読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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日ユ同祖論、景教渡来説、スピリチュアル、神智学は仏教破壊用の兵器! 【落語風解説】 『真釈 般若心経 』 

 【マクラ】
 えー、本日は本ブログにお越しくださり、まことにありがたく存じやす。
 早速でございやすが、まずはご報告をば。

 あっし、子子子子子(ねここねこ)のツイッター
https://twitter.com/kitsuchitsuchi
のプロフィール文を、

お遊び陰謀論がやりたい方は大本教系と紅卍字会とSAGEグループと大日本皇道立教会と選帝侯と、ユダヤ陰謀論を捏造したバチカンと、仏教徒の天皇から神道カルト偽天皇へのすり替えと、神道・神器・天皇が道教用語だと言っちゃダメ! 読めないニックネーム(再開版)http://yomenainickname.blog.fc2.com

から

キリスト教の伝統          
①ユダヤ陰謀論(が流行=ユダヤは囮)
②日ユ同祖論(聖書のユダヤ人は架空)
③ユダヤのマークとしてのダビデの星 
(17世紀にイエズス会が作成)    
④秘密結社の陰謀論(キリスト教=悪魔
が銀行=真の秘密結社を支配)    
陰謀論者はクリスチャンと神道カルト=大本教系の和風✝儲だらけ。

あなたの私に対するイメージの中

yomenainickname.blog.fc2.com
誕生日 1894年1月1日”

に変更しやした。
余計なお世話かも知んねぇですが 、ツイッターで設定できる誕生日は1894年1月1日が最古でございやすから、あっしはいってえ何歳なんですかィ?

 え、なんで落語家みてえなしゃべりをしてんだって?
 そりゃあ、あれだ、あっしのツイッターアカウントの@の後ろの部分の由来が落語だっから
……ってのは冗談ではなくマジなんだけどよ、今、アニメ界にとっちゃ落語が旬だっからよって理由もあるんでございやすよ。
『昭和元禄落語心中』ってえ漫画があるんでやすが、アニメ化されやして、ここんとこ一話が放映されやした。
とにかく、できが良くてびっくらこきやした。
落語を真剣に学んだ声優ばかりを起用しておりやす。
落語監修は林家しん平が担当しておりやす。
是非(ぜ「し」)、ご覧くだせェ。

 あっしは、明治以降に(特に商売目的で)急造された、いかにも江戸より前(めぇ)からあるかのようにホラ吹いてやがる偽伝統について何度も語ってきやした。
 ご安心くだせえ。落語の祖とされる安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)は浄土宗の坊さんでございやす。
その策伝さんが元和九年(1623年)に完成させた笑い話を集めた本が『醒睡笑』(せいすいしょう)でさぁ。この『醒睡笑』が後の咄本(はなしぼん)や落語に影響を与えたンでございやす。

 落語ってのは単に笑わせるだけの話だけじゃねえ、、怖い話もありやすし、智慧がつくものもありやす。
智慧といやあ、仏教では「般若」が智慧つう意味なんだが、 この「般若」ってのは今回の記事の『般若心経』だけでなく、酒の呼び名にも使われておりやす。
昔の坊主は、酒が戒律で飲めねえから、酒を飲んだと表立って言えねえ。
そいで般若湯、 ゴチャゴチャゆうねぇ、要は智慧の湯てえ呼び名でごまかしたそうで。
酒の名前に智慧を意味する般若をぶちこむたあ、洒落てるじゃありやせんか。
今回とりあげる『般若心経』も、『酒心経』になっちまえば権威もかたなしでさァ。
まあ、西日本産の般若湯でもかっくれぇながら、小めんどくせぇ噺を聞いてくだせェ。
一応言っときやすが、兵庫産の米は偽装率がたけえらしいですぜ。あっしは兵庫産の米の酒は飲みやせん。

 【本題】
  過去記事で「真言宗はキリスト教ネストリウス派だよ詐欺」について多少、言いやしたが、今回は詳しめに補足しときやす。
 一神教では、絶対に人間は神の領域に至れねえし、神との一体化もダメですぜ。 人を神格化したら神が複数になっちまって一神教じゃなくなっちめぇから、これを破ったら一神教ではありえねえし、仮にあるとしても完全に異端になっちまうんでさァ。
 国家神道や大本教やなんかの和風キリスト教はよお、一神教を完全に維持してやがる正当なキリスト教からすりゃ、完全に異端なんでございやすが、支配されるこちとらにとっちゃ、なんちゃら組に支配されるか、かんちゃら組に支配されるかのに違いでしかねぇんで迷惑な話でさァ。
 
 ヤハウェっていう、セトとバアルとアトンを足して三で割ったような唯一神を信仰するなら、十戒を守らなきゃなんねえ。
特に一つ目は絶対守らなきゃ一神教じゃねえですぜ。

 十戒
①俺のほかに神があってはならねぇ 。
②おめぇの神、主の名をみだりに唱えてはならねぇ 。
③主の日を心にとどめ、これを聖としな。
④おめぇの父母を敬え。
⑤殺してはならねぇ 。
⑥姦淫してはならねぇ 。
⑦盗んではならねぇ 。
⑧ 隣人に関して偽証してはならねぇ 。
⑨隣人の妻を欲してはならねぇ 。
⑩隣人の財産を欲してはならねぇ 。

秦氏も空海も
①一神教の大前提、
③安息日
を守ってねえから一神教なわけねーよな。
道徳にかんする戒なんざ、ほかの宗教でも言ってやがるこっだっからよ 守っていても一神教信者だと特定できねえ。

核心部分が一神教違反なんだっからよ 、絶対に秦氏も空海も一神教信者じゃねーよ。
核心部分を完全にシカトして、本筋の論題や質問には一切答えねえで、細かな矛盾点をべらべら並べ立てやがり、意図的に些末な部分にこだわって威圧しやがるのが、カルト工作員の手口でさァ。
キリスト教神学が得意な詭弁術を使いまくるのが工作員の特徴なんですぜ。

外見や、表面的な、言語や儀式の共通点なんざ探そうと思えばいくらでも探せるんで、詐欺師がよく強調しやす。
単語数はどの言語でも膨大なんで 、どの二つの言語を選んでも似てやがる部分は必ずあるんで、多少似ていてもおかしくねーし。
みなさんは以下のカッコつきのセリフ を肝に銘じてくだせェ。

「同祖論者や秦氏・空海景教徒説の詐欺師は教義の致命的な違いは無視!
一神教では人を神格化して神としてまつることも、神と一体化することも禁止!
表面的一致を大量に(みせかけて)取り上げて数でごり押しするのが工作員の特徴!」


高野山に大秦景教流行中国碑のレプリカを建立したのが、ヴィクトリア女王の元側近(侍女)のE.A.ゴルドン夫人ですぜ。
仏教もキリスト教も元は一つであるっつう 「仏基一元」の考えが夫人の研究テーマだったんですが、仏教のは一神教の中核を完全否定してやがっからよ 、根っこが完全に違いやす。

西洋思想すべて「ゴッドや不滅の霊魂など、永遠の不変の超越的なものが実在する」
仏教「全部、妄想だね」


ってんだっからよ 、同じなわけありやせん。

仏教は空、縁起、無常ですら実体はねぇとしやすからね。
西洋思想の核には「唯一絶対の実体」(それ自体で存在し永遠不変な実在)つう大前提がありやす。
キリスト教では造物主ゴッド、
西洋神秘主義、特に新プラトン主義では「一者」。

実体思想が中核である万教帰一用宗教に仏教の中核をぶちこむなんて不可能なんだぜ。
多様性やなんか とほざきながら、取り入れるふりをしつつ、仏教の中核だけは削除するって腹づもりでさあ。
お上が仏教の中で特にぶっこわ してぇのは、
①嘘を見破るのに有効な、論理と論理的思考を重視する姿勢と、
②一神教と新プラトン主義を否定する無記と空と無常と縁起の思想

でございやす。
仏教系カルトは見事にこの側面を消去してやがるんですぜ。
仏教系カルトのモデルはキリスト教でございやすからね。
東洋思想を取り入れた西洋思想ですら、キリスト教と、
プラトン哲学(馬鹿は人間じゃねぇ 、肉体労働は下等、動物蔑視、優生思想)臭さが抜けてやがるものは稀でございやす。

景教渡来説は、(無自覚と隠れ含め)宣教師が布教のために唱えてやがることが多いですぜ。
「日本は仏教国ではなく、聖書の国だ」ってほざいてキリスト教を受け入れやすい素地を作ろうとしてやがるんでさァ。
景教は、人性(人の要素)と神性(ゴッドの要素)を区別しやすから、人間と神が対等になるなんてありえねえ。
一方、真言密教は「即身成仏=人と仏はゼロ距離」だとする教義でございやすから、一神教を否定する思想でございやす。
ゴルドンは英国王室の手先なんで、仏教をぶっこわす工作としてネストリウスデマを流してやがるのでございやす。

日ユ同祖論、景教渡来説、スピリチュアル、神智学は仏教ぶっこわしのための兵器の四天王ですぜ。
景教の専門家だった佐伯好郎は日油同祖論者でございやして、「秦氏=ユダヤ人景教徒」説つう 語呂合わせと詭弁にまみれたことをほざいてやがりやす。
旧約聖書に登場する失われた10支族なんて実在しねえんだっからよ 、末裔なんていやがるわけねーだろってんだぜ。
逆にいやあ、聖書の人物が実在することが大前提の日ユ同祖論(日本人・ユダヤ人同祖論)を主張するのはクリスチャンと神道カルト信者ってこった。
しかもよ、佐伯って景教博士ってか詐欺師は、晩年、弟子の服部之総に同祖論がユダヤ人の大資本を得るための単なる功利的な「企画」であることを語ってやがるぜ。 ゴチャゴチャゆうねぇ、要は 日油同祖論は金目的だったってこった。


景教について学びてぇってなら、お前さん、過去記事にいいのがあるぜ。

「利休キリシタン説」と「茶道の元ネタはキリスト教の儀式」説は仏教破壊用のデマ!   
『神学の思考』で一神教のタブーを学べば騙されない!

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-111.html
の下のほうをどうぞ読みなせえ。

ネット検索で学びてえなら、
「景教 ペルシア ネストリウス派 Nestorianism」やなんか と入れて検索すると、同祖論デマ情報がいっぺぇヒットするんで、マイナス検索を活用しやしょう。
「景教  -ユダヤ -空海 -秦氏」などと検索したり、英語版ウィキなどの英語文献にもできればあたってくだせェ。

アンド検索、
OR検索、
完全一致検索・フレーズ検索、
除外検索・特定のキーワードを除いた検索
ワイルドカード検索、サイト内検索・ホームページ内検索など検索方法についてはきっちり学んで実践しやしょう。
検索エンジンを変えるとさらさら違う検索結果になりやがったりしやすから、検索履歴を残さない検索エンジンDuckDuckGo (ダックダックゴー)なども活用しやしょう。
あっしは、ブラウザはFirefoxなんでございやすが、ファイアーフォックスのプライベートブラウジング機能は重宝な道具でございやす。

 【サゲ】
 酒飲むと
 智慧が問われる
 般若問う

おあとがよろしいようで。

※これより、江戸弁はおひらきにし、元に戻します。

幕間のあとは、「マクラもオチもなく、本題しかない『般若心経』の読書メモをどうぞ。


【幕間】

人間国宝の桂米朝 (3代目) の『はてなの茶碗 』の動画が視聴できる、はてなブログ(笑)↓
僕がおすすめする、ビジネスに役立ちそうな気がする落語ベスト5
http://terakappa.hateblo.jp/entry/2016/01/07/115238

桂枝雀が上岡龍太郎と語る笑いの分類
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16688264

菊池 ‏@kikuchi_8 1月3日
誠にその通り(笑)引用:統一教会系ネトウヨの反駁の仕方ってすごく耶蘇教神学的でなんかアウグスティヌスっぽい。ネトウヨが話の核心部分ではなくて、細かな矛盾点を指摘して全論をひっくり返そうとする話の持って行き方とかほんとそっくり。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-112.html

「話の核心部分ではなくて、細かな矛盾点を指摘して全論をひっくり返そうとする話の持って行き方」はまさにカルト工作員が使っている手口。本筋の論題や質問には一切答えず、意図的に些末な部分に拘泥する。耶蘇神学に由来する手口のようだ。云百年の不毛な神学論争が生んだワザということか。

ちなみに。恐らく耶蘇神学は「不変の神が何故創造という変化を起こせるのか」といった根本的質問には答えられないと思う。「創造する」という事は無から有への変化の過程という事であり、全く変化しない実体からは出てこようがない。不変から変化を説明するのが一神教や神秘主義の根本的な誤謬と思う。

菊池 ‏@kikuchi_8 1月3日
同感です。日猶同祖論者は致命的かつ根本的差異を無視。引用:修験道含め、日本の伝統宗教には自然崇拝思想が根付いています。一神教では、自然はゴッドの創造物なので拝んではいけません。根本思想が違っていたら、いくら表面的な共通点があっても別物http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-112.html

王王大栄 ‏@ououdaiei 1月6日
@kikuchi_8 @kitsuchitsuchi 耶蘇の「ゴッド」を神と訳したのは、ある意味ですごい皮肉かも。神は滅びる。それが日本の考え方。唯一の実在・創造主の「ゴッド」は、神という妄想。ってのが仏教とかの考え方とみると然り。

菊池 ‏@kikuchi_8 1月6日
@ououdaiei @kitsuchitsuchi おお、なるほど、面白い解釈だと思います。日本神話を見ても日本の神様は「無常かつ持続する」自然の象徴だったりして生まれたり死んだりと生成変化する「無常」な存在ですからね。「不変・唯一・絶対」というゴッドという観念は「滅びる」と。

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 2015年5月19日
ねここねこさんの日ユ同祖論の
英語版Wikiの記事に触発されて
原文読んでみた

下の方でチョロっと出てる
ヴィクトリア女王の侍女だった
エリザベス ゴードンの日ユ論が
興味深い

英ユ同祖論と日ユ同祖論から、
イギリス王室と日本の皇室を
縁組させてスーパーユダヤ人を
造る計画



”①一神教最大のタブーは、人間が神になること。

一神教では、唯一神と人間との間には絶対的な隔たりがあり、絶対に人間は神になれない(唯一神と一体化できない)。
人間が神になれるなら多神教。

景教=ネストリウス派キリスト教は、人と神を特に厳格に区別するので、人と神として祀るなら景教徒ではない。
神社に秦氏の人間が神格化されて祀られているので、秦氏は景教徒ではありえない。

真言宗は神仏と人間が一体化する「即身成仏」思想なので、景教ではありえない。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-110.html
ヤハウェ(エジプト系の雷神)が奈良の大仏(アーリア系の太陽神仏)なわけねーだろ!  真言宗が景教(人の神格化禁止)なわけねーだろ!                     ヨガ、呼吸法、瞑想法でリラックス! 『呼吸法の極意 ゆっくり吐くこと』・『ヨガ呼吸・瞑想百科』・ 『ハタヨガの真髄』・『禅の本』・『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』

”「クリスチャン・シオニズム

エリザベス・ゴルドンはヴィクトリア女王の元側近(侍女)だった。
ゴルドンは有名なクリスチャン・シオニストでもある。
ゴルドンは英ユ同祖論と日本人を結びつけようとした。
特に、英国王室の祖先がイスラエルの民の子孫だとした。
ゴルドンは日本では真言宗の研究で知られる。
真言宗の起源はキリスト教だと主張した。
ゴルドンは日本でいくらかの影響力を持った。


”British Israelism (a similar hypothesis that holds the British people to be a Lost Tribe of Israel)”
「英ユ同祖論。日ユ同祖論と似た仮説。」

ゴルドン夫人が主張したのが仏基一元

生長の家と同じく万教帰一と似たことを主張!
開化派=独立党のリチャード(洗礼名)大歓喜!

仏教は絶対的な唯一の創造神を否定するので、
キリスト教視点では無神論=悪魔崇拝(本来の仏教は偶像崇拝しない)ですよ。
RAPTがいい例です。

仏教とキリスト教はどう見ても根本から違います
仏教とキリスト教を比べると、どう見てもキリスト教のほうが悪魔崇拝なんですけど。

英国女王の側近のゴルドン夫人は、ワン・ワールド準備の為のワン・リリージョン(宗教)を推進するための工作員でもあったのです。
英国王室側の人が宗教統一に都合がいいことを言ったのです。
宗教統一とは、新キリスト教で世界を塗り潰すという意味であって、思想の多様性をなくすということです。
みんなが一緒に共存するのではなく、
一つを残して皆殺しという意味です。
キリスト教が布教熱心で、侵略とセット
である理由が分かるでしょ?”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-83.html
日ユ同祖論と中ユ同祖論の発明者は17世紀のイエズス会士ロドリゲス。          
同祖論はキリスト教の布教とセット。                         
日ユ同祖論を布教する陰謀論者=宣教師。                       
日ユ同祖論の英語版Wikiの一部を翻訳し解説。

Misaki-わんわん ‏@bonchan1 2015年9月8日
故山本健造氏が高山市丹生川町旗鉾の分校で教職に着かれ、そこで地元の上方様の家系の老翁から「飛騨の口碑」を託されたのが昭和35(1950)年の事。それから五十数年を経てこの世に初めて発表されたのが鞍ヶ根風土記としてまとめられた「飛騨の口碑」だ。まだまだ世間の認知度は低い。

knznymmmy ‏@knznymmmy 2014年12月21日
どこまで本当なのかねえ
いきなり飛騨にポッと出るのもおかしいじゃん
そいつらどこから来たの?っていうね
ミトコンドリアイブちゃんよりも
飛騨の方が古いとかんなわきゃねーんでしょ?


knznymmmy ‏@knznymmmy 2015年1月6日
日本書紀も古事記もウソが多いだろうけどさ
飛騨の口碑だってウソはあるんじゃないのかなあ?
それだけが0.01%のウソも間違いも含まないとか
そんな訳はなかろうと思うけど

例えばさ飛騨に発生したというその原アホンジンとやらは
どこからきたよ?ウジ虫じゃあるまいし突然発生はしねえよ


knznymmmy ‏@knznymmmy 2015年12月25日
そもそも単一民族だの日本人だのいう
概念があやふやでしかない
犬のぼんちゃんが
飛騨ガーとかわんわん吠えてるけどさ
どう考えてもウリナラファンタジーw


knznymmmy ‏@knznymmmy 1月5日
飛騨の口碑ってのもさ
ちゃんと調べりゃ
明治ぐらいに作られたんじゃねえの?
すーーーーっと口伝ですとかいうのはさ
要するに証拠なし、天皇家の万世一系みたいなもんでしょ
証拠がねえのをさもありがたいかのように言うとかどうなのよ?


Misaki-わんわん ‏@bonchan1 1月14日
大陸・半島人とはそのDNAが全く異なると遺伝子学的に判明しているのに、未だに渡来人が主だと言う人が多いのには驚きます。何故、日本人は単一の日本固有の民族だと胸を張らないのでしょう?プライドがないのかしら?

日本人は混血民族。単一の固有の民族なんて実在しねーよ。
ナチスのアーリア信仰を日本人に変えただけ。
思考が神道カルトまんまの、聖典が飛騨の口碑のみさきワンちゃん。
「ヤハウェヤハウェが秦氏秦氏が景教景教が以下略」って、うるさい。
大避神社の御祭神は秦河勝。
一神教では人間を神として祀るのは絶対に禁止なので、秦氏は景教ともユダヤ教とも無関係。
致命的な矛盾をひたすら無視する時点で相手にする価値無し


knznymmmy ‏@knznymmmy 1:12 - 2016年1月16日
君と違って信仰が無いからだよ

(「純血」を信仰するのはカルトの証)


P・グラレム ‏@pinkglalem 2015年12月3日
移民についてかい...?もともと日本人と言うのは、多人種の混血なんですけど...

P・グラレム ‏@pinkglalem
ユダヤ人なんて民族はいねェーョ。架空の、でっち上げられた幻想。日本人にしたって、その遺伝子構成は、多人種の混血。大昔に混血化がすでに進んでいたんだョ。

古代から何世代過ぎてるの?その間中、近親婚を繰り返すワケ...?そーでなかったら、民族の純血なんて守れないョ。純血主義は幻想なんだョ。

人種としての「~人」というのは、すでに存在していない。


どーしてだろう?カルトの信者というのは、宗教のことをスルーするために、民族に拘るね。

民族や言語の分類というのは、18世紀に聖書をもとにして作られたンだョね
(シュレーツァー)。だから、コレをもとにあたしに民族について質問されても。答えられません。...予め言っておきます。

だいたい日本人なんて、多民族の混血だし...

knznymmmy ‏@knznymmmy
セム語族とかまさにソレだな…

「神戸とかいう魔境って何なのさ?」
皇族や桜に潜む日本のイカサマ擬似伝統の番外編
http://codetripleseven.blogspot.jp/2015/11/3.html
”神戸製鋼といえばオウムの村井も元神戸製鋼社員。
衆人環視の中殺された、あのオウム幹部の村井だ。
テレビで「阪神大震災は人工地震だ」と全国放送しちゃったあの村井だ。

村井は大阪大学大学院で宇宙物理学専攻
→1983年神戸製鋼入社→1986年オウム入信。

アベシのブレーンの伊藤哲夫は生長の家→ソース1  ソース2
そしてその生長の家を作った谷口雅春も神戸出身。
生長の家=宗教右翼=戦争賛美=日本会議=稲田朋美でもある。

そう言えば、84年・85年にはグリコ森永事件が起きた。
アベシが神戸製鋼を辞めて父親の晋太郎の秘書官をしていた頃だ。
グリコ・森永事件の舞台は神戸を含む関西。
例えばグリコは社長の実家襲撃・脅迫状・放火その他散々な目に遭った。
そのグリコの社長宅は芦屋=神戸市の東隣。
そして87年にはアベシは昭恵と結婚。
昭恵は電通社員=ほぼ確実にヤツらの犬。
昭恵は森永社長の娘でもある。グリコ・森永事件の、あの森永だ。
森永といえばキリスト教。例えば創業者の森永太一郎がキリスト教→wiki
エンゼルのロゴとか「いかにも」なデザインを採用するではないか。
森永の製品に「マンナ」というビスケットがある。
商品名の由来は旧約聖書の出エジプト記の「マナ」だ。→参考
昭恵がキリスト教徒なのかは不明。
とりあえず小学校からの全学歴が聖心女子=ミッション系ではある。
昭恵と言えばデービッド=ロックフェラーJr.と「食べて応援」を推進。
この辺を更に追求していくと兵庫からは離れるが深刻な話題が出る。
例えば福島第一原発四号機爆発の謎。
或いはアベシとオウムの、単なる神戸製鋼OBでは済まないコネ。
オウム真理教事件の闇はまだまだ残っている。→参考

江崎グリコ社長宅のある芦屋以外にも、関西系の社長宅は
兵庫に家を構える事が多い
→ソース

2012年9月14日時点で上場企業の社長・会長に就任している
4878人のうち、判明した2920人の社長・会長の自宅住所から作成した。
役員報酬が1億円を超える企業トップは、どの街に住んでいるのか。
関西では、大阪や京都よりも、兵庫の西宮市や芦屋市を好む傾向が
明らかになった。

大阪も京都も差し押さえて1位か。関西のドンは兵庫という事か?
尚、兵庫県内のランキングでは

1位が西宮市で2位が芦屋市となった。
・・・との事だ。両方共、神戸市の東隣。

そのせいだろうか?
神戸は不自然にケムトレイルが散布されなさすぎと主張する人もいる
リンク1 リンク2 リンク3   

本州を1800キロ走ってみて、わかったことがある。
本来であれば空気が清浄な地方ほど、
盛大にケム雲が広がっている傾向があるということ。
長野の安曇野のあたりは、これ見よがしにケムっていて哀しくなった。
では日本に、ケムっていない地域は存在するのか?
あるんだね、これが。
見事なまでにケム雲ひとつなく、わたがしのような雲が
たなびく地域が。西宮から神戸にかけてが、そうだった。
芦屋の高級住宅街あたりに、日本の真の支配層は
住んでいる……ってことかな?


やはり神戸はひと筋縄ではいかない。

ケムが撒かれないのなら体にいいのか?と思うと意外とそうでもない。
妙な病気が日本で「発見」されるのは神戸が多い。
例えば「生物兵器説」が流れるような病気。例えばエイズ。
誰が日本のエイズ感染者第1号なのか?というのは微妙である。
例えば「アメリカ在住の日本人」は「日本のエイズ第1号」として
カウントしていいのか?微妙だ。
「長野在住のフィリピン人」 というのもある。
しかし「日本在住の日本人」という条件でならエイズ初感染者は神戸
→参考
1987年1月17日  神戸で日本初の女性のエイズ患者報告、
エイズ・パニック広がる

おっと・・・1月17日と言えば阪神大震災の日ではないか。
これは偶然なのか?
ちなみに1月17日と言えば2006年ライブドアショック。
1979年イラン革命の日でもある。

鳥インフルもそうだ。
2009年5月16日 新型インフルエンザ、神戸で国内初の感染確認。
渡航歴ない高3→ソース
この5月16日はオウム真理教の麻原が逮捕された日でもある。

体に悪いと言えば、福島産の米の流通量が全国2位なのは兵庫→参考
東京は人口密集地帯だ。
だから福島に限らず近県から大量に食料が流入するのは当然。
しかし、なぜ2位が兵庫なのか?
人口密集地帯や農地が少なそうな都市部なら他にもあるではないか。
神奈川、愛知、大阪等を5倍以上もぶっちぎって、
兵庫が2位というのは異常事態ではないのか?
距離的にも神奈川、愛知、大阪・・・
すべて兵庫よりも福島に近いではないか。
兵庫は米の生産量ランキング全国14位だ。→ソース
米所と言うほどではないが、それでも上位の部類だ。
なぜこんなに福島の米が流入する?
しかもサクッと米所の新潟が福島米流通量6位。怪しい。
新潟は北海道を抑えて米の生産量は堂々日本一。→ソース
その新潟が米を輸入か?これは産地偽装目的ではないのか?
若しくは福島米を使った煎餅か餅か何か加工品があるのか?
実にクッサイ数字だ。
・・・というか・・・。この際だから書いておくけど・・・。
食品偽装の本丸ってコメな件。

ハッキリ言っておくが人間の味覚なんてバカだ。
その意味でグルメだ何だと言ってるのはバカばかりと決まっている。
アナタの食べてるそのコメ・・・。フクシマ産のプルトニウム入りかもよ?
以前だったら偽装米の正体は中国米だったりしたようだが
フクイチのせいでちょっと事情が複雑化しているようにも思う。
ニュースでも何年か前に色んな食品の偽装が出たけど
コメは今の所スルーだ。 しかし将来的にはコメ関係も騒動になると思う。
勿論、フクシマ米の問題が堂々と語られるような時代には
とっくに手遅れになっていると思うけど。
スイス系の製薬会社のノバルティスファーマは2015年2月に
日本初の業務停止処分を受けた。
これは抗癌剤の副作用を隠蔽したせい。
この悪徳企業が日本国内唯一の工場を持つのが兵庫の篠山→ソース
スイス・・・製薬会社・・・抗癌剤・・・。ヤツらの中心部だ。
そしてその中心部が日本に来たと思ったらサラッと兵庫!

兵庫は在日の教師の数が大阪に次いで多く全国2位とも言われる。
そのせいで学校でハングルを強制的に教える所すらあるらしいw
例えばこれ参照。在日の先生様自らPDFをつくっていらっしゃる。”

※動画と画像は省略

プライベートブラウジング - 履歴を残さずに Firefox を使用する
https://support.mozilla.org/ja/kb/private-browsing-use-firefox-without-history

検索履歴を残さない検索エンジンDuckDuckGo (ダックダックゴー)
https://duckduckgo.com/?q=

メルセゲル ‏@Meretseger2 14:49 - 2016年1月17日
http://search.chromic.org gnusocalの人に教えてもらったフリーソフト検索エンジンが良い感じだ

狼たちは知っている ‏@wolvesknow 2015年11月7日
炎狐の新装備、プライベートブラウジングで、ユーザのオンライン行動を追跡するコンテンツをブロックとのこと。Twitterが快速で動くようになった。対抗プログラムが出来るまで暫くは快適だな。

プライベートブラウジング - 履歴を残さずに Firefox を使用する
https://support.mozilla.org/ja/kb/private-browsing-use-firefox-without-history

検索履歴を残さない検索エンジンDuckDuckGo (ダックダックゴー)
https://duckduckgo.com/?q=

検索方法の種類まとめ!除外や完全一致・ホームページ内検索も!
http://affikatsu.com/research-method-891/

Googleの検索方法と検索オプション、テクニックまとめ
http://liginc.co.jp/web/service/google/86222


 【マクラもオチもなく、本題しかない読書メモ】

宮坂宥洪『真釈 般若心経 』(角川ソフィア文庫)


著者の宮坂 宥洪(みやさか ゆうこう、1950年11月11日 - )は、真言宗の僧ですから真言宗流の解釈です。

(チベット仏教流の解釈は、過去記事の
斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html
をどうぞ)

・『般若心経』の冒頭は観自在菩薩の「観」。
サンスクリット原典では「アーリア(「高貴なる」。貴人に対する尊称)で始まるので、原点に忠実に訳すなら、「聖」観自在菩薩となっていたはず。
この経典の開幕のシーンは瞑想する釈尊のお姿。釈尊の瞑想に感応して観自在菩薩が修行を完成した、というところからドラマが展開する。

・インド仏教の伝統的な瞑想の仕方には、シャマタ(止)とヴィパシュヤナー(観)という二つがある。
シャマタ・ビパシュヤナー(止観)は、インド仏教における最もオーソドックスな瞑想実践の方法だった。今でもタイやミャンマーなどの南方仏教ではきわめて重視されている修行法。
シャマタとは心を静めること。背筋を伸ばして、肩の力を抜き、深い呼吸をこころがける、これ以外に何の特別な努力もしない。
それが次のヴィパシュヤナーの実践の不可欠な前提となる。
ヴィパシュヤナーの原義は観察。仏法を観察する。観法ともいう。
観自在菩薩は「観ること自在」、すなわち観法の達人。

・インドの哲学という場合、「哲学」はサンスクリットで「ダルシャナ」といい、その原意は「観ること」。インド哲学は、すべて瞑想実践の中から生み出された体系。

マントラを数えるための道具が数珠。仏教が興る以前から、バラモン教で用いられていた。
サンスクリットでは「ジャパ・マーラー」といい、「念誦の輪」という意味。
キリスト教で用いられているロザリオは仏教の数珠に由来。
 釈尊の時代にはまだ数珠を手にする習慣はなかったようだ。
いつから仏教徒が数珠を持つようになったかは不明だが、著者の知る範囲では、アジャンター石窟群の最古に属する壁画の中に、数珠を手にした菩薩が描かれている


(“起源についての説

ドイツのインド学者アルブレヒト・ヴェーバーは、インド仏教で用いられていた数珠(サンスクリット語: japa-mālā、字義は「低い声で念じ唱える+(花)輪」)が西洋に伝えられた際に「バラの花輪 (japā-mālā)」と解釈され、それがラテン語の rosarium として直訳され、他の西洋諸語に取り入れられたのだとしている[10][11]。

しかしこのロザリオのインド起源説に対し、

サンスクリット話者が、キリスト教のラテン語話者との間に、母音の長短を聞き間違えるほどの言語的接触の必要性および蓋然性が存在したとは考えにくいこと
ヴェーバーの仮説では東方教会に対するインドからの数珠状の祈祷用具の浸透が説明できないこと
ロザリオの「先祖」である「主の祈り」を数える道具であった Paternoster は、数珠のような環状のものではなく一本の「直線状」のものだったこと
すでに一部地域では8世紀頃から Thong-and-ring という動物の皮と骨を材料にした計算具で祈りの回数を唱えていたこと
ローマ・カトリックと東方教会の両者は共に、エジプトの修道士たちが小石を使い祈祷を数えていたというパッラディウス(Palladius, 363年頃 - 431年頃)の証言に自分たちの祈祷の回数を数える道具の起源を求めていること

などの理由から、キリスト教のロザリオはインドから借用されたものではなく、キリスト教の浸透した各地において独自に工夫がされた結果として、現在の数珠に似たロザリオの形状に発展し定着したと主張する者もいる[12]。”文芸
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA

https://twitter.com/FeydoTaitei/status/683576644280258560
フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 1月3日
あちゃ〜‼︎
で、出たよ〜
アレキサンドリア図書館w

#FateGO
#FGO pic.twitter.com/nhdmtz16td

フェイド大帝さんがまた優しく 説明してやる! 耳の穴かっぽじってよく聞くがよろし! この連中はね、アレキサンドリア (エジプト)に人類の真の歴史書や 神学書が蔵されてたと信じ込んでてね、

で、特にキリスト教の興りに ついてバチカンにとって都合の 悪い事が書かれていたと 思い込んでてね、この図書館に 放火したのはカソリックだ! と断罪してるわけ。

この主張をしてる連中は グノーシス主義の一派である 中世のカタリ派(異端として バチカンに潰された)の子孫を 自称してて、「ウリ達のご先祖様に 賠償を要求するニダ!」と 憤ってカソリックを脅迫
してるの。

で、このカタリ派と何の関係も無い 日本や韓国、イソラエルの キリスト教系カルトも群がって 一緒にカソリックを叩いてるわけ。 当然得をするのはアングロサクソン系 のプロテスタント陣営とおフレンチ の無宗教(新左翼)主義者ね。

で、アレキサンドリアと 原始キリスト教の関係なんだけど、 新約聖書のパウロの宣教録を 読むと、パウロってのは アンティオキア(現シリア辺り) とか、コリントス、ローマの 話はよくするけど、

当時の大都市のアレキサンドリアの 話には余り触れたがらないのよ。 「アポロ」という同じキリスト教の 宣教師のライバルが先行で布教してて これに勝てなかったんだねぇ。

今のバチカンのカソリックってのは 基本的にパウロのキリスト教の事を 指すのよね。 聖書が1巻本になったのもずっと 後で、マルキオン聖書に対抗して エイレナイオスの時代に纏められた のが原型だと言われている。

だから、キリスト教ってのは 最初の頃は沢山宗派があったの!
で、特に人気があったのが グノーシス主義だった事が 過去の資料(エウセビオスの教会史とか) から分かってるわけ。

第2章のネロ編でネロに仕えてた 宮廷魔術師が速攻で殺された話 あったろ?w グノーシス派の有力な教祖の 一人であった魔術師シモンだと 言われてる。

グノーシス派で特に有名なのが ヴァレンチノス派
ね。 fategoスレでこの名前出た時は 流石工作員共と笑ったけどねw

でローマでの布教編を読めば 分かるけど、パウロがやってくる 前からどーもプリスカ夫婦という 怪しい二人がすでにローマで キリスト教を布教しててローマから 追放処分を受けてた事がわかる。

ローマやアンティオキアに伝わってた キリスト教が、「アレキサンドリアに だけは伝わってなかった」って 不自然だろ?w 仏教学の見地からだとカソリックの ロザリオが仏教の数珠由来で ある事が分かってるので、

アレキサンドリアはインドとも 貿易をしていた事が考古学から 明らかになってるから、 初期キリスト教はインドの方の アーリア系宗教からの影響が 強かったのではないか
と 言われている。

当然、キリスト教の元ネタが インドやイランのパクリの 可能性が高い事は、西洋白人様 やパウロ派(つまりカソリック) に取って都合が悪いから、 アレキサンドリアを焼いたの ではないかとこの連中は 疑ってる。

まぁ、日本の場合は戦後アメリカの 影響が強いから(実際は明治時代から) プロテスタントや、カソリック以外 に有利な言論をデ○ズニーとか 使って、子供から刷り込んでく 政策を取ってるので、

こう言った事情に疎いと 速攻でカモられる。 ゲームやアニメ、受験用の 日本史だけじゃなく、世界史も ちゃんと勉強しろ
ってこった。 以上!)


・マントラの念誦とは、念ずる内容を観想しながらマントラを繰り返して誦する。自分の好きなように行ってよいというものではなく、インドでは必ず師から伝授を受けて、しかるべき場所で、しかるべき手順を踏んで行うべきものとされてきた。
マントラの念誦に必要なのが本尊であり、『般若心経』では般若波羅蜜多そのものが本尊。

・寺院に仏像が安置されていることはごく当たり前ではなく、これは世界の宗教の中で異例のこと。
ユダヤ教、イスラム教、キリスト教、あるいは日本の神道でも、神を人間の姿に造形化してはいけないことになっていて、いわゆる偶像崇拝を禁止している。
 仏教でも、仏滅後五百年間は、ブッダを人の姿に表すことは憚られてきた。
紀元前三世紀のアショーカ王の時代の仏塔の欄楯(らんじゅん。聖域を俗界と区別するための垣根、柵)の仏伝レリーフには、普通の人々の姿はあってもブッダの姿だけはなく、仏陀の代わりに法輪や菩提樹が刻されていて、それは見る者にとても不思議な印象を与える。
 紀元前一世紀頃から北インドのガンダーラ地方で始まった仏像彫刻は、ギリシャ美術の影響が濃厚。
ギリシャ美術の影響なしに、同じ頃、北インドのマトゥラーでも仏像の政策が始まっている

これは仏陀を″偶像″として″崇拝″するようになったというよりも、仏陀が眼前にいるかのごとくに、「観じる」、すなわち「観仏」という瞑想が行われるようになったことと深く関係しているのではないかと筆者は考えている。
 ひとたび仏像彫刻が始まると、仏像は仏教が伝播するすべての地域に広まった。
仏像が人々の崇拝の対象となっていったことは否めないが、人間精神の至高の造形表現としての仏像は、世界の芸術史上において類がなく(なぜなら偶像を禁止している宗教ではそのようなものは生まれようもないので)、その後の仏教史を通じて、まさに類なき傑作が次々と生み出されてきた。

(釈迦は「法を説く人間(釈迦)を崇めるのではなく、法“を実践”せよ」と説きました。

え、神道が偶像崇拝禁止なの?
神社に思いっきり置かれているあの像は何なの?
仏教が国教で、神仏習合で神々を仏教化してきたから、仏教化されていない神々の像は作られなかったってこと?

偶像崇拝禁止って、「明治以降の神道=和風キリスト教」限定なんじゃないの?
でも、国家神道の現人神の写真を崇めるのって偶像崇拝ですよね?


世界の仏像紹介BOT(仮) ‏@worldbutsubot 2013年11月28日
【仏像以前】釈迦は自身を根本的な崇拝対象としなかったため、仏教では釈迦入滅後暫くの間は法輪・菩提樹・仏足石などによってその世界観や思想を表現していた。だが、インドのガンダーラやパキスタンのマトゥーラに仏教が伝播すると、次第に偶像崇拝対象としての仏像制作が盛んとなっていった。

大窪一志 ‏@neuemittelalter 4月29日
仏教も、ユダヤ=キリスト教やイスラームの偶像崇拝禁止のように、仏陀を人の形で造形することを禁じていた。キリスト教やイスラームでは未だに偶像崇拝を排する動きが強いが、現代仏教では全く失われてしまったかに見える。↓法輪と仏足の旧き形象。 pic.twitter.com/4F68W7FjcN

たけちゃん ‏@take_chan_bot_ 12月22日
ガンダーラ美術はクシャーナ朝で流行ったんだったね。もともと仏教はブッダの偶像崇拝を禁止してたんだけど、ヘレニズム文化と出会って仏像が作られるようになったんだよ。

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 4月26日
RAPTの野郎が仏教について間違い ばかり書いてるなw キリスト教原理主義者っぽいけど カトリックとモルモン教を貶めてる から、エホバ辺りかね? リベラル系では無いから、福音主義 系かもしれないが。 コメント表示されてる連中も 仏教というかインド文化をよく 分かってないぽいな

まさか知ってるとは思うが、仏教も
偶像禁止だぞ。
仏像作り出したり、ストゥーパ建て始めた
のは大乗仏教になってからだぞ?

教えを文字に残さなかったのは、
まぁ、あっちの文化がそういう
文化だということもあるけど、
初期仏教は基本シンプルで実践重視
だったから必要なかったからかな

安保 多稼士 ‏@AmboTakashi 5月14日
紐付きは半分の真実と半分の嘘によって、洗脳に気づいた人を再び洗脳するのが仕事。陰謀論者ラプトの元ネタはラプチャー=携挙。隠れ含めキリスト教系と大本教系陰謀論者は仏教嫌いの法則!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-82.html


安保 多稼士 ‏@AmboTakashi 5月20日
もしキリスト教系(の時点で支配層側の)陰謀論者のRAPTさんに出会ったらまずは、元ネタはRAPTure(ラプチャー。携挙)ですよね? と聞こうと考えております。患難前携挙説を正しいと考えていますか? とも聞こうかな。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-83.html

吹田/大\賞典の傾向と対策bot ‏@suitaQ_bot 11月25日
Q. 万葉集に一首のみ収められている、「弥彦  神の麓に 今日らもか 鹿の伏すらむ 皮衣着て 角つきながら」という歌のように、5・7・5・7・7・7の音からなる和歌のことを、釈迦の足跡を刻んだ石になぞらえて何と呼ぶでしょう?……A. 仏足石歌(ぶっそくせきか))

・マントラを静かに、あるいは心の中で何度も繰り返して誦える修行を、念誦法(サンスクリット語で「ジャパ」)という。
咒はマントラの訳語。
さなかったのは、玄奘の時代にはマントラの訳語がまだ定まっておらず、玄奘のみならずマントラを真言と訳す人はだれもいなかった。

・般若心経の「心」はマントラのこと。
最後の「羯諦……」の直後に尾題が添えられている。
玄奘訳では「般若波羅蜜多心経」となっているが、
原典では「以上で、プラジュニャー・パーラミター・フリダヤ(般若波羅蜜多のマントラ)、提示し終わる」となっていて、「経」にあたる語はない。
この「心」には「真言」という意味がある。
原語の「フリダヤ」を直訳すれば「心」以外にありえない。
「フリダヤ」にマントラの意味があるということは一般のサンスクリットの辞書には載っていない。
しかし、インドの文献では、フリダヤ・マントラという言い方は珍しくない。フリダヤがマントラの別称として用いられるのはよくある。
ことに密教の漢訳文献に頻繁に出てくる「心咒(しんしゅ)」という言葉は「フリダヤ・マントラ」の訳語で真言と同じ意味。
著者は、「フリダヤ」を「心臓」や「精要・精髄」と解釈するのは誤りだとしている。


・サンスクリットの合成語を解釈する厳密な方法によると、
プラジュニャー・パーラミター=「智慧という完成」。
そもそも智慧自体が完成されたものなので、それを完成させるということは意味をなさない。
智慧の彼岸に到る道程ではなく、智慧の彼岸に到「っている状態」。

諸仏がさとりを得るのは般若(智慧)の力に依るのであるということから、般若波羅蜜多そのものが神格化されるようになった。
大乗仏教とは、般若波羅蜜多を、諸仏を生む母、すなわち「仏母(ぶつも)」として尊び崇め、その絶大な功徳を宣揚した。
般若波羅蜜多が仏母という女尊だというと奇異に感じられるかもしれないが、インドでは古い時代から、風雨や雷などの自然現象のみならず言葉や時間や法則といった抽象的なものに至るまで、何であれ尊ぶべきものを容易に神格化する傾向があった。
例えば阿弥陀如来は光を神格化した仏であり、
文殊菩薩は智慧を、
弥勒菩薩は友情を神格化した菩薩だといっても差し支えなく、これと同じこと。
般若波羅蜜多の原語「プラジュニャー・パーラミター」が女性名詞だから女尊
とされた。
 真言宗や天台宗や禅宗などの寺院で行われる大般若法要の本尊は、仏母と言われる般若波羅蜜多菩薩、略して般若菩薩という女尊である。
なお、釈迦三尊を本尊する場合もある。
チベット版の『般若心経』では、「バガヴァティー(女尊=仏母)たるプラジュニャー・パーラミターのフリダヤ」とサンスクリットの経題が明記されている。

・バラモン教最古の聖典『リグ・ヴェーダ』の賛歌がマントラと呼ばれていた。
対して、仏教独自のマントラとして大乗仏教とが掲げたのが般若波羅蜜多であったと思われる。
初めは、バラモン教を意識してか、マントラではなく、ヴィディヤー(明、明呪〔みょうじゅ〕)とか、ダーラニー(陀羅尼)と呼ばれていた。

・五蘊の
「蘊」=たくわえ、あつまり。
サンスクリット語でスカンダといい、本来の意味は「木の幹」だが、書物の章節とか部門を意味することもある。全体を構成する主要素という意味。

1. 色 =体がある
2. 受=感覚がある
3. 想=イメージを持つ
4. 行=深層意識がある
5. 識=判断をする

五蘊そのものは自性空であり、自分ではない
五蘊は五取蘊ともいい、煩悩や執着(「取」)を生み出す条件。

・『般若心経』は、徹頭徹尾、瞑想の指南書。
自分は存在しない、存在するのは五蘊だけである、と見極めるのが最初の段階。
次に、自分が存在するのではないように、五蘊も存在しない、と見極めるのが第二の段階。

(著者はかなり斬新なことを述べていることに注意)

苦(ドゥッカ)=不如意(思いのままにならないこと)

・「度一切苦厄」という挿入文に仏教の実践的目標と究極の救いが端的に示されている。
この一文は漢訳者が勝手に挿入したようなものではなく、経典の趣旨をくみ取ったうえで考え抜かれて置いたもの。
「五蘊皆空」の個所は、サンスクリット原典によると「五蘊あり。しかも、それらは自性空である」と二段階に分けて読まねばならない。
観自在菩薩は、まず「五蘊あり」と観察し、「それらは自性空である」と観察した。
空観の洞察に先立って、五蘊の観察が必要不可欠。

・漢訳本文と原典を比較すると、漢訳のほうが一文少ない。
「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」は、
原点では、
「色は空性であり、空性は色である」
「色とは別に空性はなく、空性とは別に色はない」
「色なるものこそが空性であり、空性なるものこそが色である」

律蔵大品(りつぞうだいぼん)という初期の仏典には、釈尊が法を説く場合、「私は三度この義を説く」という表現がよく出てくる。
また、成道後の釈尊に梵天が説法を三度懇請し、それで釈尊は説法を決意したという話も伝わっている。
仏法僧の三宝に帰依するという「三帰依文」は今でも三度誦えることになっている。インドでは古くから三度繰り返して言う習慣があった。

インド人でない玄奘は二度繰り返せば十分だと思ったのだろう。

自性(スヴァバーヴァ)=それ自体。
自性空=それ自体がからっぽ。
○○シューニャ=○○空=○○を欠いている


原語のシューニャターは抽象名詞「空なること」(空性)。
空なる「もの」を意味するシューニャではない。
色は空性(空なること)だと和訳しても文法的に成立しないとまでは思わないかもしれない。
でも、これは、この本は重要「性」です、というようなもの。
なぜ破格の構文が用いられているのか。
本という語と、重要性という語の表示対象は一致すると考え、
(ここに)本がある、かつ、
(ここに)重要性がある、
といえば、問題はなくなる。
ここに色があるといい、かつ、
そこに空性があるといえば問題ない。

・色(ルーパ)=姿かたちのあるもの。
ルーパは動詞語根「ループ」(かたちづくる)から生まれた名詞。
ルーパはしばしば物質的現象と訳されるが、
『般若心経』では、自己を問う瞑想において「自己を構成する主要素」(蘊)
の一つとして観察される「姿かたちあるもの」なので、それは自分の体にほかならない。

受=ヴェーダナー
=(ある種の刺激を自分の感覚として)知らしめる作用=感受作用。
動詞語根「ヴィド」(知る)の使役形名詞。

想=サンジュニャー=全体的に知る
=ある事柄を全体的なイメージとして了解する
=表象。
動詞語根「ジュニャー」(知る。※)
+接頭辞「サン」(集合)。

※受想識は原語ではどれも微妙なニュアンスの違いで「知る」を意味する)

識=ヴィジュニャーナ=分けて知る
=分別、分かる、識別・判断。
(AをA以外のものから区別して知る)
動詞語根「ジュニャー」(知る)
+接頭辞「ヴィ」(二つの分ける)。

識=ヴィジュニャーナだけが、「言葉を介して」知ることを意味する。
受=ヴェーダナーは感覚的に知ること、
想=サンジュニャーはイメージとして知ること。

行=サンスカーラ=(何らかのものをまとめて)つくり出すこと。
いろいろなイメージを総合して集めて意識を生み出す作用。
潜在意識。

 知を主体とした形成作用が五蘊の総体であり自己の正体だと結論づけてもよいかと思われる。
自己は形成するもの、形成されてきたものであって、はじめからこれといったものとして存在するのではない。

・ダルマ(原意は「保持されるもの」)
=法則・規範、正義・善、宗教・教え、存在するもの

現代のインドでは英語のレリジョンの訳語としてダルマが採用されている。
仏教のインド名は、バウッダ・ダルマ(ブッダの法)。
日本に仏教が伝来した当初、仏教は「仏法」と呼ばれていた。
仏「法」興隆の詔。
江戸時代には「仏道」の呼称が一般的。
仏教という言い方が定着したのは明治時代以降

インド人は宗教について語る場合でも、「ダルマを信じる」という言い方をせず、あなたはどういうダルマを持っているかをたえず問題にする。
この場合のダルマは何らかの信仰というより、むしろ自分を律するもの、みずからの行いの根拠、といった意味に近いだろう。それなくして人は人でなくなってしまうと思われているほどのもの。

インドの哲学用語としてのダルマの意味は「場所に存在するもの」。
山に煙がある場合、煙は山のダルマであるといえる。
場所としての山は、煙の「保持者」(ダルミン)と呼ばれる。
インド人は、壺が青いことを、壺に青がある、と表現する。壺という場所に青が存在していると考える。
青色は壺のダルマである。青は壺に保持されるもの。壺は青色というダルマの保持者(ダルミン)。
 インド人はダルマという言葉を聞くと、それが文脈によって、規律とか善とか正義とか教えとか、どのような意味で用いられていようと、それはどこに存在するか、保持するものは何か、その場所はどこか、ということを反射的に考える。とにかくダルマはどこかに存在するもの。

・諸法(もろもろのダルマ)
=存在するものすべて。

・空相=空という特徴。
相(すがた)ではない。相には、手相や家相や真相のように、外に現れた形(によって知られる内面の姿)という意味があるが、原語「ラクシャナ」は「AをA以外から区別するための目印」といったほどの意味で、つまり単純に「特徴」という意味。
相=ラクシャナ=XをX以外から区別するための目印=特徴。

・イハ(ここにおいて。ここ。この場所)は漢訳では省略されている。
イハ、シャーリプトラよ。

・十二処の 
処=アーヤタナ=場所、休息所、自己を自己たらしめている根拠。

十八界の
界=ダートゥ=基盤、基礎、自己を自己たらしめている根拠。

感覚(六根)で感知(六境)して認識(六識)する。

根=インドリア=感受する作用、能力、機能、感覚の装置(センサー)。
センサーは感知するだけで判断はしない。

六つの感覚の装置がとらえる対象が六境。
境=ヴィシャヤ=対象となる領域または対象範囲。
法境(心的対象)の法(ダルマ)は単に心のはたらきが向かうところという意味。

・十二縁起
①無明=アヴィディヤー。
(明知=ヴィディヤー)

②行=サンスカーラ。
③識=ヴィジュニャーナ

④名色=ナーマ・ルーパ
=個体的存在の精神的ならびに物質的な諸要素(五蘊とほぼ同じ)。

⑤六処(シャド・アーヤタナ)
=種々の感覚能力(装置、センサー)。
六入と漢訳されることがある。

⑥触=スパルシャ
=対象との接触。

⑦受=ヴェーダナー

愛=トゥリシュナー=渇愛。
さまざまな感覚にもとづいて欲望が生まれる。
感受したればこそ、それを我が物としたいという欲望が起きる。
これが愛。原義は「渇き」で、のどが渇いて水を飲まずにはいられないということに喩えられるような根源的な衝動を意味する。いわゆる煩悩。


⑨取=ウパーダーナ=執着。
これのみが正しいとか、我が物を離すまいという頑強な気持ち。これも煩悩。

⑩有=バーヴァ=存在すること、起きること。
ゆるぎない(いい意味でも悪い意味でも)個人的自我がついに確立されてしまう、その確立。

⑪生=ジャーティ=誕生、生まれること。
著者は、誕生ではなく、生存状態(生活)と解釈すべきだと考えている。

⑫老死=ジャラー・マラナ=老いること・死ぬこと。

・四諦の諦(サトヤ。パーリ語「サッチャ」)を真理と訳す誤り。
苦集滅道(四諦)なく、という一文は、四つの真理はない、という意味に解すると、真理はないということになる。真理はない、という経典があるだろうか。

苦諦は苦聖諦の略。
聖諦のパーリ語はアーリ・サッチャ。
これを現代の学者は、聖なる真理、と訳すのは誤訳だと筆者は考える。
苦聖諦は、迷いの生存は苦であるという真理ではなく、端的に「苦というダルマ」のことで、「確実なもの」と訳すのが妥当。

(いやいや、真理に「も実体は」「ない」って意味でしょ。
自性があるという意味で「確実なもの」がないってことでしょ。
『般若心経』は瞑想に「も使える」だけなんじゃないの?)

・智もなく得もなし、の「智」(ジュニャーナ)は、原語が違うので、般若の智慧(プラジュニャー)ではないことはたしか。智は知全般。

プラジュニャー
=プラ(「前に。前方に進める」を意味する接頭辞)
+ジュニャー(「知る」を意味する動詞語根)

・ダルマの結合(得)と分離(非得)。
もろもろのダルマを結合させるはたらき、すなわちダルマの獲得作用のことを、得(プラープティ)といい、
分離させるはたらきを「非得」(アプラープティ)という。

「無所得」は損得の打算を超えた心境ではない。得に対する非得、すなわちダルマを分離させるはたらきのこと。著者は、「以無所得故」を、「この故に、ここにはいかなるものもないから」と訳している。

・「菩提薩埵 依般若波羅蜜多故」
三人称単数の語尾を持つ動詞「ヴィハラティ(安住している)」に対する主語は彼、菩薩。

依般若波羅蜜多の
「依」=アーシュリトャ=~を拠り所として、~に立脚して、~を基盤として。

・「心無罣礙 無罣礙故」
の心=チッタ。
経題の心=フリダヤではない。
罣礙は、
罣=引っかけるもの、
礙=妨げるもの、
を意味し、
アーヴァラナを翻訳するためにつくった述語だと思われる。
アーヴァラナ=妨げとなるもの、閉ざすもの、覆うもの、取り囲むもの。

・「無有恐怖 遠離一切 顛倒夢想」
の「一切」はもとの玄奘訳にはない。サンスクリット原典にもない。
「一切」があるのは羅什の訳であり、おそらく、読誦する際に語調を整えるために挿入されたのではないかと著者は思う。
『般若心経』は読誦経典として、できるだけ四文字でリズムをとれるように工夫されている。
「無有恐怖」の「有」はなくても文意に影響しない。

顛倒=ヴィパルヤーサ=逆さま。

「夢想」は漢訳の段階で補われたもので、対応するサンスクリットはない。
顛倒を強調するためだと思われるが、要するに、ないものをあると考えることが「顛倒夢想」。

遠離=アティクラーンタ=階段を昇りきっている=超越する。

・サンスクリットの「ニシュタ・ニルヴァーナ」は「涅槃に安住している」または「涅槃を達成している」というほどの意味。
「究竟涅槃」では「究竟の涅槃に入る」と解すべきだという人もいるが、究竟は余計で、「涅槃に入る」で十分。

・ニルヴァーナ。
〔=「ニル」(接頭辞)
+「ヴァ―」(動詞語根「(風などが)」吹く)
=(風などが)吹いて、なくす〕
=吹き消すこと、吹き消した状態。
燃え盛る煩悩の火という意味はない。
諸仏典には煩悩や苦蘊が燃え盛る火に喩えられ、火を消す、火を厭うといった表現がみられるが、火を消すには水をかけるとか、燃えるもの自体をなくすのが一般的であり、吹いて消す、という用例はまずみあたらない。

涅槃とは妨げない自由の境地。
語根「ヴァ―」に接頭辞「ニル」がついた動詞の使役形は、「香りを放たない」という意味しかない。
語根ヴァ―には香りを放つ、という意味もあるが涅槃とは関係がない。
外国のパーリ語研究者の間では、ニルヴァーナの語根はヴァ―ではなくヴリ(動詞語根「覆う」)であろうと考えられている。つまり、覆いのない状態。
空海は、妨げのない自由な境地が涅槃に入ることだと解説している。

(たしかに、煩悩の火は吹いて消える程度の火ではありませんよね)

・「阿耨多羅三藐三菩提」
=この上ない、完全な、さとり
=アヌッタラ・サンミャク・サンボーディ。

・「能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪」
真実と不虚は同じ意味を言い換えているだけのように見えるし、不虚が真実の理由になるとは考えにくいので、「故に般若波羅蜜多」と読んでしまうのだと思われる。
が、原典では「偽りがない“から”、真実である」文構成となっている。

不虚=アミティヤー=矛盾していない、嘘偽りでない。

・マントラ
=マン(「考える」を意味する動詞語根)
 +トラ(「手段」を意味する接尾辞)
=思考の道具。


日本語ではわけのわからない言葉を指して呪文のようだと言ったりするが、
インドでマントラのようだといえばそれは最高の褒め言葉。
インド人がなんのことわりもなくマントについて語るときは、いつでもそれはヴェーダの一節を指す。
仏教はヴェーダの権威を認めなかったので、初期仏教の時代にはマントラという言葉を用いることはなかった。
ただ、マントラに類する祈りの言葉は多少あったようだ。上座部と袂を分かった大衆部という部派は、経律論の三蔵以外に、陀羅尼蔵または持明蔵と呼ばれる多くの祈りの言葉を所蔵していたことが知られている。
パーリ聖典の中にもパリッタと呼ばれる守護句〔例えば、病気を防ぎ、あるいは治し、蛇の毒とか悪霊から身を守るために祈る言葉〕を誦えることが釈尊によって認められていたことが記されている。
 インド仏教徒がヴェーダの権威を認めなかったとしても、マントラこそ真に尊ぶべき祈りの言葉であるというインド一般の通念まで否定できたかというと、それは疑問。

・釈尊ご生誕の聖地ルンビニーの守護神は、生母マーヤー(摩耶)夫人。
釈尊を産んでわずか七日で没したマーヤーは幻影を意味する。
今はネパール領のその現地名ルンミンデーイの原意は、失われた女神。

・釈尊より数百年も隔てて作られた経典でも「仏説」とされる。
ほとんどの経典は「如是我聞(このように私は聞いている)」という言葉で始まるのが普通。
必ずしも釈尊から直接聞いたという意味ではなく、むしろ伝承されてきた教えの正統性を示す言葉だと考えられる。

・玄奘より後の時代に訳出された『般若心経』は、すべて「大本」からのもの。
大本=完全な形の経典。
完全な形とは経典としての一定の形式を踏まえていること。
如是我聞に始まり、だれが(導師)、いつ、どこで、だれに向って(会衆)説いたかということが明記されていて、そのあとで、「何を(教え)」が示されている経典のこと。
そして最後に「賛嘆の言葉」が述べられる。
要するに、序文、本文、結びの文がそろっているのが大本であり、普通の経典の形式。
ところが、玄奘訳の『般若心経』はこうした体裁が整っていない、本文だけの小本。
略された経典なら最初に大本が存在していなければならないはずだが、訳経史から判断すると、最初に小本が生まれ、そのあとに大本が生まれたようである。

・小本にはないが、大本では、舎利子(しゃりし)と観自在菩薩の対話に先立って、釈尊が瞑想に入る場面がある。また、釈尊の前に大勢の聴衆がいた。最後に釈尊が口を開き、観自在菩薩を褒め称え、それを聞いて皆が喜んだ。以上が、大本『般若心経』にある。

 【参考にしたもの】

【東方MMD】ひじりんが般若心経をサンスクリット語で歌いました
http://www.nicovideo.jp/watch/sm25260864
のコメント抜粋
“※「gate」は印欧祖語において「get」ど同根。意味は「向かう、行く」
※「samgate」の「Sam-」は強調の意味。「samgate」で「最後までやり遂げる、極める」の意味
※「Bodhi」は「仏陀」や「菩提」と同じく「budh(目覚める、さとる)」の活用形。
※「Svaha」は、古代インドのバラモン教の儀式において天上の全ての神々に捧げられた供物の事を指していた。転じて、願いが神々に届く事を祈る聖句とされ……供物を祭火に投じる時の掛け声としてこの言葉が唱えられた。“

中村元訳「般若心経」の『小本』と『大本』の比較
http://emuzu-2.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_40a7.html

般若心経(大本)_現代語訳
http://www.inner-wish.com/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%A4%89%E5%AE%B9%E3%81%AE%E9%81%93/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C-%E5%A4%A7%E6%9C%AC-%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3/

般若心経の周辺知識
http://hagiland.hatenablog.com/entry/20130429/1367220099

般若心経は真言を説いたお経 -エンサイクロメディア空海-
http://www.mikkyo21f.gr.jp/academy/cat48/

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月23日
般若心経メモ114
周辺知識

1. 色:物質的現象として存在するもの。外界にある物質全般。また特に人間の身体。
2. 受:外界からの刺激を感じ取る感受の働き。感覚。
3. 想:いろいろな考えを組み上げたり壊したりする働き。表象。

般若心経メモ115 周辺知識
4. 行:何かを行おうと考える意思の働き。意志、意志的形成力。 5. 識:あらゆる心的作用の基本となる、認識の働き。六識。六識については後述。 2~5の受想行識は精神作用、心の要素である。外界(物質界)のことはすべて「色」に含まれる。

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月23日
般若心経メモ116
周辺知識

☆十二処十八界

六根と六境を合わせて十二処と言う。十二処に六識を加えて十八界と言う。

六根とは、眼、耳、鼻、舌、身、意。
六境とは、色、声、香、味、触、法。
六識とは、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識。

般若心経メモ117 周辺知識 それぞれ対応している。六根の最初の5つ(五根と言う)は五感と同じ。身は触覚のこと。眼で色(ここでの色は五蘊の色とは違うのだろう)、耳で声、鼻で香、舌で味、身で触を認識する。これらで物質界つまり五蘊の「色」を捉える。

般若心経メモ118 周辺知識 六つ目の意は心のこと。心も認識器官と考える。意で認識するのが法。意をさらに五根と対応させたのが六識である。 五蘊十二処十八界を三科(さんか)と呼ぶが、これは後世の人が付けた名前で、ブッダ自身がそう名付けたわけではない。

般若心経メモ119 周辺知識 ☆四諦 ブッダが悟りを得た後に初めて弟子たちに説いた法のうちのひとつとされる(初転法輪)。この世の苦を滅して悟りを得るまでの四つの真理である。

般若心経メモ120 周辺知識 1. 苦諦(くたい):この世・人生は苦であるという真理。一切皆苦。 2. 集諦(じったい):その苦を生み出す原因は煩悩であるという真理。

般若心経メモ121 周辺知識 3. 滅諦(めったい):その煩悩を滅すると苦が滅し涅槃が実現するという真理。 4. 道諦(どうたい):その煩悩を滅するための具体的な道という真理。八正道。

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月23日
般若心経メモ122
周辺知識

☆四苦

1. 生:(輪廻によって)生まれる苦しみ。
2. 病
3. 老
4. 死

般若心経メモ123 周辺知識 ☆八苦 四苦に加え、 5. 愛別離苦(あいべつりく):愛する対象と別れなければならない苦しみ。 6. 怨憎会苦(おんぞうえく):憎む対象に出会わなければならない苦しみ。

般若心経メモ124 周辺知識 7. 求不得苦(ぐふとっく):求めても得られない苦しみ。 8. 五陰盛苦(ごおんじょうく):人間生存自身の苦しみ。

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月23日
般若心経メモ125
周辺知識

☆十二縁起

旧訳では十二因縁。また十二支因縁、十二支縁起とも。苦の原因は無明から始まり老死で終わるとされる、十二の因果の理法。これらは直線的な因果の連鎖であり、順序があるので注意。

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月24日
般若心経メモ126
周辺知識
十二縁起続き

中村元氏によると、

1. 無明(むみょう):過去世に無限に続いてきている迷いの根本である無知。
2. 行(ぎょう):過去世の無明によって作る善悪の行業。
3. 識(しき):過去世の業によってうけた現世の受胎の一念。

般若心経メモ127 周辺知識
4. 名色(みょうしき):胎中における心と体。 5. 六入(六処(ろくしょ)):胎内で整う眼などの五根と意根。
6. 触(そく):出胎してしばらくは苦楽を識別するには至らず、物に触れる働きのみがある。

般若心経メモ128 周辺知識
7. 受(じゅ):苦・楽・不苦不楽、好悪を感受する感覚。
8. 愛(あい):苦を避け常に楽を追求する根本欲望
9. 取(しゅ):自己の欲するものに執着する働き。
10. 有(う):取によって種々の業を作り未来の結果を引きおこす働き。

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2014年7月6日
@lanekota @wayofthewind @hogege55 @virusyana 反仏教の儒教とキリスト教が大好きbushido!
仏教伝来以前と明治以降=偽伝統。仏教国教時代=真伝統。仏教説話はあるが神道説話はなし。愛は仏教では迷妄と執着を齎す悪。仏教嫌いは愛の歌大好き。


ヒロチャ ‏@hogege55 2014年7月6日
仏頂面ありて神頂面なしとはこれ如何に!?…うーん "@kitsuchitsuchi: @lanekota @wayofthewind @hogege55 @virusyana …仏教説話はあるが神道説話はなし。…"

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2014年7月5日
@lanekota @wayofthewind 武士道
初出は江戸初期編纂の『甲陽軍鑑』。意味は個人的生存術。
山鹿素行(朱子学批判で赤穂に配流。門弟に大石良雄)の士道論など儒教道徳が影響。
耶蘇だらけの佐賀藩の山本常朝『葉隠』は生きる為のマナー本で禁書。
新渡戸の耶蘇流武士道。


はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月24日
般若心経メモ129
周辺知識

11. 生(しょう):生まれること。
12. 老死(ろうし):老と死。


はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月24日
般若心経メモ137
周辺知識

☆五趣輪廻・六道輪廻

1. 天道
2. 人間道
(3. 修羅道:五趣ではこれが無い。後から加わって六道輪廻となった。)
4. 畜生道
5. 餓鬼道
6. 地獄道

般若心経メモ138 周辺知識 五趣も六道もブッダが考えたのではない。後世になってまとめられた概念である。ダンマパダでは、「善趣」(良き境遇)と「悪趣」(悪しき境遇)として説かれているだけである。スッタニパーダでは、具体的に、ブッダのことばとして、「地獄」の様子が語られている。

般若心経メモ139 周辺知識 ☆輪廻 ブッダの仏教においては、輪廻は心の状態である。空間的事象あるいは世界ではない。また、必ずしも「善趣」つまり後の「天道」を肯定しない。天においても生病老死の四苦から逃れることはできないし、煩悩から解放されることもないからである

般若心経メモ140 周辺知識 ブッダにとっては、輪廻の先がどこであるかは大した問題ではないのである。輪廻そのものが苦なのである。なぜならばそれは「生病老死」の四苦の繰り返しに過ぎないからである。

般若心経メモ141 周辺知識 であるから、輪廻から脱し、涅槃に至ること、すなわち解脱することがブッダの仏教の究極の目標なのである。ブッダは善業も悪業も否定した。出家してひたすら煩悩を消すことだけに打ち込むべし。これがブッダの教えである。

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月1日
般若心経メモ10

「空」とは。

中村元氏(岩波文庫)によると「なにもない状態」というのが原意だそうだ。インド数学ではゼロを意味するとも。ゼロの発見がインドであったことに留意。「空」を「ゼロ」と考えた場合、五蘊皆空はどういう風に捉えられるだろうか。これは考える余地がある。

般若心経メモ11 「空」とは。 中村元氏の著書(岩波文庫)からの引用続き
> 物質的存在は互いに関係し合いつつ
> 変化しているのであるから、現象と
> してはあっても、実体として、主体
> として、自性(じしょう)としては
> 捉えるべきものがない。これを空と
> いう。


はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月3日
般若心経メモ28

度一切苦厄。
どいっさいくやく
=一切の苦厄を度したまえり
==一切の苦悩(苦しみ)や災厄(わざわい)を取り除いた(超えた)。

この一文は元の梵本には無い。玄奘が挿入したと見られる。実際、他の訳には無いが、羅什訳にはある
。これは奇妙である。

般若心経メモ29 玄奘が羅什を写したかという疑惑の根拠の一つであろうか。片方が片方を写したとすれば、時代的には羅什が先であるから、玄奘が羅什を写したことになる。しかし羅什訳も本当は羅什ではなく、玄奘より後の誰かが訳したのではないかとの疑いもあり、断定はできないらしい。

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月3日
般若心経メモ32

菩薩は大乗仏教特有の存在で、ブッダの時代にはなかった。ブッダの時代にはいなかった菩薩が、ブッダの弟子で実際にいた舎利子に説いている。あり得ない構図である。

佐々木閑氏によると、ここに、大乗仏教がブッダの仏教より上だと言いたい作者の意図が読み取れると言う。

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月5日
般若心経メモ42

第1段:色性是空 空性是色

中村元訳
この世においては、色は空であり、空だからこそ、色であり得るのである。

解釈
この世のあらゆる物質的存在・現象すなわち「色」は常に変化している。また、常に変化しているからこそ、「色」として認識されるのである。

般若心経メモ43 第二段:色不異空 空不異色 個人的訳案 色といっても、それは空と別ものではなく、空を離れてあるのではない。また、空といっても、それは色と別ものではなく、色を離れてあるのではない。

般若心経メモ44 つまり、色と空は不可分同一のものであるということである。 また、中村氏によると、第二段は第一段の思想的表現であると言う。

般若心経メモ45 僕は以下のように解釈した。 これはつまり、一切のものは、実体がないという状態つまり「空」において、あらゆるものと関係し合うことによって、物質・現象として、つまり「色」として、初めて成立しているのである。

般若心経メモ53 佐々木氏は、五蘊皆空を「五蘊とは実在の要素ではなく、『実体を持たないという状態』に与えられた仮の名称だ」とも述べている。ここに釈迦の時代の仏教を否定する明確な主張が現れているのだ、と。

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月6日
般若心経メモ57

なお、ブッダの言う「空」と般若心経の「空」を混同してはならない。これは佐々木閑氏もはっきり、違うと言っている。

ブッダの時代にも「空」の概念はあった。「ブッダのことば」1119段には、ブッダ自身の言葉として、翻訳を2つ挙げる。

般若心経メモ58
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空と観ぜよ。(中村元氏訳、ブッダのことば、岩波文庫)
「ここに自分というものがある」という思いを取り除き、この世のものは空であると見よ。
(佐々木閑氏訳、100分de名著テキスト、NHK出版)

般若心経メモ59 ブッダの「空」観とはどういうものだったのか。佐々木氏によると、それは、ブッダの世界観、すなわち「五蘊十二処十八界」と「法」から来るものである。 以前言及したように、十二処とは六根と六境を足したもの。それに六識を足したのが十八界であった(般若心経メモ7)。

般若心経メモ60 法とは、「世間の実相」「世界の真理」を言う。この真理を具体的に言えば、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」である。また、法には十二縁起の法もある。さらに、四諦の法もある。

般若心経メモ66 ブッダの世界観は、我々が「そこに存在する」と思っている対象は、実体のない虚像に過ぎないということになる。 実体のない虚像であるということ、これが、ブッダの言う「空」の意味であると佐々木氏は言う。 かなり唯心論的な見方であると言ってよかろう。

般若心経メモ67 これは般若心経の「空」とは全く異なる。般若心経では、十八界も諸法も無いのである。何も無い状態が「空」なのである。

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月7日
般若心経メモ68

般若心経の「『色』は常に変化している」とブッダの説く法の一つである「諸行無常」あるいは「無常」を混同してはならない。両者は異なる思想に基づく、別の概念である。般若心経では、法もまた、常に変化しているのである。

般若心経メモ69 こうなるともう般若心経はとにかくブッダの教えの完全否定である。そして実際、そうらしいのだ。その理由について、佐々木氏は、大乗仏教が興った当初は、新興勢力であったため、古い教えを刷新しようとしたのではないかと述べている。

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年3月11日
般若心経メモ99

阿耨多羅三藐三菩提は原語アヌッタラー・サムヤックサンボーディanuttarā samyak-saṃbodhi の音写。無上正等正覚と意訳する。「この上もない、正しく平等な目ざめ」「完全なさとり」の意。仏の覚りを指す。

般若心経メモ101 是大神咒。 ぜだいじんしゅ =これ大神咒なり。 ==大いなる真言、 大神咒は原語マハー・マントラ mahā-mantra の訳。「神」の字は漢訳者の挿入らしい(中村元氏の推測)。マントラは通常、咒、明咒、真言と訳される。原語直訳ではおそらく、大咒

般若心経メモ102 是大明咒。 ぜだいみょうしゅ =これ大明咒なり。 ==大いなるさとりの真言、 原語はおそらく、マハー・ヴィデヤー・マントラ mahā-vidyā-mantra で vidyā はさとり(無明に対する明)の意。

般若心経メモ103 是無上咒。 ぜむじょうしゅ =これ無上咒なり。 ==無上の真言、 原語はおそらく、アヌッタラー・マントラ anuttarā-mantra で anuttara はこの上もないの意。

般若心経メモ104 是無等等咒。 ぜむとうどうしゅ =これ無等等咒なり。 ==無比の真言は、 原語はおそらく、アサマサマ・マントラ asamasama-mantra で asamasama は比類の無いの意。

般若心経メモ107 掲帝掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎訶 ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか ==(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。)

般若心経メモ108 原語は gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā である。gate 以下の4語はおそらく女性形単数の呼格。

般若心経メモ109 完全な智慧 - 般若波羅蜜多(prajñāpāramitā)を女性的原理とみなして呼びかけたのであろうと中村氏は解釈・推測する。bodhi も呼格である。svāhā は、中村氏によると、咒の最後に唱える秘語。

般若心経メモ110 gate を於格(場所を示す)と解すると、以下のようにも訳し得る。 往けるときに、往けるときに、彼岸に往けるときに、彼岸に完全に往けるときに、さとりあり、スヴァーハー。

般若心経メモ111 この呪文が、五蘊皆空と並ぶ般若心経のもう一つの真髄である。実際、心経の「心」には「呪」の意もあることから、まさにこの呪文こそが「般若波羅蜜多心」とも言える。


はぎ ‏@hagi_ojy 2013年2月20日
般若心経メモ
般若経は紀元前後、つまりブッダの時代より5〜600年後にインドにて起こった大乗仏教の経典。作者不明。般若心経はその中のひとつ。
ブッダの教えではない。むしろブッダの教えを否定することによってブッダを超えようとしたとも考えられる。

般若心経メモ ちなみに、ブッダの呼び名は、釈迦、釈尊、釈迦牟尼、釈迦尊、世尊、仏陀、如来、ゴータマ・シッタッダ、ガウタマ・シッダールタ、多陀阿伽度、阿羅訶、三藐三仏陀など多数。

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年2月21日

般若心経メモ
波羅蜜多(新訳)、波羅蜜(旧訳)とは、梵語パラミータの音写。
此岸から彼岸に渡る(つまり悟ること)、あるいはそれによる究極最高・完成態。大乗仏教において菩薩が修めなければならない実践徳目。

般若心経メモ 般若経では、波羅蜜多(波羅蜜)には六波羅蜜多があるという。
1. 布施波羅蜜 - 檀那(だんな、Dāna ダーナ)
2. 持戒波羅蜜 - 尸羅(しら、Śīla シーラ)
3. 忍辱波羅蜜 - 羼提(せんだい、Kṣānti' クシャーンティ)
4. 精進波羅蜜 - 毘梨耶(びりや、Vīrya ヴィーリヤ)
5. 禅定波羅蜜 - 禅那(ぜんな、Dhyāna ディヤーナ)
6. 智慧波羅蜜 - 般若(はんにゃ、prajñā プラジュニャー)

はぎ ‏@hagi_ojy 2013年2月24日
般若心経メモ2

菩薩は原語ボーディサットヴァの音写。さとりを求める者、求道者。元来はブッダの前世の呼び名だったが、大乗仏教興起時代の革新派以降、求道者一般を指す。


王王大栄 ‏@ououdaiei 12月21日
他宗旨や違った意見の集団と殺しあった欧米で「信仰の自由」が生まれるのは、まあそれだけ宗教=耶蘇教の支配・洗脳が深刻だからだろうか。仏教は当然として儒教でも他の宗旨は「実力行使」されない限りに他宗旨を実力排除しなかった。それだけ耶蘇教・一神教は面倒な思想に思う。

王王大栄 ‏@ououdaiei 12月22日
信仰を第一義とする耶蘇教は、信仰が違うことは、致命的な衝撃を受ける。ので簡単に殺しあえる。それが欧米。東洋は「信」も究極的には「行」の範疇に入れてしまえるので、話し合いができると思える。信の果ての「悟り・救い」が目的なので、方法の変えが効く。

(仏教では、信仰や教義に執着するのも「苦=悪」なので、信仰や教義はあくまで悟るための手段です)



菊池 ‏@kikuchi_8 12月20日
個人の信仰を批判する事と、利権・権力団体としての「宗教」を批判する事は全く異なる。社会の不正に目をつぶり黙っている事は「幸福」ではなく、麻薬中毒と変わりがない。薄っぺらい「幸福論」はカルトが批判を封殺する手段たりうる。これではマルクスの「宗教は阿片」の言辞に抗しえないではないか。

この点キリスト教と仏教では全く異なる。仏教は対機説法という対話による説得や、のちに哲学として整備されてからは他学派との論理を極めた熾烈な喧々諤々の論争(龍樹は帰謬法を多用)を繰り広げた。論理的思考と対話による説得を主とし、「宗教を批判するな」という耶蘇的な権威主義的態度とは真逆。

そもそも「個人の信仰」だろうと批判していいのだ。むしろ、東洋ではそれが当たり前。一神教の西洋と違い宗教批判はタブーではない。仏教が出現した時代は様々な自由思想家が論争を繰り広げていた。支那の諸子百家の時代に幾つもの優れた思想が出現した。自由な批判・闘論から優れた思想は生まれる。


王王大栄 ‏@ououdaiei 12月21日
@kikuchi_8 内心の自由を尊重していても、それで他宗旨への攻撃や政治行動となると、当然規制をかける。信長以降の日本{明治までは特に}と中華圏とかインドはそういうのが了解事項に思えます。他宗旨を「邪教」よばわりする耶蘇やカルトが「個人の信仰を犯すな」など烏滸がましいと思う。

菊池 ‏@kikuchi_8 12月21日
@ououdaiei 同感です。日本も最初はキリシタンの信仰の自由を認めて、儒学や仏教と同じように受け入れていました。ですが先方が神社仏閣の破壊などの具体的な攻撃行動を始めたのでやむを得ず排除する事になりました。己の行状を反省する事も無く本当におこがましい物言いだと思います。

櫻薫をる戀ひ淚燈るる ‏@sakurakouyouhen 12月21日
@kikuchi_8 @ououdaiei
オメガオメガさんが以前ツヰートなさってました事ですが…
切支丹全盛期に宣教師と共謀し、大勢の日本人女性を海外に売り飛ばす商売をしてゐたのが、切支丹だったそうですね。學校の歷史の授業では、切支丹排除した豊臣秀吉公が惡者であると習います

菊池 ‏@kikuchi_8 12月21日
@sakurakouyouhen @ououdaiei その通りです。秀吉が理由なく切支丹弾圧したかのように書きますね。奴隷貿易は徳富蘇峰の「近世日本国民史」に書かれていたそうですが、官憲の命令で削除されたそうです。戦前からキリスト教の暗部への言及は禁圧されていたのが分かります

菊池 ‏@kikuchi_8 12月20日
自由に相互の思想を批判し合えるからこそ、平和なのである。一切の宗教批判を抑圧する歪な状況の方が、反動で武力による殺し合いに発展する可能性が高い。仏教と「六師外道」の時代や諸子百家の時代は言論の自由が保障されていた。我が江戸時代も同じである。国学、儒学、仏教、蘭学が入り乱れていた。

諸子百家の時代は平和ではなかったが、思想が自由だったからそうなったのではなく、むしろ平和でないからこそ、それを収めるにはどうすればよいか?という課題を背負って多様な思想が出現した。平和ではなかったが、思想は自由であり、古典の中の孔子も孟子も老子も荘子も墨子も其々活き活きしている。

マルクスは「宗教は阿片」と言ったが、共産主義イデオロギーも「阿片」である。硬直化して、更新を許さず、自由な思考を妨げる体系である点で、キリスト教と変わることはない。キリスト教会も共産党独裁政府も対話や討論ではなく、異端審問や粛清という暴力によって異論を抑圧してきた歴史がある。

結論。「異論を暴力的手段で排除するのは自信の無さの表れである」。批判的検討に耐えられないからこそ、対話を忌避するのである。そうでないなら、堂々と反論して返り討ちにすればよい。それをしないという事は非常に脆い思想・信仰という事である。横文字左翼が異論者をブロックするのも同じ
である。


日本酒まめちしき ‏@Sake_Mame 12月20日
【日本酒の呼称】日本の酒税法上では清酒(せいしゅ)、一般的には酒(さけ)またはお酒(おさけ)、日本古語では酒々(ささ)、僧侶の隠語で般若湯(はんにゃとう)、江戸時代にはきちがい水、現代ではポン酒(ぽんしゅ)と呼ばれることもある。 #sake


王王大栄 ‏@ououdaiei 12月22日
水子供養は、一つは「堕胎後の母親の心的トラウマ」のケアが、為されなかったことで燎原の火のように広まったと思う。多少は合理的で不要でもないと思う。けど、なにか煽りすぎている気も十分する。則「水子が恨んでいる」となると江戸までの日本では頻繁に行われた間引きで日本は呪殺されているだろう

かあこ ‏@0nigiri_3_ 10月14日
「しんぶん赤旗」「現代こころ模様・葬儀考」
 第4部「『墓』と人生」
http://www.jcp.or.jp/akahata/html/senden/200511_sogikou.html#24-29 …

水子とたたりはいつ結合したのか。弘文堂『新宗教事典』によると、寺などが水子供養を始めたのは昭和五十年(一九七五年)ごろから。だから、「水子供養への関心の高まりは一九七〇年代に入ってから」と述べています。 http://www.jcp.or.jp/akahata/html/senden/200511_sogikou.html#24-29 …

岩波『仏教辞典』も、 「一九七〇年代から」と書いています。一九七一年、埼玉県秩父山中に「紫雲山地蔵寺」が完成。落慶式には佐藤栄作首相(当時)らも参列しました。 http://www.jcp.or.jp/akahata/html/senden/200511_sogikou.html#24-29 …

建立者は反共右翼・紫雲荘の橋本徹馬山主。若き日の美智子皇后の不眠症治療に協力したとされる人物です。寺の別名が“水子地蔵”。水子の供養を売りものに、またたくまに一万体の水子地蔵を売りつくしました。http://www.jcp.or.jp/akahata/html/senden/200511_sogikou.html#24-29 …

これも神社の初詣とかと同じかあ。マスコミとお寺が結託して作り出した人心掌握術を使ったお金儲けの技だね。

王王大栄 ‏@ououdaiei 12月20日
誠天調書さんが「水子供養」に妙な医療利権と仏教利権があると指摘していた。大きな石の墓と長すぎる年期供養は、一種の利権もあると思う。母の話では昔の墓は、リサイクルして使っていたのでそこそこ墓場に人骨が転がっていたとか

かあこ ‏@0nigiri_3_ 12月20日
水子とたたりはいつ結合したのか。弘文堂『新宗教事典』によると、寺などが水子供養を始めたのは昭和五十年(一九七五年)ごろから。だから、「水子供養への関心の高まりは一九七〇年代に入ってから」と述べています。http://www.jcp.or.jp/akahata/html/senden/200511_sogikou.html#24-29 …

建立者は反共右翼・紫雲荘の橋本徹馬山主。若き日の美智子皇后の不眠症治療に協力したとされる人物です。寺の別名が“水子地蔵”。水子の供養を売りものに、またたくまに一万体の水子地蔵を売りつくしました。 http://www.jcp.or.jp/akahata/html/senden/200511_sogikou.html#24-29 …

ゼッキオ ‏@planbsk8rsgun 4月7日
@pimemepi @karimarimari 例えば、水子供養なんていうのは、比較的最近に、近代医療で堕胎が簡単になったのと、オカルトブームで、赤ちゃんの霊を怖がる人達が増えてきたのに、悪徳神社が乗っかって出来た商売で、昔はそんな事する神社は無かったそうです

完全閉店 ‏@lakudagoya 11月21日
仏法と兵法を使って陰謀論をやってはいけない法則 #陰謀論あるある

狼たちは知っている ‏@wolvesknow 2015年12月26日
三略も六韜も孫子の兵法も、曹操が注釈をつけた分の兵法も、全部読んだけど、たしかに、この視点から陰謀論を語る人はいないんだよね。皆、耶蘇教の匂いばかり。耶蘇教的なんだよ。リチャコシ、カレイド、フルフォードetc。で、仏法にお詳しい菊池氏は、よく絡まれるしね。わかりやすい奴らだな。笑

私のブログをご覧くださる方ならお分かりでしょうが、俯瞰する立場というのを固守しようとしてるわけで。 これは、兵法なんだよね。クラウゼヴィッツの戦争論じゃない。ましてや耶蘇教の連中にはできない事。なのに、工作員とか言われる時があって、世界は広いなーって思う。


狼たちは知っている ‏@wolvesknow 2015年12月12日
六韜や孫子の兵法なんてのは、明治初期までは日本人の基礎的な知識だったよね。文明開化で西欧史上主義に誘導されるまで、中国の歴史や思想を学ぶのは基本だった。兵法を学ばれるのはそんなに都合が悪いのかな? それよりマキアヴェッリの君主論を知られる方がまずい気がするが。

完全閉店 ‏@lakudagoya 11月21日
サタンを叩く陰謀論者はいても、マーラに打ち勝とうと頑張る陰謀論者はいない法則 #陰謀論あるある

王王大栄 ‏@ououdaiei 12月15日
仏教っていうけど、日本はもともとは「仏道」「仏法」といっていた。生きための作法・方法ってこと。宗教も英語を日本語訳にした時に老子からもってきたことば「それを私の教えの宗にしよう」生きる作法であって「信仰・信じる」とかでもともとなかったようだ。

そういえば、インドでも「宗教」は「ダルマ」という「法・生きる作法」みたいなもの。仏法も「ブッダ・ダルマ」仏陀の法ってこと。この方が大過ない見方に思えるけど。


王王大栄 ‏@ououdaiei 12月16日
訂正・仏教っていうけど、日本はもともとは「仏道」「仏法」といっていた。生きるための作法・方法ってこと。宗教も英語を日本語訳にした時に老子からもってきたことば「それを私の教えの宗にしよう」生きる作法であって「信仰・信じる」とかでもともとなかったようだ。

STB ‏@RC_StB 6月24日
日本会議が如何に低能か 薩摩長州の芋侍が出てきて、廃仏毀釈をやらかし、そいつらの生き残りが「日本は保守の国」と嘘を付き続けている して、これを見よ
「天皇、仏法を信じ、神道を尊ぶ」(用命紀)
「仏法を尊び、神道を軽んず」(孝徳紀)
大日本帝国は日本史上稀な伝統破壊者だぞ(笑)



完全閉店 ‏@lakudagoya 10月17日
陰謀論コミュには、聖書の引用をベタベタ貼ってやつらを叩く陰謀論者はいても、般若心経やスッタニパータやダンマタなどの仏典を引用してやつらを批判する陰謀論者っていないよね?なんで?

安保 多稼士 ‏@AmboTakashi 2015年11月5日
支配層が仏教の中で特に破壊したいのは、論理的思考を重視する姿勢と、一神教と新プラトン主義を完全否定する無記と空と無常と縁起の思想。 工作員はキリスト教か神道カルト(大本教系)信者だらけ。工作員でない人の思想は仏教寄りの人が多いです。http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

松島 潤平 matsushima-JP ‏@matsushimaJP 2010年7月1日
この機会に改めて六曜について調べてみたんだが、仏教との関連はゼロ、というかむしろ仏教は六曜に否定的なんだな。あくまでも中国起源の占いにすぎんと。そもそも釈迦は占いを禁じていて、親鸞様なんかは「日の吉凶を選ぶことはよくない」と和讃で説いたため、浄土真宗ではほぼタブー

獅子十六 ‏@lion_sixteen 6月19日
そもそも仏教とは一切関係無いし、親鸞は六曜の類を否定してるからな。なお門徒でもジジババは気にしてる模様。 RT @simasyodes: 先輩の結婚式仏滅やったが普通に暮らしてるな RT 赤口で結婚式なんてざらにあるからね。仏滅と赤口の土曜日を避けてたら6週間で4日しか無くなる。

イクヰロン @iqr191
「仏滅 「仏も滅するような大凶日」の意味。元は「空亡」「虚亡」と言っていたが、これを全てが虚しいと解釈して「物滅」と呼ぶようになり、これに近年になって「佛(仏)」の字が当てられたものである。」 仏関係ねーのかよ!!!!!!!

直野隆一郎 ‏@naono 2014年6月5日
元々はそれほど縁起の悪い日ではなかったそうで。なお、仏事と六曜は関係ないので、「釈迦の死んだ日とされる2月15日が旧暦では必ず仏滅になるのは偶然」、これが一番びびったw ◆ 意外と知らない「仏滅」の歴史と基礎知識|NAVER まとめ http://pyn.jp/1kyB3XH

陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 @Keiya_Takahashi 2015年12月26日
県が「大安や仏滅の記載は不適切とカレンダー回収」 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151226-00050002-yom-soci … 大安や仏滅などの六曜が暦に載ったのは明治時代からで陰陽道が関わった江戸時代までの暦はその月の十二支と同じ十二支の日を「建」とし「除、満・・・」と続く中段(十二直)を中心にしていた。

でもね、市販されるカレンダーや暦などには大安や仏滅などの六曜が載っていないとあまり売れないのだそうだ。ところで、陰陽道が関わった江戸時代までの暦でその日の吉凶などを見るのに参考にした中段(十二直)は、香港や台湾などの風水でも吉日を選ぶ時に今でもよく参考にされるようだ。



「人生というクソゲーを攻略する方法」。原始仏教は宗教=執着=苦しみの原因を否定。つまり原始仏教は苦を克服する為の現実的なカウンセリング術
『バウッダ―仏教』。 キリストきょうはユダヤガワルイをとなえた! キリストきょうをたたけなくなった! ✝が黒幕。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-65.html
・「仏教」という言葉の使用例は存外に新しく、明治期の日本が欧米「近代」の移入を図った時に軌を一にする。「仏教」の語は「仏の教え」を意味する少数の場合を除くと、江戸時代末期まで知られていない。
江戸時代までの文献では「仏教」という語はほぼ絶無。教えないし理論については「仏法」といい、
実践に関しては「仏道」(この原語は「さとり」そのものをいう)の語が用いられており、仏法と仏道という語に日本人は(中国人なども)千数百年間なじんできて、今日でも一部は維持されている。
五世紀以前の中国では「道教」とも呼ばれた。
また、多種多彩な漢訳仏典中から特定の教えをみずから選びとって「宗(むね・主・本・長)」とすることが六世紀の中国に生まれ、その宗の教えとして「宗教」の語がここに発明された。
宗教は仏教の下位概念に属し、仏教徒のあいだでのみ用いられて、日本でも明治初期まで仏教諸宗は「わが宗教」と称し、かつ仏教は仏法や仏道(単に「道」だけでも仏教を意味する)などの語で表現されていた。
江戸末期の開国で外国語の翻訳としての今日の用法が定着する。仏「教」としたところにすでに西洋思想による変容がなされている。
同時期に哲学という造語が誕生し、仏教・宗教の後も本来的意味を改変されて、すでに日常語化して現在に至る。
宗教とは「宗」派の「教」えであるから、仏教の下位概念であり、仏教者のあいだでのみ宗教という語は用いられた。


完全閉店 ‏@lakudagoya 5月31日
ぬこたさんは、最近アーリアン思想のアニメやラノベを解析するためにインドの宗教について調べてるけど、まさか検索するまでアートマン=息って知らなかったよ。アートマン=息だとすると、天人と混血しないと魔術使えない「魔術士オーフェン」というのが、アーリア思想だってよくわかるわ。

だって、ポピュラーな「音声魔術」ってアートマン=息という観念そのままでしょう?インド・イランの宗教には(仏教も含め)お経を声に出して唱えるってのがあるし(般若心経やヨーガにすらマントラってあるでそ?)そこがわかれば、本質がわかるのかも?

ほれ、魔術士オーフェンのWikiだhttp://mjk.ac/2LX9Es フォルテ・バッキンガムってロスチャイルドを連想したぞ?wwwドラゴン種族と混血しないと魔術使えないって、バイキングの竜座のα星の北極星信仰だろうな。まあ北欧神話だし、アーリア思想マンセーなのかも?



ヤハウェ(エジプト系の雷神)が奈良の大仏(アーリア系の太陽神仏)なわけねーだろ!  
真言宗が景教(人の神格化禁止)なわけねーだろ!  
                   
ヨガ、呼吸法、瞑想法でリラックス! 『呼吸法の極意 ゆっくり吐くこと』・『ヨガ呼吸・瞑想百科』・ 『ハタヨガの真髄』・『禅の本』・『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-110.html
” マントラ(呪文を繰り返し唱える)の目的は、乱れた心を一点に集中し、考えを一つにまとめること。マントラは、ヴェーダ(聖典)の讃美歌の部分であり、音楽を帯びた詩である。その詩を繰り返すことがマントラであり、愛と自己を捧げるまじめな心で行うと、自己を神に近づけることができる。
・プラーナーヤーマの実践中にマントラを繰り返し、舌や口を動かさないでそのマントラに意識を集中する。そうすると集中力を身につけると同時に、吸気、クムバカ、呼気の長さを伸ばすことができ、呼吸がスムーズになり意識も高まる。
・マントラは早く繰り返してはならない。吸気、呼気とクムバカをそれぞれ同じ長さで平均したリズムで行い、それに合わせるべきである。
・マントラは「アー・オ・ム」”

日猶同祖論や景教渡来説のおかしさ
http://kokuhiken.exblog.jp/24803627/
”〇兵庫県に大避神社という神社がある。御祭神は秦河勝である。この時点で「秦氏=猶太人説」「秦氏=景教徒」という説は崩れるのではないか。猶太教や景教を含む耶蘇教では人を神として祭るのはご法度のはずである。こういう基本的な事柄を無視することからして日猶同祖論や景教渡来説はうさん臭い。

日猶同祖論者は日本人と猶太人の宗教観の違いという根本的なところを無視する。どこそこにダビデの星があるとか、この日本語はヘブライ語と響きが似ているとか、その手の後付とかどうとでも解釈できる枝葉の部分ばかり強調する。猶太教徒にとって最も重要な宗教観の部分で日本人と猶太人は相容れない

日本はアニミズムの国であり猶太人が重視する「天地の創造主」という信仰は無い。「猶太教が一神教化する前の多神教徒としてのヘブライ民族が渡来したのだ」と言う者もいるが、それならば道教やヒンドゥー教の神々も仏教の護法神として渡来しているから「猶太」だけ取り立てて言う意味がない

〇「多神教徒としてのヘブライ民族が渡来した」とまで言って、あくまでも日本と猶太を結び付けようとするのは、何らかの政治的意図があるとしか思えない。道教の神もヒンドゥー教の神も日本に渡来している。例えば金刀比羅宮の御祭神はガンジス川のワニの神である。かと言って日印同祖論は言われない。

〇修験道も日猶同祖論において定番である。小箱の頭巾やほら貝が猶太教で使われる物と似ているといった類である。しかし、修験道と猶太教は根本的に世界観が異なる。修験道は原始アニミズムを色濃く継承し、木石など自然物を崇敬する。超越神を崇拝する猶太教でそれはあり得ないだろう。根幹が違う。

〇とはいえ一神教的な傾向を持つ修験一派が存在するのも事実である。それが丹波や鞍馬山の人脈である。インサイダー筋が大本教の母体として示す大江山の霊媒集団や神智学の影響を受けている鞍馬寺の鞍馬弘教等である。大本一派は一神教的だが元々かかる傾向性を持つサンカの修験一派が母体の可能性。

古代のラビと修験者の頭巾やほら貝、服装が似ていたとしても「だから何」という程度の話に過ぎない。そんな事より、明らかに意図的に「天地の創造主」というキリシタン神学由来の概念を導入した平田篤胤の方が問題である。出口王仁三郎もその神観を継承している。同祖論もこの周辺が主に唱える。

〇ネストリウス派=景教は人性と神性を明確に区別する。マリアも「神の母」ではなく「人性としてのキリストの母」という扱い。カトリックより人格と神格が厳格に区別されている。人と神の距離が近く、同一視し、場合によって人が神に命じる関係(例:役小角と一言主神)すらある日本の宗教観と隔絶する。

〇神智学徒のゴルドン夫人が高野山に大秦景教流行中国碑のレプリカを建立した。人性と神性はあくまで区別されるべきだとするのが景教である。一方、真言密教は「即身成仏」つまり、人も仏も構成要素は同じ「六大」だから人と仏はゼロ距離だとする教義である。似ても似つかないどころか真反対である。


〇宗教観を見ると、景教渡来説がいかに胡散臭く、ありえそうにないかが見えてきた。正倉院の宝物と同じで西方の外面的な文物は多数渡来したであろう。法隆寺のエンタシス方式もそうである。しかし、日本人の宗教観は同じ汎神論文化の印度や支那とは親和性があるが、中東以西のそれとは隔絶が大きすぎる。

●●渡来説、●●同祖論の類は、枝葉の文物をいくら眺めても「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」という程度の「結論」しか得られない。要するに信じたいものを信じるという結果にしかならない。比較的明確な結論を得るには世界観や宗教観など思想の枠組みを比較するのがより確実と思う。

日猶同祖論の初期の論者の一人佐伯好郎は同時に景教渡来説の権威。日猶同祖論と景教渡来説は初期からセット。佐伯は英国聖公会のキリスト教徒。聖公会は英国諜報員とメーソンの巣窟と渡部悌治先生述。猶太資本導入推進のために日猶同祖論を唱えたことを服部之総に告白。河豚計画の犬塚惟重の団体顧問。

景教渡来説を唱えている人士はキリスト教徒ばかりである。宗教的立場からの願望が投影されている「説」と言える。「いろは歌」まで耶蘇教の思想を歌ったものという者までいて驚いた。仏教の基本的教義を抑えておけば「いろは歌」は「有為=縁起したものの無常と、無明の克服」という趣旨と分かる。

〇猶太人のシンボルと言えばダビデの星=六芒星というイメージだが、六芒星が猶太のシンボルになったのは17世紀からである。六芒星はネパールでもよく使われるシンボルだそうだ。六芒星が伊勢神宮や松尾大社にあっても日猶同祖論の根拠にならない。猶太の古代からの象徴は七枝の燭台=メノラだろう。

〇石上神宮に安置されている七支刀がメノラだ!とかこじつける者もいる(笑)メノラは燭台であって刀ではないであろう。そもそもアニミズムの日本と一神教の猶太という根本的な相違がある。日猶同祖論者はわずかでも共通点があれば針小棒大に取り上げ、違いはどんなに大きいものでも無視する。


和訳聖書の「神」は漢訳聖書によって生まれた。
和風クリスチャン平田篤胤の弟子が国家神道政府の立役者。
鰐淵寺が出雲大社を管理していた。
真言、浅間大社、オウム、創価(法華神道系)、白光真宏会(大本教系の生長の家信者が教祖)は全て富士
関連。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-23.html
”・聖書の中国語訳はネストリウス派(景教)が最初でGODは「天尊」(仏教用語)。

中国に最初に伝えられたキリスト教は、431年の公会議で異端として追放された「ネストリウス派のキリスト教=景教」であり、伝来は635年とされています。
638年には唐の都である長安に波斯(ペルシア)寺(のちの大秦寺つまりローマ寺)が建てられるほど、一時は流行したらしいです(ペルシャってミトラとゾロアスター=キリスト教の元ネタを連想するのですが……)。
 641年ころの景教の典籍とみなされるものの一部が敦煌から発見されていて、わずかながら新約聖書やキリスト伝らしき文章が含まれています。
音訳と意訳中心です。

パン→餅
イエス→世尊
律法はそのまま
天国→天堂
十誡→十願
メシア→弥師訶
マリア→末艶

・GODを「神」と訳した現存最古の史料が18世紀のバッセ『四史攸編』(ししゆうへん)。


菊池 ‏@kikuchi_8
新プラトン主義は通常の人間には「究極真理=一者」は把握できないとする点で密儀宗教と結びつきやすい。「真理」を把握したと称する一部の神官団と奴隷信者衆というカルトの典型的な形態に非常に都合がよい構成である。秘密結社が教義の中核として新プラトン主義を採用したのには理由がありそうだ

J・ナナミ ‏@pinkglalem 9月6日
ゾロアスター教にミトラ教という救世主思想が生まれた。このミトラ教の教義をパクってカルト化したのがキリスト教。キリスト教は中東、オリエントに残る旧勢力(ゾロアスター、ミトラ)を一掃するために古代ローマの月信仰をもとにしたイスラム教を造った。ムハンマドの親類はクリスチャン。

J・ナナミ ‏@pinkglalem 9月6日
@pinkglalem アラーの起源はイシュタルが、イーノー(月の女神)やイシスになったのと同じ流れ。バビロニアでセミラミスと同一視されたけど、コレがギリシャのアルテミスになった。イスラム以前にはアラビア半島にはアルウッザやアラットという女神信仰があって、コレがアラーになった。

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 8月20日
@Vanswer 基本的に日蓮というのは、天台宗 復古主義で、念仏系(つまり法然) を嫌っていました。 法華経のお題目を唱えるのは晩年の ブレブレ日蓮になってからです。
ですので、日蓮の思想は 元の天台教をやらないとサッパリ 理解出来ない。天台教の欠点は やたらと難解で法華経だけ読んでも 全く分かりません。 教祖の天台智ギの解釈書の理解が 必須になります。

問題は天台バイブル三兄弟 はやたらと難しくて、かつての天台宗 でも最澄レベルの変人しか読む人が いませんでした。 興味があれば、法華玄義、摩訶止観、 もう一つは名前忘れましたが… s価系出版社のレグルスから出てるやつ だと思います、トライして見てください。

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 11月25日
神道カルトも、日蓮カルトも、 密教カルトも時代遅れかな。 卑弥呼カルトが今隆盛だが、 真のダークホースは上座仏教カルト かな? イルミちゃん達は今大事に育てるよ。 ただこれも橋渡しだな。 最終的にはプレ インドイラニアン系 のインダス/ ケルトアーリアン カルト に持ってく。

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 2015年8月4日
ねここねこさんの仏教の記事読んだ。 日蓮宗の箇所なんだが…… アレは元々は天台宗原理主義。 だから天台智顗の教えを知ってないと よく分からない。 法華玄義、法華文句、摩訶止観を読破 してほしいw 天台宗はガチ高度だから、パリサイ派の 悪口集であるキリスト教は足元にも 及ばない

仏教哲学の高度さは、一般人には 掴みにくいと思う。 西洋哲学でも「心の哲学」という 20世紀以降の哲学でようやく 同レベル。(サールとかデネットね) アウグスティヌスやアクィナスと 同じ水準だと考えたらいかんよ?

まぁ、それはさておき、 天台宗で重要なのは「悪は何処から来るか?」 という問題。 この時代の仏教ってのは黎明期の 仏教と違って、この世界は仏が 創造したみたいな教えになってる。 すると善の存在である仏が何故悪を 創ったのかという疑問が当然起こる。

元々の仏教は創造神がいないので こういう疑問は起こり得なかった。 まぁ、天台智顗は初期仏教の 阿含経(いわゆる今日で言う原始仏教) を低脳と一蹴してたので、創造神の いる法華経をベースに教義を 組み立てているから、当然この 難問にぶつかる。

そこで出たのが「天台性悪説」。 続きは添付論文読んどいて。 http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/36075/1/rel027010.pdf …
(天台性悪説の考察 : 仏教における悪の問題
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/36075/1/rel027010.pdf)

カルトでも何でもいいけど、 これぐらいは知識としてあった方がいい。


J・ナナミ ‏@pinkglalem 2014年5月7日
私のブログのコメ欄は承認制。公開してないモノには凄いのもある。ユダヤや聖書を否定すると、必ず反発がある。元来聖書に歴史的価値や科学的根拠を望むのは耶蘇原理主義の傾向。「あんなものは全部インチキ」と言って何の問題があるの?日本人はいつから、こんなに宗教的になった...?www


J・ナナミ ‏@pinkglalem 2014年2月20日
「陰謀論」と言うステレオタイプは、情報の流失を防げなくなった当局の予防線のよーなモノ(私には断末魔の悲鳴にも聞こえる)。彼らがその言葉を使い否定したい情報、その中に含まれる打消し難い真実が含まれている。その証拠に、本当にヤバい情報は、陰謀論者ですらスルーするwww。

J・ナナミ ‏@pinkglalem 2014年1月1日
@YouTube ユダヤ教は初期の段階で、魔術や生贄を否定した。アブラハムはイサクを殺さなかった。コレに対しキリスト教は魔術を行い。生贄になった者(キリスト)を崇めた。ダビデの星をシナゴーグで見ることは出来ない。ラビが嫌っている為。ところが教会では至る所で見る事が出来る

J・ナナミ ‏@pinkglalem 2013年8月21日
天台宗とかで、「南無妙法蓮華経」って、実は論理矛盾。「法華経に帰依する」という意味。ところが、その法華経の内容は、「帰依」自体を否定している。「この世のすべてのモノは移ろうから、何を信じても無駄だから諦めなさい。」と説いている。そしてその「法華経」も仏陀の没後千年に書かれたモノ

J・ナナミ ‏@pinkglalem 2013年8月1日
「色即是空、空即是色」⇒(物{色}はやがて移ろい。すべては執着するほどの意味を持たない。現世の否定の意味。) 「如是我聞」⇒(ブッタはそのとき~こう言った)

J・ナナミ ‏@pinkglalem 2013年8月1日
@alicetelos1 「色即是空、空即是色」という文言があるのでイスラム教徒は佛教徒を無神論者として軽蔑しています。ブッダの死後1千年も後に書かれた言葉ですが、ブッダなら言うだろうという事で仏典の(如是我聞の)主要テーマ。この価値観からすると、佛教徒は宗教を否定しています。

J・ナナミ ‏@pinkglalem 2013年7月2日
@JunjiHattori @suzukijyakusui 現世を否定し、信仰を否定している仏教徒は、イスラムでは「無心論者」として軽蔑の対象になります。仏教は実は宗教ではありません。無機質な哲学である仏教の本質について、仏教徒自身よりイスラム教徒の方が詳しいです。

J・ナナミ ‏@pinkglalem 2013年6月25日
@lanekota なんか、 笹川良一と牧口常三郎は出口王仁三郎の腹違いの息子だと言う話。佛教は執着と言って、現世を否定するんですけど...(だから出家する)。牧口常三郎が信仰したのはこの執着。それで、ヨーロッパの教会みたいな権力構造をめざしたみたい。

@lanekota 出口王仁三郎や笹川良一と血が繋がっていたと言われる牧口常三郎は明確に佛教の戒律を否定しています。だから、在家団体が誕生した。

J・ナナミ ‏@pinkglalem 2013年2月25日
聖書の内容はまさに殺戮の書。福音書は愛を説く。ココがキリスト教の詐欺的手法で、キリストは聖書を否定しない。結果クリスチャンの行った悪事を全部ユダヤの責任に転嫁。だから、この世で最も人を殺したのは、クリスチャン。彼らに罪の意識はありません。ユダヤと言う便利なアイテムがあるから...

J・ナナミ ‏@pinkglalem 8月16日
@koudaiin 色即是空。空即是色...この世のあらゆる物や事象は、何の意味も持たない...実は、佛教の真髄は「否定」にある。。「あなたの信仰は報われない」と教える宗教はない。...コレこそが、佛教が宗教でない所以

J・ナナミ ‏@pinkglalem
あたしは、神はいない。宗教は詐欺。って言ってンだから...あたしのタグを付けて、精神世界とかほざくな!馬鹿ルトども...!「神」ってのは、お前らが感染してる病気だ。

あたしの考え方はすごく単純で、この世には3種類の人間しかいない。嘘つきとバカと無神論者。無神論者以外は、ウソをついて誰かを搾取している捕食者(宗教)か、搾取されてもただ甘んじてるバカだけ。

メンヘラにとって「神」というのが一つの障壁になっている。もう人格の一部になっていて、コレを否定することは、それまでのその人の人生の全否定になってしまう。詐欺師たちはこの弱みにつけ込む。#カルト支配 #ReligionIsFraud

宗教は危険な生物兵器だョ。感染したら、思考のパターンが一定になって、家畜以下になってしまう。

最も危険な感染ルートは、母子感染。カルトに感染した家庭は必ず崩壊する。

私のツイートにかってにメンショって、絡んでくる馬カルトは、たぶんこのパターン。

世界的に流行し、最も感染力の強い精神病のことを、私たちは「神さま」と呼んでいる


秘密結社なんてないョ。やってるのはヴァチカンと銀行だけ...。

つーか、通貨そのものに疑問も持たないで、陰謀論とかほざいてンじゃァーねーョ。

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 7月6日
一時期流行った「セカイ系アニメ」にあるような、極端なセカイと私というものは、実はインドの梵我一如思想なんだよね。この構造がクリアにわかれば子供向けアニメに見えてくるものがあると思うよ?この記事面白いよね http://d.hatena.ne.jp/licheng/touch/20130120/p1 …
(仏教とヒンドゥー教の哲学上の相違についてまとめ
http://d.hatena.ne.jp/licheng/touch/20130120/p1
“仏法
目の前にある何か(人でも物でもなんでもいい)について、それがどういうものであるか列挙してみよう。例えば「御坂美琴」は「ツンデレ」であり「女子中学生」であり「科学サイド」であり「レベル5」であり「エレクトロマスター」であり「常盤台のエース」であり「短髪」であり… この場合、「ツンデレ」や「女子中学生」といった属性をインド哲学ではダルマ(dharma,法)と呼び、それらのダルマを有する「御坂美琴」という個体をダルミン(dharmin,有法)と呼ぶ。

では、「御坂美琴」から「ツンデレ」や「女子中学生」や「科学サイド」といった属性をすべて剥ぎ取って素っ裸にしたら(*´Д`)ハァハァ 、そこに何が残るだろうか?
「御坂美琴」の存在の核たる何かが残る。無色透明な「たましい」のような何かが有る、と考えるのがヒンドゥー教である。ヒンドゥー教ではそれをアートマン(ātman,真我)と呼ぶ。アートマンはなにものでもない。「~である」という説明はすべてダルマであって、ダルマをまとう核たるアートマンではありえない。なにものでもなく、なにものにもなりうるのがアートマンである。GHOST IN THE SHELL でいう「ゴースト」である。そして、アートマンはなにものであるかを超えて不滅であり、宇宙の根本原理であるブラフマン(brahman,梵)と一体であると説く。これを梵我一如(ayam ātmā brahma)という。自分の内にある自分の本体は世界そのものの本体に通じていると。まあ、今風に言えば「セカイ系」な思想
である。
いっぽう、何も残らないと説くのが仏教である。「御坂美琴」とは「ツンデレ」や「女子中学生」や「科学サイド」といった無数の属性の集合体にすぎず、それらを離れたところに「御坂美琴」の本体など無い。これを諸法無我(sarva dharma anātman)という。諸法無我は三法印(trilakṣaṇa)のひとつであり、仏教の基本中の基本である。たとえばブドウ糖C6H12O6が炭素と水素と酸素の化合物であって、ブドウ糖という不滅の実体など無いように、「御坂美琴」も「ツンデレ」や「女子中学生」や「科学サイド」といったダルマの化合物であって、「御坂美琴」という不滅の実体など無い。有ると考えるのは妄想にすぎない。ヒンドゥー教の悟りがアートマンの実在を悟る「自分さがし」であるとするなら、仏教の悟りはアートマンの不在を悟る「自分なくし」である。

そのため、仏教はヒンドゥー教正統派からはしばしば虚無主義(ナースティカ,nāstika)呼ばわりされてきた。ブラフマンとアートマンの不滅を説くヴェーダ(veda)の教えを否定する異端のニヒリストめ、と。しかし、仏教はけっしてニヒリズムではない。そもそも「あるある!」とか「ないない!」とかいう極論をしりぞけるのが仏教のスタンス、中道(madhyamā- pratipad)である。永遠不滅の「御坂美琴」が実在するというのも極論。「御坂美琴」なんてどこにも存在しないというのも極論。さまざまな偶然と必 然からダルマが寄り集まって、「御坂美琴」は一時的な存在として、しかしたしかに存在している。ブドウ糖が炭素と水素と酸素の化合物であって、燃焼したら 水と二酸化炭素になるからといって、いまブドウ糖が存在しないということにはならない。この世の全ては夢まぼろしのように儚いものかもしれないが、われわれにとってその儚い夢まぼろしこそ全てである。
この一見すると否定にみえるけどじつは肯定しているツンデレ論理こそが仏教の真髄だと思う。諸法無我とは「すべての存在に実体は無い」というよりは、
「か、かんちがいしないでよねっ。すべての存在に実体なんて無いんだからっ!」
というニュアンスである。


ところで、このダルマ/ダルミンの議論を見て、西洋哲学かじった人なら気づくと思うけど、古代ギリシアのプラトン、アリストテレスから中世の実念論VS唯名論に続く議論とそっくりである。まったくインド人とヨーロッパ人は親戚。同じ穴のムジナというか、同じユーラシアのインド・ヨーロッパ語族である。しょうじき、日本人の自分にはこんな議論はまったくどうでもいいと思う。(^^;)
”)

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 7月5日
本当に狡猾なやつは、罪を全部悪くない人に押し付けて自分は善人ヅラするからなー。あっ、西洋の根本思想のスケープゴートってこれの真髄か。おいらはいつ か、こういう狡猾なやつの思想を間近で観察したいから色々探求してるんだよね。企業が宗教をでっち上げる現場とか見てみたいよ。

仏教国に住んでるヌッポン人には理解できないだろうけどさ、ヌッポンが当たり前に思ってる仏教的な叡智とか、これは欧米では秘儀参入者しか知られてない知 識だったんだよ?今では学術的な研究で知られるようになったけど、19世紀半ばより前は秘密結社が独占する秘教的な叡智そのものだった。

お釈迦さんってのはとんでもない人で、インドの秘儀参入者だけにしか知られてない知識と技術を一般公開した上に、一部の人だけでなく、女性もアウトカース トの人も修行すれば悟れると言ったわけ。ヌッポンを初めとした仏教国というのはな、西洋の感覚ではイルミの教義を国教にしてるという国なんだよ。

だからなぜ、神道カルトの手羽先どもは仏教が嫌いもしくは無視しようとするのか?それはヌッポンに根付いてる仏教的な叡智を心底恐れてるからだよ。スピリチュアル見ればわかるけど、キリスト教支配ってのは反知性主義だから、キリスト教では悪とされる智慧を大事にする仏教は悪魔そのものだとね。


Keeta ‏@MissyKeeta001 11月26日
日本語には仏教由来の言葉が多い。挨拶、根性、馬鹿、自由、迷惑、退屈、我慢、愚痴、安心、金輪際、油断、覚悟、旦那、玄関、決定、有頂天、因縁、不思議、工夫、出世、世間、意地などは全部仏教用語らしい。日本人は無宗教なんてのは嘘なんだよね。

坊主バー(四谷) ‏@vowzbar_yotsuya 11月27日
天才バカボンの「バカボン」は仏教用語で「薄伽梵」と書きお釈迦様という意味。口癖のこれでいいのだは悟りの境地。レレレのおじさんはお釈迦様の弟子のチューラパンタカがモデル。子供のハジメちゃんは東大イン哲卒仏教学者中村元博士からとった。これから仏教を学ぶ方には天才バカボンをお勧めします

mimitchy ‏@mi_mitchy 11月28日
バカボンの名前の由来は釈尊を表す薄伽梵(ばがぼん)なのは有名な話だけど、仏教の到達点としての「起こる出来事をそのままに受け入れる」という境地は、まさに「これでいいのだ」なんだよね。赤塚先生は一体どこまでわかってやってるんだろう。すごいな。

陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 ‏@Keiya_Takahashi 11月29日
古い陰陽道の文献には五芒星がない。また土御門安倍家の菩提寺だった真如堂は「晴明判☆」初見の「真如堂縁起」を伝え、現在も晴明判☆を授与する。さらに室町時代頃から真言宗僧や修験者が晴明判☆を初めて記した「ホキ内伝」を全国に広めたという論文があるので、五芒星は仏教から来たと考えられる。

「五角形と五芒星は古くから五行の相生と相剋を表す図」とよく説明されるが、いろいろと調べてみたら、これは昭和時代初期頃から使われ始めたようだ。その証拠に安倍晴明の六壬式占書「占事略決」の他、大正時代頃までの暦や占い本に「木生火、火生土・・・、金剋木、木剋土・・・」と書かれている。

旅にゃんころ仙人2中級霊能者ハイジア ‏@goldencat222 12月
遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)というのは、あるものについて「こういうものだと判断し、そうと信じ込んでしまうこと」だ。人はこれを無意識に、たくさんしているので、そのガッチリ掴んでいるたくさんの手を緩めれば、これまでと違うパターンの連鎖ができる。

遍計所執性をひとつ除くというのは、心理系でよく言う「プログラムを書き換える」に相当する。余分を除いて、新しい連鎖パターンを作る。


陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 ‏@Keiya_Takahashi 12月4日
陰陽道は国家占い官庁、陰陽師は国家公務員占い師という公的なもの。また占いをすればよいから霊能力は必要ない。さらに特別な修行法もなく、占い知識の方が重要になる。そして祓いや祈祷の時に密教や魔法のような複雑かつ特別な意識的操作を必要としない形式的作法だから、密教や魔術・魔法でもない。

陰陽道は、国家的事件を占う官庁・役所であり、また六壬式占で占いをし、祓いを行う陰陽之術を使う国家公務員占い師の陰陽師の活動形態を指す言葉でもあるから、信仰する対象にはならなかった。だから、平安時代に安倍家は寺院で一族の平安と繁栄を願い、土御門安倍家は浄土宗寺院の檀家になったわけ。

安倍晴明や他の陰陽師が霊能力で怨霊や悪霊を祓った歴史的記録はなく、講談や物語で作られた虚構話。当時の慣例では怨霊や悪霊には密教僧や修験者が対処したが、将門の首塚は遊行念仏・時宗の他阿真教上人が、江戸時代には浄土宗の祐天上人が累の怨霊を済度している(怪談累ヶ淵、目黒の祐天寺開基)。

陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 ‏@Keiya_Takahashi 12月2日
今は占いや信仰は個人的と考えるが、昔は国家的なものと考えていた。だから災異や怪異の事件は将来に国家的規模で起こるであろう事件の予兆と考え、神祇官の亀卜や陰陽道の六壬式占で占い、主に護国(国を守る)の役割を担う仏教の儀式で祓っていた(陰陽道の祓いは補助なので行わないこともあった)

陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 ‏@Keiya_Takahashi 2015年9月28日
陰陽道が行う祓いの際、まず怪異や病気などを六壬式占で占って原因が死んだ人の霊による霊障(怨霊や悪霊など)の場合、当時の慣例として密教僧や修験者などに任せた。だが、竈神や土公神、または鬼(疫病を流行らせる疫鬼や人を食べる鬼の求食鬼など)によると判明した時は陰陽師の祓いが出番となる。

陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 ‏@Keiya_Takahashi 2015年9月27日
昔、怨霊や悪霊などを祈祷によって祓ったのは密教僧や修験者だったが、僧侶や修験者であれば誰でもよいわけではなかった。つまり荒行を行い、加持祈祷によって災いを祓い、病気を治す特殊な力を持つ「験者(げんじゃ、げんざ)」と呼ばれる霊験を現す僧侶や修験者でなければ、その任を果たせなかった

陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 ‏@Keiya_Takahashi 12月18日
江戸時代以前までの陰陽道の文献には五芒星はなく、ほとんど使った形跡もない。実は四縦五横印(ドーマン印)の方が多く、密教や修験道のように空間に切らずに反閇を踏む時に呪符と一緒に地面に描く。どちらかといえば五芒星は修験者や密教僧が多く用いており、「陰陽師=五芒星」説は時代的に新しい

陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 ‏@Keiya_Takahashi 12月2日
前にある人が「僧侶の祈祷でダメなら陰陽師を呼ぶのが昔の決まりだった」と述べていたが、そんな決まりは全然なかった。また「神職にも不可能な時」ともしていたが、江戸時代までは一部を除き、神社の祭りは主に僧侶が行い、神職は補佐なので僧侶や陰陽師が関わるような問題にはノータッチだったはず。

(祭りを坊さんが担当し、仏教化された神々を祀る施設って神社じゃなくて寺)


陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 ‏@Keiya_Takahashi 12月18日
「安倍晴明の五芒星は『五角形と五芒星が古くから五行の相生と相剋を表す図』が由来」と説明されるが、調べてみるとこの図は昭和時代初期頃から使い始めたようだ。なぜなら晴明の六壬書「占事略決」や他の大正時代頃までの暦や占い本に「木生火、火生土・・・、金剋木、木剋土・・・」と書かれている。

王王大栄 ‏@ououdaiei 12月1日
老子や荘子と韓非子と孫子が仲がいいのは、せいぜい人間の作れる秩序は「仮初めのもの」という見切りなり諦観があるからだろう。それが事態を動かせる重要なカギ。善用する悪用するかの違いがあるけど。

陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 ‏@Keiya_Takahashi 12月8日
陰陽道は哲学思想と無関係の現世利益優先の占い専門官庁だから、宗教のように来世や極楽で死後の魂を救う方法論はなく、全て坊さん任せ。また昔の貴族は死ぬ前に頭を剃り出家の姿となって指に結んだ紐を阿弥陀如来の画につないで死後に極楽浄土への往生を望んだが、陰陽師も貴族だから全く同じだった

ヒラ:// ‏@punanny_chang 12月8日
言った事が現実になる、これを言霊と言うわけです。寺の坊主はお経をモゴモゴ唱える。これは言霊が逃げないように、という理由。よく韻踏むためだけに簡単に言霊とか吐く薄っぺらいMCいるけどその意味わかってんのかよ?と。

王王大栄 ‏@ououdaiei 12月9日
荘子と禅仏教はかなり深刻な関係があると思う。荘子を読んでいてなんとなくそう思った。

スピ系が一瞬好きそうな荘子だけど。荘子はオカルトを無視もしないし重視もしない。「放置」に思える。それに執着するとそれにとらわれて痛い目に会う、と主張する。「神秘!」と騒ぐ暇があれば、ボーとしている方が良い。というスタンスの荘子。

「神秘」を有りがたがったり、崇めたりして時点で、その意味が消える。荘子的にはそうだよね。

孔子は、「神秘」は「敬して遠ざける」てスタンス。軽視もしないが無視もしない。それに取らわれて地道な日常を怠るのは断固ダメという立ち位置。

荘子から言うと、構えて瞑想するのも「無用な作為」とするところもある。が「包丁の例え」もあるが、修練も軽視しない。が瞑想や求道のための格別な修練には疑問符を付ける。日常こそ神秘の求道の実践の場。てスタンスも荘子にある。


狼たちは知っている ‏@wolvesknow 12月11日
六韜や孫子の兵法なんてのは、明治初期までは日本人の基礎的な知識だったよね。文明開化で西欧史上主義に誘導されるまで、中国の歴史や思想を学ぶのは基本だった。兵法を学ばれるのはそんなに都合が悪いのかな? それよりマキアヴェッリの君主論を知られる方がまずい気がするが。

高山龍智 ‏@nagabodhi 12月10日
ちなみに「のんのん」は観音の幼児語。広義のホトケサマ。他に「のんの」「のの様」など。地域によっては南無阿弥陀仏(なんまんだぶ)の幼児語「まんまんちゃん」も使われる。 https://twitter.com/yash_san/status/674810493161181184 …
Yash_san(´・ω・`)و ‏@yash_san 12月10日

水木先生の世界観に大きな影響を与えたのんのんばあは「拝み屋」の家のお婆さんだったが、昭和初期は病気は拝んで治すという考えが普通だったそうだ。昭和9年生まれの方に話を聞いたら、小学生くらいの頃に足が痛くて歩けなくなった時、近所の祈祷師みたいな人に拝んでもらったとか。

腎臓の病気を疑われた時は日蓮宗のお坊さんが家に来ておがんでくれたそうで、病気になったら取りあえず拝むということだったらしい。

「拝み屋」という職業はいつ頃まで成り立っていたんだろうね。

ららら らー ‏@LaLaLanLanLan 2012年7月27日
にチベット仏教を信じるチベットやブータンの人は、墓を持たない。墓に入れられ“執着”されると輪廻転生できなくなるからだとか。天国を信じるイスラム教徒も、“仮住まい”に過ぎない墓に執着することは戒められる。墓を持つくせ輪廻転生も天国地獄も信じちゃう日本人をどう思うか聞けば良かったな。

knznymmmy ‏@knznymmmy 2015年12月20日
私は輪廻転生お断りだな
こんなクソまみれの世界に生まれて何が楽しい?
二度と生まれたくなんかないね


イルミナティ@ ‏@RisingSun_kiri 9月26日
カルトを見破る方法。
①釈迦は涅槃して、二度とこの世に戻ることはない=生まれ変わりなど絶対ない
②キリストは、再降臨の時に本人が戻ってくるので、キリストの生まれ変わり・俺がキリスト とか絶対ない

カルトを見破る方法②
釈迦は預言者ではない(神というものがない
④教祖が神の言葉を伝える預言者であるならば、楽で豪華で金持ちな暮らしなどできない。イスラム教のムハンマド、旧約聖書のモーセ以外の預言者、キリスト=預言者は、大衆からいじめられ暴力をふるわれ最後に悲惨な状態で死ぬ


buvery ‏@buvery 1月30日
@hitoribbq 例えば、ヒンズー教徒はガンガーの河岸で焼いて、遺体を川に捨てます。だから、石の墓はない。親鸞が、死んだら鴨川に捨てれば良いと言ったのは仏教的には正しくて、輪廻転生しているから屍体や骨には意味がありません。骨に意味があるのは、儒教です。

Arbre De Soie ‏@ArbreDeSoie 2013年8月14日
なんで日本人はお盆に墓へ参り、家にお迎えするの?これは儒教の考えで、仏教ではない。儒教は孔子が中国で、仏教は釈迦がインドで開いたもの。輪廻転生の考えがある仏教は、先祖がこの世に帰る、盆や彼岸なんて考えはないはず。49日過ぎた魂は、またこの世に生まれるのだから。

王王大栄 ‏@ououdaiei 12月15日
仏教っていうけど、日本はもともとは「仏道」「仏法」といっていた。生きための作法・方法ってこと。宗教も英語を日本語訳にした時に老子からもってきたことば「それを私の教えの宗にしよう」生きる作法であって「信仰・信じる」とかでもともとなかったようだ。

宗教を信じるって決めつけたのは「信じる」から始める「パクティーヨガ系」宗教の耶蘇教の思想ってことだろう。そういうことで、信仰を第一にする現代の「宗教観」は少しゆがんでいると思う。

そういえば、インドでも「宗教」は「ダルマ」という「法・生きる作法」みたいなもの。仏法も「ブッダ・ダルマ」仏陀の法ってこと。この方が大過ない見方に思えるけど。

王王大栄 ‏@ououdaiei 12月16日
訂正・仏教っていうけど、日本はもともとは「仏道」「仏法」といっていた。生きるための作法・方法ってこと。宗教も英語を日本語訳にした時に老子からもってきたことば「それを私の教えの宗にしよう」生きる作法であって「信仰・信じる」とかでもともとなかったようだ。

ちきん@迷走中 ‏@hibakukihi 12月16日
考えなさいという宗教と、考えるなという宗教。
同じ「宗教」という括りでいいのか問題。
なんか別の物じゃない?

(「考えなさい」と説き、「論理的思考が大事であるとする姿勢」なら宗教ではなく哲学。
つまり、「無記」の原始仏教や、初期大乗仏教である「空」の中観派などは哲学)


P・グラレム ‏@pinkglalem 12月15日
宗教は社会を不安にさせます。人々が不安になればなるほど、信仰心は加速します。在りもしないしない来世と救済のために自らの人生を浪費する根気を宗教は与えてくれます。死のその瞬間まで人々はその幻想を信じるのです。信心深い人はとても根気強い人です。

あなたの根気強さが、あなた自身を苦しめているのです。

(×根気  ○執着=苦しみの原因)



「いやあ、落語って本当にいいもんですね」
<了>
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ヤハウェ(エジプト系の雷神)が奈良の大仏(アーリア系の太陽神仏)なわけねーだろ!  真言宗が景教(人の神格化禁止)なわけねーだろ!                     ヨガ、呼吸法、瞑想法でリラックス! 『呼吸法の極意 ゆっくり吐くこと』・『ヨガ呼吸・瞑想百科』・ 『ハタヨガの真髄』・『禅の本』・『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』 

 ヨガ、呼吸法、ヴィパッサナー瞑想の本の読書メモだけど悪質な仏教破壊工作を発見したので先にフルボッコにします。

【ヤハウェが奈良の大仏ではない理由の要約】

一神教最大のタブーは、人間が神になること。

一神教では、唯一神と人間との間には絶対的な隔たりがあり、絶対に人間は神になれない(唯一神と一体化できない)。
人間が神になれるなら多神教。


景教=ネストリウス派キリスト教は、人と神を特に厳格に区別するので、人を神として祀るなら景教徒ではない。
神社に秦氏の人間が神格化されて祀られているので、秦氏は景教徒ではありえない。

真言宗は神仏と人間が一体化する「即身成仏」思想なので、景教ではありえない。



ヤハウェと奈良の大仏は属性が真逆なので対立する神仏。

ヤハウェ=エジプト系の雷と嵐の唯一神
エジプトの唯一神アトン+雷と嵐の神バアル≒セト。牛+豚

奈良の大仏=アーリア系の太陽神仏
太陽神または光系のイラン系のアフラ神族。
華厳宗大本山の東大寺の奈良の仏
=毘盧遮那仏。

毘盧遮那〔ビルシャナ〕
=ヴァイローチャナ
=インド神話のアスラ〔アフラ〕の王。

ビルシャナ=広く照らす=太陽あるいは光



これよりしばらく、
knznymmmy code777
http://codetripleseven.blogspot.jp/
https://twitter.com/knznymmmy/with_replies

でおなじみのプー閣下風のノリで、景教詐欺をフルボッコにしていく。
まずはフルボッコされる対象を見てくれ。こいつをどう思う?

Misaki-1192 ‏@bonchan1 11月7日
東大寺大仏の正体は、秦氏の神・大日如来=ヤハウェである。

Misaki-1192 ‏@bonchan1 11月21日
奈良東大寺の大仏の正体はヤハウェ。
秦氏が最も信仰する神。

Misaki-1192 ‏@bonchan1 11月25日
秦氏は景教ネストリウス派の信者。最澄、空海が新旧聖書をお持ち帰り。秦氏が建てた東大寺の大仏は大日如来様=ヤハウェなんですねえ。御宮参りされる方は新羅韓神と共にヤハウェにも詣でている事になりますねえ。お遍路さんも怪しくなって来ました。http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/japan/index4.html …

Misaki-1192 ‏@bonchan1 12月3日
東大寺の大仏は大日如来。秦氏の神のヤハウェが大仏さん。
修学旅行に行ったっけな。くそう。

Misaki-1192 ‏@bonchan1 12月4日
最澄は新約聖書、空海は旧約聖書を持ち帰った。唐の原初キリスト教ネストリウス派景教の洗礼を受けた二人。東大寺の大仏の正体は大日如来=秦氏の神・ヤハウェだったのです。日本人には何ら関係ないですね。http://www.ne.jp/asahi/davinci/


( ゚д゚)ポカーン
すごく……一神教について無知じゃねーか!
この手のデマを流す奴らは教義の決定的な違いを無視だからな。
宗教で一番大事なのは教義だろーが!
信者かどうかは教義を守っているかどうかで判断しねーとダメだろーが!!
例えばさ、十戒を破る奴らがユダヤ教徒なわけねーじゃん?
だから神道がユダヤ教であるわけねーじゃん?

日ユ同祖論デマって聖書が根拠だから、流している奴は無自覚含め宣教師。
景教ガー、ネストリウス派ガーってうるさい奴も、無自覚含め宣教師であることが多い


まず、おめーらさんに一神教で一番知っておかないといけないタブーは、人間がヤハウェやゴッドやアッラーになることだ。
人間は絶対に絶対にぜーーーっったいに神になれないし、
絶対に絶対にぜーーーっったいに神として祀るなんてありえない。
ネストリウス派は、ただでさえ人間の神格化が禁忌である一神教の中でも、特に人と神を区別する。
つまり、秦氏が人間を神様として祀っている時点でアウト中のアウトなんだよ!

え?
秦氏が、ネストリウス派を国家神道みたいな和風キリスト教に改造して信仰していたかもしれないって?
それもはや景教じゃねーじゃねーか!

この際だから言っておくけど、国家神道のモデルは平田篤胤な。
平田篤胤は、神道を名乗るくせに、キリスト教神学を取り入れるのはOKだという和風クリスチャン
だ。
当然だが、正統派のキリスト教神学からみたら平田神学は異端だ。
現人神OKの国家神道なんて完全に異端。
まあ、キリスト教をそのまま布教するのに失敗したので、植民地用にカスタマイズしたのが、
「現人神=偽天皇=キリスト」にした国家神道
=一神教的多神教(新キリスト教)


一神教のタブーをおめーらさんは今この時点で知っているはずだよな?
でも、ちゃんと理解したとは限らねーよな?
ちゃんと理解したなら応用できるよな?

おめーらさんが勝手に応用して、
「真言宗はキリスト教ネストリウス派だよ詐欺」を打破しやがれ!
説明は省略!

では不親切なので、答えとして菊りん(国際秘密力研究)の以下のツイートをよーく読んで学ぶんだ!

菊池 ‏@kikuchi_8
ネストリウス派=景教は人性と神性を明確に区別する。マリアも「神の母」ではなく「人性としてのキリストの母」という扱い。カトリックより人格と神格が厳格に区別されている。人と神の距離が近く、同一視し、場合によって人が神に命じる関係(例:役小角と一言主神)すらある日本の宗教観と隔絶する。

兵庫県に大避神社という神社がある。御祭神は秦河勝である。この時点で「秦氏=猶太人説」「秦氏=景教徒」という説は崩れるのではないか。猶太教や景教を含む耶蘇教では人を神として祭るのはご法度のはずである。こういう基本的な事柄を無視することからして日猶同祖論や景教渡来説はうさん臭い。

景教渡来説は米国のプロテスタントの宣教師が布教の為に唱えている場合がある。「日本は仏教国ではなく、聖書の国だ」と言ってキリスト教を受け入れやすい素地を作ろうとしていると思われる。そのために景教=ネストリウス派キリスト教が古代から日本に根付いているという説を流布する。

景教渡来説を唱えている人士はキリスト教徒ばかりである。宗教的立場からの願望が投影されている「説」と言える。「いろは歌」まで耶蘇教の思想を歌ったも のという者までいて驚いた。仏教の基本的教義を抑えておけば「いろは歌」は「有為=縁起したものの無常と、無明の克服」という趣旨と分かる。

日猶同祖論の初期の論者の一人佐伯好郎は同時に景教渡来説の権威。日猶同祖論と景教渡来説は初期からセット。佐伯は英国聖公会のキリスト教徒
。聖公会は英 国諜報員とメーソンの巣窟と渡部悌治先生述。猶太資本導入推進のために日猶同祖論を唱えたことを服部之総に告白。河豚計画の犬塚惟重の団体顧問。

神智学徒のゴルドン夫人が高野山に大秦景教流行中国碑のレプリカを建立した。人性と神性はあくまで区別されるべきだとするのが景教である。一方、真言密教は「即身成仏」つまり、人も仏も構成要素は同じ「六大」だから人と仏はゼロ距離だとする教義である。似ても似つかないどころか真反対である。

思うにですが、この手の説を唱える方というのは仏教の教義内容まで立ち入って分析していない場合が多いと思います。「仏」が構成要素に分解できるとする空海の六大縁起思想は耶蘇教ではありえないと思います。

いろは歌にキリスト教の教義を詠み込んでいるという説は、プロテスタント系のキリスト教原理主義者のHPで得々と語られていました。要するにキリスト教関係者による宣伝としか思えないです。日猶同祖論と同じ性質ですね。

馬小屋で生まれた等のエピソードは景教の影響として入ってきていた可能性がありますが、景教の宗教としての教義そのものは公には入ってきていないと思います。日本の色々な伝統宗教を調べても人性と神性を厳格に分ける景教の痕跡がありません。

秦氏すら秦河勝を御祭神として祭っています。人を神として祭る。これは人と神を厳格に区別する景教ではタブーです。宗教としての景教渡来説は佐伯好郎が猶太資本を北海道開発に導入するために日猶同祖論を唱えたのとセットだと思います。服部之総が明かしていますね




さあ次は、ユダヤ教のヤハウェの属性だ。
世界初の一神教はエジプトのアトン一神教だ。
ヤハウェの唯一神という属性はエジプト由来だ。

また、ヤハウェは雷と嵐の神だ。
牛にして嵐と雷の神バアルと共通点が多い。
また、バアルはエジプトに入ってセト(暴風と雷鳴の神)と同一視された。
つまり、バアル≒セト。
でも、バアルは牛だけどセトのシンボルは牛ではない。
セトのシンボルの一つが豚。
ユダヤ教は豚を食べてはいけない。
え、不浄だからだって?
神聖だから、表向きは不浄だということにしたのかもよ?
ヤハウェにブタ神であるセトの要素があるから、という理由もあるかもよ?

さあ、ここで、ねこた先生(完全閉店 ‏@lakudagoya)の以下のツイートを読むんだ!
ユダヤ教の教義がエジプトの貴族由来だとよくわかるだろう。

(いんちき陰謀論調査隊を消したぬこた先生。だからあれほど保存しておけと以下略。
実は一部が本ブログにあるからそれを保存以下略)

完全閉店 ‏@lakudagoya 11月23日
ローマの宗教史を扱った「神々のあふるる世界」さ。エジプトの神官の生活について史料をベースに色々語ってるけどさ、蹄の割れた獣は食べませんとか、割礼もそうだけど、色々な意味でユダヤ教ってエジプトの貴族の宗教臭いんだぜ?これモグラ君が言い出した事だけど、大当たりだったと思うんだ

ユダヤ教のウリジナル in 古代エジプト
1 十戒(死者の書に書いてある42の戒律が元ネタw)
2 レビ記の食物規定(エジプトの神官の戒律が元ネタw)
3 割礼(神官の通過儀礼w)
4 経典の宗教(読み書きできるのは神官と貴族だけw)
おおっ!こんなにも香ばしいネタがざくざくと


完全閉店 ‏@lakudagoya 11月23日
おっと、古代エジプトでは神官は1日2回は沐浴してたっぽい。で、風呂桶みたいなもんが神殿に常設されてたらしい。ああエジプトでは流水使わないっぽいんだよね。やっぱユダ公のミクベはエジプト起源の可能性あるな。つつけばつつくほどユダ公の習慣は古代エジプトの貴族のそれじゃないかw

(モグラ君=虚空と君のあいだにで有名な、もぐら師匠) 



次は、華厳宗の東大寺の奈良の大仏の属性について。

フェイド大帝(過去の最低帝国)のツイートと、
猫2号(読めないニックネームの子子子子子=ねここねこ)の記事を引用する。

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 2014年10月6日
知らない人が多いのか分らないけど、
密教の大日如来、奈良の大仏は
インド名が毘盧遮那。
ヴァイローチャナね。
こいつは太陽神でウパニシャッド
ではアスラ王と書かれている。
つまりイラン系のアフラ神族


大日如来は遍照如来とも称し、またビルシャナ仏とも言われる。ビルシャナ=太陽。
ビルシャナに関係するインド神話のヴァイローチャナはアスラ(アフラ)の王とされる

アフラ・マズダー(知恵王)の関連が云々されることになる。
太陽神に思えるが、ゾロアスター教の太陽神はフワル・クシャエータであって、アフラ・マズダーではない。

太陽神ミトラと同一視されたりするアフラ・マズダは太陽神の性格も持つはずですが、本来は太陽をも超越した光自体か、金星なように思えます

密教でも大日如来をただちに太陽と同一視しているわけではない。
日天(にってん。アーディティヤ)は十二天の一つとして、曼荼羅の最外院に別に存在する。世間の太陽と大日如来は区別される。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-52.html
キリスト教(太陽+来世に期待)と
ユダヤ教(嵐+現世利益)は根本思想が違いすぎる

ラクダが家畜化されるのは紀元前10世紀以降なので旧約にラクダが登場するのはおかしい。
岡田明憲『ゾロアスターの神秘思想』 講談社現代新書 。
岡田明子・小林登志子『シュメル神話の世界 』中公新書



で、どこが、セト(暴風と雷鳴の神)かつバアル(牛君)系の唯一神ヤハウェと同じなの?

あと言っとくけど、ユダヤ教のヤハウェとキリスト教のゴッドは別の神だから。

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi
キリスト教がユダヤ教派生は嘘。
ユダヤ教とキリスト教の救世主観は全然違う。
ユダヤ教のメシアは現世利益を齎す政治的指導者。
キリスト教のキリストは超越的存在(ミトラと拝火教)。
ユダヤ教は中国と同じく子孫繁栄などの現世利益用。

猫太”そうですね。大きな聖書神話というストーリーの中に閉じ込めさせて行動させる技術ですね。だから彼らは神話を操る。日油同祖論とユダヤ陰謀論という一見アンビバレントなものも、ひっくり返せば磐石な聖書神話を日本人に吹き込むためのツール。そして聖書を洗脳する。”

猫太”エッセネ派ってなんかーユダヤ人っぽくないよ。お金が嫌いで独身主義とか、子孫繁栄と現世利益が強いのがユダヤ教やん?” ”聖霊って不思議な観念ですよね。お金と現世利益が大好きで欲しかったのは現実世界の約束の地というユダヤ人の感性じゃないようにみえる”

ミトラ教(太陽派)+黙示録(拝火教)=キリスト教 嵐派+メシア(人間の指導者)による現世利益=ユダヤ教 根本思想が違い過ぎ。 猫太”オリジナルのユダヤ教は、中国人と全く同じの現世利益的宗教ですから。この基本がわかれば陰謀論の嘘もわかる。” ユダヤは✝の囮




私は‏@bonchan1のツイートをフルボッコにしたのだが、多少擁護しておく。
大本教がキリスト教だと指摘し、平田篤胤と日月神示を批判しているからだ。

Misaki-1192 ‏@bonchan1 1月8日
岡本天明は「飛騨の口碑」は全く知らない。国之常立神とは位山命(丹生川から宮村に遷都した命)であることなど全く知らない。岡本は大本の出口の弟子だというではないか。大本教=キリスト教であり、何故キリスト教信者が位山命のお告げが解るのだ?http://yomenainickname.blog.fc2.com/?mode=m&no=59

Misaki-1192 ‏@bonchan1 1月9日
@ceezneverdiffer そのこともこちらから→http://yomenainickname.blog.fc2.com/?mode=m&no=59 この方や多くの方が日ユ同祖論はデタラメと言っています。第一飛騨の口碑にも♨堕屋など一言も出て来ません。明治維新以降のソーメンつゆみたいなものです。大本教は日本版キリスト教でしょう。

Misaki-1192 ‏@bonchan1 1月7日
平田篤胤が神代文字であると主張したものの題名が神字日文伝。さすがにこの平田(1776~1843)の理論では破綻していたので、昭和19年になって作り治したのが岡本天明の自動書記(笑い)による「日月神示」で、岡本は大本の出口の弟子だ。http://yomenainickname.blog.fc2.com/?mode=m&no=59

変な工作員のデマに引っかかっただけかもしれないけど、悪質なのでフルボッコにした。

では、これから記す読書メモにある呼吸法や瞑想法でリラックスしてくだされ。


…読書メモ…

※アーサナは画像と動画で正しいやりかたを視覚的にも理解してから実践してください。
特に注意点を調べてから実践してください。無理は禁物です。

成瀬雅春『呼吸法の極意 ゆっくり吐くこと』、BABジャパン、2005年


“ いつでもできる日常的な訓練
完全呼吸法のような呼吸法のテクニックを練習する以前に、呼吸法を身に付けるための根本的な原則がある。それは「呼吸に意識を向ける」ということと、「ゆっくりと息を吐く」という二つである。
呼吸は生まれて以来休むことなく続けられているので、ふだんは意識していない。その自分の呼吸に意識を向けることが第一の原則である。意識を向けた瞬間から、呼吸はゆっくりし出す。一日のうち、呼吸に意識を向けることが多くなるほど、ゆっくりした呼吸をしている時間が多くなる。それがすでに呼吸法の重要な基本を身に付けたことになる。
そして第二の原則の「ゆっくりと息を吐く」ということを心がければ、ヨーガ呼吸法の「深い呼吸をする」という重要な基礎訓練をしていることになる。一般的な深呼吸では息を吸ってから吐いているが、それでは本当に深い呼吸にはならない。
まず肺の中に入っている中途半端な空気を吐き出さなければならない。汚れた空気をいったん吐き出してから、ゆっくりと新鮮な空気を肺の中に取り入れることで深い呼吸になる。その息を吸うときに、胸を広げるようにして、少し顔を上に向ければもっとよい。
この「呼吸に意識を向ける」「ゆっくりと息を吐く」という二つは、いつでもできる日常的な訓練なので、習慣として身に付けてほしい。“
p.83-84

“最近は「解脱」という言葉が流行のように使われるようになった。新興宗教の教祖で「私は解脱した」という人もいるようだ。解脱した人には何の執着もないので、自分から「解脱した」ということはありえない。
しかしヨーガの話の中にはジーヴァンムクタ(生前解脱)という、生きていて解脱した人の例が出てくる。その話があるので「私は解脱した」というのだろうが、これは勘違いなのである。
ジーヴァンムクタというのは、本人がいうことではなくて、周囲の人たちが「あの人は解脱している」と感じるものなのである。周囲の人たちといっても教祖の周囲にいる信者のことではない。利害関係のない第三者のことだ
「あの人は解脱している」ということはあっても、「私は解脱している」ということは絶対にないのである。なぜなら少なくとも「私は解脱している」という意識が消え去らなければ、解脱できないからである。”
p.247
(釈迦は輪廻を外れたので、「私は仏陀の生まれ変わり」と言うやつは全員詐欺師です。
「私は解脱した」と、真に解脱した完全な客観視ができている人が自分で言うことはありうるのでは?
ほとんどは偽物だろうけど。
「私は解脱した」って自分で言うことは、「独我論は正しい」と私が「他人に」言うようなものかな)



外的完全呼吸法
①ゆっくりと息を吐いていき自然に腹部が引っ込み、そのままさらに腹を引っこませながら吐いていく。
②吐き終わったら、瞬間的に腹の力を緩めてから、ゆっくりと息を吸っていき、少し腹が膨らむくらいまで吸いこむ。
③そのままさらに胸を前に突き出す感じで胸郭を広げながら、吸いこんでいく。
④胸郭が広がったら、続けて肩を上げながらもう少し吸いこむ。
⑤吸い込み終わったら自然に二~三秒くらい止める。
⑥腹をもとに戻しながら息を吐いていく。
⑦次に胸をもとに戻しながら吐いていき、続けて肩を下げながら吐く。
⑧腹、胸、型が普通の状態に戻ったら、①につなげてくりかえす。
要点
①下部→中部→上部の一つひとつがきちんと分離されて、しかも連絡を滑らかに行えるようにする。
②吸息の中部のときに一緒に肩が上がってしまう場合が多いが、胸を上げようとするとそうなるので、胸は前に出し広げるという気持ちで行うとよい。
③吸息の最後の部分で、少し顔が上向きになってもよい。
④吸息から吐息に移るときに、二~三秒くらい自然に息が止まる状態になってもよいが、喉は開けたままにしておく。
⑤腹、胸、肩の動きはなるべく大きな方がよい。
⑥五呼吸を1セットとして行う。

半内的完全呼吸法
(外的完全呼吸法の表面的な動きを少なくするが、「腹が膨らんでいく」「胸が広がっていく」「肩が上がっていく」という意識はしっかり働かせる呼吸法。
以下のように外的完全呼吸法を改変する)
・胸が広がりかかったあたりからは、胸は動かさない。吐くときは胸をもとに戻しながら吐く。
・肩を動かさずに意識面だけ肩を上げながら吸い、吐くときも意識面だけ下げる。
・吸うときの胸は、ほんの少し広がりかかるくらいで、吐くときは、そのほんの少し広がりかかった分が戻る程度の動きで、意識だけはしっかりと働かせる。
・吸うときに胸の動きが止まったあたりで、意識だけが「スルッ」と内部に入り込む感覚をつかむようにするとよい。

(引用が多くて素敵な読書メモをどうぞ。私が引用した個所以外の引用があります。
【本】呼吸法の極意 ゆっくり吐くこと
http://blog.goo.ne.jp/picarin2005/e/b9556fd602c4af1893b819d988a7f50d)


『ハタヨガの真髄_600の写真による実技事典』
B.K.S.アイアンガー (著), 沖 正弘 (翻訳)


ターダアサナ(サマスティティ)
ターダ=山
サマ=直立、まっすぐ、不動
スティティ=不動の姿勢、堅固
①足を揃えてまっすぐ立つ。両足の親指、および踵をつける。足の指はすべて床にぴったりとつける。
②ももの内筋肉を伸ばしあげるようにすると、膝をリラックスしたままで引き上げることができる。このとき、尻はそっと締めるようにする。
③胃が自然に引っ込むように、肋骨を広げ、背骨を上に伸ばし、首をまっすぐにする。
④体重は踵と指先の一方だけにかけずに、等分にかけること。
⑤理想的にはターダアサナでは頭上に両手を伸ばしておくのであるが、便宜上、両ももの横に下げていてもよい。

パッドゥマアサナ
パッドゥマ=蓮。
この蓮のポーズは最も大切で最も有益なポーズの一つ。
これは瞑想のためのポーズで釈迦像の中にはこのポーズをしたものが多い。
①両足をまっすぐ伸ばして座る。
②両ひざを曲げ、両手で右足を左もものつけ根に乗せる。このとき右かかとはへその近くに来る。
③左ひざを曲げ、両手で左足をもち、右足のできるだけつけ根に近く置く。このときも、かかとがへその近くに来る。足の裏は両足とも上向きのこと。
④背骨の下から首まで肋骨部を四方に広げながら伸ばす。右手は右ひざに、左手は左ひざに置いてもよい。それぞれの手は親指と人差指で印を作る。あるいは、両足の交差するほぼ中央に、一方の掌をおき、その上に他方を乗せて置いてもよい。
⑤今度は逆に、左足を右ももの上に置き行なう。両方行なうことにより、足を均等に発達させる。

マツヤアサナ
①パッドゥマアサナの姿勢で座る
②膝を床につけたまま仰向けに寝る
③息を吐きながら首と胸部を持ち上げ、背中をそらせる。頭をそらせ、頭頂部を床につける。両手で両足をつかみ、上体をさらに反らせる。
④手を離し、両手で互いに両ひじをつかみ、前腕部を頭上の床の上に置く。
⑤深呼吸しながら、30秒~1分間この状態を保つ。
⑥後頭部、背中を床の上におろす。息を吸いながら、パッドゥマアサナに戻る。足をほどいて休む。
⑦組み方を逆にして足を組み、同時間だけ行う。
⑧もし③と④が難しければ、両手を上に伸ばし、胸をそらせないで横たわる。

(もう少し簡単なヴァージョン。
①仰向けに寝て、両足を揃えて伸ばす。
②両脇を締め、掌を下に向けて尻の下に敷く。手の甲と尻が当たる。
前腕と肘を体側に寄せる。
③鼻から息を吸いながら、肘と前腕で床を押しつつ、背中を床から浮かせ、胸を広げつつ、胸を天井方向に持ち上げる。
同時に頭を後ろにそらし、後頭部か頭頂部を軽く床につける。首への負担を軽くするために、できるだけ頭に体重がかからないようにする。
④リラックスして深呼吸する。約15~30秒深呼吸をしながらポーズをキープ。
⑤息を吸いながら頭をスライドさせながら顎を引いて、頭を床にゆっくり下ろし、腕をほどき、ゆっくりと元の姿勢に戻る。肘で床を押して、首と頭に負担をかけないように戻す)


魚=マツヤ。
この魚はヴィシュヌの化身であり、宇宙と万物の初源であり、保護者である。昔々、世界全体が堕落して大洪水にみまわれようとしていたとき、ヴィシュヌが魚の姿となり、マヌ(ヒンズーのアダム)にさし迫る危機を警告した。この魚はマヌとその家族と、七人の聖人を船にのせ、自らの頭の角につないで運び去った。この魚はまたヴェーダ経典を洪水から救った。

(聖書の元ネタの一つ。教会は元ネタ潰しをやっているので、参考にしたのではなく盗作
です。
ヴィシュヌの化身にブッダがいるのですが、バラモン・ヒンドゥー教を否定した釈迦を取り込むなど、元祖仏教破壊工作をやっております。

Ayano Kurosawa ‏@ab_kuro 2014年12月23日
て言うか、クリシュナの最期がギリシャ神話的(何たって、左の踵が弱点!)、クリシュナもといヴィシュヌのアバター(化身)であるマツヤの話が、もろノアの箱舟の元ネタだったり、なんやかんやと神話って国や時代を越えてリンクするのよね。


インド神話bot ‏@hindimyths
ヒンドゥー教の三大神の一柱であるヴィシュヌは10の化身で知られるが、化身の数が10しかないのではなく、特に重要なのがマツヤ(魚)、クールマ(亀)、ヴァラーハ(猪)、ナラシンハ(人獅子)、ヴァーマナ(矮人)、パラシュラーマ、ラーマ、クリシュナ、ブッダ、カルキの10の化身ということ。

マヌという男が川で水を飲もうとした際、手に魚が入った。魚はマヌに船を造るように命じた。マヌが船を完成させると大洪水が起き、大きくなった魚に導かれ たマヌの家族だけが助かった。この魚がヴィシュヌの化身マツヤである。酷似した洪水神話は世界中にある。「manu」は男、manを意味する。)

ヒンドゥー教の三大神の一柱であるヴィシュヌの10の化身の一つにブッダ(釈尊)がある。仏教をヒンドゥー教の一派と取り入れるとも、わざと誤った教えを広めて敵を罰するとも言われる。仏教側もまた、ジャータカ(ブッダの前世譚)の中でヒンドゥー教の神話を取り入れている、など、なかなかカオス。

高山龍智 ‏@nagabodhi 12月6日
天魔(破壊神シヴァ)に妨害されたあと成道したゴータマに説法を勧請したのが梵天(創造神ブラフマー)。んで、ブッダは維持神ヴィシュヌの「反則技」の化身にしちまえ、と…なんかヒンドゥー教内部で人事のいざこざがあったとしか思えんな。

現場監督の波旬(シヴァ)「ナメてんじゃねえぞ若造があ」。でもゴータマは屈せず新ソフト開発。気弱な社長の梵天(ブラフマー)「ここは一つブッダ氏の出番ということで」。結局仏教大流行。「アレはね、私の黒歴史でしてね」と営業部のヴィシュヌが調整。…こんな感じだなヒンドゥーの仏教対策。)

シャヴァアーサナ
シャヴァ=死体。
アーサナ=姿勢。
①正中線を正して仰向けになる。
まず尻の中心と両足の合うところを一直線上にして、床の十字状の線に膝を立てて座る。それからゆっくりと脊椎を一つずつ線の上におろしていく。背骨の中心が線の上に正確に来るようにする。
②頭は額から両側に伸ばすようにする。頭の位置を前面から正していく。
③体が傾かないようにまっすぐに、また左右の均衡を保つ。
額の中心、両眉の中心、鼻の下のみぞ、唇の中心、顎、喉、胸骨、横隔膜の中心、へそ、恥骨の中心、両ももの間の空間、両膝、ふくらはぎ、両かかとの間の空間が一直線をなすようにする。
頭部から両耳、両眼の外角、唇、顎骨の底辺が左右同じ高さになるようにする。
最後に首を伸ばしてその中心が床の線の上にくるようにする。
④両肩甲骨の内縁を床にぴったりとつける。鎖骨のところから上胸部の皮膚を肩の方へ、肩から後ろへ、肩甲骨に向けて伸ばすことで背中がぴったりと床につくようになる。
肋骨は統一をもって広がらなくてはならない。
⑤両足をそろえてかかとの外側を伸ばしてから、両足先を等しくリラックスさせて開く。
⑥手は体側の15~20度のところにおく。
⑦横たわっているときの感覚は、母なる大地に沈み込むような感じ。
⑧掌、指、足の裏、足の指にある緊張に気付かない人が多い。緊張のある部分をよく観察し、リラックスさせて、正しい位置に戻す。
⑨腹部に「空」と「無」を感ずること。体は投げ捨てられた棒のような状態。
⑩眼の奥を見るようにして、自分自身の内面に眼を向ける。
⑪呼吸は、左右の鼻孔を息が等しく流れていることを確かめる。普通に吸い、やわらかく深く長く吐く。深く吸おうとすると頭と上半身が動き、脚と腕に緊張が起こるからである。


B.K.S. アイアンガー『 ヨガ呼吸・瞑想百科―200の写真で見るプラーナーヤーマの極意』


アーサナ
(ヨガでは「内なる神」、「神と一体になる」という表現が多用される。梵我一如)
・プラーナ=息、生命、活力、エネルギー、力。
アーヤーマ=伸ばす、拡張、長さ、幅、規則的、コントロール。
プラーナーヤーマ=呼吸を長くし、コントロールする。
・ムッドラー=封印、鍵。
体の開いている部分を閉じる姿勢で、指を特別な形に組む。
・バンダ=束縛、結びつける、つかまえる。
特定の内臓や体の特定の部分をつかむ、収縮させる、コントロールする姿勢。

ジャーランダラ・バンダ
ジャーラ=クモの巣、網目。
胸骨が顎に押しつけられている状態で、サルワーンガアーサナとその変形ポーズを行っているとき習得できる。
①シッダアーサナ、スワスティカアーサナ、バッドゥラアーサナ、ウィラアーサナ、バッダコナアーサナ、あるいはパッドゥマアーサナの形で座る。
②背中をまっすぐ伸ばし、胸骨と、胸郭前面を持ち上げる。
③無理のないように首の両脇を伸ばし、肩甲骨を体の中に引き入れるようにする。胸椎を前に押し、首をしっかり伸ばしてから、頭を首の後ろのつけ根から前屈させる。
④喉を圧縮したり、首の筋肉を緊張させてはいけない。首と喉の筋肉をリラックスさせておく。喉や首を前方、下方、あるいは後ろに押しつけてはいけない。上背部を後方に押しつけてもいけない。
⑤顎の両側が、両鎖骨間のくぼみに左右等しくふれるように頭を前屈させる。
⑥片側の顎を他方よりも伸ばしたり、首を片方に傾けてはいけない。
⑦顎を胸に押しつけてはいけない。胸を持ち上げておりてくる顎に合うようにする。
⑧頭の中心、顎の中心、胸骨の中心、へそおよび股の中心が一直線上に来るようにする。
⑨顎を胸にもってくるとき肋骨を下げないようにする。
⑩こめかみをリラックスさせ目と耳は受動的にしておく。

ウッディーヤーナ・バンダ
ウッディーヤーナ=飛び上がっていく。
プラーナーヤーマでは腹をつかみ上げること。
プラーナーヤーマではプラーナは下腹部から頭のほうに流れて上がり、横隔膜は下腹部から内臓を後ろ上方、脊柱の方へと引っ張り上げながら上っていく。
まず立った姿勢でのウッディーヤーナをよく修得してから、バーヒャ・クムバカ(呼気のあとで息を止める)中に、ウッディーヤーナは導入すること。アンタラ・クムバカ(吸気後のクムバカ)にウッディーヤーナは取り入れないこと。心臓に負担をかけすぎるのでよくない。
空腹時に行うこと。
①ターダアーサナで立つ。
②両足の幅は約30センチぐらいに開いておく。
③膝を少し曲げ、両手の指を広げてももの中ほどをつかむ。
④肘を少し曲げ、顎をできるだけ下げ、ジャーランダラ・バンダの姿勢をとる。
⑤息を深く吸いこんでから、肺の空気を一息で吐き出せるように急速に吐き出す。
息を完全に吐ききるまで、腹をひっこめてはいけない。
⑥吸気の前に息を止める。腹全体を背骨の方向に持ち上げる。ウッディーヤーナ実践中は胸を落としてはいけない。
⑦腰椎、胸椎を前上方に持ち上げる。内臓を背骨のほうに向かって圧迫する。
⑧内臓を圧迫したまま手をももから骨盤のふちに向かって移動させながら、さらに内臓を収縮させる。
⑨内臓をゆるめないようにして、また顎を上げないようにして背筋を伸ばす。
⑩10~15秒間できるだけ長く内臓を圧迫したままにしておく。自分の限界以上続けてはならないが、無理をしない程度に練習を重ねていくと、実践時間もだんだん長くなる。
⑪顎と頭はそのままで、まず腹の筋肉をリラックスさせる。
⑫腹が完全にリラックスし、内臓がもとのリラックスした状態に戻るまで息を吸ってはいけない。腹の筋肉がもとの位置に戻るのを待って息を吸う。
内臓を圧迫している間、肺を圧迫してはいけない。
⑥~⑫までの過程の間中は息を吸ってはならない。
・2~3回普通に呼吸をしてから、再び①~⑫を6~8回繰り返す。進歩するにつれて、1回の長さと繰り返しの回数を増やしていく。体験の深い指導者のもとで行うのが望ましい。
・ただしこの一連の繰り返しの過程は一日一回だけおこうなうこと。
・ウッディーヤーナが修得できたら各種プラーナーヤーマに取り入れる。ただし呼気の後のクムバカ(バーヒャ・クムバカ)を行うときだけに行う。
・こめかみのまわりに緊張を感じたり、次の吸気の初めに緊張がかかったりしたら、自分の能力以上にウッディーヤーナを行ったということなので気をつけること。
・ウッディーヤーナ・バンダを一人で行うのは極めて危険。間違ったやり方で行うと精液が不要にもれ、活力を失う。

ムーラ・バンダ
ムーラ=根、源、原因、基礎。肛門と生殖器の間の中心部。
ムーラ・バンダでは肛門と生殖器の間の中心部の筋肉を収縮させ、垂直にへその方に向けて引き上げる。同時に下腹部前面およびへその下は、背骨に向かって後ろ上方に押しつける。
ムーラ・バンダは、吸気後のアンタラ・クムバカ中に行わなければならない。
ウッディーヤーナでは肛門から横隔膜まで全部を背中に向かって押し上げるが、
ムーラでは肛門とへその間の、生殖器部と下腹部のみを収縮させ、背骨と横隔膜の方に向かってひき上げる。
ムーラ・バンダを一人で行うのは極めて危険。間違ったやり方で行うと激しい体力減退をもよおし生殖力も失う。正しく行ったとしても、ムーラ・バンダにはそれなりの危険がある。性欲を増加するので濫用する危険がある。

・吸気のとき腹をふくらませてはならない。腹をふくらませると肺が完全に広がらないからである。吸気も呼気も無理があってはならないし、早くてもいけない。プラーナーヤーマの無理は心臓に負担をかけ、それがもとで脳障害を起こすからである。
・意識的に上胸部を持ち上げ、出ていく息をゆっくり、スムーズに導く。
・呼吸のリズムに深く注意を払うこと。

吸気の方法
①自分に合った方法で座る。
②胸と浮肋骨、へそを上げ、背骨をまっすぐ上に伸ばす。
③できるだけ頭を下げる。首の後ろが柔軟になったら、ジャーランダ・バンダを行う。
④感情の源である心は、へそと心臓の間にあるといわれ、背中はこの感情の中心と常に接触を保っていなければならない。体の前面は、この意識の中心との接触を失わないようにしながら持ち上げ、横に広げる。
⑤吸気中、胸を前や後、左右に傾けないように注意しながら、上方と横に胸を広げる。
⑥横隔膜を異常緊張させてはならない。横隔膜の底の方から空気を入れ始めること。深く吸い込む秘訣は、浮肋骨の下、腰のあたりから始めるような気持で行うとよい。
⑦肺に底から徐々に空気を入れる。鎖骨上端から、脇の下前部まで入れること。注意深く、神経繊維を少しずつ今まで以上に伸ばすようにして、肺が完全に空気を吸い込むようにする。
⑧肩が上がったらすぐ下ろすこと。吸気中に肩が上がると、上肺部が完全に広がらず、首の後ろが緊張してくる。肩を上げないで胸を上げておく。
⑨喉をリラックスさせる。舌は下顎の上に寝かせるようにするが、歯にあててはならない。
⑩目は閉じているが、リラックスしており、内面を見る目を敏感にしておく。吸気のときどうしても目は上向きになりがちなので注意。
⑪耳、顔の筋肉、額の皮膚はリラックスさせておく。

呼気の方法
①吸気の①~④の指示に従い姿勢を整える。
②吸気においては、体は息という形をしたエネルギーを受け取る道具の働きをする。呼気はゆっくり静かに行う。そのためには、肋間筋肉や浮肋骨を持ち上げたままにしておく。そうしないと、安定したスムーズな呼気は無理である。
③呼気の始発点は上胸部であるので、上胸部を下ろさないようにしてゆっくり、へそのところまで完全に空になるまで息を吐く。このとき体は神と溶け合う。
④息を吐いているとき、脊柱の中心をもち上げておくだけでなく、その左右両側も持ち上げておく。全身を樹木のようにしっかりさせておく。
⑤体をゆすってはいけない。
⑥胸を持ち上げたまま、ゆっくりスムーズに吐く。息が荒いということは、胸や背中が下がっていることと、息の流れを観察していないことから起こる。
⑦吸気中においては、上半身の皮膚は緊張するが、呼気においてはリラックスしている。ただし胸や背中の内側は下げないようにする。
⑧腕と胸の皮膚は、脇の下のところで触れ合ってはいけない。腕をわざと広げることなく、脇の下のところで、空間と自由がなければいけない。

・クムバ=いっぱいにも、空にもできる壺。
クムバカ(止息)=息を止める(保息)。

アンタラ・クムバカ(吸気後のクムバカ)
はまずは、胸、横隔膜の内側、内臓を上げたままで数秒間止めることだけまず習得する。クムバカの間に肋間筋と横隔膜の内側と腹部内臓を上げておくのは難しい。
・アンタラ・クムバカを立っているときにしない方がよい。バランスを失って倒れるかもしれない。
・アンタラ・クムバカを寝た姿勢で行う場合、頭の下に枕を置き、頭が体より高い位置に来るようにして、緊張を防ぐ。
・アンタラ・クムバカの間、鼻梁を上げてはならない。
・プラーナーヤーマの間中、頭と頸椎を前傾させ、背骨と胸骨を持ち上げる。脳と頸椎を胸骨の方に向ける。
・吸気後のクムバカ中、内臓をひっこめ持ち上げると同時に、背骨下部を前に押し、胴体はたるませず、頭と腕と足をリラックスさせ、仙・腸骨から背骨を持ち上げ、肝臓下部と胃の下部を持ち上げる。
・背骨の内側と外側両方を上方前方に規則正しくそして等しく持ち上げる。
・上胸部の皮膚がゆるんで、肋骨の方におりてきたときは、息が不注意のうちに漏れたということである。
・胸は張りすぎても落としてもいけない。前面、側面、後面に等しく上げる。肋骨の内側を持ち上げる。

 バーヒャ・クムバカ(呼気後のクムバカ。完全に息を吐ききった後で息を止める)
は静的に行うときはウッディーヤーナなしで行うが、これは自分自身を静めるもので、食後でもいつでも行ってよい。
動的に行うときはウッディーヤーナ・バンダを併用するので、腹部内臓と心臓をマッサージし、エネルギーの分散を防ぐ。
・背骨の内側と外側両方を上方前方に規則正しくそして等しく持ち上げる。
・上胸部の皮膚がゆるんで、肋骨の方におりてきたときは、息が不注意のうちに漏れたということである。
・胸は張りすぎても落としてもいけない。前面、側面、後面に等しく上げる。肋骨の内側を持ち上げる。

・マントラ(呪文を繰り返し唱える)の目的は、乱れた心を一点に集中し、考えを一つにまとめること。マントラは、ヴェーダ(聖典)の讃美歌の部分であり、音楽を帯びた詩である。その詩を繰り返すことがマントラであり、愛と自己を捧げるまじめな心で行うと、自己を神に近づけることができる。
・プラーナーヤーマの実践中にマントラを繰り返し、舌や口を動かさないでそのマントラに意識を集中する。そうすると集中力を身につけると同時に、吸気、クムバカ、呼気の長さを伸ばすことができ、呼吸がスムーズになり意識も高まる。
・マントラは早く繰り返してはならない。吸気、呼気とクムバカをそれぞれ同じ長さで平均したリズムで行い、それに合わせるべきである。
・マントラは「アー・オ・ム」

・ウッジャーイー
ウド=上昇、広がり、卓越、力。
ジャヤ=征服、成功、コントロール。

※あらゆるプラーナーヤーマの全段階が、呼気(レチャカ。「フー」と吐く)で始まり吸気(プーラカ。「スー」と吸う)で終わる。まず肺の中にある空気を全部吐き出してから始める。心臓に負担をかけるから、呼気で終わってはならない。普通に息を吸ってから終わること。決して無理をしてはならない。

A
①毛布を床に敷く。その上にもう一枚の毛布を三つ折りか四つ折りにして、片側にそろえて敷き、その上に後頭部と背部をぴったりつけ、仰向けに寝る。
②体をまっすぐする。目を閉じて1~2分静かにしている。胸をへこませない。
③普通に呼吸する。呼吸に意識を集中し、呼吸の流れを感ずる。
④両肺を等しく空気で満たすようにしながら、胸が上にそして外に広がるのを感ずるようにする。吸気音が聞こえなくなるまで完全に肺に息を入れる。
横隔膜をリラックスさせ、腹をふくらませないで息を吸い、横隔膜を横に伸ばす。
腹をふくらませないためには横隔膜を浮肋骨より上方に上げないようにする。
深く息を吸うと眼球が上がりやすいので、意識的に眼球を鼻の方におろし、肺の内部を見るようにする。
⑤ゆっくり、深く、一定の速度で、静かに息を吐き、両肺を等しく空にする。もし両肺が均等に機能しなければそれを正すこと。
呼気の始めに、横隔膜を脚の方向に下げないように固定し、それからゆっくりと息を吐くが、深く吐いてはならない。このときには呼気は普通の呼気よりも少し長めになる。
⑥10分ぐらい続ける。この間目は閉じ目の奥を見るようにする。

B
A+横隔膜を動かさないようにし、肺が空になるまで、ゆっくり深く一定の速度で息を吐きながら徐々に横隔膜をゆるめる。

C
①好きな座法で座る。
②顎をまっすぐ下げ、胸郭を内側から持ち上げる。顎を胸骨上方の両鎖骨間のくぼみにおく。ジャーランダラ・バンダである。
③腕を下げ、掌を上向きにして手首を膝の上に乗せる。あるいは人差し指と親指で印を結ぶ。ギアーナ・ムッドゥラーである。
④吸気時には腹をふくらませない。終始、横隔膜は肋骨より下にしておく。すべてのプラーナーヤーマを行うときにこのことを守らなければならない。
横隔膜が浮肋骨よりも上になると、胸がふくらまず中腹部がふくらんでしまう。
恥骨から胸骨までの腹部全体を背骨に引き寄せてから次に頭の方へ上げる。これは内臓にマッサージになる。
⑤横隔膜とともに内肋間筋も持ち上げ、その状態で呼気を、ゆっくり深く一定の速度で行う。
呼吸の流れを観察しながら、Aの要素を入れて、10~15分間行い、シャヴァアーサナで数分間休息する。


バストゥリカー・プラーナーヤーマ
バストゥリカー=ふいご。
空気をふいごのように力強く吸い入れたり、吹き出したりするプラーナーヤーマである。
※バストゥリカーは全身を活発にするプラーナを作り出す。しかし、あまり長く練習しすぎると、呼吸が強いので組織が摩滅して肺が危険な状態になるので注意する。
※ふいごの音がしなくなったらすぐやめて、普通呼吸を始めるか、繰り返すサイクルの回数を減らす。
※いらだちや緊張が感じられたり、鼻血、耳鳴り、耳痛が起こったらすぐやめること。呼吸の音が正しくなかったり、強い呼吸ができなくなったらやめること。少しの無理でも鼻血が出たり肺に障害を起こす。
※眼か耳に疾患があったり、高血圧または低血圧の人は行ってはならない。
※きゃしゃな体格の人や、肺活量のあまりない人は、バストゥリカーやカパーラバーティを行ってはならない。血管や脳に障害を起こす恐れがある。
※女性は行ってはならない。力強い呼吸によって腹部臓器と子宮の位置異常を起こし、乳房がたるむ恐れがあるからである。
※バストゥリカーによってクンダリーニの力が覚醒されるというまちがった考えをしている人が多い。権威ある書物にも同じようなことが書かれてあるが、真実とはほど遠い。

①鼻孔は終始開いておく(右手の親指、薬指、小指でつまむ必要はない)。
②自分に合った座り方で座る。肺の中の空気をすべて吐き出す。
③短く、強く息を吸い、早く強く一気に息を吐く。これを繰り返すと、次の吸気は最初の吸気よりも速く、力強いことがわかる。これは吸気の前の呼気が強いからである。
④すばやく吸ってすばやく吐く。4~8回続けて行い1サイクルが完成する。呼気で(吐いて)終わること。
⑤普通は、ウッジャーイーのときのように数回ゆっくりと呼吸するが、吸気のあと、ムーラ・バンダで5~8秒のクムバカを入れてもよい。勿論、それからウッジャーイーのときのようにゆっくり深く息を吐く。こうすると横隔膜と肺が休まり、また新しいバストゥリカーの強い呼吸に備えることができる。
⑥クムバカを入れても入れなくてもよいが、ウッジャーイーを混じえてこのバストゥリカーのサイクルを何回か繰り返す。それから深呼吸してシャヴァアーサナで休息する。
⑦スタミナが増すにつれてバストゥリカーの回数も増えるが、呼吸の調子が変わったらすぐに中止すること。

カパーラバーティ・プラーナヤーマ
カパーラ=頭蓋骨。
バーティ=光、光沢。
バストゥリカーとほぼ同じであるが、それに比べて穏やか。吸気はゆっくり、呼気は力強く行い、呼気を終えるたびにほんの少しのクムバカを加える。バストゥリカーがきつすぎると感じたら、このカパーラバーティを行う。

・ディヤーナ(瞑想)=吸収。
自学自習、自己反省、鋭い洞察、自分の内にある無限のものを捜す方法。深い内省で体の中の動きを観察することであり、心の状態を見つめる。自分の中にある最も奥のもの、つまり自己の内にある神を見ることである。
①ジャーランダ・バンダをしないで、正しく座る。
②体の前後を等しく持ち上げ、背骨を伸ばし、胸を上げる。
③頭を左右前後のどちらにも傾けず、頭頂部を床と平行にする。
④目を閉じて目の奥を見る。
⑤胸の前で合掌し、親指が胸骨をさすようにする。この手の形はアートマンジャリ・ムッドラーとかフリダヤーンジャリ・ムッドラーという。
(写真を見ると親指が胸の中央にあたっている)
⑥意識が脳と心のあいだを揺れ動いていると、考えが次から次へと浮かんでくる。そういうときには掌をさらに合わせ、注意を自己の内なる神に集中する。掌がゆるんできたら心がさまよっているという警告であるから、一層しっかり合わせ、内なる自己に意識を集中する。

『禅の本』


坐禅の仕方
・結跏趺坐(足の裏を天に向けて両足を組んで坐る。結跏=足を組む。趺=足の裏)で座る。
①座蒲(ざふ。なければ座蒲団の上にさらに二つ折りした座蒲団)を置き、その上に浅く腰を下ろす。
②右足を左のものの上に乗せ、かかとが下腹につくくらいまで、なるべくつけ根のほうまで引き寄せる。
③左足も同じように右のももの上に乗せる。
両膝と尾骶骨で、床の上に三角形ができる。このとき膝が床から離れてはいけない。
足が痛くて結跏趺坐ができない人は、左足だけをももの上に乗せる半跏趺坐を用いてもよい。
それも辛い人は普通に正坐して行ってもよい。
・目は自然におとす。閉じると眠気を催したり、妄想に陥りやすくなる。
・手は法界定印(ほっかいじょういん)を組む。
右の掌を上向きにして、組んだ足の上に置く。
その上に左の掌を同じように上向きにして重ね、親指の先を合わせて卵形の輪を作り、その手はへその下あたりに置く。
両方の親指をかすかに合わせる。離れても押しつけてもいけない。
・体の位置は真中心におく。時計の振子のように上体をまず大きく左右にふって自然に止まった位置、次に前後にふって上体がまっすぐ安定した位置。
・頭は顎を引き、左右に傾かないようにする。視線は1m先くらいに自然におとす。
・口は軽くむすび、舌先を上あごの歯のつけ根に軽く当てる。
・肩は力を抜き、水平にする。
・背中はまっすぐ伸ばす。腰は後ろにぐっと引く。腹は少し前につきだし、鼻と一直線になるようにする。
・呼吸は自然と鼻からの呼吸にまかせ、息は長すぎも短すぎもしないようにする。息はまず吐き出してから吸う。下腹の底から吐く心地で息をすると、下腹はへこむというよりも充実感がある。すると自然に鼻から吸うことができる。


『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法』
William Hart ウィリアム・ハート (著),
日本ヴィパッサナー協会 (監修), 太田 陽太郎 (訳)
春秋社 1999-11


・ブッダの教えは仏教用語を解説するような形で説明されることが多いようです。しかし、本書では意図的に仏教用語を少なくし、原文の簡潔な英語を尊重して、できるだけ平易な日本語にするようつとめました。
たとえば、八正道を「聖なる八つの道」、
戒定慧を「道徳、精神集中、知恵」、
受想行識を「感覚、知覚、反応、意識」といったぐあいにです。
ヴィパッサナーはブッダの瞑想法をそのままの形で伝えるもので、宗教的な色彩をいっさい持たない
からです。(訳者あとがき)

・ヴィパッサナー瞑想法は長年ミャンマーの仏教徒のあいだで伝承されてきたが、それ自体はまったく宗教的な色彩がなく、どのような背景を持った人でも受け入れ、実践できるものである。
S・N・ゴエンカはヴィパッサナー瞑想法の指導者でり、口癖は「ビー・ハッピー!」。
瞑想の純粋さを維持するためには瞑想をビジネスにしてはならない、とゴエンカ氏は主張する。氏の指導する瞑想コースや瞑想センターは、すべて、まったく営利を目的としないで運営されている。ゴエンカ氏はいっさい報酬を受け取らない。氏の代理としてコースの指導を許可されたアシスタント指導者たちも無報酬

本書で引用したブッダの言葉は、もっともポピュラーな最古の記録書『経蔵』(スッタピタカ)からのものである。『経蔵』は古代パーリ語で書かれており、テーラヴァーダ派の仏教(上座部、南伝仏教)が普及している国々に保存されている。筆者は現代翻訳家の訳文を参考にしつつあらためて翻訳しなおした。
本文の仏教用語はパーリ語のものを使用した。サンスクリット語のダルマの代わりにパーリ語のダンマを、
カルマの代わりにカルマを、
ニルバーナの代わりにニッバーナを、
サンスカーラの代わりにサンカーラ
を、
といったぐあいである。

・ニッバーナ=火が消えること、苦からの自由、究極の現実、束縛のないこと。
サンスクリット語ではニルバーナ。

・サムサーラ=輪廻転生、条件づけられた世界、苦の世界。

・サンカーラ=(心の)形成、意思活動、心の反応、心の条件づけ。
サンスクリット語ではサンスカーラ。

・ブッダの教えは、自己改革の手段として自己洞察を強めてゆくシステムである。
『サティパッターナ・スッタ』すなわち『気づきの確立の教え』(大念住経)という経典のなかで、ブッダは自己観察によって自己洞察を深めてゆくという実践的な方法、すなわちヴィパッサナー瞑想法を示している。

・サティ(気づき)。アーナーパーナ・サティ(呼吸の気づき)。
ヴェーダナー(感覚。心とからだの両面を持つ)に反応することが苦の原因だとブッダは説いた。
ブッダは因果の連鎖において、タンハー、すなわち苦の原因は、ヴェーダナーに反応することによって生まれると説いた。
ヴェーダナーを冷静に観察できれば、新たな渇望や嫌悪の反応がなくなり、自分のなかで無常(アニッチャ)の真理を直接体験できる。執着を取って心を解放するためには、この体験が不可欠である。

・タンハー(原義は「渇き」)=渇望、(渇望の裏返しである)嫌悪。
タンハーが苦の原因。因果の連鎖においてタンハーが感覚への反応として起こる。

・ドゥッカ=苦、不満


・ブッダは対象物と反応とのあいだに第三の要因があり、それがヴェーダナー(感覚。心とからだの両面を持つ)であることを発見した。外の現実に対してではなく、内なる感覚に反応しているというのである。渇望や嫌悪の反応をせずに感覚を見つめることができれば、苦の原因がなくなる。だから苦は消滅する。
ブッダの教えを修行するためには、ヴェーダナーの観察が欠かせないのである。ヴェーダナーの気づきを完璧なものにするには、からだの感覚を観察しなければならない。
からだの感覚に気づくことによって、問題の根っこを深く掘り下げ、それを取り除くことができる。自分自身の奥底に横たわる真実を見きわめ、自分自身を苦から解放することができる。ブッダの教えのなかでは、感覚を観察するということが中心的な役割
を果たしている。

経典『気づきの確立の教え』の「気づき」は、「わたし」という現象の無常性を直接理解しなければ確立しない。その真理を自分自身で直接さとったとき、気づきは確立する。これが正しい気づきである。これによって心が解き放たれる。気づきが確立すると、外の世界ばかりか内なる世界への渇望と嫌悪もおのずと消えてしまう。とくに内なる渇望と嫌悪の根は深く、だれもが無意識に、本能的に自分のからだと心に執着し、しかもそのことに気づかない。
『気づきの確立の教え』はまず、からだの観察について説いている。呼吸を観察する。からだの動きを観察する。からだのなかにからだの内部を、または外部(体表)を、あるいは内部と外部を同時に観察する。からだのなかに生まれる現象を観察する。感覚を観察する。心を観察する。心の中身を観察する。
はじめは、固くて変化のない「かたまり」のような、からだと心のうわべの現実を体験するが、修行をつづけてゆくと、やがてその固さが自然に溶けてゆく段階に入り、心とからだの真の姿、一瞬一瞬生まれては消える波動の集まりを体験することになる。この体験によって、からだ、感覚、心、心の中身、これら四つの側面の実体をすべて理解する。それはおよそ非人間的であくまでも無常な現象の終わりなきうねり
である。

“では、瞑想者はどのようにして、からだのなかにからだを観察するのだろう? この場合、瞑想者は森の中や、木の下や、だれもいない小屋に行く。そこで足を組んですわり、背すじを伸ばし、口のまわりに意識を固定する。彼は呼吸を意識しながら、息を吸い、息を吐く。深い息を吸っているとき「いま自分は深い息を吸っている」と正しく理解する。深い息を吐いているとき「いま自分は深い息を吐いている」と正しく理解する。浅い息を吸っているとき「いま自分は浅い息を吸っている」と正しく理解する。浅い息を吐いているとき「いま自分は浅い息を吐いている」と正しく理解する。「からだ全体を感じながら、息を吸う」そのように自分を訓練する。「からだ全体を感じながら、息を吐く」。そのように自分を訓練する。「からだの動きを静めて、息を吸う」そのように自分を訓練する。「からだ全体を静めて、息を吐く」そのように自分を訓練する。
(『サティパッターナ・スッタ』『アーナーパーナ・パッバム』)“p.221-222


“ 瞑想者がからだのなかの心地よい感覚の無常性を観察しつづけていると、その感覚は衰え、うすれ、消滅する。また、自分が心地よい感覚に対する執着を捨てるのを観察しつづけていると、からだのなかの心地よい感覚への渇望という隠れた条件づけが取り除かれる。瞑想者がからだのなかの心地わるい感覚の無常性を観察しつづけていると、からだのなかの心地わるい感覚への嫌悪という隠れた条件づけが取り除かれる。からだのなかの中立の感覚の無常性を観察しつづけていると、からだのなかの中立の感覚への無知という隠れた条件づけが取り除かれる。
(『パタマ・ゲーランニャ・スッタ』)“p.223


ブッダ(さとりを開いた人)はあくまでも人間でありつづけ、けっして自分が神のような存在であるなどとは言わなかった。なにか特殊な力を持っていたといわれることはあるが、それはあくまで人間として抜きんでていたのであり、人間の持つ力を最大限に発揮させたにすぎない。だからブッダが成し遂げたことは同じようにやればだれにもできる範囲のことなのである。

・ブッダはいかなる宗教も哲学も体系的な理念も説かなかった。その教えをダンマと呼んだが、ダンマとは法、すなわち自然法則にほかならない。ブッダは特定の教義や無意味な施策には関心をもたなかった。そのかわり、万人が抱える共通の問題を解決するための普遍的、実践的な方法を提供してくれた。
ブッダは「むかしもいまも、わたしは苦と苦の消滅について説いている」という。苦からの解放につながる話でなければ議論することもひかえたという。
この教えは自分が発明したものでもなければ、神がかりになってひらめいたものでもない、とブッダは言う。自分が努力して発見した単純明快な真理であり、自分より前に多くの人が同じことを発見しており、自分より後にも多くの人が同じことを発見するだろう、と言っている。真理を独り占めにする気などまったくなかったのである。
ブッダは自分の教えが絶対であると断言することもなかった。それは人々が彼を信頼しきっていたからでもないし、彼の教えが理路整然としていたからというわけでもない。むしろブッダは、自分が体験していないものは疑い、検証すべきである、と述べている。


“人から聞いたこと、古い言い伝え、世間の常識、あるいは文字になっているもの、そういうものを鵜呑みにしてはいけない。想像、推測、外見、部分、可能性、あるいは師の意見、そういうもので教えが真理であると決めつけてはいけない。自分が直接「この教えは正しくない、間違っている、賢者も批判している。この教えを実行すると弊害があり、人々が苦しむ」とさとったとき、それを捨てればいい。自分が直接「この教えは正しい、間違いがない、賢者も称賛している。この教えを実行すると人々が豊かで幸福になる」とさとったとき、それを受け入れ、実践すればいい。”p.15

・ブッダは「わたしの教えには裏も表もない。掌中にかくした秘密はない」と言う。
実際、選ばれた弟子だけに授ける奥義など持たなかった。逆に、多くの人がその恩恵にあずかることを望んだのである。
派閥や個人崇拝の集団をつくって自分がその中心にすわる、などという考えはこれっぽっちもなかった。ダンマの教えに比べたら、教えを説く人はそれほど重要でない。教えを説く人の役目は人々に自己解放への道を示すことであり、盲目の信者をつくることではない、とブッダは言う。極端にブッダをまつりあげようとする者がいると、その人をこうさとした。

「このからだを見てなんになろう、やがては朽ち果てるものを。ダンマを見てわたしを見よ、わたしを見てダンマを見よ」

真理こそが第一であって、真理を説く人ではない。真理を説く人を尊敬するのはいい。
だが最高の尊敬の表わしかたは自分もその人と同じように真理を追究することである。
ブッダは、最期が近づいたころ、自分をひどく崇めたてまつる人々を見てもこうもらしている。

「これはさとりを開いた人をたたえ、敬い、尊ぶ、正しい姿ではない。むしろ、ダンマの道を最初の一歩から最終ゴールにむかってこつこつ歩き、きちんとダンマを修行している僧や尼僧、在家の男女の信者たちこそが、さとりを開いた人を心からたたえ、敬い、尊んでる」


(仏陀 ブッダ ことば 仏教 ‏@Buddha_Words 2011年3月22日
841 マーガンディヤよ、あなたは自分の教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執着した事柄について迷妄に陥ったのです。あなたはこの内心の平安について微かな想いさえも抱いていない。だからあなたは「ばかばかしい」と見なすのです(スッタニパータ)

“第四章(アッタカ・ヴァッガ)
p.186 八三六
“(マーガンディヤがいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」”

 p.186 八三七“師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

宗教否定。~という説を説くときいた相手がそれに執著してしまうことを危惧しているのかもしれない。どのような生存状態に生まれかわるかについて答えていない。わかりっこないからだろうか
。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-9.html
原始仏教はカウンセリング術。
現世利益を言わない宗教が多いのは、現世利益で幸せになると儲からないから。
『仏教、本当の教え - インド、中国、日本の理解と誤解 』・
『原始仏典』・
『ブッダの真理のことば・感興のことば』。
あと、生き残るために他の宗教に偽装した宗教や、キリスト教が作った「ユダヤという身代わりの生贄」やズルワーンについてなど
。)

わたしたちは外側ばかり見るくせがついている。自分を知らないことがどれほど危険なことかもわかっていない。自分の中に未知の力がひそんでいて、自分がその力の奴隷になっていることに気づいていない。ブッダが示した道は自己洞察、自己観察の道であり、自己浄化の道でもある。自分自身を観察していると、はじめて自分が反射的に反応していることに気がつくだろう。
この道は歩くのは、貯金をして将来その利息を楽しむとか、死んだあと、あるかないかもわからない天国に行くためではない。利益ははっきりと、あざやかに、その人その人にふさわいい形であらわれ、まさに「いま、ここで」体験できる。

(はっきりいって、未来や「いつか必ず」を強調する宗教は詐欺
です)

ブッダの教えを修行するためには、かならずしも仏教徒になる必要はない

・ブッダは物質世界がすべて、パーリ語でカラーパという「分解できない極小単位」から構成されていることを発見した。
ものはみなカラーパという微粒子から構成されており、そのカラーパはたえず生まれては消えるという。つまり、連続的な波動の流れ、絶え間ない微粒子の流れ、これが「もの」の究極の真相なのである。わたしたちがそれぞれ「自分」と呼んでいる「からだ」の実態なのである。

・ブッダはからだを観察しながら、心も観察した。そして、心が意識(ヴィンニャーナ)、知覚(サンニャー)、感覚(ヴェーダナー)、反応(サンカーラ)という、大きくわけて四つのプロセスから成り立っていることを発見した。
第一のプロセスは意識である。
意識は心のアンテナのようなもので、なにかが起こったことを無差別に感じ取り、それに気づく。からだや心になにかが起こったということだけを察知し、その入力信号をとらえる。内容を識別したり価値判断を加えたりせず、ただなにかが起こったという生のデータを受信する。

第二のプロセスは知覚である。知覚は、認識をする。知覚は意識がとらえたものを読み取る作業をおこなう。未処分のデータをすべてチェックし、分類する。そして好悪の判断をくだす。

第三のプロセスは感覚である。実際には、なんらかの入力があった瞬間に感覚が生じている。なにかが起こったという感覚が生じているはずである。ただ、その入力信号が識別されるまでは感覚がはっきりしない。データが識別されて価値判断がくだされたとき、それに応じて快、不快の感覚が生まれる。

心が何らかの対象物に接触すると、その瞬間、電光石火のごとく四つのプロセスが走る。これをつぎつぎにくりかえしていくのである。
人間をこのように説明してゆくと、その実体というよりも、その虚体とでもいうべき事実におどろかされる。わたしたちは、「わたし」という一貫したアイデンティティー(主体)を持ち、それを生来信じて疑わない。過去の自分、いまの自分、将来の自分、というものを中心にすえて生きている。
ブッダはこのアイデンティティーという直観的な概念に挑戦した。だからといってあらたに独自の概念をつくり、理論に理論をぶつけたわけではない。ブッダは何度もこう念を押している。自分は意見を述べているのではない。実際に体験した事実、だれもが体験できる道、それを述べているにすぎない、と。
人間は完成品でも不変の存在でもなく、一瞬一瞬、休みなく流れつづけるプロセスにすぎない、とブッダはさとった。
ほんとうに「存在している」ものなどなにもない。ただ現象のにが起こりつづけ、ひたすら何かに「なる」
というプロセスが起こっているにすぎない。

(心は脳の働きではなく)全身に心があります。からだ全体にです

・Q――先生は「わたし」という意識について、いつもマイナスなとらえ方をされます。でもプラスのものもあるのではないでしょうか?
喜びや安らぎ、至福感、そういう「わたし」の体験もあるのではないでしょうか?

A――瞑想していると、そういう官能的な喜びが長続きしないことに気がつきます。喜びの感情が浮かんでも、じきに消えてしまう。「わたし」が本当に喜び、その喜びが本当に「わたしのもの」なら、その喜びの感情を「わたし」は自由にできるはずですね。でも、そういう感情は勝手に生まれ、勝手に消えてしまう。そんな「わたし」とはなんでしょう?
深いレベルでは「わたし」というものは意味を持たなくなります。自我は溶解され、そこにはただ「喜び」だけがあります。「わたし」はもう問題にはなりません。瞑想を続けていくと、やがて自我の溶解を体験する
ときがきます。

Q――わたしがこの(ヴィパッサナー瞑想)コースに来たのは、「わたし」がここに来たいと感じたからなのです。

A――もちろん、そうでしょう。便宜上、わたしたちは「わたし」や「わたしのもの」から逃れることはできません。でもそれに執着し、究極的な意味での真実、と錯覚することは苦しみを生むだけです。

・カンマ(サンスクリット語ではカルマ。業)という言葉は一般的には「運命」という意味に解釈されるが、カンマを運命とするとブッダがこの言葉で意味しようとしたものとは正反対になってしまう。
運命というと人間の力ではどうにもならないもの、あらかじめ各自に課せられた天命、というような意味になる。
しかし、カンマの原義は「行為」であり、自分の行為が自分の体験の原因になるというのである。自分の行為を支配できれば自分の運命を支配できる。自分の行為、行動のなかに苦を止める鍵があるのだ、とブッダは言う。
真のカンマ、ほんとうの苦の原因、それは心の反応である。ほんの一瞬の好き嫌いの反応ならそれほど強くないから、ほとんど影響はない。しかし、累積効果というものがある。一瞬一瞬、つぎからつぎへと反応をくりかえしていると、そのつど反応が強くなり、やがて渇望や嫌悪に成長する。いちばん最初の説教をおこなったとき、ブッダはこれをタンハー(渇き)と呼んだ。ないものをどこまでもほしがるという心のくせは、あるものにけっして満足しない、ということと同じである。
苦から抜け出すための第一歩は、苦の現実を受け入れることである。それも頭のなかの概念や信条としてではなく、自分の人生を左右する厳然たる事実として受け入れる
ことである。

・Q――苦しみを体験することによって人はたくましくなり、人間として成長するのではないでしょうか?

A――そうですね。実際、この瞑想法も苦しみを使って心のきれいな人間を作ろうとしています。しかし、それも自分の苦しみを客観的に観察できるようにならなければうまくゆきません。苦しみに執着しているうちは心の清らかな人にはなれないし、苦しみから解放されることもないのです。

Q――自分の行動をコントロールすると言われますが、それは抑圧ではないでしょうか?

A――それは違います。どんなことが起きても、それをそのまま客観的に観察する訓練をしているのです。たとえば腹が立ったとき、その腹立ちを隠したり、こらえたりすれば、たしかにそれは抑圧になるでしょう。そうではなく、その腹立ちをじっと観察していると、それはやがて自然に消えてゆきます。怒りという感情を客観的に観察することができるようになれば、怒りから解放されてゆくのです

・「五つの集合体への執着が苦である」
苦は自分のからだと自分の心に対する並々ならぬ執着である。
からだというプロセス、それに意識、知覚、感覚、反応という四つの心のプロセス、
つまりこの五つのプロセス(過程、現象)への執着、五つの集合体への執着が苦なのである。
人々は自分の心とからだというアイデンティティーにしがみついている。
自分という虚像への執着、実際にはたえず変化しつづける現象にすぎないものへの執着、
これはまさに苦以外のなにものでもない


・執着にはいくつか種類がある。
①官能的な満足を求めるくせへの執着。
麻薬中毒者が中毒がひどくなることを知りながら快感を求めてつい手を出してしまう。
わたしたちはなにかを渇望することに執着している。
欲求の対象はあまり重要ではなく、ただ渇望している状態を維持したくなる。
渇望中毒


②「わたし」という大きな対象の執着。
自分、自我、自分のイメージに対する執着。
わたし「のもの」にも執着する。
自分に付随するものすべてへの執着。
自分に帰属するものに執着するのは、それが自己の延長であり、「わたし」のイメージを支えているから。
わたし「のもの」との別れは必ずくる。
執着が強いほどに苦しみも強くなる


③宗教の形態や儀式への執着。
外形にとらわれて、その根底にある意味を忘れやすい。

(釈尊の思想だと、
宗教の形而上学的な、確かめようがない教義は不毛だから悪。
当然、教義への執着も悪


輪廻転生(サムサーラ)は、一般にいわれているような、魂や自我の移行とは少しちがう。

ふつう、生まれ変わりというと、何度生まれ変わっても魂や自我の主体は変わらないと考えるだろう。
ブッダは、そういうことは絶対にありえない、と言う。
なにか不変の主体(アイデンティティー)があって、それが輪廻転生するのではない、と言う。
「ちょうど、牛から牛乳を取り、牛乳から凝縮乳をつくり、凝縮乳からバターをつくり、天然バターから加工バターをつくり、加工バターからクリーム状の脱脂乳をつくるようなものだ。牛乳は、凝縮乳や天然バター、加工バター、クリーム状の脱脂乳などとはべつのものと考えられる。それと同じで、どの時点においても、過去や未来ではなく、いまこの瞬間に存在している姿のみを真実と考えるべきである」


ブッダは、不変の自我本体が輪廻転生を繰り返すとか、前世も来世もないと言っているのではない。
ある存在からつぎの存在へ、さらにまたつぎの存在へと、ただ生成のプロセスが起こり、わたしたちの行為がそのプロセスに推進力を与えるかぎりその流れがつづく、と言っているのだ。
盲目的な反応をやめたなら、いまここで深い心のやすらぎを得ることができるだろう。
天国も地獄も、いまここに存在する。天国も地獄も、この世で、自分のなかで体験できる


執着をもたない、ということは、無関心や無頓着とは違います

・五戒
1 生き物を殺さない。
2 盗みをしない。
3 性的なあやまちを犯さない。
4 嘘をつかない。
5 酒類をとらない。

・シーラ=道徳。
他人を傷つけ自分も傷つくような、からだと言葉の行為をつつしむこと。

Q――正しい性と間違った性があるということですが、その違いは何ですか? 意思が問題なのですか?

A――そうではありません。生活の中で、性というのは正しい位置付けをされるべきです。それを抑圧してはなりません。むりに抑えれば緊張が高まり、むしろ問題を引き起こします。
しかし一方で、衝動のおもむくまま、誰かれかまわず交渉をもつことは、欲望を野放しにすることです。
抑圧でも放縦でもない中道をダンマは教えます

Q――麻薬の力を借りて、超意識や超現実を体験することについてどう思われますか?

A――麻薬の力で何かを体験することはそれに依存することです。
一方ダンマは自分が自分の主となることを教えます。いつでも望むときに自分の意思で真理を体験することができるのです。
麻薬を使うと心の平静さが失われ、自分を害します。ダンマの修行によって真理を体験するとき、心は平静になり、だれも害されることなどありません


Q――肉食はシーラを破ることになりますか?

A――いいえ、自分で生き物を殺して食べるのでなければ。たまたま肉料理が出され、ほかの料理同様に食べるなら、それだけではシーラを破ることにはなりません。でも避けるのが望ましいです。

呼吸に気づく訓練をする。呼吸に意識を固定する。
心がさまよっても、にっこり笑って、あせらず、根気よく、力まず、落ち込まず、何度も何度も心を呼吸に引き戻す。

・アーナーパーナ=呼吸。
アーナーパーナ・サティ=呼吸の気づき。

・アーナーパーナで呼吸に意識を置くとき、おなかでなく鼻孔の下に意識を置くのは、おなかでは意識を置く範囲が広すぎるから。
意識を置く範囲を狭くすれば、それだけ集中力は高まるので、鼻孔が最適。

・ヴィパッサナー=総合的に心を浄化する自己凝視、自己洞察。
とくに心とからだの無常という性質を見抜く洞察。

ヴィパッサナー・バーヴァナー
=からだの感覚を観察して真理を見抜く瞑想法を修行し、段階的に自己観察の力を高めていくこと。

ヴィパッサナー瞑想では自然なからだの感覚を観察する。順序良くからだに意識をめぐらせてゆく。
とくべつな感覚を追いかけたり、避けたりしてはいけない。
ただひたすらからだの感覚を冷静に観察し、どのような感覚があらわれようとそれに意識を置く。
変わった感覚を探し求めるのではなく、ふつうのからだの感覚を淡々と観察していく。
感覚の原因をさぐる必要はない。
重要なのは意識の焦点を合わせたところにある感覚に気づくこと。
何度も全身に意識をめぐらせ、かすかな弱い感覚も感じ取る。
感覚のにぶいところを飛び越してはいけない。
ある感覚を避けようとしてはいけない。

・ヴィパッサナー瞑想の最大の目標は、いかにして反応しないでいるか、いかにして新しいサンカーラ(盲目的な心の反応)をつくらないか、を学ぶことである。
盲目的な心の反応の結果もサンカーラと呼ぶ。


Q――自分がつくり出した感覚ではないということはどうしてわかるのですか?

A――それはテストをすればわかります。
ほんとうの感覚かどうかあやしいと思ったら、二つ三つ命令を出して、自分に暗示をかけてみるのです。
命令にしたがって感覚が変化するようならば、その感覚はほんものとはいえません。
けれども自分で感覚をコントロールできない、感覚が自分の命令にしたがわないときは、その感覚はほんものです。
疑いを捨てて、受け入れてください。


・人生のパターンを、後ろ向きの「反動」から、前向きな「行動」に変えてい
くのです。

たとえば、ある人がなにかをしようとしたとき、べつの人が邪魔をしたとしよう。
邪魔された人は、邪魔した人をひどい奴だと思い、嫌悪する。
その思いは邪魔した人の性格を考慮したものではない。
たまたま自分の邪魔をしたというだけで、いやな奴だと思い込んでしまうのである。
それが無意識の奥底にしっかり刷り込まれる。
そして邪魔された人に会うたび、潜在意識にその思いが浮かびあがり、不快な感覚を抱く。
すると、また新たに嫌悪感が生じ、それが邪魔した人のいやなイメージをいっそう強めていく。
二人が二十年ぶりに再会したとしよう。
はるかむかしのことなのに、邪魔された人は邪魔した人に会ったとたん、ひどい奴だ、いやな奴だと思う。
かつて自分の邪魔をした人の性格は二十年のあいだに一変しているかもしれない。
だが、邪魔された人は過去のいやな体験を思い出して相手を見てしまう。
それも邪魔した当人に対して反応するのではなく、最初の盲目的な反応によってつくられたイメージに対して反応してしまうのだ。
それは偏見の塊である。
これは、自分に協力してくれた人をいい人だと思うことにもあてはまる。
その思いは協力した人の性格を考慮したものではなく、たまたま協力してくれただけ。
良い印象は無意識の領域に記録され、協力してくれた人に会うたびにイメージが強化される。
何年もたってから再会してもやはり同じパターンが繰り返される。
協力してくれた当人に反応せずに、最初の盲目的な反応によってつくられたイメージに対して反応してしまう。
ヴィパッサナー瞑想によって、反応のくせ、つまり古い条件づけを取り除く。
感覚器官のいずれかに接触があるとき、いかなる評価も偏見もあってはならない。
偏見をもって価値判断をはじめると、前につくった盲目的な反応の影響をうけ、ものごとを歪めて見てしまう。
心を条件付けから解き放つためには、過去の反応でもって評価することをやめ、ただただ気づいていることである。

(人はX自体に対してではなく、X「に対するイメージ」に対して反応する、ということはきわめて重要です。
Xの今の状態を観察し、潜在意識と記憶が形成する誤ったイメージという苦しみの原因を克服しましょう!
過去の嫌悪を再現する潜在意識を改善しないと、対症療法にしかなりません


・Q――精神分析とヴィパッサナー瞑想を比較するとどうですか?
A――精神分析では、強いショックとなって心の条件づけをしたような過去の出来事を思い出させるのですね。
ヴィパッサナーでは瞑想者がみずから自分の心の深層、 心の条件づけが実際に生じるところにまで至るのです。
精神分析によって思い出すような過去の出来事はからだの中になんらかの感覚を刻みこんでいます。
全身の感覚を平静な心で観察してゆけば、何層にも積み重なった無数の条件づけが一枚一枚はがされては浮かび上がり、つぎつぎに消えてゆきます。
ヴィパッサナーは心の条件づけの根元にはたらきかけるので、はやく容易に自己を解放することができる
のです。

ヨガにヴィパッサナーを取り入れても構いません。
たとえばポーズを取って、同時に全身の感覚を感じるのです。
ヨガだけをやるよりもずっと効果が上がります。
ただし、マントラやイメージを使ったヨガの瞑想法はヴィパッサナーと相いれないものです。
そういうものとヴィパッサナーを一緒にしてしまってはなりません


“ 実際に瞑想をしてみると、呼吸に意識を置くことがいかにむずかしいかわかる。できるだけ長いあいだ呼吸に意識を置こうと思っても、どういうわけか知らないうちに心はどこかに行ってしまう。ちょうど、酔っぱらいがまっすぐ歩こうとしても千鳥足になってしまうのと同じである。じつのところ、わたしたちは無知と幻想の酔っぱらいなのである。過去や未来をさまよい、渇望や嫌悪に振りまわされ、いつも千鳥足で歩いている。しゃきっと目をさまして一直線の道を歩くことができない。
 瞑想をして困難にぶつかっても、落ち込んだり、弱気になってはいけない。長年かかってしみついた心のくせだ。それを取るには時間がかかる。そう考えたらいい。くりかえし、休みなく、根気よく、ひたすら瞑想するしかないのである。心がさまよっているのに気づいたらすぐ呼吸に意識を引きもどす、ただそれだけでいい。それができれば、心の放浪癖をなおす貴重な一歩を踏み出したことになる。何度も何度も瞑想をしているうちに、雑念がわいてもすばやく呼吸に意識をもどすことができるようになる。呼吸を忘れている時間が少しずつ短くなり、呼吸に気づいている時間、サマーディが長くなる。
 精神集中が深まると、力みがなくなり、幸せな気分になり、エネルギーが満ちあふれる感じがする。呼吸は徐々にやわらかく規則的になり、軽く、浅くなる。ときには、呼吸がほとんど止まったような状態になる。事実、心が静まるとからだも落ち着き、代謝作用が低下し、酸素もあまり必要でなくなる。
 この段階に入ると、瞑想中、奇妙な体験をすることがある。たとえば、目をつぶっているのに光や幻覚が見えたり、妙な音が聞こえたりする。このような、いわゆるESP(超常感覚)の体験は、精神集中がかなり深いレベルに到達したことを示しているにすぎない。そういう体験はあまり重要でない。とりたてて騒ぐことではない。依然として気づきの対象は呼吸であり、それ以外のものはすべて雑念である。けっして超常感覚が起こることを期待してはならない。それは起こることもあるし、起こらないこともある。超常感覚というのは瞑想のすすみぐあいを示す一里塚のようなもので、一種の標識にすぎない。旅をしていれば標識がかくれていて見えないこともある。夢中で歩いていて気がつかないこともある。その標識を最終ゴールだと思い込んでしまったら、それ以上前進できない。とにかく超常感覚の体験などは掃いて捨てるほどある。ダンマの修行者はそんなものを求めているのではない。自己の本質を見きわめ、苦からの自由を勝ち取ろうというのである。
 そんなわけで、ただひたすら呼吸に注意を向けてゆく。精神集中が深まるにつれ、呼吸は弱くなり、観察しにくくなる。かすかな呼吸に気づくには、そうとう努力しなければならない。いっそう心をとぎすまして集中力を高め、表層の現実をつらぬいて深層の微細な現実を観察してゆくのである。
 精神集中を深める方法はたくさんある。一つの言葉をくりかえし唱えて精神を集中するとか、なにかのイメージを凝視するとか、あるいは、同じ動作を何度も何度もくりかえすとか、いろいろだ。そういうことをやって注意を向けた対象にのめり込むと、やがて一種のトランス状態に入り、至福を味わうことができる。しかし、トランス状態のあいだは快感が持続しても、ふつうの生活にもどると、あいもかわらず同じ問題に悩まされる。そうした精神集中の技法を使っても、いちおう心の表面にやすらぎと喜びのうすい膜のようなものができる。ただし、深層の心の条件づけにまで影響をおよぼすことはできない。精神集中の対象として選ばれるものも、本人が体験しているはずの一瞬一瞬の現実とは関係ないものばかりである。だから、それによって得られる快感もちょうど壁の上塗りのようなもので、いかにも作為的な感じがする。心が浄化されたときに奥底から自然にわき上がる至福とはずいぶん隔たりがあるようだ。正しいサマーディは、心の陶酔ではない。つくりものでもないし、幻想でもない。
 ブッダの教えのなかにも、トランス状態(ジャーナ)を体験する話がある。ブッダ自身、究極のさとりを開くまえに八つの没我の境地を学んでおり、生涯その修行をつづけたという。しかし、トランス状態を体験すれば解脱できるというわけではない。没我の体験は洞察の修行への足がかりにすぎない、とブッダは強調する。瞑想によって集中力をつけるのは、至福と快感を体験するためではない。心を鍛え、それを道具にして自己の現実を見抜き、苦の原因である心のくせを取り除くためなのだ。それが正しい精神集中である。”
p.106-108

(深く集中して瞑想できれば誰にでも起こる自然現象なので、調子に乗ったり、選民思想に囚われて執着してはいけません。それを防ぐ装置の一つが、「戒律を誓わせること」です。
そもそも瞑想の目的は「心を制御できるようにして平静なままでいられるようにする」ことなので、このような神秘体験は邪魔=禅仏教における魔境です。あくまで、「ここまで深く自分は集中して瞑想できた」というサインだととらえましょう。

誰にでも起こることをわざと隠して、「あなたは選ばれた」とか「教祖の神通力のおかげ」とか
言って依存体質の信者を量産するのがカルトの手口ですので注意してください。
オウムはモロにこの手口を使っていました。


『禅の本』。禅はスピリチュアルの中核を否定。
神秘体験は魔境=執着してはならない悪。
スピリチュアルは野狐禅を量産する危険物なので取り扱い注意!

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-109.html
“…神秘体験による凶悪な洗脳の実例…

↓で紹介されている動画では、神秘体験によって洗脳する手法が暴露されているので自分の意見を交えつつ要約します。

条件を整えると誰でも起きる神秘体験を、グルの力によると錯覚させて洗脳。
通常とは異なる体験をしている人に対しては強烈な洗脳をかけることができる。
強烈な神秘体験をするのは、教祖の超能力でも何でもなく、誰でも起きる、人間なら誰でも起きる「変性意識現象」である、という視点が大切。
一見不思議だが脳にとっては当たり前の現象。
信者たちのなかには、リトリートと呼ばれる独房の中にいるときに神秘体験を得た者が多い。
暗い部屋に、それもできれば体温と差のない静かな所に、長い間閉じ込めておくとそれだけで変性意識になる。
上手にヨガをやれば光を見たりする。
そのときに「それはグルのおかげです」だとか「グルの超能力です」と言われて引っかかってしまう。

企業もカルトと同じ手口を使って、軍隊を作る為の訓練=洗脳を行う。
社畜=信者=兵隊。
企業研修=カルト宗教の入信儀式(入隊式)。

大勢の店長の前で(=監視下で)絶叫アピール。
人前で宣言すると宣言したことを撤回することが難しくなる、一貫性の法則の悪用。
絶叫した後で、訓練担当官が絶叫した人を抱きしめることで、洗脳をより強烈にする。
調教されたことに怒るどころか、感謝する奴隷の完成。
×店長が育てば会社が育つ。
○奴隷隊長が増えれば社畜から搾取出来るので会社がより肥え太る

いったん精神を動揺させてから洗脳。
紐付き陰謀論者が衝撃的な(黒幕の核心を外した)ネタで価値観を破壊して、洗脳されやすい状態にしてから、偽の黒幕(ユダヤや在日)を本物だと信じさせる手口と同じ。
紐付き陰謀論者自体がカルトの手先だから当然か。

だから、私は洗脳手法、詐欺の手口、人間心理の傾向、プロパガンダのやり口などをまず学び、紐付き陰謀論者の本やブログや講演を無視しなさいよ、っと言っているんですけどね


prometheus ‏@prometheus2054
【必見】オウム信者を脱洗脳した苫米地博士が、オウムの修行で変性意識状態を作りだし洗脳される過程を解説☞http://youtu.be/_VU7qOPBhJg?t=13m7s … 開始13分~これを見た後、日本の就活や企業研修がこれと似たことを行っていることが分かる→http://bit.ly/b23q0i

(国会議事堂占拠計画-国家権力掌握へ、白い愛の戦士 オウム総括6/10
https://www.youtube.com/watch?v=_VU7qOPBhJg&feature=youtu.be&t=13m7s

餃子のなんちゃら
https://www.youtube.com/watch?v=jpC_kJbS3RQ&feature=youtu.be

ようつべだと、動画再生速度を変えられるので、まとめるのが楽ですね)

以上の洗脳って、禅の修行を意図的に失敗させているとも言えるのですよ。
野狐禅の量産による狂人の量産です。
過労死するまで働く=会社の為に死ねるって十分狂人でしょ?
安息日なしのカルヴァン派プロテスタント的労働思想
=過労死教の狂信者は日本には特に多いです。

禅を学びたいなら、禅を曲解して反知性主義に改造するニューエイジャーやヒッピー系の本ではだめですよ。
スピ系が大好きなインド思想はキリスト教=反知性主義に都合よく改悪されているので、インド思想の論理的思考重視の姿勢をなかったことにしております



禅は神秘体験を否定しているのでスピったらダメ…

 上記で理解していただけたと存じますが、
一定の状況で神秘体験は意図的に作り出せるのですごくもなんともないです。
自分の意思で自在に神秘体験をコントロールできるならすごいです。
つまり、神秘のヴェールをはぎとって「自分の技術」にできるならすごいです。
神秘体験を神秘体験でないようにするのです。
神秘体験や神秘主義は仏教の方向性とは真逆です。
釈迦は神秘主義者ではまったくなく、透徹した合理主義者です。

目の前に神や仏や宇宙人が現れて、自分だけが選ばれたと救世主気分におぼれたり、宇宙霊と合体して天にも昇る素晴らしい心地がしたと感激する、などは魔境であり、悟りの邪魔であるから、囚われたりこだわってはならないと、禅ではいましめています。
つまり神や仏や宇宙人や宇宙霊や選民思想が現れても、相手にせず受け流し、軽くかわさないといけません。
禅はスピリチュアル=インド風キリスト教を否定しているのです。
心の平安と執着からの解放が仏教の目的なのだから、超越的な存在や愛という執着を主張する時点で偽物です。

禅宗の修行では、一般の人々(特にカルト信者)が喜びそうな奇跡的現象は、大悟の妨げとして厳しく排除されます。
そもそも禅の目的は超能力、いわゆる神通力を得ることではありません


(陀羅尼縁学 ‏@daranijizai 11月5日
仏教の宗派には、過剰にスピリチュアルや、霊感、霊能を禁忌として捉える所もあるが、それは一種の禅病を防止する為もある。
瞑想中にそういう不思議な感覚に囚われ行き過ぎた追求をすると、禅病になる。
禅で和尚にパチンと叩かれるのも、禅病予防。禅は追求するとヨガに行き着く
。)

前回の記事などで真の伝統である仏教を学びましょう!

斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

(菊池 ‏@kikuchi_8 11月13日
チベット仏教は密教のイメージだが、実は顕教はインド中観派が正統に継承さる
【斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう! 】
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 11月5日
ねここねこさん、フェイド大帝 が紹介したチベット仏教本 読んだのかw
偉いな……
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

今回の記事の内容、仏教を理解 するには凄く重要なのに、 ブログ拍手がいつもより少ないのが 笑えるw
やっぱ、専門的な話になると みんな読みたがらないのかなー この二冊、仏教書の中では 易しいほうなんだけどなぁ。

仏女・仏教をたたえる天才・偉人bot ‏@genius_200
自分は昔からこれまで、このような素晴らしい教えを聞いたことがなかった。
(仏教を日本に受け入れた 欽明天皇)
(われ昔よりこのかた未だかつてかくの如き微妙(くわ)しき法を聞くことをえず)
それから1500年間日本は仏教国!


STB ‏@RC_StB 6月24日
日本会議が如何に低能か 薩摩長州の芋侍が出てきて、廃仏毀釈をやらかし、そいつらの生き残りが「日本は保守の国」と嘘を付き続けている して、これを見よ
「天皇、仏法を信じ、神道を尊ぶ」(用命紀)
「仏法を尊び、神道を軽んず」(孝徳紀)
大日本帝国は日本史上稀な伝統破壊者だぞ(笑)

(神道家にとって道教と平田篤胤はアキレス腱。神道・惟神・天皇・神器は道教用語であり、神道用語ではないので本居宣長がやろうとした漢意を排除する試み(神仏分離!)は最初から破綻していますな

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-84.html


…今回の最重要な引用…

“ 坐禅がもっと進むと、今度はいよいよ魔力に支配された境地に入っていく。それを「魔境」という。魔境にはいろいろあり、『楞厳経』(りょうごんきょう)という経典によると、実に50種の魔境があるといわれている。また釈迦仏陀でさえも成道の直前に魔境に悩まされたことは、よく知られている。
これは釈迦が悪魔マーラを呼びだして、本当の悟り、(菩提)を得るための最後の戦いをする、というものである。マーラは世にも恐ろしい兵器で攻撃をしかけてくるが、釈迦はそれを花に変えてしまう。マーラは次に自分の娘たちに命じて、釈迦を誘惑させるが、釈迦は受け流す。
マーラは最終兵器で最後の攻撃をしかけてくる。しかし釈迦は、ついにそれらすべてが水面に映る月影のように、幻覚・妄想にすぎない、と知る。このマーラ物語が、魔境の原型であり、魔境の本質を示しているようである。
魔境という文字の形からは、なにか恐ろしい感じを受けることだろう。確かに、『源氏物語』の生霊とか『今昔物語』や『雨月物語』に出てくるようなすさまじい魔境もある。しかし多くはそうではない。かえって、これぞ悟りの境地ではないか、というようなものが少なくないのである。
たとえば、心の中にとんでもない妄想や屁理屈が出てきて、自分は天才だと密かにうぬぼれる。目の前に神や仏や宇宙人が現れて、自分だけが選ばれたと救世主気分におぼれる。宇宙霊と合体して天にも昇る素晴らしい心地がしたと感激する、などさまざまだ。
だがくれぐれも、そんなものにとらわれたりこだわってはならないと、禅ではいましめている。前章で書いた澤木興道のように「その内容は受け流すだけ」、つまり相手にせず軽くかわすだけのことなのである。
もっとも、どんな境地が魔境でないかは、なかなかわかりにくいようである。たとえば禅の心理学で世界的に知られる、ある高名な学者の例がある。
「なにもかもが新鮮にみえる。道端に何気なく生えている雑草さえ、この世のものでない美しさに輝いて目に映る。見性体験を得たとき、私はこれこそ禅の心だ、と思った。」
と彼は専門誌に発表した。やがてLSDという、ライ麦の麦角(ばっかく)から製造した強力な幻覚剤の服用体験の論文を読み、彼は、これぞ禅の悟りそのものであると説いたのである。
このためアメリカの西海岸では「LSD、5ドルで天国」とばかりにインスタント禅というものがはやり、ヒッピーたちは先をあらそって服用した。しかしその結果は無残にも、つかの間の悟りの後はぐったりとしたボケ症状におちこむばかりであった。つまりこれは魔境でしかないことが、事実をもって証明されてしまったのである。“『禅の本』p.147-148


自分は多少マシになっただけで大して目覚めていない覚醒していない、まだまだ洗脳されているからそれに気づく為に気をつけて検証しないといけない、と自覚して自戒する方がよっぽど「覚醒」しています。
信者=酔っ払いの言う「覚醒した!」って「俺は前よりも更に酷く洗脳された!」ってことなんじゃないの?
白昼夢(一応起きているけど夢心地)から目覚めてほしい。
せめて明晰夢(これは夢だと自覚)の状態になってほしい。
スピ系陰謀論者は、「真実は隠されてる!」というくせに、嘘を見抜く技術として重要な論理的思考や、歪められた思想の毒抜きなどを学ぼうとしない、布教活動が主体の人がほとんどです。
スピ系の大半は真実を求めていません。スピ系の大多数の人々が求めているのは選民思想的な優しい嘘。”


斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html
“禅の詳しい記事は次回にして、今回は、「キリスト教思想で都合よく改悪されていない本物の」チベット密教についてです。
論理と言葉を軽視あるいは否定する、チベットチベットうるさいスピリチュアル(=インド風の新キリスト教)信者に、チベット密教は論理的思考重視でありスピリチュアルを否定していることを示す以下の証拠↓を食らわせたら、迷惑な酔っぱらい(スピ信者)のごく一部はしらふに戻るでしょう。
信者が「自分」だと思っているものは実は欲とカルトの教義であり、それを自我と信じ込んでいるだけ
です。

“仏教論理学(因明[いんみょう])と認識論に関しても、チベット仏教の伝統は、実に高度な論議を蓄積してきました。「比丘や諸々の賢者たちよ。金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊 敬のゆえに受け入れてはならない」。これは、チベットのラマたちがよく引用する聖句です。お釈迦様は弟子たちに――あたかも金の純度を確かめるがごとく ――自らよく考えて教えの中身を吟味し、その後で初めて教えを信奉するように強く戒めています。チベット仏教では、こうしたお釈迦様の精神を受け継ぎ、盲信や実践至上主義を排し、明快な論理による思考を重視しています。”
p.20、斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社

“「視覚ではなく意識で、しかも次第に直感的に……」というのが、第一のポイントです。
第二のポイントは、「向こうから現われるのではなく、こちらから向こうへ置く」ということです。瞑想の中で、「自分の意思とは関係なく、本尊などが向こうから突然出現した」というような神秘体験は――何らかの印や徴候と認められるケースも稀にあるでしょうが――多くの場合、修行者の妄執が生み出した幻覚にすぎません。それゆえ、実践の正しい拠りどころとして、ほとんど信頼できません。また、実際にそうした幻覚が現われなくても、あたかもそうであるかのごとく瞑想することは、間違った方向へ心を慣らすばかりなので、いくら実践しても望ましい成果を期待できません。そうした突然の神秘体験に執着せず、あらかじめ自分の意思で「こういうふうに瞑想しよう」と計画を立て、それに従って意識の力で本尊の姿を認識対象として確立し、それを繰り返し瞑想して習熟することが肝要です。
では、信頼できない神秘体験と正しい瞑想の成果を区別する基準は何かといえば、「その瞑想に十分習熟したとき、いつでも意のままに同じ内容を再現できるか否か」という点です。もちろん最初からは無理ですが、本当に瞑想に熟達した密教行者なら、複雑な曼荼羅を――どんな大きさにでも――瞬時に再現できるといいます。「こちらから向こうへ置く」という感覚で瞑想するからこそ、習熟すれば自在に再現可能となるのです。”
p.92-93、斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社

“仏教の修行というものはすべて、お釈迦様を信じて拠りどころとしなければ成立しえません。この点で、仏教は、決して単なる人生訓や思想哲学や瞑想テクニックではないのです。
  しかし、「理屈抜きにただ信じる」というわけではない点で、他の多くの宗教とは趣を異にしているといえるでしょう。第二章で引用したお釈迦様の言葉を思い 出してください。「比丘や諸々の賢者たちよ、金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊敬のゆえに受 け入れてはならない……」。“p.192斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社

“知恵者らよ、自性が空という空性の意味は、縁起の意味である。しかし、功用が空(効果的作用がない)という非存在の意味ではない”
p.54、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/クンチョック・シタル/齋藤保高 共著『チベットの般若心経』春秋社



神秘主義と光は強固に結びついている
ミルチャ・エリアーデの論考「神秘的な光の体験(『悪魔と両性具有』所収)」に従うならば、ヨーガの修行では星の像、満月の円盤、真昼の太陽、火の輪などを見る体験が悟りの到来を告げる徴候とされる。
イランでは古来、光の顕現を救世主の誕生を告げる徴と考え、これがマタイ伝の霊の記述にも影響を与えたらしい。
また、エスキモーのシャーマンは千里眼能力を得る際に、「天啓の光」というものを経験するという。この光を体験したときに空高く上昇する感覚に襲われるのだが、これはエスキモーに限らない。
円盤が発射した光線に引き上げられて円盤内部に運び込まれる体験と類似。

UFO目撃者の中には、目撃後に一種の人格変換が観察される人々が存在するという報告は、示唆的。光が彼らを変えたのか、変わろうとした彼らが光を必要としていたのかは視点の相違に過ぎない。
僕は何もUFO体験が実は宗教的体験であったと主張しているわけではない。
人間はどういうわけか光を見る生き物なのであり、その体験は長い年月をかけて練り上げられた宗教システムにあっては整合的に組み込まれたというにすぎない。
仮に宗教なんか存在してなくとも光が飛ぶのは見えちゃうんだから。
事実と虚構、現実と非現実の境界に絶対的なものがあると思っちゃいけない。

(宇宙人による遭遇や誘拐が結社への勧誘とイニシエーションを意味している場合があるでしょうね。

超常の存在
=人格に相当するものがあるかは不明のエイリアン

と定義すれば、

――憑依されたか憑依させたかは問わず――
エイリアンと同化した存在
=結社員は「宇宙人」と呼ばれてもおかしくないのではないか?

支配層は「最初から人格がある人型宇宙人」という実際とは異なる、支配層に都合がよい姿に捻じ曲げて発表させているのでは?
エイリアンXには人格がなく、それが人間に憑くと、憑かれた人によって、Xの要素がどのていど反映されるかが決まるのでは?
人によっては爬虫類っぽい顔になるのでは?

で、憑依されやすいあるいは召喚しやすい血液の種類があって、それがRHマイナスでしょうね。大けがしたら真っ先に死ぬ血液を持っているなんて普通は嫌だろうけど、それを補って余りあるメリットがあるからでは?

支配層なら、大怪我をしにくいようにできるし、すぐに処置できるように備えることもたやすい。
血は命。血は魂。あるいは血は命と魂の通貨。
物質と非物質の境目。

血液は400ccあたり1万8千円。
献血といえば赤十字、赤十字といえば天皇家。
支配層の血統重視は異常。
献血で血を抜かれる側はボッタクられていますね。

強制的に狐憑きにして、廃人にならなかったら合格とかやってそう。

結社員
=宇宙人と人の融合体

ってまんまウルトラマンですね。

産みの親の円谷はカトリック。一家全員がカトリック。
腕を十字に組んで放つ必殺技。
初代ウルトラマンにはノアの神も登場します。

「世界シンボル事典」の聖書の「ノア」の項目にフリーメイソンの結社員のことを「ノアの息子たち」と呼ぶと書いてあるそうです
。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-101.html
空飛ぶレイシズム】 稲生平太郎『定本 何かが空を飛んでいる』②。 
支配層が用意する娯楽=デモ=麻薬=宗教行為。 
工作員の仕事=良心を麻痺させる宗教行為。 デモやるなら皇居や銀行や軍需企業の前でやったら?



…主な参考資料…

完全閉店 ‏@lakudagoya 8月20日
「イメージ・シンボル事典」が欲しいけど手が出ないから図書館で「世界シンボル事典」を借りて読んでたんだ。そしたら聖書の「ノア」の項目にフリーメイソンの結社員のことを「ノアの息子たち」と呼ぶと書いてあった。FF3の魔王の師匠がノアなのもこのシンボリズムを感じるよね。



エジプト神名リスト:セト Seth
http://www.moonover.jp/bekkan/god/seth.htm
"荒ぶる砂漠の神。暴風と雷鳴を象徴とする。

甥のホルスと壮絶な王位争奪戦を繰り広げた神話で知られ、時々卑怯な手も使ってはいたが、その文句なしの強さゆえに、敵を撃退するときには必要とされる戦の神でもあった。エジプト王国の歴史を通じて、混乱期にはセトの力強さが求められた時代も何度かある。単純に善悪では割り切れない神であり、この神を「邪神」や「悪魔」と呼ぶ人は、まず根本的にエジプト神話の特性を理解していないので、その時点であまり信用しないほうがいい
(…)
甥ホルスとの王位継承戦争に敗れたあと、セトは国外を領土とする「異境の神」となった。ナイル河畔の「神々の土地」に対する外の世界=砂漠、または国境の外の世界=異国、である。
外国人の人気も集めた神で、のちにヒクソス人がエジプトに侵入してくるようになると、嵐の神、雷鳴の神としておなじ性格を持つヒクソスの神ステクや、シリア系の神バアルと同一視されるようになった。その影響で異国風の衣装をつけたり、戦車に載る姿で描かれることもあった。

また、新王国時代(第19王朝)のラメセス2世は、ヒッタイトとの戦争後、講和してヒッタイトの王ハットゥシリシュの娘を妃として迎えるとき、山を越えてくる婚礼の一行の道中の安全をセトに祈願している。ヒッタイトの首都は現在のトルコ(カッパドキアの北)。そこからの遠路はるばるの旅路の無事を祈るのは、国内専門の神ではなく国外もサポート対象になっている神。けっこう手広い神様である。もちろん、セトが単なる邪神や悪魔と考えられていたなら、こんなことは在り得ない。
(…)
新王国時代の儀式の中では、セトの身代わりを打ち倒すことにより、王権を確固たるものとすることが行われた。
その儀式でセトの身代わりとされた動物は、以下のような実に多彩な種類である。

・ヘビ⇒アポピスの項を参考に。
・カメ⇒アペシュの項を参考に。
・ロバ⇒なんでだか不明、頭の部分がロバに似てたから?
・雄カバ⇒ホルスと戦うとき、セトが化けたからとされる。とばっちりでセベクがセトの仲間にされた。
・ブタ⇒これもセトが化けたからとされる。"

完全閉店 ‏@lakudagoya 5月22日
イルミちゃんゆるキャラ解説 その1
・緑のピラミッド(ワンワールドカラー。グラントリアンとアングロサクソン系メーソンの統合)
・蛇くん(レプティリアン。竜座のα星。天帝信仰)
・片眼の赤ちゃん(ホルス君)
・フクロウ君(イルミの象徴) pic.twitter.com/DUXsvYKSlU

イルミちゃんゆるキャラ解説 その2
太陽さん(ミトラス、ソル・インヴィクトス、ドルイド教の太陽崇拝など全て)
・バフォメットちゃん(智慧の頭という意味。レヴィのバフォメットは両性具有のシンボル)
豚ちゃん(セト神のシンボル) pic.twitter.com/Y6oq7WRebV

イルミちゃんのゆるキャラ解説 その3
豚ちゃん(おなじみユダヤやイスラームで禁忌とされる豚肉。でも、豚肉はある神において重要。それはエジプトのセト神(後にバアル神と習合)のものとされる)

イルミちゃんのゆるキャラ解説 その4
・蛇くん(メドゥーサなどの古代の蛇信仰。主に蛇信仰は女神信仰でもある)
・レプティリアン君(目隠ししてるのはふりーそーめんの儀式か!?)
・牛君?(古代の雄牛信仰。セラピスやバアル、ゼウスなど) pic.twitter.com/OBj9Mk9Zo7

完全閉店 ‏@lakudagoya 5月23日
@Jd805 @knznymmmy あはっ!たしかにエースコックのパクリかも知れませんが、豚がアカンということは逆に神聖でもあるということで。古代エジプトでは豚肉は、セト神のシンボル(主神のホルス君の敵)ということで避けられました

エジプト神名リスト:バアル Baal
http://www.moonover.jp/bekkan/god/baal.htm
”もとは、西セム系の神。アナト、アスタルテなどとともに、シリアから渡ってきた神。バアル、という名は「主人」を表し、地方によって「バアル・何々」と後に地名などが続く。

シリア人が大量にエジプトに移住した時代に、シリア人とともに信仰も移り、エジプト風になったものが、エジプトにおけるバアル
神だ。新王国時代には、フツーに昔からエジプトにいましたよってな顔をして登場する。
砂漠、嵐の神であったことから、エジプト神話における似た属性の神、セトと同一化され、妻までセトにとられてしまう(笑) 右図のバアルが元々のカナアン系の姿だが、エジプトでは基本的にセト神と同一視され、セト神の姿で表現されることが多い。(名前だけ"バアル"と記載される)

もともと属する神話はウガリット神話で、そこでの彼は「主神」となっている。また豊穣の神であり、死の神モートと戦って、エジプト神話のオシリス同様に死と再生を繰り返す神でもある。
(…)
エジプト神話側からすると意外かもしれないが、本来のバアルは豊穣神だったらしい。
エジプトでのバアルは、もちろん「戦いの神」。荒ぶる神、セト神と同一視され、眷属か、または同一人物とさえ見なされていた。

その原因のひとつは、どうやらエジプトの砂漠気候にあるようだ。
カナアンでの豊穣神は「雨を降らせる」ことになっている。雨は雷とともに来る。ゆえにカナアンでのバアルは雨・雷・雲、または嵐で象徴された。
だが悲しいかな、エジプトは、雨が降らない国だった…。
水をナイル河に頼っているエジプトでは、豊穣の神は、オシリスやハピといった「河の神」である。雨の神はいないし、雨が豊穣の象徴となることもない。そんなわけで、バアルは雨を降らす神ではなくなり、雷や嵐の力強さに付随した戦いの神という属性だけが残ってしまったのだ。


ところで、本国のバアルには、雨の神らしく「きんと雲」ならぬ、お出かけ用の雲があったらしい。
(…)
バアル、という言葉はセム語で「主人」を意味する。もう少し意味を広げると「神」ともなるようなので、信仰される神という存在の一般名詞でもあったと考えられる。(ちなみに女主人は”バアラト”)
特定の神を指定するには「バアル=○○」と、いう名前がついたらしく、そのようなお名前の神様をたくさん見かけたが正直何が違うんだか全然分からなかった^^;

エジプトに登場する”バアル”は、主に下エジプトに定住した人々の崇めた神で、バアル=サパン、または、バアル=ゼフォンという名前だったそうだ。
サパンは信仰の中心地であった山の名前、ゼフォンは「北の」
を意味するという。

#ちなみにSFアニメ「ラーゼフォン」のゼフォンはここから来ているんだとか?

エジプトでの呼び名はセム語の発音に近い「バアル」(バール)で、発音的にはあまり変わっていないようだ。
名前をヒエログリフで書くと、セトの神聖動物が決定詞として、ついてくる。セトの一人格として見なされたがゆえだろうか。


キリスト教(太陽+来世に期待)とユダヤ教(嵐+現世利益)は根本思想が違いすぎる。
ラクダが家畜化されるのは紀元前10世紀以降なので旧約にラクダが登場するのはおかしい

岡田明憲『ゾロアスターの神秘思想』 講談社現代新書 。
岡田明子・小林登志子『シュメル神話の世界 』中公新書
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-52.html
ミトラ教(太陽派)+黙示録(拝火教)=キリスト教
嵐派+メシア(人間の指導者)による現世利益=ユダヤ教
根本思想が違い過ぎ。
猫太”オリジナルのユダヤ教は、中国人と全く同じの現世利益的宗教ですから。この基本がわかれば陰謀論の嘘もわかる。”
ユダヤは✝の囮

(…)
・メシアとは本来、ヘブライ語の油を注がれた者を意味する。これは一般に王を意味するもので、必ずしも終末論的救世主に特定されていたわけではない。
それがギリシア語でメシアにあたるキリストになると、もっぱら救世主に限定されて使用される。
単なる王としてのメシアから救世主への、メシアの終末論的解釈への変化は、バビロン捕囚以降に属す。ゆえにペルシア文化の影響があるのは否定できない

このメシアの原型と考えられるのが、ゾロアスター教のサオシュヤント。
ゾロアスター教の誕生から三千年の後、世界の終末が来るとする。
三千年は三等分され、千年ごとにゾロアスターの子孫が出現し、世を利益するサオシュヤントになるのである。三人のサオシュヤントは、霊的に保存されたゾロアスターの精子を、聖なる処女が受胎することによって、この世に降臨するとされる。
三人目の最後のサオヤシュントが終末の総審判を行う者である。
この最後のサオヤシュントは、ダハーカ竜を殺す槍を持っている。竜退治の槍。

(バビロン捕囚は嘘なので拝火教的救世主に概念が変わるきっかけがないですね。
ユダヤ教からキリスト教が生まれたのは嘘であることの根拠の一つです。
ユダヤ教は現世利益的で現実的指導者がメシアなんです。
なのにありもしないバビロン捕囚をきっかけに、拝火教的キリストっぽいメシアになるのです。
キリスト教のキリスト概念に上手く繋がるように捏造したのです。
バビロン捕囚がなかったら、キリスト教と救世主の概念があまりにも違うとばれますからね。
キリスト教の救世主概念はミトラと拝火教の救世主そのまんまですから。超常の存在。
旧約聖書ってあまりにもキリスト教に都合が良すぎるんですよね。
存在しないイエスを殺した悪のありもしない民族の教典=異教徒の教典を採用している時点で怪しい。
ゾロアスターの精子バンクで処女のまま妊娠ってキリスト教より論理的ですな。
バビロン捕囚じゃなくて、
紀元前3世紀中頃から前1世紀間に、徐々にヘブライ語の旧約をギリシア語に訳した七十人訳が救世主概念が変わったきっかけだろうね。
ファラオの命でヘブライ人の経典(旧約聖書)をギリシア語に翻訳したもので、ルシファーをラテン語訳で召喚したヒエロニムスも旧約の翻訳の際に参照しています。
また、ルネサンス以前の西欧では、ヘブライ語の識者が殆どいなかったためもあって、重宝されたようです。
七十人訳は最初期のキリスト教=ほとんどミトラ教が採用したものだそうです。アレクサンドリアでの翻訳にミトラ教やゾロアスター教徒あるいはペルシャ出身者が絡んでいたのでは?
新約聖書に引用されている旧約聖書の個所はこの70人訳からの引用

紀元前4、5世紀のヘブライ語原典を、ある程度想像できるから重視されます。しかし、古代ギリシア語の共通語=コイネーによる七十人訳(あるいはラテン語で septuaginta セプトゥアギンタ。「70」の意。LXXと略す)が原典の忠実な翻訳であるとも限らないため、問題は多いです。
意図的な誤訳がありますね。

1. 歯が一本減った人‏@boronology10月28日
1,イザヤ書の「みよ乙女は身ごもりて」が「処女」と訳されたのはギリシャ語の七十人訳聖書
2,非嫡出子という意味はない
3,だいいち当時ディアスポラのユダヤ人の間は「処女」の意味で広まっていたはずである
もちろん福音書記者もヘブライ語はちんぷんかんぷんなので七十人訳聖書でしか知らない。
そうなれば新約の時代においては「処女」こそが正しい解釈になってしまう。

3のところの「処女」って「乙女=若い女」の間違いでしょう。

1. 真央‏@mao49492012年1月18日
本来の原典は『西暦前1世紀』のギリシャ語セプトウアギンタ訳です。現在のキリスト教が主張するセプトウアギンタ訳は西暦前1世紀『以降』翻訳されたもの。それが現在のキリスト教聖典七十人訳聖書 です。
七十人訳聖書(しちじゅうにんやくせいしょ、羅:Septuaginta, 「70」の意。LXXと略す)は、ヘブライ語のユダヤ教聖典(旧約聖書)のギリシア語訳であり、紀元前3世紀中頃から前1世紀間に、徐々に翻訳・改訂された集成の総称を言う。ラテン語読みである。これ改竄でしょう改竄翻

(…)
ガザーリーなど、イスラムの思想家にはイラン出身者が多い。イスラム哲学はペルシア文化の影響下で育まれたのであり、素朴なアラブ人だけでは不可能であった。
特にイスラム神秘主義はイラン人の心性に根ざす。ゾロアスター教の影響がある。
天使論に限っても、イスラム神秘主義のそれは直接ゾロアスター教に連続している


・大乗仏教と小乗仏教の大きな違いは、大乗仏教には菩薩思想があること。菩薩思想とは自己だけの悟りに満足することなく、広く衆生を救わんとする思想である。
大乗仏教の成立地はクシャーン朝下の西北インド。イラン文化の影響がある。
大乗仏教の起源として考えられるのが、ゾロアスター教のサオシュヤント(=利益する者)
弥勒はミスラである。
仏像発祥地のガンダーラから弥勒菩薩像が発見されている。
ガンダーラの仏像で確実に菩薩と断定できるのは、成道以前の釈迦菩薩の他は、この弥勒と観音菩薩だけ
である。

・観音信仰は地母神の信仰と同様の基盤を持つ。観音の起源に西アジアの女神を考える説は十分説得力がある。
特にゾロアスター教のアナーヒター女神は多くの点で観音と共通点がある
ササン朝銀器に刻まれた、観音菩薩と同様に蓮華を手にしたアナーヒターがある(恐らく)壺(花瓶みたい)の写真が本書にあり。
・大乗と密教の違いは呪術を重視するか否か。思想的に大乗と密教に本質的な違いはない。
密教における火の考え方は、仏教に本来的なものではない。
釈尊の仏教では、煩悩の火に焼かれると言うように、否定的。この火を吹き消したのが、仏教で理想とする涅槃である。

(ゾロアスター教にとっては火を消すことは最悪の行為。実際の火ではありませんが、比喩的でも嫌がったでしょう。火事の火はさすがに拝火教でも消すよね?)

が密教では護摩の火で本尊を供養し、護摩の火で煩悩を焼きつくすと考える。
一方では煩悩と見られた火が、他方では仏の智火とみなされる。
密教では、特にこの煩悩を焼く知恵の火を重視し、この点でバラモン教の護摩に対する優越性を主張する。
しかしバラモン教にも薪を煩悩とみてそれを焼く火を智慧とする見解はある。

(執着の塊=宗教

バラモン教否定の原始仏教が、バラモン教や拝火教的になっています。
マギとバラモン僧侶の復讐です。
起源仏教は呪いをかけちゃいかんと言っているのに。
呪いをかけたい=執着

詐欺も横行していたし)

密教の護摩の起源に、バラモン教の護摩、すなわち火天供養があるとは広く言われた説。ヴェーダの時代からインドでは神を祭るのに祭火(アグニ)を用いた。祭火に供物を投入し、火神がそれを天上の神々に運ぶと信じた。
一方イランでも、ゾロアスター教が、火(アータル)をアフラ・マズダーの息子として崇めた。
火は正義(アシャ)を象徴
したものとされ、悪を駆逐し、万物を浄化する神聖なものとみなされた。
ゆえに火を崇拝する拝火教。
形式的な面では、密教の護摩は、はるかにバラモン教と共通点が多い。
密教の護摩は息災(円形の炉)、
増益(方形の炉)、
調伏(三角形の炉。△一つ目の△は恐らくこれ)がある。
バラモン教のヴェーダ祭式でも、
一家の平安を守って燃える「家長の火」は円形の炉で供養され、
神々に供物を捧げ願い事をする「供犠の火」は方形である。
また、死霊、悪霊をまつる火は、半円形の炉で、三角形に近い。しかもこの火は「南の火」と呼ばれるから、密教の調伏法が南面して行なわれるのに通じる。
・息災、増益、調伏の3種護摩が密教で確立するのは7世紀
になってから。
それ以前にすでに、中央アジアの仏教で護摩が使用されていた形跡がある。当時この地方を支配していたのは、イラン系のクシャーン朝である。この王朝の貨幣に描かれた神像にはゾロアスター教起源のものが多く、また、火炎に荘厳(しょうごん。仏像や仏堂を厳かに飾りつけること)された国王像も見出せる。

・ボン教(ラマ教)には拝火教の善悪二元論や救世主サオシュヤント思想が入っている。
チベット密教には、乗(じりんじょう。カーラチャクラ・ヤーナ)という教義がある。
カーラ=時間。時間を根本原理とするゾロアスター教のズルワニズム(ズルワーン主義。時間主義。拝時教)の影響がある。
ズルワニズムは時間と空間を同一視する。
アフラ・マズダーとアンラ・マンユは時間神ズルワーンより生じた双子の兄弟とされる。
そして、一万二千年を三千年ずつ四期に分け、善悪両方の神の戦闘を説く。

(一万二千を強調するのは、アトランティスと、それに言及したプラトンと、拝火教の反映。ニューエイジ、スピリチュアル、神智学あたりね。
エヴァの監督がよく一万二千が出てきたり。ナディアとかね。
あと、一万年と二千年前から~のアクエリオンはみずがめ座の新時代=ニューエイジ=ニューイオン)

阿弥陀仏の原名アミターバは、「無量光(むりょうこう)」を意味し、拝火教の光明神と結びつく。
また別名のアミターユスは「無量寿」と訳され、無限時間を指すズルワーン・アカラナと同じ意味になる。阿弥陀仏は救世主的性格を持つ。
阿弥陀仏を説く経典そのものがクシャーン朝時代に西北インドで成立したと考えられる。
浄土の概念もゾロアスター教的。フラショー・クルティ=拝火教における終末の立て直しにおける世界の浄化の影響を見ることができる。
大日如来は遍照如来とも称し、またビルシャナ仏とも言われる。ビルシャナ=太陽。
ビルシャナに関係するインド神話のヴァイローチャナはアスラ(アフラ)の王とされる。
アフラ・マズダー(知恵王)の関連が云々されることになる。
太陽神に思えるが、ゾロアスター教の太陽神はフワル・クシャエータであって、アフラ・マズダーではない。

(太陽神ミトラと同一視されたりするアフラ・マズダは太陽神の性格も持つはずですが、本来は太陽をも超越した光自体か、金星なように思えます)

密教でも大日如来をただちに太陽と同一視しているわけではない。
日天(にってん。アーディティヤ)は十二天の一つとして、曼荼羅の最外院に別に存在する。世間の太陽と大日如来は区別される。
大乗仏教運動の成立地は中央アジアや西北インドであり、この地のイラン文化の歴史的位置が明らかである



今週のジャンプの『BLEACH』(ブリーチ)でファーティマの手が登場。
ギリシア哲学(特にプラトン)とキリスト教「思想」(人は単なる部下)が真の黒幕であり、黒幕の中核(源流。本体)はインド=イラン「思想」。
思想は領土がなくても生き残る霊魂

馬と馬車と金属加工の技術を持った秘教集団。
トラキアの「死は善。生は悪」が悲劇の起源?
良ツイート集。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-66.html
”なぜ角なんか生えるのかというと、そりゃ、 牛君=バアルに面会してきたって事でしょw で、自分は牛の角なんか生やしてるくせに モーゼは民が牛の像を作った事に ブチ切れる。折角貰った十戒の石板 ブチ壊すほどブチ切れる これは、神様=牛君っていう図星を つかれたのが痛かったからだろう


自分がバアルだっていう黒歴史を 消そうとしてる目の前で 「バアル、バアル」言われたら そりゃファビョるよwww しかし、こいつが黒歴史を隠蔽する意図は 何だったんだろうな?


という事でやっぱヤハウェ=バアル=牛君 で、牛君と対面してたせいで、ウシが感染っちゃった?せいで モーセには角が生えた・・・?

...私のよく使う表現では牛君だから。 で、ヤハウェはその牛を見てパニクってしまう。 これって図星突かれたからじゃないの?って事。 なにしろ、ヤハウェは自分の正体を隠すのに熱心だから。 あとヤハウェ=バアルと私は考えていて バアルって牛の神じゃなかったっけ?
(…)
私は、ヤハウェが必死に名前を隠すのはなぜだろう?と 不思議に思って、そのへんを調べてたら、 どうも、ヤハウェは半獣半人の神様でバアルじゃね?って事になった。 しかも、その「バアル」すら偽名で、 マルドゥックとも名乗るみたいだけどこれも偽名で...

ヤハウェ=バアルがなぜ執拗に名前を名乗るのを拒否するか? エクソシストとか見ていると分かるのだが 相手に名前を知られて、名前で命じられると 拒否ができないルールがあるっぽい

例えば、モーセに角が生えたのも 牛の神と対峙したから。 また、シナイ山にモーセが篭っている間、 イスラエルの民は牛の像を作りました。 それはヤハウェ=バアル=牛だからです。 それを見たヤハウェは怒り狂い 今すぐ山を降りろとモーセに命じました。 なぜ怒り狂う必要があるか?

ヤハウェにしろバアルにしろ偽名です。 ヨッド・へー・ヴァヴ・ヘーにしろ アドナイにしろエロヒムにしろ 全部「コイツの本名」ではありません。 そして、両者とも中東の神で、牛の神で 雲を乗り物とし、雷を投げ・・・ 要するに同一人物です。 あ、いや、人間じゃないんですけど。

キリスト教会でこんな発言をすれば 冗談抜きでブン殴られかねないです。 なぜならばバアルは悪魔の代表格で 旧約聖書にも何度も登場するからです。 しかし、ヤハウェにしろ、バアルにしろ あまりにも共通点が多過ぎます。 例えば名前を隠すことに必死な事。

一般のキリスト教ではヤハウェ=牛なんて 教えません。むしろヤハウェは自分自身の 正体を必死になって隠そうとするので それに同調しておくのがキリスト教です。 が、私はあえてもうひとつ言っておきます。 ヤハウェは牛の神であり、 同時にバアルでもある。

少なくともヨブには神が悪魔でもあるという 事は理解ができていました。 だからこそ、彼は 「神から幸いを受けるのだから 災いをも受けるべきだ」と 言ったのです。 「あなたを祝福する」だの何だの 調子の良い事ばかり言う神様から 災いを受ける・・・ これは矛盾してはいません

ふざけるな! ユングの名著「ヨブへの答え」にも 書いていますが、明らかにこれは ヤハウェの失態です。 ここから分かるのはヤハウェは 全知全能でも何でもないという事。 都合が悪くなったらヒステリーを起こす事。 そして悪魔とも普通に お友達付き合いをしている事です。

聖ヒエロニムスの像。 ヘブル語の聖書をラテン語に翻訳。 助手となったのがパウラだが、先だたれ、パウラの頭蓋骨を机に置いて翻訳作業を成し遂げた。 しかし、大きな誤訳をしてしまった。
◎モーセが光輝いていた。
×モーセに角が生えた。)

誤訳じゃないよ ヒエロニムス訳が正解だ カラーだったかな?何か聖書の中に 2回しか出てこない珍しい単語が出てくるんだよね んで1回はモーセの顔の所 これは光と訳しても角と訳しても文章が破綻しない でもう一箇所はどう考えても角にしかならないそうなw


(美輪様の名言 ‏@miwasamameigen 2013年10月5日
黒があるから白さが分かる。悲しみや苦労を経験した人ほど、幸せのありがたみが分かる。


黒も白も悲しみも苦労も幸せすらも 知らない人こそが幸せな人。 つまり、この世に生まれた時点で 完全に失敗。 生まれない人こそが勝ち組 聖書のヨブ記や伝導の書を読んでみよう!

バアル、ヤハウェ、若しくは牛君の 特徴として本名を晒すのを異常に恐れている。 だから出エジプトでモーセに名前を聞かれても "I am who I am"ってごまかしちゃう。 バアルもそう。 「高き所にお住まいのお方」とか たしかそんな意味じゃなかったっけ?”


ハタヨガの真髄 (1)
http://thanksjico.exblog.jp/8619277/
“ヨガという言葉は、「縛る」「結ぶ」「結びつける」「~をつなぐ」「本人の注意を導き、集中し、使い、かつ応用する」というような意味のサンスクリット 語、「ユジュ」に由来している。また、「結合」とか「交わり」をも意味する。この語の深い意味は、われわれの心と神の心の結合すなわち、神の心を自分の心 にすることである。(p16)

インド思想では、すべての物には絶対の宇宙の精神(パラマートゥマー神)が存在していると考えており、個人の心(ジーワトゥマー)は、その一部であるとみなしている。(p16)

ヨガの段階
1.ヤマ 全人類に共通している、誰にとっても必要な道徳律
2.ニヤマ 修練による心の浄整化法
3.アサナ 正姿勢と動作の訓練(体位法)
4.プラーナーヤーマ 気(食・息・知識)のコントロール法
5.プラティヤーハーラ 欲望、感情および外的対象による支配からの解放行法と自立訓練法
6.ダラーナ 集中統一法
7.ディヤーナ 安定(無心行法)
8.サマーディ サマーディとは、深い冥想によってもたらされる、意識を超えた自他一如の状態のことである。この状態では、冥想の対象物つまり宇宙霊(パラマートゥマー)と一体になることができる。

ヨギとは、自分の本質を知っており、自分自身(アートマン)の中に至上の神の一部が存在するのを自覚している者である。(p21)

ヨガに関するすべての本は、サーダナーあるいはアビヤーサ(たえまない実践)を強調している。(p33)

た とえばアイアンガー師は、「背骨を伸ばせと言うと、皆さんは、まん中の神経路の通る所を伸ばしてしまうがそれは間違いだ。正しくは両脇を伸ばして、まん中 をリラックスさせて置かねばならないのだ」と延べておられます。「伸ばす」といってもけっして外側の筋肉を伸ばすのではなく、あくまで内から自然に伸びて くるようにするのです。つまり、アサナを行っている自分と身体と動作が一体になるように、あくまで辛抱強く、繊細に追求した行い方をしなければならないの です。(p495訳者あとがきより)

「体が心に影響し、体を通じて心を清め、高めることができるのだ」(p496)”

ハタヨガの真髄 (2)
http://thanksjico.exblog.jp/8619355/
“「ハタヨガの真髄 600の写真による実技事典」より

ターダアサナ =サマスティティともよばれる

ターダとは「山」。サマとは「直立」「まっすぐ」「不動」を意味する。スティティとは、「不動の姿勢」「堅固」を意味する。したがって、ターダアサナは、しっかりと山のように立つポーズである。これが立ちポーズの基本となる。

(1)足をそろえてまっすぐ立つ。両足の親指、およびかかとをつける。また足の指はすべて床にぴったりとつける。

(2)ももの内筋肉を伸ばしあげるようにすると、ひざをリラックスしたままでひきあげることができる。このとき、尻はそっと締めるようにする。

(3)胃が自然にひっこむように、肋骨をひろげ、背骨を上に伸ばし、首をまっすぐにする。

(4)体重はかかとと指先の一方だけにかけずに、当分にかけること。

(5)理想的には、ターダアサナでは頭上に両手を伸ばしておくのであるが、便宜上、両ももの横に下げていてもよい。立ちポーズは、各々この、てのひらをももの側面に下げたターダアサナの形で始まる。”

ハタヨガの真髄 (3)
http://thanksjico.exblog.jp/8646069/
“武将のポーズ
ウィーラバッドゥラアサナ


ダクシャが、あるとき戦死者の追悼式を催したが、他の神々を招いていたのに、自分の娘のサティーもその夫で神々の首領であるシヴァも招かなかった。それでもサティーは儀式に参加したが、ひどいはずかしめを受けたので、火の中にとびこみ自ら命を絶った。シヴァはこれを知ってたいへん怒り、自らのもつれた髪の毛を一本ぬいて地上に投げつけた。そこから豪傑のウィーラバッドゥラが生まれ、シヴァの命令を待った。シヴァは彼に向かって、シヴァの軍隊をひきいて、ダクシャの儀式を破壊するように命じた。ウィーラバッドゥラは、軍隊とともに、ダクシャの儀式の場に疾風のごとくあらわれ、儀式を破壊し、他の神々、僧侶を追い払い、ダクシャの首をとった。シヴァはサティーの死を悲しみ、カイラーサにこもり、瞑想にはいった。サティーは、ヒマーラヤの家に、ウマーの名で生まれ変わり、再びシヴァの愛を求めて努力し、ついにシヴァの心を射止めた。
このアサナは、シヴァが自らもつれた髪から創造した豪傑に捧げるポーズである。

(p80)”

ハタヨガの真髄 (4)
http://thanksjico.exblog.jp/8646178/
“亀のポーズ
クールマアサナ

クールマは亀という意味。このアサナは、ヴィシュヌの化身の亀に献呈されたものである。
神々の若さを維持するアムルタ(蜜)のみならず、多くの神の宝が大宇宙の洪水で失われた。なくなった宝をとりもどすために、神々は悪魔と連合して、宇宙の海に波をわきおこすことにした。ヴィシュヌは大きな亀になり、海の底に潜っていった。背中には、波をかきたてるためにマンダラ山をかつぎ、ロープとして、神聖な蛇ワースキをまきつけた。神々と悪魔たちは協力してその蛇をひっぱり、山をくるくるまわし、海に波をかきたてた。その海の波からアムルタと、神々の宝が出てきた。

(p304)”

ハタヨガの真髄 (5)
http://thanksjico.exblog.jp/8664450/
“得と損、勝利と敗北、名声と恥、体と心、精神と魂といった二元性は、アサナの修得によって自然に消えてしまい、求道者は次のプラーナーヤーマの第四段階に入ることができる。(p49)

プラーナーヤーマ(p50-51)

プラーナとは、呼吸・息・生命力・風・エネルギー・栄養力等を意味している。
アヤーマは長さ、広がり、伸ばす、制止等を意味する。
プラーナーヤーマは、呼吸の延長と呼吸のコントロールを意味してもいる。
すなわち、
(1)吸う息=プーラカ(満たす)
(2)吐く息=レーチャカ(空にする)
(3)息を止める=クムバカ。

ハタ・ヨガでは、クムバカという言葉は、吸う息・吐く息・息を止めるの三つの過程を含んだ一般的な意味で使われている。
クムバカには二つの違った状態がある。一つは空気を一杯に吸い込んで息を止める状態と、完全に吐ききって息を止める状態とである。

プラーナーヤーマは、気の科学であり、それは生命という車輪が回転するために必要な中心軸のようなものである。
プラーナーヤーマ行法は一人ひとりの呼吸と、大宇宙の呼吸との調和をはかることであるといえるのである。


(P460-463)
プラーナーヤーマの技術を実習するためには、バンダ、ナーディ、チャクラについての知識が必要である。

バンダとは「束縛」「一緒につなぎ合わせること」「足かせ」「つかむこと」などを意味する。
それはまた、体のある器官、あるいは体のある部分を収縮し、コントロールする姿勢のことも意味する。
プラーナーヤーマに重要なバンダは次の三つ、
(1) ジャーランダラ・バンダ:最初にマスターするもの。首およびのどを収縮し、あごの両鎖骨中央部、胸骨の上のくぼみにつける。心臓、首の腺、脳も含めた頭部 への血液とプラーナの流れを調整する。ジャーランダラ・バンダを行う場合、プーラカ(吸気)レーチャカ(呼気)とクムバカ(保息)の三つのプラーナーヤー マを必ず行うこと。

(2)ウッディーヤーナ・バンダ:「飛び上がる」ということで、横隔膜を引き上げることによって、腹部臓器を背骨の方 に向けて引き込む。ウッディヤーナ・バンダは、レーチャカの後のバーヒャクムバカ中、つまり完全な呼気の後、新たに息を吸う前の息を止めている間にのみ 行ってよい。これは横隔膜・腹部臓器に刺激を与える。

(3)ムーラ・バンダ:ムーラは「根」「源」「根本」「基礎」という意味で、ムー ラ・バンダは肛門とへその間の部分を収縮させて引き上げ、背骨の方に近づける過程である。ムーラ・バンダはまず吸気のあとの保息中に試みること。肛門周辺 の筋肉を収縮させることを練習すると、ムーラ・バンダがやりやすくなる。


人間の体は小宇宙である。ハタは、ハとタの二音節からなり、それぞれが太陽と月を意味する。
太陽と月のエネルギーは、ピンガラーとイダーという二つの主なナーディを流れるといわれている。
ピンガラーは太陽のナーディで、右鼻腔から始まり脊椎最下部に至る。
イダーは月のナーディで、左鼻腔に始まり、脊椎最下部に至る。
この二つのナーディの間に、火のナーディであるスシュムナーがある。
スシュムナー・ナーディは神経エネルギーの流れの中心的経路であり、脊柱の中を通っている。
ピンガラー、イダー、スシュムナーもいろいろなところで互いに交差している。
これらの交差点がチャクラ(輪)といわれ、はずみ車がエンジンを制御するように、チャクラは体の機構を制御する。
主なチャクラは、
ムーラダーラ・チャクラ:肛門の上、骨盤近くにある
スワディシュターナ・チャクラ:生殖器の上にある
マニプーラカ・チャクラ:へそにある
マナス・チャクラおよびスーリャ・チャクラ:へそと心臓の間にある
アナーハタ・チャクラ:心臓にある
ウイシュダ・チャクラ:咽頭部にある
アーンニャー・チャクラ:眉の間にある
サハスラーラ・チャクラ:胸腔にあり、千枚の花びらをもつ蓮とよばれている
ララータ・チャクラ:額の上にある”

背骨を解き放つ
http://thanksjico.exblog.jp/8744406/
“ねじった三角のポーズ(パリヴルッタ・トリコナーサナ)

「YOGA Journal」(Vol.6)を初めて購入。
その中でヨガの基本ポーズを細かく丁寧に解説しているシリーズがあった。
今回は、「ねじった三角のポーズ」「弓のポーズ」「椅子のポーズ」の3つ。

「ね じりのポーズで重要なのは、力の均等な配分である。ほとんどの人は、ねじりやすいところをねじって、ねじりにくいところを避ける傾向がある。つまり、動き やすい首はねじりすぎ、伸展性や反応性が鈍い背骨の中上部はねじり不足になる。しかし、パリヴルッタ・トリコナーサナは、動きにくい胸椎を広げ、その意識 を高める手助けをしてくれる。ふだん意識の及ばない部位を動かすことは、練習の中で心と体を観察する絶好の機会である。」(p102)”


長い記事をお読みいただきありがとうございました!

『禅の本』。禅はスピリチュアルの中核を否定。神秘体験は魔境=執着してはならない悪。スピリチュアルは野狐禅を量産する危険物なので取り扱い注意! 

弟子「私は悟った! 仏が目の前に現れて真理を語り、私と一体化した! 私は選ばれた!」

師匠「ばっかも~ん!
それは魔境や野狐禅と言ってな、気が変になっただけじゃ!
お主が体験したことはな、条件を整え、修行すれば誰でも体験できるから特別でもなんでもないわ!
仏に出会ったら、仏に囚われずに受け流せという教えを忘れたか!
選民思想という執着に囚われないために戒律があると教えたことを忘れてはならんぞ!」



スピが大好きな魔境と野狐禅で狂人にならないための知恵

野狐禅(やこぜん)とは、まだ悟っていないのに悟ったと思いこんでしまうことです。
「私は悟りを開いた」や「覚醒した」言っている人のほとんどは、野狐禅です。
悟った「つもりになっているだけ」であり、悟った「という夢を見ている」だけです。

魔境(まきょう)とは、禅の修行者が中途半端に能力を覚醒すると起こりやすい、エゴが肥大し、心の平安が乱れた状態のことです。
魔境は、瞑想や座禅の修行中に発生する幻覚、妄想、知覚の歪みなので、どんなに魅力的でも無視しないといけません
当然、悟りでも真理でもないものです。
臨済禅で、「仏見たなら仏を殺せ」と教えているのは、
「超越的存在に出会った自分はすごい能力を持つ優れた人間だ」と思い込んでしまわないようにすることで、魔境という執着から抜け出せるようにするためです。
天女や天使や仏や神や宇宙人が目の前に現れたり声を聞いたりするような、
スピ信者が大喜びするものが典型的な
「魔境=頭がヘンになっただけの偽真理=執着=悪」です


魔境は狂人への第一歩なので、冒頭の寸劇のような魔境対策のための検証がないなら極めて危険です。
弟子の「経験を疑う」ことで魔境でないか判定する指導者が必要
です。
禅やヨガ礼讃の癖に、それらに含まれる
真理探究の姿勢=経験を疑って検証する姿勢」や、
魔境の危険性を都合よく無視するのがスピリチュアルです。
スピリチュアルはキリスト教の弱点を減らした新キリスト教なので、インド思想の論理重視の姿勢と対立する宗教です。
少数の霊性の高い人だけが真理を得られて、霊性の強弱を判定できると言っているスピ信者がいるそうですが、
「少数の優れた人の発言に従え、疑うな、検証して神秘をはぎとるな!」ってことですか?
検証をやめたらカルトと同じですよ!


ヨガや仏教の修行で最初に戒律と禁欲を誓わせるのは、修行で生じる全能感や選民思想や魔境や禅病や野狐禅を封じるためです。

無記=超常的な存在や世界については否定も肯定も言及もしない姿勢
も有効です。
無記は、原始仏教における釈迦の基本姿勢の一つです。
釈迦が経験的に確かめられない、あるいは確かめることが難しいことがらについて断定してしまうと、
それが「教義=執着=悟りの妨げ」になってしまうので断言を避けたのです。
「執着をなくし精神を安定させよ」と言っている釈迦は自分自身が執着を生みださないように工夫したのです。
釈迦はスピリチュアル=バラモン教風キリスト教を否定しています。
釈迦の思想はバラモン教の否定であり、キリスト教と真逆なので当然です。
占いも禁止


釈迦を褒めるスピ信者ってどうみても釈迦を世界最高レベルで馬鹿にしているんですけど
神秘体験を疑わないし。
体験を疑わなかった(疑わせなかった)オウムの悲劇はご存知ですよね。
オウムは、ユダヤ=フリーメーソン陰謀論を主張していることからわかるように、思想の中核はキリスト教です。
厳密には神智学(バラモン教風キリスト教)の霊性進化論です。
表面はインド思想ですが、インドっぽいパッケージに騙されてはいけません


(エーリッヒ・フロムBot ‏@FrommBot
釈迦が弟子たちからそのような問題(世界の成り立ちについて)を問われた時、彼はいつも次のように答えた。「私は知らない、それは私に関係のないことだ。というのは、その答えがどうであれ、それは私が関心を持つ一つのこと、どうして人間の苦しみを減ずるかという問題には何の役にもたたないからだ」

(横浜の駄洒落皇太子 ‏@hamadajare
【無記】例えば「死語の世界は有るのか」等の幾つもの問いを弟子に投げ掛けられた時、仏陀は答えなかったという。経験していない、或いは確かめる事ができない物事について語る事はできない、という立場を取ったらしい。

【仏陀の客観視】弟子が例えば“あの世があるのか”等幾つかの質問をしたら、仏陀は答えなかったという(無記)。経験や実証できないことを議論しなかったらしい。仏陀は物事を客観視
するタイプだったようだ。)


神秘体験による凶悪な洗脳の実例

↓で紹介されている動画では、神秘体験によって洗脳する手法が暴露されているので自分の意見を交えつつ要約します。

条件を整えると誰でも起きる神秘体験を、グルの力によると錯覚させて洗脳。
通常とは異なる体験をしている人に対しては強烈な洗脳をかけることができる。
強烈な神秘体験をするのは、教祖の超能力でも何でもなく、誰でも起きる、人間なら誰でも起きる「変性意識現象」である、という視点が大切。
一見不思議だが脳にとっては当たり前の現象

信者たちのなかには、リトリートと呼ばれる独房の中にいるときに神秘体験を得た者が多い。
暗い部屋に、それもできれば体温と差のない静かな所に、長い間閉じ込めておくとそれだけで変性意識になる。
上手にヨガをやれば光を見たりする。
そのときに「それはグルのおかげです」だとか「グルの超能力です」と言われて引っかかってしまう


企業もカルトと同じ手口を使って、軍隊を作る為の訓練=洗脳を行う。
社畜=信者=兵隊。
企業研修=カルト宗教の入信儀式(入隊式)。

大勢の店長の前で(=監視下で)絶叫アピール。
人前で宣言すると宣言したことを撤回することが難しくなる、一貫性の法則の悪用。
絶叫した後で、訓練担当官が絶叫した人を抱きしめることで、洗脳をより強烈にする。
調教されたことに怒るどころか、感謝する奴隷の完成。
×店長が育てば会社が育つ。
○奴隷隊長が増えれば社畜から搾取出来るので会社がより肥え太る

いったん精神を動揺させてから洗脳。
紐付き陰謀論者が衝撃的な(黒幕の核心を外した)ネタで価値観を破壊して、洗脳されやすい状態にしてから、偽の黒幕(ユダヤや在日)を本物だと信じさせる手口と同じ。
紐付き陰謀論者自体がカルトの手先だから当然か。

だから、私は洗脳手法、詐欺の手口、人間心理の傾向、プロパガンダのやり口などをまず学び、紐付き陰謀論者の本やブログや講演を無視しなさいよ
、っと言っているんですけどね。

prometheus ‏@prometheus2054
【必見】オウム信者を脱洗脳した苫米地博士が、オウムの修行で変性意識状態を作りだし洗脳される過程を解説☞http://youtu.be/_VU7qOPBhJg?t=13m7s … 開始13分~これを見た後、日本の就活や企業研修がこれと似たことを行っていることが分かる→http://bit.ly/b23q0i

(国会議事堂占拠計画-国家権力掌握へ、白い愛の戦士 オウム総括6/10
https://www.youtube.com/watch?v=_VU7qOPBhJg&feature=youtu.be&t=13m7s

餃子のなんちゃら
https://www.youtube.com/watch?v=jpC_kJbS3RQ&feature=youtu.be

ようつべだと、動画再生速度を変えられるので、まとめるのが楽ですね)

以上の洗脳って、禅の修行を意図的に失敗させているとも言えるのですよ。
野狐禅の量産による狂人の量産です。
過労死するまで働く=会社の為に死ねるって十分狂人でしょ?
安息日なしのカルヴァン派プロテスタント的労働思想
=過労死教の狂信者は日本には特に多い
です。

禅を学びたいなら、禅を曲解して反知性主義に改造するニューエイジャーやヒッピー系の本ではだめですよ。
スピ系が大好きなインド思想はキリスト教=反知性主義に都合よく改悪されているので、インド思想の論理的思考重視の姿勢をなかったことにしております



禅は神秘体験を否定しているのでスピったらダメ

 上記で理解していただけたと存じますが、
一定の状況で神秘体験は意図的に作り出せるのですごくもなんともないです。
自分の意思で自在に神秘体験をコントロールできるならすごいです。
つまり、神秘のヴェールをはぎとって「自分の技術」にできるならすごいです。
神秘体験を神秘体験でないようにするのです。
神秘体験や神秘主義は仏教の方向性とは真逆です。
釈迦は神秘主義者ではまったくなく、透徹した合理主義
者です。

目の前に神や仏や宇宙人が現れて、自分だけが選ばれたと救世主気分におぼれたり、宇宙霊と合体して天にも昇る素晴らしい心地がしたと感激する、などは魔境であり、悟りの邪魔であるから、囚われたりこだわってはならないと、禅ではいましめています。
つまり神や仏や宇宙人や宇宙霊や選民思想が現れても、相手にせず受け流し、軽くかわさないといけません。
禅はスピリチュアル=インド風キリスト教を否定しているのです。
心の平安と執着からの解放が仏教の目的なのだから、超越的な存在や愛という執着を主張する時点で偽物です。

禅宗の修行では、一般の人々(特にカルト信者)が喜びそうな奇跡的現象は、大悟の妨げとして厳しく排除されます。
そもそも禅の目的は超能力、いわゆる神通力を得ることではありません


(陀羅尼縁学 ‏@daranijizai 11月5日
仏教の宗派には、過剰にスピリチュアルや、霊感、霊能を禁忌として捉える所もあるが、それは一種の禅病を防止する為もある。
瞑想中にそういう不思議な感覚に囚われ行き過ぎた追求をすると、禅病になる。
禅で和尚にパチンと叩かれるのも、禅病予防
。禅は追求するとヨガに行き着く。)

前回の記事などで真の伝統である仏教を学びましょう!

斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

(菊池 ‏@kikuchi_8 11月13日
チベット仏教は密教のイメージだが、実は顕教はインド中観派が正統に継承さる
【斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう! 】
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 11月5日
ねここねこさん、フェイド大帝 が紹介したチベット仏教本 読んだのかw
偉いな……
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

今回の記事の内容、仏教を理解 するには凄く重要なのに、 ブログ拍手がいつもより少ないのが 笑えるw
やっぱ、専門的な話になると みんな読みたがらないのかなー この二冊、仏教書の中では 易しいほうなんだけどなぁ。

仏女・仏教をたたえる天才・偉人bot ‏@genius_200
自分は昔からこれまで、このような素晴らしい教えを聞いたことがなかった。
(仏教を日本に受け入れた 欽明天皇)
(われ昔よりこのかた未だかつてかくの如き微妙(くわ)しき法を聞くことをえず)
それから1500年間日本は仏教国

STB ‏@RC_StB 6月24日
日本会議が如何に低能か 薩摩長州の芋侍が出てきて、廃仏毀釈をやらかし、そいつらの生き残りが「日本は保守の国」と嘘を付き続けている して、これを見よ
「天皇、仏法を信じ、神道を尊ぶ」(用命紀)
「仏法を尊び、神道を軽んず」(孝徳紀)
大日本帝国は日本史上稀な伝統破壊者
だぞ(笑)

神道家にとって道教と平田篤胤はアキレス腱。神道・惟神・天皇・神器は道教用語であり、神道用語ではないので本居宣長がやろうとした漢意を排除する試み(神仏分離!)は最初から破綻していますな。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-84.html


…今回の最重要な引用…

“ 坐禅がもっと進むと、今度はいよいよ魔力に支配された境地に入っていく。それを「魔境」という。魔境にはいろいろあり、『楞厳経』(りょうごんきょう)という経典によると、実に50種の魔境があるといわれている。また釈迦仏陀でさえも成道の直前に魔境に悩まされたことは、よく知られている。
これは釈迦が悪魔マーラを呼びだして、本当の悟り、(菩提)を得るための最後の戦いをする、というものである。マーラは世にも恐ろしい兵器で攻撃をしかけてくるが、釈迦はそれを花に変えてしまう。マーラは次に自分の娘たちに命じて、釈迦を誘惑させるが、釈迦は受け流す。
マーラは最終兵器で最後の攻撃をしかけてくる。しかし釈迦は、ついにそれらすべてが水面に映る月影のように、幻覚・妄想にすぎない、と知る。このマーラ物語が、魔境の原型であり、魔境の本質を示しているようである。
魔境という文字の形からは、なにか恐ろしい感じを受けることだろう。確かに、『源氏物語』の生霊とか『今昔物語』や『雨月物語』に出てくるようなすさまじい魔境もある。しかし多くはそうではない。かえって、これぞ悟りの境地ではないか、というようなものが少なくないのである。
たとえば、心の中にとんでもない妄想や屁理屈が出てきて、自分は天才だと密かにうぬぼれる。目の前に神や仏や宇宙人が現れて、自分だけが選ばれたと救世主気分におぼれる。宇宙霊と合体して天にも昇る素晴らしい心地がしたと感激する、などさまざまだ。
だがくれぐれも、そんなものにとらわれたりこだわってはならないと、禅ではいましめている。前章で書いた澤木興道のように「その内容は受け流すだけ」、つまり相手にせず軽くかわすだけのことなのである

もっとも、どんな境地が魔境でないかは、なかなかわかりにくいようである。たとえば禅の心理学で世界的に知られる、ある高名な学者の例がある。
「なにもかもが新鮮にみえる。道端に何気なく生えている雑草さえ、この世のものでない美しさに輝いて目に映る。見性体験を得たとき、私はこれこそ禅の心だ、と思った。」
と彼は専門誌に発表した。やがてLSDという、ライ麦の麦角(ばっかく)から製造した強力な幻覚剤の服用体験の論文を読み、彼は、これぞ禅の悟りそのものであると説いたのである。
このためアメリカの西海岸では「LSD、5ドルで天国」とばかりにインスタント禅というものがはやり、ヒッピーたちは先をあらそって服用した。しかしその結果は無残にも、つかの間の悟りの後はぐったりとしたボケ症状におちこむばかりであった。つまりこれは魔境でしかないことが、事実をもって証明されてしまったのである。“『禅の本』p.147-148


自分は多少マシになっただけで大して目覚めていない覚醒していない、まだまだ洗脳されているからそれに気づく為に気をつけて検証しないといけない、と自覚して自戒する方がよっぽど「覚醒」しています。
信者=酔っ払いの言う「覚醒した!」って「俺は前よりも更に酷く洗脳された!」
ってことなんじゃないの?
白昼夢(一応起きているけど夢心地)から目覚めてほしい。
せめて明晰夢(これは夢だと自覚)の状態になってほしい。
スピ系陰謀論者は、「真実は隠されてる!」というくせに、嘘を見抜く技術として重要な論理的思考や、歪められた思想の毒抜きなどを学ぼうとしない、布教活動が主体の人がほとんどです。
スピ系の大半は真実を求めていません。スピ系の大多数の人々が求めているのは選民思想的な優しい嘘


(社畜 ‏@ShachikuNow 8月14日
「自称・目覚めた人間」こそ危ない。知識をどんどん高め、自分を理解しない人々を無関心だB層だと馬鹿にし「私はもう騙される事はない」と思ってる人間ほど大きく騙される。支配者が振る猫じゃらしの先っちょにすぐ飛びつく。敵は手強いよ。大衆心理をもの凄く研究してる。周りを見てよ。罠だらけだよ

knznymmmy ‏@knznymmmy
まーた、目覚めた覚醒したと連呼する アホが流れてきた だからお前は目覚めてねえよ ベロベロに酔ってるくせに 酔ってない、酔ってないって うるさい酔っ払いみたいな奴だな

【定期】
例えば9.11やイラク戦争の嘘に気付いた自称覚醒者の諸君
なんで君たちは日ユ同祖論や日月神示を見破れないのかな?
君たちは目覚めてなんかいない。
「目覚めたという夢」を見ているだけ


…読書メモ…


『禅の本―無と空の境地に遊ぶ悟りの世界』 (NEW SIGHT MOOK Books Esoterica 3)
1993/4、 学習研究社
(学研の『禅の本』)

禅では超常現象のような奇跡を認めない。もし奇跡があるならば、なにげない、あたりまえの自然の働きこそ、本当の奇跡であるとする

禅宗の修行では、一般の人々が喜びそうな奇跡的現象は、大悟の妨げとして厳しく排除される。
禅の目的は大悟することであり、超能力、いわゆる神通力を得ることは目的ではない。
だが、禅の修行している過程で不思議な現象が生じることが往々にしてある


禅に限らず、仏教では疑団(ぎだん。疑問)というものを非常に重視する。
自分とは何か、人生とは何か、道とは何かなどという大疑団を起こし、その疑団を打破することが悟りに通じると考え、とにかくどうであれ疑団を起こせと教える。
禅の公案は疑団を課題として与えること

だが、公案禅は、真摯な求道から離れて一種の知的ゲームに堕するという悪弊があった。

[禅に限らず仏教は言葉と論理的思考を否定しません。
公案は、言葉(ロゴス)で表現されます。
論理的思考(ロゴスを活用する思考モード)だけでは到達できない答えを得るためには、公案という言葉(ロゴス)による問題が必要なのです。
ロゴスと非ロゴスの合わせ技こそが公案。
ロゴスの限界を深く実感することで非理性という新たな技術を獲得し悟りに至るのです。
思考は言葉でなされます。
教えも言語で残されます。
理性的思考から非理性が生み出されるのです。

公案を重視するのは、看話禅の臨済宗。
黙照禅の曹洞宗は、ひたすら座禅する只管打坐を基本としますが、道元自身も公案(=禅問答)を引用しているので、曹洞宗だから公案否定とは言えません。

論理的な人は論理を知るがゆえに非論理的に思考することもできます。
逆に、論理的思考ができない、非理性に偏った人は論理的思考モードになりたくてもなれません。
知っている人が知らないふりはできますが、知らない人は知っているふりができないのと同じです。

そもそも、弟子が修行で得た見解や体験したことを師匠に語るには、言葉=ロゴスが必須。
師匠が弟子の見解と体験を疑って検証していることが重要です。
禅問答は言語抜きの行為だけでなされることもありますけどね
]

心底悟った師匠は、相手の力量をたちまちに看破しつくす。だからこそ弟子に「犬コロにも仏になれる本性があるかないか」と質問して、悟っていない人が答えるときには「有」「無」どちらと答えてもまだまだと棒、喝をくらわせ、悟った人が答えるときにはどちらと答えて即座に相手の悟りを許すのである

不立文字、教外別伝である禅では、公案に対する回答は論理や説明による演繹や帰納で導きだされるわけではない。正解は存在しない。頭で考えてわかるものではない。理性や感性を超えたところから出て来るもので全身全霊で打ち込まねばならない。

・アルファ波は正常な人が心身ともに安静の状態で目を閉じているときに出やすい脳波。目をあけると、アルファ波はおさえられ、代わってベータ波が出てくる。
脳波計によって明らかにされた禅僧の脳波を測定したところ、半眼であるのにアルファ波を出した。
座禅は半眼、目を半分ほど開いて行うのでベータ波だと予想されたが、アルファ波だった。
脳医学においては、正常人が目を開けていながらアルファ波が出ていると、脳機能に異常があるものとされている。これはボケ(本文ママ)あるいは無気力・無感動・うつ病的症状などのボケ的症状なのである。
最近ではアルファ波トレーニング装置でむりやりにアルファ波を出させるとボケになる場合もある、アルファ波精神公害が問題にもなっている。
座禅の最中は頭がボケているのではないだろう。仕事の休息時間や家に帰ってくつろいでいるときボーッとしてアルファ波の状態になることがあるが、このリラックスのときにあたるかもしれない。または仕事をしていも慣れた作業を楽しくやっているときにはやはりアルファ波が出ているがこちらのほうかもしれない。
名僧、澤木興道(さわきこうどう)のような修行を積んだ僧侶になると、坐禅はさらに深くすすみ、ついにはシータ波というありえないような波まで出てくる。シータ波とは一秒間に四~七回くらいのゆっくりした波(徐波)で、その大波のうえにさらに十三~十四の周波数で、紡錘状の独特のかたちをしたさざ波が乗っているものである。
シータ波は寝入りばなのときに出る脳波である。が、僧侶は居眠りをしているのではない。脳科学によるとシータ波の状態のときにはいろいろと不思議なことが起こることが知られている。シータ波が出る情況は心理学と深くかかわる。


“ 坐禅がもっと進むと、今度はいよいよ魔力に支配された境地に入っていく。それを「魔境」という。魔境にはいろいろあり、『楞厳経』(りょうごんきょう)という経典によると、実に50種の魔境があるといわれている。また釈迦仏陀でさえも成道の直前に魔境に悩まされたことは、よく知られている。
これは釈迦が悪魔マーラを呼びだして、本当の悟り、(菩提)を得るための最後の戦いをする、というものである。マーラは世にも恐ろしい兵器で攻撃をしかけてくるが、釈迦はそれを花に変えてしまう。マーラは次に自分の娘たちに命じて、釈迦を誘惑させるが、釈迦は受け流す。
マーラは最終兵器で最後の攻撃をしかけてくる。しかし釈迦は、ついにそれらすべてが水面に映る月影のように、幻覚・妄想にすぎない、と知る。このマーラ物語が、魔境の原型であり、魔境の本質を示しているようである。
魔境という文字の形からは、なにか恐ろしい感じを受けることだろう。確かに、『源氏物語』の生霊とか『今昔物語』や『雨月物語』に出てくるようなすさまじい魔境もある。しかし多くはそうではない。かえって、これぞ悟りの境地ではないか、というようなものが少なくないのである。
たとえば、心の中にとんでもない妄想や屁理屈が出てきて、自分は天才だと密かにうぬぼれる。目の前に神や仏や宇宙人が現れて、自分だけが選ばれたと救世主気分におぼれる。宇宙霊と合体して天にも昇る素晴らしい心地がしたと感激する、などさまざまだ。
だがくれぐれも、そんなものにとらわれたりこだわってはならないと、禅ではいましめている。前章で書いた澤木興道のように「その内容は受け流すだけ」、つまり相手にせず軽くかわすだけのことなのである。
もっとも、どんな境地が魔境でないかは、なかなかわかりにくいようである。たとえば禅の心理学で世界的に知られる、ある高名な学者の例がある。
「なにもかもが新鮮にみえる。道端に何気なく生えている雑草さえ、この世のものでない美しさに輝いて目に映る。見性体験を得たとき、私はこれこそ禅の心だ、と思った。」
と彼は専門誌に発表した。やがてLSDという、ライ麦の麦角(ばっかく)から製造した強力な幻覚剤の服用体験の論文を読み、彼は、これぞ禅の悟りそのものであると説いたのである。
このためアメリカの西海岸では「LSD、5ドルで天国」とばかりにインスタント禅というものがはやり、ヒッピーたちは先をあらそって服用した。しかしその結果は無残にも、つかの間の悟りの後はぐったりとしたボケ症状におちこむばかりであった。つまりこれは魔境でしかないことが、事実をもって証明されてしまったのである。“『禅の本』p.147-148


“心の中にとんでもない妄想や屁理屈が出てきて、自分は天才だと密かにうぬぼれる。目の前に神や仏や宇宙人が現れて、自分だけが選ばれたと救世主気分におぼれる。宇宙霊と合体して天にも昇る素晴らしい心地がしたと感激する、などさまざまだ。
だがくれぐれも、そんなものにとらわれたりこだわってはならないと、禅ではいましめている。前章で書いた澤木興道のように「その内容は受け流すだけ」、つまり相手にせず軽くかわすだけのことなのである。

ねえ、禅をほめるくせに禅を何も理解していないスピ信者、聞いていますか?
野狐禅と魔境を避けるのことを知らない禅大好きスピ信者は、ヘルメットとマットなしで人間ピラミッドの建築を強制される学生のようなものですよ!
ツイッターでねこたさんにからんできたスピリチュアル信者の言動を見ると、自分がまるで全知全能なるゴッドみたいに、上から目線で選民思想をまとった発言をしていました。自分が単なるコピー機であることには無自覚。思想にオリジナリティが感じられません。
「本当に正しいか? もっと良いものがないか? 偽物をつかまされていないか?」
などの自己懐疑がない時点でアウト。
お手軽な選民思想をインプットして安心感を得ることが信者の第一目的なので、それが正しいかどうかの検証は二の次なのでしょう。
スピ思想が支配層に悪用されていることを話題にしているのに、スピ思想自体の真偽に話題にすりかえるのは、信者の証です。
「教義>自分の思考の自由」の人がやっているのは
「陰謀論=検証作業」ではなく
「陰謀教=カルト思想の布教と押しつけ」なのでお断り。

真実ではなく安心感を求める信者お断り。
全能感や万能感を得たと感じたら、それは魔境です。偽涅槃です。狂人への第一歩です。
そうした状態に執着することなく一蹴しないといけません。涅槃自体への執着もだめですからね。全能感や万能感なんて選民思想という悪質な執着をもたらす害悪です。
スピ信者もうっとうしいですが、日本の超古代文明信者もうっとうしいです。
超古代文明を断定的に語ってるやつはほぼ間違いなく神道カルトの工作員か、カルト本を鵜呑みにしてるコピー機です。
優越感を持って日本の超古代文明はあったと主張する連中は無自覚含め工作員と確定していいです。
超古代文明については断定できるほどの証拠がそろっていないので、本当に探究心がある、信者でない人は断定をできるだけ避ける、慎重な語りになります。
哲学や思想や歴史は「活用」すべきものであり、ドグマとして信奉するようなものではありません。
信者が「精神の自由」を言うのは滑稽すぎます。
私は、何が真実かではなく、何が真実「ではない」かを探求しております



・日本で最初の精神分析の医者として知られる古沢平作(こさわ へいさく)は欧米流の精神分析の限界を知ったなら、まず親鸞の真宗をへてから、禅に進むのがよい、説いた。

・日本独自の精神療法として世界的に知られる森田療法は1920年ごろに森田正馬によってはじめられた。森田療法は、日本人によくある神経質症、つまり完璧主義とか教条主義の人にみられる精神的な病に、特に効果があるとされる。この人たちはこだわりっ子タイプとか勉強のできる子タイプ。「~するべからず」「~べし」という信念にとらわれるが、現実に足をすくわれ挫折して不安や葛藤に悩むことになる。
この神経質症に対し、自分の足もとの現実を「あるがままに」認めて受け流し、いかに生きるかの「すべ」のほうを考えるように仕向けていく。これが森田療法の大筋であるが、この療法を確立していく際に役に立ったのが禅の体験
だったといわれている。

カルト信者、特に原理主義者と同じ症状ですな

『完全教祖マニュアル』で騙す側の視点を獲得しましょう。
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“・(わざと困らせて)救済を与えよう(自作自演)
そして救世主になろう!


救済の与え方の分かりやすい例として、浄土真宗系の新興宗教から発展した「内観療法」という精神療法をご紹介。
内観療法では、まず、相手に対してセラピストが
「あなたが(お母さん、お父さん、兄弟姉妹、上司など)に
①してもらったこと、
②して返したこと、
③迷惑をかけたことを調べて下さい」
などと過去の記憶を思い出すよう促します。
そして、真面目に思い返してみると、してあげたことよりもしてもらったことの方がはるかに多いわけですよ大抵は。
なんとも申し訳ない気分になってきます。そう、不安を与えているのです。ほら、こんな困ったことになっているぞってね。
これを続けているうちに、対象者の心情にある変化が生じます。
「自分はなんて駄目駄目な奴なんだ」
という思いから、
「こんな駄目駄目な自分でもみんなに助けられてちゃんと暮らしていけるって幸せだなあ」
という考えへとチェンジしていくのです。
この変化が生じれば内観療法は成功です。
周囲に感謝できる新たな価値観を手に入れたのです。この瞬間、不安は救済に変わるのです。
内観療法は、アルコール依存症や神経症、家庭内暴力や犯罪者の再犯防止などに効果があると言われています。
なお、内観療法は宗教的要素を抜いていますから
「みんなに助けられてちゃんと暮らしていけるって幸せだなあ」
という形に最終的に落ち着きます。
が、この元になった「身調べ」は浄土真宗系の修行ですから、
「こんな悪人の自分でも阿弥陀仏は救ってくれるんだ。今までよりももっと信仰するぞ」
と最終的にその宗教が正しいと言う確信を強めるようにする(より抜けられなくなる)わけです。
大切なのは、
不安を与える設定(原罪などの教義)を作って、
「それを解決できるのは自分達だけだ!」
と自作自演するわけですね。
ここで大事なのは、
「うちの宗教を棄てたり信仰を怠るとまた不安にさいなまれるぞ!」
といったニュアンスを上手く伝えることです。

くれぐれも直接堂々と
「地獄に堕ちるぞ!
呪われるぞ!
不幸になるぞ!」
などと下品に脅す必要はありません。
外聞が悪くなるしツイッターに書かれるし良くありません。
もっとお上品に、
「あなたが今幸福なのはこの宗教を信じているからですよね?」
と言うだけで良いのです。
教団への永続的なコミットメントを要求できるように救済を与えましょう!

さあ、「虐殺しまくっているのに紳士の国・英国」方式でレッツ自作自演!
(そう考えると、消耗品を買わせる手口って素晴らしいですね! 幸せの水とか!)

英国国教はカトリック的プロテスタント(教義はプロテスタント、儀礼と礼拝はカトリック)ですが、違うプロテスタントのカルヴァンの予定説は実に素晴らしい手法です。
予定説とは、
「人が救われるのは、人間の意志や能力なんてまったく関係なく、神がすべて決めているから願っても無駄です」
という神は絶対的に人間より上だという思想をより強化したものです。
そして予定説では、信者が神を信じることすら信者の自発的意志ではなく、
神が「信じさせてくれている」(神が救う為にやってくれている)のだとします。
そして、異教徒は自発的意思によりプロテスタントのカルヴァン派を信じないのではなく、神から見捨てられているわけです。予定説から見れば、異教徒は神から見捨てられたとっても哀れで可哀そうな、全人類を愛している「とは思えない」の神の創造物なのです。

これを儲の立場から考えてみましょう。もし、あなたが儲だとします。あなたが急にふと唯一神の存在を信じられなくなったとします。予定説だとその瞬間、神から見捨てられたことになります。儲であるあなたは自分が神に見捨てられたなんて考えたくありませんし、信仰が薄れているなんて認めたくありません。ならば必死に信仰に篤いとアピールする為に熱心に活動したりするわけです。
これはつまり、
「信仰を失うという脱キリスト教的な動きすらも、キリスト教の枠内に抑え込んでしまう教義」

「信仰を失ってもキリスト教から離れることができず、逆にキリスト教の中で失墜するだけにしてしまう教義」

「信仰を失った者にさえ、なお『自発的に』信仰を求めさせて自己説得させることができる教義」

なのです。
組織固めの為にも、とても参考になると思いませんか?

予定説も凶悪ゲフンゲフン優秀ですね。
あれ、予定説も異教徒も神が作ったんだよね? 
そして異教徒であることも神の意志なんだよね?
自作自演ゲフンゲフンゴッドの正体は悪魔うわなにするやめて。

あと日本の過労死教の元ネタはカルヴァン思想です。
資本主義を発展させたのはユダヤではなくカルヴァン思想ですからプロテスタントですね。

とにかく、信者を逃がさないために執着を強化し、欲望を煽りましょう!
一番お手軽なのが、
「我々は正しいから迫害される」
という教義です。
「我々は既知外だから迫害される」
の間違いなのですが、教義で既知外を正しいことにしておけばOK!
あとは、「異教徒は救われない憐れむべき存在」だという教義で信者の選民思想も強化しちゃいましょう!


・食物規制をしよう(禁欲)
そして帰属意識を高めさせよう。

組織を高める為には「差別化」が必要です。あなたの教団内に特殊なルールを採用し、教団の内側と外側に温度差を作ることで信者たちを教団に繋ぎ止めるのです。
食事規制は身近であり、食事は毎日何度も行うものですから実に有効です
。”)


1893年(明治26年。西暦1900=明治33年)、シカゴで万国博覧会が開かれ、その付属行事として「世界宗教会議」が開催された。
日本からは鎌倉円覚寺の釈宗演(しゃく そうえん)老師が参加し、臨済禅の立場から禅の心を説いた。
海外における禅についての公式の講演としては最初であった。

(万博=独仏+北欧系の科学重視メイソンの祭典。世界宗教会議は宗教統一の準備。

釈宗演は、慶應義塾で、人格は最悪の福澤諭吉に英語、洋学を学ぶ。
釈宗演の弟子に、「肩こり」という造語を創造することで「肩こり」患者を増加させた夏目漱石と、
禅を曲解した神智学寄りのくせに禅の権威扱いの鈴木大拙がいます。


社会毒はいらない!!さようなら偽善! ‏@hinode8 11月5日
1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社、日本郵船が創立した。明治維新で富国強兵の道を歩んだ日本は、欧米から兵器を購入し続けていたが、欧米への支払いに当てる資金が日本にはなかった。そこで福沢諭吉は、賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべきという指示を天皇に与えました。

福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」という指示を天皇に与えました。 賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、天皇一族はこのプランに飛び付き実行しました。(福沢諭吉全集 第15巻



釈宗演は帰国後もポール・ケラスというアメリカで思想雑誌を出版していた人物と交流を続けていた。そして会議から4年後、円覚寺で釈宗演のもと、禅を学んでいた当時、27才の鈴木貞太郎(大拙)に渡米のチャンスが与えられた。以来、鈴木大拙は11年間の研究生活を送り、禅の書物の翻訳を続けた。

(STB ‏@RC_StB 7月19日
英国詩人の大家ウィリアム・ブレイク
スウェーデンボルグの影響を受け、独自の神話体系には「世界卵」が登場
日本の本格的受容の切っ掛けとなった紹介者 柳宗悦は鈴木大拙の弟子で、その子供は志賀直哉の子供と結婚


菊池 ‏@kikuchi_8 2012年5月9日
【東洋思想と西洋神秘主義の違いについて一考】1)東洋思想と西洋一神教が違うのはもはや明白であるが、西洋神秘主義は東洋思想に似ているといわれることがあるので、以下、少し考察してみたい。

2)結構前に定方晟氏という仏教学者の方の「空と無我」という本を読んだ。非常に鋭い論理で空思想が分かりやすく解説されてある好著であるが、その本に空思想と神秘主義の違いについて非常に興味深いことが書いてあった。

3)空思想は端的に「二ではない」であるが、神秘主義は「二が一になる」思想である、という趣旨の指摘である。なるほどと思った。

4)自分なりに解釈すると、現象界の構造を客観的に観察する(止観の観である)と、そこにある「縁起・無自性・空」という不二の真理が見えてくるというのが空思想であり、個我と実在の二元をあらかじめ立てて、それを後から融合させようとするのが神秘主義である、と思う。

)空思想はありのままの現象界にそのまま「不二」を見るが、神秘主義は「二を一にする」という作為を経なければ一なる真理にたどり着けないとする。たとえば禅は日常の行住坐臥に真理を現すが、神秘主義では非日常の神秘体験に真理を見ようとする。

6)このあたりの論理構造の違いに東洋思想と西洋神秘主義の決定的な違いがあるように思う。空思想だけではなく神道にしてもシナの陰陽思想にしてもそうであると思う。

7)神道には禊祓の思想と行があるが、これは自我と実在を融合させる行ではなくして、本来神ながらに神の子として生まれた人の心に後天的に付着した穢れを払うことで本来の神ながらな清い心を回復させるための行であって自己とは別の実在との融合を目指す行ではない。

8)それは、たとえていえば泥に汚れた宝石を洗うようなものである。泥に汚れても宝石は宝石、清めればまた輝くのである。この禊祓は本来的な神人一体の確信に基づいた行であって、操作的に自我たる人とそれとは異質な神たる実在を合一させる行ではないのである。

9)シナの陰陽思想は二元論だと言われがちだが、吾人はそうは思わない。陰と陽は同じ太極の二つの側面を言うにすぎない。これも最初から「不二」であって 陰陽という「二」を太極という「一」に帰一する思想ではないと思う。「一陰一陽これを道という」のである。この場合、道と太極は同義である。

10)また、天の理と心の理を区別せず本来同じとする陽明学の心即理説は神道の思想に近いと思う。陽明学を学ばれた先哲・熊沢蕃山先生は神道家でもあられた。

11)ありのままの現象界そのものに「不二」を見る東洋思想は「一即多、多即一」であって、そのありのままに多様性を持つ世界にそのまま真理を認める。 (これは猷太似非神道的な、世界征服的ワンワールド的な解釈ではなく、「各々所を得しめる」という正しく解釈された八紘一宇の原理にも通じる。)

12)一方、西洋神秘主義は「二」から「一」を求めるのため多様な世界を一つに導こうとする傾向がある。つまり多を一に収斂させようとするワンワールド思想である。西洋神秘主義の結社であるフリーメイソンが「一つの世界」を目指すのはその思想の論理の帰結である。

13)国際秘密力の世界征服主義者が一神教とともにカバラ哲学など神秘主義を信奉するのもむべなるかな。世界征服思想は西洋神秘主義の政治思想的顕現であると思う。端的に「不二」である東洋思想と「二が一」である西洋神秘主義にはこのように決定的な差違があるのである。

14)一見、西洋思想の主流である一神教とは違って、より東洋思想に類似するように見えた西洋神秘主義思想であったが、東洋思想とはこのように決定的な違いがあったのである。「不二」と「二が一」、表現の違いはわずかだが、まさに毫釐も差あれば、天地懸隔す、である。

15)ちなみに禅学者の鈴木大拙氏は禅を神秘主義の一種だとしている。この人は「霊性」という言葉を好んで使うが、フリーメイソン思想家スウェーデンボルグの思想の影響を受け過ぎだと思う。

16)ボルグ思想は現象界と霊性界の二世界観を前提とする典型的なグノーシス的二元論であって不二の法門を目指す禅とは相容れないはずである。鈴木氏は神 道に批判的な一方で、一神教的な真宗思想に好意的であるが、ここにもこの思想家の組織宗教的な硬直的・固定的な教義を好む西洋的宗教観を感じる。

17)鈴木氏の神道批判を読んだとき基督教宣教師の神道批判の物言いとそっくりだと感じたものだ。禅を神秘主義だとする鈴木大拙氏は、はっきり言って、同 じようにスウェーデンボルグに影響を受けていた、西洋的一神教的な終末思想に神道的粉飾を施した出口王仁三郎や浅野和三郎と同類だと思う。

18)日本と東洋古来の思想を換骨奪胎して西洋化する、あるいは西洋的思想に日本的東洋的粉飾を施す思想家宗教家には注意が必要である。西洋の看板と実質 で正面から来る場合より、日本文化東洋文化への侵食度が見えない分、被害が大きい。これもまた偽装を旨とするタルムード戦術であろう。【終わり】

菊池 ‏@kikuchi_8 12月9日
「鈴木大拙」の項目に注目した。→【“神智学徒”であるか、もしくは神智学の影響を多大に受けたらしい人物の列挙 】
http://houjugusya.web.fc2.com/human.htm
“*鈴木大拙
 1870年11月11日(明治3年10月18日) - 1966年(昭和41年)7月12日)は、禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者(文学博士)である。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。梅原猛曰く、「近代日本最大の仏教者」。1949年に文化勲章、日本学士院会員。
 《神智学徒で禅の研究をしていたアメリカ人女性と結婚し、自身もインド・チェンナイにある神智学協会の支部にて神智学徒となったのが世界的な禅研究者として知られる鈴木大拙です。大拙はブラヴァツキー著『沈黙の声』を絶賛して、夫人のことをこう評していたといわれる。
 『チベット仏教についての知識は、その当時の大衆や西洋の学者が入手できる情報よりも豊富であり、彼女はまた秘密仏教の修行についてもよ く知っていた。この知識は鈴木大拙博士によっても裏付けられた。彼は述べている。「次の世紀に禅を西洋にもたらした人物であり、疑いもなく、ブラヴァツ キー夫人はある意味で大乗の教えのより深いところに参入していた。」』(『ヘレナ・ブラヴァツキーに当てられる新しい光---コニー・ハーグレイブによる書評』より)》”

風の子 ‏@makeanovel 7:26 - 2015年11月16日
今年、ローマ法王庁から「福者」に認定される高山右近絡み?で賑やかな金沢・能登(北陸新幹線・ドラマ「まれ」で能登が注目浴びる)ですが、鈴木大拙は金沢出身で、金沢に鈴木大拙館というやたら凝ったミュージアムが最近オープンして話題になってる https://twitter.com/kikuchi_8/status/542346315393286145 …
菊池 ‏@kikuchi_8 12月9日
鈴木大拙は神智学協会に入会して米人の妻は神智学徒であったのか。。禅を神秘主義と言い、スウェーデンボルグを紹介し、アメリカで講演旅行をした(どこかの財団の支援?)ということで、限りなく怪しいと思っていたが、完璧なインサイダーであったのだな。神智学徒が「世界的な禅の権威」扱いとは!

風の子 ‏@makeanovel
江戸幕府がキリシタンを弾圧しはじめたとき、元々匿うために能登半島の七尾市にそれ用の寺を用意してあり、金沢のキリシタンはそこに逃げて匿われた。ドラマ・まれで指導役をした世界的パティシエ辻口氏はこの七尾出身。マニラで病死したとされる高山右近は密かに能登に戻ってきた説が残ってるそうだ。

1615年没の高山右近の今年は没後400年で、「カトリックで最高の崇敬の対象とされる「聖人」となる前段階の「福者」に認定する手続きを進めることを 了承した。バチカン関係筋が明らかにした」(ニュースより)。その記念すべき年に北陸新幹線と、匿ってくれた能登が持ち上げられたんじゃないの?

鈴木大拙館 http://kanazawa5towns.com/shop/suzukidaisetzkan.html … ニューヨークのMoMAの改修工事のコンペを勝ち抜いた世界的設計者・谷口吉生氏(やはり建築家である谷口氏の父が確か金沢出身)が、この鈴木大拙館も設計して建築家の間でも注目を浴びてるとか。。

利長がキリスト教を家臣に奨励しており、さらに自分の母(利家の妻、まつ)や、姉妹にもキリスト教の説教を聞き、洗礼を受けるようにすすめたそうだ。だか らまつが洗礼を受けたがったというのは、2代目の息子の利長の影響。まつは心を動かされて説教を聞くためにわざわざ当時都から大坂へ出向いた

利長があまりにも手放しでキリスト教に好意を寄せるので、右近が困惑するほどだったという。自分はすでに半分キリシタンである、などと語るので、キリシタン嫌いな武士たちが不都合なことをしでかさないために、右近が話題を転じる必要があったことすらあったそうだ


この「キリシタンの記憶」というのは金沢在住でキリスト教徒で金沢の教会に勤務されてる著者が、これまで調べたことなどをまとめた本だそうで、陰謀論とかではなく、むしろ熱心なキリスト教徒の方の書いた本なので、トンデモとかではないですね。

当時の外国人宣教師がローマのイエズス会本部に送っていた年報によれば、1601年金沢にきた外国人宣教師は右近の費用で建てられた教会で120名の洗礼を授けたが、そのうちの13名は利長の家臣、その後51名の洗礼のうち24名がやはり利長の家臣だった

これが能登のお寺に残ってるという、胸部を開くと十字架が隠されているという仏像の写真です~^^; pic.twitter.com/4U30oqddOJ

キリスト教系人脈?^^;やたら世界的に活躍する人物も金沢から? 鈴木大拙、MoMA設計者、谷口吉生、パティシエ辻口氏は七尾だけど、きゃりーぱみゅぱみゅをプロデュースしたアーティスト中田ヤスタカも金沢出身、星稜高校からは松井(ヤンキース)と、サッカーの本田(ミラン)も。^^;

王王大栄 ‏@ououdaiei
@makeanovel @kikuchi_8 高山右近は確かに立派な武人で数寄者だが、神仏を弾圧した狂人である。それが福者?ていうことは、バチカンは、まだ十字軍をしてますよな。
鈴木大拙は、本当の禅者ではない。一応参禅したようだが。鈴木俊隆は、ちゃんと僧侶の真っ当な禅僧。https://ja.wikipedia.org/wiki/ 鈴木俊隆 偽物がもてはやされる腐った社会ですよな。)

・アレン・ギンズバーグは処女作『吠える』で一大センセーションを巻き起こした詩人である。
1955年、サンフランシスコ市で詩の朗読会が開かれた。主役は詩集『吠える』で当時の若者の人気を一心に集めていたアレン・ギンズバーグ。一様に長髪、髭、ジーンズ姿の破天荒とも思われる青年ばかりが集まっていた。その中の一人ジャック・ケルアックは自らの世代を「ビート・ジェネレーション」と呼んだ。
1957年にはケルアックの周辺にいたビートたちの姿を描いた『路上』が出版され、爆発的な売れ行きを示した。そして、翌年、1958年には続いて『ダルマ行者』(邦訳『ジェフィー・ライダー物語』)が出版された。

アメリカにおける禅の大衆化を語るうえで避けて通ることのできない人物の一人である、アラン・ワッツは、1915年にイングランドで生まれた。
17歳でロンドンの仏教界の機関誌の編集長を務め、鈴木大拙の著作を読みあさり、
1936年にはロンドンの世界宗教者会議で大拙に会い
、若干21歳のときに自著『禅の精神』を出版。22歳で米国に移住。ワッツの禅理解に関しては評価のわかれる面もあるが、50年代に刹那の生きがいを説き、57年に出版された『禅の道』などは強い影響を与え、ビートのグル(導師)として「ZEN」を広めていった。
アラン・ワッツはZENをビートからヒッピーへと橋渡しした。

ワッツは、組織に属することを拒み、快楽を愛し、酒を飲み、LSDで神秘体験 を味わったそうです。全然、禅的じゃないんですけど

アメリカではケルアック以前にすでに『ライ麦畑でつかまえて』のサリンジャーも禅に傾倒していた。現代音楽の巨匠ジョン・ケージも作品に禅の影響を認めている。
イギリスではさらに以前からオルダス・ハクスレー(ハクスリー)や詩人のW・B・イェーツ、T・S・エリオットなども禅に関心
を示している。そのような例はドイツやフランスの文学者、芸術家、哲学者などにも見出すことができ、それもこの紙幅で紹介しきれない。
ただし、この50年代を中心とした「ZEN」ブームは、ビート詩人たちに源があることから類推されるように、東洋へのエキゾチックなあこがれと考案に見られる言語の飛躍的な使用などに注目したもので、各自の知的興味や芸術的な関心からのものだった。禅の瞑想などの実践面はまだまだ理解されていない。とはいえ、この時期から自らの内面の問題として禅に関心がもたれはじめた。

1967年、サンフランシスコの人口は75万人だった。この周辺におよそ30万人の長髪の若者が集まっていた。文明社会を否定し、ビートの効いたロックに酔いしれ、マリファナをまわしのみする彼らは、「ヒッピー」と呼ばれた。ベトナム戦争下にあった当時、その悲惨さを逃れ多くの若者がドロップアウトした。その中には「スズキズム」と称して読経をあげ、香を焚き、瞑想にふける一群の若者たちがいた。この仏教への指向が、はたして本物なのが、大いに議論のわかれるところである。実際、現実からの逃避に、東洋へのあこがれを口実にしたにすぎないととらえる向きが多い。

ハーバード大学の心理学教授であったリチャード・アルパートは、ハーバード大学のティモシー・リアリーとLSDなどを使ったサイケデリックドラッグの研究を重ねた。それが原因で放校処分となるがアルパートの探求は終わらない。インドへと旅立ち、ヨーガ行者などとの交流を通して、古来から伝わる精神伝統の世界に触れ、ドラッグに頼らない精神探求へと向かっていった。この一連の体験に基づいて書かれたものが、
1971年に出版されたババ・ラムダスと署名されたアルパートの『ビー・ヒア・ナウ』なのである。この書物自体はインドのヒンドウー(ヒンドゥー)系の流れに多くを沿って書かれているものだが、ヒッピーたちの聖書となり、精神世界探求のガイドとなった。この本の最終部には、精神修行の場の一つとして、サンフランシスコ禅センターが紹介
されていたのである。

(風の子 ‏@makeanovel 11月6日
(再掲)ブレード・ランナー原作フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」は放射能汚染された第3次世界大戦後という設定。テレビでは「今日の天気予報。衛星からの報告によりますと、放射性降下物は午前中にもっとも強まり、次第に衰える見込み、外出される方は・・・」等と。

KTanaka ‏@tanaka93225760 11月8日
@makeanovel 映画・ブレードランナーの立ち食い蕎麦屋が新橋とか、暗示してたんですね。

風の子 ‏@makeanovel 11月8日
そうですね、原作小説では日本は出てきませんが、映画だと日本が舞台じゃないけど、日本っぽいものが出てきて暗示だったのかなと。屋台のおじさん日本語だし、芸者みたいな広告とか。  RT @tanaka93225760 映画・ブレードランナーの立ち食い蕎麦屋が新橋とか、暗示してたんですね

風の子 ‏@makeanovel 11月8日
「ニューロマンサー」の舞台が千葉市ってのも暗示的。。 “臓器移植や神経接合や微細生体工学と同義語となった千葉”、“千葉の闇クリニック群こそ最先端” とか描写されるチバシティがメインの舞台の1つですよね。。  @tanaka93225760

KTanaka ‏@tanaka93225760 3 時間3 時間前
@makeanovel 『ニュー・ロマンサー』読んだ当時は気味が悪くて、今思うと「731部隊」の残党の話しだったのかと。日本はとても不気味な国。とらえどころが無くて、鵺のよう感じるこの頃です。

風の子 ‏@makeanovel 3 時間3 時間前
ニューロマンサーを書いたギブソンの仕掛け人が、ティモシー・リアリーという、「素晴らしき新世界」のハクスリー(1984年のオーウェルの恩師でもある)と一緒に麻薬使った実験したり、タビストック人間関係研究所の洗脳実験MKウルトラ計画にも関わった人  @tanaka93225760


・カトリックの総本山ヴァチカン(バチカン)では、
1962年から3年間にわたって第二バチカン公会議が開かれ、カトリックが異宗教との対話を進めることが決議された。さっそく仏教、中でも禅に対話を求めた
1969年の第一回目の東西霊性交流では、禅の関係者五十数名がヨーロッパを訪問し、各地の修道院に地財し、修道生活を体験するとともに、武道、茶道、書道といった禅の周辺文化を紹介した。

バチカンが統一宗教を作るのに協力します宣言。
仏教に近づいて、仏教を取り入れますよと言いつつ、実際は仏教の中核を抜いて一神教寄りにに改造。
中核思想がカトリックと禅は真逆なので、統合は無理です。
共存ならできますけど。
一神教を改造した新キリスト教に協力することに反対しているカトリックの保守派が、イエズス会士バリュエルが発明したイルミナティ陰謀論やキリスト教の伝統であるユダヤ=フリーメーソン陰謀論を布教しております。
スピリチュアル禅やヒッピー禅やニューエイジ禅は魔境を悟りだと勘違いさせる邪禅(野狐禅)である可能性が高いので注意!


帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 5月10日
禅宗にふりーそーめんが取り憑いて世界に広めるのも、エックハルトとセット売りして禅の本質を骨抜きにするつもりかね?純インド産ヨーガが流行らず、アメリカ産ニューエイジ系のヨーガばっかりになってるように。ほんま、マニさん戦術の宗教乗っ取り作戦は怖いですわ。マニ教の本質は本当に怖い

つねまげ ‏@tunemage 1月5日
ニューエイジは禅やヨガなどの東洋思想を取り入れているけど、彼らが求めたのは欧米から見た規制の価値観(キリスト教倫理・資本主義・科学礼賛など)へのアンチテーゼとしての東洋思想な気がする。だから、僕らから見ると外国映画に出てくる忍者を見るような違和感があるんだな。)


・中国の臨済禅を日本に紹介した栄西は厳格な戒律主義。
渡航が困難な時代にあって、栄西は二度も入宋した超エリート僧であり、多くの寺を次々と建立する造営の才に恵まれていた。
栄西は臨済宗 黄龍派の伝法を受けた。帰国後は北条政子や源頼家など最高権力者を味方につける抜群の政治的才覚の持ち主であり、京都に建仁寺、鎌倉に寿福寺を開き、臨済宗の発展の基礎を築いた。
栄西は禅の立場をとりながら密教(天台密教)も一緒に取り込んだ。栄西が開基した京都の建仁寺は比叡山の末寺としてスタートしているが、禅だけでなく、天台・真言の三宗兼学の道場でもあった。栄西は日本臨済宗の開祖であると同時に、天台密教葉上(ようじょう)流の祖でもある

公案は論理的な解決の拒否

以下しばらく公案
・達磨安心(だるまあんじん)

壁に向かい続ける達磨のもとに神光という名前の男が訪ねてきた。

神光「心が不安でたまらないのです。先生、この不安を取り去ってください」
ダルマ「その不安でたまらない心を持ってこい。安心させてやろう」
神光「心にはかたちがないので出せません」
ダルマ「それがわかれば安心したはずだ」

神光は、達磨から慧可(えか)という名前を与えられ弟子となり第二代の祖となった。

(knznymmmy ‏@knznymmmy 8月19日
ワロス 持ってこれないなら存在しない、か そういう時はだな、思いっきりその達磨を殴るんだ 「痛い!」って言ったら 「ほう?そうかい? じゃ、その痛みを持ってこい」 「無理っす」 「んじゃ、痛くないんだろ?」 ともう一発殴る

どみにをん525 ‏@Dominion525 2013年1月29日
一休さんの「屏風の虎を出してください」って、無門関四十一則達磨安心の「その不安な心とやらを出してみろ」のオマージュなんだよね?

MURAJI ‏@murajidash 6月7日
一休さんって、後小松天皇と南朝系貴族の女性の間に生まれたとされてるので、北朝系だけど足利が気に食わない奴ら&南朝系が、同時に旗印に担げる貴重な人材なんですよね)


・狗子仏性
(くしぶっしょう。「趙州狗子」じょうしゅうくし。「趙州無字」じょうしゅうむじ)

ある僧「犬にも仏性がありますか?」
趙州和尚「無」
ある僧「なぜないのですか」
趙州和尚「自分に仏の性質があることを知らないからだ」

大乗涅槃経にある、一切衆生悉有仏性という森羅万象に仏の性質が宿っているという大乗仏教の基本理念を、「無し!」と否定したことがポイント。
先入観を崩したのです


“一切衆生悉有仏性
いっさいしゅじょうしつうぶっしょう
生きとし生けるものは,すべて仏陀になる可能性 (仏性) をもっており,すべて悟りうるという仏教の思想。諸説もあって,なかには仏性をもたないものもありうるとする説 (法相宗) ,草木などの精神性をもたないものにまで仏性があるとする説 (天台宗) ,精神性をもたないものは仏性をもたないとする説 (華厳宗) などがある。“
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E5%88%87%E8%A1%86%E7%94%9F%E6%82%89%E6%9C%89%E4%BB%8F%E6%80%A7-31464)


ぺん ‏@hanashibeta 7月13日
禅は御存知のように不立文字というが、禅ほど多弁なものはない。灯史を開けばそこは公案ワールドだ。ただ禅問答と揶揄されるように欧米系論理学では読み切れないものだらけで、結局禅のいう不立文字の文字とは言葉のことではなく「既成論理の枠組み」を指しているのだろう。ビバ狗子仏性!

主人公
瑞巌師彦(ずいがんしげん)は毎日自分にこう呼びかけた。
「おい、主人公よ」
そして、自分で答えた。
「はい」
また呼びかけた。
「おい、しっかりと目覚めているのだぞ」
「はい」
「おい、いつどこで、他人に欺かれないとも限らないぞ。しっかりするのだぞ」
「はい、はい」
こうした問答を生涯続けたという


私も禅語の主人公の姿勢で本ブログを執筆しております。
主人公も仏教用語なのですね


鷹島修@アラフォー&イクメン ‏@sic_taka 9月29日
禅語での主人公は、本来の偽らざる自分という意味らしい。 毎日自分のなかの主人公に呼びかけて、覚醒させておくことが大切。 そうしないと、すぐにとらわれた自分になってしまうということらしい


曹洞宗大本山の永平寺は、すべての建物が回廊で連結されており、法堂は頭、仏殿は腹部、山門は股など人体のそれぞれのパーツに密接に照応して設置されている。行住坐臥のいっさいが厳格綿密な修行であることを悟らせるような禅的な宇宙観に基づく。
「永平」とは中国に仏教が初めて伝来した年の年号


(フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 2015年11月12日10:51 - 11:47
ねここねこさんの工事中の 禅仏教の記事読んでるけど、 永平寺システムに一個だけヒント。
「永平寺修行記」では便所での ケツの拭き方とか、食事の細かい
作法とか、寝るときに仏陀みたいな 態勢になる様に布団でグルグル
巻いて簀巻き状態にしたりする……

これは現代の工場で作業の 手順がこと細く決まってるのと 同じ思想なのね。
目的は「ヒューマン・エラー」 の撲滅。
なんでこういう思想が生まれた のかというと、
禅仏教では、理想の生き方ってのが ブッダの生き方なわけ。

ところが人間ってのはブッダの 生き方が中々出来ないわけよ。
そもそもブッダの生き方自体が 分からない。
だったら、人間の取る全ての 行動を寺側が管理して、
強制 させれば、全員ブッダの行動を
取るわけだから理想の社会に ならね?
って考えが永平寺の 仕組

で、これを娑婆の世界で実現
したのがトヨタ生産方式みたいな
工場の仕組なわけ。

ところが工場で働いてみれば
分かると思うけど、アレが
どうしても「理想社会」じゃない
って事に人間は本能的に気付く
わけよ。
でも工場側はこれはブッダの 生き方をトレースしてるんだから
これ以上の理想社会は無いんだから 黙って続けろ!
と言うわけだ。
曹洞宗の凄いところは実は
ここで止まらないで、実は このネタの続きを用意して ある所なんだ。

「永平寺修行記」を良く読めば
分かるんだけど、作法の合間に
ちょくちょく坐禅の時間が
あるのよね。
所謂、曹洞宗の「只管打坐」って
やつの実践ね。

「永平寺修行記」の著者が
ここで重要な所を漏らすん
だけど、
この「座っている時だけが天国だ」 という表現を著書の中でしてるんだ。
トヨタの工場で言うと「五分間の 小休憩」の時間みたいなもんだ。
ブッダの行動を全てトレースして 生きているはずなのに、
本当の 幸せは「坐禅」してる時だけって
不思議だろ?w

ここが曹洞宗のスゴイ所なのよ。

つまり「本当の悟りはブッダの
行動をトレースした強制された
ロールプレイには無い」
と言い切るわけだw

本当に重要なのはブッダの
ロールプレイに疲れて
ただ座り始めた時の
「なにもしてない状態」
これが悟りだ!

トヨタの工場の例に置き換えると 工場で真の利益を挙げているのは
「作業者が作業している 時間じゃない」
工場で一番重要で本質的なのは
「休憩を取っている時間」

と曹洞宗の坊さん達は言い切った わけだ!w

この「なにもしない状態」、
ただ座って、休憩してる時間こそが 悟りであり、人類の理想だって 説いてるわけよ。
あの厳しい修行はそこに気付かせる ための念入りに組まれたカリキュラム なのね。
まぁ、流石はインテリの坊主 の考えた仕組だわ。

問題はトヨタも、東大のMBAも、
ジョブズも、Googleも、 この「禅の本質」に気付いたか どうか。
まぁ、第一目的が利潤追求や ドラッカーのいう需要の創造 じゃ気付かんだろうw

あくまで只管打坐の曹洞宗の 話しよ?
公案ベースの臨済宗はまた 別の話しよ?
pic.twitter.com/8ulmJZvPLG
(野々村 馨 『食う寝る坐る永平寺修行記 (新潮文庫)』)

また、ミソは「ブッダの ロールプレイ」の否定が
間接的に空海が持ってきた、
天台宗が後に重視した
密教の批判になってる所ねw
ここが重要なポイントよ?w

この永平寺の修行の仕組は
よ〜く観察すると、釈迦が バラモン仙人の下で苦行されて
参った後、菩提樹の下でただ
座って悟ったエピソードと リンクしている所も キーポイントよ?
w 以上

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 9月19日
RAPT君の執着するトヨタの
経営手法も基本的に曹洞宗の
永平寺の運営システムの
パクリ
だしなw

王王大栄 ‏@ououdaiei 2015年11月
トヨタは、永平寺の経営システムを学び用いているらしい。そういえば豊川稲荷は、曹洞宗。でトヨタのロゴはここのダキニ天の如意宝珠も表しているとか。繋がりますよね。松下は醍醐派の清滝権現の神社を祀っているし・・でも今は醍醐寺もカルトの汚染にやられている・・・。因果応報?

永平寺のシステムは、結構軍隊のシステムに似ている。ので、企業が喜んで取り入れるのかな。
戦後日本の企業経営は、結構軍隊の影響が多き。それを誤魔化すのに禅仏教を騙る。
禅宗は、妙に軍隊臭いところが嫌い。永平寺のシステムも、ある意味で選ばれた人しかついていけない。それを無闇に誰にでも押し付けガチに思える。それは発達障害気味の人間には拷問ですは。学校も妙に禅宗と軍隊の合わせ技だし



フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 1月22日
今まで東大だけMBAが
なかったんだが、最近東大EMP
という社会人用EMBAコース
みたいなのが出来ていた。

学位はくれない。修了証のみ。
ハーバードとの差別化を謳い
文句にしていて、所謂
「マネジメント」、
「マーケティング」、
「リーダーシップ」を
教えない。
代わりに政治学、宗教、医療 とか教えているみたいだ。 元々日本企業は欧米系の ビジネススクールで経営学 を齧った小賢しい若造が 経営者に意見するのを 毛嫌いする傾向が強い。 東大のカリキュラム 見ると松下政経塾の 神道を仏教に替えた だけの感じだが

コーランを読み込んだり、 坐禅を組んだりするそうだ。w これで半年600万。 う〜ん、ハーバードでも 金積めばMBAくれるし、 卒業名簿にも加えてくれる んだがなぁ〜 確かにHBS(ハーバードの ビジネススクール)は安くは ないけど。

ってかマネジメントをやらない MBAってMBAなのか? 東大のカリキュラムを見ると 確かに日本の経営手法に 合致してると言っちゃ 合致してるが…… オカルト偏重がそもそも 日本のモノづくりを 弱らせてることが 何で分からんかなー

この東大EMPのカリキュラム に日本型経営の問題点が 要約されてる感じがするね。 禅仏教をやらせるのは 多分ジョブズの影響だな。w 坐禅組んでイノベーション 出来るなら確かに凄いかも しれないが。w

確かにGMとかクライスラー だけを見るとアメリカの経営は ショボイけど、そもそもアメ公 エリートは自動車メーカーに 行かないからなぁ。 NASAとか軍需産業の イメージかな。 スタバ、マイクロソフトとか の成功例を取れば、学ぶべき 所はあるのだけど。

まぁ、トヨタ生産方式って 道元の永平寺の運営手法そのもの だからな。w そこに気付いたのは流石に 東大と評価すべきか。w)

『禅の本』
坐禅の仕方
・結跏趺坐(足の裏を天に向けて両足を組んで坐る。結跏=足を組む。趺=足の裏)で座る。
①座蒲(ざふ。なければ座蒲団の上にさらに二つ折りした座蒲団)を置き、その上に浅く腰を下ろす。
②右足を左のものの上に乗せ、かかとが下腹につくくらいまで、なるべくつけ根のほうまで引き寄せる。
③左足も同じように右のももの上に乗せる。
両膝と尾骶骨で、床の上に三角形ができる。このとき膝が床から離れてはいけない。
足が痛くて結跏趺坐ができない人は、左足だけをももの上に乗せる半跏趺坐を用いてもよい。
それも辛い人は普通に正坐して行ってもよい。
・目は自然におとす。閉じると眠気を催したり、妄想に陥りやすくなる。
・手は法界定印(ほっかいじょういん)を組む。
右の掌を上向きにして、組んだ足の上に置く。
その上に左の掌を同じように上向きにして重ね、親指の先を合わせて卵形の輪を作り、その手はへその下あたりに置く。
両方の親指をかすかに合わせる。離れても押しつけてもいけない。
・体の位置は真中心におく。時計の振子のように上体をまず大きく左右にふって自然に止まった位置、次に前後にふって上体がまっすぐ安定した位置。
・頭は顎を引き、左右に傾かないようにする。視線は1m先くらいに自然におとす。
・口は軽くむすび、舌先を上あごの歯のつけ根に軽く当てる。
・肩は力を抜き、水平にする。
・背中はまっすぐ伸ばす。腰は後ろにぐっと引く。腹は少し前につきだし、鼻と一直線になるようにする。
・呼吸は自然と鼻からの呼吸にまかせ、息は長すぎも短すぎもしないようにする。息はまず吐き出してから吸う。下腹の底から吐く心地で息をすると、下腹はへこむというよりも充実感がある。すると自然に鼻から吸うことができる。



…参考資料…

秋山絵香 ‏@Eka_isdd 2012年12月22日
仏教的にいえば「愛」は執着、こだわることであって、煩悩という悪である。「愛」を断ち切ることなくして悟りは開けない。 日本人が「愛」を何かよいものと思うのはキリスト教の影響

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 5月3日
仏教を激しく憎んでる神道カルトが、マニ教と同じ手法を使いながらスピリチュアルを洗脳していってるのは、和風クリスチャンである神道カルトがそれだけ仏教を破壊したくてたまらないということだろう。スピリチュアルと仏教では、似ているようで実は違ってスピはキリスト教の変形だからだ。

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 4月30日
今のヌッポンで英諜報機関が作った神智学系スピリチュアルが蔓延してるのは、仏教破壊作戦と見ていいだろう。大本教などの神道カルトは、徳川家が国教とした仏教を激しく嫌ってた。五重塔を二万円で売りに出すとか。そいつらがスピを蔓延させるのは、日本の仏教的な価値観や感性を壊すため

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 11月1日
そういえば、今思い出せるだけでも、仏教の坊主がニートを叩くというものは本当になかった。それどころか、現代のような煩悩が多い社会に生きてると心が壊れて当然で世の中のほうが狂ってると言った坊さんが多い事実を思い出した。労働教の大人はニューソート好きでも仏教は嫌いだもんな。

やつらは日本を破壊するために、会社というカルトを盛り立て、地域の共同体だった寺から隔離して仏教的な叡智から遠ざける工作をやってたのではあるまいか?松下幸之助がニューソートやキリスト教カルトと懇意だったのは偶然じゃないんだよ。PHPの貢献賞はきっと仏教破壊工作なんだよね。

やつらの本質はマニ教だからさ、仏教的な伝統があるヌッポン社会でも受け入れられるよーに努力精進みたいな教義を入れ込むけど、それでも資本主義カルトって欲望を最大限に拡張させる事だから、仏教で一番大事な要素である修行の果てに心の平穏がないわけ。だから死ぬほど努力した後に過労死する。

こう考えると、マニ教的な既存の宗教の換骨奪胎ってのは実は人を何十万人も殺せるほど恐ろしいものであるという事がわからないか?宗教でも思想でも意図的に混ぜ合わせる事で一番大事な部分を骨抜きにしてしまうやつ。これは自然な習合だとあまり起こらない事なんで、意図的なミックスまじで怖い


山崎いつ@日本号来まっしや ‏@itsu_yamazaki 11月25日
ベルギーでは、オウム真理教や創価学会に並んで『禅』や『浄土真宗』を、カルトに対する政策において『不法行為や危険な行為が継続されていないか監視する必要がある』としている。http://bit.ly/1FoNbBk

Ken ITO 伊東 乾 ‏@itokenstein 2010年7月1日
カトリック布教を武器とする帝国主義宗主国の進出を阻む現地抵抗勢力となりうるもの、すべてとりあえず悪と認定しておく。実に原則的! @tjmtmtk 浄土真宗と禅がベルギー政府からはカルトであると指定されているということを今知った。パッとリストを見た限り、薔薇十字団とか太極拳も

Ken ITO 伊東 乾 ‏@itokenstein 2010年7月1日
@shoshoshosho ベルギー&カトリックに言わせれば「長崎26聖人殉教」など切支丹の大弾圧、殺戮を繰り返してきた対抗教義になるので、日本の仏教は軒並み暴力カルトと見て不自然でないでしょう。とくに九州は西本願寺と曹洞宗が強いので、真宗と禅の指定は非常にストレートに判ります。

サイ / 三原卓也 ‏@rhinoeye 2011年4月27日
ベルギーのカルト団体リスト http://bit.ly/i718Q8 はざっくりしてるなあ。オウム、創価学会、統一教会、真光、エホバ、といった日本でもおなじみの面々や、サイババ、ラエリアン、太陽寺院みたいな懐かしめのやつや、アーミッシュ、モルモン、YWCA、ヨガとか禅も入ってる。

knznymmmy ‏@knznymmmy 7月23日
ほうほう。ベルギーはカトリックが7割少々という カトリック国家でありながら ザクセン=コーブルグ=ゴータ家といえば プロテスタント

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 9月19日
バチカンの護教書だけど これが良く書けてて勉強に なった。 マニアックなキリスト教書専門店 にしか売ってないのが残念だけど、 一応Amazonとかでも取り扱って るみたい。 pic.twitter.com/14CUqnVXyg
(『ニューエイジについてのキリスト教的考察』教皇庁文化評議会)

この本に拠ると、ニューエイジ カルトの本拠地はカリフォルニアの エサレン、
スコットランドの フィンドホーンとスイスの モンテ ヴェリタスという所らしい。

で、ニューエイジの語源は 一般的にはアリス ベイリーだと 言われてるけど、バチカンは 元々メイソン用語だと述べている。
で、これを一気に広めたのが 部落派月子ちゃんと言うのが バチカンの認識らしい。

ともかくバチカンがやたらと
敵視してるのが部落派月子と
有栖部恵理、捨体無の神智学系列 の人脈の様だ。
また、イエズス会の中にも 神智学人脈の工作員が 潜入している
と書いてあるw

この本はニューエイジ教と カトリックの教義の比較も してるんだけど、キリスト教って 妙に中国の儒教に似ている様な 気が……
「イエス」とか「神」の部分を
「君」とか「王」に換えれば まんま儒教なんだが……

案外、孔子がイエスのモデル なのかも。
ローマの猿共に優しく儒教を 解説するために多少、
アーリア宗教要素で脚色した 感じか


最初は東洋思想の中では 仏教の浄土教系がキリスト教に
一番近いと思ってたんだけど、 これ多分、儒教の方が近い。

となると、 やはり徳川イエス君が MAGE政府に憎悪された
のも これが要因かw
フェイド大帝的には神道は キリスト教よりもニューエイジ教 (つまりグノーシス主義)の 方に近いと考えている。

あ、後、バチカンが言うには 日本の宗教の中ではジョブズの 好きな禅宗にニューエイジ工作員 が沢山潜入してるから気を付けろ ってさ。
カトリックの強いおフレンチで 政府認定カルトの中に禅仏教 が入ってたのは多分これが 理由だな。

RAPT君の執着するトヨタの 経営手法も基本的に曹洞宗の 永平寺の運営システムの パクリ
だしなw

初めてキリスト教書専門店に 行ったついでにさっきの本買った んだけど、(本当は「聖ベネディクト の戒律」と「キリスト教神秘主義 著作全集」を探してたんだけど 無かった) 韓国人の書いた本が異様に 多かったけど、どうも福音主義系 の本屋だったみたい……

面白かったのが泉パウロが 普通にキリスト教の本も 書いてた事と、ケリー篠沢先生の 作品が聖書マンガ以外にも 沢山あるという事が発見出来た のが収穫だったw

取り敢えずせっかくだから 福音主義派の異端折伏マニュアル みたいなやつを何冊か買って来た。

立ち読みした時は余りにも 下らなくて、ゲットして いなかったスウェーデンボリ の著書も買ってきたから、 一度真剣に読んでみますわ……

さっきのバチカンの本には 霊媒系の元ネタはスウェーデンボリ
で、部落派月子もこっから パクったと書いてあった。
日本の新興宗教で同じ様な 霊媒による宣託やってる所も
スウェーデンボリがルーツだと 分析してる。

つまりバチカンの調査だと 日本のカルトの霊媒技術は
恐山のイタコみたいな土着信仰 からの派生じゃないと判断してる 事が重要


あ、後、バチカンが言うには 最近流行りの適職診断の
エニアグラムとかの類型に 層別してやる心理テストは
カバラ系カルトが元
だから 気を付けろってさ。

なんかバチカンはスイスの モンテ ヴェリタで開かれた 統一宗教の国際会議の出席者 名簿が興味深いと書いている けど、誰とまでは書いてない。 どーも、調べると黄金の夜明け団 やOTOのロイスとかが集まってた っぽいな。 いわゆる魔術結社系ってやつね。

神道は人間が神になってもOKなのでグノーシス主義を完全に拒否しません。
物質=悪
霊=善
の二元論は神道にはありませんけどね。
神道カルト=和風キリスト教
=新キリスト教。
(既存のキリスト教にとっては異端)

ニューエイジ=新キリスト教。

神道カルトの特徴は
聖書が根拠の日ユ同祖論、
キリスト教の伝統であるユダヤ陰謀論、
善悪二元論、
明治以降の偽伝統である神道家の天皇崇拝。
なお、反天皇だったり、天皇すり替えに言及する場合があるので、ユダヤに対する態度と、一神教的な善悪二元論かどうか確かめるのが重要。
日本人の伝統的な神々に対するイメージはほとんど仏です。
日本語は仏教用語だらけですが神道用語はほとんどありません。
神道、神器、天皇、随神は道教用語。

やっぱり陰謀論者の煉獄のカレイドはカトリックなのかねえ。


狼たちは知っている ‏@wolvesknow
クリスチャンだと、カレイドさんもそうだから、時に方向が違ってたり、歯切れが悪くなる。
まあ、宗教は事実を遠ざけるから仕方ないけど。

カレイドさんは敬虔なクリスチャン。しかし、女性を含めて複数で書いてる。ハッピーさんは、時々、選手交代する。文章には必ず、本人の癖が出る。

カレイドさんは複数で書いてる。女性も混じってるね。で、彼らはクリスチャンだよ。記事によってはかなり信用できる部分もあるけど、時折見せる終末思想がウザい。耶蘇教は終末思想大好きだからね。

つか、カレイドさんが同時運営してる、アーバンプレッパー読めば、終末思想なのは一目瞭然


魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 10月27日
陰謀論コミュもそーだけど、色々な世界で有名人になる人ってみんな「クリスチャン・在日・ホモ」のどれかの属性を持ってるのよね。たとえばシールズの奥田愛基君は在日でクリスチャンだし、さゆふらは元ホストだからホモで在日かも?で在特会の西村もホモで在日って話だよね?ホモソーシャルすげー!w

前にさ、耶蘇教福音派の宣教師がホモは地獄に落ちる~とか脅してたのに、自分がホモだとバレて失脚した話があったんだよね。耶蘇教、特にプロテスタントがホモや魔術などを必死にファビョってバッシングするのを見ると、特定の利権があるんだろうね?利権を守るためにバッシングするみたいな。

そー考えるとさ、陰謀論コミュの面々も「クリスチャン・在日・ホモ」の3つの属性のうちひとつは持ってるもんね。泉パウロも在日顔でクリスチャンだし、カレイドも韓国絡みでクリスチャン。ハローバイバイの関暁夫もイスラエル寄りのクリスチャン(キリストの幕屋かな?)だし、宇野もそーなの。

カレイドって南朝鮮のメディアと組んでたんだけどさ、こいつも統一教会なんかな?プロテスタントは統一教会に多額の資金提供されてるし。カレイドが輪廻転生とかいってんけど、メイソン臭いキリスト教じゃね?
http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-3855.html …

Abby ‏@Abby51576401 9月23日
@lakudagoya @AmboTakashi カレイドがシールズを持ち上げているし、石田純一にも同様。いつも的確な批判を書くのに、変です。http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-3820.html …
日刊ゲンダイもシールズを持ちあげ、批判は全くなし。「敵」だらけになった。

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 5月17日
カレイドが、エドガー・ケイシーを悪魔崇拝者だと断定しててワロタ。おい、エドガー・ケイシーは敬虔なクリスチャンで聖書を隅から隅まで読んで日曜学校で教えてたくらいなんだぞ?そいつが悪魔崇拝者ですかそーですか。http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-165.html?sp …

カレイドスコープの「私はクリスチャンでありませんし、一切の宗教とは無縁です。再三書いていますが」と言ってるのに魔術は悪魔崇拝だからいけませんとか、煉獄の火で焼かれるとか(煉獄はプロテスタントにはないよ?)何でクリスチャン臭い発想なの?http://mjk.ac/taBsBn

カレイドスコープの引き寄せの法則が悪魔崇拝なら、恐らく引き寄せは仏教の阿頼耶識縁起の説がパクリだから、俺ら一般のヌッポン人はサタニストか?そんなバカな!http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-165.html?sp …

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya
ふふふ、RAPTのブログにこのマルティン・ルター家の家紋を引っさげて殴りこみしてみようかな?カレイドの時のよーに、想定内のファビョり反応をするかな?いやーカレイドの時は、キリシタンそのものだった反応なのでホリエモンになったかと思ったw pic.twitter.com/0YaZWdN1GK
薔薇十字ルター


ルター家の紋章は薔薇に十字ですよ。まー、ミツバチのマークのステーキハウスのフルールドリスの太陽王のルイ王朝も似たよーなもんなのでしょうけどね。

プロテスタントというのは、元はカトリックとは違うグノーシス系キリスト教の影響を受けてます。薔薇十字団というものがありますが、ルター家の紋章は薔薇と十字です。あと二元論はマニ教の影響があるでしょう。

ミツバチといえば、フランス王家の紋章のフルールドリスも百合ではなく、ミツバチをかたどったものだとフリーメイソンさんの本に書いてありました(笑)メロヴィング家もミツバチの小物が出てる

この前、佐藤優の「神学の思考」読んでたら、プロテスタント神学は、見える教会と見えざる教会という2つの教会があると信じると書いてあった。おや、薔薇十字団の見えざる大学かね?(ルター家の紋章は薔薇十字)この神学の定石を知ってるだけでも、RAPTの思考が一発で背後まで読み取れる
のさ。

あーカレイドスコープを釣った時にはホリエモンになっちゃったかと思ったよ。 耶蘇教1800年以上の歴史と伝統を感じる、教父時代から変わってない伝統的な半島人も足元に及ばないファビョり方つーか、ローマの古典に書いてある事をありありと感じるよーだ。思わず 「想定内です!キリッ!」とw


「怪力乱神を語らず」
という無記っぽい姿勢の儒教がキリスト教のモデルとは思えません


子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2014年9月16日
キリスト教「自分がされたいことを他人にせよ」
孔子「自分がされたくないことを他人にするな」
は全く違う。自分がしてほしいことが他人がしてほしいとは限らないから。信者がしてほしいこと=異教徒の絶滅なので、信仰の押しつけによる侵略を推進するのに都合が良いのがキリスト教の聖書の黄金律


菊池 ‏@kikuchi_8 2014年8月2日
14)己も空・他も空、諸法=万有は同じ空という道理の上にあるので、己の身に引き比べて生類を傷つけてはならない、という慈悲の心が導かれる。形而上学を用いない道徳律、これは「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」という孔子の道徳律と並ぶ東洋の黄金律であろう。

knznymmmy ‏@knznymmmy 9月20日
あー、エニアグラムってどこかで聞いたと 思ったら 昔読んだ「9つの性格」がエニアグラムだな あれ確かアラビア方面に起源がとか書いてたような気がする そーいやカバラもアラブ経由の疑惑が濃厚だったから まー、エニアグラムとカバラ 元ネタはかぶってるかも

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 11月6日
カルトよけスプレーとして無記は最強すぎる虫除けスプレーですねRT https://twitter.com/kikuchi_8/status/662672509964173312 …
菊池 ‏@kikuchi_8 11月6日
仏陀が無記の態度を示したのはツイッターに巣食うカルト工作員を見れば明らかと思う。つまり、根拠提示も証明作業も無い独善的カルト教義をまき散らし、憎しみを増長して無益な争いに終始する「修羅道」に堕ちたカルト工作員の姿。思想の自由が謳歌されていた古代印度も似たような状況だったのだろう

王王大栄 ‏@ououdaiei 11月6日
@lakudagoya @kikuchi_8 論語で孔子が「昔の史官{歴史記述担当の役人}は、よくわからないところは書かなかったものだ」とボヤキとも回想ともいえることを言っている。「わからんものはわからん。ってわきまえることが知恵」という趣旨の言葉も・・。

S̸ąΐǤσợƑꐕ ‏@saigoofy 7月16日
“仏教の開祖である仏陀(ガウタマ・シッダールタ、紀元前463年? - 紀元前383年)は、世界の始まり、時間の有限/無限などに関するいくつかの形而上学的な問いについて、無記(むき)または捨置記(しゃちき)と呼ばれる立場を取った。それは解答しない、という立場である。”

横浜の駄洒落皇太子 ‏@hamadajare
【無記】例えば「死語の世界は有るのか」等の幾つもの問いを弟子に投げ掛けられた時、仏陀は答えなかったという。経験していない、或いは確かめる事ができない物事について語る事はできない、という立場を取ったらしい。

【仏陀の客観視】弟子が例えば“あの世があるのか”等幾つかの質問をしたら、仏陀は答えなかったという(無記)。経験や実証できないことを議論しなかったらしい。仏陀は物事を客観視
するタイプだったようだ。

ベローシファカ ‏@saru_madagascar 2014年6月22日
原始仏教では無記と言って、形而上学的な問題については沈黙を守るとした。仏陀の毒矢の例えに示されるように、それは仏教の本質ではないのだ。語り得ないことについては沈黙しなくてはならない。http://bit.ly/1iYcUG2~nozawa/b/muki.htm …

日高 ‏@akazuki1287 2013年12月21日
仏教だと十無記とか原始仏典の仏説はかなり実証主義的で、その上でインドの輪廻思想を否定せずに上手く当時の人をカウンセリングしてるなーって感じるけど、仏陀が死んだら神格化しちゃってやっぱり宗教なんだなあと。

マサトク-18san-sui 19大蔵 ‏@masatoku 2013年9月4日
霊だの何だのは仏陀のいうところの「無記」(そんなん知らんし余計なこと考えてないで修行しろ)だと思ってるので眉唾だけど、本人の体験としてはあるんだろうなとは思う。大変なことがあったりすると、人間の脳はそういうものを見せるもんだ。

陀羅尼縁学 ‏@daranijizai 11月5日
仏教の宗派には、過剰にスピリチュアルや、霊感、霊能を禁忌として捉える所もあるが、それは一種の禅病を防止する為もある。
瞑想中にそういう不思議な感覚に囚われ行き過ぎた追求をすると、禅病になる。
禅で和尚にパチンと叩かれるのも、禅病予防
。禅は追求するとヨガに行き着く。)

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 2015年11月11日
前、紹介したバチカンの ニューエイジ解説本に奴等 の使う「アセンション」の 用語の詳しい解説が載ってる。 ニューエイジャーの言う 「アセンションによって 以前の旧い価値観が180度 変わります!」 という文句はカトリックが 滅びます!と同義というのが バチカンの公式理解

RAPTの野郎が「人は空中携挙 されうるか」という気持ちの 悪い記事を書いてるなw 有料だから中身は分からんけど。

この本な。 RAPTの有料記事読む前に これ読んどいた方がいいよw 教皇派の主張を理解するには 教皇庁の書いた本読むのが 間違い無いでしょうww pic.twitter.com/YdCbg2YhS7


安保 多稼士 ‏@AmboTakashi
紐付きは半分の真実と半分の嘘によって、洗脳に気づいた人を再び洗脳するのが仕事。
陰謀論者ラプトの元ネタはラプチャー=携挙。
隠れ含めキリスト教系と大本教系陰謀論者は仏教嫌いの法則!

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-82.html

もしキリスト教系(の時点で支配層側の)陰謀論者のRAPTさんに出会ったらまずは、元ネタはRAPTure(ラプチャー。携挙)ですよね? と聞こうと考えております。患難前携挙説を正しいと考えていますか? とも聞こうかな。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-83.html

菊池 ‏@kikuchi_8 2時間2時間前
@3nihonzin @sakurakouyouhen あなたの使っている概念はニューエイジそのものなのですが。アセンション、次元上昇という「携挙」からキリスト教風味を薄めた教義を喧伝している。あなたが信奉している神智学の二代目会長のアニー・ベサントはフェビアン社会主義者ですよ。

@3nihonzin @sakurakouyouhen どこが「神国日本」か?あなたはただの神智学信者では?使っている概念が全て西洋のオカルトですね。中身は西洋かぶれなのに、保守愛国派を偽装している訳で。伝統に憑依して破壊する反日偽装愛国主義者。そういうのが多すぎますね。

@sakurakouyouhen @3nihonzin アセンションがどういう妄想かは存じませんが、ティモシー・リアリーがLSDを摂取して体験した幻覚の描写がプロティノスの「神秘体験」とそっくりの描写でした。キリスト教で言う「携挙」のニューエイジ版だと思われます>アセンション

「次元上昇」「艮の金神が動く」とか言い、「マハチョハン」「セント・ジャーメイン」
がどうたら言う神智学かぶれのオカルト信者が安倍支持勢力の周辺で蠢 く。横文字左翼にオカルトの影があるのは先日言及したが、安倍支持派にもオカルトの影。西洋かぶれのオカルト・アセンション信者が何故愛国だ?

次元上昇=アセンションは、キリスト教の神の国に引き上げられるって思想からキリスト教色を抜いて、似非科学的な感じにしたものです。
アセンション自体が「キリストの昇天」という意味のキリスト教用語。

というか、スピ信者が愛愛うるさい時点で中核がキリスト教って気づけよ。
仏教思想なら愛は悪だぞ。

仏教含めインド思想は論理的思考「も」重視するので、スピ信者の妄想を全否定します。
スピ信者がほざく「覚醒」の九割は「悪酔い」です。

キリスト教の「愛」も、スピリチュアルの霊的体験も、
「物質ではない」=反証できないものなので、
支配者にとって、とても都合がいいです。
反証できないもので価値観を形成するのは全て洗脳です。
こちらが物証出せと言ったらスピ本=宗教書か物質を超えたものがと言って逃げます。
スピも悪質ですが、
唯一絶対神「民主主義(みせかけ)」と
「拝金教」「デモ教」「選挙教」「過労死教」「学歴教」に比べればマシです。
日本ではバラモン教のような霊的カーストで支配せずに、宗教色を抜いた宗教である学歴というカースト制度を支配層は採用しました


帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 4月8日
アセンションって、キリストの昇天とかこっぱずかしい用語と思ったら、ハルマゲ丼であぼーんで幽霊さんになることか?それならほーしゃのーだって無敵だもんな確かに。

風の子  ‏@makeanovel 24分24分前
愚民政策として知られる3s政策って、スポーツ、スクリーン、セックスって言われるけど、代わりにスキャンダルをいれる説もみたことあるけど、もしかして、受験のお勉強としてのスタディが本命なんじゃないかなとかたまに頭をかすめる。もしくはスクールとかね。
(苦行=スタディで洗脳し、苦行=スタディに耐え続けるために娯楽で快楽を感じる。
この娯楽も洗脳用ばかり。
二重の洗脳


しかし生まれたあとにする洗脳なんてまだかわいいもので、フェビアン協会、ハクスリーが1930年代に発表した「すばらしい新世界」の物語の中では、、庶民層は生まれてくる前の受精卵とかの段階で劣化させられちゃうんだよねー。怖いー。

え?生まれてくる前の受精卵の段階で?そ、それってもしかしてこのふくいち事故による放射能おせ
・・・((((;゚Д゚))))

Lia misaki∞ ‏@lia_misaki 2012年1月27日
そもそも一般的に宗教やスピリチュアルこそが一番の洗脳の手段として使われる。日本では、もちろん3Sと、学校の4S(娯楽ではないが、強烈)が一番の洗脳手段だが。合わせて5Sか(笑)これでほとんどの人々は完全にノックアウト>アセンションに関する嘘の8割を見抜け @lia_misaki

じじばば ‏@dedetyan 2014年10月17日
キリスト教の「主」は貧しい家庭で生まれ、弟子に裏切られ罪人として磔の刑で33歳で死す。一方仏教の「主は」王家の王子という出自。80歳のとき弟子達に囲まれて大往生。伝統的な宗教の「主」の最後が真逆だ。キリストの死はヒステリックでブッタの死は牧歌的。宗教の誕生に大きな違いを見る。

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月9日
大帝の慧眼に感動したのでRT。神智学というバラモン教が仏教を破壊。 https://twitter.com/FeydoTaitei/status/608307730064015360 …
フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 6月9日
@FeydoTaitei いいか?今から大事な事言うぞ? 仏教の教義を抜いた修行法 =ただのバラモン教

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 6月9日
ついに恐れていた事が! 前から原始仏教カルトに気をつけろと 言っただろ? 奴ら仏教を本気で乗っ取るぞ。 pic.twitter.com/Er3FuBZK8k
(『グーグルのマインドフルネス革命―グーグル社員5万人の「10人に1人」が実践する最先端のプラクティス(付録:マインドフルネス実践ガイドCD)』(サンガ編集部)
の画像)

サンガジャパンってのはスマナサーラ の本を出しまくってる出版社な。 元々は純粋な上座仏教の普及組織 だったはずなんだが…… このグーグルの宣伝本は要注意の 箇所が一箇所ある。

「マインドフルネスは宗教要素を 抜いた瞑想メソッドです」 って所な。 知らん人に説明しとくとマインドフルネス ってのは上座仏教のヴィパッサナー瞑想 という瞑想法の事。 釈迦が菩提樹の下で実践してたって 言われてるやつな。

この瞑想法自体は危険でも何でもない。 問題はグーグルが「宗教要素を抜いた」 事にある 「宗教要素」というのは要は 「仏教の教義」の事なんだが、 簡単に言うと「道徳/倫理」の事で 本来はこれが重要な箇所でどんな 修行も道徳とセットじゃなければ 意味がない


いいか?今から大事な事言うぞ? 仏教の教義を抜いた修行法 =ただのバラモン教

グーグルのやり方の汚い所は 禅仏教に嵌ってたスティーブ ジョブズ を出汁にしてジョブズ ワナビーの ビジネスマンやサラリーマンを 取り込もうとしてる所だ。 そもそも仏教の教えを厳密に 守ってたら企業活動なんて出来ない。 金に執着してはいけないから。

更に問題なのは、そもそも企業と 関係無いはずの上座仏教普及団体 にすぎなかったサンガジャパンが グーグルを担ぎ上げてる所だ。

実はテーラワーダの瞑想会とかには 良く通ってた経験がある。 グーグルがマインドフルネスとか 持ち上げる前だ。 別にカルトでも何でもなかったし、 お布施とかも自由意志だったから お金を出したくない人は出さなくても 何も言われないし、勧誘も してこない。

パーリ語や倶舎論の勉強会とか もあったので、普通に仏教好きの サークルみたいな感じ。 ただ、気になったのが来てる連中に S学会の脱会組が多かった
事だ。


中には本当にS学会に嫌気が刺して 脱会した人もいるのだろうけど、 フェイド大帝は思ったね。 「こりゃ、乗っ取りに来てるな」、と。

まぁ、グーグルがバックに付いてる事から 分かると思うが、イルミちゃんの 戦略の一環だ。 究極的な目的はバラモン教の普及だ。 マヌ法典の歪んだカースト制度を バリバリ盛り込んだやつをな!

ただ、いきなり素のバラモン教を 持ってきたら、マトモな人間は 怪しむだろ? だから同じインド系の仏教から 徐々にインド思想に染めてこようと してるわけだ。

当然バラモン教を否定した仏教思想を 「抜いてる」わけだから、本命の バラモン教を注入するなんてわけない。

聖書にも書いてあるだろ? 「後から来る者が一番多くを得る」
って。 キリスト教とイスラーム教の 後にやって来る宗教は何か?って 話だ。

奴らニューエイジ時代にチベット仏教 で一回失敗してるから、次に 持って来るのはまさか上座仏教では? と恐れていたが…… この有り様だ……‼︎

イエス風に言わせて貰えば、 「前もって言っておく。騙されるなよ」

もう二つ重要な事を付け加えておく 一つはグーグルの陰に隠れてよく 見えないが、マインドフルネスというのは ハーバードとMITがバックアップしてる つまり奴らは本気って事だ
笑うなよ?お前ら東大の御用学者 ごときにコロッと騙されてたのを 忘れたか?

セシウムまみれの安売りされた 福島産の桃を美味しそうに 頬張ってたそこの貴方だ! 東大レベルでこの有り様なのだから 天下のハーバードやMITが本腰 入れたら、お前らはコロッといく。 嘘じゃない。

二つ目は上座仏教の欠陥についてだ。 仏教ってのは出家僧はぶっちゃけ ニートだ。 在家信者が養い続けなければ成り立たない。 仏教では他人から貰った物以外は 飲み食いしてはいけないという決まりが あるからだ。

つまり、全員が出家したら仏教団体は 自滅する様に構造上出来てる。 (まぁ、これが本来の狙いなのかも しれないが。世は無常ってわけか?) グーグルにとって全従業員が出家したら 会社が潰れるだろ?w

ところが日本で上座仏教の団体と 言うと複数あるが、出家制度を 導入してるのは一つしかない。 (フェイド大帝が知る限り) 昔の天台宗の歴史とか見れば 分かるが、宗教団体の黎明期と 言うのはまず坊主を増やさない 事にはどうにもならない。

そりゃ布教もそうだが、教えを 説明する奴も必要だし、教えを 実際に実践してるモデルがいるからだ。 在家信者の憧れとなる人物が。 そうでなければ信者なんか 増えやしない。

だが、イルミが必要としてるのは 仏教の坊主やバラモンの仙人ではない。 最下層で奴隷で搾取の対象の シュードラが奴らは欲しいんだ!

だからマインドフルネスをやって グーグルのマネージャーに私は出家して プロの坊さんになるんで会社辞めますわ〜 という事にはならない。 そういう風にアレはハナから作られてる


魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 6月9日
@FeydoTaitei 大帝こんばんわ~。この宗教要素を抜いた技法のみの普及で宗教を破壊する気満々ですね。神智学が上座部仏教に取り憑いて破壊しようとしてるかも?

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう@lakudagoya2015年11月13日
ねこねこブログ見てる。大帝の過去ログが乗ってるのだけど、上座部仏教の勉強会の創価学会の元信者ねぇ。組織を乗っ取りに来る場合さ、自分は創価学会を「脱会」しましたとか、自分はフリーメイソンの「メンバーじゃない」と主張して自分だけは違うという感じで入り込むの、工作員の常套手段だよ?

あとね、組織の内情を漏らす場合でも現在進行形の事を「過去にはそうだったけど、今はそうではない」とか他のも複数パターンで内情をはぐらかす手法がどこぞの本に紹介されてたなぁ?彼らの組織への献身は本物だぞ?そうだな、奥田愛基君がしばき隊やアベチョンと蜜月なよーに結束力が硬いのさ?

おいらのフォロワーにもさ、相当な数の「集団ストーカー被害者」と「創価学会」の脱会者がいるようだ。おっと、組織を乗っ取りに来る場合は「組織から逃げてきました」とか「狙われてます」主張して敵対側に入り込むのはいつだってやつらの常套手段なんだぜ?ファンタジーファンをナメんなよ!あ?


菊池 ‏@kikuchi_8 8 分
ねこたさんがおっしゃるように「カルトや結社から抜けた」という設定で陰謀追及者を安心させた上で主導権を握って言説を誘導したり、カルトや結社を批判して見せて陰謀追及者を信用させて陰謀論コミュニティに潜り込み、相互の対立を煽ったり、内部攪乱させる、という工作が確かにあるように見える

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月9日
@FeydoTaitei 大帝こんばんわ~。この宗教要素を抜いた技法のみの普及で宗教を破壊する気満々ですね。神智学が上座部仏教に取り憑いて破壊しようとしてるかも?

菊池 ‏@kikuchi_8 9月
横文字デモにはヒッピー文化信奉者やロッカーくずれなどが多いようだが、対抗文化人脈だったら当然と言える。対抗文化とニューエイジは密接な関係にあるから周辺にオカルティストがいるのも不思議ではない。おそらく「サイケデリック革命の父」ことティモシー・リアリーの思想的影響が強いと思われる。

ティモシー・リアリーを調べると、ヒッピー・ニューエイジ・ロックンロール・ドラッグ文化がすべて相互に関係しているのがクリアに見えた。ジョン・レノン がティモシー・リアリーのために曲を作っている。サヨクの好きな「ラブ&ピース」はマルクス主義よりこの辺がネタ元である。西洋神秘主義
の流れ。

ティモシー・リアリーはスマイル・メッセージという妙な文章を残している。ニューエイジそのものの内容だが、「全ての生命体が故郷への帰還しなければなら ない」という事を言っている。一つの「始原」に収斂させようとする志向性は新プラトン主義以来の西洋神秘思想の系譜を引いている事がよく分かる。

ティモシー・リアリーの初のLSD投与で見た幻覚→「光だけでできた生命の中心で神と出会い、永遠の炎に包まれて完全な宇宙のドラマを眺める」プロティノスの神秘体験とそっくりだ。神秘体験≒幻覚。【自己啓発の歴史(2) サイケデリックの発見】http://www.tachibana-akira.com/2013/02/5560

(松窪 努 ‏@Federicopanini
@kikuchi_8 同じカウンターカルチャーになるんでしょうがカルロス・カスタネダの「ドン・ファン」シリーズでも同じことが書かれていますね。同じように、仏教の無量光の元の意味ではと推測するのですが…。

菊池 ‏@kikuchi_8 4 時間4 時間前
@Federicopanini なるほど、ご教示ありがとうございます。「神秘体験」というのは大体全世界共通していますね。「光が見えた」とか。具象的に見える幻覚は文化依存的だと思います。天使だとか悪魔とか、聖霊、菩薩、等々。。

松窪 努 ‏@Federicopanini 4 時間4 時間前
@kikuchi_8 具体的な幻覚は文化依存的というのはすごい的確で、ハッとしました。その意味では薬物に頼る人に止観が出来るものか半信半疑なのです。ドン・ファンは内的対話を止めろ。というのですが禅宗と全く同じですね。

菊池 ‏@kikuchi_8 4 時間4 時間前
@Federicopanini 恐縮ですm(_ _)m薬物によって幻覚を見たり、知覚を拡大させることは、本来の仏教の目指す所と真逆だと思います。感官と対象の接触から生じる感受に執着する所から「苦」が生じる、という観察ですので、知覚の拡大は逆に執着の念を強める結果になると思います。

松窪 努 ‏@Federicopanini 4 時間4 時間前
@kikuchi_8 その通りだと思います。私は雑念が多いのでとても止観の境地には入れないのですが、ましてやこれ(自分)に薬物を投入して果たして無量光が観れるのかと自分で思います。LSDで観たものと止観で観たものは別かもしれませんね。幻覚と想念を遮断した視覚です。

菊池 ‏@kikuchi_8 4 時間4 時間前
@Federicopanini リアリーらは「薬物で幻覚見た」只それだけの事ですからね。止観行で言う「観」=ヴィパッサナーの方を「マインドフルネス」と称し欧米の多国籍企業が幹部教育に取り入れているとか。彼ら何にでも憑依しますね。詳しく調べていないですが捻じ曲げている可能性大です。

松窪 努 ‏@Federicopanini 4 時間4 時間前
@kikuchi_8 ヴィパッサナー瞑想、マインドフルネス瞑想。調べてみました。面白いですね。(申し訳ありません、知らないというのもお恥ずかしい話しです)私は原始的な文字通り思考や想念を切り離した視覚(直接知覚)という意味で使いました。仏教でも変質しているようです。

菊池 ‏@kikuchi_8 4 時間4 時間前
@Federicopanini はい、当然ながら薬物投与で見た幻覚と通常の知覚は異なると思います。幻覚はサイケデリックという模様に表現されていますね。とんでもないです、私も詳しくは知らないのですが、知覚されたありのままを観察する行のようです。天台宗で止観行を重んじるようです。

松窪 努 ‏@Federicopanini 3 時間3 時間前
@kikuchi_8 ドン・ファンは捏造の人物説もあるのですが、観ることには力が必要でそれには「無駄な消耗をさけて力をできるだけ貯めること。」だそうで、瞑想術ではないようですね。力があれば観れるようになるもののようです。

菊池 ‏@kikuchi_8 3 時間3 時間前
@Federicopanini なるほど。知覚には認識対象だけではなく人間の脳や感官も関わっているので、人間という認識主体の側の力のよってある程度知覚を操作できる技術がある、というのは分かる気がします。

松窪 努 ‏@Federicopanini 3 時間3 時間前
@kikuchi_8 私たち現代人は日夜煩悶することが多く禅病人のようです。そこに瞑想法や薬物はミスリードのような気がします。「真実へは技術ではなく力で到達する。」のが実は近道なのかもしれませんね。カウンターの仕掛人は隠してるのかもしれません。

菊池 ‏@kikuchi_8 3 時間3 時間前
@Federicopanini なるほど。江戸時代の白隠禅師が若い時に禅病にかかって死にかけた事があるそうです。神経衰弱のような症状だったようでまさに現代人の病と同じ種類かも知れません。明治の「煩悶青年」というのも近代病患者だと思います。分別し過ぎると病気になりますからね。>力

松窪 努 ‏@Federicopanini 3 時間3 時間前
@kikuchi_8 たぶん近代化とともに脳の使い方をどこかで間違えたんだと思います。言語が大変影響していると思います。言語以前へ戻す。たぶん消耗を減らす方法のひとつだろうとおもいます。禅には禅病を治す瞑想法があって馬鹿馬鹿しい話です(笑)

菊池 ‏@kikuchi_8 3 時間3 時間前
@Federicopanini 白幽仙人という仙人から白隠禅師が禅病を治す技術を習った、みたいな伝説がありますね。仙人というからには道教の技法のように思います。言語は世界を分節化して、分節化されて認識に現れた「事物」に執着させる働きがありますからね。おっしゃる通りだと思います。

松窪 努 ‏@Federicopanini 3 時間3 時間前
@kikuchi_8 日本の禅宗の座禅もティモシー・リアリーという人の薬物による瞑想もなんだか似た構造のような気がします。止観はそもそも認識しない知覚を目指すのに禅宗もリアリーも認識の領域や解釈に明け暮れている

菊池 ‏@kikuchi_8 3 時間3 時間前
@Federicopanini なるほど。禅宗は「無念無想」の境地を目指すそうなので、基本的にそういう幻覚の類は「魔境」として排斥すると思います。臨済系と曹洞系でまた違うのかもしれません。「想=イメージ」を立てて瞑想する点では密教と西洋の瞑想法が類似点多いと聞きました。

松窪 努 ‏@Federicopanini 2 時間2 時間前
@kikuchi_8 密教は脳内認識構造を変化させて人を苦しみから救う部分があって対処療法ですね。そのためにイメージを沢山使います。西欧も似ているのでしょう。またそのイメージを利用する中で西欧ではオカルトが産まれ東洋にはオカルトは根付き難かった。というところでしょうか?

菊池 ‏@kikuchi_8 2 時間2 時間前
@Federicopanini なるほど。曼荼羅とかの図像イメージを積極的に使うのはその為なのですね。西洋のオカルト魔術は自然界や他人に意志を強制して思い通りにする事が目的なのに対し、東洋のそういった技法は基本的に心や人格を磨く事が目的の場合が多いようです。

松窪 努 ‏@Federicopanini 2 時間2 時間前
@kikuchi_8 たぶん原始仏教や初期の止観の目指す根本療法が認識されていたために方便にすぎないイメージ操作は一段低いと東洋では考えていたのでしょう。呪詛が現実に効果があることも知っていたのですが高い部分では夢中になることはなかった。のではないかと

菊池 ‏@kikuchi_8 2 時間2 時間前
@Federicopanini なるほど。仏教では基本的に「想=表象作用」と「受=感受作用」「識=(主に言語による)識別作用」を迷いの根本にしているから、イメージ=想を使った技法を副次的なものにとどめたのでしょうね。魔術的なものもしかりですね。

竹田義男 ‏@take35c 16 時間16 時間前
@kikuchi_8 テモシー・リアリー→オルダス・ハクスリー→フェビアン協会。優生思想http://blog.goo.ne.jp/happysupport/e/95d46b8283da71c32b5d72a775e08c63 … wiki↓
pic.twitter.com/JyNKo2Zwop

菊池 ‏@kikuchi_8 5 時間5 時間前
@take35c 情報を感謝です。オルダス・ハクスリーはティモシー・リアリーに大きな影響を与えたようですね。マルクス主義ではなくフェビアン主義系の社会主義ならば神秘主義に近いですね。リアリーは「進化した選ばれた人間だけが宇宙に進出できる」みたいな優生学的な思想を唱えていますね。)

オルダス・ハクスリーやティモシー・リアリーがフェビアン協会系ならその影響下にあるカウンター・カルチャーはフェビアン協会系の思想運動という事にな る。神智学協会二代目会長のアニー・ベサントもフェビアン主義者。オカルト含むカウンター・カルチャー系の左翼運動=フェビアン主義系の左翼運動。

西洋神秘主義の傾向性は一言で言うと「異常体験志向」であろう。平常からかけ離れた意識状態に固執する。ティモシー・リアリーはLSDを導入するに至っ た。これを視覚化したものが所謂「サイケデリック」。CIAがMKウルトラ計画でLSDを使用。薬物中毒者を量産するだけの洗脳科学に過ぎない

西洋思想史の基本的構図は「キリスト教会VS秘教勢力」だが、近代になり科学合理主義が台頭する中でキリスト教会の力が相対的に低下。「秘教」という前近 代的なオカルトも危機に直面するが、近代社会の中で逆に科学的装いを取り入れて生き残る。これが神智学→ニューエイジという近代オカルトの流れ。

対抗文化は最近調べただけ。が、世界が関係性の網で成り立っている以上、全く孤立した現象というのはあり得ず、必ず原因や条件、起源や由来、履歴がある。 それを注意深く手繰り寄せる事で現象が解明される。当たり前の話だが常にその事を意識していれば新規の事象に面食らう事も少なくなる筈と考える。

ニューエイジが胡散臭いのは「個の自由」を強調しながら、個別具体性を超えて「魂の故郷への帰還」の様に一つの根源的実体を立ててそこに収斂させようとす る所。「一者」との合一を目指す新プラトン主義と基本的に同じ構図。ニューエイジは「自由」の掛け声と共にワンワールドに誘導する思想である。


はい、ワンワールド誘導→ティモシー・リアリー「君たちの惑星の生命体はすべてひとつ
であり、そのすべてが故郷へ帰還しなくてはならない。完全な自由、責 任と種を超越した調和が、故郷への帰還を可能にするだろう。種族や文化、国籍によっている幼生的アイデンティティーは超越しなくてはならない。」

一つの根源に収斂させる新プラトン主義的世界観、神智学の霊性進化論、優生学的思想、千年王国的ユートピア論、宇宙人、等々ニューエイジの諸要素が詰め込まれたティモシー・リアリーの文章。【謎のSMI2LE(スマイル)メッセージ全文】http://www.asyura2.com/2002/bd20/msg/635.html

キリスト教という「抑圧」→ニューエイジによる「自由」の高唱→「一つ」に収斂するNWO。おなじみ「正・反・合」の弁証法的展開である。ニューエイジな どが「対抗文化」と言われるのは「キリスト教文化への対抗文化」を意味する。つまり最初から耶蘇と両建対立する事が予定された思想潮流という事。

西洋文化の根本がキリスト教なので。キリスト教から離れた「西洋」は基本的にないと思われる。教会と対立する秘教ですらキリスト教の範疇。ニューエイジは世俗化されたキリスト教神秘主義
、と言えるかもしれない。https://twitter.com/klSV7pulcS0nNux/status/642373119974371329 …

ほつま(Hotsuma) ‏@hotsuma 2012年12月30日
大田俊寛先生 @t_ota "オウム事件の反省を明確にしないまま、「ニューエイジ思想」や「スピリチュアリズム」といったものを肯定的に語り、それを社会に広めていくことが宗教学の役割なのだと言っている研究者さえ少なくありません。" B! http://synodos.livedoor.biz/archives/1929261.html …

中尾 綾 ‏@ayajet128 6月21日
T. リアリーの友人にオルダス・ハクスリー、ジョン・レノンがいる。彼はGive Peace A Chance の歌詞にでてくる。ワンワールドのための反戦ソングかな?イマジンも。本当のプロテストソングになってないんじゃないの? https://twitter.com/lakudagoya/status/612586866785693696 …
帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月23日
まーなんかな、ティモシー・リアリーの間接的な繋がりネタ、陰謀コミュでは勘違いされるけど、ぶっちゃけ、ネットで知り合った外人のサークル仲間にリアリーがいただけ。直接的な面識はない。その当時はまさかこいつが陰謀人脈とか想像できなかったぞ?(笑)

竹田義男 ‏@take35c 6月22日
@ayajet128 オルダス・ハクスリー→https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%80%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC … 「水瓶座の陰謀」の中心人物達をつかまえて、何を仰ってますやら。

竹田義男 ‏@take35c 6月22日
@ayajet128 究極の革命の項を… 20%の暗示にかかり易い人と、その反対の20%の暗示にかかり難い人と、程々に暗示にかかる大勢の人達、という事で社会のコントロールを考えていたり、幻覚剤の多幸感が民衆のコントロールに役立つのでは、という様な事を言っていたり、危ない人。

風の子  ‏@makeanovel 6月23日
今見えてきたNWOの人口や人民の管理を、この時代にすでに書いてますもんね。広報だったということですかね。試験管で生まれるのが普通の社会で、間違って母親の胎内から生まれてしまったのは恥ずかしいという認識の未来を描いてるとか。。  @take35c @onigiri3_

先ほどK・ディックとコナンドイルについて書きましたが、ハクスリーも神秘主義研究に傾倒して、精神科医にハクスリー自らが幻覚剤のモルモットとなることを申し出、1953年春、幻覚剤のメスカリンによる実験が開始されたとありますね。。  @take35c @onigiri3_

竹田義男 ‏@take35c 6月23日
@ayajet128 @makeanovel @onigiri3_ イエズス会やメロン家との関わりに注意→テモシー・リアリーhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%A2%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC …

風の子  ‏@makeanovel 6月23日
「ニューロマンサー」のウィリアム・ギブスンを、サイバーパンク作家に転向させたのが、 このティモシー・リアリー氏なんですね。麻薬の幻覚による可能性を訴え続け投獄もされ、晩年はコンピュータの可能性。で、ギブスンか。  @take35c @ayajet128 @onigiri3_

個人的には「素晴らしい新世界」のハクスリーがオーウェルのイートン校での恩師のみならず、このティモシー・リリーという人を通じてウィリアム・ギブスンにまで繋がってることが驚きです。なんかみんな身内~みたいな?  @take35c @ayajet128 @onigiri3_

中尾 綾 ‏@ayajet128 6月23日
@take35c @makeanovel @onigiri3_ アレン・ギンスバーグはポール・マッカートニーとコラボしてるし。もうなくなったけど。オノ・ヨーコもドラッグ肯定派だし。親戚が国連大使だったから。ラブ&ピースはビジネス。愛よりビジネスが大事とインタビューで言ってたし。

風の子  ‏@makeanovel 6月23日
ティモシー・リアリーが麻薬所持で最高裁で有罪判決がでたとき、ジョン・レノンが応援ソングとか作って、ここも繋がってるんですねえ。なんだかもうお腹いっぱい・・・。  @ayajet128 @take35c @onigiri3_

表舞台にいる人はみんな誰か同じ存在の管轄するナニカに所属する同じチームっていうのもよくわかった感じですね。みんなほのめかし要員。。  RT @onigiri3_ @ayajet128 @take35c どんだけはりめぐらされた壮大な仕掛けなんだっていう。。。

かあこ ‏@0nigiri_3_ 6月23日
@ayajet128 @take35c @makeanovel ヨーコの母方の曾祖父が旧安田財閥(現芙蓉グループ)なんですね。http://www.fuyou-fc.jp/about/index04.html …

風の子  ‏@makeanovel 6月23日
ちょっと前までオノ・ヨーコが財閥のお嬢様だっていうのも知らなかったですよ。わたし・・・。しかし世の中そんなのばっかで自分が世間知らずだったとも思うけど、隠してる(というか特に言わないことがそうなってる)のもなーと。 @onigiri3_ @ayajet128 @take35c

かあこ ‏@0nigiri_3_ 6月23日
@makeanovel @ayajet128 @take35c だから、ねこたさんがtwしてるような世の中では絶対的な秘密のようなネットワークで強くむすばれてるって話も納得できますよね。

風の子  ‏@makeanovel 6月23日
ほんとですね。結社の儀式とか、嘘くさいし大げさなって庶民は思ったりしてますけど、命がけの結束で守ってきたかった、莫大な利権とかがあったんですよ。庶民がそういうの笑ってる影であちら側の人はそれを秘密に死守してきた。 @onigiri3_ @ayajet128 @take35c

風の子  ‏@makeanovel 6月23日
誰かの出自を調べるのは下品ってことになったり、僻みだととられる風潮を作って、特権階級だけが利権を独占してきたのを意図して隠蔽してきたんですねえ。 @onigiri3_ @ayajet128 @take35c

かあこ ‏@0nigiri_3_ 6月23日
@makeanovel @ayajet128 @take35c そうそう。またそれを逆手にとって差別されてるから虐げられてる詐欺みたいな手法もありますもんね。

中尾 綾 ‏@ayajet128 6月23日
@makeanovel @take35c @onigiri3_ ハクスリーの短編小説に神童というのがあって。天才が現れても親がその素質に気づかなければ子供は不幸になる、という考えがあるみたい。だから天才は天才によって見いだされ、育てるべきという考えのようです。

風の子  ‏@makeanovel 6月23日
ハクスリー自身、名門の生まれで特権階級ですが、そういう特権意識や優生学を否定しないし、むしろそれが正しいっていう考え方、さらにそれを広報する役目を負っていた人っていう感じですねえ。  @ayajet128 @take35c @onigiri3_

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月21日
ああ「覚醒」ね、1970年代のアメリカ西海岸とかのニューエイジャーがLSDとか飲んでトリップしてたアレか?ティモシー・リアリーの本みたいなやつ?覚醒したら陰謀論なんていらないなら陰謀論やらければいいんでね?覚醒したやつの書いた本なんて、俺シャブ中の日記にしか見えんのだが?www

寺尾淳 ‏@junterao 6月19日
反省。ちゃんと系統立てて並べないといけませんね。オルダス・ハックスレー「知覚の扉」→ドアーズ→ティモシー・リアリーの「意識革命」→LSD→サイケデリック・アート→コミューン(ヒッピー・ムーブメント)。ウィリアム・バロウズやアンリ・ミショーなどは別立てで「独自の闘い」。

中尾 綾 ‏@ayajet128 1月7日
@kikuchi_8 ティモシー・リアリーは亡命を求めてスイスに渡ったとき、サンド社の研究員で1943年にLSDを発見したアルベルト・ホフマンと出会う。コールマンの本ではリアリーとオルダス・ハクスリーが友人とか?アドルノは父がユダヤ系だがプロテスタントの洗礼。息子にはカトリック。

菊池 ‏@kikuchi_8 1月7日
@ayajet128 アドルノは父親がプロテスタントに改宗した猶太人で、母親がカトリックだそうです。

裕福な家柄のようです。学生時代から音楽評論を手掛けたりなど、英才教育を受けるだけの家柄的な基盤がありそうですね。啓蒙主義にひそむ暴力性を批判しながら、自らは洗脳科学の研究に取り組むなど、言動に矛盾があって、ものすごく「国際秘密力的」な人物像を感じます


菊池 ‏@kikuchi_8 1月7日
@ayajet128 サンド社とティモシー・リアリーの繋がりですね。リアリーとオルダス・ハクスリーが協力関係であったことがダニエル・エスチューリンの本にも載っていました。ハクスリーは民衆が思考能力を奪われて定期的に投与される薬物で奴隷状態にされる「新世界秩序」を描いていますね

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月13日
俺、魔道師マニアだからさ、スピ雑誌の「Star People」の刊行本リスト見てその中に西洋秘教伝統の翻訳本が紛れ込んでないか探してりゅ。うーん、何でこんなにも中身のないスピ本が溢れてるんでしょーね?超森林資源の無駄遣いだよね?地球に優しいとか言ってるスピ、全然優しくないだろ!

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月13日
この「ピュア禅」とかさ、見てくれよ?神智学(スピ)が禅に取り憑いた好例のようなもんだろ?http://www.amazon.co.jp/%E3%83%94%E3%83%A5%E3%82%A2%E7%A6%85%E2%80%95%E6%82%9F%E3%82%8A%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%82%88%E3%81%8F%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%A6%85%E5%83%A7%E5%88%97%E4%BC%9D-%E8%A6%9A%E9%86%92%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E7%8C%AA%E5%B4%8E-%E7%9B%B4%E9%81%93/dp/4864510830?ie=UTF8&redirect=true …禅って神秘体験を否定してるのに、スピっちゃったらいけないだろ?wwwスピ系ってまるで創価学会みたいにあらゆる宗教に入りこんで操ってるよな

およ?「Star People」の刊行本リスト読んでたら、この著者の人http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E2%80%95%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AE%E8%A8%98%E6%86%B6%E3%81%AE%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8%E3%81%AB%E8%A1%8C%E3%81%8F%E6%96%B9%E6%B3%95%E2%80%95-%E3%81%AF%E3%82%8B%E3%81%B2%E3%81%AA%E3%81%9F/dp/4864510121?ie=UTF8&redirect=true …龍馬伝でタロット指導やったとか書いてあったお。ふーんマスゴミ業界の悪の魔道師の痕跡発見だな!いやーアチラ側の動向がわかって面白いですね~(笑)

この「Star People」という雑誌さ、古神道やらの神道カルトも食い込んでるよ?大本教が如何にスピリチュアルの輸入商社だったか、その背後がさくっとわかるよ?(笑)http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AB%E2%80%95%E6%99%82%E7%A9%BA%E3%81%AE%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%81%BF%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%97%E3%80%81%E5%AE%87%E5%AE%99%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%82%92%E3%81%B2%E3%82%89%E3%81%8F%E6%82%9F%E3%82%8A%E7%B3%BB%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3-Vol-46-StarPeople-2013-Autumn/dp/4864510903?ie=UTF8&redirect=true …


フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 6月13日
@lakudagoya あの雑誌はどちらかというと アメリカの最新スピ団体の カタログ本みたいなもんで、 次に日本に何が輸入されるか予想 するために使ってますw スピ業界の競馬予想雑誌みたいな 位置づけですw

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 6月13日
@lakudagoya ちなみに「今現在、日本で何が 流行ってるか?」を調べるためには Anemoneという雑誌を使いますw

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月13日
@FeydoTaitei どうも大帝。スピ業界の競馬予想雑誌ですか(笑)たしかにスピ系のカタログ本って感じですよね。自分的にはスピよりもカバラーとか西洋秘教伝統本がもっと増えて欲しいです!

 ぴりお堂 ‏@1108v1011v1110 2012年10月29日
パンとサーカス(羅: panem et circenses)は、詩人ユウェナリスが古代ローマ社会の世相を揶揄して詩篇中で使用した表現。権力者から無償で与えられる「パン=食糧」と「サーカス=娯楽」によってローマ市民が政治的盲目に置かれていることを指摘した。ガス抜きや愚民政策の例え

仏女・仏教をたたえる天才・偉人bot ‏@genius_200 10月30日
ゴータマ・ブッダは、神秘主義者ではまったくなく、透徹した合理主義者であった。 (宮元啓一) 仏教は神秘的ではないんだ。

仏女・仏教をたたえる天才・偉人bot ‏@genius_200 3 時間3 時間前
自分は昔からこれまで、このような素晴らしい教えを聞いたことがなかった。 (仏教を日本に受け入れた 欽明天皇) (われ昔よりこのかた未だかつてかくの如き微妙(くわ)しき法を聞くことをえず) それから1500年間日本は仏教国!

STB ‏@RC_StB 6月24日
日本会議が如何に低能か 薩摩長州の芋侍が出てきて、廃仏毀釈をやらかし、そいつらの生き残りが「日本は保守の国」と嘘を付き続けている して、これを見よ
「天皇、仏法を信じ、神道を尊ぶ」(用命紀)
「仏法を尊び、神道を軽んず」(孝徳紀)
大日本帝国は日本史上稀な伝統破壊者
だぞ(笑)

とう tou 透 ‏@tou_itter 2013年10月17日
神道メモ: 日本書紀より、「天皇、仏法を信じ、神道を尊ぶ」

これは用命天皇(在位585~587)の条で、仏教が伝来して後、仏教(仏法)と区別して古来の信仰を神道と呼ぶようになったと考えられる。

菊池 ‏@kikuchi_8 10月21日
仏教は「無常」を説くが「世界全体は常住か無常か」という命題には「無記」の態度を取った。では仏教は何について無常を説いたのか?五感と思考で捉える経験世界(眼耳鼻舌身意・色声香味触法=十二処)について無常と説いたのである。断定は飽く迄経験的に確かめうる範囲に限定する徹底した経験主義

ohira taishi ‏@kalitandava 11月5日
@kikuchi_8 @siegrinde それはゴータマはそこまでしかまだ意識がなかったからだ。

菊池 ‏@kikuchi_8 11月5日
@kalitandava それ自体形而上学に踏み込んでおり、特に根拠がない話です。「意識が拡張すれば高次の世界が見える」と神秘主義者は言いますが、その「高次の世界」が幻覚でないという保証はないわけです。

@kalitandava また「高次の世界」が見えると自称する人が通常人より、道徳的で立派かというとそうとは限りません。むしろ傲慢で他人を見下し、排他独善的態度を取る事も多いと思います(ひどいのになると救世主を気取ったりもする)。

菊池 ‏@kikuchi_8
仏陀が無記の態度を示したのはツイッターに巣食うカルト工作員を見れば明らかと思う。つまり、根拠提示も証明作業も無い独善的カルト教義をまき散らし、憎 しみを増長して無益な争いに終始する「修羅道」に堕ちたカルト工作員の姿。思想の自由が謳歌されていた古代印度も似たような状況だったのだろう

@aoyamaakiko3 其々が個別であることと、「空」である点で同じである事が同時に成り立ちます。つまり、現象的には個別ですが、原理的には同じ。だから敢えて「一つにする」必要は全く無い、諸法皆空なのだから、となります。個別性と同一性が同時に成り立ちます。華厳で言う「事事無礙」

@aoyamaakiko3 一方、NWO思想は「それぞれが実体として独存している」という前提があるからこそ、「一つにしよう」という衝動が生まれてくるんだと思います。でも華厳哲学の考えによれば「個別はそのままで空=理事無礙」となるので「一つにしよう」という衝動は生まれません

菊池 ‏@kikuchi_8
神智学協会二代目会長アニー・ベサントがフェビアン主義者だったようにフェビアン主義と神智学やオカルトは近い関係にある。フェビアン主義とはソ連型共産主義とは系統が違う英国フェビアン協会の社会主義思想の事。それにしてもここまでものの見事だとは。オキュパイウォールストリートも彼らが背後。

トロツキー主義的共産革命に挫折した新左翼の中から超古代史やオカルトに傾倒する流れが出て、一部は大本教に合流した。この辺のオカルト左翼人脈はごく少 数の勢力だろうが、国際秘密力がアニー・ベサントのようなフェビアン主義的オカルト勢力を育成しようとする場合その界隈に着目する可能性はある。

FREEDOMMUNEの概念=意識の拡張、らしい。音楽やレーザー(ピラミッド)を駆使した「イニシエーション」で、変性意識状態に誘導するという事だ ろうか。非日常的意識状態を到達目標とする点でプロティノス以来の神秘主義の「伝統」を引き継いでいる。思想的パターンは早々新造はできない。

神秘主義の特徴
①なんらかの非日常的な意識状態をもって到達目標とする
②そのためには自我なり魂と、何らかの究極に実在(「一者」「宇宙意識」)などとの 「合一」を強調する
③その意識状態に到達する為の何らかの儀式・イニシエーションが設定される(これは狭義の儀式に限らず音楽ライブ
等も含む)

ドミューンという団体主宰者がインタビューで述べるコンセプトを読んだが、神秘主義のパターンに全て当てはまっていると判断する。①意識の拡張を目指す② 集合意識や宇宙意識を設定③意識を拡張させ「自由意識」に到達する為のイニシエーションの設定。ポップなスタイルだが西洋神秘主義の伝統に忠実。

西洋の神秘主義の流れがサブカルチャーという装いでかなり浸透していると思われる。その証拠に本来は既存文化への「対抗文化」のはずが、「普通の人」の文 化扱いになっている。ここに日本独特の問題がある。つまり元々キリスト教社会ではない日本には西洋神秘主義が侵入しやすい。大本教や鞍馬寺が例。

日本の思想国防上の課題は現地の伝統に組み付いて換骨奪胎して侵入を図ってくる西洋神秘主義の基本的思想フレームを明確に把握し、日本の伝統思想との違い を明確に認識し、伝統思想やポップな文化の装いで入り込んでくる思想ウィルスを見抜いて摘出する事であろう。これは明治から一貫した課題である。

例として仏教と神秘主義の相違点を挙げる。仏教に置いては意識外に設定される究極実在と合一
する、という思想パターンではなく、あくまで現実の心を調整 し、貪欲や瞋恚などの強い負の情念を自制し取り除く、という事に重点が置かれる。縁起=無実体=空が基本であり、従って究極実在は設定されない。

伝統思想と神秘主義を見分ける際の一つの指標になるのが、この「実体」「究極の実在」を想定するか否か
という点。仏教に限らず日本の伝統的霊魂観では魂が 増減する=気の固まり、みたいな非実体的イメージで捉えられている。支那の現象主義=気一元論と相性がよい。禅=神秘主義とした鈴木大拙は誤り

日本の伝統思想とキリスト教の違いは一見明らかだが、神秘主義との違いは結構詰めて検証しないと見えにくい。だからキリスト教徒は人口の1%に満たないの に、神秘主義はかなり広範囲に影響している。もっともキリスト教・一神教と神秘主義は究極実在を設定する同根の思想。偽装を施して一神教も侵入。

「神秘主義はかなり広範囲に影響している」と書いたが具体例を挙げる。浄土真宗僧侶
藤無染が神智学の影響を受け折口信夫に影響、鈴木大拙が禅を神秘主義扱 いしスウェーデンボルグを紹介、同じくボルグに影響を受けた出口王仁三郎の教義がスピ界隈に広く浸透、歴史ある鞍馬寺が神智学に宗旨替え、等。

ポップカルチャーを装い浸透してくる神秘主義という視点は今まで希薄だったが、事情は前述のものと全く同じだと言える。表層に囚われず、思想的な基本的骨 組を抽出して分析すれば基本的パターンの組み合わせで成り立っているのが分かる。仏教が人間を「五蘊」に分解して分析した手法は結構有効である。

ドミューンは、視聴者参加型の音楽ライブや各種トークセッションという日常的「イニシエーション」(「イニシエーション」というのは主催者インタビューよ り)を通じ、「対抗文化」の信奉者を量産するシステム、と言った所だろうか。これはネット時代に合わせたかなり巧妙なシステムである。侮れない。

このような「イニシエーション」洗脳システムを作るとは結社側も工夫していると見える。今までこのようなシステムが存在すること自体を知らなかったのは実 に不覚だった。が、存在に気付けば三日程で仕組みが大体分かった(笑)装いは新しいが伝統的なメーソンシステムの大衆的アレンジ、と言えそうだ。

菊池 ‏@kikuchi_8
「意識が拡張すれば高次の世界が見える」と神秘主義者は言いますが、その「高次の世界」が幻覚でないという保証はないわけです。
また「高次の世界」が見えると自称する人が通常人より、道徳的で立派かというとそうとは限りません。むしろ傲慢で他人を見下し、排他独善的態度を取る事も多いと思います(ひどいのになると救世主を気取ったりもする)



小森健太朗 ‏@komorikentarou 2月27日
長谷川説、古代ギリシア語の「ロゴス」と、サンスクリット語の「ダルマ」が、かなり似通った意味になるというのは、私も自著でふれたことがある。しかし『ヨハネ福音書』冒頭の「ロゴス、神」が、「ダルマ」に等値されるというのは、間をよほど埋めないかぎりトンデモ説だよな。
(典型的なインド思想破壊工作。「ロゴス=言語や理性」が「ダルマ=言葉や理性で『ないものも含む』法」なわけないでしょ。ダルマが最上位、ロゴス=神が最上位、よって神=ゴッドが最上位って持っていきたいんでしょ。人格がある時点で根源でも最上位でもないよ


臨済録:その3 〔示衆〕10-6 岩波臨済録 p.96~97
http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/rinzairoku3.html
” 道流、出家児は且(しばら)く学道を要す。祇だ山僧の如きは、往日曽(か)って毘尼(びに)の中に向かいて心を留(と)め、亦た曽って経論を尋討(じんとう)す。

後、方に是れ済世の薬、表顕の説なることを知って、遂に乃ち一時に抛却して、即ち道を訪い禅に参ず。後、大善知識に遇いて、方乃(はじめ)て道眼分明にして、始めて天下の老和尚を識得して其の邪正を知る

是れ娘生下(じょうしょうげ)にして便ち会するにあらず、還って是れ体究練磨して、一朝に自ら省(しょう)す

道流、汝如法(にょほう)に見解せんと欲得(ほっ)すれば、但だ人惑を受くること莫れ。裏に向かい外に向って、逢著(ほうじゃく)すれば便ち殺せ。仏に逢(お)うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん)に逢うては親眷(しんけん)を殺して、始めて解脱を得、物と拘わらず、透脱自在なり

注:

毘尼(びに):梵語ヴィナヤ(毘奈耶)の略で、戒律のこと。

大善知識:臨済の師黄檗希運を指す。
   
現代語訳
お前達、出家はともかく修行が肝要だ。わしの場合、最初の内は戒律の研究をしたり、経典を色々読み漁ったものだよ。しかし、そのようなことは世間の病を治す薬や広告の文句のようなものだと分かった。そこで、全てを投げ打って、禅の道に参じたのだ。
後で、大善知識(黄檗希運禅師)に遇って、始めて悟りの眼がはっきり開き、天下の老和尚どもの悟りが本物かどうかを判別できるようになった。この能力は生まれつき会得したものではない。体究練磨を重ねた結果、ある時はっと悟って目覚めたのだ。

お前達、真正の見地を得ようと思ったら、他人に惑わされては駄目だ。

内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢えば羅漢を殺し、父母に逢えば父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺せ。

そうして始めて解脱することができ、何者にも束縛されず、突き抜けたように自由に生きることできる
のだ。

コメント
この示衆の冒頭で臨済は

「禅では修行が肝要だ」と「修行の重要性」を説いている。

その後、自身の求道の旅を語っているのが注目される。

彼は最初戒律や経典などを色々研究した。しかし、そのようなことは世間の病を治す薬や広告の文句のようなものだと自分の誤りに気付いた。そこで、彼は全てを投げ打って、禅の道に入ったのである。
そこで大善知識である黄檗希運禅師に遇って、始めて悟りの眼がはっきり開き、天下の老和尚どもの悟りが本物かどうかを判別できるようになる。この能力は生まれつき会得したものではない。刻苦修行した結果、ある時はっと悟って目覚めたのだと半生を回顧している。

示衆の後半部で臨済が言う

「仏に逢(お)うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん)に逢うては親眷(しんけん)を殺して、始めて解脱を得」

と言う言葉が特に有名である。

臨済が「お前達、真正の見地を得ようと思ったら、他人に惑わされては駄目だ」と言うように他人に惑わされないためには、祖仏、父母、親眷などあらゆる権威を否定し(殺し)無依独立の道を行かねばならない

そうして始めて解脱することができ、何者にも束縛されず、突き抜けたように自由に生きることできる。

このように空、無相の自己に帰依することが<真正の見地>だと言っている。

これは仏教の教祖ゴータマ・ブッダが説いた<自帰依>の精神に近いと言えるかも知れない(原始仏教を参照)。

キリスト教やイスラム教などの一神教は神への絶対帰依を説く。一般的にほとんどの宗教では教祖や神を絶対的存在として帰依崇拝する。

教祖や神を批判したり、自分と同じレベルで論ずることはゆるされない。

たとえばイスラム教において開祖ムハンマドを批判したりすると死刑宣言が出ることからも分かる。ところが禅では臨済以来そのような束縛を脱している。

ゴータマブッダ以来の伝統を引き継ぐ反骨と人間主体の精神を持つ自由な宗教であることが分かる(原始
仏教を参照)。

これと似た思想は雲門宗の開祖雲門文偃にもあったようだ。「碧巌録」16則の評唱には次ぎのようなことが述べられている。

雪竇云く「釈迦老子、初め生まれ来たりて、一手は天を指し、一手は地を指して、四方を見回して云く『天上天下唯我独尊』と。雲門云く、「我当時もし会わば、一棒に打殺(うちのめ)し、狗子(いぬ)に与えて喫却(くらわ)しめ、貴(ひとえ)に天下の大平を要(もと)めん」と。

雲門は仏教の開祖釈迦に会ったら「一棒のもとに打殺(うちのめ)し、狗子(いぬ)に与えて喫却(くらわ)しめ、貴(ひとえ)に天下の大平を要(もと)めん」と宗教者とは思えない過激な言葉を吐いているのである。

仏教では祖仏は神に相当する神格的存在である。それを否定することは他の宗教ではありえない。

その意味で、このような権威否定の自由な批判精神は宗教においては珍しい
。眼を見張るほど新鮮である。

科学者は真理発見の過程において権威を否定しそれを乗越えることはしばしばある。そのような創造的精神に通じると言えるだろう。

これは仏教の教祖ゴータマ・ブッダが説いた<自帰依>の精神の禅的表現と言えかも知れない。

この有名な言葉は示衆5-1に見える

仏に逢(お)うては仏に説き、祖に逢うては祖に説き、羅漢に逢うては羅漢に説き、餓鬼に逢うては餓鬼に説く」

という言葉の否定形
になっている。

示衆5-1に見えるこの言葉は臨済の何物にも縛られない自由な<悟りの境地>を表わしている。

そのような<悟りの境地>をも否定し、更にのり超えることを言っているとも取れる。

このように、禅には一般宗教の常識を突き抜けたところが見られる。 ”

Aurora Del Monte ‏@MonteAurora 10月6日
逢佛殺佛。逢祖殺祖。逢羅漢殺羅漢。逢父母殺父母。逢親眷殺親眷。始得解脱。 仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷を殺せ。始めて解脱を得ん。 (『臨済録』示衆)

吉田直樹 naoki yoshida ‏@tensinkai 10月26日
「仏に逢うては仏を殺せ」(臨済) 禅宗の教えです。 仏は利用してもいいが、仏にすがらず、自分の力を使いなさい。 「仏だと言って出てきたら、ソイツは偽者だから消しなさい。頼るべきものを自分以外に持つな」という意味です。 セルフ整体というのも、同じ意味です。丈夫になる最短経路ですね。

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 5月9日
創造神プタハは言葉と思惟により世界を創造した。ヌッポンの売国奴精神を注入されたなんちゃって哲人政治教育を受けたエリートはによって創造された腐った世界に住まわせられる俺ら。そうだ、バラモン教の聖仙(リシ)が言うように、この世界は神の観念でできてるマーヤーなセカイなんだな。

(マンダ教のプタヒルの元ネタかも


他の教義の無我 誤った見解である無我の考え方
http://space.geocities.jp/tammashart/kami/muga-3.html

本居宣長のキリスト教と親和性が高い思想を改悪した
平田篤胤の神道=和風キリスト教。
神道=和風に偽装する隠れキリシタンが名乗る宗教


ふぎさやか ‏@maomaoshitai
平田篤胤はアダムとイヴの神話は、日本のイザナミとイザナギの神話が西洋に伝わったものだと考えていました。どんだけ日本中心なんですかあの人。

平田篤胤は色々な地域によく見ると似たタイプの神話や伝説があることには気がついていたのですけど「どれも日本の神話が海外に間違って伝わったものなのだろう」と解釈しています。日本中心主義が前提なんですこの人。

本居宣長も平田篤胤も宗教の話になるといきなり本性が出ます。「日本中心に物事を考えすぎではないか、中国やインドにも神話はある」というような反論は当時からもうあるのですけどね。それに対して「各国の神話は雑多で間違いがあるが、日本の神話は正しい」の一点張り
になります。

南北朝時代に北畠親房という人がいたのですけどね。彼が書いた『神皇正統記』という著作は、前書きで「中国やインドの伝説では最初の国王は人望のある人間が民から選ばれているけど、それに対して日本の皇室は神により選ばれて今でも続いている、偉大だね」と自画自賛しています。

『神皇正統記』はあくまで各国の神話を比較し、日本の特徴を明らかにした程度なのですけどね。後代の本居宣長や平田篤胤になってくると、更に一歩進み「中国やインドの神話は間違いで、真実は日本の神話なんだよ」という領域に到達します #正に国学
平田篤胤は本当に酷く、中国やインドの神話やキリスト教などは「日本神話の訛り(日本神話の一部が誤って伝わったもの)」と解釈します。世界各国に似た内容の神話がある秘密は、全て日本から派生した同根の神話だからというわけです。ここが彼の学者としての限界であったとしか言いようがありません。

平田篤胤は「世界の神話が日本起源である以上は、もちろん文字なども日本は中国から学んだわけではなく、元から日本独自の文字があったはずだ」と考えるのですけどね。その中で「神代文字」という怪しげなものに行き着きます(当時は国学者の間で既にはやっており、篤胤が考えたわけではありません)


国学者の一部は当初から「日本中心に物事を考え過ぎでは」という批判があったのですけどね。本居宣長などは「日本人なんだから、日本中心に物事を考えるのは当然。そもそも日本はこれほど素晴らしい国で・・・」と2chとかでいそうな反論をしています。

そもそも平田篤胤は最初からちょっとおかしい人でしてね。本居宣長の息子に「私は夢で本居宣長に会い、弟子にしてもらいました」という怪文書を送っています。彼は本居宣長から実際に学んだことは一度もありません、ただ彼の生前の著作を取り寄せて読み込んでいただけです。

じゃあ私も夢の中で平田篤胤の弟子にしてもらったので、平田篤胤の直弟子を名乗りますよ!

宗教家や武術家の世界では時たま「霊夢」の話があります。夢で××の弟子にしてもらった、秘術を学んだと言い出して正統性を主張するやり口です。日本の宗教家でも夢で聖徳太子や熊野権現に会ったとかいう伝説を持つ人がいますよね。これもその教祖の正統性を演出しようとしたものでしょう。

平田篤胤の弟子という肩書で右翼のフィクサーになりたいです。

本居春庭(本居宣長の息子)も、生前に父と全く交友がなかった謎の男から「私は夢の中であなたの父親の弟子にしてもらいました」などという怪文書が送られて来たら怖かっただろうなとは思います。平田篤胤は現代で言えば妄想をこじらせた熱狂的なファンみたいなものです。

孔子も「最近は夢の中で古代の聖人と語り合うことが減った」とか言っていますけどね。あれは夢で古代の聖人と交信していたという神秘現象ではなく、強く焦がれている人が夢に出てくるという普通の話
だと思っています。孔子もあまり深くそれについて掘り下げていませんし。

fukuebisu ‏@fukuebisu_tao 1月16日
『道教と日本思想』福永光司著‥Ⅲ 天皇と真人 p122最後に先ほど「天皇と真人」の日本古代史における問題を裏付ける第1点の中で保留しました、中国古代神道について少し説明を補いたいと思います。神道というと何か日本の専売特許のように考えられている方が多いと思いますが、それは認識不足
→ 最後に、先ほど「天皇と真人」の日本古代史における問題を裏付ける第1点の中で保留しました、中国古代神道について少し説明を補いたいと思います。神道というと、何か日本の専売特許のように考えられている方が多いと思いますが、それは認識不足です。→
→ 神道を日本の専売特許のように強調したのは、江戸末期の平田篤胤です。
→篤胤という人は、中国古代の神道について実によく研究している。その目的は先に申しました記紀の神代の巻における日本の神道をもっと深く学問的に研究したいということでスタートしたものだと思います。→
→ところが、8世紀の段階で、文字化された記紀の内容を文字を媒介にして学問的に研究しようということになれば、どうしても中国のもとのものを学ばなければ研究にならないわけです。→
→ その点、さすが篤胤は、実に勢力的な勉強をして、長崎に船が着くと中国の神道に関する書物(主として緯書類)を高い金で買って、その喜びを自著の中に書き記している。例えば各種の緯書を輯(あつ)めて校定した明の学者孫瑴の『古微書』を手に入れ→
→(*篤胤が明の学者孫瑴の『古微書』を手に入れ)たときの喜びを記しているのがそれですし、また緯書の『春秋命暦序』などに詳しい注釈も書いている。彼の主著の一つである『古史徴』などを見ましてもその努力がよくうかがわれます。→
→ しかし、篤胤の神道についての結論は逆立ちしている。日本の神道が中国に行ったというのが彼の結論なんです。→
→ もともと日本の古代で、神道という言葉が初めて使われているのは、『日本書紀』の用明紀と孝徳紀です。用明紀には「天皇、仏法を信じて神道をも尊ぶ、」とあり、孝徳紀には「天皇、仏法を信じて神道を軽んず」とあります。→
→ 一方は「神道を重んず」で、一方は「軽んず」と逆になっていますが、いずれにしても日本で神道という言葉が使われ始めるのは、『日本書紀』あたりからだろうと思います。西暦8世紀の前半頃ですね。→
→ ところが中国の古代では神道という言葉は、西暦4世紀ないし3世紀頃から使われているわけです。それは『易経』の観の卦の彖伝(かのたんでん)に「天の神道に見て四時忒(たが)わず、聖人は神道を以って教えを設けて天下服す」
という文章として出ております。→
→ 『易経』の中ですから基本的には儒教の考え方ですが、宗教的な色彩が全くないわけではありません。 と言いますのは、儒教もまた、すでに申しましたように、天皇大帝と同格とされる昊天上帝の祭りを礼典のなかに載せているのですから。→
→ また今引いた『易経』の文章の「神道」にしても、すぐその上に「盥(てあら)いて薦(すす)めず」とあり、神を祭る者の敬虔な気持ちと関連づけられて説かれていますから、宗教的な世界と関わりを持つと言えます。→
→そして『易経』のこの神道という言葉は、(*紀元)前1世紀、漢代になると、死者を葬った墓に通ずる道路の意味にも使われるようになります。→
→ さらにまた2世紀、後漢の時代になりますと、呪術宗教的な世界の真理もしくは道術を意味するようになり、『太平経』の中にも多く用いられている神道の語が大体それです。→
→そして、この神道という言葉と関連して、「晴明」などという日本の神道で重視される言葉もその中に用いられていることは先ほど申しました
。→
p125→ ようするに、天皇、真人、そういったものを含む超越的、宗教的な世界の真理を意味する神道という言葉が中国に古くから成立していて、その神道という言葉が『日本書紀』の執筆者たちによって取り入れられ、→
→(*天皇、真人、そういったものを含む超越的、宗教的な世界の真理を意味する神道という言葉が中国に古くから成立していて) やがてこの神道がまた日本の仏教以前の古代呪術、宗教、信仰を一括する言葉として重視され、次第に意味付けが行われてゆくのです。→
→ しかし、その日本の神道学が、文献的な拠り所とする『古事記』、『日本書紀』の記述そのものが、すでに神話伝説の成文化の段階で大きく中国古代の宗教思想(神道)の影響を受けている
わけです。→

日本固有の習俗信仰の上に、中国的なものがまぶされているという事実は、それからあと奈良、平安、鎌倉、室町と展開する日本の神道の教義書というものを見ても明らかなのですが、その本格的な研究はまだほとんど行われておりません。→
→ それを研究するためには、まず中国古代の神道(道教)をその宗教哲学とともに教理形成の思想史に関しても本格的に研究しなければなりませんが、それもまだ緒についたばかりだというのが現状
です。

(そりゃあ「神道」は日本オリジナルなんて嘘だと証明する研究は妨害されるだろうしなあ。戦前だし

益田啓一郎 ‏@mapfan7 2011年4月27日
福岡県出身の先哲には魅力的な人物がキラ星のごとくいる。学習研究社(学研)の創業者・古岡秀人もすばらしい。人間模様も魅力的(五木寛之の父と古岡の父は親友同士等々)、小学館、主婦の友社を経て独立、「科学と学習」ルーツは福岡にある!

xtra heavy ‏@xtraheavy 9月12日
学研は皇族資本って聞いたことがあるけどな…。>「筑豊炭田の監督の息子」「父は五木寛之の父と友人同士」>古岡秀人 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%B2%A1%E7%A7%80%E4%BA%BA … >RT小学館

PS ‏@shogakukan_ps 2010年4月20日
【小学館社史より】1935(昭和10)年~38(昭和10)年5月30日の比較的短期間ではあったが在職し、その後、主婦之友社や保険会社、商事会社を経て、46(昭和21)年に学習研究社(学研)を興したのが古岡秀人である。戦後の小学館にとって大きな脅威となる。(「小学館の80年」より)

学研の創業者である古岡秀人は小学館で働いていました。
父は五木寛之の父と友人同士で、その関係から五木は古岡を「おやじさん」と呼び習わしていたそうです。
1935年に小学館へ入社し、オーガ相賀武夫のもとで働きます。
1946年に学習研究社を創業します。

相賀は、仏教の中で一神教にかなり近い日蓮宗。
学研の『~の本』シリーズで『日蓮の本』が出ているのは、相賀ファミリー意識かも。
本記事は『禅の本』。

相賀武夫[おうが たけお] は小学館および集英社の創業者
。別名、相賀祥宏。長男は小学館第2代社長の相賀徹夫。孫は小学館第3代社長の相賀昌宏=徹夫の長男。
1926年には、小学館から娯楽誌出版部門を分離独立させ、集英社を設立。
1929年から病床生活を余儀なくされ、夫婦で日蓮宗に帰依)

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 56分56分前
電子書籍、便利だと思うけど。 アメリカとかkindle版の ラインナップ豊富だし、 マニアックな本とか、絶版本とかも 手に入るし。 日本だとラインナップがクソ 過ぎてどうしようもない。

アウグスティヌスとか、アクィナス みたいなやたらと巻数が多くて 嵩張るヤツとか電子書籍化して くれると助かるのだが…… 後、仏教の大蔵経とか、 日本史の国史大系とかね。 多分ジョブズの本にも書いてある 通り、日本の出版印刷業界の 支配者に知恵遅れが多いんだろう。

仏教のお経とか結構文庫化 されてないやつとかあるからね。 華厳経とか池袋のジュンク堂 本店ぐらいでしか置いてあるの 見た事ないぞ。 しかも大蔵経シリーズだから クソ高い。

電子書籍の良いところは kindleアプリを使えば、スマホ でも読める所だ。 これの何が良いかというと 会社みたいなやたらと拘束 時間が長くて、国民に知識を 身につけさせない愚民化させる 様な強制収容所でも本が自然に 読めてしまう事だ。

これの何が有効かというと、 例えば経営学者の様なアカデミック な連中にとっては時代遅れの、 クリステンセンの「イノベーション のジレンマ」みたいなジョブズが 唯一読んだ経営学書とかも堂々と 職場で読める様になる。

大学でしか働いた事の無い 学者連中には分からないかも しれないが、サラリーマンの 知的水準なんて本当に悲惨な 状況で、競馬新聞を通勤中に 読むだけで精一杯みたいな 危機的状況なんだ。 当然古臭いポーターの「競争の 戦略」とかも読んでるはずがない。

結構、日本人のサラリーマン とかでも良い年したオッサン がやたらと漢字が書けなかったり、 読めない人も多い。 ワープロソフトの進歩で 昔程、漢字を覚える必要が なくなったのは分かるけど、 ドイツ人社員や帰国子女よりも 読めないのは問題だと思うぞ。

また日本語以外の本が楽々と 読める所も素晴らしい。 英語以外の言語もね。 データだから納期も直ぐだから 民間強制収容所に拘束されてて 郵便屋が不在で持って帰っちゃう 事もないしね。

和訳が絶対なされないだろう 英語本も安くゲット出来るのも 嬉しい。 アメリカの弓を使った狩猟 マニュアルとか、銃器の 教科書とか、ライフル戦術の 教本とか、所謂日本政府が 絶対に国民に読んで欲しくない 類いの本ねw

コレにプラスして最大の特徴が 自費出版本の取り扱いね。 例えば前君達に紹介した 純丘教授のメイソン本は ネットの記事が削除されて しまっているw 今だとkindle版しか残ってない。 (まぁ、コレも削除リスクは あるのだけど)

要は相賀に検閲されるのと、 ジェフ・ベゾスに検閲されるのと どっちがマシかという事だ。

範馬勇次郎の所で漫画家デビュー しても、三角目玉ばかり描かされる のは気が滅入るだろ? アーチストならば。

@knagasaki 個人の好みによっても 異なると思いますが、私はkindle の方が読みやすいと思います。 電子インクの特徴なのかも しれませんが、液晶より ずっと文字がクッキリ見える と感じています。

日本史の子供向け漫画。 受験対策にも使われてる。
集英社: 相賀家オーナー
小学館: 相賀家オーナー、大高忍、 浦沢直樹等のイルミ漫画家多し
学研: 小学館の元社員が創業。 ムーとかもココ

刃牙の勇次郎(オーガ)の元ネタって 小学館の相賀だろ
。 pic.twitter.com/orWwynDxlB

仏教国教時代を無視したい勢力
=金光教と大本教
=鬼結社+和風キリスト教。
鬼とヤタガラスって単なる和風キリスト教じゃないのかな


desuperado ‏@desupehannari 8月9日
九鬼一って、九鬼一族かいな?九鬼っつーのは、京都綾部っすわw大本教とか見てる人はみんな知ってるおねw綾部w

U ‏@wayofthewind 2月3日
「鬼」は異邦人を指すこともあるので、マイノリティと一体化している大本教やサンカでは、差別しないように持ち上げるんですよね。 半島と仲のいいカプコンは、主役が鬼に変身する「鬼武者」なんてゲームまで出しています。 ラスボスが信長に憑依した幻魔(笑)@etketketketke

菊池 ‏@kikuchi_8 12月11日
鞍馬寺が神智学に影響を受けたルートは神智学協会アリス・ベイリー派→三浦関造→鞍馬寺貫主信楽香雲。大江山の霊媒集団(大江山鬼の交流博物館のHP上の資料を参照した。大江山の鬼・酒呑童子とは仏教勢力に追われた渡来系の鉱山民の首領ではと推測した。)→大本教。王仁三郎「わしは仏教を滅ぼす」)

小学館、集英社、白泉社、… 講談社以外のこのメジャー出版社 群は一つのオーナー一族が経営している。 相賀家だ。 特に二代目の経歴は興味深い。 ちなみにこれらの出版社、株式上場 していない。つまり客観的な経営等 行われているはずもない。

つまり大半の子供達は「相賀教」 に知らずのうちに洗脳されている わけだ。 ちなみに相賀は出版物の内容に 細かく介入することで有名である。

大高忍、鳥山明、藤子不二雄、 荒木飛呂彦、三浦健太郎、美内すずえ、 ……… これらの漫画家は皆「相賀軍」に 属している
わけである。


長い記事をお読みくださり誠にありがたく存じます!

斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう! 

 禅ではスピリチュアル(=インド風キリスト教)思想は魔境かつ執着なので悪だとしています!
目の前に神や仏や宇宙人が現れて、自分だけが選ばれたと救世主気分におぼれたり、宇宙霊と合体して天にも昇る素晴らしい心地がしたと感激する、などは魔境であり、悟りの邪魔であるから、とらわれたりこだわってはならないと、禅ではいましめています。つまり神や仏や宇宙人や宇宙霊や選民思想が現れても、相手にせず受け流し、軽くかわさないといけません。
瞑想だけじゃ悟れないし、ひたすら座禅だけ組んでも駄目だし、いきなり言葉を否定しても駄目だし、考えることも大事だとしている
のが禅です。
禅宗含め、仏教は虚無論ではありません。このような誤解や曲解を予想して、先回りしてちゃんと否定しているのが仏教哲学です。
禅に限らず、心の平安と執着からの解放が仏教の目的なのだから、愛などの執着を善だと主張する時点で偽物です。

愛(=執着)は善なのがキリスト教で、
愛(=執着)は悪なのが仏教
です。

禅で禁欲と自省と道徳を養うことが修行で必須とされるのは、魔境により生じる選民思想を防ぐためです。
野狐禅(=危険な邪禅)をすすめるスピ詐欺師が多いので注意!
スピリチュアル、神智学、ニューエイジなどのインド風キリスト教は、本来のインド思想、特に仏教思想を破壊するために支配層が盛んに布教活動をしている思想です。
支配層が仏教思想の中で特に破壊したいのは、論理的思考を重視する姿勢と、一神教と新プラトン主義を完全否定する無記と空と無常と縁起の思想です。
だから、紐付き陰謀論者がキリスト教と神道カルト(大本教系)だらけで、工作員でない(可能性が高い)陰謀論者の思想が仏教寄りであることが多いのです。
天皇家が欧米に留学し、ミッション系の学校へ通い、ティアラを正装とするくせに「神道」なのは彼らにとっての「神道」が和風に偽装したキリスト教だからです。
「陰謀論」や「陰謀論者」を「狂人」という意味でレッテル張りしてくる工作員がいるのですが、調べれば出る情報をもとに考えているのだから、「比較陰謀学者」や、「比較陰謀論学者」や、「”陽”謀論者」や、「真相追及者」と呼んでほしいですね。

禅の詳しい記事は次回にして、今回は、「キリスト教思想で都合よく改悪されていない本物の」チベット密教についてです。
論理と言葉を軽視あるいは否定する、チベットチベットうるさいスピリチュアル(=インド風の新キリスト教)信者に、チベット密教は論理的思考重視でありスピリチュアルを否定していることを示す以下の証拠↓を食らわせたら、迷惑な酔っぱらい(スピ信者)のごく一部はしらふに戻るでしょう。
信者が「自分」だと思っているものは実は欲とカルトの教義であり、それを自我と信じ込んでいるだけです。


“仏教論理学(因明[いんみょう])と認識論に関しても、チベット仏教の伝統は、実に高度な論議を蓄積してきました。「比丘や諸々の賢者たちよ。金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊 敬のゆえに受け入れてはならない」。これは、チベットのラマたちがよく引用する聖句です。お釈迦様は弟子たちに――あたかも金の純度を確かめるがごとく ――自らよく考えて教えの中身を吟味し、その後で初めて教えを信奉するように強く戒めています。チベット仏教では、こうしたお釈迦様の精神を受け継ぎ、盲信や実践至上主義を排し、明快な論理による思考を重視しています。”
p.20、斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社

“「視覚ではなく意識で、しかも次第に直感的に……」というのが、第一のポイントです。
第二のポイントは、「向こうから現われるのではなく、こちらから向こうへ置く」ということです。瞑想の中で、「自分の意思とは関係なく、本尊などが向こうから突然出現した」というような神秘体験は――何らかの印や徴候と認められるケースも稀にあるでしょうが――多くの場合、修行者の妄執が生み出した幻覚にすぎません。それゆえ、実践の正しい拠りどころとして、ほとんど信頼できません。また、実際にそうした幻覚が現われなくても、あたかもそうであるかのごとく瞑想することは、間違った方向へ心を慣らすばかりなので、いくら実践しても望ましい成果を期待できません。そうした突然の神秘体験に執着せず、あらかじめ自分の意思で「こういうふうに瞑想しよう」と計画を立て、それに従って意識の力で本尊の姿を認識対象として確立し、それを繰り返し瞑想して習熟することが肝要です。
では、信頼できない神秘体験と正しい瞑想の成果を区別する基準は何かといえば、「その瞑想に十分習熟したとき、いつでも意のままに同じ内容を再現できるか否か」という点です。もちろん最初からは無理ですが、本当に瞑想に熟達した密教行者なら、複雑な曼荼羅を――どんな大きさにでも――瞬時に再現できるといいます。「こちらから向こうへ置く」という感覚で瞑想するからこそ、習熟すれば自在に再現可能となるのです。”
p.92-93、斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社

“仏教の修行というものはすべて、お釈迦様を信じて拠りどころとしなければ成立しえません。この点で、仏教は、決して単なる人生訓や思想哲学や瞑想テクニックではないのです。
  しかし、「理屈抜きにただ信じる」というわけではない点で、他の多くの宗教とは趣を異にしているといえるでしょう。第二章で引用したお釈迦様の言葉を思い 出してください。「比丘や諸々の賢者たちよ、金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊敬のゆえに受 け入れてはならない……」。“p.192斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社

“知恵者らよ、自性が空という空性の意味は、縁起の意味である。しかし、功用が空(効果的作用がない)という非存在の意味ではない
p.54、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/クンチョック・シタル/齋藤保高 共著『チベットの般若心経』春秋社

“植物は、有情の中に含まれない。仏教では、植物は生命体であると認めるが、心を有しているとは考えない。したがって、植物が輪廻転生することはあり得ない。植物は、色の範疇に属し、無生物とともに宇宙全体を構成する環境的な要素(器世間 [きせけん])と位置づけられる。”
p.73、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/クンチョック・シタル/齋藤保高 共著『チベットの般若心経』春秋社

勝義諦すなわち空性を体得するためには、まず言葉によって概念的に理解するしかない。 我々は、この点を肝に銘じておく必要がある。具体的には、最初に教えをよく聴聞し、次にその論拠を徹底的に考察し、それらを通じて概念的に確立された空性理解をもとに、止と観の修習を重ねることが肝要だ。もし、「勝義諦は言説を超越した次元なので、概念的に理解しようとしても無駄だ」などと誤解し、聞・ 思・修の過程を軽んじてひたすら禅定を重ねたとしても、有暇具足の貴重な人生を無駄にするばかりで、一向に空性を体得することはできない。そうした実践至上主義を厳しく戒めるため、あえて「邪な妄分別によって悪道(三悪趣)へ赴く」という強い表現を用いた、そのチャンドラキールティの密意をよく汲み取るべ きだろう。”
p.57、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/クンチョック・シタル/齋藤保高 共著『チベットの般若心経』春秋社




斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社
※本書はチベット仏教の内、ツォンカパ大師が開いたゲルク派(新カダム派)の教えに基づいています。

・チベット仏教の伝統では、あらゆる不幸の根源を、自己愛着という唯一つのことに集約して考える。
自己愛着の正体とは、自分自身や自分の所有物、自分の側に属するものごとに対し、執着、欲望、過度の期待を抱くこと。

・自己嫌悪の根底にも自己愛着がある。自分に対する過度の期待と現実の自分とのギャップが広がって自力では手が負えないと感じるようになったとき、自己嫌悪に陥ってしまう。

・「幸せを実現すること」と「自己愛着を満足させること」を混同してしまうのが問題。幸せを求めて努力しているつもりなのに、実はあらゆる不幸の根源にほかならない自己愛着を増長させるためひたすらエネルギーを注ぎ続けている……。
自己愛着を満足させるために貪りや怒りなどの煩悩を起こし、それによって自己中心的な行動を積み重ねていくパターンになりがち。
自己愛着を断ち切る最も強力・確実な方法とは、他者に対する大きな慈悲の心を育むこと。

(「幸せにならないといけない教」に注意。幸せは義務ではありません。幸福論は面白くないんですよね。実は不幸論のほうが面白いし、幸福論よりも役立つ幸福を得るヒントを教えてくれたりします


・チベット仏教は、インド仏教の本流を直接に受け継いでいる。チベットはヒマラヤ山脈をはさんでインドと隣接しているので、師僧を招いたり留学僧を送ることが頻繁に行われていた。
チベット仏教が規範として仰いできたインド仏教は、残念ながら十三世紀の初頭に滅びてしまった。当時の総本山、東インドのヴィクラマシーラ寺がイスラム教徒の襲撃で破壊されたとき、最後の大座主シャーキャシュリーバドラは、難を逃れてチベットの地へ赴き、インド仏教が守り抜いてきた法灯を残らず伝え、チベットの僧侶たちに後事をすべて託した。

“仏教論理学(因明[いんみょう])と認識論に関しても、チベット仏教の伝統は、実に高度な論議を蓄積してきました。「比丘や諸々の賢者たちよ。金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊敬のゆえに受け入れてはならない」。これは、チベットのラマたちがよく引用する聖句です。お釈迦様は弟子たちに――あたかも金の純度を確かめるがごとく――自らよく考えて教えの中身を吟味し、その後で初めて教えを信奉するように強く戒めています。チベット仏教では、こうしたお釈迦様の精神を受け継ぎ、盲信や実践至上主義を排し、明快な論理による思考を重視しています。”p.20
スピ信者って偽物が大好きだから、本物のチベット仏教の勉強をしないんだろうね

・中観帰謬論証(ちゅうがんきびゅうろんしょう)派では、実体性を欠如しつつ単に存在する「私」を「単なる私」と表現する。
「単なる私」とは堅固な実体性を欠如した状態で輪廻転生する主体


・諸煩悩をすべて根こそぎ断ち切り、
その後に残った負の影響=所知障(しょちしょう)
も滅し尽くしたとき、悪い要素のひとかけらもない仏陀の境地が実現する。

我執=実体視の習慣。
空性=実体性の否定。
煩悩の根源にあるのは空性に対する無知であり、あらゆるものを実体視する習慣。
空性は仏教の究極的な真理であり、あらゆる存在に関して「それをそれたらしめている本質的なもの」を徹底的に追及していったとき、そのような実体性は何一つ得られない

チベット仏教の伝統教学における最終結論、つまり中観帰謬論証派の立場では、
空性とはあらゆる存在(一切法)に実体性が全くない、ということ。
実体はないが存在はしている。
実体性を欠如した状態で存在していることを、「単なる存在」とか「単なる私」
という。
中観帰謬論証派の特色は、実体性の否定と、単なる存在の肯定とを明確に区別し、両方とも徹底させる点。実体性であればどんな微細なものも見逃さず、すべて完全に否定します。もし、わずかでも否定しきれず残ってしまえば、空性理解は不完全なものとなり、覚りを得ることはできない。
逆に、単なる存在を少しでも否定してしまえば、虚無論に陥り、覚りを得られないどことか、大変な悪業を積む結果になりかねません。なぜなら、哲学的な虚無論を発展させれば、事物の効果的作用を否定し、因果関係を否定し、善悪の区別も否定するところまで行きつくからです。
否定すべきものと肯定すべきものを明確に分け、否定すべきものを否定しきれない実体視の誤りと、
肯定すべきものを
否定してしまう虚無論の誤りという、
この二つの誤りを完全に排除した後に残るのが「中道」というありかた。
つまり、本当の中道とは、決して中途半端で曖昧な状態ではありません。例えば、「この本に、実体はほとんどないけれど、多少はある」とか、
「この本は、あるともいえないし、ないともいえない」というふうに、否定すべきものと肯定すべきものを区別せず、安易に中途半端な存在感を設定してしまうことを指して、ツォンカパ大師は「矛盾ばかり述べて、中観の意味など少しも説いていない」と厳しく批判しています。
空であり実体がないからそれらに対して慈悲を起こすのは無意味だ、というのは重大な間違い

仏教以外の多くの宗教で主張している創造神とか、バラモン教やヒンドゥー教の哲学で個々の人格の上に設定している真我(アートマン)などは、最も粗い実体性の例。
そうした粗い実体性は、仏教哲学の全学派が、揃って否定している。
宇宙を創造した神の存在、あるいは創造された人間に宿っている永遠不滅の本質など、そうした粗い実体性を一切認めないのが、仏教の思想哲学の大きな特徴。
逆にいうと、もしそれらを承認してしまえば、もはや仏教思想とはいえなくなる。
密教の根本的な本尊である持金剛仏や大日如来などを、そうした創造神であるかのように位置づける見方もありますが、少なくともチベット仏教の伝統教学からすれば、それは完全に間違っている。
粗大な実体性の否定に関しては、このように、仏教哲学の全学派が一致
している。

・仏教用語で「自性」とか「自相」(それ自体の側にある、それをそれたらしめている本質的なもの)と表現されている微細な実体性。
人間は生まれつきの習慣として自然に実体視してしまう。本当は全く存在しない自性や自相を「存在する」と誤って把握している。
その実体する意識のことを「我執」
という。
自性や自相はまったく存在しない、という真理が空性であり、それを無自性や無我とも表現されます。そのとき、「Xの実体がない」という、そのXが人間や生き物であれば「人無我」、それ以外のあらゆる存在であれば、「法無我」という。

単なる存在が他の何かに依存する形で成立する形で成立していることを「縁起」という。
実体性を欠如した単なる存在は縁起という形でしか成立しえない。
他の何かに依存するという場合、三つの意味を想定できる。
①原因や条件に依存
②部分に依存
③概念と結びつけて仮に設定
これら三つの意味を通じて、縁起として成立しているがゆえに実体性が否定されること、逆に実体性がないからこそ縁起というあり方になるという、その両者の相互関係。縁起によって空性を理解し、空性によって縁起を理解する
というのが、中観帰謬論証派の哲学の最も絶妙な部分。
本尊にも実体はない。
空性という究極真理も実体視してはいけない。
「この本の空性」をテーマに実体性の追求を行なった場合、結論は「“この本の空性”の空性」という結論になる。
空性の空であることをいつも忘れないようにしなければならない。

(いいですか、「実体」は否定しても「存在」は否定していませんからね。仏教を無神論や虚無主義だとわざと曲解して叩く工作員の「藁人形論法=わざと相手の主張を叩き易いように加工してから叩く」に注意ですよ。
支配層は仏教の「空」と「縁起」が支配に向かず、カルト化を防ぐ思想なので大嫌い。
ツイッターを見てると、「空=神」と主張して布教している悪質な輩がいます。


 子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 33 分33 分前
新キリスト教陣営の工作員用のクソリプ用画像。
ババリアのイルミナティの象徴はミネルバ(アテナ)のフクロウ。
右目=太陽派(特にフランス)

緑=世界連邦カラー
フランスの女神は右目=太陽を見せるマリアンヌ
@wolvesknow
右目側でNWO色=緑髪の『隻眼の梟』=一つ目フクロウ
『不殺の梟』(『隻眼の梟』の父)も右目を強調
右目=太陽派(特にフランス)、緑=世界連邦カラー
フランスの女神は右目=太陽を見せるマリアンヌ

私をブロックしている女神アテナ @gathena1が
“「空」=「神」=「全宇宙」=「1個の光子」”を布教。
アテナ=ミネルバが「一者への帰一」思想(典型的な新キリスト教=メーソン教)で空の神格化というタブーを犯し、支配層が嫌う空の思想=仏教の中核を破壊
。 @wolvesknow

支配層が仏教の中で特に破壊したいのは、論理的思考を重視する姿勢と、一神教と新プラトン主義を完全否定する無記と空と無常と縁起の思想。 工作員はキリスト教か神道カルト(大本教系)信者だらけ。工作員でない人の思想は仏教寄りの人が多いです
@wolvesknow @lakudagoya

画像の意味は上から、
右目側でNWO色=緑髪の『隻眼の梟』=一つ目フクロウ
『不殺の梟』(『隻眼の梟』の父)も右目を強調
右目=太陽派(特にフランス)、緑=世界連邦カラー
フランスの女神は右目=太陽を見せるマリアンヌ


詳しくは前回の記事
支配層の最重要レベルのシンボルがフクロウ、アテナ、ミネルヴァ、一つ目! 最多は十字架!
『東京喰種』では、右目側でNWO色=緑髪の『隻眼の梟』=一つ目フクロウ が最強!    
「空」を神格化するなどして仏教を破壊する工作に注意!

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-107.html
をどうぞ。

菊池 ‏@kikuchi_8 5月11日
工作員連中がよく使う詭弁の一種。→ストローマン「議論において対抗する者の意見を正しく引用しなかったり、歪められた内容に基づいて反論するという誤った論法、あるいはその歪められた架空の意見そのものを指す。藁人形論法ともいう。」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3 …

菊池 ‏@kikuchi_8 8月24日
工作員業界の「工作現場」の主力「中級工作員」の手口。①レトリックを使いひたすら対象の貶め②詭弁の多用。特に対象の主張を歪めた上で攻撃する「藁人形論法=ストローマン」がよく使われる。③議論や対話ではなく相手を論に詰まらせることのみを目的にひたすら質問を繰り返す。詭弁と修辞が武器。)

六道輪廻の枠組みに植物は含まれない。植物は意識を持たず、輪廻転生しない。
植物にも生命組織はあるが中有の意識が来世に再生する拠りどころとはならない。
生きとし生けるものすべて(一切衆生)とは、意識のよりどころとなっている生き物全部(一切有情)ということであり、植物はその中に含まれない


・風(ルン)
=気体エネルギー。風は心を乗せて動くことができるが対象を認識する機能はない
心には対象を明らかにして認識する機能があるが、自分で動くことはできない。
心は、五感に依存した心(根識)と、心自身に依存した心(意識)にわけられる。いずれにしてもその拠りどころとなる風を必ずともなう。
仏教哲学でいう「意識」とは、心そのものに依存した識であり、外側の対象は必ずしも必要ない。

・倶生の大楽(くしょうのたいらく)
=空性を直感的に理解している意識の状態。きわめて微細な幸福感であり、私たちが日常に体験するさまざまな「心地よい」感覚の根底にある潜在意識。

・仏陀という理想の境地を実現できたら、私たちは、大まかに整理すると、
法身(ほっしん。仏陀の心)と色身(仏陀の身体)に分かれる。

法身
=すべての存在を知りつくす完璧な智慧であると同時に、全宇宙に遍満する究極的な真理でもある。

色身は報身(ほうじん)と応身(おうじん)に分けられる。
報身は仏陀の智慧の力で集められた微細な風によって構成され、宇宙の頂点というべき場所から生きとし行けるものすべてを大慈悲のまなざしでご覧になっている。
そして、実際に救済の手を差し伸べる必要性に応じて、あらゆる場所へあらゆるときにあらゆる姿で化身を現わす能力を持っている。そのような化身を応身という。

・仏性(如来蔵)
=生きとし生けるものすべてに具わっている、仏陀の境地を得られる可能性。
仏性の正体は、「心の空性」。
普通の人間の心は、業と煩悩で非常に汚れているが、心自体には、業と煩悩で汚染されたものたらしめている本質は存在しない。
つまり、業と煩悩で汚染された状況は絶対不変のありかたではない


・「六座グルヨーガ」では、まず眼前の虚空に自分のラマをツォンカパ大師、またはお釈迦様の姿で顕現させ、その周囲にさまざまな聖者や本尊や菩薩などが集まっている様子をイメージし、それらを対象に帰依の祈りなどを捧げる。
そして、生きとし生けるものすべての幸せを願い、そのために自分自身が仏陀の境地を得よう……と誓願を立てる。そのうえで、自分の前に顕現したラマや聖者たちから「菩薩戒」を授かった……と自覚する。これは実際に灌頂などでラマから菩薩戒を授かったことの、いわば追体験。
続いて、仏性を想起する。
自分はすでに志も立てたし、それに基づいて菩薩戒も受け、その結果これまで眠っていた仏性が今こそ目覚めたのだ……と強く思念し、「将来必ず仏陀になる」という決意を新たにする。
心の空性を瞑想しながら、眼前に展開していたラマたちの集まりを自分自身へ修練し、それによって自分の諸々の煩悩が浄化された……と思念する。
ここまでが「六座グルヨーガ」の準備段階の瞑想。
こうして空性を瞑想している状態から、眼前の虚空に蓮華・月・太陽を重ねた宝座をイメージし、その上に自分のラマを持金剛仏父母尊の姿で顕現させる。
本尊の姿などを、視覚の識で見ようとしてはいけない。
意識で思い描いて把握しないといけない。
目の前の仏像を見るのと同じように、瞑想すべきものを目で見ようとしたのでは、正しい瞑想にならない。
瞑想のときに目を完全に閉じてはならない。
瞑想すべき本尊の姿を目で見ようとしていると、実際に目の前に見えている別の風景が気になり、つい目を閉じてしまう。
しかし、意識で思い描いて把握することに集中できれば、実際に目の前に広がっている風景などは全然気にならなくなる。
意識とは五感に頼らず、心そのものに依存して認識する
ことである。
意識にも概念的思考と直感的認識の二種類がある。
瞑想の最初の段階では、概念的思考を交えながら、「身体の色は青で、手に金剛杵と鈴を持って、胸の前で交差し……」という具合に思い描いていきます。
しかし、瞑想を何度も反復して習熟度が増せば次第に概念的思考を減らしても、直感的に認識できるようになります。
最終的には一瞬で本尊の姿を明確に顕現させ、全体像も細かい部分も直感的に把握できるようになる


“「視覚ではなく意識で、しかも次第に直感的に……」というのが、第一のポイントです。
第二のポイントは、「向こうから現われるのではなく、こちらから向こうへ置く」ということです。瞑想の中で、「自分の意思とは関係なく、本尊などが向こうから突然出現した」というような神秘体験は――何らかの印や徴候と認められるケースも稀にあるでしょうが――多くの場合、修行者の妄執が生み出した幻覚にすぎません。それゆえ、実践の正しい拠りどころとして、ほとんど信頼できません。また、実際にそうした幻覚が現われなくても、あたかもそうであるかのごとく瞑想することは、間違った方向へ心を慣らすばかりなので、いくら実践しても望ましい成果を期待できません。そうした突然の神秘体験に執着せず、あらかじめ自分の意思で「こういうふうに瞑想しよう」と計画を立て、それに従って意識の力で本尊の姿を認識対象として確立し、それを繰り返し瞑想して習熟することが肝要です。
では、信頼できない神秘体験と正しい瞑想の成果を区別する基準は何かといえば、「その瞑想に十分習熟したとき、いつでも意のままに同じ内容を再現できるか否か」という点です。もちろん最初からは無理ですが、本当に瞑想に熟達した密教行者なら、複雑な曼荼羅を――どんな大きさにでも――瞬時に再現できるといいます。「こちらから向こうへ置く」という感覚で瞑想するからこそ、習熟すれば自在に再現可能となるのです。”
p.92-93

野狐禅も野狐瞑想も駄目ってことです。スピ信者が薬物でヒャッハーでハイな状態になる瞑想や禅をしたり賛美したりするけど、彼らが歩んでいるのは邪道で危険な道です。単なる狂人になってしまいかねませんからね。単に気がヘンになっただけです。
そもそも仏教は心の平安を目指しているのに、ヤクでハイになったら駄目でしょ。
やっぱりスピ信者は、キリスト教によって改悪されてしまう前の真のインド思想なんて勉強しないんでしょうね。
偽物を崇めて「覚醒した!」って笑えませんな。
「別の価値観に洗脳された! 勘違いして選民思想を持った!」の間違いでしょ。
『魔法入門』でも別人格を出現させたりするときは絶対に意識的に自覚的に行なわないといけない、と何度も注意しております。でないと廃人になってしまったり、別人格に乗っ取られてしまいますからね。
修行方法が書かれていても、ちゃんと危険性と注意点を明記しないものは避けましょう。精神病院で精神病が治らないことは本ブログ読者ならよくご存じでしょう。
ちなみに、『魔法入門』に書かれていることの元ネタの多くはインドのヨガと密教でしょうね


第三のポイントは、本尊の身体の質感。
仏像や仏画を見て参考にしながら本尊の身体を意識で思い描いていくが、鍍金の立体や紙の平面のごとくイメージしてしまいがち。しかし、実際の本尊の身体は、微細な風(ルン)を集めて成立したものであり、そのエネルギーが光となって顕現している。
それゆえ、瞑想の対象の本尊も、光でできた身体として思い描くことが大切。
けれどもぼんやりした不明瞭なものではいけない。目の前に本当に座っているように、手を伸ばせば触れられるように、きわめてリアルに、明確に顕現させる必要がある。しかもそれを認識しているのは視覚や触覚ではなく、あくまで意識である。

眼前の虚空に、自分のラマを持金剛仏父母尊の姿で顕現させた。
そのように瞑想した本尊などのことを密教用語で「三昧耶尊」という。
この三昧耶尊と同じ姿の「智尊」というものをお招きし、手に印を結んで真言をとなえながら、三昧耶尊と一体化させる。
ラマと本尊を完全に一心同体として瞑想することが最も重要な秘訣。
眼前にラマを持金剛仏父母尊の姿で瞑想し、智尊と一体化させたら、祈願や供養を捧げる。それを繰り返して善なる意思の力が十分に蓄積されたとき、ラマである持金剛仏が自分の頭頂へ降りてきて、自分と完全に一体化する……と観想する。このとき必ず空性を瞑想しなければならない。
まず頭頂へ降りてきた持金剛仏を対象とし、その実体性を追求することに心を集中させる。そうすると実体性を何一つ見出せないので、ついには虚空のごとき感覚になる。
同様に自分自身の実体性を追求すれば、やはり何一つ見出せないので、これも虚空のごとき感覚になる。そのとき、虚空と虚空は無差別であると強く念じ、虚空のごとき空性というあり方において、持金剛仏と自分の一体のものとして瞑想する。
また、そのように瞑想している心自体も、やはり空であるゆえに一体となり、そうした体験がこれこそが「倶生の大楽」(くしょうのたいらく)にほかならず、これこそ本尊の法身である……と強く思う

この状態から、ラマの導きの力、そして前もって蓄積された善なる意思の力により、自分の法身から色身の状態へ立ちあげる。
このときの自分の色身の姿は、前にラマを持金剛仏父母尊として瞑想したのとまったく同じ。
こうしてラマの助けを借りながら、私が持金剛仏であるという自覚を得られるようにしていくのが、六座グルヨーガの特色といえる。
現実の自分のあり方を顧みて、菩薩戒と三昧耶戒を守った生活ができているかどうかチェックする必要があります。戒律に反する行ないは、なるべく早めにそれを自覚し、懺悔の瞑想で浄化することが肝要

本尊と一体化する修行は選民思想を生むので、それを防ぐ為に禁欲と自省と道徳を養うことが修行で必須とされます。
欧米の支配層はインド思想を取り入れる癖に、我欲を抑えないからあんな滅茶苦茶をやるわけです。支配層が禁欲しない✝カースト制度✝なんて最悪です。


本尊を理想の自分におきかえたらまんまイメージトレーニング。
理想の自分を召喚して自分に憑依させる密教的魔術を現代ではイメージトレーニングといいます。「降りてきた」ではなく、意志の力で「降ろす」術



“仏教の修行というものはすべて、お釈迦様を信じて拠りどころとしなければ成立しえません。この点で、仏教は、決して単なる人生訓や思想哲学や瞑想テクニックではないのです。
 しかし、「理屈抜きにただ信じる」というわけではない点で、他の多くの宗教とは趣を異にしているといえるでしょう。第二章で引用したお釈迦様の言葉を思い出してください。「比丘や諸々の賢者たちよ、金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊敬のゆえに受け入れてはならない……」。“
p.192



ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/クンチョック・シタル/齋藤保高 共著『チベットの般若心経』春秋社

・法(ダルマ)という用語には、
①真理、教え
だけでなく、
「存在」という意味もある。
三宝は①真理、教え、

一切法、諸法は②存在
に該当する。
あらゆる存在すべてを含めて一切法あるいは諸法という。
存在するといえるものごと(有[う])のすべてが、一切法(諸法)である。

昨今の一般的な傾向として、仏教の内容を説明するとき、専門用語の使用を極力避けるようになってきている。著者も基本的には賛成であるが、ある程度本格的に学んで実践しようという場合、仏教用語の使用を避けていると、かえって混乱を招いてしまうケースも多い
例えば、五蘊を「五つの集まり」と表現したとする。
「五つの集まりの範囲は、あらゆる存在の範囲よりも狭い」
(仏教用語なし)

「五蘊の範囲は、一切法の範囲よりも狭い」
(仏教用語あり)
と表現すれば無用な誤解を避けられる。
五蘊を五つの集まりと表現したら知らない言葉はなくなるが、五蘊の中身を知らなければ結局何のことだかさっぱりわからない。
五蘊の、意味、実例、分類などを知ったうえで、ある任意の存在についてそれが五蘊の範囲に入るか否かを正しく判断できるようになったとき、五蘊を本当に理解したといえる。
知らない言葉が出てこないように置き換えたからといって、内容を正しく理解しているとは限らない
仏教用語を使わないことが、強い関心のある読者にとって、本当に親切なやり方なのだろうか。

・有は、「正しい認識(量)の対象(所縁)となるもの」と定義される。
一切法の範囲は、仏陀の智慧として知られるべきもの(一切智智の所知)の範囲と完全に広さが一致する。この一切法の中に含まれなければ、それは全く存在しないもの(畢竟無)である。
仏教論理学の伝統的な表現では、畢竟無の喩例として、「虚空の蓮華」とか「兎の角」などをあげている。これらは幻覚や誤った認識によって知覚されるかもしれないが、正しい認識の対象とはなりえない。
また、「宇宙の創造神」といった概念も、仏教の立場からすれば、誤った見解の産物にほかならず、いかなる意味でも存在するとは認められないので、一切法の範囲外に位置づけられる。

・①境(きょう)
=対象
=慧(え。知性)によって知るべきもの。

②所知
=知るべきもの
=慧の境(知性の対象)と認められるもの。

③所量
=量るべきもの(量る=認識して理解する)
=量(正しい認識)によって了解(りょうげ)すべきもの。

④有
=存在するもの
=量(正しい認識)によって縁じるべきもの。
(縁じる=心を対象へ向けて認識する)

⑤成実(じょうじつ)
=基体として成り立つもの
=量(正しい認識)によって成就(成立)しているもの。


=存在
=自らの体(存在性)を具えるもの


⑦所縁
=縁じるべきもの(縁じる=心を対象へ向けて認識する)
=量によって増益(ぞうやく。付加)を断つべき基体。

これら七つの用語はすべて同義であり、範囲の広さは一致する。
⑦所縁を補足説明。
例えば、ある人がリンゴというものをよく知らなければ、ナシを見た時にリンゴだと思うかもしれない。そのように誤った知識によって把握される要素が、「リンゴに増益(ぞうやく。付加)された部分」である。リンゴをよく知っている人は、この増益(ぞうやく。付加)さえた部分を全部排除して、本物のリンゴだけを選ぶことができる。つまり、リンゴ理解している量の所縁とは、その量が、増益された部分を全部排除する形で、これがリンゴだと把握する対象である

・一切法は有為法と無為法にわけられる。有為法とは成立・維持・消滅(成・住・滅)という三つの性質(三相)を有する存在で、原因と条件(因・縁)に依存して成立する。このように因と縁によって作られたことを「所作性(しょさしょう)」という。所作性ならば、あり方として無常である。
死や破壊は無常のわかりやすいあらわれである。さまざまな因果関係の中で一刹那ごとに変化していくあり方そのものが、無常という意味にほかならない。それゆえ、脆く儚いものも、堅固なものもあらゆる有為法は無常だということになる。
また、有為法であれば、それ自身が因や縁となることにより、他の有為法へ何らかの効果的作用(功用[くゆう])を及ぼしうる
。このような存在を「事物(じもつ)」という。
つまり、有為法と所作性と無常と事物とは同一の存在を別々な側面から見た表現であり、範囲の広さはいずれも一致する。
範囲の広さが一致するとは、有為法なら必ず無常であり、無常であれば必ず有為法である、という二つの主張命題が両方とも成立することだ。
五蘊とは、あらゆる事物を色・受・想・行・識という五つの集まりに分けたもの
であり、五蘊の全体と有為法とは範囲の広さが一致する。

読み方を通常と違うものとすることで、意味を区別できるし、口頭で話しても混同されないようにできます

自性(じしょう)
=ものごとの本質
であるが、経文の中での自性は、ものごとの本質という意味に加えて、
「他の存在から独立した基体」、
「そのとおりに真実として存在すること」
という非常に強い概念を含んでいる。
もしあるものがそのような自性として成立しているならば、そのものは他に依存することなく独立して存在し、恒常不変で絶対的な性質を有することになるだろう。
これは、仏教哲学で「無我」というときの「我」と同じ意味だ。もちろん仏教でも、普通に我というときは、単に「私」や「自分」という意味で用いられる。
一般的な我なら無我という言葉で否定すべき理由もない。
私という人間は単純に存在するが、そうした私という概念にはしばしば普遍的な実体性が付与される。
「他から独立した実体として、自分が存在している」とか、
「私の概念のとおりに、真実として自分が成立している」との思いは、日ごろから「私」や「自分」という言葉を口にするときにさえ、その裏付けとして潜在的に心の中で芽生えているはずだ

ものごとが存在しているというとき、その存在の確からしさは一様でない。
それを大別すれば、
相対的な存在の次元である「世俗」、及び
絶対的な存在の次元である「勝義」(しょうぎ)という二つの段階を設定できる。
世俗の次元の存在は、それ自体の力で成立しているかのように顕現していても、実際には他のもの――因や縁など――に依存することで初めて成立し得る。独立した実体ではないので、存在の確固たる根拠を、それ自身の中に何一つ見出せない。
本当は他に依存しなければ成立しえないものなのに、独立した実体であると何の疑いなく自然に誤認してしまう。これはあらゆる凡夫の衆生に共通する、本能的な思い込み
である。
一方、勝義の次元の存在は、顕現と実際のあり方との間に、そうしたズレがまったくない。勝義の次元において、もし、それ自体の力で成立しているように顕現している何かを見いだせるならば、それは実際に他のものからまったく独立し、堅固な実体として成立しているはずだ。
私が単に存在することは、世俗の次元においてである。
実体性を虚構する根源的な無知を「無明」という。我(私)という思いを「我見」、私のもの(我所)という思いを我所見という。
両者を合わせて、有身見(うしんけん)といい、衆生が輪廻転生を繰り返す第一の原因と位置付けられている。
有身見を中心とする無明をもとにして凡夫の衆生はさまざまな煩悩を生じる。

「自相」(じそう)
=対象それ自身の側で成立しているとされる固有の性質や作用で、無明によって対象の上に虚構されたもの。
つまり自性の一種なので本当は成立していない。
煩悩は、虚構された事物の自性のみに対して働く


世俗と勝義は、瓶を例に挙げると、両者とも瓶という同じ一つの存在の上で吟味すべきであり、眼前の瓶は世俗、そこから遠く離れた世界が勝義だなどと誤解してはいけない

一方が偽物で一方が本物だとか、イデア界だとか、西洋的二元論でとらえてはいけません

自性の否定のされかたで注目しないといけないのは、基体である瓶(あくまで一例)と否定対象である自性が、別個のものとして設定されえないという点だ。
瓶に自性がないというのは、瓶と自性の関係は、瓶の中に水がない、というようなものではない。そうではなく、瓶そのものが――いかなる部分も――自性として存在することはない、という意味で理解しないといけない。
無自性は絶対的な存在の次元の真理、すなわち勝義諦(諦=真理)であり、この真理を指して空性(くうしょう)という。
究極の真理のことを真如(しんにょ)や真実義(しんじつぎ)といい、あるいは法性(ほっしょう)や法界(ほっかい)ともいう。
無自性、勝義諦、空性、真如、真実義、法性、法界などの用語はすべて同義であり、無為法に属する。無為法であるならば、因や縁によって生じたのではなく、無常でもない。つまり、このような真理は誰かに創りだされたものではないし、時とともに変化するものでもない。一切法は本来から無自性、すなわち空なのである。仏陀が出現しようとしまいと、それを説こうと説くまいと、一切が空である点に何の変わりもない


無為法とは一切法のうち有為法に該当しない存在であり、成・住・滅の三相から離れている。因と縁によって作られたものではないから、「非所作性」であり、いつも変化することがないから「常」であり、それ自身が他の因や縁となって効果的作用を及ぼすこともないから「非事物」である。
無為法の例としては、空性や真如という言葉によって表現される究極の真理そのもの、輪廻から解脱して因果の束縛を離れた境地である涅槃、そして虚空をはじめとする概念的存在などがあげられる


諸法の無自性以外に実体としての勝義を設定してはいけない。
空性や法性・法界そのものを実体視してはいけない。
勝義において自性を何も見出せないなら勝義諦も得られない、と主張し、勝義諦や空性を所知(知るべきもの)として認めない立場は誤り。

「空」自体を神格化して崇めてはいけません

・分別
=名称や概念を交えながら対象を努力して把握する知
であり、このような対象把握のやり方を執着性という。

縁起
=他に依存して成立するというありかた。
一切法が自性として存在するかを追求すれば、虚空の如き空性にいきあたり、一切法が単に存在することを吟味すれば、すべて縁起と言うあり方で存在している点を見いだせる。
縁起
①因と縁に依存して成立すること
②部分に依存して成立すること
③分別による名称の付与に依存して仮に設定(仮説[けせつ])されたものとして成立
すること

部品の集まりが車であることも認められない。もしそのようであれば、分解された部品の集まりも車だということになってしまうからだ。
部品の集まりの上に設定された形状が車だということも認められない。車「の形」であり、形状は車「の属性」
であるからだ。

空によって否定すべきものは、他から独立した実体性であり、諸法が諦として成立することであり、諸法が自相によって成立することだ。否定すべきものの範囲が狭すぎるとき、諸法に何らかの実体性が認められ、諦として成立する何ものかが残ることになる。そのようであれば、常辺(じょうへん)という極端論へ陥り、輪廻への執着を完全には断ち切れず、したがって輪廻から解脱することは不可能になる。

名称の付与に依存して仮説されたものすら、その存在をまったく否定してしまう極端論を「断辺」(だんへん)という。断辺の見解は縁起の虚無的な方向での全面否定である。それにより、世俗において因果関係の成立も否定され、善悪の区別も否定され、三宝の存在も否定される。結果、三悪趣(地獄・餓鬼・畜生道)へ堕ちる因を作ることになるので、これは常辺より更に悪い見解と位置づけられる。
一切法は空である、という空の意味を、世俗においても絶対的な無と捉え、何も全く存在しないことと解釈するのは断辺に陥った理解である。
常辺と断辺の二辺から離れ、空によって否定すべきものの範囲を適切に設定できれば、空性と縁起の関係も正しく理解し得る


“知恵者らよ、自性が空という空性の意味は、縁起の意味である。しかし、功用が空(効果的作用がない)という非存在の意味ではない”(本書p.54)
とツォンカパは『菩提道次第広論』(ラムリム・チェンモ)観の章にて、聖教(しょうきょう)を引用して、強調している。

(※ツォンカパ[1357-1419年]はチベット仏教最大の学僧。
代々のダライ・ラマの所属する宗派ゲルク派[黄帽派]の開祖。
ツォンカパ=葱の地の人=「葱畑の人」。
守護尊[イダム]は文殊菩薩と
ヴァジュラバイラヴァ=『金剛の畏るべき者』=大威徳明王。
大威徳明王=『死神ヤマをも殺す者』=降閻魔尊)

四法印(しほういん)に、
①一切の有為は無常である(諸行無常)
②一切の有漏は苦である(一切皆苦)
③一切の法は無我である(諸法無我)
④涅槃は寂静である(涅槃寂静)

と説かれている。
無常なる有為法と無我なる一切法の範囲の広さが異なる点に留意。
仏教徒か否かを判断する基準が三宝への帰依であるのと同様、仏教思想か否かを判別する基準が四法印である。
ただし、無我の意味は仏教哲学の浅深によって解釈が異なる。最も広義には、「常住・単一・自在なる我」を否定することを指す。自在とは他に頼ることなく、全く自律的に存在することをいう。
有漏法(うろほう)とは有為法の中から道諦に属する法を除いたもの、
無漏法は無為法と道諦に属する法である。
涅槃は滅諦であり、無為法に属する。

同一の存在に別々な側面があることを「同体異面」という。

・補特伽羅(ふとがら)
=心を有するものとしての存在。
身体は色(物質的な存在として現われるもの)に、
心は知(精神的領域。心。対象を明らかにして把握して理解するもの)に属する。
補特伽羅(ふとがら)を分類すれば仏陀と有情(うじょう)になる。
有情とは心を有する生き物のうち、仏陀の境地を得ていないものの総称。

“植物は、有情の中に含まれない。仏教では、植物は生命体であると認めるが、心を有しているとは考えない。したがって、植物が輪廻転生することはあり得ない。植物は、色の範疇に属し、無生物とともに宇宙全体を構成する環境的な要素(器世間[きせけん])と位置づけられる。”p.73
(植物は輪廻転生しないから食べてOKなのでしょうね。植物も食べたら駄目なら修行完成前に死ぬしかありませんからね。六道に植物道はありません


知を分類すると、心王(しんのう)と心所(しんじょ)の二つになる。
心王は精神的な分野において主たる役割を果たしている中枢部分。
阿毘達磨(アビダルマ。仏教の教説の解釈・注釈書)では、その状態を、
①善心
②不善心
③無記心(善でも悪でもない中立の心)
などに細かく分類している。

③が二元論の罠を打破するために重要な概念です)

・心所は心王の働きにともなって派生する精神作用で五十一に分類される。

・心不相応行
=色と知のいずれにも該当しない有為法であり、補特伽羅、及びそれ以外の存在(時間、瓶の無常など)に分けられる。

・根=知覚機能。

勝義諦と世俗諦の二諦。
諦=真実。
勝義=絶対的な存在の次元。
世俗=相対的な存在の次元。
何らかの存在、例えば瓶が「諦として成立している」場合、世俗の次元で我々が見てきたとおりのものが、勝義の次元においても真実して成立していることを指す。
しかし、実際に諦として成立するものは何一つ存在しない。
一切法が諦として成立しないという、そのこと自体が勝義の次元における真実であり、それを勝義諦という。
したがって、瓶という存在について考えたとき、勝義諦とはすなわち瓶の空性である。
一方、世俗の次元において、瓶は瓶として存在するので、この場合の世俗諦とはすなわち瓶である。しかしこれは、瓶の真実のありかたである瓶の無自性とは別の現われ方で顕現したものなので、真実として認められない。しかし、瓶の真実のあり方を追求するというようなことをせず、世間の正しい認識によってのみ判断した場合、一応真実と認められるだろう。
そのように、あくまで、「世間の側からみて諦であるところの、世俗の次元の存在」という意味において、世俗諦と呼ばれるのだ。
聖者にとって、瓶は、諦ではなく「単なる世俗」として認識される。
この単なる世俗という意味こそ、空である瓶が縁起として幻の如く存在すること――換言すれば名称の付与に依存して仮説されたものとして存在すること――にほかならない。
世俗諦は、それを諦成就と思い込む世間の迷乱した認識によって諦とされるのであり、決して実際に世俗の次元で諦として成立しているわけではない。もしそのように誤解すれば、中観帰謬論証派の立場――世俗においても、諸法や諦や自相として成立する余地を完全に否定する見解――と著しく矛盾することになる。

“勝義諦すなわち空性を体得するためには、まず言葉によって概念的に理解するしかない。我々は、この点を肝に銘じておく必要がある。具体的には、最初に教えをよく聴聞し、次にその論拠を徹底的に考察し、それらを通じて概念的に確立された空性理解をもとに、止と観の修習を重ねることが肝要だ。もし、「勝義諦は言説を超越した次元なので、概念的に理解しようとしても無駄だ」などと誤解し、聞・ 思・修の過程を軽んじてひたすら禅定を重ねたとしても、有暇具足の貴重な人生を無駄にするばかりで、一向に空性を体得することはできない。そうした実践至上主義を厳しく戒めるため、あえて「邪な妄分別によって悪道(三悪趣)へ赴く」という強い表現を用いた、そのチャンドラキールティの密意をよく汲み取るべきだろう。”
p.57

瞑想だけじゃ悟れないってことです。ひたすら座禅組んでも駄目ってこと。いきなり言葉を否定しても駄目。考えることも大事

チャンドラキールティ[梵: Candrakīrti]
=月称[げっしょう]。
7世紀なかばのインド仏教の中観派に属する。
空の思想と対立する考えには帰謬論証[きびゅうろんしょう]で対応すればよいとした。

チベットの般若心経/聞・思・修の過程
http://mitsubachi-bros.seesaa.net/article/154958416.html
“※有暇具足(うかぐそく)第四章の註(12)P221~
八つの有暇と十の具足を合わせたもの。仏教を修行するのに適した条件。
「八有暇」とは、次に示す八つの悪い条件(八無暇、八難)から離れた境涯。すなわち、(1)地獄に生まれる、(2)餓鬼に生まれる、(3)畜生に生まれる、(4)長寿の天に生まれる(長寿と享楽や禅定に甘んじて、仏道修行に努力しがたい)、(5)仏教の実践者である四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)が活動せぬ辺境に生まれる、(6)仏陀が出生せずその教えを知らぬ時代に生まれる、(7)知覚能力が働かない、(8)邪険を抱く。
「十具足」は、(1)人間に生まれる、(2)四衆が活動する場所に生まれる、(3)教えを理解して修行する能力が具わっている、(4)五逆(父母の殺害・阿羅漢の殺害・仏身を傷つけること・僧伽の和を破ること)を犯していない、(5)律をはじめとする三蔵への信心を抱いている、(6)仏陀が降誕した、(7)仏陀が正法を説いた、(8)説かれた法が現在まで存続している、(9)上師や修行者たちがその法を実践している、(10)周囲に人々の助けも得られるという十の条件で、(1)(1)~(5)を「自身の五具足」、(6)~(10)を「他の五具足」という。”

六波羅蜜/チベットの般若心経
http://mitsubachi-bros.seesaa.net/article/183458328.html)
「禅定」とは、心を対象に集中すること。
 禅定の実践では、対象を把握して保持する「臆念(おくねん)」、及びそれが正しくなされているかを調べ る「正知(しょうち)」という、二つの心の働きが重要である。カマラシーラ(蓮華戒)の『修習次第』中編では、「いかに所縁をよくつかんでいるか、それと も沈み込んでいるか、それとも外境に高揚のせいで散乱しているかと[心を]観察すべきである。<中略>臆念と正知の策によって、意の象を、その所縁の幹へ 縛りつけるようにせよ。いつか昏沈(こんじん=沈み込み)と掉挙(じょうこ=昂ぶり)がなくなり、その所縁へ心が正しく向かうように見えたときこそ、努力 を緩めて平等になし、その時点から欲するまで[そうした状態に]留まるのだ。そのように止(心の集中)に習熟した者の身と心が軽安になり、望むまま所縁に おいて心が自在になったとき、止は成就したのだと知るべきである」と説かれている(この中で「意の象」とは、未熟な心を野生の象に喩えた表現。また「軽安 (きょうあん)」とは、止の実践を通じて心身を制御し、その結果として、働きが鈍重で意のままにならぬ状態から脱すること。まず心軽安を達成し、それから 身軽安を実現するという
)。”)

空は五蘊を我のものとする見方の否定。
無我は五蘊を我とする見方の否定。
空は「五蘊を自分の家の如く考えても、その中に持ち主たる我を見いだせない」ということ。
常住・単一・自在なる我の否定。

・有身見(うしんけん)とは「我と我が物」に執着する誤った見解。「私だ」と思う対象を自相として把握する「我見」、
及び身体などを「私のもの」と考えて自相として把握する「我所見」に分けられる。
有身見こそが、自分が来世に輪廻世界へ生まれる実際の根本原因である。これを無明という。

・辺執見(へんしゅうけん)とは極端な考えに執着する誤った見解。極端な考えとは、諸法が諦として成立すると考える「常辺」、
諸法が単なる言説としても存在しないと考える「断辺」、
諸法が諦として成立するここと言説においてないことの両方があると考える「有辺」、
諸法が諦としてないことと言説においてあることの両方ともないと考える「無辺
」など。

甚深四句の法門(じんじんしく の ほうもん)
とは、「色は空である。空性は色である。色より別の空性ではない。空性より別の色でもない」のことである。
「色は空である(色即是空)」という経文は、その中に「自性が」という言葉が省略されていると考えるべきだ。それゆえ、色は自性が空である、あるいは、色は無自性である、と言い換えたほうがわかりやすい。したがって、色即是空は勝義諦を示す言葉として解釈できる。
「空性は色である(空即是色)」という経文で、空性とは、色の空性のことである。
色の空性そのものが、世俗の次元では色として幻の如く存在する。
換言すれば、色は自性がないゆえに、勝義の次元では虚空の如き空性として認識されるしかないけれど、そうでありながら世俗の次元では色として顕現し、色であると認識されるのだ。
したがって、この「空即是色」という経文の全体は、世俗諦を示す言葉として解釈できる。

「色より別の空性ではない。空性より別の色でもない(色不異空。空不異色)」
とは、色とは別のものとして、色の空性があるわけではないし、また色の空性とは別のものとして、色の存在が成立しているわけでもない。もし、色には自性がないという、そのこととは別に色の空性があるならば、それは諦成就(他に依存せず自らの力でそのとおり成立していること)の空性なってしまう。
それゆえ、色や空性が諦として成立することを否定するのが「色不異空。空不異色」の意図である。
色と空性は全く同一のものではない。
勝義・世俗の二諦は、本質として同一の存在を別々な側面から見たものにすぎない(同体異面)。いま説明してきた経文では、空が勝義諦、色が世俗諦に該当する。
色は空であると説いて常辺を排除し、
空性は色であると説いて断辺を排除し、
二辺の極端論から離れた中道を提示している。
(勝義と世俗を厳密に分けないので、プラトン流のイデア界とこの世界というような二元論を排除しているのが重要
です)

世俗の次元で因果関係の効果的作用は確かにある。
常辺と断辺を排除することにより、
①因果関係を絶対不変のものと誤解する運命論と、
②空によって世俗の因果関係も否定されると誤解する虚無論という、
両極端へ陥る危険性を摘み取る
ことができる。

無為法の実例は、虚空・涅槃・空性など。これらは因果関係を超越し、恒常的に存在する。しかし、こうした無為法もまた、独立した実体として成立しているわけではなく、縁起として存在するにすぎない。
無為法は部分に依存し、及び分別による名称の付与に依存して仮説されるからである。それゆえ、無為法は縁起である。縁起として存在するならば必ず空である。空性も空である(空空性)


「不生不滅。不垢不浄。不増不減」
不生とは、一切法が実体として成立しないゆえに本来から実体性をもって生じない、という意味。
因や縁によって単に生じることと、実体性をもって生じることとの区別をよく認識しておかなければならない。
実体としての生起を排除し、常辺を排除。
因や縁による生起まで否定したら、有為法は全く生じないことになり、断辺に陥ってしまう。
不滅とは、実体性をもって生じないのだから、実体性をもって滅することもない、という意味。因や縁によって滅するが実体としての滅ではない。
不生不滅とは、そのものが縁起として存在している
、ということである。
(不垢不浄と不増不減は以下同様なので省略します)

・「五蘊がない」という箇所は、そもそも「世俗の次元で五蘊がどのように存在するか」ということなど論議の対象としていない。
つまり、「五蘊がない」という経文は、そのような高い境地の三昧における観じ方を表現したものであり、世俗の次元での有無の論議とは区別しないといけない。世俗の次元でも五蘊がないことになると、非常に危険な虚無論へ陥ってしまう。「得るということもなく、得ないということもない」という箇所まですべて、この世俗次元の有無を扱っていないことをよく踏まえて解釈すべきである。般若心経において最も誤解しやすい部分であろう

・法境(境=認識対象)は、意根(精神的な領域を知覚する機能。根=感)のみによって把握される。

四摂事(ししょうじ)
①布施(他者へ惜しみなく施すこと)
②愛語(心のこもった優しい言葉で語りかけること)
③利行(りぎょう。相手のためになるように行じること)
④同事(どうじ。相手と同じ立場で修行すること)


村手 さとし ‏@mkmogura 2012年7月8日
@lanekota 今さら、やばいとか気にしないよ。つまり、すごい数なわけよ。例えば寺も、すでにキリスト傘下であって、愛語という言葉を全国の寺で使う。うちの寺もよく出てくる禅宗なのにね。これは無量寿経というなかの和顔軟語というのを、愛にむりやりすり替えたわけ

村手 さとし ‏@mkmogura 2011年10月28日
まあ、ブログでも最後の方に書いたんだけど、高野山って真言宗の全てを焼き討ちした秀吉のお母さんの寺なんだよ。時代も何も、宗派も真言宗とは関係ないよ。空海=弘法大使ってことだが、そもそも弘法=仏教をつたえるえらい坊さんって形容詞でしょ?神や、アーリアと一緒同じ手法

木村 仁 ‏@mucunren 7月17日
命を攻撃する事は悪いことです。愛は何かを好んで可愛がるので、一見攻撃とは無関係で悪とは無縁に見えます。 しかし、普通の人が言う「愛」は大体執着による「渇愛」です。 渇愛ならば愛する者を失えば悲しみ、傷つけられれば怒り、恨みます。 つまり渇愛は攻撃などの苦と表裏一体なのです

菊池 ‏@kikuchi_8 12月1日
1)仏教への西洋的神秘思想の混入を破すために仏教とグノーシス主義の違いを指摘する。グノーシスでは物質と精神の二元論で、物質は悪とされそこから文字通り脱却して純粋な霊の世界に至ることを目標とする。仏教では、渇愛とともに嫌悪も執着とされるので、物質を嫌悪し憎み悪と断じることはしない

y_hotta(桑名市) ‏@JR2ENQ 2011年2月11日
・・・この愛が仏教用語です。仏教では「一切苦悩を説くに愛を根本と為す」とあるように、愛は迷いや貪りの根源となる悪の心の働きをいいます。のどが渇いたときに水を欲しがるような本能的な欲望で、貪り執着する根本的な煩悩を指します。愛欲、愛着、渇愛などの熟語は、そのような意味を持っています

仏教ちょっと教えて - 仏教の「愛」について - Biglobe
http://www2s.biglobe.ne.jp/~posteios/PROJ_C023.htm
“この題だけを読むと、例えば「近代文学における愛」とか、「異文化交流における愛」といった「愛」の姿を思いおこされる方もおられることでしょう。しかし、少しでも仏教に関心を持ったり、あるいは知識を得た人ならば、次のような疑問を抱いたことがあろうかと思います。

 たとえばキリスト教では「愛」という言葉を重視します。しかし、仏教では「愛」という漢字を使う場合、渇愛という熟字に代表されるように、煩悩を意味する言葉として使われ、あまりいい言葉として扱われていないということがあります。

 さらに、もう少し突っ込んで考える人は、このような矛盾も感じるでしょう。

 愛という言葉が仏教において否定的な概念ならば、『無量寿経』の「和顔愛語」という仏典の言葉の「愛」は、一体どう解釈したらいいのだろうかということです。ちなみに、高楠順次郎博士編集の『大正新修大蔵経』(全百巻)に当たってみると、「和顔軟語」となっています。欄外の注には、「軟=愛」と表記されています。しかし、現在流布している比較的入手しやすい『無量寿経』のテキストや資料には、「和顔愛語」となっています。いったいいつから「軟」が「愛」に変わったのでしょう?そして、そのような経緯は、西洋文化の交流と関わりがあるのでしょうか

 そこで、手近にあった仏教思想研究会編の「仏教思想1愛」平楽寺書店(1975年初出・1992年第4刷)を参照してみようと思います。

 同書の目次を見てみますと、参考となったり、興味を引かれる論文に次のようなものがありました。

  はしがき
  第一章 「愛」の理想と現実  中村元
  第三章 初期大乗経典にあらわれた愛 藤田宏達

 これらの章を抄出しながら、簡単なコメントを整理するということで、「仏教における『愛』」についてまとめてみたいと思います。

 「はしがき」には、中村元氏が、次のような提言をされています。

 まず、西洋の近代思想が、抑圧的な中世の教権に対する反抗として人間の愛を正面きって押し出してきたことがあげられます。また、アジアでも、例えばインドでは、六派哲学に対する反抗として愛(preman)が強調されガンディーに至るまで、愛は人 間の最も尊ぶべきものと考えられています。日本でも、儒学の「仁」「礼」を中心にして考えていたのに対して伊藤仁斎が愛がより根源的なものであると主張しています。

 さらに、現代は日本もそうですが、世界の精神的状況は愛を重要な価値基準としています。

 これに対して仏教学者は、仏教は愛に対して抑圧的・禁止的であると考えてきました。すると仏教は世間の風潮に敢然と抗争すべきものとなってしまいます。

 しかし、最近、日本の仏教系の学園には愛の字を用いたところが出てきています。(思いつくだけでも、相愛、仁愛などの真宗系の学校名があげられます)もし、そういう傾向が何の根拠もないままに進められたというのなら、世の風潮におもねったと いうことになります。また、もし仏典に根拠のあることならば、はっきりとした自覚をもって積極的に推進すべきでありましょう。

 このような氏の指摘には、私たちも大変興味をそそられます。しばらく、仏教学者の意見に耳を傾けてみましょう。


  「第一章 「愛」の理想と現実」の内容

 東洋の諸国においては、仏教の中心の徳として慈悲が説かれています。愛は、それと通じる時もあれば、異なることもあります。ここでは、全般的に仏教においてどのように愛が説かれていたのかが論じられます。

 愛という言葉には様々な使いかたがあるようです。愛 piya、priya、親愛 pema、preman、欲楽 rati、愛欲 kama、渇愛 tanha、trstna などです。私は、前三つは、その対象によって分類され(自己、他者、特定の個人)、後二つは、その内容によって分類され(性的愛、盲目的衝動的執着の愛)ているように思われました。

 仏教では、この渇愛が人間の愛の本体であり、苦悩の源泉であると考えられます。そして、この苦悩から慈悲の心が生まれるのです。自分の苦悩を本当に知る者が、他者の苦悩にも共感できるからです。そして、この慈悲が他者に対する無条件の究極の愛の姿として「無縁の慈悲」、つまり私が誰かに何かをしてやるという三つの条件を全く意識しないで他者を幸せにするものと説かれました。

 仏教の慈悲には人間的な愛の純粋性と共通するものがあります。それで漢訳仏典では、慈悲を愛と訳すことがあるというのです。これで、先の疑問も少しは晴れるというものです。しかし、慈悲は愛と全く同じという訳ではありません。愛が宗教的な自 覚で深められて慈悲となるからです。慈悲は、愛憎という対立を超えた、見返りを求めることのない絶対の愛の姿であり、しかも一切の生きとし生けるものにまで及ぶことを理想としています。

 ところで漢訳仏典の中にある愛には、様々な意味が与えられており、全く反対する概念がこの愛の一語で使われています。愛によって憂いが生じ、苦悩が生じることもあれば、心の喜ぶことであるとされ修めるべき徳とも見られているのです。

 特に人間関係において、やさしいことばをかけること、愛語が尊ばれます。それはやさしく言うこと、愛情こもったことば、やさしいことば、親愛のことば、親しみのある言葉で話すこと、あたたかい心のこもった言葉をかけることです。そこから、人びとに対してはやさしいことばをかけよ、という教えとなります。この場合、もちろん、愛欲の愛 kamaや渇愛の愛 tanhaというような自己中心的な愛と異なり、慈悲による利他の愛につながるものです。

 こういう慈悲の愛から出た言葉が愛語です。ある場合には、互いに愛し合うことという趣意で、愛語を相愛と訳されることもあります。

 こうして学んでみると、仏教の中で使われた愛の言葉は、そのまま慈悲になるのではなく、異なる性格をもつものです。愛は、一、恋愛・性愛ともに欲をともなうもの、二、独占しようとするもの、三、限界性があるもの、ということです。  しかし、愛は慈悲に通じるものであり、やがて慈悲へと深まっていくきっかけになるものといえるでしょう。


  「第三章 初期大乗経典にあらわれた愛」の内容

   初期大乗経典の中で代表的な経典とされるものについての論究がこの章です。原典の文献を読み込んでいるので、少し漢字が多くて難しく感じるかもしれませんが、ここではその中からいくつかを取捨選択して紹介いたします。するとそこに初期大乗の 特徴が見えてくるようです。

 まず、初期大乗経典では、愛のつく言葉は否定されるべき執着としての意味で用いられています。「愛着・愛欲・愛垢・愛縛・愛染・渇愛・貪欲・欲愛・染愛」などです。『無量寿経』の五悪段には、愛欲が六回現れます。

 こうした愛に対して初期仏教では、愛憎を捨てて離れることが説かれますが、大乗仏教ではこうした愛憎を超越するのが大乗菩薩の実践だと説かれます。つまり、無くすのではなく、それにとらわれない生き方を求めるということです。大乗では、愛憎にとらわれるのは分別に振り回されているからだと説くようになるのです。

   例えば『無量寿経』では、極楽世界に生まれた菩薩の姿を「等しく憎愛なし」と示しています。『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』(異なる時代の翻訳)では、「憎愛を遠離す」と訳されています。また、異訳『無量寿荘厳経』では、「愛なく著なし」と訳されています。

 しかし、初期大乗経典には、愛を肯定的に見る視点も色々と見いだされます。それは、人間関係を説く場面では愛は積極的に認められています。先に述べたように、愛の深まった姿が慈悲ですが、仏の衆生に対する慈悲を親の子に対する愛という比喩で表現される経典が『法華経』『維摩経』などに見られます。『無量寿経』には、菩薩が衆生のために不請の友(頼まれなくとも相談を解決してあげるよき友)となり、御法(おみのり)を説き聞かせることは「純孝の子の父母を愛敬するが如し」と、先の比喩とは逆に子の親に対する「愛敬」という表現がとられています。

 また、五悪段には父子・兄弟・夫婦が「恩愛」をもって思慕し、お互いに「相い敬愛」すべきことが説かれます。さらに、「聖を尊び、善を敬い、仁慈もて博愛」すべきことが説かれます。別の場所では、世間の帝王が、「慈恵ありて博く施し、仁愛
ありて兼ね済う」ことが説かれております。

 ここでも、仁愛学園の名前が仏典に出ていたことが知られますね。

 さらに愛という言葉が肯定的に使われている例として、仏、善知識、菩薩、法、菩提などに対する積極的な使用例があります。『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』には、「若し彼の仏の名を聞くこと有りて、能く一念喜愛の心を生ぜば」という言葉があり、これは親鸞様の『お正信偈』の中にもあるので聞き覚えがあると思います。

 すこし漢字が異なりますが、同じ意味の使い方として、仏・菩薩が衆生に慈悲をかける姿を『無量寿経』では、「如来は、無蓋の大悲を以て、三界を矜哀す」という言葉があります。これは、法事の時の表白の中でよく聞くのではないでしょうか。

 最後になりますが、親鸞聖人における愛ということに興味をお持ちの方もおられると思います。実は、同書では、早島鏡正博士が「親鸞における愛」という章において、親鸞聖人における愛を幅広く論じておられます。ここでは、紙数がないので、私の視点で書かせてもらいます。

 『親鸞聖人著作用語索引(二巻)』によると、「愛」は執着という否定的な意味で使われる「恩愛」「愛憎」(『ご和讃』)という表現と同時に、「信楽といふは、・・・・楽は即ち是れ・・・愛なり」(『教行信証』「信巻」)、「世を救ひ人を度す慈を極す愛を極む」(同「化身土巻」)などの肯定的な表現の双方が見られます。しかし、「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑し」(『教行信証』「信巻」)のようなお言葉が比較的耳にする機会が多いせいか、親鸞聖人においては愛は否定的に用いられているかのような印象をお持ちの方も少なからずおられるのではないかと思います。”

「和顔軟語」よりも「和顔愛語」のほうがキリスト教が喜びますからね。仏教では愛は悪寄りなのだから、愛語は不適切ですね。軟語にすべき



魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 10月15日
悪の魔道師に対抗するためには、アリストテレスより竜樹がスゲーと本質的なまでにわかることかな?西洋論理学から生まれる連鎖的な階層構造に反駁できたのは恐らく、空と縁起の思想を唱えた竜樹くらいしかいないんでね?おっと、ふりーそーめんが嫌いな東洋思想はきっと「空」と「縁起」だよね。

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 2015年11月3日
あのね、サマーディーは「三昧」ディヤーナは「禅」カルマは「業」ね。で、カタカナのサンスクリット語を使うのは何でか漢語の仏教用語が嫌いな法則。

これだけ日本語はサンスクリット語由来の漢語が日常に溶け込んでるので、わざといカタカナで言うのはよっぽど仏教が嫌いだったんだろうか?


魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 10月17日
陰謀論コミュには、聖書の引用をベタベタ貼ってやつらを叩く陰謀論者はいても、般若心経やスッタニパータやダンマタなどの仏典を引用してやつらを批判する陰謀論者っていないよね?なんで?

そもそも、東洋の教育って基本的に我欲や我執を拡大させるためにやるんでなくて、自然にそこから離れていく思想が組み込まれてる。確かに漢籍の知識が科挙 に合格するために必要なものだったのも知れないけど、漢籍の雰囲気はなんかこう、我欲と我執向きだしって感じがしないとゆーか。

メイソン教の洗脳教材の教養小説(ビルディングス・ロマン)ってのあるんだけど、これ子供に「教育的」だと賛美されてっけど、これこそがメイソン教の洗脳 の本丸でもあんだよね。教育で近代的自我を確立するってやつ。これは自我は妄想と切り捨てる仏教などの東洋思想の伝統破壊工作だよね。

西洋の教育の根本は近代的自我の確立。基本的に我欲や我執を拡大させるために勉強する。その本質を覆い隠すためと、それをバーターするために社会に対する 奉仕って観念で釣り合いを取ってる。でも、西洋の教育の根本は我欲と我執の拡大だからエリートほど贅沢や権力にうつつを抜かす


王王大栄 ‏@ououdaiei 10月17日
@lakudagoya 自我ってめんどうですよね。弱いと周りに潰されるか状況に流される。強いと我欲我執で自他を破壊する

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 10月16日
薔薇十字の陰謀論って流行んねーな。フクダルマン君でさえ、見えざる大学ネタつぶやいてたのにな。

薔薇十字の陰謀ってさ、数ある陰謀論の中でも断トツで性質が悪い陰謀論だぞ?世界中の宗教や文化をメイソン教的な西洋神秘主義に換骨奪胎して支配するつー ワンワールド思想さ。クリスチャン陰謀論者もそこ悪魔崇拝とボカさないでハッキリハッキリ言ってくださいね。プロレスかというほど歯切れ悪いしw

かつてUFOはプロレスであると言った人が言ったが、至言だと思った。メイソンを迷信臭い悪魔崇拝ネタで叩くクリスチャン陰謀論者ってきっと悪役レスラー みたいなもんなんだろーな。わざと怖い演出をするやつ。メイソンの本質を守るためにプロレスの悪役やってダメージコントロールしてます
みたいなw

薔薇十字団という架空の団体の思想が近代科学を作ってオカルトメイソンいわゆる魔術結社にも受け継がれてますね。
諸悪の根源というより、薔薇十字思想がいけないのは西洋と東洋を統合するふりをしつつ、世界中の宗教をメイソン教の西洋神秘主義に換骨奪胎するかなり悪質なワンワールド思想ですね。

菊池 ‏@kikuchi_8 7月6日
実証主義を「物質主義だ」とする非難があるそうだが、実は実証主義を徹底させると唯物論というより唯心論に近くなる。つまり、経験主義を徹底させると人間に直接立ち現われる知覚経験だけを事実確定の証拠とする事になる。実際にエルンスト・マッハが実証主義を徹底させそういう立場に近づいた。

唯物論と実証主義は実は方向性が逆。唯物論では意識経験から独立した「物質」という実在を想定するという前提があるが、実証主義はそういう前提を立てず知 覚的感覚的に経験された現象を基礎に事実を確定しようという方向性である。必然的に、経験を超える形而上学的実在については「無記」となる。

最古の原始仏典の「スッタニパータ」に「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知っ てよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」とあるが、仏教が経験主義的実証主義的な立場を取っている事が分かる。形而上学には無記

菊池 ‏@kikuchi_8 7月21日
工作員の皆様にはこの言葉を贈る。是非立ち直ってもらいたい。人生を組織に飼われて空費するなかれ。「自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。」(ダンマパダ 160)

菊池 ‏@kikuchi_8 10月19日
参考までに。仏教哲学では「迷い」を「煩悩障」と「所知障」に分類。前者は所謂「煩悩」のことで感覚的情動的な迷いであり受=感受作用による。後者は知性的概念的な迷い(物事を自存視=実体視する等)であり想=表象作用による。後者は言葉が大きく関係する。概念は言葉を離れてはありえないからだ。

「物事を捉える概念の枠組み」に関する迷いが「所知障」とされる。これは現実の観察によって得られた縁起・無自性(無実体)・空・無常・無我等々の見方に 反する形而上学的なものの見方を主に指していると思われる
。廣松渉哲学で言う主観や客観の自存視等を意味する「物象化的錯視」という概念に近い。

人間は物事を概念的に把握するので概念を操作されると認識を捻じ曲げられてしまう。これは単に呼び方を変えるだけでも十分効力を発揮する。オーウェルの小 説で、戦争遂行の役所が「平和省」、拷問を加える秘密警察が「愛情省」と呼ばれる「ニュースピーク」がまさにそれ。人為的「所知障」=認知操作

吾人が仏教哲学をよく援用するのは、それが西洋哲学より優れた論理的思考の用具・枠組みと考えるから。陰謀追及には論理的思考が必要だが、それを鍛えるに は哲学が有効と思うものの西洋哲学はキリスト教や形而上学と表裏一体でドグマや信仰がこびりついておりそのままでは思考用具には不向きと考える。

一方、仏教哲学は原始仏教と初期大乗である中観・唯識が世界的に見ても大変優れた哲学となっている。唯識が生きた学派(法相宗)として残っているのは恐ら く世界で日本だけである。日本人が論理的思考を鍛える場合、キリスト教圏の哲学より仏教圏の哲学を援用した方が本来馴染むのではないか?と思う。

仏教圏の哲学がキリスト教圏の哲学より論理的思考の枠組みとして優れていると思う点は二つ①人間の判断できる範囲を超えた形而上学については判断を敢えて 保留し言及しない「無記」の姿勢②「無記」と関係するが、逆に断定を下す事柄は基本的に経験的論理的に確かめられた事象に限定する実証的姿勢。

前述の①②の理由から仏教哲学を西洋哲学より優れた枠組みと判断し度々援用している。西洋人が論理的に思考する場合に西洋哲学の枠組みを使うのと基本的に 同じで、東洋哲学の枠組みを援用する訳である。仏教哲学と言ってもピンキリだが原始仏教と初期大乗(中観・唯識)が優れている。特に中観は凄い。

日本人は論理的思考が苦手と言われがちだが、自らの風土に合わない西洋哲学を無理に援用しようとするからではないだろうか?西洋の哲学的枠組みはキリスト 教文化圏で育まれたものであり、仏教文化圏に生きる日本人には基本的に馴染みにくい。だったら仏教文化圏の哲学を援用したらいい
と思うのである。

形式論理学の同一律・排中律・矛盾律は西洋の形而上学と存在論が前提になっている。「AはA、Aは非Aでない」と言える前提は「Aは自己同一的な実体である」という事。この存在論的な前提が無い限り西洋の形式論理学は成立しない。

これは常に変化する現象世界では必ずしも成り立つ法則ではない。つまり、現象は時間的存在だから昨日のAと今日のAは微妙に相違する。だが、形式論理学で は「時間」は捨象されているから、昨日のAと今日のAは区別されない。それは只の約束事だから問題は無いが、変化する現象と乖離する事は事実だ。

西洋の形式論理学が前提とする西洋独特の存在論を対象化・相対化する視点を得てこそ、形式論理学も有効に活用できるというもの。東洋伝統の哲学はその視点 を提供してくれると考える。日本人が論理的思考を鍛えるには元々伝統的に馴染んできた仏教文化から資源を活用すべき
というのが吾人の結論である。

ついにお坊さんと間違われてしまったので^^;仏教哲学を度々援用する意図・理由をご説明させていただきましたm(_ _)m個人的には、「入門 哲学としての仏教」竹村牧男著(講談社現代新書)がお勧めです。


仏教は「無常」を説くが「世界全体は常住か無常か」という命題には「無記」の態度を取った。では仏教は何について無常を説いたのか?五感と思考で捉える経 験世界(眼耳鼻舌身意・色声香味触法=十二処)について無常と説いたのである。断定は飽く迄経験的に確かめうる範囲に限定する徹底した経験主義

masao ‏@mini5945 28 分28 分前
@kikuchi_8 自然が根本であれば、信仰でねじ曲げられることはない…? アメリカ国民の一部は、未だに進化論を否定して、処女懐胎を信じているのか…?

菊池 ‏@kikuchi_8 23 分23 分前
@mini5945 東洋は基本的に自然崇拝が基本になっているので、進化論に対して抵抗はないと思います。ただ、個体間の闘争を強調する、突然変異・自然淘汰が基本の西洋の進化論に対し日本には独自の進化論があります。「棲み分け理論」で有名な今西錦司博士の進化論です。k

(風の子 ‏@makeanovel 9月4日
ある条件下でたまたま条件的に合致して生き残っただけであり、それが強かったとか優れてた訳じゃないのか
RT @kitsuchitsuchi
進化論=生き残ったものが生き残ったという結果論。優れた強いものが生き残るのではなく、生き残ったから優秀で強いということにされた。順番が逆

アニメアイコン ‏@the_drunken 2013年11月28日
「進化論は結果論」なのですよ。
進化はランダムな事象に左右され易く運の要素が強いから結果が予測できないという事ももっと広く知られるべきだと思う。

らると ‏@rarunyan15 2013年8月27日
進化論について。進化論は「進化」という言葉を使っていることが間違っている。

いかにも努力して勝ち上がってきたんだぜ!すごいだろ?と言わんばかりな言葉。

実際の所は、運の要素が強い
。結果論に過ぎない。

finalvent ‏@finalvent 2013年9月9日
適者生存は結果論だから結局運の良し悪しでは。“@AriettaAoi: ダーウィンの進化論
この世で生き残る生物は もっも頭の良い生き物でもなく もっとも強い生き物でもなく もっとも変化に対応できる生き物だ”

ヒラ:// ‏@punanny_chang 8月25日
弱い者から死ね
これが自然の摂理でしょ?問題は「弱い」の定義で肉体的に、頭脳的に、強いから生き残るわけじゃない。バカなハナタレでも資産家の子供であれば食っていける。屈強な男でも信号待ちに車で突っ込まれれば死ぬ。
「弱い」の定義とは実は「運がない」という事なんだろう。

そして最も強いとされる立場とは争い災いから物理的に一番遠い所にいる者のことなんだろう これって生まれによって全て決まる、って言い切ってるのと同じなんだよね ツバ吐いてやる


underpondof12shrine ‏@racist_banana 6 分6 分前
@kikuchi_8 これはデモクリトスの原子論にまで遡る 古い物質観と関係があります。 原子という物質の最小単位は、その内部に「空虚」を持たず 不可分(それ以上分割できず) 不変(永久に変わらない) というものです。 自らは自らに等しいので 運動(変化)の余地はありません。

菊池 ‏@kikuchi_8 4 分4 分前
@racist_banana ご指摘感謝です。おっしゃる通りだと思います。現象世界の背後に想定されるプラトンのイデア説も西洋の実体論の原型でしょうね。質料主義の実体論の代表が原子論で、形相主義の実体論の代表がイデア論だと思います。

隠者(人間) ‏@inja650rr 11月3日
@kikuchi_8 @sunamajiri 世界の在り方についての無記は
形而上学であるからだと思います。

これに関しては毒矢の喩えが非常に解りやすいと感じます。
毒矢に射られた人と、形而上学に拘り死を迎える人とを対比させた極めて秀逸な言い伝えであるように私は感じます。

(miwa ‏@n_miwa 12月28日
「この毒矢はどこから飛んできて、なぜ私に刺さったのだろう?そこにはどんな宇宙の意志が」とか言う前に、早く毒矢を抜けよ、というお釈迦様の言う毒矢の例えは、凄く現実的な教えだと思うし、宗教家がこれ言っちゃうのも実は凄いよね。

かわたろう ‏@kawataro84 2014年9月14日
NHKスペシャル「臨死体験」。最後、立花隆さんの「死はそれほど怖くない。あれこれ想念を巡らすから怖くなる」という話はとても仏教的だね。そのお釈迦様は「毒矢の例え」で、死後の世界がどうこうと時間を費やすのは無意味と説いていた。神秘体験の真偽に興味はあるが、こだわらずさらっと流そう

木村 仁 ‏@mucunren 2014年4月29日
毒矢が刺さっている人が、この矢を射ったのは誰で、出身は何処で身分は何か、矢尻の形と毒の作者が誰か全てわからない限りこの矢は抜かないと言っていれば、その間に毒が全身に回って大変な苦しみを味わいながら死んでしまいます。
この例え話の毒矢は煩悩と執着
です。

あブラだこす ‏@aburadakos 2013年10月24日
自分の名前を捨てると想定するとき、名前であったものは何か?名前そのもの、それは何であったか? 自分とは何か?と問いただしてみると良い。私であったもの。正に毒矢の例えのごとく、私と言う存在論が執着として、それが名前と言う象徴によって表現されている。名前と言う私と言う現象、幻想の欠片

慈永祐士 ‏@jiei_yushi 2013年5月18日
まあ、基本的にブッダの説法方法は、「お前さんが信じとるやり方はそういうやり方かもしらんが、それをやっているとこういう風になるよ」という説法の仕方がメインスタイルなわけである。そういえば毒矢の例えとか、ソーナという元・竪琴演奏者だった比丘に対しても、同様な方法でしたね。

メロウ*ライク ‏@mellowlike 2009年10月2日
@hasso_ 「「「「毒矢の例え」の例え」の例え」の…」ってなってるよね。哲学系の人って。「本を読むための本を読むための本を読むための本」とか。)

菊池 ‏@kikuchi_8 11月3日
@inja650rr 毒矢の例えは有名ですね。同感です。形而上学的に世界がどうあろうとも、人間の生老病死の「苦」の現実には変わりは無く、またその「苦」を克服する道も形而上学的世界観に関わりなく存在するから、人間が判断・決定できない事に関わるより現実に結果が出る実践を優先すべきと。

隠者(人間) ‏@inja650rr 20 時間20 時間前
@kikuchi_8
御釈迦様は入滅までの間死後の世界などの形而上の世界については一切語りませんでした。仰る通り無限ループに嵌り真理には絶対に到達せず一切皆苦の解決には無意味であるからでしょう

神通力の中でも畢竟漏神通とは、実は正に二律背反の回避であると私は読解しています。

(漏尽通(ろじんつう)=煩悩を打ち消し悟りの境地に至っていることを知る超人的能力
)

菊池 ‏@kikuchi_8 10 時間10 時間前
@inja650rr なるほど、「漏尽通=二律背反に陥って決して決着できない形而上学を回避すること」という解釈ですね。形而上学への執着も「煩悩」ですからね。素晴らしく合理的な解釈であられると思います。原始仏典に出てくる「悟りを開いた人間」としての釈尊のあり方と整合性があります。

隠者(人間) ‏@inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 有難うございます。
漏神通は形而上学に限った事ではないと考えます。
この世は如何に二律背反に陥る無益な議論が多い事か僕は憂います。

菊池 ‏@kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr そうですね。「対象化された事物への執着・煩悩を断つ」という趣旨だと思います。「法執」というものですね。形而上学も事物の一つですからね。そして、おっしゃるような、答えのでようもない、憎しみや争いだけを助長する無益な議論が本当に多いと思います。同感です。

隠者(人間) ‏@inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 御釈迦様の言う中道の精神は想像以上に困難でありつつも、
悟りという境地は存在すると僕は確信をしました。
決して現代仏教に言われるような空理空論のようなものではなく遍く公衆にとって非常に有益な思想であると思います。仏の道を僕は進みたいと思います。

菊池 ‏@kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr 素晴らしいお志だと思います。仏教の四諦の教えにしても、非常に論理的実証的で筋が通っている実践的な哲学だと思います。「悟りの境地」は分からなくても、執着を幾分か減らせばそれだけ苦しみが減る、という事は誰しもが確かめられるように思います。

(SHIVA ‏@francisco_bot
【四諦】は原始仏教の核となるもっとも根本的な考え方。

ザクッと言うと

①人生は苦である。※仏教における「苦(dukkha)」の意味は「思い通りにならないこと」
苦の原因は渇望(欲望)にある。
③渇望を滅すれば苦も滅する

④苦を滅する道は八正道である。

【八正道】 正見(正しい理解) 正思惟(正しい思考) 正語(正しい言葉)
正命(正しい生活) 正業(正しい仕事)
正精進(正しい努力) 正念(正しい気づき) 正定(正しい集中)
※ブッダが最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る(瞑想)修行の核となる8つの方針)

隠者(人間) ‏@inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 人間は、動物が群れで過ごすように、孤独を恐れる存在であると思います。執着とは正に孤独を恐れるが故の動物的本能なのかもしれません。
ならば理性を持った人間の本来的な在り方とは孤独である事なのかもしれません。

菊池 ‏@kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr 確かにそうかもしれません。私は人間が執着するのは「言葉を持つ動物」だからだと考えます。つまり、本来は一つながりの「縁起」の世界を言語によって分節化し対象化する。そうやって取り出された事物=法を縁起によらず独存していると見なすところから執着が始まる、、と。

隠者(人間) ‏@inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 なるほど、言語とは個体同士が意思疎通をする為の手段。だとするのならば、コウモリやイルカの超音波でのやり取りもまた言語とも言えましょう。
言語には意味と感情が含まれると考えます。
コード(暗号)に載った感情こそが人間同士の不調和を齎す原因なのかもしれませんね

菊池 ‏@kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr はい。そして人の言語はとりわけ発達しています。言語とはシンボルの一種で、シンボルとはある事物を置き換えた記号ですが、現実の事物が存在しなくても、記号なら数に限りが無く拡大されますので、それにつられて記号にともなう感情も拡大され不和を招く事もあると思います。

隠者(人間) ‏@inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 中道とは左右から非難を喰らいつつも真理を追究する精神、そして智慧なのかも知れないと僕は仮説を立てます。

仏教は智慧の教えであると言われるように、偏りの無い思考力を持ち、本質を探る事が出来れば世の中は御釈迦様の言うように世界は調和できるものと確信しています


菊池 ‏@kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr そうですね。両極端な立場からの非難に動じることなく泰然として、ゆるぎないバランス感覚をもって、偏らない思考をし、物事の本質を的確に見出していく。極端に偏らない中道(中る=あたる 中道=適正な道筋に適合する)は調和の道でもありますね。おっしゃる通りです。

隠者(人間) ‏@inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 常楽我浄の顛倒により一切皆苦が生じるのだとすれば、
四法印の内一切皆苦とは、
「生きる事は苦しい事だ。だから諦めなさい」なのではなく、
「生きる事は苦しい事だ。だからこそ一切皆苦を克服しなさい」と言っているように僕には感じられてならないのです。

( 隠者(人間) ‏@inja650rr 5 時間5 時間前
@sunamajiri
常楽我浄…

無常であるのに常と見て、
苦に満ちているのに楽と考え、
人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、
不浄なものを浄らかだ

…とみる事
。)

菊池 ‏@kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr おっしゃる通りです。四諦の「諦」とは「あきらめる」ではなくて、「あきらかにする」という意味だと思います。そして、「生きる事は苦であるが、苦には執着という原因がある。その原因を克服する事で苦を乗り越える事が出来る」この道理を「あきらかにせよ」だと思います。

隠者(人間) ‏@inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 四諦の理を理解する為の八正道。
四諦の理を超える事で涅槃寂静。即ち≒0の精神に到達できるのでしょうね。

菊池 ‏@kikuchi_8 8 時間8 時間前
@inja650rr 四諦と八正道は相補的だと思います。八正道の最初「正見」とは四諦の理を認識することが含まれていると思います。四諦の理と申しましても、そこに到達する真理のようなものではなくて、あくまでも実践上の指針のようなものだと思われます。四諦を実践する事で「涅槃寂静」にと

隠者(人間) ‏@inja650rr 8 時間8 時間前
@kikuchi_8 八正道の正見は、御釈迦様のいう中道の精神に欠かせないものだと思います。
プラス側にもマイナス側にも思考が偏らない境地を目指す事。
それこそが、涅槃寂静
(≒0)なのかもしれません。

菊池 ‏@kikuchi_8 8 時間8 時間前
@inja650rr はい、まさに中道ですね。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月10日
キリスト教徒やカルト信者と並び西洋近代哲学信奉者も、「自己相対化」という事がとことん苦手らしい。彼らの依拠する絶対的前提が揺らぐことへの過度な恐怖心を持っている。例えば「空」を「虚無」と曲解し感情的に反発するのは、「実体」概念という自らの基盤を掘り起こされる事への恐怖心だろう。

西洋近代哲学信者は「空」や「無常」を虚無と曲解する。しかし不変の「実体」を想定する事が実は虚無なのだ。変化しないからどのような意志的努力も無意味 となってしまうからである。より良い自分になろうとしたり、良い環境を作ろうと努力することも変化しないなら全て徒労。これこそが「虚無」だ


菊池 ‏@kikuchi_8 6月10日
↓いつも的確なコメントをしてくださり感謝です。本当にその通り。哲学のふわふわした議論を数日も続けていると現実と接点のない空虚な遊戯をしている感覚になる。もっと実のある事を語るべきだ。西洋近代哲学信者が耶蘇やカルト・スピとあまり変わらない体質だと分かった事をせめてもの収穫としよう。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月11日
「善と悪の最終戦争」という危険思想は「善」と「悪」を実体視する所から生まれる。最初は何気ない言語化から始まるが、その度合いが進むと形而上学化し、さらには宗教化、最後には絶対的ドグマとなる。その妄想が本当に戦争を引き起こす。「実体視」というのは 事程左様に危険な思考習慣なのである。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月6日
@sunamajiri 心を認識作用と捉えるならば、心も時間という形式を持っているようにも思うのですが。つまり、「作用」という限りは、時間的幅があるはずです。対象は常に認識された対象なので、対象が時間性を持つならば、その認識自体も時間性を持つように思うのですが。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月9日
ドイツ観念論はほとんど無意味な事を語っていると思える。「こういう説明の仕方もできる」という事なら意味があるが、それが事実そのもののように語るとしたらもはや迷信のレベルではないだろうか。形而上学を語っているという事に無自覚な形而上学の徒はとても厄介。「高級版スピ信者」では。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月16日
明治以来よくいる西洋崇拝者=「洋学紳士」諸氏の有様①西洋の権威を取りあえず鵜呑み・脳内西洋人と化す②脳内西洋人の視点から日本を歪んだ視点で捉える③歪んだ視点で拵えた日本に関する偽問題を論う④最初の対象認識が歪んでいる以上無意味なから騒ぎ(基本的にストローマン)➄ご苦労様である。

明治の「洋学紳士」は基本的に左翼の自虐史観派の精神構造のプロトタイプである。西洋イズムを気付かれないように伝統に混入する手口よりは、ひねりが無く ストレートではある。手口の差異はあれど結局同根だが。洋学紳士の系譜からキリスト教社会主義者・マルキストの系譜が派生する。新人会が萃点だ。

親英米保守は脳内イギリス人と言える。彼ら「保守」を名乗るが、違和感を感じるのは、イギリス貴族的な差別意識と傲慢さが強い所。心の底では日本人を馬鹿 にしている。イギリス精神に憑依されている。イギリス貴族文化被れのくせに何が「保守」だと。一方、おフランス大東社精神に憑依されたのが左翼

菊池 ‏@kikuchi_8 6月10日
西洋近代哲学信者から「廣松主義か?」と、考察で取り上げただけで随分料簡の狭い質問を受けた。何度か申したが哲学は「参考までに」という捉え方である。哲学や思想は「活用」すべきものであり、ドグマとして信奉するようなものではないと考えている。現実解釈として理に適えば参考にするのみだ。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月5日
廣松哲学の、「世界が世界を認識する」総世界的連関体、という考え方が非常に華厳的だと思った。「無限の縁起的関係性」を説く華厳思想と、認識の「総世界 的連関体」を指摘する廣松哲学は、かなり酷似しているのではないか?と感じる。縁起・無自性・空が基本の華厳と実体概念の破棄を唱える廣松哲学。
@kikuchi_8 認識は縁起的に関係的に成立する、ということだろう。例えば、脳はそれだけで機能する自己完結的なシステムではなく、人体の他の部位や人体外の自然環境と連動するオープンシステムであり、そういう連関構造の中で初めて機能すると。実に仏教の縁起思想的だ。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月5日
直接倒せないなら、宮中周辺にキリスト教徒やメーソン員を送り込んで内側から乗っ取る、というのが国際秘密力の対御皇室戦略の骨子だと分析している。八切止夫が述べたサンカ人脈から得たと思われるインサイダー情報によってある程度裏付けられると思う。直接倒せないなら憑依する、が国際秘密力戦略

菊池 ‏@kikuchi_8 6月5日
「唯識」は「物に対して心だけ」とか「物質に対して精神だけ」という観念論というよりも、「人間にとって世界が展開する場は(深層心理を含む)意識」という哲学だと考え る。認識主体にとって「物質」は五感や思考の対象としてしか現前しないと。その上で近代哲学と違い「物自体」を否定する。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月5日
唯識を考える上で参考になりそうだ。量子力学のコペンハーゲン解釈:量子力学の状態は、いくつかの異なる状態の重ね合わせで表現される。このことを、どちらの状態であるとも言及できないと解釈し、観測すると観測値に対応する状態に変化すると解釈する。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E8%A7%A3%E9%87%88 …


菊池 ‏@kikuchi_8 6月5日
量子力学のコペンハーゲン解釈を聞くと、廣松渉の「四肢的構造連関」という認識論が思い浮かぶ。認識主体と認識対象は主客で二元的に分かれているのではなく、一体の構造であり、認識主体のあり方が認識対象のあり方を規定する側面を指摘する。廣松氏は能所の不二一体性という仏教的表現をしていた。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月5日
アインシュタインの相対性理論はエルンスト・マッハの認識論(マッハ主義)に依拠する部分が多いそうだ。マルクス・レーニン主義者はマッハ主義を「観念論」として嫌うそうで、だからソ連では相対性理論は禁圧されていた由。では何故核兵器開発ができたのか?西側からの援助だろう。冷戦捏造両建芝居

菊池 ‏@kikuchi_8 5月28日
エベールは理性を崇拝し、ロベスピエールはそれを批判し「最高存在」(「自由」の理念のことらしい)を崇拝する。これはあまり大差ないだろう。前者は認識主体の側を実体化して崇拝し、後者は認識対象の側を実体化して崇拝しているだけの違い。唯識で言う見分と相分を其々実体化した「無明」の立場。

@kikuchi_8 「空」(勝義)を踏まえない哲学的立場(なんらかの実体を想定する実在論の立場の事と思われる)は全て「道理世俗」と呼ぶらしい。「実体」は「不変」をそ の性質としているので、実体を想定すると変化する現象世界が説明できず、必然的に現象と実在の二元論二世界論に帰結する

@kikuchi_8 「我法二空」(「我」は主体、「法」は客体、主体以外の事物)というが、理性崇拝は主体である「我」を実体視して固執する「我執」の立場、「最高存在」の崇拝は客体である「法」を実体視て固執する「法執」の立場、と言えるかもしれない。いずれも実体論の範疇である。

菊池 ‏@kikuchi_8 5月28日
豊臣秀吉の伴天連追放令は天正15年(1587年)だが実はその20年以上前の永禄8年(1565年)に正親町天皇がキリシタン追放の綸旨「大うすはらい」を出されている。豊臣、徳川よりいち早くキリスト教の危険性を看破されていた朝廷。明治以後耶蘇勢力が宮中に狙いを定めた動機はこのあたりか。

イエズス会HPにキリシタン関連の年表があったが、1565年のところにしっかりキリシタン追放の綸旨「大うすはらい」(でうすはらい)が載っていた。連 中しっかり覚えている模様。日本への文化侵略の為に彼らがどこを狙っているのか。宮中御周辺にキリスト教徒が多いのは決して偶然ではないと思う


一神教では、偶像崇拝がいかんと言われるが、「造物主」崇拝というのも偶像崇拝ではないだろうか。物質的な偶像と言えども認識主体に認識されている限りで は知覚的な表象である。造物主概念は想像的な表象である。それぞれ知覚的か想像的かで違いがあるだけで、対象的事物であることに変わりはない

仏像を破壊するときのキリシタンの心像風景を想像するに、彼らの意識対象には強烈に「でうす」という想像的な表象が浮かんでいたと思われる。仏像という知 覚表象より「でうす」という想像表象が優越する合理的理由などは無い。仏教では「縁起・無自性・空」を説くから究極的には対象化は否定される。

@kikuchi_8 意識は意識作用(主体=見分)と意識対象(客体=相分)からなる。「造物主」という想像的な表象以外は全て無価値とするのがキリスト教である。唯識仏教で はあらゆる対象は意識作用の対象面だと考えるから「造物主」も形として浮かんだ仏も単なる意識対象=相分という事になる。

菊池 ‏@kikuchi_8 10月27日
「空」は「無」と混同されがちで、空思想=ニヒリズムと誤解される事が多い。しかし本当は「空」は「縁起」と同義なので「空」であるものは「存在する」という事。中村元先生の解説によれば「縁起だから無自性。無自性だから空」という論理的順序だそうだ。結局、縁起は空と同義とのことであった。

「自性=実体として存在しているのでない」となれば、「どのように存在しているか?」という疑問がわくが、その答えが「縁起として存在している」となる。 つまり、他の力を借りずにそれ自体で存在しているのではなく、常に原因条件に依存して縁起的=関係的に存在している=空である、という事。空≠無

宗教は人心支配の為の強力な武器になっているようです。「こういう風に大衆を誘導したい」という狙いから逆算して宗教構築


菊池 ‏@kikuchi_8 6月19日
耶蘇原理主義者が「善悪二元論は勧善懲悪という事だから普通の事」みたいに書いていたがさにあらず。善悪二元論は常識的な勧善懲悪論ではなく善と悪という概念を実体視した形而上学。この意味で「神と悪魔の闘争」という耶蘇教が「光と闇の闘争」というゾロアスター教の影響下にあるのは明らかだろう。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月6日
@sunamajiri 無常論は常に変化しつつある現象の容態を観察して記述しただけのことだと思います。シンプルです。そもそも「時間」というからにはそこに「変化」のニュアンスが概念的に含まれているはずであり、もし不変であり恒常ならむしろ「無時間性」が帰結するようにも思います。

菊池 ‏@kikuchi_8 5月25日
高度なテクノロジーによる管理支配というのはまさに「イルミナティ」の思想。理性を軽視又は放棄するキリスト教への反動から理性を過信する理性崇拝教が生まれた。両極端だが、何かを実体視して妄信している点は共通している。キリスト教で崇拝する「造物主」を内面化したものとしての「理性」を崇拝

菊池 ‏@kikuchi_8 5月25日
理性とは推論する能力。推論には出発点が必要。最も確実と思われる出発点は知覚等により経験的に確かめられたもの。できるだけ不確定な要素が無い方が結論はより適切になる。だが自然が対象ならまだしも統治体制をデザインするにはあまりに不確定要素が多すぎる。これが「できる」とするのがイルミナ

yajima-mieko ‏@emieko 5月26日
自然や自然現象といわれるものこそ不確定要素が強いどころか、人間にとり不可知でないか、と思っておりますが、自己の外在物であるものとしてそれを対象化する働き=知性においては。なんであれ理性によって遍く支配できるとするのが顛倒想でNWO。 https://twitter.com/kikuchi_8/status/602863211193368576 …
菊池 ‏@kikuchi_8 5月25日
推論能力としての理性は比較的確実な知覚による経験が可能な自然現象に適用する分には割りと的確な結論が出る。だが理性でゼロから統治秩序が設計可能か?理性を機能させる前提はこの場合どこに置く?各国の歴史・文化の相違等の不確定要素が多いので理性を全世界に適用してNWOを構築など不可能

菊池 ‏@kikuchi_8 5月26日
@emieko 自然界ですらそうなのですから、複雑な人間の意志や感情が交錯して形成されている社会組織のデザインを理性の能力でゼロから構築するのは不可能事だと思われます。社会組織は歴史的慣習の叡智を重視しつつ、悪い部分は慎重に改良していく、という漸進的なあり方が無難と考えます。

@emieko それに、量子力学(これについては私は無知ですが)などで解明されたミクロの物質世界における「非決定性=一義必然性の否定」からすると、自然界そのものが不確定要素を含んでいる事が明らかになっておりますね。

@emieko はい。対象自体・意識内容・意識作用という近代哲学の三項図式からしますと、「自然界そのもの」(があると仮定して)は確かに不可知であると思います。人 間にとって現前する自然はどこまでも視覚や触覚、あるいは思考作用で概念的に把握された限りでの「自然」であると言えますね。

菊池 ‏@kikuchi_8 5月26日
自然現象こそ不確定で不可知なものではないか、というご指摘を受けた。確かに。認識主体としての人間に現前してくる「自然」とは常に視覚や触覚等の感覚作用、思考作用で把握された概念としての「自然」であり、意識作用を離れて「自然」を感知することはできない。その意味で確かに「唯識」である。

@kikuchi_8 認識主体に立ち現われてくる五感の作用(電子顕微鏡等の器具を使った拡大された知覚を含む)を概念的にまとめて、その規則性を記述する=科学といえるかも しれない。「理性」は感受された五感作用を概念的にまとめた上で、概念同士を操作して推論を遂行する能力と言えるかも。

@kikuchi_8 五感として現成する自然現象は一応規則的だから自然科学は比較的正確。このように自然科学の場合は理性を機能させる前提を広義の感覚や知覚に置く。だが 「理性で世界政府を構築」となると、何を基礎に「理性」を機能させるのか。NWOは理性を過信した者以外からは出てこない。

菊池 ‏@kikuchi_8 5月26日
理性崇拝とはキリスト教の「造物主」を「理性」に変えただけの実体的な絶対者崇拝。西洋における反キリスト教思想は発想の根底がキリスト教と共通。引用:(理性崇拝とは)神に代わり人間の「理性」を崇拝しようという非キリスト教化運動。【理性の崇拝】http://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-075.html …

iseakira ‏@iseakira 5月26日
@kikuchi_8 結局これってキリスト教(または旧約含む)世界の中の話でしかないわけす。理性崇拝の極端な形の、知性の実を食べさせた蛇を崇拝するだの、サタン崇拝だの見れば構図は分かりやすい。非キリスト教的自称のものも含めて、みなその世界観の中のおはなし。「しらんがな」なわけです

菊池 ‏@kikuchi_8 5月26日
@iseakira まさに「はげどう」というやつであります。理性崇拝にしろ、理性崇拝を人格神的に表現したと思われるルシファー崇拝にしろ、「神との合一」の西洋神秘思想にしろ、キリスト教世界のフレーム内での相互対立でしかないわけですね。非耶蘇圏からするとまさに「しらんがな」ですね。

(“理性の崇拝

フランス革命のジャコバン独裁期に、エベールらが推進した非キリスト教運動。
フランス革命が進行し、ジャコバン派独裁政権が成立した時期の1793年に、左派のエベールによって進められた神に代わり人間の「理性」を崇拝しようという非キリスト教化運動。アンシャンレジームのもとで王権と結びついていたカトリック教会に対しては、革命当初から批判が強められており、特にジャコバン派の中の急進派であるエベール派がキリスト教否定の立場をとっていた。
 1793年に国民公会でカトリック暦が廃止されて革命暦(共和暦)が採用されたことで非キリスト教運動は盛り上がり、教会の破壊や聖職者の妻帯を進め、その一方で「理性の祭典」が組織されていった。10月、パリのノートルダム大聖堂は革命派に占拠され、祭典が強行された。


ロベスピエールは理性の崇拝を批判
 しかし、ロベスピエールを中心とする公安委員会は、「理性の崇拝」の強要は無神論であり、またその強要は信仰の自由に反するとして、エベール派を批判、またダントンらの右派も反対した。その結果、94年3月にロベスピエールによってエベールが反革命として処刑され、理性の崇拝は廃止された。ロベスピエールはキリスト教の神に代わる「最高存在」を革命のシンボルとしてつくりあげて、それを祝う祭典を計画し、同年6月に「最高存在の祭典」を挙行する。”
http://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-075.html)

通常より短い記事をお読みくださり本当にありがとうございます!

「人生というクソゲーを攻略する方法」。原始仏教は宗教=執着=苦しみの原因を否定。つまり原始仏教は苦を克服する為の現実的なカウンセリング術『バウッダ―仏教』。 キリストきょうはユダヤガワルイをとなえた! キリストきょうをたたけなくなった! ✝が黒幕。 

 原始仏教は宗教=執着=苦しみの原因を否定。つまり原始仏教は苦を克服する為の現実的なカウンセリング術

人生というクソゲーを攻略する方法
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20699310


上記の動画作成者は、人生攻略の手段としての執着を取り除くことを重視しています。
この動画の紹介も兼ねて、今回は、道(道一語で仏教を意味する。神道の意味はない)と仏道と仏法と仏教の話。

日本の伝統が神道ではなく仏教なのは日本語が仏教用語だらけなのと、神道・天皇・神器・惟神が道教用語(神道用語って何ですか?)であることから明白です。
金輪際、仏教用語を使わずに日本語を使おうとするとほぼ無理です。
日本語を学ぶ=仏教の概念を学ぶと言っても大袈裟ではありません。
ご飯をシャリというのは、舎利(しゃり。釈迦の骨)という仏教用語が元ネタであるように、明治以前の本物の天皇は仏教徒であり伊勢神宮に参らなかったように、日本の真の伝統は仏教=神と仏の実体を否定する思想です。
(さあ、ここまでで仏教用語はいくつ出てきたでしょう?)
神道家(笑)の息の根が止まりかけそうなことを言っておりますが、神道って「墓場への道」って意味があるんですよね。なのに、死体のことは「仏」とは呼びますが「神」とは呼びません。仏頂面はありますが、神頂面はありません。

神道=和風キリスト教という偽伝統を捏造したキリスト教の得意な呪文が
「ユダヤガワルイ」

キリストきょうはユダヤガワルイをとなえた!
キリストきょうをたたけなくなった!
全部ユダヤ(と在日)のせいにしている✝(と大本教系カルト)が黒幕です。


彼らの根本思想を理解したくないなら、支配層代表のプラトンの演説をどうか見ないで下さい。

【マギ】マギ特殊ED集【モガメット演説】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm22755002



ニコニコ市場に商品を貼ったのは私です。

初期仏教では呪文は禁止。
つまり「ユダヤガワルイ」も「ザイニチガワルイ」の呪文も禁止
(冗談)。

この呪文禁止ということは今の一般的な仏教ではまったく守られておりません。
般若心経の終わりのぎゃーてー以下略なんて完全に呪文ですし。
仏教の経典は難しいと思われているのは漢語のままのせいです。聞いても意味が分からないのだから、お経全てが意味不明な呪文みたいなものですよね?
漢文の書き下しを読んでも意味が分からないのだから、やはり意味不明な呪文です。
内容を理解するには、どうしても現在の我々の言葉に直す=口語訳が必要です。
が、多くの仏教学者が、口語訳とは経典の内容を卑属化するから駄目だと主張したせいで口語訳は今でも普及していません。
あの難解な古い訳語を墨守していたら学問自体の発展を邪魔することを判らないのが自称頭のいい学者たちです。
この人たちは仏教学者のくせに、人々に判るように言いなさい(口語訳しなさい)という釈迦の教えを守っていません
釈迦は、理解力のある人には相応に、一般の人にはとても解りやすく説きました。当然、現地の言葉で、聞く人々が分かるように語ります。少なくともそう心がけるでしょう(通訳を介することはあったでしょうが)。
つまり、経典の口語訳が卑属化であるなどという仏教学者の主張は、釈迦の教えに反する者であり、釈迦が聞けばさぞ残念がるでしょうね。
本記事で登場する般若心経にしたって、意味が分からないのに読んでも悟れるわけないじゃないですか。般若波羅蜜って漢語で言われて(今辞書を引くのちょっと待って)意味が分かりますか?
般若=(悟りの)智慧。
ハラミツ=波羅蜜=修行で完遂・獲得・達成されるべきもの。
釈迦の教え通りに伝えるなら般若波羅蜜多と言わずに、
「悟りの智慧の完成(完全に悟ること)」と今の人が分かる言葉で言わないといけないのです。

私が以下の仏教系ツイートを取り上げるのは、神と愛で侵略するキリスト教に対抗できる思想として、仏教(執着=愛は悪。愛憎を越えた慈悲が良い。神に実体なし)が良いと考えたからです。
私の思想は原始仏教(宗教=執着=悪)に近いですが、別に仏教徒ではありません。
仏教の慈悲は、キリスト教などのいう「人々への」憐憫の思いではありません。仏教においては「一切の生命」は平等で、全生物に等しく与えられるのが慈悲であり、愛憎の対立を超えたものなのです。
キリスト教では創世記で動物を支配させる為に神が人間を創った、とあります。キリスト教では人間は特別で霊魂があり、人間以外の動物にはない、と考えます。だから魚である人魚姫には魂がないのです。
キリスト教がいかに仏教を憎んでいるかが分かりますね?
仏教では愛は悪。愛は執着であり憎悪に繋がる。愛と憎しみを越えた慈悲こそが素晴らしいと説く。
しかも、ミトラ(弥勒)でわかるように日本の仏教にはキリスト教の真の元ネタであるミトラ教が混じっている。
だからこそ神道家(和風キリシタン)が主張する歴史(笑)は、仏教を完全に無視したりするのです。あと、仏教国教時代をなかったことにするために、超古代と明治以降の偽伝統が好きですね。伝統が無いからこそ伝統をでっちあげるのです。

仏教国教時代の多数派の思想である本地垂迹説では、神の正体は仏としています。つまり、神に実体なしとしているのです。神とは仏が被る仮面なのです。仏教では神は仏より格下です。
当然、仏教徒の本物の天皇は現人神ではありません。神に実体はなく、仏より格下なのだから、天皇を現人神と呼んだら反逆者ともみなされたでしょうね。だから現人神は伝統ではありません。
なお、仏教は仏すら実体はないとします(空の思想=絶対的存在の否定
)。
朝廷の思想が本地垂迹説=仏>神なのだから、神仏習合は八百万の神々を仏教化して仏教に取り込んで、国教=仏教勢力逆らえないようにする為に行われたものです。
だから神と仏は対等ではありませんでした。神仏習合は神と仏は対等だとする思想だというのは神道(和風耶蘇教)が流しているデマです
仏が神より上です。
仏教圧倒的優位の証明が、八幡大菩薩です。今の八幡宮(八幡神を祭神とする神社の総称)は、八幡は神だとして仏教化(仏教支配)をなかったことにしています。
しかし、昔は寺でした。八幡大「菩薩」を祀っている宗教施設はいくら神社と名乗ろうが「寺」ですから。
石清水八幡宮も昔は石清水八幡宮護国寺でした。「護国寺」=仏教の施設だったんですよ、石清水も。

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi
祇園は祇樹給孤独園という仏教用語の略称なのでシオンを意味することはない。精舎=寺。 ユダヤ教の行事カレンダーの7月は空白でシオン祭りは実在しない。 #日ユ同祖論 はスコットランド人製で #大本教 系の特徴

「天皇が信仰した思想体系がある伝統宗教」=神道は明治期のキリスト教による捏造
明治以の神道
単なる土着神崇拝。神社は地域土着の祭壇。政治に影響力なし
道教の一派としての神道(天皇と神器も道教用語)。
本地垂迹説=仏教優位で神仏習合。
#日ユ同祖論 は道教と仏教を無視


聖書が根拠の偽伝統
神道の現人神、神前結婚式、完全に良い意味での愛、 働かざる者食うべからず(勤勉な日本人)

仏教国教時代の本地垂迹説では、神の正体は仏=現人神に実体なしだから伝統ではない

おきむさん ‏@kimrising 2013年3月12日
祇園とは祇樹給孤独園の略。コーサラ国の首都シュラーバスティー(舎衛城)に住み、日頃から孤独な貧者に衣食を給与していて「給孤独」と呼ばれていた長者スダッタ(須達)が、釈迦の住居(精舎)として、コーサラの王子ジェータ(祇陀)所有の林(祇樹)を譲り受けそこに寺院を建て釈迦に寄進したもの

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 8月23日

@lanekota カテゴリーは分析に使うと便利。カテゴリーが通用しないものを人間は存在を認識できない。 支配者の思想の中核となるものの翻訳は特に中核となる箇所では信用できない。大学の研究で翻訳は参考程度なのが普通。特に古代語。シンプルな原文の用語を難解な専門語にするのはわざと。

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2月10日

猫太”あの難しい翻訳わざとなんですか。ラテン語の教科書といい、どんだけ陰謀にまみれてるんだかwわかりやすい言葉で書かれた古典シリーズを作りたいですう”
言語で分割統治。例えばウィキでは日本のことなのに、日ユ同祖論の起源がイエズス会で布教意図もあったことは英語版にしか書いていない


たうべ@畜20年 ‏@taubeeeeee 8月29日
愛って漢字あるじゃん あれって訓読みないんだよね ってか基本的にアイしか読み方ない 漢字はもともと大陸由来だからアイって言葉も外来語なはずなわけで 訓読みがない以上はその概念すらなかったんじゃないかと

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 11月9日
@taubeeeeee 「愛」は仏教では執着=悪。 キリスト教では創造神が与える善。 なのでアガペーは16世紀(仏教が国教)の『どちりな きりしたん』では「御大切」と訳されました。 明治維新でキリスト教の植民地になって以降、愛=善というキリスト教思想に染まったのが今の日本人です

ぴいぷう妖怪 ‏@pirorinpipipi 11月10日
@kitsuchitsuchi @taubeeeeee 「愛」=執着 自分は相手をこんなに愛してるという自己陶酔。もっと愛されたい。もっと○○をしてあげたい。浮気しないで!私だけを愛して!という押し付けがましさ。愛は嫉妬、憎悪、ストーカー、DV、暴力、戦争などトラブルを生む

@kitsuchitsuchi @taubeeeeee 愛ってウザイし妄想激しいし執着心強いしひとりよがり。激しく愛し合ったカップルほど別れ際は激しい憎悪キリスト教の「愛」よりも、、、仏教の「慈悲」が大事!! はんにゃ~は~ら~みった~♪


菊池@kikuchi_8 • 12月5日
6)王仁三郎は「わしは先ず仏教を滅ぼす型をやるのや、それが色々な宗教を滅ぼす型になるのや」と日本の伝統宗教を破壊することを明白に意図していた。これはワンワールドの露払いであろう。文鮮明も宗教統一を標榜。日本会議に世界連邦主義者多し。最近の「宗教国連」。意味は同じ。皆同じ穴の貉。

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 9月25日

西洋人の神は常住善と常住悪の
肯定から来ている。プラトンの
言うイデアと一緒ね。
仏教は無常を説くので、
そもそもイデアなんか存在しません というスタンス。

ちなみに常住というのは実存する
という意味ね。反対語が無常


J・ナナミ @pinkglalem
以前、学会員の方に言ったんですが、「仏教は宗教ではありません。“空の概念”が存在する限り、アレは哲学です。仏教に信仰を持ち込んだら、ソレは既にカルトです
...相手は、絶対に納得しませんでしたね。

昔、学会員の人と話してて、佛教とは仏を否定する哲学と言ったら、信じてもらえなかった。創価は佛教を偽装した大本教だから...彼らには理解出来ない。ネズミ講のよーな収奪システムの中で来る筈のない未来の幸福を待ってる。佛教はその“未来”ってヤツを否定してる

フロイドの精神分析は佛教に似ている。「時間」と「空間」と、それらを造った「神」の否定。これら3つは、人間の作り出した妄想に過ぎない。そう論破したのが、佛教。それゆえに政治的には宗教の目的(人心掌握)をなさなかった。だから本場インドでは佛教は死滅した。

佛教では「愛」を執着とし、否定しました。キリストは執着しました。私も何も信じていない。ところが、どこかで何かを無意識に信じているのです。何かに執着しているnです。私も...カルマですかね?私たちが見る物、信じている物はすべて幻想です。


時間は空間が存在しない限り、存在しない。空間は私たちがイメージの中で造り出しているモノで、現実には存在していない。このイメージに執着する事を、佛 教は「愛」と呼んだ。キリストは愛を説くが、佛教は否定している。故に、佛教は時間を否定するが、キリスト教は肯定している。

人類最大の病はキリスト教。なんで、アラビア半島の局地的な信仰が、世界的に蔓延するのか?誰も疑問に思わない。いや、怖くて口に出さない。あれはただの精神病。#カルト #強迫神経症 #戦争 #ユダヤ陰謀論 #偽情報工作員

出口王仁三郎や笹川良一と血が繋がっていたと言われる牧口常三郎は明確に佛教の戒律を否定しています。だから、在家団体が誕生した。

明治維新の際に、この隠れミトラの佛教を駆逐する為に作られたのが、金光教、天理教、大本教。創価学会は大本の分派。出口王仁三郎と牧口常三郎は異母兄弟。牧口の甥が戸田城聖。牧口が大石寺に通って、在家信者団体創設の許可を取り付ける。佛教に偽装した大本教

バラモンというのは、あーだ、こーだと、へ理屈をゴネて原住民の存在を全否定して、自分達の支配の正当性を説いたんですが...このへ理屈に特化した邪教(佛教)は、バラモンの存在理由まで否定し始めちゃった。さー大変。インド社会は立ち行かなくなります。
この邪教(佛教)の台頭で、インドの支配階層のヒエラルキーが否定され、危機感を感じたバラモンは理論武装して対抗しました。理論武装で生まれ変わったバラモン教が、ヒンディー教です。

菊池 @kikuchi_8
スッタニパータ1035【 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるもの でのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」】←洗脳防止の指針にもなりうる名句かと。

3)逆に洗脳を防止する為には五感を通して入ってくる感覚や情報に気を付けることが肝要となる。仏陀は最古の原始仏典スッタニパータの中で「煩悩の流れを せき止めるものはなんですか?」という学生アジタの質問に答えて「気をつけること」と答えている。極めてシンプルだが、確かにその通りである。

11)最古の仏典であるスッタニパータに「世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである」と極めて簡潔な煩悩克服法の記述 がある。あまりにも簡潔だがよく考えてみると確かに合理的である。仏教自体が本来極めて理にかなった精神鍛錬法の体系とも言える。



仏陀 ブッダ ことば 仏教 @Buddha_Words
837 マーガンディヤよ、「私はこのことを説く」ということが私にはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における過誤を見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎを私は見た(スッタニパータ)

841 マーガンディヤよ、あなたは自分の教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執着した事柄について迷妄に陥ったのです。あなたはこの内心の平安について微かな想いさえも抱いていない。だからあなたは「ばかばかしい」と見なすのです(スッタニパータ)

1070 よく気をつけて、無所有をめざしつつ「何も存在しない」と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ(スッタニパータ)

855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において他人を自分と等しいとは思わない。また自分が優れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。彼には煩悩の燃え盛ることがない(スッタニパータ)

1119 つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は見ることがない(スッタニパータ)


839 「教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる」とは私は説かない。「教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも清らかになることができる」とも説かない(スッタニパータ)

846 ヴェーダの達人は、見解についても思想についても慢心に至ることがない。彼は宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。彼は執着の巣窟に導き入れられることがない(スッタニパータ)

399 禍いの起るもとを回避せよ(スッタニパータ)

436 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる(スッタニパータ)
437,438 汝の第五の軍隊は物憂さ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊は見せかけと強情と誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己を褒めたたえて他人を軽蔑することである(スッタニパータ)

450 最上の善いことばを語れ。これが第一である。正しい理を語れ。理に反することを語るな。これが第二である。好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。真実を語れ。偽りを語るな。これが第四である(スッタニパータ)

1078 世の中で真理に達した人たちは、哲学的見解によっても、伝承の学問によっても、知識によっても聖者だとは言わない。煩悩の魔軍を撃破して、苦悩なく、望むことなく行う人々、彼らこそ聖者である(スッタニパータ)



中村元/三枝充悳『バウッダ―仏教』 (小学館ライブラリー (80))

バウッダ―仏教 (小学館ライブラリー (80))バウッダ―仏教 (小学館ライブラリー (80))
(1996/03)
中村 元、三枝 充悳 他

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「愛」の語は、阿含経には「渇愛」としてあり、愛は欲望の一種で、最も激しく、自己中心的であることから、厳しく排斥される。愛ないし大愛の語が仏教に迎えられるのは、ずっと後代の、密教に入って以後のことである。

慈悲
=慈(他に楽を与える。与楽)+悲(他の苦を抜き取る。抜苦)。

・仏教の最初期から慈悲、慈と悲に加えて、喜(き。ムディター)と捨(しゃ。ウペッカー、ウペークシャー)とが一括して説かれることが多い。
喜とは自らの喜びと同時に他を喜ばすこと。
捨とは平静を指し、心に動揺も偏向もまったくない在り方を表現する。それは、いわば完全な無差別から、更に無性に通ずる場に、いわゆる「無縁の慈悲」を招き寄せて、なんらのかかわりをもたぬものに対しても、大いなる慈悲をもって接しつつ、しかも慈悲ということそのものを空(くう)じているという。このような慈悲喜捨は、どこまでも限りなく広げられて、これを四無量(心)(しむりょう。しん)という述語の成立を見る。

紀元前に釈迦の姿が彫刻されることはまったくありえず、空白のままにするか、あるいは数種のシンボル(仏足跡、菩提樹、法輪など)で表現される。仏像がインド北西部のガンダーラに、また中インドのマトゥラーに最初に出現するのは紀元後一世紀末~二世紀以降というのが定説である。

・古くから仏教教団はサンガと呼ばれ、これが漢訳では「僧伽(そうぎゃ)」と音写されて、日本語の「僧」となる。したがって、僧とは、元来は教団全体を意味し、個人を意味する語ではない

・インドで仏教が衰退し、滅亡したというのは、正確には、イスラーム軍によって、1203年にヴィクラマシラーの大寺院が徹底的に破壊され、比丘はすべて殺され、仏教サンガがインドから消滅した。

業(カルマ)と輪廻(サンサーラ)は、すでに仏教創始以前の古ウパニシャッドに説かれており、全インド人に不可避の強固な人生観を形づくって、インド史全体を貫き、現在に及ぶ。現世における業、すなわち行為によって来世に生まれる場が決定される、とインド人は信じて疑わず、来世の場には、地獄・餓鬼・畜生・人間・天の五つを立て、のちのは、畜生と人とのあいだに阿修羅を挿入して、これを六道と称する。
つまり、来世に六道のいずれに生まれ変わるかは、すべて現世の業が決定し、この生まれ変わりであり輪廻は転生とも呼ばれる。これは生あるものは決して逃れられないという考えがインド人すべてを支配している。

・仏塔(ストゥーパ。卒都婆。卒塔婆)崇拝
もともとインドでは、古代から格別に由緒ある人、特に聖者に対して、滅後その故人を記念する墳墓をつくり、それには土饅頭型に土を盛り上げて祀った。通常インドでは、一般の人々は元来(現在もなお)各個人が死後も長く留まる墓に相当するものを設けない
輪廻転生思想が広く行き渡り、普通の人々は死後最大四十九日までには、再び新たに「生あるもの」に生まれ変わると固く信じていて、墓そのものの必要性も、その意義もないことになる。おおむね死後は遺体が河畔に運ばれて火葬にされ、そこに残る骨も、灰も、ことごとく河に投ぜられる。それがガンジス川であることを強く望み、とりわけその中流のベナレス(ヴァーラナーシー)は最大の霊場として、今日に至る。釈尊は入滅後、インドの古風に従った。つまり、ニルヴァーナ(涅槃)に達して輪廻することのない釈尊の遺体は、クシナーラー村の住人たちによって荼毘(=火葬)に付されたあと、その遺骨と遺灰とを多くの在家信者たちが入手を争い、結局は有力な信徒に八分割され、彼らはそれを持ち帰って、記念碑であるストゥーパ(仏塔)を建設し、その遺骨などを丁重に土の下に祀った。
中国と日本に伝わると文字通りの塔になる。中国では土と木、日本ではもっぱら木(卒塔婆)でできている。
また、スリランカ、ビルマ、タイ、カンボジアなど南方に伝わって「パゴダ」となり、石造のものが多い。
仏塔はインド全体に広がっているが、南部のデカン高原には、数多くの窟院(くついん。レーナ)が開削された。現存するものだけでの千二百以上あるといわれ、その約七五パーセントは仏教に属していた。その古いものは、紀元前二世紀ないし紀元前一世紀にはじめられており、特にアジャンターとエローラとの窟院群が名高い。なお、窟院には、仏塔を祀る礼拝堂と、比丘たちが住む僧院との二種があった。
(え、仏教って墓石を作らないの? じゃあ日本のあのバカみたいに高価な墓石はなんだよ、言いたくなりますが、墓石は儒教の思想です。位牌も儒教ですよ)

「仏教」という言葉の使用例は存外に新しく、明治期の日本が欧米「近代」の移入を図った時に軌を一にする。「仏教」の語は「仏の教え」を意味する少数の場合を除くと、江戸時代末期まで知られていない。
江戸時代までの文献では「仏教」という語はほぼ絶無。教えないし理論については「仏法」といい、
実践に関しては「仏道」(この原語は「さとり」そのものをいう)の語が用いられており
、仏法と仏道という語に日本人は(中国人なども)千数百年間なじんできて、今日でも一部は維持されている。
五世紀以前の中国では「道教」とも呼ばれた
また、多種多彩な漢訳仏典中から特定の教えをみずから選びとって「宗(むね・主・本・長)」とすることが六世紀の中国に生まれ、その宗の教えとして「宗教」の語がここに発明された
宗教は仏教の下位概念に属し、仏教徒のあいだでのみ用いられて、日本でも明治初期まで仏教諸宗は「わが宗教」と称し、かつ仏教は仏法や仏道(単に「道」だけでも仏教を意味する)などの語で表現されていた
江戸末期の開国で外国語の翻訳としての今日の用法が定着する。仏「教」としたところにすでに西洋思想による変容がなされている。
同時期に哲学という造語が誕生し、仏教・宗教の後も本来的意味を改変されて、すでに日常語化して現在に至る。
宗教とは「宗」派の「教」えであるから、仏教の下位概念であり、仏教者のあいだでのみ宗教という語は用いられた

・バウッダはサンスクリット語でブッダを信奉する人。
古代インドの哲学書などでは、仏教の教説のことをバウッダ・ダルシャナといい、バウッダというときはどこまでも、仏の教えを信奉する人のこと。
インドでは宗教や哲学は各個人のもの。社会的権威によって束縛されるものではない。だから、西洋でいう「クリスチャニティ」や「イスラーム」に相当する造語法が古代インドにはない

現代インドでは、佛教(仏教)を意味してバウッダ・ダルマといい、スリランカではブッダ・ダンマあるいはブッダ・サーサナという呼称を用いるが、外来宗教に対立する宗教だという自覚が強くはたらいている。

・ブッダ=真理を悟った人。ジャイナ教でも最高の聖者をブッダと呼ぶ。仏教は当時から使われていたブッダを採用した。ジャイナ教徒のあいだでは『聖仙のことば』(イシブハーシヤーイム)という書を伝えている。この書は聖人、賢者とみなされていた哲人のことばを集めたもの、あるいはその哲人たちについて歌った詩を集めたものである。この書ではいかなる宗教の人であろうとも、聖人、聖者をブッダと呼んでいる。
(ブッダは複数いることが重要で
すね)

・仏教は「法」を説くのであって、「教義を説くのではない」。諸宗教や哲学の説く教義なるものは偏見として仏教では排斥する
仏教の説く教えも「方便」である。それは筏のようなもの。目的を達したら捨てられねばならない。筏を大切なものだとして大事にしがみついているのは単に「執著」にすぎない。
原始仏教では法の権威が最高のものであり仏より上位だった。
ブッダは永遠の理法を説いたのであって、新しい宗教を創始したのではない。ブッダは普通名詞であって、幾人いてもかまわない。
(仏教は教祖とされる釈迦が実在しなくてもまったく問題ない
教え。
キリスト教は十字架にかけたれたことにされている生贄=教祖が実在していないと教義が崩壊する教え。
そもそも冤罪なのに罪を購ってくれた自分が生まれるはるか前の神の子に感謝って凄い教義ですな。罪=悪を創ったのも神=善のふりをする大悪魔ですよね。
自由意志で悪を選択したって?
じゃあなぜその悪を滅ぼさないんですか?
なぜ悪を野放しなのですか?
そもそも悪という選択肢をなくせばいいのでは?
信仰を試す? 意地「悪」ですね!
悪ではなく「善の欠如」だという言い訳をする人がいますけど、悪という概念は善という概念がないと成立しませんよね? 善に相当するという言葉だけがあって悪に相当する言葉がない言語を教えてくれませんか?
聖書の神を「極悪人」と置き換えて読むと非常に納得できますよ


・阿含経に満ちているあまたの問いは、すべてみずから現に体験している苦しみ、悩みから発せられ、そのそれぞれに対して釈尊はその質問者の現実に即して答える。ただし、苦悩そのものを即座に解消するような、いわば直接的な手段や方策というよりは、むしろ苦悩に対処してゆくべきその在り方をとりあげて、それを熟慮しつつ答えがなされる。いわば外部の状況その他は不変のままでありながら、みずから苦悩としているところが、実は苦悩ではなくなり、いつしかその苦悩がその内部において消え、安らかな境地にもたらされる、そのような図式を描いて展開する。
釈尊はその答えにおいて、人間の力を絶した創造主としての神も、また祈禱や呪術もことごとく退けており、超自然的なものは排除している。そうではなく、あくまでもこの現実に徹し、この現実に即し、終始この現実において解決しようとする。この意味において、釈尊は、総じて仏教は、常のこの現実を直視し、凝視するという立場に基づく現実主義、と表現され得よう。
仏教では哲学的アポリア(難問)、つまり形而上学を意図的に斥ける。
(釈尊が形而上的な=確かめようがないことを語ると、それが教義になってしまいますからね。
形而上学的なことは現実的思考から離れてしまうので答えなかったのです


阿含経は十種にまとめ十難と術語化した。
①世界は常住(世界は時間的に無限)
②世界は無常(世界は時間的に有限)
③世界は有辺(世界は空間的に有限)
④世界は無辺(世界は空間的に無限)
⑤身体と霊魂は同一
⑥身体と霊魂は別異
⑦真理達成者(如来)は死後に生存する
⑧真理達成者(如来)は死後に生存しない
⑨真理達成者(如来)は死後に生存し、かつ生存しない
⑩真理達成者(如来)は死後に生存するのでもなく、かつ生存しないのでもない
これらの質問は何回も反復されて釈迦に回答を求める。
釈尊は常に「無記」を通した。すなわち、どのような誘導があり、あるいは誹謗があっても、あくまでも沈黙を守り続けたまま、何の答えもしていない


苦=自己の欲するままにならぬこと、思い通りにならぬこと

・仏教の「生」(しょう)は全て「生ずる」「生まれる」意であり、「生きる」意ではない。

・刹那(クシャナ)=75分の1秒=0.0133……秒

・仏教では「無時間的な実体」のような考えはことごとく排除されている。

・ほとんどの仏教解説書に「実体の否定としての無我」が無我の説明としてあるが、これは阿含経(初期仏教の教典)かならかなり離反している。
阿含経に説かれる無我は、特にその原初形は、「執着の否定としての無我」あるいは「無我とはとらわれないこと」と解さないといけない。
初期の大乗仏教の「空」を理論づけた龍樹も、実体否定論と同時に、一貫して「空とはとらわれないこと」と説いている。

・初期仏教の経典のスッタニパータに
自己を洲(す)とし、自己を依りどころとして、他を依りどころとせず、法を洲とし、法を依りどころとして、他を依りどころとせずに、住せよ

「洲」のパーリ語は、ディーパであり、それはパーリ語が、大河の中に浮かぶ島あるいは庇護所を意味するサンスクリット語のドゥヴィーパに相当するこの解釈に基づく(現在の学会では、この解釈が正当とされる)。
しかしサンスクリット語には、上記のパーリ語と同じディーパという語があり、それに結びつけるならば、「あかり、燈明」となる。
先程引用したスッタニパータの箇所を漢訳した阿含経の該当箇所では
自燈明、自帰依、法燈明、法帰依(自らを燈明とし、自らを帰依とす、法を燈明とし、法を帰依とす)

・マントラ=マン(考える)+トラ(用具などを表す接尾辞)
=思考の道具。

般若心経の概要(梗概)。
観自在菩薩(観世音、観音菩薩)がまず登場し、般若ハラミツの実践において、ありとあらゆるすべて(五蘊)は空(無執著)であると明らかに観じ取り、一切の苦を離脱した。
そこで舎利子(舎利弗=しゃりほつ。シャーリプトラ)に呼びかけて、この空を五蘊のひとつひとつについていう。
すなわち、まず
色(いろ・かたちあるもの、物質として現象しているもの)に関して説く「色即是空、空即是色」。その大意は、ものと空との完全な一致にあり、ものがそのまま空であり、同時に、空であることがものをそのものたらしめて、そのものとしてあることを示す。
ただちに、五蘊のうちの他の四つ、
受(感受、感覚)、
想(表象、イメージ)、
行(形成力、意志)、
識(認識)について、空を反復し、生と滅、垢と浄、増と減のおのおのの否定がある。
同様に、
六入(眼・耳・鼻・舌・身・意)と
六境(色・声・香・味・触・法)と
六界(眼界~識界)、
十二因縁(無明~老死)、
四諦(諦=真理。苦・集・滅・道)という、
阿含経(初期仏教の経典)から部派を経て大乗仏教までの全仏教に通ずる基本的述語に「無」を付して否定し去って空を裏付け、ここではすでに智も得も所得も同様に無であり、こうして菩薩は般若ハラミツによって、一切の障害は消滅し、恐れもなくなり、転倒(てんどう。ひっくり返る)した思いから遠く離れて、仏教の理想の極致であるニルヴァーナに至り完成する。三世(過去・未来・現在)の仏たちもこの般若ハラミツによってはじめて、至上最高の「さとり」を得たと説く。そのあとに、当時すでに重要な役割を果たしたマントラ(真言。呪)の語を引き、般若ハラミツを無比で最高のマントラとしたうえで、呪を唱えて経を結ぶ。その呪の大要は、
「到達したものよ、到達したものよ、彼岸に到達したものよ、彼岸に完全に到達したものよ、さとったもの(あるいは、さとり)よ、幸あれ」という。

般若心経の空を従来の般若経の説明に引きつけて無執著と訳したが、この経の成立時にはすでにナーガールジュナ(龍樹)の空の理論づけが果たされているので「固定された実体を立てない」、さらには「それだけで存在すると見て固有の本体を有する、という考えから離れる」、と解釈したほうがふさわしかろう。
「絶対」の否定

般若+波羅蜜多=智慧の完成
六波羅蜜=六種の波羅蜜。
波羅蜜はパーラミター(=最上・完全・極致)の音写。
般若ハラミツ=智慧の完成(到彼岸)。
般若とは空
の思想。空の思想は大乗経典の般若経に終始一貫して説かれ、「こころにとどめつつも、とらわれるということがない」「とらわれない」「無執著」と解される。

・空のサンスクリット語のシューンヤは、インド人(人名も年代も不明)が人類史上はじめて発見した数のゼロの原語でもあって、そのゼロ(空)は単なる無でもなく、単なる有でもなく、同時に有でも無でもあり、また有でも無でもないという(例えば、102の0)、一見矛盾に満ちた多面性を発揮する。
ゼロが発見されなかったならばすべての自然科学の根底にある数学(近代数学)はその根拠を失ってしまう。ゼロの発見によって、例えばマイナス(負)の概念が明らかにあり、更に重要なことは十進法(じっしんほう)が成立し(言うまでもなくインドが最も古く、アラビアを経てヨーロッパに伝わるのは千数百年後)、また数学の基本である加減乗除が容易になった。その際、ゼロは加えても減じても、元の数に何の変化もないが、ゼロを乗ずればあらゆる数をゼロに変え、ゼロで割ることは一般には考えられない。
ゼロは日常のいたるところに溢れ、「空」も同じ。「空」によって私たちが現に生きている相対の世界はいちおう成立している。しかしその底には、その相対の世界そのものの否定が厳としてあり、その否定のゆえに、私たちのこの世界すべてはあくまで相対的である。


般若心経の訳例+解説
http://dic.nicovideo.jp/a/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C
“(これは、人智を超えた般若波羅蜜多についての心経である)

全てを識り、全てを見る聖者アヴァローキテーシュヴァラ(観音菩薩=観自在菩薩)は、深遠なる悟りを得る修行の中でこの世の五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊、後述)には実体がないことを明らかにした。この発見により、苦しみは全て解かれよう。

シャーリプトラ(舎利子、仏陀のもっとも古い弟子の一人)よ。この世の形あるもの全てに実体というものはない。実体がないままに形を作っている。形あるものには実体がなく、実体がない故に(あらゆる)形を得る。感じること・気づくこと・思うこと、そして知ること(これら心で作用すること全て)もまた同じだ。

シャーリプトラよ。全てのことに実体はないのだから、全ては生まれもせず、滅することもなく、汚れているということもなく、清らかであるということもなく、増えることもなく、減ることもない。

つまり、実体が無いこの世の真実の世界においては、全て存在しない。真実の世界においては、形作っているもの・感じること・気づくこと・思うことを知ることもなく、目・耳・鼻・舌・感触・意識(肉体で感じること全て)もなく、景色・声・匂い・味覚・ぬくもりも、その相手も、全て存在しない。眼に見えるものと、それによって心のなかで生じたことも、全て存在しない。これら存在しないものへの無知からくる悩みもない。けれどもその悩み自体は尽き果てることもない。この世では老いるということも死ぬということもないままに、老いも死も尽き果てない。苦しみなどない。故にこの世では苦しみを滅する道も、それを知ることも、得ることもない。得ることもないから、苦しみを知る者(菩提薩埵)は、この発見(般若)によって、こだわりをもたず、こだわりがないから、恐れもいだかず、全ての夢想からはなれて、静かなる心の世界(涅槃、ニルヴァーナ)へと至るであろう。

こうした過去・現在・未来(三世)の諸仏は、この深遠なる発見(般若波羅蜜多)によって、悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得る。

故に知れ。この発見(般若波羅蜜多)を述べるこの大いなるマントラ(まじないの言葉)は、明らかに、この上もなく、並ぶこともない呪(言葉)であると。全ての苦しみはこれにより解かれ、そこには真実のみがあり、偽りはない。
故にこの般若波羅蜜多の真言は、

羯諦 羯諦 (ガテー ガテー:往ける者よ)
波羅羯諦  (パーラガテー:悟りの境地に往ける者よ)
波羅僧羯諦(パーラサンガテー:悟りの境地を往った者が)
菩提     (ボーディ:"菩提"である。)
薩婆訶   (スヴァーハー:幸いあれ。)


これが真実の悟りの教えである(般若心経)。

(…)

※「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」は『大般若経』以外の経典から引用された陀羅尼(だらに、仏教的呪文)。陀羅尼は暗誦されるのが常だったため、翻訳当時でも正確な原意が失われていた。そのため、ここは音写に頼らざるを得なかった(日本語における「ちちんぷいぷい」みたいなもの)。世に散見される該当部分の解釈は梵語等からの類推であり、あくまで参考の域を出ない。
そもそも陀羅尼は何度も復唱することで無念無想の境地に至ることを旨とするため、その意味をあまり深く考えなくてもよいものなのだ


※五蘊とは仏陀死後100年の間に分裂した仏教(部派仏教)における世界観を認識する手法の一つで、人間の意識を構成する要素を5つに分けたもの。色蘊(人間の肉体や、それを構成する物質)・受蘊(人間が感覚すること、いわゆる五感)・想蘊(「受」で感覚したことで、出てきたイメージ)・行蘊(「想」のうえで、出た何らかの意志。「~したい」など)・識蘊(「受」「想」「行」を総合して出した判断)の5つである。般若心経ではこれすらも空としている。

(…)

般若心経が描いているのは、釈迦の目の前で、上座部仏教で最も尊い修行者である阿羅漢(あらかん、アルハン。「(崇敬と布施を受けるに相応しい)聖者」の意)の筆頭であるシャリープトラに対して、観自在菩薩が大乗仏教の「空(実体は存在せず、他との関係の中で現れて見えるということ)」の思想を説いている場面である。

その説では、上座部が悟りを得る上で重要視する十二因縁や四聖諦をも含む万物が「空」であり、したがってそれらに依らず、陀羅尼(掲諦掲諦…)を唱え全てが「空」であるという真実(般若)を感得する事(波羅密多)こそが最高の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)に至る道である、とされる。

そして最後に最高の覚者である釈迦が説法の全てを追認し観自在菩薩を褒め称える――つまり上座部を貶めて大乗を賞揚する内容となっている、というのが一般的な解釈である。
「空」とは何か? 悟りとは何か?

さて、般若心経の本質であり、有名な格言「色即是空 空即是色」。ここに説かれている「空」というものは一体なんであろうか。ちなみによく勘違いされるが、「空」は「無」と同義ではない。むしろ「無」ですら「空」によって成り立つ現象のひとつ(色)に過ぎないとされている。

長らく仏教界ではこの「空」を説明するのには多大な労苦が費やされてきており(折空観)、その最も良いテキストが『弥蘭王問経(ミリンダ王の問い)』の仏典だと言われている。ここではその考えを借用して、「空」をごく簡単に説明するのに、パソコンのたとえ話(方便)を用いるとしよう。

パソコンを例にとれば、デスクトップ型パソコンをバラバラに分解してしまえば、それはもはやパソコンとは呼ばれず、それぞれの部品にしても、最早「かつてはパソコンであった」パーツに過ぎなくなり、「パソコンという存在」は消えてしまう。また、パソコンのキーボードからキーを幾つか抜いてもパソコンと認識されるように、部品そのものにもその総体にもパソコンという一個のアイデンティティを示す実体があるわけではない。

だがしかし、一度バラバラにした部品をもう一度組み立て直せば、先程まで消えていた「パソコンという存在」は再び我々の目の前に戻ってくるのである。

ならば「パソコン」という概念は、一体全体どこの何を表現した言葉なのだろうか。ディスプレイだろうか? マウスだろうか? キーボードだろうか? HDDだろうか? あるいはもっと小さなICチップなどであろうか? 答えはいずれも否である。先に挙げたうちの、そのどれもが「パソコン」そのものではない。しかし、いくら否定したところで、パソコンというものがこの世に存在しているのもまた厳然とした事実なのである。では、パソコンとは一体何なのだろうか? パソコンとはこの世に「ある」のだろうか、それとも「ない」のだろうか。答えは簡単、「ある」とも言えるし「ない」
とも言えるのである。

つまり、"パソコン"と呼ばれるものは様々な部品がしかるべき因縁で組み合わさった中に垣間見える『現象(概念)』なのである。当然、部品やその集合体にパソコンという実体が存在するわけではない。したがって「無」というものも、パソコンを分解した途端に発生する「空」という本質の一側面に過ぎず(「空」⊃「無」)、パソコンは最初から「ある」とも言えるし「ない」とも言えるのである。「色」とは「現象」のことであり、「空」とはこの現象を引き起こす仕組みそのものを指しているのである

この考えを応用すれば、基本的にはこの世の森羅万象すべての実在を否定することが出来る(「空」≒「非実在」≠「無」 であることは、これでもうお分かりだろう)。

あらゆる事物の本質は、それそのものの実体とは別に存在し、そしてその本質は人が理解できない次元に存在する。これが般若心経の本質、「色(現象)即是(すなわちこれは)空 空即是(すなわちこれは)色(現象)」である。この世の本質も実体も、実は概念上の物でしかないのである。

その上、ブッダはこの「空」の考えを流用し、最終的には当時信じられていた魂の存在さえも否定するに至った。詳しい説明は省くが、ブッダは瞑想の末に、この世において輪廻転生を繰り返しているのは魂や霊ではなく、「自分」という潜在意識・記憶そのものにしがみつこうとする人の意志そのものであると看破した(法相宗の考え方がこれに近い)。この「自分という存在そのものへの執着」を捨てることが出来れば、転生するはずの「自意識」そのものが消失するため、人間は二度と生まれ変わることはなくなり、輪廻転生の輪から解脱し、何度も生まれ変わって苦しみ、傷つくことはなくなる……というわけである。つまり仏陀が夢想した原始仏教は、「二度と生まれ変わらないこと」を目的として生まれたのである


「悟り」とはつまりこのことである。ブッダは、人間が転生する仕組みと転生を信じる理由、そしてその転生の仕組みを生み出している人間の深層心理の構造そのものを「悟った」のである。

……と、このような考え方を会得する過程までが『悟りを得る修行』なのであって、悟った後はこの悟りを具象・抽象ひっくるめた万物に適用し、それを単なる知識を超えて感得しなくてはならないのであるから、大乗仏教とはいえ無上の正しい境涯に至る道は決してなだらかな訳ではない。つまり、「悟り」はすごろくの『上がり』ではなく、悟っただけではどうにもならないのである。そういうわけで、人は悟った後、今度はどのようにその理論に即して煩悩や執着を捨てていくか、という問題にぶち当たることになる。

そういうわけで、以後この「悟り」を得るための方法論は枝分かれし、その方法論の違いは本邦に多数の仏教宗派を生んだ。「個人の中に大宇宙を再現し、その中に涅槃寂静の境地を発見する」とする真言宗、「悟りは人間の誰しもの中に最初から備わっているのだから、それを修業によって引き出す」ことを目的とした曹洞宗、臨済宗などの禅宗などがその好例である。

ここまで熟読された方はもうお分かりであろうが、本来仏教は厳密な哲学的・論理的思考の下に成り立っている宗教であり、般若心経はそのための最上のテキストに位置づけられている。肉体的・精神的修行を重視する日本仏教の影響を受け続ける日本人は、この経文自体に霊的な力が内在しているとされていると誤解しがちである。しかし、般若心経は唱えれば何かが起こったり悪霊が裸足で逃げ出すといったまじないではなく、これ自体を意識することなく読唱したり写経したりすること自体にはあまり意味がない。禅宗などの言語を否定する宗派を除けば、あくまで論理的思考によってこの文章を理解し、釈迦の教えをよりよく実践することが悟りのための第一歩になるわけである。

この記事を熟読された皆様は今、まさに悟りの入り口に立ったことになるのだ。求道者たちよ、悟りと共にあれ。”

説話風の訳例
http://dic.nicovideo.jp/r/a/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C/233400
”《一切を知る方(釈迦)に帰命(きみょう。御仏の教えに身命を投げ出して帰依すること)する。》

<わたしはこのように聞いた。世尊(釈迦の尊称)が王舎城(おうしゃじょう。ラージャグリハ。古代インドのマガダ国の首都)にいらっしゃった頃、霊鷲山(りょうじゅせん。グリドラクータ山)を数多の比丘(びく。托鉢行者)と諸々の菩薩(菩提薩埵。求道者)を伴って遊行していらっしゃった。まさに世尊が深い悟りという名の深い瞑想に入られたその時、>

全てを知り全てを見るといわれる菩薩アヴァローキテーシュヴァラ(観自在)は、深遠な悟りの智慧を完全に成就する(般若波羅密多)修行の中で、この世の生き物を構成する五つの要素(五蘊。ごうん)には実体が無く(空)、各々との関係の中であたかも実体があるかように見えるに過ぎない、ということを明らかになさった。
【この悟りの智慧の極めにより、衆生の苦しみは全て解かれよう。(度一切苦厄)】

<すると、長老シャーリプトラ(舎利子。舎利弗(しゃりほつ)とも。「智慧第一」と称される、釈迦の十大弟子の筆頭)は、その御仏のお力を以てして、菩薩アヴァローキテーシュヴァラにこうおっしゃった。
「善男子(ぜんなんし。仏徳の有る男)ならば誰でも、深遠な悟りの智慧を極める修行を望むもの。そうした者には、どのように教えてやったらよいと想いますか?」
そのように訪ねられた菩薩は、長老へこのようにお答えになった。
「善男善女(ぜんなんぜんにょ)ならば誰でも、深遠な悟りの智慧を極める修行を望むものです。そうした者は、次のように明らかにしたらよいと想います。まず彼は、生き物を構成する五つの要素には実体がない、と見なしました。>

「シャーリプトラよ。この世の形あるもの全てに実体というものはありません。実体がないままに形を作っています(色)。形あるものには実体がなく。実体がない故に(あらゆる)形を得ます。感じること(受)、想うこと(想)、気づくこと(行)、そして知ること(識)、これら心に作用すること全てもまた同じです。

「シャーリプトラよ。全ての物事の本質に実体はないのですから。全ては生まれもせず、滅することもなく。けがれているということもなく、清らかであるということもなく。増えることもなく、減ることもありません。つまり、実体が無いこの世の真実の世界においては。形も、感じることも、想うことも、気づくことも、知ることも、五蘊(=色受想行識)は全て無いのです。

「目、耳、鼻、舌、感触、意識の六根(=眼耳鼻舌身意)全ても無く、景色、声、におい、味覚、触覚、想念の六境(=色声香味触法)も全て存在しません。目が有るということ(眼界)から、心が想うということ(意識界)にいたる十八界(=六根×(部位、対象、作用))も全て、有りはしないのです。

「十二因縁(苦しみの根源を説く12の因果の連なり)の最初である無知(無明)すら無く、しかるに無知がなくなることもありません。つまり十二因縁の最後である老いて死ぬ(老死)ということも無いままに、老死がなくなることも無いのです。四聖諦(ししょうたい。四諦とも。悟りの道を示す4つの真理。=苦集滅道)に至っては、あり続けることによる苦しみ(苦。八苦)などありませんから、苦しみを集める原因(集)である生への執着(渇愛)も無く、苦しみを消すために執着を捨てる事(滅)も、その為に行う修行(道。八正道を含めた七科三十七道品)もありません。

「つまり(十二因縁や四聖諦によっては、悟りの智慧を)知ることがありません。得ることもありません。得ることもないですから、菩薩はこの悟りの智慧の極みによっても、何のわだかまりも持ちません。わだかまりがないのですから、恐れもいだかず、全ての災難を乗り越えて、究極の安らぎの世界(涅槃、ニルヴァーナ)へと至ります。過去、現在、未来において菩薩は、悟りの智慧を極める事で、最も優れた正しい悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得るのです。

「故に知るべきなのです。この悟りの智慧の極みである大いなる聖句(マントラ。まじないの言葉)は、霊験あらたかな、この上なく、並ぶものなき聖句であると。全ての苦しみはこれにより解かれるのです。何故ならそこには真実があり、偽りなどありませんから。悟りの智恵を極める聖句とはこの通りです。

『羯諦(ガテー、着きしものよ)羯諦(ガテー、着きしものよ)波羅羯諦(パーラ=ガテー、彼岸に着きしものよ)
 波羅僧羯諦(パーラ=サン=ガテー、彼岸に辿り着きし者よ)菩提薩婆訶(ボーディ・スヴァーハー、悟りよ、共にあれ)』

<「シャーリプトラよ、深い悟りの智慧の修行では、菩薩はこのように教わればよいと想います。」
(菩薩アヴァローキテーシュヴァラがこう締めくくった)まさにその時、世尊は深い瞑想から立ち上がりつつ、菩薩へ讃辞を送った。
「いや見事、お見事です、善男子よ。深い悟りの智慧の成就に於いては、まさしくそのように修行を行ったらよいのです。あなたが示した事は、諸々の如来(仏陀(悟りを開いた者)の尊称)や阿羅漢(あらかん。聖者)も認めるところなのですよ。」
世尊は心からお喜びになり、そうおっしゃった。長老シャーリプトラと菩薩アヴァローキテーシュヴァラ、そして諸天(仏教に帰依したインドの善神族)、人間、阿修羅(仏教に帰依したインドの鬼神族)、乾闥婆(けんだつば。仏教に帰依したインドの精霊神族)をはじめとした全世界が、世尊のその言葉に喜んだのだった。>

これが、悟りの智慧の完全なる成就を説く、その心臓となる教えの書(般若心経)の完成である。”


摩訶般若波羅蜜多心経
http://www.nicovideo.jp/watch/sm304046



般若心経のサンスクリット版の歌
Imee Ooi - Mantras Of The Sanskrit
https://www.youtube.com/watch?v=OO1YbUUDBms



第七回現代仏教塾 「死後・輪廻はあるか」Ⅱ近代仏教学の「無記」の誤解・東洋大学名誉教授 森章司
https://www.youtube.com/watch?v=KnAKezi7pNo&feature=youtu.be