでは?

ちなみにここだけの話だが、
藁人形やヴードゥードール等の
ヘキシングドールは実は徒歩で
ターゲットまで移動するらしい。

そこでワープゲートを開くお札というのが
道教にあるのだが、これを隣に
置いとくと人形が疲れなくていいらしい。

藁人形は強力なので、これの具体的な
作り方は伏せとくが、代わりに相手の
呪術から身を守る簡単な方法を
教えよう。
道教から取り入れたフェイド大帝流魔術
の基礎だと思ってくれ。

厨二病の好きな「真名」こいつの
作り方と活用法を教えよう。

まず、なんでも良いので、自分の守護神
を想像する。これは仏でも、イエスでも、
天照でも、初音ミクでもいい。

要は、宇宙のパワーを貸してくれる
すごい神霊であれば名前はなんでも
いい。

ところで、気功やヨガは自分を鍛えて
パワーを発揮する技術だが、魔術というのは
神霊の力を借りる技だ。
だから霊が強力であるほど強い術が使える。
なので原理的にはヨガや武術みたいに
自分を鍛えなくても使用出来る理屈に
なっている。

取り敢えず、ミクを想像したとしよう。

次にミクと精神的に繋がった状態で
何か「音」を無意識に想像する。

その「音」を文字に直せば「真名」
の出来上がりだ!

「真名」は貴方とミク神との唯一の
秘密の繋がりだ。

道教のお札を有効化するには
実は神霊の承認がいる。
会社で言えば社長のハンコみたいな
感じだ。

実は道教のお札というのは
最後に朱でハンコを押す。
このハンコの作り方はミク神に
教えてもらうしかない。

あるいは先輩で同じミク神を
信仰している人から

ハンコを貰ってくる。

で、この「真名」だが、これは
絶対に他人に教えてはならない。
親にも教えてはならない。

なぜかを説明しよう。

実は魔術では人や物の「名前」と
言うのは非常に重要である。

旧約聖書でもアダムは動植物の名前を
つけるし、そもそもヤハウェも本名は
教えない。

実は相手に術を掛ける時、相手と自分を
神的な回路で繋ぐ必要がある。
そう「魔術回路」だ。

そこで基本的には相手の名前が
分かっていると、この回路を
繋ぐ事が出来る。

だから自分の本名が相手に知られていると
術が掛け放題なのだ!

こんなの厨二病の妄想だ!と
思わないで欲しい。

例えば、貴方の戸籍上の名前である。
恐らく貴方のご両親が付けた名前だろう。

実はこの名前、本来はただの音声でしかない。
ところが、貴方の両親や知人が繰り返し
赤ん坊の貴方にこの音声を発する事によって

貴方はこの音声を特別な物として
自己と結びつけてしまう。

例えば、誰かが貴方の名前を叫んだら
貴方は振り返ったり、反応するだろう。
最悪の場合、名前を呼んだ人の下に
歩いて行ってしまうかもしれない。

これは一種の「召喚魔法」である。

従って貴方の名前を知る者は、ある程度
貴方を支配出来る理屈が魔術には
存在する。

だから魔術師は戸籍上の名前とは
別の本名を作成するのだ!

貴方に「真名」があれば、例え
相手の魔術師が貴方の戸籍上の
名前を知っていても術はかけれなくなる。

この「名前魔術」の恐ろしい所は
相手が魔術師でなくとも無意識に
この術を貴方に掛けれるメカニズム
になっている事だ。


例えば会社の同僚が貴方を妬んでいたと
しよう。実はその同僚が貴方の悪口を
心に想像したり、声に出す事によって
この術は原理上発動する。

つまり貴方を嫌いな人が多ければ
多いほどこの術は更に凶悪な呪い
を貴方に掛けてしまう事になる。

そう言った意味でも「真名」の設定が
魔術の実践上、如何に効果的か
お分り頂けたと思う。

ちなみにこの術、道教では入門してから
一番最初に教わる術だとのこと。

以上、フェイド大帝流魔術の基礎終わり


帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 5月2日
@FeydoTaitei フェイド大帝の慧眼ツイートに感動。ルナエネルギーって某ファンタジー小説で魔術師の使う力に月の影響が露骨に出て、月から力引き出すネタ元はこれですか。


フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 8月5日
しかし、セム系は酷いですね。聖書の文法や単語の綴りとかワザと
間違えてますからね。カバラ解釈しやすいように。

ねここねこさんにも教えたかったのですが、 ワザと綴りとか文章持って来る順番とか間違えているんですよね。 創世記の1章と2章で創造の順番が違うのも全部意味があったりします。

もっとも、本当に間違えていて、後世のラビ達が力技で無理矢理
解釈をつけただけかもしれませんが。(笑)

セム系の特徴というか、書物の原典よりもラビとかの注釈や解釈の方が
重要なんですね。やっぱりプロの解説がないとさっぱり分からない。
アーリア系のヴェーダとかも同じ仕組みですけどね。

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 8月6日
@lanekota @FeydoTaitei 有難うございます。わざと矛盾する記述を残す(聖書原理主義否定)+本当に間違えた箇所=教師前提(独学不可)の宗教。子音表記の時点で暗号。裏目に出て本来の読みを失伝。母音記号のニクダーを使うようになる。日ユ同祖論(笑)は聖書の無謬が前提。

ぐだトマト‏ @pteras14 5月13日

ぐだトマトさんはね、
何か大切なものを「生贄」に捧げなけれ
ば成立しないベルセルクみたいな
システムはね、結局「地獄」しか
生まれてこないと思ってるんだ。

やっぱりね、刃牙のガイアみたいに
自分を痛めつけないで綺麗なまま
強くなる方法を模索すべきだと
思うんだ。
0件の返信 6件のリツイート 10 いいね
ねこた‏ @lakudagoya 5月13日
返信先: @pteras14さん

なるほどです。旧約聖書もストア学派のモロにバラモン教のパクリ要素がありますね。

地獄にしても、不条理も神の意志ってストア学派も行ってますし。

やはりアーリア系は避けて通れません。

バラモン教由来のものがある限りこの世は地獄思想が消えないわけで。
0件の返信 2件のリツイート 4 いいね
ぐだトマト‏ @pteras14 5月13日
返信先: @lakudagoyaさん

だって元ネタのバラモン教の
神が「死」ですから……
「地獄職人」から産まれる物は
常に「地獄」ですよ。
1件の返信 2件のリツイート 4 いいね

ほしいもさんがいいねしました
ぐだトマト‏ @pteras14 5月13日

FGOにガチャが永遠に存在する通り、
「地獄」も「地獄職人」が存在する
限り永遠なのさ!

「課金」か「破壊」かの違いでしか
ない。時々、星5が出てくるから
「創造」している様に錯覚してる
だけさ!

#FGO
#FateGO
0件の返信 2件のリツイート 5 いいね
ぐだトマト‏ @pteras14 5月13日

そう!「何かを犠牲にして」、
その等価交換としてしか存在しえない
この「世界」。
そんな邪悪なシステムに名を付けると
したならば……

そうだなぁ、「地獄」辺りが妥当
なんじゃないかな?

人理修復など所詮は「地獄職人」の
戯言のお遊戯さ!

#FGO
#FateGO
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ぐだトマト‏ @pteras14 5月7日

やっぱり、地獄主義者だって
言っただろう?
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т. игарасиさんがいいねしました
ぐだトマト‏ @pteras14 4月20日

そういやー、ト○タも下請けに
ランキング付けて殺し合わせるのが
好きだと聞いた事があるな。
正にマシリト的発想だ。

この発想から生まれるのはヒット商品
じゃなくて、ただの地獄。
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ぐだトマト‏ @pteras14 4月10日

う〜ん、上司がハイパーリンク地獄を
お見せしよう!とか言ってるけど、
確かにいつもバグる訳ではないから、
1〜2行ハイパーリンク貼って「ほら!
動くでしょ?」って言われても困る。
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ぐだトマト‏ @pteras14 2月27日

じゃ?辞めれば?
って話だけど、そう簡単じゃない。

辞めたら地獄が存在しない事を
証明してしまうからね。
そうなったら創造神の怠惰を赦した
事と同義だからね。

彼らは絶対に赦さない人達なんだ。
0件の返信 2件のリツイート 2 いいね
ぐだトマト‏ @pteras14 2月27日

ネバーランドも実在しないでしょ?

マイケル・ジャクソンみたいな
お金持ちが自腹で運営して初めて
存在しうる儚い存在なんだ。

きのこ達も一緒で「何で俺達の金で
地獄を運営しないといけないんだ!💢」
と怒ってるのさ。
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ぐだトマト‏ @pteras14 2月27日

地獄主義者は「喜ぶ」人達じゃないんだ。

常に何かに対して「怒ってる」人達
なんだ。

何に怒ってるかって?

子供の時に絵本で見た「地獄」が
実在しなくて、自分達で運営しないと
「地獄」が存在しえない事に疲れた
大人達なんだ。
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ぐだトマト‏ @pteras14 2月27日

「地獄主義」の注意点はね……

「この世に地獄を再現する事に喜びを
感じる性質を持った人達」
の意味じゃないんだこれが。

「地獄が存在しない事に対して創造神
の無責任に対して憤りを感じる人達」
の事なのさ。
0件の返信 2件のリツイート 4 いいね
ぐだトマト‏ @pteras14 2月27日

きのこ達は自分達の事をフォークを
持った地獄の釜底の小悪魔だと
妄想してるのさ。
霊魂レベルで人間をイジメ抜かないと
我慢出来ない性質なのさ。

これは何主義と言うんだろうね?

あえて名称を付けるとすると
「地獄主義」かな?
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Ignaveさんがいいねしました
ねこた‏ @lakudagoya 2016年8月13日
返信先: @pteras14さん

とまーてさんの解釈はいつもながらナイスですね。

神の法を制定してるのは逆に権威を作らないためなんですよね。

だから異端審問やっただけで地獄行き確定。

そのあたりの事と、神の法を根底から覆すことが社会の破壊行為だとわからない騎士様なんですよね。
1件の返信 4件のリツイート 2 いいね
ぐだトマト‏ @pteras14 2016年8月13日
返信先: @pteras14さん

これも実際に実践出来てるかと言うと
出来てないわけ。
これも「人の限界」ってヤツ。

つまり「人間は愚か者」ってわけさ。
だから死後、地獄に落とされる奴が
絶えないわけなのさ。

#FateGO
#FGO
1件の返信 2件のリツイート 1 いいね
ぐだトマト‏ @pteras14 2016年8月8日

で、ギターもピアノも出来ねーから
オカリナの出番ってわけだ‼︎

これが通訳案内士、QC検定二級、
国内旅行と重なるっていう地獄だ‼︎



ぐだトマト‏ @pteras14 2016年6月26日
返信先: @pteras14さん

問題は聖書の言う正しい北極星座が
小熊の次のケフェウス座なのか、
バビロニア最古の牛飼い座(バビロニア
時代は羊飼い座!)なのかどうかだ。

牛飼い座が次の北極星の座に就くのは
数億年後。牛飼い座だとすると
数億年地獄のロールプレイを奴等
続けるつもりか?w
0件の返信 4件のリツイート 2 いいね
ぐだトマト‏ @pteras14 2016年6月24日

いや、これからヨーロッパの
バルバロイ達は聖書の予言を
一個ずつ実現させてくんだよ。
泉パウロが言う様にね。
「地獄の苦しみを味わうけど絶対
死なせない病気」も絶賛開発中!w




@kikuchi_8
@kenkatap
ーーーー



お読みください感謝
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会話などとにかく使える話のコツまとめ 

TED日本語 - ジュリアン・トレジャー: 人を惹きつける話し方 | デジタルキャストhttp://digitalcast.jp/v/20593/
オススメTEDの紹介⑤|人を惹きつける話し方とは (Julian Treasure)
http://rocketfuel.blog.fc2.com/blog-entry-17.html
”≪7つの大罪≫
● Gossip (うわさ話)
● Judging (批評)
● Negativity (ネガティブさ)
● Complaining (不平)
● Excuses (言い訳)
● Lying (脚色・誇張)
● Dogmatism (独善的になり事実と意見を混同すること)

gossip.jpg


これらの7つの悪習慣を絶ち、代わりに、話す際に4つのことを念頭におくべきだと言っています。英語の頭文字をとって、「HAIL」と呼んでいます。

≪HAIL≫
Honesty (正直さ) 真実を話し、素直で明快であること
Authenticity (素直さ) 素直でありのままでいること
Integrity (誠実さ) 自らの言葉のままに有言行動し信頼されること
Love (愛) 皆の幸せを願うこと


integrity.jpg


そして、最後に伝え方の重要性を説いており、上手な伝え方をするために「喉」を最大限上手く活用することが求められます。この喉の活用法を彼は「6つの道具」と読んでいます。

≪6つの道具≫
Register (声域)
Timbre (声の質感)
Prosody (韻律)
Pace (ペース)
Pitch (音高)
Volume (声量)”

 











本当に治したいなら「やるべき、やるなリスト」を作成、印刷、録音、音読しまくって潜在意識まで吸い込んで実践すること。


録音機は救世主。スマホにあるよね。
自分の声を聞いて自分の話す速度と、内容が相手に理解できるものかを客観的に見てみよう。

人に嫌われたり、陰で笑われたり、軽蔑される方法。
相手の話を、決して長く聞くな。
終始自分のことだけをしゃべれ。
早口でしゃべれ。
相手が理解できない用語を使いまくれ。
すぐに相手の話をさえぎれ。
相手はこちらよりも頭の回転が鈍い、下らないおしゃべりをするなと常に思え。
話の途中で遠慮なく口をはさめ。



ーー



峨骨‏ @Chimaera925 1月28日
ちなみに、俺のピューターフラスコには菜根譚の一節が目立たないように彫られている。自分で彫ったのだけれども。

爽口之味、皆爛腸腐骨之薬。五分便無殃。
快心之事、悉敗身喪徳之媒。五分便無悔。

”白文


爽口之味、皆爛腸腐骨之薬、五分便無殃、快心之事、悉敗身喪徳之媒、五分便無悔。



訓み下し文


爽口の味は、皆《みな》爛腸腐骨《らんちょうふこつ》の薬なり。五分ならば便《すなは》ち殃《わざは》ひは無し。快心の事は、悉《ことごと》く敗身喪徳の媒《なかだち》なり。五分ならば便ち悔いは無し。

語釈(全訳『漢辞海』第三版から)

・殃…(名)①災難。災害。わざわ-い・ワザハ-ヒ。
・媒…(名)②なかだち。 (イ) 物事が発生するための誘因。てびき。”
http://s.webry.info/sp/phillipbauer.at.webry.info/201702/article_9.html


14個の身も蓋もない仕事の法則
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080410/1207806673
” 「単なる知り合い」と「人脈」は全くの別物である。人脈とは、自分のことを高く評価してくれる権力者のことである。
20代の時にあちこちに恩を売りまくっておけ。そいつらはいろんな組織で成長して権力を握り、30代半ばには、強力な人脈になる。
自分とは違うタイプの優秀さを持った人間を「無能だ」と決めつけて切り捨てるのは、致命的な機会損失である。
客観的なビジネスプランはたいてい役に立たない。自分の熱い主観を企画書にぶち込め。
みんなの良い意見を集めても魅力的な企画にはならない。優れた企画は、たいてい誰かの個人作品である。
目下の人間にも、上司に対するのと同じだけ敬意を払い、「さん」付けで呼んでおけ。自分の部下を「君」付けで呼んでいると、そいつが抜擢されて自分の上司になったとき、「さん」で呼ばなければならなくなるという屈辱を味わうことになる。
ほとんどの人は、建前ばかり並べて会議をするので、思考力が失われ、無難で退屈な結論にしかたどり着けない。
プライドも建前もかなぐり捨て、身も蓋もない真実を徹底的に追いつめると、人々の感動を生むビジネスプランが出来上がる。
魂を込めて濃い本を書くと、それは転職の時、強力な名刺として使える。
ほとんどの人は「会社がお金を儲けること」へのこだわりが薄い。だから、「会社がお金を儲けること」にこだわって仕事すると、上司からも会社からも高く評価される。
「ほとんどの人が疑わない常識」を疑うと、大量のビジネスアイデアがあふれてくる。
「好きなことをやる」ことではなく、「やりたくないことをやらない」ことを優先しろ。
講演をすると、ヘッドハントの手紙、メール、電話が来る。
自分の欠点だと思っていることが、他人から見ると長所になることは意外に多い。たとえば「自分の意見をもたない」人が「他人と衝突しにくい」という点が評価されて、組織の長に抜擢されたケースがある。


女性社員(のうち非論理極まりない社員)対策にもなる、男女問わず需要ある内容↓

女の子に好かれるための基本原則
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080810/p1
” ●相手の女の子がしゃべりたいことを察知し、それを女の子がしゃべるように誘導してあげる。

●女の子が何をしゃべりたいかは、その女の子自身が気づいていない。これを女の子自身よりも先に気づいてあげる。

●会話の辻褄や一貫性は敢えて無視する。論理的に正しいことではなく、女の子が楽しい気分になるように会話を誘導する。

●女の子は一方的に話す男が嫌い。自分がしゃべっている最中も女の子の表情を注意深く観察し、少しでも退屈していたら、話の途中でも敏感に話の展開を変化させる男が好き。

●女の子は、抜け目のないだけの男は嫌い。女の子にあっさりやられてくれるような、どこか抜けたところのある、おおらかで人のいい男が好き。

●女の子は、頭で考える男が嫌い。腹やハートで考える男が好き。

●女の子は、口でしゃべる男が嫌い。女の子は、腹やハートから言葉を放つ男が好き。

●女の子は、単に明るいだけのバカポジティブ男は嫌い。絶望も苦しみも血を流しながら感じ取り、逃げずに真正面から引き受けた上で、陽気、建設的、未来志向、もしくは、深い自己了解や自己解放をもたらすような話をする男が好き。

●女の子は、愚痴、悪口、泣き言を言う男が嫌い。

●女の子は誰かを見下したり、嘲笑したり、貶めたりする男が嫌い。

●女の子は「オレはダメな男なんだ云々」と自己卑下・自己否定する男が嫌い。(さんまのように、ジョークやネタとしてやるのはよい)

●女の子は、自分が優しいことをアピールする男が嫌い。本当に優しくないとできない気遣いをする男が好き。

●女の子は、自分が頭がいいことをアピールする男が嫌い。本当に頭が良くなければ出来ない気の利いた会話や思慮深い段取りをする男が好き。

●女の子は、しゃべる価値のないことをしゃべる男が嫌い。何かをしゃべるときは、それがホントにしゃべる価値のあるセリフかどうかを見極めてから口に出す。

●女の子は、女の子の言葉の表面上の意味ではなく、その裏に横たわる気持ちや意図や事実関係をくみ取ってくれる男が好き。

●女の子は、女の子の言葉を奇想天外な面白解釈してツッコミを入れてくれる男が好き。(ただし、女の子を持ち上げるような愛のあるツッコミでないとだめ。ハズしたときは、すかさず自分ツッコミして笑いを取る。)

●相手の女の子がしゃべっているときには、女の子がしゃべっている内容に反応する形で、自分の表情を繊細にコントロールして共感、驚き、無表情等をしてみせる。

●自分がしゃべっている時も、自分の言葉に表情をシンクロさせたり、わざと言葉の内容と表情をミスマッチにして笑いを取ったりする。

●普段から、鏡を見て、さまざまなバリエーションの、味のある表情を出す訓練をしておく。

●女の子は、学歴、社会的地位、読んだ本をさりげなくほのめかす男が嫌い。まるでなんの本も読んだことがないかのように、日常の言葉だけで、なにげなく女の子の気持ちに届く言葉を放つ男が好き。

●女の子は、それとなく余裕をアピールする男は嫌い。本当に余裕があり、余裕が自然とにじみ出てくる男は好き。

●女の子は、金持ちでも貧乏くさい男は嫌い。貧乏でも気前のいい男が好き。

●女の子は、筋肉が衰えて、立ち居振る舞いがだらしない感じになっている男が嫌い。立っても座ってもしゃきっとした印象になるくらいには、全身をバランス良く鍛えておく。

●「その女の子自身が気づいてない、その女の子が欲しいモノ」を見つけ出して、プレゼントしてあげる。これをするには、その女の子を普段からよく観察する必要がある。

●女の子はだらしない服装の男が嫌い。しわしわの服やちぐはぐのカラーコーディネーションの服は着ない。

●女の子は、女の子でなければ気づかないことを気づく男が好き。

●女の子は不潔な男が嫌い。毎日入浴し、歯を磨き、清潔な服を着る。

●女の子は、途中、どんなに醜態をさらしても、最後の最後には自分の内なる道徳律を貫く男が好き。

もちろん、自戒を込めて。”















































峨骨‏ @Chimaera925

気を付けの姿勢で礼をするのは当たり前の事だし、休めの姿勢は体を休める姿勢でもない。正しい立ち方の基本をやってこなかったから、少し気を付けの姿勢を取っただけで疲れるのだ。慣れれば何という事はない。緊張感もなくダラダラと形だけの礼をされるくらいなら何もしない方がマシだ。

ここ数年ヘッドバンギングしていないせいか肩こりが酷い。ボーカルトレーニングで鍛えた首が衰え気味だ。オーソドックスな縦のヘッドバンギングは正しい姿勢でやれば僧帽筋が鍛えられる。首を振りながらブレずにメタルシャウト出来ていれば体に無駄な力が入っていない理想的なフォームだ。




峨骨‏ @Chimaera925 13時間13時間前
老化の予防は何か飲み食いする事よりも呼吸が大事。呼吸は燃焼、酸化でもあるから過ぎてもいけないし、不足すると老廃物が蓄積する。脳を冷やす上でも呼吸は重要だな。汚染された空気の場所では呼気による暴露のリスクが高まるから、最大効率にはできないが。場面や目的による使い分けが重要だ。
基本はゆったりした腹式呼吸。呼吸を前回りで回すか、脊椎に沿って回すか、これは向き不向きの個人差があるだろうな。早い呼吸は老化を早めるのではあるまいか。激しい呼吸をして心拍数を高めるスポーツ選手は老化が早いように見える。俺のこれは仙道も入っていたりする。




”ドラゴン語ではその一語一語に力が宿っている。
スゥームは声を発動の鍵としており、それ一語だけでも力を発現できるが、単語を三つ合わせて一セットとして発音することにより、真の力を発揮する。

使用者によっては強大な力となり、ノルドの英雄タイバー・セプティムもスゥームの強力な使い手であった。
その力はタイバー・セプティムがドラゴン語でなにか話すだけで雪崩を引き起こす、山一つ動かせるほどだったとか。

作中ではスカイリム最高峰の中腹にある修道院「ハイフロスガー」において、グレイビアードと呼ばれる修行者達によって継承されている。
グレイビアードは4人いるが、彼らの長であり、定命の者にスゥームを授けた「パーサーナックス」は、頂上にある「世界のノド」で瞑想を捧げている。
かつて、彼らグレイビアードがスゥームで予言を行った際には、山のふもとにある村が消し飛んだという。この為彼らは下界に干渉する事をよしとせず、瞑想と修行に多くの時間を費やしながら、参拝者による寄進に支えられて生活している。

ただしスゥームを覚えるのは容易ではなく、扱いを知らぬ者がただ発音だけまねても効果はない。また、一語習得するだけでも数年という時間を要するため、様々な言葉を習得した達人クラスになるのは至難の業である。
作中では反乱軍を率いるウィンドヘルム首長、ウルフリック・ストームクロークが厳しい修行の結果、「揺るぎなき力」のスゥームを体得している。

ただし、竜神アカトシュより祝福を受けた「ドラゴンボーン(竜の血族)」は、定命の者でありながらドラゴンの要素を持っているため、上記の難度に当てはまらない例外的な存在となる。…
人間が作ったシャウトでもドラゴンなら使えるのでは?
シャウトの基本は「概念を理解している」ことである。
知識だけ持っていてもその意味を理解していないと扱えないため、たとえドラゴン語とシャウトの本家であるドラゴンだろうと、理解していないもの/理解できないものを習得することはできず、会話で用いる言葉ぐらいにしか使えない。
例えばドラゴンを空から叩き落とすシャウト「ドラゴンレンド」には定命・有限を意味するJor(ジョール)という言葉が含まれているが、不死の存在であるドラゴンには、人間/エルフなど生物がもつ寿命や有限という概念への理解がないため、シャウトを放つどころかその前の段階から不可能なのである。アルドゥイン側よりも人間達を理解しているはずのパーサーナックスでさえ、定命という概念について「我らには理解できない概念」と語っている。”







峨骨‏ @Chimaera925 2016年6月21日

つまみは蕎麦の実を茹でて水で締めたヤツ。出汁をかけて食う。蕎麦の実は安心の輸入品。
あー、そうそう、夢をメモしておくのも面白い。目を開けると忘れるから枕元に紙とペンを置いておいて手探りで書く。気が狂うらしいからお勧めはしない。見たい夢を見る技術身に付けた時から書いて無いや。


峨骨‏ @Chimaera925 16 時間16 時間前

愚者と喧嘩をしても何も得なことなど無いが、賢者とは喧嘩をしても為になる。汚物を焼いても悪臭を周囲に放つだけだが、白檀や伽羅は火にくべるとよい香りが辺りに立ち込める。そして、自身にもその匂いが染み付くのだ。

峨骨‏ @Chimaera925 2011年11月6日

鍛え上げられた肉体があれば服装などシンプルで良い。貧相な肉体をゴテゴテ飾り付けた所で上辺の美しさだとは思うが、私はまだまだ鍛錬が足らん。華美な服装も鍛え上げられた肉体が無ければ似合わないんだけどな。見るからにマッチョでなくともよいが、鍛えていないと姿勢が悪くなり美しくない。






峨骨‏ @Chimaera925 2 時間2 時間前

風呂入ったし、寝るか。重曹で頭洗ったあと、酢でアルカリを中和してやるんだけど酢を切らしていたので台所掃除用のクエン酸で代用。問題無く使える。重曹もクエン酸も直接粉末頭にかけて使うと濃度が高いので、湯に溶かしてから使おう。







・人の名前を憶えろ。
(何回も言葉に出し、メモを書き、見つめて憶えこめ。
相手の名前は復唱して、相手を見て映像と記憶せよ。
その人の周りの人がその人をどう読んでいるか聞け。
周りに書いていないか見渡せ。
メモには相手の特徴も書き、映像とともに思い出せるようにしろ)

・裏ノウハウを手に入れるためにあらゆる情報を集めろ。

・目標や信念ではなく、欲望を崇めていないか?埋め込まれた欲望ではないのか?
理由を問えば大半の欲望は消失し焼失する。

・論破はしてもフォローは重要。人間関係まで論破して壊してはいけない。

・意識モードと無意識モードを切り替えよ。
なんでももかんでも考えながら理由を問いながらだと致命的に遅くなる。

・人間関係を把握しろ。
表向きのランクと、裏の真のランク。
誰と誰が仲がいいか、悪いか、誰が評価されているかいないか。
性格、好きなもの、嫌いなもの。
嫌いなものが大事。嫌いなものは好きなものよりもその人を示す。

・掲示物は全て読め。

・相手の話を「長く」聞け。

・誰にでも長所があり、他人に認められたい気持ち、承認欲求がある。長所をほめれば、相手に”重要感”を持ってもらえる。

・周りの人、別分野の人と無理やりでも話して情報を仕入れろ。まずは話せ。
 聞け。自分の部署と離れているが重要な部署の人の話は特に重要。

・相手に誠実な関心を寄せよ。

・相手の話をさえぎるな(口撃を防ぐ策としても愚策)。

・メモは重要。がきちんと読み返せ。しかしメモは読めないかもしれないと覚悟してとれ。
どうせメモを見るからという姿勢では頭に入らない。頭に入れる補助とせよ。
相手の話をメモるのだから相手にたまに向かないとダメ。
相手の身振り手振り周りの環境映像、イメージごと頭に入れろ。

・終始自分のことだけをしゃべるな。

・常に笑顔で人に接すよ。

・誰もがその人なりの正当な理由があり、自分は正しいと思っている。批判は後。常に相手の立場になり、まず相手を理解する。
そもそも相手を非難して終わりにしたいのか、相手に改善を実行させたいのか。後者ならただ批判しても無意味。

・親身になってじっくりと聞け。

・相手の関心があることを話題にしろ。

・餓鬼みたいなことしていると自分に跳ね返ってくる。これは信念を貫くとは別だと心得よ。
~は自己中心的性格が原因だという人がいるが、自己中心的性格も原因ではなくあくまで手段、出力、結果なのでは?
他人にひどく攻撃されたとか、他人を自動的に敵だと反射的に見なしてしまうとか。
軽いジャブを致命的一撃とみなしてしまうとか。
他人は敵ではなく、味方になりうるあるいは見方だと考えないと自分の心が壊れる。
結局他人に親切にする方が自己中心を貫ける皮肉。
傲慢自己中心でいつつ攻撃されたくないなら頭を下げろという矛盾的真理。

・人を説得して何かやらせたいなら、声に出す前に自分にこう自問自答せよ「常に相手の立場になれ。どうすれば相手がそうしたくなる気持ちを起こさせられるか?」。

・誠意をこめて純粋な気持ちでほめろ。

・議論に勝つ唯一の方法は「議論をしないこと」。
日本のディベートはディベートにならない。議論でなく個人の人格否定合戦になる。個人の意見と人格が同化しているのだ。故に本音と建前を使い分け、相手を傷つけないよう議論せよ。

・海外に逃げることも考えると今のうちに外国だと手に入りにくいであろう本を読め。中国系優先だ。あとは英訳だと糞になってそうなやつ。失われた宗教を生きる人々とかね。

・実行せよ、行動せよ、計画にはdoとactがセット。実行しないなら単なる妄想である。

・相手の意見を尊重し、間違いを指摘するな。

・自分が間違った場合は、速やかにこころよく認めよ。

・友好的な口調で、おだやかに話せ。

・相手が「YES」と言いやすい質問から始めよ。

・相手に心おきなくしゃべらせろ。

・自分の意見は相手に思いつかせろ。そうすれば自分の意見に基づいて行動させることができる。

・相手の気持ちになって、相手の考えや行動の理由を理解せよ。

・「私があなたでも同じように思うでしょう」と心からの共感を寄せよ。

・相手の良心・良識に訴えかけろ。

・事実に動きを与える「演出」を考えろ。

・相手の競争心に火をつけろ。

・まずほめろ。ほめるのは直接、
注意は間接的、遠まわしに伝えよ。

・自分の間違いを話せ、認めよ。

・命令はせずに、意見を求めよ。

・相手の顔を立てる。

・わずかなことでも惜しみなくほめよ。

・相手に期待をかけよ。
相手を励まし、自信を持たせよ。

・相手が喜んで協力する理由を用意せよ。
うるさくいわず、長所を認め、あら探しをしない。

・ささやかな思いやりを大切にせよ。
・親しき仲にも礼儀あり。
・性生活に前向きに取り組む。

・人を動かす唯一の方法は、その人の好むものを問題にし、それを手に入れる方法を教えてやることだ。これを忘れては、人を動かすことはおぼつかない。
 
・悪いことをしている人を善い方向に動かしたいと思うなら、「お前は悪いことをしている。だから行動を改めろ」と言ってはいけない。
 非難で人を動かすことはできない。

・穏やかに話す
 腹が立ったとき、相手をこてんぱんにしてやりたいという気持ちが起こるのは当然である。
 だが、それが成しとげられたとして、果たして相手は自分の思うとおりに動いてくれるだろうか?
 
・人を説得するためには攻撃的・威圧的に話すのではなくて、穏やかに、情理を尽くして話せ。

・相手が即座に”イエス”と答える問題を選べ。
体の組織が、進んで物事を受け入れようとする体勢になる。それゆえ、はじめに〝イエス〟と多く言わせれば言わせるほど、相手をこちらの思うところへ引っ張っていくことが容易になる。

 ・考え方が違うような問題をなんとかしたいと思っているとき、それをはじめに取り上げてはならない。
 はじめに取り上げるべきは、「イエス」と答えてくれるような、二人の意見が一致しているような話題である。たとえば「もうすっかり夏って感じですね」とか。
 そのような話題を重ねていくことで、「自分たちは同じ方向を向いている」ということを確認させることができる。
 「イエス」ばかりを言わせるようにして「ノー」とは言わせないようにする。
 そうすることで、意見の擦りあわせが困難な問題でも、人を説得することができる。
・敵をつくりたければ、友に勝つがいい。味方をつくりたければ、友に勝たせるがいい
 人は、自分のことを思う存分話すことを許可してくれる相手に好意を持つ。
 その性質を利用し、相手が望むままに話してもらうのである。たとえば社長に「さぞかし苦労されて、今の会社をお作りになられたと聞いています」と質問するなど。
・ 聞き手に回ることは、人を説得する上でとても効果が高い。
.思いつかせる
相手に相談を持ちかけ、できるだけその意見を取り入れて、それが自分の発案だと相手に思わせて協力させるのだ。
 人は、誰かに押し付けられたアイデアよりも、自分が思いついたアイデアをやりたがる。たとえそれが相手に「思いつかされた」アイデアであっても。
 だから人を説得する手段の一つとして「思いつかせる」ことがある。
 「これって、どうすればいいかな?」と「相談」を持ちかけ、うまく相手を誘導する。そしてやりたいアイデアを、議論の末に、相手が思いついたように偽装する。
 容易でないことだが、上手く利用できればこれ以上の説得法はない。

・議論は、ほとんど例外なく、双方に、自説をますます正しいと確信させて終わるものだ。議論に勝つことは不可能だ。たとえ買ったにしても、やはり負けているのだ。なぜかといえば、やっつけられたほうは劣等感を持ち、自尊心を傷つけられ、憤慨するだろう。「議論に負けても、その人の意見は変わらない。」

・相手の意見に敬意を払い、誤りを指摘しない。
・人の意見を変えさせることは、最も恵まれた条件の下でさえ、大変な仕事だ。何を好んで条件を悪化させるのだ。
・人を説得したければ、相手に気づかれないようにやることだ。誰にも気づかれないように、巧妙にやることだ。
・人に物を教えることは出来ない。自ら気づく手助けが出来るだけだ。
・相手が明瞭な間違いをしている場合は、「実は、そんな封には考えていなかったのですが、おそらく私の間違いでしょう。私はよく間違います。間違っていたら改めたいと思いますので、ひとつ事実を良く考えて見ましょう。」という具合に切り出す。
・私達は、他人からいろいろなことを聞かされるが、そのとき、相手の言ったことに対して理解ではなく、価値判断をまず与えるのが普通である。即座に評価して決め付けてしまう。相手の真意が、どこにあるのか正確に理解しようと努めることは、きわめて稀である。
・われわれは、自分の非を自分で認めることはよくある。また、それを他人から指摘された場合、相手の出方が優しくて巧妙だと、あっさり兜を脱いで、むしろ自分の率直さや腹の太さに誇りを感じることさえある。しかし、相手がそれを無理やりに押し付けてくると、そうはいかない。
自分の誤りを直ちにこころよく認める。
・自分に誤りがあるとわかれば、相手の言うことを先に自分で言ってしまうのだ。そうすれば、相手には何もいうことがなくなる。相手は寛大になり、こちらの誤りを許す態度に出るだろう。
・自分が犯した誤りを認める勇気は、ある種の満足感が伴う。罪悪感や自己防衛の緊張がほぐれるだけでなく、その誤りから生じた問題の解決に役立つ。

・どんなばかものでも、過ちの言い逃れくらいは出来る。事実、ばか者はたいていこれをやる。自己の過失を認めることは、その人間の値打ちを引き上げ、自分にも何か高潔な感じがして嬉しくなるものだ。
・自分が正しいときは、相手を優しく巧妙に説得しようではないか。また、自分が間違っているとき(驚くほど多いものだ。)は、速やかに自分の誤りを快く認めることにしよう。苦しい言い訳をするよりも、よほど愉快な気持ちに慣れる。
おだやかに話す。
・相手の心が反抗と憎悪に満ちているときは、いかに理を尽くしても説得することは出来ない。人間は自分の心を変えたがらないということを、心得ておくべきだ。人を無理に自分の意見に従わせることは出来ない。しかし、優しい打ち解けた態度で話し合えば、相手の心を変えることもできる。
・もし相手を自分の意見に賛成させたければ、まず、諸君が彼の見方だとわからせることだ。
相手が即座に「イエス」と答える問題を選ぶ。
・人と話をするとき、互いに意見の異なる問題をはじめに取り上げてはならない。まず、互いの意見が一致してい問題から始め、それを絶えず強調しながら話を進める。互いに同一の目的に向かって努力しているのだということを、相手に理解させるようにし、違いはただその方法だけだと強調するのである。

・議論をすれば損をする。相手の立場で物事を考えることは、議論をするよりもかえって興味があり、しかも、比較にならぬほど利益がある。
相手にしゃべらせる。
相手を説得しようとして、自分ばかりしゃべる人がいる。相手に十分しゃべらせるのだ。相手のことは相手が一番よく知っている。だから、その当人にしゃべらせることだ。
相手に思いつかせる。
・人から押し付けられた意見よりも、自分で思いついた意見のほうを、われわれは、はるかに大切にするものである。すると、人に自分の意見を押し付けようとするのは、そもそも間違いだといえる。暗示を与えて、結論は相手に出させるほうが、よほど利口だ。
・賢者は、人の上に立たんと欲すれば、人の下に身を置き、人の前に立たんと欲すれば、人の後ろに身を置く。かくして、賢者は人の上に立てども、人はその重みを感じることなく、人の前に立てども、人の心は傷つくことはない。
人の身になる。
・相手は間違っているかもしれないが、彼自身には、自分が間違っているとは決して思っていないのである。だから、相手を非難しても始まらない。非難は、どんな馬鹿者でも出来る。理解することに努めねばならない。懸命な人間は、相手を理解しようと努める。
・相手の考え、行動には、それぞれ、相当の理由があるはずだ。その理由を探し出さねばならない。そうすれば、相手の行動、さらには、相手の性格に対する鍵まで握ることが出来る。
・「もし自分が相手だったら、果たしてどう感じ、どう反応するだろうか」と自問自答してみるのだ。これをやると、腹を立てて時間を浪費するのが、ばかばかしくなる。原因に興味を持てば、結果にも同情が持てるようになるのだ。おまけに人の扱い方が一段とうまくなる。 ・自分に対する強烈な関心と自分以外のものに対するいい加減な関心戸を比較し、次に、その点については、人間はみな同じであることを考えれば、あらゆる職業に必要な原則を把握することが出来る。すなわち、人を扱う秘訣は、相手の立場に同情し、それをよく理解することだ。
・自分の意見を述べるだけでなく、相手の意見をも尊重するところから、話し合いの道が開ける。まず、話し合いの目的、方向をはっきりさせて、相手の身になって話を進め、相手の意見を受け入れていけば、こちらの意見も、相手は受け入れる。
・他人に物を頼もうとするときには、まず目を閉じて、相手の立場から物事を良く考えてみようではないか。「どうすれば、相手はそれをやりたくなるだろうか」と考えてみるのだ。この方法は面倒には違いない。だが、これによって見方が増え、より良い結果がたやすく得られる。
相手の考えや希望に対して同情を持つ。
口論や悪感情を消滅察せ、相手に善意を持たせて、あなたが言うことを、おとなしく聞かせるための文句は、「あなたがそう思うのは、もっともです。もしわたしがあなただったあら、やはり、そう思うでしょう。」といって話を始める。
・われわれが交渉を持つ相手の4分の3は、みな同情に飢えている。それを与えてやるのだ。すかれることは請け合いである。
人の美しい心情に呼びかける。

・人間は誰でも理想主義的な傾向を持ち、自分の行為については、美しく潤色された理由をつけたがる。
そこで、相手の考えを変えるには、この美しい理由をつけたがる気持ちに訴えるのが有効。

・相手の信用状態が不明のときは、彼を立派な紳士とみなし、そのつもりで取引を進めると間違いがないと、私は経験で知っている。ようするに、人間は誰でも正直で、義務を果たしたいと思っているのだ。
これに対する例外は、比較的少ない。人をごまかすような人間でも、相手に心から信頼され、正直で公正な人物として扱われると、なかなか不正なことは出来ないもの。

・演出を考える。単に事実を述べるだけでは十分ではない。事実に動きを与え、興味を添えて演出しなければならない。興行的な手法を用いる必要がある。

・対抗意識を刺激する。

仕事には競争心が大切である。あくどい金儲けの競争ではなく、他人よりも優れたいという競争心を利用すべきである。
・成功者はみなゲームが好きだ。自己表現の機械が与えられるからだ。存分に腕を振るって相手に打ち勝つ機会、これが、いろいろな競争や競技を成立させる。優位を占めたい欲求、重要間を得たい願望、これを刺激するのだ。
・人を批判する際、まずほめておいて、次に「しかし」という言葉を挟んで、批判的なことを言い始める人が多い。ところが、「しかし」という一言が耳に入るまで、今のほめ言葉が果たして本心だったのかどうか疑いたくなる。結局は批判するための前置きに過ぎなかったように思えてくる。この失敗は「しかし」ということばを「そして」に変えると、すぐに成功に転じる。

まず自分の誤りを話した後、注意を与える。
・人に小言を言う場合、謙虚な態度で、自分は決して完全でなく、良く失敗するがと前置きをして、それから相手の間違いを注意してやると、相手はそれほど不愉快な思いをせずに済むものだ。
・自分自身の誤りを認めることは、たとえその誤りを正さず、そのままにしておいても、人を変えるのに役立つ。

命令をせず、意見を求める。 ・命令ではなく、暗示を与える。「あれをせよ」「そうしてはいけない」などとは決して言わない。「行考えたらドウだろう」「これでうまくいくだろうか」などといった具合に相手に意見を求める。決して命令はせず、自主的にやらせる。そして、失敗によって学ばせる。
・命令を質問の形に変えると、気持ちよく受け入れられるばかりか、相手に創造性を発揮させることもある。命令が出される過程に何らかの形で参画すれば、誰でもその命令を守る気になる。

相手の顔を立てる!これは大切なことだ。しかも、その大切さを理解している人は果たして幾人入るだろうか?自分の気持ちを通すために、他人の感情を踏みにじっていく。相手の自尊心などはまったく考えない。もう少し考えて、一言二言思いやりのある言葉をかけ、相手の心情を理解してやれば、そのほうが、はるかにうまくいくだろうに。
・相手の自己評価を傷つけ、自己嫌悪に陥らせるようなことを言ったり、したりする権利は私にはない。大切なことは、相手を私がどう評価するか、ではなくて、相手が自分自身をどう評価するか、である。相手の人間としての尊厳を傷つけることは犯罪なのだ

わずかなことでも、すべて、惜しみなく、心からほめる。
・人を変えようとして、相手の心の中に隠された宝物の存在に気づかせることが出来たら、単にその人を変えるだけでなく、別人を誕生させることすら出来るのである。

期待をかける。

・相手をある点について矯正したいと思えば、その点について彼は既に人よりも長じているといってやることだ。良い評判を立ててやると、その人間はあなたの期待を裏切らないように努めるだろう。

激励して、能力に自身を持たせる。

・馬鹿だとか、能無しだとか、才能がないとか言ってののしる逆を行くのだ。大いに元気づけて、やりさえすれば容易にやれると思い込ませ、そして、相手の能力をこちらは信じているのだと知らせてやるのだ。そうすれば相手は、自分の優秀さを示そうと懸命に頑張る。、

喜んで協力させる。

・肩書きや権威を与える。

失敗は〝しかし〟という言葉を、〝そして〟に変えると、すぐに成功に転じる。

 「しかし」を「そして」に変えるだけで、注意は遠まわしな注意に変わる。
 「今回の成績はよかったね。”しかし”もっと数学をがんばれなければいけないよ」という注意を「今回の成績はよかったね。そしてもっと数学をがんばることで、次回はさらによい成績になるだろう」と言い換えるだけで、だいぶ遠まわしな表現になる。きっと勉強に前向きにとりくめるようになる。
 ほめたあとは「しかし」ではなく「そして」で文章を繋げる。そうすることで、期待通りに相手が動いてくれるだろう。

.自分の過ちを話す(まず自分の誤りを話したあと相手に注意する)

人に小言を言う場合、謙虚な態度で、自分は決して完全ではなく、失敗も多いがと前置きして、それから間違いを注意してやると、相手はそれほど不愉快な思いをせずに済むものだ。

・激励して、能力に自信を持たせる。)

・馬鹿だとか、能なしだとか、才能がないとか言ってののしるのは、向上心の芽を摘み取ってしまうことになる。その逆を行くのだ。大いに元気づけて、やりさえすれば容易にやれると思い込ませ、そして、相手の能力をこちらは信じているのだと知らせてやるのだ。そうすれば相手は、自分の優秀さを示そうと懸命に頑張る。>

 けなすよりも激励を。
 長所を見つけほめる。相手は元気がでるし、希望も持つ。向上心を抱えて行動することができる。
 自分の能力自信を持つことで、人は変わることができる。


<これは、子供だましのような気がするかもしれない。だが、ナポレオン一世も同じようなことをやった。彼は、自分の制定したレジョン・ドヌール勲章を千五百個もばらまいたり、十八人の大将に〝元帥〟の称号を与えたり、自分の軍隊のことを〝大陸軍〟と呼んだりした。歴戦の勇士を〝玩具〟でだましたと非難されると、彼は答えた。 「人間は玩具に支配される」
 新しい責任と肩書きを与えられた人は、はりきってばりばり働くようになる。世の中の結婚のうち、五十パーセント以上は失敗に終わっているそうだ。新婚の夢が破れ、離婚の憂き目を見る原因の一つは、あら探しをすることだという。
 家庭において、パートナーの欠点を見つけ、それを咎めることは、決してプラスの効果をもたらさない。
 変わらぬ愛情を継続していくためには、多少気に食わないことがあっても目をつぶってあげることが大切である。
フランス上流階級では、女性の服装について一晩に何度もほめるべきであると、幼少から教育されている。
 結婚を賭博にしないためには、男性は女性の「自分を美しく見せようとする努力」を常日頃から称賛すべきである。
ささやかな心尽くしを怠らない

・忘れてならない日も若干はある。妻の誕生日と自分たちの結婚記念日だ。絶対に忘れてはならない!
 一般的に女性は男性よりも記念日を重視する。男性は記念日を覚えておくように、特に気をつけたいものだ。
 要は相手のことを気遣っていると知らせることが大事なのである。記念日でなくとも、電話一本、花を数本、と考えてみよう。
礼儀は、いわば結婚生活の潤滑油である。

 親しき仲にも礼儀あり。無作法は結婚生活をめちゃくちゃにする。相手が不愉快にならないように、双方が気を遣うべきである命令をしない(命令をせず、意見を求める。)

・ 命令を質問の形に変えるだけで、驚くほど受け入れられることがある。
 「この書類、明日までによろしく」ではなく「この書類、明日までだったかな?」
 「君の車を動かしてくれ」ではなく「今、車動かせる?」
 命令をただ実行するのではなく、命令を作る段階に相手を巻き込むことができれば、人は気持ちよく動いてくれるだろう。
 誰かを傷つけると、その人は絶対に自分のために動いてはくれない。
 人は、誰かに押し付けられたアイデアよりも、自分が思いついたアイデアをやりたがる。たとえそれが相手に「思いつかされた」アイデアであっても。
 だから人を説得する手段の一つとして「思いつかせる」ことがある。
 「これって、どうすればいいかな?」と「相談」を持ちかけ、うまく相手を誘導する。そしてやりたいアイデアを、議論の末に、相手が思いついたように偽装する。
 容易でないことだが、上手く利用できればこれ以上の説得法はない。

田口 造‏ @manbownewoption
キリスト教のエキュメニカル派の修行の中にも、本を2時間読んで短時間寝てというのを繰り返す訓練があって、ハイにして、本の内容を前向きに刷り込む一種の洗脳が行われていた。その時、使っていたテキストがヘルマン・ヘッセの『東方巡礼』だったよ。それほど長くない少セルなんで面白い。

田口 造さんが追加
★Seiji Poruko Rosso★ @HakuAmasawa
返信先: @manbownewoptionさん
わかるわかる、寝てないとハイになって、喋り過ぎるよね〜(爆笑)Σ( ̄。 ̄ノ)ノ(爆笑)何だろうね〜あのハイテンション🎶脳から興奮物質が出てる感じ(爆笑)

【シェア読書:265冊目】90秒で好かれる技術(ニコラス・ブースマン)
http://sharedoku.com/archives/2870
”相手が気に入ってくれたら、一番の長所を見てくれる。
嫌われたら、一番の短所に目を向けられる。



●3つの教え
(1)人と会ったら、相手の目を見てほほえむ
(2)相手と同じことをする
(3)イマジネーションをはたらきかける



「目は権威を放ち、君のメッセージに方向性と焦点と意味を与えてくれるんだ」



動作や態度、表情を意識的に相手に合わせたら、その人は居心地がいいと感じてくれる。



●他人に何かをやらせる6つの手段
「法律」
「金」
「精神的威圧」
「肉体的威圧」
「肉体による誘惑」
「説得」



相手を説得するには、
①態度や外見を通して信頼を築き、良い第一印象を与えること
②反論の余地のない論理で主張すること
③相手の感情を引き出すこと



人が誰かを無意識に高く評価する一番の決め手とは何だろう?それは何より、健康的でエネルギッシュな姿だ。



●初めてあったの相手の”心をつかむ”7つのステップ
(1)権威と親しみやすさのバランスを考えた服装を選ぶ
(2)相手に近づく前に、自分の抱くイメージに自分の態度を合わせる
(3)出会いの前に「すばらしい、すばらしい、すばらしい」とつぶやき、笑顔になる
(4)自分の心臓を相手の心臓に向ける姿勢をとる
(5)手に危ないものを持っていないと相手にわからせる
(6)近づいたらすぐに、気持ちをなごませる質問をする
(7)ボディ・ランゲージと声の調子を相手に同調させる



誰かに御礼を言われたら「たいしたことではありません」と言うより、「こちらこそ光栄です」「喜んで」と返そう。


「私は○○をしたい。なぜなら××だからです」というように、あなたが何かをしたいと伝える際に、その理由を示せば、相手がそれに応じてくれる可能性が高まるのだ。



人が上を向いたり、右を向いたりするのは、考えを組み立て、返事を考えている場合が多い。 下を向いたり、左を向いたりするのは、何かを思い出している場合に多い。



●うまく挨拶を交わすための5つのステップ
(1)オープンにする
(2)アイコンタクトをとる
(3)笑顔を見せる
(4)言葉を交わす
(5)同調する



事実や数字はすぐに頭から消えていく。けれど、絵やストーリーは永遠に頭に残る

【265-1】自分が不快に思う態度を書き出し、自分がそれをしないように注意する



【265-2】御礼を言われたときは、お礼の言葉で返す



【265-3】やりたいことを伝える時は「私は○○をしたい。なぜなら××だからです」と伝える”

友達には秘密にしておきたい『90秒で好かれる技術』
http://smoothfoxxx.livedoor.biz/archives/51980767.html
”【ポイント】
■1.人と会ったら、相手の目を見てほほえむ

「うぬぼれだな。意味もなく笑顔を見せたらバカだと思われるんじゃないかと心配か?」
「バカどころか、まぬけですよ」
「よし、なら教えてあげよう。われわれが人とつき合う際の合図として使えるのは、なにも目だけじゃない。相手に好印象を与える一番手っ取り早い手段は、笑顔だ。君が笑顔を見せれば、世界中が君に笑いかけてくれる。
 笑顔を見せるというのは、すなわち『私に近寄ってきていいですよ』『私は喜んでいますよ』『信じていますよ』というシグナルを送っているのと同じだ。つまらないうぬぽれで、成功への道をふさいでいる場合じゃない」

■2.動作や態度、表情を相手に合わせる

「人は誰かと親しくなるとき、どんなことをしているかわかるかい?」(中略)
「互いに似た行動をとるんだ。同じ座り方をし、同じ話し方をする。今日、通販会社で客が首をかしげていたら、私も少し首をかしげた。相手が緊張している様子なら、私も緊張しているように見せた。リラックスしているときは、私もリラックスした。動作や態度、表情をその場に合わせて変えたんだ――すべてがうまくなじむようにね」
「カメレオンのように?」
「今も君に対して同じことをやっている――君はまったくそれに気づいていなかった。たとえ気づいていなくても、君は心地よさを感じ、リラックスできた」
「そうか! だから、あの社長と長年のつき合いのように見えたんですね」私にもようやく合点がいった。

■3.人が誰かを無意識に高く評価する決め手は、健康的でエネルギッシュな姿

人が求めているのは、自分の成長を助けてくれそうな相手、奪うのではなく与えてくれそうな相手なのだ。
 部屋に入ってくる様子、自分の場所を確保する様子、他人が話している内容に注意を向ける様子を見れば、一目瞭然。あなたの態度や姿勢、表情、アイコンタクトは、あなたの放つエネルギーのあらわれであり、相手はつねにそのエネルギーを見きわめている。



■4.初めて会った相手の"心をつかむ"7つのステップ(抜粋)

 (1)権威と親しみやすさのバランスを考えた服装を選ぶ

 (2)相手に近づく前に、自分の抱くイメージに自分の態度を合わせる

 (4)自分の心臓を相手の心臓に向ける姿勢をとる

 (6)近づいたらすぐに、気持ちをなごませる質問をする

(詳細は本書を)



■5.短時間で人とつながりたいときは、その理由を示せばうまくいく

 無意識の反応は、理由に左右される。あるいは少なくとも理由らしきものに左右される。人は決定を下し、自分の行動を正当化するために、理由を必要とする。(中略)

 たとえばあなたがQ社とビジネス関係をもちたいと思っているなら、その会社の重要な人物と出会った場合に、たんに「お会いできて光栄です」と言う挨拶にとどめず、「御社の先駆的なプロジェクトXYZについていろいろと資料と読んでいたものですから」と付け加えればうまくいく可能性がグッと高まるのだ。



■6."これからやりたい仕事"にふさわしい服装をする

 マルドゥーンは私にこう言った。「今の仕事ではなく、これからやりたい仕事にふさわしい服装をしなさい。電話で広告枠を売り込む仕事をさせるよりも、もっと大事なプレゼンテーションをさせようと上司に思わせるんだ。君のパーソナリティを君のスタイルで表現するのに、ワードローブをうまく使うんだ」



■7.人に話しかけるための"3秒ルール"

考えすぎてはダメ! 話しかけたい相手を見かけたら、心のなかで「1、2、3」と数え、ためらわずに近づいていく。ポイントは3秒で動きだすこと。脳に言い訳を考える余地を与えてはダメ。オープン・ボデイ・ランゲージを忘れずに(腕を組んだり、ポケットに手を突っ込んだりしない)、タイミングを狙って、3つ数えたら、心を落ちつけて相手に近づいていこう。


【感想】

「目を見てほほえむ」は「王道中の王道」ですし、「動作や態度、表情を相手に合わせる」というのも、「ミラーリング」として良く知られるもの。

ただ、ミラーリングの方は、本書では「初対面なのに長年のつきあいのように見える」という効果をうたったおり、その指摘は私は初めてでした。

また、ポイントの5番目に挙げた「理由を示す」というのは、「コピーの列に割り込ませてもらう」エレン・ランガーの有名な実験を事例としてあげており、これらはいずれも「無意識のうちに」相手に影響を及ぼすもの、という共通点があります。

この辺りは著者(ニコラス・ブースマン)のバックボーンに、NLP(神経言語プログラム)があるからかもしれません。


◆さて、実際に本書に書かれたテクニックで「90秒で好かれる」ことができるか否か。

ブースマンは前作出版直後、ローカル新聞の記者の申し出に応じて、「見知らぬ人に声をかけて仲良くなる」実験に挑戦します。

郵便配達人、ビジネスウーマン、ヒューストン警察の警官…これらすべてに成功したところ、今度はその記事を見たニューヨーク・タイムズからもオファーが。

 彼は私に過酷な試練を与えた。話しかける対象として、ありとあらゆるタイプの人間を用意した。美人だが不機嫌そうな顔でグランドセントラル駅に1人でいる若い女性、カーネギー・デリの無礼で有名なウエイター、地下鉄のトークンを売ってる女性、などなど。結果はどれも同じだった――私は100%の確率で相手と仲良くなった。

素晴らしい!!

んで、ふと思ったんですが、コレって「ナンパにも使える」ってことですよね?

今改めて上記ポイントを眺めてみると、そんな気が。


◆今回割愛した中で、重要だと思われるものの1つが、「4つのビジネス・パーソナリティ」のお話。

これは、人を「夢想家」「分析家」「説得者」「管理者」の4つのタイプに分けて、それに応じてコミュニケートするというものです。

もちろん、自分がどのタイプかを知っておくことも大事で、この中では私はおそらく「説得者」ではないか、と。

弱点は「話しすぎること」……って、まさに「それ何て俺」状態。

他にも、相手を無関心から熱中状態にもっていくための「リンキング・ステイト(心の状態の連結)」のお話は、再度読み直して、ぜひとも実践してみたいところです(これまた本書にてご確認を)。


比較的ハードルが低そうなのが服装で、「これからやりたい仕事にふさわしいもの」というアドバイスには、思わず納得。

結局いつも通り、「できるものがあれば1つでも」というスタンスで宜しいかと。


エクササイズもついてますので、まずはそちらからトライ!


ジュリアン・トレジャー: 人を惹きつける話し方
https://www.youtube.com/watch?v=eIho2S0ZahI

”You can locate your voice,/ however.//
声を出す場所を 変えられます

So/ if I talk up/ here/ in my nose,/ you can hear the difference.//
鼻から話してみます 違いますよね

If I go down here/ in my throat,/ which is/ where most of us speak from most of the time.//
さらに のどで話してみます ほとんどの方は ここから声を出しますね

But/ if you want weight,/ you need to go down here/ to the chest.//
でも もっと重みを加えたいなら もっと下 ― 胸から出します

You hear the difference?//
違いが分かるでしょう?
We vote for politicians/ with lower voices,/ it's true,/ because we associate depth/ with power/ and/ with authority.//
低い声の政治家に 投票するという事実もあります というのも 私たちは 深さを力や 権力と結びつけるからです

That's register.//
それが声域です

Then/ we have timbre.//
つぎに「声色」があります

It's the way/ your voice feels.//
声の質感です

Again,/ the research shows/ that we prefer voices/ which are rich, smooth, warm,/ like hot chocolate.//
研究によれば 豊かで なめらかで 温かみのある声が好まれます ホット・チョコレートのような声です

Well/ if that's not you,/ that's not the end of the world,/ because you can train.//
あなたの声がそうでなくとも 悲観する必要はありませんよ 訓練できます ボイス・トレーナーを探しましょう

Go/ and get a voice coach.//
And there are amazing things/ you can do with breathing,/ with posture, and with exercises to improve the timbre of your voice.//
息づかいや 姿勢 練習によって あなたは 見違えるように 声質を改善できるのです

Then prosody.// I love prosody.//
そして「韻律(プロソディー)」

This is the sing-song,/ the meta-language/ that we use/ in order to impart meaning.//
私のお気に入りです 抑揚や ― 言葉に意味をそえるメタ言語で

It's root one/ for meaning/ in conversation.//
これこそ会話の醍醐味です

People/ who speak all/ on one note are really quite hard/ to listen to/ if they don't have any prosody/ at all.//
ずっと同じ調子で話されると 聞く気が起きませんね 韻律がないからです

That's/ where the world monotonic comes from,/ or monotonous,/ monotone.//
それこそ 単調で変化に乏しい 一本調子の世界です

Also/ we have/ repetitive prosody now coming/ in,/ where every sentence ends/ as if it were a question/ when it's actually not a question,/ it's a statement.//
それから こんな韻律も よく聞きますよね? 疑問文のように 文末が上がるものです? 実際は疑問ではなく 意見なのに?

(Laughter)/ And/ if you repeat/ that one over and over,/ it's actually restricting/ your ability/ to communicate through prosody,/ which I think/ is a shame,/ so let's try and break/ that habit.//
(笑) これを何度も繰り返していると 韻律を使って 意思疎通を図ることが できなくなってきます それはとても残念なことですから この癖は ぜひとも なくしましょう

Pace.// I can get very,/ very excited by saying something really,/ really quickly,/ or I can slow right down/ to emphasize,/ and at the end of that,/ of course,/ is our old friend silence.//
そして「ペース」 とても速く話すと すごく興奮している 感じになります 一方 ゆっくり話すと 強調できます 究極的には よくご存知の 沈黙です

There's nothing wrong/ with a bit of silence/ in a talk,/ is there?//
ちょっと沈黙したからって 何も問題はないでしょう?

We don't have to fill/ it/ with ums/ and ahs.//
「えーと」とか「あー」で 沈黙を埋める必要はありません

It can be very powerful.//
沈黙には すごい力があります

Of course,/ pitch often goes along with pace/ to indicate arousal,/ but you can do it just/ with pitch.//
感情の高ぶりは普通 「音高(ピッチ)」と テンポで表現しますが 実は音高だけでも可能です

Where did you leave my keys?//
僕のカギをどこに置いた?

Where did you leave my keys?//
僕のカギをどこに置いたんだよ?

So slightly different meaning/ in those two deliveries.//
音高を変えると 少し違う意味になるでしょう

And finally,/ volume.//
最後に「声量」です

I can get really excited by using volume.//
声量によって 興奮した感じにできます

Sorry/ about that/ if I startled anybody.//
驚かせましたかね
Or,/ I can have/ you really pay attention/ by getting very quiet.//
あるいは とても静かに話すことで 注意を引きつけられます
Some people broadcast the whole time.//
大音量でずっと 話す人もいますが
Try not to do that.//
それは避けましょう

That's called sodcasting,/ imposing your sound/ on people/ around you carelessly and inconsiderately.// Not nice.//
それこそ「大迷惑」というもので 何も考えず まわりの人に自分の音を 無神経に押しつけているのです 感心しません

Of course,/ where this all comes into play/ most of all is/ when you've got something really important/ to do.//
こうしたことは 何か重要なことを 伝えるときに 役立ってきます

It might be standing on a stage/ like this/ and giving a talk/ to people.//
こんな風にステージで 話すときかもしれませんし

It might be proposing marriage,/ asking for a raise,/ a wedding speech.//
結婚のプロポーズをするとき 賃上げ交渉や 結婚式でのスピーチかもしれません

Whatever it is,/ if it's really important,/ you owe it/ to yourself/ to look at this toolbox/ and the engine/ that it's going to work on,/ and no engine works well/ without being warmed up.//
それが何であれ ここぞ というときには ぜひ この道具箱を見て これから使うエンジンも確認しましょう エンジンは 温めなければ動きません

Warm up/ your voice.//
声もウォーム・アップしましょう

Actually,/ let me/ show you/ how to do that.//
どんな風にするか お見せしましょう

Would you all like to stand up/ for a moment?//
皆さん ちょっと 立っていただけますか?

I'm going to show/ you/ the six vocal warmup exercises/ that I do before every talk/ I ever do.//
これから 6つの 声の準備体操をご紹介します 私がいつも話す前に していることです

Anytime/ you're going to talk/ to anybody important,/ do these.//
重要な人と話すときは ぜひやってください

First,/ arms up,/ deep breath in,/ and sigh out,/ ahhhhh,/ like that.//
まずは 腕を上げて 深く息を吸って 吐き出します アーーー こんな風にね

One more time.//
もう一度

Ahhhh,/ very good.//

アーーー いいですよ

Now/ we're going to warm up/ our lips,/ and we're going to go/ ba,/ ba,/ ba,/ ba,/ ba,/ ba,/ ba,/ ba.// Very good.//
つぎに 唇の準備体操です こんな風に バ バ バ バ バ バ バ バ いいですよ

And now,/ brrrrrrrrrr,/ just like when you were a kid.//
それから ブルルルルルルル 子どもの頃 やったように

Brrrr.// Now/ your lips should be coming alive.//

ブルルルル これで 唇も準備万端です
We're going to do/ the tongue next/ with exaggerated la,/ la,/ la,/ la,/ la,/ la,/ la,/ la,/ la.//

つぎに舌を動かします 大げさな「L」で ラ ラ ラ ラ ラ ラ ラ ラ ラ
Beautiful.// You're getting/ really good/ at this.//
素晴らしい 皆さん上手ですよ
And then,/ roll an R.// Rrrrrrr.//

それから巻き舌の「R」 ルルルルルルル
That's like champagne/ for the tongue.//

舌のための シャンパンみたいなものです
Finally,/ and/ if I can only do one,/ the pros call this the siren.//

最後に ぜひともするべきこと 業界では「サイレン」と言いますが
It's really good.// It starts with "we"/ and goes to "aw."//

お勧めです 「ウィー」で始まり「オゥ」で終わります
The "we"/ is high,/ the "aw"/ is low.//
「ウィー」は高く 「オゥ」は低く
So you go,/ weeeaawww,/ weeeaawww.//
行きますよ ウィーーーオゥ ウィーーーオゥ
Fantastic.// Give/ yourselves/ a round of applause.//
素晴らしい 皆さんに拍手を
Take a seat,/ thank you.// (Applause)/ Next time/ you speak,/ do those/ in advance.//
お座りください ありがとうございます(拍手) 今度 話をする前には やってくださいね”
TED日本語 - ジュリアン・トレジャー: 人を惹きつける話し方
http://digitalcast.jp/v/20593/


∸――

あなたの地位と人脈は《スモールトーク》が決めている/ダンバー『ことばの起源』応用篇
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-130.html
” よし。では、3つの中間目標に設けよう。まずはひとつ目の中間目標をクリアーすることをめざせ。それが果たせたとき、自分の進んでいる道が間違いではなかったと、はじめて信じることができるだろう。あとの2つの目標は、それより困難だが、ひとつ目をクリアーした自信がお前を支えてくれるだろう。3つの中間目標は、次の通りだ。
 1.スモールトークをこなせるようになれ
 2.男女混合の集まりを作れるようになれ
 3.他人の恋の相談に乗れるようになれ

ここでいうスモールトークとはプログラム言語のことじゃない。間にスペースを挟んだ「small talk」、
辞書には「light conversation(軽い会話); chitchat(雑談、世間話)」とあるな。
同義語には「banter(気さくな会話、冗談の言い合い), chatter(むだ話), gossip(うわさ話)」なんかがある。要は「たわいもない話」だ。伝えたいことがある場合とは違った、ただそれ自体を目的とした言葉の交換だ。何故これが重要なのか? 
 なぜなら、人はこの「取り立てて内容のない話」によって、相手の人柄を推し量り、人間関係の距離を調整するように進化してきたからだ。スモールトークは、いわば人間関係を支える下草だ。ヒトの言葉の起源は、猿の群れにおける毛づくろいだという話は知ってるか?

群れを作る種である猿たちは、つくる群れの大きさが大きい猿ほど、より長い時間を互いの毛づくろいに費やす。もっとも大きな群れ(平均で個体数50)を作る猿は、活動時間のおよそ2割を費やして互いに毛づくろいする。餌を取るための時間がその分減ることを考えれば、あるいが外敵への注意がその分おろそかになることを考慮すれば、莫大なコストを支払ってまで、サルは互いに毛づくろいする。何故だかわかるか?

 フリー・ライダー(ただ乗り野郎)を排除して、群れを守るためだ。
 群れると、外敵に注意を払うコストをみんなで分担できるし、そもそも襲われにくくなるメリットがある。
 だが、コストを分担せずに群れに居るだけで安心を享受しよう、フリーライダーになろうと誰かがはじめれば、誰もがフリーライダーになった方が得だということになり、結局誰も外敵に注意を払うものがいなくなって集団防衛体制は崩壊する。
 これを食いとめるには、誰かがフリーライダーしだしたら、制裁が加えられるようになってないといかん。
 ところが、このフリーライダーへの制裁ってのも大変だ。50匹いれば、各自が50匹を互いに監視しなくちゃならんとなったら、他のことなんてやってられなくなる。
 だから群れを作る動物は、フリーライダー対策を減点方式じゃなく加点方式でやる。
 つまり身近なところから、少なくともこいつは裏切らないだろうという「仲間」をつくり少しずつ増やしていく訳だ。毛づくろいは、仲間関係の維持・更新手続きだ。猿はお互い、誰に毛づくろいしてもらったか覚えてる。
 その猿の叫び声を録音したものを流すと、そいつと毛づくろいし合った猿だけが反応する。
 いろんな猿を調べていくと、その種のつくる群れの大きさと大脳皮質が脳に閉める割合は比例関係にあることがわかった。これを人間の大脳皮質の割合に当てはめると、人間がつくる最大の「群れの大きさ」は約150人となる。


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 問題は、どうやって仲間関係を維持・更新するかだ。
 毛づくろいは一対一で、しかもお返しも要れると、さっきも要った通りかなりの時間が必要だ。
 これも150人という集団サイズに当てはめると、人間は起きている時間の40%を「毛づくろい」に費やさなければならない。これはもう限界を越えている。

 幸いにも、もっと効率のよい手段が見つかった。
 音声言語、つまりおしゃべりだ。
 本当に親密におしゃべりするには4人程度という限界があるが、それでも1対1の毛づくろいよりは、3倍効率がよい)。
 内容のないコトバの交わし合い(スモールトーク)は、つまるところコトバによる「毛づくろい」だ。
非モテ
それは、つまるところ、大抵の人間がすでにやっているのでは?
親父
 その通り。おまえが同級生相手に話してるバーチャル・ナンパ話もその一例だな。同年代の男同士だから、女子との交際についての「妄想話」が、そこでの人間関係の維持・更新に役に立つ。
 が、そこまでだ。
 つまり、おまえの無駄話は、同年代の女子との人間関係を維持・更新するのに、役に立ってない。
どんな「無駄話」ができるかで、おまえの人間関係は決まる。どんな連中と、どんな関係を結べるかは、どんな「無駄話」をするか、できるかに依存する。
 逆にスモールトークを逸脱すると、どんな目に遭うかは、ガーフィンケルが学生への宿題としてやらせてる。一発で「ひとでなし」になること、うけあいだ。 どうだ、やる気が出てきたか?
非モテ
は、はい。当たり前のようで、目からうろこです。しかし、普段あまりに無意識にやってることなんで、いったい何から手をつければいいのか、皆目見当がつきません。
親父
心配するな。昨日ネットサーフィンしてたら、たまたま「無駄話の仕方」ってコンテンツを見つけた。英語だけどな。

問題ない。おれが親父語に逐語的に訳してやる。


How to Make Small Talk 「どうでもいい話」をする方法
http://www.ehow.com/how_10812_make-small-talk.html

Small talk can be a big challenge, but a little preparation and confidence is all you need.
「無駄話」を舐めるな。大冒険になるかもしれん。だが少しの準備と勇気があれば大丈夫。

1.Practice. Converse with everyone you come across: cashiers, waiters, people you're in line with, neighbors, co-workers and kids. Chat with folks unlike yourself, from seniors to teens to tourists.
練習しろ。すれ違った奴全員と喋れ。レジの人、ウェイター、話が合う人、ご近所さん、同僚に子供(ガキ)、誰でもいいからおしゃべりしろ。老人からティーンエイジャー、観光客、自分と似ていない奴とも話してみろ。

2.Read everything: cookbooks, newspapers, magazines, reviews, product inserts, maps, signs and catalogs. Everything is a source of information that can be discussed.
なんでもいいからとにかく読め:料理本、新聞、雑誌、書評、取説、地図に看板にカタログ。すべては、話のネタになる。

3.Force yourself to get into small talk situations, like doctors' waiting rooms, cocktail parties and office meetings. Accept invitations, or host your own gathering.
「無駄話」しなきゃならない状況に自分を追いこめ。病院の待合室、カクテルパーティー、職場の会議みたいな場面だ。招待はすべて受けろ、でなきゃ自分で集まりを主催しろ。

4.Immerse yourself in culture, both high and low. Television, music, sports, fashion, art and poetry are great sources of chat. If you can't stand Shakespeare, that too is a good topic for talk.
自分を「文化漬け」にしろ。高級なのと低級なの、両方だ。テレビ、音楽、スポーツ、ファッション、芸術、詩、どれもおしゃべりの大きなネタ元だ。おまえさんがシェークスピアに我慢ならないというなら、どれだけ嫌いかというのも十分話題になる。

5.Keep a journal. Write down funny stories you hear, beautiful things you see, quotes, observations, shopping lists and calls you made. That story of the long-distance operator misunderstanding you could become an opening line.
日誌をつけろ。おまえが耳にした笑い話、目にした美しいもの、引用、観察、購入品目リストも、かけた電話番号も書き出せ。おまえを誰かと勘違いした電話交換手の話だって、会話のきっかけになるかもしれない。

6.Talk to yourself in the mirror. Make a random list of topics and see what you have to say on the subjects. Baseball, Russia, butter, hip-hop, shoes ... the more varied your list, the better.
鏡の前で自分相手にしゃべってみろ。でたらめな順番に話題を並べたリストを作れ。そして、それぞれの話題に合わせて何を言わなきゃならないならないか確かめろ。野球、ロシア、バター、ヒップホップ、靴……話題.リストは長ければ長いほどいい。

7.Expand your horizons. Go home a new way. Try sushi. Play pinball. Go online. Paint a watercolor. Bake a pie. Try something new every day.
おまえの活動範囲を拡大しろ。通ったことない道で帰ってみろ。寿司をためせ。ピンボールをやれ。ネットしろ。水彩画を描け。パイを焼いてみろ。毎日、なにか新しいものを試すんだ。

8.Be a better listener. Did your boss just say she suffers from migraines? Did your doctor just have twins? These are opportunities for making small talk.
今よりもっと良い聞き手になれ。上司は、ちょうど片頭痛で苦しんでると言ってなかったか? かかりつけの医者のとこは子は双子じゃなかったか? (連中は誰かにその話をしたくてうずうずしている) 「無駄話」をする機会はいくらもある。

9.Work on confidence, overcoming shyness and any feelings of stage fright. Remember, the more you know, the more you know you can talk about.
自信をつけろ。内気と人前であがることを克服しろ。知識が増えれば増えるほど、話題はどんどん増えていることを思い出せ。

Tips:
おまけ:
 Be yourself. Keep in mind that confidence and humor are superb substitutes for comedic genius or wit.
自分自身であれ。自信とユーモアは、コメディの才能やウィットの代わりを十分果たしてくれることを覚えておけ。

 Remember, you never have to do it alone.
思い出せ。会話しているとき、おまえは決して一人じゃないってことを。



非モテ
も、ものすごく大変なような……。
親父
じゃあ、あきらめろ。話ベタで死んだ奴はいない。だが、言っとかないとフェアじゃない気がするんで、これだけは言っておく。人生で、あらかじめ準備しておけることなど、実はあまりない。大人の仕事は常にやっつけ仕事、恋はいつでも初舞台だ。

非モテ
中間目標の、その2とその3、聞いてもいいっすか?
親父
いいとも。聞いていけ。2.男女混合の集まりを作れるようになれ、っていうのは……、非モテ、合コンに必要なものは何だ?
非モテ
おしゃれな会場と粒揃いの参加者、ですか?
親父
じゃあ、それらをどうやって調達する?
非モテ
どうやって、と言われても……、手当たりしだい声をかけるくらいしか……。
親父
振り出しに戻ったな。そして、事は累積的に進むことも明らかになった。もてる奴は、粒ぞろいの参加者の一人として繰り返し、粒揃いの参加者たちが集う満足度の高い合コンに参加できるし、事によると主催することもできる。
こうやって、粒ぞろいの人脈を元手に、さらに粒ぞろいの人脈を広げていく。これを恋愛市場におけるマタイ効果とよぶ。新約聖書マタイ伝の一節、「富めるものはますます富み、貧しいものは持ってるものすら取り上げられる」というところから命名された。
非モテ
モテるものはますますモテるようになり、モテないものはますますモテなくなる、と。
親父
恋愛市場は労働市場のように二重化ないし多重化されている。大雑把に言えば、モテが参加参入できるモテ市場と、非モテが参加する非モテ市場だ。モテ市場への参加するコストは高い。それなりに粒ぞろいの人脈を投資できないと参加できない
。非モテ市場への参加コストは低いが、そのため供給を上回る需要が「価格」を高める。冷静になると大したことのない異性に、いきなり高値がついたりする。いわゆる女子マネ(ージャ)効果、紅一点効果だな。「オタサーの姫」も同じ理屈の上に成立する。
非モテ
親父師匠、では、どうすれば?
親父
いくつか方法はあるが、お勧めなのはブルー・オーシャン戦略だ。
非モテ
では、養殖少女ではなく、手つかずの天然少女に活路を見出せと。
親父
まあ、待て。とりあえず第一の中間目標がクリアーされていれば、人脈関係は量質ともにかなり改善されているはずだが、まあ、それは置いておいて、違う手を考えよう。
 そもそも何故合コンなんだ?頭数だけ男女同数揃えても、いいところを持って行くのは、いつも決まった少数者じゃないか。結局、男女が出会える場をつくればいいんだろう。わざわざ席替えを盛り込まないと、違う相手と話すことすらできない場づくりは、ほんとに男女交際について最適化されてるのか?
非モテ
確かにそういわれると。
親父
場づくりなら、いくらでも手があるぞ。未成年だから今のうちに言っとくが、月1回しか開かない、ちょっとありそうにない酒場を自分たちで開くなんて、どうだ? 余裕があるなら月2回でも週1でもいいが、無理はするな。
 スタッフはもちろん厳選、しかし「おれと付き合ってくれ」を目標にしてくどくのと、
「どこにもない酒場をやりたいんだけど、なんかアイデアない?」と誘うのとは、困難さにおいても、相手に残る印象の深さでも、雲泥の差があるぞ。酒場なんて原価の安い商売だ、儲からなくていいなら、かなりの良心的価格設定でできる。場所をみつけるのも、大いに助けを募れ。はっきりいってこの手の企画については、女子の方が何枚も上手だ。思う存分、力を借りろ。男性スタッフも女子に紹介してもらえ。一つの企画をやり切ると、参加メンバーの間には特別な関係が生まれる。「次はどんなおもしろいこと、やろうか」って声が出てくるようになれば、おまえさんの人脈はどんどん広がって行くだろう。
 この頃になれば、顔とプロポーションだけを追ってたナンパ馬鹿も、いい女を見ぬく目が育ってくるだろう。女子の間で、女子の評価はかなりシビアだ。いっしょに働くのは、いい経験だ。同じファミレスや居酒屋でバイトするにしても、ただ金と暇を引き換えにするのか、そういう自分の企画のための肥やしにするつもりで勤めるのとでは、見えるものが違ってくる。まあ、だいたい、おなじことを繰り返し言ってるんだがな。


まあ、いきなり店を開けってのは敷居が高いか。
なら、自分でヒトの集まりをつくる前に、集まりに参加することからはじめるといい。
とりあえず色恋と関係ないところ、自分の足が自然には向かないところがいいな(人間関係を広げる第一原則だ)。
あと金はかけろ。クソくだらないお見合いパーティに行くくらいなら、水商売や風俗にいくなら、とも付け加えとくか、たとえば割高な(値段設定の高い)英会話スクールへ行ってみろ。8割は、ちょっとしたお嬢さんだ。まあ語学系は、いずれにせよ女性が圧倒的に多いけどな。
 真面目に英語をやりに来てるから、不真面目だと総スカンを食う。だが、おまえさんが本気で英語をやる気を見せれば、どんなにヘタでも、恥をかくことはない。誰だって最初は初心者だ。むしろ、それを恐れずにやってきたドンキホーテは暖かい目で迎えられるだろう。そして、そういう場所でもスモール・トークができるようになれると、これもまた人脈を育てる。
 とにかく色恋抜きで、男女を混ざった集団を作れ。作れないなら探して見つけて参加しろ。そして参加しつつ、作り方を考えろ。


非モテ
「3.他人の恋の相談に乗れるようになれ」というのは?
親父
企画や集まりのオリジネーター(originator:発案者/発起人)をやってると人脈が広がるところまでは話したな。上下関係のない、フラットな集まりでも、「言い出しっぺ」のところには、様々な情報と悩み事が持ち込まれる。それを公平(フェア)にさばけるようになれば、結果は自動的についてくる。

誰に紹介されたら、女性はおまえをもっとも信用するか。第三者の賞賛が効果的であることは社会心理学の常識だが、中でも、すでに決まった相手のいる恋愛中の女性が、おまえを紹介してくれるなら、こんなに強い援軍はない(ついでにいうと魅力の高い女性から紹介された方がより有利となる)。これは男女どっちでもいえることだが、異性の友人は、異性を紹介してくれる。そしてそこで良い評判を持って紹介されれば、出会いの機会は、倍倍ゲーム的に広がる。異性の友人が増え続け、複数の人間が、おまえの援軍となるわけだ。
 まあ、この段階に至るには時間がかかるだろうけどな。まあ、じっくりやれ。
非モテ
押忍。ありがとうございました。
親父
あ、最後に一つ、さくらももこに『ひとりずもう』というマンガがある。このなかでバカそうな女子高に通ってるちびまるこのクラスメートたちが「ディスコにいって、彼氏を探そう」とか言って浮き足立ってるのを見つけた担任教師が「おまえたちが将来結婚したいような相手は、絶対にディスコなんかで踊ってはいない!そのひとたちは きっと今頃 家で勉強してるぞ!」って一喝するシーンがある。”

コトバによる「毛づくろい」で人の世は保たれる/ダンバー『ことばの起源:猿の毛づくろい、人のゴシップ』
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-125.html
” 実は脳内麻薬は、単調な肉体的刺激によっても分泌される。彼等は確かにイライラしている。それを押さえるための無意識の行動は、繰り返しの動作となることが多い。

 たとえば貧乏揺すり。思えば我々は、小さいころから年老いてまで、無意味に思えるほどの「繰り返し行動」をほんと繰り返し、飽きもせずやっている。事によると、これこそ、このストレスフルな社会で生きる生体防衛行動なのだ。


 しかし猿の毛づくろいは、それ以上の意義がある。

 毛づくろいはもちろん脳内麻薬を分泌させるが、それだったら相手は誰でもよさそうなものである。しかし毛づくろいは、ちゃんと相手を定めて行われる。

 しかも録音した猿の声をつかった実験では、お猿は自分の毛づくろい相手の声を聞き分ける。毛づくろいは、猿社会の紐帯なのだ。

 より大きな群れをつくるお猿ほど、より長い時間を毛づくろいにかける。しかし毛づくろいはかなりコストが高い。それをやってる間は他の事ができないからだ。

 最大の群れ(平均で個体数50)を持つ猿は、起きてる時間の1~2割もの時間を仲間との毛づくろいに費やす。

 人間の大脳皮質の割合から換算した「群れの大きさ」は約150人だから、式に当てはめると大体起きている時間の40%を「毛づくろい」に費やさなければならない。
 大変だ。
 もっと効率のよい手段としてコトバをつかうことにした、というのがオチ(親密に話すには4人程度という限界があるが、それでも1対1の毛づくろいよりは、3倍効率がよい)。

 つまりこういうことだ。
 内容のないコトバの交わし合い(これが言葉の使用の実に3/4を占める)=ゴシップこそは、コトバによる「毛づくろい」だ、と。
 
 あと、昔の人類は150人の群れでよかったが、都市に暮らす現代人はそんなに「毛づくろい」する相手がいないから、ゴシップ小説やカルトが流行る、とか、言わなくてもいいようなことを、最後にちょっとダンバーは付け加えてる。”

雑談の核(コア)となるのはネタではない
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-142.html
雑談(スモールトーク)は、言葉による毛づくろいである。

 重要なのは、何を話すかではなく、どのように話すか(また話さないか)である。
 
 身体に触れなければならない生業の人たちのことを思いだそう。

 見知らぬ他人の身体に触れることは、通常はタブーである。そうした行為が許される職業の人たちでも、相手の心理的障壁は無くなったわけではない。一時的に機能低下させられているにしてもだ。
 だから、少しでも心理的距離を縮めるために、美容師やマッサージ師は雑談(スモールトーク)する。
 もちろん、職業は雑談の必要性を求めても、その技術を保証するわけではない。話を聞けないカウンセラーがいるように、雑談のできない美容師はいる。しかし、あなたや友人が繰り返し指名する者がいるならば、彼らがどのように話すかは学ぶに足りる。あなたが二度と来るものかと思った相手がいるならば、どのように話すべきではないかを学ぶことができる。

 英会話であれ、雑談であれ、会話は話すことを通じてしかトレーニングできない。
 例文や決まり文句を覚えること、発音をブラッシュアップすることは、タタミの上の水泳に等しい。無意味だというのではない。それだけでは身につかない、というだけだ。順序として、まず話してみてから、例文のインプットや発音練習を行なうならば、逆の順序の場合よりも、多くのものを得られるだろう。
 雑談における「タタミの上の水泳」はないのだろうか? いくつかある。しかし話すことを避けては、いずれも意味も効果もないことは言うまでもない。

 雑談における「タタミの上の水泳」その1は、「相手がイエスと答える質問」を考えることである。もちろん、これは「誰を相手にするか?」で異なってくる。具体的に身近な人をターゲットにして、15秒でいくつ考えつくかを試してみよう。できれば書き出すこと。本当にその質問に相手がイエスと言ってくれるか、見なおすことができるし、細かい言い方を変えてバリエーションをもたせることもできる。できれは「イエスと答える」予想確率をそれぞれの質問ごとに予想し書き込んでおくといい。

 その相手と話す機会ができたら、質問の出来を検証する。相手がダイレクトに「イエス」という必要はない。表情を見れば、その質問が「当たり」であったかどうか、確認できる。むしろ表情から確認する力こそ、雑談においては大きなスキルである。
 意識的にであれ、無意識にであれ、ノン・バーバルなサインを拾える人は、雑談能力が高い。まず第一に、余計な言葉で、関係や会話の流れをぶち切ることを回避できる。加えて、話すことに大した内容が無くても、そうした人と話すのは心地好い。いくら話題が豊富でも、こちらの反応を無視して話す人は、ただのおしゃべりかビックマウスにしかなれない。
 
 雑談の能力のうち7,8割までが、ノン・バーバルなサインを拾うことと、ノン・バーバルなサインで相手に合わせること(たとえばうなずくこと)が占める。
 この視点で、誰かが楽しそうに話しているところを観察してみるといい(たとえば携帯で、そこにいない誰かと話している人を)。彼らは実に表情豊かに、身振り手振りもまじえて、ほとんど「どうでもいいこと」を話しているだろう。 
 言葉で嘘をつくより、表情で嘘をつくほうが難しい。

 雑談ベタは、自分のネタを話す事にいっぱいいっぱいで、少しも相手を、相手の反応を見ていない。あるいは悪く解釈できる反応ばかりを拾っている。
 相手があなたに興味を持っていないことが、相手の表情や身振りから分かっても、過敏に反応する事はない。そんなことは、あらかじめわかっていたことだ。だからこそ、あなたは雑談するのだ。

「最近~~はどうなの?」
 互いに知っている相手で、相手の喋りたい事に予想がつくならば、その話をしてくれるように話題を振ればいい。 

「すみません。教えていただけると助かります」

「~へはどう行けばいいですか?」

「ありがとうございました」「助かりました」

「寒くなりましたね」「ひさしぶりに気持ちのいい天気ですね」


 ほとんど初級英会話の例文のようになってきた。実のところ、初歩の英会話は、スモールトークのミニマム・セットだ。挨拶、簡単な自己紹介、天候の話題、依頼、そして感謝を述べること。これだけでは、何か意味のある事を話すには足りないが、人として最低限のレベルをクリアするものがそこにはある。


ーー
声で損をしている人は多い

【大魔導師への道①呼吸法・ボイトレ・姿勢】声と姿勢を良くする秘訣、問われず話すもおこがましいが、知らざあ言って聞かせやしょう!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-134.html


を実践しよう。

発声法に従って以下の文を音読みこめばいい。
般若心経は省いたけど覚えておくべき。

ボイトレ用。
書写山の社僧正シャア少佐の肩たたき器を暖かく迎え入れた柿食う客飛脚の東京特許許可局局長、高架橋橋脚上の究極高級航空機にて六カ国協議今日急遽休暇許可拒否。
公序良俗やお綾や親にお謝り お綾やお湯屋に行くことと骨粗鬆症訴訟勝訴を八百屋にお言い。
老若男女の低所得者層ジャズシャンソン歌手総出演新春シャンソンショー。
 探査車除雪作業中に京のなま鱈奈良なま学鰹に竹立てかけた高速増殖炉内の白装束集団の魔術師助手魔術修業中摘出手術中、集中術著述。


”祇園精舎(ぎをんしやうじや)の鐘(かね)の声(こゑ)、
諸行無常(しよぎやうむじやう)の響(ひびき)あり。
娑羅双樹(しやらさうじゆ)の花(はな)の色(いろ)、
盛者必衰(じやうしやひつすい)のことはり(ことわり)をあらはす。
おごれる人(ひと)も久(ひさ)しからず。
只(ただ)春(はる)の夜(よ)の夢(ゆめ)のごとし。
たけき者(もの)も遂(つひ・つゐ)にはほろびぬ、偏(ひとへ)に風(かぜ)の前(まへ)の塵(ちり)に同(おな)じ。
遠(とほ・とを)く異朝(いてう)をとぶらへば、
秦(しん)の趙高(てうかう)、漢(かん)の王莽(わうまう)、梁(りやう)の周伊(しうい)、唐(たう)の禄山(ろくさん)、
是等(これら)は皆(みな)旧主(きうしゆ)先皇(せんくわう)の政(まつりごと)にもしたがはず、
楽(たのし)みをきはめ、諫(いさめ)をもおもひいれず、
天下(てんが)のみだれむ事(こと)をさとらずして、
民間(みんかん)の愁(うれふ)る所(ところ)をしらざ(ッ)しかば、
久(ひさ)しからずして、亡(ばう)じにし者(もの)どもなり。
近(ちか)く本朝(ほんてう)をうかがふに、
承平(しようへい・せうへい)の将門(まさかど)、天慶(てんぎやう)の純友(すみとも)、康和(かうわ)の義親(ぎしん)、平治(へいぢ)の信頼(しんらい)、
おごれる心(こころ)もたけき事(こと)も、皆(みな)とりどりにこそありしかども、
まぢかくは、六波羅(ろくはら)の入道(にふだう・にうだう)前太政大臣(さきのだいじやうだいじん)平(たひらの・たいらの)朝臣(あそん)清盛公(きよもりこう)と申(まうし)し人(ひと)のありさま、
伝承(つたへうけたまは)るこそ心(こころ)も詞(ことば)も及(およ・をよ)ばれね。
其(その)先祖(せんぞ)を尋(たづ)ぬれば、
桓武天皇(くわんむてんわう)第五(だいご)の皇子(わうじ)、
一品式部卿(いつぽんしきぶきやう)葛原親王(かづらはらのしんわう)九代(くだい)の後胤(こういん・こうゐん)、
讃岐守(さぬきのかみ)正盛(まさもり)が孫(まご)、
刑部卿(ぎやうぶきやう)忠盛(ただもりの)朝臣(あそん)の嫡男(ちやくなん)なり。
彼(かの)親王(しんわう)の御子(みこ)高視(たかみ)の王(わう)、無官(むくわん)無位(むゐ)にしてうせ給(たまひ)ぬ。
其(その)御子(みこ)高望(たかもち)の王(わう)の時(とき)、始(はじめ)て平(たひら・たいら)の姓(しやう)を給(たまはつ)て、上総介(かづさのすけ)になり給(たまひ)しより、忽(たちまち)に王氏(わうし)を出(いで)て人臣(じんしん)につらなる。
其(その)子(こ)鎮守府将軍(ちんじゆふのしやうぐん)義茂(よしもち)、後(のち)には国香(くにか)とあらたむ。国香(くにか)より正盛(まさもり)にいたるまで、六代(ろくだい)は諸国(しよこく)の受領(じゆりやう)たりしかども、
殿上(てんじやう)の仙籍(せんせき・せんセキ)をばいまだゆるされず。”
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den146.htm


”行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。

玉敷(たましき)の都のうちに、棟を並べ、甍(いらか)を争へる、高き、賤しき、人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或いは去年(こぞ)焼けて、今年造れり。或いは大家(おほいえ)亡びて、小家(こいえ)となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中(うち)に、わづかに一人二人なり。朝(あした)に死に、夕べに生まるるならひ、ただ、水の泡にぞ似たりける。

知らず、生まれ死ぬる人、何方(いずかた)より来たりて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰(た)が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主と栖(すみか)と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或いは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或いは花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つ事なし。

予(われ)、ものの心を知れりしより、四十(よそじ)あまりの春秋(しゅんじゅう)をおくれる間に、世の不思議を見ること、ややたびたびになりぬ。

去(いんじ)、安元三年(あんげんさんねん)四月廿八日(にじゅうはちにち)かとよ。風烈しく(はげしく)吹きて、静かならざりし夜、戌(いぬ)の時ばかり、都の東南(たつみ)より、火出で来て、西北(いぬい)に至る。はてには、朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などまで移りて、一夜のうちに、塵灰(じんかい)となりにき。

火元(ほもと)は、樋口富の小路(ひぐちとみのこうじ)とかや。舞人(まいびと)を宿せる仮屋より出で来たりけるとなん。咲き迷ふ風に、とかく移りゆくほどに、扇をひろげたるがごとく末広になりぬ。遠き家は煙(けぶり)に咽び(むせび)、近きあたりはひたすら焔(ほのお)を地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、あまねく紅(くれない)なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔、飛ぶが如くして一、二町を越えつつ移りゆく。その中の人、現し心(うつしごころ)あらむや。

或いは煙に咽びて倒れ伏し、或いは焔にまぐれて、たちまちに死ぬ。或いは身ひとつ、からうじて逃るるも、資財を取り出づるに及ばず。七珍万宝(しちちんまんぽう)さながら灰燼(かいじん)となりにき。その費え、いくそばくぞ。そのたび、公卿の家十六焼けたり。ましてその外、数へ知るに及ばず。惣て(すべて)都のうち、三分が一に及べりとぞ。男女死ぬるもの数十人、馬・牛のたぐひ辺際を知らず。
人のいとなみ、皆愚かなる中に、さしも危ふき京中の家を造るとて、宝を費やし、心を悩ますことは、すぐれてあぢきなくぞ侍る。

また、治承(じしょう)四年卯月(うづき)のころ、中御門京極(なかみかどきょうごく)のほどより、大きなる辻風(つじかぜ)起こりて、六条わたりまで吹けること侍りき。

三、四町を吹きまくる間に、籠れる家ども、大きなるも小さきも、一つとして破れざるはなし。さながら平(ひら)に倒れたるもあり、桁(けた)・柱ばかり残れるもあり。門(かど)を吹きはなちて、四、五町がほかに置き、また、垣を吹き払ひて隣と一つになせり。いはんや、家のうちの資材、数を尽くして空にあり、檜皮(ひはだ)・葺板(ふきいた)のたぐひ、冬の木の葉の風に乱るるがごとし。塵(ちり)を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず、おびたたしく鳴りどよむほどに、もの言ふ声も聞こえず。かの地獄の業(ごう)の風なりとも、かばかりにこそはとぞ覚ゆる。家の損亡(そんぼう)せるのみにあらず、これを取り繕ふ間に、身をそこなひ、かたはづける人、数も知らず。この風、未(ひつじ)の方に移りゆきて、多くの人の嘆きをなせり。

辻風は常に吹くものなれど、かかることやある。ただごとにあらず、さるべきもののさとしか、などぞ疑ひ侍りし。

また、治承四年水無月(みなづき)のころ、にはかに都遷(うつ)り侍りき。いと思ひの外(ほか)なりしことなり。おほかた、この京の初めを聞けることは、嵯峨(さが)の天皇の御時(おんとき)、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳を経たり。ことなるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを、世の人安からず憂へ合へる、げにことわりにも過ぎたり。

されど、とかく言ふかひなくて、帝(みかど)より始め奉りて、大臣・公卿皆悉く移ろひ給ひぬ。世に仕ふるほどの人、たれか一人ふるさとに残り居らむ。官(つかさ)・位に思ひをかけ、主君の陰を頼むほどの人は、一日なりとも疾く(とく)移ろはむと励み、時を失ひ、世に余されて、期(ご)する所なきものは、愁へながら止まり居り。軒を争ひし人の住まひ、日を経つつ荒れゆく。家はこぼたれて淀河(よどがわ)に浮かび、地は目の前に畠(はたけ)となる。人の心みな改まりて、ただ馬・鞍(くら)をのみ重くす。牛・車を用とする人なし。西南海(さいなんかい)の領所(りょうしょ)を願ひて、東北の庄園(しょうえん)を好まず。

その時、おのづからことの便りありて、津の国の今の京に至れり。所のありさまを見るに、その地、ほど狭くて条理を割るに足らず。北は山に沿ひて高く、南は海近くて下れり。波の音、常にかまびすしく、塩風ことに激し。内裏(だいり)は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なかなか様(よう)変はりて優なるかたも侍り。日々にこぼち、川も狭(せ)に運び下す家、いづくに造れるにかあるらむ。なほ空しき地は多く、作れる屋(や)は少なし。古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。

ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり。もとよりこの所に居るものは、地を失ひて愁ふ。今移れる人は、土木のわづらひあることを嘆く。道のほとりを見れば、車に乗るべきは馬に乗り、衣冠(いかん)・布衣(ほい)なるべきは、多く直垂(ひたたれ)を着たり。都の手振りたちまちに改まりて、ただ鄙びたる武士(もののふ)に異ならず。世の乱るる瑞相(ずいそう)とか聞けるもしるく、日を経つつ世の中浮き立ちて、人の心もをさまらず、民の愁へ、つひに空しからざりければ、同じき年の冬、なほこの京に帰りたまひにき。されど、こぼちわたせりし家どもは、いかになりにけるにか、ことごとくもとの様にしも造らず。

伝へ聞く、いにしへの賢き御世(みよ)には、憐れみをもちて国を治め給ふ。すなはち、殿(との)に茅(かや)葺きても、軒をだに整へず。煙の乏しきを見給ふ時は、限りある御調物(みつきもの)をさへ許されき。これ、民を恵み、世を助け給ふによりてなり。今の世のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。

また養和のころとか、久しくなりて確かにも覚えず、二年が間、世の中飢渇(きかつ)して、あさましきこと侍りき。或いは春・夏、ひでり、或いは秋・冬、大風・洪水など、よからぬことどもうち続きて、五穀(ごこく)ことごとくならず。むなしく春耕し、夏植うるいとなみありて、秋刈り、冬収むるぞめきはなし。

これによりて、国々の民、或いは地を棄てて境を出で、或いは家を忘れて山に住む。さまざまの御祈(おんいのり)始まりて、なべてならぬ法ども行はるれど、更にそのしるしなし。京のならひ、何わざにつけても、源は田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへん。念じわびつつ、さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとくすれども、更に目見立つる人なし。たまたま換ふるものは、金を軽くし、粟(ぞく)を重くす。乞食(こつじき)、路のほとりに多く、愁へ悲しむ声耳に満てり。

前の年、かくの如く、辛うじて暮れぬ。明くる年は、立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘(えきれい)うちそひて、まさざまに跡形なし。世の人みなけいしぬれば、日を経つつ、きはまりゆくさま、少水の魚(うお)のたとへにかなへり。はてには、笠打ち着、足引き包み、よろしき姿したるもの、ひたすらに、家ごとに乞ひ歩く(こいありく)。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地(ついひぢ)のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、臭き香(か)世界に満ち満ちて、変はりゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。いはむや、河原などには、馬・車の行き交ふ道だになし。

あやしき賤・山(しづやま)がつも力尽きて、薪(たきぎ)さへ乏しくなりゆけば、頼むかたなき人は、自らが家をこぼちて、市に出でて売る。一人が持ちて出でたる価(あたい)、一日が命にだに及ばずとぞ。あやしき事は、薪の中に、赤き丹付き(につき)、箔(はく)など所々に見ゆる木、あひ混じはりけるを尋ぬれば、すべき方なきもの、古寺に至りて仏を盗み、堂の物の具を破り取りて、割り砕けるなりけり。濁悪世(じょくあくせ)にしも生まれあひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。
また、いとあはれなる事も侍りき。さりがたき妻(め)・をとこ持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、稀々(まれまれ)得たる食ひ物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子の、なほ乳(ち)を吸ひつつ、臥(ふ)せるなどもありけり。

仁和寺(にんなじ)に隆暁法院(りゅうぎょうほういん)といふ人、かくしつつ数も知らず死ぬる事を悲しみて、その首(かうべ)の見ゆるごとに、額(ひたい)に阿字(あじ)を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。人数を知らむとて、四・五両月を数へたりければ、京のうち、一条よりは南、九条よりは北、京極(きょうごく)よりは西、朱雀(すざく)よりは東の、路(みち)のほとりなる頭、すべて、四万二千三百余りなんありける。いはんや、その前後に死ぬるもの多く、また、河原・白河・西の京、もろもろの辺地などを加へていはば、際限もあるべからず。いかにいはんや、七道諸国をや。

崇徳院の御位の時、長承のころとか、かかる例(ためし)ありけりと聞けど、その世のありさまは知らず。眼のあたり、めづらかなりしことなり。

また、同じころかとよ。おびただしく大地震(おほなゐ)ふること侍りき。そのさま、世の常ならず。山はくづれて河を埋(うづ)み、海は傾(かたぶ)きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌(いわお)割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波に漂ひ、道行く馬は足の立ちどを惑はす。都のほとりには、在々所々(ざいざいしょしょ)、堂舎塔廟(どうしゃとうびょう)、一つとして全(また)からず。或いはくづれ、あるいは倒れぬ。塵灰(ちりはひ)たちのぼりて、盛りなる煙のごとし。地の動き、家の破るる音、雷(いかづち)に異ならず。家の内に居れば、たちまちにひしげなむとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、ただ地震(ない)なりけりとこそ覚えはべりしか。

その中に、ある武者のひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、築地のおほひの下に、小家を造りて、はかなげなるあどなしごとをして、遊び侍りしが、にはかにくづれ埋められて、跡形なく、平にうちひさがれて、二つの目など一寸ばかりづつうち出だされたるを、父母かかへて、声を惜しまず悲しみあひて侍りしこそ、あはれに悲しく見侍りしか。子の悲しみには、たけき者も恥を忘れけりとおぼえて、いとほしく、ことわりかなとぞ見侍りし。
かく、おびたたしく震る(ふる)ことは、しばしにてやみにしかども、その余波(なごり)、しばしは絶えず。世の常、驚くほどの地震(ない)、二・三十度震らぬ日はなし。十日・二十日過ぎにしかば、やうやう間遠(まどお)になりて、或いは四・五度、二・三度、もしは一日まぜ、二、三日に一度など、おほかたその余波、三月(みつき)ばかりやはべりけむ。

四大種(しだいしゅ)のなかに、水・火・風は常に害をなせど、大地に至りては異なる変をなさず。昔、斉衡(さいこう)のころとか、大地震ふりて、東大寺の仏の御首(みぐし)落ちなど、いみじきことども侍りけれど、なほ、この度(たび)には如かずとぞ。すなはちは、人皆あぢきなきことを述べて、いささか心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、言葉にかけて言ひ出づる人だになし。 ”
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/houjouki001.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/houjouki002.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/houjouki003.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/houjouki004.html

”月日は百代の過客(はくたいのかかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊(ひょうはく)の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神(どうそじん)の招きにあひて取るもの手につかず、股引の破れをつづり、笠の緒付けかへて、三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住めるかたは人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べつしよ)に移るに、

草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家

表八句を庵の柱に掛け置く。

弥生(やよひ)も末の七日、あけぼのの空朧々(ろうろう)として、月は有明(ありあけ)にて光をさまれるものから、富士の峰幽か(かすか)に見えて、上野・谷中(やなか)の花の梢、またいつかはと心細し。睦まじき限りは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千住といふ所にて舟をあがれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻の巷(ちまた)に離別の涙をそそぐ。

行く春や 鳥啼き(なき)魚の 目は泪(なみだ)

これを矢立(やたて)の初めとして、行く道なほ進まず。人々は途中に立ち並びて、後影の見ゆるまではと、見送るなるべし。 ”
『おくのほそ道』の1:月日は百代の過客にして
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/hosomichi001.html


”序
行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止まる事なし。世の中にある人と住家と、またかくの如し。
玉敷の都の中に、棟を竝べ甍を爭へる、尊き卑しき人の住居は、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或は去年破れて今年は造り、あるは大家滅びて小家となる。住む人もこれにおなじ。處もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、僅に一人二人なり。朝に死し、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方より來りて、何方へか去る。また知らず、假の宿り、誰がために心をなやまし、何によりてか目を悦ばしむる。その主人と住家と、無常を爭ひ去るさま、いはば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花殘れり。殘るといへども朝日に枯れぬ。或は花は萎みて露なほ消えず。消えずといへどもゆふべを待つことなし。

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安元の大火
およそ物の心を知りしより以來、四十あまりの春秋を送れる間に、世の不思議を見ること、やゝ度々になりぬ。
いにし安元三年(*1177年)四月二十八日かとよ、風烈しく吹きて靜かならざりし夜、戌の時ばかり、都の巽より火出で來りて、乾に至る。はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部省まで移りて、一夜が程に、塵灰となりにき。
火元は樋口富小路とかや。病人を宿せる假屋より出で來けるとなむ。吹き迷ふ風に、とかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如く、末廣になりぬ。遠き家は煙にむせび、近き邊はひたすら焔を地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、あまねく紅なるなかに、風に堪へず吹き切られたる焔、飛ぶが如くにして、一二町を越えつゝ移り行く。その中の人現心あらむや。或は煙にむせびてたふれ伏し、或は焔にまぐれて忽ちに死にぬ。あるは又、僅に身一つ辛くして遁れたれども、資材を取り出づるに及ばず、七珍萬寶、さながら灰燼となりにき。その費いくそばくぞ。このたび公卿の家十六燒けたり。ましてその外は數を知らず。すべて都のうち三分が一に及べりとぞ。男女死ぬる者數千人、馬牛の類邊際を知らず。
人の營みみな愚かなるなかに、さしも危き京中の家をつくるとて、寶を費し心をなやますことは、勝れてあぢきなくぞ侍るべき。

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治承の辻風
また治承四年(*1180年)卯月二十九日の頃、中御門京極のほどより、大きなる辻風おこりて、六條わたりまで、いかめしく吹きける事侍りき。
三四町をかけて吹きまくるに、その中にこもれる家ども、大きなるも、小さきも、一つとして破れざるはなし。さながら平に倒れたるもあり、桁柱ばかり殘れるもあり。又門の上を吹き放ちて、四五町がほどに置き、又垣を吹き拂ひて、鄰と一つになせり。いはんや家の内の寶、數を盡して空にあがり、檜皮葺、板の類、冬の木の葉の風に亂るゝがごとし。塵を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず。おびたゞしくなり動む(*ママ)音に、物いふ聲も聞えず。かの地獄の業風なりとも、かくこそはとぞ覺えける。家の損亡せるのみならず、これを取り繕ふ間に、身を害ひて、かたはづけるもの、數を知らず。この風坤の方に移り行きて、多くの人の歎きをなせり。
「辻風は常に吹くものなれど、かゝることやはある。たゞごとにあらず、さるべき物のさとしか。」などぞ(*原文「さとしかなとぞ」)、疑ひ侍りし。

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福原遷都
又おなじ年の六月の頃、俄に都遷り侍りき。いと思ひの外なりし事なり。大方この京のはじめを聞けば、嵯峨天皇の御時、都と定まりにけるより(*薬子の変以後を指すか。)後、既に數百歳を經たり。ことなる故なくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人たやすからず愁へあへるさま、ことわりにも過ぎたり。されどとかくいふかひなくて、御門より始め奉りて、大臣、公卿、こと\〃/く移りたまひぬ。世に仕ふるほどの人、誰かひとり故郷に殘り居らむ。官位に思ひをかけ、主君の蔭をたのむ程の人は、「一日なりとも疾く移らむ。」とはげみあへり。時を失ひ世にあまされて、期する所なき者は、愁へながらとまり居たり。軒を爭ひし人の住居、日を經つゝ荒れ行く。家は毀たれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。人の心皆あらたまりて、唯馬鞍をのみ重くす。牛車を用とする人なし。西南海の所領をのみ願ひ、東北國の莊園をば好まず。
その時、おのづから事の便りありて、津の國今の京に到れり。所の有樣を見るに、その地ほどせばくて、條里を割るに足らず。北は山にそひて高く、南は海に近くて下れり。波の音常にかまびすしくて、鹽風殊にはげしく、内裏は山の中なれば、かの木丸殿もかくやと、なか\/樣かはりて、優なるかたも侍りき。日々にこぼちて、川もせきあへず運びくだす家は、いづくに作れるにかあらむ。なほ空しき地は多く、作れる家は少なし。故郷は既に荒れて、新都はいまだ成らず。ありとしある人、みな浮雲のおもひをなせり。もとよりこの處に居たるものは、地を失ひて愁へ、今うつり住む人は、土木の煩ひあることを嘆く。道の邊を見れば、車に乘るべきは馬に乘り、衣冠布衣なるべきは直垂を著たり。都のてぶり忽ちに改りて、唯鄙びたる武士に異ならず。これは世の亂るゝ瑞相(*前兆)とか聞きおけるもしるく、日を經つゝ世の中うき立ちて、人の心も治らず、民の愁へ遂に空しからざりければ、同じ年の冬、なほこの京に歸り給ひにき。されど毀ちわたせりし家どもは、いかになりにけるにか、悉くもとのやうにも作らず。
ほのかに傳へ聞くに、いにしへの賢き御代には憐みをもて國を治め給ふ。すなはち御殿に茅を葺きて、軒をだに整へず、煙の乏しきを見給ふ時は、かぎりある貢物をさへゆるされき。これ民を惠み、世をたすけ給ふによりてなり。今の世の中のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。

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養和の飢饉
又養和の頃かとよ、久しくなりてたしかにも覺えず。二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。あるは春夏日でり、あるは秋冬大風大水など、よからぬ事どもうち續きて、五穀悉く實らず。空しく春耕し、夏植うる營みのみありて、秋刈り冬收むるぞめきはなし。
これによりて國々の民、あるは地を捨てて境を出で、あるは家をわすれて山に住む。さま\〃/の御祈り初まりて、なべてならぬ法ども行はるれども、さらに其のしるしなし。京の習ひ、何わざにつけても、みなもとは田舍をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操も作りあへむ。念じわびつゝ、樣々の寶物かたはしより捨つるが如くすれども、更に目みたつる人もなし。たま\/易ふる者は、金を輕くし、粟を重くす。乞食、道の邊に多く、愁へ悲しぶ聲耳に滿てり。
さきの年(*治承5年=養和元年〈1181〉)かくの如く、辛くして暮れぬ。明くる年は、立ちなほるべきかと思ふに、あまさへ(*ママ)疫病うちそひて、まさるやうに跡方なし。
世の人皆飢ゑ死にければ、日を經つゝきまはり行くさま、少水の魚のたとへに叶へり。はてには笠うち著、足ひきつゝみ、よろしき姿したるもの、ひたすら家ごとに乞ひありく。かくわびしれたるものども、歩くかと見れば、即ち倒れ死ぬ。築地のつら、路のほとりに飢ゑ死ぬる類は數も知らず。取り捨つるわざもなければ、臭き香、世界にみち\/て、變り行くかたちありさま、目もあてられぬこと多かり。況んや河原などには、馬車の行きちがふ道だにもなし。
あやしき賤・山がつも、力盡きて、薪にさへ乏しくなりゆけば、頼む方なき人は、自ら家を毀ちて、市に出でて之を賣るに、一人が持ち出でたる價、なほ一日が命を支ふるにだに及ばずとぞ。怪しき事は、かゝる薪の中に、丹つき、白銀黄金の箔など、所々につきて見ゆる木のわれ相交れり。これを尋ぬれば、すべき方なき者の、古寺にいたりて、佛を盜み、堂の物の具を破り取りて、わりくだけるなりけり。濁惡の世にしも生れ逢ひて、かゝる心憂きわざをなむ見侍りし。
又、あはれなること侍りき。さり難き女男など持ちたるものは、その思ひまさりて志深きは必ず先だちて死しぬ。その故は、我が身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、いたはしく思ふ方に、たま\/乞ひ得たる物を、まづ讓るによりてなり。されば親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先だちて死にける。また母が命つきて臥せるをも知らずして、いとけなき子の、その乳房に吸ひつきつゝ、臥せるなどもありけり。
仁和寺に、慈尊院の大藏卿隆曉法印といふ人、かくしつゝ數知らず死ぬることを悲しみて、聖を數多語らひつゝ、その死首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなむせられける。その人數を知らむとて、四五兩月が程數へたりければ、京の中、一條より南、九條より北、京極より西、朱雀より東、道のほとりにある頭、すべて四萬二千三百餘りなむありける。況んやその前後に死ぬるもの多く、河原、白河、西の京、もろもろの邊地などを加へていはば、際限もあるべからず。いかにいはんや諸國七道をや。近くは崇徳院の御位のとき、長承のころかとよ、かゝる例はありけると聞けど、その世のありさまは知らず。まのあたりいとめづらかに、悲しかりしことなり。

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元暦の大地震
また元暦二年のころ、大地震ふること侍りき。そのさま世の常ならず。山崩れて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。土さけて水湧きあがり、巖割れて谷にまろび入り、渚こぐ船は浪にたゞよひ、道行く駒は足の立處をまどはせり。況んや都の邊には、在々所々堂舍塔廟、一つとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬる間、塵灰立ち上りて、盛んなる煙の如し。地の震ひ、家の破るゝ音、雷に異ならず。家の中に居れば、忽ちにうち挫げなむとす。走り出づれば、また地割れ裂く。羽なければ空へもあがるべからず、龍ならねば雲にのぼらむ事難し。おそれの中におそるべかりけるは、たゞ地震なりけりとぞ覺え侍りし。その中にある武士のひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、築地のおほひの下に小家を作り、はかなげなる跡なしごとをして遊び侍りしが、俄に崩れ埋められて、あとかたなく平にうちひさがれて(*押し潰されて)、二つの目など、一寸ばかりうち出されたるを、父母かゝへて、聲も惜しまず悲しみ合ひて侍りしこそ、あはれにかなしく見はべりしか。子のかなしみには、猛き武士も恥を忘れけりと覺えて、「いとほしく。理かな。」とぞ見侍りし。かくおびただしくふる事は、暫しにて止みにしかども、その餘波屡絶えず。世の常に驚くほどの地震、ニ三十度ふらぬ日はなし。十日二十日過ぎにしかば、やう\/間遠になりて、或は四五度、ニ三度、もしは一日まぜ(*一日おき)、ニ三日に一度など、大方その餘波三月許りや侍りけむ。四大種(*四大)の中に、水火風は常に害をなせど、大地に至りては殊なる變をなさず。「昔、齊衡(*ママ)の頃かとよ。大地震ふりて、東大寺の佛の御頭落ちなどして、いみじき事ども侍りけれど、猶この度には如かず。」とぞ。すなはち人皆あぢきなき事を述べて、聊か心の濁りも薄らぐかと見し程に、月日重なり、年越えしかば、後は、言の葉にかけていひ出づる人だになし。 ”
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/hojoki.htm
(現世は儚き生き地獄。
来世は墓無き死に地獄。
世の儚さ、対句、七五調、主役の先祖の紹介、
風、火、飢饉、地震の描写はこれら名文を訳して前後の文にあるようにしたらよろし。
古文の勉強は徒然草を現代語訳だけ読むことから始めたらいいよ。
徒然草が自分が習った中では一番役に立っているからね。
一番気になった段の原文を徹底的に勉強して暗唱できるまでにする。
いかに学ぶ価値があると実感できるかが重要)

花伝書「風姿花伝」本文
http://www.geocities.jp/actartcreator/shiryoushitzu/kaden-honbun.html
”古きを学び、新しきを賞するなかにも、全く風流をよこしまにすることなかれ。
 ただことばいやしからずして、すがた幽玄ならんを、うけたる達人とは申すべきか。まずこの道にいたらんと思 はんものは、非道を行ずべからず。ただし、歌道は風月延年の飾りなれば、もつともこれを用ふべし。
 およそ、若年よりこのかた、見聞きおよぶところの稽古の条々、大概注しおくところなり。

 一、好色、博奕・大酒、三の重戒、これ古人のおきてなり。
 一、稽古は強かれ、情識はなかれとなり。 ”

”じょうしき【情識】とは。意味や解説、類語。[名・形動ナリ]1 仏語。心。迷いの心。2 強情であること。また、そのさま。頑固。「稽古はつよかれ、―はなかれとなり」〈花伝・序〉”
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/108600/meaning/m0u/

ビジネスパーソンに捧ぐ世阿弥のことば|
http://www.the-noh.com/jp/zeami/words.html


精神安定術も会話術の一つ。

安那般那念
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%82%A3%E8%88%AC%E9%82%A3%E5%BF%B5
"安那般那念(あんなはんなねん[1]、巴: ānāpāna-sati(アーナーパーナ・サティ)、梵: ānāpāna-smṛti(アーナーパーナ・スムリティ))とは、仏教の瞑想法の一種。安般念(あんぱん[1]ねん)、安般守意(あんぱん[1]しゅい)、阿那波那(あなはな)[1]、入出息念、出入息念、持息念、数息観などとも。
(…)
ānāpāna(アーナーパーナ)とは、「āna」(アーナ)と「apāna」(アパーナ)の合成語であり、「āna」(アーナ)は「入息」を、「apāna」(アパーナ)は「出息」を意味する。
また、sati(サティ)やsmṛti(スムリティ)は、「念」(意識していること)を意味する。
合わせて、ānāpāna-sati(アーナーパーナ・サティ)、ānāpāna-smṛti(アーナーパーナ・スムリティ)とは、「入出息(呼吸)を意識すること」(あるいは、呼吸を数えること)を意味し、上記のような音訳・意訳も含む、様々な漢訳語が生み出され、使用されている。
(…)
安那般那念は、狭義には、文字通り「入出息(呼吸)を意識する」(あるいは、呼吸を数える)ことで、意識を鎮静・集中させる「止行」(サマタ瞑想)の一種、ないしは導入的な一段階を意味するが、広義には、そこから身体の観察へと移行していき、「四念処」に相当する「観行」(ヴィパッサナー瞑想)の領域も含む行法全般を指す。
(…)
「安那般那念経(Ānāpānasati sutta)」では呼吸を使った瞑想法について次のように具体的に記述されている。以下は安那般那念経(パーリ語の英訳版)からの引用である。

Breathing in long, he discerns, 'I am breathing in long'; or breathing out long, he discerns, 'I am breathing out long.' Or breathing in short, he discerns, 'I am breathing in short'; or breathing out short, he discerns, 'I am breathing out short.' He trains himself, 'I will breathe in sensitive to the entire body.' He trains himself, 'I will breathe out sensitive to the entire body.' He trains himself, 'I will breathe in calming bodily fabrication.' He trains himself, 'I will breathe out calming bodily fabrication.'[3][4] 長く息を吸っているときには「私は長く息を吸っている」とはっきり知り(pajānāti)、長く息を吐いているときには「私は長く息を吐いている」とはっきり知る。短く息を吸っているときには「私は短く息を吸っている」とはっきり知り、短く息を吐いているときには「私は短く息を吐いている」とはっきり知る。「私は全身の感覚を把握しながら(paṭisaṃvedī)息を吸おう」と訓練する(sikkhati)。「私は全身の感覚を把握しながら息を吐こう」と訓練する。「私は身行(=吸う息)[5]を静めて息を吸おう」と訓練する。「私は身行(=吐く息)[5]を静めて息を吐こう」と訓練する。

これがどのように修行をするのかについて書かれた一節である。このような修行に関して次のように述べられている。

This is how mindfulness of in-&-out breathing is developed & pursued so as to be of great fruit, of great benefit.[3][6] これが呼吸による気づきであり、このように熱心に行い、自身を訓練することは大きな果報となり、大きな利益となる。
"

ーーこっから記事作製関係――

質を落とさずに記事数を確保する方法
時間がかからず効果が高いあるいは必須のものだけやる

文字の大きさ「中」
読みやすい。読者全員が目がいいとは限らない。
ctrl+Aしてからやれば十秒以内で終る。

よく改行する
視認性確保。
意味の切れ目出来ると頭に入りやすい。
所要時間というか適切な改行は必須要素

画像はあまり使わない
ダウンロード、アップロード、大きさ調整など時間がかかる
誰かのツイート画像付きの埋め込みなら楽

色付け、太字、下線など
量が増えるほどに所要時間は長くなりしかも効果が薄くなるので注意。
色文字だらけだと色文字が目立たなくなるから。
別になくてもかまわないことを肝に銘じること。


驚くほど違う→あなたの文章を最適化するたった4つのルール
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-562.html
” 文が分かりにくくなる4大原因

1.一つの文に多くの情報が詰め込まれている
2.情報を与える順番がおかしい
3.どの語がどの語を修飾しているか不明確である
3-1.ある語が修飾している相手の語を見つけにくい
3-2.ひとつの語が複数の語を修飾しているようにみえる
4.言葉のまとまりが捕らえにくい

分かりやすくする4つの最適化ルール

1.一つの文が伝える情報量を減らす
(そのために)
(1)不必要な情報を削る
(2)文章を二つ以上に分割する
2.文章の主題となる部分を前に出す
3.語と語の修飾関係を明確にする
(そのために)
(1)語順を変える
(1-a)長い修飾語は前に、短い修飾語は後に
(1-b)意図せぬ修飾関係が生まれないように配列する
(2)読点をうって区切る
(2-a)短い修飾語を先にする場合は、その直後に読点をうつ
(2-b)長い修飾語の後に、長めの表現が続くときは、長めの表現の直後に読点をうつ
(2-c)修飾関係を切りたいときにも、読点をうつ
4.漢字とかなを組み合わせて、漢字やかなの連続を避ける

※4つの最適化ルールの使い方(メタ・ルール)

「わかりやすくする4つのルール」は、より上にあるルールを優先して適用する。
 まず文に含まれる情報を減らし(1.)、
 それでも分かりにくければ情報を与える順番を変え(2.)、
 それでも分かりにくければ修飾関係が明確にする処置を行い(3.)、
 それでも分かりにくければ、言葉のまとまりを修正する(4.)。”


読まれる記事を書くために、文章技術よりもはるかに有効なこと
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20090512/p1
”小手先の文章テクニックや

場当たり的なアクセス稼ぎテクニックなどよりも

はるかに効果のあること

があると思います。

それは、経営戦略の基本中の基本である、需給バランスに徹底的にこだわることです。

すなわち、需要があるのに供給が不足している記事を書くのです。

本来、「需要があるのに供給が不足している」というのは異常な状態です。

なぜなら、みんなが読みたがっているのに、誰も書いていない記事を書けば、たくさんの読者を獲得できるのは明らかだから、そういう記事は瞬く間にたくさんのブロガーに書かれ、需給はすぐにバランスしてしまうはずだから、

そんな状態は、本来アリエナイはずだからです。

したがって、「需要があるのに供給が不足している」という異常な状態は、

なにか「供給を阻害している要因」がある場合にしか生じません。

なので、取るべき戦略は、

記事の供給を阻害している要因を見つけ出し、そこに記事をぶつける

というものになります。

具体的には、以下のような戦略でブログ記事を書くと、あまり文章が上手でなくても、多くの方に読んでもらえる傾向があると思います。

(1)ブログを書くのが割に合わない人たちだけが知っている情報を書く

(2)その情報を知っている人は立場上書くことができないという情報を書く

(3)通常アリエナイ組み合わせの知識or経験がないと書けない記事を書く

(4)本屋とネットを探しても見つけられなかった情報を書く


(1)ブログを書くのが割に合わない人たちだけが知っている情報を書く

たとえば、業界内でそれなりにブランドを確立しているレベルのITベンチャーの経営層の人達は、とても忙しくてブログを書いているヒマはないし、あったとしても、そういう人の時給(正確には機会費用)*1はとても高いので、ブログ記事を書くのは、その時給に見合うだけの自尊心の満足か、ビジネス的メリットのどちらかがないと、割に合いません。経済学の言葉で言うと、そういう人達は「機会費用」が高いわけです。

ところが、そういう人達は、そもそも日常の仕事でもプライベートでも十分に自尊心は満たされています。

日々、重要な顧客から一目置かれ、重要なプロジェクトの重要な会議に参加し、重要な意思決定を行い、業界の重要人物と打ち合わせし、上層に近い有能な部下達に指示を出していますから、わざわざブログ記事を書いてネットユーザに認めてもらわなくても、自尊心は十分に満たされているのです。

また、そういう人達が、自分のビジネスに具体的メリットをもたらすようなブログ記事を書くのは、かなり難しいです。ブログプロバイダーを運営している会社の社長ですら、サイトの立ち上げ期以外は、ブログを書き続けるのがだんだん割に合わなくなって、更新頻度がどんどん落ちていったり、だんだん内容のうすい、スカスカのブログ記事になっていったりします。

だから、この場合のブログ記事の供給阻害要因とは、

「機会費用が高すぎて、供給するには採算が合わないこと」

となります。

なので、この阻害要因を狙ってブログ記事をぶつけると、多くの読者に読んでいただけます。

先ほどの例で行くと、「業界内でそれなりにブランドを確立しているレベルのITベンチャーの経営層」の人達が、経営会議で話しているような視点で書いたブログ記事は、多くの読者に読んでいただける傾向にあります。

たとえば、会社の経営陣が集まって、人事採用や昇進の方針決めをする会議で出てて思いついたネタには、以下のようなものがあります。

未来の転職が、過去にさかのぼって現在の自分を有能にする

「努力すればスキルが向上して上に昇れる」というのは幻想

それから、会社の経営層が出席する会議で頭の悪い発言を繰り返し、会社の上層部からダメ人間のレッテルを貼られた人達の様子をネタにしたものが以下の記事です。

「この人無能だな」と思われる人の3つの特徴

これは、一種のアービットラージでもあります。情報のあるところ(経営会議)から無いところ(ネット)へ情報を輸出することで、さや取りをやってるわけですね。

なお、ここではたまたまITベンチャーの経営層というケースを取り上げましたが、「ブログを書くのが割に合わない人たちだけが知っている情報」であれば、金融だろうが政治だろうがなんでもよいので、いろいろな応用パターンが考えられます。



(2)その情報を知っている人は「立場上書くことができない」という記事を匿名(コテハン)で書く

たとえば、以下の記事に書かれたような「実情」を実感として知っている人は、立場上、それを書くことができないという矛盾があります。

身も蓋もない仕事の法則

この記事で箇条書きされたようなことは「実情」ではあるものの、社員の前ではとても公言できない、会社の役員飲み会のぶっちゃけトークで出てくるような放言です。

公言すると社内で人望を失いかねない物言いです。

もちろん、匿名であればこういう「実情」を書くことも出来ますが、こういう実情を知っている人間は、そもそも匿名でそういうことをネットに書く動機もメリットもありません。こういう実情を知っている人達は、仕事で自尊心を満たされているし、匿名で書いたところで、自分のビジネスにメリットをもたらすことはできませんから。

こういう理由で、この手の情報は需要があるのにあまり供給されないわけです。

この「知っている人は立場上書くことができない」というパターンの情報は、ほかにもいろいろあると思います。お医者さんなんかにも多いんじゃないかと思ったり。



(3)通常アリエナイ組み合わせの知識or経験がないと書けない記事を書く

たとえば、哲学っぽい本をいろいろ読みあさっている人はありふれています。だから、哲学っぽいテーマのブログ記事はネットにたくさん書き散らされています。

また、ビジネスの現場でビジネスモデルをバリバリ組み立てているような人も、めずらしくありません。だから、ビジネスネタも、ネットにあふれています。

しかし、哲学っぽい本をあれこれ読みあさりながら、ビジネスの現場でバリバリとビジネスモデルを組み立て、なおかつブログを書いているという、3つを兼ね備えた人種というのは数が限られます。

なので、哲学っぽい本をある程度読みあさっていないと書けない記事で、かつ、ビジネスの現場で現役で活躍している人の感覚が分からないと書けないような記事というのは、供給が不足しています。

もちろん、ビジネスの現場にいる人で哲学書を読む人もときどきいますが、たいていはある特定の哲学者のファンであり、「哲学っぽい本をあれこれ読みあさる」というような読み方をするのは、ビジネスにあまり興味のない人に特有の読み方なのです。

イメージがわくように、もっと具体的な言い方をすると、たとえば、ざっくりでいいので、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどのギリシャ哲学から、中世のアキナス、スコトゥス、オッカムを経て、デカルト、ルソー、カント、ヘーゲルにいたる近代哲学の大まかな流れ、そして、その「近代」的な安直な理性信仰への反発と解体というニーチェ的なるものからポストモダンへの流れをざっくりと把握しているくらいには哲学っぽい本を読んでないと書けないような記事で、なおかつ、仕事やビジネスの現場感覚をある程度もっていないと魅力的な記事に仕上がらないような記事は、供給が不足します。

たとえば、以下のような記事です。

「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法

また、もう一つの例として、「プログラミング×ビジネス&経済」というパターンもあります。

ビジネスモデルをバリバリ組み立てるような人の中には、経済や社会全体を俯瞰する視点を持つ人間がけっこういます。

なので、経済や社会を俯瞰するような記事は、ネットにたくさんあります。

また、プログラマーの視点から社会やビジネスをとらえた記事も、ネットにはたくさん供給されています。

しかし、プログラマーの多くは、テクノロジーの視点から社会全体を把握しようとする人が大半で、経営者やビジネスマンのような視点から、社会を俯瞰するようなタイプが少ないです。

なので、コンピュータープログラマーの現場感覚と、ビジネスパーソン的な経済の俯瞰的感覚の両方を融合させて書いた以下のような記事は、供給が不足することになります。

現代という時代は、どのようなプログラミングを求めているのか?

「IT投資」という考え方そのものが間違っている

プログラミングとは経営判断の集積である

というわけで、通常アリエナイ組み合わせの知識を持っていたとしたら、このパターンはなかなかに有効です。



(4)本屋とネットを探しても見つけられなかった情報を書く

これは、阻害要因が不明だけど、供給されていないことだけが分かっているパターンです。

googleでさんざん検索して、なおかつ、池袋のジュンク堂の専門書のコーナーを片端から読みあさっても、自分が欲しい情報が得られないときってありますよね。なぜかはしらないけど、その情報がどこにもない。

そういうときは、自分でいろんな論文を解析して、メーカーに電話で問い合わせて、自力で答えにたどり着かなきゃならなくなります。

そういう情報は、いわば自分で調べて、自分で作りだした情報であって、本屋にもネットにもない情報だから、そういう情報は、供給が不足どころか、供給がない状態なわけです。

こういう、供給がないことが確かめられている記事を書くと、それなりに多くの人に読んでいただけるようですが、後述するように、これには注意点があります。

たとえば、私は花粉症なのですが、医者からもらった薬がちっとも効きません。

ネットによると、その薬の二重盲検法での臨床成績は「改善率50%」とあります。すなわち、半分の人は薬が効かず、しかも、残り半分も、完全に症状がなくなるわけじゃないというわけです。他の薬でも、改善率が100%の薬など無いし、完全に症状がなくなるのとはほど遠い状態です。なので、多くの人は、薬だけではどうしても症状が出てしまうと思われます。

なので、薬を飲んでいてもマスクをすることになるわけですが、私の場合、マスクをしていてもやっぱり鼻づまりが酷い。

どうもおかしいと思って、googleで検索してみても、さっぱり情報が引っかからない。

しかたがないので、ジュンク堂の専門書のコーナーへ行ったのですが、そこでいくら本を読みあさっても、やっぱりマスクをしているのに鼻水がずるずる出てくる理由が書かれている本を見つけられない。

なんじゃこりゃ、いったい何の陰謀だよ、と思いながら、しかたがないので、アレルゲンの分子構造や花粉の微細構造、アレルゲンを測定した論文などを読みあさるうち、オイラ的には衝撃的な結論に達する。

なんと、花粉マスクは花粉は防げるけど、砕け散って細かくなった花粉破片はだだ漏れ、という詐欺みたいなことになっているとしか考えられない!

ちきしょう!騙された!この詐欺野郎め!とか、花粉マスクメーカーに悪態をつきながら、花粉破片も除去できるマスクってないの?いやいや、それどころか、この調子では、花粉除去をうたっている換気口フィルターもやばいんじゃないの?花粉除去の掃除機は大丈夫か?空気清浄機は?と調べはじめたわけです。

で、せっかく調べたのだから、他の、薬があまり効かないタイプの花粉症患者の方にも調べたことを伝えるために、以下のようなブログ記事にしたわけです。*2

あまり知られてないけど、すごく効果のある花粉症対策まとめ

ただし、本屋でもネットでも見つからなかった情報をブログ記事にすると、異様に長くて読みにくい記事にならざるを得ません。

その理由は、調べた本人が、その分野の専門家ではなく、情報に「権威」がないからです。

たとえば、ボクが医者か花粉アレルゲンフィルタの研究者であれば、結果だけ簡潔に書いた方がいいと思います。なぜなら、それは専門知識に裏付けられていることが暗黙の了解となっているので、詳細がわからないまま鵜呑みにしても比較的安全な情報だからです。

しかしながら、まったくの門外漢である私が、花粉アレルゲンの除去について結論だけを簡潔に書いても信憑性など皆無ですから、読者はその情報を信用していいのかどうかがわからないので、その記事の情報は役に立ちません。

そこで、ぼくの推論が正しいかどうかを読者の方が検証できるように、自分がその結論に至った道筋を、使用したデータや論文の出典と共に、逐一ブログ記事のなかに埋め込む必要が出てくるのです。そうすることで、その記事は、書いた人間の権威に関係なく、信用できる情報かどうかが判定できるようになり、情報としての価値がでてくるのです。

また、これと同様のパターンの記事に、以下のようなものもあります。

思考の速度でパソコンを使う技術

これも、ネットや本屋でさんざん調べたのだけど、ボクが欲しい情報が見つからなかったため、自分で調べて作り上げたパソコン技法をまとめたものです。

そもそも、パソコンのキーボード、マウス、IMEって、デフォルトのものはかなり効率が悪いです。そこで、最初はemacsやviのキーアサインで使っていたのですが、emacsやviのキーアサインも、かなりの無駄があることがだんだん分かってきた。また、emacsやviのキーアサインは、必ずしもプログラマでない一般ユーザの日常的なパソコン操作には、必ずしもフィットしていない。そこで、日常的なパソコン操作を最高能率にするようなパソコン操作技法や、それを開発するための戦略が必要になったわけです。そうして編み出した戦略と技法をまとめたものが、上記の記事なわけです。

峨骨‏ @Chimaera925 2016年9月7日
百科辞典の語彙や定義が頭に入っていれば、そこにあるものだけであらゆるものごとを言葉で表現することができる。故事成語や四字熟語、歳時記に親しんでおくとより豊かな表現が可能となるだろう。
読む対象に適切な語彙のプールを選ぶのも要点か。多くの者に幅広く読まれたいと思うならば、携帯小説程度の語彙量に絞り漢字を減らし、ひらがなやカタカナの容量を増やす。漢字だらけの文章にすれば、変な輩が滅多に噛み付いて来ないという利点もあるが、読者を増やしたいならばお勧めはしない。

有名?アカウントがお勧めの本を紹介しているから、紹介しなさそうな必読書を紹介してみる。 百科辞典、ことば選び実用辞典。このあたりは必須。調べるのではなく繰り返し読む。物事を考える時、頭の中で言語化されている。語彙が少なければ、深く考える事はできないし、それを表現する事もできない。

読書多謝
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工事中 カント陰謀r追及者の基礎教養としてのカントに必要な量を確保した必要なことはほぼ書いたよ。過去のカント読書メモで見つかったやつ乗せ説く『視霊者の夢』『永遠平和』『純粋理性批判』『実践理性批判』「心が折れそうな時は大体寝不足」「機嫌が悪い時は大体空腹」 

”本書のうち、「啓蒙とは何か」は20ページにも満たないが、じっくりと味わう価値がある。冒頭部分をあげておこう。

中山元訳「啓蒙とは何か」冒頭部分
 啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができ ないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなの だ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうべきものがあるとすれば、それは「知る 勇気をもて」だ。すなわち、「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。(中山元訳、光文社古典新訳文庫、10ページ)

 カントは18世紀の哲学者であり、「啓蒙とは何か」が書かれたのは1784年というから、220年以上前である。だが、この冒頭部分を読んだだけで、い まの時代にいまの人にまさに必要なことが書かれていると感じられるのではないだろうか。このすぐ後でカントは、「ほとんどの人間は、……死ぬまで他人の指 示を仰ぎたいと思っているのである。……というのも、未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ」(中山訳、11ページ)とも指摘して いる。ずしりと心に響く言葉ではないだろうか。そして、「自分の理性を使う勇気をもて」という呼びかけは、まさにいまの人に向けられたものだと感じる。”
http://www.honyaku-tsushin.net/koten/bn/Kant.html
翻訳批評 山岡洋一 古典新訳文庫の出発にふわさしい名著名訳
中山元訳『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』



カントは『実践理性批判』(1788年。64歳)では、キリスト教という宗教ではなく、人間に普遍的な理性と道徳的な原理に基づく「理性宗教」だけを容認していたが、
『たんなる理性の限界内における宗教』(1793年。69歳)ではキリスト教(非理性宗教)のうちにも理性宗教と一致する部分があることを説いている。

だからゴッドの代替物を崇めさせていて骨格がキリスト教のままだから単なる新キリスト教。科学容認、啓蒙主義、理性主義なのに反知性主義が混ざるのが耶蘇。
そんなに理性主義でうまくいく一神教がいいならイスラームっていう成功例があるじゃん。
“他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができ ない”
ことを脱しないといけないんだから、何かの指示を受けないとダメってのはたださねばならない状態じゃん。
この他人が人ではなく神ならOKってか?
結局自律じゃないじゃん。
カントは上記の引用に続いて、他人の指示を受ける楽から抜けられない人がほとんどって言っているので、結局は大半の人々は指示を与えるもの=神が必要って認めてる。
不滅の霊魂も神の存在とセットで要請している。
カントは統治のために何が必要かを書いているともいえる。要請。


実践理性批判のこの箇所が重要。ここだけ二回ぐらい読んだらこの記事はもういいよ。これがカントの道徳と統治の基盤。
永遠平和のためにもこれが前提と言っていい。
結局世界共和国もこの思想が浸透していることが前提だよ。
カントの理想って「神が命じる義務の地獄」なんじゃねーの?

“道徳法則はそれだけでは、〔その法則を遵守する者に〕幸福を『約束しない』。自然の秩序一般の概念から考えるかぎり、道徳法則を遵守することと幸福になることのあいだには、必然的な結びつきは存在しないからである。
そのためキリスト教の道徳論は、最高善の第二の不可欠な構成要素である幸福〔との結びつき〕の欠如を埋めるために、『神の国』の概念を提示している。神の国とは理性的な存在者が道徳法則に全身全霊をもって身を捧げる世界である。この神の国では派生的な最高善を可能にする神聖な創造主の力によって、自然と道徳が、それぞれ単独では無縁なものである調和を獲得するのである

このようにして道徳法則は、純粋実践理性の客体であり究極目的でもある最高善の概念を通じて、『宗教』へと到達するのである。これは『あらゆる義務を制裁としてではなく、神の命令として認識する』ようになること、すなわち『ある他者の恣意的で、それ自体が偶然的な指示』として認識するのではなく、みずからの自由な意志それ自体の本質的な『法則』として認識するようになることである。

このようにして道徳法則は、純粋実践理性の客体であり究極目的でもある最高善の概念を通じて、『宗教』へと到達するのである。これは『あらゆる義務を制裁としてではなく、神の命令として認識する』ようになること、すなわち『ある他者の恣意的で、それ自体が偶然的な指示』として認識するのではなく、みずからの自由な意志それ自体の本質的な『法則』として認識するようになることである。“

だから道徳とはそもそも、いかにしてわたしたちがみずからを幸福に『するか』という教えではなく、いかにしてわたしたちが幸福に『値する』ようになるべきかという教えである。これに宗教が加わると、その場合は、わたしたちが幸福になるに値しなくならないように留意すればするほど、徳に応じた幸福にいつか与るのではないかという希望が生まれるのである。

霊魂の不滅の要請
 しかしこの無限の進歩が可能となるのは、同一の理性的な存在者の『現存』と人格性が『無限に』つづくと想定する場合にかぎられるのであり、これが霊魂の不滅と呼ばれるのである。だから実践的には霊魂が不滅であるという想定のもとでしか、最高善は可能ではない。したがって霊魂の不滅は、道徳法則と分かちがたく結びついたものとして、純粋実践理性が『要請』するものである。“


ここらへんのまとめはまた書き直すけど、今の段階でも統治形態考えるうえで超重要だと思う。
プラトンの国家とアリストテレスの政治学は重要だけどちゃんと登用と中東の統治論も大事だからね。シーア派のホメイニ、スンニ派のア名前忘れた、孔子も牛孫子君主論完全教祖マニュアル。中国史はいろいろな支配体制の宝庫だかr長寿用。弱った理由倒れた理由ももちろん重要。それこそが祖sの統治形態脆弱性だから。

「心が折れそうな時は大体寝不足」「機嫌が悪い時は大体空腹」 散逸した読書メモ見つかったやつ乗せ説く カント哲学を応用していろいろ考えたのって陰謀追及h差ってモグラさんしか見つからないんだけど  
非報 純粋理性批判と永遠平和のためのメモが見つからない インy9うお見つかったやつあるけどその翻訳から甕持ってないからダメじゃねえか

教訓
メモには書名をきちんと書くこと!
著者名もできれば核こと!

批判書のメモが発掘されたぞーなんか適当なファイル飛来的^ワード検索したら出たぞー
店名ならぬ天命だなーーーー
そういやフランス系結社はカント好きらしいねえ
だってカントはスウェーデンボルグ(スピリチュアル結社の教祖)に対して
“霊界は空想家がでっちあげた楽園である。”
って批判しているからね。
啓蒙主義(理性崇拝の新✝)vsスピリチュアル(反知性主義の新✝)

私?
カントも批判するよ。カントの道徳も世界共和国もキリスト教が究極の担保だもんね。
結局耶蘇かよ。


∸―
哲学書を読むコツ

・作者が何を目的に書いたか知る
・基本用語をわかりやすく言い換えている解説を探す
・哲学書は翻訳が複数あるなら比較している人の意見を読む。

翻訳どころか改悪のやつもある。
カントは光文社が新しいから読みやすい(日本語になっているという意味)。
が一番素晴らしいのは世界の古典つまみ食い訳(後述)。

『永遠平和のために』ならいきなり読んでも大丈夫だろうし読者が最も興味があるだろうから、二番目にのせておく。

メモが見つからないけどな!
一番目は一番笑える『視霊者の夢』。

∸―
カントのいう人間が守るべきルール(善い意志へ向かわせる道徳律)は個人の欲求(欲望)が絡んではダメで、
全ての構成員にとって普遍的なルールでないといけない。
論理思考で普遍的な道徳ルールを作ろうとしているが、人間にできるのだろうか。      人間はどうしても主観(欲求)が絡まざるを得ないからこの利己主義が結果的に利他主義に変換されるシステムしないとうまくいかないと私は考える。
啓蒙主義系の哲学者カントはは「大衆は馬鹿。でも改善できる!導き手が必要!」という結論なので、一番強力な導き=強制力=キリスト教を究極の道徳の源泉にした。
カントら一神教的発想の人からしたら東洋の絶対的超越者を前提としない道徳は考えられないのだろう。
儒教、道教、仏教、神道(天皇崇拝がない、単なる自然崇拝)は人間が神になれる思想。
神だけでなく霊魂の不滅も「要請」したカントからすれば、不滅の霊魂を完全否定する仏教は特に理解できない対象だろう。


カントの道徳の究極の担保は善なる絶対存在であると、という啓蒙主義系キリスト教思想を明言しているので、カントの永遠平和って全員が少なくとも一神教信者でないと実現しないと考えていた疑惑が出る。


“自分の好き嫌いを抑えて実行しなければならない義務があるということを明確に意識するとき、人々は自由というものを意識するようになる”
(『純粋理性批判』世界の古典つまみ食い訳)
カントの自由は義務ありきだから不自由。確かに不自由だと自由を意識できる。
自由の定義って、自由な状態にあるときは自分が自由だと自覚できないってことなんじゃないかな。でもAの定義にA入れたら定義にならないしなあ。


カントのいう時間と空間は現象が起こる出現条件・環境で「人間の主観側」。
時間と空間は人間の中だけに存在する。
時間と空間は現象をとらえる人間の主観の中にある。
時間と空間は直感の形式=現象を感覚するため大前提条件。
インド哲学の影響かもね。
啓蒙主義系結社経由?

―――


∸―

こう言い換えるだけでだいぶマシになる用語集

純粋=経験によらない。
先天的=経験によらない。
表象する
=心にイメージを描く、心の中に思い描く、心の中にとらえる。

表象
=心の中にとらえたもの。心に思い浮かべる外界の像(イメージ)。


直観(Intuition)
=推論や論理的思考なしでなされる直接的な認識
=「いちいち考えなくても感覚的にいきなりすぐ判る」
=推論(inference, reasoning)や理性の使用などの、意識的な論理的プロセスなしで即座に知り、認識する能力。

感覚とは関係のないもの(超越的な意味で)
=「純粋~」

「純粋直観」
=純粋     +直観
=感覚より上位の+論理的思考なしでなされる直接的な認識
=感覚より上位で思考なしに即座に得られる直接的認識

ラテン語a priori(アプリオリ)
=先天的、経験によらずに、経験に基づかずに、経験なしで、先験的

=心の中に思い描くこと
=表象
=心の中にとらえる、心の中にとらえたもの。

純粋理性
=経験によらない理性、後天的要素を除いた認識能力の全体。

理論理性
=(道徳的能力たる実践理性に対し理論的能力すなわち)認識能力

実践理性
=経験によらない道徳原理によって意志を規定する理性。

格率
=個人が主観的に行為するときの規則。
普遍的道徳法則とは異なる。


英知界:理性による思考・観念によって捉えられるもの
現象界:感覚的に経験、物理的に認識できるもの
人間はこの二つの世界にまたがって存在している。

『悟性』=understanding

∸――

∸――
『視霊者の夢』


カントがスウェーデンボルグに対して書いた『視霊者の夢』をぜひ。
別の世界についての以上の見解は論証することはできないが、理性の必然的な仮説である。
スウェーデンボルクの考え方はこの点において非常に崇高なものである。byカント
要は、カント「スウェーデンボルグのスピ思想は論証できない。仮説としてはあり」。
啓蒙主義系結社とスピ系結社の対立というか水と油。

発掘されたメモ
スヴェーデンボリ(スウェーデンボルグ)は偉大な発明家であり科学者であった。
1688年スウェーデンのストックホルムで、ルター派の牧師の息子として生まれ、幼少時からすでにかなり神秘的傾向を持っていたらしい。
数学や鉱物学を学び、ウプサラ大学を卒業したあとは長い間スウェーデンの鉱山局の技師をつとめた後で(1719年)貴族に叙せられ貴族院議員となった。製塩機・潜水艇・飛行機まで発案したといわれる。
スヴェーデンボリを世界的に有名にしたのは霊界との交流の記録
であった。
1740年頃から神秘的著作を公にした。
死去した場所は1772年滞留中のロンドンにおいてであり、死後も評判が高まるばかりであった。死後136年を経た1908年になってから母国スウェーデンの学士院が、国王に依頼して軍艦を仕立て、ロンドン郊外に葬られていたスウェーデンボルグの遺体を引き取りにいったほどである。
スウェーデンボルグ信奉者は特にスウェーデン、北アメリカ、イギリスに多く、
1893年にはイギリスだけでも80を超すスヴェーデンボリ信奉者団体があった。
また1910年ロンドンで開かれた国際スヴェーデンボリ会議には、世界中の学者、宗教家など400人が出席し、それぞれ20の専門部会に分かれて、スヴェーデンボリの学殖を20世紀の学問水準に立って討議、検討した。
アメリカの哲人エマーソンや、ヘレン・ケラーがスウェーデンボルグ思想の信奉者だった。

(小物の霊能者ではないことに注意。だから私が重視しているのです。欧州貴族のエキュメニズム側、特に北欧系の中核思想ですから)


・スヴェーデンボリいわく、霊界には太陽があり、これから発する霊流を受けて霊たちは生きている。
したがって、霊流が受けられなくなるように、人(霊)の背後に立つことは霊界ではもっとも非礼の行為とされている。

霊界には三つの世界があり、霊の人格の高さごとに上中下に別れている。
上世界に住む霊は、霊の心の窓が最も広く開け、
中世界はこれに次ぎ、下世界は中より劣る。

(なんか表現が物質的すぎないか?)

また霊界の西の地平線の上に一人の巨人が姿を現すことがある。巨人はやがて大きな腕を霊界全体に渡って振り回し、また額から強烈な光のようなものを全霊界に向けて放つ。そうすると、霊界を侵略し崩壊させようとする凶霊たちは物凄い叫び声をあげて地の中へ落下していく。

霊的な事柄は我々の経験をはるかにこえている。したがって超越的な認識不可能の事柄については、もっぱら「わたしは知らない」と答えなければならない、とカントは言う。
だがカントは霊的事物が経験的概念ではないからといって、その可能性までも全否定していはいない。性急な断定は避けた。
もっともカントの言う霊界は、叡知界とも呼ばれるプラトン的なイデアの世界である。道徳的な原動力もこれに準拠している。人間は時には利己的な傾向の為に圧倒されることがあっても、その本性のどこかに公共的な道徳的原動力が支配
している。こうして人間は極めてひそかな動機のなかでも、普遍的意志の規則に依存している。
これが霊的な法則であり、それにしたがってあらゆる思考者の間に、道徳的統一と組織体制が成立する。そして普遍的意志と合致するように、人間の意志を強制する心情がいわゆる「道徳的感情」にほかならないとカントは説く。
カントの霊界は抽象的な観念の世界である。

・負傷して頭脳の大部分が失われても、生きていて、思考能力も失われていない事例がある。魂の所在地を頭脳内だけではなく他の所在地にするなどいろいろある。

・冒頭p.21“霊界は空想家がでっちあげた楽園である。
(いきなり結論を述べたぞ)

・カントの結論。
人間の理性ではあの世(霊界)のことは判らない(対応できない。扱えない)。
あの世(霊界)に行きたい人が実際にあの世に行くまで(死ぬまで)じっくり待つのが一番(だからあれこれ考えても仕方がない)。
死後にあの世(霊界)でいかなる扱いを受けるか(天国や地獄など)は、今生きているこの世での言動にかかっている。
だから自分のこの世の幸福の心配をしよう。この世の現実の生活に取り組もう(霊について考えるのはもうやめよう)。


(記事主が勝手に内心を推測。
霊とか霊界なんて認識【フィルター】の前提となる鋳型・形式=カテゴリーにちゃんと従ってくれないし、非理性の権化だから哲学で扱うなんて無理なんだよ!)

“人間の理性もわれわれにあの世の秘密をかくしているあの高い雲を、眼前から取り払うことができるほど高揚することはない。さらに熱烈にあの世を渇望する好奇心旺盛な人々に対しては【彼らがあの世に行くまで、じっくり待つことに甘んじるならば】、それがいちばん得策だという、単純だけれども、きわめて自然な回答を与えることができよう。そうはいうもののあの世におけるわれわれの運命は、おそらくわれわれがこの世におけるおのれの立場をいかに保ってゆくかということにかかっているらしく思われることからしても、私は本論文をかのヴォルテールがあの誠実なカンディードに、多くの無駄な学問論争のあと最後に言わせた 『われわれはおのれの幸福の心配をしよう。庭に行って働こうではないか』という言葉をもって閉じることにする。”p.128
※【】は原文の傍点の代役。
※※ヴォルテールの原書では“しかしとにかくわが畑を耕す必要がある”。


・カントの道徳論(引用はこのあとすぐ!)。
利己心(欲。本能)に逆らう、犠牲を要求する道徳的強制力が義務と善意。
義務は善意よりも強い強制力を持つ(つまりより不自由になる)。
道徳(的強制力。義務と善意)は心からなくなることはない。
道徳的強制力は【一般意志】(多数の人間の共通意志)に拘束されていることを示す。
この【一般意志】の法則に拘束されていることを源泉として、すべての思考する存在のなかに【道徳的統一】と、ひたすら霊的な法則に従う組織的な状態が生まれる。
自分の意志を一般意志と一致させる強制力=道徳的な感情。
(ここでニュートンの、全ての物質に働く重力と引力に言及。物質相互の一般的活動の真の結果=引力。)

道徳的な感情を発生させる原因は、霊的存在をたがいに交流させあう真に活動的な力ではないか?
そうなると道徳的感情とは、個人の意志が一般意志に【まさにその通りだと感じられるように拘束】されていること。
かつ、道徳的感情=非物質的世界に道徳的統一を獲得させる上で必要なもの。
また、道徳的感情は自然かつ一般的な相互作用で生まれる。

(突拍子もなくニュートンの重力と引力の話が挿入されていることに着目。
重力や引力は人間の自覚なしに働く。
一般意志も同様に、本人の自覚なしに影響を及ぼす。

錯覚 自分で決めた
実際 一般意志が決めた

道徳的感情は、個人の心から生じる力ではなくて別の真の力により生じることを言いたいのではないのだろうか。
真の力が何なのか読み直してもよく分かりません。
カント自身も突き止められていないのかもしれません。
カント哲学完成前の著作ですし。
カントは道徳的な感情=義務と善意が生まれる原因、どこから来るのかまだ断定していない。
道徳法則を神秘的なもの=経験を超えたものだと考えていたのでしょう。
カントは義務感は生まれつきであり、経験ではじめて生じるのではないと考えたそうです。
経験は人によって違うから「私は義務感が生じるような経験をしたことがありません」と言われかねない。
義務を普遍化、万人に当てはまるとするなら生まれつき備わっているにするしかありませんからね。

私の考えだと、霊的存在を動かせるのだから、「真に活動的な力」とは霊的な力のはず。霊的なら非理性に属する。非理性といえば感情。でもその感情は生まれつきか生まれた後の経験で生まれるのか。両者の混合でしょうね。二元論の罠に注意。
どちらでもないから選択しない・
どちらでもないから新たな選択肢を見つけてそれを選択
・両方という選択肢をお忘れなく。生まれつき器の原形があって、それを経験で改良していくんじゃないの?

道徳的感情
=個人意志を一般意志と一致させる強制力
=個人の意志が一般意志に【まさにその通りだと感じられるように拘束】されていること。

=非物質的世界(霊界。霊)に道徳的統一を獲得させる上で必要な自然にしてかつ一般的な相互作用の所産。
(霊界にも義務と善意による拘束を及ぼそうということね。

殺人は悪だと自分で考えて結論したと思い込まされているだけ。
実際は一般意志に自分は拘束されていて、自分では殺人は悪だと決めてはおらず、一般意志の決定を吹き込まれただけ。自分で決めたと錯覚しているだけ。
あれ、カントにとって道徳的感情=善だよね?
自分で決めたと錯覚させる=善、になるよね?

なるほど、これが支配層が採用する思想か。
秘密投票である限り不正そのものでしかない選挙とかね。
秘密投票である限り不正でない選挙はありえない。
不正=秘密選挙。不正をする為に秘密選挙制度を作った。
記名投票にして票を移動できなくしつつ、投票に責任を持たせるようにしないと駄目。
圧力云々で反論したそうな人がいそうなので、
「その圧力がかかる異常過ぎる世界を変えるのにあなたは何のリスクをも負わないのですか?」と言っておく。
あるいは投票率0%=全員落選にするか。
支持者なし、全員落選という選択肢がない時点で茶番だと気づけよな)

  “われわれの外にいる他人の意志のなかにあって、われわれを動かしてゆく力がある。そのことから、利己心にさからって、われわれを駆り立てる道徳的な推進力が発生する。そのうちより強い法則が義務の法則、より弱い法則が善意の法則である。その
いずれもがわれわれに多くの犠牲を要求する。時にはこの両者は、利己的な傾向によって圧倒されることはあっても、これらが現にあることを示す心の動きは人間の性質のなかでけっしてなくなったりしない。これを通じてわれわれは、もっとも深奥な動機のなかで、【一般意志】の法則に拘束されていることがわかる。そしてこれを源泉として、すべての思考する存在のなかに【道徳的統一】と、ひたすら霊的な法則に従う組織的な状態が生まれる。このようにわれわれの意志を一般意志と一致させるようなわれわれのなかに感じられた強制を【道徳的な感情】と名づけようとするならば、これについては、われわれはおのれのなかに現に起こっている現象を、その原因をつまびらかにすることなしに語っているにすぎない。ところで、ニュートン〔イギリスの物理学者。一六四二-一七二七・訳註〕は、たがいに近よろうとするすべての物質の力に関する確実な法則を重力の法則と名づけた。だが彼はおのれの数学的証明を重力の原因をめぐって起こるかもしれない哲学的論争に妙な具合に関与させたくなかった。それにもかかわらず、彼は重力を物質的相互の一般的活動の真の結果として取扱うことをためらわず、したがってこれに【引力】という名を与えた。
ところで思考する存在のなかの道徳的衝動という現象は、霊的存在をたがいに交流させあう真に活動的な力の結果と考えることはできないであろうか? そうなると道徳的感情とは個人の意志が一般意志に【まさにその通りだと感じられるように拘束】されていることであり、非物質的世界に道徳的統一を獲得させる上で必要な自然にしてかつ一般的な相互作用の所産ということになるだろう。”p.55-56
※【】は原文の傍点の代役。

“そうはいうものの死んでしまえばすべてが終わりだとの考えに耐えられず、持ち前のけだかい人情に基づいて未来に希望をつないでいないようなすぐれた魂の持ち主はけっしていなかった。したがってあの世への期待はすぐれた性質を持つ魂の感覚によるものだとする方が、逆に良い行為は、実はあの世への期待があるからだとするよりも、人間の性質と、道徳の純粋さにずっと適しているように思われる。”p.127

※一般意志(仏語:Volonté générale、英語:General will)
=社会の全ての人に共有される意志。
最低にして最低の人間クズ野郎ルソーの概念。
(発言者がクズなのと内容の正しさは一致するとは限らないけど言わせておくれ)

カントは規則正しい生活習慣で知られ、決まった道筋を決まった時間に散歩した。あまりに時間が正確なので、散歩の通り道にある家では、カントの姿を見て時計の狂いを直したらしい。ある日いつもの時間にカントが散歩に出てこないので、周囲の人々はなにかあったのかと騒ぎになった。実はその日、カントは鬼畜ルソーの「エミール」を読みふけりいつもの散歩を忘れてしまったのであった。



永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』を再読したのでメモ。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-64.html
“・バークリー「何かが存在するとは知覚されているってことにほかならない」
ヒューム「因果の概念は習慣によって作られた我々の信念でしかない」
因果関係そのものは想定されるだけで見えない。

・夢=心の中にあって外界に存在しないもの

カントは、
“ぼくらのものごとのとらえ方にはね、習慣によって作られた信念なんかじゃなくて、それ以外ではありえないような型みたいなものがあるって考えたんだ。そういう、ものごとのとらえ方の基本的な枠組みみたいなのをカテゴリーって言う
んだけどね。日本語で言えば範疇だな。
因果性のほか、まえから使っている『ものとその性質』なんていうとらえ方もカテゴリーなんだ。
ぼくらは、ものごとをとらえるとき、すでに必ずカテゴリーを使ってるんだ。
カテゴリーのくわしい話はまたにするとして、とにかく、さまざまな感覚的経験にカテゴリーが適用されることによって、はじめて、それが【客観的な現実】として認められることになるんだよ。
カントは『視霊者の夢』って変な本を書いてるんだけど、これはね、スウェーデンボルグっていう当時流行の視霊者、つまり霊を見たと称するやつなんだけど、まあ霊媒みたいなもんだな、そいつの言ってることがほんとうかってことを考えた本なんだけどね。結論を言うとね、どんなにありありと見えたとしても、それはありえないこと、つまり『夢』にすぎないんだ。つまり、客観的な実在と対応してないんだよ。なぜかっていえば、要するに因果性のようなカテゴリーが適用されないからなんだな。まあ、カントに言わせれば、猫と話をするなんてことも、ありえないことだ、だからやっぱり『夢』でしかないってことになるかもね。

カテゴリーが適用されることによって、対象は客観的なものになるって言ったけど、そこには統覚っていうはたらきが必要なんだ。統覚っていうのはね、自分が知覚したり経験したりするさまざまなものごとを、カテゴリーに従って秩序づけるはたらきだ〔原文ママ〕なんだけど、それをするのが自我のはたらきなんだ。カントはね、デカルトの『私は考える』っていうあの原理を統覚作用として読み変えたんだ。カントによれば、『考える』っていうことはカテゴリーを適用するってことだからね。
カテゴリーがぼくらがものごとを理解する枠組み
だとすると、
時間空間はぼくらがものごとを感覚する枠組みなんだけど、その話はまたにしよう。
とにかく、カントのこういう考え方はね、バークリーたちみたいに、現実を夢だって言って心の中で起こる夢にしちゃうんじゃなくてね、逆に、時間空間とカテゴリーで、まず心の中で起こる夢みたいなものを考えておいて、客観的な現実全体が実はその中にあら【ねばならない】んだって言う、ってやり方なんだよ。”p.105-107
※〔原文ママ〕も【】も原文にはなく、【】内一文字一文字に傍点。

国家神道=新キリスト教
=平田篤胤思想+現人神思想+ #スウェーデンボルグ 思想。
スウェーデンの貴族スウェーデンボルグの思想が神智学、スピリチュアル、ニューエイジ、宇宙人説、出口王仁三郎の霊界物語、大本教系(主要政党を支配)、大本教系の日月神示の元ネタです。

平塚らいてう(姉が #大本教 信者)が寄稿記事で『霊界物語』と #スウェーデンボルグ の関係を指摘しています。
大本教系の日月神示は和風スウェーデンボルグ。
丸に十字を掲げる大本教の出口王仁三郎の #日ユ同祖論デマ


1766年 - 『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』
Träume eines Geistersehers, erläutert durch Träume der Metaphysik

“1766年、『視霊者の夢』を出版[注釈 3][6]。カントはエマヌエル・スヴェーデンボリについてこう述べている[7]。
「別の世界とは別の場所ではなく、別種の直感にすぎないのである。-(中略)-別の世界についての以上の見解は論証することはできないが、理性の必然的な仮説である。スウェーデンボルクの考え方はこの点において非常に崇高なものである。-(中略)-スウェーデンボルクが主張したように、私は、〔身体から〕分離した心と、私の心の共同体を、すでにこの世界で、ある程度は直感することはできるのであろうか。-(中略)-。私はこの世界と別の世界を同時に往することはできない。-(中略)-。来世についての予見はわれわれに鎖されている。」

イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88#.E7.94.9F.E6.B6.AF

“スヴェーデンボリへの反応は当時の知識人の中にも散見され、例えば哲学者イマヌエル・カントは『視霊者の夢』中で彼について多数の批判を試みている。一方で、限定的に「スヴェーデンボリの考え方はこの点において崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である」(K・ ペーリツ編『カントの形而上学講義』から)と評価も下している。”
エマーヌエル・スヴェーデンボーリ(Emanuel Swedenborg, 1688年1月29日 - 1772年3月29日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AA

∸―
 
『永遠平和のために』

どの翻訳かわからない

・カントは『実践理性批判』(1788年。64歳)では、キリスト教という宗教ではなく、人間に普遍的な理性と道徳的な原理に基づく「理性宗教」だけを容認していたが、
『たんなる理性の限界内における宗教』(1793年。69歳)ではキリスト教(非理性宗教)のうちにも理性宗教と一致する部分があることを説いている。



“ところで他国との関係のもとにある国家が、法の定められていない状態、戦争だけが支配する状態から抜けだすには、理性的に考えるかぎり、次の方法しか残されていないのである。すなわち国家も個々の人間と同じように、法の定めにしたがわない未開な状態における自由を放棄して、公的な強制法に服し、つねに大きくなりながら、ついには地上のすべての民族を含むようになる『国際国家』を設立するほかに道はないのである。
しかしこうした国家は、彼らなりに国際法の理念に基づいて、このことを決して望まず、それを一般的には(イン・テシ)正しいと認めながらも、個々の場合には(イン・ヒュポテシ)否認するのである。だからすべてのものが失われてしまわないためには、『一つの世界共和国』という積極的な理念の代用として、『消極的な』理念が必要となるのである。この消極的な理念が、たえず拡大しつづける持続的な『連合』という理念なのであり、この連合が戦争を防ぎ、法を嫌う好戦的な傾向の流れを抑制するのである。”p.183
『』は原文の傍点の代役。()はルビの代役。以下の引用も同様。

“中国(ヒナ)と日本(ニポン)は、外国からの客を一度はうけいれてみた。しかし後に中国は来航は認めても入国は認めなくなった。日本は来航すら、ヨーロッパのオランダに認めるだけで、来航したオランダ人をまるで捕虜のように扱って、自国の民の共同体から切り離したのだが、これは賢明なことだったのである。”p.187

“秘密条項が適切なものと判断されるのは、次のような場合だけである。すなわち「『戦争にそなえて武装している諸国は、公の平和をもたらすことのできる条件について哲学者が示す原則を、忠告としてうけいれるべきである』」。”p.211

“だからといって国家は、国家の権力の代表者である法律家の言葉よりも、哲学者の示す原則を優先すべきだというわけではない。ただ哲学者の言葉に『耳を傾けよ』というだけのことである。”p.212

“国王が哲学者となったり、哲学者が王となったりするのは、期待すべきことでも、望ましいことでもない。権力を所有すると、理性の自由な判断の行使が損なわれるのは避けられないことだからだ。しかし王者が、またはみずから平等な原則のもとにしたがう王者的な民族が、哲学者という階級を消滅させず、また沈黙させずに、公に議論するのを許すことは、それぞれの職務を明確にするためにも不可欠のことなのである。哲学者という階級は、徒党を組んだり、秘密結社を設立したりすることができない性格をそなえているので、『プロパガンダ』による誹謗の疑いをかける必要はないのである。”p.213

平等な原則にしたがわないから王者的なのですよ。




国際政治学たん @Morgenthau0217 · 2013年12月22日
戦争の勃発を阻止し、国際平和を達成しようという構想は古くから度々提起されてきて、それは以下の6つのタイプに分類されるわ。
①世界政府の実現による平和
②国際法を通じての平和
③民主主義の普及による平和
④自由貿易を通じての平和
⑤紛争の平和的解決による平和
⑥力の均衡による平和
カントが『永遠平和のために』で着目したのは、③と④、そして諸国家からなる自由な連合(⑤が近いかな)。
①の世界政府の実現を夢想したのは、サンピエールが有名。
また、アクィナスやダンテも、その著作の中で全人類を包摂する世界帝国について語っているわ。

自殺を考えてしまう存在@8th day ‏@feelsosuicidal 2013年11月7日
カントの言う国際連盟は唯一つの巨大な国家とは違うのでしょうか?諸国家によって分割されているのが望ましいのは「歴史の途中」に思えますが @Morgenthau0217: (…)世界が諸国家によって分割されている状態の方が、唯一つの巨大な国家によって統合されてしまうより望ましい(…)

国際政治学たん ‏@Morgenthau0217 2013年11月7日
@feelsosuicidal 良い質問だと思うわ。カントは、個々の国家は内部に法秩序を有しているが、個々の国家からなる国際関係は非法律的無秩序な状態だと見なしており、ホッブズに近かったの。
その状態は現実に戦争が起きてなくても「戦争状態」と呼ばれ、これを脱却するために「国際連盟」の設立を唱えたのね。
しかも、その連盟は主権的権力を含まない、つまり連邦ではなく連合的な組織にすべきだと考えたの。
どうして連邦ではなく連合にすべきなのか。連合とは、そこに加盟する国々が、それぞれの国家主権を保持したままの国際組織ね。
それに対して連邦とは、各国の主権を統合した、国家よりも上位の権力機構。確かにこのような連邦(いわば、世界共和国のようなもの)という理念は連合よりはるかに進んだ理念だけど、やはり現実性を欠くわ。さらにカントは、帝国的統治というものが、版図が拡がれば拡がるほど法の及ぶ力が弱くなるということも言及しているわ。そういうわけで、彼は「一つの世界共和国という積極的理念の代わりに、戦争を防止し、持続しながら絶えず拡大する連合という消極的な代替物のみが、法を嫌う好戦的な傾向の流れを阻止できる」と主張したのよ。


中尾 綾 ‏@ayajet128 2月24日
@kikuchi_8 @wayofthewind トム・ヨークのパートナーがダンテのアートを研究してたvia naoshiy: 自衛はロック、ルソー、カント、ヘーゲルがそれぞれ論じた公共哲学の伝統的なテーマであり、世界政府をつくって軍隊の一元化を唱えたのはダンテであった。"

菊池 ‏@kikuchi_8 2月24日
@ayajet128 @wayofthewind なるほど、ダンテは世界政府主義者だったのですね。社会契約論は大東社の啓蒙主義者・革命家の重要な教義の一つですね。カントは「永遠平和のために」という著書で世界連邦みたいなアイデアを出しています。ヘーゲル弁証法は秘密力の得意技ですね。



ねこた‏ @lakudagoya
例えば、本来の意味のNWOを考えるならば(ストア学派による理想を追求するならば)結局的にはイスラーム主義に行き着くわけ。

少なくとも、中世の時点でその理想達成してる。

じゃ、今やってるNWOって何なの?と考えたら、あれは単なるカントなどの思想を悪用した悪政に過ぎないと。
確かにやつらの考えるNWOのさ、SF映画のような世界中の人を狭いところに閉じ込めて徹底的なカースト制度を引くというやつらの目標なんざ、ストア学派やカントの理想の欠片すらねーもん。

あれをNWOとか言ってビビってちゃダメなんだ。

あれは単なる悪政であって、理念無視だから。

カルトの教義にまみれてても、アニメやゲームは教養主義ってスタンスは捨ててはいけないみたいだなw

Fate GOは相当にイギリス系の思想のやつ出るね。

フランス系はやたらとカントが好き。

で、英米系メイソンはフリードリヒ大王などのドイツ系啓蒙主義が嫌いだという法則w

カントの本は少しだけ読んだけど、これストア学派のパクリではなくてオマージュ認定してもいいのでね?

ちゃんと消化してるからオマージュだよ。

二次創作としては完成度高い同人。

単なるコピペではないから。

で、今の世界連邦はみんなカントのコピペだね。陰謀の中核。
世界連邦だってストア学派やカントなどのコピペだしな。

カントの本借りてきたよ。

世界連邦にカントが抜けてたのは痛恨の極みであった。

驚くほど大本教がカントのコピペでワロス

神道カルトの思想の多くはカントが元ネタかよ。西欧かぶれの馬鹿はさっさと死んでほしいわ。



ーーー
応用例

カント哲学と事務のおばちゃんの哲学【20101004】
http://www.mkmogura.com/blog/2010/10/04/962
“たぶん、この話をそのまま哲学のレポートにしたら赤点を食らうだろう。
自分の頭と要素で組み立てられない文系教授には、理解できない話。
 
 
カントの自由とは何か?
 
まず、基本的にヒューム哲学、懐疑的経験論をカントは継承してる。
何度も言うが、「懐疑的経験論=大衆は馬鹿」である。
だから、理性(理念)として(社会構築に必要な要素)として、カントは「神・魂の不滅・自由」を提唱した。
 
まあ、形而上学的な「神」という概念で「大衆は馬鹿」→だから「大衆を騙そう=正しい規律へ誘導しよう」
という話である。
 
 
この全体図が見えてれば以下のこと、全てが説明つく。
 
・人間は生まれながらに自由である(神を必要としてるのになんで?)
・自律(自由)と外律(不自由) 何で分けなきゃならないの?
・義務論という帰結。
 
 
カントの自由の定義を砕いて言うとどういうことか。
 
世の中に欲望がいっぱいある、欲望から切り離し、どんな他人も「手段=人間扱いしない」なんてことをしちゃダメだよ。
で、全部、自分で考えて(他人に影響されちゃダメだよ)
欲望という本能ではなく人間的理性(ここは道徳という意味が入る)で律した中、理性(社会構築の要素)に普遍的な道徳的法則を追いかける時にかぎって、人は自由である。
 
 
つまり、
自分だけで出した考えと方法で(自律)
他人を物扱いしない(道徳的)
 
そういう要素を組み立てると、「カントは自由なんてない」
と言っているのだ。
 
 
今日も、おじいちゃん入れ歯が吹っ飛ぶほどの衝撃的な帰結だ。
 
 
人間は周囲に影響される=自律はない、
本能も捨てられない=絶滅か?、
普遍的な道徳的法則を追いかける=なんで、そんなめんどくさい事しなきゃならないの?=利己主義の原則。
 
どこに自律があって、自由があるのか。
なら、自由なんてないじゃないか?ってこと。
 
 
どこの哲学の教科書にも書いてないコトを教えてあげよう。
 
カントの自由とは、「人間は生まれながらにして、理性(社会構築の要素)に道徳的で普遍な法則を探さなきゃならない使命がある」ということ。
 
全体図を考えれば思想はわかる。
「他律=周りから影響される事、欲望」これらに左右される人は、ヒューム的懐疑的経験論の「大衆は馬鹿」の、馬鹿なわけよ。
つまり、馬鹿は「神とか不死」で操ってるから、「言う事をきいてなさい=不自由でなきゃダメ」という帰結。
 
 
人間はもとから理性に道徳的規律を持っていなきゃダメ。
=人間は生まれながらにして自由である。
※つまり、神で規定される戒律より、自由(理性を追う義務)が優先。
カントにとっての「神」は馬鹿を操るツールなんだから当然である。
 
そして「生まれながら自由である=義務を背負っている」は、カントの自由が、道徳的普遍な法則を探さなきゃならない使命という意味なら、「自由などない」というのは、当然の事である。
 
 
彼の自由は義務なのだ。
だから厳密に言えば、カントの思想に自由などない。
よってカントは「義務論
という帰結につながった」わけね。
 
つまり、批判哲学。そこから義務という答え=生まれながら自由(義務という使命)があると答えを出した。自由と義務をカントはすり替えた。
だから神の規律よりも、自由が優先なわけ。
 
カントは懐疑的経験論から「大衆は馬鹿であること」を意識していた。
「外律=馬鹿な大衆=不自由」
「自律=(理性=自由という義務を背負う者)=欲望を捨てられる道徳的な者=そのものは自由(本来の自由の意味=制限がない行動)である」
 
・自由という権利を持たない馬鹿=神に騙されてろ!!
・自由の使命を知ってる者=理性(社会的構築の要素)に道徳的法則を探し求めろ。自由、何も束縛されずに追いかけろという意味もある。
 
 
 
だれかが社会に規律を持たさなきゃならない。
 
過去の哲学は、そういう現実に沿って存在してる。
哲学も「必要だから」生まれたわけであって。
 
文系の大学教授なんかは、そういう「実務」であることを忘れている。
言い換えるなら、もし「大学運営に必要な理性」という質問に答えられるのは実務を意識した者ばかりだろう。
つまり本当の意味で哲学を教わるなら、文型の教授よりも事務のおばちゃんにでも聞いたほうがいいだろう。その大学に、何が必要で、何が不必要か答えられる=よっぽど有能だ。

 
変な理屈こねたり、馬鹿なサイト見てる前に、「おまんまの分を稼ぎなさい」、これが哲学である(号泣)。
 
 
カントはあたりまえだが、神が形而上的なもの=何もしてくれないを知っている。あくまでも、それをどう使うか?である。それも実務の話だ。
 
だから、自由の使命を知ってる者を、ヒューム的な「馬鹿な大衆」と切り分けて、「規律を作る人」として、その人間だけは本来の自由に近い権利を与えるべき、そして、他の欲望に振り回される愚民どもには自由はないと提唱したわけ。
 
世界で一番干渉的な「神を必要」としたのに、自由には「自律が必要=他者に全く影響されない事」
 
最大の干渉の要素と、究極の不干渉を同時に求める。

カントのこの部分に、間違いはないわけである。
 
この二律背反ともいえるので構成されてるカントの思想は、彼が2枚舌であるわけでも、嘘つきでもなく「実務的に」、「どう必要だったか?」を考えれば簡単なことである。
それなのに文系の教授で、このことに答えられる人間はたぶん少ない・・・だからレポートにこんな事を書いたら、赤点を食らうわけだが。
 
 
今に当てはめてもわかる。
 
神はあくまでも馬鹿を騙すツールである。
これは、今も続く。キリスト教、スピリチュアル、地球温暖化詐欺、アイアンマウンテンレポート、全てに共通する話だ。
「大衆=外律」欲望や周りに振り回される者でしょ?
馬鹿を騙す仕掛け人、ビルダーバーグの上の人だけ「自由=なんでもよし」ということ。これもイルミナティが支持するヒューム、同じくカントの思想だ。
イルミナティ、ビルダーバーグと中央銀行の支配の上の人達がカントを否定した部分は、あくまでもキリスト教での神学を理念として継承してしまった部分だけである。
 
懐疑的経験論からの選民思想を知ってれば、誰でもカントの自由の意味がわかる。
カントのはまだマシなほうだけど。
 
カントの哲学の話では、選民思想=「規律を作る特別な人」に切り分けられた部分でない限り、カントの自由=義務と置き換えられる。



∸―

作者の目的と、基本用語のわかりやすい言い換え


知性には限界があると言ったカント
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/intro_kant_intro.html
”形而上学とはどういう学問か。それは哲学の中で、神の存在とか、死後の世界とか、宇宙の始まりとか、非常に難しい問題を扱う分野である。古来、こ れらの問題に様々な天才たちが挑んできた。例えば古代ギリシャの有名なプラトンもこの問題に答えを出したと信じた一人である。

 しかし、カントは、序論の中で、こうした天才哲学者たちのやり方を手厳しく批判している。それは簡単に言うと、彼らは理性には何が出来るか何が出来ない かをよく確認もせずに、理性を使って闇雲にこうした問題を解こうとした。だから、独りよがりの独断論ばかりにになってしまった、とカントは言うのである。

 そして、カントは、理性にも知性にもそんなことをする能力はないと結論づける。これまでの哲学者は、何でも分析していけば、つまり、理屈をこねていれば、説明ができるという迷信に囚われていたのである。

 実は、人間の能力は理屈だけではない。人間にはもう一つ、感性という重要な能力がある。人間は、この感性の直観というものを使って、新たな概念を見つけ 出してくる。そして、既成概念に新たな概念を付け加えるのである。そうやって、人間は知識の範囲を広げてきたのである。それを彼は総合と呼んだ。

 ところが、プラトンは知性の拠り所が感性であることに気付かなかった。彼は、むしろ感性が知性を邪魔だてしていると考えて、感性の世界を捨て去って、イデアの世界に旅立っていった。しかし、感性という足場を失った知性はどこにも到達できるはずがなかったのだ。


 しかし、そんな難しい問題でなくても、分析の力の限界を教える例はごく身近にある。数学の分野は一見すべてが分析によって出来ているように思われるが実 はそうではない。幾何学は明らかに感性の産物だが、ごく単純な足し算でさえも、分析によって答えを導き出すことはできないのだ。

 カントは7+5=12という足し算を例にあげて説明してみせる。7+5の答えが12であることは、どう理屈をこね回しても出てこない。七と五の和という概念は、あくまで七と五の和でしかなく、そのなかに十二という数字は含まれてはいない。

 分析するということは既存の概念のなかに含まれているものを引き出すことに他ならない。だから、含まれてはいないものを分析によって取り出すことはできないのだ。

 では、十二という答えを人はどうやって手に入れるか。それは感性による直観によって手に入れる。

 感性による直観とは何か。たとえば物の形を見てそれが丸いとか四角いとかを人は一瞬にして理解する。そこにはどんな推論も判断も理屈も入り込む余地がない。それが直観であって、足し算の答えも人は直観よって手に入れるのである。

 人が日常何かの問題を抱えていて、それに答えを出さねばならない場合、大抵は、問題の中にすでに答えがあるものだ。だから、問題が何かを分析して明確化した段階で、答えが得られることがよくある。

 しかし、問題の中に答えが隠れていない場合がある。足し算がこの例であって、そういう場合には分析だけではだめで、感性の助けを借りるしかない
とカントは言うのである。

 こうして、カントは感性の重要さを主張する。しかし、感性といえば人間が直接五感で体験したことだけを意味しそうだが、そうではない。経験に頼らない直観があるとカントはいう。

 経験は多くのことを教えてくれるが、経験による知識には確実性がない。「だいたいそうなる」ということは経験によって分かっても、「必ずそうなる」ということは経験だけによっては分からないからである。

 とくに経験に頼らずに答えを導き出す必要がある数学では「だいたいそうなる」という程度のことではだめなのだ。

 しかし、ヒュームという哲学者は経験に頼らずに総合的判断を導き出すことはできないと言って、形而上学を否定してしまった。しかし、数学にはそれが出来ることを幾何学の存在がすでに証明している。

 どうして形而上学には数学に出来ることが出来ないだろうか。そこでカントは形而上学でも数学と同じことができるかどうかを検証しようとしたのだ。(この『純粋理性批判』という本はそのことをやって見せた本であって、形而上学そのものではない)

 カントは問題を一つの文章に要約している。それは「経験によらない総合的な判断はどのようにして可能か」という問いである。

 それを彼は個別の学問ごとに考えていく。つまり、「純粋数学はどのようにして可能か」「純粋な自然科学はどのようにして可能か」(ここで純粋とは「経験によらない」という意味である)

 そして、数学と自然科学は可能だが、これまでの考え方では形而上学は不可能だと結論づける。つまり、神とか霊魂とかは、感性に基づく知性の働きでは解明できないのだ。

 では、どうして数学には経験に頼らない総合的判断が出来てきたのかといえば、それは経験に頼らない直観がもともと人間の感性に備わっているからだと、カントはいう。それがカントが「感性論」の中で扱っている空間と時間である。

 人には知性と感性がある。そして、情報を受け取るのが感性であり、感性が受け取ったものを処理するのが知性である。また、この感性によって受け取るものが現象である。そして、現象によって人間の世界は組み立てられる。

 では、この現象というものを人間の感性は何を基準にして受け取るのか。その受け取り方をきめるものは何か。それが空間と時間だとカントはいうのである。 そして、人間が情報を受け取るために必要なものは、この二つだけで、この二つのものを人間は生まれながらにして持っているという。

 逆に言えば、空間と時間はどこか別の所にあるものではなく、人間自身の中にあるものなのである。だから、例えば時計は時間を視覚化したものにすぎず、時計が時を作っているわけではない。

 普通なら、時間とか空間とかいうものは、人間の外に人間とは独立してあるものだと考えるものだろう。しかし、そうではなくて時間と空間の原因は人間の側にある
というのがカントの新しさである。

 そして、これがカントが自ら名付けた有名なコペルニクス的転回である。

 「コペルニクスは、天体の運行を説明するのに、天体が観察者の周りを回っていると考えるとうまく行かないので、天体は動かないものと考えて観察者にその周りを回らせたらうまく行かないか試した」(第二版への序文より)

 そして、「もし我々の直観が対象の特性に一致せねばならないとすると、どうすれば経験によらずに対象について何かを知ることができるか、私には分からな い。しかし、もし(感覚の対象としての)対象の方が我々の直観能力の特性に一致せねばならないとするなら、経験によらずに対象を認識できるかもしれないと わたしは思う」(同上)

 対象の本当の姿を知りたければ、対象に直接出会うこと以外には対象を本当に知る方法はない。それには、どうしても経験が必要になる。しかし、自分が知り たいように知るだけなら、つまり、基準が最初から人間の側にあるなら、直接対象に出会う必要はなく、経験に頼る必要もなくなる。

 その基準が数学の場合は空間と時間だというのである。そして、このように自分の側に基準を置いて知ったものは、どこまでも自分が見たいように見て、知りたいように知ったことに過ぎないのだ。

 言い方を変えれば、人間が見ているものは、見たいように見ているだけのもので、単なる一つの現われ、すなわち現象にすぎない。対象の本当の姿つまり「物それ自体」は人間には見えないし、知ることは出来ないのである。

 実際、空間と時間についての我々の日常的な考え方は、ユークリッド幾何学を含めて、地球や宇宙の規模になると途端に当てはまらなくなってしまう。これは誰でも知っていることである。

 しかし、「神」という概念とこの「現象」という概念ほど激しく矛盾するものはない。何と言っても「神」はすべての原因でなければならない。ところが「現 象」の原因は人間にあるのだ。もし、「神」が人間の知ることが出来る「現象」なら、それはもはや「神」ではなくなってしまうだろう。

 ごく簡単に言えば、こうしてカントは、「神のことは考えることはできても知ることはできない」と結論づけた。そこから彼は「神の存在を否定した哲学者」として、一般に知られるようになったのである。

 そして、神の存在を合理的に証明することは出来ない
ということを示したこの本は、子供の頃から神の存在に疑いを抱いていた上記のモームにとっては大きな救いとなったというわけである。

 この本が一読に値する本であることに間違いはない。

 しかし、この本が読みにくい本であることは間違いない。カントは自分でも認めているようにかなりの悪文家である。同じことをくどくどと何度も何度も繰り 返して述べ立てる。こう言えばどうだ、ああ言えばどうだ、これでもか、これならどうだ、これでも分からないのか、もう分かるだろうといった調子である。そ うやっているうちに自分で何を言っているか分からなくなってしまっている所もあるという人もいるくらいである。

 カントは哲学者だから、さぞ用語の選択にも厳密だろうと思うかもしれないが、そうではない(注)。言葉足らずの表現もたくさんあって、読者の方で文脈か ら内容を忖度(そんたく)して読んでやる必要がある。だから、これを直訳などしたら訳の分からないものになることは必定だ。

(注)例えば、Grundsatz と Prinzipは厳密に区別されていないようである。それは、「感性論」で空間の原理にはPrinzip、時間の原理にはGrundsatzが使われていることから も分 かる。これを従来のように区別して訳すと、空間については原理だけが、時間については原則だけが語られていることになってしまう。なお参考のために、原理 あるいは原則と訳した個所には、もとのドイツ語を()内に入れて示した。従来道理に訳した方が意味が通り易いかどうか、確認されたい。

 カントは一度書いた文章を何度も書き直すのだが、分かりやすくするために挿入したところが、前後の文章とぴったり適合していなくて、よけいに分かりにくくなっているところもある。だから、コンマでつないだ長い文章は、挿入部分を無視して読む方が分かりやすかったりする。

 第一版では「総合(Synthesis)」といっていたくせに、第二版で 書き換えた部分ではそれを「結合(Verbindung)」と言ったりもしている。こういうのはしょっちゅうで慣れるしかない。ところが硬い翻訳書になる と、いやそれはカントが意図してやったことに違いないと、別々の物を指してるかのように訳してしまう。だから、よけいに意味が分からなくなる。

 同じ名詞に、中性形と女性形のものがあるのはドイツ語ではよくあるが、それを区別なく使ったりもする。また、ある名詞を中性形で使っておいて、それを女性形の代名詞で受けたりもする。

 同じ事を同じ言葉で何度も表現しないという古代から続く美文の原則はカントにもあてはまるのである。


 それでも、日本語で読みたい人は、河出書房新社から出ている高峯一愚の訳を試すとよい。これはかなり普通の日本語になっている。関係代名詞の処理もス ムーズに行っている。その次によいのが、天野貞祐の訳であろう。しかし、いずれも絶版になっているから図書館で借りるか古本屋で探すしかない。

 いっぽう、岩波書店の新しい「カント全集」の中の「純粋理性批判」の訳は、原文のわかりにくさ曖昧さをそのまま日本語に反映した訳となっている。この本は、本文の校訂と注釈が詳しい。その面での利用に限るのが賢明だろう。

 ところで、この本の中には純粋であるとか先天的であるとかいう言葉がしきりに繰り返して登場する。これは原文では、ラテン語でa priori(アプリオリ)と言い表されている。しかしこれは、先天的な才能などという言い方にでてくるのとは違って、「経験に依らずに」と言う意味で、極めて科学的な意味を持っている。

 経験に依らないと言うことは、現代科学においても重要な考え方である。何かの研究をコンピュータを使って「経験に依らずに」数学的に行うというようなことは、日常茶飯事である。

 この考え方を、哲学の分野に持ち込んだという意味で『純粋理性批判』は画期的な書物なのである。

注: この本の中に頻繁に登場する「Vorstellung(表象)」 「vorstellen(表象する)」という言葉は、心の中に思い描くことである。ただし、「表象」という言葉は一般には使われない意味不明の言葉なの で、わたしの訳の中では、「心の中にとらえる」「心の中にとらえたもの」という感じで訳されている。”


∸――
『純粋理性批判』

カント「純粋理性批判」第二版のまえがき
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/pure-critique-preface2.html
“ 「空間と時間は感性による直観の形式にすぎない。つまり、空間と時間は対象となるものが現象として存在するための条件にすぎない。さらに、我々が持って いる様々なカテゴリー、つまり対象の認識に必要な要素には、必ずそれらに対応する直観が存在する。したがって、我々は何であれ『感性による直観の対象』つ まり『現象』として認識できるだけであって、対象を物それ自体として認識することはできない」これらは全て「批判」の「分析論」の部分で証明されている。

 したがって、理論理性によって認識できるのは経験の対象だけに限られているということになる。しかし、ここで忘れてはならないのは、我々は対象を物それ 自体として認識できないけれども、物それ自体としての対象を考えることはできるということである(原注)。さもなければ、「現象として現れる本体となるも のが無いのに現象が存在する」という不合理なことになってしまうだろう。
原注 対象を認識するには、対象が存在する可能性を証明できなければならない。それが現実に存在することを経験するか、経験によらずに理性の力で証明するかのいずれかが必要である。

 それに対して、我々は自分が自己矛盾に陥らない限り、つまり、その概念を心の中に描けさえすれば、自分の好きなものの存在を考えることは出来る。自分が考えたものに対応するものが現実に存在するかどうかは、その可能性さえも一切気にする必要はない。

 しかし、もしその概念に客観的な有効性を与えたければ、我々が自己矛盾に陥らないというだけでは足りない。それだけでは、論理的可能性は得られても、現 実的な可能性は得られないからである。しかしながら、これを補うものは、理論的な認識の源泉に求める必要はない。それは実践的な認識の源泉に求めることも できるからである。
(…)
さて、わたしは自分の精神を物それ自体の観点から見た場合には、経験を通じた観察によってであろうと理論理性によってであろうと、それを認識できない。 したがって、わたしは、経験の世界の出来事の究極の原因と見なされるような絶対的存在の特性としての自由を認識することはできない。なぜなら、そもそも時 間の制約のもとになく独立して存在するそのような存在をわたしは認識できないからである。というのは、そのようなものを認識するにも、そのようなものは直 観できないために概念として把握できないからである。

 しかしながら、わたしは自由を考えることはできる。つまり、自由を思い浮かべることはそれ自体何の矛盾も含んでいない
のである。ただしそのためには、我 々が「批判」で述べる二つの把握方法、つまり感性による把握(現象の把握)と知性による把握(物それ自体の把握)をしっかり区別して、純粋なカテゴリーも そこから導かれる諸々の原則(Grundsätze)も感性の対象にしか適用できないことを忘れてはならない。

 ところで、道徳は、我々の意志の特徴として、(厳密な意味での)意志の自由の存在を前提としていると仮定してみよう、つまり、自由を前提としなければ不 可能であるような実践的な原則(Grundsätze)が先天的に理性の中に存在すると仮定するのである。しかし、それなのに、もし自由を考えることはで きないと理論理性によってすでに証明されているとするなら矛盾が発生する。つまり、この仮定はくずれて、道徳は自由意志を前提にできなくなる。

 すると、自由と、それと同時に 道徳(自由の前提条件がくずれた以上、道徳を否定しても矛盾には陥らないから)は、因果の連鎖という自然のメカニズムの支配を認めて退場することになるだろう。

 しかし、実際には、道徳が成立するためには、自由は認識される必要はない。自由が自己矛盾に陥ることなく、思考の対象となりうるだけでよいのである。自由意志に基ずく行為は、別の観点から見ると因果の連鎖という自然のメカニズムに従うだけのことである。

 こうして、道徳の教えと自然に関する学問は両立するのである。ただしそのためには、物それ自体を我々は知ることはできないということ、我々が理論的に知ることができるのは物の現象だけであるということを「批判」を通じて学んでおく必要がある。

 純粋理性に対する「批判」の原則(Grundsätze)が積極的な価値を持つことをここまで説明してきたが、それは霊魂の単一性の議論や神の概念についても当てはまる。ここではそれらについての議論はスペースの都合で省略する。

 要するに、わたしが純粋理性を実践的に使用するために「神」と「意志の自由」と「霊魂の不滅」を想定できるのは、理論理性から分不相応な認識能力を取り去った場合だけなのである。

 なぜなら、理論理性が経験を越えたものを認識するには、実際には経験の対象にしか適用できない原則(Grundsätze)を使わざるを得ないが、この 原則はもし経験の対象となり得ないものに適用されると、それを経験の対象つまり現象(超常現象)に変えてしまうのが常だからである。そして、純粋理性を実 践的に使用することを不可能にしてしまうのである。

 そこで、わたしは信仰の余地を残すためには認識を否定しなければならなかった。実際には、純粋理性の限界を見極めることなしに形而上学を研究することが 可能だという独断的(独善的)傾向こそが、道徳を否定する一切の不信仰の真の原因である。そして、この不信仰は常に非常に独断的(独善的)なものである。
(…)
わたしは頑固な独断論者たちに一度聞いてみたいと思っている。霊魂は死後も存在し続けることを霊魂の単一性から証明したと言い、自然のメカニズムに対す る意志の自由の可能性を、主観的必然と客観的実際的必然という無意味でややこしい区別を設ければ証明できると言い、神の存在は最も実在的なものの概念(変 化するものは偶然存在するものであるが、動きの始まりをなすものは必然の存在であるという考え方)から推測できると言われているが、そのような主張が学者 たちのもとを離れて、大衆の心に到達して、少しでも彼らの考えに影響したことがあるだろうかと。

 そのようなことは一度も起こったことはないし、起こるはずがないのである。なぜなら、彼らの主張は大衆が理解するにはあまりにもややこしすぎるからである。


 例えば、一番目について言うなら、限りある人生に満足できない(例えば自分の全才能を開花するには人生は短すぎる)という誰にでも共通して見られる自然な傾向のために、人々はあの世を思い描くのであり、

 二番目について言うなら、自分の好き嫌いを抑えて実行しなければならない義務があるということを明確に意識するとき、人々は自由というものを意識するようになるのであり、

 三番目について言うなら、自然の至るところに現れているすばらしい美と摂理を見るとき、人々はこの世界の偉大な創始者の存在を信じるようになるのである。
 このように合理的な考え方に基ずくものだけが、大衆のあいだに影響力を持つのであって、このような考え方はこれからも決して失われることはないし、それどころか、ますます大きな信頼を得ることだろう。

 なぜなら、これからの学者は、人類全体に関わる問題に関して、もはや大衆(最も尊重すべき存在である)が容易に到達できるレベルよりも高尚でややこしい 議論で相手を煙に巻くべきではなく、誰にでも理解し安く、道徳的な観点から見てもふさわしい根拠を研究すべきであることを、この「批判」を通じて学ぶから
である。

 つまり、純粋理性の領域の変化によって影響をこうむるのは、人類全体に関わる真理を自分たちだけが発見して管理していると思い上がっている学者たちだけ なのである。彼らは、大衆にはそれを使うことを許しても、肝腎のことは誰にも理解できないようにしているが、実のところは「自分たちも分からないものを自 分だけが知っているような顔をしている(ホラティウス『書簡詩』2.1.87)」だけなのだ。




カント『純粋理性批判』序論
(第二版)
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/pure-critique-introduction.html
判断だけでなく、概念そのものの中にも先天的な起源を持つものがあることは示しておこう。たとえば、諸君が経験を通じてもっている「物体」の概 念から、色や硬さや柔らかさ、重み、不可侵性など、あらゆる経験的な要素を一つ一つ取り除いてみたまえ。しかし、物体が占めていた「空間」は物体そのもの が消え去ったあとでも残る。諸君はそれを取り除くことはできないのである。

 このように、形のあるなしにかかわらず、諸君が何かの対象について経験を通じて持っている概念から、経験によって学んだあらゆる性質を取り除いても、 (実体の概念の方が一般的な対象の概念よりも多くの性質を含んでいるにもかかわらず)諸君がその対象を実体であると見なせるような性質、あるいはその対象 がなんらかの実体に属していると考えさせるような性質を取り除くことはできない。
(…)
数学は、我々が経験から離れて先天的な認識の世界でどれほどうまくやれるかを示す輝かしい先例である。数学は直観でとらえられる限りはどんな対象でもど んな知識でも相手にすることができる。ところが、「直観でとらえられる限り」という条件を我々は忘れがちである。なぜなら、数学における直観は経験によら なくても与えられることから、直観が単なる純粋な概念と混同されてしまい、概念だけが扱われているように思われるからである。

 こうして数学によって理性の力の大きさが証明されてしまうと、認識の拡大への欲求はとどまるところを知らない。まるで軽やかな鳩が空気の中を抵抗なく自由に飛び回れるようになると、真空の中ならもっと楽に飛べるのではと想像するようなものである。

 このようにして、プラトンは、知性の活動範囲を制限している感覚の世界を捨てて、理念(イデア)の翼に乗って、純粋な知性という真空の中に飛び出して いったのである。彼には、自分の拠り所とし、自分の支えとし、知性を働かせるための足場とすべきものがなかったから、いくらがんばっても前へ進むことはで きなかった。しかし、自分ではそれには気づかなかったのである。“


『純粋理性批判』 感性論
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/transcendential-element.html
“人がものを知るやり方は判断や推理などいろいろあるが、直接的にものを知るときには直観を使う。ものを考えるときは人はいつも直観に頼るものだ。しか し、直観するためにはその前にその対象を手に入れなければいけない。しかし、神様でもない限り、人が対象を手に入れるには、対象のほうが人の心を触発しな いといけない。

 この対象の触発に応じて、そのイメージを受け取る能力を感性という。つまり、感性によって人は対象を手に入れるのである。ということは、感性のおかげで人は物を直観できるということになる。

 いっぽう、手に入れた対象について考えるのは知性の仕事である。知性が理解するのである。しかし、物を考えるということは、直接にしろ、あるいは何かの 目印を介して間接的にしろ、結局は直観、そして人間の場合は感性のお世話になるしかない。ほかの手段では対象は手に入らないからである。

 そして、その対象が外から感性を触発した結果が感覚である。直観のうちでこの感覚を通して対象とつながっているものを、経験による直観という。この経験による直観の対象で、まだわけの分からないものを現象という。

 しかし、現象を分析してみると、その中には感覚だけでは説明できない要素も含まれている。だから、現象のうちで感覚とつながりがあるものを、わたしは現象の素材と呼び、この乱雑ににあらわれる現象に整理をつけるものを現象の形式と呼ぶことにする。

 様々に受け取った感覚に何らかの形式を与えて整理をつけるものは、感覚自身ではあり得ない。だから、現象の素材は経験によってしか与えられないのに対し て、現象の形式は心の中にその全部が先天的に用意されていないといけない。だから、現象の形式は感覚とは区別して考えることができる。

 わたしは、あらゆる概念のうちで感覚とは関係のないものを(超越的な意味で)「純粋な何々」と呼ぶことにする。すると、感性による直観の純粋な形式が、 さまざまな現象に整理をつけるものとして、先天的に心の中に見いだされることになるだろう。この感性の純粋な形式はまた純粋な直観と呼ばれることもある。

 例えば、物体の概念から、それについて知性が考えること、物質とか、引力とか、分割可能とか、そういうものを取り除いてみよう。次に、感覚で捕らえられ るようなこと、中身が詰まっているとか、表面が硬いとか、何かの色をしているとか、そういうものを取り除いてみよう。こういった経験によって直観的に知る ことのできる要素を取り去っても、なおも残るものがある。それは、物体の持っている大きさと形である。これが純粋な直観なのである。この純粋な直観が働く には、感覚の対象が外部に現実に存在する必要はない。純粋な直観は感性の形式として心の中に先天的に存在するものである。
(…)
人の心には外向きと内向きの二つの感覚があって、我々は外向きの感覚によって対象を外側の空間の中に把握する。対象の形や大きさ、対象の相互の関係は空間の中で決定されるのである。

 それに対して、内向きの感覚は、心が自分自身の存在と内面の状態を直観するものである。この感覚は確かに魂それ自体を一個の対象として直観できないが、 この感覚は一種の形式であって、これによって人は内面の状態を直観することができる。その結果、心の内側で決定されることはすべて時間との関係で把握され る。

 我々は時間を自分の外側にあるものとして直観することはできない。同様に、空間を我々の内側にあるものとして直観することはできない。

 では、空間と時間とは一体なんだろう。それは現実に存在するものだろうか。それとも、単に物が存在するための条件、つまり物と物との関係を意味するだけのもので、物それ自体が直観されることはないが、物それ自体に属しているものだろうか。

 それとも、空間と時間は単なる直観の形式にすぎないのだろうか。つまり、それらは我々の心の主観的な特性にすぎず、我々の心がなくなればそれらによっては何も決定できなくなるようなものだろうか。

 このような問いに答えるために、まず最初に、空間の概念についてよく考えてみよう(expositio)。よく考えると言っても、空間概念をはっきりさ せておこうというだけで、網羅的に説明しようというわけではない。また、「形而上学的に」と言うのは、空間概念を経験によらずに与えられた概念としてに考 えていくという意味である。

(1) 空間とは、経験によって外部から得た概念ではない。なぜなら、空間というものがまずないことには、感覚でとらえたものを自分の外にある何かのも の、つまり、自分がいる場所とはちがう場所にある何かのものと関連づけたり、この感じたものがバラバラであるとかいっしょにあるとか、別々の場所の別々の ものとしてとらえることができないからである。

 したがって、空間というものは、経験を通じて外部の現象同士の関係から借りてくることはできない。それどころか、この外部の経験は空間というものが先にあって始めて可能になるのである。

(2) 空間とは、経験によらないものであって、外部の物を直観するためには欠かせないものである。我々は空間が存在しない状態を想像することはできな い。ただ、空間の中に物が何もない状態を考えることはできる。そうすると、空間とは、様々な現象に依存したものではなく、様々な現象が存在するための条件 ということになる。つまり、空間とは経験によらないものであって、外部の現象にとって無くてはならないものなのである。

(3) 空間とは、物と物との関係を理解して手に入れるいわゆる一般的な概念ではない。空間とは純粋な直観である。なぜなら、第一に、我々はただ一つの空 間しか思い浮かべることができないし、複数の空間について言及するときも、それは一つの空間の部分について言っているだけだからである。

 第二に、この部分的な空間も、全てを包み込む一つの空間に先立って存在するものではなく、また、部分的な空間が寄り集まって全体の空間ができているのでもない。その逆に、部分的な空間は全体の空間の中にあるものと考えられる。

 空間とは、本質的に一個のものなのである。その中にある複数の空間も、複数の空間についての一般的な概念も、全体の空間をいわば柵で区切っただけのもの なのである。ということは、空間に関するあらゆる概念は、経験によらない一つの先天的な直観に基づいているということになる。

 したがって、あらゆる幾何の定理、例えば、三角形の二辺の和は他の一辺より長いという幾何の定理は、直線とか三角とかいう一般的な概念から導き出すことはできない。それは、経験によらない直観によって導き出すしかなく、その結果に疑いをはさむ余地は全くないのである。

(4) 空間は無限の大きさがあると考えられる。ところで、一般に概念というものを考えてみると、それは無限に存在する多様なものの共通の特徴としてそれらに含まれているとともに、その無限のものを自分自身の下に含んでいる。しかし、自分自身の中に無 限のものを含んでいるような概念を考えることは出来ない。ところが、空間とはまさにそのようなものだと考えられる。空間をどれほど小さく分割していって も、分割されたものは必ずその内側に存在するからである。したがって、空間はもともと概念ではなく、経験によらない直観だということになる
(…)
(1) 時間は、経験から引き出される概念ではない。なぜなら、物が同時に起こるとか続いて起こるとかいうことを理解するためには、その前に時間の概念が 経験に先立って我々の心の中になければならないからである。時間というものがまずあると考えてはじめて、我々はいくつかのものが同時に現れたとか、時間を 変えて現れたとか言うことができる。

(2) 時間は必然的なものであって、あらゆる直観の基礎となるものである。我々は現象抜きに時間だけを考えることはできても、どのような現象も時間抜きに考えることはできない。したがって、時間は経験に先立って我々の心に備わっているものである。

 どのような現象も時間の中でのみ実在性を持つことができる。現象は消えて無くなることはあるが、時間が消えて無くなることはない。現象が現れるためには時間は無くてはならないものである。

(3) このように時間が経験に先立つ必然的なものであることに基づいて、時間に関する公理も自明の原理(Grundsätze)も成り立っている。例え ば、時間には一つの次元しかないという原理がそうである。つまり、別々の時間は同時にではなく相前後して存在している(それに対して、別々の空間は時間的 に相前後してではなく同時に存在している) というこの原理(Grundsätze)は、決して経験から引き出すことはできない。

 なぜなら、経験は厳密な普遍性も例外のない確実さも与えることがないからである。普通の経験からはことの真否を知ることはできても、ことの必然を知るこ とはできない。だから、時間に関するこのような原理(Grundsätze)は我々にとってはいわば規則(Regeln)のようなもので、この規則のもと で我々は様々な経験をすることができる。だから、我々は何かを経験する前にこの規則を学ぶのであって、経験を通じてこの規則を学ぶのではない。

(4) 時間とは人が理解して手に入れる一般的概念ではなく、感性による直観の純粋な形式である。様々な時間はたった一つの時間の部分でしかない。そして、たった一つの対象を通じて得ることのできるものは概念ではなく直観である。

 また「別々の時間は同時に存在することはできない」という命題は、一般的な概念から引き出すことはできない。これは総合的な命題であって、概念だけから生まれるものではない。それは時間の直観によって直接手に入れるものである。

(5) 時間が無限であるということは、言い換えれば、我々にとって意味のある長さの時間は、根底に存在する一つの時間を区切ることによってのみ可能になるということである。したがって、元々の時間は区切られていないものでなければならない。

 しかし、ある対象の個々の部分はその全体を区切ることによってしかとらえることができないということは、その対象の全体像は概念によって表されることはなく(なぜなら概念は部分を表すだけだから)直接的な直観に基づかねばならない。
§5
時間概念を超越的な観点から考える

 ここでは、変化の概念と(位置の変化から生まれる)運動の概念も時間というものがあってはじめて可能であることを付け加えることができる。そして、もし この時間というものが先天的な直観(この場合は内向き)でない場合には、どのような概念によっても変化の可能性を理解することは不可能である。

 なぜなら、変化するということは、例えば、同じものがある場所に存在していて次に同じ場所にはもう存在していないということで、同じ対象について矛盾す る正反対の記述を組み合わせることだからである。同じものに対して、二つの矛盾する正反対の記述が相前後して現れるということは時間の中でだけ可能であ る。

 こうして、広い意味での力学──これは我々にとって大きな収穫である──が教える経験によらない多くの総合的な認識は、我々の時間概念によってはじめて可能となるのである。
§6
これまで分かったことから導かれる結論

(a) 時間は単独に存在するものではないし、物の客観的な性質として物に属しているものでもない。したがって、物に対する直観から主観的条件を取り除くなら、時間は消えてしまう。

 もし時間が単独で存在するものなら、時間は現実に対象物がなくても現実に存在するものになってしまう。また、もし時間が物に属している性質であり順序で あるなら、対象となるものの条件として対象より先行するものではあり得ず、総合的な命題を通じて経験によらずに時間を認識したり直観したりすることはでき なくなる。

 その反対に、時間が総合的命題を通じて経験によらずに直観できるのは、時間が主観的な条件にほかならず、我々のあらゆる直観がこの条件のもとで可能とな る場合である。なぜなら、その場合、この内向きの直観の形式(時間)は対象が存在する前に経験によらずに存在すると思われるからである。

(b) 時間とは内向きの感覚の形式である。つまり、時間とは自分自身と自分の内面に対する直観の形式である。というのは、時間は外側の現象の性質とはな り得ないからである。つまり、時間は物の形とか位置とかには関係がない。むしろ、時間は我々が心の内側でとらえた物同士の関係を決めるのである。

 この内向きの直観は形がないために、我々はこの欠点を補うために時間を線にたとえようとする。つまり、時間の経過を永遠に続く一本の線と考えるのであ る。そして、その線の上に様々な物が一列に並ぶ。したがって時間は一次元だということになる。我々は時間のあらゆる特徴を直線の特徴から類推して考える。 ただ一つその例外は、直線の各部分は同時に存在するのに対して、時間の各部分は同時ではなく相前後していることである。

 時間が直線との類似でとらえられるということは、時間の各部分の関係は外向きの直観(つまり空間)を使って表現されるということである。ここからも、時間とはそれ自身が直観であることが分かる。

(c) 時間は全ての現象の形式であり、あらゆる現象の先天的な条件である。空間は全ての外向きの直観の純粋な形式であって、外側の現象だけの先天的な条件である。

 それに対して、我々が受け取るイメージは、それが外側のものを対象にしようと内側のものを対象にしようと、それ自体としてはそれらは我々の心の 中を明らかにするものだから、我々の心の中の状態と結び付いている。しかし、この心の中の状態は内向きの直観の形式という条件の下にある。ということはつ まり、それは時間と結び付いている。したがって、時間はあらゆる現象の先天的な条件だということになる。だから、時間は心の中に現れるあらゆる現象の直接 の条件であるとともに、外側に現れる現象の間接的な条件だと言える。

 もしもわたしが、「外側の全ての現象は空間の中にあり、空間との関係にしたがって経験によらずに把握できる」と、経験によらずに言うことができるのな ら、わたしはこれまで明らかになった内向きの感覚の本質から、「全ての現象、すなわち感覚の全ての対象は時間の中にあり、必然的に時間との関係の中にあ る」と完全に普遍的に言うことができる。

 ものを思い描く我々の能力の中の外向きの直観は、内向きに自己を直観するやり方を使って行われるが、もしこのやり方を捨てて、対象をそれ自体としてとらえるなら、時間は無くなってしまうだろう。

 時間は現象に関してだけ客観的な有効性を持つ。なぜなら、現象とはすでに我々が感覚の対象としてとらえているものだからである。だから、もし我々が我々 に特有の認識形態である直観という感性の要素を放棄して、物それ自体について語り始めるやいなや、時間はもはや客観的なものではなくなってしまう。

 したがって、時間とは我々(人間の側)の直観の主観的な条件であって(だから直観は常に感性によって機能する、つまり対象に触発されたときだけ機能する)、主観の外側で単独に存在するものではない。

 時間はこのように主観的なものであるが、それにもかかわらず、全ての現象に関する限り、つまり我々が経験する対象に関する限り、時間は必然的に客観的なものである。


 我々は全てのものが時間の中に存在すると言うことはできない。なぜなら、このように物それ自体について理解しようとするとき、我々は物に対するあらゆる直観を放棄しているからである。ところが、直観こそは時間が対象と関わりを持つための本質的な条件なのである。

 だからもし、物についての理解にこの条件を付け加えて、全てのものは現象として(すなわち感性による直観の対象として)時間の中に存在すると言うならば、この基本命題はまさしく客観的な有効性および経験によらない普遍性を持っている。

 したがって、我々が言おうとしていることは、時間は経験の世界で実在性を持つということである。つまり、時間は我々の感覚に与えられる全ての対象に関し て客観的な有効性を持っているのである。そして我々の直観はつねに感性によるものであるから、時間という条件に合わないような対象は決して経験することは できない。

   逆に、時間は決して絶対的な実在性を持ってはいないと我々は主張する。もしそんな実在性があるなら、時間は、我々の感性による直観の形式とは無関係に、絶対的に物の存在条件や性質になってしまうだろう。

 このような特性は物それ自体に属するものであって、我々の感覚によっては決してとらえることはできない。そして、これこそが超越的な観点から見た時間の観念性である。つまり、我々が感性による直観という主観的な条件を放棄すれば、時間は無に帰するのである。

 そして、時間は直接(我々の直観とは無関係に)対象の実質や属性となることはできない。しかしながら、時間のこの観念性と空間の観念性を、感覚からの類 推によって説明する過ちを犯してはならない。そういうことをする人たちは、感覚によってとらえられる現象には対象についての実在性があると当然のことのよ うに考えているからである。

 しかし、時間の場合には、そのような対象についての実在性は存在しない。もしあるとすれば、それは対象が単なる現象と見なされる場合だけであり、結局そ の実在性は経験的なものでしかないということになる。この点については、読者は前節(空間について)の最後に(バラについて)述べたことを参照されたい。
§7
解説

 時間は経験の世界では実在性を持つが、絶対的な実在性や超越的な観点から見た実在性は持たないとするわたしの説に対して、学者たちからいっせいに反論が 上がっていると聞いた。だから、このような考え方に不慣れな一般の読者が同様の反論を抱くことは充分考えられる。この反論とは、次のようなものである。

 変化というものは現実的なものである。たとえ我々の外側の現象とその変化を否定しても、我々自身が変化することからこれは明白である。ところで変化は時間の中でのみ起こることができる。したがって、時間もまた現実的なものである。

 この反論に答えるのは難しいことではない。この議論自体は何も間違ってはいない。確かに時間は現実的なものである。つまり、時間は内向きの直観の現実的 な形式である。確かに、わたしは現実に時間を思い描くことが出来るし、自分が時間のなかで規定された存在であることを理解している。ということは、時間は 内面的な経験に関して主観的な実在性をもっているということである。だから、時間は対象として現実的なものではなく、わたし自身という対象を把握する方法 として、現実的なのである。

 もし感性のこの前提条件なしにわたしが自分自身を直観したり、他の存在がわたしを直観したりできるなら、いま我々が自分自身の変化と考えている特徴を見ても、決してそこに時間やそれにともなう変化が認識されることはないだろう。

 このように、時間に対して認められるのは、経験の世界における実在性だけなのである。しかも、時間は我々のあらゆる経験の条件でしかない。しかし、これ まで述べたように、時間には絶対的な実在性はない。時間とは我々の内向きの直観の形式以外の何ものでもないのである(原注)。

 だから、もし時間から感性という特殊な条件を取り去るなら、時間の概念もまた消え去るのである。時間は対象そのものの中にあるものではなく、それを直観する我々の主観の中にあるものにすぎないのである。
原注 「わたしは時間の中に存在し続けていると思う」と言うことはできる。しかし、それは、わたしが自分自身を時間の連続の中にあるものとして、つまり、 自分自身を内向きの感覚の形式に合致するものとして意識しているということに過ぎないのである。したがって、時間とはそれ自体で存在する何かではないし、 物の中にある客観的な性質でもない。

 ところで、中でも空間の観念性に対する明確な反論さえ出せない人たちからこのような反論がいっせいにわき上がったのは、次のような理由からである。

 彼らも、空間の絶対的な実在性を明確に証明できるとは思っていない。なぜなら、彼らの頭には観念論があって、内向きの感覚がとらえる対象(自分自身と自 分の状態)の実在性は我々の意識によって明白だが、外側の対象の実在性は厳密には証明できないと考えているからである。彼らは、内側の対象は明確に現実的 だと思っていても、外側の対象は幻に過ぎないかもしれないと思っているのである。

 ところが、人間がとらえる空間も時間もその実在性は否定されないにも関わらず、空間と時間が単なる現象でしかない、とは彼らには思いもよらないことだっ た。しかも、この現象については常に二つの面があって、一方では、対象が直接観察される(=直観)が(ここではそれをどのようにして直観するかは問わな い。そのために、それがどんなものであるかは不明である)、他方では、この対象に対する直観の形式が問題となる。この直観の形式は、この対象の現れに現実 的かつ必然的に合致するものではあるが、対象自身の中にではなく、現象をとらえる人間の主観の中に求められなければならない。

 以上のようなわけで、空間と時間は、経験によらずに様々な総合的認識を引き出す、認識の二つの源なのである。純粋数学、特に空間に関する知識は、この輝 かしい実例である。空間と時間の二つは両者あわせて、感性によるあらゆる直観の純粋な形式であり、経験によらない総合的な定理を可能にするものである。

 しかし、この経験によらない認識の源泉つまり空間と時間は、単に我々の感性が働くための条件に過ぎないものであり、まさにこの事実によって制限されてい る。なぜなら、空間と時間は、現象として観察されない対象には適用できず、物をそれ自体として示すことができないからである。空間と時間が有効なのはこの 範囲だけである。もし我々がこの範囲を逸脱したりすれば、もはや時間も空間も客観的に利用することは出来なくなるだろう。

 しかしながら、空間と時間の実在性をこのようなものであるからといっても、それによって経験に基づく認識の正確さはいささかも損なわれることはない。経 験に基づく認識の正確さに対する確信は、この二つの形式が物それ自体に関わるものであろうと、それらの物に対する我々の直観に必然的に関わるものあろうと 揺らぐことはないのである。

 一方、空間と時間に絶対的な実在性があると主張する人たちは、それらを独立したものと見るか、物に属するものと見るかの違いはあるが、我々の一般的な経験の原則(Prinzipien)と矛盾せざるを得ない。

 なぜなら、もし第一の立場(これは主に自然を数学的に研究する人たちの意見である)に従うなら、空間と時間という二つの永遠で果てしなく、しかも独立し ていながら、現実には何もないのに、現実に存在するあらゆるものを内に含むためだけに存在する、そんな不合理なものがあると認めなければならなくなる。

 もし第二の立場(自然を形而上的に研究する一部の人たちの意見である)に立って、空間と時間とは現象相互の関係(空間の場合は並存であり、時間の場合は 継起である)であって、経験から引き出され、それ自体としては混乱したものであると考えるならば、彼らは、先天的な数学上の定理が現実のもの(例えば空 間)に実際にあてはまることを否定しなければならなくなる。あるいは少なくとも、それらの定理が例外なく正確なものだということを否定せざるを得ないだろ う。

 なぜなら、このような正確さは決して経験から後天的に得られるものではないからである。実際、このような見方によれば、空間と時間という先天的な概念 は、想像の産物でしかない。しかし、想像といっても現実にはその材料は経験に求めるしかない。しかも、経験から引き出された現象の相互関係から想像力が作 り出すものは、この関係の一般的な要素を含みはするが、想像力は元々この関係が持っている経験という制約を離れては存在できないものである。

 第一の立場に立つ学者たちは、次の点で有利な立場にある。彼らの理論では現象の領域で数学の定理が生まれる可能性があるからである。しかし、彼らがこの領域を越えて認識の幅を広げようとするときには、この空間と時間が制約となって彼らの前に立ちはだかる。

 この点では、第二の立場が有利である。この立場に立てば、対象を現象としてではなく単に知性によって判断しようとするので、空間も時間も障害とはならな いのである。しかし、彼らには真の直観、客観的に有効性を持つ先天的直観という手段がないから、経験によらない数学的認識の可能性を説明できないし、経験 から得た命題を数学の知識と厳密に一致させることもできない。

 空間と時間というこの二つの根本的な感性の形式がもつ真の特徴について我々がうち立てた理論に従えば、このような困難に直面する心配はない。

 最後に言っておくべきことは、この「超越的な感性論」が扱う要素は、空間と時間の二つだけで、それ以外にはないということである。このことは、感性に属 する他の概念、例えば空間と時間の両方を合わせた運動の概念さえも、経験の世界に属するものであることから明らかである。

 というのは、運動という以上は、何か動くものが知覚されねばならない。空間それ自体は動くものではないからである。つまり、動くものとは経験を通じて空間の中に見出されるもの、つまり経験的なものでなければならない。

 これと同じ意味で、「超越的な感性論」では変化の概念は先天的要素の中には含まれない。時間それ自体は変化するものではない。時間の中にあるものが変化 するのである。したがって、変化の概念が生まれるためには、まず存在するものが知覚され、次にそれが相前後して明確化される様子が知覚されなければならな い。つまり、それは経験されなければなければならないのである。
§8
超越的な感性論について全体的な注

I まず最初に読者の誤解を防ぐために、できるだけ分かりやすく感性による認識についての我々の考えを説明しようと思う。

 我々が言おうとしたことは、我々の全ての直観は現象に対するものだと言うことである。我々が直観するものは物それ自体としては我々が直観する対象と同じ ではない。我々が直観するものの相互関係も、それ自体としては、我々の前に現象として現れているのと同じではないのである。

 したがって、もし我々の主観がなくなったら、いや単に我々の感覚から主観的な性格がなくなっただけでも、空間と時間の中の対象の性格も対象の相互関係 も、いや空間と時間それ自体も、すべて消えてなくなるのである。それらは現象としては単独で存在することはできない。それらは我々の中だけに存在すること ができる。

 対象は、物それ自体としては、つまり我々の感性が対象に触発される能力を抜きにしては、我々には全く分からないものなのである。我々に分かるのは、我々 に固有の認識方法だけである。この認識方法は、人間なら全員が持っているものであるが、他の全ての存在が持っているとは限らない。

 我々に関係があるのはこの認識方法だけである。空間と時間はこの認識方法の純粋な形式であって、感覚はその素材なのである。

 我々は、先天的につまり実際のあらゆる知覚より前に、前者(形式)だけは認識できる。そのためを我々はこれを純粋直観と呼ぶ。一方、後者(素材)は我々の認識の内で後天的認識あるいは経験による直観と呼ばれるものをもたらすものである。

 前者は、我々が受け取る感覚がどんなものかに関わらず、例外なく我々の感性に依存する。一方、後者は非常に様々なものであり得る。

 たとえ我々の持つこの直観を最高に明晰なものに高めたとしても、我々はそれによって対象それ自体の特性に近づくことはできない。というのは、我々はせい ぜい我々に固有の直観の方法、つまり感性をよく知ることができるだけである。しかも、この感性が空間と時間という我々の主観に根本的に依存している条件の 下にあることに変わりはない。

 我々に与えられるのは現象だけであり、対象が物それ自体として何であるかは、現象に対する最も洗練された認識能力をもってしても、我々は決してそれを知ることはできないのである。

 したがって、「我々の感性がとらえるのは対象となる物の混乱したイメージにすぎないが、そこには物それ自体に属しているものだけが含まれており、我々に ははっきりと見分けることのできない目印や中途半端なイメージで覆われている」という考え方は、感性と現象の概念を歪曲するものである。そのような考え方 は、感性と現象に関するこれまでの研究を無に帰してしまうだろう。

 そもそも、イメージが明瞭であるか明瞭でないかは単に論理的なことでしかなく、その内容とは関係がない。例えば、「正義」に対する常識的な概念の中に は、緻密な思索によってこの概念から引き出されるものはすでに全て含まれている。ただ、日常的な用法にはこの概念に含まれる様々なイメージははっきりと意 識されてはいない。

 しかし、だからといって「正義」についての常識的な概念には、感性がとらえた単なる現象しか含まれていないと言うことはできない。なぜなら、「正義」は 決して現象とはなりえないからである。それは頭の中にある一つの概念であって、人の行動の道徳的な特徴を表している。しかも、この特徴は行動の外見的な現 象ではなく行動それ自体に属している。

 一方、例えば、直観がとらえる「物体」のイメージは、物それ自体に属するようなものは何も含んでいない。それは何かのものの現象であり、同時にそれは、 我々がその何かによって触発されるされ方を表わしている。そして、この我々の認識能力の中の感受性の部分を我々は感性と呼んでいるのである。たとえその現 象が我々にとって完璧に明瞭なものであったとしても、そのようにして得た知識は物それ自体の知識とは全く違うものであることに変わりはない。

 ライプニッツとヴォルフの哲学は、感性と知性の違いは単なる論理的なものとして扱っている。そのために、我々がもっている認識の特性と起源に対する研究に全く間違った方向付けをしてしまった。

 しかし、感性と知性の違いが超越的なものであることは明白である。それは認識が明瞭であるか明瞭でないかという単なる形式的な違いではない。それは、感 性と知性の両者の起源と内容の違いである。したがって、感性は物それ自体の本質を混乱した状態で認識するどころか、全く認識することができないのである。

 もし我々の主観的な特性を放棄すれば、我々はイメージとしてとらえた対象にも、感性による直観がその対象に与えた特性にも、もはやまったく出会うことはできなくなる。なぜなら、我々のこの主観的な特性こそが、現象としての対象の形式を決定するからである。

 そのほかにも、我々はよく現象に区別を設けて、直観の中に元々含まれていて全ての人間に同じように現れる現象(例えば形)と、たまたま直観にとらえられ はするが感性一般に当てはまるものではなく、単に特定の見方や様々な感覚に特有の構造にとってだけ有効な現象(例えば色)は異なるものであると言ったりす る。そして、前者のタイプの認識は物それ自体を表わす認識であるのに対して、後者は単なる現象であると言ったりする。

 しかしながら、この区別は単に経験的な観点から見た区別であるに過ぎない。我々がもし(一般によく見られるように)この経験的な区別の段階にとどまっ て、経験を通じて直観したものを(それにふさわしく)単なる現象(そこからは物それ自体に属するものは何も見いだされない)としてもう一度扱おうとしない かぎり、我々は現象を超越的な観点から区別することは永遠にできないだろう。

 そうなると、我々は感覚の世界ではどれほど深く対象を調べても、現象しか相手にすることがないにも関わらず、物それ自体を認識できると思ってしまうだろう。


 そこで、空間と時間はそれ自体として客観的なものであって、様々な物がそれ自体として存在するための条件であると仮定してみよう。まず、この両者に関し て経験によらずに例外のない必然性をもつ総合的命題がたくさん存在することは明らかである。特に空間についてはそうであろう。したがって、ここでは空間を 例にとって考察を進めよう。

 幾何学の様々な定理は経験によらない総合的命題であって例外のない必然性を備えているから、そこでわたしは諸君に問いたい。「諸君はそのような命題をど のようにして手に入れるのか、つまり、そのような完全な必然性を備え、例外なく有効な真理に到達するには、我々の知性は何を拠り所にしているのか」と。そ れは概念かさもなければ直観以外にはないだろう。

 ところで概念も直観も経験によらないものか経験によるものかの二種類である。しかし、後者、つまり経験による概念にしろそのもとになる経験による直観に しろ、そのような概念も直観も経験によらない総合的な定理を生み出すことはできない。それらが生み出せるのは単なる経験による総合的命題だけである。それ は経験に基づくものであるために、どの幾何学の定理も持っているような必然性も絶対的な普遍性も備えていない。

 したがって、そのような認識に到達するのは、経験によらない概念か直観のいずれかによることになるが、そのどちらをとるべきかは明らかである。なぜなら、概念だけから得られるのは分析的命題であって総合的命題ではないからである。

 例えば「二本の直線は空間を囲むことはできず、それだけでは図形を描くことはできない」という命題を取り上げてみたまえ。そして、直線という概念と数字 の二という概念からこの命題を導けるかどうかやってみればよい。また、例えば「三本の直線があるときはじめて図形を描くことが可能となる」という命題を、 同様にしてそこに含まれる概念だけから導けるかどうかやってみればよい。そのような努力は全て無駄であろう。

 そして、そのためには直観に頼るしかないことが分かるだろう。それは幾何学がいつもしていることなのである。したがって、諸君は直観によって対象を手に 入れるということになる。ではそれはどのような直観であろうか。経験によらない純粋な直観であろうか、それとも、経験による直観であろうか。もし後者であ るとすれば、普遍的な有効性を持つ定理も、例外のない必然性を持つ定理も、決してそこから生まれることはないだろう。なぜなら、経験によってはそのような ものは決して生まれないからである。

 したがって、諸君は経験によらずに直観によって対象を手に入れなければならない。そして、直観に基づいて総合的な命題を引き出さなければならないのである。

 ではもし、この経験によらずに直観する能力が諸君の中になく、また、形式の面から見ればこの主観的条件が、同時にこの(外向きの)直観の対象が存在する ためには欠かせない普遍的で先天的な条件ではなく、さらに、この対象(三角形)が諸君の主観とは別個にそれ自体で存在するものだとすれば、諸君の側で三角 形を形作るために必然的な主観的条件が、三角形本体にとっても必然的に当てはまると、どうして諸君は言えるだろうか。

 というのは、経験によらずに直観する能力がなければ、諸君がすでに持っている三本の線という概念に、図形という新しい概念を付け加えることは出来ないか らである。ところが、この新しい概念は対象(三角形)の中に必然的に(経験によらない直観によって)見出さねばならないものなのである。なぜなら、その対 象(三角形)は諸君の認識以前に(経験する前に)与えられているものであって、諸君の認識によって与えられるものではないからである。

 さらに、空間(時間も同様である)は諸君の直観の単なる形式であり、諸君が経験によらずに外側のものを対象として把握するための唯一の条件であって、こ の主観的な条件を欠いては外側のものは無に帰してしまう。だから、もし空間がそういうものでないとするなら、諸君は外側のものについて経験によらない総合 的認識を得ることは全くできないだろう。

 したがって、空間と時間とは、我々の内外のあらゆる経験の必然的な条件であり、我々の全ての直観の主観的な条件でしかない。そして、これらの条件のもと では、全ての対象は現象でしかなく、諸君の主観とは別個に与えられる物ではない。これらのことは単に可能なことやありそうなことではなく疑いもなく確かな ことなのである。

 またそれゆえに、現象の形式については経験によらずに多くのことを言えるけれども、この現象の下にあるかもしれない「物それ自体」については何も言うことができないのである。

II 内向きと外向きの両方の感覚の観念性、つまり感覚の対象は単なる現象でしかないという意味で観念的なものであるというこの理論の正しさに確証が欲し ければ、次のことに注目すればよい。すなわち、我々の知識の中で直観に属するもの──喜びや苦しみなどの感情や意志などはそもそも知識ではないからここに は含まない──は単なる関係しか含んでいないということである。それは、直観のなかの様々な位置(広がり)であり、位置の間の変化(運動)であり、その変 化を規定する様々な法則(動力)である。

 その位置に現に存在するものは直観できないし、位置の変化以外に物そのものに起こっていることも直観ではとらえられない。つまり、物それ自体は単なる関 係からは知ることはできない。つまり、外向きの感覚は関係以外のものは何も教えないから、この感覚は対象と主観との関係をとらえることができるだけで、対 象それ自体の内側までとらえることはできないと考えるべきである。

 これは内向きの直観についても同様にあてはまる。それは、もともと内向きの感覚の材料を作っているのは外向きの感覚がとらえたものであり、それで我々は 自分の心を満たしているからだけではない。我々はこの外向きの感覚がとらえたものを時間の中に置き、このとらえたものを経験の中で意識するのに時間を前提 とし、このとらえたものを心に抱く方法の形式的条件として時間を基礎としている。そして、まさにその時間の中身は、相前後して存在する関係と、同時に存在 する関係と、相前後しながら同時に存在する(永遠に存在する)関係だけなのである。

 さて、我々が何かを考えるという行為の前に何かをとらえることができるのは直観である。その直観がもし関係しか含んでいないとすれば、それは直観の形式だということになる。

 この形式は心の内側に何も置かれない限りは何も含んでいない。ということは、この形式は、心が内側に何かをとらえる自らの行為によって自分自身が触発さ れるされ方に他ならない。つまり、直観の形式とは心が自分自身によって触発されるされ方であり、形式の面から見れば内向きの感覚である。

 これまでのところでは、感覚によって把握されるものは、すべてが常に単なる現象である。そして、我々が内向きの感覚の存在を認める以上は、内向きの感覚の対象である主観もまた、単なる現象としてこの感覚によって把握されることになる。

 これは、仮に我々の直観が(感覚を介さない)主観による自発的な行為であって知的なものであるとすれば、我々の主観が自分自身について判断するものとは大違いであろう。

 この理論で一番難しいところは、主観はいかにして内向きに自分自身を直観するかということである。しかし、これはどの理論でも簡単ではない。

 自己意識(統覚)は「わたし」という単なるイメージである。そして、様々なものがこの自己意識によって自発的に(感覚を介さないで)主観の中に与えられるのなら、内向きの直観は知的な(知性の働きによる)ものということになるだろう。

 しかし、人間の場合、自己意識が生まれるには、主観の中にあらかじめ与えられている多様なものが心の中で知覚される必要がある。そして、この多様なものが自発的でなく心の中に与えられる方法こそ、知的直観と区別して、感性と呼ばれなければならない。

 もし自己意識の能力とは心の中にあるものを把握することなら、心の中にあるものがこの能力を触発しなければならない。自己意識の能力はそうすることによってのみ自分自身を直観できるだろう。

 しかし、この直観の形式は心の中にあらかじめ存在するものであって、それが、心の中で多様なものが共存する仕方を、時間のイメージによって(相前後や同 時にあると)決定するのである。というのは、心は自分自身を自発的に直接把握するのではなく、心が内側から触発されるのに応じて自分自身を直観するからで ある。したがって、それは、心のありようを表わしているのではなく、心が自分自身にどう見えるかを表わしているのである。

III 我々が空間と時間の中で直観するという場合、それが外側の対象に対する直観であろうと、我々の心による自分自身の直観であろうと、我々は対象が我 々の感覚を触発する仕方で、すなわち、それらが現象として現れる仕方で、把握するのである。しかし、だからといって、これらの対象が単なる幻想にすぎない という意味ではない。

 というのは、人は常に、現象の中に対象もそれに属する特性も現実に存在していると考えるからである。しかし、与えられた対象と我々の主観との間の関係で は、対象の特性は我々の主観によって直観されるその仕方に依存しているため、現象として我々に現れたものと、物それ自体としての対象とは、はっきり区別し なければならない。

 わたしは空間と時間が物体の存在の条件であり、わたしの魂の存在の条件となっていると考えており、空間と時間の性質は対象それ自体ではなく、わたしの直 観の仕方に依存していると考えている。しかし、わたしがこう言ったからといって、物体は単にわたしの外側に存在するように見えるだけであるとか、わたしの 魂はわたしの自意識の中に存在するように思えるだけだと言っているわけではない。

 現象と見なすべきものからわたしがもし単なる幻想を作り出しているのなら、それはわたしが間違っていることになるだろう(原注)。しかし、我々の感性に よる直観は全て観念的なものであるという我々の理論からはそんなことは起こらない。しかし、もし我々が感性による直観の形式には対象についての実在性があ るなどと言い出したら、その時こそ全てが単なる幻想に転じるのを我々は防ぐことができないだろう。

 というのは、もし空間と時間は物それ自体の特性であるに違いないと考え、それ自体にも実体がなく、実体のあるものの中に現実に属するわけでもないこの二 つの無限のものが存在しなければならないだけでなく、これらは全てのものが存在するための条件でもあり、さらには、存在するものを全て取り除いてもそのあ とに存在し続けなければならない、という不合理なことを我々が考えているとするなら、物体を単なる幻想におとしめたあの善良なバークレーを我々は非難でき ないだろう。



 現象とは、対象と密接に結び付いているが、対象それ自体の中ではなく、常に我々の主観との関係の中に見いだすべきものである。したがって、空間と時間のなかでとらえたことを、そのままの形で感覚の対象に当てはめてもそれは間違いではない。

 それに対して、もしわたしが、対象と主観とのある種の関係を忘れて、自分の判断をその関係の中に限定することをやめて、物それ自体としてのバラが赤いと 言ったり、土星に取っ手があると言ったり、物それ自体としての外部の物体に大きさがあると言ったりしたなら、その途端に幻想が生み出されているのである。

IV 自然神学においては我々は、我々の直観によっては決してとらえることができないばかりか、感覚による直観によっては神自身にとってもとらえることが できないような対象(神)を考えている。そして、我々は神自身が持っているあらゆる直観から注意深く空間と時間の条件を取り去っている。知性には常に限界 がある以上、神が持っている認識能力は全て直観でなければならないからである。

 しかしながら、もし我々があらかじめ、空間と時間は物それ自体の形式であり、様々なものが存在するための条件であって、そこに含まれるものを取り除いて も無くならないようなものと考えているとしたら、我々は神の直観から空間と時間の条件を取り除くようなことをしてどうして正しいと言えるだろうか。なぜな ら、もし空間と時間が全ての存在の条件なら、この二つは神が存在するための条件でもあるはずだからである。

 ということは、もし空間と時間をあらゆるものの客観的な形式としないとすれば、空間と時間を我々の内向きと外向きの直観が持っている主観的な形式と考えるしかないということである。

 そして、この直観は本来の直観つまり対象の存在をもたらすような直観ではなく(そのような直観は、我々の知る限りでは、原存在(神)しか持っていな い)、対象の存在に依存したものであり、イメージを受け取る主観の能力が対象に触発されてはじめて可能となるものである。したがって、この直観は感性によ る直観と呼ばれるのである。

 空間と時間の中におけるこの直観の仕方は、人間の感性だけが持っているものであるとは限らない。思考力のある生き物ならどれでもきっと人間と同じ能力を持っているに違いない。しかし、これが実際にそうであるかどうかを我々は断定することができない。

 しかし、感性のこの直観の仕方は、たとえ人間以外にも当てはまるものだとしても、だからといって感性による直観でなくなるわけではない。なぜなら、この直観は他に起源を持つ(intuitus derivativus)ものであって、決して本来の直観(intuitus originarius)ではない、つまり、この直観は知的な直観ではないからである。

 そのような知的直観を持っているのは、上に述べた理由から、原存在(神)だけだと思われる。それに対して、与えられた対象との関係のなかで直観によって 自分の存在を明らかにし、自分の直観だけでなく自分の存在さえも他のものに依存しているような者が、知的直観を持っているとは思えないのである。ただし、 この説明の(§8)は我々の『感性論』の解説であって、証明と取るべきではない。



• 『純粋理性批判』 概念の分析論

http://www.geocities.jp/hgonzaemon/transcendential-logic.html
“我々の心の感受性つまり心が触発されてイメージを受け取る能力を感性と呼ぶなら、それに対して、イメージを自らもたらす能力つまり自発的な認識能力こそが知性である。

 我々の本性からして、直観は感性によるものでしかありえない。ということは、直観には我々が対象によって触発される仕方だけが含まれているのである。それに対して、感性による直観の対象について考える能力が知性なのである。

 これらの特性は互いにどちらがどちらよりすぐれているということはない。感性なしには対象は与えられないし、知性なしに対象について考えることはできない。中身のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である。

 だから、概念は感性によるものでなくてはならない。つまり、直観による対象を概念に付け加えねばならないし、直観を知性的にしなくてはならない。つまり、直観を概念に従わせねばならないのである。

 この二つの能力はその役割を交換することはできない。知性は何も直観できないし、感性は何も考えることはできない。この二つが一つに結び付くことによっ てはじめて認識が生まれるのである。しかし、だからといってこの二つの役割を混同してはならない。この両者を注意深く分離し区別することには、大きな理由 がある。そのために、我々は、普遍的な感性の法則の研究つまり「感性論」と知性の法則の研究つまり「論理学」を別々に扱うのである
(…)
われわれはこの純粋な知性の概念を、アリストテレスにならってカテゴリーと名付けることにする。なぜなら、われわれの目的は元来アリストテレスの目的と同じものだからである。もっとも、彼の作ったカテゴリーは、われわれのものとは全く違っているが。

カテゴリー表
I 量の概念
単一
多数
総数

II 質の概念
現実
否定
制限

III 関係の概念
従属と自立(実体と付随)
因果と依存(原因と結果)
共同(能動と受動の相互作用)

IV 様態の概念
可能性と不可能性
存在と非存在
必然と偶然

これが全ての総合の基本的な純粋概念の一覧である。これらの概念は知性が先天的に持っているものである。そして、このような純粋な概念をもっている知性 だけが純粋な知性なのである。というのは、知性はこれらの概念だけによって直観のなかの多様なものを介して何かを理解できるからである。つまり、知性はた だこれらの概念によって直観の対象について考えることが出来るのである。


 これらの分類は、判断する能力(思考する能力と同じである)という共通の原理(Prinzip)から体系的に生まれたものである。このような分類は、いきあたりばったりの 運任せに純粋概念を探索しても生まれるものではない。そんなやり方では、全部集まったかどうか決して確信が持てない。なぜなら、それは帰納法だけで分類す ることだからである。それに、このやり方では、純粋な知性にどうしてこの概念は属するがあの概念は属さないのかが決して分からないのである。

 このような基本概念の探索は、まさにアリストテレスのような才知の優れた人間にふさわしいことであった。しかしながら、彼は何の原理(Prinzipium)もなしに思いつくま まに集めていき、まず10個見つけて、それをカテゴリー(範疇[はんちゅう])と名付けたのである。のちに彼はもう五つ見つけたと思って、それを第二範疇 と名付けて、最初のものに付け加えた。

 それでも彼の表は完全ではなかった。その上、その中には純粋な感性の要素がいくつか(時、所、位置、先、同時)と、運動のように知性の基本概念には決し て属さない経験的な概念も含まれている。さらに、派生的な概念(能動、受動)もこの基本概念の中に数えられている。一方、基本概念のいくつかがまったく欠 落しているのである。

 派生概念についてさらに言うなら、それは純粋な知性の持つ真の基礎的概念であるカテゴリーから同じく純粋な派生概念が生まれるものであり、超越的な哲学 の完全な体系においては決して無視されてはならないものである。しかし、それらについては批判的な試みに過ぎないこの本の中では一言言及するだけで充分で ある。

 この純粋な知性の派生概念には(Pradikamente つまりカテゴリーと対比して)純粋知性の属性(Pradikabilien)と呼ぶことにする。基本的で本質的な概念があるなら、派生的で従属的な概念をそれに付け加えるのはたやすいことであり、そうすれば純粋概念の完全な系統図を描くことが出来る。

 第一に、知性がもつ概念を四つに分類したこの表は、二つのグループに分けることが出来る。一つ目は直観(純粋な直観と経験的直観の両方)の対象に向けられたものであり、二つ目はこの対象の存在(対象の相互関係か、対象と知性との関係)に向けられたものである。

 この一つ目のグループを数学的カテゴリーのグループ、二つ目のグループを動的カテゴリーのグループと名付けよう。二つ目のグループでは概念が対になっているのに対して、一つ目のグループではそうなっていない。この違いの原因は知性の本質にあるはずである。

 この表について言えることの第二は、それぞれの分類にはどれも同じく三つのカテゴリーが含まれていることである。これは概念によって先天的に分類する場合には必ず二つに分かれることを考えれば、興味深い事実である。

 その他に、どの分類でも三つ目のカテゴリーは一つ目のカテゴリーと二つ目のカテゴリーを組み合わせて出来ているということも注目に値する。たとえば、総 数(全体)とは多数のものを一つのものと見ることに他ならない。また、制限とは現実と否定とを結び付けたものに他ならない。さらに、共同とは、ある実体と 別の実体の間の相互の因果関係のことである。そして最後に、必然性とは可能性によって与えられた実存のことに他ならない。

 しかし、だからといって、三つ目のカテゴリーが純粋な知性の単なる派生概念であって、基本概念ではないと考えてはならない。というのは、第三の概念を産 み出すために第一と第二を結び付けることは、知性の特別な活動を必要とするからであり、その活動は第一の概念と第二の概念を産み出すための活動とは別物だ からである。

 したがって、例えば、ある数の概念(総数のカテゴリーに属する)は、単一の概念と多数の概念からだけで生まれてくるわけではない(たとえば無限は単一と 多数では説明できない)。あるいはまた、原因の概念と実体の概念を結び付けても、必ずしもそこから影響の概念が生まれて、ある実体が別の実体の何かの原因 となれることが理解できるとは限らない。だから、影響の概念が生まれるためには、特別な知性の活動が必要なことは明らかである。これはほかの場合でも同様 である。

 上記の表について言える第三のことは、唯一、三つ目の分類の「共同」のカテゴリーだけは、知性の論理的活動の一覧表の中の対応する「選択的な判断」と一致している度合いが、他の場合よりも少ないように見えることである。

 「共同」のカテゴリーが「選択的判断」と一致していることを確かめるには、次のことに注目すればよい。つまり、あらゆる選択的判断においては、その判断 に含まれるすべての選択肢を全部合わせた領域が一つの全体であり、選択的判断とはこの全体が部分(従属的概念)に分かれたものと見なされるということであ る。

 そしてある判断が他の判断に含まれることはないから、それらは互いに並列関係になることはあっても従属関係にはなることはない。その結果、それらは序列 の場合のように一方向に影響を与えることはなく、集合体の場合のように相互に影響し合う(選択肢の一つが選ばれた場合には、他の選択肢は排除される)と考 えられる。

 様々な物が集まって出来る一つの全体についても、同様の結びつきを考えることが出来る。というのは、「結果」としてのある物が、その存在の「原因」とし ての別の物に従属するのではなく、両者は並列関係にあって、相互にそして同時に、それぞれが原因として他の物に影響を与えるのである。(例えば、物体の各 部分は相互に引きあっており、反発しあっている)

 この結びつきは、単なる原因と結果(根拠と結論)の関係に見られる結びつきとは全く異なっている。後者の場合には、結果の方が反対に原因に対して影響を 与えることはないから、結果が原因と一緒になって一つの全体を形づくることはない(例えば、世界の創造者が世界と一緒になって全体を形作ることはない)。

 知性は、部分的な概念を一つに合わせた領域を思い描くときには、ある物が分割可能であると考えるのと同じ振舞いをする。そして、前者の場合に、部分的な 概念のそれぞれが互いに排除しあいながらも一つの領域に結ばれているように、後者の場合も、分割された部分のそれぞれが他の部分から独立して存在している が、しかもなお一つの全体の中で結ばれているのである。”




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カント『実践理性批判』中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2013


義務=強制力=道徳法則への服従
=嫌々でもやれと命じる=不自由。
義務=神の命令=法則。
掟の哲学。

”最高善の第一の、そしてもっとも主要な部分である『道徳性』を必然的に完成するという課題である。この課題は永遠のうちにおいてしか十分に実現されないものであるから、〔人間の霊魂の〕『不死』が要請されるようになったのである。この法則はさらに、これまでと同じようにまったく偏向のない理性に基づいた公平な形で、最高善の第二の要素、すなわち道徳性にふさわしい『幸福』を実現することを可能にするものでなければならない。そのためには、この〔幸福という〕結果をもたらすにふさわしい十全な原因が現実存在することを前提にしなければならない。そこで純粋理性の道徳的な法則を定めることと必然的に結びついたわたしたちの意志の客体である最高善が可能となるための必然的な条件として、『神の現実存在』を要請しなければならない。わたしたちはこのつながりについて納得のできるように説明しなければならない。
p.151 第二巻
カント『実践理性批判』中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2013
※『』は原文にはなく、傍点の代役

道徳法則はそれだけでは、〔その法則を遵守する者に〕幸福を『約束しない』。自然の秩序一般の概念から考えるかぎり、道徳法則を遵守することと幸福になることのあいだには、必然的な結びつきは存在しないからである。
そのためキリスト教の道徳論は、最高善の第二の不可欠な構成要素である幸福〔との結びつき〕の欠如を埋めるために、『神の国』の概念を提示している。神の国とは理性的な存在者が道徳法則に全身全霊をもって身を捧げる世界である。この神の国では派生的な最高善を可能にする神聖な創造主の力によって、自然と道徳が、それぞれ単独では無縁なものである調和を獲得するのである。
”p.159-160
 第二巻
カント『実践理性批判』中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2013
※『』は原文にはなく、傍点の代役


自己犠牲はキリスト教の特徴。わざわざ殉教者という言葉があるほどに自己犠牲賛美。でも支配層は自己犠牲をしませんよ。奴隷限定の自己犠牲。


“ このようにして道徳法則は、純粋実践理性の客体であり究極目的でもある最高善の概念を通じて、『宗教』へと到達するのである。これは『あらゆる義務を制裁としてではなく、神の命令として認識する』ようになること、すなわち『ある他者の恣意的で、それ自体が偶然的な指示』として認識するのではなく、みずからの自由な意志それ自体の本質的な『法則』として認識するようになることである。”p.164
 第二巻
カント『実践理性批判』中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2013
※『』は原文にはなく、傍点の代役


だから道徳とはそもそも、いかにしてわたしたちがみずからを幸福に『するか』という教えではなく、いかにしてわたしたちが幸福に『値する』ようになるべきかという教えである。これに宗教が加わると、その場合は、わたしたちが幸福になるに値しなくならないように留意すればするほど、徳に応じた幸福にいつか与るのではないかという希望が生まれるのである。”p.165-166
 第二巻
カント『実践理性批判』中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2013
※『』は原文にはなく、傍点の代役


“世界のうちで最高善を実現することは、道徳法則によって規定されうる意志の必然的な客体である。しかしこの意志にとっては、その心構えが道徳法則に『完全にふさわしいものとなること』が。最高善を実現するための最上の条件である。だから〔道徳法則に完全に〕ふさわしくなることは、その客体と同じように可能でなければならない。この〔道徳法則に完全に〕ふさわしくなることは、〔最高善という〕客体を促進せよという同じ命令のうちに含まれているからである。
 しかし意志が道徳法則に完全にふさわしいものとなっていることは、『神聖性』であり、これは感性界に属するいかなる理性的な存在者にとっても、その現実存在のいかなる時点においても所有できない完全性を意味するのである。しかしこの〔道徳法則への〕ふさわしさは実践的には必然的に求められるものであるから、〔道徳法則への〕完全なふさわしさへの『無限につづく進歩』のうちにしか、みいだすことができない。そして純粋実践理性の原理によればこのような実践的な進歩を、わたしたちの意志の実在する客体として想定することは、必然的なことである。

177 霊魂の不滅の要請
 しかしこの無限の進歩が可能となるのは、同一の理性的な存在者の『現存』と人格性が『無限に』つづくと想定する場合にかぎられるのであり、これが霊魂の不滅と呼ばれるのである。だから実践的には霊魂が不滅であるという想定のもとでしか、最高善は可能ではない。したがって霊魂の不滅は、道徳法則と分かちがたく結びついたものとして、純粋実践理性が『要請』するものである。
ここで要請というのは、『理論的な』命題でありながら、しかもアプリオリに無条件で妥当する『実践的な』法則と分かちがたくむすびついているため、証明することができない命題のことである。”
p.145-146 第二巻
カント『実践理性批判』中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2013
※『』は原文にはなく、傍点の代役


時間とはわたしたちの感性的な直観のたんなる形式にすぎず、感性界に属する者としての主体が、像や観念を思い描くときにとらざるをえない固有の思い描き方にすぎないということである。”
p.90第二巻
カント『実践理性批判』中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2013



“道徳律は世界における最高にして可能な善をわたくしのすべての行為の最終的な対象とすることを命ずる。けれどもわたくしは、わたくしの意志と神聖で善良な世界創造者の意志との一致によるよりほかに、この最高善の実現を望むことはできない。そして、最大限度の道徳的(被造物において可能な)完全と最大の幸福とが、その中でぴったりと釣合いをとって結ばれていることを表象させる全体の概念としての最高善の概念の中には、『わたくし自身の幸福』が同時に含まれているけれども、最高善を助成するために示される意志の規定根拠は幸福ではなく、道徳律(これは無制限にわたくしが幸福を求めるのを制約に基づいてむしろ厳しく制限する)である。
それゆえ、道徳とても本来は、いかにしてわれわれが自分を幸福に『す』べきかではなく、いかにしてわれわれが幸福に『値いす』るものとなるべきかという教えである。宗教がこれに加わってくるとき初めて、われわれが幸福に値いしなくはないように思いめぐらした程度に、いつかは幸福に与かるだろうという希望も入りこんできたのである。
或るひとが或ることもしくは或る状態をもつに『値いする』のは、そのようにもっているということが最高善と一致する場合のことである。ここでかんたんに知りうることであるが、すべてが値いするということは道徳的態度に関係する。というのは、この態度は最高善の概念にあっては、ほかのもの(この状態についているところの)つまり幸福に与かることの条件となるからである。そこでこの点からいって、道徳そのものは幸福の教えつまり、幸福に与かるための教えとされてはならないということになる。”p.110-111、カント『実践理性批判』樫山欽四郎 訳、『世界の大思想』第一六巻、河出書房新社
※『』は原文にはなく原文の傍点の代用。





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カントの言う『英知界』『現象界』の意味
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1385377388?fr=pc_tw_share_q”
“まあ[現象界]てのは、簡単に言えば

我々人間が[理解出来る]又は[認識出来る]という《範囲》の事だな

カントの言う《理性》てのは、非常におおざっぱに言うと

《時空認識と、その認識のカテゴリーの当て嵌め》にある

まあ要するに、人間が認識出来るのは、結局全てが《時空》な訳なんだよ

この時空認識を、人間は先天的能力に当て嵌めて、様々に構築し、対象をカテゴリー分けしていくんだな

ま、簡単に言えば

《空を飛ぶ渡り鳥の群れ》が、綺麗な三角形を形成して飛んでいる[現象]を見た際に

我々の能力は《三角形が空間を移動している》と、認識出来る力を保有しているのだが

この《三角形を三角形と認識出来る》また《それが時間と共に、空間を移動している》と認識する事そのものが

まさに悟性、つまり《カテゴリーに当て嵌めている》という訳だ

つまり、我々人間は、世の中を理解する事が可能な《認識能力の範囲内》が、その時空認識と悟性による構築の範囲内であるとしたんだな


だから当然、我々は《想像》や《経験や知識》も、その能力基盤上にしか成り立たないのも、またしかりな訳だ

ま、つまり《英知界》てのは、その認識能力が《働きかけられない範囲》を指す事になる

例えば《人格》とか《信仰》とかなんかは分かり易いと言える

[あの人は人格者だ]
[彼の信仰心は素晴らしい]

まあ、良く聞く台詞だが、解るとは思うが、これらはもはや

《目にも見えない》し《音もしない》し、どうした所で《表現が出来ない》という訳だ

つまり時空認識やカテゴリーの範囲内に現れないという性格を持っている

だが間違いなく《人格》や《信仰》という事実は、そこに《在る》訳で、これは疑いようがないんだな

こういった、経験や理論を越えた物を、少なからず人間は保有出来る部分がある

《認識出来ない》のにも関わらず《在る》

これをカントは《人間は現象界に属しながらも、英知界に棲む》とした

その英知界が、いかに構築され、理論的に理解する事などは、人間には不可能であるんだな

何故なら、我々は《認識した事は、全て現象界》になってしまうからな訳だな”

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野原燐 ‏@noharra 5月31日
「カ ントは自由・魂の不死・神の現存在を「実践理性の要請」とすることで、人間の認識を超越した事柄に「理性的に」アプローチする道を示した。…宗教的な事柄 に合理性、すなわち理性的であることを要求するということは、それが個々人の恣意的な趣味判断や好みであることを許さないということである。


苫野一徳 ‏@ittokutomano 2013年8月22日
カントの与えた答えは、「神の要請」。認識論的には神の存在は決して証明できないが、「最高善」の可能性を求めるのであれば、神の存在を想定する以外にない、と。

イシカワ トモヤ ‏@Ishikawa_Tomoya 2013年3月16日
自 由意志などない、にもかかわらず自由意思はある(と「見なす」)。自由は義務(カント)、ということは、人間は自由(であること)の責任から逃れられな い、つまりは人間は本質的に自由であるということを認め引き受けなければならない、自由という刑に処せられている(サルトル)ということなのかな

ライト@不安定 ‏@raitonshine 2012年11月9日
カントは「義務に基づいて行為できること」を「自由」と呼ぶが、それは「義務に縛られることができる自由」でもある。それは人間を抑圧から解放しない。自ら抑圧される自由。ある意味では(というか普通の意味では)とても不自由


筆硯独語(HikkenDokugo) ‏@HikkenDokugo 2013年7月1日
カ ントにおいては、「魂の不死」と「神の存在」は要請される。この二つは、どーしても、立脚地、前提としてないと、どうしようもない。そもそも理性とか認識 とか世界に意味を見るとかが成り立っていないはずである。なんだけども、同時に、カントは、「神は、全知全能で、神は、すべて、ただ一つの例外

筆硯独語(HikkenDokugo) ‏@HikkenDokugo 2013年6月30日
言い換えると、カントは、「神は全知全能で、神はすべてである、たった一つの例外を除いて…神は存在はしてはいない」と言ったとも解釈可能。

筆硯独語(HikkenDokugo) ‏@HikkenDokugo 2013年7月1日
@HikkenDokugo ここからカント『実践理性批判』における「魂の不死」と「神の存在」の二つの要請が出てくる。(『実践理性批判』において本来の意味での要請とは、魂の不死と神の存在の二つだけ。『実践理性批判』において、「自由」は、本来の意味での要請ではない。)

ライト@不安定 ‏@raitonshine 2013年6月2日
こっ からは僕の解釈やが、「カントは善と幸福の一致のために神(キリスト教的神)が要請されると考えた」のではなく、「善と幸福を一致させるために要請される ものをカントは神と呼んだ」と考えた方がスマートだと思うんだよね。そう考えると弁証論は神学というよりも政治学、社会学の領域になる

二荒山碑文 ‏@FUTARASAN 2013年1月30日
【好きな言葉7】「人間は、理性的である故に自由であり、自由である故に道徳的である。その道徳性は最高善、つまり霊魂の不死と神の存在を要請する」(カント)

田蛙澄 ‏@taatooru 2013年1月29日
カントやフィヒテは神を理論理性で証明することを避け、神を実践理性によって要請しようとした。しかし、ショーペンハウアーはそこで神なしに倫理が成り立つことを提示した。無神論の認識から倫理への進展。

もするさ ‏@CLONE_P0806 11月28日
文学者や思想家にはクズエピや畜生エピに事欠かない人が多いよ。マルクスの話聞いてむしろエンゲルスの男気に惚れちゃうくらいにマルクスはクズだったし、ルソーなんて私生児振りまいた畜生畜生アンド畜生。

SCHEMA EXPERIE @SCHEMAeXPeRiExi · 9月7日
私たちが風景や絵画や音楽などに接したとき、時間と空間という形式を持つ直感能力で情報(感覚的知覚:印象)を捉えます。 これがカントの言う『感性』です。次に、いろいろな感覚的知覚を分類・整理してイメージを構築します。 このような論理的能力を『悟性』と呼んでいます。

森の中の詩人‏@morinosijin2011年5月31日
「また前者が感性の形式(空間・時間)によって成り立つ世界であることから、『感性界』と呼ばれるのに対して、後者は、それらの形式から解放されている、あるいは超えているという意味で、『英知界』とも呼ばれる。」(石川文康;カント入門)(補足:現象→現象体・感性界、物自体→可想体・英知界)

山田大輔‏@YA_DA1月4日
Wikipediaのカント「視霊者の夢」の解説が腑に落ちん。 「ウソかホントかわからんが、少なくてもこの世のことではないからどうでもいいんじゃねえの? 重要なのは、この世の中のことだろ?」って結論だと思うんだが。

11uk3w‏@11uk3w9月28日
カントもまた『視霊者の夢』のなかで私達の精神や魂が脳味噌にのみ宿る、というのはおおきな誤解である、現に頭部の一部を切除されても問題なく悟性を働かしている人間がいるのだから(逆に臓器の一部を切除して人格が変わった例も存在する)脳への信仰を改めるべきではないかということを書いていた。

京都大学哲学研究会‏@kyototekken7月14日
あれ、でも理性の限界を超えてることについてはわからないって純粋理性批判のオチと同じじゃね?この思想に哲学的な装いと無駄な文章力とを付け足すことで視霊者の夢ができたように、それをもっと大掛かりにしたらできたのが純理なんじゃね?みたいな話を例会後した


苫野一徳 ‏@ittokutomano 2月23日
もっ とも、ソクラテスには、あえてすっとぼけて「無知」を装ってる感もあったり、「一緒に探求したい」とか言いながら、実は誘導尋問ぽいことをしていたり、ソ フィストの詭弁を批判しながらも、実は自分が一番詭弁を弄していたり、とかいうところもあって…でもそこが憎めなかったりもするんですが、笑

原田 忠男‏ @harapion 2016年10月8日
スウェーデンボルグに関してはイヌマエル・カントによる論評がある。『視霊者の夢』(講談社学術文庫)。『純粋理性批判』と同様、心霊は人間の認識能力を超えているいうものである。「この種の人々を焼き殺すことが必要であると思われたが、いまでは彼らの腸内を下剤で浄化するだけで十分であろう」

大田俊寛 ‏@t_ota 2010年6月24日
● ニコニコ動画で、脳機能学者の苫米地英人と、参議院議員の藤末健三の対談を見る。 http://bit.ly/9tAFWV テンションの高い、熱のこもった対談。前半の通信法制をめぐる具体的な議論は興味深く、肯かされる点も多いが、徐々に話は怪しげな方向に向かってゆく。

● 以前にこのツイッターで、政治家や企業経営者が「成功哲学」というオカルト思想に感染しやすいと述べたことがあるが、この二人がたどり着くのも、典型的な 成功哲学。成功哲学は、アメリカのニューエイジ思想に端を発し、世界的に流行した後に衰退したが、このような形でいまだに残存している。

●その世界観の前提となるのは、精神的次元と物質的次元が究極的には一致するというもの。そこから、科学と宗教はいずれ一つになる、あるいは、意志の力によって現実を変えられる、という主張が出てくる。

●精神的次元と物質的次元が相互にどのような関係にあるのかということは、理系と文系を問わず、おそらくすべての研究者が直接・間接に関わっている問題である。そして、この問題について一つの典型的な見解を示したのが、哲学者のカントであると思われる。

●カントは、精神的次元(実践理性の領域)と物質的次元(理論理性の領域)は、多様な仕方で相互干渉しながらも、究極的には重なり合わないという二元論を 説いた。私を含め近代の学者たちは、カントの前提を踏まえた上で、その二領域が相互にどのような関係を持つかを研究している(はず)。

●ところが、慎重さを欠く一部の研究者は、自身のきわめて狭隘な知見や経験から、「精神と物質は同じだ!」「意志の力によって世界は変えられる!」とい う、安直な結論に飛びつく。そして、いつかは自分の意志の通りに世界を変えることができるはずだという、甘美でパラノイア的な幻想に耽溺する。

●この対談を見ると、成功哲学がどのような仕方でリアリティを獲得するのかを実感することができる。また、市民に求められているのは、政治家を個々の政策 レベルで判断すると同時に、各政治家が奥底で抱えている世界観や幻想のレベルでも判断することであると感じた。難しいことだが・・・。(終)

倫理教科Bot ‏@bzliker10315 14 時間14 時間前
カント理論

理論理性=因果関係によって成り立つ自然界の事物を対象とした理性

実践理性=自ら法則を立てて意志に命令を下す理性

認識の対象は主観が有する先験的な枠組み=カテゴリーによって構成される という認識上のコペルニクス的転回論 #カント

猿元 ‏@sarumoto 2009年10月21日
『カント 信じるための哲学』の1章を読んだ。
近代哲学を「客観世界はあるよ」説(合理論)と、
「そんなものは人それぞれの主観にすぎないよ」説(経験論)で整理して、そこからカントの理論理性批判と実践理性批判の話に持っていくわけね。たしかにセカイ系も、こう料理するとわかりやすいかもね。

﨟毬蛾子 ‏@rokyugashi 3月16日
で、カントの世界共和国ってひょっとして、八紘一宇のこと?

自殺を考えてしまう存在@8th day ‏@feelsosuicidal 2013年11月7日
カントの言う国際連盟は唯一つの巨大な国家とは違うのでしょうか?諸国家によって分割されているのが望ましいのは「歴史の途中」に思えますが @Morgenthau0217: (…)世界が諸国家によって分割されている状態の方が、唯一つの巨大な国家によって統合されてしまうより望ましい(…)

国際政治学たん ‏@Morgenthau0217 2013年11月7日
@feelsosuicidal 良い質問だと思うわ。カントは、個々の国家は内部に法秩序を有しているが、個々の国家からなる国際関係は非法律的無秩序な状態だと見なしており、ホッブズに近かったの。その状態は現実に戦争が起きてなくても「戦争状態」と呼ばれ、これを脱却するために「国際連盟」の設立を唱えたのね。しかも、その連盟は主権的権力を含まない、つまり連邦ではなく連合的な組織にすべきだと考えたの。どうして連邦ではなく連合にすべきなのか。連合とは、そこに加盟する国々が、それぞれの国家主権を保持したままの国際組織ね。それに対して連邦とは、各国の主権を統合した、国家よりも上位の権力機構。確かにこのような連邦(いわば、世界共和国のようなもの)という理念は連合よりはるかに進んだ理念だけど、やはり現実性を欠くわ。さらにカントは、帝国的統治というものが、版図が拡がれば拡がるほど法の及ぶ力が弱くなるということも言及しているわ。そういうわけで、彼は「一つの世界共和国という積極的理念の代わりに、戦争を防止し、持続しながら絶えず拡大する連合という消極的な代替物のみが、法を嫌う好戦的な傾向の流れを阻止できる」と主張したのよ。

(拡大しきったらワンワールドじゃないか。)


無碍の一道@四苦八苦(ネトムヨ党) @mugenoichidou • 2010年3月22日
ス ウェーデンボルグ(諸説あり)、エドガーケイシー、シュタイナー、アランカルディック等のスピリチュアリズム、黒住宗忠中山みき出口王仁 三郎谷口雅春高橋信次等の新宗教、ニューエイジの人々、宇宙人からのチャネリングもみんな「輪廻転生」を説いている不思議。

(輪廻思想とキリスト教を融合させた神智学の影響。
スウェーデンボルグは輪廻否定ですが、輪廻転生に見える現象=霊が憑依して霊が話す、はあるとします。)


AK @ho_ro • 3月13日
“いきなりですが、イサク・ルリア(1534-72)について書きます。 彼は輪廻転生やグノーシス(キリスト教の教義から見ると明らかな異端思想です)を好んだ人物です。 カバラは「ゾハール」という書において、一応の集大成をみたと1500年頃までは考えられていました。”)

金田一 孝宜 ‏@sisimaruONE 2013年8月23日
アポフェニアと脳の錯覚〕 「私たちの心は世界を組織化されたものと見るように設計されていると言われています」…中略…「どれほど優れた科学教育を受けたとしても信仰や神秘主義、超自然主義を捨て去ることは難しいと脳科学者たちは力説します」 http://geocities.yahoo.co.jp/gl/mrdk3dog_s/comment/20120915/1347692727 …




目的の国‏ @mokutekinokuni 2015年2月25日
東アジア共同体=大東亜共栄圏
世界共和国=八紘一宇

中尾 綾‏ @ayajet128 2015年2月24日
@kikuchi_8 @wayofthewind トム・ヨークのパートナーがダンテのアートを研究してたvia naoshiy: 自衛はロック、ルソー、カント、ヘーゲルがそれぞれ論じた公共哲学の伝統的なテーマであり、世界政府をつくって軍隊の一元化を唱えたのはダンテであった。"

菊池‏ @kikuchi_8 2015年2月24日
@ayajet128 @wayofthewind なるほど、ダンテは世界政府主義者だったのですね。社会契約論は大東社の啓蒙主義者・革命家の重要な教義の一つですね。カントは「永遠平和のために」という著書で世界連邦みたいなアイデアを出しています。ヘーゲル弁証法は秘密力の得意技ですね。

U‏ @wayofthewind 2015年2月17日
子子子子子さんが「カントと国連と世界政府」について興味深いリツィートを展開中。 軍事ですらも哲学によって統べられるという点に着目したい。 https://twitter.com/kitsuchitsuchi

よーすけ‏ @yoshimichi0409 3月23日
よーすけさんがねこたをリツイートしました
カントの『永遠平和のために』で展開されてる思想は、国連憲章の基になった事でも有名。EU=欧州連合もこの理念を抜きにあり得ない。世界連邦運動やトロツキーの世界革命論などはこのヴァリエーションと捉えるべき。大本教がカントに似てるのも明治期に影響を彼らが受けた証拠と言える。
よーすけさんが追加

ねこた @lakudagoya
世界連邦だってストア学派やカントなどのコピペだしな。 カントの本借りてきたよ。…
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Hiroyasu Misawa‏ @B_March 2016年8月9日
100分で名著 カント:永遠平和のために わ、驚いた。カントはすでに世界統一国家(グローバリズム)と、平和連合(国連ですね)を比較して、 画一的、強圧的になるグローバリズムより、いざこざは絶えなくても大戦争にならない国連の方が良いと考えていたのだそうだ 哲学は侮れない…


純粋理性のアンチノミー
http://omg05.exblog.jp/17423213

カントのアンチノミー(二律背反)
http://philosophy.hix05.com/Kant/kant113.antinomy.html



菊池 ‏@kikuchi_8 2012年5月9日
17) 鈴木氏の神道批判を読んだとき基督教宣教師の神道批判の物言いとそっくりだと感じたものだ。禅を神秘主義だとする鈴木大拙氏は、はっきり言って、同じよう にスウェーデンボルグに影響を受けていた、西洋的一神教的な終末思想に神道的粉飾を施した出口王仁三郎や浅野和三郎と同類だと思う。


prometheus@prometheus2054 ·
コロンビア大のコアカリキュラム①(文理問わず全員履修)
プラトン『国家』
アリストテレス『ニコマコス倫理学』、『政治学』
聖書(旧約、新約)
アウグスティヌス『神の国』
コーラン、
マキャヴェリ『君主論』『政略論』
デカルト『省察』
ホッブス『リヴァイアサン』
ロック『統治二論』

コロンビア大のコアカリキュラム① 後期課題図書。
ルソー『社会契約論』、『人間不平等起原論』
スミス『国富論』 ヒューム『道徳原理研究』
カント『道徳形而上学原論』
アメリカ独立革命関連文書
フランス革命関連文書
バーク『フランス革命の省察』
続く

コロンビア大コアカリキュラム①その2
ウルストンクラフト『女性の権利の擁護』
トクヴィル『アメリカの民主主義』
ヘーゲル『歴史哲学講義』
ミル『自由論』
マルクス、
ダーウィン『種の起原』
ニーチェ『道徳の系譜』
デュボイス『黒人の魂』
フロイト『精神分析入門』
ウルフ『三ギニー』

コロンビア大学のコア・カリキュラム2より(1年生の必修科目の課題図書)
ホメロス『イリアス』、『オデュッセイア』、
『ギルガメシュ叙事詩』
ヘロドトス『歴史』
アイスキュロス『オレステイア』
ソフォクレス『オイディプス王』
エウリピデス『メディア』
トゥキディデス『戦史』 続く

コロンビア大学のコア・カリキュラム2より(1年生の必修科目の課題図書)その2
アリストファネス『女の平和』
プラトン『饗宴』
創世記、ヨブ記、ルカ書、ヨハネ書。
これは前期のみ。続いて後期へ

コロンビア大学のコア・カリキュラム2より(1年生の必修科目の課題図書:後期)その3
ウェルギリウス『アエネーイス』
オウィディウス『変身物語』
アウグスティヌス『告白』
ダンテ『神曲』
ボッカチオ『デカメロン』
モンテーニュ『エセー』
シェイクスピア『リア王』
続く

コロンビア大学のコア・カリキュラム2より(1年生の必修科目の課題図書:後期)その4
セルバンテス『ドン・キホーテ』
オースティン『高慢と偏見』
ドストエフスキー『罪と罰』
ウルフ『灯台へ』
いや~恐れ入るわw これを文理問わず必修科目の課題図書となっている。


• 池内紀訳 『永遠平和のために』 集英社
• 中山元訳 『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』 光文社古典新訳文庫
• 宇都宮芳明訳 『永遠平和のために』 岩波文庫



お読みくださり感謝!
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新春分あけましておめでとうございます。デイビッド・ロックフェラーの訃報がこれにあわせているよね。耶蘇教成立理由メモ集め。 

随時追加情報は言った追加 


峨骨‏ @Chimaera925 2017年3月21日
ロックフェラーが死去か。人の死を喜ぶ趣味は無い。6回だったか心臓移植してあの歳まで生き延びた。外食せず、有機野菜しか食べない完全なベジタリアンで、水道水も飲まなかったと聞く。あの一族の人間はちょくちょく妙な死に方するけど、まともな死に方だな。それだけ健康に気遣っても101歳か。

おねショタ魔法使い初級おじさん‏ @douteimaturi 2017年1月1日
不思議だよなぁ、ただ寒いだけの日を新年とか言うのだから
そう考えると春分の日を軸に新年と言った方が自然です
因みに私は右翼なので春分の日を新年とします、なので私にとっての新年はまだ当分先です

おねショタ魔法使い初級おじさん ‏@douteimaturi 2016年10月6日
やっぱり、ヤソは明白な邪教だわ
何で邪教かって?
奴らはヤソ以外を悪魔つきだと考えているところなわけで
そんな全方面に喧嘩売っている宗教が平和言うのは
ヤソ以外全部滅びせば平和という事を言っているわけで
こんなおぞましい邪教が世界中を汚染し、
破壊しているのは必然の事態と言える


”ノウルーズ(ペルシア語: نوروز、nowrūz‎)は、イラン暦の元日。地域によってはナウルーズ、ナイルーズ、ネヴルーズなどとも言う。ペルシア語で、ノウ(now、نو)は「新しい」、ルーズ(rūz、روز)は「日」を意味する。太陽が春分点を通過する春分の日に当たり、農事暦上重要であることから、イランを中心に、中央アジアからアフリカまでに及ぶ広い地域で祝われる祭日である。国際連合総会は、2010年2月23日にこの日を「ノウルーズ国際デー」として正式に承認した[1]。

フェルドウスィーの王の書では、イランの古代の王ジャムシードによって作られたとされている。ノウルーズの習慣はゾロアスター教の新年の祝祭に由来すると言われ、古代のサーサーン朝時代に既に大々的に祝われていた。サーサーン朝時代には春分に祝われるノウルーズと秋分に祝われるミフラガーンのそれぞれあったが、ミフラガーンはミフル神を祝う祭日で、新年はこのノウルーズかミフラガーンの日に定められていた。ノウルーズの習慣はアケメネス朝の時代よりもずっと昔から祝われてきたとされている。

イランでは国家祭日とされ、年末の水曜日(チャハールシャンベ chahār-shanbe)には家の前かみんな集まる場所で火を焚いてその上を飛び越え、健康を祈願するチャハールシャンベ・スーリー(چهارشنبه‌سوری chahār-shanbe sūrī)という儀式や、スィーズダ・ベダルと呼ばれる新年の13日目に集落の郊外にある山野に出かけて行われる終日の祝宴など、ノウルーズ前後の年末年始には何千年前の習慣とみられる春の訪れを祝う儀礼が行われる。ノウルーズの当日には、親類や友人の家を訪問して新年を祝賀する。

イラン独自の習俗としてはハフト・スィーン(Haft Sīn:7つのS)があり、頭文字がスィーン Sīn で始まる7つのものを集めて祝われる。代表的なものとしては、リンゴ(sīb、سیب)、ニンニク(sīr、سیر)、酢(serke、سرکه)、ヤナギバグミ(Senjed、 سنجد)、スーマック((en、ウルシ科)の実(Somāq、سماق)、青草(sabzeh、سبزه)と甘いプディングのサマヌー(Samanū、سمنو)である。

中央アジアではノウルーズは広く祝われ、ソビエト連邦から独立した中央アジア5か国ではいずれも国家の祝日としている。トルコではクルド人の祭日として知られ、国民融和のための休日とされているが、同時にクルドの民族運動が一年でもっとも盛り上がる日でもある。

イランのノウルーズは、例年はグレゴリオ暦の3月21日に当たるが、西暦2004年は閏年でグレゴリオ暦の2月が1日増えたため3月20日である。”
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA

”イラン暦(イランれき、ペルシア語: سالنمای هجری شمسی؛ گاهشماری هجری خورشیدی‎)は、イランを中心に中東の広い地域で使われている暦法の総称で、太陽暦。ペルシア暦、ペルシャ暦、イラン太陽暦とも呼ばれる。欧米では“anno Persico/anno Persarum”(英訳「Persian year」)を略してA.P.と表記する。

20世紀以降、イランとアフガニスタンで使われているものはグレゴリオ暦の算出法を採用し、西暦と日付が完全に対応するように改められたが、紀元を預言者ムハンマドのヒジュラの年(西暦622年)に置くため、ヒジュラ太陽暦(en)とも呼ばれる。また、アフガニスタンで公式に採用されたものはアフガン暦とも呼ばれる。

ペルシア(イラン)ではアケメネス朝時代までバビロニアから伝わった太陰太陽暦を用いていたが、その後、新たにエジプト由来の太陽暦が伝わった。

ペルシア暦は、サーサーン朝が国教としたゾロアスター教の宗教儀礼と密接な関係を持つ。春分の祭りノウルーズ(「新しい日」の意)と秋分の祭りメフラガーン(ミフラジャーンとも。本来は「ミスラ祭」の意)という二大祭礼を持ち、時代と暦法の種別によってそのどちらかが新年の最初の日となる。

イスラム化以降、ペルシアにはヒジュラ暦が導入されるが、ノウルーズの祭礼は農事暦上の春分の祝いとして純粋太陰暦であるヒジュラ暦によらずに存続した。

11世紀頃からは、ノウルーズを新年とし、ヒジュラを紀元とする太陽暦が再び作られるようになり、セルジューク朝期のウマル・ハイヤームらの天文学者によって改良が施されてきた。

1925年の改良では、グレゴリオ暦の算出法を採用し、西暦と日付が完全に対応するように改められた。この現行暦法では、1年の12ヶ月はそれぞれがセルジューク朝期につけられたペルシア語による名前を持ち、前半の6ヶ月が31日になっている。最後の月は例年は29日だが、定期的に回ってくる閏年には30日となる。新年はファルヴァルディンの1日と同時に始まるのではなく、太陽が春分点を通過する瞬間とされる。

イラン暦の閏年は、アケメネス朝の頃には120年に1回置かれた。ウマル・ハイヤームの『ジャラーリー暦』ではこれを改め33年に8回置いた。現在のイラン暦では128年に31回閏年を置く。なお、グレゴリオ暦では400年に97回、閏年を置く。

1975年にはモハンマド・レザー・パフラヴィー国王のもと、アケメネス朝のキュロス大王がメディアを滅ぼしてペルシア帝国を建国した年(紀元前550年)からの2500周年を祝うイラン建国2500年祭がとり行なわれ、イラン暦がヒジュラ暦に代わる国家の公式の暦に採用されるとともに、イラン暦の紀元がヒジュラ紀元からキュロスの建国の年を元年とするキュロス紀元に改められた。1979年にイラン革命が起こってパフラヴィー朝の王制が廃止されるとキュロス紀元から再びヒジュラ紀元に戻されたが、イラン暦はそのままイランの公式暦として使用されている。

また、アフガニスタンでもヒジュラ紀元のペルシア暦が公式の暦として採用されている。”
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E6%9A%A6


主に耶蘇教成立理由メモ集め。

ねこた‏ @lakudagoya 2016年7月28日

ポエニ戦争でスピキオにコテンパンにされたのがフェニキアで、
更にカエサルにコテンパンにされたのがケルト。
で、クレオパトラはオクタヴィアヌスにやられた。

さて、ローマにコテンパンにやっつけられた三者ですが、もし彼らがローマに対して復讐するなら何がいいんでしょうか?

よーく考えよー

あもんたん、キリスト教の背乗りネタの話ならフェニキアとケルトの関係とかどーよ? このあたりも主婦の陰謀論コミュではタブーかも? ストア派・ケルト・フェニキアこのあたりのトリニティは陰謀論でも今までにないネタだろ? あと、ルソー教的なケルト+エジプト+ストア派のトリニティも。



・ミトラが原始キリスト教(「人気だった聖霊降ろしorグノーシス」or正教会)を乗っ取った説。
元の原始キリスト教がどのようなものか教義知りたい(上記カッコ内に近いと予想)。

・ローマが対ユダヤ用に創ったから新約が反ユダヤ。ヤソはいくら何でもユダヤ教の根本を否定しすぎ。

・ローマがフェニキアを滅ぼしたとはいえ、有用な生き残りは取り込んだはず。エジプトもケルトもね。
フェニキア人がユダヤ教徒になった説があるが、フェニキアの残党の中には耶蘇になった派閥も、
ユダヤ教徒になった派閥も、ユダヤ人だと名乗るだけで中身単なるバアル教である派閥もあるとすれば成立。
人身御供はがユダヤ教、賛成派がバアル、ケルト、エジプトというか古代宗教の主流派すべて。ミトラ相撲しえお生贄に捧げる。
ミトラすと表記しているのはローマのミトラだとややこしいから。ペルシャのミトラとインドのミトラもあるし。
ミトラ信仰とミトラ協程度の分け方では不十分。

・フェニキアをスカウトした疑惑でフェニキアが強くなりすぎてヤソ化したフェニキアがローマを乗っ取った疑惑。
復讐。アーリアのドルイドはアーリアだから混ざっているだろうね。ケルトとエジプトとフェニキアがミトラす今日に合流カモ。ミトラス-耶蘇。
ローマがこれらの灰差hをスカウトして対ユダヤ教部隊ミトラスにした可能性。
ストア派を改悪して耶蘇を混ぜたのも復讐。水と火、洪水と焼尽。
・フェニキアらが乗っ取ったキリスト教が耶蘇で西ローマで、
元のキリスト教を残している残そうとした派閥が東ローマ=反知性が弱め疑惑。
・ユダヤ反乱のたびにミトラス教に動きがないか。
・ユダヤ関係なかった原始キリスト教アーリア系をアンチユダヤ用に改造したのがカトリック疑惑。
・なぜキリスト教が国教になったのか。上記の4勢力なら納得。復讐するならケルトやバアルやエジプトの古代宗教を復活させるのでは?破壊されつくされたから教義が散逸?
更なる内紛で古代宗教復活は罰は駆逐された?
東に逃げた勢力もあるだろう。東ローマと中東。
・使用用語の再定義と造語が必要。
・既存の研究の言葉の縛りを逃れないといけない。
・カトリックに排除された異端がユダヤ教と手を組んでイスラムを創った疑惑。
イスラムはユダヤをきちんと受け継いでより普遍的にしている。
・なぜギリシア語で新約が書かれたか。アラム、ヘブライ、ペルシャ、アラビア、ラテン、アヴェスター語でもなく、サンスクリットでもヒエログリフでもフェニキア文字でもない。出自がばれるからか。布教するために現地の共通語を使ったか。当時のアレクサンドリアってギリシア語圏だったっけ。
ストア派言語はギリシア語だっけ。教義がプラトンと親和性があるからか。ピュタゴラスか。公用語化。公用語ならアラム語ではだめなのか。当時はアラム語の権勢はどうだったのか。
・ユダヤ戦士vミトラス戦士=ローマ。

ミトラス教ってローマの軍人だよね。あ!ユダヤ教戦士と戦ったよね。ミトラスが反ユダヤの耶蘇になってもおかしくないね。
水戸ラスの教義は秘密だったから、元信者でないと教義を盗めないよね。やはり耶蘇の教義は水戸ラスの軍人がらみかねえ。
ローマに恨みを持つケルト、エジプト、フェニキア(おそらくこいつらの三位一体がミトラスと結んで作ったのがカトリック)にとってストア派は敵だから、壊したんだろうね。

一定の時期に必然的に起こる大地の洪水や大火のために、我々は、永遠とはいわずとも、永続的な栄光すら得ることはできない。火と水の洗礼の元ネタ疑惑。

耶蘇に乗っ取られる以前のローマは極めて非宗教的な文明。宗教に対して非常に淡白な質実剛健。
カトリックシステムが軍隊的なのはミトラす軍人が作ったからかも。そのまま耶蘇化してもおかしくない。末端は半致死絵が望ましいが上層部は知性が必要。後に上層部も耶蘇反知性になって悲惨最悪。
エッセネ派が実在したかは不明だがユダヤ教ではなくアーリア系で原始キリスト教の一派疑惑。

必読書。新旧約聖書、タルムード、教会史、猶太戦記、コーラン、アラビア語、聖書アラビア起源説




・コーラン成立期とニクダー成立期がかぶる。
私の読書メモには、 ソドムとゴモラは火山によって消滅したとされているが、現在それだとされている地域に火山活動の形跡が全くない。 などいろいろ書いておりますが、
コーラン(クルアーン)の本文は、マソラ学者たちがヘブライ語聖書正典の原文に母音付加し、校合(写本などを比べて、本文の異同を確かめたり誤りを正したりすること)しはじめたのとほぼ同じ時期に編纂された。 伝統的にイスラム教徒が最も信頼をおいている決定版のコーラン経典は、カリフ・ウスマーンの治世期、すなわち紀元後644年から656年のあいだに編纂されたとされている。そしてその経典中の、イスラエルのヘブライ人の族長やユダヤ教預言者たちについて触れた箇所には、明らかにアラビア半島西部の地名がいくつも引用されているのである。

これって、コーラン創った勢力が「同時に」旧約の内容をコーランに都合よく母音を付けた疑惑が。 それだとなぜ舞台をアラビア半島から離れた場所に移したのかが問題になりますが、アラビア半島が争いの場所にならないように遠ざけたのかもしれません。

新旧聖書クルアーンの三つ巴になるのは確実ですから。 実際、今のエルサレムあたりは戦乱が多いですし。 ヘブライ語原典とセプチュアギンタを比較するとおかしな母音をつけまくっている可能性が高いです。
更に困ったことに、古ヘブライ文字=フェニキア文字であり、 ヘブライ文字ニアリーイコール アラム文字ですから、ヘブライ文字自体がそもそも捏造説があります。 アラビア語やイスラームを学ぶと案外突破口が見えるかもしれません。

庵野監督が元オウム信者の疑惑がある。
オウム教のロシア向け放送の名前が「エウアンゲリオン=エヴァンゲリオン」。
エヴァの英語版出版人のMatt greenfield Anno hideakiで検索した結果は後述。
真言オーム真理教がロシアから放送していたラジオ番組エウアンゲリオンは古典ギリシア語で「福音」。
オウムの中核は✝だから当然ともいえます。
上述の放送機関は1992年4月1日~1995年3月23日。
エヴァは1995年10月4日から。
オウムの思想的後継者。

東浩紀「庵野は元々のエヴァの筋書きを大きく変えた。 理由はインコ教の教義と共通点が多過ぎたから」

アニメ界もはじめから怪しいぞ。
手塚治虫は、映写機の全く普及してない時代に、小学二年生の頃からディズニーアニメを観まくっていたので怪しいな。
案の定、手塚治虫の親父や先祖を辿ると面白いよ。
手塚の父は亡命ユダヤ人と関係があったらしいので、フグ計画辺りに絡んでるかもね。

当時普及していないものに多く触れたり、和訳本どころか原書すらほとんどない時期にそれらを間違いなく知っていた人は怪しい。

エヴァの庵野←神智学(インド風キリスト教)→オウム

なのか、庵野が信者かは不明ですがシンパではあるでしょうね。

当時普及していないものに多く触れたり、和訳本どころか原書すらほとんどない時期にそれらを間違いなく知っていた人は怪しいがらみで思い出したのですが、
イスマーイール派は人類史を七周期にわけました。
神智学と人智学もです。
ブラバッキーやシュタイナーらはどうやってイスマイール派の思想を知ったのでしょうね?おそらくメーソン経由。

魔王アモン‏ @mryensrh11 2016年8月7日
違法な業者とかがよくやる古典的な手口でさ 名前だけ変えて別会社のフリして 営業続けるってよくある話だよね 「ええ、アテクシたちはAですけど? は?B?なんですかそれは?」っていうの さーて、これはフェニキアがユダヤを名乗った時の手口でもあるんだが それ「だけ」か?

ねこた‏ @lakudagoya 2016年8月7日
@mryensrh11 それ何万社もある派遣屋みたいやね。 で、ラテン人がアルファベットを使うようになったのはエトルリアの影響なんだとか。出典「ラテン語のしくみ」 エトルリアあんま資料ないですけど、部族社会のローマくらいから古くいるけど、ローマと混血して消えました。

ねこた‏ @lakudagoya 2016年8月7日
ローマ人と混血して「消えた」エトルリア人。ローマと戦って「消えた」フェニキア人。 たんぽぽさんの言うように、フェニキアはヘルメスのように姿を隠す帽子を持ってるくさい。 なぜにやつらはあれだけ古代から多大な影響力を持って消えるのか? 国家という肉体を捨てたのだよね。


ーーー

軸  戒律
①反知性主義(=騙されないための知識は与えない。愚民化。考えるな! 馬鹿なままでいろ!)は悪
②支配層が欲望を抑えず徳がないなら殺してOK
(易姓革命)
③血統主義は悪
④選民思想は悪
⑤個人の能力を無視した自動的な世襲制は悪
⑥特定の宗教思想を「宗教ではない」と偽装して布教することは悪
⑦論理と非論理が調和した思考は善
⑧あちこちの思想から盗んでくるが道徳と欲望を教える技術で権力の暴走を
抑える個所だけは都合よく無視するのは悪
情報元を示さず検証もしていない情報を流すのは悪
生活必需品に意図的に毒を混ぜるのは悪
依存と恐怖を植え付けて操るのは悪
自身の思想以外は悪魔崇拝とみなすのは悪
下賤(統治能力がなく個人的復讐に取り付かれたいじめられっ子)を高貴(我欲を抑えられないいじめっ子)にするのは悪
言語と文化を破壊するのは悪
善悪はゼロか一かではなく濃度で測られる
第三の選択肢なき善悪二元論は悪。



異教迫害 (疑う奴、考える奴、違う思想を持つ奴を徹底攻撃は悪
これは邪教だとどうすん年となるから難しいな

ディオゲネスててきゃらが濃いとかじゃなくてコスモポリタン提唱者だから持ち上げられてんだろうねえ
1. カルトの作り方マニュアル超簡単
仏教からか戒律と欲望を抑える技術を抜いたら仏教カルトの出来上がり
4. 論理的思考の十四と空も神格化さえてごっでおにすればカルトになる。
5. 支配層の思想はストア派の子図もポリたにズムだけどストア派思想ではない。
6. だってすとあはのようじゅうようなもくhを得ることを抜いているから。欲望を抑える要素を抜いたらカルト・
バラモン教からか戒律と同性愛禁止と菜食主義と武器承認印騎士を抜いたらカルトっていう海上って支配層の思想まんまじゃねーか
~------------------------------------------ 死は死王の思想は宗教から買いk率や道徳守れと冠木氏の運禁止とかを抜いたものそのものだからじゃ強化るとまんまだねえ
権力者の暴走を抑えるっ要素を宗教から抜いているのだから最悪だ鹿も支配層のくせに反知性主義だし内により門司区がないご都合主義だから本乙に元奴隷いじめられっ子がいじめっ子になると最悪だぞ

民主主義国家って過去に侵略しまくってhs9億ミンチ創りまくったやつらばっかりじゃん。というか植民地支配の技術が民主sh杉。
だって多数派が力もつを厳密にやるとさ、大衆ってほとんどがご都合主義で未来へのビジョンニアから最悪だぞ。
必要最低限の税金すら取れなくなるし副詞も完全崩壊するな。
まあみん就の意見ガン無視でも崩壊しているけどさ。
図説 ユダヤ教の歴史 (ふくろうの本)
ユリアヌスの信仰世界


ヴェーと∸ヴぇンはどう見てもメーソンなのにロッジに記録なしで会員ではニコトになっている。つまり通常会員より地位が高いと考えられる。イルミナティ=科学容認で科学重視で反カトリックでエキュメニズム賛成のキリスト教カルトのワンワールドソングを作っていて採用されているし。

失われた宗教を生きる人々


自分の為を他人の為に変換する装置の仕組みを理解し、開発し、普及させ、運営する、支配者側でない知恵者、ですかね。暴力とお金に代わる力として……単なる宗教ですね。道徳含めて。


koujityuu 英語できない人が大半 悪質な詐欺 たるむーどたたきのげんきょう は かとりっくしんぷ
『仮面を剥がされたタルムード』のうぃきのふらんすごきじをぐーぐるほんやくでえいやくしてさr

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Le Talmud démasqué







”The Talmud Unmasked (Latin: Christianus in Talmud Iudaeorum: sive, Rabbinicae doctrinae Christiani secreta) is a book published in 1892 by Justinas Bonaventure Pranaitis (1861–1917). The book, generally regarded as antisemitic,[1][2][3] is a collection of quotes from the Talmud and Zohar which purports to demonstrate that Judaism despises non-Jews and promotes the murder of non-Jews. Pranaitis drew on the earlier works of Jakob Ecker and August Rohling.[1]”
This page was last modified on 22 September 2016, at 07:26.

https://en.wikipedia.org/wiki/Justinas_Pranaitis
”Justinas Bonaventura Pranaitis or Pronaitis[1] (July 27, 1861 – January 28, 1917[2]) was a Lithuanian Catholic priest (subsequently defrocked),[3] Russian Master of Theology and Professor of the Hebrew Language at the Imperial Ecclesiastical Academy of the Roman Catholic Church in Saint Petersburg, Russia.

His credibility rapidly evaporated, however, when the defence demonstrated his ignorance of some simple Talmudic concepts and definitions, such as hullin,[5] to the point where "many in the audience occasionally laughed out loud when he clearly became confused and couldn't even intelligibly answer some of the questions asked by [Beilis'] lawyer".[1] Rebekah Marks Costin's account in Robert Garber's Jews on Trial quotes the key exchange of the trial which served to destroy Pranaitis' credibility:

Q: What is the meaning of the word Hullin [animals permissible as food]?
A: I don't know.
Q: What is the meaning of the word Erubin [Sabbath walking limits]?
A: I don't know.
Q: What is the meaning of the word Yebamot [family relationships]?
A: I don't know.
Q: When did Baba Batra live and what was her activity?
A: I don't know.[6]

The last question "was fatal once it was tactfully explained to the jury. Baba Batra is a tractate of the Talmud, quite well known to scholars, students, and many Jewish laymen."[6] A Tsarist secret police agent would later report on Pranaitis' testimony, saying:

Cross-examination of Pranaitis has weakened the evidential value of his expert opinion, exposing lack of knowledge of texts and insufficient knowledge of Jewish literature. Because of his amateurish knowledge and lack of resourcefulness, Pranaitis' expert opinion is of very low value.[4]

Beilis was found not guilty.”
This page was last modified on 3 September 2016, at 12:59.


ガンダムダブルオーのヒロインであるマリナ・イスマーイール派について詳しくメモしておいてよかったぜ!運命カダル創造も書いておいてよかったぜ。古代オリエントの宗教凄いわ。アルメニアにも言及してるし。 近親婚オススメになったきっかけはおそらく、外来勢力による血縁的乗っ取りをされそうになったからかもしれません。 乗っ取りたい勢力の人と結婚し、百年単位で完全に乗っ取る手口対策。 何か事件の記録かあるかどうかはわかりませんが探せばあるかも。 わざと血を濃厚にして突然変異を起こしやすくして文明発達速度を増やそうとしていたかも。


魔女の鎚 第二撃 終末時代の監視者からの警告 「タルムードを捏造する者たち」 モーリス・コミンスキー ttps://web.archive.org/web/20040930104346/http://members.at.infoseek.co.jp/WATCHMAN_ENDTIMES/WATCHMAN_ENDTIMES2.html

タルムード全巻一覧 ttps://web.archive.org/web/20040527122513/http://members.at.infoseek.co.jp/WATCHMAN_ENDTIMES/talmud.html 参照文献:三好迪翻訳・監修『タルムード─ソーター篇』、株式会社三貴、1995年 をどうぞ。どこが捏造かきちんと書いてあるからすごい。このサイトの立場が気になるなあ。魔女狩りされた側だろうけど。




工事中 元祖イルミナティ(反オカルト)設立にロスチャイルド(ヘッセン=親オカルト)が関わっていたなんて大嘘! バチカン陰謀論言っている奴がプロテスタンネットで出回っているものは警戒すべき。 紐付き陰謀論者(キリスト教の手先)が流す、無自覚工作員育成用のキリスト教に見えないキリスト教思想が ユダヤ陰謀論(バチカンの伝統) 日ユ同祖論(聖書が根拠) 宇宙人・秘密結社の悪魔崇拝非難 (悪魔を具体化しないキリスト教のデマパンフが元)。ト原理主義で単なるキリスト教の派閥争いだったことに『またかよ』と言いたい。ねここねこのいうキリスト教はそれを中核とするシステムと思想すべて。というかゴッドなんて妄想。部ろっぐったーこの記事の準備 ユダヤ陰謀論者が超嫌がる質問集にする予定~文章技術について私が守っていること②(①の実践編)~
知ってるのに「悪魔崇拝=キリスト教=ニューエイジは認めたくない」というとこも含めてね。…世界最大の洗脳、カトリック信者だったら」と仮定すると辻褄があってしまうんだよね。 …知らずに「キリスト教徒特有の詭弁」=「悪魔崇拝=悪とだけの説明」http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-119.html

∸―――
岡沢 秋(maat)‏ @Aki_Okazawa 9分9分前

そういや、最近読んだ「戦闘技術の歴史 古代編」だかで、アッシリア人は残虐で好戦的でナチスドイツのようだとか書かれてたのを思い出した。著者はアッシリアに恨みでもあるのだろうかと思いながら見ていた。たぶんバビロニア人かイスラエル人あたりなのだろう


ロバート・フラッド
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/shinpi/flad.htm

燈火‏ @to_moshibi 2016年12月12日
私が選ぶ岩波文庫所収のおすすめ中国思想の古典 ●論語 ●孟子 ●老子 ●孝経・曾子 ●孫子 ●孔子家語 ●列子 ●太極図説 通書 西銘 正蒙 ●荘子 ●孟子 ●易経 ●大学・中庸 ●近思録 ●伝習録 ●子思子 中には入手困難なものも含まれているので事前に調査する事を奨めます。
1件の返信 5件のリツイート 6 いいね

化学の結婚
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/shinpi/kagakukekon.htm

「薔薇十字団」 ロラン・エディゴフェル 白水社
「化学の結婚」 ヨハン・アンドレーエ 紀伊国屋書店
「グノーシス 陰の精神史」 大貫降他編 岩波書店
「キリスト教神秘主義著作集16 近代の自然神秘主義思想」 教文社
『記憶術』(水声社)
「薔薇十字団」 クリストファ・マッキントッシュ 平凡社
「薔薇十字の覚醒」 フランシス・イエイツ 工作舎
「世界劇場」 フランシス・イエイツ 晶文社
「オカルティズム事典」 アンドレ・ナタフ 三交社
「世界神秘学事典」 荒俣宏 平河出版
「交響するイコン フラッドの神聖宇宙誌」 吉村正和 平凡社

佐保田鶴二のヨーガ根本経典

6夜『辞書の世界史』ジョナサン・グリーン|松岡正剛の千夜千冊
https://1000ya.isis.ne.jp/0006.html
”辞書編集者のことをレキシコグラファーという。この言葉が最初につかわれたのは1658年である。
 なぜこんな新語が登場したかというと、最初の英英辞書であるロバート・コードリーの『アルファベット一覧』が出た1604年を嚆矢に、17世紀のイギリスで辞書編集がラッシュした。この勢いは大きかった。哲学をも政治をもゆさぶった。1651年のホッブスの国家論『リヴァイアサン』では、ついに第一部第四章で「言葉の定義こそが政治哲学である」という告白をせざるをえなくなった。
 これは政治哲学者の屈辱であり、当時の神学者にとっても困ったことだった。なにしろ言葉の定義をしないとどこにも進めない。政治にも神学にもならない。これではこんな「言葉の仕事をする連中」を懲らしめる必要がある。そこでこういうことをする輩はだれなのかという噂が広まった。
 どうやら犯人はレキシコグラファーという連中らしい。
 以来、サミュエル・ジョンソンの二折本二巻からなる『英語辞典』が一七五五年に出るまでのあいだ、レキシコグラファーは「最も退屈な仕事を最も熱心にする者」としか思われていなかった。”

ギリシア神話関係 テオポリス
http://www.h6.dion.ne.jp/~em-em/page059.html

古天文の部屋
http://www.kotenmon.com/

さいとうたかをのサバイバル

中田考‏ @HASSANKONAKATA 3月8日

今生はただの遊び、戯れ。来世こそが本当の生。もしも彼らが知っているとしたら。(クルアーン29章64節)
『イスラーム入門』
『イスラームの論理』
『イスラーム法とは何か』
『カリフ制再興』
中東の秘教のマンダ教とかヤズィーディーならこれが面白かったよ。 失われた宗教を生きる人々――中東の秘教を求めて (亜紀書房翻訳ノンフィクションシリーズII―14)


【エウセビオス】
キリスト教最初の教会史家。パレスチナのカイザリア司教。代表作「教会史」で打ち出した"神寵帝理念"は、のちの王権神授説に繋がることとなる。
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空知たゆたさ‏ @Hako_Otokos 2016年6月19日

『エウセビオス「教会史」』には、去年読んだヨセフスの『ユダヤ古代誌』や『ユダヤ戦記』などからの引用がある『使徒教父文書』(講談社文芸文庫)






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レイジングぎゅう‏ @6isnot4 2月19日

「私たちを引き止めているのは聖パウロを恐怖させた律法の耐え難い軛では全然なく、ただの薔薇の生垣である。戒律(ミツヴォート)にしたがう義務はだから私たちにとって宿命的な不幸ではなく、楽園の最初の芳香を運び来るものなのだ、と」(レヴィナス『タルムード四講話』)

歩く人‏ @hitsujiaruki 1月8日

「他者に食糧を提供するとは食糧に食事の性格を保つことです。決して生きる上での必要最低限を供与することであってはなりません。他者に食糧を提供する時はどんな程度のことであれ、他者の気紛れを満足させることが必要です。そうでなければ全ては崩れ落ちてしまうでしょう。」タルムード新五講話

日本におけるアルメニア語学の権威、佐藤信夫先生。まさかアラム語も守備範囲でいらしたとは。 アッシリア語入門―現代アラム語

中田考‏ @HASSANKONAKATA 2010年7月8日

@barhebraeus ミルトスの『現代ヘブライ語入門』もそうだったよね?アラム語もそう? :活用に3語根q-t-l を使うのはアラブ文法学の伝統のよう。面白いのはヘブライ語も全く同じ意味の3語根q-t-l (殺)を例に活用を読みながら説明するようです。


蒙古語入門―シリア系文字と文法
山中 元 / 国際語学社 (2006-08) / 1,944円 / 2 users
タグ 県立 ★語学 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 社会・政治 登録日:2016年11月11日 22時18分14秒 2016/11/11
読了: 2016年11月20日
どうしてモンゴル語とシリア系文字がむすびつくんだろうとまずは思うけど、古代メソポタミアの共通言語であったアラム語のエデッサ方言(シリア語)がネストリウス派の布教に用いられ、中央アジアにもたらされた。それがウイグル文字に取り入れられて、それを参考にモンゴル文字が作られたということらしい。(パスパ文字はまた別の文字、ややこしい。)現代ではモンゴルではキリル語表記が主流、中国の内モンゴル自治区ではモンゴル文字も使われているとのこと。

アラム語の入門・学習用リンク集 (Aramaic Language) - 主に言語とシステム開発に関して
http://language-and-engineering.hatenablog.jp/entry/20110129/p1


外国人に出会った時に仲良くなるための,最低限の必須フレーズ集 (どの言語にも当てはまる,基本の初歩会話集のテンプレート)
http://language-and-engineering.hatenablog.jp/entry/20130702/ListOfCommonLanguageBasicPhrases


冒頭の表を,手軽に作成するための雛型を記載しておく。

コピペ用である。

この空欄に,さまざまな言語での用例を当てはめてゆけばよい。


〜語の最初歩のフレーズ集 (対人関係の構築のために)




















日本語 〜語
こんにちは  
ちょっと

すみません  
あなたは

〜語を

話しますか?  
はい,いいえ  
お会いできて

嬉しいです

(初めまして)  
私の名前は

〜です  
私は〜語を

学んでいます  
私は

日本人です  
あなたの

お名前は?  
どうぞ書いて

下さい。  
〜さん  
ありがとう  
私は〜に

住んでます  
あなたは

どちらの

出身ですか  
どうぞ  
ごめんなさい  
さようなら  



∸―




タルムード入門〈1〉 単行本 – 1998/7
A. コーヘン (
タルムード入門〈2〉1998/8
A. コーヘン、 Cohen,Abraham
タルムード入門〈3〉1998/6
A. コーヘン、
ミシュナ〈4別巻〉アヴォート (ユダヤ古典叢書)2010/6
専三, 長窪


タルムード四講話 新装版
 エマニュエル・レヴィナス(内田樹訳)『タルムード四講話』国文社


ギリシャ語とペルシャ語はインド・ヨーロッパ語族


その割には,ペルシャ文字は,アルファベットがヘブライ文字のアレフベート構成とどことなく類似しており,どうもセム語くさい。

その理由は,ペルシャ文字が語族を超えてアラビア文字から借用されているから


中田考‏ @HASSANKONAKATA 2016年7月14日

大雑把に言うと、アラム語話者のイエスの律法の教えを保存していたペテロや主の兄弟ヤコブらヘブライニストが主導したエルサレム教団がユダヤ戦争で消滅し、
パウロらヘレニストのアンティオキア教団の律法蔑視の教えが後のキリスト教になったからです https://twitter.com/YUChurch_youth/status/753557666153193473 …

中田考‏ @HASSANKONAKATA 2010年5月26日

『旧約聖書ヘブライ語独習ー聖書アラム語文法付』神学部図書館で借りてくる。やはりヘブライ語は天国の言語アラビア語が堕落し崩れた言語だとの思える。イスラエルの民がイラク、シリア、シリア、エジプト、パレスチナと移動して言語混交が進んだせいだと説明してもいいけど、それじゃつまんないよね。

中田考‏ @HASSANKONAKATA 2016年8月13日

全く影響を与えていない、と言っていいと思います。 https://twitter.com/lakudagoya/status/764202382792142848 …
ねこた‏ @lakudagoya 2016年8月13日

@HASSANKONAKATA 私はアラビア語読めないので、一般的な文献にはアリストテレスやプロティノスなどがイスラーム世界で好まれたとありますが、ギリシャの古典の中でもストア学派の文献は(あまり現存がないですが)どう扱われたか非常に気になっていた次第です。わざわざすみません。
@HASSANKONAKATA 専門外なのにすみません。これは別にキリスト教の話ではないのですが、イスラーム世界にはギリシャの古典が取り入れられましまよね? その中でアリストテレスなどが好まれたみたいですが、ストア学派の文献はイスラーム世界にあるのか気になってまして。

著書の中でイスラームは移動の自由を重んじると書いてあったのはもの凄い衝撃で。 カリフ制が求められる意味もわかりました。


@HASSANKONAKATA わざわざご返答頂き感謝します。

あら、そうなんですね。

キリスト教史を調べますと、ストア学派はキリスト教に他大な影響を及ぼしてるのに、イスラームでは記述を見ないので不思議だと思ってました。

朝からお忙しい中感謝です。それでは失礼いたします。

ねこた‏ @lakudagoya 3月20日
老荘思想の無為自然を背乗りして、宮崎パヤオのような人為的な機械文明を否定するのは、中世のカソリックよりも悪質なネオ中世だよね。 このニューエイジ自然主義野郎が科学技術などが嫌いで、哲学などの思弁的なものを毛嫌いするのは、やはり中世の耶蘇教の再来だよね?悪質やわー

ニューエイジや自然主義農本カルトなどの、哲学や科学技術を否定する自然主義野郎の腹の中に黒いものが見えてたのはそういう事だったのか。 それらは知識と技術の独占やりたいんだ。バチカンみたいに。 哲学や科学技術を否定しない自然主義なんて一人しか見たことないね。うん。
なぜに西方の耶蘇教のみにこんな文明や知識や技術を憎む思想があるの? 東方教会エリアでは制限こそかけられても教会の知識の独占とはならなかった。 で、カソリック教会ってローマではなくてぐちゃぐちゃになったローマから逃げてきた北アフリカのカルタゴで思想形成されてんだね?

カルタゴと言ったらフェニキアでしょ? だからさ、文明破壊やるのにフェニキアとかケルトの関係を知りたいのよ。 ドルイド教についてはわかってないことが多すぎる。 こいつらがもし、ルソー教の元ネタだとしたら?英仏が資本主義と農本主義で組んで世界を破壊して回るのわかるよ!

あのね、フェニキアと言えばその行動原理はヴェネツィアに受け継がれてる。 西ではローマの文明が消え行く中でヴェネツィアなどのイタリアだけがそれを保持してた。 やはりくさいよね。 で、ストア学派とケルトの関係性をやりたいんだけど、だって耶蘇教はストア学派の背乗りだし。

国際金融の中心地のスイスもドルイド教圏だよ。 スイスが国際金融の中心地になったのは、イタリアの商人が移動してからだけど。 くさ過ぎるぞ。 西方の耶蘇教はミトラス教とドルイド教のハイブリッドではないのかね? そして教義はストア学派の背乗り教というね。

資料が根本的に少なすぎて、ストア学派とケルトは比較ができない。  ストア学派とケルトのハイブリッドがグノーシスかも知れんがね。  ストア学派の人たちは輪廻転生は信じてなかったよ。 でもケルト人は輪廻転生を信じてたね。 うーんここの接点はないのかなー?

別にケルトのみならず、トラキアとか遊牧民な人たちは輪廻転生を信じてたよ。 ヤズィーディーみたいなのって、大陸の遊牧民によくある考え方でないの? だから、ケルトとヤズィーディーの関係を詰めたがよくね? 輪廻転生を信じるカースト制度の民族ってさ?
ただ、ヤズィーディーは司祭職が世襲だけど、ケルトはそうでないわけ。 あれ?ちょっと待って。 何で耶蘇教ってのはユダヤ教からの派生とか言うくせに、神殿を守ってたレビ人のような世襲の司祭制度を捨てたの? あまりにも耶蘇教の司祭制度はドルイド教のそれじゃん。

サマリア人というイスラエルに住んでる人たちは、古代ユダヤ教の習慣を未だに守ってて、司祭職は世襲なんだよね。 サマリア人を見れば、あの旧約聖書そのままの生活習慣がわかるんだよね。 で、何で耶蘇教ってのは、あのアラブ臭さがないのかね? 泥臭い部族社会のような慣習かさ。

おいらは、新約聖書を見ていつも感じることはよ、あれユダヤ教世界の題材なのに、書いてるやつのユダヤ臭さを感じないね。 あの泥臭い部族社会の世俗的なしたたかさがないの。 ユダヤ人こんな寓話的なお金嫌いな発想しないんだよ。 あまりに部族社会を無視してる。敵を愛せなんざ無理。

新約聖書のおかしさは、ねこねこさんがブログに書いてたけど、新約聖書ってユダヤ=フェニキアの残党を潰すために、ユダヤ教の派生のフリした耶蘇教というものを作り、でもその中核はユダヤ批判とローマ帝国の御用学派であるストア学派の思想に誘導したのではないの?と書いてるけどそうだと思う。

おねショタ魔法使い初級おじさん‏ @douteimaturi 3月23日
ペルシャの太陽暦にはمهر メヘル月というのがある で、この月の始まりは9月23日
でなにを表しているかというと秋分の日なのね
このメヘルという単語は何を意味しているかというとミトラの事です
つまり、ミトラ月と言えるのですが勿論مهرには 別に太陽や友愛という意味もあります

つまり、ナチスとかが過去にした秋分の日のお祝いや弱くなる太陽に対しての儀式の元ネタはなんの事はないミトラ教が元ネタだったわけです
現代のイランがイラン太陽暦を使うのは本来の意味でのアーリア人としての生活習慣とイスラームという最強のNWOが混じった結果なのでしょう

即ち、NWOと博物的性癖を除去した
完全に生活としての民族主義の融和は
千年以上前にとっくのとうにされていたのです
結局、世界史を見る場合は西洋、正しくはアルプス山脈を越えた先の野蛮人共の戦争史
を除去した古代から近世の歴史・思想史・社会史・貿易史・戦争史をみれば全て事足りるでしょう

ここで一つの答えとして言えるのは
NWOは本来の意味として言えるのは社会的規範と基準が公平の元で与えられたものでしかなく、
究極的には本当に良い社会規範であるならばどの場所でも行使されるのです
それを押し付けなければならないなら、それはNWOではなくタダの悪政と暴力です

NWOを構成する為には最低でも五つの基準がなければなりません
1、不動の唯一である事
2、絶対に公平である事
3、無謬な私欲のない指導者が存在する事
4、その指導者に従う哲人達が統治する事
5、そして、それが永続に人類が滅ぶ瞬間まで続く事
何だ奴らのNWOってシーア派じゃねえかw

つまり、NWO構想の元ネタはイスラームの超絶劣化コピー・コピー機に一兆回くらい刷った位汚れたものでしかないのです
またはストア学派やアリストテレス哲学の劣化したものでしかないのです
ならば、今あるまだマシなNWOを選択した方がいいわけでそれがイスラームとして存在しているのです

でも、イスラームは危ないとか規律がというでしょうが極論を言えば
1、唯一なる「何か」は存在し、それ以上の存在はない
2、その「何か」が人類に与えた最期の指導者はムハンマドである
これだけを信じていればいいです、
後は極論必要もなく・守る必要も知る必要も全くないです 極論ですが

えーなんでー? と、思うでしょうが本来のその真意に関してはわからないのです
例えば、クルアーンは預言者がなくなり30年後に編纂されたものですが
そのクルアーンも本来の読み方や解釈の情報については預言者とその家族又は「何か」しか知りえません
だから、解釈が如何様にも出来るのです

また、伝承も後々になって編纂されたものでどこまで正しく・また本来の解釈方法がされているかもわかりません
だから、神秘主義者は一杯いるし・顕教の学者が平然と密教的な事を言っていたりするので
解釈と教条論が未だ固まっていないと言うことも出来ます、
この論法はかなり危険なので使えませんが

で、本気で信仰を隠すのであればシリアのアサド大統領のアレウィー派のように
ある時はシーア派12イマーム派の礼拝・
ある時はスンニ派で礼拝・
または酒を出したりしてキリスト教のように隠す事はいくらでも可能です
または多神教徒のように偽る事もできます、これが信仰隠しの姿なのです

日本の様な土地ではタキーヤ・信仰隠しが成立するので
シーア派やスンニ派の神秘主義なら多神教者のように生活しても何ら問題はありません
伝聞として大川周明先生や井筒俊彦先生はムスリム名を持っていたそうですが
別に日本でいる限りはタキーヤが成立し、仏像拝もうが酒飲もうが問題にはなりません

えげつない事を言えば、中東に行ったとしても日本人の様な明らかな東アジア人であれば多神教徒だからと偽る事もできます
これがタキーヤ・信仰隠しの破壊力で信条さえムスリムであれば、彼・彼女はムスリム・ムスリマなのです
なので、ISがシーア派や神秘主義者を容赦なく殺戮するのはこの理由です

信仰隠しされると見た目はスンニ派の礼拝していても信条はシーア派なので全く見分けがつきません
それが理由でISやサラフィージハーディはシーア派に関しては改宗を迫らず・即座に殺してしまうのです
なので日本人や朝鮮人・中国人でイスマイール派以降のシーア派は妖怪みたいな存在でしょうね






































ねこた‏ @lakudagoya 3月20日
ローマ帝国の戦争の歴史をよく見てみい。 フェニキアの支配してたエリアつぶしだぞ? で、カルタゴが崩壊してフェニキアの親戚のユダヤんとこに逃げたけど(おねショタおじさん説)、それを追い回して潰したのがローマ帝国。 だから、新約聖書がユダヤ思想否定になるのは当然なんだよ!

新約聖書のおかしさは、ねこねこさんがブログに書いてたけど、新約聖書ってユダヤ=フェニキアの残党を潰すために、ユダヤ教の派生のフリした耶蘇教というものを作り、でもその中核はユダヤ批判とローマ帝国の御用学派であるストア学派の思想に誘導したのではないの?と書いてるけどそうだと思う。

耶蘇教はユダヤ教からの派生ではない。ユダヤ=フェニキアを潰すために仕掛けられた偽ユダヤ教だよ。 だからおかしいんだ。 汝の敵を愛せとかそんな部族社会ではありえないことを言うなんて。 そして人類愛なんざ、これ自分の部族だけを守るユダヤ教にこんな思想ないでしょう?

ユダヤ人見てみなよ、同胞には無利子で金を惜しみなく出すのに、クリスチャンの白人の従業員にはとことん絞るでしょう? こんなユダヤマインドからどう捻ったら人類愛なんざ出てくるんだよ! そう考えると、新約聖書で語られてる理想はユダヤ人をストア学派に誘導するようにしか見えないの!

耶蘇教がサマリア人のようなアラブ臭さがないのは、あれはね、和風キリスト教の神道のような違和感があるの。 ただの自然崇拝からなぜバラモン教のインド哲学の劣化コピーが出て来るの? みたいな。 だから、ユダヤ=フェニキアを潰してローマの御用学派の思想に誘導しようとしたのね。


おねショタ魔法使い初級おじさん‏ @douteimaturi 2016年9月25日
やっぱり、思ったのだけど 旧約聖書に書いてある都市というのはあれ全部カルタゴとその衛星都市の話でそこに出てくるヤハウェというのはローマ人自身をさしたもの語りという妄想 いや、根拠はと言われると奴らの言う10支族はカルタゴから東に逃げたと考えるなら結構辻褄が合うんだよね


ねこた‏ @lakudagoya 2016年7月25日
アウグスティヌスもテルトゥリアヌスもカルタゴ出身か。 うわーくっせー。 あっら!アラブの春! しかし何でカルタゴ出身のフェニキア人の系譜に繋がりそうな教父たちによってケルト神学が取り込まれたの? そのあたりもつっこんでみないとね。 これは主婦の陰謀論者だと仲間はずれネタ








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お読みくださり感謝

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『グノーシスの変容』。『ユーラシアの神秘思想』。『ハタヨガの真髄』②。『スキピオの夢』 

我は知恵の衣をまとい
知識の王冠を戴き
洞察の玉座に座する者なり


∸―
右が太陽で左が月なのはエジプト思想だと強調されるが、
インドも右が太陽で左が月なのは隠される。

∸―

マニ教「世の中糞(文字通り)」

マニ教では太陽と月は分離した光の集積所であり、
物質世界は文字通り悪魔のクソと死体でできているので、
肉体=物質=悪。

光側の生ける霊は、光側が殺した闇の悪魔の
皮から天を、
骨から山を、
糞から大地を創った。
汚れが最も少ない光を集めて日月とし、
やや汚れたものを星とした。

マニ教はグノーシスは絶対に残しつつ、
表面の要素と用語は乗っ取り対象と同じ言葉を使い、
対象に憑りつき破壊。
同じ用語でも中身は別物。
パッケージは同じでも別の味のラーメン。
毒ラーメンならぬ毒アーメン。
標的と同じ用語を使って乗っ取る技術を一番悪用しているのが耶蘇教系。
超有名ゲームはマニ教神話が元。
ゲームを広める結社員がマニ教系なのは明白。
しかしこいつらはマニ教信者ではない。
殺しに加担し、性交し、所有欲にまみれているからだ。


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キリスト教は、ユダヤ教つぶしのためにアーリア系が、
ユダヤ教の少数派を取り込みつつ、
ユダヤ教の後継者のふりをして作ったカルト疑惑。
派生ではなく派生のふり。
律法完全否定で、反ユダヤで、ローマ思想なのはユダヤ教と敵対する側だから当然。
ユダヤ教はヤハウェが人身御供否定なのに、
キリスト教は教祖が生贄になったことに感謝する。


『グノーシスの変容』



・グノーシス派では「知ること(グノーシス)」が救済。
アイオーンは元来ギリシア語で、(ある一定の長さの)「時、時代、世代」の意味であるが、
グノーシス神話では、至高神の最初の自己思惟、あるいはその思惟から流出し「プレーローマ」の中に充満する、擬人化された神的存在である。


・“知恵(ソフィア)がおまえを招いている。【89】ところが、お前は闇に飢えている。お前がそうするのは、お前自身の欲するところによるのではない。そうではなくて、お前の中に宿る野獣の本性がそうしているのだ。知恵はお前を招き、やさしくこう言う、「おお、お前たち無知なる者、お前たちはすべて私のもとへやってきて、選び抜かれた善き理解力を受けなさい。私はお前に大祭司の衣を与えよう。それは知恵だけで編まれた衣である」。
§13 最悪の死とは、無知以外の何のことであろうか。最悪の闇とは、忘却に落ちること以外の何のことであろうか。お前の慮りをただ神一人に向けよ。金銀を愛するな。これらには何の益もない。むしろ、知恵を衣のように身にまとえ。知識を王冠のように頭上に戴け。洞察を玉座として、その上に座せ。なぜなら、この三つこそお前のもの。お前はこの三つを、上なるところで、再び手にするだろう。
『グノーシスの変容』p.352(本書収録の『シルウァノスの教え』内『「ソフィア」の活喩』『ナグ・ハマディ文書』の一つ)より)

※活喩法(かつゆ ほう)
=無生物を生き物(特に人間)であるかのように表現する方法。「嵐が吠える」「花が笑う」など。


『シルウァノスの教え』
は四世紀前半に制作された写本で、
成立場所はアレクサンドリアとすることが研究上の多数意見。
その理由は、本書の神学、とりわけキリスト論が先在の神の子の「受肉」の出来事に重点をおく型であることである。
また、これが古代キリスト教会の中では、アレクサンドリアのアタナシオス(三~四世紀)によって代表されたからである。
『シルウァノスの教え』では
「キリスト=神的ロゴス=真の友かつ神かつ師。
キリストは神だったが、お前のために人間となられた。
キリストは『人間を着た』方」である。

・『シルウァノスの教え』では
人間は「肉体」「魂」「叡智(ヌース)」の三つから成るとする。
「叡智―魂―物質(地)」の三層構造でも考えられている。
中期プラトン主義、あるいは新プラトン主義の影響がみられる。

ただし、叡智についての発言はストア派との関連を示すものかもしれない。
というのは、
「お前の指揮者(ヘーゲモニコス)〈と〉教師を受け容れなさい。指揮者とは叡智のこと、教師とはロゴスのことである」という場合、「叡智」は端的にストア派の述語である「ヘーゲモニコス」およびロゴスと並立しているからである。

キリスト教の文書なのロゴスはイエスとされるが、必ずしもそう解釈しきれない個所も少なくない。
『シルウァノスの教え』はストア派の四大情念論も知っていると考えなければならない。
快楽、欲望、苦痛、恐れはそれぞれ主題化されている。情念を含む悪徳がカタログ的にリストアップされているのもストア派の倫理学の定型に従っている。

「ところで、われわれは神は身体的だと言うとすれば、それは不当である」
とあるが、「神は身体的だと言う」のは実はストア派を指している。
ストア派によれば、神は可視的宇宙に内在する。
他方で存在するものはすべて三次元の「身体」を持たねばならない。したがって、真の存在である神こそ「身体」を持たねばならない。
「からだ」すなわち「生き物」としてのこの宇宙全体が神に他ならない。
ストア派のこの論はヘレニズム期にはあまりにも周知のものであった。本書が具体的にストア派の名前を挙げずに匿名で言及するのはそのためである。

本書はストア派の神論に反対する。
その点では、たとえば新プラトン主義の創始者プロティノスの反対論(『エンネアデス』)と同じ論調になっている。
古代キリスト教の周辺で、プラトン主義派哲学とストア哲学の両方との接点を持つ思想だということでは。アレクサンドリアのフィロンの名前が思い浮かぶ。

『シルウァノスの教え』は、古代末期のヘレニズム文化圏に広まっていた文学形式「ディアトリベー」(=ギリシャ語で「時間に追われずに議論を交わすこと」)に形式が似ている。
「ディアトリベー」では、実際の著者が「私」で登場し、架空の対話相手と議論する疑似的な対話文学である。
この対話形式もストア派との共通項の一つである。

・『シルウァノスの教え』では人間を二種類に分ける。

天的な人間(神にかたどって生じた)

地的な人間
(土の塵から匠によって「形づくられた」。
土の塵+命の息)

ヴァレンティノス派のグノーシス主義では、人間を
霊的種族、心魂的種族、肉的種族の三種族に分けることを本書の作者は知っていると思われる。
『シルウァノスの教え』はアレクサンドリア神学であり、グノーシス文書ではない。

ヴァレンティノス派は、
キリスト教的グノーシス主義の最大派閥でありローマ中心の西方派と、
エジプト(アレクサンドリア)中心の東方派に分かれて展開した。


『完璧な教え(アスクレピオス)』(ヘルメス文書の一つ)
・生殖行為の神秘
ヘルメス「秘儀の本質を摑みたいと思うなら、男と女が営む性交のことを考えてみなさい。それは見事な模像となる。すなわち、男は(快感の)頂点に達すると、精液が放出される。その瞬間に女はその男の力を受け取り、男も女の力を受け取る。というのも、これが精液の働きなのだ。それゆえ、性交は隠れたところで行われる。

(セックス肯定。つまりマニ教系グノーシスの否定。性に厳しい宗教、特にキリスト教の否定)

『感謝の祈り(アスクレピオス)』でも、
「私たちはあなたを知りました。あらゆる種子の子宮よ。私たちはあなたを知りました。父の本性の中で孕む子宮よ」と述べて、至高神を明瞭に両性具有の存在として描いている。

至高神を両性具有とすることは神話論的なグノーシス主義にも見られる特徴。

が、この一点のみをもって『感謝の祈り』と『完璧な教え』をグノーシス文書とするには足りない。

両性具有の完全な神=キリスト教で有名な父なる神の否定。
イエスは男で、三位一体に母はいない


『感謝の祈り, 完璧な教え(アスクレピオス)』は三世紀末までには成立。
成立場所は間違いなくエジプト。ヘルメス文書の大半がエジプト起源。

・“ヘルメス「アスクレピオスよ。お前はエジプトがヘルメスの模像であることを知らないのか。いや、もっと言えば、天と天にあるすべての力たちの住処であることを知らないのか。もし私たちが真理を語るべきならば、この私たちの国は世界(宇宙)の神殿なのだ。
『グノーシスの変容』p.334 
(本書収録の『完璧な教え(アスクレピオス)』5 黙示録――エジプトの宗教の没落と世界の老化(ヘルメス文書の一つ)より)


この「地上の君主たち」がプトレマイオス王朝とアレクサンドリアを暗示するものだとすれば、もともとの『完璧な教え』の成立地はアレクサンドリアに特定できるだろう。

(エジプト=ヘルメスの模像=世界(宇宙)の神殿。
要はエジプトこそが理想であり世界の中心ってこと。
日本に置き換えると、大本教など日本起源説カルトの主張になります。)

至高神を両性具有とすることは神話論的なグノーシス主義にも見られる特徴。
が、『感謝の祈り』と『完璧な教え』をグノーシス文書とするには足りないと前述した。

プラトン主義は哲学との関連は
ヘルメス「主であり、父である神、すなわち、最初の『独り子なる神』を創造した方が、そのように生じたことを眺め降ろす」に最も明瞭に認められる。
可視的世界を「独り子なる神」と呼ぶことは、プラトン主義の学派哲学の伝統に属するからである。

・至高神によって世界の秩序が保全され、邪悪が取り除かれること、時には世界が洪水で滅ぼされ、燃え盛る業火で焼き尽くされても、世界と自然は再び、かつ周期的に再興されることが語られる。

「神の自然が意志であり、その意志は善なるものなのだ」
にはストア哲学の宇宙論、世界大火説と世界周期説、そして予定調和説
の影響が明瞭である。

(またストア派か)


・『メルキセデク』はグノーシスのセツ派との密接な関係を持っていると同時に、グノーシス主義的な「仮現論」を否定する個所もある。
仮現論
=イエスの肉体は、その神的本質にとっては仮の宿りに過ぎないので、十字架上で受難するイエスはあくまで「肉的な部分」(=代価)「模倣物」であって、真の本質、すなわち活けるイエスは「十字架の傍らで喜んで笑っている」
という見方はグノーシス主義化したキリスト教の最も顕著な特徴の一つ。


グノーシス主義セツ派に属する
『ゾーストリアノス』
のゾーストリアノスとは、ゾーロアストロス(ゾロアスター)の曽祖父と系譜学的ではみなされる。
本書のあとがきは暗号であり解読すると、
「ゾーストリアノスの真理の言葉。真〔理〕の神。ゾーロアストロス〔の〕言葉」
であり、ゾーロアストロスは古代ペルシア以来のゾロアスター教の始祖。



『ゾーストリアノス』では
至福=叡智=真の自己認識(グノーシス)

三重の力を持つ霊
=処女なる見えざるバルべーロー
=完全なる処女(パルテノス)なる男性の三重の種族


セツ派ではバルべーローは両性具有とはいえ、女性が勝った存在で代名詞は女性形が用いられることが多い。
が、『ゾーストリアノス』では「バルべーローのアイオーン」(ギリシア語、男性名詞)という表現が多い。


∸――

『ユーラシアの神秘思想』


マニ教「世の中糞(文字通り)」

・仏教の三身説
この世の無常と苦を説く仏教では、
死体の腐敗、散乱して消滅するさまを心に描く九想観という瞑想法がある。
死体の膨張→変色→破壊→血が地面に垂れ→
膿ただれて腐敗→鳥獣に食われる→筋骨頭手が破散→
白骨のみになる→火に焼かれた骨が灰と化す
の九段階を観想。
貪欲を退ける行で極めて即物的な肉体を対象としてなされる。

実は、九想観は九相観とも書き、心=想と、対象=相 の密接不離な関係を前提とした仏教の身体観を表している。
大乗仏教の基本哲学の一つ、唯識では、主観も客観もともに心が現しだしたものだとする。
この観点からすれば、九想観は肉体の変異を通して心の変異を実現するものと考えることができる。
身体は物質的に独立した存在としてあるのではなく、心の映像である。
つまり、心のあり様の変異は、そのまま可視的な身体のあり様の変異につながる。
身体と心との密接な関係をこのように主張するのが九想観。

唯識思想
大乗仏教の唯心論。
ヨーガの体験をもとに、一切の存在は心の創り出した像に過ぎないとする。
玄奘三蔵(七世紀)により中国に伝わり、のちに日本で紹介されて法相宗となる。


サーンキャ哲学
インドの六派哲学の一つで数論派ともいう。
純粋精神であるプルシャが、
物質原理であるプラクリティを観察することにより、
25の原理を数える世界が展開すると説く。
物質は三徳(トリグナ)のバランスが揺らぐことにより、諸現象を出現させるが、
解脱はこのような物質から離脱して純粋精神に帰一するとする。
プルシャ=精神は神にあたるもので、心や意識ではない。
心は物質的なもの、プラクリティとしてとらえられ、感覚器官で認識しうる、さまざまな対象から区別されていないのである。

佛教における物心一如。
仏とは超越的な人格ではない。
自己の心の真実を表現するものである。
心の真実とは大乗仏教の仏性(悟りに達するための種子)。
種子はあらゆるう衆生にそなわり、生きとし生けるものの本質、本性。
その本質である己の心が顕れた状態を仏身という。
仏身には三種ある
①法身
真理たる永遠不滅の法=ダルマ。
密教では大日如来。

②応身
この世にあらわれた歴史的具体的存在。
釈迦如来。

③報身
①と②の中間的存在で、阿弥陀如来のような神話的な存在。
①は精神的原理の擬人化
②は物質的肉体
③は半ば精神的で半ば肉体的な身体。

即身成仏の身は単なる肉体的身体ではない。
霊肉不二。物心一如。心身一如。

禅のいう心とは肉体に対立する存在ではなく、二元分裂以前の、肉体を包含した自己の生命そのもの。
西洋流の神秘主義と禅を結びつける仕方に伝統的な禅を学んだ人は反発する。


・五代の瞑想法
密教には五大を対象とする五大観という瞑想法がある。
地に象徴される心の奥底にある煩悩を、
水によって洗い清め、
次に火によって焼き尽くして灰と化し、
それを風によって吹き払い、
最後に全く清らかな空の境地に達しようとする観法である。
この観法は地よりも水のほうが微細であり、水よりも火のほうがより微細であるととらえ、粗雑なものから精妙なものへの瞑想を通じて自らを変容させようとするものだった。


こうした五大観はその起源であるインド思想に影響を受けた近代ヨーロッパのオカルティズムにおいて新しい意味付けをされて甦った。
黄金の暁教団、ゴールデン・ドーンのタットワ瞑想がそれである。
地、水、火、風、空をそれぞれ大地、水、火、空気、霊と解し、その形と色を瞑想。
テージャスと呼ばれる火は三角形で赤、
アーパスと呼ばれる水は銀色の三日月、
アーカシャと呼ばれ霊は藍の卵形というようにである。


・密教的身体観の淵源はバラモン教哲学、ウパニシャッドの五蔵説。
五蔵説では心身の二元論的発想を超越して人間の多層的構造を主張する。
人間は五層からなる。
①食物所成蔵 アンナマヤ・コーシャ
②生気所成蔵 プラーナマヤ・コーシャ
(プラーナ=気=半ば物質で半ば精神的な存在)

意識所成蔵 マノーマヤ・コーシャ
マノー=意識。
ある種のオーラとして存在し、それが変化すれば、
肉体=食物~の複体である②生気~ にも影響が出る。


④知識所成蔵 ヴィジュニャーナマヤ・コーシャ
知識=ヴィジュニャーナ(一般に精神的な存在の代表)

⑤歓喜所成蔵 アーナンダマヤ・コーシャ
アーナンダ=歓喜は神的な存在。

蔵と訳されるコーシャは本来「容器」を意味し、ジーヴァートマンと呼ばれる個我を包みいれているという、いわば生命の入れ物である。

ジーヴァートマン
=ジーヴァ(生命)+アートマン(我)。
個人的存在の原理的なもの。
輪廻の主体ともされる。
 パラマートマン(神的で超越的なものとされる)とは区別される。

(仏教では輪廻の主体は存在しないので注意)

食物~だけが目で見える物質的な存在で現実の肉体に相当する。
それ以外の四つも形や色や働きを有する。
層の上昇に応じて肉体と精神の区別が明白でなくなる。
正確には区別自体が無意味になる。
主客の二元対立は克服され我と他は合一し、個と宇宙は一体となる。
梵我一如。身体は絶対者の働きとして理解される。
身体はエネルギーであり宇宙的な存在そのものと解される。
身体は幻、マーヤーではなく、力、シャクティである。

・神智学とスピリチュアリズムの身体観はウパニシャッドの五蔵説に似ている。
神智学一般では身体を地上の現象的経験の集積である低我と、輪廻の主体である高我からなると考え、
真の霊魂は高我だが、
低我も死後にアストラル界で存在するという。
それゆえスピリチュアリズムのように死者との交信は可能だと述べるが、それによりさまざまな危険がもたらされるとも警告している。
低我は肉体、アストラル体、メンタル体の三層からなるとし、
その上層に当る高我はコーザル体、ブッディ、アートマー、モナドの四層からなるとする。
身体は七層からなる。
各層を太陽系の七惑星やクンダリニ―・ヨーガのチャクラに対応させるのも神智学の身体観の特徴。
ただし二層に細分したメンタル体の高層部分にコーザル体を比定し、両者を一体と考えたり、
ブッディ、アートマー、モナドの三層を一体だと説いたりすることが多々あり結局五層説に集約できる。
神智学の祖であるブラヴァッキーは自著『神智学の鍵』で七という数字を重視。
身体を
①ルーパ
仏教での色身=物質的肉体=食物~。

②プラーナ
=生気~

③リンガシャリーラ
サーンキャの微細身(みさいしん)。
意識~と密接。
ただこれはアストラル的なニュアンスを豊富に持つので、
生気~に比定することもできる。

④カーマ(欲望)

以上の下位四層。



⑤マナス
=意識~

⑥ブッディ(覚知)
知識~
  ④と⑥は相反する二つの力
で、両者の中間層である⑤マナスの状態を決定する。
カーマがマナスを支配すればブッディは消滅し、
ブッディがマナスに存在すればカーマは無となる。

⑦アートマー
アートマンに相当。究極の存在。梵我一如状態。
全宇宙を映す鏡モナドと同一視。
至高の歓喜~と直接結びつく。

の上位三層に分けた。
インド思想からの影響が如実。

ブラバッキーは最終的には
ルーパ(肉体)、プラーナ(生気)、リンガシャリーラ(微細身)の下位三層と
悪に対する善として位置づけられる覚知状態にあるマナス(意識)
および絶対至高のアートマー(霊我)の上位二層からなる。
合わせて五層が身体を構成するとした。七層は五層説に集約される。
(インド思想が元ネタだから似ていて当然)

ところでスピリチュアリズムの身体観。
幽体に注目。
スピリチュアリズムが興った当初、幽霊現象や対外遊離経験を説明するための仮説だった。
後にエクトプラズムという半物質の存在が確認されたことで、それを通して肉体と結びついている、もう一つの身体とみなされるようになった。
幽体は霊魂の身体であり意識状態と深く関係し、
ウパニシャッドの五蔵説の
③意識所成蔵 マノーマヤ・コーシャ
(マノー=意識。
ある種のオーラとして存在し、それが変化すれば、
肉体=食物~の複体である②生気~ にも影響)
に相当すると言えるだろう。

一方、
①食物所成蔵 アンナマヤ・コーシャ
にあたるスピリチュアリズムにおける肉体と、
この幽体を媒介するエクトプラズムは流体で種々の形をとり、肉体の孔から流出する上記のようなものだとされる。
これはまさに
②生気所成蔵 プラーナマヤ・コーシャ
(プラーナ=気=半ば物質で半ば精神的な存在)
の様態に類似。

(③意識所成蔵 マノーマヤ・コーシャ
マノー=意識。
ある種のオーラ。
肉体=食物~の複体である②生気~ にも影響。

④知識所成蔵 ヴィジュニャーナマヤ・コーシャ
知識=ヴィジュニャーナ(一般に精神的な存在の代表)

⑤歓喜所成蔵 アーナンダマヤ・コーシャ
アーナンダ=歓喜は神的な存在。
蔵=コーシャ=容器=ジーヴァートマンと呼ばれる個我を入れる生命の入れ物。

ジーヴァートマン
=ジーヴァ(生命)+アートマン(我)=個人的存在の原理的なもの。
 パラマートマン(神的で超越的なものとされる)とは区別される)

(神智学はスピリチュアルの源流の一つ。私と定義が違う。スピが神智学より先って言っている人もいる。根本思想を考えると明確に分けられない。今のスピリチュアル思想の源流は神智学)


・西洋降霊術は、旧約にある死霊の口寄せに起源が見いだせる。サムエル記にはイスラエル初代の王サウルの求めに応じて、かつて彼を見出して王とした士師サムエルの例が巫女を通じ語った記述がある。
また古代ギリシャにもネキュマンティオンという死者の霊を呼んでお告げを聞く場所が各地にあった。
十九世紀の近代西洋魔術の第一人者エリファス・レヴィいわく
人間は死後天界に行く霊魂のほかに、
地上に置かれた死体あるいは肉体と、
大気中に残る幽体の三種の存在を持つ。
幽体は不可視だが、死後しばらく活動しやがて天界に吸収される。
降霊術で呼び出されるのが幽体。

古代ヨーロッパにも肉体とは別種の体を肯定する思想がある。

・キリスト教の身体観
新約では身体を意味する語が二つある。
①肉体=サルクス
死体にも用いられる物質的存在

②生命体=ソーマ
死は免れないが創造主によって作られた尊厳ある存在。
神の恵みにより復活させられる体、天界の住人となる霊の体。
栄光の体であるともいわれ、十字架にかけられたのちに復活したとされるキリストの体もさし、信者は聖餐の秘儀を通してこのキリストの体と交わることができるという。
キリストの体は、教会と呼ばれる信者の集まり(エクレシア)とも同一視され、構成員たる信者はその肢体とされた。この教会は単に信者の共同体を意味するだけでなく、理念的にはすべての被造物を包摂して、宇宙を聖化する働きを有していると考えられている。
したがって生産を通じてキリストの身体と交わるということは、教会の肢体になることで一人一人が聖なる宇宙と合一することを意味している。
キリスト教では物質的な肉体とは異なる、霊的な身体の存在を主張し、それが個人・人類・宇宙を一貫する、キリストの生命、すなわち神の働き(キリスト教用語で恩寵)により支えられていると考えられている。

驚きのインドとグノーシスの劣化コピー臭。
キリスト教の身体観にはアウグスティヌスのマニ教思想、肉体=悪が混ざっているから、肉体軽視傾向。
マニ教叩く割にはマニ教的思考がちらほら。あきらかに女の産む力を憎んでいるし


・イスラム教のコーランでも生命体としての体を、単なる肉体と区別している。
イスラム神秘主義のスーフィズムでは、生命体としての体はさらに死すべき肉体と、終末に復活する不滅の身体に分けられるという。

オームは聖なる音声とされる真言、マントラのうちでも最も根本的かつ聖なるものとされ、
天A 空U 地M
の三界を表すとともに、これらがたどる
創造、維持、破壊の三期をも表示するといわれる。
つまり全宇宙の時空を包含するとされる「梵」の象徴である。
眠・夢・覚の三つの状態を繰り返すことで日常的に存在し続け「我」の象徴でもあると解釈される。
個は宇宙であり、宇宙は個である、梵我一如。

A―創造―天-ブラフマー ―覚
U-維持―空-ヴィシュヌ ー夢
M-破壊-地-シヴァ ―眠



・①食物所成蔵 アンナマヤ・コーシャ
アンナ=食物。

ウパニシャッドのうち、「梵歓喜」という個所では
虚空から風が生まれ、
風から火、
火から水、
水から大地、
大地から植物が生まれ、
その植物が食物となって肉体を生かすとある。
人は死ぬと肉体は大地に帰して、
今度は他のもののための食物となる。

ウパニシャッド哲学での
食物とは単に肉体を養うだけではなく、肉体そのものをも生じさせる。

この思想の背後には、精子が月から雨に運ばれて大地に降り、それが植物に宿ってから、食物として体内に入るという、バラモン教における神話的な肉体形成説があった。
食物によって存在するものが、食物~というからだ=入れ物。

中世に盛り上がり、近世以降、邪教として抹殺された密教の一派、立川流の肉体形成説は古代インドの伝統に忠実だった。髑髏本尊。立川=武蔵の国の立川。

②生気所成蔵 プラーナマヤ・コーシャ
(プラーナ=気=半ば物質で半ば精神的な存在。生命エネルギー)
プラーナは人間の姿をした体を形成するとウパニシャッドではいう。
食物~と重なりあって、頭、胸、胴、足を有するとされる。

プラーナを活性化し、生気~を調整すれば、
肉体=食物~の健康をも保てる、
というのが古代インドの健康観。
そこからヨーガが実践される。

ヨーガは八段階の修行から成る。
まず、ヤマ(制戒)という不殺生・真実・不盗・不淫・無所有の五戒を守ることが第一段階。
第二段階がニヤマ。
ヤマは~するな、
ニヤマは~せよ、というもの。
両者がヨガの基礎として道徳を位置づける。
日常の種々の行為に伴る不満や葛藤が修行を邪魔するから。
ヨガのように深層意識にまで明るみに出すので、不満や葛藤が鬱積したエネルギーとして心の真層に溜まり、それが瞑想の過程で解放される例が少なくない。
往々にして悲劇を招く。だからヨガは瞑想に入る前に道徳的実践で日常行為を純化し心を清めておく必要がある。

(道徳が第一と二段階なのが極めて重要。選民思想などの暴走を防ぐため)


ヨーガの口伝では、魚は呼吸法を意味する。

③意識所成蔵 マノーマヤ・コーシャ
マノー=意識。
ある種のオーラとして存在し、それが変化すれば、
肉体=食物~の複体である②生気~ にも影響が出る。
ウパニシャッドでは、デカルトのコギトにあたるマナス、すなわち意識と、
ヴィジュニャーナである知識が、
ともに物体的な容器=コーシャに結び付いて広がりを持つ――延長的性格を有する――身体を形成する。

④知識所成蔵 ヴィジュニャーナマヤ・コーシャ
知識=ヴィジュニャーナ(一般に精神的な存在の代表)
とは仏教の唯識学派(ヴィジュニャーナ・バーディン)の「識」で、
知覚と認識の両者を包含する意味を持つ。

※唯識学派
あらゆる存在は、心の本体である識の働きにより、仮に現れたものにすぎない。
瑜伽派ともいう。
中観派とともに大乗仏教を代表する学派で、その始祖は3~4世紀の弥勒とされる。
日本の法相宗。

⑤歓喜所成蔵 アーナンダマヤ・コーシャ
アーナンダ=歓喜は神的な存在。
歓喜と訳すアーナンダは、仏の十大弟子の中で多聞第一とされ、美男で有名だった阿難の原名。
佛教では慶喜と訳される。
ヒンドゥー教の芝やヴィシュヌもアーナンダと称される。
本来は、幸福、喜びの意味。

・ウパニシャッドからわかるのは、知識は我=アートマンの本質をなすものであり、その究極の形は主客の合一だということである。
この合一は性的エクスタシーを暗示する。
知ること=成ること。
知識と存在の同一視。
究極の知識は絶対の存在である梵として説明される。


・師、グルは密教では阿闍梨にあたる。
阿闍梨は次の十三の徳を備えないといけない。
(詳細は省略。技術に通じ、慈悲ある温和な性格で我がなく菩提心があるなどが条件。
つまりグルへの帰依の前に本当にグルに値する存在かどうかの判断基準がある)

・時間は古代インドではカーラといい、運命や死の意味でもあった。通常の人々にとってはいかんともしがたい不可避の力。


・近代医学が進歩したドイツでも、太陽光に裸体をさらせば、周囲の病原菌は死に、体内のエネルギーは満たされ、煩悩は消え、意欲が目覚めるなどと主張された。
これはナチスの奨励したワンダーフォーゲルに理論的支持を与えた。
ワンダーフォーゲルは神秘思想的伝統を持つ。
ナチズムに影響された人々はワンダー・フォーゲルで春の太陽光を浴びるべく山を歩くのが、古代アーリア人の風習だと信じた。
このような考え方は、すでにゲーテに求められる。
それはペルシアの神秘主義詩人ハーフィズ(十四世紀。イランを代表する詩人。イランのシーラーズ出身)に影響されてつくった『西東詩集』である。
この作品でゲーテは、バルゼ人、ゾロアスター教徒である古代イランのアーリア人について述べ、太陽信仰をうたっている。
アヴェスタでも太陽は悪を駆逐し、万物を清めるものとして崇拝されている。
アーリア人のミトラ起源の弥勒を信仰した朝鮮の花郎道も山歩きの風習を伝えていた。

※花郎道は古代朝鮮の新羅の青年戦士組合の習俗。歌舞宴遊などの行事を通じて志操を高め、武技をねり、国のために貢献することを目的とする。宗教秘密結社的性格を濃厚に持っていた。

元朝末期の中国でおこった白蓮教に弥勒信仰が見られる。
弥勒信仰は大本教にもある。

(仏教が大嫌いな大本教は、キリスト教やインド・イラン思想を日本の伝統とほざいて布教してくるから超悪質)

・ヘブライ語のメシアは本来、油を注がれた者の意味で、王の称号にすぎない。
キリスト教の終末とメシアの結びつき思想は、ユダヤ教にもともとあったものでは無い。
対して、ゾロアスター教にはサオシュヤントという終末時に出現し、悪を征服する人物が登場する。
拝火教以前からイラン人が信仰していたミトラは、世界の更新者として終末と復活に深くかかわっていた。救世主を待望するイラン人の信仰は、彼らがイスラム教に改宗してからも生き続け、シーア派のイマーム信仰にまで影響している。
イマーム(指導者は、スンナ派ではカリフと同じとす)るが、
シーア派では不可謬の聖者とされ、マフディー=メシアに限りなく近いとされる。
(キリスト教の中核はアーリア系であって、現世利益重視のセム系でないよ)


・ヴェーダの六芸
=発声学、語源学、韻律学、文法学、祭事学、星学。
四つが言語関係。

不立文字の禅ほど多くの語録を残したものはない。
(言語もちゃんと重視。スピ系は言語をはじめから捨てろと曲解)

・イスラム神秘思想には照明学派というものがある。
スーフィズムというイスラム神秘思想の中で独特の位置を占めるのがイラン人のスフラワルディー。
彼はガザーリーの約百年後に生まれ、三十六歳の若さで急死。
東方神智学の祖とされる彼は、古代ペルシアの霊的伝統を復興し、神がノアの洪水以前の予言者に掲示した教説を明かそうと企てた。
彼は拝火教概念を積極的に導入し、光の哲学と称するべきもので、後継者は照明学派と呼ばれた。
ゾロアスター教の光輪思想が影響している。
光輪、クワルナフを保持する者は、大地を支配すると信じられた王権のシンボル。帝王叙任に際して神から授けられる。
仏教の光背の起源説あり。
万物の原型=イデアとして天使を考える際にも、スフラワルディーは拝火教の大天使アムシャ・スプンタを借用。
ゾロアスター教の、各々の大天使が特定の被造物のグループの守護者である説を継承。

イデアに比定されるスフラワルディーの天使はプラトンのイデアとは必ずしも同じではない。
彼には新プラトン主義の影響もある。
照明学者には「光中の光」とされる神的本質が発光し、その強度に応じて世界が、階層的に形成されるとする。
これはプロティノスの流出説にならったもの。
ただ、ミトラ教でも太陽が七条の光により火の粉を降下させて、物体に生命を呼び出すとする説があるので、流出説自体がペルシア的だと言えないこともない。


・スーフィズムは9世紀に基本が確立された。
愛とグノーシスとファナーの三要素があると言われる。
ファナーは神との合一を意味する。


・拝火教では正しい教義によって善悪の区別をして悪を排斥しつつ最終的には全存在が浄化され悪がなくなることに重点を置く。
対しマニ教の最終的な結論は文字通りの分離であり、明暗の二元は原初と同様別々に分かれて厳として存在し続けるのでマニ教のほうが徹底した二元論

マニ教がグノーシス思想と言われるのは、霊肉二元の世界に立脚し、現世を否定する厭世的な態度によるところが大。

ゾロアスター教の世界史では
①創造 ブンダヒシュン
②混交 グメーズィシュン
③分離 ウィザーリシュン
の三時代からなり各々に三千年が割り当てられる。
この最後には終末の審判
がおとずれるとする。

「生ける霊は、光を飲んで弱った悪魔を殺し、
その皮を拡げて天とし、
骨から山を、糞から大地を創った。
汚れが最も少ない光を集めて日月とし、
やや汚れたものを星とした。」
とするマニ教は、我らの住む世界は悪魔の死骸から作られたというのである。
けがわらしい悪魔のけがわらしい糞なのである。
この世界において目にするもの耳にするもの全てが嫌悪の対象になるのがマニ教。

この世界の創造者はミフルヤズドすなわちミトラ神。マニ教ではミトラは真の神ではなく、プラトン哲学におけるデミウルゴスにすぎない。

光の要素である精液を漏らした闇の男。
漏れた精液を種として大地から植物が生じる。
ゆえにマニ教では植物は霊的として特にメロンやキュウリが好まれた。
光と精液の密接化関係は、カシミールのシヴァ派でも説くもので、そこでは精液がうやうやしく女によって受け取られ、聖なる器に注がれた。
マニ教神話では、闇の女たちは創造妊娠であるにもかかわらず、実際に子供を産む。生まれた子供たちは怪物で、植物のつぼみを食べて再び光を悪なる物質=肉体に閉じ込める。
ゆえに子供を産む女は男よりも罪深いとされた。


「男女、二体の悪魔が選ばれる。
男の悪魔は、
植物の蕾を食べた怪物の男のすべてを食べ、
女悪魔は、怪物の女のすべてを食べた。
そののち、男と女の悪魔は性交し、
アダムとイブが誕生した」

人間の創造は、光明主が意図して行ったのでも、生ける霊が行ったのでもない。
つまり神意ではなく、肯定すべきものでもない。
人間の創造は、闇の勢力が光=霊を物質の中に閉じ込めようとして行った悪しき事業。
しかも共食いによって。人間とは食人、カニバリズムと性交の結果生まれた呪うべき存在となる。
しかし、人間の中にある霊魂だけは何としても救わなくてはならない。
それが光明主としての神の糸。結果人間は神と悪魔、光と闇の戦場となる。
人間における光は霊である。
闇である肉は、肉体と肉欲からなる。
肉体は悪魔の子である怪物を材料として作られ、
肉欲は光を物質の中に閉じ込めようとする悪魔の意図にならうものである。
肉体も肉欲も悪魔の遺産。
子を産み繁殖するのは光を拡散させ救済を困難にすることなので、マニ教では子供を産むのは肉欲に囚われて性交するよりも罪深い。
逆に、ゾロアスター教では子供の誕生を善の戦士が増えることとして歓迎する。
なおゾロアスター教でも乱交によって何者が父親かわからない子を産むのは、精子をごちゃまぜにする行為として厳しく禁じられた。
(邪教じゃねーか!
生殖は悪なので、マニ教神話では光の勢力は誕生せず召喚される。
光と闇の勢力対立を騙るスピ系サイトが多いのはマニ教がスピリチュアル新キリスト教の中核の一つだから。だから肉体を捨てましょうとか、肉他は牢獄とか、霊魂は肉体より上位とかほざくでしょ?
なお西洋魔術では肉も霊も同じXの変化したものにすぎず優劣はない。
拝火教では物質=悪ではない。アフラ・マズダ―は物質も創造している。

マニ教はグノーシスは絶対に残しつつ、表面の要素と用語は乗っ取り対象と同じ言葉を使うことで対象に憑りついて破壊。
同じ用語でも中身は別物。パッケージは同じでも別の味のラーメン。
毒ラーメンならぬ毒アーメン。
この標的と同じ用語を使って乗っ取る技術を一番悪用しているのが耶蘇教系。
巷で有名なゲームそのまんまなのがマニ教神話。
ゲームを広める結社員がマニ教系なのは明白。)


キリスト教の悪魔サタンも、イスラム教の悪魔シャイターンも、神には直接対抗できないものとして矮小化されている。
サタンは堕天使ルシファーと同一視されるし、
シャイターンは悪しきジン(精霊)の代表でしかない。
ユダヤ教のタルムードでも悪魔は神より下位の悪の天使と考えられている。

ジン
イスラム教の精霊。人間と同じく神により創造された。思考力を所有する。
普段は不可視の存在だが、煙や雲のような気体状のものから凝結して顕現するとされた。
変幻自在で、人間の祖であるアダムよりも古い創造物で、また土から創造された人間に対して、
炎から創造されたと説かれる。

タルムード
聖書に基づく口伝であるミシュナと
ミシュナに関する論議を集めたゲマラからなる。
紀元前二世紀から後五世紀にかけて成立したものと考えられている。

ヘブル人のあいだで悪魔というものが現実的意味を持つようになるのはバビロン捕囚後。
それまでも雑多な悪霊に対する迷信は存在したが、説明する確かな観念はなかった。
捕囚以後は悪霊は善なる天使と戦う存在として位置づけられる。
悪霊たちの上にあって悪の軍団を率いる悪魔が考えられるようになる。
この傾向は黙示文学によてとくに発達。キリスト教のサタンに継承された。
サタンをシャイターンとして悪しきジンの頭目たるイブリースのこととしたのが、イスラム教の悪魔。
捕囚以後のユダヤ教に大きな影響を与えたペルシアのゾロアスター教の思想が注目される。

(バビロン捕囚自体がねつ造疑惑。
実は交易を求めて自分たちからペルシャに行った疑惑。

しゃいたん って書くとかわいいね。フンババをふわわと書くとかわいいね)


・『アヴェスタ』の除魔書(ウィーデーウ・ダート)にある、アンラ・マンユの悪しき創造物が

竜と冬、ハエ、戦争と略奪、アリと毒草、疑い、泣哭(きゅうこく)と呻吟、
売春婦、暴政、男色、埋葬、妖術師、不信、火葬、生理不順、
外国人の王、炎熱
など。
アンラ・マンユが創造した病気の数は9,9999  九万九千九百九十九あるとされ、
身体的障害も造ったとされたためこの種の人々はゾロアスター教徒から隔離された。
病気をもたらすノミやシラミ、水を汚す亀やカエルなども悪魔の被造物として悪とされた。
悪の動物の代表が爬虫類であり、地獄がすみか。
ゾロアスター教には爬虫類を探し出して殺すための特別の日があった。
竜は爬虫類の最大なものとして、悪魔の強力な被造物とされた。

(外国人の王は悪の親玉の創造物!
爬虫類人が悪魔の代替物なのはゾロアスター教由来なんだろうな。
身体的障害も造ったとされたためこの種の人々はゾロアスター教徒から隔離されたって、
イラン版ノアの箱舟での人間選定基準とかぶる。
この記述を見つけたナチス大歓喜。


ねこた‏ @lakudagoya 18時間18時間前
ねこねこブログコメント
ゾロアスター教世界では障害者は悪魔が作ったものとして隔離されたそうだが、
やつらの思想のルーツもこれかもね。
セム系一神教はそんな発想あまりないもの。
てか、それなら近親婚やりすぎて異常ばかり生まれてるやつらって悪魔の創造物かよ?(笑)


∸―

右が太陽で左が月なのはエジプト思想だと強調されるが、
インドも右が太陽で左が月。


“インドでは、右の鼻の穴の呼吸は熱く
左のそれは冷たいといわれている。
つまり、右の鼻の呼吸は太陽の呼吸であるから、右のナーディ(エネルギーの通る小穴)はピンガラー(火の道)と呼ばれる。
左の鼻の穴の呼吸は月の呼吸で、左のナーディはイダーと呼ばれる。月はこのイダーの中を旅し、を全組織の上にふりまく。
太陽はピンガラーを旅し、全身を乾燥させる。人間の身体は小宇宙である。月は上あごの根元に位置し、胃の炎を常時燃やすことができる、冷たい神々しい蜜を落としている。”
p.288『ハタヨガの真髄』

“ 人間の体は小宇宙である。ハタは、ハとタの二音節からなり、それぞれが太陽と月を意味する。
太陽と月のエネルギーは、ピンガラーとイダーという二つの主なナーディを流れるといわれている。
ピンガラーは太陽のナーディで、右鼻腔から始まり脊椎最下部に至る。
イダーは月のナーディで、左鼻腔に始まり、脊椎最下部に至る。
この二つのナーディの間に、火のナーディであるスシュムナーがある。前述したように、スシュムナー・ナーディは神経エネルギーの流れの中心的経路であり、メールダンダ、つまり脊柱の中を通っている。ピンガラーとイダー、またスシュスムナーもいろいろなところで互いに交差している。
これらの交差点がチャクラ(輪)といわれ、はずみ車がエンジンを制禦するように、チャクラは体の機構を制禦する。主なチャクラは、
肛門の上、骨盤近くにあるムーラダーラ・チャクラ(ムーラは根・原因・を意味し、アダーラは支持とか活力部という意味)、
生殖器の上にあるスワディシュターナ・チャクラ(スワは生命力・魂、アディシュターナは座とか住居という意味)、
へそにあるマニプーラカ・チャクラ(マニプーラはへそ)、
へそと心臓の間にあるマナス・チャクラおよびスーリャ・チャクラ(マナスは心、スーリャは太陽)、
心臓部にあるアナーハタ・チャクラ(アナーハタは心臓)、
咽頭部にあるウイシュダ・チャクラ(ウイシュダは純粋)、
眉の間にあるアーンニャー・チャクラ(アーンニャーは支配)、
胸腔にあり、千枚の花びらをもつ蓮とよばれているサハスラーラ・チャクラ、
額の上にあるララータ・チャクラ(ララータは額)である。

これらのチャクラは、ホルモンその他の内分泌を体組織に供給する内分泌腺に相当する。ムーラダーラ・チャクラとスワディシュターナ・チャクラは生殖腺にあたる(男性では睾丸・陰茎・前立腺、女性では卵巣・子宮・膣)。 
この二つのチャクラの間に、愛と情熱の神カーマにちなんでつけられたカーマルーパとして知られている生殖腺の座がある。胃・膵臓・肝臓・脾臓などの内臓は、たぶんマニプーラカ・チャクラに相当する。
二つの副腎はスーリャ・チャクラ、マナス・チャクラのことであろう。
アナーハタ・チャクラは心臓とその周辺の主血管のことである。
ウィシュダ・チャクラは、甲状腺・副甲状腺・胸腺にあたる。
アーンニャ・チャクラ、サハスラーラ・チャクラ、ララータ・チャクラは、脳・脳下垂体・松果腺にあたる(タントラのテキストによると、プラーナ―ヤーマの目的はわれわれの体内にある神聖な宇宙の力、クンダリニ―をよびさますことである)。
クンダリニ―はムーラダーラ・チャクラ(脊椎最下部にある下部神経の中心点にまきつき眠っている蛇)に象徴されている。この潜在エネルギーが目覚め、脊椎をそれぞれのチャクラを通ってサハスラーラ・チャクラ(頭の中にある千枚の花弁をもつ蓮、脳の神経網)までのぼっていき、そこで絶対最上の魂と融合する。これはたぶん、前述のウッディヤーナとムーラ・バンダで体得された偉大なエネルギーをたとえられたものであろう(クンダリニ―を目覚めさせ、昇らせていくとは性エネルギーのの昇華を象徴するものであろう)。”
p.462-464『ハタヨガの真髄』

∸――
キケロ『スキピオの夢』

キケロの思想は、当時ローマで主流だったストア哲学にローマの伝統的価値観を取り込んだ折衷的なものらしい。
紀元前106 - 紀元前43年まで生きた人の思想。

PDF]「スキピオの夢」 研究 池田英三[訳註]
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/34270/1/2_PL1-32.pdf
“(大スキピオ)「…その祖国を保持し,助長し,盛大に導いた人々のためにはすべて,天界に特定の割り当てられた場所があって,そこで彼等は,祝福されたる者として,永久の齢を享受している.

彼等はあたかも牢獄から釈放される如くに,肉体の束縛から飛び去ったのであって,お前達の所謂生とは本当は死に外ならないのだ.

人間が生れ来った所以のものは,この宇宙の中央に見える,あの地球と言われる球体を管理せんがためにであって,そしてこの人間には,お前たちが星座とか星辰とか呼んでいるあの永久の火焔から,魂が与えられており,それらの星は球状・円形で,神的なる精神を以ていきづけられ,それ自身の輪環・円圏を驚くべき速さで旋回している.

第九番目に位する地球は,世界の中央部を占めて,不動のままに常に同一の所在を保っているからである.

一定の時期には必然的に大地の氾濫と焼尽とが生ずるのであってみれば,我々の獲得しうる栄誉は,単に永遠的ではない許りでなく,また永続的であることすら出来ないのである .

「げにもお前は勉励すべきであり,そして可死的であるのはお前ではなしにこの身体であることをさとるべきである.つまりお前自身とはお前のその姿が現わしているものではないのであって,各自の精神こそが各個々人なのであり,指差し示され得るその形体がそれであるのではない.さすれば,お前はお前自身が神であることを知るべきである.
(引用者注。ここまで本文。ここから注釈)

「人間には......火焔から,魂が......」これは,魂は火であるというヘラクレイトス・ストアの考え方によるものであり,従って天体は勿論魂を有する存在なのである.“


<資料>マールクス・キケロー「国家について」〔二〕 M. Tullius Cicero, De Re Publica (2) (translated and annotated)
http://ci.nii.ac.jp/els/110000401367.pdf?id=ART0000840235&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1490010495&cp=
この岡 道男 [訳註]版だと
“一定の時期に必然的に起こる大地の洪水や大火のために、我々は、永遠とはいわずとも、永続的な栄光すら得ることはできない。”

“死すべきものは君ではなく、この身体であると心得よ。じじつ、その形が表わすものは君ではなく、各人の精神、つまりそれが各人である。指でさし示すことのできる姿ではないのである。したがって君は神であると理解せよ、もしほんとうに生活し、感じ、記憶し、予見し、また最高の神がこの宇宙に君臨するごとく、その監督する身体を支配し、統治し、動かす者が神であるならば。しかも不死なる神自ら一部死すべきものである宇宙を動かすごとく、不滅の魂が脆い身体を動かすのである。”


こっちのほうがわかりやすい。



・祖国に貢献すると死後に天界=星々(神々)の世界に行き永遠に生きる
・いわゆる肉体ある生は死である。
・肉体は束縛にして牢獄である。
・星座と星辰=永久の火焔。
・人間は星という永久の炎から魂を授かる。

・“一定の時期には必然的に大地の氾濫と焼尽とが生ずる”
=洪水と火焔
により人間の獲得した栄誉も永続しない。
火と水の終末論!

・人間の本体は精神。人間は神。
神が宇宙を動かすがごとく、人(の本体である精神)は肉体を動かすから。
(人間が神であることを知れってグノーシス)


(“第九番目に位する地球”ってベートーベンの第九の真の由来?
ベートーヴェンはどう見てもメーソンなのにロッジに記録なし=会員ではないことになっている。
つまり通常会員より地位が高い
と考えられる。
イルミナティ
=科学容認で科学重視で反カトリックでエキュメニズム賛成のキリスト教カルト
のワンワールドソング交響曲第9番を作っていて採用されているし。
ストア派混じっている歌詞だし。





ベートーヴェン交響曲第9番(第九)の歌詞の日本語訳
http://kcpo.jp/legacy/33rd/B-Sym9/Sym9-trans.html
“喜ばしきかな、太陽が壮大なる天の計画に従って飛ぶが如く、

*兄弟達が己〔おの〕が道を駆け抜ける、勝利に向かう英雄のように喜ばしく。*
抱〔いだ〕かれよ、数多〔あまた〕の者よ!
この口づけを全世界へ!
兄弟達よ!星空の彼方に
愛する父(なる神)がおられるはずだ。
地にひれ伏さぬのか? 数多の者よ。
創造主(の存在)を感じるか? 世界よ。
星空の彼方に求めよ!
星々の彼方に彼の御方(神)がおられるはずだ。”)

ねこた‏ @lakudagoya
何某のタイムラインに触発されて、マルクス・アウレリウスとキケロの「スピキオの夢」を読んでみた。

たまたま「世界の名著 13」を借りてきてたのでどれも収録されてる。

何というかマルクス・アウレリウスの本を読めば読むほどキリスト教的な道徳がストア派の背乗りに見えて仕方ないのだが。
ストア派の研究をポツポツしたりしてるよ。 「スピキオの夢」全部読んだよ。すげーヤバイ情報盛りだくさんだた。
げーパウロの言う火と水のバプテスマの元ネタはストア派の終末論かよ。 ストア派に関してネット情報と紙情報を読み比べたけど、ネットには大事な事は一切記されてないよ。


あと、ストア派が面白いのは、グノーシスの思想の背景がすっきり理解できる。
「スピキオの夢」で「人間は神なり」という一文があったのだけど、それであー!と全部を理解した。
グノーシス派の人たちが死んだら惑星の層を抜けて天に至るって話の元ネタはこっちだったんかよ!

面白いなぁー!
この本に収録されてる「スピキオの夢」を読みながら、エヴァの「魂のルフラン」を聴くといいよぉ〜! 世界の名著〈第13〉キケロ,エピクテトス,マルクス・アウレリウス (1968年) を Amazon でチェック!
ねぇ?みんな。世界の陰謀を発くなら「スピキオの夢」はちゃんと読んでおこうな?
ストア学派の思想がこれほどわかる本も少ないの? 世界の名著〈第13〉キケロ,エピクテトス,マルクス・アウレリウス (1968年)


キケロの「スピキオの夢」とかマルクス・アウレリウス「自省録」とか見てますと、ローマ人は質実剛健な文化あったんだなと思う。

なんかなーキリスト教お嬢様教育の理念とか見ると、古代ギリシャ・ローマに比べて女々しいというか質実剛健で簡素な美しさがないんだよね。
ストア学派によると、宇宙は火で焼き尽くされるか洪水で滅ぼされるかだもの
これ「スピキオの夢」って本に書いてあるよ。ストア学派の終末論は火で焼き尽くされるか洪水かのどちらなの。 「カルデアの神託」にも神的な火の崇拝が書いてあるよ。断片だけどね。 新プラトン主義って何?

「スピキオの夢」を見ると、ストア学派の人たちはヒューマニストだったんだなと思った。
智者は恒星天というお星様の世界に行く
のだもの。

世界の名著〈第13〉キケロ,エピクテトス,マルクス・アウレリウス (1968年)



<資料>マールクス・キケロー「国家について」〔二〕 M. Tullius Cicero, De Re Publica (2) (translated and annotated)
http://ci.nii.ac.jp/els/110000401367.pdf?id=ART0000840235&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1490002877&cp=

以下、『世界の名著13』内の水野有庸が翻訳した『スキピオの夢』。
全18頁しかないのによくもこれだけ重要個所を詰め込んだものだ。
この水野有庸の翻訳が一番重要。
やはり注釈が大事。
古代にできた重要本!って神道カルトあたりが捏造しまくっている聖典(笑)があるけどさ、
「では解釈書や注釈書が時代ごとにあるはずですよね?著者名と書名を教えて」
と聞くと黙るよ。
四書五経の注釈書何冊あると思ってんの?
仏典も聖書もコーランもすさまじい量だよ?
当然、偽書か判断するための基準もできているよ。
偽書を創る奴らって解釈書までは捏造する知恵がないからね。
時代ごとに創らないといけないから大変だよね。
当時の知識人が一切言及しない理由もでっち上げないといけないし。
つまり既存の資料の中身を改竄する手法のほうが多いだろうね


違う翻訳で再読すると見のがしていた重要個所が浮かび上がる。
邦訳が複数ある重要な本は読み比べが有効。


引用で誤字脱字は気を使うが、
特にひらがなやカタカナが連続するところ、
特に「てにをは」、
漢字の送り仮名に注意。
ゆっくり音読が有効。
黙読だと見のがす。
漢字は句読点の代わりになるので、文章の区切りとしても重要。
引用すると文書を書いた人の文章の癖が良くわかる。

太陽は、ほかのことごとくの、光を放つものの群れにとって、その総司令、その首領、その光度の調節者。宇宙の霊であって、そのほどよい和らぎのみなもと。太陽がそなえている力はまことに強大で、あまねく万物を、自分の光で輝きわたらせるほど。この太陽に、従者のように侍り従うのは、片方ではウェヌスの、片方ではメルクリウスの進みゆく道。
しまいに、最下の輪を、月が、太陽の放つ光に照らし出されながら、回(めぐ)ってゆく。けれども、その下には、死すべきものが、崩れ滅びゆくものが、あるばかり。その例外は、神々の恵みによって人類へ授けられた知性だけ。つまり、月より上が、あらゆるものの不滅である所なのである。それからもう一つ、宇宙の中央にあって、九番目のものである地のたま(「たま」に傍点)は、動かずにいるばかりか、下の極みをもなしており、したがって、目方のあることごとくのものは、自分の落ち癖によって、その上へと、ひた走りに急ぎゆく」

『世界の名著13』内の水野有庸 訳『スキピオの夢』、
九(キケロ『国家論』第十七章p.74

・75頁の大スキピオが語る諸天体の軌道の概略図

円(楕円ではない)の外に円が続いている図。
中央が地球。
地球の一つ外が月。
月の一つ外が水星。
以下、水星、金星、太陽、火星、木星、土星、天球(恒星天)
の順に外に位置している。

太陽=宇宙の霊は光を放つもののボス。
金星と水星は太陽の従者。
太陽神が最高神の思想は多い。
キケロは太陽派っぽい。
神々が与えた知性は滅びないという思想


当時から土星までは見えていたことがわかる天体描写。
宇宙には和音が響いている

(らしいが宇宙は真空なので音なんて以下略)

“ そればかりではない。はるか将来に生まれてくる世代が、すすんで、われらひとりひとりの功(いさお)を、跡絶(とだ)えなくその父祖が語るのを継いで、つぎの世に伝え残すようなことをしてくれるとしても、一定の時がいたればかならず襲ってくるはずの、地上の各地に及ぶ洪水と劫火のゆえに(3)、われらが手にすることができる誉れは、永遠であることはおろか、年数(としかず)のながいものでさえないのである。
 また、おまえのことが後世の人々の語りぐさになろうと、それに格別どれほどの意味があろうか。過去の時代の人々は、後世の人々にくらべて、人数も少なくないばかりか、優れた人物であったにちがいないのに、この人々の口からは、おまえの話など、出たわけもないことを思えば。

(3) たとえばストア派の考えかたによると、一定の周期が回ってくるごとに、天体を構成するアイテールの勢力が極大に達して、その火力により全宇宙は炎上し、滅び去る。逆に、海をはじめとする水の勢力が宇宙の火の勢力に打ち勝つと、全地上は洪水に襲われる。ストア派以外にも、たとえばルクレティウスが、『万有について』第五巻第三八〇~四一五行で、類似の考えを述べている。”

『世界の名著13』内の水野有庸 訳『スキピオの夢』、
十三(キケロ『国家論』第二十一章p.78(注釈はp.79)

火が先。水は後。
世界が始まって間もない黄金時代が最高でだんだん劣化していくって思想。
進歩主義=だんだんよくなっていくって思想と真逆。
進化論ではなく劣化論。
末法思想も劣化論


ねこた‏ @lakudagoya 2016年7月23日
マタイによる福音書 3章 11節 「わたしは、悔い改めに導くためにあなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方はわたしよりも優れておられる。わたしはその履物をお脱がせする値打ちもない。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 」 え?311人工地震テロ?




聖書だと水が先。水の洗礼者よりも火の洗礼者のほうが上。
ストア派だと火が先)

人=心(が本体であり、肉体は本体ではない)
“神であるぞ、おまえは。”p.81
の文の次にその根拠が続く。
滅するものを不滅のものが動かしているから人は神。
自分で自分を動かすものが不滅。
魂は自分で自分を動かすことにかけてはほかに類のないもの。
∴魂は不滅。
動きのはじめをなすもの(万物を産むもの)とは、自分が自分によって動かされるもののことである。
これは生まれることも死ぬこともない。


(殺人大好きカルトになるのをどうやって防ぐのか?

魂はある一定量最初からあったってこと?
魂の数はあらかじめ決まっている疑惑)

・魂を幽閉する肉の快楽に溺れるな、神々も人間も従うべきである法を犯すな。

・注釈
(スキピオを取り巻く一座の談話が発展し、スキピオが自分が見た夢をみなに聞かせる気になった。このスキピオの夢は長年口外しなかったものであった。)
小スキピオがこの夢を見たのは紀元前149年。
この談話は前129年で、小スキピオ暗殺の直前。

(公式の信用できない耶蘇教成立年代より前かつそこまで前ではないことが重要。

本書は短いし内容も素晴らしいから、外国語学習に便利。
生徒にあらかじめ日本語訳で代表的作者の本のうち短いものを読ませて、一つ選ばせて学習してもらうとよいのでは?






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ねこた(おしまい!) ‏@lakudagoya
シルヴァノスの教えにこんなものがある
「最悪の死とは無知以外の何のことであろうか?金銀を愛するな。これらには何の益もない。むしろ智慧を衣のように身に纏え。知識を王冠のように頭上に抱け。洞察をその玉座としてその上に座せ。お前はこの3つを上なる所で再び手にするだろう。」

このシルヴァノスちゃんの教えはグノーシスの文献からの引用なんだけど、これ経営者とか立派な大人が座右の銘とすべき言葉だよ。テルマエロマエでハドリアヌスが風呂で思惟するように、経営者は実務よりも思考を研ぎ澄まして欲しいと思うのはネトゲ廃人ニートのプラトニズム的な妄想かしら?(笑)


この世界はロゴスで動かされてる。ストア学派は、この世界を動かす原理の事をロゴス(摂理。そーめんのおめめのプロビデンスと言ったがいいかや?)と言ったが、新約聖書の言葉は神であったという一文は、極めてストア派的な世界観が潜んでるのがわかるだろう。それを実行してるのが耶蘇教な。

後の耶蘇教のフレームとなった、国家を越えた人類愛とか、奴隷制度はアカンのや!全ては神の前に平等!とかその他諸々の事は、実は耶蘇教が言い出す前はストア派の哲学者が言ってたりしたんだよね。マルクス・アウレリウスとかの本、この人耶蘇教大嫌いなのに、何でこんな耶蘇教臭い発想してんの?とか


となると、アダム・ヴァイスハウプト他が神の代わりに崇拝した「理性」というのは、ストア派の哲学者の皆さんが崇拝した、自然法則=神そのものであるロゴスの事じゃないかな?ニャンゲンの理性じゃなくて、この世界を動かしてる自然法則そのものという汎神論的な世界観だと矛盾も出ないよね?


ぬーん、ぬこたさんはこんなブログ見ちゃうと、もっとバビロニアやエジプト学頑張って日ユ同祖論いぢめに精を出さねばにゃーと思いまする。http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/28761416.html … ふーんアカシアの木がホルス君の樹かー。このー樹何の樹日立の樹。ヒラムは何でアカシアの元に眠るの?
(生命(いのち)の樹の秘密にせまる Part7 アダムとアダパ
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/28761416.html)

そもそもよく考えると、フリーメイソン=ユダヤって大本教系陰謀論のとこじゃなってるけど、じゃあ何でフリーメイソンの神話にあるヒラムは太陽が中天に昇るころ、午後の祈りを捧げてたの?ユダヤ教に午後の祈りとか太陽礼拝の儀式とかあったっけ?ヤハウェは嵐の性質を持ってるのにこりゃないだろ?w

あとフリーメイソンの職人の位階の儀式で聖書で神が太陽を中天に固定するシーンを引用しちゃったりしてるんだけど、なんかーユダヤライクじゃないよねっ!あとユダヤって物凄く部族っぽいのに、何でメイソンだけストア派ちっくな階級や人種や宗教に囚われないなんていうお題目を唱えるの


note*** ‏@n_plus 2015年9月10日

“ストア派によれば、世界は物質的で、神あるいは自然として知られている理性的な実体であり、能動的・受動的の二種類に分けられる。受動的な実体は物質であり(…)「運動を加えられないと動かないままでいる」” ストア派 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2%E6%B4%BE …

ねこた(おしまい!) ‏@lakudagoya 2015年11月16日
手元にヘルメス文書のアスクレピウスの邦訳のコピーがあるのだけど(引用元 グノーシスの変容よりhttp://www.amazon.co.jp/%E3%83%8A%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E6%96%87%E6%9B%B8%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%B3%E3%82%B9%E6%96%87%E6%9B%B8-%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%AE%B9-%E8%8D%92%E4%BA%95-%E7%8C%AE/dp/4000226290/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1447668451&sr=8-1&keywords=%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%AE%B9 …)これに日本雛形論のよーなエジプト雛型論があんのだよね。出口は日本を世界の雛形と言ったけど、この本にはエジプトこそ天のイメージだと書いてる。


フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 1月3日
あちゃ〜‼︎
で、出たよ〜
アレキサンドリア図書館w

#FateGO
#FGO pic.twitter.com/nhdmtz16td

フェイド大帝さんがまた優しく 説明してやる! 耳の穴かっぽじってよく聞くがよろし! この連中はね、アレキサンドリア (エジプト)に人類の真の歴史書や 神学書が蔵されてたと信じ込んでてね、

で、特にキリスト教の興りに ついてバチカンにとって都合の 悪い事が書かれていたと 思い込んでてね、この図書館に 放火したのはカソリックだ! と断罪してるわけ。

この主張をしてる連中は グノーシス主義の一派である 中世のカタリ派(異端として バチカンに潰された)の子孫を 自称してて、「ウリ達のご先祖様に 賠償を要求するニダ!」と 憤ってカソリックを脅迫してるの。

で、このカタリ派と何の関係も無い 日本や韓国、イソラエルの キリスト教系カルトも群がって 一緒にカソリックを叩いてるわけ。 当然得をするのはアングロサクソン系 のプロテスタント陣営とおフレンチ の無宗教(新左翼)主義者ね。

で、アレキサンドリアと 原始キリスト教の関係なんだけど、 新約聖書のパウロの宣教録を 読むと、パウロってのは アンティオキア(現シリア辺り) とか、コリントス、ローマの 話はよくするけど、

当時の大都市のアレキサンドリアの 話には余り触れたがらないのよ。 「アポロ」という同じキリスト教の 宣教師のライバルが先行で布教してて これに勝てなかったんだねぇ。

今のバチカンのカソリックってのは 基本的にパウロのキリスト教の事を 指すのよね。 聖書が1巻本になったのもずっと 後で、マルキオン聖書に対抗して エイレナイオスの時代に纏められた のが原型だと言われている。

だから、キリスト教ってのは 最初の頃は沢山宗派があったの! で、特に人気があったのが グノーシス主義だった事が 過去の資料(エウセビオスの教会史とか) から分かってるわけ。

第2章のネロ編でネロに仕えてた 宮廷魔術師が速攻で殺された話 あったろ?w グノーシス派の有力な教祖の 一人であった魔術師シモンだと 言われてる。

グノーシス派で特に有名なのが ヴァレンチノス派ね。 fategoスレでこの名前出た時は 流石工作員共と笑ったけどねw

でローマでの布教編を読めば 分かるけど、パウロがやってくる 前からどーもプリスカ夫婦という 怪しい二人がすでにローマで キリスト教を布教しててローマから 追放処分を受けてた事がわかる。

ローマやアンティオキアに伝わってた キリスト教が、「アレキサンドリアに だけは伝わってなかった」って 不自然だろ?w 仏教学の見地からだとカソリックの ロザリオが仏教の数珠由来で ある事が分かってるので、

アレキサンドリアはインドとも 貿易をしていた事が考古学から 明らかになってるから、 初期キリスト教はインドの方の アーリア系宗教からの影響が 強かったのではないかと 言われている。

当然、キリスト教の元ネタが インドやイランのパクリの 可能性が高い事は、西洋白人様 やパウロ派(つまりカソリック) に取って都合が悪いから、 アレキサンドリアを焼いたの ではないかとこの連中は 疑ってる。

まぁ、日本の場合は戦後アメリカの 影響が強いから(実際は明治時代から) プロテスタントや、カソリック以外 に有利な言論をデ○ズニーとか 使って、子供から刷り込んでく 政策を取ってるので、

こう言った事情に疎いと 速攻でカモられる。 ゲームやアニメ、受験用の 日本史だけじゃなく、世界史も ちゃんと勉強しろってこった。 以上!)

席ゼキ ‏@seki_zeki 2015年7月29日
プラトンの四元徳「知恵、勇気、節度、正義」
アリストテレスの五つの徳目「学問的知識、技術、思慮、知恵、知性(直知)」

ストア派の徳「思慮、勇気、正義、節度」
妨げの情念「苦悩、恐怖、欲望、快楽」

トマス・アクィナスの三元徳「信仰、希望、愛」四元徳の上位

マルクス・アウレリウス ‏@MAureliusBOT 4月6日

ストア派哲学によれば、人間は肉体(肉)、霊魂(息)、および叡智(指導理性)から成る。指導理性は宇宙を支配する理性の一部、すなわち神的なものの分身であって、これが人間の心の中に座を占めるダイモーンであり、人間の人間たる所以のものである。(訳者解説)

メガネ民族の大移動 ‏@wndwpn 1月12日
ストア派の教えに「失ったと言うな。お返し申したと言え。悪人に奪われた?殺された?それを与えし者(神)がなんぴとを通してお前から取り返そうがガタガタ言うな。自分の持ち物は一時預かってるものと心得よ」とかいういかにも厳しい一説がある。やっぱストア派ってカッチョ良いわ

哲学科の鶴丸国永bot ‏@tetsu_tsuru 2015年12月9日
λόγος (ロゴス/logos)とはlegein(拾い集める・数える・物語る)に由来し、言葉・事柄そのもの(真相)・法則・根拠・尺度・理性・理法・摂理などの意味を持つギリシア語の単語だ。英語のlogicの語源でもある。ストア派や新約聖書では神に等しい意味が与えられているぞ

康平 ‏@actorkouhei 2015年7月26日
ヘレネス「やべぇギリシア崩壊したし二つの派閥に別れよ」

ストア派「偉大な神が創った世界の中で神が与えてくれた知性を使って徳を積んで善く生きて行こう。」
エピクロス派「苦しいことを避けるために、よく考えて行動し(思慮)、欲張らないで(自足)、正直で静かに(正義)生きていこう。」)



閉店です ‏@lakudagoya 2015年5月3日
みんあさ、イルミちゃん調べたかったら、マニ教のグノーシスも調べてね。「マミさんは真のキリスト教に目覚めたようです」 で検索してみて。これ青木健の「マニ教」という本を買わなくてもいいくらい内容が充実してる。マニ教の恐ろしさは、既存の宗教に寄生して神話を換骨奪胎して乗っ取る作戦だから








閉店です ‏@lakudagoya 2015年5月2日
「マミさんは真のキリスト教に目覚めたようです」ほんと面白かったなあ!その辺のマニ教を解説した本より内容が濃くてストーリーが良いね。





神話10 マニ教の教説
http://gnosticthinking.nobody.jp/gnosismyth010.html
“イブン・アン・ナディーム『学術書目録』およびテオドーロス・バル・コーナイ『評注蒐集』より

■1.光と闇の原理

 世界の太初に存在したのは、「光」と「闇」という二つの原理であった。光と闇は互いに分かれて存在しており、それぞれの大地には「光の王」と「闇の王」が住んでいた。光の王は自らの分身として、「柔和」、「知識」、「理知」、「奥義」、「洞察」を持っていた。これに対して闇の王の分身とは、「霧」、「火焔」、「熱風」、「毒」、「暗黒」である。

■2.闇の王が光の存在に気づく

 あるとき闇の王(「サタン」や「イブリース」と呼ばれる)は、自分より高いところにある光の輝きに気づいた。彼はその高貴さに驚愕すると同時に、それを手に入れたいと欲する。他方で光の世界もまた、闇の王の行為に気がつき、彼が死と破壊を企てていることを認識した。

■3.原人の創造

 闇の王の征服に対抗するために、光の王は「原人」を創造する。原人は、「大気」、「風」、「光」、「水」、「火」という五つの神々を、甲冑として身に纏った。「彼が身に纏った第一のものは静かな大気であり、次には燃えさかる光に満ちた高貴な大気を、あたかもマントを着るかのように羽織った。さらにその光の上に重ねて、今度はアトム(原子)で満ち満ちた水を着て、さらに吹きまくる風で覆った。それに加えて火を楯と槍のように手に取ると、楽園から下方に向かって突撃し、戦いの場となるべき場所に接する領域の境のところまでやってきた」。

■4.光が闇に呑み込まれる

 光の王が原人を派遣したのに対して、闇の王もまた、五人の種族(「濃煙」、「炎」、「闇」、「熱風」、「霧」)を集めて自らの甲冑とし、原人に立ち向かった。闇の王と原人は長い間戦い続けたが、やがて闇の王が勝利を収めたのである。闇の王は原人が持っていた光を呑み込んでしまうとともに、原人とその配下の種族を闇の世界に監禁してしまった。

■5.光と闇の混合

 原人が闇の王に敗れるのを見た光の王は、原人を救済するために「光の友」を派遣した。これによって原人は監禁を解かれ、何とか救い出されたが、彼がその身に纏っていた五つの光の要素は、闇の要素と混合してしまった。原人は闇の大地の最深部へと降りていき、暗黒の五つの種族の根を断ち切って後続が育たないようにするとともに、彼に属する天使の一人に、光と闇の混合物を光の世界と闇の世界の境界にまで引き上げるように命じた。

■6.世界の創造

 光の王は、配下の天使の一人に、これらの混合物を素材として世界を造るように命じた。そこで天使は、十の天と八の大地を造り、各天使にそれぞれの支配を委任した。次いで光の王は、太陽と月を創造し、「光の船」として大空に浮かべた。このようにして、現在ある世界が創造されたのである。

■7.光の使者とアダマスの派遣

 原人や神々の祈りに応えて、光の王は「第三の使者」を呼び出した。光の使者は世界に到来し、その姿を現したが、それは男性でも女性でもあるものであった。闇の神々は光の使者の姿を目にし、そのあまりの美しさに、彼への情欲で一杯になってしまう。「その情欲の直中で彼らは、あの光、すなわち五人の光り輝く神々から彼らが呑み込んでいた光を、自分たちの内側から漏らし始めた」。光の使者は、彼らが漏らした体液から「光」と「罪」を分離し、「光」を回収する。そして、地に落ちた「罪」の部分からは、闇の王に似たおぞましい獣が生み出された。光の世界は「アダマス」を派遣し、これを討伐させたのだった。

■8.人間の誕生

 光の使者が去ってしまってなお、闇の神々はむなしくその美しい姿を追い求めていた。すると、闇の王の息子のアシャクルーンが彼らに、「お前たちの息子と娘たちを私のところに連れて来なさい。この私が、お前たちが見たという姿と同じものを造ってやろう!」と呼びかける。彼らが子供たちを連れてきてアシャクルーンに引き渡すと、アシャクルーンは男の子を、その連れ合いであるネブローエールは女の子をそれぞれ食い尽くし、その後に性行をして、息子と娘を産み落とした。光の使者に似ているこれらの子供たちは、アダムとエバと呼ばれた。

■9.イエスの派遣

 天使たちの求めに応じ、アダムとエバを闇の勢力の支配から解放するために、イエスが派遣される。イエスはアダムに近づき、彼を死の眠りから呼び覚ました。また、アダムに取り憑いた誘惑の悪霊を追い払い、無数のアルコーンたちを捕縛した。さらにイエスは、アダムに生命の木の実を食べさせたので、これによってアダムは自分が何者であるかを知ったのである。悲嘆のあまりに、アダムは次のように叫ぶ。「禍いだ、禍いだ、私のこの肉体を造った者、私の魂を食い尽くす者、私を奴隷の身に貶めた謀反者たちよ!」

■10.カインとアベル

 その一方でエバは、一人のアルコーンの性欲の対象となり、はなはだ醜い男の子であるカインを産んだ。さらにカインは母親のエバと交わり、それによってアベルが産まれた。カインはなおもエバと交わり、二人の娘を産む。その名は「世界の賢女」と「所有欲の娘」であり、カインは「所有欲の娘」を、アベルは「世界の賢女」を妻とした。その後、天使の一人が「世界の賢女」のもとにやってきて、彼女と交わったため、二人の娘が産まれた。これを見たアベルは、カインが自分の妻と交わったのではないかと疑い、カインを非難したため、カインは激しく腹を立て、アベルに襲いかかって石でその脳髄を打ち砕き、殺してしまったのである。

■11.セツの誕生

 エバと交わったアルコーンは、自分の息子が引き起こした惨劇を見て困惑した。彼はエバに魔術の言葉を教えて、アダムに魔術をかけるように命じた。しかしエバはアダムと交わり、一人の優美な、見目麗しい息子を産んだのだった。アルコーンはこれに怒り、その子どもを殺そうとしたが、アダムは息子を連れてその場を離れていった。そしてアダムは息子の周囲に三重に円を描き、「光の王」、「原人」、「生命の霊」の名前を記して神に祈りを捧げた。これを見たアルコーンたちは、一目散にそこから退散した。アダムはこの息子にセツと名づけた。

 アルコーンはエバに、アダムを自分たちのところへ連れて帰るように命令した。エバはアダムのもとを訪れ、再び肉欲のままに彼と交わろうとしたが、セツはこの行為を非難して言った、「さあ、私たちは立ち上がって東の方にある光と神の知恵に向かって急ぎましょう」。こうして、アダムとセツ、「世界の賢女」とその娘たちは、連れだって光の方へと歩んだ。これに対し、エバ、カイン、「所有欲の娘」は奈落に落ち込んだのだった。

■12.人間の運命と終末

 死を迎えるに際して、人間の運命は三つに分かたれる。「真実なる者」が死ぬと、光の神々が彼を迎え、彼は光の船である月を通過して光の世界へと帰って行く。その肉体は闇に属するものであるため、奈落へと投げ捨てられる。「真実なる者たちを守る者」が死ぬと、光の神々とともに、悪魔たちもまたそこに現れる。彼は光の神々に取りなしを求めるが、その罪障が完全にぬぐい去られるまでは、救済されることはないのである。「所有欲と肉欲の支配のもとに屈服してしまった罪人」が死ぬと、悪魔たちだけが現れ、彼に拷問を加える。それは世界の終末まで続き、最後には世界とともに奈落の中に投げ込まれてしまう。

 世界の終末に際しては、「原人」や「生命の霊」といった光の神々が来臨する。彼らは世界の周囲をめぐり、その中を眺めおろして、「真実なる者」たちを救い出して光の世界へと帰昇させる。また、太陽と月は闇と混じり合った光を抽出し、これを光の世界へと手渡すのである。光が闇から分かたれるとき、世界の運動を支配していた天使たちが撤退してしまうため、世界は崩壊して火が激しく噴き出す。この火災は一四六八年の間続き、これによって世界は完全に燃え尽きてしまうのである。”

マニ教 [ヘレニズム・ローマ]
http://morfo.blog.so-net.ne.jp/2011-05-15
神格を固有名詞ではなく普通名詞で表現して世界各地で布教しました。
…原初に善悪の2つの原理「偉大な父/闇の王」を立てるので、「絶対的2元論」だと言えます。

光の国の「偉大な父」の回りには、5つのシェキナー(光輝・住居)である「知性/知識/思考/思慮/決心(あるいは柔和/奥義/洞察)」がいます。
これらはゾロアスター教のアムシャ・スプンタの相当する大天使的存在で、これらは光の国の大気を形成しています。そして、光の国の大地は光の5元素である「空気/風/光/水/火」で構成されています。

一方、闇の国の「闇の王」の回りには、5つのアイオーン(悪霊)であり闇の大地を構成するや闇の5元素である「煙/火/風/水/闇(あるいは霜/熱風)」がいます。
その後生まれる宇宙はこの光と闇の5元素の混合体です。
このように、ロゴスやイデアの有無ではなく、元素まですべてを善悪の2つの原理で考える点がマニ教の絶対的2元論の特徴です。

ズルワンに相当する「偉大なる父」は、アナーヒターやに相当する「生命の母」を、そして、息子でアフラマズダやミスラ、ロゴスに相当する「原人間」を、次に5大元素の大天使に相当する「5人の息子」を生み出します。

「原人間」は「5人の息子」をにして、「闇の王」とその「5人の息子」と戦い、まるで毒を盛るように、自ら彼らに食われます。
つまり、「原人間」やそれから生まれる霊魂は、堕落によるのではなく、自ら悪を克服するために悪の中に身をたとする点がマニ教の大きな特徴です。

「偉大なる父」は、「原人間」達を救済するミスラに相当する「光の友」、「偉大な者」、「生ける霊」を生みます。この3者にはほぼ共に働くので、一体の存在とも考えられます。
宇宙は闇の中に残った光を分離するための機械として、悪のアルコーン達の遺体から作られます。
宇宙はゾロアスター教のように悪を閉じ込めて撃退する「牢獄」ではなく、光の「分離器」なのです。太陽と月は分離した光の集積所です。


また、12宮の霊である「12人の処女」は抽象的に「王権/知恵/勝利/確信/廉直/真理/信心/寛容/正直/善行/正義/光」と呼ばれます。
そして、宇宙には10天と8地があります。

次にやはりミスラに相当する「第3の使者」が生み出され、彼が宇宙を働かしま悪魔達の情欲を刺激して光を回収しますが、悪達は光の回収を防ぐために光を人間に集めて欲を植え付けます。
つまり、人間が生殖によって子孫を残すことは、光を奪われないための悪魔の陰謀
なのです。
この考え方にも徹底的な現世否定主義的な絶対的2元論があります。

次に「輝くイエス」が人間に対する啓示者として現れます。
彼は、「偉大なる父」からの使者であると同時に、「闇」の中に堕ちた「光」の人格化でもあって、「原人間」の受苦の象徴でもあるのです。
その後に現れたマニ自身は、キリスト教のヨハネ福音書に語られる「救いの霊」、「真理の霊」だと考えました。そして、終末には「光の狩人(大いなる思考)」が最終的な救済者としてやってきます。”

マニ教からボン教、そしてトンバ教へ
http://mikiomiyamoto.bake-neko.net/waroflightanddarkness.htm
” マニ教はライバル宗教そっくりにメタモルフォーゼし、核となる魅惑的な二元論コンセプトだけは残して、キリスト教や仏教を侵蝕していった。聖アウグスティヌスとマニ教司祭フォルトゥナトウスの公開討論(註12)では、マニ教司祭はおのれをキリスト教徒と称し、聖書を手に持って巧みに引用しながらディベートをしているのだ。また中国では、マニ経典を仏典や道教の経典(註13)のようにみせかけたりもした。チベットのボン教経典が仏典そっくりに編纂されるのは、あるいはそのような融通無碍なマニ教方式だったのではないか?

 博覧強記のトゥクァン・ロサン・チューキニマも、マニ教のことは知らなかっただろう。仏教のメガトン級の波が押し寄せる前に、マニ教の波がチベット高原に届いていた可能性はないだろうか。もし上述の三名のボン教徒がマニ教徒であったと仮定するなら、それはマーニーの生存した3世紀からの数世紀の間に起ったことにちがいない。マーニー自身、シンドやバルーチスタンまで行って布教をしているので、カシミールやプルシャでもマニ教のことは知られていたかもしれない。通常、マニ教は国教として受け容れたウイグル人によって西域からチベットにもたらされ、その存在は知られていたと考えられているが、そうだとすると、7、8世紀のこととおもわれる。

 このように、光と闇の神話がマニ教→ボン教→トンバ教と送られてくる可能性を吟味し、その背景を焙り出してきた。しかし、マニ教の二元論的哲学がトンバ教に受け渡されたかといえば、かならずしもそうとはいえない。マーニーはこの世の苦しみは肉体が悪魔によって造られたことに起因していると考え、光の国への魂の解脱をめざすことから二元論を展開した。しかしナシ族は形而上的な思考法には馴染みがなく、魔を跋除し、災いを防ぐためによむ百近くの経典のなかに二元論的神話を取り込んだのだ。日常的には二元対立的なものは見当らず、白、清浄への志向性がナシ族の特徴である。

 「白と黒の戦争」では、戦いにおいてつねに光、白、善の側が勝利を収める。物語としてはマンネリかもしれないが、そうして精神のホメオスタシスが保たれるのだ。ひとが重い病に臥したとき、トンバがやってきて儀式をおこない、そのなかでこの物語をよむ。それは物語の形式をとった祭詞・呪詞であり、炉辺で語られるたのしい神話・伝説の類とは意味合いがまったくちがうのだ。

 さて、マニ教が直接トンバ教に影響を与えたかについても、いちおう吟味してみる必要があるだろう。洛陽や泉州をはじめ中国各地に拡がったマニ教も、中国西南まで達したという証拠を見出すことはできない。

 ただ気になるのは、年代すらも曖味な伝説的なトンバ教中興の祖阿明(アミ)だ。その名前からしてマニ教を彷彿とさせる(中国東岸のマニ教は明教とよばれた)が、二元対立というより、光、白、善、清浄を志向する伝道者(ボン教徒だったかもしれない)であり、あるいはナシ族は無量光仏アミターバ(阿弥陀仏)とダブらせて考えてきたかもしれない。アミターバもまた中央アジア起源(註14)とも、ゾロアスター教起源(註15)ともいわれるのだ。


註1 アラビアのイスラム学者イブン・アン・ナディームが十世紀末に著した『フィーリスト』等術書目録)のマニ教に関する一節。ハンス・ヨナス著『グノーシスの宗教』(人文書院)より引用。矢吹慶輝『マニ教と東洋の諸宗教』大貫隆『グノーシスの神話』などにも訳がある。

註13 仏典のような「摩尼光仏教法儀略」、道教経典のような「老子化胡経」。

註14 浄土経典の翻訳者が唐代以前は西域や北インド出身が多いことから言われてきた。(矢吹慶輝『阿弥陀仏の研究』)

註15 光明神という点で共通する。岡田明憲『ゾロアスターの神秘思想』

アフラ・マズダーは天(望ましい統治)、水(完全性)、大地(献身)、植物(不死)、動物(善なる心)、人間(聖なる霊)、火(秩序)という七段階を経て世界を創造した。それに対し、悪の霊は天に穴をあけ、水を汚し、大地を砂漠化し、植物を枯らし、植物や動物に死をもたらし、火を消した。

 ゾロアスター教はこのような宇宙観にしたがい、死体を悪に打ち負かされたものとみなし忌避することはあったものの、マニ教のように生きているじぶんの肉体を嫌悪することはなかった。マニ教のこの(霊にたいする)物質否定・現世否定は神学上の重大な論点であり、同時代のキリスト教やグノーシス主義、のちのカタリ派などの異端に大きな影響を及ぼした。

 マニ教(摩尼教)はとくに中国において、しばしばゾロアスター教と混同されてきた。しかしゾロアスター教が古代宗教的、民族宗教的性格をもち、布教活動を積極的にはしなかったのに比べ、マニ教はカリスマ的開祖による「創唱宗教」であり、燎原に火が燃え広がるように勢力を拡大した。その中味もゾロアスター教だけでなく、仏教、キリスト教、新プラトン派、ピタゴラス派などの教義や要素を取り入れた宗教のごった煮のような宗教だった。そのようなものが生まれたのには、マーニーが文明の十字路とよべるバビロニアに生まれ育ったことが大きく作用しているだろう。

 マーニーの父パーティクはメディアの都ハマダンのベルシア人だが、何らかの理由でベルシアの首都クセノフォンに移ってきた。あるとき「偶像の館」(偶像崇拝の寺院)で、肉、酒、女を遠ざけよという神の声のようなものを聞き、それから「沐浴を実践する人びと」という宗教(イラクからイランにかけて現存するマンダ教か)を信仰するようになった。この啓示があってから間もなくの216年4月14日、妻マリアムはマーニーを産んだ。

 マーニーは12歳のとき、双子の精霊から父の宗教を離れよという啓示を受け、24歳のときには伝道をせよという啓示を受けた。まずはインドへ向い、シンドやバルーチスタンに到達した。なぜインドへ向かったのかはわからないが、このときに仏教やバラモン教の影響を受けたことは十分に考えられる。

 マーニーはバビロニアに戻り、シャープフル一世(在位240~272)の弟ぺーローズを改宗させた。それがきっかけで王宮に呼ばれ、「シャープフラガーン」という預言書を提出し、王から寵愛されるようになった。このあと「生ける福音書」「いのちの宝」「プラグマティア」「秘儀の書」「巨人の書」「書簡」などの七巻の教義書(ほとんど題名のみ知られるが、トルファン文書の断片などから一部は復元された)のほか、「讃美歌と祈祷集」「宇宙図と注釈」を著したという。また弟子たちによって「ケファライア(講話集)」が編纂された。

 仏教経典や聖書が弟子や使徒によって書かれた、あるいは(言葉を)書き写したのにたいし、マーニーはみずから教義を記し、伝教しようとしたのは特筆すべきことだろう。しかも各言語で明示し、辺境の国々まで広まることを望んでいる。またマーニーはブッダ、ゾロアスター、イエスにつづく使者としておのれをとらえていた。さまざまな点でマーニーのアイデアは斬新であり、一種の宗教革命を起したといえるだろう。

 マーニーは高弟をローマ帝国に送り、布教させ、成功を収めた。ディオクレティアヌス帝からカトリックなどとともに弾圧を受けたものの、その後も布教活動はうまくいき、北アフリカにまで教えを広めることができた。しかし国内ではゾロアスター教勢力の抵抗にあうなかでシャープフル一世が没し(272年)、後ろ盾をなくしたマーニーは投獄されるはめになった。そして26日後の277年2月24日に獄死した。連体はふたつに裂かれ、首は門に吊るされたという。

 サーサーン朝およびゾロアスター教は、マーニーの勢いに恐れをなしたからこそマーニーを死に至らしめ、また死後も禁令を発布したのである。しかしその死によってマニ教は奇妙な展開をみせることになる。マーニーは自らの殉教を予想していたのか、多くの教義書を著したほか、教団組織(註18)を組み立て、教団の確立と発展のお膳立てを整えていた。その結果、ベルシア内では勢いを失ってしまうものの国外に活路を見出し、西方はガリアやスペイン、東方は中央アジアから中国へと伝播していったのである。

 とりわけ中国東岸の福建では長く生き延び、14世紀初頭までその活動を確認することができる。「夷堅志」に書かれた喫菜事魔とはマニ教のことだったのである。「摩尼光仏教法儀略」「下部讃」「摩尼教残経」などのマニ経典は、根本義を二宗三際と表現している。二宗とは明暗の二原理、三際とは原初、中間、終末のことであり、宗義はほぼ原型のまま伝えられたと考えられる。清代に入ると、福建のマニ教は次第に秘密結社化していき、解放(1949年)前まで存続したともいわれるが、その実態はあきらかになっていない。(註19)

 マニ教の神話はゾロアスター教の系譜につらなる光と闇の神話である。『フィーリスト(学術書日録)』の冒頭部分は宇宙開聞からはじまる。(註20)

 マ二は教えている……世界の太初を成すのは二つのもの(本質)、すなわち光と闇である。この両者は互いに分れている。その光は第一の大いなる栄光の存在であって、いかなる数による限定も受けず、神そのもの、光の楽園の王である。彼は、柔和と知識と理知と奥義と洞察の五つの分身(註21)から成り、さらに、愛と信仰と誠実と高潔と知恵という五つの霊的属性から成る。

マ二がさらに主張するところでは、この光の神はこれらの属性とともに、初めを持たない存在である。この神と同時に初めなきものがさらに二つあって、その一つは大気の圏(光のエーテル)、もう一つは大地である。マ二はこれに付け加えて言う、その大気の圏は柔和と知識と理知と奥義と洞察という五つの分肢を持ち、大地は低層の空気の流れ、風、光、水、そして火という分肢を持つ。闇はこれと別の存在であり、その五つの分身は霧と火炎と熱風と毒と暗黒である。

 マ二は教えている……かの光の本質は闇の本質に直接鐘を接していて、両者の間には何の隔壁もない。光は上方と右側と左側に向かっては無窮であるが、その(下方の最も低い)部分では闇に接している。同じように闇も下方と右側と左側に向かっては無限である。

 このあとの展開は以下のごとく。

 暗黒の大地からサタンが生じる。その頭はライオン、身体は竜、翼は鳥の翼、尻尾は魚の尾鰭、足は地を遣う動物の足のごとくだった。このサタンは、イブリース(註22)(ギリシア語デミウルゴスの転靴。時間の上で永遠なる者、原悪魔)という名のもとに闇から生じたあと、万物を呑み込んで、破滅を広げながら深淵に向かって下降していった。

 そのあとサタンは高い所を欲すと、光の大地(プレーローマ)はそれに気づき、洞察、知識、奥義、理知、柔和の世界を送った。

 光の楽園の王は、右手の霊、5つの世界、12の要素から原人を招喚した(生み出した)。(註23)原人は五大要素(大気、風、光、水、火)の神を鎧のごとくまとい、敵の領域と接する場所へ向かった。

 サタンも濃煙、炎、闇、熱風、霧という五大要素の種族をまとい、
原人と立ち向かった。やがてサタンが原人にたいして勝利を収め、原人の光を呑み込むとともに監禁した。(*神的自然の一部が物質に捕らわれたことの象徴)そこで光の楽園の王はもうひとりの神を送り、サタンを打ち破った。彼は「光の友」と呼ばれた。

 それから「喜悦」と「生命の霊」が境界に至ると、奈落で原人と天使たち(五大要素)がサタンや「倣慢な押し迫る者たち」、「闇の生命」に取り囲まれているのを瞥見した。「生命の霊」が稲光のごとく大声で叫ぶと、原人は別の神になった。

 原人とサタンが闘ったとき、光の5つの部分と闇の5つの部分とが混じりあった。すなわち濃煙が静かな大気と、炎は火と、光は闇と、熱風と風は、霧は水と混じりあったのだ。(*現実世界は対立する要素が混じりあって形成されている)

 光の楽園の王はこれら混じりあったものを素材にして世界を造るよう命じた。

それは光の敵分を闇の部分から解き放つためだった。王は10の天と8つの大地を造り、一人の天使には天を支え、別の天使には大地を保つよう命じた。各天には12の門を設けた。各門の玄関に6段の階段を設け、その一段ごとに30の通路を、各通路に12の列を設けた。

 王は世界の廻りに溝をこしらえ、分離した闇を投げ込もうとした。それから世界の光を抽出して太陽と月を造った。

【評注蒐集によれば】大いなる父は求めに応じて第三の使者を呼び出した。使者は12人の処女を呼び出した。船(太陽と月)が天の真ん中に達したとき、使者は自分の姿をあらわした。それは男でもあり、女でもあった。男のアルコーン(闇の子)は女の姿を見て、女のアルコーンは男の姿を見て、情欲でいっぱいになった。その情欲のなかで彼らは呑み込んでいた光を漏らしはじめた。その漏れた光にアルコーンたちの罪も、パン生地に混じった頭髪のように、闇の大地から昇る月に混じり込んだ。(註24)

 アルコーンたちと星辰の一人、押し迫る暴力、所有欲、肉欲、罪が互いに性交し、最初の人間アダムが生まれた。そして第二の性交からハヴァー(エバ)が生まれた。

 5人の天使は、神の光が汚辱のなかにあるのを見た。そこで彼らはイーサー(イエス)を送り出した。二人のアルコーンは、イーサーと付き添っていた神の二人を監視し、二人(アダムとエバ)を釈放した。

[評注蒐集によれば】イエスは彼(イエス)の魂が万物になかにあって猛獣の歯牙、象の歯牙の前に投げ出されていること、呑み込む者たちの口に呑み込まれ、吸い込む者たちのロに呑み込まれ、犬たちに食われ、すべて存在する物のなかに捕らえられ、闇の汚物のなかに繋がれていることを明かした。(註25)

 アルコーンは彼の娘であるハヴアー(エバ)と寝て、その結果容貌の醜い赤い男、カインが生まれた。つぎにカインは母親と寝て、その結果白い男、ハービール(アベル)が生まれた。カインがまた母親と寝ると、二人の娘、「世界の賢女」と「所有欲の娘」が生まれた。カインは「所有欲の娘Lを要り、「世界の賢女」はハービールに与えた。「世界の賢女」は光と神の知恵から流出してきたという。その後ひとりの天使がやってきて彼女と交わり、「助けに来りませ」と「助けを与えたまえ」を産んだ。ハービールはこのことを知って怒り、母ハヴァーに告発した。カインは逆上してハービールに襲いかかり、石で脳髄を打ち砕いて殺した。そして「世界の賢女」を妻とした。

 もし死が一人の真実な者に近づくと、原人が光の神を指導的賢者として派遣する。また三人の神々と真実な者の魂に似た乙女も到来する。サタンもあらわれるが、神々によって追い払われる。神々は真実な者の手をとって月の領域へ、原人のもとへ、生ける者たちの母であるナナハのもとへ登っていき、最初に光の楽園にいたときの状態に戻る。太陽と月と光の神々が彼の身体からもろもろの力を引き出し、残りの部分は闇に属するので、奈落へと投げこまれる。

 人間の魂が分れる三つの道がある。それは真実なる者の道、真実なる者を助ける者の道、罪人の道である。

 太線は炎熱のサタンと混じりあった光を、月は寒冷のサタンと混じりあった光を賛美の柱に沿って抽出する。月はこの光を太陽に手渡し、太陽はさらに上なる賛美の世界の光に手渡す。もはや(光と闇が)分離することができなくなったとき、(大地と天を担う)天使たちが手を引き、その結果至高のものが最下層のものと混じりあい、激しく燃え盛り、光が解き放たれるまで燃え尽きることはない。この大火は1468年つづく。

 この期間のあと、闇の霊は光が解放されたことを知って意気阻喪し、用意された墓のなかに入っていく。光の楽園の王はこの世の大きさほどもある岩で墓を封鎖する。


 時代を飛んで、12、3世紀、南フランスを中心として数十万人とも数百万人ともいわれる信徒を獲得した、異端ですますにはあまりにも大きなカタリ派に目を転じてみよう。彼らはみずからも宣するように、マニ教そのものといってもいいほど、マニ教の教義に基づいていた。パウロ派(註26)、ブルガリアのボゴミール派(註27)を経由して(上述のフォルトゥナトゥスが仏シャンパーニュに逃れ、それ以来マニ教が伝承されてきたという言い伝えもあるが)、ここにマニ教が蘇ったのだ。

 カタリ派が勢力を拡大したのは、当時のカトリック教会の聖職者が聖職売買を行うなど、腐敗堕落しきっているのを目の当たりにし、人びとが幻滅させられていたところへあらわれた禁欲的な宗教だったからである。カタリ派の完徳者(パルプェ)は粗末な衣裳をまとい、托鉢しながら放浪生活を送り、祈りと瞑想に耽った。人びとの目には、その清貧さはカトリックの聖職者以上に、使徒たちの姿に近いと映ったのだ。

 上に述べたように、マニ教徒は、現世はサタンが造った(正確には光と闇の混合物から造った)悪しき世界とみなし、ひたすら悪しき肉体を離れて天に昇ることを欲していたので、カタリ派がこういう清貧生活を送るのは当然だった。

それに対抗するには、似たような生活を送るのがもっとも有効な手段だった。そこで聖ドミニクス及びドミニコ会が無所有と断食の生活を標棟し、カタリ派撲滅に尽力をそそぐ。ドミニコ会からは多くの異端審問官が輩出された。

 しかしいっこうに衰える様子のないカタリ派にたいし、教会側はついに1209年、アルビジョア十字軍を派遣する。兵士の数は30万人ともいわれ、フランスの南北戦争とでもいうべき大戦乱となった。しかし、最終的には1244年、難攻不落のモンセギュール要塞の陥落で幕を閉じた。これ以降二元論は欧州の表舞台から姿を消す。

 カタリ派はフォルトゥナトゥスの伝統を受け継ぎ、聖書を多用した。彼らは聖書のつぎの一フレーズにこだわった。

  万物は言(ことば)によってつくられた。言によらず無がつくられた。

これは「ヨハネによる福音書」(1章3節)のカタリ派のラテン語からオツク語への翻訳である。(註28) 日本聖書協会発行の聖書の訳では、つぎのようになる。

  すべてのものは言(ことば)によってできた。できたもののうち、一つとしてこれ(言)によらないものはなかった。

 そう、これは四世紀後半のアウグスティヌスとマニ教徒フォルトウナトクスとのあいだの論争の再燃なのだ。

一見するとカタリ派の解釈はこじつけのようにおもえる。しかし無(nihil)は副詞であるとともに、名詞でもあり、アウグスティヌスもしばしば名詞として用いていた、とネッリは言う。「何も作らない」ではなく、「無を作る」というふうに。このほか聖書では「コリント人への第一の手紙28章4節と13章2節でのみ「無」と訳されるが、他のすべては「……でない」と副詞として訳されている。

 カタリ派の解釈によって、「無」が存在感をもつようになる。ひとたび存在と非・存在という二元対立を認めてしまうと、悪も実体化してしまう。唯一の神が万物を造ったとするなら、悪をも造ったということになるではないか。

 マニ教徒がアウグスティヌスにたいして攻めたポイントもここだった。そこでアウグスティヌスは考え方の転換をはかった。

「悪は何らかの実体であるというマニ教徒に反論して、われわれはつぎのように主張しよう。悪は実体ではなく、存在性の高いものが低いもののほうへ向かう性向であると」(『セクンディヌスへの反論』)

 しかしまさにこのアウグスティヌスのことばから、カタリ派は悪しき実体という概念を借用したのではないかと、ネッリは指摘する。アウグスティヌスのいう価値の低下した実休を、歴史的にそうなったと考えるのではなく、超時間的に捉え、原理として捉えればそれでよかったのである。アウグスティヌスはマニ教徒から反・マニ教徒の側にまわったわけだが、ある意味ではことばの転換ですむようなものでもあった。

 もう一度「ヨハネによる福音書」に戻ろう。カタリ派の視点からすると、正統派の訳にも疑念がなくはない。「すべてのものは言によってできた」の一節ですむのに、なぜ「できたもののうち……」と同じ意味の一節を加えなければならなかったのだろうか。

 ネッリも言うように、「ヨハネ」にはおびただしく光ということばが登場し、「人々は光よりも闇を好んだ」(23章19節)というようなフレーズもある。また物質世界を否定する箇所も多い。なぜか「ヨハネ」は二元論的な傾向を多分にもち、そんなほのかな異端の匂いを、真正な異端派は逃さなかったのだ。青葉(ロゴス)と神を同一とするヨハネの見方は神秘思想家、たとえば近年では神智学のシュナイダーらの共感を呼んだ。



註16 バビロンにはゾロアスター以前に光、善を代表するベル・マルドゥク(Bel Marduk)と暗闇、死、地下を代表するネルガル(Nergal)という神がすでにあったという。(Yuri Stoyanov 2000)

註17 バングエスト、ニョリ『ゾロアスター教論考』(平凡社)

註18 すべてを統括する教長(サーラール)の下に二大の教師(ハモージヤグ)、その下に72人の監督(イスパサグ)、その下に360人の長老(マヒスタグ)、その下にすべての選ばれた人(アルダワーン)というヒエラルキーを作った。アウグスティヌスはマニ教徒だった頃、「選ばれた人」 ではなく、一般信者である「聴聞者」だった。もし「選ばれた人」だったら歴史は変っていた?

註19 Lin Wushu 'On the Spreading of Manichaism in Fujian, China'

註20 大貫隆『グノーシスの神話』

註21 シェキナー。神の肢体、アイオーンとも。矢吹訳では寛容、知識、知性、不知覚、識別力の五眷族。

註22 アラビア語。ベルシア語でアーリマン。シリア語やコプト語の資料ではギリシア語の質量、ヒュレーをあてる。プラトンやアリストテレスのヒュレーとは異なり、能動的な邪悪さをもつ。

註23 グノーシスの流出原理。ベルシアでは光の神をあらわすオルムズドの名でよばれた。

註24 マニ教徒が地上で回収した光は、讃美歌に載せて月に送られる。月がそうして満ちて満月になると太陽に手渡し、欠けていく。

註25 マニ教の教理「受難のイエス」を示す。受難とは光の捕縛のこと。

註26 ユスティニアヌス帝に追放されてブルガリアに住みついたマニ教の一派。物質および物質と結びついた生活は悪であり、悪事をおこなう神が創造したと考えた。

註27 ブルガリアがビザンツ帝国の支配下にはいると一挙に帝国内に弥漫した二元論的異端宗教。修道士バシレイオスが創始。パウロ派を受け継ぎ、教義や組織はマニ教に酷似している。ボゴミール派の子孫はサラエボあたりでイスラム教徒として生き残っているという。(Paul Kriwaczek “In Search of Zarathustra”)

註28 ルネ‥ネッリ『異端カタリ派の哲学』

グノーシス主義のバシリデース派の世界種子について述べたい。ヒッポリュトスの『全異端反駁』から知れるバシリデースの教説は以下の通りである。(註34)

 世界の種子は自らの内にすべてを持っている。ちょうど芥子の種がすべてを一緒に混ぜ合わせて、きわめて小さな中に包括してもっているのと同様である。つまり芥子種は根、幹、枝、葉の他に、その木から生まれる数えきれない量の他の新たな種子を自分の中に持っており、その実った種がさらにまた他の木の種子となるというように度重なって行く、その可能性をすべて持っているのと同様である。


 絶対的な無としての存在しない神(原初の状態)から発生する世界種子は、宇宙卵と言い換えてもいいだろう。それは一種の可能体なのである。世界種子の概念はヒンドゥーにもみられ、ムーラプラキリティとよばれる。また現在のビッグバン理論の特異点もいわば世界種子といえるだろう。


ねこた‏ @lakudagoya2:54 - 2017年3月19日
ねこねこさん、新記事お疲れ様。
ディアトリベーって代表作はセネカくんの「書簡」だよ。

パウロさんのお手紙もこの手法が取り入れられてるねぇ?

ねぇ?

この前おいらが朗読したお手紙もそうだねぇ?




【エロ画像集】
黒幕=「意味の範囲が広すぎる曖昧語」とする陰謀論は嘘!         
「イルミナティ・メーソンというユダヤが黒幕」は「支配層は悪魔」と同じく嘘!     
ノーベル賞はエキュメニカル・スウェーデンボルグ賞!(ロスチャイルド賞は嘘)     
~文章技術について私が守っていること①~  
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-118.html

イマさんのジャパリパーク
http://ataraxiaaquaria.seesaa.net/article/447464292.html
”イラン版のノアさんであるイマさんは、アフラ・マズダーに呼び出されて以下のものを作るように言われました。

イマよ、この世界に致命的ながやってくる。猛烈で破壊的な氷結に襲われる。 物質世界に破滅的な冬がやってくる。雪が降り積もる。最も高い山々にまで。バル(地下室また地下の格納所)を造れ。馬場の四隅の届く長さに。そこに羊や牛、人間、鳥、そして赤く燃える炎の種子を運び込むのだ。

汝はそこで地上で最も優れた男女の種子、地上で最も優れたあらゆる家畜の種子、地上で最も優れたあらゆる樹木の種子、最も香りが甘くて最も実ったあらゆる果実の種子を運び込むのだ。

これらの種子はどれも2つずつ運び込み、人々がバルにいる限り尽きないように保存すること。

身体に障害のある者や腹の飛び出た者、不能なものを正気でない者やハンセン病のものは入れてはならない

「神々の魔術 上巻 180項より」

イマさんのジャパリパークその2
http://ataraxiaaquaria.seesaa.net/article/447464856.html
”イマさんが作ったバルというかジャパリパークの詳細

最も大きい場所には9つの通路を作る。 中ほどの場所には6つの通路。最も小さい場所には3つの通路。

最も大きい場所の通路には男女1000人分の種子を運び込む。中程の場所の通路には600人。最も小さい場所の通路には300人の種子を運び込む。

「神々の魔術 上巻 184項より」



ここまではゾロアスター教の文書の引用部分。ここから先は作者の注釈。

これをハイテク種子銀行(絶滅する危険のある種子を保存する場所)の仕様書と考えるのは奇抜すぎるようだ。

だがバルの他の「技術的な」面についてはどう判断したら良いのだろう?

例えば照明装置だ。この場所に扉をこしらえ、それをアフラ・マズダーから与えられた黄金の指輪で封印する。

さらにイマは「自ら輝く窓」も作る。

この「自ら輝く窓」とはいかなるものかとイマが説明を求めたところ、アフラ・マズダーは「考案されてない光と考案された光がある」と謎めいたことを告げた。

前者は星や月や太陽のことで、長い冬の間はバルの中から見ることができない。

後者は「人工の光」で「下から輝く」


イマは指示されたとおりバルを完成させた。

それ以降バルは「自らの光で輝いた」これを成し遂げたイマは



こられの謎の光源は旧約聖書ではゾーハルと言われてます。あの「光輝の書」のあれです

ここからゾロアスター教の文書の引用

1.6キロの長さの床に水流を作った。常緑の土手に取り鳥を住み着かせたそこには尽きることのない食料がある。更に居住するための建物を作った。バルコニーと中庭と回廊のある家だ。

「神々の魔術 上巻 185項より」



彼は男女の種子を運び込んだ。あらゆる種類の樹木の種子と、あらゆる種類の果実の種子を運び込んだ。彼が運び込んだあらゆる種子はどれも二つあり、人々がバルにとどまる限り、尽きる事がないように保存された。

「神々の魔術 上巻 185項より」



40年ごとに、どの男女にも二人の子が生まれる。男と女だ。これらすべての家畜でも同じだ。そして、イマが作り出したバルの人々はこの上なく幸せな人生を送る。

「神々の魔術 上巻 185項より」



ここから作者の意見

興味深いことにこの訳者は、古代の様々な注釈を引用した脚注を書いている。

それによると「バルの住民は150年生きた。誰も死ななかったという人もいる。」

さらに興味特に興味深いのは。

すべての男女の間にできた子は性的結合ではなく、「バルに保存されていた種子」によるものだと言う。

イマに繋がる、謎の失われた技術に関する手がかりは他にもある。

奇跡の杯は、世界中で起きてることを見ることができる。また宝石が散りばめられたガラスの玉座「ガラスの馬車とも称される」は空を飛ぶことができる。



以上バルの中身でした。”

§
§
ナグ・ハマディ写本(ナグ・ハマディしゃほん、The Nag Hammadi Codices)あるいはナグ・ハマディ文書(ナグ・ハマディぶんしょ、The Nag Hammadi library)

燈火‏ @to_moshibi 22:03 - 2017年3月20日
子子子子子(ねここねこ)さんのブログですが、最新の記事の文字がとても読みやすくなっていていい感じになっています。

個人的には字体の変更と文字の色分け具合がうまく作用していると思いました。



ねこた(おしまい!) ‏@lakudagoya 2015年8月20日
ぬこたさん色々面白い本読んだんだ。「マヌ法典」「聖書外典偽典 5」(第四のエズラ書収録)「グノーシスの変容」「初期ギリシア哲学」「聖別された肉体」「タルムード」などなど。やっぱね、本は読むべきだよ。ネット陰謀論の嘘も本を読めば一刀両断なんてのも多いよ。

「神秘のカバラー」を読んだ後に「私は、これで生命の樹を理解した」と、もしそう思うのなら、あなたは生命の樹を殆ど理解していない 証拠である。

 まずは、「パス」だ。
 生命の樹において、「パス」は「セフィラ」と同じくらい重要だ。
 しかし、「神秘のカバラー」には、セフィラについては詳述されていても、パスについては、殆ど記されていないことに気づくであろう。
 パスを理解するのは、まずセフィラについて、ある程度の知識が無ければならない。
 だから、初心者は、まず「神秘のカバラー」を読むことが求められるのだ。
 では、パスについて知識を得るのに良書は何か? と問われれば・・・
 ガレス・ナイトの「A Practical Guide to Qabalistic Symbolism」である

『エゾテリスム思想』(文庫クセジュ)

世界の名著一覧見てたら第一巻がインド思想(優遇?)で、 ヴァーツァーヤナ「論証学入門」(服部正明訳) マーダヴァ「ジャイナ教綱要」(宇野惇訳)
ティトゥス・ルクレティウス・カルス(ラテン語: Titus Lucretius Carus, 紀元前99年頃 - 紀元前55年)は、共和政ローマ期の詩人・哲学者。エピクロスの思想を詩『事物の本性について』に著した。

物の本質について
http://blog.livedoor.jp/nina313/archives/52196659.html

ルクレティウスにおける原子の集合論とその射程 Tutrone, "Between Atoms and Humours"
http://d.hatena.ne.jp/nikubeta/20121101/p1



エピクロスの宇宙論を詩の形式で解説。説明の付かない自然現象を見て恐怖を感じ、そこに神々の干渉を見ることから人間の不幸が始まったと論じ、死によってすべては消滅するとの立場から、死後の罰への恐怖から人間を解き放とうとした。6巻7400行からなる六歩格詩『事物の本性について(英語版)』(ラテン語: De rerum natura)を著して唯物論的自然哲学と無神論を説いた。
影響

ルクレティウスの著作は長い間知られていなかった。1417年にイタリアの人文主義者ポッジョ・ブラッチョリーニ(Poggio Bracciolini)によって、ドイツの修道院で『事物の本性について』の写本が再発見された[1]。同書はルネサンス期の思想に大きな影響を与え、原子論が発展する原動力となった。
ルクレティウス入門
http://origine-mundi.xyz/lucretius-for-beginners/
『物の本質について』(樋口勝彦訳、岩波文庫)
『万物の根源/世界の起源を求めて』(塚谷肇訳、近代文藝社)
『事物の本性について』(世界古典文学全集21、藤沢令夫・岩田義一共訳、筑摩書房)
ウェルギリウス『アエネーイス』と併収

世界の名著一覧見てたら第一巻がインド思想(優遇?)で、 ヴァーツァーヤナ「論証学入門」(服部正明訳) マーダヴァ「ジャイナ教綱要」(宇野惇訳)



お読みくださり感謝!
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