斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう!
Posted on 2015.11.03 Tue 19:56:04 edit
禅ではスピリチュアル(=インド風キリスト教)思想は魔境かつ執着なので悪だとしています!
目の前に神や仏や宇宙人が現れて、自分だけが選ばれたと救世主気分におぼれたり、宇宙霊と合体して天にも昇る素晴らしい心地がしたと感激する、などは魔境であり、悟りの邪魔であるから、とらわれたりこだわってはならないと、禅ではいましめています。つまり神や仏や宇宙人や宇宙霊や選民思想が現れても、相手にせず受け流し、軽くかわさないといけません。
瞑想だけじゃ悟れないし、ひたすら座禅だけ組んでも駄目だし、いきなり言葉を否定しても駄目だし、考えることも大事だとしているのが禅です。
禅宗含め、仏教は虚無論ではありません。このような誤解や曲解を予想して、先回りしてちゃんと否定しているのが仏教哲学です。
禅に限らず、心の平安と執着からの解放が仏教の目的なのだから、愛などの執着を善だと主張する時点で偽物です。
愛(=執着)は善なのがキリスト教で、
愛(=執着)は悪なのが仏教です。
禅で禁欲と自省と道徳を養うことが修行で必須とされるのは、魔境により生じる選民思想を防ぐためです。
野狐禅(=危険な邪禅)をすすめるスピ詐欺師が多いので注意!
スピリチュアル、神智学、ニューエイジなどのインド風キリスト教は、本来のインド思想、特に仏教思想を破壊するために支配層が盛んに布教活動をしている思想です。
支配層が仏教思想の中で特に破壊したいのは、論理的思考を重視する姿勢と、一神教と新プラトン主義を完全否定する無記と空と無常と縁起の思想です。
だから、紐付き陰謀論者がキリスト教と神道カルト(大本教系)だらけで、工作員でない(可能性が高い)陰謀論者の思想が仏教寄りであることが多いのです。
天皇家が欧米に留学し、ミッション系の学校へ通い、ティアラを正装とするくせに「神道」なのは彼らにとっての「神道」が和風に偽装したキリスト教だからです。
「陰謀論」や「陰謀論者」を「狂人」という意味でレッテル張りしてくる工作員がいるのですが、調べれば出る情報をもとに考えているのだから、「比較陰謀学者」や、「比較陰謀論学者」や、「”陽”謀論者」や、「真相追及者」と呼んでほしいですね。
禅の詳しい記事は次回にして、今回は、「キリスト教思想で都合よく改悪されていない本物の」チベット密教についてです。
論理と言葉を軽視あるいは否定する、チベットチベットうるさいスピリチュアル(=インド風の新キリスト教)信者に、チベット密教は論理的思考重視でありスピリチュアルを否定していることを示す以下の証拠↓を食らわせたら、迷惑な酔っぱらい(スピ信者)のごく一部はしらふに戻るでしょう。
信者が「自分」だと思っているものは実は欲とカルトの教義であり、それを自我と信じ込んでいるだけです。
“仏教論理学(因明[いんみょう])と認識論に関しても、チベット仏教の伝統は、実に高度な論議を蓄積してきました。「比丘や諸々の賢者たちよ。金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊 敬のゆえに受け入れてはならない」。これは、チベットのラマたちがよく引用する聖句です。お釈迦様は弟子たちに――あたかも金の純度を確かめるがごとく ――自らよく考えて教えの中身を吟味し、その後で初めて教えを信奉するように強く戒めています。チベット仏教では、こうしたお釈迦様の精神を受け継ぎ、盲信や実践至上主義を排し、明快な論理による思考を重視しています。”
p.20、斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社
“「視覚ではなく意識で、しかも次第に直感的に……」というのが、第一のポイントです。
第二のポイントは、「向こうから現われるのではなく、こちらから向こうへ置く」ということです。瞑想の中で、「自分の意思とは関係なく、本尊などが向こうから突然出現した」というような神秘体験は――何らかの印や徴候と認められるケースも稀にあるでしょうが――多くの場合、修行者の妄執が生み出した幻覚にすぎません。それゆえ、実践の正しい拠りどころとして、ほとんど信頼できません。また、実際にそうした幻覚が現われなくても、あたかもそうであるかのごとく瞑想することは、間違った方向へ心を慣らすばかりなので、いくら実践しても望ましい成果を期待できません。そうした突然の神秘体験に執着せず、あらかじめ自分の意思で「こういうふうに瞑想しよう」と計画を立て、それに従って意識の力で本尊の姿を認識対象として確立し、それを繰り返し瞑想して習熟することが肝要です。
では、信頼できない神秘体験と正しい瞑想の成果を区別する基準は何かといえば、「その瞑想に十分習熟したとき、いつでも意のままに同じ内容を再現できるか否か」という点です。もちろん最初からは無理ですが、本当に瞑想に熟達した密教行者なら、複雑な曼荼羅を――どんな大きさにでも――瞬時に再現できるといいます。「こちらから向こうへ置く」という感覚で瞑想するからこそ、習熟すれば自在に再現可能となるのです。”
p.92-93、斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社
“仏教の修行というものはすべて、お釈迦様を信じて拠りどころとしなければ成立しえません。この点で、仏教は、決して単なる人生訓や思想哲学や瞑想テクニックではないのです。
しかし、「理屈抜きにただ信じる」というわけではない点で、他の多くの宗教とは趣を異にしているといえるでしょう。第二章で引用したお釈迦様の言葉を思い 出してください。「比丘や諸々の賢者たちよ、金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊敬のゆえに受 け入れてはならない……」。“p.192斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社
“知恵者らよ、自性が空という空性の意味は、縁起の意味である。しかし、功用が空(効果的作用がない)という非存在の意味ではない”
p.54、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/クンチョック・シタル/齋藤保高 共著『チベットの般若心経』春秋社
“植物は、有情の中に含まれない。仏教では、植物は生命体であると認めるが、心を有しているとは考えない。したがって、植物が輪廻転生することはあり得ない。植物は、色の範疇に属し、無生物とともに宇宙全体を構成する環境的な要素(器世間 [きせけん])と位置づけられる。”
p.73、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/クンチョック・シタル/齋藤保高 共著『チベットの般若心経』春秋社
“勝義諦すなわち空性を体得するためには、まず言葉によって概念的に理解するしかない。 我々は、この点を肝に銘じておく必要がある。具体的には、最初に教えをよく聴聞し、次にその論拠を徹底的に考察し、それらを通じて概念的に確立された空性理解をもとに、止と観の修習を重ねることが肝要だ。もし、「勝義諦は言説を超越した次元なので、概念的に理解しようとしても無駄だ」などと誤解し、聞・ 思・修の過程を軽んじてひたすら禅定を重ねたとしても、有暇具足の貴重な人生を無駄にするばかりで、一向に空性を体得することはできない。そうした実践至上主義を厳しく戒めるため、あえて「邪な妄分別によって悪道(三悪趣)へ赴く」という強い表現を用いた、そのチャンドラキールティの密意をよく汲み取るべ きだろう。”
p.57、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/クンチョック・シタル/齋藤保高 共著『チベットの般若心経』春秋社
…
斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社
※本書はチベット仏教の内、ツォンカパ大師が開いたゲルク派(新カダム派)の教えに基づいています。
・チベット仏教の伝統では、あらゆる不幸の根源を、自己愛着という唯一つのことに集約して考える。
自己愛着の正体とは、自分自身や自分の所有物、自分の側に属するものごとに対し、執着、欲望、過度の期待を抱くこと。
・自己嫌悪の根底にも自己愛着がある。自分に対する過度の期待と現実の自分とのギャップが広がって自力では手が負えないと感じるようになったとき、自己嫌悪に陥ってしまう。
・「幸せを実現すること」と「自己愛着を満足させること」を混同してしまうのが問題。幸せを求めて努力しているつもりなのに、実はあらゆる不幸の根源にほかならない自己愛着を増長させるためひたすらエネルギーを注ぎ続けている……。
自己愛着を満足させるために貪りや怒りなどの煩悩を起こし、それによって自己中心的な行動を積み重ねていくパターンになりがち。
自己愛着を断ち切る最も強力・確実な方法とは、他者に対する大きな慈悲の心を育むこと。
(「幸せにならないといけない教」に注意。幸せは義務ではありません。幸福論は面白くないんですよね。実は不幸論のほうが面白いし、幸福論よりも役立つ幸福を得るヒントを教えてくれたりします)
・チベット仏教は、インド仏教の本流を直接に受け継いでいる。チベットはヒマラヤ山脈をはさんでインドと隣接しているので、師僧を招いたり留学僧を送ることが頻繁に行われていた。
チベット仏教が規範として仰いできたインド仏教は、残念ながら十三世紀の初頭に滅びてしまった。当時の総本山、東インドのヴィクラマシーラ寺がイスラム教徒の襲撃で破壊されたとき、最後の大座主シャーキャシュリーバドラは、難を逃れてチベットの地へ赴き、インド仏教が守り抜いてきた法灯を残らず伝え、チベットの僧侶たちに後事をすべて託した。
・“仏教論理学(因明[いんみょう])と認識論に関しても、チベット仏教の伝統は、実に高度な論議を蓄積してきました。「比丘や諸々の賢者たちよ。金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊敬のゆえに受け入れてはならない」。これは、チベットのラマたちがよく引用する聖句です。お釈迦様は弟子たちに――あたかも金の純度を確かめるがごとく――自らよく考えて教えの中身を吟味し、その後で初めて教えを信奉するように強く戒めています。チベット仏教では、こうしたお釈迦様の精神を受け継ぎ、盲信や実践至上主義を排し、明快な論理による思考を重視しています。”p.20
(スピ信者って偽物が大好きだから、本物のチベット仏教の勉強をしないんだろうね)
・中観帰謬論証(ちゅうがんきびゅうろんしょう)派では、実体性を欠如しつつ単に存在する「私」を「単なる私」と表現する。
「単なる私」とは堅固な実体性を欠如した状態で輪廻転生する主体。
・諸煩悩をすべて根こそぎ断ち切り、
その後に残った負の影響=所知障(しょちしょう)
も滅し尽くしたとき、悪い要素のひとかけらもない仏陀の境地が実現する。
・我執=実体視の習慣。
空性=実体性の否定。
煩悩の根源にあるのは空性に対する無知であり、あらゆるものを実体視する習慣。
空性は仏教の究極的な真理であり、あらゆる存在に関して「それをそれたらしめている本質的なもの」を徹底的に追及していったとき、そのような実体性は何一つ得られない。
チベット仏教の伝統教学における最終結論、つまり中観帰謬論証派の立場では、
空性とはあらゆる存在(一切法)に実体性が全くない、ということ。
実体はないが存在はしている。
実体性を欠如した状態で存在していることを、「単なる存在」とか「単なる私」という。
中観帰謬論証派の特色は、実体性の否定と、単なる存在の肯定とを明確に区別し、両方とも徹底させる点。実体性であればどんな微細なものも見逃さず、すべて完全に否定します。もし、わずかでも否定しきれず残ってしまえば、空性理解は不完全なものとなり、覚りを得ることはできない。
逆に、単なる存在を少しでも否定してしまえば、虚無論に陥り、覚りを得られないどことか、大変な悪業を積む結果になりかねません。なぜなら、哲学的な虚無論を発展させれば、事物の効果的作用を否定し、因果関係を否定し、善悪の区別も否定するところまで行きつくからです。
否定すべきものと肯定すべきものを明確に分け、否定すべきものを否定しきれない実体視の誤りと、
肯定すべきものを
否定してしまう虚無論の誤りという、
この二つの誤りを完全に排除した後に残るのが「中道」というありかた。
つまり、本当の中道とは、決して中途半端で曖昧な状態ではありません。例えば、「この本に、実体はほとんどないけれど、多少はある」とか、
「この本は、あるともいえないし、ないともいえない」というふうに、否定すべきものと肯定すべきものを区別せず、安易に中途半端な存在感を設定してしまうことを指して、ツォンカパ大師は「矛盾ばかり述べて、中観の意味など少しも説いていない」と厳しく批判しています。
空であり実体がないからそれらに対して慈悲を起こすのは無意味だ、というのは重大な間違い。
仏教以外の多くの宗教で主張している創造神とか、バラモン教やヒンドゥー教の哲学で個々の人格の上に設定している真我(アートマン)などは、最も粗い実体性の例。
そうした粗い実体性は、仏教哲学の全学派が、揃って否定している。
宇宙を創造した神の存在、あるいは創造された人間に宿っている永遠不滅の本質など、そうした粗い実体性を一切認めないのが、仏教の思想哲学の大きな特徴。
逆にいうと、もしそれらを承認してしまえば、もはや仏教思想とはいえなくなる。
密教の根本的な本尊である持金剛仏や大日如来などを、そうした創造神であるかのように位置づける見方もありますが、少なくともチベット仏教の伝統教学からすれば、それは完全に間違っている。
粗大な実体性の否定に関しては、このように、仏教哲学の全学派が一致している。
・仏教用語で「自性」とか「自相」(それ自体の側にある、それをそれたらしめている本質的なもの)と表現されている微細な実体性。
人間は生まれつきの習慣として自然に実体視してしまう。本当は全く存在しない自性や自相を「存在する」と誤って把握している。
その実体する意識のことを「我執」という。
自性や自相はまったく存在しない、という真理が空性であり、それを無自性や無我とも表現されます。そのとき、「Xの実体がない」という、そのXが人間や生き物であれば「人無我」、それ以外のあらゆる存在であれば、「法無我」という。
・単なる存在が他の何かに依存する形で成立する形で成立していることを「縁起」という。
実体性を欠如した単なる存在は縁起という形でしか成立しえない。
他の何かに依存するという場合、三つの意味を想定できる。
①原因や条件に依存
②部分に依存
③概念と結びつけて仮に設定
これら三つの意味を通じて、縁起として成立しているがゆえに実体性が否定されること、逆に実体性がないからこそ縁起というあり方になるという、その両者の相互関係。縁起によって空性を理解し、空性によって縁起を理解するというのが、中観帰謬論証派の哲学の最も絶妙な部分。
本尊にも実体はない。
空性という究極真理も実体視してはいけない。
「この本の空性」をテーマに実体性の追求を行なった場合、結論は「“この本の空性”の空性」という結論になる。
空性の空であることをいつも忘れないようにしなければならない。
(いいですか、「実体」は否定しても「存在」は否定していませんからね。仏教を無神論や虚無主義だとわざと曲解して叩く工作員の「藁人形論法=わざと相手の主張を叩き易いように加工してから叩く」に注意ですよ。
支配層は仏教の「空」と「縁起」が支配に向かず、カルト化を防ぐ思想なので大嫌い。
ツイッターを見てると、「空=神」と主張して布教している悪質な輩がいます。
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 33 分33 分前
新キリスト教陣営の工作員用のクソリプ用画像。
ババリアのイルミナティの象徴はミネルバ(アテナ)のフクロウ。
右目=太陽派(特にフランス)。
緑=世界連邦カラー。
フランスの女神は右目=太陽を見せるマリアンヌ。
@wolvesknow




私をブロックしている女神アテナ @gathena1が
“「空」=「神」=「全宇宙」=「1個の光子」”を布教。
アテナ=ミネルバが「一者への帰一」思想(典型的な新キリスト教=メーソン教)で空の神格化というタブーを犯し、支配層が嫌う空の思想=仏教の中核を破壊。 @wolvesknow
支配層が仏教の中で特に破壊したいのは、論理的思考を重視する姿勢と、一神教と新プラトン主義を完全否定する無記と空と無常と縁起の思想。 工作員はキリスト教か神道カルト(大本教系)信者だらけ。工作員でない人の思想は仏教寄りの人が多いです。
@wolvesknow @lakudagoya
画像の意味は上から、
右目側でNWO色=緑髪の『隻眼の梟』=一つ目フクロウ
『不殺の梟』(『隻眼の梟』の父)も右目を強調
右目=太陽派(特にフランス)、緑=世界連邦カラー
フランスの女神は右目=太陽を見せるマリアンヌ
詳しくは前回の記事
支配層の最重要レベルのシンボルがフクロウ、アテナ、ミネルヴァ、一つ目! 最多は十字架!
『東京喰種』では、右目側でNWO色=緑髪の『隻眼の梟』=一つ目フクロウ が最強!
「空」を神格化するなどして仏教を破壊する工作に注意!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-107.html
をどうぞ。
菊池 @kikuchi_8 5月11日
工作員連中がよく使う詭弁の一種。→ストローマン「議論において対抗する者の意見を正しく引用しなかったり、歪められた内容に基づいて反論するという誤った論法、あるいはその歪められた架空の意見そのものを指す。藁人形論法ともいう。」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3 …
菊池 @kikuchi_8 8月24日
工作員業界の「工作現場」の主力「中級工作員」の手口。①レトリックを使いひたすら対象の貶め②詭弁の多用。特に対象の主張を歪めた上で攻撃する「藁人形論法=ストローマン」がよく使われる。③議論や対話ではなく相手を論に詰まらせることのみを目的にひたすら質問を繰り返す。詭弁と修辞が武器。)
・六道輪廻の枠組みに植物は含まれない。植物は意識を持たず、輪廻転生しない。
植物にも生命組織はあるが中有の意識が来世に再生する拠りどころとはならない。
生きとし生けるものすべて(一切衆生)とは、意識のよりどころとなっている生き物全部(一切有情)ということであり、植物はその中に含まれない。
・風(ルン)
=気体エネルギー。風は心を乗せて動くことができるが対象を認識する機能はない
心には対象を明らかにして認識する機能があるが、自分で動くことはできない。
心は、五感に依存した心(根識)と、心自身に依存した心(意識)にわけられる。いずれにしてもその拠りどころとなる風を必ずともなう。
仏教哲学でいう「意識」とは、心そのものに依存した識であり、外側の対象は必ずしも必要ない。
・倶生の大楽(くしょうのたいらく)
=空性を直感的に理解している意識の状態。きわめて微細な幸福感であり、私たちが日常に体験するさまざまな「心地よい」感覚の根底にある潜在意識。
・仏陀という理想の境地を実現できたら、私たちは、大まかに整理すると、
法身(ほっしん。仏陀の心)と色身(仏陀の身体)に分かれる。
法身
=すべての存在を知りつくす完璧な智慧であると同時に、全宇宙に遍満する究極的な真理でもある。
色身は報身(ほうじん)と応身(おうじん)に分けられる。
報身は仏陀の智慧の力で集められた微細な風によって構成され、宇宙の頂点というべき場所から生きとし行けるものすべてを大慈悲のまなざしでご覧になっている。
そして、実際に救済の手を差し伸べる必要性に応じて、あらゆる場所へあらゆるときにあらゆる姿で化身を現わす能力を持っている。そのような化身を応身という。
・仏性(如来蔵)
=生きとし生けるものすべてに具わっている、仏陀の境地を得られる可能性。
仏性の正体は、「心の空性」。
普通の人間の心は、業と煩悩で非常に汚れているが、心自体には、業と煩悩で汚染されたものたらしめている本質は存在しない。
つまり、業と煩悩で汚染された状況は絶対不変のありかたではない。
・「六座グルヨーガ」では、まず眼前の虚空に自分のラマをツォンカパ大師、またはお釈迦様の姿で顕現させ、その周囲にさまざまな聖者や本尊や菩薩などが集まっている様子をイメージし、それらを対象に帰依の祈りなどを捧げる。
そして、生きとし生けるものすべての幸せを願い、そのために自分自身が仏陀の境地を得よう……と誓願を立てる。そのうえで、自分の前に顕現したラマや聖者たちから「菩薩戒」を授かった……と自覚する。これは実際に灌頂などでラマから菩薩戒を授かったことの、いわば追体験。
続いて、仏性を想起する。
自分はすでに志も立てたし、それに基づいて菩薩戒も受け、その結果これまで眠っていた仏性が今こそ目覚めたのだ……と強く思念し、「将来必ず仏陀になる」という決意を新たにする。
心の空性を瞑想しながら、眼前に展開していたラマたちの集まりを自分自身へ修練し、それによって自分の諸々の煩悩が浄化された……と思念する。
ここまでが「六座グルヨーガ」の準備段階の瞑想。
こうして空性を瞑想している状態から、眼前の虚空に蓮華・月・太陽を重ねた宝座をイメージし、その上に自分のラマを持金剛仏父母尊の姿で顕現させる。
本尊の姿などを、視覚の識で見ようとしてはいけない。
意識で思い描いて把握しないといけない。
目の前の仏像を見るのと同じように、瞑想すべきものを目で見ようとしたのでは、正しい瞑想にならない。
瞑想のときに目を完全に閉じてはならない。
瞑想すべき本尊の姿を目で見ようとしていると、実際に目の前に見えている別の風景が気になり、つい目を閉じてしまう。
しかし、意識で思い描いて把握することに集中できれば、実際に目の前に広がっている風景などは全然気にならなくなる。
意識とは五感に頼らず、心そのものに依存して認識することである。
意識にも概念的思考と直感的認識の二種類がある。
瞑想の最初の段階では、概念的思考を交えながら、「身体の色は青で、手に金剛杵と鈴を持って、胸の前で交差し……」という具合に思い描いていきます。
しかし、瞑想を何度も反復して習熟度が増せば次第に概念的思考を減らしても、直感的に認識できるようになります。
最終的には一瞬で本尊の姿を明確に顕現させ、全体像も細かい部分も直感的に把握できるようになる。
“「視覚ではなく意識で、しかも次第に直感的に……」というのが、第一のポイントです。
第二のポイントは、「向こうから現われるのではなく、こちらから向こうへ置く」ということです。瞑想の中で、「自分の意思とは関係なく、本尊などが向こうから突然出現した」というような神秘体験は――何らかの印や徴候と認められるケースも稀にあるでしょうが――多くの場合、修行者の妄執が生み出した幻覚にすぎません。それゆえ、実践の正しい拠りどころとして、ほとんど信頼できません。また、実際にそうした幻覚が現われなくても、あたかもそうであるかのごとく瞑想することは、間違った方向へ心を慣らすばかりなので、いくら実践しても望ましい成果を期待できません。そうした突然の神秘体験に執着せず、あらかじめ自分の意思で「こういうふうに瞑想しよう」と計画を立て、それに従って意識の力で本尊の姿を認識対象として確立し、それを繰り返し瞑想して習熟することが肝要です。
では、信頼できない神秘体験と正しい瞑想の成果を区別する基準は何かといえば、「その瞑想に十分習熟したとき、いつでも意のままに同じ内容を再現できるか否か」という点です。もちろん最初からは無理ですが、本当に瞑想に熟達した密教行者なら、複雑な曼荼羅を――どんな大きさにでも――瞬時に再現できるといいます。「こちらから向こうへ置く」という感覚で瞑想するからこそ、習熟すれば自在に再現可能となるのです。”p.92-93
(野狐禅も野狐瞑想も駄目ってことです。スピ信者が薬物でヒャッハーでハイな状態になる瞑想や禅をしたり賛美したりするけど、彼らが歩んでいるのは邪道で危険な道です。単なる狂人になってしまいかねませんからね。単に気がヘンになっただけです。
そもそも仏教は心の平安を目指しているのに、ヤクでハイになったら駄目でしょ。
やっぱりスピ信者は、キリスト教によって改悪されてしまう前の真のインド思想なんて勉強しないんでしょうね。
偽物を崇めて「覚醒した!」って笑えませんな。
「別の価値観に洗脳された! 勘違いして選民思想を持った!」の間違いでしょ。
『魔法入門』でも別人格を出現させたりするときは絶対に意識的に自覚的に行なわないといけない、と何度も注意しております。でないと廃人になってしまったり、別人格に乗っ取られてしまいますからね。
修行方法が書かれていても、ちゃんと危険性と注意点を明記しないものは避けましょう。精神病院で精神病が治らないことは本ブログ読者ならよくご存じでしょう。
ちなみに、『魔法入門』に書かれていることの元ネタの多くはインドのヨガと密教でしょうね)
第三のポイントは、本尊の身体の質感。
仏像や仏画を見て参考にしながら本尊の身体を意識で思い描いていくが、鍍金の立体や紙の平面のごとくイメージしてしまいがち。しかし、実際の本尊の身体は、微細な風(ルン)を集めて成立したものであり、そのエネルギーが光となって顕現している。
それゆえ、瞑想の対象の本尊も、光でできた身体として思い描くことが大切。
けれどもぼんやりした不明瞭なものではいけない。目の前に本当に座っているように、手を伸ばせば触れられるように、きわめてリアルに、明確に顕現させる必要がある。しかもそれを認識しているのは視覚や触覚ではなく、あくまで意識である。
眼前の虚空に、自分のラマを持金剛仏父母尊の姿で顕現させた。
そのように瞑想した本尊などのことを密教用語で「三昧耶尊」という。
この三昧耶尊と同じ姿の「智尊」というものをお招きし、手に印を結んで真言をとなえながら、三昧耶尊と一体化させる。
ラマと本尊を完全に一心同体として瞑想することが最も重要な秘訣。
眼前にラマを持金剛仏父母尊の姿で瞑想し、智尊と一体化させたら、祈願や供養を捧げる。それを繰り返して善なる意思の力が十分に蓄積されたとき、ラマである持金剛仏が自分の頭頂へ降りてきて、自分と完全に一体化する……と観想する。このとき必ず空性を瞑想しなければならない。
まず頭頂へ降りてきた持金剛仏を対象とし、その実体性を追求することに心を集中させる。そうすると実体性を何一つ見出せないので、ついには虚空のごとき感覚になる。
同様に自分自身の実体性を追求すれば、やはり何一つ見出せないので、これも虚空のごとき感覚になる。そのとき、虚空と虚空は無差別であると強く念じ、虚空のごとき空性というあり方において、持金剛仏と自分の一体のものとして瞑想する。
また、そのように瞑想している心自体も、やはり空であるゆえに一体となり、そうした体験がこれこそが「倶生の大楽」(くしょうのたいらく)にほかならず、これこそ本尊の法身である……と強く思う。
この状態から、ラマの導きの力、そして前もって蓄積された善なる意思の力により、自分の法身から色身の状態へ立ちあげる。
このときの自分の色身の姿は、前にラマを持金剛仏父母尊として瞑想したのとまったく同じ。
こうしてラマの助けを借りながら、私が持金剛仏であるという自覚を得られるようにしていくのが、六座グルヨーガの特色といえる。
現実の自分のあり方を顧みて、菩薩戒と三昧耶戒を守った生活ができているかどうかチェックする必要があります。戒律に反する行ないは、なるべく早めにそれを自覚し、懺悔の瞑想で浄化することが肝要。
(本尊と一体化する修行は選民思想を生むので、それを防ぐ為に禁欲と自省と道徳を養うことが修行で必須とされます。
欧米の支配層はインド思想を取り入れる癖に、我欲を抑えないからあんな滅茶苦茶をやるわけです。支配層が禁欲しない✝カースト制度✝なんて最悪です。
本尊を理想の自分におきかえたらまんまイメージトレーニング。
理想の自分を召喚して自分に憑依させる密教的魔術を現代ではイメージトレーニングといいます。「降りてきた」ではなく、意志の力で「降ろす」術)
・“仏教の修行というものはすべて、お釈迦様を信じて拠りどころとしなければ成立しえません。この点で、仏教は、決して単なる人生訓や思想哲学や瞑想テクニックではないのです。
しかし、「理屈抜きにただ信じる」というわけではない点で、他の多くの宗教とは趣を異にしているといえるでしょう。第二章で引用したお釈迦様の言葉を思い出してください。「比丘や諸々の賢者たちよ、金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊敬のゆえに受け入れてはならない……」。“p.192
ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/クンチョック・シタル/齋藤保高 共著『チベットの般若心経』春秋社
・法(ダルマ)という用語には、
①真理、教え
だけでなく、
②「存在」という意味もある。
三宝は①真理、教え、
一切法、諸法は②存在
に該当する。
あらゆる存在すべてを含めて一切法あるいは諸法という。
存在するといえるものごと(有[う])のすべてが、一切法(諸法)である。
・昨今の一般的な傾向として、仏教の内容を説明するとき、専門用語の使用を極力避けるようになってきている。著者も基本的には賛成であるが、ある程度本格的に学んで実践しようという場合、仏教用語の使用を避けていると、かえって混乱を招いてしまうケースも多い。
例えば、五蘊を「五つの集まり」と表現したとする。
「五つの集まりの範囲は、あらゆる存在の範囲よりも狭い」
(仏教用語なし)
を
「五蘊の範囲は、一切法の範囲よりも狭い」
(仏教用語あり)
と表現すれば無用な誤解を避けられる。
五蘊を五つの集まりと表現したら知らない言葉はなくなるが、五蘊の中身を知らなければ結局何のことだかさっぱりわからない。
五蘊の、意味、実例、分類などを知ったうえで、ある任意の存在についてそれが五蘊の範囲に入るか否かを正しく判断できるようになったとき、五蘊を本当に理解したといえる。
知らない言葉が出てこないように置き換えたからといって、内容を正しく理解しているとは限らない。
仏教用語を使わないことが、強い関心のある読者にとって、本当に親切なやり方なのだろうか。
・有は、「正しい認識(量)の対象(所縁)となるもの」と定義される。
一切法の範囲は、仏陀の智慧として知られるべきもの(一切智智の所知)の範囲と完全に広さが一致する。この一切法の中に含まれなければ、それは全く存在しないもの(畢竟無)である。
仏教論理学の伝統的な表現では、畢竟無の喩例として、「虚空の蓮華」とか「兎の角」などをあげている。これらは幻覚や誤った認識によって知覚されるかもしれないが、正しい認識の対象とはなりえない。
また、「宇宙の創造神」といった概念も、仏教の立場からすれば、誤った見解の産物にほかならず、いかなる意味でも存在するとは認められないので、一切法の範囲外に位置づけられる。
・①境(きょう)
=対象
=慧(え。知性)によって知るべきもの。
②所知
=知るべきもの
=慧の境(知性の対象)と認められるもの。
③所量
=量るべきもの(量る=認識して理解する)
=量(正しい認識)によって了解(りょうげ)すべきもの。
④有
=存在するもの
=量(正しい認識)によって縁じるべきもの。
(縁じる=心を対象へ向けて認識する)
⑤成実(じょうじつ)
=基体として成り立つもの
=量(正しい認識)によって成就(成立)しているもの。
⑥法
=存在
=自らの体(存在性)を具えるもの。
⑦所縁
=縁じるべきもの(縁じる=心を対象へ向けて認識する)
=量によって増益(ぞうやく。付加)を断つべき基体。
これら七つの用語はすべて同義であり、範囲の広さは一致する。
⑦所縁を補足説明。
例えば、ある人がリンゴというものをよく知らなければ、ナシを見た時にリンゴだと思うかもしれない。そのように誤った知識によって把握される要素が、「リンゴに増益(ぞうやく。付加)された部分」である。リンゴをよく知っている人は、この増益(ぞうやく。付加)さえた部分を全部排除して、本物のリンゴだけを選ぶことができる。つまり、リンゴ理解している量の所縁とは、その量が、増益された部分を全部排除する形で、これがリンゴだと把握する対象である。
・一切法は有為法と無為法にわけられる。有為法とは成立・維持・消滅(成・住・滅)という三つの性質(三相)を有する存在で、原因と条件(因・縁)に依存して成立する。このように因と縁によって作られたことを「所作性(しょさしょう)」という。所作性ならば、あり方として無常である。
死や破壊は無常のわかりやすいあらわれである。さまざまな因果関係の中で一刹那ごとに変化していくあり方そのものが、無常という意味にほかならない。それゆえ、脆く儚いものも、堅固なものもあらゆる有為法は無常だということになる。
また、有為法であれば、それ自身が因や縁となることにより、他の有為法へ何らかの効果的作用(功用[くゆう])を及ぼしうる。このような存在を「事物(じもつ)」という。
つまり、有為法と所作性と無常と事物とは同一の存在を別々な側面から見た表現であり、範囲の広さはいずれも一致する。
範囲の広さが一致するとは、有為法なら必ず無常であり、無常であれば必ず有為法である、という二つの主張命題が両方とも成立することだ。
五蘊とは、あらゆる事物を色・受・想・行・識という五つの集まりに分けたもの
であり、五蘊の全体と有為法とは範囲の広さが一致する。
(読み方を通常と違うものとすることで、意味を区別できるし、口頭で話しても混同されないようにできます)
・自性(じしょう)
=ものごとの本質
であるが、経文の中での自性は、ものごとの本質という意味に加えて、
「他の存在から独立した基体」、
「そのとおりに真実として存在すること」という非常に強い概念を含んでいる。
もしあるものがそのような自性として成立しているならば、そのものは他に依存することなく独立して存在し、恒常不変で絶対的な性質を有することになるだろう。
これは、仏教哲学で「無我」というときの「我」と同じ意味だ。もちろん仏教でも、普通に我というときは、単に「私」や「自分」という意味で用いられる。
一般的な我なら無我という言葉で否定すべき理由もない。
私という人間は単純に存在するが、そうした私という概念にはしばしば普遍的な実体性が付与される。
「他から独立した実体として、自分が存在している」とか、
「私の概念のとおりに、真実として自分が成立している」との思いは、日ごろから「私」や「自分」という言葉を口にするときにさえ、その裏付けとして潜在的に心の中で芽生えているはずだ。
ものごとが存在しているというとき、その存在の確からしさは一様でない。
それを大別すれば、
相対的な存在の次元である「世俗」、及び
絶対的な存在の次元である「勝義」(しょうぎ)という二つの段階を設定できる。
世俗の次元の存在は、それ自体の力で成立しているかのように顕現していても、実際には他のもの――因や縁など――に依存することで初めて成立し得る。独立した実体ではないので、存在の確固たる根拠を、それ自身の中に何一つ見出せない。
本当は他に依存しなければ成立しえないものなのに、独立した実体であると何の疑いなく自然に誤認してしまう。これはあらゆる凡夫の衆生に共通する、本能的な思い込みである。
一方、勝義の次元の存在は、顕現と実際のあり方との間に、そうしたズレがまったくない。勝義の次元において、もし、それ自体の力で成立しているように顕現している何かを見いだせるならば、それは実際に他のものからまったく独立し、堅固な実体として成立しているはずだ。
私が単に存在することは、世俗の次元においてである。
実体性を虚構する根源的な無知を「無明」という。我(私)という思いを「我見」、私のもの(我所)という思いを我所見という。
両者を合わせて、有身見(うしんけん)といい、衆生が輪廻転生を繰り返す第一の原因と位置付けられている。
有身見を中心とする無明をもとにして凡夫の衆生はさまざまな煩悩を生じる。
「自相」(じそう)
=対象それ自身の側で成立しているとされる固有の性質や作用で、無明によって対象の上に虚構されたもの。
つまり自性の一種なので本当は成立していない。
煩悩は、虚構された事物の自性のみに対して働く。
世俗と勝義は、瓶を例に挙げると、両者とも瓶という同じ一つの存在の上で吟味すべきであり、眼前の瓶は世俗、そこから遠く離れた世界が勝義だなどと誤解してはいけない。
(一方が偽物で一方が本物だとか、イデア界だとか、西洋的二元論でとらえてはいけません)
自性の否定のされかたで注目しないといけないのは、基体である瓶(あくまで一例)と否定対象である自性が、別個のものとして設定されえないという点だ。
瓶に自性がないというのは、瓶と自性の関係は、瓶の中に水がない、というようなものではない。そうではなく、瓶そのものが――いかなる部分も――自性として存在することはない、という意味で理解しないといけない。
無自性は絶対的な存在の次元の真理、すなわち勝義諦(諦=真理)であり、この真理を指して空性(くうしょう)という。
究極の真理のことを真如(しんにょ)や真実義(しんじつぎ)といい、あるいは法性(ほっしょう)や法界(ほっかい)ともいう。
無自性、勝義諦、空性、真如、真実義、法性、法界などの用語はすべて同義であり、無為法に属する。無為法であるならば、因や縁によって生じたのではなく、無常でもない。つまり、このような真理は誰かに創りだされたものではないし、時とともに変化するものでもない。一切法は本来から無自性、すなわち空なのである。仏陀が出現しようとしまいと、それを説こうと説くまいと、一切が空である点に何の変わりもない。
・無為法とは一切法のうち有為法に該当しない存在であり、成・住・滅の三相から離れている。因と縁によって作られたものではないから、「非所作性」であり、いつも変化することがないから「常」であり、それ自身が他の因や縁となって効果的作用を及ぼすこともないから「非事物」である。
無為法の例としては、空性や真如という言葉によって表現される究極の真理そのもの、輪廻から解脱して因果の束縛を離れた境地である涅槃、そして虚空をはじめとする概念的存在などがあげられる。
・諸法の無自性以外に実体としての勝義を設定してはいけない。
空性や法性・法界そのものを実体視してはいけない。
勝義において自性を何も見出せないなら勝義諦も得られない、と主張し、勝義諦や空性を所知(知るべきもの)として認めない立場は誤り。
(「空」自体を神格化して崇めてはいけません)
・分別
=名称や概念を交えながら対象を努力して把握する知
であり、このような対象把握のやり方を執着性という。
縁起
=他に依存して成立するというありかた。
一切法が自性として存在するかを追求すれば、虚空の如き空性にいきあたり、一切法が単に存在することを吟味すれば、すべて縁起と言うあり方で存在している点を見いだせる。
縁起
①因と縁に依存して成立すること
②部分に依存して成立すること
③分別による名称の付与に依存して仮に設定(仮説[けせつ])されたものとして成立すること
部品の集まりが車であることも認められない。もしそのようであれば、分解された部品の集まりも車だということになってしまうからだ。
部品の集まりの上に設定された形状が車だということも認められない。車「の形」であり、形状は車「の属性」であるからだ。
・空によって否定すべきものは、他から独立した実体性であり、諸法が諦として成立することであり、諸法が自相によって成立することだ。否定すべきものの範囲が狭すぎるとき、諸法に何らかの実体性が認められ、諦として成立する何ものかが残ることになる。そのようであれば、常辺(じょうへん)という極端論へ陥り、輪廻への執着を完全には断ち切れず、したがって輪廻から解脱することは不可能になる。
名称の付与に依存して仮説されたものすら、その存在をまったく否定してしまう極端論を「断辺」(だんへん)という。断辺の見解は縁起の虚無的な方向での全面否定である。それにより、世俗において因果関係の成立も否定され、善悪の区別も否定され、三宝の存在も否定される。結果、三悪趣(地獄・餓鬼・畜生道)へ堕ちる因を作ることになるので、これは常辺より更に悪い見解と位置づけられる。
一切法は空である、という空の意味を、世俗においても絶対的な無と捉え、何も全く存在しないことと解釈するのは断辺に陥った理解である。
常辺と断辺の二辺から離れ、空によって否定すべきものの範囲を適切に設定できれば、空性と縁起の関係も正しく理解し得る。
“知恵者らよ、自性が空という空性の意味は、縁起の意味である。しかし、功用が空(効果的作用がない)という非存在の意味ではない”(本書p.54)
とツォンカパは『菩提道次第広論』(ラムリム・チェンモ)観の章にて、聖教(しょうきょう)を引用して、強調している。
(※ツォンカパ[1357-1419年]はチベット仏教最大の学僧。
代々のダライ・ラマの所属する宗派ゲルク派[黄帽派]の開祖。
ツォンカパ=葱の地の人=「葱畑の人」。
守護尊[イダム]は文殊菩薩と
ヴァジュラバイラヴァ=『金剛の畏るべき者』=大威徳明王。
大威徳明王=『死神ヤマをも殺す者』=降閻魔尊)
・四法印(しほういん)に、
①一切の有為は無常である(諸行無常)
②一切の有漏は苦である(一切皆苦)
③一切の法は無我である(諸法無我)
④涅槃は寂静である(涅槃寂静)
と説かれている。
無常なる有為法と無我なる一切法の範囲の広さが異なる点に留意。
仏教徒か否かを判断する基準が三宝への帰依であるのと同様、仏教思想か否かを判別する基準が四法印である。
ただし、無我の意味は仏教哲学の浅深によって解釈が異なる。最も広義には、「常住・単一・自在なる我」を否定することを指す。自在とは他に頼ることなく、全く自律的に存在することをいう。
有漏法(うろほう)とは有為法の中から道諦に属する法を除いたもの、
無漏法は無為法と道諦に属する法である。
涅槃は滅諦であり、無為法に属する。
・同一の存在に別々な側面があることを「同体異面」という。
・補特伽羅(ふとがら)
=心を有するものとしての存在。
身体は色(物質的な存在として現われるもの)に、
心は知(精神的領域。心。対象を明らかにして把握して理解するもの)に属する。
補特伽羅(ふとがら)を分類すれば仏陀と有情(うじょう)になる。
有情とは心を有する生き物のうち、仏陀の境地を得ていないものの総称。
“植物は、有情の中に含まれない。仏教では、植物は生命体であると認めるが、心を有しているとは考えない。したがって、植物が輪廻転生することはあり得ない。植物は、色の範疇に属し、無生物とともに宇宙全体を構成する環境的な要素(器世間[きせけん])と位置づけられる。”p.73
(植物は輪廻転生しないから食べてOKなのでしょうね。植物も食べたら駄目なら修行完成前に死ぬしかありませんからね。六道に植物道はありません)
知を分類すると、心王(しんのう)と心所(しんじょ)の二つになる。
心王は精神的な分野において主たる役割を果たしている中枢部分。
阿毘達磨(アビダルマ。仏教の教説の解釈・注釈書)では、その状態を、
①善心
②不善心
③無記心(善でも悪でもない中立の心)
などに細かく分類している。
(③が二元論の罠を打破するために重要な概念です)
・心所は心王の働きにともなって派生する精神作用で五十一に分類される。
・心不相応行
=色と知のいずれにも該当しない有為法であり、補特伽羅、及びそれ以外の存在(時間、瓶の無常など)に分けられる。
・根=知覚機能。
・勝義諦と世俗諦の二諦。
諦=真実。
勝義=絶対的な存在の次元。
世俗=相対的な存在の次元。
何らかの存在、例えば瓶が「諦として成立している」場合、世俗の次元で我々が見てきたとおりのものが、勝義の次元においても真実して成立していることを指す。
しかし、実際に諦として成立するものは何一つ存在しない。
一切法が諦として成立しないという、そのこと自体が勝義の次元における真実であり、それを勝義諦という。
したがって、瓶という存在について考えたとき、勝義諦とはすなわち瓶の空性である。
一方、世俗の次元において、瓶は瓶として存在するので、この場合の世俗諦とはすなわち瓶である。しかしこれは、瓶の真実のありかたである瓶の無自性とは別の現われ方で顕現したものなので、真実として認められない。しかし、瓶の真実のあり方を追求するというようなことをせず、世間の正しい認識によってのみ判断した場合、一応真実と認められるだろう。
そのように、あくまで、「世間の側からみて諦であるところの、世俗の次元の存在」という意味において、世俗諦と呼ばれるのだ。
聖者にとって、瓶は、諦ではなく「単なる世俗」として認識される。
この単なる世俗という意味こそ、空である瓶が縁起として幻の如く存在すること――換言すれば名称の付与に依存して仮説されたものとして存在すること――にほかならない。
世俗諦は、それを諦成就と思い込む世間の迷乱した認識によって諦とされるのであり、決して実際に世俗の次元で諦として成立しているわけではない。もしそのように誤解すれば、中観帰謬論証派の立場――世俗においても、諸法や諦や自相として成立する余地を完全に否定する見解――と著しく矛盾することになる。
“勝義諦すなわち空性を体得するためには、まず言葉によって概念的に理解するしかない。我々は、この点を肝に銘じておく必要がある。具体的には、最初に教えをよく聴聞し、次にその論拠を徹底的に考察し、それらを通じて概念的に確立された空性理解をもとに、止と観の修習を重ねることが肝要だ。もし、「勝義諦は言説を超越した次元なので、概念的に理解しようとしても無駄だ」などと誤解し、聞・ 思・修の過程を軽んじてひたすら禅定を重ねたとしても、有暇具足の貴重な人生を無駄にするばかりで、一向に空性を体得することはできない。そうした実践至上主義を厳しく戒めるため、あえて「邪な妄分別によって悪道(三悪趣)へ赴く」という強い表現を用いた、そのチャンドラキールティの密意をよく汲み取るべきだろう。”p.57
(瞑想だけじゃ悟れないってことです。ひたすら座禅組んでも駄目ってこと。いきなり言葉を否定しても駄目。考えることも大事。
チャンドラキールティ[梵: Candrakīrti]
=月称[げっしょう]。
7世紀なかばのインド仏教の中観派に属する。
空の思想と対立する考えには帰謬論証[きびゅうろんしょう]で対応すればよいとした。
チベットの般若心経/聞・思・修の過程
http://mitsubachi-bros.seesaa.net/article/154958416.html
“※有暇具足(うかぐそく)第四章の註(12)P221~
八つの有暇と十の具足を合わせたもの。仏教を修行するのに適した条件。
「八有暇」とは、次に示す八つの悪い条件(八無暇、八難)から離れた境涯。すなわち、(1)地獄に生まれる、(2)餓鬼に生まれる、(3)畜生に生まれる、(4)長寿の天に生まれる(長寿と享楽や禅定に甘んじて、仏道修行に努力しがたい)、(5)仏教の実践者である四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)が活動せぬ辺境に生まれる、(6)仏陀が出生せずその教えを知らぬ時代に生まれる、(7)知覚能力が働かない、(8)邪険を抱く。
「十具足」は、(1)人間に生まれる、(2)四衆が活動する場所に生まれる、(3)教えを理解して修行する能力が具わっている、(4)五逆(父母の殺害・阿羅漢の殺害・仏身を傷つけること・僧伽の和を破ること)を犯していない、(5)律をはじめとする三蔵への信心を抱いている、(6)仏陀が降誕した、(7)仏陀が正法を説いた、(8)説かれた法が現在まで存続している、(9)上師や修行者たちがその法を実践している、(10)周囲に人々の助けも得られるという十の条件で、(1)(1)~(5)を「自身の五具足」、(6)~(10)を「他の五具足」という。”
六波羅蜜/チベットの般若心経
http://mitsubachi-bros.seesaa.net/article/183458328.html)
“「禅定」とは、心を対象に集中すること。
禅定の実践では、対象を把握して保持する「臆念(おくねん)」、及びそれが正しくなされているかを調べ る「正知(しょうち)」という、二つの心の働きが重要である。カマラシーラ(蓮華戒)の『修習次第』中編では、「いかに所縁をよくつかんでいるか、それと も沈み込んでいるか、それとも外境に高揚のせいで散乱しているかと[心を]観察すべきである。<中略>臆念と正知の策によって、意の象を、その所縁の幹へ 縛りつけるようにせよ。いつか昏沈(こんじん=沈み込み)と掉挙(じょうこ=昂ぶり)がなくなり、その所縁へ心が正しく向かうように見えたときこそ、努力 を緩めて平等になし、その時点から欲するまで[そうした状態に]留まるのだ。そのように止(心の集中)に習熟した者の身と心が軽安になり、望むまま所縁に おいて心が自在になったとき、止は成就したのだと知るべきである」と説かれている(この中で「意の象」とは、未熟な心を野生の象に喩えた表現。また「軽安 (きょうあん)」とは、止の実践を通じて心身を制御し、その結果として、働きが鈍重で意のままにならぬ状態から脱すること。まず心軽安を達成し、それから 身軽安を実現するという)。”)
・空は五蘊を我のものとする見方の否定。
無我は五蘊を我とする見方の否定。
空は「五蘊を自分の家の如く考えても、その中に持ち主たる我を見いだせない」ということ。
常住・単一・自在なる我の否定。
・有身見(うしんけん)とは「我と我が物」に執着する誤った見解。「私だ」と思う対象を自相として把握する「我見」、
及び身体などを「私のもの」と考えて自相として把握する「我所見」に分けられる。
有身見こそが、自分が来世に輪廻世界へ生まれる実際の根本原因である。これを無明という。
・辺執見(へんしゅうけん)とは極端な考えに執着する誤った見解。極端な考えとは、諸法が諦として成立すると考える「常辺」、
諸法が単なる言説としても存在しないと考える「断辺」、
諸法が諦として成立するここと言説においてないことの両方があると考える「有辺」、
諸法が諦としてないことと言説においてあることの両方ともないと考える「無辺」など。
・甚深四句の法門(じんじんしく の ほうもん)
とは、「色は空である。空性は色である。色より別の空性ではない。空性より別の色でもない」のことである。
「色は空である(色即是空)」という経文は、その中に「自性が」という言葉が省略されていると考えるべきだ。それゆえ、色は自性が空である、あるいは、色は無自性である、と言い換えたほうがわかりやすい。したがって、色即是空は勝義諦を示す言葉として解釈できる。
「空性は色である(空即是色)」という経文で、空性とは、色の空性のことである。
色の空性そのものが、世俗の次元では色として幻の如く存在する。
換言すれば、色は自性がないゆえに、勝義の次元では虚空の如き空性として認識されるしかないけれど、そうでありながら世俗の次元では色として顕現し、色であると認識されるのだ。
したがって、この「空即是色」という経文の全体は、世俗諦を示す言葉として解釈できる。
「色より別の空性ではない。空性より別の色でもない(色不異空。空不異色)」
とは、色とは別のものとして、色の空性があるわけではないし、また色の空性とは別のものとして、色の存在が成立しているわけでもない。もし、色には自性がないという、そのこととは別に色の空性があるならば、それは諦成就(他に依存せず自らの力でそのとおり成立していること)の空性なってしまう。
それゆえ、色や空性が諦として成立することを否定するのが「色不異空。空不異色」の意図である。
色と空性は全く同一のものではない。
勝義・世俗の二諦は、本質として同一の存在を別々な側面から見たものにすぎない(同体異面)。いま説明してきた経文では、空が勝義諦、色が世俗諦に該当する。
色は空であると説いて常辺を排除し、
空性は色であると説いて断辺を排除し、
二辺の極端論から離れた中道を提示している。
(勝義と世俗を厳密に分けないので、プラトン流のイデア界とこの世界というような二元論を排除しているのが重要です)
世俗の次元で因果関係の効果的作用は確かにある。
常辺と断辺を排除することにより、
①因果関係を絶対不変のものと誤解する運命論と、
②空によって世俗の因果関係も否定されると誤解する虚無論という、
両極端へ陥る危険性を摘み取ることができる。
・無為法の実例は、虚空・涅槃・空性など。これらは因果関係を超越し、恒常的に存在する。しかし、こうした無為法もまた、独立した実体として成立しているわけではなく、縁起として存在するにすぎない。
無為法は部分に依存し、及び分別による名称の付与に依存して仮説されるからである。それゆえ、無為法は縁起である。縁起として存在するならば必ず空である。空性も空である(空空性)。
・「不生不滅。不垢不浄。不増不減」
不生とは、一切法が実体として成立しないゆえに本来から実体性をもって生じない、という意味。
因や縁によって単に生じることと、実体性をもって生じることとの区別をよく認識しておかなければならない。
実体としての生起を排除し、常辺を排除。
因や縁による生起まで否定したら、有為法は全く生じないことになり、断辺に陥ってしまう。
不滅とは、実体性をもって生じないのだから、実体性をもって滅することもない、という意味。因や縁によって滅するが実体としての滅ではない。
不生不滅とは、そのものが縁起として存在している、ということである。
(不垢不浄と不増不減は以下同様なので省略します)
・「五蘊がない」という箇所は、そもそも「世俗の次元で五蘊がどのように存在するか」ということなど論議の対象としていない。
つまり、「五蘊がない」という経文は、そのような高い境地の三昧における観じ方を表現したものであり、世俗の次元での有無の論議とは区別しないといけない。世俗の次元でも五蘊がないことになると、非常に危険な虚無論へ陥ってしまう。「得るということもなく、得ないということもない」という箇所まですべて、この世俗次元の有無を扱っていないことをよく踏まえて解釈すべきである。般若心経において最も誤解しやすい部分であろう。
・法境(境=認識対象)は、意根(精神的な領域を知覚する機能。根=感)のみによって把握される。
・四摂事(ししょうじ)
①布施(他者へ惜しみなく施すこと)
②愛語(心のこもった優しい言葉で語りかけること)
③利行(りぎょう。相手のためになるように行じること)
④同事(どうじ。相手と同じ立場で修行すること)
村手 さとし @mkmogura 2012年7月8日
@lanekota 今さら、やばいとか気にしないよ。つまり、すごい数なわけよ。例えば寺も、すでにキリスト傘下であって、愛語という言葉を全国の寺で使う。うちの寺もよく出てくる禅宗なのにね。これは無量寿経というなかの和顔軟語というのを、愛にむりやりすり替えたわけ。
村手 さとし @mkmogura 2011年10月28日
まあ、ブログでも最後の方に書いたんだけど、高野山って真言宗の全てを焼き討ちした秀吉のお母さんの寺なんだよ。時代も何も、宗派も真言宗とは関係ないよ。空海=弘法大使ってことだが、そもそも弘法=仏教をつたえるえらい坊さんって形容詞でしょ?神や、アーリアと一緒同じ手法。
木村 仁 @mucunren 7月17日
命を攻撃する事は悪いことです。愛は何かを好んで可愛がるので、一見攻撃とは無関係で悪とは無縁に見えます。 しかし、普通の人が言う「愛」は大体執着による「渇愛」です。 渇愛ならば愛する者を失えば悲しみ、傷つけられれば怒り、恨みます。 つまり渇愛は攻撃などの苦と表裏一体なのです。
菊池 @kikuchi_8 12月1日
1)仏教への西洋的神秘思想の混入を破すために仏教とグノーシス主義の違いを指摘する。グノーシスでは物質と精神の二元論で、物質は悪とされそこから文字通り脱却して純粋な霊の世界に至ることを目標とする。仏教では、渇愛とともに嫌悪も執着とされるので、物質を嫌悪し憎み悪と断じることはしない。
y_hotta(桑名市) @JR2ENQ 2011年2月11日
・・・この愛が仏教用語です。仏教では「一切苦悩を説くに愛を根本と為す」とあるように、愛は迷いや貪りの根源となる悪の心の働きをいいます。のどが渇いたときに水を欲しがるような本能的な欲望で、貪り執着する根本的な煩悩を指します。愛欲、愛着、渇愛などの熟語は、そのような意味を持っています
仏教ちょっと教えて - 仏教の「愛」について - Biglobe
http://www2s.biglobe.ne.jp/~posteios/PROJ_C023.htm
“この題だけを読むと、例えば「近代文学における愛」とか、「異文化交流における愛」といった「愛」の姿を思いおこされる方もおられることでしょう。しかし、少しでも仏教に関心を持ったり、あるいは知識を得た人ならば、次のような疑問を抱いたことがあろうかと思います。
たとえばキリスト教では「愛」という言葉を重視します。しかし、仏教では「愛」という漢字を使う場合、渇愛という熟字に代表されるように、煩悩を意味する言葉として使われ、あまりいい言葉として扱われていないということがあります。
さらに、もう少し突っ込んで考える人は、このような矛盾も感じるでしょう。
愛という言葉が仏教において否定的な概念ならば、『無量寿経』の「和顔愛語」という仏典の言葉の「愛」は、一体どう解釈したらいいのだろうかということです。ちなみに、高楠順次郎博士編集の『大正新修大蔵経』(全百巻)に当たってみると、「和顔軟語」となっています。欄外の注には、「軟=愛」と表記されています。しかし、現在流布している比較的入手しやすい『無量寿経』のテキストや資料には、「和顔愛語」となっています。いったいいつから「軟」が「愛」に変わったのでしょう?そして、そのような経緯は、西洋文化の交流と関わりがあるのでしょうか。
そこで、手近にあった仏教思想研究会編の「仏教思想1愛」平楽寺書店(1975年初出・1992年第4刷)を参照してみようと思います。
同書の目次を見てみますと、参考となったり、興味を引かれる論文に次のようなものがありました。
はしがき
第一章 「愛」の理想と現実 中村元
第三章 初期大乗経典にあらわれた愛 藤田宏達
これらの章を抄出しながら、簡単なコメントを整理するということで、「仏教における『愛』」についてまとめてみたいと思います。
「はしがき」には、中村元氏が、次のような提言をされています。
まず、西洋の近代思想が、抑圧的な中世の教権に対する反抗として人間の愛を正面きって押し出してきたことがあげられます。また、アジアでも、例えばインドでは、六派哲学に対する反抗として愛(preman)が強調されガンディーに至るまで、愛は人 間の最も尊ぶべきものと考えられています。日本でも、儒学の「仁」「礼」を中心にして考えていたのに対して伊藤仁斎が愛がより根源的なものであると主張しています。
さらに、現代は日本もそうですが、世界の精神的状況は愛を重要な価値基準としています。
これに対して仏教学者は、仏教は愛に対して抑圧的・禁止的であると考えてきました。すると仏教は世間の風潮に敢然と抗争すべきものとなってしまいます。
しかし、最近、日本の仏教系の学園には愛の字を用いたところが出てきています。(思いつくだけでも、相愛、仁愛などの真宗系の学校名があげられます)もし、そういう傾向が何の根拠もないままに進められたというのなら、世の風潮におもねったと いうことになります。また、もし仏典に根拠のあることならば、はっきりとした自覚をもって積極的に推進すべきでありましょう。
このような氏の指摘には、私たちも大変興味をそそられます。しばらく、仏教学者の意見に耳を傾けてみましょう。
「第一章 「愛」の理想と現実」の内容
東洋の諸国においては、仏教の中心の徳として慈悲が説かれています。愛は、それと通じる時もあれば、異なることもあります。ここでは、全般的に仏教においてどのように愛が説かれていたのかが論じられます。
愛という言葉には様々な使いかたがあるようです。愛 piya、priya、親愛 pema、preman、欲楽 rati、愛欲 kama、渇愛 tanha、trstna などです。私は、前三つは、その対象によって分類され(自己、他者、特定の個人)、後二つは、その内容によって分類され(性的愛、盲目的衝動的執着の愛)ているように思われました。
仏教では、この渇愛が人間の愛の本体であり、苦悩の源泉であると考えられます。そして、この苦悩から慈悲の心が生まれるのです。自分の苦悩を本当に知る者が、他者の苦悩にも共感できるからです。そして、この慈悲が他者に対する無条件の究極の愛の姿として「無縁の慈悲」、つまり私が誰かに何かをしてやるという三つの条件を全く意識しないで他者を幸せにするものと説かれました。
仏教の慈悲には人間的な愛の純粋性と共通するものがあります。それで漢訳仏典では、慈悲を愛と訳すことがあるというのです。これで、先の疑問も少しは晴れるというものです。しかし、慈悲は愛と全く同じという訳ではありません。愛が宗教的な自 覚で深められて慈悲となるからです。慈悲は、愛憎という対立を超えた、見返りを求めることのない絶対の愛の姿であり、しかも一切の生きとし生けるものにまで及ぶことを理想としています。
ところで漢訳仏典の中にある愛には、様々な意味が与えられており、全く反対する概念がこの愛の一語で使われています。愛によって憂いが生じ、苦悩が生じることもあれば、心の喜ぶことであるとされ修めるべき徳とも見られているのです。
特に人間関係において、やさしいことばをかけること、愛語が尊ばれます。それはやさしく言うこと、愛情こもったことば、やさしいことば、親愛のことば、親しみのある言葉で話すこと、あたたかい心のこもった言葉をかけることです。そこから、人びとに対してはやさしいことばをかけよ、という教えとなります。この場合、もちろん、愛欲の愛 kamaや渇愛の愛 tanhaというような自己中心的な愛と異なり、慈悲による利他の愛につながるものです。
こういう慈悲の愛から出た言葉が愛語です。ある場合には、互いに愛し合うことという趣意で、愛語を相愛と訳されることもあります。
こうして学んでみると、仏教の中で使われた愛の言葉は、そのまま慈悲になるのではなく、異なる性格をもつものです。愛は、一、恋愛・性愛ともに欲をともなうもの、二、独占しようとするもの、三、限界性があるもの、ということです。 しかし、愛は慈悲に通じるものであり、やがて慈悲へと深まっていくきっかけになるものといえるでしょう。
「第三章 初期大乗経典にあらわれた愛」の内容
初期大乗経典の中で代表的な経典とされるものについての論究がこの章です。原典の文献を読み込んでいるので、少し漢字が多くて難しく感じるかもしれませんが、ここではその中からいくつかを取捨選択して紹介いたします。するとそこに初期大乗の 特徴が見えてくるようです。
まず、初期大乗経典では、愛のつく言葉は否定されるべき執着としての意味で用いられています。「愛着・愛欲・愛垢・愛縛・愛染・渇愛・貪欲・欲愛・染愛」などです。『無量寿経』の五悪段には、愛欲が六回現れます。
こうした愛に対して初期仏教では、愛憎を捨てて離れることが説かれますが、大乗仏教ではこうした愛憎を超越するのが大乗菩薩の実践だと説かれます。つまり、無くすのではなく、それにとらわれない生き方を求めるということです。大乗では、愛憎にとらわれるのは分別に振り回されているからだと説くようになるのです。
例えば『無量寿経』では、極楽世界に生まれた菩薩の姿を「等しく憎愛なし」と示しています。『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』(異なる時代の翻訳)では、「憎愛を遠離す」と訳されています。また、異訳『無量寿荘厳経』では、「愛なく著なし」と訳されています。
しかし、初期大乗経典には、愛を肯定的に見る視点も色々と見いだされます。それは、人間関係を説く場面では愛は積極的に認められています。先に述べたように、愛の深まった姿が慈悲ですが、仏の衆生に対する慈悲を親の子に対する愛という比喩で表現される経典が『法華経』『維摩経』などに見られます。『無量寿経』には、菩薩が衆生のために不請の友(頼まれなくとも相談を解決してあげるよき友)となり、御法(おみのり)を説き聞かせることは「純孝の子の父母を愛敬するが如し」と、先の比喩とは逆に子の親に対する「愛敬」という表現がとられています。
また、五悪段には父子・兄弟・夫婦が「恩愛」をもって思慕し、お互いに「相い敬愛」すべきことが説かれます。さらに、「聖を尊び、善を敬い、仁慈もて博愛」すべきことが説かれます。別の場所では、世間の帝王が、「慈恵ありて博く施し、仁愛ありて兼ね済う」ことが説かれております。
ここでも、仁愛学園の名前が仏典に出ていたことが知られますね。
さらに愛という言葉が肯定的に使われている例として、仏、善知識、菩薩、法、菩提などに対する積極的な使用例があります。『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』には、「若し彼の仏の名を聞くこと有りて、能く一念喜愛の心を生ぜば」という言葉があり、これは親鸞様の『お正信偈』の中にもあるので聞き覚えがあると思います。
すこし漢字が異なりますが、同じ意味の使い方として、仏・菩薩が衆生に慈悲をかける姿を『無量寿経』では、「如来は、無蓋の大悲を以て、三界を矜哀す」という言葉があります。これは、法事の時の表白の中でよく聞くのではないでしょうか。
最後になりますが、親鸞聖人における愛ということに興味をお持ちの方もおられると思います。実は、同書では、早島鏡正博士が「親鸞における愛」という章において、親鸞聖人における愛を幅広く論じておられます。ここでは、紙数がないので、私の視点で書かせてもらいます。
『親鸞聖人著作用語索引(二巻)』によると、「愛」は執着という否定的な意味で使われる「恩愛」「愛憎」(『ご和讃』)という表現と同時に、「信楽といふは、・・・・楽は即ち是れ・・・愛なり」(『教行信証』「信巻」)、「世を救ひ人を度す慈を極す愛を極む」(同「化身土巻」)などの肯定的な表現の双方が見られます。しかし、「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑し」(『教行信証』「信巻」)のようなお言葉が比較的耳にする機会が多いせいか、親鸞聖人においては愛は否定的に用いられているかのような印象をお持ちの方も少なからずおられるのではないかと思います。”
(「和顔軟語」よりも「和顔愛語」のほうがキリスト教が喜びますからね。仏教では愛は悪寄りなのだから、愛語は不適切ですね。軟語にすべき)
…
魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう @lakudagoya 10月15日
悪の魔道師に対抗するためには、アリストテレスより竜樹がスゲーと本質的なまでにわかることかな?西洋論理学から生まれる連鎖的な階層構造に反駁できたのは恐らく、空と縁起の思想を唱えた竜樹くらいしかいないんでね?おっと、ふりーそーめんが嫌いな東洋思想はきっと「空」と「縁起」だよね。
魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう @lakudagoya 2015年11月3日
あのね、サマーディーは「三昧」ディヤーナは「禅」カルマは「業」ね。で、カタカナのサンスクリット語を使うのは何でか漢語の仏教用語が嫌いな法則。
これだけ日本語はサンスクリット語由来の漢語が日常に溶け込んでるので、わざといカタカナで言うのはよっぽど仏教が嫌いだったんだろうか?
魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう @lakudagoya 10月17日
陰謀論コミュには、聖書の引用をベタベタ貼ってやつらを叩く陰謀論者はいても、般若心経やスッタニパータやダンマタなどの仏典を引用してやつらを批判する陰謀論者っていないよね?なんで?
そもそも、東洋の教育って基本的に我欲や我執を拡大させるためにやるんでなくて、自然にそこから離れていく思想が組み込まれてる。確かに漢籍の知識が科挙 に合格するために必要なものだったのも知れないけど、漢籍の雰囲気はなんかこう、我欲と我執向きだしって感じがしないとゆーか。
メイソン教の洗脳教材の教養小説(ビルディングス・ロマン)ってのあるんだけど、これ子供に「教育的」だと賛美されてっけど、これこそがメイソン教の洗脳 の本丸でもあんだよね。教育で近代的自我を確立するってやつ。これは自我は妄想と切り捨てる仏教などの東洋思想の伝統破壊工作だよね。
西洋の教育の根本は近代的自我の確立。基本的に我欲や我執を拡大させるために勉強する。その本質を覆い隠すためと、それをバーターするために社会に対する 奉仕って観念で釣り合いを取ってる。でも、西洋の教育の根本は我欲と我執の拡大だからエリートほど贅沢や権力にうつつを抜かす。
王王大栄 @ououdaiei 10月17日
@lakudagoya 自我ってめんどうですよね。弱いと周りに潰されるか状況に流される。強いと我欲我執で自他を破壊する。
魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう @lakudagoya 10月16日
薔薇十字の陰謀論って流行んねーな。フクダルマン君でさえ、見えざる大学ネタつぶやいてたのにな。
薔薇十字の陰謀ってさ、数ある陰謀論の中でも断トツで性質が悪い陰謀論だぞ?世界中の宗教や文化をメイソン教的な西洋神秘主義に換骨奪胎して支配するつー ワンワールド思想さ。クリスチャン陰謀論者もそこ悪魔崇拝とボカさないでハッキリハッキリ言ってくださいね。プロレスかというほど歯切れ悪いしw
かつてUFOはプロレスであると言った人が言ったが、至言だと思った。メイソンを迷信臭い悪魔崇拝ネタで叩くクリスチャン陰謀論者ってきっと悪役レスラー みたいなもんなんだろーな。わざと怖い演出をするやつ。メイソンの本質を守るためにプロレスの悪役やってダメージコントロールしてますみたいなw
薔薇十字団という架空の団体の思想が近代科学を作ってオカルトメイソンいわゆる魔術結社にも受け継がれてますね。
諸悪の根源というより、薔薇十字思想がいけないのは西洋と東洋を統合するふりをしつつ、世界中の宗教をメイソン教の西洋神秘主義に換骨奪胎するかなり悪質なワンワールド思想ですね。
菊池 @kikuchi_8 7月6日
実証主義を「物質主義だ」とする非難があるそうだが、実は実証主義を徹底させると唯物論というより唯心論に近くなる。つまり、経験主義を徹底させると人間に直接立ち現われる知覚経験だけを事実確定の証拠とする事になる。実際にエルンスト・マッハが実証主義を徹底させそういう立場に近づいた。
唯物論と実証主義は実は方向性が逆。唯物論では意識経験から独立した「物質」という実在を想定するという前提があるが、実証主義はそういう前提を立てず知 覚的感覚的に経験された現象を基礎に事実を確定しようという方向性である。必然的に、経験を超える形而上学的実在については「無記」となる。
最古の原始仏典の「スッタニパータ」に「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知っ てよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」とあるが、仏教が経験主義的実証主義的な立場を取っている事が分かる。形而上学には無記。
菊池 @kikuchi_8 7月21日
工作員の皆様にはこの言葉を贈る。是非立ち直ってもらいたい。人生を組織に飼われて空費するなかれ。「自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。」(ダンマパダ 160)
菊池 @kikuchi_8 10月19日
参考までに。仏教哲学では「迷い」を「煩悩障」と「所知障」に分類。前者は所謂「煩悩」のことで感覚的情動的な迷いであり受=感受作用による。後者は知性的概念的な迷い(物事を自存視=実体視する等)であり想=表象作用による。後者は言葉が大きく関係する。概念は言葉を離れてはありえないからだ。
「物事を捉える概念の枠組み」に関する迷いが「所知障」とされる。これは現実の観察によって得られた縁起・無自性(無実体)・空・無常・無我等々の見方に 反する形而上学的なものの見方を主に指していると思われる。廣松渉哲学で言う主観や客観の自存視等を意味する「物象化的錯視」という概念に近い。
人間は物事を概念的に把握するので概念を操作されると認識を捻じ曲げられてしまう。これは単に呼び方を変えるだけでも十分効力を発揮する。オーウェルの小 説で、戦争遂行の役所が「平和省」、拷問を加える秘密警察が「愛情省」と呼ばれる「ニュースピーク」がまさにそれ。人為的「所知障」=認知操作。
吾人が仏教哲学をよく援用するのは、それが西洋哲学より優れた論理的思考の用具・枠組みと考えるから。陰謀追及には論理的思考が必要だが、それを鍛えるに は哲学が有効と思うものの西洋哲学はキリスト教や形而上学と表裏一体でドグマや信仰がこびりついておりそのままでは思考用具には不向きと考える。
一方、仏教哲学は原始仏教と初期大乗である中観・唯識が世界的に見ても大変優れた哲学となっている。唯識が生きた学派(法相宗)として残っているのは恐ら く世界で日本だけである。日本人が論理的思考を鍛える場合、キリスト教圏の哲学より仏教圏の哲学を援用した方が本来馴染むのではないか?と思う。
仏教圏の哲学がキリスト教圏の哲学より論理的思考の枠組みとして優れていると思う点は二つ①人間の判断できる範囲を超えた形而上学については判断を敢えて 保留し言及しない「無記」の姿勢②「無記」と関係するが、逆に断定を下す事柄は基本的に経験的論理的に確かめられた事象に限定する実証的姿勢。
前述の①②の理由から仏教哲学を西洋哲学より優れた枠組みと判断し度々援用している。西洋人が論理的に思考する場合に西洋哲学の枠組みを使うのと基本的に 同じで、東洋哲学の枠組みを援用する訳である。仏教哲学と言ってもピンキリだが原始仏教と初期大乗(中観・唯識)が優れている。特に中観は凄い。
日本人は論理的思考が苦手と言われがちだが、自らの風土に合わない西洋哲学を無理に援用しようとするからではないだろうか?西洋の哲学的枠組みはキリスト 教文化圏で育まれたものであり、仏教文化圏に生きる日本人には基本的に馴染みにくい。だったら仏教文化圏の哲学を援用したらいいと思うのである。
形式論理学の同一律・排中律・矛盾律は西洋の形而上学と存在論が前提になっている。「AはA、Aは非Aでない」と言える前提は「Aは自己同一的な実体である」という事。この存在論的な前提が無い限り西洋の形式論理学は成立しない。
これは常に変化する現象世界では必ずしも成り立つ法則ではない。つまり、現象は時間的存在だから昨日のAと今日のAは微妙に相違する。だが、形式論理学で は「時間」は捨象されているから、昨日のAと今日のAは区別されない。それは只の約束事だから問題は無いが、変化する現象と乖離する事は事実だ。
西洋の形式論理学が前提とする西洋独特の存在論を対象化・相対化する視点を得てこそ、形式論理学も有効に活用できるというもの。東洋伝統の哲学はその視点 を提供してくれると考える。日本人が論理的思考を鍛えるには元々伝統的に馴染んできた仏教文化から資源を活用すべきというのが吾人の結論である。
ついにお坊さんと間違われてしまったので^^;仏教哲学を度々援用する意図・理由をご説明させていただきましたm(_ _)m個人的には、「入門 哲学としての仏教」竹村牧男著(講談社現代新書)がお勧めです。
仏教は「無常」を説くが「世界全体は常住か無常か」という命題には「無記」の態度を取った。では仏教は何について無常を説いたのか?五感と思考で捉える経 験世界(眼耳鼻舌身意・色声香味触法=十二処)について無常と説いたのである。断定は飽く迄経験的に確かめうる範囲に限定する徹底した経験主義。
masao @mini5945 28 分28 分前
@kikuchi_8 自然が根本であれば、信仰でねじ曲げられることはない…? アメリカ国民の一部は、未だに進化論を否定して、処女懐胎を信じているのか…?
菊池 @kikuchi_8 23 分23 分前
@mini5945 東洋は基本的に自然崇拝が基本になっているので、進化論に対して抵抗はないと思います。ただ、個体間の闘争を強調する、突然変異・自然淘汰が基本の西洋の進化論に対し日本には独自の進化論があります。「棲み分け理論」で有名な今西錦司博士の進化論です。k
(風の子 @makeanovel 9月4日
ある条件下でたまたま条件的に合致して生き残っただけであり、それが強かったとか優れてた訳じゃないのか
RT @kitsuchitsuchi
進化論=生き残ったものが生き残ったという結果論。優れた強いものが生き残るのではなく、生き残ったから優秀で強いということにされた。順番が逆。
アニメアイコン @the_drunken 2013年11月28日
「進化論は結果論」なのですよ。
進化はランダムな事象に左右され易く運の要素が強いから結果が予測できないという事ももっと広く知られるべきだと思う。
らると @rarunyan15 2013年8月27日
進化論について。進化論は「進化」という言葉を使っていることが間違っている。
いかにも努力して勝ち上がってきたんだぜ!すごいだろ?と言わんばかりな言葉。
実際の所は、運の要素が強い。結果論に過ぎない。
finalvent @finalvent 2013年9月9日
適者生存は結果論だから結局運の良し悪しでは。“@AriettaAoi: ダーウィンの進化論
この世で生き残る生物は もっも頭の良い生き物でもなく もっとも強い生き物でもなく もっとも変化に対応できる生き物だ”
ヒラ:// @punanny_chang 8月25日
弱い者から死ね
これが自然の摂理でしょ?問題は「弱い」の定義で肉体的に、頭脳的に、強いから生き残るわけじゃない。バカなハナタレでも資産家の子供であれば食っていける。屈強な男でも信号待ちに車で突っ込まれれば死ぬ。
「弱い」の定義とは実は「運がない」という事なんだろう。
そして最も強いとされる立場とは争い災いから物理的に一番遠い所にいる者のことなんだろう これって生まれによって全て決まる、って言い切ってるのと同じなんだよね ツバ吐いてやる)
underpondof12shrine @racist_banana 6 分6 分前
@kikuchi_8 これはデモクリトスの原子論にまで遡る 古い物質観と関係があります。 原子という物質の最小単位は、その内部に「空虚」を持たず 不可分(それ以上分割できず) 不変(永久に変わらない) というものです。 自らは自らに等しいので 運動(変化)の余地はありません。
菊池 @kikuchi_8 4 分4 分前
@racist_banana ご指摘感謝です。おっしゃる通りだと思います。現象世界の背後に想定されるプラトンのイデア説も西洋の実体論の原型でしょうね。質料主義の実体論の代表が原子論で、形相主義の実体論の代表がイデア論だと思います。
隠者(人間) @inja650rr 11月3日
@kikuchi_8 @sunamajiri 世界の在り方についての無記は
形而上学であるからだと思います。
これに関しては毒矢の喩えが非常に解りやすいと感じます。
毒矢に射られた人と、形而上学に拘り死を迎える人とを対比させた極めて秀逸な言い伝えであるように私は感じます。
(miwa @n_miwa 12月28日
「この毒矢はどこから飛んできて、なぜ私に刺さったのだろう?そこにはどんな宇宙の意志が」とか言う前に、早く毒矢を抜けよ、というお釈迦様の言う毒矢の例えは、凄く現実的な教えだと思うし、宗教家がこれ言っちゃうのも実は凄いよね。
かわたろう @kawataro84 2014年9月14日
NHKスペシャル「臨死体験」。最後、立花隆さんの「死はそれほど怖くない。あれこれ想念を巡らすから怖くなる」という話はとても仏教的だね。そのお釈迦様は「毒矢の例え」で、死後の世界がどうこうと時間を費やすのは無意味と説いていた。神秘体験の真偽に興味はあるが、こだわらずさらっと流そう。
木村 仁 @mucunren 2014年4月29日
毒矢が刺さっている人が、この矢を射ったのは誰で、出身は何処で身分は何か、矢尻の形と毒の作者が誰か全てわからない限りこの矢は抜かないと言っていれば、その間に毒が全身に回って大変な苦しみを味わいながら死んでしまいます。
この例え話の毒矢は煩悩と執着です。
あブラだこす @aburadakos 2013年10月24日
自分の名前を捨てると想定するとき、名前であったものは何か?名前そのもの、それは何であったか? 自分とは何か?と問いただしてみると良い。私であったもの。正に毒矢の例えのごとく、私と言う存在論が執着として、それが名前と言う象徴によって表現されている。名前と言う私と言う現象、幻想の欠片
慈永祐士 @jiei_yushi 2013年5月18日
まあ、基本的にブッダの説法方法は、「お前さんが信じとるやり方はそういうやり方かもしらんが、それをやっているとこういう風になるよ」という説法の仕方がメインスタイルなわけである。そういえば毒矢の例えとか、ソーナという元・竪琴演奏者だった比丘に対しても、同様な方法でしたね。
メロウ*ライク @mellowlike 2009年10月2日
@hasso_ 「「「「毒矢の例え」の例え」の例え」の…」ってなってるよね。哲学系の人って。「本を読むための本を読むための本を読むための本」とか。)
菊池 @kikuchi_8 11月3日
@inja650rr 毒矢の例えは有名ですね。同感です。形而上学的に世界がどうあろうとも、人間の生老病死の「苦」の現実には変わりは無く、またその「苦」を克服する道も形而上学的世界観に関わりなく存在するから、人間が判断・決定できない事に関わるより現実に結果が出る実践を優先すべきと。
隠者(人間) @inja650rr 20 時間20 時間前
@kikuchi_8
御釈迦様は入滅までの間死後の世界などの形而上の世界については一切語りませんでした。仰る通り無限ループに嵌り真理には絶対に到達せず一切皆苦の解決には無意味であるからでしょう
神通力の中でも畢竟漏神通とは、実は正に二律背反の回避であると私は読解しています。
(漏尽通(ろじんつう)=煩悩を打ち消し悟りの境地に至っていることを知る超人的能力)
菊池 @kikuchi_8 10 時間10 時間前
@inja650rr なるほど、「漏尽通=二律背反に陥って決して決着できない形而上学を回避すること」という解釈ですね。形而上学への執着も「煩悩」ですからね。素晴らしく合理的な解釈であられると思います。原始仏典に出てくる「悟りを開いた人間」としての釈尊のあり方と整合性があります。
隠者(人間) @inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 有難うございます。
漏神通は形而上学に限った事ではないと考えます。
この世は如何に二律背反に陥る無益な議論が多い事か僕は憂います。
菊池 @kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr そうですね。「対象化された事物への執着・煩悩を断つ」という趣旨だと思います。「法執」というものですね。形而上学も事物の一つですからね。そして、おっしゃるような、答えのでようもない、憎しみや争いだけを助長する無益な議論が本当に多いと思います。同感です。
隠者(人間) @inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 御釈迦様の言う中道の精神は想像以上に困難でありつつも、
悟りという境地は存在すると僕は確信をしました。
決して現代仏教に言われるような空理空論のようなものではなく遍く公衆にとって非常に有益な思想であると思います。仏の道を僕は進みたいと思います。
菊池 @kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr 素晴らしいお志だと思います。仏教の四諦の教えにしても、非常に論理的実証的で筋が通っている実践的な哲学だと思います。「悟りの境地」は分からなくても、執着を幾分か減らせばそれだけ苦しみが減る、という事は誰しもが確かめられるように思います。
(SHIVA @francisco_bot
【四諦】は原始仏教の核となるもっとも根本的な考え方。
ザクッと言うと
①人生は苦である。※仏教における「苦(dukkha)」の意味は「思い通りにならないこと」
②苦の原因は渇望(欲望)にある。
③渇望を滅すれば苦も滅する。
④苦を滅する道は八正道である。
【八正道】 正見(正しい理解) 正思惟(正しい思考) 正語(正しい言葉)
正命(正しい生活) 正業(正しい仕事)
正精進(正しい努力) 正念(正しい気づき) 正定(正しい集中)
※ブッダが最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る(瞑想)修行の核となる8つの方針)
隠者(人間) @inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 人間は、動物が群れで過ごすように、孤独を恐れる存在であると思います。執着とは正に孤独を恐れるが故の動物的本能なのかもしれません。
ならば理性を持った人間の本来的な在り方とは孤独である事なのかもしれません。
菊池 @kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr 確かにそうかもしれません。私は人間が執着するのは「言葉を持つ動物」だからだと考えます。つまり、本来は一つながりの「縁起」の世界を言語によって分節化し対象化する。そうやって取り出された事物=法を縁起によらず独存していると見なすところから執着が始まる、、と。
隠者(人間) @inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 なるほど、言語とは個体同士が意思疎通をする為の手段。だとするのならば、コウモリやイルカの超音波でのやり取りもまた言語とも言えましょう。
言語には意味と感情が含まれると考えます。
コード(暗号)に載った感情こそが人間同士の不調和を齎す原因なのかもしれませんね。
菊池 @kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr はい。そして人の言語はとりわけ発達しています。言語とはシンボルの一種で、シンボルとはある事物を置き換えた記号ですが、現実の事物が存在しなくても、記号なら数に限りが無く拡大されますので、それにつられて記号にともなう感情も拡大され不和を招く事もあると思います。
隠者(人間) @inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 中道とは左右から非難を喰らいつつも真理を追究する精神、そして智慧なのかも知れないと僕は仮説を立てます。
仏教は智慧の教えであると言われるように、偏りの無い思考力を持ち、本質を探る事が出来れば世の中は御釈迦様の言うように世界は調和できるものと確信しています。
菊池 @kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr そうですね。両極端な立場からの非難に動じることなく泰然として、ゆるぎないバランス感覚をもって、偏らない思考をし、物事の本質を的確に見出していく。極端に偏らない中道(中る=あたる 中道=適正な道筋に適合する)は調和の道でもありますね。おっしゃる通りです。
隠者(人間) @inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 常楽我浄の顛倒により一切皆苦が生じるのだとすれば、
四法印の内一切皆苦とは、
「生きる事は苦しい事だ。だから諦めなさい」なのではなく、
「生きる事は苦しい事だ。だからこそ一切皆苦を克服しなさい」と言っているように僕には感じられてならないのです。
( 隠者(人間) @inja650rr 5 時間5 時間前
@sunamajiri
常楽我浄…
無常であるのに常と見て、
苦に満ちているのに楽と考え、
人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、
不浄なものを浄らかだ
…とみる事。)
菊池 @kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr おっしゃる通りです。四諦の「諦」とは「あきらめる」ではなくて、「あきらかにする」という意味だと思います。そして、「生きる事は苦であるが、苦には執着という原因がある。その原因を克服する事で苦を乗り越える事が出来る」この道理を「あきらかにせよ」だと思います。
隠者(人間) @inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 四諦の理を理解する為の八正道。
四諦の理を超える事で涅槃寂静。即ち≒0の精神に到達できるのでしょうね。
菊池 @kikuchi_8 8 時間8 時間前
@inja650rr 四諦と八正道は相補的だと思います。八正道の最初「正見」とは四諦の理を認識することが含まれていると思います。四諦の理と申しましても、そこに到達する真理のようなものではなくて、あくまでも実践上の指針のようなものだと思われます。四諦を実践する事で「涅槃寂静」にと。
隠者(人間) @inja650rr 8 時間8 時間前
@kikuchi_8 八正道の正見は、御釈迦様のいう中道の精神に欠かせないものだと思います。
プラス側にもマイナス側にも思考が偏らない境地を目指す事。
それこそが、涅槃寂静(≒0)なのかもしれません。
菊池 @kikuchi_8 8 時間8 時間前
@inja650rr はい、まさに中道ですね。
菊池 @kikuchi_8 6月10日
キリスト教徒やカルト信者と並び西洋近代哲学信奉者も、「自己相対化」という事がとことん苦手らしい。彼らの依拠する絶対的前提が揺らぐことへの過度な恐怖心を持っている。例えば「空」を「虚無」と曲解し感情的に反発するのは、「実体」概念という自らの基盤を掘り起こされる事への恐怖心だろう。
西洋近代哲学信者は「空」や「無常」を虚無と曲解する。しかし不変の「実体」を想定する事が実は虚無なのだ。変化しないからどのような意志的努力も無意味 となってしまうからである。より良い自分になろうとしたり、良い環境を作ろうと努力することも変化しないなら全て徒労。これこそが「虚無」だ。
菊池 @kikuchi_8 6月10日
↓いつも的確なコメントをしてくださり感謝です。本当にその通り。哲学のふわふわした議論を数日も続けていると現実と接点のない空虚な遊戯をしている感覚になる。もっと実のある事を語るべきだ。西洋近代哲学信者が耶蘇やカルト・スピとあまり変わらない体質だと分かった事をせめてもの収穫としよう。
菊池 @kikuchi_8 6月11日
「善と悪の最終戦争」という危険思想は「善」と「悪」を実体視する所から生まれる。最初は何気ない言語化から始まるが、その度合いが進むと形而上学化し、さらには宗教化、最後には絶対的ドグマとなる。その妄想が本当に戦争を引き起こす。「実体視」というのは 事程左様に危険な思考習慣なのである。
菊池 @kikuchi_8 6月6日
@sunamajiri 心を認識作用と捉えるならば、心も時間という形式を持っているようにも思うのですが。つまり、「作用」という限りは、時間的幅があるはずです。対象は常に認識された対象なので、対象が時間性を持つならば、その認識自体も時間性を持つように思うのですが。
菊池 @kikuchi_8 6月9日
ドイツ観念論はほとんど無意味な事を語っていると思える。「こういう説明の仕方もできる」という事なら意味があるが、それが事実そのもののように語るとしたらもはや迷信のレベルではないだろうか。形而上学を語っているという事に無自覚な形而上学の徒はとても厄介。「高級版スピ信者」では。
菊池 @kikuchi_8 6月16日
明治以来よくいる西洋崇拝者=「洋学紳士」諸氏の有様①西洋の権威を取りあえず鵜呑み・脳内西洋人と化す②脳内西洋人の視点から日本を歪んだ視点で捉える③歪んだ視点で拵えた日本に関する偽問題を論う④最初の対象認識が歪んでいる以上無意味なから騒ぎ(基本的にストローマン)➄ご苦労様である。
明治の「洋学紳士」は基本的に左翼の自虐史観派の精神構造のプロトタイプである。西洋イズムを気付かれないように伝統に混入する手口よりは、ひねりが無く ストレートではある。手口の差異はあれど結局同根だが。洋学紳士の系譜からキリスト教社会主義者・マルキストの系譜が派生する。新人会が萃点だ。
親英米保守は脳内イギリス人と言える。彼ら「保守」を名乗るが、違和感を感じるのは、イギリス貴族的な差別意識と傲慢さが強い所。心の底では日本人を馬鹿 にしている。イギリス精神に憑依されている。イギリス貴族文化被れのくせに何が「保守」だと。一方、おフランス大東社精神に憑依されたのが左翼。
菊池 @kikuchi_8 6月10日
西洋近代哲学信者から「廣松主義か?」と、考察で取り上げただけで随分料簡の狭い質問を受けた。何度か申したが哲学は「参考までに」という捉え方である。哲学や思想は「活用」すべきものであり、ドグマとして信奉するようなものではないと考えている。現実解釈として理に適えば参考にするのみだ。
菊池 @kikuchi_8 6月5日
廣松哲学の、「世界が世界を認識する」総世界的連関体、という考え方が非常に華厳的だと思った。「無限の縁起的関係性」を説く華厳思想と、認識の「総世界 的連関体」を指摘する廣松哲学は、かなり酷似しているのではないか?と感じる。縁起・無自性・空が基本の華厳と実体概念の破棄を唱える廣松哲学。
@kikuchi_8 認識は縁起的に関係的に成立する、ということだろう。例えば、脳はそれだけで機能する自己完結的なシステムではなく、人体の他の部位や人体外の自然環境と連動するオープンシステムであり、そういう連関構造の中で初めて機能すると。実に仏教の縁起思想的だ。
菊池 @kikuchi_8 6月5日
直接倒せないなら、宮中周辺にキリスト教徒やメーソン員を送り込んで内側から乗っ取る、というのが国際秘密力の対御皇室戦略の骨子だと分析している。八切止夫が述べたサンカ人脈から得たと思われるインサイダー情報によってある程度裏付けられると思う。直接倒せないなら憑依する、が国際秘密力戦略。
菊池 @kikuchi_8 6月5日
「唯識」は「物に対して心だけ」とか「物質に対して精神だけ」という観念論というよりも、「人間にとって世界が展開する場は(深層心理を含む)意識」という哲学だと考え る。認識主体にとって「物質」は五感や思考の対象としてしか現前しないと。その上で近代哲学と違い「物自体」を否定する。
菊池 @kikuchi_8 6月5日
唯識を考える上で参考になりそうだ。量子力学のコペンハーゲン解釈:量子力学の状態は、いくつかの異なる状態の重ね合わせで表現される。このことを、どちらの状態であるとも言及できないと解釈し、観測すると観測値に対応する状態に変化すると解釈する。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E8%A7%A3%E9%87%88 …
菊池 @kikuchi_8 6月5日
量子力学のコペンハーゲン解釈を聞くと、廣松渉の「四肢的構造連関」という認識論が思い浮かぶ。認識主体と認識対象は主客で二元的に分かれているのではなく、一体の構造であり、認識主体のあり方が認識対象のあり方を規定する側面を指摘する。廣松氏は能所の不二一体性という仏教的表現をしていた。
菊池 @kikuchi_8 6月5日
アインシュタインの相対性理論はエルンスト・マッハの認識論(マッハ主義)に依拠する部分が多いそうだ。マルクス・レーニン主義者はマッハ主義を「観念論」として嫌うそうで、だからソ連では相対性理論は禁圧されていた由。では何故核兵器開発ができたのか?西側からの援助だろう。冷戦捏造両建芝居。
菊池 @kikuchi_8 5月28日
エベールは理性を崇拝し、ロベスピエールはそれを批判し「最高存在」(「自由」の理念のことらしい)を崇拝する。これはあまり大差ないだろう。前者は認識主体の側を実体化して崇拝し、後者は認識対象の側を実体化して崇拝しているだけの違い。唯識で言う見分と相分を其々実体化した「無明」の立場。
@kikuchi_8 「空」(勝義)を踏まえない哲学的立場(なんらかの実体を想定する実在論の立場の事と思われる)は全て「道理世俗」と呼ぶらしい。「実体」は「不変」をそ の性質としているので、実体を想定すると変化する現象世界が説明できず、必然的に現象と実在の二元論二世界論に帰結する。
@kikuchi_8 「我法二空」(「我」は主体、「法」は客体、主体以外の事物)というが、理性崇拝は主体である「我」を実体視して固執する「我執」の立場、「最高存在」の崇拝は客体である「法」を実体視て固執する「法執」の立場、と言えるかもしれない。いずれも実体論の範疇である。
菊池 @kikuchi_8 5月28日
豊臣秀吉の伴天連追放令は天正15年(1587年)だが実はその20年以上前の永禄8年(1565年)に正親町天皇がキリシタン追放の綸旨「大うすはらい」を出されている。豊臣、徳川よりいち早くキリスト教の危険性を看破されていた朝廷。明治以後耶蘇勢力が宮中に狙いを定めた動機はこのあたりか。
イエズス会HPにキリシタン関連の年表があったが、1565年のところにしっかりキリシタン追放の綸旨「大うすはらい」(でうすはらい)が載っていた。連 中しっかり覚えている模様。日本への文化侵略の為に彼らがどこを狙っているのか。宮中御周辺にキリスト教徒が多いのは決して偶然ではないと思う。
一神教では、偶像崇拝がいかんと言われるが、「造物主」崇拝というのも偶像崇拝ではないだろうか。物質的な偶像と言えども認識主体に認識されている限りで は知覚的な表象である。造物主概念は想像的な表象である。それぞれ知覚的か想像的かで違いがあるだけで、対象的事物であることに変わりはない。
仏像を破壊するときのキリシタンの心像風景を想像するに、彼らの意識対象には強烈に「でうす」という想像的な表象が浮かんでいたと思われる。仏像という知 覚表象より「でうす」という想像表象が優越する合理的理由などは無い。仏教では「縁起・無自性・空」を説くから究極的には対象化は否定される。
@kikuchi_8 意識は意識作用(主体=見分)と意識対象(客体=相分)からなる。「造物主」という想像的な表象以外は全て無価値とするのがキリスト教である。唯識仏教で はあらゆる対象は意識作用の対象面だと考えるから「造物主」も形として浮かんだ仏も単なる意識対象=相分という事になる。
菊池 @kikuchi_8 10月27日
「空」は「無」と混同されがちで、空思想=ニヒリズムと誤解される事が多い。しかし本当は「空」は「縁起」と同義なので「空」であるものは「存在する」という事。中村元先生の解説によれば「縁起だから無自性。無自性だから空」という論理的順序だそうだ。結局、縁起は空と同義とのことであった。
「自性=実体として存在しているのでない」となれば、「どのように存在しているか?」という疑問がわくが、その答えが「縁起として存在している」となる。 つまり、他の力を借りずにそれ自体で存在しているのではなく、常に原因条件に依存して縁起的=関係的に存在している=空である、という事。空≠無
宗教は人心支配の為の強力な武器になっているようです。「こういう風に大衆を誘導したい」という狙いから逆算して宗教構築。
菊池 @kikuchi_8 6月19日
耶蘇原理主義者が「善悪二元論は勧善懲悪という事だから普通の事」みたいに書いていたがさにあらず。善悪二元論は常識的な勧善懲悪論ではなく善と悪という概念を実体視した形而上学。この意味で「神と悪魔の闘争」という耶蘇教が「光と闇の闘争」というゾロアスター教の影響下にあるのは明らかだろう。
菊池 @kikuchi_8 6月6日
@sunamajiri 無常論は常に変化しつつある現象の容態を観察して記述しただけのことだと思います。シンプルです。そもそも「時間」というからにはそこに「変化」のニュアンスが概念的に含まれているはずであり、もし不変であり恒常ならむしろ「無時間性」が帰結するようにも思います。
菊池 @kikuchi_8 5月25日
高度なテクノロジーによる管理支配というのはまさに「イルミナティ」の思想。理性を軽視又は放棄するキリスト教への反動から理性を過信する理性崇拝教が生まれた。両極端だが、何かを実体視して妄信している点は共通している。キリスト教で崇拝する「造物主」を内面化したものとしての「理性」を崇拝。
菊池 @kikuchi_8 5月25日
理性とは推論する能力。推論には出発点が必要。最も確実と思われる出発点は知覚等により経験的に確かめられたもの。できるだけ不確定な要素が無い方が結論はより適切になる。だが自然が対象ならまだしも統治体制をデザインするにはあまりに不確定要素が多すぎる。これが「できる」とするのがイルミナ。
yajima-mieko @emieko 5月26日
自然や自然現象といわれるものこそ不確定要素が強いどころか、人間にとり不可知でないか、と思っておりますが、自己の外在物であるものとしてそれを対象化する働き=知性においては。なんであれ理性によって遍く支配できるとするのが顛倒想でNWO。 https://twitter.com/kikuchi_8/status/602863211193368576 …
菊池 @kikuchi_8 5月25日
推論能力としての理性は比較的確実な知覚による経験が可能な自然現象に適用する分には割りと的確な結論が出る。だが理性でゼロから統治秩序が設計可能か?理性を機能させる前提はこの場合どこに置く?各国の歴史・文化の相違等の不確定要素が多いので理性を全世界に適用してNWOを構築など不可能。
菊池 @kikuchi_8 5月26日
@emieko 自然界ですらそうなのですから、複雑な人間の意志や感情が交錯して形成されている社会組織のデザインを理性の能力でゼロから構築するのは不可能事だと思われます。社会組織は歴史的慣習の叡智を重視しつつ、悪い部分は慎重に改良していく、という漸進的なあり方が無難と考えます。
@emieko それに、量子力学(これについては私は無知ですが)などで解明されたミクロの物質世界における「非決定性=一義必然性の否定」からすると、自然界そのものが不確定要素を含んでいる事が明らかになっておりますね。
@emieko はい。対象自体・意識内容・意識作用という近代哲学の三項図式からしますと、「自然界そのもの」(があると仮定して)は確かに不可知であると思います。人 間にとって現前する自然はどこまでも視覚や触覚、あるいは思考作用で概念的に把握された限りでの「自然」であると言えますね。
菊池 @kikuchi_8 5月26日
自然現象こそ不確定で不可知なものではないか、というご指摘を受けた。確かに。認識主体としての人間に現前してくる「自然」とは常に視覚や触覚等の感覚作用、思考作用で把握された概念としての「自然」であり、意識作用を離れて「自然」を感知することはできない。その意味で確かに「唯識」である。
@kikuchi_8 認識主体に立ち現われてくる五感の作用(電子顕微鏡等の器具を使った拡大された知覚を含む)を概念的にまとめて、その規則性を記述する=科学といえるかも しれない。「理性」は感受された五感作用を概念的にまとめた上で、概念同士を操作して推論を遂行する能力と言えるかも。
@kikuchi_8 五感として現成する自然現象は一応規則的だから自然科学は比較的正確。このように自然科学の場合は理性を機能させる前提を広義の感覚や知覚に置く。だが 「理性で世界政府を構築」となると、何を基礎に「理性」を機能させるのか。NWOは理性を過信した者以外からは出てこない。
菊池 @kikuchi_8 5月26日
理性崇拝とはキリスト教の「造物主」を「理性」に変えただけの実体的な絶対者崇拝。西洋における反キリスト教思想は発想の根底がキリスト教と共通。引用:(理性崇拝とは)神に代わり人間の「理性」を崇拝しようという非キリスト教化運動。【理性の崇拝】http://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-075.html …
iseakira @iseakira 5月26日
@kikuchi_8 結局これってキリスト教(または旧約含む)世界の中の話でしかないわけす。理性崇拝の極端な形の、知性の実を食べさせた蛇を崇拝するだの、サタン崇拝だの見れば構図は分かりやすい。非キリスト教的自称のものも含めて、みなその世界観の中のおはなし。「しらんがな」なわけです
菊池 @kikuchi_8 5月26日
@iseakira まさに「はげどう」というやつであります。理性崇拝にしろ、理性崇拝を人格神的に表現したと思われるルシファー崇拝にしろ、「神との合一」の西洋神秘思想にしろ、キリスト教世界のフレーム内での相互対立でしかないわけですね。非耶蘇圏からするとまさに「しらんがな」ですね。
(“理性の崇拝
フランス革命のジャコバン独裁期に、エベールらが推進した非キリスト教運動。
フランス革命が進行し、ジャコバン派独裁政権が成立した時期の1793年に、左派のエベールによって進められた神に代わり人間の「理性」を崇拝しようという非キリスト教化運動。アンシャンレジームのもとで王権と結びついていたカトリック教会に対しては、革命当初から批判が強められており、特にジャコバン派の中の急進派であるエベール派がキリスト教否定の立場をとっていた。
1793年に国民公会でカトリック暦が廃止されて革命暦(共和暦)が採用されたことで非キリスト教運動は盛り上がり、教会の破壊や聖職者の妻帯を進め、その一方で「理性の祭典」が組織されていった。10月、パリのノートルダム大聖堂は革命派に占拠され、祭典が強行された。
ロベスピエールは理性の崇拝を批判
しかし、ロベスピエールを中心とする公安委員会は、「理性の崇拝」の強要は無神論であり、またその強要は信仰の自由に反するとして、エベール派を批判、またダントンらの右派も反対した。その結果、94年3月にロベスピエールによってエベールが反革命として処刑され、理性の崇拝は廃止された。ロベスピエールはキリスト教の神に代わる「最高存在」を革命のシンボルとしてつくりあげて、それを祝う祭典を計画し、同年6月に「最高存在の祭典」を挙行する。”
http://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-075.html)
通常より短い記事をお読みくださり本当にありがとうございます!
目の前に神や仏や宇宙人が現れて、自分だけが選ばれたと救世主気分におぼれたり、宇宙霊と合体して天にも昇る素晴らしい心地がしたと感激する、などは魔境であり、悟りの邪魔であるから、とらわれたりこだわってはならないと、禅ではいましめています。つまり神や仏や宇宙人や宇宙霊や選民思想が現れても、相手にせず受け流し、軽くかわさないといけません。
瞑想だけじゃ悟れないし、ひたすら座禅だけ組んでも駄目だし、いきなり言葉を否定しても駄目だし、考えることも大事だとしているのが禅です。
禅宗含め、仏教は虚無論ではありません。このような誤解や曲解を予想して、先回りしてちゃんと否定しているのが仏教哲学です。
禅に限らず、心の平安と執着からの解放が仏教の目的なのだから、愛などの執着を善だと主張する時点で偽物です。
愛(=執着)は善なのがキリスト教で、
愛(=執着)は悪なのが仏教です。
禅で禁欲と自省と道徳を養うことが修行で必須とされるのは、魔境により生じる選民思想を防ぐためです。
野狐禅(=危険な邪禅)をすすめるスピ詐欺師が多いので注意!
スピリチュアル、神智学、ニューエイジなどのインド風キリスト教は、本来のインド思想、特に仏教思想を破壊するために支配層が盛んに布教活動をしている思想です。
支配層が仏教思想の中で特に破壊したいのは、論理的思考を重視する姿勢と、一神教と新プラトン主義を完全否定する無記と空と無常と縁起の思想です。
だから、紐付き陰謀論者がキリスト教と神道カルト(大本教系)だらけで、工作員でない(可能性が高い)陰謀論者の思想が仏教寄りであることが多いのです。
天皇家が欧米に留学し、ミッション系の学校へ通い、ティアラを正装とするくせに「神道」なのは彼らにとっての「神道」が和風に偽装したキリスト教だからです。
「陰謀論」や「陰謀論者」を「狂人」という意味でレッテル張りしてくる工作員がいるのですが、調べれば出る情報をもとに考えているのだから、「比較陰謀学者」や、「比較陰謀論学者」や、「”陽”謀論者」や、「真相追及者」と呼んでほしいですね。
禅の詳しい記事は次回にして、今回は、「キリスト教思想で都合よく改悪されていない本物の」チベット密教についてです。
論理と言葉を軽視あるいは否定する、チベットチベットうるさいスピリチュアル(=インド風の新キリスト教)信者に、チベット密教は論理的思考重視でありスピリチュアルを否定していることを示す以下の証拠↓を食らわせたら、迷惑な酔っぱらい(スピ信者)のごく一部はしらふに戻るでしょう。
信者が「自分」だと思っているものは実は欲とカルトの教義であり、それを自我と信じ込んでいるだけです。
“仏教論理学(因明[いんみょう])と認識論に関しても、チベット仏教の伝統は、実に高度な論議を蓄積してきました。「比丘や諸々の賢者たちよ。金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊 敬のゆえに受け入れてはならない」。これは、チベットのラマたちがよく引用する聖句です。お釈迦様は弟子たちに――あたかも金の純度を確かめるがごとく ――自らよく考えて教えの中身を吟味し、その後で初めて教えを信奉するように強く戒めています。チベット仏教では、こうしたお釈迦様の精神を受け継ぎ、盲信や実践至上主義を排し、明快な論理による思考を重視しています。”
p.20、斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社
“「視覚ではなく意識で、しかも次第に直感的に……」というのが、第一のポイントです。
第二のポイントは、「向こうから現われるのではなく、こちらから向こうへ置く」ということです。瞑想の中で、「自分の意思とは関係なく、本尊などが向こうから突然出現した」というような神秘体験は――何らかの印や徴候と認められるケースも稀にあるでしょうが――多くの場合、修行者の妄執が生み出した幻覚にすぎません。それゆえ、実践の正しい拠りどころとして、ほとんど信頼できません。また、実際にそうした幻覚が現われなくても、あたかもそうであるかのごとく瞑想することは、間違った方向へ心を慣らすばかりなので、いくら実践しても望ましい成果を期待できません。そうした突然の神秘体験に執着せず、あらかじめ自分の意思で「こういうふうに瞑想しよう」と計画を立て、それに従って意識の力で本尊の姿を認識対象として確立し、それを繰り返し瞑想して習熟することが肝要です。
では、信頼できない神秘体験と正しい瞑想の成果を区別する基準は何かといえば、「その瞑想に十分習熟したとき、いつでも意のままに同じ内容を再現できるか否か」という点です。もちろん最初からは無理ですが、本当に瞑想に熟達した密教行者なら、複雑な曼荼羅を――どんな大きさにでも――瞬時に再現できるといいます。「こちらから向こうへ置く」という感覚で瞑想するからこそ、習熟すれば自在に再現可能となるのです。”
p.92-93、斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社
“仏教の修行というものはすべて、お釈迦様を信じて拠りどころとしなければ成立しえません。この点で、仏教は、決して単なる人生訓や思想哲学や瞑想テクニックではないのです。
しかし、「理屈抜きにただ信じる」というわけではない点で、他の多くの宗教とは趣を異にしているといえるでしょう。第二章で引用したお釈迦様の言葉を思い 出してください。「比丘や諸々の賢者たちよ、金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊敬のゆえに受 け入れてはならない……」。“p.192斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社
“知恵者らよ、自性が空という空性の意味は、縁起の意味である。しかし、功用が空(効果的作用がない)という非存在の意味ではない”
p.54、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/クンチョック・シタル/齋藤保高 共著『チベットの般若心経』春秋社
“植物は、有情の中に含まれない。仏教では、植物は生命体であると認めるが、心を有しているとは考えない。したがって、植物が輪廻転生することはあり得ない。植物は、色の範疇に属し、無生物とともに宇宙全体を構成する環境的な要素(器世間 [きせけん])と位置づけられる。”
p.73、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/クンチョック・シタル/齋藤保高 共著『チベットの般若心経』春秋社
“勝義諦すなわち空性を体得するためには、まず言葉によって概念的に理解するしかない。 我々は、この点を肝に銘じておく必要がある。具体的には、最初に教えをよく聴聞し、次にその論拠を徹底的に考察し、それらを通じて概念的に確立された空性理解をもとに、止と観の修習を重ねることが肝要だ。もし、「勝義諦は言説を超越した次元なので、概念的に理解しようとしても無駄だ」などと誤解し、聞・ 思・修の過程を軽んじてひたすら禅定を重ねたとしても、有暇具足の貴重な人生を無駄にするばかりで、一向に空性を体得することはできない。そうした実践至上主義を厳しく戒めるため、あえて「邪な妄分別によって悪道(三悪趣)へ赴く」という強い表現を用いた、そのチャンドラキールティの密意をよく汲み取るべ きだろう。”
p.57、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/クンチョック・シタル/齋藤保高 共著『チベットの般若心経』春秋社
…
斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社
※本書はチベット仏教の内、ツォンカパ大師が開いたゲルク派(新カダム派)の教えに基づいています。
・チベット仏教の伝統では、あらゆる不幸の根源を、自己愛着という唯一つのことに集約して考える。
自己愛着の正体とは、自分自身や自分の所有物、自分の側に属するものごとに対し、執着、欲望、過度の期待を抱くこと。
・自己嫌悪の根底にも自己愛着がある。自分に対する過度の期待と現実の自分とのギャップが広がって自力では手が負えないと感じるようになったとき、自己嫌悪に陥ってしまう。
・「幸せを実現すること」と「自己愛着を満足させること」を混同してしまうのが問題。幸せを求めて努力しているつもりなのに、実はあらゆる不幸の根源にほかならない自己愛着を増長させるためひたすらエネルギーを注ぎ続けている……。
自己愛着を満足させるために貪りや怒りなどの煩悩を起こし、それによって自己中心的な行動を積み重ねていくパターンになりがち。
自己愛着を断ち切る最も強力・確実な方法とは、他者に対する大きな慈悲の心を育むこと。
(「幸せにならないといけない教」に注意。幸せは義務ではありません。幸福論は面白くないんですよね。実は不幸論のほうが面白いし、幸福論よりも役立つ幸福を得るヒントを教えてくれたりします)
・チベット仏教は、インド仏教の本流を直接に受け継いでいる。チベットはヒマラヤ山脈をはさんでインドと隣接しているので、師僧を招いたり留学僧を送ることが頻繁に行われていた。
チベット仏教が規範として仰いできたインド仏教は、残念ながら十三世紀の初頭に滅びてしまった。当時の総本山、東インドのヴィクラマシーラ寺がイスラム教徒の襲撃で破壊されたとき、最後の大座主シャーキャシュリーバドラは、難を逃れてチベットの地へ赴き、インド仏教が守り抜いてきた法灯を残らず伝え、チベットの僧侶たちに後事をすべて託した。
・“仏教論理学(因明[いんみょう])と認識論に関しても、チベット仏教の伝統は、実に高度な論議を蓄積してきました。「比丘や諸々の賢者たちよ。金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊敬のゆえに受け入れてはならない」。これは、チベットのラマたちがよく引用する聖句です。お釈迦様は弟子たちに――あたかも金の純度を確かめるがごとく――自らよく考えて教えの中身を吟味し、その後で初めて教えを信奉するように強く戒めています。チベット仏教では、こうしたお釈迦様の精神を受け継ぎ、盲信や実践至上主義を排し、明快な論理による思考を重視しています。”p.20
(スピ信者って偽物が大好きだから、本物のチベット仏教の勉強をしないんだろうね)
・中観帰謬論証(ちゅうがんきびゅうろんしょう)派では、実体性を欠如しつつ単に存在する「私」を「単なる私」と表現する。
「単なる私」とは堅固な実体性を欠如した状態で輪廻転生する主体。
・諸煩悩をすべて根こそぎ断ち切り、
その後に残った負の影響=所知障(しょちしょう)
も滅し尽くしたとき、悪い要素のひとかけらもない仏陀の境地が実現する。
・我執=実体視の習慣。
空性=実体性の否定。
煩悩の根源にあるのは空性に対する無知であり、あらゆるものを実体視する習慣。
空性は仏教の究極的な真理であり、あらゆる存在に関して「それをそれたらしめている本質的なもの」を徹底的に追及していったとき、そのような実体性は何一つ得られない。
チベット仏教の伝統教学における最終結論、つまり中観帰謬論証派の立場では、
空性とはあらゆる存在(一切法)に実体性が全くない、ということ。
実体はないが存在はしている。
実体性を欠如した状態で存在していることを、「単なる存在」とか「単なる私」という。
中観帰謬論証派の特色は、実体性の否定と、単なる存在の肯定とを明確に区別し、両方とも徹底させる点。実体性であればどんな微細なものも見逃さず、すべて完全に否定します。もし、わずかでも否定しきれず残ってしまえば、空性理解は不完全なものとなり、覚りを得ることはできない。
逆に、単なる存在を少しでも否定してしまえば、虚無論に陥り、覚りを得られないどことか、大変な悪業を積む結果になりかねません。なぜなら、哲学的な虚無論を発展させれば、事物の効果的作用を否定し、因果関係を否定し、善悪の区別も否定するところまで行きつくからです。
否定すべきものと肯定すべきものを明確に分け、否定すべきものを否定しきれない実体視の誤りと、
肯定すべきものを
否定してしまう虚無論の誤りという、
この二つの誤りを完全に排除した後に残るのが「中道」というありかた。
つまり、本当の中道とは、決して中途半端で曖昧な状態ではありません。例えば、「この本に、実体はほとんどないけれど、多少はある」とか、
「この本は、あるともいえないし、ないともいえない」というふうに、否定すべきものと肯定すべきものを区別せず、安易に中途半端な存在感を設定してしまうことを指して、ツォンカパ大師は「矛盾ばかり述べて、中観の意味など少しも説いていない」と厳しく批判しています。
空であり実体がないからそれらに対して慈悲を起こすのは無意味だ、というのは重大な間違い。
仏教以外の多くの宗教で主張している創造神とか、バラモン教やヒンドゥー教の哲学で個々の人格の上に設定している真我(アートマン)などは、最も粗い実体性の例。
そうした粗い実体性は、仏教哲学の全学派が、揃って否定している。
宇宙を創造した神の存在、あるいは創造された人間に宿っている永遠不滅の本質など、そうした粗い実体性を一切認めないのが、仏教の思想哲学の大きな特徴。
逆にいうと、もしそれらを承認してしまえば、もはや仏教思想とはいえなくなる。
密教の根本的な本尊である持金剛仏や大日如来などを、そうした創造神であるかのように位置づける見方もありますが、少なくともチベット仏教の伝統教学からすれば、それは完全に間違っている。
粗大な実体性の否定に関しては、このように、仏教哲学の全学派が一致している。
・仏教用語で「自性」とか「自相」(それ自体の側にある、それをそれたらしめている本質的なもの)と表現されている微細な実体性。
人間は生まれつきの習慣として自然に実体視してしまう。本当は全く存在しない自性や自相を「存在する」と誤って把握している。
その実体する意識のことを「我執」という。
自性や自相はまったく存在しない、という真理が空性であり、それを無自性や無我とも表現されます。そのとき、「Xの実体がない」という、そのXが人間や生き物であれば「人無我」、それ以外のあらゆる存在であれば、「法無我」という。
・単なる存在が他の何かに依存する形で成立する形で成立していることを「縁起」という。
実体性を欠如した単なる存在は縁起という形でしか成立しえない。
他の何かに依存するという場合、三つの意味を想定できる。
①原因や条件に依存
②部分に依存
③概念と結びつけて仮に設定
これら三つの意味を通じて、縁起として成立しているがゆえに実体性が否定されること、逆に実体性がないからこそ縁起というあり方になるという、その両者の相互関係。縁起によって空性を理解し、空性によって縁起を理解するというのが、中観帰謬論証派の哲学の最も絶妙な部分。
本尊にも実体はない。
空性という究極真理も実体視してはいけない。
「この本の空性」をテーマに実体性の追求を行なった場合、結論は「“この本の空性”の空性」という結論になる。
空性の空であることをいつも忘れないようにしなければならない。
(いいですか、「実体」は否定しても「存在」は否定していませんからね。仏教を無神論や虚無主義だとわざと曲解して叩く工作員の「藁人形論法=わざと相手の主張を叩き易いように加工してから叩く」に注意ですよ。
支配層は仏教の「空」と「縁起」が支配に向かず、カルト化を防ぐ思想なので大嫌い。
ツイッターを見てると、「空=神」と主張して布教している悪質な輩がいます。
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 33 分33 分前
新キリスト教陣営の工作員用のクソリプ用画像。
ババリアのイルミナティの象徴はミネルバ(アテナ)のフクロウ。
右目=太陽派(特にフランス)。
緑=世界連邦カラー。
フランスの女神は右目=太陽を見せるマリアンヌ。
@wolvesknow




私をブロックしている女神アテナ @gathena1が
“「空」=「神」=「全宇宙」=「1個の光子」”を布教。
アテナ=ミネルバが「一者への帰一」思想(典型的な新キリスト教=メーソン教)で空の神格化というタブーを犯し、支配層が嫌う空の思想=仏教の中核を破壊。 @wolvesknow
支配層が仏教の中で特に破壊したいのは、論理的思考を重視する姿勢と、一神教と新プラトン主義を完全否定する無記と空と無常と縁起の思想。 工作員はキリスト教か神道カルト(大本教系)信者だらけ。工作員でない人の思想は仏教寄りの人が多いです。
@wolvesknow @lakudagoya
画像の意味は上から、
右目側でNWO色=緑髪の『隻眼の梟』=一つ目フクロウ
『不殺の梟』(『隻眼の梟』の父)も右目を強調
右目=太陽派(特にフランス)、緑=世界連邦カラー
フランスの女神は右目=太陽を見せるマリアンヌ
詳しくは前回の記事
支配層の最重要レベルのシンボルがフクロウ、アテナ、ミネルヴァ、一つ目! 最多は十字架!
『東京喰種』では、右目側でNWO色=緑髪の『隻眼の梟』=一つ目フクロウ が最強!
「空」を神格化するなどして仏教を破壊する工作に注意!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-107.html
をどうぞ。
菊池 @kikuchi_8 5月11日
工作員連中がよく使う詭弁の一種。→ストローマン「議論において対抗する者の意見を正しく引用しなかったり、歪められた内容に基づいて反論するという誤った論法、あるいはその歪められた架空の意見そのものを指す。藁人形論法ともいう。」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3 …
菊池 @kikuchi_8 8月24日
工作員業界の「工作現場」の主力「中級工作員」の手口。①レトリックを使いひたすら対象の貶め②詭弁の多用。特に対象の主張を歪めた上で攻撃する「藁人形論法=ストローマン」がよく使われる。③議論や対話ではなく相手を論に詰まらせることのみを目的にひたすら質問を繰り返す。詭弁と修辞が武器。)
・六道輪廻の枠組みに植物は含まれない。植物は意識を持たず、輪廻転生しない。
植物にも生命組織はあるが中有の意識が来世に再生する拠りどころとはならない。
生きとし生けるものすべて(一切衆生)とは、意識のよりどころとなっている生き物全部(一切有情)ということであり、植物はその中に含まれない。
・風(ルン)
=気体エネルギー。風は心を乗せて動くことができるが対象を認識する機能はない
心には対象を明らかにして認識する機能があるが、自分で動くことはできない。
心は、五感に依存した心(根識)と、心自身に依存した心(意識)にわけられる。いずれにしてもその拠りどころとなる風を必ずともなう。
仏教哲学でいう「意識」とは、心そのものに依存した識であり、外側の対象は必ずしも必要ない。
・倶生の大楽(くしょうのたいらく)
=空性を直感的に理解している意識の状態。きわめて微細な幸福感であり、私たちが日常に体験するさまざまな「心地よい」感覚の根底にある潜在意識。
・仏陀という理想の境地を実現できたら、私たちは、大まかに整理すると、
法身(ほっしん。仏陀の心)と色身(仏陀の身体)に分かれる。
法身
=すべての存在を知りつくす完璧な智慧であると同時に、全宇宙に遍満する究極的な真理でもある。
色身は報身(ほうじん)と応身(おうじん)に分けられる。
報身は仏陀の智慧の力で集められた微細な風によって構成され、宇宙の頂点というべき場所から生きとし行けるものすべてを大慈悲のまなざしでご覧になっている。
そして、実際に救済の手を差し伸べる必要性に応じて、あらゆる場所へあらゆるときにあらゆる姿で化身を現わす能力を持っている。そのような化身を応身という。
・仏性(如来蔵)
=生きとし生けるものすべてに具わっている、仏陀の境地を得られる可能性。
仏性の正体は、「心の空性」。
普通の人間の心は、業と煩悩で非常に汚れているが、心自体には、業と煩悩で汚染されたものたらしめている本質は存在しない。
つまり、業と煩悩で汚染された状況は絶対不変のありかたではない。
・「六座グルヨーガ」では、まず眼前の虚空に自分のラマをツォンカパ大師、またはお釈迦様の姿で顕現させ、その周囲にさまざまな聖者や本尊や菩薩などが集まっている様子をイメージし、それらを対象に帰依の祈りなどを捧げる。
そして、生きとし生けるものすべての幸せを願い、そのために自分自身が仏陀の境地を得よう……と誓願を立てる。そのうえで、自分の前に顕現したラマや聖者たちから「菩薩戒」を授かった……と自覚する。これは実際に灌頂などでラマから菩薩戒を授かったことの、いわば追体験。
続いて、仏性を想起する。
自分はすでに志も立てたし、それに基づいて菩薩戒も受け、その結果これまで眠っていた仏性が今こそ目覚めたのだ……と強く思念し、「将来必ず仏陀になる」という決意を新たにする。
心の空性を瞑想しながら、眼前に展開していたラマたちの集まりを自分自身へ修練し、それによって自分の諸々の煩悩が浄化された……と思念する。
ここまでが「六座グルヨーガ」の準備段階の瞑想。
こうして空性を瞑想している状態から、眼前の虚空に蓮華・月・太陽を重ねた宝座をイメージし、その上に自分のラマを持金剛仏父母尊の姿で顕現させる。
本尊の姿などを、視覚の識で見ようとしてはいけない。
意識で思い描いて把握しないといけない。
目の前の仏像を見るのと同じように、瞑想すべきものを目で見ようとしたのでは、正しい瞑想にならない。
瞑想のときに目を完全に閉じてはならない。
瞑想すべき本尊の姿を目で見ようとしていると、実際に目の前に見えている別の風景が気になり、つい目を閉じてしまう。
しかし、意識で思い描いて把握することに集中できれば、実際に目の前に広がっている風景などは全然気にならなくなる。
意識とは五感に頼らず、心そのものに依存して認識することである。
意識にも概念的思考と直感的認識の二種類がある。
瞑想の最初の段階では、概念的思考を交えながら、「身体の色は青で、手に金剛杵と鈴を持って、胸の前で交差し……」という具合に思い描いていきます。
しかし、瞑想を何度も反復して習熟度が増せば次第に概念的思考を減らしても、直感的に認識できるようになります。
最終的には一瞬で本尊の姿を明確に顕現させ、全体像も細かい部分も直感的に把握できるようになる。
“「視覚ではなく意識で、しかも次第に直感的に……」というのが、第一のポイントです。
第二のポイントは、「向こうから現われるのではなく、こちらから向こうへ置く」ということです。瞑想の中で、「自分の意思とは関係なく、本尊などが向こうから突然出現した」というような神秘体験は――何らかの印や徴候と認められるケースも稀にあるでしょうが――多くの場合、修行者の妄執が生み出した幻覚にすぎません。それゆえ、実践の正しい拠りどころとして、ほとんど信頼できません。また、実際にそうした幻覚が現われなくても、あたかもそうであるかのごとく瞑想することは、間違った方向へ心を慣らすばかりなので、いくら実践しても望ましい成果を期待できません。そうした突然の神秘体験に執着せず、あらかじめ自分の意思で「こういうふうに瞑想しよう」と計画を立て、それに従って意識の力で本尊の姿を認識対象として確立し、それを繰り返し瞑想して習熟することが肝要です。
では、信頼できない神秘体験と正しい瞑想の成果を区別する基準は何かといえば、「その瞑想に十分習熟したとき、いつでも意のままに同じ内容を再現できるか否か」という点です。もちろん最初からは無理ですが、本当に瞑想に熟達した密教行者なら、複雑な曼荼羅を――どんな大きさにでも――瞬時に再現できるといいます。「こちらから向こうへ置く」という感覚で瞑想するからこそ、習熟すれば自在に再現可能となるのです。”p.92-93
(野狐禅も野狐瞑想も駄目ってことです。スピ信者が薬物でヒャッハーでハイな状態になる瞑想や禅をしたり賛美したりするけど、彼らが歩んでいるのは邪道で危険な道です。単なる狂人になってしまいかねませんからね。単に気がヘンになっただけです。
そもそも仏教は心の平安を目指しているのに、ヤクでハイになったら駄目でしょ。
やっぱりスピ信者は、キリスト教によって改悪されてしまう前の真のインド思想なんて勉強しないんでしょうね。
偽物を崇めて「覚醒した!」って笑えませんな。
「別の価値観に洗脳された! 勘違いして選民思想を持った!」の間違いでしょ。
『魔法入門』でも別人格を出現させたりするときは絶対に意識的に自覚的に行なわないといけない、と何度も注意しております。でないと廃人になってしまったり、別人格に乗っ取られてしまいますからね。
修行方法が書かれていても、ちゃんと危険性と注意点を明記しないものは避けましょう。精神病院で精神病が治らないことは本ブログ読者ならよくご存じでしょう。
ちなみに、『魔法入門』に書かれていることの元ネタの多くはインドのヨガと密教でしょうね)
第三のポイントは、本尊の身体の質感。
仏像や仏画を見て参考にしながら本尊の身体を意識で思い描いていくが、鍍金の立体や紙の平面のごとくイメージしてしまいがち。しかし、実際の本尊の身体は、微細な風(ルン)を集めて成立したものであり、そのエネルギーが光となって顕現している。
それゆえ、瞑想の対象の本尊も、光でできた身体として思い描くことが大切。
けれどもぼんやりした不明瞭なものではいけない。目の前に本当に座っているように、手を伸ばせば触れられるように、きわめてリアルに、明確に顕現させる必要がある。しかもそれを認識しているのは視覚や触覚ではなく、あくまで意識である。
眼前の虚空に、自分のラマを持金剛仏父母尊の姿で顕現させた。
そのように瞑想した本尊などのことを密教用語で「三昧耶尊」という。
この三昧耶尊と同じ姿の「智尊」というものをお招きし、手に印を結んで真言をとなえながら、三昧耶尊と一体化させる。
ラマと本尊を完全に一心同体として瞑想することが最も重要な秘訣。
眼前にラマを持金剛仏父母尊の姿で瞑想し、智尊と一体化させたら、祈願や供養を捧げる。それを繰り返して善なる意思の力が十分に蓄積されたとき、ラマである持金剛仏が自分の頭頂へ降りてきて、自分と完全に一体化する……と観想する。このとき必ず空性を瞑想しなければならない。
まず頭頂へ降りてきた持金剛仏を対象とし、その実体性を追求することに心を集中させる。そうすると実体性を何一つ見出せないので、ついには虚空のごとき感覚になる。
同様に自分自身の実体性を追求すれば、やはり何一つ見出せないので、これも虚空のごとき感覚になる。そのとき、虚空と虚空は無差別であると強く念じ、虚空のごとき空性というあり方において、持金剛仏と自分の一体のものとして瞑想する。
また、そのように瞑想している心自体も、やはり空であるゆえに一体となり、そうした体験がこれこそが「倶生の大楽」(くしょうのたいらく)にほかならず、これこそ本尊の法身である……と強く思う。
この状態から、ラマの導きの力、そして前もって蓄積された善なる意思の力により、自分の法身から色身の状態へ立ちあげる。
このときの自分の色身の姿は、前にラマを持金剛仏父母尊として瞑想したのとまったく同じ。
こうしてラマの助けを借りながら、私が持金剛仏であるという自覚を得られるようにしていくのが、六座グルヨーガの特色といえる。
現実の自分のあり方を顧みて、菩薩戒と三昧耶戒を守った生活ができているかどうかチェックする必要があります。戒律に反する行ないは、なるべく早めにそれを自覚し、懺悔の瞑想で浄化することが肝要。
(本尊と一体化する修行は選民思想を生むので、それを防ぐ為に禁欲と自省と道徳を養うことが修行で必須とされます。
欧米の支配層はインド思想を取り入れる癖に、我欲を抑えないからあんな滅茶苦茶をやるわけです。支配層が禁欲しない✝カースト制度✝なんて最悪です。
本尊を理想の自分におきかえたらまんまイメージトレーニング。
理想の自分を召喚して自分に憑依させる密教的魔術を現代ではイメージトレーニングといいます。「降りてきた」ではなく、意志の力で「降ろす」術)
・“仏教の修行というものはすべて、お釈迦様を信じて拠りどころとしなければ成立しえません。この点で、仏教は、決して単なる人生訓や思想哲学や瞑想テクニックではないのです。
しかし、「理屈抜きにただ信じる」というわけではない点で、他の多くの宗教とは趣を異にしているといえるでしょう。第二章で引用したお釈迦様の言葉を思い出してください。「比丘や諸々の賢者たちよ、金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊敬のゆえに受け入れてはならない……」。“p.192
ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/クンチョック・シタル/齋藤保高 共著『チベットの般若心経』春秋社
・法(ダルマ)という用語には、
①真理、教え
だけでなく、
②「存在」という意味もある。
三宝は①真理、教え、
一切法、諸法は②存在
に該当する。
あらゆる存在すべてを含めて一切法あるいは諸法という。
存在するといえるものごと(有[う])のすべてが、一切法(諸法)である。
・昨今の一般的な傾向として、仏教の内容を説明するとき、専門用語の使用を極力避けるようになってきている。著者も基本的には賛成であるが、ある程度本格的に学んで実践しようという場合、仏教用語の使用を避けていると、かえって混乱を招いてしまうケースも多い。
例えば、五蘊を「五つの集まり」と表現したとする。
「五つの集まりの範囲は、あらゆる存在の範囲よりも狭い」
(仏教用語なし)
を
「五蘊の範囲は、一切法の範囲よりも狭い」
(仏教用語あり)
と表現すれば無用な誤解を避けられる。
五蘊を五つの集まりと表現したら知らない言葉はなくなるが、五蘊の中身を知らなければ結局何のことだかさっぱりわからない。
五蘊の、意味、実例、分類などを知ったうえで、ある任意の存在についてそれが五蘊の範囲に入るか否かを正しく判断できるようになったとき、五蘊を本当に理解したといえる。
知らない言葉が出てこないように置き換えたからといって、内容を正しく理解しているとは限らない。
仏教用語を使わないことが、強い関心のある読者にとって、本当に親切なやり方なのだろうか。
・有は、「正しい認識(量)の対象(所縁)となるもの」と定義される。
一切法の範囲は、仏陀の智慧として知られるべきもの(一切智智の所知)の範囲と完全に広さが一致する。この一切法の中に含まれなければ、それは全く存在しないもの(畢竟無)である。
仏教論理学の伝統的な表現では、畢竟無の喩例として、「虚空の蓮華」とか「兎の角」などをあげている。これらは幻覚や誤った認識によって知覚されるかもしれないが、正しい認識の対象とはなりえない。
また、「宇宙の創造神」といった概念も、仏教の立場からすれば、誤った見解の産物にほかならず、いかなる意味でも存在するとは認められないので、一切法の範囲外に位置づけられる。
・①境(きょう)
=対象
=慧(え。知性)によって知るべきもの。
②所知
=知るべきもの
=慧の境(知性の対象)と認められるもの。
③所量
=量るべきもの(量る=認識して理解する)
=量(正しい認識)によって了解(りょうげ)すべきもの。
④有
=存在するもの
=量(正しい認識)によって縁じるべきもの。
(縁じる=心を対象へ向けて認識する)
⑤成実(じょうじつ)
=基体として成り立つもの
=量(正しい認識)によって成就(成立)しているもの。
⑥法
=存在
=自らの体(存在性)を具えるもの。
⑦所縁
=縁じるべきもの(縁じる=心を対象へ向けて認識する)
=量によって増益(ぞうやく。付加)を断つべき基体。
これら七つの用語はすべて同義であり、範囲の広さは一致する。
⑦所縁を補足説明。
例えば、ある人がリンゴというものをよく知らなければ、ナシを見た時にリンゴだと思うかもしれない。そのように誤った知識によって把握される要素が、「リンゴに増益(ぞうやく。付加)された部分」である。リンゴをよく知っている人は、この増益(ぞうやく。付加)さえた部分を全部排除して、本物のリンゴだけを選ぶことができる。つまり、リンゴ理解している量の所縁とは、その量が、増益された部分を全部排除する形で、これがリンゴだと把握する対象である。
・一切法は有為法と無為法にわけられる。有為法とは成立・維持・消滅(成・住・滅)という三つの性質(三相)を有する存在で、原因と条件(因・縁)に依存して成立する。このように因と縁によって作られたことを「所作性(しょさしょう)」という。所作性ならば、あり方として無常である。
死や破壊は無常のわかりやすいあらわれである。さまざまな因果関係の中で一刹那ごとに変化していくあり方そのものが、無常という意味にほかならない。それゆえ、脆く儚いものも、堅固なものもあらゆる有為法は無常だということになる。
また、有為法であれば、それ自身が因や縁となることにより、他の有為法へ何らかの効果的作用(功用[くゆう])を及ぼしうる。このような存在を「事物(じもつ)」という。
つまり、有為法と所作性と無常と事物とは同一の存在を別々な側面から見た表現であり、範囲の広さはいずれも一致する。
範囲の広さが一致するとは、有為法なら必ず無常であり、無常であれば必ず有為法である、という二つの主張命題が両方とも成立することだ。
五蘊とは、あらゆる事物を色・受・想・行・識という五つの集まりに分けたもの
であり、五蘊の全体と有為法とは範囲の広さが一致する。
(読み方を通常と違うものとすることで、意味を区別できるし、口頭で話しても混同されないようにできます)
・自性(じしょう)
=ものごとの本質
であるが、経文の中での自性は、ものごとの本質という意味に加えて、
「他の存在から独立した基体」、
「そのとおりに真実として存在すること」という非常に強い概念を含んでいる。
もしあるものがそのような自性として成立しているならば、そのものは他に依存することなく独立して存在し、恒常不変で絶対的な性質を有することになるだろう。
これは、仏教哲学で「無我」というときの「我」と同じ意味だ。もちろん仏教でも、普通に我というときは、単に「私」や「自分」という意味で用いられる。
一般的な我なら無我という言葉で否定すべき理由もない。
私という人間は単純に存在するが、そうした私という概念にはしばしば普遍的な実体性が付与される。
「他から独立した実体として、自分が存在している」とか、
「私の概念のとおりに、真実として自分が成立している」との思いは、日ごろから「私」や「自分」という言葉を口にするときにさえ、その裏付けとして潜在的に心の中で芽生えているはずだ。
ものごとが存在しているというとき、その存在の確からしさは一様でない。
それを大別すれば、
相対的な存在の次元である「世俗」、及び
絶対的な存在の次元である「勝義」(しょうぎ)という二つの段階を設定できる。
世俗の次元の存在は、それ自体の力で成立しているかのように顕現していても、実際には他のもの――因や縁など――に依存することで初めて成立し得る。独立した実体ではないので、存在の確固たる根拠を、それ自身の中に何一つ見出せない。
本当は他に依存しなければ成立しえないものなのに、独立した実体であると何の疑いなく自然に誤認してしまう。これはあらゆる凡夫の衆生に共通する、本能的な思い込みである。
一方、勝義の次元の存在は、顕現と実際のあり方との間に、そうしたズレがまったくない。勝義の次元において、もし、それ自体の力で成立しているように顕現している何かを見いだせるならば、それは実際に他のものからまったく独立し、堅固な実体として成立しているはずだ。
私が単に存在することは、世俗の次元においてである。
実体性を虚構する根源的な無知を「無明」という。我(私)という思いを「我見」、私のもの(我所)という思いを我所見という。
両者を合わせて、有身見(うしんけん)といい、衆生が輪廻転生を繰り返す第一の原因と位置付けられている。
有身見を中心とする無明をもとにして凡夫の衆生はさまざまな煩悩を生じる。
「自相」(じそう)
=対象それ自身の側で成立しているとされる固有の性質や作用で、無明によって対象の上に虚構されたもの。
つまり自性の一種なので本当は成立していない。
煩悩は、虚構された事物の自性のみに対して働く。
世俗と勝義は、瓶を例に挙げると、両者とも瓶という同じ一つの存在の上で吟味すべきであり、眼前の瓶は世俗、そこから遠く離れた世界が勝義だなどと誤解してはいけない。
(一方が偽物で一方が本物だとか、イデア界だとか、西洋的二元論でとらえてはいけません)
自性の否定のされかたで注目しないといけないのは、基体である瓶(あくまで一例)と否定対象である自性が、別個のものとして設定されえないという点だ。
瓶に自性がないというのは、瓶と自性の関係は、瓶の中に水がない、というようなものではない。そうではなく、瓶そのものが――いかなる部分も――自性として存在することはない、という意味で理解しないといけない。
無自性は絶対的な存在の次元の真理、すなわち勝義諦(諦=真理)であり、この真理を指して空性(くうしょう)という。
究極の真理のことを真如(しんにょ)や真実義(しんじつぎ)といい、あるいは法性(ほっしょう)や法界(ほっかい)ともいう。
無自性、勝義諦、空性、真如、真実義、法性、法界などの用語はすべて同義であり、無為法に属する。無為法であるならば、因や縁によって生じたのではなく、無常でもない。つまり、このような真理は誰かに創りだされたものではないし、時とともに変化するものでもない。一切法は本来から無自性、すなわち空なのである。仏陀が出現しようとしまいと、それを説こうと説くまいと、一切が空である点に何の変わりもない。
・無為法とは一切法のうち有為法に該当しない存在であり、成・住・滅の三相から離れている。因と縁によって作られたものではないから、「非所作性」であり、いつも変化することがないから「常」であり、それ自身が他の因や縁となって効果的作用を及ぼすこともないから「非事物」である。
無為法の例としては、空性や真如という言葉によって表現される究極の真理そのもの、輪廻から解脱して因果の束縛を離れた境地である涅槃、そして虚空をはじめとする概念的存在などがあげられる。
・諸法の無自性以外に実体としての勝義を設定してはいけない。
空性や法性・法界そのものを実体視してはいけない。
勝義において自性を何も見出せないなら勝義諦も得られない、と主張し、勝義諦や空性を所知(知るべきもの)として認めない立場は誤り。
(「空」自体を神格化して崇めてはいけません)
・分別
=名称や概念を交えながら対象を努力して把握する知
であり、このような対象把握のやり方を執着性という。
縁起
=他に依存して成立するというありかた。
一切法が自性として存在するかを追求すれば、虚空の如き空性にいきあたり、一切法が単に存在することを吟味すれば、すべて縁起と言うあり方で存在している点を見いだせる。
縁起
①因と縁に依存して成立すること
②部分に依存して成立すること
③分別による名称の付与に依存して仮に設定(仮説[けせつ])されたものとして成立すること
部品の集まりが車であることも認められない。もしそのようであれば、分解された部品の集まりも車だということになってしまうからだ。
部品の集まりの上に設定された形状が車だということも認められない。車「の形」であり、形状は車「の属性」であるからだ。
・空によって否定すべきものは、他から独立した実体性であり、諸法が諦として成立することであり、諸法が自相によって成立することだ。否定すべきものの範囲が狭すぎるとき、諸法に何らかの実体性が認められ、諦として成立する何ものかが残ることになる。そのようであれば、常辺(じょうへん)という極端論へ陥り、輪廻への執着を完全には断ち切れず、したがって輪廻から解脱することは不可能になる。
名称の付与に依存して仮説されたものすら、その存在をまったく否定してしまう極端論を「断辺」(だんへん)という。断辺の見解は縁起の虚無的な方向での全面否定である。それにより、世俗において因果関係の成立も否定され、善悪の区別も否定され、三宝の存在も否定される。結果、三悪趣(地獄・餓鬼・畜生道)へ堕ちる因を作ることになるので、これは常辺より更に悪い見解と位置づけられる。
一切法は空である、という空の意味を、世俗においても絶対的な無と捉え、何も全く存在しないことと解釈するのは断辺に陥った理解である。
常辺と断辺の二辺から離れ、空によって否定すべきものの範囲を適切に設定できれば、空性と縁起の関係も正しく理解し得る。
“知恵者らよ、自性が空という空性の意味は、縁起の意味である。しかし、功用が空(効果的作用がない)という非存在の意味ではない”(本書p.54)
とツォンカパは『菩提道次第広論』(ラムリム・チェンモ)観の章にて、聖教(しょうきょう)を引用して、強調している。
(※ツォンカパ[1357-1419年]はチベット仏教最大の学僧。
代々のダライ・ラマの所属する宗派ゲルク派[黄帽派]の開祖。
ツォンカパ=葱の地の人=「葱畑の人」。
守護尊[イダム]は文殊菩薩と
ヴァジュラバイラヴァ=『金剛の畏るべき者』=大威徳明王。
大威徳明王=『死神ヤマをも殺す者』=降閻魔尊)
・四法印(しほういん)に、
①一切の有為は無常である(諸行無常)
②一切の有漏は苦である(一切皆苦)
③一切の法は無我である(諸法無我)
④涅槃は寂静である(涅槃寂静)
と説かれている。
無常なる有為法と無我なる一切法の範囲の広さが異なる点に留意。
仏教徒か否かを判断する基準が三宝への帰依であるのと同様、仏教思想か否かを判別する基準が四法印である。
ただし、無我の意味は仏教哲学の浅深によって解釈が異なる。最も広義には、「常住・単一・自在なる我」を否定することを指す。自在とは他に頼ることなく、全く自律的に存在することをいう。
有漏法(うろほう)とは有為法の中から道諦に属する法を除いたもの、
無漏法は無為法と道諦に属する法である。
涅槃は滅諦であり、無為法に属する。
・同一の存在に別々な側面があることを「同体異面」という。
・補特伽羅(ふとがら)
=心を有するものとしての存在。
身体は色(物質的な存在として現われるもの)に、
心は知(精神的領域。心。対象を明らかにして把握して理解するもの)に属する。
補特伽羅(ふとがら)を分類すれば仏陀と有情(うじょう)になる。
有情とは心を有する生き物のうち、仏陀の境地を得ていないものの総称。
“植物は、有情の中に含まれない。仏教では、植物は生命体であると認めるが、心を有しているとは考えない。したがって、植物が輪廻転生することはあり得ない。植物は、色の範疇に属し、無生物とともに宇宙全体を構成する環境的な要素(器世間[きせけん])と位置づけられる。”p.73
(植物は輪廻転生しないから食べてOKなのでしょうね。植物も食べたら駄目なら修行完成前に死ぬしかありませんからね。六道に植物道はありません)
知を分類すると、心王(しんのう)と心所(しんじょ)の二つになる。
心王は精神的な分野において主たる役割を果たしている中枢部分。
阿毘達磨(アビダルマ。仏教の教説の解釈・注釈書)では、その状態を、
①善心
②不善心
③無記心(善でも悪でもない中立の心)
などに細かく分類している。
(③が二元論の罠を打破するために重要な概念です)
・心所は心王の働きにともなって派生する精神作用で五十一に分類される。
・心不相応行
=色と知のいずれにも該当しない有為法であり、補特伽羅、及びそれ以外の存在(時間、瓶の無常など)に分けられる。
・根=知覚機能。
・勝義諦と世俗諦の二諦。
諦=真実。
勝義=絶対的な存在の次元。
世俗=相対的な存在の次元。
何らかの存在、例えば瓶が「諦として成立している」場合、世俗の次元で我々が見てきたとおりのものが、勝義の次元においても真実して成立していることを指す。
しかし、実際に諦として成立するものは何一つ存在しない。
一切法が諦として成立しないという、そのこと自体が勝義の次元における真実であり、それを勝義諦という。
したがって、瓶という存在について考えたとき、勝義諦とはすなわち瓶の空性である。
一方、世俗の次元において、瓶は瓶として存在するので、この場合の世俗諦とはすなわち瓶である。しかしこれは、瓶の真実のありかたである瓶の無自性とは別の現われ方で顕現したものなので、真実として認められない。しかし、瓶の真実のあり方を追求するというようなことをせず、世間の正しい認識によってのみ判断した場合、一応真実と認められるだろう。
そのように、あくまで、「世間の側からみて諦であるところの、世俗の次元の存在」という意味において、世俗諦と呼ばれるのだ。
聖者にとって、瓶は、諦ではなく「単なる世俗」として認識される。
この単なる世俗という意味こそ、空である瓶が縁起として幻の如く存在すること――換言すれば名称の付与に依存して仮説されたものとして存在すること――にほかならない。
世俗諦は、それを諦成就と思い込む世間の迷乱した認識によって諦とされるのであり、決して実際に世俗の次元で諦として成立しているわけではない。もしそのように誤解すれば、中観帰謬論証派の立場――世俗においても、諸法や諦や自相として成立する余地を完全に否定する見解――と著しく矛盾することになる。
“勝義諦すなわち空性を体得するためには、まず言葉によって概念的に理解するしかない。我々は、この点を肝に銘じておく必要がある。具体的には、最初に教えをよく聴聞し、次にその論拠を徹底的に考察し、それらを通じて概念的に確立された空性理解をもとに、止と観の修習を重ねることが肝要だ。もし、「勝義諦は言説を超越した次元なので、概念的に理解しようとしても無駄だ」などと誤解し、聞・ 思・修の過程を軽んじてひたすら禅定を重ねたとしても、有暇具足の貴重な人生を無駄にするばかりで、一向に空性を体得することはできない。そうした実践至上主義を厳しく戒めるため、あえて「邪な妄分別によって悪道(三悪趣)へ赴く」という強い表現を用いた、そのチャンドラキールティの密意をよく汲み取るべきだろう。”p.57
(瞑想だけじゃ悟れないってことです。ひたすら座禅組んでも駄目ってこと。いきなり言葉を否定しても駄目。考えることも大事。
チャンドラキールティ[梵: Candrakīrti]
=月称[げっしょう]。
7世紀なかばのインド仏教の中観派に属する。
空の思想と対立する考えには帰謬論証[きびゅうろんしょう]で対応すればよいとした。
チベットの般若心経/聞・思・修の過程
http://mitsubachi-bros.seesaa.net/article/154958416.html
“※有暇具足(うかぐそく)第四章の註(12)P221~
八つの有暇と十の具足を合わせたもの。仏教を修行するのに適した条件。
「八有暇」とは、次に示す八つの悪い条件(八無暇、八難)から離れた境涯。すなわち、(1)地獄に生まれる、(2)餓鬼に生まれる、(3)畜生に生まれる、(4)長寿の天に生まれる(長寿と享楽や禅定に甘んじて、仏道修行に努力しがたい)、(5)仏教の実践者である四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)が活動せぬ辺境に生まれる、(6)仏陀が出生せずその教えを知らぬ時代に生まれる、(7)知覚能力が働かない、(8)邪険を抱く。
「十具足」は、(1)人間に生まれる、(2)四衆が活動する場所に生まれる、(3)教えを理解して修行する能力が具わっている、(4)五逆(父母の殺害・阿羅漢の殺害・仏身を傷つけること・僧伽の和を破ること)を犯していない、(5)律をはじめとする三蔵への信心を抱いている、(6)仏陀が降誕した、(7)仏陀が正法を説いた、(8)説かれた法が現在まで存続している、(9)上師や修行者たちがその法を実践している、(10)周囲に人々の助けも得られるという十の条件で、(1)(1)~(5)を「自身の五具足」、(6)~(10)を「他の五具足」という。”
六波羅蜜/チベットの般若心経
http://mitsubachi-bros.seesaa.net/article/183458328.html)
“「禅定」とは、心を対象に集中すること。
禅定の実践では、対象を把握して保持する「臆念(おくねん)」、及びそれが正しくなされているかを調べ る「正知(しょうち)」という、二つの心の働きが重要である。カマラシーラ(蓮華戒)の『修習次第』中編では、「いかに所縁をよくつかんでいるか、それと も沈み込んでいるか、それとも外境に高揚のせいで散乱しているかと[心を]観察すべきである。<中略>臆念と正知の策によって、意の象を、その所縁の幹へ 縛りつけるようにせよ。いつか昏沈(こんじん=沈み込み)と掉挙(じょうこ=昂ぶり)がなくなり、その所縁へ心が正しく向かうように見えたときこそ、努力 を緩めて平等になし、その時点から欲するまで[そうした状態に]留まるのだ。そのように止(心の集中)に習熟した者の身と心が軽安になり、望むまま所縁に おいて心が自在になったとき、止は成就したのだと知るべきである」と説かれている(この中で「意の象」とは、未熟な心を野生の象に喩えた表現。また「軽安 (きょうあん)」とは、止の実践を通じて心身を制御し、その結果として、働きが鈍重で意のままにならぬ状態から脱すること。まず心軽安を達成し、それから 身軽安を実現するという)。”)
・空は五蘊を我のものとする見方の否定。
無我は五蘊を我とする見方の否定。
空は「五蘊を自分の家の如く考えても、その中に持ち主たる我を見いだせない」ということ。
常住・単一・自在なる我の否定。
・有身見(うしんけん)とは「我と我が物」に執着する誤った見解。「私だ」と思う対象を自相として把握する「我見」、
及び身体などを「私のもの」と考えて自相として把握する「我所見」に分けられる。
有身見こそが、自分が来世に輪廻世界へ生まれる実際の根本原因である。これを無明という。
・辺執見(へんしゅうけん)とは極端な考えに執着する誤った見解。極端な考えとは、諸法が諦として成立すると考える「常辺」、
諸法が単なる言説としても存在しないと考える「断辺」、
諸法が諦として成立するここと言説においてないことの両方があると考える「有辺」、
諸法が諦としてないことと言説においてあることの両方ともないと考える「無辺」など。
・甚深四句の法門(じんじんしく の ほうもん)
とは、「色は空である。空性は色である。色より別の空性ではない。空性より別の色でもない」のことである。
「色は空である(色即是空)」という経文は、その中に「自性が」という言葉が省略されていると考えるべきだ。それゆえ、色は自性が空である、あるいは、色は無自性である、と言い換えたほうがわかりやすい。したがって、色即是空は勝義諦を示す言葉として解釈できる。
「空性は色である(空即是色)」という経文で、空性とは、色の空性のことである。
色の空性そのものが、世俗の次元では色として幻の如く存在する。
換言すれば、色は自性がないゆえに、勝義の次元では虚空の如き空性として認識されるしかないけれど、そうでありながら世俗の次元では色として顕現し、色であると認識されるのだ。
したがって、この「空即是色」という経文の全体は、世俗諦を示す言葉として解釈できる。
「色より別の空性ではない。空性より別の色でもない(色不異空。空不異色)」
とは、色とは別のものとして、色の空性があるわけではないし、また色の空性とは別のものとして、色の存在が成立しているわけでもない。もし、色には自性がないという、そのこととは別に色の空性があるならば、それは諦成就(他に依存せず自らの力でそのとおり成立していること)の空性なってしまう。
それゆえ、色や空性が諦として成立することを否定するのが「色不異空。空不異色」の意図である。
色と空性は全く同一のものではない。
勝義・世俗の二諦は、本質として同一の存在を別々な側面から見たものにすぎない(同体異面)。いま説明してきた経文では、空が勝義諦、色が世俗諦に該当する。
色は空であると説いて常辺を排除し、
空性は色であると説いて断辺を排除し、
二辺の極端論から離れた中道を提示している。
(勝義と世俗を厳密に分けないので、プラトン流のイデア界とこの世界というような二元論を排除しているのが重要です)
世俗の次元で因果関係の効果的作用は確かにある。
常辺と断辺を排除することにより、
①因果関係を絶対不変のものと誤解する運命論と、
②空によって世俗の因果関係も否定されると誤解する虚無論という、
両極端へ陥る危険性を摘み取ることができる。
・無為法の実例は、虚空・涅槃・空性など。これらは因果関係を超越し、恒常的に存在する。しかし、こうした無為法もまた、独立した実体として成立しているわけではなく、縁起として存在するにすぎない。
無為法は部分に依存し、及び分別による名称の付与に依存して仮説されるからである。それゆえ、無為法は縁起である。縁起として存在するならば必ず空である。空性も空である(空空性)。
・「不生不滅。不垢不浄。不増不減」
不生とは、一切法が実体として成立しないゆえに本来から実体性をもって生じない、という意味。
因や縁によって単に生じることと、実体性をもって生じることとの区別をよく認識しておかなければならない。
実体としての生起を排除し、常辺を排除。
因や縁による生起まで否定したら、有為法は全く生じないことになり、断辺に陥ってしまう。
不滅とは、実体性をもって生じないのだから、実体性をもって滅することもない、という意味。因や縁によって滅するが実体としての滅ではない。
不生不滅とは、そのものが縁起として存在している、ということである。
(不垢不浄と不増不減は以下同様なので省略します)
・「五蘊がない」という箇所は、そもそも「世俗の次元で五蘊がどのように存在するか」ということなど論議の対象としていない。
つまり、「五蘊がない」という経文は、そのような高い境地の三昧における観じ方を表現したものであり、世俗の次元での有無の論議とは区別しないといけない。世俗の次元でも五蘊がないことになると、非常に危険な虚無論へ陥ってしまう。「得るということもなく、得ないということもない」という箇所まですべて、この世俗次元の有無を扱っていないことをよく踏まえて解釈すべきである。般若心経において最も誤解しやすい部分であろう。
・法境(境=認識対象)は、意根(精神的な領域を知覚する機能。根=感)のみによって把握される。
・四摂事(ししょうじ)
①布施(他者へ惜しみなく施すこと)
②愛語(心のこもった優しい言葉で語りかけること)
③利行(りぎょう。相手のためになるように行じること)
④同事(どうじ。相手と同じ立場で修行すること)
村手 さとし @mkmogura 2012年7月8日
@lanekota 今さら、やばいとか気にしないよ。つまり、すごい数なわけよ。例えば寺も、すでにキリスト傘下であって、愛語という言葉を全国の寺で使う。うちの寺もよく出てくる禅宗なのにね。これは無量寿経というなかの和顔軟語というのを、愛にむりやりすり替えたわけ。
村手 さとし @mkmogura 2011年10月28日
まあ、ブログでも最後の方に書いたんだけど、高野山って真言宗の全てを焼き討ちした秀吉のお母さんの寺なんだよ。時代も何も、宗派も真言宗とは関係ないよ。空海=弘法大使ってことだが、そもそも弘法=仏教をつたえるえらい坊さんって形容詞でしょ?神や、アーリアと一緒同じ手法。
木村 仁 @mucunren 7月17日
命を攻撃する事は悪いことです。愛は何かを好んで可愛がるので、一見攻撃とは無関係で悪とは無縁に見えます。 しかし、普通の人が言う「愛」は大体執着による「渇愛」です。 渇愛ならば愛する者を失えば悲しみ、傷つけられれば怒り、恨みます。 つまり渇愛は攻撃などの苦と表裏一体なのです。
菊池 @kikuchi_8 12月1日
1)仏教への西洋的神秘思想の混入を破すために仏教とグノーシス主義の違いを指摘する。グノーシスでは物質と精神の二元論で、物質は悪とされそこから文字通り脱却して純粋な霊の世界に至ることを目標とする。仏教では、渇愛とともに嫌悪も執着とされるので、物質を嫌悪し憎み悪と断じることはしない。
y_hotta(桑名市) @JR2ENQ 2011年2月11日
・・・この愛が仏教用語です。仏教では「一切苦悩を説くに愛を根本と為す」とあるように、愛は迷いや貪りの根源となる悪の心の働きをいいます。のどが渇いたときに水を欲しがるような本能的な欲望で、貪り執着する根本的な煩悩を指します。愛欲、愛着、渇愛などの熟語は、そのような意味を持っています
仏教ちょっと教えて - 仏教の「愛」について - Biglobe
http://www2s.biglobe.ne.jp/~posteios/PROJ_C023.htm
“この題だけを読むと、例えば「近代文学における愛」とか、「異文化交流における愛」といった「愛」の姿を思いおこされる方もおられることでしょう。しかし、少しでも仏教に関心を持ったり、あるいは知識を得た人ならば、次のような疑問を抱いたことがあろうかと思います。
たとえばキリスト教では「愛」という言葉を重視します。しかし、仏教では「愛」という漢字を使う場合、渇愛という熟字に代表されるように、煩悩を意味する言葉として使われ、あまりいい言葉として扱われていないということがあります。
さらに、もう少し突っ込んで考える人は、このような矛盾も感じるでしょう。
愛という言葉が仏教において否定的な概念ならば、『無量寿経』の「和顔愛語」という仏典の言葉の「愛」は、一体どう解釈したらいいのだろうかということです。ちなみに、高楠順次郎博士編集の『大正新修大蔵経』(全百巻)に当たってみると、「和顔軟語」となっています。欄外の注には、「軟=愛」と表記されています。しかし、現在流布している比較的入手しやすい『無量寿経』のテキストや資料には、「和顔愛語」となっています。いったいいつから「軟」が「愛」に変わったのでしょう?そして、そのような経緯は、西洋文化の交流と関わりがあるのでしょうか。
そこで、手近にあった仏教思想研究会編の「仏教思想1愛」平楽寺書店(1975年初出・1992年第4刷)を参照してみようと思います。
同書の目次を見てみますと、参考となったり、興味を引かれる論文に次のようなものがありました。
はしがき
第一章 「愛」の理想と現実 中村元
第三章 初期大乗経典にあらわれた愛 藤田宏達
これらの章を抄出しながら、簡単なコメントを整理するということで、「仏教における『愛』」についてまとめてみたいと思います。
「はしがき」には、中村元氏が、次のような提言をされています。
まず、西洋の近代思想が、抑圧的な中世の教権に対する反抗として人間の愛を正面きって押し出してきたことがあげられます。また、アジアでも、例えばインドでは、六派哲学に対する反抗として愛(preman)が強調されガンディーに至るまで、愛は人 間の最も尊ぶべきものと考えられています。日本でも、儒学の「仁」「礼」を中心にして考えていたのに対して伊藤仁斎が愛がより根源的なものであると主張しています。
さらに、現代は日本もそうですが、世界の精神的状況は愛を重要な価値基準としています。
これに対して仏教学者は、仏教は愛に対して抑圧的・禁止的であると考えてきました。すると仏教は世間の風潮に敢然と抗争すべきものとなってしまいます。
しかし、最近、日本の仏教系の学園には愛の字を用いたところが出てきています。(思いつくだけでも、相愛、仁愛などの真宗系の学校名があげられます)もし、そういう傾向が何の根拠もないままに進められたというのなら、世の風潮におもねったと いうことになります。また、もし仏典に根拠のあることならば、はっきりとした自覚をもって積極的に推進すべきでありましょう。
このような氏の指摘には、私たちも大変興味をそそられます。しばらく、仏教学者の意見に耳を傾けてみましょう。
「第一章 「愛」の理想と現実」の内容
東洋の諸国においては、仏教の中心の徳として慈悲が説かれています。愛は、それと通じる時もあれば、異なることもあります。ここでは、全般的に仏教においてどのように愛が説かれていたのかが論じられます。
愛という言葉には様々な使いかたがあるようです。愛 piya、priya、親愛 pema、preman、欲楽 rati、愛欲 kama、渇愛 tanha、trstna などです。私は、前三つは、その対象によって分類され(自己、他者、特定の個人)、後二つは、その内容によって分類され(性的愛、盲目的衝動的執着の愛)ているように思われました。
仏教では、この渇愛が人間の愛の本体であり、苦悩の源泉であると考えられます。そして、この苦悩から慈悲の心が生まれるのです。自分の苦悩を本当に知る者が、他者の苦悩にも共感できるからです。そして、この慈悲が他者に対する無条件の究極の愛の姿として「無縁の慈悲」、つまり私が誰かに何かをしてやるという三つの条件を全く意識しないで他者を幸せにするものと説かれました。
仏教の慈悲には人間的な愛の純粋性と共通するものがあります。それで漢訳仏典では、慈悲を愛と訳すことがあるというのです。これで、先の疑問も少しは晴れるというものです。しかし、慈悲は愛と全く同じという訳ではありません。愛が宗教的な自 覚で深められて慈悲となるからです。慈悲は、愛憎という対立を超えた、見返りを求めることのない絶対の愛の姿であり、しかも一切の生きとし生けるものにまで及ぶことを理想としています。
ところで漢訳仏典の中にある愛には、様々な意味が与えられており、全く反対する概念がこの愛の一語で使われています。愛によって憂いが生じ、苦悩が生じることもあれば、心の喜ぶことであるとされ修めるべき徳とも見られているのです。
特に人間関係において、やさしいことばをかけること、愛語が尊ばれます。それはやさしく言うこと、愛情こもったことば、やさしいことば、親愛のことば、親しみのある言葉で話すこと、あたたかい心のこもった言葉をかけることです。そこから、人びとに対してはやさしいことばをかけよ、という教えとなります。この場合、もちろん、愛欲の愛 kamaや渇愛の愛 tanhaというような自己中心的な愛と異なり、慈悲による利他の愛につながるものです。
こういう慈悲の愛から出た言葉が愛語です。ある場合には、互いに愛し合うことという趣意で、愛語を相愛と訳されることもあります。
こうして学んでみると、仏教の中で使われた愛の言葉は、そのまま慈悲になるのではなく、異なる性格をもつものです。愛は、一、恋愛・性愛ともに欲をともなうもの、二、独占しようとするもの、三、限界性があるもの、ということです。 しかし、愛は慈悲に通じるものであり、やがて慈悲へと深まっていくきっかけになるものといえるでしょう。
「第三章 初期大乗経典にあらわれた愛」の内容
初期大乗経典の中で代表的な経典とされるものについての論究がこの章です。原典の文献を読み込んでいるので、少し漢字が多くて難しく感じるかもしれませんが、ここではその中からいくつかを取捨選択して紹介いたします。するとそこに初期大乗の 特徴が見えてくるようです。
まず、初期大乗経典では、愛のつく言葉は否定されるべき執着としての意味で用いられています。「愛着・愛欲・愛垢・愛縛・愛染・渇愛・貪欲・欲愛・染愛」などです。『無量寿経』の五悪段には、愛欲が六回現れます。
こうした愛に対して初期仏教では、愛憎を捨てて離れることが説かれますが、大乗仏教ではこうした愛憎を超越するのが大乗菩薩の実践だと説かれます。つまり、無くすのではなく、それにとらわれない生き方を求めるということです。大乗では、愛憎にとらわれるのは分別に振り回されているからだと説くようになるのです。
例えば『無量寿経』では、極楽世界に生まれた菩薩の姿を「等しく憎愛なし」と示しています。『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』(異なる時代の翻訳)では、「憎愛を遠離す」と訳されています。また、異訳『無量寿荘厳経』では、「愛なく著なし」と訳されています。
しかし、初期大乗経典には、愛を肯定的に見る視点も色々と見いだされます。それは、人間関係を説く場面では愛は積極的に認められています。先に述べたように、愛の深まった姿が慈悲ですが、仏の衆生に対する慈悲を親の子に対する愛という比喩で表現される経典が『法華経』『維摩経』などに見られます。『無量寿経』には、菩薩が衆生のために不請の友(頼まれなくとも相談を解決してあげるよき友)となり、御法(おみのり)を説き聞かせることは「純孝の子の父母を愛敬するが如し」と、先の比喩とは逆に子の親に対する「愛敬」という表現がとられています。
また、五悪段には父子・兄弟・夫婦が「恩愛」をもって思慕し、お互いに「相い敬愛」すべきことが説かれます。さらに、「聖を尊び、善を敬い、仁慈もて博愛」すべきことが説かれます。別の場所では、世間の帝王が、「慈恵ありて博く施し、仁愛ありて兼ね済う」ことが説かれております。
ここでも、仁愛学園の名前が仏典に出ていたことが知られますね。
さらに愛という言葉が肯定的に使われている例として、仏、善知識、菩薩、法、菩提などに対する積極的な使用例があります。『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』には、「若し彼の仏の名を聞くこと有りて、能く一念喜愛の心を生ぜば」という言葉があり、これは親鸞様の『お正信偈』の中にもあるので聞き覚えがあると思います。
すこし漢字が異なりますが、同じ意味の使い方として、仏・菩薩が衆生に慈悲をかける姿を『無量寿経』では、「如来は、無蓋の大悲を以て、三界を矜哀す」という言葉があります。これは、法事の時の表白の中でよく聞くのではないでしょうか。
最後になりますが、親鸞聖人における愛ということに興味をお持ちの方もおられると思います。実は、同書では、早島鏡正博士が「親鸞における愛」という章において、親鸞聖人における愛を幅広く論じておられます。ここでは、紙数がないので、私の視点で書かせてもらいます。
『親鸞聖人著作用語索引(二巻)』によると、「愛」は執着という否定的な意味で使われる「恩愛」「愛憎」(『ご和讃』)という表現と同時に、「信楽といふは、・・・・楽は即ち是れ・・・愛なり」(『教行信証』「信巻」)、「世を救ひ人を度す慈を極す愛を極む」(同「化身土巻」)などの肯定的な表現の双方が見られます。しかし、「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑し」(『教行信証』「信巻」)のようなお言葉が比較的耳にする機会が多いせいか、親鸞聖人においては愛は否定的に用いられているかのような印象をお持ちの方も少なからずおられるのではないかと思います。”
(「和顔軟語」よりも「和顔愛語」のほうがキリスト教が喜びますからね。仏教では愛は悪寄りなのだから、愛語は不適切ですね。軟語にすべき)
…
魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう @lakudagoya 10月15日
悪の魔道師に対抗するためには、アリストテレスより竜樹がスゲーと本質的なまでにわかることかな?西洋論理学から生まれる連鎖的な階層構造に反駁できたのは恐らく、空と縁起の思想を唱えた竜樹くらいしかいないんでね?おっと、ふりーそーめんが嫌いな東洋思想はきっと「空」と「縁起」だよね。
魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう @lakudagoya 2015年11月3日
あのね、サマーディーは「三昧」ディヤーナは「禅」カルマは「業」ね。で、カタカナのサンスクリット語を使うのは何でか漢語の仏教用語が嫌いな法則。
これだけ日本語はサンスクリット語由来の漢語が日常に溶け込んでるので、わざといカタカナで言うのはよっぽど仏教が嫌いだったんだろうか?
魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう @lakudagoya 10月17日
陰謀論コミュには、聖書の引用をベタベタ貼ってやつらを叩く陰謀論者はいても、般若心経やスッタニパータやダンマタなどの仏典を引用してやつらを批判する陰謀論者っていないよね?なんで?
そもそも、東洋の教育って基本的に我欲や我執を拡大させるためにやるんでなくて、自然にそこから離れていく思想が組み込まれてる。確かに漢籍の知識が科挙 に合格するために必要なものだったのも知れないけど、漢籍の雰囲気はなんかこう、我欲と我執向きだしって感じがしないとゆーか。
メイソン教の洗脳教材の教養小説(ビルディングス・ロマン)ってのあるんだけど、これ子供に「教育的」だと賛美されてっけど、これこそがメイソン教の洗脳 の本丸でもあんだよね。教育で近代的自我を確立するってやつ。これは自我は妄想と切り捨てる仏教などの東洋思想の伝統破壊工作だよね。
西洋の教育の根本は近代的自我の確立。基本的に我欲や我執を拡大させるために勉強する。その本質を覆い隠すためと、それをバーターするために社会に対する 奉仕って観念で釣り合いを取ってる。でも、西洋の教育の根本は我欲と我執の拡大だからエリートほど贅沢や権力にうつつを抜かす。
王王大栄 @ououdaiei 10月17日
@lakudagoya 自我ってめんどうですよね。弱いと周りに潰されるか状況に流される。強いと我欲我執で自他を破壊する。
魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう @lakudagoya 10月16日
薔薇十字の陰謀論って流行んねーな。フクダルマン君でさえ、見えざる大学ネタつぶやいてたのにな。
薔薇十字の陰謀ってさ、数ある陰謀論の中でも断トツで性質が悪い陰謀論だぞ?世界中の宗教や文化をメイソン教的な西洋神秘主義に換骨奪胎して支配するつー ワンワールド思想さ。クリスチャン陰謀論者もそこ悪魔崇拝とボカさないでハッキリハッキリ言ってくださいね。プロレスかというほど歯切れ悪いしw
かつてUFOはプロレスであると言った人が言ったが、至言だと思った。メイソンを迷信臭い悪魔崇拝ネタで叩くクリスチャン陰謀論者ってきっと悪役レスラー みたいなもんなんだろーな。わざと怖い演出をするやつ。メイソンの本質を守るためにプロレスの悪役やってダメージコントロールしてますみたいなw
薔薇十字団という架空の団体の思想が近代科学を作ってオカルトメイソンいわゆる魔術結社にも受け継がれてますね。
諸悪の根源というより、薔薇十字思想がいけないのは西洋と東洋を統合するふりをしつつ、世界中の宗教をメイソン教の西洋神秘主義に換骨奪胎するかなり悪質なワンワールド思想ですね。
菊池 @kikuchi_8 7月6日
実証主義を「物質主義だ」とする非難があるそうだが、実は実証主義を徹底させると唯物論というより唯心論に近くなる。つまり、経験主義を徹底させると人間に直接立ち現われる知覚経験だけを事実確定の証拠とする事になる。実際にエルンスト・マッハが実証主義を徹底させそういう立場に近づいた。
唯物論と実証主義は実は方向性が逆。唯物論では意識経験から独立した「物質」という実在を想定するという前提があるが、実証主義はそういう前提を立てず知 覚的感覚的に経験された現象を基礎に事実を確定しようという方向性である。必然的に、経験を超える形而上学的実在については「無記」となる。
最古の原始仏典の「スッタニパータ」に「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知っ てよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」とあるが、仏教が経験主義的実証主義的な立場を取っている事が分かる。形而上学には無記。
菊池 @kikuchi_8 7月21日
工作員の皆様にはこの言葉を贈る。是非立ち直ってもらいたい。人生を組織に飼われて空費するなかれ。「自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。」(ダンマパダ 160)
菊池 @kikuchi_8 10月19日
参考までに。仏教哲学では「迷い」を「煩悩障」と「所知障」に分類。前者は所謂「煩悩」のことで感覚的情動的な迷いであり受=感受作用による。後者は知性的概念的な迷い(物事を自存視=実体視する等)であり想=表象作用による。後者は言葉が大きく関係する。概念は言葉を離れてはありえないからだ。
「物事を捉える概念の枠組み」に関する迷いが「所知障」とされる。これは現実の観察によって得られた縁起・無自性(無実体)・空・無常・無我等々の見方に 反する形而上学的なものの見方を主に指していると思われる。廣松渉哲学で言う主観や客観の自存視等を意味する「物象化的錯視」という概念に近い。
人間は物事を概念的に把握するので概念を操作されると認識を捻じ曲げられてしまう。これは単に呼び方を変えるだけでも十分効力を発揮する。オーウェルの小 説で、戦争遂行の役所が「平和省」、拷問を加える秘密警察が「愛情省」と呼ばれる「ニュースピーク」がまさにそれ。人為的「所知障」=認知操作。
吾人が仏教哲学をよく援用するのは、それが西洋哲学より優れた論理的思考の用具・枠組みと考えるから。陰謀追及には論理的思考が必要だが、それを鍛えるに は哲学が有効と思うものの西洋哲学はキリスト教や形而上学と表裏一体でドグマや信仰がこびりついておりそのままでは思考用具には不向きと考える。
一方、仏教哲学は原始仏教と初期大乗である中観・唯識が世界的に見ても大変優れた哲学となっている。唯識が生きた学派(法相宗)として残っているのは恐ら く世界で日本だけである。日本人が論理的思考を鍛える場合、キリスト教圏の哲学より仏教圏の哲学を援用した方が本来馴染むのではないか?と思う。
仏教圏の哲学がキリスト教圏の哲学より論理的思考の枠組みとして優れていると思う点は二つ①人間の判断できる範囲を超えた形而上学については判断を敢えて 保留し言及しない「無記」の姿勢②「無記」と関係するが、逆に断定を下す事柄は基本的に経験的論理的に確かめられた事象に限定する実証的姿勢。
前述の①②の理由から仏教哲学を西洋哲学より優れた枠組みと判断し度々援用している。西洋人が論理的に思考する場合に西洋哲学の枠組みを使うのと基本的に 同じで、東洋哲学の枠組みを援用する訳である。仏教哲学と言ってもピンキリだが原始仏教と初期大乗(中観・唯識)が優れている。特に中観は凄い。
日本人は論理的思考が苦手と言われがちだが、自らの風土に合わない西洋哲学を無理に援用しようとするからではないだろうか?西洋の哲学的枠組みはキリスト 教文化圏で育まれたものであり、仏教文化圏に生きる日本人には基本的に馴染みにくい。だったら仏教文化圏の哲学を援用したらいいと思うのである。
形式論理学の同一律・排中律・矛盾律は西洋の形而上学と存在論が前提になっている。「AはA、Aは非Aでない」と言える前提は「Aは自己同一的な実体である」という事。この存在論的な前提が無い限り西洋の形式論理学は成立しない。
これは常に変化する現象世界では必ずしも成り立つ法則ではない。つまり、現象は時間的存在だから昨日のAと今日のAは微妙に相違する。だが、形式論理学で は「時間」は捨象されているから、昨日のAと今日のAは区別されない。それは只の約束事だから問題は無いが、変化する現象と乖離する事は事実だ。
西洋の形式論理学が前提とする西洋独特の存在論を対象化・相対化する視点を得てこそ、形式論理学も有効に活用できるというもの。東洋伝統の哲学はその視点 を提供してくれると考える。日本人が論理的思考を鍛えるには元々伝統的に馴染んできた仏教文化から資源を活用すべきというのが吾人の結論である。
ついにお坊さんと間違われてしまったので^^;仏教哲学を度々援用する意図・理由をご説明させていただきましたm(_ _)m個人的には、「入門 哲学としての仏教」竹村牧男著(講談社現代新書)がお勧めです。
仏教は「無常」を説くが「世界全体は常住か無常か」という命題には「無記」の態度を取った。では仏教は何について無常を説いたのか?五感と思考で捉える経 験世界(眼耳鼻舌身意・色声香味触法=十二処)について無常と説いたのである。断定は飽く迄経験的に確かめうる範囲に限定する徹底した経験主義。
masao @mini5945 28 分28 分前
@kikuchi_8 自然が根本であれば、信仰でねじ曲げられることはない…? アメリカ国民の一部は、未だに進化論を否定して、処女懐胎を信じているのか…?
菊池 @kikuchi_8 23 分23 分前
@mini5945 東洋は基本的に自然崇拝が基本になっているので、進化論に対して抵抗はないと思います。ただ、個体間の闘争を強調する、突然変異・自然淘汰が基本の西洋の進化論に対し日本には独自の進化論があります。「棲み分け理論」で有名な今西錦司博士の進化論です。k
(風の子 @makeanovel 9月4日
ある条件下でたまたま条件的に合致して生き残っただけであり、それが強かったとか優れてた訳じゃないのか
RT @kitsuchitsuchi
進化論=生き残ったものが生き残ったという結果論。優れた強いものが生き残るのではなく、生き残ったから優秀で強いということにされた。順番が逆。
アニメアイコン @the_drunken 2013年11月28日
「進化論は結果論」なのですよ。
進化はランダムな事象に左右され易く運の要素が強いから結果が予測できないという事ももっと広く知られるべきだと思う。
らると @rarunyan15 2013年8月27日
進化論について。進化論は「進化」という言葉を使っていることが間違っている。
いかにも努力して勝ち上がってきたんだぜ!すごいだろ?と言わんばかりな言葉。
実際の所は、運の要素が強い。結果論に過ぎない。
finalvent @finalvent 2013年9月9日
適者生存は結果論だから結局運の良し悪しでは。“@AriettaAoi: ダーウィンの進化論
この世で生き残る生物は もっも頭の良い生き物でもなく もっとも強い生き物でもなく もっとも変化に対応できる生き物だ”
ヒラ:// @punanny_chang 8月25日
弱い者から死ね
これが自然の摂理でしょ?問題は「弱い」の定義で肉体的に、頭脳的に、強いから生き残るわけじゃない。バカなハナタレでも資産家の子供であれば食っていける。屈強な男でも信号待ちに車で突っ込まれれば死ぬ。
「弱い」の定義とは実は「運がない」という事なんだろう。
そして最も強いとされる立場とは争い災いから物理的に一番遠い所にいる者のことなんだろう これって生まれによって全て決まる、って言い切ってるのと同じなんだよね ツバ吐いてやる)
underpondof12shrine @racist_banana 6 分6 分前
@kikuchi_8 これはデモクリトスの原子論にまで遡る 古い物質観と関係があります。 原子という物質の最小単位は、その内部に「空虚」を持たず 不可分(それ以上分割できず) 不変(永久に変わらない) というものです。 自らは自らに等しいので 運動(変化)の余地はありません。
菊池 @kikuchi_8 4 分4 分前
@racist_banana ご指摘感謝です。おっしゃる通りだと思います。現象世界の背後に想定されるプラトンのイデア説も西洋の実体論の原型でしょうね。質料主義の実体論の代表が原子論で、形相主義の実体論の代表がイデア論だと思います。
隠者(人間) @inja650rr 11月3日
@kikuchi_8 @sunamajiri 世界の在り方についての無記は
形而上学であるからだと思います。
これに関しては毒矢の喩えが非常に解りやすいと感じます。
毒矢に射られた人と、形而上学に拘り死を迎える人とを対比させた極めて秀逸な言い伝えであるように私は感じます。
(miwa @n_miwa 12月28日
「この毒矢はどこから飛んできて、なぜ私に刺さったのだろう?そこにはどんな宇宙の意志が」とか言う前に、早く毒矢を抜けよ、というお釈迦様の言う毒矢の例えは、凄く現実的な教えだと思うし、宗教家がこれ言っちゃうのも実は凄いよね。
かわたろう @kawataro84 2014年9月14日
NHKスペシャル「臨死体験」。最後、立花隆さんの「死はそれほど怖くない。あれこれ想念を巡らすから怖くなる」という話はとても仏教的だね。そのお釈迦様は「毒矢の例え」で、死後の世界がどうこうと時間を費やすのは無意味と説いていた。神秘体験の真偽に興味はあるが、こだわらずさらっと流そう。
木村 仁 @mucunren 2014年4月29日
毒矢が刺さっている人が、この矢を射ったのは誰で、出身は何処で身分は何か、矢尻の形と毒の作者が誰か全てわからない限りこの矢は抜かないと言っていれば、その間に毒が全身に回って大変な苦しみを味わいながら死んでしまいます。
この例え話の毒矢は煩悩と執着です。
あブラだこす @aburadakos 2013年10月24日
自分の名前を捨てると想定するとき、名前であったものは何か?名前そのもの、それは何であったか? 自分とは何か?と問いただしてみると良い。私であったもの。正に毒矢の例えのごとく、私と言う存在論が執着として、それが名前と言う象徴によって表現されている。名前と言う私と言う現象、幻想の欠片
慈永祐士 @jiei_yushi 2013年5月18日
まあ、基本的にブッダの説法方法は、「お前さんが信じとるやり方はそういうやり方かもしらんが、それをやっているとこういう風になるよ」という説法の仕方がメインスタイルなわけである。そういえば毒矢の例えとか、ソーナという元・竪琴演奏者だった比丘に対しても、同様な方法でしたね。
メロウ*ライク @mellowlike 2009年10月2日
@hasso_ 「「「「毒矢の例え」の例え」の例え」の…」ってなってるよね。哲学系の人って。「本を読むための本を読むための本を読むための本」とか。)
菊池 @kikuchi_8 11月3日
@inja650rr 毒矢の例えは有名ですね。同感です。形而上学的に世界がどうあろうとも、人間の生老病死の「苦」の現実には変わりは無く、またその「苦」を克服する道も形而上学的世界観に関わりなく存在するから、人間が判断・決定できない事に関わるより現実に結果が出る実践を優先すべきと。
隠者(人間) @inja650rr 20 時間20 時間前
@kikuchi_8
御釈迦様は入滅までの間死後の世界などの形而上の世界については一切語りませんでした。仰る通り無限ループに嵌り真理には絶対に到達せず一切皆苦の解決には無意味であるからでしょう
神通力の中でも畢竟漏神通とは、実は正に二律背反の回避であると私は読解しています。
(漏尽通(ろじんつう)=煩悩を打ち消し悟りの境地に至っていることを知る超人的能力)
菊池 @kikuchi_8 10 時間10 時間前
@inja650rr なるほど、「漏尽通=二律背反に陥って決して決着できない形而上学を回避すること」という解釈ですね。形而上学への執着も「煩悩」ですからね。素晴らしく合理的な解釈であられると思います。原始仏典に出てくる「悟りを開いた人間」としての釈尊のあり方と整合性があります。
隠者(人間) @inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 有難うございます。
漏神通は形而上学に限った事ではないと考えます。
この世は如何に二律背反に陥る無益な議論が多い事か僕は憂います。
菊池 @kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr そうですね。「対象化された事物への執着・煩悩を断つ」という趣旨だと思います。「法執」というものですね。形而上学も事物の一つですからね。そして、おっしゃるような、答えのでようもない、憎しみや争いだけを助長する無益な議論が本当に多いと思います。同感です。
隠者(人間) @inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 御釈迦様の言う中道の精神は想像以上に困難でありつつも、
悟りという境地は存在すると僕は確信をしました。
決して現代仏教に言われるような空理空論のようなものではなく遍く公衆にとって非常に有益な思想であると思います。仏の道を僕は進みたいと思います。
菊池 @kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr 素晴らしいお志だと思います。仏教の四諦の教えにしても、非常に論理的実証的で筋が通っている実践的な哲学だと思います。「悟りの境地」は分からなくても、執着を幾分か減らせばそれだけ苦しみが減る、という事は誰しもが確かめられるように思います。
(SHIVA @francisco_bot
【四諦】は原始仏教の核となるもっとも根本的な考え方。
ザクッと言うと
①人生は苦である。※仏教における「苦(dukkha)」の意味は「思い通りにならないこと」
②苦の原因は渇望(欲望)にある。
③渇望を滅すれば苦も滅する。
④苦を滅する道は八正道である。
【八正道】 正見(正しい理解) 正思惟(正しい思考) 正語(正しい言葉)
正命(正しい生活) 正業(正しい仕事)
正精進(正しい努力) 正念(正しい気づき) 正定(正しい集中)
※ブッダが最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る(瞑想)修行の核となる8つの方針)
隠者(人間) @inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 人間は、動物が群れで過ごすように、孤独を恐れる存在であると思います。執着とは正に孤独を恐れるが故の動物的本能なのかもしれません。
ならば理性を持った人間の本来的な在り方とは孤独である事なのかもしれません。
菊池 @kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr 確かにそうかもしれません。私は人間が執着するのは「言葉を持つ動物」だからだと考えます。つまり、本来は一つながりの「縁起」の世界を言語によって分節化し対象化する。そうやって取り出された事物=法を縁起によらず独存していると見なすところから執着が始まる、、と。
隠者(人間) @inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 なるほど、言語とは個体同士が意思疎通をする為の手段。だとするのならば、コウモリやイルカの超音波でのやり取りもまた言語とも言えましょう。
言語には意味と感情が含まれると考えます。
コード(暗号)に載った感情こそが人間同士の不調和を齎す原因なのかもしれませんね。
菊池 @kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr はい。そして人の言語はとりわけ発達しています。言語とはシンボルの一種で、シンボルとはある事物を置き換えた記号ですが、現実の事物が存在しなくても、記号なら数に限りが無く拡大されますので、それにつられて記号にともなう感情も拡大され不和を招く事もあると思います。
隠者(人間) @inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 中道とは左右から非難を喰らいつつも真理を追究する精神、そして智慧なのかも知れないと僕は仮説を立てます。
仏教は智慧の教えであると言われるように、偏りの無い思考力を持ち、本質を探る事が出来れば世の中は御釈迦様の言うように世界は調和できるものと確信しています。
菊池 @kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr そうですね。両極端な立場からの非難に動じることなく泰然として、ゆるぎないバランス感覚をもって、偏らない思考をし、物事の本質を的確に見出していく。極端に偏らない中道(中る=あたる 中道=適正な道筋に適合する)は調和の道でもありますね。おっしゃる通りです。
隠者(人間) @inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 常楽我浄の顛倒により一切皆苦が生じるのだとすれば、
四法印の内一切皆苦とは、
「生きる事は苦しい事だ。だから諦めなさい」なのではなく、
「生きる事は苦しい事だ。だからこそ一切皆苦を克服しなさい」と言っているように僕には感じられてならないのです。
( 隠者(人間) @inja650rr 5 時間5 時間前
@sunamajiri
常楽我浄…
無常であるのに常と見て、
苦に満ちているのに楽と考え、
人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、
不浄なものを浄らかだ
…とみる事。)
菊池 @kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr おっしゃる通りです。四諦の「諦」とは「あきらめる」ではなくて、「あきらかにする」という意味だと思います。そして、「生きる事は苦であるが、苦には執着という原因がある。その原因を克服する事で苦を乗り越える事が出来る」この道理を「あきらかにせよ」だと思います。
隠者(人間) @inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 四諦の理を理解する為の八正道。
四諦の理を超える事で涅槃寂静。即ち≒0の精神に到達できるのでしょうね。
菊池 @kikuchi_8 8 時間8 時間前
@inja650rr 四諦と八正道は相補的だと思います。八正道の最初「正見」とは四諦の理を認識することが含まれていると思います。四諦の理と申しましても、そこに到達する真理のようなものではなくて、あくまでも実践上の指針のようなものだと思われます。四諦を実践する事で「涅槃寂静」にと。
隠者(人間) @inja650rr 8 時間8 時間前
@kikuchi_8 八正道の正見は、御釈迦様のいう中道の精神に欠かせないものだと思います。
プラス側にもマイナス側にも思考が偏らない境地を目指す事。
それこそが、涅槃寂静(≒0)なのかもしれません。
菊池 @kikuchi_8 8 時間8 時間前
@inja650rr はい、まさに中道ですね。
菊池 @kikuchi_8 6月10日
キリスト教徒やカルト信者と並び西洋近代哲学信奉者も、「自己相対化」という事がとことん苦手らしい。彼らの依拠する絶対的前提が揺らぐことへの過度な恐怖心を持っている。例えば「空」を「虚無」と曲解し感情的に反発するのは、「実体」概念という自らの基盤を掘り起こされる事への恐怖心だろう。
西洋近代哲学信者は「空」や「無常」を虚無と曲解する。しかし不変の「実体」を想定する事が実は虚無なのだ。変化しないからどのような意志的努力も無意味 となってしまうからである。より良い自分になろうとしたり、良い環境を作ろうと努力することも変化しないなら全て徒労。これこそが「虚無」だ。
菊池 @kikuchi_8 6月10日
↓いつも的確なコメントをしてくださり感謝です。本当にその通り。哲学のふわふわした議論を数日も続けていると現実と接点のない空虚な遊戯をしている感覚になる。もっと実のある事を語るべきだ。西洋近代哲学信者が耶蘇やカルト・スピとあまり変わらない体質だと分かった事をせめてもの収穫としよう。
菊池 @kikuchi_8 6月11日
「善と悪の最終戦争」という危険思想は「善」と「悪」を実体視する所から生まれる。最初は何気ない言語化から始まるが、その度合いが進むと形而上学化し、さらには宗教化、最後には絶対的ドグマとなる。その妄想が本当に戦争を引き起こす。「実体視」というのは 事程左様に危険な思考習慣なのである。
菊池 @kikuchi_8 6月6日
@sunamajiri 心を認識作用と捉えるならば、心も時間という形式を持っているようにも思うのですが。つまり、「作用」という限りは、時間的幅があるはずです。対象は常に認識された対象なので、対象が時間性を持つならば、その認識自体も時間性を持つように思うのですが。
菊池 @kikuchi_8 6月9日
ドイツ観念論はほとんど無意味な事を語っていると思える。「こういう説明の仕方もできる」という事なら意味があるが、それが事実そのもののように語るとしたらもはや迷信のレベルではないだろうか。形而上学を語っているという事に無自覚な形而上学の徒はとても厄介。「高級版スピ信者」では。
菊池 @kikuchi_8 6月16日
明治以来よくいる西洋崇拝者=「洋学紳士」諸氏の有様①西洋の権威を取りあえず鵜呑み・脳内西洋人と化す②脳内西洋人の視点から日本を歪んだ視点で捉える③歪んだ視点で拵えた日本に関する偽問題を論う④最初の対象認識が歪んでいる以上無意味なから騒ぎ(基本的にストローマン)➄ご苦労様である。
明治の「洋学紳士」は基本的に左翼の自虐史観派の精神構造のプロトタイプである。西洋イズムを気付かれないように伝統に混入する手口よりは、ひねりが無く ストレートではある。手口の差異はあれど結局同根だが。洋学紳士の系譜からキリスト教社会主義者・マルキストの系譜が派生する。新人会が萃点だ。
親英米保守は脳内イギリス人と言える。彼ら「保守」を名乗るが、違和感を感じるのは、イギリス貴族的な差別意識と傲慢さが強い所。心の底では日本人を馬鹿 にしている。イギリス精神に憑依されている。イギリス貴族文化被れのくせに何が「保守」だと。一方、おフランス大東社精神に憑依されたのが左翼。
菊池 @kikuchi_8 6月10日
西洋近代哲学信者から「廣松主義か?」と、考察で取り上げただけで随分料簡の狭い質問を受けた。何度か申したが哲学は「参考までに」という捉え方である。哲学や思想は「活用」すべきものであり、ドグマとして信奉するようなものではないと考えている。現実解釈として理に適えば参考にするのみだ。
菊池 @kikuchi_8 6月5日
廣松哲学の、「世界が世界を認識する」総世界的連関体、という考え方が非常に華厳的だと思った。「無限の縁起的関係性」を説く華厳思想と、認識の「総世界 的連関体」を指摘する廣松哲学は、かなり酷似しているのではないか?と感じる。縁起・無自性・空が基本の華厳と実体概念の破棄を唱える廣松哲学。
@kikuchi_8 認識は縁起的に関係的に成立する、ということだろう。例えば、脳はそれだけで機能する自己完結的なシステムではなく、人体の他の部位や人体外の自然環境と連動するオープンシステムであり、そういう連関構造の中で初めて機能すると。実に仏教の縁起思想的だ。
菊池 @kikuchi_8 6月5日
直接倒せないなら、宮中周辺にキリスト教徒やメーソン員を送り込んで内側から乗っ取る、というのが国際秘密力の対御皇室戦略の骨子だと分析している。八切止夫が述べたサンカ人脈から得たと思われるインサイダー情報によってある程度裏付けられると思う。直接倒せないなら憑依する、が国際秘密力戦略。
菊池 @kikuchi_8 6月5日
「唯識」は「物に対して心だけ」とか「物質に対して精神だけ」という観念論というよりも、「人間にとって世界が展開する場は(深層心理を含む)意識」という哲学だと考え る。認識主体にとって「物質」は五感や思考の対象としてしか現前しないと。その上で近代哲学と違い「物自体」を否定する。
菊池 @kikuchi_8 6月5日
唯識を考える上で参考になりそうだ。量子力学のコペンハーゲン解釈:量子力学の状態は、いくつかの異なる状態の重ね合わせで表現される。このことを、どちらの状態であるとも言及できないと解釈し、観測すると観測値に対応する状態に変化すると解釈する。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E8%A7%A3%E9%87%88 …
菊池 @kikuchi_8 6月5日
量子力学のコペンハーゲン解釈を聞くと、廣松渉の「四肢的構造連関」という認識論が思い浮かぶ。認識主体と認識対象は主客で二元的に分かれているのではなく、一体の構造であり、認識主体のあり方が認識対象のあり方を規定する側面を指摘する。廣松氏は能所の不二一体性という仏教的表現をしていた。
菊池 @kikuchi_8 6月5日
アインシュタインの相対性理論はエルンスト・マッハの認識論(マッハ主義)に依拠する部分が多いそうだ。マルクス・レーニン主義者はマッハ主義を「観念論」として嫌うそうで、だからソ連では相対性理論は禁圧されていた由。では何故核兵器開発ができたのか?西側からの援助だろう。冷戦捏造両建芝居。
菊池 @kikuchi_8 5月28日
エベールは理性を崇拝し、ロベスピエールはそれを批判し「最高存在」(「自由」の理念のことらしい)を崇拝する。これはあまり大差ないだろう。前者は認識主体の側を実体化して崇拝し、後者は認識対象の側を実体化して崇拝しているだけの違い。唯識で言う見分と相分を其々実体化した「無明」の立場。
@kikuchi_8 「空」(勝義)を踏まえない哲学的立場(なんらかの実体を想定する実在論の立場の事と思われる)は全て「道理世俗」と呼ぶらしい。「実体」は「不変」をそ の性質としているので、実体を想定すると変化する現象世界が説明できず、必然的に現象と実在の二元論二世界論に帰結する。
@kikuchi_8 「我法二空」(「我」は主体、「法」は客体、主体以外の事物)というが、理性崇拝は主体である「我」を実体視して固執する「我執」の立場、「最高存在」の崇拝は客体である「法」を実体視て固執する「法執」の立場、と言えるかもしれない。いずれも実体論の範疇である。
菊池 @kikuchi_8 5月28日
豊臣秀吉の伴天連追放令は天正15年(1587年)だが実はその20年以上前の永禄8年(1565年)に正親町天皇がキリシタン追放の綸旨「大うすはらい」を出されている。豊臣、徳川よりいち早くキリスト教の危険性を看破されていた朝廷。明治以後耶蘇勢力が宮中に狙いを定めた動機はこのあたりか。
イエズス会HPにキリシタン関連の年表があったが、1565年のところにしっかりキリシタン追放の綸旨「大うすはらい」(でうすはらい)が載っていた。連 中しっかり覚えている模様。日本への文化侵略の為に彼らがどこを狙っているのか。宮中御周辺にキリスト教徒が多いのは決して偶然ではないと思う。
一神教では、偶像崇拝がいかんと言われるが、「造物主」崇拝というのも偶像崇拝ではないだろうか。物質的な偶像と言えども認識主体に認識されている限りで は知覚的な表象である。造物主概念は想像的な表象である。それぞれ知覚的か想像的かで違いがあるだけで、対象的事物であることに変わりはない。
仏像を破壊するときのキリシタンの心像風景を想像するに、彼らの意識対象には強烈に「でうす」という想像的な表象が浮かんでいたと思われる。仏像という知 覚表象より「でうす」という想像表象が優越する合理的理由などは無い。仏教では「縁起・無自性・空」を説くから究極的には対象化は否定される。
@kikuchi_8 意識は意識作用(主体=見分)と意識対象(客体=相分)からなる。「造物主」という想像的な表象以外は全て無価値とするのがキリスト教である。唯識仏教で はあらゆる対象は意識作用の対象面だと考えるから「造物主」も形として浮かんだ仏も単なる意識対象=相分という事になる。
菊池 @kikuchi_8 10月27日
「空」は「無」と混同されがちで、空思想=ニヒリズムと誤解される事が多い。しかし本当は「空」は「縁起」と同義なので「空」であるものは「存在する」という事。中村元先生の解説によれば「縁起だから無自性。無自性だから空」という論理的順序だそうだ。結局、縁起は空と同義とのことであった。
「自性=実体として存在しているのでない」となれば、「どのように存在しているか?」という疑問がわくが、その答えが「縁起として存在している」となる。 つまり、他の力を借りずにそれ自体で存在しているのではなく、常に原因条件に依存して縁起的=関係的に存在している=空である、という事。空≠無
宗教は人心支配の為の強力な武器になっているようです。「こういう風に大衆を誘導したい」という狙いから逆算して宗教構築。
菊池 @kikuchi_8 6月19日
耶蘇原理主義者が「善悪二元論は勧善懲悪という事だから普通の事」みたいに書いていたがさにあらず。善悪二元論は常識的な勧善懲悪論ではなく善と悪という概念を実体視した形而上学。この意味で「神と悪魔の闘争」という耶蘇教が「光と闇の闘争」というゾロアスター教の影響下にあるのは明らかだろう。
菊池 @kikuchi_8 6月6日
@sunamajiri 無常論は常に変化しつつある現象の容態を観察して記述しただけのことだと思います。シンプルです。そもそも「時間」というからにはそこに「変化」のニュアンスが概念的に含まれているはずであり、もし不変であり恒常ならむしろ「無時間性」が帰結するようにも思います。
菊池 @kikuchi_8 5月25日
高度なテクノロジーによる管理支配というのはまさに「イルミナティ」の思想。理性を軽視又は放棄するキリスト教への反動から理性を過信する理性崇拝教が生まれた。両極端だが、何かを実体視して妄信している点は共通している。キリスト教で崇拝する「造物主」を内面化したものとしての「理性」を崇拝。
菊池 @kikuchi_8 5月25日
理性とは推論する能力。推論には出発点が必要。最も確実と思われる出発点は知覚等により経験的に確かめられたもの。できるだけ不確定な要素が無い方が結論はより適切になる。だが自然が対象ならまだしも統治体制をデザインするにはあまりに不確定要素が多すぎる。これが「できる」とするのがイルミナ。
yajima-mieko @emieko 5月26日
自然や自然現象といわれるものこそ不確定要素が強いどころか、人間にとり不可知でないか、と思っておりますが、自己の外在物であるものとしてそれを対象化する働き=知性においては。なんであれ理性によって遍く支配できるとするのが顛倒想でNWO。 https://twitter.com/kikuchi_8/status/602863211193368576 …
菊池 @kikuchi_8 5月25日
推論能力としての理性は比較的確実な知覚による経験が可能な自然現象に適用する分には割りと的確な結論が出る。だが理性でゼロから統治秩序が設計可能か?理性を機能させる前提はこの場合どこに置く?各国の歴史・文化の相違等の不確定要素が多いので理性を全世界に適用してNWOを構築など不可能。
菊池 @kikuchi_8 5月26日
@emieko 自然界ですらそうなのですから、複雑な人間の意志や感情が交錯して形成されている社会組織のデザインを理性の能力でゼロから構築するのは不可能事だと思われます。社会組織は歴史的慣習の叡智を重視しつつ、悪い部分は慎重に改良していく、という漸進的なあり方が無難と考えます。
@emieko それに、量子力学(これについては私は無知ですが)などで解明されたミクロの物質世界における「非決定性=一義必然性の否定」からすると、自然界そのものが不確定要素を含んでいる事が明らかになっておりますね。
@emieko はい。対象自体・意識内容・意識作用という近代哲学の三項図式からしますと、「自然界そのもの」(があると仮定して)は確かに不可知であると思います。人 間にとって現前する自然はどこまでも視覚や触覚、あるいは思考作用で概念的に把握された限りでの「自然」であると言えますね。
菊池 @kikuchi_8 5月26日
自然現象こそ不確定で不可知なものではないか、というご指摘を受けた。確かに。認識主体としての人間に現前してくる「自然」とは常に視覚や触覚等の感覚作用、思考作用で把握された概念としての「自然」であり、意識作用を離れて「自然」を感知することはできない。その意味で確かに「唯識」である。
@kikuchi_8 認識主体に立ち現われてくる五感の作用(電子顕微鏡等の器具を使った拡大された知覚を含む)を概念的にまとめて、その規則性を記述する=科学といえるかも しれない。「理性」は感受された五感作用を概念的にまとめた上で、概念同士を操作して推論を遂行する能力と言えるかも。
@kikuchi_8 五感として現成する自然現象は一応規則的だから自然科学は比較的正確。このように自然科学の場合は理性を機能させる前提を広義の感覚や知覚に置く。だが 「理性で世界政府を構築」となると、何を基礎に「理性」を機能させるのか。NWOは理性を過信した者以外からは出てこない。
菊池 @kikuchi_8 5月26日
理性崇拝とはキリスト教の「造物主」を「理性」に変えただけの実体的な絶対者崇拝。西洋における反キリスト教思想は発想の根底がキリスト教と共通。引用:(理性崇拝とは)神に代わり人間の「理性」を崇拝しようという非キリスト教化運動。【理性の崇拝】http://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-075.html …
iseakira @iseakira 5月26日
@kikuchi_8 結局これってキリスト教(または旧約含む)世界の中の話でしかないわけす。理性崇拝の極端な形の、知性の実を食べさせた蛇を崇拝するだの、サタン崇拝だの見れば構図は分かりやすい。非キリスト教的自称のものも含めて、みなその世界観の中のおはなし。「しらんがな」なわけです
菊池 @kikuchi_8 5月26日
@iseakira まさに「はげどう」というやつであります。理性崇拝にしろ、理性崇拝を人格神的に表現したと思われるルシファー崇拝にしろ、「神との合一」の西洋神秘思想にしろ、キリスト教世界のフレーム内での相互対立でしかないわけですね。非耶蘇圏からするとまさに「しらんがな」ですね。
(“理性の崇拝
フランス革命のジャコバン独裁期に、エベールらが推進した非キリスト教運動。
フランス革命が進行し、ジャコバン派独裁政権が成立した時期の1793年に、左派のエベールによって進められた神に代わり人間の「理性」を崇拝しようという非キリスト教化運動。アンシャンレジームのもとで王権と結びついていたカトリック教会に対しては、革命当初から批判が強められており、特にジャコバン派の中の急進派であるエベール派がキリスト教否定の立場をとっていた。
1793年に国民公会でカトリック暦が廃止されて革命暦(共和暦)が採用されたことで非キリスト教運動は盛り上がり、教会の破壊や聖職者の妻帯を進め、その一方で「理性の祭典」が組織されていった。10月、パリのノートルダム大聖堂は革命派に占拠され、祭典が強行された。
ロベスピエールは理性の崇拝を批判
しかし、ロベスピエールを中心とする公安委員会は、「理性の崇拝」の強要は無神論であり、またその強要は信仰の自由に反するとして、エベール派を批判、またダントンらの右派も反対した。その結果、94年3月にロベスピエールによってエベールが反革命として処刑され、理性の崇拝は廃止された。ロベスピエールはキリスト教の神に代わる「最高存在」を革命のシンボルとしてつくりあげて、それを祝う祭典を計画し、同年6月に「最高存在の祭典」を挙行する。”
http://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-075.html)
通常より短い記事をお読みくださり本当にありがとうございます!
「人生というクソゲーを攻略する方法」。原始仏教は宗教=執着=苦しみの原因を否定。つまり原始仏教は苦を克服する為の現実的なカウンセリング術『バウッダ―仏教』。 キリストきょうはユダヤガワルイをとなえた! キリストきょうをたたけなくなった! ✝が黒幕。
Posted on 2015.02.06 Fri 17:55:37 edit
原始仏教は宗教=執着=苦しみの原因を否定。つまり原始仏教は苦を克服する為の現実的なカウンセリング術。
人生というクソゲーを攻略する方法
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20699310
上記の動画作成者は、人生攻略の手段としての執着を取り除くことを重視しています。
この動画の紹介も兼ねて、今回は、道(道一語で仏教を意味する。神道の意味はない)と仏道と仏法と仏教の話。
日本の伝統が神道ではなく仏教なのは日本語が仏教用語だらけなのと、神道・天皇・神器・惟神が道教用語(神道用語って何ですか?)であることから明白です。
金輪際、仏教用語を使わずに日本語を使おうとするとほぼ無理です。
日本語を学ぶ=仏教の概念を学ぶと言っても大袈裟ではありません。
ご飯をシャリというのは、舎利(しゃり。釈迦の骨)という仏教用語が元ネタであるように、明治以前の本物の天皇は仏教徒であり伊勢神宮に参らなかったように、日本の真の伝統は仏教=神と仏の実体を否定する思想です。
(さあ、ここまでで仏教用語はいくつ出てきたでしょう?)
神道家(笑)の息の根が止まりかけそうなことを言っておりますが、神道って「墓場への道」って意味があるんですよね。なのに、死体のことは「仏」とは呼びますが「神」とは呼びません。仏頂面はありますが、神頂面はありません。
神道=和風キリスト教という偽伝統を捏造したキリスト教の得意な呪文が
「ユダヤガワルイ」
キリストきょうはユダヤガワルイをとなえた!
キリストきょうをたたけなくなった!
全部ユダヤ(と在日)のせいにしている✝(と大本教系カルト)が黒幕です。
彼らの根本思想を理解したくないなら、支配層代表のプラトンの演説をどうか見ないで下さい。
【マギ】マギ特殊ED集【モガメット演説】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm22755002
ニコニコ市場に商品を貼ったのは私です。
初期仏教では呪文は禁止。
つまり「ユダヤガワルイ」も「ザイニチガワルイ」の呪文も禁止(冗談)。
この呪文禁止ということは今の一般的な仏教ではまったく守られておりません。
般若心経の終わりのぎゃーてー以下略なんて完全に呪文ですし。
仏教の経典は難しいと思われているのは漢語のままのせいです。聞いても意味が分からないのだから、お経全てが意味不明な呪文みたいなものですよね?
漢文の書き下しを読んでも意味が分からないのだから、やはり意味不明な呪文です。
内容を理解するには、どうしても現在の我々の言葉に直す=口語訳が必要です。
が、多くの仏教学者が、口語訳とは経典の内容を卑属化するから駄目だと主張したせいで口語訳は今でも普及していません。
あの難解な古い訳語を墨守していたら学問自体の発展を邪魔することを判らないのが自称頭のいい学者たちです。
この人たちは仏教学者のくせに、人々に判るように言いなさい(口語訳しなさい)という釈迦の教えを守っていません。
釈迦は、理解力のある人には相応に、一般の人にはとても解りやすく説きました。当然、現地の言葉で、聞く人々が分かるように語ります。少なくともそう心がけるでしょう(通訳を介することはあったでしょうが)。
つまり、経典の口語訳が卑属化であるなどという仏教学者の主張は、釈迦の教えに反する者であり、釈迦が聞けばさぞ残念がるでしょうね。
本記事で登場する般若心経にしたって、意味が分からないのに読んでも悟れるわけないじゃないですか。般若波羅蜜って漢語で言われて(今辞書を引くのちょっと待って)意味が分かりますか?
般若=(悟りの)智慧。
ハラミツ=波羅蜜=修行で完遂・獲得・達成されるべきもの。
釈迦の教え通りに伝えるなら般若波羅蜜多と言わずに、
「悟りの智慧の完成(完全に悟ること)」と今の人が分かる言葉で言わないといけないのです。
私が以下の仏教系ツイートを取り上げるのは、神と愛で侵略するキリスト教に対抗できる思想として、仏教(執着=愛は悪。愛憎を越えた慈悲が良い。神に実体なし)が良いと考えたからです。
私の思想は原始仏教(宗教=執着=悪)に近いですが、別に仏教徒ではありません。
仏教の慈悲は、キリスト教などのいう「人々への」憐憫の思いではありません。仏教においては「一切の生命」は平等で、全生物に等しく与えられるのが慈悲であり、愛憎の対立を超えたものなのです。
キリスト教では創世記で動物を支配させる為に神が人間を創った、とあります。キリスト教では人間は特別で霊魂があり、人間以外の動物にはない、と考えます。だから魚である人魚姫には魂がないのです。
キリスト教がいかに仏教を憎んでいるかが分かりますね?
仏教では愛は悪。愛は執着であり憎悪に繋がる。愛と憎しみを越えた慈悲こそが素晴らしいと説く。
しかも、ミトラ(弥勒)でわかるように日本の仏教にはキリスト教の真の元ネタであるミトラ教が混じっている。
だからこそ神道家(和風キリシタン)が主張する歴史(笑)は、仏教を完全に無視したりするのです。あと、仏教国教時代をなかったことにするために、超古代と明治以降の偽伝統が好きですね。伝統が無いからこそ伝統をでっちあげるのです。
仏教国教時代の多数派の思想である本地垂迹説では、神の正体は仏としています。つまり、神に実体なしとしているのです。神とは仏が被る仮面なのです。仏教では神は仏より格下です。
当然、仏教徒の本物の天皇は現人神ではありません。神に実体はなく、仏より格下なのだから、天皇を現人神と呼んだら反逆者ともみなされたでしょうね。だから現人神は伝統ではありません。
なお、仏教は仏すら実体はないとします(空の思想=絶対的存在の否定)。
朝廷の思想が本地垂迹説=仏>神なのだから、神仏習合は八百万の神々を仏教化して仏教に取り込んで、国教=仏教勢力逆らえないようにする為に行われたものです。
だから神と仏は対等ではありませんでした。神仏習合は神と仏は対等だとする思想だというのは神道(和風耶蘇教)が流しているデマです。仏が神より上です。
仏教圧倒的優位の証明が、八幡大菩薩です。今の八幡宮(八幡神を祭神とする神社の総称)は、八幡は神だとして仏教化(仏教支配)をなかったことにしています。
しかし、昔は寺でした。八幡大「菩薩」を祀っている宗教施設はいくら神社と名乗ろうが「寺」ですから。
石清水八幡宮も昔は石清水八幡宮護国寺でした。「護国寺」=仏教の施設だったんですよ、石清水も。
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi
祇園は祇樹給孤独園という仏教用語の略称なのでシオンを意味することはない。精舎=寺。 ユダヤ教の行事カレンダーの7月は空白でシオン祭りは実在しない。 #日ユ同祖論 はスコットランド人製で #大本教 系の特徴
「天皇が信仰した思想体系がある伝統宗教」=神道は明治期のキリスト教による捏造。
明治以前の神道
①単なる土着神崇拝。神社は地域土着の祭壇。政治に影響力なし。
②道教の一派としての神道(天皇と神器も道教用語)。
本地垂迹説=仏教優位で神仏習合。
#日ユ同祖論 は道教と仏教を無視。
聖書が根拠の偽伝統
神道の現人神、神前結婚式、完全に良い意味での愛、 働かざる者食うべからず(勤勉な日本人)。
仏教国教時代の本地垂迹説では、神の正体は仏=現人神に実体なしだから伝統ではない。
おきむさん @kimrising 2013年3月12日
祇園とは祇樹給孤独園の略。コーサラ国の首都シュラーバスティー(舎衛城)に住み、日頃から孤独な貧者に衣食を給与していて「給孤独」と呼ばれていた長者スダッタ(須達)が、釈迦の住居(精舎)として、コーサラの王子ジェータ(祇陀)所有の林(祇樹)を譲り受けそこに寺院を建て釈迦に寄進したもの
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 8月23日
@lanekota カテゴリーは分析に使うと便利。カテゴリーが通用しないものを人間は存在を認識できない。 支配者の思想の中核となるものの翻訳は特に中核となる箇所では信用できない。大学の研究で翻訳は参考程度なのが普通。特に古代語。シンプルな原文の用語を難解な専門語にするのはわざと。
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 2月10日
猫太”あの難しい翻訳わざとなんですか。ラテン語の教科書といい、どんだけ陰謀にまみれてるんだかwわかりやすい言葉で書かれた古典シリーズを作りたいですう”
言語で分割統治。例えばウィキでは日本のことなのに、日ユ同祖論の起源がイエズス会で布教意図もあったことは英語版にしか書いていない。
たうべ@畜20年 @taubeeeeee 8月29日
愛って漢字あるじゃん あれって訓読みないんだよね ってか基本的にアイしか読み方ない 漢字はもともと大陸由来だからアイって言葉も外来語なはずなわけで 訓読みがない以上はその概念すらなかったんじゃないかと
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 11月9日
@taubeeeeee 「愛」は仏教では執着=悪。 キリスト教では創造神が与える善。 なのでアガペーは16世紀(仏教が国教)の『どちりな きりしたん』では「御大切」と訳されました。 明治維新でキリスト教の植民地になって以降、愛=善というキリスト教思想に染まったのが今の日本人です。
ぴいぷう妖怪 @pirorinpipipi 11月10日
@kitsuchitsuchi @taubeeeeee 「愛」=執着 自分は相手をこんなに愛してるという自己陶酔。もっと愛されたい。もっと○○をしてあげたい。浮気しないで!私だけを愛して!という押し付けがましさ。愛は嫉妬、憎悪、ストーカー、DV、暴力、戦争などトラブルを生む。
@kitsuchitsuchi @taubeeeeee 愛ってウザイし妄想激しいし執着心強いしひとりよがり。激しく愛し合ったカップルほど別れ際は激しい憎悪。キリスト教の「愛」よりも、、、仏教の「慈悲」が大事!! はんにゃ~は~ら~みった~♪
菊池@kikuchi_8 • 12月5日
6)王仁三郎は「わしは先ず仏教を滅ぼす型をやるのや、それが色々な宗教を滅ぼす型になるのや」と日本の伝統宗教を破壊することを明白に意図していた。これはワンワールドの露払いであろう。文鮮明も宗教統一を標榜。日本会議に世界連邦主義者多し。最近の「宗教国連」。意味は同じ。皆同じ穴の貉。
フェイド大帝 @FeydoTaitei 9月25日
西洋人の神は常住善と常住悪の
肯定から来ている。プラトンの
言うイデアと一緒ね。
仏教は無常を説くので、
そもそもイデアなんか存在しません というスタンス。
ちなみに常住というのは実存する
という意味ね。反対語が無常。
J・ナナミ @pinkglalem
以前、学会員の方に言ったんですが、「仏教は宗教ではありません。“空の概念”が存在する限り、アレは哲学です。仏教に信仰を持ち込んだら、ソレは既にカルトです」
...相手は、絶対に納得しませんでしたね。
昔、学会員の人と話してて、佛教とは仏を否定する哲学と言ったら、信じてもらえなかった。創価は佛教を偽装した大本教だから...彼らには理解出来ない。ネズミ講のよーな収奪システムの中で来る筈のない未来の幸福を待ってる。佛教はその“未来”ってヤツを否定してる。
フロイドの精神分析は佛教に似ている。「時間」と「空間」と、それらを造った「神」の否定。これら3つは、人間の作り出した妄想に過ぎない。そう論破したのが、佛教。それゆえに政治的には宗教の目的(人心掌握)をなさなかった。だから本場インドでは佛教は死滅した。
佛教では「愛」を執着とし、否定しました。キリストは執着しました。私も何も信じていない。ところが、どこかで何かを無意識に信じているのです。何かに執着しているnです。私も...カルマですかね?私たちが見る物、信じている物はすべて幻想です。
時間は空間が存在しない限り、存在しない。空間は私たちがイメージの中で造り出しているモノで、現実には存在していない。このイメージに執着する事を、佛 教は「愛」と呼んだ。キリストは愛を説くが、佛教は否定している。故に、佛教は時間を否定するが、キリスト教は肯定している。
人類最大の病はキリスト教。なんで、アラビア半島の局地的な信仰が、世界的に蔓延するのか?誰も疑問に思わない。いや、怖くて口に出さない。あれはただの精神病。#カルト #強迫神経症 #戦争 #ユダヤ陰謀論 #偽情報工作員
出口王仁三郎や笹川良一と血が繋がっていたと言われる牧口常三郎は明確に佛教の戒律を否定しています。だから、在家団体が誕生した。
明治維新の際に、この隠れミトラの佛教を駆逐する為に作られたのが、金光教、天理教、大本教。創価学会は大本の分派。出口王仁三郎と牧口常三郎は異母兄弟。牧口の甥が戸田城聖。牧口が大石寺に通って、在家信者団体創設の許可を取り付ける。佛教に偽装した大本教。
バラモンというのは、あーだ、こーだと、へ理屈をゴネて原住民の存在を全否定して、自分達の支配の正当性を説いたんですが...このへ理屈に特化した邪教(佛教)は、バラモンの存在理由まで否定し始めちゃった。さー大変。インド社会は立ち行かなくなります。
この邪教(佛教)の台頭で、インドの支配階層のヒエラルキーが否定され、危機感を感じたバラモンは理論武装して対抗しました。理論武装で生まれ変わったバラモン教が、ヒンディー教です。
菊池 @kikuchi_8
スッタニパータ1035【 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるもの でのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」】←洗脳防止の指針にもなりうる名句かと。
3)逆に洗脳を防止する為には五感を通して入ってくる感覚や情報に気を付けることが肝要となる。仏陀は最古の原始仏典スッタニパータの中で「煩悩の流れを せき止めるものはなんですか?」という学生アジタの質問に答えて「気をつけること」と答えている。極めてシンプルだが、確かにその通りである。
11)最古の仏典であるスッタニパータに「世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである」と極めて簡潔な煩悩克服法の記述 がある。あまりにも簡潔だがよく考えてみると確かに合理的である。仏教自体が本来極めて理にかなった精神鍛錬法の体系とも言える。
仏陀 ブッダ ことば 仏教 @Buddha_Words
837 マーガンディヤよ、「私はこのことを説く」ということが私にはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における過誤を見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎを私は見た(スッタニパータ)
841 マーガンディヤよ、あなたは自分の教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執着した事柄について迷妄に陥ったのです。あなたはこの内心の平安について微かな想いさえも抱いていない。だからあなたは「ばかばかしい」と見なすのです(スッタニパータ)
1070 よく気をつけて、無所有をめざしつつ「何も存在しない」と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ(スッタニパータ)
855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において他人を自分と等しいとは思わない。また自分が優れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。彼には煩悩の燃え盛ることがない(スッタニパータ)
1119 つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は見ることがない(スッタニパータ)
839 「教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる」とは私は説かない。「教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも清らかになることができる」とも説かない(スッタニパータ)
846 ヴェーダの達人は、見解についても思想についても慢心に至ることがない。彼は宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。彼は執着の巣窟に導き入れられることがない(スッタニパータ)
399 禍いの起るもとを回避せよ(スッタニパータ)
436 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる(スッタニパータ)
437,438 汝の第五の軍隊は物憂さ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊は見せかけと強情と誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己を褒めたたえて他人を軽蔑することである(スッタニパータ)
450 最上の善いことばを語れ。これが第一である。正しい理を語れ。理に反することを語るな。これが第二である。好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。真実を語れ。偽りを語るな。これが第四である(スッタニパータ)
1078 世の中で真理に達した人たちは、哲学的見解によっても、伝承の学問によっても、知識によっても聖者だとは言わない。煩悩の魔軍を撃破して、苦悩なく、望むことなく行う人々、彼らこそ聖者である(スッタニパータ)
中村元/三枝充悳『バウッダ―仏教』 (小学館ライブラリー (80))
・「愛」の語は、阿含経には「渇愛」としてあり、愛は欲望の一種で、最も激しく、自己中心的であることから、厳しく排斥される。愛ないし大愛の語が仏教に迎えられるのは、ずっと後代の、密教に入って以後のことである。
・慈悲
=慈(他に楽を与える。与楽)+悲(他の苦を抜き取る。抜苦)。
・仏教の最初期から慈悲、慈と悲に加えて、喜(き。ムディター)と捨(しゃ。ウペッカー、ウペークシャー)とが一括して説かれることが多い。
喜とは自らの喜びと同時に他を喜ばすこと。
捨とは平静を指し、心に動揺も偏向もまったくない在り方を表現する。それは、いわば完全な無差別から、更に無性に通ずる場に、いわゆる「無縁の慈悲」を招き寄せて、なんらのかかわりをもたぬものに対しても、大いなる慈悲をもって接しつつ、しかも慈悲ということそのものを空(くう)じているという。このような慈悲喜捨は、どこまでも限りなく広げられて、これを四無量(心)(しむりょう。しん)という述語の成立を見る。
・紀元前に釈迦の姿が彫刻されることはまったくありえず、空白のままにするか、あるいは数種のシンボル(仏足跡、菩提樹、法輪など)で表現される。仏像がインド北西部のガンダーラに、また中インドのマトゥラーに最初に出現するのは紀元後一世紀末~二世紀以降というのが定説である。
・古くから仏教教団はサンガと呼ばれ、これが漢訳では「僧伽(そうぎゃ)」と音写されて、日本語の「僧」となる。したがって、僧とは、元来は教団全体を意味し、個人を意味する語ではない。
・インドで仏教が衰退し、滅亡したというのは、正確には、イスラーム軍によって、1203年にヴィクラマシラーの大寺院が徹底的に破壊され、比丘はすべて殺され、仏教サンガがインドから消滅した。
・業(カルマ)と輪廻(サンサーラ)は、すでに仏教創始以前の古ウパニシャッドに説かれており、全インド人に不可避の強固な人生観を形づくって、インド史全体を貫き、現在に及ぶ。現世における業、すなわち行為によって来世に生まれる場が決定される、とインド人は信じて疑わず、来世の場には、地獄・餓鬼・畜生・人間・天の五つを立て、のちのは、畜生と人とのあいだに阿修羅を挿入して、これを六道と称する。
つまり、来世に六道のいずれに生まれ変わるかは、すべて現世の業が決定し、この生まれ変わりであり輪廻は転生とも呼ばれる。これは生あるものは決して逃れられないという考えがインド人すべてを支配している。
・仏塔(ストゥーパ。卒都婆。卒塔婆)崇拝
もともとインドでは、古代から格別に由緒ある人、特に聖者に対して、滅後その故人を記念する墳墓をつくり、それには土饅頭型に土を盛り上げて祀った。通常インドでは、一般の人々は元来(現在もなお)各個人が死後も長く留まる墓に相当するものを設けない。
輪廻転生思想が広く行き渡り、普通の人々は死後最大四十九日までには、再び新たに「生あるもの」に生まれ変わると固く信じていて、墓そのものの必要性も、その意義もないことになる。おおむね死後は遺体が河畔に運ばれて火葬にされ、そこに残る骨も、灰も、ことごとく河に投ぜられる。それがガンジス川であることを強く望み、とりわけその中流のベナレス(ヴァーラナーシー)は最大の霊場として、今日に至る。釈尊は入滅後、インドの古風に従った。つまり、ニルヴァーナ(涅槃)に達して輪廻することのない釈尊の遺体は、クシナーラー村の住人たちによって荼毘(=火葬)に付されたあと、その遺骨と遺灰とを多くの在家信者たちが入手を争い、結局は有力な信徒に八分割され、彼らはそれを持ち帰って、記念碑であるストゥーパ(仏塔)を建設し、その遺骨などを丁重に土の下に祀った。
中国と日本に伝わると文字通りの塔になる。中国では土と木、日本ではもっぱら木(卒塔婆)でできている。
また、スリランカ、ビルマ、タイ、カンボジアなど南方に伝わって「パゴダ」となり、石造のものが多い。
仏塔はインド全体に広がっているが、南部のデカン高原には、数多くの窟院(くついん。レーナ)が開削された。現存するものだけでの千二百以上あるといわれ、その約七五パーセントは仏教に属していた。その古いものは、紀元前二世紀ないし紀元前一世紀にはじめられており、特にアジャンターとエローラとの窟院群が名高い。なお、窟院には、仏塔を祀る礼拝堂と、比丘たちが住む僧院との二種があった。
(え、仏教って墓石を作らないの? じゃあ日本のあのバカみたいに高価な墓石はなんだよ、言いたくなりますが、墓石は儒教の思想です。位牌も儒教ですよ)
・「仏教」という言葉の使用例は存外に新しく、明治期の日本が欧米「近代」の移入を図った時に軌を一にする。「仏教」の語は「仏の教え」を意味する少数の場合を除くと、江戸時代末期まで知られていない。
江戸時代までの文献では「仏教」という語はほぼ絶無。教えないし理論については「仏法」といい、
実践に関しては「仏道」(この原語は「さとり」そのものをいう)の語が用いられており、仏法と仏道という語に日本人は(中国人なども)千数百年間なじんできて、今日でも一部は維持されている。
五世紀以前の中国では「道教」とも呼ばれた。
また、多種多彩な漢訳仏典中から特定の教えをみずから選びとって「宗(むね・主・本・長)」とすることが六世紀の中国に生まれ、その宗の教えとして「宗教」の語がここに発明された。
宗教は仏教の下位概念に属し、仏教徒のあいだでのみ用いられて、日本でも明治初期まで仏教諸宗は「わが宗教」と称し、かつ仏教は仏法や仏道(単に「道」だけでも仏教を意味する)などの語で表現されていた。
江戸末期の開国で外国語の翻訳としての今日の用法が定着する。仏「教」としたところにすでに西洋思想による変容がなされている。
同時期に哲学という造語が誕生し、仏教・宗教の後も本来的意味を改変されて、すでに日常語化して現在に至る。
宗教とは「宗」派の「教」えであるから、仏教の下位概念であり、仏教者のあいだでのみ宗教という語は用いられた。
・バウッダはサンスクリット語でブッダを信奉する人。
古代インドの哲学書などでは、仏教の教説のことをバウッダ・ダルシャナといい、バウッダというときはどこまでも、仏の教えを信奉する人のこと。
インドでは宗教や哲学は各個人のもの。社会的権威によって束縛されるものではない。だから、西洋でいう「クリスチャニティ」や「イスラーム」に相当する造語法が古代インドにはない。
現代インドでは、佛教(仏教)を意味してバウッダ・ダルマといい、スリランカではブッダ・ダンマあるいはブッダ・サーサナという呼称を用いるが、外来宗教に対立する宗教だという自覚が強くはたらいている。
・ブッダ=真理を悟った人。ジャイナ教でも最高の聖者をブッダと呼ぶ。仏教は当時から使われていたブッダを採用した。ジャイナ教徒のあいだでは『聖仙のことば』(イシブハーシヤーイム)という書を伝えている。この書は聖人、賢者とみなされていた哲人のことばを集めたもの、あるいはその哲人たちについて歌った詩を集めたものである。この書ではいかなる宗教の人であろうとも、聖人、聖者をブッダと呼んでいる。
(ブッダは複数いることが重要ですね)
・仏教は「法」を説くのであって、「教義を説くのではない」。諸宗教や哲学の説く教義なるものは偏見として仏教では排斥する。
仏教の説く教えも「方便」である。それは筏のようなもの。目的を達したら捨てられねばならない。筏を大切なものだとして大事にしがみついているのは単に「執著」にすぎない。
原始仏教では法の権威が最高のものであり仏より上位だった。
ブッダは永遠の理法を説いたのであって、新しい宗教を創始したのではない。ブッダは普通名詞であって、幾人いてもかまわない。
(仏教は教祖とされる釈迦が実在しなくてもまったく問題ない教え。
キリスト教は十字架にかけたれたことにされている生贄=教祖が実在していないと教義が崩壊する教え。
そもそも冤罪なのに罪を購ってくれた自分が生まれるはるか前の神の子に感謝って凄い教義ですな。罪=悪を創ったのも神=善のふりをする大悪魔ですよね。
自由意志で悪を選択したって?
じゃあなぜその悪を滅ぼさないんですか?
なぜ悪を野放しなのですか?
そもそも悪という選択肢をなくせばいいのでは?
信仰を試す? 意地「悪」ですね!
悪ではなく「善の欠如」だという言い訳をする人がいますけど、悪という概念は善という概念がないと成立しませんよね? 善に相当するという言葉だけがあって悪に相当する言葉がない言語を教えてくれませんか?
聖書の神を「極悪人」と置き換えて読むと非常に納得できますよ)
・阿含経に満ちているあまたの問いは、すべてみずから現に体験している苦しみ、悩みから発せられ、そのそれぞれに対して釈尊はその質問者の現実に即して答える。ただし、苦悩そのものを即座に解消するような、いわば直接的な手段や方策というよりは、むしろ苦悩に対処してゆくべきその在り方をとりあげて、それを熟慮しつつ答えがなされる。いわば外部の状況その他は不変のままでありながら、みずから苦悩としているところが、実は苦悩ではなくなり、いつしかその苦悩がその内部において消え、安らかな境地にもたらされる、そのような図式を描いて展開する。
釈尊はその答えにおいて、人間の力を絶した創造主としての神も、また祈禱や呪術もことごとく退けており、超自然的なものは排除している。そうではなく、あくまでもこの現実に徹し、この現実に即し、終始この現実において解決しようとする。この意味において、釈尊は、総じて仏教は、常のこの現実を直視し、凝視するという立場に基づく現実主義、と表現され得よう。
仏教では哲学的アポリア(難問)、つまり形而上学を意図的に斥ける。
(釈尊が形而上的な=確かめようがないことを語ると、それが教義になってしまいますからね。
形而上学的なことは現実的思考から離れてしまうので答えなかったのです)
阿含経は十種にまとめ十難と術語化した。
①世界は常住(世界は時間的に無限)
②世界は無常(世界は時間的に有限)
③世界は有辺(世界は空間的に有限)
④世界は無辺(世界は空間的に無限)
⑤身体と霊魂は同一
⑥身体と霊魂は別異
⑦真理達成者(如来)は死後に生存する
⑧真理達成者(如来)は死後に生存しない
⑨真理達成者(如来)は死後に生存し、かつ生存しない
⑩真理達成者(如来)は死後に生存するのでもなく、かつ生存しないのでもない
これらの質問は何回も反復されて釈迦に回答を求める。
釈尊は常に「無記」を通した。すなわち、どのような誘導があり、あるいは誹謗があっても、あくまでも沈黙を守り続けたまま、何の答えもしていない。
・苦=自己の欲するままにならぬこと、思い通りにならぬこと。
・仏教の「生」(しょう)は全て「生ずる」「生まれる」意であり、「生きる」意ではない。
・刹那(クシャナ)=75分の1秒=0.0133……秒
・仏教では「無時間的な実体」のような考えはことごとく排除されている。
・ほとんどの仏教解説書に「実体の否定としての無我」が無我の説明としてあるが、これは阿含経(初期仏教の教典)かならかなり離反している。
阿含経に説かれる無我は、特にその原初形は、「執着の否定としての無我」あるいは「無我とはとらわれないこと」と解さないといけない。
初期の大乗仏教の「空」を理論づけた龍樹も、実体否定論と同時に、一貫して「空とはとらわれないこと」と説いている。
・初期仏教の経典のスッタニパータに
“自己を洲(す)とし、自己を依りどころとして、他を依りどころとせず、法を洲とし、法を依りどころとして、他を依りどころとせずに、住せよ”
「洲」のパーリ語は、ディーパであり、それはパーリ語が、大河の中に浮かぶ島あるいは庇護所を意味するサンスクリット語のドゥヴィーパに相当するこの解釈に基づく(現在の学会では、この解釈が正当とされる)。
しかしサンスクリット語には、上記のパーリ語と同じディーパという語があり、それに結びつけるならば、「あかり、燈明」となる。
先程引用したスッタニパータの箇所を漢訳した阿含経の該当箇所では
“自燈明、自帰依、法燈明、法帰依(自らを燈明とし、自らを帰依とす、法を燈明とし、法を帰依とす)”
・マントラ=マン(考える)+トラ(用具などを表す接尾辞)
=思考の道具。
般若心経の概要(梗概)。
観自在菩薩(観世音、観音菩薩)がまず登場し、般若ハラミツの実践において、ありとあらゆるすべて(五蘊)は空(無執著)であると明らかに観じ取り、一切の苦を離脱した。
そこで舎利子(舎利弗=しゃりほつ。シャーリプトラ)に呼びかけて、この空を五蘊のひとつひとつについていう。
すなわち、まず
色(いろ・かたちあるもの、物質として現象しているもの)に関して説く「色即是空、空即是色」。その大意は、ものと空との完全な一致にあり、ものがそのまま空であり、同時に、空であることがものをそのものたらしめて、そのものとしてあることを示す。
ただちに、五蘊のうちの他の四つ、
受(感受、感覚)、
想(表象、イメージ)、
行(形成力、意志)、
識(認識)について、空を反復し、生と滅、垢と浄、増と減のおのおのの否定がある。
同様に、
六入(眼・耳・鼻・舌・身・意)と
六境(色・声・香・味・触・法)と
六界(眼界~識界)、
十二因縁(無明~老死)、
四諦(諦=真理。苦・集・滅・道)という、
阿含経(初期仏教の経典)から部派を経て大乗仏教までの全仏教に通ずる基本的述語に「無」を付して否定し去って空を裏付け、ここではすでに智も得も所得も同様に無であり、こうして菩薩は般若ハラミツによって、一切の障害は消滅し、恐れもなくなり、転倒(てんどう。ひっくり返る)した思いから遠く離れて、仏教の理想の極致であるニルヴァーナに至り完成する。三世(過去・未来・現在)の仏たちもこの般若ハラミツによってはじめて、至上最高の「さとり」を得たと説く。そのあとに、当時すでに重要な役割を果たしたマントラ(真言。呪)の語を引き、般若ハラミツを無比で最高のマントラとしたうえで、呪を唱えて経を結ぶ。その呪の大要は、
「到達したものよ、到達したものよ、彼岸に到達したものよ、彼岸に完全に到達したものよ、さとったもの(あるいは、さとり)よ、幸あれ」という。
般若心経の空を従来の般若経の説明に引きつけて無執著と訳したが、この経の成立時にはすでにナーガールジュナ(龍樹)の空の理論づけが果たされているので「固定された実体を立てない」、さらには「それだけで存在すると見て固有の本体を有する、という考えから離れる」、と解釈したほうがふさわしかろう。
(「絶対」の否定)
・般若+波羅蜜多=智慧の完成。
六波羅蜜=六種の波羅蜜。
波羅蜜はパーラミター(=最上・完全・極致)の音写。
般若ハラミツ=智慧の完成(到彼岸)。
般若とは空の思想。空の思想は大乗経典の般若経に終始一貫して説かれ、「こころにとどめつつも、とらわれるということがない」「とらわれない」「無執著」と解される。
・空のサンスクリット語のシューンヤは、インド人(人名も年代も不明)が人類史上はじめて発見した数のゼロの原語でもあって、そのゼロ(空)は単なる無でもなく、単なる有でもなく、同時に有でも無でもあり、また有でも無でもないという(例えば、102の0)、一見矛盾に満ちた多面性を発揮する。
ゼロが発見されなかったならばすべての自然科学の根底にある数学(近代数学)はその根拠を失ってしまう。ゼロの発見によって、例えばマイナス(負)の概念が明らかにあり、更に重要なことは十進法(じっしんほう)が成立し(言うまでもなくインドが最も古く、アラビアを経てヨーロッパに伝わるのは千数百年後)、また数学の基本である加減乗除が容易になった。その際、ゼロは加えても減じても、元の数に何の変化もないが、ゼロを乗ずればあらゆる数をゼロに変え、ゼロで割ることは一般には考えられない。
ゼロは日常のいたるところに溢れ、「空」も同じ。「空」によって私たちが現に生きている相対の世界はいちおう成立している。しかしその底には、その相対の世界そのものの否定が厳としてあり、その否定のゆえに、私たちのこの世界すべてはあくまで相対的である。
般若心経の訳例+解説
http://dic.nicovideo.jp/a/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C
“(これは、人智を超えた般若波羅蜜多についての心経である)
全てを識り、全てを見る聖者アヴァローキテーシュヴァラ(観音菩薩=観自在菩薩)は、深遠なる悟りを得る修行の中でこの世の五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊、後述)には実体がないことを明らかにした。この発見により、苦しみは全て解かれよう。
シャーリプトラ(舎利子、仏陀のもっとも古い弟子の一人)よ。この世の形あるもの全てに実体というものはない。実体がないままに形を作っている。形あるものには実体がなく、実体がない故に(あらゆる)形を得る。感じること・気づくこと・思うこと、そして知ること(これら心で作用すること全て)もまた同じだ。
シャーリプトラよ。全てのことに実体はないのだから、全ては生まれもせず、滅することもなく、汚れているということもなく、清らかであるということもなく、増えることもなく、減ることもない。
つまり、実体が無いこの世の真実の世界においては、全て存在しない。真実の世界においては、形作っているもの・感じること・気づくこと・思うことを知ることもなく、目・耳・鼻・舌・感触・意識(肉体で感じること全て)もなく、景色・声・匂い・味覚・ぬくもりも、その相手も、全て存在しない。眼に見えるものと、それによって心のなかで生じたことも、全て存在しない。これら存在しないものへの無知からくる悩みもない。けれどもその悩み自体は尽き果てることもない。この世では老いるということも死ぬということもないままに、老いも死も尽き果てない。苦しみなどない。故にこの世では苦しみを滅する道も、それを知ることも、得ることもない。得ることもないから、苦しみを知る者(菩提薩埵)は、この発見(般若)によって、こだわりをもたず、こだわりがないから、恐れもいだかず、全ての夢想からはなれて、静かなる心の世界(涅槃、ニルヴァーナ)へと至るであろう。
こうした過去・現在・未来(三世)の諸仏は、この深遠なる発見(般若波羅蜜多)によって、悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得る。
故に知れ。この発見(般若波羅蜜多)を述べるこの大いなるマントラ(まじないの言葉)は、明らかに、この上もなく、並ぶこともない呪(言葉)であると。全ての苦しみはこれにより解かれ、そこには真実のみがあり、偽りはない。
故にこの般若波羅蜜多の真言は、
「羯諦 羯諦 (ガテー ガテー:往ける者よ)
波羅羯諦 (パーラガテー:悟りの境地に往ける者よ)
波羅僧羯諦(パーラサンガテー:悟りの境地を往った者が)
菩提 (ボーディ:"菩提"である。)
薩婆訶 (スヴァーハー:幸いあれ。)」
これが真実の悟りの教えである(般若心経)。
(…)
※「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」は『大般若経』以外の経典から引用された陀羅尼(だらに、仏教的呪文)。陀羅尼は暗誦されるのが常だったため、翻訳当時でも正確な原意が失われていた。そのため、ここは音写に頼らざるを得なかった(日本語における「ちちんぷいぷい」みたいなもの)。世に散見される該当部分の解釈は梵語等からの類推であり、あくまで参考の域を出ない。
そもそも陀羅尼は何度も復唱することで無念無想の境地に至ることを旨とするため、その意味をあまり深く考えなくてもよいものなのだ。
※五蘊とは仏陀死後100年の間に分裂した仏教(部派仏教)における世界観を認識する手法の一つで、人間の意識を構成する要素を5つに分けたもの。色蘊(人間の肉体や、それを構成する物質)・受蘊(人間が感覚すること、いわゆる五感)・想蘊(「受」で感覚したことで、出てきたイメージ)・行蘊(「想」のうえで、出た何らかの意志。「~したい」など)・識蘊(「受」「想」「行」を総合して出した判断)の5つである。般若心経ではこれすらも空としている。
(…)
般若心経が描いているのは、釈迦の目の前で、上座部仏教で最も尊い修行者である阿羅漢(あらかん、アルハン。「(崇敬と布施を受けるに相応しい)聖者」の意)の筆頭であるシャリープトラに対して、観自在菩薩が大乗仏教の「空(実体は存在せず、他との関係の中で現れて見えるということ)」の思想を説いている場面である。
その説では、上座部が悟りを得る上で重要視する十二因縁や四聖諦をも含む万物が「空」であり、したがってそれらに依らず、陀羅尼(掲諦掲諦…)を唱え全てが「空」であるという真実(般若)を感得する事(波羅密多)こそが最高の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)に至る道である、とされる。
そして最後に最高の覚者である釈迦が説法の全てを追認し観自在菩薩を褒め称える――つまり上座部を貶めて大乗を賞揚する内容となっている、というのが一般的な解釈である。
「空」とは何か? 悟りとは何か?
さて、般若心経の本質であり、有名な格言「色即是空 空即是色」。ここに説かれている「空」というものは一体なんであろうか。ちなみによく勘違いされるが、「空」は「無」と同義ではない。むしろ「無」ですら「空」によって成り立つ現象のひとつ(色)に過ぎないとされている。
長らく仏教界ではこの「空」を説明するのには多大な労苦が費やされてきており(折空観)、その最も良いテキストが『弥蘭王問経(ミリンダ王の問い)』の仏典だと言われている。ここではその考えを借用して、「空」をごく簡単に説明するのに、パソコンのたとえ話(方便)を用いるとしよう。
パソコンを例にとれば、デスクトップ型パソコンをバラバラに分解してしまえば、それはもはやパソコンとは呼ばれず、それぞれの部品にしても、最早「かつてはパソコンであった」パーツに過ぎなくなり、「パソコンという存在」は消えてしまう。また、パソコンのキーボードからキーを幾つか抜いてもパソコンと認識されるように、部品そのものにもその総体にもパソコンという一個のアイデンティティを示す実体があるわけではない。
だがしかし、一度バラバラにした部品をもう一度組み立て直せば、先程まで消えていた「パソコンという存在」は再び我々の目の前に戻ってくるのである。
ならば「パソコン」という概念は、一体全体どこの何を表現した言葉なのだろうか。ディスプレイだろうか? マウスだろうか? キーボードだろうか? HDDだろうか? あるいはもっと小さなICチップなどであろうか? 答えはいずれも否である。先に挙げたうちの、そのどれもが「パソコン」そのものではない。しかし、いくら否定したところで、パソコンというものがこの世に存在しているのもまた厳然とした事実なのである。では、パソコンとは一体何なのだろうか? パソコンとはこの世に「ある」のだろうか、それとも「ない」のだろうか。答えは簡単、「ある」とも言えるし「ない」とも言えるのである。
つまり、"パソコン"と呼ばれるものは様々な部品がしかるべき因縁で組み合わさった中に垣間見える『現象(概念)』なのである。当然、部品やその集合体にパソコンという実体が存在するわけではない。したがって「無」というものも、パソコンを分解した途端に発生する「空」という本質の一側面に過ぎず(「空」⊃「無」)、パソコンは最初から「ある」とも言えるし「ない」とも言えるのである。「色」とは「現象」のことであり、「空」とはこの現象を引き起こす仕組みそのものを指しているのである。
この考えを応用すれば、基本的にはこの世の森羅万象すべての実在を否定することが出来る(「空」≒「非実在」≠「無」 であることは、これでもうお分かりだろう)。
あらゆる事物の本質は、それそのものの実体とは別に存在し、そしてその本質は人が理解できない次元に存在する。これが般若心経の本質、「色(現象)即是(すなわちこれは)空 空即是(すなわちこれは)色(現象)」である。この世の本質も実体も、実は概念上の物でしかないのである。
その上、ブッダはこの「空」の考えを流用し、最終的には当時信じられていた魂の存在さえも否定するに至った。詳しい説明は省くが、ブッダは瞑想の末に、この世において輪廻転生を繰り返しているのは魂や霊ではなく、「自分」という潜在意識・記憶そのものにしがみつこうとする人の意志そのものであると看破した(法相宗の考え方がこれに近い)。この「自分という存在そのものへの執着」を捨てることが出来れば、転生するはずの「自意識」そのものが消失するため、人間は二度と生まれ変わることはなくなり、輪廻転生の輪から解脱し、何度も生まれ変わって苦しみ、傷つくことはなくなる……というわけである。つまり仏陀が夢想した原始仏教は、「二度と生まれ変わらないこと」を目的として生まれたのである。
「悟り」とはつまりこのことである。ブッダは、人間が転生する仕組みと転生を信じる理由、そしてその転生の仕組みを生み出している人間の深層心理の構造そのものを「悟った」のである。
……と、このような考え方を会得する過程までが『悟りを得る修行』なのであって、悟った後はこの悟りを具象・抽象ひっくるめた万物に適用し、それを単なる知識を超えて感得しなくてはならないのであるから、大乗仏教とはいえ無上の正しい境涯に至る道は決してなだらかな訳ではない。つまり、「悟り」はすごろくの『上がり』ではなく、悟っただけではどうにもならないのである。そういうわけで、人は悟った後、今度はどのようにその理論に即して煩悩や執着を捨てていくか、という問題にぶち当たることになる。
そういうわけで、以後この「悟り」を得るための方法論は枝分かれし、その方法論の違いは本邦に多数の仏教宗派を生んだ。「個人の中に大宇宙を再現し、その中に涅槃寂静の境地を発見する」とする真言宗、「悟りは人間の誰しもの中に最初から備わっているのだから、それを修業によって引き出す」ことを目的とした曹洞宗、臨済宗などの禅宗などがその好例である。
ここまで熟読された方はもうお分かりであろうが、本来仏教は厳密な哲学的・論理的思考の下に成り立っている宗教であり、般若心経はそのための最上のテキストに位置づけられている。肉体的・精神的修行を重視する日本仏教の影響を受け続ける日本人は、この経文自体に霊的な力が内在しているとされていると誤解しがちである。しかし、般若心経は唱えれば何かが起こったり悪霊が裸足で逃げ出すといったまじないではなく、これ自体を意識することなく読唱したり写経したりすること自体にはあまり意味がない。禅宗などの言語を否定する宗派を除けば、あくまで論理的思考によってこの文章を理解し、釈迦の教えをよりよく実践することが悟りのための第一歩になるわけである。
この記事を熟読された皆様は今、まさに悟りの入り口に立ったことになるのだ。求道者たちよ、悟りと共にあれ。”
説話風の訳例
http://dic.nicovideo.jp/r/a/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C/233400
”《一切を知る方(釈迦)に帰命(きみょう。御仏の教えに身命を投げ出して帰依すること)する。》
<わたしはこのように聞いた。世尊(釈迦の尊称)が王舎城(おうしゃじょう。ラージャグリハ。古代インドのマガダ国の首都)にいらっしゃった頃、霊鷲山(りょうじゅせん。グリドラクータ山)を数多の比丘(びく。托鉢行者)と諸々の菩薩(菩提薩埵。求道者)を伴って遊行していらっしゃった。まさに世尊が深い悟りという名の深い瞑想に入られたその時、>
全てを知り全てを見るといわれる菩薩アヴァローキテーシュヴァラ(観自在)は、深遠な悟りの智慧を完全に成就する(般若波羅密多)修行の中で、この世の生き物を構成する五つの要素(五蘊。ごうん)には実体が無く(空)、各々との関係の中であたかも実体があるかように見えるに過ぎない、ということを明らかになさった。
【この悟りの智慧の極めにより、衆生の苦しみは全て解かれよう。(度一切苦厄)】
<すると、長老シャーリプトラ(舎利子。舎利弗(しゃりほつ)とも。「智慧第一」と称される、釈迦の十大弟子の筆頭)は、その御仏のお力を以てして、菩薩アヴァローキテーシュヴァラにこうおっしゃった。
「善男子(ぜんなんし。仏徳の有る男)ならば誰でも、深遠な悟りの智慧を極める修行を望むもの。そうした者には、どのように教えてやったらよいと想いますか?」
そのように訪ねられた菩薩は、長老へこのようにお答えになった。
「善男善女(ぜんなんぜんにょ)ならば誰でも、深遠な悟りの智慧を極める修行を望むものです。そうした者は、次のように明らかにしたらよいと想います。まず彼は、生き物を構成する五つの要素には実体がない、と見なしました。>
「シャーリプトラよ。この世の形あるもの全てに実体というものはありません。実体がないままに形を作っています(色)。形あるものには実体がなく。実体がない故に(あらゆる)形を得ます。感じること(受)、想うこと(想)、気づくこと(行)、そして知ること(識)、これら心に作用すること全てもまた同じです。
「シャーリプトラよ。全ての物事の本質に実体はないのですから。全ては生まれもせず、滅することもなく。けがれているということもなく、清らかであるということもなく。増えることもなく、減ることもありません。つまり、実体が無いこの世の真実の世界においては。形も、感じることも、想うことも、気づくことも、知ることも、五蘊(=色受想行識)は全て無いのです。
「目、耳、鼻、舌、感触、意識の六根(=眼耳鼻舌身意)全ても無く、景色、声、におい、味覚、触覚、想念の六境(=色声香味触法)も全て存在しません。目が有るということ(眼界)から、心が想うということ(意識界)にいたる十八界(=六根×(部位、対象、作用))も全て、有りはしないのです。
「十二因縁(苦しみの根源を説く12の因果の連なり)の最初である無知(無明)すら無く、しかるに無知がなくなることもありません。つまり十二因縁の最後である老いて死ぬ(老死)ということも無いままに、老死がなくなることも無いのです。四聖諦(ししょうたい。四諦とも。悟りの道を示す4つの真理。=苦集滅道)に至っては、あり続けることによる苦しみ(苦。八苦)などありませんから、苦しみを集める原因(集)である生への執着(渇愛)も無く、苦しみを消すために執着を捨てる事(滅)も、その為に行う修行(道。八正道を含めた七科三十七道品)もありません。
「つまり(十二因縁や四聖諦によっては、悟りの智慧を)知ることがありません。得ることもありません。得ることもないですから、菩薩はこの悟りの智慧の極みによっても、何のわだかまりも持ちません。わだかまりがないのですから、恐れもいだかず、全ての災難を乗り越えて、究極の安らぎの世界(涅槃、ニルヴァーナ)へと至ります。過去、現在、未来において菩薩は、悟りの智慧を極める事で、最も優れた正しい悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得るのです。
「故に知るべきなのです。この悟りの智慧の極みである大いなる聖句(マントラ。まじないの言葉)は、霊験あらたかな、この上なく、並ぶものなき聖句であると。全ての苦しみはこれにより解かれるのです。何故ならそこには真実があり、偽りなどありませんから。悟りの智恵を極める聖句とはこの通りです。
『羯諦(ガテー、着きしものよ)羯諦(ガテー、着きしものよ)波羅羯諦(パーラ=ガテー、彼岸に着きしものよ)
波羅僧羯諦(パーラ=サン=ガテー、彼岸に辿り着きし者よ)菩提薩婆訶(ボーディ・スヴァーハー、悟りよ、共にあれ)』
<「シャーリプトラよ、深い悟りの智慧の修行では、菩薩はこのように教わればよいと想います。」
(菩薩アヴァローキテーシュヴァラがこう締めくくった)まさにその時、世尊は深い瞑想から立ち上がりつつ、菩薩へ讃辞を送った。
「いや見事、お見事です、善男子よ。深い悟りの智慧の成就に於いては、まさしくそのように修行を行ったらよいのです。あなたが示した事は、諸々の如来(仏陀(悟りを開いた者)の尊称)や阿羅漢(あらかん。聖者)も認めるところなのですよ。」
世尊は心からお喜びになり、そうおっしゃった。長老シャーリプトラと菩薩アヴァローキテーシュヴァラ、そして諸天(仏教に帰依したインドの善神族)、人間、阿修羅(仏教に帰依したインドの鬼神族)、乾闥婆(けんだつば。仏教に帰依したインドの精霊神族)をはじめとした全世界が、世尊のその言葉に喜んだのだった。>
これが、悟りの智慧の完全なる成就を説く、その心臓となる教えの書(般若心経)の完成である。”
摩訶般若波羅蜜多心経
http://www.nicovideo.jp/watch/sm304046
般若心経のサンスクリット版の歌
Imee Ooi - Mantras Of The Sanskrit
https://www.youtube.com/watch?v=OO1YbUUDBms
第七回現代仏教塾 「死後・輪廻はあるか」Ⅱ近代仏教学の「無記」の誤解・東洋大学名誉教授 森章司
https://www.youtube.com/watch?v=KnAKezi7pNo&feature=youtu.be
人生というクソゲーを攻略する方法
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20699310
上記の動画作成者は、人生攻略の手段としての執着を取り除くことを重視しています。
この動画の紹介も兼ねて、今回は、道(道一語で仏教を意味する。神道の意味はない)と仏道と仏法と仏教の話。
日本の伝統が神道ではなく仏教なのは日本語が仏教用語だらけなのと、神道・天皇・神器・惟神が道教用語(神道用語って何ですか?)であることから明白です。
金輪際、仏教用語を使わずに日本語を使おうとするとほぼ無理です。
日本語を学ぶ=仏教の概念を学ぶと言っても大袈裟ではありません。
ご飯をシャリというのは、舎利(しゃり。釈迦の骨)という仏教用語が元ネタであるように、明治以前の本物の天皇は仏教徒であり伊勢神宮に参らなかったように、日本の真の伝統は仏教=神と仏の実体を否定する思想です。
(さあ、ここまでで仏教用語はいくつ出てきたでしょう?)
神道家(笑)の息の根が止まりかけそうなことを言っておりますが、神道って「墓場への道」って意味があるんですよね。なのに、死体のことは「仏」とは呼びますが「神」とは呼びません。仏頂面はありますが、神頂面はありません。
神道=和風キリスト教という偽伝統を捏造したキリスト教の得意な呪文が
「ユダヤガワルイ」
キリストきょうはユダヤガワルイをとなえた!
キリストきょうをたたけなくなった!
全部ユダヤ(と在日)のせいにしている✝(と大本教系カルト)が黒幕です。
彼らの根本思想を理解したくないなら、支配層代表のプラトンの演説をどうか見ないで下さい。
【マギ】マギ特殊ED集【モガメット演説】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm22755002
ニコニコ市場に商品を貼ったのは私です。
初期仏教では呪文は禁止。
つまり「ユダヤガワルイ」も「ザイニチガワルイ」の呪文も禁止(冗談)。
この呪文禁止ということは今の一般的な仏教ではまったく守られておりません。
般若心経の終わりのぎゃーてー以下略なんて完全に呪文ですし。
仏教の経典は難しいと思われているのは漢語のままのせいです。聞いても意味が分からないのだから、お経全てが意味不明な呪文みたいなものですよね?
漢文の書き下しを読んでも意味が分からないのだから、やはり意味不明な呪文です。
内容を理解するには、どうしても現在の我々の言葉に直す=口語訳が必要です。
が、多くの仏教学者が、口語訳とは経典の内容を卑属化するから駄目だと主張したせいで口語訳は今でも普及していません。
あの難解な古い訳語を墨守していたら学問自体の発展を邪魔することを判らないのが自称頭のいい学者たちです。
この人たちは仏教学者のくせに、人々に判るように言いなさい(口語訳しなさい)という釈迦の教えを守っていません。
釈迦は、理解力のある人には相応に、一般の人にはとても解りやすく説きました。当然、現地の言葉で、聞く人々が分かるように語ります。少なくともそう心がけるでしょう(通訳を介することはあったでしょうが)。
つまり、経典の口語訳が卑属化であるなどという仏教学者の主張は、釈迦の教えに反する者であり、釈迦が聞けばさぞ残念がるでしょうね。
本記事で登場する般若心経にしたって、意味が分からないのに読んでも悟れるわけないじゃないですか。般若波羅蜜って漢語で言われて(今辞書を引くのちょっと待って)意味が分かりますか?
般若=(悟りの)智慧。
ハラミツ=波羅蜜=修行で完遂・獲得・達成されるべきもの。
釈迦の教え通りに伝えるなら般若波羅蜜多と言わずに、
「悟りの智慧の完成(完全に悟ること)」と今の人が分かる言葉で言わないといけないのです。
私が以下の仏教系ツイートを取り上げるのは、神と愛で侵略するキリスト教に対抗できる思想として、仏教(執着=愛は悪。愛憎を越えた慈悲が良い。神に実体なし)が良いと考えたからです。
私の思想は原始仏教(宗教=執着=悪)に近いですが、別に仏教徒ではありません。
仏教の慈悲は、キリスト教などのいう「人々への」憐憫の思いではありません。仏教においては「一切の生命」は平等で、全生物に等しく与えられるのが慈悲であり、愛憎の対立を超えたものなのです。
キリスト教では創世記で動物を支配させる為に神が人間を創った、とあります。キリスト教では人間は特別で霊魂があり、人間以外の動物にはない、と考えます。だから魚である人魚姫には魂がないのです。
キリスト教がいかに仏教を憎んでいるかが分かりますね?
仏教では愛は悪。愛は執着であり憎悪に繋がる。愛と憎しみを越えた慈悲こそが素晴らしいと説く。
しかも、ミトラ(弥勒)でわかるように日本の仏教にはキリスト教の真の元ネタであるミトラ教が混じっている。
だからこそ神道家(和風キリシタン)が主張する歴史(笑)は、仏教を完全に無視したりするのです。あと、仏教国教時代をなかったことにするために、超古代と明治以降の偽伝統が好きですね。伝統が無いからこそ伝統をでっちあげるのです。
仏教国教時代の多数派の思想である本地垂迹説では、神の正体は仏としています。つまり、神に実体なしとしているのです。神とは仏が被る仮面なのです。仏教では神は仏より格下です。
当然、仏教徒の本物の天皇は現人神ではありません。神に実体はなく、仏より格下なのだから、天皇を現人神と呼んだら反逆者ともみなされたでしょうね。だから現人神は伝統ではありません。
なお、仏教は仏すら実体はないとします(空の思想=絶対的存在の否定)。
朝廷の思想が本地垂迹説=仏>神なのだから、神仏習合は八百万の神々を仏教化して仏教に取り込んで、国教=仏教勢力逆らえないようにする為に行われたものです。
だから神と仏は対等ではありませんでした。神仏習合は神と仏は対等だとする思想だというのは神道(和風耶蘇教)が流しているデマです。仏が神より上です。
仏教圧倒的優位の証明が、八幡大菩薩です。今の八幡宮(八幡神を祭神とする神社の総称)は、八幡は神だとして仏教化(仏教支配)をなかったことにしています。
しかし、昔は寺でした。八幡大「菩薩」を祀っている宗教施設はいくら神社と名乗ろうが「寺」ですから。
石清水八幡宮も昔は石清水八幡宮護国寺でした。「護国寺」=仏教の施設だったんですよ、石清水も。
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi
祇園は祇樹給孤独園という仏教用語の略称なのでシオンを意味することはない。精舎=寺。 ユダヤ教の行事カレンダーの7月は空白でシオン祭りは実在しない。 #日ユ同祖論 はスコットランド人製で #大本教 系の特徴
「天皇が信仰した思想体系がある伝統宗教」=神道は明治期のキリスト教による捏造。
明治以前の神道
①単なる土着神崇拝。神社は地域土着の祭壇。政治に影響力なし。
②道教の一派としての神道(天皇と神器も道教用語)。
本地垂迹説=仏教優位で神仏習合。
#日ユ同祖論 は道教と仏教を無視。
聖書が根拠の偽伝統
神道の現人神、神前結婚式、完全に良い意味での愛、 働かざる者食うべからず(勤勉な日本人)。
仏教国教時代の本地垂迹説では、神の正体は仏=現人神に実体なしだから伝統ではない。
おきむさん @kimrising 2013年3月12日
祇園とは祇樹給孤独園の略。コーサラ国の首都シュラーバスティー(舎衛城)に住み、日頃から孤独な貧者に衣食を給与していて「給孤独」と呼ばれていた長者スダッタ(須達)が、釈迦の住居(精舎)として、コーサラの王子ジェータ(祇陀)所有の林(祇樹)を譲り受けそこに寺院を建て釈迦に寄進したもの
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 8月23日
@lanekota カテゴリーは分析に使うと便利。カテゴリーが通用しないものを人間は存在を認識できない。 支配者の思想の中核となるものの翻訳は特に中核となる箇所では信用できない。大学の研究で翻訳は参考程度なのが普通。特に古代語。シンプルな原文の用語を難解な専門語にするのはわざと。
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 2月10日
猫太”あの難しい翻訳わざとなんですか。ラテン語の教科書といい、どんだけ陰謀にまみれてるんだかwわかりやすい言葉で書かれた古典シリーズを作りたいですう”
言語で分割統治。例えばウィキでは日本のことなのに、日ユ同祖論の起源がイエズス会で布教意図もあったことは英語版にしか書いていない。
たうべ@畜20年 @taubeeeeee 8月29日
愛って漢字あるじゃん あれって訓読みないんだよね ってか基本的にアイしか読み方ない 漢字はもともと大陸由来だからアイって言葉も外来語なはずなわけで 訓読みがない以上はその概念すらなかったんじゃないかと
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 11月9日
@taubeeeeee 「愛」は仏教では執着=悪。 キリスト教では創造神が与える善。 なのでアガペーは16世紀(仏教が国教)の『どちりな きりしたん』では「御大切」と訳されました。 明治維新でキリスト教の植民地になって以降、愛=善というキリスト教思想に染まったのが今の日本人です。
ぴいぷう妖怪 @pirorinpipipi 11月10日
@kitsuchitsuchi @taubeeeeee 「愛」=執着 自分は相手をこんなに愛してるという自己陶酔。もっと愛されたい。もっと○○をしてあげたい。浮気しないで!私だけを愛して!という押し付けがましさ。愛は嫉妬、憎悪、ストーカー、DV、暴力、戦争などトラブルを生む。
@kitsuchitsuchi @taubeeeeee 愛ってウザイし妄想激しいし執着心強いしひとりよがり。激しく愛し合ったカップルほど別れ際は激しい憎悪。キリスト教の「愛」よりも、、、仏教の「慈悲」が大事!! はんにゃ~は~ら~みった~♪
菊池@kikuchi_8 • 12月5日
6)王仁三郎は「わしは先ず仏教を滅ぼす型をやるのや、それが色々な宗教を滅ぼす型になるのや」と日本の伝統宗教を破壊することを明白に意図していた。これはワンワールドの露払いであろう。文鮮明も宗教統一を標榜。日本会議に世界連邦主義者多し。最近の「宗教国連」。意味は同じ。皆同じ穴の貉。
フェイド大帝 @FeydoTaitei 9月25日
西洋人の神は常住善と常住悪の
肯定から来ている。プラトンの
言うイデアと一緒ね。
仏教は無常を説くので、
そもそもイデアなんか存在しません というスタンス。
ちなみに常住というのは実存する
という意味ね。反対語が無常。
J・ナナミ @pinkglalem
以前、学会員の方に言ったんですが、「仏教は宗教ではありません。“空の概念”が存在する限り、アレは哲学です。仏教に信仰を持ち込んだら、ソレは既にカルトです」
...相手は、絶対に納得しませんでしたね。
昔、学会員の人と話してて、佛教とは仏を否定する哲学と言ったら、信じてもらえなかった。創価は佛教を偽装した大本教だから...彼らには理解出来ない。ネズミ講のよーな収奪システムの中で来る筈のない未来の幸福を待ってる。佛教はその“未来”ってヤツを否定してる。
フロイドの精神分析は佛教に似ている。「時間」と「空間」と、それらを造った「神」の否定。これら3つは、人間の作り出した妄想に過ぎない。そう論破したのが、佛教。それゆえに政治的には宗教の目的(人心掌握)をなさなかった。だから本場インドでは佛教は死滅した。
佛教では「愛」を執着とし、否定しました。キリストは執着しました。私も何も信じていない。ところが、どこかで何かを無意識に信じているのです。何かに執着しているnです。私も...カルマですかね?私たちが見る物、信じている物はすべて幻想です。
時間は空間が存在しない限り、存在しない。空間は私たちがイメージの中で造り出しているモノで、現実には存在していない。このイメージに執着する事を、佛 教は「愛」と呼んだ。キリストは愛を説くが、佛教は否定している。故に、佛教は時間を否定するが、キリスト教は肯定している。
人類最大の病はキリスト教。なんで、アラビア半島の局地的な信仰が、世界的に蔓延するのか?誰も疑問に思わない。いや、怖くて口に出さない。あれはただの精神病。#カルト #強迫神経症 #戦争 #ユダヤ陰謀論 #偽情報工作員
出口王仁三郎や笹川良一と血が繋がっていたと言われる牧口常三郎は明確に佛教の戒律を否定しています。だから、在家団体が誕生した。
明治維新の際に、この隠れミトラの佛教を駆逐する為に作られたのが、金光教、天理教、大本教。創価学会は大本の分派。出口王仁三郎と牧口常三郎は異母兄弟。牧口の甥が戸田城聖。牧口が大石寺に通って、在家信者団体創設の許可を取り付ける。佛教に偽装した大本教。
バラモンというのは、あーだ、こーだと、へ理屈をゴネて原住民の存在を全否定して、自分達の支配の正当性を説いたんですが...このへ理屈に特化した邪教(佛教)は、バラモンの存在理由まで否定し始めちゃった。さー大変。インド社会は立ち行かなくなります。
この邪教(佛教)の台頭で、インドの支配階層のヒエラルキーが否定され、危機感を感じたバラモンは理論武装して対抗しました。理論武装で生まれ変わったバラモン教が、ヒンディー教です。
菊池 @kikuchi_8
スッタニパータ1035【 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるもの でのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」】←洗脳防止の指針にもなりうる名句かと。
3)逆に洗脳を防止する為には五感を通して入ってくる感覚や情報に気を付けることが肝要となる。仏陀は最古の原始仏典スッタニパータの中で「煩悩の流れを せき止めるものはなんですか?」という学生アジタの質問に答えて「気をつけること」と答えている。極めてシンプルだが、確かにその通りである。
11)最古の仏典であるスッタニパータに「世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである」と極めて簡潔な煩悩克服法の記述 がある。あまりにも簡潔だがよく考えてみると確かに合理的である。仏教自体が本来極めて理にかなった精神鍛錬法の体系とも言える。
仏陀 ブッダ ことば 仏教 @Buddha_Words
837 マーガンディヤよ、「私はこのことを説く」ということが私にはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における過誤を見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎを私は見た(スッタニパータ)
841 マーガンディヤよ、あなたは自分の教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執着した事柄について迷妄に陥ったのです。あなたはこの内心の平安について微かな想いさえも抱いていない。だからあなたは「ばかばかしい」と見なすのです(スッタニパータ)
1070 よく気をつけて、無所有をめざしつつ「何も存在しない」と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ(スッタニパータ)
855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において他人を自分と等しいとは思わない。また自分が優れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。彼には煩悩の燃え盛ることがない(スッタニパータ)
1119 つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は見ることがない(スッタニパータ)
839 「教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる」とは私は説かない。「教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも清らかになることができる」とも説かない(スッタニパータ)
846 ヴェーダの達人は、見解についても思想についても慢心に至ることがない。彼は宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。彼は執着の巣窟に導き入れられることがない(スッタニパータ)
399 禍いの起るもとを回避せよ(スッタニパータ)
436 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる(スッタニパータ)
437,438 汝の第五の軍隊は物憂さ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊は見せかけと強情と誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己を褒めたたえて他人を軽蔑することである(スッタニパータ)
450 最上の善いことばを語れ。これが第一である。正しい理を語れ。理に反することを語るな。これが第二である。好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。真実を語れ。偽りを語るな。これが第四である(スッタニパータ)
1078 世の中で真理に達した人たちは、哲学的見解によっても、伝承の学問によっても、知識によっても聖者だとは言わない。煩悩の魔軍を撃破して、苦悩なく、望むことなく行う人々、彼らこそ聖者である(スッタニパータ)
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・「愛」の語は、阿含経には「渇愛」としてあり、愛は欲望の一種で、最も激しく、自己中心的であることから、厳しく排斥される。愛ないし大愛の語が仏教に迎えられるのは、ずっと後代の、密教に入って以後のことである。
・慈悲
=慈(他に楽を与える。与楽)+悲(他の苦を抜き取る。抜苦)。
・仏教の最初期から慈悲、慈と悲に加えて、喜(き。ムディター)と捨(しゃ。ウペッカー、ウペークシャー)とが一括して説かれることが多い。
喜とは自らの喜びと同時に他を喜ばすこと。
捨とは平静を指し、心に動揺も偏向もまったくない在り方を表現する。それは、いわば完全な無差別から、更に無性に通ずる場に、いわゆる「無縁の慈悲」を招き寄せて、なんらのかかわりをもたぬものに対しても、大いなる慈悲をもって接しつつ、しかも慈悲ということそのものを空(くう)じているという。このような慈悲喜捨は、どこまでも限りなく広げられて、これを四無量(心)(しむりょう。しん)という述語の成立を見る。
・紀元前に釈迦の姿が彫刻されることはまったくありえず、空白のままにするか、あるいは数種のシンボル(仏足跡、菩提樹、法輪など)で表現される。仏像がインド北西部のガンダーラに、また中インドのマトゥラーに最初に出現するのは紀元後一世紀末~二世紀以降というのが定説である。
・古くから仏教教団はサンガと呼ばれ、これが漢訳では「僧伽(そうぎゃ)」と音写されて、日本語の「僧」となる。したがって、僧とは、元来は教団全体を意味し、個人を意味する語ではない。
・インドで仏教が衰退し、滅亡したというのは、正確には、イスラーム軍によって、1203年にヴィクラマシラーの大寺院が徹底的に破壊され、比丘はすべて殺され、仏教サンガがインドから消滅した。
・業(カルマ)と輪廻(サンサーラ)は、すでに仏教創始以前の古ウパニシャッドに説かれており、全インド人に不可避の強固な人生観を形づくって、インド史全体を貫き、現在に及ぶ。現世における業、すなわち行為によって来世に生まれる場が決定される、とインド人は信じて疑わず、来世の場には、地獄・餓鬼・畜生・人間・天の五つを立て、のちのは、畜生と人とのあいだに阿修羅を挿入して、これを六道と称する。
つまり、来世に六道のいずれに生まれ変わるかは、すべて現世の業が決定し、この生まれ変わりであり輪廻は転生とも呼ばれる。これは生あるものは決して逃れられないという考えがインド人すべてを支配している。
・仏塔(ストゥーパ。卒都婆。卒塔婆)崇拝
もともとインドでは、古代から格別に由緒ある人、特に聖者に対して、滅後その故人を記念する墳墓をつくり、それには土饅頭型に土を盛り上げて祀った。通常インドでは、一般の人々は元来(現在もなお)各個人が死後も長く留まる墓に相当するものを設けない。
輪廻転生思想が広く行き渡り、普通の人々は死後最大四十九日までには、再び新たに「生あるもの」に生まれ変わると固く信じていて、墓そのものの必要性も、その意義もないことになる。おおむね死後は遺体が河畔に運ばれて火葬にされ、そこに残る骨も、灰も、ことごとく河に投ぜられる。それがガンジス川であることを強く望み、とりわけその中流のベナレス(ヴァーラナーシー)は最大の霊場として、今日に至る。釈尊は入滅後、インドの古風に従った。つまり、ニルヴァーナ(涅槃)に達して輪廻することのない釈尊の遺体は、クシナーラー村の住人たちによって荼毘(=火葬)に付されたあと、その遺骨と遺灰とを多くの在家信者たちが入手を争い、結局は有力な信徒に八分割され、彼らはそれを持ち帰って、記念碑であるストゥーパ(仏塔)を建設し、その遺骨などを丁重に土の下に祀った。
中国と日本に伝わると文字通りの塔になる。中国では土と木、日本ではもっぱら木(卒塔婆)でできている。
また、スリランカ、ビルマ、タイ、カンボジアなど南方に伝わって「パゴダ」となり、石造のものが多い。
仏塔はインド全体に広がっているが、南部のデカン高原には、数多くの窟院(くついん。レーナ)が開削された。現存するものだけでの千二百以上あるといわれ、その約七五パーセントは仏教に属していた。その古いものは、紀元前二世紀ないし紀元前一世紀にはじめられており、特にアジャンターとエローラとの窟院群が名高い。なお、窟院には、仏塔を祀る礼拝堂と、比丘たちが住む僧院との二種があった。
(え、仏教って墓石を作らないの? じゃあ日本のあのバカみたいに高価な墓石はなんだよ、言いたくなりますが、墓石は儒教の思想です。位牌も儒教ですよ)
・「仏教」という言葉の使用例は存外に新しく、明治期の日本が欧米「近代」の移入を図った時に軌を一にする。「仏教」の語は「仏の教え」を意味する少数の場合を除くと、江戸時代末期まで知られていない。
江戸時代までの文献では「仏教」という語はほぼ絶無。教えないし理論については「仏法」といい、
実践に関しては「仏道」(この原語は「さとり」そのものをいう)の語が用いられており、仏法と仏道という語に日本人は(中国人なども)千数百年間なじんできて、今日でも一部は維持されている。
五世紀以前の中国では「道教」とも呼ばれた。
また、多種多彩な漢訳仏典中から特定の教えをみずから選びとって「宗(むね・主・本・長)」とすることが六世紀の中国に生まれ、その宗の教えとして「宗教」の語がここに発明された。
宗教は仏教の下位概念に属し、仏教徒のあいだでのみ用いられて、日本でも明治初期まで仏教諸宗は「わが宗教」と称し、かつ仏教は仏法や仏道(単に「道」だけでも仏教を意味する)などの語で表現されていた。
江戸末期の開国で外国語の翻訳としての今日の用法が定着する。仏「教」としたところにすでに西洋思想による変容がなされている。
同時期に哲学という造語が誕生し、仏教・宗教の後も本来的意味を改変されて、すでに日常語化して現在に至る。
宗教とは「宗」派の「教」えであるから、仏教の下位概念であり、仏教者のあいだでのみ宗教という語は用いられた。
・バウッダはサンスクリット語でブッダを信奉する人。
古代インドの哲学書などでは、仏教の教説のことをバウッダ・ダルシャナといい、バウッダというときはどこまでも、仏の教えを信奉する人のこと。
インドでは宗教や哲学は各個人のもの。社会的権威によって束縛されるものではない。だから、西洋でいう「クリスチャニティ」や「イスラーム」に相当する造語法が古代インドにはない。
現代インドでは、佛教(仏教)を意味してバウッダ・ダルマといい、スリランカではブッダ・ダンマあるいはブッダ・サーサナという呼称を用いるが、外来宗教に対立する宗教だという自覚が強くはたらいている。
・ブッダ=真理を悟った人。ジャイナ教でも最高の聖者をブッダと呼ぶ。仏教は当時から使われていたブッダを採用した。ジャイナ教徒のあいだでは『聖仙のことば』(イシブハーシヤーイム)という書を伝えている。この書は聖人、賢者とみなされていた哲人のことばを集めたもの、あるいはその哲人たちについて歌った詩を集めたものである。この書ではいかなる宗教の人であろうとも、聖人、聖者をブッダと呼んでいる。
(ブッダは複数いることが重要ですね)
・仏教は「法」を説くのであって、「教義を説くのではない」。諸宗教や哲学の説く教義なるものは偏見として仏教では排斥する。
仏教の説く教えも「方便」である。それは筏のようなもの。目的を達したら捨てられねばならない。筏を大切なものだとして大事にしがみついているのは単に「執著」にすぎない。
原始仏教では法の権威が最高のものであり仏より上位だった。
ブッダは永遠の理法を説いたのであって、新しい宗教を創始したのではない。ブッダは普通名詞であって、幾人いてもかまわない。
(仏教は教祖とされる釈迦が実在しなくてもまったく問題ない教え。
キリスト教は十字架にかけたれたことにされている生贄=教祖が実在していないと教義が崩壊する教え。
そもそも冤罪なのに罪を購ってくれた自分が生まれるはるか前の神の子に感謝って凄い教義ですな。罪=悪を創ったのも神=善のふりをする大悪魔ですよね。
自由意志で悪を選択したって?
じゃあなぜその悪を滅ぼさないんですか?
なぜ悪を野放しなのですか?
そもそも悪という選択肢をなくせばいいのでは?
信仰を試す? 意地「悪」ですね!
悪ではなく「善の欠如」だという言い訳をする人がいますけど、悪という概念は善という概念がないと成立しませんよね? 善に相当するという言葉だけがあって悪に相当する言葉がない言語を教えてくれませんか?
聖書の神を「極悪人」と置き換えて読むと非常に納得できますよ)
・阿含経に満ちているあまたの問いは、すべてみずから現に体験している苦しみ、悩みから発せられ、そのそれぞれに対して釈尊はその質問者の現実に即して答える。ただし、苦悩そのものを即座に解消するような、いわば直接的な手段や方策というよりは、むしろ苦悩に対処してゆくべきその在り方をとりあげて、それを熟慮しつつ答えがなされる。いわば外部の状況その他は不変のままでありながら、みずから苦悩としているところが、実は苦悩ではなくなり、いつしかその苦悩がその内部において消え、安らかな境地にもたらされる、そのような図式を描いて展開する。
釈尊はその答えにおいて、人間の力を絶した創造主としての神も、また祈禱や呪術もことごとく退けており、超自然的なものは排除している。そうではなく、あくまでもこの現実に徹し、この現実に即し、終始この現実において解決しようとする。この意味において、釈尊は、総じて仏教は、常のこの現実を直視し、凝視するという立場に基づく現実主義、と表現され得よう。
仏教では哲学的アポリア(難問)、つまり形而上学を意図的に斥ける。
(釈尊が形而上的な=確かめようがないことを語ると、それが教義になってしまいますからね。
形而上学的なことは現実的思考から離れてしまうので答えなかったのです)
阿含経は十種にまとめ十難と術語化した。
①世界は常住(世界は時間的に無限)
②世界は無常(世界は時間的に有限)
③世界は有辺(世界は空間的に有限)
④世界は無辺(世界は空間的に無限)
⑤身体と霊魂は同一
⑥身体と霊魂は別異
⑦真理達成者(如来)は死後に生存する
⑧真理達成者(如来)は死後に生存しない
⑨真理達成者(如来)は死後に生存し、かつ生存しない
⑩真理達成者(如来)は死後に生存するのでもなく、かつ生存しないのでもない
これらの質問は何回も反復されて釈迦に回答を求める。
釈尊は常に「無記」を通した。すなわち、どのような誘導があり、あるいは誹謗があっても、あくまでも沈黙を守り続けたまま、何の答えもしていない。
・苦=自己の欲するままにならぬこと、思い通りにならぬこと。
・仏教の「生」(しょう)は全て「生ずる」「生まれる」意であり、「生きる」意ではない。
・刹那(クシャナ)=75分の1秒=0.0133……秒
・仏教では「無時間的な実体」のような考えはことごとく排除されている。
・ほとんどの仏教解説書に「実体の否定としての無我」が無我の説明としてあるが、これは阿含経(初期仏教の教典)かならかなり離反している。
阿含経に説かれる無我は、特にその原初形は、「執着の否定としての無我」あるいは「無我とはとらわれないこと」と解さないといけない。
初期の大乗仏教の「空」を理論づけた龍樹も、実体否定論と同時に、一貫して「空とはとらわれないこと」と説いている。
・初期仏教の経典のスッタニパータに
“自己を洲(す)とし、自己を依りどころとして、他を依りどころとせず、法を洲とし、法を依りどころとして、他を依りどころとせずに、住せよ”
「洲」のパーリ語は、ディーパであり、それはパーリ語が、大河の中に浮かぶ島あるいは庇護所を意味するサンスクリット語のドゥヴィーパに相当するこの解釈に基づく(現在の学会では、この解釈が正当とされる)。
しかしサンスクリット語には、上記のパーリ語と同じディーパという語があり、それに結びつけるならば、「あかり、燈明」となる。
先程引用したスッタニパータの箇所を漢訳した阿含経の該当箇所では
“自燈明、自帰依、法燈明、法帰依(自らを燈明とし、自らを帰依とす、法を燈明とし、法を帰依とす)”
・マントラ=マン(考える)+トラ(用具などを表す接尾辞)
=思考の道具。
般若心経の概要(梗概)。
観自在菩薩(観世音、観音菩薩)がまず登場し、般若ハラミツの実践において、ありとあらゆるすべて(五蘊)は空(無執著)であると明らかに観じ取り、一切の苦を離脱した。
そこで舎利子(舎利弗=しゃりほつ。シャーリプトラ)に呼びかけて、この空を五蘊のひとつひとつについていう。
すなわち、まず
色(いろ・かたちあるもの、物質として現象しているもの)に関して説く「色即是空、空即是色」。その大意は、ものと空との完全な一致にあり、ものがそのまま空であり、同時に、空であることがものをそのものたらしめて、そのものとしてあることを示す。
ただちに、五蘊のうちの他の四つ、
受(感受、感覚)、
想(表象、イメージ)、
行(形成力、意志)、
識(認識)について、空を反復し、生と滅、垢と浄、増と減のおのおのの否定がある。
同様に、
六入(眼・耳・鼻・舌・身・意)と
六境(色・声・香・味・触・法)と
六界(眼界~識界)、
十二因縁(無明~老死)、
四諦(諦=真理。苦・集・滅・道)という、
阿含経(初期仏教の経典)から部派を経て大乗仏教までの全仏教に通ずる基本的述語に「無」を付して否定し去って空を裏付け、ここではすでに智も得も所得も同様に無であり、こうして菩薩は般若ハラミツによって、一切の障害は消滅し、恐れもなくなり、転倒(てんどう。ひっくり返る)した思いから遠く離れて、仏教の理想の極致であるニルヴァーナに至り完成する。三世(過去・未来・現在)の仏たちもこの般若ハラミツによってはじめて、至上最高の「さとり」を得たと説く。そのあとに、当時すでに重要な役割を果たしたマントラ(真言。呪)の語を引き、般若ハラミツを無比で最高のマントラとしたうえで、呪を唱えて経を結ぶ。その呪の大要は、
「到達したものよ、到達したものよ、彼岸に到達したものよ、彼岸に完全に到達したものよ、さとったもの(あるいは、さとり)よ、幸あれ」という。
般若心経の空を従来の般若経の説明に引きつけて無執著と訳したが、この経の成立時にはすでにナーガールジュナ(龍樹)の空の理論づけが果たされているので「固定された実体を立てない」、さらには「それだけで存在すると見て固有の本体を有する、という考えから離れる」、と解釈したほうがふさわしかろう。
(「絶対」の否定)
・般若+波羅蜜多=智慧の完成。
六波羅蜜=六種の波羅蜜。
波羅蜜はパーラミター(=最上・完全・極致)の音写。
般若ハラミツ=智慧の完成(到彼岸)。
般若とは空の思想。空の思想は大乗経典の般若経に終始一貫して説かれ、「こころにとどめつつも、とらわれるということがない」「とらわれない」「無執著」と解される。
・空のサンスクリット語のシューンヤは、インド人(人名も年代も不明)が人類史上はじめて発見した数のゼロの原語でもあって、そのゼロ(空)は単なる無でもなく、単なる有でもなく、同時に有でも無でもあり、また有でも無でもないという(例えば、102の0)、一見矛盾に満ちた多面性を発揮する。
ゼロが発見されなかったならばすべての自然科学の根底にある数学(近代数学)はその根拠を失ってしまう。ゼロの発見によって、例えばマイナス(負)の概念が明らかにあり、更に重要なことは十進法(じっしんほう)が成立し(言うまでもなくインドが最も古く、アラビアを経てヨーロッパに伝わるのは千数百年後)、また数学の基本である加減乗除が容易になった。その際、ゼロは加えても減じても、元の数に何の変化もないが、ゼロを乗ずればあらゆる数をゼロに変え、ゼロで割ることは一般には考えられない。
ゼロは日常のいたるところに溢れ、「空」も同じ。「空」によって私たちが現に生きている相対の世界はいちおう成立している。しかしその底には、その相対の世界そのものの否定が厳としてあり、その否定のゆえに、私たちのこの世界すべてはあくまで相対的である。
般若心経の訳例+解説
http://dic.nicovideo.jp/a/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C
“(これは、人智を超えた般若波羅蜜多についての心経である)
全てを識り、全てを見る聖者アヴァローキテーシュヴァラ(観音菩薩=観自在菩薩)は、深遠なる悟りを得る修行の中でこの世の五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊、後述)には実体がないことを明らかにした。この発見により、苦しみは全て解かれよう。
シャーリプトラ(舎利子、仏陀のもっとも古い弟子の一人)よ。この世の形あるもの全てに実体というものはない。実体がないままに形を作っている。形あるものには実体がなく、実体がない故に(あらゆる)形を得る。感じること・気づくこと・思うこと、そして知ること(これら心で作用すること全て)もまた同じだ。
シャーリプトラよ。全てのことに実体はないのだから、全ては生まれもせず、滅することもなく、汚れているということもなく、清らかであるということもなく、増えることもなく、減ることもない。
つまり、実体が無いこの世の真実の世界においては、全て存在しない。真実の世界においては、形作っているもの・感じること・気づくこと・思うことを知ることもなく、目・耳・鼻・舌・感触・意識(肉体で感じること全て)もなく、景色・声・匂い・味覚・ぬくもりも、その相手も、全て存在しない。眼に見えるものと、それによって心のなかで生じたことも、全て存在しない。これら存在しないものへの無知からくる悩みもない。けれどもその悩み自体は尽き果てることもない。この世では老いるということも死ぬということもないままに、老いも死も尽き果てない。苦しみなどない。故にこの世では苦しみを滅する道も、それを知ることも、得ることもない。得ることもないから、苦しみを知る者(菩提薩埵)は、この発見(般若)によって、こだわりをもたず、こだわりがないから、恐れもいだかず、全ての夢想からはなれて、静かなる心の世界(涅槃、ニルヴァーナ)へと至るであろう。
こうした過去・現在・未来(三世)の諸仏は、この深遠なる発見(般若波羅蜜多)によって、悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得る。
故に知れ。この発見(般若波羅蜜多)を述べるこの大いなるマントラ(まじないの言葉)は、明らかに、この上もなく、並ぶこともない呪(言葉)であると。全ての苦しみはこれにより解かれ、そこには真実のみがあり、偽りはない。
故にこの般若波羅蜜多の真言は、
「羯諦 羯諦 (ガテー ガテー:往ける者よ)
波羅羯諦 (パーラガテー:悟りの境地に往ける者よ)
波羅僧羯諦(パーラサンガテー:悟りの境地を往った者が)
菩提 (ボーディ:"菩提"である。)
薩婆訶 (スヴァーハー:幸いあれ。)」
これが真実の悟りの教えである(般若心経)。
(…)
※「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」は『大般若経』以外の経典から引用された陀羅尼(だらに、仏教的呪文)。陀羅尼は暗誦されるのが常だったため、翻訳当時でも正確な原意が失われていた。そのため、ここは音写に頼らざるを得なかった(日本語における「ちちんぷいぷい」みたいなもの)。世に散見される該当部分の解釈は梵語等からの類推であり、あくまで参考の域を出ない。
そもそも陀羅尼は何度も復唱することで無念無想の境地に至ることを旨とするため、その意味をあまり深く考えなくてもよいものなのだ。
※五蘊とは仏陀死後100年の間に分裂した仏教(部派仏教)における世界観を認識する手法の一つで、人間の意識を構成する要素を5つに分けたもの。色蘊(人間の肉体や、それを構成する物質)・受蘊(人間が感覚すること、いわゆる五感)・想蘊(「受」で感覚したことで、出てきたイメージ)・行蘊(「想」のうえで、出た何らかの意志。「~したい」など)・識蘊(「受」「想」「行」を総合して出した判断)の5つである。般若心経ではこれすらも空としている。
(…)
般若心経が描いているのは、釈迦の目の前で、上座部仏教で最も尊い修行者である阿羅漢(あらかん、アルハン。「(崇敬と布施を受けるに相応しい)聖者」の意)の筆頭であるシャリープトラに対して、観自在菩薩が大乗仏教の「空(実体は存在せず、他との関係の中で現れて見えるということ)」の思想を説いている場面である。
その説では、上座部が悟りを得る上で重要視する十二因縁や四聖諦をも含む万物が「空」であり、したがってそれらに依らず、陀羅尼(掲諦掲諦…)を唱え全てが「空」であるという真実(般若)を感得する事(波羅密多)こそが最高の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)に至る道である、とされる。
そして最後に最高の覚者である釈迦が説法の全てを追認し観自在菩薩を褒め称える――つまり上座部を貶めて大乗を賞揚する内容となっている、というのが一般的な解釈である。
「空」とは何か? 悟りとは何か?
さて、般若心経の本質であり、有名な格言「色即是空 空即是色」。ここに説かれている「空」というものは一体なんであろうか。ちなみによく勘違いされるが、「空」は「無」と同義ではない。むしろ「無」ですら「空」によって成り立つ現象のひとつ(色)に過ぎないとされている。
長らく仏教界ではこの「空」を説明するのには多大な労苦が費やされてきており(折空観)、その最も良いテキストが『弥蘭王問経(ミリンダ王の問い)』の仏典だと言われている。ここではその考えを借用して、「空」をごく簡単に説明するのに、パソコンのたとえ話(方便)を用いるとしよう。
パソコンを例にとれば、デスクトップ型パソコンをバラバラに分解してしまえば、それはもはやパソコンとは呼ばれず、それぞれの部品にしても、最早「かつてはパソコンであった」パーツに過ぎなくなり、「パソコンという存在」は消えてしまう。また、パソコンのキーボードからキーを幾つか抜いてもパソコンと認識されるように、部品そのものにもその総体にもパソコンという一個のアイデンティティを示す実体があるわけではない。
だがしかし、一度バラバラにした部品をもう一度組み立て直せば、先程まで消えていた「パソコンという存在」は再び我々の目の前に戻ってくるのである。
ならば「パソコン」という概念は、一体全体どこの何を表現した言葉なのだろうか。ディスプレイだろうか? マウスだろうか? キーボードだろうか? HDDだろうか? あるいはもっと小さなICチップなどであろうか? 答えはいずれも否である。先に挙げたうちの、そのどれもが「パソコン」そのものではない。しかし、いくら否定したところで、パソコンというものがこの世に存在しているのもまた厳然とした事実なのである。では、パソコンとは一体何なのだろうか? パソコンとはこの世に「ある」のだろうか、それとも「ない」のだろうか。答えは簡単、「ある」とも言えるし「ない」とも言えるのである。
つまり、"パソコン"と呼ばれるものは様々な部品がしかるべき因縁で組み合わさった中に垣間見える『現象(概念)』なのである。当然、部品やその集合体にパソコンという実体が存在するわけではない。したがって「無」というものも、パソコンを分解した途端に発生する「空」という本質の一側面に過ぎず(「空」⊃「無」)、パソコンは最初から「ある」とも言えるし「ない」とも言えるのである。「色」とは「現象」のことであり、「空」とはこの現象を引き起こす仕組みそのものを指しているのである。
この考えを応用すれば、基本的にはこの世の森羅万象すべての実在を否定することが出来る(「空」≒「非実在」≠「無」 であることは、これでもうお分かりだろう)。
あらゆる事物の本質は、それそのものの実体とは別に存在し、そしてその本質は人が理解できない次元に存在する。これが般若心経の本質、「色(現象)即是(すなわちこれは)空 空即是(すなわちこれは)色(現象)」である。この世の本質も実体も、実は概念上の物でしかないのである。
その上、ブッダはこの「空」の考えを流用し、最終的には当時信じられていた魂の存在さえも否定するに至った。詳しい説明は省くが、ブッダは瞑想の末に、この世において輪廻転生を繰り返しているのは魂や霊ではなく、「自分」という潜在意識・記憶そのものにしがみつこうとする人の意志そのものであると看破した(法相宗の考え方がこれに近い)。この「自分という存在そのものへの執着」を捨てることが出来れば、転生するはずの「自意識」そのものが消失するため、人間は二度と生まれ変わることはなくなり、輪廻転生の輪から解脱し、何度も生まれ変わって苦しみ、傷つくことはなくなる……というわけである。つまり仏陀が夢想した原始仏教は、「二度と生まれ変わらないこと」を目的として生まれたのである。
「悟り」とはつまりこのことである。ブッダは、人間が転生する仕組みと転生を信じる理由、そしてその転生の仕組みを生み出している人間の深層心理の構造そのものを「悟った」のである。
……と、このような考え方を会得する過程までが『悟りを得る修行』なのであって、悟った後はこの悟りを具象・抽象ひっくるめた万物に適用し、それを単なる知識を超えて感得しなくてはならないのであるから、大乗仏教とはいえ無上の正しい境涯に至る道は決してなだらかな訳ではない。つまり、「悟り」はすごろくの『上がり』ではなく、悟っただけではどうにもならないのである。そういうわけで、人は悟った後、今度はどのようにその理論に即して煩悩や執着を捨てていくか、という問題にぶち当たることになる。
そういうわけで、以後この「悟り」を得るための方法論は枝分かれし、その方法論の違いは本邦に多数の仏教宗派を生んだ。「個人の中に大宇宙を再現し、その中に涅槃寂静の境地を発見する」とする真言宗、「悟りは人間の誰しもの中に最初から備わっているのだから、それを修業によって引き出す」ことを目的とした曹洞宗、臨済宗などの禅宗などがその好例である。
ここまで熟読された方はもうお分かりであろうが、本来仏教は厳密な哲学的・論理的思考の下に成り立っている宗教であり、般若心経はそのための最上のテキストに位置づけられている。肉体的・精神的修行を重視する日本仏教の影響を受け続ける日本人は、この経文自体に霊的な力が内在しているとされていると誤解しがちである。しかし、般若心経は唱えれば何かが起こったり悪霊が裸足で逃げ出すといったまじないではなく、これ自体を意識することなく読唱したり写経したりすること自体にはあまり意味がない。禅宗などの言語を否定する宗派を除けば、あくまで論理的思考によってこの文章を理解し、釈迦の教えをよりよく実践することが悟りのための第一歩になるわけである。
この記事を熟読された皆様は今、まさに悟りの入り口に立ったことになるのだ。求道者たちよ、悟りと共にあれ。”
説話風の訳例
http://dic.nicovideo.jp/r/a/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C/233400
”《一切を知る方(釈迦)に帰命(きみょう。御仏の教えに身命を投げ出して帰依すること)する。》
<わたしはこのように聞いた。世尊(釈迦の尊称)が王舎城(おうしゃじょう。ラージャグリハ。古代インドのマガダ国の首都)にいらっしゃった頃、霊鷲山(りょうじゅせん。グリドラクータ山)を数多の比丘(びく。托鉢行者)と諸々の菩薩(菩提薩埵。求道者)を伴って遊行していらっしゃった。まさに世尊が深い悟りという名の深い瞑想に入られたその時、>
全てを知り全てを見るといわれる菩薩アヴァローキテーシュヴァラ(観自在)は、深遠な悟りの智慧を完全に成就する(般若波羅密多)修行の中で、この世の生き物を構成する五つの要素(五蘊。ごうん)には実体が無く(空)、各々との関係の中であたかも実体があるかように見えるに過ぎない、ということを明らかになさった。
【この悟りの智慧の極めにより、衆生の苦しみは全て解かれよう。(度一切苦厄)】
<すると、長老シャーリプトラ(舎利子。舎利弗(しゃりほつ)とも。「智慧第一」と称される、釈迦の十大弟子の筆頭)は、その御仏のお力を以てして、菩薩アヴァローキテーシュヴァラにこうおっしゃった。
「善男子(ぜんなんし。仏徳の有る男)ならば誰でも、深遠な悟りの智慧を極める修行を望むもの。そうした者には、どのように教えてやったらよいと想いますか?」
そのように訪ねられた菩薩は、長老へこのようにお答えになった。
「善男善女(ぜんなんぜんにょ)ならば誰でも、深遠な悟りの智慧を極める修行を望むものです。そうした者は、次のように明らかにしたらよいと想います。まず彼は、生き物を構成する五つの要素には実体がない、と見なしました。>
「シャーリプトラよ。この世の形あるもの全てに実体というものはありません。実体がないままに形を作っています(色)。形あるものには実体がなく。実体がない故に(あらゆる)形を得ます。感じること(受)、想うこと(想)、気づくこと(行)、そして知ること(識)、これら心に作用すること全てもまた同じです。
「シャーリプトラよ。全ての物事の本質に実体はないのですから。全ては生まれもせず、滅することもなく。けがれているということもなく、清らかであるということもなく。増えることもなく、減ることもありません。つまり、実体が無いこの世の真実の世界においては。形も、感じることも、想うことも、気づくことも、知ることも、五蘊(=色受想行識)は全て無いのです。
「目、耳、鼻、舌、感触、意識の六根(=眼耳鼻舌身意)全ても無く、景色、声、におい、味覚、触覚、想念の六境(=色声香味触法)も全て存在しません。目が有るということ(眼界)から、心が想うということ(意識界)にいたる十八界(=六根×(部位、対象、作用))も全て、有りはしないのです。
「十二因縁(苦しみの根源を説く12の因果の連なり)の最初である無知(無明)すら無く、しかるに無知がなくなることもありません。つまり十二因縁の最後である老いて死ぬ(老死)ということも無いままに、老死がなくなることも無いのです。四聖諦(ししょうたい。四諦とも。悟りの道を示す4つの真理。=苦集滅道)に至っては、あり続けることによる苦しみ(苦。八苦)などありませんから、苦しみを集める原因(集)である生への執着(渇愛)も無く、苦しみを消すために執着を捨てる事(滅)も、その為に行う修行(道。八正道を含めた七科三十七道品)もありません。
「つまり(十二因縁や四聖諦によっては、悟りの智慧を)知ることがありません。得ることもありません。得ることもないですから、菩薩はこの悟りの智慧の極みによっても、何のわだかまりも持ちません。わだかまりがないのですから、恐れもいだかず、全ての災難を乗り越えて、究極の安らぎの世界(涅槃、ニルヴァーナ)へと至ります。過去、現在、未来において菩薩は、悟りの智慧を極める事で、最も優れた正しい悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得るのです。
「故に知るべきなのです。この悟りの智慧の極みである大いなる聖句(マントラ。まじないの言葉)は、霊験あらたかな、この上なく、並ぶものなき聖句であると。全ての苦しみはこれにより解かれるのです。何故ならそこには真実があり、偽りなどありませんから。悟りの智恵を極める聖句とはこの通りです。
『羯諦(ガテー、着きしものよ)羯諦(ガテー、着きしものよ)波羅羯諦(パーラ=ガテー、彼岸に着きしものよ)
波羅僧羯諦(パーラ=サン=ガテー、彼岸に辿り着きし者よ)菩提薩婆訶(ボーディ・スヴァーハー、悟りよ、共にあれ)』
<「シャーリプトラよ、深い悟りの智慧の修行では、菩薩はこのように教わればよいと想います。」
(菩薩アヴァローキテーシュヴァラがこう締めくくった)まさにその時、世尊は深い瞑想から立ち上がりつつ、菩薩へ讃辞を送った。
「いや見事、お見事です、善男子よ。深い悟りの智慧の成就に於いては、まさしくそのように修行を行ったらよいのです。あなたが示した事は、諸々の如来(仏陀(悟りを開いた者)の尊称)や阿羅漢(あらかん。聖者)も認めるところなのですよ。」
世尊は心からお喜びになり、そうおっしゃった。長老シャーリプトラと菩薩アヴァローキテーシュヴァラ、そして諸天(仏教に帰依したインドの善神族)、人間、阿修羅(仏教に帰依したインドの鬼神族)、乾闥婆(けんだつば。仏教に帰依したインドの精霊神族)をはじめとした全世界が、世尊のその言葉に喜んだのだった。>
これが、悟りの智慧の完全なる成就を説く、その心臓となる教えの書(般若心経)の完成である。”
摩訶般若波羅蜜多心経
http://www.nicovideo.jp/watch/sm304046
般若心経のサンスクリット版の歌
Imee Ooi - Mantras Of The Sanskrit
https://www.youtube.com/watch?v=OO1YbUUDBms
第七回現代仏教塾 「死後・輪廻はあるか」Ⅱ近代仏教学の「無記」の誤解・東洋大学名誉教授 森章司
https://www.youtube.com/watch?v=KnAKezi7pNo&feature=youtu.be
原始仏教はカウンセリング術。現世利益を言わない宗教が多いのは、現世利益で幸せになると儲からないから。『仏教、本当の教え - インド、中国、日本の理解と誤解 』・『原始仏典』・『ブッダの真理のことば・感興のことば』。あと、生き残るために他の宗教に偽装した宗教や、キリスト教が作った「ユダヤという身代わりの生贄」やズルワーンについてなど。
Posted on 2014.05.13 Tue 01:44:01 edit
ようこそお越し下さいました。
安易に宗教に頼らずに、わざわざここにいらっしゃったことだけでも、あなたは見込みがありますよ。
何やら質問したげなご様子ですね。
何々、原始仏教は宗教ではないのか、ですか。
原始仏教は教義がありませんから宗教ではなく現世利益を実現するための技術と知恵の集大成です。仏教というよりは仏「法」や仏「術」と言う方が適切かもしれませんね。
え、なぜ現世利益を追求しない宗教が多くて、恐怖を煽ってくるのかですって?
なぜって、現世利益を得て幸せになっちゃったら宗教いらなくなるじゃないですか。現実で幸せになったら困るんです。信者という儲かるものがどんどん減っちゃいますから。
だから終末論とか地獄で永遠に苦しむとかで恐怖支配して、抜けられなくするんです。大抵の宗教は、特におかしなカルトはほぼ間違いなくヨーロッパ産のキリスト教の変形です。だから、宗教と戦争という二つの商売は相性が非常に良いのです。教義で道徳を破らせて戦争を起こし、戦争で不幸な人を増やして儲かる信者を受け入れる。
不幸な状態を肯定することをよく言うのは、神の試練だとか、なんちゃらは幸いである、だとかで誤魔化して、なんとか現状が改善しないようにするためです。で、ますます依存させる。
一方、原始仏教にはカルトによくあるものがございません。このAの欠点を指摘し、Bにはその欠点がないと言ってBに誘導する技術を今使っているのですよ、気をつけてくださいね。
子子子子子(ねここねこ)@kitsuchitsuchi·5月11日
原始仏教にないものは①絶対的教義②人格神③検証不可能な形而上学④男尊女卑⑤階級制⑥葬式で読経⑦墓石⑧戒名⑨卒塔婆⑩紫衣⑪占いや預言⑫鎮護国家(悪霊退散)。故に国教になれない。自然現象を擬人化し人格神にして解釈者=宗教家が操作する。操れない諸行無常より好都合。教義で道徳を破らせる。
にある通りです。
では、
原始仏教という名の、
苦しみを取り除き、
現実と自分と向き合う手助けをする、
心理カウンセリング術の内容紹介のはじまりはじまり。
※文末が統一されておりませんがご了承ください。
『仏教、本当の教え - インド、中国、日本の理解と誤解 』(中公新書)(2011/10/22)植木 雅俊
サンスクリット語(あるいはパーリ語)で書かれた原典が読める人の著作を読まないと本来の釈尊の思想は決してわからない。
翻訳すれば原文の意味は必ず変化してしまう。
原典から翻訳→翻訳分を翻訳(重訳)
といった翻訳上の問題と、
教え自体が都合が悪くて改竄したという問題
など伝言ゲームのように別物になってしまう。
徹底した男女平等を説いた原始仏教は、儒教思想のせいで中国では翻訳時に男尊女卑思想に改竄され、今では搾取者に都合がいい形で日本に定着していて、今やどんどんキリストやキリスト教の変形であるスピリチュアルに侵食されまくっております。日本の仏教関係者は、当然、そこを「見ないように目を背けている←すでに釈迦の教えに反している」。
初期仏教と大乗仏教は別物だと言う説もありますね。大乗仏教はミトラ教の一派で、弥勒=ミトラ、という。キリスト教も大乗仏教も親はミトラで同じってことです。キリスト教は親のミトラを殺そうと必死ですが。
まあ、天上の存在を沢山登場する時点で初期仏教ではありませんよね。
※祖先崇拝を重視する儒教では、家系が絶えることは不幸の最たるものなので、女性は生む機械扱いされる。
中国では、男女平等がなかったことにされたりしたものの、国家に従属させられそうになっても、「沙門は王者を敬わず」の言葉通り、仏教徒は、国家のために積極的に働こうとしなかった。
対して、日本の仏教は、最初から鎮護国家の思想で始まり、仏教でない信仰は、いわゆる神仏習合(道教まじりの仏教が一番上)などにより、仏教の一部に改変し取り込んでいった(都から遠く離れると仏教の影響が薄いところもある)。
※「神道」は江戸末期に誕生したキリスト教の一派(教祖の一人が、平田篤胤という似非国学者)であり、「神道」誕生以前の仏教の異端派や土着信仰や道教の一派とかを勝手に「神道」ということにしただけ。
だから教義なんて定められるはずがない。嘘がばれるから(神道関係って偽書多過ぎませんかね?)。八百万のカミガミなる実に便利な内容にしている。
(明治以前は天皇は天台宗の仏教徒であることをなかったことにしちゃいかんよネトウヨ壺工作員)
明治以降の国家神道がキリスト教の一派なのは、大日本帝国憲法第3条“天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス”より窺える。
神聖にして侵すべからずとされる存在は欧米ではGODあるいはキリストである。
用語を日本的にしただけである。
脱線より戻る。
1700年代前半、懐徳堂(庶民教育のために大坂の町人が作ったので権威主義的でない)出身の、大坂の町人学者である富永仲基が『出定後語』を著わして、大乗仏教は釈尊が直接説いたものではないという「大乗非仏説論」という至極まっとうな主張をしたが、当然都合が悪いので無視され潰された。
インドの仏教は「人」より「法」を重視し、中国に来ると「法」を体現した「人」を重視し、日本に来ると「法」よりも「特定の」「人」(の神格化)に重心が移った(政治利用が明確になった)。聖徳太子を信仰対象とする太子堂が各地の寺院に建てられたり、弘法大師があちこちで信仰された。
ことなどがばれたら困るから。
かくして、日本では、坊さんは般若湯(=酒の隠語)をのみ、妻帯し、葬式と墓守を生業とし、宗教非課税特権を享受しているのである。
宗教非課税って突かれると支配者層が困ります。
宗教課税すべきですよ。額は重要ではありません。課税することが大事なのではなく、調査できるようにすることが大事なのです。
また脱線。
お盆って仏教関係ないよ。大乗仏教は輪廻転生思想だから、御先祖様が帰って来るなんてありえないでしょうが。
脱線終わる。
釈尊は、「教えは、それぞれの地域で語られる言葉で語りなさい」と言った。実際、アジア各地では、自国の言葉に翻訳されたが、日本だけは漢訳のままで翻訳されなかった。漢文の経典は音読みなので、人々はそれを聞いても意味がわからなかったが、日本には「分からないこと」=「有難いこと」という変な思想があるので、実に誤解されやすく騙しやすい。つまり本来の仏教に反している。
聖書が元はラテン語だったので庶民が読めなかったことに似ている。
※難解なことを分かりやすく説明できることが頭が良いという要素の一つ。
難しいこと難しく言うなら意味が分っていなくてもできるので。
①尊い人か、卑しい人かは生まれではなく行動で決まる。
②釈尊も女も男も在家も出家も皆人間であり平等である。当然、在家の女性もブッダになれる。
③呪い、迷信、ドグマ、占い、姓名判断、苦行、超能力、呪術的儀式、神通力、おまじない、呪術的似非医療などに騙されてはいけない。
④GODなどの絶対的価値観を殺人などを正当化する理由としてはならない。GODを目的とし、人間を手段としてはならない。
⑤差別とは言葉による逆規定で発明されるのであって本来は存在しない。
⑥弱みにつけ込んではいけない。
⑦不安を取り除き安心を施せ。
⑧仏道を修行しても、
1.前世は分らないし、
2.ものごとを見通す眼は得られないし、
3.他人の心が読めるようにはならないし、
4.死ぬことや転生が何であるか知ることはできないし、
5.聴く働きを清める力も得られない。
⑨苦しみをなくすために以下の八正道を実践せよ。
1.正見=正しく見ること
2.正思=正しく考えること
3.正語=正しく言葉を使うこと
4.正業=正しく振舞うこと
5.正命=正しく生活すること
6.正精進=正しく努力すること
7.正念=正しく思念すること
8.正定=正しく精神統一すること
⑩ダルマ(法)を自らに体現し、真の自己を他に頼ることなく自覚せよ。
⑪軽蔑、怒り、憎しみなどの思いから互いに他人の苦しみを望んではならない。
⑫愛は憎しみに転じ得る。愛憎の対立を超えた慈しみの念を保つことが崇高な境地である。
仏教で「愛」=執着をもたらす欲望=悪いもの、という考え。二元論の否定。
⑬恨みは恨みによって決して静まらない。恨みは、恨みのないことによって静まる。
⑭信じることのうち、妄信・狂信・熱狂的信仰はしてはいけない。
⑮死者の救いは、葬儀のいかんではなく、亡くなった人自身の徳による。
上記の列挙事項に含まれていないからといって、何をやっても容認されるとは限らない。
・仏教と葬式は本来無関係。お経を読むなんてありえない。
「お前たちは遺骨の供養にかかずらうな。お前たちは正しい目的に向かって怠らず、勤め、専念しておれ」が釈尊の考え。葬儀は出家者ではなく、在家がやるもの。
ちなみに、仏教だから火葬だとは限らない。
釈尊は、遺言どおり遺体は「在家」によって白い布に巻かれて、火葬=荼毘に付された。
釈尊の時代に文字によるお経なんて存在しない。
釈尊が語っていたことを短文で口伝えで語ることはあっても、それは葬式のためではなく、「生きる」ことに関するものである。
そのそも、お経の内容はきちんとしたストーリーのあるドラマチックなものであり、意味が分かれば、葬式の場では完全に場違いな内容である。
キリスト教式の葬式でシェークスピアの戯曲でも読み上げるようなものである。
あと、卒塔婆も本来の仏教にはない。ストゥーパ(卒塔婆)はそもそも墓なので、墓の隣に墓を立てるという奇妙なことに日本ではなっている。
まさに、屋上屋を架す=無駄なことやつけたし。蛇足。
卒塔婆代ってばかばかしいね。二重払い断固拒否。
・現在のような葬送儀礼が定着したのは、江戸時代の檀家制度の影響。仏教僧侶が葬儀や追善を行えば一神教抑制や、寺院経営の維持に有利だったので。
お盆で先祖の霊が返って来るというのは、大乗仏教の輪廻転生と矛盾するので、そもそも仏教関係ない。
そもそも、輪廻転生するのなら、供養の仏壇やお墓の意味がなくなる。他の存在に変わるのだから、弔いに感謝することなんて不可能だし、お盆に返って来るなんてありえない。
原始仏典では、死者の救いは、葬儀のいかんではなく、亡くなった人自身の徳によるので、釈尊は出家者が葬儀に関わることを禁止している。
戒名は仏教が中国に伝わったときに、号の風習を取入れて生れたものらしいので、戒名詐欺にご注意ご注意。
戒名くらい自分でつけたら?
(そもそも自分の名前を自分でつけられる制度にしたらいいのに。在日特権=通名=偽名OK=スパイ天国、なんだから、別にいいよねえ)
中国では道教や儒教の先祖供養と習合して、出家者たちも葬送儀礼を行うようになった。
位牌は儒教の影響によるもの。戒名などない。四十九日を過ぎた供養もしないもの
・日本で死刑廃止が保元の乱(1156年)まで約400年続いたのは、生命を大切にする仏教思想の影響。
「怨親平等」
…敵味方区別なく平等に弔う。元寇、島原の乱。
しかし、
明治政府は、官軍の死体は招魂社(靖国神社)に祭られたが、賊軍の死体は野ざらし放置。
イルミ(ネーション)が治める=明治、にふさわしい所行だね。
・ブッダ=(ダルマ、心理、真の自己に)目覚めた人。複数いる。
・ダルマ(多義語)
…語源「支える」という動詞ドゥフリの名詞形=支えるもの。
事物を事物たらしめ、人間を人間たらしめ、社会を社会たらしめるもの。
Xという意味と、Xたらしめるもの、という両方の意味がある。
真理、規範、慣例、義務、なすべきこと、秩序、善、道徳、法則、宗教、全世界の根底、本質。あるがままの真実に即した道理。
※ダルマター=法の本性、法性。という言葉で意味の混同をなくそうとしているふしがある。
・カルマン(karman)=行為の残す潜在的余力=業(ごう)。
・ パーリ語のアナッタン、あるいはサンスクリット語のアナートマンが中国で「無我」と誤訳された。「非我」(何かが我なのではない→何か実体的なものを自己として想定し、それに執着してはいけない)が正確な訳。
・無畏施(むいせ)=不安を取り除き、安心を施すこと。
・漢字一文字で名詞にも動詞にも形容詞にも副詞にもなるので解釈が難しい。
・釈尊入滅後百年たったころから教団の権威主義化が顕著になり、在家や女性が軽視され始め、経典の中の都合の悪い部分を削除して改竄された。
結果、十大弟子(全員男性)は残されたが、女性と在家の弟子たちすべての名前が削除された。
・托鉢(乞食)の当番を釈尊も平等に行っていたが、小乗仏教では原典を改竄し、釈尊が托鉢に参加していないことにした。小乗仏教による釈尊の神格化=人間以上の存在に仕立て上げる。
・原典では釈尊自身は自分を「善き友人(善知識)」(「人」に注目)だと認識していた。弟子たちも、釈尊=「完全に目覚めた人間(仏陀)(人間=仏陀=釈尊)」に対して「君」、「ゴータマさんよ」と気軽に呼びかけている。
しかし後に改竄され、「私は人間ではない。仏陀である。」(人間<仏陀=釈尊)にされた。
・差別とは、「兎角亀毛=言葉では存在するが現実には存在しないもの」である。
・チャンダーラ(せんだら。漢字割愛)
…(カースト制度最下層にしてアウト・カーストと呼ばれた)不可触民が身につけていたもの。
出家した釈尊が着ていた袈裟はチャンダーラが身につけていたもの。
袈裟という言葉は、「薄汚れた色」や「黄赤色」を意味するサンスクリット語のカシャーヤの音を漢字にできる限り移しかえたものであり、墓地に捨てられた死体をくるんでいたもの。
死体の肉が食われたりしてなくなったあとで布の破片が散らばる。布の破片を集めてつなぎ合わせて衣にしていた。
死体の体液の染みで「黄赤色」になっていた。
錦の袈裟とか、豪華な袈裟なんて釈尊をバカにしていますね。勉強して実践しろ。
・北枕
=頭を北に向ける
はインドでは最も良い寝方。
員では北に理想国があり、南には死に関する国があると考えられている。
『涅槃経』に釈尊が亡くなられるシーンがあり、北に頭を向けている。
北に頭を向けて死んだ釈尊の場面を読んだ日本人が、北は縁起が悪いと勘違いして生まれたのが北枕。
ちなみに、中国に北枕という言葉自体がない。
「肩こり」は夏目漱石が作り出した病気。造語病。
そういえば、新たな病名を公表すると、その病気の人が「発生」「出現」するから、製薬会社や病院とかが結託してるんだってね。
・日本では蓮の花を持参すると怒られるが、インドでは最もめでたい華なので多くの人が持参する。
・祇園という地名はサンスクリットから来ている。
祗園は祇園精舎の略。
ZION、ジオン、ユダヤなんて関係ないからね。日ユ同祖論って詐欺だからね。
ちなみに、
祗園って、花街(かがい、はなまち)=芸妓屋、遊女屋が集まっている区域を指す名称だからね。
キリスト教陰謀論は実在しますが、ユダヤ陰謀論は実在しません。キリスト教が、実行部隊の派遣であるユダヤに罪を押し付けるのは昔からの手口であり、バチカンはナチスにその手口を教えまくりました。
・現在のインドでは、大体、ヒンドゥー教徒81%、イスラム教徒13%、キリスト教徒2%、シク教徒2%、仏教徒は1%。仏教徒は最後までカースト制度=厳格な差別・階級制度を認めなかったので、カースト制度の支配的なインド社会に発祥地でありながら永続的に根を下ろすことができなかった。
・本来の仏教では、国王を泥棒と同列に見ていて、あまり尊敬していない。泥棒は非合法に人の物を持って行ってしまう。国王は税金という形で合法的に人の物を持って行ってしまう。人の物を取り上げるという意味で、両者は共通しているからである。
国王だから統治するのではなく、たまたま統治者を選んだら国王だったという発想である。
・舎利には、米という意味もある。しゃり=ご飯。
考えられる理由
①サンスクリットのシャーリが米
②シャリーラ(舎利羅)の複数形が骨を意味し、その形状が米に似ている。
※シャーリーは人名←どうでもいい。
・鑑真和上が建立した唐招提寺。
唐=鑑真が元いた国。
招提=四方=あらゆる方角→コスモポリタンという意味が込められている。
唐から来た私が建立したグローバル寺。
ワンワールド主義者が利用するという。鑑真持ちあげ。
・漢訳は漢字だとかたをくくって分ったつもりになりがち。
手紙=トイレットペーパー
鮎=ナマズ
娘=お母さん
丈夫=夫。
・AはBなり。
に注意。A=Bとは限らず、A→B→Cとたどる文脈でCを省いたものであることもある(私はショウガ湯…私=しょうが湯では当然ない。私が(好きなのは、注文するのはなどなど)しょうが湯、という意味。括弧が省かれている。
文が馴染みのないものだと誤解しやすい。
「世間とは差別の義なり」
×世間=差別×
世間とは空間的な広がりを持つ場所であり、その空間では種々の差別相の現象が織り成されている。その差別相を見れば、世間は差別という意義である。
おまけ1
釈尊生存(実在の人物だとみなしておく)当時の思想状況
…バラモン教、六師外道(六人の自由思想家。①唯物論②道徳否定論③不可知論④決定論⑤相対論⑥要素説)
※六師外道
道徳否定論者 (プーラナ・カッサパ)
宿命論的自然論者 (マッカリ・ゴーサーラ)
唯物論者、快楽論者(アジタ・ケーサカンバラ)
無因論的感覚論者・七要素説 (パクダ・カッチャーヤナ)
懐疑論者・不可知論者 (サンジャヤ・ベーラッティプッタ)
自己制御説 (ジャイナ教、 ニガンタ・ナータプッタ)
六師外道
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%B8%AB%E5%A4%96%E9%81%93
六師外道
http://mahorobanomori.web.fc2.com/spiritual-Rokushigedo.html
おまけ2
仏教者の時間論
通常…私がこの世界の中で生きていて、そこに時間の経過がある。
道元…私=生きている=時間=世界。皆一つ。
私以外に世界はなく、世界以外に時間はなく、時間があるということは私が生きる、生きているということである。
日蓮(あるいは本書の作者)…過去と未来は観念の産物。過去=現在における記憶、未来=現在における予想。
現在こそ基盤。
心にしみる原始仏典
http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/malunkya.html
教義=変えてはならない絶対の教えであり、教義を守る為なら何をしてよい。妥協できないから議論ができない。よって戦争を起こすには教義を絶対に堅持すべし。
教義がないから、原始仏「教」というよりは、仏「法」。
原始仏教では国家は泥棒だとみなしています。税金と称して民の財物を取っていくからです。それにカースト制度を肯定していますし原始仏教とは真逆の態度です。ですから、日本の大乗仏教のような鎮護国家思想などという仏教が国家を守るなんて思想とは完全に真逆ですね。そもそも原始仏教に怨霊や敵と戦って撃退するなんて要素はありませんし。悪霊退散というのは、本来の仏教思想ではないのです。
ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫) 中村 元 (1958/1)
・スッタ=たていと=経 ニパータ=集成
は今のところ一番古い仏典。
特にスッタニパータの第四章(アッタカ・ヴァッガ)と第五章(パーラーヤナ・ヴァッガ)は最も古く成立したと考えられ、初めは独立していたと考えられる。
スッタニパータの
詩…紀元前268年以前(アショーカ王以前) 特に4と5章は古い。
散文…紀元前250~150年ごろ
ゴータマ・ブッダ(あるいはそのモデル)の説法(北方伝説では紀元前約428-383年)
↓
①覚えやすいように韻文または簡潔な文句でまとめられる
(文字の読み書きができるのはごく一部のエリートのみなので覚えるしかない。よって内容は変化してしまう)
↓
②散文で説明(おそらく識字率上がった)(アショーカ王時代 紀元前268-232年)
原始仏典の散文の部分は韻文の部分よりかなり遅れてつくられたと考えられている。
アショーカ王は、仏教を保護し、仏典を集めたり、伝道したりした(スリランカに仏教がこのころ伝わったらしい)。
↓
③経典で(=文字で内容固定←極めて重要な文字の機能)まとめられた
↓
↓④ ⑤
三蔵(経・律・論)成立(現存パーリ語三蔵)→(紀元後)サンスクリットに翻訳→漢訳
※三蔵=原始仏典全て ※漢訳され儒教的に改竄(男女平等から男尊女卑へなど)
↓
⑥(紀元後)大乗経典の成立→チベット語訳
↓
漢訳
↓
日本で特に影響が強かったのは、大乗経典『法華経』と『浄土三部経』
日本では漢訳ばかり広まり、原始仏典を軽視(王様=天皇=泥棒、とか階級性否定なんて都合悪いから)。それに、漢訳語を使うことは、原典の精神(聞いたらわかるように現地の言葉で伝えよ、という教え)を無視している。
・当然だが、大寺院の中で修行していたわけではない。樹下石上に坐し、あるいは岩窟の中に住んだりした。せいぜい庵ぐらいだろう。
・尼僧が登場しない。尼が出現したのは男性の修行僧の場合よりも遅れている。紀元前300年ごろにインドに来たギリシャ人メガステネースは、尼に言及しているので、当然それ以前の段階を示している。
そもそも男女を区別しないので区別する言葉があるはずない。
・ストゥーパ(聖者埋葬の塚。塔と訳される)の崇拝あるいはチャイティヤ(塔院。祀堂)崇拝に言及していないので、最古期の仏教にはそのような概念はないのだろう。
・四つの真理(四諦。聖四諦)=
苦諦:苦という真理
集諦:苦の原因という真理
滅諦:苦の滅という真理
道諦:苦の滅を実現する道という真理
が出てこない。
スッタニパータでは真理(sacca)に関する論議は盛んだが、ウパニシャッド(サンスクリットで書かれた一連の書物。奥義書)的な「真実」の意味でsaccaという言葉が使われている場合が多くて、四諦とは無関係。
“太陽の末裔(ブッダ)”(p.20)や牛に例えたり(「ゴータマ」=「最もよき牛」の意)しているので、太陽信仰と神聖牛信仰が釈尊に重ねられている。しかし、後世の神話的後付けがあまり見られず、歴史上の人物釈尊として描かれている(単なる太陽の擬人化かもしれないが)。ただし、見た目が良いなどの表現から、神格化への動きはすでにある。
文章は平易で、当時の人も聞いて意味がわかったはず(日本のように意味不明にはしない。意味が伝わらなければ意味ないからね)。特殊な哲学説(民衆が聞いても判らないから)や形而上学説を弄せず、「現実の苦しみを生きたまま克服」し、「生きたままで」真なる道を自覚するにはどうしたらいいかを現実に即して語っている。
※中世のインドの王家には、太陽の末裔と称する王家と、月の末裔と称する王家とがあった。
・ブッダ(目覚めた人々、や修行者一般という複数形であることに注意)の教えとは、ブッダは複数いるのだから、釈尊(シャーキヤ・ムニ。ムニ=聖者あるいはブッダ)とは限らない。逆に言えば、釈尊が「俺が考えた」と思って奢って説くのではない。ブッダにはジャイナ教や他の宗教の諸々の聖者たち(起源仏教には他教排除の教えがない)を含めているのであり、あくまで釈尊はその一人であるという立場である。つまり釈尊は、仏教なんて意識はない(自分が考えた!ではないから)。
仏教の創始者が釈尊であるという表現は便宜的なものである。
実在しない教祖を白人にして白人用に改造したキリスト教と同じである。
当然、真の仏教徒という概念なんて存在しない。
・腕輪をいくつも身につけていることは、インドや南アジアの夫人に特徴的な装飾である。タンス預金のようなものである。腕輪を財産としてつけて持っておくことは少なくとも釈尊の時代からあった。賢いね。定住しない人達の習慣かな。
・~地獄とかいうやたら具体的な地獄のおどろおどろしい詳細(階層、種類、刑罰、裁きなど)が出てこない。あくまで「悪いところ」と漠然としている。地獄をえげつなく詳細に描写するのは、「罰があたるよ!」を「とてつもなく苦しむぞ!」として脅迫度を増すため。原始仏法の言う、「良いところ(極楽っぽい感じ?)」や「悪いところ(地獄っぽい感じ?)」が、幸せな世界が死後の世界とは限らない。生きているこの世界のことと解した方がよい箇所がある。認識次第で生きている世界は極楽にも地獄にもなるからね。
・仏教は伝統的に国王や武士や軍人を嫌悪していた。国王=盗賊、国家=盗賊、と考えていた。国王と盗賊は本質的には同じだと考えられ、(諸子百家の一人である墨子と共通)国王と盗賊はセットで登場する。よってカースト否定。
大乗仏教と原始仏教は別物じゃないか。イスラム教シーア派みたいに。
ミトラ教=キリスト教の元ネタの一つ。というかイエスを白人にした点以外にオリジナルなところはキリスト教にはないです。
“大乗仏教を広めたのは遊牧騎馬民族のクシャン人。その人たちの宗教はミトラ教。イラン系遊牧騎馬民族が大乗仏教を広めた。”
https://twitter.com/lanekota/status/439066849704030208
“大乗仏教というものはクシャン人というミトラ教の遊牧騎馬民族が開発した仏教とは似て非なるモノですからね。”
https://twitter.com/lunacatcafe/status/461106164239839234
“中央アジアの大乗仏教を広めたクシャン人は、ミトラ教だったんですよね。同じヴェーダ宗教なのにゾロアスター教ではミトラが無視されてる。インドラは仏教の帝釈天だけど、ゾロアスター教では悪魔。太陽神を無視するって珍しいですよね。”
https://twitter.com/lanekota/status/436910253821554689
p.20 五五
“相争う哲学的見解を超え、(さとりに至る)決定に達し、道を得ている人は、「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。”
(議論超え 真理極めた 辟支仏(ビャクシブツ) 指導されずに 一人で歩く<55>
http://76263383.at.webry.info/201305/article_25.html)
・当時は、師匠の説いたことを聴いて暗記することが学問であった。世俗のことがらに関しては、文字に書くことがなされていたが、宗教的な学問については筆記はなされなかった。よって一神教(文字による固定=記憶による内容変化の防止、による他の神と宗教の排除)は生まれえなかった。
仏法では、人間以上の存在に(偽装した人間に)従えという欧米的(支配に好都合過ぎる脅迫と権威)教えはない。悟った人はあくまでも「優れた先輩」である。
ジェータ林=祗園=“孤独なる人々に食を給する長者”p.28
p.29 九四
「悪い人々を愛し、善い人々を愛することなく、悪人のならいを楽しむ。これは破滅への門である。」
執着としての愛はよくないが、愛していけないわけではないらしい。いや、原文はどうなっているのか。
・カースト制度では最も身分が高く高貴だとされているバラモンが悪いことをすると、バラモンだから許されたり罪が軽くなるわけではなく、“現世においては非難せられ、来世においては悪いところに生まれる”(p.36)
バラモン教の輪廻という教義について言っているから来世という言葉を使ったのか、そもそも生まれ変わり思想自体がインドでは常識なのか、悪いことをしても悪いところに行かないと言うと悪徳がはびこるからか、釈尊の意図は不明。無記は来世や地獄には採用されないのかな。
もともとは天も地獄も単数形表記だったらしく、複数の天や地獄があるとは考えていなかったらしい。地獄に落ちたとしても途方もない年月がたてば地獄から脱出できる。地獄にいる期間が定まっているところが、一神教徒の違いである。
・「なまぐさ」という章(p.54から)では、“――これがなまぐさである。肉食することが〈なまぐさい〉のではない。”とある。
――より前に、なまぐさの例が書かれている。何度も“”内の部分は繰返されている。
肉食を禁止はしていない。ただし、できるだけ殺すなという教えだ。売っているものを食うのはOKなのだろうか。
p.76 三六〇
“師はいわれた、「瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全にやめ、吉凶の判断をともにすてた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう。”
仏教徒が占い(笑)ってことですな。行方不明者の居場所を当てるとかって資料を読んで当てたかどうかで全然意味が違う。資料を読んで当てたのなら、単なる計算や推理である(十分凄いけど)。資料を読んだ後で寝たら夢が教えてくれた、というのも無意識化での計算でしょうな。予知と予測の違い。
ごく稀に本物がいるけどね。
吉凶の 占いやめた 修行者は この世において 正遊行する<360>
http://76263383.at.webry.info/201402/article_16.html
“始めの答えは端的に言えば「占いを止めなさい」ということです。これがまず初めに大切なことなのです。当時のインドでなくても、現代日本でも、占いは大変人気があります。多くの一般雑誌には占いのコーナーがあり、テレビでも毎朝放映しています。これは自分の考えや行動を自分で選択できない人がたくさんいるからなのです。
ブッダは人間にとって、始めに大切なことは、自分の考えや行動は自分で調べ、判断し、決めることだと教えているのです。自分の考えや行動の主人は自分であるべきだと教えているのです。
ブッダは占いばかりではなく、既に述べたことがありますが、カーラーマ経(増支部3集65)で、次の10項目の注意点を挙げて、自ら確かめるように教えています。
1.口伝だからと信じるなかれ、自ら確かめよ。
2.伝承だからと信じるなかれ、自ら確かめよ。
3.伝聞だからと信じるなかれ、自ら確かめよ
4.聖典だからと信じるなかれ、自ら確かめよ。
5.論理的だからと信じるなかれ、自ら確かめよ。
6.推論に合っているからと信じるなかれ、自ら確かめよ。
7.言葉が巧みだからと信じるなかれ、自ら確かめよ。
8.結論が自説と同じだからと信じるなかれ、自ら確かめよ。
9.あり得る話だからと信じるなかれ、自ら確かめよ。
10.聖者だからと信じるなかれ、自ら確かめよ。
以上の考え方や行動の基本を踏まえて、次の偈から正しく遍歴遊行するために、必要な事柄を具体的に述べています。”
p.110と註釈によると
バラモン=道の人=沐浴をすませた者=輪廻を超えた完全な者=竜(naga。象の意味もある)=仏
バラモン=カースト制度におけるあのバラモン、という意味では必ずしも使っていない。バラモン教の解説とも思えな
い。輪廻についてどう考えているのだろうか原始仏法(仏教)は。
※竜樹=ナーガールジュナ
かっこいい漢字の組み合わせですな。ドラゴンツリー。
p.135 六〇七
“これらの生類には生れにもとづく特徴はいろいろと異っているが、人類にはそのように生れにもとづく特徴がいろいろと異っているということはない。”
※人類と言う人間と人間以外とをはっきりと分けて強調するのはインド思想では珍しい。
p.135~p.136 六一一
“身を稟(う)けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間のあいだではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。”
差別は言葉で発明できる。集団でテレビ局に訴えまくれば簡単に放送コードに追加できる。
稟=天から授かる。生まれつきの性。
・良心の表現として、GODが見ている、お天道様が見ている、お月さんが見ている、などがあるが、インドでは「アートマン(=本来の自己)が見ている」と言うらしい。人間より上の存在による監視ではない。
・墓石なんてない。当時の墓場は野ざらしだから。林の中の墓場に死体を捨てるという葬儀(葬「法」に方が適切かな)が一般的だった。
・最初期の仏教では、出家とは文字通り建物の家を出て家の中には住まないという意味だったらしい。世俗の人が出家してニルヴァーナを証するのではなく、世俗の生活のままでニルヴァーナに達しうると考えていた。出家と在家の区別はない。教団が発達すると、出家の方が上になった。
また、男女の区別もない。外国語訳の際に勝手に内容が変えられるのはよくあることである。漢訳された仏典に儒教思想が入りまくっているからだ。
p.153 七〇六
“凡夫は欲望と貪りとに執著(しゅうじゃく)しているが、眼ある人はそれを捨てて道を歩め。この(世の)地獄を超えよ。”
地獄とは、この世の邪な生活や、そのもととなる妄執をいう。地獄とは生きているこの世に見られるという考えが面白い。最初期の仏教でもそう考えていたらしい。
死後世界はわかりっこないから実に科学的(=経験できることから考える)である。来世や地獄や天の思想(たぶん輪廻も)は最初期の仏教からすでにあっただろうが、現世にも地獄があると考えている点が面白い。来世や死後地獄に落ちるという思想や輪廻は最初期の仏教にもある。輪廻からの脱却が、輪廻自体からの脱却なのか、輪廻「思想」(生まれ変わったらどうなるかなんていう考えに執着するな)からの脱却なのか気になります。
第四章(アッタカ・ヴァッガ)
p.186 八三六
“(マーガンディヤがいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」”
p.186 八三七“師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」
宗教否定。~という説を説くときいた相手がそれに執著してしまうことを危惧しているのかもしれない。どのような生存状態に生まれかわるかについて答えていない。わかりっこないからだろうか。
p.188 八四六
“ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執著の巣窟に導き入れられることがない。”
バラモン教は儀式を重視している。祭祀や儀礼=宗教的行為。あるいは宗教自他の否定。
伝統的学問=師匠から聞いて聖典を暗誦する学問。聖典が当時は文字で書かれていたとは限らないことに注意。
p.189“両舌(かげぐち)”って秀逸ですな。二枚舌。
p.191
“ 八六六
「さて世の中で欲望は何にもとづいて起るのですか? また(形而上学的な)断定は何から起るのですか? 怒りと虚言と疑惑と及び〈道の人〉(沙門)の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」
八六七
「世の中で〈快〉〈不快〉と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は(外的な事物にとらわれた)断定を下す。
八六八
怒りと虚言と疑惑、――これらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現われる。疑惑ある人は知識の道に学べ。〈道の人〉は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」“
p.193 八七六
“「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうちに(最上の清浄の境地がある)と巧みに語っている。”
肉体と精神の消滅=無余涅槃(むよねはん)に入る、ことが修行目標であるとするのが小乗仏教の伝統説なのだが、スッタニパータではそのような見解は偏見だとして否定している。
今広まっているスピリチュアル大乗仏教って一体なんなんでしょうねえ。耶蘇教になっていっている。
“無余涅槃(むよねはん)は、生理的欲求さえも完全になくしてしまうこと、つまり肉体を滅してしまって心身ともに全ての束縛を離れた状態。
涅槃とは悟りを得たということであり、全ての煩悩を断じ尽くしているはずであるが、実際には釈迦がさとりを得て、全ての煩悩を滅してしまったとしても、自らの生理的欲求は残っている。その状態を有余涅槃と呼び、その生理的欲求を「余」としている。“
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E4%BD%99%E6%B6%85%E6%A7%83
p.194 八八四
“真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異った真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのである。”
あいつの言っている真理は間違っている。自分が言っている真理は正しい。
などと争ったり、あいつの真理は間違っているからと馬鹿だとみなしたり
は本当に真理を悟った者はしない。断定したらいかんよ。
心の平安とは真逆のことをやっているからね。
原始仏教ってアンチ宗教の側面もありますな。既存の宗教の批判から新しい宗教が出てくることはよくあるらしいけどね。
あ、でも今の新興宗教を遡ると大本教(キリスト教とかかかわっている)に行きつくように、単に同じようなのが増えたようなものも多いですけどね。
あなたが真の仏教徒ならスピリチュアルなんて形而上学的だから確かめないよねとかいってやりましょう。
(右も左も大本ではスピリチュアル【20090428】http://www.mkmogura.com/blog/2009/04/28/206参考)
p.200 九一八
“これ(慢心)によって『自分は勝れている』と思ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか思ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想せずにおれ。”
冷静な客観視。
p.201 九二七
“わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと相の占いと星占いとを行ってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行なったりしてはならぬ。”
当時の医術は今とは違い、単なる祈祷とかインチキだらけでそれを利用して騙す輩が横行していたらしい。占いもね。
呪法の禁止はジャイナ教でも同様。
『アタルヴァ・ヴェーダ』では、主にバラモン教の呪術的な儀式のしきたりが記されている。
第五章(パーラーヤナ・ヴァッガ)
p.226 一〇七六
師は答えた。「ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。 かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」“
この世からいなくなった存在をああだこうだと言っても仕方がない。
これって死後の世界の実在を論じても仕方ないと思っていたんでしょうかね。
p.226-227 一〇七八
“(ブッダが答えた)、
「ナンダよ。世のなかで、真理に達した人たちは、(哲学的)見解によっても、伝承の学問によっても、知識によっても聖者だとは言わない。(煩悩の魔)軍を撃破して、苦悩なく、望むことなく行う人々、――かれらこそ聖者である、とわたしは言う。」
聖者とは何かを、スッタニパータの最古級とされる第五章で明確に記されている。
原始仏教の 聖者=煩悩がない・苦悩がない・(欲)望なく行動する人々(複数いる!)
ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫) 中村 元 (1978/1/16)
『真理のことば(ダンマパダ)』
輪廻や来世という言葉が出ている。
地獄という言葉も出ている。
悪いところ(=地獄)や、善いところ(=天上)という訳もある。
当時の宗教を超えた共通了解なのかもしれない。
無記に反するように思える。
p.10 五
“実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。”
p.39 二一〇
“愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。”
p.40 二一一
“それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。”
マゾ過ぎる。愛はポジティブな意味で使われていないことがよくわかる。
江戸時代やそれ以前の「愛」の意味は「欲」で否定的な意味ですよ。
迷いの原因(悪いもの)。愛欲。渇愛。執着。強い欲望。
君を愛している=君は私が迷い執着する原因であり悪い奴だ。
っていうのが仏教的な意味。
しかし、キリスト教のloveの中国語の訳語を、廃仏毀釈や仏教のキリスト教化させよう運動やキリスト教式結婚式、十字架がついている病院、キリスト教暦かつ日曜日が休み、3S政策など様々な洗脳や工作やマインドコントロールにより完全に意味が変質しました。
戦国時代、当時のキリスト教は悪い意味の「愛」ではなく「御大切」という訳したりしました。君を大切にするよ! なら仏教でも悪い意味はないですからね。どちりなきりしたん、という本が参考になります。その内載せます。というか、以前やってたブログに載せました。
p.42 二二七
“アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。”
p.42 二二八
“ただ誹(そし)られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。”
p.44 二四一
“読誦しなければ聖典が汚れ、修理しなければ家屋(いえ)が汚れ、身なりを怠るならば容色が汚れ、なおざりになるならば、つとめ慎む人が汚れる。”
文字が書いているものを読んでいるのではないことに注意。暗唱をやめて忘れてしまうと聖典は消え失せてしまう。文字で書かれた聖典の読誦は紀元後に一般に行われるようになった。
『感興のことば(ウダーナヴァルガ)』
p.202 一一
“実にこの世においては、およそ怨みに報いるに怨みを以てせば、ついに怨みの息むことがない。堪え忍ぶことによって、怨みは息む。これは永遠の真理である。”
中村元『原始仏典』(ちくま学芸文庫):
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480093677/
“中村 元ナカムラ ハジメ
1912年、島根県松江市生まれ。東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科卒業。東京大学名誉教授、東方学院院長、比較思想学会名誉会長、学士院会員などを歴任。仏教思想・インド哲学の第一人者。仏教思想をその源流にまでNり、多数の原典を原語から翻訳したパイオニアであるとともに、仏教学を西洋思想との比較思想研究の域へと拡げるなど、壮大な業績を遺した。『古代インド』『釈尊の生涯』『龍樹』などの著作に加え、「スッタニパータ」、「大パリニッバーナ経」などの原始仏典ほか、大乗仏典にも多数の翻訳がある。1999年逝去。“
※日本アラブ協会(欧州の王侯貴族の政策実行部隊の一つ)の発起人に「中村元」(同姓同名の別人かも)という名前がありますね。中曽根康弘や下中弥三郎(二代目会長)も発起人です。
(詳しくは題名だけでお腹いっぱいになりそうな、
イルミナティの実行部隊名を大量に紹介します~下中弥三郎+百科事典+教育系の組織。大アジア主義者で万教帰一賛同者の下中弥三郎はメーソンで、大本教や天津教などとも繋がりがあります。~
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-4.htmlをご覧ください。宜しくお願いします)
古代インドで原始仏教が成立したのは、紀元前6~5世紀、ガンジス川の中流地域に都市が出現した時代である。
人間では絶対に解決できない形而上学的問題に対してイエスともノーとも答えなかった。
極楽に思いをはせることは当然しない 現世 老いた釈尊がもうすぐ死ぬ際に、この世界の美しさにに打たれる
死に際には もろもろの事象は過ぎ去る=無常、だと言って死ぬ
ダルマ=人を人としてたもつもの
苦(ドゥッカ)=苦しみ=自分の思うがままにならないこと
右でも左でもなく極端を避けた中道こそが答えであり、中道にこそ答えがある×
中道=自分と現実を自覚しよく見つめることでできる至要(この上もなく大切な)の、こだわりから解放された道
「中」は「中(あ)たる」という意味であり、どっちつかずではないらしい。
が、釈尊が説いていることは極端を排しているからやはり中央の道である。
自己とダルマを頼れ 自分をはっきりさせる 自己にたよる=実践すべき理法(=ダルマ)に頼る 自覚せよ 他人を頼りにするな これは依存させる宗教とは真逆である
そもそも仏教ではなく仏法=仏が明らかにする法 と呼ぶのが正しい
中国で儒教的に改竄され、日本に入って来た大乗仏教は「教」だけど
殺すな、盗むな、邪淫するな、嘘をつくな、酒はほどほどにせよ(酒=般若湯=智慧を生ずる湯)
大抵の宗教が少なくとも表向きは禁止することだな
お経は、もとは釈尊が誰かに説いたことを弟子たちがずっと口伝で(つまり内容は多少変わっていく。文字の読み書きができるのはごく一部だけ)聴き伝えてきて、後の人がそれを最初は短い詩や決まり文句の形にしてまとめたもの。当然、聴いた人は意味が分かるのであって、日本のお経みたいな意味不明な呪文ではない。
スートラ(スッタ)とは「たて糸」という意味で、中国語では「経」。
経典は釈尊が書いたものではない。
原始仏典のことを『阿含経』(あごんきょう)とまとめて呼ぶことがあるが、本記事では原始仏典と呼ぶ。現在残っている原始仏典はパーリ語(古代インドの一種の俗語)の聖典と、漢訳された諸経典(阿含経など)および少数のサンスクリット語聖典の断片。
なお、釈尊自身は中インドのマガダ語の一種で説法したと考えられ、弟子にはその地方のめいめいの言葉で説けと言ったそうだ
中国で作られた経典類をしばしば「偽経」と呼ぶが、歴史的人物である釈尊が説いたものであるかどうかということになると、少なくとも大乗経典は全部「偽経」であるということになる
漢訳では「経」とあるが厳密には釈尊が書いた仏典は存在しないので、経典ではない。
初期仏教では、理由は判然としないが、仏像をつくらない。おそらく非常に優れた人というのは形で現すことができないという思想が支配していたのだろう。墓石を前にして、こんなのあの人じゃないと思うのと同じ思いかも。
『スッタニパータ』
現存最古であり、最も釈尊の思想に近い。スッタ=経典、ニパータ=集成
なので経典を集めたもの
釈尊はどこまでも単に「すぐれた人間」として描かれているのが大変重要。神話のような脚色がない。宗教を作ったという意識が無い。でも神々が登場する。
路上の虫を踏み殺さないように裸足で「眼を下に向けて気をつけている」
釈尊は「牡牛のような」という形容がされているあたり、牛崇拝思想があるな。「虎」とか「獅子」とも形容されたりもしている。
釈尊は自分の姓を「太陽の裔(すえ)」=太陽の親族(祖先は太陽)、と言っている。
日本では太陽神天照大神(天を照らす神秘的な力ある存在)であり、南米のインカ族やエジプト王家などさまざま国でみられる。王族が祖先を太陽(神)にするのはよくあること。
ニルヴァーナ(涅槃)=解脱=人々との対立を離れた、心安らかな、悩みなき境地
仏法には多くの神々が登場するが、世界を創造した神は出てこない。神の原語「デーヴァ」devaは語源的には「輝くもの」。太陽崇拝の影響がみられるな。
マーラ(=殺すもの)を悪魔と訳すのは良くない気がする。殺す魔とかとするべきだろう。
「魔」はマーラのためにつくられた造語であり、「鬼(き。幽霊)」の字が入っている。
マーラが蛇の形をして誘惑
ラー(太陽神)VS悪ヘビ(夜と闇)まんまだな
蛇(あるいは龍)ってあまり良い扱い受けないな(ゾロアスター教で、最悪の神は爬虫類の姿で出現するらしい)
ギルガメッシュが不死(あるいは若返り)になり損ねたのは蛇に若返り草を食われたからだし
月の別名=懐兎(えと)=ウサギをいだくもの
インドでは大きな樹木に個別的な名前をつけることがある。釈尊が下に坐した樹が「アジャパーラ」と名づけられ、「ヤギを守る人(山羊飼い) 」という意味。占星術的意味があるのだろうか。
最初期の仏教が示されているので、修行者たちも樹下岩上に坐し、洞窟に瞑想する簡素な生活を楽しんでいたので、大規模な僧院(精舎)の生活はまだ始まっていない。
「墓地」という記述があるが日本人が想像するものではなく、墓石を立てずに森の中に死体を投げ捨てておいて腐るのになかせ鳥が啄ばむままにさせていた。
今でもインドで墓石を立てるのはイスラム教徒かクリスチャンである。
ヒンドゥー教徒は墓をつくらず遺骨を神聖な河に流してしまう
そうでなければ遺骸をただ捨てておく場所を墓場と読んだ 当然、動物が集まって来て肉を食うもったいないしいつ食えなくなるか分からないから
飢えた人間も食いに来ていたかもしれない
縁起=因果の連鎖の繋がり
霊魂の存在を否定も肯定もしない。民間の霊魂の信仰は認める立場。ギリシャ人のように体から出入りする空気=霊魂、とは考えない。
五蘊
=物質的な形、感受作用、表象作用、形成作用、識別作用
象は兵器だった。象に酒を飲ませて鞭をあてて突撃させたらしい
怖い
祖霊の前に供物を捧げるなどして御先祖様を敬いなさい
妻に物々交換や換金のために、貴金属・腕輪・イヤリング・指輪などをあげて財産を、夫の能力に応じて持たせよ。
※南アジアの国々では国家に対する信頼があまりない。釈尊は税を取る国は泥棒だと言っているほどだ。自分の銀行に預けるのだ。お金ができると実体のある価値ある物と交換し、それを預けたり、自分で身につけたりするのだ。支配者層がやっていることだから本当に賢いね。
『ダンマパダ』
うらみ 怨み やむ 息む
“実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。”p.224
スリランカ(旧セイロン)はサンフランシスコ条約に参加したが日本からもらえる賠償権を放棄したときの声明にこのことばを引いている。
・真の自分と言うのはどういうものかと探究するのが原始仏法の課題あるいは目的と言える。我(アートマン)が無いとは決して言わない。無我説とは「我執を無くせ」という意味
・戒名でよくある、
~居士 居士=社会的に信用のある資産者。
死んだらこの人は信用ある金持ちですって意味の戒名(原始仏教では勿論戒名はない)をつけられるのか。
欲望まみれ。正に金に対する「愛」=執着、に溢れていますね!
『サンユッタ・ニカーヤ』
では「祗園」と漢訳仏典で訳されているジェータ林という林の園が出てくる。サーヴァッティー市(インドの北の方にあったコーサラ国という大きな強国の首都)の郊外にあったもので、もともとは「祗陀園」(ギダオン)という。「祗陀」(ギダ)とはコーサラ国のジェータという太子(皇太子)のことであり、祗園とはその太子の持っていた園(林)という意味だ。祗園=ZION=ジオン、ザイオン、とする日ユ同祖論でしばしば言われることは完全な間違いである。祗園は略称であり、祗と園は本来隣あっていなかったのだから。ジオンという一単語と対応するはずがないのだ。人名+林、という意味の言葉がどうやってジオンになるのかコメントで教えてくださいな。あ、まずは冒頭に「イエスキリストは存在しない。ミトラ教、ゾロアスター教、エジプト神話、ギリシャ神話、ギルガメッシュ叙事詩などを真似しまくって作ったのがキリスト教。大本教など神道カルトはキリスト教の変形で日本に合わせて変えただけ」って書いて下さいね。
要は、ユダヤ陰謀論を唱えるクリスチャンと神道家はお断りってことです。
おまけ。生き残るために他の宗教に偽装した宗教や、
キリスト教が作った「ユダヤという身代わりの生贄」や、
ゾロアスター教ズルワーン派や時間の神々についてなど色々引用。
私はいいものは引用したりしてきっちり残すべきだと考えております。有用な情報は分散して保存しておきましょう。紙媒体で、電子媒体でなどなどいろいろな形式でね。
ヒトラー「「政策とは今作られつつある歴史のことだ」
ピンク‐グラレム@pinkglalem
@pinkglalem
“キリスト教は極々初期の段階からテロ教団でした。アレキサンドリアの図書館を破壊したのも彼ら。アレキサンダーは、ペルセポリス占領後、様々なモノを持ち帰っていました。それらをどーしても地上から消し去る動機がキリスト教にはあったのです。”
“逆に面白いのはシーア派の存在。こいつらはイスラムではないです。イスラムに偽装することで生き残ったマニ教。”
“ゾロアスターからミトラ教が派生し、その後、バビロニアでマニ教が誕生する。ゾロアスター・ミトラ・マニの劣化コピーが、ユダヤ・キリスト・イスラム。三大経典宗教は、実はインチキ。”
“モーツァルト の歌劇 「魔笛」は、舞台はエジプトになってるンですけど...キリスト教が行なった魔女狩りへの告発。夜の女王(教会)とザラストロ(ゾロアスター教)のどちらが善で、どちらが悪なのか?という内容。真実を見破ったタミーノは自分の思いを成就させる。”
“フリーメイソンの教義どうのこうのという話とは、まったく関係がない。”
“魔女狩りの動機は、ゾロアスター教の根絶にあった。本当はユダヤ人でもないアシュケナージがなぜ、迫害の対象になったのか?キリスト教はミトラ教のパクリ。ユダヤ教はゾロアスター教を似せて作った。キリストの死の責任を糾弾する理由は、ゾロアスターそのものへの攻撃動機。”
“イスラムにはシーア派ってある。大多数のスンニ派との違いは、イマームの継承問題。WIKIにもそーとしか書いていない。ところが、地図で分布図を見ると...サッサーン朝ペルシャ時代にゾロアスターからマニ教が派生するンですが、シーア派の分布はこの生誕地と合致します”
“宗教って、全部インチキだと思う。タリバンがバーミィアン遺跡を破壊した。偶像崇拝は邪悪だとの理由。キリスト教とイスラム教は偶像を禁止している。なぜ?自分たちの素性がバレるから...”
http://twilog.org/kenkatap/date-0318
ピンク‐グラレム@pinkglalem•5月6日
“キリスト教はミトラ教のパクリであり、それを隠すためにゾロアスター・ミトラ・マニをモデルに、ユダヤ・キリスト・イスラムと言うインチキ宗教を造った。そして、本家のゾロアスターを弾圧した。”
“イスラムはマニ教がモデルで、シーア派は、イスラムではなく、偽装して弾圧を逃れたマニ教。アシュケナージはゾロアスターを信仰していたヨーロッパ系の白人種で、ユダヤ教徒でもユダヤ人でも、カザール人でもない。”
https://twitter.com/lanekota/status/464169608153280514
ピンク‐グラレム@pinkglalem • 5月6日
ヒットラー「大衆は小さな嘘には騙されないが 大きな嘘にはたやすく騙される」#ユダヤは捏造された民族 #ユダヤの陰謀は存在しない #存在するのはキリスト教の陰謀 #あらゆるカルトをバチカンが支配している #陰謀論者はこの大きな嘘を吹聴する工作員
ピンク‐グラレム@pinkglalem • 5月6日
合理的に考えられない人に、何を言ってもムダだろうね。ユダヤは存在しない。聖書はキリスト教が素姓を隠す為に書かれたインチキ本。イスラエルは中東にタカる為のインネン。樺太より緯度的に北にある欧州が、資源や技術・人力のあるアジア・アフリカより裕福なのは金融と言う詐欺をやってるから...
魔法使いハンターねこた@lanekota • 5月6日
@pinkglalem そのためのカルト紐付き陰謀論者なのですね。陰謀論で真相に迫れるかは固定観念に囚われない事が全てですね。キリスト教と大本教は固定観念メーカー
魔法使いハンターねこた@lanekota • 5月6日
@pinkglalem 失礼書き直し。今から2500年前に地中海・オリエント世界を旅したヘロドトスは、ユダヤ人には一切言及してないけど、フェニキア人に関しては呆れるようにいっぱい書いてる。彼はパレスチナにも行ったが、聖書の建造物には何も言及してない。
魔法使いハンターねこた@lanekota • 5月6日
@pinkglalem ユースタス・マリンズの本に書いてあった事で原典確認してませんが、ローマ時代の資料によると、一言だけ、フェニキア人はユダヤ人に名前を変えたとある。フェニキア人の入植地は沢山あってフェニキア人がすぐ消えるわけないです。地中海沿岸全域にありました
魔法使いハンターねこた@lanekota • 5月6日
@pinkglalem 日ユ同祖論は和風キリスト教信者である神道系宗教のひとにとって譲れない信仰心なのですね。日ユ同祖論が河豚計画の政治的プロパガンダと指摘してもダメでした。信仰心には勝てない
ピンク‐グラレム@pinkglalem • 5月6日
古代にイスラエルなんて国は存在しなかった。ユダヤとは、キリスト教の悪事を隠す為の方便。現在のイスラエルは、ヨーロッパが地下資源を略奪するための前線基地。聖書は、比較的最近書かれたインチキ本。宗教は人身掌握術が主目的。信じたあなたは、絶対に救われない。ザマー見ろ...www
ピンク‐グラレム@pinkglalem • 5月7日
ヘブライ語を正確に発音・会話出来るのはイエメンユダヤ人だけ。セム語族でも話せるのはマレ。現代ヘブライ語は、明らかなヨーロッパ語のニセモノ。#ユダヤは存在していない。#聖書はインチキ。#カザール人はアジア人。
両性具有のキリストfromエジプト【20090627】http://www.mkmogura.com/blog/2009/06/27/245
On 6月 28th, 2009, kG さんのコメントより。
“>東方ミトラにさえ追い出された、魂も墓も必要としない起源仏教が伝わるこの日本に、これに対抗する考えと思想が生まれてきますように。
最初期の仏典であるスッタニパータ(ブッダのことば)を読んでいると、「犀(さい)の角のようにただ独り歩め」というフレーズが繰り返し登場します。
中村元氏は、「犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶にわずらわされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって、暮らすようにせよ、の意である」と述べています。
しかしながら、この解釈では、神学の領域に入ってしまいます。
これは正確にいうと、犀(khadga)ではなく、塞(サカ)もしくは客家(ハッカ)。
つまり、(遊牧騎馬民族出身の貴族である)シャカ族から飛び出した私のように、財産や利益の確保などに煩わされることなく、孤高を歩めよ、という意味が正しいのだと思います。“
子子子子子(ねここねこ)@kitsuchitsuchi·4月24日
@lanekota @wayofthewind 妹が兄に近親相姦的愛情を持つアニメを流すのは近親婚推奨のゾロアスター教の宣伝?陰謀モノの時間操作能力やタイムマシンはゾロアスター教ズルワーン派(拝時教)を意識?食事方針についてブログ更新http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-5.html …
魔法使いハンターねこた@lanekota · 5月9日
”ギリシア神話とペルシア神話は二階建てなんじゃないだろうか?表面は多神教的なギリシア神話の話に見せかけて本質はペルシア神話(ヴェーダ神話)。こういう構造の作品がある。FF3とドラゴンランスとロードス島戦記。最近はアラブに見せかけて本質ペルシアという「マギ」という作品があり”
”たとえばクロノスが支配したギリシア神話の黄金時代は、ゾロアスター教のペルシア神話にも、インドにもある世界観だ。黄金の時代、銀の時代、青銅の時代、鉄の時代。ギリシアからペルシア、インドまでユーラシアを通じてインド=イラン系宗教は繋がってるのではないだろうか?”
”ギリシア神話のクロノスは、ペルシアではズルワーンとなる。クロノクロスにも出てきたズルワーン。またクロノスは、ローマ神話のサトゥルヌスとも関連付けられてる。サトゥルヌス=サターン=土星は時を教えてくれる星だったそうな。”
”ギリシア神話のクロノスは、ペルシアではズルワーンとなる。クロノクロスにも出てきたズルワーン。またクロノスは、ローマ神話のサトゥルヌスとも関連付けられてる。サトゥルヌス=サターン=土星は時を教えてくれる星だったそうな。”
サトゥルヌス(サターン)=ローマの農耕神。農業と時間(暦)の関係は密接。
”ゾロアスター教ズルワーン主義は、バビロニアの占星術とペルシアの宗教が習合してできたものだ。ゾロアスター教には占星術はない。その宗教が西方に行ったらミトラス教になったの。中央アジアのミトラ信仰って占星術の教義あったっけ?”
”ドラゴンランスに出てくる、神になる事を目指す悪の魔術師のシンボルは砂時計だ。すなわち「時」。過去と現在の主という、時を連想させる称号までご丁寧についてるわけだ。リアル世界で「時」という属性を持つ神は少ない。この悪の魔術師のシンボルは間違いなくズルワーンなんだよ。クロノスでもある。”
”ドラゴンランスに出てきた悪の魔術師は砂時計の目をしている。そして彼が神になった最悪の未来では、彼のシンボルである砂時計の星座(この世界では、ローマのように星辰=神なので)が輝いてる。この作品も中核にはペルシア神話、更に言えば大本教にもあるズルワーン主義が潜んでる。”
”大本教の三千世界の建替えはゾロアスター教なんだよ。その中でも宇宙周期的思想を持つので本家のゾロアスター教よりズルワーン主義が近いんだよ?三千年の後に悪が滅びて理想世界がやってくるって話はゾロアスター教の教義なんだけど、昼の時代・夜の時代という区分は、本家ゾロアスター教にはない。”
”うーん、ゾロアスター教ズルワーン主義、内部資料がたった1点のみという悲惨さなんですけど、注釈つけれるようにがんばって内部資料の「ウラマー・イェ・イスラーム」を読みこまなきゃ”
”ゾロアスター教ズルワーン主義は、実はナント、カタリ派の宇宙論にも影響与えまくってる。まあカタリ派がマニ教のグノーシスそのまんまなので、神話を乗っ取るマニ教のイランでの最高神はアフラ・マズダー(オフルミズド)ではなくズルワーンなんだよね。ここにマニ教由来の秘密結社のこだわりが見える”
”神話を乗っ取るのは、マニ教がおそらく世界で一番最初にやったことだけど、大本教やらメーソンの作った宗教は神話を乗っ取るのがお得意。まあイルミちゃんたたきで有名なバリュエル神父(イエズス会なw)がイルミちゃんをマニ教のグノーシスと認定するのも無理はないわなww”
”GDの祭文にある「聖なるかな、光と闇の主よ」という一文があるけど、これリアル世界で光と闇の主という属性を持った神はズルワーンくらいしかいねえよwwwGDってカバラーなのに不思議だなあ?”
安易に宗教に頼らずに、わざわざここにいらっしゃったことだけでも、あなたは見込みがありますよ。
何やら質問したげなご様子ですね。
何々、原始仏教は宗教ではないのか、ですか。
原始仏教は教義がありませんから宗教ではなく現世利益を実現するための技術と知恵の集大成です。仏教というよりは仏「法」や仏「術」と言う方が適切かもしれませんね。
え、なぜ現世利益を追求しない宗教が多くて、恐怖を煽ってくるのかですって?
なぜって、現世利益を得て幸せになっちゃったら宗教いらなくなるじゃないですか。現実で幸せになったら困るんです。信者という儲かるものがどんどん減っちゃいますから。
だから終末論とか地獄で永遠に苦しむとかで恐怖支配して、抜けられなくするんです。大抵の宗教は、特におかしなカルトはほぼ間違いなくヨーロッパ産のキリスト教の変形です。だから、宗教と戦争という二つの商売は相性が非常に良いのです。教義で道徳を破らせて戦争を起こし、戦争で不幸な人を増やして儲かる信者を受け入れる。
不幸な状態を肯定することをよく言うのは、神の試練だとか、なんちゃらは幸いである、だとかで誤魔化して、なんとか現状が改善しないようにするためです。で、ますます依存させる。
一方、原始仏教にはカルトによくあるものがございません。このAの欠点を指摘し、Bにはその欠点がないと言ってBに誘導する技術を今使っているのですよ、気をつけてくださいね。
子子子子子(ねここねこ)@kitsuchitsuchi·5月11日
原始仏教にないものは①絶対的教義②人格神③検証不可能な形而上学④男尊女卑⑤階級制⑥葬式で読経⑦墓石⑧戒名⑨卒塔婆⑩紫衣⑪占いや預言⑫鎮護国家(悪霊退散)。故に国教になれない。自然現象を擬人化し人格神にして解釈者=宗教家が操作する。操れない諸行無常より好都合。教義で道徳を破らせる。
にある通りです。
では、
原始仏教という名の、
苦しみを取り除き、
現実と自分と向き合う手助けをする、
心理カウンセリング術の内容紹介のはじまりはじまり。
※文末が統一されておりませんがご了承ください。
『仏教、本当の教え - インド、中国、日本の理解と誤解 』(中公新書)(2011/10/22)植木 雅俊
サンスクリット語(あるいはパーリ語)で書かれた原典が読める人の著作を読まないと本来の釈尊の思想は決してわからない。
翻訳すれば原文の意味は必ず変化してしまう。
原典から翻訳→翻訳分を翻訳(重訳)
といった翻訳上の問題と、
教え自体が都合が悪くて改竄したという問題
など伝言ゲームのように別物になってしまう。
徹底した男女平等を説いた原始仏教は、儒教思想のせいで中国では翻訳時に男尊女卑思想に改竄され、今では搾取者に都合がいい形で日本に定着していて、今やどんどんキリストやキリスト教の変形であるスピリチュアルに侵食されまくっております。日本の仏教関係者は、当然、そこを「見ないように目を背けている←すでに釈迦の教えに反している」。
初期仏教と大乗仏教は別物だと言う説もありますね。大乗仏教はミトラ教の一派で、弥勒=ミトラ、という。キリスト教も大乗仏教も親はミトラで同じってことです。キリスト教は親のミトラを殺そうと必死ですが。
まあ、天上の存在を沢山登場する時点で初期仏教ではありませんよね。
※祖先崇拝を重視する儒教では、家系が絶えることは不幸の最たるものなので、女性は生む機械扱いされる。
中国では、男女平等がなかったことにされたりしたものの、国家に従属させられそうになっても、「沙門は王者を敬わず」の言葉通り、仏教徒は、国家のために積極的に働こうとしなかった。
対して、日本の仏教は、最初から鎮護国家の思想で始まり、仏教でない信仰は、いわゆる神仏習合(道教まじりの仏教が一番上)などにより、仏教の一部に改変し取り込んでいった(都から遠く離れると仏教の影響が薄いところもある)。
※「神道」は江戸末期に誕生したキリスト教の一派(教祖の一人が、平田篤胤という似非国学者)であり、「神道」誕生以前の仏教の異端派や土着信仰や道教の一派とかを勝手に「神道」ということにしただけ。
だから教義なんて定められるはずがない。嘘がばれるから(神道関係って偽書多過ぎませんかね?)。八百万のカミガミなる実に便利な内容にしている。
(明治以前は天皇は天台宗の仏教徒であることをなかったことにしちゃいかんよネトウヨ壺工作員)
明治以降の国家神道がキリスト教の一派なのは、大日本帝国憲法第3条“天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス”より窺える。
神聖にして侵すべからずとされる存在は欧米ではGODあるいはキリストである。
用語を日本的にしただけである。
脱線より戻る。
1700年代前半、懐徳堂(庶民教育のために大坂の町人が作ったので権威主義的でない)出身の、大坂の町人学者である富永仲基が『出定後語』を著わして、大乗仏教は釈尊が直接説いたものではないという「大乗非仏説論」という至極まっとうな主張をしたが、当然都合が悪いので無視され潰された。
インドの仏教は「人」より「法」を重視し、中国に来ると「法」を体現した「人」を重視し、日本に来ると「法」よりも「特定の」「人」(の神格化)に重心が移った(政治利用が明確になった)。聖徳太子を信仰対象とする太子堂が各地の寺院に建てられたり、弘法大師があちこちで信仰された。
ことなどがばれたら困るから。
かくして、日本では、坊さんは般若湯(=酒の隠語)をのみ、妻帯し、葬式と墓守を生業とし、宗教非課税特権を享受しているのである。
宗教非課税って突かれると支配者層が困ります。
宗教課税すべきですよ。額は重要ではありません。課税することが大事なのではなく、調査できるようにすることが大事なのです。
また脱線。
お盆って仏教関係ないよ。大乗仏教は輪廻転生思想だから、御先祖様が帰って来るなんてありえないでしょうが。
脱線終わる。
釈尊は、「教えは、それぞれの地域で語られる言葉で語りなさい」と言った。実際、アジア各地では、自国の言葉に翻訳されたが、日本だけは漢訳のままで翻訳されなかった。漢文の経典は音読みなので、人々はそれを聞いても意味がわからなかったが、日本には「分からないこと」=「有難いこと」という変な思想があるので、実に誤解されやすく騙しやすい。つまり本来の仏教に反している。
聖書が元はラテン語だったので庶民が読めなかったことに似ている。
※難解なことを分かりやすく説明できることが頭が良いという要素の一つ。
難しいこと難しく言うなら意味が分っていなくてもできるので。
①尊い人か、卑しい人かは生まれではなく行動で決まる。
②釈尊も女も男も在家も出家も皆人間であり平等である。当然、在家の女性もブッダになれる。
③呪い、迷信、ドグマ、占い、姓名判断、苦行、超能力、呪術的儀式、神通力、おまじない、呪術的似非医療などに騙されてはいけない。
④GODなどの絶対的価値観を殺人などを正当化する理由としてはならない。GODを目的とし、人間を手段としてはならない。
⑤差別とは言葉による逆規定で発明されるのであって本来は存在しない。
⑥弱みにつけ込んではいけない。
⑦不安を取り除き安心を施せ。
⑧仏道を修行しても、
1.前世は分らないし、
2.ものごとを見通す眼は得られないし、
3.他人の心が読めるようにはならないし、
4.死ぬことや転生が何であるか知ることはできないし、
5.聴く働きを清める力も得られない。
⑨苦しみをなくすために以下の八正道を実践せよ。
1.正見=正しく見ること
2.正思=正しく考えること
3.正語=正しく言葉を使うこと
4.正業=正しく振舞うこと
5.正命=正しく生活すること
6.正精進=正しく努力すること
7.正念=正しく思念すること
8.正定=正しく精神統一すること
⑩ダルマ(法)を自らに体現し、真の自己を他に頼ることなく自覚せよ。
⑪軽蔑、怒り、憎しみなどの思いから互いに他人の苦しみを望んではならない。
⑫愛は憎しみに転じ得る。愛憎の対立を超えた慈しみの念を保つことが崇高な境地である。
仏教で「愛」=執着をもたらす欲望=悪いもの、という考え。二元論の否定。
⑬恨みは恨みによって決して静まらない。恨みは、恨みのないことによって静まる。
⑭信じることのうち、妄信・狂信・熱狂的信仰はしてはいけない。
⑮死者の救いは、葬儀のいかんではなく、亡くなった人自身の徳による。
上記の列挙事項に含まれていないからといって、何をやっても容認されるとは限らない。
・仏教と葬式は本来無関係。お経を読むなんてありえない。
「お前たちは遺骨の供養にかかずらうな。お前たちは正しい目的に向かって怠らず、勤め、専念しておれ」が釈尊の考え。葬儀は出家者ではなく、在家がやるもの。
ちなみに、仏教だから火葬だとは限らない。
釈尊は、遺言どおり遺体は「在家」によって白い布に巻かれて、火葬=荼毘に付された。
釈尊の時代に文字によるお経なんて存在しない。
釈尊が語っていたことを短文で口伝えで語ることはあっても、それは葬式のためではなく、「生きる」ことに関するものである。
そのそも、お経の内容はきちんとしたストーリーのあるドラマチックなものであり、意味が分かれば、葬式の場では完全に場違いな内容である。
キリスト教式の葬式でシェークスピアの戯曲でも読み上げるようなものである。
あと、卒塔婆も本来の仏教にはない。ストゥーパ(卒塔婆)はそもそも墓なので、墓の隣に墓を立てるという奇妙なことに日本ではなっている。
まさに、屋上屋を架す=無駄なことやつけたし。蛇足。
卒塔婆代ってばかばかしいね。二重払い断固拒否。
・現在のような葬送儀礼が定着したのは、江戸時代の檀家制度の影響。仏教僧侶が葬儀や追善を行えば一神教抑制や、寺院経営の維持に有利だったので。
お盆で先祖の霊が返って来るというのは、大乗仏教の輪廻転生と矛盾するので、そもそも仏教関係ない。
そもそも、輪廻転生するのなら、供養の仏壇やお墓の意味がなくなる。他の存在に変わるのだから、弔いに感謝することなんて不可能だし、お盆に返って来るなんてありえない。
原始仏典では、死者の救いは、葬儀のいかんではなく、亡くなった人自身の徳によるので、釈尊は出家者が葬儀に関わることを禁止している。
戒名は仏教が中国に伝わったときに、号の風習を取入れて生れたものらしいので、戒名詐欺にご注意ご注意。
戒名くらい自分でつけたら?
(そもそも自分の名前を自分でつけられる制度にしたらいいのに。在日特権=通名=偽名OK=スパイ天国、なんだから、別にいいよねえ)
中国では道教や儒教の先祖供養と習合して、出家者たちも葬送儀礼を行うようになった。
位牌は儒教の影響によるもの。戒名などない。四十九日を過ぎた供養もしないもの
・日本で死刑廃止が保元の乱(1156年)まで約400年続いたのは、生命を大切にする仏教思想の影響。
「怨親平等」
…敵味方区別なく平等に弔う。元寇、島原の乱。
しかし、
明治政府は、官軍の死体は招魂社(靖国神社)に祭られたが、賊軍の死体は野ざらし放置。
イルミ(ネーション)が治める=明治、にふさわしい所行だね。
・ブッダ=(ダルマ、心理、真の自己に)目覚めた人。複数いる。
・ダルマ(多義語)
…語源「支える」という動詞ドゥフリの名詞形=支えるもの。
事物を事物たらしめ、人間を人間たらしめ、社会を社会たらしめるもの。
Xという意味と、Xたらしめるもの、という両方の意味がある。
真理、規範、慣例、義務、なすべきこと、秩序、善、道徳、法則、宗教、全世界の根底、本質。あるがままの真実に即した道理。
※ダルマター=法の本性、法性。という言葉で意味の混同をなくそうとしているふしがある。
・カルマン(karman)=行為の残す潜在的余力=業(ごう)。
・ パーリ語のアナッタン、あるいはサンスクリット語のアナートマンが中国で「無我」と誤訳された。「非我」(何かが我なのではない→何か実体的なものを自己として想定し、それに執着してはいけない)が正確な訳。
・無畏施(むいせ)=不安を取り除き、安心を施すこと。
・漢字一文字で名詞にも動詞にも形容詞にも副詞にもなるので解釈が難しい。
・釈尊入滅後百年たったころから教団の権威主義化が顕著になり、在家や女性が軽視され始め、経典の中の都合の悪い部分を削除して改竄された。
結果、十大弟子(全員男性)は残されたが、女性と在家の弟子たちすべての名前が削除された。
・托鉢(乞食)の当番を釈尊も平等に行っていたが、小乗仏教では原典を改竄し、釈尊が托鉢に参加していないことにした。小乗仏教による釈尊の神格化=人間以上の存在に仕立て上げる。
・原典では釈尊自身は自分を「善き友人(善知識)」(「人」に注目)だと認識していた。弟子たちも、釈尊=「完全に目覚めた人間(仏陀)(人間=仏陀=釈尊)」に対して「君」、「ゴータマさんよ」と気軽に呼びかけている。
しかし後に改竄され、「私は人間ではない。仏陀である。」(人間<仏陀=釈尊)にされた。
・差別とは、「兎角亀毛=言葉では存在するが現実には存在しないもの」である。
・チャンダーラ(せんだら。漢字割愛)
…(カースト制度最下層にしてアウト・カーストと呼ばれた)不可触民が身につけていたもの。
出家した釈尊が着ていた袈裟はチャンダーラが身につけていたもの。
袈裟という言葉は、「薄汚れた色」や「黄赤色」を意味するサンスクリット語のカシャーヤの音を漢字にできる限り移しかえたものであり、墓地に捨てられた死体をくるんでいたもの。
死体の肉が食われたりしてなくなったあとで布の破片が散らばる。布の破片を集めてつなぎ合わせて衣にしていた。
死体の体液の染みで「黄赤色」になっていた。
錦の袈裟とか、豪華な袈裟なんて釈尊をバカにしていますね。勉強して実践しろ。
・北枕
=頭を北に向ける
はインドでは最も良い寝方。
員では北に理想国があり、南には死に関する国があると考えられている。
『涅槃経』に釈尊が亡くなられるシーンがあり、北に頭を向けている。
北に頭を向けて死んだ釈尊の場面を読んだ日本人が、北は縁起が悪いと勘違いして生まれたのが北枕。
ちなみに、中国に北枕という言葉自体がない。
「肩こり」は夏目漱石が作り出した病気。造語病。
そういえば、新たな病名を公表すると、その病気の人が「発生」「出現」するから、製薬会社や病院とかが結託してるんだってね。
・日本では蓮の花を持参すると怒られるが、インドでは最もめでたい華なので多くの人が持参する。
・祇園という地名はサンスクリットから来ている。
祗園は祇園精舎の略。
ZION、ジオン、ユダヤなんて関係ないからね。日ユ同祖論って詐欺だからね。
ちなみに、
祗園って、花街(かがい、はなまち)=芸妓屋、遊女屋が集まっている区域を指す名称だからね。
キリスト教陰謀論は実在しますが、ユダヤ陰謀論は実在しません。キリスト教が、実行部隊の派遣であるユダヤに罪を押し付けるのは昔からの手口であり、バチカンはナチスにその手口を教えまくりました。
・現在のインドでは、大体、ヒンドゥー教徒81%、イスラム教徒13%、キリスト教徒2%、シク教徒2%、仏教徒は1%。仏教徒は最後までカースト制度=厳格な差別・階級制度を認めなかったので、カースト制度の支配的なインド社会に発祥地でありながら永続的に根を下ろすことができなかった。
・本来の仏教では、国王を泥棒と同列に見ていて、あまり尊敬していない。泥棒は非合法に人の物を持って行ってしまう。国王は税金という形で合法的に人の物を持って行ってしまう。人の物を取り上げるという意味で、両者は共通しているからである。
国王だから統治するのではなく、たまたま統治者を選んだら国王だったという発想である。
・舎利には、米という意味もある。しゃり=ご飯。
考えられる理由
①サンスクリットのシャーリが米
②シャリーラ(舎利羅)の複数形が骨を意味し、その形状が米に似ている。
※シャーリーは人名←どうでもいい。
・鑑真和上が建立した唐招提寺。
唐=鑑真が元いた国。
招提=四方=あらゆる方角→コスモポリタンという意味が込められている。
唐から来た私が建立したグローバル寺。
ワンワールド主義者が利用するという。鑑真持ちあげ。
・漢訳は漢字だとかたをくくって分ったつもりになりがち。
手紙=トイレットペーパー
鮎=ナマズ
娘=お母さん
丈夫=夫。
・AはBなり。
に注意。A=Bとは限らず、A→B→Cとたどる文脈でCを省いたものであることもある(私はショウガ湯…私=しょうが湯では当然ない。私が(好きなのは、注文するのはなどなど)しょうが湯、という意味。括弧が省かれている。
文が馴染みのないものだと誤解しやすい。
「世間とは差別の義なり」
×世間=差別×
世間とは空間的な広がりを持つ場所であり、その空間では種々の差別相の現象が織り成されている。その差別相を見れば、世間は差別という意義である。
おまけ1
釈尊生存(実在の人物だとみなしておく)当時の思想状況
…バラモン教、六師外道(六人の自由思想家。①唯物論②道徳否定論③不可知論④決定論⑤相対論⑥要素説)
※六師外道
道徳否定論者 (プーラナ・カッサパ)
宿命論的自然論者 (マッカリ・ゴーサーラ)
唯物論者、快楽論者(アジタ・ケーサカンバラ)
無因論的感覚論者・七要素説 (パクダ・カッチャーヤナ)
懐疑論者・不可知論者 (サンジャヤ・ベーラッティプッタ)
自己制御説 (ジャイナ教、 ニガンタ・ナータプッタ)
六師外道
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%B8%AB%E5%A4%96%E9%81%93
六師外道
http://mahorobanomori.web.fc2.com/spiritual-Rokushigedo.html
おまけ2
仏教者の時間論
通常…私がこの世界の中で生きていて、そこに時間の経過がある。
道元…私=生きている=時間=世界。皆一つ。
私以外に世界はなく、世界以外に時間はなく、時間があるということは私が生きる、生きているということである。
日蓮(あるいは本書の作者)…過去と未来は観念の産物。過去=現在における記憶、未来=現在における予想。
現在こそ基盤。
心にしみる原始仏典
http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/malunkya.html
教義=変えてはならない絶対の教えであり、教義を守る為なら何をしてよい。妥協できないから議論ができない。よって戦争を起こすには教義を絶対に堅持すべし。
教義がないから、原始仏「教」というよりは、仏「法」。
原始仏教では国家は泥棒だとみなしています。税金と称して民の財物を取っていくからです。それにカースト制度を肯定していますし原始仏教とは真逆の態度です。ですから、日本の大乗仏教のような鎮護国家思想などという仏教が国家を守るなんて思想とは完全に真逆ですね。そもそも原始仏教に怨霊や敵と戦って撃退するなんて要素はありませんし。悪霊退散というのは、本来の仏教思想ではないのです。
ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫) 中村 元 (1958/1)
・スッタ=たていと=経 ニパータ=集成
は今のところ一番古い仏典。
特にスッタニパータの第四章(アッタカ・ヴァッガ)と第五章(パーラーヤナ・ヴァッガ)は最も古く成立したと考えられ、初めは独立していたと考えられる。
スッタニパータの
詩…紀元前268年以前(アショーカ王以前) 特に4と5章は古い。
散文…紀元前250~150年ごろ
ゴータマ・ブッダ(あるいはそのモデル)の説法(北方伝説では紀元前約428-383年)
↓
①覚えやすいように韻文または簡潔な文句でまとめられる
(文字の読み書きができるのはごく一部のエリートのみなので覚えるしかない。よって内容は変化してしまう)
↓
②散文で説明(おそらく識字率上がった)(アショーカ王時代 紀元前268-232年)
原始仏典の散文の部分は韻文の部分よりかなり遅れてつくられたと考えられている。
アショーカ王は、仏教を保護し、仏典を集めたり、伝道したりした(スリランカに仏教がこのころ伝わったらしい)。
↓
③経典で(=文字で内容固定←極めて重要な文字の機能)まとめられた
↓
↓④ ⑤
三蔵(経・律・論)成立(現存パーリ語三蔵)→(紀元後)サンスクリットに翻訳→漢訳
※三蔵=原始仏典全て ※漢訳され儒教的に改竄(男女平等から男尊女卑へなど)
↓
⑥(紀元後)大乗経典の成立→チベット語訳
↓
漢訳
↓
日本で特に影響が強かったのは、大乗経典『法華経』と『浄土三部経』
日本では漢訳ばかり広まり、原始仏典を軽視(王様=天皇=泥棒、とか階級性否定なんて都合悪いから)。それに、漢訳語を使うことは、原典の精神(聞いたらわかるように現地の言葉で伝えよ、という教え)を無視している。
・当然だが、大寺院の中で修行していたわけではない。樹下石上に坐し、あるいは岩窟の中に住んだりした。せいぜい庵ぐらいだろう。
・尼僧が登場しない。尼が出現したのは男性の修行僧の場合よりも遅れている。紀元前300年ごろにインドに来たギリシャ人メガステネースは、尼に言及しているので、当然それ以前の段階を示している。
そもそも男女を区別しないので区別する言葉があるはずない。
・ストゥーパ(聖者埋葬の塚。塔と訳される)の崇拝あるいはチャイティヤ(塔院。祀堂)崇拝に言及していないので、最古期の仏教にはそのような概念はないのだろう。
・四つの真理(四諦。聖四諦)=
苦諦:苦という真理
集諦:苦の原因という真理
滅諦:苦の滅という真理
道諦:苦の滅を実現する道という真理
が出てこない。
スッタニパータでは真理(sacca)に関する論議は盛んだが、ウパニシャッド(サンスクリットで書かれた一連の書物。奥義書)的な「真実」の意味でsaccaという言葉が使われている場合が多くて、四諦とは無関係。
“太陽の末裔(ブッダ)”(p.20)や牛に例えたり(「ゴータマ」=「最もよき牛」の意)しているので、太陽信仰と神聖牛信仰が釈尊に重ねられている。しかし、後世の神話的後付けがあまり見られず、歴史上の人物釈尊として描かれている(単なる太陽の擬人化かもしれないが)。ただし、見た目が良いなどの表現から、神格化への動きはすでにある。
文章は平易で、当時の人も聞いて意味がわかったはず(日本のように意味不明にはしない。意味が伝わらなければ意味ないからね)。特殊な哲学説(民衆が聞いても判らないから)や形而上学説を弄せず、「現実の苦しみを生きたまま克服」し、「生きたままで」真なる道を自覚するにはどうしたらいいかを現実に即して語っている。
※中世のインドの王家には、太陽の末裔と称する王家と、月の末裔と称する王家とがあった。
・ブッダ(目覚めた人々、や修行者一般という複数形であることに注意)の教えとは、ブッダは複数いるのだから、釈尊(シャーキヤ・ムニ。ムニ=聖者あるいはブッダ)とは限らない。逆に言えば、釈尊が「俺が考えた」と思って奢って説くのではない。ブッダにはジャイナ教や他の宗教の諸々の聖者たち(起源仏教には他教排除の教えがない)を含めているのであり、あくまで釈尊はその一人であるという立場である。つまり釈尊は、仏教なんて意識はない(自分が考えた!ではないから)。
仏教の創始者が釈尊であるという表現は便宜的なものである。
実在しない教祖を白人にして白人用に改造したキリスト教と同じである。
当然、真の仏教徒という概念なんて存在しない。
・腕輪をいくつも身につけていることは、インドや南アジアの夫人に特徴的な装飾である。タンス預金のようなものである。腕輪を財産としてつけて持っておくことは少なくとも釈尊の時代からあった。賢いね。定住しない人達の習慣かな。
・~地獄とかいうやたら具体的な地獄のおどろおどろしい詳細(階層、種類、刑罰、裁きなど)が出てこない。あくまで「悪いところ」と漠然としている。地獄をえげつなく詳細に描写するのは、「罰があたるよ!」を「とてつもなく苦しむぞ!」として脅迫度を増すため。原始仏法の言う、「良いところ(極楽っぽい感じ?)」や「悪いところ(地獄っぽい感じ?)」が、幸せな世界が死後の世界とは限らない。生きているこの世界のことと解した方がよい箇所がある。認識次第で生きている世界は極楽にも地獄にもなるからね。
・仏教は伝統的に国王や武士や軍人を嫌悪していた。国王=盗賊、国家=盗賊、と考えていた。国王と盗賊は本質的には同じだと考えられ、(諸子百家の一人である墨子と共通)国王と盗賊はセットで登場する。よってカースト否定。
大乗仏教と原始仏教は別物じゃないか。イスラム教シーア派みたいに。
ミトラ教=キリスト教の元ネタの一つ。というかイエスを白人にした点以外にオリジナルなところはキリスト教にはないです。
“大乗仏教を広めたのは遊牧騎馬民族のクシャン人。その人たちの宗教はミトラ教。イラン系遊牧騎馬民族が大乗仏教を広めた。”
https://twitter.com/lanekota/status/439066849704030208
“大乗仏教というものはクシャン人というミトラ教の遊牧騎馬民族が開発した仏教とは似て非なるモノですからね。”
https://twitter.com/lunacatcafe/status/461106164239839234
“中央アジアの大乗仏教を広めたクシャン人は、ミトラ教だったんですよね。同じヴェーダ宗教なのにゾロアスター教ではミトラが無視されてる。インドラは仏教の帝釈天だけど、ゾロアスター教では悪魔。太陽神を無視するって珍しいですよね。”
https://twitter.com/lanekota/status/436910253821554689
p.20 五五
“相争う哲学的見解を超え、(さとりに至る)決定に達し、道を得ている人は、「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。”
(議論超え 真理極めた 辟支仏(ビャクシブツ) 指導されずに 一人で歩く<55>
http://76263383.at.webry.info/201305/article_25.html)
・当時は、師匠の説いたことを聴いて暗記することが学問であった。世俗のことがらに関しては、文字に書くことがなされていたが、宗教的な学問については筆記はなされなかった。よって一神教(文字による固定=記憶による内容変化の防止、による他の神と宗教の排除)は生まれえなかった。
仏法では、人間以上の存在に(偽装した人間に)従えという欧米的(支配に好都合過ぎる脅迫と権威)教えはない。悟った人はあくまでも「優れた先輩」である。
ジェータ林=祗園=“孤独なる人々に食を給する長者”p.28
p.29 九四
「悪い人々を愛し、善い人々を愛することなく、悪人のならいを楽しむ。これは破滅への門である。」
執着としての愛はよくないが、愛していけないわけではないらしい。いや、原文はどうなっているのか。
・カースト制度では最も身分が高く高貴だとされているバラモンが悪いことをすると、バラモンだから許されたり罪が軽くなるわけではなく、“現世においては非難せられ、来世においては悪いところに生まれる”(p.36)
バラモン教の輪廻という教義について言っているから来世という言葉を使ったのか、そもそも生まれ変わり思想自体がインドでは常識なのか、悪いことをしても悪いところに行かないと言うと悪徳がはびこるからか、釈尊の意図は不明。無記は来世や地獄には採用されないのかな。
もともとは天も地獄も単数形表記だったらしく、複数の天や地獄があるとは考えていなかったらしい。地獄に落ちたとしても途方もない年月がたてば地獄から脱出できる。地獄にいる期間が定まっているところが、一神教徒の違いである。
・「なまぐさ」という章(p.54から)では、“――これがなまぐさである。肉食することが〈なまぐさい〉のではない。”とある。
――より前に、なまぐさの例が書かれている。何度も“”内の部分は繰返されている。
肉食を禁止はしていない。ただし、できるだけ殺すなという教えだ。売っているものを食うのはOKなのだろうか。
p.76 三六〇
“師はいわれた、「瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全にやめ、吉凶の判断をともにすてた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう。”
仏教徒が占い(笑)ってことですな。行方不明者の居場所を当てるとかって資料を読んで当てたかどうかで全然意味が違う。資料を読んで当てたのなら、単なる計算や推理である(十分凄いけど)。資料を読んだ後で寝たら夢が教えてくれた、というのも無意識化での計算でしょうな。予知と予測の違い。
ごく稀に本物がいるけどね。
吉凶の 占いやめた 修行者は この世において 正遊行する<360>
http://76263383.at.webry.info/201402/article_16.html
“始めの答えは端的に言えば「占いを止めなさい」ということです。これがまず初めに大切なことなのです。当時のインドでなくても、現代日本でも、占いは大変人気があります。多くの一般雑誌には占いのコーナーがあり、テレビでも毎朝放映しています。これは自分の考えや行動を自分で選択できない人がたくさんいるからなのです。
ブッダは人間にとって、始めに大切なことは、自分の考えや行動は自分で調べ、判断し、決めることだと教えているのです。自分の考えや行動の主人は自分であるべきだと教えているのです。
ブッダは占いばかりではなく、既に述べたことがありますが、カーラーマ経(増支部3集65)で、次の10項目の注意点を挙げて、自ら確かめるように教えています。
1.口伝だからと信じるなかれ、自ら確かめよ。
2.伝承だからと信じるなかれ、自ら確かめよ。
3.伝聞だからと信じるなかれ、自ら確かめよ
4.聖典だからと信じるなかれ、自ら確かめよ。
5.論理的だからと信じるなかれ、自ら確かめよ。
6.推論に合っているからと信じるなかれ、自ら確かめよ。
7.言葉が巧みだからと信じるなかれ、自ら確かめよ。
8.結論が自説と同じだからと信じるなかれ、自ら確かめよ。
9.あり得る話だからと信じるなかれ、自ら確かめよ。
10.聖者だからと信じるなかれ、自ら確かめよ。
以上の考え方や行動の基本を踏まえて、次の偈から正しく遍歴遊行するために、必要な事柄を具体的に述べています。”
p.110と註釈によると
バラモン=道の人=沐浴をすませた者=輪廻を超えた完全な者=竜(naga。象の意味もある)=仏
バラモン=カースト制度におけるあのバラモン、という意味では必ずしも使っていない。バラモン教の解説とも思えな
い。輪廻についてどう考えているのだろうか原始仏法(仏教)は。
※竜樹=ナーガールジュナ
かっこいい漢字の組み合わせですな。ドラゴンツリー。
p.135 六〇七
“これらの生類には生れにもとづく特徴はいろいろと異っているが、人類にはそのように生れにもとづく特徴がいろいろと異っているということはない。”
※人類と言う人間と人間以外とをはっきりと分けて強調するのはインド思想では珍しい。
p.135~p.136 六一一
“身を稟(う)けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間のあいだではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。”
差別は言葉で発明できる。集団でテレビ局に訴えまくれば簡単に放送コードに追加できる。
稟=天から授かる。生まれつきの性。
・良心の表現として、GODが見ている、お天道様が見ている、お月さんが見ている、などがあるが、インドでは「アートマン(=本来の自己)が見ている」と言うらしい。人間より上の存在による監視ではない。
・墓石なんてない。当時の墓場は野ざらしだから。林の中の墓場に死体を捨てるという葬儀(葬「法」に方が適切かな)が一般的だった。
・最初期の仏教では、出家とは文字通り建物の家を出て家の中には住まないという意味だったらしい。世俗の人が出家してニルヴァーナを証するのではなく、世俗の生活のままでニルヴァーナに達しうると考えていた。出家と在家の区別はない。教団が発達すると、出家の方が上になった。
また、男女の区別もない。外国語訳の際に勝手に内容が変えられるのはよくあることである。漢訳された仏典に儒教思想が入りまくっているからだ。
p.153 七〇六
“凡夫は欲望と貪りとに執著(しゅうじゃく)しているが、眼ある人はそれを捨てて道を歩め。この(世の)地獄を超えよ。”
地獄とは、この世の邪な生活や、そのもととなる妄執をいう。地獄とは生きているこの世に見られるという考えが面白い。最初期の仏教でもそう考えていたらしい。
死後世界はわかりっこないから実に科学的(=経験できることから考える)である。来世や地獄や天の思想(たぶん輪廻も)は最初期の仏教からすでにあっただろうが、現世にも地獄があると考えている点が面白い。来世や死後地獄に落ちるという思想や輪廻は最初期の仏教にもある。輪廻からの脱却が、輪廻自体からの脱却なのか、輪廻「思想」(生まれ変わったらどうなるかなんていう考えに執着するな)からの脱却なのか気になります。
第四章(アッタカ・ヴァッガ)
p.186 八三六
“(マーガンディヤがいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」”
p.186 八三七“師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」
宗教否定。~という説を説くときいた相手がそれに執著してしまうことを危惧しているのかもしれない。どのような生存状態に生まれかわるかについて答えていない。わかりっこないからだろうか。
p.188 八四六
“ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執著の巣窟に導き入れられることがない。”
バラモン教は儀式を重視している。祭祀や儀礼=宗教的行為。あるいは宗教自他の否定。
伝統的学問=師匠から聞いて聖典を暗誦する学問。聖典が当時は文字で書かれていたとは限らないことに注意。
p.189“両舌(かげぐち)”って秀逸ですな。二枚舌。
p.191
“ 八六六
「さて世の中で欲望は何にもとづいて起るのですか? また(形而上学的な)断定は何から起るのですか? 怒りと虚言と疑惑と及び〈道の人〉(沙門)の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」
八六七
「世の中で〈快〉〈不快〉と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は(外的な事物にとらわれた)断定を下す。
八六八
怒りと虚言と疑惑、――これらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現われる。疑惑ある人は知識の道に学べ。〈道の人〉は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」“
p.193 八七六
“「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうちに(最上の清浄の境地がある)と巧みに語っている。”
肉体と精神の消滅=無余涅槃(むよねはん)に入る、ことが修行目標であるとするのが小乗仏教の伝統説なのだが、スッタニパータではそのような見解は偏見だとして否定している。
今広まっているスピリチュアル大乗仏教って一体なんなんでしょうねえ。耶蘇教になっていっている。
“無余涅槃(むよねはん)は、生理的欲求さえも完全になくしてしまうこと、つまり肉体を滅してしまって心身ともに全ての束縛を離れた状態。
涅槃とは悟りを得たということであり、全ての煩悩を断じ尽くしているはずであるが、実際には釈迦がさとりを得て、全ての煩悩を滅してしまったとしても、自らの生理的欲求は残っている。その状態を有余涅槃と呼び、その生理的欲求を「余」としている。“
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E4%BD%99%E6%B6%85%E6%A7%83
p.194 八八四
“真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異った真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのである。”
あいつの言っている真理は間違っている。自分が言っている真理は正しい。
などと争ったり、あいつの真理は間違っているからと馬鹿だとみなしたり
は本当に真理を悟った者はしない。断定したらいかんよ。
心の平安とは真逆のことをやっているからね。
原始仏教ってアンチ宗教の側面もありますな。既存の宗教の批判から新しい宗教が出てくることはよくあるらしいけどね。
あ、でも今の新興宗教を遡ると大本教(キリスト教とかかかわっている)に行きつくように、単に同じようなのが増えたようなものも多いですけどね。
あなたが真の仏教徒ならスピリチュアルなんて形而上学的だから確かめないよねとかいってやりましょう。
(右も左も大本ではスピリチュアル【20090428】http://www.mkmogura.com/blog/2009/04/28/206参考)
p.200 九一八
“これ(慢心)によって『自分は勝れている』と思ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか思ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想せずにおれ。”
冷静な客観視。
p.201 九二七
“わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと相の占いと星占いとを行ってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行なったりしてはならぬ。”
当時の医術は今とは違い、単なる祈祷とかインチキだらけでそれを利用して騙す輩が横行していたらしい。占いもね。
呪法の禁止はジャイナ教でも同様。
『アタルヴァ・ヴェーダ』では、主にバラモン教の呪術的な儀式のしきたりが記されている。
第五章(パーラーヤナ・ヴァッガ)
p.226 一〇七六
師は答えた。「ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。 かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」“
この世からいなくなった存在をああだこうだと言っても仕方がない。
これって死後の世界の実在を論じても仕方ないと思っていたんでしょうかね。
p.226-227 一〇七八
“(ブッダが答えた)、
「ナンダよ。世のなかで、真理に達した人たちは、(哲学的)見解によっても、伝承の学問によっても、知識によっても聖者だとは言わない。(煩悩の魔)軍を撃破して、苦悩なく、望むことなく行う人々、――かれらこそ聖者である、とわたしは言う。」
聖者とは何かを、スッタニパータの最古級とされる第五章で明確に記されている。
原始仏教の 聖者=煩悩がない・苦悩がない・(欲)望なく行動する人々(複数いる!)
ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫) 中村 元 (1978/1/16)
『真理のことば(ダンマパダ)』
輪廻や来世という言葉が出ている。
地獄という言葉も出ている。
悪いところ(=地獄)や、善いところ(=天上)という訳もある。
当時の宗教を超えた共通了解なのかもしれない。
無記に反するように思える。
p.10 五
“実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。”
p.39 二一〇
“愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。”
p.40 二一一
“それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。”
マゾ過ぎる。愛はポジティブな意味で使われていないことがよくわかる。
江戸時代やそれ以前の「愛」の意味は「欲」で否定的な意味ですよ。
迷いの原因(悪いもの)。愛欲。渇愛。執着。強い欲望。
君を愛している=君は私が迷い執着する原因であり悪い奴だ。
っていうのが仏教的な意味。
しかし、キリスト教のloveの中国語の訳語を、廃仏毀釈や仏教のキリスト教化させよう運動やキリスト教式結婚式、十字架がついている病院、キリスト教暦かつ日曜日が休み、3S政策など様々な洗脳や工作やマインドコントロールにより完全に意味が変質しました。
戦国時代、当時のキリスト教は悪い意味の「愛」ではなく「御大切」という訳したりしました。君を大切にするよ! なら仏教でも悪い意味はないですからね。どちりなきりしたん、という本が参考になります。その内載せます。というか、以前やってたブログに載せました。
p.42 二二七
“アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。”
p.42 二二八
“ただ誹(そし)られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。”
p.44 二四一
“読誦しなければ聖典が汚れ、修理しなければ家屋(いえ)が汚れ、身なりを怠るならば容色が汚れ、なおざりになるならば、つとめ慎む人が汚れる。”
文字が書いているものを読んでいるのではないことに注意。暗唱をやめて忘れてしまうと聖典は消え失せてしまう。文字で書かれた聖典の読誦は紀元後に一般に行われるようになった。
『感興のことば(ウダーナヴァルガ)』
p.202 一一
“実にこの世においては、およそ怨みに報いるに怨みを以てせば、ついに怨みの息むことがない。堪え忍ぶことによって、怨みは息む。これは永遠の真理である。”
中村元『原始仏典』(ちくま学芸文庫):
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480093677/
“中村 元ナカムラ ハジメ
1912年、島根県松江市生まれ。東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科卒業。東京大学名誉教授、東方学院院長、比較思想学会名誉会長、学士院会員などを歴任。仏教思想・インド哲学の第一人者。仏教思想をその源流にまでNり、多数の原典を原語から翻訳したパイオニアであるとともに、仏教学を西洋思想との比較思想研究の域へと拡げるなど、壮大な業績を遺した。『古代インド』『釈尊の生涯』『龍樹』などの著作に加え、「スッタニパータ」、「大パリニッバーナ経」などの原始仏典ほか、大乗仏典にも多数の翻訳がある。1999年逝去。“
※日本アラブ協会(欧州の王侯貴族の政策実行部隊の一つ)の発起人に「中村元」(同姓同名の別人かも)という名前がありますね。中曽根康弘や下中弥三郎(二代目会長)も発起人です。
(詳しくは題名だけでお腹いっぱいになりそうな、
イルミナティの実行部隊名を大量に紹介します~下中弥三郎+百科事典+教育系の組織。大アジア主義者で万教帰一賛同者の下中弥三郎はメーソンで、大本教や天津教などとも繋がりがあります。~
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-4.htmlをご覧ください。宜しくお願いします)
古代インドで原始仏教が成立したのは、紀元前6~5世紀、ガンジス川の中流地域に都市が出現した時代である。
人間では絶対に解決できない形而上学的問題に対してイエスともノーとも答えなかった。
極楽に思いをはせることは当然しない 現世 老いた釈尊がもうすぐ死ぬ際に、この世界の美しさにに打たれる
死に際には もろもろの事象は過ぎ去る=無常、だと言って死ぬ
ダルマ=人を人としてたもつもの
苦(ドゥッカ)=苦しみ=自分の思うがままにならないこと
右でも左でもなく極端を避けた中道こそが答えであり、中道にこそ答えがある×
中道=自分と現実を自覚しよく見つめることでできる至要(この上もなく大切な)の、こだわりから解放された道
「中」は「中(あ)たる」という意味であり、どっちつかずではないらしい。
が、釈尊が説いていることは極端を排しているからやはり中央の道である。
自己とダルマを頼れ 自分をはっきりさせる 自己にたよる=実践すべき理法(=ダルマ)に頼る 自覚せよ 他人を頼りにするな これは依存させる宗教とは真逆である
そもそも仏教ではなく仏法=仏が明らかにする法 と呼ぶのが正しい
中国で儒教的に改竄され、日本に入って来た大乗仏教は「教」だけど
殺すな、盗むな、邪淫するな、嘘をつくな、酒はほどほどにせよ(酒=般若湯=智慧を生ずる湯)
大抵の宗教が少なくとも表向きは禁止することだな
お経は、もとは釈尊が誰かに説いたことを弟子たちがずっと口伝で(つまり内容は多少変わっていく。文字の読み書きができるのはごく一部だけ)聴き伝えてきて、後の人がそれを最初は短い詩や決まり文句の形にしてまとめたもの。当然、聴いた人は意味が分かるのであって、日本のお経みたいな意味不明な呪文ではない。
スートラ(スッタ)とは「たて糸」という意味で、中国語では「経」。
経典は釈尊が書いたものではない。
原始仏典のことを『阿含経』(あごんきょう)とまとめて呼ぶことがあるが、本記事では原始仏典と呼ぶ。現在残っている原始仏典はパーリ語(古代インドの一種の俗語)の聖典と、漢訳された諸経典(阿含経など)および少数のサンスクリット語聖典の断片。
なお、釈尊自身は中インドのマガダ語の一種で説法したと考えられ、弟子にはその地方のめいめいの言葉で説けと言ったそうだ
中国で作られた経典類をしばしば「偽経」と呼ぶが、歴史的人物である釈尊が説いたものであるかどうかということになると、少なくとも大乗経典は全部「偽経」であるということになる
漢訳では「経」とあるが厳密には釈尊が書いた仏典は存在しないので、経典ではない。
初期仏教では、理由は判然としないが、仏像をつくらない。おそらく非常に優れた人というのは形で現すことができないという思想が支配していたのだろう。墓石を前にして、こんなのあの人じゃないと思うのと同じ思いかも。
『スッタニパータ』
現存最古であり、最も釈尊の思想に近い。スッタ=経典、ニパータ=集成
なので経典を集めたもの
釈尊はどこまでも単に「すぐれた人間」として描かれているのが大変重要。神話のような脚色がない。宗教を作ったという意識が無い。でも神々が登場する。
路上の虫を踏み殺さないように裸足で「眼を下に向けて気をつけている」
釈尊は「牡牛のような」という形容がされているあたり、牛崇拝思想があるな。「虎」とか「獅子」とも形容されたりもしている。
釈尊は自分の姓を「太陽の裔(すえ)」=太陽の親族(祖先は太陽)、と言っている。
日本では太陽神天照大神(天を照らす神秘的な力ある存在)であり、南米のインカ族やエジプト王家などさまざま国でみられる。王族が祖先を太陽(神)にするのはよくあること。
ニルヴァーナ(涅槃)=解脱=人々との対立を離れた、心安らかな、悩みなき境地
仏法には多くの神々が登場するが、世界を創造した神は出てこない。神の原語「デーヴァ」devaは語源的には「輝くもの」。太陽崇拝の影響がみられるな。
マーラ(=殺すもの)を悪魔と訳すのは良くない気がする。殺す魔とかとするべきだろう。
「魔」はマーラのためにつくられた造語であり、「鬼(き。幽霊)」の字が入っている。
マーラが蛇の形をして誘惑
ラー(太陽神)VS悪ヘビ(夜と闇)まんまだな
蛇(あるいは龍)ってあまり良い扱い受けないな(ゾロアスター教で、最悪の神は爬虫類の姿で出現するらしい)
ギルガメッシュが不死(あるいは若返り)になり損ねたのは蛇に若返り草を食われたからだし
月の別名=懐兎(えと)=ウサギをいだくもの
インドでは大きな樹木に個別的な名前をつけることがある。釈尊が下に坐した樹が「アジャパーラ」と名づけられ、「ヤギを守る人(山羊飼い) 」という意味。占星術的意味があるのだろうか。
最初期の仏教が示されているので、修行者たちも樹下岩上に坐し、洞窟に瞑想する簡素な生活を楽しんでいたので、大規模な僧院(精舎)の生活はまだ始まっていない。
「墓地」という記述があるが日本人が想像するものではなく、墓石を立てずに森の中に死体を投げ捨てておいて腐るのになかせ鳥が啄ばむままにさせていた。
今でもインドで墓石を立てるのはイスラム教徒かクリスチャンである。
ヒンドゥー教徒は墓をつくらず遺骨を神聖な河に流してしまう
そうでなければ遺骸をただ捨てておく場所を墓場と読んだ 当然、動物が集まって来て肉を食うもったいないしいつ食えなくなるか分からないから
飢えた人間も食いに来ていたかもしれない
縁起=因果の連鎖の繋がり
霊魂の存在を否定も肯定もしない。民間の霊魂の信仰は認める立場。ギリシャ人のように体から出入りする空気=霊魂、とは考えない。
五蘊
=物質的な形、感受作用、表象作用、形成作用、識別作用
象は兵器だった。象に酒を飲ませて鞭をあてて突撃させたらしい
怖い
祖霊の前に供物を捧げるなどして御先祖様を敬いなさい
妻に物々交換や換金のために、貴金属・腕輪・イヤリング・指輪などをあげて財産を、夫の能力に応じて持たせよ。
※南アジアの国々では国家に対する信頼があまりない。釈尊は税を取る国は泥棒だと言っているほどだ。自分の銀行に預けるのだ。お金ができると実体のある価値ある物と交換し、それを預けたり、自分で身につけたりするのだ。支配者層がやっていることだから本当に賢いね。
『ダンマパダ』
うらみ 怨み やむ 息む
“実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。”p.224
スリランカ(旧セイロン)はサンフランシスコ条約に参加したが日本からもらえる賠償権を放棄したときの声明にこのことばを引いている。
・真の自分と言うのはどういうものかと探究するのが原始仏法の課題あるいは目的と言える。我(アートマン)が無いとは決して言わない。無我説とは「我執を無くせ」という意味
・戒名でよくある、
~居士 居士=社会的に信用のある資産者。
死んだらこの人は信用ある金持ちですって意味の戒名(原始仏教では勿論戒名はない)をつけられるのか。
欲望まみれ。正に金に対する「愛」=執着、に溢れていますね!
『サンユッタ・ニカーヤ』
では「祗園」と漢訳仏典で訳されているジェータ林という林の園が出てくる。サーヴァッティー市(インドの北の方にあったコーサラ国という大きな強国の首都)の郊外にあったもので、もともとは「祗陀園」(ギダオン)という。「祗陀」(ギダ)とはコーサラ国のジェータという太子(皇太子)のことであり、祗園とはその太子の持っていた園(林)という意味だ。祗園=ZION=ジオン、ザイオン、とする日ユ同祖論でしばしば言われることは完全な間違いである。祗園は略称であり、祗と園は本来隣あっていなかったのだから。ジオンという一単語と対応するはずがないのだ。人名+林、という意味の言葉がどうやってジオンになるのかコメントで教えてくださいな。あ、まずは冒頭に「イエスキリストは存在しない。ミトラ教、ゾロアスター教、エジプト神話、ギリシャ神話、ギルガメッシュ叙事詩などを真似しまくって作ったのがキリスト教。大本教など神道カルトはキリスト教の変形で日本に合わせて変えただけ」って書いて下さいね。
要は、ユダヤ陰謀論を唱えるクリスチャンと神道家はお断りってことです。
おまけ。生き残るために他の宗教に偽装した宗教や、
キリスト教が作った「ユダヤという身代わりの生贄」や、
ゾロアスター教ズルワーン派や時間の神々についてなど色々引用。
私はいいものは引用したりしてきっちり残すべきだと考えております。有用な情報は分散して保存しておきましょう。紙媒体で、電子媒体でなどなどいろいろな形式でね。
ヒトラー「「政策とは今作られつつある歴史のことだ」
ピンク‐グラレム@pinkglalem
@pinkglalem
“キリスト教は極々初期の段階からテロ教団でした。アレキサンドリアの図書館を破壊したのも彼ら。アレキサンダーは、ペルセポリス占領後、様々なモノを持ち帰っていました。それらをどーしても地上から消し去る動機がキリスト教にはあったのです。”
“逆に面白いのはシーア派の存在。こいつらはイスラムではないです。イスラムに偽装することで生き残ったマニ教。”
“ゾロアスターからミトラ教が派生し、その後、バビロニアでマニ教が誕生する。ゾロアスター・ミトラ・マニの劣化コピーが、ユダヤ・キリスト・イスラム。三大経典宗教は、実はインチキ。”
“モーツァルト の歌劇 「魔笛」は、舞台はエジプトになってるンですけど...キリスト教が行なった魔女狩りへの告発。夜の女王(教会)とザラストロ(ゾロアスター教)のどちらが善で、どちらが悪なのか?という内容。真実を見破ったタミーノは自分の思いを成就させる。”
“フリーメイソンの教義どうのこうのという話とは、まったく関係がない。”
“魔女狩りの動機は、ゾロアスター教の根絶にあった。本当はユダヤ人でもないアシュケナージがなぜ、迫害の対象になったのか?キリスト教はミトラ教のパクリ。ユダヤ教はゾロアスター教を似せて作った。キリストの死の責任を糾弾する理由は、ゾロアスターそのものへの攻撃動機。”
“イスラムにはシーア派ってある。大多数のスンニ派との違いは、イマームの継承問題。WIKIにもそーとしか書いていない。ところが、地図で分布図を見ると...サッサーン朝ペルシャ時代にゾロアスターからマニ教が派生するンですが、シーア派の分布はこの生誕地と合致します”
“宗教って、全部インチキだと思う。タリバンがバーミィアン遺跡を破壊した。偶像崇拝は邪悪だとの理由。キリスト教とイスラム教は偶像を禁止している。なぜ?自分たちの素性がバレるから...”
http://twilog.org/kenkatap/date-0318
ピンク‐グラレム@pinkglalem•5月6日
“キリスト教はミトラ教のパクリであり、それを隠すためにゾロアスター・ミトラ・マニをモデルに、ユダヤ・キリスト・イスラムと言うインチキ宗教を造った。そして、本家のゾロアスターを弾圧した。”
“イスラムはマニ教がモデルで、シーア派は、イスラムではなく、偽装して弾圧を逃れたマニ教。アシュケナージはゾロアスターを信仰していたヨーロッパ系の白人種で、ユダヤ教徒でもユダヤ人でも、カザール人でもない。”
https://twitter.com/lanekota/status/464169608153280514
ピンク‐グラレム@pinkglalem • 5月6日
ヒットラー「大衆は小さな嘘には騙されないが 大きな嘘にはたやすく騙される」#ユダヤは捏造された民族 #ユダヤの陰謀は存在しない #存在するのはキリスト教の陰謀 #あらゆるカルトをバチカンが支配している #陰謀論者はこの大きな嘘を吹聴する工作員
ピンク‐グラレム@pinkglalem • 5月6日
合理的に考えられない人に、何を言ってもムダだろうね。ユダヤは存在しない。聖書はキリスト教が素姓を隠す為に書かれたインチキ本。イスラエルは中東にタカる為のインネン。樺太より緯度的に北にある欧州が、資源や技術・人力のあるアジア・アフリカより裕福なのは金融と言う詐欺をやってるから...
魔法使いハンターねこた@lanekota • 5月6日
@pinkglalem そのためのカルト紐付き陰謀論者なのですね。陰謀論で真相に迫れるかは固定観念に囚われない事が全てですね。キリスト教と大本教は固定観念メーカー
魔法使いハンターねこた@lanekota • 5月6日
@pinkglalem 失礼書き直し。今から2500年前に地中海・オリエント世界を旅したヘロドトスは、ユダヤ人には一切言及してないけど、フェニキア人に関しては呆れるようにいっぱい書いてる。彼はパレスチナにも行ったが、聖書の建造物には何も言及してない。
魔法使いハンターねこた@lanekota • 5月6日
@pinkglalem ユースタス・マリンズの本に書いてあった事で原典確認してませんが、ローマ時代の資料によると、一言だけ、フェニキア人はユダヤ人に名前を変えたとある。フェニキア人の入植地は沢山あってフェニキア人がすぐ消えるわけないです。地中海沿岸全域にありました
魔法使いハンターねこた@lanekota • 5月6日
@pinkglalem 日ユ同祖論は和風キリスト教信者である神道系宗教のひとにとって譲れない信仰心なのですね。日ユ同祖論が河豚計画の政治的プロパガンダと指摘してもダメでした。信仰心には勝てない
ピンク‐グラレム@pinkglalem • 5月6日
古代にイスラエルなんて国は存在しなかった。ユダヤとは、キリスト教の悪事を隠す為の方便。現在のイスラエルは、ヨーロッパが地下資源を略奪するための前線基地。聖書は、比較的最近書かれたインチキ本。宗教は人身掌握術が主目的。信じたあなたは、絶対に救われない。ザマー見ろ...www
ピンク‐グラレム@pinkglalem • 5月7日
ヘブライ語を正確に発音・会話出来るのはイエメンユダヤ人だけ。セム語族でも話せるのはマレ。現代ヘブライ語は、明らかなヨーロッパ語のニセモノ。#ユダヤは存在していない。#聖書はインチキ。#カザール人はアジア人。
両性具有のキリストfromエジプト【20090627】http://www.mkmogura.com/blog/2009/06/27/245
On 6月 28th, 2009, kG さんのコメントより。
“>東方ミトラにさえ追い出された、魂も墓も必要としない起源仏教が伝わるこの日本に、これに対抗する考えと思想が生まれてきますように。
最初期の仏典であるスッタニパータ(ブッダのことば)を読んでいると、「犀(さい)の角のようにただ独り歩め」というフレーズが繰り返し登場します。
中村元氏は、「犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶にわずらわされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって、暮らすようにせよ、の意である」と述べています。
しかしながら、この解釈では、神学の領域に入ってしまいます。
これは正確にいうと、犀(khadga)ではなく、塞(サカ)もしくは客家(ハッカ)。
つまり、(遊牧騎馬民族出身の貴族である)シャカ族から飛び出した私のように、財産や利益の確保などに煩わされることなく、孤高を歩めよ、という意味が正しいのだと思います。“
子子子子子(ねここねこ)@kitsuchitsuchi·4月24日
@lanekota @wayofthewind 妹が兄に近親相姦的愛情を持つアニメを流すのは近親婚推奨のゾロアスター教の宣伝?陰謀モノの時間操作能力やタイムマシンはゾロアスター教ズルワーン派(拝時教)を意識?食事方針についてブログ更新http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-5.html …
魔法使いハンターねこた@lanekota · 5月9日
”ギリシア神話とペルシア神話は二階建てなんじゃないだろうか?表面は多神教的なギリシア神話の話に見せかけて本質はペルシア神話(ヴェーダ神話)。こういう構造の作品がある。FF3とドラゴンランスとロードス島戦記。最近はアラブに見せかけて本質ペルシアという「マギ」という作品があり”
”たとえばクロノスが支配したギリシア神話の黄金時代は、ゾロアスター教のペルシア神話にも、インドにもある世界観だ。黄金の時代、銀の時代、青銅の時代、鉄の時代。ギリシアからペルシア、インドまでユーラシアを通じてインド=イラン系宗教は繋がってるのではないだろうか?”
”ギリシア神話のクロノスは、ペルシアではズルワーンとなる。クロノクロスにも出てきたズルワーン。またクロノスは、ローマ神話のサトゥルヌスとも関連付けられてる。サトゥルヌス=サターン=土星は時を教えてくれる星だったそうな。”
”ギリシア神話のクロノスは、ペルシアではズルワーンとなる。クロノクロスにも出てきたズルワーン。またクロノスは、ローマ神話のサトゥルヌスとも関連付けられてる。サトゥルヌス=サターン=土星は時を教えてくれる星だったそうな。”
サトゥルヌス(サターン)=ローマの農耕神。農業と時間(暦)の関係は密接。
”ゾロアスター教ズルワーン主義は、バビロニアの占星術とペルシアの宗教が習合してできたものだ。ゾロアスター教には占星術はない。その宗教が西方に行ったらミトラス教になったの。中央アジアのミトラ信仰って占星術の教義あったっけ?”
”ドラゴンランスに出てくる、神になる事を目指す悪の魔術師のシンボルは砂時計だ。すなわち「時」。過去と現在の主という、時を連想させる称号までご丁寧についてるわけだ。リアル世界で「時」という属性を持つ神は少ない。この悪の魔術師のシンボルは間違いなくズルワーンなんだよ。クロノスでもある。”
”ドラゴンランスに出てきた悪の魔術師は砂時計の目をしている。そして彼が神になった最悪の未来では、彼のシンボルである砂時計の星座(この世界では、ローマのように星辰=神なので)が輝いてる。この作品も中核にはペルシア神話、更に言えば大本教にもあるズルワーン主義が潜んでる。”
”大本教の三千世界の建替えはゾロアスター教なんだよ。その中でも宇宙周期的思想を持つので本家のゾロアスター教よりズルワーン主義が近いんだよ?三千年の後に悪が滅びて理想世界がやってくるって話はゾロアスター教の教義なんだけど、昼の時代・夜の時代という区分は、本家ゾロアスター教にはない。”
”うーん、ゾロアスター教ズルワーン主義、内部資料がたった1点のみという悲惨さなんですけど、注釈つけれるようにがんばって内部資料の「ウラマー・イェ・イスラーム」を読みこまなきゃ”
”ゾロアスター教ズルワーン主義は、実はナント、カタリ派の宇宙論にも影響与えまくってる。まあカタリ派がマニ教のグノーシスそのまんまなので、神話を乗っ取るマニ教のイランでの最高神はアフラ・マズダー(オフルミズド)ではなくズルワーンなんだよね。ここにマニ教由来の秘密結社のこだわりが見える”
”神話を乗っ取るのは、マニ教がおそらく世界で一番最初にやったことだけど、大本教やらメーソンの作った宗教は神話を乗っ取るのがお得意。まあイルミちゃんたたきで有名なバリュエル神父(イエズス会なw)がイルミちゃんをマニ教のグノーシスと認定するのも無理はないわなww”
”GDの祭文にある「聖なるかな、光と闇の主よ」という一文があるけど、これリアル世界で光と闇の主という属性を持った神はズルワーンくらいしかいねえよwwwGDってカバラーなのに不思議だなあ?”