読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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反イエズス会でも啓蒙主義でも反カトリックでも反王政でもないのをイルミナティと呼ぶ奴は全員無知か詐欺師!イエズス会や王侯貴族やバチカンやWASPにイルミナティという間違った名づけをするな!「光=イルミ」もやめろ! 











言葉は魔法。
自分で自分の能力縛る呪文唱えてんじゃねーよ
単語自体が毒なんだよ!

Xさんはサッカー選手なのに肩書を野球選手って書いて、Xさんは野球選手です!
っていう奴って無知か嘘つきかでしょ?
それと同じ。
無知には確かめないとか含む。

X勢力は支配層の一つの派閥にすぎないなのにすべての支配層の頂点って書いて、
Xは支配層の頂点です、こいつらを倒せばみんな幸せになりマシュ!
っていう奴って無知か嘘つきかでしょ?


イルミナティと呼ぶ場合、
当然、元祖の要素を受け継いでいないといけない。


ヴァイスハウプトのイルミナティの特徴

・反イエズス会(最重要の必須要素)
・反カトリック教会、反バチカン
・啓蒙主義(反知性主義の否定)
・反オカルト(スピリチュアルの否定)
・反王政(共和制の肯定)


が含まれていないといけない。

よって、
イエズス会、カトリック教会、バチカン、
反知性主義、オカルト好き、王政肯定側の
支配層の派閥をイルミナティと呼ぶ者は
全員
無知か嘘つき。

内容と真逆の名前をつけるってお前は、
悪法の名前を考える悪の魔法使いかよ、てめーは!
ただのキリスト教をユダヤと名づける奴と同類だな!

名前は元ネタに沿っていないと詐欺。
クリスチャンをユダヤと呼ぶ詐欺に気を付けろと言ってもてめーには無駄みたいだな!
てめーって誰かな?
今は存在しないかもしれないよ。
未来では存在しているかもね。
別に特定の誰かを指してるわけでもないね。


WASP至上主義側は反知性主義だから、
啓蒙主義のイルミナティなわけないでしょ!

反カトリックでも反王政でないのをイルミナティと呼ぶ奴は全員無知か詐欺師。
∴イエズス会をイルミナティと呼ぶ奴は全員嘘つきか馬鹿!
つーかイルミナティという間違った名づけするんじゃねーよ

ヴァイスハウプトのイルミナティ思想を一番受けついているのはどうみても、
ライシテ教+啓蒙主義+理性主義+右目のフランス系結社だろーが!
理神論と無神論(寄り)と共和制(王政否定)、
反教会(反カトリックとはイコールではないけど)
の支配層の派閥のごく一部じゃねーか!

典型的なデマ↓

イルミナティ=イエズス会。
支配層=イルミナティ
メイソンの上層部=イルミナティ

全部間違いじゃねーか


桃太郎の菊りんはちゃんとわかっているよね。






ヴァイスハウプトのイルミナティと思想的になんのつながりもないなら、
つまり、反カトリック・反王政・啓蒙主義・反オカルトなどのヴァイスハウプトの思想を持たない組織なら、
イルミナティなんて名称は間違いなので嘘つきか不勉強かとなり、よって百害あって一利なし。
そんな奴はイルミナティ陰謀論を発明したのがカトリック信者だとすら知らないか言わない。

ホーンというベネディクト会修道士がイルミナティ陰謀論を作るのに協力しているのにねえ。
イルミナティ陰謀論はイエズス会士とベネディクト会修道士の合作だ。

現代の陰謀論の父はイエズス会士のバリュエル神父!
ベネディクト会修道士でスパイで外交官でタクシス家とつながりありのホーンが、
ロビソンにメイソン・イルミナティ陰謀論のネタを提供。
リベラと同じくプロテスタント側の陰謀論者フェルプス(バチカン限定陰謀論)をカトリックのboが叩くのは当然!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-194.html

ロスチャイルドが元祖イルミナティ設立に関わったとかデマ垂れ流す奴は、
元祖イルミナティと黄金薔薇十字団の戦いすら知らねえだろ?
黄金薔薇十字団すら知らねえ奴が秘密結社の陰謀なんて騙るんじゃねーよ。
黄金薔薇十字はヘッセン系だ。
ヘッセンはロスチャイルドの親分だ。
黄金薔薇十字を否定するのが、啓蒙主義のヴァイスハウプトの元祖イルミナティだ。
元祖イルミナティにとってロスチャイルドはヘッセンの部下だから敵だ。
よって、ロスチャイルドが元祖イルミナティ設立にかかわったとか全部嘘だ。


七四年に創設されたヴァイスハゥプト(三二歳)の啓蒙主義結社「イルミナティ」は、バイエルンの地方組織にすぎず、イェズス会残党の激しい攻撃にさらされ、メイソンリーに援助を求めていた。
おりしも、八〇年、黄金薔薇十字団の黒幕のヘッセン=カッセル方伯の腹心クニッゲ男爵(二八歳)は、嫉妬による陰謀に巻き込まれ、宮廷から追放されてしまう。
そして、彼は、「イルミナティ」に乗り込み、たちまち啓蒙主義メイソン五百名以上を参加させ、これを反黄金薔薇十字団運動の拠点としてしまった。

(出典の論文はネット上から消滅。本ブログのどこかに写しがあるよ)

クニッゲのほうが重要!


いっとくけど、私はイルミナティといったらヴァイスハウプト一択だけど、
デマに惑わされている人がわドわされないように元祖ってつけているよ。



”メーソンは一次予選通過者の集まりのようなもので、
そこから本命をスカウトするための人材紹介業者でもある。
複数の結社を掛け持ちしていないと妄想してないよね?

メイソン以外の友愛結社の名前をあなたはどれくらい知ってる?
フラタニティとソロリティぐらいは常識だよね?

ギリシア文字三文字の、
アルファ・カッパ・ラムダ
Alpha Kappa Lambda (ΑΚΛ) ぐらいはご存知だよね?
ギリシア文字を使った結社は他にもあるよ。
日本語で調べてもろくな情報はない。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-224.html
結社名でメイソン以外思い浮かばない奴は読むな!
→ドラえもんの暗記パンとYahoo!とヤプーとラピュタの元ネタは
メーソン製の『ガリヴァー旅行記』!←けものフレンズへも影響?












(
やのっちは私にとって黒寄りのグレーで見る価値無し。

やのっちはカレイドスコープをおすすめしている。
やのっちは終末論の変形を布教しているからヤソ系だね。
異端と新型ヤソ含めれば、ヤソ系じゃない工作員ってほぼいないけど。
煉獄カトリックのカレイドを信奉する部下が、
笑われ男。なえなつさんに粘着していた笑われ男。
ねこたさんと私は、笑われ男に宣戦布告されたんだけど、正体自分でばらす奴に負けるわけないじゃん!



(メイソンって今は学歴差別しているらしい。
当初の精神はもう完全にないな。
カトリックの暴政(教育支配=学歴差別)を破壊するという大義がない。
結局、カトリックになり替わりたいだけの奴らばかりになったな。
され、デスティさんの親戚は結社の末端の末端なのか、中枢に近いのか気になるな。
つーか、真に支配層の中枢の血筋なら学歴関係なしにスカウトだろ。
となると、デスティさんの親戚はそこまで高い格ではなさそうなんだが、
一般人よりは恩恵を受けているのだろう。
身内の一部を変に冷遇すると反乱分子になっちゃうのにやり方がまずいぞ。
デスティさんもう反乱分子じゃん。
支配する側を倒そうとする人が支配層側から生まれるのはよくある歴史だよ
釈迦は元王族でしょ?


なえなつ @japan19890108
9月21日
"【ガチ】“フランシスコ麻生太郎”はイエズス会(イルミナティ)メンバーだった!「正式礼拝で安倍晋三に呪詛かけた可能性」政府関係者が衝撃暴露 tocana.jp/2017/07/post_1... @DailyTocanaさんから
イルミナティというのは通称なのかもね

イルミナティがあるかどうかではなく
この世の仕組みに参加している認められたメンバーにのみ
イルミナティと呼ばれる呼ばせる権利があるみたいな"


カトリックをイルミナティと呼ぶ時点でデマ。
今見たらこのツイート消してた。
間違いに気づいた?

 

(
光=イルミって反射的思考もやめなさい!
「光」を善として崇めない宗教はほぼ存在しないから、
いちいち光で過剰反応しちゃだめ!
「光をもたらすこと(エンライトメント)
=啓蒙
だから、
光がついたら全部、啓蒙主義」
っておかしいでしょ?
啓蒙主義ではない派閥もあるからね。


※啓蒙思想
(英語Enlightenment 仏語Lumieres 独語Aufklarung)
の原義
=光で照らされること(蒙(くら)きを啓(あき)らむ)。

lighten=(…を)明るくする、照らす。

接頭辞 en-
=「中へ」、「中に取り込む、「その上に」


光が登場=宗教団体が背後にいる?
で止めること!

大本系も光大好きだよ。
ヴァイスハウプトってどうみても大本みたいなのが大嫌いだよ。

あ、そうそう、私を啓蒙主義系工作員って言った来た奴がいたっけ?
そいつがさあ、スピリチュアル系で大本教叩きに反応していたし、
ひふみ123だしわかりやすかったなあ。
二元論思考すぎて泣けるよねえ。


で、私は思想表明しているけど、どうみても仏教ベースだよね?
確かに仏教は反カトリックというか反一神教で、
啓蒙主義(とはいえこの思想ってゴッドが前提だから仏教に使うのは不適切なんだ)
無神論者でもないよ。
この神はゴッドはでないけど、神秘ではある。

あとイスラームも啓蒙主義的だよ、とはいえ啓蒙主義は人間中心で、
イスラームで人間中心はありえないなからやはり啓蒙主義は不適切。

ほんとうに私を啓蒙主義工作員って言ったやつって無知だよね
啓蒙主義の前提が
「既存のヤソ=馬鹿こそ最高」への反発
って知らんだろどうせ。
馬鹿こそ最高がひどかったから、
馬鹿はダメって思想がおこったんだ。
そんな思想はね、仏教徒かイスラームとか学びと論理的思考は良いことだって思想ではそもそも啓蒙主義なんてものとは起こりえない。もとから学び重視だもん。
大乗仏教のうち、阿弥陀仏と念仏唱えりゃOKは反知性主義っぽいけどな!

そういえばさ、ユダヤかイスラームかキリスト教か確定できないっていちゃんもんつけてたな。
ユダヤとイスラームは似ているけど、ヤソだけおかしいから目立つんだよ!
三つとも神学を学んだからね私は。

イスラーム神学本を読めとまでは言わないけど、
基礎は本ブログにも書いたから学ぼうね。
イスラームはキリスト教の根本の矛盾を叩くからヤソの天敵だね。
仏教以上の天敵っぽい。
ヤソは一神教(もどき)なので、
仏教はもう別世界の存在みたいな感じするけど、
イスラームは一神教だからヤソは無視できないもんね。
)


(
クリスチャンをユダヤって名づける詐欺と同じじゃん。


新約のイエスのユダヤ教保守叩きはヘイトスピーチでないの?
ルターは完全にユダヤ教徒へのヘイトスピーチ言ってるよね。
規制したら?
的外れ叩きと的外れ騒ぎ。
ユダヤってドラクエで例えるとゴーレムでしょ?
りゅうおうじゃないじゃん。
中ボスかどうかも怪しいぞ。
今気づいたけど、ゴーレムってユダヤ教由来じゃねーか!



















カルヴァン派派生の資本主義・拝金主義・労働教も含まれる。
ライシテ教もね。
)


フラタニティとソロリティだけでなく、
クラブにも注目。
クラブと言ったら、ローマクラブは当然知っているよなあ!


ローマクラブ→創価の公明党の指定枠は国土交通大臣。 実質的に環境利権で金になるポジションを確保している。
” 池田大作会長とローマクラブ創設者アウレリオ・ペッチェイ氏

●ローマクラブ創設者アウレリオ・ペッチェイ氏と池田大作会長(創価学会公式サイト)

池田大作会長とローマクラブ名誉会長ホフライトネル氏


見つめあう西と東―人間革命と地球革命
著 者 :池田 大作、リカルド ディエス=ホフライトネル
出版社 :第三文明社

ディエス=ホフライトネル,リカルド
ローマクラブ名誉会長。
1928年、スペイン生まれ。サラマンカ大学卒業後、ドイツのカールスルーエ工科大学で化学機械製造などを学び、スペインにおける化学産業の促進に寄与する。スペイン、コロンビアで大学教授を務め、
ユネスコ理事、スペイン教育科学相、
世界銀行教育投資部初代部長など国内外の要職を歴任。
91年ローマクラブ会長
となり、2000年、名誉会長に(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

池田大作会長とローマクラブ共同会長ヴァイツゼッカー氏

地球革命への挑戦 人間と環境を語る
著 者 :池田 大作、エルンスト・U・フォン・ヴァイツゼッカー
出版社 :潮出版社
地球の未来のため
人類の平和のために
環境問題やエネルギー問題をはじめ、人類が直面する危機をいかに乗り越え、「持続可能な社会」を構築していくか。
ローマクラブ共同会長としてローマクラブの精神を体現し、発信し続ける環境学者と、平和行動を貫き通してきた仏法者が縦横に語り合う。
著者について
エルンスト・U・フォン・ヴァイツゼッカー
環境学者。ローマクラブ共同会長。
国連環境教育(UNEP)の「持続可能な資源管理に関する国際パネル」共同議長。
1939年、スイス生まれ。
ドイツ・カッセル大学学長、国連科学技術センター所長、ヨーロッパ環境政策研究所所長。ヴァッパータール気候・環境・エネルギー研究所初代所長、ドイツ連邦議会(下院)議員、…

池田大作…『二十一世紀への対話』(A・J・トインビー)、『二十世紀の精神の教訓』(M・S・ゴルバチョフ)など多数の対談集を発刊している。国連平和賞、国連難民高等弁務官事務所の人道賞、世界の大学・学術機関から350を超える名誉博士号・名誉称号等を受章。ローマクラブ名誉会員。





”ローマクラブ→地球環境問題を提起して利権を創出

退任後の大統領とか首相とかがバックアップするケースが非常に多い。

ローマクラブに同調する日本の団体→創価学会、生長の家(雅宣派)、
サンケイグループ、パソナグループ、(一社)ディレクトフォース


パナソニックと松下政経塾も入るんですかね?
国連ユネスコ人脈もそうなのでしょうね。
いずれ人脈を追ってみましょう。”


イルミナティという言葉自体を使うなって言った理由がよくわかるよね?
意味わかっている人が使っても、受け手が勝手に意味わからず使って被害が拡大されるから、定義しても使っちゃダメな気がする。
毎回同じ不適切な単語で支配層を呼ぶと、他の単語で表現される支配層組織が得をする。
要は毎回同じ不適切な名づけをすれば呪いとなるということ。

要はこれと同系統。

×毎日同じ時刻に同じ動作をすると魔法が発動する。

○毎日同じ時刻に同じ動作をすること自体が魔法。





でさあ、例の一ドル札のマークって本当に元祖イルミナティからんでんの?
アメリカは建国当初から反カトリックだけどさあ、
啓蒙主義じゃないじゃん?
王政反対だけどさあ。
王政反対で反カトリックだけだと特定できないじゃん思想的に。
元祖イルミのシンボルは一つ目じゃないし。




というかマーク自体が決まる過程追いかけた人って私含めて三人だよ。



(じゃあなぜお札と国のシンボル考えたやつらを調べないの?
ホプキンソンとフランクリンとAPSでピンと来ない人がほとんど。
ひも付きってマーク「を考えた具体的個人と組織」を書かないから無価値なのさ。
ねずみさんは白っぽいグレーだと判断している。この界隈に白はいないので読む価値ありのアカウント)

実は、
フランクリンって百科全書派とつながりありで啓蒙主義人脈も持っているから別に一ドル札に1778あってもおかしくないよ。
つーか今もあのマークそのままってことはアメリカの頂点って今も右目では?アメリカに住んでないと思うけど。







だが、プロイセンが一次世界大戦を 経て衰退し、用済みになった ヴァイスハウプトがプロイセン王や ケニッゲ男爵に処分されると、 ヘッセンの子孫が今度はロス茶を 使って巻き返しを図ろうとする。
そして現在に至る。


ちなみにアメリカはフランクリン派と
ハンコック派に分かれる。

フランクリン派は穏健で親英派で、
おフレンチメイソンの百科全書派
(9姉妹)とのコネが太い。


ハンコック派は反英的な武力派で、 独立をゴリ押ししたのはこちらの 方だ。


↓お世話になっている世界史の窓より。

啓蒙思想 - 世界史の窓
http://www.y-history.net/appendix/wh1003-031.html
”18世紀の西ヨーロッパ(特にフランス)で興った、キリスト教的世界観や封建的思想を批判し、人間性の解放を目ざす思想。その影響を受けて啓蒙専制君主も現れたが、絶対王政の市民革命にもつながった。
 18世紀フランスに興った、従来の封建社会の中でのキリスト教的世界観に対して、合理的な世界観を説き、人間性の解放を目指した思想。その世紀末のフランス革命を思想面で準備しただけでなく、「王権神授説」などにかわる新しい支配体制を模索した絶対主義諸国の君主の政治思想にも影響を与えた。

啓蒙の意味
 「啓蒙」とは、「蒙(無知蒙昧の蒙。物事に暗いこと)」を「啓(ひら)く」ことで、無知を有知にする意味。18世紀フランスに起こった啓蒙思想での「無知」とは、封建社会の中で教会的な世界観の中に閉じこめられていた人々のことを言い、彼らに対して「人間」や「社会」、あるいは「世界」や「自然」の真実を教え、無知から解放することが「啓蒙」であった。その啓蒙思想は当時のフランスのブルボン朝ルイ15世の絶対王政と、そのもとでのアンシャンレジーム社会に対する攻撃という毒を含むこととなった。
「啓蒙とは何か」 カントは『啓蒙とは何か』(1784)で次のように定義している。

(引用)啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことが出来ないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて(サペーレ・アウデ)」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。<カント/木田元訳『永遠平和のために/啓蒙とは何か』2006 光文社古典新訳文庫 p.10>

 カントに言わせれば、「指示待ち人間」は「未成年状態にある」ということですね。サペーレ・アウデ!

啓蒙思想の前提
 17世紀は科学革命の時代と言われ、イギリスのニュートンやベーコンによって切り開かれた自然探求とロックの政治思想で展開された経験論と、
デカルトやスピノザなど大陸で始まった人間主体の思想である合理論によって、神を絶対視した世界観は動揺し、自然科学が著しく発展した。その影響を受け、人間や社会、国家のあり方を根底から見直す動きとして現れたのが啓蒙思想であった。17世紀の「科学の時代」に対して、18世紀は「啓蒙の時代」と言われている。

主な啓蒙思想家
 特にその先駆的な動きをもたらしたのが、フランス啓蒙思想であった。
モンテスキューの三権分立論などの国家論、
ヴォルテールの宗教的寛容論、
ルソーの社会契約説などが代表的な啓蒙思想である。それらの新しい思想を集大成したものがディドロとダランベールが中心となって編纂した『百科全書』であった。フランスの多くの啓蒙思想家がその執筆にあたったので彼らを百科全書派
ともいう。また、ケネーは『経済表』を著して重農主義を主張し、
イギリスではアダム=スミスが『諸国民の富』を著して重商主義を批判し、産業革命による資本主義経済への移行を理論付け、古典派経済学の理論を打ち立てた。


啓蒙思想は、近代社会誕生の「産婆」役を担っていた。ルソーやディドロの思想はやがてフランス革命を生み出すことになる。同時に絶対王政を維持したい君主たちも、「上からの改革」の必要を察知し、啓蒙思想に学びながら支配を合理化するという「啓蒙専制君主」が現れた。プロイセンのフリードリヒ2世(大王)、オーストリアのヨーゼフ2世などがその典型であった。


 現代の日本のイギリス史家近藤和彦は、18世紀のキーワードとして「重商主義・啓蒙・公共圏」をとりあげ、その中の「啓蒙」について、次のようにまとめている。

(引用)啓蒙は、古代とイスラームの遺産を受けついだルネサンスいらいの合理主義・科学が成熟点をむかえた17世紀末~18世紀に、ヨーロッパの知の基調をなした。これは西欧文明が、近世に新しく拡大した世界のすべてを理解しなおそうというと欲した渾身の自己了解の試みであり、古代以来の知を組みかえ、展開すべき先端哲学であり、総合科学である。理性に照らしあわせてみずからの非合理なものを敗走とした実学であり、歴史や伝統、そして信仰を相対化する普遍主義であり、知と理性を信じ、現在の文明に自負をもち、未来を楽観する進歩思想であった。これは基本的に世俗合理主義であり、キリスト教の枠内にとどまる場合は理神論にかたむいた。<近藤和彦『文明の表象 英国』1998 山川出版社 p.127~128>

 さらに近藤氏は、啓蒙を考える場合のポイントとして次の三点をあげ、具体的に説明している。

世界市民的(コスモポリタン)ひろがり 
国際的な都会人と情報のネットワーク。ヴォルテールはイギリスやプロイセンに滞在し、ディドロはペテルブルクに旅行し、ヒュームはパリの大使館に勤務、アダム=スミスがルソー、ケネーらと文通していたころ、
ギボンはローザンヌとイギリスを往復し、ネッケル夫人と恋愛し、ローマの廃墟で『ローマ帝国衰亡史』を着装した。このような知的エリートだけでなく、ユグノーやフリーメイスン、そして普通の商人が全ヨーロッパ的・環大西洋的に活動した。芸術ではドイツのレッシングが熱心にイギリス文学を紹介し
ヴィヴァルディの楽譜がアムステルダムで刊行され、バッハがそれを研究した。
モーツァルトはザルツブルクに生まれ、マンハイム、ミュンヘン、パリ、ロンドン、アムステルダム、イタリアの諸都市をまわり、ウィーンで死んだ。フランクリンやトーマス=ペインのようにヨーロッパとアメリカの英領植民地の双方で活躍した。
実学としての性格 文芸的であると同時に政治的出版、世論/公論の発達と表裏一体であった。アンシャンレジームのもとにあったヴォルテール、モンテスキュー、ルソーはイギリスの立憲政治や中国の文物を表象として捉え、宗教や諸制度の非合理を批判した。『人生論』のヒューム、『モラル感情論』のアダム=スミス、『経済表』のケネーも文通、相互批判をしながら社会と経済を分析した。スミスの『諸国民の富』と同じ1776年に刊行された『統治論断片』でベンサムは「最大多数の最大幸福」を論じ、その著作はフランス語にも翻訳され、全ヨーロッパに普及した。
先端総合科学としての博物学 新しく獲得された非ヨーロッパのめずらしい文物を知り、理解するための調査・学問が発達した。スウェーデン人リンネは生物の分類を確立し、同じくスウェーデン人博物学者兼宗教学者スウェーデンボルクは西欧を遍歴し、ロンドンで死んだ。イギリスのクック、フランスのブーガンヴィルの太平洋・オセアニア探検には博物学者や画家が同行した。ビュフォンの『博物学』も18世紀的知識の普及に大きな役割を果たした。博物館・植物園が造られたのもこの時期であり、大英博物館は1753年に発足し、王立植物園は1759年に設立された。ウィーン、ペテルブルク、パリにも博物館・美術館が開設された。

百科事典の編纂 こうした啓蒙の三つの側面の集大成として生まれたのが百科事典の編纂である。最初に1728年にはロンドンで、E=チェインバースの『百科事典』が刊行され、フランスではディドロ、ダランベールらによる『百科全書―科学・芸術・職業の理論的な事典』が1751年から刊行が開始された。『ブリタニカ百科事典』は1768年から刊行が始まり、その改訂は今に続いている。
宗教と世俗化 啓蒙は一般的に世俗化を意味した。フランスではアンシャンレジーム期に教会・戒律離れが進み、イギリスでは名誉革命の寛容法とその後のホイッグ体制のもとで、国教会低教会派(非国教徒との妥協を図る派)とプロテスタント非国教徒の連携
がなされた。それに対する国教会高教会派(非国教徒の排除を主張する派)はたびたび反発して騒擾を起こしている。<近藤和彦『文明の表象 英国』1998 山川出版社 p.128~133> ”


急進的な社会改革思想を持ち、
徹底した自由と平等を唱え、
反キリスト教、
反王制を唱え、一種のアナーキズムを主張した。
そして、原始共産主義的な共和制国家の樹立を主張した。


この結社は創立当初においては、そんなに過激な結社だったわけではない。
また、初期においては政治的な色彩も薄かった。
 創立時においては、学者の知的サークル的な色彩が強かったのである。

 イルミナティの創立者のアダム・ヴァイスハウプトは1748年バイエルン王国のインゴルシュタッドで生まれた。
 彼の父親のヨハン・ゲオルグ・ヴァイスハウプトは著名な法学者であり、インゴルシュタッド大学に、わざわざ呼ばれて教授となった。
 …
 インゴルシュタッド大学がイエズス会の強い支配下にあったがゆえに、アダム・ヴァイスハウプトはイエズス会式の教育を余儀なくされた。

 しかし、彼は
フランスの啓蒙主義や
百科全書派の書を読みふけるようになり、次第に
反イエズス会の思想に染まってゆく。


 1773年のクレメンス15世によるイエズス会の解散命令は、一つの契機だった。インゴルシュタッド大学では、この事件は逆にイエズス会系の学者達を団結させ、彼らは非イエズス会の学者達に圧力を加えるようになった。
 そのため、 アダム・ヴァイスハウプトは一時期、大学での講義を禁止され、ミュンヘンに逃げるまでになる。
 彼が自由主義の秘密結社の設立を決心した大きな原因が、このイエズス会による迫害にあったことは、間違いない。

 初期のイルミナティの位階は単純で、新参入者、ミネルヴァル、ミネルヴァル天啓の3つしかなかった。
…。
 参入者は団員の紹介が必要である。そして、「保証人」がつく。保証人は新参入者を観察し、彼が団の規則を守っているか、道徳的に正しい人間であるかを調べ、毎月それを書類にして団の上層部に提出する。また新参入者も、同様に自分の保証人について観察を行い、これを上層部に提出しなければならない。
 要するに「相互監視制度」があった。これは実はイエズス会の真似であり、ヴァイスハウプトは反イエズス会を標榜しながら、その影響を強く受け続けていたのである。
 新参入者からミネルヴァルに昇進するときは、イニシエーションが存在した。ここで彼は上層部の幹部から祝福を受け、「戦士名」を授かった。
 そして、仲間の監視報告の他にも日記の提出が義務付けられた。

 そして、下級団員達には、上層幹部のことは絶対に秘密であり、首領の「スパルタクス」の正体を知っているのは、一部の側近達だけだった。
 彼らはしばしば集会を行い、
反イエズス会や啓蒙思想の本を回覧したり、情報交換を行った。
 そして、
独自の暦を作り、これを用いていた。


 彼はベルリンの大ロッジにスパイを送り込み、まんまとロッジの認可証を手にれるや、ミュンヘンのロッジを乗っ取る。
 さらに、アドルフ・ファン・クニッゲ男爵の入団によって、イルミナティは大きく変貌する。
 クニッゲは、もともと高位メーソンであり、フリーメーソンの知識や人脈を豊富に持っていた。そのうえ、思想は
啓蒙主義的
であり、ヴァイスハウプトと意見があった。

 クニッゲは、組織の位階制を13位階以上から構成されるメーソン風の複雑なものに変えた。これは1782年に正式に認可される。
 さらに彼はメーソンの人脈を利用して、ドイツ各地の小ロッジを次々に乗っ取った。

 さらに、この巨大化と共に、イルミナティは政治色を強めてゆく。それも
急進的な反王制、
反教会的な革命
を含んだ政治思想である。

原因は、イルミナティを巨大化させたクニッゲ男爵によるところが大きい。彼は貴族でありながら、
反王制・共和主義者
であったのだ。

クニッゲは暴力革命には、はっきりと反対の立場を取っていた。

国家転覆を目指すようなことは考えない。我々はあらゆる暴力を否定する。暴力的な革命はろくな結果を生まない。我々はゆっくりと、政府の高官や支配階級に団員を送り込み、あるいは彼らを
教育して同志とし、ゆっくりと国家を改造する。
最終的には「国」は消滅し、戦争の無い、人民が一つの家族となる時代が来よう。
 それには数千年かかるかもしれないが、それでも構わない。
 
 さらに、クニッゲ男爵は、実はこの既存の国々を統一し、一つの国を作るという発想は、当時バラバラだったドイツを統一する程度のニュアンスしかなく、全人類レベルのような大それたことは考えていなかったらしい。

反イエズス会の態度は、教会をも敵にまわす事になる。

 イルミナティの成長は早かったが、崩壊も早かった。
 1777年にマクシミリアン3世が死去すると、イエズス会が勢いを盛り返した。
 インゴルシュタッド大学でも大規模な反動が起こり、廃止されていた本の検閲と禁書制度が復活した。
 この結果、イルミナティはパヴァリアからの撤退を余儀なくされ、本拠地をワイマールとウイーンに移す。文豪のゲーテ(戦士名はアバリス)が入団したのも、この頃である。
 さらに、ライバル結社との抗争も激化する。フリーメーソンの反撃によってフランクフルト進出に失敗。
 そして、ベルリンにおいては、かの
黄金薔薇十字団が最盛期を迎えており、彼らはドイツ皇帝を動かしてイルミナティに圧力を加えた。
 そして、最悪なことに、この大事な時期に、イルミナティ内部で深刻な内部抗争が勃発した。
 首領のヴァイスハウプトは、クニッゲ男爵の影響力が強くなりすぎたことに反発し、男爵から全ての権限を取り上げようとした。当然、男爵はこれに反発し、命令を拒否する。
 そして、この両者の決別が、事実上のイルミナティの崩壊であった。1784年のことである。
 クニッゲ男爵は退団し、その後はあらゆる秘密結社を否定する論者となったしまう。

 とどめは1785年にさされる。まず、「政府の許可無く組織を作ることを禁止する」という禁令である。

 ヴァイスハウプトはレーゲンスブルクに亡命し、イルミナティの弁護の著書を次々に出したが、無駄であった。この頃、彼は私生児を設け、これを堕胎させた。
 これは結果的に赤ん坊殺しのスキャンダルに発展し、終いには「イルミナティでは赤子を生け贄にする黒ミサを行っている」というデマまで生まれた。
 …
 そして、狂信的な反フリーメーソン論者として知られたバリュエル神父やロビンソン教授らが、イルミナティを悪魔崇拝の政治的陰謀結社とする本やパンフを撒き散らした。
 (彼らの撒き散らしたデマを信じる人間が現在もなお居るのは、何ともやりきれない)
 …
 ヴァイスハウプトは、その後も、ほうぼうを亡命しなら著作活動続けたが、ドイツ中部のゴータ公領に逃げ込み、彼の支持者だったエルンスト公爵に庇護され、そこで余生を過ごした。1811年に彼は死去した。

 彼は社会的な平等を唱え、
全ての人間は「王(神?)」になることができ、
そのためには自己の意志に忠実に生きなければならないとした
。なにか妙にクロウリーを思わせる思想である。
 彼の理想は古代の家父長制度による原始共産主義的な社会であり、
封建君主や教会制度はそこに至るための過渡的なものと捕らえていた。
 こうした制度を排し、
一般大衆に「啓明」を与え、先の原始的なユートピアを作ろうと考えた。
 これは非暴力によって行われなければならないが、どうしようもないときは革命も仕方無いと考えていたふしも否定はできない。
 とはいえ、ヴァイスハウプト自身は、政治活動にはあまり関心がなく、あくまでユートピア建設思想を育むために、
団員の徳の向上をはかることがイルミナティ創立の目的であった。

 かのカリオストロ伯爵がローマで逮捕されたおり、苦し紛れにイルミナティなる国際的巨大な陰謀結社があり、自分はその命令通り動いていただけだ、というホラ話しをする。

 そして、ドイツで壊滅状態に陥ったイルミナティの難民としてヨハン・ヨアヒム・クリストフ・ボーデなる男が、ミラボー伯の手引きでフランスに現れる。ミラボーは、彼をフランスのメーソンの顧問的指導者にしようとする。
 当時フランスのフリーメーソンはオカルト色が強かった。ボーデはこれを排そうとする。

 しかし、カバラの替わりに政治思想を、ヘルメスの大作業のかわりに暴力革命を持ち込もうとする彼らの思想ははなはだ不評であった。
 それでも、一部の小ロッジの中には、彼らの影響を受ける者もいたが、やがてそこからはジャコバン党のような連中を生み出し、フランス大革命後の血なまぐさい大混乱のさなか、彼らは多くの人々をギロチンに送り、やがて自分等も自滅してしまうのである。
 また、フランスの各地でも、イルミナティを名乗る結社がいくつか作られた。
 しかし、言うまでも無く、これらの結社は、ヴァイスハウプトの正統なイルミナティとは何の関係も無い。勝手に「イルミナティ」の名を名乗っているだけだった。
 結局、こうしたささやかな団も長続きはできずに消滅した。

 しかし、「イルミナティ」の名前だけは生き残り、創立者のヴァイスハウプトの思想とはかけ離れた怪物化がなされ、今もなお一人歩きを続けているのである。 ”
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/mason/iruminateli.htm
イルミナティ(パヴァリア啓明結社)の興亡
私が全記事読むように言ったサイトより。



ここから薔薇十字

薔薇十字系の本のメモ発見したら追加。

クリストファ・マッキントッシュ『薔薇十字団』だけは読んでくれ、頼むから!
マッキントッシュのだぞ!


なんでもはしませんから!

読めない人は、

薔薇十字記事シリーズ

9.薔薇十字団運動とアンドレーエ
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/barajuuji.htm

にある記事を全文嫁、婿!
この記事の典拠の一つが、ジョブズとウォズのあのPCではなく、人間が著した上記の本ね。


薔薇十字思想の
カトリックとプロテスタントを相互に越境できる理想の王国
実現のための活動のの具体例ってエキュメニカル運動?


薔薇十字の起源は
「反カトリックのドイツのルター派プロテスタント牧師(しかも錬金術師=科学者)。

薔薇十字文書を作ったグループは、
チュービンゲンのルター派の学者達で、
キリスト教神秘主義と革命思想を持つ。」

反カトリック
神秘主義(異端寄り)
ルター派
錬金術=科学技術=既存のキリスト教視点では「悪魔崇拝」。
ドイツ語
しかも薔薇十字の起源の本が出たのが、ヘッセン・カッセル(笑)

カトリック系の薔薇十字団は本流ではないことに注意!
表向きカトリックでも中身がカトリックか怪しい団体も存在することに注意!

(イスラームでは科学研究は悪魔崇拝ではないので科学が発達!以下長くなるので割愛)


(薔薇十字正統会員ってのはこの人ね。どう見ても裏社会の人)




(メンバーだと自分で公表するのはOKらしい。
薔薇十字ってたくさんあるからどこかわからない)








(複数の結社に入っている)









(えいこって元スピ信者といっているけど、スピカルトの悪いところが抜けてない人ね。
この↓丸に十字一覧を作ってくれたことには感謝しているけど、他はお花畑から抜け切れていない印象。元信者だからって思想が信者でなくなっているとは限らない好例。





(大使館が薔薇十字、というか文字通りバラorユリ。
大使がスパイなのは割とある)





(フランス系薔薇十字結社には少なくも属しているらしい。
ツイートを見ればわかるけど、この人は右目側。
統一教会とKCIAとCIA系を叩くの目立つから右目側。)



















参考資料








698夜『薔薇十字団』クリストファー・マッキントッシュ|松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/0698.html
”最初の問題は、ゲーテの「十字架に薔薇をからませたのはいったい誰か」という疑問にこたえるためにある。
 歴史上の薔薇十字団の出発は、ドイツのカッセルで1614年とその翌年に出版された2冊の秘密パンフレットに由来する。これはクリスティアン・ローゼンクロイツなる人物が創設した「友愛団」の存在をあきらかにするためのもので、
それぞれ『称賛すべき薔薇十字団の名声』および
『友愛団の告白』というタイトルがついていた。
神秘主義ギョーカイでは前著を「ファーマ」、
後著を「コンフェッシオ」とよぶ。まとめて「宣言」ともいう。
 いまではクリスティアン・ローゼンクロイツなる人物は架空の者だということがわかっている。だからこれらは他愛のない偽書でおわってもよかったのだ。
 ところが1616年にドイツ語で綴られた『クリスティアン・ローゼンクロイツの化学の結婚』という物語形式の一冊が世に出るにおよんで、この幻想文学めいた物語が匿名で出版されたにもかかわらず、その影響は燎原の火のごとく波及した。
1614年から1620年のあいだのたった6年間だけで、なんと200以上の文書が乱れ飛んだのだ。それでどうなったのかというと、一言でいえば、薔薇十字団が“実在”することになったのだ。
 しかも、「ファーマ」と「コンフェッシオ」と「化学の結婚」は一人の人物、ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエによってすべて文書化されていたことがあきらかになった。


 ヨハン・アンドレーエという男は誰なのか。
 この男はなぜにまた「クリスティアン・ローゼンクロイツが薔薇十字を象徴とする友愛団をつくった」などという、とんでもない空想を綴ったのか。
 いや空想だけなら、稀代の幻想文学の傑作として終わってよかったのである。ところが、そうはならなかったのだ。アンドレーエ自身も、これらを物語に終わらせるつもりがなかったようだ。

 フランセス・イエイツもそういう叙述をしていたように、アンドレーエの祖父のことから入ったほうがわかりやすいだろう。
 祖父はカトリックから改宗したプロテスタント運動の指導者で、“ヴュルテンブルクのルター”として知られている。テュービンゲン大学の学長も務めた。18人の子がいて、その7番目の子にやはりルター派の牧師が登場し、錬金術に強い関心をもった。その錬金術的牧師の子がアンドレーエだった。
 時代背景と文化地理をちょっとだけ覗いておくと、テュービンゲンはネッカー川を望む美しい大学都市で、ヴェルテンベルク公フリードリヒ1世が慎ましい宮廷文化をつくっている。ただし、この町はプロテスタントに溢れていた。
 近くのオーストリアはハプスブルグ家に司られた神聖ローマ帝国型のカトリックである。帝都プラハには魔術好きの帝王ルドルフ2世の異様な文化が栄えていて、複数宇宙論を唱えたジョルダーノ・ブルーノ、ヨハネス・ケプラー、エリザベス女王を操ったジョン・ディーなどが頻繁に訪れていた。
 プロテスタントのテュービンゲンと、魔術的ではあるがカトリック・ルネサンスをまだ継承しているプラハ。
この二つのあいだは、それでも緊張のない温和な関係がつづいていたのだが、フリードリヒ2世の反宗教改革がおこってからは、ここに歪曲と対立と越境が始まった。
 アンドレーエはそういうテュービンゲンで、父の錬金術志向を浴びながら育ったのである。

 父を継いでルター派の牧師となったアンドレーエは、17世紀に突入しつつあった巨大な時代変化を感じていた。
 そこで「テュービンゲン・サークル」に入り、新たな時代を築くにはプロテスタントとカトリックを相互に越境できる理想の王国をつくることをしだいに夢想するようになる。テュービンゲン・サークルの中心には、クリストフ・ベゾルトという異能の者がいた。ヘブライ語をふくむ9ケ国語に通じ、グノーシス主義・カバラ・錬金術に長けていた。だいたいこういう男が事態を輻湊させていく。オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイ』の脇役のように。
 案の定、アンドレーエはベゾルトに感化され、最初は有名なユートピア物語『クリスティアナポリス』などを書いていたのだが、やがて“秘密の結社”という魔力に取り憑かれる。アンドレーエは最初は1577年に創設された「親友協会」に関心をもち、ついで17世紀に入って創設された「豊饒協会」に、さらにはそれが改組されて発展したらしい「椰子協会」に出入りする。
こうした協会の幹部たちはたいてい鉱山の所有者か精錬業者の親玉たちで、その錬金術っぽい思索と方法の成果が「アーカ」とよばれる秘筥に保管されていた。かれらは“黄金生成”を夢想していた超技術集団だったのだ。

 アンドレーエが、クリスティアン・ローゼンクロイツなる人物が薔薇十字を戴いた友愛団をつくったという空想物語を思いついた背景で事実としてわかることは、とりあえずここまでである。
 したがって、薔薇十字団という秘密結社が歴史的に“実在”していたという証拠は、ここまでのところは、まったくない、しかしながら、それが歴史の中でだんだん“現実化”していってしまったのだ。なぜなのか。
 たしかにアンドレーエは、この物語を巧妙にでっちあげた。以下にごくおおざっぱな概要をしるしておくが、これではみんな騙されるにちがいない。

 そもそもクリスティアン・ローゼンクロイツは1378年のドイツ貴族の生まれだと書いてある(この年代はカトリックのシスマがおこり、ニコラ・フラメルの錬金術が形づくられた時期にあたる。ヨーロッパ人からは一番遠くて、わかりにくい設定になっているのが、やはり巧妙だ)。
 16歳で聖地巡礼を企て、キプロスで指導者に出会ったが死に別れた。そこでやむなく一人で旅を続け、ダマスカスでアラビアの賢者に出会い、エルサレムに向かうことを放棄して(こういうところがうまい)、イエメンの町ダムカールに入った。
 ここでローゼンクロイツはアラビア語による知識をことごとく習得し、『Mの書』のラテン語訳
にとりくんだ(こうした幻の書を巧みに入れている)。3年後にエジプトに赴いて植物と動物の研究に熱中し、『Mの書』の研究者が集まるというフェズに行き、アデプト(達人・賢者)の知を存分に吸うと、その後はスペイン経由でドイツに戻り、広大な館をたて、そこで哲学と数学と自然学の研鑽に入った。
 やがてローゼンクロイツの噂を聞きこんだ同士や同朋が訪れるようになり、ここに「友愛団」の原型が生まれた。ローゼンクロイツは暗号言語(!)を考案して、さらに象徴的なパビリオン「聖霊の館」を建設する。やがて仲間をよく選ぶと、6つの規則をもって次々に世界に散るように命じた。
 6つの規則が、なかなか奮っている。
 ①行き先の滞在国の習慣に従うこと(こういうところもうまい)、
②けっして特別な衣裳を着用しないこと、
③印章として「R・C」のグラフィック・パターンを用いること(これが薔薇十字)、
④無報酬で病人や貧者の治療にあたること(徹底したボランティアの哲学なのだ)、
⑤年に一度だけ「聖霊の館」に集合すること、そして最後に、
⑥むこう百年にわたって友愛団の存在を秘密にしておくこと、である。


 アンドレーエの作為による物語はまだ続く。
 そのうち2点を示しておく。ひとつは、『化学の結婚』に書いてあることだが、謎の人物クリスティアン・ローゼンクロイツは晩年になって山腹の洞窟に入り、復活祭の前夜に天使が降りてきて不思議な記号を届けるというふうになっていく。ローゼンクロイツは決意してまた旅に出る。
ここで3本のヒマラヤ杉、赤い薔薇を挿した帽子、賢者の石、金羊毛、風神メルクリウスなどの、数多くのシンボリック・アイコンが次々にあらわれる。のちにユングが異常な情熱をもって分析した集合的無意識を象徴する寓意に満ちたものばかりである。
 もうひとつは、ローゼンクロイツの死後、墓所がしばらくわからなくなったのだが、その墓所が「隠し扉」とともに(こういうところも沸かせるところなのだ)、館の跡から発見されたというふうになっていく。そこは神秘的な丸天井の地下埋葬所で、円形の祭壇には遺骸が安置され、片手に羊皮紙に金文字の書物を持っている。その書物の文章は末尾がすべてラテン語になっていて、どうやらその内容は世界の縮図が綴られていたはずなのである。
 しかし、この墓所が発見されたあと、そこはふたたび閉じられ、いまは同士たちの子孫が世界に散っているはずなのだ‥‥。

 ローゼンクロイツの実在性を匂わせるのもさることながら、それだけではなく、たとえばパラケルススは薔薇十字の友愛団と似たような考え方をもっていたが、その盟約には入らなかったといったような、まことしやかな経緯をあれこれ書きこんでいるため、ついつい本気にさせられる(実際にはパラケルススが薔薇十字に関心を寄せたのではなく、アンドレーエがパラケルススの影響を深くうけて薔薇十字を思いついたのである)。
 子孫がいまも散っているというのも、この手の伝承では絶対に欠かせない。

 ただし、ゲーテが投げかけた「十字架に薔薇をからませたのは誰か」という疑問については、その仕掛けのすべてがヨハン・アンドレーエだったというわけにはいかない事情がある。
 なぜなら、アンドレーエは当時知りうるかぎりの神秘的知識を古代からも中世からもルネサンスからもブラウジングして、これを徹底的に編集加工していたからだ。そこにはおそらく多くの編集団がいたのではないかとおもわれる。

 アンドレーエが『化学の結婚』のなかで書いた神秘思想は、その淵源をグノーシス主義にまでさかのぼることができる。

 グノーシス主義についてはいずれ別の書物の紹介を通して書いておきたいとおもっているが、ごく簡単にいうと、紀元前4世紀ころのエジプトに芽生えたとおぼしい融合力に富んだ神秘哲学で、宇宙の本質を霊魂と物質に二元的に分け、物質世界はデミウルゴスという下位の神性による創造であるが、人間に宿った知的な精神世界は宇宙的な霊魂そのものが分出させたものであるから、人間の「知」はいつしかデミウルゴスの頸城を破って宇宙霊魂と人間精神が重なる方向に向かって融合するであろうと説くものだ。
 この融合の兆を継げるメッセージが「グノーシス」とよばれるもの、すなわち「霊知」なのである。グノーシスは天界から人界に洩れてきた兆候でもあった。
 霊知についての予告は、その後、ヘルメス・トリスメギトスの著作とともに(これがいわゆるヘルメス文書=むろん偽書とされている)、後世に伝えられたというふうになっている。
 その後のグノーシス主義はヘルメスの知を媒介に、ピタゴラス主義、新プラトン主義をへて、さらにユダヤ教カバラの神秘思想に結びつき、これらが総じてルネサンスの中で復活再生させられた。そのときのプロデューサーはコジモ・ド・メディチ、ディレクターはマルシリオ・フィチーノ、編集拠点は「プラトン・アカデミー」と名付けられた。
 ここからフィチーノの弟子のピコ・デラ・ミランドラ
などが輩出していった。いずれも「汎知学」ともいうべき「霊知」を求める探求である。

 やがて、これらがドイツに飛び火する。
 もともとドイツは、1190年代にヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルツィファル』(この物語は『化学の結婚』といくつもの共通点をもつ)に見られるような「聖杯伝説」と、神秘的で使命感に富んだ「騎士団の伝統」をもっていた。
 そこにグノーシス主義やカバラや錬金術が加わって、ロイヒリンやアグリッパやパラケルススといった傑出した神秘化学思想ともいうべき蓄積をつくっていったから、たまらない。いっさいの神秘の対象が身体的にも宇宙論的にも現実味を帯びたのだ。
 アンドレーエは、仲間たちとともにこれらすべてを編集加工したといってよい。
 とくにこのような汎知的なグノーシス主義の成果が薔薇十字団の思想に便利なのは、人間の知はデミウルゴスによって幽閉されているものの、それがいつかは突破されて神の英知と融合するというふうになっているところである。

 すでにのべたように、アンドレーエの3つの文書が出た直後からの6年間だけで、薔薇十字団の噂があっというまにヨーロッパ中に広まった。むろんこれを怪しむマラン・メルセンヌ神父やガブリエル・ノーデといった知識人も少なくなかったが、イギリスのロバート・フラッドや化学者ロバート・ボイル
SF文芸の始祖ともいえるジョン・ウィルキンズらが、またドイツの錬金術師ミヒャエル・マイアーがそうであったように、薔薇十字団を実在の秘密結社とみなす者ははるかに批判者を上回っていった。
 もはや薔薇十字団と薔薇十字運動は、すべての西欧神秘主義の宿命を担ったままに一人歩きしてしまったのである。
 理由は難しいところにあるわけではない。
 この時代、たとえばアイザック・ニュートンがそうなのだが、錬金術はまさに科学の魂であったのだし、まだヨーロッパには各国語が確立していないために、あらゆる言語文字表現はその大いなるルーツを争っていたのである。つまり神秘を取りあっていたのだ。すなわち、すべての科学と言語学と地理学と神学が、どちらにせよ薔薇十字的な思索と仮説と探求の中にごった煮になっていたわけなのである。当然に、薔薇十字の物語はかれらの関心の的になっていったものだった。

 18世紀になっても、この蠢動は収まらなかった。マリア・テレジアのウィーンには1万人の錬金術師がいたとされるのだが、そこではあいかわらず薔薇十字団の噂はもちきりであり、ときに霊液を呑んでいるといったサン・ジェルマン伯爵のような奇怪きわまりない人物があらわれると、たちまち薔薇十字団の隠れた本拠がそのへんにあるらしいというふうになっていったのである。
 そこへフリーメーソンの運動が絡んでいった。1717年にロンドンにグランド・ロッジが結成されると、フリーメーソンの活動にいくつものロッジと会員が生まれるのだが、それがたえず薔薇十字団との類縁関係を取沙汰された。さらには金属変成を好んだというテンプル騎士団の末裔がここに交ざっていった。
 これではもはや、とうてい収拾がつかない様相である。
 薔薇十字運動が退嬰しなかった理由が、もうひとつある。それは理性主義や啓蒙主義の台頭によるムーブメントにあきたらない人士を、「反理性」のサークルとして巻き込んだという事情である。どうみても「理性」と「霊知」は対立する以外になくなっていた。理性に反抗する「知」の多くが薔薇十字派とみなされるにいたったのだった。

 こうして、フリードリヒ・ヴィルヘルム公のような、フリーメーソンであって薔薇十字団の会員となったとされるような王侯貴族たちが、ついに薔薇がからまる十字のシンボリズムの内側に入ってきた。ヴィルヘルム公はよく知られているように、アマデウス・モーツァルトの庇護者であった。
 加えてドイツ・ロマン主義の夜陰の波涛のようななだれこみがある。それらは必ずしも薔薇十字の思想を標榜するものではなかったけれど、薔薇十字的なるものを否定したり迫害するものでもなかった。ゲーテの『ドイツ移民の神秘の物語』やシェリーの『セント・アーヴェンあるいは薔薇十字団員』にみられるように、薔薇十字幻想はあたかも民族の記憶や地域の伝説として、欠くべからざるものにさえなったのだ。
 ゲーテの『ファウスト』第2部がアンドレーエの『化学の結婚』からいくつものコントを得ていたことは、すでに何度となく指摘されてきたことだ。


デカルト、コメニウス、ベーコン、ゲーテはもとより、かのライプニッツさえ薔薇十字問題には注意を払ったのである。イエズス会が薔薇十字団の隠れ蓑だといわれた時期もあった。
 …
参考¶薔薇十字団あるいは薔薇十字運動についての本格的研究はまことに少ない。すでにのべたようにフランセス・イエイツの『薔薇十字運動の覚醒』(原著1972・翻訳1986工作舎)は初期の実情研究で、種村季弘の『薔薇十字の魔法』(1975出帆社)は中世から近世にかけてのオカルティズムの特質そのものを扱っていて、詳細な個別研究ではなかった。またルドルフ・シュタイナーに『薔薇十字会の神智学』(平河出版社)が、マンリー・P・ホールに『カバラと薔薇十字団』(人文書院)があるものの、これらも神智学的展望や神秘主義的象徴哲学に重点があって、歴史の中の運動に焦点が当たっているわけではない。そうしたなかで、歴史を扱って、かつ入手しやすい2冊が翻訳出版された。ひとつがロラン・エディゴフェルの『薔薇十字団』(白水社・クセジュ文庫)で、もうひとつが本書である。なお本書にはコリン・ウィルソンのオカルト現代史から眺望した序文がついている。 ”

スクリャービン「プロメテウス」と神智学
https://blogs.yahoo.co.jp/museion2013/32722099.html

バッハ「14のカノン」
https://blogs.yahoo.co.jp/museion2013/33191686.html
” バッハは数字にこだわった作曲家の一人で、カバラの数秘術に親しんでいました。カバラは、ユダヤ教の秘教で、レコンキスタによってスペインを追われたユダヤ人がヨーロッパ各地に散らばり、カバラの知識が人々に知られるようになりました。
14という数字は、バッハの名前BACH=2+1+3+8=14であると解釈されています。”

サティと薔薇十字団
https://blogs.yahoo.co.jp/museion2013/33587995.html
” フリーメーソンや神智学、カバラと音楽家の関わりを書きましたので、もうひとつ、薔薇十字団に触れておきましょう。
 エリック・サティ(1866~1925)は薔薇十字団に加入し、薔薇十字のための音楽も書きました。
「薔薇十字教団の最初の思想」
「薔薇十字教団の鐘の音」
また、次の曲も思想的に関係しているでしょう。
「至高存在」のライトモティーフ
「天国の英雄的な門への前奏曲」

 サティが加入していたのは、正しくは1890年にペラダンが設立した「カトリック薔薇十字聖杯神殿教団」、略して「カトリック薔薇十字団」と呼ばれる団体で、1888年にガイタが創始した「薔薇十字カバラ団」から分岐したものなので、ちょっとややこしいのですが、これらは19世紀になってたくさん現れた薔薇十字系の団体です。
 …
イタリア・ルネッサンス思想がドイツに波及するのですが、もともとドイツには「聖杯伝説」があり、エックハルトがいました。そこにグノーシス主義やカバラや錬金術が加わり、「薔薇十字運動」と呼べる潮流になっていったわけですね。

 「薔薇十字団」はフリーメーソンやテンプル騎士団との関わりもあるようで、シュタイナーやユング、イエイツ、ブレイクも強い関心を寄せています。
モーツァルトの庇護者であったフリードリヒ・ヴィルヘルム公爵は、フリーメーソンであり薔薇十字の会員でもありました。
ドイツ・ロマン主義も薔薇十字を否定するものではなくて、ゲーテの「ファウスト」第二部はアンドレーエの「化学の結婚」からいくつもの題材を得ていますし、シェリーの「セント・アーヴェンあるいは薔薇十字団員」のように、文学の背景として欠かせないものとなりました。
19世紀のベールギーとフランスの象徴主義も薔薇十字の影響を受けており、
ベルギー象徴派のジャン・デルヴィルは薔薇十字のペラダンと知り合い、薔薇十字展に出品していました。ぺラダンのまわりにはサティの他にモローやルオーなどもいて、「カトリック薔薇十字団」は当時のデカダンス芸術家たちのサロン、プロデュースのための団としても機能していました。
シェーンベルクの「ヤコブの梯子」はシュタイナーの神秘劇と密接な関係があるとされますが、「ヤコブの梯子」とは薔薇十字文書で言及される、神と接触するための方法を指しています。

現在も、薔薇十字を名乗る団体は存在しています。フリーメーソンに入会するためには、すでに会員になっている友人がいなければなりませんが、薔薇十字や神智学は誰でも入会することができます。でもそれをお勧めするわけではありません。不完全な人間が集まるところには必ず問題も生じるからです。

サティは「カトリック薔薇十字団」を脱退したのち、自ら「主イエスに導かれし芸術のメトロポリタン教会」を設立しました。信者は彼一人でした。”

Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 4時間4時間前

上の人が席を譲らないと下のひとが大人にならない法則~。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 4時間4時間前

座席も大切なリソースなのだから、早めにあけられるのならそれに越したこともなく。
0件の返信 1件のリツイート 2 いいね
Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 4時間4時間前

引退はできるだけはやくしたいな。できれば50歳までに。そのほうが周囲に迷惑がかからず、しかも残りの人生をたくさん楽しめるから。
0件の返信 2件のリツイート 4 いいね
Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 4時間4時間前

ゲームのほうはしらないけど、これはもしかしたらアプロディテーの問題と同じなのかな? 性愛への理解と認識の問題。
0件の返信 0件のリツイート 2 いいね
Angeliqua@nap masterさんがリツイート
ヴェールヌイ(CV上坂すみれ)@ちきちき‏ @Fate_TKTK 7時間7時間前

ヒンズー教の人からFGOのパールヴァティーの扱いが怒られたらしい。
http://www.rajanzed.org/upset-hindus-urge-removal-of-goddess-parvati-from-fgo-mobile-game-where-she-is-a-servant/ …
25件の返信 5,007件のリツイート 1,927 いいね
Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 8時間8時間前

本物の証拠を完全に隠すことに成功すれば、こういった「儀式的密閉」の手順は聖櫃を形成する。あとはこれをシンボルとして使うだけなので。
0件の返信 1件のリツイート 4 いいね
Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 8時間8時間前

伝説が完全に根付いてしまうともはやご本人が存在したかいなかなんて関係なくなるの。
0件の返信 1件のリツイート 4 いいね
Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 8時間8時間前

そのひとが聖化され伝説になるようにしたいのなら、ご遺体や生きていた証拠品をみんなかき集めて密閉し、お墓を転々と移動させるのがいいでしょうね。数十年に一回そのようにして、最後は元の一族が管理してる別の場所へと運ぶ。そうしたうえで誰も本当のお墓を知らないようにしてしまうのです。
0件の返信 1件のリツイート 4 いいね
Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 8時間8時間前

シュプレンゲルがシュプレンゼルになってた。だれ?
0件の返信 0件のリツイート 0 いいね
Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 8時間8時間前

これは恋愛についてもいえることなんだよね。真実なんてどーでもいいこと。だって本人が信じてるものがまさに真実だからです。
0件の返信 1件のリツイート 6 いいね
Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 8時間8時間前

エリック・ハウなどの歴史家がこてんぱんにいわれる理由ってそういうことだと思うの。密閉、つまり秘密にすることの意味やそれで得られる膨大な力のことを全く理解していないからです。
0件の返信 1件のリツイート 5 いいね
Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 9時間9時間前

なので棺のなかをあけてからっぽなことを知っても「そうなんだ」と理解したらそのままふたを閉じます。それがハーメティックオーダーの作法ですから。
0件の返信 2件のリツイート 7 いいね
Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 9時間9時間前

その手の聖人やかみさまのお墓はいつもからっぽ。かれらは「儀式的手順」を通じて「密閉」されその存在力は潜在力へと帰っていくの。潜在力とはなかった状態のこと。なかったことにされること。ただ伝承だけ残ること。ある神話や伝説については本物が残るけれど多くの場合はきちんと「密閉」されてる。
0件の返信 2件のリツイート 10 いいね
Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 9時間9時間前

キリストのお墓、ましてやローゼンクロイツやアンナ・シュプレンゼルのお墓が発見されたなんてニュースがあったらわたしもびっくり。ハーメティックとはなんのことか理解されてないということなのだから。本物があってはいけないのです。(^^; あとのひとたちのために。
0件の返信 4件のリツイート 10 いいね
Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 9時間9時間前

伝説や神話には諸説あったほうがいいよね。だって現実になにか出てきたらファンタジーがなくなってしまうから。その神秘性こそ想像力をかきたて力の源となっているのだから本物がでてきたらまずいと思うのです。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 9時間9時間前

いまどきのサンタさんはその神秘性を保つためにどこにいても発見・追尾されないように人工衛星からも長距離レーダーからも隠れられるステルス機能を持ってそう。すると、ステルス素材や特赦塗料を扱う会社とお知り合いかもしれないです。
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Angeliqua@nap masterさんがリツイート
ナショナルジオグラフィック日本版‏認証済みアカウント @NatGeoMagJP 9時間9時間前

サンタクロースの墓を発見か、トルコの教会の床下をスキャンしたところ、墓らしきものの存在が示されました。 #サンタクロース のモデル、聖ニコラウスの墓かもしれません #ナショジオニュース #ナショジオ
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 9時間9時間前

ゲームなどでもあるじゃない? 宝物が変な場所にかくされてるというあれ。普通は探さないような場所に隠されていたりする。わたしがいう天使さまを探すのはそういうのです。ただ戦うという選択は当たり前すぎてゲーム(試練)にならない。だからいろいろな方法を探るの。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 9時間9時間前

うーん、試練かしら? たぶん。たまにそういうことあるけど。天使さまが隠れてる場所、きっとあるからそれをみつけるの。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 9時間9時間前

無理に戦わなくてもいいの。たぶんそれはほかによい道がある兆候だから。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 9時間9時間前

わたしも誰かのいたずらとかわがままでイライラってすることあるけど、そういうときはきっとチャンスが隠れてると思ってる。そのチャンスを見つけ出すのがわたしの才能と言われたことあるけど、それは天使の姿を見つけ出すことだと思うの。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 9時間9時間前

恐らくはそれが何かのきっかけになり、チャンスになるから。みすみすチャンスを逃すのは勿体無いです。(^^)
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 9時間9時間前

バチが当たるというよりもいろいろもったいないかも? ひとつのことに拘って心を痛めるよりもあっさりと諦めてほかに移ったほうがいいことありそうな気がするの。誰かをうらむくらいならそっと席を立つ勇気。
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Angeliqua@nap masterさんがリツイート
cnn_co_jp‏認証済みアカウント @cnn_co_jp 10時間10時間前

新種のハチ、ハリポタの悪役にちなみ「マルフォイ」と命名 NZ
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 10時間10時間前

ごはんべたらお出かけ。少し遠出しましょう。
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Angeliqua@nap masterさんがリツイート
長谷川弘江‏ @aliceami2 10時間10時間前

ファンタジー世界のヒーラーを目指す人は必携!千年前の薬草図鑑が無料公開される。ダウンロードもできるぞ!
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 10時間10時間前

いつも炉の火を絶やさないこと。灰を少しどければ熾き火になるように。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 10時間10時間前

コールドロン?
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Angeliqua@nap masterさんがリツイート
ヨシムラ マリ‏ @coromegane 21時間21時間前

私が今まで見てきたアウトプットのすごい人(絵でも文章でもなんでも)は例外なくインプットの量と質もハンパないので、どんな食材がきてもおいしくなっちゃうイイ出汁の入った鍋が、いつでもスタンバイOKって感じでくつくつしてるんだろうなぁ。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 10時間10時間前

マルクトのことをわからないのにイェソドのことがわかるなんて道理はないの。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 10時間10時間前

「木」は下から上へと昇る。このことは日常や物理的研究から開始するということを意味してるのだと思う。すなわち、いまある普通の学問を先に学ぶのが大切だと思います。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 10時間10時間前

物理法則(物理科学)はかみさまとしてわたしが捉えてる存在の物理的、現象世界での側面の研究。だから科学もわたしにとってはかみさまの研究なのです。物理世界はかみさまのもの。創造の結果として生じた世界なのだから部分的にしても関係ないはずもなく。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 10時間10時間前

わたしにとって神様を信じるというのは自然を信じることに他ならないから、もちろん自然法則がいつもきちんと働きますようにという意味でもあるの。さっきの比ゆならば冷蔵庫が壊れませんようにというお祈り。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 10時間10時間前

かみさまを信じたらゼリーだってかたまります。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 10時間10時間前

でも、ときたまいるよね。分量を正しく作って冷蔵庫にいれたプリンやゼリーを本当に固まるのか疑う子供たち。そうやって何度も冷蔵庫をあけるから固まらないのです。(^^;
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 10時間10時間前

願って、行動したらいつまでも覚えてはいない。~したから~が起こる、また報酬がもらえるなんて微塵も考えないの。だって神様のなさることを信じてるから、信頼してるからそれについてあれこれ悩んだりはしない。ボールを上に投げて「本当に落ちてくるかしら?」なんて悩む人はいないように。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 10時間10時間前

祈りってそういうものじゃないのかなって思ってる。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 10時間10時間前

善意による行動は神様への手紙みたいなもの。投函して目的を果たしたらそのお手紙は天国へとどくからもう地上とは関係がない。だから忘れちゃうのがいいと思うの。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 10時間10時間前

よいことをしたと思ったら、その瞬間に忘れます。悪いことをしたと思ったら覚えてるのがいいけど。
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Angeliqua@nap masterさんがリツイート
アドラーのことば‏ @adler187027 11時間11時間前

「自分は役立っている」と実感するのに、相手から感謝されることや、ほめられることは不要である。貢献感は「自己満足」でいいのだ。 by アルフレッド・アドラー
#アドラーのことば
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 11時間11時間前

知識には責任がともなう。本当にそうだと思うの。少なくとも知恵があるのならその理由ははっきりと理解されると思う。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 11時間11時間前

潮干狩りというのは干潮のときに行うけど、目的が貝ではなくてお魚さんだとしたら干上がってたら意味がない。だから潮の干満をもってそれが善とか悪、吉凶と断じるのは変だよね。つまりそういうことだと思う。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 11時間11時間前

物事のよいか悪いかは人間にとって、個人にとっての問題なの。神様にとってそれは関係がなくて、ただ大きな変化と小さな変化があるだけ。ある意味で波乗りだと思う。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 11時間11時間前

吉凶は表裏だから大きくなればその裏も大きい。小さいのならその裏も小さい感じ。これは波にたとえるとたぶん判りやすいかも? 大潮なら干満が激しいし、小潮なら緩やか。満ち干きは吉凶。そう考えるといいかもね。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 11時間11時間前

木星って腐敗したものもそのまま栄えてしまうからなぁ・・・。適度な火星も必要だったり。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 11時間11時間前

お料理をちょっと手伝ってきた。お友達におうちにとまってるのでゲスト扱いではなかったり。(^^;
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 11時間11時間前

RTがのびるのは絵がついてるほうじゃない? いってることは単純で同じでも、たとえ下手でも絵がついてるのならきっと何倍もRTは伸びると思うの。その理由は、想像するのが苦手な人が一定数いることを示してます。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 11時間11時間前

状況判断には強力な想像力が必要なの。論理でどうこうするのは複雑で大規模になってしまうと無理があるし時間がかかる。でも、具体的にイメージできるのなら簡単でもっと早い。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 12時間12時間前

エンタメですることも結局はプレゼンテーションだと思うの。詩で表現したり小説で表現したりもできるけど、やはり挿絵は必要ですし、全体が簡単に見渡せるというのは直接実感させるから説得力はとてもあります。とくにイメージングができないひとには効果抜群なの。
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Angeliqua@nap master‏ @Ripple1975 12時間12時間前

何度も繰り返し教えても理解されない場合、本人はそのことをヴィジュアライズできてないんだと思うの。何をしたら何が起こり、その先にあるのはどういうことなのかを実感しないと行動には移さない。ここでするのはプレゼンテーション能力の発揮で言葉のほうじゃないのです。だからわたしは絵を多用する





「薔薇十字団」 クリストファ・マッキントッシュ 平凡社
「薔薇十字団」 ロラン・エディゴフェル 白水社
「化学の結婚」 ヨハン・アンドレーエ 紀伊国屋書店
「薔薇十字の覚醒」 フランシス・イエイツ 工作舎
「キリスト教神秘主義著作集16」 教文館


例えを省くか検討した結果ここに来たやつ。

ペットボトルにコーヒー豆の成分を抽出した黒くて苦い液体が入っていて
中身が見えないように包装されていて
コーヒーとラベルが貼られているなら、
このコーヒーという名づけは適切。

逆に、ペットボトルと中身が見えないように包装されていて
コーヒーとラベルが貼られているなら、
当然、中身は
コーヒー豆の成分を抽出した黒くて苦い液体が入っていないといけない。
真逆の属性の、
白インゲン豆の成分を抽出した白くて甘い液体が入っていたら
当然
コーヒーという名づけは不適切。

要は、
コーヒーの条件がA,B、C、Dとあるとする。
非A(豆の種類)、反B(色)、反C(味)D(液体は共通)
なら当然コーヒーと呼ぶのは無知か詐欺である。

1785年に『コーヒー』(元祖)なる組織が解体されたとする。
21世紀に『コーヒー』(子孫?)なる組織が存在するという者がいて、
しかもそれは1785年に『コーヒー』に解体された組織の後継者
あるいは解体されたと思われたが実はひそかに存続していたとも主張しているとする。
当然、子孫は元祖の要素を付け継いでいないと『コーヒー』という名づけは不適切になる。
元祖はコーヒー豆、黒くて苦いなのに
子孫(自称)が白インゲン豆、白くて甘いなら
どうみても嘘だろう。
これが支配層の組織なら、『コーヒー』(盾)を名乗ることで、
コーヒー豆、黒くて苦いはたたかせつつ、
白インゲン豆、白くて甘いは擁護する戦略である。


ここからロクアカ
これそのうちロクアカ記事
『ロクでなし魔術講師と禁忌教典』(アカシックレコード)で学ぶ現実魔法。主人公もヒロインも耶蘇教異端派のシンボル側でワロス
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-165.html

に移動

・『ロクでなし魔術講師と禁忌教典』9巻


第一巻の敵が復活した。
表紙は第一巻を意識。
死と再生の儀式を経た敵だから今回は敵の勝利かと思いきや、
コピーだったので、死と再生の儀式を経ていないので敗北。
同一人物が死(か瀕死)と再生をしないとダメらしい。
強くはなっていた、というか第一巻では主人公をナメていたせいで負けた。
右目側のレイクは復活してドラゴンの封印を少し解いた。
左目ズドン復活してズドドドドドドドンになった
ズドンこと、ジン=ガニスは、【ライトニング・ピアス】を「ズドン」の一節で放ち、さらにこれを10連射可能ってやっぱり強いじゃん。
「Project: Revive Life」用のデータは無事なので、こいつらまた復活するよ。
ズドンことジンってもしかして名前の由来がコナン君のジン?
次は二人とも最初から全力だろうな。

主人公が最終的にハルマゲドン阻止するも、スペイン語の魔人が一人復活し、
巨大な炎の箱舟を召喚。
タウムの天文神殿で現れたナムルスがグレンの前に現れて終わり。

あとがきの作者の好きな娘はダンテのカトリック要素があるイヴっぽい。
システィはシスティーナ礼拝堂がモデルならカトリックだけどミケランジェロって反カトリックっぽいんだよね作品見るに。バアルポーズのイエス様(笑)。
ジンにとどめを刺したのはシスティではなくイヴ。
システィを助けたのもイヴ。



六英雄
=魔導大戦(邪神エイリアンとの戦い)で活躍した人類側の英雄。
《灰燼の魔女》セリカ=アルフォネア
《剣の姫》エリエーテ=ヘイヴン
《聖賢》ロイド=ホルスタイン
《戦天使》イシェル=クロイス
《銀狼》サラス=シルヴァース←セラ=シルヴァースの先祖?
《鋼の聖騎士》ラザール=アスティール
の「6」名。


天の智慧研究会の
ラザール=アスティールは挿絵より左目側。
200年前の『六英雄』で、《鋼の聖騎士》。
元・聖エリサレス教会聖堂騎士団総長。
テンプル騎士団ですね!

「内なる声」を受け入れている、第三団《天位》(ヘヴンス・オーダー)クラスの急進派メンバー。
天はメルガリウスの天空って意味だろうね。

グレンによるハルマゲドン阻止のせいで、
本来得るはずだったマナが目減りしてしまったが、それでも大量のマナを吸収することに成功し、手にした「鍵」を使い、
《魔将星》アセロ=イエロとして生まれ変わる。
《鉄騎剛将》アセロ=イエロは頑健な漆黒の全身鎧の上から緋色のローブを纏い、『炎の船』と呼称される巨大な箱舟を駆る。
旧約意識あり。
ラザールがその「内なる声」に従い鍵を使うとラザールとアセロは融合してアセロが現世へと復活。
テンプル騎士団と言えば異端とのつながりがいろいろ言われているよね。
本作の魔=異端、異教側。
本作で迫害される異能者は魔(と天)側だろうね。

”鋼(はがね)のスペイン語
アセロ
acero

鉄(てつ)
イエロ
イエーロ
hierro

http://naming-dic.com/word/es/22320182


両方スペイン語。
セリカもスペイン語。
魔神と天使と天人系はスペイン系疑惑。
スペインはイスラーム圏だったり色々異端派が暗躍してそうだ。
基本はカトリックになったけどね。
ハプスブルク支配下の歴史あり。
G のレコンキスタ思い出すな。
スペイン系が敵ってブリーチもだな。



一巻の強敵の右目側のレイクは龍人。
本作のドラゴンは最強の魔獣。古竜は大自然へ直接干渉する「竜言語魔術(ドラグイッシュ)」を操り自然を支配できる。
逆鱗が唯一の弱点。
しかし、レイクは竜人なので逆鱗という弱点がない。
二回目の敗北だから、レプティリアン教は英国系には勝てないってことでしょ。
反北欧。

レプティリアンの詳細。
レイク=フォーエンハイム
第二団《地位》(アデプタス・オーダー)クラスの魔術師。《竜帝》。
血筋に竜の血を入れることでその力を得るが人としての姿と理性を失う
『竜化の呪い(ドラゴナイズド)』という精神に根ざした呪いを受け、それを【竜鎖封印式】で封印してきたフォーエンハイム家最後の1人。
3つある封印の一号を解放しただけの状態でも古き竜が使う「竜言語魔術」による大自然の猛威と莫大な魔力を使える。
竜牙兵と召喚でき、竜鱗の剣を使える。
「Project: Revive Life」で復活。

ホーエンハイムはパラケルススの本名。
パラケルススは薔薇十字思想に影響。スイスドイツ系。
敵は右目でスイスドイツ系、しかも北欧系ってこと。
竜はキリスト教では悪魔。
悪魔=右目。



・やっぱりジョジョ意識しているのね。で、アフリカ系のアブドゥルモチーフのイヴ=イグナイトは不遇。
でも作者は愛しているらしい。
イヴはダンテにちなんだ技があるのでカトリック要素がある。
よって冷遇される。
自身の強い思いであまり行動できていないせいで、
ジャティスの数秘術とユースティアの天秤
=先読みを凌駕できず敗北。
数秘術
=既存情報を組み合わせた結果、予想される未来を観測する技術。
ジャ(ス)ティスって数学者でもあるのか?
「人の強き意志」によって予測が覆される場合があるので、正義さんは強い意志があるか否かで人物評価しているっぽい。
だから、イブは酷評された。
彼女はそのうち、システィを思わず救ってしまった感じで自分に正直に行動が変わるだろうからそうすれば高評価をジャスティスから受けるのだろう。でもそうなったら死にそうだな。

ジャスティスの神
=ユースティティア
は、ローマ神話の女神で、
ラテン語で「正義」、
英語形ジャスティス (Lady Justice)。
ギリシャ思想代表っぽい。
ギリシア哲学は数学を非常に重視する。
術はタルパ=トゥルパ。
チベットあたりの術。
プラトンはインド系の輪廻思想だった。


【ロクでなし魔術講師と禁忌教典】9巻 感想まとめ
https://pokemon-with.com/MAG/rokuaka-09/
”418:anonymous
レイクの兄貴がアルベルト並に強いとは思わなんだ
これ元からあった設定なのかそれとも後付けなのか

421:anonymous
>>418
グレンの知る魔術師でレイクに勝てるのはセリカぐらいとの発言が1巻P261にある

424:anonymous
特定の範囲(下準備が必要)で
呪文の詠唱無し(手を振るアクションは必要)で
炎が出せるだけの能力って微妙すぎるよな
ズドンさんにさえ勝てるかどうか判らんレベル

425:anonymous
まぁアレだ、元ネタのアブドゥルさんも強い筈なのにイマイチ戦績が華やかじゃなかったような気がするしね?

435:anonymous
またシスティーナがヘタレーナになっててウケたwww
イヴもそうだけど作者ってヘタレ女が好きなんじゃないかって思う
要するにズドンさんと一緒って事か?

アルベルトやジャテイスってシスティやイヴみたいな女にキツいよな?
戦わないルミアには言わねーどころか一目置いてるのにはやっぱり
戦闘能力より精神性の方を買ってる気がするんだが

436:anonymous
ジャティスは価値基準が正義と計算で、計算外の行動が取れる人間に敬意みたいなものを抱いてるようだから、そりゃあ直接的な戦闘能力は二の次だろう

440:anonymous
ズドンさんはズドンだけかと思ったらズドドドドドドドドドドンとかやりはじめて笑った
こいつ優秀すぎるだろ
遊ばなかったら特務分室のやつらにも余裕で勝てんじゃね(接近戦限定)?

442:anonymous
しかしズドドドドドドドドドドンってかえって言いにくい気がするんだが

444:anonymous
>>442
ズドンさんめっちゃ活舌良い説

443:anonymous
ジャティスはシスティの戦闘能力を評価したわけじゃなくて、グレンに今までとは違う強さを与えたことを主に評価してる
だからグレン&システィのコンビとして倒したがってる
ルミアを認めているのは自分の望みのために自分を犠牲に出来るところがジャティスの正義観と合ってたから
そこを歪んでいるとも揶揄してるから精神力が強いという賞賛の意味に捉えていいものか…

・新プラトン主義+輪廻+阿頼耶識。

”魔
『原初の魂』が最初に発したという、「原初の音」に近いとされる暗示特化専用言語であるルーン言語を用いて深層心理を変革することで世界法則に介入する技術。


原初の魂
この世界であらゆる存在に先んじて発生した最初の『一』。魂の輪廻転生経路たる『摂理の輪』の回起点にして、人の全ての記憶が回帰する集合無意識の第八世界『意識の海』の最深中心点たる生命体の根源である。
魔術特性(パーソナリティー)
『一』から発生した全ての魂に生まれながらに与えられた『在り方』であり、魔術に多大な影響を与えるとされるもの。
どんな概念から発生したのかを示す『α概念』とどんな方向性を持つのかを示す『ω属性』とを利用して、
【『α概念』の『ω属性1』・『ω属性2』】という書式で表される(グレンであれば【変化の停滞・停止】、
セリカであれば【万理の破壊・再生】)。”
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%AF%E3%81%A7%E3%81%AA%E3%81%97%E9%AD%94%E8%A1%93%E8%AC%9B%E5%B8%AB%E3%81%A8%E7%A6%81%E5%BF%8C%E6%95%99%E5%85%B8










プー閣下風に終えてみよう。




黒幕はキリスト教徒!
もう一声叫ぶ!
イエズス会、カトリック教会、バチカン、反知性主義、オカルト好き、
王政肯定側の支配層の派閥をイルミナティと呼ぶ者は全員、
無知か嘘つき。名前は元ネタに沿っていないと詐欺。
クリスチャンをユダヤと呼ぶ詐欺に気を付けろと言ってもてめーには無駄みたいだな!

お読みくださり感謝いたしますわ!
お読みくださり感謝!カワユイ(^◇^)
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おっぱいの大きさを気にするのは欧米の性。江戸までは一重まぶたで切れ長の女性礼賛でおっぱいは性的シンボルではなかった!今の日本人の性観念は完全に欧米!性観念の変化について。『江戸の閨房術』。 

※”政”的な内容なので注意!
一番洗脳がひどいのは性道徳と顔と体形の価値観。
尊厳の流れが最も露骨な分野なので扱う。
日本の真の伝統↓














るーしー‏ @lu_c_bot
おっぱいが性的な価値観を持たれるようになったのは西洋文化が流れてきてからの事。つまり江戸時代あたりはおっぱいなんか全然魅力をもたれてなかったのです。なんせ由来は「(赤ちゃんが)おなかいっぱい(になるもの)」ですしね。



峨骨‏ @Chimaera925
文明開化(西洋化)以前の定義に当て嵌めるなら貧乳の定義は母乳が悪い事。これでいいんじゃなかろうか。何でも性器と見なすのはヴィクトリア朝だったか。ピアノや家具の脚がエロいからカバーで隠せだの、禁欲主義をこじらせると変態になるんだろうか。

母乳が悪いじゃなくて、出が悪い、な。

巨乳ブームなんてのもあったな。割礼や二重瞼みたいに美容整形の宣伝だろうけど。ファッション雑誌に美容整形の広告が載っている、広告主って時点でナァ?




金髪碧眼の巨乳美形白宇宙人が善という情報をどこが流しているかバレバレ(笑)


俺のフォローしている人々にユダヤガーと言う残念な奴は居ないけれども、同じ宗教を信仰する集団をガバガバの定義で人種みたいに挙げるなら、キリスト人やイスラム人、ブッダ人は何処に居るんだろうな。










"巨乳が増えたのもホルモン剤の影響がでかいだろう。"

日本の真の伝統への回帰回帰うるさい輩(ほぼ工作員)が実践しないといけないこと。
仏教への改宗
天皇崇拝をしない
耶蘇教の弾圧
神仏習合
徹底的に物を捨てないリサイクル文化
短時間労働と十分な余暇
漢籍を学び、中国古典から叡智を得る
漢籍が基盤の日本古典から叡智を得る
処女かどうか気にしない
同性愛と両性愛の肯定
金髪碧眼の白人崇拝をやめる
一重まぶたで切れ長の女性礼賛←new!
乳房を性的対象として見ることをやめる
←乳!
巨乳信仰をやめる←乳!

超名言↓
男はそんな胸のサイズなんて話で言ってるだけで、
実際好きな女の胸についてるサイズが一番いいんですよ。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm29674697
[ゆっくり]PARTNER:15「AVの功罪」(Gと潮吹き)
この動画シリーズ凄いよ。
本当に性に関するアンケートって厄介だな。


エロで釣るのはラノベの王道。
最初の数ページのカラー部分を見るとわかる。
中高生向けだから当たり前。
ロクアカが制服が水着と下着みたいにしてあるのは狙っているな。
ラノベやマンガやアニメやゲームの巫女キャラって和服を着たシスターばかりだよね。
性に厳しい時点で神道じゃなくて神道カルトだよ!

有名陰謀論者
(本出せたりサイトがプロ製かつ来場者数が異常=操作疑惑のやつ)、
はエロで釣れないから健康ネタで釣る。
異様に検索順位の高い工作サイトが、
グーグル以外の検索エンジンだと下に来たり出なかったりする

ことから考えると操作しているよね。
「日ユ同祖論 嘘」でグーグル検索するとRAPTが最上位って悪質だな。
しかも「日ユ同祖論 嘘」で検索しているのに
“日ユ同祖論」は疑うまでもない事実です。”
が最上位
って検索ワードからわかる検索者の意図すら反映していないな。

DuckDuckGoで検索するとラプトは最上位に来ない。
この検索エンジンオススメ。
ググる、グーグル先生って言葉も名づけの魔術による洗脳だな。他の検索エンジンを使う発想を奪う。
特にひも付きでグーグル叩いている奴ってグーグル以外の検索エンジンは勧めないよね。
対策まで教えないとダメじゃん!










江戸時代の価値観なら尻側なんだろうなあ。
胸派が増えたのは欧米のせい(性)だろう。


左下に
ケルトうずまき・アシュラ=ナルト(笑)
アーリア(笑)
ナルト叙事詩(笑)


情報を視覚的に分かりやすく表現したインフォグラフィック的世界地図wwwwww
http://blog.livedoor.jp/kinisoku/archives/4725788.html

ctrl +fに 女性の胸の大きさの平均
ですぐ飛べる図見ると、
欧米は大きい、
アジアは小さい。
「支配層の体形=善」となるように情報を流すのが支配の定石なので、
巨乳が善は、やはり明治で乗っ取られてからだね。

金髪碧眼で胸も尻も大きい体形が魅力的!

って価値観がいつどこの誰が持ち込んだか考えれば明らかにプロパガンダ。
支配層は自分自身を崇めさせる。
良いとみなしているものは攻撃しにくいから。
価値観の操作こそ支配の要。
尊厳の流れ。


応用例。
尊厳の流れが支配の要なので
キリスト>ユダヤ教。

キリスト教(変形含めまんべんなく)を叩くと擁護するやつが多すぎる。
公開しないけど私のブログに来る批判コメントは耶蘇擁護が多いよ。
ユダヤ擁護は来ないな。
「願望で事実をねつ造」

「部分(耶蘇はXである←個人的感想)を
全体(耶蘇はXである←大半の現象と適合する事実)だと偽装」
が二大特徴だったな。


明治以前の同性愛については言わずもがな。
そもそも特別視されないから同性愛者にとっては極楽だっただろうね。
同性愛の理解ってうるさい虹勢力(虹使うから耶蘇ってばればれ)に、

「じゃあ江戸時代みたいにしましょう!
同性愛を嫌うキリスト教道徳を排除しましょう!」


って言ったら耶蘇かぶれなら黙りそう。
これ↓見ると、名づけの魔法による強制分類で分割支配する気満々

なえなつ‏ @japan19890108 6月20日
”「オカマ」←差別
「レズ」←差別
正しい呼び方 「ゲイ」 「レズビアン」
異性愛者 「ストレート」←最もフォーマル
めんどくさすぎるうえに内心の自由奪いすぎワロタ
これが共謀罪というやつかな”

マイノリティなら何でもやっていいわけじゃないぞ!
この分類による差別推進って人工芝?
過剰な間違った手法で同性愛を推進すると、
まともな同性愛者を弾圧できるからやっているのかも。



上記のような世界分布図に、
処女は神聖か否か
結婚相手は処女でないといけないか否か
などの図はないのかなあ。
民俗学の過去記事などで言ったけど、
真の日本の伝統は、処女なんてどうでもいい。

処女をありがたがるのは明治以降です
江戸時代は、経験豊富で子供を産みやすい
経産婦の方が人気がありました

幽々子様の江戸グルメ【夏】
http://www.nicovideo.jp/watch/nm31211383


一重瞼と二重瞼についても価値観が激変している。

ヒヨスケ‏ @hikimusubi 2016年1月9日
明治時代の芸者さんで美人とされた顔は一重瞼のきりっとした人か二重瞼でふっくらした輪郭の人の2パターンあって、昔の私はどことなく後者に似ていたので「あ、私の顔の型番って明治の美人なのか」と思ったことがある。

丸山天寿‏ @tenjumaruyama 2011年5月13日
世の中には目、口、鼻の部位を気にする女性が多く、例えば目の二重まぶたに整形する女性もいると言う。
日本の平安期では「引目鉤鼻」が美人の標準。江戸時代の浮世絵美人は全て一重まぶただ。明治以降、西洋文化の流入(西洋女性は顔の彫りが深く美術品の多くが二重)で二重まぶたが流行した。→

雑学BOT‏ @a_r_e_bot 2016年12月13日
日本人・韓国人・中国人のみにしか「一重まぶた」がいないのは、昔、シベリアに住んでいた人たちが寒い環境に適応するために、まぶたの脂肪を増やし、二重まぶたから一重まぶたに進化したため。その後、アジアに下りてきて、散らばったといわれている。



【誰かに教えたくなる話】江戸時代「切れ長の一重まぶたが美人」。では「二重」は?
http://www.excite.co.jp/News/column_g/20160528/TokyoFm_yPQbFSCyLp.html
”美しさを求める人にとって、ひとつの条件となっている「大きな目」。そしてその目は「二重まぶた」であることが必須になっているのが現代です。でも、日本人はそもそも一重まぶたの割合が多く、生まれながらの二重まぶたのほうが少ないと言われています。

江戸時代は、小さい切れ長の一重が美人とされた時代。
ですが、二重の人も、少数ながら存在しました。
彼女たちは「ふた皮目」と呼ばれ、めずらしがられたのです。

ある文献に、こんな文章が残っています。

「情(なさけ)らしき二皮目、鼻筋通りて卑しからぬは壺口(つぼくち)」
つまり、色っぽい二重まぶたに、鼻筋が通ってかわいらしいおちょぼ口、という意味。
二重も二重で美しいとされていましたが、特に「性的魅力にあふれている」と見られたようです。

たとえば、出家した尼さんが二重まぶたであると、「したたるや 尼に成っても ふた皮目」と詠まれてしまいます。
尼さんになっても、したたるような色っぽさ……。
「ふた皮目」の女性は浮気性、とも言われたので、あまり褒められたことではなかったよう。
逆に、遊女のような「玄人筋」の女性が二重だと喜ばれる。
恋をするなら二重、お嫁さんにもらうなら一重、といったところでしょうか。

また、江戸時代は一重の女性が正統派の美人であるというのに対し、二重の男性は「出世の相」であるとも言われていました。

ある人相の文献に、ふた皮目の男は「中年以降、快楽する男」「長寿する男」と書かれています。
男性も、やはりふた皮目は「性的に魅力のある男性」で浮気性と言われましたが、そこは江戸。浮気は男の甲斐性なので、「出世する」と言われたわけです。
男性にとっては、プラスのことのほうが多かったようです。

今や、メイクなどでも目を大きく見せることが主流ですが、江戸時代の美の主流は小さい切れ長の一重。
女性の一重は、誠実の証のようなところもあったようです。
本来の日本女性の美しさは、一重にこそあるのかもしれませんね。”

『江戸の閨房術』
この本はテキトー読みで読んだ。私も軽く引く内容だったからだよ。

・「皺泉(しおいずみ)」、「輪廻劫(りんねのごう)」、
「典薬助(てんやくのすけ)」、「稚児手(ちごのて)」、
「水弾(みずはじき)」、「小籠(さこめ)」
(漢字をあてたのは本書の著者)    
以上すべて、『房内戯草(ぼうないたわれぐさ)』(寛文三、1663)
における、
良い女陰の呼び名。
(鬼滅の刃の必殺技みたいだ。元ネタ書かずに使ってもばれないかも。
悪い女陰の名前は渇愛もとい割愛)

『房内戯草(ぼうないたわれぐさ)』の主人公は在原業平。
別名『業平戯草』。3333人の女性と接したとされる。
業平は美麗で、玉茎は四寸(約十二センチ)。
四寸が男根の上品で、これよりわずかに二センチぐらい大きいのが極上品だとしている。
巨大な男根を好む女はむしろ下品の女陰だとも述べている。
総じて、男は深く挿入せずにやわやわと行うこと、
そして妄りに精を洩らさぬことなどを説き、
男の養生の観点からの伝授をしているようである。
本書は戦国時代、日本に渡来した『黄素妙論(こうそみょうろん)』を参考にしている。ここでも「淫を洩らさぬこと」を強調している。
(道教の影響?
男性期の大きさを気にする男性は多いらしいけど、
大きくても結局女性の宮には入らないよ。
大きすぎると痛いだけだよ。

言っとくけど、巨乳ではなく巨根信仰の男性諸君、陽根が大きすぎると女性に快感を与えにくくなるんだぞ。
長年の研究成果を学んでおくべきだ。

[ゆっくり]PARTNER:7 「Oガズム」(オキシトシン)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm28846240

しの‏ @midori_kochou03 2013年3月24日
『房内戯草(ぼうないたわれぐざ)』に載っているちωこの話。別名『業平戯草』で、在原業平をモデルに女色道の奥義を紹介するという本らしい。CV.諏訪部順一になってしまう悲しい脳内。業平は、誰がカウントしたのか3333人の女性と関係したらしい。

中村甄ノ丞あるある早くいいたい‏ @ms06r1a 2011年7月14日

たとえば江戸時代には鳩胸(巨乳)とデカマラはゲテと云って蔑んだらしいよ。男根については四寸(12cm)から四寸五分(13.6cm)が適切で、それ以上は馬鹿にされたとか。でも在原業平は五寸五分(16.6cm)あったとかいう話も流布された。これはなんだろうね。
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ねこのさやさんがリツイートしました
中村甄ノ丞あるある早くいいたい‏ @ms06r1a 2013年10月13日

江戸時代、あんまり大きいと却って蔑まれ、四寸五分から五寸五分くらいが丁度、とされたそうです。で在原業平はスペック一杯の五寸五分ということになってました。
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中村甄ノ丞あるある早くいいたい‏ @ms06r1a 2013年10月13日

はっきり憶えてないけど、在原業平の周長は四寸五分だったかな。確かこれもスペック一杯だった筈。


・江戸中期の性愛指南書『好色旅枕』(元禄八、1695)には、交合体位が十六態示されているが、
その最初の体位が「吸口軒(きゅうこうけん)」。
体位というよりは前戯の所作の説明。
江戸期にはキスの習慣がなかったのではなく、ただ人前で行わなかっただけである。
(つまり外で人前で接吻したら欧米人を見た昔の日本人は、これからウコオモイヌすると思っただろうからそりゃ驚くね。
キッスは性行為だったのか。
そういえば、動物のウコチャヌプコロではキスしないよね。
お互いの顔が向かい合わないでしょ?
おそらく、周囲を警戒するため。
人間のウコパウチコロは普通にお互いの顔が向かい合う。
つまり、周囲を警戒しなくていい状況すなわち屋内で行われる。)

江戸語で「取る」=交合。
キス=口取り。

女の乳首を舌先でねぶるという記述がある。
乳房を揉むという記述もある。
(本書で乳の良しあしや大きさの記述はない。女性器の良しあしの基準はかなり詳しく書いてあるのに。文献自体がないからかも。
乳首を吸ったり、胸をさわるのもやってるから、胸は別にオチウで触れない場所ではない。
図版を見るに、巨乳が全然登場しない)




・『男女狂訓 華のあり香』(元治元、1864)に
人知れず忍んでいくときに、敷居の上や板の間などギクギクと音のするところへ巻いた帯を転がして敷きのばして、その上を爪立て行けば少しも音が外へ響かないとある。
(忍者
の技術?)

・江戸中後期の、夫婦の性愛の全貌を絵と文章で説き明かした
『婚礼秘事袋』(宝暦期、1756頃)いわく、
遊女屋に連れて行き、高級女郎の立ち居振る舞い見学されたり、
色道経験豊かな女を側に置き、好色本を常に読ませて、その注釈をさせたりして、
閨の思いやりを専心に学ばせれば、自然とその様子が見についてきて、その色気が誘発されると、月経も始まるのである。
なお当時の女の結婚適齢期は十四、十五歳であり、初潮の訪れもなく色気の兆しもなくお人形遊びをしている年代の娘である。
(初潮は現代よりも遅かったの?)

・『新撰古今枕大全』(宝暦期、1762頃)では珍しく女性からの交合の願望を述べている。
第三十五代の女帝の皇極天皇が後述したという趣向であるが、巨根伝説で著名な弓削道鏡との交合も描かれている。
がこれは本書の作成者の誤りで、道鏡を寵愛したとされているのは第四十八代の称徳女帝である。
女帝の皇極天皇が人知れず言われることには、
「下手な男は女は奥深く男根の根元まで入れれば喜ぶものと独り合点して取り掛かるために、無理矢理に奥へ嵌入し、女の首筋へ手をまわして激しく腰をやって抜き差しするので男のほうが先に射精していまう。これはまことに女は残念だと思うけれども、そんな時には女の口からもっと長く保ってほしい、女も大いに絶頂を感じたいとは言えない。男が射精してしまい、しかも女に十分に堪能させた顔つきでいるのは、どうも我慢がならないものだ。
男の持ち物は一概に太いからよいとも言えない。巨根で名高い弓削道鏡を召し寄せたが大きいばかりで交合の技法は拙劣だった。同衾するとすぐに女陰を弄したがるのは女にとってはただうるさいばかりである」
「日本国が一所に寄り集まるように、身柱(ちりけ)もと(身柱のあたり。項(うなじ)の下)に快感の波が幾重にも押し寄せるほど」が最上の快楽を表現する言葉。
よがり声の最たるものは
「日本国が寄るようだ」
「日本(ひのもと)が一カ所に寄り集まる」
という言葉で江戸の艶本にも随所に表出されている。
川柳にも、

日本(ひのもと)がとは大(おお)それたよがりよふ(明六智4)

と詠まれている。男の場合の射精するときの快美感は、脳髄のてっぺんが絞り取られるような、という表現が見られるが、女の絶頂感は体内を駆け巡って、どうやら
「ちりけ(襟首の灸点)」あたりへ凝集するようである。子宮が絶頂感によって伸縮し、その快感のうねりが全身を震わせ、首筋に圧縮されて感じられるらしい。
男と女の快感の感得における不可思議な差である。

( 結社も重視するうなじあたりか! 
首の後ろは霊的出入り口だからね。
交接は肉体だけの交わりにあらず!

じゅん汰‏ @mov247 6月3日
イライラ解消のツボ:イライラ、ストレス解消のツボは身柱と手首の神門と呼ばれるもの。
このツボを刺激することで気持ちを落ち着かせてくれる。
身柱は首筋の後ろに現れる背骨の突起の下あたり。
神門は手首の関節で小指側にあるくぼみの位置である。


天皇の存在は知っていても崇拝はしていなかったのがよくわかる。
女帝が性について書いたという設定で出版できるのがすごい。
この本の作成には女性もかかわっているのだろう。
皇后の交合wって思った人いそう。
ひのもとが私に集まっちゃう~って誰か使って下さい)

・男色は僧侶の世界から始まり、武家の念契(ねんけい 生死を共にして相互扶助に徹する契り)として行われ、戦乱が終わってからもその風習だけが残存して、肛交を楽しむ風潮が生じた。
女色を堪能しながらも、肛交にうも耽溺するのが江戸の通人の性愛の生きざまになった。
そこで幕末に至るまで金銭さえ出せば陰間(男娼)と自由に遊興できた。
したがって江戸の色道指南書では男色の記述があるのが普通だった。

俗説では僧侶の世界で男色を始めたのは空海であると言われる。
彼は大陸へ留学しているときに、この方も学んだとされ、男色の祖とも称される。

(性に寛容(すぎる)真言宗の立川流由来の俗説だろう)

菊座、おゐどのランクが、上とん、中とん、下とん。
図版を見るに「下豚」「上豚」
(豚とな?)

・女性の自慰行為の記述に女二人で行う方法がある。両側が男根であるハリカタを使い宮(女陰を意味する隠雅語)を刺激する。
(これはあくまで自慰行為なの? 同性愛?
明治以前の女同士の子作れないを扱う専門書ってあるのかな?)


原田 実‏ @gishigaku 2013年7月19日
パオロ・マッツァリーノ氏の『続・反社会学講座』(文庫)での「江戸しぐさ」言及を確認、「新作落語『長屋武士道』の留吉と大屋さんについて単行本刊行後、別のコラムで「江戸しぐさ」に凝らせたことについて触れる内容。

「江戸時代の商家には家訓がありました。倹約城とか火の用心、昼寝のことまで店員のマナーについて事細かに書かれたものが残っているのに、江戸しぐさについてはなにも言及されてません。ヘンでしょ?」(続く)

「だいたい、文献が残ってないというなら、江戸しぐさの提唱者たちは何百年も前の江戸しぐさの存在をどうやって知ったんでしょうね?」(パオロ・マッツァリーノ『続・反社会学講座』2009)

むぎ次郎@断食‏ @mugimugijirou 2014年4月20日
江戸パロで、赤司くんが性愛指南書(江戸時代めっさ出されてた)作者だったら面白いなと思って、資料代わりに「江戸の閨房術」って本(家にありましたw)をにやにやしながら読んでました。当時は、そういった指南書には当たり前のように「男色」の項目もあったとか。尻は格別。だそうな。

もう、色々と美味しいネタの宝庫だったんだけど(@江戸の閨房術)、一番の衝撃は、初交に際してあそこに山椒を仕込むらしいんです。痒みが起こり、然る後挿入、という流れだそうです。割りにスタンダードなテクニックとのこと。山椒。山椒です。やべぇよ、ホンモノの人たちはそこまでするとですね。

尻にも上品中品下品とランク付けがあって、その格付け選定の内のひとつに「襞の数」があるんだけど、上品は四十二とのこと。はい、すみません。このぐらいにしときます。赤司くんに襞数、数えられてる降旗くんを夢に見ながら寝ます。


サンライト‏ @Sunlightshower 5月20日
垂れてるかとは関係ないけど、江戸時代の春画はちんこまんこ陰毛をめちゃめちゃ誇張して描く割におっぱいへの関心は全然なさそうなのが印象に残っている。

グレイト斎藤‏ @hachidaioh 5月20日
返信先: @Sunlightshowerさん
『江戸の閨房術』という本にも乳房に関する記述はほぼ皆無だったので、性的なものとは認識してなかったんでしょうね

中村甄ノ丞あるある早くいいたい‏ @ms06r1a 2011年7月14日
返信先: @gishigakuさん
江戸時代には乳房は赤ん坊のモノと考えられていたので大人の男は興味を持たなかった、と『江戸の閨房術』だったか『江戸の性愛術』だったかに書いてあったような。月亭可朝は偉大なり。RT:@gishigaku 江戸時代を舞台に時代考証を行いつつ、現代でいうところの巨乳が好みという男性を出…

まうぽじ‏ @mount_p 2011年5月23日
この間どこかで昔の人のキスは男が女の舌を吸うというのを読んで服従の証とかそういう意味なのかと思うとすげぇ萌えたのを思い出したんだけど何で読んだのか覚えてない。江戸の閨房術か?

やっぱり江戸の閨房術だった。気が済んだのでおやすむ

まうぽじ‏ @mount_p 2011年6月11日
最近読み込みすぎて「江戸の閨房術」「江戸の性愛術」から欲しい情報を一発で抜き出せるようになった…

江戸の閨房術/渡辺信一著
http://tameikiiro.net/book-review/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%AE%E9%96%A8%E6%88%BF%E8%A1%93/


江戸雑学を呟く加州清光bot‏ @edo_kashubot 6月21日
四ツ目屋って有名なお店があってさ。「四つ目屋は得意の顔を知らぬ也」なんて川柳にも詠まれてる。なんで客の顔を知らないって?まあ、ソーユーものを売ってる店だったからね。配慮があったってわけ。ちなみに通販もあったよ。

地下クイズ王決定戦bot(非公式)‏ @chikaquizoubot 6月19日
【第4回 セックス50】 Q.江戸時代、両国の薬研堀(やげんぼり)に存在した日本最古のアダルトショップの名前は何?
A.四つ目屋 ★媚薬や男性器を模した淫具を販売。 当時のガイドブックには“手紙で注文すれば全国に配達する”と記載されており、日本最古の通販をやった店でもある。



追記

ところで、ラノベではメインヒロインになるための、
三つの儀式が存在することをご存知だろうか?

①主人公に(特に初対面時に)裸体を見られる
(次に、主人公をぶっ飛ばす)

②主人公に乳をもまれる
(次に主人公をぶっ飛ばす)

③主人公に決闘を申し込み、主人公に負ける。

なお、処女である、一途であることは儀式というより設定なので割愛。
第一話または第一巻で上記を一番満たしているのがメインヒロインとなる。
なれなかった女の子は三話目あたりでマミってしまうかもしれない。
なお、ロクアカでは最も満たしたのがシスティなのでシスティがメインヒロイン。
ロクアカは変則的で、②乳もみの儀がないし、決闘になんと主人公が負けて終わるけどね。
これ、江戸時代の価値観だと③以外成立しないよね。
そう、キリスト教的な性道徳が前提なのだ!
なお、「ちょろい」は江戸時代でも成立する。
そもそも十代の女の子が、自分の人生最大級のピンチのときに、
同い年ぐらいの主人公(たいていイケメン)に助けられたなら、
普通はこの男の子に惚れるでしょ?

(参考 傑作↓










読了くださり感謝するで候!

現代の陰謀論の父はイエズス会士のバリュエル神父!ベネディクト会修道士でスパイで外交官でタクシス家とつながりありのホーンが、ロビソンにメイソン・イルミナティ陰謀論のネタを提供。リベラと同じくプロテスタント側の陰謀論者フェルプス(バチカン限定陰謀論)をカトリックのboが叩くのは当然! 

左目見せるブルードラゴン!


ヴァイスハウプトのイルミナティのシンボルはミネルヴァのフクロウ!
一つ目ではない!




















もしかして、英語だと良質な陰謀論の歴史の解説書ってあるんじゃないの?
バリュエルあたりから今に至るまで。
英語ならアイクやフェルプスやリベラどころか、
ロビソンとホーンまで書いてそうだね。
ロビソンに入れ知恵したのがホーン。
ロビソンのメイソン・イルミナティ陰謀論の資料を提供したのがホーン。
ホーンがベネディクト会修道士でスパイで外交官でタクシス家とつながりありの
超重要工作員。
ベネディクト会でありイエズス会ではないことに注目。
要は、
ユダヤ・メイソン・イルミナティ陰謀論の背後には、
イエズス会、ベネディクト会、カトリックのタクシス家、マルタ騎士団がいるということだ。
タクシスが元祖イルミナティ陰謀論を広めている勢力だと考える理由はカトリックなのもあるが、
タクシスの根拠地がドイツのレーゲンスブルクで、
レーゲンスブルクはバイエルン州でありインゴルシュタットがある。
つまりバイエルン州には元祖イルミナティの根拠地があった。
そりゃあ領国内の反カトリック結社なのだから必死で叩かせるだろ。
レーゲンスブルクの紋章は交差する二本の鍵で、バチカンと同じ。


レーゲンスブルク
=バイエルン州東部、オーバープファルツの中心都市で、
ドナウ川とレーゲン川の合流近くにある。
南西約55キロにインゴルシュタット。


インゴルシュタット( Ingolstadt)
=ドイツのバイエルン州のドナウ川沿いにある郡独立市。
紋章は、火を噴く左向きの青い龍(ブルードラゴン)!


バイエルン州(ドイツの南部)の州都はミュンヘン
英語で「Bavaria」(バヴァリア)。
バイエルンは12世紀以降、ドイツ革命で王制が廃止されるまで、
超大ボスのヴィッテルスバッハ家によって治められた。

”ヴィッテルスバッハ家 (Haus Wittelsbach) は、
ドイツのバイエルン地方を発祥とするヨーロッパの有力な君主、諸侯の家系。
バイエルンの君主(バイエルン公(選帝侯)、バイエルン王)の家系として有名だが、
その他にもプファルツ選帝侯(ライン宮中伯)、
ブランデンブルク辺境伯(選帝侯)、スウェーデン王の家系として続いていた。
また神聖ローマ皇帝、ギリシャ王も一族から出ている。
プファルツ系その他の全ての家系を含めて「バイエルン家」(フランス語: Maison de Bavièreなど)とも呼ばれる。

長い歴史を有する家系であるが、三十年戦争におけるプファルツ選帝侯フリードリヒ5世と
バイエルン公マクシミリアン1世に顕著なように、同族内でしばしば内紛を繰り返し、
ハプスブルク家やホーエンツォレルン家に後れを取ることになった。”
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F%E5%AE%B6



現頭首のフランツ・フォン・バイエルンはカトリック。

陰謀論の歴史の解説書は日本でも一応あるけどあんまりよくないらしい。
英語版ウィキで昔の陰謀論者の記事を読むほうが有益。
日本語版のメイソンの記事は必ず英語版と比較すること!
思いっきり嘘あるいは否定された学説があるからね!
結局、陰謀論でも日本に来るのはお古だからね!

イエズス会士のオーギュスタン・バリュエル神父。
物理学者、数学者のジョン・ロビソン。
ロビソンがイルミナティ陰謀論を作ることに貢献した
ベネディクト会修道士のスパイ、工作員アレクサンダー・ホーン。

三人とも陰謀論の祖であり、
フランス革命の文脈で、
ヴァイスハウプト(反カトリック)のイルミナティを叩く側。
上記の二人は明確にカトリック。
バリュエル神父は英語版ウィキ(日本語記事無し)では
陰謀論の父
と書かれている。
陰謀論の父がイエズス会士で元祖イルミナティ陰謀論を発明。
バリュエルは反フランス革命側で、教会とフランス王を擁護。

陰謀論は、
フランス系メイソン+元祖イルミナティ
(啓蒙主義、知性主義、ルソー教、理神論、無神論、理性狂、百科全書派、
プロテスタントと異端側。
反イエズス会、反カトリック、反王政、反教会)

vs

フランス・ドイツ系カトリック正統派、
イエズス会、ベネディクト会、カトリックの王侯貴族
(反知性主義のカトリック、反共和制)

の対立から生まれ、出たのはカトリック擁護が先だった。
よほどカトリックは危機感を抱いたのだろう。
実際にカトリックは負けたし。
エキュメニカル側カトリックはもはやメイソン教だし。
日本初の陰謀論本を書いた(訳したのは前田)のがまたしてもフランスの神父のリニョール(リギョル)なんだが。
またフランス系カトリックかよ。
プロテスタントとカトリックが相互にプロパガンダ合戦をやってきたことは陰謀論とは呼ばないことにするが、
結局、陰謀論はプロパガンダ合戦の一分野である。


以上は「基本」(歴史の起源という意味で)のはずなのだが、
日本語で書いている人は数人です。
バリュエル神父の知名度は私がだいぶ広めた。


陰謀論においても日本に流れて来るのは古びたお下がりばかりの法則は覚えてほしいので、
改めて言っておく。

カトリックだけ叩く陰謀論のフェルプス。

フェルプス
「カトリックがユダヤを囮、実行部隊として使っている。黒幕はイエズス会」

キリスト教思想と神学とシステムとその変形ではなく、
カトリック限定にしているのが重要。
そのフェルプスをピンポイントで否定した、
ナチス大好きユダヤ陰謀論者boはカトリック系の可能性が高い。
boグループ
(p、wakeup、 町の猫@hitoshi44867230 ‏ ら)
=親ナチスのカトリック保守+日蓮系右翼。
boグループの一員のpがまんまバリュエル神父と同じ思想で大砂漠不可避mm
(大草原不可避wwの反対語)。

子子子子子@黒住も金光も天理も世界連邦側‏ @kitsuchitsuchi 2014年12月16日
@knznymmmy フリードリヒ2世は啓蒙専制君主。ヴォルテールと親密。
1773年にイエズス会は禁止されたがフリードリヒ2世は自国へ亡命許可。
恩知らずイエズス会士バリュエルは
1797-98年にフランス革命の黒幕はフリードリヒ2世と百科全書派だと指摘。
当時はグルではない。






イルミナティ陰謀論を広めたイエズス会士バリュエルの著作の概要
仏語で1797-98年、英訳版を1799年に出版。翻訳で更に広まる。
フランス革命の黒幕はヴォルテールら啓蒙思想の百科全書派(科学と理性重視メーソン)、
フリードリヒ2世(プロイセン王)、ババリアのイルミナティだと指摘。




イエズス会士バリュエルは百科全書派・理性・科学・啓蒙思想という中核を具体的に言及していることから当時のバチカンは大東社とグルではない。
現在の紐付き陰謀論者は、グラントリアンの中核である百科全書・理性・科学という具体的名前を悪魔や悪魔崇拝と言い換えて隠しているので今やグルである。
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子子子子子@黒住も金光も天理も世界連邦側‏ @kitsuchitsuchi 2014年11月16日

秘密結社の陰謀論で以下のことを一切言わないものに価値なし。
メーソン誕生の原因はバチカンの科学弾圧
イルミナティ陰謀論を広めたのはイエズス会士
ババリアのイルミナティは単なるドイツ系メーソン(大東社側)
構成員の大半がクリスチャン
悪魔崇拝=科学研究・理性崇拝・百科事典の所有
1件の返信 28件のリツイート 19 いいね
子子子子子@黒住も金光も天理も世界連邦側‏ @kitsuchitsuchi 2014年12月18日

ルターがボウリングに関わった。
英米系メーソンはプロテスタント海賊(聖書絶対)。
ボウリング陣営が主人公側の20世紀少年は教皇=善なので
主人公側(旧教と新教の宗教統一反対派)が
科学重視の百科全書派
(“ともだち”=ファーティマの手
+旧教と新教の宗教統一推進派)を悪と叩く話。
1件の返信 15件のリツイート 3 いいね
子子子子子@黒住も金光も天理も世界連邦側‏ @kitsuchitsuchi 2014年12月19日

ババリアのイルミナティは百科全書派側
(科学と百科事典を重視。
新キリスト教=スピリチュアル、ニューエイジ、宇宙人。
仏・独・スコット・北欧系メーソン)。
英米系メーソン(聖書重視)をイルミナティと呼んだり両陣営を分けないのがキリスト教と大本教系の特徴。
総称で中身を隠して騙す。

(フリードリヒ2世
第3代プロイセン王
ブランデンブルク選帝侯
ホーエンツォレルン家
カルヴァン主義者

Friedrich II.
1712年 - 1786年。
啓蒙専制君主の典型とされる。
芸術的才能の持ち主。
フランス文化、学問、芸術に明るい。
哲学者のヴォルテールと親密に交際し、自ら書を著し哲人王とも呼ばれる。
ドイツにジャガイモ栽培を広めた。
メイソンだが熱心ではなかったらしい。

とんでもない重要人物。



)

BavArianというように前から二番目のaにアクセント。
私はアクセントがある母音を大文字で書くことがある。


Freistaat Bayern
バイエルン州
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E5%B7%9E
”バイエルン州(標準ドイツ語・バイエルン語:Freistaat Bayern)は、ドイツ連邦共和国の連邦州のひとつで、ドイツの南部に位置する。州都はミュンヘンである。

BMWとアウディの本社がある。また、農業機械銀行の発祥地である。

正式名称は「バイエルン自由州」[1]。“Bayern”はドイツ現地での発音は、「バイエルン」より「バイエアン」[ba???n]または「バイアーン」[ba??n]に近い。ただ、堅い文などでは、「r」を母音化させない昔ながらの舞台ドイツ語発音で「バイエルン」[ba??rn]と読まれる事もある。

英語で「Bavaria」(バヴァリア)、ラテン語では「Bavaria」(バウァリア)、イタリア語では「Baviera」(バヴィエラ)、スペイン語では「Baviera」(バビエラ)と呼ばれる。なお、菓子の名称となっているバヴァロワ(bavarois)は「バイエルンの」という意味のフランス語の形容詞であり、「バイエルン」という地名そのもののフランス語形は「Baviere」〔バヴィエール〕である。

地理

ドイツでは最大の州であり、スイス、チェコおよびオーストリアとの国境に位置する。南部は山岳地帯となっており、夏は避暑、冬はスキーと多くの観光客が訪れる。

現在のバイエルン州の領域は、ヴュルツブルクなどを中心とするフランケン地方、アウクスブルクを中心とするシュヴァーベン地方東部(バイエリッシュ・シュヴァーベン (Bayerisch-Schwaben) を含む。州内の7行政地区のなかでオーバーバイエルン地区、ニーダーバイエルン地区、オーバープファルツ地区を合わせた南部地域が、アルトバイエルン(古バイエルン、Altbayern)と呼ばれる歴史的に見た狭義のバイエルン地方である。バイエルン王国の時代からの領土のうち飛び地だったプファルツ地方は、1946年に周辺地域と統合されてラインラント=プファルツ州の一部となった。
歴史
詳細は「バイエルン大公」、「バイエルン公国」、「バイエルン選帝侯領」、「バイエルン王国」、「ヴィッテルスバッハ家」、および「[[::en:History of Bavaria|:en:History of Bavaria]]」を参照
「ドイツ革命」および「バイエルン・レーテ共和国」も参照

10世紀に神聖ローマ帝国によってバイエルン大公国(公国)が設けられて以後、帝国の滅亡までバイエルンは南ドイツの主要な領邦、選帝侯として影響力を保持し、帝国の滅亡後に近隣の領邦を併合してバイエルン王国が成立した。1872年のドイツ帝国成立後も、バイエルン王国は帝国の傘下で存続し続けた。現在のドイツ連邦共和国の連邦州としてのバイエルン州も、ほぼ旧バイエルン王国の領域を継承している。

バイエルンは12世紀以降、ドイツ革命で王制が廃止されるまで、ヴィッテルスバッハ家によって治められた。リヒャルト・ワーグナーを庇護し「狂王」と呼ばれたルートヴィヒ2世や、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后で「バイエルンの薔薇」と呼ばれたエリーザベトはヴィッテルスバッハ家の一員である。

行政管区と本部所在地。

オーバーバイエルン行政管区 : ミュンヘン - 南部
ニーダーバイエルン行政管区 : ランツフート - 南東部
オーバープファルツ行政管区 : レーゲンスブルク - 中東部。トゥルン・ウント・タクシス家の居所がある。
オーバーフランケン行政管区 : バイロイト - 北部
ミッテルフランケン行政管区 : アンスバッハ - 中西部
ウンターフランケン行政管区 : ヴュルツブルク - 北西部
シュヴァーベン行政管区 : アウクスブルク - 南西部

バイエルン人は独自のアイデンティティを有していると州外の者から言われ、彼らも自認している(「我々は『バイエルン自由共和国』である」と意識している)。地理的にオーストリアと近く、バイエルン王国とハプスブルク帝国のころから、歴史的にも文化的にも所縁が深く、「ベルリンよりウィーンに対抗意識がある」といわれる。言語の上でも、バイエルンの大部分とオーストリアはともに上部ドイツ語のバイエルン・オーストリア語が用いられている。ドイツから独立するのではないかとしばしば言われており、第一次・第二次大戦後には実際にそうした動きもあった(第一次大戦後に成立し間もなく崩壊したバイエルン・レーテ共和国など。また、ミュンヘン一揆の背景もバイエルン総督フォン・カールによるヴィッテルスバッハ家復位とバイエルン独立の目論見にあった)。


2017年、国内最大の日刊紙ビルトとイギリスの調査会社YouGov(英語版)がドイツ全土で行った「自分が住む州はドイツから独立するべきか」という世論調査に対し、バイエルン州民の3分の1が独立を支持している[2]。
宗教
キリスト教
2006年9月9日、ミュンヘンのマリエンプラッツで「バイエルン賛歌」を歌うベネディクト16世。950年ぶりのドイツ人のローマ教皇はバイエルン州出身者である。

バイエルン州はローマ・カトリック教会信徒の比率53,7 % ( 2011年現在)であり、ドイツにおいてカトリック教会信徒の多い地域の一つである。カトリック教会信徒の比率を比べると、ドイツにおいて最も比率が高いのは、同じカトリック圏のフランスおよびルクセンブルクとの国境地帯に位置するザールラント州の64,1 %であるが、バイエルン州はその次点である[3]。政治的にもキリスト教民主同盟(CDU)の事実上のバイエルン支部であり、より保守的なキリスト教社会同盟(CSU)の牙城である
(ただし、州都ミュンヘン市では全国政党のドイツ社会民主党(SPD)の勢力が強く、第二次世界大戦後から2014年までの6人の市長のうち5人は社会民主党から出ている)。

バイエルン州住民の20,8%はバイエルン福音ルター派教会の信徒である[4]。 この二つの教派は一つの行政区域を越えて不均等な形態で分布している。アルトバイエルンとウンターフランケンはローマ・カトリックが支配的であり、
ミッテルフランケンとオーバーフランケンは福音主義が優勢である。アンスバッハ侯領とバイロイト侯領 (ブランデンブルク=バイロイト辺境伯領)であった地域とバイエルン州内のかつての帝国自由都市の大部分(ニュルンベルク、ローテンブルク・オプ・デア・タウバー)はバイエルン福音ルター派教会が優勢な地域で、歴史的にも宗教改革の中心地であった。 ローマ・カトリック教会と福音主義教会への所属は最近減り続けている。信徒の減少傾向は他の州でも同様に起きている。バイエルン州政府はカトリック教会の年6500万ユーロ、福音主義教会に年2100万ユーロを補助金として一般会計から支出している
[5]。
バイエルン州住民の宗教帰属
1840[6] * 1900[6] * 1933[6] * 1950[6] 1970[7] 2006 2007 2010 2011
ローマ・カトリック 71,1 % 70,5 % 70,0 % 71,9 % 70,4 % 57,2 %[8] 56,3 %[9] 54,4 %[10] 53,7 %[3]
福音主義 27,4 % 28,3 % 28,7 % 26,5 % 25,2 % 21,3 %[11] 21,0 %[12] 20,4 %[10]
イスラム教 ? ? ? ? 0,9 % 2,2 %
ユダヤ教 1,4 % 0,9 % 0,5 % 0,1 % 0,1 % 0,1 %
他の宗教
無宗教 0,1 % 0,3 % 0,8 % 1,5 % 3,4 % 19,2 %

* Inklusive der Region Pfalz

上図の通り、バイエルン州におけるローマ・カトリック教会の影響力はかなり弱くなって来ている。バイエルン州においてドイツ福音主義教会(EKD)に加盟している州教会はバイエルン福音ルター派教会と福音主義改革派教会の二つである。なお、福音主義改革派教会に属する改革派教会は州内の都市部に6ヶ所あるに過ぎない。
”最終更新 2017年8月17日 (木) 10:55 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

Augustin Barruel
https://en.wikipedia.org/wiki/Augustin_Barruel
”Abbé Augustin Barruel (October 2, 1741 – October 5, 1820) was a French publicist and Jesuit priest. He is now mostly known for setting forth the conspiracy theory involving the Bavarian Illuminati and the Jacobins in his book Memoirs Illustrating the History of Jacobinism (original title Mémoires pour servir à l'Histoire du Jacobinisme) published in 1797. In short, Barruel wrote that the French Revolution was planned and executed by the secret societies."

(オーギュスタン・バリュエル神父
Abbé(アベ)=神父、カトリック教会の聖職者。


フランス語ネット講座 フランス語の発音
http://www.france-jp.net/01cours/04-2hatsuon/)

”Augustin Barruel
Augustin Barruel.png
Born October 2, 1741
Villeneuve-de-Berg, Ardèche, France
Died October 5, 1820 (aged 79)
Paris, France
Occupation priest, historian, theologian
Subject Counterrevolution, anti-masonry
Notable works Memoirs Illustrating the History of Jacobinism”

(フランス革命はジャコバン派、フリーメーソン、
バヴァリアのヴァイスハウプトの元祖イルミナティという秘密結社が起こしたと説明する、
陰謀論本の1797年に『ジャコバン主義の歴史を例証する研究報告』を出版。

反フランス革命、
反メーソン。
教会とカトリック系の王侯貴族側。
Jacobinsジャコバン派とルソーとモンテスキューも批判。

フランス系メイソン
=百科全書+啓蒙主義+無神論or理神論系の、異端派プロテスタント。

※アクセントがある位置を大文字にしてみた。
pUblicist
政治評論家、宣伝係、広報係。)

”Biography

Augustin Barruel was born at Villeneuve de Berg (Ardèche). He entered the Society of Jesus, commonly known as the Jesuits in 1756, and taught grammar at Toulouse in 1762. The storm against the Jesuits in France drove him from his country and he was occupied in college work in Moravia and Bohemia until the suppression of the order in 1773. He then returned to France and his first literary work appeared in 1774: Ode sur le glorieux avenement de Louis Auguste au trone. (Ode to the glorious advent to the throne of Louis Auguste).That same year he became a collaborator of the Année littéraire, edited by Fréron. His first important work was Les Helveiennes, ou Lettres Provinciales philosophiques, (The Helveiennes or philosophical Provincial Letters) published in 1781."

(最初の著作が1774年の
『ルイ・オーギュストが玉座へ栄えあるご降臨をなされたことへの頌歌』
ルイ・オーギュスト=ルイ16世で、即位年が1774年。

明確に王政側。つまり反革命。

Odeオード=讃える詩。

Louis-Auguste
ルイ=オーギュスト
=ルイ16世(Louis XVI、1754 - 1793年)。
ブルボン朝第5代のカトリックのフランス国王
(在位:1774 - 1792年)。

王妃はマリー・アントワネット。
在位中の1789年にフランス革命が起こり、1792年に王権が停止し、翌年処刑。

La Conduite du. S. Siège envers la France
The Conduct of. S. Headquarters to France
グーグル翻訳より。

フランス語単語のカタカナ表記、一覧リスト(発音、読み方、意味と翻訳も)
http://and-hello.com/french-word-list-2/
がカタカナ表記にするのに便利。
発音通りに表記しろよ!)

”In the meantime, national affairs in France were growing more and more turbulent, but Barruel continued his literary activity, which from now on occupied itself specially with public questions. In 1789 appeared Lettres sur le Divorce, a refutation of a book by Hennet. From 1788 to 1792 he edited the famous Journal Ecclesiastique founded by Joseph Dinouart in 1760. In this periodical was published Barruel's La Conduite du. S. Siège envers la France, a vigorous defense of Pope Pius VI. He likewise wrote a number of pamphlets against the civil oath demanded from ecclesiastics and against the new civil constitution during 1790 and 1791. He afterward gathered into one Collection Ecclésiastique all of the works relative to the clergy and civil constitution.
The French revolution and the conspiracy theory

The storm of the French Revolution had in the meantime forced Barruel to seek refuge in England, where he became almoner to the refugee Prince of Conti. Here he wrote in 1793 the Histoire du Clergé pendant la Revolution Française ("History of the Clergy during the French Revolution"). He dedicated the work to the English nation in recognition of the hospitality that it had showed toward the unfortunate French ecclesiastics. It has been translated into German, Italian, Spanish, Polish, and English. The English version went through several editions and did much to strengthen the British nation in its opposition to French revolutionary principles. While in London, Barruel published an English work, A Dissertation on Ecclesiastical Jurisdiction in the Catholic Church. But none of his works attracted so much attention as his Memoirs Illustrating the History of Jacobinism.”

(フランス革命の影響でバリュエルは英国に亡命したことがある。
1793年に、『フランス革命期の聖職者の歴史』を執筆。
この作品は、不幸なるフランスの教会を英国が厚遇の念を示してくれたお礼として、
英国にささげられた。ドイツ、イタリア、スペイン、ポーランド、英語に翻訳された。
英語版はいくつか版を重ね、英国において、フランス革命の諸原理への反感が強まることに大いに貢献した。
彼の著作で一番注目されたのは例の陰謀論本である。

do much
大きな働きをする、大いに役立つ[貢献、尽力する]

do much for
~に貢献する

have not much to do with
~とあまり関係がない


in recognition of

〔功績など〕を認めて

〔労働など〕のお礼、報酬として


in recognition of one's service
お世話になったお礼に、功労により



set forth 記述、説明[表明・明記]する
set forth a strategy and priorities regarding~
~に関する戦略および優先事項を発表する。


和製英語化しているものは調べないといけない。
本当に和製英語は勉強の邪魔。中途半端に似ているから記憶を邪魔する。

hospitality
親切にもてなすこと、もてなし、接待、歓待、厚遇。
give [show] a person hospitality 人を手厚くもてなす.


ジョゼフ・ディヌアートは女性の権利について主張したフェミニストの男性らしい。
Joseph Dinouart
https://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Dinouart
”Joseph Antoine Toussaint Dinouart (November 1, 1716 ? April 23, 1786) was a preacher, polemicist, compiler of sacred learning, and apologist for French feminism.

Born in Amiens, he was ordained as a priest in there in 1740. In his youth, he showed a talent for Latin poetry, but soon neglected this in favor of his religious studies. After writing a short essay on women's rights, he had a falling out with his bishop and moved to Paris, where he joined the Saint-Eustache parish. He soon left, however, to tutor the son of a police lieutenant. This position gave him a stable yearly income and allowed Dinouart to devote himself to the study of literature.

In 1760, he founded the Journal ecclesiastique, which he edited until his death. The collected work of this journal numbers more than 100 volumes. It contains extracts from sermons, treatises on morality and piety, and research on ecclesiastical law and councils.

Dinouart served as the editor or compiler of many books and journals. Among these was L'art de se taire, principalement en matiere de religion, a nearly perfection transcription of an earlier anonymous work entitled Conduite pour se taire et pour parler, principalement en matiere de religion. This was re-issued in Paris in 1987.”
)


”His basic idea was that of a conspiracy with the aim of overthrowing Christianity—or more to the point, any and all forms of political and social organization based on conformity to the moral teachings of the Roman Catholic Church.

It inspired John Robison, who had been working independently on his own conspiracy theory, to extend his book Proofs of a Conspiracy Against all the Religions and Governments of Europe and include several quotations from Barruel.[1]
Late years
On the fall of the Directory in 1802, Barruel was enabled to return to France. He fully accepted and persuaded many other clergymen to accept the new political order of things in his native country and he wrote several books to defend his opinions. When the Concordat was made in 1801 between Pius VII and Napoleon, Barruel wrote: Du Pape et de ses Droits Religieux. His last important controversy was his defense of the Holy See in its deposition of the French bishops, which he said had been necessitated by the new order of things in France established by the Concordat of 1801. His book appeared also in English: The Papal Power, or an historical essay on the temporal power of the Pope. Many attacked the work, but as usual, the author did not suffer an antagonist to go unanswered. His new work involved him in a very extended controversy, for his work was translated into all the principal European languages. His friends and foes alike became involved in a wordy war. Blanchard published in London no fewer than three refutations. He had promised to compose two works that never appeared: Historie des Sociétés Secrètes au Moyen-Age and Dissertation sur la Croisade contre les Albigeois. In regard to the latter work, Barruel stated his object would be to defend the Church against the reproach of having deposed kings and having freed their subjects from the oath of allegiance. He contended that objections on this score arose only from an ignorance of history. At the time of his death, Barruel was engaged on a refutation of the philosophical system of Immanuel Kant, but never completed his work. He died in Paris in 1820.
(ロビソンのメイソン・元祖イルミナティ叩き本にはバリュエルからの引用がある。
ロビソンは自力で自身の陰謀論を組み上げたとあるが、誤り。
ロビソンに資料提供したホーンがベネディクト会修道士なので、

ホーン←陰謀論作成司令官or指令団体→バリュエル

である可能性がある。
つまり同じ親分が違う部下にそれぞれ命令を下している可能性あり。
両者とも危機感抱いて温夜分関係なく自分でやった可能性はあるけどね。
バリュエルは膨大な資料を使ったので提供者がいたはずだが、情報なし。

バリュエルは晩年に、カントの哲学システムへの反論を執筆していたが未完のうちに死去



Memoirs Illustrating the History of Jacobinism
https://en.wikipedia.org/wiki/Memoirs_Illustrating_the_History_of_Jacobinism
”Memoirs Illustrating the History of Jacobinism (French: Mémoires pour servir à l’histoire du Jacobinisme) is a book by Abbé Augustin Barruel, a French Jesuit priest. It was written and published in French in 1797-98, and translated into English in 1799.

In the book, Barruel claims that the French Revolution was the result of a deliberate conspiracy or plot to overthrow the throne, altar and aristocratic society in Europe. The plot was allegedly hatched by a coalition of philosophes, Freemasons. The conspirators created a system that was inherited by the Jacobins who operated it to its greatest potential. The Memoirs purports to expose the Revolution as the culmination of a long history of subversion. Barruel was not the first to make these charges but he was the first to present them in a fully developed historical context and his evidence was on a quite unprecedented scale. Barruel wrote each of the first three volumes of the book as separate discussions of those who contributed to the conspiracy. The fourth volume is an attempt to unite them all in a description of the Jacobins in the French Revolution. Memoirs Illustrating the History of Jacobinism is representative of the criticism of the Enlightenment that spread throughout Europe during the Revolutionary period.

Barruel’s Memoirs is considered one of the founding documents of the right-wing interpretation of the French Revolution.[1] It became popular immediately after it was published and was read and commented on by most of the important literary and political journals of the day.[2] The four volumes of the text were published in a number of languages and created a debate about the role of the philosophes, their ideas, and the Enlightenment in the French Revolution. They remained in print well into the 20th century and contributed to the historical interpretation of the late 18th century in France. The success of Barruel's work is testimony to the anti-philosophical discourse that spread in the aftermath of the revolution. Barruel left behind a construction of the Enlightenment that was destined to influence subsequent interpretations. He wound accusations tightly around his foes and tied them into positions from which they could not escape.[3] The text created a link between the Enlightenment and the Revolution and this connection remains a topic of historical debate.
(…)
Abbé Augustin Barruel (1741–1820) became a Jesuit in 1756 but by 1762 anti-Jesuit feeling in France had become so strong that he left and travelled for many years, returning only in 1773.[4] The events of the French Revolution in 1792 caused him to leave again and take refuge in England. His dislike and hostility towards the philosophes was well known and well developed before 1789 as he had been on the editorial staff of the popular anti-philosophe literary journal Année littéraire decades before the Revolution.[5] In 1797, when living in exile in London, he wrote the Memoirs. It was published in French by the French publishing company at 128 Wardour Street, Oxford Street, London.[6] An English edition was issued the same year, and the work quickly became a commercial success.[7] The multi-volume work went through four revised French editions by 1799 and was translated into English, German, Italian, Spanish, Swedish, and Russian as editions were issued in London, Hamburg, Augsburg, Luxembourg, St. Petersburg, Dublin, Naples and Rome before the fall of Napoleon.[8]
Synopsis
Outline of the work

In his "Preliminary Discourse", Barruel defines the three forms of conspiracy as the "conspiracy of impiety" against God and Christianity, the "conspiracy of rebellion" against kings and monarchs, and "the conspiracy of anarchy" against society in general.[9] He sees the end of the 18th century as "one continuous chain of cunning, art, and seduction"[10] intended to bring about the "overthrow of the altar, the ruin of the throne, and the dissolution of all civil society".[11]

The first volume examines the anti-Christian conspiracy that was begun by Voltaire in 1728 when Barruel claimed that Voltaire "consecrated his life to the annihilation of Christianity".[12] Barruel returned to the principal texts of the Enlightenment and found reasons to draw close links between the philosophism of the time and the anti-Christian campaigns of the Revolution.[13] Here he found that the philosophes had created an age of pretend philosophy which they used in their battle with Christianity. Their commitment to liberty and equality were really commitments of "pride and revolt".[14] Barruel claimed that the proponents of the Enlightenment led people into illusion and error and refers to the philosophes as "Writers of this species, so far from enlightening the people, only contribute to lead them into the path of error".[15] He alleged that Voltaire, Jean le Rond d’Alembert, Denis Diderot, and Frederick II, the King of Prussia, planned the course of events that lead to the French Revolution. They began with an attack on the Church where a "subterranean warfare of illusion, error, and darkness waged by the Sect"[16] attempted to destroy Christianity. The influence of the philosophes could not be underrated according to Barruel. They created the intellectual framework that put the conspiracy in motion and controlled the ideology of the secret societies. Barruel appears to have read the work of the philosophes and his direct and extensive quotes shows a deep knowledge of their beliefs. This is unusual among the enemies of the Enlightenment, who rarely distracted themselves by reading the works and authors they were attacking.[17] Barruel believed the philosophes were important as the original villains that seduced the population and made Enlightenment, and subsequently revolutionary, ideals favorable.

The second volume focuses on the anti-monarchical conspiracy that was led by Jean Jacques Rousseau and Baron de Montesquieu. These conspirators sought to destroy the established monarchies under the guise of "Independence and Liberty".[18] Barruel analyses and criticizes Montesquieu's The Spirit of Laws and Rousseau's Social Contract because the application of the ideas expressed in these books had "given birth to that disquieted spirit which fought to investigate the rights of sovereignty, the extent of their authority, the pretended rights of the free man, and without which every subject is branded for a slave - and every king a despot".[19] He believed that the influence of these two writers was a necessary factor in the enactment of the French Revolution. He agreed with the revolutionaries as they themselves placed the remains of Voltaire and Rousseau in the Pantheon to pay homage to the "fathers of the revolution". Barruel believed that the philosophes had created a lasting influence as their spirit survived through their writings and continued to promote anti-monarchical feelings within the Jacobins and the revolutionaries. The destruction of monarchies in Europe led to the triumph of the Jacobins as they trampled "underfoot the altars and the thrones in the name of that equality and that liberty which summon the peoples to the disasters of revolution and the horrors of anarchy".[20] Barruel equated the rejection on monarchy with a rejection of any type of order and government. As a result, the principles of equality and liberty and their attacks against the monarchy were attacks against all governments and civil society. He presented a choice to his readers between monarchy and the "reign of anarchy and absolute independence".[21]

Barruel's third volume addresses the antisocial conspiracy that was the objective of the Freemasons and the Order of the Illuminati. The philosophes and their attacks against the church and the throne paved the way for the conspiracy that was led by these secret societies. These groups were believed to have constituted a single sect that numbered over 300,000 members who were "all zealous for the Revolution, and all ready to rise at the first signal and to impart the shock to all others classes of the people".[22] Barruel surveyed the history of Masonry and maintained that its higher mysteries had always been of an atheist and republican cast.[23] He believed the Freemasons kept their words and aims secret for many years but on August 12, 1792, two days after the fall of the French monarchy, they ran though the streets openly announcing their secrets. The secret words were "Liberty, Equality, and Fraternity" and the secret aim was the overthrow of the French monarchy and the establishment of the republic.[24] Barruel claimed he heard them speak these words in France but that in other countries the Masons still kept their secrets. A division of the group into numerous lodges ensured that if the secrets of one lodge were discovered, the rest would remain hidden. "

メーソンが派閥で分かれ、多くのロッジ(支部)があるのは、
一つのロッジの秘密が暴露されても、
残りの秘密は保たれるからと分析。
それ教会もでしょ


"He believed that it was his job to warn all governments and people of the goals of the Freemasons. Barruel described in detail how this system worked in the case of the Illuminati. Even after Johann Adam Weishaupt, the leader of the sect, was discovered and tried in court, the proceedings could not uncover the universal influence of the Illuminati and no steps were taken against the group.[25] The majority of the secret societies could always survive and carry on their activities because of the organization of the group. The Illuminati, as a whole, functioned to radicalize the movement against the throne and altar and influenced more members of the population to subscribe to their hidden principles.[26] They refined the secret structure that had been provided by the Masons basic framework.

For Barruel, the final designs of the coalition of the philosophes, the Freemasons and the Illuminati were achieved by the Jacobins. These clubs were formed by "the adepts of impiety, the adepts of rebellion, and the adepts of anarchy"[27] working together to implement their radical agenda. Their guiding philosophy and actions were the culmination of the conspiracy as they directly wanted to end the monarchy and the church. Barruel believed that the only difference between the Jacobins and their precursors was that the Jacobins actually brought down the church and the throne and were able to institute their basic beliefs and goals while their precursors only desired to do these things without much success.[28]
The Memoirs and the French Revolution

According to Barruel, the first major assault on the Enlightenment came during the French Revolution. In the minds of many, the Enlightenment was inextricably connected to the Revolution that followed. This presumed link resulted in an explosion of literature that was hostile to the Enlightenment. When the leaders of the Revolution canonized Voltaire and Rousseau and made the Enlightenment themes of reason, progress, anti-clericalism and emancipation central to their own revolutionary vocabulary, it created a link that meant any backlash against the Revolution would increase opposition to the Enlightenment.[29] The advent of what Graeme Garrard has called the "continuity thesis" between the Enlightenment and the Revolution – the belief that they were connected in some intrinsic way, as cause and effect- proved damaging to the Enlightenment.[30]

For Barruel, the Revolution was not a spontaneous popular uprising expressing a long-suppressed general will. It was instead the consequence of a united minority group who used force, subterfuge and terror to impose their will on an innocent and unsuspecting population.[31] Barruel believed that the Revolution was caused by Voltaire, Rousseau and the other philosophes who conspired with secret societies to destroy Catholicism and the monarchy in France. He argued that the writings of the philosophes had a great influence on those who would lead the Revolution and that Voltaire and his followers were responsible for the training of revolutionaries. It was from the followers of the philosophes "that the revolutionary ministers Necker and Turgot started up; from this class arose those grand revolutionary agents, the Mirabeaux, Sieyes, Laclos, Condorcets; these revolutionary trumps, the Brissots, Champforts, Garats, Cheniers; those revolutionary butchers, the Carras, Frerons, Marats".[32]
The Encyclopédie
Main article: Encyclopédie
First page of Volume 1 of the Encyclopédie.

Within the Memoirs, Barruel alleged that Diderot's Encyclopédie was a Masonic project. He believed that the written works of the philosophes penetrated all aspects of society and that this massive collection was of particular significance. The Encyclopédie was only the first step in philosophizing mankind and was necessary to spread the impious and anti-monarchical writings.[33] This created a mass movement against the church and society. Barruel believed that the conspirators attempt to "imbue the minds of the people with the spirit of insurrection and revolt"[34] and to promote radicalism within all members of society. This was believed to be the main reason behind the Encyclopédie as it was "a vast emporium of all the sophisms, errors, or calumnies which had ever been invented against religion".[35] It contained "the most profligate and impious productions of Voltaire, Diderot, Boulanger, La Mettrie, and of other Deists or Atheists of the age, and this under the specious pretence of enlightening ignorance".[36] Barruel believed the volumes of the Encyclopédie were valuable in controlling the minds of intellectuals and in creating a public opinion against Christianity and monarchy.
Philosophism

Philosophism was a term used by Barruel within the Memoirs to refer to the pretend philosophy that the philosophes practiced. It was originally coined by Catholic opponents of the philosophes but was popularized by Barruel.[37] It referred to the principles that were shared by philosophes, Freemasons, and Illuminati. Barruel defined philosophism as "the error of every man who, judging of all things by the standard of his own reason, rejects in religious matters every authority that is not derived from the light of nature. It is the error of every man who denies the possibility of any mystery beyond the limits of reason if everyone who, discarding revelation in defence of the pretended rights of reason, Equality, and Liberty, seeks to subvert the whole fabric of the Christian religion".[38]

The term had a lasting influence as by the end of the 18th century it had become a popular term of abuse used by conservative journals to refer to supporters of the Revolution.[39] These journals accused those who practiced philosophism as having no principles or respect for authority. They were skeptics who failed to believe in the monarchy and the church and thus, had no principles. The use of the term became pervasive in the Anti-Jacobin Review and contributed to the belief in a connection between the Enlightenment and the Revolution and its supporters. Philosophism became a powerful tool of anti-revolutionary and anti-Jacobin rhetoric.
Members of the conspiracy

Barruel identified a number of individuals who he believed played direct roles in the Enlightenment and the conspiracy against Christianity and the state. He identified Voltaire as the "chief", d’Alembert as the "most subtle agent", Frederick II as the "protector and adviser", and Diderot as its "forlorn hope".[40] Voltaire was at the head of the conspiracy because he spent his time with the highest levels of European society. His attention and efforts were directed at kings and high ranking ministers. D'Alembert worked behind the scenes and inside the more common areas of French society. He employed his skill in the cafes and academies and attempted to bring more followers to the conspiracy. Barruel takes a close look at the correspondence between Voltaire and d'Alembert and uses this as evidence of their plot to overthrow society. He is deeply concerned with the fact that those he identifies as the leaders of the plot had secret names for one another in their private correspondence. Voltaire was "Raton", d'Alembert was "Protagoras", Frederick was "Luc", and Diderot was known as "Plato".[41] Barruel also argued that the conspiracy extended far beyond this small group of philosophes. He believed that the court of Louis XV was a "Voltairean ministry"[42] of powerful men. This group involved Marquis d'Argenson who "formed the plan for the destruction of all religious orders in France", the Duc de Choiseul who was "the most impious and most despotic of ministers", the "friend and confidant of d'Alembert", Archbishop de Briennes, and Malesherbes, "protector of the conspiracy".[43]

According to Barruel, this group of influential leaders worked together with a number of adepts who supported the conspiracy. The most important adept that Barruel identifies is Condorcet. Barruel claimed that Condorcet was a Freemason and leading member of the Society of 1789 who was elected to the Legislative Assembly and was "the most resolute atheist".[44] Condorcet was important because he embodied everything that Barruel claimed the conspiracy was. He was a Freemason that associated with the philosophes and who would become an influential member of the revolution process. Barruel also lists the Baron d'Holbach, Buffon, La Mettrie, Raynal, Abbé Yvon, Abbé de Prades, Abbé Morrelet, La Harpe, Marmontel, Bergier and Duclos among the members of the "synagogue of impiety".[45]
Barruel's techniques of argumentation

As a Catholic apologist of the religious and political status quo, Barruel downplayed his own Catholicism and presented himself as a neutral party within the radicalized debate surrounding the Revolution. His tactic was to cite document after document with a commentary that effectively showed it was the truth. The reader of the Memoirs could have been any individual who doubted some of Barruel's inferences, but who would eventually be overwhelmed by the sheer weight of evidence against the Enlightenment and liberation movements. His fanatical hatred for revolutionary and enlightenment ideas is hidden behind a faux neutrality and casuistic slight of pen. By isolating single passages and quoting them out of context, Barruel presented what seemed to be a convincing case.[46] He made up for quality with quantity and persuaded a number of contemporaries to adopt his view. The Memoirs is constructed according to reason and Barruel attempts to use the Enlightenment's own tool to bring about its demise.
Reception

Barruel's work was influential and impossible to ignore. The Freemasons of France, Germany, and England angrily contested his assertions and a voluminous literature was the consequence. Even his critics were forced to take him serious in their attempt to refute his arguments.[47] The Memoirs were written about and discussed at length by leading literary and philosophical figures.

Edmund Burke, an English political thinker, was impressed by the work of Barruel in uncovering a connection between the Enlightenment and the French Revolution. Burke wrote a letter to Barruel and expressed his admiration. He wrote, "I cannot easily express to you how much I am instructed and delighted by the first volume of your History of Jacobinism." He praised "the whole of the wonderful narrative" for being supported by documents and proofs with "the most judicial regularity and exactness." At the end of the letter Burke added: "I forgot to say, that I have known myself, personally, five of your principal conspirators; and I can undertake to say from my own certain knowledge, that as far back as the year 1773, they were busy in the plot you have so well described, and in the manner, and on the principle you have so truly represented. To this I can speak as a witness."[48] Burke's own works were also filled with references to the philosophe sect and a dislike for their fanaticism, atheism and perversion of public morals.

Others soon took up the arguments of Burke and Barruel. In England, the Scottish scientist John Robison, published Proofs of a Conspiracy against All the Religions and Governments of Europe, carried on in the Secret Meetings of the Free Masons, Illuminati, and Reading Societies.[49] The work, published in 1798, detailed a conspiracy that involved philosophes, Masons, and the Illuminati and their desire to "root out all the religious establishments an overturn all the existing governments of Europe".[50] Robinson's text has been characterized as being less detailed but more refined that Barruel's Memoirs. Even with these differences, Robinson's work supported the conspiracy that Barruel purported to have discovered. Barruel himself commented on the similarities, stating "Without knowing it, we have fought for the same cause with the same arms, and pursued the same course".[51] The two writers had many similarities in their arguments and conclusions and their books spawned an anti-Enlightenment and anti-revolution discussion that was constructed on the same theses.

Despite the initial popularity of the book, Barruel's contemporaries soon rejected his book. Jean Joseph Mounier,[52] a member of the National Assembly during the beginning of the French Revolution, insisted the Revolution broke out because of the failure of the established authorities to handle a number of crises that occurred.[53] He blamed the parlements of France for attempting to become rivals of the monarch and the spirit of intolerance in France. Mounier believed the Revolution was a result of social and political tensions and he did not believe there was a planned conspiracy. Joseph de Maistre, a well known counter-revolution theorists, also did not accept Barruel's conspiracy theory. He wrote a short rejection of the Memoirs in which he termed Barruel's accusations "foolish and "false".[54] Maistre rejected the idea of the Freemasons being partly responsible, perhaps because he was a member himself, and did not believe that the Illuminati were as powerful as Barruel made them out to be.
Contribution and legacy

Barruel's version of the revolution, which blamed specific men and pointed out a single cause, has been rejected by the majority of scholars, as the concept of a "master conspiracy" lies on the fringes of historical analysis. Still, his Memoirs do retain historical significance. Amos Hofman has argued that Barruel's work "appears to be the first systematic attempt to discuss the role of conspiracy in a revolution".[55] The theory of conspiracy is a tool for Barruel that is used in an attempt to discredit "public politics" or politics based on the support of public opinion. Hofman shows how Barruel sought to prove that public politics, demanded by both the philosophes and the revolutionaries, could not in fact exist as it was an illusion designed to create support for their private desire to control France.[56] Barruel's theory of conspiracy is important as a "reaction to a problem that was at the focus of the ideological struggle during the second half of the eighteenth century – the problem of the rise of public opinion as a political factor that had to be taken into account by the leaders of society".[57] According to this view, Memoirs Illustrating the History of Jacobinism can be read as an attempt to understand the public appeal of the ideas of the Enlightenment and mass politics. Barruel's text is also important for its entrenchment of an understanding of conspiracy within modern politics. Conspiracy was seen as a motivating cause of revolution because it suggested conflict within the society. It viewed politics as a clash between opposing ideas which could not be solved by a compromise because of substantial division.[58] The society that Barruel creates was not divided by legitimate beliefs and divergent interests. Instead, it was a binary divide between the united and wholly patriotic group that included Barruel and the unholy alliance of traitors and criminals.[59] Barruel's theory of a master conspiracy and his understanding of the causes of political change still influences society.

Memoirs Illustrating the History of Jacobinism has also been seen as a primary source that can be used to examine freemasonry in Europe. Even though Freemasonry became a target in the paranoid literature that blamed the revolution partly on the activities of Masons, the work still had some historical value in regards to the group. Margaret Jacob argues that Barruel's writings "offer a point of departure for understanding the relationship between the Continental Enlightenment, as it was lived in the clubs, societies, and lodges of the eighteenth century, and the outbreak of the democratic revolutions in the late 1780s in Amsterdam, Brussels, and most important, Paris."[60] She believes that if readers can look past the paranoia within the text, it can provide information about how Freemasons were treated during the revolution. Jacob also sees value in the text because Barruel argued for a distinction between English Freemasonry and its Continental counterpart.[61] Barruel believed that his allegations against the Continental Freemasons did not apply to the respectable English Freemasons. The activities of the English Freemasons were not the things that needed to be worried about. He distinguishes between the circumstances of the French and the English and shows that the language used in each situation was important. He believes that the Masonic language about equality, liberty, and fraternity bears relation to the radical and democratic phase of the French Revolution and to Jacobin language.[62] From the book, Margaret Jacob salvages the realization that language is important and that it can have a social force all of its own.”

イエズス会士のバリュエル神父は英国系メーソンと、
ヨーロッパ大陸系のメイソンを分けている。
バリュエルは、
大陸系、要はフランス系メイスン叩きは、尊敬すべき英国系メイスンには適用されないと考えた。
英国系メーソンの行動は心配するほどのことではないと考えていた。
バリュエルは英国と仏国の状況を分けており、それぞれの状況で使われている専門用語が重要だと示した。
メイソン用語の自由、平等、友愛(博愛)は、
フランス革命の急進的で民主主義的な側面と関係してしており、
ジャコバン派用語とも関係していると考えた。

スポンサーに英国系メイソンがいた疑惑。
バリュエルはフランスの王権と教会権力維持のために活動していたから、英国のことまでかまっていられなかったのかも。
でも英国系のロンドンの大ロッジ作ったのがフランス系カルヴァン派のユグノーだから、英国系も結局はフランス系じゃん!



Barruel's polemic is an important source for the understanding of the mentality of the opponents of the French Revolution and their understanding of the ideological origins of the Revolution. Furthermore,
Barruel is also seen as the father of a modern conspiracy theory. The Memoirs contain all of the elements that continue to characterize conspiracy narratives today including the argument that a hidden group is orchestrating world events behind the scenes and an attempt to construct a direct lineage from the past to the present.[63] Barruel presents a thorough application of conspiracy theory methodology. As a result, he has had a lasting influence on following generations."
イエズス会士のバリュエル神父は現代の陰謀論の父とみられていて、
後世の陰謀論世代に影響



See also

Counter-Enlightenment
Science in the Age of Enlightenment
Philosophe
Augustin Barruel
Encyclopédie
Frederick II of Prussia
Conspiracy theory
Freemasonry
Illuminati”
This page was last modified on 7 October 2015, at 23:36.


John Robison (physicist)
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Robison_(physicist)
”John Robison FRSE (4 February 1739 – 30 January 1805) was a Scottish physicist and mathematician. He was a professor of philosophy at the University of Edinburgh.

A member of the Edinburgh Philosophical Society when it received its royal warrant, he was appointed as the first general secretary to the Royal Society of Edinburgh (1783–98). Robison invented the siren and also worked with James Watt on an early steam car. Following the French Revolution, Robison became disenchanted with elements of the Enlightenment. He authored Proofs of a Conspiracy in 1797—a polemic accusing Freemasonry of being infiltrated by Weishaupt's Order of the Illuminati.

His son was the inventor Sir John Robison (1778–1843).
(…)
The conspiracy theorist
Towards the end of his life, he became an enthusiastic conspiracy theorist, publishing Proofs of a Conspiracy ... in 1797, alleging clandestine intrigue by the Illuminati and Freemasons (the work's full title was Proofs of a Conspiracy against all the Religions and Governments of Europe, carried on in the secret meetings of Freemasons, Illuminati and Reading Societies). The secret agent monk, Alexander Horn provided much of the material for Robison's allegations.[3] French priest Abbé Barruel independently developed similar views that the Illuminati had infiltrated Continental Freemasonry, leading to the excesses of the French Revolution.[4][5] ”
This page was last modified on 18 March 2016, at 14:35.

ジョン・ロビソン。
物理学者、数学者。
エディンバラ大学の哲学教授。
エディンバラ哲学協会員。
1783年創立のエジンバラ王立協会の書記長
サイレンを発明。
ワットと初期の蒸気自動車関係で働いたことあり。
フランス革命に伴い、啓蒙思想に幻滅。
1797年に『陰謀の証拠』を著し、
ヴァイスハウプトのイルミナティに潜入されたフリーメーソンを叩く。

ロビソンに情報を与えたベネディクト会修道士のスパイ、工作員アレクサンダー・ホーンが重要。
イエズス会が目立ちすぎているので注意。
宗教家は知識人であり優れたスパイでもあるのは西洋だけに限らない。



Fellowship of the Royal Society of Edinburgh (FRSE) )

再読したら内容が充実していた。
This page was last edited on 27 June 2017, at 18:31.
”The conspiracy theorist

Towards the end of his life, he became an enthusiastic conspiracy theorist, publishing Proofs of a Conspiracy ... in 1797, alleging clandestine intrigue by the Illuminati and Freemasons (the work's full title was Proofs of a Conspiracy against all the Religions and Governments of Europe, carried on in the secret meetings of Freemasons, Illuminati and Reading Societies). The secret agent monk, Alexander Horn provided much of the material for Robison's allegations.[5] French priest Abbé Barruel independently developed similar views that the Illuminati had infiltrated Continental Freemasonry, leading to the excesses of the French Revolution.[6][7] In 1798, the Reverend G. W. Snyder sent Robison's book to George Washington for his thoughts on the subject in which he replied to him in a letter:[8]

It was not my intention to doubt that, the Doctrines of the Illuminati, and principles of Jacobinism had not spread in the United States. On the contrary, no one is more truly satisfied of this fact than I am. The idea that I meant to convey, was, that I did not believe that the Lodges of Free Masons in this Country had, as Societies, endeavoured to propagate the diabolical tenets of the first, or pernicious principles of the latter (if they are susceptible of separation). That Individuals of them may have done it, or that the founder, or instrument employed to found, the Democratic Societies in the United States, may have had these objects; and actually had a separation of the People from their Government in view, is too evident to be questioned.”

(the Reverend=牧師。
reverend 聖職者の、尊い、牧師の)

Modern conspiracy theorists, such as Nesta Webster and William Guy Carr, believe the methods of the Illuminati as described in Proofs of a Conspiracy were copied by radical groups throughout the 19th and 20th centuries in their subversion of benign organizations.
Spiritual Counterfeits Project editor Tal Brooke has compared the views of Proofs of a Conspiracy with those found in Carroll Quigley's Tragedy and Hope (Macmillan, 1966). Brooke suggests that the New World Order, which Robison believed Adam Weishaupt (founder of the Illuminati) had in part accomplished through the infiltration of Freemasonry, will now be completed by those holding sway over the international banking system (e.g., by means of the Rothschilds' banks, the U.S. Federal Reserve, the International Monetary Fund, and the World Bank).
[9]”
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Robison_(physicist)

(Nesta Helen Webster (1876 – 1960) は、
ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティ陰謀論者。
https://en.wikipedia.org/wiki/Nesta_Helen_Webster

William James Guy Carr (1895 – 1959)の著作は、
アメリカでのイルミナティ悪魔学が創られるうえで、
もっとも影響力のある情報源らしい。
彼は悪魔のシナゴーグ陰謀論を主張。
要はルシフェリアン(悪魔主義者)・ユダヤ陰謀論
Judeo-Masonic conspiracy theory。
https://en.wikipedia.org/wiki/William_Guy_Carr


Spiritual Counterfeits Project
=聖霊の偽物プロジェクト

Christian countercult movement系の運動。
福音派系。
ロビソンの説に賛同しているのが重要。

このプロジェクトは、
Christian countercult movement
 クリスチャン反カルト運動
=プロテスタントの福音派と原理主義による社会運動
系の運動。
クリスチャン反カルト運動は聖書原理主義以外の宗教をカルトみなす。
Raptureラプチャーを否定したらカルトとみなすとある。
なんでもかんでも悪魔にして本質から遠ざける陰謀論者ラプトの名前の由来。
こいつらがカルトじゃねーか!

反カトリックのプロテスタント福音と原理主義側が、
カトリックの反メイソン・元祖イルミナティ陰謀論に賛同していることに注目。
つまり、双方に利益がある。
陰謀論はカルトの商品であり宣教に利用するために必須な悪魔。
悪魔悪魔だけ言っても効果薄いから具体的組織を叩く。
でもメイソンも元祖イルミナティも異端だったりプロテスタントだったりするが、
すべてキリスト教思想の範囲内なのは無視して叩く。
そうしないと共倒れしちゃうからね。
そして的外れなメイソン叩きはメイソンにも利益があるから容認されている。
バリュエル神父の時代はグルではなかったらしくちゃんと正しいことを言っているのにね。
百科全書派の名前を出している。
それにバリュエルはユダヤ陰謀論者ではない



Spiritual Counterfeits Project
"The Spiritual Counterfeits Project (also known as SCP) is a Christian evangelical parachurch organization located in Berkeley, California. Since its inception in the early 1970s, it has been involved in the fields of Christian apologetics and the Christian countercult movement. Its current president is Tal Brooke. In its role as a think tank, SCP has sought to publish evangelically-based analyses of new religious movements, New Age movements, and alternative spiritualities in light of broad cultural trends. SCP has also been at the center of two controversial US lawsuits, one involving church-state issues (Malnak v. Yogi) and the other being a religious defamation case (Lee v. Duddy)."
https://en.wikipedia.org/wiki/Spiritual_Counterfeits_Project
This page was last edited on 1 July 2017, at 07:38.


Christian countercult movement
https://en.wikipedia.org/wiki/Christian_countercult_movement
”The Christian countercult movement or Christian anti-cult movement is a social movement of certain Protestant evangelical and fundamentalist[1] and other Christian ministries ("discernment ministries"[2]) and individual activists who oppose religious sects they consider "cults".[3]

Overview

Christian countercult activism stems mainly from evangelicalism or fundamentalism. The countercult movement asserts that particular Christian sects whose beliefs they deem to be partially or wholly not in accordance with the Bible are erroneous. It also states that a religious sect can be considered a cult if its beliefs involve a denial of what they view as any of the essential Christian teachings such as salvation, the Trinity,[citation needed] Jesus himself as a person, the ministry and miracles of Jesus, his crucifixion, his resurrection, the Second Coming and the Rapture.[4][5][6]

Countercult ministries often concern themselves with religious sects that consider themselves Christian but hold beliefs thought to contradict the Bible, including The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints, the Unification Church, Christian Science, and Jehovah's Witnesses. Anti-Catholic movements have led Protestants to classify Catholicism as a cult. John Highham described anti-Catholicism as "the most luxuriant, tenacious tradition of paranoiac agitation in American history".[7] Some also denounce non-Christian religions such as Islam, Wicca, Paganism, New Age groups, Buddhism, Hinduism and other religions.”
This page was last edited on 6 August 2017, at 10:52.

"キャロル・キグリー(Carroll Quigley, 1910年11月9日 - 1977年1月3日)は、アメリカの歴史学者、文明進化の研究者。ジョージタウン大学の教授を務めた。多数の本を出版し、秘密結社なども研究していた[1][2]。
経歴

キグリーはボストンで生まれ、ハーバード大学で歴史を専攻。博士課程を修了した後、プリンストン大学で講師として働き、またハーバードに戻った。 1941年から1976年までジョージタウン大学国際関係学部の教授だった[1]。

1941年から1972年まで、文明の発展についての講義を担当した。『ワシントン・スター』に記載された死亡記事では、複数の卒業生が「最も影響を受けた授業」と評価していた[1]。

大学以外では国防総省、海軍、スミソニアン研究所、下院の科学宇宙開発技術委員会 (en) のコンサルタントも務めたことがある[1]。新聞『ワシントン・スター』では外部記者、専門誌 "Current History" では編集者だった。:94 彼は自分が自由主義伝統を守る保守派だと定義していた。早くからベトナム戦争を批判し、軍事産業も反対していた。

キグリーは1976年6月に定年退職し、翌年亡くなった[1]。
秘密結社の研究
様々な秘密結社が現代世界史で果たした重要な役割を指摘したのは、キグリーの著書の大きな特徴の一つである。この影響で、陰謀説を研究している者の間でキグリーの名は知られている:96, 98。しかし、有名な歴史学者の大半は陰謀説に懐疑的である[3]。"
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%AD%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC
最終更新 2016年10月16日 (日) 14:50 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


Alexander Horn
https://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Horn
”Alexander Horn (or Dom Maurus Horn, OSB) (1762–1820), was a Scottish Benedictine monk who became a British secret agent and diplomat. His work contributed to the birth of the conspiracy theory of the illuminati.[1]

Horn was born in the village of Oyne, County of Aberdeen, in the Kingdom of Great Britain. In 1772, at the age of ten, he was accepted as an oblate by the Scots Monastery in Regensburg, Germany, an imperial abbey in the capital which was then the seat of the Imperial Diet of the Holy Roman Empire. About 1782, when he had come of age, he was admitted to the monastic community as a monk and given the religious name of Maurus and was ordained a Catholic priest around 1785. He was an esteemed librarian at the monastery by 1790, while at the same time working as the Regensburg agent for the British ambassador in Munich. He cultivated close ties with the Thurn und Taxis family and other influential people in the region. Despite being a monk, his social life led to him being described as a "wild young fellow".[1]

Horn wrote anonymously, condemning France's activities in undermining the Holy Roman Empire. He supplied the material that formed the core of John Robison's 1797 allegation of an international conspiracy of freemasons, illuminati, and Jacobins. In 1799 he travelled to England, meeting with members of William Pitt's government including Earl Spencer. He subsequently used his bibliographical expertise to acquire rare books and manuscripts for Spencer's library.[1]

When in 1802 the Eternal Diet of Regensburg, under pressure from Napoleon Bonaparte, determined to secularize all property of the Catholic Church within the Empire, the Scots Monastery was uniquely successful in avoiding this fate. Horn and his abbot, Charles Arbuthnot, OSB, (the last abbot of the monastery) lobbied Jacques MacDonald and Jacques Lauriston, Scottish Catholic generals in the French army. He was by now the official British agent in Regensburg and further appealed to the British government. The Scots Monastery was exempt from German church authorities coming under the sole authority of Holy See and the two monks successfully obtained the support of the Cardinal Protector of Scotland in Rome. An express exemption was made in favour of the Scots Abbey, although it was not allowed to take any new novices.[1]

In 1804 Horn became the official Chargé d'affaires following the expulsion of the British ambassador in Munich at the instance of Napoleon.[1]

References[edit]
^ Jump up to: a b c d e Mark Dilworth, ‘Horn, Alexander (1762–1820)’, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004”
This page was last edited on 3 December 2016, at 04:45.

ホーン(1762–1820)は、
スコットランドのベネディクト会の修道士で、
英国のシークレット・エージェント=スパイ
にして外交官。
イルミナティ陰謀論の誕生に貢献。
1772年、10歳のときにドイツのバイエルン州のレーゲンスブルクにある
スコットランド修道院のカトリック修道生活の献身者になる。
1782年、成人すると、Maurusという宗教名をもらう。
1785年ごろ、カトリック神父になる。
1790年まで、修道院の尊敬すべき司書であり、
その間、同時に、バイエルン州にあるミュンヘンの英国大使のために
同じくバイエルン州にあるレーゲンスブルクでのエージェント活動を行った。
その地域でのトゥルン・タクシス家とその他の影響力ある人々と緊密な関係を形成する。

ホーンは匿名で、神聖ローマ帝国を弱めるフランスの活動を非難する文章を執筆。
ロビスンが1797年に出した、
フリーメイソンとイルミナティとジャコバン派の国際的陰謀についての主張の核を形成する資料を提供。
1799年にホーンはイングランドに旅行し、スペンサー伯爵を含むウィリアム・ピットの政府のメンバーと会う。
次いで彼は書誌学、ビブリオグラフィーの専門的知識を活かし、スペンサー図書館のために稀覯本や原稿を獲得した。
ナポレオンの圧力のもと、
1802年に、
神聖ローマ帝国はカトリック教会のすべての財産の世俗化=国有化を決定した。
しかし、先述のスコットランド修道院は例外として、
この(人知を超えた絶対不可避の特に悪い)運命を回避した。
フランス軍のスコットランド系カトリックのゼネラルらにロビー活動をしたのである。
このころにはホーンはレーゲンスブルクの正式な英国エージェントであり、
英国政府にさらなるアピールを行った。
スコットランド修道院はドイツの教会当局から世俗化を免除された。

このドイツの教会当局は、
聖座(せいざ、Sancta Sedes、 Holy See。要はローマ教皇庁)の独占的支配下にあった。
(このあたりの翻訳があっているのか自信がない。当時の教会事情に無知ゆえに)
スコットランド修道院の二人の修道士は、
ローマにおけるスコットランドのCardinal Protector(枢機保護官? 定訳不明)のサポートを受けることに成功。
スコットランド修道院に有利な特別な免除はなされたが、しかし新たな見習修道士を入れることは許可されなかった。
1804年にホーンはミュンヘンの英国大使を除籍した後に、正式な臨時代理大使となった。
(ここ、at the instance of Napoleon=ナポレオンのの依頼[要請]により
とあるけど、除籍するにかかるのか、臨時代理大使となるにかかるのかわからない。
近いほうを基本的に修飾すると考え、除籍がナポレオンの要請としておく。
ホーンがやったことはナポレオンへの反抗なので除籍するよう圧力をかけたのだろう)

ベネディクト会(Ordo Sancti Benedicti, Benedictine Order)は、
529年から続いているカトリック教会最古の修道会で、
会員の別名が黒い修道士。
宗教家が知識人であり参謀であり
王の操り手であり
スパイであり工作員であるのはどこでも一緒。

なお、イスラム教では修道院も修道士も存在しない。

完全なる工作員。堂々と間諜って書いてある(笑)
ホーンはスコットランド系カトリック。
活動地域が、皇帝がカトリックである神聖ローマ。
ロビソンもスコットランド系だがカトリックか不明。
ホーンの活動が明らかに今の分類だとドイツ(便宜的名称)系カトリック勢力を助けている。
英国大使だからといって、英国国教会側とは限らない。

バリュエルのイルミナティ陰謀論本が出たのが1789年。
ホーンに入れ知恵されたロビソンのイルミナティ陰謀論本が出たのが1797年。
バリュエルのほうが早い。
ホーンが情報提供とあるので、
ホーンがケースオフィサーで、
ロビソンがエージェント=実務。



ホーンの人脈が見事なまでに、カトリック優遇と反フランス革命、
世俗化(=宗教権力を国家権力が吸収することなど)反対側だ。

出典は Oxford Dictionary of National Biographyとあるが、
この工作員の情報は少ないだろうな。できればメイソンが出てこない文献を読みたい。
フィクションでもこんなやばい経歴のやつあまりいないのでは?)


”レーゲンスブルク(ドイツ語: Regensburg、バイエルン語:Rengschburg)は、ユネスコの世界遺産に登録されているドイツ連邦共和国の都市。バイエルン州に位置する。人口は約12万人(2002年)。
ザンクト・エメラム修道院は、代々皇帝特別主席代理を務めた名残で、2013年2月現在もトゥルン・ウント・タクシス家の居所である。


国 ドイツの旗 ドイツ
州 バイエルン州
行政管区 オーバープファルツ行政管区
郡 郡独立市


バイエルン州東部、オーバープファルツの中心都市であり、ドナウ川とレーゲン川の合流近くに位置する。そのため、水上運輸の要所としての役割を果たしている。
歴史的景観と穏やかな気候から夏の保養地としても多くの旅行客を集める。近隣の都市としては、南西約55キロにインゴルシュタットが位置する。

1世紀、ローマ帝国軍の駐屯地、カストロ・レギーナがおかれた。これが現在の地名の由来ともなる。
6世紀頃、バイエルン族が居住するようになり、バイエルン大公の居城がおかれた。
その後、8世紀後半にタシロ3世がカール大帝に屈服し、フランク王国の統治下に入った。
その後も政治・経済の中心として重要な役割を果たしており、大司教座聖堂などを通じてその繁栄をうかがうことができる。
13世紀半ばに「帝国自由都市」としての特権を認められていた。
神聖ローマ帝国における帝国議会がこの地で幾度か開催され、
1654年にレーゲンスブルクでなされた「最終帝国議会決議」は、正規の帝国議会における決議としては最後のものであった。
1663年以降、それまで各地で開かれていた帝国会議は、レーゲンスブルクに常置された。
1803年に独立を失い、マインツの代わりとしてマインツ大司教で神聖ローマ帝国の宰相であったカール・フォン・ダールベルクに引き渡された。
カールは街を近代化させ、プロテスタントとカトリック教徒に同じ権利を与え慕われた。
1810年にバイエルン王国に引き渡され、カールはフルダへと移った。
1809年4月19日から4月23日までオーストリア軍とフランス軍が交戦し、街に大きな被害が出た。
第二次世界大戦中にはドイツ軍の第8軍管区本部が置かれたが、連合軍の空襲は小規模で、多くの歴史的建造物は破壊されずに残った。


1630年、この地で天文学者のケプラーが没している。
この街で「マクデブルクの半球」と呼ばれる真空実験が行われた(実験者ゲーリケがマクデブルクの市長だったため、この名で呼ばれる)。
2006年、市の中心部に当たる旧市街と対岸の地区が「レーゲンスブルクの旧市街とシュタットアムホーフ」としてユネスコの世界遺産に登録された。
小惑星(927)のラティスボナ (小惑星)は、レーゲンスブルクのラテン語名に因んで命名された。
ベネディクト16世の出身地である。”
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF
最終更新 2017年1月23日 (月) 03:13 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

Thurn und Taxis
https://en.wikipedia.org/wiki/Thurn_und_Taxis
”Capital Regensburg

The Tasso (from the Italian for "badger") were a Lombard family in the area of Bergamo.

Several members of the family have been Knights of Malta.

The current head of the house of Thurn and Taxis is HSH Albert II,
12th Prince of Thurn and Taxis, son of Johannes and his wife, Gloria.
The family is one of the wealthiest in Germany. The family has resided in St. Emmeram Castle in Regensburg
since 1748. The family's brewery was sold to the Paulaner Group (Munich) in 1996,
but still produces beer under the brand of Thurn und Taxis.”
https://en.wikipedia.org/wiki/Thurn_und_Taxis
This page was last edited on 1 July 2017, at 00:56.


レーゲンスブルクが本拠地。
ロンバルディア系!
一部がマルタ騎士団員!
現党首はカトリックで、
エディンバラ大学で経済学と神学を勉強って、
今もスコットランド人脈があるのだろう。

イングランドの英国国教会
vs
スコットランドのカトリック教会



”Albert Maria Lamoral Miguel Johannes Gabriel, 12th Prince of Thurn and Taxis (Albert Fürst von Thurn und Taxis;[1] born 24 June 1983), is a German aristocrat, businessman, and race car driver.[2][3]:540[4] He has been listed as the world's youngest billionaire many times since his father's death in 1990,[5] first appearing on the list when he was age eight.[2]

Religion Roman Catholic

Thurn und Taxis completed his high school education in Rome and then, after his military service,
he studied economics and theology at the University of Edinburgh. He is an enthusiastic racing driver, vice-champion (2007/2008) and champion (2010) of the German GT Championship ADAC GT Masters with the German Team Reiter Engineering.[citation needed]”
https://en.wikipedia.org/wiki/Albert,_12th_Prince_of_Thurn_and_Taxis



ウィリアム・ピット
William Pitt (the Younger)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%83%E3%83%88_(%E5%B0%8F%E3%83%94%E3%83%83%E3%83%88)
”1783年、わずか24歳でイギリス最年少の首相となり、1801年にいったん辞任したが、その後1804年に返り咲き、
1806年に没するまで首相の職にあり、首相と大蔵大臣とを兼任もしていた。ピットの首相としての在職期間中はジョージ3世の治世下であり、フランス革命やナポレオン戦争を始め、様々な事件がヨーロッパを支配していた。ピットはしばしばトーリー、または新トーリーと考えられているが、自分では「独立したホイッグ」と名乗っており、党派心の強い政治システムの拡大にはおおむね反対していた。
ピットは、イギリスをフランス及びナポレオンとの大戦争で導いたことでよく知られている。彼自身は効率と改革のために尽力した、傑出した行政官であり、優れた行政官が政治を行う新しい世代をもたらした。フランスとの大がかりな戦争のために税金を上げ、急進派を厳しく取り締まった。アイルランドがフランスを支援するのを脅威と感じ、1800年の連合法を根回しした。またこの連合法にカトリック解放を組み込もうとしたが、これは失敗した。
ピットはまた、トーリー党を再生させる新トーリー主義を作りだし、1800年から25年間、トーリー党に権力を持たせることを可能にした。歴史家のチャールズ・ペトリーは「もし、ピットが、暴動を起こすこともなしに、イギリスを古い秩序から新しい秩序へ変えたのが正にその理由であれば」偉大な首相の一人であると結論付けており、彼は新しいイギリスがどういうものであるかを理解しているとも述べている[1]。それ以外にも、奴隷貿易禁止のために尽力した。
1789年、フランス革命が勃発し、その流れが過激なものへと変容していくにつれて危機感を増し、1793年から3回にわたって対仏大同盟を組織して革命を潰そうとした。そのため、彼はフランスから「人民の敵」と呼ばれることになる。のちに対仏穏健派が支持を失うと、対仏強硬派で主戦派のピットは1804年に再び組閣した[要出典]。イギリスの保守勢力を糾合し、野党でホイッグの指導者フォックスとともに政党政治の確立に貢献して、イギリスの二大政党政治の土台を築いた。”



第2代スペンサー伯爵
ジョージ・スペンサー
George Spencer, 2nd Earl Spencer
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC_(%E7%AC%AC2%E4%BB%A3%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E4%BC%AF%E7%88%B5)
”フランス王ルイ16世が処刑されフランスとイギリスが開戦すると、スペンサーはエドマンド・バークが主張するフランス革命批判に同調し、首相ウィリアム・ピット(小ピット)の支持者となった[3]。”
最終更新 2017年5月6日 (土) 04:18 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

George Spencer, 2nd Earl Spencer
https://en.wikipedia.org/wiki/George_Spencer,_2nd_Earl_Spencer#Book_collecting
”Book collecting[edit]
Spencer was noted for his interest in literature and particularly in early examples of printing. He was the instigator and first President of the Roxburghe Club (an exclusive bibliophilic club), founded in 1812. When Napoleon instigated the secularization of religious houses in south Germany, Spencer used local British agent and Benedictine monk, Alexander Horn, to acquire many of their rare books and manuscripts.[5]

His collection of tens of thousands of volumes, which included the most nearly complete collection of Aldine editions ever brought together, was put up for sale in 1892 and acquired by Enriqueta Rylands for the John Rylands Library[6] and it was indexed by Alice Margaret Cooke.[7]”
https://en.wikipedia.org/wiki/George_Spencer,_2nd_Earl_Spencer#Book_collecting
This page was last edited on 27 July 2017, at 15:45.

Regensburgレーゲンスブルクはドイツの都市。バイエルン州。
ザンクト・エメラム修道院は、代々皇帝特別主席代理を務めた名残で現在もトゥルン・ウント・タクシス家の居所。
タクシス家はカトリック。
何人かがマルタ騎士団。


”世界大百科事典 第2版の解説
トゥルン・タクシス【Thurn und Taxis】
ドイツ・神聖ローマ帝国において郵便業務をつかさどった家系。ロンバルディアの出身であったが,ハプスブルク家と結び領域内に郵便制度をつくりあげ,これを掌握することによって経済的・社会的地位を築いた。まず1516年にF.vonタクシスがスペイン帝国内の郵便業務の独占を認められた。95年神聖ローマ帝国とネーデルラントの郵政長官を任じられ,1615年には,この職は同家の世襲職となった。これと並行して,帝国諸侯(貴族)にも列せられ,1650年に紋章の使用を許可され,トゥルン・タクシスと名のり,95年には侯Fürstの地位にのぼった。”
https://kotobank.jp/word/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%B3%EF%BD%A5%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%B9-1189410

THURN und TAXIS(トゥルン・ウント・タクシス家)
http://heibay.exblog.jp/24418920/
”欧州の大金持ち貴族タクシス家の館を観に Regensburg(レーゲンスブルク)へ

欧州の郵便はホルンのマークです、これはタクシス家の紋章からの由来です。
 
タクシス家は、12世紀ミラノの支配権の戦いのあとベルガモに住み、
1489年神聖ローマ帝国で郵便事業を始めました。
1748年 レーゲンスブルクの国会の永久代表に指名されました。

(引用)

オーストリア散策 「トゥルン・ウント・タクシス家のボロ儲け」

同家の郵便事業の始祖はドイツ名でフランツ・フォン・タクシスという人でした。その参入のきっかけは、1489年にハプスブルク家の皇帝マクシミリアン1世の郵便物を請け負ったことにあります。

フランツの前の時代にも、郵便物を運ぶ人がいることはいました。しかしそれは、学生、修道院、あるいは個々の商業組合の飛脚が単発的にあったというレベルにすぎません。一方、フランツの郵便システムは駅を作って馬車と馬車で手紙をリレーするという組織的なもので、配達のスピードもさることながら、その配達距離も従来の飛脚とは比べ物にならないほどの優れたものでした。

(引用終わり)


 ルネッサンスのフィレンチェのメジチ家頭首にロレンツォが1492年死にましたので、その後を引き継いだってことでしょうか? メジチ家も戦争での兵站で大もうけしたようですが、当然、襲撃されるので、運んでいたのはユダヤ人でしょう。 その頭がロス茶家とすれば、タキシス家の下請けロス茶家ですね。

タキシス家は、ウィーン体制の後押しによって、ヨーロッパ各地に路線網を広げ そして、郵便馬車には、ロス茶専用の隠し戸が備えられ、秘密の小箱は検閲なしにヨーロッパ中を駆け巡り、ロス茶が、各国政府と深くかかわるようになったのでした。(『秘密諜報員ベートーヴェン』 古山和男著)
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鉄道ができる前は郵便馬車が人も乗せるようになり、続く18世紀には旅行需要の拡大もあって利用者の層も広く増えていったのです。
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 現在のようなコンピューター社会でも、契約書類は紙で、信書で配達されます。 誰から誰へ、信書が送られているのかは、郵便の中身ではないのですが、重要な情報です。 タクシス家の遺言で、「再び郵便事業が売りに出されるなら買い戻すように」とどこかのブログにありました。 また陰謀論的には、情報を扱うのでNSAとも関係があるとか。。。”)

”When in 1802 the Eternal Diet of Regensburg, under pressure from Napoleon Bonaparte, determined to secularize all property of the Catholic Church within the Empire, the Scots Monastery was uniquely successful in avoiding this fate. Horn and his abbot, Charles Arbuthnot, OSB, (the last abbot of the monastery) lobbied Jacques MacDonald and Jacques Lauriston, Scottish Catholic generals in the French army. He was by now the official British agent in Regensburg and further appealed to the British government. The Scots Monastery was exempt from German church authorities coming under the sole authority of Holy See and the two monks successfully obtained the support of the Cardinal Protector of Scotland in Rome. An express exemption was made in favour of the Scots Abbey, although it was not allowed to take any new novices.[1]

In 1804 Horn became the official Chargé d'affaires following the expulsion of the British ambassador in Munich at the instance of Napoleon.[1]
References

Mark Dilworth, ‘Horn, Alexander (1762–1820)’, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004”
This page was last edited on 3 December 2016, at 04:45.




Eric Jon Phelps
” Eric Jon Phelps (born 1953) is an author and protagonist in the Truth Seeker movement from the United States,

(protagonist  〔主義思想や改革運動などの〕主唱・提唱者。

Truth movement
http://en.metapedia.org/wiki/Truth_Seeker_movement
のKey figures=重要人物は、
“Julian Assange
James Corbett
William Cooper
David Icke
Brian Gerrish
Anthony J. Hilder
Max Igan
Alex Jones
Max Keiser
Jüri Lina
Jordan Maxwell
Kenneth O'Keefe
Jeff Rense
Alan Watt“

創価学会の母胎は大日本皇道立教会
=キリスト教製の偽天皇系組織。
紐付き陰謀論者の巣窟の母胎も大日本皇道立教会。 創価の表層を叩かせるのは、偽皇室とキリスト教が陰謀論業界のボスであり、創価とsagegroupを作った黒幕なのを隠す為。)

presenting himself as part of a WASP fundamentalist disposition, deriving influence for his material from the likes of Jack Chick and Alberto Rivera, he is allegedly a WASP separatist.

(present oneself 自己紹介する
present oneself as  ~というイメージを打ち出す。

disposition 気質,.傾向,たち 。

material 資料、データ、題材、ネタ。
the likes of ~のような人あるいは物。

ジャック・チックはガチのプロテスタント系キリスト教原理主義者
=聖書絶対
=エキュメニカル反対派
=一神教的多神教である新キリスト教を完全否定。
エホバの証人、モルモン教、進化論に一定の理解を示しているローマ・カトリックに対しても徹底した批判を行っているらしい。
ジャック・チックは自らの信仰を広めるために、その信仰に基づいた物語を小冊子にして配布し、自ら出版社まで作っているほどの原理主義者。
フェルプスの言説の元ネタの一つが反カトリックのプロテスタント原理主義者。
このJack Thomas Chickは evangelical fundamentalist Christianであり、
Roman Catholics, Freemasons, Muslims, Jewsなどを批判しております。プロテスタントはきれいに無視(笑)。
福音主義プロテスタントEvangelical Protestantism 側ですからね。
チックは Independent Baptist なので、ロックフェラーと同じくバプティスト。
ユダヤ人=ユダヤ教徒じゃねーよ!
ユダヤ教徒ではなくバプティストのロックフェラーをユダヤ教徒だとして叩くRK。
Rは18番目、Kは11番目のアルファベットですね。

キリスト教 教派早わかり
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/058kirisuto.htm
“「プロテスタント」とは、"抗議する者"の意味で、ローマ・カトリックの腐敗に抗議することから始まった、一六世紀以来の新しいキリスト教の流れです。聖書学者ヘンリー・H・ハーレイは、プロテスタントについてこう言っています。
 「プロテスタントは、すべての異教主義から解放された原始キリスト教を回復しようとするものである」。
 それは、純粋なキリスト教を回復しようという努力であり、その一連の運動のことなのです。
 ですからプロテスタントは、一つの組織や、特定の機構によって成り立っているわけではありません。それは純粋なキリスト教の回復を目指す諸グループ、諸運動の、総称なのです。
(…)
バプテスト派

 「バプテスト」という言葉は、バプテスマ(洗礼)から来た言葉で、一般に「浸礼派」と訳されています。
 バプテスマには一般に、水を数滴たらす「滴礼」方式と、体を水の中に沈める「浸礼」方式の、二種類があります。バプテスト派では滴礼を認めず、浸礼だけを認めるのです。
 バプテストは最初、一六世紀のスイスに、アナバプテスト(再洗礼派)として誕生しました。彼らは、カトリックでなされている儀式的な幼児洗礼を否定し、信仰告白に基づいた成人の洗礼を実施したのです。
 バプテストには、ルーテルやカルヴァンのような、特定の有名な創始者がいません。それは不特定多数の改革者たちによって始められた運動なのです。
 バプテストの人々の主たる関心は、バプテスマ自体よりも、むしろ「真にキリストの弟子であること」にありました。
 キリスト者としての「生活」が重視されたのです。初期のあるバプテスト指導者は、こう語りました。
 「誰でも、生活においてキリストに従わなければ、キリストを知ることはできない」。
 またバプテストは、愛の倫理と、非戦主義を説きました。彼らは戦争へ行かず、迫害者から身を守ることもせず、国家による弾圧に参加することもしませんでした。
 バプテストは、初代教会の活力と信仰を再興しようと腐心しました。彼らは、教会は、富や権力による制度ではなく、信仰に基づく兄弟姉妹、また神の家族の集まりであると言いました。
 また教会は、人の作った組織に認められるものではなく、神が人々の中に働いておられるところに認められる、とも主張しました。
 バプテストはまた、教会と国家の分離を主張しました。彼らは、たとえ社会がキリスト者によって構成されている場合でも、教会は社会と分離しているべきである、と説きました。これは、カトリック教会への批判でもあります。
 バプテストはその後、何度かの分裂や統合を繰り返して今日に至っています。
 いわゆるメノナイト派(メノー派)も、バプテストの流れを汲んでいます(フレンド派の影響も受けている)。メノナイト派は、アメリカではとくに「良心的反戦論者」として知られています。
 一九世紀の有名な伝道者C・H・スポルジョンは、バプテスト派(ただしカルヴァン主義バプテスト)でした。また、インドに伝道した偉大なイギリス人宣教師ウィリアム・ケアリや、非暴力によって黒人の公民権運動を展開したアメリカのマーティン・ルーサー・キング牧師も、バプテスト派でした。”

「ユダヤに金融特権を与えたカトリックは大金持ち」だとばらしてもおかしくないのが反カトリック勢力。
プロテスタント側が世俗権力たる貴族と組んでバチカンの金融特権を奪うために画策していたところは隠すから注意ね!
チックは、反カトリックの活動家にしてもとイエズス会士=カトリックだったリベラの証言を紹介しています。
anti-Catholic activist Alberto Riveraはイスラム教をつくったのはバチカンだという説を述べております。
ねここねこは、カトリックに迫害された異端派側が創ったと考えております。
異端派はイスラムやユダヤ教徒と手を組んで反カトリックだったりします。
異端として排斥されたネストリウス派はササン朝ペルシア、イスラム世界で教勢を伸ばし、七世紀には中国にいたり景教と呼ばれました。
どうみてもユダヤじゃないですね。
ネストリウス派は特にアッバース朝にギリシア語文献の翻訳者や医師として活躍し、東西文化の交流に貢献しました。
はっきりいって迫害したカトリックも技術差で負けないように異端派から技術を手に入れていましたから、異端排斥すら表向きのものです。今も昔もね。
リベラはカトリック教会はホロコーストに責任があると言っているのは、ナチスのスポンサーがカトリックだから。人数は捏造でしょうが虐殺はあったと私は考えております。
でもリベラは明らかにプロテスタント側の仕業のものもカトリックのせいにするのでプロテスタント系工作員です。
チックChick も世界の諸問題の原因はカトリックだと信仰していたそうです。
プロテスタント原理主義が戦争屋と仲良しなのは無視かよ。
自分自身がサタン=カトリック限定キリスト教叩き工作員
のくせにサタンを叩く典型的なキリスト教原理主義者ですね。
ねここねこみたいに
「すべて」の一神教の根幹=実在論=イデア論の基盤
まで否定しないと別の支配勢力に利用されて終わりです。
具体的には原始仏教の無記と大乗仏教の空で否定しています。
支配層が一番嫌いな思想です。
原理主義なので当然チックは中絶反対、結婚前の性行為は禁止、同性愛は罪悪という信仰で、シオニストで、イスラエル最大の敵がカトリックだと主張。
チックが所属するIndependent Baptistインデペンデント・バプティストは保守的、要はファンダメンタリスト=聖書は文字通り正しい。

リベラはプロテスタント原理主義のアンチカトリックの活動家。
Alberto Rivera はヴァチカン押しつけ陰謀論者。
リベラ曰く、
共産主義、イスラム教、ナチス、
世界大戦、不況、
人民寺院の虐殺(ジョーンズタウン事件)、リンカーン暗殺、
ケネディ暗殺(初のカトリック系大統領)はすべてカトリックが原因だそうです(笑)
プロテスタントカルトがやったことをカトリックのせいにするのがリベラの役割です。
リベラは、カトリック教会が同性愛と中絶を広めようとしていると主張。
教皇は反キリストantichristsでありカトリック教会は大淫婦バビロンWhore of Babylonだと非難。
中世の宗教裁判(異端審問)Medieval Inquisitionの黒幕はイエズス会だと主張。
Medieval Inquisitionは12から13世紀ごろ。
イエズス会設立は1534年だから16世紀。
リベラは嘘つきですね。
イエズス会はカトリックの反宗教改革の先兵なので反プロテスタント組織で、上智大学を創ったことで有名。
上智出身の陰謀論者に注意な!

White separatism 白人分離主義。
差別ではなく区別とか、分離しているだけだという詭弁をほざくホワイトプライドな白人至上主義者supremacistsの思想


He is perhaps best known for his book Vatican Assassins. It was revealed in the Truth Seeker community that Phelps is the Vice President and Chief of Sales for a company headquartered in Tel Aviv, called Lowvehm; this is part of the Jewish blood diamond industry.[1] Phelps has visited Israel several times, including meetings with the Zionist Barry Chamish.[2]
(フェルプスはシオニストでシオニストと会っている。イスラエルコネクション。ユダヤ教徒の血流ってなんだよ。
聖書の民は実在しないので遺伝的ユダヤ人は実在しない。ユダヤ教を信仰しているか否かでユダヤ人か否かが決まる。ユダヤ系プロテスタントって何?
親がユダヤ教徒ってこと?)

Claims
Part of the “Jesuits and the Vatican run it all” crowd, Phelps refers to all people in the anti-New World Order movement who criticise Jewish global power—such as
Texe Marrs, Jeff Rense[2] and others—as “Jesuit Temporal Coadjutors”.

(Texe W. Marrsはキリスト教原理主義系組織を2つ運営しています。プロテスタント支持で、カトリックとユダヤ教を批判。
明らかにプロテスタント原理主義なのですがフェルプスいわくイエズス会の手先だそうです。フェルプスの役割もリベラと同じく、プロテスタントの悪行をカトリックに責任転嫁すること。
refer to A as B AをBと呼ぶ、AについてBと言及する。
temporal [しばしば名詞の後] (聖職者・教会に対して)聖職でない.。
coadjutor 助手、アシスタント、司教補佐、、助任司祭、補助司教。

Jeff Rense という陰謀論者conspiracy theoristは
名誉毀損防止同盟(Anti-Defamation League 略称ADL)と南部貧困法律センター(Southern Poverty Law Center、略称SPLC)により、 反ユダヤ主義かつ親ナチスであるとみなしている。
またプロテスタント原理主義の宗教右派。どこがカトリックだよ)

Phelps describes the liberation of the German people by the NSDAP, the SS and other forces from the impending butchery of the Red Holocaust, disapprovingly, as the work of “Jesuit agents”.[3]

(ナチス親衛隊の別名が黒いイエズス会。イエズス会自体が真っ黒)

Phelps glorifies Oliver Cromwell[3] who allowed the Jews back into England after they had been expelled for centuries and was largely financed by Dutch Sephardim such as rabbi Menasseh ben Israel.[4]

(よーすけ ‏@yoshimichi0409 6月19日
因みに伝統的ユダヤ主義はシオニズムには反対している。シオニズム自体、英国の植民地主義から生まれたもので、あの清教徒革命のクロムウェルが先駆者とよく言われる代物。
米国で最もイスラエル擁護者であるのは、キリスト教原理主義者である。
彼らの多くは千年王国願望を抱いているのも事実だ。

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2014年12月1日
@noranekonote エドワード1世のユダヤ追放で13~17世紀まで英国にユダヤは殆どいない。
よってキリスト教が金融をやるしかない。1594年エリザベス女王のユダヤ系侍医ロペスの処刑で反ユダヤが強まり、数年後に初演されたベニスの商人は金融=ユダヤという嘘を布教する為の作品。

ユダヤ教徒追放で英国にキリスト教の金融街=ロンバード街(ロンバルディア人)が誕生。
D・ロックフェラーはWASP至上主義。ロスチャイルドはキリスト教改変派。
×ユダヤ教徒×偽ユダヤ×ユダ金
○【ユダヤ】仕事
ユダヤ教徒から白人キリスト教徒に乗っ取られた事例。
ユダヤ教徒追放(13〜17世紀まで)で英国にユダヤ教徒がいなくなりました。
キリスト教の金融街=ロンバード街
(ロンバルディア人=イタリアの白人)が誕生しました。

タクシスがロンバルディア人だと先述の英語版ウィキにあることに注目!
Lombardには、
「ランゴバルド人」(名詞)や、
「ロンバルディア(人)の」(形容詞)
だけでなく、
「(イタリアの)ロンバルディア人」と
「金貸し、銀行家、質屋」
という意味がある。
タクシスははじめから金融家人脈だ。


ホの字 ‏@souiumonodesu 2012年1月22日
『1215年のキリスト教の会議で、(中略)ユダヤ教徒を公職から追放し、あらゆる経済活動に制限を加えることが決められた。
その結果、ユダヤ教徒たちは金貸しくらいしかすることがなく、仕方なく金融業をはじめたという経緯があるのだ。』(p.165))


According to Phelps, Jewish supremacism in financial, media and political fields is just an illusion, the Jesuits “always put Jews in the forefront-so that they can blame all of what they do on the Jewish race”.[3] He also claims the Jesuits authored the Protocols of the Elders of Zion,[3] control all secret agencies including KGB, CIA, Mossad, BND and SIS.[3] He also attacks the Knights of Malta on a regular basis.[3] For Phelps, the Jesuits are even “the ones behind professional sports”.[3]

フェルプスはユダヤ陰謀論を否定。あくまでカトリックはカトリックであり隠れユダヤではないとしている。
「カトリック=黒幕>ユダヤ=下っ端」

なるほどだからboが叩くのか。
カトリック黒幕説(+ユダヤは下っ端)を言っている人がユダヤだと指摘することで、カトリック黒幕説は正体がユダヤが黒幕なのを隠すためだと言いたいのでしょうね。
でもフェルプスはどう見てもプロテスタントの罪をカトリックにすべて押し付けるプロテスタント人脈なんですが。 なぜフェルプスがユダヤ教徒と断定できる根拠が知りたい 。
まあ結論ありきだからだろうが 人脈見たらプロテスタント原理主義者ばかりじゃん。


forefront 最前部、最前線、先頭.)

Phelps is also of the opinion, that the Superior General of the Society of Jesus (nicknamed the Black Pope) is the real leader of the Catholic Church, rather than the Bishop of Rome, the “White Pope”. He has stated that there are six different forms of Zionism and that "I am of the fifth category." Phelps states this category maintains that "the beloved Hebrew/Jewish/Israelitic people have a right to live in their promised land" and they "defend the Jewish people’s right to live in the promised land of Israel to the exclusion of all Arabs and non-racial Jews."[5]

(フェルプス「ヘブライ、ユダヤ、イスラエルの人々は約束の地に住む権利を持つ。アラブ人と非人種的ユダヤ人はイスラエルの約束の地に住む権利はない」

to the exclusion of ~ ~は除外(排除)して、~はのぞいて

nonracial非人種的 ユダヤ人
というのはおそらく、親がユダヤ教徒ではないユダヤ人=ユダヤ教徒のことでしょう。
アラブ人は排除+シオニストの時点でプロテスタント原理主義系ですね。バチカン押しつけ陰謀論を唱えながら聖書の文言は否定しないでしょ?
つまり、スピリチュアル、ニューエイジなどグノーシスの後継者系ではない可能性が高い)

1. ↑ Eric Jon Phelps: Smear Artist, Israeli Diamond Trader and "Jesuit" Expert. Conspiracy World (2 December 2009).
2. ↑ 2.0 2.1 Eric Jon Phelps: Zionist Promoter, Israeli Diamond Merchant, New Ager, White Separatist. Conspiracy World (2 December 2009).
3. ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 Eric Jon Phelps quotes. Whale.to (2 December 2009).
4. ↑ Oliver Cromwell and the Jews. OliverCromwell.org (2 December 2009).
5. ↑ Eric Phelps defines the Six Zionisms. Reality Research Resource (2 December 2009).”
http://en.metapedia.org/wiki/Eric_Jon_Phelps

お読みくださり感謝!

創価の背後の耶蘇かぶれ日本貴族一覧。前々回の補足。『非常民の民俗境界』『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』『蟲師』『遅刻の誕生』『チベット旅行記』『古事記』『日本書紀』偽書の作り方。 

創価の背後の耶蘇かぶれ日本貴族一覧
(消えそうなのでこの記事の下にもある)

ken‏ @kenkatap 2012年9月19日
大日本皇道立教会【wiki http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%9A%87%E9%81%93%E7%AB%8B%E6%95%99%E4%BC%9A …】
▼南朝を正統とし、その皇道に沿った教育を行う趣旨の元、1911年に創立
▼大隈重信、一木喜徳郎、牧口常三郎、戸田城聖、数名の華族により構成
▼児玉誉士夫も加入
▼後に、大日本皇道立教会を母体として、創価教育学会が創立




――
本記事はいいからこれを読んでおくれ。



東京グールの主人公とヒロインがオチウした記念に今日完成。
隻眼の王(オーディン+フクロウ)
と右目隠し左目出しの月の女神トーカ(燈火)
がヒエロスガモスしたって意味ね。
※オチウはアイヌ語。意味は



ちゅーじゃないよ。
アイヌの最高神はフクロウ。アイヌが持ち上げられる理由。
―――

目次(序文は↑)
――前々回の記事と『うらたろう』について補足―――
――性道徳の変質と赤松民俗学本のメモ―――
――『蟲師』の紹介―――
――蟲師と昔の民俗の時間から労働ための時間へ―――
参考資料
ーーー

  ――前々回の記事と『うらたろう』について補足―――

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-172.html
金光と大本教が崇める鬼は岡山の温羅(うら)
=桃太郎の敵! 

黒住と金光と天理教
=幕末三大新宗教
=和風キリスト教(グノーシス寄り異端派)
は全て世界連邦推進派!
『うらたろう』『ねじまきカギュー』『トラウマイスタ』

の続き。

黒住教の支持者が公卿らで、皇室の祖神とされた天照大神を最高神にしていた(意図的)ため、
明治政府(ヤマト朝廷=桃太郎側)の
天皇崇拝=〈大教宣布〉運動に積極的に協力したことなどが書いてある上記の記事を優先して読んでください。
この記事はおまけです。
金光教のシンボルが金なんで、「かね」って読んじゃうんだけど、
金光教が崇める温羅(うら)=鬼は百済の王子で製鉄民だから金属の金だよねーだとかも書いてある。
で、今の偽天皇は百済系だからこの鬼が政府側になったと思いきや、
政府=天皇一神教=国家神道側は桃太郎を教科書に採用!
金光教が非常に嫌がることをしている。
金光教の子供の大本教は政府に弾圧される。
桃太郎の鬼退治。
政府が創価を国営しているのも鬼側が嫌がる。
創価は一応外見は日蓮宗で中身耶蘇だから。

教義見て、ああこいつら仏嫌いなんだねってよくわかるものは耶蘇臭い。
教義の説明に、最高神と教祖(=現人神)の二柱しか神が登場しない教義と教祖の伝記。ゴッドとイエスですか?
身内を神人認定って要は列聖でしょ?
最高神以外の神はせいぜい天使でしょ?
実力差があり過ぎるからね。
一神教的多神教。
予想通り情報が少ないし目立たない奴のほうが地位が上だねってわかる記事でもあるし、ブラックリストを書いておいたのでぜひ。

『うらたろう』に戻る。
公式より。物語の主軸説明。
“時は戦国! 武士の始まり、二大勢力『平氏』と『源氏』激突! 
源平合戦。『平氏』が『源氏』に逆転大勝利したパラレル鎌倉時代! 
舞台は、現在より夜が暗く…妖魔蔓延る日本列島! 不治の病(?)に侵された少女は「不死」を求める旅に出る。出会ったのは…800年以上、生き過ぎて「死にたい」と願う不死身の男。「生きたい!」と願い「死にたい!」と願う。対照的で似た者同士。
そんな二人は生・逝きる為、供に旅立つ!!? 超鬼才・中山敦支が贈る「一生懸命生きて逝きたい」不死身と不治身のデス・ロードッ!”
http://www.re1life.net/entry/uratarou/

ヒロインのちよ姫は蝶々で平家。単行本2巻の表紙で左目の瞳がてふてふ。
作者の中山 敦支(なかやま あつし)は本名?
鹿児島県鹿児島市出身であり岡山出身ではないらしい。
ペンネームなら、中山はおそらく
真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ
からだろう。

『うらたろう』読むと、
潜在意識が、「うらたろう=善、平家=善」寄りになるので注意して読んでね。
潜在意識はフィクションと現実の区別がつかないから物語で洗脳する。
この漫画でも鬼は基本的に悪で敵。
だからこそ、主人公うらたろうという鬼人の善が際立つ仕組み。

日本語を見ても鬼が仏に負けた側なのは明白。
鬼は絶対悪扱いはされていないが、鬼という言葉は悪逆非道の輩という意味でも使われる。
逆に仏では絶対に悪逆非道の輩という意味では使われない。
徳川幕府の「瓦解」(夏目漱石)を明治新政府の維新と言い換えるようなことはいつ時代も行われている。

うらたろうってサンカでしょ。
『うらたろう』も性道徳が現代的=耶蘇だった。
サンカの話と真に伝統的性な道徳については次章。


  ――性道徳の変質と赤松民俗学本のメモ―――

民俗学も当然勉強している。
真の日本の伝統を知りたいなら必須科目。
一番耶蘇に変質させられたのが性道徳だとわかればOK。
耶蘇の工作員ってエロが嫌いそうだよね!
性にこそ宗教の教義がもろに出るもんね!
ラノベの巫女って単なる和服着用シスターだもんね!
性の観念を見れば神道が超絶捏造歪曲されたとよくわかるよ。
フィクションの神道キャラは中身がシスターだから和風耶蘇。
巫女は処女って意味不明だ。神殿娼婦って知ってる?
旅芸人や遊女を兼ねていた歩き巫女って知ってる?


あなたも観音様から産まれた。『もののけ姫』の元ネタ②。
網野善彦『宮本常一「忘れられた日本人」を読む』。宮本常一『忘れられた日本人』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-92.html
”・歌垣や市場や特別な芸能が行われる法会の場は、無縁の場所でありそこでは俗世の親子や夫婦の縁もきれて一人の女性と男性になるので自由な性交渉が行われた。
中世の参籠の場も無縁の場だった。お伽噺や説話の中によく寺社に参籠したら子どもを授かり、立派に育ったというものがあるが、これは寺社という無縁の場で性行為したから子どもを授かったのだろう。

(ある程度成長した巫女が処女ってありえないんじゃないかな。

Spica ‏@Kelangdbn 2013年7月2日
日本ほど処女信仰の希薄な社会も珍しい。まあいわゆる「未開社会」に行けば似た例は幾らもあるんだろうけどやまと言葉に「処女」にあたる単語がないぐらい膜への意識が低い。マリアまで処女にしちゃったキリスト教圏は世界でも屈指の処女崇拝地域。

「おとめ」は未婚女性のことで処女ではないんですよね”

もぐらさんも性道徳の対立を利用して工作員を共食いさせる手法を提案。

村手 さとし‏ @mkmogura 2014年5月31日
“@lanekota 反撃しません。真言立川流を盛り上げ、神道馬鹿とキリスト教を共食いさせるように仕掛けます
原理主義的な宗教は、貞操観念への締め付けはどれも厳しいからね。 天皇の正統宗教がセックスカルトだとしられたら、いろいろマズすぎるし、キリスト教原理主義と歩調以前に妥協点がみつからなくなるだろうなと、“

天皇への配慮も怠らないFGO







ぐだトマト‏ @pteras14 5月10日
キアラってオデコにオリオンの 三ツ星だったんだね……



とまとさんへ


柳田民俗学よりも赤松民俗学のほうがタブー無視で面白い。
人工芝の手口を書く民俗学者は赤松ぐらいだろう。
柳田國男は創価学会の前身、創価教育学支援会のメンバー。
つまり、柳田は創価側だから天皇もヤクザも避けて当然。
赤松と真逆。
赤松ですらサンカについては「領域を犯すな、踏み込んじゃならねえ領域がある」。
たぶんサンカのお世話になったことがあるね。

赤松 啓介(あかまつ けいすけ)
は戦前非合法であった日本共産党に入党し、治安維持法で検挙され収監された経験あり。柳田國男らが性とやくざと天皇を話題にしない事への対抗意識から柳田民俗学が取り上げなかった差別、性風俗、ヤクザ、天皇といったタブーを中心に研究。


赤松啓介『非常民の民俗境界』

“ いま中世の浮浪民、非定住人たちの追及が行われているが、現代の浮浪民、非定住人の世界すらわからないのに、想像や推理では無理である。現代の浮浪民、非定住人の世界がわかって、逆算して行けばわかることもあるだろう。現代の浮浪民、非定住人は、われわれが想像する以上に多い。ただ、その本体はヤミにつつまれている。三角寛が三十余年で解明しようとしたサンカの世界ですら、まだ殆どわからない部分が多い。ヌスット宿ではないかと疑われていた、各地方の峠や山中の一軒家のルートも、いま正体不明のまま消失しようとしている。
(…)サンカも殆んど姿を消してしまい、常民のなかへトケコミしたようだが、地下の組織は生きているだろう。ハシケを家とした水上生活者の一団、いま殆んど機帆船となり、九州から東京までの近海を泳いでいる。こうした人たちの正体を調べようなどと、バカな野心は起こさないのがよい。ウラの世界には、ウラのオキテがある。仲間になって生涯を埋めるのならよいが、よいところで足を洗ってあっといわせるような論文を書いて、博士、教授になる、などと夢を見るのはやめておくがよい。絶対に死体が上らない海もあるし、あまり人の行かぬ林の中に白骨が横になり、木の枝に縄がゆれているという風景もある。地下活動の経験があれば、これから奥は通行禁止だとわかった。この禁を冒さない限り、われわれの友好は保たれる。それで十分であり、それ以上のことを知る必要はない。
p.27-28 赤松啓介『非常民の民俗境界』

本書は1988年初版発行であることに注意。ネットなしでもわかっている人はわかっている。

・著者「私は坊主や牧師ほどのウソツキではないし、政治家や事業家ほどのカネ狂人ではない。年に一回しかテレビを見ない。紅白歌合戦とそれに続く往く年、来る年の寂滅為楽の鐘の声のみ」

原発をやめろと騒ぐ奴はバカ。そんなことぐらいで止められるはずはなく、後ろに土建屋、企業会社、政治家が利益でつながっている。反対運動をやればやるほど値を釣り上げて金儲けが大きくなるのだから、おそらく反対運動のグループの中には回し者も多く、ここらが最高というところでピタリと終息、まじめに自弁で走り回っているアホどもはハジキ飛ばされてダウン。警察からは不逞の輩と目をつけられて、一生、ろくなことはあるまい。戦前は治安維持法、戦後はレッドパージで、一生人並の給料をもらったことがない私が証明してやる。

・農民運動の騒動が大きくなれば米も闘争資金も増えるとともに、主導権も地元から離れていわゆる闘士、扇動家の手へ移る。争議に勝っても負けても騒動を大きくするほど扇動家の手柄になるが、彼らにこき使われて第一線で働かせられ、ブタ箱、刑務所へ放り込まれた奴ほどあわれなものはあるまい。労働争議、部落解放運動も同じだが、初期の苦しい兵站を支えた女たちが気がついてみるとどこからきたのかわからん奴にうまいこと油揚げをさらわれて残ったのは借金と骨折り損のくたびれ儲けだけでは、二度とやる気にならんのもわかる。

(人工芝の効力はすさまじいな)

・戦後の民俗学の研究者どももわれわれのように地を這うような民俗採取はやらない。成績の上がりそうなところを狙う。貧乏人、渡世人、漂泊者など非定住民、被差別者たちの世界が欠落して当然。支配権力側の視覚からよりものが見えないから、公式文書と記録は信用して典拠にする。が私たち下から見上げる立場からすれば、あれほどインチキが多いものはない。
戦前、われわれは国家権力や政府を信用しなかったから、地獄の下まで自分で入って行って納得できるまで調べた。宮本常一も同じ型の人間だから私は疑いをもったりしない。

柳田国男が意識して避けたのが
①民俗の階級制
②差別
③性
なのでこられを解明する方向へ調査を集中させた。


・いまの民俗学の傾向を見ていると、本格的な長期の基礎調査を計画する者はおらず、小手先の器用さだけで奇風珍習を発掘しようという傾向は多い。大学教授になりたいという立身出世願望がみえみえのも多い。わっとたかってひっぱりあいすればそれだけで行事、祭礼が変容するのがわからんのか、バカタレめと思う。そんな初歩的なことを踏みにじるようでは民俗調査の資質はない。できるだけ変容させないように刺激しないように長時間かけて記録するのが本筋。

マスコミの取材に対してホラをふいたが、そのホラがそのままテレビに出た。ほんまことをしゃべらなならん義理があるか!

(現地の人が本当のことを教えるとは限らないのが重要)


・夜這いと結婚は別。夜這いは商業的売春ではなく、双方に選択の自由がある、性交を楽しむもの。
いったい日本の農村で一夫一婦的結婚様式が必要であったのか、まずそれが疑わしい。

(一夫一婦の結婚ってはっきりいってキリスト教でしょ。しかも夜這いは野蛮な悪魔儀式だそうで)

・人民戦線運動などで走り回っても、行商でも月三十円が精いっぱい。が、ニセ系図一本の相場はだいたい二十円から三十円らしい。しかも仲介者からもらう執筆料であり、仲介者がどれくらいふっかけているのかはわからぬ。

世界一浸透したニセ系図って聖書でしょ。偽書や偽の碑文を作る業者がいる。偽書については後述

追儺、節分の行事は古代中国で道教と仏教が複合した形で成立し、日本へ伝来してから、神道とも複合したらしいもの。仏教伝来以前の古い神道は存在しなかった。原始信仰らしいものと仏教の融合で「神道」が成立したと思われる。神仏習合というが神々の屈服である。どこの寺院、神社の古文書を読んでも双方の喧嘩ならだいたい仏教側が勝っているし、ちょっとした神社なら神宮寺が併置され監視、管理されていた。奈良朝以降にしても千年近い年月であるからもはやどうしようもないほど仏教化してしまっている。
明治維新の神仏分離は仏教弾圧であり、祭政一致の古神道を復活させようとしたものだが、なにが古神道かわからずにヌエみたいな平田神学で料理しようとしたのだから失敗するのが当然。
神道の祭礼と仏教の行事という一刀両断できないものを無理に分けたからかえって根源をわからなくしてしまった。
明治維新からようやく1世紀にすぎない。それ以前の千年近い長期間は仏教支配下の混合祭礼であり、仏教が混交していない祭礼、行事は一つもない。その前提のない調査、研究など信用できるはずがないだろう。

・古美術商と組む偽刻(偽の碑文を彫る)の専門業者がいる。


・中世の西欧にも東洋にも初夜権があった。初夜の最初の花嫁と寝る者が、領主その他夫より目上の者である民俗をいう。ある民俗学者は最初の夜、花嫁と床を共にする者は神であったと説く。初夜の交接による流血は原始人たちは非常に怖れたのでそうした悪魔の祟りを避けることのできる者、換言すれば神に最初の夜を捧げしめたというのである。神とは神を祀るものであったわけだが三輪山伝説の大蛇といった人外婚ないし人獣婚といもいうべき話も頗る多い。これはトーテムを異にした氏族間の結婚を神話化して伝えたものだと考えてもよかろう。
初夜の晩に花嫁と共床することを恐れた習慣は世界的に広く見いだされる。やがて神が神を祀る者、神官や僧侶であることが明らかになるようになれば、族長や王侯が権利として初夜を領民から要求するようになる。かくして暴力的な初夜権が成立したわけだ。
近代封建社会の結婚に処女童貞の結婚があったか否か、頗る疑わしい。

健康保険や社会保険がほとんどなかったころ、長患いしたり失業するとたちまち翌日から生活に困った。これが民間信仰型教団、教会を維持し、繁盛させる原因にもなったわけで、信者たちはたいてい無尽講を作り、だいたい月掛け一円から三円ぐらいまで期間は一年が多く、入札で落としたが、これで当座の生活はしのげたのである。

(書法用語bot ‏@syohobot 2014年5月18日
石碑のいろいろ 原刻(げんこく)…初めて建てられた本物の碑
重刻(じゅうこく)…原刻が失われた後に再刻された碑
翻刻(ほんこく)…原碑が残っているのに再刻された碑
偽刻(ぎこく)…文献によって原碑の存在が知られているものの偽造、またはある人の書風だけが真似られた碑

偽物づくりの話。
基本はおねしょた兄貴のツイートをどうぞ。
情報の真偽判断にお使いください。少なくともイランのシーア派では史料批判の分野がある。

魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)‏ @douteimaturi
何で古事記を偽典とバッサリ言うのかというと、基本伝承学・ハディース学の援用で
誰が・
どこで・
いつ・
どういった時に・
何があって・
どの様に・
何故その言葉で・
どのように伝えられて来て・
それを誰が言い伝え・
誰が証言しているのか・
編纂者は誰で・
どのような立場で・
いつの時代に編纂され
当時の現状で・
どういった理由でこの伝承が編纂されたのか
まで明白にわかっていないと伝承は使えません
なので古事記をこの視点から見るとお話にならない位に欠格事由しかなく、
これらの内の一つでもあやふやであるならば信頼できる伝承ではありません
それは完全なる預言者の言葉だからなのです

完全なる預言者の言葉は完全な言葉であるが故に如何なるものでも完璧な理由があって、言葉にされているのでそれが成立しているという前提から俯瞰します
神学・聖典の見分け方というのは希望や期待・権力者達の意志で歪めることは地獄を近くするので非常に慎重をきすものとなります

例えば、サヒィーヒ・ブハリーが残した共通伝承集もそうで彼自身が知っていた伝承は300000といわれ、そこから確信がある2700がそこにある訳ですが
この伝承集はアハレベイト派からの視点からはかなり恣意的な伝承集で信用に足りません
例えば、アイーシャの伝承は270程あるのに対し…
承前)預言者(ص )の愛娘であるファーテメ・ザハラーの伝承は一つしかありません
また、この世界で二番目か三番目にムスリムとなったアリー(ع)に関しては29、しかし二代目カリフであるウマルに関しては300ー400と残されていてかなり恣意性が高いものです
当然、背景もあります

この伝承集が編纂されたのかアハレベイト派の11番目の指導者であるハサン・アスカリー(ع)の時代で彼は常に悪政者に監視されていて自由が効かない立場でした
なので、推論としては基本的に二つが考えられ
一つは当時の権力者に阿った
二つ目はそういった状況であるのでワザと隠したです




魔法おっさん(30代無職童貞)‏ @douteimaturi 2016年10月27日
で、えぐい事を言えば神話とかなんて偽書を作ってしまって組立ちまえばいいんです
例えば、当時の日本には文字があったなんて言いたいのであればホツマツタエみたいな粗製品ではなく、古代揚子江や長江で発掘されている文字にアルメニアあたりの文字を拾い上げて当時の音声表記すればいいのです

んで、紙とかも当時位に工業的に劣化させて地面に埋め埋めしたものに大切なのは時代時代によって解釈されたような解釈本をちゃんと用意すること 奈良後期、平安時代、鎌倉時代、室町等々ちゃんと歴史考証加えられているように捏造しなきゃいけません




原田 実‏ @gishigaku 5月24日
返信先: @alsnovaさん、@SagamiNoriakiさん
上代仮名遣いの解明で本文が平安期以降の偽作と考えにくいことは昭和初期には認められてましたが偽書説への決定的反証となったのは1979年の太安万侶墓碑発見でした。続紀の表記ではなく記序文の表記が同時代のものであることが判明したわけで

――

よりによって唯一神道とお墓発見かよ!
発掘したら支配層に都合の良い物が、都合良く出てきちゃったって多いんだよね!
国家神道にとって記紀は絶対偽典であってはならないからね
上代仮名遣いの正しい用法を国学者がどれだけ知っていたか私は不勉強なのでそこには突っ込まない。
少なくとも明治期に記紀は改ざんされているだろうね。
本居宣長は一神教的多神教寄りの思想だから平田篤胤がとりついたんだろうね。

“本居宣長
「日本最高!
一神教的多神教最高!
天照最高!
桜最高!」

平田篤胤
「日本以外はクソ!
中国思想と仏教は嫌いだけどキリスト教はOK!
だって聖書のアダムとエヴァの話は日本原産だから!
漢字は嫌いだけど、ハングルをモデルに神代文字を捏造するのはOK!
日本の疑似伝統を叫ぶ朝鮮半島人脈の和風キリスト教徒のお手本ニダ!
国家神道=天皇一神教の原案は私の神学!」 


クソはてめーだ平田篤胤!
国学をキリスト教の異端派の巣窟に変え、文字を捏造した似非学者め!

誰かこの二人の霊魂を憑依させて会話してくれないかなあ、
と思ったけど無理だろうから会話を予想。

本居宣長
「クリスチャン大喜びの思想だけど
俺は隠れキリシタンじゃねーよ!
おい平田篤胤、俺が死んだあとに勝手に弟子を名乗るんじゃねーよ!」

平田篤胤
「本居宣長先生の思想はキリスト教に改造しやすかったです!」
会話以下省略というか強制中断。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-84.html
本居宣長のキリスト教と親和性が高い思想を改悪した平田篤胤の神道=和風キリスト教。 
神道=和風に偽装する隠れキリシタンが名乗る宗教。                 
神道・惟神・天皇・神器は道教用語であり、神道用語ではないので漢意の排除は不可能。  
∵一般的な日本人が考えるカミ≒仏。                       
子安宣邦『本居宣長』の読書メモ。

神道カルトの皆さま、聖典がなくて困っているからといって、安易に偽書を捏造したら墓穴を掘りますよ!
ちゃんと、解釈書、注釈書、異本も作りましょう!
解釈書は公開しない聖典にもあるものなので必要。
口伝だといってごまかすと「じゃあなぜ文章にしたの?」って疑われますよ。
紙は和紙を劣化させること。
筆と墨で描くこと。
地面に埋めるなどすること。
注釈や解釈書だけでなく、勉強会も開かれたことも偽書以外の史料に明記。
浄土教の教典の「軟」を「愛」(仏教では執着なので悪い意味。耶蘇では良い意味)にすりかえたように、うまくやりましょう。学者をうまくひきこみましょう。
難しいなら、実在する勉強会がらみの曖昧な記述を見つけてこれはこの本〔偽書〕の勉強会だと主張しましょう。
当時の尊厳の流れに従って捏造しないとばれるので注意。
あ、それだと仏教を耶蘇教化できないからダメだね。偽典に耶蘇要素入れるのが目的だからね。
つまり既存の史料の焚書もセット。
民俗学を学んで当時の習俗にも合わせましょう。
あと文書はところどころ抜けや誤字も含むこと。
 『枕草子』の写本は、書き間違い、書き落とし、一行脱落などのオンパレードなのを思い出しましょう。
一番うまく偽典を作ったのが耶蘇教作ったやつにとってのユダヤ教だろうね。
今のユダヤ教は相当耶蘇の改悪が混ざっているだろうね。
セプチュアギンタがわざとおかしな都合が良い母音で読んで実質内容改竄疑惑。

『古事記』は偽書である可能性が高いらしい。
『古事記』が疑われた理由からも学んで偽造しましょう。
『古事記』が読みたくなくなり、『日本書紀』を読みたくなることを列挙。

・『日本書紀』の現存最古の写本が平安時代の9世紀。
平安時代にはしばしば講義(日本紀講筵(にほんぎこうえん))が実施された。
(『日本書紀』は偽書ではないというのが今の私の見解)

・『古事記』の現存最古の写本が南北朝時代の14世紀。

・天皇の勅命で実施された『古事記』編纂作業だったにもかかわらず、奈良時代の正史『続日本紀』には一言も触れられていない。

・なぜ似たような内容の歴史書を同じ時代に2つも編纂する必要があったのか不明。

・『古事記』より遅れて成立した『日本書紀』では「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めているが、中国では、清の時代になるまで本文中に異説を併記した歴史書はない。
一方、『古事記』では異伝の中から正しいものを選び出して正史として確定させている。
(『日本書紀』は外部公開が前提ではなかった可能性。史料の側面が強かった可能性)

・『古事記』の神話では出雲神話が大きな割合を占めているが、『日本書紀』ではそのほとんどが割愛。
(『古事記』作成にかかわった人は処罰されるのでは?

朝廷が定めた正史『日本書紀』は一書に曰くスタイル。
『古事記』は一書に曰くスタイルではなく、
しかも『日本書紀』とくい違う内容あり=正史の否定。
同時期に作成するだろうか?
『古事記』が同人本である疑惑。反朝廷側が作ったなら納得できるんだけどなあ。

やっぱり良いアイデアは数日後に出るな。)


赤松啓介『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』(ちくま学芸文庫 2004)

・農作業の労働唄に、極めて性的なものが多いのは知られている通りだ。ただ文字化されて報告されているのはお上品にお上品に加工された者であり、実際は更に濃厚である。過酷な労働作業をすると、戦争で死が近いときみたいに、性欲が高まるから、娯楽と休憩もかねていたのだろう。

・ムラの夜這いや性風俗は、非登録、無償を原則としたから、明治新政府はもうからなかった。強大な税収源を作るために、ムラのすみずみまで仲居、酌婦、芸子を普及させ、料理屋、風俗旅館、酌婦宿などの機構を通じて収奪を強行した。これらの営業税、遊興費と酒その他の飲酒の税収は巨額であり、国家財政、特に軍事費に流れたのは間違いあるまい。一夫一婦制だの、青年処女の純潔教育など、ただの飾りたてた嘘看板である。

・柳田國男の民俗学は性という重要事項を無視したもの。

・夜這いは戦前まで、一部では戦後しばらく間で一般的に行われていた現実であり、実に多種多様な営みであったが、このような重要な民俗資料を、日本の民俗学者のほとんどが無視し続けていた。日本民俗学の泰斗といわれ郷土研究や婚姻の話を著したりしている柳田國男は、著者の郷里から目と鼻の先の出身で、子どものころから夜這いが大っぴらに行われているのを見聞きしながら育ったはずだが、彼の後継者同様にその現実に触れようとしなかった。かつてはムラで普通だった性習俗を民俗資料として採集することを拒否しただけでなく、それらの性習俗を欧米列強が押し付けたキリスト教道徳で判断し淫風陋習であるとする側に協力したといえよう。古来の習俗を明らかにする民俗学で最重要なもののひとつである性について扱わない時点で似非だ。農政官僚の柳田は保身のために性を無視したのだ。柳田の方法は、全国からいろいろな材料を集め、自分に都合のよいように組み合わせるといったものである。夜這い一つとってみても、隣村同士でも多様なのに、あちこちの県のムラから広範囲に類似のネタを集めて一つのことを語ろうとする。著者に言わせれば、アホでもできることである。
著者が田舎に帰ったころ、柳田は山村調査をしているが、採集手帳を読むと、小作と地主といった、実在しない言葉を使っている。それでいて「常民」というコンセプトを持ちだしてくる。戦前までの政府が、労働者を資本家も含めて勤労者、地主も小作も日雇も含めて営農者と呼んだような不自然な造語でどうやって、「常」を語れるのかわからない。
婚姻の調査についても、彼らがわかっていないのは、明治から大正、昭和初期にかけて生きた女性の大半は、マチなら幕末、ムラなら村落共同体の思考、感覚でしか生きていなかったことである。教育勅語によってそれほど汚染されていないということだ。尋常小もろくに出ていない人間に家父長制だとか一夫一婦制だとか処女崇拝だとか思想に馴染まないのは当然で、夜這いに悪いイメージなんてものはなく、性の解放が当然だと考えているし、離婚も普通でありバツイチ、バツニ、バツサンでも別に悪いことだとされていない。女学校やキリスト教的な教育を受けた女たちとの落差を大きく、ムラでは中等教育以上を受けた女は、だいたい「スソナガ」「スソヒキ」と呼ばれて孤立していた。
著者の、夜這い最末期段階の経験によると、明治で教育を受けた女と、大正で教育を受けた女とではムラでもマチでも性感覚ではかなりの大差があった。教育勅語に汚染された=「新しい女」という言うのはとんだ勘違いで、こんな勘違いのままではムラでは孤立して当然である。
時代が古いほど村内婚が多く、双方とも生まれた時のころから分かっていたので、仲介人など必要ない。村内婚は明治以降むりやり入籍結婚にさせられてしまったが、これまでは夜這いの延長みたいなもので同棲したからとって別に性的に独占できたわけではない。
村外婚が普及し仲介人や仲介業者が一般に活動するようになったのは大正に入ってからのことで、三三九度の盃を上げてという小笠原式の婚姻が普及するようになったのはさらに後のことだ。こうしたことを柳田派の人たちは率直に記述しようとしない。

(単に欧米を真似て、欧米に「ほら進歩的=キリスト教的でしょう?」って主張するため。まあ生き残り戦略であり仕方なかった側面があったのだろうということは忘れないようにしよう)

・民俗学者というのはほとんどが世間知らずだから、ムラの公式的な答え(タテマエ=嘘)ですぐ安心してしまう。特に性風俗などはよほど信頼されないとほんとのことは言わない。仕事を手伝ったりいろいろ仲良くなってやっとわかるもんやねん。男女の機微に通じてへん奴にはようつとまらんて。
(著者は著作を読むに少なくともモテる方だったろうな。男色家に狙われたこともあったそうだし。だから性風俗については調べやすかった。民俗学者はもてないといけないのか)

・夜這いがあるところでは、避妊具が現代のように普及していたわけではないので自然、子どもが生まれることになる。結婚していても同棲している男との子どもかはわからないが、夜這いが自由なムラでは当たり前なので、深刻に考えたりしなかった。少なくとも母親は自分が産んだのだから自分の子どもだし、子どもはみんなで育てるものだ。

・郷里の播磨や、奉公先の大阪などで生活してみると、小学校の修身で教えられた純潔教育、一夫一婦制結婚生活などは全く虚構であることがわかった。修身はただの暗記物に過ぎないと思ってはいたが、実社会に出て見るとそのあまりにも甚だしい乖離に驚いた。盗みをするな、嘘をつくなは、まあわかるが、性生活や性風俗になると教えられたことの片鱗さえ残っていない。
遊郭での客の好みはさまざまだが、中には十二、三歳でまだ月経もないオチャコを水揚げしたいというものもいる。幼女を二、三日かけて破瓜にするそうである。ひどいのは苦しむのや出血の多いのを楽しむものもいて、玄人のババアですら呆れる。中には、出血が少ないから処女ではないと(初物好きは単なる好みであって、道徳ではない)ひと悶着あり、大変な世界であった。警察の監督も実にいい加減であった。十六を超えた女の初見世でもほんとの水揚げは女衒やオヤジがすませているのに、店では初見世の紙を張って四、五日かけて何人もの男に売るのである。
こんな暗黒の世界を見ると、ムラの夜這い民俗など極めて健全であり、かつ健康であるというほかはなかった。こんな闇世界を残しておいて解消もせずに、国民道徳だの純潔教育だのとあまり笑わせないでくれよ、と笑いながら涙が出るのであった。
夜這いは、性におおらかだと言われる江戸時代であっても、地方文書でマチやムラの夜遊び夜這いの禁止の圧力をかけたりしていて、享保ころから激しくなってくる。しかし何度も同じような禁制を出しているから余り効果はなかった。夜這いの必要とする原因を改めずに禁止だけを命令しても効果はない。特に儒教的な思想からの禁圧は殆ど効果がなかった。明治維新後の教育勅語による禁圧でもほとんど効果がなかった。文部省や役所のインチキ報告では是正だとか改善だとか廃絶だとかあっても嘘であった。とは言え、教育勅語的指弾ムードと戦争中の弾圧的な風潮、そして戦後のお澄まし顔民主主義の風潮の中で、しだいしだいに消えて行った。
(戦乱や飢饉などによる村の全滅を防ぐなど、性行為を奨励して人口を増やす。生殖能力の高い者の子孫を多く残すシステム)

・性教育といっても、難しい理論など教育しなくても実地教育をやればすぐわかる。性交をさせない性教育などかえって危険。性知識教育するくらいなら教えない方がまだよい。よけいな知識をつけるだけで成年式の二十まで性交禁止を理想とするなどどんな根性しているのかわからん。もう十一、十二歳になったら性交をやらせる教育をしないとほんまに子どもがかわいそうだ。性理論やら性知識だけ教える先生方は、理論や知識だけ教えて、実行を禁圧することの恐ろしさを知らないのか。いつ実行させるのか聞きたい。
(キリスト教の布教がしたいのですよ)



  ――『蟲師』の紹介―――
 


左目がない、右目出し、右目は緑、白髪、作中恐らく唯一の洋服でサンカ人脈で喫煙者。
 主人公が蟲たばこという蟲よけを吸っている。
本来のタバコは薬草。
今の国産たばこはダメ。放射性物質汚染+添加物で最悪だ。
しかも周りに待ち散らすからな。
海外産の無添加タバコなら薬。
一番いいのは支配層が吸っているやつだが高すぎる。

主人公の見た目以外は耶蘇要素がみあたらない。
蟲師の主人公は右目が緑で隻眼。
白髪で隻眼で目が緑なのは蟲のせい。
アルビノ意識?
それだと目は赤くなるけど。
独りだけ洋服。

一話でもいいから見てほしい。一話完結型。
『蟲師』は原作もアニメも全話おすすめ。
一番オススメが『錆の鳴く聲』のアニメ版。声がつくからね。
『夜を撫でる手』は本ブログ読者なら印象に残りそう。

動画見ない方はこの素晴らしい画像を見ておくれ。
【蟲師 続章】第10話 感想 冬眠もできる蒸し師
http://anicobin.ldblog.jp/archives/39474536.html

目玉系の話が知りたい?
右手に目玉模様(甘い匂いで獲物を引き寄せ触れたものを殺す手)の話ならあるけど。
最後は右腕ごと失ってハッピーエンド。

『夜を撫でる手』【蟲師 続章】第4話 感想 まさかム○ゴロウさんも…
http://anicobin.ldblog.jp/archives/38487460.html
“『意のままに獲物を狩る手。血筋に同じ者はいないか?』
『掌に目玉のような痣があるだろう。そいつは腐酒という物に侵されてる印だ』
腐酒とは光酒の腐れてしまった物。蟲の成り損ないでもある
『果実酒の様な匂いがあるが毒がある』
『しかし極まれに毒に耐える体質の者がいる』
『動物の体内に入り血に紛れると命を得る。宿主もまた特殊な力を得る』
『甘い匂いを掌から出し、獲物を惹きつけ酔わせ容易く狩りをする』
『それは子々孫々まで伝わっていく』
『力を得なかった者は毒の為長くは生きられない』
『安心しろ、光酒を一定量飲めば腐酒は消滅する。調達してこよう』
『お前は山の王にでもなったつもりか?』
『お前も山の一部だろう。何で命を落とすかなど、誰にも知れんよ』
『動物、特に鳥類は目玉模様に恐れを抱く』

「闇の中では誰しも何かの影に怯える」
「闇に遊び、踊り戯れるは異形ばかり」
「もしも真に異形の王がいたなら」
「やはり、あんな風なのだろう」


毎回毎回、最後の締めの文章が名文。
いっとくけど、蟲師には性描写はないからな!



『蟲師』や耶蘇かぶれでない民俗学者の本を読み聞きすると時間の流れが変わる。
概念は時間を変質させる。
数秒単位のずれしかない時間遵守は西洋の時計(神学の影響)とプロテスタント由来。
次で最終章。


――蟲師と昔の民俗の時間から労働ための時間へ―――
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-200.htmlへ。


唐突なおわり。
参考資料は本文ではなく注釈のようなものなので別に読まなくていいです。
ねこた放送ってこんな感じでどんどん話が広がって行って面白いよね。そして唐突に終わる。

最近ですます調やめようと思っている。
日本語は丁寧にするほど長くなり書くのに時間がかかるから。


参考資料

創価の背後にいる日本貴族(耶蘇かぶれ)一覧
※見やすく調整済み
もぐらさんの記事あり
①陰謀論業界のパクリ疑惑 
②労働教の元凶カルヴァンの過去記事の訂正 
③『はじめてのラテン語』メモの加筆のお知らせ
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-125.html
より。読みやすく改変。
仏恥義理 ‏@meets_tak 2015年1月3日
#SAGEGROUP 歴代まとめ
http://www.sagegroup.jp/japan.rekidai.htm …
土方 久元
・ (1833~1917)
・大日本皇道立教会初代会頭
・元宮内大臣
・臨時帝室編修局総裁 pic.twitter.com/U89uxDlh0i

千家 尊福
・ (1845~1917)
・大日本皇道立教会初代副会頭
・元司法大臣

・当家は天照大神第二の御子天穂日命の後裔で、代々出雲国造、尊福は同5年出雲大社大宮司となり、同17年7月授男爵。のち元老院議官、貴族院議員、文部省普通学務局長、埼玉・静岡・東京の各府県知事を歴任し、同41年司法大臣。
千家尊福作詞、一月一日https://youtu.be/iREdv7j03kc

四條 隆愛
・(1880~1938)
・大日本皇道立教会第二代会頭
・陸軍士官学校卒、同騎兵実施学校修。同36年陸軍騎兵少尉、のち同少佐に昇進。

この間、陸軍騎兵実施学校教官、同大学校馬術教官等歴任のほか、宮内省御用掛、歌御会始読師控、国家総動員審議会委員等。明治38年6月より昭和13年10月まで、貴族院議員在任。 昭和13年10月2日死去。

@meets_tak
三嶋 弥太郎
・(1867~1919)
・大日本皇道立教会第二代副会頭

・明治17年、22年米国留学。同21年北海道庁技師試捕となる。
日本銀行総裁のほか、日本大博覧会評議員、経済調査会委員等、横浜正金銀行頭取となる。明治30年7月より大正8年3月まで貴族院議員在任。大正8年3月7日死去。

@meets_tak
四條 隆徳
・(1907~1977)
・大日本皇道立教会第三代会頭


@meets_tak
続き
・昭和8年東京帝国大学農学部卒、同大学院修、同10年より同大学嘱託、同大学農学部講師獣医師試験委員等、昭和13年12月より同22年5月まで貴族院議員在任、昭和52年11月13日死去。


秋月 左都夫
・(1858~1945)
・大日本皇道立教会第三代副会頭
・明治17年7月、司法省法学校卒、法学士、司法省御用掛。明治24年外務省政務局勤務。三島通庸の長女園子と結婚。明治28年帝国大学にて国際法を講義。


続き
ベルギー公使、オーストラリア大使。宮内省御用掛、外務省調査部事務等を歴任。大正6年読
売新聞社社長。大正10年京城日報社社長。門下に創価教育学会創立者、牧口常三郎。創価学会創立者、戸田城聖氏がいます。 昭和20年6月25日死去。

@meets_tak
中山 忠英
・大日本皇道立教会初代会長
・天誅組首謀者・中山忠光の遺児。大正5年7月16日死去。

(※写真なし)


とりあえずここで考察を(#SAGEGROUP 歴代はまだ「あ行」からありますw)

まず日銀や横浜正金銀行の頭取をやった三嶋がいること。

そして三島通庸の長女と結婚し、読売新聞社長、創価の初代と二代目の師匠だった秋月がいること。


@meets_tak
三島彌太郎(正式にはこの字のようだ)の長男、三島通陽が1950年フリーメイソンに入会(日本ボーイスカウトの総長でもあった)。
このことは先日引用した青木冨貴子著「占領史追跡」に書かれている。

@meets_tak
青木冨貴子著「占領史追跡」より、昭和天皇とフリーメイソンに関する記述。以下引用。

『メーソンリー・イン・ジャパン』には翌年の「一九五一年の報告」のなかに、天皇の入会について次のように記されている。

@meets_tak
「エンペラー・ヒロヒトは、興味をもたれ、三三位階の同志マイケル・A・リビストに皇居へきて、フリーメーソンについて説明するようにもとめたが、残念なことに、同志リビストが評判を落としたため、招待を辞退した」


@meets_tak
これはなんとGHQ高官のウィリアム・シーボルトが書いたものである。
シーボルトはこの先、とくに講和条約の締結に至るまで、重要な働きをする外交官である。わたしは彼もまたフリーメーソンだったとは知らなかっただけに、この記述にはおどろいた。

そのシーボルトが、天皇の方からリビストを皇居に招いたが、リビストが辞退したと書いているのである。パケナムの日記とはまったく正反対ではないか。

@meets_tak
ちなみに、フリーメーソンであった占領軍高官のなかには、チャールズ・ウィロビー少将や第八軍司令官のロバート・アイケルバーガー、マッカーサーの後任として第二連合国軍最高司令官になるマシュー・リッジウェイ大将など多数が名前を連ねている。

(引用終わり)


@meets_tak
もう一度通読してみます。重要だと思うので。また引用しますよ。


@meets_tak
#SAGEGROUP 歴代あ行
http://www.sagegroup.jp/rekidai.a.htm

@meets_tak
淺田 信興
・(1851~1927)
・陸軍々事参議官・男爵
・埼玉県出身。川越藩士坂口朗忠の三男で、川越藩士浅田順信の養子。養嗣子は浅田良逸陸軍
中将。娘は中島正武陸軍中将に嫁ぐ。日露戦争に従軍。

近衛師団長、明治39年7月6日に久留米第12師団長、明治43年8月26日に大阪第4師団長を経て、明治44年(1911年)に教育総監に就任(~1914年)。


@meets_tak
大正元年(1912年)に陸軍大将に昇る。最終官職は軍事参議官兼東京衛戍総督。大正10(1921年)に退役し、昭和2年(1927年)に77歳で死去。


@meets_tak
姉小路 良子
・権典侍・従五位

(写真なし)

姉崎 正治
・(1873~1949)
・京都府生まれの評論家・宗教学者(キリスト教・仏教)である。ペンネームは姉崎嘲風(あねざきちょうふう)。
1893年、東京帝国大学(現・東京大学)哲学科に入学。井上哲次郎、ヘーゲルについて学ぶ。
1896年、同大学同学科卒業。1900年にドイツ・イギリス・インドに留学し、1903年に帰国。1904年、同大学教授となる。1905年、同大学文科大学に宗教学講座を開設。日本の宗教学研究の発展の基礎を築いた。東京大学宗教学研究室には、彼の写真が今も飾られている。
また、1923年から1934年までは、同大学の図書館長を務め、関東大震災の被害に遭った図書館の復興に尽力した。1939年7月から1947年5月まで貴族院議員。学問研究の分野だけではなく、文人としても優れた才能を持ち、帝大在学中には高山樗牛らと『帝国文学』を創刊している。


安楽 兼道
・前警視総監

(写真なし)


伊沢 修二
・(1851~1917)
・日本の教育者である。明治から大正にかけて、近代音楽教育や、吃音矯正などを行う。妻は徳島藩士の森重氏の娘ちよで、子に1男4女。幼名は弥八。政治家の伊沢多喜男は弟、教育者の遠藤隆吉は娘婿である。

一木 喜徳郎
・(1867~1944)
・男爵・文部大臣
・日本の公法学者・内務官僚・政治家。現在の静岡県掛川市生まれ。岡田良一郎の二男。兄は岡田良平。大学予備門を経て、1887年に帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)卒業。

@meets_tak
同年、内務省に入省。1890年ドイツに留学し行政法を学ぶ。1894年帰国して帝国大学法科大学教授。1902年法制局長官、1914年第2次大隈内閣で文部大臣、翌年内務大臣。1925年宮内大臣、1934年枢密院議長。


枢密院議長在任中、天皇機関説の提唱者として弟子である美濃部達吉とともに非難される。一木との政治抗争にあった平沼騏一郎の政略であったとも云われている。

1936年の二・二六事件で内大臣斎藤実が殺害されると、後任が決定するまでの1日間のみ内大臣を務めている。旧制武蔵高等学校の初代校長、大日本報徳社社長も勤めた。


@meets_tak
一條 實孝
・(1880~1959)
・従二位・勲二等・功五級・公爵

@meets_tak
伊知地 幸介
・(1854~1917)
・男爵・陸軍中将薩摩藩士、伊地知直右衛門の長男として生まれる。御親兵(後の近衛兵)に抜擢され上京、薩摩閥の 1人であり、


@meets_tak
妻が大山巌元帥の姪という強力な後ろ盾もあり、1880年(明治13年)フランスに 4年後にはドイツへ留学し、その後日清戦争時には大本営参謀・参謀本部第1部長・駐英武官と陸軍内でのエリートコースを順調に進む。


@meets_tak
市村 さん次郎
・(1864~1947)
・歴史学者。國學院大學学長、東京帝国大学名誉教授。専門は東洋史。茨城県筑波郡北条町(現つくば市)出身。明治法律学校を経て、1887年に帝国大学古典漢書科卒業。

1888年に学習院傭教師、1890年に同助教授、1892年に同教授となり、1898年からは東京帝国大学文科大学助教授(学習院は兼任に転ずる)、1905年に教授に昇進。1924年に東京帝国大学を定年退職、翌1925年名誉教授となった後、國學院大學教授。

1926年から大東文化学院教授・1928年から立教大学教授を兼ね、1933年から1935年まで國學院大學学長をつとめた。わずか 1年余りでの学長辞任は、自身の言によれば学究生活への愛着が絶ちがたく旧道に立ち帰りたいためであったという。
1944年、國學院大學教授を退職。東洋史の研究で成果をあげ、1907年には文学博士の学位を授与され、1925年には帝国学士院会員となっている。

井上 哲次郎
・(1856~1944)
・哲学者である。通称「イノテツ」。井上円了が在野の哲学者だとすれば井上哲次郎は東京帝国大学というアカデミズムの牙城の哲学者である。

国家主義の立場から宗教に対する国家の優越を強力に主張し、中学教員であった内村鑑三が教育勅語への敬礼を拒否した不敬事件に際してはキリスト教を激しく非難する。またそれ以外にも体制側のイデオローグとして明治日本政府の道徳主義の思想界における切り込み隊長となった。

東京帝国大学教授。外山正一、矢田部良吉らと『新体詩抄』を刊行し世間に名を知られる。仏教からヒント得て現象即実在論を提唱。1924年10月から1925年11月まで貴族院勅撰議員を務め、引き続いて同院の初代帝国学士院会員議員に選出された。

犬養 毅
・(1855~1932)
・日本の政治家。立憲政友会第 6代総裁。第29代内閣総理大臣。通称は仙次郎。号は木堂。
勲一等旭日桐花大綬章。


大炊御門 幾麿
侯爵・貴族院議員・従三位・勲三等大炊御門家(おおいのみかどけ)は、清華家の家格を有する公家。家業は筆道・和歌・笛・装束。江戸時代の家禄は400石。家紋は菱に片喰草。藤原北家師実流。平安時代末期摂政関白藤原師実の子経実(1068年-1131年)を祖として創立された。


大炊御門北、万里小路東に邸宅があったため大炊御門を称する。経実は権大納言どまりであったが、その子経宗(1119年-1189年)は平治の乱で当初藤原信頼・源義朝方に付きながら寝返って平清盛方の勝利に貢献。また、二条天皇の外舅として勢威をふるい、左大臣に昇って清華家の家格を確保した。


@meets_tak
経宗の子頼実(1155年-1225年)は二度に渡って太政大臣を務めている。明治維新後、幾麿(いくまろ)の代に侯爵を授けられた。


@meets_tak
大木 遠吉
・(1871~1926)
・日本の政治家。元貴族院議員。司法大臣(第24代)、鉄道大臣(第2代)を務めた。大木喬任の子である。
貴族院議員となり政界入り。原内閣で司法大臣に就任し初入閣。続く高橋内閣でも留した。その後、加藤友三
郎内閣で鉄道大臣として再入閣を果たした。1916年、日本工業大学顧問に就任。大東文化協会の設立に深く関与し、初代会頭に就任した。


大久保 利武
・(1865~1943)
・鳥取県・大分県・埼玉県・大阪府知事明治時代の官僚・貴族院議員。位階勲等爵位は正四位
勲一等侯爵。慶応元年に大久保利通と満寿子の三男として生まれる(幼名三熊)。

その後内務省に入省し、鳥取県・大分県・埼玉県・大阪府の知事を務めた。継嗣が居なかった兄・利和の養子となり、昭和 3年6月5日、利和の隠居に伴い家督を相続し、6月15日には侯爵を継承。妻は近藤廉平の長女・栄。長男に大久保利謙が居る。


大隈 重信
・(1838~1922)
・総理大臣
・日本の武士・佐賀藩士、政治家、教育者。第8代、第17代内閣総理大臣。位階勲等は従一位大勲位。爵位は侯爵。東京専門学校(現・早稲田大学)の創立者。幼名は八太郎。


大迫 尚敏
・(1844~1927)
・子爵・陸軍大将
・日本の武士・薩摩藩士、陸軍軍人。学習院長、第7師団長等を務める。位階勲等は陸軍大将正二位勲一等功二級子爵。


薩摩藩士大迫新蔵の長男として生まれる。造士館生徒として学び、薩摩藩 5番組として薩英戦争に従軍する。

@meets_tak
大迫 尚道
・(1854~1934)
・第四師団長・陸軍中将
・陸軍大将の大迫尚敏の弟。 1879(M12)砲兵少尉、参謀本部員をへて、89ドイツ留学し、ドイツ公使館付となる。


帰国後、野砲第 1連隊大隊長となり、日清戦争では第1軍参謀、日露戦争では第2軍参謀長として戦闘を指導した。その功によって、1906野砲兵監となり、第18,14師団長をへて15(T4)軍事参謀官となる。19後備役となり、24退役した。

(あ行は以上。しんどいw)


ということは光格天皇や天誅組の中山さんもみんなつながっているということか。

千家さんすごいわ。つながりがすごい。
http://kingendaikeizu.net/kazoku/senge.htm …
#千家尊福
#大日本皇道立教会
#SAGEGROUP

続き
http://kingendaikeizu.net/kazoku/senge.htm …
#千家尊福
#大日本皇道立教会
#SAGEGROUP


@meets_tak
#SAGEGROUP 歴代か行
http://www.sagegroup.jp/rekidai.ka.htm

花山院 親家
・侯爵・従四位
・花山院家(かざんいんけ)は、藤原氏北家師実流の嫡流(花山院流)の家である。家格は清華家。

平安時代後期の藤原師実の次男家忠に始まり、家名は家忠が父師実から譲り受けた邸宅花山院にちなむ。家忠の孫忠雅が太政大臣、その子で後白河上皇の近臣である兼雅が左大臣に進み、清華家としての家格が確立された。

南北朝時代、嫡流は北朝に仕えたが、支流の花山院師信とその子師賢は後醍醐天皇の側近で、その子孫は南朝に仕えた。

この系統の末裔の女性が南北朝統一後に後小松天皇の宮中に入り、天皇の寵愛を受けて誕生したのが一休宗純であると言われている。江戸時代の家禄は、概ね 715石。家道は書道・笙であった。明治維新以後、忠遠のとき侯爵に列した。

花山院 家威
・従四位・元侯爵


@meets_tak
楫取 素彦
・(1829~1912)
・官僚、政治家。正二位勲一等男爵。通称は久米次郎または内蔵次郎。


小田村氏の養嗣となって伊之助と改め、 後に文助・素太郎と言い、慶応3年9月楫取素彦(かとりもとひこ)と改めた。諱は希哲、字は士毅、号は耕堂彜堂・晩稼・棋山・不如帰耕堂等。吉田松陰とは深い仲であり、松陰の妹が楫取の妻であった。


亀井 貫一郎
・(1892-1987)
・住友商事(株)顧問
・東京帝国大学法学部卒。外務省に勤務し天津総領事代理などを歴任。

ついで国際情勢分析の専門員となり、世界各国を歴訪。その間、ニューヨーク労働学校、コロンビア大学、ハーバード大学、ミュンヘン大学、チューリッヒ大学において、歴史学、言語学、哲学、生理学等の研究に従事。昭和3年第1回普選に社会大衆党より立候補し、当選。

以来昭和17年まで代議士として活躍。戦後、財団法人産業経済研究協会理事長となる。
主な著作:「民主の苦悶」(前仏国首相 Joseph Caillaux 著『欧州の没落』の翻訳:改造社)、

「日本民族の形成史」(東洋経済新報社)、「転機に立つ世界と日本」上下巻(霞関書房)。その他政治、経済、社会等各方面にわたる論文多数あり。



上泉 徳彌
・(1858~1945)
・国風会々長・海軍中将

菊池 謙二郎
・(1867~1945)
・茨城県生まれ。輔仁学舎に学ぶ。1924年(大正13)衆議院議員選挙に無所属で当選。


北小路 随光
・(1832~1916)
・子爵・掌典長・正二位

@meets_tak
木村 鷹太郎
・(1870~1931)
・明治・大正期に活動した日本の歴史学者、哲学者、言語学者、思想家、翻訳家。独自の歴史学説「新史学」の提唱者として知られる。愛媛県宇和島出身。

東京帝国大学史学科に入学、後に同学哲学科に転じて卒業。陸軍士官学校英語教授職等を務める。日本を世界文明の起源と位置づけ、かつて日本民族が世界を支配していたとする「新史学」を熱烈に唱えた。

他にも邪馬台国エジプト説や、仏教・キリスト教批判などの独創的な主張で知られる。異論に対して徹底的に反撃・論破する過激な言論人でもあり、論壇において「キムタカ」と通称されて恐れられ、忌避された。



黒板 勝美
・(1874~1946)
・日本の歴史学者。東京帝国大学名誉教授。文学博士。専門は、日本古代史、日本古文書学。号は虚心。


@meets_tak
黒田 清綱
・子爵・御歌所々長

か行は以上。


@meets_tak
#SAGEGROUP 歴代さ行
http://www.sagegroup.jp/rekidai.sa.htm

笹川 臨風
・(1870~1949)
・評論家、俳人。東京神田生まれ。本名は種郎(たねお)。帝国大学国史科卒。

赤門派の俳人で、1909年、文藝革新会の結成を提唱した。1924年、「東山時代の美術」で文学博士号取得。歴史書、美術批評、小説など幅広い著述活動を行った。


杉浦 重剛
・(1855~1924)
・明治・大正時代の国粋主義的教育者・思想家。幼名は謙次郎。近江国膳所藩(現・滋賀県大津市)出身。

さ行は以上。

#SAGEGROUP 歴代た行
http://www.sagegroup.jp/rekidai.ta.htm

高倉 永則
・(1864~1947)
・京都聯隊区司令官・子爵


高島 鞆之助
・(1844~1916)
・薩摩藩出身の陸軍軍人、政治家である。諱は昭光。官位は陸軍中将正二位勲一等子爵。陸軍大臣・拓殖務大臣・枢密顧問官等を歴任する。

また、現在の学校法人追手門学院の前身である、大阪偕行社学院の設立者でもある。第19師団長を務めた陸軍中将勲一等子爵高島友武は養嗣子。


@meets_tak
土屋 光春
・(1848~1920)
・男爵・陸軍大将
・明治時代~大正時代の陸軍軍人。官位は陸軍大将正三位勲一等功二級男爵。嘉永元年(1848年)に岡崎藩士渡利伝左衛門の四男として生まれる。


@meets_tak
のちに岡崎藩士土屋光時の嗣子となり、藩より選ばれ大阪陸軍兵学校に入り明治3年(1870年)陸軍少尉任官。その後、佐賀の乱、西南戦争を経て日清戦争には大本営参謀として従軍した。

第27旅団長、台湾守備混成第 1旅団長、近衛歩兵第 1旅団長を歴任し、明治35年(1902年)に陸軍中将に進む。日露戦争に際しては、乃木希典大将率いる第3軍の第11師団長として、旅順攻略戦に参加。

東鶏冠山に師団を率いて攻撃中にロシア軍銃撃により頭部に銃創を受け内地後送。治癒後、明治38年(1905年)に新設の第14師団長として再度満州に渡る。凱旋後、明治40年(1907年)9月に戦功により男爵となる。

明治41年12月21日に第4師団長となり、明治43年(1910年)8月に陸軍大将に進むと同時に予備役に編入。大正9年(1920年)11月17日に73歳で病没。

徳川 達孝
・(1865~1941)
・明治期から昭和にかけての宮中官僚・政治家。爵位は伯爵。田安家第 9代当主。父は田安徳川家第5・8代当主の徳川慶頼(四男)。兄に徳川宗家を継承した徳川家達がいる。幼名は群之助。

明治2(1869)年4月5日、嫡子となる。明治9年11月13日、父慶頼の死去により、家督を相続する。同年11月28日、元服する。明治17年7月7日、伯爵となる。明治22年、ヨーロッパ視察を行う。明治30年7月、貴族院議員となる。大正3(1914)年6月、退任する。


大正4(1915)年3月23日、皇后宮大夫に就任する。大正5年6月22日、退任する。大正11(1922)年3月22日、大正天皇の侍従長に就任する。昭和2(1927)年3月3日、退任する。その他、学習院評議員・日本弘道会長を務める。

十五銀行の倒産以来、経済的に逼迫し、三田の屋敷を売却し、実兄家達の邸宅の別棟に暮らすようになった。なお、家扶の不正も原因の一つであった。

昭和12年頃から徳川義親に家産の整理を相談し、債務の返済には成功したようである。その一環として、昭和13年4月、屏風などの家宝の売りたてを行っている。正二位勲一等。昭和16年(1941年)歿、77歳。

SAGEGROUP歴代の中に徳川家がいるとか(苦笑)

た行は以上。
#SAGEGROUP 歴代な行
http://www.sagegroup.jp/rekidai.na.htm

長崎 省吾
・(1850~1927)
・前調度頭・正四位・勲三等
・鹿児島県士族の長崎作右衛門の六男として生れる。藩校造士館、昌平黌に学び、後米国に留学しミシガン大学を卒業。

在英日本公使館勤務を命ぜられ、外交官としてロンドンに約 6年在勤。帰国後、直ちに宮内省に入り、式部官、宮内書記官、宮内大臣秘書官、調度頭、閑院宮附別当、宮中顧問官を歴任。その他、日本赤十字社、東京慈恵会、東京女学館の各理事を務めた。

@meets_tak
難波 宗美
・蹴鞠家家元・男爵
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仏恥義理 ‏@meets_tak 2015年1月4日

二条 基弘
・(1859~1928)
・侯爵・貴族院議員
・日本の華族。宮中顧問官、正二位勲二等公爵となる。九条尚忠の八男で、二条斉敬の養子となる。明治23年9月から大正9年1月まで貴族院議員を務める。二条正麿男爵は義弟。

@meets_tak #SAGEGROUP 歴代は行http://www.sagegroup.jp/rekidai.ha.htm

波多野 敬直
・(1850~1922)
・宮内大臣・男爵
・明治・大正期に活躍した旧小城藩出身の政治家。司法大臣・宮内大臣を歴任する。

正三位勲一等。男爵。丹波の戦国武将である波多野氏の末裔。肥前国小城郡牛津(現在の佐賀県小城市(旧牛津町))の小城藩士の長男として生まれた。小城町長や佐賀市長を努めた野口能毅は実弟。藩校興譲館に学び、その後、熊本の木下塾に学ぶ。


@meets_tak
服部 一三
・兵庫県知事・貴族院議員・従三位・勲一等


@meets_tak
福本 誠
・(1857~1921)
・日本のジャーナリスト、政治家、史論家。福岡藩士福本泰風の長男として福岡に生れる。幼名は巴。藩校修猷館に学び、後に長崎において谷口仲秋に師事し、上京して岡千仭に師事して専ら漢籍を修めた。
1876年、司法省法学校(東京大学法学部の前身)に入学するも、「賄い征伐」事件(寮の料理賄いへ不満を抱き、校長を排斥しようとした事件)で中途退学。

1908年、第10回衆議院議員総選挙に憲政本党から立候補し、衆議院議員に当選。同年、「元禄快挙録」の連載を開始、現在の忠臣蔵のスタイル・評価を確立する。1916年、中央義士会設立・初代幹事長に就任。


穂積 八束
・(1860~1912)
・日本の法学者。愛媛県宇和島市出身。東京帝国大学法科大学長。貴族院議員。日本法律学校(現在の日本大学)の設立に参画。 民法起草者の一人である穂積陳重は兄。


@meets_tak
堀田 正享
・貴族院議員・子爵


#SAGEGROUP 歴代ま行http://www.sagegroup.jp/rekidai.ma.htm

牧野 伸顕
・(1861~1949)
・明治から戦中にかけての政治家。位階勲等は従一位勲一等伯爵。幼名は伸熊。

名はシンケンと通称されることもある。薩摩国鹿児島城下下加治屋町に薩摩藩士・大久保利通と妻・満寿子の二男として生れた。生後間もなく遠い親戚にあたる牧野吉之丞の養子となる。


@meets_tak
松平 頼寿
・(1874~1944)
・明治から昭和にかけての華族(伯爵)。旧高松藩主松平頼聰の8男。第6代貴族院議長を務める。

学習院高等科から大隈重信に傾倒し東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語法律科卒業後、1908年に貴族院議員に列して以来、一時中断(1911年-1914年)を挟んで30年以上にわたって議員を務めた。

会派は扶操会→甲寅倶楽部→研究会。また、教育者としても活躍し、本郷学園(本郷中学校・高等学校)を設立。文武両道のエリート教育を目指す。

本郷って副議長に就任し、4年後には議長の近衛文麿の内閣総理大臣就任に伴い、議長に昇格する。在任中に死去し勲一等旭日大綬章に叙せられ貴族院葬が行われた。

@meets_tak
松平 康国
・(1863~1945)
・漢学者。長崎出身。二松学舎、ミシガン大学等に学ぶ。
読売新聞記者を経て明治24年より東京専門学校講師、 史学、漢文を教える。

中国泰山金剛経石刻文字の拓本を図書館長の市島春城に贈り、市島はそれより「名著 大作」の四字を集め図書館に掲げた。


@meets_tak
三浦 梧楼
・(1847~1926)
・日本の武士、軍人、政治家。陸軍中将、子爵。号は観樹。山口県萩市に萩藩士の子として生まれる。

@meets_tak
明倫館で学んだ後、奇兵隊に入隊して第二次長州征伐や戊辰戦争に従軍する。維新後は西南戦争で第三旅団指揮官として従軍。西部監軍部長・陸軍士官学校長、また大山巌と共に欧州の兵制を視察した。

@meets_tak
目賀田 種太郎
・(1853~1926)
・政治家・弁護士・法学者・裁判官・官僚。元貴族院議員。専修大学の創始者の一人である。
男爵。ハーバード法律学校(ハーバード大学)卒業。貴族院議員として活躍。

横浜税関長、大蔵省主税局長、枢密院顧問官などの要職を歴任した。また、韓国財政顧問を務めるなど、韓国通としても有名。東京弁護士会会長も務めた。また、勝海舟の娘・逸子は、目賀田種太郎に嫁ぎ、

その関係から海舟は『律増甲乙之科以正澆俗 礼崇升降之制以極頽風』
(訳「法律は次々に多くの箇条を増加して人情の薄い風俗を矯正し、礼は挙措進退のきまりを尊重して頽廃した風俗を止めるものである」)
という言葉を贈り、常に専修学校学生を激励した実録も有名である。


@meets_tak
#SAGEGROUP 歴代や行
http://www.sagegroup.jp/rekidai.ya.htm

山縣 有朋
・(1838~1922)
・日本の政治家、軍人。幼名は辰之助、通称は小輔、後に狂介と改名。
明治維新後は有朋の諱を称した。晩年は陸軍のみならず政界の黒幕として君臨し、「日本軍閥の祖」の異名をとった。第3代、第9代内閣総理大臣。元老。位階勲等は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵。また、大英帝国のメリット勲章も受章している。


山科 言縄
・(1835~1916)
・宮内省有職・伯爵
・江戸時代末期の公家。正二位伯爵。父は山科言成。明治17年の華族令で、伯爵に任ぜられた。装束などに精通。三男の言長は、分家杉渓家の祖


@meets_tak
山田 孝雄
・(1873~1875)
・国語学者。富山県富山市に山田方雄の二男として生れる。富山県尋常中学校を中退後、独学で小、中学校教員検定試験に合格、小、中学校教員をへて、

1907年(明治40年)文部省国語調査委員会補助委員、1920年日本大学講師、1921年日本大学文学部国語科主任、1925年(大正14年)東北帝国大学講師、1927年(昭和2年)同教授を歴任。1929年には「日本文法論」によって文学博士の学位を授与される。

1933年に退官後、1940年に神宮皇學館大學学長、1941年神祇院参与、同年肇国聖蹟調査委員、1944年に学術研究会会議会員、同年貴族院議員に勅撰、文部省国史編修官、1945年7月には国史編修院長、同年愛宕神社名誉宮司となる。


戦後公職追放された。1949年仙台市に移り、国語辞典の編修に専念、1953年に文化功労者、1957年、文化勲章を受章。また同年には富山市名誉市民にも推薦されている。

(や行は以上、ら行は無し)

渡辺 千秋
・(1843~1921)
・伯爵・宮内大臣
・明治・大正期の官僚・政治家。諏訪郡長地村(現在の長野県岡谷市)に諏訪高島藩士政徳の子として生まれる。楓関と号する。

生家は、長野県岡谷市長地芝宮に旧渡辺家住宅(長野県宝)として保存されている。明治維新後鹿児島県大書記官・北海道庁長官などを歴任。大久保利通の計らいで宮内省に奉職し、内蔵頭・宮内次官の後、1910年4月宮内大臣に就任する。
(SAGEGROUP歴代は以上)


@meets_tak #SAGEGROUP 歴代松平頼寿の補足。以下wiki。
〈松平 賴壽(まつだいら よりなが、明治7年(1874年)12月10日 - 昭和19年(1944年)9月13日)は、明治から昭和にかけての華族(伯爵)。〉


旧高松藩主松平頼聰の八男。母は正妻千代子(井伊直弼次女)。妻は徳川昭武(旧水戸藩主)の娘昭子。第10・11代貴族院議長、第8・10代大東文化学院総長などを歴任した。


学習院高等科から大隈重信に傾倒し、東京専門学校(現・早稲田大学)邦語法律科卒業後、明治41年(1908年)に貴族院議員に列して以来、一時中断(明治44年 - 大正3年、1911年 - 1914年)を挟んで30年以上にわたって議員を務めた。会派は扶桑会→甲寅倶楽部→研究会。


また、教育者としても活動し、本郷学園(本郷中学校・高等学校)を設立、文武両道のエリート教育を目指す。本郷区教育長も務める。

昭和11年(1936年)の日本競馬会発足に際しては初代理事長を務め、日本の競馬発展に寄与した人物でもあった。


昭和8年(1933年)、貴族院の正副議長は公爵・侯爵が就任するという慣例を破って副議長に就任し、4年後には議長の近衛文麿の内閣総理大臣就任に伴い、議長に昇格する。第8・10代大東文化学院総長を務めた。議長在任中に死去し、勲一等旭日大綬章に叙せられ、貴族院葬が行われた。
引用終わり


#SAGEGROUP 歴代、徳川達孝補足。以下ウィキより。

徳川達孝(とくがわ さとたか、慶応元年5月25日(1865年6月18日) - 昭和16年(1941年)2月18日)は、明治期から昭和にかけての宮中官僚・政治家。爵位は伯爵。
田安家第9代当主。田安徳川家第5・8代当主の徳川慶頼の四男。幼名は群之助。後に、徳川宗家を継承した兄の徳川家達から偏諱を与えられ達孝と名乗る。

来歴

兄・家達が徳川宗家を継承したこともあり、明治2年(1869年)4月5日、田安家の次期(第九代)当主候補として嫡子となる。明治9年(1876年)11月13日、父慶頼の死去により、家督を相続する。同年11月28日、元服する。

明治17年(1884年)7月7日、伯爵となる。明治22年(1889年)、ヨーロッパ視察を行う。明治30年(1897年)7月、貴族院議員となり、大正3年(1914年)6月6日に辞職する[1]。


侍従次長となり、皇后宮大夫事務取扱を大正4年(1915年)3月23日から大正5年(1916年)6月22日[2]まで兼務した。大正11年(1922年)3月22日、大正天皇の侍従長に就任し、昭和2年(1927年)3月3日に退任した。その他、学習院評議員・日本弘道会長を務める。

十五銀行の倒産以来、経済的に逼迫し、三田の屋敷を売却し、実兄家達の邸宅の別棟に暮らすようになった。なお、家扶の不正も原因の一つであった。

昭和12年(1937年)頃から徳川義親に家産の整理を相談し、債務の返済には成功したようである。その一環として、昭和13年(1938年)4月、屏風などの家宝の売りたてを行っている。正二位勲一等。昭和16年(1941年)没、77歳。

人物

華族として、主に宮中で活躍。侍従長に就任。謹厳な性格で知られる。 三田(現:東京都港区三田2丁目)の一角に邸宅を構えていたが、次第に野球に熱中。邸宅の広い庭園や築山を壊して泉水を埋め、運動場を造成した(徳川邸運動場)。

野球クラブ(ヘラクロス倶楽部)を組織。この運動場で新橋アスレチック倶楽部と対戦したといわれる。

系譜

・父:徳川慶頼(田安徳川家第五・八代当主)

・兄:徳川寿千代(田安徳川家第六代当主)

・兄:徳川家達(徳川宗家第十六代当主)

・弟:徳川頼倫(紀州徳川家第十五代当主)

・妻:鏡子(公爵徳川慶喜の長女)

・長女:須美子(伯爵溝口直亮夫人)
・次女:穀子(子爵土屋拳直夫人)
・三女:艶子(伯爵立花鑑徳夫人)
・四女:繡子(子爵徳川武定夫人)
・継妻:知子(公爵島津忠義の五女)
・長男:達成(伯爵・海軍技術大佐)
・五女:恵子(子爵大久保寛一夫人)
ウィキの引用は以上。

続いてhttp://www.rekishijin.jp/rekishijincalender/rekishijincalender201402/0218-2/ …より引用。


73年前の今日、大正天皇の侍従長を務めた徳川達孝(さとたか)が亡くなった。77歳。

慶喜の後、徳川宗家16代目の当主となった徳川家達(いえさと)の弟である。

達孝は田安徳川家第5・8代当主の徳川慶頼の四男として慶応元年5月25日(1865年6月18日)に生まれた。

父の慶頼は幕末の要人で、将軍・家茂の後見職を務めほどの人物であり、異母兄に越前藩主・松平慶永(春嶽)がいた。

そうしたなか、達孝の兄・家達が徳川宗家を継承したため、
自身は御三卿・田安家の養子となった。

明治9年には田安家の9代目・当主となる。
明治時代には伯爵や貴族院議員を務め、ヨーロッパ視察などを行なった。
大正11年(1922)大正天皇の侍従長に就任し、昭和2年(1927)まで務めた。

野球に熱中するあまり、宅の広い庭園や築山を壊して泉水を埋め、運動場を造成させるといった一面もある。

現在、孫で田安徳川家・第11代当主の德川宗英(むねふさ)氏は作家として活躍されている。

田安家の墓は寛永寺谷中墓地にある。

(引用終わり)

@meets_tak
秋月左都夫、ボーイスカウトのラインがでてきましたな。

#sagegroup
#大日本皇道立教会

以下、
秋月氏
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E6%B0%8F …
より引用。
秋月氏(あきづきし)は、日本の氏族の1つ。

出自

秋月氏の祖は、平安時代に伊予で反乱を起こした藤原純友を討伐した大蔵春実である。この功績により、春実は九州に所領を与えられ、大宰府の官人となって筑前に土着したと言われている。

鎌倉時代
平安時代後期から九州に土着した松浦氏や蒲池氏など他の豪族と同じく秋月氏も平家の家人だったが、源平合戦においては源氏方に与したため、鎌倉幕府の鎮西御家人となった。

しかし源頼朝からの信頼は薄く、頼朝の代官的意志を帯びて、鎮西御家人の抑えを含め守護として赴任してきた新参の少弐氏、島津氏、大友氏など東国御家人の傘下に置かれる。

この平安時代に九州に土着し平家方となっていた武家と、鎌倉幕府の意向を帯びて下ってきた少弐、大友、島津との関係が、その後の九州での勢力構造を形成する。幕府の意向を帯びた少弐、大友、島津は九州の三大名となり、元平家方の武家はその勢力下に置かれることになる。

南北朝時代
南北朝時代においては、九州に敗走してきた足利尊氏を迎え撃った多々良浜の戦いに、菊池氏の傘下で阿蘇氏、蒲池氏などと共に南朝(宮)方として戦い敗れる。

戦国時代

戦国時代に入ると、少弐氏の家臣となったが、少弐氏が大内義隆と争って敗れたため、大内氏の家臣となる。1551年に義隆が家臣の陶晴賢に殺された後は、豊後の大友氏の家臣となった。

しかし1557年、大内氏を滅ぼした毛利氏の勢力が北九州にまで進出してくると、当時の秋月氏の当主・秋月文種は大友氏から離反して毛利氏と手を結び、このため同年7月、文種は大友軍の猛攻に遭って討ち死にし、秋月氏は一時、滅亡してしまった。


豊臣時代

しかし文種の次男・秋月種実は毛利氏のもとに落ち延びて、やがて大友氏の衰退とともに再興を果たした。さらに島津義久と手を結んで大友氏に対して反抗し、一時期は筑前に六郡、筑後に四郡、豊前に一郡と推定36万石にも及ぶという広大な所領を築き上げ、秋月氏の最盛期を現出する。


1587年、豊臣秀吉の九州征伐では島津氏に属して豊臣勢に抵抗したが、もとより豊臣秀吉の敵ではなく、種実は名器・『楢柴肩衝』を献上することで降伏は許されたが、日向国高鍋に移封された。”

CPL‏ @meets_tak 2014年12月26日

大本もエスペラント。
国柱会(宮沢賢治)もエスペラント。
1件の返信 22件のリツイート 8 いいね
CPL‏ @meets_tak 2014年12月26日

@meets_tak
新渡戸稲造もエスペラント。
1件の返信 19件のリツイート 0 いいね
CPL‏ @meets_tak 2014年12月26日

@meets_tak
新渡戸稲造はクエーカーだったっけか。
1件の返信 22件のリツイート 3 いいね
CPL‏ @meets_tak 2014年12月26日

@meets_tak
で郷土会で、新渡戸稲造、柳田國男、牧口常三郎。
1件の返信 21件のリツイート 0 いいね
CPL‏ @meets_tak 2014年12月26日

@meets_tak
創価学会の前身、創価教育学支援会のメンバー。創価大学のページより。
http://libir.soka.ac.jp/dspace/bitstream/10911/802/1/KJ00005454527.pdf …
2件の返信 42件のリツイート 9 いいね
CPL‏ @meets_tak 2014年12月26日

@meets_tak
引用

政友会総裁 犬養毅
関東庁長官 太田政弘
法学博士・農学博士 新渡戸稲造
前逓信事務次官 古島一雄
前内閣書記官長 ・政友会総務 鳩山一郎
逓信政務次官 中野正剛
前法制局長官・政友会総務 前田米蔵
民政党総務 古屋慶隆

#創価教育学支援会

前文部参与官 安藤正純
前東京市助役 前田多門
大審院判事 三宅正太郎
前貴族院書記官長 柳田國男
衆議院議員 牧野良三
司法大臣 渡辺千冬
前文部大臣・法学博士 水野錬太郎
政友会総務 松野鶴平
男爵 中川良長
貴族院議員 山内一次
#創価教育学支援会

三菱総理事・太平生命取締役 江口定条
前内閣政務次官 ・政友会総務 秋田清
前文部商工大臣 中橋徳五郎
商工大臣 俵孫一
子爵 八条隆正
帝国大学教授 ・医学博士 高木逸磨
工学博士 田中龍夫
改造社長 山本実彦
海軍大将 野間口兼雄
#創価教育学支援会

東京市会議員 岸辺福雄。
この内、田中龍夫と野間口は、白金小学校父兄。
新渡戸、柳田、前田は郷土会員。

以上、引用おわり。
#創価教育学支援会
1件の返信 20件のリツイート 0 いいね
CPL‏ @meets_tak 2014年12月26日

@meets_tak
改めて読んでみると、フリーメイソン鳩山一郎とか玄洋社とつながっていた犬養毅の名前があることに驚く。

これは #開化派 の某 #ネットジャーナリスト 氏が一切触れていない情報でありますっ!(キリッ


STB‏ @RC_StB 2015年6月27日
返信先: @lakudagoyaさん
@lakudagoya 変態保守派の主張がいい加減なのは、道徳観にも現れています 何かにつけて「なぁなぁ」で「適当」な日本人が性に対してはやけに厳しいなんてあり得ませんから。耶蘇教臭いです 江戸時代の笑話や宇治拾遺物語には、性をネタにした、今なら問題になりそうな笑い話も多々ある

ねこた‏ @lakudagoya 2015年6月27日
@RC_StB 神道の家系が性に厳しいというツイートを読んだ事がありましたが、江戸時代に神社で巫女さんが売春やってたのにそれはないだろう?と。平田篤胤の思想にかぶれると、カトリック臭い性観念になるんですね。これってイスラム原理を気取るのに英米にべったりなサウジみたい。。。


ねこた‏ @lakudagoya 2015年6月27日
返信先: @RC_StBさん
@RC_StB 日本が勤勉でなかったという話は、江戸時代末期に日本に訪れた外国人が書いてますね。勤勉にさせられたのは、明治以降の人脈がプロテスタント系に支配されたからでしょう?性欲憎悪があるなら、ちんこを祭る神社があるわけないですね。保守は自分が保守だと名乗る時点で日本的ではない

STB‏ @RC_StB 2015年6月27日
返信先: @lakudagoyaさん
@lakudagoya 明治時代も労働態度はいい加減で勝手に欠勤することもあったそうです 苦役が美徳になるのは、日本特有の手段が目的化しやすい悪癖がこうした流れに必要以上に拍車をかけたとみています 戦前に米国が日本の国内事情を調査したときですら、彼等には奇異に映ったようですからね







ねこた‏ @lakudagoya 2016年4月30日
菊池さんが提唱した「魔法のかわしかた」はどっこいしょ!(六根清浄)だよ。つまり五感から入ってくる情報に気をつけろって事か。 仏教、特に禅宗が神秘体験やイメージなどを排除するにはそこから自由になるためってのもあるのね。 最強なのはFF4のギルバートの「かくれる」コマンドだったのか!

なえなつ‏ @japan19890108 3月29日
ようはねこたさんや菊池さんやねこたさんのような方の知恵を借りなくてもネット上の知識だけでキリスト教が日本の象徴の側にいるそれがどれだけやばいか分かるのよ、なのに誰も触れようともしないこの無責任さに怒りが沸きますよ。 まあ象徴に一番近いのがやそなんだから
やそ>仏教、神道と分かるよね






野原燐‏ @noharra 3月12日
.@noharra 偽書とは何か、と問うと正典(カノン)でないもの、ということになるか。
日本では日本書紀、次いで宣長によって古事記がカノンになった。古事記も14世紀以降の写本しかなく偽書説はある。
神道五部書、13世紀末に度会行忠らが作成、は偽書か。
1件の返信 2件のリツイート 1 いいね
たかやましんいち‏ @shinichi_taka 2月25日
渡邉「現存する最古の日本書紀の写本は「佐佐木本」や「田中本」と呼ばれる9世紀に書かれたもの。古事記より伝存数が多い。写本には「古本系統」と「卜部系統」がある。1599年に最初の印刷本が発行された。神話は巻一巻二が中心でこの巻は「神代巻」と呼ばれる。出雲神話については記載がない。」

石部統久さんと他1人さんがフォロー
OokuboTact(中二病)‏ @OokuboTact 1月5日
『古事記』で一番古い写本は室町時代らしい。『日本書紀』と比べるとかなり新しい時代に作られた写本しか残っていないということになる

2位‏ @saitounii 18 時間18 時間前
これ海外の刑事ドラマでも事件の証拠のスマホが水没したけどSIMカード?を米粒に埋めて復活させてたな。
捜査官が海外のスーパーで買ってきたのかなって想像してちょっと笑った

我が国最初の歴史書『古事記』は偽書か?
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-6/2012_06_28.htm
” 『古事記』は、なにかと話題の多い歴史書である。『古事記』の「序」によれば、天武天皇は帝紀(帝皇日継)と本辞(先代旧事)の削偽定実(偽りを削除し事実を定める)を痛感され、当時28歳だった舎人の稗田阿礼に削偽定実した帝紀と本辞を誦み習わせた。ところが、朱鳥元年(686)に天武天皇が崩御し、その修史事業が中断してしまった。

太安萬侶の墓
■ そのことを惜しんだ元明天皇は、和銅4年(711)9月に、太安萬侶に命じて稗田阿礼が誦習していた帝紀と本辞を書き記し編纂させた。翌和銅5年(712)正月28日、安萬侶は上・中・下の3巻にまとめて完成した『古事記』を元明天皇に献上したという。だが、天皇の勅命で実施された史書編纂作業だったにもかかわらず、奈良時代の正史『続日本紀』には一言も触れられていない。

■ そればかりか、南北朝時代の1371年から72年にかけて真福寺(宝生院の前身)の第二世信瑜の命で、秘蔵されていた『古事記』を僧・賢瑜に書写させた真福寺本古事記三帖が発見されるまで、『古事記』の存在そのものが一般には知られていなかったようだ

本居宣長44歳の自画像
本居宣長44歳の自画像
■ 今でこそ、日本神話の原点と言えば誰もが『古事記』の名をあげるだろうが、それは江戸時代の国学者・本居宣長の功績によるものだ。宣長が『古事記伝』に着手したのが明和元年(1764)、全巻を完成したのが寛政10年(1798)、実に34年をかけた労作である。それまでは、日本神話と言えば『日本書紀』に記されたものを指した。奈良時代、平安時代の古文献にも『古事記』の存在を証明するような記述は一切見つかっていないという。そのため、『古事記』が偽書であるとする説は古くからある。

■ 筆者には『古事記』が偽書かどうかを云々する知識も能力もないが、以前からいくつか疑問に感じていることがある。まず、『古事記』も『日本書紀』も、天武10年(681)3月に発せられた天武天皇の史書編纂への強い意志を契機として成立したと伝えられている。しかし、なぜ似たような内容の歴史書を同じ時代に2つも編纂する必要があったのか分からない。

■ 次に、『古事記』の神話では出雲神話が大きなウエイトを占めているが、『日本書紀』ではそのほとんどが割愛されているのは何故か。伝承されてきた帝紀や本辞の内容の削偽定実を史書編纂の目的としため、何かの判断で出雲神話部分を大幅に削除したのだろうか。そうであれば、その判断基準は何だったのか。


■ 一方、『古事記』では神話がすっきりとまとまった物語として記述されている。だが『日本書紀』では、本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めていて、まことに読みづらい。まるで異伝のオンパレードだ。削偽定実とはこうした異伝の中から正しいものを選び出して正史として確定させるはずではなかったのか。『古事記』ではそれがなされているのに、『古事記』より遅れて成立した『日本書紀』では何故か削偽定実がなされていない。中国では、清の時代になるまで本文中に異説を併記した歴史書などないそうだ。

■ 特別展示では、真福寺本古事記3帖のうち南北朝時代の応安4年(1371)に写された中巻が展示されていた。『古事記』撰上から実に659年後に書写されたものだが、現存する写本のなかでは最も古い。この写本は愛知県名古屋市中区大須にある真言宗智山派の別格本山大須観宝生院の所蔵品である。見開きでA4版かそれより幾分小さい古紙にびっしりと書き込まれている。

■ 古事記上巻は三重県の神宮文庫所蔵の春瑜本と大須観宝生院の所蔵の古事記上巻抄も、あわせて展示されていた。前者は室町時代の応永33年(1426)の写本、後者は14世紀の鎌倉時代の写本で、いずれも国の重要文化財である。 ”

魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)‏ @douteimaturi
古事記何て典型的な偽典でしょ
真典であるならば、平安以前から注釈本がある筈で聖書だって古いやつはグノーシス文献でしょ
多分、契沖辺りが平安貴族に頼まれて合作した偽書かその師匠あたりが書いたものだろうね
こういうのは考古学の領域ではなく聖書学の範疇なのだけど、わかってないねえ

よくそう言うと口伝文化だったというけど、じゃあ所謂日本の巫女とかは口伝文化で何故に文字に起こす必要があったのか?
という、話しになるわけで口伝文化が文字に起こされるのは大概文化侵略による圧迫と散逸を避けて文章化されるのだけど、その時代何に文化侵略されたのかという話になる

もし、そういうのであれば物部氏とかが仏教の侵略でとかでと話になるのだけど、そういった痕跡はないし、契沖は物部氏の末裔何かという話になりその文献をどうやって見つけたのかという話しになる
これが伝承と聖典の系譜学であり、これが伴っていない聖典は全部偽典と見なすのが基本です


子子子子子@黒住も金光も天理も世界連邦側‏ @kitsuchitsuchi 2016年4月29日

帝RT引用「『古事記』は長年「偽書説」があり、編纂した太安万侶の実在証拠がなかった。ところが1979年に奈良の此瀬町の茶畑で農家が畑を掘り起こしたところ、太安万侶の墓を発見したことで、古事記偽書説も雲散霧消した。木棺に入った人骨と、墓誌の銘文には「太朝臣安万侶」の文字があった。」

フェイド大帝
ま〜た、これか。なんか発掘したら
都合の良い物が、都合良く出てき
ちゃった系。考古学はホントこういうの
多いんだよな!
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子子子子子@黒住も金光も天理も世界連邦側‏ @kitsuchitsuchi 2016年4月29日

考古学調査って普通のスポン サーが あんま付かないんだぜ? 海外では常識だぜ? だって遺跡掘ったってクソの役にも 立たねーじゃん。企業に取っちゃ。
つまり、宗教団体がスポンサーになる 場合が多いんだぜ? だって、ノアの方舟が実在したかどうか なんて関係者以外どうだっていいだろ?
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子子子子子@黒住も金光も天理も世界連邦側‏ @kitsuchitsuchi 2016年4月29日

大森貝塚で縄文土器初めて見つけた アメ公のモース、APSの会員だったぞ?w
お前ら、モースが貝塚ほじくるまで それまで日本人が一人も縄文土器見つけれ なかったのオカシイと思わなかったのか?w

堀家康弘‏ @kounodanwawoma1 2時間2時間前

堀家康弘さんが水鏡をリツイートしました

「信仰心や国家を利用して肥え太らんとする輩に好都合な神道」と「自然と共にある素朴な神道」の区別があるという主張だが、奇跡まで捏造して家元になった吉田兼倶や聖典の成立年代を偽った伊勢神道など神道の歴史は「肥え太らんとする輩」ばっかりだ

堀家康弘さんが追加
水鏡 @hermitzero
神社本庁等は国家神道のような「信仰心や国家を利用して肥え太らんとする輩に好都合な神道」と「自然と共にある素朴な神道」を区別せず、前者の排除を後者の排除と混同させて(天皇や戦没者、社会不安や歪んだ自尊心等も利用して)憲法改正を訴えているが、現行憲法を不都合とするのは前者…
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ネズミさん‏ @Nezmi_san 2014年9月12日

ファイストスの円盤と神代文字
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%AD%97 …
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%AD%97 …
まず、「自分の目」で確認w
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ネズミさん‏ @Nezmi_san 2014年9月12日

何故クレタ島の遺物と神代文字が同じかどうかは一目でわかる。まず、クレタには猫の絵だか、神代文字にはない。エジプト由来だろうとは容易だ。
逆に神代文字のルーツは、それが偽造でない限り、黄河文明より前の揚子江文明であり、日本に稲作をもたらした徐福らと関係がある。
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ネズミさん‏ @Nezmi_san 2014年9月12日

文字のルーツと揚子江の源泉はチベットに繋がり、モンゴル語と神代文字は似ており、もちろん漢字にも似ている。
何がルーツか?明らかに漢字は精々500年に日本に来た新しい言葉で、徐福などは漢民族に強いたげられた長江文明の生き残りであり、漢民族でないから漢字は母国語ではない。
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ネズミさん‏ @Nezmi_san 2014年9月12日

日本の支配層には漢字を是とする連中が西暦500年から仕切ったに過ぎない。それ以前は神話とし、明治以降ワケわからん歴史話で、政権を奪ってきた。
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ネズミさん‏ @Nezmi_san 2014年9月12日

文字話はシソーラスな側面があり、意図的改竄があるので、あまり信用ならない。一方、食文化は明らかにルーツを醸し出す。
関西で「何故蕎麦や納豆が食われない」か?
この辺にヒントがある。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~rakusyotei/sawakai59.html
”蕎麦が我が国に登場するのは縄文時代後期の北海道などいくつかの遺跡から出土した蕎麦の花粉としてである。縄文時代の中期より日本列島には寒冷化が始まっており、それによって従来の食べ物が得られなくなっていったことが寒さに強いソバが残っていった理由でないだろうか。蕎麦以外でこの時代から現在まで続いている穀物は少ない。稲作が我が国に持ち込まれるよりも蕎麦の方が早いと考えられるからである。現在、我が国に残っている稲作以前の古代の穀物はせいぜい粟(アワ)や稗(ヒエ)くらいであろう。しかし、もはや粟や稗を店頭で購入することは難しい。こうしてみると今も日常の食品として古代穀物が残っているのは蕎麦だけであろう。当然ながら古代の飛鳥時代、奈良時代にも蕎麦は食べられていたはずである。ところがこれらの時代の書物である古事記、日本書紀、万葉集には蕎麦のことが出てこない。「古事記」にはオオゲツヒメが蚕、稲、粟、アズキ、麦、大豆を生んだ、と書かれている。つまりこれら弥生時代と想定される神代の時代に稲や大豆などが我が国へ持ち込まれたことを意味しているのだが、蕎麦についてはどこにも書かれていない。何故だろうか、この頃には皆が蕎麦を知らなかったのか? いえいえ、飛鳥時代に天皇から救荒作物として蕎麦の栽培を奨励するようにとの勅諭が発せられていることからも、古事記が書かれたこの当時にはすでに広く民衆に知れ渡っていたと考えられる。さらに、それに先立つ古代朝鮮半島の百済から軍事援助を頼まれて赴いた白村江の戦の時の倭国の跡地からも大量の炭化した蕎麦が見つかっているのである。

明らかに当時の倭国の一部にはすでに栽培されていたと考えられる蕎麦が何故、歴史書や和歌などの表舞台に表れてこないのだろうか。
当時の他の穀物である粟や稗と比較して蕎麦はどのように見られていたのだろうか、私には大きな疑惑が湧いてくるのを感じる。山内義治氏によると、ソバはそもそも日本には自生していない植物であり大陸かどこかから人の手で運ばれてきた作物であるという。また、安達巌氏の「たべもの伝来史」によるとソバは縄文時代晩期に中央アジアからもたらされた、とされている。ソバは縄文時代晩期には北海道から九州にいたる日本海側の遺跡から多く見られ、ほぼ同時代のものと見られるものが発見されている。すなわち北海道では美々遺跡や御殿山遺跡など北海道の南西部に限られて見られ、本土ではソバ花粉のほとんどが日本海側の遺跡に片寄っている。安田喜憲氏によれば、縄文時代後期にソバが我が国の日本海側の各地に持ち込まれたと思われるが、それらが同じ時代のものであり、しかも広範囲であることから、かなり多くの人の流入が想定される、としている。

ちょうどこの時期は、中国では周、戦国時代から秦の始皇帝による統一国家へと王朝が切り替わっていった時期であり、このときに中国の中原といわれる周辺の東側に住んでいた民族が穀物を持って海に逃れたのではないかとも想像できる。そこで思い当ることがある。BC200頃に秦の始皇帝に不老不死の薬草を採りに行くと言って数千人の若者たちと穀物の種などを持って日本(蓬莱山)に向かって船出した徐福の話が中国の歴史書に残っている。それはちょうど日本では弥生時代中、後期に当るがこの話の、我が国での続きがない。また、弥生時代に続く古墳時代には、古墳から騎馬民族の土偶や壁画が沢山出土していることから江上波夫氏は騎馬民族が我が国に渡ってきたのではないか、との説をとなえている。いずれにしても彼らは蕎麦と共に育った寒冷地の民族である。彼らが倭国に渡ってきたとすると当然それまで身近に食べていた蕎麦を食糧に選んだことだろう。中国の遺跡発掘によって当時の中国の人たちの農作物の様子が分かっている。それは、一般的な傾向として中国北部からは粟、麦、黍、蕎麦、高粱などが出土しており、南部地方からは稲、粟、黍などの穀物のほか、瓜類、梅、棗など果実の出土が目立っている。このことからも中国北部に住んでいた民族は蕎麦を常食にしていた人たちである。食糧確保に腐心していた我が国の神代と言われる時代の人たちにとって、先進的な農業技術を持った若者たちが集団で渡来してきたとなると、どこかで我が国の食べ物に影響を与えていないわけがない。これ以上は想像をたくましくするするしかない。

私はふと、出雲族ってなんだったのか、気になってきた。出雲の地に集団で生活していた民族が「古事記」に書かれているように大和政権に国譲りをした後、和歌山や四国など全国に多くが散って行ったが、この民族とはどんな人たちであったのか、渡来した徐福の集団などとは関係ないのであろうか。なにか引っかかるものがあるが、私にはそれ以上の想像を膨らませるだけの情報を持ち合わせていない。

わが国ではソバの花粉は前述した通り縄文時代の初期から北海道や東北の遺跡から見られており、かなり前から栽培されていた可能性がある。縄文後期には福岡県板付遺跡から、弥生時代に入ると佐賀県菜畑遺跡や島根県タテチョウ遺跡からもソバの花粉が見られている。縄文時代の遺跡に見られる蕎麦は普通種であり、現在我々が食べている蕎麦なのである。高天原の時代から遙かに下って「続日本記」には、元正天皇が養老6年(722)7月19日に「宜しく天下の国司に令して、百姓に勧課して晩禾、蕎麦及び大小麦を植え蔵置して以て年荒に備えしむべし」と勅諭を出しているからである。この勅諭は古事記や日本書紀が完成した直後に出されている。つまりこれは天皇が勅諭として緊急対策にソバを栽培するように奨励しているのであり、天皇も農民も蕎麦について広く知られていたと考えられるにもかかわらず国の歴史書にはソバは全く登場してこないのである。


私は、縄文時代の後期から弥生時代前半にかけて、日本海側に住んでいた蕎麦を常食としていた民族と、古事記でいう高天原など神代の舞台に住む民族との間の交流がなかったのではないかと想像している。高天原民族は稲作を食の基本とし、米と大豆の食文化を展開して行ったと想像している。高天原の流れを受け継いだ大和朝廷が全国を支配することにより米と大豆が表の食べ物となり、その後の日本は米本位経済社会へと大きく舵を切ることになる。一方、蕎麦は日蔭のたべもの、救荒作物として位置付けられ、国の歴史書にもほとんど登場しないまま細々と山間の畑で受けつながれてきたのではないだろうか。だから我が国では縄文時代から食べ続けられながら「そば」についての記述がなかったのではないだろうか。

これに似た話として納豆の話を紹介しよう。我が国へは昔、2つの系列の納豆が持ち込まれている。
一つは平安時代の初め頃の帰化僧や遣唐使が中国、黄河の北の文化として持ってきた麹菌で発酵した納豆である。当時の大和朝廷はこの納豆を「豆醤」として大宝律令で保護した。そしてこれらの納豆は京都を中心に広く関西に広がっていたが、今では「大徳寺納豆」や「浄福寺納豆」としてわずかに残っているだけである。
一方、それよりも古い時代に南方漁労民によって東南アジアから渡ってきた「糸引き納豆」が各地に広がっていた。しかし、これら糸引き納豆は大和朝廷が推し進める「寺納豆」に押さえ込まれ、京都周辺では普及することが出来なかった。それから千年以上たった現在も、関西の「糸引き納豆」の消費量は他の地域に較べて依然として少ない。食べ物の習慣は根強く長年にわたって影響するものである。


我々が今知ることが出来る蕎麦食の痕跡は、縄文時代の遺跡からの出土の次は663年の白村江の戦いで敗戦した廃墟からの炭化した蕎麦であり、その次は元正天皇の勅諭まで飛んでしまう。さらにその次となると元正天皇の勅諭から850年後の木曾の定勝寺改修記録に現われるまで表面に出てきていないのである。そばが我が国の食の表舞台に登場するのはなんと江戸時代半ばになってからである。そしてこの長い日本の歴史は米中心の食文化一色に塗りつぶされてしまっていたのだ。

長い間救荒作物として日陰者扱いされていた蕎麦が、どのように江戸っ子の食べ物へと替わって行ったのか、その変遷の過程については岩崎信也氏の「江戸っ子はなぜ蕎麦なのか」(光文社新書)に詳しいので興味のある方は一読をお奨めしたい。

古事記は天武天皇によって「天皇は遙か神代の時代から繋がっている一本の道」であることが示された歴史書である。そしてこの天皇制は他の者に取って代わることの出来ない大原則であるとして律令制度の基本としたのである。だから古事記に登場する食べ物も彼らが常食としていたものだけしか書かれなかったのかも知れない。こうして片隅に追いやられていた日蔭の食べ物が表舞台に立つのが江戸時代半ばであり、米本位制社会が確立した後からであった。しかし、明治政府が文明開化を旗印に欧風化を富国強兵の手段に選んだことにより江戸文化は古い、捨て去られなければならない文化とみなされ、蕎麦文化も同じ運命を辿ることになったのであろう。”

納豆は中国の北の文化で、蕎麦や仲間の植物である麦も北の出である。関東で蕎麦屋が何故人気か?関西はなぜうどん屋か?だ。

正確には中国北部だけが、納豆ではない。麦わらか稲わらか?麦なら北の、稲わらなら南の。

”国宝 にほんしょき かんだい10ざんかん 日本書紀 巻第十残巻

1巻
紙本 墨書 巻子
縦28.0 長566.0(候補表紙等を含む)
書跡
平安時代 9世紀
神代から持統天皇の時代までの出来事を編年体(へんねんたい)で記す『日本書紀』は、中国で歴代王朝ごとに作成されていた正史(せいし)にならい、わが国で最初に編纂された国史である。その編纂の端緒は天武天皇の時代(在位六七二~六八六)にあり、約四十年にわたって断続的に続けられた後、最終的には舎人親王(とねりしんのう)等を中心にまとめ上げられ、元正天皇の養老四年(七二〇)五月に完成し、「紀三十巻」と「系図一巻」が奏上された(「系図一巻」は現存しない)。本品は、三十巻のうち巻第十の応神天皇紀の部分で、首尾各一紙を欠くものの九紙が残り、応神天皇二年から四十一年までの記事がある。その中には、王仁(わに)(『古事記』では「和迩吉師(わにきし)」と表記)の百済(くだら)からの来日に関わる記事も含まれる。『日本書紀』は完成当初から歴史書として重視され、平安時代にはしばしば講義(日本紀講筵(にほんぎこうえん))が実施された。そのため平安時代に遡る古写本も少なからず現存するが、本品が最古の写本であり、四天王寺(大阪市蔵)の『日本書紀』巻第一断簡(二葉)等と僚巻になる。なお、本品の紙背は『性霊集(しょうりょうしゅう)』の平安時代後期の写本で、序の途中から巻第二の途中までを収める。

古事記の歩んできた道―古事記撰録一三〇〇年―, 2012, p.8 (一部改変) ”
http://www.narahaku.go.jp/collection/1190-0.html

"日本紀講筵
にほんぎこうえん
平安時代前期に朝廷で行われた『日本書紀』の講読。『書紀』の講読は養老5 (721) 年以来行われたが,平安時代になってからは,弘仁3 (812) 年,承和6 (839) 年,元慶2 (878) 年,延喜4 (904) 年,承平6 (936) 年,康保2 (965) 年などに行われた。講筵には宣旨によって博士らが定められ,大臣以下列座のもとに行われる。講読が終ると,竟宴 (きょうえん) があり,『書紀』に登場する人物などを題として和歌を詠じた。これを日本紀竟宴和歌という。

にほんぎこうえん【日本紀講筵】
主として平安時代前期に,数回にわたり宮廷で公式の行事として行われた《日本書紀》の講読・研究の会。《釈日本紀》開題に引く〈康保二年外記勘申〉によれば,養老5年(721),弘仁3‐4年(812‐813),承和10‐11年(843‐844),元慶2‐5年(878‐881),延喜4‐6年(904‐906),承平6‐天慶6年(936‐943),および康保2年(965)以後に行われたが,そのうち養老度は完成した《書紀》の披露のためとみられ,弘仁以後が講究を主とするもので,元慶度に至って形式・内容ともにほぼ完成の域に達し,承平度から熱意が薄れて衰退に向かった。
"https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80%E8%AC%9B%E7%AD%B5-110114


”宣長が校合に使用した『古事記』の中に、真福寺本(シンプクジボン)と言う本がある。『古事記』の中で現在一番古い写本だ。
 校合作業が終わったのは、天明7年(1787)4月14日。
 さて、真福寺本『古事記』への宣長の評価はいかが。 『古事記伝』版本・巻1に

「其後又、尾張国名児屋なる真福寺といふ寺【俗(ヨ)に大洲の観音といふ、】に、昔より伝へ蔵(ア)る本を写せるを見るに、こは余(ホカ)の本どもとは異(コト)なる、めづらしき事もをりをりあるを、字の脱(オチ)たる誤れるなどは、殊にしげくぞある、かゝればなほ今ノ世には、誤なき古(ヘノ)本は、在(アリ)がたきなりけり、されど右の本どもも、これかれ得失(ヨキアシキ)ことは互(タガヒ)に有(リ)て、見合ハ すれば、益(タスケ)となること多し」

 他の本と違う注目すべき点もあるが、字の脱落や誤写も多い。これを考えると、昔の本で誤りがないと言うことは求める方が無理なのだなあ、だけどいくつかの本を校合すると、誤っている箇所などを探したりする上で役に立つことが多い、と書かれている。

 でもよかったね。出版に間に合った。天明7年と言えば、『古事記伝』出版に向けて本格的に動き出した頃だ。巻1の諸本の所にこの本が出ていないと、後世の人は、「なんだ、真福寺本も見てないの」っていうからね。 ”
http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/shinpukujibon.html
真福寺本『古事記』 - 本居宣長記念館

現存する『古事記』の写本で最古のものは、「伊勢本系統」の南朝:建徳2年/北朝:応安4年(1371年)から翌、南朝:文中元年/北朝:応安5年(1372年)にかけて真福寺の僧・賢瑜によって写された真福寺本古事記三帖(国宝)。

誰が真福寺本『古事記』を持ってきたのか?
http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/darega.html
”宣長は、この『古事記』を、どうやって見たのだろう。

 通説では、真福寺本『古事記』調査の命が、尾張藩から藩士・稲葉通邦に下ったのは寛政9年7月とされている(『尾張名古屋の古代学』・名古屋市立博物館)。
 でも、宣長の証言では、天明6年に「写本」をするように藩命が下ったという。ここに11年の開きがある。
 恐らく、正式な調査命令の前に、事前調査として稲葉通邦あたりが写本を作り、宣長に内容についてコメントしてもらい、その後の藩命による正式調査が行われたと言うことではないだろうか。

 宣長が校合した天明7年、通邦はまだ宣長門ではないが、尾張徳川家の中では重臣・横井千秋などが宣長の『古事記伝』刊行に向けて尽力していた時期であり、通邦もそのことは熟知していたはずだ。あるいは千秋からの働きかけがあったかもしれない。
 
  宣長自身は、提供者について、何も言っていない。


【参考資料】
宣長手沢本『古事記』の奥書に、宣長による次の一文が貼り付けられる。

「右真福寺ハ尾張国愛智郡名古屋城下ニアリ。北野山真福寺宝生院ト号ス。俗ニ大須(オホス)観音ト云。真言宗也。往古在美濃国中島郡大栖ノ庄北野村ニアリシトゾ。サテ此寺ニ五百年前ノ写本ノ蔵書多シ。コレ根来ノ蔵書ヲ写セル也ト云伝フ。又、北畠氏ニ所以アリテ、伊勢神宮ノ蔵書ヲモ多ク写シ取テ蔵ス。古事記モ其内也トゾ。天明六年丙午年尾張殿ノ命ニテ右蔵書ヲ写セラルヽトキ、写手ノ人別ニ私ニ写シ取レルトコロノ本ヲ、此度借リ寄セテ全部校合スルモノ也。天明七年丁未四月十四日校合終業。本居宣長(花押)」”


堺本『枕草子』のすすめ
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/intro_makura_intro.html


魔法おっさん(30代無職童貞)‏ @douteimaturi 2016年10月27日
で、えぐい事を言えば神話とかなんて偽書を作ってしまって組立ちまえばいいんです
例えば、当時の日本には文字があったなんて言いたいのであればホツマツタエみたいな粗製品ではなく、古代揚子江や長江で発掘されている文字にアルメニアあたりの文字を拾い上げて当時の音声表記すればいいのです

んで、紙とかも当時位に工業的に劣化させて地面に埋め埋めしたものに大切なのは時代時代によって解釈されたような解釈本をちゃんと用意すること 奈良後期、平安時代、鎌倉時代、室町等々ちゃんと歴史考証加えられているように捏造しなきゃいけません




ねこた‏ @lakudagoya 10時間10時間前
なんか最底辺のマイノリティが欧米によって特権階級にさせられると、何でこいつらは身分というものはマウンティングするものだと勘違いして自分だけ贅沢をするのか。 特権階級というものは一般人をマウンティングするものでなくて、世話をするものなのにこんな簡単な帝王学でさえ教えない欧米。
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• • ねこた‏ @lakudagoya 10時間10時間前
あのさ、成り上がりでもさ、ちゃんと為政者の仕事をしろよ。 為政者としての仕事をしないから批判したら、マイノリティであるが故に差別されたとほざくしさ。 たとえ成り上がりでもさ、ちゃんと為政者としての仕事をすればみんな評価するんだよ?そこわからないかなー?
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• • ねこた‏ @lakudagoya 10時間10時間前
サンカがさ、特権階級ぶってるのはさ、欧米がバックにいるからだろ? そいつらの権威は欧米という後ろ盾がないとダメなんでそ? そいつらがいくら特権階級ぶっても欧米に依存してる限り、自分で何かやることができない。 日本人への復讐以上の事はできないわけよ。
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• • ねこた‏ @lakudagoya 10時間10時間前
古い家柄ほど、贅沢するのはダメとか、自慢するのは恥ずかしいとか、「恥」の観念があったよ。 欧州貴族のように自慢して見せびらかすなんざ恥ずかしいと思うわけ。 正直、江戸時代の道徳観念からしたら、サンカのやってる事は卑劣で本当に卑しいと思うわけよ。
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• • ねこた‏ @lakudagoya 10時間10時間前
少なくともね、土地の支配者ってものは昔はみんなの面倒見たわけ。 そいつらは貴族ぶってるけど、領民の面倒も見なくて何が貴族だ。 そもそもそんな事を自慢するなんて恥ずかしいという意識があったわけ。 何で武家は解体されてこいつらの魑魅魍魎だけが特権階級になったの?
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• • ねこた‏ @lakudagoya 10時間10時間前
こういうヤソ臭いマイノリティがクズなのは、今の特権階級と同じように「自分だけ」なんだよね。 同じ日本人が食うや食わずで苦しんでるのに、自分だけスイスに逃げるわけ。 こういう卑怯でワガママなのをマイノリティに増長させる。 その選民思想だって欧米から植え付けられたものでね?
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• • ねこた‏ @lakudagoya 10時間10時間前
返信先: @japan19890108さん
いや、そもそもモーセがいたという事実から疑わないといけないし、旧約聖書の成立は学会では恐らく紀元前3、4世紀頃ですよ? バアル信仰も何も、聖書の成立から疑わないと。 おいらは旧約聖書はもっとあとだと思ってます。
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• • ねこた‏ @lakudagoya 10時間10時間前
その本物の日本人(笑)は戦時中にスイスに逃げ出して大本様と呼ばれてるらしー。 へーこいつら、戦時中に食うや食わずの同胞を見捨てて欧米の犬になった裏切り者なんだねー で、ロクアカに出てた裏切り者の長州忍者のように欧米で貴族ぶってるんだろうなぁ。
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• • ねこた‏ @lakudagoya 10時間10時間前
てか、サンカがネストリウス派のキリスト教徒とか言うなら、なぜ教会も司祭もいないのに教義を保存できるのか? 仏教と区別できるのか? 隠れキリシタンだって仏教と習合して変なのになってるのにさ。 隠れキリシタンは神父がいなくなって300年近くだけどそれより長いでそ?
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• • ねこた‏ @lakudagoya 10時間10時間前
サンカだってさ、被害者意識と選民思想あってなんかこうヤソ臭いんだよね。 で、ネストリウス派の末裔ニダ!普通の日本人と違うニダ!って選民思想丸出しなんだろうか? でもあのフィールドワークのやつはあまりヤソ臭さを感じなかったけど、一部にはヤソ憑依してんだろーな。
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• • ねこた‏ @lakudagoya 10時間10時間前
返信先: @denjihahigaiさん、@japan19890108さん
あの、それ嘘ですから。 ヴァイスハウプトはイエズス会をdisる同人誌を出してましたし、オカルト野郎みたいなサバタイ派を好むわけありませんよ? それにカバラやタルムードにしてもサバタイ派の特権でないでしょう? サバタイ派のカバラはかなり異色ではありませんか?

• • 夢の回転ユキダマ‏ @8_snowball 5月15日
ラノベとなろうってキリスト教思想入りすぎでは
逸脱するにしても「キリスト教からの逸脱」でしかなく、その枠組みを離れて別の価値を打ち立てているわけじゃない。西欧化といえばそれまでだけど、現代日本はラノベ世界みたいにきれいな「西洋近代社会」じゃないでしょ
ヒロインの属性としてシスターは良しとしよう。でも見た目だけ神道の巫女で中身がシスターなのってどうよ。神道のエロさ0じゃん。それキリスト教のエロさやん

ふつう人間は自分の経験の範囲内でモノを考えるし、未知の事柄はすでに知っていることに置き換えてみて判断する。逆に言えば、その置き換えのやり方を見てやれば、バックグラウンドとなる基盤を推測することができる。

RawlifeTruelife‏ @coco_love7 2014年7月11日
江戸時代は国が公認していた遊郭歴史をさか上ると巫女さんが遊女の始まり。神社で巫女として神に仕えながら神殿娼婦でした。殿方は結婚する前にちゃんとSEX指導をされていました。現代には夫婦円満に大切なSEX指導つまり女性の扱い方を教えてくれるところがないため女性扱い方が下手な男性が多い

黒Ver.リリルカ・アーデ‏ @kurosisyo 2014年7月12日
返信先: @raylily1010さん
@raylily1010 まぁね…… 後は遊女のWikiによると 売春婦は俗に世界最古の職業と言われるが、 日本の遊女も古くから存在していた。諸外国の神殿娼婦と同様、日本の遊女もかつては神社で巫女として神に仕えながら歌や踊りを行っていた とかからかな?
昔は、跡継ぎがいないということは、働けなくなれば、土地を取り上げられることを意味し、跡取りです必須。そこで、解決策として神社の神主の子種を頂いたり、巫女さんに子供を生んでもらったりする。

妻良木 美笠@さくら書院‏ @tsumaragi 2016年1月1日
※巫女のアドバイス 「非処女で巫女するのダメじゃないの?」っていう処女厨はキリスト教の影響だから右翼やめてどうぞ。

さば‏ @saba0274 2016年2月1日
正月のバイト巫女さんに(どうせ処女じゃないんだろ)的な事をネットで言ってるのを見たことがあるけど、なぜ神社の巫女さんが処女である必要があると思ったのか。キリスト教的価値観に犯されているのではないか。気になる。

あきかえで(シャモアリス)ニセ植物‏ @Inebaka 2015年4月6日
あと、神仏混淆のせいで神社は性的なものはダメって思う人が多いと思うけど、古代日本人は性を神聖なものとみなしてたので、問題ない。お金がない神社とかだと、巫女さんは身体張ってたくらいだし。 巫女は処女でなきゃダメってのは、キリスト教のシスターが同じ位置にいたから付けられたのだろう。

高村武義‏ @tk_takamura 2015年12月1日
返信先: @motoyaKITOさん
@motoyaKITO あくまでwikiソースですが、巫女の処女性重視は近代以前の武家社会における志向(家督の正統継承)と、明治維新以後、キリスト教由来の貞操観念が普及したことに起因するらしいです。戦国時代以前の巫女さんは祈祷と占いと売春婦を兼ねてましたからね。


夢の回転ユキダマ‏ @8_snowball 5月12日
竹内文書と言い、そろそろ神道系陰謀論の創作物が許される時期が来ている気がする。
神代文字使えばパラレルワールドの日本感でると思う


夢の回転ユキダマ‏ @8_snowball 5月8日
キリスト教の神官は軍人にエンチャントかけてくれてんのに、自衛隊には従軍司祭いないんだよな。従軍神主でも従軍巫女でもいればファンタジーチックになるんだけどなー。
靖国の神官でも同行させて現地でff10の異界送りみたいなことした方がいいと思うんだけどなー

神道がエコロジー宗教になったのって宮崎駿とかいう宣教師のせいじゃん
最近エコロジーっぽさが薄れてきたのも宮崎の元気がなくなったからか 現人神かよ

イスラム教徒は人類が銀河を脱出しても繁栄してるだろうから、ぶっちゃけこれ以上可塑性高くて優秀なシステムは思いつかないや。3流のSF社会ぐらいじゃ、ムスリムからコーランを手放させることなんかできやしない

さすが多摩湖♡ナルコレプシー‏ @tamako_han 2015年5月21日
「夜這いの民俗学」を読んで、本当にそうなのかなー?そんなにみんながみんな性を楽しんでいたんかなー?と思うのは私が女だからかも知れない。だってこの本にはそういう夜這いが嫌だった人の体験談は出てこないし、嫌だった人は語らないだろうしね。楽しかった人だけが語ってるんじゃないかな。
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• • ピルとのつきあい方(公式)‏ @ruriko_pillton 2015年5月21日
@tamako_han 未開社会では思春期になると男女とも家を出て、男女別々に共同生活を始める習俗が広く認められます。日本にも遠い昔には、そのような習俗が広く存在していたと考えられます。
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• • ピルとのつきあい方(公式)‏ @ruriko_pillton 2015年5月21日
@tamako_han 日本の民俗学は、後代まで残った若衆宿(男)娘宿(女)について記録しました。ずいぶん昔に読んだ本なので詳しくは記憶していませんが、後代にのこった若者宿のほとんどは僻地でした。若衆宿が農村の階層分化とともに消えたのではないかとの感想を持ちました。
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• • ピルとのつきあい方(公式)‏ @ruriko_pillton 2015年5月21日
@tamako_han 若衆宿・娘宿が消えてから、夜這いは少しずつ意味を変えていったのではないでしょうか。意味の変わった後の夜這いについて書かれている本ではないかなと。(読んでいませんが)
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• • さすが多摩湖♡ナルコレプシー‏ @tamako_han 2015年5月21日
@ruriko_pillton 若衆宿、娘宿があって、ということは書いてありました。若衆宿での手ほどきの話や筆下ろしのことなども書かれていたり、人妻に下ろして貰ったりとかが書かれていて、お前俺のかーちゃんとやったんだって?とかそんな話が主になっていました。
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• • ピルとのつきあい方(公式)‏ @ruriko_pillton 2015年5月21日
@tamako_han 夜這いの話に人妻の話を持ってくるのが一般的と言えるかどうかは置いておいて。近年の研究から受ける印象は、町家でも農村でも性はかなりおおらかだったようですよ。
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• • さすが多摩湖♡ナルコレプシー‏ @tamako_han 2015年5月22日
@ruriko_pillton 昨日はそのまま寝てしまいました。私の神道観からしても日本はとても性におおらかだったと思いますし(生臭いともいいますが)、例えば巫女の処女性云々や定年というのは明治以降の国家神道からだと考えていて、売春婦が醜業になったのも近代からかな、と。
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• • ピルとのつきあい方(公式)‏ @ruriko_pillton 2015年5月22日
@tamako_han 処女性の尊重は結構遅いんじゃないかな。明治の中期?欧米起源で、神道はどうでしょうか。

さすが多摩湖♡ナルコレプシー‏ @tamako_han 2015年5月22日
返信先: @ruriko_pilltonさん
@ruriko_pillton 巫女さんが神社に定住するようになったのが明治なので、やはり西欧のキリスト教の純潔が取り入れられたのかなぁと。古事記なんかは処女性は問題にしてないですし、この辺りも私の興味を掻き立てています。でも女性が大らかに性を求めていた時代があるのは素敵です。

kashmir108‏ @kashmir108 2014年5月31日
あれ、昔wikipediaの巫女の項目に「巫女は処女でなければなれないという噂が流布しているが、巫女に処女性を求めるのは西洋の価値観(キリスト教からくる)であり、日本において基本的にはそのようなことはない」って書いてあったのに今消えてる。


藤原興‏ @oki_fujiwara 2014年9月7日
牧口常三郎は民俗学が民俗学の体裁をまだ持ってない時期の民俗学者でもあり、柳田國男とも親交が深い。創価教育学会は、本当に学会だったわけだ。

はなしあわない‏ @hanashiawanai 2013年11月29日
(引用)1930年11月18日、『創価教育学体系』第1巻を刊行する。尚、この日を創価教育学会設立の日としている。1931年、教職を辞し、宗教・教育活動に専念する。同年に出版した『創価教育学体系』第2巻(『価値論』)には、新渡戸稲造や柳田國男が牧口の唱えた「創価教育学」を評価した。

菊池‏ @kikuchi_8 5月14日
返信先: @kikuchi_8さん
戦国時代から江戸初期にかけてキリシタンによって破壊された長崎の仏寺の復興を志した道智という僧侶がいた。道智は果敢にもキリシタンの教会に論争を挑んだ。その後キリシタンによる報復で寺を焼かれた。論破された腹いせだろう。姉崎正治が作ったキリシタン被害者史観ではこういう史実は無視される。
1件の返信 22件のリツイート 15 いいね
• 菊池‏ @kikuchi_8 5月14日
キリシタンは論争で負けると実力で報復するという暴力性を持っていた。こういう史実もきちんと公平に取り扱うべきだろう。キリシタン被害者史観は偏っている。我が国も取り入れた因明という印度の論理学は元々討論術から発達したものなので論争の勝敗を決めるルールが確立しており暴力など論外だった。

山窩ラボ‏@jackiemito7月23日
「夜這い」や「非常民」の研究で有名な民俗学者・赤松啓介が、著書「非常民の民俗境界」にて、サンカについて大変恐ろしい記述を残しています…! 以下、引用します。
「サンカも殆ど姿を消してしまい、常民のなかへトケコミしたようだが、地下の組織は生きているだろう……ウラの世界にはウラのオキテがある。仲間になって生涯を埋めるならよいが、よいところで足を洗ってあっといわせるような論文を書いて、博士、教授になる、などと夢を見るのはやめておくがよい。続
続 「絶対に死体が上がらない海もあるし、あまり人の行かぬ林の中に白骨が横になり、木の枝に縄がゆれているという風景もある。地下活動の経験があれば、これから奥は通行禁止だとわかった。この禁を冒さない限り、われわれの友好は保たれる。それで十分であり、それ以上のことを知る必要はない」


1135夜『非常民の性民俗』赤松啓介|松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/1135.html
”あの人はどういうスジの人かね、という言い方がある。筋金入りとかスジ者という言い方もある。大半の学問はこんなスジを追わない。
 明治の日本が富国強兵と殖産興業にあけくれていた時期、日本の村落社会は最悪の時期を通過しつつあった。赤松啓介はその食い散らかされた残骸列島になお息吹いている「常民」ならぬ「非常民」の動向を追って、調査研究活動と社会運動の大半を東播地域に向けた。兵庫県の旧播磨の東部の加古川流域である。そこが赤松の故郷であって、非常民の原郷だったのだ。
 柳田國男は「常民」を民俗学の対象にした。その柳田の目が届かなかったか、あえて軽視した日本がある。それが非常民の日本である。そこにはさまざまのスジが交差していた。赤松がそのような非常民の日本を重視するのは、「常」には「貴」も「賎」も含まれないのだから、そこに「非常」がなさすぎるというのだ。もし常民が非常を含むなら、あえて常民といわずに「平民」でよかったのだ。
 こうして喜田貞吉や中山太郎によって掘削が開始された非常民の民俗と文化が赤松の手と足によってしだいに浮かび上がってきた。スジの日々である。本書はそれをさらに性風俗に踏みこんで語り尽くしていったもので、読んでいてこんなに痛快な民俗学があったかというほど、堪能させられた。スジを理解しないと何もわからない。しかし、すこぶる納得のできる本なのである。

現在の加古川流域地方

 世の中にはいろいろな呼称がある。「こちら」から見るか「むこう」から名付けるかで呼称は異なり、「あいだ」で呼び名をまぜると、また別の呼称が生まれる。
 部落から見れば大半の常民はハクやシロである。ちょっと思想に染まっていればアカスジに、どこか犯罪の匂いがすればケガレスジ、ヨゴレスジになる。近代社会では難病に苦しむ者も容赦なく呼び捨てられた。ロウガイスジ、キチガイスジ、カッタイスジ。農村社会では本家や分家で分けるだけではすまないのである。
 たとえば、本家スジ、庄屋スジ、役スジ、草分けスジ、分家スジ、アルキスジ、被官スジがある。たとえ上流を装っても、見るところから見れば、セケヤ、ホシカヤ、アブラヤ、ハタヤは屋号というより階層の呼称なのである。
 たとえばクズヤであるが、ここにもたいそうな多様性がある。クズ買い、ボロ買い、イロモノ買いはまったく一緒にならないし、クズヤとテンヤとハライヤはまたちがう。家をまわってクズとゴミを分けられない女に出会えば、その女が馬鹿なのである。クズヤが貧乏とも決まらない。儲かることもある。ただ儲けすぎたのはクズヤではなくカネヤなのだ。こういうクズヤがいっときバタヤと呼ばれたこともあった。
 そのようなクズヤの目線で見ると、村の性風俗が学問ではわからないところまで見えてくる。いまではあまり考えられなくなってしまっているが、かつてはセックスだって家の中でやるとはかぎらなかった。アオカンも多かった。しかもちゃんと合意していることのほうが多い。クズヤの目はお宮、お寺、川、池、木立に詳しいから、どこで女とやるかはそれだけで文化地理学なのである。昔は女も腰巻ひとつだから、それをタチ、オタチ、マワリ、セオイのどれでやるかは、その周辺の木立や石組によるわけで、それが会得できればそこからアゲ、スクイ、スダチ、ミンミンなんていう体位が使い分けられた。

 ともかく赤松はどんなことも見逃さない。たんなる縁側、たんなる蒲団、たんなる風呂、たんなる工場というものがない。
 風呂なら、たとえば五右衛門風呂とマワリ風呂では階級意識も性意識も美意識さえちがうのだという。だいたいマワリ風呂ができるというのは、風呂の持ち回りができるということだから、そこにはカイトやクミの同水準ネットワークというものが動いているらしい。それでもそこにはモライブロかフロカリかカリブロかで、ちょっとした差が感じられるようになっている。そのグロッサリーたるや、まるで厳密な同義語異義語辞典なのである。
 何人で入るかでもすべての社会意識が変化する。五右衛門風呂は一人か二人しか入れない。では、その単位のコミュニケーションが五右衛門風呂という社会スキーマなのかというと、そんなことはない。待っている者たちとの関係がある。五右衛門風呂の平均入浴を10分とすれば、10人なら1時間半、15人なら2時間、25人なら4時間かかる。ここからその村落に適切な風呂コミュニティの大きさが決まってくる。しかもソトブロとウチブロでは、主客の重みが断然に変化する。
 そういう風呂に黙って入るわけでもない。キャーキャー言ったりギャーギャー言ったりする。そこで猥談も出て、混浴もおこり、風呂がマラムキ風呂になったり、ムケマラ風呂になったりする。これも突然にそうなるのではなく、ちゃんと準備段階がある。冬ならコタツでいろいろのことが少しずつ暗示されているわけで、夏なら川泳ぎで何かの組み合わせが示唆されているわけだ。そのうえでカリブロかフロカリになる。連れ込み宿やラブホテルへぱぱっと入ってすんすんやるというのとワケがちがうのだ。
…男はいつフンドシを見せるかで、すべてが決まる。フンドシを締めれば若衆だが、そのフンドシも初フンと赤フンと鬱金染めのフンドシではちがう。むろんフンドシばかりですべては決まらないから、帯も言葉をもってくる。ヘコオビ、カクオビはむろんだが、その帯を祝いでもらったか、祭りで締めたかが重要になる。フンドシも帯もただ長い布切れだが、おとこにとってはたいへんな言語活動なのである。
 女だって、まずは見えないところで万事のスジを決めておく。初潮前なら子守や小女(こおんな)だが、初潮があればオナゴシになる。何をしているかで針子や筆子や番子になるし、そこへもってきてどんなベベを着るかである。
 ともかくこういうことが相互に理解されていて、ここに夜這いというものが堂々と成立する。薬師さんや阿弥陀さんのお堂でも、ゴケサンやオイエサンのところでもある。御籠りといえば夜這いはつきものなのである。それをあえて系類学ふうにいえば、まず若衆系と総当たり系に分かれる。相手もヨメ型とカカア型とゴケ型に分かれる。これだけでも結構なものだが、そこに女たちのパフォーマンスによるルールが加わる。開放型、防衛型、交換型、放任型、許諾型、通報型などがあり、その順列組み合わせのあげくの出来事が、のちのち語られていくわけなのである。赤松は村落の物語といったって、このくらいディープなところから発生しているのだということを訴えた。 
…とくに"ウタ喧嘩"には圧倒された。近代社会は女工をたくさんつくったが、工場ひとつでも村々の近所や町にあるだけで、女たちは男を受け入れる前にいろいろの"ウタ喧嘩"で鍛えたものらしい。
 基本は送り歌と連れ歌らしいのだが、どこから切磋琢磨されるかというところが読めば読むほど実に高度なのである。歌をだしなされ、だしたらつける竹のフシほど揃わねどなどと言って、さあ始まるぞという予感をつける。そのうち、うたえうたえとせめかけられて、歌は出ないで汗が出る、唄いなされよ、お唄いなされ、歌で器量がさがりゃせぬというふうになると、もう始まっている。
 ここからはウタカズもさることながら、セリアイウタ、カケウタ、イサカイウタとヴァージョンが控えている。この女のウタの錬磨に男が入るのだから、たまらない。
 たとえば、わしのたもとにゃ千もある、これで一の矢。お前たもとにゃ千ほかないか、わしのたもとにゃ二銭(二千)ある、これで一の返しになる。今宵おいでなら、高塀越えて、せんざい椿折らんよに。これが二の矢。せんざい椿が折れよとままよ、とかくあなたの身が大事。これが二の返し。そこからウタ喧嘩になって、二度こそかえせ、三度かえすは、いなものよ。二へんかえして、三度目には、義理と人情の、板ばさみとやられる。ここから色っぽくもなり、ひとの男とだいたん女、山の大木、気が太い。男が太いがどうか見もせぬくせにと詰っても、男とるのは女のかいしょ、なんでそのとき気をつけなんだとやられる。
 実はこれらに節回しがつき、地域や地区によって、そのスピードやスコアが異なっていく。
…初床に謡曲のアシライもあったりして、これは非常民の文化こそその他のすべての日本文化の編集センターであったことにガツンとやられるのである。…
附記¶赤松啓介の著書はたいてい明石書店で入る。『非常民の民俗文化』『非常民の民俗境界』『民俗学』『戦国乱世の民俗誌』『天皇制起源神話の研究』『古代聚落の形成と発展過程』などがある。本書には解説は入っていないが、塩見鮮一郎、管孝行、宮田登、福田アジオの解説もあって、読ませる。本書の帯には上野千鶴子の推薦文が刷られていた。 ”


“『チベット旅行記 抄 』(河口慧海(えかい)著、中公文庫BIBLIO刊)にはこう書いてあります。


 ― 法王の宮殿、この宮殿の名をツェ・ポタラというて、ツェは頂上でポタラは船を持つの義で港のことをいいます。ポタラとは観音の浄土でインド南端の海中にああるセイロン島のことで、シナの普陀落その名を襲用したものである。ここの普陀落は観音の化身ダライ・ラマの住する所であるから普陀落(ポタラ)といい、山上にあるからツェ・ポタラという。”
http://d-engineer.com/kikaiyouso/nejinosyurui.html


山窩ラボ ‏@jackiemito 2014年7月23日
「夜這い」や「非常民」の研究で有名な民俗学者・赤松啓介が、著書「非常民の民俗境界」にて、サンカについて大変恐ろしい記述を残しています…! 以下、引用します。

「サンカも殆ど姿を消してしまい、常民のなかへトケコミしたようだが、地下の組織は生きているだろう……ウラの世界にはウラのオキテがある。仲間になって 生涯を埋めるならよいが、よいところで足を洗ってあっといわせるような論文を書いて、博士、教授になる、などと夢を見るのはやめておくがよい。続

続 「絶対に死体が上がらない海もあるし、あまり人の行かぬ林の中に白骨が横になり、木の枝に縄がゆれているという風景もある。地下活動の経験があれば、これ から奥は通行禁止だとわかった。この禁を冒さない限り、われわれの友好は保たれる。それで十分であり、それ以上のことを知る必要はない」

要するにサンカに接触して、情報を表沙汰にしたなら、殺されちゃいますよ、と赤松啓介は明言しています。いま原典が手元になく、ある書籍から孫引きしてしまいましたが、前後の文脈をじっくり検証する必要のある言説です。


ハゲ_チャング ‏@hage_chang 6月21日
思想犯で偽行商人で野良民俗学者の赤松啓介氏の「紙と鉛筆見せて取材する時点で本当のことは聞けない」→「柳田國男はダメダメ」→山奥の茶屋の女主人に偽行商人と一発でバレる→「ジケ(刑事)ちゃうで。アカやで」「ほな泊まっていき」→夜這い成立! という超展開が読める「差別の民俗学」オススメ


あなたも観音様から産まれた。『もののけ姫』の元ネタ②。網野善彦『宮本常一「忘れられた日本人」を読む』。宮本常一『忘れられた日本人』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-92.html

革命後の世界を求めて
 赤松啓介『非常民の民俗境界』(明石書店)を読んだ。
http://kaoriha.org/nikki/archives/000735.html?utm_source=twitterfeed&utm_medium=twitter
“「内輪」とは、たとえば本書247~248ページ:
 そこでよくいわれるのは、若衆仲間の目的・役割・昨日というものだ。甚だしい例は香川県小豆島四海村小江の若者組で、正月二日の若者入りから同十五日までの間にイイキカセという十五章の口頭伝承を暗誦できるようにしなければならなかったという。四百字詰原稿用紙にして八十五枚になる、厖大なものだが、先輩の口授でおぼえたらしい。
 その内容は「分団へ来る身まわり、頭に帽子、鉢巻、頬かむり、腰に手拭い、煙草入れはせられず、足に下駄、せきざ、表つきの下駄なおもってはけず」と禁止条項、「けいざい」は「小若衆はマッチは月に小箱五箱、炭は年に一俵」と制限(中略)微にいり細にわたっている。
 こうした若衆仲間の条目というものを、私は一部の研究者のように信用しない。おそらく明治維新後の新作だろうし、記憶してみても役に立つわけでなく、要するに新参者を苦しめるのが目的である。こうしたものには必ずウラがあって、なんとか抜け道があり、それが半公然と認められていただろう。余所者にはそれがわからないだけで、こんなものをマトモに記憶したり、暗誦させられていたと思うのはバカだ。

「性の手ほどき」なるもののありかたが、これもまた内輪だ。235ページ:
 紀州の勝浦では娘が十三、四になると、老人を頼んで女にしてもらい、米、酒、桃色フンドシを、その礼として贈った。おそらく相手をした老人の方から赤腰巻、カンザシなどを返すか、先に贈ったものと思われる。また十三、四の少女が、若い青年などに臼を切ってくれと追い廻している地方もあったらしい。臼を切れとは、水揚げしてくれということで、初潮のあった娘が、若い衆や熟練者に自ら性教育を依頼したのである。攝丹播地方の民俗でいうと、こうした習俗はムラごとに違うので、いろいろの型式があったとよりいいようがない。初潮があればすぐ夜這いがくるムラもあるし、発毛するようにならないと相手をさせないムラもある。娘仲間で相談して生涯の相談相手になるような壮・熟年男性を選定してやるのもあるし、早い者勝ちというのもあった。また、春・秋の宮祭り、秋や冬の粟島講、地蔵講などにオコモリ、ザコネで水揚げというのもある。最末期の段階では祖母、叔母などが連れて参り、かねて頼んである熟・老年の男性に破瓜してもらったという。まあお初穂、水揚げはなかなか難しいもので、若い未熟な男たちには頼まれぬということだ。 “

「チベット旅行記」はスゴ本というより、スゴい人の冒険譚
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2007/10/post_9768.html

子子子子子@黒住も金光も天理も世界連邦側‏ @kitsuchitsuchi 2014年3月6日
@lanekota 倒される側の王宮でもコーヒーサロンを媒介に百科全書派が出入りしていたんです。コーヒーと共にスーフィーから秘儀を授かった、一つ目と光る△がついたフリギア帽子を被った白人がコーヒーを飲みつつ百科辞書を読んでいたかも。そう思いながら、道教家は『蟲師』を見ていた。



蟲データベース(一覧)
http://mushishifan.web.fc2.com/data1.html

真金吹く吉備の中山 ~枕詞と歌枕の謎~
http://www.ndsu.ac.jp/department/japanese/blog/2010/11/essay85.html
”岡山の歌枕といえば「吉備の中山」ということになりますが、その「吉備」を導き出したのが「真金吹く」という一句でした。

真金吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ

この歌は平安朝の第一勅撰集である『古今和歌集』の「神遊びの歌」に入っています。宮廷で仁明天皇が即位される時に催された大嘗祭(だいじょうさい)で詠われた歌で、単なる風景の歌ではありません。

「真金」(まがね)は本当の金属という意味で、黄金あるいは鉄だといわれています。そして「吹く」とは金属を精錬する工程において風を送る作業のことです。したがって「真金吹く」は金属を溶解し、精錬するという、古代における最先端の技術をあらわした褒め言葉なのです。褒めることによって、それにふさわしい地名である「吉備」に掛かっていきます。他には『万葉集』に一例(巻十四・三五六〇)しかないので「真金吹く」は枕詞ではないという説もありますが、歌枕を導き出す表現の働きから枕詞だと認めないわけにはいきません。ちなみに『時代別国語大辞典』や多くの研究者が枕詞説を容認しています。

「吉備」は黍の国か

枕詞の「真金吹く」が直接、掛かっていくのは「吉備」(きび)という地名です。吉備とは備前・備中・備後の三国のことで、後に分国される美作も入れて、現在の岡山県を中心に兵庫県西部と広島県東部を含めた広い地域の総称です。歴史学で「吉備王国」とも称されるように弥生時代から古墳時代を通じて大いに栄えました。そのような吉備の国の先進文明が鉄をはじめ金属の精錬、精製の技術だったのです。

大和朝廷から一目も二目もおかれ、恐れられてもいたようです。おなじみの桃太郎は大和への服属をうながすために派遣された孝霊天皇の第四王子がモデルだといわれています。平安時代になっても特別な地域であったことは、すでに述べたようにこの歌が大嘗祭で詠じられていることからもわかります。

ところで、ここで歌枕となった「吉備」の語源はいまだ定かではありません。岡山県の地名については昭和五年に出版された『岡山県県史』の「地名考」に及ぶものはなく、吉備についても文献を博捜して考察しています。「吉備はキビ(黍)にして吉備国の土地、黍殻の耕種に好適しその産額る多く古来黍酒、黍団子の料となりし」といって、黍に適した土地柄であり、黍酒や黍団子が名産であること、「黍は黄実キミ、転じてキビ」であり、「岐美、岐備、吉備、寸簸、黄薇」などの漢字の用い方はすべて当て字で、皆通じると説明しています。そして「吉備の国名が阿波、安房の粟、紀伊の木の産地に名づけたると同じく、黍の産地に因めること疑いなし。」と結論付けるのです。


最後になりましたが、枕詞「真金吹く」が吉備を導き出し、いよいよ本番の「吉備の中山」が登場します。吉備の中山は吉備平野と岡山平野の中間にある山で、古くは「吉備の児島」と呼ばれました。文字通り吉備の国の中心に位置している聖なる神体山で、港があり、吉備津彦の本拠地でした。航空写真で上空から撮影するとかつて島であったことがわかります。南側が庭瀬です。庭瀬という地名も神の山の前の海の瀬という意味だと考えられます。現在、その麓を東西に新幹線が通っています。

その吉備の中山の西側の麓には備前の一宮の吉備津彦神社が、東側の麓に備中の一宮の吉備津神社が鎮座しています。一つの山に二つの一宮が依りついている例は他にありません。吉備における最も聖なる山であり、分国されるとき二つの国がそれぞれの国の神の山と主張したのだと思われます。これほど歌枕にふさわしい山はありません。”

狼たちは知っている ‏@wolvesknow 2015年6月26日
河口慧海の、チベット旅行記。 青空文庫で読んでるが、とてつもない。勉強になりすぎる。 しかし、ダライ・ラマっていったい何?

貧乏人に、ラマの化身は宿らぬ、というのがチベットの極まり。 と書いてある。 筆者は、ラマの化身は賄賂の化身と書いている。いやはや。。。
英国や、耶蘇教の明治時代以前におけるチベットへの侵入も詳しい。 この本を見落としていたとは。。。

狼たちは知っている ‏@wolvesknow 2015年6月29日
そう いやチベット旅行記で、チベット族がタバコの葉をかじって汁を飲み込んでるとあったな。 慧海は、やめさせたと自慢してたけど、何か意味があったのだろうな。

狼たちは知っている‏ @wolvesknow 2016年11月19日

青空文庫のチベット旅行記 河口慧海 で、チベットで僧としての位を上げるには、カネとコネが必要だったチベットの様子がよくわかる。ダライ・ラマは、胡散臭い。

狼たちは知っている‏ @wolvesknow 2016年9月26日

チベット旅行記 河口慧海 青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/001404/files/49966_44769.html … おもろいで。まじ、おもろいでこれ。
”法王政府のネーチュン のごときは恐らくチベット中の金満家といわれる位に金があるです。そこで大抵高等ラマの化身は多く貴族の子供とか、あるいは金満家の子供、大商法家の子供というような者が多い。それがおかしいじゃありませんか。貧乏人の子供にラマの化身が宿らないと極めてあるように、ほとんど十中の九までは皆富貴の家からその化身が出るという一段に至っては、必ずその間に何かの事が行われて居るに違いない。それはただ表面から観察しただけでも分るですが、実際は全く妙な事が行われて居ますので、折々嫌な事を沢山耳にしたです。
 まず自分の子が出来る前からして神下しの所に行って賄賂を遣って置くです。そうしてどこか良い寺へその子供をあるラマの化身だというて口入をして貰うのです。良い寺には沢山な財産がありますから、そういう風に申し込んで置くとその寺の財産を自分の子供が生れながらにして得らるることになるのであります。それは随分商売的の場合から言ったならば賄賂を沢山使っても余り損はないというようなものでしょう。それゆえに金を沢山贈る者があるんです。これは私のしばしば見聞した事であって、決して表面から観察してこうであろうというような推測話じゃあない。だから化身の信ずるに足らんということはもう分り切って居る。昔の事はいざ知らず今の化身というのは本当の化身でなくって賄賂の化身 であると私は言った事がある。それでもその子供に自信力をつけてよく教育するものですから、どうも化身と称するラマは十人の内でまず八人までは出来の好い方です。二人位は屑もあります。その教育の方法は教師も付添人もその化身とされし子供に対して鄭重に敬語を用います。喩えばその化身の子供につまらないことがあっても無下に叱るということをしないで、あなたは化身であるのにさようなことを遊ばしてどう致しますかというて反省させる位のものであります……。だから私は少し考えた事がある。どうも子供を無闇に馬鹿だの頓馬だのと罵り、あるいはその記憶力の足らぬ事判断力の足らぬ事をば無碍に卑しめてその自信力を奪うという教育法は、確かにその子供の発達を妨害する教育法だと思います。
 その子供には自信力をつけて充分進めるものであるというところの観念を起さしむるように教育することは必要であるという考えを、チベットに居る時分に起しました。
チベット人はそういう事はもちろん知らない。また賄賂を遣るというような事もそれは富貴者の間に行われて居ることで、一般人民はそんな事はちっとも知らない。実に馬鹿なもので、政府が蜻蛉返りをして居っても一般人民はほとんど知らない。一般人民の間に伝えられて居ることは、どこそこの華族さんに今度お子達が出来たがそのお子達は生れながら乃公はどこの何というラマであるというたとか、あるいはその子供の所へその前のラマの物としからざる物と同じような物を二つ持って来て、あなたのはどちらかと尋ねたら同じような物の中でよく見分をつけて、これは本当これは嘘であるというたそうだ、だから彼子は確かに化身に相違ないというような説が俗人社会に行われて居ります。
 これはチベット一国にこういう迷信が行われて居るので、ただラサ府、シカチェにおける秘密に立ち入って見ると、その化身は賄賂の化身ということは確かに断言して憚らない。たとい賄賂の化身でなくても、神下しとある貴族との関係上、神下しはその貴族の保護を受けて居る時分には特別に賄賂を貰わないでも、それはいわゆるおべっかにそういう事をやることもあるです。この神下しの事についてまだ少しいいたい事がある。”
狼たちは知っている‏ @wolvesknow 2016年12月4日

新西遊記 久生十蘭 青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/001224/files/46087_45574.html … ダライ・ラマが胡散臭いなと思われる鋭い方向け。ラマ教(チベット仏教)に関する話。食事中の閲覧はお勧めしません。

狼たちは知っている ‏@wolvesknow 6月30日
チベットの僧籍の人達が身分を上げていくのに、いかに昔から金まみれなのか、差別思想があるか等は、チベット旅行記、河口慧海を読むとわかります。青空文庫にあります。 ダライ・ラマねー。。。オウムの麻原とも会ってたね。あのコネはどこからなん?

世界の民族衣装 ‏@minzoku_gazo 7月7日
1879年に撮影されたチベットの王女。インドの学者サラット・チャンドラ・ダースによって撮影された。サラット・チャンドラ・ダースは河口慧海(日本人初のチベット入国者 当時のチベットは鎖国状態)のチベット語学習の手助けもしている。 pic.twitter.com/GPdN3PqdRV

thanatology ‏@thanatology_bot 7月6日
死ねばそれまでのこと、日本にいたところで死なぬという保証はできない。向こうへ行っても必ず死ぬとは決まっていない。運に任して出来うる限りよい方法を尽くして、事の成就を図るまでのこと。仏法修行のために死ぬほどめでたいことはない。それが私の本望だから惜しむに足らぬ。(河口慧海)

『チベット密教の本』(学研)『ワンピース』『東京喰種トーキョーグール』『さよなら絶望先生』『ねじまきカギュー』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-34.html

斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

P・グラレム ‏@pinkglalem 2014年3月20日
@lanekota @youtube 中共進攻以前のチベットと言うのは1%の貴族が宗教指導者をたてて、農奴を搾取する厳格な階級社会。貴族は自分たちが懐柔できる指導者を子供の頃に拾って来て都合良いよーに教育する。毛沢東に資産を剥奪された貴族たちはCIAや欧米勢力に泣きついた。
@lanekota @youtube ダライラマの実兄はCIAだし、現代のチベットはかなり近代化が進んでいる。この現状を、日本では報道しない。税金を払いたくない日本の宗教法人がフリーチベットを擁護するのは当り前。ダライラマ時代のチベットは田布施朝鮮部落システムにとっては、理想郷。

P・グラレム ‏@pinkglalem 2014年10月11日
@pinkglalem マザーテレサろ言うのは、多額の寄付を得る為に、病人とかを、わざわざ不衛生な場所に手当てもせずに放置して、それを宣伝材料に使っていたワケ。チベットはね、ダライラマが統治していた時代より、中共産党が民主化した今の方が国民生活が裕福なんだよね...

P・グラレム ‏@pinkglalem 2013年12月13日
@lanekota ダライラマ統治時代のチベットはかなり酷い専制政治だったらしいです。寺院では幼児への性的虐待も横行。映画で出て来るHハッラーも登山家ではなくてSS。CIAがチベットテロを援助していたのは、陰謀論ではなくて、ちゃんと文章が残っているそーです。

P・グラレム ‏@pinkglalem 2013年10月5日
ダライラマの時代、チベットの圧制は、李氏朝鮮時代の半島よりも酷かった。ハインリッヒ・八ッラーはヒトラーSSだったし、ハーケンクロイツはチベット佛教の卍がモデル。ダライラマは、昭和天皇と同じくヒトラーの友人である。

P・グラレム ‏@pinkglalem 2015年1月16日
ユダヤ人は存在しません。コレは事実です。じゃぁ、ユダヤ教は?ユダヤ人が存在しないのに、そんな宗教を作れるワケないじゃん。コレも存在していない。「ユダヤ陰謀論」をいまだに吹聴してるヤツに訊いてみろ。その陰謀論の根拠を示せと...連中は答えられないから...

古代のセム語族には3種類いて、アラム人とフェニキア人とヘブライ人、この三つをミックスしてデッち上げられた空想上の民族がユダヤ人。ユダヤ教は、ゾロアスター教とバアル信仰とその他の神話をミックスして捏造されたモノ。

フェニキア人は交易の民でシルクロードの地域で手広く商売をしていた民族。カルタゴの軍事力は彼らの経済力によって支えられていた。イベリア半島はかつての植民地で、スファラディとは、フェニキア系の民族。ヘブライ人はアラビア半島の南部に定住した民族で移動していない。

P・グラレム ‏@pinkglalem 2014年9月15日
@jewjewsenjer @tomikanjizai @saraonabrick ユダヤ系スペイン人なんて存在しない。イベリア半島はカルタゴの植民地だった。フェニキア系だ。バーカ。

STB ‏@RC_StB 7月19日
ロスチャイルドの主人ヘッセン家現当主、ハインリヒ・ドナトゥス(写真右側の男)。 サヴォイア家ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の曾孫、エリザベス2世の三従兄弟(祖父フィリップの母マーガレットがヴィクトリア女王の孫である) pic.twitter.com/hpIB5BassB

因みに、ヘッセン家は30年戦争時代新教側で、ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム5世(ルター派)はスウェーデンに与した 代々ルター派だが、ヘッセン分家はカルバン主義だったり ハインリヒ・ドナトゥスも御多分に漏れずルーテル教会

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 7月19日
@RC_StB プロテスタントとメイソンのオーバーラップ構造が丸見えですね。こんばんは。

STB ‏@RC_StB 7月19日
@lakudagoya 今晩は ええ。欧州貴族=王族は埃が沢山出てきます ヘッセンは貴種の上位層ですしね ロスの一派を粛清したとも言われるサヴォイアはラテラノ条約を結んだりP2事件でバカチン銀行と結び付いたりしていましたが

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 7月19日
@RC_StB そうそう。でも、中核のデルバンコとかあのあたりはベネチアや有色人種の銀行家が出たりしてて何で欧州の金融特権がそのなんだ?と色々と謎ですが。中世の中東の金融コネクションとの繋がりがきになりますね。

STB ‏@RC_StB 7月19日
@lakudagoya ソースによっては、スキタイ人と書いているところもあるんですよね テンプル騎士団として十字軍略奪を行ったのがデルバンコ(スキタイ)で、バイキングと合流し海賊になった、と ベネチアの金融家は後に天然の要塞スイスに移動

『夜這いの民俗学』(赤松啓介/明石書店)を読みました。
http://kappa.hatenablog.com/entry/2012/07/22/223844
『非常民の民俗文化』 赤松 啓介
http://ueshin.blog60.fc2.com/blog-entry-853.html
赤松啓介『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』×西加奈子『漁港の肉子ちゃん』http://riekonaito.blogspot.jp/2013/01/blog-post_30.html


菊池‏ @kikuchi_8 22 時間22 時間前
オウムは仏教とかヨガ団体を偽装しているが「霊性進化論」というブラバッキーなど神智学協会の連中が考えた教義を根幹に据えている事を見ても神智学系のカルトだと分かる。オウムの背後が裏権力なのは言うまでもないが、表に掲げる教義も完全に結社系の思想である。オウムは表も裏も完全にあっち側だ。
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• 菊池‏ @kikuchi_8 22 時間22 時間前
オウムの思想面の分析については「現代オカルトの起源」大田俊寛著をお勧めする。神智学を起源とする近現代のオカルトの思想史がコンパクトにまとまっている。「陰謀論とオカルトのセット売り」に騙されない為にも有益な基礎知識と言える。
1件の返信 9件のリツイート 15 いいね
• 菊池‏ @kikuchi_8 15 時間15 時間前
オウムはチベット仏教の影響があると言われる。だがチベット仏教では論理学を徹底して学ぶがオウムは超能力に執着し終末思想を煽るなどオカルト教義に終始する。神智学の霊性進化論はペルシャ系の黙示的終末思想を根幹とする。新約聖書の黙示録と同じ系列。だからオウムは「ハルマゲドン」を強調する。

オウムが影響を受けた「神に進化する人種と動物の次元に堕落する人種の2種類の人種がいて最終的に前者が勝利し理想郷を創る」という「霊性進化論」は新約聖書の黙示録を通してペルシャのゾロアスター教の善悪二元論及び終末思想の影響を受けている。
そこに近代に登場した進化論を混ぜた教義である。

「善悪二元論」「終末思想」を特徴とするオウムは仏教や印度哲学の系列ではなくペルシャ系のカルト教義である。
因明を見ても分かるように印度哲学には論理性と合理性がある。神智学自体が印度を偽装するペルシャ系の思想である。ペルシャ系の思想は新約聖書の黙示録などを通して西洋に流れ込んでいる。
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• 菊池‏ @kikuchi_8 14 時間14 時間前
印度哲学の中でも原始仏教は最も論理性と合理性が高いと評価できる。原始仏教は「渇愛を除いて苦を滅する事」(四諦)を目的とする。判断の対象を経験できる現象に限定し形而上学的な断定は避ける「無記」の姿勢。形而上学について独断を積み重ねるペルシャ系思想とは全く異なる。オウムは仏教に非ず。
1件の返信 4件のリツイート 5 いいね
• 菊池‏ @kikuchi_8 14 時間14 時間前
無記はヴィトゲンシュタインの「語り得ぬものには沈黙する」という姿勢に似ていると言われる。カントも純粋理性の適用範囲を「現象」に限定したものの結局は「物自体」を想定したり実践理性においては形而上学を要請したので無記に関しては不徹底だった。即ち「無記」は西洋では20世紀まで登場せず。


“『柳田民俗学の最大の欠陥は、差別や階層の存在を認めないことだ。いつの時代であろうと差別や階層があるかぎり、差別される側と差別する側、貧しい者と富める者とが、同じ風俗習慣をもっているはずがない。』(「差別の民俗学 (ちくま学芸文庫)」P236-237)
柳田のいう常民が彼の政治的な意識を前提として創出されたファンタジーであり、それが「国民」という神話を創りあげることに大きな影響を及ぼしたことに対して徹底的に批判を加え、その対抗意識から柳田民俗学が取り上げなかった差別、性風俗、ヤクザ、天皇といったタブーを中心に研究を進めていった。
『彼らはこの国の民俗学の主流を形成してきたが、かつてはムラで普通であった性習俗を、民俗資料として採取することを拒否しただけでなく、それらの性習俗を淫風陋習であるとする側に間接的かもしれないが協力したといえよう。そればかりか、故意に古い宗教思想の残存などとして歪め、正確な資料としての価値を奪った。そのために、戦前はもとより、戦後もその影響が根強く残り、一夫一婦制、処女・童貞を崇拝する純潔・清純主義というみせかけの理念に日本人は振り回されることになる。』(「夜這いの民俗学・夜這いの性愛論」P33-34)“「夜這いの民俗学・夜這いの性愛論」赤松 啓介 著”
http://kousyoublog.jp/?eid=2684

峨骨‏ @Chimaera925 2016年4月22日
夏目漱石の坊っちゃんでは下女の「清」は「瓦解」の時に零落した人物と作中で呼ばれている。瓦解とは明治維新の事。官軍側ではなかった人々は維新ではなく瓦解と呼んだ。学校教育では官軍側の視点に立っている。維新と瓦解の対比。勝てば官軍とはよく言ったもので、呼称も上手くやったものだ。

ニャ太郎【日々是猫日】‏ @nyatarous 2012年12月5日
明治維新後、当時を生きた文豪などの知識人達の大半は明治維新を徳川幕府の「瓦解」と捉えていた。これは当時の夏目漱石や芥川龍之介が実際にそう書いている事からも明らか。民衆の間でも明治維新は民衆に求められて起こった出来事ではないので、明治政府を尊敬するような風潮は維新直後は更々無かった

ニャ太郎【日々是猫日】‏ @nyatarous 2015年7月1日
夏目漱石をはじめ、永井荷風などの明治の文豪や知識人の多くは、明治維新を江戸幕府の『瓦解』と証した。 維新と言う言葉は明治政府が”宣伝”のために使用した言葉であるが、彼らの残した言葉から、当時の人々には明治維新なるものがどう見られていたか分かると言うものである。

KOJI SAWADA‏ @sute56 2010年8月12日
「<明治維新>というもっともらしい言い方は薩長のもので、東京生まれの漱石や荷風、芥川までが<維新>とはいわずに、徳川家の<瓦解>、<御瓦解>と作品の中でいっている。」小林信彦(『森繁さんの長い影』より)#ryomaden #bakumatsu #ryoma


【マンガ絵描きたい27】霖之助の昔の日本人ってば【法規制反対3】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10562799?ref=search_tag_video
【マンガ絵描きたい25】霖之助のポルノか芸術か【法規制反対1】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10562012?group_id=31419469
【マンガ絵描きたい26】霖之助の宗教と道徳【法規制反対2】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10562281?group_id=31419469
【マンガ絵描きたい27】霖之助の昔の日本人ってば【法規制反対3】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10562799?ref=search_tag_video
【マンガ絵描きたい28】霖之助の80年代黒歴史!【法規制反対4】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10563213?group_id=31419469
【マンガ絵描きたい29】霖之助の自主規制という名の【法規制反対5】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10576234?ref=search_tag_video
【マンガ絵描きたい30】霖之助の法規制を規制したい【法規制反対6】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10576359?ref=search_tag_video

桂米朝 「桃太郎」
https://www.youtube.com/watch?v=cU89aSJvHjs


お読みくださり感謝! 昔こっぽりにゃんこの目!

金光と大本教が崇める鬼は岡山の温羅(うら)=桃太郎の敵! 黒住と金光と天理教=幕末三大新宗教=和風キリスト教(グノーシス寄り異端派)は全て世界連邦推進派!『うらたろう』『ねじまきカギュー』『トラウマイスタ』 

↓金光教と大本教が崇めている艮の金神=うらたろう。


金光教と大本教が崇めている艮の金神=鬼は岡山の温羅(うら)であり別名「丑寅(うしとら)みさき」!
しかも左目を射抜かれたから右目のみの片目(製鉄民)!
しかも百済の王子!

桃太郎の敵!

“吉備津宮のお釜殿は温羅の霊を祀(まつ)れるもの、その精霊を「丑寅(うしとら)みさき」という。”
“討伐に際し、吉備津彦命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた。そして温羅に対して矢を1本ずつ射たが矢は岩に呑み込まれた。そこで命は2本同時に射て温羅の左眼を射抜いた。”

鬼退治の桃太郎が明治20年に国定教科書に採用されたことから、
国家神道=天皇一神教側と、
鬼を崇める(桃太郎は怨敵)金光教と大本の派閥が違うのは明白。
大本弾圧事件。
弾圧しても派生団体は潰さない茶番。

政府が桃太郎側(中身は仏教ではなく、耶蘇と神道カルト)であることの傍証が犬養毅。
犬養の先祖は桃太郎の家来(の元ネタ)である犬飼武(いぬかいたける)。
となると5.15事件での犬養毅暗殺に協力した勢力に鬼勢力がいてもおかしくない。
しかも犬養元首相は、創価教育支援会に参加。
新渡戸稲造、柳田國男も参加。
創価の出自が南朝天皇崇拝団体だから、柳田が天皇批判できないエセ民俗学者なのは当然だな。
創価は戦前から国営カルト。
創価は耶蘇化しているが一応日蓮宗だからエセ仏教✝系。
鬼崇拝側は仏が大嫌い。
耶蘇化しても仏要素があるだけで大嫌い。
桃太郎=政府側は耶蘇化した仏教(創価)派閥も強いのだろう。
国家神道だけどね。
桃太郎がそこまで深い話だとは…

吉備は「真金(まかね)吹く」(ふいごで吹いて鉄を製する)という枕詞がつけられるほどの鉄の産地。
「真金(まかね)吹く吉備」の「金」でもある金光教。金神とは金属の神でもある。
ダブルミーニングで製鉄鬼だと主張。

本記事の資料に創価学会が全然出てこないことに注目!
資料にアンチ創価の立正佼成会が出て来ることに注目!
創価は天皇崇拝団体出身だが、叩かれ役だということ。
創価は本体から外されている疑惑。
立正佼成会のほうが本体に近くて地位が高いとわかる。
工作員の叩き具合みるに立正佼成会よりも創価叩きが多い。
悪評が露骨に多いなら本体ではない叩かれ役の法則が発動する。
そういえば統一教会も資料に全然登場しないな。
創価も統一も登場しないエキュメニカル団体の資料は超重要だとわかるね。
老舗のほうが地位が上の法則!


伝承の温羅(うら)は製鉄技術を持ち、左目を射抜かれる。鍛冶と一つ目の関係を想起。
温羅(うら)は吉備=岡山の人に技術を伝え豊かにしたという伝承がある。
鬼退治=温羅(うら)退治は要は、鬼を崇める側が負ける話。
丑と寅の間の方角(北東)である「鬼門」(牛の角と虎柄パンツ)と、
「裏鬼門」に位置する十二支(方角)の申(サル)、酉(トリ=キジ)、戌(イヌ)の対立という陰陽道思想は省略。
陰陽師は仏教徒。
陰陽道は宗教ではないから仏教を信仰。
鬼崇拝は仏嫌い。



おねしょた兄貴に紹介されました!(この記事ですよね?)
うれしいよ。

魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)‏ @douteimaturi 2017年5月18日
子子子子子さんのブログに書かれていた宗教団体を覚えといてね
アレ、全部偽物邪教で本物邪教誘惑者だから
何でかというと規範や規律等や教条論がハッキリしている宗教は他の宗教集団何かとは手を組む事なんてありえない
イスラームなら最低でも生活はできても、内心を共有する事は絶対にない


イマームホメイニーのおさーんも言っているけど、イスラームだけが光であり、後は全部邪教で人を暗闇へ、地獄導くものであり
態々、光を目指すものが地獄に堕ちる連中と手を組む何てありえないのです
こういった、基礎宗教論が分かっているのであれば何が偽物か瞬時に判断が出来るわけだ

あんまり、こういうのは好きではないが日本のカルト共がこっちに連絡かけているのを知っているからね
君らのその程度の低い知能は残念ながら見透かされているのとあそこまで程度が低い教理って中々存在しないから良い資料になっているよ
せめて自然崇拝なら未だしも…アレじゃあねぇ…。

良いかい?
こっちは日本と同じ翻訳文化の社会でまたピンのレベルがかなり高いところだ
で、君らのその粗末な教義は何の焼き直しかすぐにわかってしまうんだよ
また、この社会は過去に秘密結社的でソレの害と効用も知り尽くされているの君らが考えているよりもこの社会はもっと邪悪で凶悪なんだ

君らは日本では好き勝手出来るけど、日本を出たら虫けら以下なのだから虫けら以下は虫けら以下で地面の中を蠢いていれば良いんだよ
所詮、下っぱ・中間管理職でも最底辺なのだからその程度の教義しか作れないわけ
残念だけど、君らは失敗作なんだ
失敗作だからほっとかれているだけなんだよ
君ら自身分かっているし、薄々気づいてただろ?
何故に資産や富、権力だけしかくれないかをさ?
単純だよ、君らの頭脳がその理に耐えられないから物質しかあげられないのだよ
君らを知恵の世界に入れられないのはその性根の穢さなんだよ
それも意味だけで完全共通知という遥か先があるのだけどね
人が人を教えられれば意味まではたどり着く しかし、君らは虫でしょ?
人は虫に何かを教える事は出来ないから、精々餌をくれてやる事しか出来ないのよ
残念・本当に残念、でもそれはお前達がお前達自身で汚したのだから誰のせいでもない
お前自身の責任、甘んじて受け入れるのだな
どうせ、君らの事だから私の正体を知っているだろうけど
私の正体を知っているという事は私が偽物ではないことも非常に厄介な存在であることもわかってるわけだ
だから、私も相手にしたくないし祖国くらいではのんびりさせてほしいし、性根がにーとなので触れないで欲しいんだ

(万教帰一=教義の統一。
これを実現するには、世界に一つしか宗教が存在しないようにするしかない。
つまり一つ以外のすべて宗教を消滅させるしかない。
実在論の西洋思想全般とイスラームが、
反実在論の仏教と根本が同じなんてありえないし、
根本が真逆なので合体できないから、
合体するふりして仏教の中核を破壊。
イスラームみたいにすみわけするのが最良。
万教帰一言っている宗教は同時に自分らの宗教が最高と言っているから、
自分ら以外の宗教は滅びろと言っていることになるから平気で他の宗教破壊、特に仏教破壊をやるのは当然だから悪だと私は結論している。
イスラームみたいにすみ分ければOKというはるか昔に良い答えはなされ実行されていたのになあ。
耶蘇まざると他教は破壊!って発想になる。ばれないように憑依して破壊なのが悪質。
耶蘇は信仰告白せずに信仰を隠して工作するし)


シーア派12イマーム派ウスール学派であるおねしょた兄貴の姿勢

おねショタおじさん @douteimaturi 10月8日
大本というのがやっている絶対にやってはならない事は一点
大本を軸にして比較宗教やっている事です
これは多神教的帰一主義の悪いとこで手口として主管が言っている事を様々な宗教と比較して、どんどん絡んでやっぱり全ての真理は私達にあると一人合点することです


なので、私は大本的な思想を全否定します
基本的に宗教思想というのは譲れない絶対論があって成り立つものであって、それには必ず唯一でしかないものがあるのです
だから、神学としてこういうアプローチがあると言っている時点でその宗教には神学が存在せず吸収して肥えるスライムみたいな物です

神学はスライムではなく、縦軸がしっかりしているものなのではっきり異物は異物として認識がカッチリされています
ただ、大本みたいなものは異物ですら取り込んで飲み込むので私から言わせれば宗教ではなく、学問でもなくただのご都合主義的なその場凌ぎに終始する言い訳であり、宗教や学問でないです

簡単言えば、泥棒で盗癖があって盗みを働いているのにこれは自分のものだと言い張っているようなものでホツマツタエや霊界物語自体が泥棒に泥棒を重ねてどれが盗んだものかわかんなくなっている泥棒の落書き帳なのでそんな落書き帳を研究するなんて人間の所業ではなく、口舌し難い悪人の行いでしょう

別にただの万教帰一的なものなら何もここまで否定しません、しかしながら大本系とそれに近い泥棒の落書き帳を研究とか言っている連中は神学的にありえないので全否定します
繋げる事は非常に簡単なのですがそれを整合つけるのは実に難しいのですが、奴らは大本が軸で結ぶのでそういう苦労をしません


そんな雑すぎるものを学問とも言いませんし、比較宗教学でも神学でもありません
むしろ、神学がないからそんな粗末な思考ができるのでしょう
全く人類、生物として信じられません
もし、人間であるならば何故ここまで違うのかに戸惑うはずですがアメーバなのでそんな事できません物理的に不能です

大本なんて名前が間違っているのですから、スライム教やアメーバ教と本来の存在の名前を言うべきなのです
本当に聖なるものを豚喰い、犬喰い、蛇のように丸呑みする連中は実に醜い


おねショタおじさん @douteimaturi10月8日
はっきり言いますけど、ギリシャ哲学と
中国の諸氏百科それに心身一元論に契約の思想、
イスラームやユダヤを正しく認識していれば西洋哲学はただの毒物でしかありません
あんなよくわからない文章を読むぐらいでしたら、論語や韓非、墨子などを読んだほうが遥かに現実的に使えますし、簡単です

恐ろしいのは西洋哲学は詭弁と雄弁術、修辞学の塊なのでそれなりに聞こえてしまうのと舶来物信仰があるのでそれにコロリとやられてしまう事です
特にぬほん人は舶来物が大好きなので簡単に新しい舶来物に被れて、そこの内容物を問わないという悪癖があります
まあ、軸がない人々という事です

でも、ものの本質を隠すような議論をしても意味がありませんので生活が神学であるイスラームとユダヤはある意味、言行一致を求めるので日本人に受け入れやすいのではないかと思います
ただ、超排他的で徹底的に非寛容な日本社会とその性癖で都合の良い誤解をしていくのは容易に想像できますけどね





神道カルト(大本教派生の日月神示派)サイトの大摩邇(おおまに)氏で本記事が転載されました!
うれしくないです(おねしょた兄貴に紹介されたことの対比)。
日月神示=和風耶蘇を否定する私のブログを転載する意図が気になりますね。
他の記事も転載されています。
あ、消さなくてもいいですよ。これからも転載してください。私のブログをよく読む人は大摩邇(おおまに)氏にはいかなくなるだろうけど。

“大摩邇(おおまに)
日常の気になる内容を転載させていただきます。 ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ。一二三祝詞(ひふみのりと)“

http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/

の「勝手に拝借しましたm(__)m」タグの記事
随時追加 黒住教と金光教と天理教の情報。に幕末三大新宗教=和風キリスト教(グノーシス寄り異端派)! 世界連邦推進で人脈にワールドメイトあって草不可避
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/2034912.html

お礼♡
大天使ミカエル大好きなGLAの教祖の義弟にエジプト生まれの「ワン・ツー・スリー」と名乗る霊があらわれ、教祖の指導霊となった!ひふみ神示エジプト起源説?

ヤマギシ会所属歴ありで「大本教は研究しない」宣言をした島田裕巳『日本の10大新宗教』(と『整体入門』)
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-164.html
“・GLA
の教祖・高橋信次の義弟に紀元前千三百年、エジプト生まれの「ワン・ツー・スリー」

高橋は古代エジプトや中国の霊が降りてくるなど霊的体験をし
68年本格的な宗教活動開始。松島幸之助(松下 幸之助?)の霊が降りたりもした。
新宗教の霊は普通は先祖の霊。
69年「大宇宙神光会」発足。
70年GLA(God Light Association)に改称。
霊言が古代インド語やアトランティスの言葉でなされる。
60年代の『ウルトラQ』などオカルトへの関心が高まっていたので社会風潮とも合致。76年高橋は亡くなる。
妻が事業を、娘の佳子がGLAを継ぐ。
佳子はミカエル・ボーイズ・アンド・ガールズという親衛隊を作り彼女が登場すると親衛隊は「ビバ・ミカエル」と叫び方を組み歌ったりした。熱狂的ファンに取り巻かれるアイドル

と呼ばれた。佳子を支える教団の青年達は「ビバ・ミカエル」と叫び肩を組んで歌い熱狂的ファンとアイドルのような雰囲気が生れた。古くからの会員が去り、その後講演会(集団的なカウンセリングのよう)開催等現実路線へ。

(エジプト生まれなのに名前が123の英語名(笑)。一二三ひふみって言いたいんだろ?ひふみ神示系だね。
聴き手が高確率で日本語と英語しかできないだろうからそれ以外の言葉で語ればなんでもあり。
そもそも存在しない言語なら絶対に大丈夫。
大本のおふでさきって原文全然読めないし。読めるようにした王仁三郎が都合よく改変したんだろうなあ。
ミカエルっていう有名っぽい陰謀追及サイトがありますね。GLA系への言及に注目。
高橋は真のメシア「エル・ランティー」で、佳子はその助力者「大天使ミカエル」らしいからね。”

efuwara‏ @efuwara 5月12日
この研究は面白いな!「スサノオノミコトを祀る神社,熊野系神社,八幡系神社の多くが津波被害を免れている
アマテラスを祀った神社,稲荷…系神社はその多くが被災している」/東日本大震災の津波被害における神社の祭神とその空間的配置に関する研究https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscejsp/68/2/68_I_167/_pdf …
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天照と教祖が一体化したとする黒住教がさんざん支配層に協力した挙句がこの仕打ち。
結局、切られること前提の実行部隊だったってこと。
このツイートを引用したのは大摩邇氏もいずれそうなるかもねーって警告したかったからです。
お礼終わり!
以下の派閥ではないのかもね。




リノ・エアレイス‏ @rinogarcia 2016年11月8日
実はある意味日本はもっと凄い 何せ藤原氏がまだ政治と祭祀の中枢にいる
西暦600年代に発祥し、時の帝に多くの后を送り、
鎌倉時代にも将軍職を輩出し、
戦前は藤原五摂家の近衛氏が首相となり
今も九条氏が平安神宮宮司、
鷹司氏が伊勢神宮大宮司と、日本会議の顧問じゃぜ
藤原氏最強

―――
戦争推進の日本会議(五摂家も協力)が世界連邦運動派生。
どうみてもおかしなことを言っていて戦争屋と仲がいい政治家たちが世界連邦に積極的に賛成。
ゆえに日本会議=世界連邦運動の一派=悪。
天理教は世界連邦系イベントに参加(黒住教も参加)しているので世界連邦賛成派。


幕末三大新宗教
要約

共通
・見事なまでに仏が登場しない

・一柱の神が人間に~を与えた。ゴッドが~の焼き直し。ただしグノーシス寄り。
要はこれ。
出口王仁三郎「誠の神様はただ一柱しかおはしまさぬ、他は皆エンゼルである。」
黒住からずっとこれの焼き直しばっかり。

・万教帰一と世界連邦推進。

・同じ設計図(聖書とグノーシス文書)が教祖と使徒の設定と教義に使われている。
何回も使いまわすのは、「同じ設計図(中身)で外見は現地の伝統に偽装」が一番うまくいくという再現性が得られているから。

・教祖の兄弟や両親の情報が驚くほど少ない。
出自がばれるからねえ。
となると孤児という設定は非常に有効。出口鬼サブローの家系図が出回っているけど信用していない。

・改造なしグノーシスだと、
物質=悪vs魂=善の二元論だから、日本になじまないから緩和。仏教思想では物質は悪ではない。真言宗の正体はマニ教とかグノーシスとか悪質なデマはやめようね。仏教では肉体は悪ではないよ。現世で肉体を持ったままで悟るから当然。

天理教

・天理教は自分で一神教と言っている。親神という。信者から金を得られるのに都合よく教祖の伝記を改竄することはOKする神。大した親だ。毒親。

・天理教も「いちれつ兄弟姉妹」や「他宗教や敵対する人々も兄弟姉妹とみなし」でわかるように、新耶蘇=万教帰一側。



・世界連邦運動の精神をうたう「神戸平和の塔」前での第30回「世界平和祈願祭」に生田神社、世界連邦協会代表、黒住教・天理教・大本・白光真宏会の代表、人類愛善会代表らが参加。
しかも神戸平和の塔前の台座には「世界は一つ」と刻まれ書いたのは湯川秀樹。
神戸市の世界連邦平和都市宣言15周年を記念し、市から敷地の提供を受けて建立されたのが神戸平和の塔。
以上、大本教新聞である人類愛善新聞より。

くわしくは以下の過去記事をどうぞ。

ねこた‏ @lakudagoya 4月15日
ねこねこさんの天理教の話が熱い!
この国は天皇人脈がカルトを運営して搾取するわけだね!

で、天理教は真っ黒黒助じゃん!

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-164.html?sp …
(ヤマギシ会所属歴ありで「大本教は研究しない」宣言をした島田裕巳『日本の10大新宗教』(と『整体入門』) )
天理教も搾取か。 天皇一族って何でカルト宗教とかパチンコで民衆の生活を破壊するの? 本当に為政者ならば、国民を守るのが仕事だよね? 同胞を生贄にして破壊するとか普通はできないから、反日勢力ですかと? やつら神になったら何でもやって許されるとか思ってそう。


黒住教

・現教主はこの世界連邦日本宗教委員会代表委員4名の1人。宗際活動は万教帰一の言い換え。

・金光教と大本教とも交流あり。世界連邦推進だから当然。

・明治期に五摂家が入信。

・宗忠神社は66年(慶応2)に勅願所となり幕末の尊王討幕運動の一拠点となった。公卿らが支持し、黒住教は皇室の祖神とされた天照大神を最高神にしていた(意図的)ため明治政府の天皇崇拝を旨とする〈大教宣布〉運動を担い、皇道宣布の国民教化運動に積極的に参加し全国各地に布教。

・全ての人が神になることができる、教祖がアマテラス(太陽)と一体化、グノーシス寄り。

・教祖が冬至の日生まれ。教祖が太陽神と一体化したのが冬至の日。耶蘇とミトラ教の改造版。
33歳で両親と死別。自身も肺結核になり死を覚悟。
文化11年(1814年)の“最期の日拝”=太陽を拝むで親不孝に気づき心を入れ替える。
その後二か月で不治の病の肺結核を克服。
33歳から始まる死と再生の体験。
その年の11月11日(34歳)に太陽神と一体化。
冬至の日は宗忠大明神の誕生日であり、黒住教立教の日である。
教祖の伝記は教団に都合よく設定されるもの。

教祖の黒住宗忠と赤木忠春(=黒住宗忠のパウロ)の設定のモデルは聖書だろう。教祖が教祖神と呼ばれるので神との一体化と同一視OKなグノーシス側。一神教的多神教だと必然的にグノーシス寄りになる。

・”黒住教は、江戸時代後期の文化11年(1814年)に立教した、日本人を教祖にもつ最も古い宗教です。“
と堂々と嘘をつく。
日本人の定義は?最澄と空海と鎌倉新仏教と吉田神道の教祖とその他有象無象の教祖が全員日本人ではないってこと?仏教は宗教ではないらしい。

・“私たち人間は全ての命の親神である天照大御神の御魂をいただいて生まれてきた神の子”(笑)。
太陽=創造神の子。君も量産型イエス・キリストだ!
至高神の一部である善なる魂をみんなが持っているというグノーシスが元ネタ。

・“現6代教主・黒住宗晴は、教祖神の名代として、日夜、人のため社会のために祈り、まごころを尽くしています。” 
日本会議の役員となり戦争推進することがまごころらしい。

・教祖が立教前に一度伊勢神宮に参っている。今もボスらが伊勢神宮に参る。
伊勢神宮の式年遷宮のさいに、古殿となった内宮の建築材を黒住教が大量にもらっているほどの関係。
神道カルト同士仲良しだね!

・本部神殿「大教殿」の、三角形の中に○があり、三角形のてっぺんから二本角が出ている個所のデザイナーがきなるなあ。

・柔道人脈もある。
ーー

金光教

・出口なおは元金光教信者。
(光金教→大本教→生長の家の流れに注目)

・ 教祖の金光大神の側近である佐藤範雄は赤十字メンバー=五摂家と天皇人脈。
金光教教団の組織化と教義を整備した佐藤 範雄(さとう のりお)。
政府機関への働きかけを行い明治33年(1900年)6月という狙っているとしか思えない年月日に教団の独立を達成。
創立間もない赤十字運動にも参加、社員となり赤十字運動の普及に努めたので天皇人脈にも食い込んでいる。
國學院大学を会場に、神道各教派を呼んで「美濃部博士の天皇機関説打破につき上杉博士を支援する懇談会」を開催するほどに天皇機関説を攻撃している。

・金光 鑑太郎(こんこう かがみたろう)は、金光教の四代金光様。
金光図書館を創設し、初代図書館長。日本図書館協会顧問。
ボーイスカウト日本連盟顧問。
金光教はボーイスカウト側だからメイソン教でもある。

・フジ産経(一つ目マーク)のボスである日枝久は金光教信者で、
フジテレビ=集英社作品アニメというラインを作ったWASP至上主義系の人で英国から勲章授与。
・金光教は、青二系の声優人脈、朝日のメディア人脈に入り込んでいるが、何よりフジ人脈に食い込んでいる。
金光教の時間という放送があり、ラジオドラマ出演者は永井一郎、中西妙子、山本圭子、三輪勝恵、小野坂昌也、龍田直樹、中友子など(青二プロダクション所属者が多い)。
桂米朝が当時内弟子になって間もない桂小米と大阪駅で金光教の団体列車に遭遇し、その列車に間違って乗ってしまうというくだりで始まる話もある。桂米朝が語る。
この放送の番組配信・制作は朝日放送。朝日放送のアナウンサーが朗読を担当することがある。
ラジオドラマは出演者の都合上ニッポン放送のスタジオ等で収録する場合が多い。
ニッポン放送はフジテレビジョンなどとともにフジサンケイグループ。
金光教信者の日枝 久(ひえだ ひさし、1937年12月31日 – 存命!)は、フジ・メディア・ホールディングス代表取締役会長、株式会社フジテレビジョン代表取締役会長。

・歌舞伎役者に信者が多い。

・金光教はボーイスカウトやガールスカウト(メーソン下部団体)のイベントをしたりするなど、メーソンとも繋がりがあり。
金光教スカウト協議会がある。

・「金神七殺」(金神がいる方位を犯すと家族7人が死に、家族が7人いない時は隣の家の者まで死ぬ)と呼ばれるほどの凶神を崇める。(既存の善悪を逆転)


・立教の年の教祖は46歳。(笑)
聖書の神かな?

46以外にも支配層のが大好きな数字がかなり登場する教祖の生涯。
真の数字はもう金光教が絡んでない記録はないだろうから確かめられない。教祖の両親の詳しい情報が見当たらない。ウラの家系かどうか知りたい。
”天保7(1836)年、金光さまが23歳の時に義弟の鶴太郎(つるたろう)が6歳で亡くなり、それから半月あまりの後、わが子の後を追うように養父粂治郎(くめじろう)が66歳で亡くなりました。
…古くからの親戚筋にあたる、古川八百蔵(ふるかわやおぞう)の長女とせさまと結婚することになりました。金光さま23歳、とせさま18歳の時のことでした。
…弘化3(1846)年、金光さまは33歳の厄年※を迎えました。
…※厄年:一般に、33歳は女性の厄年とされるが、この地方では男性の厄年でもあった。“

・大本教と同じく三千世界という言葉を使う金神。仏教嫌いが仏教用語を使うことで神に塗り替えたいのだろう。
” 明治15(1882)年11月24日(旧暦10月14日)早朝、金光さまは神様から次のようなお知らせを受けました。
 「天地の間のおかげを知った者なし。おいおい三千世界、日天四(にってんし)の照らす下、万国まで残りなく金光大神(こんこうだいじん)でき、おかげ知らせいたしてやる」”

・教祖は金神にひどい目にあわされたが、金神が信心に免じて許してくれたらしい。
神の言うとおりにせよ。自分をひどい目に合わせた邪神を善神として崇めるって盗作しているなあ。ヤハウェかな?
教祖である金光さまは神様から「生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)」の神号を授けられたらしい。生きながらにして“人を助けて神になる”思想。

・大本系団体の人類愛善会による、第27回世界連邦平和促進全国宗教者大阪大会は、金光教泉尾教会で開催。
“協力・金光教”と明記。
親の金光教と子の大本教は仲良し。
両者とも異端派(カトリックが迫害)の子孫だがカトリックから人を招いているのは、このカトリックはエキュメニカル賛成派(既存のカトリックの否定)だから。

・世界連邦運動協会の役員
※今現在とは限らないので注意。
執行理事が三宅光雄(金光教 泉尾教会長)

執行理事が稲垣裕彦
(大本=人類愛善会 副会長かつ世界連邦日本宗教委員会会長代理)

・第30回世界連邦岡山県宗教者大会(世界連邦岡山県宗教者の会主催)が、岡山県浅口市金光町の金光教本部の金光北ウイングやつなみホールで開催。
金光教をはじめ、大本、県神社庁、県佛教会、キリスト教、黒住教、津山宗教委員会、念法真教、立正佼成会などが参加した。以上、金光新聞より。
世界連邦賛成派リストに追加。

・国際宗教同志会(こくさいしゅうきょうどうしかい)の事務局が金光教 泉尾教会。
発起人が同志社総長 牧野虎次。
金光教の三宅歳雄(超重要。上述のIARF会長も金光教で三宅)、
大本、
八坂神社、
カトリック 、
日本聖公会、
一燈園、
天理教、
日本基督教団などが結成
伝統仏教教団からは「京都三山」といわれる東西両本願寺、知恩院なども参加。
金光、大本、天理教は仲良しだな。
伝統仏教も腐っているな。
耶蘇にガチ抵抗したら潰されるか窓際族だからな。

ブラックリスト↓
“▽委員長 同志社理事会会長 牧野虎次 
▽主事 同志社専務理事 奥村龍三 
▽常任委員 愛善苑委員長 出口伊佐男、
真宗大谷派参与 本田廣善、
カトリック京都教区長 古屋義之、
天理教布教部長 岩田長三郎、
金光教泉尾教会長 三宅歳雄、
一燈園主 西田天香、
浄土真宗本願寺派総務 小笠原彰真、
臨済学院専門学校教授 緒方宗博、
真言宗醍醐派管長岡田戒玉、
真宗大谷派朱雀御坊主 末廣愛邦、
サンパウロ交易株式会社取締役社長 荘野忠徳、
八坂神社宮司 高原美忠、
日本基督教団京都教会青年部長 吉田隆吉、
豊国神社宮司 吉田良光(敬称略)“


国際宗教同志会は世界宗教者平和会議(WCRP)の母体の一つとなった団体。
世界宗教者平和会議(WCRP)の役員に紅卍で大本系のワールドメイトの半田晴久=深見東州。
金光教が中核の団体から大本教派生の教祖がいる団体ができる。

ワールドメイトの菱研顧問 小沢一郎・亀井静香・鈴木宗男・鳩山邦夫ら
http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-1916.html
を見れば政治家なんて下っ端だと実感できる。

国際宗教同志会公式ページの役員の項目見ると(一部抜粋)、
理事長 三宅光雄 金光教泉尾教会 教会長


理 事 松井龍一郎 天理教 明城大教会 会長

監 事 内海雅継 金光教泉尾教会 総務部長
理事 松本貢一 立正佼成会 大阪教会長

中核が金光教で、天理教もいまだ健在。立正佼成会がセット。
ブラックリストは下の資料をご覧くだされ。

国際宗教同志会は、相国寺山内長得院で西田天香、出口王仁三郎、牧野虎次の三師の喜寿祝賀会を開いたり万教帰一目的なのは明白。
金光教の三宅歳雄は、第5回WAWF世界大会(世界連邦コペンハーゲン大会) に出席。バチカンでは、時のローマ教皇ピオ十二世と会見。
ワールド・ブラザーフッド世界同胞協会の会長でノーベル物理学賞受賞者アーサー・H・コンプトン博士(合衆国原子力委員会委員長をして原爆を開発。後に平和運動に転じた偽善者)が金光教の教会を訪れ、「祈りの塔」の落成式に参列。
三宅歳雄や大阪国際宗教同志会幹部と(支配層の)世界平和(笑)について懇談。
イギリスの世界的物理学者でロンドン大学教授のキャザリン・ロンズデール夫人も金光教の泉尾教会を訪れた。夫人は熱心なクエーカー教徒で、英国のロイヤル・ソサイエティ王立科学協会会員。
三宅歳雄は、ニコライ府主教らロシア正教関係者と意気投合。共産圏への働きかけの足がかりをつかんだ。
ロシア正教まで絡んでいる恐ろしき金光教。

国際宗教同志会で培ってきた信頼と経験が第1回世界宗教者平和会議(WCRP)として結実。
世界宗教者平和会議の役員(元含む)に深見東州だけでなく、
酒井教雄( アンチ創価=元立正佼成会 理事長)
宮本恵司(妙智会教団代表)
もいることに注目。

三宅歳雄は立正佼成会会長 庭野日敬と仲良くなっているし、
三宅歳雄は、この後、ローマ教皇パワロ六世はじめ、ギリシャ正教総主教や英国国教会のカンタベリー大主教を歴訪し、WCRP開催に向けて協力を依頼したり完全にエキュメニカル思想のの金光教。
しかも、昭和55年に三宅歳雄は世界連邦世界協会(WAWF)名誉理事長・同アジアセンター会長に就任。
そのうえ、泉尾教会で第18回世界連邦世界大会大阪会議を開催。
エキュメニカルと世界連邦賛成はセット。

※創価学会と統一教会が全然出てこないことに注目!
立正佼成会はアンチ創価だからなのと、創価と統一は本体から切り離されているからだろう。

“・戦後に勢力拡大した立正佼成会(りっしょうこうせいかい)は創価学会と対抗し、反創価学会系の新宗教教団が集結した新日本宗教団体連合会(新宗連)の中心として活動。
また自民党と公明党が対抗関係絵だった時代は自民党候補者を応援し新宗連代表議員も出していた。
公明党が連立政権に入ってからは民主党にシフト。
が自民党との関係を切ったわけではなく推進議員の中には自民党候補者もいる。“
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-164.html


・IARF(国際自由宗教連盟)は中枢がユニテリアン。1900年5月にユニタリアンと「リベラルなキリスト教徒」によって創立
IARF(国際自由宗教連盟)の第33回世界大会で、三宅光雄 金光教 泉尾教会長がIARF会長(任期4年)に選出された。
立正佼成会 会長 庭野日敬がIARF会長に就任したことあり。
公式サイトを見ると、今は副会長 Most.Rev.Mitsuo MIYAKE (日本) 金光教泉尾教会長とある。
役員にユニテリアンが多い。

※キリスト教福音派の牧師である尾形守『異端見分けハンドブック』いわく、
ユニテリアン主義=「三位一体を否定し、キリストが神であることを否定する異端」。
要は、三位一体(父と子と聖霊)の否定と、イエス・キリストは人間だという、エキュメニカル万教帰一に都合が良い思想。
福音派はエキュメニカル反対。

・IARFが4年に1度の世界大会時に授与している『シュバイツアー賞』をダライ・ラマへ与えたときのスピーチ担当が三宅善信。シュバイツアーは、IARF創設の元となったユニテリアンのメンバー。
※シュヴァイツァーはアフリカ現地での評判は決してよいものではない。自らの神学思想を現地の文化より優先する白人優位主義者。
シュヴァイツァーは「人類皆兄弟」とほざいたが対等な関係ではなく、「白人を兄、黒人を弟」としている。
ストア派の改悪版思想。人類皆兄弟なので肌の色の差別はないとするのが本来のストア派。
人類皆兄弟を侵略の道具にしているからノーベル平和賞=北欧賞をもらえた。


・人はみな神の子、心に神、生神(いきがみ)思想なのでグノーシス寄り。
”ふびんに思う神心は、だれにも神様から分け与えられています”
”信心すればだれでも生神になることができる”
黒住教と同じ設計図。

・三宅龍雄を偲ぶ会にIARF財務委員長が参加。三宅善信ももちろん参加。
儒教研究者の加地伸行も出席。あなたも支配層側か。
加地伸行『沈黙の宗教―儒教』(筑摩書房、1994)の読書メモ記事があるけど、
※加地伸行は暴走するので注意と書いてある。

 お盆は儒教(中核)を仏教で覆ったもの。カバラ(一神教+新プラトン主義)は易経(儒教の経典)とも道教(多神教)とも無関係! 寸止め陰謀論者が主張するカバラは「クリスチャン」カバラ! 加地伸行『沈黙の宗教―儒教』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-97.html


詳しくは過去記事
金光教を軽視してはいけない。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-37.htmlもどうぞ。

参考資料

天理教

田口 造‏ @manbownewoption 3月23日
戦前は搾取の宗教として天理教のお膝元。自分で部落と認めているのは、まあ良しとしよう。だが、歴史観がかなりおかしい。
それと日本会議の影響力を意図的に小さく見せているのが、極めていかがわしい。
U‏ @wayofthewind 3月23日
返信先: @wayofthewindさん

菅野完(すがのたもつ) 奈良県天理市出身

別名 noiehoie、家入保

テキサス大学オースティン校出身

団体所属歴 部落解放同盟 首都圏反原発連合 レイシストをしばき隊

初の著書「日本会議の研究」で有名に(笑)

天理は赤組だな。


黒住教

赤木忠春高弟の百五十年祭
http://kurozumikyo.com/michi/2015/04/20150401michi
” 来る4月19日、赤木忠春高弟の百五十年祭が、忠春神社(岡山県久米郡久米南町中籾)において斎行されます。それは同時に、当神社が改築27年の御祭りにもなります。

 赤木高弟は、教祖神の数ある直門高弟の中でも教団内に知らない人はいないと思われますが、なんと申しましても、京都神楽岡・宗忠神社は赤木先生なくしてはありえなかったと言えるほど大きなお働きをなした方です。

 その人となりは、8年間の盲目で心打ち砕かれて人生のどん底にあえいでいたのが、ただ一度、教祖神の二・七の御会日におけるお説教を拝聴する中に、心開いて真素直な心に立ち直り、そこに純粋な熱いものが湧き出でて、大感激の中に開眼のおかげをいただかれたところにも、如実に現れています。それは、弘化2年(1845)11月のことでした。教祖神御歳66(数え年)、赤木高弟30歳の時です。71歳で昇天された教祖神ですから、赤木先生はわずか5年の間に本教教師の中心的な存在になられたのでした。

 教祖神ご昇天後に、御神裁で京都布教をいただいた赤木高弟の獅子奮迅の活躍はめざましく、ついに時の関白九條尚忠公のご息女夙子姫の入信となり、すでに姫は孝明天皇の御后であられただけに、孝明天皇に御前講演申し上げる栄にも浴します。

 九條関白を筆頭に公卿方が次々と入信し、江戸時代最後の関白をつとめ、明治時代になって幼い明治天皇の摂政の任にも当たった二條齊敬関白、また三條實美公など公卿方が神文を捧呈して御道信仰に励まれたのでした。
これは、いつに赤木忠春高弟の説かれた教祖神の天命直授にあったと確信します。ここに明らかになった「神人不二」。すなわち大御神様のみわけみたま(ご分心)の鎮まる人はまさに日止で、御道信仰は「生き通し」の道であることが公卿方の心の光、柱となったのでした。風雲急を告げるこの時代、それだけ公卿方は命懸けの日々の中におられたのでありましょう。それは二條齊敬公の御筆に明らかです。

 「文久2年の夏のころ 宗忠神の遺教の歌を 拝写して神社に納めける  かぎりなき天照神と我がこころへだてなければ生き通しなり 右大臣 藤原齊敬」

 赤木高弟の至誠はまさに天に通じ宗忠大明神の神号を賜り、ついに全国の神社を取り仕切る吉田神社から、その東南の高台、その名も神楽岡という地の提供を受け、宗忠神社はご鎮座になったのでした。

 時に文久2年(1862)2月25日。この日の赤木高弟の「信をたのむぞ! 信は神ぞ。信は人ぞ。誠をたのむぞ! 誠こそ道ぞ!」の火の出るような説教は、今に耳に聞こえてくるようです。

 この年同じ2月には、孝明天皇の令妹和宮様が将軍徳川家茂公に降嫁され、長く久しきにわたった皇室と徳川将軍家との確執は解け、まさに公武合体なり、しかも翌文久3年8月にはいわゆる「七卿落」で、攘夷論に終始していた三條實美公ら7人の公卿方は長州(山口県)に流されるなど、開国維新への道が開けていきます。

 しかし、赤木高弟の、激しいばかりの信仰と熱情に心服していた、三條公ら若き公卿方が長州へ流されるとき、警護に当たったのが岡山藩士であったことから、岡山藩の本教に対する迫害が急に強まってきたようです。そうでなくても、名君の誉れ高かった藩祖池田光政公にして下賜されたのは霊神号なのに、池田藩の守護神社とはいえ今村宮の禰宜職にすぎなかった教祖神が「宗忠大明神」という最高の神号を賜り、しかも王城の地京都の吉田神社の境内地を提供されて宗忠神社が鎮座するなど、当時の岡山藩にとっては不快なことばかりで、教団本部への圧力は相当厳しいものがあったようです。中国の古事に〝泣いて馬謖を切る〟というものがありますが、その頃の本部当局は赤木高弟に引退してもらうべく三代宗篤様(御歳16歳)の名のもとに、大元家(教団本部)への出入りを禁ずるの書状を、赤木高弟の愛弟子本多応之助先生に託して届けています。本部当局の決断が、どんなに苦汁に満ちたものであったかが伺えます。岡山藩の中にある教団という組織防衛のためには、個人を切らざるをえなかった当時の先輩の苦衷を拝察することです。

 その後、あれだけ功績のあった方を破門するなど、なんてことを……という声が、教団内に起こり久しくくすぶっていたことも事実です。しかし、平成4年、皇學館大学元教授の真弓常忠先生が、神楽岡・宗忠神社ご鎮座百三十年の記念誌「孝明天皇と宗忠神社」を執筆されるに際しての研究調査で、事の真実が明らかになりました。

 130年前の明治18年4月18日、大元・宗忠神社ご鎮座に際し、三代宗篤管長は赤木忠春霊神に敬意と感謝の心を込めて「大教正」の教級を贈り、あらためて高弟を顕彰されていますが、三代様のご心中いかばかりであったか、思うだに胸が熱くなることです。

 二・七の御会日 教祖神のご在世中、月の中の二と七のつく日にお説教がつとめられていた。それはまた岡山藩の武士の休日でもあった。”

赤木忠春 あかぎ ただはる
https://kotobank.jp/word/%E8%B5%A4%E6%9C%A8%E5%BF%A0%E6%98%A5-14431
”没年:慶応1.4.16(1865.5.10)
生年:文化13.10.13(1816.12.1)
開教直後の黒住教の高弟,布教者。美作国久米南条郡八出村(岡山県津山市)の庄屋陶太郎左衛門の子として生まれ,のちに同郡の大庄屋赤木常五郎の養子となった。天保8(1837)年に両眼を失明したことを契機として,弘化2(1845)年に黒住宗忠と会い黒住教に入門。「黒住教六高弟」のひとりと称せられる。ただし,正式の入門は宗忠没後の嘉永4(1851)年とする説もある。宗忠没後の嘉永4年,京都へ出て布教。黒住教の合法化のために,神祇伯職世襲の吉田家に接近し,宗忠大明神号獲得のための請願運動に奔走,安政3(1856)年3月遂に実現にこぎつけた。この間,京都周辺での布教も熱心に行い,禁厭や祈祷による治病活動で教勢を拡大した。関白九条尚忠が娘の病気治癒を契機として入門したのちは公卿へも影響を広げ,三条実美も一時門人であった。文久2(1862)年,京都神楽岡に宗忠神社の建立の許可を得ることに成功したが,このころから大元(岡山市の本部)から別派独立の嫌疑を受け,元治1(1864)年に破門された。身の潔白を証明するために郷里で修行中に死亡。教祖,宗忠には希薄であった「皇国」「皇祖神天照大神」を前面に打ち出し,尊王攘夷派の志士とも交流,次第に政治的性格を強めた。そのことが大元との宗教的懸隔を生んでいったと思われる。しかし,黒住教が明治以降いち早く別派独立の許可を得たのは,忠春の築いた人脈によるところが多い。<著作>『赤木大人歌文集』『七箇条諭弁』<参考文献>高野隆文『赤木忠春大人伝』,小寺基之子「黒住教の歴史的性格」(『岡山史学』24号) ”

宗忠神社 むねただじんじゃ
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%97%E5%BF%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE-1425319
”…門人赤木忠春は京都で祈禱をつうじて日本の祖神たる天照大神の信仰を説いた。62年(文久2)に京都神楽岡に創建された宗忠神社は,66年(慶応2)に勅願所となり,幕末の尊王討幕運動の一拠点となった。武士,地主・有力町人層,公卿らを支持者とした黒住教は,皇室の祖神とされた天照大神を最高神にしていたため,明治政府の天皇崇拝を旨とする〈大教宣布〉運動のにない手として,教部省による皇道宣布の国民教化運動に積極的に参加し,全国各地に布教を展開した。…


【黒住宗忠】より

…その教えは,近隣地主層から岡山藩士へと広がり,弘化年間に教団組織が確立,1876年に神道事務局から別派独立として公認され,82年に神道黒住教となる。宗忠は56年(安政3)門人赤木忠春らの運動で大明神号をさずかり,62年(文久2)に京都神楽岡(現,京都市左京区),85年には岡山の大元(現,岡山市)に宗忠神社が建立された。教義に関する教祖の自筆文章は〈日々家内心得の事〉のみで,ほかに和歌と書信が残されている。…


宗忠神社(むねただじんじゃ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%BF%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE

赤木忠春が起こした奇跡(黒住教)
http://97331420.at.webry.info/200610/article_20.html
”赤木忠春は、黒住宗忠の高弟で、宗忠にとって、釈迦に対する迦葉、キリストのおけるパウロのような存在で、この方も全国への布教の道中に、いろんな奇跡をおこされています。

備後の忠海のあたりで説教のあった時、世話人たちがお供えの魚を求めて海に出かけたところ、生憎一尾も網にかからなかったので、この事を申して詫びると、忠春は、
「では、私が捕まえてお供え致そう」
と狩衣(かりぎぬ)を着たままで海に入り、拍手を打って、さっとその手を水中に入れると、どこから現れたのか、見事な一匹の大鯛が忠春の掌に乗って来たのである。
見ている人々は誰もあっと驚きの声を上げたが、
「信(まこと)一つで天地も動くぞ!」
という忠春からすれば、魚一尾をつかまえる位は、それこそ朝飯前の見安いことであった。
                                    「赤木忠春」黒住教日新社より

キリストもたしか、本当に信仰心があれば山をも動かすことができる、みたいなことを言っていたように記憶していますが、さすがは黒住宗忠のパウロといわれるだけのことはありますね。

淀藩の稲葉家の家老職を勤めていた近藤某家の娘が、性の悪い腫物で悩んでいた時、折りよくその地方に赴いた忠春は、この事を聞くと直ぐ歌をつくって娘に与えた。
 朝日さす日影に生れる腫物は
  根も葉も枯れて跡形もなし
この歌をその娘が数日の間一心に唱えている内に、医薬でも容易に癒えなかったはれものが、いつのまにかさっぱりと直っていた。
後世になってもこの歌を唱えただけで、多くの人が腫物のおかげを受けているという事である。
忠春にはまた、
 日を呑んで腹をはる(張るー春)気になりぬれば
  心よしの(善しの)の花や咲くらん
という、まことに格調の高い秀れた歌がある。
忠春が亡くなってから七十年も経た後に、この歌を毎日唱えつづけて、医者もさじを投げていたバセドー氏病の婦人が、見事におかげを受けて全快した実話も伝わっている。
その場その場で、天から授かる忠春の歌には、天地の活霊(いきもの)がこもっていたのである。
                                              「赤木忠春」より”
日本会議 > 日本会議とは > 役員名簿
http://www.nipponkaigi.org/about/yakuin
”平成28年7月1日現在・50音順

[名誉会長]
三 好    達 元最高裁判所長官
[顧 問]
石 井 公一郎 ブリヂストンサイクル(株)元社長
北白川 道 久 神社本庁統理
鷹 司 尚 武 神宮大宮司
[会 長]
田久保 忠 衛 杏林大学名誉教授
[副会長]
安 西 愛 子 声楽家
小田村 四 郎 元拓殖大学総長
小 堀 桂一郎 東京大学名誉教授
田 中 恆 清 神社本庁総長
[代表委員]
秋 本 協 徳 新生佛教教団最高顧問
石 原 慎太郎 作家
板 垣   正 元参議院議員
市 川 晋 松 元日本相撲協会相談役
伊 藤 憲 一 青山学院大学名誉教授
稲 山 霊 芳 念法眞教燈主
今 林 賢 郁 (公社)国民文化研究会理事長
入 江 隆 則 明治大学名誉教授
打 田 文 博 神道政治連盟会長
宇都宮 鐵 彦 株式会社日華代表取締役会長
大 石 泰 彦 東京大学名誉教授
岡 田 光 央 崇教真光教え主
岡 野 聖 法 解脱会法主
小 串 和 夫 熱田神宮宮司
尾 辻 秀 久 日本遺族会会長
小 野 貴 嗣 東京都神社庁庁長
加 瀬 英 明 外交評論家
城 内 康 光 元ギリシャ大使
黒 住 宗 晴 黒住教教主
慶 野 義 雄 日本教師会会長
小 堀 光 實 比叡山延暦寺代表役員
佐 藤 和 男 青山学院大学名誉教授
澁 木 正 幸 日本会議経済人同志会会長
志 摩 淑 子 (株)朝日写真ニュース社会長
住母家 岩 夫 NPO法人持続型環境実践研究会会長
関 口 慶 一 佛所護念会教団会長
千    玄 室 茶道裏千家前家元
髙 城 治 延 神宮少宮司
竹 本 忠 雄 筑波大学名誉教授
寺 島 泰 三 (社)日本郷友連盟会長、英霊にこたえる会会長
德 川 康 久 靖國神社宮司
冨 澤   暉 (公財)偕行社理事長
中 島 精太郎 明治神宮宮司
中 野 良 子 オイスカインターナショナル総裁
長谷川 三千子 埼玉大学名誉教授
廣 池 幹 堂 (公財)モラロジー研究所理事長
保 積 秀 胤 大和教団教主
丸 山 敏 秋 (社)倫理研究所理事長
村 松 英 子 女優・詩人
[監 事]
加 瀬 英 明 外交評論家
澁 木 正 幸 日本会議経済人同志会会長
[理事長]
網 谷 道 弘 明治神宮崇敬会理事長
[事務総長]
椛 島 有 三 日本協議会会長
[事務局長]
松 村 俊 明 日本会議常任理事



以上の役員を始め本部理事、百人委員約400名、
47都道府県本部役員約3100名がご就任です”


トップページ >黒住教について >黒住教の教義
http://kurozumikyo.com/about/dogma
黒住教は、江戸時代後期の文化11年(1814年)に立教した、日本人を教祖にもつ最も古い宗教です。岡山市の尾上神道山に本部を置き、200年以上にわたって日本各地でその教えに基づいた活動を行っています。

教祖神・黒住宗忠(1780〜1850)は、代々の神職の家に生まれました。最愛の両親の急逝による心痛で病に臥し、ついには死を覚悟しましたが、文化11年(1814年)の正月に日の出を拝んで復調の兆しを得て、数ヶ月で病を克服しました。そして、自らの誕生の日であるその年の冬至に、東の空に昇る朝日を拝んで神人一体の境地にいたり「天命直授」という悟りを経て、黒住教は立教しました。

したがって、黒住教では日の出を拝む「日拝」を最も大切な祈り
としています。感動と感謝の心で日の出を拝み、「まること」の精神をもって生きることに努めています。「まること」とは、黒住教独特の言葉で、「丸いこと(丸い状態と丸いはたらき)」を意味しています。「丸い状態」は、歪みや偏りのない調和のとれた状態であり、天地自然の元来の姿です。また、「丸いはたらき」とは、どのような動きや働きかけも決して一方通行ではなく、直接または間接的に返ってくる双方向性の循環の働きであることです。「まること」とは、こうした天地自然の摂理と一体になったことを指しています。

天命直授を通して、宗忠は「人は皆、天照大御神の
分心をいただく神の子
」という人間観を明らかにしました。
これは、私たち人間は全ての命の親神である天照大御神の御魂
をいただいて生まれてきた神の子
である、ということです。
私たちを守り導いてくださる天照大御神に報恩感謝の真心を
尽くして、私たちの真の心を、丸く、大きく、あたたかい、
本来の姿に養い育てることが本当に生きるということです。
“心なおしの道”である黒住教は、人生の開運の宗教であるとも
言うことができます。

日本は日の丸をかかげ、太陽をお日様・お天道様と称え崇めてきた国ですが、そうした古代からの信仰の上に、宗忠は、太陽そのものを崇拝するというよりも、昇る朝日に顕現される万物を生み出す親神として天照大御神を感じとり、日拝によって感謝を捧げることの大切を説きました。そして、日の神の分心が人々の心の奥深くに鎮まり、全ての人が神になることができると教えました。

現6代教主・黒住宗晴は、教祖神の名代として、日夜、人のため社会のために祈り、まごころを尽くしています。夜明け前から始まる日拝は、一日も欠かすことなく続けられ、その祈りと奉仕の生活はひとえに教祖神の導きを願うすべての人々のためのものとなっています。
 私たちは、一人でも多くの方が教祖神の教えにふれて、天照大御神のご神徳の中で生きる喜びに目覚め、開運の道を歩まれることを心から願っております。
御七ヶ条

「神国の人に生まれ常に信心なき事」恐るべし 恐るべし
天地自然に満ちわたる天照大御神のご神徳のなかで、生かされて生きているのが私たち人間です。自分の力で生きていると勘違いしがちな人の多い今日ですが、わが生命の本源を見失わない人間でありたいものです。

この「御七ヵ条」は、天照大御神の「分心」の器である人間の心が、常に健全な状態にあるように努めることの大事を説いているものです。”

”平成23年 2011年 東日本大震災に際して、全国の教会所において「被災者慰霊・復興祈願祝詞」を奏上祈願。
副教主が事務局長をつとめるRNN(人道援助宗教NGOネットワーク)と合同の街頭募金を一ヶ月実施
副教主、ローマ法王ベネディクト16世の主宰で開催された「世界平和のための省察・対話・祈りの日」に出席(於 イタリア・アッシジ)
「第33回世界連邦平和促進全国宗教者岡山大会」を神道山で開催 ”
歴史http://kurozumikyo.com/about/history

” 教祖神・黒住宗忠は、安永9年(1780年)11月26日の冬至の日の朝、代々今村宮(岡山市北区今)の神職をつとめる家に生まれました。幼少時より孝心があつく、20歳の頃には「生きながら神になる」という志を立てました。宗忠は「心に悪いと思うことを決して行わず、善きことのみを実行する」との厳しい目標を自らに課して“神になる”道を歩みました。しかし数えて33歳の時、かけがえのない両親が流行病によりわずか1週間の内に相次いで亡くなりました。その悲しみがもとで宗忠自身も不治の病といわれた肺結核に侵され、2年後には明日をも知れない状態に陥りました。

死を覚悟した宗忠は、文化11年(1814年)1月の厳寒の朝、幼いころから両親とともに毎朝手を合わせてきた日の出を拝みました。この“最期の日拝”の祈りの最中に、宗忠は知らず知らずのうちに大変な親不孝をしていたことに気づき、せめて心だけでも両親が安心する人間に立ち戻らねばならないと大きく心を入れかえました。この世との別れの日拝だったものが、新たな“生”への祈りに転回しました。この心の大転換により、宗忠の暗く閉ざされた心のなかに陽気な感謝の気持ちがよみがえり、その結果わずか2カ月で不治の病を完全に克服しました。

その年の11月11日。この日は昔から「一陽来復」と称され、物事が新たに始まる時とされてきた冬至の日でした。安永9年(1780年)の冬至の朝に誕生した宗忠が、死の淵を乗り越えて34回目の誕生日をこの日迎えたのです。昇る朝日に格別の思いで祈りを捧げていると、宗忠は全ての命の親神である天照大御神と神人一体になり、悟りの境地に立ちました。黒住教では、このことを「天命直授」と称して、黒住教立教の時としています。

以来、宗忠は世の中の苦しむ人や助けを求める人のために昼夜を問わず祈り、教え導き、多くの人々から生き神と称えられ、すでに神仕えの身であったこともあって自然な姿で教祖神と仰がれました。宗忠がその肉体を離れて天に昇ったのは、嘉永3年(1850年)2月25日のことでした。

宗忠の在世中に、現在の黒住教の基礎が築かれ、当時すでに数万の道づれ(信者)を擁していました。宗忠の昇天後、その生誕地であり住居があった現在の岡山市北区上中野を中心に、日本各地で黒住教の布教が広まっていきました。宗忠の教えが「神道の教えの大元」と称えられたことにより、この地は「大元」と呼ばれてきました。

皇室や公家のなかに宗忠に帰依する人が多く、孝明天皇(明治天皇の父君)の信心も得ていました。神位を非常に重んじた江戸時代において、安政3年(1856年)3月8日に「宗忠大明神」の神号が授けられ、文久2年(1862年)2月25日に京都・神楽岡に宗忠を祀った宗忠神社が建立されました。この宗忠神社は、建立からわずか3年後の慶応元年(1865年)4月に、孝明天皇の勅命による唯一の勅願所(天皇が国家国民の平安を祈るために指定した神社・仏閣)に定められ、その翌年の慶応2年(1866年)2月には、従四位下の神階を宣下されました。


昭和49年(1974年)10月27日、都市化が進んだ大元(岡山市北区上中野)の地を離れて、黒住教は神道山(岡山市北区尾上)に、壮大な日の出を求めて遷座しましたが、大元には明治18年(1885年)鎮座の宗忠神社が現在もまつられています。
”http://kurozumikyo.com/about/originator
教祖神

伊勢神宮奉賛活動
http://kurozumikyo.com/about/ise
”宗忠が生まれた黒住家は、先祖代々から今村宮(岡山市北区今)の神職として仕えていました。今村宮の主斎神が天照大御神であったため、宗忠は黒住教を立教する前に一度、伊勢神宮に参っていました。宗忠は黒住教立教後も参宮を続け、生涯で六度、伊勢神宮の神前に奉拝しています。 2代宗信のときには「伊勢千人参り」を斎行し、明治時代になって3代宗篤、4代宗子と親子二代にわたって「伊勢萬人参り」をつとめています。

このような伊勢神宮とのご神縁から、昭和48年(1973年)、第60回神宮式年遷宮(20年毎に伊勢神宮のすべての社殿を新しく造り替えて神座を還すこと)にて、古殿となった内宮の建築材を黒住教へ大量に下賜されました。
折しも神道山大教殿の建築工事のさなかであり、御本殿はすべてこの神宮のご神木で設えることができました。このご神恩に報いるためにも、昭和59年(1984年)から第61回神宮式年遷宮に奉賛するべく10年間の献納を重ねました。その後、平成5年(1993年)に第61回の式年遷宮が終わった新宮へ、平成6年(1994年)に昭和55年(1980年)以来の「伊勢萬人参り」をつとめました。

新宮に御神体をお遷しする“遷御の儀”が10月2日には内宮、5日には外宮にて執り行われ、内宮には教主、副教主、8代宗芳が、また外宮には宗忠神社宮司、黒住教教議会議長が正式参拝しました。殊に、内宮の“遷御の儀”への三代にわたる正式参拝者としての参列は過去に例がないといいます。


宗際活動
http://kurozumikyo.com/about/activity
岡山はもともと宗教間同士の交流がある土地で、昭和10年代から先代の5代教主・黒住宗和は他教団の幹部の方たちとの親交を深めていました。特に戦後は5代教主を中心とした宗教間交流が盛んで、今日の世界連邦日本宗教委員会岡山宗教者の会は、全国的にみてもユニークな活動を行っています。
 岡山には平成8年(1996年)以来、副教主・黒住宗道が事務局長をつとめる12教団からなる青年宗教者の共同、共働グループRNN(人道援助宗教NGOネットワーク)があり、大災害のときなどに緊急援助活動を国際的にも実施しています。また、平成13年(2001年)の9・11テロ直後の10月5日には、日本ムスリム協会会長(当時)の樋口美作氏を招き、RNN主催「イスラム教についてのシンポジウム」を黒住教武道館にて開催しました。

RNNは、平成17年(2005年)6月29日の岡山大空襲60年の日、「ヒーリングコンサート」の名のもとに平和を願い祈る音楽会を岡山カトリック教会で開催しました。ここでは、天台宗、真言宗の声明、イスラム教のコーラン朗誦、キリスト教プロテスタントの讃美歌、カトリックの聖歌、そして金光教と本教の吉備楽が披露されました。さらに、事前に公募して最優秀に選ばれていた詩「PEACE」に曲づけされた歌を、参加者全員で合唱して平和を祈りました。

昭和50年(1975年)、今日WCRPと呼ばれる世界宗教者平和会議の創設に尽力した立正佼成会の庭野日敬会長(当時)が神道山に参拝し、6代教主にWCRPへの参加を呼びかけました。翌年の昭和51年(1976年)11月、シンガポールにおいて開催された第1回のACRP(アジア宗教者平和会議)に出席した6代教主は、開会式の壇上に立ち開会の祈りを捧げました。これが機縁となり、昭和54年(1979年)8月、アメリカ・プリンストン大学にて開催された第3回世界宗教者平和会議に出席した6代教主は、その開会の式典が催されたニューヨークのセントパトリック大聖堂において「大調和への祈り」と題した講演を行い、開会の祈りをつとめました。また、WCRPの青年部会結成30年の記念大会が、平成15年(2003年)6月に開かれ、副教主・黒住宗道が招かれ、その記念講演をつとめました。

昭和56年(1981年)2月23日、ローマ法王ヨハネ・パウロⅡ世が来日しました。ローマ法王の訪日は初めてのことでありました。法王はまず皇居において天皇陛下に謁見し、翌日、ローマ法王庁大使館(東京都)に日本の各宗教の代表20数名を招いて会談しました。6代教主・黒住宗晴も神道の一人として招かれて出席しましたが、それぞれ何かおみやげをというなかで、教主は、法王が青年期に著わした「THE ACTIVE PERSON(行為的人格)」を持参し、そのなかの一節「人間は自己をおしみなく他者に与え尽くすことによって、もっとも完全に自己となり、人格としての在り方を実現する」の一条に感服したことを告げるとともに、法王の皇居訪問に敬意と謝意を表しました。

平成2年(1990年)、「グローバルフォーラム」の執行委員を中心に、シリアのイスラム教最高指導者アフマド・クフタロ師をはじめ各国の宗教者、そして政治家、ジャーナリストたちが来日して、神道山で「神道ワークショップ(神道国際研究会)」を開催しました。講師は後に國學院大学学長になった上田賢治氏、同阿部美哉氏、皇學館大学理事長・櫻井勝之進氏、同学長谷省吾氏、そして仏教界からは薬師寺管主・高田好胤師が参加しました。
 また、海外における神道や黒住教の研究者で後にアメリカ・ハーバード大学ライシャワー日本研究所所長となったヘレン・ハーデカ女史、ライト大学宗教学教授ウィリス・ステイツ氏、タイ・カセサート大学教授ペンシー・カンチャノマイ女史が参加して講演しました。

平成7年(1995年)3月、チベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ14世法王を、本教が責任教団となって招聘しました。これは、複雑な国際関係から11年間も日本への入国ができていなかったため、法王招致委員会の要請を受けてのものでした。法王一行は来日後、広島市に直行し、終戦と被爆から50年が経過した原爆記念碑前での法要をつとめた後、岡山市に到着しました。神道山大教殿における講演や、青年たちとの交流などが続き、さらに林原生物化学研究所や障害者福祉施設などを見学された4泊5日間の岡山訪問でした。

平成12年、西暦2000年を迎えたこの年の8月、コフィ・アナン国連事務総長の呼びかけにより「ミレニアム世界平和サミット(国連宗教サミット)」が開かれ、ニューヨークの国連本部総会議場を各国の宗教者が埋めました。副教主・黒住宗道が日本使節団の幹事長役に指名され、伊勢神宮・久邇邦昭大宮司、天台座主・渡邊惠進師をはじめ立正佼成会・庭野日鑛会長、新日本宗教連合会・深田充啓会長、大本・広瀬静水総長ら27名が参加しました。4日間のこの会議は、本教教主の閉会の挨拶と祈りでもって閉じました。
 このサミットでは本教の提案で、「世界の火薬庫」と呼ばれるバルカン半島の各地から11名の様々な宗教代表を招いて会議が持たれ、その費用の大半は岡山財界有志からの浄財によるものでありました。

9 ・11同時多発テロ発生の翌日、副教主・黒住宗道は国連宗教サミットをはじめ、それまで知遇を得てきた各国の宗教者に電子メールでもって、これが、イスラム対西洋のいわゆる文明の衝突になることのないように宗教者として共働してつとめようと訴えました。そして前記のごとく、10月5日RNN主催のイスラムについてのシンポジウム開催と続きました。翌平成14年(2002年)1月、イタリア・アッシジにおいて、ローマ法王ヨハネ・パウロⅡ世の呼びかけによる平和への祈りの集会が大々的に開かれ、副教主が参加しました。

明治26年(1893年)、アメリカ・シカゴで開かれた万国博覧会において、「万国宗教会議」という名のもとに、世界で初めて各国の宗教者が集まり、日本からも数名の宗教者が出席しました。その後、長らくこの会議は途絶えていましたが、100年後の平成5年(1993年)に同じくアメリカ・シカゴにて再度開かれることとなりました。この会議に出席した副教主・黒住宗道は、続く平成11年(1999年)の南アフリカ・ケープタウンにおける復活第2回会議に出席し、平成16年(2004年)7月スペイン・バルセロナで開かれた復活第3回万国宗教会議にも出席しました。
 このバルセロナ会議に際して、副教主は開会式の5,000人もの参加者を前に、州の大統領や地元代表の挨拶に続いて宗教者としてただ一人「平和への祈り」を捧げました。なお、開期中は「『誠』の教え─神道による平和への道─ 」と題して一時間半の講演も行いました。また、副教主は、平成21年(2009年)12月オーストラリア・メルボルンでの復活4回目の会議にも招かれて出席し、講演をつとめました。

かつてイタリア・アッシジでローマ法王ヨハネ・パウロⅡ世が主催して開催した「世界平和の祈り」を受けて、当時の天台座主山田恵諦師は「比叡山宗教サミット」を創設し、その第1回の集いが昭和63年(1988年)8月に京都で開催されました。教主・黒住宗晴は神道教団の代表として講演し、同サミット10年を記念した平成9年(1997年)の集いでは、副教主・黒住宗道が講演を行いました。なお、毎年8月初めには比叡山にて祈りの集いが持たれており、副教主・黒住宗道が出席しており、平成12年(2000年)のこの集いでは、国連宗教サミットに出席する日本使節団の結団式も執り行われました。

オーストラリア・シドニー市の西350キロほどのカウラという町に、かつて日本人捕虜収容所があり、現在も日本軍人の墓が丁重に祀られています。収容されていた1,000名を超える日本軍人は、ひそかに議論を重ねた結果、衆議一決して終戦一年前の昭和19年(1944年)8月5日未明に蜂起して突撃し、その日だけ230余名が戦死しました。オーストラリア側は戦死者を手厚く埋葬しました。

昭和52年(1977年)、前述の日豪親善少年少女柔道チームの交流(リンクつける)がきっかけとなり、日本からの柔道チームが渡豪するたびに本教教師が慰霊祭をつとめ、選手たちが神道山の“御神水”を一基ずつに注いでの参拝を重ねてきました。平成16年(2004年)8月5日、“カウラの突撃”から60年目のこの日、カウラ市当局の要請を受けた本教が各宗教教団に呼びかけ、前記RNNの天台宗、金光教そして浄土宗、浄土真宗、真言宗の宗教者と当地のキリスト教聖公会の聖職者、副教主・黒住宗道がそれぞれの祈りをもって慰霊祭をつとめました。平成26年(2014年)8月5日、70年目の慰霊祭が宗忠神社宮司・黒住忠親斎主により行われました。”

黒住教の宗際活動
http://www.kurozumikyo-osaka.com/syuusai.html
”「世界連邦日本宗教委員会」と「世界宗教者平和会議日本委員会」とともに

活動報告写真 岡山はもともと宗教間同士の交流のあるところで、昭和10年代から先代の五代教主は他教団の幹部方との交わりを深めていた。名称はいろいろ変わったが、特に戦後は五代教主を中心とした宗教間交流が盛んで、今日の世界連邦日本宗教委員会岡山宗教者の会は、全国的にみてもユニークな活動を重ねてきている。なお、現教主はこの世界連邦日本宗教委員会代表委員4名の1人となっている。岡山には平成8年(1996)以来、副教主が事務局長をつとめる12教団からの青年宗教者の共同、共働グループRNN(人道援助宗教NGOネットワーク)があって、大災害のときなどに緊急援助活動を国際的にも展開し、また平成13年(2001)のいわゆる9・11テロ直後の10月5日には、RNN主催の「イスラム教についてのシンポジウム」を日本ムスリム協会会長樋口美作師を招いて大元の武道館で開催した。

 昭和50年(1975)、今日WCRPと略称される世界宗教者平和会議の創設に尽くした庭野日敬立正佼成会会長が神道山に参拝し、教主に参加を呼びかけた。翌年の昭和51年(1976)11月、シンガポールにおいて開催された第1回のACRP(アジア宗教者平和会議)に出席した教主は、開会式の壇上に立ち開会の祈りを捧げた。これが機縁となって昭和54年(1979)8月、アメリカ・プリンストン大学を会場に開催された第3回世界宗教者平和会議に出席した教主は、その開会の式典が行われたニューヨークのセントパトリック大聖堂において「大調和への祈り」(英文)と題した講演をし、開会の祈りをつとめた。この会議のさ中、その頃険悪な間柄であった中国とソ連(当時)の宗教者との仲をとり持つ役も教主は果たして注目された。今日、世界宗教者平和会議(WCRP)日本委員会は財団法人化され、教主は理事をつとめている。
 このWCRP青年部会結成30年の記念大会が、平成15年(2003)6月に開かれ、副教主が招かれてその記念講演をつとめた。副教主は、ロンドン大学留学中の昭和62年(1987)、「WCRPピースバス」という当時の東西両陣営の国々をロンドンからモスクワまでバスで旅行する活動に、世界各国の青年宗教者の一員として参加した。またロンドンで昭和63年(1988)に開催されたグローバルフォーラムに教主の名代として出席したが、最も若い正式代表として注目を集めた。”

香港のノラ神主(黒門派)ぴーちゃん‏ @PeterYokoyama 2013年9月17日
返信先: @ponpon4774さん
@ponpon4774 黒住教だと、幕末の赤木忠春高弟の京都での活躍がなんだか、キリスト教初期のパウロのものとダブってて興味深いです。 あと各教祖様の生き方がなかなかすごい!僕は黒住教の信徒ですけど、禊教の教祖様の生き方、好きです。http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908681 …

@ponpon4774 教祖さまじゃなくて、十一高弟のひとりで、京都宣教に出た赤木忠春高弟です。この方は皇室にまで食い込んだんですよ。黒住教は地味ですが、30万人規模で生きてます。 来年は立教200年なので、今年秋から行事が多いです。機会があったら神道山に是非お参りください!

香港のノラ神主(黒門派)ぴーちゃん‏ @PeterYokoyama 2013年8月13日
@hokariyuka賛江 日本だと「ルーテル教会」と呼ばれてます。実は、僕はキリスト教徒だった時期があったんです…まあ、今でもキリスト教を棄て切ってはいないんですけどね…黒住教ってキリスト教的な要素(神の子、三位一体…)が結構ありますから

一個人編集部‏ @ikkojin_mag 2014年2月12日
【一個人別冊、日本の新宗教入門発売中!】岡山県岡山市の黒住教は、幕末に成立した新宗教の教団のうち、最も歴史が古い。日本古来の神道に立脚した開祖・黒住宗忠の教えは、時の孝明天皇や、三條実美などの公家たちから篤く信仰された。京都の宗忠神社は、孝明天皇の勅願所ともなったのである。

香港のノラ神主(黒門派)ぴーちゃん‏ @PeterYokoyama 4月7日
返信先: @okayamania1さん
岡山の大元宗忠神社と京都の神楽岡宗忠神社は同じく黒住教の宗忠大明神を祀る神社です。 弟子の尽力により幕末に当時、神社を統括していた吉田家から大明神号が認められたのですが、岡山藩の初代藩主の霊神号の神格より高くなってしまうため、岡山には宗忠神社が建立できなかったのですが、
吉田家より京都神楽岡の土地を提供され、宗忠神社はまずその地にご鎮座。政治的に岡山へのご鎮座は無理でした。 岡山へのご鎮座は混同を避けるためではなく、大明神の故郷にご鎮座を!という門人たちの悲願が、明治になって認められたためです。 ご紹介に感謝すると同時に指摘させていただきます

香港のノラ神主(黒門派)ぴーちゃん‏ @PeterYokoyama 2014年3月3日
イエス様と、黒住教の宗忠大明神はともに、太陽関係の神様なのでご降誕が太陽が力を盛り返す冬至前後なのはよく理解できる。 では、イエス様の処刑日と、宗忠様のご昇天の日(旧暦2月25日)はともにほぼ同じ春の初めごろ。太陽にとって、この時期はどんな象徴的な意味があるのだろう?

香港のノラ神主(黒門派)ぴーちゃん‏ @PeterYokoyama 2014年8月15日
返信先: @kuromonemanさん
@kuromoneman @kms_18 黒住教って、天照大御神(親)、八百万の神(大御神様のはたらき)、宗忠の神(子)を祭神としていて、どこかキリスト教の三位一体を思わせるところがあります。宗忠の神は冬至生まれで春先のご昇天、色んな人を癒した…とイエス様と共通点多い方。

菊池‏ @kikuchi_8 3月21日
返信先: @kikuchi_8さん
ミトラ教の影響も見逃せない。ミトラ信仰は太陽崇拝であり、ミトラの誕生日が冬至とされているのは「太陽の死と再生」を象徴する。これがそのままキリストの誕生日とされた。またエジプトのホルス信仰の影響もある。聖母子信仰はイシス・ホルス信仰が元であり、十字架シンボルの原型もエジプトにある。

いそけん‏ @Jirrorman 2016年12月25日
クリスマス イエス・キリストの降誕記念日。聖書等にはキリストの誕生日についての記述はなく、336年にミトラ教の冬至祭「太陽の祝日」を降誕の日とした。 冬至の時期であるこの日前後には異教の祭が重なっており、キリスト教側が布教拡大を狙ってこの日としたものと見られている。

参考文献

『生命(いのち)のおしえ―民族宗教の聖典・黒住教』 : 東洋文庫 319。道歌と書簡集、黒住宗忠 (村上重良校注) 、ISBN 4582803199
『黒住宗忠』: 人物叢書 歴史学者によるオーソドックスな伝記、著者: 原敬吾、ISBN 4642050892
『太陽の神人 黒住宗忠―その超逆転発想は、激動の時代を生き抜く処方箋』 : 著者: 山田雅晴、ISBN 4884814835
『哲人宗忠』: 著者: 延原大川、ISBN 4896190742
『眞人宗忠』:著者:延原大川
『日本神人伝―日本を動かした霊的巨人たちの肖像』: 著者: 不二龍彦、ISBN 4054013899
『近代日本霊異実録』 : 写本のみ伝わってきた「黒住教幽冥談」を収録、著者: 笠井鎮夫
『宗忠講話』:「黒住教読本」(上・下)の合本に「教祖神讃詩」(川上忠晶撰)「教祖宗忠神小傳」(星島良平述)を加えて編集刊行したもの、著者:河本一止(昭和33年3月5日発行、大道社刊)、ISBN不明


金光教




使い方わからん‏ @Show_BujuBanton 1月18日
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%8F%A3%E3%81%AA%E3%81%8A … 明治に入ると従来の神道や仏教に加え天理教、黒住教、妙霊教、金光教、キリスト教が進出していた。 カルトに紛れてシッカリ十字架カルトも 進出してたんですね。 三女・久を治癒したのが金光教亀岡教会長・大橋亀吉であり 大本の元は金光教

日月神示・ひふみ神示・一二三神示・日月地‏ @HFM012345678910 5月10日
日月(一二)大神、キリスト大神、シャカ大神、マホメット大神、黒住大神、天理大神、金光大神、大本大神、老子大神、孔子大神、総て十柱の大神は、光の大神として斎き祀り結構致しくれよ、二二晴れるぞ、一八十開けるぞ。(ソラの巻第十四帖)

教祖の教え
http://web-konkokyo.info/oshie/founder/index_html
”神と人を結ぶ-取次

 金光教の教祖(教祖生神金光大神、以下、金光大神と記す。)は、46歳のとき(1859年・安政6年)神様から、家業である農業をやめ、人の願いを神に祈り、神の願いを人に伝えて、人を救い神を助けてくれるようにと、「取次」を頼まれました。

 金光大神の助かっていく姿に、世間の人々も心を動かされ、相次いで金光大神のもとにたずねてくるようになっていたからです。

 金光大神は、人々の願い、苦しみをつぶさに聞き取って神に祈り、一人ひとりに懇切に、神と人とのかかわりを教え、人生のあらゆる営みに神のはたらきを受け現す生き方を諭したのでした。

 人々は、金光大神の取次によって、人を助けずにはおかぬという天地の親神の切実な願いを身に体し、何事も神に祈って神とともに生きる信心にめざめ、次々に助かっていくことになりました。この神と人を結ぶ「取次」によって、神も助かり人も立ち行く世界が開かれたのです。

 明治6年、金光大神は天地書附を世に示し、一人ひとりが自らも助かっていくと同時に、世の助かり、人の助かりを願い実現していく信心を確立するよう、人々に促していきました。

 金光大神は、明治16年に亡くなるまでの24年間、神様一筋に仕え、神の心を人に取次ぐことに専念し、難儀に苦しむ多くの人々を救い助け、導いていきました。

 晩年、金光大神は、「形がなくなったら、来てくれというところへ行ってやる」と語りました。今日もその通りに、世の人々のために、生神金光大神として、取次の働きが進められているのです。

 金光大神は、日々の生活における助かり、人間そのものの助かりを教えました。それは、「日に日に生きるが信心なり」と、信心にもとづく生活を進めること、生活がそのまま信心になる生き方を、たゆみなく求めつづけることなのです。

 信心とはわが心が神に向かうことであり、その姿をもって日々の生活を送ることです。そこに神のおかげを受けることができ、生かされて生きている人間であることの自覚が深まっていくのです。

 健康、経済、仕事、人間関係などの上に起こってくるさまざまな問題も、信心を進める上の大切な問題として、神様から差し向けられた事柄であると受けとめていき、いつでも、どこでも、どんな事柄でも神に祈り願って、日々神と共にある生き方を進めていくことが信心生活です。

 金光大神は、「わが心に神がある」と語り、人間の心を大切にすること、そして人と人との真実の心のふれ合うことの大切さを説きました。

 さらに金光大神は、この世に生を受けたもののつとめとして、「人を助ける身になれよ」「人の難儀を助けるのが有り難いと心得て信心せよ」と、人を助ける人間になることを願いつづけ、人を助けるのが人間である、と教えています。

 「かわいい(ふびんでならぬ)という思う心が、神心である」との教えのように、難儀な人を見て、ふびんに思う神心は、だれにも神様から分け与えられています。この神心をもって、人を助ける使命に生き、そこに大きな喜びを見出していくのが、信心であります。

 私たちは、けっして一人で生きているのではありません。多くの人の世話になり、物の恩恵を受けて生活を営んでいます。お互いが手をとりあい、心を開いて歩むのでなければ、人間の真の助かりは実現しません。難儀に苦しむ人々が、一人でも多く助かることが神様の悲願であります。

 神の子であるお互いが、神様の悲願を身に体して、助け合って生きること、そして、「人を助ける」働きをしていくことが、人間の真実の姿であり、これを「生神(いきがみ)」といいます。

 金光大神は、「生神ということは、ここに神が生まれることである」と語っております。

 つまり、生神とは、特別の人のことではなく、信心すればだれでも生神になることができる
のであり、時、所を問わず、どんな事柄についても、それに当たる人の心の中、働きの上に神が生まれることなのです。

『人はみな神の子-金光教概要-』から抜粋”

ようこそ金光教へ › 教祖の生涯
http://web-konkokyo.info/konkokyo/kyoso/index_html
”金光教(こんこうきょう)の教祖金光大神(こんこうだいじん)さまは、江戸時代の終わりごろ、文化11(1814)年8月16日(新暦9月29日)、備中国占見村(びっちゅうのくに うらみむら/現岡山県浅口市金光町)の農家、香取十平(かんどりじゅうへい)、しもの2男として生まれました。源七(げんしち)と名づけられ、実直で信仰心の厚い父と、慈愛に満ちた母のもとで、大切に育てられました。
 金光さまは、幼少のころから身体が弱かったので、父は暇を見つけてはわが子を背負い、村の氏神(うじがみ)である大宮神社(おおみやじんじゃ)をはじめ、近くの神社やお寺に参拝をしていました。そのため、父の着物は背中のあたりからすり切れてやぶれるのが常であった、と伝えられています。

注)明治6年の改暦まで旧暦表記。  
注) 以後、「教祖金光大神さま」を「金光さま」と表記。金光さまの年齢は数え年で表記。

 文政8(1825)年、12歳になった金光さまは、川をへだてた隣村の大谷村(おおたにむら)に住む川手粂治郎(かわてくめじろう)、いわの養子となりました。名前を源七(げんしち)から文治郎(ぶんじろう)と改め、周りからは文治(ぶんじ)と呼ばれるようになりました。



 養子入りの際、養父母から「好きなことは何か」とたずねられると、「神仏に参ることが好きなので、休日にはこころよう参らせてください」と答えました。また、「嫌いなものは」と聞かれて、麦飯が体質に合わなかった金光さまは、「麦飯がきらいです」と答えました。麦飯が常食であった当時の農民の暮らしから考えると、とんでもない答えでしたが、文治に期待と愛情を注ぐ養父母は、麦2斗(と)を米1斗※に換えてまで米のご飯を食べさせました。

※1斗(と)=10升(しょう)

 農民に「読み書き」は不要とされていた時代でしたが、13歳になった金光さまは、養父のはからいによって、村の庄屋の小野光右衛門(おのみつえもん)から手習いを受けることになりました。2年という短い期間ではありましたが、読み書きそろばんをはじめ、倫理や道徳についても学びました。
 光右衛門は、天文・和算・測量・暦法・方位・鑑定などにすぐれ、また、村人からの信任もたいへん厚い人物でした。そのすぐれた人格にふれて成長した金光さまが物事の道理に明るい人となり、後年、自叙録など多くの記録を書き記すことができたのも、光右衛門との出会いに負うところが大きかったのです。

 天保7(1836)年、金光さまが23歳の時に義弟の鶴太郎(つるたろう)が6歳で亡くなり、それから半月あまりの後、わが子の後を追うように養父粂治郎(くめじろう)が66歳で亡くなりました。
 金光さまは思いがけない義弟と養父の死にふれて、言いようのない悲しみや家の先行きに対する不安に襲われました。

そうした中、家督(かとく)をついだ金光さまは、養父の遺言により姓を川手(かわて)から赤沢(あかざわ)に改め、一家のあるじとしての責任を果たすため、今まで以上に家業に努めていきました。そして、その年の12月、古くからの親戚筋にあたる、古川八百蔵(ふるかわやおぞう)の長女とせさまと結婚することになりました。金光さま23歳、とせさま18歳の時のことでした。


 弘化3(1846)年、金光さまは33歳の厄年※を迎えました。当時の習慣では、親類縁者を招いて祝宴(しゅくえん)を開き、厄払いをするのが一般的でしたが、金光さまは、そのかわりに、四国霊場(しこくれいじょう)88か所を巡拝することにしました。
 巡礼者の多くは、けわしい山道を越えたり、深い谷を渡らなければならない札所(ふだしょ)にさしかかると、街道途中からの遥拝(ようはい)で済ましていましたが、金光さまは一つ一つの札所に足を運び、心をこめて丁寧に巡拝しました。

※厄年:一般に、33歳は女性の厄年とされるが、この地方では男性の厄年でもあった。

 次第に生活が豊かになり、家族も多くなったことから、これまでの小さな家を建て替えることにしました。
 嘉永2(1849)年の暮れ、隣村の住居購入の話を持ちかけられた金光さまは、日柄方角を見てもらい、その家を購入することにしました。
 しかし、翌年、小野光右衛門(おのみつえもん)から「年まわりが悪い」と指摘されました。すでに家を買い取っていたことから、再度、光右衛門に日柄方角を見直してもらうと、きびしい条件つきでようやく建築が許されました。



 金光さまは着工するにあたって、金神(こんじん)に無礼のないよう細心の注意を払って工事にのぞみましたが、その途中で2男の槙右衛門(まきえもん)が9歳で亡くなり、その後も、農家にとって大切な飼い牛が2頭死にました。
 思い起こせば、この15年あまりの間に、養父、義弟をはじめ、築いた墓は7つ。家が繁栄していく一方で、おそろしい「金神七殺(こんじんしちせつ)」を思わせる不幸に見舞われたのです。


金神(こんじん)のたたりに対して、あらゆる手だてを尽くしながらも、不幸をまぬがれることができなかった金光さまの切実な思いを込めた参拝でした。

8 42歳の大患
安政2(1855)年4月25日、金光さまは「のどけ」と呼ばれるのどの病気にかかり、生死の境をさまよいました。
親類たちが集まり、病気回復の祈祷(きとう)を行うと、義弟の古川治郎(ふるかわじろう)に神がかりがあり、37歳のときに行った家の建築について「金神に無礼があった」という指摘がなされました。そして、ひたすらおわびをする金光さまに神様から、「その方の信心に免じて神が助けてやる」と告げられたのです。
 この出来事で金光さまは、はじめて神様に出会うとともに神様のおかげを受け、日柄方角にゆさぶられてきた人生を大きく変えることになりました。

 安政4(1857)年10月、かねてより金神信仰をしていた実弟の香取繁右衛門(かんどりしげえもん)に神がかりがあり、金光さまに対して「金神の宮を建築してほしい」と頼まれました。実弟の口を通してとはいえ、金神様からはじめてお願いをされたことで、金光さまは、建築費用の一切を受け持ち、弟が安心して神様の御用ができるようにと心を配りました。
翌年の正月、繁右衛門の広前※に参拝した金光さまは、弟の口を通して、「神の言うとおりにしてくれ、その上に神と用いてくれ、神もよろこぶ。これからは何事も神を一心に頼め」と告げられたのです。

※広前(ひろまえ):神様の御前という意味。神様のまつられている場所。
 安政5(1858)年に入ると、金光さまは自宅の神前で、朝晩、一心に祈念をするようになりました。すると、その年3月には手の動きにより、ついで、7月には自分の口を通して、神様からの「お知らせ」を受けるようになりました。
 同年9月、金光さまは神様の「一乃弟子(いちのでし)」に取り立てられ、その手はじめとして、はだしでの農作業を命じられました。

 それを見た妻は「信心ばかりして、わらじの一つも作らないと人に笑われます」と反対しました。金光さまは農具にわらじをくくりつけ、たずねる人には「わらじが足にあわないので」と答え、妻の気持ちをくむことも修行としつつ、神様の教えどおりにしたがう生活をつらぬいたのです。

 神様の「お知らせ」にしたがっていくうちに、金光さまは不思議なおかげを次々と受けるようになりました。そして、それを見聞きした人たちが難儀や悩みを抱えて、金光さまのもとを訪れるようになりました。
 安政6年(1859)、神様は金光さまに、「15歳になった息子の浅吉(あさきち)に家督をゆずり、隠居をするように」と告げました。これを受けた金光さまは、徐々に仕事を浅吉にゆずっていきました。
この年の秋、神様は「浅吉に牛を使わせよ」と金光さまに命じ、それを妻が心配して、金光さまに使い始めをうながしました。しかし、牛は暴れて手におえず、「これは神様のお知らせに違いない」と思い直して浅吉に使わせると、牛は急におとなしくなりました。
 神様の教えにしたがうことの大切さを、今さらながら痛感した出来事でした。

12 立教神伝
安政6年(1859)年10月21日(新暦11月15日)、その年の麦まきがすべて終わったころ、神様は金光さまに五色の幣(へい)※をつくらせ、神前に供えるよう命じました。神様の言うとおりに幣を作ると、「家業である農業をやめて、世間で難儀をしている数多くの人たちを、取次ぎ助けてやってくれ」という願いが告げられました。
 金光さまはつつしんでこれを受け、自宅を神様の広前として、人を助け導く御用に専念するようになりました。
 教団では、このお知らせを「立教神伝(りっきょうしんでん)」とし、この日を金光教の立教としています。


※幣(へい):木の棒の先端に切り込みを入れた串に、特殊な断ち方をして折った紙や木綿、麻などの紙垂(しで)を差したもの。

 自宅の神前で取次※に従事するようになった金光さまのもとには、難儀を抱えた参拝者が次々と訪れるようになりました。当初は家族をはじめ、多くの者が心配し、反対する者さえありましたが、参拝者は増え、自宅は徐々に手狭になっていきました。
 文久元(1861)年1月、神様は、母屋の東にあった小屋を建て替えるよう金光さまに命じました。このお知らせは、間口や奥行き、柱の寸法、大工の名前などまで細かく指示されたものでした。周りが騒ぐ俗信(ぞくしん)にとらわれず、神様のお知らせのままに建築を進めていくと、これまでのような家内の不幸に出会うこともなく、無事にできあがったのです。

取次(とりつぎ):人の願いを神様に、神様の思いを人に伝えて、神様と人とが共に助かっていく世界を顕現(けんげん)するための働き。

 近くの修験者(しゅげんじゃ)たちは、金光さまの教えが各地に広がっていくことを、こころよく思っていませんでした。彼らは、広前にしばしばやってきては、金光さまが布教資格を持たないことを盾にして、神前の神具(しんぐ)や供え物を持ち去るなど、さまざまな嫌がらせをしました。
 金光さまは、「このお道は年々にご繁盛なさる。先で合点(がてん)せよ」と信者をさとしていきました。
 文久2(1862)年11月23日、神様は、新たに「金光大明神(こんこうだいみょうじん)」という神号(しんごう)を金光さまに授けられました。布教上の問題が大きく浮上していたこの時期に、「金光」を冠した新たな神号が下げられたのは、神様の光を世に現わした者として、さらなる願いがかけられたと言えるでしょう。

 当時の金光さまの広前は、自宅の部屋がそのまま用いられており、およそ神様をまつる社殿(しゃでん)らしい建物とはかけ離れた、非常に質素なものでした。
 元治元(1864)年元日、「神の宮を建ててくれ」というお知らせが金光さまに下がりました。
 さらに、「神が宮に入っていたのでは、この世が闇になる」と言われる神性と、「取次の宮」であり「参拝者の願い礼場所」という、広前の意義が力強く示されました。これを受けた金光さまは、神様の願いのままに宮建築の手続きを進めていくことになりました。

16 神主職の取得

 当時、農民が神事に仕えることや、新たに宮や社(やしろ)を建築することは禁止されていました。したがって、早急に神事に仕えることができる資格を得て、お上(政府)から宮建築の了承を得ることが必要でした。
 そこで、金光さまは京都の白川家※に代理人を使わし、神職入門の承認を得て、自宅で神事を仕える許状(きょじょう)を受けることができました。
 これよって、斎藤重右衛門(さいとうじゅうえもん)や高橋富枝(たかはしとみえ)など、各地で取次にしたがっていた金光さまの弟子たちも、公に布教できる資格を求めて次々と白川家に入門することになりました。


 元治元(1864)年10月、金光さまは「金光大権現(こんこうだいごんげん)」という新たな神号を許され、妻とせさまにも初めて「一子明神(いっしみょうじん)」という神号が初めて許されました。

※白川家(しらかわけ):朝廷の祭祀(さいし)を司る長官職の家柄で、神職への補任や各種神事に関わる許状の下付(かふ)、神職や祭神への叙位(じょい)や称号の下付を取り次ぐ神道宗家の一つ。


17 生神金光大神
 宮建築の認可が下りたにもかかわらず、建築にあたる棟梁(とうりょう)の行いが神意(しんい)に沿わなかったために、中断を余儀なくされました。
 明治元(1868)年9月24日、金光さまは神様から「生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)」の神号を授けられました。生きながらにして“人を助けて神になる”という信心を日々実現している金光さまに対しての、最後の神号でした。

 さらに、「『天下太平(てんかたいへい)、諸国成就祈念(しょこくじょうじゅきねん)、総氏子身上安全(そううじこみのうえあんぜん)』と書いた幟(のぼり)を立て、日々祈念をせよ」と命じられました。
 金光さまに改めて求められたのは、世の中と世の人々の立ち行きを祈念することでありました。

 明治3(1870)年10月、金光さまは神様から、「信心辛抱(しんじんしんぼう)の徳をもって、天地のしんと同根(どうこん)なり。神が礼を申す」とたたえられました。
 この年、失明がもとで金光さまのもとへ参拝して信心に触れ、後に開眼のおかげをうけた岡山の白神新一郎(しらかみしんいちろう)は、明治4(1871)年、本教で最初の布教文書となる「御道案内(おみちあんない)」を著しました。

 明治7(1874)年11月23日(旧暦10月15日)早朝、神様から「御覚書(おんおぼえがき)」の執筆を命じるお知らせが下がりました。金光さまは、すでに慶応3(1867)年ごろから、神のお知らせを中心に書きとめた「お知らせ事覚帳(おぼえちょう)」を記していました。それをもとにしつつ、「自らの生い立ちや信心はじめのころにさかのぼって、身のまわりでおきたことを記すように」という神様のご指示でした。
 「御覚書」は、金光さまが神様と感慨(かんがい)をともにしながら書き進めたものであり、記されている一つ一つが神様の思いにそって生きてきた金光さまの信心のあかしでした。

 明治9(1876)年8月13日(旧暦6月24日)早朝、神から次のようなお知らせが下がりました。
 「金光大神、人が小便放(ひ)りかけてもこらえておれい。神が洗うてやる。人がなんと言うてもこらえておれい。天地の道がつぶれとる。道を開き、難渋(なんじゅう)な氏子助かることを教え」


 このお知らせの2か月後、鴨方(かもがた)の巡査2人が来て、金光さまに尋問を行いました。以後、金光さまはたびたび神勤のあり方に干渉を受けるようになりました。ちょうど、明治政府の警察組織が整いつつあったころです。
 これを心配した信者たちは、天照皇大神をまつり、国の方針にしたがった信心教育を施すとして、当面の神勤行為を認めてもらうための請願書を、金光さま名義で県庁に提出しました。この出願に対して一応の認可は下りたのですが、これは神様と金光さまにとって本意なものではありませんでした。

 中断されていた宮建築が、明治10(1877)年になって再開されることになりました。村人からの働きかけによるもので、神様の願いを受けて進めてきた今までとは違った動きでした。
 翌年には「素戔嗚神社(すさのおじんじゃ)」と社号(しゃごう)が定められ、金光さまの4男萩雄(はぎお)が祠掌(ししょう)※に就任し、寄付を集める方法として木札や守り札が売られるようになりました。しかし、神様から「木札や守り札は出すな。貧しい人々が助からない」とのお知らせがあり、中止されました。


 明治12(1879)年11月8日(旧暦9月24日)早朝、神様は金光さまへのお知らせの中で、「天地金乃神は、人がおかげを受けて真心から供える物は受け取るが、利益を目的とする神ではない」と、あらためて明言され、守り札を求める人々に対しては、信心の目当てとして、「天地書附(てんちかきつけ)」が渡されるようになりました。
※祠掌(ししょう):神官の職名の一つ。

 明治13(1880)年12月25日(旧暦11月24日)、金光さまは神様から、「昔は神代(かみよ)といったが、今は人代(にんよ)である」というお知らせを受けました。明治の世になって、鉄道や蒸気船、電話や電信など、さまざまな文明の利器が海外から持ち込まれるようになり、こうした目を見張るような時代の動きは、折々に金光さまの耳にも届いていました。


 しかし、神様の働きの賜物(たまもの)である天地の営みに対する敬いの心がうすれ、わが力に頼って生きることで難儀をしている「人代」の姿を神様は憂い、人々が神様と共に生きる「神代」に戻ることを金光さまに伝えたのです。

 金光さまの広前の紋章(もんしょう)は、はじめ「丸に金の字」が用いられていました。文久2(1862)年、笠岡(かさおか)で取次に仕える斎藤重右衛門(さいとうじゅうえもん)が、この紋を染めた幕(まく)を神前にお供えしたのが始まりとされています。
 明治14(1881)年1月30日(旧暦1月1日)「ご紋を変えよ。八正金神(はっしょうこんじん)、八つ割りとせよ」というお知らせが下がりました。この時から、金光教をあらわす紋章として、「八つ波(やつなみ)の紋」が使用されることになりました。


 「金光(こんこう)とは、金光(きんひか)るということである。金は金乃神(かねのかみ)の金、光は天(あま)つ光である。天つ光があれば明るい。世界中へ金乃神の光を光らせておかげを受けさせるということである」という「金光(こんこう)」の意味内容が、この紋章には込められているのです。

 明治15(1882)年11月24日(旧暦10月14日)早朝、金光さまは神様から次のようなお知らせを受けました。
 「天地の間のおかげを知った者なし。おいおい三千世界、日天四(にってんし)の照らす下、万国まで残りなく金光大神(こんこうだいじん)でき、おかげ知らせいたしてやる」


 金光さまのまわりには、さまざまな難儀が絶えず渦巻いていました。人間の我情我欲(がじょうがよく)や天地に対する無礼など、それらはすべて人間側の問題であり、神様への敬いがないところで起こる問題でもありました。
 そのような人間におかげを受けてもらいたいと、老いゆく金光さまのまなざしは、大谷の地や日本という国を越え、天地の間に住むすべての人たちへと向けられていったのです。

 金光さまが自宅の神前に奉仕するようになってから、24年が過ぎました。その間、人々の苦しみを聞いては神様に祈り、神様の願いを参拝者に伝える中で、たくさんの人々が助かっていきました。
 明治16(1883)年9月21日(旧暦8月21日)早朝、金光さまは神様から次のようなお知らせを受けます。
 「人民のため、大願の氏子助けるため、身代わりに神がさする、金光大神ひれいのため」
 このお知らせから19日後の明治16年10月10日(旧暦9月10日)、金光さまは妻とせと娘のくらに見守られて、眠るようにこの世を去りました。70歳でした。
 金光さまは、生涯かけて世の難儀を救い続け、死を迎えた後も肉体の制約を超えて、永世(えいせい)生きどおしの神とお立ちくださることになったのです。”

参拝のしかた
http://web-konkokyo.info/konkokyo/sanpai/index_html
”※1 参拝時の柏手(かしわで)は、四拍手(しはくしゅ)【4回】です。
 拍手は、神を拝む際に、手の平を打ち合わせる拝礼作法ですが、金光教では、「拍手によって、神は扉を開いて、その祈りを聞き届ける」という伝承が残っています。教祖は、神を拝むには心を向けることが大切で、拍手もむやみに大きな音をたてなくてもよいと伝えています。
 金光教では、「四」の数字を忌む一般の風習を戒め、「四」に「よかれ」「しあわせ」の意味を込める教祖のおしえ、精神に基づいて拍手を4回と定めています。
※2 (3)の祈念の際、定められた祈りの言葉を唱えることもできます。
 金光教拝詞集」には、神前拝詞、霊前拝詞が収められています。”


第27回世界連邦平和促進全国宗教者大阪大会
11月29日 金光教泉尾教会で開催予定
テーマ「人類に平和を―世界連邦実現への道―」
http://www.jinruiaizenkai.jp/Japana/ja-gazetoj/2005/05-11/shinbun05-11-4.html
”世界連邦運動を進める宗教者による「第27回世界連邦平和促進全国宗教者大阪大会」(主催・世界連邦日本宗教委員会、協賛・〈財〉日本宗教連盟、後援・世界連邦推進日本協議会/世界連邦日本仏教徒協議会、協力・金光教)が、11月29日、金光教泉尾教会(大阪市大正区三軒家西3の8の21)で開催される。今回のテーマは「人類に平和を―世界連邦実現への道―」。

 大会は、午前10時半から「世界平和祈願万国万霊慰霊祭」を執行の後、開会式。 午後1時から、バチカン諸宗教対話評議会副議長のフェリックス・マチャード師が「21世紀の世界平和構想―宗教間の対話から世界平和を―」のテーマで基調講演。これを受け、大会テーマに沿ったパネルディスカッション
が行われる。

 パネルディスカッションは、植木光教世界連邦推進日本協議会会長をコーディネーターに、中野寛成前衆議院副議長、薗田稔京都大学名誉教授(秩父神社宮司)、城忠彰広島修道大学教授(国際法)、野下千年世界連邦日本宗教委員会副委員長、青山俊董特別尼僧堂・愛知専門尼僧堂堂長の各氏がパネリストとして発言し、世界連邦実現へのロードマップを探る。

 4時半から閉会式を行ない大会宣言文を採択。5時半からレセプションが開かれる。大会参加費=3千円レセプション参加費=1万円。

 問い合わせ=世連日宗委事務局(0771・25・2145)


 争いのない平和な理想世界を築く運動である人類愛善運動を推し進めようとする私たち人類愛善会員は「世界連邦」を正しく理解し、多くの人に説き広めなければなりません。

 このたび人類愛善会から出版されました冊子「よくわかる世界連邦」は、まさにその世界連邦運動の歴史と意義を分かりやすくまとめたもので、会員必須の学習書であるとともに、近隣の人にもお伝えし、ご理解いただくための啓発書でもあります。

 特に来年度は冊子「よくわかる世界連邦」をテキストに使い、「世界連邦」を中心に人類愛善運動全般についての学習活動、また、各種愛善講座の開催を国内宣伝活動の柱といたしたく考えております。

 つきましては、「よくわかる世界連邦」の積極的なご活用をお願い申し上げます。

 なお、この冊子は非売品となっておりますが、愛善運動基金カンパとして1冊100円にてお分けさせていただきます。詳しくは事務局までお問い合わせください。
〈電話0771・23・2145〉(人類愛善会総本部)”


世界連邦運動協会
http://timetide.way-nifty.com/993666/2017/01/post-4f0d.html
”世界連邦運動協会
東京都新宿区四谷4-23 第一富士川ビル
2009年8月-東京都台東区東上野1-20-6 丸幸ビルに移転
2015年9月-東京都港区赤坂7-2-17 赤坂中央マンション 303に移転

■役員抜粋

執行理事 三宅光雄 金光教泉尾教会長

執行理事 稲垣裕彦 人類愛善会 副会長 世界連邦日本宗教委員会 会長代理”


ひびのけい‏ @hbnk 2014年5月23日
金光教は、五代目歌右衛門・初代吉右衛門・初代鴈治郎ら名だたる歌舞伎役者が信者で有名だが、初代教祖赤沢文治の生涯を描いた1982年「あいよかけよ」(朝日座)では、祖父の代から信仰してる今の藤十郎が主役、二代鴈治郎も顔を見せ、関西歌舞伎・新劇の俳優が大挙出演してた。動員数などは不明。



金光教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%85%89%E6%95%99#.E6.95.99.E3.81.88
”1889年(明治22年) 7月4日 金光萩雄・佐藤範雄「日本赤十字社」に入社。金光教での赤十字運動の開始。
…1907年(明治40年) 9月30日 松山成三満州布教開始。
1910年(明治43年) 6月から7月 金光教監佐藤範雄、満州・朝鮮布教視察。

著名人の信徒

市川猿之助 (歌舞伎役者)
市川右團次 (歌舞伎役者)
伊藤昌哉(政治評論家)
扇千景
小川洋子
小田原大造
片岡孝太郎 (歌舞伎役者)
桂かい枝
かんべむさし
甲本ヒロト (ミュージシャン)
坂田藤十郎 (歌舞伎役者)
サトウサンペイ
品川祐 (お笑い芸人) - 親の実家が金光教信者。
杉田二郎
鈴木清一 株式会社ダスキン創業者
砂川しげひさ
中村鴈治郎
十七世中村勘三郎 (歌舞伎役者)
十八世中村勘三郎 (歌舞伎役者)
中村吉右衛門 (歌舞伎役者)
七世中村芝翫 (歌舞伎役者)
八代目中村芝翫 (歌舞伎役者)
九代目中村福助 (歌舞伎役者)
西村朗 - 実家は神仏への信心が深く、神道においては金光教を信仰していた。
日枝久
牧野省三
松木安太郎 (サッカー解説者) - 名前が、玉水教会初代教会長湯川安太郎にちなんでいる。
三田寛子
吉見一起 (プロ野球中日ドラゴンズ) - 金光大阪高校出身。
萬屋錦之介”

中村錦之助伝~生い立ち(その3)
http://blog.goo.ne.jp/sesamefujii/e/d0c63de58646738d31a3e8aad4343667
”金光教は、一種の現世ご利益の宗教であると言えようが、その現実肯定的な救済思想もあってか明治期には主に西日本の庶民階級を中心に信者を増やしていった。やがて教団の強化によって、大正から昭和にかけて全国に広まり、とくに大阪、京都、東京などの都市部では、商人や花街の芸娼妓、そして歌舞伎役者の多くが信者に加わった。
 金光教の熱心な信者だったといわれる芸能人では、古いところでは映画監督の牧野省三(一八七八~一九二九)、歌舞伎役者では初代中村鴈治郎(一八六〇~一九三五)が有名である。
 牧野省三は、明治四十二年金光教の岡山本部へ行き、その神託によって「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助を見出し、時代劇の大スターにしたというエピソードを残している。息子の映画監督マキノ雅弘の本名「正唯」も金光教が名付け親だったという。
 また、初代中村鴈治郎は、明治大正期の上方歌舞伎の大看板であるが、金光教への信仰が篤く、一門全員に金光教を信仰させたというほどの信者だった。その信仰は、息子の二代目鴈治郎(一九〇二~一九八三)、孫の現・坂田藤十郎(一九三一~ 元・中村扇雀、三代目鴈治郎)に伝わっている。
 東京の歌舞伎役者では、同じく明治大正期の大看板五代目中村歌右衛門(一八六六~一九四〇)も信者だった。ということは、歌舞伎界の東西の両巨頭が金光教を信じていたことになる。五代目歌右衛門の血筋では、次男の六代目中村歌右衛門(一九一七~二〇〇一)と、早世した長男五代目福助の遺児で孫の七代目中村芝翫(一九二八~二〇一一)も信者だった。

 初代吉右衛門も自伝の中で、自分は法華宗(日蓮宗)の信者であるが、一時期(関東大震災前頃から)金光教を大層信心し、岡山の本部へも何かにつけてお参りしていたと書いている。
 錦之助も子供の頃、母に連れられて岡山の金光教本部へ何度かお参りしている。
 金光教は他の宗教にも寛大で、同時にどんな神様仏様を拝んでもかまわないそうだが、錦之助は金光教だけでなく、生涯を通してずっと信心深かった。昭和三十年代、錦之助が京都東山の家に住んでいた頃は、金光様と狸谷の不動様をまつって、朝晩拝んでいたという。狸谷の不動様とは、京都の一乗寺下り松の上にある狸谷山不動院のことで、本尊は不動明王である。”

◎『外から見た金光教』(金光教大崎教会 田中元雄氏 著、ぎじろくセンター、1992年発行)からの抜粋
  (すべて教外者)
http://www.hachigamenet.ne.jp/~konkokyo/frame_konkoukyotoha.htm
”・長谷部日出男氏(作家)「たがいに相より相かかわるという相対的な『関係』のなかに、神と人との結びつきを認める金光教の教義は、画期的なものといってよく、いまの世界思想の最先端とも一致する考え方ではないか」

・村上重良氏(元慶応義塾大学講師・宗教学)「宗教思想の先進性をもつ金光大神を、広く認識し再評価することは、特に有意義な課題というべきであろう」

・丸山照雄氏(日蓮宗僧侶・宗教ジャーナリスト)「教団自体の責任において、教団の責任者も中に入って、教団の自己批判をしたり、社会問題を論じたりできる力量をもった教団はそうあるものではない」

・岸本英夫氏(元東京大学教授・宗教学)「日本で生まれたもっとも重要な宗教の一つは、金光教である」

・森岡清美氏(成城大学教授・日本学術会議会員・前日本社会学会会長(社会学)「ひとりひとりの、悩みをかかえる心の奥ひだまでふれていくようなあり方がなされている。…信者の人たちは良い意味でとてもまじめだ。これも金光教の信仰スタイルからくるものだと思う」

・平井直房氏(國學院大學教授・日本文化研究所所長(神道学・宗教学)「…お話を聞かせていただき、これが本当の信仰だ、とたいへん感銘を受けた。教えの生きた姿とはこういうことをいうのだと思った」

・笠原一男氏(元東京大学教授・歴史学)「金光さんはいいですね、宗教というものはこうでなければならない」

・チャールズ・ロング博士(カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授・宗教学。前アメリカ宗教学会会長)「こんにちのように、世界中が危険に満ちみちた状態である時であればあるほど、金光教のような中身をもった宗教が求められているのである」

◎書籍類からの抜粋

○かんべむさし氏(SF作家・信奉者)著の『理屈は理屈 神は神』(講談社、2005年発行)より
・「これからも、死ぬまで頼らせてもらえるのだという安心感があるから、通いつづけようとは思っている。…『よくぞ、おれにぴったりのこんな宗教があり、ここにこういう教会があってくれたことよなあ』という思いは、今も不変なのだ」

○サトウサンペイ氏(漫画家・信奉者)著『ドタンバの神頼み』(光文社、1989年発行)より
・「先生の教え方が親切でていねいな宗教が好き。…よく効く宗教が好き。…お金を出せと手を出さない宗教が好き。…霊を商売道具にしない宗教が好き。…人を困らせない宗教が好き。」

○小川洋子氏(作家、信奉者)
『深き心の底より』(海竜社、1999年発行)より
・「金光教は日本人の遺伝子に流れる東洋的価値観を、うまく表現した宗教と言えるだろう。…小説を書いていて、金光教と文学がそれぞれに持つ許容の性質は、どこかで響き合うのではないかと感じることはある。」
『金光新聞・神様ありがとう』(金光教本部、1997年発行)より
・「金光教の教祖様が(生かされて生きてあり)とみ教えくださっていますが、(書かされながら、みずから書く)という心持ちにある時こそ、真実のものが書ける気がするのです。」

○山口文憲氏(エッセイスト・教外者)著『日本ばちかん巡り』(新潮社、2002年発行)より
・「…ところが金光教では、教祖の時代からすでに百数十年を経たいまでも、教主と一信者との直接のコミュニケーションを、取次というかたちで、ちゃんと保証しているのである。そんな牧歌的な大教団が、ほかにあるだろうか。」「…それ(祭典時の信者の様子)を見て、私はこの金光教という宗教に、座布団をもう一枚進呈する気になった。」

○松木安太郎氏(サッカー解説者、信奉者)『金光新聞・神様ありがとう』(金光教本部、1997年発行)より
・「自分の環境は、気持ち一つで変えられます。それは金光教祖様の、おかげは和賀心(わがこころ=和らぎ喜ぶ心)にあり、というみ教えの実践だと思います。どんな壁にだって必ず穴があります。少し考え方を変え、前向きに工夫し努力すれば、素晴らしい力が出せます。自分の心次第で打ち勝っていくことができます。このみ教えはそう心に響いてきますし、僕自身、いつもこのみ教えを基本に持っていたいと思っています。」

○中村橋之助氏(歌舞伎俳優、信奉者)『金光新聞・神様ありがとう』(金光教本部、1998年発行)より
・「父は朝、顔を洗ったあと、ご神前に座り、手を合わせて長い時間、お祈りしています。父は、いろんなことを神様に聞いてもらっているんだと思うのです。…祖母の代から続いている慣わしですが、私の女房も私の舞台初日の前日には必ず教会にお参りし、舞台とか役のことをお願いするんです。そして、ご神米を頂いて帰って、それを私の衣装の下に縫い込んでくれます。…信仰のおかげでたくさんのことを教えて頂いていますが、特に祖先を敬う心が大切。私が何代目という世界にいるから、一層強く感じています。」”

世界連邦 岡山県宗教者大会
http://web-konkokyo.info/data/n1279605256
”第30回世界連邦岡山県宗教者大会(世界連邦岡山県宗教者の会主催)が6月29日、「すべてに礼をいう心」をテーマに、岡山県浅口市金光町の金光教本部の金光北ウイングやつなみホールで開催された。金光教をはじめ、大本、県神社庁、県佛教会、キリスト教、黒住教、津山宗教委員会、念法真教、立正佼成会からの参加者約3百人が世界平和への願いを新たにした。【金光新聞

 初めに、午後1時から平和祈願祭が仕えられ、祭主の安武秀信教会部長が祭詞を奏上…
 その後、宗教者大会が開会。初めに主催者代表として、世界連邦岡山県宗教者の会の橋本明禅会長が「紛争や人心の荒廃が甚だしい今こそ、私たちが地球市民の一員として、平和な未来構築のために努力し、一人でも多くの関心を高め、世界連邦政府が実現するよう祈念する」とあいさつ。次に、大会長として佐藤光俊・金光教教務総長が、「感謝、真心、親切といった、神仏と人間、人間と人間を結び付ける心情をはぐくみ、われひと共に助かる在り方を大切にする生き方が、世界連邦運動への着実な歩みとなる」とあいさつした。 続いて、岩手大学名誉教授の山崎達彦氏が、「迷走する価値観の現状と信仰の役割」と題して記念講演。”

三宅光雄教会長がIARF会長に選任
http://www.relnet.co.jp/izuo/brief/101009.htm
”  2010年9月4日から7日まで、ダライ・ラマ14世をはじめ全世界から六百余名が参加して、インド南部のケララ州コーチ市で『対立を越えて和解へ:21世紀の挑戦』をテーマにIARF(国際自由宗教連盟)の第33回世界大会が開催され、三宅光雄金光教泉尾教会長がIARF会長(任期4年)に選出された。


数百名の参加者で満堂となった世界大会開会式

  9月4日午後、今回の世界大会の会場であるCRC(カトリック・リニューアルセンター)周辺は、大勢の警官が警備する異様な雰囲気であった。インドでは、宗教対立によるテロ事件等も珍しくなく、チベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ14世法王をはじめ、日本や欧米から大勢の外国人が集まるこの機会は、テロリストが「何か事件を起こす」には絶好の機会だからだ。開会式は、CRC最大の施設ヨハネ・パウロ2世記念講堂(オーディトリウム)で行われた。最初に、日本からのヨガグループとコーラスグループが実演を行い、コーチ市長や地元の宗教者が歓迎の挨拶を行った。続いて、大会実行委員長のホミ・ダラー博士が歓迎の挨拶、トーマス・マシュー博士が会長演説を行った。

  物々しい警備陣に囲まれて到着したダライ・ラマ14世法王は、30分間にわたる基調講演を行った後、フロアの一般参加者との質疑応答を30分間も行われた。ノーベル平和賞受賞者でもある法王が、一般大衆からの質問に丁寧かつユーモアを交えて回答される様子に、会場は大いに盛り上がった。IARFが4年に1度の世界大会時に授与している『シュバイツアー賞』のダライ・ラマ法王へのプレゼンテーションスピーチを三宅善信金光教泉尾教会総長が務めた。ノーベル平和賞受賞であるアルバート・シュバイツアーは、日本では、アフリカの民衆のために医者としての生涯を捧げた「偉人」として知られているが、音楽家バッハの研究者であり、自身オルガニストでもあった。さらには、新約聖書の文献学的研究でも第一級の成果を挙げている神学者でもある。特に主著『生への畏敬』で知られる哲学者でもあった。おまけに、シュバイツアーは、IARF創設の元となったユニテリアンのメンバーでもあった。

ダライ・ラマ14世への「シュバイツアー賞」授与理由を述べる三宅善信総長


  この後、ダライ・ラマ法王は、西田多戈止一燈園当番が持参した「マハトマ・ガンジー縁のチャルカ(糸紡ぎ車)」を回した。「20世紀の聖者」として世界中から尊敬されるガンジー翁は、徹底的な非暴力思想でインドの独立を勝ち取ったが、そのシンボルがこの小さな糸車であった。ガンジー翁がかつて糸を紡いだチャルカをダライ・ラマが回し、その後に続く多くの人がチャルカを回すことによって、人々の心がひとつになるというシンボライズされた場面であった。なお、この日の開会式に当たって、110年に及ぶIARFの歴史上初めて、バチカンの正義と平和評議会議長のピーター・タークソン枢機卿からメッセージが寄せられたが、これは三宅光雄教会長が7月上旬にバチカンを訪問し、FIARFからのへの支援を要請したことにローマ教皇庁が応えたものである。

マハトマ・ガンジー縁の「チャルカ(糸車)」で糸を紡ぐダライ・ラマ14世と、
それを見守る三宅光雄泉尾教会長(左側)と西田多戈止一燈園当番(右側)

  翌5日は、記念講堂で全体会議①が『人権を推進することにおける宗教の役割』をテーマに開催された。インドの社会運動家として著名なスワミ・アグニベシュ師と、UUA(ユニテリアン・ユニバーサリスト協会)のピーター・モラレス会長と、ムンバイ高等裁判所のマルチア・ローハニ弁護士を発題者に迎えて、三宅善信師がモデレータとなってディスカッションが行われた。話は、古代インドのウパニシャド哲学から最先端の医療技術と倫理の問題、アメリカにおいて差別されている中南米系(ヒスパニック)移民からイランで宗教弾圧を受けているバハイ教徒に至るまで多岐にわたったが、三宅善信師はモデレータの役目を難なくこなした。

  翌6日も、前日を同様のスケジュールで進行し、「朝の祈り」に続いて、全体集会②が『科学と宗教:対立か集合か』をテーマにそれぞれ基調発題者とモデレータの下に開催された。午後の「総会」第2日目は、前日の「総会」で話し合われたいろんな案件の決議を取っていく部分である。この日の総会のクライマックスである役員人事の投票に入り、三宅光雄金光教泉尾教会長の会長就任を含む国際評議員19名の人事が可決された。なお、副会長にはイスラエルのシュロモ・アロン博士が、財務担当役員には英国のジェフ・ティーゲル氏が選任された。

  大会最終日となる7日は、インド全域において交通ゼネストが行われたが、宿泊先ホテルから徒歩で会場入りした新会長の三宅光雄師と世界各国から参加した約200名の青年たちの意見交換会が急遽持たれることになった。今回の世界大会に先立って、9月1日から3日まで、「RFYN(自由宗教青年ネットワーク)」大会が開催されており、世界各国から約200名の青年が参加したことである。特に注目されたのは、これまでIARFの活動がほとんど及んでいなかったアフリカの数カ国からや、旧ユーゴスラビア地域、今なお戦火の絶えないアフガニスタン、さらには、インド国内多数居るチベット難民の青年たちも多数参加したという点である。三宅新会長は、これらの青年たちの要望を聞き、また、自身の青年たちに対する期待を述べた。

  閉会式の基調講演者を務める予定であったカラン・シン博士(註:親の代まで、カシミールとジャミールのマハラジャで、旧ネパール王室とも姻戚のインド国民会議派の重鎮。インド大統領候補。三宅歳雄初代教会長と共に、長期にわたりTOUの国際委員長を務める)は、直前に勃発したカシミール地方での中国軍の介入問題に対処するため、急遽来訪が中止されたが、歌や踊りで大いに盛り上がった閉会式の最後に、トーマス・マシュー旧会長から新会長に就いた三宅光雄師に「会長の象徴」であるハンマーが手渡され、4日間にわたる第33回世界大会は無事終了した。”

IARFとは 
http://www.relnet.co.jp/jlc/iarf/index.htm
International Association for Religious Freedom
国際自由宗教連盟

IARFは、1900年にボストンで創設された世界最古の国際的宗教協力団体であり、国連経済社会理事会に総合諮問資格を有する国連公認のNGO(非政府機関)である。現在は、本部事務局を大阪に置き、ニューヨークとジュネーブに国連代表を、インド・フィリピン・アメリカに地域事務局を置いている。27カ国の75教団が加盟している国際的宗教協力団体である。特に、宗教的なマイノリティ(少数派)の人権(信教の自由)擁護に関心が高く、有名な「アムネスティインターナショナル」は、IARFの活動を通じて派生したものである。日本国内には、IARFに加盟している6教団と個人会員の団体である日本チャプターとIARFと友好関係にある国際的女性団体のIALRWの8団体で構成されJLC(IARF日本連絡協議会)が活動を行っている。


現在の役員および国際評議員のメンバー(ABC順)
会長 Rev. Drs. Wytske DIJKSTRA(オランダ) リモンストラント教会
副会長 Most.Rev.Mitsuo MIYAKE (日本) 金光教泉尾教会長
財務理事 Betsy DARR(米国) ユニテリアン

Rev. Keiichi AKAGAWA 立正佼成会 日本
Rev. Eric CHERRY ユニテリアン 米国
Janhvi GUPTE インド 青年枠
Robert INCE 英国 英国ユニテリアン
Prof. Kazi ISLAM バングラデシュ イスラム教
Dr. Kamar KAMARZAMAN マレーシア 婦人枠
Dr. Yahuda STOLOV イスラエル ユダヤ教
Adov. Varadarajalu RENGAPASHYAM インド ヒンズー教

IARF百年史
1893年 コロンブスノ新大陸発見400周年記念に開催された。シカゴ万博の際の記念事業として開催された「万国宗教会議」で初めて世界の宗教者数千人が集う。
1900年 ボストン(米国)で本連盟結成。当初の団体名は「ユニテリアンと自由思想家・活動家の世界協議会」。

1958年 第16回世界大会 シカゴ(米国) 金光教の代表者(佐藤博敏教監)が初めて参加。会名より「自由キリスト教」の削除の動議がなされる。

1969年 第20回世界大会 ボストン(米国) 金光教泉尾教会・立正佼成会・椿大神社が加盟。

1978年 第23回世界大会 オックスフォード(英国) 日本から33名参加。
1981年 第24回世界大会 ライデン(オランダ) 一燈園が加盟
。日本から45名参加。
1984年 第25回世界大会 東京(日本) アジアで初の世界大会開催。
立正佼成会会長庭野日敬師がIARF会長に就任。 JLC発足”


国際自由宗教連盟 (IARF)
https://iarf.net/2008site/japanese/unit3/iarf.html
” 国際自由宗教連盟 (IARF)

IARFは、宗教的自由に従事する主な国際諸宗教団体の一つである。1900年5月にユニタリアンと「リベラルなキリスト教徒」によって創立され、前世紀を通じて、30回にわたる世界大会を主催してきた。IARFに関する歴史や情報、最新のプログラム企画はホームページwww.iarf.net をご覧ください。”

国際宗教同志会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%AE%97%E6%95%99%E5%90%8C%E5%BF%97%E4%BC%9A
”国際宗教同志会(こくさいしゅうきょうどうしかい)は大阪市大正区の金光教泉尾教会に事務局を置く[2][3]、諸宗教との対話を目指す宗教者が設立した任意団体である。

昭和22年(1947年)2月15日に、当時の同志社総長牧野虎次を発起人として、金光教の三宅歳雄、大本の出口伊佐男、八坂神社の宮司高原美忠、カトリック京都司教区司教の古屋義之、日本聖公会の大国義政、一燈園の西田天香などが結成した。

世界宗教者平和会議(WCRP)の母体の一つとなった団体
である。

発足時

委員長
牧野虎次(同志社)
主事
奥村龍三(同志社)
常任委員
出口伊佐男(大本)
本田廣善(真宗大谷派)
古屋義之(カトリック)
岩田長三郎(天理教)
三宅歳雄(金光教)

西田天香(一燈園)
小笠原彰真(浄土真宗本願寺派)
緒方宗博(臨済宗)
岡田戒玉(真言宗醍醐派)
末廣愛邦(真宗大谷派)
高原美忠(八坂神社)
吉田隆吉(日本基督教団)
吉田良光(豊国神社)
荘野忠徳

現在

顧問
左藤恵(大谷学園学園長)
真弓常忠(住吉大社名誉宮司)
会長
村山廣甫(曹洞宗審事院審事)
理事長
三宅光雄(金光教泉尾教会 教会長)

常任理事
平岡英信(清風学園理事長)
大森慈祥(辯天宗管長)
西村淳晨(本門佛立宗清風寺住職)
佐原慶治(妙道会教団会長)
西田多戈止(一燈園当番)
理事
津江明宏(今宮戎神社宮司)
松井龍一郎(天理教明城大教会 会長)
三宅善信 (金光教春日丘教会 教会長 神道国際学会 理事長)

松下日肆 (本門法華宗管長 大本山妙連寺貫首)
左藤一義 (大谷学園 理事長)
芳村正徳 (神習教教主)
高井道弘 (住吉大社宮司)
松本貢一(立正佼成会大阪教会 教会長)
監事
内海雅継(金光教泉尾教会 教師)
懸野直樹(野宮神社宮司)
事務局長
三宅善信



三宅龍雄大人を偲ぶ会 謝辞
http://www.relnet.co.jp/izuo/brief/tatsuo_5year/tatsuo_5year_shinobu.htm
”  金光教泉尾教会長
三宅光雄

先ほど、金光教泉尾教会の霊殿におきまして、先代教会長三宅龍雄大人の五年祭を勤めさせていただきました。先生方にはお忙しい中をお時間を頂戴いたしまして、偲ぶ会にまでご来臨を賜りましたことを先ずもって御礼申し上げます。有り難うございます。

先代教会長は昭和三年の生まれでございます。私共では「大恩師親先生」とこう呼ばせていただいております先々代の教会長三宅歳雄は、玉水教会初代大先生から、昭和二年の1月に「泉尾で座りきれ」というお祈りを頂いて、泉尾教会に布教させていただきました。その翌年に父は生まれました。三宅歳雄は布教した年の5月に結婚しておりますから、私ども泉尾教会の信奉者にとりましては、三宅歳雄とその家内であります三宅ツ子、そして息子の三宅龍雄…。この三柱の霊様が私共の信心の基だと私は頂いております。


三宅龍雄大人を偲ぶ会 ご挨拶 (敬称略)

神社本庁 総長
石清水八幡宮 宮司
田中恆清

田中恆清師



天台宗 大僧正
山田能裕

山田能裕師


一燈園 当番
西田多戈止

西田多戈止一師

ただ今ご紹介いただきました一燈園の西田多戈止でございます。私どもの祖父、西田天香と三代目の光雄先生のお祖父様である三宅歳雄先生とは、本当に「極めて親しい」と言いましょうか、お互いに「尊敬しあう仲」でした。金光教には、大正時代から戦後にかけて、高橋正雄先生というとても素晴しい先生がいらっしゃったそうですが、私の祖父もその高橋正雄先生と岡山の金光教本部の奥の木綿崎山の山小屋で毛布一枚を二人で分け合って一晩語り明かしたことがあった(1917年)そうですが、その祖父が歳雄先生のことを「高橋正雄さんの再来だ」と評しておりました。

その歳雄先生に、私は大変可愛がっていただきました。祖父が亡くなった翌年の1970年に、世界宗教者平和会議(WCRP)が発足いたしました。その時に、歳雄先生がわざわざ私どもの所へ来られまして「どうしても会議に参加せよ」と言われました。私は「一燈園は宗教法人として一宗を立てているわけじゃなく、一財団法人でございますから、入れていただく資格はございません」と申し上げたんですけれども、「友愛団体」といったようなカテゴリーを創ってくださり??私を引き立ててやろうということだと思いますけれども??仲間に入れていただきました。

それから40年が経ちました。歳雄先生は、WCRP日本委員会の常務理事を25年ぐらいお務めになられた後に、ご高齢を理由に龍雄先生にお替わりになって、龍雄先生は常務理事としてそれから10年間お務めになられました。龍雄先生は私より2つ年上でいらっしゃいましたが、私も常務理事だったことから、いろいろとご指導を頂きました。私も齢を取りまして、4月3日が81歳の誕生日なんです。WCRPのほうも発足時から務めさせていただき40年経ちましたので、満80歳のうちに引退させてもらうことでけじめがつくと思いましたので、先日、退会をお願いしてお許しを頂いた訳ですけれども、振り返ってみますと、その間、歳雄先生には随分お世話になりました。


献杯の発声

法相宗大本山薬師寺 長老
安田暎胤

安田暎胤師

僭越ではございますが、ご指名でございますので、献杯の音頭を取らせていただきます。


スピーチ

解脱会 理事長
岡野英夫

岡野英夫師

ただ今ご紹介いただきました解脱会理事長の岡野英夫と申します。実は、私は直接、先代様のご謦咳(けいがい)に触れておりませんので、私がスピーチさせていただくのは相応しくないかもしれません。けれども、私がこれまで三宅光雄先生と三宅善信先生から頂いたご厚情の中からお話をさせていただきたいと思います。

私は4年前程からWCRPの理事として、本当に親しくご指導いただきながら先生方のお姿を見させていただききましたが、本当に卓越した指導力と行動力に目を見張るばかりです。そのお姿に接する中で、本当に先代様のご恩徳と申しますか、ご人格に触れさせていただいているように感じます。

その中で、現在は幽界におわしますその霊様におかれまして、そして、ますます妙なるご教授とご加護を賜っていることを、今日のお祭に際しまして感じさせていただきました。私どもは見てのとおりの若輩者でございますけれども、今後ともこうした諸先生方の心を拝して、こうした未曾有の大災害の中で本当の日本精神を鼓舞して、そして真の日本の有り様を世界に伝え、再建に努めたいと思います。

今日は、その力を頂いたように感じます。また新たな気持ちで努力をさせていただきたいと思います。僭越ではございますが、本日ご同席させていただきました御礼の言葉に代えさせていただきます。有り難うございました。

生田神社 宮司
加藤隆久

加藤隆久師




本当にあの時のことを思い出した訳でございます。実は、三宅先生のご一家と私は、また40年程前に遡りますが、WCRPが発足し、庭野日敬先生と共に、三宅歳雄先生の謦咳(けいがい)に触れることになった訳でございます。その頃、WCRP日本委員会に青年部会というのができて、初代の幹事長に常盤台教会長の三宅美智雄先生がなられたのですが、その際、実は私が副幹事長になった訳でございます。そして三宅歳雄先生にもいろいろとご指導を頂きながら、WCRPの日本委員会の青年部会の活動を行った訳でございます。

実はその頃、私の神社に和歌山市の中之島にあります志磨神社という古い神社の宮司の息子の島千尋さんという神職の方が修行に来ておられたのですが、その島君から「実は泉尾教会の三宅さんと島家とは親戚である」という話があり、余計に私はこの三宅先生のご一家と親しくなった訳でございます。

そんな折、私は兄(加藤知衛)から龍雄先生の紹介を受けました。10歳年長の私の兄は、大阪府の神社庁長を27年間やっており、服部天神の宮司であったのですが、大阪の宗教者同士である三宅龍雄先生とは大変親しくしておりました。こんなこと言っては失礼でございますが、歳雄先生や美智雄先生に比べ、龍雄先生は非常に知的でいらっしゃいました。

いつ頃でしたか、聖エジディオ共同体の行事でドイツ西部の古都アーヘンに行くための準備会があったのですが、その時に龍雄先生がいらっしゃいまして、話がもつれた時に、非常に適切な発言をされました。私は「こういう立派な方なのだな…」と、その時に感じました。


本門法華宗 管長
大本山妙蓮寺 貫首
松下日肆

松下日肆師

ご紹介を頂きました京都の本門法華宗大本山妙蓮寺の住職をしております松下日肆と申します。歳雄先生、龍雄先生、光雄先生と三代にわたって支えていただいておりますが、思い出しますと、私は歳雄先生に昭和24~5年頃にお会いしています。鹿児島県の屋久島出身の私が、小学校を卒業してから坊さんになるために大阪に出てきて、港区にある寺で内弟子修行をしておりました。


IARF財務委員長
ジェフリー・ティーゲル


J・ティーゲル氏
バストショット

三宅光雄先生をはじめ、本席にお集まりの皆様、私はこのパーティーに招待されている海外からのゲストを代表して一言ご挨拶を申し上げたいと思います。そして、私は先ほどもご紹介いただきましたように、IARF(国際自由宗教連盟)という国際NGOの役員をいたしております。その年次国際役員会が明日から京都でございます。

この度は、三宅龍雄先生の五年祭という日本の伝統的な宗教行事に、われわれをお招きいただいたことに、まず感謝申し上げたいと思います。私は残念ながら、最近になってIARFの役職に就きましたので、亡くなられた三宅龍雄先生とは直接面識がございませんけれども、長年、IARFの業務を親身になってお世話くださった三宅善信先生をはじめ、昨年9月にインドにおいてIARFの会長になられた三宅光雄先生を通じて、龍雄先生のお人柄に関するお話を度々聞かせていただきました。

IARFという団体は、1900年にボストンで創設された世界で一番古い諸宗教対話の団体ですが、昨年(2010年)9月に、南インドのケララ州コーチという町で、ダライ・ラマ14世法王を基調講演者としてお招きし、われわれの第33回世界大会が開催されました。その世界大会の席上で、三宅光雄先生にIARF会長に就任していただきました。現在、IARFは、三宅光雄先生、そして日本のIARF加盟団体である各ご教団のいろんな方々のご援助によって、恙なく運営されております。明日からの国際役員会議において、私共はIARFのこれからのことについて考えることになっております。

実は、IARFは3年前に運営上の危機に直面しました。それまでは、英国のオックスフォードという大学街に国際事務局があったのですが、運営上の危機に瀕した時に、大阪の金光教泉尾教会が「国際事務局の施設を無償で提供しますので、どうぞお使いください」と申し出てくださったおかげで、その危機を回避することができた訳でございます。本日は、泉尾教会以外にも、日本のIARF加盟団体の先生方が大勢お見えになっておりますけれども、IARFはこういった日本のご教団の先生方が大変な尽力をしてくださったおかげで、将来の展望が拡がった訳でございますので、この席をお借りしまして先生方にお礼を申し上げたいと思います。

曹洞宗審事院 監事
国際宗教同志会 会長
村山廣甫

(写真1103五年祭曹洞宗村山0828: 村山廣甫師 バストショットで全員大きさを揃えて)

村山廣甫師



謝 辞

金光教泉尾教会
総長
三宅善信

この度の五年祭では、泉尾教会でのご祭事の際に、祭主の御用というおかげも頂きました。会場におられる儒教研究の第一人者の加地伸行先生と目が合いましたので、今、思いつきました話をさせていただきます。論語に「子曰く、父在(いま)せばその志を観よ。父没すればその行いを見よ。 三年父の道を改むるなくんば、孝という可(べ)し」という句です。

私の祖父三宅歳雄は96歳まで長生きしたものですから、本日、先生方から頂戴したお言葉にも再々ご紹介いただきましたように、父は長年、副教会長として祖父の留守居役として、泉尾教会を守り、72歳にしてやっとご自分が教会長になられたのも束の間の6年半で、今から5年前に帰幽した訳でございます。普通でしたら、長らくナンバーツーの位置にいた後にトップになったならば「よし、俺だったらこうする。ああする」と思うものかもしれません。”


くくด้้้้้็็็‏ @kkm2303 2月12日
特に高校生の頃、ニッポン放送で日曜朝4時半からやっている「金光教の時間→幸福への出発→東本願寺の時間」をよく聞いていたのだけど「金光教の時間」は10分番組なのに、神様を絶対者として捉えていることが、当時から受け付けなくて、苦笑して聞いていたのを思い出す。


政治家の活動‏ @polititter 2010年8月10日
花咲宏基: 母校初ファーストレディ : 本日は、金光学園ほつま同窓会。 金光学園初のファーストレディの菅伸子さんも参加されました。 伸子さんのご挨拶の後には、党派を超えて、伸子さんに拍手が送られました。 ↑伸子さんは、同窓生の皆さん... http://bit.ly/aX8CZT


国際宗教同志会の歴史
http://www.relnet.co.jp/kokusyu/brief/history.htm
” 国際宗教同志会発足の経緯
大阪国際宗教同志会 前事務局長
                           内 海 雅 継
     …
翼賛体制の下、国を挙げての大戦争に、結果的には協力することになった戦時下の「大日本戦時宗教報国会」が解体し、昭和20年10月21日、「日本宗教会」が発足。さらに翌昭和21年6月2日、日本宗教会が改まり、「日本宗教連盟」が結成された。

 金光教泉尾教会(三宅歳雄教会長)では、信仰を実践する中核としての青年会を再組織し、昭和22年1月12日、時の同志社総長牧野虎次先生を呼んで、青年大会記念講演を行なった。

 同志社総長牧野虎次先生と三宅歳雄師とは、この時以来、その行動を共にした。この出会いが、のちに「国際宗教同志会」として結実することになった。

昭和22年2月15日、同志社総長牧野虎次先生が発起人となり、金光教の三宅歳雄師の協力によって、大本の出口伊佐男、八坂神社宮司高原美忠、カトリック京都司教古屋義之、聖公会の大国義政、一燈園の西田天香の各師がそれに加わり、伝統仏教教団からは「京都三山」といわれる東西両本願寺、知恩院にも声をかけ、名実共に超宗派の態勢をとつて、「国際宗教同志会」を結成した。

 国際宗教同志会は、牧野虎次委員長のもと、同志社に事務所を置き、同大学外事部の奥村龍三氏が会務を担当した。終戦後の暗中模索状況にあった宗教界に、一条の光明を示した国際宗教同志会は、その後、急速に発展し、理解者を増していった。


国際宗教同志会主催の宗教講演会の控室。右より牧野虎次、西田天香
1人おいて三宅歳雄の各師(昭和35.11.28 三重県津市中央公民館)

 同会の中心的存在である牧野虎次前同志社総長(昭和22年に総長を退任)自ら各所に講演に出向き、その理解者を増していった。特に、昭和23年1月24日に、金光教泉尾教会で行なわれた同教会布教21年記念祭時の「信仰生活の国際性」と題した記念講演は圧巻であった。
かくして、牧野・三宅両師らが全力を挙げて取り組んだ国際宗教同志会とはいったい何であったのかを、同会の設立趣意書と規約をもとに、今一度、考えてみたい。

  
「国際宗教同志会」趣意書

規 約
一、 本会は、国際宗教同志会と称す。
二、 本会は、事務所を京都市今出川御門前、同志社本部内に置く。
三、 本会は、国際的かつ超宗派的に同志協力し、以て宗教的平和日本を建設
し、世界平和に貢献することを目的とする。
四、 本会は、その目的を達成するために次のような仕事から始める。
 (イ) 例会の開催。
 (ロ) 国際宗教懇談会の開催。
 (ハ) 関係諸機関との連絡。(以下省略)

 常任委員は次の通りである (ABC順)

▽委員長 同志社理事会会長牧野虎次 
▽主事 同志社専務理事奥村龍三 
▽常任委員 愛善苑委員長出口伊佐男、真宗大谷派参与本田廣善、カトリック京都教区長古屋義之、
天理教布教部長岩田長三郎、
金光教泉尾教会長三宅歳雄、
一燈園主西田天香、浄土真宗本願寺派総務小笠原彰真、臨済学院専門学校教授緒方宗博、
真言宗醍醐派管長岡田戒玉、真宗大谷派朱雀御坊主末廣愛邦、サンパウロ交易株式会社取締役社長荘野忠徳、八坂神社宮司高原美忠、日本基督教
団京都教会青年部長吉田隆吉、豊国神社宮司吉田良光(敬称略)
                               
 京都本部のほか、名古屋市中村区の東海毎日新聞社内に東海地方本部、神戸・大阪・福岡・金沢に地方事務所を開設した。
 こうして各地に支部を作るために役員はたびたび出講。その講師には、主に、牧野、三宅、西田の各師のほかに、同志社女子専門学校教授グイン女史、カトリック教会バーン神父など外国人宗教者も協力した。


ダレス国務長官との出会い
 
 国際宗教同志会の22年度の活動は、ニューヨーク市キリスト教会連盟内「正義と恒久平和委員会」委員長のジョン・F・ダレス氏(後の国務長官)宛に書信を送って、氏の平和運動の尽力に感謝し、今後の活動を期待する旨を、各宗派の代表者の署名を添付して送った。戦勝国アメリカの平和運動に携わる宗教家へ、日本の宗教家からの初のサインを送ったのである。

 同年7月23日、総理大臣官邸において開かれた「新日本建設国民運動に関する宗教団体代表者協議会」に国際宗教同志会から代表が招かれるまでに、社会的評価も高まってきた。
 
 また、8月1日より7日間、毎朝6時から約一時間「暁天宗教講座」を各宗派持ち回りで開始した。同月17日、相国寺山内長得院で西田天香、出口王仁三郎、牧野虎次の三師の喜寿祝賀会を開いた。



 3月15日、名古屋市中区の燈影精舎で催された国際宗教同志会東海地方支部結成式で、臨済学院専門学校教授の緒方宗博師は宗教の国際化の必要を訴えている。同年4月、牧野虎次委員長は国際宗教同志会の講演会で「宗派を超えた人類愛を育む宗教のあり方」を説いた。

 5月31日には、マサチューセッツ州アンドバー・ニュートン神学校のフランク・ダブニー校長が金光教泉尾教会で「世界平和と宗教の使命」と題し、熱弁を振った。また、6月には、同志社大学顧問として来日中の米国外国伝道協会教育部長ルース・Ⅰ・シーベリー女史が「平和と婦人の使命」の議題で講演した。このように、この時期には、講演会方式による敬蒙活動が盛んに行なわれた。



大阪国際宗教同志会発足
 
 昭和24年3月5日、「大阪国際宗教同志会」の発会式が、大阪市東区瓦町の日本デモクラシー会館で行なわれた。

 発会式では、ジャコブ・デイセーダー牧師が講演。「世界平和の基礎は、信仰により互いに神の愛に目覚めることにあります。皆さんの信じている神は私の信じている神であり、私の礼拝する神は皆さんが祈りを捧げる神です。なぜなら、どの宗教の神も同じ一つの神だからです」と、キリスト教を通して信仰の同一性を訴え、どの宗教においても神の愛は寛容で、永遠であることを説いた。この講演でデイセーダー牧師は、戦争中、爆撃機の搭乗員として日本を攻撃したことを悔い、宗教者として懺悔の心で平和を説き、来日して、民衆の救いに努めていた。また、文部政務次官の左藤義詮氏(後の大阪府知事)、同志社大学の奥村龍三氏も力強い講演で聴衆を魅了した。大会後、大阪国際宗教同志会として次の「宣言」を発表した。
  


大阪国際宗教同志会は、委員長の三宅成雄師のほか次の各師が役一貞に就任した。
妙見宗管長野間秀泉、天理教総務松井忠義、メソジスト大阪教会市川牧師、大阪社会事業団C・S・モラン、真宗仏光寺派宗務総長松永仏骨、融通念仏宗宗務総長戸田宏圓、それに秋庭政吉、池尻活二の各氏。

 同年5月15日には、同志社栄光館において、国際宗教同志会主催の「宗教連合音楽会」が催され、各宗派の音楽部、合唱団が出演し、明るい雰囲気で、芸術の分野における宗教交流の働きが注目された。
 京都国際宗教同志会では、来日中のアメリカの世界的神学者、ユニオン神学大学院ジョン・ベネット教授(社会倫理学)の歓迎午餐会を昭和25年7月2日、京都市鳥丸鞍馬口の彰栄倶楽部で催した。このように、この時期は国際宗教同志会の活動が多方面に展開された。

 国際宗教同志会では、その頃、「対日講和」問題で来日する米国のジョン・F・ダレス国務省顧問とも「宗教と平和」について語り合う特別会見の機会をつくることを企画した。ダレス氏はクリスチャンの全米信徒協議会の会長を務め、多忙な政務の中でも静かな祈りの時を持つことを忘れない人物であった。国際宗教同志会にダレス氏を紹介したのは、牧野虎次先生の後を受けて同志社総長に就任した湯浅八郎先生であった。


「学界人から見た今後の宗教のあり方」開催
(昭和29.2.7 金光教泉尾教会)

 昭和27年2月7日、三宅歳雄師は新たな政治情勢の展開を前に、学者と宗教者の懇談会「学界人から見た今後の宗教のあり方」を大阪国際宗教同志会として催すことにした。当日の参加者は次の各氏である。

 大阪市立大学長恒藤恭、前同志社総長牧野虎次、京都大学教授有賀鐵太郎、大阪大学教授相原信作、同大学教授菅田栄治、神戸大学教授宮田喜代蔵、同大学教授樺俊雄、同大学教授西村勝彦、浪速大学教授三宅実、花園大学教授緒方宗博、国際宗教同志会書記長奥村龍三の各氏である。

三宅師はこの成果を踏まえて、以後、この種の会合(学者と宗教者の懇談会)をたびたび催し、常に冷静な知識人の見評を求めた。


世界を舞台に
 
昭和28年4月17日、米国のキリスト教フレンド派指導者ハワード・H・ブリントン夫妻が同志社アーモスト館に招かれ、国際宗教同志会幹部と懇談。ブリントン博士は、国際的な宗教家の交流と世界平和への基礎条件として、戦後の世界を二分する両陣営の一方の旗頭ソ連への働きかけの必要性を訴えた。

 同年8月、三宅歳雄師は、第5回WAWF世界大会(世界連邦コペンハーゲン大会) に出席。バチカンでは、時のローマ教皇ピオ十二世と会見。オーストリアのコーネル大統領と会談するなど、日本がまだ国際的には認知されていなかった時代にもかかわらず、華々しい成果を収めた。続いて三宅師は、アメリカに渡り、9月10日、ワシントンの国務省にダレス国務長官を訪ねた。国務長官として多忙を極めていたダレス氏であったが、快く三宅師と会見し、「訪日した際、国際宗教同志会幹部との話し合いは有益だった」と述べた。

 三宅師は、ワシントンからの帰途、ハワイに立ち寄った。当時、国際宗教同志会委員長牧野虎次氏は、ホノルル市のマキキ聖城教会の牧師に赴任していたからである。牧野委員長は、三宅師のハワイ来訪を機に、「ハワイ国際宗教同志会」の結成を準備していた。同年9月17日、同教会で同志会の結成式が行なわれた。ワールド・ブラザーフッド世界同胞協会のシャイマー氏を座長に、カトリック・プロテスタント・モルモン教・仏教・神道の各代表が集い、日本の国際宗教同志会を代表して、三宅師が「宗教と平和の問題」と題して講演。会場には日、米、欧州、カナダ、韓国、中国、フィリピンの各代表が民族を超えて世界平和を祈念し、さながら「世界宗教会議」を思わせた。この結成式に参列していた韓国の金泰祐氏は感銘し、帰国後、東亜新聞社社長任龍吉氏、東亜公社専務理事尹声九氏らと協力して、釜山に「韓国国際宗教同志会」を結成した。
 


 昭和29年2月8日、アメリカのワールド・ブラザーフッド世界同胞協会の会長でノーベル物理学賞受賞者アーサー・H・コンプトン博士(合衆国原子力委員会委員長をして原爆を開発。後に平和運動に転じた)が泉尾教会を訪れ、「祈りの塔」の落成式に参列。三宅歳雄師や大阪国際宗教同志会幹部と世界平和について懇談した。また、8月20日には、イギリスの世界的物理学者でロンドン大学教授のキャザリン・ロンズデール夫人が泉尾教会を訪れた。夫人は熱心なクエーカー教徒で、英国のロイヤル・ソサイエティ王立科学協会会員。夫人は大戦中、政府からの原子爆弾開発の研究依頼を断わり、投獄されたこともあり、世界的な国際婦人平和連盟の英国支部長として平和運動にも携わっていた。ここで大阪国際宗教同志会と懇談会を持ち、世界平和の問題について討議した。さらに同月19日、京都国際宗教同志会でも「ロンズデール夫人を囲む会」を催し、ここに京都大学の湯川秀樹教授を招き、有益な会合を持った。

 昭和30年8月9日から二日間、世界宗教会議大阪大会が金光教泉尾教会で開催された。日本側の共同議長は、四天王寺管長出口常順師、京都大学教授有賀鐵太郎博士大阪国際宗教同志会委員長三宅歳雄師。議題は「戦争の原因追究と防止の問題」「第二次世界大戦の宗教的残務処理の問題」をあげて議論した。

 大阪からは、国際宗教同志会幹部が多数出席。特に、国会議員で大阪仏教界の重鎮、左藤義詮師が、戦争の残務処理、政治・経済の行きづまりの諸問題を指摘、その打開策について熱心な意見を述べた。



世界宗教会議大阪大会に大阪国際宗教同志会幹部多数出席
(昭和30.8.9 金光教泉尾教会)

 時を同じく8月6日、第一回原水爆禁止世界大会が広島で開かれ、それらの機運に併せ、国際宗教同志会としても、平和を希求し、いろいろと多方面にわたって動いて行った。

昭和32年6月6日、世界平和評議会コロンボ総会に参加するための日本代表団(小畑忠良氏団長)が空路セイロン(現スリランカ)のコロンボヘ向けて出発した。日本代表団中の唯一の宗教者として、三宅歳雄師は望まれてこれに参加した。「原水爆反対を宗教人が結束して」と訴える三宅師は、「特に宗教者の部会を持つべき」と総会で提唱し、これが実現した。この会議で三宅師は、ニコライ府主教らロシア正教関係者と意気投合。共産圏への働きかけの足がかりをつかんだ。


三宅歳雄師「原水爆実験禁止国民使節」として訪ソ。クレムリンで
ブルガーニン首相と会談(昭和32.8.5 ソ連モスクワ)

 同年7月27日、日本より正式に「原水爆実験禁止要請訪ソ使節団」がモスクワに向かった。「世界平和のため、原水爆実験禁止をソ連に要請する」と空港でステートメントを発表。各界を代表するこの一行の中に三宅歳雄師が加わっていた。代表団一行は8月5日、クレムリンでブルガーニン首相と二時間にわたって直談判し、核兵器の全面禁止の第一歩として、実験の禁止を要請した。


日米宗教者の交流

 昭和34年2月10日、米国アイオワ州立大学宗教学部教授のマーカス・バッハ博士が泉尾教会に来訪。三宅師が国際宗教同志会の幹部と出会いの場をつくり、世界平和と宗教者の使命について懇談。

翌年もまた来日したバッハ博士は、自らが考えていた「宗教間の協力と平和への働き」が、日本では既に「国際宗教同志会」として実践されていることに共感。帰国後、すぐに米国各宗教団体に働きかけ、昭和36年10月、日本の宗教界の代表を招き、日米宗教者の交流を図ることを計画した。そのことを聞いた三宅師は、日本宗教界の代表に呼びかけ、バッハ博士の橋渡しに応じて、宗教者による米国視察団の派遣を実現させた。

一行は次の諸氏である。(順不同 敬称略)

仏教代表 全日本仏教会 事務総長(曹洞宗) 大村仁道 
浄土真宗本願寺派元総務 高辻恵雄 
神社神道代表 鶴ケ岡八幡 宮司 岡田実 熱田神宮 権宮司 篠田康雄
教派神道代表 大本学院長 桜井重雄 金光教泉尾教会長 三宅歳雄
新宗教代表 立正佼成会 教学研究主任 鴨宮成介 
新日本宗教団体連合会 事務局長 楠正俊
その他 一燈園創設者・光泉林理事長 西田天香(代理 西田武) 成蹊学園理事 丹羽孝三
国際宗教同志会 事務局長 黒川直也

 団長は大阪国際宗教同志会委員長の三宅歳雄師が務め、米国各地を巡廻。時のジョンソン副大統領とも会見するに及んだ。

 かくして国際宗教同志会の役割りは大きく、この訪米団の人選には、日本宗教連盟や全日本仏教会、新宗連等が協力し、日本の超宗派活動の草分けともなった。

 昭和39年11月11日、国際紛争調停のための国連機関である国際司法裁判所長官であったザフルラ・カーン卿(パキスタンの初代外相)が泉尾教会を訪問。卿は世界の諸宗教の相互理解を深めるインターフェイス運動協議会の会長として来日。国際宗教同志会の三宅歳雄師と初めて会見。

 昭和40年3月22日、国際宗教同志会やNCC等の共催で、京都のノートルダム女子大学を会場に「隠れキリシタン再発見百年祭」のために来日したローマ教皇使節マレラ枢機卿を囲む懇談会を開催した。



日本政府賓客として来日したローマ教皇パウロ6世特使のマレラ枢機卿
(非キリスト教徒聖省長官)が大阪国際宗教同志会幹部と懇談
(昭和45.7.30 金光教泉尾教会)

世界宗教者平和会議を生み出す

 昭和43年1月、日米諸宗教者京都会議が京都岡崎の国際会議場で行なわれた。国際宗教同志会代表として三宅歳雄師はこれに出席した。この会議で、立正佼成会会長庭野日敬師と出会い、互いに共鳴。さらに米国代表のダナ・M・グリーリー博士やホーマー・ジャック博士等と意気投合。「日米宗教者が協力して、これを世界の組織に育てよう」と話し合った。いうまでもなく、この出会いが、この後、世界宗教者平和会議(WCRP)として結実することになる。三宅師は、この後、ローマ教皇パワロ六世はじめ、ギリシャ正教総主教や英国国教会のカンタベリー大主教を歴訪。WCRP開催に向けて協力を依頼する。

 昭和45年7月30日、金光教泉尾教会にローマ教皇パワロ六世の名代でマレラ枢機卿が来駕。三宅歳雄教会長を訪ねた。三宅師は、マレラ枢機卿の来訪を、大阪国際宗教同志会幹部と共に出迎え、その日、マレラ枢機卿を中心として宗教特別懇談会を催した。




国際宗教同志会で培ってきた信頼と経験が第1回世界宗教者平和会議(WCRP)として結実。
 (昭和45.10.20 国立京都国際会館)

 同年10月16日から21日まで、国立京都国際会舘に於いて、世界の十大宗教を含む39ケ国から三百数十名の代表を招いて人類史上画期的な第一回の世界宗教者平和会議(WCRP)が開催された。その際の主要メンバーは引き続き、12月に、戦火のベトナムを訪問。「行動する宗教者」として注目を浴びた。


日韓両国の和解をめざして

 大阪国際宗教同志会は、36年間にわたる日本の植民地支配のため和解が極めて困難と思われた日本と韓国の宗教者の連帯を韓国側に働きかけた結果、昭和46年6月6日ソウルで韓国宗教人協議会と懇談会を持つことができた。日本側は三宅師・四天王寺副管長吉田秀映師、妙見宗管長野間秀泉師、神道石切教管長木積一仁師等17名。

 大阪国際宗教同志会のこの訪韓が実り、第一回の日韓宗教者会議が翌昭和47年3月10日から14日まで、金光教泉尾教会で開健された。日韓両国の宗教者にとつて歴史的ともいえる会議となった。この時の韓国側の団長は大韓仏教曹渓宗総務院教務部長宋月珠師。

 一方、同年12月11日、韓国宗教人協議会(崔徳新会長)の招きで、大阪国際宗教同志会を中心とした日本の宗教者の一行15名は韓国を訪問。ソウル市の世宗ホテルで第二回日韓宗教者会議が開催された。

日韓両国で開催された宗教者会議の成果は、翌昭和48年11月26日から三日間の日程で、大阪コクサイホテルで開健された三回目の会議において、「日韓宗教者協議会」が正式に発足するということで結実した。同会議には、韓国側から韓国宗教人協議会長で天道教教領の崔徳新師を団長として20名が参加。



日韓宗教者協議会結成に国際宗教同志会の幹部が多数参加した。
(昭和48.11.26 大阪コクサイホテル)

 この会議の日本側の参加者は、▽カトリック 田口芳五郎(枢機卿)、岸英司(英知大学長)、▽プロテスタント 湯浅八郎(国際基督教大学名誉総長)、有賀鐵太郎(京都国際宗教同志会長)、土居真俊(NCC宗教研究所長)、▽仏教 出口常順(四天王寺管長)、葉上照澄(比叡山延暦寺長藹)、野間秀泉(妙見宗管長)、平岡宕峯(大阪府私学連合会会長)、西村現淳(本門仏立宗清風寺住職)、▽神社神道 高原忠清(住吉大社宮司)、▽新宗教 佐原慶治(妙道会教団会長)、▽諸宗教 中山慶一 (天理教表統領)、▽大阪府宗教婦人連盟 三宅恒子(同理事長)。              (順不同敬称略)

 こうして、国際宗教同志会発足当初の経緯からはじまって、時代の要請もあって、内外にその理解者を急激に増やしていったこと。特に、現在では当たり前になっているが、当時は考えもされなかった諸宗教間の相互理解の推進から、さらに一歩進んで協力して平和運動にとり組んだことは、もっと評価されてもいいと思う。米国のダレス国務長官、国際司法裁判所のカーン長官、バチカン対非キリスト教徒聖省のマレラ長官、世界食料機構のボイド・オア総裁といった敬虔な信仰心を持った政治的指導者、さらには米英の原爆開発に影響を与えた核物理学者のコンプトン博士やロンズデール博士らなど、蒼々たる顔ぶれが国際宗教同志会の会合に参加するために来日したことや、三宅歳雄師を中心に、多くの国際宗教同志会のメンバーが海外に出かけ、各国の要人や宗教指導者と直接話し合い、相互理解を深め合ってきた歴史を忘れてはならない。

 さらに、国際宗教同志会の働きが元になって、世界的な諸宗教協力機関であるWCRPや日韓宗教協議会といった団体が結成されていったことなど、現代の同志あるいは、後世の研究者のためにも残して置くことが、発足当初からこの運動に関わらせていただいた者の使命であろう。昭和50年代以後、国際宗教同志会は、その国際的な活躍を主催団体として行なうのではなく、国際宗教同志会が関わり生み出したそれぞれの団体に譲って、共催もしくは参加者を派遣するという形が一般化し、国際宗教同志会自身としては、年に何回かの例会や講演会を催すという活動を中心に行ってきたが、なお、大阪国際宗教同志会理事長(現名誉会長) の三宅歳雄師をはじめ国際宗教同志会の活動を通して国際舞台に展開していった多くの宗教家たちが、それぞれの団体に役員として名を連ね、牧野虎次先生以来の国際宗教同志会精神を広めていっていることには変わりない。

こうして、国際宗教同志会の発展期の経緯を述べてきたが、昭和50年代以後の活動については、今日の国際宗教同志会の諸先生もよくご存知であると思われる。

その後の大阪国際宗教同志会の主な活動

昭和55年 7月 三宅歳雄理事長、世界連邦世界協会(WAWF)名誉理事長・同アジアセンター会長に就任。
泉尾教会で第18回世界連邦世界大会大阪会議開催


昭和59年 1月 国際自由宗教連盟(IARF)大阪シンポジウムに国宗が参加

平成 3年 4月 カーター米国元大統領を迎えて、泉尾教会で第1回平和フォーラムを開催(大阪)


国際宗教同志会公式ページ 役員紹介
http://www.relnet.co.jp/kokusyu/brief/kmen.htm
” < 役員紹介 >

2016年1月13日現在
顧 問

左藤 恵
大谷学園 学園長


真弓常忠
住吉大社 名誉宮司
会 長

西田多戈止
一燈園 当番
理事長

三宅光雄
金光教泉尾教会 教会長

常任理事

平岡英信
清風学園 理事長


大森慈祥
辯天宗 管長


西村淳晨
本門佛立宗清風寺 長老


佐原慶治
妙道会教団 会長


村山廣甫
曹洞宗審事院 副院長 
曹洞宗東光院 住職
理 事

津江明宏
今宮戎神社 宮司


松井龍一郎
天理教 明城大教会 会長

三宅善信
神道国際学会 理事長

松下日肆
本門法華宗管長 大本山妙連寺 貫首

左藤一義
大谷学園 理事長

芳村正徳
神習教 教主

高井道弘
住吉大社 宮司

松本貢一
立正佼成会 大阪教会長

宮本惠司
妙智會 法嗣
監 事

内海雅継
金光教泉尾教会 総務部長


懸野直樹
野宮神社 宮司
事務局長

三宅善信


世界宗教者平和会議
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%AE%97%E6%95%99%E8%80%85%E5%B9%B3%E5%92%8C%E4%BC%9A%E8%AD%B0
”世界宗教者平和会議(せかいしゅうきょうしゃへいわかいぎ、英語: Religions for Peace)は、1970年に設立された非政府組織(NGO)である。略称は、WCRP(World Religions for Peaceの略) 、RfPなどと表記される。日本語では、直訳は「平和のための宗教」である。

1973年5月、国際連合経済社会理事会より非政府組織カテゴリーⅡの資格を認定された[2]。1995年7月、同カテゴリーⅠに昇格[2]。

理事[3]

深見東州
インターナショナル・シントウ・ファウンデーション代表として、米国委員会のプレジデントも兼務
酒井教雄(元立正佼成会理事長)
宮本恵司(妙智会教団代表)

^ Trustees、世界宗教者平和会議、2015年12月1日閲覧”

深見東州プロフィール

”本名 半田晴久。又の名を戸渡阿見(ととあみ)。25才で植松愛子氏と出会う。出口なおと出口王仁三郎のように、天啓による出会いを経て、ワールドメイトを設立。文部科学大臣認証、宗教法人ワールドメイト代表役員。公益社団法人日本紅卍字会名誉会長兼理事。
 宗教対話と宗教協力を推進する、ギャグ爆発の宗教家。年を取っても、子供の一休さんのようだといわれる。しかし、まじめに善を追求する時も多い。
 1994年に、インターナショナル・シントウ・ファウンデーション(ISF)をニューヨークに設立し、代表となる。ISFは、国連広報局認可NGOとなり、次に国際連合経済社会理事会(ECOSOC)認可のNGOとなる。世界最大の宗際化組織WCRP(世界宗教平和会議)、世界ではWCを略しReligions for Peace(平和のための宗教)の、理事(International Trustee)となる。そこに、Handa Center for Advancing Peaceを設立する努力をし、総裁となる。
 またThe Council for a Parliament of the World's Religions(世界宗教議会)のInternational Advisory Committeeの名誉国際顧問。また、世界的な宗際化組織World Faiths Development Dialogue(WFDD)の理事。AFDD(Asia Faiths Development Dialogue〈アジア宗教対話開発協会〉の設立者会長。また、IFAPA(アフリカにおける平和のために行動する諸宗教)理事。
人権の確立こそが、普遍的な宗教性の顕現になるとして、人権のための活動にも尽力す。オーストラリア人権教育評議会の名誉顧問。西オーストラリア州立カーティン大学に、豪州初の人権教育チェア(講座)を開設。また、「人権と国際正義の為の、スタンフォード大学WSD半田センター」を開設し、支援す。また、カンボジア大学に人権教育のチェア(講座)を開設し、クメールルージュの虐殺犠牲者の救済にもあたる。そして、人権は民主的な選挙によって確保されるため、総裁を務める世界開発協力機構(WSD)で、コフィー・アナン財団と協力し、選挙プロセス健全化共同イニシアチブを推進す。また、カンボジアのプノンペンに病院を共同設立し、17年間で117万人以上の無料診療を行なう。その後、カンボジアのバッタンバンに、「World Mate Emergency Hospital」と「Handa Medical Center」を設立し、年間約2万7千人の診療を行なう。また、ワールドメイト未来の光孤児院を運営し、20年間サポートす。これらの活動により、カンボジアで4種類の最高勲章が授与され、政府顧問と首相顧問になった。しかし、まじめに善を追求した反動で、ギャグをカンボジアで飛ばしまくっている。

ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる。

宝生流能楽師。公益社団法人能楽協会会員。
IFAC・宝生東州会会主。「東京大薪能」主催者代表。戸渡阿見(ととあみ)オペラ団主宰。「明るすぎる劇団・東州」主宰。その他、茶道師範、華道師範、書道教授者。現代日本書家協会顧問。社団法人日本デザイン文化協会評議員。
社団法人日本ペンクラブ会員。現代俳句協会会員。
 国内では、公益財団法人 協和協会理事長、公益財団法人 日印協会理事、公益財団法人 日本国際フォーラム理事、
公益社団法人日本紅卍字会名誉会長兼理事、NPO法人 日本ブラインドゴルフ振興協会(JBGA)名誉会長、国際スポーツ振興協会(ISPS)会長、NPO法人 世界芸術文化振興協会(IFAC)会長、NPO法人 世界開発協力機構(WSD)総裁、
NPO法人 国際縄文学協会会長など、公職多数。”

Trustees(理事、役員たち)
http://www.religionsforpeaceinternational.org/who-we-are/trustees
”Mr. Tsunetaka Tanaka, JAPAN,
President, Japanese Trustee' Group Read Bio

Rev. Takeshi Kawabata, JAPAN,
Chairman, Rissho Kosei-kai

Rev. Keishi Miyamoto, JAPAN,
Representative, Arigatou Foundation

Sir Babatunde Lucky Omoluwa, KSS, NIGERIA,
Chairman, Pinnacle Communications Limited Read Bio

Mrs. Aruna Oswal, INDIA,
Vice President, World Jain Confederation Read Bio

Mr. Muljibhai Pindolia, KENYA,
President, Hindu Council of Africa Read Bio

Mrs. Idanna Pucci, ITALY,
Author Read Bio

Rev. Norio Sakai, JAPAN,
Founder, Japanese Trustees' Group”

金光 攝胤(こんこう せつたね
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%85%89%E6%94%9D%E8%83%A4
”金光教の信奉者からは三代金光様と呼ばれた。

明治31年、金光式子(金光萩雄の長女)を妻に迎えるも、先立たれ、明治40年佐藤キクヨ(佐藤範雄の長女)を妻に迎え、6男3女(金光鑑太郎(かがみたろう)、金光実司之助(みしのすけ)、金光眞整(しんせい)、佐藤祐子(ゆうこ)、金光護佑(ごゆう)、和泉賀代子(かよこ)、竹部理貴代(りきよ)、金光整雄(せいお)、秋山佑一(ゆういち)の9人)をもうけた。

金光教管長が選挙制になると管長に当選、以降金光教の代表者が広前奉仕者であるという慣例を作った。第二次大戦後は管長制の廃止に伴い、教主選挙が行われ初の教主となった。

死後は長男の金光鑑太郎が、教主に選出された。”

金光鑑太郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%85%89%E9%91%91%E5%A4%AA%E9%83%8E
”金光 鑑太郎(こんこう かがみたろう、明治42年(1909年)4月26日 - 平成3年(1991年)1月10日)は、金光教の四代金光様。書家、歌人、文化人、教育者。雅号は碧水(へきすい)。

金光図書館を創設し、初代図書館長。昭和26年から平成2年まで、日本図書館協会顧問。昭和48年から平成2年までボーイスカウト日本連盟顧問。
略歴

明治42年4月26日、今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。金光攝胤(せつたね)キクヨの長男。父金光攝胤の死に伴う金光教教主選挙で、昭和38年7月9日二代目金光教主に就任、信奉者からは四代金光様と呼ばれた。

平成3年1月10日死去。死後は長男の金光平輝(こんこうへいき)が、教主に選出された。

戦後日本の文化振興のため金光教の公共図書館を作る活動をはじめ、昭和47年には三木記念賞を受賞するなど、書家、歌人、文化人としての側面や、天文にも造詣が深く、金光図書館に天文台を作る計画もあった。

親交のあった、香西洋樹佐治天文台長は、小惑星の番号4526(1982KN1)を「Konko」(こんこう)と、そして番号11254(1977DL2)を、雅号である「金光碧水」と名付けた。
著作リスト

『生きる力の贈りもの』(金光教徒社、2001年)
『土』1-19(槻の木叢書)

佐藤範雄(さとうのりお)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%AF%84%E9%9B%84-1324873
”…教線は,岡山県を中心に瀬戸内沿岸から,1875年(明治8)に大阪,明治10年代に京都,同20年代初頭に東京へと伸び,広く民衆を組織した。1879年金光萩雄が教導職試補となって布教の合法化をめざし,82年には佐藤範雄によって教団の組織化と教義教条の整備がはかられ,教祖没後の1885年に神道本局所属教会となって合法化を実現,独立への道を開いた。本部は岡山県浅口郡金光町にある。…”

佐藤範雄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%AF%84%E9%9B%84
”佐藤 範雄(さとう のりお、安政3年8月6日(1856年9月4日) - 昭和17年(1942年)6月20日)は、現在の広島県福山市出身の宗教家、教育者。

金光教祖の教えを教祖没後も世に遺すべく、教祖の教えの記録保存や、信者の結収を行い、金光教の教団組織化を推進した。現在の金光学園中学校・高等学校と金光教学院の創立者、初代校長。金光教の三直信の一人で、金光教内では佐藤宿老(さとう しゅくろう)と呼ばれる。
…明治15年(1882年)4月1日、岡山県小田郡富岡村(現在の笠岡市)の平野五良四郎(ひらのごろしろう)の二女照(てる)を迎えた。子には、佐藤一夫、金光キクヨ、尾原道春、佐藤博敏のほか、佐藤熊太郎、佐藤金造、佐藤つるなど養子もいる。

金光教教団設立の願いを立て、明治15年(1882年)8月、沼名前神社宮司吉岡徳明の指導を受け、教祖の「神の教え」を記録するよう金光大神に進言し、金光萩雄らと記録につとめた。後に、二代白神新一郎、近藤藤守らとはかって、明治18年(1885年)神道金光教会を創設し、それまで各地でばらばらであった、講社や信者組織を結集し、教師育成機関の創設など組織作りと、政府機関への働きかけを行い明治33年(1900年)6月教団の独立を成し遂げた。

金光教内では教監を始め要職を歴任し、対外的には金光教の代表的人物として政治的にも活躍。創立間もない赤十字運動にも参加、明治22年(1889年)には社員となり赤十字運動の普及に努めた。


穏健ではなく過激で急進的な思想は信仰的に問題であると考え、明治43年(1910年)には同郷の森近運平の感化救済を始めた。しかし、ある程度の成功を収めたと感じたころに森近は幸徳事件に連座し逮捕され、佐藤の救命嘆願も間に合わず刑死。この経験をふまえ神職及び教育者に対して、国体に関する講習会を開くことを始めた。「神と氏子との関係」を「親と子との関係」で説明する金光教の教えから「天皇・政府と国民との関係」にも当てはめた「信忠孝一本の道」という教義からの活動である。一例では天皇機関説も危険思想につながると考え、大正9年(1920年)2月29日に國學院大学を会場に、神道各教派を呼んで「美濃部博士の天皇機関説打破につき上杉博士を支援する懇談会」を開催した。大正11年(1922年)芳賀矢一らと思想善導と労働問題解決のために協議し「壬戊会」を設立、大正14年(1925年)には、この会が主唱者となり普通選挙制度の大成を目指す「大成会」を組織した。また、主要活動家などを集め意見を交換し合う「思想緩和懇談会」(後の社交桜心会)を、この大正14年(1925年)から大阪の金光教教会にて開催し、過激思想家の教化を目指した。昭和2年(1927年)には幸徳事件に連座した武田九平の出獄誓願運動を始め、昭和4年(1929年)には身柄の引き取りも行った。

晩年は、宗教団体の地位安定のため、政府に宗教制度を作るよう強力に働きかけ、宗教団体法の設立に尽力した。

昭和17年(1942年)6月20日死去、87歳。

金光学園の卒業生である香西洋樹佐治天文台長は、郷土の偉人として、小惑星の番号15672(1977EX7)を、「Sato-Norio」と命名している。

参考文献

金光大神(2003年、金光教本部教庁刊、ISBN4-906088-15-5)
信仰回顧六十五年上、下(1970年、1971年「信仰回顧六十五年」刊行会)


金光教の時間
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%85%89%E6%95%99%E3%81%AE%E6%99%82%E9%96%93
”金光教の時間(こんこうきょうのじかん)は、日本各地のラジオ放送局で放送されている宗教番組である。主に早朝に放送されている。

金光教の願いなどを説教(教話)やラジオドラマの形で放送(ドラマは毎年8-10月に放送)。ドラマ出演者は永井一郎、中西妙子、山本圭子、三輪勝恵、小野坂昌也、龍田直樹、中友子など(青二プロダクション所属者が多い)。

金光教放送センターが企画製作し、実際の番組配信・制作は朝日放送から行われている(その関係で朝日放送のアナウンサーが朗読を担当することがあった)が、ラジオドラマは出演者の都合上ニッポン放送のスタジオ等で収録する場合が多い。




金光教のラジオ放送が始まったのは、1951年11月24日である。以前にも、佐藤範雄・佐藤一夫・高橋正雄等が、NHKなどで数回にわたっての単発放送を行ったことがあるが、継続した番組となったのは戦後である。 当時、民間放送が始まった時点で、朝日放送ラジオから、文化の向上に資する教養番組の内容として、宗教放送を取り上げたいという方針が打ち出されて、西本願寺(浄土真宗本願寺派)、東本願寺(真宗大谷派)、知恩院(浄土宗)、カトリック、プロテスタント、天理教と金光教の7宗派に協力の依頼があり始まった。したがって、当時の放送料金等は無料であった。

金光教のラジオ放送番組では、教主や教監の挨拶や教話以外に、1959年の金光教立教百年の年には、放送劇「天地の如く」[1]という教祖伝記ドラマを13回に渡って放送するなど、その当時からラジオドラマに力を入れていた。

異色なものとしては桂米朝が当時内弟子になって間もない桂小米と大阪駅で金光教の団体列車に遭遇し、その列車に間違って乗ってしまうというくだりで始まる金光教紹介「ある落語家の物語」(三田純一作)なども作られ、当時の金光教本部のたたずまいが桂米朝の語りと録音構成で紹介されていた(これらの内容は金光図書館で閲覧貸し出し可能である)。

本格的な放送番組の安定制作を行うため、1976年に大阪に金光教電波布教センター(後に金光教放送センターと改称)を設置。現在に至っている。

^ 天地の如く(1959年7月5日から9月27日放送、全13話) 青木茂 作、声の出演 柳川清、日高久、稗田敦子、浜田彰男、阪脩。


[新宗教巡り]るるぶ新宗教 第一回 金光教の巻
http://d.hatena.ne.jp/die_kuma/20100513/p1
休日だったためボーイスカウトが活動していました。金光教のボーイスカウトは結構有名らしいです。

教祖は、立教以前は冠婚葬祭や家などの建築のたび方位や吉凶を大事にしていた人だったそうです。それなのに息子は病気になるは、娘は死ぬは、両親は死ぬは、飼い牛まで死ぬはの不幸の連続に見舞われ、終いには自分までも病気になってしまいます。そんな時に神の声を聞くようになったそうです。その神様というのが、民間信仰信じる自分が一番避けていた丑寅の金神だったわけです。その金神に教祖が聞かされたのは、なんでお前らは方位や日柄を駆使してまで俺を避けてやがるんだと。お前ら俺に失礼じゃないかと。そこで教祖は金神を奉ればいいじゃないかと気付くわけです。忌むべきものだからこそ奉る、このコペルニクス的転回が一番興味深いところで、この思想は教義全体にも及びます。分かりやすいところでいうと、信者はお参りの時に四拍手するのですが、それについて金光教HPではこんな説明がなされています。

金光教では、「四」の数字を忌む一般の風習を戒め、「四」に「よかれ」「しあわせ」の意味を込めて、拍手を4回と定めています。

こういった価値観の転換が金光教には多くみられ、当時支配的だった宗教的価値観からの解放というのが金光教という宗教の根本にあるように思えます。そういう意味でとても近代的な宗教です。立教が明治維新以前の1859年ですから、金光教がまたたくまに広まったのは自然なことだったのかもしれません。


右側からはこんな感じ。この二つは金光町出身で伊藤忠太の弟子である田辺泰が設計したそうです。

神道に対してネガティブイメージがある割には、神社っぽい形をしているように思われるかもしれません。実際、設計時この形状に否定的な見方もあったそうです。ただそれまで金光教は建築物に対する独自の価値観も持っていませんでした。なのでこれは神社風ではなく日本の古代からある建築様式をコンクリートで模したものということだそうです。

さて、この会堂はもちろん金光教にとっての聖地なわけですが、世の聖地といわれるところは大概写真撮影禁止なわけです。この旅行でいくつかの教団をまわったのですが、神殿内部の撮影はあらかた断られました。そんな中金光教だけは好きなだけ撮っていいよと言ってくれたのです! さすが縁起とかにこだわらない金光教! そんなわけで会堂内部はこんな感じになってます!

そこら辺に「金」の文字が付く名字の家がたくさんあります。

周辺の家の瓦の多くに金光教のマークが入ってたりします。

おまけですが、近代的な宗教である金光教はメディア戦略にも積極的です。

1953年から布教の為のラジオ番組を放送しています。永井一郎など豪華キャストのこの番組は「金光教の時間」という名で現在も放送されています。僕は中学時代から深夜ラジオをよく聴いていて、眠れない日の明け方に流れてきたこの番組で金光教の存在を知りました。当時オウム事件直後だったんでなにか不穏なものを感じて正直怖かったですよ……。”

~金光教スカウト協議会の歴史~
http://www.konkokyo.or.jp/scout/shoukai/rekishi.htm
”イギリスでボーイスカウトが始まったのが明治40年、 同42年に日本にその内容が北条時敬によって伝えられた。 中村知は、北条の少年団に関する日本最初の講演は明治44年1月に 広島高等師範学校で行ったものが 最初であると書いている(『少年団研究』昭和8年11月号)。 月が変わった同年2月12日、金光中学校(現金光学園)では 教育懇話会15周年記念講演が、 近隣の校長や教育関係者を招いて開催された。 この時の講師が北条時敬でテーマは「少年武者修行」 すなわちボーイスカウトについての講演であった。 この講演の内容は「大教新報」(当時の金光教の新聞)で 5回にわたって連載されている。 金光教の教監の佐藤範雄は元号が大正と変わった時、 各地で「大正の国民」と題して講演をしているが、 この話の内容に「少年武者修行の規則」 すなわちスカウトの「おきて」の内容を用いているのである。
ところで大正10年に昭和天皇がイギリスに行かれ、 ベーデン・パウエルと面会したことが報道された。 これを聞いた佐藤一夫はボーイスカウトを発団させようとの 願いをたてていたが、関東大震災で中断を余儀なくされた。 佐藤一夫は、当時社会活動を展開していた 金光教の教徒新聞社の責任者であったところから、 大正12年の夏に社員の内田律爾を大阪の曽根崎少年団に出張させた。 内田はその活動の実際を目で見、隊長に会い、 組織・訓育方法を調査してきた。 さらに大正13年1月、金光中学の教員の三宅武坪を上京させ 8日には文部省の少年団調査員の奥寺龍渓に会いその概要を聴取した。 たまたま、その日の午後、 報知新聞社の講堂でスカウト宣伝映画会がある事を聞き、 そこで久留島武彦、三島通陽等に会って少年団の話を聞き、 活動の支援の約束を受け、原書の参考書等も教えてもらった。 更に11日には浅草区の少年団の活動を見学し、 ボーイスカウトに関する知識を深めた。
スカウト活動の開始
…以後、日本連盟の総長の後藤新平をはじめ、 佐野常羽、三島通陽、 また戦後のボーイスカウトを推進して歴史に 名を残した多くの指導者たちが、 金光教のスカウトの拠点としての この建物を訪れることとなったのである。
…昭和22年2月11日に、 金光教本部教会少年団(ボーイスカウト・ガールスカウト、18班で発足)が 結成されたのである。…
金光教ボーイスカウト育成会の結成
昭和22年の暮れ、昭和天皇が倉敷に宿泊された時、 県知事との間で次のような話があったという。 県知事「青少年の道義が一部廃退しております」、 天皇「宗教、信仰の力を活かす必要があるのではないか」、 県知事「本県には金光教、黒住教という 大きな教団があるので働きかけたい……」。 この内容が新聞に掲載されたこともあり、 金光教の議会でもこのことが取り上げられた。 当時金光教教監はスカウト活動を本教に取り入れた佐藤一夫、 また、総務部長の井上定次郎は、戦前には大阪連盟の理事長でもあり、 当時日本連盟の地方理事にも就任していた。 このように教団の中枢にボーイスカウトの理解者がいたのであった。 しかし戦前と同様に、スカウト運動は教団が担うことはせず、 任意団体として教団の支援を受けながら 自由な立場で展開していったのである。
金光教本部少年団を核に、戦前にスカウト活動をしていた 各地の仲間が集結し、全国組織を作ろうという機が熟してきた。 そこで金光国勢は三島通陽に対して、 昭和23年2月17日来岡の機会をとらえ、 金光へ宿泊するように要請し、 18日に金光教のスカウト関係者に講演を依頼した。 これを機会に2月20日金光教ボーイスカウト育成会が正式に発足した。 役員は理事長の金光真整以下、理事、委員、監事など21人で構成された。 この中には今田忠兵衛や金光国勢、金光整雄なども名を連ねている。 ”

金光学園中学・高等学校
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%85%89%E5%AD%A6%E5%9C%92%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%83%BB%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1
”金光学園中学・高等学校(こんこうがくえんちゅうがく・こうとうがっこう)は、岡山県浅口市にある私立中高一貫校。

大韓民国 江原道 春川市にある春川女子高等学校と姉妹校提携を結んでいる。

同校は、1894年(明治27年)に神道金光教会学問所として佐藤範雄らの手により創立。創立以来、金光教の教えをもとに、「学・徳・体」一本の全人教育を行っている。現在も「心の教育を土台にした人間教育」という教育方針は受け継がれ、生徒一人ひとりが「人をたいせつに 自分をたいせつに 物をたいせつに」という合言葉を実践している。

「ほつま」とは
同校には、ほつま体育館やほつま生徒会など「ほつま」と名前の付けられた物がいくつかある。 この「ほつま(秀真)」とは日本書紀の一節からとられたもので「全てに優れていて整い備わっている」という意味であり、日本国の古い美称の一つである。 同校では、1896年に現在のほつま生徒会にあたる「秀真会」の名前として使われて以来、施設や会の名称などに使われるようになった。

著名な出身者

※中学校のみまたは高等学校のみの出身者もいる

芸能人
梅垣義明(タレント)
遠藤寛子(フリーアナウンサー)
塩田慎二(NHKアナウンサー)
河田総一郎(ミュージシャン・Soulifeのvo.,gu.)
佐々木望(ミュージシャン・Soulifeのgu.,cho.)
岡峰光舟(THE BACK HORNのベーシスト)[1]
土路生優里(STU48 1期生メンバー)
文化人
水木れいじ(作詞家)
中田秀夫(映画監督)
学者
山内喜昭(女子栄養大学栄養学部教授)[2]
三宅剛一(哲学者)
香西洋樹(天文学者)
田中勝(公立鳥取環境大学教授)
定金晃三(天文学者)
政治家
加藤武徳(元岡山県知事)
加藤六月(元農林水産大臣)
齋藤泰雄(在フランス日本国特命全権大使)
羽場頼三郎(岡山市議会議員)
栗山康彦(元岡山県議会議員、浅口市長)
花咲宏基(衆議院議員)
柚木道義(衆議院議員)
軍人
立花芳夫(陸軍中将)
財界人
中川仲蔵(元日本軽金属副社長)
越智通勝(エン・ジャパン代表取締役会長)
スポーツ選手
幡司一貴(豊田合成トレフェルサ所属バレーボール選手)
石部安浩(元陸上競技選手・中央大学名誉教授)
國近公太(JTサンダーズ所属バレーボール選手)
黒田淳(競輪選手・BMX選手)
その他
菅伸子(菅直人夫人)


金光教とフジテレビと菅伸子と菅直人(メモ)
https://blogs.yahoo.co.jp/mikaeru0628/38868647.html
”あれ?菅伸子?
あれ?w



ソースはこちら
金光学園中学・高等学校HP
http://www.konkougakuen.net/high/introduction/


イメージ 3
ニコw




<オマケ>


(小山)
大本の開祖、出口なおは金光教に帰依していた!

ttp://yogen.kyuseido.org/p58.html

金光教→大本→大本から派生した宗教


(秋山)
小山さん

やっぱり、金光教が大ボス中の大ボスでしたか。岡山と
知って、絶対に怪しいと思っていました。勉強にないました。

金光教→大本→世界救世教→崇教真光→オウム真理教

これ、超重要。じゃあ、フジテレビは、そうとうコアな
連中に支配されているのか。コワ。


さて、金光教が、今回の選挙でどう動くか、
どうフジテレビを動かすか。

金光教は温羅の子孫くさいですね。



(ミカエル)
子×5さんが、
金光教をバカにしちゃいけないと言ってます。
(長いんですけど、真ん中ぐらいに金光教のことが詳しく書いてあったりする。
しかし、日枝すごいね。ひえ~~~wwって、安倍のご飯仲間でしたよね)


で。フジと言えばお台場のカジノで、ライブドア事件…ぞくぞく~~~



子子子子子さんのブログより金光教メモ

金光教を軽視してはいけない。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-37.html

金光教はかなり重要な宗教。大本教の元ネタだから。
大本教は金光教からの派生。
金光教布教者の出口なおが、出口王仁三郎と出会い、「金明霊学会」の教主となり、大本教になっていくわけです。艮の金神という、鬼門の祟り神=鬼神=悪魔、を崇めるのは金光教が元ネタです。
でもキリスト教系陰謀論者は大本教を悪魔崇拝だと批判できません。だって大本教がキリスト教直属のカルト製造工場だからです。
大本教の始まりは一応、出口なおが「神がかり」(笑)をした1892年ということらしいですが、大本の大本はもっと昔、少なくとも江戸末期から(平田篤胤や平田派神官=和風クリスチャン)だということです。
金光教はボーイスカウトやガールスカウト(メーソン下部団体)のイベントをしたりするなど、メーソンとも繋がりがあります。やっぱりね(QB風)。
金光教スカウト協議会というものがあることからわかるように、
金光教ではボーイスカウトの活動をされている教会(名前からしてキリスト教じゃん)でもあります。神道十三派の一つなのですが、何かキリスト教っぽい名前ですな(だって中身キリスト教だから)。
金光教の設立年は1859年(安政6年)。
本部は岡山県浅口市金光町大谷。
教祖は赤沢文治(川手文治郎)、後の金光大神。
教主は金光平輝(こんこうへいき、五代金光様)、教務総長は岡成敏正(おかなりとしまさ)。
日本を中心に約1600の教会・布教所、45万人の信者がいるらしいのですが、教会に集まるのかあ✝。

金光教は意外なところに潜んでいます。
例えば、清掃事業で有名なダスキンは金光教。
創業者の鈴木清は養母の信仰する金光教に入信。
あと、一燈園の西田天香にも師事していました。

重要なのが、日枝久(ひえだ ひさし)。
勲等は旭日大綬章、
産業経済新聞社取締役や相談役、
株式会社フジ・メディア・ホールディングス代表取締役会長、
株式会社フジテレビジョン代表取締役会長、
東京文化会館館長、
公益財団法人東京都歴史文化財団理事長など凄いですね。
フジサンケイグループのマークはまつ毛つきの一つ目。
編成局長時代は『Dr.スランプ』のアニメ化権利を獲得し、収益源となる、「フジテレビ - 集英社(=週刊少年ジャンプ)作品アニメ」というラインを作り上げた人です。集英社(マークが眼帯片目海賊)はCIA系WASP至上主義(海賊系)ですね。
日韓間の文化コンテンツ産業発展などに寄与した功労が評価(一番の理由ではないだろうね)され、高麗大学校より名誉経営学博士号が授与されたり、早稲田大学からも名誉博士号を授与されたり、[2014年にはイギリスより大英帝国勲章ナイト・コマンダー章を授与されたりこれまた凄い。
他には、
公益財団法人東京都歴史文化財団理事長
国際連合世界食糧計画WFP協会顧問
日本ユニセフ協会評議員
放送番組国際交流センター評議員
国際文化交換協会理事
世界自然保護基金ジャパン理事
エンターテインメント・ロイヤーズ・ネットワーク理事
吉田秀雄記念事業財団評議員
司馬遼太郎記念財団評議員
日仏会館評議員
2005年日本国際博覧会協会評議員
富士山を世界遺産にする国民会議顧問
ケア・インターナショナルジャパン顧問
日本ファッション協会評議員
新日本フィルハーモニー交響楽団副理事長
凄いですねえ。
産経宗教記者=司馬遼太郎(日ユ同祖論者=キリスト教の手先)。
フジ産経の裏側に金光教あり。
金光ホールでキッシンジャー(中曽根のボス)は講演しました。
右翼が大好き産経新聞は、生長の家とも関係が深いです。
生長の家が大本教派生で、大本教が金教系派生。金光教の方が老舗。
産経の系列のフジテレビジョンのドンにして、鹿内一族の経営支配をクーデターで乗っ取ったのが日枝久で金光教徒。
岡山+和風キリスト教=金光教(フジ産経 +生長の家=大本教系)。
日枝久は、早稲田大学教育学部卒。下中弥三郎の啓明会(日教組の母体。欧州貴族路線=イルミナティの和訳)。
しかも労働組合の書記長だったことから、欧州貴族+バチカン路線であり、WASP側ではなかったのですが、その後を見ると転向組ですね。

↓右翼=WASP至上主義(キリスト教原理主義。フジ産経)側が911の犯人。
“今のアニメで面白いのは残響のテロルかな、脚本が甘いけど。911をモチーフにし、さらっとテルミット爆薬。 偶然にも911に報道された昨日の回ではアメへの日本秘密裏武器仕立ての設定で原爆のこと。 放送局が意外にもフジ。日枝の経歴ぐらいにしか存在しない残響がフジの中にはまだいるのかも。”
村手 さとし@mkmogura

この残響とは、勿論、欧州貴族路線だった頃の残党の意味ですね。中枢にいるのでしょうね、欧州貴族系統の人が。

“政治家さえ、天皇(朝鮮支配の道具)の任命が必要という笑える話
【虚空と君のあいだに http://www.mkmogura.com/blog/2010/09/0/945… 
▼これがこの国の形
▼右翼左翼の争いも朝鮮派閥の争い
▼真っ当な日本人に得になることが起きるわけがない
▼結論が
北朝=高句麗、
南朝=百済”

“元が高麗を手先に日本に押し寄せたのが「元寇」
【http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20130119/frn1301191037003-n1.htm …【http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87 … 
▼モンゴル帝国(元)及びその服属政権となった高麗王国によって二度に亘り行われた対日本侵攻の呼称
(なぜか、高麗が攻めてきたことは、あまり話題にされない)”

“モンゴル帝室に女性を献上していた「高麗時代の朝鮮」 【日刊SPA! http://nikkan-spa.jp/711388
▼高麗はモンゴル帝国ハーン一族の『婿殿』の立場
▼代々、大都(北京)から娘を貰い皇后に
▼『蒙古襲来』も、フビライの娘婿=高麗・忠烈王が侵略を進めたことがわかっている”

“平将門は、江戸時代は英雄、明治には逆賊
https://twitter.com/kenkatap/status/313144022711558144 …
▼武家政権→高句麗系の覇権
▼天皇家政権→百済系の覇権
https://twitter.com/kenkatap/status/331882619031650304 …
▼江戸時代まで「朝鮮人」でなく「高麗人」”

“高麗(高句麗)神社参拝 https://twitter.com/kenkatap/status/416123718721490944 …
▼谷内正太郎初代NSC局長 https://twitter.com/kenkatap/status/323676938650660864 …
▼明治以降に参拝者の中から6名の総理大臣 https://twitter.com/kenkatap/status/323680143568695297 …
▼高句麗はツングースの騎馬集団が作った国家”

“参拝すると総理大臣になれる神社 【http://www.kajika.net/wp/archives/304  
▼鳩山首相の祖父・鳩山一郎も高麗神社を参拝後に首相官邸の主に
▼浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎といった歴代の総理大臣もこの神社を参拝
▼高句麗はツングースの騎馬集団が南下して作った国家”

“巨摩郡【wiki http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E6%91%A9%E9%83%A1 …
▼甲斐国(山梨県)に存在した郡
▼668年朝鮮半島での高句麗滅亡以後、『続日本紀』霊亀2年(716年)5月16日条に甲斐はじめ関東や中部の7カ国へ高句麗から帰化人が渡っている記事→高句麗からの帰化人にちなみ「高麗」が由来”

“サントリー、ウイスキー増産 「白州」33年ぶり 【日経 http://www.nikkei.com/article/DGXNASDZ140C7_U4A310C1TJ1000/ … http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B7%9E%E8%92%B8%E6%BA%9C%E6%89%80 …
▼白洲町=巨摩(山梨) https://twitter.com/kenkatap/status/352016291269316609 …
▼巨摩→埼玉”

“高麗神社 (こまじんじゃ)は埼玉県日高市に鎮座する神社【wiki http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E7%A5%9E%E7%A4%BE …
▼668年に唐・新羅に滅ぼされ亡命して日本に居住していた高句麗からの帰化人を朝廷はこの地に移住させた
▼703年には高麗若光が朝廷から王姓が下賜されたという話が伝わっている”

“渡来1300年…高麗郡の歴史冊子、中学生へ
【読売 http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/2040402-OYT8T50073.html?from=tw…
▼埼玉県日高市は、奈良時代移住した渡来人がつくった「高麗(こま)郡」の歴史を紹介した冊子作成
▼716年、朝鮮半島で滅亡した高句麗の渡来人1799人で設置したと続日本紀に書かれてる”

“三足烏=太陽の象徴
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89E8%B6%B3%E7%83%8F…
▼足が3本=陰陽で偶数を陰、奇数を陽、3は奇数で太陽と同じ陽
▼中国=三足烏(サンズゥウー)日烏や火烏
▼北朝鮮=三足烏(サムジョゴ)は高句麗の建国神話
▼日本=八咫烏(ヤタガラス)▼エジプト=太陽神ホルスは隼頭”
ken‏@kenkatap  

ヤタガラスやらカラスやら裏天皇と言う人には、その人たちの宗教は何か質問してみましょう。天皇は仏教徒か道教家であり、神道カルト(キリスト教)偽天皇にすり替えられたって言いましょう。仏教徒の天皇(道教用語)をなかったことにしたいクリスチャン勢力が流すデマがヤタガラスやカラスや裏天皇ですよ。日本の伝統は道教混じり仏教です!超古代と明治以降のことばかり言うのは仏教国教時代が本当の伝統なのを隠す為。

SF作家のかんべむさし=阪上順〔さかがみ じゅん〕は金光教信者。
他の金光教の信者も紹介。

佐藤範雄(さとう のりお)
教祖の教えの記録保存や、信者の結収を行い、金光教の教団組織化を推進。金光学園中学校・高等学校と金光教学院の創立者、初代校長。金光教の三直信(さんじきしん。金光教祖から直々に教えを受けた人々=直信の中で特に貢献した三人)の一人。
金光教内では教監を始め要職を歴任。創立間もない赤十字運動にも参加(金光教は皇室人脈がありそう)し、明治22年には社員となり赤十字運動の普及活動を展開します。赤く血ぬられた十字架=キリスト教。
政府に宗教制度を作るよう強力に働きかけ、宗教団体法の設立に尽力しました。

伊藤昌哉
満州生まれ(満州は大本教系のこだわり)。池田勇人内閣総理大臣の秘書官を経て、政治論壇や宏池会で活動。
心不全(=死因不明。心臓が止まったと言う意味なので死体は皆心不全)のため自宅で死去。父は満蒙開拓の草分けの伊藤謙次郎。長女の娘婿は大蔵官僚の田谷広明。

小川洋子
早稲田大出身。『博士の愛した数式』(2003年)で、2004年、第55回読売文学賞および第1回本屋大賞を受賞。

小田原大造
1953年、和崎嘉之、松原与三松とともにニューヨークに就き、国連本部の首脳部に日本の国際連合(以下、国連)加盟を訴え、各国大使に協力を懇請。小田原らの尽力により1956年12月18日、国連総会で日本の国連加盟は実現。
第17代大阪商工会議所会頭。
金光教は軽視してはいけませんよ。

桂かい枝

サトウサンペイ
漫画家。1997年、紫綬褒章。

品川祐 (お笑い芸人) - 親の実家が金光教信者。
ガンダム好き、アニメ好きでもあり、『アメトーーク!』での「ガンダム芸人」に名を連ね、『鋼の錬金術師』に関しては、「原作、アニメもすごい。その続きを映画で見られるなんて!」と高い評価。ある作品を褒めるのは個人的意図とは限らないのですよ。錬金術=科学であり欧州貴族のこだわりですから。十字の盾を持つガンダム=白い悪魔=白人キリスト教徒。

杉田二郎
日本レコード大賞企画賞(1992年)。

砂川しげひさ
2007年、第36回日本漫画家協会賞(大賞)受賞。

中村鴈治郎
歌舞伎役者。

西村朗
実家は神仏への信心が深く、神道においては金光教を信仰していました。
1974年 日本音楽コンクール作曲部門1位
2013年 紫綬褒章受章・大阪市市民表彰。

牧野省三
「日本映画の父」。忠臣蔵(南朝崇拝=南朝偽天皇礼賛)ものを多く制作。

松木安太郎 (サッカー解説者)
名前が、金光教玉水教会初代教会長湯川安太郎にちなんでいるそうです。

吉見一起(プロ野球中日ドラゴンズ)
金光大阪高校出身。トヨタ自動車(欧州貴族会社。豊田市はクロウリーのマーク)に入り、社会人ナンバー1投手と評されました。

萬屋錦之介は歌舞伎役者。

2014/12/6(土) 午前 3:18 [ ミカエル ] 返信する

川内のさよなら原発大集会に「日本カトリック正義と平和協議会」「YMCA」「金光教」の旗・のぼりも上がったそうだよ。

大江健三郎って何教だろ?


石井は芥川やすしの紹介でロシア大学に行ったそうだ。
芥川やすしは大江健三郎と仲良し。
芥川やすしは芥川龍之介の息子で、芥川龍之介は大本のオカルトの祖浅野和三郎と同じ海軍機関学校で英語教師をやってたんじゃなかったっけ?



で。日枝と菅と安倍・・


笑う。。

2014/12/6(土) 午前 3:37 [ ミカエル ] 返信する

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艮の金神という、鬼門の祟り神=鬼神=悪魔、を崇めるのは金光教が元ネタです

そして、拠点が岡山。モロに温羅じゃん(笑)
削除

2014/12/6(土) 午前 4:44 [ 秋山 ] 返信する

うちらが受けた国語の授業では、
艮の金神=温羅=キシ

となりますな・・

2014/12/6(土) 午前 11:27 [ ミカエル ] 返信する

子×5さんの金光学園メモに注目
菅はズブズブやんけ!
菅はよど号メンバーの息子を支援してる斎藤まさしとも仲が良い。
あれ?日本の皇室も繋がってんの??


佐藤範雄(さとう のりお)
教祖の教えの記録保存や、信者の結収を行い、金光教の教団組織化を推進。金光学園中学校・高等学校と金光教学院の創立者、初代校長。金光教の三直信(さんじきしん。金光教祖から直々に教えを受けた人々=直信の中で特に貢献した三人)の一人。
金光教内では教監を始め要職を歴任。創立間もない赤十字運動にも参加(金光教は皇室人脈がありそう)し、明治22年には社員となり赤十字運動の普及活動を展開します。赤く血ぬられた十字架=キリスト教。
政府に宗教制度を作るよう強力に働きかけ、宗教団体法の設立に尽力しました。

2014/12/6(土) 午前 11:48 [ ミカエル ] 返信する

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金光教の追求がおもしろくなってきたところで、何なの
ですが、私が調査を担当している天理教の方も、ちょっと
だけ進展したので、メモをしておきますね。天理教の信者には、
徳川厚がいます。徳川厚は、最後の征夷大将軍である德川慶喜の
四男で、徳川厚の息子の德川喜福は、右翼暴力団である国粋会の
総裁を務めた大木遠吉の娘の伸子と結婚し、婿養子となって、
大木姓となっています。国粋会は、この大木遠吉が、頭山満を
顧問に迎えて作った右翼ヤクザ集団であり、世界紅卍字会のボスの
堀川辰吉郎が、大木遠吉から国粋会を引き継いで、国粋会の総裁に
就任している。また、大木遠吉の妻は、伊達政宗の直径子孫の
伊達幸子だ。さて、ここらを念頭に入れて、再び、天理教による
満州進出を見て行きたい。天理教は満州に進出して、天理村と
天理鉄道を建設している。
削除

2014/12/6(土) 午後 3:49 [ 秋山 ] 返信する

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ちなみに、これは小山さんも既に書いていることだが、
自民党の好戦派アバズレ女の高市早苗も天理教の上級信者。

×高市早苗=統一教会
◎高市早苗=天理教

コシミズ、嘘をつくなよ。
削除

2014/12/6(土) 午後 3:52 [ 秋山 ] 返信する

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さてさて、船井幸男がよく「サムシンググレート」という
言葉を連呼していたが、この言葉は、船井幸男の友人で
医師である村上和雄が作った造語である。そして、医師も
天理教の熱心な信者。つまり、船井幸男サークルには、大本
だけではなくて、天理教も入るということ。

まあ、天理教と世界紅卍字会が、徳川家と満州利権を通して
繋がっていることが、見えてきたわけだから、世界紅卍字会の
コアの大本が、天理教ともつるんでいても不思議ではない。

やはり、謎を解くには、満州へ
…。 削除

2014/12/6(土) 午後 3:59 [ 秋山 ] 返信する

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大本系の船井幸雄の友人、天理教の医師である村上和雄は、
「サムシング・グレートが天理教の親神である」と認めている。
サムシング・グレートという言葉を使う団体、アーティストは、
天理教の信者と見るべきだろう。


ちなみにだ、幕末3大カルト(黒住教、天理教、金光教)の中で、
最も古いのは、日本会議の重鎮メンバーの黒住教だよ。
黒住教=1814年に創立
天理教=1838年に創立
金光教=1859年に創立

で、黒住教と金光教が岡山を本部に置いているからね。これ、
たぶん、黒住教が大ボスだと思うよ。黒住教は、日本会議の
重鎮メンバーでもあるから、調べた方が良いよ。


※温羅(うら/おんら)=岡山県南部の吉備地方に伝わる古代の鬼。
『うらたろう』って片目強調漫画があるよね。平家優遇。天皇が女の子で不死でうらたろうに惚れる。
ヒロインが平家の姫。
平家が勝ち、源氏が負けた世界。平家ペルシャ説?
妖怪の王を産んで体がばらばらになったけど、パーツをつなぎ合わせて復活するんだろうな。女版オシリスごっこ。
うらたろうは左目だったときは不死だったが、可死(普通の生物)になると右目側になる。伝承のウラにより近くなった。
主人公のうらたろうに、不死身の女天皇(安徳)が惚れることが重要。
伝承のうらたろうは百済の王子。
今上天皇の「私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています」発現からわかるように、
今の偽天皇は百済系。
作者はどうみても結社員だな。


作者はチベット系の『ねじまきカギュー』ともろインドの『トラウマイスタ』と同じ中山敦支。







『ねじまきカギュー』


チベット仏教+愛(耶蘇っぽい)+パトス
vs
ニーチェ・理人=ロゴスの権化(愛の否定)
+死(メメント・モリ。森お(左)目目先生。最強の敵)。

ちゃんとウパニシャッドの創造神「死」が最後の敵だ。
最終的に主人公もヒロインも死亡エンドっぽいけどね。蘇生したのかわざと不明にしているのだろうね。

『トラウマイスタ』
「真実の自己(アートマン)=人の心の奥に潜むトラウマが具現化した存在」が武器。武器にするには、トラウマの主は戦って10分以内に勝利=克服しないといけない。負けると乗っ取られる。
トラウマを克服した真の自己が武器!
用語からしてもろにインド。
主人公は「鬼」のトラウマを克服してアートマンにするから鬼の力。
鬼が主人公側だと結社が優遇してくれるのだろう。
敵がまたしてもニーチェ。




第一話が46ページのアートマン漫画ねえ。クソアーメン!



吉備津神社(きびつじんじゃ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E6%B4%A5%E7%A5%9E%E7%A4%BE
“当地出身の政治家犬養毅は、犬養家遠祖の犬飼健命が大吉備津彦命の随神であるとして、吉備津神社を崇敬したという。神池の畔に犬養毅の銅像が建てられ、吉備津神社の社号標も犬養毅の揮毫になる。”


“• 吉備津神社
岡山市北区吉備津( 位置)。
式内社(名神大)、備中国一宮。本殿は国宝。吉備津彦命が本陣を置いた地という。また、吉備津彦命が営んだ斎殿跡ともいい[8]、命を主神に祀る。本殿外陣の東北(艮)隅には「艮御崎神」として温羅と王丹(弟)が祀られ、平安時代末の『梁塵秘抄』では「艮みさきは恐ろしや」と詠われている。
• …
• 『梁塵秘抄』
平安時代末の歌謡集。吉備津神社について次の歌を伝える[10]。
“ 一品(いっぽん)聖霊(しょうりょう)吉備津宮、新宮、本宮、内の宮、隼人崎、北や南の神客人、丑寅みさきは恐ろしや



金光教
http://dic.nicovideo.jp/a/%E9%87%91%E5%85%89%E6%95%99
”伝統的にボーイスカウトやガールスカウトと友好関係を築いている。例えば金光教の子弟はボーイスカウト・ガールスカウトに参加することが少なくなかったり、ボーイスカウト活動用品を販売するスカウトショップが金光教本部内にあったり。歴代教主の中にボーイスカウト日本連盟の顧問になった人物もいる。金光教信徒の子弟が多いボーイスカウトやガールスカウトの団では、金光教の教会で集会が行われることもある(ただしこれは他の宗教であっても同様であり金光教特有の事象ではない)。ボーイスカウト日本連盟やガールスカウト日本連盟は宗教を信仰することを奨励しており五種類の「宗教章」を定めているが、その中には「金光教章」も存在している。日本で仏教章・神道章・キリスト教章の区分に入らない新宗教系の宗教章が定められているのは、2016年現在では金光教と世界救世教のみである。”

樂能…
https://blogs.yahoo.co.jp/mikaeru0628/38884425.html

処刑された7人の戦犯が大本系か国柱会系かを調べてみた(小山編)
https://blogs.yahoo.co.jp/mikaeru0628/38888847.html

能楽トリビア
https://blogs.yahoo.co.jp/mikaeru0628/38884489.html

映画やドラマの陰陽師、指導多し☆高橋圭也‏ @Keiya_Takahashi 4月22日
江戸時代までの日本は仏教優勢の神仏習合の時代だった。ところで陰陽道は国家占い官庁、陰陽師は国家公務員占い師の意味で哲学や思想を持たない占い専門家であり、平安時代に安倍家は寺の法要に参加して一族の繁栄を願った記録があり、後に浄土宗寺院を菩提寺としたから、昔から一貫して仏教徒だった。

映画やドラマの陰陽師、指導多し☆高橋圭也‏ @Keiya_Takahashi 2016年7月25日
江戸時代までは神仏習合であり、 全てが仏教の価値観優勢だった。ところで陰陽道は国家占い官庁、陰陽師は国家公務員占い師で哲学や思想を持たない占い専門家だったし、平安時代に安倍家は寺の法要に参加して一族の繁栄を願い、後に浄土宗寺院が菩提寺の仏教徒だったから仏教的価値観が主だったはず。

takuhiro (kinosy)‏ @Kino_see 2013年7月27日
土御門家は浄土宗西山派(現・西山浄土宗)の檀信徒になります。お墓は仏式、葬式も仏式です。土御門神道になっても仏式・神式両方で行っていたようです。いずれにせよ、陰陽師が自費で自分の為のお寺を建てた記録もありますし、結局陰陽師は仏教徒なんですわ。 #陰陽道

温 羅 伝 説 ・ 桃 太 郎 伝 説
http://17.pro.tok2.com/~kmlife/it-town/minamishinogoze/rekisi/rekisisabu-a/ura/ura&momotarou.htm
"…温羅は今は絶体絶命ついにミコトの軍門(ぐんもん)に降(ふ)っておのが"吉備冠者"の名をミコトに献上したので、それよりミコトは吉備津彦命と改称されることとなった。ミコトは鬼の頭を刎(は)ねて串し刺してこれを曝(さら)した。
 岡山市の首部(こうべ)はその遺跡である。

しかるに、この首が何年となく大声を発し、唸(うな)り響いて止(と)まらない。ミコトは部下の犬飼建(イヌカイノタケル)に命じて犬に喰わした。肉はつきて髑髏(しゃれこうべ)となったがなお吠え止(や)まない。
そこでミコトはその首を吉備津宮の釜殿(かまどの)の竈(かまど)の下八尺を掘って埋めしめたが、なお一三年の間唸(うな)りは止まらず近里(ちかさと)に鳴り響いた。

ある夜ミコトの夢に温羅の霊が現われて、 『吾が妻、阿曽郷(あそごう)の祝(いわい)の娘阿曽姫(アソヒメ)をしてミコトの釜殿の神饌(しんせん)を炊かしめよ、もし世の中に事あれば竈(かまど)の前に参り給え、幸あれば裕かに鳴り、禍(わざわい)あれば荒(あら)らかに鳴ろう。ミコトは世を捨ててのちは霊神(れいかみ)と現われ給え。
吾(われ)は一の使者となって四民(しみん)に賞罰を加えん』と告げた。
されば吉備津宮のお釜殿は温羅の霊を祀(まつ)れるもの、その精霊を「丑寅(うしとら)みさき」という。
 これが神秘(しんぴ)な釜鳴神事(かまなりしんじ)のおこりである。

 今に伝わる吉備津神社の鳴釜の神事は、本来、吉凶を占う神事ではなく、大恩人の温羅、つまり吉備津彦命の怨霊を取り鎮め安らかに眠ってくださいと願う民衆の厳かな鎮魂の重要な神事なのである。
…桃太郎の話は、やはり吉備津彦命と温羅伝説の下敷きになって今日のようなストーリーが作られたものと思われる。…岡山駅前大通りは「桃太郎通り」である。

それにしても、その桃太郎のお供は、どうして犬、猿、雉なのか。
岡山市オリエント美術館長・市川俊介氏は、素朴なこの疑問に対して、江戸時代の滝沢馬琴による『燕石雑志』を引用し、次のように解説している。

つまり、桃太郎が退治する鬼の住むところは鬼門、丑寅(うしとら)(東北)方向であるから、これを退治する桃太郎の家来は、逆の方向にある申(猿)、酉(雉)、戌(犬)でなければならなかった、というわけ。
当然のことながら、桃太郎の童話の下敷きとなった吉備津彦命の伝承にも犬、雉、猿がいる。
吉備津彦命の犬は犬飼健命。吉備津神社の南随神門に吉備津彦命の随神として祭られている。
「話せばわかる」の名宰相・犬飼毅(木童)はその子孫だといわれている。

次に吉備津彦命の雉は、留玉臣命。犬飼健命と同じ南随神門に祭られている中田名命は、留玉臣命の系統で鳥飼部という職業集団をかかわりがあったといわれている。

さらに、吉備津彦命の猿はというと、これが楽々森彦命(ささもりひこのみこと)とされている。足守地域(岡山市足守町)に元から居た豪族といわれており、楽々(ささ)は、ささ、砂鉄のことを意味している。山陰の日野川流域(鳥取県)には、楽々副(ささふく)神社が数多くあり、「たたら製鉄」を業とする集団が斎きを祭ったもの。おそらく楽々森彦命は、出雲系の砂鉄生産集団のリーダーだあったと思われる。

さて、桃太郎といえば、四国高松の桃太郎も知られている。
この桃太郎は吉備津彦命の弟の若日子建命。犬は犬島(岡山市犬島)の住人で、鬼ヶ島の監視を担当。猿は陶(香川県)の人で、敵の動静を探るスパイ。雉は高松市の「雉が谷」の住人で兵士の徴集が役目。そして、高松市の沖に浮かぶ「女木島」が鬼ヶ島というわけである。

四国の桃太郎は高松市の生島湾に集結ののち、一気に鬼ヶ島を攻め込み大勝利を収めた。桃太郎が本津川の近くに引き上げたとき、突然鬼の軍勢が不意打ちを仕掛けてきたが、この時も大激戦のすえ勝利を収め、念願の鬼退治を果たした。鬼がいなくなったこの地を「鬼無(きな)し」と言っている。
高松市に今も盆栽造りで知られる鬼無町がある。

瀬戸大橋で結ばれた岡山・香川両県に同じような桃太郎の話が伝わっている点を注目したい。

明治時代初期までは桃を食べて若返ったお爺さんとお婆さんの間に桃太郎が出来たという回春型の話の方が主流であった。

温羅伝説の要約 〔読みやすい文体にしたものです。〕

その昔、異国の鬼神が飛来して吉備の国にやってきた。それは朝鮮半島の百済の王子で、名を温羅といい、吉備冠者(きびかじゃ) 〔または、吉備火車〕とも呼ばれた。

彼は居城を備中国の「鬼ノ城」といわれる新山に構えた。温羅は身長4メートル、目は豹のように輝き、髪は赤みを帯びた異様な姿であった。そのうえ温羅は火を吹いて山を焼き、岩をうがち、人間や猿を食い、美しい女を奪ったりする。そのような温羅は、人々から大変恐れられていた。

そこで、吉備津彦命、もとの名を五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)というヤマト朝廷の将軍が登場し、この温羅を退治することになる。

吉備の中山に陣を構えた五十狭芹彦命が、新山の「鬼ノ城」に向かって矢を放つと、温羅の放った矢と途中で食い合って落ち、勝負がつかない。
矢が落ちたと伝えられる岡山市高塚には現在「矢食いの宮」がある。

温羅は少々ケガをしても温泉に入って癒(なお)し、勢力はますます強くなる。そのとき命(みこと)は、住吉大明神のお告げに従い一度に二本の矢をつがえて射たところ、一本の矢は途中で食い合ったが、もう一本は温羅の左眼に命中した。
このときばかり命(みこと)は攻めていくと、温羅は大雷雨で洪水を起こし、その流れに乗って逃げようとした。
川の水は、温羅の傷から流れ出た血で赤く染まった。
この川のことを「血吸川」(ちすいがわ)という。
温羅が雉(きじ)となって山中に逃げるが、命(みこと)は鷹となってこれを追う。追い詰められた温羅は今度は鯉に姿を変え、川を下り始めたが、命はすばやく鵜になって鯉を追い、ようやく温羅を捕まえた。
ここには今も「鯉食宮」がある。

絶体絶命、温羅はついに命に降伏し、自分の「吉備冠者」の名を奉(たてまつ)った。五十狭芹彦命は吉備津彦命になった。

戦いに勝利した命は、温羅の首を串に刺してさらし首にした。
岡山市首部(こうべ)がその遺跡とされている。

ところが不思議なことに、この首はいつまで経っても吠え続け、執念を燃やし続けてやまない。そこで命は家来の犬飼建(イヌカイノタケル)に命じて犬に食わせたが、ドクロとなっても温羅の首は吠え続けるのだ。命は釜殿の地下八尺あまりも掘ってその中に埋めたが、13年間唸(うな)りやまなかった。

ある夜のこと、命の夢になかに温羅が現れて言った。
「阿曽郷にいるわが妻の阿曽女に命じてお釜の神饌(しんせん)を炊かしめよ。幸いあれば豊かに鳴り、禍があれば荒々しく鳴ろう」と。命がその通りにすると、温羅の首はやっと吠えるのをやめた――。

吉備津神社に伝わる温羅退治の伝説のあらましは以上のとおりであるが、阿曽女が炊いたお釜は、吉備津神社の「お釜殿」にある釜がそれだという。
   …
吉備津神社に伝わる温羅伝説のあらましは以上のとおりであるが、阿曽女(あそめ)が炊いたお釜は、吉備津神社の「お釜殿」にある釜がそれだという。
後に林羅山(はやしらざん)の『本朝神社考』や、上田秋成(うえだしゅうせい)の『雨月物語』で知られるようになった。
神秘的な吉備津神社の「鳴釜の神事」は、吉凶を占う吉備津神社の重要な神事として今も続けられている。

この伝説によると温羅こそ吉備王国の王者・吉備津彦命その人である。温羅、すなわち吉備津彦命は、ヤマト朝廷の将軍・五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)の侵略に対して抵抗した吉備の英雄だったのである。
それが後の時代になり、勝利者たるヤマト朝廷が征服者を英雄に仕立て上げ、代わりに温羅を鬼にした、と考える事が出来る。
勝てば官軍、負ければ賊軍なのである。

温羅が朝鮮半島の百済(くだら)からの渡来人であるとする伝承は、この吉備地方が、古代の先進文化をもった渡来人によって開発された地域であることを示している。

百済は三世紀から七世紀にかけて栄え、同じ朝鮮半島の高句麗(こおくり)・新羅(しらぎ)とともに三国時代を形成した。
当時の日本は[倭(わ)]といわれ、文化の面では朝鮮半島よりもはるかに遅れた開発途上国で、百済からは仏教をはじめさまざまな文化や技術を学んで国づくりをした。吉備の豊かな砂鉄資源の開発も、百済からの渡来人とその技術に負うところが大きかったにちがいない。

この伝承は、出雲のヤマタノオロチ退治の神話と同じように、砂鉄資源を奪われる史実を語ったものである。

温羅伝説のなかで「火を吹いて山をうがつ温羅が片眼を射抜かれた」とされているのは、「たたら製鉄」に従事する人々の姿を表現したものである。「血吸川」(ちすいがわ)は、ヤマタノオロチにたとえられる出雲の斐伊川と同じ「たたら製鉄」の川なのである。

総社市阿曽は、「鬼ノ城」
といわれた新山の麓にあり、昔から「備中鍬」の名で知られた鋳物産地だ。この地の女性が吉備津神社の鳴釜の神事に奉仕しているのは、温羅が当時のハイテク技術を駆使する砂鉄生産集団の巫女(みこ)によって祭られた吉備王国の王者であったことを物語っている。"

艮御崎神社
http://www.spicy.sakura.ne.jp/jinja/ushitoraonzaki/ushitoraonzaki.htm
吉備津神社の艮御崎神社は、本殿の東北角にある。この方角は鬼門と呼ばれており、艮御崎神社は鬼神・温羅を祀っている。そのため温羅は別名・艮御崎神(ウシトラミサキシン)とも呼ばれている。
そして、この辛川市場の艮御崎神社がある地は小丸山と呼ばれ、太古の昔に桃太郎のモデルとされる吉備津彦命が温羅を征伐した後、温羅の胴体と埋めた地であるとの伝承が残っている。(ちなみに首は、岡山市首部の白山神社に埋めた後、吉備津神社の御釜殿に葬ったとされる。)
ここに温羅を祀る艮御崎神社の分社が建てられたのも、温羅の遺体がが葬られた地で、温羅の魂を沈める意味があるのかもしれない。”

ken‏ @kenkatap 2013年4月24日
博愛社=赤十字に倣って1877年設立の結社。日本赤十字社の前身【http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9A%E6%84%9B%E7%A4%BE …】【http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%B5%A4%E5%8D%81%E5%AD%97%E7%A4%BE …】日本赤十字
▼社長=近衞忠煇
▼夫人=崇仁親王第一女子=近衛やす子
▼名誉総裁=皇后▼名誉副総裁=各皇族就任

ken‏ @kenkatap 2014年8月28日
近衛忠てる=国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)会長及び日本赤十字社社長 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E3%81%A6%E3%82%8B … ▼兄は細川護熙 ▼祖父:近衛文麿
▼英国ロンドン大留学、1964年、帰国
▼日本赤十字社副総裁三笠宮崇仁親王の長女・甯子内親王と結婚
▼同年より日本赤十字社入社




温羅(うら/おんら)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A9%E7%BE%85

うらじゃ振興会とは > 温羅について
http://uraja.jp/about/ura.html


昔こっぽりにゃんこの目!!