読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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終末なにしてますか?神学ですか?哲学ってもらっていいですか?手加減なしで書く哲学記事と、プラトン『メノン』メモ翻訳比較 

使注追加中う メノン読むと哲学が止まらなくなったのでかき殴った生地。

プラトンは生まれる前の魂は全知だと考えていたらしい。
何でも知っている、輪廻転生を繰り返す不滅の魂は全知であり、刺激を受けてその記憶を想起することで、事物に対する知識を生み出すという想起(アムネーシス)説。
長所(アレテー)を身に付けているのは、知性とは無関係に(知性がなくてもアレテーがある)、神的なもののおかげらしい。

ナルトとプラトンを結びつけて論じたのは恐らく私が初だが今回は渇愛、じゃなくて割愛。私のツイートか過去記事をどうぞ。


フェイド大帝
「プラトンは「メノン」で”徳(アレテー)”は教育によって
教えれる物なのかどうかを問題に挙げている。
結論を言うと、プラトンに拠れば”徳”というのは
先天的にしか身に付かない
と唱えている。
プラトンがイラン系宗教の隠れ信者であったことは既知の
事実であるが、「メノン」ではプラトンが実は”輪廻転生”を
信じている
ことが分かる記載がある。

プラトンは”徳”と言うものは前世が記憶しているからこそ
現世においてそれが”徳”であると認識できるのだと
説いている。
つまりプラトン哲学だと”徳”は前世から「遺伝」
するのだ!

アスラ
=自然/本能の神格化=自然/本能のまま生きる「貪人」

デーヴァ
=自然/本能を制御する文明=本能を制御する「魂人」」

ーーー


プラトン
『メノン 徳(アレテー)について』渡辺邦夫/訳 光文社古典新訳文庫
と『メノン』 藤沢令夫訳 岩波文庫

・アレテー=ものの働きの卓越性、良い性能、優れたところ。
人のアレテーは徳と訳されることが多い。
(誤訳じゃねーか!長所って訳のほうがよくないか?)

『メノン』 藤沢令夫訳 岩波文庫 1994年
“こうして、魂は不死なるものであり、すでにいくたびとなく生まれかわってきたものであるから、そして、この世のものたるとハデスの国のものたるとを問わず、いっさいのありとあらゆるものを見てきているのであるから、魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何ひとつとしてないのである。だから、徳についても、その他いろいろの事柄についても、いやしくも以前にも知っていたところのものである以上、魂がそれらのものを想い起すことができるのは、何も不思議なことではない。なぜなら、事物の本性というものは、すべて互いに親近なつながりをもっていて、しかも魂はあらゆるものをすでに学んでしまっているのだから、もし人が勇気をもち、探求に倦むことがなければ、ある一つのことを想い起したこと――このことを人間たちは「学ぶ」と呼んでいるわけだが――その想起がきっかけとなって、おのずから他のすべてのものを発見するということも、充分にありうるのだ。それはつまり、探求するとか学ぶとかいうことは、じつは全体として、想起することにほかならないからだ。”p.47-48(81C、D)

”徳というものは、もし徳が誰かにそなわるとすれば、それは明らかに、神の恵みによってそなわるのだということになる。”p.118(100B)

『メノン 徳(アレテー)について』プラトン/著 渡辺邦夫/訳(光文社古典新訳文庫)
このように魂は不死であり、すでに何度も生まれてきており、この世のことでも冥府のことでもあらゆることがらをすでに見てきたので、魂が学び知っていないことは何もないのだ。したがって、徳(アレテー)についても他のさまざまなことについても、なにしろ魂が『以前にもう』知っていたことなので、魂がこれらを想起できることには何の不思議もない。
なぜなら事物の自然本性はすべて同族であり、魂はすべてのことを学び知っているので、人が或るたったひとつのことでも想起するなら――このことを人間どもは「学習」と呼んでいるが――、その人が勇敢であり、探究を厭わなければ、他のすべてをかれが発見することには何の妨げもないのである。というのも探究することと学習することは、けっきょく全体として、想起することに他ならないから。
”p.70(81C、D)
※『以前にもう』は、引用元では『』はなく、『』内にある文字に傍点。本ブログ形式ではルビはふれないので仕方なし。
※自然本性(フュシス)はネイチャーの起源であり、日本語の自然よりも意味が広い。
或る物事「の」自然本性、例えば、人間の・国家の・アレテーの自然本性(フュシス)のように様々な語に使える。

”徳(アレテー)は、それが人に備わる場合にはいつも、神的な運命によってわれわれに備わることは明らかである。”p.156(100B)


岩波文庫版
ソクラテス
“おまけに、どうやらぼくは、美しい人たちの前に出ると弱い男だということを、君に見ぬかれてしまったらしいね。……しかたがない、君の機嫌をとるために、答えることにしようか。”

光文社版
ソクラテス
“それに、きみは同時に、わたしが美少年にはからきし弱いということに、どうやら気づいたようだね。
そのようなわけで、わたしはきみの気を引くようにして、答えてあげよう。”p.46(76C)

(オルフェウス教とピタゴラス派は魂は不死だという思想を、プラトンは受け継いでいる。

まったく、「ホモ」・サピエンスの業は深いぜ!
欧州貴族が同性愛容認なのはプラトンの影響が大きいです。
そしてキリスト教では同性愛は(表向き)禁止。
つまり、タブー化による利権が生じるわけです。
禁酒法と同じ構造。
非差別層に特権を与えて間接統治させるのも、差別というタブーによる利権の強化をする目的もあります。
日本の江戸時代みたいに同性愛なんて当たり前だったら裏社会利権化はしないわけです。
同性愛容認か反対かどうかでどの陣営に属するかがわかります。
性に関しては妥協しにくいので分かりやすいです。
聖書絶対陣営(ネトウヨとか)は聖書絶対なので聖書の記述通り、
同性愛者は殺せ=同性愛反対です。
逆に、科学重視派、欧州貴族とバチカンの宗教統一賛成派は同性愛容認です。
これから、人口抑制の為に同性愛を推奨するでしょう。
そして同時にギリシャ文化やギリシャの哲学者を宣伝するでしょう。

すくすく。 @ScreamoTAI · 4月7日
面白いのは、江戸時代までの男色は「大人が美少年とやる」ものなわけです いわゆる「ボーイズラブ」ではない 少年同士の対等な性愛文学は明治後期まで待たないといけない 腐女子というジャンルを生み出した源流は明治時代でした)

プラトン全集読破ポータル
http://narimasu.wordpress.com/plato/
内の
プラトン『メノン』メモ
http://narimasu.wordpress.com/2013/12/11/%e3%83%97%e3%83%a9%e3%83%88%e3%83%b3%e3%80%8e%e3%83%a1%e3%83%8e%e3%83%b3%e3%80%8f%e3%83%a1%e3%83%a2/

徳は教えられうるか
想起説 (例として正方形の面積を求める過程)
「知識」と「思わく」の違い

なお副題は「徳について」。以下は読書時のメモです。

メノン「こういう問題に,あなたは答えられますか,ソクラテス。―人間の徳性というものは,はたしてひとに教えることができるものであるか。それとも,それは教えられることはできずに,訓練によって身につけられるものであるか。それともまた,訓練しても学んでも得られるものではなくて,人間に徳がそなわるのは,生まれつきの素質,ないしはほかの何らかの仕方によるものなのか…。」(70A)

ソクラテス「すくなくとも,君がこの土地のだれかをつかまえて,いまのような問をかけるつもりになってみれば,それがわかるだろう。きっと誰でもわらってこう答えるだろうから。
「客人,どうやら君には,ぼくが何か特別に恵まれた人間にみえるらしいね。徳が教えられうるものか,それともどんな仕方でそなわるものなのか,そんなことを知っていると思ってくれるとは!だがぼくは,教えられるか教えられないかを知っているどころか,徳それ自体がそもそも何であるかということさえ,知らないのだよ。」」(71A)

ここで,ソクラテスの本対話篇での一貫した立場を架空の人物に語らせています。つまり「徳とは何か」が分からないのだから,それがどういうものであるか,つまり教えられるのかどうか,というのも分からない,と。

ソクラテス「君があげたいろいろの徳についても同じことが言える。たとえその数が多く,いろいろの種類のものがあるとしても,それらの徳はすべて,ある一つの同じ相 (すがた) (本質的徳性) をもっているはずであって,それがあるからこそ,いずれも徳であるということになるのだ。この相 (本質的徳性) に注目することによって,「まさに徳であるところのもの」を質問者に対して明らかにするのが,答え手としての正しいやり方というべきだろう。ぼくの言おうとすることがわからないかね?」(72C)

この言葉の前には,「男の徳は~,女の徳は~,子供の徳は~」といったように色んな条件での徳があるとメノンが言い,それに対するソクラテスの言葉です。
所謂「イデア」を思わせる言葉です。…

メノン「正義は,ソクラテス,徳なのですから。」
ソクラテス「徳,だろうか,メノン,それとも,徳の一種だろうか?」
メノン「と言われる意味は?」
ソクラテス「ほかの何についても言えるようなことだ。たとえば,円形というものについて考えてみてもよいが,ぼくなら,それを形の一種であると言って,ただたんに形であるとは言わないだろうね。なぜそういうふうに言うかというと,ほかにもいろいろ形があるからだ。」(73D)

メノン「それでは,勇気が徳であると私には思われますし,それから節制,知恵,度量の大きさなど,ほかにもずいぶんたくさんあるでしょう。」
ソクラテス「再度われわれは,メノン,同じ目にあったわけだね。一つの徳を求めながら,またしてもわれわれはたくさんの徳を見つけ出してしまった。そうなるに至った手順は,さっきとは別だけれども。君のあげたすべての徳目をつらぬいているただ一つの徳を,どうしてもわれわれは見つけ出すことができないのだ。」(74A)


あとこれは知らない人には何の事だかサッパリだと思いますが,ソフトウェア開発の「オブジェクト指向」の考え方で,イデア論やもしくは哲学を説明しようとする試みが行なわれていたのをどこかで見たことを思い出しました。ここの部分は,いかにも is-a 関係 (つまり継承) の例になりそうなので。私自身は,真実を追求する姿勢に数学的・理系的なものを感じたり,対話のやり方にアジャイル的なものを感じることはあっても,ソフトウェア開発の方法論を当てはめる観点でプラトンを読もうと思ったことはありません。

ソクラテス「そして問答法においては,ただたんにまちがっていない答をあたえるだけでなく,質問者が知っていると前もって認めるような事柄を使って答えるのが,おそらくその結果によりかなったやり方というべきだろう。」(75D)

これはさらっと書かれていますが,案外プラトン対話篇をつらぬく重要なことかもしれません。というのは,プラトン対話篇というのは読者に何の前提知識も求めず,何から読んでもそれ単体で読めるものになっているからで,それを示しているようにも思えるからです。知らないことを知っていると思わせないために,「分かった気にさせない」ということでもあるのかなと思います。

メノン「ソクラテス,お会いする前から,うわさはかねがね耳にしていました―あなたという方は何がなんでも,みずから困難に行きづまっては,ほかの人々も行きづまらせずにはいない人だと。げんにそのとおり,どうやらあなたはいま,私に魔法をかけ,魔薬を用い,まさに呪文でもかけるようにして,あげくのはてにこの私を,すっかり途方にくれさせてしまったようです。もし冗談めいたことをしも言わせていただけるなら,あなたという人は,顔かたちその他,どこから見てもまったく,海にいるあの平べったいシビレエイにそっくりのような気がしますね。なぜなら,あのシビレエイも,近づいて触れる者を誰でもしびれさせるのですが,あなたがいま私に対してしたことも,何かそれと同じようなことであるように思われるからです。なにしろ私は,心も口も文字通りしびれてしまって,何をあなたに答えてよいのやら,さっぱりわからないのですから。」(80A)

ソクラテス「それから,このぼくのことだが,もしそのシビレエイが,自分自身がしびれているからこそ,他人もしびれさせるというものなら,いかにもぼくはシビレエイに似ているだろう。だがもしそうでなければ,似ていないということになる。なぜならぼくは,自分では疑問からの抜け道を知っていながら,他人を困難に行きづまらせるというのではないからだ。道を見うしなっているのは,まず誰よりもぼく自身であり,そのためにひいては,他人をも困難に行きづまらせる結果となるのだ。」(80C)

シビレエイのたとえが出てきました。ソクラテスの対話でよく出てくる,所謂アポリアーです。但し前半の言葉によると,実際にソクラテスの容姿はシビレエイそっくりらしいのですが。これは貴重な証言なのではないでしょうか。…

ソクラテス「こうして,魂は不死なるものであり,すでにいくたびとなく生まれかわってきたものであるから,…魂がすでに学んでしまっていないようなものは,何ひとつとしてないのである。だから,徳についても,その他いろいろの事柄についても,いやしくも以前にもまた知っていたところのものである以上,魂がそれらのものを思い起こすことができるのは,何も不思議なことではない。なぜなら,事物の本性というものは,すべて互いに親近なつながりをもっていて,しかも魂はあらゆるものをすでに学んでしまっているのだから。もし人が勇気をもち,探求に倦むことがなければ,ある一つのことを想い起したこと―このことを人間たちは「学ぶ」と呼んでいるわけだが―その想起がきっかけとなって,おのずから他のすべてのものを発見するということも,充分にありうるのだ。それはつまり,探求するとか学ぶとかいうことは,じつは全体として,想起することにほかならないからだ。」(81C)

これが「想起説」と呼ばれるもののようです。そもそもメノンが「知っている事柄については,既に知っているのだから探求する必要がない,しかし知らない事柄については,何を探求すればよいのか分からない」ということを指摘した (実際にはソクラテスに言わせた) のがきっかけで,ソクラテスが語ったことです。
科学的な知見がない時代なので,本能的なものがなぜ人間に備わっているのかを説明しようとしたとも思えます。しかしどちらかといえば,セレンディピティみたいな後天的な閃きに近いでしょうか。それにしても上手い説です。本当によく考察した結果なのだなと思います。

この後,メノンの召使に正方形の面積についての問題を「想起」によって解かせる場面があります。メモは全面的に省略しましたが,面白い場面です。ここは「いかにして問題をとくか」という古典的な本 (理系では有名?) で,生徒に先生がどう図形の問題を解かせるかを教える場面を思い出しました。非常に似ていると思います。つまり未知の問題を解くプロセスとして,この想起説の考え方は今にも生きているのではないかと思います。

ソクラテス「とすると,もし徳というものが,魂にそなわる資質のひとつに数えられるようなものであり,また,かならず有益なものでなければならないとするならば,徳とは知でなければならないことになる。なぜなら,いやしくもすべて魂の資質というものは,それ自体単独では有益なものでも有害なものでもなく,そこに知もしくは無知がはたらくことによってはじめて,有害なものとなったり有益なものとなったりするのだから。こうしてこの議論にしたがえば,徳が有益なものである以上,それはひとつの知でなければならないのだ。」(88C)

この少し前では,「例えば勇気は,正しい知識が伴わなければ害を受け,伴えば有益になる」というようなことを言われます。ということで,徳は善いものであれば知識であり,知識なのであれば教えられる,という論理的な帰結が導かれたことになります。しかしそもそも徳は知識なのか?という疑問が生じ,「思わく」というものを提示した結果,次のように言われます。

ソクラテス「してみると,行為の正しさということに観点をおくなら,正しい思わくは,導き手としての「知」に何ら劣るものではないことになる。そしてこの点こそ,われわれがさっき,徳とはいかなるものかを考察するにあたって,見のがしていたことなのだ。われわれは,正しい行為を導くのはただ「知」だけだと言っていたのだから。実際にはしかし,正しい思わくもまたそうだったのだ。」(97B)

「思わく」の例として,実際に目的地までの道を歩いたことがあり行き方を知っている (知識) のと,歩いたことはないが行き方の見当をつけて,それが結果的に正しい (正しい思わく),ということが直前に書かれています。目的地に到着できるかぎりでは,知識と正しい思わくは同じだと。

ソクラテス「つまり,正しい思わくというものも,やはり,われわれの中にとどまっているあいだは価値があり,あらゆるよいことを成就させてくれる。だがそれは,長い間じっとしていようとはせず,人間の魂の中から逃げ出してしまうものであるから,それほどたいした価値があるとはいえない―ひとがそうした思わくを原因 (根拠) の思考によって縛りつけてしまわないうちはね。しかるにこのことこそ,親愛なるメノン,先にわれわれが同意したように,想起にほかならないのだ。そして,こうして縛りつけられると,それまで思わくだったものは,まず第一に知識になり,さらには,永続的なものとなる。ここにこそ,知識が正しい思わくよりも高く評価されるゆえんであり,知識は,縛りつけられているという点において,正しい思わくとは異なるわけなのだ。」(97E)

ここで「想起」と「知識と思わくの違い」が結びつきます。
「思わくを縛り付けたものが知識」というのは結構実感できる部分です。同じことを訊かれても,その時々で自分の答えが変わるようなことは確固たる知識ではないのかもしれません。他方で確かに自分の中で何か順序だてて答えを導いたようなことは,頭の中でしっかりと定着したような感じになります。このプロセスが「想起」なのだと言われれば,すごく納得します。

ソクラテス「してみると,実際の行為に関するかぎり,正しい思わくは,知識とくらべて何ひとつ劣るところはなく,また有益であるという点でも,けっしてひけをとらないわけだね。同じことは,正しい思わくをもっている人と,知識をもっている人とをくらべた場合にも言えるだろう。」(98C)

ということで,ここから,過去の偉大な政治家等の人物が国を治めることができたのは,知識を持っていたのではなく,正しい思わくをもっていたにすぎない,ということが言われます。知識ではないから,子孫に伝えられなかったのだと言われます。そしてその思わくは,神によって授けられるものである,と言われます。…ただこの結論は,どちらかといえば時間切れという側面なのかなと思います。結局は,ソクラテスの最初からの姿勢である,「そもそも徳とは何であるか」をまず明らかにすべき,というところで終わります。”


ーーー
ここに注目すると思想を学ぶときにより面白いかもしれない論点

うにょうさんそう【右繞三匝/右遶三匝】とは。意味や解説、類語。仏語。礼式の一で、仏に対して右回りに3回まわること。また、その作法。
トリは霊魂の比喩。

このツイート見てエジプトの心臓とか調べてた。
でインドと比較した。

TOMITA_Akio‏ @Prokoptas 20時間20時間前
ところで地獄はどこにあるのか?
エチオピア語エノク書によれば、死者は地上、地下、地獄に分かれて住み、
スラヴ語エノク書では、地下の地獄、第3天北側の地獄、そのほかに第2天と第5天に懲罰の場が存在する。
ギリシア語ペテロ黙示録によれば、七層天のどこかにあるだろう……。(クリアーノ)
精緻を極めたエジプト死者の書によれば、死者の心臓が審判されるのは天でも地でもないツアトである。
仏教的に言えば中有であろうか。ツアトは地上と同じであるが、ただ次元が異なる。その意味で、ウェイト版で恋人/審判/悪魔札の男女の立ち位置がくるくる異なるのは納得のゆくことである。

「この世」の人間と「あの世の」人間と共通するのは心臓のみで、この心臓が秤にかけられる。義人の心臓は返還されるが、そうでない者はそのまま凶霊の国に落とされる。心臓を還された魂は、クウという身体をまとうカーになる。そこで修業すればバーに昇格すると(『死者の書』)。








凶霊の国の詳細はわからないが(とアニは言う)、「そこは水なく空気なく、霊たちは生命力を失ってあてどなく処々を彷徨う」と。これは、エチオピア語エノク書と同じであることが注目。「天蓋が上になく、下に地の基がなく、上に水がなく、鳥もいない、荒涼たる、ものすごい場所を見た」(18章)。
「港に入り、発芽し、クウは育つ、これによりてバーは生きるなり」……「港に入り」とは人間として死んで霊界に入ること……「発芽し」の意味はクウが生まれること……しかしそのクウは無から生まれるのではない。死者の遺体から”発芽”するのだ。……そこで遺体保存……という理路だ。『死者の書』

『死者の書』が腐敗を恐れる程度は半端でない。しかし腐敗はまた生命(体)を生むこともよく知っていた。「エジプトの牛をとある場所に埋め、角だけを地面から出しておき、しかる後に鋸で切り落とすと、蜜蜂たちが飛び出してくる……牛が腐ってその生物に分解するという」アンティゴノス断片19。


死者の書によると、この世界は「原始初生の一滴」の水から生じた、その精が男神ヌウと女神ヌウトだった。「一面水だらけの水面に大きな波が二つ起きた。二つの波は遠く離れた水面に起きたが、それが次第に寄り添ってやがて互いに砕け合った。そしてそこからぽっかりと一つの丸いものが生まれ出た。→

これが実は霊界の生命の根源、太陽神ラアの誕生であった。……二神は相談して、「ラアを浮かべる天の水面として空を生んでやった。「ラアは水から生まれたし、空もまた水から生まれた。そこで空には水面と同じように地上のものが映る。→
ラアは空の水鏡に映った地上……を見間違えて自分の航路を間違えることがしばしばあった」。 天界も地下界も、「この世」の鏡像にすぎない。 「霊の世界はあくまで心の世界だ」と、『死者の書』は驚きべきことを言ってのける(『世界最古の原典エジプト死者の書』p.129)。



無職童貞を無色透明にかえると単なる透明人間である。
透明人間は目が見えないのは当然である。

臓器記憶  輸血 若返る 若返り 
輸血で人格カエル 別人にするとか
呼吸法と輸血が若さの秘訣かもね。ジョジョの作者。
教皇を神と敵対させるカトリックへの嫌がらせのジョジョ。



これらの論点は学んでおくべき。
カルトのいんちき教義の矛盾を突くのに有効。
仏教は本体がある輪廻を否定する、本体なき輪廻。なぜ本体があるとまずいのかが重要。しかし日本人には人間の生は解脱しないかぎり永続するというインド人にとっての絶対的事実が肌でわからないからなあ。

色々浮かんだこと

・人間はどの程度まで考えられるのか。認識不可能なものを思考できるか。
ゴッドについて考えることはできるのか。それは単に人間レベルに落としたゴッドもどきではないのか。そもそも言語化できないなら言語で書かれた聖典とは何か。
非言語でも同様に結局は人間レベルではないのか。超次元だろうが何次元だろうが結局人間が聞けてしまうならその程度ではないか。すごいのはその異次元存在では無くてその人自身ではなかろうか。
デカルトが考えた悪霊がやばいのは、認識の根拠ごと幻影を見せられるからでそれだと結局ただの現実だからで悪霊こそまさにゴッドだから。
逆に言えば、言葉で言葉を創ったゴッドを否定しきるのは不可能ではないのか。
言葉で言葉を創ったゴッドを定義するのは不可能ではないのか。
否定神学というゴッドは~ではないでしか言えないとする手法があるがおそらく正しい。しかしそれすら言語である。結局言葉を超えたものは要請と筆要請(ひつようせい と読む私の造語。ロゴス的要請)ではないのか。
不可知論になるのか無記になるのか。反実在論か。

・ゴッドと絡むが世界の始まりを言葉で知ることはおろか思考も不可能。なぜなら思考も言語もイメージも順序というものが必要だから。順序すらない状態を仮にカオスと呼ぼう。しかし順序がないのでカオスは生まれることができない誕生ができない。ならはじめからあったのか。というかはじめという言葉も適用できない。
ただあったものが変化しないと何も生まれない。何かに干渉したり自分の一部を変化も同様。で結局一部は変化可能でなければならない。あと完全不変なままで他に干渉は不可能ではないのか。干渉すると干渉沙汰ものの影響を必ずうけるのではなかろうか。
突き詰めて考えると人格神が世界の始まりを起こした創造新であることは不可能ではないか。人格は明らかにかなり後に生まれるはず。
慈悲をもって世界を創造とはどういうことを意味しているのか。
善意とか慈悲をもってなんてそれこそわかりようがないのではないか。
そもそも言語表現不可能で言語を超えた、人間的感情に類する善意や慈悲とは何なのか。結局善意悪意うんぬんは後付けなのではないのか。

・理性や魂はみんなあるからみんな仲間思想はかなり有用。

・魂の定義。実在するか。不滅か。生まれ変わるときに必要か・。

・輪廻の定義。輪廻しないのはなぜか。輪廻するのはなぜか。輪廻から脱すると何がいいのか。脱してどうするのか。
輪廻する本体はあるか。輪廻に本体は不要か。記憶を完全に失うなら輪廻とは何なのか。記憶を断片的でも継承できるなら輪廻に本体があるのではないか。
何か共通点があるから輪廻的に前世は云々出きるのではなかろうか。
輪廻前と後になんの共通点もないならそれは輪廻なのか。
輪廻は単なる状態変化なのか。

・人間の本体はなにか。どこから来るのか。そもそもどこかなろといえる場所があるのか。
首の後ろ当たりと言ったがそれはなぜか。肉より電流流れる血液のほうが本体ではないか。むしろ骨ではないか。脳以外にも記憶が宿るのはなぜか。部位によって記憶しやすい事柄があるのか。
エジプトでは心臓が本体だったらしい、脳は鼻水。たしかに心臓がなかったら死ぬ。頭が欠けても生きている実例を見たからだろうか。
インドだと心臓あたりにチッタと呼ばれる記憶貯蔵庫があるらしいが、
唯識の阿頼耶識はどこにあると考えたのだろうか。心だろうか。
調べるとエジプトでは魂なる人間の本体は五つの要素からなるそうで、名前と魂と霊と心臓と影だっけ。心臓だけ物理じゃねーかと思ったが心臓は思考もするらしいから物理ではない。

∸――


宮川 孝幸‏ @M8839 2011年2月2日
血は性格を左右しないと言われるが、体の中を流れる半分以上の血を入れ替えるほどの輸血を経験すると、人間は別人に変わる。数例しかないので科学的根拠までは解っていませんが、副作用として…まぁ、身をもって経験してます。

ホロデッキでポンファー‏ @m5knt 2015年1月5日
そいや昔、親が血を全部入れ替えして性格変わって別人みたいなことになったって話を同僚からきいたっけなぁ

☆かおりのすけ☆‏ @kaorinosuke 2015年7月22日
ママ友さんの話。出産の時に大量に輸血を受ける事態になったのだが、その後物凄く毛深くなって男性のニオイ?が肌からするようになって、ギョッとしたそう。旦那さんにも体臭を指摘されたとか。一年位続いたらしい。


☆かおりのすけ☆‏ @kaorinosuke 2015年9月27日
前にも書いたかもだが、ママ友が出産時輸血した後、凄く毛深くなったり明らかに自分の物と違う男性の体臭がしたりが1年間位続いたらしい。自分の身体じゃないみたな感覚の変化が色々あったとか。
輸血で身体が変化する。

(輸血や臓器移植で別人になれるのなら、特定の人格や体質に改造するために人工輸血や人工臓器を移植しているんだろう。
思想教育だけでなくその思想を持つ人間の血と臓器を入れることでコピーはオリジナルに近くなる。
支配層の頂点レベルと結社員がやってそう。
輸血による若返りが一番の取引材料っぽいけど
ブレサリアンになる技術もありそう。

血液記憶?)

峨骨‏ @Chimaera925 13 時間13 時間前
輸血で性格が変わる、ねぇ?確かに、育毛剤を服用(内服薬)していると献血できない。血に含まれる成分んいよって体質が変化するということはあるだろう。それによって性格が変わるならば、まだ想像が付く。実際問題、俺は生まれてまもなく母親の血を輸血しているんだけど、性格は似てないなぁ。

だいたい、胎児の時に臍の緒を通じて繋がっている訳で。性格がそこで似るというならわかるが、それらの要素で性格が似通ってくるのは後天的なものが強いだろうな。
寧ろ、血を取り変えるような出来事があると、「変わらなくてはならない」という無意識の効果もあるんじゃあるまいか。プラシーボ効果ってのは侮れない。偽薬等は倫理的な問題があるから忌避されるけれども、実際問題そこそこ効果がある。瀉血みたいにロクでもないものでなく、毒にも薬にもならんもの
だったら無害と言えば無害だけれども、それを使う者が有害でないとは限らない。そこに宗教や思想、金銭が絡んでくるから問題があるという事にしておくのが無難だ。






☆かおりのすけ☆‏ @kaorinosuke 2012年5月27日
【科学的事実をいって差別になるなら民主主義国家を標榜するのはやめろ。輸血による被曝は食物接種なんかより心筋にダイレクトにくる。出産による輸血等で無用な事故がおこる。エビデンスを待ってる場合じゃない。一時期の英国滞在者が献血できなかったのと同じ。差別じゃなく区別だ 】




永井均‏ @hitoshinagai1 2016年6月21日
悪霊は「私は存在する」という考えを誰にでも何にでも持たせることができるが、持たされたその者(の一つ)がなぜか私であることは悪霊の感知不可能な事態。したがって、その「私」は悪霊を指すどころか彼の能力の外部にある。とデカルトは発見した。 https://twitter.com/shogoinu/status/744657257162383361 …
清水将吾‏ @shogoinu 2016年6月20日
「私は存在する」という考えを、仮に悪霊に無理矢理もたされているとしたら、その「私」は悪霊を指すことにならないだろうか。

永井均‏ @hitoshinagai1 2016年6月21日
返信先: @hitoshinagai1さん
悪霊は本質的に欺く者だがここでは欺けないのは、神は本質的に創造する者だがここでは創造できないことに基づく。神は「私は存在する」と考える者をいくらでも作り出せるが、作り出された者(の一つ)がなぜか私であることだけは神の力も及ばない。とデカルトは発見した

神が私を創造できないのは、彼が創造した「私は存在する」と考える多数の者たちの内から、私を識別する(という私には易々とできる)ことが彼にはできないからだ。彼は私の心の奥底まで知っているが、どれが私であるかは知らない。私は彼の力の外で存在を得ている。

神は「この時点が今である」といえるような無数の時点を創造できるが、それらのうちいつが今であるかを知る=識別する(という我々にはあまりにも容易できる)ことが(それだけは)できない。その一つの理由は、この「あまりにも容易に識別されるもの」が実は実在していないから、というもの。


しかし、この「神が識別できない」「実は実在していない」ものこそが、神の顕現の場なのだ、と拙著『存在と時間』第6章では言われている。つまり、ここで神の意味そのものが変わるわけだ

「神」(やそれに類する話)はこのように理解するのでなければ意味がない、と私は思っている。この議論にではなく、「神」そのものに関心のある方に、ご意見を聞きたいところ。(中田さんだけでなく。)

「「神」そのものに関心のある方はたいていこの議論が理解できないので「ご意見を聞く」こともできないのでは?」というご意見があり、まあ、事実としてその通りなのですが、私にはそのことが不思議であるわけです。
「……このように理解するのでなければ意味がない」と思っている理由は、超越性へのルートはこれ以外にはありえない、と思っているからです。

永井均‏ @hitoshinagai1 2時間2時間前
永井均さんが森岡正博をリツイートしました
まったくその通りですが、同時代のアカデミックパラダイムで評価される論文を書ける実力を養いつつ、同時にそれによってそのパラダイムそのものを転覆させる計画を虎視眈々と練ればよいので、大丈夫です。両立します!
森岡正博‏ @Sukuitohananika 3月6日
返信先: @Sukuitohananikaさん
現在の世界のアカデミック哲学界を席巻してる英語圏分析哲学がなぜつまらないかといえば、強固なジャーナル査読システムで論文をふるい分け、同時代のアカデミックパラダイムで評価されるもののみを残す仕組みを完成させたからだ。哲学は本来、同時代のパラダイムを転覆させる危険なものだったろうに。




「至神智教団」
ねこた‏ @lakudagoya
モデルは恐らくイスマーイール派かな?
「至神智教団」の学院は恐らくアズハル大学。これ、元々イスマーイール派の学院。
イスマーイール派と言えばブラバッキー夫人のパクリ元じゃん!
 この「至神智教団」ってのはシーア派系の団体だったんかよ!?

なぜイマーム・アリーは重要なの?
それはイマーム・アリーは神智を齎す存在だから。

まさかネットも満足な本もないのにシーア派の情報も入ってるとは恐れ入った!
主人公はフサインのように迫害される。


時間の神である「一の神」の神官である「至神智教団」の祖師様って、もしかして彼の使える神はあっらーさんの比喩かも知れないよ?

イスマーイール派の神話も関係あるかな?

月蝕の巫女を探してたのだから。

時間=お月さまだよ。

で、あっらーさんの娘さんは月の女神だよ。黒曜石だ。


月蝕紀列伝

で、北部は山岳地帯で南部は砂漠のある亜熱帯。

スペインにも似てるけど、アラビア半島で山岳地帯と言えばアシール!

その北部の山岳地帯に本拠地を持つ「至神智教団」ってクルディスタン?

それとも、アラムートの遺跡に本拠地を置いてたイスマーイール派かな?

月蝕紀烈伝に出てた「至神智教団」って教育カルトかな?

「ニャンゲンの可能性を追求」とか言うならば、教育カルト以外になりようがない。

で、神や精霊から離れてニャンゲンの可能性を探求ならば、ストア学派のような理神論を取らざるを得なくなるよー!

月蝕紀烈伝に出てくる理神カルトの至神智教団の教義

「 神々から離れて人間の内に神聖を見いだすこと。人間の持つ無限の可能性を引き出すことです。善と悪、取るべき二つの道があって、たとえ悪の方が魅力的で楽に見えたとしても、結局、人間は善を選ぶものだと、私は信じてるんです。」


LGBTとグノーシス。面白いねぇ。
この前紹介したラノベの「至神智教団」って、封建社会なのに身分にこだわらないんだよ。性別も。

このガチ系啓蒙主義のこだわらなさは世の中の不思議でもある。

この古代から男女平等思想を受け継いだ連中の暗躍が気になる所だが。

この「至神智教団(神智学協会の類似品ではありません!)」の構成員の事を兄弟とおフレンチ語で言っちゃうのってさ(とまーてさんにおフレンチ語が間違ってますぅ!とつっこまれたらいいのにw)、一瞬高須クリニックの人のついったーを思い出したでよ。

あの人素人目から見ても下っ端だとわかるw

大昔のラノベの「月蝕紀烈伝」に出てくる理神論カルトの至神智教団が陰謀まみれの真っ黒黒助でワロタ。

陰謀論者として陰謀を見るのは面白い。

よくここまで頭から腐った陰謀組織が出来上がるわ。

でも、こいつら敵キャラとしては交渉通じそうなのが他のラノベにはない特徴だね。

イスラームは理論的な宗教だけど、やはり一般の信者の中心は現世利益のあったスーフィズムだよ。

この至神智教団ってのも普及すればスーフィズム臭くなるんでね?


「至神智教団」
ニャンゲンの知性のみを信じて、神も精霊も信じない(何それサドカイ派?でもサドカイ派は神を信じてたぞ?)無神論カルトって、中世ヨーロッパみたいな社会で流行るんかい?

これ知識層でないと流行らないね。

普通の社会では現世利益の多神教だよー。

至神智教団の目的

「 神々から離れて人間の内に神聖を見いだすこと。人間の持つ無限の可能性を引き出すことです。善と悪、取るべき二つの道があって、たとえ悪の方が魅力的で楽に見えたとしても、結局、人間は善を入れるものだと、私は信じてるんです。」


「異端の魔道士セイル」というラノベには、理神論みたいな魔道士のカソリックみたいな宗教が存在するけどその名前が「至神智教団」だ。

自然法則を感じる力である理性というものは非常に神的なものであると思われてました。やつらの理性崇拝ってものは根底にはこの思想があります。 また、情動に流されずそれらの自然に従って生きた賢者は死後はお星様の世界で暮らせると信じられてました。
また人間には自然法則を感じる超能力である「理性」が備わってて、人間社会の中での自然法則である自然法を理解する力があるから、国籍や民族に囚われずに人類は皆平等であると言いました。 人類みな兄弟や世界政府みたいな考え方はどう考えてもこれらの思想が根底にあります。


おいら「でも神々を信じる人たちは、魔導師さんたちの事を神を信じぬ人間中心主義の徒と言うのよ?」

魔導師さん「それは間違いね。そもそも神々はニャンゲンに内在してるわけなんだから、外に偶像を作って拝むことが偶像崇拝の邪教の徒であって、それこそが神に対する冒涜じゃないかしら?」

ねこたさんが追加
ねこた @lakudagoya
ねーねー魔導師さん、何でこの魔導師の教団は、神や天使から離れてニャンゲンの理性のみを至上としてるの?

「だって、神は内在していてニャンゲンの内側にあるの。だからわざわ…
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ねこた‏ @lakudagoya 3月11日

ねーねー魔導師さん、何でこの魔導師の教団は、神や天使から離れてニャンゲンの理性のみを至上としてるの?

「だって、神は内在していてニャンゲンの内側にあるの。だからわざわざ外に偶像作って拝む必要ないでしょう?

だってニャンゲンの理性は神と同じ性質を与えられてるのよ?」

ねこたさんが追加
ねこた @lakudagoya
至神智教団の目的

「 神々から離れて人間の内に神聖を見いだすこと。人間の持つ無限の可能性を引き出すことです。善と悪、取るべき二つの道があって、たとえ悪の…

ねこた‏ @lakudagoya 3月11日

ねこたさんが菊池をリツイートしました

啓蒙主義陰謀論こそ実はイルミナティの中核ですよね(笑)

あと理性主義に関しては、近代的理性=頭の中の妄想ではなく、古代哲学で言うところの神々と同質な自然法則を感じれる超能力としての理性の崇拝だと思います。彼らは神が内在してるから外に偶像を作らないのでわからないかも? RT

ねこたさんが追加
菊池 @kikuchi_8
返信先: @kikuchi_8さん
俯瞰すると陰謀論の歴史は西洋の思想史をまるでなぞるように展開してきた事を発見した①キリスト教圏で発生した為にキリスト教系陰謀論が大勢→②神智学系やニューエイジ系つまり神秘主義派の陰謀論が登場しキリスト教を批判(アイクなど)→③啓蒙主義系の陰謀論が登場しキリスト教と神秘…
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ツワブキさんがいいねしました
ねこた‏ @lakudagoya 3月11日

ねこたさんがねこたをリツイートしました

この理神カルトは、外に神々を作って拝まないのはなぜか?

それは、この思想の元になった思想では、グノーシス派のように神は内在してるから。わざわざ外に偶像を作って偶像崇拝する必要がないの。 

だから、神的な存在であるニャンゲンの理性を大事にするよ。 RT

ねこたさんが追加
ねこた @lakudagoya
至神智教団の目的

「 神々から離れて人間の内に神聖を見いだすこと。人間の持つ無限の可能性を引き出すことです。善と悪、取るべき二つの道があって、たとえ悪の…
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ねこた‏ @lakudagoya 3月9日
返信先: @uhehoさん

でも、ユダヤ人はバアルなどの異教の神は悪魔ではなく、異教の偶像崇拝で神ではないと言ってますけどね、悪魔にされたのは耶蘇教のせいです。

ユダヤ教徒は異教と区別してました。
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逆喷射サンチーム驫麤1000番台さんがいいねしました
ねこた‏ @lakudagoya 3月6日

イスラム圏は、偶像崇拝が禁止されてるからシンボルは文字(特に詩など)やデザインで表すのね。

耶蘇教世界はそうでないから、イコンみたいな形で表すのね。

そういう表現の違いはあるけど、で、タロットカードは耶蘇教世界の秘教伝統も加えて完成したのではないかな?と思う。
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夏之さんと他1人さんがいいねしました
ねこた‏ @lakudagoya 2月28日

ユダヤ学やイスラーム学には、そういった大人たちの陰謀を無効化する知恵が詰まってる。

だから、ユダヤが悪いと煽ってタルムードには触れさせないのね。

中国の古典に触れさせないために反中やってるのと同じ。

特に偶像崇拝を無効化する思考は強い。強いよ。
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黄皇大栄さんがいいねしました
ねこた‏ @lakudagoya 2月28日

若者のリーダーや新星って若者にはこの偶像を拝めと押し売りされてるかのようだ。

若者にはおしゃれで権力に反抗するも本質を外すような偶像さえ与えておけば良いという、大人が透けて見える。

若者に希望をもたらすかのような偶像が出てくる度に違和感を感じてたな。

カノポス壷と守護精霊 - Biglobe
http://www5b.biglobe.ne.jp/~moonover/bekkan/sisya/sisya-canope.htm
”古代エジプト人が考えた、人格を構成する五大要素というものについて理解する必要があるかと思う。
 言ってみれば、中国の思想で言うとこの「三魂七魄」みたいなモノで、古代エジプトでの”人間という生命の存在”は、「肉体と魂」という二元管理ではないのである。

 五大要素の内訳は、以下のとおり。

1.カー 2.バー 3.肉体 4.名前 5.影

 以上、五つが結合して初めて完全なる人格が形成されるのだという。
 と、いうことは、一つくらい欠けていても(たとえば名前を持たない子供がいたとしても)人間としてはやってけそうだが、それは完全なる形態ではないのである。



「カー」

人が生まれる時、ともに生まれ、死後もともにあり続ける存在。
生きているものすべて体の中にあって、生きていく力を与える、ミトコンドリアのごとき別生命体というイメージである。
カーが元気をなくすと生きる力も減少するので、カーを元気にする儀式などもあったという。(それが、カーの神格化された由縁だろうか。)
しかも、本人が死ぬと失われるわけではなく、親から子へ受け継がれることがある。

カーは「ひじを曲げて差し挙げた両手」の形で表される。
右図の像(木製)の頭の上に載っているカタチが、まさしく、ヒエログリフの「カー」。

カーは、それが宿る人と同じ姿をしており、宿る人が老齢や病によって変貌すれば、同じように年老いて、弱ってゆくと思われる。なぜなら、カーの生命力は、それが宿る人の生命力でもあるからである。

右図の像は、ホル王のカーを表した像。カーが元気であるように、と、死者の健康で若々しく、最も状態の良かった姿がカーとして表現されている。

日本語の「魂」に近いニュアンスも含んでいるが、本人とは深いつながりに在りつつ、実際は別個のものであるという点において異なる。

「バー」

鳥の姿をとり、その生き物が死ぬと抜け出すが、死後の世界で復活するときは、何故かついて来てくれる”自分の分身”である。
日本語の「魂」に最も近い概念といえよう。

さきの「カー」は本人とは別の生命体のような雰囲気だが、こちらは、その人の一部ということで、欲望も欲求も共有する。また、鳥の姿になっているときも、本体の人の顔をしていることが多い。
もちろん女性のバーは女性の顔、男性のバーは男性の顔である。

肉体と密接な繋がりがあり、バーは定期的に、自分がもと住んでいた肉体へと戻ってくるという。


「サフ」または「アク」

高貴な魂、という意味も持ち、バーとは違った形の、神々しい鳥の姿で表される。右図のような壁画の描かれ具合からして、ホオアカトキというトキの一種だと考えられている。
高い位にクラスチェンジした魂を意味し、一説によると、「カー」と「バー」が一体化した、死後の世界での死者の姿を意味するという。

生きてる間は持っておらず、死後、復活を許された者だけが持つもの、「祝福された死者」の証、それが「サフ(またはアク)」なのである。

「肉体」

五大要素に入っていないがカノポス壷の守護リストに入っている「イブ」は、心臓のことである。ヒエログリフで書くと、まんま心臓の形で表される。
古代エジプト人が肉体の中で最も重要視したのが心臓であり、心も魂も、体に生命力を与えるものはすべて、そこに入っていると考えられていた。


心臓は、死者の審判で胸から取り出され、真実の羽根と天秤にかけられる。もし心臓が罪に穢れていたら、その場で廃棄処分にされてしまう。アメミットの口の中にポイ。罪に穢れていなかったら、返してくれて、胸に入れなおして、永遠の世界へ旅立ちと相成る。
審判の場まで持っていかなくてはならないので、ミイラにするときは取り出さない。

「名前」と「影」

日本にある「言霊」という概念と似て、古代エジプト人は名前を重視していたようだ。影
名前を忘れ去られるということは、その人の存在自体がこの世から消えてしまうのと同じことと考えられており、政権争いの相手が、ライバルの記念碑から名前の部分を削り取るといったことも頻繁に行われていた。また、罪人から名前を奪い、かわりに悪しき名前をつけたという記録も残されている。

影というのは、「影人(古代エジプト語では”カイビト”と書かれている。)」とも呼ばれ、悪しきものから肉体を守護する自分自身の分身で、場合によっては自ら高速移動することも可能とされる。自然光が基本の古代、影は太陽の光によって作られるものだったことと関係があるとされている。


右の図は、自らの影の上を飛ぶバーの図。影も、バー同様に肉体から抜けだす自由な身であったようだ。”

光と祝福 真我の探求 - FC2
http://holyoverflows.blog.fc2.com/blog-entry-22.html
真我は、5つの鞘(コーシャ)に被われ、3つの体をまとう。

真我は、チッタ(心)の中心に座している。
真我を最初に包んでいる最も精妙な体は、原因体、コーザル・ボディ(カーラナ・シャリーラ、またはリンガ・シャリーラ)と呼ばれる。
心臓にある小さな空間に位置するといわれている。


5つのコーシャの内、アーマンダ・マヤ・コーシャ(至福鞘)と重なる。

原因体から生命の光を受け取り、知識エネルギーと活動エネルギーの情報をやりとりしている次なる体は、微細体、サトル・ボディ(スークシュマ・シャリーラ)といわれる。
ブッディ(理知)、マナス(マインド)、5つの微細感覚器官、5つの微細行動器官、5つの微細元素または感覚対象(タンマートラ)、
以上の17の実在原理から構成されている体だ。
脳のブラフマランドラといわれる空間に位置するといわれている。

ヴィジュニャーナ・マヤ・コーシャ(理知鞘)、マノマヤ・コーシャ(マナス鞘)が重なる。
マナスとは、感覚器官や行動器官を制御している司令塔という言い方もできよう。
意思力と、呼んでもよいだろう。

3つ目の体は、物質でできた体だ。
微細体から送られてくる力や刺激によって、肉体の動きは引き起こされている。
微細な物質でできたプラーナ・マヤ・コーシャ(プラーナ鞘)と、粗雑な物質でできたアンナ・マヤ・コーシャ(食物鞘・肉体)から成り立っている。”

佐保田鶴治のヨーガ禅 マントラとお祈りの効用⑤
http://buen-vivir.seesaa.net/article/432755565.html
”近代心理学でも一度経験された印象はすべて潜在意識に残され消えずに機会ある毎に記憶として心の表面に浮かんでくることが知られている。インドでも同じことが考えられていた(4p57)。

 ヨーガの心理学では、前世の記憶を含めて、すべての経験の残存印象が貯蔵されている記憶の貯蔵場所を「チッタ」と呼ぶ。チッタは神経細胞ではなく、今日で言うエーテル体やアストラル体のように、眼に見えない精妙な物質からできているとされる(4p58)。すなわち、過去に経験された心の印象は「チッタ」と呼ばれる心の土の中にいわば種子として保存されている(4p159)。この集積された膨大な経験のトータルな残存印象のことを「行(サンスカーラ)」あるいは「薫習(くんじゅう)」と言う(4p59, 4p160)。

 普段の日常での心の働き、想念も、このチッタから「発現」している。『ヨーガ・スートラ』では、この発現を「転変」と表現する(4p58)。

過去の印象、業が現在の外部環境を作っている

 けれども、過去の経験からの残存物は、過去からの記憶「チッタ」だけではない(4p59)。個人が過去において行なった善や悪の行為の残存印象である(4p61)「業(ごう)」や「煩悩」もある(4p59)。

 記憶の残存印象である「行」の中には外部環境を作らない記憶もあるが、外部環境を作り上げる種子もある。これを「業」と呼ぶ(4p60,4p159)。「業」はチッタに貯蔵されている「行」の一種だが、心理的な内容に「転変」せず、外界を「転変」する原因となってしまう(4p60)。ただし、「業」は自然世界の設計図のようなもので、そのまま世界を創り出すわけではない。この設計図にしたがって、宇宙を作る根源的な力である、天地のエネルギー源、自性(プラクリティ)が流れ込むことによって、世界が作られていく。要するに、過去に行なった無数の残存印象が種子として植え付けられることで、世界を作る神的な力によって畑が作られていくのである(4p61)。そして、記憶に外界の力を作る力があるのは、無意識の世界が環境を作っているからである(4p161)。外界、すなわち、自分の周囲の環境世界は、個々の瞬間毎に各個人の心によって「発現」されているものだと考えれば、心の操作によって、外界も変わっていくことになる(4p61,4p64)。

 よく、ヨーガを正しく習得した人から「このごろ不思議にツキが良くなった」ということを耳にする。これは、守護神の恩加護のためだと考えることも間違ってはいないが、このように考えれば、その理由も理解できるし、ヨーガの神秘性を強調する必要もなくなる(4p64)。

運命とは自分が過去に行った行為の結果である”

パタンジャリのヨーガスートラ
http://www.ultraman.gr.jp/ueno/2-yo-ganew_page_3.htm
”□ヨーガの八支則(アシュタンガ・ヨーガ)

 それでは、これら総合的なラージャヨーガの代表的な教典、パタンジャリの「ヨーガ・スートラ」に添ってヨーガの構造や行法を見ていきましょう。

この教典はパタンジャリという聖人によって紀元前から綿々と受け継がれたヨーガを、紀元後4~6世紀頃に記述され完成されたといわれている教典です。

八段階の積み重ねによって構成されているので、アシュタンガ(8つの部分=八支則の)ヨーガと云われています。

この総合的なヨーガの行法は、その目的に到達するために、日常の生活においての行動の規範である禁戒や勧戒を山の裾野にして、段階的に体を整え、呼吸を整えながら、順次に山の高みに上っていく道のようです。そして、この実践の過程において、先回お話した五つの鞘からなる総合的な私達の存在の各層に働きかけ、人間が本来備えている肉体と精神とそして霊性の資質や能力が高められ、バランスあるものとなり、心身の健康度が飛躍的に高まり,その人自身の生き方(自己実現)に多大な実りをもたらすものとなります。

第一段階 「禁戒(きんかい)」= ヤマ

 心の平安を得るためには、他者とのエネルギーの交流の中に私達の存在が成立しているという事実にめざめ、自ら発する他者への行為を良好にする事が大切です。これは「出したエネルギーの質が、何らかの形で、同じ質のものが当人に帰ってくる」と云うカルマの法則を基盤にしています。

禁戒の後に勧戒という順序は、命に良い事をなす前に、まず命を害するものをとり除くという事が先決で、医学でいえば薬を飲む前に、毒を吐き出させるという事になります。これを「金剛律(ダイヤモンドの戒律)」の後に「黄金律(黄金の戒律)」という順序となります。

ヨーガ・スートラでは、次の最も基本的な五つの生活法則を示しています。

① 非暴力(アヒンサ)…仏教では不殺生戒

    生きとし生けるものに無用な暴力、殺生をくわえない。

すると、害されなくなる。

② 正直(サティア)…仏教では不妄語戒 

言葉と行動を一致させ誠実なものとする。                              すると、信頼を得る。                                                

 ③ 不盗(アステーヤ)…仏教では不盗戒

     他人の物、時間、喜びなどを不当に盗らない。 

     すると、豊かになる。

④ ④梵行(ブラフマチャリヤ)…仏教では不邪淫戒

 性的エネルギーを適切にコントロールする。

      すると、強健になる。

⑤ ⑤非所有(アパリグラハ)…仏教では不貪戒(または不飲酒戒) 

所有欲を克服し、ものに執着しない。 

       すると、生の目的を悟る。



第二段階 「勧戒(かんかい)」= ニヤマ

 この地上において、本来の自己を実現するためには、日々の暮らしの中での良い生活習慣の積み重ねが最も大切です。

この勧戒は、自分自身の生活態度を改善し、心身ともに霊性を高める五つの生活法則「黄金律」が説かれています。

① 清浄(シャウチャ)…ヨーガにおいての清浄とは、外面と内面双方にお ける清潔さが求められています。肉体的な浄化法と心的な浄化法(慈悲喜捨)がそれにあたります。

② 知足(サントーシャ)…与えられた環境・現状をまず受け入れ、感謝し

     肯定の姿勢から物事に対処していく態度です。 

③ 精進(タパス)… 日常において自らに課した「行」や仕事の積み重ね

  によって心身を強いものにして目標の実現力を高めます。

④ 読誦(スヴァーディヤーヤ)…常に聖典を読んだり、真言を唱え、「生命

     の智慧」の理解と学習を怠らない事です。

⑤ 自在神祈念(イーシュヴァラ・プラニダーナ)…各自を守っているハイヤ

    ーセルフともいうべき守護神に、人生における気高い目的の達成を常

    に祈り願う事です。

第三段階 「体位法(たいいほう)」= アーサナ 

いよいよヨーガの特徴である、いわゆるポーズの段階になります。アーサナという名詞は、「座る」という動詞のアースから転化したもので、元来、「瞑想」を主な行法とするヨーガは、座ることが基本でした。およそアーサナ(座法=体位法)は大別して ①瞑想の為のもの ②リラックスの為のもの ③身体を造る為のものとに分けられます。 一説ではシヴァ神は、8400万のアーサナを説いたと云われていますが、その中でも84のアーサナが優れていると云い、他のヨーガ教典では32種類のアーサナを説いています。現在でも、立位、座位、寝位のヴァリエーション(変形)を入れると、多くの種類になりますが、いずれにしても、ゆっくりとした呼吸と共に、身体のその一定の型を通して、動く瞑想、体を使った祈りと云った状態をめざし、身体的な健康を実現します。この領域はアンナマヤ・コーシャ(食物鞘)の調整になります。

 アーサナを日常生活の中で規則的に、一定の時間行じていくと、身体的には、血行を促し、筋肉、骨格、内臓器官、神経、ホルモン体などに良い影響を与え、ひいては、心の状態を安定させ、各人の性格や、生き方にも多大な影響を与えることとなります。

 ヨーガスートラにおいてはこのアーサナを以下のように定義しています。

  「座法(アーサナ)は安定していて、快適なものでなくてはならない」(Ⅱ-4)

  「緊張をゆるめ、心を無辺なものへ合一させなくてはならない。」(Ⅱ-47)  

  「そのとき行者はもはや、寒熱、苦楽、毀誉、褒貶等の対立状況に害されない。

                                 (Ⅱ-48)

※実際のアーサナの代表的な形と種類は後の「身心八統道」の項で説明いたしま      す。



第四段階 「調気法(ちょうきほう)」= プラーナーヤーマ

 調気法とは、宇宙のエネルギー=プラーナ(生命力)を呼吸法によって、コントロール(アーヤーマ)する行法です。様々に工夫された呼吸法によって、酸素を体内に取り入れ、血液を燃焼させ、生命エネルギーに転換する作用に加え、交感神経と副交感神経のバランスをとったり、感情とリンクして心の状態をコントロールのよすがともなるのです。そのことにより心肺機能を高め、病気を追放して、静かで落ち着いた心をはぐくみ、霊妙なる「宇宙の気」と交流します。この領域はプラーナヤマ・コーシャ(生気鞘)の調整になります。

 ヨーガスートラにおいては「プラーナヤーマを行ずる事によって、心の輝きを覆い隠している煩悩が消える」「その外、心が色々な凝念に堪えられるようになる」(Ⅱ-52・53)と述べられています。

※ 実際の種類と技法は「身心八統道」の項に譲ります。



第五段階 「制感(せいかん)」= プラティヤハーラ

プラティヤハーラとは「向けて集める」という意味です。ここから、今までの身体生理的な部門から、心理的な部門へと入る掛け橋となるのがこのプラティヤハーラの段階です。

座法や呼吸法の後、意志的な「動作を納めて」、瞑想の姿勢に入ります。その時、生じてくる静けさの中にて、外の世界に向かう心や、感覚を対象から離し、意思の働きを内部に向けて、冷静に自己をみつめる心理作業の準備となります。外界の対象をはからずも、つかみ、つかまれている自分の思考と五感はおのずから、その対象から離れ、内面へと集中していく行法は、絶えず心を悩ませ、不安を与える問題から一旦心を引き離し、「なにものにも囚われない自在な心」にリセットするきっかけを作ります。この領域は、マノーマヤ・コーシャ(意思鞘)の調整に入ってきます。

ヨーガスートラにおいては「諸感覚器官がそれぞれの対象に結びつかず、あたかも心素(チッタ)自体に似たものの如くになるのが、制感(プラティヤハーラ)である」(Ⅱ-54)と述べられている。

第六段階 「凝念(ぎょうねん)」= ダーラナー

凝念は、心をある一点にとどめて動かさないことです。この凝念と次の静慮、三昧の段階は実際には、はっきり分割できない一連の心理的流れとなり、一括して<統制(サンヤマ)>とよばれます。ここでは、主にロウソクの炎とか、特定の図形や、自分のみけんの一点に心を集中するとか、ひとつのテーマにイメージを集中する方法などを用います。この領域は、ヴィジナーナマヤ・コーシャ(理智鞘)の調整に入ってきます。

ヨーガスートラにおいては「凝念(ダラーナ)とは、心素(チッタ)を特定の対象物(場所)に縛り付けておくことである。」(Ⅲ-1)と述べられている。

第七段階 「静慮(じょうりょ)」= ディヤーナ

凝念で一点に集中していた心が、その対象と同化し始め、それを中心にして、日常の意識を超えてある種の「洞察」や「ひらめき」が起こり、広く深く、自由に展開されていく状態のことです。その直感的映像や思考は、やがて自我の認識領域を越えて、新たなる「生命の智」をもたらす領域へと導いていきます。この「ディヤーナ」を中国で音訳し「禅那」となり、日本に渡って「禅」となっています。この領域は、ヴィジナーナマヤ・コーシャ(理智鞘)の中心的調整作業に入ってきます。

ヨーガスートラにおいては「その対象に対する想念が、ひとつの不断の流れになっているのがディヤーナ(静慮)である。」(Ⅲ-2)と述べられている。

第八段階 「三昧(さんまい)」= サマーディ

自我の認識領域を越え、「生命の智」をもたらす領域の中に入ります。「梵我一如」の心境で対象も主体も、ともに合一した状態をいいます。仏教では、これを<空>といいあらわしていますが、この境地は「なにもない」という意味ではなく、直感的洞察や啓示の場であり、宇宙的意識の働く空間でもあります。そこでは、きわめて鮮明で充実した内容をもって、その味わいは、まさに新たな生命感と、宇宙的啓示と、感涙の時となります。ここは、アーナンダマヤ・コーシャ(歓喜鞘)の開示される領域になってきます。

ヨーガ・スートラにおいては、この体験を「真我がその周囲を取り巻いている自然的存在と自分とを混同していた過失に気づいて、その束縛から脱出することである」と説明しています。

これがヨーガ・スートラの八支則についての構造と行法の概要になります。

□ヨーガの流れ

 古代から伝承され、発達してきたヨーガの思想と行法は、紀元前後にヴェーダンタ哲学を基盤にし、「人生の苦しみからの解脱」を説く「空」なるものの悟りの教えである仏教を生み、その影響をうけながら、やがて、観照者たる純粋精神(プルシャ)と現象する根本原質(プラクリティ)の二元論を説くサ-ンキャ哲学を理論的支柱として、今、検討しました「ラージャ・ヨーガ」の体系であるヨーガスートラが6世紀の頃に成立しました。

ほぼ同時代に併行して、インド思想の原点といわれる叙事詩マハーバラータの成立(BC2世紀~AD4世紀)によって、神への愛と奉仕の道「バクティ・ヨーガ」、行為による悟りの道「カルマ・ヨーガ」、智恵と悟りの道「ジュニャーナ・ヨーガ」が説かれ、8世紀にはヴェーダンタの学匠シャンカラ(700~750頃)によって仏教やヒンズー教を統一する教え=この世はブラフマンという絶対の現われであるという「不二一元論」が生まれ、その後の、インド宗教哲学の中心思想となります。

やがて10世紀を過ぎますと、これまで顕教的、心理的な「私∞宇宙」に対するアプローチから、密教的、感性的「私=宇宙」の捉え方に移行してきました。これをタントリズムといいます。これは現世を苦の世界として否定し解脱を得るという思想から、この世界こそブラフマンの現われであり、陰・陽の原理によって成立しているという現世肯定的な思想の当然の帰結となります。そのことは、人体こそ宇宙(梵)の構造そのものであり、神はその中に宿る生命意識(真我)そのものであるという認識により、その体験を感得する様々な身体技法が考えられ、発達してきました。

13世紀頃になりますと、ヨーガにおいてはその密教的タントリズムの特徴をもった「ハタヨーガ」の教典が聖者ゴーラクシャ・ナータによって書かれ、その後15~16世紀頃には「ハタヨーガ・プラディーピカ」や「ゲーランダ・サンヒター」や「シヴァ・サンヒター」などが成立してきます。

ここでは、様々なヨーガの身体技法や呼吸法や瞑想によって、独自な人体宇宙観が形成され梵我一如の思想が顕現されていきます。その一端を図示し解説を加えていきましょう。

 □ヨーガの人体宇宙観

ヨーガにおいては生命の源は宇宙の気=プラーナであると考えられています。

この宇宙の気=プラーナが人体を満たし、宇宙の雛型である私達を生かし、宇宙もまた私達の雛型であると考えらているのです。

そのプラーナが人体を通る道 はナーディーと呼ばれそのルー トの数は7万2千本とも35万 本ともいわれています。これら は現代医学では血液の循環経路 や神経管の経路とも捉えること ができますが、比較的東洋医学 の鍼灸に用いられる「経絡」に近いものと考えられ、ヨーガで は微細体(プラーナヤマ・コー シャ)の次元の経路と考えられます。そしてそれらのナーディ ーなかでも大切なルートは14 本あり、その中でも特に重要な 幹線が次の3本となります。

・スシュムナー管 

このスシュムナー管が頭頂から脊髄の基底部へと通り、人体の中軸となり、天と地を貫くプラーナの通り道となります。宇宙の生命エネルギーであるプラーナは人体の中ではクンダリーニ・シャクティと呼ばれ、このスシュムナーの基底部で三巻き半のとぐろを巻いている蛇と隠喩されています。またこのスシュムナー管を通る生命エネルギー(クンダリーニ・シャクティ)は、そのの中に7つあるといわれる蓮華の花に喩えられるチャクラ(輪=センター)を経過し、次第にそれらを開花(活発化)させて行きます。

これらチャクラは、ヨーガに基づいた生活をしていると、徐々に活性化されて行くものですが、クンダリーニ・ヨーガとは、ムードラやバンダ等を用いた特殊な体位法や呼吸法、瞑想法等の修行によって、より効果的にその眠っている生命力の源、クンダリ-ニ・シャクティ(女神)を目覚めさせ、それぞれのチャクラを活性化させ、眉間の部位(アジナ・チャクラ)で待っているといわれるシヴァ神(男神)と合体し、体内の歓喜のエネルギー(プラーナ)を宇宙全体に解放し、梵我一如(ブラフマン・アートマン・アイキャ)の体験を実現しようと発達したヨーガの体系です。このクンダリーニ・ヨーガといわれる中には、タントラ・ヨーガやハタ・ヨーガ等が入ります。このスシュムナー管を中軸にして、イダーとピンガラーという二つの拮抗したエネルギーの流れる代表的なナーディ管がチャクラをはさんで左右交叉しながら通っていると考えられている。これらはあたかも現代の医学においての交感神経と副交換神経の働きを指しているようであり、また、そのチャクラ(輪)という微細体のセンターも、医学的には、各種のホルモン体の位置に対応しているとも考えられている。

・ イダー(月の気道)

イダーは月に象徴され、このイダーを通るプラーナの流れは「陰の性質」を受け持ち、冷やす・静的・女性・精神性等が優位になります。上部では左の鼻腔に通じています。ですから片鼻のアヌローマ・ヴィロマなどで、こちらを優位に呼吸をすると、副交感神経を刺激し、また、交叉して右脳(感性)を活発化いたします。

・ピンガラー(太陽の気道)

ピンガラーは太陽に象徴され、このイダーを通るプラーナの流れは「陽の性質」を受け持ち、暖める・活動的・男性・行動性等が優位になります。上部では右の鼻腔に通じています。ですから片鼻のアヌローマ・ヴィロマなどで、こちらを優位に呼吸をすると、交感神経を刺激し、また、交叉して左脳(理性)を活発化いたします。

[チャクラについて]

 これらはプラーナマヤ・コーシャ(微細体=イメージ体)上のものであるので、修行者やその状態によって、異なる場合がありますが、脊椎の基底部から上にスシュムナーに添って、順に説明していきましょう。

ムーラダーラ・チャクラ

 ムーラは「根」「土台」、アーダーラは「支え」「支柱」の意味です。人体においては最下部にあり生命力の源・クンダリーニ・シャクティの内蔵されている場所です。会陰部、または肛門と関わりがあります。瞑想によって、4枚の花弁があり、燃えるような金色をしていると捉えられている。

スヴァディシュターナ・チャクラ

スヴァは、「自身の」「私の」、アディシュターナは「状態」「立場」の意味です。人体において性器の辺りにあり、宇宙の気の出入りを司ります。瞑想によって、6枚の花弁があり、血のような赤色をしていると捉えられている。

マニプラ・チャクラ

マニは「宝石」、プーラは「町」の意味です。人体において臍の辺りにあり、内蔵の働きを調節する太陽神経叢にあたると云われている。瞑想によって、10枚の花弁があり、火をあらわすオレンジ色をしていると捉えられている。

アナーハタ・チャクラ

アナーハタとは「打たれざる」「触れざる」という意味です。人体において胸あるいは心臓の辺りにあり、打たれざる音・「ナーダ音」がします。血液の循環とともに感情のセンターでもあり真我のとどまっている所です。胸腺とも関わりがあります。瞑想によって、12枚の花弁があり、蕾のような内部は緑がかった輝く光で、外側はピンクのバラ色をしていると捉えられている。

ヴィシュダ・チャクラ 

ヴィシュダは、「清浄にされた」の意味です。人体において喉の辺りにあり、

言葉を司り、興奮ホルモンを分泌する甲状腺とも関わりがあります。瞑想によって、26枚の花弁があり、海のような色をしていると捉えられている。

アージニャ・チャクラ

 アージニャは「命令」「指揮」の意味。人体においては眉間の辺りにあり、第三(霊視)の目であり、命の統合・命令・調整を司ります。脳下垂体や視床下部とも関わりがあります。瞑想によって、2枚の花弁があり、白光色をしていると捉えられている。

サハスララ・チャクラ

サハスラは「千」の意味。千の花弁を持つ蓮華のチャクラと云われています。人体においては脳の中、そして頭頂から天に開いています。アージニャ・チャクラでシヴァ神(智恵)とシャクティ女神(生命力=クンダリーニ)が合体しブラフマ・ランドラ(結節)を突き抜けて頭頂へ至り梵我一如の境地を得て、サハスラを経て宇宙へ至ります。千枚の花弁があり、光の虹色をしていると捉えられている。 ”


”・ドルイドにも輪廻転生思想がありピタゴラス教団との類似性が指摘されるが細部が異なる。ドルイドは、人間の霊魂は滅びることなく、一定期間を経たのち、魂は別の肉体へと移り第二の生をおくるとする。
つまり、ピタゴラス派のような、罪にけがれた人間の魂は輪廻転生を繰返し地上をさまようとは考えていなかったのであり、ドルイドには原罪意識はない。

ドルイドは楽天的な永生への確信や彼岸への憧れがあったと思われる。ケルト神話の一特色である不老不死の楽土ティル・ナ・ノグ(常若の国。とこわかのくに)。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-31.html
”オルフェウス教徒は菜食を貫いた。ギリシア神話では、人間が神々に最初の供犠をおこなった際、プロメテウスの入れ知恵で屠った雄牛を二つに分け、骨を脂身で包み、肉と内臓は胃袋に隠した。脂身に誘われたゼウスは骨を選んでしまう。いら、供犠では神々に骨を捧げ、肉は人間が食べるようになった。肉食の起源神話。
菜食、肉食の拒否は、輪廻と魂の不滅が信じられていたからである。オルフェウス教徒たちは、人類が犯した原初の犯罪に対する罰として、魂は肉体に閉じ込められ、死が真実の生活の始まりとなる、と考えた。すなわち、魂は生前の過ちと徳が審判を受けた後、新たに転生するとみなされたのである。魂の不死性は輪廻思想を生み、人間の魂を持っているかもしれない動物を食する習慣をやめたのである。また、肉食の禁止はプロメテウスの教唆で神々を欺いた原罪に対する改悛の表れでもある。”
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永井均 存在と時間 書評 誤植リストを彼のツイートに暴投で置いているよね確か
『存在と時間』哲学探究1 永井均

永井均‏ @hitoshinagai1 2016年4月5日

拙著『存在と時間』の重要な誤記:176頁の後から5行目「一七三頁」→「一七四頁」。247頁「動く現在とこの現在」の2行後「一九三頁」→「一八七頁」。259頁8行目「現在の現在」→「現実の現在」(最重要!)。
さほど重要ではない誤記:24頁4行目「あるもかかわらず」→「あるにもかかわらず」。140頁3行目「繋がり原理」→「繋がりの原理」。
宮武徹雄‏ @miyataketetsuo 2016年4月6日

@hitoshinagai1 257頁11行目「線上ない」→「線上にはない」でしょうか。
1件の返信 1件のリツイート 1 いいね
永井均‏ @hitoshinagai1 2016年4月6日

@miyataketetsuo そのようなので、さほど重要ではない誤植に加えます。



読書多謝
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「奴隷制度は自然法則!」と数学的にほざいたアリストテレスの『政治学』『形而上学』。  日本の学校=和風の神学校。 

アリストテレスの主張を超要約
「奴隷は自然に生まれる!」
「完全な家は奴隷と自由人から出来ている!」
「男は女より上」
「魂と精神は肉体より上」
「考える職業は肉体労働者より上」
「自分たちの安全は支配層のおかげであり、また自分たちが不正をうけないのも支配層のおかげだ考えるように仕向けろ」
「体制にそぐわない生活をしている奴を監視しろ」
「(富裕層と貧困層の)中間層を増やして支配せよ」
「財産よりも、出産を制限しろ」
「財産の額を規定するなら、同時に子供の数も規定しろ」
「多くの者が金持から貧乏人になると革命家となるので善くない」


上記や過去記事で語ってきたプラトンやアリストテレスなどのギリシア哲学をベースに西洋哲学を教えてきたのが、キリスト教の神学校。
信者は死んでも蘇るという思想を持つクリスチャンが作った神学校が今の日本の学校教育のモデル。
ギリシャ哲学とキリスト教が基盤なのが日本の教育。
だから聖書に基づき日曜日が休みで、ギリシャ哲学者のアリストテレスが言っているように図画(工作)、音楽、体育(文化祭、体育祭なども)
があるわけです。

以上でわかるように、ひも付き陰謀論者はギリシャ哲学を批判しません。神学の中核なのでギリシア哲学を否定できるわけがないのです。
ギリシャ哲学を善とみなしている陰謀論者は全員アウト。
キリスト教を善だとみなしている陰謀者は全員アウト。
キリスト教をギリシャ哲学で覆ったキリスト教神学の詭弁を使いまくる陰謀論者は寸止めばかり。
「論理(=嘘を見抜ける強力な武器)」を否定するスピリチュアルが改造版キリスト教なのを見抜けない陰謀論者はアウト。
支配層を「悪魔崇拝者」「ルシファー」「悪魔」「ユダヤ」と呼ぶ陰謀論は「すべて」キリスト教思想の支配下。
「だから」本が出せる。「ゆえに」真実ではありえない。
無自覚含め害悪の程度の差はあるが「全員」が「宣教師」。
ギリシャ哲学とキリスト教が真の黒幕。
ギリシャ哲学+キリスト教
=キリスト教神学。
人間はしょせん思想の手先に過ぎない。
神学にもとづく思想とシステムこそが本体。
だから人間をひたすらたたかせて感情をあおって判断力を奪う。


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わかりやすくて面白い古典が読みたいあなたのために
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世界の古典つまみ食い
ttp://www.geocities.jp/hgonzaemon/index.html
という素晴らしいサイトはおすすめ翻訳文がたくさんあるのですが、特に重要な。

奴隷制度を肯定したアリストテレス
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/intro_aristetle_intro.html

アリストテレスの『政治学 』 第一巻
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/politics.html
第一章   国家は一種の団体である
第二章   国家は自然に生まれてくる
第三章   家庭と奴隷
第四章   奴隷は道具である
第五章   奴隷制度は自然なものである
第六章   生まれついての奴隷と戦争奴隷の違い
第七章   政治家と奴隷の主人の違い
第八章   自然の摂理に則った財産獲得術
第九章   二種類ある金儲けの技術━商売の誕生 (必読。ここに『資本論』の出発点がある)
第十章    家庭の経営と自然な金儲け
第十一章  金儲けの実践的知識  (タレスの金儲け術の話はここにある)
第十二章  夫婦関係と親子関係について
第十三章  家庭経営に必要な美徳について

をすすめておきます。
ですます調で奴隷制は自然だとか必要だとか、男は女より上だとかを数学の証明のように言われるものすごい恐怖と狂気を感じます。

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アリストテレスの著作の読書メモとコメント
――


ひとは財産よりも、むしろ産児を制限して或る数より以上に生れないようにすべきであり、またこの人数を定めるにも、生れた者のうち或るものが死ぬこともあるので、そういう場合の災難に対しても、またその他の人々に子のないこともあるので、そういう場合に対しても注意を払うべきであると思うであろう。しかし大多数の国々においてのように、産児が放任されていると、それは国民にとって必然に貧乏の原因となるが、この貧乏はまた国に内乱と犯罪とを作り込むのである。”p.86 第二巻 第六章



“しかるに、プラトンは『ノモイ』を書いた時、或る程度までは不平等を許さねばならないが、しかし最小の財産の五倍以上を所有することは国民の誰にも許さるべきではないと思った。これはさきにも述べた通りである。
しかし、また、次のことは今日見過されていることだけれども、このような立法をする人々の見過してはならないことである、それは財産の額を規定するなら、同時に子供の数をも規定するのが適当なことだということである。というのは、もし子供の数が財産の額を超過するなら、その法律は必然に廃棄されることになる、そしてその廃棄は別としても、多くの者が金持から貧乏人になるのは善くないことである。というのはこのような者が革命家とならないのは難しいことであるから。”p.89-90 第二巻 第七章


“別に一つの支配がある、それにおいては自分と生れの同様な者、すなわち自由人を支配するのである(何故ならここにわれわれの言っている支配は政治家的支配のことであるから)、そして支配者はこの支配を、支配されることによって学ばなければならない、ちょうど騎兵を支配することは騎兵として支配されることによって、将軍として支配することは将軍に支配され、将軍の部下の部隊長として、またその部下の区体長として支配することによってであるのと同様である。それ故また、「支配された者でなければ善き支配者たることは出来ない」という言葉も実際真実である。そしてこの両者の徳は異ってはいるが、しかし善き国民は支配されることも支配することも知り、且つ出来なければならない。そうしてそれが国民の徳である、すなわち、自由人の支配をその両面において知ることが。
そこで、またこの二つが善き人間の徳であることになる、そうしてもし支配者にふさわしい節制と正義の種類が異ったものであるなら――異ったというのは、被支配者ではあるが自由人である者のそれから、の意だが――明らかに善き人間の徳、たとえば正義は一つでないことになろう、むしろ種類を含むものであって、その徳の違った種類に即して支配し支配されることになろう。その違いはちょうど男と女との節制と勇敢とが異っているようなものである(というのは男がもし勇敢な女と同じような程度で勇敢であるなら、卑怯者だと思われるだろうし、また女は善き男と同じような程度で慎しみ深いのであるなら、おしゃべりだと思われるだろうから。それは家政さえも男と女とのでは異っているからのことである、というのは男には獲得することが、女には守ることがその仕事であるから)。
しかしただ思慮だけは支配者に独得な徳である。というのはその他の徳は被支配者にも支配者にも共通でなくてはならぬようであるが、しかし思慮は被支配者の徳ではなくて、ただ真なる意見だけがそうなのである。というのは被支配者は笛作りのような者であり、支配者はそれを用いる笛吹きのような者であるからである。”p.132-133 第三巻 第四章

奴隷は支配される側であって、奴隷に支配されることで奴隷の支配を学べということではありません。自由人と奴隷との間には大きな断絶がありますから、あくまで自由人に限定した話です。
支配する為にはまず支配されよ、は逆AでAを学ぶ有用な技術。
思慮は支配者に独特ということは知性主義の反映です。ボスが馬鹿だと駄目なのはわかりますけどね。笛を作るのにも思慮は必要なのでは?



“ 人々が教育として教えるのを常としているものは大体四つである、すなわち読み書き、体操、音楽、第四に、或る人々によれば図画である”p.363 第八巻 第三章



デーミウルゴスという言葉はアテナイやその他の国で普通には職人という意味で用いられていた。従って、臼作りもデーミウルゴスの一種である。
しかしこの言葉は或る国々では国の重要な役の呼び名でもあった。

・海賊はアリストテレスのころ、いやその後までも東地中海では一種の職業として多目に見られていた


“さて先ず第一に、互に他なくしてはあり得ないものは、一対となるのが必然である、例えば男性と女性とが出産のために一対となるが如きである(そしてこのことは人の選択から起るものではなくて、他の動物や植物においてのように、自分のようなものを別に自分の後に遺そうと欲することが生来のものだからである)、また生来の支配者と被支配者とが両者の保全の為に一対になるが如きである。何故なれば心の働き(ヂアノイアー)によって予見することの出来る者は生来の支配者、生来の主人であるが、肉体の労力によって他の人が予見したことを為すことの出来る者は被支配者であり、生来の奴隷であるからである。だからして主人と奴隷とには同一のことが『為に』なるのである。”p.32-33
アリストテレス『政治学』 山本光雄訳 岩波文庫第一巻 第二章
※『』は原文にはなく『』内の傍点の代役。

完全な家は奴隷と自由人から出来ている”p.37第一巻 第三章


“先ず第一に生物において、主人が奴隷に対してなすような支配も、政治家が同国民に対してなすような支配も見ることが出来るのである。何故なら、魂が肉体を支配するのは主人的支配によってであり、理知(ヌース)が欲情を支配するのは政治家的『或は』王的支配によってであるから。そしてこれらにおいて明らかなことは、肉体にとっては魂によって支配されることが、また魂の受動的部分にとっては理知や有理的部分によって支配されることが自然に一致したことでもあり、また有益なことでもあるということ、しかるにそれらが平等になるか、逆さまになるかすると、凡てのものにとって害があるということである。さらにこの関係は人間とその他の動物との間においても同様である。何故なら家畜はその自然が野獣より優れたものだが、しかしこれら家畜の凡てにとっても、人間によって支配されることがより善いことだからである。そうされることによって彼らは救いを得るからである。そしてさらに、男性と女性との関係について見ると、前者は自然によって優れたもので、後者は劣ったものである。また前者は支配する者で、後者は支配される者である。そしてこのことは凡ての人間においても同様でなければならない。
だから、他の人々に比べて、肉体が魂に、また動物が人間に劣るのと同じほど劣る人々(このような状態にある人々というのは、その働きが肉体を使用することにあって、そして彼らの為し得る最善のことはこれより他にないといった人々のことである)は誰でも皆自然によって奴隷であって、その人々にとっては、もし先に挙げた劣れるものにも支配されることの方が善いことなら、そのような支配を受けることの方が善いことなのである。何故なら他人のものであることの出来る人間(それ故にまた他人のものでもある)、すなわち理(ことわり)をもってはいないが、それを解するくらいにはそれに関与している人間は自然によって奴隷であるからである。というのは他の動物どもは理を解してそれに従うということはなく、むしろ本能に仕えているからである。しかし実は奴隷と動物との間に、有用さという点では大した相違は存しない。何故なら生活必需品のために肉体を以て貢献するということが両者の能(はたら)きなのだから。
”p.41-42第一巻 第五章
※『』は原文にはなく『』内の傍点の代役。

動物蔑視。
家畜(動物)は人間に支配されることが善。
家畜(動物)は人間に支配されることで救われる。
家畜が野獣より優れていると言っているのは、家畜は人間の言うことを聞くからですよ。
動物と奴隷はどちらも道具(「有用」という言葉は普通は人間には使いません)。
男尊女卑。女<男。
魂が肉体を支配する。肉体<魂。
理性主義。欲情(感情)<理知(理性)
奴隷制度は必要=階級制度は必要=平等は有害、悪。
奴隷は理を解することはできる=ある程度は賢いが、理がないのでやはり馬鹿。
あるい程度賢い馬鹿が支配層に必要だから、学校=時間と規則に厳しい労働者育成施設があるのです。
優れた業績によって残ったよりも、支配層に都合がいいから残った側面が強い。
業績<支配者の都合。
支配層がアリストテレスの思想に従った結果アリストテレスが生き残ったのさ!



・アリストテレスの理想は、「財産は私有、だがその使用は共有」。
(奴隷も財産=物なので奴隷も共有
ということに)

国家という言葉で現代で思い浮かべるイメージはアリストテレスのイメージと異なっている。国家、国とはポリス=都市国家、市邦。
都市であって国家であるのが都市国家。この都市は市街地を中心にその周辺の田舎あるいは地方を含めたもの。市街地はスパルタのような特殊な国を除いて、ほとんどが城壁あるいは都壁で囲まれていた。実際、アリストテレスは城壁の有無の善し悪しについて論じている

ポリスの領土は市街地、田舎を合わせて、一般の平均は約70平方マイルくらいで、例外的な広さをもったアテナイが1000平方マイル(全盛期の紀元前5世紀での国民の全人口は15万ないし17万人。婦人と子供含む。国民なので恐らく奴隷は含まない)
、コリントスが350平方マイル
にすぎなかったという。
(70 mile2 = 181.3 km2
1000 mile2 = 2590 km2
350 mile2 = 906.5 km2
ルクセンブルク 2,586km2
香港 1,104km2
リヒテンシュタイン 160km2

アルバ 
180km2
オランダの海外領土で自治政府あり。


日本の面積約38万km2

林学たん ‏@ringaku_tan 16 時間16 時間前
私有林とは個人や会社が所有している森林で約1457万haあります。日本の面積の約38%、森林面積の約58%を占めています。 因みに日本の面積(平成25年)は約37万7961平方kmです。(国土地理院より)

度量衡換算
http://hp.vector.co.jp/authors/VA018451/javascript/jdoryoko.htm
を使用。

国の面積順リスト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E3%81%AE%E9%9D%A2%E7%A9%8D%E9%A0%86%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88

1国際マイル=1760ヤード = 正確に1609.344メートル
1平方マイル → 2589988 平方メートル
1平方マイル
=27,878,400平方フィート
=640エーカーに等しく
≒2.5平方キロメートル。

“1平方マイルは約2.5平方キロメートルです。従って

皇居の面積(1.4平方キロメートル)の2倍より少し小さい

または
ロンドンハイドパーク(2.5平方キロメートル)と同じ

または
東京デズニーランド(0.52平方キロメートル)の約5倍”
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1162774511
重要なのはかなり狭い範囲の国土での最善を考えているということです)

・アリストテレスは彼の考える理想国の人口をはっきりと限りはしなかったが、
生活の自足を目標に、一目でよく見渡し得る数の範囲内で出来るだけ膨張した人口”(p.321 第七巻 第四章)
がポリスの最善の限界であると言った。
またその人口は
「“いろいろの支配の役を値打に応じて分ち与えるためには、国民がお互にどのような性質のものであるかということを知り合っていなければならない。” (p.320 第七巻 第四章)」
を満たす程度でないといけない。
理想的ポリスの領土は
人間の数は人目でよく見渡せるものでなければならないと言ったが、国土もまたそういう風でなければならない、そして一目でよく見渡せるということはその国土が援軍を得易いということなのである。”(p.322 第七巻 第五章)



“人は、(公的な栄誉のためばかりでなく)私的な生活のためにも変革を起こすものであるから、体制にそぐわないような生活をしている人間、すなわち、民主制国家においては民主制にそぐわないような、寡頭制国家においては寡頭制にそぐわないような、そしてその他いずれの体制においてもその体制にそぐわないような生活をしている人間にたいしては、これを監視するなんらかの公的機関を設けなければならない。また、国家のある部分が他の部分に優ってとくに繁栄している場合も、右と同じ理由によって、(すなわち、かれらの私生活から変革がもたらされるおそれがあるので)この部分にたいしても警戒の目をゆるめてはならない。これ(国家の一部に偏した繁栄という状態)に対処するための方策は、その部分に対立するところの部分――一般大衆にたいしてはちゃんとした生活をしている人たちが、富裕な人たちにたいしては貧しい人たちが対立している――に、つねに政務と公職を委ね、こうして貧しい階層と富裕な階層との融合(均衡)をはかるか、そうでなければ、中間層の増大に力を入れることである。というのは、中間層が増大すれば、不均衡に起因する国内分裂を解消するからである。”p.247-248
アリストテレス『政治学』中公クラシックスで2009年11月再刊、田中美知太郎ら訳 今道友信解説 中央公論社

一億総中流の理由は支配のため!
極端(両端=貧乏人と金持ち)は不和を生み、中庸は和を生む。
完全な平等は無理でもかなりの程度平等にする。あるいは最低限は保障し(最低限の保障のレベルが住みやすさのレベル)て、あとは不平等OKにする。
スタートラインが余りに違うことを防ぐ……
ことができるのは宗主国だけだ!
宗主国でもそうはなってねえし!
植民地=日本では特に、中流「意識」を持たせつつ=そうなっていると思いこませつつ、実際はどんどん格差社会化させ、国内分裂させて、国内をまとめつつ格差を解消しよう!を口実(=嘘をつくこと)にして有色人種国家同士で戦争=有色人種の間引きですね。
中間層の増大のために一定の非差別層を作ることはよく行なわれてきました。その非差別層に特権を与えて間接統治
させることが重要です。

“国家は二つの部分から成り立っているのだから、すなわち貧しい人々の階層と富裕な人々の階層から成り立っているのだから、そのいずれもが、自分たちの安全はかれの支配のおかげであり、また自分たちが他方のものから不正をうけないのもそのおかげであると考えるように仕向けなければならない。これが一番大切なことである。だが、いずれの階層にせよ、そのほうが優勢である場合には、とくにその階層の人々を支配の味方につけなければならない。”p.284

生長の家の隠れ死ん者
「この国が平和なのは天皇のおかげ! 御家は正義!」
って
”自分たちの安全はかれの支配のおかげであり、また自分たちが他方のものから不正をうけないのもそのおかげであると考えるように仕向けなければならない”
を見語tに実行していますね。

富裕層がほぼ確実に優勢側だよね?
あとこれは自由人のあいだでの話しな。アリストテレスにとっては、奴隷=動物=道具=非人間ですので。





・アリストテレスは『自然学』にて、
「時間(クロノス)
=前と後とに関しての運動の数」
と定義している。

・アリストテレスの根本思想は、見ること(観照〔テオーリア〕・理論)が、おこうなうこと(実践〔プラクシス〕・行為)よりも優れているというもの。
技術(テクネー)は主として制作(ポイエーシス。生産)に関する技能であるとして、思慮(フロネーシス)や理論を主とする知恵(ソフィア)と区別され、見下げられている。
(よって、実務を行う奴隷は劣っているし、奴隷制度肯定という結論になります。
奴隷所有を是認し賛美するのがアリストテレス)


“経験家もただたんになんらかの感覚をもっているだけのものとくらべればいっそう多く知恵ある者であり、だがこの経験家よりも技術家の方が、また職人よりも棟梁の方が、そして制作的〔生産的〕な知よりも観照的〔理論的〕な知の方が、いっそう多く知恵がある、と考えられるのである。”
p.25『アリストテレス 形而上学(上)』出隆訳 岩波文庫

“いっそう多く王者的な学の方が、これに隷属する諸学よりもいっそう多く知恵であると解されている、けだし知者は、他から命令される者たるべきではなくて命令する者たるべきであり、かれが他の者に服従すべきではなくて逆にかれよりも知恵の劣った者がかれに服従すべきであるから。”p.26『アリストテレス 形而上学(上)』出隆訳 岩波文庫

“明らかにまた、すべては静止していると説く人々も、すべては運動していると説く人々も、ともに真実を説いてはいない。なぜなら、もしすべてが静止しているとすれば、同じ説が永遠に真でありまたは偽であるはずであるが、実際には明らかにそれは転化しているから(というのは、その説をなす者自らが、かつては存在していなかったであろうし、またふたたび存在しなくなるであろうからである)。しかしまた、もしすべてが運動しているとすれば、なんらの真も存在しないことになり、したがってすべては偽であるということになろう。しかし、このことの不可能であることはすでに証明された通りである。なおまた、存在するものは転化するのが必然である。なぜなら、転化は或るものから或るものにであるから。しかしまた、すべてのものが『或る時には』静止しまたは運動しているというのではなく、またすべてのものが『常に』〔永遠に〕そうしているというのでもない。というのは、動いているものには常にこれを動かす或る者があり、しかもその第一の動者それ自らは、不動であるから。”p.152『アリストテレス 形而上学(上)』出隆訳 岩波文庫

キリスト教の神のモデルの一つが不動の動者でしょうね
アリストテレスは仏教に対してはどう反論するのやら。
諸行無常=万物流転=全ては転化する。
しかし、諸行無常自体は例外的に転化しない=不変の法則にして万物の根源。諸行無常自体が不変なのは、諸行無常自体が変わるなら万物の静止状態にいつかなるが、もし万物が静止したならば何も変化しないのだから何も起こらないから

以上のように主張すれば反論されにくそう。
人格的存在ではないことが重要。宗教家の解釈による大衆操作ができない、あるいはしにくいから。人格なき非人間的法則なら、神の「意志」や「お告げ」が使えませんから

フィクションで「不動」という名字の人が出てきたりしますが、
不動明王ではなく不動の動者を意味していることがあるのでしょう
ね。
無論、大した意味はないこともあるでしょう。が主役級なら意味を大抵の場合は込めるものです。)

※角括弧〔 〕の中の文字または文句は、訳者によるものなので注意。

“さらにこの第一の天界を動かすところの或るものがある。動かされ且つ動かすものは中間位にあるものであるから、動かされないで動かすところの或るものがあり、これは永遠的なものであり、実体であり、現実態である。〔では、どのような仕方で動かすか?〕それは、あたかも欲求されるもの〔欲求対象〕や思惟的なもの〔思惟対象〕が、〔欲求者や思惟者を〕動かすような仕方で動かす、すなわち動かされ〔も動きもし〕ないで動かす。ところで、欲求の対象と思惟の対象とは、それぞれの第一のものおいては、同一である。けだし、たんに欲望されるもの〔非理性的欲求の対象〕は現象的にそうある善美なものであるが、願望されるもの〔理性的欲求の対象〕のうちの第一のものは真に存在する善美なものである。しかるに、我々がそれを欲求するのは、それが善美であると思われるがゆえにであって、我々がそれを欲求するがゆえに善美であると思われるのではない。そのわけは、思惟が始まり(アルケー)だからである。
(…)
ところで、なにかがそれのためにであるそれ〔そなわちそのなにかの目的〕が不動なものの部に属することは、それの意味を分割すれば明らかにされる、すなわち、なにかが『それのために』であると言われる『それ』〔目的〕には、(a)或ることが他の『なにものか』〔の利害・害悪〕『のために』なされるその『なにものか』を意味する場合と、(b)或ることが『なにものかを目ざして』なされるところのその『なにものか』を意味する場合とがあるが、これら両義のうち、後者は不動なものの部であるのに、前者はそうではない。だからして、後者は、愛されるものが動かすように、動かすのである、そして、他のものは、動かされて動かす
(…)
自らは不動でありながら動かす或る者が存在しており、現実態(エネルゲイア)において存在しておるから、この或る者は、決して他ではありえない。なぜなら、諸種の転化のうちで第一のものは移動であり、移動のうちでも第一なのは〔天体の〕円運動であるが、さらにこれを動かすのがこの或る者なのだから。そうだとすれば、この或る者は必然(アナンケー)によって存在するものである。そして、必然によって存在するものであるかぎり、善美に存在し、このように存在するものとしてのかぎり、この或る者は原理(アルケー)である。
(…)
そして、この或る者の暮らし(ディアゴーゲー)は、我々にとっても最善の、しかし我々にはほんのわずかの時しか楽しめないところの最善の生活である。“
p.151-153第12巻第7章
『アリストテレス 形而上学(下)』出隆訳 岩波文庫

あらゆる存在の第一のもの〔窮極的原理〕は、それ自体においても付帯性においても不動なものでありながら、しかもあの〔天界の〕第一の永遠的で唯一の運動を動かすもの〔第一の不動の動者〕である”
p.155-156第12巻第8章
『アリストテレス 形而上学(下)』出隆訳 岩波文庫


アリストテレスが不動の動者について述べているのは『自然学』 第8巻
『形而上学』第12巻第7~8章
「神」(希: θεός)
不動の動者(ふどうのどうしゃ、希: τὸ κινοῦν ἀκίνητον、英: unmoved mover)

“第七章 永遠的な運動を起こす第一永遠的な動者は全くの現実態であるからそれ自らは全く不変不動な実体であ り,あたかも思惟の対象や欲求の対象が思惟者や欲求者を(あるいは愛人が愛者を)動かすように,自らは動かないで他のすべてを動かす.この第一の不動の動 者に世界のすべては依存する.これは善であり,生命であり,不断に自らを思惟・観照している純粋理性であり,これが神である.その観照の生活は全く完全で あり,快である
第八章 諸天体の運行を司どる多くの天球の諸運動のためには,第一の天球を動かす第一の不動の動者(神) のほかに,それだけ多くの不動の動者が存在すべきである.エウドクソス,カリッポスの諸天球の設定.アリストテレス自らの設定.その数は,合計五十五また は四十七であろう.第一の不動の動者はただ一つであり,世界も一つである.
”http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/3360440/top.html

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参考資料
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子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 7月14日
@lanekota @WorldWildWow 王が獣に紐をつけているのか、獣が王に紐をつけているのか。 国際汎ヨーロッパ連合(太陽十字+メーソン+ハプスブルク+選帝侯の末裔)が元ネタのEUの本部はベルギー。地味故に本丸。黒幕が偽のボスの部下あるいは、民間人に偽装する創作物あり。

猫太”黒幕というのは目立たないとこにいるんですよ。そうやって人を動かすのが悪の魔道師のアリストテレス的な不動の動者。組織を回すエンジニアは目立ってはダメです。”
ユダヤも在日もキリスト教と大本教系の囮。出回っている情報は怪しむべき。目立つ=囮。黒幕は常に良いイメージを保っている。

”学院の例ですと、現場で生徒たちを伸ばす仕事がうまい現場主義の先生と、学院の仕組みをデザインしていかに美学を持った魔道師たる賢者を作る仕組みをうまく作るかの仕事に別れます。管理職と現場は役割違い、どっちが偉いとか間違ってる”
一番大事な食べ物を作る人の地位が低いのは支配層のせい。




いかなる技術、いかなる研究(メトドス)も、同じくまた、いかなる実践や選択も、ことごとく何らかの善(アガトン)を希求していると考えられる。

(アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』高田三郎訳 岩波文庫 第1巻第1章冒頭より引用)

善とか幸福とかは、快楽や名誉や富には存しない(第1巻第5章)


人間は本性上市民社会的(ポリティコン)なものにできているからである。

(アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』高田三郎訳 岩波文庫 第1巻第7章1097b10

魂をすぐれて活動させることが最も善きこと(第1巻第7章)」

「人間というものの善」とは、人間の卓越性(アレテー)に即しての、またもしその卓越性が幾つかあるときは最も善き最も究極的な卓越性に即しての魂の活動であることとなる。

(アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』高田三郎訳 岩波文庫 第1巻第7章1098a18より引用)

節制も勇敢も「過超」と「不足」によって失われ、「中庸(メソテース)」によって保たれるのである。

(アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』高田三郎訳 岩波文庫 第2巻第2章1104a25

生きていることは植物にとっても当てはまる。なので栄養摂取とか成長は人間に特有とは言えない。感覚的な生はあらゆる動物にとって共通のはずなので、これも人間に特有とは言えない。
人間に固有の機能は、魂の「ことわり」(ロゴス)を備えた活動としての生だ。一切の機能は、それ固有の卓越性(アレテー)に基づいて行われる際に、 もっとも最も「よく」達成される。なので人間にとっての善は、人間の卓越性に基づく、魂の活動にほかならない。牛や馬がこうした活動を行うことはできな い。なので私たちは「牛や馬は幸福である」とは決して言わないのだ。

「劇場でおやつを食べる人たちは、演技をする者たちが下手な場合、そのときにいちばんおやつを食べ出すのである。」 アリストテレス『ニコマコス倫理学』1175b

富が我々の求める善でないことは明らかである。富は何かのために役立つもの、それ以外のもののために存在するものでしか無い-アリストテレス「ニコマコス倫理学」

IdeasFromWords ‏@IdeasFromWords 3月31日
医療職に問わず、社会人として仕事をする上で『PDCAサイクル』は非常に重要である。 P: procrastinate (締切直前まで放置) D: delay (期限を延ばさせる) C: cheat (適当に誤魔化す) A: apologize (心を込めて謝罪する)

佐倉 りおね子 @Rio_7th · 5月28日
あ のさー。そろそろ誰か「人格と社会的成功は関係ない」って身も蓋もない事実を言ってあげなよ。カーネギーはナチスの優生学を支持してたしウォルト・ディズ ニーは東洋人を差別してた。心根が綺麗であれば幸せになれるなんて夢物語を語って誰かが不幸になる代わりにあんたの財布が膨らんで楽しいか?

ken @kenkatap · 7月19日
ハンセン病患者隔離=優生学的施策 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%AA%E7%94%9F%E5%AD%A6#.E6.A6.82.E8.A6.81 …
優生学の目的=知的に優秀な人間の創造
▼ナチス独に限らず、米や北欧も
▼米優生学協会は、カーネギー、ロックフェラーなど財閥が援助

▼人間を「尊厳」でなく、「価値」の優劣で理解する思想を、根底に有する

ジャムマン @pookoomoo555 · 2014年2月24日
米国にパイオニア基金と言う財団がある 「有色人種等、劣った人種を遺伝子工学を使い人種改良する」と言う財団 財団の活動資金は、ドレイパー一族が全額出資 ブッシュ元大統領一族と共に米国のアヘン専売企業ラッセル社を創立しキリスト教原理主義教会を創立したドレイパー一族 (オルタナティブ)

いまあつ @imaatsu1974 · 5月29日
カーネギーがナチスの優生学政策を支持してたとは初耳。もともと優生学はアメリカで流行し、(身の毛もよだつようなこともアメリカで行われて)それをナチスも取り入れたそうなので、カーネギーがナチスを支持しても不思議ではないが。

雪月花❀ @setugetuka7 · 2013年10月2日
優生学の手法https://www.facebook.com/satoru.utsumi/posts/457306084353150 … 1920年代からロックフェラー、カーネギー、ハリマンなど裕福なエリート家系の資金を受けてきた優生学勢力が公然と認める狙いは、彼らが「消極法的優生学」(望ましくない血統を計画的に絶やすこと)と呼んだものに具体化した。

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 10月4日
これ、神学をやっていないと 分らない人多いのだが、 キリスト教ってのは死んでも 最後の審判の日には生き返って しまう教え。 信者がいくらクタばった所で 教会は全く気にせん


天正遣欧少年使節の派遣(1582年2月20日~1590年7月28日)
セミナリオではどんなことを学んでいたのか?
http://herculessamurai.web.fc2.com/tenshokenoushisetsu13.htm
“(これは実際にセミナリオで使われていたテキストです。
解読すると、以下のとおり。

Nifon no cotoba to historia vo
(日本の言葉とヒストリア(歴史)を)
narai xiran to fossuru fito no tameni
(習い知らんと欲する人のために)
xeva ni yavaraguetaru Feiqe no Monogatari.
(世話にやわらげたる平家の物語。)

絵の下に書かれているのは、以下のとおり。

Iesus no Companhia no Collegio Amacusa ni voite
(イエズスのコンパニアのコレジオ天草において)
Superiores no go menqio to xite
(スペリオレスのご免許として)
core vo fan ni qizamu mono nari.
(これを版に刻むものなり。)
Go xuxxe yori M.D.L.XXXXII.
(ご出世より一五九二。)
<注>
・イエズスのコンパニア=イエズス会のこと
・コレジオ天草=天草にある大神学校のこと。コレジオは大神学校、セミナリオは小神学校。
・スペリオレス=スペリオール。コレジオの院長のことを「スペリオール」と呼んだ。
・ご出世より一五九二=キリスト誕生から1592年目。つまり西暦1592年発行。

セミナリオ生だけでなく外国人宣教師たちも
平家物語から日本語を勉強しました。
したがって「平家物語」は
初めてヨーロッパ人が触れた日本文学と
いえるかもしれません。
そのほか、形而上学的思考を習得するための、
倫理神学、哲学、神学などの哲学系学問。
プラトンやアリストテレスなどの
ギリシア哲学をベースに
西洋哲学を学びます。
そのほか聖歌、ヴィオラ、オルガンなどの
楽器や歌を学ぶ音楽の時間。

油絵などの西洋画法を学ぶ美術の時間。

地球の構造や天体を学ぶ、地理学、天文学。

体力づくりには欠かせない、体育。

文化祭、体育祭、遠足などの学校行事。
夏休みもありました。
いまの学校とあまり変わりがないと思いませんか?
現代日本の学校教育は、 西洋の学校教育を基礎に作られました。
セミナリオで行われていた授業は、現代日本の学校教育のさきがけ
ともいえます。
(…)
セミナリオの校則
・古典を学んでいるものは、作文または祈りを教師に審査してもらうこと。
・哲学と神学を学んでいるものは、教師の前で討論をすること。
・生徒の情熱を一層かきたてるために、最も優秀なものにはなんらかの褒美を与えること。
・そのために身分の高い人物や、またはその使者、または生徒の親をその場に招待してもよい。
・クラスの教師は、生徒が罪を犯したときには、罰することなく、まずは学長に報告すること。
・クラスの過失について、生徒を罰するときには、生徒自身がおこなうこと。だがそれは、しかるべき程度を超えてはならない。
・起床、祈り、ミサ、食事、学習、就寝時の決まった時刻には鐘を鳴らすこと。
・各生徒は、自分の椅子・机、および夜学習するための各自の蝋燭を所持すること。
・生徒たちはベッドと机を常に整頓し、配慮すること。
・蝋燭は、夜は必ず各部屋で灯をともしていること。
・他人の部屋に入ってはいけない。
・他人のベッドに横になったり、座ったりしてはいけない。
・愚弄されても、激昂してはならない。
・下品なあだ名をつけられたりしないこと。
・外部の人間から大量に贈呈品が送られてきたときは、共有のものとして配分すること。わずかの時は、送られてきた人にあたえ、それが調理されたものだったら、食堂で食べること。菓子かまたはそれに類するようなものだったら、箱にしまい、望み次第いつでもどこでも食べていい。
・生徒がセミナリオの外で泊まったり、食事するのは、稀にはよいが、それ以外は許可してはならない。
・またそれらは、彼らの両親や兄弟の家に限る。
・公の場に出るときは、慎みと静粛を守り、学長の命令に従うこと。
・祭りを見に行ってはならない。

参考…高瀬弘一郎著「キリシタン時代の文化と諸相」

土曜日の授業はお昼まで。日曜日はおやすみ。
旧約聖書の「創世記」の冒頭には
「神は六日間にわたって生命をつくりそして七日目に休息した。」と書かれてあります。
これがキリスト教文化における、一週間というこよみの始まり
です。
もちろん戦国時代の日本にはこのような習慣はありませんので、
一週間という概念をもっていたのはキリシタンだけでした。
キリシタン以外の人は日曜日はおやすみではないし、そもそも日曜日自体ありませんでした


セミナリオ卒業後の進路は?
セミナリオを卒業したあとは、本当に聖職を目指すか否か、自分の進路を決めなければなりません。
今までは学生の身分でしたが、これからは本格的にこの道に入っていかなければならないのですから、
しっかりとした意識を持たねばなりませんね。
セミナリオで学んだことにより、神父になる夢を再確認した者もいれば、
自分には向いていないと断念した者もいることでしょう。

聖職を希望する者は、まずは、修道会入会のための試験と面接を受けます。
特定の修道会に属さなければ神父にはなれません。会社に就職せねば正社員を名乗れないのと同じです。
試験に合格したら、その修道会の修練院(ノビシャド)に入り、修練期間に入ります。
修練期間を経て、適性があると認められれば、修道会への入会が認められます。
そこからさらに修練期間を経て、適性を認められれば修道士となり、
司祭になることを希望する者は、またまたさらなる修練期間に入り、
適性を認められれば、修道士から司祭に叙階されます。
カトリックにはたくさんの修道会があるので、どの修道会に属するかは個人の自由ですが、
戦国時代の日本はイエズス会が一番メジャーな修道会だったので、殆どがイエズス会を希望しました。

セミナリオはヴァリニャーノによる創設なので、イエズス会系の学校ということになりますが、
だからといって、卒業後はイエズス会に入会せねばならないという決まりはありません。
(学生は、在学時は、どの修道会にも属していないフリーの状態にあります。)
フランシスコ会でもドミニコ会でも、自分の希望する修道会に入れます。
しかし学校自体がイエズス会の土壌ですから、教師の殆どがイエズス会士であり、
学生もその影響を受けるので、イエズス会を希望するのが自然であり、てっとり早いといえます。

もちろん、卒業生すべての希望が叶ったわけではありません。
なかには、試験に落ちてしまう者もいます。そのような学生は、再び試験を受けねばなりません。
しかしセミナリオ自体は卒業するので、同宿(教会やセミナリオで働くアルバイト)となり、
司祭や修道士の付き人や雑用をこなし、独学で学びながら、聖職を目ざします。(フリーター…?)
また、セミナリオの上のコレジオに進学する者もいれば、
この道を断念し、家業を継ぐなど、他の人生を歩むか…ですね。

コレジオ(collegio)
コレジオ(collegio)とは、セミナリオの上にある、さらなる専門的な高等教育機関です。
かといって、セミナリオ卒業生はみなコレジオに進学せねばならないという決まりは、ありません。
セミナリオ=中学・高校、コレジオ=大学と考えたらわかりやすいかもしれません。
コレジオは英語にすると、カレッジ(collage)です。
セミナリオが年少者向けの学校であったのに対し、コレジオは大人向けの学校。
(セミナリオには、8~19歳くらいまでという、年齢制限があります。)
コレジオで学べるのは、基本的には、セミナリオ修了者、イエズス会入会希望者、修練期間を終えた者。
神父になりたいが、この歳ではセミナリオに入れない…といった、今でいう社会人入学もありました。
日本語を学びたい外国人神父、ラテン語を学びたい日本人修道士なども一緒に学び、立場は多種多様。
コレジオがあった場所は有馬と、大友宗麟のおひざもとの豊後の臼杵でした。
このように、少年使節が学んでいたセミナリオという西洋式の学校は、戦国時代にありながら、
現代の我々が受けているのと同じシステムの教育が行われていたことがわかります。
そのような画期的な教育機関が戦国時代の日本にあったこと、とても面白いと思いませんか?“

覚えておいて欲しい事は、人間を支配しようと欲する支配者はまず先に神話をいじる。たとえばギリシア神話のメドゥーサは、母系社会のギリシア先住民の神だったけど、魔物に貶められた。こんな感じで共認意識である神話をいじる事で民族を支配するんだ。
魔法使いハンターねこた

JAGD @JAGD_owner · 2月5日
プラトン読みながら、自然と儀式やカバラを連想して対照してる連中は、かなり重傷のオカルティスト。プラトンや新プラトン主義の影響下にカバラやヘルメス哲学が作られてるので、元ネタという意味では、歴史的にはありのはずですが…逆にそこまでくれば一端か?


奴隷制度を肯定したアリストテレス
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/intro_aristetle_intro.html
”「天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず」と言った人がいたが、そのような理想主義者の書いたものが「社会契約論」だった。その初めのほうでルソーはアリストテレス ( Aristoteles 前384-前322 ) の「生まれついての奴隷」という言葉を批判しているが、まさにその言葉がふんだんに出てくるのがアリストテレスの 「政治学」だ。

 ルソーと違ってアリストテレスは理想を語った人ではなかった。現実主義者の彼はまず何よりも人間関係の根本にある第一は男と女であり、もう一つは支配と非支配の上下関係
であると言った。

 種の保存のための男女関係は当然として、人間が自己保存を図っていくためには平等であってはならない、誰かが指導して誰かがそれに従うという関係に立たなければならない、そして知恵あるものが指導者に、知恵なきものは部下になって汗を出すという関係が欠かせないと彼は言う。上下関係のない社会つまり平等な社会は全員が奴隷になってしまう社会だとも言っている。民主主義社会でも同じことで、民主的とはもちろん全員が奴隷になることではないが、さりとて全員が指導者になることでもない。誰か一人が指導者となり他のものたちはその指示に従っていかなければならないのである。それが嫌ならその組織は滅びるほかないと彼は考える。

 そして、その被支配者の最下層にいるのが奴隷だ。アリストテレスは奴隷が奴隷である理由はその生まれの卑しさであるとする。逆に生まれのよい人間には奴隷を支配する権利があるとも言う。そして生まれのよい人間は生まれのよい人間から生まれてくると言うのだ。

 この奴隷肯定論の中には、家事や料理などは奴隷の仕事であって、自由な市民は政治だけやっていればいいのだというふうな文章もあって、現代人にはかなり面喰らうところがある。しかし、現代でも頭を使う人間やアイデアを出す人間の方が、汗を出して働くしか能のない人間より上に置かれているのは確かである。

 そのほかに、この本を読んで感心するのは、アリストテレスが何事も一つ一つ順番に明らかにしていこうとする態度である。彼は一つのことが明らかになるたびに、「~は以上で明らかである」といって、次に進む。だから、この「明らかである」「明らかに~である」が彼の文章には何度も何度も出てくる。「ここまでは明らかになった。では次へ進もう」という感じである。この彼のやり方は、考えようによっては、なかなかおもしろい。つまり、彼はどんな場合も数学的な証明のやり方を守っているのだ。このやり方で彼は何でもかんでも自分の信じることを「明らかに」してしまう。実にこつこつと「証明」を積み上げていくのだ。彼を「論理」にとり憑かれた人間と言うことさえできるかもしれない。彼は、明らかにする必要のあることが無くなるまでこれを続けるのである。

 アリストテレスはどんな事にも目的があると信じている人である
。たとえば、母親は子供を生むときに母乳が出るようになるという事実をとらえて、これは何のためかと考える。そして彼は、母乳は子供がある程度成長するまでの間、母親に子供の食料を手に入れる努力を免除するためだと言うのである。このように彼はこの世のあらゆる出来事に因果関係を見いだしていく。

 また、自然というものをアリストテレスは非常に重視する。世の中の仕組みは、最終的には「自然にできているもの」と「人間が後から作ったもの」の二つに分けられる。この考え方は古代ギリシャ人に共通のものである。そして「自然は全てをうまく作っている」という信仰がアリストテレスにはある。ルソーの「自然に帰れ」などもここから来ているのでないかと思われる。

 ところで、この「政治学」を読む際に注意すべきことは、アリストテレスの言う国、国家とは現代の町や市程度の大きさのものでしかないということである。アリストテレスにとっては村が集まればもう国家ができてしまうのである。

 この本の中身はすべて観察と理屈であるから、小説を読むような面白さはないけれども、それとは違うこの世の謎解きをする面白さがあるといえる。この分析の面白さは読まないと損だと言えるほどのものだから是非一読をお勧めしたい。


 アリストテレスの「政治学」 の日本語訳で現在入手しやすいのは二種類しかなく、そのうち読んで意味が分かるのは中央公論社の「世界の名著」の「アリストテレス」に収録された田中美知太郎氏他の訳しかない。これは非常に達意な日本語で書かれた名訳であるが、残念ながら全訳ではない。とくに、一巻途中から始まる奴隷制度肯定論は省略されている。

 しかし、アリストテレスの言葉を引用する人はたいていこの 「政治学」 の第一巻から引用する。なぜなら、たいていの人は第一巻しか読んでいないからである。最近の「天声人語」に「動物は人間のためにある」というアリストテレスの言葉が大学教授からの又聞きとして引用されていたが、これもこの第一巻から
である。逆に言うと天声人語氏は第一巻さえ読んでいないということであろうか。それぐらい読みにくい日本語訳しかないと言うわけだろう。だから、ここに第一巻だけでも訳出したことは意味があると信じている。(なお、この訳でも「ですます」調を採用したが、それは例によって古代の散文はすべて黙読されるためではなく人前で話すために書かれたものであるからに他ならない)

 もちろん、第二巻以降にもおもしろいことが書いてある。たとえば、第二巻には、財力を政治家を選ぶ基準の一つにしているカルタゴでは、事実上政治家の地位が売り買いの対象になってしまっている、と書いている。政治家はその人の人格だけで選ぶべきだと言うのである。選挙にいくら金を使っても罰せられないどこかの国で、同じことが起こっているのをここで思い出してもよいだろう。

 このようにアリストテレスは色々といいことを書き残している。だから、ヨーロッパ人は宗教の経典のように崇拝して有り難がってきた。しかし、日本ではそれほど有り難がられない。それは、内容の分かり難さだけではなく、そもそもその中身が知られていないからだとわたしは思う。そしてそれは、読んで意味の分かるに日本語の翻訳がないからであるとも思う。しかし、たとえば英語になら直訳しても意味がとれるものになるため、読み進んでいけるだけの英訳はたくさん存在すると思う。たとえば私が参考にしたペンギン文庫の訳なら適当な解説つきで読みやすいと思う。 ”

アリストテレスの『政治学 』 第一巻
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/politics.html
”  そしてもう一つの結びつきは、人間の生存を維持するために欠かせない、生まれついての支配者と非支配者の結びつきであります。つまり、先を見通す知性を持った人間が生まれついての支配者となり奴隷の主人となるのに対して、労働に適した肉体を持つ人間が非支配者となり生まれついての奴隷となるのです。その結果、主人と奴隷の双方に共通の利益が生まれてくるのです。

 このように人間の結びつきには主従関係が欠かせません
が、女と奴隷は本質的に区別せねばなりません。

 自然の摂理は決して人間が万能ナイフを作るような貧しい振るまい方はせず、それぞれに個別の目的を持つものを作ります。多くの用途を持つ道具ではなく、たった一つの用途をもつ道具こそ何にも増して役に立つからです。

 ところが、ギリシャ人以外の民族では、この奴隷と女との区別がないのです。それは彼らには、生まれつき主人となるような知性を持つ人間がいないからなのです。そして主人のいない結びつきでは、男も女も奴隷になるしかありません。ですから、詩人が「ギリシャ人こそは他の民族の支配者となるべきだ」と言ったとき、それはギリシャ人でないものはみな奴隷であると言っているにほかなりません。
(…)
人間が完成して国家を作り上げたときには、全ての動物の中で最も優れた存在になるのに対して、人間がばらばらになって正邪も善悪も知らない場合には、あらゆる動物の中でも最悪の存在になるからです。というのは、悪が武装した場合には最も手強いものになるからであり、人間が持って生まれた様々な武器は善を行なうために分別をもって使うべきものなのに、逆の目的のために使われることが非常に多いからです。そして善意がなければ、人間はこの上なく残忍なものとなり悪の限りを尽くすようになります。なかでも最悪なものは食欲と性欲に基づくものです。ところで、これに対する正義の裁きこそ国家の仕事なのです。というのは、何が正しいかを決定するのが正義の裁きであり、国家がもたらす秩序こそ正義だからです。
(…)
第四章 奴隷は道具である
 さて、財産は家庭を構成する一つの要素であり、また必要最低限の財産がなければ、よい暮らしをするどころか生きて行くことさえできない以上、財産を獲得する技術は家庭の経営に欠かせない要素です。一方、専門的な技術を使って仕事を成し遂げるには、その技術にふさわしい道具が必要です。そこで、家庭の経営にたずさわる人にも、それにふさわしい道具がなくてはならないということになります。

 ところで、道具には命のある道具と命のない道具の二つがあります。

 例えば、船のかじ取りにとって、かじは命のない道具であるにの対して、見張りの男は命のある道具だと言えるでしょう。というのは、使用人は親方の持っている技術を使うための一種の道具であると言えるからです。

 同じように考えていくと、家財道具は生活をするための道具であって、財産はそのような道具の集まりなのですから、一種の財産である奴隷は命のある道具であり、さらに全ての使用人と同じように、多くの道具に先立つ一つの道具なのです。

 奴隷が多くの道具に先立つ一つの道具だというのは、もし道具が命令された通りに、もしくは自分で頭を働かせて、ひとりでに仕事をするなら、つまりダイダロスが作った動く彫像や「神々の集いの場にひとりでに入っていく」と詩人が歌ったヘパイストスの三脚台のように、もし織機のシャトルが勝手に縦糸の間を行ったり来たりしてくれたならば、また、もし琴のばちが勝手に琴の音をかき鳴らしてくれたならば、親方は使用人を必要としなくなるし、主人は奴隷を必要としなくなるからです。
(…)
第五章 奴隷制度は自然なものである
 つぎに、生まれながらにしてこのような人間がはたして存在するのか、人の奴隷になることがはたして良いことなのか、また正しいことなのか、いやそもそも奴隷制度などというものは自然の法則に反しているのではないか、という問題を考えてみましょう。

 この問題は理屈で考えてみても事実から考えてみてもそう難しい問題ではありません。支配非支配の関係はなくてはならないことであるだけでなく有益なことでもあります。初めから支配する側と支配される側に分かれて生まれてくるものさえあるのです。
(…)
 さて、生き物は何よりもまず精神と肉体から成り立っていて、本質的に精神が支配し肉体が支配されるようになっています。

 この本質を論じる場合には、生まれつきの本質を失ったものではなくその本質に則ったものについて観察しなければなりません。ですから、精神が肉体を支配することを明らかにするには、精神も肉体も完全な状態にある人について観察しなければなりません。なぜなら、たとえ一時的にせよ堕落した人間の場合には、悪事に染まって生まれつきの本質を失っているために、しばしば肉体が精神を支配しているように見えるからです。

 それはともかくとして、いま言ったように、まず何よりも生き物に支配非支配の関係を見ることが出来ます。そして、そこには主人の奴隷に対する支配だけでなく、政治家の国民に対する支配をも見ることが出来ます。なぜなら、精神と肉体の間の支配関係は、主人と奴隷の支配関係に似ているのに対して、理性と欲望の間にも支配関係があって、それが政治家もしくは王と国民の間の支配関係に似ているからです。

 この場合、肉体が精神に支配されることが、また人間の衝動的な部分が理性や知的な部分によって支配されることが、自然なことであり有益なことであるのに対して、いずれの場合でも両者の立場が対等になったり逆転したりすることが有害なのは明らかです。

 これは人間と他の動物との間の関係についても言えます。人間に飼われている動物のほうが、野放しの動物よりも本質的に優れていますし、どんな動物にとっても人の支配を受けるほうが生存を維持していく上で良いことなのです。

 さらに男と女の関係でも、生まれつき男のほうが強く女のほうが弱いので、男が支配する側に女が支配される側になります。

 当然これらと同じことが人間全体についても当てはまります。つまり、精神と肉体の間や人間と動物の間にある大きな違い、それが人間同士の間にも存在するのです。

 そして、人間の内でもせいぜい体を使って仕事をするしか能のない人間こそ、これまで述べたものたちと同じように、支配されるほうが望ましい人間、つまり生まれながらの奴隷なのです。なぜなら、生まれながらの奴隷は他人の所有物となる能力を持ち、したがって現実に他人の所有物であって、知性のある者の言うことを理解する能力はあっても知性そのものは持っていないからです。

 もっとも、人間以外の動物は知性に従うことなくひたすら衝動にしたがって行動しますが、利用価値は奴隷とそれほど違いません。奴隷の場合も家畜動物の場合も、体を使って日常の生活に必要な仕事を助けるという点では同じだからです。

 ですから、奴隷と自由人の体が違った作りをしているのは自然の摂理によるものだと言える
でしょう。奴隷の体が日常生活に必要な仕事をするために頑強にできているのに対して、自由人はそのような仕事には向かない、背筋がまっすぐ伸びた体形をしているのです。自由人の体の作りはむしろ国家の一員としての生活、つまり市民生活に向いているのです。(ちなみに、国家の一員としての生活は平和な時の要請に応じるものと戦争の時の要請に応じたものの二つに分けることが出来ます)

 しかし、自然の摂理とは逆のこともしばしば起こります。つまり、自由人の中でも一方で精神ゆえの自由人もいれば、他方で肉体ゆえの自由人もいるのです。しかし、これは仕方の無いことです。というのは、もし単に肉体だけではあるけれども神の肖像のように美しい人がいるとすれば、彼に劣る人たちが彼の奴隷になるのは当然だと誰もが考えるのは明らかだからです。

 しかし、もし肉体を基準にしたこのような区別が実際にあるとしても、それより精神を基準にした区別のほうがはるかに正しいことには違いありません。しかし、精神の美しさは肉体の美しさほど容易に見分けることは出来ません。

 以上によって、生まれつきの自由人と生まれつきの奴隷が存在すること、奴隷にとっては奴隷となることが有益で正しいことは明らかです。

第六章 生まれついての奴隷と戦争奴隷の違い
 奴隷制度に反対する人たちの意見にも一理あることは容易に分かります。というのは、奴隷には二種類あって、生まれついての奴隷だけでなく法律に基づいた奴隷が存在するからです。

 もちろんこれは法律といっても、戦争に負けた者は勝った者の所有物になるという一種の約束事にすぎません。そして多くの法律家たちは、「自分の方が強くて戦いに勝つ力があるという理由だけで、負けた者を奴隷つまり自分の所有物として支配してよいというのではあまりに理不尽であるから、このような権利は違法である」と非難しています。そしてこの考えに賛成している人もいれば反対している人もいます。賢者と言われる人たちの間でも一つの答えに到達していません。

 このような戦争奴隷反対論が起こる原因は、「人格の点で優れている者が力を手にしたときに最もよく勝つことが出来る」ということと「勝つということは必ずやなんらかの点で優れているからである」ということから「力がある者は必ず人格の点で優れている」という力と人格の混同が生じたことにあります。この混同の結果、議論の焦点が「では力は正義なのか」ということに向けられるようになってしまったのです(そこで、一方は力が正義などとは馬鹿げていると言い、もう一方は力のある者に支配権があるのは当然だと言うに至ったのです)。しかしながら、人格の優位を力の優位に結びつけずに論じるなら、戦争奴隷反対論者の先程の議論も、「人格の点で優れている方が支配権を得て奴隷の主人となるべきだ」という説を否定するほどの説得力はないでしょう。

 しかし、戦争奴隷賛成論者のなかには、単純に合法的であるからという理由だけで戦争奴隷を肯定したつもりになっている人たちがいます。しかしそれでは否定しているのも同じことです。なぜなら、戦争が合法的に起こされない場合が多々あるからです。また、いくら合法的な戦争奴隷であっても奴隷になるにはふさわしくない人を奴隷だとは決して誰も言わないからです。さもなければ、非常に生まれがよいと思える人でも、捕虜となって売られた場合には、先祖代々続く奴隷になるということが起こってしまいます。

 したがって、戦争奴隷賛成論者も奴隷という言葉を生まれのよい人たちに対しては使おうとせず、もっぱらギリシャ人以外の民族に対して使っています。しかし彼らがこうするとき、それは取りも直さず、まさに彼らのいう奴隷とは我々が最初に言った「生まれつきの奴隷」であることを示しているにほかなりません。というのは、それは必然的に「どこへ行っても奴隷である者と、どこへ行っても奴隷でない者がいる」と言っているのと等しいからです。

 生まれのよい人間についても同じです。つまり、戦争奴隷賛成論者も、他の民族はその国にいる間だけ生まれがよいのに対して、自分たちはギリシャにいるときだけでなくどこへ行っても生まれのよい人間であると思っています。これは、テオデクトスの悲劇の中で、ヘレンが「神の血を引く両親から生まれたこの私を奴隷呼ばわりする権利が誰にあるでしょうか」と言うように、絶対的に生まれがよく自由である人間とそうでない人間がいると言っているのと同じです。

 そして彼らがこう言うとき、それは取りも直さず、まさに奴隷と自由人の区別、そして生まれの善し悪しの区別の根拠を、人格の優劣に置いていること を示しているにほかなりません。つまり、彼らは人間から人間が生まれ獣から獣が生まれるように、立派な人間から立派な人間が生まれてくると信じているのです。そして自然の神も、時々やり損なうことはあるものの、そうなることを望んでいます。

 以上から明らかなように、奴隷制度に反対する議論はある意味では正しいのです。そして、奴隷と自由人の違いは常に生まれつきらから来るわけではないけれども、生まれつきの違いから一方が奴隷となり他方が奴隷の主人となることが有益である人たちや、生まれたときから支配非支配つまり主人と奴隷の関係が決まっている人たちがいるのもまた明らかです。

 そして、不当な支配が行なわれたときには、それは支配者非支配者の双方にとって有害なこともまた明らかです。なぜなら、部分と全体、そして肉体と精神は利害を共有するものであり、一方、奴隷は命あるもので主人とは肉体的に切り離されてはいるものの、いわば主人の肉体の一部分であるからです。その結果、生まれついての奴隷と主人との間には共通の利益が発生して互いに好意を抱くようになるのに対して、生まれつきではなく法律と強制によってできた奴隷と主人の間には正反対のことが起こるのです。
(…)
 また、ある人が奴隷の主人であるかどうかは、彼が奴隷を使う特別な知識を持っているかどうかではなく、彼が優れた生まれや能力や人格を持っているかどうかにかかっています。それは、奴隷と自由人の違いがその持っている知識の違いではなく、生まれや能力や人格の違いであるのと同じです。

 もちろん奴隷の主人が持つべき知識や奴隷が持つべき知識があるかもしれません。しかし、奴隷の持つべき知識といっても、それは例えばシラクサの男が教えている程度のことに過ぎないでしょう。この男はシラクサで金をとって子供たちに召使のすべき日々の仕事を教えているのです。そのほかに料理の仕方など家事全般を含めることができるかもしれません。「奴隷の主人に序列があるように、奴隷にも序列がある」ということわざがあるように、奴隷の仕事にもいろいろあって、その必要度や重要性にも様々なレベルがあるのです。

 奴隷が知っておくべき知識は全てこのようなものであるのに対して、奴隷の主人が知っておくべき知識は奴隷の使い方の知識です。奴隷の主人であるかどうかは奴隷の入手方法を知っているかどうかではなく奴隷の使い方を知っているかどうかに掛っているからです。とはいっても、この知識の内容はそれほど多くはなく大したものではありません。奴隷は様々な仕事のやり方を知っていなければならないのに対して、主人は奴隷にその仕事を命じる方法を知っていればいいからです。ですから、金持ちならこのようなわずらわしい仕事は奴隷監視人にまかせて、自分はひたすら政治か哲学に打ち込むことでしょう。

 奴隷の入手方法について言うなら、それは奴隷が知っている必要がないのはもちろん奴隷の主人が知っている必要はありません。というのは、正しい奴隷の入手方法とは戦いの仕方や狩りの仕方であって、軍人や猟師が持つべき知識なのです。 奴隷とその主人については以上のような定義で充分でしょう。
(…)
交換という技術は、初めは、誰にも余っているものと不足しているものがあるということから自然な形で生まれたものです。この段階の商売は本質的に金儲けでないことは明らかです。なぜなら、必要の範囲内で物々交換を行なうだけだからです。

 もちろんこの交換という技術は、最初の共同体すなわち家庭の中では何の働きもせず、多くの家庭から成る共同体が生まれてはじめて機能し始めます。家庭の中にいる家族は、同じものをすべて分かち合って暮らしていますが、大きな共同体が発生すると、その中で別々の家庭に暮らす人たちが、自分の家の物を持ち寄って分け合うようになります。彼らは他所の家の持ち物が必要になると、必ず自分の家の持ち物の一部を差し出して物々交換するのです。この物々交換はギリシャ以外の国々でもまだ盛んに行なわれています。

 物々交換では、酒や麦など様々なものをやりとりする場合のように、便利なものをそのままの値打ちで互いに交換しあうだけで、それ以上のことはしないものです。このような交換という技術は、自然の摂理に反しないもので、金儲けの技術の内には全く入りません。なぜなら、それは自然の摂理に適った自給自足の生活ができない場合に、それを補うだけのものだからです。

 しかし、この交換という技術から金儲けの技術が生まれたのはごく自然なことだと言えるでしょう。というのは、不足しているものを他所から取り入れて余っているものを他所へ持ち出すことによる助け合いの関係がさらに外へ広がっていき、その必然の成り行きとして、コインの使用が考え出されたからです。なぜなら、人が自然に必要とするようなものは常に持ち運びが簡単とは限らないからです。そこで、物々交換に際しては、便利なものの中で生活に必要で同時に扱いやすいものを互いにやりとりするという取り決めをしたのです。それは例えば鉄や銀などで、はじめは単に大きさや重さによって区別していましたが、最後には刻印が押されるようになって、いちいち計量する手間が省かれるようになってきます。つまり、刻印によって価値が表示されるようになったのです。

 こうしてコインが考案されることによって、必要から生まれた物々交換は、二種類ある金儲けの技術の内の一つ、すなわち商売に発展したのです。

 商売も初めは単純なものでした。しかし、どこでどういうふうにコインを交換すれば最大の利益が出るかという経験の積み重ねによって、商売は次第に複雑化してきました。その結果、金儲けの技術とは、もっぱら、コインについての技術であり、しかも大量の財産を入手する方法を考える技術であると思われるようになったのです。つまり、この技術はお金による財産を作り出す技術なのです。そして、金儲けの技術と商売の技術がコインについての技術であることから、大半の人たちは財産とは沢山のコインのことだと考えるようになったのです。

 しかしそれとは逆に、コインなど無意味なものだ、単なる約束事であって本来は何の価値もないという人たちもいます。その理由は、使う人が変わればコインは何の価値もないものになってしまい、生活に必要なものを何も買えなくなるからです。そしてコインは山ほどあるのに日々の食料にも窮するという事態がしばしば発生します。実際、豊富な財産に恵まれながら飢え死にするとは、なんと奇妙な財産でしょうか。まるで、欲深いお祈りのせいで食卓に出されたものが全部金になってしまったあの伝説のミダス王そのものであります。ですから、彼らが財産や金儲けの技術を単なるコイン集めとは別のものであると考えているのは間違ってはおりません。


 以上から、まず、自然の摂理に適った財産や金儲けの技術があって、これは家庭を経営する技術に属していることがわかります。さらに、もう一つの金儲けの技術があって、それは商売の技術に属していることも明らかです。

 この後の方の技術は財産を作り出す技術ですが、真の意味で作り出すのではなく、財産の交換によって作り出す技術です。そして、この金儲けの技術がコインについての技術だと思われているのは、コインが売買の手段であるとともに目的でもあるからです。

 そしてこの金儲けの技術によって作られる財産には限度がありません。確かに、あらゆる技術にとって目的は終点でもあるため、一定の目的を目指す技術は無限を目指すことはありえません。しかし、例えば医術が無限の健康を追求するように、どの技術も出来るだけ良いものを求める以上は、無限の目的を持っていると言うこともできます。それと同じように、無限の財産を目的とする以上は、この金儲けの技術も無限の目的を持っていると言えます。

 それに対して家庭の経営に属する金儲けの技術は、無限を目指すことはありません。無限の金儲けは、家庭経営の技術がなすべき仕事ではないからです。したがって、家庭の経営においては、いかなる財産にも限度があるべきなのは明らかです。

 ところが、現実にはその逆のことが起こっています。誰もがコインを無限に増やそうと金儲けに励む
のです。その原因はこの二つの金儲けが非常によく似ていることにあります。二つの金儲けの技術が同じものを対象にしているために、両者の使い方の混同が起こるのです。

 しかし、両者は対象が財産であるという点では同じですが目的が違います。一方は財産を増やすことが目的ですが、もう一方はそうではありません。そしてこの混同が原因で、家庭を経営する技術の役割が、コインによる財産を無限に蓄え増すことだと信じてやまない人たちがいるのです。

 彼らがこんな考えに取り付かれている原因は、彼らが生きたいと願うばかりで、幸せに生きたいと願うことがないからです。そして、この生きたいという願いには限度がなく、彼らはこの願いを叶えるための手段を際限なく追い求めます。

 一方、幸せに生きたいと願う人たちの内でも、肉体面の楽しみを追い求める人たちは、全ての時間を費やして金儲けに励みます。肉体的な楽しみを得るためには、明らかに沢山の財産が必要だからです。

 こうして、二つ目の金儲けの技術が生まれたのです。つまり、楽しみを得るためには余分の財産が必要なために、彼らはこの楽しみの元となる余分の財産をもたらしてくれるような技術を追い求めるのです。

 そして、もし金儲けの技術をもってしても余分の財産を作り出すことができない場合には、他の面でこの分を捻出しようとして、彼らは自分の持つあらゆる能力を無理な形で動員してきます。勇敢さは財産をもたらすものではなく大胆さをもたらすものであり、また兵法も医術も財産をもたらすものではなく、それぞれ勝利と健康をもたらすものです。ところが、彼らは、これらの技術を金儲けの技術に変えてしまうのです。人生の目標は金儲けであり、この目標のためには手段を選ぶ必要はないと思うのです。
(…)
 ミレトスのタレスの話などもその一つでしょう。これは金儲けの一つの工夫を伝える話で、その方法の巧妙さゆえに彼の話として伝わっていますが、一般に適用できる内容です。それは次のような話です。

 タレスは、自分が貧しいことを理由に哲学を役に立たないものであるとけなさると、天体についての知識を使ってオリーブの豊作を見抜いて、冬のうちに無けなしの金で手付けをうってミレトスとキオスにある搾油機を全部借り出してしまったのです。競争相手がいなかったので非常に安く借りることができました。そして、収穫期が来て、突如として大勢の人が一斉に機械を必要とするようになると、彼は自分の言い値で機械を貸し出して大儲けをしたです。こうして、哲学者は金儲けには興味がないが、その気になれば簡単に金持ちになれるということを証明したのです。

 タレスはこのようにして自分の頭の良さを証明しましたが、この金儲けの方法は、すでに述べたとおり、独占状態を作り出すことさえできれば誰にでも可能なものです。ですから、多くの国では財政難になるとこの方法で増収を図ります。つまり商品の専売をするのです。

 ところで、昔シチリアで、ある男が、預かった金で鉱山の鉄を買い占めてしまったことがありました。その後各地の市場から商人がシチリアに到着すると、彼だけが一人鉄を売ることができました。そして値段を法外に吊り上げたわけでもないのに、彼は五十タレントの元手で百タレントを稼ぎ出しました。やがてこの事実をディオニュソス王が知ると、王はこの男が王の利益を損なう金儲けのやり方を編み出したと考えて、男に金を持ってとっとと島から出ていけと命じたのです。しかし、タレスの考え出した方法も結局はこの男のやったことと同じことだったのです。二人とも自分の元に独占状態を作り出したのです。

 このやり方を知っておくのは政治家たちにとっても有益なことでしょう。むしろ家庭にとってより、多くの国々にとってはこのような金儲けの方法が必要です。政治家の中にはこの専売ばかりやっている人がいるほどです。
(…)
全ての人間は美徳を持っているけれども同じようにではなく自分の役割にとって必要なだけの美徳を持っているのです。したがって、支配者は美徳を完全な形で持っていなければなりません。なぜなら、精神の中では理性的な部分が指導的役割をするのと同じく、支配者の仕事はひとえに指導的なものだからです。それに対して、他の人たちはそれぞれ自分にふさわしい程度の美徳を持たねばならないことになります。

 というわけで、上で述べた全ての人たちが美徳を持っていること、しかし、ソクラテスの意見に反して、例えば男と女では辛抱強さが違ったものであること、勇敢さや責任感についても違ったものであることは明らかです。ですから、男の勇敢さは支配者にふさわしい勇敢さであるのに対して、女の勇敢さは支配されるものにふさわしい勇敢さであり、他の美徳についても同様であると言えるでしょう。

 このことは個別のケースを見ればもっと明らかです。というのは、美徳とはすぐれた精神を持つことであるとか、正しい振舞いをすることであるとか、そういう一般的な言い方をするのは間違いなのです。このような考え方ではなく、ゴルギアスのように個別の美徳を列挙していく方が良いのです。ですから、例えば劇作家ソフォクレスが女について「女は黙っているのが美しい」と言いましたが、これは男には当てはまりません。しかし、他の全ての場合についてもこのように考えるべきなのです。子供は未熟なのですから、子供の美徳といってもそれは自分自身の美徳ではないし、自分自身に対する美徳でもない、それは成熟するための美徳であり、自分の指導者に対する美徳であるのは明らかです。

 同様にして、奴隷の美徳は自分自身の美徳ではなく主人に対する美徳なのです。先に第五章で奴隷は日常の生活に必要な仕事を助けると言いましたが、ここからも奴隷に必要な美徳はささいなもので、辛抱できず無責任に仕事を投げ出さない程度の美徳さえあれば良いのです。

 ここで一つ難しい問題が生ずるのは、もしいま言ったことが正しければ、職人はしばしば辛抱できずに仕事を投げ出すことがあるから、奴隷と同じく彼らにも美徳が必要なのではないかということです。それとも、彼らと奴隷とではまったく違うのでしょうか。実はその通りで、奴隷はわれわれ自由人の人生と一体のものなのに対して、職人はわれわれとは別に暮していて、奴隷である度合いが少ないので、それに応じた美徳しか要求されないのです。しかし、手先の熟練のいる職人の仕事にはある程度奴隷的な要素があるとはいえ、奴隷が生まれついての奴隷であるのに対して、靴職人などの技術者はけっしてそうではありません。

 以上から、奴隷が仕事をやり遂げられる程度の美徳は奴隷自身の美徳ではなく元々は主人の美徳であることは明らかです。ただし、それは奴隷に仕事を命ずるだけの美徳であってはなりません。したがって、奴隷の知性を全て否定して奴隷には命令だけをしていれば良いと言う人たちは間違っています。命令すべきなのは子供のほうで、むしろ奴隷には忠告を与えるようにすべきでしょう。”

政治学 (岩波文庫 青 604-5) ぼぼさんが書き込んだレビュー (日本)
http://www.amazon.co.jp/gp/cdp/member-reviews/A1IYC1BYD4Z15Q/ref=pdp_new_read_full_review_link?ie=UTF8&page=1&sort_by=MostRecentReview#RQEWGYV1UEUBW
“ 5つ星のうち 1.0 個人的にはこの翻訳は避けたほうが無難と思います。高いですが牛田さんの訳をお勧めします。また、先にプラトンの「国家」を読んでください。, 2011/7/10
レビュー対象商品: 政治学 (岩波文庫 青 604-5) (文庫)
「翻訳について」
星1つは、翻訳の評価です。
岩波版アリストテレス全集の中心的人物の一人である山本光雄氏の翻訳で、
一種の岩波版スタンダードと言って良い翻訳だが、LOEBのRackhamの対訳や、トマスのコメンタリア
付きのメールベケのラテン語訳、Firmin Didotの対訳などを中心に使ってて、本棚の飾りになりかけてたのを久しぶりに通読したのですがここまで酷いとは思わなかった。
日本語が支離滅裂な部分があり、肝心なロジックが通っていないことが多い。
特に4巻と5巻など真中あたりの巻の部分が酷いと思う。
学生さんにさせた訳を、自分の名前でまとめたのでしょうか?
私は岩波版の高田さんの「ニコマコス倫理学」の翻訳にパクさんの訳に比べてそれほど不自由を感じない人間ですが、
なのに、なぜ大看板の山本さんの訳にこれほど不快感を感じるのか自分自身で理解に苦しむほどです。
読んでて胸がムカムカする翻訳です。

実例を挙げないとフェアでないので、一つだけあげますが、(長くて多少専門的になるのでごめんなさい。
第5巻第4章1303b,30(文庫ではp.236)
「なぜなら過失は初めにおいて生ずるが、初めは「全体の半分」であると言われてるので
初め(アルケー)に於ける過失は、たとい些細なものでも、その他の部分での過失に比べて、それと同じ割合を持つことになるからである。」
は「その他の部分での過失に比べて」の部分がロジックが無茶苦茶で意味が通っていません。
原因論やデュナミス(可能態)の発生論、過失論に関して興味深い叙述なのですが。
要するに、発生の過程において過ち(ハマルテーマ)ができると後に成長して大きくなった
部分でもそれに比例して大きな過ちができるから、最初の小さな過ち・過失をポリスに於いても
政体解体のささやかに見える過失を見逃してはいけない
という意味です。
「その他の部分」というのは「端緒・始原・原因(アルケー)」以外の「成長した部分」という
意味なんですね。
そこに「過失」という言葉を足しその他の部分での過失に比べて」としてるので意味不明なわけです。
「原因・端緒(アルケー)に於ける過失・間違いは、たとい些細なものでも、「その他の部分で比例して」、同じ割合を持つことになるからである。」で初めて意味が通ります。
なぜかと不思議に思ったのですが元本のLOEBのラッカム訳(p.391)を見ますと、
「for error occurs at the beginning, and the beginning as the proverb says is half of the whole, so that even a small mistake at the beginning stands in the same ratio to mistakes
at the other stages.」となってますので、最後の「in the same ratio to mistakes
at the other stages」を英語力が幼稚で表現に引っ張られて「その他の部分での過失に比べて」
と直訳的に誤訳してるんですね。
「部分」と訳してある言葉をラッカムが「mistakes at the other stages他の段階において」
と「段階」とわざと訳している意味が取れてません。
「他の部分において過失が起こった」わけではなくて「端緒以外の他のステージ(段階)
において残された過失に比例してる」わけです。
元のラッカムの英訳の方は正確なわけで、英語の意味が読めてない完全なミスです。
中世に使われたWilliam Moerbekeの訳を見ますと、

「in principio enim fit peccatum, principium autem dicitur esse dimidium totius. Quare et
quod in principio parvum peccatum, propotionale est ad ea quae in aliis partibus.
(なぜなら、端緒において罪・過ちがあったからで、しかるに、端緒は全体の半分と
呼ばれるのである。というのも、端緒において微小な罪も、他の諸部分に対して比例的propotionale に
なるのであるからである。)」

ハマルテーマを、「culpa過失・過ち」で無く「peccatum罪」
と訳してる部分は
あまり納得できないにしても、短く言葉足らずで稚拙でも的確に全体の意味を抑えています。
この部分の山本訳は暗黒時代の理解より酷い訳です。

一般の人は些細なことと思われるかもしれませんが、
ちりも積もればで、あちこちで細かく誤訳で論理破綻してるので、日本語のロゴスの流れにならず、
読んでも頭に残らないし、矛盾にムカムカしながら読むはめになります。

社会科学では重要な文献なので、初めて接する人や真剣な学生さんは4400円と4倍ほどしても無理してでも
西洋古典叢書の牛田さんの訳を買われるのをお勧めします。
または元本になったLOEBのRackhamの対訳など英語で読んでください。(2500円弱で済みます。

「読書の順番」
山本氏の解題のとおり「政治学」という翻訳は漢語による慣習的な誤訳に近く、
「タ・カタ・ポリティコン」、「ポリスに関することども」ぐらいの意味で、
「都市国家としてのポリス論」で、「教育論」「法律論」など現代の政治学の枠外のものも
重要な要素とします。(訳文に比べ山本氏の解題は非常に標準的、模範的です。)
アリストテレス「政治学」を読むには、最低限、師匠のプラトンの
「ポリス論」である、「国家」(と出来れば「法律」)の対話篇を読んでおく必要があります。
アリストテレスの「ポリス論」を「政治学」と翻訳されると
プラトンのポリス論である「国家(ポリス)」との対応性が分からなくなるんですね。
ラテン文献のキケローの「国家」「法律」もこの流れに属します。
特に、プラトン「国家」の方は、アリストテレス「政治学」の中で
常に批判的に吟味、参照されますので、順番として絶対先に読んでください。
後、同じくアリストテレスの「ニコマコス倫理学」も徳性論の基礎になってますので、
先に読んでください。
この2冊を読んどくと読んどかないとでは読書の歩留まりが全く違います。

多少緻密に理解をしようとすると結局、「ボタンの掛け違いみたいなもの」で
順番を間違えるとまた読み直す羽目になります。
説教臭くてレビュー読者の方に失礼で申し訳ありません。
でも、この本に関しては、「読む順番」は非常に大事でそれは「買う順番」にも影響しますので。”


お読みくださり感謝の極みです。

永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』を再読したのでメモ。 

私は、理詰めで前提を疑って粘り強く検証する、哲学を大変重視しています。嘘を見抜くには、論理的矛盾を見抜くのが早いですからね。

哲学は支配層が重視している分野です。
プラトン哲学は、キリスト教とともに西洋二大思想です。
なので、支配層の思想=プラトン思想
の知識を↓

プラトンは優生学と職人軽視(肉体労働しない者が一番偉い)と理性崇拝と知性主義(馬鹿は人間ではない)と
偽りの公平感を与える儀式(選挙など
)の基盤。
マギの弟子のプラトンの『国家』は『マギ』の一つ目フリギア帽子モガメット学長の演説の元ネタ。プラトン『国家』 藤沢令夫訳、岩波書店〈岩波文庫〉
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-43.html

で紹介しました。

しかしそれだと、思考訓練にはならないので、以下の記事を書きました。

永井均の著作三冊:『子どものための哲学対話』・『翔太と猫のインサイトの夏休み』・『私・今・そして神』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-61.html

永井均『マンガは哲学する』。藤子・F・不二雄『藤子・F・不二雄[異色短編集]1 ミノタウロスの皿』・〈異色短編集〉2『気楽に殺ろうよ』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-62.html

翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫)翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫)
(2007/08)
永井 均

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今回は、永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』についての読書メモです。

読み直して気づいたのですが、インサイトは黒猫ですよ。
この表紙だと白猫ですね。

“ここにいる生き物が人間じゃなくて猫で、毛の色が黒くて、言葉をしゃべって、哲学者だ……から、『それだから』そいつがぼくなんじゃなくて、そいつがぼくだから、ぼくは猫で黒くて言葉をしゃべる哲学者……なんだ。”p.77-78
『』は原文にはない。原文では『』内の文字一つ一つに傍点。

・「夢は見るたびに違う話。何回か続きものの夢を見るかもしれないけど、ずっと続いている夢なんて考えられない。」
「それなら、もしずっと続いている夢なら現実と同じということになるのか。きみが眠るたびに同じ続きものの夢を見ていて、その夢の世界では、きみは地球防衛軍司令官だったとしたら、平凡な学生のきみの生活なんかより、夢の中のそっちの人生の方がよっぽど強いリアリティ(現実性)を持ってくるんじゃないかな。地球防衛軍司令官が毎晩眠ると、きみが朝起きるところから始まる続きものの夢を見るのかもしれない。どっちがほんとうだか区別がつかないんじゃないかなあ。
つまり、現実とは続きものの夢ってことになるんじゃないかなあ
。」
「だとしたら、現実のぼくたちの記憶力がすごく弱くて、毎日、前日のことをほとんど忘れてしまうんだけど、続きものの夢の中のぼくは記憶力がよくて、子供の頃のことまで覚えているとしら、夢の方が現実になってしまうっていうことになるよ。」
「そうさ。だから、自分が死ぬまでずっと繋がっている連続ドラマのことをぼくらは『現実』と呼んでいるだけなんだよ。」

・“「もしね、もしもだよ、かりに立花由美が生まれてから一度も怒ったことがないとするよ、そしてね、急にいま死んじゃうとするんだ。」
「死んじゃうの!?」
「もしも、だよ。そういう場合、彼女がほんとうは怒りっぽかったっていうことがありうると思う?」
「それ、どういうこと?」
「別に立花由美じゃなくたっていいんだけどさ、ある人が一生怒ったことがなかったんだけど、それはたまたま不当な目にあうとか、そういう怒らなきゃならない状況に出くわさなかっただけで、ほんとうは生涯ずっと怒りっぽい人だったってことがありうるか、っていう問題なんだ。」”p.21

彼女はほんとうは怒りっぽいとか、この部屋は見られていないときは存在しないとか、ぼくたちが培養器の中の脳だとか、そういうことが主張できるためには、ぼくたちが実際に手に入れられるような根拠がなくちゃいけない。

・「生前には認められなかったけど、その人の死後で実はすごく重要な仕事をしていたってことが分かることがある(みなされる、そう評価される)。
そういうことがあるんなら、死んでからもずっと永遠に認められなくたって実はほんとうは凄く重要な仕事をしていたって人がいたっていいと思わない?」
「あまりにも天才的すぎて百年、千年たってもその人の仕事の意味が誰にもわからないってことはありうると思うよ。そのうち人類が死滅しちゃえば、その人は結局、なんでもなかったことになっちゃうけど……」
「結局何でもなかったってことに(原文だと「に」が抜けている。脱字)なるってことは、結局何でもなかったってことなのさ。その人は『ほんとうは』天才だったって主張に、意味を与えることはできないんだよ
。」

誰にも認められなくても確かめられなくてもほんとうは……」という立場は、
実在論といってとても由緒正しい立場。
英語だとリアリズム(realism)といい、「ほんとうは」(really)からきているから
「ほんとうは主義」と訳した方がいいかもしれない。
ぼくらが絶対に知ることができなくてもほんとうはそうだってことがある
、って考えるのが実在論。

誰にも認められなくても確かめられないなら結局何でもなかったってことなので、『ほんとうは』天才だったって主張に、意味を与えることはできない」
という立場が、
反実在論とか非実在論
とか呼ばれる立場。
哲学に関する様々な対立の根底にはたいていこの実在論と反実在論の対立がある。

・今見えているものが実在しているかどうかは疑えるが、見ていると「思っている」ことは疑えない。主観体験の見え=私は見えていると思っている、は疑えない。
触れている「と感じている」、ということも疑えない


・幻覚なんてものはめったにない。だから見えたらもうあるって思い込んでいい。もっと強く言えば、ものを見るってことは、見た通りにあるって思い込むこと。
だから、見えたのにそれがあるって思わないで、ないかもしれないなんて言う人がいたら、そんな人の方がそう言うための根拠を示す必要があるんだよ。特に根拠もないのに、見えたのにないかもしれないって言う人は、もうそれだけで懐疑論者だよ。
懐疑論者は用心深いように見えるけど、実はそうじゃなくて、けんかっぱやいんだよ
。おまえはそう決めてかかってるけど根拠がないじゃないかって、すぐに食ってかかってくるんだ。
そう言われてみると、こっちもよく考えたた(「た」が一つ多い。言っておきますが、“”でくくっていない箇所は原文とまったく同じではありません)うえで決めたわけでもないから、困っちゃうわけさ。でも実はものごとにはそれぞれものによって勝手に決め込んでいい方向、決めこまなくちゃいけない方向っていうのがあるのさ。それを疑うことに意味が出て来るのは、よほど特別の事情がある場合だけ。
いったん売られたけんかを買っちゃったら何か根拠づけが必要だから懐疑論者の勝ちははっきりしているんだけど、そもそも売られたけんかは買っちゃいけないんだよ。挑戦をうけつけない限りは、こっちの勝ちが決まってる。懐疑論者がけんかを売ってきたらね、おまえのその挑戦自体がまとはずれなんだ、と言い続ければいいのさ。そうすれば勝負はこちらの勝ち。

“「ぼくはね、十五歳以上の人間にはほんとうに哲学をすることは不可能だって思っているんだ。」p.53


・客観的物理的事実だけでは色も音も匂いも味も生み出せない。
色を光の波動と同一視できない。
音を空気の振動と同一視できない。
何かを食べて、脳に物理的変化が生じても味が生じなかったとする。しかし味が生じなくても物理化学的には問題ない。
物理的変化がなぜ味という主観的な現象を作り出すのか、それは永遠に解明されないだろう。ただそうであるっていう事実が認められるだけだろう。痛み、視覚、聴覚、記憶、思考、想像など、身体内の神経や脳の物理的プロセスによって引き起こされると考える限り、なんだってそうだ。
精神現象はまるで幽霊みたいなものだ。
物理的な観点から見れば奇跡みたいなもので、物理理的過程から全く独立したもの。
今そういう意識現象を生み出している物理的な過程が、ある日突然それをやめても、ある意味では何も変わらないのではないのか。
自然現象としての人間は物理的な因果に従って、生き続け、芸術などを生みだし続けるのではないか

条件等色(メタメリズム)という現象がある。
波長が580ナノメートルのスペクトル光は黄色に見える。
黄緑に見える540ナノメートルの光と、黄赤に見える670ナノメートルの光を合わせても黄色に見える。
それ以外の組み合わせでも黄色に見える組み合わせはいくらでもある。
客観的・物理的には違っていても、主観的・知覚的には同じ色に見える現象を条件等色(メタメリズム)という。

他人は自分と会っていない時は、本当にいて、本当に自分の生活をしているのだろうか。楽屋で休んでいるんじゃないか。これはなぜか哲学の伝統に登場したことが無い。

・ぼくたちがこころや意識のないロボットをぼくたちの仲間に入れてぼくたち扱いしさえすればそのとたんにロボットにも心や意識が生じる。人間もいくら解剖しても心も意識も見つからない。ぼくたちは人間と、それに似たものしか心あるものとみなさない


・性質がまったく同じものが二つありうるのは、時間と空間ってものがあるからなんだよ。時間と空間が無い可能世界ってものを想定するとね、そこでは性質がまったく同じものは個数としても同じもの、つまり一個のものになっちゃうんだよ。つまり全性質が同じであるってことと、個数が一個であるってことが、区別できなくなっちゃうんだ。
そもそも、そういう世界では、一個、二個って数えられるような物ってものが考えられなくなっちゃうからね。二つのボールの区別は、時空的な連続性が重要


・バークリー「何かが存在するとは知覚されているってことにほかならない」
ヒューム「因果の概念は習慣によって作られた我々の信念でしかない」
因果関係そのものは想定されるだけで見えない。

・夢=心の中にあって外界に存在しないもの


・カントは、
ぼくらのものごとのとらえ方にはね、習慣によって作られた信念なんかじゃなくて、それ以外ではありえないような型みたいなものがあるって考えたんだ。そういう、ものごとのとらえ方の基本的な枠組みみたいなのをカテゴリーって言うんだけどね。日本語で言えば範疇だな。因果性のほか、まえから使っている『ものとその性質』なんていうとらえ方もカテゴリーなんだ。ぼくらは、ものごとをとらえるとき、すでに必ずカテゴリーを使ってるんだ
カテゴリーのくわしい話はまたにするとして、とにかく、さまざまな感覚的経験にカテゴリーが適用されることによって、はじめて、それが【客観的な現実】として認められることになるんだよ。カントは『視霊者の夢』って変な本を書いてるんだけど、これはね、スウェーデンボルグっていう当時流行の視霊者、つまり霊を見たと称するやつなんだけど、まあ霊媒みたいなもんだな、そいつの言ってることがほんとうかってことを考えた本なんだけどね。結論を言うとね、どんなにありありと見えたとしても、それはありえないこと、つまり『夢』にすぎないんだ。つまり、客観的な実在と対応してないんだよ。なぜかっていえば、要するに因果性のようなカテゴリーが適用されないからなんだな。まあ、カントに言わせれば、猫と話をするなんてことも、ありえないことだ、だからやっぱり『夢』でしかないってことになるかもね。
カテゴリーが適用されることによって、対象は客観的なものになるって言ったけど、そこには統覚っていうはたらきが必要なんだ。統覚っていうのはね、自分が知覚したり経験したりするさまざまなものごとを、カテゴリーに従って秩序づけるはたらきだ〔原文ママ〕なんだけど、それをするのが自我のはたらきなんだ。カントはね、デカルトの『私は考える』っていうあの原理を統覚作用として読み変えたんだ。カントによれば、『考える』っていうことはカテゴリーを適用するってことだからね。
カテゴリーがぼくらがものごとを理解する枠組みだとすると、時間空間はぼくらがものごとを感覚する枠組
みなんだけど、その話はまたにしよう。とにかく、カントのこういう考え方はね、バークリーたちみたいに、現実を夢だって言って心の中で起こる夢にしちゃうんじゃなくてね、逆に、時間空間とカテゴリーで、まず心の中で起こる夢みたいなものを考えておいて、客観的な現実全体が実はその中にあら【ねばならない】んだって言う、ってやり方なんだよ。”p.105-107
※〔原文ママ〕も【】も原文にはなく、【】内一文字一文字に傍点。

国家神道=新キリスト教
=平田篤胤思想+現人神思想+ #スウェーデンボルグ 思想。
スウェーデンの貴族スウェーデンボルグの思想が神智学、スピリチュアル、ニューエイジ、宇宙人説、出口王仁三郎の霊界物語、大本教系(主要政党を支配)、大本教系の日月神示の元ネタです

平塚らいてう(姉が #大本教 信者)が寄稿記事で『霊界物語』と #スウェーデンボルグ の関係を指摘しています。
大本教系の日月神示は和風スウェーデンボルグ

丸に十字を掲げる大本教の出口王仁三郎の #日ユ同祖論デマ


1766年 - 『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』
Träume eines Geistersehers, erläutert durch Träume der Metaphysik

“1766年、『視霊者の夢』を出版[注釈 3][6]。カントはエマヌエル・スヴェーデンボリについてこう述べている[7]。
「別の世界とは別の場所ではなく、別種の直感にすぎないのである。-(中略)-別の世界についての以上の見解は論証することはできないが、理性の必然的な仮説である。スウェーデンボルクの考え方はこの点において非常に崇高なものである。-(中略)-スウェーデンボルクが主張したように、私は、〔身体から〕分離した心と、私の心の共同体を、すでにこの世界で、ある程度は直感することはできるのであろうか。-(中略)-。私はこの世界と別の世界を同時に往することはできない。-(中略)-。来世についての予見はわれわれに鎖されている。」

イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88#.E7.94.9F.E6.B6.AF

“スヴェーデンボリへの反応は当時の知識人の中にも散見され、例えば哲学者イマヌエル・カントは『視霊者の夢』中で彼について多数の批判を試みている。一方で、限定的に「スヴェーデンボリの考え方はこの点において崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である」(K・ ペーリツ編『カントの形而上学講義』から)と評価も下している。”
エマーヌエル・スヴェーデンボーリ(Emanuel Swedenborg, 1688年1月29日 - 1772年3月29日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AA

英知界:理性による思考・観念によって捉えられるもの
現象界:感覚的に経験、物理的に認識できるもの
人間はこの二つの世界にまたがって存在している。

森の中の詩人‏@morinosijin2011年5月31日
「また前者が感性の形式(空間・時間)によって成り立つ世界であることから、『感性界』と呼ばれるのに対して、後者は、それらの形式から解放されている、あるいは超えているという意味で、『英知界』とも呼ばれる。」(石川文康;カント入門)(補足:現象→現象体・感性界、物自体→可想体・英知界)

山田大輔‏@YA_DA1月4日
Wikipediaのカント「視霊者の夢」の解説が腑に落ちん。 「ウソかホントかわからんが、少なくてもこの世のことではないからどうでもいいんじゃねえの? 重要なのは、この世の中のことだろ?」って結論だと思うんだが。

11uk3w‏@11uk3w9月28日
カントもまた『視霊者の夢』のなかで私達の精神や魂が脳味噌にのみ宿る、というのはおおきな誤解である、現に頭部の一部を切除されても問題なく悟性を働かしている人間がいるのだから(逆に臓器の一部を切除して人格が変わった例も存在する)脳への信仰を改めるべきではないかということを書いていた。

京都大学哲学研究会‏@kyototekken7月14日
あれ、でも理性の限界を超えてることについてはわからないって純粋理性批判のオチと同じじゃね?この思想に哲学的な装いと無駄な文章力とを付け足すことで視霊者の夢ができたように、それをもっと大掛かりにしたらできたのが純理なんじゃね?みたいな話を例会後した


カントの言う『英知界』『現象界』の意味
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1385377388?fr=pc_tw_share_q

・カントは、
デカルトやバークリーの立場を経験的観念論(個々の知覚や経験に関する観念論)と呼び、
勘と自身の立場を超越論的観念論(経験一般の成り立ちと仕組みに関する観念論)と呼んだ。

超越的…我々が経験できる世界を超えてその外にある

超越論的…我々が経験できる世界を超えて、あたかもその外に立ったかのような立場から、我々が経験できる世界の成り立ちと仕組みを調べる

超越的が宗教的で

超越論的が哲学

観念論…現実は夢だ、心の中にあるという立場

カントによれば、この部屋や本棚は、知覚されるから存在するんじゃなくて、ぼくらが見ていないときにも、誰も見ていないときにも、ちゃんと時間空間の中でカテゴリーに従って「客観的に」実在しているんだよ。でもそれはなぜかっていえばそれはぼくらがそれれらをそのようにとらえているからなんだ。こういうのを超越論的構成って言うんだけどね。
カントの凄いところは、「ほんとうの意味で存在するといえるものは何か」っていう問題の立て方自体を否定したところだな。この問題の立て方はね、哲学が始まって以来、デカルト、バークリー、ヒュームも受け入れていたんだ。
カントは、問いそのものを置き換えて、「そもそも真理とは何か」っていうことを問題にしたんだ。つまりね、「ほんとうの意味で存在するといえるものは何か」
じゃなくて、
本当の意味で存在するといえるものが、そういえる根拠は何か」を問題にしたんだ

・相手がこっちの観点から見てたいていは真理を語っているって前提することが、相手の言っていることの意味が理解できる為の前提。そうやって意味の理解が成立した後で初めて考えの違いとか、始めの誤解とかがわかってくる。
全然違う言語を喋っている人達も、「ゴミは糞尿は綺麗だけど花や夕焼けは汚い」って意味のことを言うことは「ありえない」ってこと。
それが意味理解の前提だから、ひょっとしたらほんとうはそう思っているってことさえもない。相手が自分と同じ信念を持ち、自分が真実だとみなすものを真実だとみなす、と前提するんでなくちゃ、意味の理解は始まらない。
相手の間違いを指摘したり、相手の意見に反対したりできる為にも、それが前提になる。
相手の言っていることがほとんど正しくて理にかなっているって前提する態度は、チャリティ原則と呼ばれている。この原則はひょっとしたら間違っているかもしれないような原則ではなく。そうでしかありえない原理。
例えば、動物の言語の場合もそう。アリやハチが僕らの基準で合理的に行動しているって解釈する場合にしか、彼らが言語を持っているとか、何か考えているとか、みなすことはできない。
だから、言葉は持っていて、ぼくらにその意味もわかるけど、でもぼくらとはまったく違う考え方をしている者、なんて「いない」んだ!
いるかもしれないけどぼくらにはわからない、なんてことに意味が与えられない


古代人が地球は平らだと信じていた、とぼくらは言うね? でも、それはほんとうかな? 古代人とぼくらでは、むしろ言葉の意味の方が違うって考えられないかな? 彼らが平らだと信じていたとぼくらが言っている地球って、ほんとうにぼくらの言ってるこの地球なのかな? ぼくらは、地球は太陽系の一部で、太陽系は大きな恒星のまわりを回る惑星の集まりだと信じているね。もしある人がね、地球に関して、こういうことをひとつも信じていないとしたら、その人とぼくらの間では、地球というひとつの同じものについて、それが丸いとか平らだとかという点で信念が食い違っているってことすら言えないんじゃないかなあ?”p.139

英語で地球はアース=地面。自分の足元にあるのが地面で、どこが「下」かを教えてくれるもの

”8 地球は丸くない!

ぼく:地球が丸いってことも、太陽のまわりをまわっているってことも、『発明された』の? 
ペネトレ:そうさ。でも、地球は丸いのに、どうした下のほうにいる人が落ちちゃわないんだと思う?
ぼく:そりゃあ、引力があるからじゃん!
ペネトレ:でも、引力って引っぱる力だろ? そんなものがあるんなら、もっと地面に引っぱられているような感じがするはずじゃないかな? どうして引っぱられて、はりついているような感じがしないんだろうね?
ぼく:たしかに、そんな感じはしないけど……。
ペネトレ:だから、ほんとうは、ぼくらは引っぱられてなんかいないんじゃないかな? 『引っぱられるっていうのは、この地面の上にいて、ひとに腕を引っぱられたりするときの、あの感じについてだけ、言えることなんじゃないかな?』
ぼく:じゃあ、引力はないって言うの?
ペネトレ:引力がないだけじゃなくて、地球が丸いっていうのも、ちょっとあやしいな。
ぼく:どうしてさ!?
ペネトレ:丸いっていうのは、この地面の上にある、スイカとかボールとかについてだけ、言えることなんじゃないかな?この地面が球体であるって考えたとたんに、ぼくらは地球というものを、この地面のことじゃなくて、この地面の上のほうにある巨大なボールのようなものだと考えてしまっているんじゃないかな?その証拠に、地球は丸いのに下のほうにいる人が落ちないのは引力があるからだ、なんて考えてしまうだろう
ぼく:どこがいけないのさ?
ペネトレ:地球には「下のほう」なんてないはずだからだよ。でも、ぼくらは上下のある絵しか描けない。できるって言うんなら、上下のない地球の絵を描いてごらんよ。世界地図だって、地球儀だって、星座早見盤だって、必ず上下がある。それはつまり、地面の上に乗っているってことだよ。だから、ぼくらが住んでいるとされる地球という名前の惑星をふくめて、ほんとうは、すべてのものが、この地面の上にあるんじゃないかな?
ぼく:ペネトレ、それ本気で言ってるの?!!!”p.100‐102
※『』内は原典では太字

物理法則という客観的だとみなされている(この法則の観測は主観的になされる)のですが、結局のところ、人間の肉体的制約や生活様式の前提に縛られます
肉体的制約とは、左右対称、上下非対称などで、
生活様式の前提とは、重力下で生活(頭は上、足は下)などです。
地球上にいる時、われわれにとっての地球とは地面のことであり、そこから逃れられないのです。
仮に、人間の体が完全な球体だとすれば、文字は左から右へだとか、その逆だとか、縦書きだとか、横書きだとか、という概念が生まれるか?
などなどさまざまな思考実験ができますな。

森博嗣『笑わない数学者MATHEMATICAL GOODBYE』文庫版
にある鏡に映ると左右は入れ替わるが、上下や前後は逆にならない理由↓

「鏡に映った像は、左右が反対になりますね。どうして、上下や前後は逆にならないで、左右だけ入れ替わるのか、刑事さん、答えられますか?」(…)
定義の問題です。左右だけが、定義が絶対的でないからです。上下の定義は空と地面、あるいは、人間なら頭と足で定義されます。前後も、顔と背中で定義できます。では、左右はどうでしょう?左右の定義は、上下と前後が定まったときに初めて決まるのです。人間の体型が左右対称ですし、歩いたりするときも横には動きません。上下と前後の定義が独立していて、絶対的なものであるのに対して、左と右の定義は相対的です。この定義のために、鏡で左と右が入れ替わるんですよ
「待って下さい(…)鏡の映像に……、そんな、人間の考えた定義が関係するのですか?あれは物理現象であって、人間の言葉には関係がないと思いますが……」
「いいえ、我々は、ものを定義して、それを基準に観察するんですよ
(…)僕たちに、顔がなかったとしましょう。そのかわりに、片手だけが大きくて、バルタン星人のようにハサミがついているとします……。この場合……、ハサミのある大きな手が、右と定義される。顔がないから、前後の定義が相対的なものになります。つまり、上下と左右が定まって、初めて前後が決まることになります。この顔なしバルタン星人が、鏡を見たら、前後が逆になりますよ。良いですか?ハサミの方の片手を挙げて、鏡を見てみましょう。鏡の中の自分も、やっぱりハサミの手を挙げているでしょう?つまり、左右は入れ替わっていない」
(…)
「それでは……、こういう説明ではどうでしょう。右と前、左と後ろ、この言葉を入れ替えて使う国があったとしましょう。その国では、右という言葉は前のことです。左という言葉は後ろのことです。顔がある方が右、背中が左です。さて、この国では、鏡を見て、左右が入れ替わるでしょうか?」“p.433‐435”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-61.html)


・言葉にほんとうの意味ってものがあるとすれば、それは実際に言葉を使っていることの中に「示されている」だけ。そこに示されているものを自分が語るなんてできないのは当たり前。言葉の意味が分かるとはその言葉が実際にちゃんと使えるってことだ。知覚も行為もそう。何かが見えるとは、それが見えてる人じゃなきゃできない仕事が実際にできるってこと。そのことの内に示されること。自分には何が見えているかを自覚しているってことじゃないんだ。ましてそれが口で言えるってことじゃないんだよ。
行為、何かができるってことは、まさにそれがやれるってことで、自分が何をどうやってしているかが説明できるってことじゃないんだ

・人間は規則を自覚する可能性とともに規則を身につける。はっきりと自覚していなくても、人間はそのときひとつの空間を身につける。
何かを理解するってことは、それが何の否定なのか、何でないことなのか、を理解することを含むんだ。正直な人っていうのはね、嘘をつくと身ぶりで欺くってことがどういうことかを知ってなくちゃ駄目なんだよ。つまり、正直-不正直の空間を身につけたうえで、そのうえで、あえて正直の方を選ぶ人が正直な人なんだ。不正直を選ぼうと思えばできたからこそ正直者。
だから、犬は嘘をつかないし身ぶりで欺きもしないからといって、犬は正直者だなんていえない。自分がなにをしていないのかを知らないから。もちろん、何をしているのかも知らない。
(そう考えると素直で正直な幼児はほとんどいませんね


どんなことでも自覚したがるのが哲学の本質

・「人間は動物ではない。
犬は人間である。
それゆえ、犬は動物ではない。」

「魚は水中を泳ぐ。
マグロは水中を泳ぐ。
それゆえ、マグロは魚である。」

前者が論理的に正しい推論で、後者は非論理的な論理的に正しくない推論。

前者を形式化すると
すべてのBはCではない。
すべてのAはBである。
それゆえ、すべてのAはCではない。」
明らかに論理的に正しい推論。

後者は
「すべてのBはCである。
すべてのAはCである。
それゆえ、すべてのAはBである。」
二つの前提ではAとBの関係については何も言っていないんだから、そこからAとBとの関係について推論なんてできるわけがない。明らかに論理的に間違った推論。

論理的な正しさは、前提や結論の事実的な正しさとは関係ないんだ。二つの前提が「もし」正しい「としたら」、結論も「どうしても」正しく「なくちゃいけない」っていえるかどうか、これがポイント。最初の方の推論は前提も結論も事実的には間違っているけど、もし二つの前提が正しかったら、結論は「どうしたって」正しくなっちゃうから正しい推論。
内容的には間違っていてもいい。論理的な道筋の正しさは、個々の内容が現実と合っているかどうかとは関係ない。
ある議論が正しいかどうかを問われると前提や結論が現実と一致しているって意味で正しいかどうかをついつい考えたくなっちゃうね。でもそういうことは論理的推論そのものの正しさとは関係ない。今でも科学者や評論家の中にもこのことが良く分かってない人が結構いるから注意した方がいいよ


論理とは事実的な正しさとは無関係に、前提が正しければそうなってしまう構造、手続きであって示されるしかない規則なのでしょうね。論理的な文章とか論理的な思考が何を教えるには、実際にその文章や思考を示さないといけないから。)

・哲学者クリプキがウィトゲンシュタインのパラドックスを考えた。
四桁までの足し算ができるようになった子供に、ある日、先生が五桁の足し算をやらせたら、子供が答えは1だと言う。先生がなぜかときくと、その子供は「だって、これは五桁だもん。答えは1に決まっているよ」って答える。つまり、この生徒はこれまで教えられた足し算からそういう規則を自分で発見したってこと。
もう一つ例をあげると、主語が第三人称単数のときには動詞の語尾にsをつけるって規則を学んで、その規則を間違いなく適用できるようになった
学生が、主語に「Akira」って日本人の名前が出てきた途端に、動詞の語尾にssをつけた。理由を尋ねられると、主語がAkiraだからssに決まっていると答える。
問題は、生徒が間違っていると言える根拠は先生の側にはないってこと。生徒は、教えられた規則を、論理的な可能性としてはどんなふうにでも解釈することができる。そしてどんな風に解釈してもそれがその規則に従っていることなんだっていう規則解釈が成り立つというパラドックス。

その生徒は怪しい。だってさ、もしその生徒がほんとに規則をそう解釈したのなら、これは五桁だからとか主語がAkiraだからとか「言う」はずないじゃん。自分がなぜそういうふうに規則を把握しちゃったのか自分でもわからないはずだからね。理由を聞かれても「どうしてって、それ以外にどうしようもないじゃん」とでも言うほかないはずなんだ。理由が言えた時点で、その生徒はほんとうは自分が「特別」のことをしたってことを知っているんだよ。五桁のときもふつうに足し算をやる可能性や、主語がAkiraのときもふつうにsをつける可能性をちゃんと知ったうえで、その可能性の空間の中で、あえて別の可能性を選んだんだよ。つまりふつうの規則理解の仕方をちゃんと知っているんだよ。ぼく見るところではね、その生徒は悪質だよ。そいつはほんとうは先生をからかっているだけなんだよ

どうしてってそれ以外にどうしようもないじゃん、というほかないような言語や規則の捉え方のことをウィトゲンシュタインは言語ゲームと呼んだ。
すべての人が「赤」で同じ色を意味しているとは言えないとか、自分が痛いとよんでいるものは他の人ならくすぐったいと呼ぶ感覚と同じかもしれないとか、そういうことに深く心を動かされた後で、その後ではじめて言語ゲームっていう考え方から見て、そういう疑問には実は意味が無いんだってことを知って、もう一度、今度はそのあたりまえのことの方に深く感動しなくちゃ駄目なんだ。最初からそんなことはあたりまえだと思っている人には、言語ゲームっていう考え方がどんなに素晴らしい、すごいものなのか、結局のところは、わからないと思うな

"哲学ってみんなそうなんだよ。つまり、結論はそれだけ取り出せば誰でも知っているあたりまえのことを言っているだけなんだよ。でも、いったん問題を感じた人にとっては、そのあたりまえのことのとらえ直し方が、それこそが輝いて見えるんだよ。哲学はね、いつでもある新しい空間を描いて見せるだけなんだ。ある問題に関して、これまでとは違う空間を設定するんだ。その空間が設定されたことで、問題の意味がこれまでとは違う、新しい相貌を見せたなら、そこで哲学の仕事は終わるんだよ。結局、選択するのは個々人だからね。哲学が人々に受け入れられるっていうのはね、みんながその主張に賛成するようになることじゃないんだよ。むしろね、その主張に反対する人でさえも、その哲学が設定した空間の中でしか反対できないようになるってことなんだ。つまり、対立が起こる土俵自体を作り変えてしまうことだね。
翔太、もうきみには教えるまでもないと思うけど、哲学は思想じゃないよ。哲学のいちばん哲学的な部分は、主張じゃないからね。何かが主張されていても、そこで主張されていることではなくて、そういう主張が意味を持つとき前提されることになる空間こそが哲学なんだ。そこを混同したら、せっかく哲学をやっても、そこから何も学べないんだ。"p.167

自由って観念の源泉は「不自由がない」ってことにしかない

・オリンピック選手は、オリンピックに出たいって欲望に負けてついつい練習しちゃう意志の弱い人だともいえる。
人間は欲望のおもむくままに自然に行動していると、ついつい善いことをしちゃいがちだから、意志の力でその自然の傾向を抑えて、悪いことができるようにしないといけない。
意志と欲望に善と悪を割り振るのは根拠のない偏見


意志は意志したことの実現によってしか満たされないんだよ。だから、意志を持った人はそれを実現しようとせざるをえないんだ。それが意志を持つってことの意味だからね。それに対してね、意志と結びついていない欲望は、どんな形で満たされるか、当人にも予測できないんだ。~が食べたいって欲望は~を食べようって意志と結びつかないかぎり、たぶん~を食べることによって満たされるだろうっていえるだけなんだ。
それに対してね、~を食べようという意志、って表現される意志はね、~を食べる行為って記述される行為によってしか満たされないぞ!っていう、自分に対する宣言
みたいなもんだからね。そう宣言しちゃった以上は、もうそれ以外のものによって満たされちゃ「いけない」んだ。意志はね、だから、精神状態じゃないんだよ。それに対して、欲望は精神的・肉体的な一つの状態にすぎないから、欲望を持った人は、それを実現しようとする傾向性はあっても、必然性はないのさ。
意志は心の状態ではない。ぼくらは、自分の欲望を誤認することはあっても、意志を誤認することはない。


・“ある時点で時間が創られるって話は、ぼくらには理解不可能なんだよ。だって、ある時点で創られたんなら、それよりまえはどうなってたんだ、ってことになるからね。ぼくらの時間概念は、そういう時間の創造とか、時間の開始って問題が考えられるようにはできてない、って言ってもいいな。何かが創られたり始まったりするのは、すべて時間の中でのことなんだ。」
「時間が創られたとすると、それは時間内のある時点で、じゃなくて、なんて言ったらいいのか、時間の外からってことになるんじゃない?」
「なるかもしれないけど、そんなことイメージできる? 時間の外から時間を創るなんて。そもそも時間が始まるってこと自体が、ぼくらには理解しようがない観念じゃないか? ぼくらが理解してる『始まる』とか『創られる』って概念はそもそも時間的な性質を持った概念だからね。それを時間そのものに適用しちゃうことなんかできないのさ。」
「空間も同じかな? 空間を空間の外から創るっていうのはどうかな?」
「そもそもね、空間が創られるまえの状態なんて想像できるかい? 時間は流れているんだけど、空間は存在しない世界なんて、そもそも考えられないだろう
?」”p.185-186

空間が無い状態を、何かカラッポなイメージをしても、それは結局は空間を想定してしまっている。
空間はどこまで広がっているのかとか、時間はどこから始まってどこまで続いているのか、なんて問いには意味が無い。空間を空間現象だとみなしたり、時間を時間的現象だとみなしてしまうのは錯覚。ぼくらは時間と空間の外に出て対象として眺めることはできない。
だからカントは時間空間はカテゴリーと並ぶ主観の側の形式だと言った。

じゃあ、時間が急に止まっちゃうとか、逆流しちゃうとか、それからタイムトラベルなんてことも絶対不可能ってことになるね。
ぼくらが考えることもできないことは、起こることもありえないさ。要するにね、考えられるかぎりのどんなにへんてこなことが起こったって、ぼくらはそれが時間が止まったなんてみなさないんだからね。だから時間は止まらないのさ。
もうきみは「でもぼくらにはわからなくても、ひょっとしたら、いつか時間が止まったり終わったりすることがありうるかもしれない」なんてことは言わないだろうね。そういうことは最も根本的な意味で「ありえない」ことなんだよ。ぼくらはぼくらの知っているこの時間空間しか知ることはできないんだ。だから、そういう意味で、タイムマシンに乗って過去へ戻るなんてことはありえないさ。もしぼくらが「これから」タイムマシンに乗ってどこかへ行くなら、行きついた世界がどんなにむかしの世界であろうと、それは出発時から見て未来の出来事なんだから。どういうわけか未来の中身が過去と瓜二つだったってだけのことさ。「いまから」ぼくらが過去へ戻るなんてことは論理的にありえないことなんだ。
(百年前に自分が行ったのか、周囲が百年前と同じ状態に変化したのか、区別はつきません)

ある物差しの長さに疑問を持ってその正確な長さを知りたいと思ったら別の物差しが必要。もし物差しが世界に一本しかなかったら、その物差しの正確な長さを計ろうなんて無理な企て。他の全ての者がその物差しで測られるだけで満足しなくちゃならないんじゃないか。
(時間や空間も、たった一つの物差
し)

死は体験じゃないんだよ。痛みや悲しみや欲望のように、他人や自分が持つものじゃないんだ。だから死んだ人だって死を体験してはいないさ。臨死体験はありえても、死の体験はありえないんだ。体験する主体そのものが消滅するってことなんだから、まさにその体験がありえないってことこそが、死ってものの根底的な意味なんだよ。
自分が消滅した状態を自分が「思い描く」っていうことは本質的に不可能。
でも自分の消滅するってことの意味を自分が「考える」ことはできる

死ぬのが嫌なのは、死んでるって状態が嫌なんじゃなくて、もう生きられないってことが嫌なんだよ。だから長生きはいいことだと思うけど。長死に(大昔に死んで今まで長く死んでいること)は別に悪いことだって思わない。

愛ってのはね、どこまでいっても、結局は話なんだ。それに対してね、存在と無は、生と死は、究極的にはね、話じゃないんだよ。それは、現実なんだよ。ただ、受け入れるべき現実なんだよ。」
「存在って、ぼくが存在してるってこと?」
「そうさ。それはほんとうの奇跡なんだよ。どんな因果性からも説明できないし、どんな理由や根拠づけも、そこにはおよびえないんだ。『なぜか』そうだったってことから、すべては始まるんだよ。必然も偶然もそのあとの話
さ。“p.203
『』は原文にはなく、原文は『』内の一文字ずつに傍点。

“人生に意味を求める人が多いんだけど、あれはまちがいだよ。人生の内側には、もちろんたくさんの意味づけができるし、生きがいはあるさ。でも、人生の全体を、つまりそれが存在したってことを、まるごと外から意味づけるものなんて、ありえないさ。そんなものがありえないってことこそが、それをほんものの奇跡にしているんだからね。そこを誤解しないようにしないとね。人生の内部のさまざまな行為や出来事に意味を与えるのと同じように、自分の存在そのものにも意味を与えてしまったら、人生の深い味わいの大半は失われてしまうんだよ。そもそもね、ぼくらはね、みんな、意味づけの病に陥っているんだ。世の中で何か事件が起こると、新聞やテレビや、学者や評論家が、意味づけ合戦を始めるだろ? あれはもう病気だよ。世の中で起こったことに、意味なんかないのさ。ただ、たまたま起こっただけなんだ。そしてね、表舞台で演じられるああいう意味づけ合戦が、どうしても自分自身に向けられたものとは感じられない『まともな』人々が、かわいそうなことに、自分自身に直接向けられたメッセージを探しに向かうんだよ。でもね、翔太、そんなものはどこにもないんだよ。」
「でも、もしかしたら、ぼくの存在には神さまの計り知れない意志が働いているのかもしれないよ。」
「もしそうだとすれば、そんなことは絶対に考えられないと思うよ。ぼくらはね、自分を産み出している培養器の中の脳について考えられないのと同じ意味で、ほんとうに存在する神については決して考えることができないんだよ。ぼくやきみが生まれてきて、いまここにこうして存在していることには、ひょっとしたら、何か、ぼくらの知らない、ほんとうの意味があるかもしれないよ。でも、もしあるとしても、それがほんとうにほんとうの意味なら、ぼくやきみがそれを知ることはもちろん、それについて考えたり語ったりすることさえ、絶対にできないんだから、こんなふうに言うこともできないんだよ。だから、そういうことが分かるとか、知っているとか言う人は、絶対に信じちゃいけないんだ。」
「でも、もし媒介者がいたらどうなる? そういう超越的な世界とぼくたちが住んでるこの世界とをつなぐような。たとえばイエス・キリストみたいな。」
「もし、それを信じることでこの世界での人生が意味を持つのであれば、そういう話はぜんぶ嘘だって断言できるね
。でも、そうでないなら、ひょっとしたら、信じられるかもね。」
「そうでないって?」
「それを信じても、何の意味もないような話なら、ってことさ。たとえば、宇宙は巨人族の庭にあるバケツで、ぼくらは彼らの食料のための餌として備蓄されている虫だ、ってな話なら、信じてもいいさ。それを信じても、自分の人生全体が意味づけられるわけじゃないからね。そうでなくて、人生全体に意味や価値や物語を与えるような話は信じちゃいけないんだ。翔太、きみはニヒリズムって言葉を知っているかい?」
「知ってるよ。すべては無意味だっていう思想でしょ? だから、生きていることなんか意味がないって。」
「むしろ逆だな。ニヒリズムっていうの〔原文ママ。恐らく「は」抜け〕ね、すべてには意味しかないっていう考えのことなんだ。人生は何のためにあるのか、とか、自分は何のために生まれてきたのか、とか、そういう問いこそが虚無的(ニヒル)な問いなんだよ。そして、もし何かひとつの全体的な意味づけの中に一生涯没入して生きる人がいるとしたら、それこそがむなしい、ニヒリストそのものなんだ。」
「でも、宗教って人間を救うためにあるんでしょ? だから、それを信じることによって救われるなら、それでいいんじゃないの?」
「たしかにね、人生の内部での自分の欲望の現実化だけをそのつどの人生の目標として生きていくのもむなしいさ。どんな満足感も慣れれば薄れていって、すぐにまた不満足に変わってしまうからね。だから、そうした全体を意味づける何かが欲しくなる気持ちはわかるよ。特にね、不満足な人、不幸な人はね、まさにそのように不幸であることに、自分が生きているほんとうの意味を見いださざるをえないときがあるからね。それは、やむをえないことさ。
(…)
いま、きみ自身が持っているいろんな素質とか能力とかがあるだろう。若いころはそういうものが自分自身の人生を決めていくような感じを持っている。でも、それは錯覚なんだ。ほんとうは、思いもよらない偶然が君の人生を決定してしまう。幸福な偶然(グッド・ラック)もあれば不幸な偶然(バッド・ラック)もあるさ。幸福でも不幸でもない偶然もたくさんある。そういったことは文字どおりたまたまなのだから、何の根拠も意味もない。でも、そういう意味のないことがたまたま起こったってことには意味があるんだ。その意味のなさこそをよくよく味わわないと。そこでこそ、全宇宙の存在の奇跡と君の存在の奇跡が出会うんだ。そういう偶然を味わうためにこそ、君は一回かぎりこの世に生まれてきたとさえ言える
(…)
新聞やテレビや、学者や評論家を、絶対に信用しちゃだめだよ。世の中で通用するってことは、ほんとうに大事なことはぜんぶ『はしょって』あるってことの証拠だからね。哲学から学べるような一般論はね、そういう自分に固有の体験の場で鍛えられてはじめてほんものの知識になるんだ。“p.204-208
『』は原文にはなく、原文は『』内の一文字ずつに傍点。

宗教は人間を支配するためにあります。少なくとも布教熱心な宗教は侵略用。キリスト教が典型例。
その宗教が何人救ったかは数えにくいが、何人殺したかは数
えやすい。

私たちは私たちの言語と私たちの理解力、認識、知覚の外に出ることはできません。可能性というのはそのなかでしか考えられません。だから、あなたの人生全体の意味がわかる人はこの世に存在することができません。あなたの人生全体の意味がわかる存在がもしいるならば、その存在は私たちの言語、理解力、認識、知覚の外にいますので、私たちは考えることができません。できるって?
それは錯覚。その存在「の想定」をあなたの思考「の中に出現させているだけ」で、絶対にあなたの思考の外の存在には至れませんから。
だから宗教は、宗教の神はインチキなのです。特に唯一神は大ウソ



答えが用意されているような問いは、ほんとうの問いじゃないんだ。そういう問いは、答えがないほんとうの問いを問うための練習にすぎないんだよ。問いのまえで茫然とするしかないような問いこそがほんとうの問いなんだよ。”p.209


“哲学することが流行したことなどかつてなく、これからもない。しかし、人間が哲学することをやめたことはかつてなく、これからもない。ただそれだけのことだ。一般の理解に反して、哲学とは主義主張や思想信条のことではない。その正反対である。哲学とはむしろ、主義主張や思想信条を持つことをできるだけ延期するための、延期せざるをえない人のための、自己訓練の方法なのである。少なくとも、本書が思想書として読まれるようなことだけはないようにと、私は願っている。"p.216-217


おまけ

”“精神病院で自分はナポレオンだと信じてる患者がいた。
あるとき、医師が
「なぜキミは自分がナポレオンだと主張するんだ」
と訊くと、その患者は、
「神様がおまえはナポレオンだと言った」
と答えた。
すると、すぐそばにいたべつの患者が怒った顔でこう言った。
「おれはそんなことを言った覚えはない!」
” http://koee.net/1096

永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み――哲学的諸問題へのいざない』を参考にして、
主に言語を学べる条件について考える。

実は、『ロボット』とか『人間』とか『黒』とか『痛み』などの言葉の意味を習得しつつある子供には、人間がロボットに見えるとか、黒が白く見えるとか、痛みが眠気に感じられるとかを主張する権利はない。
意味が固定=基準が決定、された後にはじめて事実に関する極端な主張ができるようになるのであって、意味を学びつつある段階では、誰もが凡人。
なぜなら、
人間=ロボット、だと認識している人が、
人間がロボットに見える=人間とロボットは一般的には別物である、と言えるはずはないから。

子供のころから汚水をきれいだと感じて、浄水をきたないと感じる人がいたとすると、その人は『きれい』や『きたない』の言葉の意味を学べない。
なぜなら、私たちは言葉の意味を「実例を通じて学ぶので、最初から多数と判断が一致していないと、そもそも意味を学ぶことはできない」から。
つまり、感じていること、考えていることなどが同じ(あるいは「ほぼ」同じ)だという前提のもとで、はじめて意味を教えたり学んだりすることが可能になる。

例えば、日本語が母国語の人が、マレー語をまったく知らずにマレーシアに行ったとしても、その人は少しずつわかるようになっていくだろう。
なぜなら、なんとなくわかることがあるから。
自分を指差して何かを言ったら自己紹介をしているのだろう、
自分以外を指差して何かを言ったら指差されたものについて何か言っているのだろう、といったことなどだ。

ではなぜ、「何かを指差して何かを言ったら、その言った内容は指差したものに関係しているはずだ」って思うのか?
まさにそこがキモ。
要は、相手がこちらが予想できることをしてくれないと、相手の言葉は絶対に学べないということだ。
そうでないと、相手の話している内容を推測して、自分の言葉(おそらく母国語)にあてはめて理解し学んでいくことはできない。

他にも言語を学ぶ前提はある。
相手が言っていることの意味がわかるようになっていくためには、相手が、(こちら側の基準で)まともでありふれた存在でないといけない。
そうでないと予想すらつかない。
相手がほとんど正しいことを言っていると前提しないとどうしようもない。
皆が真理を語るとは限らないが、相手がこちらの観点から見てたいていは真理を語っている、理のあることを、整合性があることを言っていると前提することが、理解の前提。

つまりは、自分とぜんぜん違う言葉が喋っている人が、「汚水はきれいだけど、浄水はきたない」って意味のことを言うことは「ありえない」ってこと。
それが意味理解の前提なので、ひょっとしたらほんとうはそう思っているかもしれないってことすらない。

相手が自分と同じ信念を持ち、自分が真実とみなすものを真実だとみなす、といった言語以前の形式--人間は言語は違っても、重力下で生き、表皮は固体で、左右対称で、生存のためにはエネルギー摂取が必要で、挨拶し、自己紹介し、などなどといった共通項--
を少なく或る程度はもっていると前提しないと、意味の理解ははじまらないってこと。

いや、この「言語以前の形式」以前の形式、
つまり、カントのカテゴリーなどのものさえ共有できていればまだ理解は可能かもしれない。

感性(感覚みたいなもの)的に見出される経験における一般性を支えるのが「悟性」(知性と訳すことあり)である。
悟性的な理解とは、それが何であるかを把握する能力である。
五感で感覚される対象が一般的に何かであることは悟性によって規定される。
悟性固有の形式が、純粋悟性概念=カテゴリー↓

カントのカテゴリー
 ※悟性…感性が与えてくれた対象を、カテゴリー(質、量、関係、様態など)に基づいて判断。

①分量
(すべてのものか、
特殊なものか、
それともこのひとつか)

②性質
(これは~である、といえるものか、
これは~でない、といえるものか、
これは非~である、といえるものか)

③他のものとの関係
(いついかなる場合であってもこれは~である、といえるのか、
もし…なら、~である、という条件付きのものか、
これは~か…のどちらかである、といえるのか)

④様相(物事のありよう)
(~であるだろう、といえるのか、
~である、といえるのか、
かならず~でなければならないといえるのか)

別の表現だと
1. 量(単一性、多数性、全体性)
2. 質(実在性、否定性、限界性)
3. 関係(実体性、因果性、相互性)
4. 様態(可能性、現実存在、必然性)


[アリストテレスの10のカテゴリー(範疇)

1実体
主語が何であるか

2量
主語がどれほどの量であるか

3質
主語がどのような質であるか

4関係
主語が他のものとどのような関係にあるか

5場所
主語がどのような場所にあるか

6時
主語がいつあるか

7状況
主語がどのような状況にあるか

8状態(所有)
主語が(物との関係で)どのような状態にあるか

9能動
主語が他のものに対してなにをしているか

10受動
主語が他のものから何を被っているか]

カテゴリーは認識のフィルターのようなもので、カテゴリーに引っかからなければ認識されないので、カテゴリーを外れたものは存在しないとみなされる。

言語の話に戻す。
相手が人以外でも同様。
何やらよくわからない異世界あるいは宇宙空間からやって来たらしきものが、どうやら言葉を話しているようなのだが、何を言っているのか意味がさっぱりわからない存在がいたとする。
では、その存在が言語(らしきもの)を話していると仮定して、そいつの言っていることを推測していくにはどうしたらいいのか。
外国語学習とまったく同じく、私たち基準で合理的に行動していると解釈する場合にしか、彼らが言語を持っているとか、何か考えているとか、みなすことはできない。
人間以外の動物や植物なども同様。

よって
言葉は持っていて私たち人間にもその意味もわかるけど、私たち人間と(言語が成立する前提的な意味で)まったく違う考え方をしているものなんて「いない」。
いるかもしれないが私たち人間には決してわからない、なんてことに意味は与えられない。
そして、意味が理解できるようになってはじめて、相手の間違いやこちらの誤解がわかるようになる。
考えや理解の違いを確認するためには、相手がほとんど言葉の意味を間違えず、相手が今まで従ってきた意味体系と同じ体系に従っていると前提しないと成り立たないからだ。

話すたびにまったく違う意味体系に従って喋っていて、なおかつその場にまったく関係ないことしか喋らない存在の言語なんて学びようがないってことです。せいぜい、わめいている、と認識されるのがおちでしょう。

言葉の意味がわかるようになる場合
①相手がまともで言葉が違うだけのとき。
②相手の気が狂っているが、正しく日本語(一例)を使っているとき。

言葉の意味がわかるようにならない場合
(その人が何を信じているかもわからない)
①相手の気が狂っていて、しかも間違った日本語(一例)を使っているとき。
②相手の気が狂っていて、しかも私たちの知らない言葉を使っているとき。


冒頭の引用のような精神病的妄想を持っている人に対して、精神科医やカウンセラーは、普通、相手が言葉の意味自体は誤解していないって前提で接するらしい。
私はナポレオンだ。神がそう言った。
と言ったら、「その人はそういう妄想を持っている」と考える。
言葉自体は受け入れる。
ナポレオンが実は「敵前逃亡の一兵卒」だったり、神が実は「人間」だという可能性は、相手に質問して肯定しない限り、あの有名なナポレオンとみなす。
そうしないと、話が成り立たない。


今度は、「色」という概念が存在しない(必要としない)宇宙生命体(生命体の定義も実に曖昧だがここでは議論しない)を仮定する。
私たちがとらえる世界では、物の種類とその色とは対応していない。
しかしもし、物の種類と色が完全に対応している、例えばカラスは絶対に赤いといった風に、と彼らが認識していたら、彼らに「色」なんて概念は存在しない。
また、例えば三角形は絶対に青いと認識していれば、やはり「色」の概念は存在しない。
「形」と「色」が一体となっているとも言える。
つまり、「形」と「色」が一体となった概念が誕生しているはずだ。

我々から見れば、認識の一部が欠けているとみなされる。
が、先に行ったカテゴリーを少なくともある程度は共有していれば、宇宙生命体の言語も学べるのである。

カテゴリーのことを相手に伝えればいいのではないのか。
と言いたい人がいそうである。
カテゴリーは頭の中や心の中にあるものではなく、言葉を使って「実際に活動しているその活動の中に“示されている”形式」。
活動中に意識するなんてありえない。意識しようがない。

絵がどんなものかは言語で伝えられない。
「とにかく見て!」と言って見てもらわないといけない。
見ないとだめだから「示す」しかないように。言葉の限界を示す。
カテゴリー「について言葉で言う」のではなく、
カテゴリー「に従って『赤いリンゴ五つ!』と言う」。
そうすると、
果物屋は、
「まず」『リンゴ』という「実体」のある場所へ行って、
「次に」『赤い』(性質)のを、
「最後に」『五つ』(個数)選ぶ。
この順序は変えられない。
まず個数から初めて、次に性質、最後に実体(=個数や性質の前提)
なんてことは、カテゴリーの中で生きる人間には想像すらできない。
果物屋のこの「必然的な行動形式の中にカテゴリーが示されている」。

そしてこの「カテゴリーに背後はない」。
カテゴリーは動物の必要からできたってことはありえない。
なぜなら、動物とか生物といったとらえる枠組み自体がすでにカテゴリーに依存しているから。
因果関係が逆。
原因と結果を入れ替えてはいけない。
「まず」カテゴリー「によって」ものごとがとらえられ、「そこからすべてがはじまる」。

神や宇宙生命体の姿をイメージすると、思わず人型になってしまうのは当然だということ。人間の思考形態に当てはめないと思考すらできないから。
カテゴリーを外れた宇宙存在とは交流不可。
正確には、存在自体を認識しないから交流以前の問題である。

このような日常の大前提について徹底的に考えたウィトゲンシュタインが偉大なのは、
「意図的にするはずがないことを意図的にする」
という、いと面白き意図を持って哲学し、哲学史に
「無意識的に意識的になるような」不思議で奇跡な書物を残したからである。

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-61.html

永井均bot‏@N1951_bot

「じゃあ、よほどのことがないかぎり、約束を破ってはいけないんだね?」「約束を破ること自体が目的の場合は別だけどね。ぼくらはいろんなことについて自分から約束をするけど、約束を守るという約束なんて、自分からすすんでしたことがないからね」『対話』

他者はゾンビなのでしょうか。一つの意味では、まさにそうなのです。だって、そうでしょう。外的な振る舞いも内的な脳や神経の状態もまったくふつうの人間なのに、痛さも酸っぱさも不安も憂鬱も感じない人は、だあれ? と問われたら、この謎々の答えは「他人」しかありえないでしょう。『意識』

アインジヒト「そもそも、世の中には悪人もたくさんいるし、悪事はねんじゅう実行されているのに、そっちの側に立った倫理学説というものが存在しないのはどうしてなんだろうか。これはていねいに考えてみるに値する哲学的問題だと思う」『倫理』

意識とは、言語が初発に裏切るこのものの名であり、にもかかわらず同時に、別の意味では、まさにその裏切りによって作られる当のものの名でもあるのです。どうか、この言い回しを、気障なレトリックだと思わないでください。ここに問題のすべてがあるのです。『意識』


「もしね、もしもだよ、かりに立花由美が生まれてから一度も怒ったことがないとするよ、そしてね、急にいま死んじゃうとするんだ。」「死んじゃうの!?」「もしも、だよ。そういう場合、彼女がほんとうは怒りっぽかったっていうことがありうると思う?」『夏休み』

病気は自分に隠されていた自分の真理を教えてくれる。それは、いかなる理性的説得もおよばない、圧倒的な教育である。だが快癒は、そのパースペクティヴが病のなせるわざにすぎなかったことを教えることになるだろう。『これが』

いったん神が客観的に存在するものとされてしまえば、開闢と結びつかない神の業も当然ありうることになるだろう。宗教というものを信じている人は、基本的にこの形で神を表象することになるだろう。だが、それは神の死のもう一つの形態ではなかろうか。『私今神』


「なるほどね。翔太は神の概念を信じるが、神の存在を信じない。インサイトは神の存在を信じるが、神の概念を信じない」「そんなわけのわからないひとりごとなんか言ってないで、どうして神さまにできないのか教えてくれよ。」「神さまだって意味のないことはできないからさ」『夏休み』

「他人が独我論的世界観を持つことは独我論に反する」という考えもまた、他人が持てば独我論に反する。そして、この構造はどこまでも反復し、どの段階であれ自他に共通の地平で収束することができない。ゆえに、独我論的主張というものは存在しえないことになる。『誤診』

「善なる嘘」は「善なる嘘」だと知られてしまえば、もう有効には機能しなくなってしまう。それはあくまでも(それ自体は善でも悪でもない)真理として語られなくてはならないのだ。『ため哲』

千絵「そういえば、神の存在を信じるようになった人は、自分がなぜ神を信じるようになったのか、そのプロセスが思い出せなくなるらしいよ」 アインジヒト「入信行為の意味そのものが、入信以後の信念システムの中に新たに位置づけなおされる必要があるからね。
だから、入信以前の信念システムから見た、入信せざるをえなかった理由は、もう理解できないのでなければならない。それこそが、入信以前の問題がそこまで本当に解決したことの証拠なんだ」『倫理』



アインジヒト「その問題が恐ろしいのは、自分の自己欺瞞に気づいたとき、気づいたというその思い自体が自己欺瞞かもしれない、というところにあるな。自分を、自分の自己欺瞞に気づいてそれを率直に認めることができるほど誠実な人間だと思いたい、という欲求がそこにあるのかもしれないからだ」

ニーチェは「キリスト教は『大衆』向きのプラトン主義である」と言ったが、それならば、ニーチェ主義は俗人向きのキリスト教であると言えよう。『これが』

古代が驚くべきものとみなし、近代が疑いえないとみなしたものは、実は同じものだったことになろう。実際、究極の驚くべきものと、究極の疑いえぬものは、一致するだろう。『闘い』

「わすれたいのにわすれられないんじゃなくて、ほんとは、わすれたくないんじゃないかな? いやなことほど、心の中で何度も反復したくなるし、いやな感情ほど、それにひたりたくなるんだよ。わすれてしまうと、自分にとってなにか重大なものが失われしまうような気がするのさ」『対話』

「だから、言葉は持っていて、ぼくらにその意味もわかるけど、でもぼくらとはまったく違う考え方をしている者、なんていないんだ!」「そう。いないんだよ。いるかもしれないけどぼくらにはわからない、なんてことの意味が与えられないんだからね。」『夏休み』

子どもの哲学は、何もよきものを求めない。それはよりよきもの、より高きもの、より深きものを、めざしはしない。子どもの問いは、解かれたときに、何かよい結果や効果が得られるようなものではない。しいていうなら、ただふつうの大人になれるだけだ。『ため哲』

全宇宙においてかつて成立した、現に成立している、これから成立するあらゆる客観的事実をすべて記載した膨大な書物があったとしよう。その書物には、永井均に関して真であることは、記憶や現在の身体感覚のような彼にとっての主観的事実を含めて、すべて書かれている。『存在』
しかし、その本のどのページを開いてみても、〈私〉についての記述はない。だから、その本をどれほど詳しく読んでみても、〈私〉が誰であるかはわからないのだ。(同書)

現実の根底には、醒めることができない夢とは別に(だが決して非連続的にではなく)、醒めることを禁じられた夢が存在するように思われる。それに対して、誰もがときに不眠症になり、ときに別の夢を見ることが本当はできるはずの、いくつかの根底的な虚構が存在するように思われるのだ。『態度』

アインジヒト「内面の法廷は、被告人も被害者も目撃者も、弁護士も検事も裁判官も、みんな自分だからね。事実を認定するために必要とされる誠実さという唯一の手段が、それ自体道徳的価値を持っている以上、この法廷では、道徳的価値判断から独立した事実認定が不可能になるんだよ」『倫理』


こと哲学に関するかぎり、青年は子どもに、大人は青年に、そして老人は大人に、かなわない。だが逆に、子どもの哲学は、老人の哲学にだけは、かなわないだろう。そこに哲学というものの限界が示されている。『ため哲』

神には〈私〉の着脱能力があるか。これが問題だ。これは、感情や感覚のような心理状態や、記憶や知覚のような表象状態を着脱するような、なまやさしい話ではない。もし神にこの能力があるのだとしたら、それはロボットに心を与えたりする通常の神より高階の神でなければならない。『私今神』

「表面的な明るさや暗さじゃないよ。根だよ。根が明るいってことが大事なんだよ。根が明るい人っていうのはね、いつも自分の中では遊んでいる人ってことだよ。勉強しているときも、仕事しているときも、なにか目標のために努力しているときも、なぜかいつもそのこと自体が楽しい人だな」『対話』

ふどうに手の届かなかった狐が「あれは酸っぱいぶどうなのだ」と言ったとしても、それはまだ相手を引き下げているにすぎない。だが、その狐が「ふどうを食べる生き方は正しくない」と言ったしたら、彼はひとつの解釈を作り出したのである。このとき、狐の力への意志は解釈への意志に変換される。

「ぼくはね、十五歳以上の人間にはほんとうに哲学をすることは不可能だって思っているんだ」『夏休み』

プラトンは優生学と職人軽視(肉体労働しない者が一番偉い)と理性崇拝と知性主義(馬鹿は人間ではない)と偽りの公平感を与える儀式(選挙など)の基盤。マギの弟子のプラトンの『国家』は『マギ』の一つ目フリギア帽子モガメット学長の演説の元ネタ。プラトン『国家』 藤沢令夫訳、岩波書店〈岩波文庫〉 

”「伝染病の元凶、あらゆる国民の不満のはけ口、その上、バチカン・皇室・王侯貴族の盾にもなる、“ユダヤ”とは何とも便利な“虚像”だなあ!」”

奴隷に奴隷じゃ無いと信じさせる儀式。選挙
愛と虹の天使 フクダルマン@fukudaruma774
プラトンも不正クジで偽りの公正感を与えることを提案しました

"キリスト教の伝統がユダヤ陰謀論←最重要。
∵陰謀の黒幕がキリスト教でありユダヤは派遣。
∴陰謀論者の九割がキリスト教に逆らえない。
ねこたさんの陰謀論者の宗派リストも含む 、多くの陰謀論者が無視する点を盛り込んだ陰謀論者チェックリスト"
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-1.html

子子子子子(ねここねこ)@kitsuchitsuchi •
プラトン思想が凶悪化したのがキリスト教。
哲人王「我々優秀な哲学者が馬鹿な非理性どもを完璧に管理せねばならん!」

バチカン「我々神の代理人が奴隷を非理性と反知性主義で洗脳し完璧に管理せねばならん!」


支配者は大衆をキリスト教とその変形(神道、大本教系)=非理性で洗脳するが、理性(哲学)で合理的に運営する。西洋哲学の根本はプラトン哲学(優生思想、肉体労働軽視、理性崇拝、知性主義=馬鹿は人ではない、偽りの公正感を与える不正クジ→選挙)。パトスとロゴス=宗教と哲学は観念操作の双璧。

ken‏@kenkatap
ナチスが優生思想を考えついたのではない
▼古代ギリシャ哲学者、プラトンもそうした考え方をしていた
▼『国家』で「最もすぐれた男たちは最もすぐれた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちは、その逆でなければならない
。」としている【櫻井J】

なぜ政治家は国民を騙すのかⅡ政治とは何か?プラトンの哲学【平和への道http://blogs.dion.ne.jp/tanpopo0817/archives/10997372.html …
政治家が国家の利益のために、国民に対して偽りを言うことは許されるとプラントンは言う
プラトンやソクラテスといった哲学者は正義を標榜しつつ、実は悪による支配を勧めている

U‏@wayofthewind
メディチ家もプラトンを敬愛してて、プラトン・アカデミーを創設しましたしね。これが現代のアカデミーのモデルにもなっていますから、そのデッドコピーの日本の大学を見ても、さもありなんとしか思えません。


西洋思想の基盤がプラトン哲学と、プラトン主義を凶悪化させたキリスト教です。
プラトンは優生学と職人軽視と知性主義(馬鹿は人間ではない)と偽りの公平感を与える儀式(選挙など)の基盤
西洋哲学はプラトンへの膨大な注釈と言っても過言ではありません。
よって↓は大変重要な書籍となります。
国家〈上〉 (岩波文庫)国家〈上〉 (岩波文庫)
(1979/04/16)
プラトン

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国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)
(1979/06/18)
プラトン

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プラトン『国家』 藤沢令夫訳、岩波書店〈岩波文庫〉を今回扱い、
それがモロに反映された
『マギ』という、ユダヤ「だけが悪い」陰謀論とアイクの著作が元ネタである作品を取り上げます。
プラトン思想を理解してから、さあ、では『マギ』で一番すごい演説をどうぞ!という順番です。

“犬に誓って言うけれども”(上巻p.213)(ソクラテスが用いる独特の誓いの言葉)、
プラトン『国家』の正しい題名は『詭弁術』。
“ゼウスに誓って” (上巻p.213)私はそう考えます。

西洋の菜食主義ってピタゴラスとプラトンのせいだろうなあ。あと、過剰な肉食への反動。人間の体は肉食も必要ですよ。
菜食=善、肉食=悪なんて典型的な歪みを起こす善悪二元論じゃないですか。これって肉体=悪というグノーシス主義の思想の影響もありますね。

プラトンは、理想的な国家とは「守護者」「補助者」「大衆」の三つの階層制度=三つの種族制度だとしました。
守護者(理性)=支配者
(“知”を愛する哲学者が頂点。哲人王による哲人政治)
補助者(気概)=軍人
大衆(欲望)=農夫、大工、職人、商人ら一般市民。守護者と補助者を養う。
つまり肉体労働しないやつが一番偉いって思想です。
プラトンが哲学者だから自分が一番上
の階級なのね。

哲人王とは
<善>の実相 (イデア)を知り、高い知性を有し、知識豊富で、経験豊富で、壮大な気宇を持ち、全時間と全存在を観想するほどの精神を持ち、神的で秩序ある、端正で、物欲がなく、けちな奴隷根性もなく、ほら吹きでもなく、臆病でもなく、つき合いやすく、正直で、記憶力がよく、ものわかりがよく、度量が大きく、優雅で、真理と正義と勇気と節制とを愛する者のことです。

こんな人いないだろ!と言いたいところですが、これをゴッドとしたのがキリスト教です。
絶対に間違えないのに悪魔を創った善なる神(単なる悪魔じゃん)という矛盾存在が今現在を世界を破壊しまくっているわけです。
哲学王の凶悪化がゴッドです。
しかも理性から非理性による支配になっているし。

上巻
“ちょうど、前庭で犠牲を供える式をすませたところだったのだ。”上巻p.19
さりげなく生贄を捧げております。

“何というたわけたお喋りに、さっきからあなた方はうつつをぬかしているのだ、ソクラテス? ごもっとも、ごもっともと譲り合いながら、お互いに人の好いところを見せ合っているそのざまは、何ごとですかね? もし〈正義〉とは何かをほんとうに知りたいのなら、質問するほうにばかりまわって、人が答えたことをひっくり返しては得意になるというようなことは、やめるがいい。”上巻p.44

このソクラテス(=プラトン)へのまっとうな非難は他の著作でもされております。相手に喋らせまくって穴を突けばそりゃあ議論には勝てますからね。質問して、答えの一部を捉えてやりこめます。こちらはほとんど喋らないのだから反論のしようがありません。ソクラテスとプラトンは詐欺師って言われても仕方ないですね。詭弁術とその対策が学べます。
“議論のぺてん師”上巻p.56
って呼ばれていますし。

“まず第一に、彼らのうちの誰も、万やむをえないものをのぞいて、私有財産というものをいっさい所有してはならないこと。
つぎに、入りたいと思う者が誰でも入って行けないような住居や宝蔵は、いっさい持ってはならないこと。
暮しの糧は、節度ある勇敢な戦士が必要とするだけの分量を取り決めておいて、他の国民から守護の任務への報酬として、ちょうど一年間の暮しに過不足のない分だけを受け取るべきこと。
ちょうど戦地の兵士たちのように、共同食事に通って共同生活をすること。
金や銀については、彼らに次のように告げなければならない。――彼らはその魂の中に、神々から与えられた神的な金銀をつねにもっているのであるから、このうえ人間世界のそれを何ら必要としないし、それに、神的な金銀の所有をこの世の金銀の所有によって混ぜ汚すのは神意にもとることである。なぜなら、数多くの不敬虔な罪が、多くの人々の間に流通している貨幣をめぐってなされてきたのであり、これに対して彼らがもっている金銀は、純粋で汚れなきものだからである。いや、国民のうちでただ彼らだけは、金や銀を取り扱い触れることを許されないし、また金銀をかくまっている同じ屋根の下に入ることも、それを身に着けることも、金や銀の器から飲むことも、禁じられなければならない。”上巻p.257-258

守護者、支配者が私有財産を持つことの禁止と、共同所有性の規定は、プラトンの時代に実際にあった若干の例(スパルタやピュタゴラス学派)よりもはるかに徹底的で厳格。
ただし、他の一般国民(職人や農夫など)には適用されません。
当然、私有の土地や、家屋や、貨幣を所有するようになると守護者ではなくなります。共産主義や社会主義とは違い、一応は特権階級に財産集中にはならないようにしていますが、財産=強制力なので必然的に財産が実質的に集まるので結局骨抜きになりそうです。守護者じゃないけど財産家の人が身内に沢山いるなら実質的に財産沢山所有していることになるし。
でもまあ、権力を持つ=富を失う、という発想はいいんじゃないかな。家庭も失うけど。これ、誰もなりたがらないんじゃ。拝金主義者は絶対に権力が持てないようにするシステムってどうすればいいんだろう。
そもそも守護者の地位になりたがる者がいるのかな。

“「これらの女たちのすべては、これらの男たちすべての共有であり、誰か一人の女が一人の男と私的に同棲することは、いかなる者もこれをしてはならないこと。さらに子供たちもまた共有されるべきであり、親が自分の子を知ることも、子が親を知ることも許されないこと、というの だ」”上巻p.361
守護者の男女の話ですので、妻子の共有は守護者だけでしょう(まさか全員?)。

最もすぐれた男たちは最もすぐれた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちは、その逆でなければならない。また一方から生まれた子供たちは育て、他方の子供たちは育ててはならない。もしこの羊の群が、できるだけ優秀なままであるべきならばね。そしてすべてこうしたことは、支配者たち自身以外には気づかれないように行なわれなければならない――もし守護者たちの群がまた、できるだけ仲間割れしないように計らおうとするならば
「そうするのがいちばん正しいやり方です」と彼は言った。
「それでは、われわれは何らかの祭典と供犠の式を法に制定して、そうした儀式のなかで花嫁と花婿をめあわせることにしなければならない。そしてわれわれの詩人たちには、そのようにして行なわれる結婚にふさわしい讃歌を作らせよう。他方、結婚の数については、これをわれわれは支配者たちの裁量にまかせることになるだろう――彼らが戦争や病気やすべてそれに類することを考慮しながら、これらの人々の数を可能なかぎり一定に保つように、そしてわれわれの国家ができるだけ大きくも小さくもならないようにするためにね」
「正しい措置です」と彼。
「そうなると、思うに、何か巧妙な籤(くじ)が作られなければならないだろう。そうすれば、それぞれの組合せが成立するときに、先述の劣ったほうの者は自分の運を責めて、支配者たちを責めないことになるだろうからね
”上巻p.367-368

優れた人間を作る為に支配者が結婚するカップルを取捨選択。選別は誰にも気づかれずに行なわれるべきであるという恐ろしい優生学思想。
人口調整=人間を間引きし人口調整する技術は魔術の一分野だからね。プラトンはマギ(魔術師、魔法使い)の弟子だという伝承があるからね。
クジを偽りの公正感を与える道具にすると。誰と誰が結婚するか、子供を作るかを予め決めておくと。優秀同士と劣等同士。大事なことなので二回言いますが優生学ですやん。
奴隷に自分が奴隷じゃないと錯覚させる儀式=選挙みたいですね。
しかもこの後の記述で、劣った者の子供や欠陥児は秘密のうちに隠す=殺すとあります。一応、守護者限定ですけど。

“「で、ぼくの思うには、すぐれた人々の子供は、その役職の者たちがこれを受け取って囲い〔保育所〕へ運び、国の一隅に隔離されて住んでいる保母たちの手に委ねるだろう。他方、劣った者たちの子供や、また他方の者たちの子で欠陥児が生まれた場合には、これをしかるべき仕方で秘密のうちにかくし去ってしまうだろう」
「守護者たちの種族が、純粋のまま維持されるべきでしたらね
」と彼は言った。”上巻p.369

純粋、優秀、選別って優生学の基盤ですな。

プラトン=優生思想=ナチ
▼プラトンの哲学は15世紀、ゾロアスター教と結びつけて理解された
▼ニーチェ『ツァラツストラはかく語りき』、ゾロアスターの独語風の読み方がツァラツストラ
ネオコンの思想的な支柱、レオ・ストラウスはプラトンを研究
▼その思想は一種の「エリート独裁主義」【櫻井J】”

“旧約聖書はゾロアスター教の聖典『アヴェスター』と瓜二つ
【橘玲の世界投資見聞録 http://diamond.jp/articles/-/45980 …
▼ゾロアスター教は、世界は善と悪の闘争で、最後の審判に至ってメシアが現われ世界は光に覆われる終末論
▼開祖はツァラトゥストラ
▼ユダヤ教より古いとの説も”
https://twitter.com/kenkatap/status/464983598236307457

“「哲学者たちが国々において王となって統治するのでないかぎり」とぼくは言った、「あるいは、現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが、真実にかつじゅうぶんに哲学するのでないかぎり、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一体化されて、多くの人々の素質が、現在のようにこの二つのどちらかの方向へ別々に進むのを強制的に禁止されるのでないかぎり、親愛なるグラウコンよ、国々にとって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だとぼくは思う。さらに、われわれが議論のうえで述べてきたような国制のあり方にしても、このことが果されないうちは、可能なかぎり実現されて日の光を見るということは,、けっしてないだろう。
さあ、これがずっと前から、口にするのをぼくにためらわせていたことなのだ。世にも常識はずれなことが語られることになるだろうと、目に見えていたのでね。実際、国家のあり方としては、こうする以外には、個人生活においても公共の生活においても、幸福をもたらす途(みち)はありえないということを洞察するのは、むずかしいことだからね」”上巻p.405

政治的権力(王)と哲学的精神(哲学者)の一致した哲人王。

“ある人々は生まれつき哲学にたずさわるとともに国の指導者となるのが適しているが、他の人々は哲学にたずさわることもなく指導者に従うのが適しているという事実”上巻p.406-407


“正義をはじめ、人間の生き方に関わる道徳上の事柄を「技術」としてとらえるソクラテス”上巻p.428
正義=支配技術

下巻

“哲学者とは、つねに恒常不変のあり方を保つものに触れることのできる人々のことであり、他方、そうすることができずに、さまざまに変転する雑多な事物のなかにさまよう人々は哲学者ではない”下巻p.16

恒常不変のあり方を保つもの=イデア。
変わらない=安定したものに頼れ。

生長の家の聖典(和風キリスト教)である『生命の実相』の実相ってイデアのことで、プラトンという王室と貴族が喜びそうな要素を入れたのかもね。

自民党=ワールドメイト+生長の家(初代派)+神道政治連盟。
民主党=ワールドメイト+生長の家(3代目派)+スピリチュアル。

“哲学者の種族が国の支配者となるまでは、国家にとっても、国民にとっても、禍いのやむときはないだろうし、われわれが言葉によって物語っている国制が事実において完成されることもないだろう”下巻p.63

哲学者は種族!
フィクションでは
魔法使いは種族!
魔術師も呪術師も種族!
フィクションでマジシャンが種族である元ネタはもしかしたらプラトンか?
プラトンはマギの教えを受けたらしいので魔法使い=哲学者という種族です。

“われわれの任命する最も厳密な意味での守護者たちは、哲学者でなければならぬ”下巻p.67

“「多くの美しいものがあり」とぼくは言った,「多くの善いものがあり、また同様にしてそれぞれいろいろのものがあると、われわれは主張し、言葉によって区別している」
「ええ、たしかに」
「われわれはまた、<美>そのもの〔・・・・・〕があり、<善>そのもの〔・・・・・〕があり、またこのようにして、先に多くのものとして立てたところのすべてのものについて、こんどは逆に、そのそれぞれのものの単一の相に応じてただ一つだけ実相(イデア)があると定め、これを<まさにそれぞれである〔・・〕ところのもの>と呼んでいる」
「そのとおりです」
「さらにまた、われわれの主張では、一方のものは見られるけれども、思惟によって知られることはなく、他方、実相(イデア)は思惟によって知られるけれども、見られることはない」”下巻p.78-79

思惟がないとイデアは認識できない=知性主義。

“認識される対象には真理性を提供し、認識する主体には認識機能を提供するものこそが、<善>の実相(イデア)にほかならないのだと、確言してくれたまえ。それは知識と真理の原因(根拠)なのであって、たしかにそれ自身認識の対象となるものと考えなければならない”下巻p.83

イデアの喩えとしての洞窟の比喩が真実であるかどうかについては
“ただし、これが真実にまさしくこのとおりであるかどうかということは、神だけが知りたもうところだろう。”下巻p.101

自分で確かめようがないことを言っていると認めております。
原始仏教では決して語らないことですね。

支配者の地位につく者は、けっして支配権力を恋いこがれるような者であってはならないのだ。そうでないと恋がたきどうしの争いになるだろう”下巻p.111

上手い!座布団33枚!否、666枚!

“「また下賤な手細工仕事や手先の仕事といったものが、なぜ不名誉なものとされるかと思うかね? それはほかでもない、その人がもっている最善の部分が生まれつき弱くて、自分の内なる獣たちを支配する力がなく、仕えることしかできないようになっていて、ただ獣たちにへつらうことだけしか学ぶことができないような場合、ただそのことのためであると、われわれは言うべきではないだろうか?」
「そう思われます」と彼は言った。
「では、そのような人もまた、最もすぐれた人間を支配している部分と同様の部分によって支配されるようになるためにこそ、その人はかの最もすぐれた人間、自己の内に神的な支配者をもっている人間の下僕とならなければならないのだと、われわれは主張するのではないかね?”下巻p.296

肉体労働軽視。そもそも肉体労働は奴隷がやることだからねっていう思想もモノ作り軽視。そりゃ頂点が考える哲学者だし。しかも生まれつき

“「あなたの言われるのは、われわれがいまその建設を詳しく論じてきた国家、言論のうちに存在する国家においてならば、という意味ですね。というのは、少なくともこの地上には、そのような国家はどこにも存在しないと思いますから」
「だがしかし」とぼくは言った、「それはおそらく理想的な範型として、天上に捧げられて存在するだろう――それを見ようと望む者、そしてそれを見ながら自分自身の内に国家を建設しようと望む者のために。しかしながら、その国が現にどこかにあるかどうか、あるいは将来存在するだろうかどうかということは、どちらでもよいことなのだ。なぜなら、ただそのような国家の政治だけに、彼は参加しようとするのであって、他のいかなる国家のそれでもないのだから」”下巻p.300

理想主義は悲劇を産みます。哲人王にも完璧さを求め過ぎています。悲劇の種が沢山埋まっております。

下巻p.384にあるプラトン流の学習・研究の年齢とプログラム。
①17、18までの少年期は数学的諸学科の自由な学習、音楽、体育、文芸
②17、18から20歳は体育のハード・トレーニング
③20から30歳までは選抜者に対して数学的諸学科の総合的研究
④30から35歳までは更なる選抜者に哲学的問答法(ディアレクティケー)の持続的集中的学習
⑤35から50歳までは公務について実際上の経験をつむ
⑥50歳以後、最優秀者は善のイデアの認識。以後は哲学に過し、順番に政治と支配の任務につく。
実務をやるのが遅すぎるでしょ。

さて。
さあ、理性主義者の主張をどうぞ!

魔導士=哲学者↓
一つ目フリギア帽子プラトンの演説
(会員でない人のためにもセリフを書いておきます)



“「伝染病の元凶、あらゆる国民の不満のはけ口、
その上、我が国の兵士の盾にもなる、
“魔導士”とは何とも便利な“種族”だなあ!」
(種族……
こんなモノたちの為に……
こんなモノたちの為にサーナは死んだのか?
こんなモノたちの為に魔法はあるのか?
繰り返される戦争、国同士の争いなど……
所詮は支配欲を満たす為の、縄張り争いではないのか?
野蛮な獣と、何が違うのか?
このまま、この野獣たちが王たる世界で、
魔導士たちは、使役されねばならんのか?
家畜のように!
家畜はどちらの種族だろうか?
私は重大な認識違いをしていたのではないか?
野蛮を律し、理性的な、理想の、より良い世界を作りあげられるのは、一体誰だ?
それは、魔導士だ!
魔導士こそが、世界を正しく導ける!)

「故に私は決意した。
非魔導士(ゴイ)の支配から脱却せねばならん!
欲望を抑えられぬ非魔導士(ゴイ)どもは、我々魔導士が!
完璧に管理せねばならん!
魔導士主導の、
魔導士の為の
魔導士の国を作らねばならぬのだ!」“

“「お前たちの、その身に宿る魔力(マゴイ)を誰かのいいなりに、
世界の理不尽な流れのままに、もう委ねてはならない!
我らの志が今、潰(つい)えれば、
今後千年の歴史の闇に、再び!
すべての魔導士が突き落とされるだろう!
魔導士に生まれた意味を見失わぬ為に!
悲しみを繰り返す歴史の中で、消えてしまわぬ為に!
杖を掲げろ!
魔導士の国を守る為に!
立ち上がれ!
マグノシュタットの魔導士たちよ!」“

byアニメ版『マギ』のモガメット学長。
マグノシュタット=マギ+インゴルシュタット。
理性を崇拝する哲学者=魔導士による管理社会が理想。プラトン主義、プラトニズム、啓蒙主義などなどの象徴的人物。よくあるように、「ユダヤ」に偽装してあるけどね。

パロディ版。

伝染病の元凶、あらゆる国民の不満のはけ口、
その上、我が国の兵士の盾にもなる、
“ユダヤ”とは何とも便利な“虚像”だなあ
!」

(虚像……
こんなモノたちの為に……
こんなモノたちの為に家族は死んだのか?
こんなモノたちの為に理性(ロゴス)はあるのか?
繰り返される戦争、国同士の争いなど……
所詮は支配欲を満たす為の、縄張り争いではないのか?
野蛮な獣と、何が違うのか?
このまま、この野獣たちが王たる世界で、
哲学者たちは、使役されねばならんのか?
家畜のように!
家畜はどちらの種族だろうか?
私は重大な認識違いをしていたのではないか?
野蛮を律し、理性的な、理想の、より良い世界を作りあげられるのは、一体誰だ?
それは、哲学者だ!
哲学者こそが、世界を正しく導ける!)

「故に私は決意した。
非理性(パトス)の支配から脱却せねばならん!
欲望を抑えられぬ非理性(パトス)どもは、我々哲学者が!
完璧に管理せねばならん!
哲学者主導の、
哲学者の為の
哲学者の国を作らねばならぬのだ!」

「お前たちの、その身に宿る理性(ロゴス)を誰かのいいなりに、
世界の理不尽な流れのままに、もう委ねてはならない!
我らの志が今、潰(つい)えれば、
今後千年の歴史の闇に、再び!
すべての哲学者(ロゴス)が突き落とされるだろう!
哲学者に生まれた意味を見失わぬ為に!
悲しみを繰り返す歴史の中で、消えてしまわぬ為に!
智慧を掲げろ!
哲学者(ロゴス)の国を守る為に!
立ち上がれ!
インゴルシュタットの哲学者(イルミナティ=啓明会)たちよ!」

そして、日本では下中弥三郎が教員組合の元祖(日教組の祖先)「啓明会」を作ったとさ

フィクションの方が(はじめから嘘です宣言しているので)支配者の規制が緩く、真実を伝えやすいです。フィクションの中にもノンフィクション。嘘によって真実を告げる
(【マギ】モガメット演説を改変してみた。
+【ユダヤは捏造】ユダヤはキリスト教製品の根拠いろいろ
+【日本の教育は啓明会とイエズス会製】
文化祭・音楽・体育重視はイエズス会の神学校から

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-15.html)

プラトン『国家』 を意識して先述の動画をみなおすとまったく違った内容に見えるでしょう。
【マギ】マギ特殊ED集【モガメット演説】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm22755002
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演説収録の原作のマギ17巻
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大高 忍

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魔法使いハンターねこた@lanekota
政治とは、理念ではなく、多くの人に矛盾を感じさせない技術であると書いたラノベがありましたけれども、そーゆーベターな選択が大事なのですね。この世界は不完全でクソだから破壊しちゃえーじゃダメなの。

魔法使いハンターねこた@lanekota
アニメ「マギ」の原作にマグノシュタットでモガメットの肖像画飾られてるの見たらなんかシーア派国家のイランみたいだね。んでシーア派が好きな新プラトン主義的なダンテの神曲に近い階層論の国があると。で、シーア派にもファティマの手というおめめが


ともだち”のマーク=ファーティマの手を考えた「目玉のオッチョ」は僧侶の姿をしてチベットに向かうところをインドにて目撃されている。インド神話の太陽神ミトラ=友愛の守護神=太陽の塔+メーソン。長崎尚志=江戸川啓視(エドガー・ケイシー)=東周斎雅楽(イリヤッド)。

魔法使いハンターねこた@lanekota
イスマーイール派はイスラームのイルミナティですね。モガメットとホメイニはそっくり。どちらもプラトニスト

魔法使いハンターねこた@lanekota
そういえば、マグノシュタットでは魔法学院が国家乗っ取ってしまいますが(モガメットも学院の長のままの指導者に)、イランもイスラーム学院が国家を乗っ取ってしまったようなものです。フランス革命とイスラーム革命のダブル・ミーイングでしょう

魔法使いハンターねこた@lanekota
腐敗した王政という意味なら、イランの王政時代もそうでしたから、中核はマギなので、インド・イランかと。ホメイニ神学はムウタズィラ派のような理性主義神学です。それに比べるとムスリム同胞団のサイード・クトゥブはアンチ理性のプロテスタントくさい神学。

魔法使いハンターねこた@lanekota
アニメ「マギ」の中にレーム帝国というローマ帝国モドキの帝国が存在して、軍人が沢山出るけど、ローマの軍人の宗教といえばミトラス教だ。フリーメイソンとミトラス教の儀式には共通点がある。ほら、ここにもイラン系宗教ダクダクなんだよね。

魔法使いハンターねこた@lanekota
うーんアニメ「マギ」の学長様の思想って、プラトニズムとストア派を足して2で割ったものかなぁ。ルフって西洋風に言ったらプネウマ。あーストア派のプネウマと考えるとドンピシャ!で、ルフの意識ってのはロゴス。でも、精神性の部分で貴族主義的なプラトニズムだよね

魔法使いハンターねこた@lanekota
プネウマもプシューケーも息とか風の性質あんだよね。ルフの象徴は鳥さん。鳥さんは魔法というか呪術の象徴であり、プネウマやプシューケーのシンボリズムとピタンコ!ただ、学長様の言うルフの意識ってむしろストア派のロゴスのような摂理に近いなぁ。ねここねこさんとこのネタ話したい!

魔法使いハンターねこた@lanekota
ストア派とエピクロス派って理性主義仏教というか実に思想的には美味しいのですが、見向きもされないというか、なかったことにされてるのは何の陰謀ですか?(笑)

おまけ

超お勧め(というか視聴必須)動画。ねこたさんも登場
【陰謀論の正体】Don't trust the conspiracy theory ! のコピー
http://www.youtube.com/watch?v=sNo2fJfvQc8&feature=youtu.be




・半分本当のことを言って、半分嘘を吐く。本当のことを言って信用を獲得してから嘘を吐く。残りが嘘でも本当だと信じてしまう。
・本当の中核には決して触れない。一切言及しない箇所こそが答え。話題にしない。何を言っていないかが答え。大量の情報を流してその中核を隠す。
例えば、中央銀行(お金の支配組織)の詐欺には触れない。中央銀行がどのようにお金を創造しているか(信用創造)には触れない。中央銀行(日本銀行やアメリカのCFRなど各国の中央銀行すべて)がお金を流すメカニズムが答え。中央銀行の株主も絶対に言わない。
・ユダヤと王侯貴族やバチカンとは間違いなく関係がある。全部グル。なのにユダヤだけに罪を押しつけて、ユダヤと王侯貴族やバチカンと無関係だとする紐付き陰謀論者がいる。ユダヤは中核に近い部分にいるだけ(中核そのものではない
)。


MONOSEPIA - 陰謀業界人の宗派リスト - wiki
http://www25.atwiki.jp/monosepia/pages/5136.html
“ 陰謀業界人の宗派リスト 「魔法使いハンター「ねこた」(2012.7.14)」より

陰謀論者の宗派リスト
1 カレイドスコープ(カトリック)
2 宇野正美(聖書キリスト教会orプリマスブレザレンなどの福音派)
3 小石泉(ペンテコステ派)
4 飛鳥昭雄(モルモン教)
5 鬼塚五十一(今は切り捨てられたカトリック系カルト)
6 ベンジャミン・フルフォード(ユニテリアン=ユダヤの巣窟)
7 リチャード・コシミズ(ワールドメイトの関係ありそう)
8 副島隆彦(ユニテリアン)
9 ユースタス・マリンズ(おそらく福音派)
10 ヘンリー・メイコウ(改宗ユダヤ人。おそらく福音派)
11 ウィリアム・G・カー(キリスト教・宗派不明)
12 フリッツ・スプリングマイヤー(プロテスタント系の宣教師)
13 シスコ・ウィーラー(スプリングマイヤーの嫁。釣り師)
14 船井幸雄(宗派不明。でも大本臭い思想)
15 中丸薫(宗派不明。でも大本臭い思想)
16 泉パウロ(東京の立川福音派教会牧師)
17 藤原直哉(大本教に関係あり)”

キリスト教と大本教系ばかりですな。

翻訳の初版が1979年で、改版が2009年なので私の引用ページ表記とはずれていることに注意↓
ソクラテスは死ね、豚は転がれ―――プラトン「国家」
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2012/09/post-299e.html
“死刑判決を受け、毒杯をあおったのは当然だ。
 質問には質問で返す。詭弁術を駆使し、言葉尻をとらえて後出しジャンケンする。「無知の知」とは、「知らないということを知っている」よりも、「僕は無知だから教えて」と先にジャンケン出させるための方便だ。論敵を排し、取り巻きを並べたら、後はずっと俺のターン。 
騙されるな、ソクラテスは、とんでもない食わせものだ。太ったソクラテスよりも、痩せたブタのほうがマシだ、ブタは食えるが、ソクラテスは食えない奴だから。
 比喩でもって説明した後、その比喩が事実であるという前提で論を重ねる。反論もそう、極端な例外を持ってきて事足れりとみなし、一点突破全否定オッケーとするのは酷すぎる。さらに多重レトリックが汚い。AをBに、BをCに言い換えて、最後のCにだけ噛み付くオオカミの強弁だ。「詭弁のガイドライン」を参照し、どれを用いているか確認しながら読むと、良い(?)勉強になるだろう。 
修飾語と関係代名詞が多用される文章は、会話体とはいえ見通しが悪い。 So What? や Why So? と自問しながら読まないと、トートロジーの罠に陥る。気をつけないと言い包められるぞ。でもこれ、言い換えると、議論に勝つしゃべり方の教材にも使える。詭弁は「詭弁だ!」と見抜かれない限り、強力なツールだからね
 論敵のあしらい方は、憎らしいほど上手い。後出しジャンケンを封じようとする批判者が現れる。まず自分から明確な答えを言いなさい、抽象的なのはダメというのだ。ソクラテスはこう返す―――そんな批判ができるなら、君自身が「明確な答え」を知ってるんだよね、私は知らないから聞いているだけなんだと。空とぼけながら教えを垂れてくれとすり寄ることで、相手の自尊心をくすぐる。「らめえぇぇ」とページを繰ると、結果はご想像の通り。
 奴は、狡猾な挑発者なのだ。あてつけて煽って出てきた答えを捕まえて、その言葉でもってやりこめる術数は、言葉の合気道を見ているよう。見事だがフェアじゃない、うっかり信じると痛い子になる
 さらに、タイトルに騙されてはいけない、本書のテーマは「正義」だ。「正義とは何か」について議論するための方法として、国家論をぶちあげる。理想的な国家像を脳内で構築し、そこに拡大された正義を見ようとする試みが、「国家」なのだ。
 むしろこれは、一人称のソクラテスに語らせる著者・プラトンのたくらみになる。後世の知識人を魅了する「理想国家」をうちたてて、あなたはそこの中心人物なんですよ、と焚きつける。二千年を越えて本書が伝えられたのは、それぞれの時代の知の担い手の虚栄心をくすぐったからであり、その魅力(魔力?)は今も通用する。
 本書では、独裁僭主や民主制、寡頭制といった政治形態を縦横に語り、哲学者(知を愛するもの)が治める哲人政治が最高の国家だと断言する。だが現実では哲学者は役立たずとされ、優遇されない。これは、現実の国家が理想からほど遠いことの証左であり、あなた(=読み手や聴き手)が優遇されないことの逆説的な証拠になる。知識人たる自負はあるが、重用されない境遇を嘆く者にとっては、えらい慰めになるだろう。
 どの時代にも通用する、「理想国家」なんてものはない。その時代や文化によって、もっと極端に言えば、主張する派閥やイデオロギーにとって、「あるべき国家の姿」は存在する。だが、それぞれの「あるべき国家の姿」を、「理想国家」という抽象的な存在でくくり、それぞれの知識人の脳内で補完した「国家」像を餌に生き延びてきた―――これが、ソクラテス/プラトンの罠なのだ。
 そしてラスト、ソクラテスは告白する。さんざん理想国家を語った後、下巻p.335で暴露する。

この地上には、そのような国家はどこにも存在しない。だがしかし、それは理想的な範型として、天上にささげられて存在するだろう。それを見ようと望むもの、そしてそれを見ながら自分自身の内に国家を建設しようと望む者のために。しかしながら、その国家が現にどこかにあるかどうか、あるいは将来存在するかどうかということは、どちらでもよいことなのだ。

 開高健の「哲学とは、理性で書かれた詩である」を思い出す。あれは詩であり、論理と思ってはいけないんだそうな。感性および理性の周波数が一致したとき、それはみごとなボキャブラリーの殿堂になり、宮殿になり、大伽藍になるが、いったんその感性から外れてしまうと、いっさいは屁理屈のかたまりにすぎなくなる―――そう言ったのは、実はここを指しているのではないか。
 あの有名なイデアに関する洞窟の比喩も然り。洞窟に住む縛められた人々が見ているのは「実体」の「影」であるが、それを実体だと思い込んでいるにすぎぬというアレだ。イデアの喩えとしては見事だが、真実がこのとおりであるかどうかについては、「神だけが知りたもうことだろう」(下巻p.112)と口を濁す。なんと、ちゃんと読んだら本人が認めているじゃないか、ホントかどうか知らないって。
 なんだ、わたしはこのトシになるまで、こんな不確かな武器を振り回していたのか。死ぬまでに読めてよかった、あらためてこの哲人に言えるから。
 「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」”

詭弁のガイドラインとは
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%EB%CC%CA%DB%A4%CE%A5%AC%A5%A4%A5%C9%A5%E9%A5%A4%A5%F3
“例:「犬ははたして哺乳類か」という議論をしている場合
あなたが「犬は哺乳類としての条件を満たしている」と言ったのに対して否定論者が…
1.事実に対して仮定を持ち出す
「犬は子供を産むが、もし卵を生む犬がいたらどうだろうか?」

2.ごくまれな反例をとりあげる
「だが、尻尾が2本ある犬が生まれることもある」

3.自分に有利な将来像を予想する
「何年か後、犬に羽が生えないという保証は誰にもできない」

4.主観で決め付ける
「犬自身が哺乳類であることを望むわけがない」

5.資料を示さず持論が支持されていると思わせる
「世界では、犬は哺乳類ではないという見方が一般的だ」

6.一見、関係がありそうで関係のない話を始める
「ところで、カモノハシは卵を産むのを知っているか?」

7.陰謀であると力説する
「それは、犬を哺乳類と認めると都合の良いアメリカが画策した陰謀だ」

8.知能障害を起こす
「何、犬ごときにマジになってやんの、バーカバーカ」

9.自分の見解を述べずに人格批判をする
「犬が哺乳類なんて言う奴は、社会に出てない証拠。現実をみてみろよ」

10.ありえない解決策を図る
「犬が卵を産めるようになれば良いって事でしょ」

11.レッテル貼りをする
「犬が哺乳類だなんて過去の概念にしがみつく右翼はイタイね」

12.決着した話を経緯を無視して蒸し返す
「ところで、犬がどうやったら哺乳類の条件をみたすんだ?」

13.勝利宣言をする
「犬が哺乳類だという論はすでに何年も前に論破されてる事なのだが」

14.細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる
「犬って言っても大型犬から小型犬までいる。もっと勉強しろよ」

15.新しい概念が全て正しいのだとミスリードする
「犬が哺乳類ではないと認めない限り生物学に進歩はない」“

“16.全てか無かで途中を認めないか、あえて無視する。
「全ての犬が哺乳類としての条件を満たしているか検査するのは不可能だ(だから、哺乳類ではない)」

17.勝手に極論化して、結論の正当性に疑問を呈する。
「確かに犬は哺乳類と言えるかもしれない、しかしだからといって、哺乳類としての条件を全て持っているというのは早計に過ぎないか。」

18.自分で話をずらしておいて、「話をずらすな」と相手を批難する。
「現在問題なのは犬の広義の非哺乳類性であり、哺乳類であるかどうかは問題ではない。話をそらすな」“

“19.権威主義におちいって話を聞かなくなる。
「生物学の権威じゃないおまえには犬について議論する資格が無い。生物学者に意見を聞きたい」”

プラトン全集読破ポータル
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