fc2ブログ

読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

08 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 10

ブッダ「女性と目も合わせないニートになれ」『だから仏教は面白い!』『仏教思想のゼロポイント』『阿頼耶識の発見』 

カルヴァン派派生の日本の労働教(安息日なし)は仏教が大嫌い。
釈迦「女と目も合わせないニートになれ!」
仏教はニートを否定しない。
流布している無量寿経はキリスト教に都合がよい改竄箇所あり。


∸――
狼たちは知っている‏ @wolvesknow 2015年12月26日
三略も六韜も孫子の兵法も、曹操が注釈をつけた分の兵法も、全部読んだけど、たしかに、この視点から陰謀論を語る人はいないんだよね。皆、耶蘇教の匂いばかり。耶蘇教的なんだよ。リチャコシ、カレイド、フルフォードetc。で、仏法にお詳しい菊池氏は、よく絡まれるしね。わかりやすい奴らだな。笑




ymmr‏ @kh_yama 2011年7月15日
講談社現代新書 「『神道』の虚像と実像」(井上寛司)、読了。神道はもともと中国の「ジンドウ」で、仏教下の神々を指す仏教語、それが14世紀に日本で「シントウ」へ転換した。神社、国家神道の成立プロセスを明快に解説しており、非常に面白い。良書です。


この「神道」が室町期、十四世紀ごろの日本で、清音表記の「シントウ」へと転換したのであって、それは「神」の語の集合名詞から抽象名詞への転換にともなうものであったと考えられる。(マーク・テーウンの指摘)
室町時代、天台宗の僧良遍が著した『日本書紀巻第一聞書』の冒頭で、当時「神道」は「ジンドウ」と濁音で読むのが一般的であったが、良遍はこれを「シントウ」と清音に改めるべきだと強調していると。

ねこた‏ @lakudagoya 2016年2月16日
違いのわかる陰謀論ってコーヒーの宣伝かよって。で、耶蘇教信者は仏教と耶蘇教は同じなんて、またまたマニさんみたいな事言っちゃってるけどさ
引用《西洋思想すべて「ゴッドや不滅の霊魂など、永遠の不変の超越的なものが実在する」
仏教「全部、妄想だね」》

これのどこが同じなんだよ教えてくれ

ーーー

理性は神秘的だという思想をスピ系は嫌う。
スピ系を否定する啓蒙主義派閥が崇めているのが理性だから。
啓蒙主義の百科全書派は、
「百科事典=言葉で定義が書いてある
でわかるように言葉を重視。
スピ系は言葉を軽視するわりに、スピの言葉で書かれた教義から全く自由でないのが泣けてくる。

仏教は理性「も」非理性「も」重視で両者の中道が目標。


仏教は偽物対策に、
これがなければ仏教ではない三要素(または四要素)を定めており、
三法印(四法印)という。
仏教カルトが抜いたり、弱めたりしているのが三法印(四法印)。

“三法印とは
①「諸行無常」=万物は常に変化し一定の物は無い。
②「諸法無我」=存在するすべてのものは実体がない。
③「涅槃寂静」=輪廻の苦を抜け出せば煩悩に迷うことのない境地に至る。
この三法印に、「④一切皆苦(すべては思い通りにはならないという人生の実態)」を加えて四法印とする場合があります。
四法印とは「物事は常に変化しており、それ自体で存在し続けるものはないのに、ずっとあり続けると錯覚し、執着して苦を招くことになる」ことを戒めるものです。”
(14)仏教の本質とは
http://shukyo-kataru.com/archives/31

∸――

(大乗)仏教の定義=三法印or四法印を中核とする思想。
仏教三(四)大中核
=三法印or四法印を否定する思想は仏教ではないです。

仏教四大中核
⓵変わらないものは何もない
(不変のゴッドや一者なんて妄想)

②あなたも私もそれ以外もそれぞれが「構成要素の関係によって成立(=縁起=空)」している。
あなた以外の存在抜きの「独立している、絶対に変わらない『あなた』の実体(本体)」なんてない。
(あらゆる存在に「不変の本体」なんて存在しない
=西洋思想の中核の否定)

③欲望を消して安らかになることが最高の幸せ
(愛は欲望なので悪。つまり愛の神✝は悪魔)

④苦しみではないものはない。
欲望を満たした直後の満足感ですら、永続せず新たな苦しみの原因となるから結局は苦しみである。
(絶対善は妄想。よって悪の要素ゼロのゴッドなんて妄想)

絶対に同じではない、仏教を十字と新十字と同じだと叫んで統合する「ふりをして四法印の要素だけを抜いて仏教を殺す」ことをやっているのが今の支配層。

“四法印(しほういん)(…)に反するものは仏教ではないとされ、昔から仏の真説かどうかを判断する基準とされてきた。

諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)、一切皆苦(いっさいかいく)、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)、の四つを四法印といい、一切皆苦を除いた残りの三つを三法印(さんぼういん)という。これらはもちろん仏法を流布するときの旗印でもある。

     諸行無常

第一の法印の諸行無常は、あらゆる現象は絶えず変化しており、一瞬たりとも同一ではない、ということである。

諸行は、認識できるすべてのもの、縁によって生起したあらゆる現象を意味しており、もしも諸行が一瞬であっても変化せず同一であれば、永遠に変化は起きないことになる。なぜなら前の一瞬に変化せず同一であれば、次の一瞬も変化せず同一でなければならない。それでなければ同一とはいえないからで、するとどこまで行っても変化は起きないという理屈が成り立つのである。
(…)
諸行無常は特別の証明を必要としない、日常経験している目前の事実でもある。
(…)
諸行無常から老病死の苦しみも生じてくるが、無常は悪いことばかりではない。子供が誕生して成長するのも、作物が成長して実りの秋を迎えるのも、願いごとが一歩一歩成就していくのも諸行無常だからで、良いとか悪いとかの価値判断は諸行無常に含まれていない。
(…)
    諸法無我

第二の法印である諸法無我は、「認識できるすべての存在は我ではない」ということで、諸法は諸行と同じことを意味しており、我は「不滅の我」を意味する。

諸法が無我であるのは、諸行が無常だからで、変化する世界の中に、変化しない自分など存在しないということである。
(…)

     一切皆苦

諸行は無常だから、諸法は無我であり、そして一切皆苦である、と第三の法印へ続く。

自分というものが、常住なる存在であれば老病死の苦しみは起こらないはずだが、無常なる存在であるため変化にともなう苦に付きまとわれるのである。そして苦の代表として四苦と八苦が説かれる。

人生には楽しいこともたくさんあると思いたくなるが、迷いの生活は一切が苦であると仏教は説く。煩悩のためにあらゆることが、悩み、もめ事の原因になるからである。

無常によって生ずる苦はすべての生き物に与えられており、自分だけが苦しんでいるのでも、人間だけが苦しんでいるのでもない。だから苦を見つめることから、すべての生き物に対する思いやりの心が生まれてくる。したがって苦は慈悲のタネといえるが、修行によって滅すべき対象でもある。

     涅槃寂静

第四の法印は、「涅槃は寂静にして無苦安穏(むくあんのん)なる理想の境地である」という涅槃寂静である。

涅槃は「吹き消すこと」あるいは「吹き消された状態」を意味し、吹き消すべきものは苦の原因となる煩悩の炎である。

「むさぼりの炎、いかりの炎、愚痴の炎が、とこしなえに消えた状態」、それが涅槃寂静の境地であり、そこに真の楽があるということから寂滅為楽ともいう。ここが仏教の最終目的地なのである。

煩悩の炎は我に執着することから燃え上がる。我に執着する心を、我執(がしゅう)とか自我の迷執(めいしゅう)といい、これが迷いと苦しみの根っこである。自分の車の中はきれいにするがゴミは外に放り出す、というのも自我の迷執のなせるわざである。

無常であり、無我であるのに、その道理を知らず一時の借り物でしかない体を、これが自分だと執着することから老病死の苦が生じる。

その執着の対象となる我というものは、どこにも存在しないのだから、我執を捨てて煩悩の炎を消しなさい、そこに本当の安らぎがある、というのである。

悟りを開いても老病死を避けることはできないが、そこから生じる心の苦しみは解決できる。苦も楽も心が作り出しているからで、迷いをはなれた人にとってこの世は苦に満ちた世界ではない。”
http://www7b.biglobe.ne.jp/~zuiun/45houin.htm

∸――

両建て。弁証法といえば、
実在論(本当は~、真の~。絶対形而上)
VS
反実在論(形而上絶対否定or無記)

もそうかもね。
反実在論が仏教系。
でも仏教も涅槃は諸行無常の法則から外れている(有為法と無為法)ので、絶対形而上完全否定ではない気がする。
絶対形而上の定義が、人間が至れない、不変常住なら完全否定。
涅槃は人間がいたれる。涅槃も空。
実在論いっちゃうと間違いなく執着になるから無記だったのでしょうね。
そもそも仏教も輪廻(生とは個人の一生のことではなく永続する!)という実在論が大前提だし。
大乗が絶対形而上要素
(戒律とか涅槃とか、諸行無常でも変化しない善と悪行がある点)
を入れているのは、個人的救済から大衆統治用に改造した結果でしょうね。
だって原始仏教通り「いかなる意味でも生産するな」だと亡国まっしぐらだし。
だから儒教と道教を入れた。

実体思想も否定し、仏すら絶対的存在ではないとする仏教こそが真の啓蒙主義で理性主義でしょう。
宗教の世俗主義って要は本人に意識させずに潜在意識に宗教思想を刷り込むってことだから害悪。
だって「無宗教です」と平然と言えるレベルに無知ならそりゃあ騙されるよね。
宗教の世俗主義って「本人の自覚なしに潜在意識に刷り込んで操れ!」ってこと

無宗教ですって平然といいつつ異教を迫害する労働教を見ると自覚無いのはまずい。
世俗主義って幼児洗礼とか生まれたときからカルト教団に登録みたいな害悪なのでは?

スピって戒律を誓うことがない
=信者が暴走することを防ぐ装置がない、
よって悪意で作られた欠陥品。これもステルス化の害。

仏教、密教、バラモン、ヨガ(大衆化でない方)などでやる、
「人前で自分で声に出して戒律を誓うことで強固な縛りをかける技術」を抜いている時点で悪。
せめて本の冒頭に悪用禁止、健全な道徳を持って活用しましょうぐらい書いとけ。
儒教取り入れた時に「易姓革命=徳がない道徳失った君主は殺してOK」を消したかどうか気になる。
現在の儒教カルトは易姓革命を抜いてあるからね。
これ戒律抜いた仏教カルトと同じだからね。
権力者に道徳を守らせる防御装置抜いたらカルト確定。
カルトの作り方マニュアル。
道徳を抑える要素を抜け。



∸――

多くの嘘を見抜ける一つの知識を与えられるようにしないといけません。
勉強時間は限られていますから。
たとえば、仏教は縁起さえわかれば他もわかります。
無常・苦・無我は、縁起を三つの仕方で表現しているだけ。
だから縁起説の勉強をまず重点的にすべきなのです。
縁起説はスピのような盲目的信仰を否定します。
縁起説はなにごとにも原因があるという教え。
だから法則があるという発想につながります。
そして、原因(成立条件)があるのだからそれはそのうち失われるから永続しないということがポイント。
つまり空と諸行無常。





魚川祐司『だから仏教は面白い!』(講談社α文庫)

・仏教は「ヤバい」。
釈迦の仏教にとって人間が正しく生きる道が目的ではない
ことを仏教史全体の理解を歪ませないために、絶対にごまかしてはいけない。
が、別に優しくて健全な人になるなと教えているのでもない。
これらは副次的なものであり、本来の目的ではない。
なぜなら、ゴータマ・仏陀の教説の最終目的は、社会の中でうまく振る舞うとか役に立つとかいったことを「すべて乗り越える」ことだから。

だから釈迦は最初は説法するのを躊躇した。「世の流れに逆らうもの」だから。
が、梵天が説法してくれるようにお願いした。
なお、神といっても輪廻転生の枠内にあるのでブッダよりは格下。

世の流れに逆らうもの
=「女性と目も合わせないニート」になれ!
=ブッダは生産と生殖を禁じた、
という点で現代社会における常識的な価値観を真っ向から否定する「脱社会」志向。
しかも、セックスだけでなく、女性と会話したことを思い出すことも禁止。
そのうえ、修行の結果、来世において感覚的快楽にあふれた天界に生まれようと望むことも禁止(今生ではあきらめても来世に感覚的快楽の希望を抱いてはいけない)

(労働禁止+生殖どころか異性のことを考えること自体禁止
=できる限り何も生み出すな!)


・釈迦は輪廻を説かなかった「はずだ」のような「はずだ論」に注意。
最も古いとされる経典にも輪廻思想は普通に出てくる。

・釈迦の教えは非常にシンプルで非人間的。
「私たちは欲望の対象を追い続ける傾向にある。
欲の流れに乗らずに現象をありのままに観察しなさい。
そうすれば現象の無常・苦・無我を悟ることができ、
それらを厭離(おんり。厭い離れる)し、
離貪(りとん。貪りから離れる)して解脱に至る」

(神が登場しませんね。神との合一というバラモン教やグノーシス主義や新プラトン主義と全く違う方向性)

釈迦の非人間的でシンプルな教えが与えてくれる価値とは、
「ただ在るだけでfulfilled」というエートス、ただ存在するだけ、いま・ここに在って呼吸しているだけで十分に満たされているという居住まい方。

・瞑想はバーゲン(取引)ではない。
~時間も瞑想したのだからこれだけの成果が得られなくてはならないとか、
これだけのことをしてきたのだからそろそろ悟らなくてはおかしいとか、
何時間座ればいいんですか~時間でどういう結果になるのか聞くなど、
成果を買うために投資するというのはおかしい。
瞑想は投資の手段ではない。

「有為
=為すが有る
=形成されている、つくられている、造作されている、
条件が合ってそうなっているもの
条件づけられている=conditioned」
(有為の現象世界=世間=世界)

の状態から、

無為
=形成されていたない、つくられていない、造作されていない、
条件付けられていない=uncondisoned」
状態=涅槃に至るのが目的。
(有為を超出した境域=出世間)

いろは歌の「有為の奥山 今日越えて」とは、
条件づけられていて、ゆえに無常である有為の現象を乗り越えて、無為の涅槃に至りましょう、という意味。

(とが云々で無理やりキリスト教の歌にしようと工作している詐欺師がいますよね)

仏教の最重要概念である
苦(ドゥッカ)
=不満足
=unsatisfactoriness

インド文化圏では輪廻転生は「事実」なので、苦は現世だけでは終わらない。

・仏教の根本は、
縁起=原因によって結果が生ずる
Aという条件があればBがあるなら、AがなくなればBもなくなる、という因果関係。
縁起とは「縁」りて「起」こる
=ものごとは原因・条件によって生じる

というそれだけの意味。あくまで基本的にはそれだけの意味。

仏教の迷い
=悪い癖がついてしまって、わかっちゃいるけどやめられない状態。

原因と先行する条件があるから迷いがある。
だから先行する条件(原因)をなくせば、のちに来る結果も生じなくなる。
苦には原因があるからなくすことができる。

(原因と成立条件があるから不変のものはない。だからゴッドを否定。
縁起は希望でもあります。原因を消せば苦しみを消せるのですから。
不変の絶対存在=苦だったら絶対に消せませんからね。
不変の絶対存在が苦の原因でも苦は絶対に消せないことになります。
原因が永遠にあるのだから。
縁起は良いものもいつかは消えるが悪いものも消せるということです。
原罪って絶対に消えない設定だから悪質。
原罪を創った張本人に「ゆるされる」だけだし)

・無我
=ずっと死ぬまで変わらない私というものはない。
なお。個体性のレベルでの私という概念は存在する。
が、「変わらない本当の」私は存在しない。
伝統的用語で言い換えると、
常一主宰の実体我。
常=常住(無常の逆)
一=単一。
主宰=コントロールする能力がある
∴常に存在し続けている単一のもので、
実体として他から規定されることがないゆえに自分に関してはすべてコントロールできる存在
=アートマン。

ずっと変わることがなく、自身をコントロールできる実体=アートマンを否定。

苦行したり瞑想したりして
「常一主宰の本当の私、実体的な私、アートマンというものがあるはずだから探そう」
とがんばってもアートマンは少なくとも現象の世界の中にはないよ、と説いたのがシャカ。

(あなたの「不変の本体」なんてないってことです。
実体=絶対に変わらない本体。
変わらないものなんて存在しないから実体なんて嘘。
あなたの本体なんて存在しない
といったのが仏教。
実体
=存在するのに他の存在を必要としない存在、
それ自体で存在している存在。
キリスト教のゴッドみたいなもの。

自分探しカルトの教義の「自分」ってアートマンでしょ?
仏教では自分探しは絶対に失敗すると説くのです。
自分「なくし」が目的ですからね。
便宜上の「私」は、いま・ここにいます


・苦なるものは無常である。
苦=不満足=思い通りにならない。

色(身体)が我であるなら、自分でコントロールできるはずだから病気になるはずがない。だから無我。
「私」を含めた現象は思い通りにならない。
が、
経験我
=変化し続け流動し続ける認知のまとまりという現象(諸行)として存在しているものをとりあえず「自己」
と呼んでいるもの

「己こそ己の主人」「自らをよりどころに」の「自己」は経験我のこと。


無記
=回答を与えないこと、説明されないこと。
釈迦が形而上学的な(抽象的で哲学的な)質問をされたときに基本的には沈黙して答えなかったこと、あるいはその回答されなかった問いのこと。
そういった問いは無益で涅槃へと導かないからと釈迦は言う。
そういう問いを受けた時は釈迦はいつも答えずに代わりに悟りにつながる縁起や四諦の話をする。

「そういう形而上学的な話をしたって、それを一生懸命考えても解脱に至ることはできません。
だから私はそういう話はしない。あなたはまず縁起の理法を理解して、それで涅槃に到達しなさい」
という感じ。
霊魂と身体は同一であるか、異なるかなどの質問には絶対に答えない。
我はあるか、と聞かれても沈黙、
我はないのか、と聞いても沈黙。
釈迦「もし我があるといったとしたら、常住論者になってしまう。
もし、ないといったとしたら、断滅論者になってしまう。だから私は応えなかったのだ」

常住=常見(世界と自分がずっと存在し続ける。実体我はある)

断滅論=断見
(世界と自分の断滅=無になる、死んだら終わり、自己というものは一切なくなり無になる)

常見も断見も邪見=誤った見解。
死んだら無になる、は仏教では明白に誤り。

釈迦は現象の世界の諸要素については常一主宰の実体我は存在しないとはきっきり主張するが、
現象世界を乗り越えたところに我は「ある」とも「ない」とも絶対に言い切らない。


(仏教はニヒリズムではない)


・カルマ(業)
=(ある種の潜在的な余力、ポテンシャルを持つので必ず結果をもたらす)行為
後に結果をもたらす働き。

やったら終わりではなく残されたポテンシャルが後に必ず結果をもたらす
のが業。
輪廻思想と合わさり、蓄積された潜勢力に縛られているのが衆生。
生まれ変わるので別の個体性(前世が幼虫なら今回はさなぎで来世はガのように)をもつが、カルマは前世から引き継がれる。しかし全体を俯瞰すると同じ虫だともみなせる。
無我なのに輪廻するのではなく、無我=実体我がないからこそ輪廻する。

輪廻に主体はない。何が輪廻するのかという質問はおかしい。カテゴリーエラー。
個体存在の固定的な核、実体的な魂を想定し、その魂が次々と器としての体を乗り換えながら存在を保っていくというイメージは間違い。
後に結果をもたらす業が現象を引き起こし、それが更なる業の条件となり次に新しい結果を生むことをひたすら続いているプロセスを輪廻
といういう。


(バラモン教もバラモン教がモデルのスピも「本体」がある輪廻)

「世界」(世間=ローカ)は
我執が焦点となって形成された欲を伴い貪りに染まったイメージによってできた物語。
目の前のイメージがありのままの事実だとみなしてしまう。つまり世界とは仮象=脳内世界。
凡夫が勝手に作り上げた仮象の「絶対的全体」が「世界」なので、
釈迦の立場ならそれが「有限か無限か」という質問はカテゴリーエラー、的外れ。
仮象にすぎない世界を現実存在すると勝手に思い込んだ上の質問だから答えようがない。
だから
「君は絶対的全体としての世界が現実存在するという前提で、
それが無限か有限か質問しているけど、
そもそもその問いが成り立つ、意味をもつのは君たちが五蘊のような認知の構成要素を「我」だとみなしてしまい、
その我執ゆえに「世界」という仮象を形成していまっているからである。
だから君はそのような問いを問うのだし、そして外道の遊行者たちはそのような仮象の世界について自分が何かを確定的に言えるかのうように思いなして、それで世界は無限だとか有限だとか回答してしまう。
が悟った如来は我執をもたずにありのままに見るのからそのような質問に答えたりはしない。
いつまでたっても世界にたどり着けず解脱もできない、勘違いだよ」


釈迦は認知を転換するための実践的方法を教えた。
説明して理解をもたらすのを目指すのではなく、目の見えない人が目を開いて見えるようにする方法を教えた。
見えない人に色とはこういうものだと説明を続ける教えではない。本人が視覚能力を得て目を開き自ら色を確認できる方法を説く。
だから形而上のことには無記。
目をぎゅっと閉じている人が「私は絶対に目を開けない。その私に色の存在を証明してみろ」
と言われて、そんな人に教えるのは無理。
釈迦は「そういう話も議論もしない。私が教えるのは目を開くための方法であり、やりたいならちゃんとやりかたを教えるのでそれをやりなさい。やる気がないならほかに行きなさい」


群盲象をなでるであるように、見えない人が象とは太い柱だ、ほかの人はホースのようなものだ、ほかの人はペラペラの団扇だと考えるとする。
彼らが象とはなにかを議論しても決着はつかない。
それぞれしっかり経験した、その事実にもとづいて言っていると主張するから。
三つの中に正しい答えはない。どれも間違っている。事実であり現実である象に固執していたとしたら、その認識を否定したうえで正しい象について言葉で教えるのは難しい。
だからそのような質問には決して答えずに、代わりに目を開くための方法を教える。
視覚能力を獲得して象を観察すれば説明による余計な混乱や誤解を招くことなく一目瞭然に真相がわかる。

己の欲望を伴った認知=顛倒し歪められた認知に基づき、
如実(ありのまま)ではない仮象の世界を形成し、
それを実体視したうえで世界は有限だとか無限だとか無益な議論を続けている。
欲望によって形成されたもろもろのイメージが世界という絶対的全体を構成していることを無意識の前提としたうえで、
世界は有限か、
無限か、
有限かつ無限か、
有限でも無限でもないか、
これら四つの論理的可能性の中に答えがあるに違いない、と陥ってしまう。
この欲望を伴ったイメージで作り出される物語は事実的世界そのものなので、
そこを説得してなんとかしようと釈迦はしない。
だから無記=答えない。
代わりに縁起や四諦を説いて彼らを如実知見(ありのままに知り見る)
の認知
へ導こうとする。



(無記の理由を書いている本は意外と少ないのも本書をお勧めする理由。
おっぱいの個所は省略♡

象のいろいろな場所を触らせたら解決するのでは? 釈迦は他の部位も撫でなさいっていうのかな。

ニー仏 ‏@neetbuddhist 2月6日
「ゴータマ・ブッダと言っていることが異なる」ならば、その仏教は直ちに「間違っている/無価値だ」と考える人は多いのだろうな。「その種の言説は不毛だ」ということを、私は『仏教思想のゼロポイント』や『だから仏教は面白い!』で、繰り返し述べてきたわけだけれども。

水遊 ‏@mizu_asobi欲望の対象も、欲望する気持ちそれ自体も、縁起の法則に従った無常のものとして、常に流動・変化を続けている。…苦を生じさせないためには…欲望の対象を歓喜して迎え入れ、執着し、喜悦を生ずることをやめればよろしい。『だから仏教は面白い』




∸――

名著『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』(新潮社)

・釈迦の推奨する理想の生活は現代日本では健全とはいいがたい。
慈悲思想も私たちの想定する「やさしさ」とは似て非なるもの。
そもそも科学性や合理性がお好みなら仏教の本ではなく自然科学の本を読めばよいし、仏教を学ばなくてよい。
仏教に現代思想としての価値があるとすれば世の流れに沿った言説とは真逆にこそ存するはず。
釈迦の教えは人間が放っておけば自然に向かっていく流れの方向に真正面から逆流することを説く、非人間的な教えである。

・盲目的な癖を止める=悟り。

・原因によって生じたものごとは全て滅すると如実知見(ありのままに知る)するのが仏教理解のはじめである。
仏教では凡夫が経験するものごと、現象はすべて原因(条件)によって形成された一時的なものであり、実体を有さない。すべての現象は原因(条件)が寄り集まって起こるものであり、ゆえにその原因(条件)がなくなれば消滅してしまうものである。
全ての現象は原因(条件)によって形成されたものであり、したがっていつか必ず消滅するということ説くのが縁起説。

縁起とは縁りて起こるという字義通りの原因(条件)があって生起することを述べたシンプルなもの。
釈迦の仏教について考える際には、常に縁起をこの原義から把握するのがおそらくいちばんあやまりがすくない。

無常・苦・無我は三相と呼ばれるが、縁起を三つの仕方で表現しているだけ。
色(物質)は無常。無常なるものは苦。苦なるものは無我。
同じ事態の異なった表現。
縁起によって形成された現象は無常。
原因や条件で生じたものは実体なき一時的現象にすぎず、因縁が消えれば滅する。
よって常なるものでは無い=無常。

苦(ドゥッカ)は苦しみというよりは終わりなき不満足。
輪廻思想が前提なので、苦は一生の問題どころではない。

無我
=自分の所有物ではなく、自分自身ではなく、自分の本体ではない
=自分の支配下になく、コントロールできない。
色(身体)が我ならば病気になるはずはないし、私の体はこうであれと命じることもできるはず。だが実際はできない。ゆえに私ではないし、私の我ではない。
苦であるものは無我である。
不満足(苦)=思い通りにならない(無我)のであなたの本体でも所有物でもない。

・私たちは心にふと俯瞰で来る欲望に対して思い通りに従うことを思いなしがちである。
しかしカントによれば、そのように感覚に依存した欲求にそのまま従って行為することは単に人間の「傾向性」に引きずられているだけの他律的な状態に過ぎず、自由とは呼べないものである。
心にふと浮かんだ欲望に抵抗できず隷属してしまうことが恣意の他律なのだから自由とは別物だとカントは考えていた。
仏教でも同様に考える。心に浮かんでくる欲望は私がコントロールして浮かばせているのではない。勝手にやってきてどこか勝手に去っていく。支配下にないという意味で無我である。
内観してみればすぐわかることである。
思い通りに振る舞っていると感じているが、実際は思いそのものが私たちのものではなくて単に様々な条件に従って心中にふと浮かんできたものである。
ふと浮かんできたもの、すなわち無我であるところの欲求や衝動に、それ以外のものを知らないから、ただしたがって行為するしかないのが凡夫にとっての思い通りというものであって、カントに沿って言えば自由ではなく、恣意の他律、仮面をかぶった隷属にすぎない。


・カルマ=のちに結果をもたらす働き。単なる行為ではない。結果をもたらす潜在的な余力を持つ。
衆生が煩悩(惑)と業のはたらきによって苦なる輪廻的な生存状態に陥ることを
惑業苦(わくごっく)と呼ぶ。

・しばしば誤解されていることであるが、釈迦の教説の特徴は
輪廻的生存は苦だから解脱しよう、といったことのみではないことだ。
当時のインドの宗教者、修行者にとって輪廻的生存状態は望ましいことでなく抜き出したいと望む問題意識は多く共有されていた。
釈迦の教説が新しくて魅力的だったのは、苦は原因による必然的結果だが、そこからの解脱は不可能ではない結論したこと、
「私(釈迦)はその原因を見出し、それを根絶できた。私はその方法を君たちに教えてあげることができるし、その通りにやれば君たちも必ず私と同じことができる」
とはっきり語り、真実だと彼の全人格をもって対面する人々に納得させたことである。


瞑想で人格はよくならない。
そもそもどのような人格がよいとか悪いとかされるのはその場の文脈、共有されている物語に左右される。そのような無常の物語に自己を最適化しようとし続けて終わりなき不満足のサイクルにからめとられることから決定的に解脱することがシャカの仏教の目標なのだから、修行者は、世俗的な意味での「物語の中で上手に機能する、役に立つ、人格がよくなる」といった「善悪」からは距離をとっていくことになる。
善悪の基準は物語の世界に属するものであり、解脱とはそうした愛執のつくりだすすべての物語からの解放なのだからその境地には通常の意識の善悪は存在しえない。

日本では大乗仏教の影響で、悟りといえば円満な人格完成者としての仏の悟りのイメージが強いが、
釈迦の指示する目標に向って修行する、あるいはした人たちについてはいえば必ずしも当たっていない。
もちろん、仏教でも世俗的な意味での善行は積極的に推奨しているし、日常のふるまいでも戒律に従うので社会的な悪になることはない。
仏教の教理学では
善=行為者に楽の結果をもたらすもの
悪=行為者に苦(不満足)の結果をもたらすもの

と定義する。

善をなしたから直ちに楽(幸福)を得るわけではないし、悪をなしたから直ちに苦(不幸)になるわけではないことは、みな知っていることである。
が、仏教では業と輪廻を基本とするので善悪の行為は業として後に結果をもたらす潜勢力を残すことになり、いつか必ず発現するから行為者は自分の行いがもたらす結果を輪廻転生の過程の中で苦楽の感受として最終的に引き受けざるをえない。自業自得という仏教用語はこの事情を示す。

・釈迦の言う涅槃や解脱は善も悪も捨て去った
=善とも悪ともかかわりのない、そのような物語から離れた境地、
「苦=終わりなき不満足」から解放された境地であるがゆえに最上の楽であるとされる。
彼が第一に目指していたことは機根(才能)ある個人を苦なる生存状態から解脱させることであって、世界や人々を倫理的に善くすることではない。
別に修行者が善を志向してもよい。脱善悪ではあるが、反善悪ではない。
涅槃の障害にならないなら自他に楽をもたらす善の行為は積極的に推奨してかまわない。
仏教の本質が脱善悪であり反善悪ではないことはその倫理観を理解するうえでとても大切なポイントだ。
善悪を否定するのは一種の囚われであり、それを超克した境地を目指す以上、修行者が日常の世間で善行することを否定しない。他方、自業自得なので悪なる行為は苦の結果をもたらすので苦からの解脱を求める仏教者が避ける理由はある。
仏教は素朴な功利主義にもとづいて、
悪行為はあなたに不幸をもたらすし、善行為はあなたに幸福をもたらすから、悪をなさずに善を行いなさい
と勧めるのが仏教倫理の基本。

社会と対立しないための律は
無産者=僧侶の集団が社会の人たちから
「この人にはお布施してもよい」と敬意を受けつつ活動を続けるために必要な
「僧侶としての格好良さ」を維持するための行動マニュアル。
出家者は労働と生殖をおこなわない無産者の集団=サンガが残っているのは、俗世間との対立を極力起こさぬように配慮しつつ定められた律の賜である。


・釈迦が無我という場合、世界内の現象の一つ一つを挙げて、内面的なものでも外面的なものも我ではないと言っているが、ならば我は絶対的な意味で非存在だと主張するかというと、彼自身は沈黙を守っている。
ゴータマ・ブッダの無我の説き方は常に私たちに認知できる世界内の現象の一つ一つを取りあげてそれらをanattan(無我の原語)だと指摘していくやり方である。
このanattanは無我(我がない)とも非我(我に非ず)とも解釈可能。
非我だとしたのが有名な中村元の非我説であり、彼曰く、釈迦は同時代の他の宗教者・修行者たちが求めたウパニシャッド的な我は否定したが、真実の自己としての我の存在は認めていたということになる。
中村の説は厳格な無我説(我はあらゆる意味で存在しないとする説)を奉ずる仏教者・研究者からは評判の悪いものだが、釈迦の無我の説き方にはそう解釈する余地があることは認めねばならない。
本書の著者は非我説を支持しない。
経典によるかぎり、釈迦は我はないと言い切ることに否定的だが、同時に我があると言い切ることにも明確に否定的だからである。
基本的なことだが、仏教では
常見
=世界は常住不滅で人が死んでも実体的な我が永久に存在し続ける

断見
=世界や自己の断滅を主張し死んだら無になる

明確に否定
している。
絶対的な実体的な無我も有我もともに否定される。
釈迦の我の存在・非存在に対する態度は、ほかの形而上学的な問題に対するのと同様に無記=回答や明記されないこと
であったと解釈するのが妥当。

・無我だからこそ輪廻する。
仏教の輪廻は蚕の変化のようなもの。
幼虫から蛹になり、蛹より蛾になる。
外見はまったく違っているが、同一の虫の変化である。
幼虫と蛾は同じとも異なるともいえず、変化したとしかいえない、という比喩がわかりやすい。
輪廻とは原因や条件によって引き起こされ続けている縁生の認知のまとまり、継起する作用の連続が、
衆生の死後にはその作用の結果を受け継いでまた新しい認知のまとまりを創る。
転生とはそれだけのこと。そこに固定的な実体我が介在する必要はまったくない。

仏教の輪廻は魂のような実体が様々な存在に生まれ変わっていくといった物語ではない。意識や思いが輪廻するのでもない。
識が輪廻の主体だという主張を釈迦は激しく叱責している。
何が輪廻し続けているのか、という問い自体がカテゴリーエラー、的外れ。
仏教では行為の作用とその結果、すなわち業による現象の継起である。つまり行為による作用が結果を残し、その潜勢力が次の業(行為)を引き起こすプロセスがひたすら続くのが輪廻。
存在しているのは現象の継起だけ。
その過程、プロセスが輪廻=めぐり流れるであり、そこに主体という固定的な実体は含まれていない。
輪廻とは人が死んでそれが別の存在として生まれ変わるという転生の物語ばかりを考えがちだが、
転生の瞬間だけに起こるものではなく、いま・この瞬間のあなたにも現象の継起のプロセスとして生起し続けているものである。転生とはわかりやすい表れにすぎない。

・マハーコッタはサーリプッタに
「六触処(六根六境が触れる場所)が残りなく離貪・滅尽したとき、何か他のものは存在しますか?」
と尋ねるが否定される。
「何もほかのものは存在しないのですか?」
「存在しかつ存在しないのですか?」
「存在するのでもなく存在しないのでもないですか?」
とすべての論理的可能性を列挙して、無記の問いの形式を踏襲するのだが、すべての選択肢は否定される。
マハーコッティッタに対しサーリプッタは
どれを肯定しても「分別の相にないものを分別の相にもたらすことになる」と言う。
分別の相と訳されたのはpapanca(パパンチャ)。
オーソドックスな訳語は戯論(けろん)。
パパンチャの原義は拡大・拡散すること。
そこから分化や多様化も示す。
本来は分別されていないものを分別して境界づけ、多様性を持ち込んで拡散・複雑化させる働きをパパンチャ
と呼ぶととりあえず考えておけばよい。
本来は分別されていないものを分別して複雑化するのだから、妄想、幻想、迷執といった含みも持つ。
パパンチャは戯論(けろん)という訳語にもあらわれているように基本的に悪い意味。
六触処が消滅したときに何か他のものがあるとかないとか言ってしまうと、
「戯論でないもの」を「戯論にもたらしてしまう」結果になる、ということ。
戯論(けろん)が機能しているときにのみ、あるとかないとかの判断が成立するのであり、六触処が消え、パパンチャも消えているならそのような判断は成立しない。
仏教における「世界の終わり」で起こるのは認知の消失ではなく戯論寂滅である。

著者はミャンマーの瞑想センターでウィパッサナーの実践を行っていたときに、
指導する僧侶からしつこく言われたのは「一つ一つの現象をありのままに見よ、イメージを作るな」
だった。
渇愛、煩悩、我執にもとづきイメージを形成し、それにより現象を分別して多様化・複雑化して物語を形成し、
苦なる世界に縛り付ける作用をパパンチャといってよいだろう。

パパンチャの終わりが世界の終わりであり現法涅槃の境地である。

我執が形而上学的な認識につながるのかという疑問には答えが出たも同然。
欲望にもとづき織り上げられたイメージが我という仮象を焦点に全体という像を結んだのが世界という物語。
それはパパンチャが機能している限り存在するが、作用が寂滅すれば存在しない。世界とは仮象にすぎないので、欲望する私の認知とは独立に事実として有限か無限かなんていうのは見当違いの問いなので答えようがない。
だがこのことがわからない人は、認知の諸要素に我執を起こし、それを焦点に世界というイメージを形成したうえで、その像を実体視してしまう。
我執による誤った実体視には気づかないまま、如実の風光からすれば仮象である絶対的全体としての世界について常住だとか有限だとかと判定しているのが外道の遊行者たちであり、だからゴータマ・ブッダは「彼等は五蘊を我であると考えるからそのような問いに答えるのだ」と言ったのである。
我があるとかないとかの質問が無意味なので、そのような質問を受けたときは直接的には答えずに、代わりに苦の滅尽と涅槃に導く、四諦の教えを説く。縁起の理法を知って現象を如実知見し、そうすることで苦と世界を滅せばそのような存在や非存在に関する問いの無意味であることは自然に知られることになるからだ。


『スッタニパータ』に
「世界(loka)における諸々の煩悩の流れを堰き止めるものは気づき(sati)である。この煩悩の流れの防御は私は説く。その流れは智慧(panna)によって塞がれるであろう」と説かれている。
気づき=現状に気づき、自覚的であること。


解脱すると「私は解脱した」との智が生じるというのは経典で何度も繰り返されている仏説の基本である。
決定的な実存の転換は智慧によるが、智慧は思考の結果ではない。
定(サマーディ)の集中力が必要。
戒・定・慧(戒律と禅定と智慧)の三学が宗派を問わない仏教の基本教理。
禅定
=特定の対象に意識を集中(サマーディ)する実践
であり注意力の散漫を防ぐ。

悟りは推論や思考の結果で徐々に到達される概念的分別知ではなく、瞬時に興る決定的な実存のありかたの転換すなわち直覚知である。
多聞第一のアーナンダは釈迦の存命中には阿羅漢になれなかったことで有名。
が彼は第一結集の直前に、前夜に有学のままで参加するのはふさわしくないと気づきの実践を行って過ごしたが、解脱できず、横になろうと体を傾けた瞬間に頭が地に達せず足が地を離れない間にアーナンダの心は煩悩を離れ解脱した。
高度な緊張と絶望を経て、それが緩んだ瞬間に決定的な体験をするのは禅の実践などを行った人にはおなじみ。
アーナンダが解脱する瞬間に彼に起こったことは理性や意志の範囲外の出来事だった。だからこそ心に現実に付随していて何をやってもそこから離れることのなかった煩悩から気が付いたら心が解脱しているという、不可思議(元来は漢訳仏典の用語。仏教用語)なことが起こるわけだ。
理性も意志も長年動員して必死に手に入れようとしてきたものがその努力を手放した瞬間に得られてしまう。


・ミャンマーの瞑想センターでは「釈迦は全てが無常だと言ったが~」
という質問に対して、
「釈迦はすべてが無常だと言ったわけではない」
と注意されるやりとりがされることがある。
縁生の現象である諸行は無常だが、それを超えた涅槃は無常ではないということだ。
涅槃は縁生のものではないので、原因や条件によって形成されたものではないという意味で無為と言われ、したがって無常ではなく常である。
ただしテーラーワーダーは厳格な無我説をとるので常であり楽であるとは言うけれども、涅槃は我であるとは決して言わない。

テーラワーダにおける常であり楽であり無為であり不生不滅である涅槃の把握は、現代日本では「涅槃の実体視」という決まり文句でさしたる根拠もなく否定され、例えば『中論』の引用一つで葬り去られるのが常である。
そもそも涅槃というのは出世間の領域にある無為のものである以上、実体か否かを論じるのはカテゴリーエラー。
涅槃というのは分別の相が存在しないので、あるとかないとかという判断の前提となるパパンチャが寂滅してしまっているのだから、それが実体であるか否かなどと論じることももちろん無意味。なおかつ、現に証せられるものであり、来て見よと示されるものである。


・慈悲と一般的なやさしさは違う。
慈悲には常に「捨」(平静さ)の態度が伴っているが、優しさには伴っていない。
優しさとは他社の喜怒哀楽を感じ取って同調し、それに働きかけようとする心であるが、捨というのはそうした心の働きをすべて平等に観察して、それに左右されない平静さのこと。
捨の態度は悟っていないとできない。本当の慈悲は悟ってからでないとできない。
我執と欲望で織り上げられた物語の世界の中で現実を如実知見しないまま盲目的に利他(だと感じられる)行為をするならばそれは単なるやさしさである。
欲望の物語への執着を離れたところから、我執も他執もない平等なはたらきかけを行わなければ仏教の慈悲にならない。

・釈迦は機根(才能)ある者すなわち語れば理解することのできる一部の者たちをを対象としており、一切衆生を対象とするものではなかった。


---

『阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門』(幻冬舎新書、2011年(平成23年))
横山 紘一(よこやま こういつ、1940年 - )

・心の中に(=心を離れず)脳がある。
この「中」は空間的意味ではない。
すべては心を離れたものではない
=一切不離識(いっさいふりしき)。


・唯だ識(し)るというはたらきがあるのみ。
名詞ではなく動詞で語れ。
諸行無常。
無常なものを名詞によってその一部を切り取り、それが固体的、実体的なる常なるものがあると思い違いをしている。
ここに川があると言っても実際にそこにあるのは水が流れているという現象のみ。
が川という名詞で言うと水が流れているだけでなく、川というものが存在すると思い込んでしまう。
常に変化してやまないものばかり。
名詞よりも動詞で表現するほうが事実に近づく。
心という名詞を使うことで何か変化しない固定された実体ある心があるように思い込んでしまうのではないか。
不変の心は存在しない。
心の代わりに識を用い、しかも識ると動詞で表現したほうが事実に近づく。

唯識はただしきがあるのではなく
ただしるというはたらきがあるのみ。

・目の前の憎い人は実は憎くもないし、憎くもないこともない。
八つの識で色づけられた加工物=こいつは憎い。
この人は本来はただの存在=中性的存在。

相手ではなく相手「に対するイメージ」を見ている。
私のツイッタープロフィールの私の住所は
“あなたの私に対するイメージの中”


戒体(かいたい)
=戒を受ける儀式を通じて深層心に植えつけられる「非情を防ぎ悪を止める力」。
不殺生戒を誓う時、
「汝、生き物を殺さないか」と問うと、
受戒者は「はい」と答える。
この問答を三度繰り返す。
はいと言うだけでなく合掌する。
そして心の底からそうするという強い意志を働かせて請願する。
つまり、身口意の三業によって全身全霊で誓う。
(選民思想、欲望の暴走などを防ぐ安全装置。カルトはこれを抜く)


・唯識無境
=境すなわち外境は存在しない。
厳密な意味では、いかなる意味においても外界にものの存在を認めない。

(自身が一切認識しない要因で死ぬ場合についてはどう主張しているのか気になる)


・自我執着心=末那識。
自分は、自分のという思いが生じる原因。
末那識も阿頼耶識から生じる。
常に阿頼耶識を対象として自分に執着。

「自分」とは言葉の響きがあるだけで無我。

・言葉は対象そのものをぴったりと一致せず、あくまで対象を抽象的に比喩的に言い表すことしかできない。
名詞こそが、実体があると思い違いをさせる原因。
名詞ではなく動詞で語る努力を。


・一切は阿頼耶識=潜在層にはたらく根本心
から作られたものである。

唯識の定義する因縁
=阿頼耶識(=蔵識)の中にある種子。
アーラヤ=貯蔵庫・蔵
阿頼耶識は記憶を貯蔵し、業のを保存する。


唯識の定義する意識
=独自のはたらきを持った心。
五識とともにはたらいて感覚を鮮明にし、
五識の後に言葉を用いて思考するのが意識。

コンシャスネスやベブストザインの訳語に、この仏教の意識という語をあてた。
現代の意識とは一般には心の経験内容の総体。


光明想(こうみょうそう)というヨーガがある。一人一宇宙の中が光に満ち溢れた世界だと思い続けるヨーガ。
阿頼耶識を浄化する技術。
光り輝く世界を消すことなくずっと想いつづけるのは難しい。念(=明記不忘 みょうきふもう あるイメージを心に明瞭に記憶して続けて忘れないこと)の力が必要。
澄んだ満月を心の中に描き出してください。その満月を思い続けてください。

(光明思想=ニューソート=ポジティブシンキングカルトの元ネタ疑惑。
引き寄せの法則は阿頼耶識縁起の劣化。
というか仏教の修行法の劣化。
執着を引き寄せてどうするのか)


・遍計所執性(へんげしょしゅうしょう, parikalpita) 
=言葉であまねく考えて、しかも執着されたありようを持つもの。身体など。

構想された存在 凡夫の日常の認識。

・依他起性(えたきしょう, paratantra)
=他に依存(縁起により成立)するもの。

・円成実性(えんじょうじっしょう, pariniṣpanna)
=修行により完全に清浄になった心のありよう、完成された心、真如。  絶対的存在、完成された存在

唯識を発展させた三大論師は弥勒、無着、世親。



https://twitter.com/kikuchi_8/status/771478001049477120
弥勒=ミトラ。
スピ系が唯識の劣化コピーである理由の一つ。
本書の後半から人生論になる。唯識思想をどう応用するかについて書いてあるが、神智学=仏教破壊用のバラモン教風キリスト教の言っていることとかぶっているなあ。
唯識や阿頼耶識縁起を盗んで劣化させたのがスピ思想だから既視感があるのは当然。
スピ信者がこの世はホログラムだと熱心に言うが、
般若心経の「五蘊皆空」の四文字で終わるし古代から言っていると指摘すると嫌がれるらしい。
最先端思想のふりをする反知性主義者)





∸――
遍計所執性(へんげしょしゅうしょう, parikalpita) 構想された存在 凡夫の日常の認識。
依他起性(えたきしょう, paratantra)  相対的存在、他に依存する存在
円成実性(えんじょうじっしょう, pariniṣpanna)  絶対的存在、完成された存在
修行の結果悟りを開き仏になると、8つの「識」は「智」に転ずる。これを転識得智(てんじきとくち)という。
1. 前五識は成所作智(じょうしょさち)に
2. 意識は妙観察智(みょうかんざつち)に
3. 末那識は平等性智(びょうどうしょうち)に
4. 阿頼耶識は大円鏡智(だいえんきょうち)に転ずるとされている。
転識得智の考え方は天台宗や真言宗、チベット密教のニンマ派にも受け継がれている。
修行の結果悟りを開き仏になると、8つの「識」は「智」に転ずる。これを転識得智(てんじきとくち)という。
1. 前五識は成所作智(じょうしょさち)に
2. 意識は妙観察智(みょうかんざつち)に
3. 末那識は平等性智(びょうどうしょうち)に
4. 阿頼耶識は大円鏡智(だいえんきょうち)に転ずるとされている。
転識得智の考え方は天台宗や真言宗、チベット密教のニンマ派にも受け継がれている。

『成唯識論』(じょうゆいしきろん、梵: Vijñapti-mātratā-siddhi, ヴィジュナプティ・マートラター・シッディ)は、法相宗(唯識宗)が所依とする論典の一つ。10巻からなる。
「ヴィジュナプティ・マートラター」(vijñapti-mātratā)とは「唯識」、「シッディ」(悉地, siddhi)とは「成就」、総じて「唯識による(悟りの)成就(についての論)」の意。
世親が著した『唯識三十頌』を護法が注釈したもので、中国の唐代に玄奘が漢訳した唯識の論典。
日本へも早くに伝わり、長く唯識の教学として研究された。近年新しい訳解説が刊行されている。
文献[編集]
• 太田久紀 『成唯識論要講 (全5巻)』 仏教書林中山書房 2000年
• 城福雅伸 『成唯識論 現代語訳・講義 (全10巻予定)』、春秋社 2005年~刊行中-巻第4.巻第5.巻第6のみ
• 竹村牧男 『「成唯識論」を読む (新興福寺仏教文化講座.7)』 春秋社、2009年
• 服部正明、上山春平 『認識と超越<唯識> 仏教の思想.4』 角川文庫ソフィア、1997年
• 三枝充悳 『世親』 講談社学術文庫、2004年
訓読文
https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98%E4%B8%89%E5%8D%81%E9%A0%8C


唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ、梵: Triṃśikā-vijñapti-mātratā, トリンシカー・ビジュニャプティ・マートラター)は、大乗仏教唯識派の世親が著した唯識の思想を要約した30の偈頌で、玄奘が訳したもの。
原題は「トリンシカー」(triṃśikā)が「三十頌」、「ビジュニャプティ・マートラター」(vijñapti-mātratā)が「唯識」、総じて「唯識についての三十頌」の意。
なお、このほかに漢訳されたものに、真諦が訳した「転識論」がある。
その後、護法がこの唯識三十頌を注釈して玄奘が訳した『成唯識論』は、法相宗(唯識宗)の重要な論典のひとつとなった。
ウィキソースに唯識三十頌の原文があります。
三略も六韜も孫子の兵法も、曹操が注釈をつけた分の兵法
• 安田理深 著、安田理深選集編纂委員会 編 『安田理深選集』第2巻 唯識三十頌聴記1、1985年。

• 宇多田ヒカル - 三島由紀夫の「豊饒の海」により「唯識三十頌」を知り、「写経のお気に入りは唯識三十頌」とコメントしている(ブログ「Message from Utada Hikaru」) 。

エピクロスとストア

ストア哲学 (文庫クセジュ 273)1959/11
ジャン・ブラン、 有田 潤 
と『哲学の歴史 02 帝国と賢者』 内田勝利編 (中央公論新社)




ヘレニズム哲学
ストア派、エピクロス派、懐疑派
A・A・ロング 金山弥平 訳


昔の名著好きの書評
ttp://tazipie.blog135.fc2.com/
にあったよさような本。

古代ギリシャ哲学者の伝記集ギリシャ哲学者列伝 上・中・下
ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、岩波文庫
初版:1994年
原書出版年:2~3世紀

最後のローマ人が牢獄の中で書きました。
哲学の慰め
ボエティウス著、畠中尚志訳、岩波文庫
初版:1938年
原書成立年:6世紀初め頃


エピクロス派の唯物論哲学入門です。
物の本質について
ルクレーティウス著、樋口勝彦訳、岩波文庫
初版:1961年
原書成立年:1世紀頃

人生の短さについて 他二篇
セネカ著、茂手木元蔵訳、岩波文庫
初版:1980年
原書出版年:50~60年

ギリシア宗教発展の五段階
マレー著、藤田健治訳、岩波文庫
初版:1943年
原書出版年:1925年

古代西洋における二つの自由論 ~ストア派とエピクロス派~
ttps://www.rei-yumesaki.net/%E5%93%B2%E5%AD%A6/%E5%93%B2%E5%AD%A6-%E5%80%AB%E7%90%86%E5%AD%A6/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2%E6%B4%BE%E3%81%A8%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%B9%E6%B4%BE%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1%E8%AB%96/
“キケロによれば、ストア派はこの世には有徳な者と不徳な者の2種類しかおらず、有徳な者が不徳な行いをする自由も、不徳な者が有徳な行いをする自由もないと考えていた。
有徳なものが運命に従って有徳な行いをすることこそが自由なのである。
しかし、不徳な者が得をし、有徳な者が損をすることも多い。それでも心を乱さず運命に従い続け、自由であり続けるために、「諦念」が必要とされた。 “
“エピクロス派がストア派と違って、自然法則の強制力は絶対ではないと考えていた”
“エピクロス派のように強制力(運命)から逃れようとする「~からの自由」と、ストア派のように運命に自ら積極的に従う「~への自由」が対立”
他には書いてなさそうなことが書いてあるな。


密教神秘学僧 ‏@mystic_buddhi 2月9日
止観についての書を読むと、信仰や宗教性の云々ばかりではなく、坐禅に関しての実践的・具体的なやり方が述べられている。身体の整え方、呼吸の整え方、心の整え方等々。マインドフルネスって看板でも別にいいんだけど、仏教が元々持っていた部分はちゃんとアピールした方がね。天台の止観をよろしく!





唯識 こころの哲学―唯識三十頌を読む
易経は「占いの書」と「義理の書」(哲学の書)という二つの側面がある。義理の書として易経が説く人生哲学は「謙虚」に集約されると思う。驕るとろくなことがないという「真理」は古代も今も変わらないのだろう。慎みを宝とした老子や我執を戒める仏教など年月に耐えてきた思想は大体同じことを言う。

がんばらないぶんめいのはなし/スメート・ジュムサイ『水の神ナーガ―アジアの水辺空間と文化』
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/?no=137



未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん
http://rongo.roudokus.com/rongo11_12.html

until:2013-7-2 @Ripple1975

インド思想史略説
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm#ch2.2
無記
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/muki.htm#top

無記
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E8%A8%98

The unanswered questions
http://en.wikipedia.org/wiki/The_unanswered_questions

ラスボスがシステムそのものなんですよ個人はあくまでもシステムの手先。お賽銭(戦争屋の集金装置)やユダヤ陰謀論(戦争屋=キリスト教の隠れ蓑)は善意を悪行に変えるシステム。 奴隷に奴隷じゃ無いと信じさせる儀式が選挙。嘘がお金になることを変えるには、真実がお金になるように、真実の改善者にお金が集まるようにしないといけません。それが本ブログの目標です 。カイジの名言。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-42.html

「『人は信じたいものを信じてしまう』という強制力を数の力で強化して価値観に閉じ込めて支配。「事実と事実に抱く感情を分ける」ことで個人の好みに依存することを排除して対抗可能。願望で事実を捏造してはいけない。.陰謀論は他人と共有できるもので行う検証作業なので、完全に主観依存のスピリチュアルや宇宙人等の反証不可能なものを持ちこんではいけない」とレプティリアンの土偶は言わない。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-8.html


神道について知る前に【20120211】
http://www.mkmogura.com/blog/2012/02/11/1062


プラトンの『国家』の中核の要約版(原初に比べて蝶短くまとめました)
プラトンは優生学と職人軽視(肉体労働しない者が一番偉い)と理性崇拝と知性主義(馬鹿は人間ではない)と偽りの公平感を与える儀式(選挙など)の基盤。マギの弟子のプラトンの『国家』は『マギ』の一つ目フリギア帽子モガメット学長の演説の元ネタ。プラトン『国家』 藤沢令夫訳、岩波書店〈岩波文庫〉
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-43.html

「運」を「選択」にかえてみよう。
偶然や奴隷の自由意志(笑)を装った詐欺

共通の敵を作って大衆操作~キリスト教は支配の為に悪魔もスピリチュアルもレプティリアンも作った。小林泰三『ΑΩ(アルファ・オメガ)―超空想科学怪奇譚』~
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-6.html

村手 さとし‏ @mkmogura 2014年2月24日
飯を作らず、ほーけています。
神道を作った時、仏教界が神道に準じるため、仏教のなかをキリスト教化するための聖典として扱ったのが法華経です。
そして法華経原理主義は仲裁役、ヤクザになりました。日蓮主義者、国柱会とかです。創価学会も元はそこです。
愛語など仏教もキリ教化してます。

村手 さとし‏ @mkmogura 2012年7月8日
@lanekota 今さら、やばいとか気にしないよ。つまり、すごい数なわけよ。例えば寺も、すでにキリスト傘下であって、愛語という言葉を全国の寺で使う。うちの寺もよく出てくる禅宗なのにね。これは無量寿経というなかの和顔軟語というのを、愛にむりやりすり替えたわけ。

浄土三部経 講義 無量寿経
http://www.geocities.jp/tubamedou/Joudo/JoudoKaisetu/Muryouju01/JoudoKaisetu00.htm
” 『和顔軟語先意承問』:和やかな顔、軟らかい言葉、先に相手の意を承けて問いかけること。

仏教における「愛」について
http://www2s.biglobe.ne.jp/~posteios/PROJ_C023.htm
” 愛という言葉が仏教において否定的な概念ならば、『無量寿経』の「和顔愛語」という仏典の言葉の「愛」は、一体どう解釈したらいいのだろうかということです。ちなみに、高楠順次郎博士編集の『大正新修大蔵経』(全百巻)に当たってみると、「和顔語」となっています。欄外の注には、「軟=愛」と表記されています。しかし、現在流布している比較的入手しやすい『無量寿経』のテキストや資料には、「和顔愛語」となっています。いったいいつから「軟」が「愛」に変わったのでしょう?そして、そのような経緯は、西洋文化の交流と関わりがあるのでしょうか。

 そこで、手近にあった仏教思想研究会編の「仏教思想1愛」平楽寺書店(1975年初出・1992年第4刷)を参照してみようと思います。

 同書の目次を見てみますと、参考となったり、興味を引かれる論文に次のようなものがありました。

  はしがき
  第一章 「愛」の理想と現実  中村元
  第三章 初期大乗経典にあらわれた愛 藤田宏達

 これらの章を抄出しながら、簡単なコメントを整理するということで、「仏教における『愛』」についてまとめてみたいと思います。

 「はしがき」には、中村元氏が、次のような提言をされています。

 まず、西洋の近代思想が、抑圧的な中世の教権に対する反抗として人間の愛を正面きって押し出してきたことがあげられます。また、アジアでも、例えばインドでは、六派哲学に対する反抗として愛(preman)が強調されガンディーに至るまで、愛は人 間の最も尊ぶべきものと考えられています。日本でも、儒学の「仁」「礼」を中心にして考えていたのに対して伊藤仁斎が愛がより根源的なものであると主張しています。

 さらに、現代は日本もそうですが、世界の精神的状況は愛を重要な価値基準としています。

 これに対して仏教学者は、仏教は愛に対して抑圧的・禁止的であると考えてきました。すると仏教は世間の風潮に敢然と抗争すべきものとなってしまいます。

 しかし、最近、日本の仏教系の学園には愛の字を用いたところが出てきています。(思いつくだけでも、相愛、仁愛などの真宗系の学校名があげられます)もし、そういう傾向が何の根拠もないままに進められたというのなら、世の風潮におもねったと いうことになります。また、もし仏典に根拠のあることならば、はっきりとした自覚をもって積極的に推進すべきでありましょう。

 このような氏の指摘には、私たちも大変興味をそそられます。しばらく、仏教学者の意見に耳を傾けてみましょう。


  「第一章 「愛」の理想と現実」の内容

 東洋の諸国においては、仏教の中心の徳として慈悲が説かれています。愛は、それと通じる時もあれば、異なることもあります。ここでは、全般的に仏教においてどのように愛が説かれていたのかが論じられます。

 愛という言葉には様々な使いかたがあるようです。愛 piya、priya、親愛 pema、preman、欲楽 rati、愛欲 kama、渇愛 tanha、trstna などです。私は、前三つは、その対象によって分類され(自己、他者、特定の個人)、後二つは、その内容によって分類され(性的愛、盲目的衝動的執着の愛)ているように思われました。

 仏教では、この渇愛が人間の愛の本体であり、苦悩の源泉であると考えられます。そして、この苦悩から慈悲の心が生まれるのです。自分の苦悩を本当に知る者が、他者の苦悩にも共感できるからです。そして、この慈悲が他者に対する無条件の究極の愛の姿として「無縁の慈悲」、つまり私が誰かに何かをしてやるという三つの条件を全く意識しないで他者を幸せにするものと説かれました。

 仏教の慈悲には人間的な愛の純粋性と共通するものがあります。それで漢訳仏典では、慈悲を愛と訳すことがあるというのです。これで、先の疑問も少しは晴れるというものです。しかし、慈悲は愛と全く同じという訳ではありません。愛が宗教的な自 覚で深められて慈悲となるからです。慈悲は、愛憎という対立を超えた、見返りを求めることのない絶対の愛の姿であり、しかも一切の生きとし生けるものにまで及ぶことを理想としています。

 ところで漢訳仏典の中にある愛には、様々な意味が与えられており、全く反対する概念がこの愛の一語で使われています。愛によって憂いが生じ、苦悩が生じることもあれば、心の喜ぶことであるとされ修めるべき徳とも見られているのです。

 特に人間関係において、やさしいことばをかけること、愛語が尊ばれます。それはやさしく言うこと、愛情こもったことば、やさしいことば、親愛のことば、親しみのある言葉で話すこと、あたたかい心のこもった言葉をかけることです。そこから、人びとに対してはやさしいことばをかけよ、という教えとなります。この場合、もちろん、愛欲の愛 kamaや渇愛の愛 tanhaというような自己中心的な愛と異なり、慈悲による利他の愛につながるものです。

 こういう慈悲の愛から出た言葉が愛語です。ある場合には、互いに愛し合うことという趣意で、愛語を相愛と訳されることもあります。

 こうして学んでみると、仏教の中で使われた愛の言葉は、そのまま慈悲になるのではなく、異なる性格をもつものです。愛は、一、恋愛・性愛ともに欲をともなうもの、二、独占しようとするもの、三、限界性があるもの、ということです。  しかし、愛は慈悲に通じるものであり、やがて慈悲へと深まっていくきっかけになるものといえるでしょう。


  「第三章 初期大乗経典にあらわれた愛」の内容

   初期大乗経典の中で代表的な経典とされるものについての論究がこの章です。原典の文献を読み込んでいるので、少し漢字が多くて難しく感じるかもしれませんが、ここではその中からいくつかを取捨選択して紹介いたします。するとそこに初期大乗の 特徴が見えてくるようです。

 まず、初期大乗経典では、愛のつく言葉は否定されるべき執着としての意味で用いられています。「愛着・愛欲・愛垢・愛縛・愛染・渇愛・貪欲・欲愛・染愛」などです。『無量寿経』の五悪段には、愛欲が六回現れます。

 こうした愛に対して初期仏教では、愛憎を捨てて離れることが説かれますが、大乗仏教ではこうした愛憎を超越するのが大乗菩薩の実践だと説かれます。つまり、無くすのではなく、それにとらわれない生き方を求めるということです。大乗では、愛憎にとらわれるのは分別に振り回されているからだと説くようになるのです。

   例えば『無量寿経』では、極楽世界に生まれた菩薩の姿を「等しく憎愛なし」と示しています。『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』(異なる時代の翻訳)では、「憎愛を遠離す」と訳されています。また、異訳『無量寿荘厳経』では、「愛なく著なし」と訳されています。

 しかし、初期大乗経典には、愛を肯定的に見る視点も色々と見いだされます。それは、人間関係を説く場面では愛は積極的に認められています。先に述べたように、愛の深まった姿が慈悲ですが、仏の衆生に対する慈悲を親の子に対する愛という比喩で表現される経典が『法華経』『維摩経』などに見られます。『無量寿経』には、菩薩が衆生のために不請の友(頼まれなくとも相談を解決してあげるよき友)となり、御法(おみのり)を説き聞かせることは「純孝の子の父母を愛敬するが如し」と、先の比喩とは逆に子の親に対する「愛敬」という表現がとられています。

 また、五悪段には父子・兄弟・夫婦が「恩愛」をもって思慕し、お互いに「相い敬愛」すべきことが説かれます。さらに、「聖を尊び、善を敬い、仁慈もて博愛」すべきことが説かれます。別の場所では、世間の帝王が、「慈恵ありて博く施し、仁愛ありて兼ね済う」ことが説かれております。

 ここでも、仁愛学園の名前が仏典に出ていたことが知られますね。

 さらに愛という言葉が肯定的に使われている例として、仏、善知識、菩薩、法、菩提などに対する積極的な使用例があります。『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』には、「若し彼の仏の名を聞くこと有りて、能く一念喜愛の心を生ぜば」という言葉があり、これは親鸞様の『お正信偈』の中にもあるので聞き覚えがあると思います。

 すこし漢字が異なりますが、同じ意味の使い方として、仏・菩薩が衆生に慈悲をかける姿を『無量寿経』では、「如来は、無蓋の大悲を以て、三界を矜哀す」という言葉があります。これは、法事の時の表白の中でよく聞くのではないでしょうか。

 最後になりますが、親鸞聖人における愛ということに興味をお持ちの方もおられると思います。実は、同書では、早島鏡正博士が「親鸞における愛」という章において、親鸞聖人における愛を幅広く論じておられます。ここでは、紙数がないので、私の視点で書かせてもらいます。

 『親鸞聖人著作用語索引(二巻)』によると、「愛」は執着という否定的な意味で使われる「恩愛」「愛憎」(『ご和讃』)という表現と同時に、「信楽といふは、・・・・楽は即ち是れ・・・愛なり」(『教行信証』「信巻」)、「世を救ひ人を度す慈を極す愛を極む」(同「化身土巻」)などの肯定的な表現の双方が見られます。しかし、「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑し」(『教行信証』「信巻」)のようなお言葉が比較的耳にする機会が多いせいか、親鸞聖人においては愛は否定的に用いられているかのような印象をお持ちの方も少なからずおられるのではないかと思います。

 以上、見てきたように、仏典においては「愛」という言葉は、様々な意味に用いられているようです。


例外的に愛を善い意味で使っている実例をとりあげているのであって、
基本的に愛が仏教では執着だから悪なのは変わらない。
軟を愛に変えるのは完全に経典の改竄、改悪。
無量寿経というなかの和顔軟語というのを、愛にむりやりすり替え
和顔愛語と改竄した経典を広めたグループの一員が高楠順次郎。
高楠順次郎はエスペランティストで、
1906年に黒板勝美らと共に日本エスペラント協会の結成に参加し、東京支部長。
1919年に日本エスペラント学会が設立された際は、当初は評議員として参加。
要は世界連邦派の仏教を耶蘇化させるための憑依戦術系の工作員。
神戸の裕福な高楠家の婿養子となり、その援助で英国に留学、オックスフォード大学でM.ミュラーに師事し、その後、ドイツやフランスにも留学しているあいだにスカウトされたのだろう。

親鸞の浄土真宗に耶蘇教が混ざっている説を想起。

仏典もできる限り昔に出たものを読まないとダメだね



ニー仏‏ @neetbuddhist 2016年11月25日
というわけで、私の知る限り世界最高の仏教・瞑想解説書、ウ・ジョーティカ『自由への旅』(https://www.amazon.co.jp/dp/4105068725 )は、本日発売です。全国の書店さんでも入手可能かと思いますので、ご関心の方は是非!



P.147~8に、『ウダーナ(自説経)』の有名な個所だとして、次のような引用文が載っています。

 比丘たちよ、生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないものが存在する。比丘たちよ、この生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないものが存在しなかったならば、この世において、生じ、成り、形成され、条件づけられたものを出離することが知られることはないであろう。比丘たちよ、生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないものが存在するからこそ、生じ、成り、形成され、条件づけられたものを出離することが知られるのである。





ニー仏‏ @neetbuddhist 2016年11月25日

というわけで、私の知る限り世界最高の仏教・瞑想解説書、ウ・ジョーティカ『自由への旅』(https://www.amazon.co.jp/dp/4105068725 )は、本日発売です。全国の書店さんでも入手可能かと思いますので、ご関心の方は是非!

∸――
お読みくださり感謝
スポンサーサイト



空をまなぶならミリンダ王だね『空の思想史』『』『龍樹』 

随時追加




今まで見た中一番わかりやすい、日本仏教相関図。これがわかるようになるまで勉強すればいい。 

今まで見た中一番わかりやすい、初期仏教と大乗仏教の比較。
ツイート消えたから画像消えたけどね。諸行無常。





憑かれた大学隠棲:再稼働リプレイスに一俵‏ @lm700j 5月14日
「寺院は津波で被災したが神社は残った。これは霊力の問題?」
「寺請制度って知ってるか?」
「えっ」
「江戸時代は寺が役場と小学校と公民館の役割があったわけで」
「それか」
「そういう公共施設って集落の便利なところにあるだろ」
「あっ」
「対して神社は山の上でも問題なかった」

魔王アモン‏ @mryensrh11 3時間3時間前
要は日本は仏教国 神社なんか完全にいらん子



立川武蔵『空の思想史』(講談社学術文庫)

『空の思想史』

仏教は、「ある」と「ない」の二元論じゃないのが中核。
「ある」にも最低でも二種類の「ある」がある。
「ない」にも最低でも二種類の「ない」がある。

テトラレンマ思想が理解できないと意味不明らしいので資料はいつも通り下の方にある。

これを空の思想史のチベット仏教の思想が素晴らしくてもチベット仏教政府はゴミクズなので注意。
仏教思想を学ぶと、対比させた方がわかりやすいのでバラモン教の正統思想も説明されるのでおすすめ。

・般若心経の色即是空、空即是色は、インドで編纂された当時は
「色つまり色や形のあるものは無常のものであるゆえに執着するな」という意味であろう。
しかし
中国や日本では「色や形のあるままにもろもろのものは真実である」=諸法実相という意味だと解釈されることが多くなった。
つまりインドでは空の否定的側面が強かったのに対して、中国・日本では空の肯定的側面が強調されるようになった。

・日本人は自らの文化的伝統を他の文化の人々に向って精緻な言葉で説明する伝統を養ってこなかった。
論理的な言葉をつみ重ねて整合的な理論体系を構築するといった方向には進んでこなかった。
能、茶道、華道、俳句といった伝統文化には、言葉を精緻にしてつみ重ねていくというよりも言葉を可能な限り削り取り最後には言葉がなくなった境地に文化の精髄を見ようとする傾向が確かにある。
仏教が日本文化を支えている重要な柱の一つであることに疑いはない。
仏教思想で最重要なもののひとつが空の思想。空とは究極的に言葉を超えた境地を目指しているがゆえに空の思想を体系的な言葉によって説明することは難しい。
にもかかわらずインドの仏教思想家たちは空を可能な限り言葉で説明しようと努力した。
だが日本では理論で説明することをあきらめてきたように見える。この態度は今後変わらざるをえないだろう。

 ・インドの人々が世界構造について考える場合、
属性(ダルマ。法)
と基体(ダルミン。有法)
という対概念で考える傾向が強い。
実体などの基体の上に大きさなどの属性が乗っているように考える。
この本は重要だ
は、この本には重要性が乗っていると解釈される。
本は実体であり、重要性は属性である。
なおダルマには法、掟、義務、正義、教え、あらゆるもの、存在などさまざまな意味がある。
属性を取り除いていくと最後に何も残らないというのが仏教。
無色透明ではあるが何か基体と呼ぶべき何かが存在するというのがバラモン正統派の考え。
それがなければ成立しないような場が残る。
なければさまざまな性質が集まった現象世界が成立しないだろうとバラモン教は考える。


基体の有無でインドの哲学学派を分類できるが、
他には、属性と基体の間に明確な区別があるか否かという分類観点がある。
属性と基体の間に明確な区別があるとするのがインド型の実在論であり、
明確な区別がないとするのが唯名論と呼ばれる。

インドのバラモン正統派六つ
①ヴェーダーンタ
インド最大。インド哲学の中核。
宇宙原理ブラフマンと個我アートマンの本来的同一性を主張。

2 ミーマーンサー
祭式の執行規定を考察するので文章を肯定する言葉の機能を研究。

3 ヴァイシェーシカ
世界の構造を有限個の構成要素の組み合わせで説明しようとした。

4 ニヤーヤ
論理学や認識論を特に研究。

5 サーンキャ
世界展開の素材ともいうべき原質プラクリティと、純粋先進である霊我プルシャとの二つの原理の存在を想定。

6 ヨーガ
ヨガという古代の身体技法の習得に専念するが、基礎理論は初期にはサーンキャで、後にヴァーダーンタ。

ヴェーダーンタは唯名論。
サーンキャや初期ヨーガは実在論と唯名論の中間。
残り三つは実在論=属性と基体とに明確な区別在り。
唯名論(属性と基体は明確な区別なし)のうち基体が存在しないと考えるなら仏教、
存在するとするのがヴェーダーンタ。

基体=ブラフマン。
ブラフマンはキリスト教的創造主ではない。
キリスト教では神が世界そのものとなることはない。
ヒンドゥー、バラモン正統派ではブラフマンはそこから世界が展開し顕現する根本物質となり、しばしばそれが世界そのものになる。

仏教の場合には現象つまりダルマは
基体ダルミンを吸い上げてしまっているかのような状態である。
仏教も現象世界は一応存在すると見えることは認める。木であったり人間であったり水であったりともかくもそれらは存在するように見える。
しかし、におい、形、重さなどがよって立つような無色透明な場は存在しないと仏教では考えられる。
反対論者であるヒンドゥー教徒が基体に属性が存在するというのに対して、
空思想は「基体は属性に関しては空であり(属性は存在せず)、さらに基体も存在しない」と主張する。
空思想では基体と属性とが明確に異なる二つのものと考えられているわけではないことはいうまでもない。
空思想は日本人にとってはそれほど違和感はないであろうが、バラモン正統派にとってはとてつもない過激分子としてうつったことであろう。バラモン正統派の考えが真っ向から否定されたからだ。


・インド最大の哲学学派ヴェーダーンタ学派は、基体としてのブラフマンあるいは神は存在するが、
属性と基体の間に明確な区別はないと考え、バラモン正統派の唯名論を代表する。
この学派の大成者はシャンカラで、ブラフマンのみが実在であり現象世界はすべて実在であるブラフマンの中に飲み込まれたようなものと考える。
シャンカラ思想モデルとしてフルーツゼリーを考えてみよう。
ゼリー=ブラフマン。
属性=具はすべてゼリーの中に閉じ込められている。
フルーツの色や形などの現象はゼリーを通してみることはできる。しかしゼリーという基体の外では存在しない。
シャンカラによれば現象世界は幻(マーヤー)なのである。
幻といっても現象世界が無ではない。それなりの存在性は認められているのであるが、このブラフマンに付随する性質としてこのように我々に視覚されるのみだと考えられている。
八世紀のシャンカラの哲学的立場はアドヴァイタ(不二論 ふにろん)と呼ばれる。
ア=~を欠落
ドヴァイタ=第二番目のもの。
アドヴァイタ
=第二者不在論
=第一番目のブラフマンは存在する。
二番目ものである現象も空思想よりは存在度合いは強い。

インドではアドヴァヤ=二つのものを欠いた状況・境地という言葉があり、
二つのものとは属性とその基体、見るものとみられるもの、無と有などのことであり、
両者ともに存在しないとする仏教的立場である。

11~12世紀のヴェーダーンタのラーマーヌジャは、
基体としてのイーシュヴァラの上に世界と個我とが載っていると考える。
世界と個我とは神の身体
とみなされる。
思想モデルではショートケーキがふさわしい。
スポンジ=神。
スポンジの上のイチゴと生クリーム=世界と個我(神の身体)。
シャンカラのフルーツゼリーと違い、
ショートケーキなのでイチゴと生クリームはスポンジの上に出ている、つまり世界と個我とは神=基体の中に入りこんでしまってはいない。

ラーマーヌジャのイーシュヴァラが存在するようには、世界と個我は存在しない。あくまで神が第一であり、世界と個我は第二番目のもの(ドヴァイタ)であり、シャンカラと同様ラーマ―ヌジャ思想もアドヴァイタである。
どちらにせよ基体は存在すると考えられている。
(ハガレンのユダヤ教徒みたいな人たちがいるけど、
あれインドのラーマーヌジャのイーシュヴァラ信仰=一神教的多神教でしょ?)

九世紀以降になるとヒンドゥーでタントリズム(密教)が理論的体系
を持つようになった。
タントリズムでは男性原理シヴァあるいはヴィシュヌと、女性原理シャクティ(妃)とが等価値だと強調される。シャクティは力という意味であるが、ここでは世界も結局は女神の力で生まれたと考える。
タントリズムの思想モデルはバウムクーヘン。
焦げ目のついた部分と焦げ目のついていない部分が渦巻き状に巻かれているが、シヴァやヴィシュヌの男性原理と女性原理シャクティとは一つになる。
ヴェーダンタでもヒンドゥー・タントリズムでもこの現象世界の実在性がどれほどのものと考えられようともブラフマンあるいは神はともかく存在するのである。これは鉄則。神は存在する。二番目がなくても一番目は存在する。
世界と神の両方、属性と基体の両方を否定する仏教徒の差異は明白。

・空思想の力点は中国や日本では、何々がないと言う否定ではなく、
肯定的に解釈され真理の意味になってしまう。
真如や真実という意味にも用いられる。
すると色即是空、空即是色は、色すなわち物質は真実だという意味になる。
もともと色には実体がない、永久不変な実体がない、無常なものだという側面が支配的であった。ところが構成物質は真如だというようになった。禅宗のようにすべてのものの姿はリアリティを表わしているものだということになると、インド的な意味とは違ってきたと言わざるをえない。

・仏教はインド型の唯名論。この唯名論の特徴は、基体としてのブラフマンつまり神と、現象世界との間にはっきりした区別はない。
基体つまり実体、と属性とのあいだにはっきりした区別がある説がインド型実在論。
空思想はインド型唯名論の典型であり、神としての基体の存在を認めず、基体と現象世界としての属性との本質的な区別も認めない。さらに現象世界も究極的には存在しないと考える

・我我が用いている言葉は、ほとんどの場合日常生活において妥当なもの。例えば本を見ていてこれは本であるということは一般的には正しい表現であり、一般常識にかなうことである。ヴァイシェーシカ学派などのインド型の実在論の考え方によれば、そしてこの限りでは西洋の実在論においても同様なのであるが、本という言葉を発することができるのは、対象物としての本というものが存在するからである。そして本というものが存在するから本という言葉も発することができると考えられている。
このような考え方が部派仏教の一派である有部にもみられるがこの学派は仏教諸派の中では実在論に近い考えを有しているといえよう。
ところが、空の思想は言葉とその対象が正確に呼応するという考え方に対して根本的な懐疑を抱いた。
言葉と対象物とは明確な対応関係にないであろうと考えた。
空の立場ではどのようなものも当然ながら神もまた存在しない。
したがって、言葉は実在とともにあった、言葉は実在であった 
という表現は、インド大乗仏教の空思想の文献には見られない。
空では神であり、神とともにあるような言葉、すなわちロゴス(論理、理、理性、スピーチ)は存在しない。

・インド仏教は紀元前5世紀あるいは紀元前4世紀に生まれて、
13世紀末ごろにはインド亜大陸から消滅したのであるが、
この千数百年の歴史は初期中期後期の三期に分けることができよう。

初期 誕生から紀元1世紀まで
中期 紀元1世紀から600年ごろまで
後期 紀元600年頃以降、インド大乗仏教滅亡まで。

・初期仏教は大乗仏教成立直前、おそらく紀元1世紀ころまで。
初期は前期後期に分ける。
アショーカ王が現れるまでの時代を原始仏教と名づけ、
アショーカ王が出た後、大乗仏教の成立までを部派仏教と名づけよう。
もっとも部派仏教、特にその教理は大乗仏教の時代でも存続発展していた。
原始仏教を初期仏教と呼ばれることがある一方、
原始仏教および部派仏教をまとめて初期仏教と呼ぶ場合もある。
本書では後者の呼び方に従う。
また部派仏教を原始仏教の中に含めてしまうのは難しい。
それゆえわたしは初期仏教の前半を原始仏教、
後半すなわちアショーカ王意向を部派仏教と呼び双方まとめて初期仏教とよびたいと思う。
原始仏教徒は、釈迦の生きていた時代あるいは釈迦が亡くなったのち、
釈迦から直接法を聞いた人が生きていた時代、および釈迦の教えがかなり直接的に伝わっていた時代の仏教。
仏教啓典には経(経典)、律(戒律)、論(論書)という三つの部分があり、
この三部分をまとめて三蔵と呼ぶ。
原始仏教の時期では経と律についてはある程度整備が進んでいたと考えられる。
この原始仏教の年代であるが、これは仏滅後アショーカ王が現れるまでに100年余りあるという北方仏教の伝承に従うか、
南方仏教の伝統に従いアショーカ王の出征を仏滅後200年あたりと考えるかにより違ってくる。
そもそも釈迦の誕生が紀元前五世紀中葉なのか紀元前四世紀中葉なのかがはっきりしない状態。
もっともアショーカ王の在位は紀元前268~232(紀元前三世紀中ごろ)
というようにかなり明確に推測されている。

・原始仏教の第一特徴は、ヴェーダの権威を認めないこと。
したがってヴェーダ祭式の執行でつみ重ねられる功徳もほとんど認めない。ヴァルナ(カースト)にもそれほどの意味を認めなかった。釈迦はヴァルナの権威に対して非常にラディカルな戦いを挑んだわけではなかったがヴァルナに対してはいわば冷めた態度で接した。
すなわち仏教教団に入ればヴァルナの上下の差別は受けないことからいわば消極的な形であるがヴァルナには批判的であったと言えよう。
仏教誕生以前に生まれていたウパニシャッド哲学の中では宇宙の根本原理としてのブラフマンの存在を認めているが、
そういった宇宙根本原理ブラフマンの存在を想定して自己の精神的救済を求める方法を釈迦はとらなかった。
釈迦とわれわれの身体あるいは身体を構成しているどの部分も恒常不変の実体ではないゆえに、
そもそも我というものは存在しないのであると説いた。
これはウパニシャッドが宇宙根本原理を設定し個々の人間、
生物の中にも宇宙の根本実在を分有しているとした立場とはかなり違っていた。
釈迦はブラフマンの存在を否定し、さらには個々の人間の中にもウパニシャッドがいうような個我の原理アートマンというものも認めなかった。



・ところが部派仏教の時代となると、確かに宇宙根本存在ブラフマンを認めないが、世界は有限個の要素でできていると考えられた。有限個の要素の因果関係で世界の生成あるいは修行段階が語られるようになった。すると原因Aから結果Bが生まれた構造を認めることになるが、このAあるいはBといった要素が結局は実体とみなされるようになった。
すなわち、aという対象を指し示す言葉Aに対して、その対象であるaという個物が対応すると考えられて言葉と実在の対応関係の中で世界が考えられていく。
この部派仏教では言葉と実在がともにあったと表現することができよう。これは世界根本原理としてのブラフマンこそ認めないが、小さな多数のブラフマンあるいは実体を認めることを意味する。
結局ものbは実在というような考えに部派仏教は導かれていった。
するとこれは仏教から離反しているのではないかという批判が起こり、この批判は大乗仏教の主要主張の一つであり、特に言葉と言葉の対象は存在するものではない、あるいは言葉と対象とは対応関係にあるのではないと鋭く指摘したのが、大乗仏教の理論的な祖とされているのが龍樹。


・インド中期仏教時代、紀元1~600年ごろは大乗仏教が興隆。
紀元前後から初期大乗啓典が編纂されていたが代表的なものは原始般若経典群。
『八千頌般若経』(はっせんじゅはんにゃきょう)の古い形はおそらく1~2世紀には成立していたと考えらえる。
『阿弥陀経』や『華厳経』の中核部分と言うべき『入法界品』(※)なども2、3世紀
には成立していたであろう。

(※にゅうほっかいぼん。スダナ少年=スダナ・クマーラ=善財童子が、文殊菩薩に促され悟りを求める旅に出、53人の善知識=仏道の師を訪ねて回り、最後に普賢菩薩の元で悟る話で、東海道五十三次の53の数字の由来。

華厳経
“仏教経典。詳しくは『大方広仏華厳経』。サンスクリット語で書かれた完全な形の原典は未発見。おそらく4世紀頃中央アジアで成立したものであろうといわれる。いわば,小経典を集成して『華厳経』といったもので,最初からまとまって成立したものではなく,各章がおのおの独立した経典であったと考えられる。
このうち最古のものと考えられる章は,菩薩の修行の段階を説いた「十地品」で,1~2世紀頃の成立。このほか『華厳経』のなかには,善財童子が法を求めて 53人を歴訪する文学的な美しい求道譚「入法界品」も含まれている。
漢訳では 60,80,40巻より成る『六十華厳』『八十華厳』『四十華厳』などがあり,最後のものは,前2者中の「入法界品」に相当する。思想的には,現象世界は互いに働きかけつつ交渉し合い,無限に縁起し合うという事事無礙 (じじむげ) の法界縁起 (ほっかいえんぎ) の思想に基づき,菩薩行を説くことを中心としている。

広大な真実の世界を包含する仏が,一切の衆生(しゅじょう)・万物とともにあり,さらに一切の衆生・万物も仏を共有し得る(一切即一,一即一切)ことを,華(はな)の美しさにたとえて説いた経典。

世界を毘盧遮那仏びるしやなぶつの顕現として、一塵いちじんの中に全世界が宿り、一瞬の中に永遠があるという。一即一切、一切即一の世界観を説く。また、入法界品の善財童子が五三人の善知識を訪ねる物語は、東海道五十三次など各分野に影響を与えた。

詳しくは『大方広仏(だいほうこうぶつ)華厳経』。漢訳には完本として東晋(とうしん)の仏駄跋陀羅(ぶっだばっだら)訳(晋訳、旧訳(くやく))の六十巻本(いわゆる『六十華厳』)と、唐の実叉難陀(じっしゃなんだ)訳(唐訳、新訳)の八十巻本(『八十華厳』)とがある。初期大乗仏教の代表的経典であるが、初め各章が独立に成立し、それがのちに現行の完本の形に集成されたものである。サンスクリット原典が残っている「十地品(じゅうじぼん)」と「入法界品(にゅうほっかいぼん)」は、ともにこの経の古い部分に属し、その成立は紀元1世紀にさかのぼる。本経は、大乗仏教の空(くう)の世界観をその完成された形で詳説するものであるが、その根本は、
自己および人類の現状を包含する世界を、それが慈悲に基づく他者に対する利他の働きかけ(行(ぎょう))である限りにおいての、限りなく広大で美しい種々の荘厳(しょうごん)(飾り)の総体、すなわち華厳の仏毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)(「輝きわたるもの」の意)の法身(ほっしん)とみなす点にある。
そして、世界の空とは、この広大で美しい仏の世界が、実はそれを自らの理想として信解する一人一人の人間の、その理想へ自己を実践的に投入しようという決意(願(がん))と、その実行(行(ぎょう))によって幻のごとくに顕現し、かつ、その実践の永遠の持続によって維持される、といういわゆる法界縁起の思想にほかならない。「入法界品」は、善財童子(ぜんざいどうじ)の求法(ぐほう)の遍歴の経過をたどる戯曲的構成をとりつつ、普賢菩薩(ふげんぼさつ)の行(ぎょう)の曼荼羅(まんだら)と表現されるこの世界の構造と内実、そしてそれが個々の菩薩の願と行とによって実現され、存続せしめられるというその空なる本性とを明らかにする。[津田眞一]
『玉城康四郎訳『仏典2 現代語訳・華厳経』(『世界古典文学全集7』所収・1965・筑摩書房) ▽荒牧典俊校注『十地経』(『大乗仏典8』所収・1974・中央公論社)』”
https://kotobank.jp/word/%E8%8F%AF%E5%8E%B3%E7%B5%8C-59336)

5~6世紀以降には中期大乗経典とも呼ぶべき『楞伽経』(りょうがきょう)や『涅槃経』が編纂されたと推定される。


(『薔薇の名前』と普遍論争
 http://blog.goo.ne.jp/aowls/e/52fcb4146ad5bf03f7b13be8ff405863
” 唯名論というのは実在論の対概念であって、ヨーロッパの哲学・神学史においては、この二つの哲学的な立場から行われた論争は―――いわゆる「普遍論争」として―――歴史上もよく知られている。もちろん、こうした論争は、ソクラテス・プラトン以来の西洋のイデア論の伝統の残された世界でしか起こりえない。
私たちが使っている言葉には概念が分かちがたく結びついている。中には、ゲーテの言うように、概念の無いところに言語が来る人もいるとしても。
この概念は、「普遍」と「特殊」と「個別」のモメントを持つが、はたして、この「普遍」は客観的に実在するのかということが大問題になったのである。
たとえばバラという花が「ある」のは、もちろん誰も否定できない。私たちが菊やダリアなどの他の植物から識別しながら、庭先や植物園で咲き誇っている黄色や赤や白いバラを見ては、誰もその存在を否定することはできない。
バラの美しい色彩とその花びらの深い渦を眼で見て、そして、かぐわしい香りを鼻に嗅いで、枝に触れて棘に顔をしかめるなど私たちの肉体の感覚にバラの実在を実感しておきながら、バラの花の存在を否定することなどとうていできないのは言うまでもない。それは私たちの触れるバラの花が、個別的で具体的な一本一本の花であるからである。
それでは「バラという花そのもの」は存在するのか。「バラという花そのもの」すなわち「普遍としてのバラ」は存在するのか。それが哲学者たちの間で大議論になったのである。
この問題は、「バラ」や「船」「水」のような普通名詞であれば、まだわかりやすいかもしれない。それがさらに「生命」や「静寂」、「正義」や「真理」などの、私たちの眼にも見えず,手にも触れることのできない抽象名詞になればどうか。「鈴木さん」や「JACK」などの一人一人の人間や「ポチ」や「ミケ」などの犬猫の個別の存在は否定できないが、それでは「生命そのもの」「生命」という普遍的な概念は客観的に存在するのか。あるいはさらに、「真理」や「善」は果たして客観的に実在するものなのか。
この問題に対して、小説『薔薇の名前』の主人公アドソの師でフランチェスコ会修道士バスカヴィルのウィリアムは、唯名論者オッカムのウィリアムらと同じく、「バラそのもの」は言葉として存在するのみで、つまり単なる名詞として頭の中に観念として存在するのみであるとして、その客観的な存在を認めなかったのである。
話をわかりやすくするために、「バラそのもの」や「善」などの「抽象名詞の普遍性」を「概念」と呼び、そして、「バラ」の概念や、「善」といった概念は、客観的に実在するのか、という問いとして整理しよう。
この問題に対して、マルクスやオッカムのウィリアムなどの唯物論者、経験論者、唯名論者たちは、概念の客観的な実在を認めない。それらは「単に名詞(名前)」にすぎず、観念として頭の中に存在するだけであるとして、彼らはその客観的な実在性を否定する。
唯物論者マルクスたちの概念観では、たとえば「バラ」という「概念」ついては、個々の具体的な一本一本のバラについての感覚的な経験から、その植物としての共通点を抽象して、あるいは相違点を捨象して、人間は「バラ」という「言葉」を作ると同時に「概念」を作るというのである。
だから、経験論から出発する唯物論者や唯名論者は、マルクスやオッカムのウィリアムたちのように、概念の客観的な実在を認めないのである。
しかし、ヨーロッパ哲学の伝統というか主流からいえば、イデア論者のプラトンから絶対的観念論者ヘーゲルにいたるまで、「概念」すなわち「普遍」は客観的に実在するという立場に立ってきたのである。(もちろん、私もこの立場です。)

これは、「普遍」なり、「概念」なりをどのように解するかにかかっていると思う。マルクスやオッカムのウィリアムのような概念理解では、唯名論の立場に立つしかないだろう。唯名論者に対して、プラトンやヘーゲルら実在論者の「普遍」観「概念」観とはおよそ次のようなものであると思う。
それはたとえば、バラの種子の中には、もちろん、バラの花や茎や棘は存在してないが、種子の中には「バラという植物そのもの」は「観念的」に実在している。そして、種子が熱や光や水、土壌などを得て、成長すると、その中に観念的に、すなわち普遍として存在していた「バラそのもの」、バラの「概念」は具体的な実在性を獲得して、概念を実現してゆくのである。そういう意味で、「バラそのもの」、バラの「普遍」、バラの「概念」は種子の中に客観的に実在している。
これは、動物の場合も同じで、「人間そのもの」、人間という「普遍」、人間という「概念」は、卵子や精子の中に、観念的に客観的に実在していると見る。
ビッグバンの理論でいえば、全宇宙はあらかじめ、たとえば銀河系や太陽や地球や土星といった具体的な天体として存在しているのではなく、それは宇宙そのものの概念として、無のなかに(あるいは原子のような極微小な存在の中に)観念的に、「概念として」客観的に実在していると考える。それが、ビッグバンによって、何十億年という時間と空間的な系列の中で、宇宙の概念がその具体的な姿を展開してゆくと見るのである。プラトンやヘーゲルの「普遍」観、「概念」観はそのようなものであったと思われる。
唯名論者や唯物論者たちは、彼ら独自の普遍観、概念観でプラトンやヘーゲルのそれを理解しようとするから、誤解するのではないだろうか。
小説『薔薇の名前』の原題は『Il nome della rosa 』というそうだ。この日本語の標題には現れてはいないが、「名前」にも「薔薇」にも定冠詞が付せられている。定冠詞は普遍性を表現するものである。だから、この小説は「薔薇そのもの」「名前そのもの」という普遍が、すなわち言葉(ロゴス)そのものが一冊の小説の中に閉じ込められ、それが時間の広がりの中で、その美しい花を無限に咲かせてゆく物語と見ることもできる。主人公メルクのアドソが生涯にただ一度出会った少女のもつ名前が、唯一つにして「普遍的」なRosaであるらしいことが暗示されている。”

記号論学者にして文献学者で哲学者であるウンベルト・エーコは結社員だろうね。
バラ。エスペラントにも関心を抱いている。
『フーコーの振り子』というテンプル騎士団陰謀論がテーマの小説もある。
両方とも日本語訳ある)


・仏教の修行の根本は、業(行為)や煩悩を俗なるものとして止滅させること、あるいは否定すること。空は元来否定を意味する。
否定には二種ある。
命題の否定と、名辞の否定。
空思想ではこの二種の否定が明確に区別されており、その区別が空思想の論理学的解明にとって重要。

このプールに女性がいる
を否定するとはどのようなことか。
命題において否定されるのはプールの存在でも、女性の存在でもなく、プールにおける女性の存在である。
一方、名辞の否定は「女性ではないもの」という表現に代表される。
「女性ではないもの」=非女性
とは、今論議されている領域が人間なら男性を意味する。
すなわち、
非女性=全人間の領域-女性の領域=男性の領域
の定立を意味する。
論議領域が生類全てなら、
非女性には犬猫なども含まれる。
つまり、Xではないもの=非X
という表現は、名辞Xの指し示す領域(集合X)を全論議領域より除外して、
残りの領域=集合Xの補集合
を肯定するのである。

「このプールに女性がいない」という命題においては、
「ない」という否定辞は、「いる」という述語動詞にかかる。
つまり「このプールに女性がいる」という命題の否定は、「いる」という述語動詞の否定に等しい。
一方、非女性という語が、人間の中の女性以外のもの=男性を意味するときも、
全宇宙の中の女性以外のもの=男性、犬、花などを意味するときも、
非女性という語は、全論議領域から女性という領域を除いた領域を指示しているのであって、
「プールに女性がいない」という命題の否定辞「ない」とは異なった否定を含んでいる。
このように、命題あるいは文章に表現された否定辞は、
命題(あるいは述語動詞)を否定する場合と、
命題の中の名辞を否定する場合との
二種があるといえよう。

「このプールで女性は泳がない」
という命題から、泳ぐ人が存在するという前提のあるときには、「したがって、このプールで男性が泳ぐ」という命題が引き出される。
このように、ある命題と前提から論理的に引き出される内容あるいは命題を含意(あるいは含み)という。
この場合、「このプールで泳ぐ人間が存在する」という前提がない時には、
「このプールで女性のみならず男性も泳がない」
つまり「誰も泳がない」こともあり得る。

このプールで女性は泳がない
という否定命題から引き出される可能性の或る含意を列挙する。

1かのプール以外(池など)で女性が泳ぐ

2かのプールで女性以外(男性など)が泳ぐ

3かのプールで女性が泳ぐこと以外の(沐浴などの)ことをする。

4かのプール以外で女性が泳ぐ。

否定する場所で含意が変わる。
命題の否定は二種類ある
1述語動詞を否定することで命題全体を否定

2論議領域の部分aを否定=排除してその補集合的部分非aを定立させる。


・唯識派は龍樹にわずかに遅れて活動開始。
唯識派の開祖はマイトレーヤ(270~350頃)であり、
名称が同一だったので弥勒(マイトレーヤ)菩薩と同一視
された。
マイトレーヤ思想を受けて唯識説を確立させたのが『唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)』の著者である世親(ヴァスパンドゥ)。
三十頌では世界を八つの認識の複合体として説明。
アーラヤ(阿頼耶)識のアーラヤ=基体、蔵。
ヒマーラヤ=雪(ヒマ)のアーラヤ(基体、存する場)。
世親の唯識ではアーラヤと呼ばれる認識があたかも実在論者の実体のように基体として機能するわけではなく、
すべての現象がそこから引き出されてくるような貯蔵庫でもない。アーラヤ識と眼識などの他の認識とは明確に区別された基体とその上に存する属性という関係ではない。
つまり唯識はインド型の唯名論の伝統に属す。

バラモン正統派の一つサーンキャでは世界は原物質プラクリティの展開したものであり、原物質とは異なった原理である霊我プルシャが存在し、このプルシャは原物質の活動を見守る。眼識など認識は原物質の中に含められる。
プルシャとアーラヤ識は両者の教理体系において似たような立場だが重要な違いがある、
プルシャとプラクリティは実体と属性との関係はないが、両者はまったく別個の者。
サーンキャはインド型実在論と唯名論の論争に関しては中間的な立場でありこのプルシャとプラクリティとの関係がその中間的立場を表わしている。
一方、世親の唯識はアーラヤ識は他の認識とまったく別個の存在ではない

唯識では認識のエネルギーが最終的には智の光というかたちにおいてではあるが、そもかくも残るという前提。
中観派は空に置いて何も残らないと考える。空は中観派でも一種の智慧あるいは境地と考えられ、空が完全なる無と考えられているわけではない。

また唯識学派においても空は重要である。
唯識は心的エネルギーの存在を認め、その働きである認識を構成要素として世界構造を説明しようとする。
比べて中観派は心的エネルギーの存在や世界構造などをが一義的にはともかくも否定しようとする。
唯識では世界は認識内容に過ぎないのであり、
中観派では全てが空なるものだ。
つまりインド中期仏教前半、つまり五世紀ごろまでは言葉とその対象とは止滅しているあるいは実在しないという側面が強調された。

(スピ系が弥勒をわざわざカタカナのマイトレーヤと呼ぶのは日本と中国仏教が嫌いだからだろうね。
宇多田ヒカルは三島由紀夫の「豊饒の海」により「唯識三十頌」を知り、「写経のお気に入りは唯識三十頌」とコメントしているらしいけど、これインドに典型的なこの世は幻(マーヤー)思想に近い唯識思想だからでしょ)

・インド中期仏教の後半、5~7世紀になると仏教論理学派の活躍が始まる。
ダルマキールティ(法称)、ディグナーガといった論理学者たちは唯識学派に属すると考えられた。
(スピ信者が持ち上げる唯識思想を仏教論理学の大成者も持っていたとは!
スピリチュアルの中核は論理学の否定だから相容れないな。
耶蘇が混じっている限りどこまで行ってもインド「もどき」、仏教「もどき」だ。)


仏教論理学の体形はすでに六世紀のディグナーガによって確立されており
七世紀と推定されるダルマキールティ(法称)の論理学・認識論はディグナーガによっているところが多い。
仏教論理学は、直接知覚は概念作用を含まない。
リンゴだ、という認識がたとえ目前に、リンゴと呼ばれるかたちを見た直後に得られたとしても、すでにリンゴという名称をある物体に結びつけるという概念作用を含むので、仏教論理学派のものたちは直接知覚とは呼ばない。
ダルマキールティは概念作用を含まない直接知覚のみが真に存在するものを対象としており、それ以外の認識である概念や推論の対象は真に存在するものではなく言葉によって仮に想定されたものにすぎない、と主張。
彼によれば真に存在する者とはリンゴというような名称あるいは言葉によって指示される以前の個物そのもの(自相じそう)でありリンゴという概念の対象(共相ぐうそう)は実在しないものであった。
また、真に存在するものは言葉と結びついたものではないという態度を保持。
これは仏教論理学者たちが仏教思想家であったことの証。
仏教は最終的には言葉の止滅した境地に至ることを目指している
から。
言葉を超えた智を聖なるものとみなす伝統を尊重し、言葉を超えたところに真実を見ようとする態度は、
縁起という真理にあっては日常の言語が止滅していると考えた龍樹の態度と基本的には同一である。

・論理学派とは別に四世紀ごろから唯識と深い関係をもちながら発展した仏教思想が如来蔵思想。
如来=仏、
蔵=胎(可能性)。
如来蔵思想=仏となる可能性を全ての人が持つという思想。
如来とは、
ありのままに=タター
来られた方=アーガタ
すなわち仏だが、
おそらくはサンスクリットの単語は元来は、
ありのままに=タター
悟られた方(ガタ)だったのを漢語に訳す際に如来と解釈されたものであろう。
蔵とは元来は子宮あるいは胎児を両者の区別なしにさす言葉。
凡夫が仏の胎児を有すると言う思想。
『楞伽経』(りょうがきょう。如来蔵思想と唯識思想、禅について説く)では如来蔵はアーラヤ識と同一視されている。
如来蔵思想の流れが恒常不変な仏あるいはその可能性を求めたことだ。恒常不変の存在を求めることは仏教の伝統に反することであった。

・空思想はタントリズム(密教)の基礎理論。
インド後期仏教における仏教タントリズムにおいて、本書はタントリズムと密教とを同義に用いる。
タントリズム=5~6世紀ごろからインドで急速に台頭した宗教運動。
仏教のみならずジャイナ教やヒンドゥー教も巻き込んだ汎インド的宗教運動。
タントリズムは個人的宗教行為を中心とした宗教が集団的宗教行為の形態を取り込んだものだ。
元来、仏教はホーマ(火の奉献、護摩)とかプージャー(供物をささげること、供養)といった儀礼に対しては冷淡であったが、七世紀になるとそれらの集団的宗教行為の象徴意味を変えて自らのシステムに取り込み新しい形態を創っていった。これを仏教タントリズム(仏教密教)と呼ぶことにする。

7世紀
には胎蔵(胎生)曼荼羅を説明する『大日経』(だいにちきょう)が編纂されたと推定されている。
仏教タントリズムが確立するのはこのの成立によるということができる。
七世紀末頃には『真実摂経』(しんじつしょうきょう)が成立するが、これはもっとも代表的な曼荼羅である金剛界曼荼羅を述べている。
この胎蔵曼荼羅と金剛曼荼羅は唐の中国に伝えられ九世紀の初めには空海によって日本へともたらされた。
インドでは『真実摂経』のあともタントリズム経典が成立した。
そして十三世紀初頭にヴィクシマーラ大僧院がイスラム教徒によって焼き払われたことを象徴的かつ実質的な事件としてインド仏教は急速に衰え、十三世紀末ごろにはインド大乗仏教はインド亜大陸よりほとんど消滅していたと推定される。

本書は仏教タントリズム、仏教密教は大乗仏教の一部だという立場に立つ。
密教は儀礼を重んずる一方で、修行者自らの進退によって真理を直接的に経験しようとするものであった。
精緻な理論体系や複雑な儀礼を軽視あるいは排斥しようとするものも多かった。

しかし一方では理論学者でありながら密教修行に関心のある者もいた。
密教全体の傾向としては真理は言葉によって直接指し示すことはできないとしても象徴的に表わすことはできると考えられた。
密教は究極的な真理は直接的に体験できるものであり、その体験は言葉あるいは象徴(シンボル)によって表現されうるという前提に立っている。
密教でおびただしい種類の象徴が用いられるのはそのためであり、密教理論は象徴言語で語られる。
象徴はある面では曖昧なようではあるがある面では言葉よりも雄弁であり密教は雄弁さを有効利用しようとする。


・一般に原始仏教は無我説だと言われて来た。
しかし中村元によれば最初期、つまり原始仏教では「アートマンが存在しない」という言い方はなかった。
従来、うパン自社ッドにおいてアートマンは存在するちうのを否定して、仏教ではアートマンは存在しないとしてきた、といわれているが、そのような理解は正しくない。つまり原始仏教の中でウパニシャッドの説を直接的に否定していることはあるかなきかである。
古典ウパニシャッドで仏教らしきものが批判されていることもほとんどない。
仏教経典の中でこれを言っているのだろうと思われるところもあるが正面からウパニシャッドのアートマン説を否定しているところは見られない。
したがって原始仏教啓典にはアートマンが存在しないといっている個所はないといってよいであろう。
ではなぜ無我説という語が従来用いられてきたのだろうか。
原始仏教では人間の具体的な経験の範囲で客観的に把握されるものはどれをとってもそれは我(アートマン、アッタン)ではないと考えられた。
一方、倫理的主体としての自己つまりサンスクリットでアートマン、パーリ語でアッタンは積極的に認められた。釈迦は自己というものを否定したわけではなく怠けずに努力せよと弟子たちに言い続けた。
有名な、サイの角のごとくただ一人で歩め、という教えは自分というものを持てといっているのであって、いかなる意味の我をもなくすべきだといっているわけではない。
この場合の自分とはウパニシャッドの我アートマン、形而上学的実体ではない。それは否定さるべき我である。


・部派仏教にとって最も重要な理論の一つは、
世界がもろもろの構成要素の因果関係によって成り立っていることである。AによってYがある、つまり原因によって結果が生まれると言うのが鉄則。そうなれば原因と結果の要素は一応固定されたものでなければならない。
そうでなければ因果関係は成り立たないから。しかし原因Aがあるからといってアートマンがあるということにはならない。75の要素は存在するが、一方我は存在しないということはいわば二極分解が起きていることになる。
これを龍樹が代表する大乗仏教は批判。
つまり龍樹らにとっては無我は当然であり、
A,Bと言った常住の要素が存在すること、さらにはAからYが生ずるということに批判の矛先を向けた。

x、yといった個々の要素を一つの単位として世界を考えることは因果関係を認めることであり龍樹にとっては因果関係を認めること自体が是認されることではなかった。
最終的に龍樹は縁起という相関関係は認めるが、アビダルマのようなaからbが生じるというような確定した因果関係は認めなかった。

・『中論』
第一章ではどのようなものにも生ずるということがないこと、が示され、あらゆるものにおける生ずることの存在が否定される。
第二章ではどのような場にも運動のなことや、
どのような人も行かない(歩かない)ことが論証されている。
歩くことつまり運動を歩くこと、歩く人、踏み歩かれる場所(道路)というように三つの要素に分け考察し最終的にそれら三つの要素のいずれも成立しないことを芳名しようとしている。
内容はいずれも否定作業の積み重ねでありそれを通じて空性に至ろうとする意志を感じる。否定の目的は悟りが目的であり否定の際また結果に生ずる様相、新しい世界こそが龍樹の目指すものであった。
竜樹は元来別起源の思想である縁起(あらゆるものやことが互いに依ってある)と空を結びつけることで徹底した空の世界でありつつあらゆる存在を動的なまま受け入れうる特異な世界を作りだす容器となった
縁起の基本は、aに依ってbがある、bに依ってaがあるという、因果の連鎖でものの存在を説明する。原始仏教の縁起ではaからbへというように方向が定められている。十二縁起。

ところが龍樹の縁起ではaに依ってb、bに依ってaというように縁起の方向が相互になる。
(これお互い様思想の源流だよね。日本人はこの八宗の祖からは逃れられない)


世界は二つ以上の項とその間の関係とがあれば成立することに竜樹は注目。
言葉は世界であり宗教学的に言えば俗なるもの。否定を通じて聖なるものの顕現を待つ必要のあるものである。言葉をこのような意味で龍樹はプラパンチャと名付けている。
プラパンチャ=分かれて広がる、分裂。


自性(スヴァバーヴァ)という概念は中論ですこぶる重要。

中論
もろもろのものの自性は縁(原因)等に認められない。
自性が認められないから他性も認められない。

(私の解釈だと龍樹のいう因果関係=aからbへの直線的因果関係。
つまり、原因に依存して結果があるが、結果が原因に依存しているとは考えない因果関係の否定。
お互いさま=相互関係は認めた龍樹。
たしかに、結果のみが存在し原因は存在しないも、
原因のみが存在し結果は存在しないもおかしいからね)

桜の木の本質はこの木にない
=この木は桜ではない。
もろもろの自性は縁(原因)等に認められない
=縁(原因)等はもろもろのものではない。
この場合の自性とは、ものの本質と考えられ、ものと自性とは有法(基体)とその上に存する性質(不変)とであると考えられる。
他性とは他のものの自性であるゆえに、自性が原因等に存しないならば他性という他のものの自性すなわち本質も原因等に存しないと龍樹は主張。

しかし中論では自性(スヴァ・バーヴァ)はこの引用や他の個所において今説明した意味以外にもう一つの意味で用いられている。
もろもろのもの(バーヴァ)が自のもの(ズヴァ・バーヴァ)と
他の者(パラ・バーヴァ)という補集合的関係にある二つのグループへと分割される場合があり、
そのさい、自性はその一方のものの意味でも持ちられている。
ものが補集合的関係に分けられている時、自のものでもなく、他のものでもないものは存在しない。
ものの本質としての自性はダルミンとしてのものに存するダルマであったが、
この第二の意味の自性(自のもの)とはダルミンのレベルにあるのであり、ダルマのレベルにはない。
同様に、他性(他のもの)もダルミンのレベルにあるものである。
このようにあるものを補集合的関係にある二つのグループに分けることは龍樹の論法にとっては不可欠なことであった。

スヴァ・バーヴァ
1 ものの本質としての自性 ダルマ、属性レベル

2 自のもの、ものそれ自体  ダルミン、基体レベル

ものの自体が原因に存しない
=ものは原因ではない
ゆえにもののの他性も原因に存しない
という命題の意図は
自のものばかりではなく他のものも原因ではない
と主張することである。
ここでは前半が ものの自体は原因でない
と主張できるから。

中論
縁は四種である。因縁と所縁縁と次第縁と増上縁とであって、第五の縁はない。

因縁
=因は原因、縁は条件。

所縁縁
=認識の対象(所縁)
(認識論が成立する場面での原因)

次第縁
=一瞬前の存在の認識が次の一瞬の存在の認識の原因となっていること。
アビダルマでは、瞬間はその中で、ものが生じたり滅したりすることのできる幅を持っており、
ものは瞬間瞬間に滅してまた生じていると考える。
今ペンがあるとするとこのペンは瞬間瞬間に滅してまた生じている。ある瞬間のペンの認識は次の瞬間のペンの認識の原因となると考えられた。

増上縁
=aからbを邪魔しなかったので成立原因となっている原因。
ペンを作る際に邪魔しなかった理由において原因となるもの。ペンを作ろうと積極的に貢献した人は当然このペンの存在の原因となるがこのペンを作ることに障害とならなかったもの。
ペンを作った人の飼い犬もペン制作の原因の一つと考えられる。
(この縁を思いついた人は凄いね。
見て見ぬ振りも悪の成立要因ってこと)


竜樹は因縁つまり原因と条件の存在を総括的に否定。
所縁縁
=認識の対象(所縁)
について、
この有の法は無所縁であると説かれる
とし見る対象ではない、つまり見ることはできないものだと言っている。
次に
諸法が未だ生じないときには、滅は可能ではない
つまりものは生じないのだから消滅もなく前の瞬間を考える必要がないという。
次に
増上縁
=aからbを邪魔しなかったので成立原因となっている原因
について
無自性である諸の有体には存在性はないから、彼があるときに此れがあるというこのことは可能ではない
つまり
諸々の者はそれ自身ないのだから因果関係はあり得ないと考えた。

竜樹は
すべてのものは空である、自性がないから
と明言する。
しかし逆に
自性がない故に空である
というには決して言わない。
自性がない
というときの
自性とは何か問う問題は後の仏教史を決定づけるほど重要だった。


(論理と言葉→非論理と非言語
の順番を守らないといけない。
まず最初に言葉と論理で徹底的に思考して修行して、
次に初めて非論理に行くのが重要。
はじめから非論理だと単なる幼児化で、
赤ちゃん状態=本能と欲望に従う
だからこの状態に大人の体でなるのは悪。
非論理を先にするのは大抵がカルト。非論理を先にしているなら防御装置(狂人になった実例はないか、元に戻せるか)があるか確かめること。





言葉あるいは命題が主語と述語に分かれていることが、ここでいう分裂つまりプラパンチャ。
言葉で表現するのもプラパンチャ。
パーリ語ではパパンチャであり、くだらないおしゃべりや本質を突かないおしゃべりという意味で戯論と訳した。
ところが龍樹は中核概念として用いた。

『中論』
「縁起なるもの、それをわれわれは空性と呼ぶ。
 それ(空性)は仮説(けせつ)であり、中道である。」

(龍樹のいう解脱を達成するには言葉が世界を切り取る作用の影響から脱しないといけないが、これはただ外形だけ言葉を捨てても達成できない。
なぜなら人間社会に生まれた時点ですでに言葉の世界に強制的に参入させられてしまうから。
仮にまったく人語を学ばずに成長してもその状態は般若=智慧からは程遠い。そもそもそのような人が慈悲をなせるか疑問。
個人個人合わせた最も適切な救済を与えることはできないだろう。
影響を脱しても言葉は依然として使えることが重要。
自由自在に扱えることが解脱の証)


『チベット旅行記』『古事記』『日本書紀』偽書の作り方。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-174.html

書籍「空の思想史」
http://sky.geocities.jp/biyakuren_sutra/kuunosisousi.html



・五蘊皆空
=五蘊は自性が空
にはインドでは三通りに解釈されてきた。
1五蘊はそれ自体が空である(自体を欠いている)

五蘊という現象以外に自性と呼ばれるものは存在しない。
五蘊の自性と現象の区別はなく、五蘊がそっくり存しないという解釈。
空は実体視されていない。
五蘊以外のものは空ではないという含みもない。
これは般若経の空思想の中でも最も基本的。
龍樹の『中論』における縁起=空 理解の基本的側面(戯論を滅する過程)にもこの理解が見られる。
玄奘が五蘊皆空と訳した時は、五蘊それぞれすべてが空である、という意味を考えていたのであろう。
スヴァバーヴァを自体と訳したときにはかえって誤解を招くと考えたのであろう。実際この解釈ではスヴァバーヴァにはそれほど特別な意味はない。

2 五蘊は自性(実体)が空であるが五蘊の現象(言説)は存在する

インドおよびチベットにおいては五蘊が実体としての自性を有する場合と、
実体としてではないが現象つまり言語活動によって仮にその存在が説かれている場合の二つがあると考えられる。
中観派は前者を認めず(実体は認めない)後者を認めるが、
この解釈2のポイントは、日常の言語活動及び言語の対象としての現象世界の成立にある。
もちろんそれらは実体をともなって成立するのではない。

3 現象としての五蘊は自体が空であるが本質としての空性は実在する。

否定さるべきものは現象としての五蘊。
真如(本質)としての空性そのものは否定の対象とはなりえず、実在であり、生、住、滅を離れている。
実在が生、住、滅を離れているという考えは宗教思想では一般である。
ヒンドゥー哲学にもこの考え方は見られるが仏教では如来蔵思想や一部のタントラ経典に見られる。



・p.128
龍樹は命題が二つ以上の項(主語と動詞、主語と動詞と目的語など)によって成立していることに注目。
彼の言葉の分析の結論は、二つ以上の項目に分裂している言葉は究極的に、
すなわち空の立場では成立しえないということであった。
つまり、主語と述語があって意味を成す世界にいる限り、われわれは悟りえないというのが龍樹の立場。
彼にとって空とは言葉の否定を意味した。

この言葉の否定を弁証するにあたって龍樹は、
否定辞の有する二種の機能をたくみに使い分けている。

竜樹は『中論』第2章「観去来品」の
「已(すで)に歩かれた場所(已去処 いこしょ)」

「未だ歩かれていない場所(未去処 みこしょ)」
の考察で、
歩く(行く)動作とその動作の行われる場所との関係を扱っている。
彼はまず
道路が(踏み)歩かれる
つまり
道路などに歩くという動作が見られる
という反対論者の意見を想定する。
竜樹に反論するものたちは、
道路という基体に
歩くこと という運動が存在しており、
この基体と運動との関係は
道路が歩かれる
という受動態の文章で表現されると考える。
竜樹は道路が歩く動作を受ける
という命題も成立せず、
さらに究極的には道路とか運動というものは存在しない、
すなわち諸々のものは空であると主張。

a すでに歩かれた場所(已去処)は歩かれない(歩く動作を受けない)。
b まだ歩かれていない場所(非已去処、未去処)は歩かれない。
c 已去処と非已去処を離れた今歩かれつつある所(現去処)はない。

これら3命題では、道路の領域が補集合的関係に分割されている。
aは歩くことがすでに歩かれた道路の領域(gata)に存在しないと述べ、
bは歩くことがまだ歩かれていない領域
(すでに歩かれた領域以外の領域、a-gata)
に存在しないと述べ、
cはそれらに領域を離れた領域は存在せず、
したがって、そこにも歩くことはないと述べている。
abcを総合することで龍樹は歩くべき場(道路)のいかなる領域にも歩くことは存在しないと主張。
すでに歩かれた場所 を意味するガタgataは、
歩くや行くを意味する動詞ガムgamと
過去受動分詞タtaからなる語。
否定を意味する辞a(非)を加えたアガタa-gataは「まだ歩かれていない場所」
を意味する。
aとbにはガタにもアガタにも「踏み歩かれる」という動作がないと述べられている。
踏み歩かれる
は、歩くという動詞の語根gamに受身を表わすyaを加えた
受動形gamyateによって表現される。
英語の動詞goは他動詞には使われないが、
サンスクリットの動詞gamは、踏み歩くという他動詞の意味に使われる。


例えば
太郎が自分の家からポストまで行くのに、
すでに家から歩いてきた道はガタである。
ここは既に踏み歩かれており、過去において動作が行われることはない。
そして現在、
太郎がいる地点は踏み歩かれつつあるもの(gamyamāna)
であるが、ここには場所あるいはスペースがないため踏み歩かれることはない。
ここでアガタはガタという領域の存在の否定ではなく、
全部の領域からガタを除いた領域を肯定している。
このようにサンスクリットで、否定することによって否定されない領域を肯定させること、
すなわち名辞の否定を定立否定(paryudāsa)という。
前述のabc
を書き直すと以下になる。
a′
歩かれたところは、歩かれない
gataṃ na gamyate
※まだ歩かれないところは、歩かれるを含意しないことに注意。
b′
歩かれていないところは、歩かれない
agataṃ na gamyate

c′
歩かれつつあるところは、歩かれない
gamyamānaṃ na gamyate

「已去処」と「未去処」が補集合的な配分。

中論は、名辞の否定a anと、命題の否定naを使い分けるのが論議の核心。
時間を空間的に表象し過去未来現在の存在を否定。
反対論者が現在歩いているという眼に見える動作があるとるが、
それに対し龍樹は過去と未来の間に現在という幅があることを一歩譲って認めている。
そのうえで反対論者の説を批判。

中論
今歩かれつつあるところに、
歩くことがあるとはどうしていえるか。

ここでは、
歩かれつつあるところ=基体 ダルミン

歩くという運動=属性 ダルマ
が存することが問題となっている。
今回は過去未来現在ではなく無時間的な観点から、
歩かれつつあるもの=基体 ダルミン

そこ(基体、ダルミン)に存する、歩くこと(属性、ダルマ)
が問題となる。
ここでの論議で、
歩かれつつあるというところに歩くことがある
という命題が成立するときには、
歩かれつつあるところ(基体、ダルミン)

歩くこと(属性、ダルマ)
とが二つの異なるものである。
二つの異なるものが関係を持つということは、まさにプラパンチャという言葉の意味するところである。
竜樹は反対論者に対し、
今歩かれつつあるところ(基体、ダルミン)
が成立するためには、
「ひとつの歩くこと」が必要であり、
さらに
歩くことがある(ダルマ、属性)
が成り立つために
「第二の歩くこと」が必要である。
しかし、二つの歩くことがあるとは正しくない、と龍樹は言う。
反対論者は、
歩かれつつあるもの

歩くこと
の二つを別のものとし、この二つの存在を認めたことから、こういった結果をまねいた。

(意味が分からんぞ!
すでに歩かれたが成立するには歩くことが必要じゃねーか!言葉を話す限り逃れることのできないまあ、あまりに厳密に言葉を分析すると何か変なことが起こるから言葉と現実は完全一致しませんよって言いたいことはわかった)

竜樹の論議は詭弁であるかのように聞こえると思われるが、実際に我々の言葉の持っている矛盾、言葉を話す限り逃れることができない運命を龍樹はついた。
言葉の持つ矛盾とは言葉が主語と述語に分かれていることだ。
言葉が主語と述語に分かれているのか、
もともと一つのものとしてあった意味を主語と述語という形で切り開いているのかさえ、
今も不明なまま。
命題が成り立つためには二つ以上の項が必要。
竜樹はこれら言葉の広がりがプラパンチャでありこれがある限り世界があり、
世界がある限り救いはないと考えた。

第二章の結論は、歩くことも歩く人も歩かれるところも存しない
と述べる。ゆえにすべては空というのが龍樹の言外の意味だろう。
このような論法は、ものは不生不滅であるゆえに空の中には生老病死もなく、
五構成要素(色受想行識)もないというものであり、般若心経でも見られる。
ではすべてのものが無であり悟りも教えも全く存在しないのだろうか。
竜樹は最高真理においては空であるが、
世俗的真理ではすべてのものがありうると主張。
つまり空性はよみがえる。
縁起は空性であり空性は仮説であることを意味する。
竜樹は言葉を否定して空性に至るまでの過程に中論の九割を当てている。
空性に至った人が仮説としてよみがえる世界についてはほとんど述べられておらず、
それらはのちに唯識学派の人々により論議されていく。
アビダルマ仏教は世界は存在し因果関係で成り立つと考えた。
しかしアビダルマでも業と煩悩を止滅させる修行体形を有しており、
否定を繰り返し、厳しい戒律を守りつつ瞑想を行い、業や煩悩を止滅させる限りにおいては、空思想の人々と同様であった。
しかしアビダルマ仏教では世界、特に世界の構成要素としての原子は無になる必要はなかった。
つまり原子は否定の手を免れた。
では空の思想はどうしてすべてをないとしたのか。
竜樹は業と煩悩は分別、すなわち概念作用から生じると考えた。
概念作用はプラパンチャから生じる。
よってプラパンチャを止滅させると概念作用がなくなり、
概念作用が亡くなることで業や煩悩がなくなると言うのが龍樹の言う縁起説。
世界が存在しないと知ることが空の実践の前提条件だった。
このため空思想は徹底した否定作業の必要性を説いた
(これ無意識への影響という縛りからも解放されないといけないからね。
要は言語の世界たる人間世界から離れるってこと。
単に幼児化しても言葉を発しなかったり言語で思考しなくても影響力が残っているならダメってこと)


・原始仏教における無我(非我)の思想が部派仏教にも引き継がれたのであるが、
部派仏教においてはそれ以前に認められていなかった恒常的な世界構成要素が認められた。
すでに述べたように、中観派ではその恒常的な要素の存在があらためて否定された。
仏教では恒常的実体を否定する伝統と、是認する傾向とが存在してきた。

中観派は無自性論者つまりもろもろのものに自性はないと主張する者たちとも呼ばれてきた。

体にも火があって食物を消化すると考えられている。
インドでは眼から火が対象に向って走ると考えられた。

ろうそくにともる火もある。さまざまだが熱さ=熱性はそれらに共通してある。
この暑さこそが火の自性、本性、本質であるとアビダルマ仏教では考えられる。
どうように水の自性は湿性、
地の本性は堅性。

大乗仏教では自性と残りのものとの関係が主要問題。
ヒンドゥー哲学では属性とその基体の関係が極めて重要だったが、
仏教はおおむね唯名論なので属性と基体の間に明確な区別はない。
スヴァバーヴァは自性と訳すよりも自体あるいはそれ自身と訳すほうが適切なことがある。
仏教では属性と基体の区別はほとんど問題とならず、自性と残りのものとの関係が重要。自性以外の残りのものを非自性的諸要素、単に諸要素と呼ぶことにする。
四パターンある。

1 自性と諸要素がともに実在
2 自性と諸要素がともに非存在あるいは非実体的
3 自性は実在ではないが、諸要素は世間的に有効な作用を有する意味で存在
4 自性は実在するが諸要素は非存在あるいは非実在的なもの
(実体 それ以外
  ○  ○
  × ×
  × △
  ○ ×)

部派仏教のアビダルマは1。
この哲学は火の自性である暑さのみならず日の色や形などの諸要素も実体的。
個々の原子に分解されるものは恒常ならざるものである。
原子は勝義有(しょうぎう 究極的存在)、
原子の集積である冷や水は世俗有(せぞくう)と呼ばれ存在が二種に区別されるが、
両者とも実体的なものである。

竜樹にとっては双方とも止滅させられるべきものでこの立場は釈迦の立場に近いと思われる。
竜樹は自性もなくそれ以外の諸要素もないまったき無を究極的真理としたのではなく、
空においてすべての言葉とその対象(戯論)は存在しないが、止滅と導かれたもろもろの存在(縁起せるもの)がよみがえった姿として仮説を認める。
『中論』龍樹は3に近いが2.
彼の後継者の内多くは3.
俗なるものとしての自性を否定するなら2.
聖なるものとしての空性に至って仮説が成立するなら3.

竜樹がアビダルマを批判した後1~2世紀を経ると4が仏教内で徐々に力を得てきた。
自性は宗教的価値を帯びることがしばしばであった。
すなわち自性は常住なる如来蔵(個々人に宿る仏となる可能性)となり、
諸要素は客のように偶然そこに居合わせた非本質な心の汚れ(客塵煩悩)となる。
自性は顕現させられるべき聖なるものであり諸要素は滅せられるべき俗なるものである。
4の代表は如来蔵思想であり、後に仏教タントリズムと深い関係を結び、ヒンドゥー教的要素も有する。

部派仏教の考える自性と残りのものとの関係は1.
竜樹に代表される初期大乗は2.
中期と後期の大乗は3が有力となる。が、如来蔵思想の4も徐々に広まっていった。

大乗仏教の誕生と殆ど同じくして原始般若経典類が生まれた。
300~350年ごろに般若心経が作られたと推定されている。影響力は計り知れない。、特に日本ではもっとも親しまれている経典といえよう。


・どの時代からスヴァバーヴァに良い、肯定的意味が与えられるようになったのかはよくわからないが、初期般若経、初期中観哲学ではスヴァバーヴァはおおむね、悪い、否定的意味で使われている。

・般若心経の解釈。

五蘊は自性が空である。
インドでは三通りに解釈されてきた。

1五蘊はそれ自体が空である(自体を欠いている)

般若経の空思想の歴史で最も基本的。
五蘊以外のものは空ではないという含みはない。五蘊がそっくり存在しない。
前述の四パターン2.


2五蘊は自性=実体が空であるが五蘊の現象=言説は存在する

インドおよびチベットでは五蘊に関しては五蘊が実体としての自性を有する場合と、
実体としてではないが現象つまり言語活動によって仮にその存在が説かれている場面との二つがあると考えられる。
中観派論者は前者を認めず後者を認める。
ポイントは日常の言語活動および言語の対象としての現象世界の成立。
それらは実体を伴って成立するのではない。
前述の四パターン3.

3現象としての五蘊は自体が空であるが、本質としての空性は実在する
この場合否定さるべきものは現象としての五蘊。
真如(本質)としての空性そのものは否定の対象とはなりえず、実在であり、生、住、滅を離れている。
実在が生、住、滅を離れていることは宗教思想では一般的。
仏教では如来蔵思想と一部のタントラ経典に見られる。
四パターンの4.

(やはり密教はバラモン・ヒンドゥー今日の実体思想が混ざっている。
如来蔵思想はストア派やグノーシスみたいだ。一切衆生悉有仏性思想とも似ている



インド仏教の空思想では初期は解釈1が有力だったが、時代を下るにつれて解釈2が有力。


・六世紀前半に形式論理学の体系を確立したディグナーガ(陳那、480-540年頃 有相唯識派)。
ディグナーガ論証式あるいは推論式の特質は、あらゆるものの存在を他の物を目印として証明することであった。
論証式の例としては次のものがよく引用される。

主張 
あの山に火がある。

理由 
煙があるから。

肯定的必然関係と同類例 
煙のあるところには火がある。台所におけるように。

否定的必然関係と異類例
火のないところにか無理はない。
湖水の表面におけるように。

この論証式は目前の山から上っている煙を目印(リンガ)としてその山に火のあることを証明しようとしている。
ディグナーガの論理学をはじめとしてインドの論理学では一般にあるところ(場、パクシャ)に存在するものを目印としてその同じ場における他のものの存在を証明するのである。
場におけるあるものの存在が目印によって証明されるとき、そのあるものは証明されるものと呼ばれる。
また目印は推論の原因となるために、因(hetu 原因)とも呼ばれる。
因明(いんみょう)という語は、推論の原因に関する学問(明)すなわち論理学
を意味する。
肯定的必然関係とは、
目印があるところには必ず証明されるものがある。という関係。
目印の存する領域は証明されるものの存する領域によって完全に覆われている。
注意すべきことは、ここでは一つの目印の占める領域や一つの証明されるものが占める領域ではなく目印や証明されるものの存する領域が問題となっている。

否定的必然関係とは
証明されるものがないところには目印はないという関係。
目印の存する領域と証明されるもの存する領域は交わらない。

主張
場には証明されるものがある

原因
その場に目印があるから

肯定的必然関係と同類例
目印があるところに証明されるものがある。同類例のように。

否定的必然関係と異類例
証明されるものがないところに目印はない。
異類例のように。


・龍樹によれば世間的真理とは言葉になった教えであり、
最高真理とは言葉を超えたものであった。


・中観派と唯識派(瑜伽行派 Yogācāra ヨーガーチャーラ)を総合した人物がシャーンタラクシタ
であり、
771年、二度目にチベットに入ったとき、彼はチベットの土着的でシャマニズムの強いポン教との論争に打ち勝った。
773年にインドから招いた密教行者パドマサンバヴァと共にサムエ僧院(サムイェー寺)を建立し、そののちまもなく死去。
シャーンタラクシタは臨終に際して、もしもチベット仏教が危機に瀕したならばインドにいる自分の弟子カマラシーラを招くようにとチベット人の弟子に言い残した。
シャーンタラクシタはチベットに導入されたばかりのインド大乗仏教が、チベットで台頭の兆しを見せていた中国大乗仏教と近い将来対決せざるを得ないと見通していた。
チベットに招かれたカマラシーラは中国仏教の摩訶衍(まかえん)を論破し、これにより、
認識論、論理学を重んじるインド大乗仏教の伝統が、チベット王室に正式に導入
されることになる。

(シャーンタラクシタ、?-787年頃、寂護。
、パドマサンバヴァ(蓮華生)と並ぶ、事実上のチベット仏教の始祖。
唯識派に近接して行った中観自立論証派(スヴァータントリカ派)

パドマサンバヴァ「蓮華に生じた者」蓮華生、8世紀後半頃。
チベットに密教をもたらした。チベット密教の開祖であり、ニンマ・パ(ニンマ派、漢訳;紅教)の創始者である。「ニンマ・パ」=「古い・宗派」「古派」。チベット仏教における最初の宗派)


シャーンタラクシタは『中観荘厳論』にて
いかなるものも単一の自性を有せず多くの自性も有しない
と述べて中観論者と表明。

後世のチベット人たちはシャーンタラクシタたちの主張した型の仏教を
順に修行階梯を追うことによって悟りに至る(漸悟 ぜんご)仏教と呼び、
中国僧大乗和尚の型の仏教を
修行階梯を順に踏むことには必ずしもこだわらない(頓悟 とんご)仏教と呼んだ。
後者によれば戒律を遵守すること、長期にわたる瞑想の修練、哲学的な理論研究などは悟りを得るために不可欠と言うわけではない。
大乗和尚は心作用を滅することで悟りを得ることができると主張。
彼にとって空性とは視覚、聴覚、思考などのすべての心作用が止滅していることであった。
これとは対照的に、シャーンタラクシタやカマラシーラをはじめとする彼の弟子たちは悟りを得るためには数多の段階を順に追って修行する必要があり、
また空性はそのような不断の修行過程の中でとらえるべきものであって、
単なる心作用の欠如ではないと考えた。
このような階梯を順に踏むことで悟りに至ろうとする考え方はインド後期仏教においても主流であったが、
チベットにおいてはダライ・ラマの学派を開いたツォンカパによって引き継がれ、
チベット仏教の主流として今日に至る。


・七世紀の編纂と考えられている大日経によって仏教タントリズム(密教)が確立されたとすでに述べた。
大日=大日如来は太陽のように光り輝く仏という意味。
経典のタイトルは詳しくは、
大日が悟りを得たのち、衆生のために奇跡(神変)を現して教えを時、大日の聖なる力を衆生に与えた(加持)経。

大日の身体的、言語的、心的活動によってすべての衆生に対して秘密真言などの言葉で教えが示される。
一切智者である大日はすべての無知の薪を焼き、火は尽きない。

智慧の原因は何か根本は何か究極的な境地(究竟くきょう)は何か。
大日如来答えて曰く
「因(原因)は菩提心(すなわち悟りを求める心)であり、
根本は大慈であり、究竟は方便である」
これは大日経を貫くテーマである。
菩提(ボーディ)とは自分の心を正しくありのままに知ること
であり、
菩提には自性がないと述べる。
この経典では心は青でもなく黄でもなく、短くもなく長くもなく、光でもなく闇でもない。
このように心の色や形は捉えることができない。
虚空の自性そのままが心の自性(本質)であり、心の自性そのままが菩提の自性である。
大日経では心の本質そのものが菩提であると考えられている。
もっとも心は恒常不変の実体ではない。
心は色や形を 持たないのもので、あらゆる差別を超えたもので、世意味で事象を有しともかくも存する。
その心の自性は清浄であり、うちにもなく外にもなく、中間にもない。
大日経では自性が中立あるいは良い意味で使われるケースがすこぶる多い。
仏の智慧は大悲つまり他者の苦しみを取り除くことを根本すなわち動機としている。
悟りは他者のためのもの。仏の智慧の究極的なありかたは、自らが悟りの中に一人住むのではなく、
さまざまな他者にあわせてその際に最も適切な「手段(方便)として用いられる。
タントリズムが求めたのは言葉の止滅した境地よりもむしろその境地を経験した後にそれが現実世界でどのように生かされるかである。


・大乗仏教の空思想は2~3世紀の竜樹が確立。
竜樹は世界は縁起の法則で成立したと考えこの思想はブッダ以降仏教の基本思想。
六世紀ごろ、中観派に二つの流れが生まれた。
後世のチベット人は、
帰謬論証派テンギュルパと自立論証派ランギュパと呼んだ。
前者は空性は言葉とは隔絶しているが、
後者では空性は論証で語れると考えた。

・空性を実在しする傾向はチベット仏教でもいくつかの学派で顕著となった。
中国と日本密教でも空性はインドよりも実在性を増している。
要は時代が下るにつれて空の肯定的側面が強調されつつ、空性が実在視される傾向が強まった。

・唯識では認識にイメージ(形相)がある限り、
その認識を誤っている
と考える。
認識の対象も主観も、ともに現れたもの(顕現)だと考える。
認識の中に現れる誤ったイメージをなくしていって、
認識作用を光に変えようとするのが唯識の実践。
目指す境地は認識の中のすべてのイメージがなくなり、
光のみの状態に至ること。

中観派がどのような判断も成立しないと主張するのに比べて、
唯識は認識がやがて光になる際の素材だと考えるので認識作用のすべてを否定しようとはしない。
しかし唯識は客観および主観の実在性を否定するという伝統は守る。

チベットではサキャ派と並んで密教的色彩の濃い宗教であるカギュ派がよく知られている。
開祖マルパはネパール、インドに出かけ、密教行者マイトリーパについたといわれる。
カギュ派は、ものの本質(法性)は生じたり滅したりしないものであり、最高真理は不変だと考えるので、
恒常不変なる根本の存在を認めている。
また、サキャ派と同様に、心は空性であり、
さらに最高真理は光として現れてくると考えられている。
サキャとカギュでは空性自体が一種の実体とみなされる傾向がより顕著にみられる。
カギュの分派としてカルマ派があり、

カルマ派はさらに黒帽派と赤帽派に分かれた。

黒帽派の第三世座主であるランチュン・ドルジェの著作では
心は認識作用(照)と空とが融合したものと考えており、
ヨーガという手段でか汚れなき法身を体得できるように誓願を立てている。
非本質的なものである心の汚れを浄化するならば無垢の法身が体得されるというのは、
明らかに如来蔵思想
であり、先述の四パターンの4.
つまり無垢なる法身は恒常不変の自性に相当する。

カギュと如来蔵思想の結びつきをさらに強めたのは、
カルマ黒帽派第八番座主ミキョ・ドルジェである。
彼は中観思想を他空説の立場で解釈しようとした。
他空説では如来蔵と同一視された自性は否定されず、
煩悩などの如来蔵よりも他のもの、
すなわち自性より他の残りのものが否定される(空である)。
要するに他空説の他とは自性としての如来蔵より他のもの、
すなわち煩悩などを意味する。

ゲルク派の立場は自空説と言われる。
この自とは自性である。
自空説では空性の働きとしての否定から逃れるものは何もない。

如来蔵思想的な考えは龍樹など初期中観派とは明らかに相容れない。


・ゲルク派の開祖ツォンカパの思想は、後のチベット仏教の方向を決定。
それほど偉大であり、中観思想、特にインドの中観思想家の月称を重視。
インドでは空は一般的に、
般若心経の五構成要素は自性を欠いている
というようにYはX(自性)を欠くと理解された。
が、ツォンカパは、そのように理解せず、
Yは自性として成立していることを欠く
と理解した。
つまり自性(ランシン)を欠くという際の自性が
自性として成立していること
に置き換えられている。
五構成要素(五蘊)が自性(ランシン)として成立していることの無、
それが有体(もろもろのもの、五蘊)の空性である。
この違いは大きい。
つまりインドの一般的理解では、
YはX(自体)を欠いている
(YはX〔自体〕に関して空である)
は最終的にはYもXも存在しないを意味していた。
空性に至ったのちに甦るとしても、一度は両者とも無になると。
しかしツォンカパはY(五構成要素)は自性として成立していることを欠いているのであって、
自性として成立していないYはその存在が許されている。

彼にとって自性とはものの本質(法性)をいうのであって、その存在が肯定されるべき何ものかである。

現象世界や輪廻の世界を超えた涅槃が、すべて現実的に有効だという意味で存在が認められる。

・中国仏教の歴史
伝えられたのは紀元一世紀、後漢の時代。
チベットに伝えられる数世紀も前のこと。
四つの時期に分けられる。

1伝来時代 
紀元一世紀、後漢(紀元25~220)
から西晋(紀元265~316)

2定着
五胡十六国(紀元316~439)
から南北朝(紀元420~581)
まで

3成熟
隋唐時代(紀元581~907)

4民衆浸透
宋朝(紀元960~1279)以降。

インドのマウリア朝(紀元前321~188)の時代にはすでに中国の西隣の西域地方に仏教が伝えられていた。
第二期で仏教は一般に流布していったのであるが、当時の人々が仏教に求めたのは呪術的な機能。
呪術は宗教と同様に聖なるものと俗なるものとの区別を意識。
宗教では目的達成のために行為に自己否定を伴うことがほとんどだが、
呪術では自己否定を伴うことは少ない。
中国仏教第二期では仏教僧もすでに中国にあった呪術的儀礼と仏教徒を結びつけ。
除災、病気治癒といった現世利益の側面を強めていった。
中論を訳した鳩摩羅什(344~413または350~409)や
自らインドに出かけた法顕(339頃~420頃)などが活躍したのもこの時期
であり、
第二期は中国仏教が開花する次の第三期の準備期間であったと言うことができよう。
3期の隋唐時代で仏典翻訳にとどまらず中国人の仏教を確立された。
隋(581~618)の時代にはインド中観派の伝統を受け継ぐ三論宗、
さらには中論と法華経思想を統合した 天台宗が発展。
唐(618~907)時代には
インドの唯識の伝統を受け継ぐ法相宗や、
華厳経の伝統を踏まえた華厳宗、禅宗、浄土教、さらには密教が勢力を得た。
智顗(ちぎ、538-597) が開いた天台教学と、
賢首(げんじゅ)大師法蔵が完成した華厳教学は中国人の思惟による仏教思想であった。

第三期では呪術的要素はそれほど強くはなく、厳しい禁欲的修練が前提。
戒律を守り自己を律し世俗的名誉を得ることを自ら放棄と言った自己否定が重視。
自己否定は空思想に基づく。

天台宗などでは空という側面が主要であり、空なるがままにものとして表れる面も主張されるが、焦点は前者。

対して密教では空なるがままに現象が成立するつまり既に聖化された世界にいる側面に焦点があっている。
なお中国の密教は唐が滅ぶと勢力を失ってしまった。
(やっぱり最初は現世利益でないと広まらないよねえ)

・天台仏教の核心である一心三観は、開祖の慧文が読み取ったものだが、
第三祖の智顗(ちぎ、538-597) に伝えられた。
中論に述べられる一心三観思想をみていく。
中論
どのようなものであれ縁起なるものを、
われわれはそれを空性と呼ぶ。
それは仮説(言葉によって仮に述べた存在)であり、
また中道である。

三観=空、仮、中。
一心=現在体験しつつある瞬間瞬間の在り方。
この心とは精神生理的な意味での心ではなく、
一人ひとりが生きているあり方そのものを指す。
天台宗では空、仮、中は三つの真理(三諦)といわれ、この三つの真理を述べているかの中論の偈は三諦の偈と呼ばれてきた。
天台宗では三諦円融という表現がしばしばみられ、空仮中は別個ではなく互いに融合しているという意味。
第三句の「それ」は後世の注釈家の意見だと多くは空性だとしている。
が天台宗では縁起を指すとする。
つまり縁起は空性であり仮説であり中道だと考えられた。
(代名詞はできるだけ使わないようにしましょう)


仮説あるいは仮設と訳されたサンスクリットの
ウパーダーヤ・プラジュニャプティである。
ウパーダーヤ=対象を自分の方に引き寄せて。
プラジュニャプティ=他者にしらしめるための標識。
したがって、合わせて、
対象は実在しないのであるが、それを概念作用に引き寄せて構成し、他者に知らしめる標識として用いられた言葉
を意味する。
要するに現象世界を知らしめるために仮に用いられた言葉。

龍樹の中論の仮説は空性に至った仏が凡夫を導くための言葉あるいは教えなので、
空性体験を既に得た後の状態を指しているのであって迷いの世界の凡夫の心の状態ではない。
仮説とは仏が凡夫たちを導くための方便として言葉を用いて仮に現象世界を知らしめている、というのが龍樹の意図だと思われる。
竜樹の中(マドゥヤマ)とは元来は中間を意味する。
竜樹の言う中道は左右の中間とか激しい動きと停止の中間という王なあり方ではない。
中程度の状態をすすめる個所は中論のどこにもない。
中論の中道とは、
言葉を超えた空性を悟ったものが、その体験を言葉によって語りながら他者を導く場面をいう。
仮説とは悟った者の言語表現であり、
中道とは仮説を働かせる場面なのである。

しかし天台宗の
仮=悟ったものが語る言葉や見る現象世界のみでなく、凡夫の言葉や見た世界も含む。
天台宗の空は無というより根本という意味のほうが強い。
空=さまざまなもの形や働きがそこから現れて来る根本でありものの元は存する。
空に至るならばそれぞれのものはその形や働きを鎮めて根本の空に帰入する。
その根本を智顗(ちぎ、538-597) は如という言葉で説明。
如=もろもろのものの本然のすがた。
無というよりはむしろ有。
天台宗の中=空と仮の調和。
根元としての空と、そこから現れてきた現象としての借りが矛盾することなく成立してしている状態。

竜樹では仮説と中道はほとんど同じ。
が天台宗は違う。
空から働きや形が現れるときに仮となり、
形や働きが隠れるならば空といい、
この両方が融和している事実を中という。
天台宗で三諦円融は仮のまま空、空のまま仮、仮のまま中
という意味。
天台宗ではすべての経典は釈迦が一代で解いたと考えられ、悟りを得たのちの涅槃に至るまでの布教生活を五つの時期に分ける。




・華厳経は初期大乗仏典の一つであり、
一と多、特殊と普遍、現象と本質といった一般に存在すると考えられている区別が究極的立場においてはすべて円融していると述べている。
根源的な何者かの存在を認めており、その根源的な何ものかが場面に応じてさまざまなすがたを表わすと考えているところでは天台宗と共通。
天台宗や華厳宗では空性はある種の実体あるいは根源とみなされるようになった。


・法蔵の般若心経の注釈。
1色不異空
2空不異色
3色即是空
4空即是色

第四句。
自である空が否定されて他である色が成立する
これを注釈して、
空、隠れる也
という。
空が隠れてすなわち否定されて色が表面に出て来る。

第三句では、
他である色が眠るすなわち隠れる一方、自としての空が現れる。


第一と第二句は自と他つまり空と色がともに成立する場面を語っていると法蔵は考える。

自と他がともに眠る場面は般若心経には直接述べられていないが言外に意図されておりそれが究極的な場面だと彼は考える。
隠れるとか眠ると言う表現に注目。
彼が空も色もある根源的存在の様態を考えていたことを示す。
彼のみならず華厳経一般では、空と色が相反するものであるかのように見えるが、
その相反する姿を見せる根源的なものの存在が許されている。
この根源的なものは法界と呼ばれる。
法=もろもろのもの。
界=本質。
法界という言葉はもろもろのものが有する本質を意味するのではなく、
もろもろのものに他ならない本質を意味する。
基体としてのものに基体とは異なった本質が存するというのではなく、
基体とその上に存する本質あるいは属性の区別がほとんどないインド型唯名論の考え方を見ることができる。
属性や運動などが存する基体の存在が認められている。
空や色が隠れたり現れたりする根底存在が認められている。
法界という根底はもろもろのことである。
空や色の背後に姿を見せずに世界と離れて存在する実在ではない。
生じたり消滅したりしている眼前の諸々の者が華厳哲学の考える法界。
それは誕生や消滅の基体。かつ聖なるもの。
消滅の基体で聖なるものとはヒンドゥー教の神と同じではないか。
このかぎりにおいては華厳宗はヒンドゥー神学と似ていると言わざるを得ない。


法蔵にとってものはともかくも生ずるものである。
華厳仏教ではものの生ずることがともかくもなくてはならないと考えられた。
竜樹は因果関係そのものを否定しようとしていたのであるが、
華厳では原因結果関係を守ることで空を主張しようとした。

・禅宗の、心も悟りもなく本来無一物思想には、
二種類の極端に走る危険性がある。
1 何物も存在しないことを強調する原理主義的否定的態度。

2 現前の世界は既に完成し円満なる世界なのでいかなる宗教実践も不要とする楽天的態度。
この極端にはしる禅僧も存在した。

 
ボーディダルマや慧能が歩もうとした道は、どちらの極端にも陥らず、
しかも身体があるとか心があるとかを問題にすることもなく、
塵を払うための時間もなく、
何の囚われもなく無心でいるといったあり方と思われる。
心に塵がある
という表現を用いたとたん、この言葉はその心から遠ざけてしまう。
心に塵がという言葉が用いられた瞬間に、
われわれは心、塵、あるものに他のものが存在することなど複数の項と、
それらの間の関係によって形作られる構造体を考える。
しかし複数項や関係で組み立てられた複合体に関わればかかわるほど我々はものの本当の姿を見ることはできない。
少なくとも禅宗の人々はそのように考えた。
ものの本当の姿を見る為、
それになるため
厳密にはものであるためには言葉からできるだけ離れなければならない。
それになるという言葉も不要。
それのみで十分。
それという言葉を発するのに必要な時間はものから遠く引きはなしてしまう。
ではどうするのか。
あるとかないと言った判断をせず、
ものの名前を呼ぶこともせず、
心という観念を持つこともせず、
静かに息づく。
それが禅宗の求める空。
禅の求める境地は決して精神の弛緩した無緊張状態ではない。
本来無一物という。
しかし禅宗はインドの中観思想家のような空あるいは無を求めていなかったように思われる。
つまり心とか塵とか呼ぶこともできないのは、
心や塵がまったく存在しないからなのではなくて、
反対に言葉を用いてそれらに呼びかける必要のないほどに近くにそれらのものは存在しているからなのである。
われわれはそれの存在に押しつぶされて生きている。
というよりもわれわれはそれらの存在ものものなのである。
そしてそれらの存在は否定さるべき俗なるものとしての世界ではなく、
その存在が肯定される聖なる世界だと考えたのである。


・日本仏教で最も重要な人物は、厩戸皇子つまり聖徳太子であり、高句麗の僧である慧慈が師匠。
『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)の著者。
この三部作はいずれも中国の注釈書に基づいたものであり、太子を中心としたグループが帰化僧慧慈たちの力を借りて食ったものだろう。

(高句麗の坊さんが師匠なのが重要。百済ではない。
聖徳太子は実在せず誰かがモデルなのだろうけど、重要なのは仏教の注釈書が早くも作られていて、内容が中国のとかなりかぶっていること。

『三経義疏』は、聖徳太子によって著されたとされる『法華義疏』・『勝鬘経義疏』・『維摩経義疏』の総称である。それぞれ『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の三経の注釈書(義疏・注疏)。
『法華義疏』は梁の法雲(476年 - 529年)による注釈書『法華義記』と7割同文ってほとんど同じ。
『勝鬘経義疏』は敦煌出土の『勝鬘経義疏本義』と7割同文。
『維摩経義疏』は梁の吉蔵(549年 - 623年)の『維摩経義疏』や敦煌出土の『維摩経義記』と類似。
『三経義疏』はいずれもこれら6世紀前半ごろの中国の書物と相並ぶものとなるが先行するものはそれまで日本にはなく、この後にこの種の書が日本で著されるまでに長い空白があるのは不自然であるという指摘は、古くからあったらしく、偽書かもね。

禁欲が重要な仏教。
日本は仏教時代が長かったけどセックスには肯定的。
おっぱいの大きさを気にするのは欧米の性。
江戸までは一重まぶたで切れ長の女性礼賛でおっぱいは性的シンボルではなかった!今の日本人の性観念は完全に欧米!性観念の変化について。『江戸の閨房術』。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-203.htmlの記事をあげましたが、
別に性道徳を完全に江戸時代に戻せとまでは言っていませんし、
あなたの性道徳の源泉はキリスト教圏ですよって自覚してほしいから書きました。


村手 さとし‏ @mkmogura
東国=北朝=高句麗・・・西国=南朝=百済=田布施町

そのうち、有料化してブログ書くのでよろしく。神道のことといい、自分しか到達できないことをやるので、楽しみにしてて。ちなみに白村江以降、日本の支配に深く関わったのは新羅ではなく高句麗です。えじ!

新羅勢力が日本にきて勢力を作ったというのに、俺は懐疑的。白村江の難民としてくる理由もなかったし、ブログに書いたけどわずかな奴らも途絶えてるし。
もしいたなら、北南朝、東国西国、高句麗百済で綺麗に分かれないから。

ささゆき(ささゆき)‏ @sasayuki102 6月20日
聖徳太子の師匠、慧慈。聖徳太子に仏教を指南した高句麗の僧。信頼関係は厚く、伊予湯岡碑には「慧慈と温泉に来ました」的なことが書いてあるそうです。めっちゃ仲良し。

また慧慈は聖徳太子が没した際に「同じ日に浄土に会う」と宣言して聖徳太子が没した一年後に亡くなったとか。師弟…関係?
何故当時の流行最先端の随ではなく高句麗僧だったかというと、随のお坊さんは剃髪しなかったり娶ったりしていたそうです。真面目に仏教国として頑張ってる高句麗の留学僧が良いよね!ということで慧慈が来日した(諸説あります間違ってたらごめんなさい)

Shu ENKZN‏ @silverfaxx 2016年6月5日
「若き日の聖徳に、いちばん大きな、内面的な影響を与えた人としては、高句麗僧の慧慈(えじ)を思う。……聖徳四十二歳のときに帰国するまで、じつに二十年間、彼は、この慧慈を師と仰ぐとともに、無二の友としたのであった/上原和『斑鳩の白い道のうえに 聖徳太子論』1975」

Shinya Watanabe 渡辺真也‏ @curatorshinya 2015年2月23日
聖徳太子に仏教を教えたのは、百済博士「慧慈」(百済へ亡命した高句麗僧)だったが、もしかしたらこの時に高句麗道教が百済的なものとして日本に紹介されたのかもしれない。)


・『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』はどれも煩悩を止滅させること、
すなわち否定的禁欲的な生活態度を人々にすすめている教典ではなく、
仏教啓典の中では現世肯定的な態度を強く打ち出したものであった。
このような在家的態度が後の日本仏教でも支配的となった。

南都六宗の宗=仏教研究の科目。

『法華経』はすべての生きとし生けるものが仏となりうるとある。
この考え方は、
すべての生類に仏性があるとする如来蔵思想と区別されるべきであるが、
すべての生類が仏となることが可能であると言うかぎりにおいて如来蔵思想と共通。
如来蔵思想では仏性という浄なるものと煩悩などの不浄なるものとの区別がはっきりしているのであるが、
法華経では浄と不浄の区別がなくいわばすべてが浄。

・最澄の根底が
諸法実相=もろもろの法(ものやこと)がそのまま実相(真実の相=ありかた)そのものである
という思想。
元来、仏教は、現象(諸法)と本質のあいだには根本的区別がないという考え方が基本。



(中論の思想
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E8%AB%96%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3-%E7%AB%8B%E5%B7%9D-%E6%AD%A6%E8%94%B5/dp/4831873438
“龍樹の論理学は、釈尊が重視する現在の瞬間=刹那滅の重要性を論理で理解させること!
著者あとがきに、本書の第1〜2章と第3章の第3〜4節の中の部分が『「空」の構造』第三文明社(レグルス文庫)として出版したとある。そのレビューにも記載したが、ブッダ釈尊の生涯を一言で表現すれば、「上求菩提(自利)、下化衆生(利他)」である。本書の第1章第2節で定義される「俗なるもの」から「聖なるもの」へ向かう第1のベクトル(p.39)は「上求菩提」に対応し、「聖なるもの」から「俗なるもの」へ向かう第2のベクトルは「下化衆生」に対応する。著者の視点の新しさは、上求菩提では止滅すべき「言語的展開(戯論)」が、下化衆生では「聖化された」言語的展開に昇華して実現することを指摘したことである。その具体例が、経律論の三蔵である。

次に、本書の第2章第2節で、著者は『中論』第2章「観去来品」の「已に歩かれた所(已去処)」と「未だ歩かれていない所(未去処)」と「今当に歩かれつつある所(現去処)」を極めて丁寧に論じている(p.127〜)。第2章第3節では、「已去処」と「未去処」が補集合的な配分であることに注目し、これを5タイプ(p.137)に分類して中論頌を整理したことで、『中論』全体の見通しが良くなった。
しかし、その延長線上で「四句分別(テトラレンマ)」を扱う第3章第3節で、大きな間違いを犯したのが残念である。それは、『中論』第1章「観因縁品」第1偈の自・他・自他共・無因を論じる図19(p.253)である。これが間違いを犯した理由は、第2章第2節の図5b(p.130)の導入に原因がある。この図を導入したのは、図19の準備であったと思われるが、「観去来品」の「現去処」の理解を徹底すべきであった。

図19は、本当は「日章旗(日の丸の旗)」の赤円内部を「自」、赤円外部の白地を「他」とし、赤円の円周を「自他共」としなければならないのである。これは『中論』第2章「観去来品」と対比すれば一目瞭然となる。「観去来品」では一次元のB地点が「已去処(A)」と「未去処(非A)」の境界点であり、「Aかつ非A」なのである。これを二次元に拡張したものが図19となるべきであった。「日章旗」は二次元であるが、赤円内部を「已去処」、赤円外部の白地を「未去処」、赤円の円周を「現去処」に対応すると考えるのである。従って、龍樹の論理では第四格が省略された「三句分別(トリレンマ)」が基本になるのである。
さて、赤円の円周である「現去処」とは何か? それは「刹那滅」である。騙し絵のように、ある瞬間には「已去処」が見えて「未去処」が消え、次の瞬間には「未去処」が見えて「已去処」が消えるのである。「刹那滅」だから「空」なのである。

釈尊がヴィパッサナー瞑想で「正念」させたのは、瞬時瞬時(刹那刹那)の記憶である。そうすれば、以前の刹那と現在の刹那の記憶を比較して、今まで気づかなかった習慣となった問題点(著者の表現では、無明と言うべき「俗なるもの」)に気づくのである。その一連の作業を「正定」によって実施するから「四沙門果」の修行が進むのである。それは、著者の言う「自己否定の論理」(p.272)と言うより、「刹那滅以外を否定する論理」なのである。だから、龍樹は釈尊の教法を復活させたことになるのである。

「空」の構造―『中論』の論理 (レグルス文庫)
https://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E7%A9%BA%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0%E2%80%95%E3%80%8E%E4%B8%AD%E8%AB%96%E3%80%8F%E3%81%AE%E8%AB%96%E7%90%86-%E3%83%AC%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%82%B9%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%AB%8B%E5%B7%9D-%E6%AD%A6%E8%94%B5/dp/4476011691#customerReviews
“龍樹の論理学は、釈尊が重視する現在の瞬間=刹那滅の重要性を論理で理解させること!
ブッダ釈尊の生涯を一言で表現すれば、「上求菩提(自利)、下化衆生(利他)」である。
本書の「俗なるもの」から「聖なるもの」へ向かう第1のベクトル(p.31)は「上求菩提」に対応し、「聖なるもの」から「俗なるもの」へ向かう第2のベクトルは「下化衆生」に対応する。
著者の視点の新しさは、上求菩提では止滅すべき「言語的展開(戯論)」が、下化衆生では「聖化された」言語的展開に昇華して実現するというものである。このことが、釈尊滅後の聖典(仏典)重視の理由である。
(以下略)”



“次に「空」という語の意味を考えてみよう。「空」という漢字は、サンスクリットの形容詞「シューニヤ」(sunya 空なるもの)と抽象名詞「シューニヤター」(sunyata 空なること、空性)との両方の訳語として用いられる。抽象名詞である場合は「空性(くうしょう)」と訳す場合も多い。また「シューニヤ」という語はゼロを意味するが、現在のヒンディー語でも「シューニヤ」はゼロの意味に用いられている。
「空」という漢語の意味の一つは、すいているということだ。例えば「今日は電車がすいていた」という。これは客車の乗客が少なかったことをいう。また、「腹がすいた」というときは、腹自体がないのではなくて胃の中にあるべきものがないことをいう。入れ物であるyの中にあるべきxがないのが「空」という漢語の基本的意味なのである。

【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵(講談社学術文庫、2003年)】“
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20100405/p1
「空」の語意


「私」とは属性なのか?~空の思想と唯名論/『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20090201/p1
” ある基体(y)にあるもの(x)が存すると考えられる場合、xをダルマ(dharma 法)とよび、その基体yをダルミン(dharmin 有法〈うほう〉)と呼ぶ。「法」という語にはさまざまな意味がある。掟という意味もあり、義務、正義でもあり、教え、さらにはあらゆるもの、存在をも意味する。一方、哲学的な論議においてダルミン(有法)と対になった場合には、ダルマがそこで存在する基体を意味する。
 もう一度白い紙を考えてみよう。この紙には、無色透明ではあるが基体として一つの場があって、その場には白色という属性があり、さらに大きさ、形、匂い、重さといった属性も存すると考えられる。
 さて、これらの属性を取り除くことができたと仮定してみよう。白色を取る、匂いを取り除き、重さを取るというようにして、すべての属性を取り除くことができたとしよう。最後に何か残ると考える人もいるだろうし、何も残らないと考える人もいるだろう。
 結論的にいって何も残らないという方が仏教的なのである。無色透明ではあるが基体と呼ぶべき何ものかが存在するというのが、バラモン正統派の考え方である。神という基体から白色などの属性を全部取り除いた後にも、目には見えない、匂いもしない、しかし、それがなければ成立しないというような場が残る。何かそのような場なければ、さまざまな性質が集まった現象世界が成立しないだろう、というのばインドのバラモン正統派の考え方である。

【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵〈たちかわ・むさし〉(講談社学術文庫、2003年)以下同】

 シャンカラ(バラモン正統派の唯名論を代表する人物、8世紀に活躍し30代で死亡)の思想モデルとして、フルーツゼリーを考えてみよう。ゼリーの中に入っている小さく切られたオレンジ、ピーチ、サクランボなどの「具」は、すべてゼリーの中に閉じ込められている。ゼリーがブラフマンにあたり、オレンジなどが属性にあたる。フルーツの色や形などの現象はゼリーを通して見ることはできる。しかし、ゼリーという基体の外では存在しない。シャンカラによれば現象世界は幻(マーヤー)なのである。幻といっても現象世界が無だというわけではない。それなりの存在性は認められているのであるが、このブラフマンに付随する性質として、このようにわれわれに視覚されるのみだと考えられている。

 極めて薄い膜でできた袋があり、その袋の中に水を入れることができたとしよう。この場合、水は自性にあたり、水の入った袋全体は構成要素に当たる。水つまり自性がなくなったときには袋(基体)のみが残るのであるが、この基体はほとんど無に等しい。空とは自性がないことだというのは、袋に入った中味がなく、袋もあるかなきかのものであるゆえに、結局は袋もその中身もないような状態を指しているのである。後ほど見るように、オブラートのように極めて薄い袋とその中の水とは、空思想における基体(y)とその中のもの(あるいは上のもの、x)とに例えることができるのである。
 xがyにないという場合、xとyがどういう関係にあたるかということが空思想の核心である。空とは基本的には、xがyにないということであるが、xがないという場合、xの非存在の場所が必要となろう。しかし、空思想ではxの存在すべき場であるyは存在しないという。要するに空思想は「xはyに存在する」という命題を認めないというのである。ということは、「犬に歩くことがある」つまり「犬が歩く」ということも、「花が咲く」ということも、すなわち「あるおのが動作をなす」という命題を認めないことになる。もっともこれは空思想の有する否定的側面なのであって、肯定的側面は、いちど無へと導かれた言葉がよみがえると主張するのであるが、後世には空の意味は変化してきた。少なくとも、中国や日本においては空の思想の力点に変化が見られるのである。何々がないという否定的な側面が強調されるのではなくて、中国や日本では空が肯定的に解釈されて、真理の意味になってしまうのである。


846夜『空の思想史』立川武蔵|松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/0846.html


KOKKAこっから

中村元『龍樹』(講談社学術文庫)


龍樹の「空=縁起」(あなたがいるから私がいる。私がいるからあなたがいる)思想
が日本人の潜在意識に流れている。中観派の中核メモ。
中村元『龍樹』(講談社学術文庫)


・仏教の伝統的用語では「空」の思想を「空観」(くうがん)とよぶ。
空観とは、あらゆる事物(一切諸法)が空であり、それぞれのものが固定的な実体を有しない、と観ずる思想である。
空はすでに原始仏教において説かれていたが、大乗仏教初期の『般若経』で発展し、基本的教説となった。
龍樹が空を哲学的・理論的に基礎づけ、大乗仏教の思想を確固たるものとしたので、龍樹は「八宗の祖師」(南都六宗+天台+真言)と呼ばれる。大乗仏教は、みな龍樹から出発した。のちの仏教のいろいろな思想は彼に負うところが非常に多い。


・大乗仏教は、もろもろの事象が相互依存において成立しているという理論によって、空の観念を基礎づけた。
空(くう、梵: śūnyatā〈シューニャター〉、巴: suññatā〈スンニャター〉)
の語源は、「膨れあがった」「うつろな」という意味。膨れあがったものは中がうつろ(空)である。
ゼロはサンスクリット語ではシューニャ。
インド人が発見したゼロは、西記1150年ころにアラビア人を通して西洋に導きいれられた。

・大乗仏教、とくにナーガールジュナ(竜樹)を祖とする中観派の哲学者たちは次のように主張した。
――何ものも真に実在するものではない。あらゆる事物は、見せかけだけの現象にすぎない。その真相は空虚。その本質を「欠いて」いる。シューニャは梵語では「……を欠いている」という意味。
無も実在ではない。あらゆる事物は他のあらゆる事物に条件づけられて起こるのである。
空は無や断滅ではない。
肯定と否定、有と無、常住と断滅というような、二つのものの対立を離れたものである。したがって、空とは、あらゆる事物の依存関係(relationality)にほかならない。

・龍=ナーガ。
樹はアルジュナ(昔の英雄の名)の音写。
龍樹は150-250年ごろの人と推定されている。

・龍樹に関する複数の記録の共通点。
① 南インドと関係。
② バラモン階級の生まれ
③ 博学で特にバラモンの種々の学問を修めた。
④ 一種の錬金術を体得していた。
※インドでは錬金術をシヴァ教の一派の水銀派なるものが昔から行っていた。
この水銀派の開祖をやはりナーガールジュナという。

ナーガールジュナ複数説。
『中論』などの空思想を展開した著者としての、化学(錬金術)の学者としての、など複数のナーガールジュナが考えられる。

・大乗仏教は、上座部仏教を「小乗」であり利己的で独善的だと攻撃した。
大乗仏教は、利他行を強調した。大乗仏教では慈悲の精神に立脚して、生きとし生けるもの(衆生)すべてを苦から救うことを希望する。

・中央インドのマトゥラー市と西北インドのガンダーラ地方とが仏像制作の中心地だった。
マトゥラーではアショーカ王以来のインド国粋美術の伝統に従っているが、
ガンダーラではギリシア美術の影響がいちじるしい。

(釈迦は個人崇拝も偶像崇拝も禁止したのにね。法を説く人を崇め奉るのではなく、法を実践せよと説きました)

・般若経典における空観
すでに原始仏教において、世間は空であると説かれていた。

P.60“「常に心に念じて、〔何ものかを〕アートマン(我)なりと執する見解を破り、世間を空であると観察せよ。そうすれば死を度(わた)るであろう」『スッタニパータ』一一一九”

般若経典ではさらに発展せしめ、大乗仏教の基本的教説とした。
般若経典としては、『大般若波羅蜜多経』、『般若心経』、『金剛(般若)経』、『理趣経』などがある。

われわれは固定的な「法」という観念を懐いてはならない。
一切諸法は空である。
何となれば、一切諸法は他の法に条件づけられて成立しているものであるから、固定的・実体的な本性を有しないものであり、「無自性」であるから、本体をもたないものは空であるといわねばならぬからである。
そうして諸法が空であるならば、本来、空であるはずの煩悩などを断滅するということも、真実には存在しないことになる。かかる理法を体得することが無上正等覚(むじょうしょうとうがく。さとり)である。そのほかに何らかの無上正等覚という別なものは存在しない。
実践はかかる空観に基礎づけられたものでなければならない。
救う者も空、救われる衆生も空、救われて到達する境地も空。
また身相(身体的特徴)をもって仏を見てはならない。
あらゆる相はみな虚妄であり、もろもろの相は相に非ず、と見るならばすなわち如来を見る。
かかる如来には所説(説いている事柄)の教えがない。教えは筏のようなものであり、衆生を導くという目的を達したならば捨て去られる。
かかる実践的認識を 智慧の完成(般若波羅蜜多)と称し、
与える(布施)・
いましめをまもる(持戒)・
 たえしのぶ(忍辱)・
 つとめはげむ(精進)・
 静かに瞑想する(禅定)
 という五つの完成と併せて<六つの完成>(六度、六派羅蜜多)と称する。

・在家仏教運動
空観からの論理必然的な結論として、輪廻とニルヴァーナとはそれ自体としては何ら異ならぬものである、と教えられた。
しからばわれわれの現実の日常生活がそのまま理想的境地として現わし出されねばならぬ。
理想の境界はわれわれの迷いの生存を離れては存在しえない。
空の実践としての慈悲行は現実の人間生活を通じて実現される。
この立場を徹底させると、ついに出家生活を否定して在家の世俗生活の中に仏教の理想を実現しようとする宗教運動が起こるに至った。

・『華厳経』の趣意は、現象界の諸事象が相互に密接に連関しているという、いわゆる事事無礙(じじむげ)の法界縁起の説にもとづいて菩薩行を説く。
菩薩の修行には自利と他利との二方面があるが、菩薩にとっては、衆生済度ということが自利であるから自利即他利である。


・浄土教
一部の大乗教徒は現世を穢土であるとして、彼岸の世界に浄土を求めた。
阿閦仏(あしゅくぶつ)の浄土たる東方の妙喜国、弥勒菩薩の浄土である上方の兜率天(とそつてん)などが考えられ、これらの諸仏を信仰することによって来世にはそこに生まれることができると信じたのであるが、後世もっとも影響の大きかったのは阿弥陀仏の浄土である極楽世界の観念である。
阿弥陀仏の信仰は当時の民衆の間に行われ、諸大乗経典の中に現われているが、とくに主要なものは左の浄土三部経(『仏説無量寿経』、『仏説観無量寿経』、『仏説阿弥陀経』)である。

・『法華経』は、とくに有名な鳩摩羅什訳による『妙法蓮華経』によると、
声聞乗(釈尊の教えを聞いて忠実に実践すること)
縁覚乗(ひとりでさとりを開く実践)
菩薩乗(自利利他をめざす大乗の実践)
の三乗が一乗に帰することを、非常に強く主張している。
従来これらの三乗は、一般に別々の教えとみなされていたが、
それは皮相の見解であって、いずれも仏が衆生を導くための方便として
説いたものであり、真実には一乗法あるのみである、という。
種々の教えを成立せしめる根源は、時間的・空間的限定を超えていながらしかもその中に開顕し来る絶対者・諸法実相の理にほかならない。これが久遠の本仏である。世間の一切の天・人は釈迦如来がシャカ族から出家し、修行してさとりを開き、八十歳で入滅したと考えているが、実は釈尊は永遠の昔にさとりを開いて衆生を教化しているのであり、常住不滅である。人間としての釈尊はたんに方便のすがたにほかならない。


・古代インドにおける伝統的保守的仏教(いわゆる小乗仏教)のうちでも代表的な哲学派であった説一切有部(略して「有部」)は中観派を目して「都無論者」(とむ ろんじゃ。一切が無であると主張する論者)と評している。
しかし『中論』はけっして「無」を説いているのではない。『中論』では、有と無との二つの極論(二辺)を排斥している。
ナーガールジュナは「有」を否定するとともに、「有」がない以上、当然「有」と相関関係にある「無」もありえない、と主張する。
さらに有と無を否定する以上、当然事物の常恒性を主張する見解(常見)と事物の断滅を主張する見解(断見)とも排斥している。
『中論』が排斥しているこの断見のほうが虚無論(ニヒリズム)と呼ばれるものであり、現にそういう意を訳している学者もある。


・『法華経』ではただ声聞乗(釈尊の教えを聞いて忠実に実践すること)・
縁覚乗(ひとりでさとりを開く実践)・
菩薩乗(自利利他をめざす大乗の実践)の三乗が一乗に帰することを非常に力強く主張。
従来の三乗は別々とみなされていたが、それは皮相であって、
いずれも仏が衆生を導くための方便として説いたものであり、
真実には一乗法あるのみという。
また、一つの詩句(一偈)を聞いて受持せる者、
否、戯れに砂で塔を造る真似をし、
爪で壁に仏像を書いた幼童でさえも、仏の慈悲に救われる。
仏の慈悲は絶対である、という。

ところで種々の教えが存在意義を有するのはなぜか。
それらは肉身の釈尊の所説ではない。
それらを成立せしめる根源は、
時間的・空間的限定を超えていながらしかもその中に開顕し来る絶対者・諸法実相の理にほかならない。
これが久遠の本仏である。
世間の一切の天・人は釈迦如来がシャカ(釈迦)族から出家し、
修行してさとりを開き、八十歳で入滅したと考えているが、
実は釈尊は永遠の昔にさとりを開いて衆生を教化しているのであり、常住不滅である。
人間としての釈尊はたんに方便のすがたにほかならない。
仏の本性に関するかかる施策を契機として、
その後、仏身論が急速に展開するに至った。
『法華経』の宥和的態度はさらに発展して、
『大薩遮尼乾子所説経』
(だいさつ しゃに けんじ しょせつきょう)や
『大般涅槃経』
(だいはつねはんぎょう)
においては、
仏教以外の異端説にもその存在意義を認めるに至った。


(偈(げ)あるいは 頌 (じゅ)
=詩句。仏教では経典や論書の韻文)


・仏教以外からも、仏教内でさえも中観派は虚無論者だとみなされていた。
説一切有部は中観派を都無(とむ)論者(一切が無だと主張する論者)を評している。
大乗仏教のヨーガ行派からも非難されていた。

『中論』は無も有も説かない。
有がないので相関関係にある無もありえない。
事物の常恒性を主張する見解(常見)も
事物の断滅を主張する見解(断見)も排斥する。
断見が虚無論、ニヒリズムと呼ばれるべきもので、現にそう意訳している学者もある。

『中論』の主要論敵は説一切有部(せついっさいうぶ、梵: Sarv?stiv?din, 巴: Sabbatthiv?da, Sabbatthav?da)。
有部の主張は「一切が有る」。
三世実有(さんぜじつう)、法体恒有(ほったいごうう)。
一切の実有なる法体(法そのもの)が三世において恒有(恒=つねに有る)である。

ダルマ、法の原義はきまり、規範、理法といわれる。
「もの」という意味もある。


説一切有部は縁起によって法の体系を基礎づける立場を捨て、
法を「有り」とみなすことで基礎づけた。
法とは経験的に知覚するものではなく、
したがって自然的存在ではなく、
自然的存在を可能ならしめているありかたである。
自然的存在としてのものは現在一瞬でなくなってしまうが、
われわれの意識において志向されているありかたはけっしてなくならない。
すなわち、「かた」としての純粋の法が先になくて後にあり、
先にあって後になくなることはありえない。
自然的存在は過去未来においては存在しないが、
法は三世において存するという意味であろう。


・『中論』の解説。

第二章の第一詩をみると、

「まず、すでに去ったものは、去らない。また未だ去らないものも
去らない。
さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>
とを離れた<現在去りつつあるもの>も去らない」


「已(すで)に去られた〈時間のみち〉(世路)は去られない。
未だ去られない〈時間のみち〉も去られない」という意味。

「已去」とはすでに去られた
ものであり、すなわち、「行く作用の止まったもの」であるから
作用を離れたものに作用のあるはずはない。
したがって、すでに去られたものが、さらに去られるということは
ありえない。

また「未去」も去らない。
「来去」とは行く作用の未だ生ぜざるものであり、去るという作用をもっていないから。
「未去が去る」は常識的にはわかりやすいかもしれないが、
「去る」とは現在の行く作用と結合していることを意味しているのであり、
両者は全く別なものであるから、
「未来が去る」とは不可能であるという。

さらに、「現在去りつつあるもの(去時)が去る」こともありえない。
現在去りつつあるもの(去時)は已去と未去とを離れてはありえないものであり、
普通に人々は去時なるものが存在すると思っているが、
「現在去りつつあるもの」を追求すれば已去か未去かいずれかに含められてしまう。

(言葉で分けること自体が不可能?)


・ところが已去と未去とが去らないということは誰でも常識的に
理解しうるのであるが、しかし現在の<去りつつあるもの>が
去らないということはいえないはずではないか、という疑問が
起こる。



「去りつつあるもの」というときには、
すでに「去るという作用」と結びついている。
もしも「去りつつあるものが去る」というならば、
その「去りつつあるもの」がさらに「去るはたらき」と結びつくことになる。
それは不合理。
もちろん「去りつつあるものがある」というだけならば、それはさしつかえない。
しかしながら「<現在去りつつあるもの>が去る」とはいえないと主張する。

もしも「去りつつあるものが去る」という主張を成立させるには、
「去りつつあるもの」が「去るはたらき」を有しないものでなければならないが、
このようなことはありえない。

「去りつつあるものが去る」なら、
主語の「去りつつあるもの」の中に含まれている「去」と、
あらたに述語として附加される「去」と二つの<去るはたらき>が
付随することとなる。

<去る主体>と<去るはたらき>とは互いに相い依って
成立しているものであり、<去るはたらき>があるとすれば
必ず<去る主体>が予想される。
故に<去るはたらき>が
二つあるとすると<去る主体>も二つあらねばならぬことになる。
このように全くありうべからざる結論を付随して引き起こすから、
「去りつつあるものが去る」ということはいえないと主張。


上述の論法と似た議論は「中論」のうちの各所に散見する。
吉蔵はこれに「三時門破」または「三世門破」という名を与えている。

どれも「大品般若経」の中の不来不去を註釈するところに
説かれているから、「中論」のこの議論も「般若経」の不来不去を
証明するつもりであったかもしれない。


「中論」は何故に「去りつつあるものが去る」というと二つの
去るはたらきが随伴すると主張するのであろうか。
常識上われわれの理解に苦しむところである。

「去りつつあるものが去る」という命題は「日本人は人である」と
いう命題と同様に何らの矛盾をふくまないではないか。
しかるにこれを不合理であるとしてナーガールジュナが極力
論駁するのは何故であろうか。

竜樹(ナーガールジュナって長すぎ)は
二つの去るはたらきが付随して起こる
という。
彼は「去りつつあるもの」の「去」と、
「去る」の「去」と、意味が異なるとみていたのである。

なぜであるかは中論が法有の立場を相手にしている歴史的連関を考慮するならば、
容易に理解しうる。
法有とは経験的事物としての「もの」が有るという意味ではない。
自然的存在としての「もの」をして、
それぞれの特性において「もの」として有らしめるための「かた」「本質」としての「もの」が有るという意味。
「~であるありかた」が有ると主張する。
エッセンシアをエッセンシアとしてとどめずにより高き領域における
エグジステンシアとして把捉しようという立場。

法有の立場では作用をたんに作用としてみないで、作用を作用と
してあらわし出す「かた」「本質」が形而上学的領域において
実在していると考える。

「去りつつあるもの」もわれわれによって考えられ、また志向
されている「あり方」であるから、たんに意識内容たるに
とどまらず、背後の実在界に根拠を有するものとみなされる。


「去りつつあるものは去る」には、
「去りつつあるもの」という一つの「あり方」という形而上学的実在に関して、
「去る」という述語を附与する判断であらねばならぬ。
ところが法有の立場が、それぞれの「あり方」をそのまま実在とみなすから、
「去りつつあるもの」という「あり方」と、
「去る」という「あり方」とはまったく別のものとされ
去りつつあるものが去る
といえばそれは拡張的判断であり、二つの去るはたらきを含むことになる。

そうだとすると、この二つの去るはたらきを綜合する根拠はいずれに求むべきか。
「あり方そのもの」(法のみ)であり、他のいかなる内容をも拒否している二つの実体がいかにして結合しうるであろうか。
これがナーガールジュナの論点である。

一般に法有の立場に立てば、「去ること」をも実体視せねばならず、
そうだとすると種々に困難が起こるということをナーガールジュナは
強調したのである。

エレアのゼーノーンの論証と比されることがあるが、
竜樹は運動を否定したのではなく法有の立場を攻撃したのであり、
類似を認めることは困難。


・そもそも基本的な態度として、<空>の哲学は定まった教義なる
ものをもっていない。中観派はけっして自らの主張を立てることは
しないという。このことはすでにナーガールジュナの明言した
ところである。


「もしもわたくしに何らかの主張があるならば、
しからば、まさにそのゆえに、わたくしには理論的欠陥が存すること
になるであろう。
しかるにわたくしには主張は存在しない。
まさにそのゆえに、わたくしには理論的欠陥が存在しない」


「中論」の用いる論理は推論ではなくしてプラサンガ(帰謬論法)
である。プラサンガとはけっして自説を主張することではなくて、
論敵にとって願わしからざる結論を導き出すことなのである。
(帰謬論証派の主張をもたずただ対論者の主張の過失を指摘して
空性を論証ってソクラテス方式)


中観派の哲学者たちは、自分たちの立場が論駁されることはありえない、
という確信をいだいていた。 そうして大乗仏教が、(禅を含めて)
神秘的な瞑想を実践しえたのは、そのような思想的な根拠があったから
である。


中国では僧肇(374-414年)が<有>と<無>とが何ものかに
ついて絶対的にまた普遍的に述語されることはありえないと主張した。

龍樹はいわゆる「破邪」の論法によって、当時の諸学派によって
論議されていた種々の哲学的問題を縦横自在に批判したのである。

・不一不異


「去るはたらきなるものが、すなわち去る主体であるというのは正しくない。
また、去る主体が去るはたらきからも異なっているというのも正しくない。」

「もしも去るはたらきなるものが、すなわち去る主体であるならば、
作る主体と作るはたらきとが一体であることになってしまう。」

「また、もし去る<主体>は<去るはたらき>から異なっているとか
分別するならば、<去る主体>がなくても<去るはたらき>が
あることになるであろう、また<去るはたらき>がなくても
<去る主体>があることになるであろう」


「この二つはどうして成立するであろうか」と。 去る主体と
去るはたらきとは成立することはない、という趣意である。


相関関係にある甲と乙の二つの「ありかた」が全く別のものである
ならば両者の間には何らの関係もなく、したがってはたらきも
起こらない。 さらに甲であり乙であるということも不可能となる。
甲であり乙であるといいうるのは両者が内面において連絡している
からである。
故に甲と乙が全然別異であるということはありえない。


「中論」がたんなる実在論を攻撃しているのではなくて、
法有を説く特殊な哲学の根本的立場を攻撃している。
たんなる実在論においては、ここに一人の人が有り、その人が
歩むからその人を<去る主体>といい、歩む作用を抽象して
<去るはたらき>というにすぎないから、両者の一異という
問題は起こらない。

ところが、法有の立場は自然的存在を問題とせず、その「ありかた」
が有る、となすのであるから、一人の人が歩む場合に
「去る」という「ありかた」と「去る主体」という「ありかた」
とを区別して考え、それぞれに実体視せねばならないはずである。

法有の立場を理論的にどこまでも突きつめていけば結局ここまで
到達せねばならない。
しからば両者の一異如何が問題とされることになる。
ナーガールジュナは実にこの点を突いたのである。

したがって、ナーガールジュナは概念を否定したのでもなければ、
概念の矛盾を指摘したのでもない、概念に形而上学的実在性を
付与することを否定した。
このような龍樹さんの批判を「一異門破」(相関関係にある二つの概念は一に非ず異に非ず)と呼ぶ。

・「不断不滅」は仏教徒にとっては絶対の真理である。
しかしながら有部のように、ダルマを独立の実体とみなし、
これが過去現在未来の三世に恒有であるというならば、
著しく集積説に近くなるから、これははたして「不常不滅」を
説いたブッダの思想に忠実であるといいうるのであろうか。

・「中論」はけっして従前の仏教のダルマの体系を否定し破壊したのでは
なくて、法を実有とみなす思想を攻撃したのである。
概念を否定したのではなくて、概念を超越的実在と解する傾向を
排斥した。
西洋中世哲学史における類例を引いてくるならば、実念論(リアリズム)的な
思惟を排斥しているのである。
西洋の学者は経部と中観派とを唯名論者と呼んでいる。
両者が共に概念を超越的実在とみなす傾向に反対しているからである。

・東西における対応は
図式化すると、
実念論 - プラトーン - 説一切有部
実念論に対する反対者-プラトーンに対する反対論- ナーガールジュナ学派
(プラトンと龍樹さんは真逆の思想。
よって大乗仏教はキリスト教にとっての最大の敵の一つ)

・「中論」の目的は、もろもろの事象がお互いに相互依存または
相互限定において成立(相因待)しているということを明らかに
しようとするのである。
すなわち、一つのものと他のものとは互いに相関関係をなして
存在するから、もしもその相関関係を取り去るならば、何ら絶対的な、独立のものを認めることはできない、というのである。

ここで<もの>という場合には、インドの諸哲学学派が想定する
もろもろの形而上学的原理や実体をも意味しうるし、また仏教の
説一切有部が想定する<五位七十五法>の体系のうちの
もろもろのダルマをも含めて意味しうる。
何であってもよいのである。

この<相因待せること>を別の語で「縁起」とよんでいる。

また不常不断は最初期の仏教以来縁起の説明において
常に説かれていたことである。

・「中論」は最初は縁起をもって説き始め、最後も縁起をもって
要約している。

チャンドラキールティの註によれば、「一切のものが縁起せる故に
空であるということが、「中論」全体によって証明されている」という。

・12因縁の1が無明=無知。
8が愛=盲目的衝動。
9が取=執著。

・「中論」の主張する縁起とは相依性(そうえしょう)(相互依存)
の意味であると考えられている。

「行為によって行為主体がある。
その行為主体によって行為
がはたらく。
その他の成立の原因をわれわれは見ない」

「陽炎のような世俗の事物は相依性のみを承認することによって
成立する。
他の理由によっては成立しない。」

自性で成立しない。相依れるがゆえに成立。

・「これがあるとき、かれがあり、これが生ずることから、かれが生ずる」
の解釈。

小乗においては、縁によって起こること、時間的生起関係を
意味すると解されていたこの句が、中観派においては
「あたかも短に対して長があるがごとし」とか、あるいは
「長と短とのごとし」というように全く法と法との論理的
相関関係を意味するものとされるに至った。
長と短が相依ってそれぞれ成立しているように、諸法は相互に
依存することによって成立しているという。
これは法有の立場では絶対にゆるされない。
有部は長と短は互いに相依って成立しているとは考えず、
独立な「長というもの」「短というもの」を認める。
すなわち色境(しききょう。視覚対象)の中の形色(ぎょうしき。目に見えるかたちあるもの)の中に
「長」「短」という法を認め、
「長」「短」という「ありかた」を実体視している。
したがって「長と短とのごとし」という表現はゆるされない。

・相依性、すなわち諸法の相依相関関係を明かすのが実に
「中論」の主要目的であり、そのために種々の論法が用いられ
ている。
浄も不浄もともに自然的存在の「ありかた」であるから、独立に
存在することは不可能である。
古代インド人が問題としていたのは自然的存在の領域では
なくて法の領域である。
浄は不浄によって浄であり、不浄は浄によって不浄である。

自然的存在の領域においては父があって子が生まれるのであるから、
父は能生であり、子は所生である。
ところが「ありかた」としての父と子を問題とすると、そうはいえない。
父は子を生じない間は父ではありえない。
子を生ずることによって
こそ始めて父といいうる。
父と子は互いに相依っているので
あるから、互いに独立な父と子とを考えることはできない。


たとえば認識方法と認識の対象についていえば、「そうしてそれらは
お互いに相依ることによって成立している。
実に認識方法
と認識対象との本性上の成立は存在しない」

(「相互依存しない独立の存在
=自性ある実体」
は実在しないという論証を繰り返していると理解できれば、
中論のほとんどを理解したといえる)


・説一切有部では縁起とは有為法に関してのみ適用。
有部は有為法の外に別に独立に実在する無為法を認める。
無為法に関しては縁起は適用されないのである。

「また有為が成立しないが故にどうして無為が成立するであろうか」という。
有為法が成立しないから無為法も成立しえないという議論は中観派の書のうちにたびたび現れている。

有為法も無自性であり、無為法も無自性であり、両者は
相依相関の関係において成立している。


「中論」は要するに「一切の仏法、皆な是れ因縁の義なり」を
明かしていると説く。

(※有為法=因縁の結合で生じる無常変転するもの。
無為法=因縁の結合で生じない常住不変のもの。
「もの」と書いたが実体視してはいけない。

説一切有部は、有為法と無為法を区別し無常のものには縁起があるとする。
龍樹は有為法と無為法も相依っている関係にあるのですべて縁起が関係すると主張)

・「中論」の主張する縁起が後世中国の
華厳宗の法界縁起の思想と非常に類似。
法界縁起の説においては有為法・無為法を通じて一切法が縁起
していると説く。
中国の華厳宗は一切法が相即円融の関係にあると主張するが
中観派にもその思想が現れている。


チャンドラキールティ
「一によって一切を知り、一によって一切を見る」
「中観派は、一つのものの空性を教示しようと欲しているのと
同様に、一切のものの空性をも教示しようとしているのである。」

一と一切は別なものではない。
極小において極大を認めることができる。
きわめて微小なるものの中に全宇宙の神秘を
見出しうる。
実に「中論」のめざす目的は全体的
連関の建設であった。
(バラモンの梵我一如の影響?)

「中論」の縁起説は華厳宗の思想と根本においてはほとんど
一致するといってよい。
ただ華厳宗のほうが一層複雑な
組織を立てている点が相違するのみである。

(華厳では、この世界の実相は個別具体的な事物が、相互に関係しあい(相即相入)、
無限に重なりあっている(重々無尽の縁起))

中論にあるような表現が原始仏教聖典のうちには見当たらないのに
ジャイナ教の聖典アーヤーランガでは
「一のものを知る人は一切を知る。一切のものを知る人は
一のものを知る」とあるが、中論との歴史的な連絡は今後の研究を待たなくてはいけない。

(※十二因縁=十二縁起=十二有支(うし))

・「中論」の主張する相依性の縁起が「第一義諦」(最高の真理)。
であるとなす説明のあったことは注目を要する。

・「諸法の不生」ということは「般若経」のうちにくりかえし
説かれているところであるが、縁起を不生と解する思想は
最初期の仏教までさかのぼりうる。
ブッダは苦または苦楽あるいは十二支のひとつひとつに
ついて、それが自ら作られたものでもなく、他のものによって
作られたものでもなく、自作にしてもまた他作のものでもなく、
自作にも非ず他作にも非ざる無因生のものでもなく、
実に縁起せるものにほかならぬと説いたという。

したがって縁起が時間的生起の関係を意味するのではないという
思想は最初期の仏教に由来する点もあるということは明瞭である。

・「八不」(はっぷ)
不滅・不生・不断・不常・
不一義・
不異議・不来・不出

「中論」の最初の序の詩句には八種の否定句が述べられている。
これを中国、日本の伝統的教学では「八不」とよんでいる。

嘉祥大師吉蔵は、
「八不は既に是れ衆経の大意にして、此の論の宗旨なり」といって、
「中論」篇の眼目とみなしている。

「中論疏」では、
「八不はただ是れ仏菩薩の本なり」
「八不は即ち是れ三世の諸仏の方等の要経なり」
とさえいわれる。

ナーガールジュナは何故にとくに
 の八つのみを選んだのであろうか・・・

ピンガラの註釈には、
「問うて曰く。 諸法は無量なり。(しかるに)何が故ぞ但だこの
八事のみを(論)破するや。 答えて曰く。 法は無量なりといえども、
略して八事を説かば、則ち総じて一切の法を破すとなす」

・無我とは諸法実相(事物の真相)

仏教の伝統的観念である<無我>は、「中論」ではかなり独自の
特徴的な意味に理解されている。

「問うていわく、--真理の特質は何であるか。 どのような
しかたで真理は考察されることになるのであろうか。
答えていわく、--我(アートマン)とわがもの(我所)とを
離れることが、真理の特質なのである。・・・」

「もしも我(アートマン)が(五つの)構成要素(五蘊)で
あるならば、我は生と滅とを有するであろう。 もしも我が
(五)蘊と異なるならば、我は(五)蘊の相をもたぬであろう」
といって、アートマン(我)の観念を否定している。


「<わがもの>という観念を離れ、自我意識を離れたものなるもの
は存在しない。 <わがもの>という観念を離れ、自我意識を
離れたものなるものを見る者は(実は)見ないのである」という。

これは驚異的な発言である。
われわれは平生は我欲に悩まされているから、我欲を離れた
境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地という
ものが別にあると思う人は、実は真理を見ていないのである。

さらに無我とは無自性と同義に解されるに至った。
「無我」の「我」とは「自体」(本体・本質)の意味で
あるという。 したがって無我とは「無自性」の意味であると
されている。

このように無我が諸法実相、空、無自性と同じ意味であるならば、
当然「無我」とは「縁起」の意味に解してさしつかえないのでは
なかろうか。

「もし法(事物)にして衆の縁に因って生ぜば、すなわち
我有ること無し。 五(本の)指に因って拳有れども、
この拳は(それ)自体有ること無きがごとし」

(拳そのものは実在せず、五本指があってこそ拳が実在するのが縁起)

若干の学者の研究によれば、最初期の仏教における「諸法無我」
という説明は結局縁起説と同趣意であると説明されている。


仏教では古来「三法印」ということを説いた。
「三法印」とは「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」を
いうのであり、「一切皆苦」を入れると四法印となる。


「中論」によれば無常なるものは必ず縁起しているし、また
縁起したのではないものは無常ではないというのである。
したがって「中論」は諸行無常を縁起によって基礎づけている
ことが明瞭である。

したがって「中論」は、三法印をことごとく縁起によって
基礎づけていることがわかる。

「中論」が空を説いていることはいうまでもない。
中観派は空性論者と自ら称している。

古来、空は「無」または虚無と解されやすい傾向がある。

当時中観派が虚無論者であるとして他派から盛んに攻撃を受けて
いたということは想像に難くない。


ナーガールジュナは次のように反駁している。
「ここにおいてわれらは答えていう。 --汝は空における効用
(動機)・空(そのもの)および空の意義を知らない。
故に汝はこのように論争するのである」

「無という語の意味は空という語の意味ではない。 しかるに
汝は無という語の意味を空の意味であると妄りに実在視
(増益)してわれわれを非難する。」

空は無ではない。

中観派によれば空性とは縁起の意味であるという。
空とは「縁起せる」という意味であり、不空とは「縁起せざる」
と同義である。


「どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く」

三論宗でも「若し因縁によらば即ち是れ空なり」

従来中国においても、また近代西洋においても、ナーガールジュナは
縁起を否定して空を説いたという解釈がかなり行われているが、
これはかれの原意を得ていないことは明らかである。


しかしこれも無を説いたのではなくて、諸法が自性上無い、
ということを意味するのである。
有を否定して無を主張した
のではなく、実有を否定して無自性を説いたのである。


もろもろの事物(諸法)は無自性であるが故に、現象界の変化
も成立しうると中観派は説明している。

少なくとも中観派以後においては「縁起」(とくに「相互限定」「相互依存」)の意味にほかならないということがわかる。


空といい無自性といっても、ともに「縁起」を意味しているので
ある。
実はあらゆる事象を建設し成立させるものである。


相互限定ということは、二つ以上の連関のあるものが、一方から
他のものに対して否定的にはたらくことである。
相互依存というも、一つのものが、それ自身では成立しえないが
故に他のものの力を持つのであるから、やはりそれ自体のうちに
否定的契機を蔵しているといいうるであろう。


「縁起せるが故に空である。」
縁起が理由であり、空は帰結である。

「縁起せるが故に無自性である」
縁起が理由であり、無自性は帰結である。

「無自性の故に空である」
無自性が理由であり、空は帰結である。

要約すれば、
縁起はつねに理由であり、
空は常に帰結である。

無自性は縁起に対しては帰結であるが、
空に対しては理由である。
自性が、
無自性から空が必然的に導き出される。

「縁起→無自性→空」という論理的基礎づけの順序は定まって
いて、これを逆にすることはできない。


①もろもろの存在は相依って、相互限定に
より成立しているのであるから、
法有の立場において主張する
ようなそれ自体(自性)を想定することはできないということ
が説かれ

②それ自体(自性)が無い
からもろもろの存在は空でなければならぬ。

その中で縁起が根本。
「中論」の帰敬偈において「縁起を説く」と宣言したのも
おのずから明らかであり、そうして「中論」の中心思想は
縁起であるという主張がいよいよもって確かめられることとなる。


・「般若経」がどのような思想的変遷をたどったのか

「八千頌般若」サンスクリット原本についてみるに、第一品
から第七品までは般若空観のたんなる説明と「般若経」護持の
功徳の讃嘆とに終始している。
ところが第八品に至って始めて、「無自性なるが故に空である」
として空観を無自性によって基礎づけようという試みがみられる。

(品(ほん)=経中の編・章。

多くの般若経典の中でも、インド・チベット・中国・日本などの大乗仏教圏に
おいて尊重されてきた『八千頌般若経』は、最古層に属しながらも、内容が
完備した最も基本的な経典)


クマーラジーヴァ訳の「大品般若」によると、最初の属累品
(第六六品)以前をみるに、空観を基礎づけるに当たっては
常に・・・どれも法が自性を欠いているからという意味に
解することができる。
・・・ところが第六六品以後になると、「縁起の故に無自性で
ある」という説明がみられる。
・・その無自性をさらに縁起によって基礎づけている。


従来縁起は辟支仏(びゃくしぶつ)(独覚)に関連して述べられる
ことが多かったのに、ここでは縁起は声聞辟支仏とは無関係な、
菩薩のみの法であるというから、「般若経」の後の部分の作者
は小乗の縁起に対して大乗独自の縁起を十分に意識して主張
していたことが明らかである。

( 【縁覚】 えん‐がく
《(梵)pratyeka-buddhaの訳。辟支仏(びゃくしぶつ)と音写》仏語。
仏の教えによらず十二因縁を観じて理法を悟った者、また飛花落葉
などの無常を観じて悟った者。ともに師によらないため独覚ともいう。
声聞(しょうもん)とともに二乗といい、菩薩(ぼさつ)と区別)

「勝天王般若」についてみるならば、・・・・
あらゆる存在は縁起せるものであるということを強調し、
あらゆる存在は相関的に成立しているから、法の生滅は
実はありえないと説く。
そしてこの「甚深なる縁起」は空と同義であるから、
縁起を観ることによって一切皆空を体得すべきであると
説いている。



論理的基礎づけの順番は
縁起→無自性→空

だが
初期大乗仏教における歴史的発展の順序は
空(およびその同義語)→無自性→縁起

と真逆。

元来空観は仏教の根本思想であり、たんに大乗においてのみこれを
説くのではない。
仏教成立の当初から空の立場は一貫して存続している。

(ブッダのことば」

「自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。 そうすれば死を乗り超えることができるであろう。」)


近年の研究(宇井伯寿博士や西義雄博士)によれば、小乗において
さえも法空が説かれているという。
通常いわれるように小乗は個人存在の空(人空)のみを説いていた
のではなくて、法空をもすでに説いていた。

当時説一切有部などの小乗諸派が法の実有を唱えていたのに対して、
それを攻撃するために特に否定的にひびく「空」という概念を
もちいたのであろう。

ところが「般若経」の始めの部分が成立したころに、反対派の
人々はその主張を聞いて、空を無の意味に解し、空観を虚無論で
あるとして非難するに至ったのであろう。

・・そこで後になると、・・・空の意味を一層明らかにし
誤解を防ぐために、最初期の仏教以来重要であった「縁起」という
語をもってきて、それを「相互限定」「相互依存」の意味に
解して空および無自性とは縁起の意味であると説明するに
至ったのであろう。


「中論」が著されるよりも遥か以前にすでに大乗仏教は空を
説いていたのであるが、空に対して「疑見を生じ」る人が
現れ、「種々の過ちを生ずる」に至ったので、
・・・決して反対者の誤解するような意味ではないということを
「中論」によって闡明したのである。


「中論」は歴史的には、「般若経」の各層を通じてみられるような
空観を基礎づける運動の終わりであるとともに、思想的には
「般若経」理解のための始めである。

・・この運動の最後に位し、新たに中観派を成立せしめるもと
となったのがまさしくこの「中論」である。


ナーガールジュナおよび中観派にとっては、中および中道という
観念がきわめて重要なものである・・・
しかるに、・・・中道という語が「中論」においてはただ一回
出てくるのみである。


「因縁所生の法、我即ち是れ空なりと説く。亦た是れ仮名と為す。
亦た是れ中道の義なり。」
・・・この詩句は中国の天台宗の祖とされる慧文禅師によって
注意されるに至った。

そうして天台宗によってこの詩句は空・仮・中の三諦を示すもの
とされ、「三諦偈」とよばれるようになった。


われわれは空という特殊な原理を考えてはならない。 
空というのも仮名(けみょう)であり、空を実体視してはならない。
故に空をさらに空じたところの境地に中道が現れる。

・原文による原意の考察

「亦た是れ仮名と為す」の原文は
「それは仮に設けられたもの(仮名)である」とあり、
チャンドラキールティの註によると「それ」とは空。
空と仮名が同義。
仮名とは詳しく訳せば「縁(よ)って施設せられたこと」である。
車はその車の各部分である車輪などが集まることによって形成されているのであって、
各部分を取り除いたならば、車というものはどこにも認められない。


・中国においては「非有非空の中道」が説かれるが、
チャンドオラキールティの註によれば必ず「非有非無の中道」。


空、仮名、中道は皆縁起の同義語である。


空と無とは厳重に区別する必要があるのに、クマーラジーヴァは
(空)を「無」と訳すこともあったから、「無」と「空」の問題
に関してはクマーラジーヴァ鳩摩羅什の訳を典拠とし議論を立てることは
不可能である。


ナーガールジュナの他の著書について。
「空と縁起と中道とを同一の意義をもったものだと説き給うた、
かの無比なる仏に敬礼し奉る」
といってこの三概念の同義であることを明瞭に断言している。

中国仏教における解釈がインドのもとの
ものと違うということを指摘するのである。

中道の思想はすでに原始仏教聖典のうちにこれを見出すことができる。

純粋に理論的な意味において「中」または「中道」を説いて
いる箇所がある。 「如来は二辺をはなれて中によって法を説く」
といわれている。


苦しみについて、

苦しみが自ら作られたものであることを説くもの
= 常住を執する見解(常見)
= 「一切は有である」思想
= 「霊魂と身体とは同一である」という主張

苦しみが他のものによって作られたことを説くもの
= 断滅を執する見解(断見)
= 「一切は無である」思想
= 「霊魂と身体とは異なっている」という主張

これらは二つの一方的な見解(二辺)である。

上の二つに対して、縁起はどちらでもないから、中道である。


(説一切有部は)「一切が有る」ということを主張したので
あるから、仏教の本来の立場と矛盾することとなる。
したがって・・・なるべくこの矛盾に触れないように、
中道に関しては沈黙を守っている。


中観派は中道を中心問題として扱い、それを縁起の意味で
あるとした。 この点においては中観派は仏教の最初期の
立場に復帰したといいうる。


したがって空は中道と同義であり、有と無との対立を離れて
いることである。 空を無と同一視し有と対立させるのは、
ナーガールジュナの原意に適合していないと思われる。

空とは「縁起せる」という意味であり、不空とは「縁起せざる」
すなわち「実有」の意味である。

仏教の経論の中において有が空と対して使ってある場合には、
「実有」の意味に解してよいと思う。
実有と空とは全く仏教的な概念であるといいうる。

ところがこの空という語は否定的な響きをもつから、インドに
おいても空と中道とを別な概念とみなし、空は無に近い意味
のものと考えられるに至った。
したがって中道も非有非空の意味であるとされた。



さらに、唯識関係の書においてはこの傾向が強く現れている。
そうして中観派にとっては二つの対立的見解を離れているはずの
空がここでは一つの極端説(一辺)とみなされている。


中道が非有非無の意味であるならば、・・・どのような哲学的
意義を有するかを、さらに考察したい。


西洋近世の哲学は、大まかにいえば、自我の自覚に立って
自我を追求する運動の歴史である。
したがって最初の、そして最後の問題は常に主観と客観との対立であった。
ところが仏教は最初から主観と客観との対立を排除した立場にたって、「ありかた」としての種々の法を説いたのであるが、
有部はその法を実有と見なし、中観派はこれを空と説いた。


実に多くの相互に対立した概念に関して中道が説かれている。
故に中道とは一言でいえば非有非無であるが、それを拡大して
いえば、あらゆる対立した一組の概念に関して陳述することが
できる。

「三諦偈」の考察において、・・縁起、空、仮名、中道という四つ
の概念が同義であることを・・・
ヘーゲル流の否定の否定の考えは述べられていない・・・

しかし「中論」においては空見を排斥している箇所がみられる。


「空亦復空」(くうやくぶくう)とはクマーラジーヴァの訳した
青目(ピンガラ)釈において処々に散見する・・

「もしも何か或る不空なるものが存在するならば、空という
或るものが存在するであろう。 しかるに不空なるものは何も
存在しない。 どうして空なるものが存在するであろうか」

「一切の執着を脱せんがために勝者(仏)により空が説かれた。
しかるに人が もしも空見をいだくならば、その人々を
「何ともしようのない人」とよんだのである」

・「空見」は二つある
空は一切の見を滅すことであるにもかかわらず、
その空を有と解すること。

これに反して
空は一切の見を滅すことであるにもかかわらず、その空を
有と解することであり、他にもこのような解釈がみられる。

ところがこれに反して空見とは空を無の意味に解すること、
すなわち「無に執着すること」であると説かれている場合もある。


空見とは、本来非有非無の意味であるべきはずの空を誤解して、
それを有の意味に解するか、また無の意味に解するか、
いずれかで、
普通、空見または空に執着することといわれているのにも、
この二種があるとわかる。

次の「一切皆空」を「一切皆無」と解する説も誤った見解(邪見)
である。

すなわち空そのものは対立を絶しているにもかかわらず、これを対立の
立場において把捉しようというのが空見である。
空見には、空を有と解するものと無と解するものとの
二種類があるのも当然である。


空 対 有無

超対立 対 対立

の関係。
空を有無とみなすとともに本来超対立的であるべきはずの空を
対立の立場で把捉しようとすること。

結局、空見とは空という原理を想定する考えであるといえるであろう。

しかるにこの縁起説の真意を体得しないで、空を特殊のもの、
あるいは原理とみなしやすいのが凡夫の立場である。

故に中観派は種々の譬喩を用いて空見に陥ることを警戒している。

薬は病を療すために飲むのであるが、もしも
病が癒えて後にもなお薬が体内にとどまっていて外に出ない
ならば、やはり病を起こすことになるのと同様に、
空は煩悩を滅すために説かれているのにその空に執着する
ならば、かえって目的とは逆な結果を生ずることとなると
いって、「空見に陥るなかれ」と説いている。


要するに空見とは、空が縁起の意味であり、有と無との対立を
絶しているにもかかわらず、これを対立の立場に引き下ろして
考えることである。
「空亦復空」とはこの空見を排斥しているのである。

ヘーゲルは東西の学者によって引き合いにしばしば出されるのであるが、
無限に否定を継続し、正反合の過程を経て究極目的に向かって発展する思想は、
中論に見出すことは困難。

(空を有無という二項対立でとらえる誤りが空見)


当時、空を誤解した人々が非常に多かったということが明らか
であるとともに、中観派が極力空見の排斥に努めたこともわかる。


一切法は無であるが、
しかも有と無を離れているという。
無には二種類ある。
有と対立した無。
その対立を打ち切った無。

無という概念は有という概念を必ず予想し、
それに対立しているから、対立のある無が真の意味の無。

対立を打ち切った無は対立を打ち切ることに仮に命名したしたもの、
つまり不可説であるのに仮に無と名づけたのであり、空と同義。


故に「般若経」の中にたびたびもろもろの事物の無が説かれて
いるけれども、それは対立のうちに終始している凡夫の立場を
脱せしめるために仮に説かれたのであって、空と同義であり、
有と対立した無とは区別する必要がある。

だから「空を説く」ということも実は一つの方便である。
空を絶対視するならば、その瞬間に空は失われてしまうのである。


・「諸法実相」の原語は多数ではあるが、結局は同一の趣意、
すなわち、諸法が互いに相依り相互に限定する関係において
成立している如実相を意味し、「縁起」と同義である。

「他のものによって知られるのではなく、
寂静で、戯論によって戯論されることなく、
分別を離れ、異なったものではない--
これが真理の特質(実相)である」

中論の
「戯論が寂滅して幸いである縁起」
と内容的に一致する。
したがって、
諸法実相は「他のものによって知られる
のではなく」であり、すなわち、言語によって表現されえない
ものだ。


なお従来中国、日本の仏教教学においては縁起と諸法実相とは
互いに対立する概念であるかのごとく取り扱われてきたけれども、
その両者は本来同一趣意のものであることは十分留意さる
べきであろう。


・ニルヴァーナという実体を認め、有とみなす有部を排撃するのが中論。

有部では
「煩悩と業と苦しみとの連続のはたらくことを決定的に妨げる
ところの、滅を本質としているものであり、水の流れを妨げる
堰に相当するものである」

説一切有部の教学によると、智慧のはたらきによる滅(択滅無為)
という独立の実体がニルヴァーナを可能ならしめるのである。

これに対して、龍樹(ナーガールジュナ)
もしもニルヴァーナが有(存在するもの)であるならば、ニルヴァーナ
はつくられたもの(有為)となるであろう。 何となれば無為である
有は決して存在しないからである。

しかしこの攻撃が正しいかどうか疑問。
ニルヴァーナも一つの「ありかた」であり、
有部はこれを実体視したのであるから、
ニルヴァーナを有と考えたとしても、その有とは有るもの(das Seiende)の意味であり、
ト・オンの考えに近いであろう。
反して竜樹は有を現実的存在(Existenz)の意味に解して有部を攻撃している。


有部の意味する「有」は(ニルヴァーナに関していえば)、時間的
空間的規定を超越した有であるにもかかわらず、ナーガールジュナ
の意味する「有」は時間的空間的規定を受けている現実的存在
である。

ナーガールジュナ
「もしもニルヴァーナが無であるならば、どうしてその
ニルヴァーナは(他のものに)依らないでありえようか。
何となれば(他のものに)依らないで存在する無は存在しない
からである。」
<無>というからには、何ものかの無なのである。
つまり無は有を前提としている。


無は有に依って施設(せせつ)されている(仮に設定されている)。
形式論理学的立場からいうならば、もしも有でなければ、無で
あることはさしつかえないけれども、相依説の立場に立つ
から一方が否定されるならば他方も否定されねばならないのである。

「師(ブッダ)は生存と非生存とを捨て去ることを説いた。
それ故に「ニルヴァーナは有に非ず、無に非ず」というのが
正しい」

われわれは生存に執著して、妄執によりあくせくしてはならない。
しかしまた非生存(断滅)にとらわれて、人生を捨てて虚無
主義になってはならない、と原始仏教が説いていたことは
事実である。


(説一切有数部の実体視された涅槃(ニルヴァーナ)をゴッドに変えたらまんまインド風キリスト教。
仏教破壊のためにまずは実体思想を完全に否定しない有部に憑依。
有部を徹底的に批判した大乗の中観派の子孫が日本仏教。

『中論』は言葉の限界に挑戦したともいえる。
涅槃と言葉に書くと既にそれが実体思想への足掛かりになってしまう。
結局、偽神秘(言葉と論理で説明できてしまうレベル。スピ信者が崇めているのはこれ)
と本物神秘(本当に言葉と論理で表現不可能なもの。言葉と論理では否定神学~でないでしか語れないもの)の区別をつけたいなら
中論がヒントになる。
中論でわかるのは存在論、存在するとはいかなることかなどを考えないと神秘と偽神秘は区別できない。
存在論的な有無の問題こそが言葉の限界、境界線を示す。
禅宗だとこの世の成立や日常が奇跡であり、私と他者の存在なんて神秘そのものだって思想だが、
これだと俺スゲーできないからスピが嫌う)


・互いに相依って成立している諸事象とニルヴァーナとはどのような
関係にあるのであろうか。

「もしも<五蘊(個人存在を構成する五種の要素)を>取って、
あるいは<因縁に>縁って生死往来する状態が、縁らず取らざる
ときは、これがニルヴァーナであると説かれる」
と説くから、相互に相依って起こっている諸事象が生滅変遷する
のを凡夫の立場からみた場合に、生死往来する状態または輪廻と
名づけるのであり、その本来のすがたの方をみればニルヴァーナ
である。
人が迷っている状態が生死輪廻であり、それを超越した立場
に立つときがニルヴァーナである。


輪廻というのは人が束縛されている状態であり、
解脱とは人が自主的立場を得た状態をいうのである。

両者は区別して考えられやすいけれども、その根底をたずねる
ならば両者は一致している。

この思想は独り中観派のみならず、大乗仏教一般の実践思想
の根柢となっているものである。

ニルヴァーナという独立な境地が実体としてあると考えては
ならない。
ニルヴァーナというものが真に実在すると考えるのは凡夫の
迷妄である。
故に「般若経」においてはニルヴァーナは「夢のごとく」
「幻のごとし」と譬えている。
それと同時に輪廻というものもまた実在するものではない。


諸事物の成立を可能ならしめている相依性を意味する
諸法実相がすなわちニルヴァーナであるとも説かれている。

「諸法実相即ち是れ涅槃なり」


最初期の仏教においては、個人存在を構成する一切の事象が
縁起のことわりに従う如実の相を「真如」とよび、さらに
この真如を<無為>とも称したのであるが、決して無為
という実体を想定したのではないと考えられている。
中観派はその無為という語の原意に復帰して論じている
のであるから、この点からみても空観は最初期の仏教の
或る種の思想を受けついだものであり、或る意味において
正統派であると考えてさしつかえないであろう。

さらにニルヴァーナは空であるとも説かれている。
「空即ニルヴァーナ」といいうるであろう。

・ニルヴァーナは種々に説明されているけれども、その趣旨は
みな同一である。
相依って起こっている諸事象を、無明に束縛されたわれわれ
凡夫の立場から眺めた場合に輪廻とよばれる。


これに反してその同じ諸事象の縁起している如実相を撒見する
ならば、それがそのままニルヴァーナといわれる。
輪廻とニルヴァーナは全くわれわれの立場の如何に帰する
ものであって、それ自体は何ら差別のあるものではない。



われわれ人間は迷いながらも生きている。
そこでニルヴァーナの境地に達したらよいな、と思って、
憧れる。 しかしニルヴァーナという境地はどこにも存在
しないのである。
ニルヴァーナの境地に憧れるということが迷いなのである。



したがって繋縛(けばく)も解脱も真に有るものではない。
一切は無縛無解である。

「もろもろの形成されたものは生滅の性を有するものであって、
縛せられず、解脱しない。
生あるもの(衆生)もそれと
同様に縛せられず、解脱しない。」
という。 ニルヴァーナに入るということを人々は
ややもすれば神秘的に考えやすいが、それはありえない
ことである。

「束縛と解脱とがある」と思うときは束縛であり、「束縛も
なく、解脱もない」とおもうときに解脱がある。


われわれが夜眠れないときに、「眠ろう」「眠ろう」と努めると、
なかなか眠れない。 眠れなくてもよいのだ、と覚悟を決めると、
あっさり眠れるようなものである。
・・・結局各人の体験を通して理解するよりほかに仕方がない
のであろう。

・中論のブッダ論は「一般の仏教徒にとっては
恐ろしくショッキングなものである」と 断ってから始まります。


「中論」においては、ニルヴァーナについて説かれたのと
ほとんど同じことが如来(修行を完成した人)、ブッダに
関しても述べられている。
ナーガールジュナは、「如来は本体の無いものである」といい、
第二二章(如来の考察)において種々の論法をもって
これを説いている。


当時の教義学者たちがブッダの本体を、ああだ、こうだ、と議論
していたのは全部誤っているということになる。
それは教義学を否定することになる。
当時は・・・・美麗細微な仏像が盛んに造られていた。
しかし仏のすがたをとやかくいうのは誤りなのである。

「金剛経」の説くところは徹底している。
ーー身相をもって仏を見てはならない。あらゆる相は
皆虚妄であり、諸の相は相に非ず、と見るならば、
すなわち如来を見る。 かかる如来には所説の教えがない。
教えは筏のようなものである。 衆生を導くという目的を
達したならば捨て去られるーーと。

真実のブッダとは何であるか。
それはわれわれの経験している世界にほかならない。


「如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。
如来は本質をもたない。 この世界もまた本質をもたない」




われわれの経験するこの現象世界がそのままブッダなのである。
これも、一切の事物と如来とは別なものではなく、究極において
一致しているという「般若経」の説を受け継いだものであろう。

「中論」の説くこのような如来は、諸註釈からみると法身
(仏の真実の身体)を意味している。
・・・この如来の法身とは、真如、実際、空などと同じ意味で
あるという。そうしてこれらの諸語は・・・縁起と同一の意味
であるから、・・・縁起の理法そのものを意味するに違いない。

ひとたび縁起の理法すなわち相依性の意義を体得するならば、
凡夫はただちに覚者となり、一切諸法即如来ということが
成立するのである。


諸法の縁起せる如実相を体得した場合に初めて「さとりを
開いたもの」(覚者)といわれるのであるから、「縁起を
見る」ということはきわめて重要な意味を有する。


「縁起を見るものは、すなわち法を見る」の後に、
ときには次に「法を見るものは、すなわち仏を見る」という
句が附加されていることがある。



この縁起の如実相を見る智慧が<明らかな智慧>(般若)である。
「大智度論」においては、諸法実相を知る智慧が
般若波羅蜜であると説明されているが、結局縁起を見る智慧
を意味していることに変わりはない。


般若波羅蜜に関しては古来種々に説明されているけれども、
要するに諸法が互いに相依って起こるという縁起の如実相を
見る(さとる)ところの智慧であるといってさしつかえないであろう。


「この縁起の如実無顛倒なる修習の故に無明(無知)は
断ぜられる」

この般若によって縁起を見るならば、無明が断ぜられる。


十二因縁を説いた後で、「また次に菩薩が無明の体(本質)を
求むるに、即時に是れは明なり。 いわゆる諸法実相を、
名づけた実際(究極の根拠)と為す」

無明とは「諸法実相を解しないこと」である。
無明を断ずるというのは、人間存在の根源への復帰を意味する。


「(十二因縁のもろもろの項目のうちで、)それぞれの(前の)
ものの滅することによって、それぞれの(後の)ものが
生じない。 このようにして、たんなる苦蘊(苦しみの個人存在)
は完全に滅する」

縁起を見ることによって無明が滅することは了解しやすいが、
何故に、無明が滅することによって十二因縁の各項がことごとく
滅することとなるのであろうか。

われわれが自然的存在の領域と法の領域とを区別するならば、
縁起の逆観の説明も相当に理解しうるように思われる。


法の領域においては諸法は相関関係において成立しているもの
であり、その統一関係が縁起と呼ばれる。
その統一関係を体得するならば無明に覆われていた諸事象
が全然別のものとして現れる。


この「縁起を見る」こと、および縁起の逆観はすでに最初期
の仏教において説かれている。

龍樹は、最初期の仏教の
正統な発展を理論的に継承した人ではないか。

(竜樹が原始仏典をどのくらい読んでいたか気になる。
中論が初期仏教をきちんと継承したものなら、
大乗仏教は本来の仏教ではないという大乗非仏教説に対抗できる。
こういうのは「古いほど優れている」カルトになりかねないので注意。
しかし、最初期の釈迦の言説の伝聞を知ることは重要)


・「中論」で、龍樹さんは、「般若経」に説かれている
空の思想を体系化したので、中観派の祖と呼ばれている。

また、日本で八宗の祖と言われているように、後世の大乗仏教に
様々な影響を残している。


中観派の流れ。
龍樹の弟子はアーリヤデーヴァ(提婆)170-270年ころ
「百論」「四百論」などを著した。


ふたたび中観派が活発となるのは五世紀のころになってからであった。
・・このころにブッダパーリタ(仏護 470-540年ころ)と
いう人が現れた。
・・その基本は、そのような主張であれ、それはかならず
誤謬(プラサンガ)に帰着するとし、徹底的な誤謬の指摘を
通じて、存在の空であることを相手にさとらせようとすること
である。


シャーンティデーヴァ(寂天、650-700年ころ)・・・
かれは有名な「さとりの行いへの入門」を著した。
この書は、大乗仏教の求道者にとって奉仕の精神がいかに重要か
を詠じた。


ナーガールジュナの思想の流れは中国にも伝えられた。
それは、クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)の翻訳による
ナーガールジュナの著作「中論」「十二門論」および
アーリヤデーヴァの「百論」にもとづく宗派として成立した。
それは三論宗と呼ばれる。
この派の大成者は嘉祥大師吉蔵(549-623年)である。
嘉祥大師吉蔵(六から七世紀)は安息(パルチア、パルティア)出身だが、
「華厳経」と「法華経」の思想をふまえつつ、中国思想の地盤の上にユニークな思想を展開した。
しかし、唐の中葉ころまでにその力は衰えた。

日本にはナーガールジュナの伝統は、やはり三論宗として伝来した。
それは高句麗出身で、吉蔵の弟子でもあった慧灌が625(推古33)
年に来日して伝えたものである。
(高句麗に注目。
ウマヤドノオウジの師匠も高句麗出身。
今の歴史書は意図的に百済を強調し、高句麗を軽視する。
今の天皇が百済重視だから)


(三論宗の三論とは、『中論』『十二門論』『百論』の3つなので、
中論思想なのは当然。

日本への伝来には、下記の3系統があるらしい。

625年(推古33年)に高句麗の僧の慧灌が伝えた元興寺流。
智蔵(慧灌の弟子、呉出身)が入唐して伝えた法隆寺の空宗。
718年(養老2年)、道慈(智蔵の弟子)が伝えた大安寺流。)


「中論」や「大智度論」などをもととして、空・仮・中の
三諦円融、一心三観にはじまる教理を持つ天台宗ーー智顗によって
大成されたーーもナーガールジュナの思想にもとづくといえよう。


ナーガールジュナの著した「十住毘婆沙論」の浄土教関係の
部分は、後世の浄土教の重要なささえとなり、
またさらに密教も「華厳経」などの影響を受けてはいるが、
ナーガールジュナの思想の延長の上に位置づけることも
できよう。



大乗仏教の<空>の思想を理論づけたナーガールジュナおよび
その後の中観派の思想は、<世界思想史>を「古代思想」
「普遍思想」「中世思想」「近代思想」の四段階ととらえた
ときに、<中世>に位置づけられる。

ここで<中世>というのは、ほぼ普遍的宗教の興起したのち、
近代的思惟の始まるまでの時期をいう。

西洋でいえば、ほぼキリスト教が興起し、ローマの古代帝国が
崩壊し、教権の支配が確立し、のちに宗教改革が起こるまでの
時期をいう。


まず聖典が定められ、それが権威をもって後の時代に伝え
られた。 それが註解され説明されて、神学・教義学が
成立し、中世の主流となった。

・・・釈迦が紀元前5世紀ごろの人、中論を書いた龍樹は
紀元後2世紀ごろの人、その考え方はインドで始まり、それが
数百年の時を経て6世紀ごろ中国に伝わり、7世紀に日本に
伝来。


実体を否定する<空>の思想に対して西洋では全面的な
実体否定論はなかなか現われなかった。

ラッセルの<実体>批判は注目すべきである。
かれは西洋で長年月にわたって優勢であったアリストテレース
の<実体>の概念を手きびしく批判していう、


・・・かれは<実体>という観念は成立しえないというので
ある。 この議論はナーガールジュナやアーリヤデーヴァの
実体批判にちょうど対応するものである。

諸法実相の異名である実際。
(実際も仏教用語か!
熟語は高確率で漢籍か仏典由来。
当時文字の読み書きができる人が読んでいる本が漢籍と仏典だから当然)


インドでリグヴェーダ以来、ことウパニシャッドにおいて絶対者は否定的にのみ把捉されうると説いてきた。
これはとくに般若経典が説く。
中論でも明言される。

究極の実体は概念作用をもって把捉することができないという
見解は、非常に古く・・・
新プラトーン派およびグノーシス派の思想形態、・・・
またそれらがキリスト教的な形態をとったものとして
オリゲネースやディオニシウス・アレオパギタなどの諸著作
・・・後者の「神秘神学」は「般若心経」のキリスト教版
であるとさえいわれている。

(ディオニシウス・アレオパギタは
「5世紀ごろの(おそらく)シリアの神学者。」)


究極の原理としての<空>に対応する思想を、古代中国にも
見出すことができる。 老子はいう。
「道はつねに何事もしない。だが、それによってなされないことはない」

・・・仏教が中国に移入されたころの指導者は、
「空」と「虚無」とを同一視して考えていた。

中観派の哲学者たちは現象世界における変化を否定して、
真理は言語では表現できないものであるという理論を述べた。

しかし道教の徒は必ずしもそれと同じ教説を述べなかった。
・・・<道>を<無>なりとして言及しているが、・・・
「無」が何を意味するかということについて、明らかに
説明することをしなかった・・・
しかし他の註解によると「何もないこと」の意に解せられて
いる。 ・・・ゆえに道は無であるから・・・

否定の否定ー無立場の立場
ナーガールジュナは・・・・すなわち否定そのものが
否定されねばならないのである。 ・・一般に大乗仏教では
否定の否定を説く(「空亦復空(くうやくぷくう)」。

もしも<空>というものが存在しないのであるならば、
<空>はもはや<空>ではありえないことになる。
この観念を継承して、中国の天台宗は、三重の真理
(三諦)が融和するものであるという原理をその基本的
教義として述べた。

(空諦)、(仮諦)、(中諦)、・・存在するいかなる
事物もこの三つの視点から観察されねばならない、と説く。

(天台宗については こちら:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97

「中国の天台宗は、隋の天台智者大師、智顗(ちぎ)(538年-597年)
を実質的な開祖とする大乗仏教の宗派である。」
「慧文は、龍樹による大智度論と中論に依って「一心三観」の
仏理を無師独悟したとされる。それが、慧思を介して智顗に継承された。」

(日本の天台宗は)
「初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍が
日本に入った。次いで、伝教大師最澄(さいちょう、767年-822年)が
延暦24年(805年)唐に渡り天台山にのぼり、天台教学を受けて翌年
(806年)帰国し伝えたのが日本における天台宗のはじまりである。」
日本主要仏教宗派はすべて天台宗の分派)



このような否定の論理をもてあそんだ人々は、実践に関しては
一切の執著やこだわりを離れることを生活目標としていたらしい。



そして、古代インドでも空の論者は虚無論者とかニヒリストだとか
問題にされたらしい、それに対して大乗仏教徒は何と答えたかと
いうと:

<空>の教義は虚無論を説くのではない。 そうではなくて
「空」はあらゆるものを成立せしめる原理であると考えられた。
それは究極の境地であるとともに実践を基礎づけるものである
と考えられた・・・・

・・空の中には何ものも存在しない。 しかも、あらゆるもの
がその中から出て来るのである。 それは鏡のようなものである。

宗教的な直観智による認識は、鏡が対象を映すことに
たとえられる。 ・・・大乗仏教、とくに唯識説では、
われわれの存在の究極原理であるアーラヤ識が転ぜられて
得られる智を大円鏡説と呼んでいる。

・・・「空」の真の特質は「何もないこと」であると同時に、
存在の充実である。 それはあらゆる現象を成立せしめる
基底である。 ・・・空を体得する人は、生命と力にみたされ
一切の生きとし生けるものに対する慈悲をいだくことになる。

慈悲とは、<空>--あらゆるものを抱擁することーー
の、実践面における同義語である。

われわれが空を体得すると、善き行いがおのずから現れてくる。
空の実践は闊達な境地に立って行われる。
こだわるところがない。 この点で虚空を自由に飛翔するという
譬喩がしばしば用いられる。

菩薩は無量無数無辺の衆生を済度するが、しかし自分が衆生を
済度するのだ、と思ったならば、それは真実の菩薩ではない。
かれにとったは、救う者も空であり、救われる衆生も空であり、
救われて到達する境地も空である。

(当時のヒンドゥー教の)「バガヴァッド・ギーター」では
無執著の行為ということを強調する。 これこれの行為をすれば、
これこれの良い報いがある、というようなことを考えないで、
執著を離れて行動せよというのである。
これに類する思想は西洋ではパウロによって説かれている。


ロイスブルークは「神を見る人」についていったーー
「かれの精神は未分であり、区別をもっていない。 それ故に
一体のほかには何ものをも感じないのである」と。
この観念は大乗仏教における<無分別智>(区別することのない
知識)に対応するものであろう。


人間の行動の基本的な徳としての<慈悲ー愛>と絶対者の
<知識>とが実質的には同じものであるという見解は
必ずしも仏教だけに限られたものではなかった。


東西のあいだに対応関係がみられるけれども、西洋においては
否定神学や神秘主義は何といっても付随的なものであり傍流に
すぎなかったが、東アジア・南アジアにおいては、少なくとも
教義的には主流となっていた。


空観のような思想は、・・・東洋では大乗仏教を通じて
一般化した(浄土真宗の教学といえども、空の理論を基礎と
している。少なくとも教義の上では表面的には基本思想と
みなされていたのである)。

メモはこのサイトが私のメモとかぶりまくりだったので途中からこのサイトのメモの引用と改変が多い。

その47(最終) 中村元著「龍樹」ー 「空」は鏡のようなもの? 慈悲?
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/01/post-5ce9.html

その48(まとめと感想) 中村元著「龍樹」: 般若心経の「空」とは何か
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/02/post-3882.html


その18 中村元著「龍樹」ー 中論の「空の論理」とは何か。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/12/post-c4ee.html
このシリーズをセットで読むとわかりやすい。

その23 中村元著「龍樹」ー 一見独断的で、詭弁のようなんだけど・・・
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/12/post-83f2.html


その28 中村元著「龍樹」ー 縁起といっても いろいろあるでよ・・・
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/12/post-fa12.html

その29 中村元著「龍樹」ー 縁起は 時間的生起関係か、相互依存なのか 
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/01/post-60a1.html



みづはし ‏@the_tenth_art 2015年8月9日
デカルトは意識は松果体にあると言った。これは何でも物事を区分けして考えようとするアリストテレス以来の西洋哲学の悪癖。インド哲学では、ミリンダ王の問いに見られるように一つ一つに分解せずに物事を総体として見る考えがあった。車を車たらしめているのは車輪でも座席でもない。全体が車なのだ。

T-T ‏@TT32768 2010年10月1日
大乗仏教の「ミリンダ王の問い」では「車輪、イス、その他、どれが車か?」と問われ「どれも車ではない」と答え「手、足、体、どれが私か?」と問われ「どれも私ではない」と答え、「ならば私とは何か?」「それらの集まりだ」つまり「すべての名は「仮」のものだ」とする。多一論もそういうものか。

蒼穹のカウパー ‏@shiomura_kojin 1月20日
ミリンダ王の問い、開幕から「坊さん(偉い)がミリンダ王の前世にゴミを捨てるよう命令するも無視したので殴られ、異常に怯えながらゴミを捨てる」だったので腹を抱えて笑ってる。

ミリンダ王の問いに代表される空
http://libpsy.com/mirinda-kuu/4054/
”この世に存在するものは全て実体はない。

すべて因縁によって存在するようになったのが「空」です。

つまり『色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき)』(この世界の森羅万象は空で、しかも森羅万象は空から発生する)のです。
(…)
この理解が難解至極のために、ヨーロッパの学者からも、仏教内でさえも仏教は「ニヒリズム(虚無主義)、無神論、否定主義」などと批判された歴史があります。
(…)
西洋の論理の伝統であるアリストテレス論理(形式論理学)以来の実在論によれば、有か無かどちらかしかないのです。

しかし、ナーガールジュナが著(あら)わしたインド大乗仏教中観派における空の理論の「空観」。そして彼の代表著作の「中論」。
これらでは「有」とともに「無」をも否定しています。

ここに分かりやすい日本の事例をいくつか挙げておきます。

●江戸時代前期の臨済宗の僧の至道無難(しどうぶなん:1603~1673)は
「草木国土、悉皆成仏」(仮名法語)と歌っています。

『草木も 国土もさらに なかりけり ほとけといふも なおなかりける』

ここでは「仏はいない」と仏教僧が公然と言っています。

●浄土宗の開祖の法然(1133~1212)も「空」が難解すぎて全く理解できず、臨済宗の開祖の栄西(1141~1215)に仏について質問しました。その際に栄西は、

『仏などいない、いるのは狸と狐ばかりである』

と言いました。

キリスト教の宣教師が、江戸時代に日本に来た時に日本の僧侶が仏像を拝むのを見て、
「仏なんかは塵芥(ちくありた:チリ、ゴミ)だ」と僧を批判しました。
キリスト教では愚像崇拝はいけないことだ、と頭から決め込んでいるのです。
しかし、僧は『仰るとおり、仏など塵(ゴミ)に過ぎない』と言って一喝したというエピソードがあります。
「神はあるか?」と問われれば、(ギリシャのアリストテレスの)形式論理学で言えば「ある」「ない」の二つしかない。
キリスト教やイスラム教では「ある」と答えないと信者にはなれない。
「ない」と答えれば無神論者になる。
しかし仏教では「仏はない」「仏なんぞ塵芥(ゴミ)にすぎない」と答えても立派に仏教徒でありうる。


●愚管抄の著者の慈円(1155~1225)は、

『ひきよせて むすべば柴の 庵にて とくればもとの 野はらなりけり』

と歌っています。これも「空」の歌です。
庵(いおり)とは草木で結んで作った質素な小屋のことで、僧や世捨て人が仮住まいとしていたものです。庵は「建築する」のではなく「結ぶ」と言ったのです。その辺の柴をかき寄せてて結んで作って庵、もし結び目を解いてしまえばそこには何もない。
結べば庵はある。結び目を解けば庵はない。
したがって、あるといえばあるし、ないといえばない。
庵はもともと存在しなかった。が、空(非実在性)は実在を生み出す。
結びさえすれば庵ができる。
庵は存在せず「無」。柴を結んで「有」になる(=空即是色)。結びを解けば庵はなくなる(=色即是空)。


●豊臣秀吉の辞世の句では、

『露(つゆ)と落ち 露と消えぬる わが身かな 浪華(なにわ)のことは 夢のまた夢』

と歌われました。夢とは実在ではないが、夢を見ているときは確かに存在していると思っている。秀吉は貧しい農家で生まれ、足軽、侍大将、摂政関白にまでなったことは現実のことなのか、夢ではいけないのか、現実と思うことが誤りではないのか。すべては仮説ではないのか。
・・空と唯識に対しての大変深い理解をうかがえます。

●織田信長が好んで舞った、能の「敦盛(あつもり)」の、

『人間(じんかん)五十年 下天のうちに比べれば 夢幻のごとくなり』

・・これも空とも考えられます。

●戦国大名の大内義隆(1507~1551)が家臣の陶晴腎(1521~1522)に襲われて殺された折りの辞世の句

『討つものも 討たるるものも もろともに 如露亦如電(にょろやくにょでん) 応作如是観(おうさぜにょぜかん)』

討つ側(陶側)と討たれる側(義隆ら)も、露が落ちるように、また、稲光が一瞬の閃光とともに消え去るように、変転果てしが無いこの世の万物の理である。それは、仏が種々に実身を変幻し、他の容を示現する作業と同じことであろう。私は、これらの事を、ありのままに観じ、自己を捨て去ろう。
・・これも同じく空です。

龍樹(ナーガールジュナ)の空の理論を、
古代ギリシャ哲学のアリストテレスの形式論理学を超えたという意味で
『超論理学』と呼びます。

こう呼ばれるのに至ったにも、西方の形式論理学と、東方の超論理学が正面対決したエピソードがあります。
それが「ミリンダ王の問い」(中村元、早島鏡正・訳)です。

ミリンダ王は、凄まじい権力者で哲学教養も豊かでな人物で、紀元前160~140年頃にインドへ侵入してパキスタンを首府にインドを統合しました。
その際に、ミリンダ王は、インドの真の知的優越者ナーガセーナ長老に会いました。
ここで形式論理学(ミリンダ王)vs 超論理学(ナーガセーナ)のバトルが行われました。

この議論の最後に、ミリンダ王は「空」を悟ります。

ナーガセーナ「王よ、あなたが車でここまでやってきたのなら、何が車であるか告げてください。軸ですか?車輪ですか?車体ですか?」

ミリンダ王「どれも違う。」

王は、ナーガセーナの問いに全て「否」と答えた。
ではそこに車はないのか、そこに存在する車は何なのか。名前だけのものか。

ミリンダ王「軸に縁って、車体に縁って、「車」という名前が起こるのです」

ナーガセーナ「そうです。王よ。あなたは車を正しく理解されました。私自身も、形に縁って、感受作用に縁って、表象作用に縁って、形成作用に縁って、識別作用に縁って、ナーガセーナという名前が起こるのであります。そこで人格的個体は存在しないのです。」

ミリンダ王は、実念論(realism リアリズム:普遍的に概念が実在している立場)だけでなく、
文字色唯名論(nominalist ノミナリスト:存在するのは個々のものだけ、普遍的なものは便宜上の名前に過ぎないという者)も克服しました。

この「車の譬(たと)え」は、昔から人々に愛好されたストーリーで仏教入門として最良のものです。

このように車を車輪などのいくつかの構成部分に分解して、車という実体はないと観ずる説明を「析空観(しやつくうがん)」と言い小乗仏教の説く空です。
対して大乗仏教では、ものの存在そのものを空であると見なします。
小乗は、空のみを見て不空を見ないから「但空(たんくう)」で、
大乗は、一切の事物を空であると見なしながら、同時に空でない面も見るから「不但空(ふたんくう)」=中道空(ちゅうどくう)なのです。


『ミリンダ王の問い』(Milinda Pañha, ミリンダ・パンハ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%80%E7%8E%8B%E3%81%AE%E5%95%8F%E3%81%84

『ミリンダ王の問い』
http://hishikai.exblog.jp/8109223/


インド文学・数学・仏教

親としてのインド思想

西洋思想への影響の情報集
http://kawauchi.la.coocan.jp/bukyoeikyo.htm
”わが国では江戸時代のベストセラーかつロングセラーであった『塵劫(じんこう)記』(吉田光由著)に初登場している。これは古くインドの仏典にあり、後、中国の『算法統宗』他各名著に記録され、これがわが国に輸入されたのである。一、十、百、千までは一桁の単位で、万以上は四桁ごとの単位である。

万、億、兆、京、垓、杼、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙(こうがしゃ)、阿憎砥(あぞうぎ)、那由化(なゆた)、不可思議、無量大数[無量(1068)と大数(1072)を別にすることもある]。これらの数詞には仏典由来のものが少なくない。

〔使用例〕千載(1047)一遇[各種国語辞典には「千載(千年)に一回しかあえないようなめったにない好機会(chance of a lifetime)」などとしているが、数学では 載年=(1047)年であり、広辞林(三省堂1941版)では千年一遇としていて、千載一遇は載せていない。]

◆小さな数の呼び名

前掲『塵劫記』に、大きな数の呼び名と共に記録されている。このほうは、分が100分の一で、他は一〇分の一単位となっていて、23桁あり、(10-25)になっている。

分、厘、毛、糸、忽、微、繊、沙、塵、埃、渺、漠、模糊(もこ)、逡巡、須庚(しゅゆ)、瞬息、弾指、刹那、六徳、虚、空、清、浄
(→極微→0→涅槃)  (→極微→原子論) 〔使用例〕塵埃とか、繊細な神経、または説明が暖昧模糊としている。
虚であり、空であり、清であり、浄であるのは、仏教の涅槃への段階でもある。また極微から原子論への進展もある。

[参考〕比の表し方の一つである歩合では、"割”の単位が”分”の前にある。打率が三割二分五厘とか金利などがそれである。割(ten percent,10のマイナス2乗)は日本独特のもの。

しょう‐じょう【清浄】シヤウジヤウ 清くてけがれのないこと。「―潔白」 

〔仏〕悪業の過失や煩悩のけがれをはなれていること。「六根―」(広辞苑)

ごく‐み【極微】〔仏〕(梵語 paramanu) それ以上分割できない物質の最小単位。七つの極微で一微塵を構成し、それらが集まって物質が構成されるとする。極微塵。(広辞苑)

ごくみ<極微>は、梵語パラマーヌ「最も微細な粒子」の訳。あらゆる物質の本質的な構成要素で、見ることも触ることもできないものとされる。現在の原子論は「極微」説に由来するといわれる。(岩本裕著日常仏教語 中公新書288)
(…)
宗教集団としてのピタゴラス派はオリエント風の信仰で、霊を善、肉体を悪とし、霊肉二元論として魂の不死と転生を説く。霊魂の浄化をたんなる祭祀や秘儀にだけでなく、道徳的、政治的活動に、さらに知識の獲得に求めるようにした。霊浄化の手段は純粋の知識の獲得(法門無量誓願学)にテオーリア(静観・理論の意味で、仏教の禅定、仏道無上誓願成)に求められた。

輪廻説のような「東洋的で非ギリシア的な思想」(インドからマケドニア、トラキア起源といわれるオルフェウス教を哲学的に発展させたとされる)はやがてプラトンにもみられるギリシア思想の宗教的潮流となっていく。
(オルフェウス教:レナル・ソレル著、脇本由佳訳、白水社「文庫クセジュ」863)

オルフェウス教は、19世紀以降、墓地の発掘の際に「オルフェウスの金板」が幾つか発見され、それによると、紀元前5~4世紀に遡り、アッテカ(アテナイを含む地域)からシチリア島へ、南イタリアからローマへ伝わったことが証明される。紀元前1~2世紀に宇宙と神々の誕生を説明する新しい説が二つ生まれた。「24の叙事詩からなる聖なる言説」とヒエロニュモスとヘラニコスのものといわれる宇宙誕生譚である。ギリシア各地で「オルフェウスの流れ」が不意に出現してから一千年以上もたった紀元5~6世紀にアテナイとアレキサンドレイアの新プラトン派学者たち(シュリアノス、プロクロス、オリュンピオドス、とくにダマスキオス)が、とりわけオルフェウス教の宇宙と神々の誕生譚に関心を抱くようになり、それを「聖なる書」と見なした。彼等はそれを体系的にプラトンと調和させようと努めることになった。プラトンの著作が一種の神学を伝えると確信していたからだとされる。オルフェウス教の宇宙誕生譚がわたしたちに伝えられるのは、それがギリシア神話に関係づけられるからなのである。そして他方では間接的影響が初期キリスト教に確実に及んだ。聖パウロの神論で、人間の魂はオルフェウス教でいう意味でも、さらにはプラトン的意味でも、「神的なもの」ではない、と断言されていた。オルフェウスは新プラトン派の中心的教義を先取りしていたのだが、その教義を後にキリスト教思想が発展させ、完成することになるのだと説いている。

ピタゴラスの宗教上の意見は輪廻転生の説であり、イタリアのクロトーンにおいて道徳的宗教的教団を組織し、厳格な戒律を布き、宗教的改革家として多大の感化を与えた
。(波多野精一著「西洋哲学史要」大日本図書株式会社刊 P34)

釈迦と同時代であり、関係の深さを示す次のような伝説が残っている。
ピタゴラスはシャカと会見し、人間の転生について意見が一致したというギリシアの伝説である。史実は別にして、それほど関係が深かったことに驚いた。

しゃか‐むに【釈迦牟尼】(梵語 ?akyamuni 「牟尼」は聖者の意) 仏教の開祖。その生没年代は、前五六六~四八六年、前四六三~三八三年など諸説がある。インドのヒマラヤ南麓のカピラ城の浄飯王(ジヨウボンノウ)の子。母はマーヤー(摩耶マヤ)。姓はゴータマ(瞿曇クドン)、名はシッダールタ(悉達多)。生老病死の四苦を脱するために、二九歳の時、宮殿を逃れて苦行、三五歳の時、ブッダガヤーの菩提樹下に悟りを得た。その後、マガダ・コーサラなどで法を説き、八○歳でクシナガラに入滅。シャーキヤ‐ムニ。釈尊。釈迦牟尼仏。(広辞苑)

ピタゴラス【Pythagoras】ギリシアの哲学者・数学者・宗教家。サモスに生れ、南イタリアで教団を組織、霊魂の救いを目的とする新宗教を説き、宇宙の調和の原理を数とそれの比例とした。(前570頃 ―)

こんな伝説があるくらいで、仏教思想の影響が大きいと思われ、ギリシア哲学の「アトム」の思想は「極微」によるとされる。(日常仏教語 岩本裕著 中公新書)
(…)
アレクサンドロス大王東征によるヘレニズムと仏教の融合

   (アレクサンドロス大王と東西文明の交流展による)

アレクサンドロス大王の東征の後、中央アジア、インド亜大陸では、クシャーン朝下のガンダーラにおいてグレコ・バクトリア・ローマ・インド・イラン式のガンダーラ仏教美術が誕生した。このガンダーラ美術を再読すると、次のように解することができると説いている。神ではないが、「霊魂の導師的存在」であるギリシア神話の中の海獣(ケートス、トリトン)を重視し、それらが仏教の到彼岸=涅槃=極楽往生のエスコートとして用いられ、やがてその役割が釈迦牟尼仏陀に取って代わられ、仏像が創造されたという新しい見解を提示した。また、ディオニュソス神に関係するエロティックな図像も積極的に用いたが、これらが通説とは異なり、到彼岸=涅槃=極楽往生の至福悦楽を具体的に再現している聖画像であったからである。この交流展では、ギリシアの諸神がガンダーラにおいて仏教や天部の直接モデルとなることを図像学的に示していた。例えば「花綱を担うエロスの浮き彫り」(クシャーン朝、2-3世紀、パキスタン、スワート出土)では、花綱はギリシア起源で死者の霊魂を無事にあの世に導くものと考えられ、エロス(アモール)と共にローマ時代の石棺装飾に多用された。これが仏教美術に採り入れられ、ストゥーパの仏伝図を荘厳していた例などが挙げられる。
さらにギリシア神の「ヘルメス」は「大黒天」となって日本に渡り、また「ヘルメス」は「毘沙門天」となって伝わった。「北風ボレアス」は「風神」となり、「ゼウス+雷てい」は「帝釈天」に、「ヘラクレス+棍棒」は「執金剛」「金剛杵」そして「仁王」となり、「テュケ女神」は「訶梨帝母」となり中央アジア原産の石榴を伴って「鬼子母神」となった。「海獣ケートス」はドラゴンに姿を変え、そして龍となって仏教を守護する。また、菩薩像の首飾りによく見られる像であるという。仏塔基壇などを支える「アトラス神」はギリシア神話で天空を支える巨人神であり、肩でストゥーパを支える。ガンダーラで仏教彫刻に採り入れられたギリシア神は、ヘルメス(メルクリウス神で商業の神、体育・教育施設の守護神)、ヘラクレス神(体育・教育施設の守護神)、ディオニュソス神(バッカス神)、ボレアス神(北風神)、テュケ女神(豊穣と都市の守護神)、ニケ神(勝利の神で、ナイキの語源)、ヘパイストウス神(造化・鍛冶の神)、アトラス神(天空を支える巨人神)、ポセイドン神、ニュクス=ノクス女神(夜の神)、エロスなどが上げられている。このようにギリシア神と仏教の融合は極めて深いものがあったのである。

拝火教の影響─弥勒菩薩と東大寺お水取りの火の行法「だったん」

(…)
バクトリア王国 ミリンダ王の問い

アショカ大王の死後統一力を失ったマウリア王朝。 そのため、西北インドはギリシャ王の支配するところとなった。紀元前の2世紀中頃、現在のアフガニスタンのカーブル近郊で生まれたギリシア人のミリンダ(メナンドロス)王は、紀元前2世紀の後半、この西北インドを支配した。王であるとともに偉大な哲人であった彼は次々とインドの哲学者を論破していく。仏教の思想を論破するため当時の仏教教団の指導者の一人であったナーガセーナ長老と対論を始めた。ナーガセーナ長老はインドの仏教界の中で唯一ミリンダ王と対論することが可能であるだろうと思われるインド随一の哲人であった。

あなたは誰か――ミリンダ王の問い (隔月誌『Paramahamsa』27号より)

今よりおよそ二千年以上も昔のこと、古代ギリシアの人々は地中海世界を征服し、その勢いはインドの西北、現在のアフガニスタン、パキスタン辺りにまで及んでいた。そこにギリシア人たちは王国を建て、中でも繁栄を極めたバクトリア王国は、インド内部にまでその版図を広げた。その最盛期に現れたのがメナンドロス王である。メナンドロス――インド名ミリンダ――は実在した王であり、また仏教には、彼に帰せられる『ミリンダ王の問い』なる準聖典が伝えられている。ギリシア人としての哲学的素養からか、ミリンダ王は征服地であるインドの哲人を訪れたいと考えたようである。当地の仏教サンガを率いていた長老ナーガセーナのもとを訪ね、挨拶を交わし、型通り相手の名を問うところから彼の問いは始まる。
「あなたは名を何と言われますか」
「大王よ、私はナーガセーナとして知られています。だがこの『ナーガセーナ』という者、単なる呼び名であり、標識、記号、ただの言葉に過ぎませぬ。人格の実体などは存在しないのです」
王は、これは異なこと、と、そこに居合わせた人々に呼びかけた。
「皆々方、私の言うことを聞かれい。これなる人物ナーガセーナは、ここに人格の実体がないとおっしゃる。さてこんなことを認めてもよいものだろうか」
そしてさらに長老に問うた。
「もしあなたの言われる通りなら、あなたに布施をする者、それを受けて修行する者などはいったい何者でしょうか。戒を破り罰を受ける者とは誰なるや。言われる通りなら、善も悪も、それを行う者も行わせる者もないし、あなたを殺す者にも罪なしとはなりませぬか。あなたは『私はナーガセーナと知られている』と言われるが、その『ナーガセーナ』とはいったい何ですか。頭髪か、肌か、爪か、歯か」
「そうではありません」
「では肉か筋か骨か、腎臓か心臓かそれとも脳髄か」
「そうではありません」
「では肉体、感覚、思い、性格、意識のいずれかですか」
「違います」
「ならば、そういったものとは別に『ナーガセーナ』があるのですか」
「そうではありません」
「何と!私はあなたに問いを重ねながらも、『ナーガセーナ』が何なのか一向に合点まいりませぬ。それは単なる名称に尽きますのか。とはいえ実体なくして名称のみあるはずもない。あなたの言われることは無茶苦茶ですぞ。『ナーガセーナは存在せず』などとは」
長老ナーガセーナはこれに対しこう問い返した。
「大王よ、あなたは今日ここに歩いてこられましたか、それとも車に乗られてか」
「車に乗ってです」
「さらば、あなたは車の何たるかをご存知であろう。私にそれが何かを教えて下さい。それは轅ですか」
「いえ、そうではありませぬ」
「車軸が車だろうか。それとも車輪か、車室か、車台がそれか」
「そうではありませぬ」
「では、軛か綱か鞭か」
「違います」
「ならばそれらを寄せ集めれば車になりますか」
「そういうわけでもありませぬ」
「となれば、それ以外に車なるものがありますか」
「いや、さにあらず」
「大王よ、私は車が何なのか一向に合点できませぬ。それは名称に過ぎぬのか。あなたの言われることは無茶苦茶ですぞ。さてや皆の衆、このような嘘偽りを果たして認めてもよいものだろうか」
この問答を聞くや、ギリシア人たちは長老に歓呼し、王を励まして言った。
「さあ大王様、精一杯弁論して下さいよ!」
ミリンダ王は長老ナーガセーナにこう抗弁した。
「私は嘘偽りなど申してはおりませぬ。『車』というは、轅・車軸・車輪・車室・車台に依存し、呼び名・標識・記号として成り立つものにござる」
ナーガセーナ長老、ここでわが意得たりと、こう言った。
「よくぞ言われた、大王よ。あなたは車の何たるかが分かっておられる。それとまるで同じですぞ。私ナーガセーナとは、頭髪・肌・爪、骨に肉、心臓に脳髄、感覚、思いなど、もろもろに条件的に依存し、呼び名・標識・記号として成り立つ一方、人格の実体ではござりませぬ」
これにはさすがの大王も歓びの声を上げた。
「驚嘆に堪えません、ナーガセーナ殿!まこと鮮やかな問答であります。尊者ブッダがここにおられたなら、さぞお褒めになったでありましょう。ナーガセーナ殿、お見事」
王と長老の問答はこうして始められた。

賢者の論と王者の論 

以下は有名な「賢者の論」と「王者の論」について語ったくだりである。
ミリンダ王 「尊者ナーガセーナよ。私とともにまた対論しましょう。」
ナーガセーナ長老 「大王よ。もしもあなたが賢者の論をもって対論なさるのであるならば、私はあなたと対論するでしょう。しかし、大王よ。もしもあなたが王者の論をもって対論なさるのであるならば私はあなたと対論しないでしょう。」
ミリンダ王 「尊者ナーガセーナよ。賢者はどのようにして対論するのですか。」
ナーガセーナ長老 「大王よ。賢者の対論においては、解明がなされ、解説がなされ、批判がなされ、修正がなされ、区別がなされ、細かな区別がなされるけれども、賢者はそれによって怒ることがありません。大王よ。賢者は実にこのように対論するのです。」
ミリンダ王 「尊者よ。また王者はどのようにして対論するのですか。」
ナーガセーナ長老 「大王よ。しかるに実に諸々の王者は対論において1つの事のみを主張する。もしそのことに従わないものがあるならば、『この者に罰を加えよ』と言って、そのものに対する処罰を命令する。大王よ。実に諸々の王者はこのように対論するのです。」
ミリンダ王 「尊者よ。私は賢者の論をもって対論しましょう。王者の論をもって対論しますまい。」

ここにおいて長時間にもわたる「ギリシア思想」対「仏教思想」の問答が開始されたのであった。
①時間の起源とは?
ミリンダ王「過去の時間の起源は何ですか。未来の時間の起源は何ですか。現在の時間の起源は何ですか」
ナーガセーナ長老「過去の時間と未来の時間と現在の時間の起源は、
無明(一切の煩悩の根源)を表している。無明(一切の煩悩の根源)を縁として行(形成力)が生まれ、
形成力を縁として識(認識作用)が生じ、
認識作用を縁として名色(心・精神の有する物)が生じ、
名色を縁として六処(認識領域)が生じ、
認識領域を縁として触(感覚器官による知覚)が生じ、
触を縁として受(感受)が生じ、
感受を縁として愛(迷妄の執念)が生じ、
愛(迷妄の執念)を縁として取(執着)が生じ
執着を縁として有(生存)が生じ、生存を縁として生(誕生)があり、
誕生を縁として苦(苦しみ)が生じる。
このようにしてこのすべての時間の始源(一切の煩悩の根源)は認識することができない。」
ミリンダ王「尊者ナーガセーナよ、あなたは『始源は認識することができない』と言われましたが、その始源とは何ですか」
ナーガセーナ長老「大王よ、過去の時間がその始源です」
ミリンダ王「尊者ナーガセーナよ、あなたは『始源は認識することができない』と言われましたが、尊者よ、始源はすべて認識できないのですか」
ナーガセーナ長老「大王よ、あるものは認識され、あるものは認識されません」
ミリンダ王「尊者よ、それはいかなるものが認識され、いかなるものが認識されないのですか」
ナーガセーナ長老「大王よ、それよりも以前には全然いかようにも無明(煩悩の根源)が存在しなかったというこの始源は認識されません。しかし以前には存在しなくてもいま生じ、存在してふたたび滅びるというもののこの始源は認識されます」
②輪廻とはなにか?
ミリンダ王「尊者ナーガセナよ、あなたが輪廻と言っているところの、その輪廻とは何ですか」
ナーガセーナ長老「大王よ、この世で生まれたものはこの世で死に、この世で死んだものはあの世に生まれる。あの世で生まれたものはあの世で死に、あの世で死んだものはさらに他所に生まれる。大王よ、このようなものが輪廻です」(77項)
ミリンダ王「尊者ナーガセーナよ、死んでからのち、次の世に生を結ばないものがいますか」
ナーガセーナ長老「ある者は次の世に生を結びますが、ある人は次の世に生を結びません」
ミリンダ王「誰が次の世に生を結び、また誰が次の世に生を結ばないのですか」
ナーガセーナ長老「大王よ、煩悩のある者は次の世に生を結びますが、煩悩のない者は次の世に生を結びません」
ミリンダ王「それでは尊者よ、あなたは次の世に生を結びますか」
ナーガセーナ長老「大王よ、もしも私が執着を持っているなら、次の世に生を結ぶでしょう。またもし執着を持っていなければ、次の世に生を結ばないでしょう」(32項)

長時間にわたりナーガセーナ長老と対論を交わしたミリンダ王は、その後仏教徒になった。

参考書籍:清水書院 森祖道・浪花宣明著「ミリンダ王~仏教に帰依したギリシア人」
       東京書籍 中村元著「仏教経典散策」
       角川ソフィア文庫 増谷文雄・梅原猛著「仏教の思想 智慧と慈悲」
ギリシア科学のベースとなる分析・総合に、仏典(倶舎論)に見られるような五位七十五法表の分析や解脱の考え方や極微の考えが影響しているのではないかと考えられる(私注)。

アレクサンドロス東征以後で、インド王とギリシア王の交流があったことを示す話が伝えられている。このころ、インド王がギリシアにイチジクと酒と哲学者を注文した際、アンティオコス王は、「イチジクと酒はお送りするが、学者の売買は禁止されていて、できない」と返書したという。

くしゃ‐ろん【倶舎論】(梵語 Abhidharmako?a-bhasya) 三○巻。世親の著。玄奘(ゲンジヨウ)の訳。詳しくは阿毘達磨倶舎論。小乗仏教の教理の集大成である「大毘婆沙論」の綱要書。一切諸法を五位七十五法に分け、迷いと悟りについて詳細に論ずる。仏教の基礎的教学書。倶舎。(広辞苑)

せしん【世親】(梵語 Vasubandhu  旧訳は天親テンジン) 西紀320-400年頃、いまのアフガニスタンのペシヤワル(ガンダーラ)に生まれた北西インドの僧。初め小乗仏教を学び、後に兄無着(ムジヤク)に教化されて大乗に入った。兄と共に唱えた唯識仏教は中観学派と並んでインド大乗仏教の二大系統をなした。著「倶舎論」「唯識二十論」「唯識三十頌」「浄土論」など。世親菩薩。ヴァスバンドゥ。(広辞苑)

ガンダーラ【Gandh ra・健駄羅】パキスタン北西部、ペシャーワル地方の古名。紀元前後より数世紀間にわたって、この地を中心にギリシア美術の影響を受けた仏教芸術が発達。ケンダラ。

「ゼロの発見」(少なくとも前2世紀という)に始まるインド数学の発展は、おそらく、クシャン朝からグプタ朝へと成熟してきたものだろう。その時期は、大乗仏教哲学の形成期でもある。

ゼロの記号を数の記号中に人類が用い始めるまで千年を費やしたという。(カヂヨリ著「数学史講義」一戸直蔵訳 大鐙閣刊 P4)

だいじょう‐ぶっきょう【大乗仏教】‥キヤウ 紀元前後頃からインドに起った改革派の仏教。従来の部派仏教が出家者中心・自利中心であったのを小乗仏教として批判し、それに対し、自分たちを菩薩と呼んで在家者を重視し、利他中心の立場をとった。中国・日本・チベットなどの北方仏教はいずれも大乗仏教の流れを受けている。(広辞苑)

インド哲学の特質について、ホルステッドのように、「空虚な無に対して、単に位置・名称・記号のみでなく、有力な力を与えたのは、その母胎たるインド民族の特質による。それは涅槃を能動力につくりかえたのに似る」などの説もある。インドのゼロを涅槃に結びつけるなら、2世紀からの中国数学における負数を陰陽に結びつ:けることは誰でも思いつくかも知れない。

ギリシア数学が「俗界」を否定し、純粋性を求めたことは、仏教の出家修行の考え方の影響ではないか(私注)。

ギリシア懐疑派の始祖、ピロン(前360-270ごろ)はペロポネソス半島のエリス市の人で、アレクサンドロス大王の軍に従って東方へゆき、インドで行者の苦行をみたという。帰国後エリスで学校を開いた。彼は生の終局目標を心の平静(アタラキシア)におき、このためすべての判断をやめること「判断中止」(Pyrrhonism)を説いた。これは仏教の「無分別」と酷似する。(玉井茂著「西洋哲学史 上」青木書房 P145)

あらや‐しき【阿頼耶識】〔仏〕(梵語 alaya-vijnana) 人間存在の根底をなす意識の流れ。経験を蓄積して個性を形成し、またすべての心的活動のよりどころとなる。唯識派で説く。八識の中の第八識。旧訳(クヤク)では阿梨耶識。略して阿頼耶・頼耶・阿梨耶・梨耶とも。

*インド科学の歴史には、グプタの後の時代に、現在まだ知られていないギャップがあるが、これは遠からず埋められるものと期待される。それは大部分インド半島の発展だったように思われる。平野は蛮族の侵入にあまりにもさらされていて、その侵入は、同じ時期にヨーロッパをも侵し、そこの概してギリシア、ペルシャ型の文化を破壊し、11世紀のアフガニスタンのガズニー朝のマハムード王の略奪で絶頂に達した。しかし、デカン高原と、そのさらに南方には、諸文化の一大会合地があったように思われる。すなわち、北方と海上からはギリシア―ローマ文化が、やはり海上からアラブとペルシャの文化が、また陸路による仏教の巡礼と海路による商人とによって中国文化が運ばれてきた。これらの刺激を得た以上当然ながら、繁栄と文化的進歩の諸条件の下にあった土着のインド人の才能は、知識の総合を生みだし、今度はそれが初期のイスラム科学を鼓舞することができた。科学への主な寄与は、数学と化学にあったように思われる。数学上の観念は、その形からみて、またその誤りの点ではおそらくなおさら、初期の中国のものを手本にした証拠がみられるが、インド人はパビロニア人の概念をも発展させたらしく思われる。(バナール著「歴史における科学 1 」 P103)

8世紀以降、ギリシアがイスラムと交代する。ギリシア数学を継承したのは、イスラム世界であった。ギリシアが現世から遮断された純粋性の中に体系を見出したのと反対に、イスラム人は課題の密着することで問題解決の技術に数学を見出した。特にインドの記数法とも結びついて、数量的処理が発達した。ピタゴラス的哲学でなく、ありのままの量として数を処理することになった。この思弁的でない「数概念」は成熟していった。負数や無理数に「数」としての権利を獲得させたものは、哲学や体系ではなく、この日常性であったという。

これは、インドでの出家から在家の日常への大乗仏教の広がりが影響していたのではなかろうかと思える(私注)。
(…)
仏教論理学と認識論  (三枝充悳著 「仏教入門」 岩波新書 p201-206) 

インドでは仏教誕生以前から対論や論争が実にさかんであり、それが論理学の形成を促した。このことは古代ギリシアと類似し、いわゆる論理学が組織的に研究されてその体系を確立したのは、人類史上ギリシアとインドに限られるといってよい。

その論理学を、仏教では「因(理由命題)にもとづく学」(へートゥヴィトヤー、因明いんみょう)と、インド哲学ではニヤーヤ(正理しょうり)と呼ぶ。
仏教論理学の歴史も古い。二世紀ごろの成立と推定される医学書の『チャラカ本集』、漢訳の残る『方便心論』(ナーガールジュナ著述説もある)、ナーガールジュナ著の『廻諍論えじようろん』といったテクストに、論理学への発言が伝えられ、それらに用いられる諸術語は、後代の仏教論理学にもインド論理学のニヤーヤ学派にも、ほぼそのまま共有される。

仏教論理学は精密な理論体系を誇る唯識説において磨かれ、そのひとりディグナーガ(陣那)が、知識論―認識論とともに樹立する。ディグナーガには『プラマーナ・サムッチャヤ』(知識集成論、『集量論じゅりょうろん』と訳されるチベット訳のみ)の主著のほかに、漢訳の『観所縁論』『掌中論ようちゅうろん』『因明正理門論いんみょうしょうりもんろん』などがある。
ディグナーガは、正しい認識(プラマーナ、量という)の根拠として、直接知覚(プラナィヤクシャ、現量)と推論(アヌマーナ、比量)との二種のみを承認し、直接知覚は分別(判断に相当しよう)を離れていて無内容であるが、それに推論が加わることによって具体的な認識として成立するという(このあたりはカントの感性論と分析論とにおける認識の成立と酷似する)。このように推論が効果(アルタクリヤー)を有することは、日常の経験から確認される(この点でアプリオリ…先天的、またトランスツェンデンタール=先験的〔超越論的〕を説くカントから離れる。ただしカントも弁証論では、対象との接触を欠いた理性は仮象を生むという)。
さらにディグナーガは、
推論を「自分のため(スヴァ・アルタ)の推論」と
「他人のため(パラ.アルタ)の推論」とに二分して、その認識論を進め、以後この二種の推論を論証に用いつつ、かれの最大の功績である論理学の確立に向かう(この「他人のための推論」を弁証論と名づける現在の専門家もいるが、それは少なくともカントのいうディアレクテイクとはかなり異なる)。かれはまた、認識の対象を個別(スヴア・ラクシャナ、自相)と普遍(サーマーニャ・ラクシヤナ、共相ぐうそう)とに分け、認識にさいしては両者がかかわると説く。ただし普遍は一種の観念的な存在(分別の所産)にすぎず、独立の個別がただ一回かぎりの刹那ごとに直接の認識の対象となるのであり、存在ではなくて、「他者の排除」を内容とすることを主張する。この排除(アポーハ、離)の話とその応用は、その後の仏教をふくむインド哲学の各学派に重用され、それぞれの認識論のキーワードとして論究される(それはスピノザの説く「否定」がヘーゲルにおいて最重要視された軌跡と類似する)。
ひとこと付加すると、認識の根拠について、上述の直接知覚と推論のほかに、古い資料(たとえぱ『廻諍論えじようろん』など)は「聖典のことば」(アーガマ、聖教量しょうぎょうりょう)と比喩(ウバマーナ、讐喩量)とを加えて四つ(四量)とする。しかし、験伽行派唯識(たとえば『解深密経』、ステイラマティの『唯識三十頒への註釈』)では比喩を除いて三つとし、またディグナーガは「聖典のことば」も推論にふくめて、上述のように二つとする。それは認識の対象が二種(個別と普遍)であることにもとづく。この二根拠(二量)説は、かれ以後の論理学に携わる人々(ダルマキールテイはもとより、バヴイヤなども)に伝えられ、守られた。

ディグナーガの論理学は、推論に関して、理由命題(ヘートゥ、因という)の具えるべき条件を三種として、これを「因の三相」という。その名称のみあげると、遍是宗法性へんぜしゅうほっしよう、同品定有性どうぽんじよううしょう、異品遍無性いほんへんむしょう であり、主として周延しゅうえん関係をいう。また理由命題のあり得る条件を九種あげて、これを九句因(やはり周延に関係して、九種のうち二種のみが正しい因とする)と称する。因の三相はアサンガがすでに説いているが、九句図説はディグナーガの新説とされる。とりわけかれの名は三支作法さんしさほう と呼ばれる新しい推論式の確立によって、インド全体に著名となり、これは新因明しんいんみょう と名づけられる。それはインド論理学(インド正統哲学にあり、またその諸派が採用)の伝統が五つの命題を掲げていた(五分作法ごぷんさほう という)のを、三つの命題(三支)に改革し、かれ以後はインド論理学のすべてに普及した。三支は、宗しゅう(プラナィシュニャー、主張命題。論証されるべきもの)、因いん(へートゥ、理由命題。論証の根拠)、喩ゆ(ドゥリシターンタ、実例。同喩と異喩との二つ)からなる。例はつぎのとおり。

宗……声(音)は無常である

因……(声は)つくられたものであるから

喩……すべてつくられたものは無常である、たえば瓶のように(同喩)。すべて常住のものはつくられたのではない性質をもつ、たとえば虚空のように(異喩)

新因明も因明も論証につねに喩を立てるという特徴があり、その喩は経験にもとづくと考えてよく、その全体は帰納的論理とみなされよう。かれの論理学には、年代不明のシャンカラ・スヴァーミン(商掲羅生しょうからしゅ、天主てんしゅ)の著わした『因明入正理論いんみようにっしようりろん』(玄装訳、サンスクリット本もある)という入門書がある。ディグナーガの論理学は、七世紀のダルマキールティ(法称ほつしよう)によって完成をみる。ダルマキールティの七種の著述がチベットに伝えられるなかで、(1)『正理しょうり一滴論』(『ニヤーヤ・ビンドゥ』、論理学小論)、(2)『量決択りょうけっちゃく』(『プラマーナ・ヴィニシチャヤ』、知識の決定)、(3)『量評釈』(プラマーナ・ヴァールヅティカ、知識批判書)の三部が主著とされ、それぞれ全体または一部にサンスクリット本が発見公刊され、チベット訳は完備する。各本とも諸註釈書があって、同時代にも後代にもいかによく読まれたかが知られる。
ダルマキールティは唯識説によりながら、かなり軽量部きょうりょうぶ に近く、たとえば外界を八識の所産に帰するのではなく、外界の存在は推理されるという。ただし有部うぶ のような外界の素朴実在論的ではなく、外界は推理されるのみと限定する。さらにかれは軽量部の刹那減の説を導入して、対象は刹那減であることを論証し、その意味においては非連続であり、同時にその流れは意識の流れと相応して連続を構想すると主張する。また推論の効果(アルタクリヤー)を重視して、認識の現実性は対象との斉合性であるともいう。
ダルマキールティは認識論にしても、論理学にしても、ほぼすべての問題を網羅し徹底的に論究した。ダルマキールティの全貌解明が現在進められているなかで、かれは仏教論理学を演繹えんえき的ないわゆる三段論法に一新した、と評する専門家もいる。かれの何人かの弟子のうち、デーヴェーンドラブッディなどが知られる。掉尾とうび を飾るかのように、モークシャーカラグプタ(十一―十二世紀)が出て、名著『タルカバーシャー』を著わした。タルカは論理またとくに推論、バーシャーはことばを意味する。この書は、ダルマキールティ説とそれ以後の展開とを、簡潔で内容豊かに紹介し解説して、仏教論理学の最もすぐれた綱要書とされる。
このような諸学問はその後も絶えることなく継承されたが、すでに信者の数も減少し、さらにイスラーム軍による寺院の破壊と出家僧の殺害にみまわれて、その拠点を失い、仏教はインドに衰滅を迎える。

***************************************************************************

デカルト【Ren Descartes】フランスの哲学者。近世哲学の祖、解析幾何学の創始者。「明晰判明」を真理の基準とする方法により一切を方法的に疑ったのち、疑いえぬ真理の第一原理として「考える自己」を見いだし、そこから「思惟する精神」と「延長ある物体」とを相互に独立な実体とする二元論の哲学体系を樹立。著「方法序説」「第一哲学についての省察」「哲学原理」「情念論」など。(1596 1650)

スピノザ【Baruch de Spinoza】オランダのユダヤ系哲学者。デカルトの方法をさらに徹底させ純幾何学形式によってその体系を組み上げた。永遠で絶対な自己原因としての神が唯一の実体であり、唯一の存在である(一元論)。すなわち、神即自然(汎神論)。この神の属性中、吾人の認識し得るのは思惟(意識)と延長(拡がり)との二つだけで、世界の万物はこの二属性の諸様態にほかならない。この様態の世界では一切は厳密な必然性に従って生起し、同じく思惟・延長の二様態の合一体としての人間にもまた自由意志というものはあり得ない(決定論)。真の自由は知的観照を通じてこの必然性を「永遠の相の下に」洞察することにあり、これが神に対する知的愛であり、最高の善であるとする。著「エチカ」「知性改善論」「神学政治論」など。(1632 1677)    (仏教入門203頁)

ライプニッツのモナッドと仏教
ライプニッツ【Gottfried Wilhelm Leibniz】ドイツの数学者・哲学者・神学者。微積分学の形成者。モナド論ないし予定調和の説によって、哲学上・神学上の対立的見解の調停を試みた。今日の記号論理学の萌芽も示す。近代的アカデミー(学士院)の普及に尽力。主著「形而上学叙説」「単子論」「弁神論」「人間悟性新論」。(1646 1716)  (仏教入門182頁)

カントと仏教 (仏教入門202頁)
カント【Immanuel Kant】ドイツの哲学者。ケーニヒスベルク大学教授。科学的認識の成立根拠を吟味し、認識は対象の模写ではなく主観(意識一般)が感覚の所与を秩序づけることによって成立すること(コペルニクス的転回)を主張、超経験的なもの(物自体)は科学的認識の対象ではなく、信仰の対象であるとし、伝統的形而上学を否定し、形而上学を批判的基礎づけの学とした。同様に道徳や美的判断の根拠を明らかにし、文化の諸領域を基礎づけた。著に「純粋理性批判」「実践理性批判」「道徳形而上学原論」「判断力批判」など。(1724 1804)

ヘーゲル (仏教入門203頁)
ヘーゲル【Georg Wilhelm Friedrich Hegel】ドイツ古典哲学の代表者。彼の哲学は自然・歴史・精神の全世界を不断の運動・変化・発展の過程として、その内的連関を明らかにしようとした巨大な試みであり、これを絶対的イデー(宇宙的理性または神)の弁証法的発展として把握した(絶対的観念論)。その弁証法はマルクスにより史的唯物論に基づく歴史の論理として批判的に継承され、キルケゴールやフォイエルバッハ、さらにはサルトルの実存主義などにも影響を与えた。主著「精神現象学」「論理学」「エンチクロペディー」「法律哲学綱要」のほか、死後出版された哲学史・歴史哲学・美学・宗教哲学などの講義がある。(1770 1831)

ヘーゲル‐がくは【―学派】(Hegelianer ドイツ) ヘーゲルの哲学を種々の方向へ発展させた人々。ヘーゲルの死後、学派は、 宗教的には正統派的、哲学的には思弁的、政治的には
保守的な右派(ガプラー・ヴェルダー・グッシェルら)、 
無神論的・唯物論的・急進的な左派または青年ヘーゲル学派(シュトラウス・フォイエルバッハ・シュティルナー・マルクスら)、 
中間派(ローゼンクランツ W.Rosenkrantz 1821 1874・エルトマン J.E.Erdmann 1805 1892 ら)の三傾向へ分れ、一九世紀末にようやく萎靡(イビ)したが、二○世紀になって各国のヘーゲル学者を一括して新ヘーゲル学派と呼ぶことがある。

ショーペンハウエルと仏教
ショーペンハウアー【Arthur Schopenhauer】ドイツの哲学者。カントの認識論を現象主義的に徹底させて、世界を表象とみなし、その根本原理は生への盲目的意志であり、人間生活においては意志は絶えず他の意志によって阻まれ、生は同時に苦を意味し、この苦を免れるには意志の滅却・諦観以外にないと説いた。主著「意志と表象としての世界」。(1788 1860)

フォイエルバッハ【Feuerbach】 (Paul Johann Anselm von ~) ドイツの刑法学者。犯罪から遠ざけるために心理強制説を主張し、罪刑法定主義を基礎づけ、近代刑法学の父といわれる。著「現行ドイツ普通刑法教科書」。(1775 1833) (Ludwig ~) ドイツの唯物論哲学者。 Ⅰの子。ヘーゲル哲学を批判し、思弁哲学は神学であり神学の秘密は人間学であるという立場から宗教を批判、マルクス・エンゲルスに多大の影響を与えた。著「キリスト教の本質」など。(1804 1872)

キルケゴールの「主体性が心理」と仏教 (仏教入門182頁)
キルケゴール【S ren Kierkegaard】デンマークの思想家。合理主義的なヘーゲル的弁証法に反対し、人生の最深の意味を世界と神、現実と理想、信と知との絶対的対立のうちに見、個的実存を重視、後の実存哲学と弁証法神学とに大きな影響を与えた。著「あれか、これか」「不安の概念」「死に至る病」など。(1813 1855)

ニーチェ【Friedrich Wilhelm Nietzsche】ドイツの哲学者。実存主義の先駆者。キリスト教倫理思想を弱者の奴隷道徳とし、強者の自律的道徳を説き、この道徳の人を「超人」と称し、これを生の根源にある権力意志の権化と見た。また伝統的形而上学を幻の背後世界として否定し、神の死を告げた。著「ツァラトゥストラはかく語りき」「善悪の彼岸」「権力への意志」など。(1844 1900)

(…)
「創世直後、十の三十二乗分の一(10-32)秒の間に、宇宙が十の百乗倍(10100)に一気に膨張した時期があったという理論です。計算によると、この過程で〈子の宇宙〉〈孫の字笛〉という具合に、次々と宇宙が生まれる。互いに行き来はできませんが、理論的には我々のいるこの宇宙以外にも、宇宙は無数にあることになる。最近ではこういう考え方を<ユニバース>になぞらえて、〈マルチバース〉の理論と呼んでいます」

―宇宙がいったん誕生した後の筋道が見えてきたとすると、今度は「宇宙の始まり」そのものがナゾになってきますね。

「そこが長い間、ビッグバン宇宙論の問題点でした。時間をさかのぽっていくと宇宙が膨張し始めるポイントがある。そこでは宇宙の物質が一点に集まって密度が無限大になる。そこは現在の物理理論が適用できない〈特異点〉と呼ばれます。説明不能なら、宇宙を生み出したのは<神>と言うに等しい。だから、宇宙論には宇宙をスタートさせた<神の最初の一撃>という言葉もある。言ってみれば、この世界には神様の入ってくる<穴>が開いていたわけですね」

「ところが、今ではこの問題を解決してしまう理論さえ出ている。イギリスの宇宙物理学者、スティーブン・ホーキングなどが唱える説がそれです。彼によれば、創世の時の宇宙は我々の生きている時間とは違う〈虚時間〉の中で始まったことになる。この辺の話になると、皆さんキョトンとするんですけどね。要するに、虚数の時間というものを考えると、そこには始まりという点がない。そこからある時、今のような時空が始まった。

--まるで禅問答のような話ですね。

「この理論では、特異点なしで宇宙が始まることができる。いわば、神様が入ってくる穴をふさいでしまったんですね。もちろん、そういう物理法則がなぜあるのかという話になれば、これは説明できないと言うしかありませんが」



(…)


(…)



「ミリンダ王の問い」『バラモン教典,原始仏典』 長尾雅人編、大地原豊訳、中央公論社〈世界の名著 1〉、1969年5月30日。ISBN 978-4-12-400081-8。

「ミリンダ王の問い」『バラモン教典・原始仏典』 長尾雅人編、大地原豊訳、中央公論社〈中公バックス 世界の名著 1〉、1979年2月20日。ISBN 978-4-12-400611-7。

『ミリンダ王の問い インドとギリシアの対決』第1巻、中村元・早島鏡正訳、平凡社〈平凡社東洋文庫 7〉、1963年11月。ISBN 4-582-80007-6。

『ミリンダ王の問い インドとギリシアの対決』第1巻、中村元・早島鏡正訳、平凡社〈ワイド版東洋文庫 7〉、2003年5月。ISBN 4-256-80007-7。

『ミリンダ王の問い インドとギリシアの対決』第2巻、中村元・早島鏡正訳、平凡社〈平凡社東洋文庫 15〉、1964年3月。ISBN 4-582-80015-7。

『ミリンダ王の問い インドとギリシアの対決』第2巻、中村元・早島鏡正訳、平凡社〈ワイド版東洋文庫 15〉、2003年5月。ISBN 4-256-80015-8。

『ミリンダ王の問い インドとギリシアの対決』第3巻、中村元・早島鏡正訳、平凡社〈平凡社東洋文庫 28〉、1964年10月。ISBN 4-582-80028-9。

『ミリンダ王の問い インドとギリシアの対決』第3巻、中村元・早島鏡正訳、平凡社〈ワイド版東洋文庫 28〉、2003年5月。ISBN 4-256-80028-X。

「弥蘭陀王問経」『国訳大蔵経 経部』第12巻、国民文庫刊行会編、山上曹源訳、国民文庫刊行会、1917-1918。



空(くう)とミリンダ王の問い
http://ameblo.jp/healing-quigon/entry-12105936306.html
”では空を理解するための最適なテキストはなんでしょう?

それはズバリ「ミリンダ王の問い」です。このテクストは初期仏典の一つになります。ミリンダ王とは古代のギリシャの哲学王で、古代ギリシャ人らしく論争が好きです。反対にその相手役のナーガセーナ長老はインド人です。ミリンダ王はギリシャの伝統の実在論に立ち、ナーガセーナ長老はアビダルマ派を代表する非実在論者になります。実在論とは、この場合肉体とは別の魂の実在を認めることであり、反対に非実在論は魂の実在を否定する立場です

空の極意を現したものを以下引用します


「大王どの、もしやあなたが車でおいででしたのなら、それがしに車(のなんたるか)を述べてくださいませ。大王どの、轅がくるまでしょうか」
「いや、先生、そうではありませぬ」
「車軸が…車輪が…車室が…車台が…軛が…軛綱が…鞭打ち棒が、車ですか」
「いや先生、そうではありませぬ」
「そうではなくてと、では大王どの、轅・車軸・車輪・車室・車台・轅・轅綱・鞭打ち棒とは別に、車があるというわけですか」
「いや、先生、そうではありませぬ」
「大王どの、それがしはあなたに問いを重ねつつ、車(のなんたるか)をいっかな合点できませぬ。車とは大王どの、単なる名辞に尽きるのか。そえにしても、(存在なくして名辞はないはず、)ここで車とは何ものか。大王どの、あなたは事実無根の虚言をなされますぞ、『車(なるもの)は存在せず』と。大王どの、あなたは普天のもとに覇王たるかた、しかるに何をおそれてうそ偽りを語られるか。ご参集の各位― 五百のギリシア系市民および八千の比丘衆 ―は、それがしの提言を聞かれたい。これなる人物ミリンダ王は、『それがしは車で参りました次第で』などと申しつつ、『大王どの、もしあなたが車でおいでしたのなら、それがしに車(のなんたるか)を述べてくださいませ』と求められる段には、車(なる存在)を確証できぬ始末ですぞ。このこと、はたして是認してよろしかろうか」
このような弁論がなされるや否や、五百のギリシア系市民は長老ナーガセーナに歓呼し、ついでミリンダ王にこういった
「さあて今度は、大王さま、力の及ぶかぎり弁じてくださいませよ」-と
するとミリンダ王は、長老ナーガセーナに向かってこういった
「それがしは、ナーガセーナ長老、うそ偽りしゃべってはおりませぬ。(と申しますのは、)『車』とは、轅・車軸・車輪・車室・車台に依存し(た相関関係のもとに)て、(はじめて)呼称・標徴・記号表出・言語的通念・名のみのものとして成立する(にとどまり、それ自体としての存在はない)のでございます」-と
「よくこそ申された、大王どの、あなたは車(のなんたるか)がおわかりでいらっしゃる。それとまったく同様でございます、大王どの―それがしにつきましても『ナーガセーナ』とは、頭髪・膚毛……脳髄に依存し、様態・感受・知覚・表彰・認識に依存し(た相対関係のもとに)て、(はじめて)呼称・標徴・記号表出・言語的通念・名のみのものとして成立する一方、絶対的次元におきましては、ここに(相即して特定の)人格的実体(が存在するものと)は認められぬ― という次第であります。
(引用終了 太字はブログ主による)

車という概念は、それ単独で存在するのではなく、そのほかの概念に支えられて我々の前に現れます。つまり我々の自我が車という概念を選び出したとき、その下には様々な概念がぶら下がっていうということです。そして空とは概念のなかで一番抽象度の高いTOPに置かれます。一番上なので任意の概念をすべて包摂します。なにもかもを包摂しているのであらゆる状況に対応できます

空を悟ることができればあらゆることに対応が出来るようになります。あらゆる状況に対応できるとは、なにも先手を打つということではなくあらゆる状況を受け入れられる状態のことをいいます。受けいれられるので、常にリラックスしていて前頭前野で思考できます。そしてその抽象度の高い思考が病を治したり、IQが上がったり、生産性があがることを助けるでしょう

世界の名著〈第2〉大乗仏典 (1967年)/中央公論社”


まんどぅーかネットで連載しているリーディング教材のうち、日本語訳部分だけを抜き出したもの
http://www.manduuka.net/i/p/r/index.htm
[出典記号]
ア=アナセンリーダー
高=高楠『巴利語仏教文学講本』
水=水野『パーリ語仏教読本』

まんどぅーか ミリンダ王の問い
自己はない(名前の問い、車のたとえ)(ア55 高4-1)
http://www.manduuka.net/i/p/r/milinda/mi11.htm
”さて、まことにミリンダ王は、尊者ナーガセーナのいる所に近づいた。近づいて尊者ナーガセーナにあいさつした。日常のあいさつの言葉を終えて、一角に座った。尊者ナーガセーナもまた親しくあいさつをかわし、それによってミリンダ王を喜ばせた。
さてミリンダ王は、尊者ナーガセーナにこれを言った。
「尊師はどのように知られていますか。尊者よ、何という名ですか」と。
(ナーガセーナ)「大王よ、私はまことにナーガセーナとして知られています。大王よ、同輩の僧たちは私をナーガセーナと呼びます。にもかかわらず父母はナーガセーナと、またスーラセーナと、またヴィーラセーナと、またシーハセーナと名づけています。にもかかわらず、この、ナーガセーナとよばれるものは、名称、通称、概念、慣用、名のみのものであり、ここに自己は発見されません」と。
そこでミリンダ王はこう言った。
「尊者たちよ、500人のギリシア人と80000人の乞食修行者たちは私のいうことを聞け。このナーガセーナはこう言った。『ここに自己は発見されない』と。これを賞賛することがはたして有益かどうか」と。”


”さてミリンダ王は、尊者ナーガセーナにこれを言った。
「尊者ナーガセーナよ、もし自己が発見されないならば、それでは誰があなたがたに法衣や乞食の食物や寝具や医薬品や必需品を与えるのですか。誰がそれを享受するのですか。誰が道徳を守るのですか。誰が修行を実践するのですか。誰が生物を殺すのですか。誰が与えられないものを取るのですか。誰が姦淫をなすのですか。誰が偽って話すのですか。誰が酒を飲むのですか。誰が五無間業をなすのですか。それゆえによいことはなく、よくないことはなく、よいことやよくないことを、するものもさせるものもなく、善行や悪行の行為の結果である報いはありません。尊師ナーガセーナよ、もしあなたを殺すものがいても、彼の殺生もありません。尊師ナーガセーナよ、あなたには師匠もなく戒を授ける教師もなく具足戒もありません。あなたが『大王よ、同輩の僧たちは私をナーガセーナと呼びます』と言うなら、この場合のナーガセーナとは誰なのですか。尊師よ、いったい髪がナーガセーナなのですか」と。
(ナーガセーナ)「いいえ、大王よ」と。
(ミ)「体毛がナーガセーナなのですか」と。
(ナ)「いいえ、大王よ」と。
(ミ)「爪…(くりかえし)…、歯、皮膚、筋肉、腱、骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、脾臓、肺、腸、腸間膜、胃、大便、胆汁、痰、膿、血液、汗、脂肪、涙、リンパ、唾液、鼻汁、関節滑液、小便、頭における脳が、ナーガセーナなのですか」と。
(ナ)「いいえ、大王よ」と。
(ミ)「尊師よ、いったい物質がナーガセーナなのですか」と。
(ナ)「いいえ、大王よ」と。
(ミ)「感受作用…概念…構成…意識がナーガセーナなのですか」と。
(ナ)「いいえ、大王よ」と。
(ミ)「尊者よ、それなら物質および感受作用および概念および構成および意識がナーガセーナなのですか」と。
(ナ)「いいえ、大王よ」と。
(ミ)「尊者よ、それなら物質・感受作用・概念・構成・意識以外のものがナーガセーナなのですか」と。
(ナ)「いいえ、大王よ」と。
(ミ)「尊者よ、それなら私は質問しても質問してもナーガセーナを発見できません。尊者よ、いったいナーガセーナとは音声だけのことなのですか。それならここにいるナーガセーナは誰なのですか。あなたは偽って『ナーガセーナはいない』とウソの言葉を話しているのですか」と。 ”
http://www.manduuka.net/i/p/r/milinda/mi12.htm


”さて尊者ナーガセーナは、ミリンダ王にこれを言った。
「大王よ、あなたは実に王族で繊細に育ち、非常に繊細でおられます。大王よ、そのあなたが真昼間に、熱せられた土地や熱い砂の上を、固い小石や砂利や砂を踏みつけて、徒歩で来たのなら、足は痛み身体は疲れ心は病み苦痛を伴う身体の意識が起きます。あなたは徒歩で来たのですか、それとも乗り物でですか?」と。
(ミ)「尊者よ、私は徒歩で来たのではなく、車で来ました」と。
(ナ)「大王よ、もしあなたが車で来たのなら、車を私に告げてください。大王よ、いったい轅(ながえ)が車なのですか」と。
(ミ)「いいえ、尊者よ」と。
(ナ)「車軸が車なのですか」と。
(ミ)「いいえ、尊者よ」と。
(ナ)「車輪が…車のかごが…車の杖が…くびきが…手綱が…むちが車なのですか」と。
(ミ)「いいえ、尊者よ」と。
(ナ)「大王よ、いったい轅および車軸および車輪および車のかごおよび車の杖およびくびきおよび手綱およびむちが車なのですか」と。
(ミ)「いいえ、尊者よ」と。
(ナ)「大王よ、それなら轅・車軸・車輪・車のかご・車の杖・くびき・手綱・むち以外のものが車なのですか」と。
(ミ)「いいえ、尊者よ」と。
(ナ)「大王よ、それなら私は質問しても質問しても車を発見できません。大王よ、いったい車とは音声だけのことなのですか。それならここにある車は何なのですか。大王よ、あなたは偽って『車はない』とウソの言葉を話しているのですか。大王よ、あなたはインド全体の王であるのに、何を怖れて偽って言うのですか。尊者たちよ、500人のギリシア人と80000人の乞食修行者たちは私のいうことを聞け。このミリンダ王はこう言った。『私は車で来ました』と。『大王よ、もしあなたが車で来たのなら、車を私に告げてください』と言われて、『車を用意できない』と。これを賞賛することがはたして有益かどうか」”
http://www.manduuka.net/i/p/r/milinda/mi13.htm


”こう言われて、500人のギリシア人たちは尊者ナーガセーナに同意の声をあげて、ミリンダ王にこれを言った。
「大王よ、さあ今こそ、あなたは可能ならば言え」
さてミリンダ王は、尊者ナーガセーナにこれを言った。
「尊者ナーガセーナよ、私は偽って言うのではありません。轅によって、そして車軸によって、そして車輪によって、そして車によって、そして車の杖によって、車という、名称、通称、概念、慣用、名が起こるのです」と。
(ナ)「実に結構です。大王よ、あなたは車を理解なさいました。まさにこのように、私もまた、髪、体毛…脳…物質…意識によって、ナーガセーナという名称…名のみのものが起こりますが、最上義(勝義諦)からは、ここに自己は発見されないのです。大王よ、また女性乞食修行者(比丘尼)ヴァジラーはこのことを世尊の目の前で言いました

♪部分の集積によって車という語があるように要素があって衆生という名がある」と。

(ミ)「尊師ナーガセーナよ、不思議なことです。尊師ナーガセーナよ、驚くべきことです。質問に対するすばらしい知性が出されました。もし仏陀がご存命ならば、同意の声をあげるでしょう。実に結構です。ナーガセーナよ。質問に対するすばらしい知性が出されました」 ”
http://www.manduuka.net/i/p/r/milinda/mi14.htm

”ミリンダ王は、以下の発言からもわかるように、霊魂を感覚する主体として認識していた。

身体の内にある個我は、眼によって形を見、耳によって音を聞き、鼻によって香りを嗅ぎ、舌によって味を味わい、身体によって触れられるべきものに触れ、意によって事象を識別する。それは、ちょうどこの宮殿に座っている我々が、東西南北どの窓からでも眺めたい窓から眺めることができるのと同じことである。[12]

感覚器官が五感ではなくて、仏教的に、眼、耳、鼻、舌、身、意という六処(Sanskrit: Ṣaḍāyatana; Pāli: Saḷāyatana)となっている点は、ギリシア人の主張として不自然であるが、それでもこの発言を仏教徒による完全な創作と断じることはできない。なぜなら、個我(abbhantare jivo)は、他のパーリ語の聖典には見当たらないからである。この観念は、どうやらミリンダ王独自のもののようである。

ナーガセーナは、ミリンダ王に対して、次のように問い返し、霊魂が存在しないと言う。

ここの宮殿に座っている私たちは、これらの窓を開けて、顔を外に出せば、大虚空を通していっそうよく形を見ることができるでしょうが、それと同様に、眼の門が除去されると、内にあるこの個我は大虚空を通して、いっそうよく形を見るのでしょうか。また、耳、鼻、舌、身体が除去された時には、大虚空を通していっそうよく音を聞き、香りを嗅ぎ、味を味わい、触れられるべきものに触れることができるでしょうか。[13]

もしも人間の中に小人がいると想定し、その小人を感覚の主体とする認識モデルを肯定するなら、小人の中にさらに小人を想定しなければならず、無限後退に陥る。霊魂がそういう意味での実体として身体の中に存在するのではないのは、車を解体すると、中から小さな車の実体が出てくるのではないのと同じことである。

ギリシアの一般人はともかくとして、ギリシアの哲学者たちはそのような粗雑な実体主義には陥っていなかった。例えば、アリストテレスは、霊魂と身体が形相と質料、現実態と可能態、実体と偶有性の関係にあると言う。

霊魂は実体、それも可能的に生命を持つ自然的物体の形相という意味での実体であるということになる。しかし、この意味での実体は現実態であり、霊魂はこのような自然的物体の現実態ということになる。しかし、この現実態は知識(エピステーメ)と知識活動(テオーリア)という二通りの意味で言われる。[14]

形相と質料は概念的に区別できても、空間的に切り離すことはできない。だから、アリストテレスの哲学では、霊魂は身体の中の小人ではありえないのである。アリストテレスが認識しているように、霊魂は知識の選別を行う情報システムであり、知識活動は、物質を通じて行われ、また物質を離れては存在しないものの、情報システムを物質と同一視することはできない。

無我(Pāli: anattā; Sanskrit: anātman)説は、上座部仏教における三相(Pali: tilakkhaṇa; Sanskrit: trilakṣaṇa)、大乗仏教における三法印、つまり、仏教をそれ以外の教えから区別する三つの教義のうちの一つであるが、ガウタマ本人の本来の教えは、「自我への執着を捨てよ」という倫理的実践的教説であって、「自我は存在しない」という形而上学的教義ではなかった。ガウタマは、「死後霊魂は存在するか」といった形而上学的に問題に対して答えず、無記(Pāli: avyākata; Sanskrit: avyākṛta)、すなわち、真でも偽でもないものとした。そうした問題について論争をすると、自説への執着が生じ、修行の妨げになるからである。

では、なぜ無我や無常(Pāli: anicca; Sanskrit: anitya)が仏教の三法印あるいは三相になったのだろうか。もしも自我が存在しなければ、自我への執着はなくなる。自我への執着を捨てたいという願望が、自我は存在しないという思い込みにつながったと考えられる。同様に、富や権力が一時的ではかないものであるならば、それらに対する執着もなくなる。物への執着を捨てたいという願望が、すべては無常であるという思い込みにつながったと考えられる。サンユッタ・ニカーヤ2が無我や無常の否定を「悪魔の思想」とするのは、それが自我と物への執着を呼び醒まし、迷いの原因となるからである。

こうした願望を実現するための思い込みは、仏教に特有の思考である。仏教は、女が不浄であるというが、この女性蔑視の思想は、男の修行僧が女性への執着を断ち切るために、女性が汚くて魅力がなければよいのにという願望を抱くようになり、そしてその願望を実現するために、女性は不浄であると思い込むことで出来したものである。

ガウタマの死後、ガウタマを名乗った仏典が数多く書かれたが、ガウタマでない仏教徒がガウタマに成りすますのは、仏教は無我を法印としており、霊魂の実体的同一性を認めないので、自分とガウタマとを区別する理由がないからと説明することもできるが、ガウタマのようになりたいという仏教との願望が、自分はガウタマであるという思い込みに発展した結果であると説明することもできる。


4 : 輪廻説と無我説は矛盾しないのか

インドでは、生き物は、生前の業、すなわち、カルマ(Pāli: kamma; Sanskrit: kárman)の結果、別の生き物に生まれ変わるという輪廻(Pāli, Sanskrit: Saṃsāra)の思想が古くからあり、仏教もこれを受け継ぎ、生死を超えた因果応報説を信者に説いた。古代ギリシアでは、ピタゴラス学派やプラトンなどの例外はあるものの、輪廻転生説は一般的ではなく、ミリンダ王も輪廻転生に関して多くの質問をしている。無我説は、輪廻説と矛盾しているように見えるし、霊魂の実体的同一性を否定すると、因果応報説が倫理的に無意味になるように思えるからだ。

ナーガセーナによると、輪廻の主体は名色(みょうしき; Pāli, Sanskrit: Nāmarūpa)である。名と色のうち、色は色蘊に、名は他の五蘊に対応する。両者は、アリストテレスの哲学における質料と形相との関係に似ているが、名色は、名も色も実体的同一性を持たないという点で、質料や形相とは異なる。現世の名色と来世の名色は異なるが、因果の関係で結ばれているので連続性があることをナーガセーナは以下のような例を用いて説明している。

ナーガセーナ:それは、搾り出された牛乳がしばらくすると酪になり、さらに酪から生蘇となり、生蘇から醍醐となるようなものです。大王よ、牛乳が酪、生蘇、醍醐と同じであるということは正しいでしょうか。

ミリンダ王:尊者よ、そうではありません。それに依存して、他のものが生じたのです。

ナーガセーナ:大王よ、事象の連続はそれと同様に継続するのです。生じるものは、滅びるものとは別のものではあるが、両者はあたかも前後別物でないかのごとく継続しているのです。このように、それは同じでも異なるのでもないものとして、最後の意識に上るのです。[15]

酪、生蘇、醍醐というのは、チーズやバターのような乳製品で、牛乳を乳酸発酵して作る。乳酸発酵によって、分子の形が変わるので、形相は変化するが、質料は自己同一性を維持すると言うことができる。質料が自己同一性を維持すると言っても、素粒子には実体的な自己同一性はないので、量子力学的なミクロのレベルでは非連続的に連続性を観る仏教的世界観の方が正しいと言えなくもないのだが、ここで例に挙げられているようなマクロなレベルでは、そうした解釈は正当化されない。

ナーガセーナは、牛乳を買うという契約が、牛乳が酪となることによって無効にはならないという例を引き合いにして、名色が不連続であっても、輪廻によって前世の悪業を免れることはできない[16]と言う。だから、無我説は、輪廻転生説や因果応報説とは矛盾しないというのであるが、もしも悪業をなす名色とその報いを受ける名色が、たんに因果関係で結ばれているだけで、実体として異なるものであるとするならば、悪業を免れることになるし、もしも悪業を免れることがないというのなら、変動する偶有性とは別に、責任の主体となる人格の実体的同一性を想定しなければならなくなる。

矛盾している教えを和することを仏教では会通(えつう)というが、ナーガセーナの会通は説得力に欠く。その最大の理由は、無我説を「自我に対する執着を捨てよ」という倫理的教義ではなくて「自我は存在しない」という形而上学的教義にしてしまったところにある。自我に執着するから、自我と一緒に輪廻転生を繰り返すのであり、自我への執着を捨てるなら、輪廻転生から解脱することができる。自我への執着を不可能にするために、自我は存在しないということにすると、存在しない自我がなぜ輪廻するのか、なぜ解脱するとなぜ輪廻転生から免れるようになるのかがわからなくなってしまう。 ”
https://www.nagaitoshiya.com/ja/2012/milindapanha/
ギリシアの有の哲学対仏教の無の哲学


――
参考資料




二而不二(ににふに)
http://metalogue.jugem.jp/?eid=2870

ブッダと龍樹の四句分別
http://metalogue.jugem.jp/?eid=2869

2種の否定と2種2階の否定
http://metalogue.jugem.jp/?eid=2868

4値は東に、2値は西に
http://metalogue.jugem.jp/?eid=2867



龍樹の「テトラレンマ」 建築を志す人たちが知っておくべき「建築」の原理原則 No4
http://norisada.at.webry.info/201303/article_3.html

菊池‏ @kikuchi_8 4月25日
論理の話の続き。よく「日本人は論理的思考が苦手」と言われるがさにあらず。我が国は奈良時代に論理学を受け入れていた。「それは一部の仏僧(当時の知識人)のみ」と言ったところで西欧で最初にアリストテレス論理学を受け入れたのも一部の神父のみである。しかも受容の時期は日本の方が数百年早い。
1件の返信 2件のリツイート 6 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 4月25日
我が国が奈良時代に受け入れた論理学は印度に由来するもので「因明=いんみょう」と言う。奈良の仏僧によって学ばれた。因明は古因明と新因明に分かれる。古因明は印度の哲学学派「ニヤーヤ派」が整備した。それに対し新因明は唯識派に属する陳那が整備した。我が国に輸入されたのは新因明の方である。
1件の返信 2件のリツイート 6 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 4月25日
ニヤーヤ学派は提案(宗)・理由(因)・喩例(喩)・適用(合)・結論(結)という五支からなる「五支作法」と呼ばれる論証式を作った。陳那はこれを提案(宗)・理由(喩)・喩例(喩)の三支に改めた。前者が古因明で、後者が新因明である。因明は流派を問わず印度の各哲学学派の共有財産となった。
1件の返信 0件のリツイート 6 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 4月25日
陳那の論理学まとめ。①提案・理由・喩例(宗・因・喩)からなる論証式=三支作法。②因の三相(正しい理由である為の三条件)。「AはBである。Cであるから」という論証の場合Cが正しい理由である為の条件は三つ。①CはAの性質である。②CはBに随伴(BがCを遍充≒包摂)③Cは非Bから排除。
1件の返信 1件のリツイート 5 いいね
• •
陳那が唱えた「遍充」とは概念間の包摂関係を意味する。類概念は種概念を遍充している。例えば「人間」という概念は「生物」という概念によって遍充されている。より普遍的な概念がより特殊な概念を遍充するのである。主張命題の述語が根拠を遍充しているとそれは正しい理由とされる(因の第二相)。
1件の返信 1件のリツイート 4 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 4月25日
西洋の論理学が「演繹」重視なのに対し、印度の論理学は「帰納」重視だと言われている。陳那はある命題の根拠が正しいと言える為の条件(因の三相)を究明した。因の三相は帰納推理が成り立つ為の条件。印度の論理学の論証式では必ず具体的事例を挙げる事を必須とする点も「帰納」重視の表れと言える。
1件の返信 1件のリツイート 6 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 4月25日
陳那は論理学と認識論を重視したが、認識論においては確実な認識手段を知覚(現量)と推理(比量)に限定した。そして概念(共相)を介在しない知覚(現量)を対象そのもの(自相)を捉える一番確実な認識手段とした。このような陳那の経験主義的な姿勢も帰納重視の論理学に反映していると思われる。


菊池‏ @kikuchi_8 4月25日
「AはBである。Cだから」という命題で「因の三相」を考える。①第一相・CはAが持つ属性でなければならない。②第二相・Cが必ずBに随伴する事。全てのBがCである必要はない。③第三相・Cは非Bの集合から排除されていなければならない。そうでないならば「AはBである」理由になり得ない。
1件の返信 2件のリツイート 4 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 4月25日
陳那(ディグナーガ)が唱えた「因の三相」とは何らかの命題を立証する場合に挙げる根拠や理由が正しいと言える為の条件を明らかにしたものである。「因の三相」を備えていれば(三つの条件に全て適合していれば)その理由は正しいとされる。自他の主張命題の根拠を吟味する際に役に立つ考え方である。
1件の返信 1件のリツイート 5 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 4月25日
日本人にとっての陳那の因明は西洋人におけるアリストテレスの論理学みたいなものではないだろうか。こういう知的遺産は是非掘り起こして活用していくべきだと考える。戦国時代においてアリストテレスの論理学を駆使するイエズス会宣教師に対して仏僧は陳那が開発した因明を駆使して対抗した事だろう。
1件の返信 2件のリツイート 4 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 4月25日
陳那の因の三相は此縁性(しえんしょう)と呼ばれる「縁起」のもっとも基本的な形式「此れが有れば彼有り。此れが無ければ彼無し。」をベースにしていると思われる。随伴と排除の関係である。「渇愛が有れば苦が有る。渇愛が無ければ苦が無い。」「火が有れば煙が有る。火が無ければ煙が無い」など。
1件の返信 2件のリツイート 4 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 4月25日
西洋では認識論が発達するのが遅かった。「神」が認識を保証してくれるという前提があったからである。それが崩れ始める近世初頭になるまで本格的な認識論は現れなかった。一方、「絶対神」の観念が希薄な印度では認識論が早くから発達した。特に仏教の認識論は精緻を極めた。陳那はその大成者の一人。
1件の返信 2件のリツイート 3 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 4月25日
説一切有部は外界(境)がそのまま認識されるとした。経量部は外界は直接認識されず外界が表象として認識されるする表象主義的な認識論である。これは近代になってカントが論じた認識論と似ている。唯識では外界の存在そのものを否定し、主客は相互依存(依他起)しており全ては認識作用=識だとした。
1件の返信 1件のリツイート 6 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 4月25日
陳那の認識論では有効な認識手段は知覚と推理に限定したが、ニヤーヤ学派では知覚・推理・証言・比定の四つを有効な認識手段として認めた。陰謀追及的には「証言」は重要である。情勢分析のソースも大半がニュース、ネット情報、書籍などの謂わば「証言」だからだ。ソースの信頼性の吟味が重要になる。
1件の返信 1件のリツイート 4 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 4月25日
陰謀追及における情報の分析では情報のソースの信頼性や複数のソースを比較対照するなど十分に吟味する必要がある。証言は「見る」「聞く」など知覚によって認識するものの証言で指し示されている事実そのものについては直接知覚している訳ではない。証言を知覚や推理と区別する意義はあると思われる。
1件の返信 2件のリツイート 3 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 4月28日
「論理」を考える為の資料として印度哲学の中でも論理の研究を専門としたニヤーヤ学派とその姉妹学派であるヴァイシェーシカ派について少し調べた。印度哲学と言えば「梵我一如」を旨とするヴェーダーンタ学派のような神秘主義的な学派のみならず合理主義的な学派もある。神智学一派が無視する側面だ。
1件の返信 1件のリツイート 6 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 4月28日
NWO征略で思想工作を担当する神智学一派は印度思想に執着して憑依の対象とするが彼らが利用するのは神秘主義的思想ばかりである。論理と合理を重視する学派は無視する。支配ツールに向かないからだろう。現に印度では論理学はヴェーダの権威を軽視するものとして当初支配階級から警戒されたらしい。
1件の返信 1件のリツイート 5 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 4月30日
古代印度の六派哲学の一つにヴァイシェーシカ派という学派があった。「勝論派」と言う。勝論派では世界を「六句義」という六つのカテゴリで説明する。六句義は実体・属性・普遍・特殊・運動・内属の六つである。「概念に対応する実在が外界に存在する」「世界は言語表現通りに存在する」という思想。
1件の返信 1件のリツイート 3 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 4月30日
勝論派では「白い牛が歩く」という事態は「白い牛が歩く」という言語表現に正確に対応していると考える。「歩く白い牛」という実体に「牛性」という普遍、「白い」という属性、「歩く」という運動が内属していると考える。主体・運動・属性は相互依存=縁起すると考える龍樹とは正反対の発想である。
1件の返信 1件のリツイート 3 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 4月30日
勝論派哲学は言葉と逐一対応する事物が実在すると考えるとどういう世界観が出来上がるかを示すモデルケースだと言える。逆に「言葉と現実にはズレがある」と考えたのが龍樹である。勝論派と中観派は全く逆方向に思考を徹底したよき論敵同士だった。それにしても印度人の思考の徹底ぶりには驚かされる。
1件の返信 1件のリツイート 4 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 4月30日
ヴァイシェーシカ派の姉妹学派が論理学と認識論の研究が専門のニヤーヤ学派である。認識と論証に関する十六のカテゴリを設定。ベーダーンタ派が「梵我一如」という神秘的境地に至る事を「解脱」としたのに対し、ニヤーヤ派は「論理学と認識論を極める事」を「解脱」とした。合理主義的な学派である。
1件の返信 2件のリツイート 3 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 4月30日
ニヤーヤ派とヴァイシェーシカ派はベーダーンタ派などに比べると合理主義的な学派である。西洋の結社やその手先のカルト勢力は印度哲学の神秘主義的な部分だけをつまみ食い的に剽窃して利用するが印度哲学の強靭な論理的思考は忌避する。印度哲学を神秘主義だけと思い込むと神智学一派などに騙される。
1件の返信 2件のリツイート 5 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 4月30日
ヴァイシェーシカ哲学の六句義の「句義」(パダ・アルタ)とは「語の対象」を意味する。即ち語が示す対象的実在には六つのカテゴリがあるというのが「六句義」の意味である。語が示す概念を実体視・実在視する考えである。概念の実体視を批判する龍樹とは対照的な発想であり、激しい論争が行なわれた。
1件の返信 2件のリツイート 3 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 4月30日
印度哲学は神秘主義的な学派と合理主義的な学派に二分される。ベーダーンタ派やミーマーンサー派は前者で、ニヤーヤ派とヴァイシェーシカ派は後者。サーンキャ派は二元論的。ヨーガ派のヨーガは全学派共通。仏教は合理主義的だが渇愛を取り除いて苦の滅を目指す倫理的な色彩の強い実践哲学だと言える。
1件の返信 2件のリツイート 4 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 4月30日
原始仏教もニヤーヤ派やヴァイシェーシカ派と同じく合理主義的だが主知主義的ではない。ニヤーヤ派は論理学と認識論を極める事を目指すが、原始仏教は「渇愛の滅による苦の滅」を目指す実践重視の哲学である。だが後には中観・唯識に至り論理学と認識論が発達した。ニヤーヤ派とはライバル関係である。
1件の返信 2件のリツイート 5 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 4月30日
仏教の中で論理学と認識論を重視したのは唯識派で論理学を確立したのが陳那。三支作法や因の三相については先日述べた。ニヤーヤ派の論理学が古因明で陳那の論理学が新因明。我が国は奈良時代に後者を輸入。因明が伝統として残っているのは日本だけだそうである。日本人は論理的思考は苦手ではない。
1件の返信 3件のリツイート 7 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 15 時間15 時間前
弁証法について。「弁証法戦略」と言う場合の「弁証法」は主にヘーゲルのそれである。だが「弁証法」は物事を固定化した相で捉える形式論理学に対し「物事を変化の相で捉える思考方法」という意味で広義に用いられる場合がある。ソクラテス以前のヘラクレイトスの哲学などが弁証法に分類されたりする。
1件の返信 1件のリツイート 0 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 15 時間15 時間前
論理学の教科書には形式論理学、記号論理学と並び弁証法論理学についての項目があったりする。そこではソクラテス以前のギリシャ哲学者などに広義の意味での弁証法的思考があったとされる。だがヘーゲルの弁証法は歴史の目的因というか終着点を想定している点で古代ギリシャ哲学の発想とは異質である。
1件の返信 1件のリツイート 1 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 15 時間15 時間前
ヘーゲルの弁証法では正・反・合の変化の過程を設定するものの、歴史の最終到達点みたいなものを想定する点でギリシャ的というよりペルシャ的である。ヘーゲル哲学はプロテスタント神学の哲学版などと言われる所以である。キリスト教はペルシャ起源の「歴史の終わり」を想定する終末史観が濃厚である。
1件の返信 1件のリツイート 1 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 15 時間15 時間前
「変化の相を捉える思考方法」という「弁証法」の広義の意味では東洋の哲学にも当てはめられる場合がある。だが「弁証法」というとヘーゲルの弁証法が真っ先に連想されるので好ましい分類法とは思えない。ある種の憑依型戦術である。そもそも弁証法とは古代ギリシャでは問答法とか対話術を意味した。
1件の返信 1件のリツイート 1 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 15 時間15 時間前
「論理学を生み出したのはギリシャとインドだけ」と言われるが、アリストテレスが整備したギリシャの論理学は諸学問をやる為の「オルガノン(道具)」という性質なのに対し、インドの論理学は各哲学学派間の論争から生まれた討論術を起源としているようだ。後者はさながら討論マニュアルのようである。
1件の返信 1件のリツイート 1 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 15 時間15 時間前
ニヤーヤ学派が論理学を研究する学派だった(古因明)が、これに対して陳那が新しい論理学を確立した。陳那が確立した論理学(新因明)は我が国も奈良時代に取り入れている。中村元氏によると因明が現在も伝統として学ばれ続けているのは日本だけだそうである。日本人には論理学の伝統があるのである。
1件の返信 1件のリツイート 1 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 14 時間14 時間前
陳那の論理学まとめ。①三支作法②因の三相③九句因。①三支作法とは主張命題(宗)・理由(因)・例証(喩)の三支から成る論証式。それ以前の論証式はニヤーヤ派が確立した主張命題(宗)・理由(因)・例証(喩)・適合(合)・結論(結)からなる五支作法だった。陳那は合と結を削り三支とした。
1件の返信 1件のリツイート 1 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 14 時間14 時間前
②因の三相とは主張命題を立証する理由が備えるべき三つの条件。㈠遍是宗法性。理由が主張命題の主辞に属す。㈡同品定有性。理由が主張命題の賓辞を必ず伴う(煙があれば必ず火がある等)㈢異品遍無性。理由が主張命題の賓辞の補集合から排除。㈡㈢を合わせて遍充(賓辞が理由を包摂する関係)と言う。
1件の返信 1件のリツイート 1 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 14 時間14 時間前
③九句因とは理由(因)の9のパターンの事。理由が賓辞の集合の全体にあるか・一部にあるか・全くないかの3パターンあり、それが補集合にも言えるから3×3で全部で9パターンとなる。正しい因(正因)は因の三相を満たすもののみ。それ以外は全て間違った因(相違)と正否不明の因(不定)である。
1件の返信 1件のリツイート 1 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 14 時間14 時間前
こういう論理学が奈良時代から学ばれていた事を見ても「日本人は論理的思考が苦手」は嘘だと分かる。日本には西洋の自由七科=リベラルアーツに相当する「五明」があった。どちらも論理学を含む。戦国時代に襲来したイエズス会宣教師は論理学を身に着けていたが、我が国の学僧は因明を身に着けていた。

戦国時代に日本がキリスト教の侵略を打ち払う事が出来たのは宣教師が身に着けていたアリストテレス論理学に対抗できる「因明」という論理学で鍛えた論理的思考があったのも大きいのではないかと考えている。当時の仏僧は宣教師と対等以上の論争を行なっている。武力だけで思想工作を破る事はできない。
1件の返信 3件のリツイート 1 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 11 時間11 時間前
因の三相を「主張命題:声は無常である。理由:原因によって成るから。」で説明。①遍是宗法性とは「原因によって成る」が主辞「声」の属性である事。②同品定有性とは「原因によって成る」が必ず賓辞「無常」を伴う事。③異品遍無性とは「原因によって成る」が賓辞「無常」の補集合「常住」に無い事。
1件の返信 1件のリツイート 2 いいね
• • 菊池‏ @kikuchi_8 10 時間10 時間前
同じく「主張命題:声は無常である。理由:原因によって成るから。」で「遍充」を説明する。この場合、遍充とは主張命題の賓辞「無常」が理由「原因によって成る」を包摂する関係である。包摂されるので「原因によって成る」は必ず「無常」の集合に存在し、無常の補集合「常住」には決して存在しない。


846夜『空の思想史』立川武蔵|松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/0846.html

菊池 ‏@kikuchi_8
日蓮思想とキリスト教の類似点①末法思想という終末思想が前提②法華経の教え以外の全面禁止の要求(排他性)③久遠本仏という実体的な超越者の崇拝④上行菩薩というメシア待望論➄宗派によっては日蓮が本仏とされ、ゴッド=イエス思想と類似。●平田派の系譜の神道系カルトと並び日蓮系カルト多し。

統一協会はユダヤ・キリスト教的な創造神崇拝、創価は日蓮思想由来の「久遠本仏」思想、という一神教的な「超越者」を設定する所が似ているように思います。私見では、日蓮思想は日本仏教の中で最も一神教に近い宗教思想のように思います。

酒井勝軍は元々プロテスタントの牧師で反猶太主義から親猶太主義に転向した人物で、戦後の日猶同祖論系の陰謀論は酒井の流れだと思います。田中智学のは日蓮主義ですが、日蓮思想そのものが「久遠の本仏」という実在を信仰する思想なのでもともと一神教的だと思います。

久遠の本仏を説く法華経信奉者の北と、基督教的な世界観を持つ大川。明治政府が近代合理主義的な西洋化をしていたことは自明として、それに敵対していたはずの近代日本の在野右翼の巨頭が二人とも西洋一神教的世界観を持っていたことは何を暗示するか。非常に興味深い次第である。

戦前の右翼陣営に影響をもった一神教的な宗教として、大本教と並び立つのが日蓮主義だと思うが、法華系仏教の「久遠の本仏」という超越的実体的な仏の概念が根底で日蓮主義の一神教的な排他性を規定しているように思う。

救済者としての久遠の本仏を掲げ、森羅万象を一つに収斂しようとする傾向のある天台をはじめとする法華経哲学よりも、森羅万象の多様性そのものに帰還する事事無礙法界を説く華厳哲学の方が、より神道に適合的である。華厳の究極では理=真理すら現象界に溶け込むのだ。これはまさに神道の発想である。

1)スピリチュアリズムは西洋神秘主義から派生した。西洋神秘主義の根には古代の新プラトン主義がある。新プラトン主義と言えば「一者」。そして前述の「時は一性(一者)」この様に近代哲学信者とスピ信者が同類だというのは決して誇張ではないことが分かる。一者の観念はキリスト教神学に影響。

2)つまりキリスト教、スピリチュアル、西欧近代哲学は根を同じくする「だんご三兄弟」ならぬ「一者三兄弟」なのである。そしてこの三兄弟は社会組織で言うと、キリスト教会・英国系フリーメイソン・仏蘭西系フリーメイソンにおおよそだが、それぞれ対応する。根を同じくするこれらの分進合撃戦術。

3)西洋思想は複雑に見えるが案外単純である。同じ基本概念を装いを変えて何千年も使い回しているに過ぎないからだ。その基本概念とは主に二つ。一つは「実体」。もう一つはそこから生まれる二元論である。実体という概念が理解できれば西洋思想は至極単純であることが分かる。実体=自存的な基体。

4)西洋思想を見抜くポイントは「何に実体を置くか」と「何と何の二元論か」である。この二つのポイントに着目することで西洋のコケオドシの体系はあらかた解剖される。例えば、実体を神に置くのがキリスト教、自我がそこに合一する究極実在に置くのが神秘主義、理性や物自体などに置くのが近代哲学。

5)「時は一性」なんて言うのもその一バージョン。「時」に実体を置いたわけだ。一旦実体が設定されると「実体」とそれ以外の二元論となる(実在と現象など)。実体が複数設定されると実体Aと実体Bの二元論となる(善と悪など)。小難しい表現をしていても西洋思想はかかる基本的枠組みの使い回し。

6)今まで実体視された概念の具体例を挙げる。「四大」「原子」「イデア」「一者」「造物主」「善と悪」「自我」「理性」「精神と物質」「物自体」「時間」さて、次はどこに置く?どこに於いても大差はないが。「イワシの頭」はどうだろうか?まあ、頑張ってくれ。>西洋人及び脳内西洋人達 (了)

キリスト教世界で言う「神」と「悪魔」は一対。「西欧思想フルボッコシリーズ(笑)」で書かせて頂いた、①実体を設定②二元論的構図を設定(この場合は実体を複数設定し、その実体Aと実体Bの二元論)という順序で言うと、神・悪魔という二つの実体が設定され、この二つが二元論的に対置される構造。

地中海オリエント・西欧(中東以西と取りあえず呼ぶ)の文明の推移は「神中心→人間中心」という流れである。哲学的に分析すると、「神」に実体を置く世界観から「人間」に実体を置く世界観への遷移である。超越者を実体視しても人間を実体視しても、その帰結は排他独善的な支配と破壊の衝動である。

太田龍氏が「西洋文明の根本は我欲我執」と書いておられたが、本当にその通り。さらに分析すると、この我欲我執は「実体観」から来ている。例えば仏教が実体観を排斥するのは、単なる哲学的関心からではなく、「実体」という観念が必然的に執着を引き起こすからだ。執着は主に貪欲と怒り→支配と破壊。

執着は「実体」という対象へ向けて二方向に発現。対象を引き寄せる方向で行けば「貪欲」に、対象を排除する方向に行けば「瞋恚」(怒り)に。それは実体視を引き起こす「無知」による、とする。貪瞋癡の三毒とは事実を錯認し「実体」を仮構する「癡=無知」を根本とする。実体を執する西洋=癡の文明。

耶蘇教徒や近代哲学信者と話すと分かるが、「実体」に執する者達は自己相対化ができないので、友好的で対等な対話がほぼ不可能である。対等な対話の為には各自の自己相対化が必要だが、それが彼らには不可能なのだ。彼らは実体観への執着が強い程異なる考えの者とは闘争か支配の関係しか構築できない。

という訳で、太田龍氏の言う「西洋文明は我欲我執が根本」という指摘は、実感的にも納得が行くのである。「実体」を一旦立てると、それがどのようなものであれ、執着を引き起こし、闘争や支配の衝動に駆り立て、その貪欲さはとどまるところを知らない。寛容さを失い、他者と共存ができなくなるのだ。

「西洋文明は我欲我執が根本」という太田龍氏の指摘を自分なりに少し突っ込んで分析してみた過程とも絡み、仏教と認識論や科学で少し考えた事があるので挙げます。さきほど考察した西洋、もっと言えば地中海オリエント世界以西の根本的思考形式である「実体論」と一応関係する思考です。

仏教では五蘊に依って自己があると説かれる。五蘊=色・受・想・行・識=身体・感受・構想・意志・認識。そして大乗では五蘊は其々相互依存的・相互浸透的=縁起・空だと説かれる。ここには感性=受と知性=識を其々「実体」として立てるが故の「感性と知性の統合」などという偽問題は生じない。

禅の六祖慧能の弟子二人がたなびく旗を見て「旗が動く」「いや、風が動く」と問答をした。慧能は其を見て「心が動く」と言った。認識対象は認識主体と相関的であり、「旗」とは厳密に言えば視覚的な知覚与件。従って「旗がたなびく」とはこの知覚与件が動く、という事。「心が動く」は間違っていない。

つまり某哲学者風の言い方をすれば「射映的現相」が動くと。見えた限りでの対象が動く、という事は視覚そのものが動くという事。常に変動する視覚的与件を「旗」という概念で固定化。さらに言語表現して「旗が動く」となる。慧能の弟子は視覚的与件を外部化させて「旗が動く」「風が動く」とやったと。

相対性理論によれば、空間・時間・物質等は全て相互浸透的・相互依存的・相互規定的だとされる。つまり、それらが縁起的に関係し合い四次元世界を形成しているという。華厳の重々無尽の縁起説を思いだす。華厳思想は宗教的ドグマを説くものではなく、一種の世界観モデルを提示するものと捉えている。

「西欧思想フルボッコシリーズ(笑)」のおまけ編としてまた一つ書きたいことが出ました。なのでそれについて少し書こうと思います。西欧側による「仏教は虚無を説く」という曲解があるようなので、その辺について自分なりの見解を述べます。それプラス、形而上学的思考が生まれる機制についてです。

仏教は仏陀が「自己と法に頼れ」と弟子に言い残したように「法」を重視する教えである。法とはいくつか意味がある。人が則るべき規範であり、宇宙の法則であり、法則によって存在する事物である。総じて一定の規範や決まり、法則を意味しており無秩序や混沌と言うニュアンスの「虚無」とは真逆である。

iseakira ‏@iseakira 2015年6月16日
@kikuchi_8 法を重視するとともに、それを絶対視せず疑って研鑽するベクトルを第一に重要視することで、固定観念化を牽制しているところがポイント。

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年6月16日
@iseakira さすがであられます。まさにおっしゃる通りですね。「法が真理」と言うと実体視が起きやすい。だから法を実体視しない、「空亦復空」の実践が大事だと。「法」を実体化したら形而上学と同じになってしまいますからね。実践や現象と相即的に「法」を理解すべきだと思います。

西洋近代哲学信者は仏教を虚無主義と曲解するが前述の通り間違い。イメージだけで物事を論じストローマン(相手の主張をねじまげて解釈する詭弁の一種)を駆使するあたり、キリスト教原理主義者が異教徒を「悪魔崇拝者」と妄想するのと酷似。やはり近哲信者は耶蘇やスピと共に「だんご三兄弟」だ(笑)

では何故に西欧近代哲学信者は仏教を虚無と曲解するのか?それは特殊な思考傾向に由来するはっきりした理由がある。彼らは個々の事物や現象を自存的な実体と見ることしかできない。従って実体であるはずの事物や現象が無常である事に耐えられないのだ。だからプラトンの様に形而上学的実体に逃げ込む。

現象は常に変化するが、そこには変化しない規則性・法則性がある。つまり現象には変化と不変の性質が含まれている訳である。華厳と易経の表現を借りると「事は易にして不易」という事である。ここを見抜けない者は現象の変化に頼りなさを覚えイデア説や一神教など数々の形而上学的迷信を作り上げた。

「法を重視するとともに、それを絶対視せず疑って研鑽するベクトルを第一に重要視することで、固定観念化を牽制しているところがポイント。」というiseakiraさんのご指摘は非常に重要。ここを見逃すと、仏教であろうと形而上学に堕してしまう。「久遠本仏」みたいなのが出てくるのだ。

ふぎさやか ‏@maomaoshitai 2015年11月28日
日蓮正宗では
久遠元初の本仏(この世界が生まれたと同時に悟りを開いた最初の仏)=上行菩薩=日蓮大聖人
という解釈になります。なんでこうなるのというのは、向こうの口伝や法華経・御書の解釈もあるので省きますが。



Nirone ‏@Via_Nirone7 1月18日

得意な事を「十八番(おはこ)」と呼ぶのは歌舞伎十八番が元ネタだと思ってたけど、「大無量寿経」で阿弥陀如来が立てた四十八の誓いのうち、浄土宗などでは最も重視され「王本願」とも呼ばれる第十八番目の誓いが本来の元ネタらしい。ホント仏教ってさらっと色んな言葉の元ネタになってんのね。

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 2014年8月15日
仏教は亀をひっくり返して遊ぶと 地獄に落ちる。これ豆知識ね!
@tomikanjizai @WorldWildWow
日本の仏教は大乗仏教という
ジャンルに含まれます。上座系の
経典も最初は入って来たのですが、
咒要素の強い密教等が日本の
貴族に好まれたのです。
ちなみに初期仏教は咒や占いを 禁止しています。 それらはバラモン教の十八番でした。 ただし、現代の上座仏教にもパリッタ という呪文のような物があるので、 純粋な原始仏教はもう残っていないかも。


ナーガールジュナの時間論・空間論 - j-world
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism16.html
“もし自性論を認めれば、ものの自性は自立・独立・永存していることになりますから、過去・現在・未来はそれぞれまったく別の事象を指しているのか、それと も同一の事象を指しているのか、ということになります。ところが、もし、それぞれが同じものを指しているとすると、過去も現在も未来もその区別がなくなっ てしまうという受け入れがたい事態に落ち込んでしまいます。他方、それぞれがまったく独立した事象であるとすると、明らかに認められる過去と現在と未来の 関係が、全く説明できないという別の受け入れがたい事態に落ち込んでしまいます。こういう受け入れがたい事態に落ち込んでしまうのは、もともと、時に自 立・独立・永存の自性を想定するという間違いを犯しているからだ、というのがわたしの理解するナーガールジュナの批判(1節から3節)です。
もう一つの興味深い批判(6節)は、「もの」と「時間」との関係に関するものです。
もしも、なんらかのものに縁って時間があるのであるならば、そのものが無いのにどうして時間があろうか。しかるに、いかなるものも存在しない。どうして時間があるであろうか。(中村元訳)
「時間はない」というのがナーガールジュナの結論ですが、もちろん、「時間は自性として存在していない」、という意味です。これをわたしなりに具体例を挙げて解説してみますと次のようになります。
たとえば、ふたりの子どもがかけっこをしているとします。ゴールにいる人が、まずA君が到着し、そのあとB君が到着したことを見ました。ここで「A君の到着」という事象と「B君の到着」という事象の間には、先後関係があることが認識されます。この先後関係のことを「時」というわ けです。「過去・現在・未来の三世」とは、事象の先後関係のことに他なりません。さらに、A君とB君がかけっこをしている間にC君はブランコに乗って遊ん でいたとすると、ブランコの「振り」の数で、A君とB君の到着の先後関係を数量可することができます。たとえば、A君が到着してからC君が「3振り半」し たときB君が到着した、といった具合です。これが時計の原理です。つまり、時間という何かがあって、水が川を流れるように、存在の背景でそれが流れている のではありません。あるのは、「A君の到着」という事象とか、「B君の到着」という事象とか、「C君がブランコに乗って遊んでいた」というような事象とそ れらの間にある関係だけです。これらの事象がなければそれらの先後関係、すなわち「時間」もありません。このことをナーガールジュナは
なんらかのものに縁って時間がある・・・
と言っているわけです。つまり、田畑さんが想定されているような、事象の背後に「時間」という背景が事象とは別に存在していて、それが「最初からプログラムされている」というようなものではなく、むしろ、ものから離れて時間は存在しないというのがナーガールジュナの語る時間です。
ナーガールジュナは、さらに、そういう個々の事象(もの)というものも、それ自体で自立しているのではなく、さまざまな原因や条件に依存しているので、ど こまでいっても、他に依存しないで自存するものはない、というぐあいに、自性論者の逃れ道をふさいでしまいます。それが、
しかるに、いかなるものも存在しない。どうして時間があるであろうか。
という後半の部分の、いわば「だめ押し」とでもいうべき批判になります。
まとめると、ナーガールジュナの時間論は次のようになります。
(イ)「先(過去)」とか「後(現在・未来)」は独立した別々の存在でもなく、また、同一存在の単なる別名でもない。それらは依存関係(縁起)をしめす。
(ロ)先後関係そのもの(時間)も、事象に依存している。だから、事象がなければ時間もない。
(ハ)時間が依存しているところの事象さえも、それ自体で成立しているのではなく他に依存している。
このように、時間はさまざまなレベルの縁起によって成立している。

(2)空間論
わたしは、ナーガールジュナが特別に空間について語っている資料を知りませんが、上記にあげた「時の考察」の章のなかで、「過去」が「現在・未来」に依存しているという論証のすぐ後、つぎのように言っています。
これ[過去が現在・未来に依存しているという論証の例]によって、順次に、残りの二つの時期(現在と未来)、さらに上・下・中など、多数性などを解すべきである。(4節)
この「上・下・中」が空間に相当すると考えられます。したがって、時間が「過去・現在・未来」という事象の先後関係として理解されるように、空間も「上・ 下・中」あるいは「左・右」などの物の位置関係として理解できる、と考えてよいのでないかと思います。つまり、ナーガールジュナが一つの例をあげて「あと も皆同じである」として残した空間論の宿題を、わたしなりまとめてみますと、
(イ)「上・下」「右・左」は独立した別々の存在でもなく、また、同一存在の単なる別名でもない。それらは依存関係(縁起)を示す。
(ロ)「上下・左右」の位置関係そのもの(空間)も、事物に依存している。だから、事物がなければ空間もない。
(ハ)空間が依存しているところの事物さえも、それ自体で成立しているのではなく他に依存している。
このように、空間はさまざまなレベルの縁起によって成立している。
というようなことにでもなるのではないかと思います。
このように、時間とは「先後関係」のことであり、空間とは「位置関係」のことであって、時間や空間は事物の背景として、事物とは別に存在している何かではなく、事物の間にある先後関係や位置関係そのものに すぎない、というのが、わたしの理解するナーガールジュナの時間論・空間論です。したがって、言うまでもないことだと思いますが、「時のながれ」というよ うなものをナーガールジュナは認めていません。彼にとって、流れるような何かがあって、それを「時」と呼んでいるのではないことは明らかだからです。

(3)「始め」の概念
このように、ナーガールジュナは、なんでもかんでも縁起として解釈してしまうので、ナーガールジュナの思想は「始めに縁起ありき」である、と解釈する仏教学者もいます(たとえば、長尾雅人博士)。ですから、
縁起とは時の流れのように最初からプログラムされているのでしょうか。
というご質問がでてくるのもやむを得ないと思います。しかし、ナーガールジュナはどこにも、まず縁起があって、それから、すべてが続く、というようなこと は、どこにも、書き残しておりません。むしろ「始め」とか「最初」という概念そのものが、縁起を否定するものとして、しばしば否定されています。「初めが ある」という主張は、原因や条件なしに事象があることを意味するからです。これは、決してナーガールジュナだけに限らず、初期の頃から一貫して、「始め」 の概念は因果関係・縁起を否定するものとして、仏教では認められることはありませんでした。世界とか存在に関する「始め」とか「最初」という言葉ははなは だ非仏教的な概念と言えます。
ある古い仏典には、ひとりの弟子が、「死後の世界はあるか」とか「世界は永遠であるか」とかなどについて教えてくれなければわたしは教団を去る、とブッダ に文句を言う場面がありますが、ブッダは、そのような事柄は人間の経験的知識の領域を越えるものとして、それらについて語ることは避けました。そのとき の、「わたしが説かないことは説かないと了解せよ」というブッダの言葉が示すように、「世界の始め」とか「無限の世界」とかという、形而上学的存在に関し ては語らず、というのが仏教の長い伝統です。したがって、すべては縁起である、というナーガールジュナの主張も、「初めから」という意味ではなく、「見渡 す限り」という意味における主張と解すべきだと思います。


四句
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%9B%9B%E5%8F%A5

Ⅱ 四句分別という論法

1 四句分別の起源と概観

(1)仏典は四句分別で出来ている
http://imachannobennkyou.web.fc2.com/84.htm

(2)西洋式に合理化した解釈
http://imachannobennkyou.web.fc2.com/85.htm







お読みくださり感謝します。

日ユ同祖論、景教渡来説、スピリチュアル、神智学は仏教破壊用の兵器! 【落語風解説】 『真釈 般若心経 』 

 【マクラ】
 えー、本日は本ブログにお越しくださり、まことにありがたく存じやす。
 早速でございやすが、まずはご報告をば。

 あっし、子子子子子(ねここねこ)のツイッター
https://twitter.com/kitsuchitsuchi
のプロフィール文を、

お遊び陰謀論がやりたい方は大本教系と紅卍字会とSAGEグループと大日本皇道立教会と選帝侯と、ユダヤ陰謀論を捏造したバチカンと、仏教徒の天皇から神道カルト偽天皇へのすり替えと、神道・神器・天皇が道教用語だと言っちゃダメ! 読めないニックネーム(再開版)http://yomenainickname.blog.fc2.com

から

キリスト教の伝統          
①ユダヤ陰謀論(が流行=ユダヤは囮)
②日ユ同祖論(聖書のユダヤ人は架空)
③ユダヤのマークとしてのダビデの星 
(17世紀にイエズス会が作成)    
④秘密結社の陰謀論(キリスト教=悪魔
が銀行=真の秘密結社を支配)    
陰謀論者はクリスチャンと神道カルト=大本教系の和風✝儲だらけ。

あなたの私に対するイメージの中

yomenainickname.blog.fc2.com
誕生日 1894年1月1日”

に変更しやした。
余計なお世話かも知んねぇですが 、ツイッターで設定できる誕生日は1894年1月1日が最古でございやすから、あっしはいってえ何歳なんですかィ?

 え、なんで落語家みてえなしゃべりをしてんだって?
 そりゃあ、あれだ、あっしのツイッターアカウントの@の後ろの部分の由来が落語だっから
……ってのは冗談ではなくマジなんだけどよ、今、アニメ界にとっちゃ落語が旬だっからよって理由もあるんでございやすよ。
『昭和元禄落語心中』ってえ漫画があるんでやすが、アニメ化されやして、ここんとこ一話が放映されやした。
とにかく、できが良くてびっくらこきやした。
落語を真剣に学んだ声優ばかりを起用しておりやす。
落語監修は林家しん平が担当しておりやす。
是非(ぜ「し」)、ご覧くだせェ。

 あっしは、明治以降に(特に商売目的で)急造された、いかにも江戸より前(めぇ)からあるかのようにホラ吹いてやがる偽伝統について何度も語ってきやした。
 ご安心くだせえ。落語の祖とされる安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)は浄土宗の坊さんでございやす。
その策伝さんが元和九年(1623年)に完成させた笑い話を集めた本が『醒睡笑』(せいすいしょう)でさぁ。この『醒睡笑』が後の咄本(はなしぼん)や落語に影響を与えたンでございやす。

 落語ってのは単に笑わせるだけの話だけじゃねえ、、怖い話もありやすし、智慧がつくものもありやす。
智慧といやあ、仏教では「般若」が智慧つう意味なんだが、 この「般若」ってのは今回の記事の『般若心経』だけでなく、酒の呼び名にも使われておりやす。
昔の坊主は、酒が戒律で飲めねえから、酒を飲んだと表立って言えねえ。
そいで般若湯、 ゴチャゴチャゆうねぇ、要は智慧の湯てえ呼び名でごまかしたそうで。
酒の名前に智慧を意味する般若をぶちこむたあ、洒落てるじゃありやせんか。
今回とりあげる『般若心経』も、『酒心経』になっちまえば権威もかたなしでさァ。
まあ、西日本産の般若湯でもかっくれぇながら、小めんどくせぇ噺を聞いてくだせェ。
一応言っときやすが、兵庫産の米は偽装率がたけえらしいですぜ。あっしは兵庫産の米の酒は飲みやせん。

 【本題】
  過去記事で「真言宗はキリスト教ネストリウス派だよ詐欺」について多少、言いやしたが、今回は詳しめに補足しときやす。
 一神教では、絶対に人間は神の領域に至れねえし、神との一体化もダメですぜ。 人を神格化したら神が複数になっちまって一神教じゃなくなっちめぇから、これを破ったら一神教ではありえねえし、仮にあるとしても完全に異端になっちまうんでさァ。
 国家神道や大本教やなんかの和風キリスト教はよお、一神教を完全に維持してやがる正当なキリスト教からすりゃ、完全に異端なんでございやすが、支配されるこちとらにとっちゃ、なんちゃら組に支配されるか、かんちゃら組に支配されるかのに違いでしかねぇんで迷惑な話でさァ。
 
 ヤハウェっていう、セトとバアルとアトンを足して三で割ったような唯一神を信仰するなら、十戒を守らなきゃなんねえ。
特に一つ目は絶対守らなきゃ一神教じゃねえですぜ。

 十戒
①俺のほかに神があってはならねぇ 。
②おめぇの神、主の名をみだりに唱えてはならねぇ 。
③主の日を心にとどめ、これを聖としな。
④おめぇの父母を敬え。
⑤殺してはならねぇ 。
⑥姦淫してはならねぇ 。
⑦盗んではならねぇ 。
⑧ 隣人に関して偽証してはならねぇ 。
⑨隣人の妻を欲してはならねぇ 。
⑩隣人の財産を欲してはならねぇ 。

秦氏も空海も
①一神教の大前提、
③安息日
を守ってねえから一神教なわけねーよな。
道徳にかんする戒なんざ、ほかの宗教でも言ってやがるこっだっからよ 守っていても一神教信者だと特定できねえ。

核心部分が一神教違反なんだっからよ 、絶対に秦氏も空海も一神教信者じゃねーよ。
核心部分を完全にシカトして、本筋の論題や質問には一切答えねえで、細かな矛盾点をべらべら並べ立てやがり、意図的に些末な部分にこだわって威圧しやがるのが、カルト工作員の手口でさァ。
キリスト教神学が得意な詭弁術を使いまくるのが工作員の特徴なんですぜ。

外見や、表面的な、言語や儀式の共通点なんざ探そうと思えばいくらでも探せるんで、詐欺師がよく強調しやす。
単語数はどの言語でも膨大なんで 、どの二つの言語を選んでも似てやがる部分は必ずあるんで、多少似ていてもおかしくねーし。
みなさんは以下のカッコつきのセリフ を肝に銘じてくだせェ。

「同祖論者や秦氏・空海景教徒説の詐欺師は教義の致命的な違いは無視!
一神教では人を神格化して神としてまつることも、神と一体化することも禁止!
表面的一致を大量に(みせかけて)取り上げて数でごり押しするのが工作員の特徴!」


高野山に大秦景教流行中国碑のレプリカを建立したのが、ヴィクトリア女王の元側近(侍女)のE.A.ゴルドン夫人ですぜ。
仏教もキリスト教も元は一つであるっつう 「仏基一元」の考えが夫人の研究テーマだったんですが、仏教のは一神教の中核を完全否定してやがっからよ 、根っこが完全に違いやす。

西洋思想すべて「ゴッドや不滅の霊魂など、永遠の不変の超越的なものが実在する」
仏教「全部、妄想だね」


ってんだっからよ 、同じなわけありやせん。

仏教は空、縁起、無常ですら実体はねぇとしやすからね。
西洋思想の核には「唯一絶対の実体」(それ自体で存在し永遠不変な実在)つう大前提がありやす。
キリスト教では造物主ゴッド、
西洋神秘主義、特に新プラトン主義では「一者」。

実体思想が中核である万教帰一用宗教に仏教の中核をぶちこむなんて不可能なんだぜ。
多様性やなんか とほざきながら、取り入れるふりをしつつ、仏教の中核だけは削除するって腹づもりでさあ。
お上が仏教の中で特にぶっこわ してぇのは、
①嘘を見破るのに有効な、論理と論理的思考を重視する姿勢と、
②一神教と新プラトン主義を否定する無記と空と無常と縁起の思想

でございやす。
仏教系カルトは見事にこの側面を消去してやがるんですぜ。
仏教系カルトのモデルはキリスト教でございやすからね。
東洋思想を取り入れた西洋思想ですら、キリスト教と、
プラトン哲学(馬鹿は人間じゃねぇ 、肉体労働は下等、動物蔑視、優生思想)臭さが抜けてやがるものは稀でございやす。

景教渡来説は、(無自覚と隠れ含め)宣教師が布教のために唱えてやがることが多いですぜ。
「日本は仏教国ではなく、聖書の国だ」ってほざいてキリスト教を受け入れやすい素地を作ろうとしてやがるんでさァ。
景教は、人性(人の要素)と神性(ゴッドの要素)を区別しやすから、人間と神が対等になるなんてありえねえ。
一方、真言密教は「即身成仏=人と仏はゼロ距離」だとする教義でございやすから、一神教を否定する思想でございやす。
ゴルドンは英国王室の手先なんで、仏教をぶっこわす工作としてネストリウスデマを流してやがるのでございやす。

日ユ同祖論、景教渡来説、スピリチュアル、神智学は仏教ぶっこわしのための兵器の四天王ですぜ。
景教の専門家だった佐伯好郎は日油同祖論者でございやして、「秦氏=ユダヤ人景教徒」説つう 語呂合わせと詭弁にまみれたことをほざいてやがりやす。
旧約聖書に登場する失われた10支族なんて実在しねえんだっからよ 、末裔なんていやがるわけねーだろってんだぜ。
逆にいやあ、聖書の人物が実在することが大前提の日ユ同祖論(日本人・ユダヤ人同祖論)を主張するのはクリスチャンと神道カルト信者ってこった。
しかもよ、佐伯って景教博士ってか詐欺師は、晩年、弟子の服部之総に同祖論がユダヤ人の大資本を得るための単なる功利的な「企画」であることを語ってやがるぜ。 ゴチャゴチャゆうねぇ、要は 日油同祖論は金目的だったってこった。


景教について学びてぇってなら、お前さん、過去記事にいいのがあるぜ。

「利休キリシタン説」と「茶道の元ネタはキリスト教の儀式」説は仏教破壊用のデマ!   
『神学の思考』で一神教のタブーを学べば騙されない!

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-111.html
の下のほうをどうぞ読みなせえ。

ネット検索で学びてえなら、
「景教 ペルシア ネストリウス派 Nestorianism」やなんか と入れて検索すると、同祖論デマ情報がいっぺぇヒットするんで、マイナス検索を活用しやしょう。
「景教  -ユダヤ -空海 -秦氏」などと検索したり、英語版ウィキなどの英語文献にもできればあたってくだせェ。

アンド検索、
OR検索、
完全一致検索・フレーズ検索、
除外検索・特定のキーワードを除いた検索
ワイルドカード検索、サイト内検索・ホームページ内検索など検索方法についてはきっちり学んで実践しやしょう。
検索エンジンを変えるとさらさら違う検索結果になりやがったりしやすから、検索履歴を残さない検索エンジンDuckDuckGo (ダックダックゴー)なども活用しやしょう。
あっしは、ブラウザはFirefoxなんでございやすが、ファイアーフォックスのプライベートブラウジング機能は重宝な道具でございやす。

 【サゲ】
 酒飲むと
 智慧が問われる
 般若問う

おあとがよろしいようで。

※これより、江戸弁はおひらきにし、元に戻します。

幕間のあとは、「マクラもオチもなく、本題しかない『般若心経』の読書メモをどうぞ。


【幕間】

人間国宝の桂米朝 (3代目) の『はてなの茶碗 』の動画が視聴できる、はてなブログ(笑)↓
僕がおすすめする、ビジネスに役立ちそうな気がする落語ベスト5
http://terakappa.hateblo.jp/entry/2016/01/07/115238

桂枝雀が上岡龍太郎と語る笑いの分類
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16688264

菊池 ‏@kikuchi_8 1月3日
誠にその通り(笑)引用:統一教会系ネトウヨの反駁の仕方ってすごく耶蘇教神学的でなんかアウグスティヌスっぽい。ネトウヨが話の核心部分ではなくて、細かな矛盾点を指摘して全論をひっくり返そうとする話の持って行き方とかほんとそっくり。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-112.html

「話の核心部分ではなくて、細かな矛盾点を指摘して全論をひっくり返そうとする話の持って行き方」はまさにカルト工作員が使っている手口。本筋の論題や質問には一切答えず、意図的に些末な部分に拘泥する。耶蘇神学に由来する手口のようだ。云百年の不毛な神学論争が生んだワザということか。

ちなみに。恐らく耶蘇神学は「不変の神が何故創造という変化を起こせるのか」といった根本的質問には答えられないと思う。「創造する」という事は無から有への変化の過程という事であり、全く変化しない実体からは出てこようがない。不変から変化を説明するのが一神教や神秘主義の根本的な誤謬と思う。

菊池 ‏@kikuchi_8 1月3日
同感です。日猶同祖論者は致命的かつ根本的差異を無視。引用:修験道含め、日本の伝統宗教には自然崇拝思想が根付いています。一神教では、自然はゴッドの創造物なので拝んではいけません。根本思想が違っていたら、いくら表面的な共通点があっても別物http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-112.html

王王大栄 ‏@ououdaiei 1月6日
@kikuchi_8 @kitsuchitsuchi 耶蘇の「ゴッド」を神と訳したのは、ある意味ですごい皮肉かも。神は滅びる。それが日本の考え方。唯一の実在・創造主の「ゴッド」は、神という妄想。ってのが仏教とかの考え方とみると然り。

菊池 ‏@kikuchi_8 1月6日
@ououdaiei @kitsuchitsuchi おお、なるほど、面白い解釈だと思います。日本神話を見ても日本の神様は「無常かつ持続する」自然の象徴だったりして生まれたり死んだりと生成変化する「無常」な存在ですからね。「不変・唯一・絶対」というゴッドという観念は「滅びる」と。

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 2015年5月19日
ねここねこさんの日ユ同祖論の
英語版Wikiの記事に触発されて
原文読んでみた

下の方でチョロっと出てる
ヴィクトリア女王の侍女だった
エリザベス ゴードンの日ユ論が
興味深い

英ユ同祖論と日ユ同祖論から、
イギリス王室と日本の皇室を
縁組させてスーパーユダヤ人を
造る計画



”①一神教最大のタブーは、人間が神になること。

一神教では、唯一神と人間との間には絶対的な隔たりがあり、絶対に人間は神になれない(唯一神と一体化できない)。
人間が神になれるなら多神教。

景教=ネストリウス派キリスト教は、人と神を特に厳格に区別するので、人と神として祀るなら景教徒ではない。
神社に秦氏の人間が神格化されて祀られているので、秦氏は景教徒ではありえない。

真言宗は神仏と人間が一体化する「即身成仏」思想なので、景教ではありえない。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-110.html
ヤハウェ(エジプト系の雷神)が奈良の大仏(アーリア系の太陽神仏)なわけねーだろ!  真言宗が景教(人の神格化禁止)なわけねーだろ!                     ヨガ、呼吸法、瞑想法でリラックス! 『呼吸法の極意 ゆっくり吐くこと』・『ヨガ呼吸・瞑想百科』・ 『ハタヨガの真髄』・『禅の本』・『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』

”「クリスチャン・シオニズム

エリザベス・ゴルドンはヴィクトリア女王の元側近(侍女)だった。
ゴルドンは有名なクリスチャン・シオニストでもある。
ゴルドンは英ユ同祖論と日本人を結びつけようとした。
特に、英国王室の祖先がイスラエルの民の子孫だとした。
ゴルドンは日本では真言宗の研究で知られる。
真言宗の起源はキリスト教だと主張した。
ゴルドンは日本でいくらかの影響力を持った。


”British Israelism (a similar hypothesis that holds the British people to be a Lost Tribe of Israel)”
「英ユ同祖論。日ユ同祖論と似た仮説。」

ゴルドン夫人が主張したのが仏基一元

生長の家と同じく万教帰一と似たことを主張!
開化派=独立党のリチャード(洗礼名)大歓喜!

仏教は絶対的な唯一の創造神を否定するので、
キリスト教視点では無神論=悪魔崇拝(本来の仏教は偶像崇拝しない)ですよ。
RAPTがいい例です。

仏教とキリスト教はどう見ても根本から違います
仏教とキリスト教を比べると、どう見てもキリスト教のほうが悪魔崇拝なんですけど。

英国女王の側近のゴルドン夫人は、ワン・ワールド準備の為のワン・リリージョン(宗教)を推進するための工作員でもあったのです。
英国王室側の人が宗教統一に都合がいいことを言ったのです。
宗教統一とは、新キリスト教で世界を塗り潰すという意味であって、思想の多様性をなくすということです。
みんなが一緒に共存するのではなく、
一つを残して皆殺しという意味です。
キリスト教が布教熱心で、侵略とセット
である理由が分かるでしょ?”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-83.html
日ユ同祖論と中ユ同祖論の発明者は17世紀のイエズス会士ロドリゲス。          
同祖論はキリスト教の布教とセット。                         
日ユ同祖論を布教する陰謀論者=宣教師。                       
日ユ同祖論の英語版Wikiの一部を翻訳し解説。

Misaki-わんわん ‏@bonchan1 2015年9月8日
故山本健造氏が高山市丹生川町旗鉾の分校で教職に着かれ、そこで地元の上方様の家系の老翁から「飛騨の口碑」を託されたのが昭和35(1950)年の事。それから五十数年を経てこの世に初めて発表されたのが鞍ヶ根風土記としてまとめられた「飛騨の口碑」だ。まだまだ世間の認知度は低い。

knznymmmy ‏@knznymmmy 2014年12月21日
どこまで本当なのかねえ
いきなり飛騨にポッと出るのもおかしいじゃん
そいつらどこから来たの?っていうね
ミトコンドリアイブちゃんよりも
飛騨の方が古いとかんなわきゃねーんでしょ?


knznymmmy ‏@knznymmmy 2015年1月6日
日本書紀も古事記もウソが多いだろうけどさ
飛騨の口碑だってウソはあるんじゃないのかなあ?
それだけが0.01%のウソも間違いも含まないとか
そんな訳はなかろうと思うけど

例えばさ飛騨に発生したというその原アホンジンとやらは
どこからきたよ?ウジ虫じゃあるまいし突然発生はしねえよ


knznymmmy ‏@knznymmmy 2015年12月25日
そもそも単一民族だの日本人だのいう
概念があやふやでしかない
犬のぼんちゃんが
飛騨ガーとかわんわん吠えてるけどさ
どう考えてもウリナラファンタジーw


knznymmmy ‏@knznymmmy 1月5日
飛騨の口碑ってのもさ
ちゃんと調べりゃ
明治ぐらいに作られたんじゃねえの?
すーーーーっと口伝ですとかいうのはさ
要するに証拠なし、天皇家の万世一系みたいなもんでしょ
証拠がねえのをさもありがたいかのように言うとかどうなのよ?


Misaki-わんわん ‏@bonchan1 1月14日
大陸・半島人とはそのDNAが全く異なると遺伝子学的に判明しているのに、未だに渡来人が主だと言う人が多いのには驚きます。何故、日本人は単一の日本固有の民族だと胸を張らないのでしょう?プライドがないのかしら?

日本人は混血民族。単一の固有の民族なんて実在しねーよ。
ナチスのアーリア信仰を日本人に変えただけ。
思考が神道カルトまんまの、聖典が飛騨の口碑のみさきワンちゃん。
「ヤハウェヤハウェが秦氏秦氏が景教景教が以下略」って、うるさい。
大避神社の御祭神は秦河勝。
一神教では人間を神として祀るのは絶対に禁止なので、秦氏は景教ともユダヤ教とも無関係。
致命的な矛盾をひたすら無視する時点で相手にする価値無し


knznymmmy ‏@knznymmmy 1:12 - 2016年1月16日
君と違って信仰が無いからだよ

(「純血」を信仰するのはカルトの証)


P・グラレム ‏@pinkglalem 2015年12月3日
移民についてかい...?もともと日本人と言うのは、多人種の混血なんですけど...

P・グラレム ‏@pinkglalem
ユダヤ人なんて民族はいねェーョ。架空の、でっち上げられた幻想。日本人にしたって、その遺伝子構成は、多人種の混血。大昔に混血化がすでに進んでいたんだョ。

古代から何世代過ぎてるの?その間中、近親婚を繰り返すワケ...?そーでなかったら、民族の純血なんて守れないョ。純血主義は幻想なんだョ。

人種としての「~人」というのは、すでに存在していない。


どーしてだろう?カルトの信者というのは、宗教のことをスルーするために、民族に拘るね。

民族や言語の分類というのは、18世紀に聖書をもとにして作られたンだョね
(シュレーツァー)。だから、コレをもとにあたしに民族について質問されても。答えられません。...予め言っておきます。

だいたい日本人なんて、多民族の混血だし...

knznymmmy ‏@knznymmmy
セム語族とかまさにソレだな…

「神戸とかいう魔境って何なのさ?」
皇族や桜に潜む日本のイカサマ擬似伝統の番外編
http://codetripleseven.blogspot.jp/2015/11/3.html
”神戸製鋼といえばオウムの村井も元神戸製鋼社員。
衆人環視の中殺された、あのオウム幹部の村井だ。
テレビで「阪神大震災は人工地震だ」と全国放送しちゃったあの村井だ。

村井は大阪大学大学院で宇宙物理学専攻
→1983年神戸製鋼入社→1986年オウム入信。

アベシのブレーンの伊藤哲夫は生長の家→ソース1  ソース2
そしてその生長の家を作った谷口雅春も神戸出身。
生長の家=宗教右翼=戦争賛美=日本会議=稲田朋美でもある。

そう言えば、84年・85年にはグリコ森永事件が起きた。
アベシが神戸製鋼を辞めて父親の晋太郎の秘書官をしていた頃だ。
グリコ・森永事件の舞台は神戸を含む関西。
例えばグリコは社長の実家襲撃・脅迫状・放火その他散々な目に遭った。
そのグリコの社長宅は芦屋=神戸市の東隣。
そして87年にはアベシは昭恵と結婚。
昭恵は電通社員=ほぼ確実にヤツらの犬。
昭恵は森永社長の娘でもある。グリコ・森永事件の、あの森永だ。
森永といえばキリスト教。例えば創業者の森永太一郎がキリスト教→wiki
エンゼルのロゴとか「いかにも」なデザインを採用するではないか。
森永の製品に「マンナ」というビスケットがある。
商品名の由来は旧約聖書の出エジプト記の「マナ」だ。→参考
昭恵がキリスト教徒なのかは不明。
とりあえず小学校からの全学歴が聖心女子=ミッション系ではある。
昭恵と言えばデービッド=ロックフェラーJr.と「食べて応援」を推進。
この辺を更に追求していくと兵庫からは離れるが深刻な話題が出る。
例えば福島第一原発四号機爆発の謎。
或いはアベシとオウムの、単なる神戸製鋼OBでは済まないコネ。
オウム真理教事件の闇はまだまだ残っている。→参考

江崎グリコ社長宅のある芦屋以外にも、関西系の社長宅は
兵庫に家を構える事が多い
→ソース

2012年9月14日時点で上場企業の社長・会長に就任している
4878人のうち、判明した2920人の社長・会長の自宅住所から作成した。
役員報酬が1億円を超える企業トップは、どの街に住んでいるのか。
関西では、大阪や京都よりも、兵庫の西宮市や芦屋市を好む傾向が
明らかになった。

大阪も京都も差し押さえて1位か。関西のドンは兵庫という事か?
尚、兵庫県内のランキングでは

1位が西宮市で2位が芦屋市となった。
・・・との事だ。両方共、神戸市の東隣。

そのせいだろうか?
神戸は不自然にケムトレイルが散布されなさすぎと主張する人もいる
リンク1 リンク2 リンク3   

本州を1800キロ走ってみて、わかったことがある。
本来であれば空気が清浄な地方ほど、
盛大にケム雲が広がっている傾向があるということ。
長野の安曇野のあたりは、これ見よがしにケムっていて哀しくなった。
では日本に、ケムっていない地域は存在するのか?
あるんだね、これが。
見事なまでにケム雲ひとつなく、わたがしのような雲が
たなびく地域が。西宮から神戸にかけてが、そうだった。
芦屋の高級住宅街あたりに、日本の真の支配層は
住んでいる……ってことかな?


やはり神戸はひと筋縄ではいかない。

ケムが撒かれないのなら体にいいのか?と思うと意外とそうでもない。
妙な病気が日本で「発見」されるのは神戸が多い。
例えば「生物兵器説」が流れるような病気。例えばエイズ。
誰が日本のエイズ感染者第1号なのか?というのは微妙である。
例えば「アメリカ在住の日本人」は「日本のエイズ第1号」として
カウントしていいのか?微妙だ。
「長野在住のフィリピン人」 というのもある。
しかし「日本在住の日本人」という条件でならエイズ初感染者は神戸
→参考
1987年1月17日  神戸で日本初の女性のエイズ患者報告、
エイズ・パニック広がる

おっと・・・1月17日と言えば阪神大震災の日ではないか。
これは偶然なのか?
ちなみに1月17日と言えば2006年ライブドアショック。
1979年イラン革命の日でもある。

鳥インフルもそうだ。
2009年5月16日 新型インフルエンザ、神戸で国内初の感染確認。
渡航歴ない高3→ソース
この5月16日はオウム真理教の麻原が逮捕された日でもある。

体に悪いと言えば、福島産の米の流通量が全国2位なのは兵庫→参考
東京は人口密集地帯だ。
だから福島に限らず近県から大量に食料が流入するのは当然。
しかし、なぜ2位が兵庫なのか?
人口密集地帯や農地が少なそうな都市部なら他にもあるではないか。
神奈川、愛知、大阪等を5倍以上もぶっちぎって、
兵庫が2位というのは異常事態ではないのか?
距離的にも神奈川、愛知、大阪・・・
すべて兵庫よりも福島に近いではないか。
兵庫は米の生産量ランキング全国14位だ。→ソース
米所と言うほどではないが、それでも上位の部類だ。
なぜこんなに福島の米が流入する?
しかもサクッと米所の新潟が福島米流通量6位。怪しい。
新潟は北海道を抑えて米の生産量は堂々日本一。→ソース
その新潟が米を輸入か?これは産地偽装目的ではないのか?
若しくは福島米を使った煎餅か餅か何か加工品があるのか?
実にクッサイ数字だ。
・・・というか・・・。この際だから書いておくけど・・・。
食品偽装の本丸ってコメな件。

ハッキリ言っておくが人間の味覚なんてバカだ。
その意味でグルメだ何だと言ってるのはバカばかりと決まっている。
アナタの食べてるそのコメ・・・。フクシマ産のプルトニウム入りかもよ?
以前だったら偽装米の正体は中国米だったりしたようだが
フクイチのせいでちょっと事情が複雑化しているようにも思う。
ニュースでも何年か前に色んな食品の偽装が出たけど
コメは今の所スルーだ。 しかし将来的にはコメ関係も騒動になると思う。
勿論、フクシマ米の問題が堂々と語られるような時代には
とっくに手遅れになっていると思うけど。
スイス系の製薬会社のノバルティスファーマは2015年2月に
日本初の業務停止処分を受けた。
これは抗癌剤の副作用を隠蔽したせい。
この悪徳企業が日本国内唯一の工場を持つのが兵庫の篠山→ソース
スイス・・・製薬会社・・・抗癌剤・・・。ヤツらの中心部だ。
そしてその中心部が日本に来たと思ったらサラッと兵庫!

兵庫は在日の教師の数が大阪に次いで多く全国2位とも言われる。
そのせいで学校でハングルを強制的に教える所すらあるらしいw
例えばこれ参照。在日の先生様自らPDFをつくっていらっしゃる。”

※動画と画像は省略

プライベートブラウジング - 履歴を残さずに Firefox を使用する
https://support.mozilla.org/ja/kb/private-browsing-use-firefox-without-history

検索履歴を残さない検索エンジンDuckDuckGo (ダックダックゴー)
https://duckduckgo.com/?q=

メルセゲル ‏@Meretseger2 14:49 - 2016年1月17日
http://search.chromic.org gnusocalの人に教えてもらったフリーソフト検索エンジンが良い感じだ

狼たちは知っている ‏@wolvesknow 2015年11月7日
炎狐の新装備、プライベートブラウジングで、ユーザのオンライン行動を追跡するコンテンツをブロックとのこと。Twitterが快速で動くようになった。対抗プログラムが出来るまで暫くは快適だな。

プライベートブラウジング - 履歴を残さずに Firefox を使用する
https://support.mozilla.org/ja/kb/private-browsing-use-firefox-without-history

検索履歴を残さない検索エンジンDuckDuckGo (ダックダックゴー)
https://duckduckgo.com/?q=

検索方法の種類まとめ!除外や完全一致・ホームページ内検索も!
http://affikatsu.com/research-method-891/

Googleの検索方法と検索オプション、テクニックまとめ
http://liginc.co.jp/web/service/google/86222


 【マクラもオチもなく、本題しかない読書メモ】

宮坂宥洪『真釈 般若心経 』(角川ソフィア文庫)


著者の宮坂 宥洪(みやさか ゆうこう、1950年11月11日 - )は、真言宗の僧ですから真言宗流の解釈です。

(チベット仏教流の解釈は、過去記事の
斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html
をどうぞ)

・『般若心経』の冒頭は観自在菩薩の「観」。
サンスクリット原典では「アーリア(「高貴なる」。貴人に対する尊称)で始まるので、原点に忠実に訳すなら、「聖」観自在菩薩となっていたはず。
この経典の開幕のシーンは瞑想する釈尊のお姿。釈尊の瞑想に感応して観自在菩薩が修行を完成した、というところからドラマが展開する。

・インド仏教の伝統的な瞑想の仕方には、シャマタ(止)とヴィパシュヤナー(観)という二つがある。
シャマタ・ビパシュヤナー(止観)は、インド仏教における最もオーソドックスな瞑想実践の方法だった。今でもタイやミャンマーなどの南方仏教ではきわめて重視されている修行法。
シャマタとは心を静めること。背筋を伸ばして、肩の力を抜き、深い呼吸をこころがける、これ以外に何の特別な努力もしない。
それが次のヴィパシュヤナーの実践の不可欠な前提となる。
ヴィパシュヤナーの原義は観察。仏法を観察する。観法ともいう。
観自在菩薩は「観ること自在」、すなわち観法の達人。

・インドの哲学という場合、「哲学」はサンスクリットで「ダルシャナ」といい、その原意は「観ること」。インド哲学は、すべて瞑想実践の中から生み出された体系。

マントラを数えるための道具が数珠。仏教が興る以前から、バラモン教で用いられていた。
サンスクリットでは「ジャパ・マーラー」といい、「念誦の輪」という意味。
キリスト教で用いられているロザリオは仏教の数珠に由来。
 釈尊の時代にはまだ数珠を手にする習慣はなかったようだ。
いつから仏教徒が数珠を持つようになったかは不明だが、著者の知る範囲では、アジャンター石窟群の最古に属する壁画の中に、数珠を手にした菩薩が描かれている


(“起源についての説

ドイツのインド学者アルブレヒト・ヴェーバーは、インド仏教で用いられていた数珠(サンスクリット語: japa-mālā、字義は「低い声で念じ唱える+(花)輪」)が西洋に伝えられた際に「バラの花輪 (japā-mālā)」と解釈され、それがラテン語の rosarium として直訳され、他の西洋諸語に取り入れられたのだとしている[10][11]。

しかしこのロザリオのインド起源説に対し、

サンスクリット話者が、キリスト教のラテン語話者との間に、母音の長短を聞き間違えるほどの言語的接触の必要性および蓋然性が存在したとは考えにくいこと
ヴェーバーの仮説では東方教会に対するインドからの数珠状の祈祷用具の浸透が説明できないこと
ロザリオの「先祖」である「主の祈り」を数える道具であった Paternoster は、数珠のような環状のものではなく一本の「直線状」のものだったこと
すでに一部地域では8世紀頃から Thong-and-ring という動物の皮と骨を材料にした計算具で祈りの回数を唱えていたこと
ローマ・カトリックと東方教会の両者は共に、エジプトの修道士たちが小石を使い祈祷を数えていたというパッラディウス(Palladius, 363年頃 - 431年頃)の証言に自分たちの祈祷の回数を数える道具の起源を求めていること

などの理由から、キリスト教のロザリオはインドから借用されたものではなく、キリスト教の浸透した各地において独自に工夫がされた結果として、現在の数珠に似たロザリオの形状に発展し定着したと主張する者もいる[12]。”文芸
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA

https://twitter.com/FeydoTaitei/status/683576644280258560
フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 1月3日
あちゃ〜‼︎
で、出たよ〜
アレキサンドリア図書館w

#FateGO
#FGO pic.twitter.com/nhdmtz16td

フェイド大帝さんがまた優しく 説明してやる! 耳の穴かっぽじってよく聞くがよろし! この連中はね、アレキサンドリア (エジプト)に人類の真の歴史書や 神学書が蔵されてたと信じ込んでてね、

で、特にキリスト教の興りに ついてバチカンにとって都合の 悪い事が書かれていたと 思い込んでてね、この図書館に 放火したのはカソリックだ! と断罪してるわけ。

この主張をしてる連中は グノーシス主義の一派である 中世のカタリ派(異端として バチカンに潰された)の子孫を 自称してて、「ウリ達のご先祖様に 賠償を要求するニダ!」と 憤ってカソリックを脅迫
してるの。

で、このカタリ派と何の関係も無い 日本や韓国、イソラエルの キリスト教系カルトも群がって 一緒にカソリックを叩いてるわけ。 当然得をするのはアングロサクソン系 のプロテスタント陣営とおフレンチ の無宗教(新左翼)主義者ね。

で、アレキサンドリアと 原始キリスト教の関係なんだけど、 新約聖書のパウロの宣教録を 読むと、パウロってのは アンティオキア(現シリア辺り) とか、コリントス、ローマの 話はよくするけど、

当時の大都市のアレキサンドリアの 話には余り触れたがらないのよ。 「アポロ」という同じキリスト教の 宣教師のライバルが先行で布教してて これに勝てなかったんだねぇ。

今のバチカンのカソリックってのは 基本的にパウロのキリスト教の事を 指すのよね。 聖書が1巻本になったのもずっと 後で、マルキオン聖書に対抗して エイレナイオスの時代に纏められた のが原型だと言われている。

だから、キリスト教ってのは 最初の頃は沢山宗派があったの!
で、特に人気があったのが グノーシス主義だった事が 過去の資料(エウセビオスの教会史とか) から分かってるわけ。

第2章のネロ編でネロに仕えてた 宮廷魔術師が速攻で殺された話 あったろ?w グノーシス派の有力な教祖の 一人であった魔術師シモンだと 言われてる。

グノーシス派で特に有名なのが ヴァレンチノス派
ね。 fategoスレでこの名前出た時は 流石工作員共と笑ったけどねw

でローマでの布教編を読めば 分かるけど、パウロがやってくる 前からどーもプリスカ夫婦という 怪しい二人がすでにローマで キリスト教を布教しててローマから 追放処分を受けてた事がわかる。

ローマやアンティオキアに伝わってた キリスト教が、「アレキサンドリアに だけは伝わってなかった」って 不自然だろ?w 仏教学の見地からだとカソリックの ロザリオが仏教の数珠由来で ある事が分かってるので、

アレキサンドリアはインドとも 貿易をしていた事が考古学から 明らかになってるから、 初期キリスト教はインドの方の アーリア系宗教からの影響が 強かったのではないか
と 言われている。

当然、キリスト教の元ネタが インドやイランのパクリの 可能性が高い事は、西洋白人様 やパウロ派(つまりカソリック) に取って都合が悪いから、 アレキサンドリアを焼いたの ではないかとこの連中は 疑ってる。

まぁ、日本の場合は戦後アメリカの 影響が強いから(実際は明治時代から) プロテスタントや、カソリック以外 に有利な言論をデ○ズニーとか 使って、子供から刷り込んでく 政策を取ってるので、

こう言った事情に疎いと 速攻でカモられる。 ゲームやアニメ、受験用の 日本史だけじゃなく、世界史も ちゃんと勉強しろ
ってこった。 以上!)


・マントラの念誦とは、念ずる内容を観想しながらマントラを繰り返して誦する。自分の好きなように行ってよいというものではなく、インドでは必ず師から伝授を受けて、しかるべき場所で、しかるべき手順を踏んで行うべきものとされてきた。
マントラの念誦に必要なのが本尊であり、『般若心経』では般若波羅蜜多そのものが本尊。

・寺院に仏像が安置されていることはごく当たり前ではなく、これは世界の宗教の中で異例のこと。
ユダヤ教、イスラム教、キリスト教、あるいは日本の神道でも、神を人間の姿に造形化してはいけないことになっていて、いわゆる偶像崇拝を禁止している。
 仏教でも、仏滅後五百年間は、ブッダを人の姿に表すことは憚られてきた。
紀元前三世紀のアショーカ王の時代の仏塔の欄楯(らんじゅん。聖域を俗界と区別するための垣根、柵)の仏伝レリーフには、普通の人々の姿はあってもブッダの姿だけはなく、仏陀の代わりに法輪や菩提樹が刻されていて、それは見る者にとても不思議な印象を与える。
 紀元前一世紀頃から北インドのガンダーラ地方で始まった仏像彫刻は、ギリシャ美術の影響が濃厚。
ギリシャ美術の影響なしに、同じ頃、北インドのマトゥラーでも仏像の政策が始まっている

これは仏陀を″偶像″として″崇拝″するようになったというよりも、仏陀が眼前にいるかのごとくに、「観じる」、すなわち「観仏」という瞑想が行われるようになったことと深く関係しているのではないかと筆者は考えている。
 ひとたび仏像彫刻が始まると、仏像は仏教が伝播するすべての地域に広まった。
仏像が人々の崇拝の対象となっていったことは否めないが、人間精神の至高の造形表現としての仏像は、世界の芸術史上において類がなく(なぜなら偶像を禁止している宗教ではそのようなものは生まれようもないので)、その後の仏教史を通じて、まさに類なき傑作が次々と生み出されてきた。

(釈迦は「法を説く人間(釈迦)を崇めるのではなく、法“を実践”せよ」と説きました。

え、神道が偶像崇拝禁止なの?
神社に思いっきり置かれているあの像は何なの?
仏教が国教で、神仏習合で神々を仏教化してきたから、仏教化されていない神々の像は作られなかったってこと?

偶像崇拝禁止って、「明治以降の神道=和風キリスト教」限定なんじゃないの?
でも、国家神道の現人神の写真を崇めるのって偶像崇拝ですよね?


世界の仏像紹介BOT(仮) ‏@worldbutsubot 2013年11月28日
【仏像以前】釈迦は自身を根本的な崇拝対象としなかったため、仏教では釈迦入滅後暫くの間は法輪・菩提樹・仏足石などによってその世界観や思想を表現していた。だが、インドのガンダーラやパキスタンのマトゥーラに仏教が伝播すると、次第に偶像崇拝対象としての仏像制作が盛んとなっていった。

大窪一志 ‏@neuemittelalter 4月29日
仏教も、ユダヤ=キリスト教やイスラームの偶像崇拝禁止のように、仏陀を人の形で造形することを禁じていた。キリスト教やイスラームでは未だに偶像崇拝を排する動きが強いが、現代仏教では全く失われてしまったかに見える。↓法輪と仏足の旧き形象。 pic.twitter.com/4F68W7FjcN

たけちゃん ‏@take_chan_bot_ 12月22日
ガンダーラ美術はクシャーナ朝で流行ったんだったね。もともと仏教はブッダの偶像崇拝を禁止してたんだけど、ヘレニズム文化と出会って仏像が作られるようになったんだよ。

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 4月26日
RAPTの野郎が仏教について間違い ばかり書いてるなw キリスト教原理主義者っぽいけど カトリックとモルモン教を貶めてる から、エホバ辺りかね? リベラル系では無いから、福音主義 系かもしれないが。 コメント表示されてる連中も 仏教というかインド文化をよく 分かってないぽいな

まさか知ってるとは思うが、仏教も
偶像禁止だぞ。
仏像作り出したり、ストゥーパ建て始めた
のは大乗仏教になってからだぞ?

教えを文字に残さなかったのは、
まぁ、あっちの文化がそういう
文化だということもあるけど、
初期仏教は基本シンプルで実践重視
だったから必要なかったからかな

安保 多稼士 ‏@AmboTakashi 5月14日
紐付きは半分の真実と半分の嘘によって、洗脳に気づいた人を再び洗脳するのが仕事。陰謀論者ラプトの元ネタはラプチャー=携挙。隠れ含めキリスト教系と大本教系陰謀論者は仏教嫌いの法則!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-82.html


安保 多稼士 ‏@AmboTakashi 5月20日
もしキリスト教系(の時点で支配層側の)陰謀論者のRAPTさんに出会ったらまずは、元ネタはRAPTure(ラプチャー。携挙)ですよね? と聞こうと考えております。患難前携挙説を正しいと考えていますか? とも聞こうかな。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-83.html

吹田/大\賞典の傾向と対策bot ‏@suitaQ_bot 11月25日
Q. 万葉集に一首のみ収められている、「弥彦  神の麓に 今日らもか 鹿の伏すらむ 皮衣着て 角つきながら」という歌のように、5・7・5・7・7・7の音からなる和歌のことを、釈迦の足跡を刻んだ石になぞらえて何と呼ぶでしょう?……A. 仏足石歌(ぶっそくせきか))

・マントラを静かに、あるいは心の中で何度も繰り返して誦える修行を、念誦法(サンスクリット語で「ジャパ」)という。
咒はマントラの訳語。
さなかったのは、玄奘の時代にはマントラの訳語がまだ定まっておらず、玄奘のみならずマントラを真言と訳す人はだれもいなかった。

・般若心経の「心」はマントラのこと。
最後の「羯諦……」の直後に尾題が添えられている。
玄奘訳では「般若波羅蜜多心経」となっているが、
原典では「以上で、プラジュニャー・パーラミター・フリダヤ(般若波羅蜜多のマントラ)、提示し終わる」となっていて、「経」にあたる語はない。
この「心」には「真言」という意味がある。
原語の「フリダヤ」を直訳すれば「心」以外にありえない。
「フリダヤ」にマントラの意味があるということは一般のサンスクリットの辞書には載っていない。
しかし、インドの文献では、フリダヤ・マントラという言い方は珍しくない。フリダヤがマントラの別称として用いられるのはよくある。
ことに密教の漢訳文献に頻繁に出てくる「心咒(しんしゅ)」という言葉は「フリダヤ・マントラ」の訳語で真言と同じ意味。
著者は、「フリダヤ」を「心臓」や「精要・精髄」と解釈するのは誤りだとしている。


・サンスクリットの合成語を解釈する厳密な方法によると、
プラジュニャー・パーラミター=「智慧という完成」。
そもそも智慧自体が完成されたものなので、それを完成させるということは意味をなさない。
智慧の彼岸に到る道程ではなく、智慧の彼岸に到「っている状態」。

諸仏がさとりを得るのは般若(智慧)の力に依るのであるということから、般若波羅蜜多そのものが神格化されるようになった。
大乗仏教とは、般若波羅蜜多を、諸仏を生む母、すなわち「仏母(ぶつも)」として尊び崇め、その絶大な功徳を宣揚した。
般若波羅蜜多が仏母という女尊だというと奇異に感じられるかもしれないが、インドでは古い時代から、風雨や雷などの自然現象のみならず言葉や時間や法則といった抽象的なものに至るまで、何であれ尊ぶべきものを容易に神格化する傾向があった。
例えば阿弥陀如来は光を神格化した仏であり、
文殊菩薩は智慧を、
弥勒菩薩は友情を神格化した菩薩だといっても差し支えなく、これと同じこと。
般若波羅蜜多の原語「プラジュニャー・パーラミター」が女性名詞だから女尊
とされた。
 真言宗や天台宗や禅宗などの寺院で行われる大般若法要の本尊は、仏母と言われる般若波羅蜜多菩薩、略して般若菩薩という女尊である。
なお、釈迦三尊を本尊する場合もある。
チベット版の『般若心経』では、「バガヴァティー(女尊=仏母)たるプラジュニャー・パーラミターのフリダヤ」とサンスクリットの経題が明記されている。

・バラモン教最古の聖典『リグ・ヴェーダ』の賛歌がマントラと呼ばれていた。
対して、仏教独自のマントラとして大乗仏教とが掲げたのが般若波羅蜜多であったと思われる。
初めは、バラモン教を意識してか、マントラではなく、ヴィディヤー(明、明呪〔みょうじゅ〕)とか、ダーラニー(陀羅尼)と呼ばれていた。

・五蘊の
「蘊」=たくわえ、あつまり。
サンスクリット語でスカンダといい、本来の意味は「木の幹」だが、書物の章節とか部門を意味することもある。全体を構成する主要素という意味。

1. 色 =体がある
2. 受=感覚がある
3. 想=イメージを持つ
4. 行=深層意識がある
5. 識=判断をする

五蘊そのものは自性空であり、自分ではない
五蘊は五取蘊ともいい、煩悩や執着(「取」)を生み出す条件。

・『般若心経』は、徹頭徹尾、瞑想の指南書。
自分は存在しない、存在するのは五蘊だけである、と見極めるのが最初の段階。
次に、自分が存在するのではないように、五蘊も存在しない、と見極めるのが第二の段階。

(著者はかなり斬新なことを述べていることに注意)

苦(ドゥッカ)=不如意(思いのままにならないこと)

・「度一切苦厄」という挿入文に仏教の実践的目標と究極の救いが端的に示されている。
この一文は漢訳者が勝手に挿入したようなものではなく、経典の趣旨をくみ取ったうえで考え抜かれて置いたもの。
「五蘊皆空」の個所は、サンスクリット原典によると「五蘊あり。しかも、それらは自性空である」と二段階に分けて読まねばならない。
観自在菩薩は、まず「五蘊あり」と観察し、「それらは自性空である」と観察した。
空観の洞察に先立って、五蘊の観察が必要不可欠。

・漢訳本文と原典を比較すると、漢訳のほうが一文少ない。
「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」は、
原点では、
「色は空性であり、空性は色である」
「色とは別に空性はなく、空性とは別に色はない」
「色なるものこそが空性であり、空性なるものこそが色である」

律蔵大品(りつぞうだいぼん)という初期の仏典には、釈尊が法を説く場合、「私は三度この義を説く」という表現がよく出てくる。
また、成道後の釈尊に梵天が説法を三度懇請し、それで釈尊は説法を決意したという話も伝わっている。
仏法僧の三宝に帰依するという「三帰依文」は今でも三度誦えることになっている。インドでは古くから三度繰り返して言う習慣があった。

インド人でない玄奘は二度繰り返せば十分だと思ったのだろう。

自性(スヴァバーヴァ)=それ自体。
自性空=それ自体がからっぽ。
○○シューニャ=○○空=○○を欠いている


原語のシューニャターは抽象名詞「空なること」(空性)。
空なる「もの」を意味するシューニャではない。
色は空性(空なること)だと和訳しても文法的に成立しないとまでは思わないかもしれない。
でも、これは、この本は重要「性」です、というようなもの。
なぜ破格の構文が用いられているのか。
本という語と、重要性という語の表示対象は一致すると考え、
(ここに)本がある、かつ、
(ここに)重要性がある、
といえば、問題はなくなる。
ここに色があるといい、かつ、
そこに空性があるといえば問題ない。

・色(ルーパ)=姿かたちのあるもの。
ルーパは動詞語根「ループ」(かたちづくる)から生まれた名詞。
ルーパはしばしば物質的現象と訳されるが、
『般若心経』では、自己を問う瞑想において「自己を構成する主要素」(蘊)
の一つとして観察される「姿かたちあるもの」なので、それは自分の体にほかならない。

受=ヴェーダナー
=(ある種の刺激を自分の感覚として)知らしめる作用=感受作用。
動詞語根「ヴィド」(知る)の使役形名詞。

想=サンジュニャー=全体的に知る
=ある事柄を全体的なイメージとして了解する
=表象。
動詞語根「ジュニャー」(知る。※)
+接頭辞「サン」(集合)。

※受想識は原語ではどれも微妙なニュアンスの違いで「知る」を意味する)

識=ヴィジュニャーナ=分けて知る
=分別、分かる、識別・判断。
(AをA以外のものから区別して知る)
動詞語根「ジュニャー」(知る)
+接頭辞「ヴィ」(二つの分ける)。

識=ヴィジュニャーナだけが、「言葉を介して」知ることを意味する。
受=ヴェーダナーは感覚的に知ること、
想=サンジュニャーはイメージとして知ること。

行=サンスカーラ=(何らかのものをまとめて)つくり出すこと。
いろいろなイメージを総合して集めて意識を生み出す作用。
潜在意識。

 知を主体とした形成作用が五蘊の総体であり自己の正体だと結論づけてもよいかと思われる。
自己は形成するもの、形成されてきたものであって、はじめからこれといったものとして存在するのではない。

・ダルマ(原意は「保持されるもの」)
=法則・規範、正義・善、宗教・教え、存在するもの

現代のインドでは英語のレリジョンの訳語としてダルマが採用されている。
仏教のインド名は、バウッダ・ダルマ(ブッダの法)。
日本に仏教が伝来した当初、仏教は「仏法」と呼ばれていた。
仏「法」興隆の詔。
江戸時代には「仏道」の呼称が一般的。
仏教という言い方が定着したのは明治時代以降

インド人は宗教について語る場合でも、「ダルマを信じる」という言い方をせず、あなたはどういうダルマを持っているかをたえず問題にする。
この場合のダルマは何らかの信仰というより、むしろ自分を律するもの、みずからの行いの根拠、といった意味に近いだろう。それなくして人は人でなくなってしまうと思われているほどのもの。

インドの哲学用語としてのダルマの意味は「場所に存在するもの」。
山に煙がある場合、煙は山のダルマであるといえる。
場所としての山は、煙の「保持者」(ダルミン)と呼ばれる。
インド人は、壺が青いことを、壺に青がある、と表現する。壺という場所に青が存在していると考える。
青色は壺のダルマである。青は壺に保持されるもの。壺は青色というダルマの保持者(ダルミン)。
 インド人はダルマという言葉を聞くと、それが文脈によって、規律とか善とか正義とか教えとか、どのような意味で用いられていようと、それはどこに存在するか、保持するものは何か、その場所はどこか、ということを反射的に考える。とにかくダルマはどこかに存在するもの。

・諸法(もろもろのダルマ)
=存在するものすべて。

・空相=空という特徴。
相(すがた)ではない。相には、手相や家相や真相のように、外に現れた形(によって知られる内面の姿)という意味があるが、原語「ラクシャナ」は「AをA以外から区別するための目印」といったほどの意味で、つまり単純に「特徴」という意味。
相=ラクシャナ=XをX以外から区別するための目印=特徴。

・イハ(ここにおいて。ここ。この場所)は漢訳では省略されている。
イハ、シャーリプトラよ。

・十二処の 
処=アーヤタナ=場所、休息所、自己を自己たらしめている根拠。

十八界の
界=ダートゥ=基盤、基礎、自己を自己たらしめている根拠。

感覚(六根)で感知(六境)して認識(六識)する。

根=インドリア=感受する作用、能力、機能、感覚の装置(センサー)。
センサーは感知するだけで判断はしない。

六つの感覚の装置がとらえる対象が六境。
境=ヴィシャヤ=対象となる領域または対象範囲。
法境(心的対象)の法(ダルマ)は単に心のはたらきが向かうところという意味。

・十二縁起
①無明=アヴィディヤー。
(明知=ヴィディヤー)

②行=サンスカーラ。
③識=ヴィジュニャーナ

④名色=ナーマ・ルーパ
=個体的存在の精神的ならびに物質的な諸要素(五蘊とほぼ同じ)。

⑤六処(シャド・アーヤタナ)
=種々の感覚能力(装置、センサー)。
六入と漢訳されることがある。

⑥触=スパルシャ
=対象との接触。

⑦受=ヴェーダナー

愛=トゥリシュナー=渇愛。
さまざまな感覚にもとづいて欲望が生まれる。
感受したればこそ、それを我が物としたいという欲望が起きる。
これが愛。原義は「渇き」で、のどが渇いて水を飲まずにはいられないということに喩えられるような根源的な衝動を意味する。いわゆる煩悩。


⑨取=ウパーダーナ=執着。
これのみが正しいとか、我が物を離すまいという頑強な気持ち。これも煩悩。

⑩有=バーヴァ=存在すること、起きること。
ゆるぎない(いい意味でも悪い意味でも)個人的自我がついに確立されてしまう、その確立。

⑪生=ジャーティ=誕生、生まれること。
著者は、誕生ではなく、生存状態(生活)と解釈すべきだと考えている。

⑫老死=ジャラー・マラナ=老いること・死ぬこと。

・四諦の諦(サトヤ。パーリ語「サッチャ」)を真理と訳す誤り。
苦集滅道(四諦)なく、という一文は、四つの真理はない、という意味に解すると、真理はないということになる。真理はない、という経典があるだろうか。

苦諦は苦聖諦の略。
聖諦のパーリ語はアーリ・サッチャ。
これを現代の学者は、聖なる真理、と訳すのは誤訳だと筆者は考える。
苦聖諦は、迷いの生存は苦であるという真理ではなく、端的に「苦というダルマ」のことで、「確実なもの」と訳すのが妥当。

(いやいや、真理に「も実体は」「ない」って意味でしょ。
自性があるという意味で「確実なもの」がないってことでしょ。
『般若心経』は瞑想に「も使える」だけなんじゃないの?)

・智もなく得もなし、の「智」(ジュニャーナ)は、原語が違うので、般若の智慧(プラジュニャー)ではないことはたしか。智は知全般。

プラジュニャー
=プラ(「前に。前方に進める」を意味する接頭辞)
+ジュニャー(「知る」を意味する動詞語根)

・ダルマの結合(得)と分離(非得)。
もろもろのダルマを結合させるはたらき、すなわちダルマの獲得作用のことを、得(プラープティ)といい、
分離させるはたらきを「非得」(アプラープティ)という。

「無所得」は損得の打算を超えた心境ではない。得に対する非得、すなわちダルマを分離させるはたらきのこと。著者は、「以無所得故」を、「この故に、ここにはいかなるものもないから」と訳している。

・「菩提薩埵 依般若波羅蜜多故」
三人称単数の語尾を持つ動詞「ヴィハラティ(安住している)」に対する主語は彼、菩薩。

依般若波羅蜜多の
「依」=アーシュリトャ=~を拠り所として、~に立脚して、~を基盤として。

・「心無罣礙 無罣礙故」
の心=チッタ。
経題の心=フリダヤではない。
罣礙は、
罣=引っかけるもの、
礙=妨げるもの、
を意味し、
アーヴァラナを翻訳するためにつくった述語だと思われる。
アーヴァラナ=妨げとなるもの、閉ざすもの、覆うもの、取り囲むもの。

・「無有恐怖 遠離一切 顛倒夢想」
の「一切」はもとの玄奘訳にはない。サンスクリット原典にもない。
「一切」があるのは羅什の訳であり、おそらく、読誦する際に語調を整えるために挿入されたのではないかと著者は思う。
『般若心経』は読誦経典として、できるだけ四文字でリズムをとれるように工夫されている。
「無有恐怖」の「有」はなくても文意に影響しない。

顛倒=ヴィパルヤーサ=逆さま。

「夢想」は漢訳の段階で補われたもので、対応するサンスクリットはない。
顛倒を強調するためだと思われるが、要するに、ないものをあると考えることが「顛倒夢想」。

遠離=アティクラーンタ=階段を昇りきっている=超越する。

・サンスクリットの「ニシュタ・ニルヴァーナ」は「涅槃に安住している」または「涅槃を達成している」というほどの意味。
「究竟涅槃」では「究竟の涅槃に入る」と解すべきだという人もいるが、究竟は余計で、「涅槃に入る」で十分。

・ニルヴァーナ。
〔=「ニル」(接頭辞)
+「ヴァ―」(動詞語根「(風などが)」吹く)
=(風などが)吹いて、なくす〕
=吹き消すこと、吹き消した状態。
燃え盛る煩悩の火という意味はない。
諸仏典には煩悩や苦蘊が燃え盛る火に喩えられ、火を消す、火を厭うといった表現がみられるが、火を消すには水をかけるとか、燃えるもの自体をなくすのが一般的であり、吹いて消す、という用例はまずみあたらない。

涅槃とは妨げない自由の境地。
語根「ヴァ―」に接頭辞「ニル」がついた動詞の使役形は、「香りを放たない」という意味しかない。
語根ヴァ―には香りを放つ、という意味もあるが涅槃とは関係がない。
外国のパーリ語研究者の間では、ニルヴァーナの語根はヴァ―ではなくヴリ(動詞語根「覆う」)であろうと考えられている。つまり、覆いのない状態。
空海は、妨げのない自由な境地が涅槃に入ることだと解説している。

(たしかに、煩悩の火は吹いて消える程度の火ではありませんよね)

・「阿耨多羅三藐三菩提」
=この上ない、完全な、さとり
=アヌッタラ・サンミャク・サンボーディ。

・「能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪」
真実と不虚は同じ意味を言い換えているだけのように見えるし、不虚が真実の理由になるとは考えにくいので、「故に般若波羅蜜多」と読んでしまうのだと思われる。
が、原典では「偽りがない“から”、真実である」文構成となっている。

不虚=アミティヤー=矛盾していない、嘘偽りでない。

・マントラ
=マン(「考える」を意味する動詞語根)
 +トラ(「手段」を意味する接尾辞)
=思考の道具。


日本語ではわけのわからない言葉を指して呪文のようだと言ったりするが、
インドでマントラのようだといえばそれは最高の褒め言葉。
インド人がなんのことわりもなくマントについて語るときは、いつでもそれはヴェーダの一節を指す。
仏教はヴェーダの権威を認めなかったので、初期仏教の時代にはマントラという言葉を用いることはなかった。
ただ、マントラに類する祈りの言葉は多少あったようだ。上座部と袂を分かった大衆部という部派は、経律論の三蔵以外に、陀羅尼蔵または持明蔵と呼ばれる多くの祈りの言葉を所蔵していたことが知られている。
パーリ聖典の中にもパリッタと呼ばれる守護句〔例えば、病気を防ぎ、あるいは治し、蛇の毒とか悪霊から身を守るために祈る言葉〕を誦えることが釈尊によって認められていたことが記されている。
 インド仏教徒がヴェーダの権威を認めなかったとしても、マントラこそ真に尊ぶべき祈りの言葉であるというインド一般の通念まで否定できたかというと、それは疑問。

・釈尊ご生誕の聖地ルンビニーの守護神は、生母マーヤー(摩耶)夫人。
釈尊を産んでわずか七日で没したマーヤーは幻影を意味する。
今はネパール領のその現地名ルンミンデーイの原意は、失われた女神。

・釈尊より数百年も隔てて作られた経典でも「仏説」とされる。
ほとんどの経典は「如是我聞(このように私は聞いている)」という言葉で始まるのが普通。
必ずしも釈尊から直接聞いたという意味ではなく、むしろ伝承されてきた教えの正統性を示す言葉だと考えられる。

・玄奘より後の時代に訳出された『般若心経』は、すべて「大本」からのもの。
大本=完全な形の経典。
完全な形とは経典としての一定の形式を踏まえていること。
如是我聞に始まり、だれが(導師)、いつ、どこで、だれに向って(会衆)説いたかということが明記されていて、そのあとで、「何を(教え)」が示されている経典のこと。
そして最後に「賛嘆の言葉」が述べられる。
要するに、序文、本文、結びの文がそろっているのが大本であり、普通の経典の形式。
ところが、玄奘訳の『般若心経』はこうした体裁が整っていない、本文だけの小本。
略された経典なら最初に大本が存在していなければならないはずだが、訳経史から判断すると、最初に小本が生まれ、そのあとに大本が生まれたようである。

・小本にはないが、大本では、舎利子(しゃりし)と観自在菩薩の対話に先立って、釈尊が瞑想に入る場面がある。また、釈尊の前に大勢の聴衆がいた。最後に釈尊が口を開き、観自在菩薩を褒め称え、それを聞いて皆が喜んだ。以上が、大本『般若心経』にある。

 【参考にしたもの】

【東方MMD】ひじりんが般若心経をサンスクリット語で歌いました
http://www.nicovideo.jp/watch/sm25260864
のコメント抜粋
“※「gate」は印欧祖語において「get」ど同根。意味は「向かう、行く」
※「samgate」の「Sam-」は強調の意味。「samgate」で「最後までやり遂げる、極める」の意味
※「Bodhi」は「仏陀」や「菩提」と同じく「budh(目覚める、さとる)」の活用形。
※「Svaha」は、古代インドのバラモン教の儀式において天上の全ての神々に捧げられた供物の事を指していた。転じて、願いが神々に届く事を祈る聖句とされ……供物を祭火に投じる時の掛け声としてこの言葉が唱えられた。“

中村元訳「般若心経」の『小本』と『大本』の比較
http://emuzu-2.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_40a7.html

般若心経(大本)_現代語訳
http://www.inner-wish.com/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%A4%89%E5%AE%B9%E3%81%AE%E9%81%93/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C-%E5%A4%A7%E6%9C%AC-%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3/

般若心経の周辺知識
http://hagiland.hatenablog.com/entry/20130429/1367220099

般若心経は真言を説いたお経 -エンサイクロメディア空海-
http://www.mikkyo21f.gr.jp/academy/cat48/

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月23日
般若心経メモ114
周辺知識

1. 色:物質的現象として存在するもの。外界にある物質全般。また特に人間の身体。
2. 受:外界からの刺激を感じ取る感受の働き。感覚。
3. 想:いろいろな考えを組み上げたり壊したりする働き。表象。

般若心経メモ115 周辺知識
4. 行:何かを行おうと考える意思の働き。意志、意志的形成力。 5. 識:あらゆる心的作用の基本となる、認識の働き。六識。六識については後述。 2~5の受想行識は精神作用、心の要素である。外界(物質界)のことはすべて「色」に含まれる。

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月23日
般若心経メモ116
周辺知識

☆十二処十八界

六根と六境を合わせて十二処と言う。十二処に六識を加えて十八界と言う。

六根とは、眼、耳、鼻、舌、身、意。
六境とは、色、声、香、味、触、法。
六識とは、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識。

般若心経メモ117 周辺知識 それぞれ対応している。六根の最初の5つ(五根と言う)は五感と同じ。身は触覚のこと。眼で色(ここでの色は五蘊の色とは違うのだろう)、耳で声、鼻で香、舌で味、身で触を認識する。これらで物質界つまり五蘊の「色」を捉える。

般若心経メモ118 周辺知識 六つ目の意は心のこと。心も認識器官と考える。意で認識するのが法。意をさらに五根と対応させたのが六識である。 五蘊十二処十八界を三科(さんか)と呼ぶが、これは後世の人が付けた名前で、ブッダ自身がそう名付けたわけではない。

般若心経メモ119 周辺知識 ☆四諦 ブッダが悟りを得た後に初めて弟子たちに説いた法のうちのひとつとされる(初転法輪)。この世の苦を滅して悟りを得るまでの四つの真理である。

般若心経メモ120 周辺知識 1. 苦諦(くたい):この世・人生は苦であるという真理。一切皆苦。 2. 集諦(じったい):その苦を生み出す原因は煩悩であるという真理。

般若心経メモ121 周辺知識 3. 滅諦(めったい):その煩悩を滅すると苦が滅し涅槃が実現するという真理。 4. 道諦(どうたい):その煩悩を滅するための具体的な道という真理。八正道。

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月23日
般若心経メモ122
周辺知識

☆四苦

1. 生:(輪廻によって)生まれる苦しみ。
2. 病
3. 老
4. 死

般若心経メモ123 周辺知識 ☆八苦 四苦に加え、 5. 愛別離苦(あいべつりく):愛する対象と別れなければならない苦しみ。 6. 怨憎会苦(おんぞうえく):憎む対象に出会わなければならない苦しみ。

般若心経メモ124 周辺知識 7. 求不得苦(ぐふとっく):求めても得られない苦しみ。 8. 五陰盛苦(ごおんじょうく):人間生存自身の苦しみ。

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月23日
般若心経メモ125
周辺知識

☆十二縁起

旧訳では十二因縁。また十二支因縁、十二支縁起とも。苦の原因は無明から始まり老死で終わるとされる、十二の因果の理法。これらは直線的な因果の連鎖であり、順序があるので注意。

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月24日
般若心経メモ126
周辺知識
十二縁起続き

中村元氏によると、

1. 無明(むみょう):過去世に無限に続いてきている迷いの根本である無知。
2. 行(ぎょう):過去世の無明によって作る善悪の行業。
3. 識(しき):過去世の業によってうけた現世の受胎の一念。

般若心経メモ127 周辺知識
4. 名色(みょうしき):胎中における心と体。 5. 六入(六処(ろくしょ)):胎内で整う眼などの五根と意根。
6. 触(そく):出胎してしばらくは苦楽を識別するには至らず、物に触れる働きのみがある。

般若心経メモ128 周辺知識
7. 受(じゅ):苦・楽・不苦不楽、好悪を感受する感覚。
8. 愛(あい):苦を避け常に楽を追求する根本欲望
9. 取(しゅ):自己の欲するものに執着する働き。
10. 有(う):取によって種々の業を作り未来の結果を引きおこす働き。

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2014年7月6日
@lanekota @wayofthewind @hogege55 @virusyana 反仏教の儒教とキリスト教が大好きbushido!
仏教伝来以前と明治以降=偽伝統。仏教国教時代=真伝統。仏教説話はあるが神道説話はなし。愛は仏教では迷妄と執着を齎す悪。仏教嫌いは愛の歌大好き。


ヒロチャ ‏@hogege55 2014年7月6日
仏頂面ありて神頂面なしとはこれ如何に!?…うーん "@kitsuchitsuchi: @lanekota @wayofthewind @hogege55 @virusyana …仏教説話はあるが神道説話はなし。…"

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2014年7月5日
@lanekota @wayofthewind 武士道
初出は江戸初期編纂の『甲陽軍鑑』。意味は個人的生存術。
山鹿素行(朱子学批判で赤穂に配流。門弟に大石良雄)の士道論など儒教道徳が影響。
耶蘇だらけの佐賀藩の山本常朝『葉隠』は生きる為のマナー本で禁書。
新渡戸の耶蘇流武士道。


はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月24日
般若心経メモ129
周辺知識

11. 生(しょう):生まれること。
12. 老死(ろうし):老と死。


はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月24日
般若心経メモ137
周辺知識

☆五趣輪廻・六道輪廻

1. 天道
2. 人間道
(3. 修羅道:五趣ではこれが無い。後から加わって六道輪廻となった。)
4. 畜生道
5. 餓鬼道
6. 地獄道

般若心経メモ138 周辺知識 五趣も六道もブッダが考えたのではない。後世になってまとめられた概念である。ダンマパダでは、「善趣」(良き境遇)と「悪趣」(悪しき境遇)として説かれているだけである。スッタニパーダでは、具体的に、ブッダのことばとして、「地獄」の様子が語られている。

般若心経メモ139 周辺知識 ☆輪廻 ブッダの仏教においては、輪廻は心の状態である。空間的事象あるいは世界ではない。また、必ずしも「善趣」つまり後の「天道」を肯定しない。天においても生病老死の四苦から逃れることはできないし、煩悩から解放されることもないからである

般若心経メモ140 周辺知識 ブッダにとっては、輪廻の先がどこであるかは大した問題ではないのである。輪廻そのものが苦なのである。なぜならばそれは「生病老死」の四苦の繰り返しに過ぎないからである。

般若心経メモ141 周辺知識 であるから、輪廻から脱し、涅槃に至ること、すなわち解脱することがブッダの仏教の究極の目標なのである。ブッダは善業も悪業も否定した。出家してひたすら煩悩を消すことだけに打ち込むべし。これがブッダの教えである。

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月1日
般若心経メモ10

「空」とは。

中村元氏(岩波文庫)によると「なにもない状態」というのが原意だそうだ。インド数学ではゼロを意味するとも。ゼロの発見がインドであったことに留意。「空」を「ゼロ」と考えた場合、五蘊皆空はどういう風に捉えられるだろうか。これは考える余地がある。

般若心経メモ11 「空」とは。 中村元氏の著書(岩波文庫)からの引用続き
> 物質的存在は互いに関係し合いつつ
> 変化しているのであるから、現象と
> してはあっても、実体として、主体
> として、自性(じしょう)としては
> 捉えるべきものがない。これを空と
> いう。


はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月3日
般若心経メモ28

度一切苦厄。
どいっさいくやく
=一切の苦厄を度したまえり
==一切の苦悩(苦しみ)や災厄(わざわい)を取り除いた(超えた)。

この一文は元の梵本には無い。玄奘が挿入したと見られる。実際、他の訳には無いが、羅什訳にはある
。これは奇妙である。

般若心経メモ29 玄奘が羅什を写したかという疑惑の根拠の一つであろうか。片方が片方を写したとすれば、時代的には羅什が先であるから、玄奘が羅什を写したことになる。しかし羅什訳も本当は羅什ではなく、玄奘より後の誰かが訳したのではないかとの疑いもあり、断定はできないらしい。

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月3日
般若心経メモ32

菩薩は大乗仏教特有の存在で、ブッダの時代にはなかった。ブッダの時代にはいなかった菩薩が、ブッダの弟子で実際にいた舎利子に説いている。あり得ない構図である。

佐々木閑氏によると、ここに、大乗仏教がブッダの仏教より上だと言いたい作者の意図が読み取れると言う。

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月5日
般若心経メモ42

第1段:色性是空 空性是色

中村元訳
この世においては、色は空であり、空だからこそ、色であり得るのである。

解釈
この世のあらゆる物質的存在・現象すなわち「色」は常に変化している。また、常に変化しているからこそ、「色」として認識されるのである。

般若心経メモ43 第二段:色不異空 空不異色 個人的訳案 色といっても、それは空と別ものではなく、空を離れてあるのではない。また、空といっても、それは色と別ものではなく、色を離れてあるのではない。

般若心経メモ44 つまり、色と空は不可分同一のものであるということである。 また、中村氏によると、第二段は第一段の思想的表現であると言う。

般若心経メモ45 僕は以下のように解釈した。 これはつまり、一切のものは、実体がないという状態つまり「空」において、あらゆるものと関係し合うことによって、物質・現象として、つまり「色」として、初めて成立しているのである。

般若心経メモ53 佐々木氏は、五蘊皆空を「五蘊とは実在の要素ではなく、『実体を持たないという状態』に与えられた仮の名称だ」とも述べている。ここに釈迦の時代の仏教を否定する明確な主張が現れているのだ、と。

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月6日
般若心経メモ57

なお、ブッダの言う「空」と般若心経の「空」を混同してはならない。これは佐々木閑氏もはっきり、違うと言っている。

ブッダの時代にも「空」の概念はあった。「ブッダのことば」1119段には、ブッダ自身の言葉として、翻訳を2つ挙げる。

般若心経メモ58
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空と観ぜよ。(中村元氏訳、ブッダのことば、岩波文庫)
「ここに自分というものがある」という思いを取り除き、この世のものは空であると見よ。
(佐々木閑氏訳、100分de名著テキスト、NHK出版)

般若心経メモ59 ブッダの「空」観とはどういうものだったのか。佐々木氏によると、それは、ブッダの世界観、すなわち「五蘊十二処十八界」と「法」から来るものである。 以前言及したように、十二処とは六根と六境を足したもの。それに六識を足したのが十八界であった(般若心経メモ7)。

般若心経メモ60 法とは、「世間の実相」「世界の真理」を言う。この真理を具体的に言えば、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」である。また、法には十二縁起の法もある。さらに、四諦の法もある。

般若心経メモ66 ブッダの世界観は、我々が「そこに存在する」と思っている対象は、実体のない虚像に過ぎないということになる。 実体のない虚像であるということ、これが、ブッダの言う「空」の意味であると佐々木氏は言う。 かなり唯心論的な見方であると言ってよかろう。

般若心経メモ67 これは般若心経の「空」とは全く異なる。般若心経では、十八界も諸法も無いのである。何も無い状態が「空」なのである。

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月7日
般若心経メモ68

般若心経の「『色』は常に変化している」とブッダの説く法の一つである「諸行無常」あるいは「無常」を混同してはならない。両者は異なる思想に基づく、別の概念である。般若心経では、法もまた、常に変化しているのである。

般若心経メモ69 こうなるともう般若心経はとにかくブッダの教えの完全否定である。そして実際、そうらしいのだ。その理由について、佐々木氏は、大乗仏教が興った当初は、新興勢力であったため、古い教えを刷新しようとしたのではないかと述べている。

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月11日
般若心経メモ99

阿耨多羅三藐三菩提は原語アヌッタラー・サムヤックサンボーディanuttarā samyak-saṃbodhi の音写。無上正等正覚と意訳する。「この上もない、正しく平等な目ざめ」「完全なさとり」の意。仏の覚りを指す。

般若心経メモ101 是大神咒。 ぜだいじんしゅ =これ大神咒なり。 ==大いなる真言、 大神咒は原語マハー・マントラ mahā-mantra の訳。「神」の字は漢訳者の挿入らしい(中村元氏の推測)。マントラは通常、咒、明咒、真言と訳される。原語直訳ではおそらく、大咒

般若心経メモ102 是大明咒。 ぜだいみょうしゅ =これ大明咒なり。 ==大いなるさとりの真言、 原語はおそらく、マハー・ヴィデヤー・マントラ mahā-vidyā-mantra で vidyā はさとり(無明に対する明)の意。

般若心経メモ103 是無上咒。 ぜむじょうしゅ =これ無上咒なり。 ==無上の真言、 原語はおそらく、アヌッタラー・マントラ anuttarā-mantra で anuttara はこの上もないの意。

般若心経メモ104 是無等等咒。 ぜむとうどうしゅ =これ無等等咒なり。 ==無比の真言は、 原語はおそらく、アサマサマ・マントラ asamasama-mantra で asamasama は比類の無いの意。

般若心経メモ107 掲帝掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎訶 ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか ==(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。)

般若心経メモ108 原語は gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā である。gate 以下の4語はおそらく女性形単数の呼格。

般若心経メモ109 完全な智慧 - 般若波羅蜜多(prajñāpāramitā)を女性的原理とみなして呼びかけたのであろうと中村氏は解釈・推測する。bodhi も呼格である。svāhā は、中村氏によると、咒の最後に唱える秘語。

般若心経メモ110 gate を於格(場所を示す)と解すると、以下のようにも訳し得る。 往けるときに、往けるときに、彼岸に往けるときに、彼岸に完全に往けるときに、さとりあり、スヴァーハー。

般若心経メモ111 この呪文が、五蘊皆空と並ぶ般若心経のもう一つの真髄である。実際、心経の「心」には「呪」の意もあることから、まさにこの呪文こそが「般若波羅蜜多心」とも言える。


はぎ ‏@hagi_ojy 2013年2月20日
般若心経メモ
般若経は紀元前後、つまりブッダの時代より5〜600年後にインドにて起こった大乗仏教の経典。作者不明。般若心経はその中のひとつ。
ブッダの教えではない。むしろブッダの教えを否定することによってブッダを超えようとしたとも考えられる。

般若心経メモ ちなみに、ブッダの呼び名は、釈迦、釈尊、釈迦牟尼、釈迦尊、世尊、仏陀、如来、ゴータマ・シッタッダ、ガウタマ・シッダールタ、多陀阿伽度、阿羅訶、三藐三仏陀など多数。

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年2月21日

般若心経メモ
波羅蜜多(新訳)、波羅蜜(旧訳)とは、梵語パラミータの音写。
此岸から彼岸に渡る(つまり悟ること)、あるいはそれによる究極最高・完成態。大乗仏教において菩薩が修めなければならない実践徳目。

般若心経メモ 般若経では、波羅蜜多(波羅蜜)には六波羅蜜多があるという。
1. 布施波羅蜜 - 檀那(だんな、Dāna ダーナ)
2. 持戒波羅蜜 - 尸羅(しら、Śīla シーラ)
3. 忍辱波羅蜜 - 羼提(せんだい、Kṣānti' クシャーンティ)
4. 精進波羅蜜 - 毘梨耶(びりや、Vīrya ヴィーリヤ)
5. 禅定波羅蜜 - 禅那(ぜんな、Dhyāna ディヤーナ)
6. 智慧波羅蜜 - 般若(はんにゃ、prajñā プラジュニャー)

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年2月24日
般若心経メモ2

菩薩は原語ボーディサットヴァの音写。さとりを求める者、求道者。元来はブッダの前世の呼び名だったが、大乗仏教興起時代の革新派以降、求道者一般を指す。


王王大栄 ‏@ououdaiei 12月21日
他宗旨や違った意見の集団と殺しあった欧米で「信仰の自由」が生まれるのは、まあそれだけ宗教=耶蘇教の支配・洗脳が深刻だからだろうか。仏教は当然として儒教でも他の宗旨は「実力行使」されない限りに他宗旨を実力排除しなかった。それだけ耶蘇教・一神教は面倒な思想に思う。

王王大栄 ‏@ououdaiei 12月22日
信仰を第一義とする耶蘇教は、信仰が違うことは、致命的な衝撃を受ける。ので簡単に殺しあえる。それが欧米。東洋は「信」も究極的には「行」の範疇に入れてしまえるので、話し合いができると思える。信の果ての「悟り・救い」が目的なので、方法の変えが効く。

(仏教では、信仰や教義に執着するのも「苦=悪」なので、信仰や教義はあくまで悟るための手段です)



菊池 ‏@kikuchi_8 12月20日
個人の信仰を批判する事と、利権・権力団体としての「宗教」を批判する事は全く異なる。社会の不正に目をつぶり黙っている事は「幸福」ではなく、麻薬中毒と変わりがない。薄っぺらい「幸福論」はカルトが批判を封殺する手段たりうる。これではマルクスの「宗教は阿片」の言辞に抗しえないではないか。

この点キリスト教と仏教では全く異なる。仏教は対機説法という対話による説得や、のちに哲学として整備されてからは他学派との論理を極めた熾烈な喧々諤々の論争(龍樹は帰謬法を多用)を繰り広げた。論理的思考と対話による説得を主とし、「宗教を批判するな」という耶蘇的な権威主義的態度とは真逆。

そもそも「個人の信仰」だろうと批判していいのだ。むしろ、東洋ではそれが当たり前。一神教の西洋と違い宗教批判はタブーではない。仏教が出現した時代は様々な自由思想家が論争を繰り広げていた。支那の諸子百家の時代に幾つもの優れた思想が出現した。自由な批判・闘論から優れた思想は生まれる。


王王大栄 ‏@ououdaiei 12月21日
@kikuchi_8 内心の自由を尊重していても、それで他宗旨への攻撃や政治行動となると、当然規制をかける。信長以降の日本{明治までは特に}と中華圏とかインドはそういうのが了解事項に思えます。他宗旨を「邪教」よばわりする耶蘇やカルトが「個人の信仰を犯すな」など烏滸がましいと思う。

菊池 ‏@kikuchi_8 12月21日
@ououdaiei 同感です。日本も最初はキリシタンの信仰の自由を認めて、儒学や仏教と同じように受け入れていました。ですが先方が神社仏閣の破壊などの具体的な攻撃行動を始めたのでやむを得ず排除する事になりました。己の行状を反省する事も無く本当におこがましい物言いだと思います。

櫻薫をる戀ひ淚燈るる ‏@sakurakouyouhen 12月21日
@kikuchi_8 @ououdaiei
オメガオメガさんが以前ツヰートなさってました事ですが…
切支丹全盛期に宣教師と共謀し、大勢の日本人女性を海外に売り飛ばす商売をしてゐたのが、切支丹だったそうですね。學校の歷史の授業では、切支丹排除した豊臣秀吉公が惡者であると習います

菊池 ‏@kikuchi_8 12月21日
@sakurakouyouhen @ououdaiei その通りです。秀吉が理由なく切支丹弾圧したかのように書きますね。奴隷貿易は徳富蘇峰の「近世日本国民史」に書かれていたそうですが、官憲の命令で削除されたそうです。戦前からキリスト教の暗部への言及は禁圧されていたのが分かります

菊池 ‏@kikuchi_8 12月20日
自由に相互の思想を批判し合えるからこそ、平和なのである。一切の宗教批判を抑圧する歪な状況の方が、反動で武力による殺し合いに発展する可能性が高い。仏教と「六師外道」の時代や諸子百家の時代は言論の自由が保障されていた。我が江戸時代も同じである。国学、儒学、仏教、蘭学が入り乱れていた。

諸子百家の時代は平和ではなかったが、思想が自由だったからそうなったのではなく、むしろ平和でないからこそ、それを収めるにはどうすればよいか?という課題を背負って多様な思想が出現した。平和ではなかったが、思想は自由であり、古典の中の孔子も孟子も老子も荘子も墨子も其々活き活きしている。

マルクスは「宗教は阿片」と言ったが、共産主義イデオロギーも「阿片」である。硬直化して、更新を許さず、自由な思考を妨げる体系である点で、キリスト教と変わることはない。キリスト教会も共産党独裁政府も対話や討論ではなく、異端審問や粛清という暴力によって異論を抑圧してきた歴史がある。

結論。「異論を暴力的手段で排除するのは自信の無さの表れである」。批判的検討に耐えられないからこそ、対話を忌避するのである。そうでないなら、堂々と反論して返り討ちにすればよい。それをしないという事は非常に脆い思想・信仰という事である。横文字左翼が異論者をブロックするのも同じ
である。


日本酒まめちしき ‏@Sake_Mame 12月20日
【日本酒の呼称】日本の酒税法上では清酒(せいしゅ)、一般的には酒(さけ)またはお酒(おさけ)、日本古語では酒々(ささ)、僧侶の隠語で般若湯(はんにゃとう)、江戸時代にはきちがい水、現代ではポン酒(ぽんしゅ)と呼ばれることもある。 #sake


王王大栄 ‏@ououdaiei 12月22日
水子供養は、一つは「堕胎後の母親の心的トラウマ」のケアが、為されなかったことで燎原の火のように広まったと思う。多少は合理的で不要でもないと思う。けど、なにか煽りすぎている気も十分する。則「水子が恨んでいる」となると江戸までの日本では頻繁に行われた間引きで日本は呪殺されているだろう

かあこ ‏@0nigiri_3_ 10月14日
「しんぶん赤旗」「現代こころ模様・葬儀考」
 第4部「『墓』と人生」
http://www.jcp.or.jp/akahata/html/senden/200511_sogikou.html#24-29 …

水子とたたりはいつ結合したのか。弘文堂『新宗教事典』によると、寺などが水子供養を始めたのは昭和五十年(一九七五年)ごろから。だから、「水子供養への関心の高まりは一九七〇年代に入ってから」と述べています。 http://www.jcp.or.jp/akahata/html/senden/200511_sogikou.html#24-29 …

岩波『仏教辞典』も、 「一九七〇年代から」と書いています。一九七一年、埼玉県秩父山中に「紫雲山地蔵寺」が完成。落慶式には佐藤栄作首相(当時)らも参列しました。 http://www.jcp.or.jp/akahata/html/senden/200511_sogikou.html#24-29 …

建立者は反共右翼・紫雲荘の橋本徹馬山主。若き日の美智子皇后の不眠症治療に協力したとされる人物です。寺の別名が“水子地蔵”。水子の供養を売りものに、またたくまに一万体の水子地蔵を売りつくしました。http://www.jcp.or.jp/akahata/html/senden/200511_sogikou.html#24-29 …

これも神社の初詣とかと同じかあ。マスコミとお寺が結託して作り出した人心掌握術を使ったお金儲けの技だね。

王王大栄 ‏@ououdaiei 12月20日
誠天調書さんが「水子供養」に妙な医療利権と仏教利権があると指摘していた。大きな石の墓と長すぎる年期供養は、一種の利権もあると思う。母の話では昔の墓は、リサイクルして使っていたのでそこそこ墓場に人骨が転がっていたとか

かあこ ‏@0nigiri_3_ 12月20日
水子とたたりはいつ結合したのか。弘文堂『新宗教事典』によると、寺などが水子供養を始めたのは昭和五十年(一九七五年)ごろから。だから、「水子供養への関心の高まりは一九七〇年代に入ってから」と述べています。http://www.jcp.or.jp/akahata/html/senden/200511_sogikou.html#24-29 …

建立者は反共右翼・紫雲荘の橋本徹馬山主。若き日の美智子皇后の不眠症治療に協力したとされる人物です。寺の別名が“水子地蔵”。水子の供養を売りものに、またたくまに一万体の水子地蔵を売りつくしました。 http://www.jcp.or.jp/akahata/html/senden/200511_sogikou.html#24-29 …

ゼッキオ ‏@planbsk8rsgun 4月7日
@pimemepi @karimarimari 例えば、水子供養なんていうのは、比較的最近に、近代医療で堕胎が簡単になったのと、オカルトブームで、赤ちゃんの霊を怖がる人達が増えてきたのに、悪徳神社が乗っかって出来た商売で、昔はそんな事する神社は無かったそうです

完全閉店 ‏@lakudagoya 11月21日
仏法と兵法を使って陰謀論をやってはいけない法則 #陰謀論あるある

狼たちは知っている ‏@wolvesknow 2015年12月26日
三略も六韜も孫子の兵法も、曹操が注釈をつけた分の兵法も、全部読んだけど、たしかに、この視点から陰謀論を語る人はいないんだよね。皆、耶蘇教の匂いばかり。耶蘇教的なんだよ。リチャコシ、カレイド、フルフォードetc。で、仏法にお詳しい菊池氏は、よく絡まれるしね。わかりやすい奴らだな。笑

私のブログをご覧くださる方ならお分かりでしょうが、俯瞰する立場というのを固守しようとしてるわけで。 これは、兵法なんだよね。クラウゼヴィッツの戦争論じゃない。ましてや耶蘇教の連中にはできない事。なのに、工作員とか言われる時があって、世界は広いなーって思う。


狼たちは知っている ‏@wolvesknow 2015年12月12日
六韜や孫子の兵法なんてのは、明治初期までは日本人の基礎的な知識だったよね。文明開化で西欧史上主義に誘導されるまで、中国の歴史や思想を学ぶのは基本だった。兵法を学ばれるのはそんなに都合が悪いのかな? それよりマキアヴェッリの君主論を知られる方がまずい気がするが。

完全閉店 ‏@lakudagoya 11月21日
サタンを叩く陰謀論者はいても、マーラに打ち勝とうと頑張る陰謀論者はいない法則 #陰謀論あるある

王王大栄 ‏@ououdaiei 12月15日
仏教っていうけど、日本はもともとは「仏道」「仏法」といっていた。生きための作法・方法ってこと。宗教も英語を日本語訳にした時に老子からもってきたことば「それを私の教えの宗にしよう」生きる作法であって「信仰・信じる」とかでもともとなかったようだ。

そういえば、インドでも「宗教」は「ダルマ」という「法・生きる作法」みたいなもの。仏法も「ブッダ・ダルマ」仏陀の法ってこと。この方が大過ない見方に思えるけど。


王王大栄 ‏@ououdaiei 12月16日
訂正・仏教っていうけど、日本はもともとは「仏道」「仏法」といっていた。生きるための作法・方法ってこと。宗教も英語を日本語訳にした時に老子からもってきたことば「それを私の教えの宗にしよう」生きる作法であって「信仰・信じる」とかでもともとなかったようだ。

STB ‏@RC_StB 6月24日
日本会議が如何に低能か 薩摩長州の芋侍が出てきて、廃仏毀釈をやらかし、そいつらの生き残りが「日本は保守の国」と嘘を付き続けている して、これを見よ
「天皇、仏法を信じ、神道を尊ぶ」(用命紀)
「仏法を尊び、神道を軽んず」(孝徳紀)
大日本帝国は日本史上稀な伝統破壊者だぞ(笑)



完全閉店 ‏@lakudagoya 10月17日
陰謀論コミュには、聖書の引用をベタベタ貼ってやつらを叩く陰謀論者はいても、般若心経やスッタニパータやダンマタなどの仏典を引用してやつらを批判する陰謀論者っていないよね?なんで?

安保 多稼士 ‏@AmboTakashi 2015年11月5日
支配層が仏教の中で特に破壊したいのは、論理的思考を重視する姿勢と、一神教と新プラトン主義を完全否定する無記と空と無常と縁起の思想。 工作員はキリスト教か神道カルト(大本教系)信者だらけ。工作員でない人の思想は仏教寄りの人が多いです。http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

松島 潤平 matsushima-JP ‏@matsushimaJP 2010年7月1日
この機会に改めて六曜について調べてみたんだが、仏教との関連はゼロ、というかむしろ仏教は六曜に否定的なんだな。あくまでも中国起源の占いにすぎんと。そもそも釈迦は占いを禁じていて、親鸞様なんかは「日の吉凶を選ぶことはよくない」と和讃で説いたため、浄土真宗ではほぼタブー

獅子十六 ‏@lion_sixteen 6月19日
そもそも仏教とは一切関係無いし、親鸞は六曜の類を否定してるからな。なお門徒でもジジババは気にしてる模様。 RT @simasyodes: 先輩の結婚式仏滅やったが普通に暮らしてるな RT 赤口で結婚式なんてざらにあるからね。仏滅と赤口の土曜日を避けてたら6週間で4日しか無くなる。

イクヰロン @iqr191
「仏滅 「仏も滅するような大凶日」の意味。元は「空亡」「虚亡」と言っていたが、これを全てが虚しいと解釈して「物滅」と呼ぶようになり、これに近年になって「佛(仏)」の字が当てられたものである。」 仏関係ねーのかよ!!!!!!!

直野隆一郎 ‏@naono 2014年6月5日
元々はそれほど縁起の悪い日ではなかったそうで。なお、仏事と六曜は関係ないので、「釈迦の死んだ日とされる2月15日が旧暦では必ず仏滅になるのは偶然」、これが一番びびったw ◆ 意外と知らない「仏滅」の歴史と基礎知識|NAVER まとめ http://pyn.jp/1kyB3XH

陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 @Keiya_Takahashi 2015年12月26日
県が「大安や仏滅の記載は不適切とカレンダー回収」 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151226-00050002-yom-soci … 大安や仏滅などの六曜が暦に載ったのは明治時代からで陰陽道が関わった江戸時代までの暦はその月の十二支と同じ十二支の日を「建」とし「除、満・・・」と続く中段(十二直)を中心にしていた。

でもね、市販されるカレンダーや暦などには大安や仏滅などの六曜が載っていないとあまり売れないのだそうだ。ところで、陰陽道が関わった江戸時代までの暦でその日の吉凶などを見るのに参考にした中段(十二直)は、香港や台湾などの風水でも吉日を選ぶ時に今でもよく参考にされるようだ。



「人生というクソゲーを攻略する方法」。原始仏教は宗教=執着=苦しみの原因を否定。つまり原始仏教は苦を克服する為の現実的なカウンセリング術
『バウッダ―仏教』。 キリストきょうはユダヤガワルイをとなえた! キリストきょうをたたけなくなった! ✝が黒幕。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-65.html
・「仏教」という言葉の使用例は存外に新しく、明治期の日本が欧米「近代」の移入を図った時に軌を一にする。「仏教」の語は「仏の教え」を意味する少数の場合を除くと、江戸時代末期まで知られていない。
江戸時代までの文献では「仏教」という語はほぼ絶無。教えないし理論については「仏法」といい、
実践に関しては「仏道」(この原語は「さとり」そのものをいう)の語が用いられており、仏法と仏道という語に日本人は(中国人なども)千数百年間なじんできて、今日でも一部は維持されている。
五世紀以前の中国では「道教」とも呼ばれた。
また、多種多彩な漢訳仏典中から特定の教えをみずから選びとって「宗(むね・主・本・長)」とすることが六世紀の中国に生まれ、その宗の教えとして「宗教」の語がここに発明された。
宗教は仏教の下位概念に属し、仏教徒のあいだでのみ用いられて、日本でも明治初期まで仏教諸宗は「わが宗教」と称し、かつ仏教は仏法や仏道(単に「道」だけでも仏教を意味する)などの語で表現されていた。
江戸末期の開国で外国語の翻訳としての今日の用法が定着する。仏「教」としたところにすでに西洋思想による変容がなされている。
同時期に哲学という造語が誕生し、仏教・宗教の後も本来的意味を改変されて、すでに日常語化して現在に至る。
宗教とは「宗」派の「教」えであるから、仏教の下位概念であり、仏教者のあいだでのみ宗教という語は用いられた。


完全閉店 ‏@lakudagoya 5月31日
ぬこたさんは、最近アーリアン思想のアニメやラノベを解析するためにインドの宗教について調べてるけど、まさか検索するまでアートマン=息って知らなかったよ。アートマン=息だとすると、天人と混血しないと魔術使えない「魔術士オーフェン」というのが、アーリア思想だってよくわかるわ。

だって、ポピュラーな「音声魔術」ってアートマン=息という観念そのままでしょう?インド・イランの宗教には(仏教も含め)お経を声に出して唱えるってのがあるし(般若心経やヨーガにすらマントラってあるでそ?)そこがわかれば、本質がわかるのかも?

ほれ、魔術士オーフェンのWikiだhttp://mjk.ac/2LX9Es フォルテ・バッキンガムってロスチャイルドを連想したぞ?wwwドラゴン種族と混血しないと魔術使えないって、バイキングの竜座のα星の北極星信仰だろうな。まあ北欧神話だし、アーリア思想マンセーなのかも?



ヤハウェ(エジプト系の雷神)が奈良の大仏(アーリア系の太陽神仏)なわけねーだろ!  
真言宗が景教(人の神格化禁止)なわけねーだろ!  
                   
ヨガ、呼吸法、瞑想法でリラックス! 『呼吸法の極意 ゆっくり吐くこと』・『ヨガ呼吸・瞑想百科』・ 『ハタヨガの真髄』・『禅の本』・『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-110.html
” マントラ(呪文を繰り返し唱える)の目的は、乱れた心を一点に集中し、考えを一つにまとめること。マントラは、ヴェーダ(聖典)の讃美歌の部分であり、音楽を帯びた詩である。その詩を繰り返すことがマントラであり、愛と自己を捧げるまじめな心で行うと、自己を神に近づけることができる。
・プラーナーヤーマの実践中にマントラを繰り返し、舌や口を動かさないでそのマントラに意識を集中する。そうすると集中力を身につけると同時に、吸気、クムバカ、呼気の長さを伸ばすことができ、呼吸がスムーズになり意識も高まる。
・マントラは早く繰り返してはならない。吸気、呼気とクムバカをそれぞれ同じ長さで平均したリズムで行い、それに合わせるべきである。
・マントラは「アー・オ・ム」”

日猶同祖論や景教渡来説のおかしさ
http://kokuhiken.exblog.jp/24803627/
”〇兵庫県に大避神社という神社がある。御祭神は秦河勝である。この時点で「秦氏=猶太人説」「秦氏=景教徒」という説は崩れるのではないか。猶太教や景教を含む耶蘇教では人を神として祭るのはご法度のはずである。こういう基本的な事柄を無視することからして日猶同祖論や景教渡来説はうさん臭い。

日猶同祖論者は日本人と猶太人の宗教観の違いという根本的なところを無視する。どこそこにダビデの星があるとか、この日本語はヘブライ語と響きが似ているとか、その手の後付とかどうとでも解釈できる枝葉の部分ばかり強調する。猶太教徒にとって最も重要な宗教観の部分で日本人と猶太人は相容れない

日本はアニミズムの国であり猶太人が重視する「天地の創造主」という信仰は無い。「猶太教が一神教化する前の多神教徒としてのヘブライ民族が渡来したのだ」と言う者もいるが、それならば道教やヒンドゥー教の神々も仏教の護法神として渡来しているから「猶太」だけ取り立てて言う意味がない

〇「多神教徒としてのヘブライ民族が渡来した」とまで言って、あくまでも日本と猶太を結び付けようとするのは、何らかの政治的意図があるとしか思えない。道教の神もヒンドゥー教の神も日本に渡来している。例えば金刀比羅宮の御祭神はガンジス川のワニの神である。かと言って日印同祖論は言われない。

〇修験道も日猶同祖論において定番である。小箱の頭巾やほら貝が猶太教で使われる物と似ているといった類である。しかし、修験道と猶太教は根本的に世界観が異なる。修験道は原始アニミズムを色濃く継承し、木石など自然物を崇敬する。超越神を崇拝する猶太教でそれはあり得ないだろう。根幹が違う。

〇とはいえ一神教的な傾向を持つ修験一派が存在するのも事実である。それが丹波や鞍馬山の人脈である。インサイダー筋が大本教の母体として示す大江山の霊媒集団や神智学の影響を受けている鞍馬寺の鞍馬弘教等である。大本一派は一神教的だが元々かかる傾向性を持つサンカの修験一派が母体の可能性。

古代のラビと修験者の頭巾やほら貝、服装が似ていたとしても「だから何」という程度の話に過ぎない。そんな事より、明らかに意図的に「天地の創造主」というキリシタン神学由来の概念を導入した平田篤胤の方が問題である。出口王仁三郎もその神観を継承している。同祖論もこの周辺が主に唱える。

〇ネストリウス派=景教は人性と神性を明確に区別する。マリアも「神の母」ではなく「人性としてのキリストの母」という扱い。カトリックより人格と神格が厳格に区別されている。人と神の距離が近く、同一視し、場合によって人が神に命じる関係(例:役小角と一言主神)すらある日本の宗教観と隔絶する。

〇神智学徒のゴルドン夫人が高野山に大秦景教流行中国碑のレプリカを建立した。人性と神性はあくまで区別されるべきだとするのが景教である。一方、真言密教は「即身成仏」つまり、人も仏も構成要素は同じ「六大」だから人と仏はゼロ距離だとする教義である。似ても似つかないどころか真反対である。


〇宗教観を見ると、景教渡来説がいかに胡散臭く、ありえそうにないかが見えてきた。正倉院の宝物と同じで西方の外面的な文物は多数渡来したであろう。法隆寺のエンタシス方式もそうである。しかし、日本人の宗教観は同じ汎神論文化の印度や支那とは親和性があるが、中東以西のそれとは隔絶が大きすぎる。

●●渡来説、●●同祖論の類は、枝葉の文物をいくら眺めても「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」という程度の「結論」しか得られない。要するに信じたいものを信じるという結果にしかならない。比較的明確な結論を得るには世界観や宗教観など思想の枠組みを比較するのがより確実と思う。

日猶同祖論の初期の論者の一人佐伯好郎は同時に景教渡来説の権威。日猶同祖論と景教渡来説は初期からセット。佐伯は英国聖公会のキリスト教徒。聖公会は英国諜報員とメーソンの巣窟と渡部悌治先生述。猶太資本導入推進のために日猶同祖論を唱えたことを服部之総に告白。河豚計画の犬塚惟重の団体顧問。

景教渡来説を唱えている人士はキリスト教徒ばかりである。宗教的立場からの願望が投影されている「説」と言える。「いろは歌」まで耶蘇教の思想を歌ったものという者までいて驚いた。仏教の基本的教義を抑えておけば「いろは歌」は「有為=縁起したものの無常と、無明の克服」という趣旨と分かる。

〇猶太人のシンボルと言えばダビデの星=六芒星というイメージだが、六芒星が猶太のシンボルになったのは17世紀からである。六芒星はネパールでもよく使われるシンボルだそうだ。六芒星が伊勢神宮や松尾大社にあっても日猶同祖論の根拠にならない。猶太の古代からの象徴は七枝の燭台=メノラだろう。

〇石上神宮に安置されている七支刀がメノラだ!とかこじつける者もいる(笑)メノラは燭台であって刀ではないであろう。そもそもアニミズムの日本と一神教の猶太という根本的な相違がある。日猶同祖論者はわずかでも共通点があれば針小棒大に取り上げ、違いはどんなに大きいものでも無視する。


和訳聖書の「神」は漢訳聖書によって生まれた。
和風クリスチャン平田篤胤の弟子が国家神道政府の立役者。
鰐淵寺が出雲大社を管理していた。
真言、浅間大社、オウム、創価(法華神道系)、白光真宏会(大本教系の生長の家信者が教祖)は全て富士
関連。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-23.html
”・聖書の中国語訳はネストリウス派(景教)が最初でGODは「天尊」(仏教用語)。

中国に最初に伝えられたキリスト教は、431年の公会議で異端として追放された「ネストリウス派のキリスト教=景教」であり、伝来は635年とされています。
638年には唐の都である長安に波斯(ペルシア)寺(のちの大秦寺つまりローマ寺)が建てられるほど、一時は流行したらしいです(ペルシャってミトラとゾロアスター=キリスト教の元ネタを連想するのですが……)。
 641年ころの景教の典籍とみなされるものの一部が敦煌から発見されていて、わずかながら新約聖書やキリスト伝らしき文章が含まれています。
音訳と意訳中心です。

パン→餅
イエス→世尊
律法はそのまま
天国→天堂
十誡→十願
メシア→弥師訶
マリア→末艶

・GODを「神」と訳した現存最古の史料が18世紀のバッセ『四史攸編』(ししゆうへん)。


菊池 ‏@kikuchi_8
新プラトン主義は通常の人間には「究極真理=一者」は把握できないとする点で密儀宗教と結びつきやすい。「真理」を把握したと称する一部の神官団と奴隷信者衆というカルトの典型的な形態に非常に都合がよい構成である。秘密結社が教義の中核として新プラトン主義を採用したのには理由がありそうだ

J・ナナミ ‏@pinkglalem 9月6日
ゾロアスター教にミトラ教という救世主思想が生まれた。このミトラ教の教義をパクってカルト化したのがキリスト教。キリスト教は中東、オリエントに残る旧勢力(ゾロアスター、ミトラ)を一掃するために古代ローマの月信仰をもとにしたイスラム教を造った。ムハンマドの親類はクリスチャン。

J・ナナミ ‏@pinkglalem 9月6日
@pinkglalem アラーの起源はイシュタルが、イーノー(月の女神)やイシスになったのと同じ流れ。バビロニアでセミラミスと同一視されたけど、コレがギリシャのアルテミスになった。イスラム以前にはアラビア半島にはアルウッザやアラットという女神信仰があって、コレがアラーになった。

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 8月20日
@Vanswer 基本的に日蓮というのは、天台宗 復古主義で、念仏系(つまり法然) を嫌っていました。 法華経のお題目を唱えるのは晩年の ブレブレ日蓮になってからです。
ですので、日蓮の思想は 元の天台教をやらないとサッパリ 理解出来ない。天台教の欠点は やたらと難解で法華経だけ読んでも 全く分かりません。 教祖の天台智ギの解釈書の理解が 必須になります。

問題は天台バイブル三兄弟 はやたらと難しくて、かつての天台宗 でも最澄レベルの変人しか読む人が いませんでした。 興味があれば、法華玄義、摩訶止観、 もう一つは名前忘れましたが… s価系出版社のレグルスから出てるやつ だと思います、トライして見てください。

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 11月25日
神道カルトも、日蓮カルトも、 密教カルトも時代遅れかな。 卑弥呼カルトが今隆盛だが、 真のダークホースは上座仏教カルト かな? イルミちゃん達は今大事に育てるよ。 ただこれも橋渡しだな。 最終的にはプレ インドイラニアン系 のインダス/ ケルトアーリアン カルト に持ってく。

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 2015年8月4日
ねここねこさんの仏教の記事読んだ。 日蓮宗の箇所なんだが…… アレは元々は天台宗原理主義。 だから天台智顗の教えを知ってないと よく分からない。 法華玄義、法華文句、摩訶止観を読破 してほしいw 天台宗はガチ高度だから、パリサイ派の 悪口集であるキリスト教は足元にも 及ばない

仏教哲学の高度さは、一般人には 掴みにくいと思う。 西洋哲学でも「心の哲学」という 20世紀以降の哲学でようやく 同レベル。(サールとかデネットね) アウグスティヌスやアクィナスと 同じ水準だと考えたらいかんよ?

まぁ、それはさておき、 天台宗で重要なのは「悪は何処から来るか?」 という問題。 この時代の仏教ってのは黎明期の 仏教と違って、この世界は仏が 創造したみたいな教えになってる。 すると善の存在である仏が何故悪を 創ったのかという疑問が当然起こる。

元々の仏教は創造神がいないので こういう疑問は起こり得なかった。 まぁ、天台智顗は初期仏教の 阿含経(いわゆる今日で言う原始仏教) を低脳と一蹴してたので、創造神の いる法華経をベースに教義を 組み立てているから、当然この 難問にぶつかる。

そこで出たのが「天台性悪説」。 続きは添付論文読んどいて。 http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/36075/1/rel027010.pdf …
(天台性悪説の考察 : 仏教における悪の問題
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/36075/1/rel027010.pdf)

カルトでも何でもいいけど、 これぐらいは知識としてあった方がいい。


J・ナナミ ‏@pinkglalem 2014年5月7日
私のブログのコメ欄は承認制。公開してないモノには凄いのもある。ユダヤや聖書を否定すると、必ず反発がある。元来聖書に歴史的価値や科学的根拠を望むのは耶蘇原理主義の傾向。「あんなものは全部インチキ」と言って何の問題があるの?日本人はいつから、こんなに宗教的になった...?www


J・ナナミ ‏@pinkglalem 2014年2月20日
「陰謀論」と言うステレオタイプは、情報の流失を防げなくなった当局の予防線のよーなモノ(私には断末魔の悲鳴にも聞こえる)。彼らがその言葉を使い否定したい情報、その中に含まれる打消し難い真実が含まれている。その証拠に、本当にヤバい情報は、陰謀論者ですらスルーするwww。

J・ナナミ ‏@pinkglalem 2014年1月1日
@YouTube ユダヤ教は初期の段階で、魔術や生贄を否定した。アブラハムはイサクを殺さなかった。コレに対しキリスト教は魔術を行い。生贄になった者(キリスト)を崇めた。ダビデの星をシナゴーグで見ることは出来ない。ラビが嫌っている為。ところが教会では至る所で見る事が出来る

J・ナナミ ‏@pinkglalem 2013年8月21日
天台宗とかで、「南無妙法蓮華経」って、実は論理矛盾。「法華経に帰依する」という意味。ところが、その法華経の内容は、「帰依」自体を否定している。「この世のすべてのモノは移ろうから、何を信じても無駄だから諦めなさい。」と説いている。そしてその「法華経」も仏陀の没後千年に書かれたモノ

J・ナナミ ‏@pinkglalem 2013年8月1日
「色即是空、空即是色」⇒(物{色}はやがて移ろい。すべては執着するほどの意味を持たない。現世の否定の意味。) 「如是我聞」⇒(ブッタはそのとき~こう言った)

J・ナナミ ‏@pinkglalem 2013年8月1日
@alicetelos1 「色即是空、空即是色」という文言があるのでイスラム教徒は佛教徒を無神論者として軽蔑しています。ブッダの死後1千年も後に書かれた言葉ですが、ブッダなら言うだろうという事で仏典の(如是我聞の)主要テーマ。この価値観からすると、佛教徒は宗教を否定しています。

J・ナナミ ‏@pinkglalem 2013年7月2日
@JunjiHattori @suzukijyakusui 現世を否定し、信仰を否定している仏教徒は、イスラムでは「無心論者」として軽蔑の対象になります。仏教は実は宗教ではありません。無機質な哲学である仏教の本質について、仏教徒自身よりイスラム教徒の方が詳しいです。

J・ナナミ ‏@pinkglalem 2013年6月25日
@lanekota なんか、 笹川良一と牧口常三郎は出口王仁三郎の腹違いの息子だと言う話。佛教は執着と言って、現世を否定するんですけど...(だから出家する)。牧口常三郎が信仰したのはこの執着。それで、ヨーロッパの教会みたいな権力構造をめざしたみたい。

@lanekota 出口王仁三郎や笹川良一と血が繋がっていたと言われる牧口常三郎は明確に佛教の戒律を否定しています。だから、在家団体が誕生した。

J・ナナミ ‏@pinkglalem 2013年2月25日
聖書の内容はまさに殺戮の書。福音書は愛を説く。ココがキリスト教の詐欺的手法で、キリストは聖書を否定しない。結果クリスチャンの行った悪事を全部ユダヤの責任に転嫁。だから、この世で最も人を殺したのは、クリスチャン。彼らに罪の意識はありません。ユダヤと言う便利なアイテムがあるから...

J・ナナミ ‏@pinkglalem 8月16日
@koudaiin 色即是空。空即是色...この世のあらゆる物や事象は、何の意味も持たない...実は、佛教の真髄は「否定」にある。。「あなたの信仰は報われない」と教える宗教はない。...コレこそが、佛教が宗教でない所以

J・ナナミ ‏@pinkglalem
あたしは、神はいない。宗教は詐欺。って言ってンだから...あたしのタグを付けて、精神世界とかほざくな!馬鹿ルトども...!「神」ってのは、お前らが感染してる病気だ。

あたしの考え方はすごく単純で、この世には3種類の人間しかいない。嘘つきとバカと無神論者。無神論者以外は、ウソをついて誰かを搾取している捕食者(宗教)か、搾取されてもただ甘んじてるバカだけ。

メンヘラにとって「神」というのが一つの障壁になっている。もう人格の一部になっていて、コレを否定することは、それまでのその人の人生の全否定になってしまう。詐欺師たちはこの弱みにつけ込む。#カルト支配 #ReligionIsFraud

宗教は危険な生物兵器だョ。感染したら、思考のパターンが一定になって、家畜以下になってしまう。

最も危険な感染ルートは、母子感染。カルトに感染した家庭は必ず崩壊する。

私のツイートにかってにメンショって、絡んでくる馬カルトは、たぶんこのパターン。

世界的に流行し、最も感染力の強い精神病のことを、私たちは「神さま」と呼んでいる


秘密結社なんてないョ。やってるのはヴァチカンと銀行だけ...。

つーか、通貨そのものに疑問も持たないで、陰謀論とかほざいてンじゃァーねーョ。

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 7月6日
一時期流行った「セカイ系アニメ」にあるような、極端なセカイと私というものは、実はインドの梵我一如思想なんだよね。この構造がクリアにわかれば子供向けアニメに見えてくるものがあると思うよ?この記事面白いよね http://d.hatena.ne.jp/licheng/touch/20130120/p1 …
(仏教とヒンドゥー教の哲学上の相違についてまとめ
http://d.hatena.ne.jp/licheng/touch/20130120/p1
“仏法
目の前にある何か(人でも物でもなんでもいい)について、それがどういうものであるか列挙してみよう。例えば「御坂美琴」は「ツンデレ」であり「女子中学生」であり「科学サイド」であり「レベル5」であり「エレクトロマスター」であり「常盤台のエース」であり「短髪」であり… この場合、「ツンデレ」や「女子中学生」といった属性をインド哲学ではダルマ(dharma,法)と呼び、それらのダルマを有する「御坂美琴」という個体をダルミン(dharmin,有法)と呼ぶ。

では、「御坂美琴」から「ツンデレ」や「女子中学生」や「科学サイド」といった属性をすべて剥ぎ取って素っ裸にしたら(*´Д`)ハァハァ 、そこに何が残るだろうか?
「御坂美琴」の存在の核たる何かが残る。無色透明な「たましい」のような何かが有る、と考えるのがヒンドゥー教である。ヒンドゥー教ではそれをアートマン(ātman,真我)と呼ぶ。アートマンはなにものでもない。「~である」という説明はすべてダルマであって、ダルマをまとう核たるアートマンではありえない。なにものでもなく、なにものにもなりうるのがアートマンである。GHOST IN THE SHELL でいう「ゴースト」である。そして、アートマンはなにものであるかを超えて不滅であり、宇宙の根本原理であるブラフマン(brahman,梵)と一体であると説く。これを梵我一如(ayam ātmā brahma)という。自分の内にある自分の本体は世界そのものの本体に通じていると。まあ、今風に言えば「セカイ系」な思想
である。
いっぽう、何も残らないと説くのが仏教である。「御坂美琴」とは「ツンデレ」や「女子中学生」や「科学サイド」といった無数の属性の集合体にすぎず、それらを離れたところに「御坂美琴」の本体など無い。これを諸法無我(sarva dharma anātman)という。諸法無我は三法印(trilakṣaṇa)のひとつであり、仏教の基本中の基本である。たとえばブドウ糖C6H12O6が炭素と水素と酸素の化合物であって、ブドウ糖という不滅の実体など無いように、「御坂美琴」も「ツンデレ」や「女子中学生」や「科学サイド」といったダルマの化合物であって、「御坂美琴」という不滅の実体など無い。有ると考えるのは妄想にすぎない。ヒンドゥー教の悟りがアートマンの実在を悟る「自分さがし」であるとするなら、仏教の悟りはアートマンの不在を悟る「自分なくし」である。

そのため、仏教はヒンドゥー教正統派からはしばしば虚無主義(ナースティカ,nāstika)呼ばわりされてきた。ブラフマンとアートマンの不滅を説くヴェーダ(veda)の教えを否定する異端のニヒリストめ、と。しかし、仏教はけっしてニヒリズムではない。そもそも「あるある!」とか「ないない!」とかいう極論をしりぞけるのが仏教のスタンス、中道(madhyamā- pratipad)である。永遠不滅の「御坂美琴」が実在するというのも極論。「御坂美琴」なんてどこにも存在しないというのも極論。さまざまな偶然と必 然からダルマが寄り集まって、「御坂美琴」は一時的な存在として、しかしたしかに存在している。ブドウ糖が炭素と水素と酸素の化合物であって、燃焼したら 水と二酸化炭素になるからといって、いまブドウ糖が存在しないということにはならない。この世の全ては夢まぼろしのように儚いものかもしれないが、われわれにとってその儚い夢まぼろしこそ全てである。
この一見すると否定にみえるけどじつは肯定しているツンデレ論理こそが仏教の真髄だと思う。諸法無我とは「すべての存在に実体は無い」というよりは、
「か、かんちがいしないでよねっ。すべての存在に実体なんて無いんだからっ!」
というニュアンスである。


ところで、このダルマ/ダルミンの議論を見て、西洋哲学かじった人なら気づくと思うけど、古代ギリシアのプラトン、アリストテレスから中世の実念論VS唯名論に続く議論とそっくりである。まったくインド人とヨーロッパ人は親戚。同じ穴のムジナというか、同じユーラシアのインド・ヨーロッパ語族である。しょうじき、日本人の自分にはこんな議論はまったくどうでもいいと思う。(^^;)
”)

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 7月5日
本当に狡猾なやつは、罪を全部悪くない人に押し付けて自分は善人ヅラするからなー。あっ、西洋の根本思想のスケープゴートってこれの真髄か。おいらはいつ か、こういう狡猾なやつの思想を間近で観察したいから色々探求してるんだよね。企業が宗教をでっち上げる現場とか見てみたいよ。

仏教国に住んでるヌッポン人には理解できないだろうけどさ、ヌッポンが当たり前に思ってる仏教的な叡智とか、これは欧米では秘儀参入者しか知られてない知 識だったんだよ?今では学術的な研究で知られるようになったけど、19世紀半ばより前は秘密結社が独占する秘教的な叡智そのものだった。

お釈迦さんってのはとんでもない人で、インドの秘儀参入者だけにしか知られてない知識と技術を一般公開した上に、一部の人だけでなく、女性もアウトカース トの人も修行すれば悟れると言ったわけ。ヌッポンを初めとした仏教国というのはな、西洋の感覚ではイルミの教義を国教にしてるという国なんだよ。

だからなぜ、神道カルトの手羽先どもは仏教が嫌いもしくは無視しようとするのか?それはヌッポンに根付いてる仏教的な叡智を心底恐れてるからだよ。スピリチュアル見ればわかるけど、キリスト教支配ってのは反知性主義だから、キリスト教では悪とされる智慧を大事にする仏教は悪魔そのものだとね。


Keeta ‏@MissyKeeta001 11月26日
日本語には仏教由来の言葉が多い。挨拶、根性、馬鹿、自由、迷惑、退屈、我慢、愚痴、安心、金輪際、油断、覚悟、旦那、玄関、決定、有頂天、因縁、不思議、工夫、出世、世間、意地などは全部仏教用語らしい。日本人は無宗教なんてのは嘘なんだよね。

坊主バー(四谷) ‏@vowzbar_yotsuya 11月27日
天才バカボンの「バカボン」は仏教用語で「薄伽梵」と書きお釈迦様という意味。口癖のこれでいいのだは悟りの境地。レレレのおじさんはお釈迦様の弟子のチューラパンタカがモデル。子供のハジメちゃんは東大イン哲卒仏教学者中村元博士からとった。これから仏教を学ぶ方には天才バカボンをお勧めします

mimitchy ‏@mi_mitchy 11月28日
バカボンの名前の由来は釈尊を表す薄伽梵(ばがぼん)なのは有名な話だけど、仏教の到達点としての「起こる出来事をそのままに受け入れる」という境地は、まさに「これでいいのだ」なんだよね。赤塚先生は一体どこまでわかってやってるんだろう。すごいな。

陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 ‏@Keiya_Takahashi 11月29日
古い陰陽道の文献には五芒星がない。また土御門安倍家の菩提寺だった真如堂は「晴明判☆」初見の「真如堂縁起」を伝え、現在も晴明判☆を授与する。さらに室町時代頃から真言宗僧や修験者が晴明判☆を初めて記した「ホキ内伝」を全国に広めたという論文があるので、五芒星は仏教から来たと考えられる。

「五角形と五芒星は古くから五行の相生と相剋を表す図」とよく説明されるが、いろいろと調べてみたら、これは昭和時代初期頃から使われ始めたようだ。その証拠に安倍晴明の六壬式占書「占事略決」の他、大正時代頃までの暦や占い本に「木生火、火生土・・・、金剋木、木剋土・・・」と書かれている。

旅にゃんころ仙人2中級霊能者ハイジア ‏@goldencat222 12月
遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)というのは、あるものについて「こういうものだと判断し、そうと信じ込んでしまうこと」だ。人はこれを無意識に、たくさんしているので、そのガッチリ掴んでいるたくさんの手を緩めれば、これまでと違うパターンの連鎖ができる。

遍計所執性をひとつ除くというのは、心理系でよく言う「プログラムを書き換える」に相当する。余分を除いて、新しい連鎖パターンを作る。


陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 ‏@Keiya_Takahashi 12月4日
陰陽道は国家占い官庁、陰陽師は国家公務員占い師という公的なもの。また占いをすればよいから霊能力は必要ない。さらに特別な修行法もなく、占い知識の方が重要になる。そして祓いや祈祷の時に密教や魔法のような複雑かつ特別な意識的操作を必要としない形式的作法だから、密教や魔術・魔法でもない。

陰陽道は、国家的事件を占う官庁・役所であり、また六壬式占で占いをし、祓いを行う陰陽之術を使う国家公務員占い師の陰陽師の活動形態を指す言葉でもあるから、信仰する対象にはならなかった。だから、平安時代に安倍家は寺院で一族の平安と繁栄を願い、土御門安倍家は浄土宗寺院の檀家になったわけ。

安倍晴明や他の陰陽師が霊能力で怨霊や悪霊を祓った歴史的記録はなく、講談や物語で作られた虚構話。当時の慣例では怨霊や悪霊には密教僧や修験者が対処したが、将門の首塚は遊行念仏・時宗の他阿真教上人が、江戸時代には浄土宗の祐天上人が累の怨霊を済度している(怪談累ヶ淵、目黒の祐天寺開基)。

陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 ‏@Keiya_Takahashi 12月2日
今は占いや信仰は個人的と考えるが、昔は国家的なものと考えていた。だから災異や怪異の事件は将来に国家的規模で起こるであろう事件の予兆と考え、神祇官の亀卜や陰陽道の六壬式占で占い、主に護国(国を守る)の役割を担う仏教の儀式で祓っていた(陰陽道の祓いは補助なので行わないこともあった)

陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 ‏@Keiya_Takahashi 2015年9月28日
陰陽道が行う祓いの際、まず怪異や病気などを六壬式占で占って原因が死んだ人の霊による霊障(怨霊や悪霊など)の場合、当時の慣例として密教僧や修験者などに任せた。だが、竈神や土公神、または鬼(疫病を流行らせる疫鬼や人を食べる鬼の求食鬼など)によると判明した時は陰陽師の祓いが出番となる。

陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 ‏@Keiya_Takahashi 2015年9月27日
昔、怨霊や悪霊などを祈祷によって祓ったのは密教僧や修験者だったが、僧侶や修験者であれば誰でもよいわけではなかった。つまり荒行を行い、加持祈祷によって災いを祓い、病気を治す特殊な力を持つ「験者(げんじゃ、げんざ)」と呼ばれる霊験を現す僧侶や修験者でなければ、その任を果たせなかった

陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 ‏@Keiya_Takahashi 12月18日
江戸時代以前までの陰陽道の文献には五芒星はなく、ほとんど使った形跡もない。実は四縦五横印(ドーマン印)の方が多く、密教や修験道のように空間に切らずに反閇を踏む時に呪符と一緒に地面に描く。どちらかといえば五芒星は修験者や密教僧が多く用いており、「陰陽師=五芒星」説は時代的に新しい

陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 ‏@Keiya_Takahashi 12月2日
前にある人が「僧侶の祈祷でダメなら陰陽師を呼ぶのが昔の決まりだった」と述べていたが、そんな決まりは全然なかった。また「神職にも不可能な時」ともしていたが、江戸時代までは一部を除き、神社の祭りは主に僧侶が行い、神職は補佐なので僧侶や陰陽師が関わるような問題にはノータッチだったはず。

(祭りを坊さんが担当し、仏教化された神々を祀る施設って神社じゃなくて寺)


陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 ‏@Keiya_Takahashi 12月18日
「安倍晴明の五芒星は『五角形と五芒星が古くから五行の相生と相剋を表す図』が由来」と説明されるが、調べてみるとこの図は昭和時代初期頃から使い始めたようだ。なぜなら晴明の六壬書「占事略決」や他の大正時代頃までの暦や占い本に「木生火、火生土・・・、金剋木、木剋土・・・」と書かれている。

王王大栄 ‏@ououdaiei 12月1日
老子や荘子と韓非子と孫子が仲がいいのは、せいぜい人間の作れる秩序は「仮初めのもの」という見切りなり諦観があるからだろう。それが事態を動かせる重要なカギ。善用する悪用するかの違いがあるけど。

陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 ‏@Keiya_Takahashi 12月8日
陰陽道は哲学思想と無関係の現世利益優先の占い専門官庁だから、宗教のように来世や極楽で死後の魂を救う方法論はなく、全て坊さん任せ。また昔の貴族は死ぬ前に頭を剃り出家の姿となって指に結んだ紐を阿弥陀如来の画につないで死後に極楽浄土への往生を望んだが、陰陽師も貴族だから全く同じだった

ヒラ:// ‏@punanny_chang 12月8日
言った事が現実になる、これを言霊と言うわけです。寺の坊主はお経をモゴモゴ唱える。これは言霊が逃げないように、という理由。よく韻踏むためだけに簡単に言霊とか吐く薄っぺらいMCいるけどその意味わかってんのかよ?と。

王王大栄 ‏@ououdaiei 12月9日
荘子と禅仏教はかなり深刻な関係があると思う。荘子を読んでいてなんとなくそう思った。

スピ系が一瞬好きそうな荘子だけど。荘子はオカルトを無視もしないし重視もしない。「放置」に思える。それに執着するとそれにとらわれて痛い目に会う、と主張する。「神秘!」と騒ぐ暇があれば、ボーとしている方が良い。というスタンスの荘子。

「神秘」を有りがたがったり、崇めたりして時点で、その意味が消える。荘子的にはそうだよね。

孔子は、「神秘」は「敬して遠ざける」てスタンス。軽視もしないが無視もしない。それに取らわれて地道な日常を怠るのは断固ダメという立ち位置。

荘子から言うと、構えて瞑想するのも「無用な作為」とするところもある。が「包丁の例え」もあるが、修練も軽視しない。が瞑想や求道のための格別な修練には疑問符を付ける。日常こそ神秘の求道の実践の場。てスタンスも荘子にある。


狼たちは知っている ‏@wolvesknow 12月11日
六韜や孫子の兵法なんてのは、明治初期までは日本人の基礎的な知識だったよね。文明開化で西欧史上主義に誘導されるまで、中国の歴史や思想を学ぶのは基本だった。兵法を学ばれるのはそんなに都合が悪いのかな? それよりマキアヴェッリの君主論を知られる方がまずい気がするが。

高山龍智 ‏@nagabodhi 12月10日
ちなみに「のんのん」は観音の幼児語。広義のホトケサマ。他に「のんの」「のの様」など。地域によっては南無阿弥陀仏(なんまんだぶ)の幼児語「まんまんちゃん」も使われる。 https://twitter.com/yash_san/status/674810493161181184 …
Yash_san(´・ω・`)و ‏@yash_san 12月10日

水木先生の世界観に大きな影響を与えたのんのんばあは「拝み屋」の家のお婆さんだったが、昭和初期は病気は拝んで治すという考えが普通だったそうだ。昭和9年生まれの方に話を聞いたら、小学生くらいの頃に足が痛くて歩けなくなった時、近所の祈祷師みたいな人に拝んでもらったとか。

腎臓の病気を疑われた時は日蓮宗のお坊さんが家に来ておがんでくれたそうで、病気になったら取りあえず拝むということだったらしい。

「拝み屋」という職業はいつ頃まで成り立っていたんだろうね。

ららら らー ‏@LaLaLanLanLan 2012年7月27日
にチベット仏教を信じるチベットやブータンの人は、墓を持たない。墓に入れられ“執着”されると輪廻転生できなくなるからだとか。天国を信じるイスラム教徒も、“仮住まい”に過ぎない墓に執着することは戒められる。墓を持つくせ輪廻転生も天国地獄も信じちゃう日本人をどう思うか聞けば良かったな。

knznymmmy ‏@knznymmmy 2015年12月20日
私は輪廻転生お断りだな
こんなクソまみれの世界に生まれて何が楽しい?
二度と生まれたくなんかないね


イルミナティ@ ‏@RisingSun_kiri 9月26日
カルトを見破る方法。
①釈迦は涅槃して、二度とこの世に戻ることはない=生まれ変わりなど絶対ない
②キリストは、再降臨の時に本人が戻ってくるので、キリストの生まれ変わり・俺がキリスト とか絶対ない

カルトを見破る方法②
釈迦は預言者ではない(神というものがない
④教祖が神の言葉を伝える預言者であるならば、楽で豪華で金持ちな暮らしなどできない。イスラム教のムハンマド、旧約聖書のモーセ以外の預言者、キリスト=預言者は、大衆からいじめられ暴力をふるわれ最後に悲惨な状態で死ぬ


buvery ‏@buvery 1月30日
@hitoribbq 例えば、ヒンズー教徒はガンガーの河岸で焼いて、遺体を川に捨てます。だから、石の墓はない。親鸞が、死んだら鴨川に捨てれば良いと言ったのは仏教的には正しくて、輪廻転生しているから屍体や骨には意味がありません。骨に意味があるのは、儒教です。

Arbre De Soie ‏@ArbreDeSoie 2013年8月14日
なんで日本人はお盆に墓へ参り、家にお迎えするの?これは儒教の考えで、仏教ではない。儒教は孔子が中国で、仏教は釈迦がインドで開いたもの。輪廻転生の考えがある仏教は、先祖がこの世に帰る、盆や彼岸なんて考えはないはず。49日過ぎた魂は、またこの世に生まれるのだから。

王王大栄 ‏@ououdaiei 12月15日
仏教っていうけど、日本はもともとは「仏道」「仏法」といっていた。生きための作法・方法ってこと。宗教も英語を日本語訳にした時に老子からもってきたことば「それを私の教えの宗にしよう」生きる作法であって「信仰・信じる」とかでもともとなかったようだ。

宗教を信じるって決めつけたのは「信じる」から始める「パクティーヨガ系」宗教の耶蘇教の思想ってことだろう。そういうことで、信仰を第一にする現代の「宗教観」は少しゆがんでいると思う。

そういえば、インドでも「宗教」は「ダルマ」という「法・生きる作法」みたいなもの。仏法も「ブッダ・ダルマ」仏陀の法ってこと。この方が大過ない見方に思えるけど。

王王大栄 ‏@ououdaiei 12月16日
訂正・仏教っていうけど、日本はもともとは「仏道」「仏法」といっていた。生きるための作法・方法ってこと。宗教も英語を日本語訳にした時に老子からもってきたことば「それを私の教えの宗にしよう」生きる作法であって「信仰・信じる」とかでもともとなかったようだ。

ちきん@迷走中 ‏@hibakukihi 12月16日
考えなさいという宗教と、考えるなという宗教。
同じ「宗教」という括りでいいのか問題。
なんか別の物じゃない?

(「考えなさい」と説き、「論理的思考が大事であるとする姿勢」なら宗教ではなく哲学。
つまり、「無記」の原始仏教や、初期大乗仏教である「空」の中観派などは哲学)


P・グラレム ‏@pinkglalem 12月15日
宗教は社会を不安にさせます。人々が不安になればなるほど、信仰心は加速します。在りもしないしない来世と救済のために自らの人生を浪費する根気を宗教は与えてくれます。死のその瞬間まで人々はその幻想を信じるのです。信心深い人はとても根気強い人です。

あなたの根気強さが、あなた自身を苦しめているのです。

(×根気  ○執着=苦しみの原因)



「いやあ、落語って本当にいいもんですね」
<了>

ヤハウェ(エジプト系の雷神)が奈良の大仏(アーリア系の太陽神仏)なわけねーだろ!  真言宗が景教(人の神格化禁止)なわけねーだろ!                     ヨガ、呼吸法、瞑想法でリラックス! 『呼吸法の極意 ゆっくり吐くこと』・『ヨガ呼吸・瞑想百科』・ 『ハタヨガの真髄』・『禅の本』・『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』 

 ヨガ、呼吸法、ヴィパッサナー瞑想の本の読書メモだけど悪質な仏教破壊工作を発見したので先にフルボッコにします。

【ヤハウェが奈良の大仏ではない理由の要約】

一神教最大のタブーは、人間が神になること。

一神教では、唯一神と人間との間には絶対的な隔たりがあり、絶対に人間は神になれない(唯一神と一体化できない)。
人間が神になれるなら多神教。


景教=ネストリウス派キリスト教は、人と神を特に厳格に区別するので、人を神として祀るなら景教徒ではない。
神社に秦氏の人間が神格化されて祀られているので、秦氏は景教徒ではありえない。

真言宗は神仏と人間が一体化する「即身成仏」思想なので、景教ではありえない。



ヤハウェと奈良の大仏は属性が真逆なので対立する神仏。

ヤハウェ=エジプト系の雷と嵐の唯一神
エジプトの唯一神アトン+雷と嵐の神バアル≒セト。牛+豚

奈良の大仏=アーリア系の太陽神仏
太陽神または光系のイラン系のアフラ神族。
華厳宗大本山の東大寺の奈良の仏
=毘盧遮那仏。

毘盧遮那〔ビルシャナ〕
=ヴァイローチャナ
=インド神話のアスラ〔アフラ〕の王。

ビルシャナ=広く照らす=太陽あるいは光



これよりしばらく、
knznymmmy code777
http://codetripleseven.blogspot.jp/
https://twitter.com/knznymmmy/with_replies

でおなじみのプー閣下風のノリで、景教詐欺をフルボッコにしていく。
まずはフルボッコされる対象を見てくれ。こいつをどう思う?

Misaki-1192 ‏@bonchan1 11月7日
東大寺大仏の正体は、秦氏の神・大日如来=ヤハウェである。

Misaki-1192 ‏@bonchan1 11月21日
奈良東大寺の大仏の正体はヤハウェ。
秦氏が最も信仰する神。

Misaki-1192 ‏@bonchan1 11月25日
秦氏は景教ネストリウス派の信者。最澄、空海が新旧聖書をお持ち帰り。秦氏が建てた東大寺の大仏は大日如来様=ヤハウェなんですねえ。御宮参りされる方は新羅韓神と共にヤハウェにも詣でている事になりますねえ。お遍路さんも怪しくなって来ました。http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/japan/index4.html …

Misaki-1192 ‏@bonchan1 12月3日
東大寺の大仏は大日如来。秦氏の神のヤハウェが大仏さん。
修学旅行に行ったっけな。くそう。

Misaki-1192 ‏@bonchan1 12月4日
最澄は新約聖書、空海は旧約聖書を持ち帰った。唐の原初キリスト教ネストリウス派景教の洗礼を受けた二人。東大寺の大仏の正体は大日如来=秦氏の神・ヤハウェだったのです。日本人には何ら関係ないですね。http://www.ne.jp/asahi/davinci/


( ゚д゚)ポカーン
すごく……一神教について無知じゃねーか!
この手のデマを流す奴らは教義の決定的な違いを無視だからな。
宗教で一番大事なのは教義だろーが!
信者かどうかは教義を守っているかどうかで判断しねーとダメだろーが!!
例えばさ、十戒を破る奴らがユダヤ教徒なわけねーじゃん?
だから神道がユダヤ教であるわけねーじゃん?

日ユ同祖論デマって聖書が根拠だから、流している奴は無自覚含め宣教師。
景教ガー、ネストリウス派ガーってうるさい奴も、無自覚含め宣教師であることが多い


まず、おめーらさんに一神教で一番知っておかないといけないタブーは、人間がヤハウェやゴッドやアッラーになることだ。
人間は絶対に絶対にぜーーーっったいに神になれないし、
絶対に絶対にぜーーーっったいに神として祀るなんてありえない。
ネストリウス派は、ただでさえ人間の神格化が禁忌である一神教の中でも、特に人と神を区別する。
つまり、秦氏が人間を神様として祀っている時点でアウト中のアウトなんだよ!

え?
秦氏が、ネストリウス派を国家神道みたいな和風キリスト教に改造して信仰していたかもしれないって?
それもはや景教じゃねーじゃねーか!

この際だから言っておくけど、国家神道のモデルは平田篤胤な。
平田篤胤は、神道を名乗るくせに、キリスト教神学を取り入れるのはOKだという和風クリスチャン
だ。
当然だが、正統派のキリスト教神学からみたら平田神学は異端だ。
現人神OKの国家神道なんて完全に異端。
まあ、キリスト教をそのまま布教するのに失敗したので、植民地用にカスタマイズしたのが、
「現人神=偽天皇=キリスト」にした国家神道
=一神教的多神教(新キリスト教)


一神教のタブーをおめーらさんは今この時点で知っているはずだよな?
でも、ちゃんと理解したとは限らねーよな?
ちゃんと理解したなら応用できるよな?

おめーらさんが勝手に応用して、
「真言宗はキリスト教ネストリウス派だよ詐欺」を打破しやがれ!
説明は省略!

では不親切なので、答えとして菊りん(国際秘密力研究)の以下のツイートをよーく読んで学ぶんだ!

菊池 ‏@kikuchi_8
ネストリウス派=景教は人性と神性を明確に区別する。マリアも「神の母」ではなく「人性としてのキリストの母」という扱い。カトリックより人格と神格が厳格に区別されている。人と神の距離が近く、同一視し、場合によって人が神に命じる関係(例:役小角と一言主神)すらある日本の宗教観と隔絶する。

兵庫県に大避神社という神社がある。御祭神は秦河勝である。この時点で「秦氏=猶太人説」「秦氏=景教徒」という説は崩れるのではないか。猶太教や景教を含む耶蘇教では人を神として祭るのはご法度のはずである。こういう基本的な事柄を無視することからして日猶同祖論や景教渡来説はうさん臭い。

景教渡来説は米国のプロテスタントの宣教師が布教の為に唱えている場合がある。「日本は仏教国ではなく、聖書の国だ」と言ってキリスト教を受け入れやすい素地を作ろうとしていると思われる。そのために景教=ネストリウス派キリスト教が古代から日本に根付いているという説を流布する。

景教渡来説を唱えている人士はキリスト教徒ばかりである。宗教的立場からの願望が投影されている「説」と言える。「いろは歌」まで耶蘇教の思想を歌ったも のという者までいて驚いた。仏教の基本的教義を抑えておけば「いろは歌」は「有為=縁起したものの無常と、無明の克服」という趣旨と分かる。

日猶同祖論の初期の論者の一人佐伯好郎は同時に景教渡来説の権威。日猶同祖論と景教渡来説は初期からセット。佐伯は英国聖公会のキリスト教徒
。聖公会は英 国諜報員とメーソンの巣窟と渡部悌治先生述。猶太資本導入推進のために日猶同祖論を唱えたことを服部之総に告白。河豚計画の犬塚惟重の団体顧問。

神智学徒のゴルドン夫人が高野山に大秦景教流行中国碑のレプリカを建立した。人性と神性はあくまで区別されるべきだとするのが景教である。一方、真言密教は「即身成仏」つまり、人も仏も構成要素は同じ「六大」だから人と仏はゼロ距離だとする教義である。似ても似つかないどころか真反対である。

思うにですが、この手の説を唱える方というのは仏教の教義内容まで立ち入って分析していない場合が多いと思います。「仏」が構成要素に分解できるとする空海の六大縁起思想は耶蘇教ではありえないと思います。

いろは歌にキリスト教の教義を詠み込んでいるという説は、プロテスタント系のキリスト教原理主義者のHPで得々と語られていました。要するにキリスト教関係者による宣伝としか思えないです。日猶同祖論と同じ性質ですね。

馬小屋で生まれた等のエピソードは景教の影響として入ってきていた可能性がありますが、景教の宗教としての教義そのものは公には入ってきていないと思います。日本の色々な伝統宗教を調べても人性と神性を厳格に分ける景教の痕跡がありません。

秦氏すら秦河勝を御祭神として祭っています。人を神として祭る。これは人と神を厳格に区別する景教ではタブーです。宗教としての景教渡来説は佐伯好郎が猶太資本を北海道開発に導入するために日猶同祖論を唱えたのとセットだと思います。服部之総が明かしていますね




さあ次は、ユダヤ教のヤハウェの属性だ。
世界初の一神教はエジプトのアトン一神教だ。
ヤハウェの唯一神という属性はエジプト由来だ。

また、ヤハウェは雷と嵐の神だ。
牛にして嵐と雷の神バアルと共通点が多い。
また、バアルはエジプトに入ってセト(暴風と雷鳴の神)と同一視された。
つまり、バアル≒セト。
でも、バアルは牛だけどセトのシンボルは牛ではない。
セトのシンボルの一つが豚。
ユダヤ教は豚を食べてはいけない。
え、不浄だからだって?
神聖だから、表向きは不浄だということにしたのかもよ?
ヤハウェにブタ神であるセトの要素があるから、という理由もあるかもよ?

さあ、ここで、ねこた先生(完全閉店 ‏@lakudagoya)の以下のツイートを読むんだ!
ユダヤ教の教義がエジプトの貴族由来だとよくわかるだろう。

(いんちき陰謀論調査隊を消したぬこた先生。だからあれほど保存しておけと以下略。
実は一部が本ブログにあるからそれを保存以下略)

完全閉店 ‏@lakudagoya 11月23日
ローマの宗教史を扱った「神々のあふるる世界」さ。エジプトの神官の生活について史料をベースに色々語ってるけどさ、蹄の割れた獣は食べませんとか、割礼もそうだけど、色々な意味でユダヤ教ってエジプトの貴族の宗教臭いんだぜ?これモグラ君が言い出した事だけど、大当たりだったと思うんだ

ユダヤ教のウリジナル in 古代エジプト
1 十戒(死者の書に書いてある42の戒律が元ネタw)
2 レビ記の食物規定(エジプトの神官の戒律が元ネタw)
3 割礼(神官の通過儀礼w)
4 経典の宗教(読み書きできるのは神官と貴族だけw)
おおっ!こんなにも香ばしいネタがざくざくと


完全閉店 ‏@lakudagoya 11月23日
おっと、古代エジプトでは神官は1日2回は沐浴してたっぽい。で、風呂桶みたいなもんが神殿に常設されてたらしい。ああエジプトでは流水使わないっぽいんだよね。やっぱユダ公のミクベはエジプト起源の可能性あるな。つつけばつつくほどユダ公の習慣は古代エジプトの貴族のそれじゃないかw

(モグラ君=虚空と君のあいだにで有名な、もぐら師匠) 



次は、華厳宗の東大寺の奈良の大仏の属性について。

フェイド大帝(過去の最低帝国)のツイートと、
猫2号(読めないニックネームの子子子子子=ねここねこ)の記事を引用する。

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 2014年10月6日
知らない人が多いのか分らないけど、
密教の大日如来、奈良の大仏は
インド名が毘盧遮那。
ヴァイローチャナね。
こいつは太陽神でウパニシャッド
ではアスラ王と書かれている。
つまりイラン系のアフラ神族


大日如来は遍照如来とも称し、またビルシャナ仏とも言われる。ビルシャナ=太陽。
ビルシャナに関係するインド神話のヴァイローチャナはアスラ(アフラ)の王とされる

アフラ・マズダー(知恵王)の関連が云々されることになる。
太陽神に思えるが、ゾロアスター教の太陽神はフワル・クシャエータであって、アフラ・マズダーではない。

太陽神ミトラと同一視されたりするアフラ・マズダは太陽神の性格も持つはずですが、本来は太陽をも超越した光自体か、金星なように思えます

密教でも大日如来をただちに太陽と同一視しているわけではない。
日天(にってん。アーディティヤ)は十二天の一つとして、曼荼羅の最外院に別に存在する。世間の太陽と大日如来は区別される。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-52.html
キリスト教(太陽+来世に期待)と
ユダヤ教(嵐+現世利益)は根本思想が違いすぎる

ラクダが家畜化されるのは紀元前10世紀以降なので旧約にラクダが登場するのはおかしい。
岡田明憲『ゾロアスターの神秘思想』 講談社現代新書 。
岡田明子・小林登志子『シュメル神話の世界 』中公新書



で、どこが、セト(暴風と雷鳴の神)かつバアル(牛君)系の唯一神ヤハウェと同じなの?

あと言っとくけど、ユダヤ教のヤハウェとキリスト教のゴッドは別の神だから。

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi
キリスト教がユダヤ教派生は嘘。
ユダヤ教とキリスト教の救世主観は全然違う。
ユダヤ教のメシアは現世利益を齎す政治的指導者。
キリスト教のキリストは超越的存在(ミトラと拝火教)。
ユダヤ教は中国と同じく子孫繁栄などの現世利益用。

猫太”そうですね。大きな聖書神話というストーリーの中に閉じ込めさせて行動させる技術ですね。だから彼らは神話を操る。日油同祖論とユダヤ陰謀論という一見アンビバレントなものも、ひっくり返せば磐石な聖書神話を日本人に吹き込むためのツール。そして聖書を洗脳する。”

猫太”エッセネ派ってなんかーユダヤ人っぽくないよ。お金が嫌いで独身主義とか、子孫繁栄と現世利益が強いのがユダヤ教やん?” ”聖霊って不思議な観念ですよね。お金と現世利益が大好きで欲しかったのは現実世界の約束の地というユダヤ人の感性じゃないようにみえる”

ミトラ教(太陽派)+黙示録(拝火教)=キリスト教 嵐派+メシア(人間の指導者)による現世利益=ユダヤ教 根本思想が違い過ぎ。 猫太”オリジナルのユダヤ教は、中国人と全く同じの現世利益的宗教ですから。この基本がわかれば陰謀論の嘘もわかる。” ユダヤは✝の囮




私は‏@bonchan1のツイートをフルボッコにしたのだが、多少擁護しておく。
大本教がキリスト教だと指摘し、平田篤胤と日月神示を批判しているからだ。

Misaki-1192 ‏@bonchan1 1月8日
岡本天明は「飛騨の口碑」は全く知らない。国之常立神とは位山命(丹生川から宮村に遷都した命)であることなど全く知らない。岡本は大本の出口の弟子だというではないか。大本教=キリスト教であり、何故キリスト教信者が位山命のお告げが解るのだ?http://yomenainickname.blog.fc2.com/?mode=m&no=59

Misaki-1192 ‏@bonchan1 1月9日
@ceezneverdiffer そのこともこちらから→http://yomenainickname.blog.fc2.com/?mode=m&no=59 この方や多くの方が日ユ同祖論はデタラメと言っています。第一飛騨の口碑にも♨堕屋など一言も出て来ません。明治維新以降のソーメンつゆみたいなものです。大本教は日本版キリスト教でしょう。

Misaki-1192 ‏@bonchan1 1月7日
平田篤胤が神代文字であると主張したものの題名が神字日文伝。さすがにこの平田(1776~1843)の理論では破綻していたので、昭和19年になって作り治したのが岡本天明の自動書記(笑い)による「日月神示」で、岡本は大本の出口の弟子だ。http://yomenainickname.blog.fc2.com/?mode=m&no=59

変な工作員のデマに引っかかっただけかもしれないけど、悪質なのでフルボッコにした。

では、これから記す読書メモにある呼吸法や瞑想法でリラックスしてくだされ。


…読書メモ…

※アーサナは画像と動画で正しいやりかたを視覚的にも理解してから実践してください。
特に注意点を調べてから実践してください。無理は禁物です。

成瀬雅春『呼吸法の極意 ゆっくり吐くこと』、BABジャパン、2005年


“ いつでもできる日常的な訓練
完全呼吸法のような呼吸法のテクニックを練習する以前に、呼吸法を身に付けるための根本的な原則がある。それは「呼吸に意識を向ける」ということと、「ゆっくりと息を吐く」という二つである。
呼吸は生まれて以来休むことなく続けられているので、ふだんは意識していない。その自分の呼吸に意識を向けることが第一の原則である。意識を向けた瞬間から、呼吸はゆっくりし出す。一日のうち、呼吸に意識を向けることが多くなるほど、ゆっくりした呼吸をしている時間が多くなる。それがすでに呼吸法の重要な基本を身に付けたことになる。
そして第二の原則の「ゆっくりと息を吐く」ということを心がければ、ヨーガ呼吸法の「深い呼吸をする」という重要な基礎訓練をしていることになる。一般的な深呼吸では息を吸ってから吐いているが、それでは本当に深い呼吸にはならない。
まず肺の中に入っている中途半端な空気を吐き出さなければならない。汚れた空気をいったん吐き出してから、ゆっくりと新鮮な空気を肺の中に取り入れることで深い呼吸になる。その息を吸うときに、胸を広げるようにして、少し顔を上に向ければもっとよい。
この「呼吸に意識を向ける」「ゆっくりと息を吐く」という二つは、いつでもできる日常的な訓練なので、習慣として身に付けてほしい。“
p.83-84

“最近は「解脱」という言葉が流行のように使われるようになった。新興宗教の教祖で「私は解脱した」という人もいるようだ。解脱した人には何の執着もないので、自分から「解脱した」ということはありえない。
しかしヨーガの話の中にはジーヴァンムクタ(生前解脱)という、生きていて解脱した人の例が出てくる。その話があるので「私は解脱した」というのだろうが、これは勘違いなのである。
ジーヴァンムクタというのは、本人がいうことではなくて、周囲の人たちが「あの人は解脱している」と感じるものなのである。周囲の人たちといっても教祖の周囲にいる信者のことではない。利害関係のない第三者のことだ
「あの人は解脱している」ということはあっても、「私は解脱している」ということは絶対にないのである。なぜなら少なくとも「私は解脱している」という意識が消え去らなければ、解脱できないからである。”
p.247
(釈迦は輪廻を外れたので、「私は仏陀の生まれ変わり」と言うやつは全員詐欺師です。
「私は解脱した」と、真に解脱した完全な客観視ができている人が自分で言うことはありうるのでは?
ほとんどは偽物だろうけど。
「私は解脱した」って自分で言うことは、「独我論は正しい」と私が「他人に」言うようなものかな)



外的完全呼吸法
①ゆっくりと息を吐いていき自然に腹部が引っ込み、そのままさらに腹を引っこませながら吐いていく。
②吐き終わったら、瞬間的に腹の力を緩めてから、ゆっくりと息を吸っていき、少し腹が膨らむくらいまで吸いこむ。
③そのままさらに胸を前に突き出す感じで胸郭を広げながら、吸いこんでいく。
④胸郭が広がったら、続けて肩を上げながらもう少し吸いこむ。
⑤吸い込み終わったら自然に二~三秒くらい止める。
⑥腹をもとに戻しながら息を吐いていく。
⑦次に胸をもとに戻しながら吐いていき、続けて肩を下げながら吐く。
⑧腹、胸、型が普通の状態に戻ったら、①につなげてくりかえす。
要点
①下部→中部→上部の一つひとつがきちんと分離されて、しかも連絡を滑らかに行えるようにする。
②吸息の中部のときに一緒に肩が上がってしまう場合が多いが、胸を上げようとするとそうなるので、胸は前に出し広げるという気持ちで行うとよい。
③吸息の最後の部分で、少し顔が上向きになってもよい。
④吸息から吐息に移るときに、二~三秒くらい自然に息が止まる状態になってもよいが、喉は開けたままにしておく。
⑤腹、胸、肩の動きはなるべく大きな方がよい。
⑥五呼吸を1セットとして行う。

半内的完全呼吸法
(外的完全呼吸法の表面的な動きを少なくするが、「腹が膨らんでいく」「胸が広がっていく」「肩が上がっていく」という意識はしっかり働かせる呼吸法。
以下のように外的完全呼吸法を改変する)
・胸が広がりかかったあたりからは、胸は動かさない。吐くときは胸をもとに戻しながら吐く。
・肩を動かさずに意識面だけ肩を上げながら吸い、吐くときも意識面だけ下げる。
・吸うときの胸は、ほんの少し広がりかかるくらいで、吐くときは、そのほんの少し広がりかかった分が戻る程度の動きで、意識だけはしっかりと働かせる。
・吸うときに胸の動きが止まったあたりで、意識だけが「スルッ」と内部に入り込む感覚をつかむようにするとよい。

(引用が多くて素敵な読書メモをどうぞ。私が引用した個所以外の引用があります。
【本】呼吸法の極意 ゆっくり吐くこと
http://blog.goo.ne.jp/picarin2005/e/b9556fd602c4af1893b819d988a7f50d)


『ハタヨガの真髄_600の写真による実技事典』
B.K.S.アイアンガー (著), 沖 正弘 (翻訳)


ターダアサナ(サマスティティ)
ターダ=山
サマ=直立、まっすぐ、不動
スティティ=不動の姿勢、堅固
①足を揃えてまっすぐ立つ。両足の親指、および踵をつける。足の指はすべて床にぴったりとつける。
②ももの内筋肉を伸ばしあげるようにすると、膝をリラックスしたままで引き上げることができる。このとき、尻はそっと締めるようにする。
③胃が自然に引っ込むように、肋骨を広げ、背骨を上に伸ばし、首をまっすぐにする。
④体重は踵と指先の一方だけにかけずに、等分にかけること。
⑤理想的にはターダアサナでは頭上に両手を伸ばしておくのであるが、便宜上、両ももの横に下げていてもよい。

パッドゥマアサナ
パッドゥマ=蓮。
この蓮のポーズは最も大切で最も有益なポーズの一つ。
これは瞑想のためのポーズで釈迦像の中にはこのポーズをしたものが多い。
①両足をまっすぐ伸ばして座る。
②両ひざを曲げ、両手で右足を左もものつけ根に乗せる。このとき右かかとはへその近くに来る。
③左ひざを曲げ、両手で左足をもち、右足のできるだけつけ根に近く置く。このときも、かかとがへその近くに来る。足の裏は両足とも上向きのこと。
④背骨の下から首まで肋骨部を四方に広げながら伸ばす。右手は右ひざに、左手は左ひざに置いてもよい。それぞれの手は親指と人差指で印を作る。あるいは、両足の交差するほぼ中央に、一方の掌をおき、その上に他方を乗せて置いてもよい。
⑤今度は逆に、左足を右ももの上に置き行なう。両方行なうことにより、足を均等に発達させる。

マツヤアサナ
①パッドゥマアサナの姿勢で座る
②膝を床につけたまま仰向けに寝る
③息を吐きながら首と胸部を持ち上げ、背中をそらせる。頭をそらせ、頭頂部を床につける。両手で両足をつかみ、上体をさらに反らせる。
④手を離し、両手で互いに両ひじをつかみ、前腕部を頭上の床の上に置く。
⑤深呼吸しながら、30秒~1分間この状態を保つ。
⑥後頭部、背中を床の上におろす。息を吸いながら、パッドゥマアサナに戻る。足をほどいて休む。
⑦組み方を逆にして足を組み、同時間だけ行う。
⑧もし③と④が難しければ、両手を上に伸ばし、胸をそらせないで横たわる。

(もう少し簡単なヴァージョン。
①仰向けに寝て、両足を揃えて伸ばす。
②両脇を締め、掌を下に向けて尻の下に敷く。手の甲と尻が当たる。
前腕と肘を体側に寄せる。
③鼻から息を吸いながら、肘と前腕で床を押しつつ、背中を床から浮かせ、胸を広げつつ、胸を天井方向に持ち上げる。
同時に頭を後ろにそらし、後頭部か頭頂部を軽く床につける。首への負担を軽くするために、できるだけ頭に体重がかからないようにする。
④リラックスして深呼吸する。約15~30秒深呼吸をしながらポーズをキープ。
⑤息を吸いながら頭をスライドさせながら顎を引いて、頭を床にゆっくり下ろし、腕をほどき、ゆっくりと元の姿勢に戻る。肘で床を押して、首と頭に負担をかけないように戻す)


魚=マツヤ。
この魚はヴィシュヌの化身であり、宇宙と万物の初源であり、保護者である。昔々、世界全体が堕落して大洪水にみまわれようとしていたとき、ヴィシュヌが魚の姿となり、マヌ(ヒンズーのアダム)にさし迫る危機を警告した。この魚はマヌとその家族と、七人の聖人を船にのせ、自らの頭の角につないで運び去った。この魚はまたヴェーダ経典を洪水から救った。

(聖書の元ネタの一つ。教会は元ネタ潰しをやっているので、参考にしたのではなく盗作
です。
ヴィシュヌの化身にブッダがいるのですが、バラモン・ヒンドゥー教を否定した釈迦を取り込むなど、元祖仏教破壊工作をやっております。

Ayano Kurosawa ‏@ab_kuro 2014年12月23日
て言うか、クリシュナの最期がギリシャ神話的(何たって、左の踵が弱点!)、クリシュナもといヴィシュヌのアバター(化身)であるマツヤの話が、もろノアの箱舟の元ネタだったり、なんやかんやと神話って国や時代を越えてリンクするのよね。


インド神話bot ‏@hindimyths
ヒンドゥー教の三大神の一柱であるヴィシュヌは10の化身で知られるが、化身の数が10しかないのではなく、特に重要なのがマツヤ(魚)、クールマ(亀)、ヴァラーハ(猪)、ナラシンハ(人獅子)、ヴァーマナ(矮人)、パラシュラーマ、ラーマ、クリシュナ、ブッダ、カルキの10の化身ということ。

マヌという男が川で水を飲もうとした際、手に魚が入った。魚はマヌに船を造るように命じた。マヌが船を完成させると大洪水が起き、大きくなった魚に導かれ たマヌの家族だけが助かった。この魚がヴィシュヌの化身マツヤである。酷似した洪水神話は世界中にある。「manu」は男、manを意味する。)

ヒンドゥー教の三大神の一柱であるヴィシュヌの10の化身の一つにブッダ(釈尊)がある。仏教をヒンドゥー教の一派と取り入れるとも、わざと誤った教えを広めて敵を罰するとも言われる。仏教側もまた、ジャータカ(ブッダの前世譚)の中でヒンドゥー教の神話を取り入れている、など、なかなかカオス。

高山龍智 ‏@nagabodhi 12月6日
天魔(破壊神シヴァ)に妨害されたあと成道したゴータマに説法を勧請したのが梵天(創造神ブラフマー)。んで、ブッダは維持神ヴィシュヌの「反則技」の化身にしちまえ、と…なんかヒンドゥー教内部で人事のいざこざがあったとしか思えんな。

現場監督の波旬(シヴァ)「ナメてんじゃねえぞ若造があ」。でもゴータマは屈せず新ソフト開発。気弱な社長の梵天(ブラフマー)「ここは一つブッダ氏の出番ということで」。結局仏教大流行。「アレはね、私の黒歴史でしてね」と営業部のヴィシュヌが調整。…こんな感じだなヒンドゥーの仏教対策。)

シャヴァアーサナ
シャヴァ=死体。
アーサナ=姿勢。
①正中線を正して仰向けになる。
まず尻の中心と両足の合うところを一直線上にして、床の十字状の線に膝を立てて座る。それからゆっくりと脊椎を一つずつ線の上におろしていく。背骨の中心が線の上に正確に来るようにする。
②頭は額から両側に伸ばすようにする。頭の位置を前面から正していく。
③体が傾かないようにまっすぐに、また左右の均衡を保つ。
額の中心、両眉の中心、鼻の下のみぞ、唇の中心、顎、喉、胸骨、横隔膜の中心、へそ、恥骨の中心、両ももの間の空間、両膝、ふくらはぎ、両かかとの間の空間が一直線をなすようにする。
頭部から両耳、両眼の外角、唇、顎骨の底辺が左右同じ高さになるようにする。
最後に首を伸ばしてその中心が床の線の上にくるようにする。
④両肩甲骨の内縁を床にぴったりとつける。鎖骨のところから上胸部の皮膚を肩の方へ、肩から後ろへ、肩甲骨に向けて伸ばすことで背中がぴったりと床につくようになる。
肋骨は統一をもって広がらなくてはならない。
⑤両足をそろえてかかとの外側を伸ばしてから、両足先を等しくリラックスさせて開く。
⑥手は体側の15~20度のところにおく。
⑦横たわっているときの感覚は、母なる大地に沈み込むような感じ。
⑧掌、指、足の裏、足の指にある緊張に気付かない人が多い。緊張のある部分をよく観察し、リラックスさせて、正しい位置に戻す。
⑨腹部に「空」と「無」を感ずること。体は投げ捨てられた棒のような状態。
⑩眼の奥を見るようにして、自分自身の内面に眼を向ける。
⑪呼吸は、左右の鼻孔を息が等しく流れていることを確かめる。普通に吸い、やわらかく深く長く吐く。深く吸おうとすると頭と上半身が動き、脚と腕に緊張が起こるからである。


B.K.S. アイアンガー『 ヨガ呼吸・瞑想百科―200の写真で見るプラーナーヤーマの極意』


アーサナ
(ヨガでは「内なる神」、「神と一体になる」という表現が多用される。梵我一如)
・プラーナ=息、生命、活力、エネルギー、力。
アーヤーマ=伸ばす、拡張、長さ、幅、規則的、コントロール。
プラーナーヤーマ=呼吸を長くし、コントロールする。
・ムッドラー=封印、鍵。
体の開いている部分を閉じる姿勢で、指を特別な形に組む。
・バンダ=束縛、結びつける、つかまえる。
特定の内臓や体の特定の部分をつかむ、収縮させる、コントロールする姿勢。

ジャーランダラ・バンダ
ジャーラ=クモの巣、網目。
胸骨が顎に押しつけられている状態で、サルワーンガアーサナとその変形ポーズを行っているとき習得できる。
①シッダアーサナ、スワスティカアーサナ、バッドゥラアーサナ、ウィラアーサナ、バッダコナアーサナ、あるいはパッドゥマアーサナの形で座る。
②背中をまっすぐ伸ばし、胸骨と、胸郭前面を持ち上げる。
③無理のないように首の両脇を伸ばし、肩甲骨を体の中に引き入れるようにする。胸椎を前に押し、首をしっかり伸ばしてから、頭を首の後ろのつけ根から前屈させる。
④喉を圧縮したり、首の筋肉を緊張させてはいけない。首と喉の筋肉をリラックスさせておく。喉や首を前方、下方、あるいは後ろに押しつけてはいけない。上背部を後方に押しつけてもいけない。
⑤顎の両側が、両鎖骨間のくぼみに左右等しくふれるように頭を前屈させる。
⑥片側の顎を他方よりも伸ばしたり、首を片方に傾けてはいけない。
⑦顎を胸に押しつけてはいけない。胸を持ち上げておりてくる顎に合うようにする。
⑧頭の中心、顎の中心、胸骨の中心、へそおよび股の中心が一直線上に来るようにする。
⑨顎を胸にもってくるとき肋骨を下げないようにする。
⑩こめかみをリラックスさせ目と耳は受動的にしておく。

ウッディーヤーナ・バンダ
ウッディーヤーナ=飛び上がっていく。
プラーナーヤーマでは腹をつかみ上げること。
プラーナーヤーマではプラーナは下腹部から頭のほうに流れて上がり、横隔膜は下腹部から内臓を後ろ上方、脊柱の方へと引っ張り上げながら上っていく。
まず立った姿勢でのウッディーヤーナをよく修得してから、バーヒャ・クムバカ(呼気のあとで息を止める)中に、ウッディーヤーナは導入すること。アンタラ・クムバカ(吸気後のクムバカ)にウッディーヤーナは取り入れないこと。心臓に負担をかけすぎるのでよくない。
空腹時に行うこと。
①ターダアーサナで立つ。
②両足の幅は約30センチぐらいに開いておく。
③膝を少し曲げ、両手の指を広げてももの中ほどをつかむ。
④肘を少し曲げ、顎をできるだけ下げ、ジャーランダラ・バンダの姿勢をとる。
⑤息を深く吸いこんでから、肺の空気を一息で吐き出せるように急速に吐き出す。
息を完全に吐ききるまで、腹をひっこめてはいけない。
⑥吸気の前に息を止める。腹全体を背骨の方向に持ち上げる。ウッディーヤーナ実践中は胸を落としてはいけない。
⑦腰椎、胸椎を前上方に持ち上げる。内臓を背骨のほうに向かって圧迫する。
⑧内臓を圧迫したまま手をももから骨盤のふちに向かって移動させながら、さらに内臓を収縮させる。
⑨内臓をゆるめないようにして、また顎を上げないようにして背筋を伸ばす。
⑩10~15秒間できるだけ長く内臓を圧迫したままにしておく。自分の限界以上続けてはならないが、無理をしない程度に練習を重ねていくと、実践時間もだんだん長くなる。
⑪顎と頭はそのままで、まず腹の筋肉をリラックスさせる。
⑫腹が完全にリラックスし、内臓がもとのリラックスした状態に戻るまで息を吸ってはいけない。腹の筋肉がもとの位置に戻るのを待って息を吸う。
内臓を圧迫している間、肺を圧迫してはいけない。
⑥~⑫までの過程の間中は息を吸ってはならない。
・2~3回普通に呼吸をしてから、再び①~⑫を6~8回繰り返す。進歩するにつれて、1回の長さと繰り返しの回数を増やしていく。体験の深い指導者のもとで行うのが望ましい。
・ただしこの一連の繰り返しの過程は一日一回だけおこうなうこと。
・ウッディーヤーナが修得できたら各種プラーナーヤーマに取り入れる。ただし呼気の後のクムバカ(バーヒャ・クムバカ)を行うときだけに行う。
・こめかみのまわりに緊張を感じたり、次の吸気の初めに緊張がかかったりしたら、自分の能力以上にウッディーヤーナを行ったということなので気をつけること。
・ウッディーヤーナ・バンダを一人で行うのは極めて危険。間違ったやり方で行うと精液が不要にもれ、活力を失う。

ムーラ・バンダ
ムーラ=根、源、原因、基礎。肛門と生殖器の間の中心部。
ムーラ・バンダでは肛門と生殖器の間の中心部の筋肉を収縮させ、垂直にへその方に向けて引き上げる。同時に下腹部前面およびへその下は、背骨に向かって後ろ上方に押しつける。
ムーラ・バンダは、吸気後のアンタラ・クムバカ中に行わなければならない。
ウッディーヤーナでは肛門から横隔膜まで全部を背中に向かって押し上げるが、
ムーラでは肛門とへその間の、生殖器部と下腹部のみを収縮させ、背骨と横隔膜の方に向かってひき上げる。
ムーラ・バンダを一人で行うのは極めて危険。間違ったやり方で行うと激しい体力減退をもよおし生殖力も失う。正しく行ったとしても、ムーラ・バンダにはそれなりの危険がある。性欲を増加するので濫用する危険がある。

・吸気のとき腹をふくらませてはならない。腹をふくらませると肺が完全に広がらないからである。吸気も呼気も無理があってはならないし、早くてもいけない。プラーナーヤーマの無理は心臓に負担をかけ、それがもとで脳障害を起こすからである。
・意識的に上胸部を持ち上げ、出ていく息をゆっくり、スムーズに導く。
・呼吸のリズムに深く注意を払うこと。

吸気の方法
①自分に合った方法で座る。
②胸と浮肋骨、へそを上げ、背骨をまっすぐ上に伸ばす。
③できるだけ頭を下げる。首の後ろが柔軟になったら、ジャーランダ・バンダを行う。
④感情の源である心は、へそと心臓の間にあるといわれ、背中はこの感情の中心と常に接触を保っていなければならない。体の前面は、この意識の中心との接触を失わないようにしながら持ち上げ、横に広げる。
⑤吸気中、胸を前や後、左右に傾けないように注意しながら、上方と横に胸を広げる。
⑥横隔膜を異常緊張させてはならない。横隔膜の底の方から空気を入れ始めること。深く吸い込む秘訣は、浮肋骨の下、腰のあたりから始めるような気持で行うとよい。
⑦肺に底から徐々に空気を入れる。鎖骨上端から、脇の下前部まで入れること。注意深く、神経繊維を少しずつ今まで以上に伸ばすようにして、肺が完全に空気を吸い込むようにする。
⑧肩が上がったらすぐ下ろすこと。吸気中に肩が上がると、上肺部が完全に広がらず、首の後ろが緊張してくる。肩を上げないで胸を上げておく。
⑨喉をリラックスさせる。舌は下顎の上に寝かせるようにするが、歯にあててはならない。
⑩目は閉じているが、リラックスしており、内面を見る目を敏感にしておく。吸気のときどうしても目は上向きになりがちなので注意。
⑪耳、顔の筋肉、額の皮膚はリラックスさせておく。

呼気の方法
①吸気の①~④の指示に従い姿勢を整える。
②吸気においては、体は息という形をしたエネルギーを受け取る道具の働きをする。呼気はゆっくり静かに行う。そのためには、肋間筋肉や浮肋骨を持ち上げたままにしておく。そうしないと、安定したスムーズな呼気は無理である。
③呼気の始発点は上胸部であるので、上胸部を下ろさないようにしてゆっくり、へそのところまで完全に空になるまで息を吐く。このとき体は神と溶け合う。
④息を吐いているとき、脊柱の中心をもち上げておくだけでなく、その左右両側も持ち上げておく。全身を樹木のようにしっかりさせておく。
⑤体をゆすってはいけない。
⑥胸を持ち上げたまま、ゆっくりスムーズに吐く。息が荒いということは、胸や背中が下がっていることと、息の流れを観察していないことから起こる。
⑦吸気中においては、上半身の皮膚は緊張するが、呼気においてはリラックスしている。ただし胸や背中の内側は下げないようにする。
⑧腕と胸の皮膚は、脇の下のところで触れ合ってはいけない。腕をわざと広げることなく、脇の下のところで、空間と自由がなければいけない。

・クムバ=いっぱいにも、空にもできる壺。
クムバカ(止息)=息を止める(保息)。

アンタラ・クムバカ(吸気後のクムバカ)
はまずは、胸、横隔膜の内側、内臓を上げたままで数秒間止めることだけまず習得する。クムバカの間に肋間筋と横隔膜の内側と腹部内臓を上げておくのは難しい。
・アンタラ・クムバカを立っているときにしない方がよい。バランスを失って倒れるかもしれない。
・アンタラ・クムバカを寝た姿勢で行う場合、頭の下に枕を置き、頭が体より高い位置に来るようにして、緊張を防ぐ。
・アンタラ・クムバカの間、鼻梁を上げてはならない。
・プラーナーヤーマの間中、頭と頸椎を前傾させ、背骨と胸骨を持ち上げる。脳と頸椎を胸骨の方に向ける。
・吸気後のクムバカ中、内臓をひっこめ持ち上げると同時に、背骨下部を前に押し、胴体はたるませず、頭と腕と足をリラックスさせ、仙・腸骨から背骨を持ち上げ、肝臓下部と胃の下部を持ち上げる。
・背骨の内側と外側両方を上方前方に規則正しくそして等しく持ち上げる。
・上胸部の皮膚がゆるんで、肋骨の方におりてきたときは、息が不注意のうちに漏れたということである。
・胸は張りすぎても落としてもいけない。前面、側面、後面に等しく上げる。肋骨の内側を持ち上げる。

 バーヒャ・クムバカ(呼気後のクムバカ。完全に息を吐ききった後で息を止める)
は静的に行うときはウッディーヤーナなしで行うが、これは自分自身を静めるもので、食後でもいつでも行ってよい。
動的に行うときはウッディーヤーナ・バンダを併用するので、腹部内臓と心臓をマッサージし、エネルギーの分散を防ぐ。
・背骨の内側と外側両方を上方前方に規則正しくそして等しく持ち上げる。
・上胸部の皮膚がゆるんで、肋骨の方におりてきたときは、息が不注意のうちに漏れたということである。
・胸は張りすぎても落としてもいけない。前面、側面、後面に等しく上げる。肋骨の内側を持ち上げる。

・マントラ(呪文を繰り返し唱える)の目的は、乱れた心を一点に集中し、考えを一つにまとめること。マントラは、ヴェーダ(聖典)の讃美歌の部分であり、音楽を帯びた詩である。その詩を繰り返すことがマントラであり、愛と自己を捧げるまじめな心で行うと、自己を神に近づけることができる。
・プラーナーヤーマの実践中にマントラを繰り返し、舌や口を動かさないでそのマントラに意識を集中する。そうすると集中力を身につけると同時に、吸気、クムバカ、呼気の長さを伸ばすことができ、呼吸がスムーズになり意識も高まる。
・マントラは早く繰り返してはならない。吸気、呼気とクムバカをそれぞれ同じ長さで平均したリズムで行い、それに合わせるべきである。
・マントラは「アー・オ・ム」

・ウッジャーイー
ウド=上昇、広がり、卓越、力。
ジャヤ=征服、成功、コントロール。

※あらゆるプラーナーヤーマの全段階が、呼気(レチャカ。「フー」と吐く)で始まり吸気(プーラカ。「スー」と吸う)で終わる。まず肺の中にある空気を全部吐き出してから始める。心臓に負担をかけるから、呼気で終わってはならない。普通に息を吸ってから終わること。決して無理をしてはならない。

A
①毛布を床に敷く。その上にもう一枚の毛布を三つ折りか四つ折りにして、片側にそろえて敷き、その上に後頭部と背部をぴったりつけ、仰向けに寝る。
②体をまっすぐする。目を閉じて1~2分静かにしている。胸をへこませない。
③普通に呼吸する。呼吸に意識を集中し、呼吸の流れを感ずる。
④両肺を等しく空気で満たすようにしながら、胸が上にそして外に広がるのを感ずるようにする。吸気音が聞こえなくなるまで完全に肺に息を入れる。
横隔膜をリラックスさせ、腹をふくらませないで息を吸い、横隔膜を横に伸ばす。
腹をふくらませないためには横隔膜を浮肋骨より上方に上げないようにする。
深く息を吸うと眼球が上がりやすいので、意識的に眼球を鼻の方におろし、肺の内部を見るようにする。
⑤ゆっくり、深く、一定の速度で、静かに息を吐き、両肺を等しく空にする。もし両肺が均等に機能しなければそれを正すこと。
呼気の始めに、横隔膜を脚の方向に下げないように固定し、それからゆっくりと息を吐くが、深く吐いてはならない。このときには呼気は普通の呼気よりも少し長めになる。
⑥10分ぐらい続ける。この間目は閉じ目の奥を見るようにする。

B
A+横隔膜を動かさないようにし、肺が空になるまで、ゆっくり深く一定の速度で息を吐きながら徐々に横隔膜をゆるめる。

C
①好きな座法で座る。
②顎をまっすぐ下げ、胸郭を内側から持ち上げる。顎を胸骨上方の両鎖骨間のくぼみにおく。ジャーランダラ・バンダである。
③腕を下げ、掌を上向きにして手首を膝の上に乗せる。あるいは人差し指と親指で印を結ぶ。ギアーナ・ムッドゥラーである。
④吸気時には腹をふくらませない。終始、横隔膜は肋骨より下にしておく。すべてのプラーナーヤーマを行うときにこのことを守らなければならない。
横隔膜が浮肋骨よりも上になると、胸がふくらまず中腹部がふくらんでしまう。
恥骨から胸骨までの腹部全体を背骨に引き寄せてから次に頭の方へ上げる。これは内臓にマッサージになる。
⑤横隔膜とともに内肋間筋も持ち上げ、その状態で呼気を、ゆっくり深く一定の速度で行う。
呼吸の流れを観察しながら、Aの要素を入れて、10~15分間行い、シャヴァアーサナで数分間休息する。


バストゥリカー・プラーナーヤーマ
バストゥリカー=ふいご。
空気をふいごのように力強く吸い入れたり、吹き出したりするプラーナーヤーマである。
※バストゥリカーは全身を活発にするプラーナを作り出す。しかし、あまり長く練習しすぎると、呼吸が強いので組織が摩滅して肺が危険な状態になるので注意する。
※ふいごの音がしなくなったらすぐやめて、普通呼吸を始めるか、繰り返すサイクルの回数を減らす。
※いらだちや緊張が感じられたり、鼻血、耳鳴り、耳痛が起こったらすぐやめること。呼吸の音が正しくなかったり、強い呼吸ができなくなったらやめること。少しの無理でも鼻血が出たり肺に障害を起こす。
※眼か耳に疾患があったり、高血圧または低血圧の人は行ってはならない。
※きゃしゃな体格の人や、肺活量のあまりない人は、バストゥリカーやカパーラバーティを行ってはならない。血管や脳に障害を起こす恐れがある。
※女性は行ってはならない。力強い呼吸によって腹部臓器と子宮の位置異常を起こし、乳房がたるむ恐れがあるからである。
※バストゥリカーによってクンダリーニの力が覚醒されるというまちがった考えをしている人が多い。権威ある書物にも同じようなことが書かれてあるが、真実とはほど遠い。

①鼻孔は終始開いておく(右手の親指、薬指、小指でつまむ必要はない)。
②自分に合った座り方で座る。肺の中の空気をすべて吐き出す。
③短く、強く息を吸い、早く強く一気に息を吐く。これを繰り返すと、次の吸気は最初の吸気よりも速く、力強いことがわかる。これは吸気の前の呼気が強いからである。
④すばやく吸ってすばやく吐く。4~8回続けて行い1サイクルが完成する。呼気で(吐いて)終わること。
⑤普通は、ウッジャーイーのときのように数回ゆっくりと呼吸するが、吸気のあと、ムーラ・バンダで5~8秒のクムバカを入れてもよい。勿論、それからウッジャーイーのときのようにゆっくり深く息を吐く。こうすると横隔膜と肺が休まり、また新しいバストゥリカーの強い呼吸に備えることができる。
⑥クムバカを入れても入れなくてもよいが、ウッジャーイーを混じえてこのバストゥリカーのサイクルを何回か繰り返す。それから深呼吸してシャヴァアーサナで休息する。
⑦スタミナが増すにつれてバストゥリカーの回数も増えるが、呼吸の調子が変わったらすぐに中止すること。

カパーラバーティ・プラーナヤーマ
カパーラ=頭蓋骨。
バーティ=光、光沢。
バストゥリカーとほぼ同じであるが、それに比べて穏やか。吸気はゆっくり、呼気は力強く行い、呼気を終えるたびにほんの少しのクムバカを加える。バストゥリカーがきつすぎると感じたら、このカパーラバーティを行う。

・ディヤーナ(瞑想)=吸収。
自学自習、自己反省、鋭い洞察、自分の内にある無限のものを捜す方法。深い内省で体の中の動きを観察することであり、心の状態を見つめる。自分の中にある最も奥のもの、つまり自己の内にある神を見ることである。
①ジャーランダ・バンダをしないで、正しく座る。
②体の前後を等しく持ち上げ、背骨を伸ばし、胸を上げる。
③頭を左右前後のどちらにも傾けず、頭頂部を床と平行にする。
④目を閉じて目の奥を見る。
⑤胸の前で合掌し、親指が胸骨をさすようにする。この手の形はアートマンジャリ・ムッドラーとかフリダヤーンジャリ・ムッドラーという。
(写真を見ると親指が胸の中央にあたっている)
⑥意識が脳と心のあいだを揺れ動いていると、考えが次から次へと浮かんでくる。そういうときには掌をさらに合わせ、注意を自己の内なる神に集中する。掌がゆるんできたら心がさまよっているという警告であるから、一層しっかり合わせ、内なる自己に意識を集中する。

『禅の本』


坐禅の仕方
・結跏趺坐(足の裏を天に向けて両足を組んで坐る。結跏=足を組む。趺=足の裏)で座る。
①座蒲(ざふ。なければ座蒲団の上にさらに二つ折りした座蒲団)を置き、その上に浅く腰を下ろす。
②右足を左のものの上に乗せ、かかとが下腹につくくらいまで、なるべくつけ根のほうまで引き寄せる。
③左足も同じように右のももの上に乗せる。
両膝と尾骶骨で、床の上に三角形ができる。このとき膝が床から離れてはいけない。
足が痛くて結跏趺坐ができない人は、左足だけをももの上に乗せる半跏趺坐を用いてもよい。
それも辛い人は普通に正坐して行ってもよい。
・目は自然におとす。閉じると眠気を催したり、妄想に陥りやすくなる。
・手は法界定印(ほっかいじょういん)を組む。
右の掌を上向きにして、組んだ足の上に置く。
その上に左の掌を同じように上向きにして重ね、親指の先を合わせて卵形の輪を作り、その手はへその下あたりに置く。
両方の親指をかすかに合わせる。離れても押しつけてもいけない。
・体の位置は真中心におく。時計の振子のように上体をまず大きく左右にふって自然に止まった位置、次に前後にふって上体がまっすぐ安定した位置。
・頭は顎を引き、左右に傾かないようにする。視線は1m先くらいに自然におとす。
・口は軽くむすび、舌先を上あごの歯のつけ根に軽く当てる。
・肩は力を抜き、水平にする。
・背中はまっすぐ伸ばす。腰は後ろにぐっと引く。腹は少し前につきだし、鼻と一直線になるようにする。
・呼吸は自然と鼻からの呼吸にまかせ、息は長すぎも短すぎもしないようにする。息はまず吐き出してから吸う。下腹の底から吐く心地で息をすると、下腹はへこむというよりも充実感がある。すると自然に鼻から吸うことができる。


『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法』
William Hart ウィリアム・ハート (著),
日本ヴィパッサナー協会 (監修), 太田 陽太郎 (訳)
春秋社 1999-11


・ブッダの教えは仏教用語を解説するような形で説明されることが多いようです。しかし、本書では意図的に仏教用語を少なくし、原文の簡潔な英語を尊重して、できるだけ平易な日本語にするようつとめました。
たとえば、八正道を「聖なる八つの道」、
戒定慧を「道徳、精神集中、知恵」、
受想行識を「感覚、知覚、反応、意識」といったぐあいにです。
ヴィパッサナーはブッダの瞑想法をそのままの形で伝えるもので、宗教的な色彩をいっさい持たない
からです。(訳者あとがき)

・ヴィパッサナー瞑想法は長年ミャンマーの仏教徒のあいだで伝承されてきたが、それ自体はまったく宗教的な色彩がなく、どのような背景を持った人でも受け入れ、実践できるものである。
S・N・ゴエンカはヴィパッサナー瞑想法の指導者でり、口癖は「ビー・ハッピー!」。
瞑想の純粋さを維持するためには瞑想をビジネスにしてはならない、とゴエンカ氏は主張する。氏の指導する瞑想コースや瞑想センターは、すべて、まったく営利を目的としないで運営されている。ゴエンカ氏はいっさい報酬を受け取らない。氏の代理としてコースの指導を許可されたアシスタント指導者たちも無報酬

本書で引用したブッダの言葉は、もっともポピュラーな最古の記録書『経蔵』(スッタピタカ)からのものである。『経蔵』は古代パーリ語で書かれており、テーラヴァーダ派の仏教(上座部、南伝仏教)が普及している国々に保存されている。筆者は現代翻訳家の訳文を参考にしつつあらためて翻訳しなおした。
本文の仏教用語はパーリ語のものを使用した。サンスクリット語のダルマの代わりにパーリ語のダンマを、
カルマの代わりにカルマを、
ニルバーナの代わりにニッバーナを、
サンスカーラの代わりにサンカーラ
を、
といったぐあいである。

・ニッバーナ=火が消えること、苦からの自由、究極の現実、束縛のないこと。
サンスクリット語ではニルバーナ。

・サムサーラ=輪廻転生、条件づけられた世界、苦の世界。

・サンカーラ=(心の)形成、意思活動、心の反応、心の条件づけ。
サンスクリット語ではサンスカーラ。

・ブッダの教えは、自己改革の手段として自己洞察を強めてゆくシステムである。
『サティパッターナ・スッタ』すなわち『気づきの確立の教え』(大念住経)という経典のなかで、ブッダは自己観察によって自己洞察を深めてゆくという実践的な方法、すなわちヴィパッサナー瞑想法を示している。

・サティ(気づき)。アーナーパーナ・サティ(呼吸の気づき)。
ヴェーダナー(感覚。心とからだの両面を持つ)に反応することが苦の原因だとブッダは説いた。
ブッダは因果の連鎖において、タンハー、すなわち苦の原因は、ヴェーダナーに反応することによって生まれると説いた。
ヴェーダナーを冷静に観察できれば、新たな渇望や嫌悪の反応がなくなり、自分のなかで無常(アニッチャ)の真理を直接体験できる。執着を取って心を解放するためには、この体験が不可欠である。

・タンハー(原義は「渇き」)=渇望、(渇望の裏返しである)嫌悪。
タンハーが苦の原因。因果の連鎖においてタンハーが感覚への反応として起こる。

・ドゥッカ=苦、不満


・ブッダは対象物と反応とのあいだに第三の要因があり、それがヴェーダナー(感覚。心とからだの両面を持つ)であることを発見した。外の現実に対してではなく、内なる感覚に反応しているというのである。渇望や嫌悪の反応をせずに感覚を見つめることができれば、苦の原因がなくなる。だから苦は消滅する。
ブッダの教えを修行するためには、ヴェーダナーの観察が欠かせないのである。ヴェーダナーの気づきを完璧なものにするには、からだの感覚を観察しなければならない。
からだの感覚に気づくことによって、問題の根っこを深く掘り下げ、それを取り除くことができる。自分自身の奥底に横たわる真実を見きわめ、自分自身を苦から解放することができる。ブッダの教えのなかでは、感覚を観察するということが中心的な役割
を果たしている。

経典『気づきの確立の教え』の「気づき」は、「わたし」という現象の無常性を直接理解しなければ確立しない。その真理を自分自身で直接さとったとき、気づきは確立する。これが正しい気づきである。これによって心が解き放たれる。気づきが確立すると、外の世界ばかりか内なる世界への渇望と嫌悪もおのずと消えてしまう。とくに内なる渇望と嫌悪の根は深く、だれもが無意識に、本能的に自分のからだと心に執着し、しかもそのことに気づかない。
『気づきの確立の教え』はまず、からだの観察について説いている。呼吸を観察する。からだの動きを観察する。からだのなかにからだの内部を、または外部(体表)を、あるいは内部と外部を同時に観察する。からだのなかに生まれる現象を観察する。感覚を観察する。心を観察する。心の中身を観察する。
はじめは、固くて変化のない「かたまり」のような、からだと心のうわべの現実を体験するが、修行をつづけてゆくと、やがてその固さが自然に溶けてゆく段階に入り、心とからだの真の姿、一瞬一瞬生まれては消える波動の集まりを体験することになる。この体験によって、からだ、感覚、心、心の中身、これら四つの側面の実体をすべて理解する。それはおよそ非人間的であくまでも無常な現象の終わりなきうねり
である。

“では、瞑想者はどのようにして、からだのなかにからだを観察するのだろう? この場合、瞑想者は森の中や、木の下や、だれもいない小屋に行く。そこで足を組んですわり、背すじを伸ばし、口のまわりに意識を固定する。彼は呼吸を意識しながら、息を吸い、息を吐く。深い息を吸っているとき「いま自分は深い息を吸っている」と正しく理解する。深い息を吐いているとき「いま自分は深い息を吐いている」と正しく理解する。浅い息を吸っているとき「いま自分は浅い息を吸っている」と正しく理解する。浅い息を吐いているとき「いま自分は浅い息を吐いている」と正しく理解する。「からだ全体を感じながら、息を吸う」そのように自分を訓練する。「からだ全体を感じながら、息を吐く」。そのように自分を訓練する。「からだの動きを静めて、息を吸う」そのように自分を訓練する。「からだ全体を静めて、息を吐く」そのように自分を訓練する。
(『サティパッターナ・スッタ』『アーナーパーナ・パッバム』)“p.221-222


“ 瞑想者がからだのなかの心地よい感覚の無常性を観察しつづけていると、その感覚は衰え、うすれ、消滅する。また、自分が心地よい感覚に対する執着を捨てるのを観察しつづけていると、からだのなかの心地よい感覚への渇望という隠れた条件づけが取り除かれる。瞑想者がからだのなかの心地わるい感覚の無常性を観察しつづけていると、からだのなかの心地わるい感覚への嫌悪という隠れた条件づけが取り除かれる。からだのなかの中立の感覚の無常性を観察しつづけていると、からだのなかの中立の感覚への無知という隠れた条件づけが取り除かれる。
(『パタマ・ゲーランニャ・スッタ』)“p.223


ブッダ(さとりを開いた人)はあくまでも人間でありつづけ、けっして自分が神のような存在であるなどとは言わなかった。なにか特殊な力を持っていたといわれることはあるが、それはあくまで人間として抜きんでていたのであり、人間の持つ力を最大限に発揮させたにすぎない。だからブッダが成し遂げたことは同じようにやればだれにもできる範囲のことなのである。

・ブッダはいかなる宗教も哲学も体系的な理念も説かなかった。その教えをダンマと呼んだが、ダンマとは法、すなわち自然法則にほかならない。ブッダは特定の教義や無意味な施策には関心をもたなかった。そのかわり、万人が抱える共通の問題を解決するための普遍的、実践的な方法を提供してくれた。
ブッダは「むかしもいまも、わたしは苦と苦の消滅について説いている」という。苦からの解放につながる話でなければ議論することもひかえたという。
この教えは自分が発明したものでもなければ、神がかりになってひらめいたものでもない、とブッダは言う。自分が努力して発見した単純明快な真理であり、自分より前に多くの人が同じことを発見しており、自分より後にも多くの人が同じことを発見するだろう、と言っている。真理を独り占めにする気などまったくなかったのである。
ブッダは自分の教えが絶対であると断言することもなかった。それは人々が彼を信頼しきっていたからでもないし、彼の教えが理路整然としていたからというわけでもない。むしろブッダは、自分が体験していないものは疑い、検証すべきである、と述べている。


“人から聞いたこと、古い言い伝え、世間の常識、あるいは文字になっているもの、そういうものを鵜呑みにしてはいけない。想像、推測、外見、部分、可能性、あるいは師の意見、そういうもので教えが真理であると決めつけてはいけない。自分が直接「この教えは正しくない、間違っている、賢者も批判している。この教えを実行すると弊害があり、人々が苦しむ」とさとったとき、それを捨てればいい。自分が直接「この教えは正しい、間違いがない、賢者も称賛している。この教えを実行すると人々が豊かで幸福になる」とさとったとき、それを受け入れ、実践すればいい。”p.15

・ブッダは「わたしの教えには裏も表もない。掌中にかくした秘密はない」と言う。
実際、選ばれた弟子だけに授ける奥義など持たなかった。逆に、多くの人がその恩恵にあずかることを望んだのである。
派閥や個人崇拝の集団をつくって自分がその中心にすわる、などという考えはこれっぽっちもなかった。ダンマの教えに比べたら、教えを説く人はそれほど重要でない。教えを説く人の役目は人々に自己解放への道を示すことであり、盲目の信者をつくることではない、とブッダは言う。極端にブッダをまつりあげようとする者がいると、その人をこうさとした。

「このからだを見てなんになろう、やがては朽ち果てるものを。ダンマを見てわたしを見よ、わたしを見てダンマを見よ」

真理こそが第一であって、真理を説く人ではない。真理を説く人を尊敬するのはいい。
だが最高の尊敬の表わしかたは自分もその人と同じように真理を追究することである。
ブッダは、最期が近づいたころ、自分をひどく崇めたてまつる人々を見てもこうもらしている。

「これはさとりを開いた人をたたえ、敬い、尊ぶ、正しい姿ではない。むしろ、ダンマの道を最初の一歩から最終ゴールにむかってこつこつ歩き、きちんとダンマを修行している僧や尼僧、在家の男女の信者たちこそが、さとりを開いた人を心からたたえ、敬い、尊んでる」


(仏陀 ブッダ ことば 仏教 ‏@Buddha_Words 2011年3月22日
841 マーガンディヤよ、あなたは自分の教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執着した事柄について迷妄に陥ったのです。あなたはこの内心の平安について微かな想いさえも抱いていない。だからあなたは「ばかばかしい」と見なすのです(スッタニパータ)

“第四章(アッタカ・ヴァッガ)
p.186 八三六
“(マーガンディヤがいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」”

 p.186 八三七“師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

宗教否定。~という説を説くときいた相手がそれに執著してしまうことを危惧しているのかもしれない。どのような生存状態に生まれかわるかについて答えていない。わかりっこないからだろうか
。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-9.html
原始仏教はカウンセリング術。
現世利益を言わない宗教が多いのは、現世利益で幸せになると儲からないから。
『仏教、本当の教え - インド、中国、日本の理解と誤解 』・
『原始仏典』・
『ブッダの真理のことば・感興のことば』。
あと、生き残るために他の宗教に偽装した宗教や、キリスト教が作った「ユダヤという身代わりの生贄」やズルワーンについてなど
。)

わたしたちは外側ばかり見るくせがついている。自分を知らないことがどれほど危険なことかもわかっていない。自分の中に未知の力がひそんでいて、自分がその力の奴隷になっていることに気づいていない。ブッダが示した道は自己洞察、自己観察の道であり、自己浄化の道でもある。自分自身を観察していると、はじめて自分が反射的に反応していることに気がつくだろう。
この道は歩くのは、貯金をして将来その利息を楽しむとか、死んだあと、あるかないかもわからない天国に行くためではない。利益ははっきりと、あざやかに、その人その人にふさわいい形であらわれ、まさに「いま、ここで」体験できる。

(はっきりいって、未来や「いつか必ず」を強調する宗教は詐欺
です)

ブッダの教えを修行するためには、かならずしも仏教徒になる必要はない

・ブッダは物質世界がすべて、パーリ語でカラーパという「分解できない極小単位」から構成されていることを発見した。
ものはみなカラーパという微粒子から構成されており、そのカラーパはたえず生まれては消えるという。つまり、連続的な波動の流れ、絶え間ない微粒子の流れ、これが「もの」の究極の真相なのである。わたしたちがそれぞれ「自分」と呼んでいる「からだ」の実態なのである。

・ブッダはからだを観察しながら、心も観察した。そして、心が意識(ヴィンニャーナ)、知覚(サンニャー)、感覚(ヴェーダナー)、反応(サンカーラ)という、大きくわけて四つのプロセスから成り立っていることを発見した。
第一のプロセスは意識である。
意識は心のアンテナのようなもので、なにかが起こったことを無差別に感じ取り、それに気づく。からだや心になにかが起こったということだけを察知し、その入力信号をとらえる。内容を識別したり価値判断を加えたりせず、ただなにかが起こったという生のデータを受信する。

第二のプロセスは知覚である。知覚は、認識をする。知覚は意識がとらえたものを読み取る作業をおこなう。未処分のデータをすべてチェックし、分類する。そして好悪の判断をくだす。

第三のプロセスは感覚である。実際には、なんらかの入力があった瞬間に感覚が生じている。なにかが起こったという感覚が生じているはずである。ただ、その入力信号が識別されるまでは感覚がはっきりしない。データが識別されて価値判断がくだされたとき、それに応じて快、不快の感覚が生まれる。

心が何らかの対象物に接触すると、その瞬間、電光石火のごとく四つのプロセスが走る。これをつぎつぎにくりかえしていくのである。
人間をこのように説明してゆくと、その実体というよりも、その虚体とでもいうべき事実におどろかされる。わたしたちは、「わたし」という一貫したアイデンティティー(主体)を持ち、それを生来信じて疑わない。過去の自分、いまの自分、将来の自分、というものを中心にすえて生きている。
ブッダはこのアイデンティティーという直観的な概念に挑戦した。だからといってあらたに独自の概念をつくり、理論に理論をぶつけたわけではない。ブッダは何度もこう念を押している。自分は意見を述べているのではない。実際に体験した事実、だれもが体験できる道、それを述べているにすぎない、と。
人間は完成品でも不変の存在でもなく、一瞬一瞬、休みなく流れつづけるプロセスにすぎない、とブッダはさとった。
ほんとうに「存在している」ものなどなにもない。ただ現象のにが起こりつづけ、ひたすら何かに「なる」
というプロセスが起こっているにすぎない。

(心は脳の働きではなく)全身に心があります。からだ全体にです

・Q――先生は「わたし」という意識について、いつもマイナスなとらえ方をされます。でもプラスのものもあるのではないでしょうか?
喜びや安らぎ、至福感、そういう「わたし」の体験もあるのではないでしょうか?

A――瞑想していると、そういう官能的な喜びが長続きしないことに気がつきます。喜びの感情が浮かんでも、じきに消えてしまう。「わたし」が本当に喜び、その喜びが本当に「わたしのもの」なら、その喜びの感情を「わたし」は自由にできるはずですね。でも、そういう感情は勝手に生まれ、勝手に消えてしまう。そんな「わたし」とはなんでしょう?
深いレベルでは「わたし」というものは意味を持たなくなります。自我は溶解され、そこにはただ「喜び」だけがあります。「わたし」はもう問題にはなりません。瞑想を続けていくと、やがて自我の溶解を体験する
ときがきます。

Q――わたしがこの(ヴィパッサナー瞑想)コースに来たのは、「わたし」がここに来たいと感じたからなのです。

A――もちろん、そうでしょう。便宜上、わたしたちは「わたし」や「わたしのもの」から逃れることはできません。でもそれに執着し、究極的な意味での真実、と錯覚することは苦しみを生むだけです。

・カンマ(サンスクリット語ではカルマ。業)という言葉は一般的には「運命」という意味に解釈されるが、カンマを運命とするとブッダがこの言葉で意味しようとしたものとは正反対になってしまう。
運命というと人間の力ではどうにもならないもの、あらかじめ各自に課せられた天命、というような意味になる。
しかし、カンマの原義は「行為」であり、自分の行為が自分の体験の原因になるというのである。自分の行為を支配できれば自分の運命を支配できる。自分の行為、行動のなかに苦を止める鍵があるのだ、とブッダは言う。
真のカンマ、ほんとうの苦の原因、それは心の反応である。ほんの一瞬の好き嫌いの反応ならそれほど強くないから、ほとんど影響はない。しかし、累積効果というものがある。一瞬一瞬、つぎからつぎへと反応をくりかえしていると、そのつど反応が強くなり、やがて渇望や嫌悪に成長する。いちばん最初の説教をおこなったとき、ブッダはこれをタンハー(渇き)と呼んだ。ないものをどこまでもほしがるという心のくせは、あるものにけっして満足しない、ということと同じである。
苦から抜け出すための第一歩は、苦の現実を受け入れることである。それも頭のなかの概念や信条としてではなく、自分の人生を左右する厳然たる事実として受け入れる
ことである。

・Q――苦しみを体験することによって人はたくましくなり、人間として成長するのではないでしょうか?

A――そうですね。実際、この瞑想法も苦しみを使って心のきれいな人間を作ろうとしています。しかし、それも自分の苦しみを客観的に観察できるようにならなければうまくゆきません。苦しみに執着しているうちは心の清らかな人にはなれないし、苦しみから解放されることもないのです。

Q――自分の行動をコントロールすると言われますが、それは抑圧ではないでしょうか?

A――それは違います。どんなことが起きても、それをそのまま客観的に観察する訓練をしているのです。たとえば腹が立ったとき、その腹立ちを隠したり、こらえたりすれば、たしかにそれは抑圧になるでしょう。そうではなく、その腹立ちをじっと観察していると、それはやがて自然に消えてゆきます。怒りという感情を客観的に観察することができるようになれば、怒りから解放されてゆくのです

・「五つの集合体への執着が苦である」
苦は自分のからだと自分の心に対する並々ならぬ執着である。
からだというプロセス、それに意識、知覚、感覚、反応という四つの心のプロセス、
つまりこの五つのプロセス(過程、現象)への執着、五つの集合体への執着が苦なのである。
人々は自分の心とからだというアイデンティティーにしがみついている。
自分という虚像への執着、実際にはたえず変化しつづける現象にすぎないものへの執着、
これはまさに苦以外のなにものでもない


・執着にはいくつか種類がある。
①官能的な満足を求めるくせへの執着。
麻薬中毒者が中毒がひどくなることを知りながら快感を求めてつい手を出してしまう。
わたしたちはなにかを渇望することに執着している。
欲求の対象はあまり重要ではなく、ただ渇望している状態を維持したくなる。
渇望中毒


②「わたし」という大きな対象の執着。
自分、自我、自分のイメージに対する執着。
わたし「のもの」にも執着する。
自分に付随するものすべてへの執着。
自分に帰属するものに執着するのは、それが自己の延長であり、「わたし」のイメージを支えているから。
わたし「のもの」との別れは必ずくる。
執着が強いほどに苦しみも強くなる


③宗教の形態や儀式への執着。
外形にとらわれて、その根底にある意味を忘れやすい。

(釈尊の思想だと、
宗教の形而上学的な、確かめようがない教義は不毛だから悪。
当然、教義への執着も悪


輪廻転生(サムサーラ)は、一般にいわれているような、魂や自我の移行とは少しちがう。

ふつう、生まれ変わりというと、何度生まれ変わっても魂や自我の主体は変わらないと考えるだろう。
ブッダは、そういうことは絶対にありえない、と言う。
なにか不変の主体(アイデンティティー)があって、それが輪廻転生するのではない、と言う。
「ちょうど、牛から牛乳を取り、牛乳から凝縮乳をつくり、凝縮乳からバターをつくり、天然バターから加工バターをつくり、加工バターからクリーム状の脱脂乳をつくるようなものだ。牛乳は、凝縮乳や天然バター、加工バター、クリーム状の脱脂乳などとはべつのものと考えられる。それと同じで、どの時点においても、過去や未来ではなく、いまこの瞬間に存在している姿のみを真実と考えるべきである」


ブッダは、不変の自我本体が輪廻転生を繰り返すとか、前世も来世もないと言っているのではない。
ある存在からつぎの存在へ、さらにまたつぎの存在へと、ただ生成のプロセスが起こり、わたしたちの行為がそのプロセスに推進力を与えるかぎりその流れがつづく、と言っているのだ。
盲目的な反応をやめたなら、いまここで深い心のやすらぎを得ることができるだろう。
天国も地獄も、いまここに存在する。天国も地獄も、この世で、自分のなかで体験できる


執着をもたない、ということは、無関心や無頓着とは違います

・五戒
1 生き物を殺さない。
2 盗みをしない。
3 性的なあやまちを犯さない。
4 嘘をつかない。
5 酒類をとらない。

・シーラ=道徳。
他人を傷つけ自分も傷つくような、からだと言葉の行為をつつしむこと。

Q――正しい性と間違った性があるということですが、その違いは何ですか? 意思が問題なのですか?

A――そうではありません。生活の中で、性というのは正しい位置付けをされるべきです。それを抑圧してはなりません。むりに抑えれば緊張が高まり、むしろ問題を引き起こします。
しかし一方で、衝動のおもむくまま、誰かれかまわず交渉をもつことは、欲望を野放しにすることです。
抑圧でも放縦でもない中道をダンマは教えます

Q――麻薬の力を借りて、超意識や超現実を体験することについてどう思われますか?

A――麻薬の力で何かを体験することはそれに依存することです。
一方ダンマは自分が自分の主となることを教えます。いつでも望むときに自分の意思で真理を体験することができるのです。
麻薬を使うと心の平静さが失われ、自分を害します。ダンマの修行によって真理を体験するとき、心は平静になり、だれも害されることなどありません


Q――肉食はシーラを破ることになりますか?

A――いいえ、自分で生き物を殺して食べるのでなければ。たまたま肉料理が出され、ほかの料理同様に食べるなら、それだけではシーラを破ることにはなりません。でも避けるのが望ましいです。

呼吸に気づく訓練をする。呼吸に意識を固定する。
心がさまよっても、にっこり笑って、あせらず、根気よく、力まず、落ち込まず、何度も何度も心を呼吸に引き戻す。

・アーナーパーナ=呼吸。
アーナーパーナ・サティ=呼吸の気づき。

・アーナーパーナで呼吸に意識を置くとき、おなかでなく鼻孔の下に意識を置くのは、おなかでは意識を置く範囲が広すぎるから。
意識を置く範囲を狭くすれば、それだけ集中力は高まるので、鼻孔が最適。

・ヴィパッサナー=総合的に心を浄化する自己凝視、自己洞察。
とくに心とからだの無常という性質を見抜く洞察。

ヴィパッサナー・バーヴァナー
=からだの感覚を観察して真理を見抜く瞑想法を修行し、段階的に自己観察の力を高めていくこと。

ヴィパッサナー瞑想では自然なからだの感覚を観察する。順序良くからだに意識をめぐらせてゆく。
とくべつな感覚を追いかけたり、避けたりしてはいけない。
ただひたすらからだの感覚を冷静に観察し、どのような感覚があらわれようとそれに意識を置く。
変わった感覚を探し求めるのではなく、ふつうのからだの感覚を淡々と観察していく。
感覚の原因をさぐる必要はない。
重要なのは意識の焦点を合わせたところにある感覚に気づくこと。
何度も全身に意識をめぐらせ、かすかな弱い感覚も感じ取る。
感覚のにぶいところを飛び越してはいけない。
ある感覚を避けようとしてはいけない。

・ヴィパッサナー瞑想の最大の目標は、いかにして反応しないでいるか、いかにして新しいサンカーラ(盲目的な心の反応)をつくらないか、を学ぶことである。
盲目的な心の反応の結果もサンカーラと呼ぶ。


Q――自分がつくり出した感覚ではないということはどうしてわかるのですか?

A――それはテストをすればわかります。
ほんとうの感覚かどうかあやしいと思ったら、二つ三つ命令を出して、自分に暗示をかけてみるのです。
命令にしたがって感覚が変化するようならば、その感覚はほんものとはいえません。
けれども自分で感覚をコントロールできない、感覚が自分の命令にしたがわないときは、その感覚はほんものです。
疑いを捨てて、受け入れてください。


・人生のパターンを、後ろ向きの「反動」から、前向きな「行動」に変えてい
くのです。

たとえば、ある人がなにかをしようとしたとき、べつの人が邪魔をしたとしよう。
邪魔された人は、邪魔した人をひどい奴だと思い、嫌悪する。
その思いは邪魔した人の性格を考慮したものではない。
たまたま自分の邪魔をしたというだけで、いやな奴だと思い込んでしまうのである。
それが無意識の奥底にしっかり刷り込まれる。
そして邪魔された人に会うたび、潜在意識にその思いが浮かびあがり、不快な感覚を抱く。
すると、また新たに嫌悪感が生じ、それが邪魔した人のいやなイメージをいっそう強めていく。
二人が二十年ぶりに再会したとしよう。
はるかむかしのことなのに、邪魔された人は邪魔した人に会ったとたん、ひどい奴だ、いやな奴だと思う。
かつて自分の邪魔をした人の性格は二十年のあいだに一変しているかもしれない。
だが、邪魔された人は過去のいやな体験を思い出して相手を見てしまう。
それも邪魔した当人に対して反応するのではなく、最初の盲目的な反応によってつくられたイメージに対して反応してしまうのだ。
それは偏見の塊である。
これは、自分に協力してくれた人をいい人だと思うことにもあてはまる。
その思いは協力した人の性格を考慮したものではなく、たまたま協力してくれただけ。
良い印象は無意識の領域に記録され、協力してくれた人に会うたびにイメージが強化される。
何年もたってから再会してもやはり同じパターンが繰り返される。
協力してくれた当人に反応せずに、最初の盲目的な反応によってつくられたイメージに対して反応してしまう。
ヴィパッサナー瞑想によって、反応のくせ、つまり古い条件づけを取り除く。
感覚器官のいずれかに接触があるとき、いかなる評価も偏見もあってはならない。
偏見をもって価値判断をはじめると、前につくった盲目的な反応の影響をうけ、ものごとを歪めて見てしまう。
心を条件付けから解き放つためには、過去の反応でもって評価することをやめ、ただただ気づいていることである。

(人はX自体に対してではなく、X「に対するイメージ」に対して反応する、ということはきわめて重要です。
Xの今の状態を観察し、潜在意識と記憶が形成する誤ったイメージという苦しみの原因を克服しましょう!
過去の嫌悪を再現する潜在意識を改善しないと、対症療法にしかなりません


・Q――精神分析とヴィパッサナー瞑想を比較するとどうですか?
A――精神分析では、強いショックとなって心の条件づけをしたような過去の出来事を思い出させるのですね。
ヴィパッサナーでは瞑想者がみずから自分の心の深層、 心の条件づけが実際に生じるところにまで至るのです。
精神分析によって思い出すような過去の出来事はからだの中になんらかの感覚を刻みこんでいます。
全身の感覚を平静な心で観察してゆけば、何層にも積み重なった無数の条件づけが一枚一枚はがされては浮かび上がり、つぎつぎに消えてゆきます。
ヴィパッサナーは心の条件づけの根元にはたらきかけるので、はやく容易に自己を解放することができる
のです。

ヨガにヴィパッサナーを取り入れても構いません。
たとえばポーズを取って、同時に全身の感覚を感じるのです。
ヨガだけをやるよりもずっと効果が上がります。
ただし、マントラやイメージを使ったヨガの瞑想法はヴィパッサナーと相いれないものです。
そういうものとヴィパッサナーを一緒にしてしまってはなりません


“ 実際に瞑想をしてみると、呼吸に意識を置くことがいかにむずかしいかわかる。できるだけ長いあいだ呼吸に意識を置こうと思っても、どういうわけか知らないうちに心はどこかに行ってしまう。ちょうど、酔っぱらいがまっすぐ歩こうとしても千鳥足になってしまうのと同じである。じつのところ、わたしたちは無知と幻想の酔っぱらいなのである。過去や未来をさまよい、渇望や嫌悪に振りまわされ、いつも千鳥足で歩いている。しゃきっと目をさまして一直線の道を歩くことができない。
 瞑想をして困難にぶつかっても、落ち込んだり、弱気になってはいけない。長年かかってしみついた心のくせだ。それを取るには時間がかかる。そう考えたらいい。くりかえし、休みなく、根気よく、ひたすら瞑想するしかないのである。心がさまよっているのに気づいたらすぐ呼吸に意識を引きもどす、ただそれだけでいい。それができれば、心の放浪癖をなおす貴重な一歩を踏み出したことになる。何度も何度も瞑想をしているうちに、雑念がわいてもすばやく呼吸に意識をもどすことができるようになる。呼吸を忘れている時間が少しずつ短くなり、呼吸に気づいている時間、サマーディが長くなる。
 精神集中が深まると、力みがなくなり、幸せな気分になり、エネルギーが満ちあふれる感じがする。呼吸は徐々にやわらかく規則的になり、軽く、浅くなる。ときには、呼吸がほとんど止まったような状態になる。事実、心が静まるとからだも落ち着き、代謝作用が低下し、酸素もあまり必要でなくなる。
 この段階に入ると、瞑想中、奇妙な体験をすることがある。たとえば、目をつぶっているのに光や幻覚が見えたり、妙な音が聞こえたりする。このような、いわゆるESP(超常感覚)の体験は、精神集中がかなり深いレベルに到達したことを示しているにすぎない。そういう体験はあまり重要でない。とりたてて騒ぐことではない。依然として気づきの対象は呼吸であり、それ以外のものはすべて雑念である。けっして超常感覚が起こることを期待してはならない。それは起こることもあるし、起こらないこともある。超常感覚というのは瞑想のすすみぐあいを示す一里塚のようなもので、一種の標識にすぎない。旅をしていれば標識がかくれていて見えないこともある。夢中で歩いていて気がつかないこともある。その標識を最終ゴールだと思い込んでしまったら、それ以上前進できない。とにかく超常感覚の体験などは掃いて捨てるほどある。ダンマの修行者はそんなものを求めているのではない。自己の本質を見きわめ、苦からの自由を勝ち取ろうというのである。
 そんなわけで、ただひたすら呼吸に注意を向けてゆく。精神集中が深まるにつれ、呼吸は弱くなり、観察しにくくなる。かすかな呼吸に気づくには、そうとう努力しなければならない。いっそう心をとぎすまして集中力を高め、表層の現実をつらぬいて深層の微細な現実を観察してゆくのである。
 精神集中を深める方法はたくさんある。一つの言葉をくりかえし唱えて精神を集中するとか、なにかのイメージを凝視するとか、あるいは、同じ動作を何度も何度もくりかえすとか、いろいろだ。そういうことをやって注意を向けた対象にのめり込むと、やがて一種のトランス状態に入り、至福を味わうことができる。しかし、トランス状態のあいだは快感が持続しても、ふつうの生活にもどると、あいもかわらず同じ問題に悩まされる。そうした精神集中の技法を使っても、いちおう心の表面にやすらぎと喜びのうすい膜のようなものができる。ただし、深層の心の条件づけにまで影響をおよぼすことはできない。精神集中の対象として選ばれるものも、本人が体験しているはずの一瞬一瞬の現実とは関係ないものばかりである。だから、それによって得られる快感もちょうど壁の上塗りのようなもので、いかにも作為的な感じがする。心が浄化されたときに奥底から自然にわき上がる至福とはずいぶん隔たりがあるようだ。正しいサマーディは、心の陶酔ではない。つくりものでもないし、幻想でもない。
 ブッダの教えのなかにも、トランス状態(ジャーナ)を体験する話がある。ブッダ自身、究極のさとりを開くまえに八つの没我の境地を学んでおり、生涯その修行をつづけたという。しかし、トランス状態を体験すれば解脱できるというわけではない。没我の体験は洞察の修行への足がかりにすぎない、とブッダは強調する。瞑想によって集中力をつけるのは、至福と快感を体験するためではない。心を鍛え、それを道具にして自己の現実を見抜き、苦の原因である心のくせを取り除くためなのだ。それが正しい精神集中である。”
p.106-108

(深く集中して瞑想できれば誰にでも起こる自然現象なので、調子に乗ったり、選民思想に囚われて執着してはいけません。それを防ぐ装置の一つが、「戒律を誓わせること」です。
そもそも瞑想の目的は「心を制御できるようにして平静なままでいられるようにする」ことなので、このような神秘体験は邪魔=禅仏教における魔境です。あくまで、「ここまで深く自分は集中して瞑想できた」というサインだととらえましょう。

誰にでも起こることをわざと隠して、「あなたは選ばれた」とか「教祖の神通力のおかげ」とか
言って依存体質の信者を量産するのがカルトの手口ですので注意してください。
オウムはモロにこの手口を使っていました。


『禅の本』。禅はスピリチュアルの中核を否定。
神秘体験は魔境=執着してはならない悪。
スピリチュアルは野狐禅を量産する危険物なので取り扱い注意!

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-109.html
“…神秘体験による凶悪な洗脳の実例…

↓で紹介されている動画では、神秘体験によって洗脳する手法が暴露されているので自分の意見を交えつつ要約します。

条件を整えると誰でも起きる神秘体験を、グルの力によると錯覚させて洗脳。
通常とは異なる体験をしている人に対しては強烈な洗脳をかけることができる。
強烈な神秘体験をするのは、教祖の超能力でも何でもなく、誰でも起きる、人間なら誰でも起きる「変性意識現象」である、という視点が大切。
一見不思議だが脳にとっては当たり前の現象。
信者たちのなかには、リトリートと呼ばれる独房の中にいるときに神秘体験を得た者が多い。
暗い部屋に、それもできれば体温と差のない静かな所に、長い間閉じ込めておくとそれだけで変性意識になる。
上手にヨガをやれば光を見たりする。
そのときに「それはグルのおかげです」だとか「グルの超能力です」と言われて引っかかってしまう。

企業もカルトと同じ手口を使って、軍隊を作る為の訓練=洗脳を行う。
社畜=信者=兵隊。
企業研修=カルト宗教の入信儀式(入隊式)。

大勢の店長の前で(=監視下で)絶叫アピール。
人前で宣言すると宣言したことを撤回することが難しくなる、一貫性の法則の悪用。
絶叫した後で、訓練担当官が絶叫した人を抱きしめることで、洗脳をより強烈にする。
調教されたことに怒るどころか、感謝する奴隷の完成。
×店長が育てば会社が育つ。
○奴隷隊長が増えれば社畜から搾取出来るので会社がより肥え太る

いったん精神を動揺させてから洗脳。
紐付き陰謀論者が衝撃的な(黒幕の核心を外した)ネタで価値観を破壊して、洗脳されやすい状態にしてから、偽の黒幕(ユダヤや在日)を本物だと信じさせる手口と同じ。
紐付き陰謀論者自体がカルトの手先だから当然か。

だから、私は洗脳手法、詐欺の手口、人間心理の傾向、プロパガンダのやり口などをまず学び、紐付き陰謀論者の本やブログや講演を無視しなさいよ、っと言っているんですけどね


prometheus ‏@prometheus2054
【必見】オウム信者を脱洗脳した苫米地博士が、オウムの修行で変性意識状態を作りだし洗脳される過程を解説☞http://youtu.be/_VU7qOPBhJg?t=13m7s … 開始13分~これを見た後、日本の就活や企業研修がこれと似たことを行っていることが分かる→http://bit.ly/b23q0i

(国会議事堂占拠計画-国家権力掌握へ、白い愛の戦士 オウム総括6/10
https://www.youtube.com/watch?v=_VU7qOPBhJg&feature=youtu.be&t=13m7s

餃子のなんちゃら
https://www.youtube.com/watch?v=jpC_kJbS3RQ&feature=youtu.be

ようつべだと、動画再生速度を変えられるので、まとめるのが楽ですね)

以上の洗脳って、禅の修行を意図的に失敗させているとも言えるのですよ。
野狐禅の量産による狂人の量産です。
過労死するまで働く=会社の為に死ねるって十分狂人でしょ?
安息日なしのカルヴァン派プロテスタント的労働思想
=過労死教の狂信者は日本には特に多いです。

禅を学びたいなら、禅を曲解して反知性主義に改造するニューエイジャーやヒッピー系の本ではだめですよ。
スピ系が大好きなインド思想はキリスト教=反知性主義に都合よく改悪されているので、インド思想の論理的思考重視の姿勢をなかったことにしております



禅は神秘体験を否定しているのでスピったらダメ…

 上記で理解していただけたと存じますが、
一定の状況で神秘体験は意図的に作り出せるのですごくもなんともないです。
自分の意思で自在に神秘体験をコントロールできるならすごいです。
つまり、神秘のヴェールをはぎとって「自分の技術」にできるならすごいです。
神秘体験を神秘体験でないようにするのです。
神秘体験や神秘主義は仏教の方向性とは真逆です。
釈迦は神秘主義者ではまったくなく、透徹した合理主義者です。

目の前に神や仏や宇宙人が現れて、自分だけが選ばれたと救世主気分におぼれたり、宇宙霊と合体して天にも昇る素晴らしい心地がしたと感激する、などは魔境であり、悟りの邪魔であるから、囚われたりこだわってはならないと、禅ではいましめています。
つまり神や仏や宇宙人や宇宙霊や選民思想が現れても、相手にせず受け流し、軽くかわさないといけません。
禅はスピリチュアル=インド風キリスト教を否定しているのです。
心の平安と執着からの解放が仏教の目的なのだから、超越的な存在や愛という執着を主張する時点で偽物です。

禅宗の修行では、一般の人々(特にカルト信者)が喜びそうな奇跡的現象は、大悟の妨げとして厳しく排除されます。
そもそも禅の目的は超能力、いわゆる神通力を得ることではありません


(陀羅尼縁学 ‏@daranijizai 11月5日
仏教の宗派には、過剰にスピリチュアルや、霊感、霊能を禁忌として捉える所もあるが、それは一種の禅病を防止する為もある。
瞑想中にそういう不思議な感覚に囚われ行き過ぎた追求をすると、禅病になる。
禅で和尚にパチンと叩かれるのも、禅病予防。禅は追求するとヨガに行き着く
。)

前回の記事などで真の伝統である仏教を学びましょう!

斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

(菊池 ‏@kikuchi_8 11月13日
チベット仏教は密教のイメージだが、実は顕教はインド中観派が正統に継承さる
【斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう! 】
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 11月5日
ねここねこさん、フェイド大帝 が紹介したチベット仏教本 読んだのかw
偉いな……
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

今回の記事の内容、仏教を理解 するには凄く重要なのに、 ブログ拍手がいつもより少ないのが 笑えるw
やっぱ、専門的な話になると みんな読みたがらないのかなー この二冊、仏教書の中では 易しいほうなんだけどなぁ。

仏女・仏教をたたえる天才・偉人bot ‏@genius_200
自分は昔からこれまで、このような素晴らしい教えを聞いたことがなかった。
(仏教を日本に受け入れた 欽明天皇)
(われ昔よりこのかた未だかつてかくの如き微妙(くわ)しき法を聞くことをえず)
それから1500年間日本は仏教国!


STB ‏@RC_StB 6月24日
日本会議が如何に低能か 薩摩長州の芋侍が出てきて、廃仏毀釈をやらかし、そいつらの生き残りが「日本は保守の国」と嘘を付き続けている して、これを見よ
「天皇、仏法を信じ、神道を尊ぶ」(用命紀)
「仏法を尊び、神道を軽んず」(孝徳紀)
大日本帝国は日本史上稀な伝統破壊者だぞ(笑)

(神道家にとって道教と平田篤胤はアキレス腱。神道・惟神・天皇・神器は道教用語であり、神道用語ではないので本居宣長がやろうとした漢意を排除する試み(神仏分離!)は最初から破綻していますな

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-84.html


…今回の最重要な引用…

“ 坐禅がもっと進むと、今度はいよいよ魔力に支配された境地に入っていく。それを「魔境」という。魔境にはいろいろあり、『楞厳経』(りょうごんきょう)という経典によると、実に50種の魔境があるといわれている。また釈迦仏陀でさえも成道の直前に魔境に悩まされたことは、よく知られている。
これは釈迦が悪魔マーラを呼びだして、本当の悟り、(菩提)を得るための最後の戦いをする、というものである。マーラは世にも恐ろしい兵器で攻撃をしかけてくるが、釈迦はそれを花に変えてしまう。マーラは次に自分の娘たちに命じて、釈迦を誘惑させるが、釈迦は受け流す。
マーラは最終兵器で最後の攻撃をしかけてくる。しかし釈迦は、ついにそれらすべてが水面に映る月影のように、幻覚・妄想にすぎない、と知る。このマーラ物語が、魔境の原型であり、魔境の本質を示しているようである。
魔境という文字の形からは、なにか恐ろしい感じを受けることだろう。確かに、『源氏物語』の生霊とか『今昔物語』や『雨月物語』に出てくるようなすさまじい魔境もある。しかし多くはそうではない。かえって、これぞ悟りの境地ではないか、というようなものが少なくないのである。
たとえば、心の中にとんでもない妄想や屁理屈が出てきて、自分は天才だと密かにうぬぼれる。目の前に神や仏や宇宙人が現れて、自分だけが選ばれたと救世主気分におぼれる。宇宙霊と合体して天にも昇る素晴らしい心地がしたと感激する、などさまざまだ。
だがくれぐれも、そんなものにとらわれたりこだわってはならないと、禅ではいましめている。前章で書いた澤木興道のように「その内容は受け流すだけ」、つまり相手にせず軽くかわすだけのことなのである。
もっとも、どんな境地が魔境でないかは、なかなかわかりにくいようである。たとえば禅の心理学で世界的に知られる、ある高名な学者の例がある。
「なにもかもが新鮮にみえる。道端に何気なく生えている雑草さえ、この世のものでない美しさに輝いて目に映る。見性体験を得たとき、私はこれこそ禅の心だ、と思った。」
と彼は専門誌に発表した。やがてLSDという、ライ麦の麦角(ばっかく)から製造した強力な幻覚剤の服用体験の論文を読み、彼は、これぞ禅の悟りそのものであると説いたのである。
このためアメリカの西海岸では「LSD、5ドルで天国」とばかりにインスタント禅というものがはやり、ヒッピーたちは先をあらそって服用した。しかしその結果は無残にも、つかの間の悟りの後はぐったりとしたボケ症状におちこむばかりであった。つまりこれは魔境でしかないことが、事実をもって証明されてしまったのである。“『禅の本』p.147-148


自分は多少マシになっただけで大して目覚めていない覚醒していない、まだまだ洗脳されているからそれに気づく為に気をつけて検証しないといけない、と自覚して自戒する方がよっぽど「覚醒」しています。
信者=酔っ払いの言う「覚醒した!」って「俺は前よりも更に酷く洗脳された!」ってことなんじゃないの?
白昼夢(一応起きているけど夢心地)から目覚めてほしい。
せめて明晰夢(これは夢だと自覚)の状態になってほしい。
スピ系陰謀論者は、「真実は隠されてる!」というくせに、嘘を見抜く技術として重要な論理的思考や、歪められた思想の毒抜きなどを学ぼうとしない、布教活動が主体の人がほとんどです。
スピ系の大半は真実を求めていません。スピ系の大多数の人々が求めているのは選民思想的な優しい嘘。”


斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html
“禅の詳しい記事は次回にして、今回は、「キリスト教思想で都合よく改悪されていない本物の」チベット密教についてです。
論理と言葉を軽視あるいは否定する、チベットチベットうるさいスピリチュアル(=インド風の新キリスト教)信者に、チベット密教は論理的思考重視でありスピリチュアルを否定していることを示す以下の証拠↓を食らわせたら、迷惑な酔っぱらい(スピ信者)のごく一部はしらふに戻るでしょう。
信者が「自分」だと思っているものは実は欲とカルトの教義であり、それを自我と信じ込んでいるだけ
です。

“仏教論理学(因明[いんみょう])と認識論に関しても、チベット仏教の伝統は、実に高度な論議を蓄積してきました。「比丘や諸々の賢者たちよ。金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊 敬のゆえに受け入れてはならない」。これは、チベットのラマたちがよく引用する聖句です。お釈迦様は弟子たちに――あたかも金の純度を確かめるがごとく ――自らよく考えて教えの中身を吟味し、その後で初めて教えを信奉するように強く戒めています。チベット仏教では、こうしたお釈迦様の精神を受け継ぎ、盲信や実践至上主義を排し、明快な論理による思考を重視しています。”
p.20、斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社

“「視覚ではなく意識で、しかも次第に直感的に……」というのが、第一のポイントです。
第二のポイントは、「向こうから現われるのではなく、こちらから向こうへ置く」ということです。瞑想の中で、「自分の意思とは関係なく、本尊などが向こうから突然出現した」というような神秘体験は――何らかの印や徴候と認められるケースも稀にあるでしょうが――多くの場合、修行者の妄執が生み出した幻覚にすぎません。それゆえ、実践の正しい拠りどころとして、ほとんど信頼できません。また、実際にそうした幻覚が現われなくても、あたかもそうであるかのごとく瞑想することは、間違った方向へ心を慣らすばかりなので、いくら実践しても望ましい成果を期待できません。そうした突然の神秘体験に執着せず、あらかじめ自分の意思で「こういうふうに瞑想しよう」と計画を立て、それに従って意識の力で本尊の姿を認識対象として確立し、それを繰り返し瞑想して習熟することが肝要です。
では、信頼できない神秘体験と正しい瞑想の成果を区別する基準は何かといえば、「その瞑想に十分習熟したとき、いつでも意のままに同じ内容を再現できるか否か」という点です。もちろん最初からは無理ですが、本当に瞑想に熟達した密教行者なら、複雑な曼荼羅を――どんな大きさにでも――瞬時に再現できるといいます。「こちらから向こうへ置く」という感覚で瞑想するからこそ、習熟すれば自在に再現可能となるのです。”
p.92-93、斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社

“仏教の修行というものはすべて、お釈迦様を信じて拠りどころとしなければ成立しえません。この点で、仏教は、決して単なる人生訓や思想哲学や瞑想テクニックではないのです。
  しかし、「理屈抜きにただ信じる」というわけではない点で、他の多くの宗教とは趣を異にしているといえるでしょう。第二章で引用したお釈迦様の言葉を思い 出してください。「比丘や諸々の賢者たちよ、金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊敬のゆえに受 け入れてはならない……」。“p.192斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社

“知恵者らよ、自性が空という空性の意味は、縁起の意味である。しかし、功用が空(効果的作用がない)という非存在の意味ではない”
p.54、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/クンチョック・シタル/齋藤保高 共著『チベットの般若心経』春秋社



神秘主義と光は強固に結びついている
ミルチャ・エリアーデの論考「神秘的な光の体験(『悪魔と両性具有』所収)」に従うならば、ヨーガの修行では星の像、満月の円盤、真昼の太陽、火の輪などを見る体験が悟りの到来を告げる徴候とされる。
イランでは古来、光の顕現を救世主の誕生を告げる徴と考え、これがマタイ伝の霊の記述にも影響を与えたらしい。
また、エスキモーのシャーマンは千里眼能力を得る際に、「天啓の光」というものを経験するという。この光を体験したときに空高く上昇する感覚に襲われるのだが、これはエスキモーに限らない。
円盤が発射した光線に引き上げられて円盤内部に運び込まれる体験と類似。

UFO目撃者の中には、目撃後に一種の人格変換が観察される人々が存在するという報告は、示唆的。光が彼らを変えたのか、変わろうとした彼らが光を必要としていたのかは視点の相違に過ぎない。
僕は何もUFO体験が実は宗教的体験であったと主張しているわけではない。
人間はどういうわけか光を見る生き物なのであり、その体験は長い年月をかけて練り上げられた宗教システムにあっては整合的に組み込まれたというにすぎない。
仮に宗教なんか存在してなくとも光が飛ぶのは見えちゃうんだから。
事実と虚構、現実と非現実の境界に絶対的なものがあると思っちゃいけない。

(宇宙人による遭遇や誘拐が結社への勧誘とイニシエーションを意味している場合があるでしょうね。

超常の存在
=人格に相当するものがあるかは不明のエイリアン

と定義すれば、

――憑依されたか憑依させたかは問わず――
エイリアンと同化した存在
=結社員は「宇宙人」と呼ばれてもおかしくないのではないか?

支配層は「最初から人格がある人型宇宙人」という実際とは異なる、支配層に都合がよい姿に捻じ曲げて発表させているのでは?
エイリアンXには人格がなく、それが人間に憑くと、憑かれた人によって、Xの要素がどのていど反映されるかが決まるのでは?
人によっては爬虫類っぽい顔になるのでは?

で、憑依されやすいあるいは召喚しやすい血液の種類があって、それがRHマイナスでしょうね。大けがしたら真っ先に死ぬ血液を持っているなんて普通は嫌だろうけど、それを補って余りあるメリットがあるからでは?

支配層なら、大怪我をしにくいようにできるし、すぐに処置できるように備えることもたやすい。
血は命。血は魂。あるいは血は命と魂の通貨。
物質と非物質の境目。

血液は400ccあたり1万8千円。
献血といえば赤十字、赤十字といえば天皇家。
支配層の血統重視は異常。
献血で血を抜かれる側はボッタクられていますね。

強制的に狐憑きにして、廃人にならなかったら合格とかやってそう。

結社員
=宇宙人と人の融合体

ってまんまウルトラマンですね。

産みの親の円谷はカトリック。一家全員がカトリック。
腕を十字に組んで放つ必殺技。
初代ウルトラマンにはノアの神も登場します。

「世界シンボル事典」の聖書の「ノア」の項目にフリーメイソンの結社員のことを「ノアの息子たち」と呼ぶと書いてあるそうです
。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-101.html
空飛ぶレイシズム】 稲生平太郎『定本 何かが空を飛んでいる』②。 
支配層が用意する娯楽=デモ=麻薬=宗教行為。 
工作員の仕事=良心を麻痺させる宗教行為。 デモやるなら皇居や銀行や軍需企業の前でやったら?



…主な参考資料…

完全閉店 ‏@lakudagoya 8月20日
「イメージ・シンボル事典」が欲しいけど手が出ないから図書館で「世界シンボル事典」を借りて読んでたんだ。そしたら聖書の「ノア」の項目にフリーメイソンの結社員のことを「ノアの息子たち」と呼ぶと書いてあった。FF3の魔王の師匠がノアなのもこのシンボリズムを感じるよね。



エジプト神名リスト:セト Seth
http://www.moonover.jp/bekkan/god/seth.htm
"荒ぶる砂漠の神。暴風と雷鳴を象徴とする。

甥のホルスと壮絶な王位争奪戦を繰り広げた神話で知られ、時々卑怯な手も使ってはいたが、その文句なしの強さゆえに、敵を撃退するときには必要とされる戦の神でもあった。エジプト王国の歴史を通じて、混乱期にはセトの力強さが求められた時代も何度かある。単純に善悪では割り切れない神であり、この神を「邪神」や「悪魔」と呼ぶ人は、まず根本的にエジプト神話の特性を理解していないので、その時点であまり信用しないほうがいい
(…)
甥ホルスとの王位継承戦争に敗れたあと、セトは国外を領土とする「異境の神」となった。ナイル河畔の「神々の土地」に対する外の世界=砂漠、または国境の外の世界=異国、である。
外国人の人気も集めた神で、のちにヒクソス人がエジプトに侵入してくるようになると、嵐の神、雷鳴の神としておなじ性格を持つヒクソスの神ステクや、シリア系の神バアルと同一視されるようになった。その影響で異国風の衣装をつけたり、戦車に載る姿で描かれることもあった。

また、新王国時代(第19王朝)のラメセス2世は、ヒッタイトとの戦争後、講和してヒッタイトの王ハットゥシリシュの娘を妃として迎えるとき、山を越えてくる婚礼の一行の道中の安全をセトに祈願している。ヒッタイトの首都は現在のトルコ(カッパドキアの北)。そこからの遠路はるばるの旅路の無事を祈るのは、国内専門の神ではなく国外もサポート対象になっている神。けっこう手広い神様である。もちろん、セトが単なる邪神や悪魔と考えられていたなら、こんなことは在り得ない。
(…)
新王国時代の儀式の中では、セトの身代わりを打ち倒すことにより、王権を確固たるものとすることが行われた。
その儀式でセトの身代わりとされた動物は、以下のような実に多彩な種類である。

・ヘビ⇒アポピスの項を参考に。
・カメ⇒アペシュの項を参考に。
・ロバ⇒なんでだか不明、頭の部分がロバに似てたから?
・雄カバ⇒ホルスと戦うとき、セトが化けたからとされる。とばっちりでセベクがセトの仲間にされた。
・ブタ⇒これもセトが化けたからとされる。"

完全閉店 ‏@lakudagoya 5月22日
イルミちゃんゆるキャラ解説 その1
・緑のピラミッド(ワンワールドカラー。グラントリアンとアングロサクソン系メーソンの統合)
・蛇くん(レプティリアン。竜座のα星。天帝信仰)
・片眼の赤ちゃん(ホルス君)
・フクロウ君(イルミの象徴) pic.twitter.com/DUXsvYKSlU

イルミちゃんゆるキャラ解説 その2
太陽さん(ミトラス、ソル・インヴィクトス、ドルイド教の太陽崇拝など全て)
・バフォメットちゃん(智慧の頭という意味。レヴィのバフォメットは両性具有のシンボル)
豚ちゃん(セト神のシンボル) pic.twitter.com/Y6oq7WRebV

イルミちゃんのゆるキャラ解説 その3
豚ちゃん(おなじみユダヤやイスラームで禁忌とされる豚肉。でも、豚肉はある神において重要。それはエジプトのセト神(後にバアル神と習合)のものとされる)

イルミちゃんのゆるキャラ解説 その4
・蛇くん(メドゥーサなどの古代の蛇信仰。主に蛇信仰は女神信仰でもある)
・レプティリアン君(目隠ししてるのはふりーそーめんの儀式か!?)
・牛君?(古代の雄牛信仰。セラピスやバアル、ゼウスなど) pic.twitter.com/OBj9Mk9Zo7

完全閉店 ‏@lakudagoya 5月23日
@Jd805 @knznymmmy あはっ!たしかにエースコックのパクリかも知れませんが、豚がアカンということは逆に神聖でもあるということで。古代エジプトでは豚肉は、セト神のシンボル(主神のホルス君の敵)ということで避けられました

エジプト神名リスト:バアル Baal
http://www.moonover.jp/bekkan/god/baal.htm
”もとは、西セム系の神。アナト、アスタルテなどとともに、シリアから渡ってきた神。バアル、という名は「主人」を表し、地方によって「バアル・何々」と後に地名などが続く。

シリア人が大量にエジプトに移住した時代に、シリア人とともに信仰も移り、エジプト風になったものが、エジプトにおけるバアル
神だ。新王国時代には、フツーに昔からエジプトにいましたよってな顔をして登場する。
砂漠、嵐の神であったことから、エジプト神話における似た属性の神、セトと同一化され、妻までセトにとられてしまう(笑) 右図のバアルが元々のカナアン系の姿だが、エジプトでは基本的にセト神と同一視され、セト神の姿で表現されることが多い。(名前だけ"バアル"と記載される)

もともと属する神話はウガリット神話で、そこでの彼は「主神」となっている。また豊穣の神であり、死の神モートと戦って、エジプト神話のオシリス同様に死と再生を繰り返す神でもある。
(…)
エジプト神話側からすると意外かもしれないが、本来のバアルは豊穣神だったらしい。
エジプトでのバアルは、もちろん「戦いの神」。荒ぶる神、セト神と同一視され、眷属か、または同一人物とさえ見なされていた。

その原因のひとつは、どうやらエジプトの砂漠気候にあるようだ。
カナアンでの豊穣神は「雨を降らせる」ことになっている。雨は雷とともに来る。ゆえにカナアンでのバアルは雨・雷・雲、または嵐で象徴された。
だが悲しいかな、エジプトは、雨が降らない国だった…。
水をナイル河に頼っているエジプトでは、豊穣の神は、オシリスやハピといった「河の神」である。雨の神はいないし、雨が豊穣の象徴となることもない。そんなわけで、バアルは雨を降らす神ではなくなり、雷や嵐の力強さに付随した戦いの神という属性だけが残ってしまったのだ。


ところで、本国のバアルには、雨の神らしく「きんと雲」ならぬ、お出かけ用の雲があったらしい。
(…)
バアル、という言葉はセム語で「主人」を意味する。もう少し意味を広げると「神」ともなるようなので、信仰される神という存在の一般名詞でもあったと考えられる。(ちなみに女主人は”バアラト”)
特定の神を指定するには「バアル=○○」と、いう名前がついたらしく、そのようなお名前の神様をたくさん見かけたが正直何が違うんだか全然分からなかった^^;

エジプトに登場する”バアル”は、主に下エジプトに定住した人々の崇めた神で、バアル=サパン、または、バアル=ゼフォンという名前だったそうだ。
サパンは信仰の中心地であった山の名前、ゼフォンは「北の」
を意味するという。

#ちなみにSFアニメ「ラーゼフォン」のゼフォンはここから来ているんだとか?

エジプトでの呼び名はセム語の発音に近い「バアル」(バール)で、発音的にはあまり変わっていないようだ。
名前をヒエログリフで書くと、セトの神聖動物が決定詞として、ついてくる。セトの一人格として見なされたがゆえだろうか。


キリスト教(太陽+来世に期待)とユダヤ教(嵐+現世利益)は根本思想が違いすぎる。
ラクダが家畜化されるのは紀元前10世紀以降なので旧約にラクダが登場するのはおかしい

岡田明憲『ゾロアスターの神秘思想』 講談社現代新書 。
岡田明子・小林登志子『シュメル神話の世界 』中公新書
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-52.html
ミトラ教(太陽派)+黙示録(拝火教)=キリスト教
嵐派+メシア(人間の指導者)による現世利益=ユダヤ教
根本思想が違い過ぎ。
猫太”オリジナルのユダヤ教は、中国人と全く同じの現世利益的宗教ですから。この基本がわかれば陰謀論の嘘もわかる。”
ユダヤは✝の囮

(…)
・メシアとは本来、ヘブライ語の油を注がれた者を意味する。これは一般に王を意味するもので、必ずしも終末論的救世主に特定されていたわけではない。
それがギリシア語でメシアにあたるキリストになると、もっぱら救世主に限定されて使用される。
単なる王としてのメシアから救世主への、メシアの終末論的解釈への変化は、バビロン捕囚以降に属す。ゆえにペルシア文化の影響があるのは否定できない

このメシアの原型と考えられるのが、ゾロアスター教のサオシュヤント。
ゾロアスター教の誕生から三千年の後、世界の終末が来るとする。
三千年は三等分され、千年ごとにゾロアスターの子孫が出現し、世を利益するサオシュヤントになるのである。三人のサオシュヤントは、霊的に保存されたゾロアスターの精子を、聖なる処女が受胎することによって、この世に降臨するとされる。
三人目の最後のサオヤシュントが終末の総審判を行う者である。
この最後のサオヤシュントは、ダハーカ竜を殺す槍を持っている。竜退治の槍。

(バビロン捕囚は嘘なので拝火教的救世主に概念が変わるきっかけがないですね。
ユダヤ教からキリスト教が生まれたのは嘘であることの根拠の一つです。
ユダヤ教は現世利益的で現実的指導者がメシアなんです。
なのにありもしないバビロン捕囚をきっかけに、拝火教的キリストっぽいメシアになるのです。
キリスト教のキリスト概念に上手く繋がるように捏造したのです。
バビロン捕囚がなかったら、キリスト教と救世主の概念があまりにも違うとばれますからね。
キリスト教の救世主概念はミトラと拝火教の救世主そのまんまですから。超常の存在。
旧約聖書ってあまりにもキリスト教に都合が良すぎるんですよね。
存在しないイエスを殺した悪のありもしない民族の教典=異教徒の教典を採用している時点で怪しい。
ゾロアスターの精子バンクで処女のまま妊娠ってキリスト教より論理的ですな。
バビロン捕囚じゃなくて、
紀元前3世紀中頃から前1世紀間に、徐々にヘブライ語の旧約をギリシア語に訳した七十人訳が救世主概念が変わったきっかけだろうね。
ファラオの命でヘブライ人の経典(旧約聖書)をギリシア語に翻訳したもので、ルシファーをラテン語訳で召喚したヒエロニムスも旧約の翻訳の際に参照しています。
また、ルネサンス以前の西欧では、ヘブライ語の識者が殆どいなかったためもあって、重宝されたようです。
七十人訳は最初期のキリスト教=ほとんどミトラ教が採用したものだそうです。アレクサンドリアでの翻訳にミトラ教やゾロアスター教徒あるいはペルシャ出身者が絡んでいたのでは?
新約聖書に引用されている旧約聖書の個所はこの70人訳からの引用

紀元前4、5世紀のヘブライ語原典を、ある程度想像できるから重視されます。しかし、古代ギリシア語の共通語=コイネーによる七十人訳(あるいはラテン語で septuaginta セプトゥアギンタ。「70」の意。LXXと略す)が原典の忠実な翻訳であるとも限らないため、問題は多いです。
意図的な誤訳がありますね。

1. 歯が一本減った人‏@boronology10月28日
1,イザヤ書の「みよ乙女は身ごもりて」が「処女」と訳されたのはギリシャ語の七十人訳聖書
2,非嫡出子という意味はない
3,だいいち当時ディアスポラのユダヤ人の間は「処女」の意味で広まっていたはずである
もちろん福音書記者もヘブライ語はちんぷんかんぷんなので七十人訳聖書でしか知らない。
そうなれば新約の時代においては「処女」こそが正しい解釈になってしまう。

3のところの「処女」って「乙女=若い女」の間違いでしょう。

1. 真央‏@mao49492012年1月18日
本来の原典は『西暦前1世紀』のギリシャ語セプトウアギンタ訳です。現在のキリスト教が主張するセプトウアギンタ訳は西暦前1世紀『以降』翻訳されたもの。それが現在のキリスト教聖典七十人訳聖書 です。
七十人訳聖書(しちじゅうにんやくせいしょ、羅:Septuaginta, 「70」の意。LXXと略す)は、ヘブライ語のユダヤ教聖典(旧約聖書)のギリシア語訳であり、紀元前3世紀中頃から前1世紀間に、徐々に翻訳・改訂された集成の総称を言う。ラテン語読みである。これ改竄でしょう改竄翻

(…)
ガザーリーなど、イスラムの思想家にはイラン出身者が多い。イスラム哲学はペルシア文化の影響下で育まれたのであり、素朴なアラブ人だけでは不可能であった。
特にイスラム神秘主義はイラン人の心性に根ざす。ゾロアスター教の影響がある。
天使論に限っても、イスラム神秘主義のそれは直接ゾロアスター教に連続している


・大乗仏教と小乗仏教の大きな違いは、大乗仏教には菩薩思想があること。菩薩思想とは自己だけの悟りに満足することなく、広く衆生を救わんとする思想である。
大乗仏教の成立地はクシャーン朝下の西北インド。イラン文化の影響がある。
大乗仏教の起源として考えられるのが、ゾロアスター教のサオシュヤント(=利益する者)
弥勒はミスラである。
仏像発祥地のガンダーラから弥勒菩薩像が発見されている。
ガンダーラの仏像で確実に菩薩と断定できるのは、成道以前の釈迦菩薩の他は、この弥勒と観音菩薩だけ
である。

・観音信仰は地母神の信仰と同様の基盤を持つ。観音の起源に西アジアの女神を考える説は十分説得力がある。
特にゾロアスター教のアナーヒター女神は多くの点で観音と共通点がある
ササン朝銀器に刻まれた、観音菩薩と同様に蓮華を手にしたアナーヒターがある(恐らく)壺(花瓶みたい)の写真が本書にあり。
・大乗と密教の違いは呪術を重視するか否か。思想的に大乗と密教に本質的な違いはない。
密教における火の考え方は、仏教に本来的なものではない。
釈尊の仏教では、煩悩の火に焼かれると言うように、否定的。この火を吹き消したのが、仏教で理想とする涅槃である。

(ゾロアスター教にとっては火を消すことは最悪の行為。実際の火ではありませんが、比喩的でも嫌がったでしょう。火事の火はさすがに拝火教でも消すよね?)

が密教では護摩の火で本尊を供養し、護摩の火で煩悩を焼きつくすと考える。
一方では煩悩と見られた火が、他方では仏の智火とみなされる。
密教では、特にこの煩悩を焼く知恵の火を重視し、この点でバラモン教の護摩に対する優越性を主張する。
しかしバラモン教にも薪を煩悩とみてそれを焼く火を智慧とする見解はある。

(執着の塊=宗教

バラモン教否定の原始仏教が、バラモン教や拝火教的になっています。
マギとバラモン僧侶の復讐です。
起源仏教は呪いをかけちゃいかんと言っているのに。
呪いをかけたい=執着

詐欺も横行していたし)

密教の護摩の起源に、バラモン教の護摩、すなわち火天供養があるとは広く言われた説。ヴェーダの時代からインドでは神を祭るのに祭火(アグニ)を用いた。祭火に供物を投入し、火神がそれを天上の神々に運ぶと信じた。
一方イランでも、ゾロアスター教が、火(アータル)をアフラ・マズダーの息子として崇めた。
火は正義(アシャ)を象徴
したものとされ、悪を駆逐し、万物を浄化する神聖なものとみなされた。
ゆえに火を崇拝する拝火教。
形式的な面では、密教の護摩は、はるかにバラモン教と共通点が多い。
密教の護摩は息災(円形の炉)、
増益(方形の炉)、
調伏(三角形の炉。△一つ目の△は恐らくこれ)がある。
バラモン教のヴェーダ祭式でも、
一家の平安を守って燃える「家長の火」は円形の炉で供養され、
神々に供物を捧げ願い事をする「供犠の火」は方形である。
また、死霊、悪霊をまつる火は、半円形の炉で、三角形に近い。しかもこの火は「南の火」と呼ばれるから、密教の調伏法が南面して行なわれるのに通じる。
・息災、増益、調伏の3種護摩が密教で確立するのは7世紀
になってから。
それ以前にすでに、中央アジアの仏教で護摩が使用されていた形跡がある。当時この地方を支配していたのは、イラン系のクシャーン朝である。この王朝の貨幣に描かれた神像にはゾロアスター教起源のものが多く、また、火炎に荘厳(しょうごん。仏像や仏堂を厳かに飾りつけること)された国王像も見出せる。

・ボン教(ラマ教)には拝火教の善悪二元論や救世主サオシュヤント思想が入っている。
チベット密教には、乗(じりんじょう。カーラチャクラ・ヤーナ)という教義がある。
カーラ=時間。時間を根本原理とするゾロアスター教のズルワニズム(ズルワーン主義。時間主義。拝時教)の影響がある。
ズルワニズムは時間と空間を同一視する。
アフラ・マズダーとアンラ・マンユは時間神ズルワーンより生じた双子の兄弟とされる。
そして、一万二千年を三千年ずつ四期に分け、善悪両方の神の戦闘を説く。

(一万二千を強調するのは、アトランティスと、それに言及したプラトンと、拝火教の反映。ニューエイジ、スピリチュアル、神智学あたりね。
エヴァの監督がよく一万二千が出てきたり。ナディアとかね。
あと、一万年と二千年前から~のアクエリオンはみずがめ座の新時代=ニューエイジ=ニューイオン)

阿弥陀仏の原名アミターバは、「無量光(むりょうこう)」を意味し、拝火教の光明神と結びつく。
また別名のアミターユスは「無量寿」と訳され、無限時間を指すズルワーン・アカラナと同じ意味になる。阿弥陀仏は救世主的性格を持つ。
阿弥陀仏を説く経典そのものがクシャーン朝時代に西北インドで成立したと考えられる。
浄土の概念もゾロアスター教的。フラショー・クルティ=拝火教における終末の立て直しにおける世界の浄化の影響を見ることができる。
大日如来は遍照如来とも称し、またビルシャナ仏とも言われる。ビルシャナ=太陽。
ビルシャナに関係するインド神話のヴァイローチャナはアスラ(アフラ)の王とされる。
アフラ・マズダー(知恵王)の関連が云々されることになる。
太陽神に思えるが、ゾロアスター教の太陽神はフワル・クシャエータであって、アフラ・マズダーではない。

(太陽神ミトラと同一視されたりするアフラ・マズダは太陽神の性格も持つはずですが、本来は太陽をも超越した光自体か、金星なように思えます)

密教でも大日如来をただちに太陽と同一視しているわけではない。
日天(にってん。アーディティヤ)は十二天の一つとして、曼荼羅の最外院に別に存在する。世間の太陽と大日如来は区別される。
大乗仏教運動の成立地は中央アジアや西北インドであり、この地のイラン文化の歴史的位置が明らかである



今週のジャンプの『BLEACH』(ブリーチ)でファーティマの手が登場。
ギリシア哲学(特にプラトン)とキリスト教「思想」(人は単なる部下)が真の黒幕であり、黒幕の中核(源流。本体)はインド=イラン「思想」。
思想は領土がなくても生き残る霊魂

馬と馬車と金属加工の技術を持った秘教集団。
トラキアの「死は善。生は悪」が悲劇の起源?
良ツイート集。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-66.html
”なぜ角なんか生えるのかというと、そりゃ、 牛君=バアルに面会してきたって事でしょw で、自分は牛の角なんか生やしてるくせに モーゼは民が牛の像を作った事に ブチ切れる。折角貰った十戒の石板 ブチ壊すほどブチ切れる これは、神様=牛君っていう図星を つかれたのが痛かったからだろう


自分がバアルだっていう黒歴史を 消そうとしてる目の前で 「バアル、バアル」言われたら そりゃファビョるよwww しかし、こいつが黒歴史を隠蔽する意図は 何だったんだろうな?


という事でやっぱヤハウェ=バアル=牛君 で、牛君と対面してたせいで、ウシが感染っちゃった?せいで モーセには角が生えた・・・?

...私のよく使う表現では牛君だから。 で、ヤハウェはその牛を見てパニクってしまう。 これって図星突かれたからじゃないの?って事。 なにしろ、ヤハウェは自分の正体を隠すのに熱心だから。 あとヤハウェ=バアルと私は考えていて バアルって牛の神じゃなかったっけ?
(…)
私は、ヤハウェが必死に名前を隠すのはなぜだろう?と 不思議に思って、そのへんを調べてたら、 どうも、ヤハウェは半獣半人の神様でバアルじゃね?って事になった。 しかも、その「バアル」すら偽名で、 マルドゥックとも名乗るみたいだけどこれも偽名で...

ヤハウェ=バアルがなぜ執拗に名前を名乗るのを拒否するか? エクソシストとか見ていると分かるのだが 相手に名前を知られて、名前で命じられると 拒否ができないルールがあるっぽい

例えば、モーセに角が生えたのも 牛の神と対峙したから。 また、シナイ山にモーセが篭っている間、 イスラエルの民は牛の像を作りました。 それはヤハウェ=バアル=牛だからです。 それを見たヤハウェは怒り狂い 今すぐ山を降りろとモーセに命じました。 なぜ怒り狂う必要があるか?

ヤハウェにしろバアルにしろ偽名です。 ヨッド・へー・ヴァヴ・ヘーにしろ アドナイにしろエロヒムにしろ 全部「コイツの本名」ではありません。 そして、両者とも中東の神で、牛の神で 雲を乗り物とし、雷を投げ・・・ 要するに同一人物です。 あ、いや、人間じゃないんですけど。

キリスト教会でこんな発言をすれば 冗談抜きでブン殴られかねないです。 なぜならばバアルは悪魔の代表格で 旧約聖書にも何度も登場するからです。 しかし、ヤハウェにしろ、バアルにしろ あまりにも共通点が多過ぎます。 例えば名前を隠すことに必死な事。

一般のキリスト教ではヤハウェ=牛なんて 教えません。むしろヤハウェは自分自身の 正体を必死になって隠そうとするので それに同調しておくのがキリスト教です。 が、私はあえてもうひとつ言っておきます。 ヤハウェは牛の神であり、 同時にバアルでもある。

少なくともヨブには神が悪魔でもあるという 事は理解ができていました。 だからこそ、彼は 「神から幸いを受けるのだから 災いをも受けるべきだ」と 言ったのです。 「あなたを祝福する」だの何だの 調子の良い事ばかり言う神様から 災いを受ける・・・ これは矛盾してはいません

ふざけるな! ユングの名著「ヨブへの答え」にも 書いていますが、明らかにこれは ヤハウェの失態です。 ここから分かるのはヤハウェは 全知全能でも何でもないという事。 都合が悪くなったらヒステリーを起こす事。 そして悪魔とも普通に お友達付き合いをしている事です。

聖ヒエロニムスの像。 ヘブル語の聖書をラテン語に翻訳。 助手となったのがパウラだが、先だたれ、パウラの頭蓋骨を机に置いて翻訳作業を成し遂げた。 しかし、大きな誤訳をしてしまった。
◎モーセが光輝いていた。
×モーセに角が生えた。)

誤訳じゃないよ ヒエロニムス訳が正解だ カラーだったかな?何か聖書の中に 2回しか出てこない珍しい単語が出てくるんだよね んで1回はモーセの顔の所 これは光と訳しても角と訳しても文章が破綻しない でもう一箇所はどう考えても角にしかならないそうなw


(美輪様の名言 ‏@miwasamameigen 2013年10月5日
黒があるから白さが分かる。悲しみや苦労を経験した人ほど、幸せのありがたみが分かる。


黒も白も悲しみも苦労も幸せすらも 知らない人こそが幸せな人。 つまり、この世に生まれた時点で 完全に失敗。 生まれない人こそが勝ち組 聖書のヨブ記や伝導の書を読んでみよう!

バアル、ヤハウェ、若しくは牛君の 特徴として本名を晒すのを異常に恐れている。 だから出エジプトでモーセに名前を聞かれても "I am who I am"ってごまかしちゃう。 バアルもそう。 「高き所にお住まいのお方」とか たしかそんな意味じゃなかったっけ?”


ハタヨガの真髄 (1)
http://thanksjico.exblog.jp/8619277/
“ヨガという言葉は、「縛る」「結ぶ」「結びつける」「~をつなぐ」「本人の注意を導き、集中し、使い、かつ応用する」というような意味のサンスクリット 語、「ユジュ」に由来している。また、「結合」とか「交わり」をも意味する。この語の深い意味は、われわれの心と神の心の結合すなわち、神の心を自分の心 にすることである。(p16)

インド思想では、すべての物には絶対の宇宙の精神(パラマートゥマー神)が存在していると考えており、個人の心(ジーワトゥマー)は、その一部であるとみなしている。(p16)

ヨガの段階
1.ヤマ 全人類に共通している、誰にとっても必要な道徳律
2.ニヤマ 修練による心の浄整化法
3.アサナ 正姿勢と動作の訓練(体位法)
4.プラーナーヤーマ 気(食・息・知識)のコントロール法
5.プラティヤーハーラ 欲望、感情および外的対象による支配からの解放行法と自立訓練法
6.ダラーナ 集中統一法
7.ディヤーナ 安定(無心行法)
8.サマーディ サマーディとは、深い冥想によってもたらされる、意識を超えた自他一如の状態のことである。この状態では、冥想の対象物つまり宇宙霊(パラマートゥマー)と一体になることができる。

ヨギとは、自分の本質を知っており、自分自身(アートマン)の中に至上の神の一部が存在するのを自覚している者である。(p21)

ヨガに関するすべての本は、サーダナーあるいはアビヤーサ(たえまない実践)を強調している。(p33)

た とえばアイアンガー師は、「背骨を伸ばせと言うと、皆さんは、まん中の神経路の通る所を伸ばしてしまうがそれは間違いだ。正しくは両脇を伸ばして、まん中 をリラックスさせて置かねばならないのだ」と延べておられます。「伸ばす」といってもけっして外側の筋肉を伸ばすのではなく、あくまで内から自然に伸びて くるようにするのです。つまり、アサナを行っている自分と身体と動作が一体になるように、あくまで辛抱強く、繊細に追求した行い方をしなければならないの です。(p495訳者あとがきより)

「体が心に影響し、体を通じて心を清め、高めることができるのだ」(p496)”

ハタヨガの真髄 (2)
http://thanksjico.exblog.jp/8619355/
“「ハタヨガの真髄 600の写真による実技事典」より

ターダアサナ =サマスティティともよばれる

ターダとは「山」。サマとは「直立」「まっすぐ」「不動」を意味する。スティティとは、「不動の姿勢」「堅固」を意味する。したがって、ターダアサナは、しっかりと山のように立つポーズである。これが立ちポーズの基本となる。

(1)足をそろえてまっすぐ立つ。両足の親指、およびかかとをつける。また足の指はすべて床にぴったりとつける。

(2)ももの内筋肉を伸ばしあげるようにすると、ひざをリラックスしたままでひきあげることができる。このとき、尻はそっと締めるようにする。

(3)胃が自然にひっこむように、肋骨をひろげ、背骨を上に伸ばし、首をまっすぐにする。

(4)体重はかかとと指先の一方だけにかけずに、当分にかけること。

(5)理想的には、ターダアサナでは頭上に両手を伸ばしておくのであるが、便宜上、両ももの横に下げていてもよい。立ちポーズは、各々この、てのひらをももの側面に下げたターダアサナの形で始まる。”

ハタヨガの真髄 (3)
http://thanksjico.exblog.jp/8646069/
“武将のポーズ
ウィーラバッドゥラアサナ


ダクシャが、あるとき戦死者の追悼式を催したが、他の神々を招いていたのに、自分の娘のサティーもその夫で神々の首領であるシヴァも招かなかった。それでもサティーは儀式に参加したが、ひどいはずかしめを受けたので、火の中にとびこみ自ら命を絶った。シヴァはこれを知ってたいへん怒り、自らのもつれた髪の毛を一本ぬいて地上に投げつけた。そこから豪傑のウィーラバッドゥラが生まれ、シヴァの命令を待った。シヴァは彼に向かって、シヴァの軍隊をひきいて、ダクシャの儀式を破壊するように命じた。ウィーラバッドゥラは、軍隊とともに、ダクシャの儀式の場に疾風のごとくあらわれ、儀式を破壊し、他の神々、僧侶を追い払い、ダクシャの首をとった。シヴァはサティーの死を悲しみ、カイラーサにこもり、瞑想にはいった。サティーは、ヒマーラヤの家に、ウマーの名で生まれ変わり、再びシヴァの愛を求めて努力し、ついにシヴァの心を射止めた。
このアサナは、シヴァが自らもつれた髪から創造した豪傑に捧げるポーズである。

(p80)”

ハタヨガの真髄 (4)
http://thanksjico.exblog.jp/8646178/
“亀のポーズ
クールマアサナ

クールマは亀という意味。このアサナは、ヴィシュヌの化身の亀に献呈されたものである。
神々の若さを維持するアムルタ(蜜)のみならず、多くの神の宝が大宇宙の洪水で失われた。なくなった宝をとりもどすために、神々は悪魔と連合して、宇宙の海に波をわきおこすことにした。ヴィシュヌは大きな亀になり、海の底に潜っていった。背中には、波をかきたてるためにマンダラ山をかつぎ、ロープとして、神聖な蛇ワースキをまきつけた。神々と悪魔たちは協力してその蛇をひっぱり、山をくるくるまわし、海に波をかきたてた。その海の波からアムルタと、神々の宝が出てきた。

(p304)”

ハタヨガの真髄 (5)
http://thanksjico.exblog.jp/8664450/
“得と損、勝利と敗北、名声と恥、体と心、精神と魂といった二元性は、アサナの修得によって自然に消えてしまい、求道者は次のプラーナーヤーマの第四段階に入ることができる。(p49)

プラーナーヤーマ(p50-51)

プラーナとは、呼吸・息・生命力・風・エネルギー・栄養力等を意味している。
アヤーマは長さ、広がり、伸ばす、制止等を意味する。
プラーナーヤーマは、呼吸の延長と呼吸のコントロールを意味してもいる。
すなわち、
(1)吸う息=プーラカ(満たす)
(2)吐く息=レーチャカ(空にする)
(3)息を止める=クムバカ。

ハタ・ヨガでは、クムバカという言葉は、吸う息・吐く息・息を止めるの三つの過程を含んだ一般的な意味で使われている。
クムバカには二つの違った状態がある。一つは空気を一杯に吸い込んで息を止める状態と、完全に吐ききって息を止める状態とである。

プラーナーヤーマは、気の科学であり、それは生命という車輪が回転するために必要な中心軸のようなものである。
プラーナーヤーマ行法は一人ひとりの呼吸と、大宇宙の呼吸との調和をはかることであるといえるのである。


(P460-463)
プラーナーヤーマの技術を実習するためには、バンダ、ナーディ、チャクラについての知識が必要である。

バンダとは「束縛」「一緒につなぎ合わせること」「足かせ」「つかむこと」などを意味する。
それはまた、体のある器官、あるいは体のある部分を収縮し、コントロールする姿勢のことも意味する。
プラーナーヤーマに重要なバンダは次の三つ、
(1) ジャーランダラ・バンダ:最初にマスターするもの。首およびのどを収縮し、あごの両鎖骨中央部、胸骨の上のくぼみにつける。心臓、首の腺、脳も含めた頭部 への血液とプラーナの流れを調整する。ジャーランダラ・バンダを行う場合、プーラカ(吸気)レーチャカ(呼気)とクムバカ(保息)の三つのプラーナーヤー マを必ず行うこと。

(2)ウッディーヤーナ・バンダ:「飛び上がる」ということで、横隔膜を引き上げることによって、腹部臓器を背骨の方 に向けて引き込む。ウッディヤーナ・バンダは、レーチャカの後のバーヒャクムバカ中、つまり完全な呼気の後、新たに息を吸う前の息を止めている間にのみ 行ってよい。これは横隔膜・腹部臓器に刺激を与える。

(3)ムーラ・バンダ:ムーラは「根」「源」「根本」「基礎」という意味で、ムー ラ・バンダは肛門とへその間の部分を収縮させて引き上げ、背骨の方に近づける過程である。ムーラ・バンダはまず吸気のあとの保息中に試みること。肛門周辺 の筋肉を収縮させることを練習すると、ムーラ・バンダがやりやすくなる。


人間の体は小宇宙である。ハタは、ハとタの二音節からなり、それぞれが太陽と月を意味する。
太陽と月のエネルギーは、ピンガラーとイダーという二つの主なナーディを流れるといわれている。
ピンガラーは太陽のナーディで、右鼻腔から始まり脊椎最下部に至る。
イダーは月のナーディで、左鼻腔に始まり、脊椎最下部に至る。
この二つのナーディの間に、火のナーディであるスシュムナーがある。
スシュムナー・ナーディは神経エネルギーの流れの中心的経路であり、脊柱の中を通っている。
ピンガラー、イダー、スシュムナーもいろいろなところで互いに交差している。
これらの交差点がチャクラ(輪)といわれ、はずみ車がエンジンを制御するように、チャクラは体の機構を制御する。
主なチャクラは、
ムーラダーラ・チャクラ:肛門の上、骨盤近くにある
スワディシュターナ・チャクラ:生殖器の上にある
マニプーラカ・チャクラ:へそにある
マナス・チャクラおよびスーリャ・チャクラ:へそと心臓の間にある
アナーハタ・チャクラ:心臓にある
ウイシュダ・チャクラ:咽頭部にある
アーンニャー・チャクラ:眉の間にある
サハスラーラ・チャクラ:胸腔にあり、千枚の花びらをもつ蓮とよばれている
ララータ・チャクラ:額の上にある”

背骨を解き放つ
http://thanksjico.exblog.jp/8744406/
“ねじった三角のポーズ(パリヴルッタ・トリコナーサナ)

「YOGA Journal」(Vol.6)を初めて購入。
その中でヨガの基本ポーズを細かく丁寧に解説しているシリーズがあった。
今回は、「ねじった三角のポーズ」「弓のポーズ」「椅子のポーズ」の3つ。

「ね じりのポーズで重要なのは、力の均等な配分である。ほとんどの人は、ねじりやすいところをねじって、ねじりにくいところを避ける傾向がある。つまり、動き やすい首はねじりすぎ、伸展性や反応性が鈍い背骨の中上部はねじり不足になる。しかし、パリヴルッタ・トリコナーサナは、動きにくい胸椎を広げ、その意識 を高める手助けをしてくれる。ふだん意識の及ばない部位を動かすことは、練習の中で心と体を観察する絶好の機会である。」(p102)”


長い記事をお読みいただきありがとうございました!

『禅の本』。禅はスピリチュアルの中核を否定。神秘体験は魔境=執着してはならない悪。スピリチュアルは野狐禅を量産する危険物なので取り扱い注意! 

弟子「私は悟った! 仏が目の前に現れて真理を語り、私と一体化した! 私は選ばれた!」

師匠「ばっかも~ん!
それは魔境や野狐禅と言ってな、気が変になっただけじゃ!
お主が体験したことはな、条件を整え、修行すれば誰でも体験できるから特別でもなんでもないわ!
仏に出会ったら、仏に囚われずに受け流せという教えを忘れたか!
選民思想という執着に囚われないために戒律があると教えたことを忘れてはならんぞ!」



スピが大好きな魔境と野狐禅で狂人にならないための知恵

野狐禅(やこぜん)とは、まだ悟っていないのに悟ったと思いこんでしまうことです。
「私は悟りを開いた」や「覚醒した」言っている人のほとんどは、野狐禅です。
悟った「つもりになっているだけ」であり、悟った「という夢を見ている」だけです。

魔境(まきょう)とは、禅の修行者が中途半端に能力を覚醒すると起こりやすい、エゴが肥大し、心の平安が乱れた状態のことです。
魔境は、瞑想や座禅の修行中に発生する幻覚、妄想、知覚の歪みなので、どんなに魅力的でも無視しないといけません
当然、悟りでも真理でもないものです。
臨済禅で、「仏見たなら仏を殺せ」と教えているのは、
「超越的存在に出会った自分はすごい能力を持つ優れた人間だ」と思い込んでしまわないようにすることで、魔境という執着から抜け出せるようにするためです。
天女や天使や仏や神や宇宙人が目の前に現れたり声を聞いたりするような、
スピ信者が大喜びするものが典型的な
「魔境=頭がヘンになっただけの偽真理=執着=悪」です


魔境は狂人への第一歩なので、冒頭の寸劇のような魔境対策のための検証がないなら極めて危険です。
弟子の「経験を疑う」ことで魔境でないか判定する指導者が必要
です。
禅やヨガ礼讃の癖に、それらに含まれる
真理探究の姿勢=経験を疑って検証する姿勢」や、
魔境の危険性を都合よく無視するのがスピリチュアルです。
スピリチュアルはキリスト教の弱点を減らした新キリスト教なので、インド思想の論理重視の姿勢と対立する宗教です。
少数の霊性の高い人だけが真理を得られて、霊性の強弱を判定できると言っているスピ信者がいるそうですが、
「少数の優れた人の発言に従え、疑うな、検証して神秘をはぎとるな!」ってことですか?
検証をやめたらカルトと同じですよ!


ヨガや仏教の修行で最初に戒律と禁欲を誓わせるのは、修行で生じる全能感や選民思想や魔境や禅病や野狐禅を封じるためです。

無記=超常的な存在や世界については否定も肯定も言及もしない姿勢
も有効です。
無記は、原始仏教における釈迦の基本姿勢の一つです。
釈迦が経験的に確かめられない、あるいは確かめることが難しいことがらについて断定してしまうと、
それが「教義=執着=悟りの妨げ」になってしまうので断言を避けたのです。
「執着をなくし精神を安定させよ」と言っている釈迦は自分自身が執着を生みださないように工夫したのです。
釈迦はスピリチュアル=バラモン教風キリスト教を否定しています。
釈迦の思想はバラモン教の否定であり、キリスト教と真逆なので当然です。
占いも禁止


釈迦を褒めるスピ信者ってどうみても釈迦を世界最高レベルで馬鹿にしているんですけど
神秘体験を疑わないし。
体験を疑わなかった(疑わせなかった)オウムの悲劇はご存知ですよね。
オウムは、ユダヤ=フリーメーソン陰謀論を主張していることからわかるように、思想の中核はキリスト教です。
厳密には神智学(バラモン教風キリスト教)の霊性進化論です。
表面はインド思想ですが、インドっぽいパッケージに騙されてはいけません


(エーリッヒ・フロムBot ‏@FrommBot
釈迦が弟子たちからそのような問題(世界の成り立ちについて)を問われた時、彼はいつも次のように答えた。「私は知らない、それは私に関係のないことだ。というのは、その答えがどうであれ、それは私が関心を持つ一つのこと、どうして人間の苦しみを減ずるかという問題には何の役にもたたないからだ」

(横浜の駄洒落皇太子 ‏@hamadajare
【無記】例えば「死語の世界は有るのか」等の幾つもの問いを弟子に投げ掛けられた時、仏陀は答えなかったという。経験していない、或いは確かめる事ができない物事について語る事はできない、という立場を取ったらしい。

【仏陀の客観視】弟子が例えば“あの世があるのか”等幾つかの質問をしたら、仏陀は答えなかったという(無記)。経験や実証できないことを議論しなかったらしい。仏陀は物事を客観視
するタイプだったようだ。)


神秘体験による凶悪な洗脳の実例

↓で紹介されている動画では、神秘体験によって洗脳する手法が暴露されているので自分の意見を交えつつ要約します。

条件を整えると誰でも起きる神秘体験を、グルの力によると錯覚させて洗脳。
通常とは異なる体験をしている人に対しては強烈な洗脳をかけることができる。
強烈な神秘体験をするのは、教祖の超能力でも何でもなく、誰でも起きる、人間なら誰でも起きる「変性意識現象」である、という視点が大切。
一見不思議だが脳にとっては当たり前の現象

信者たちのなかには、リトリートと呼ばれる独房の中にいるときに神秘体験を得た者が多い。
暗い部屋に、それもできれば体温と差のない静かな所に、長い間閉じ込めておくとそれだけで変性意識になる。
上手にヨガをやれば光を見たりする。
そのときに「それはグルのおかげです」だとか「グルの超能力です」と言われて引っかかってしまう


企業もカルトと同じ手口を使って、軍隊を作る為の訓練=洗脳を行う。
社畜=信者=兵隊。
企業研修=カルト宗教の入信儀式(入隊式)。

大勢の店長の前で(=監視下で)絶叫アピール。
人前で宣言すると宣言したことを撤回することが難しくなる、一貫性の法則の悪用。
絶叫した後で、訓練担当官が絶叫した人を抱きしめることで、洗脳をより強烈にする。
調教されたことに怒るどころか、感謝する奴隷の完成。
×店長が育てば会社が育つ。
○奴隷隊長が増えれば社畜から搾取出来るので会社がより肥え太る

いったん精神を動揺させてから洗脳。
紐付き陰謀論者が衝撃的な(黒幕の核心を外した)ネタで価値観を破壊して、洗脳されやすい状態にしてから、偽の黒幕(ユダヤや在日)を本物だと信じさせる手口と同じ。
紐付き陰謀論者自体がカルトの手先だから当然か。

だから、私は洗脳手法、詐欺の手口、人間心理の傾向、プロパガンダのやり口などをまず学び、紐付き陰謀論者の本やブログや講演を無視しなさいよ
、っと言っているんですけどね。

prometheus ‏@prometheus2054
【必見】オウム信者を脱洗脳した苫米地博士が、オウムの修行で変性意識状態を作りだし洗脳される過程を解説☞http://youtu.be/_VU7qOPBhJg?t=13m7s … 開始13分~これを見た後、日本の就活や企業研修がこれと似たことを行っていることが分かる→http://bit.ly/b23q0i

(国会議事堂占拠計画-国家権力掌握へ、白い愛の戦士 オウム総括6/10
https://www.youtube.com/watch?v=_VU7qOPBhJg&feature=youtu.be&t=13m7s

餃子のなんちゃら
https://www.youtube.com/watch?v=jpC_kJbS3RQ&feature=youtu.be

ようつべだと、動画再生速度を変えられるので、まとめるのが楽ですね)

以上の洗脳って、禅の修行を意図的に失敗させているとも言えるのですよ。
野狐禅の量産による狂人の量産です。
過労死するまで働く=会社の為に死ねるって十分狂人でしょ?
安息日なしのカルヴァン派プロテスタント的労働思想
=過労死教の狂信者は日本には特に多い
です。

禅を学びたいなら、禅を曲解して反知性主義に改造するニューエイジャーやヒッピー系の本ではだめですよ。
スピ系が大好きなインド思想はキリスト教=反知性主義に都合よく改悪されているので、インド思想の論理的思考重視の姿勢をなかったことにしております



禅は神秘体験を否定しているのでスピったらダメ

 上記で理解していただけたと存じますが、
一定の状況で神秘体験は意図的に作り出せるのですごくもなんともないです。
自分の意思で自在に神秘体験をコントロールできるならすごいです。
つまり、神秘のヴェールをはぎとって「自分の技術」にできるならすごいです。
神秘体験を神秘体験でないようにするのです。
神秘体験や神秘主義は仏教の方向性とは真逆です。
釈迦は神秘主義者ではまったくなく、透徹した合理主義
者です。

目の前に神や仏や宇宙人が現れて、自分だけが選ばれたと救世主気分におぼれたり、宇宙霊と合体して天にも昇る素晴らしい心地がしたと感激する、などは魔境であり、悟りの邪魔であるから、囚われたりこだわってはならないと、禅ではいましめています。
つまり神や仏や宇宙人や宇宙霊や選民思想が現れても、相手にせず受け流し、軽くかわさないといけません。
禅はスピリチュアル=インド風キリスト教を否定しているのです。
心の平安と執着からの解放が仏教の目的なのだから、超越的な存在や愛という執着を主張する時点で偽物です。

禅宗の修行では、一般の人々(特にカルト信者)が喜びそうな奇跡的現象は、大悟の妨げとして厳しく排除されます。
そもそも禅の目的は超能力、いわゆる神通力を得ることではありません


(陀羅尼縁学 ‏@daranijizai 11月5日
仏教の宗派には、過剰にスピリチュアルや、霊感、霊能を禁忌として捉える所もあるが、それは一種の禅病を防止する為もある。
瞑想中にそういう不思議な感覚に囚われ行き過ぎた追求をすると、禅病になる。
禅で和尚にパチンと叩かれるのも、禅病予防
。禅は追求するとヨガに行き着く。)

前回の記事などで真の伝統である仏教を学びましょう!

斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

(菊池 ‏@kikuchi_8 11月13日
チベット仏教は密教のイメージだが、実は顕教はインド中観派が正統に継承さる
【斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう! 】
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 11月5日
ねここねこさん、フェイド大帝 が紹介したチベット仏教本 読んだのかw
偉いな……
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

今回の記事の内容、仏教を理解 するには凄く重要なのに、 ブログ拍手がいつもより少ないのが 笑えるw
やっぱ、専門的な話になると みんな読みたがらないのかなー この二冊、仏教書の中では 易しいほうなんだけどなぁ。

仏女・仏教をたたえる天才・偉人bot ‏@genius_200
自分は昔からこれまで、このような素晴らしい教えを聞いたことがなかった。
(仏教を日本に受け入れた 欽明天皇)
(われ昔よりこのかた未だかつてかくの如き微妙(くわ)しき法を聞くことをえず)
それから1500年間日本は仏教国

STB ‏@RC_StB 6月24日
日本会議が如何に低能か 薩摩長州の芋侍が出てきて、廃仏毀釈をやらかし、そいつらの生き残りが「日本は保守の国」と嘘を付き続けている して、これを見よ
「天皇、仏法を信じ、神道を尊ぶ」(用命紀)
「仏法を尊び、神道を軽んず」(孝徳紀)
大日本帝国は日本史上稀な伝統破壊者
だぞ(笑)

神道家にとって道教と平田篤胤はアキレス腱。神道・惟神・天皇・神器は道教用語であり、神道用語ではないので本居宣長がやろうとした漢意を排除する試み(神仏分離!)は最初から破綻していますな。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-84.html


…今回の最重要な引用…

“ 坐禅がもっと進むと、今度はいよいよ魔力に支配された境地に入っていく。それを「魔境」という。魔境にはいろいろあり、『楞厳経』(りょうごんきょう)という経典によると、実に50種の魔境があるといわれている。また釈迦仏陀でさえも成道の直前に魔境に悩まされたことは、よく知られている。
これは釈迦が悪魔マーラを呼びだして、本当の悟り、(菩提)を得るための最後の戦いをする、というものである。マーラは世にも恐ろしい兵器で攻撃をしかけてくるが、釈迦はそれを花に変えてしまう。マーラは次に自分の娘たちに命じて、釈迦を誘惑させるが、釈迦は受け流す。
マーラは最終兵器で最後の攻撃をしかけてくる。しかし釈迦は、ついにそれらすべてが水面に映る月影のように、幻覚・妄想にすぎない、と知る。このマーラ物語が、魔境の原型であり、魔境の本質を示しているようである。
魔境という文字の形からは、なにか恐ろしい感じを受けることだろう。確かに、『源氏物語』の生霊とか『今昔物語』や『雨月物語』に出てくるようなすさまじい魔境もある。しかし多くはそうではない。かえって、これぞ悟りの境地ではないか、というようなものが少なくないのである。
たとえば、心の中にとんでもない妄想や屁理屈が出てきて、自分は天才だと密かにうぬぼれる。目の前に神や仏や宇宙人が現れて、自分だけが選ばれたと救世主気分におぼれる。宇宙霊と合体して天にも昇る素晴らしい心地がしたと感激する、などさまざまだ。
だがくれぐれも、そんなものにとらわれたりこだわってはならないと、禅ではいましめている。前章で書いた澤木興道のように「その内容は受け流すだけ」、つまり相手にせず軽くかわすだけのことなのである

もっとも、どんな境地が魔境でないかは、なかなかわかりにくいようである。たとえば禅の心理学で世界的に知られる、ある高名な学者の例がある。
「なにもかもが新鮮にみえる。道端に何気なく生えている雑草さえ、この世のものでない美しさに輝いて目に映る。見性体験を得たとき、私はこれこそ禅の心だ、と思った。」
と彼は専門誌に発表した。やがてLSDという、ライ麦の麦角(ばっかく)から製造した強力な幻覚剤の服用体験の論文を読み、彼は、これぞ禅の悟りそのものであると説いたのである。
このためアメリカの西海岸では「LSD、5ドルで天国」とばかりにインスタント禅というものがはやり、ヒッピーたちは先をあらそって服用した。しかしその結果は無残にも、つかの間の悟りの後はぐったりとしたボケ症状におちこむばかりであった。つまりこれは魔境でしかないことが、事実をもって証明されてしまったのである。“『禅の本』p.147-148


自分は多少マシになっただけで大して目覚めていない覚醒していない、まだまだ洗脳されているからそれに気づく為に気をつけて検証しないといけない、と自覚して自戒する方がよっぽど「覚醒」しています。
信者=酔っ払いの言う「覚醒した!」って「俺は前よりも更に酷く洗脳された!」
ってことなんじゃないの?
白昼夢(一応起きているけど夢心地)から目覚めてほしい。
せめて明晰夢(これは夢だと自覚)の状態になってほしい。
スピ系陰謀論者は、「真実は隠されてる!」というくせに、嘘を見抜く技術として重要な論理的思考や、歪められた思想の毒抜きなどを学ぼうとしない、布教活動が主体の人がほとんどです。
スピ系の大半は真実を求めていません。スピ系の大多数の人々が求めているのは選民思想的な優しい嘘


(社畜 ‏@ShachikuNow 8月14日
「自称・目覚めた人間」こそ危ない。知識をどんどん高め、自分を理解しない人々を無関心だB層だと馬鹿にし「私はもう騙される事はない」と思ってる人間ほど大きく騙される。支配者が振る猫じゃらしの先っちょにすぐ飛びつく。敵は手強いよ。大衆心理をもの凄く研究してる。周りを見てよ。罠だらけだよ

knznymmmy ‏@knznymmmy
まーた、目覚めた覚醒したと連呼する アホが流れてきた だからお前は目覚めてねえよ ベロベロに酔ってるくせに 酔ってない、酔ってないって うるさい酔っ払いみたいな奴だな

【定期】
例えば9.11やイラク戦争の嘘に気付いた自称覚醒者の諸君
なんで君たちは日ユ同祖論や日月神示を見破れないのかな?
君たちは目覚めてなんかいない。
「目覚めたという夢」を見ているだけ


…読書メモ…


『禅の本―無と空の境地に遊ぶ悟りの世界』 (NEW SIGHT MOOK Books Esoterica 3)
1993/4、 学習研究社
(学研の『禅の本』)

禅では超常現象のような奇跡を認めない。もし奇跡があるならば、なにげない、あたりまえの自然の働きこそ、本当の奇跡であるとする

禅宗の修行では、一般の人々が喜びそうな奇跡的現象は、大悟の妨げとして厳しく排除される。
禅の目的は大悟することであり、超能力、いわゆる神通力を得ることは目的ではない。
だが、禅の修行している過程で不思議な現象が生じることが往々にしてある


禅に限らず、仏教では疑団(ぎだん。疑問)というものを非常に重視する。
自分とは何か、人生とは何か、道とは何かなどという大疑団を起こし、その疑団を打破することが悟りに通じると考え、とにかくどうであれ疑団を起こせと教える。
禅の公案は疑団を課題として与えること

だが、公案禅は、真摯な求道から離れて一種の知的ゲームに堕するという悪弊があった。

[禅に限らず仏教は言葉と論理的思考を否定しません。
公案は、言葉(ロゴス)で表現されます。
論理的思考(ロゴスを活用する思考モード)だけでは到達できない答えを得るためには、公案という言葉(ロゴス)による問題が必要なのです。
ロゴスと非ロゴスの合わせ技こそが公案。
ロゴスの限界を深く実感することで非理性という新たな技術を獲得し悟りに至るのです。
思考は言葉でなされます。
教えも言語で残されます。
理性的思考から非理性が生み出されるのです。

公案を重視するのは、看話禅の臨済宗。
黙照禅の曹洞宗は、ひたすら座禅する只管打坐を基本としますが、道元自身も公案(=禅問答)を引用しているので、曹洞宗だから公案否定とは言えません。

論理的な人は論理を知るがゆえに非論理的に思考することもできます。
逆に、論理的思考ができない、非理性に偏った人は論理的思考モードになりたくてもなれません。
知っている人が知らないふりはできますが、知らない人は知っているふりができないのと同じです。

そもそも、弟子が修行で得た見解や体験したことを師匠に語るには、言葉=ロゴスが必須。
師匠が弟子の見解と体験を疑って検証していることが重要です。
禅問答は言語抜きの行為だけでなされることもありますけどね
]

心底悟った師匠は、相手の力量をたちまちに看破しつくす。だからこそ弟子に「犬コロにも仏になれる本性があるかないか」と質問して、悟っていない人が答えるときには「有」「無」どちらと答えてもまだまだと棒、喝をくらわせ、悟った人が答えるときにはどちらと答えて即座に相手の悟りを許すのである

不立文字、教外別伝である禅では、公案に対する回答は論理や説明による演繹や帰納で導きだされるわけではない。正解は存在しない。頭で考えてわかるものではない。理性や感性を超えたところから出て来るもので全身全霊で打ち込まねばならない。

・アルファ波は正常な人が心身ともに安静の状態で目を閉じているときに出やすい脳波。目をあけると、アルファ波はおさえられ、代わってベータ波が出てくる。
脳波計によって明らかにされた禅僧の脳波を測定したところ、半眼であるのにアルファ波を出した。
座禅は半眼、目を半分ほど開いて行うのでベータ波だと予想されたが、アルファ波だった。
脳医学においては、正常人が目を開けていながらアルファ波が出ていると、脳機能に異常があるものとされている。これはボケ(本文ママ)あるいは無気力・無感動・うつ病的症状などのボケ的症状なのである。
最近ではアルファ波トレーニング装置でむりやりにアルファ波を出させるとボケになる場合もある、アルファ波精神公害が問題にもなっている。
座禅の最中は頭がボケているのではないだろう。仕事の休息時間や家に帰ってくつろいでいるときボーッとしてアルファ波の状態になることがあるが、このリラックスのときにあたるかもしれない。または仕事をしていも慣れた作業を楽しくやっているときにはやはりアルファ波が出ているがこちらのほうかもしれない。
名僧、澤木興道(さわきこうどう)のような修行を積んだ僧侶になると、坐禅はさらに深くすすみ、ついにはシータ波というありえないような波まで出てくる。シータ波とは一秒間に四~七回くらいのゆっくりした波(徐波)で、その大波のうえにさらに十三~十四の周波数で、紡錘状の独特のかたちをしたさざ波が乗っているものである。
シータ波は寝入りばなのときに出る脳波である。が、僧侶は居眠りをしているのではない。脳科学によるとシータ波の状態のときにはいろいろと不思議なことが起こることが知られている。シータ波が出る情況は心理学と深くかかわる。


“ 坐禅がもっと進むと、今度はいよいよ魔力に支配された境地に入っていく。それを「魔境」という。魔境にはいろいろあり、『楞厳経』(りょうごんきょう)という経典によると、実に50種の魔境があるといわれている。また釈迦仏陀でさえも成道の直前に魔境に悩まされたことは、よく知られている。
これは釈迦が悪魔マーラを呼びだして、本当の悟り、(菩提)を得るための最後の戦いをする、というものである。マーラは世にも恐ろしい兵器で攻撃をしかけてくるが、釈迦はそれを花に変えてしまう。マーラは次に自分の娘たちに命じて、釈迦を誘惑させるが、釈迦は受け流す。
マーラは最終兵器で最後の攻撃をしかけてくる。しかし釈迦は、ついにそれらすべてが水面に映る月影のように、幻覚・妄想にすぎない、と知る。このマーラ物語が、魔境の原型であり、魔境の本質を示しているようである。
魔境という文字の形からは、なにか恐ろしい感じを受けることだろう。確かに、『源氏物語』の生霊とか『今昔物語』や『雨月物語』に出てくるようなすさまじい魔境もある。しかし多くはそうではない。かえって、これぞ悟りの境地ではないか、というようなものが少なくないのである。
たとえば、心の中にとんでもない妄想や屁理屈が出てきて、自分は天才だと密かにうぬぼれる。目の前に神や仏や宇宙人が現れて、自分だけが選ばれたと救世主気分におぼれる。宇宙霊と合体して天にも昇る素晴らしい心地がしたと感激する、などさまざまだ。
だがくれぐれも、そんなものにとらわれたりこだわってはならないと、禅ではいましめている。前章で書いた澤木興道のように「その内容は受け流すだけ」、つまり相手にせず軽くかわすだけのことなのである。
もっとも、どんな境地が魔境でないかは、なかなかわかりにくいようである。たとえば禅の心理学で世界的に知られる、ある高名な学者の例がある。
「なにもかもが新鮮にみえる。道端に何気なく生えている雑草さえ、この世のものでない美しさに輝いて目に映る。見性体験を得たとき、私はこれこそ禅の心だ、と思った。」
と彼は専門誌に発表した。やがてLSDという、ライ麦の麦角(ばっかく)から製造した強力な幻覚剤の服用体験の論文を読み、彼は、これぞ禅の悟りそのものであると説いたのである。
このためアメリカの西海岸では「LSD、5ドルで天国」とばかりにインスタント禅というものがはやり、ヒッピーたちは先をあらそって服用した。しかしその結果は無残にも、つかの間の悟りの後はぐったりとしたボケ症状におちこむばかりであった。つまりこれは魔境でしかないことが、事実をもって証明されてしまったのである。“『禅の本』p.147-148


“心の中にとんでもない妄想や屁理屈が出てきて、自分は天才だと密かにうぬぼれる。目の前に神や仏や宇宙人が現れて、自分だけが選ばれたと救世主気分におぼれる。宇宙霊と合体して天にも昇る素晴らしい心地がしたと感激する、などさまざまだ。
だがくれぐれも、そんなものにとらわれたりこだわってはならないと、禅ではいましめている。前章で書いた澤木興道のように「その内容は受け流すだけ」、つまり相手にせず軽くかわすだけのことなのである。

ねえ、禅をほめるくせに禅を何も理解していないスピ信者、聞いていますか?
野狐禅と魔境を避けるのことを知らない禅大好きスピ信者は、ヘルメットとマットなしで人間ピラミッドの建築を強制される学生のようなものですよ!
ツイッターでねこたさんにからんできたスピリチュアル信者の言動を見ると、自分がまるで全知全能なるゴッドみたいに、上から目線で選民思想をまとった発言をしていました。自分が単なるコピー機であることには無自覚。思想にオリジナリティが感じられません。
「本当に正しいか? もっと良いものがないか? 偽物をつかまされていないか?」
などの自己懐疑がない時点でアウト。
お手軽な選民思想をインプットして安心感を得ることが信者の第一目的なので、それが正しいかどうかの検証は二の次なのでしょう。
スピ思想が支配層に悪用されていることを話題にしているのに、スピ思想自体の真偽に話題にすりかえるのは、信者の証です。
「教義>自分の思考の自由」の人がやっているのは
「陰謀論=検証作業」ではなく
「陰謀教=カルト思想の布教と押しつけ」なのでお断り。

真実ではなく安心感を求める信者お断り。
全能感や万能感を得たと感じたら、それは魔境です。偽涅槃です。狂人への第一歩です。
そうした状態に執着することなく一蹴しないといけません。涅槃自体への執着もだめですからね。全能感や万能感なんて選民思想という悪質な執着をもたらす害悪です。
スピ信者もうっとうしいですが、日本の超古代文明信者もうっとうしいです。
超古代文明を断定的に語ってるやつはほぼ間違いなく神道カルトの工作員か、カルト本を鵜呑みにしてるコピー機です。
優越感を持って日本の超古代文明はあったと主張する連中は無自覚含め工作員と確定していいです。
超古代文明については断定できるほどの証拠がそろっていないので、本当に探究心がある、信者でない人は断定をできるだけ避ける、慎重な語りになります。
哲学や思想や歴史は「活用」すべきものであり、ドグマとして信奉するようなものではありません。
信者が「精神の自由」を言うのは滑稽すぎます。
私は、何が真実かではなく、何が真実「ではない」かを探求しております



・日本で最初の精神分析の医者として知られる古沢平作(こさわ へいさく)は欧米流の精神分析の限界を知ったなら、まず親鸞の真宗をへてから、禅に進むのがよい、説いた。

・日本独自の精神療法として世界的に知られる森田療法は1920年ごろに森田正馬によってはじめられた。森田療法は、日本人によくある神経質症、つまり完璧主義とか教条主義の人にみられる精神的な病に、特に効果があるとされる。この人たちはこだわりっ子タイプとか勉強のできる子タイプ。「~するべからず」「~べし」という信念にとらわれるが、現実に足をすくわれ挫折して不安や葛藤に悩むことになる。
この神経質症に対し、自分の足もとの現実を「あるがままに」認めて受け流し、いかに生きるかの「すべ」のほうを考えるように仕向けていく。これが森田療法の大筋であるが、この療法を確立していく際に役に立ったのが禅の体験
だったといわれている。

カルト信者、特に原理主義者と同じ症状ですな

『完全教祖マニュアル』で騙す側の視点を獲得しましょう。
(◞≼◎≽◟)☝本当は教えたくないのですが、選ばれたあなただけに特別に今だけ、教祖として成功する秘訣をお教えします!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-106.html
“・(わざと困らせて)救済を与えよう(自作自演)
そして救世主になろう!


救済の与え方の分かりやすい例として、浄土真宗系の新興宗教から発展した「内観療法」という精神療法をご紹介。
内観療法では、まず、相手に対してセラピストが
「あなたが(お母さん、お父さん、兄弟姉妹、上司など)に
①してもらったこと、
②して返したこと、
③迷惑をかけたことを調べて下さい」
などと過去の記憶を思い出すよう促します。
そして、真面目に思い返してみると、してあげたことよりもしてもらったことの方がはるかに多いわけですよ大抵は。
なんとも申し訳ない気分になってきます。そう、不安を与えているのです。ほら、こんな困ったことになっているぞってね。
これを続けているうちに、対象者の心情にある変化が生じます。
「自分はなんて駄目駄目な奴なんだ」
という思いから、
「こんな駄目駄目な自分でもみんなに助けられてちゃんと暮らしていけるって幸せだなあ」
という考えへとチェンジしていくのです。
この変化が生じれば内観療法は成功です。
周囲に感謝できる新たな価値観を手に入れたのです。この瞬間、不安は救済に変わるのです。
内観療法は、アルコール依存症や神経症、家庭内暴力や犯罪者の再犯防止などに効果があると言われています。
なお、内観療法は宗教的要素を抜いていますから
「みんなに助けられてちゃんと暮らしていけるって幸せだなあ」
という形に最終的に落ち着きます。
が、この元になった「身調べ」は浄土真宗系の修行ですから、
「こんな悪人の自分でも阿弥陀仏は救ってくれるんだ。今までよりももっと信仰するぞ」
と最終的にその宗教が正しいと言う確信を強めるようにする(より抜けられなくなる)わけです。
大切なのは、
不安を与える設定(原罪などの教義)を作って、
「それを解決できるのは自分達だけだ!」
と自作自演するわけですね。
ここで大事なのは、
「うちの宗教を棄てたり信仰を怠るとまた不安にさいなまれるぞ!」
といったニュアンスを上手く伝えることです。

くれぐれも直接堂々と
「地獄に堕ちるぞ!
呪われるぞ!
不幸になるぞ!」
などと下品に脅す必要はありません。
外聞が悪くなるしツイッターに書かれるし良くありません。
もっとお上品に、
「あなたが今幸福なのはこの宗教を信じているからですよね?」
と言うだけで良いのです。
教団への永続的なコミットメントを要求できるように救済を与えましょう!

さあ、「虐殺しまくっているのに紳士の国・英国」方式でレッツ自作自演!
(そう考えると、消耗品を買わせる手口って素晴らしいですね! 幸せの水とか!)

英国国教はカトリック的プロテスタント(教義はプロテスタント、儀礼と礼拝はカトリック)ですが、違うプロテスタントのカルヴァンの予定説は実に素晴らしい手法です。
予定説とは、
「人が救われるのは、人間の意志や能力なんてまったく関係なく、神がすべて決めているから願っても無駄です」
という神は絶対的に人間より上だという思想をより強化したものです。
そして予定説では、信者が神を信じることすら信者の自発的意志ではなく、
神が「信じさせてくれている」(神が救う為にやってくれている)のだとします。
そして、異教徒は自発的意思によりプロテスタントのカルヴァン派を信じないのではなく、神から見捨てられているわけです。予定説から見れば、異教徒は神から見捨てられたとっても哀れで可哀そうな、全人類を愛している「とは思えない」の神の創造物なのです。

これを儲の立場から考えてみましょう。もし、あなたが儲だとします。あなたが急にふと唯一神の存在を信じられなくなったとします。予定説だとその瞬間、神から見捨てられたことになります。儲であるあなたは自分が神に見捨てられたなんて考えたくありませんし、信仰が薄れているなんて認めたくありません。ならば必死に信仰に篤いとアピールする為に熱心に活動したりするわけです。
これはつまり、
「信仰を失うという脱キリスト教的な動きすらも、キリスト教の枠内に抑え込んでしまう教義」

「信仰を失ってもキリスト教から離れることができず、逆にキリスト教の中で失墜するだけにしてしまう教義」

「信仰を失った者にさえ、なお『自発的に』信仰を求めさせて自己説得させることができる教義」

なのです。
組織固めの為にも、とても参考になると思いませんか?

予定説も凶悪ゲフンゲフン優秀ですね。
あれ、予定説も異教徒も神が作ったんだよね? 
そして異教徒であることも神の意志なんだよね?
自作自演ゲフンゲフンゴッドの正体は悪魔うわなにするやめて。

あと日本の過労死教の元ネタはカルヴァン思想です。
資本主義を発展させたのはユダヤではなくカルヴァン思想ですからプロテスタントですね。

とにかく、信者を逃がさないために執着を強化し、欲望を煽りましょう!
一番お手軽なのが、
「我々は正しいから迫害される」
という教義です。
「我々は既知外だから迫害される」
の間違いなのですが、教義で既知外を正しいことにしておけばOK!
あとは、「異教徒は救われない憐れむべき存在」だという教義で信者の選民思想も強化しちゃいましょう!


・食物規制をしよう(禁欲)
そして帰属意識を高めさせよう。

組織を高める為には「差別化」が必要です。あなたの教団内に特殊なルールを採用し、教団の内側と外側に温度差を作ることで信者たちを教団に繋ぎ止めるのです。
食事規制は身近であり、食事は毎日何度も行うものですから実に有効です
。”)


1893年(明治26年。西暦1900=明治33年)、シカゴで万国博覧会が開かれ、その付属行事として「世界宗教会議」が開催された。
日本からは鎌倉円覚寺の釈宗演(しゃく そうえん)老師が参加し、臨済禅の立場から禅の心を説いた。
海外における禅についての公式の講演としては最初であった。

(万博=独仏+北欧系の科学重視メイソンの祭典。世界宗教会議は宗教統一の準備。

釈宗演は、慶應義塾で、人格は最悪の福澤諭吉に英語、洋学を学ぶ。
釈宗演の弟子に、「肩こり」という造語を創造することで「肩こり」患者を増加させた夏目漱石と、
禅を曲解した神智学寄りのくせに禅の権威扱いの鈴木大拙がいます。


社会毒はいらない!!さようなら偽善! ‏@hinode8 11月5日
1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社、日本郵船が創立した。明治維新で富国強兵の道を歩んだ日本は、欧米から兵器を購入し続けていたが、欧米への支払いに当てる資金が日本にはなかった。そこで福沢諭吉は、賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべきという指示を天皇に与えました。

福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」という指示を天皇に与えました。 賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、天皇一族はこのプランに飛び付き実行しました。(福沢諭吉全集 第15巻



釈宗演は帰国後もポール・ケラスというアメリカで思想雑誌を出版していた人物と交流を続けていた。そして会議から4年後、円覚寺で釈宗演のもと、禅を学んでいた当時、27才の鈴木貞太郎(大拙)に渡米のチャンスが与えられた。以来、鈴木大拙は11年間の研究生活を送り、禅の書物の翻訳を続けた。

(STB ‏@RC_StB 7月19日
英国詩人の大家ウィリアム・ブレイク
スウェーデンボルグの影響を受け、独自の神話体系には「世界卵」が登場
日本の本格的受容の切っ掛けとなった紹介者 柳宗悦は鈴木大拙の弟子で、その子供は志賀直哉の子供と結婚


菊池 ‏@kikuchi_8 2012年5月9日
【東洋思想と西洋神秘主義の違いについて一考】1)東洋思想と西洋一神教が違うのはもはや明白であるが、西洋神秘主義は東洋思想に似ているといわれることがあるので、以下、少し考察してみたい。

2)結構前に定方晟氏という仏教学者の方の「空と無我」という本を読んだ。非常に鋭い論理で空思想が分かりやすく解説されてある好著であるが、その本に空思想と神秘主義の違いについて非常に興味深いことが書いてあった。

3)空思想は端的に「二ではない」であるが、神秘主義は「二が一になる」思想である、という趣旨の指摘である。なるほどと思った。

4)自分なりに解釈すると、現象界の構造を客観的に観察する(止観の観である)と、そこにある「縁起・無自性・空」という不二の真理が見えてくるというのが空思想であり、個我と実在の二元をあらかじめ立てて、それを後から融合させようとするのが神秘主義である、と思う。

)空思想はありのままの現象界にそのまま「不二」を見るが、神秘主義は「二を一にする」という作為を経なければ一なる真理にたどり着けないとする。たとえば禅は日常の行住坐臥に真理を現すが、神秘主義では非日常の神秘体験に真理を見ようとする。

6)このあたりの論理構造の違いに東洋思想と西洋神秘主義の決定的な違いがあるように思う。空思想だけではなく神道にしてもシナの陰陽思想にしてもそうであると思う。

7)神道には禊祓の思想と行があるが、これは自我と実在を融合させる行ではなくして、本来神ながらに神の子として生まれた人の心に後天的に付着した穢れを払うことで本来の神ながらな清い心を回復させるための行であって自己とは別の実在との融合を目指す行ではない。

8)それは、たとえていえば泥に汚れた宝石を洗うようなものである。泥に汚れても宝石は宝石、清めればまた輝くのである。この禊祓は本来的な神人一体の確信に基づいた行であって、操作的に自我たる人とそれとは異質な神たる実在を合一させる行ではないのである。

9)シナの陰陽思想は二元論だと言われがちだが、吾人はそうは思わない。陰と陽は同じ太極の二つの側面を言うにすぎない。これも最初から「不二」であって 陰陽という「二」を太極という「一」に帰一する思想ではないと思う。「一陰一陽これを道という」のである。この場合、道と太極は同義である。

10)また、天の理と心の理を区別せず本来同じとする陽明学の心即理説は神道の思想に近いと思う。陽明学を学ばれた先哲・熊沢蕃山先生は神道家でもあられた。

11)ありのままの現象界そのものに「不二」を見る東洋思想は「一即多、多即一」であって、そのありのままに多様性を持つ世界にそのまま真理を認める。 (これは猷太似非神道的な、世界征服的ワンワールド的な解釈ではなく、「各々所を得しめる」という正しく解釈された八紘一宇の原理にも通じる。)

12)一方、西洋神秘主義は「二」から「一」を求めるのため多様な世界を一つに導こうとする傾向がある。つまり多を一に収斂させようとするワンワールド思想である。西洋神秘主義の結社であるフリーメイソンが「一つの世界」を目指すのはその思想の論理の帰結である。

13)国際秘密力の世界征服主義者が一神教とともにカバラ哲学など神秘主義を信奉するのもむべなるかな。世界征服思想は西洋神秘主義の政治思想的顕現であると思う。端的に「不二」である東洋思想と「二が一」である西洋神秘主義にはこのように決定的な差違があるのである。

14)一見、西洋思想の主流である一神教とは違って、より東洋思想に類似するように見えた西洋神秘主義思想であったが、東洋思想とはこのように決定的な違いがあったのである。「不二」と「二が一」、表現の違いはわずかだが、まさに毫釐も差あれば、天地懸隔す、である。

15)ちなみに禅学者の鈴木大拙氏は禅を神秘主義の一種だとしている。この人は「霊性」という言葉を好んで使うが、フリーメイソン思想家スウェーデンボルグの思想の影響を受け過ぎだと思う。

16)ボルグ思想は現象界と霊性界の二世界観を前提とする典型的なグノーシス的二元論であって不二の法門を目指す禅とは相容れないはずである。鈴木氏は神 道に批判的な一方で、一神教的な真宗思想に好意的であるが、ここにもこの思想家の組織宗教的な硬直的・固定的な教義を好む西洋的宗教観を感じる。

17)鈴木氏の神道批判を読んだとき基督教宣教師の神道批判の物言いとそっくりだと感じたものだ。禅を神秘主義だとする鈴木大拙氏は、はっきり言って、同 じようにスウェーデンボルグに影響を受けていた、西洋的一神教的な終末思想に神道的粉飾を施した出口王仁三郎や浅野和三郎と同類だと思う。

18)日本と東洋古来の思想を換骨奪胎して西洋化する、あるいは西洋的思想に日本的東洋的粉飾を施す思想家宗教家には注意が必要である。西洋の看板と実質 で正面から来る場合より、日本文化東洋文化への侵食度が見えない分、被害が大きい。これもまた偽装を旨とするタルムード戦術であろう。【終わり】

菊池 ‏@kikuchi_8 12月9日
「鈴木大拙」の項目に注目した。→【“神智学徒”であるか、もしくは神智学の影響を多大に受けたらしい人物の列挙 】
http://houjugusya.web.fc2.com/human.htm
“*鈴木大拙
 1870年11月11日(明治3年10月18日) - 1966年(昭和41年)7月12日)は、禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者(文学博士)である。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。梅原猛曰く、「近代日本最大の仏教者」。1949年に文化勲章、日本学士院会員。
 《神智学徒で禅の研究をしていたアメリカ人女性と結婚し、自身もインド・チェンナイにある神智学協会の支部にて神智学徒となったのが世界的な禅研究者として知られる鈴木大拙です。大拙はブラヴァツキー著『沈黙の声』を絶賛して、夫人のことをこう評していたといわれる。
 『チベット仏教についての知識は、その当時の大衆や西洋の学者が入手できる情報よりも豊富であり、彼女はまた秘密仏教の修行についてもよ く知っていた。この知識は鈴木大拙博士によっても裏付けられた。彼は述べている。「次の世紀に禅を西洋にもたらした人物であり、疑いもなく、ブラヴァツ キー夫人はある意味で大乗の教えのより深いところに参入していた。」』(『ヘレナ・ブラヴァツキーに当てられる新しい光---コニー・ハーグレイブによる書評』より)》”

風の子 ‏@makeanovel 7:26 - 2015年11月16日
今年、ローマ法王庁から「福者」に認定される高山右近絡み?で賑やかな金沢・能登(北陸新幹線・ドラマ「まれ」で能登が注目浴びる)ですが、鈴木大拙は金沢出身で、金沢に鈴木大拙館というやたら凝ったミュージアムが最近オープンして話題になってる https://twitter.com/kikuchi_8/status/542346315393286145 …
菊池 ‏@kikuchi_8 12月9日
鈴木大拙は神智学協会に入会して米人の妻は神智学徒であったのか。。禅を神秘主義と言い、スウェーデンボルグを紹介し、アメリカで講演旅行をした(どこかの財団の支援?)ということで、限りなく怪しいと思っていたが、完璧なインサイダーであったのだな。神智学徒が「世界的な禅の権威」扱いとは!

風の子 ‏@makeanovel
江戸幕府がキリシタンを弾圧しはじめたとき、元々匿うために能登半島の七尾市にそれ用の寺を用意してあり、金沢のキリシタンはそこに逃げて匿われた。ドラマ・まれで指導役をした世界的パティシエ辻口氏はこの七尾出身。マニラで病死したとされる高山右近は密かに能登に戻ってきた説が残ってるそうだ。

1615年没の高山右近の今年は没後400年で、「カトリックで最高の崇敬の対象とされる「聖人」となる前段階の「福者」に認定する手続きを進めることを 了承した。バチカン関係筋が明らかにした」(ニュースより)。その記念すべき年に北陸新幹線と、匿ってくれた能登が持ち上げられたんじゃないの?

鈴木大拙館 http://kanazawa5towns.com/shop/suzukidaisetzkan.html … ニューヨークのMoMAの改修工事のコンペを勝ち抜いた世界的設計者・谷口吉生氏(やはり建築家である谷口氏の父が確か金沢出身)が、この鈴木大拙館も設計して建築家の間でも注目を浴びてるとか。。

利長がキリスト教を家臣に奨励しており、さらに自分の母(利家の妻、まつ)や、姉妹にもキリスト教の説教を聞き、洗礼を受けるようにすすめたそうだ。だか らまつが洗礼を受けたがったというのは、2代目の息子の利長の影響。まつは心を動かされて説教を聞くためにわざわざ当時都から大坂へ出向いた

利長があまりにも手放しでキリスト教に好意を寄せるので、右近が困惑するほどだったという。自分はすでに半分キリシタンである、などと語るので、キリシタン嫌いな武士たちが不都合なことをしでかさないために、右近が話題を転じる必要があったことすらあったそうだ


この「キリシタンの記憶」というのは金沢在住でキリスト教徒で金沢の教会に勤務されてる著者が、これまで調べたことなどをまとめた本だそうで、陰謀論とかではなく、むしろ熱心なキリスト教徒の方の書いた本なので、トンデモとかではないですね。

当時の外国人宣教師がローマのイエズス会本部に送っていた年報によれば、1601年金沢にきた外国人宣教師は右近の費用で建てられた教会で120名の洗礼を授けたが、そのうちの13名は利長の家臣、その後51名の洗礼のうち24名がやはり利長の家臣だった

これが能登のお寺に残ってるという、胸部を開くと十字架が隠されているという仏像の写真です~^^; pic.twitter.com/4U30oqddOJ

キリスト教系人脈?^^;やたら世界的に活躍する人物も金沢から? 鈴木大拙、MoMA設計者、谷口吉生、パティシエ辻口氏は七尾だけど、きゃりーぱみゅぱみゅをプロデュースしたアーティスト中田ヤスタカも金沢出身、星稜高校からは松井(ヤンキース)と、サッカーの本田(ミラン)も。^^;

王王大栄 ‏@ououdaiei
@makeanovel @kikuchi_8 高山右近は確かに立派な武人で数寄者だが、神仏を弾圧した狂人である。それが福者?ていうことは、バチカンは、まだ十字軍をしてますよな。
鈴木大拙は、本当の禅者ではない。一応参禅したようだが。鈴木俊隆は、ちゃんと僧侶の真っ当な禅僧。https://ja.wikipedia.org/wiki/ 鈴木俊隆 偽物がもてはやされる腐った社会ですよな。)

・アレン・ギンズバーグは処女作『吠える』で一大センセーションを巻き起こした詩人である。
1955年、サンフランシスコ市で詩の朗読会が開かれた。主役は詩集『吠える』で当時の若者の人気を一心に集めていたアレン・ギンズバーグ。一様に長髪、髭、ジーンズ姿の破天荒とも思われる青年ばかりが集まっていた。その中の一人ジャック・ケルアックは自らの世代を「ビート・ジェネレーション」と呼んだ。
1957年にはケルアックの周辺にいたビートたちの姿を描いた『路上』が出版され、爆発的な売れ行きを示した。そして、翌年、1958年には続いて『ダルマ行者』(邦訳『ジェフィー・ライダー物語』)が出版された。

アメリカにおける禅の大衆化を語るうえで避けて通ることのできない人物の一人である、アラン・ワッツは、1915年にイングランドで生まれた。
17歳でロンドンの仏教界の機関誌の編集長を務め、鈴木大拙の著作を読みあさり、
1936年にはロンドンの世界宗教者会議で大拙に会い
、若干21歳のときに自著『禅の精神』を出版。22歳で米国に移住。ワッツの禅理解に関しては評価のわかれる面もあるが、50年代に刹那の生きがいを説き、57年に出版された『禅の道』などは強い影響を与え、ビートのグル(導師)として「ZEN」を広めていった。
アラン・ワッツはZENをビートからヒッピーへと橋渡しした。

ワッツは、組織に属することを拒み、快楽を愛し、酒を飲み、LSDで神秘体験 を味わったそうです。全然、禅的じゃないんですけど

アメリカではケルアック以前にすでに『ライ麦畑でつかまえて』のサリンジャーも禅に傾倒していた。現代音楽の巨匠ジョン・ケージも作品に禅の影響を認めている。
イギリスではさらに以前からオルダス・ハクスレー(ハクスリー)や詩人のW・B・イェーツ、T・S・エリオットなども禅に関心
を示している。そのような例はドイツやフランスの文学者、芸術家、哲学者などにも見出すことができ、それもこの紙幅で紹介しきれない。
ただし、この50年代を中心とした「ZEN」ブームは、ビート詩人たちに源があることから類推されるように、東洋へのエキゾチックなあこがれと考案に見られる言語の飛躍的な使用などに注目したもので、各自の知的興味や芸術的な関心からのものだった。禅の瞑想などの実践面はまだまだ理解されていない。とはいえ、この時期から自らの内面の問題として禅に関心がもたれはじめた。

1967年、サンフランシスコの人口は75万人だった。この周辺におよそ30万人の長髪の若者が集まっていた。文明社会を否定し、ビートの効いたロックに酔いしれ、マリファナをまわしのみする彼らは、「ヒッピー」と呼ばれた。ベトナム戦争下にあった当時、その悲惨さを逃れ多くの若者がドロップアウトした。その中には「スズキズム」と称して読経をあげ、香を焚き、瞑想にふける一群の若者たちがいた。この仏教への指向が、はたして本物なのが、大いに議論のわかれるところである。実際、現実からの逃避に、東洋へのあこがれを口実にしたにすぎないととらえる向きが多い。

ハーバード大学の心理学教授であったリチャード・アルパートは、ハーバード大学のティモシー・リアリーとLSDなどを使ったサイケデリックドラッグの研究を重ねた。それが原因で放校処分となるがアルパートの探求は終わらない。インドへと旅立ち、ヨーガ行者などとの交流を通して、古来から伝わる精神伝統の世界に触れ、ドラッグに頼らない精神探求へと向かっていった。この一連の体験に基づいて書かれたものが、
1971年に出版されたババ・ラムダスと署名されたアルパートの『ビー・ヒア・ナウ』なのである。この書物自体はインドのヒンドウー(ヒンドゥー)系の流れに多くを沿って書かれているものだが、ヒッピーたちの聖書となり、精神世界探求のガイドとなった。この本の最終部には、精神修行の場の一つとして、サンフランシスコ禅センターが紹介
されていたのである。

(風の子 ‏@makeanovel 11月6日
(再掲)ブレード・ランナー原作フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」は放射能汚染された第3次世界大戦後という設定。テレビでは「今日の天気予報。衛星からの報告によりますと、放射性降下物は午前中にもっとも強まり、次第に衰える見込み、外出される方は・・・」等と。

KTanaka ‏@tanaka93225760 11月8日
@makeanovel 映画・ブレードランナーの立ち食い蕎麦屋が新橋とか、暗示してたんですね。

風の子 ‏@makeanovel 11月8日
そうですね、原作小説では日本は出てきませんが、映画だと日本が舞台じゃないけど、日本っぽいものが出てきて暗示だったのかなと。屋台のおじさん日本語だし、芸者みたいな広告とか。  RT @tanaka93225760 映画・ブレードランナーの立ち食い蕎麦屋が新橋とか、暗示してたんですね

風の子 ‏@makeanovel 11月8日
「ニューロマンサー」の舞台が千葉市ってのも暗示的。。 “臓器移植や神経接合や微細生体工学と同義語となった千葉”、“千葉の闇クリニック群こそ最先端” とか描写されるチバシティがメインの舞台の1つですよね。。  @tanaka93225760

KTanaka ‏@tanaka93225760 3 時間3 時間前
@makeanovel 『ニュー・ロマンサー』読んだ当時は気味が悪くて、今思うと「731部隊」の残党の話しだったのかと。日本はとても不気味な国。とらえどころが無くて、鵺のよう感じるこの頃です。

風の子 ‏@makeanovel 3 時間3 時間前
ニューロマンサーを書いたギブソンの仕掛け人が、ティモシー・リアリーという、「素晴らしき新世界」のハクスリー(1984年のオーウェルの恩師でもある)と一緒に麻薬使った実験したり、タビストック人間関係研究所の洗脳実験MKウルトラ計画にも関わった人  @tanaka93225760


・カトリックの総本山ヴァチカン(バチカン)では、
1962年から3年間にわたって第二バチカン公会議が開かれ、カトリックが異宗教との対話を進めることが決議された。さっそく仏教、中でも禅に対話を求めた
1969年の第一回目の東西霊性交流では、禅の関係者五十数名がヨーロッパを訪問し、各地の修道院に地財し、修道生活を体験するとともに、武道、茶道、書道といった禅の周辺文化を紹介した。

バチカンが統一宗教を作るのに協力します宣言。
仏教に近づいて、仏教を取り入れますよと言いつつ、実際は仏教の中核を抜いて一神教寄りにに改造。
中核思想がカトリックと禅は真逆なので、統合は無理です。
共存ならできますけど。
一神教を改造した新キリスト教に協力することに反対しているカトリックの保守派が、イエズス会士バリュエルが発明したイルミナティ陰謀論やキリスト教の伝統であるユダヤ=フリーメーソン陰謀論を布教しております。
スピリチュアル禅やヒッピー禅やニューエイジ禅は魔境を悟りだと勘違いさせる邪禅(野狐禅)である可能性が高いので注意!


帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 5月10日
禅宗にふりーそーめんが取り憑いて世界に広めるのも、エックハルトとセット売りして禅の本質を骨抜きにするつもりかね?純インド産ヨーガが流行らず、アメリカ産ニューエイジ系のヨーガばっかりになってるように。ほんま、マニさん戦術の宗教乗っ取り作戦は怖いですわ。マニ教の本質は本当に怖い

つねまげ ‏@tunemage 1月5日
ニューエイジは禅やヨガなどの東洋思想を取り入れているけど、彼らが求めたのは欧米から見た規制の価値観(キリスト教倫理・資本主義・科学礼賛など)へのアンチテーゼとしての東洋思想な気がする。だから、僕らから見ると外国映画に出てくる忍者を見るような違和感があるんだな。)


・中国の臨済禅を日本に紹介した栄西は厳格な戒律主義。
渡航が困難な時代にあって、栄西は二度も入宋した超エリート僧であり、多くの寺を次々と建立する造営の才に恵まれていた。
栄西は臨済宗 黄龍派の伝法を受けた。帰国後は北条政子や源頼家など最高権力者を味方につける抜群の政治的才覚の持ち主であり、京都に建仁寺、鎌倉に寿福寺を開き、臨済宗の発展の基礎を築いた。
栄西は禅の立場をとりながら密教(天台密教)も一緒に取り込んだ。栄西が開基した京都の建仁寺は比叡山の末寺としてスタートしているが、禅だけでなく、天台・真言の三宗兼学の道場でもあった。栄西は日本臨済宗の開祖であると同時に、天台密教葉上(ようじょう)流の祖でもある

公案は論理的な解決の拒否

以下しばらく公案
・達磨安心(だるまあんじん)

壁に向かい続ける達磨のもとに神光という名前の男が訪ねてきた。

神光「心が不安でたまらないのです。先生、この不安を取り去ってください」
ダルマ「その不安でたまらない心を持ってこい。安心させてやろう」
神光「心にはかたちがないので出せません」
ダルマ「それがわかれば安心したはずだ」

神光は、達磨から慧可(えか)という名前を与えられ弟子となり第二代の祖となった。

(knznymmmy ‏@knznymmmy 8月19日
ワロス 持ってこれないなら存在しない、か そういう時はだな、思いっきりその達磨を殴るんだ 「痛い!」って言ったら 「ほう?そうかい? じゃ、その痛みを持ってこい」 「無理っす」 「んじゃ、痛くないんだろ?」 ともう一発殴る

どみにをん525 ‏@Dominion525 2013年1月29日
一休さんの「屏風の虎を出してください」って、無門関四十一則達磨安心の「その不安な心とやらを出してみろ」のオマージュなんだよね?

MURAJI ‏@murajidash 6月7日
一休さんって、後小松天皇と南朝系貴族の女性の間に生まれたとされてるので、北朝系だけど足利が気に食わない奴ら&南朝系が、同時に旗印に担げる貴重な人材なんですよね)


・狗子仏性
(くしぶっしょう。「趙州狗子」じょうしゅうくし。「趙州無字」じょうしゅうむじ)

ある僧「犬にも仏性がありますか?」
趙州和尚「無」
ある僧「なぜないのですか」
趙州和尚「自分に仏の性質があることを知らないからだ」

大乗涅槃経にある、一切衆生悉有仏性という森羅万象に仏の性質が宿っているという大乗仏教の基本理念を、「無し!」と否定したことがポイント。
先入観を崩したのです


“一切衆生悉有仏性
いっさいしゅじょうしつうぶっしょう
生きとし生けるものは,すべて仏陀になる可能性 (仏性) をもっており,すべて悟りうるという仏教の思想。諸説もあって,なかには仏性をもたないものもありうるとする説 (法相宗) ,草木などの精神性をもたないものにまで仏性があるとする説 (天台宗) ,精神性をもたないものは仏性をもたないとする説 (華厳宗) などがある。“
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E5%88%87%E8%A1%86%E7%94%9F%E6%82%89%E6%9C%89%E4%BB%8F%E6%80%A7-31464)


ぺん ‏@hanashibeta 7月13日
禅は御存知のように不立文字というが、禅ほど多弁なものはない。灯史を開けばそこは公案ワールドだ。ただ禅問答と揶揄されるように欧米系論理学では読み切れないものだらけで、結局禅のいう不立文字の文字とは言葉のことではなく「既成論理の枠組み」を指しているのだろう。ビバ狗子仏性!

主人公
瑞巌師彦(ずいがんしげん)は毎日自分にこう呼びかけた。
「おい、主人公よ」
そして、自分で答えた。
「はい」
また呼びかけた。
「おい、しっかりと目覚めているのだぞ」
「はい」
「おい、いつどこで、他人に欺かれないとも限らないぞ。しっかりするのだぞ」
「はい、はい」
こうした問答を生涯続けたという


私も禅語の主人公の姿勢で本ブログを執筆しております。
主人公も仏教用語なのですね


鷹島修@アラフォー&イクメン ‏@sic_taka 9月29日
禅語での主人公は、本来の偽らざる自分という意味らしい。 毎日自分のなかの主人公に呼びかけて、覚醒させておくことが大切。 そうしないと、すぐにとらわれた自分になってしまうということらしい


曹洞宗大本山の永平寺は、すべての建物が回廊で連結されており、法堂は頭、仏殿は腹部、山門は股など人体のそれぞれのパーツに密接に照応して設置されている。行住坐臥のいっさいが厳格綿密な修行であることを悟らせるような禅的な宇宙観に基づく。
「永平」とは中国に仏教が初めて伝来した年の年号


(フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 2015年11月12日10:51 - 11:47
ねここねこさんの工事中の 禅仏教の記事読んでるけど、 永平寺システムに一個だけヒント。
「永平寺修行記」では便所での ケツの拭き方とか、食事の細かい
作法とか、寝るときに仏陀みたいな 態勢になる様に布団でグルグル
巻いて簀巻き状態にしたりする……

これは現代の工場で作業の 手順がこと細く決まってるのと 同じ思想なのね。
目的は「ヒューマン・エラー」 の撲滅。
なんでこういう思想が生まれた のかというと、
禅仏教では、理想の生き方ってのが ブッダの生き方なわけ。

ところが人間ってのはブッダの 生き方が中々出来ないわけよ。
そもそもブッダの生き方自体が 分からない。
だったら、人間の取る全ての 行動を寺側が管理して、
強制 させれば、全員ブッダの行動を
取るわけだから理想の社会に ならね?
って考えが永平寺の 仕組

で、これを娑婆の世界で実現
したのがトヨタ生産方式みたいな
工場の仕組なわけ。

ところが工場で働いてみれば
分かると思うけど、アレが
どうしても「理想社会」じゃない
って事に人間は本能的に気付く
わけよ。
でも工場側はこれはブッダの 生き方をトレースしてるんだから
これ以上の理想社会は無いんだから 黙って続けろ!
と言うわけだ。
曹洞宗の凄いところは実は
ここで止まらないで、実は このネタの続きを用意して ある所なんだ。

「永平寺修行記」を良く読めば
分かるんだけど、作法の合間に
ちょくちょく坐禅の時間が
あるのよね。
所謂、曹洞宗の「只管打坐」って
やつの実践ね。

「永平寺修行記」の著者が
ここで重要な所を漏らすん
だけど、
この「座っている時だけが天国だ」 という表現を著書の中でしてるんだ。
トヨタの工場で言うと「五分間の 小休憩」の時間みたいなもんだ。
ブッダの行動を全てトレースして 生きているはずなのに、
本当の 幸せは「坐禅」してる時だけって
不思議だろ?w

ここが曹洞宗のスゴイ所なのよ。

つまり「本当の悟りはブッダの
行動をトレースした強制された
ロールプレイには無い」
と言い切るわけだw

本当に重要なのはブッダの
ロールプレイに疲れて
ただ座り始めた時の
「なにもしてない状態」
これが悟りだ!

トヨタの工場の例に置き換えると 工場で真の利益を挙げているのは
「作業者が作業している 時間じゃない」
工場で一番重要で本質的なのは
「休憩を取っている時間」

と曹洞宗の坊さん達は言い切った わけだ!w

この「なにもしない状態」、
ただ座って、休憩してる時間こそが 悟りであり、人類の理想だって 説いてるわけよ。
あの厳しい修行はそこに気付かせる ための念入りに組まれたカリキュラム なのね。
まぁ、流石はインテリの坊主 の考えた仕組だわ。

問題はトヨタも、東大のMBAも、
ジョブズも、Googleも、 この「禅の本質」に気付いたか どうか。
まぁ、第一目的が利潤追求や ドラッカーのいう需要の創造 じゃ気付かんだろうw

あくまで只管打坐の曹洞宗の 話しよ?
公案ベースの臨済宗はまた 別の話しよ?
pic.twitter.com/8ulmJZvPLG
(野々村 馨 『食う寝る坐る永平寺修行記 (新潮文庫)』)

また、ミソは「ブッダの ロールプレイ」の否定が
間接的に空海が持ってきた、
天台宗が後に重視した
密教の批判になってる所ねw
ここが重要なポイントよ?w

この永平寺の修行の仕組は
よ〜く観察すると、釈迦が バラモン仙人の下で苦行されて
参った後、菩提樹の下でただ
座って悟ったエピソードと リンクしている所も キーポイントよ?
w 以上

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 9月19日
RAPT君の執着するトヨタの
経営手法も基本的に曹洞宗の
永平寺の運営システムの
パクリ
だしなw

王王大栄 ‏@ououdaiei 2015年11月
トヨタは、永平寺の経営システムを学び用いているらしい。そういえば豊川稲荷は、曹洞宗。でトヨタのロゴはここのダキニ天の如意宝珠も表しているとか。繋がりますよね。松下は醍醐派の清滝権現の神社を祀っているし・・でも今は醍醐寺もカルトの汚染にやられている・・・。因果応報?

永平寺のシステムは、結構軍隊のシステムに似ている。ので、企業が喜んで取り入れるのかな。
戦後日本の企業経営は、結構軍隊の影響が多き。それを誤魔化すのに禅仏教を騙る。
禅宗は、妙に軍隊臭いところが嫌い。永平寺のシステムも、ある意味で選ばれた人しかついていけない。それを無闇に誰にでも押し付けガチに思える。それは発達障害気味の人間には拷問ですは。学校も妙に禅宗と軍隊の合わせ技だし



フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 1月22日
今まで東大だけMBAが
なかったんだが、最近東大EMP
という社会人用EMBAコース
みたいなのが出来ていた。

学位はくれない。修了証のみ。
ハーバードとの差別化を謳い
文句にしていて、所謂
「マネジメント」、
「マーケティング」、
「リーダーシップ」を
教えない。
代わりに政治学、宗教、医療 とか教えているみたいだ。 元々日本企業は欧米系の ビジネススクールで経営学 を齧った小賢しい若造が 経営者に意見するのを 毛嫌いする傾向が強い。 東大のカリキュラム 見ると松下政経塾の 神道を仏教に替えた だけの感じだが

コーランを読み込んだり、 坐禅を組んだりするそうだ。w これで半年600万。 う〜ん、ハーバードでも 金積めばMBAくれるし、 卒業名簿にも加えてくれる んだがなぁ〜 確かにHBS(ハーバードの ビジネススクール)は安くは ないけど。

ってかマネジメントをやらない MBAってMBAなのか? 東大のカリキュラムを見ると 確かに日本の経営手法に 合致してると言っちゃ 合致してるが…… オカルト偏重がそもそも 日本のモノづくりを 弱らせてることが 何で分からんかなー

この東大EMPのカリキュラム に日本型経営の問題点が 要約されてる感じがするね。 禅仏教をやらせるのは 多分ジョブズの影響だな。w 坐禅組んでイノベーション 出来るなら確かに凄いかも しれないが。w

確かにGMとかクライスラー だけを見るとアメリカの経営は ショボイけど、そもそもアメ公 エリートは自動車メーカーに 行かないからなぁ。 NASAとか軍需産業の イメージかな。 スタバ、マイクロソフトとか の成功例を取れば、学ぶべき 所はあるのだけど。

まぁ、トヨタ生産方式って 道元の永平寺の運営手法そのもの だからな。w そこに気付いたのは流石に 東大と評価すべきか。w)

『禅の本』
坐禅の仕方
・結跏趺坐(足の裏を天に向けて両足を組んで坐る。結跏=足を組む。趺=足の裏)で座る。
①座蒲(ざふ。なければ座蒲団の上にさらに二つ折りした座蒲団)を置き、その上に浅く腰を下ろす。
②右足を左のものの上に乗せ、かかとが下腹につくくらいまで、なるべくつけ根のほうまで引き寄せる。
③左足も同じように右のももの上に乗せる。
両膝と尾骶骨で、床の上に三角形ができる。このとき膝が床から離れてはいけない。
足が痛くて結跏趺坐ができない人は、左足だけをももの上に乗せる半跏趺坐を用いてもよい。
それも辛い人は普通に正坐して行ってもよい。
・目は自然におとす。閉じると眠気を催したり、妄想に陥りやすくなる。
・手は法界定印(ほっかいじょういん)を組む。
右の掌を上向きにして、組んだ足の上に置く。
その上に左の掌を同じように上向きにして重ね、親指の先を合わせて卵形の輪を作り、その手はへその下あたりに置く。
両方の親指をかすかに合わせる。離れても押しつけてもいけない。
・体の位置は真中心におく。時計の振子のように上体をまず大きく左右にふって自然に止まった位置、次に前後にふって上体がまっすぐ安定した位置。
・頭は顎を引き、左右に傾かないようにする。視線は1m先くらいに自然におとす。
・口は軽くむすび、舌先を上あごの歯のつけ根に軽く当てる。
・肩は力を抜き、水平にする。
・背中はまっすぐ伸ばす。腰は後ろにぐっと引く。腹は少し前につきだし、鼻と一直線になるようにする。
・呼吸は自然と鼻からの呼吸にまかせ、息は長すぎも短すぎもしないようにする。息はまず吐き出してから吸う。下腹の底から吐く心地で息をすると、下腹はへこむというよりも充実感がある。すると自然に鼻から吸うことができる。



…参考資料…

秋山絵香 ‏@Eka_isdd 2012年12月22日
仏教的にいえば「愛」は執着、こだわることであって、煩悩という悪である。「愛」を断ち切ることなくして悟りは開けない。 日本人が「愛」を何かよいものと思うのはキリスト教の影響

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 5月3日
仏教を激しく憎んでる神道カルトが、マニ教と同じ手法を使いながらスピリチュアルを洗脳していってるのは、和風クリスチャンである神道カルトがそれだけ仏教を破壊したくてたまらないということだろう。スピリチュアルと仏教では、似ているようで実は違ってスピはキリスト教の変形だからだ。

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 4月30日
今のヌッポンで英諜報機関が作った神智学系スピリチュアルが蔓延してるのは、仏教破壊作戦と見ていいだろう。大本教などの神道カルトは、徳川家が国教とした仏教を激しく嫌ってた。五重塔を二万円で売りに出すとか。そいつらがスピを蔓延させるのは、日本の仏教的な価値観や感性を壊すため

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 11月1日
そういえば、今思い出せるだけでも、仏教の坊主がニートを叩くというものは本当になかった。それどころか、現代のような煩悩が多い社会に生きてると心が壊れて当然で世の中のほうが狂ってると言った坊さんが多い事実を思い出した。労働教の大人はニューソート好きでも仏教は嫌いだもんな。

やつらは日本を破壊するために、会社というカルトを盛り立て、地域の共同体だった寺から隔離して仏教的な叡智から遠ざける工作をやってたのではあるまいか?松下幸之助がニューソートやキリスト教カルトと懇意だったのは偶然じゃないんだよ。PHPの貢献賞はきっと仏教破壊工作なんだよね。

やつらの本質はマニ教だからさ、仏教的な伝統があるヌッポン社会でも受け入れられるよーに努力精進みたいな教義を入れ込むけど、それでも資本主義カルトって欲望を最大限に拡張させる事だから、仏教で一番大事な要素である修行の果てに心の平穏がないわけ。だから死ぬほど努力した後に過労死する。

こう考えると、マニ教的な既存の宗教の換骨奪胎ってのは実は人を何十万人も殺せるほど恐ろしいものであるという事がわからないか?宗教でも思想でも意図的に混ぜ合わせる事で一番大事な部分を骨抜きにしてしまうやつ。これは自然な習合だとあまり起こらない事なんで、意図的なミックスまじで怖い


山崎いつ@日本号来まっしや ‏@itsu_yamazaki 11月25日
ベルギーでは、オウム真理教や創価学会に並んで『禅』や『浄土真宗』を、カルトに対する政策において『不法行為や危険な行為が継続されていないか監視する必要がある』としている。http://bit.ly/1FoNbBk

Ken ITO 伊東 乾 ‏@itokenstein 2010年7月1日
カトリック布教を武器とする帝国主義宗主国の進出を阻む現地抵抗勢力となりうるもの、すべてとりあえず悪と認定しておく。実に原則的! @tjmtmtk 浄土真宗と禅がベルギー政府からはカルトであると指定されているということを今知った。パッとリストを見た限り、薔薇十字団とか太極拳も

Ken ITO 伊東 乾 ‏@itokenstein 2010年7月1日
@shoshoshosho ベルギー&カトリックに言わせれば「長崎26聖人殉教」など切支丹の大弾圧、殺戮を繰り返してきた対抗教義になるので、日本の仏教は軒並み暴力カルトと見て不自然でないでしょう。とくに九州は西本願寺と曹洞宗が強いので、真宗と禅の指定は非常にストレートに判ります。

サイ / 三原卓也 ‏@rhinoeye 2011年4月27日
ベルギーのカルト団体リスト http://bit.ly/i718Q8 はざっくりしてるなあ。オウム、創価学会、統一教会、真光、エホバ、といった日本でもおなじみの面々や、サイババ、ラエリアン、太陽寺院みたいな懐かしめのやつや、アーミッシュ、モルモン、YWCA、ヨガとか禅も入ってる。

knznymmmy ‏@knznymmmy 7月23日
ほうほう。ベルギーはカトリックが7割少々という カトリック国家でありながら ザクセン=コーブルグ=ゴータ家といえば プロテスタント

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 9月19日
バチカンの護教書だけど これが良く書けてて勉強に なった。 マニアックなキリスト教書専門店 にしか売ってないのが残念だけど、 一応Amazonとかでも取り扱って るみたい。 pic.twitter.com/14CUqnVXyg
(『ニューエイジについてのキリスト教的考察』教皇庁文化評議会)

この本に拠ると、ニューエイジ カルトの本拠地はカリフォルニアの エサレン、
スコットランドの フィンドホーンとスイスの モンテ ヴェリタスという所らしい。

で、ニューエイジの語源は 一般的にはアリス ベイリーだと 言われてるけど、バチカンは 元々メイソン用語だと述べている。
で、これを一気に広めたのが 部落派月子ちゃんと言うのが バチカンの認識らしい。

ともかくバチカンがやたらと
敵視してるのが部落派月子と
有栖部恵理、捨体無の神智学系列 の人脈の様だ。
また、イエズス会の中にも 神智学人脈の工作員が 潜入している
と書いてあるw

この本はニューエイジ教と カトリックの教義の比較も してるんだけど、キリスト教って 妙に中国の儒教に似ている様な 気が……
「イエス」とか「神」の部分を
「君」とか「王」に換えれば まんま儒教なんだが……

案外、孔子がイエスのモデル なのかも。
ローマの猿共に優しく儒教を 解説するために多少、
アーリア宗教要素で脚色した 感じか


最初は東洋思想の中では 仏教の浄土教系がキリスト教に
一番近いと思ってたんだけど、 これ多分、儒教の方が近い。

となると、 やはり徳川イエス君が MAGE政府に憎悪された
のも これが要因かw
フェイド大帝的には神道は キリスト教よりもニューエイジ教 (つまりグノーシス主義)の 方に近いと考えている。

あ、後、バチカンが言うには 日本の宗教の中ではジョブズの 好きな禅宗にニューエイジ工作員 が沢山潜入してるから気を付けろ ってさ。
カトリックの強いおフレンチで 政府認定カルトの中に禅仏教 が入ってたのは多分これが 理由だな。

RAPT君の執着するトヨタの 経営手法も基本的に曹洞宗の 永平寺の運営システムの パクリ
だしなw

初めてキリスト教書専門店に 行ったついでにさっきの本買った んだけど、(本当は「聖ベネディクト の戒律」と「キリスト教神秘主義 著作全集」を探してたんだけど 無かった) 韓国人の書いた本が異様に 多かったけど、どうも福音主義系 の本屋だったみたい……

面白かったのが泉パウロが 普通にキリスト教の本も 書いてた事と、ケリー篠沢先生の 作品が聖書マンガ以外にも 沢山あるという事が発見出来た のが収穫だったw

取り敢えずせっかくだから 福音主義派の異端折伏マニュアル みたいなやつを何冊か買って来た。

立ち読みした時は余りにも 下らなくて、ゲットして いなかったスウェーデンボリ の著書も買ってきたから、 一度真剣に読んでみますわ……

さっきのバチカンの本には 霊媒系の元ネタはスウェーデンボリ
で、部落派月子もこっから パクったと書いてあった。
日本の新興宗教で同じ様な 霊媒による宣託やってる所も
スウェーデンボリがルーツだと 分析してる。

つまりバチカンの調査だと 日本のカルトの霊媒技術は
恐山のイタコみたいな土着信仰 からの派生じゃないと判断してる 事が重要


あ、後、バチカンが言うには 最近流行りの適職診断の
エニアグラムとかの類型に 層別してやる心理テストは
カバラ系カルトが元
だから 気を付けろってさ。

なんかバチカンはスイスの モンテ ヴェリタで開かれた 統一宗教の国際会議の出席者 名簿が興味深いと書いている けど、誰とまでは書いてない。 どーも、調べると黄金の夜明け団 やOTOのロイスとかが集まってた っぽいな。 いわゆる魔術結社系ってやつね。

神道は人間が神になってもOKなのでグノーシス主義を完全に拒否しません。
物質=悪
霊=善
の二元論は神道にはありませんけどね。
神道カルト=和風キリスト教
=新キリスト教。
(既存のキリスト教にとっては異端)

ニューエイジ=新キリスト教。

神道カルトの特徴は
聖書が根拠の日ユ同祖論、
キリスト教の伝統であるユダヤ陰謀論、
善悪二元論、
明治以降の偽伝統である神道家の天皇崇拝。
なお、反天皇だったり、天皇すり替えに言及する場合があるので、ユダヤに対する態度と、一神教的な善悪二元論かどうか確かめるのが重要。
日本人の伝統的な神々に対するイメージはほとんど仏です。
日本語は仏教用語だらけですが神道用語はほとんどありません。
神道、神器、天皇、随神は道教用語。

やっぱり陰謀論者の煉獄のカレイドはカトリックなのかねえ。


狼たちは知っている ‏@wolvesknow
クリスチャンだと、カレイドさんもそうだから、時に方向が違ってたり、歯切れが悪くなる。
まあ、宗教は事実を遠ざけるから仕方ないけど。

カレイドさんは敬虔なクリスチャン。しかし、女性を含めて複数で書いてる。ハッピーさんは、時々、選手交代する。文章には必ず、本人の癖が出る。

カレイドさんは複数で書いてる。女性も混じってるね。で、彼らはクリスチャンだよ。記事によってはかなり信用できる部分もあるけど、時折見せる終末思想がウザい。耶蘇教は終末思想大好きだからね。

つか、カレイドさんが同時運営してる、アーバンプレッパー読めば、終末思想なのは一目瞭然


魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 10月27日
陰謀論コミュもそーだけど、色々な世界で有名人になる人ってみんな「クリスチャン・在日・ホモ」のどれかの属性を持ってるのよね。たとえばシールズの奥田愛基君は在日でクリスチャンだし、さゆふらは元ホストだからホモで在日かも?で在特会の西村もホモで在日って話だよね?ホモソーシャルすげー!w

前にさ、耶蘇教福音派の宣教師がホモは地獄に落ちる~とか脅してたのに、自分がホモだとバレて失脚した話があったんだよね。耶蘇教、特にプロテスタントがホモや魔術などを必死にファビョってバッシングするのを見ると、特定の利権があるんだろうね?利権を守るためにバッシングするみたいな。

そー考えるとさ、陰謀論コミュの面々も「クリスチャン・在日・ホモ」の3つの属性のうちひとつは持ってるもんね。泉パウロも在日顔でクリスチャンだし、カレイドも韓国絡みでクリスチャン。ハローバイバイの関暁夫もイスラエル寄りのクリスチャン(キリストの幕屋かな?)だし、宇野もそーなの。

カレイドって南朝鮮のメディアと組んでたんだけどさ、こいつも統一教会なんかな?プロテスタントは統一教会に多額の資金提供されてるし。カレイドが輪廻転生とかいってんけど、メイソン臭いキリスト教じゃね?
http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-3855.html …

Abby ‏@Abby51576401 9月23日
@lakudagoya @AmboTakashi カレイドがシールズを持ち上げているし、石田純一にも同様。いつも的確な批判を書くのに、変です。http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-3820.html …
日刊ゲンダイもシールズを持ちあげ、批判は全くなし。「敵」だらけになった。

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 5月17日
カレイドが、エドガー・ケイシーを悪魔崇拝者だと断定しててワロタ。おい、エドガー・ケイシーは敬虔なクリスチャンで聖書を隅から隅まで読んで日曜学校で教えてたくらいなんだぞ?そいつが悪魔崇拝者ですかそーですか。http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-165.html?sp …

カレイドスコープの「私はクリスチャンでありませんし、一切の宗教とは無縁です。再三書いていますが」と言ってるのに魔術は悪魔崇拝だからいけませんとか、煉獄の火で焼かれるとか(煉獄はプロテスタントにはないよ?)何でクリスチャン臭い発想なの?http://mjk.ac/taBsBn

カレイドスコープの引き寄せの法則が悪魔崇拝なら、恐らく引き寄せは仏教の阿頼耶識縁起の説がパクリだから、俺ら一般のヌッポン人はサタニストか?そんなバカな!http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-165.html?sp …

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya
ふふふ、RAPTのブログにこのマルティン・ルター家の家紋を引っさげて殴りこみしてみようかな?カレイドの時のよーに、想定内のファビョり反応をするかな?いやーカレイドの時は、キリシタンそのものだった反応なのでホリエモンになったかと思ったw pic.twitter.com/0YaZWdN1GK
薔薇十字ルター


ルター家の紋章は薔薇に十字ですよ。まー、ミツバチのマークのステーキハウスのフルールドリスの太陽王のルイ王朝も似たよーなもんなのでしょうけどね。

プロテスタントというのは、元はカトリックとは違うグノーシス系キリスト教の影響を受けてます。薔薇十字団というものがありますが、ルター家の紋章は薔薇と十字です。あと二元論はマニ教の影響があるでしょう。

ミツバチといえば、フランス王家の紋章のフルールドリスも百合ではなく、ミツバチをかたどったものだとフリーメイソンさんの本に書いてありました(笑)メロヴィング家もミツバチの小物が出てる

この前、佐藤優の「神学の思考」読んでたら、プロテスタント神学は、見える教会と見えざる教会という2つの教会があると信じると書いてあった。おや、薔薇十字団の見えざる大学かね?(ルター家の紋章は薔薇十字)この神学の定石を知ってるだけでも、RAPTの思考が一発で背後まで読み取れる
のさ。

あーカレイドスコープを釣った時にはホリエモンになっちゃったかと思ったよ。 耶蘇教1800年以上の歴史と伝統を感じる、教父時代から変わってない伝統的な半島人も足元に及ばないファビョり方つーか、ローマの古典に書いてある事をありありと感じるよーだ。思わず 「想定内です!キリッ!」とw


「怪力乱神を語らず」
という無記っぽい姿勢の儒教がキリスト教のモデルとは思えません


子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2014年9月16日
キリスト教「自分がされたいことを他人にせよ」
孔子「自分がされたくないことを他人にするな」
は全く違う。自分がしてほしいことが他人がしてほしいとは限らないから。信者がしてほしいこと=異教徒の絶滅なので、信仰の押しつけによる侵略を推進するのに都合が良いのがキリスト教の聖書の黄金律


菊池 ‏@kikuchi_8 2014年8月2日
14)己も空・他も空、諸法=万有は同じ空という道理の上にあるので、己の身に引き比べて生類を傷つけてはならない、という慈悲の心が導かれる。形而上学を用いない道徳律、これは「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」という孔子の道徳律と並ぶ東洋の黄金律であろう。

knznymmmy ‏@knznymmmy 9月20日
あー、エニアグラムってどこかで聞いたと 思ったら 昔読んだ「9つの性格」がエニアグラムだな あれ確かアラビア方面に起源がとか書いてたような気がする そーいやカバラもアラブ経由の疑惑が濃厚だったから まー、エニアグラムとカバラ 元ネタはかぶってるかも

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 11月6日
カルトよけスプレーとして無記は最強すぎる虫除けスプレーですねRT https://twitter.com/kikuchi_8/status/662672509964173312 …
菊池 ‏@kikuchi_8 11月6日
仏陀が無記の態度を示したのはツイッターに巣食うカルト工作員を見れば明らかと思う。つまり、根拠提示も証明作業も無い独善的カルト教義をまき散らし、憎しみを増長して無益な争いに終始する「修羅道」に堕ちたカルト工作員の姿。思想の自由が謳歌されていた古代印度も似たような状況だったのだろう

王王大栄 ‏@ououdaiei 11月6日
@lakudagoya @kikuchi_8 論語で孔子が「昔の史官{歴史記述担当の役人}は、よくわからないところは書かなかったものだ」とボヤキとも回想ともいえることを言っている。「わからんものはわからん。ってわきまえることが知恵」という趣旨の言葉も・・。

S̸ąΐǤσợƑꐕ ‏@saigoofy 7月16日
“仏教の開祖である仏陀(ガウタマ・シッダールタ、紀元前463年? - 紀元前383年)は、世界の始まり、時間の有限/無限などに関するいくつかの形而上学的な問いについて、無記(むき)または捨置記(しゃちき)と呼ばれる立場を取った。それは解答しない、という立場である。”

横浜の駄洒落皇太子 ‏@hamadajare
【無記】例えば「死語の世界は有るのか」等の幾つもの問いを弟子に投げ掛けられた時、仏陀は答えなかったという。経験していない、或いは確かめる事ができない物事について語る事はできない、という立場を取ったらしい。

【仏陀の客観視】弟子が例えば“あの世があるのか”等幾つかの質問をしたら、仏陀は答えなかったという(無記)。経験や実証できないことを議論しなかったらしい。仏陀は物事を客観視
するタイプだったようだ。

ベローシファカ ‏@saru_madagascar 2014年6月22日
原始仏教では無記と言って、形而上学的な問題については沈黙を守るとした。仏陀の毒矢の例えに示されるように、それは仏教の本質ではないのだ。語り得ないことについては沈黙しなくてはならない。http://bit.ly/1iYcUG2~nozawa/b/muki.htm …

日高 ‏@akazuki1287 2013年12月21日
仏教だと十無記とか原始仏典の仏説はかなり実証主義的で、その上でインドの輪廻思想を否定せずに上手く当時の人をカウンセリングしてるなーって感じるけど、仏陀が死んだら神格化しちゃってやっぱり宗教なんだなあと。

マサトク-18san-sui 19大蔵 ‏@masatoku 2013年9月4日
霊だの何だのは仏陀のいうところの「無記」(そんなん知らんし余計なこと考えてないで修行しろ)だと思ってるので眉唾だけど、本人の体験としてはあるんだろうなとは思う。大変なことがあったりすると、人間の脳はそういうものを見せるもんだ。

陀羅尼縁学 ‏@daranijizai 11月5日
仏教の宗派には、過剰にスピリチュアルや、霊感、霊能を禁忌として捉える所もあるが、それは一種の禅病を防止する為もある。
瞑想中にそういう不思議な感覚に囚われ行き過ぎた追求をすると、禅病になる。
禅で和尚にパチンと叩かれるのも、禅病予防
。禅は追求するとヨガに行き着く。)

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 2015年11月11日
前、紹介したバチカンの ニューエイジ解説本に奴等 の使う「アセンション」の 用語の詳しい解説が載ってる。 ニューエイジャーの言う 「アセンションによって 以前の旧い価値観が180度 変わります!」 という文句はカトリックが 滅びます!と同義というのが バチカンの公式理解

RAPTの野郎が「人は空中携挙 されうるか」という気持ちの 悪い記事を書いてるなw 有料だから中身は分からんけど。

この本な。 RAPTの有料記事読む前に これ読んどいた方がいいよw 教皇派の主張を理解するには 教皇庁の書いた本読むのが 間違い無いでしょうww pic.twitter.com/YdCbg2YhS7


安保 多稼士 ‏@AmboTakashi
紐付きは半分の真実と半分の嘘によって、洗脳に気づいた人を再び洗脳するのが仕事。
陰謀論者ラプトの元ネタはラプチャー=携挙。
隠れ含めキリスト教系と大本教系陰謀論者は仏教嫌いの法則!

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-82.html

もしキリスト教系(の時点で支配層側の)陰謀論者のRAPTさんに出会ったらまずは、元ネタはRAPTure(ラプチャー。携挙)ですよね? と聞こうと考えております。患難前携挙説を正しいと考えていますか? とも聞こうかな。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-83.html

菊池 ‏@kikuchi_8 2時間2時間前
@3nihonzin @sakurakouyouhen あなたの使っている概念はニューエイジそのものなのですが。アセンション、次元上昇という「携挙」からキリスト教風味を薄めた教義を喧伝している。あなたが信奉している神智学の二代目会長のアニー・ベサントはフェビアン社会主義者ですよ。

@3nihonzin @sakurakouyouhen どこが「神国日本」か?あなたはただの神智学信者では?使っている概念が全て西洋のオカルトですね。中身は西洋かぶれなのに、保守愛国派を偽装している訳で。伝統に憑依して破壊する反日偽装愛国主義者。そういうのが多すぎますね。

@sakurakouyouhen @3nihonzin アセンションがどういう妄想かは存じませんが、ティモシー・リアリーがLSDを摂取して体験した幻覚の描写がプロティノスの「神秘体験」とそっくりの描写でした。キリスト教で言う「携挙」のニューエイジ版だと思われます>アセンション

「次元上昇」「艮の金神が動く」とか言い、「マハチョハン」「セント・ジャーメイン」
がどうたら言う神智学かぶれのオカルト信者が安倍支持勢力の周辺で蠢 く。横文字左翼にオカルトの影があるのは先日言及したが、安倍支持派にもオカルトの影。西洋かぶれのオカルト・アセンション信者が何故愛国だ?

次元上昇=アセンションは、キリスト教の神の国に引き上げられるって思想からキリスト教色を抜いて、似非科学的な感じにしたものです。
アセンション自体が「キリストの昇天」という意味のキリスト教用語。

というか、スピ信者が愛愛うるさい時点で中核がキリスト教って気づけよ。
仏教思想なら愛は悪だぞ。

仏教含めインド思想は論理的思考「も」重視するので、スピ信者の妄想を全否定します。
スピ信者がほざく「覚醒」の九割は「悪酔い」です。

キリスト教の「愛」も、スピリチュアルの霊的体験も、
「物質ではない」=反証できないものなので、
支配者にとって、とても都合がいいです。
反証できないもので価値観を形成するのは全て洗脳です。
こちらが物証出せと言ったらスピ本=宗教書か物質を超えたものがと言って逃げます。
スピも悪質ですが、
唯一絶対神「民主主義(みせかけ)」と
「拝金教」「デモ教」「選挙教」「過労死教」「学歴教」に比べればマシです。
日本ではバラモン教のような霊的カーストで支配せずに、宗教色を抜いた宗教である学歴というカースト制度を支配層は採用しました


帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 4月8日
アセンションって、キリストの昇天とかこっぱずかしい用語と思ったら、ハルマゲ丼であぼーんで幽霊さんになることか?それならほーしゃのーだって無敵だもんな確かに。

風の子  ‏@makeanovel 24分24分前
愚民政策として知られる3s政策って、スポーツ、スクリーン、セックスって言われるけど、代わりにスキャンダルをいれる説もみたことあるけど、もしかして、受験のお勉強としてのスタディが本命なんじゃないかなとかたまに頭をかすめる。もしくはスクールとかね。
(苦行=スタディで洗脳し、苦行=スタディに耐え続けるために娯楽で快楽を感じる。
この娯楽も洗脳用ばかり。
二重の洗脳


しかし生まれたあとにする洗脳なんてまだかわいいもので、フェビアン協会、ハクスリーが1930年代に発表した「すばらしい新世界」の物語の中では、、庶民層は生まれてくる前の受精卵とかの段階で劣化させられちゃうんだよねー。怖いー。

え?生まれてくる前の受精卵の段階で?そ、それってもしかしてこのふくいち事故による放射能おせ
・・・((((;゚Д゚))))

Lia misaki∞ ‏@lia_misaki 2012年1月27日
そもそも一般的に宗教やスピリチュアルこそが一番の洗脳の手段として使われる。日本では、もちろん3Sと、学校の4S(娯楽ではないが、強烈)が一番の洗脳手段だが。合わせて5Sか(笑)これでほとんどの人々は完全にノックアウト>アセンションに関する嘘の8割を見抜け @lia_misaki

じじばば ‏@dedetyan 2014年10月17日
キリスト教の「主」は貧しい家庭で生まれ、弟子に裏切られ罪人として磔の刑で33歳で死す。一方仏教の「主は」王家の王子という出自。80歳のとき弟子達に囲まれて大往生。伝統的な宗教の「主」の最後が真逆だ。キリストの死はヒステリックでブッタの死は牧歌的。宗教の誕生に大きな違いを見る。

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月9日
大帝の慧眼に感動したのでRT。神智学というバラモン教が仏教を破壊。 https://twitter.com/FeydoTaitei/status/608307730064015360 …
フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 6月9日
@FeydoTaitei いいか?今から大事な事言うぞ? 仏教の教義を抜いた修行法 =ただのバラモン教

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 6月9日
ついに恐れていた事が! 前から原始仏教カルトに気をつけろと 言っただろ? 奴ら仏教を本気で乗っ取るぞ。 pic.twitter.com/Er3FuBZK8k
(『グーグルのマインドフルネス革命―グーグル社員5万人の「10人に1人」が実践する最先端のプラクティス(付録:マインドフルネス実践ガイドCD)』(サンガ編集部)
の画像)

サンガジャパンってのはスマナサーラ の本を出しまくってる出版社な。 元々は純粋な上座仏教の普及組織 だったはずなんだが…… このグーグルの宣伝本は要注意の 箇所が一箇所ある。

「マインドフルネスは宗教要素を 抜いた瞑想メソッドです」 って所な。 知らん人に説明しとくとマインドフルネス ってのは上座仏教のヴィパッサナー瞑想 という瞑想法の事。 釈迦が菩提樹の下で実践してたって 言われてるやつな。

この瞑想法自体は危険でも何でもない。 問題はグーグルが「宗教要素を抜いた」 事にある 「宗教要素」というのは要は 「仏教の教義」の事なんだが、 簡単に言うと「道徳/倫理」の事で 本来はこれが重要な箇所でどんな 修行も道徳とセットじゃなければ 意味がない


いいか?今から大事な事言うぞ? 仏教の教義を抜いた修行法 =ただのバラモン教

グーグルのやり方の汚い所は 禅仏教に嵌ってたスティーブ ジョブズ を出汁にしてジョブズ ワナビーの ビジネスマンやサラリーマンを 取り込もうとしてる所だ。 そもそも仏教の教えを厳密に 守ってたら企業活動なんて出来ない。 金に執着してはいけないから。

更に問題なのは、そもそも企業と 関係無いはずの上座仏教普及団体 にすぎなかったサンガジャパンが グーグルを担ぎ上げてる所だ。

実はテーラワーダの瞑想会とかには 良く通ってた経験がある。 グーグルがマインドフルネスとか 持ち上げる前だ。 別にカルトでも何でもなかったし、 お布施とかも自由意志だったから お金を出したくない人は出さなくても 何も言われないし、勧誘も してこない。

パーリ語や倶舎論の勉強会とか もあったので、普通に仏教好きの サークルみたいな感じ。 ただ、気になったのが来てる連中に S学会の脱会組が多かった
事だ。


中には本当にS学会に嫌気が刺して 脱会した人もいるのだろうけど、 フェイド大帝は思ったね。 「こりゃ、乗っ取りに来てるな」、と。

まぁ、グーグルがバックに付いてる事から 分かると思うが、イルミちゃんの 戦略の一環だ。 究極的な目的はバラモン教の普及だ。 マヌ法典の歪んだカースト制度を バリバリ盛り込んだやつをな!

ただ、いきなり素のバラモン教を 持ってきたら、マトモな人間は 怪しむだろ? だから同じインド系の仏教から 徐々にインド思想に染めてこようと してるわけだ。

当然バラモン教を否定した仏教思想を 「抜いてる」わけだから、本命の バラモン教を注入するなんてわけない。

聖書にも書いてあるだろ? 「後から来る者が一番多くを得る」
って。 キリスト教とイスラーム教の 後にやって来る宗教は何か?って 話だ。

奴らニューエイジ時代にチベット仏教 で一回失敗してるから、次に 持って来るのはまさか上座仏教では? と恐れていたが…… この有り様だ……‼︎

イエス風に言わせて貰えば、 「前もって言っておく。騙されるなよ」

もう二つ重要な事を付け加えておく 一つはグーグルの陰に隠れてよく 見えないが、マインドフルネスというのは ハーバードとMITがバックアップしてる つまり奴らは本気って事だ
笑うなよ?お前ら東大の御用学者 ごときにコロッと騙されてたのを 忘れたか?

セシウムまみれの安売りされた 福島産の桃を美味しそうに 頬張ってたそこの貴方だ! 東大レベルでこの有り様なのだから 天下のハーバードやMITが本腰 入れたら、お前らはコロッといく。 嘘じゃない。

二つ目は上座仏教の欠陥についてだ。 仏教ってのは出家僧はぶっちゃけ ニートだ。 在家信者が養い続けなければ成り立たない。 仏教では他人から貰った物以外は 飲み食いしてはいけないという決まりが あるからだ。

つまり、全員が出家したら仏教団体は 自滅する様に構造上出来てる。 (まぁ、これが本来の狙いなのかも しれないが。世は無常ってわけか?) グーグルにとって全従業員が出家したら 会社が潰れるだろ?w

ところが日本で上座仏教の団体と 言うと複数あるが、出家制度を 導入してるのは一つしかない。 (フェイド大帝が知る限り) 昔の天台宗の歴史とか見れば 分かるが、宗教団体の黎明期と 言うのはまず坊主を増やさない 事にはどうにもならない。

そりゃ布教もそうだが、教えを 説明する奴も必要だし、教えを 実際に実践してるモデルがいるからだ。 在家信者の憧れとなる人物が。 そうでなければ信者なんか 増えやしない。

だが、イルミが必要としてるのは 仏教の坊主やバラモンの仙人ではない。 最下層で奴隷で搾取の対象の シュードラが奴らは欲しいんだ!

だからマインドフルネスをやって グーグルのマネージャーに私は出家して プロの坊さんになるんで会社辞めますわ〜 という事にはならない。 そういう風にアレはハナから作られてる


魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 6月9日
@FeydoTaitei 大帝こんばんわ~。この宗教要素を抜いた技法のみの普及で宗教を破壊する気満々ですね。神智学が上座部仏教に取り憑いて破壊しようとしてるかも?

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう@lakudagoya2015年11月13日
ねこねこブログ見てる。大帝の過去ログが乗ってるのだけど、上座部仏教の勉強会の創価学会の元信者ねぇ。組織を乗っ取りに来る場合さ、自分は創価学会を「脱会」しましたとか、自分はフリーメイソンの「メンバーじゃない」と主張して自分だけは違うという感じで入り込むの、工作員の常套手段だよ?

あとね、組織の内情を漏らす場合でも現在進行形の事を「過去にはそうだったけど、今はそうではない」とか他のも複数パターンで内情をはぐらかす手法がどこぞの本に紹介されてたなぁ?彼らの組織への献身は本物だぞ?そうだな、奥田愛基君がしばき隊やアベチョンと蜜月なよーに結束力が硬いのさ?

おいらのフォロワーにもさ、相当な数の「集団ストーカー被害者」と「創価学会」の脱会者がいるようだ。おっと、組織を乗っ取りに来る場合は「組織から逃げてきました」とか「狙われてます」主張して敵対側に入り込むのはいつだってやつらの常套手段なんだぜ?ファンタジーファンをナメんなよ!あ?


菊池 ‏@kikuchi_8 8 分
ねこたさんがおっしゃるように「カルトや結社から抜けた」という設定で陰謀追及者を安心させた上で主導権を握って言説を誘導したり、カルトや結社を批判して見せて陰謀追及者を信用させて陰謀論コミュニティに潜り込み、相互の対立を煽ったり、内部攪乱させる、という工作が確かにあるように見える

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月9日
@FeydoTaitei 大帝こんばんわ~。この宗教要素を抜いた技法のみの普及で宗教を破壊する気満々ですね。神智学が上座部仏教に取り憑いて破壊しようとしてるかも?

菊池 ‏@kikuchi_8 9月
横文字デモにはヒッピー文化信奉者やロッカーくずれなどが多いようだが、対抗文化人脈だったら当然と言える。対抗文化とニューエイジは密接な関係にあるから周辺にオカルティストがいるのも不思議ではない。おそらく「サイケデリック革命の父」ことティモシー・リアリーの思想的影響が強いと思われる。

ティモシー・リアリーを調べると、ヒッピー・ニューエイジ・ロックンロール・ドラッグ文化がすべて相互に関係しているのがクリアに見えた。ジョン・レノン がティモシー・リアリーのために曲を作っている。サヨクの好きな「ラブ&ピース」はマルクス主義よりこの辺がネタ元である。西洋神秘主義
の流れ。

ティモシー・リアリーはスマイル・メッセージという妙な文章を残している。ニューエイジそのものの内容だが、「全ての生命体が故郷への帰還しなければなら ない」という事を言っている。一つの「始原」に収斂させようとする志向性は新プラトン主義以来の西洋神秘思想の系譜を引いている事がよく分かる。

ティモシー・リアリーの初のLSD投与で見た幻覚→「光だけでできた生命の中心で神と出会い、永遠の炎に包まれて完全な宇宙のドラマを眺める」プロティノスの神秘体験とそっくりだ。神秘体験≒幻覚。【自己啓発の歴史(2) サイケデリックの発見】http://www.tachibana-akira.com/2013/02/5560

(松窪 努 ‏@Federicopanini
@kikuchi_8 同じカウンターカルチャーになるんでしょうがカルロス・カスタネダの「ドン・ファン」シリーズでも同じことが書かれていますね。同じように、仏教の無量光の元の意味ではと推測するのですが…。

菊池 ‏@kikuchi_8 4 時間4 時間前
@Federicopanini なるほど、ご教示ありがとうございます。「神秘体験」というのは大体全世界共通していますね。「光が見えた」とか。具象的に見える幻覚は文化依存的だと思います。天使だとか悪魔とか、聖霊、菩薩、等々。。

松窪 努 ‏@Federicopanini 4 時間4 時間前
@kikuchi_8 具体的な幻覚は文化依存的というのはすごい的確で、ハッとしました。その意味では薬物に頼る人に止観が出来るものか半信半疑なのです。ドン・ファンは内的対話を止めろ。というのですが禅宗と全く同じですね。

菊池 ‏@kikuchi_8 4 時間4 時間前
@Federicopanini 恐縮ですm(_ _)m薬物によって幻覚を見たり、知覚を拡大させることは、本来の仏教の目指す所と真逆だと思います。感官と対象の接触から生じる感受に執着する所から「苦」が生じる、という観察ですので、知覚の拡大は逆に執着の念を強める結果になると思います。

松窪 努 ‏@Federicopanini 4 時間4 時間前
@kikuchi_8 その通りだと思います。私は雑念が多いのでとても止観の境地には入れないのですが、ましてやこれ(自分)に薬物を投入して果たして無量光が観れるのかと自分で思います。LSDで観たものと止観で観たものは別かもしれませんね。幻覚と想念を遮断した視覚です。

菊池 ‏@kikuchi_8 4 時間4 時間前
@Federicopanini リアリーらは「薬物で幻覚見た」只それだけの事ですからね。止観行で言う「観」=ヴィパッサナーの方を「マインドフルネス」と称し欧米の多国籍企業が幹部教育に取り入れているとか。彼ら何にでも憑依しますね。詳しく調べていないですが捻じ曲げている可能性大です。

松窪 努 ‏@Federicopanini 4 時間4 時間前
@kikuchi_8 ヴィパッサナー瞑想、マインドフルネス瞑想。調べてみました。面白いですね。(申し訳ありません、知らないというのもお恥ずかしい話しです)私は原始的な文字通り思考や想念を切り離した視覚(直接知覚)という意味で使いました。仏教でも変質しているようです。

菊池 ‏@kikuchi_8 4 時間4 時間前
@Federicopanini はい、当然ながら薬物投与で見た幻覚と通常の知覚は異なると思います。幻覚はサイケデリックという模様に表現されていますね。とんでもないです、私も詳しくは知らないのですが、知覚されたありのままを観察する行のようです。天台宗で止観行を重んじるようです。

松窪 努 ‏@Federicopanini 3 時間3 時間前
@kikuchi_8 ドン・ファンは捏造の人物説もあるのですが、観ることには力が必要でそれには「無駄な消耗をさけて力をできるだけ貯めること。」だそうで、瞑想術ではないようですね。力があれば観れるようになるもののようです。

菊池 ‏@kikuchi_8 3 時間3 時間前
@Federicopanini なるほど。知覚には認識対象だけではなく人間の脳や感官も関わっているので、人間という認識主体の側の力のよってある程度知覚を操作できる技術がある、というのは分かる気がします。

松窪 努 ‏@Federicopanini 3 時間3 時間前
@kikuchi_8 私たち現代人は日夜煩悶することが多く禅病人のようです。そこに瞑想法や薬物はミスリードのような気がします。「真実へは技術ではなく力で到達する。」のが実は近道なのかもしれませんね。カウンターの仕掛人は隠してるのかもしれません。

菊池 ‏@kikuchi_8 3 時間3 時間前
@Federicopanini なるほど。江戸時代の白隠禅師が若い時に禅病にかかって死にかけた事があるそうです。神経衰弱のような症状だったようでまさに現代人の病と同じ種類かも知れません。明治の「煩悶青年」というのも近代病患者だと思います。分別し過ぎると病気になりますからね。>力

松窪 努 ‏@Federicopanini 3 時間3 時間前
@kikuchi_8 たぶん近代化とともに脳の使い方をどこかで間違えたんだと思います。言語が大変影響していると思います。言語以前へ戻す。たぶん消耗を減らす方法のひとつだろうとおもいます。禅には禅病を治す瞑想法があって馬鹿馬鹿しい話です(笑)

菊池 ‏@kikuchi_8 3 時間3 時間前
@Federicopanini 白幽仙人という仙人から白隠禅師が禅病を治す技術を習った、みたいな伝説がありますね。仙人というからには道教の技法のように思います。言語は世界を分節化して、分節化されて認識に現れた「事物」に執着させる働きがありますからね。おっしゃる通りだと思います。

松窪 努 ‏@Federicopanini 3 時間3 時間前
@kikuchi_8 日本の禅宗の座禅もティモシー・リアリーという人の薬物による瞑想もなんだか似た構造のような気がします。止観はそもそも認識しない知覚を目指すのに禅宗もリアリーも認識の領域や解釈に明け暮れている

菊池 ‏@kikuchi_8 3 時間3 時間前
@Federicopanini なるほど。禅宗は「無念無想」の境地を目指すそうなので、基本的にそういう幻覚の類は「魔境」として排斥すると思います。臨済系と曹洞系でまた違うのかもしれません。「想=イメージ」を立てて瞑想する点では密教と西洋の瞑想法が類似点多いと聞きました。

松窪 努 ‏@Federicopanini 2 時間2 時間前
@kikuchi_8 密教は脳内認識構造を変化させて人を苦しみから救う部分があって対処療法ですね。そのためにイメージを沢山使います。西欧も似ているのでしょう。またそのイメージを利用する中で西欧ではオカルトが産まれ東洋にはオカルトは根付き難かった。というところでしょうか?

菊池 ‏@kikuchi_8 2 時間2 時間前
@Federicopanini なるほど。曼荼羅とかの図像イメージを積極的に使うのはその為なのですね。西洋のオカルト魔術は自然界や他人に意志を強制して思い通りにする事が目的なのに対し、東洋のそういった技法は基本的に心や人格を磨く事が目的の場合が多いようです。

松窪 努 ‏@Federicopanini 2 時間2 時間前
@kikuchi_8 たぶん原始仏教や初期の止観の目指す根本療法が認識されていたために方便にすぎないイメージ操作は一段低いと東洋では考えていたのでしょう。呪詛が現実に効果があることも知っていたのですが高い部分では夢中になることはなかった。のではないかと

菊池 ‏@kikuchi_8 2 時間2 時間前
@Federicopanini なるほど。仏教では基本的に「想=表象作用」と「受=感受作用」「識=(主に言語による)識別作用」を迷いの根本にしているから、イメージ=想を使った技法を副次的なものにとどめたのでしょうね。魔術的なものもしかりですね。

竹田義男 ‏@take35c 16 時間16 時間前
@kikuchi_8 テモシー・リアリー→オルダス・ハクスリー→フェビアン協会。優生思想http://blog.goo.ne.jp/happysupport/e/95d46b8283da71c32b5d72a775e08c63 … wiki↓
pic.twitter.com/JyNKo2Zwop

菊池 ‏@kikuchi_8 5 時間5 時間前
@take35c 情報を感謝です。オルダス・ハクスリーはティモシー・リアリーに大きな影響を与えたようですね。マルクス主義ではなくフェビアン主義系の社会主義ならば神秘主義に近いですね。リアリーは「進化した選ばれた人間だけが宇宙に進出できる」みたいな優生学的な思想を唱えていますね。)

オルダス・ハクスリーやティモシー・リアリーがフェビアン協会系ならその影響下にあるカウンター・カルチャーはフェビアン協会系の思想運動という事にな る。神智学協会二代目会長のアニー・ベサントもフェビアン主義者。オカルト含むカウンター・カルチャー系の左翼運動=フェビアン主義系の左翼運動。

西洋神秘主義の傾向性は一言で言うと「異常体験志向」であろう。平常からかけ離れた意識状態に固執する。ティモシー・リアリーはLSDを導入するに至っ た。これを視覚化したものが所謂「サイケデリック」。CIAがMKウルトラ計画でLSDを使用。薬物中毒者を量産するだけの洗脳科学に過ぎない

西洋思想史の基本的構図は「キリスト教会VS秘教勢力」だが、近代になり科学合理主義が台頭する中でキリスト教会の力が相対的に低下。「秘教」という前近 代的なオカルトも危機に直面するが、近代社会の中で逆に科学的装いを取り入れて生き残る。これが神智学→ニューエイジという近代オカルトの流れ。

対抗文化は最近調べただけ。が、世界が関係性の網で成り立っている以上、全く孤立した現象というのはあり得ず、必ず原因や条件、起源や由来、履歴がある。 それを注意深く手繰り寄せる事で現象が解明される。当たり前の話だが常にその事を意識していれば新規の事象に面食らう事も少なくなる筈と考える。

ニューエイジが胡散臭いのは「個の自由」を強調しながら、個別具体性を超えて「魂の故郷への帰還」の様に一つの根源的実体を立ててそこに収斂させようとす る所。「一者」との合一を目指す新プラトン主義と基本的に同じ構図。ニューエイジは「自由」の掛け声と共にワンワールドに誘導する思想である。


はい、ワンワールド誘導→ティモシー・リアリー「君たちの惑星の生命体はすべてひとつ
であり、そのすべてが故郷へ帰還しなくてはならない。完全な自由、責 任と種を超越した調和が、故郷への帰還を可能にするだろう。種族や文化、国籍によっている幼生的アイデンティティーは超越しなくてはならない。」

一つの根源に収斂させる新プラトン主義的世界観、神智学の霊性進化論、優生学的思想、千年王国的ユートピア論、宇宙人、等々ニューエイジの諸要素が詰め込まれたティモシー・リアリーの文章。【謎のSMI2LE(スマイル)メッセージ全文】http://www.asyura2.com/2002/bd20/msg/635.html

キリスト教という「抑圧」→ニューエイジによる「自由」の高唱→「一つ」に収斂するNWO。おなじみ「正・反・合」の弁証法的展開である。ニューエイジな どが「対抗文化」と言われるのは「キリスト教文化への対抗文化」を意味する。つまり最初から耶蘇と両建対立する事が予定された思想潮流という事。

西洋文化の根本がキリスト教なので。キリスト教から離れた「西洋」は基本的にないと思われる。教会と対立する秘教ですらキリスト教の範疇。ニューエイジは世俗化されたキリスト教神秘主義
、と言えるかもしれない。https://twitter.com/klSV7pulcS0nNux/status/642373119974371329 …

ほつま(Hotsuma) ‏@hotsuma 2012年12月30日
大田俊寛先生 @t_ota "オウム事件の反省を明確にしないまま、「ニューエイジ思想」や「スピリチュアリズム」といったものを肯定的に語り、それを社会に広めていくことが宗教学の役割なのだと言っている研究者さえ少なくありません。" B! http://synodos.livedoor.biz/archives/1929261.html …

中尾 綾 ‏@ayajet128 6月21日
T. リアリーの友人にオルダス・ハクスリー、ジョン・レノンがいる。彼はGive Peace A Chance の歌詞にでてくる。ワンワールドのための反戦ソングかな?イマジンも。本当のプロテストソングになってないんじゃないの? https://twitter.com/lakudagoya/status/612586866785693696 …
帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月23日
まーなんかな、ティモシー・リアリーの間接的な繋がりネタ、陰謀コミュでは勘違いされるけど、ぶっちゃけ、ネットで知り合った外人のサークル仲間にリアリーがいただけ。直接的な面識はない。その当時はまさかこいつが陰謀人脈とか想像できなかったぞ?(笑)

竹田義男 ‏@take35c 6月22日
@ayajet128 オルダス・ハクスリー→https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%80%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC … 「水瓶座の陰謀」の中心人物達をつかまえて、何を仰ってますやら。

竹田義男 ‏@take35c 6月22日
@ayajet128 究極の革命の項を… 20%の暗示にかかり易い人と、その反対の20%の暗示にかかり難い人と、程々に暗示にかかる大勢の人達、という事で社会のコントロールを考えていたり、幻覚剤の多幸感が民衆のコントロールに役立つのでは、という様な事を言っていたり、危ない人。

風の子  ‏@makeanovel 6月23日
今見えてきたNWOの人口や人民の管理を、この時代にすでに書いてますもんね。広報だったということですかね。試験管で生まれるのが普通の社会で、間違って母親の胎内から生まれてしまったのは恥ずかしいという認識の未来を描いてるとか。。  @take35c @onigiri3_

先ほどK・ディックとコナンドイルについて書きましたが、ハクスリーも神秘主義研究に傾倒して、精神科医にハクスリー自らが幻覚剤のモルモットとなることを申し出、1953年春、幻覚剤のメスカリンによる実験が開始されたとありますね。。  @take35c @onigiri3_

竹田義男 ‏@take35c 6月23日
@ayajet128 @makeanovel @onigiri3_ イエズス会やメロン家との関わりに注意→テモシー・リアリーhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%A2%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC …

風の子  ‏@makeanovel 6月23日
「ニューロマンサー」のウィリアム・ギブスンを、サイバーパンク作家に転向させたのが、 このティモシー・リアリー氏なんですね。麻薬の幻覚による可能性を訴え続け投獄もされ、晩年はコンピュータの可能性。で、ギブスンか。  @take35c @ayajet128 @onigiri3_

個人的には「素晴らしい新世界」のハクスリーがオーウェルのイートン校での恩師のみならず、このティモシー・リリーという人を通じてウィリアム・ギブスンにまで繋がってることが驚きです。なんかみんな身内~みたいな?  @take35c @ayajet128 @onigiri3_

中尾 綾 ‏@ayajet128 6月23日
@take35c @makeanovel @onigiri3_ アレン・ギンスバーグはポール・マッカートニーとコラボしてるし。もうなくなったけど。オノ・ヨーコもドラッグ肯定派だし。親戚が国連大使だったから。ラブ&ピースはビジネス。愛よりビジネスが大事とインタビューで言ってたし。

風の子  ‏@makeanovel 6月23日
ティモシー・リアリーが麻薬所持で最高裁で有罪判決がでたとき、ジョン・レノンが応援ソングとか作って、ここも繋がってるんですねえ。なんだかもうお腹いっぱい・・・。  @ayajet128 @take35c @onigiri3_

表舞台にいる人はみんな誰か同じ存在の管轄するナニカに所属する同じチームっていうのもよくわかった感じですね。みんなほのめかし要員。。  RT @onigiri3_ @ayajet128 @take35c どんだけはりめぐらされた壮大な仕掛けなんだっていう。。。

かあこ ‏@0nigiri_3_ 6月23日
@ayajet128 @take35c @makeanovel ヨーコの母方の曾祖父が旧安田財閥(現芙蓉グループ)なんですね。http://www.fuyou-fc.jp/about/index04.html …

風の子  ‏@makeanovel 6月23日
ちょっと前までオノ・ヨーコが財閥のお嬢様だっていうのも知らなかったですよ。わたし・・・。しかし世の中そんなのばっかで自分が世間知らずだったとも思うけど、隠してる(というか特に言わないことがそうなってる)のもなーと。 @onigiri3_ @ayajet128 @take35c

かあこ ‏@0nigiri_3_ 6月23日
@makeanovel @ayajet128 @take35c だから、ねこたさんがtwしてるような世の中では絶対的な秘密のようなネットワークで強くむすばれてるって話も納得できますよね。

風の子  ‏@makeanovel 6月23日
ほんとですね。結社の儀式とか、嘘くさいし大げさなって庶民は思ったりしてますけど、命がけの結束で守ってきたかった、莫大な利権とかがあったんですよ。庶民がそういうの笑ってる影であちら側の人はそれを秘密に死守してきた。 @onigiri3_ @ayajet128 @take35c

風の子  ‏@makeanovel 6月23日
誰かの出自を調べるのは下品ってことになったり、僻みだととられる風潮を作って、特権階級だけが利権を独占してきたのを意図して隠蔽してきたんですねえ。 @onigiri3_ @ayajet128 @take35c

かあこ ‏@0nigiri_3_ 6月23日
@makeanovel @ayajet128 @take35c そうそう。またそれを逆手にとって差別されてるから虐げられてる詐欺みたいな手法もありますもんね。

中尾 綾 ‏@ayajet128 6月23日
@makeanovel @take35c @onigiri3_ ハクスリーの短編小説に神童というのがあって。天才が現れても親がその素質に気づかなければ子供は不幸になる、という考えがあるみたい。だから天才は天才によって見いだされ、育てるべきという考えのようです。

風の子  ‏@makeanovel 6月23日
ハクスリー自身、名門の生まれで特権階級ですが、そういう特権意識や優生学を否定しないし、むしろそれが正しいっていう考え方、さらにそれを広報する役目を負っていた人っていう感じですねえ。  @ayajet128 @take35c @onigiri3_

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月21日
ああ「覚醒」ね、1970年代のアメリカ西海岸とかのニューエイジャーがLSDとか飲んでトリップしてたアレか?ティモシー・リアリーの本みたいなやつ?覚醒したら陰謀論なんていらないなら陰謀論やらければいいんでね?覚醒したやつの書いた本なんて、俺シャブ中の日記にしか見えんのだが?www

寺尾淳 ‏@junterao 6月19日
反省。ちゃんと系統立てて並べないといけませんね。オルダス・ハックスレー「知覚の扉」→ドアーズ→ティモシー・リアリーの「意識革命」→LSD→サイケデリック・アート→コミューン(ヒッピー・ムーブメント)。ウィリアム・バロウズやアンリ・ミショーなどは別立てで「独自の闘い」。

中尾 綾 ‏@ayajet128 1月7日
@kikuchi_8 ティモシー・リアリーは亡命を求めてスイスに渡ったとき、サンド社の研究員で1943年にLSDを発見したアルベルト・ホフマンと出会う。コールマンの本ではリアリーとオルダス・ハクスリーが友人とか?アドルノは父がユダヤ系だがプロテスタントの洗礼。息子にはカトリック。

菊池 ‏@kikuchi_8 1月7日
@ayajet128 アドルノは父親がプロテスタントに改宗した猶太人で、母親がカトリックだそうです。

裕福な家柄のようです。学生時代から音楽評論を手掛けたりなど、英才教育を受けるだけの家柄的な基盤がありそうですね。啓蒙主義にひそむ暴力性を批判しながら、自らは洗脳科学の研究に取り組むなど、言動に矛盾があって、ものすごく「国際秘密力的」な人物像を感じます


菊池 ‏@kikuchi_8 1月7日
@ayajet128 サンド社とティモシー・リアリーの繋がりですね。リアリーとオルダス・ハクスリーが協力関係であったことがダニエル・エスチューリンの本にも載っていました。ハクスリーは民衆が思考能力を奪われて定期的に投与される薬物で奴隷状態にされる「新世界秩序」を描いていますね

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月13日
俺、魔道師マニアだからさ、スピ雑誌の「Star People」の刊行本リスト見てその中に西洋秘教伝統の翻訳本が紛れ込んでないか探してりゅ。うーん、何でこんなにも中身のないスピ本が溢れてるんでしょーね?超森林資源の無駄遣いだよね?地球に優しいとか言ってるスピ、全然優しくないだろ!

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月13日
この「ピュア禅」とかさ、見てくれよ?神智学(スピ)が禅に取り憑いた好例のようなもんだろ?http://www.amazon.co.jp/%E3%83%94%E3%83%A5%E3%82%A2%E7%A6%85%E2%80%95%E6%82%9F%E3%82%8A%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%82%88%E3%81%8F%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%A6%85%E5%83%A7%E5%88%97%E4%BC%9D-%E8%A6%9A%E9%86%92%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E7%8C%AA%E5%B4%8E-%E7%9B%B4%E9%81%93/dp/4864510830?ie=UTF8&redirect=true …禅って神秘体験を否定してるのに、スピっちゃったらいけないだろ?wwwスピ系ってまるで創価学会みたいにあらゆる宗教に入りこんで操ってるよな

およ?「Star People」の刊行本リスト読んでたら、この著者の人http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E2%80%95%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AE%E8%A8%98%E6%86%B6%E3%81%AE%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8%E3%81%AB%E8%A1%8C%E3%81%8F%E6%96%B9%E6%B3%95%E2%80%95-%E3%81%AF%E3%82%8B%E3%81%B2%E3%81%AA%E3%81%9F/dp/4864510121?ie=UTF8&redirect=true …龍馬伝でタロット指導やったとか書いてあったお。ふーんマスゴミ業界の悪の魔道師の痕跡発見だな!いやーアチラ側の動向がわかって面白いですね~(笑)

この「Star People」という雑誌さ、古神道やらの神道カルトも食い込んでるよ?大本教が如何にスピリチュアルの輸入商社だったか、その背後がさくっとわかるよ?(笑)http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AB%E2%80%95%E6%99%82%E7%A9%BA%E3%81%AE%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%81%BF%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%97%E3%80%81%E5%AE%87%E5%AE%99%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%82%92%E3%81%B2%E3%82%89%E3%81%8F%E6%82%9F%E3%82%8A%E7%B3%BB%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3-Vol-46-StarPeople-2013-Autumn/dp/4864510903?ie=UTF8&redirect=true …


フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 6月13日
@lakudagoya あの雑誌はどちらかというと アメリカの最新スピ団体の カタログ本みたいなもんで、 次に日本に何が輸入されるか予想 するために使ってますw スピ業界の競馬予想雑誌みたいな 位置づけですw

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 6月13日
@lakudagoya ちなみに「今現在、日本で何が 流行ってるか?」を調べるためには Anemoneという雑誌を使いますw

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月13日
@FeydoTaitei どうも大帝。スピ業界の競馬予想雑誌ですか(笑)たしかにスピ系のカタログ本って感じですよね。自分的にはスピよりもカバラーとか西洋秘教伝統本がもっと増えて欲しいです!

 ぴりお堂 ‏@1108v1011v1110 2012年10月29日
パンとサーカス(羅: panem et circenses)は、詩人ユウェナリスが古代ローマ社会の世相を揶揄して詩篇中で使用した表現。権力者から無償で与えられる「パン=食糧」と「サーカス=娯楽」によってローマ市民が政治的盲目に置かれていることを指摘した。ガス抜きや愚民政策の例え

仏女・仏教をたたえる天才・偉人bot ‏@genius_200 10月30日
ゴータマ・ブッダは、神秘主義者ではまったくなく、透徹した合理主義者であった。 (宮元啓一) 仏教は神秘的ではないんだ。

仏女・仏教をたたえる天才・偉人bot ‏@genius_200 3 時間3 時間前
自分は昔からこれまで、このような素晴らしい教えを聞いたことがなかった。 (仏教を日本に受け入れた 欽明天皇) (われ昔よりこのかた未だかつてかくの如き微妙(くわ)しき法を聞くことをえず) それから1500年間日本は仏教国!

STB ‏@RC_StB 6月24日
日本会議が如何に低能か 薩摩長州の芋侍が出てきて、廃仏毀釈をやらかし、そいつらの生き残りが「日本は保守の国」と嘘を付き続けている して、これを見よ
「天皇、仏法を信じ、神道を尊ぶ」(用命紀)
「仏法を尊び、神道を軽んず」(孝徳紀)
大日本帝国は日本史上稀な伝統破壊者
だぞ(笑)

とう tou 透 ‏@tou_itter 2013年10月17日
神道メモ: 日本書紀より、「天皇、仏法を信じ、神道を尊ぶ」

これは用命天皇(在位585~587)の条で、仏教が伝来して後、仏教(仏法)と区別して古来の信仰を神道と呼ぶようになったと考えられる。

菊池 ‏@kikuchi_8 10月21日
仏教は「無常」を説くが「世界全体は常住か無常か」という命題には「無記」の態度を取った。では仏教は何について無常を説いたのか?五感と思考で捉える経験世界(眼耳鼻舌身意・色声香味触法=十二処)について無常と説いたのである。断定は飽く迄経験的に確かめうる範囲に限定する徹底した経験主義

ohira taishi ‏@kalitandava 11月5日
@kikuchi_8 @siegrinde それはゴータマはそこまでしかまだ意識がなかったからだ。

菊池 ‏@kikuchi_8 11月5日
@kalitandava それ自体形而上学に踏み込んでおり、特に根拠がない話です。「意識が拡張すれば高次の世界が見える」と神秘主義者は言いますが、その「高次の世界」が幻覚でないという保証はないわけです。

@kalitandava また「高次の世界」が見えると自称する人が通常人より、道徳的で立派かというとそうとは限りません。むしろ傲慢で他人を見下し、排他独善的態度を取る事も多いと思います(ひどいのになると救世主を気取ったりもする)。

菊池 ‏@kikuchi_8
仏陀が無記の態度を示したのはツイッターに巣食うカルト工作員を見れば明らかと思う。つまり、根拠提示も証明作業も無い独善的カルト教義をまき散らし、憎 しみを増長して無益な争いに終始する「修羅道」に堕ちたカルト工作員の姿。思想の自由が謳歌されていた古代印度も似たような状況だったのだろう

@aoyamaakiko3 其々が個別であることと、「空」である点で同じである事が同時に成り立ちます。つまり、現象的には個別ですが、原理的には同じ。だから敢えて「一つにする」必要は全く無い、諸法皆空なのだから、となります。個別性と同一性が同時に成り立ちます。華厳で言う「事事無礙」

@aoyamaakiko3 一方、NWO思想は「それぞれが実体として独存している」という前提があるからこそ、「一つにしよう」という衝動が生まれてくるんだと思います。でも華厳哲学の考えによれば「個別はそのままで空=理事無礙」となるので「一つにしよう」という衝動は生まれません

菊池 ‏@kikuchi_8
神智学協会二代目会長アニー・ベサントがフェビアン主義者だったようにフェビアン主義と神智学やオカルトは近い関係にある。フェビアン主義とはソ連型共産主義とは系統が違う英国フェビアン協会の社会主義思想の事。それにしてもここまでものの見事だとは。オキュパイウォールストリートも彼らが背後。

トロツキー主義的共産革命に挫折した新左翼の中から超古代史やオカルトに傾倒する流れが出て、一部は大本教に合流した。この辺のオカルト左翼人脈はごく少 数の勢力だろうが、国際秘密力がアニー・ベサントのようなフェビアン主義的オカルト勢力を育成しようとする場合その界隈に着目する可能性はある。

FREEDOMMUNEの概念=意識の拡張、らしい。音楽やレーザー(ピラミッド)を駆使した「イニシエーション」で、変性意識状態に誘導するという事だ ろうか。非日常的意識状態を到達目標とする点でプロティノス以来の神秘主義の「伝統」を引き継いでいる。思想的パターンは早々新造はできない。

神秘主義の特徴
①なんらかの非日常的な意識状態をもって到達目標とする
②そのためには自我なり魂と、何らかの究極に実在(「一者」「宇宙意識」)などとの 「合一」を強調する
③その意識状態に到達する為の何らかの儀式・イニシエーションが設定される(これは狭義の儀式に限らず音楽ライブ
等も含む)

ドミューンという団体主宰者がインタビューで述べるコンセプトを読んだが、神秘主義のパターンに全て当てはまっていると判断する。①意識の拡張を目指す② 集合意識や宇宙意識を設定③意識を拡張させ「自由意識」に到達する為のイニシエーションの設定。ポップなスタイルだが西洋神秘主義の伝統に忠実。

西洋の神秘主義の流れがサブカルチャーという装いでかなり浸透していると思われる。その証拠に本来は既存文化への「対抗文化」のはずが、「普通の人」の文 化扱いになっている。ここに日本独特の問題がある。つまり元々キリスト教社会ではない日本には西洋神秘主義が侵入しやすい。大本教や鞍馬寺が例。

日本の思想国防上の課題は現地の伝統に組み付いて換骨奪胎して侵入を図ってくる西洋神秘主義の基本的思想フレームを明確に把握し、日本の伝統思想との違い を明確に認識し、伝統思想やポップな文化の装いで入り込んでくる思想ウィルスを見抜いて摘出する事であろう。これは明治から一貫した課題である。

例として仏教と神秘主義の相違点を挙げる。仏教に置いては意識外に設定される究極実在と合一
する、という思想パターンではなく、あくまで現実の心を調整 し、貪欲や瞋恚などの強い負の情念を自制し取り除く、という事に重点が置かれる。縁起=無実体=空が基本であり、従って究極実在は設定されない。

伝統思想と神秘主義を見分ける際の一つの指標になるのが、この「実体」「究極の実在」を想定するか否か
という点。仏教に限らず日本の伝統的霊魂観では魂が 増減する=気の固まり、みたいな非実体的イメージで捉えられている。支那の現象主義=気一元論と相性がよい。禅=神秘主義とした鈴木大拙は誤り

日本の伝統思想とキリスト教の違いは一見明らかだが、神秘主義との違いは結構詰めて検証しないと見えにくい。だからキリスト教徒は人口の1%に満たないの に、神秘主義はかなり広範囲に影響している。もっともキリスト教・一神教と神秘主義は究極実在を設定する同根の思想。偽装を施して一神教も侵入。

「神秘主義はかなり広範囲に影響している」と書いたが具体例を挙げる。浄土真宗僧侶
藤無染が神智学の影響を受け折口信夫に影響、鈴木大拙が禅を神秘主義扱 いしスウェーデンボルグを紹介、同じくボルグに影響を受けた出口王仁三郎の教義がスピ界隈に広く浸透、歴史ある鞍馬寺が神智学に宗旨替え、等。

ポップカルチャーを装い浸透してくる神秘主義という視点は今まで希薄だったが、事情は前述のものと全く同じだと言える。表層に囚われず、思想的な基本的骨 組を抽出して分析すれば基本的パターンの組み合わせで成り立っているのが分かる。仏教が人間を「五蘊」に分解して分析した手法は結構有効である。

ドミューンは、視聴者参加型の音楽ライブや各種トークセッションという日常的「イニシエーション」(「イニシエーション」というのは主催者インタビューよ り)を通じ、「対抗文化」の信奉者を量産するシステム、と言った所だろうか。これはネット時代に合わせたかなり巧妙なシステムである。侮れない。

このような「イニシエーション」洗脳システムを作るとは結社側も工夫していると見える。今までこのようなシステムが存在すること自体を知らなかったのは実 に不覚だった。が、存在に気付けば三日程で仕組みが大体分かった(笑)装いは新しいが伝統的なメーソンシステムの大衆的アレンジ、と言えそうだ。

菊池 ‏@kikuchi_8
「意識が拡張すれば高次の世界が見える」と神秘主義者は言いますが、その「高次の世界」が幻覚でないという保証はないわけです。
また「高次の世界」が見えると自称する人が通常人より、道徳的で立派かというとそうとは限りません。むしろ傲慢で他人を見下し、排他独善的態度を取る事も多いと思います(ひどいのになると救世主を気取ったりもする)



小森健太朗 ‏@komorikentarou 2月27日
長谷川説、古代ギリシア語の「ロゴス」と、サンスクリット語の「ダルマ」が、かなり似通った意味になるというのは、私も自著でふれたことがある。しかし『ヨハネ福音書』冒頭の「ロゴス、神」が、「ダルマ」に等値されるというのは、間をよほど埋めないかぎりトンデモ説だよな。
(典型的なインド思想破壊工作。「ロゴス=言語や理性」が「ダルマ=言葉や理性で『ないものも含む』法」なわけないでしょ。ダルマが最上位、ロゴス=神が最上位、よって神=ゴッドが最上位って持っていきたいんでしょ。人格がある時点で根源でも最上位でもないよ


臨済録:その3 〔示衆〕10-6 岩波臨済録 p.96~97
http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/rinzairoku3.html
” 道流、出家児は且(しばら)く学道を要す。祇だ山僧の如きは、往日曽(か)って毘尼(びに)の中に向かいて心を留(と)め、亦た曽って経論を尋討(じんとう)す。

後、方に是れ済世の薬、表顕の説なることを知って、遂に乃ち一時に抛却して、即ち道を訪い禅に参ず。後、大善知識に遇いて、方乃(はじめ)て道眼分明にして、始めて天下の老和尚を識得して其の邪正を知る

是れ娘生下(じょうしょうげ)にして便ち会するにあらず、還って是れ体究練磨して、一朝に自ら省(しょう)す

道流、汝如法(にょほう)に見解せんと欲得(ほっ)すれば、但だ人惑を受くること莫れ。裏に向かい外に向って、逢著(ほうじゃく)すれば便ち殺せ。仏に逢(お)うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん)に逢うては親眷(しんけん)を殺して、始めて解脱を得、物と拘わらず、透脱自在なり

注:

毘尼(びに):梵語ヴィナヤ(毘奈耶)の略で、戒律のこと。

大善知識:臨済の師黄檗希運を指す。
   
現代語訳
お前達、出家はともかく修行が肝要だ。わしの場合、最初の内は戒律の研究をしたり、経典を色々読み漁ったものだよ。しかし、そのようなことは世間の病を治す薬や広告の文句のようなものだと分かった。そこで、全てを投げ打って、禅の道に参じたのだ。
後で、大善知識(黄檗希運禅師)に遇って、始めて悟りの眼がはっきり開き、天下の老和尚どもの悟りが本物かどうかを判別できるようになった。この能力は生まれつき会得したものではない。体究練磨を重ねた結果、ある時はっと悟って目覚めたのだ。

お前達、真正の見地を得ようと思ったら、他人に惑わされては駄目だ。

内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢えば羅漢を殺し、父母に逢えば父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺せ。

そうして始めて解脱することができ、何者にも束縛されず、突き抜けたように自由に生きることできる
のだ。

コメント
この示衆の冒頭で臨済は

「禅では修行が肝要だ」と「修行の重要性」を説いている。

その後、自身の求道の旅を語っているのが注目される。

彼は最初戒律や経典などを色々研究した。しかし、そのようなことは世間の病を治す薬や広告の文句のようなものだと自分の誤りに気付いた。そこで、彼は全てを投げ打って、禅の道に入ったのである。
そこで大善知識である黄檗希運禅師に遇って、始めて悟りの眼がはっきり開き、天下の老和尚どもの悟りが本物かどうかを判別できるようになる。この能力は生まれつき会得したものではない。刻苦修行した結果、ある時はっと悟って目覚めたのだと半生を回顧している。

示衆の後半部で臨済が言う

「仏に逢(お)うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん)に逢うては親眷(しんけん)を殺して、始めて解脱を得」

と言う言葉が特に有名である。

臨済が「お前達、真正の見地を得ようと思ったら、他人に惑わされては駄目だ」と言うように他人に惑わされないためには、祖仏、父母、親眷などあらゆる権威を否定し(殺し)無依独立の道を行かねばならない

そうして始めて解脱することができ、何者にも束縛されず、突き抜けたように自由に生きることできる。

このように空、無相の自己に帰依することが<真正の見地>だと言っている。

これは仏教の教祖ゴータマ・ブッダが説いた<自帰依>の精神に近いと言えるかも知れない(原始仏教を参照)。

キリスト教やイスラム教などの一神教は神への絶対帰依を説く。一般的にほとんどの宗教では教祖や神を絶対的存在として帰依崇拝する。

教祖や神を批判したり、自分と同じレベルで論ずることはゆるされない。

たとえばイスラム教において開祖ムハンマドを批判したりすると死刑宣言が出ることからも分かる。ところが禅では臨済以来そのような束縛を脱している。

ゴータマブッダ以来の伝統を引き継ぐ反骨と人間主体の精神を持つ自由な宗教であることが分かる(原始
仏教を参照)。

これと似た思想は雲門宗の開祖雲門文偃にもあったようだ。「碧巌録」16則の評唱には次ぎのようなことが述べられている。

雪竇云く「釈迦老子、初め生まれ来たりて、一手は天を指し、一手は地を指して、四方を見回して云く『天上天下唯我独尊』と。雲門云く、「我当時もし会わば、一棒に打殺(うちのめ)し、狗子(いぬ)に与えて喫却(くらわ)しめ、貴(ひとえ)に天下の大平を要(もと)めん」と。

雲門は仏教の開祖釈迦に会ったら「一棒のもとに打殺(うちのめ)し、狗子(いぬ)に与えて喫却(くらわ)しめ、貴(ひとえ)に天下の大平を要(もと)めん」と宗教者とは思えない過激な言葉を吐いているのである。

仏教では祖仏は神に相当する神格的存在である。それを否定することは他の宗教ではありえない。

その意味で、このような権威否定の自由な批判精神は宗教においては珍しい
。眼を見張るほど新鮮である。

科学者は真理発見の過程において権威を否定しそれを乗越えることはしばしばある。そのような創造的精神に通じると言えるだろう。

これは仏教の教祖ゴータマ・ブッダが説いた<自帰依>の精神の禅的表現と言えかも知れない。

この有名な言葉は示衆5-1に見える

仏に逢(お)うては仏に説き、祖に逢うては祖に説き、羅漢に逢うては羅漢に説き、餓鬼に逢うては餓鬼に説く」

という言葉の否定形
になっている。

示衆5-1に見えるこの言葉は臨済の何物にも縛られない自由な<悟りの境地>を表わしている。

そのような<悟りの境地>をも否定し、更にのり超えることを言っているとも取れる。

このように、禅には一般宗教の常識を突き抜けたところが見られる。 ”

Aurora Del Monte ‏@MonteAurora 10月6日
逢佛殺佛。逢祖殺祖。逢羅漢殺羅漢。逢父母殺父母。逢親眷殺親眷。始得解脱。 仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷を殺せ。始めて解脱を得ん。 (『臨済録』示衆)

吉田直樹 naoki yoshida ‏@tensinkai 10月26日
「仏に逢うては仏を殺せ」(臨済) 禅宗の教えです。 仏は利用してもいいが、仏にすがらず、自分の力を使いなさい。 「仏だと言って出てきたら、ソイツは偽者だから消しなさい。頼るべきものを自分以外に持つな」という意味です。 セルフ整体というのも、同じ意味です。丈夫になる最短経路ですね。

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 5月9日
創造神プタハは言葉と思惟により世界を創造した。ヌッポンの売国奴精神を注入されたなんちゃって哲人政治教育を受けたエリートはによって創造された腐った世界に住まわせられる俺ら。そうだ、バラモン教の聖仙(リシ)が言うように、この世界は神の観念でできてるマーヤーなセカイなんだな。

(マンダ教のプタヒルの元ネタかも


他の教義の無我 誤った見解である無我の考え方
http://space.geocities.jp/tammashart/kami/muga-3.html

本居宣長のキリスト教と親和性が高い思想を改悪した
平田篤胤の神道=和風キリスト教。
神道=和風に偽装する隠れキリシタンが名乗る宗教


ふぎさやか ‏@maomaoshitai
平田篤胤はアダムとイヴの神話は、日本のイザナミとイザナギの神話が西洋に伝わったものだと考えていました。どんだけ日本中心なんですかあの人。

平田篤胤は色々な地域によく見ると似たタイプの神話や伝説があることには気がついていたのですけど「どれも日本の神話が海外に間違って伝わったものなのだろう」と解釈しています。日本中心主義が前提なんですこの人。

本居宣長も平田篤胤も宗教の話になるといきなり本性が出ます。「日本中心に物事を考えすぎではないか、中国やインドにも神話はある」というような反論は当時からもうあるのですけどね。それに対して「各国の神話は雑多で間違いがあるが、日本の神話は正しい」の一点張り
になります。

南北朝時代に北畠親房という人がいたのですけどね。彼が書いた『神皇正統記』という著作は、前書きで「中国やインドの伝説では最初の国王は人望のある人間が民から選ばれているけど、それに対して日本の皇室は神により選ばれて今でも続いている、偉大だね」と自画自賛しています。

『神皇正統記』はあくまで各国の神話を比較し、日本の特徴を明らかにした程度なのですけどね。後代の本居宣長や平田篤胤になってくると、更に一歩進み「中国やインドの神話は間違いで、真実は日本の神話なんだよ」という領域に到達します #正に国学
平田篤胤は本当に酷く、中国やインドの神話やキリスト教などは「日本神話の訛り(日本神話の一部が誤って伝わったもの)」と解釈します。世界各国に似た内容の神話がある秘密は、全て日本から派生した同根の神話だからというわけです。ここが彼の学者としての限界であったとしか言いようがありません。

平田篤胤は「世界の神話が日本起源である以上は、もちろん文字なども日本は中国から学んだわけではなく、元から日本独自の文字があったはずだ」と考えるのですけどね。その中で「神代文字」という怪しげなものに行き着きます(当時は国学者の間で既にはやっており、篤胤が考えたわけではありません)


国学者の一部は当初から「日本中心に物事を考え過ぎでは」という批判があったのですけどね。本居宣長などは「日本人なんだから、日本中心に物事を考えるのは当然。そもそも日本はこれほど素晴らしい国で・・・」と2chとかでいそうな反論をしています。

そもそも平田篤胤は最初からちょっとおかしい人でしてね。本居宣長の息子に「私は夢で本居宣長に会い、弟子にしてもらいました」という怪文書を送っています。彼は本居宣長から実際に学んだことは一度もありません、ただ彼の生前の著作を取り寄せて読み込んでいただけです。

じゃあ私も夢の中で平田篤胤の弟子にしてもらったので、平田篤胤の直弟子を名乗りますよ!

宗教家や武術家の世界では時たま「霊夢」の話があります。夢で××の弟子にしてもらった、秘術を学んだと言い出して正統性を主張するやり口です。日本の宗教家でも夢で聖徳太子や熊野権現に会ったとかいう伝説を持つ人がいますよね。これもその教祖の正統性を演出しようとしたものでしょう。

平田篤胤の弟子という肩書で右翼のフィクサーになりたいです。

本居春庭(本居宣長の息子)も、生前に父と全く交友がなかった謎の男から「私は夢の中であなたの父親の弟子にしてもらいました」などという怪文書が送られて来たら怖かっただろうなとは思います。平田篤胤は現代で言えば妄想をこじらせた熱狂的なファンみたいなものです。

孔子も「最近は夢の中で古代の聖人と語り合うことが減った」とか言っていますけどね。あれは夢で古代の聖人と交信していたという神秘現象ではなく、強く焦がれている人が夢に出てくるという普通の話
だと思っています。孔子もあまり深くそれについて掘り下げていませんし。

fukuebisu ‏@fukuebisu_tao 1月16日
『道教と日本思想』福永光司著‥Ⅲ 天皇と真人 p122最後に先ほど「天皇と真人」の日本古代史における問題を裏付ける第1点の中で保留しました、中国古代神道について少し説明を補いたいと思います。神道というと何か日本の専売特許のように考えられている方が多いと思いますが、それは認識不足
→ 最後に、先ほど「天皇と真人」の日本古代史における問題を裏付ける第1点の中で保留しました、中国古代神道について少し説明を補いたいと思います。神道というと、何か日本の専売特許のように考えられている方が多いと思いますが、それは認識不足です。→
→ 神道を日本の専売特許のように強調したのは、江戸末期の平田篤胤です。
→篤胤という人は、中国古代の神道について実によく研究している。その目的は先に申しました記紀の神代の巻における日本の神道をもっと深く学問的に研究したいということでスタートしたものだと思います。→
→ところが、8世紀の段階で、文字化された記紀の内容を文字を媒介にして学問的に研究しようということになれば、どうしても中国のもとのものを学ばなければ研究にならないわけです。→
→ その点、さすが篤胤は、実に勢力的な勉強をして、長崎に船が着くと中国の神道に関する書物(主として緯書類)を高い金で買って、その喜びを自著の中に書き記している。例えば各種の緯書を輯(あつ)めて校定した明の学者孫瑴の『古微書』を手に入れ→
→(*篤胤が明の学者孫瑴の『古微書』を手に入れ)たときの喜びを記しているのがそれですし、また緯書の『春秋命暦序』などに詳しい注釈も書いている。彼の主著の一つである『古史徴』などを見ましてもその努力がよくうかがわれます。→
→ しかし、篤胤の神道についての結論は逆立ちしている。日本の神道が中国に行ったというのが彼の結論なんです。→
→ もともと日本の古代で、神道という言葉が初めて使われているのは、『日本書紀』の用明紀と孝徳紀です。用明紀には「天皇、仏法を信じて神道をも尊ぶ、」とあり、孝徳紀には「天皇、仏法を信じて神道を軽んず」とあります。→
→ 一方は「神道を重んず」で、一方は「軽んず」と逆になっていますが、いずれにしても日本で神道という言葉が使われ始めるのは、『日本書紀』あたりからだろうと思います。西暦8世紀の前半頃ですね。→
→ ところが中国の古代では神道という言葉は、西暦4世紀ないし3世紀頃から使われているわけです。それは『易経』の観の卦の彖伝(かのたんでん)に「天の神道に見て四時忒(たが)わず、聖人は神道を以って教えを設けて天下服す」
という文章として出ております。→
→ 『易経』の中ですから基本的には儒教の考え方ですが、宗教的な色彩が全くないわけではありません。 と言いますのは、儒教もまた、すでに申しましたように、天皇大帝と同格とされる昊天上帝の祭りを礼典のなかに載せているのですから。→
→ また今引いた『易経』の文章の「神道」にしても、すぐその上に「盥(てあら)いて薦(すす)めず」とあり、神を祭る者の敬虔な気持ちと関連づけられて説かれていますから、宗教的な世界と関わりを持つと言えます。→
→そして『易経』のこの神道という言葉は、(*紀元)前1世紀、漢代になると、死者を葬った墓に通ずる道路の意味にも使われるようになります。→
→ さらにまた2世紀、後漢の時代になりますと、呪術宗教的な世界の真理もしくは道術を意味するようになり、『太平経』の中にも多く用いられている神道の語が大体それです。→
→そして、この神道という言葉と関連して、「晴明」などという日本の神道で重視される言葉もその中に用いられていることは先ほど申しました
。→
p125→ ようするに、天皇、真人、そういったものを含む超越的、宗教的な世界の真理を意味する神道という言葉が中国に古くから成立していて、その神道という言葉が『日本書紀』の執筆者たちによって取り入れられ、→
→(*天皇、真人、そういったものを含む超越的、宗教的な世界の真理を意味する神道という言葉が中国に古くから成立していて) やがてこの神道がまた日本の仏教以前の古代呪術、宗教、信仰を一括する言葉として重視され、次第に意味付けが行われてゆくのです。→
→ しかし、その日本の神道学が、文献的な拠り所とする『古事記』、『日本書紀』の記述そのものが、すでに神話伝説の成文化の段階で大きく中国古代の宗教思想(神道)の影響を受けている
わけです。→

日本固有の習俗信仰の上に、中国的なものがまぶされているという事実は、それからあと奈良、平安、鎌倉、室町と展開する日本の神道の教義書というものを見ても明らかなのですが、その本格的な研究はまだほとんど行われておりません。→
→ それを研究するためには、まず中国古代の神道(道教)をその宗教哲学とともに教理形成の思想史に関しても本格的に研究しなければなりませんが、それもまだ緒についたばかりだというのが現状
です。

(そりゃあ「神道」は日本オリジナルなんて嘘だと証明する研究は妨害されるだろうしなあ。戦前だし

益田啓一郎 ‏@mapfan7 2011年4月27日
福岡県出身の先哲には魅力的な人物がキラ星のごとくいる。学習研究社(学研)の創業者・古岡秀人もすばらしい。人間模様も魅力的(五木寛之の父と古岡の父は親友同士等々)、小学館、主婦の友社を経て独立、「科学と学習」ルーツは福岡にある!

xtra heavy ‏@xtraheavy 9月12日
学研は皇族資本って聞いたことがあるけどな…。>「筑豊炭田の監督の息子」「父は五木寛之の父と友人同士」>古岡秀人 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%B2%A1%E7%A7%80%E4%BA%BA … >RT小学館

PS ‏@shogakukan_ps 2010年4月20日
【小学館社史より】1935(昭和10)年~38(昭和10)年5月30日の比較的短期間ではあったが在職し、その後、主婦之友社や保険会社、商事会社を経て、46(昭和21)年に学習研究社(学研)を興したのが古岡秀人である。戦後の小学館にとって大きな脅威となる。(「小学館の80年」より)

学研の創業者である古岡秀人は小学館で働いていました。
父は五木寛之の父と友人同士で、その関係から五木は古岡を「おやじさん」と呼び習わしていたそうです。
1935年に小学館へ入社し、オーガ相賀武夫のもとで働きます。
1946年に学習研究社を創業します。

相賀は、仏教の中で一神教にかなり近い日蓮宗。
学研の『~の本』シリーズで『日蓮の本』が出ているのは、相賀ファミリー意識かも。
本記事は『禅の本』。

相賀武夫[おうが たけお] は小学館および集英社の創業者
。別名、相賀祥宏。長男は小学館第2代社長の相賀徹夫。孫は小学館第3代社長の相賀昌宏=徹夫の長男。
1926年には、小学館から娯楽誌出版部門を分離独立させ、集英社を設立。
1929年から病床生活を余儀なくされ、夫婦で日蓮宗に帰依)

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 56分56分前
電子書籍、便利だと思うけど。 アメリカとかkindle版の ラインナップ豊富だし、 マニアックな本とか、絶版本とかも 手に入るし。 日本だとラインナップがクソ 過ぎてどうしようもない。

アウグスティヌスとか、アクィナス みたいなやたらと巻数が多くて 嵩張るヤツとか電子書籍化して くれると助かるのだが…… 後、仏教の大蔵経とか、 日本史の国史大系とかね。 多分ジョブズの本にも書いてある 通り、日本の出版印刷業界の 支配者に知恵遅れが多いんだろう。

仏教のお経とか結構文庫化 されてないやつとかあるからね。 華厳経とか池袋のジュンク堂 本店ぐらいでしか置いてあるの 見た事ないぞ。 しかも大蔵経シリーズだから クソ高い。

電子書籍の良いところは kindleアプリを使えば、スマホ でも読める所だ。 これの何が良いかというと 会社みたいなやたらと拘束 時間が長くて、国民に知識を 身につけさせない愚民化させる 様な強制収容所でも本が自然に 読めてしまう事だ。

これの何が有効かというと、 例えば経営学者の様なアカデミック な連中にとっては時代遅れの、 クリステンセンの「イノベーション のジレンマ」みたいなジョブズが 唯一読んだ経営学書とかも堂々と 職場で読める様になる。

大学でしか働いた事の無い 学者連中には分からないかも しれないが、サラリーマンの 知的水準なんて本当に悲惨な 状況で、競馬新聞を通勤中に 読むだけで精一杯みたいな 危機的状況なんだ。 当然古臭いポーターの「競争の 戦略」とかも読んでるはずがない。

結構、日本人のサラリーマン とかでも良い年したオッサン がやたらと漢字が書けなかったり、 読めない人も多い。 ワープロソフトの進歩で 昔程、漢字を覚える必要が なくなったのは分かるけど、 ドイツ人社員や帰国子女よりも 読めないのは問題だと思うぞ。

また日本語以外の本が楽々と 読める所も素晴らしい。 英語以外の言語もね。 データだから納期も直ぐだから 民間強制収容所に拘束されてて 郵便屋が不在で持って帰っちゃう 事もないしね。

和訳が絶対なされないだろう 英語本も安くゲット出来るのも 嬉しい。 アメリカの弓を使った狩猟 マニュアルとか、銃器の 教科書とか、ライフル戦術の 教本とか、所謂日本政府が 絶対に国民に読んで欲しくない 類いの本ねw

コレにプラスして最大の特徴が 自費出版本の取り扱いね。 例えば前君達に紹介した 純丘教授のメイソン本は ネットの記事が削除されて しまっているw 今だとkindle版しか残ってない。 (まぁ、コレも削除リスクは あるのだけど)

要は相賀に検閲されるのと、 ジェフ・ベゾスに検閲されるのと どっちがマシかという事だ。

範馬勇次郎の所で漫画家デビュー しても、三角目玉ばかり描かされる のは気が滅入るだろ? アーチストならば。

@knagasaki 個人の好みによっても 異なると思いますが、私はkindle の方が読みやすいと思います。 電子インクの特徴なのかも しれませんが、液晶より ずっと文字がクッキリ見える と感じています。

日本史の子供向け漫画。 受験対策にも使われてる。
集英社: 相賀家オーナー
小学館: 相賀家オーナー、大高忍、 浦沢直樹等のイルミ漫画家多し
学研: 小学館の元社員が創業。 ムーとかもココ

刃牙の勇次郎(オーガ)の元ネタって 小学館の相賀だろ
。 pic.twitter.com/orWwynDxlB

仏教国教時代を無視したい勢力
=金光教と大本教
=鬼結社+和風キリスト教。
鬼とヤタガラスって単なる和風キリスト教じゃないのかな


desuperado ‏@desupehannari 8月9日
九鬼一って、九鬼一族かいな?九鬼っつーのは、京都綾部っすわw大本教とか見てる人はみんな知ってるおねw綾部w

U ‏@wayofthewind 2月3日
「鬼」は異邦人を指すこともあるので、マイノリティと一体化している大本教やサンカでは、差別しないように持ち上げるんですよね。 半島と仲のいいカプコンは、主役が鬼に変身する「鬼武者」なんてゲームまで出しています。 ラスボスが信長に憑依した幻魔(笑)@etketketketke

菊池 ‏@kikuchi_8 12月11日
鞍馬寺が神智学に影響を受けたルートは神智学協会アリス・ベイリー派→三浦関造→鞍馬寺貫主信楽香雲。大江山の霊媒集団(大江山鬼の交流博物館のHP上の資料を参照した。大江山の鬼・酒呑童子とは仏教勢力に追われた渡来系の鉱山民の首領ではと推測した。)→大本教。王仁三郎「わしは仏教を滅ぼす」)

小学館、集英社、白泉社、… 講談社以外のこのメジャー出版社 群は一つのオーナー一族が経営している。 相賀家だ。 特に二代目の経歴は興味深い。 ちなみにこれらの出版社、株式上場 していない。つまり客観的な経営等 行われているはずもない。

つまり大半の子供達は「相賀教」 に知らずのうちに洗脳されている わけだ。 ちなみに相賀は出版物の内容に 細かく介入することで有名である。

大高忍、鳥山明、藤子不二雄、 荒木飛呂彦、三浦健太郎、美内すずえ、 ……… これらの漫画家は皆「相賀軍」に 属している
わけである。


長い記事をお読みくださり誠にありがたく存じます!