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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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イルミナティの実行部隊名を大量に紹介します~下中弥三郎+百科事典+教育系の組織。大アジア主義者で万教帰一賛同者の下中弥三郎はメーソンで、大本教や天津教などとも繋がりがあります。~ 

左翼系団体が、ヨーロッパの貴族系にしてメーソンとイルミナティ(+バチカン。有色人種容認だけど奴隷扱い)の巣窟。
右翼系団体が、アングロサクソン系の白人至上主義でナチスの残党(有色人種は殺せ)なプロテスタントの巣窟。
が、大本は同じなので、左翼と右翼の対立は「十把一絡げの総称という本質隠し」を利用した茶番であり、「具体的な実行団体を一切隠せる便利な言葉」を利用した心理操作です。


追加情報↓
世界連邦運動協会 [平和な世界を目指して]
http://www.wfmjapan.org/001/index.html
下中記念財団
http://www.shimonaka.or.jp/outline/


要約(私のツイッター)


予定だと判る人は優秀だから生き残って良し?劣等生か優等生かを決めるのはイルミナティ実行部隊=啓明会(イルミナティの訳語。後の日教組)を作った下中彌三郎関連の組織=メーソン組織。『新世界より』では教育委員会に子どもを殺す権限あり。


悪魔=理性・科学・百科事典。宇宙人=科学が否定した悪魔の代役で悪魔の証明=科学的検証不可を利用した人類共通の敵(笑)。ユダヤ=耶蘇教製の肩書・銀行利権。フリーメーソン=科学団体。イルミナティ=下中弥三郎が作った啓明会=教育支配組織。


バチカン擁護でメーソンを叩く『20世紀少年』では“ともだち”=有色メーソン=悪魔。メーソンの高須克弥がモデルで元教師(イルミナティ=啓明会→日教組)の高須はメーソンの子を宿し医者(メスマー)に「見事な肉体」と称賛される。巣鴨に収監。


訳語で和風化して正体隠し。本教=神道=キリスト教。現人神=キリスト=GOD。啓明会=イルミナティ。開化=啓蒙(enlightenment)=メーソン思想。文明開化=文明メーソン化。朝鮮開化派=朝鮮メーソン派・独立党。道教最高神の天皇と聖道=仏教+道教はキリスト教化され道教は抹殺。


イルミナティを本当の支配組織の意味で使う人に対しては、具体的な実行部隊を教えてと聞きましょう。キリスト教が叩くイルミナティの悪魔の儀式=メーデー(=労働者の祭典。バイエルンのイルミナティ結成日は五月一日)・科学実験。労働者・実験による検証=悪魔=殺してよい。具体化で本音が見える。


イルミナティ系組織=下中彌三郎のもの=平凡社・啓明会・老壮会・メーデー・ロシア飢饉同情労働会議・教育の世紀社・児童の村小学校・農民自治会・経済問題研究会・日本国家社会主義学盟・新日本国民同盟・大政翼賛会・大日本興亜同盟・世界連邦運動・七人委員会・日本書籍出版協会・日本アラブ協会。


キリスト教がメーソンやイルミナティを悪魔崇拝だと叩くのは、日教組の元祖の啓明会や、教科書の元ネタの百科全書や科学の本や、メーデー等の労働運動などの具体的実行部隊を隠してメーソンやイルミナティに協力している証拠。


アジア主義は東アジア共同体と同じく世界統一政府達成のための侵略思想。下中弥三郎は大アジア主義者で、大川周明とも関係が深い。左翼や右翼の対立は「悪魔崇拝」のように総称を用いて具体性をなくす本質隠しの茶番であり、左右の大本に近い者を追求すべきだと教えてくれる人物。



啓明会の方針:教育=洗脳。良い子=馬鹿奴隷。子供の「供」は供物の「供」。いじめを推奨。子供は創造力があり発想が柔軟なので危険。面白くない受身の質問を許さない授業で調教して、自分で調べて検証する力を奪い、汚染された給食で体を弱らせ管理せよ。



※引用文で色文字になっている個所は引用者が色を付けたものであり、引用元ではかならずしもその色になっていないかもしれないことをあらかじめ述べておきます。

下中 弥三郎(しもなかやさぶろう。別名・下中芳岳。1878- 1961年):十中八九フリーメーソン(恐らく高位)。平凡社の創業者、教員組合の創始者、労働運動や農民運動の指導者。晩年、日本アラブ協会会長。万教帰一の賛同者。大アジア主義者。大本教(カルト製造工場。カルトという製品は叩かれても製造元の大本は叩かれない)や天津教(竹内文書)とも縁があり、左翼系・右翼系問わず黒幕的役割を務めている超重要人物。
右翼の黒幕である大川周明と老壮会(右翼と左翼の合同主催)などを通じ関わりが深く、両者とも日本国家社会主義学盟で顧問を務めています。左翼のボスも右翼のボスも結局は同じ白人支配者であり、左翼も右翼も胴体は同じだということをよく教えてくれます。
大川周明は、ルドルフ・シュタイナー(人智学の創始者。シュタイナー教育=メーソン教育)の社会三層化論(「精神生活における自由」「法律上の平等」「経済生活における友愛」)を日本に紹介した、十中八九フリーメーソンメンバーです。

下中弥三郎の著作を一部抜粋してみますと、
『教育再造』(啓明会, 1920年)
『ポケット顧問 や、此は便利だ』(増補改版, 平凡社, 1923年。大増補改版, 1929年)
『西郷隆盛』(万世閣, 1925年)
『百科事典の知識』(平凡社, 1935年)
『世界維新への道』(維新社, 1936年)
『すめらみこと信仰 万教帰一の最高具体標識』(国策産業協会, 1937年)
『翼賛国民運動史』(翼賛運動史刊行会, 1954年)
『世界平和アピール七人委員会十五年の歩み』(世界平和アピール七人委員会十五年の歩み事務局, 1970年)
のように、陰謀論者的には笑いが止まらないものになっております。

年表


1878年6月12日 兵庫県多紀郡今田村に生まれる。幼くして父を亡くし陶工となる。

1888年 小学校前期3年を修了。

1898年 神戸市雲中小学校の代用教員となる。秋、小学校準教員検定試験に合格。

1902年 退職後に上京。5月、小栗栖香平と『児童新聞』を創刊。

1905年 『婦人新聞』の記者を兼ねる。夏、日本女子美術学校の講師となる。

1910年12月 中等教員教育科の検定試験に合格。

1911年 埼玉県師範学校の嘱託教師となる。(〜1918年)

1914年4月 平凡社を創業。『ポケット顧問 や、此は便利だ』を出版。

農本主義の影響を受け、
1919年8月 啓明会を結成。(啓明会=イルミナティの日本語訳。翌年、日本教員組合啓明会に改称。)学習権の確立、教育委員会(イルミナティ実行部隊の一つ)制度、教員組合(後の日教組もイルミティ実行部隊)結成の促進をふくむ「教育改造の四綱領」を発表。

10月、機関紙『啓明』を創刊。12月、「文化学会」(島中雄三主宰)に参加。

1920年 第1回メーデー(キリスト教が叩く悪魔崇拝儀式。※)に参加し代表演説をする。

1921年11月 ロシア飢饉同情労働会議を結成。(松岡駒吉と)

〔老壮会(老荘会。1918年 大正7年10月9日~1921年 大正10年頃まで続いた)の参加。大川周明も参加 ※※〕


1922年2月 『労働週報』を創刊。

1923年 『万人労働の教育』刊行。野口援太郎らと「教育の世紀社」を結成。

1924年 教育の世紀社を母体に、児童中心主義の「児童の村小学校」を開校(〜1936年)

1925年 石川三四郎らと農民自治会を結成。

1931-35年 『大百科事典』26巻『補遺』1巻『索引』1巻を刊行。百科事典=科学の本=キリスト教の言う悪魔の本の正体。

1931年11月25日 満川亀太郎(一新社)、杉田省吾・佐々井一晃、高橋忠作(十中八九メーソンの大川周明が主宰した国家主義団体である行地会の関
係者)らと経済問題研究会を組織。以後、政党組織運動に進む。

1932年1月25日 日本国民社会党準備会を結成。

4月5日または18日に日本国家社会主義学盟(※※※)を発会し、顧問となる(大川周明も顧問)

5月12日、赤松克麿らの国家社会主義新党準備会との合同を提議し、新党結成総合準備会が成立。5月29日の国民日本党結成を画策する。結党式直前に赤松派と決裂し、同日に日本国民社会党準備会を解体し、新日本国民同盟を結成。下中は本部委員長となる。下中弥三郎は国家主義(国家社会主義)者。

1940年 大政翼賛会の発足に協力。大日本興亜同盟の役員
(下中弥三郎は、興亜論=大アジア主義=メーソンの世界統一構想の準備思想、の賛同者)。敗戦後、公職追放。

1951年 追放解除。再び平凡社社長に復帰。世界連邦運動に力を入れる。



1955年 世界平和アピール七人委員会(※※※※)を結成。

1955-59年 『世界大百科事典』。

1957年 日本書籍出版協会初代会長。



1958-61年2月 日本アラブ協会(※※※※※)2代目会長に下中弥三郎(㈱平凡社社長)が就任。
1961年2月21日没。82歳。

※日本のメーデーは、1905年(明治38年)メーデーの先駆けとなる平民社(幸徳秋水と堺利彦を中心とするメーソン団体)の主催で茶話会というかたちで開かれたことから判るように、メーデーなどの労働運動や『20世紀少年』の万国博覧会はフリーメーソンの祭典(あるいはイルミナティの祭典)なのです。
1920年5月2日日曜日(一回目はバイエルンのイルミナティの結成日五月一日ではありませんでした)に第1回のメーデー(主催:友愛会=メーソン会。、渋沢栄一も援助。 司会者:ユニテリアン系クリスチャンの鈴木文治)が上野公園(現在の東京都台東区)で行われ、翌年からは5月1日となりました。またキリスト教とメーソンですか。

平民社の宣言はもろにメーソン。
“   宣言

一、自由、平等、博愛は人生世に在る所以の三大要義也。
一、吾人は人類の自由を完からしめんが為めに平民主義を奉持す、故に門閥の高下、財産の多寡、男女の差別より生ずる階級を打破し、一切の圧制束縛を除去せんことを欲す。
一、吾人は人類をして平等の福利を享けしめんが為めに社会主義を主張す、故に社会をして生産、分配、交通の機関を共有せしめ、其の経営処理一に社会全体の為めにせんことを要す。一、吾人は人類をして博愛の道を尽さしめんが為めに平和主義を唱道す、故に人種の区別、政体の異同を問はず、世界を挙げて軍備を撤去し、戦争を禁絶せんことを期す。
一、吾人既に多数人類の完全なる自由、平等、博愛を以て理想とす、故に之を実現するの手段も、亦た国法の許す範囲に於て多数人類の与論を喚起し、多数人類の一致協同を得るに在らざる可らず、夫の暴力に訴へて快を一時に取るが如きは、吾人絶対に之を非認す。

 平民社同人
------------------------------------------------------------
(週刊『平民新聞』第一号、一九〇三(明治三六)年一一月一五日、一頁)”
初期社会主義研究会HP 平民新聞3
http://www15.ocn.ne.jp/~shokiken/database-heiminsinbun003.htm


北一輝と大杉栄は老壮会でよく会っていたらしいです。
※※ 老壮会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E5%A3%AE%E4%BC%9A
“老壮会/老荘会(ろうそうかい)は、左派思想家と右派思想家が一堂に会した大正日本の思想団体。”
“1918年(大正7年)10月9日の創立。事務所は牛込区(現、新宿区)南町1番地に置かれた。世話人は満川亀太郎がつとめた。

明治31年(1898年)頃から麻布飯倉片町に集い始めた権藤成卿、飯塚納、小沢打魚、川崎紫山、内田良平(黒龍会主宰)、大江卓、樽井藤吉、山口弾正、大井憲太郎、小島文六、三浦伴八、兼松義整、綱島正興ら『南葵文庫の会』の会員と会を母体として、左翼思想家、国家主義者、社会主義者、国粋主義者など、その職業、思想を問わず、一定の目的も定めずに在京の思想家が一堂に会したような会合であった。月に一度の開催で時局を論じた。

1921年(大正10年)頃まで続いたが、主に左翼派の脱会者が数多くなるに従いのちに分裂。急進的な右翼的な思想を持つ満川亀太郎・大川周明・北一輝らは猶存社へ、高畠素之らは大衆社へとそれぞれの思想系統へと分岐した。ただし満川はソ連政府を承認すべきことを論じ(「何故に過激派を敵とする乎」)、大川はその見解に対し賛意を示す[1]など、右翼とはいうもののこの二人はいわゆる「反共」ではない。“
“参加者[編集]
左翼派(当時) 堺利彦、高畠素之、大杉栄[2]、島中雄三、下中弥三郎、大竹博吉、中村高一、北原龍雄、小栗慶太郎、高尾平兵衛、茂木久平、松延繁次、遠藤友四郎、等。
右翼派(当時) 北一輝、大川周明、権藤成卿、満川亀太郎、沼波瓊音、渥美勝、鹿子木員信、笠木良明、岩田富美夫、清水行之助、金内輔平、山元亀次郎、嶋野三郎、細井肇、等。
その他 大井憲太郎、水野海暁、佐藤鋼次郎、小原達明、山口正憲、長瀬鳳輔、川島清治、草間八十八、田鍋安之助、中野正剛、亀井陸良、宮川貫一、工藤鉄三郎、石田友治、長谷川光太郎、伊達順之助、上泉徳弥、平貞蔵、佃信夫、長崎武、臼井清造、角田清彦、野中負、麓禎助、阿部真言、十菱愛彦、森伝、等。”

※※※“日本国家社会主義学盟(にほんこっかしゃかいしゅぎがくめい)は戦前のファシズムの私的な学術的研究機関。
発会[編集]
1932年4月5日または18日に発会。「5日」に東京の早稲田において30名で発会とする書 [1]と「18日」に目黒において20名で発会とする書 [2]がある。後者の内務省警保局『社会運動の状況(昭和7年下)』によれば日本社会主義研究所、日本ファシズム連盟、大日本生産党、行地社の幹部20名により発会されている。
役員[編集]
顧問は下中弥三郎、島中雄三、大川周明、幹事長は林癸未夫、常任幹事は小池四郎、赤松克麿、平野力三、山名義鶴、津久井龍雄、狩野敏、事務局主事は石川準四郎。”
(日本国家社会主義学盟 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E5%AD%A6%E7%9B%9F より)



※※※※世界平和アピール七人委員会

これまでの委員
http://worldpeace7.jp/modules/pico/index.php?content_id=13

"2011年6月29日現在(現委員も含む):29人

現委員
 武者小路公秀(国際政治、大阪経済法科大学教授)
 土山秀夫(医学、長崎大学名誉教授)
 大石芳野(写真家、元東京工芸大学教授)
 池田香代子(ドイツ文学翻訳家、口承文芸研究家)
 小沼通二(物理学、神奈川歯科大学理事、慶應義塾大学名誉教授)
 池内了(宇宙物理学、総合研究大学院大学理事)
 辻井喬(詩人、作家)

誕生と初代委員:1955年(昭和30年)11月11日
 下中弥三郎(世界連邦建設同盟理事長)
 植村環(日本YWCA会長)
 茅誠司(日本学術会議会長、東大教授)
 上代たの(日本婦人平和協会会長)
 平塚らいてう(日本婦人団体連合会会長)
 前田多門(ユネスコ日本委員会理事長)
 湯川秀樹(京大基礎物理学研究所長)

追加委員(就任順現委員を除く)
 川端康成
 朝永振一郎
 大河内一男
 田畑茂二郎
 井上靖
 伏見康治
 桑原武夫
 関谷綾子
 隅谷三喜男
 内山尚三
 久保亮五
 平山郁夫
 永井道雄
 井上ひさし
 小柴昌俊
"

七人委員会の結成
http://worldpeace7.jp/modules/pico/index.php?content_id=6
" 七人委員会は一九五五年(昭和三十年)十一月十一日、東京都千代田区一番町のクラブ関東で発足した。提唱者は当時世界連邦建設同盟理事長、平凡社社長であった下中弥三郎である。委員としてこれに参加したのは、下中のほか、植村環(日本YWCA会長)、茅誠司(東京大学総長、日本学術会議会長)、上代たの(日本女子大学学長、日本婦人平和協会会長)、平塚らいてう(日本婦人団体連合会会長)、前田多門(ユネスコ日本委員会理事長、元文部大臣)、湯川秀樹(ノーベル賞受賞者、京都大学教授、京都大学基礎物理学研究所長)=肩書はいずれも当時のもの=であった。

 発足にあたって、七人は人道主義と平和主義に立つ不偏不党の有志の集まりであることを確認し、具体的な活動にあたっては、国際間の紛争は絶対に武力による解決をとるべきでなく、平和的な話し合いで解決すべきであるとの立場に立ち、このことを事あるごとに国の内外にアピールしてゆくことを申し合わせた。

 さらに、戦争と平和の問題に関して対外的にアピールする場合は、日本国民の中の少数意見に依拠するのではなく、国民のコンセンサスを世界に訴えてゆくことを確認した。

 七人委員会に加わるメンバーは、?実際政治にタッチしていないもの、?自由人で民主主義陣営の人、?世界的に運動を行いうる人、とされた。



二 下村弥三郎のイニシアチブで


 すでに述べたように七人委員会の結成は下中弥三郎のイニシアチブによって行われたが、下中は、 平凡社発行の『大百科事典』6(初版。一九八五年三月二十五日発行)によれば、次のような人物であった。


 「1878―1961(明治11―昭和36)。平凡社の創業者。教育運動、労働運動、農民運動の指導者でもあった。兵庫県今田村(現、今田町)に生まれ、幼時より陶工として立杭焼にたずさわり、小学校に3年在学しただけであったが、その後の独学、苦学の体験が彼の多彩な事業や行動を性格づけた。1914年自著《ポケット顧問 や、此は便利だ》を出版するために平凡社を創設し、31―35年《大百科事典》、55―59年《世界大百科事典》の刊行をはじめとして各種の辞典の編集、刊行に力を注いだ。日本人が自主的に学習するための文化的環境をととのえようとする願いがうったからである。1898年に神戸市の小学校の代用教員となり、1902年に上京、ジャーナリストの生活を経て11―18年埼玉県師範学校で教員をつとめた。 19年の夏、教え子たちとともに教員団体〈啓明会〉を結成、翌20年には労働諸団体とともに第1会メーデーを主催、〈教育改造の四綱領〉と題する教育改革構想を発表した。そこでは、教育を受けることは国家による義務ではなく、万人の権利である(学習権)とし、教育委員会制度の創設などを提言した。農民運動にも深い理解を示したが、その思想はアナーキズムや農本主義に支えられており、30年代には国家社会主義の立場に立って戦争に協力した。そのために第2次大戦後は占領軍によって公職から追放されたが、解除後は平和運動や世界連邦運動を積極的に推進し、55年には湯川秀樹らと世界平和アピール七人委員会を結成した。57年日本書籍出版協会初代会長に就任、 また出版文化の国際交流に果たした役割も大きい。教育に関する著述は多いが、そのおもなものは《万人労働の教育》(1974年)に収められている」


 世界平和アピール七人委員会は、下中が創り出した多彩な社会運動の一つであり、それも晩年における活動の一つであった。

下中は、七人委員会の結成を提唱したばかりでない。委員の人選も下中が中心となって進めた。候補者への歴訪懇請は一九五五年九月から始められ、これには主として下中の意を受けた日高一輝(当時、日本バートランド・ラッセル協会常任理事)が当たった。

 候補者への歴訪懇請の結果、茅誠司、上代たの、平塚らいてう、湯川秀樹の賛同を得た。日高はさらに大内兵衛(当時、法政大学総長)、有田八郎(元外相)にも参加を要請したが、両氏とも固辞。その後、植村環、前田多門から承諾が得られ、ここに委員七人の顔ぶれが決定した。事務局長には日高が就任した。 "




七人委員会のメンバー
http://worldpeace7.jp/modules/pico/index.php?content_id=7 “
総計で二十人に
七人委員会のメンバーは、 提唱者の下中弥三郎委員が一九六一年二月に死去、次いで前田多門委員が翌六二年六月に死去し、二人欠員となったが、同年十月、作家で日本ペンクラブ会長の川端康成が加わった。

 残る一人は欠員のままであったが、 一九六九年二月にノーベル物理学賞受賞者で元東京教育大学学長の朝永振一郎が加わった。これに先立つ一九六八年十月に川端康成委員がノーベル文学賞を受賞したので、それまでの日本のノーベル賞受賞者三人がすべて七人委員会のメンバーに名を連ねることになった。

 その後、一九七一年四月に平塚らいてう委員
が死去したのに伴い、一九七三年四月に元東京大学総長の大河内一男が参加し、一九七二年四月の川端康成委員の死去に伴い、一九七八年十月、京都大学名誉教授で京都府立大学学長の田畑茂二郎が参加した。

 さらに、一九七九年七月に朝永振一郎委員、一九八一年九月に湯川秀樹委員、一九八二年四月に上代たの委員がそれぞれ死去したのに伴い、一九八二年五月に作家で日本ペンクラブ会長の井上靖、物理学者で日本学術会議会長の伏見康治が加わった。

 一九八二年五月に植村環委員が死去し、一九八三年七月には参議院議員に当選した伏見康治委員が委員を辞任したため、一九八四年七月に京都大学名誉教授の桑原武夫と元日本YWCA会長の関屋綾子が参加した。

 一九八四年八月に大河内一男委員が死去。一九八七年十一月には東京大学名誉教授で東京女子大学学長の隅谷三喜男と法政大学教授の内山尚三が参加した。

 一九八八年四月に桑原武夫委員、同年十一月に茅誠司委員がそれぞれ死去。一九八年十二月には東京大学名誉教授で元日本学術会議会長の久保亮五が加わった。

 一九九一年一月に井上靖委員が死去し、一九九二年五月に画家で東京芸術大学学長の平山郁夫が参加。一九九五年三月に久保亮五委員が死去。同年八月には、参議院議員を退任した伏見康治が再び加わった。

 一九九六年九月には国連大学協会理事長で元文部大臣の永井道雄が参加したが、永井委員は二〇〇〇年三月に死去、さらに田畑茂二郎委員が二〇〇一年三月に死去し、二〇〇一年五月現在、委員は関屋、隅谷、内山、平山、伏見の五人で、欠員二人となっている。

 この結果、七人委員会発足以来、これまでに委員に就任したのは合計で二十一人である。が、伏見康治委員が「国会議員との併任は好ましくない」との理由で途中いったん委員を辞任し、その後国会議員を退任してから再び参加しているので、これまでのメンバーは実質的に二十人ということになる。“





※※※※※日本アラブ協会
http://japanarab.jp/
中東・アラブ地域での和平確立(笑)に寄与するために、1958(昭和33)年9月に発足。
中曽根康弘・衆議院議員、下中弥三郎・平凡社社長、中谷武世・元衆議院議員がアラブ諸国を歴訪。クワトリ・シリア大統領、ナセル・エジプト大統領をはじめ各国首脳との会見で日本とアラブを結ぶ組織設立の機運がおこり設立。

歴代会長
初代  足立 正 (日本商工会議所会頭)1958年 (昭33)9月~10月

2代 下中弥三郎(㈱平凡社社長) 1958年 (昭33)10月~61年(昭36)2月

3代 赤城宗徳(衆議院議員)1961年 (昭36)4月~65年(昭40)4月
4代 松本俊一(元駐英大使) 1965年 (昭40)4月~69年(昭44)5月
5代 中谷武世(元衆議院議員)1969年 (昭44)5月~90年(平2)10月
6代 中山善郎(コスモ石油㈱会長) 1991年 (平3)4月~96年(平8)1月
7代 岡部敬一郎(コスモ石油㈱会長) 1996年 (平8)5月~

発起人
(※順不同)
足立 正
赤城宗徳
清水薫三
清水康雄
西村直己
阿部真之介
青木均一
清水与七郎 
椎名悦三郎 
野田武夫
浅尾新甫
安藤豊禄

下中弥三郎

末次一郎
浜田正信
浅田 譲
安西 浩
菅 礼之助
杉原荒太
春 彦一
伊藤武雄
石坂泰三
園田 直
多賀 寛
平塚常次郎
稲垣平太郎
市川 忍
田中龍夫
田中正明
広瀬豊作
出光佐三
池田正之輔
田辺勘一
高岡定吉
藤井深造
今岡十一郎
岩田喜雄
高岡大輔
高垣勝次郎
藤井崇次郎
藤井崇治
宇治田直義
宇都宮徳馬
高碕達之助
高杉晋一
藤井丙午
江戸英雄
小笠原光雄 
高野与作
竹内俊吉
藤山勝彦
小沢久太郎 
小田原大造 
竹内裕太郎
谷 正之
船田 中
尾山和男
大神 一
谷川徹三
玉置正治
細川隆元
大蔵公望
太田耕造
中馬辰猪
津島寿一
堀 武芳
大西定彦
岡崎勝男
辻 正信
堤 清七
前田佳都男
岡田宗司
荻山虎雄
坪上貞二
戸叶 武
前田多門
鹿島守之助
茅 誠司
床次徳二
土光敏夫
前田久吉
河合良成
川崎秀二
内藤智秀
中川俊思
俣野健輔
河田 重
岸 道三
中島慶次
中島義行
町田辰次郎
岸本久雄
北村徳太郎

中曽根康弘

中谷武世
松原与三松
久保田 豊
草野義一
中部謙吉

中村 元(恐らく、初めて原始仏典を現代語に翻訳した人。同姓同名の別人かも)

松村謙三
楠山義太郎
栗原 正
中村孝三
永田 年
三木武夫
小金義照
小島新一
永田雅一
永田正義
光谷 堯
小林 元
小林 中
長野国助
永野重雄
御手洗辰雄
佐竹次郎
佐藤喜一郎
楢橋 渡
丹波周夫
三宅晴輝
佐野 広
桜内義雄
新関八洲太郎
西松三好
宗像英二
八田嘉明
山下太郎
山中貞則
横山金吾
渡辺忠雄
柳田誠二郎
山下春江
山村新治郎
万 直次
和田恒輔
矢部貞治
山田久就
山本惣治
渡辺 衡






著書
(編集物は多数につき、著書中心)
『小学校に於ける国語』(下中弥三郎, 1901年)
『西郷隆盛伝』(内外出版協会, 1912年)

『教育再造』(啓明会, 1920年)

『万人労働の教育』(内外出版, 1923年。『内外教育叢書』第6巻)

『ポケット顧問 や、此は便利だ』(増補改版, 平凡社, 1923年。大増補改版, 1929年)

『非政党同盟の主張および綱領』(啓明会, 1925年。『啓明パンフレット』第2冊)

『西郷隆盛』(万世閣, 1925年)

『土の国史 わが国土地問題の一考察』(啓明会, 1926年。『啓明パンフレット』11冊)

『万人労働の哲学 生存権の根本的理論的研究』(1927年, 『啓明パンフレツト』)

『再建の原則と天皇政治の本義』(国民思想研究所, 1932年)

『維新を語る』(平凡社, 1934年)

『皇国経済の原則』(皇国経済研究所, 1935年)

『百科事典の知識』(平凡社, 1935年)

『世界維新への道』(維新社, 1936年)
『皇国教学の大本』(国策産業協会, 1937年)

『すめらみこと信仰 万教帰一の最高具体標識』(国策産業協会, 1937年)
『大西郷正伝』第1〜3巻(平凡社, 1939-40年)

『神武天皇』(平凡社, 1940年)

『維新を語る』上(補再版, 平凡社, 1941年)
『時局を語る』(訂, 昭和図書, 1941年)
『総力戦教育』(昭和図書, 1941年)
『われ等斯く主張す』(東亜民族文化協会, 1941年。『パンフレツト』第7輯)
『思想戦の本義』(日本精神文化研究所, 1943年。『研究報告』第1輯)
『思想戦を語る』(泉書房, 1944年)
『維新を語る』(日本書房, 1953年)
『翼賛国民運動史』(翼賛運動史刊行会, 1954年)

『世界連邦』(元々社, 1954年。『民族教養新書』)

『クロ船と“灰"』(独立評論社, 1954年)
『下中弥三郎遺歌選集』(大西雅雄選, 下中弥三郎伝刊行会, 1962年)

『世界平和アピール七人委員会十五年の歩み』(世界平和アピール七人委員会十五年の歩み事務局, 1970年)

『万人労働の教育 下中彌三郎教育論集』(平凡社, 1974年)

平凡社創設者下中彌三郎の謎(その1) - 神保町系オタオタ日記
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“ 『下中彌三郎事典』(下中彌三郎伝刊行会。昭和40年6月発行)から読み解く。

1 下中彌三郎と旅順図書館

 「旅順図書館」の項目から引用。

 大正七年(一九一八年)八月日本女子美術時代の教え子野波八重子が旅順から下中を訪ねてきた。下中はこの年の三月埼玉師範を辞任し、もっぱら出版を初めようと志していたところであったが、野波のいうところによると、夫の野波静雄が満鉄から図書館の経営をたのまれたが、自分は適任でないから誰かほかの人に頼みたいというのでお願にきた。ぜひ引きうけてくれというので、元来書物好きの下中は快くこれを受託渡満した。(中略)
 さて図書館は露清銀行の2階にあった。下中はそこで図書分類法を研究し、新な配列を実施すると同時に、オープンドアシステムを実行した。この開放的なやり方は満鉄に歓迎され、沿線に普及した。ついで下中は大谷光瑞の蔵書保管も一任されたので、その整理保存にあたった。

注:野波八重子は杉浦重剛の姪

 大谷光瑞の蔵書といえば、岡村敬二『遺された蔵書』で「大正4年に神戸を離れて上海の横浜正金銀行の倉庫に入れられた時には本箱で250もあったといわれている。参考図書館として立ちゆく大正7年の直前に大連図書館へ依託され、大正14年11月に寄贈されることになり、大連図書館の蔵書となったのである。」とある。これと、下中が管理した分とは別と思われるが、よくわからない。

 さて、図書館ネタで誰ぞをぬか喜びさせてしまったかもしれない。
 下中について、旅順図書館に在職していたことはそれほど興味深くはない。期間も大正7年8月から大正8年4月までの短期間だしね。

 それよりも、秦郁彦『昭和史の謎を追う』下巻「第29章 天津教盛衰記-日本神国論の系譜」を見ると驚くことになる。
 天津教(竹内文献を擁する教団)の最盛期の信奉者たちとして、下中弥三郎(平凡社社長)の名前が挙げられている。注として、「天津教側であげたもの。実際には参観者の域にとどまった人が多いと思われる」と、秦氏は書いているが、それにしてもおなじみの軍人、華族、弁護士等(頭山満も出てくる)の中では、異質な存在である。
 もっとも、2代目教祖竹内義宮の『デハ話ソウ』(昭和46年11月発行)の、「主なる神宮拝観者と参拝者」中「終戦後の方々」として、下中の名前は登場している(ちなみに頭山は昭和10年中の拝観者)。

 さて、僕は天津教が最盛期であった戦前における、竹内文献の関係書籍に、下中の名前を見たことはない。
 しかし、『下中彌三郎事典』を見ていると、うっすらと下中と戦前における竹内文献の信奉者たちとのつながりが浮かんでくるのである。


2 下中彌三郎と酒井勝軍

まずは、「カイゼルの遺言」の項目を見てみよう。

 雑誌『平凡』の昭和4年(1929年)3月号に「世界転覆の陰謀-真?妄?所謂猶太禍!」という座談会が掲載されている。出席者は信夫淳平、酒井勝軍、大竹博吉、満川亀太郎、樋口艶之助、大石隆基の6名に、社側から下中と志垣寛という顔ぶれ。(中略)出席者のうち、樋口、大石はユダヤ禍の鼓吹者であり、そのほかはすべて反対論者であった。両者それぞれ見解をのべて白熱の論戦を展開するが、結論は下中の「もう少し日本人の思想を堅固にして根拠のないユダヤ禍説の如きにビクビクしないようにしたいものだ」という点に落ち着いた。論争の途上、1897年(明治30年)にスイスで開かれたユダヤ人会議で決めた、世界転覆の筋書とされる議定書(プロトコール)が、実は偽書であるという点に関連して下中はつぎのように発言した。(以下略。匿名で下中が『カイゼルの遺言』という書物を書いたことがあるという話)

 いきなり、「キタ━━━━ヽ(^∀^ )ノ━━━━!!!! 」
 竹内文献の信奉者としては、トップクラスの酒井勝軍の登場だ。しかも、下中自らも参加している。
戦時下の偽書論争(2月3日参照)もすごいが、ユダヤ禍論争ってのもたまらん。

3 下中彌三郎と肝川竜神

 次に「耕大陣之大神」の項目を見よう。

 下中が、彼のみたま神(身魂神)とされる耕大陣之大神(たがやしだいじんのおおかみ)を祀る<大国宮>に詣での[ママ]は、昭和30年(1955年)3月18日で大国宮なるものを下中に紹介した三枝忠二が案内し、久邇朝融が同行した。大国宮の所在地は、兵庫県川辺郡猪名川町字肝川で<肝川竜神>ともよばれている。大正3年(1914年)秋、全戸数わずか30戸のこの部落に、突如<神憑り>となって叫び回り、人々をおどろかした婦人が現れた。車末吉の妻小房(31歳)である。
(中略)この啓示が大変な評判となって、貴族院議員赤池濃、旧米沢藩主子爵上杉憲章、のちにこの啓示を基礎に神政竜神会を組織した海軍大佐矢野佑太郎をはじめ、多くの人が集まった。なかでも、大本教の出口仁王[ママ]三郎らは機会あるごとに肝川を訪ね、教祖出口直の没後はもっぱら車小房の啓示によって大本教の基盤を固めていった。
(中略)下中は、以後数回肝川を訪ね、(中略)。
 昭和39年10月5日の大国宮秋季大祭にあたり、下中は先覚者の一人として大国宮に合祀された。

注:下中は昭和36年2月死去

 ぬぬぬ、次は神政龍神会やら大本教の登場か!「解剖」は、中村古峡先生の独壇場だが、先生はとっくにお亡くなりになっているから、我輩が代わりに少し「解剖」しよう。
 赤池、上杉、矢野はいずれも秦氏の著書で「最盛期の信奉者たち」とされる人物。『デハ話ソウ』によれば、上杉、矢野の拝観年は、それぞれ、昭和7年、5年(ちなみに、赤池は2月14日に「日本国語会」で言及した元警視総監である)。
 更には、久邇朝融とは、『デハ話ソウ』中、下中と同じく、拝観者リストに「終戦後の方々」として登場する久邇宮朝融主殿下であろう。竹内文献の関係者がぞろぞろ出てくるなあ。

 まてよ、この項目の執筆を担当した神田孝一の執筆者紹介を見てみよう。
 神田孝一(福島)
 一(現職) 心の科学会会長
 二(下中との関係) 昭和28年世界銀行券問題、昭和29年大国宮、昭和31年富士山ピラミッド問題、同年世界遺産連盟問題等の問題について関係した。

とある。どっかで見たような名前だなあ。『デハ話ソウ』の参拝者名簿を再度見ると、頭山満と同じく、「昭和10年中」の拝観者の中に入っている。更には、「終戦後の方々」では、下中の名前の直後に、「神田孝一(心の科学会会長)」として登場しているぞ。

(参考)矢野祐太郎と、大本教、天津教、神政龍神会について
    『神政龍神会資料集成』中『皇祖皇大神宮御神宝の由来』の解説から

神宝奉賛会は、矢野祐太郎が昭和8年3月、竹内(引用者注:天津教初代教祖)を名誉総裁に仰ぎ、皇祖皇大神宮の「御神宝ノ存スル所ヲ満点下ニ徹底セシメ、以テ我ガ神州皇国ノ総テノ国難ヲ根本的ニ救ヒ、進ンデ世界平和ノ実現ニ貢献セン」ことを目的として設立したものである。会長には矢野自身が就任をし、本部は東京市四谷区南町の矢野の居宅に置かれた。(中略)矢野に、大出口直霊大神(引用者注:大本教初代教祖)から「棟梁皇大神宮の古文書、一日も早く調べる様いたせよ」という神命が下ったのは、昭和5年11月4日のことであるという。矢野はそれまで皇祖皇大神宮が存在することも、同神宮に古文書が存在することも知らなかったが、酒井勝軍を通じてその所在を確認し、同年11月14日、妻シンを同道して参拝を果たす。(中略)しかし、矢野は間もなく自らが設立した神宝奉賛会から脱会することになる。(中略)脱会後の矢野は、独自の組織造りへと方向を転じる。それが、昭和9年11月に結成された神政龍神会であった。


平凡社創設者下中彌三郎の謎(その2) - 神保町系オタオタ日記
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“4 下中彌三郎と三浦関造

 同じく、神田が執筆を担当した「心霊研究」の項を見てみよう。
 

下中は<興味過多症>を自称していただけに、怪奇の世界にも非常な関心を寄せて誘われれば心霊研究や交霊会には喜んで顔を出していた。(中略)が、そんなところから、下中の身辺には、霊媒的人物がいつもつきまとっていた。あまりに神憑り的なので、世間からはとかく疎んぜられ勝ちだった三浦関造を扶けたり、仁宮武夫や小田秀人の来訪をよろこんでいたのも、その現われであろう。

三浦関造について、『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』(三村三郎著。昭和28年8月発行)中「親猶主義関係の人々」から引用してみよう。

三浦関造  霊智学(フエロソフイ)の権威として知られ、戦前数回渡米したが、本年は印度にゆくと言っている。著書多数あり、日猶懇話会副会長として、犬塚[惟重]会長と共に若いユダヤ研究者の育成に務めている。

 同書によれば、「日猶懇話会」というのは、昭和25年に、藤沢親雄、三浦一郎、角田清彦が発起して設立した団体。ふ、ふ、ふ、とうとう藤沢や、三浦(三村三郎は三浦の筆名)まで登場してきたぞ。
 おっと、出し惜しみしては、いかん。同書の「親猶主義関係の人々」には、下中の名前もあるのだ。

下中弥三郎  平凡社社長、元中央翼賛会議長、埼玉県小学校教員から左翼的農民運動に入り、転じて右翼系の人となり、橋本欣五郎氏初め沢山の右翼人のシンパだった。(中略)最近神奈川県元大倉精神文化研究所跡にアジヤ大学を設立すべく奔走中、氏は早くから八紘為宇、一視同仁の国体原理に基く親猶主義者で、現在「日猶懇話会」名誉会長である。(中略)ユダヤ問題及びユダヤ情報については想像以上に詳しい。

5 下中彌三郎と田中清一

 田中清一という名前に記憶があるだろうか。2月2日に言及した人物で戦前は、竹内文献の信奉者の団体を支援した人物である。戦後は、国会議員になる(昭和34年参議院全国区当選、一期で辞任)のだが、この人物もおもしろそうな人物である。三村三郎は、『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』の「戦前における親ユダヤ陣営の人々」で、「民間で有力な日猶親善運動者」として、皇漢医学の中山忠直、日本神智学者の三浦関造などと共に、富士製作所々長田中清一を挙げている。

 また、『神代秘史資料集成解題』(大内義郷著)では、竹内文献の信奉者として知られる弁護士田多井四郎治の紹介として、「昭和13年頃、当時唯一の特殊軍需器材制作所として知られていた静岡県沼津市の富士制作所社長田中清一を資金のバックとして小寺小次郎が興した神代文化研究所で理事・所長の要職を占め、同じ頃所員となった安藤[一馬]と並んで上津文研究家として活躍し、同17年には大湯のストーン・サークルの発掘を手懸けたが、昭和18年頃、研究所の役員から身を引いている」としている。

 この田中が、『事典』の「綜合国土計画高速自動車道」の項目に出てくるのだ。

富士製作所長田中清一によって企画提唱された高速自動車道建設案にもとづく、全日本縦貫道路である。(中略)
下中はこの提唱者である田中清一の、全然私利私欲を放れた雄大な国家的企画にすごく感動共鳴していて、この企画の本拠である財団法人田中研究所が発足した昭和30年7月以来その理事に就任し、田中を極力扶けてきた。

 ところで、三村の書には、「田中清一氏の「国土計画」に関するパンフレツトを中山[忠直]氏が発行した時にもこの論(引用者注:伊勢の外宮を長野県安曇平に移して長野神宮とするなどの中山の私案)をさしはさんでいた。」と書いてある。この中山は、ヨコジュンがほれ込んでいる人物で、『日本SFこてん古典』第1巻で登場しているし、雑誌で略伝を連載した(筆者未見)とのこと。ヨコジュンの『雑本展覧会』では「明治28年生まれの詩人で、漢方医学研究家で、芸術評論家、タコ部屋撲滅運動家、埋もれた画家の紹介者、国家社会主義活動家として活躍したマルチ人間」としている。この項の冒頭に書いたように三村によれば、日猶親善運動者でもある。色んな人間が登場してきて、ワクワクするなあ。

6 おわりに 

 下中は、『すめらみこと信仰 萬教帰一の最高具体標識』(昭和12年2月発行)で、次のように述べている。

 この既成宗教の腐敗堕落をしり目にかけていともあやしげな新宗教とやらが時を得顔にはびこつてをる。天理教とやら、金光教とやら、大本教は言はずもがな、人の道だの、成長の家だの、次から次へと人間の弱点をつけねらふ邪教みたいなものが横行する。現世利益の妖教めいたものが濶歩する。

 今まで見てきたように、下中の竹内文献の信奉者たちとの関係から考えると、このせりふが本音か、とぼけているのか判断するのは難問である。もっとも、昭和12年の時点で、下中が信奉者たちとどのような関係にあったかは依然として不明であるが・・・

 さて、右翼系人物との印象を持ってしまう下中であるが、まだ三村の言う「左翼的農民運動」家であったと思われる大正14年、石川三四郎らと創立した農民自治会の、第1回全国委員会が昭和2年3月に開催された
。その時、下中、石川ら14名の全国連合委員(東京)の中に不思議な名前が見られる。すなわち、大槻憲二という名前が。

注:大槻憲二については、2月14日及び20日を参照。

追記:大槻憲二について、『日本近代文学大事典』から抜粋
 大槻憲二 明治24.11~昭和52.2
 文芸評論家、心理学者。大正7年早大文学部卒。
 大正末期から、農民文学論者の立場に立って「文芸日本」「新潮」「文芸市場」「都新聞」などにマルキシズム文学論批判の評論を発表。大熊信行、平林初之輔らと論争した。のち、精神分析学の立場に移った。

 森さんの言うとおり、大槻の名前が出てきても不思議ではなかった。”


下中弥三郎もまた、大本教などを叩く振りをしております。だから、大本教=キリスト教+メーソン思想=和風キリストメーソン教=カルト製造工場(返品不可。商品に責任を負わない特権を持つ)などの急所は絶対に云いません。


下中弥三郎とケネディ返書 古沢襄
http://www.kajika.net/wp/archives/118
“戦後出版界の重鎮だった下中弥三郎氏と会ったのは昭和二十六年頃であった。末次信成内相の秘書官だった鈴木憲一氏に連れられて、東京・八重洲口にあった平凡社に行った。当時の私は早稲田大学に入ったものの授業料を滞納して除籍寸前という状態にあった。”
“GHQから公職追放令を受けた下中氏が追放解除となった時期であった。海軍右派だった末次大将と世界連邦を唱えた下中氏の関係が分からないまま平凡社の歴史大事典編集部にアルバイトとして採用して貰った。それを機会にヨット鉛筆の家庭教師はやめた。
平凡社に入ると下中氏は雲の上の人であった。そこで鈴木氏から戦前の下中氏のことを聞くことになる。仲間の学生に出版界に詳しい者がいて「下中弥三郎は戦前右翼のファシストだよ」という。
アルバイト代が高額だったので、そんな詮索はどうでもいいという気がする一方で、スケールが大きい下中氏の魅力に取り憑かれる日々だったので、思い切って鈴木氏に聞くことにした。「とにかく早稲田を卒業すれば、平凡社の正社員になれるのだから・・・」と鈴木氏は言いながら、戦前の下中氏のことを話してくれた。
大正十二年に下中氏は「萬人労働の教育」という著書を出している。世界連邦運動の下地は戦前からあった。昭和十五年には「大西郷正傅」の著書もある。大西郷の思想系譜の中に世界連邦思想があるというュニークな発想をした最初の人であった。
戦争中は山梨県・岩間村に疎開し終戦を迎えている。そこで三つの提言をしている。一つは郷村自治、一つは人種混合、もう一つは世界連邦。これが戦後日本の三つ柱だと言った。あの混乱期に民間でこれだけの先見性ある発言をしている。
郷村自治は地方分権、人種混合は異民族の受け入れ・同化、世界連邦は国連中心主義と置き換えれば、今の日本の目指す指針と変わらない。GHQによる占領政治が始まろうかという時期に、一介の出版人がこの提言をして、自ら世界連邦建設同盟の理事長となり、教育の基本となる百科事典の出版事業に精魂を傾けている。
ここに至るまでに下中氏は幾山河を超えてきている。日本の右翼運動は観念右翼と組織右翼の大きな流れがある。言い方を変えれば、古来の日本主義と近代的な国家社会主義の対立の狭間で揺れてきた。
大正七年に発足した「老壮会」は、古き国粋主義運動から新しい近代的な国民主義を目指したファシスト運動といって良いだろう。老壮会から多くのナショナリスト団体が生まれた。その左派グループに堺利彦、嶋中雄三、下中弥三郎らの名がある。右派グループでは北一輝、大川周明らがあって、中間派として中野正剛らがいた。
三年ほどで老壮会は消えたが、これを母体にして北一輝の猶存社が生まれ、大川周明、安岡正篤、西田税らが加わっている。北一輝と大川周明は後に対立して、大川周明の神武会が結成された。組織右翼が離合集散を繰り返し、過激化する中で左派グループは沈黙せざる得なかったが、下中氏は「新日本国民同盟」を結成して大衆的基盤を固めようとしていた。
下中氏は昭和七年に「経済問題研究会」を立ちあげ、赤松克麿の「国家社会党準備会」と合流して「国民日本党」を結成式を挙げるまでになったが、赤松派の国家社会主義と合わず、下中派は脱退している。下中氏の党誓には「建国の本義に基づき新日本の建設を期す」とあるが、搾取なき新社会の建設を目指しているので、一部から”アカ”呼ばわりされた。脱退した下中氏は「新日本国民同盟」を創立。しかし右翼運動の大きな流れから外れてきたことは否めない。
下中弥三郎の軌跡を振り返ると戦前の苦悩の時代抜きには語れない。その幾山河を超えてきたから、戦後間もなく疎開先で郷村自治、人種混合、世界連邦という三つのビジョンを語れたのであろう。世界連邦にしてもアジアなくして世界連邦なしと言い切っている。
終わりになるが、ケネデイ米大統領に出した書簡とその返書のエピソードを伝えたい。この後、下中氏は、この世を去った。八十三年の生涯であった。
ケネディは大統領就任演説で「人類が戦争を滅ぼさなければ戦争が人類を滅ぽすであろう。力の抗争に終止符を打とう、世界に新しい法の秩序を打ち立てようではないか」といった。これに賛同した下中氏は六つの提言をケネディに送っている。
①アイゼンハワー前大統額のソ連封じ込め政策は誤りである。百八十度転換して、封じ込め政策をやめなさい②集団安全保障体制というものは平和につながらない。だから集団安全保障制度を洗い直せ③米ソは世界平和の責任者である。人類を皆殺しにするような兵器を両方とも山積みにしているが、それをどうやったら廃絶することができるか、余人をまじえずソ連首相とさしで真剣に話しなさい
④発展途上国への援助は、アメリカもソ連もひもつきでやっている。自分の言うことを聞く国だけに援助しておるが、それはやめなさい。国連に一つの機関を設けて、そこへプールして、そこから必要に応じて援助するプール方式をとりなさい⑤国連の平和維持機構というものをもっと強固にする必要がある。そのための国連憲章の改正を行ないなさい⑥中共を速やかに国連に加盟させなさい・・・という英文の手紙であった。
折り返し「大変いい忠告をいただいて感謝申しあげる。私の在任四年問を通じて先生の意に沿うように努力したいと思う」というジョン・ケネディのサインをした返書が届いた。スケールの大きい人物であった。

下中弥三郎もまた、言っていることとやっていることが全く異なる人なのでした。
参考資料
下中弥三郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E4%B8%AD%E5%BC%A5%E4%B8%89%E9%83%8E
下中弥三郎-略歴
http://yh-m.net/shimonaka/index.htm
下中弥三郎-年表
http://yh-m.net/shimonaka/00-2.htm
下中弥三郎-資料  下中弥三郎著作
http://yh-m.net/shimonaka/00-3.htm
を中心に作成)
沿 革 - 日本アラブ協会 - Japan Arab Association
http://japanarab.jp/guide/guide002.php
老壮会/老荘会(ろうそうかい)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E5%A3%AE%E4%BC%9A

■[トンデモ][満洲][図書館] 平凡社創設者下中彌三郎の謎(その1)
http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20060221/p1
■[トンデモ][文藝][ヨコジュン] 平凡社創設者下中彌三郎の謎(その2)
http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20060223#p1
2・26事件特集(18)老壮会の活動
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-category-7.html
世界平和アピール七人委員会 - World Peace 7
http://worldpeace7.jp/
左翼陰謀論者のスルーするところ【20090613】
http://www.mkmogura.com/blog/2009/06/13/234

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