朱子学は形而上に執着するな、形而下をまずしっかりしろと説き、人格神を認めず神像崇拝も否定なのでヤソにも新ヤソにも叩かれる。土田健次郎『江戸の朱子学』
Posted on 2018.08.05 Sun 16:34:39 edit
無記派の儒教へも藁人形。
— 子子子子子猫子猫はいます @黒住も金光も天理も世界連邦側 (@kitsuchitsuchi) 2018年8月4日
スピは道教は叩かない。
王が
王を殺す理由
「悪行を改めよと3度言われて改めない王なら
①辞めて去れ
②王を殺すor③失脚させ、まともな者を据えよ」
を与える儒教を作らせるか?
王が道徳的でないと暴君に難癖をつけられて殺されたりするから
王以外の者が得をする思想。
まずは儒教の根本思想をどうぞ。
タイトルの本のメモはその後。
孔子
— 子子子子子猫子猫はいますアイコンを無個性に変更@黒住も金光も天理も世界連邦側 (@kitsuchitsuchi) 2017年11月4日
「必ずや名を正さんか」
「適切な名前をつけよ」
「いまだ生を知らず、焉んぞ死を知らんや」
「死んだらどうなるか知らない」
「怪力乱心を語らず」
「人知を超えたものを語るな」
儒教も無記だし、スピリチュアル否定。
儒教も聖賢であるかは行動で決まるから血統崇拝否定。
— 子子子子子猫子猫はいますアイコンを無個性に変更@黒住も金光も天理も世界連邦側 (@kitsuchitsuchi) 2018年2月10日
かつ権力者の悪政を防ぐ為に道徳的な君主と側近を育てる教え。
母親が巫女である孔子が
「不語怪力乱神」
「死後のことは分らない」
「天=道徳以上の価値観なし」
「ボスに三度諫言=間違いを正してもダメなら去れ」
と説いた重みを噛みしめよ。
孟子の易姓革命論を加えると
「悪行をしてはいけないと3度言われても改めないボスなら
①辞めて去れ
②ボスを殺すor③失脚させ、まともな者を据えよ」。
上への盲従を強いるというデマを流す工作に注意。
儒教も無記でスピ否定。
「適切な名前をつけよ」で詭弁対策。詳細は↓
名づけの呪術の防衛術は儒教に学べ!
— 子子子子子猫子猫はいますアイコンを無個性に変更@黒住も金光も天理も世界連邦側 (@kitsuchitsuchi) 2017年11月4日
孔子
「適切な名前をつけよ」
「人知を超えたものを語るな」
「死んだらどうなるか知らない」
名前魔法①教科書↓メモ
ネーミング全史、タイトルの魔力、「名づけ」の精神史
https://t.co/0xaBYgYIWw@kou11lunatic
孟子の易姓革命論
— 子子子子子猫子猫はいますアイコンを無個性に変更@黒住も金光も天理も世界連邦側 (@kitsuchitsuchi) 2017年11月4日
「徳を失った王は王の資格を失っているから殺して良い」
孟子「トップがクズなら殺して良い」
支配層が無能だったりクズならぶっ殺してOKな儒教。
血統の断絶ではなく、徳の断絶が易姓革命の根拠。
儒教は原罪否定で基本は性善説で、性悪説も後天的教育でなんとかなるって思想なので結局は性善説。
耶蘇は儒教の性善説も嫌い。原罪否定だから。
葬儀は信者にとって譲れない点なのは重要。
骨の髄までカトリック信者のロヨラのお墓は明確にカトリック式でありユダヤ教式ではない。
@kikuchi_8
同感です。孟子の良知良能、性善説の考え方は聖書の原罪思想とは真逆の発想ですね。荀子も修養や社会的規範(礼)によって人は善たりうるという発想なので、人間の本性が「悪」として固定化されているとは考えていない事が分かります。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2017年12月18日
KONDOH Michio@kondohmjp
3月4日
論語に「子不語怪力乱神」とある。孔子は人智を超えた不可解なものについては語らなかった。
「否定」ではなく「語らず」なんだ。
僕はほんとは語れないはずのことを科学者面して語っていないか。自省。
すんすけ@tyuusyo
2017年10月1日
すんすけさんがすんすけをリツイートしました
おもしろいのは「怪力乱神」のうち「怪力乱」は
「非理之正,固聖人所不語。」と全否定しているのに、
「神」は「ひょっとしたらあるのかもしれないが理で解明できないもので、
よくわからないものだから軽がろしく語るべきではない」と言われていることで、
非常に正しい懐疑論者の姿勢だと思います
すんすけさんが追加
すんすけ@tyuusyo
2017年10月1日
「怪」はUMA、「力」はトンデモアクション映画の類、
「乱」は医療否定やら偽史、
「神」は朱熹が
「造化之跡にして,不正に非ずといえども、
然れども窮理之至りにあらず,未だ易く明らかならざるものなり、
故に亦た以て軽く人に語らざる也。」というのですから宇宙人や超常現象といってもいい
一神教カルトは儒教の「天」という概念を「天帝→ゴッド→唯一神」と改釈する傾向があります。ここに憑依しますね。支那では「天」の概念は時代を下るにつれて「理=法則」という意味に変化していくのですが、「天」に「創造主」のニュアンスは最初からありません。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年9月26日
「儒教は上位者への盲従を説く」との誤解についての解説
https://togetter.com/li/664524
人見基埜アットhitomimotoya196さん
”セウォル号事故で上からの指示を守って死んだ方々の行動までも「儒教の影響」と分析する者がいて、それをまた餌にして愚かなことを書く所謂「ネトウヨ」がいるが、儒教は上下関係盲従思想ではないのだが。
今日はもうしんどいので寝るが、儒者たちが上に逆らっていることを示す文献上の典拠は多いので、明日か明後日にツイートする。
「儒教は上位者への盲従を説く」との誤解がまかり通っているので一言。
『論語』里仁篇(4-18)に次のように言われる。(原文)子曰、事父母幾諫。見志不從、又敬不違、勞而不怨。
(書き下し)子曰く、父母に事るには幾(ようや)くに諫む。志の從はざるを見ては、又敬して違はず、勞しても怨みず。
朱子は、「論語集註」で、この一節を、『礼記』「内則」の「父母有過、下氣怡色、柔聲以諫。諫若不入、起敬起孝、說則復諫。不說、與其得罪於鄉黨州閭、寧孰諫。父母怒、不說、而撻之流血、不敢疾怨、起敬起孝。」を引用して説明する。
(「集註」原文)此章與内則之言相表裏。幾、微也。微諫、所謂父母有過、下氣怡色、柔聲以諫也。見志不從、又敬不違、所謂諫若不入、起敬起孝、悦則復諫也。勞而不怨、所謂與其得罪於郷黨州閭、寧熟諫。父母怒不悦、而撻之流血、不敢疾怨、起敬起孝也。
(書き下し1)此の章、内則の言と相表裏す。幾は微なり。微諫は、所謂「父母過有らば、氣を下し色を怡ばし、聲柔らかにして以て諫む」なり。
(書き下し2)志の從はざるを見ては、又敬して違はずは、所謂「諫め若し入れられざれば、敬を起こし孝を起こし、悦べば則ち復諫む」なり。
(書き下し3)勞して怨みずは、所謂「其の罪を郷黨州閭に得んよりは、寧ろ熟諫せよ。父母怒りて悦ばず、而して之を撻ちて血流るとも、敢へて疾怨せず、敬を起こし孝を起こす」なり。
(訳)この章は、(『礼記』)内則の言葉と表裏一体である。幾は微(かすか)なことである。「幾くに諫む」、つまり、微かに諫めるとは、(「内則」に)言われる、「父母に過失があれば、不満を顔に出さず喜びの表情を作り、声色を柔らかにして諫める」ことである。
(訳2)「志の從はざるを見ては、又敬して違はず」とは、(「内則」に)言われる、「諫めてもし入られないならば、敬愛を起して孝心を起して、父母が喜べば、再び諫める」ことである。
(訳3)「勞しても怨みず」とは、(「内則」に)言われる、「父母がその罪を郷党や州閭(しゅうりょ)で得るよりは、むしろ繰り返して諫めよ。
(訳4)父母が(その諫言を)怒って悦ばず、(あなたを)鞭打って流血の事態となったとしても、決して怒って怨むこともせず、敬愛を起こして孝心を起こす」ことである。
「親が間違っている時であっても盲従する」のではなく、
「たとい親を怒らせ鞭で打たれることになっても、過ちを犯した親を諌めなければならず、鞭打たれても親を怨まないようにせねばならない」と言われているわけだ。
ようするに、「孝」には「親が誤りを犯している時には諌めなければならない」との義務も含まれているわけであり、
「親に盲従」との考えからは程遠い。
親が諌めを受け入れなかった時にはどうするのか。
『礼記』「曲礼下」の「子之事親也、三諫而不聽、則號泣而隨之。」とあるように、
三回諌めて受け入れられなかったなら従わねばならない。
しかし、やはりあくまで諌めた上での話であり「盲従」を強いるのではない。
しかも、これが君臣関係ならばどうなるのか。
『礼記』「曲礼下」の先程の引用部直前には、
「為人臣之禮、不顯諫。三諫而不聽、則逃之。」とある。
三回諫言して聞き入れられなかった時は、その君主の下から去るのが正しいのである。
主君のような社会的権威に対する儒者の態度は「『盲従』ではない」どころではない。
セウォル号事故に関して、儒教を持ち出すのであれば、
むしろ「社会上層部から儒教道徳が失われたことが原因」とするべきではないのか。
規制緩和を進めた政府、利益追求の為に過積載を繰り返していた船会社に対し、
臣下の誰が身命を賭して諫言したというのか。”
『儒教入門』メモ。
『論語』と『史記』の人物評価基準。吉田松陰と安岡正篤で有名な陽明学はキリスト教と相性が良く儒教カルト✝を作りやすい。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-235.html
”諫言は儒教の重要要素。
もともと中国では天子の圧倒的尊貴を言いながら、
同時に臣下の権威が高く説かれることもある。
臣下が皇帝を教導したり諫めたりすることを認めるのも儒教の特色。
中国では諫官として専門の役職がおかれ、
これは官僚を監視する御史台とともに、宰相らの権力が及ばないのを建前とした。
中国では皇帝に直接ものを申せる官職が制度化されているのに対して、
日本では置かれなかった。
しかし諫言は日本儒教においても臣下の必須の義務とされたのであって、
日本の古代や中世において儒教が話題になるときは諫言が問題になる場合が目立つ。
近世でもこのような話がある。徳川家康にある家来が諫言したとき、家康はうなずいて聞いていた。
その家来が去った後、ある臣下がなぜあのような凡庸な内容に耳を貸すのか質問したところ、
家康はそれはわかっているが耳を貸す姿勢が重要だと答えた。
(室鳩巣、『先哲叢談』直諫は一番槍より難し)
儒教は王者が諫言を聞き入れる態度を求める。
…
また臣下から君主に働きかけるものとしては、
王者を教育する帝王学に儒教が使われたことも重要。
帝王学とは帝王に徳治政治を身につけさせるものであって、皇帝にとっては重荷であった。
北宋の哲宗の教師であった程頤(ていい)、
南宋の寧宗の教師でもあった朱熹はともに皇帝から疎まれた。
ただ帝王がこのような教育を受けることは臣下たちにとっては好ましいことであって、
帝王学として朱子学などの道学は当時の士大夫たちにアピールしたのである。
儒教は単なる上位者への単純な服従を説く教説ではない。
君主への忠誠を要求しながら、同時に君主に対して諫言や教育を行い、
後述するように天災をもとに君主の反省を求める思想でもあった。”
※誤字脱字の一部を修正。
土田健次郎『江戸の朱子学』(筑摩選書)
(儒教入門と同じ著者。
『儒教入門』メモ
— 子子子子子猫子猫はいます @黒住も金光も天理も世界連邦側 (@kitsuchitsuchi) 2017年12月18日
『論語』と『史記』の人物評価基準
吉田松陰と安岡正篤で有名な陽明学はキリスト教と相性が良く儒教カルト✝を作りやすいhttps://t.co/RLOWFaJO9u
儒教入門は儒教について知りたいことが幅広く書かれている名著。
とまとさんのオススメはほとんど名著@mod_str
)
・南宋の朱熹(1130~1200)
の思想が朱子学。
朱子は敬称。
(朱熹の生年と没年はキリがいいから記憶しやすい)
朱子学は道学の一派だったが道学代表になったので
道学が朱子学と同義に使われるようになった。
道学は一般に宋学といわれることが多い。
広義の宋学
=宋代に登場した新たな儒学全般。
教義の宋学
=特に北宋のテイコウ、テイイ兄弟を祖とする学派。
強大は合わせて二程子や二程と呼ばれる。
教義の宋学の祖を周敦頤とすることが常識のように言われているが実際は異なる。
この学派が展開されていく中で
一部で周敦頤評価がなされるようになり、
それを決定づけたのが朱熹だった。
当初はこの学派はあくまでも二程学派だった。
(しゅうとんい が周敦頤に一発変換されて驚いた。
ていい と ていこう は変換されなかった。
変換ですぐに出ない漢字が中国思想の本に多いので
メモに時間がかかるからイヤだ。
実験的にカタカナを使ってみる)
朱子学はベトナムや琉球でも摂取されている。
従来は朱子学のもっている封建思想としての性格が近代化を阻んできたという議論が主流だったが
日本をはじめ朱子学が広がった地域のほうが他地域よりも早く近代化に成功したことから
朱子学がそれなりに近代化に貢献したのではないかという見方も出てきた。
朱子学は儒学史上異例なほどの哲学的密度を持つ思想。
朱子学の教理では
理気二元論が有名。
朱子学では理を肯定し
気を否定的に見ることから二元論とはいえず
理の思想であるという意見もある。
朱子学ではあらゆる善は理に帰着させ
気はそれ自体では善でも悪でもないが
この世の悪は気が理の発現をくらますことに起因すると考えることから
このような見方が出てくる。
しかし思想の骨格は二元論というべきもの。
朱子学は
世界の万事万象を理と気に還元させ、
理と気が相互変換不可能であることから
二元論。
気は定義が困難。
英訳、アメリカでよく使用された
物質的力
(material forces)
にしても違和感を免れない。
日本では幸田露伴が
「におい」と解釈した。
単なる香臭だけでなく
色の艶(てり)
声の韻
剣の光
人の容(かたち)なども
においであると言う。
やや日本語の「けはい」にも似ていようか。
そのものならではの性格を感じさせるものが気なのであって
なかなか核心をついている。
(雰囲気?
雰囲「気」
空気)
イギリスのニーダムは
マター=エナジー
matter=energy
として解釈。
時には物質 マター
時にはエネルギー エナジー
として立ち現れるものということ。
物質とエネルギーを分けて発想するのはヨーロッパでも近世の考えで
それ以前は両者は同じものとして見られ
時には物質として時にはエネルギーとして捉えられたという。
物体はすべて気でできていると朱子学では考えるが
この場合は物質としての気。
同時に朱子学では世界のエネルギーの働きも気といわれる。
肉体は気でできているが、
起こす種々の働き、
具体的には話したり動作したり思考したりといったことも
すべて気と言われる。
筆者は以下のように整理したことがある。
気(狭義の気=エネルギー)+質(物質)
=気(広義の気)
(光が粒子であり波動というのに似ている。
中国思想では見えないものもとにかく具体的。
怪力乱神を語らずが孔子の姿勢なので
形而上思想が発達しにくかったのだろう)
朱熹が気に期待したのが
作用や運動の側面。
気は陰陽と五行の二つの側面を持つ。
陰陽は関係概念。
満月は日に対しては陰だが
三日月に対しては陽。
五行は物質的素材の面が強い。
特に陰陽が重要で
このモデルは男女。
男が陽
女が陰で
陰陽の関係に入ると子供が生まれる。
宇宙に満ちている気が陰陽関係に入ることで新たな物を生み出し
それがまた次の物を生み出していく。
これが生生であって世界全体は限りなく変化していく。
朱熹は気の作用の代表として
感応と消長がある。
感応
=感(働きかけ)
+応(反応)。
陰陽では
男が働きかけ
女が応じて
子供が生まれる。
いわば作用である。
消長
=消(衰退)
+長(成長)。
春から夏では長
秋から冬へは消。
気全体は自身のエネルギーにより消長という
自己運動を引き起こしていく。
いわば運動。
朱熹は消長は感応の一つであるとする。
春が感で夏は応。
夏がまた感となり秋が応となる。
空間的な感応が時間化されている。
朱熹は感応を
外感(異なる気同士が感応する)、
消長を
内感(その気の内部で感応する)とする。
要するに
消長も感応に含みこまれる。
感応には法則と秩序がありそれが理。
このような比喩をあげる。
リンゴが木から落ちることは
リンゴという気の塊が
地面という気の塊にむかって大気という気の中を移動しているということ。
我々は気の移動を見ているだけ。
そこには明らかに引力の法則の実在が想定できる。
その法則を理という。
引力の法則自体は知覚できない。
このように経験できないものを形而上という。
対して
経験できるものを形而下という。
両語は『易経』繋辞上伝の語であるが
朱熹は
形而上を経験できないもの
形而下を経験できるものとした。
安田二郎氏は
形而上を形をとりえないもの
形而下を形をとりうるものと明確に説明した。
形をとりうるものとは
たとえば薄い空気のようなものは知覚できないが
それを圧縮していけばいつかは知覚しうるというように
経験できる可能性を持つことである。
対して形而上はいかなる状況でもそれ自体では経験しえないもの。
引力法則は具体的な物が動かない限り自己を現せない。
宇宙に物がなければ引力法則は無に等しい。
つまり
理は気がないかぎり自己を現せない。
気はそれが物として認識できるときは必ずそこに理が存在する。
(形而上のものは定義上、経験で確かめられない
ので推論するしかないものなので
経験で確かめられないから本当かわからないという批判もされる。
推論が正しいと結論できるなら存在しないとおかしい
存在するはずだとと想定されるものが形而上存在。
形而下がなければ形而上を考察することは不可能。
形而上が源泉であるという点では
形而上>形而下
だが
形而下なしには形而上の無に等しいという点では
相互依存。
でも一神教の形而上絶対創造主は相互依存しない存在のはず。
保立道久@zxd01342
1月27日
『易経』繋辞伝に
「形而上なるもの、これを『道』といい、形而下なるものを『器』という」とある。
「道」を「形而上」というのは、形を超越した世界(形のない世界)ということであり、これは老子が「道」を「無形」「無物の象」などと定義したことを取り入れたものである。
「器=形あるもの」も老子の語法を延長したものである。
この繋辞伝がメタフィジックを「形而上学」と訳す理由となった。形而上学という語の淵源が老子にあったことは日本哲学では意識されていない。それは彼らがヨーロッパ中心主義への屈服と無教養の中にいたことの証拠である。どうしようもない。
kouteika@kouteika
2008年9月9日
是故形而上者、謂之道。形而下者、謂之器。
化而裁之、謂之変。推而行之、謂之通。挙而措之天下之民、謂之事業。
(『易経』繋辞上伝第十二)/
原典がこうなのだから、初めから対になって観念されたとしても不思議ではなかったか。)
筆者は引力の例をあげたが
この場合はリンゴの移動が物。
朱熹は物は事であるとする。
物は事(事態)。
この世界は気の海である。
気の一部を一つの事(事態)として切り取ることが可能な場合
それが物。
リンゴも、
リンゴの移動も移動の軌跡が意識対象として一個性をもつゆえに
物である。
この
意識対象としての一個性とは
気の一部に一つの意味を賦与できるということ。
我々が一個の事態として認識するということは
その時点でその事態に意味を見いだしている。
安田二郎氏は理を意味と解釈したがそれは
物の枠組みを成り立たせているのが意味だから。
物として意識した時点で実は既に暗々裏に意味を見いだしているのである。
朱熹は一つの物には
一つの理があるとした。
物として捉えた時点で
その対象にその枠組みに意味を与えているものがあるということ。
それを改めて意識化するのが理の認識。
リンゴは宇宙の充満している気の一部分である。
それが五行が混ざったものである。
しかしそこに一つの物を意識し、
それがリンゴであると認識した。
それは宇宙に遍満する気の一部分にリンゴという意味が賦与できたからである。
今度がリンゴが落下するときに落下の軌跡を意識する場合であるが、
それも落下という軌跡を一つの物(事態)として意識したということであり
それはそこに引力の法則という意味が賦与できたのである。
作用や運動が起っていれば
具体的にそれらが行われていなくても
そこに働きを引き起こす特定機能を感知できれば
それは物。
朱熹は椅子の理について
椅子が四本足であることをあげる。
四本足であることによって座るという機能が意識されるがゆえに
そこに物が見いだされ
かくてその物の理が認識される。
足を切って腰かけるのにちょうどよい高さになれば
今度は椅子としての機能が意識されて椅子という物となる。
この世界のいかなる部分で枠をとるかで
物は変わるが、それでも物理法則が何ら変わるわけではない。
この機能とは作用・運動の潜在型と言ってもよい。
いずれにしても機能、作用、運動によって特定の場ができるからこそ理が問題にできる。
朱熹はテイイの議論をもとに
1 それぞれの物にはそれぞれの理がある
2 それぞれの物は異なる
3 しかしそれぞれの理は究極には一である
とする。
これが朱熹がテイイから継承し拡大した
理一分殊
(理は一であって分は殊である)
の論。
分(持ち前)がそれにふさわしい特殊性を発揮している時にこそ
その理は一なのである。
机は机、椅子は椅子のときにこそ
机と椅子を含むすべての理は一なのである。
これを図式化すれば
X=Xであり
XにAを代入すればA=A
BならばB=Bで
それがまっとうされたときに
X=Xが一貫して立ち現れる。
(なぜ抽象的な理論を詳しくメモしているのかというと
それが朱熹の具体的に~すべきの根拠だから。
形而上が形而下の根拠だから)
この理論は人間関係にも適用される。
それが
論語 顔淵篇の
「父父たり。子子たり。君君たり。臣臣たり。」であって
父が父らしく子が子らしく
君が君らしく臣が臣らしいとき
つまりX=Xのときにこそ
理一
が現れるのである。
ここに世界の秩序性が際立つ思想が生まれる。
朱子学が社会秩序の妥協ない発揮を求める思想とされるのは
このような個別の差等を完全に発揮させることこそが
全体の一体を完遂させられるとするからである。
人が対象を意識するのは
対象と人心が感応しているのである。
その感応が本来の法則通りに動くときが
理にのっとった状態である。
つまり道徳とは心の動きの法則なのであって
道徳通りに心が動いている状態こそが
人心に理が実現している姿である。
リンゴが地面に落ちるときに引力の法則(理)が顕現するのと同じこと。
朱熹は心を
性と情にわける。
情
=気
=経験できる形而下の心の動き。
性
=その心の動きの秩序・法則(形而上)、
=理。
性の通りに情が動いているときが善であり
気のエネルギーの歪みから
性の通りに情が動いていない時に悪が発生する。
つまり性=理は徹底的に善であり
情=気はそれ自体は無価値的であるが
悪の原因になりうるがゆえに警戒される。
朱子学では理を徹底して善なるものとし
現実には自然界も人心も必ずしも理の通りに動いていない。
それは気のアンバランスに由来する。
気の歪みを正し
理にのっとった動きにする必要がある。
これを
気質を変化する
と言う。
人は学問や修養によって自己の気のアンバランスを修正し
心が理(道徳)の通りに動くようにすることが求められる。
気のバランス修正のために必要なのが学問と修養。
学問は格物と言われる。
朱熹は礼記の一篇だった大学を独立して表彰し
文中の格物の語を
物に格(いた)る
と読んで
物の理に到達する
ことと解釈した。
正確な事物の理の把握こそが学問であり、
中核には経書の学習があった。
極めて明確に経学の位置づけがなされたことが
古典教養主義というべきものを涵養し
東アジア教養教育の基盤形成に朱子学が大きく貢献することになる。
修養とは居敬(あるいは持敬)である。
これは意識対象に敬虔な気持ちで接し続けることである。
朱熹はテイイを継承し
主一無適
(一を主として適(ゆ)くこと無し)
と
整斉厳粛
を言うことが多い。
つまり心を専一に対象を集中させ
同時に心身の威儀を正すことで
心の善なる本来的機能を開かせようとするのである。
人間がみな聖人になれるということは
こころの性が善だからであり
それを意識のうえで実現させようというわけである。
自分が自分の心を見つめることに朱熹は否定的であった。
そうすると限りない思い込みの世界におちいるし
そもそも常に外界の事物に触発されて刻々と変化する心の修養としては有効ではない。
それに論理的にも
見る心と見られる心という二つの心が同時に存在してしまうことになる。
善への方向付けを念頭に意識を次々と立ち現れてくる外界の事物に集中することで
人間の聖性を発現させようとするのである。
この居敬の修養こそが朱子学が展開した地域で
仏教にとってかわる儒学の修養方法として大きく作用した。
朱子学ではこのように個人の内的完成を目指すが
その先には儒学の最終目標である国家、
世界の安定があるのは言うまでもない。
朱子学では個々の人間が道徳的になってこそ思想の社会は実現すると考えるのであって
最初から政治的効果をねらう方向の思想には批判的。
朱子学は極めて厳格な道徳主義を持つものとして知られている。
朱子学の重要な前提は万人が聖人に到達できること。
人間の道徳的可能性を信ずるぶん現実の人間に厳しくなる。
欠けている部分をクローズアップするのであって
マイナス思考の傾向をもつ。
理論的にも朱子学にはリゴリズムを引き起こす要素は確かにあった
朱熹の一物一理の理論とは
一つの物には一つだけ理があるという主張。
物とは事態であり
一つの事態に一つだけしか理を認めないということである。
一定状況の中で複数の心の動き方を許容しないということを意味する。
この不寛容がリゴリズムにつながる。
朱熹は新たな道徳を発明してはいない。
基本的には伝統的な徳目を反芻しているだけであって
問題なのはその徳目の固定のしかたなのである。
一物一理を説きながらも理の内容を軽々に理解できると朱熹は言っていない。
ところが
後の朱子学では圧倒的な支配力をもつ秩序や規範を無反省に理の内容とし
それ以外の理の内容を主張する者に対しては断罪する傾向も生じた。
問題は朱熹は理は説いたが
理の内容の判定基準を明確に示さなかったこと。
それゆえ理の内容として複数の候補が考えられることになり
その選択には往々にして(好ましくない事態がよくあるさま)
外的な拘束力の強さが反映しがちになる。
朱子学が元の時代に国教化されると
政府公認の規範や世間の道徳的慣行がそのまま理とみなされることになり
それゆえ朱子学といえば体制教学であると言われるようになった。
伊東仁斎や
清朝の載震(タイシン)が
朱子学の理の思想は上位者や強者にとって有利に
下位者や弱者にとっては不利に作用するとして批判したのは有名な話。
(理の内容しだいで権力者の支配用にも
革命側の正統性用にもなるのが朱子学)
・朱熹が生まれたのは
1130年、
中国の北半分を異民族の金に制圧されてから三年後である。
南宋は中国全土の統治がかなわなくなった地方政権であり
金に対する不安と屈辱を感じながらも
次第にそれなりの安定を見せていく。
しばしば朱子学の特色とされる
大義名分と尊王攘夷の四字熟語は
朱熹の文献にはない。
二文字ずつの使用例はある。
尾藤正英氏などが指摘していたが
今ではデータベース検索で容易に確認可能。
この言葉を頻用しているはずだという先入観はまずとり除いたほうがよい。
朱熹は大義名分の語を使わない。
朱熹の文献における尊王攘夷の語について。
尊王攘夷は朱熹では特に強烈な主張ではない。
もちろん朱熹は金に敵愾心を持っていたし
失地回復を念願していた。
金に対するスタンスとして当時あげられていた三つの選択肢
守(防衛)
戦(主戦)
和(講和)
のうち朱熹は守に近い立場。
防衛に専念し国力を充実させ将来の国土復活を期する立場。
朱熹個人の思想といわゆる朱子学のイメージの間にずれがある。
・儒史学の常識とは
漢から唐にかけての儒学を訓詁学(経書の字句を考証する学)の時代
宋から明にかけての儒学を義理学(経書から哲学的内容を抽出する学)の時代
とするものである。
宋から変容し、宋の朱子学
明の陽明学という見方。
・朱熹が没したのは1200年。
それは慶元偽学の禁と呼ばれる弾圧の嵐の中であった。
後、朱子学は次第に南宋の朝廷に食い込んでいく。
その流れが元に入っていく。
元は当初は朱子学に限らず儒学を軽視していたが
統治の必要から次第に方針を変え
公務員試験である科挙を再開しその標準解釈として朱子学を採用。
朱子学の国教化であり明、清にも引き継がれていく。
このような朱子学はいつ日本に入ったのか。
流入とは何をもっていうのか。
書籍の輸入と言うなら鎌倉初期に寧波あたりで仕入れれば
当然朱子学関係のものが混ざってくるのであり話は簡単。
しかし流入とはいわない。
流入と言えるのは
その思想が日本で一定の理解を持たれ
影響が出ていることが条件のはず。
影響というのも
朱子学の注が経書の解釈に採用されたレベルでは不十分で
思想として咀嚼され表現されるようになってこそ言える。
(こういうことをきちんと考えて書いている本は良書)
年代的に早いのが臨済宗の栄西(1141~1215年)などが
南宋に留学して多くの書物を持ち帰ったことから
朱子学の紹介者と言われてきた。
南北朝あたりになると
虎関師錬(1278~1346年)が禅宗の僧侶のなかでいちはやく道学を論難した。
玄恵(?~1350)が道学を正しいとみなし、
朝廷で開講してから二程子と朱熹の経書の新解釈が中心となったと、
室町時代の一条兼良の『尺素往来』にある。
少なくとも経書解釈の領域では道学が主導権を取り始めたことになる。
明経道の清原宣賢(のぶかた 1475~1550)は孟子から二程子にいたる学統を重視し
道学に対する傾倒を見せている。
たとえば『孟子抄』はいたるところで朱熹の『四書集註』を引用して解説しているが
まだ禅と儒学の融合論を見せ、
神道との連結も見える(彼は吉田神道の吉田兼倶の三男であった)。
(のち清原宗賢(むねかた)の養嗣子(ようしし)となり清原家となる)
しかし彼は儒学と仏教の区別もしているのであって
道学の知識の程度が低くなかったことがわかる。
南北朝前後までには朱子学が日本にかなり受容されてきたことが言われてきた。
平安から鎌倉時期の日本の説話文学における儒学の記載を調べたが
特に君主を諫める諫言の必要性が言われるときに儒学が意識されていることが多かった。
・北畠親房『神皇正統記』は
資治通鑑の司馬光と同じく魏を正統とする。
親房の魏正統論は資治通鑑からではなく
志磐(しばん)『仏祖統紀』に依拠したものであることが指摘されている。
神皇正統記の執筆意図は
神代より正理にてうけ伝えつるいわれを述べむことを志して
と親房自身が書いているように
皇室こそが政権の正統である根拠を鮮明にすること。
親房は日本国民がすべて皇室に忠誠を尽くすべきことを強調している。
(日本国民って概念が親房にあるの?)
神皇正統記では空海を密教の正統としている箇所がある。
親房は神道家であるとともに真言宗の僧侶でもあった。
(当時の正統は天台宗。
神皇正統記は吉野朝廷(いわゆる南朝)の正統性を述べた歴史書。
南朝と真言宗優遇、完全に今の皇室。
だから教科書に必ず載る。
立川流の本尊が狐だから狐優遇。
CCC真ラスボス 殺生院キアラ
— 天ちゃん サンドラ使い (@FairlyPenguin) 2017年4月22日
真言立川詠天流 時期後継者だった人
実はキャス狐が御本尊
宝具はアンリマユ。知能あれば死にます。この人に唯一勝てるのが、セイヴァーか人間では岸波白野だけ
アンデルセンのマスターだった女性 史上最悪の宝具
きっと来るCCC関連なら_(:3」∠)_ pic.twitter.com/JNyJ20SaIQ
村手 さとし
@mkmogura
2011年10月28日
ちなみに、天皇すり替えは、
先程の神社全庁=国家神道官幣社、
源氏=鎌倉、長州、真言宗、などの要素にわけることができ、
仏教部門のこのイベントの主軸は高野山になります。真言立川流という真言密教繋がりですね
村手 さとし
@mkmogura
2014年5月31日
@lanekota 反撃しません。真言立川流を盛り上げ、神道馬鹿とキリスト教を共食いさせるように仕掛けます
原理主義的な宗教は、貞操観念への締め付けはどれも厳しいからね。
天皇の正統宗教がセックスカルトだとしられたら、いろいろマズすぎるし、キリスト教原理主義と歩調以前に妥協点がみつからなくなるだろうなと、
ん、うらたろうってのが誰のことなのさ。
— 村手 さとし (@mkmogura) 2018年1月25日
そう、終わりのセラフ。
あれに近い鬼崇拝の丑寅崇拝の感じはある。天皇の宗教、真言立川流も含めて、密教=エロ男女合体なのはあるが、骸骨本尊とかなかったら、エロは普通だから宗教体系として神、預言者とかの形になりにくい。そこに女性も入っちゃうとね。 https://t.co/KzrgTYFFNR
明治維新の時、北朝仏教を弾圧し、神道勢と一緒に天皇すり替えに加担した仏教部の中心が、あの真言宗の本山「高野山」なわけです。で、当時は絶えていた南朝正統宗教、真言密教の立川流を復活させてできたのが真如苑なわけ。https://t.co/lzXf7UPk4N
— 安保 隆 (@AmboTakashi) 2016年4月29日
加藤拓雅
@totutotudojin
2014年2月4日
『神皇正統記』で名高い北畠親房には、真言密教についての著作があることを、最近知った。 『真言内証義』というもので、1345年、53歳の時の著書。 なお、彼は出家もしており、僧名は覚空。
齊藤朗純yosizumi saitou
@yosizumis
2010年9月1日
後醍醐天皇は大覚寺等で、その所領の多くは八条院領であった。
北畠親房は村上源氏、文観は醍醐寺系の真言立川流の僧。つまり役者は変わっても同じ芝居がかかっている。)
朱子学の道統とは政権の正統性とは関係なく
純粋に道の問題。
古代の聖王は正統と道統の両者を兼ね備えていたが
肝心の孔子や朱熹は道統だけを受け継いだとするのであって
正統と道統が重なることを前提にしていない。
南北朝前後から儒学を専門的に伝える博士家をはじめ
貴族、僧侶らも新註(朱子学の注。朱子学以前は古註という)
を利用しはじめたと文献にある。
・一般に江戸時代の朱子学の嚆矢としては
藤原 惺窩(ふじわら せいか[1561~1619])をあげるのが常。
藤原 惺窩(ふじわら せいか[1561~1619])が
仏教の補助学であった朱子学を
仏教から独立させようとしたからである。
藤原 惺窩(ふじわら せいか[1561~1619])は藤原定家の子孫。
僧侶であったが明に渡ろうとして果たせず
秀吉の朝鮮出兵時に捕虜として日本に連れてこられた朝鮮のカンハンと交友を結び
後に儒者としての姿勢を強めた。
林羅山、松永尺五、堀杏庵などの弟子がいる。
惺窩の朱子学は純粋な朱子学ではなく
朱熹のライバルの陸九淵の思想が混在したものとされる。
惺窩は
格物を
物に格(いた)る=事物の理に到達する
ではなく
物を格(さ)る=心の塵を除く
という
林兆恩の説を取っているので
この朱子学の肝ともいえる個所で朱子学を採用していない。
林兆恩は儒教、仏教、道教の合一を説いた
三一教で知られ朱子学者ではない。
彼は
人の一心には至理がみな備わっていて
儒になろうとすれば儒
道になろうとすれば道
仏になろうとすれば仏
我にあるのであって
外にあるのではない
という。
・もともと朱子学は仏教、特に禅宗、および禅宗を理論化するときに使用された華厳教学から影響を受けていた。
それは心に関心を集中させ
しかもその心を外界と内心の反応関係に絞りこむものであった。
朱子学の最大の関心事は聖人に到達するために心の情況を刷新していくこと。
刷新とは外界に対して的確に内心が反応する状態に変革していくこと。
朱子学は仏教を批判する。
朱子学は外界に対して道徳的に心が反応することこそが自然であり本来的であるとする。
対して仏教はそのような道徳性に対する意識を消すことで自然かつ本来的な心が発動すると見る。
禅宗の悟りの境地は結果的には反社会的にはならないのであるが
本来の心を生き生きと発動させるために最初から道徳への意識を無化することを強調し
儒家から見れば反道徳ということになる。
ただいずれも外界に対する内心の自然かつ本来的な発動を理想とすることには変わりはない。
朱子学も最終的には心が道徳(=理)どおりに動くこと、
つまり道徳に完全に乗っかる状態が恒常化することで
道徳を意識する必要がなくなる。
(道徳は典型的な物語だから仏教では超えるべきもの。
仏教はそもそも道徳的になることが目的ではない。
戒律を守ることが結果的に道徳的と言われるだけ)
明になると陽明学が登場し仏教のみならず朱子学とも対抗していく。
陽明学では心に本来具わる道徳的直観力を重視する。
そしてその直観力に身をゆだねようとする。
朱子学は心の動きを道徳=理に沿わせようとするが
それが確実に理に沿っているか客観的に検証しようという志向が常にあった。
陽明学から見ればそのような姿勢は心が本来持つダイナミズムを阻害するものであった。
陽明学は心の直観力を重視することから外的な規範や区分けへの意識が朱子学より薄くなり
儒教、仏教、道教の区別への意識も薄くなる傾向が出てくる。
(ここだけ読むと陽明学は好き勝手やる思想だと曲解されまくりそうだ)
・中国医学は道教と親和性をもつ。
道教は肉体の不老不死を希求するから。
対して儒学は肉体の養生などよりも
義に沿った出処進退を追求するゆえに
医学とは接点が薄かったが
宋くらいから次第に両者が結びつくケースが出てきた。
儒医
=儒者であり医者である存在。
中国では宋から増え始めたが
日本でも江戸時代には非常に目立つ。
医者であるのは儒者だけでは召し抱えられでもしない限り
なかなか生計を立てるのが困難だったからでもある。
儒学では老いた両親の介護が孝のもとに重視されるが
そのときに医学の知識は必要であった。
心の安定が肉体に影響し養生とつながるという考えが
道学から派生的に出てきた。
朱熹ら道学者は肉体的関心が肥大するのを喜ばなかったが
肉体と精神の相関関係は気にしていた。
朱子学内部では過度の肉体的関心は押しとどめられているが
医学にはそれなりの影響を与えた。
当時の医学を学ぶ場合には朱子学の知識をもっていた方が有利であり
林羅山の講演は医者にとっては干天の慈雨であったのだろう。
これも朱子学受容の経路の一つ。
ここで補記しておくべきなのは
戦国、安土桃山時代に盛んであり
信長や秀吉ももっていた天道(てんとう)信仰も
江戸時代の儒学隆盛への橋渡しの一つになった可能性があることだ。
江戸時代初期の儒教的啓蒙書にもしばしば天道が出てくる。
天道信仰は善悪に対して天が禍福で対応するという考えと
天が運命的に人間に禍福を降すという考えの両面が併存していて
天道の語がキリスト教のデウス(神)や
朱子学の理にあてられたりしていることは以前から注意されてきた。
しかし朱子学では天の意志を言うときですら
天が万物を限りなく生生していくその方向性のこととするのであって
主宰的性格を天道に見るような神秘的傾向が薄いことには注意しておく必要がある。
・朱子学は江戸時代の体制教学と見なされることが多い。
一物一理思想からくる道徳的不寛容と
理が抽象的でしかも内容の決定基準が定式化されていないがゆえに
政府が求める秩序とか既存の価値観とかの物理的な力が入り込みやすかったからである。
さらに朱子学の自力主義が人々に受け身ではなく積極的に現実の秩序の網の目に参入することを鼓舞した。
しかし朱子学は単に権力側に唯々諾々とつき従うばかりであったわけではない。
朱熹も彼が尊敬するテイイもともに弾圧をこうむったように
その原理主義的性格は時に鋭い現状批判になりうる面を持っていた。
当初から儒学はもとより儒学全般が徳川政権のイデオロギーとして機能していたわけではない。
朱子学のみを目して江戸時代の体制を補佐した思想と断定することには慎重にならざるをえない。
そもそも中国、日本の近世に儒学が適合したのは
前代に比して官僚社会が成熟したから。
それとともに宗教が政府の統制下におかれ
その権威と権力が後退したからだ。
寺院は政権の統治下。
中国でも宋からは仏教も道教も国家の統制による組織化が進み
朝鮮王朝では仏教が抑え込まれた。
江戸時代の武士は軍人としての機能を保持しながらも基本的には官僚。
儒学は軍人の為ではなく官僚の思想。
儒者は殉死を忠義として称揚することなく否定。
山鹿素行(反朱子学)も山崎闇斎(厳格な朱子学)も殉死否定論者。
(どうみても坊さん、仏教が一番当時は強い)
・林羅山の理当心地神道は江戸時代に新展開を見せた儒家神道の嚆矢とされるが
惺窩を中心にした京学派の神道理解の流れにあり
出口延佳(渡会延佳)ら伊勢外宮の神官たちに影響をあたえていく。
(大本の出口~の元ネタ?。
神道勢力が反仏教でもある儒教を取り入れてもおかしくない)
・朱熹は心の本来的機能を発揮させる意識の持ち方に力をいれる。
それが居敬の修養法。
陽明学では心の本来的発動に身をゆだねることを主張する。
自身が直感的に核心を持てるものが理なのであって
心即理がそれ。
陽明学は理を否定してないし
朱子学を批判する諸儒で理自体を否定した者はほとんどいない。
彼らがいうのは朱子学の理の内容が間違っていること。
朱子学では人欲を否定するところに天理を見いだしたが
陽明学などでは人欲にそったところに天理を見いだすようになった。
・心の問題に全関心をしぼりこみ
心を内心と外界の反応関係に見るという姿勢を
道学は禅から継承した。
朱子学のいう聖人とは
「思わずして得
(ことさら意識しなくても
心のはたらきが自然にうまくいく)」
(中庸)
「心の欲する所に従って矩をこえず
(内心が外界に反応するままにしておいても
道徳から逸脱しない)」
(論語 為政篇)
という心境の所有者であり
外界に常に内心が自然かつ的確に反応する人間のこと。
儒学では天と人の合一をいう伝統がある。
(これ中国でグノーシスな儒教もどきカルトを作るのに利用されてそう。
無論、儒教の天はゴッドではない)
天人分離論もあったが必ずしも主流ではなかった。
天人分離論は天を敬うが天の文脈を人事に介入させないもので
特に天譴説を批判する。
天譴説とは政治の善し悪しが天候に影響するもので
災害が起これば政治に問題があるとする。
災害は頻繁に起こるからそのたびに責任論を発生させてしまうと
政策の一貫性が取れなくなる。
ゆえに両者を切り離し政策の持続性を維持しようとするときに
分離論は有効。
政治が天候にまで影響する思想は
災害は頻繁に起こるため
それに応じて政治をチェックする回数も多くなるのであって
かくて限りなく増大する帝王の権力を抑制する意味もあったという
うがった見方もある。
(人の諫言より強力なことがあるが
制御できないのが難点)
天譴思想を後退させる議論が唐くらいから起こり
宋以後主流となるという研究がなされている。
天譴思想を後退させてしまうと
天人合一論が崩れてしまいそうだが
朱子学は天人合一論自体は維持した。
朱熹も人事と自然界の感応関係自体は否定していない。
朱熹にとっての天と人の合一は
自然界と人の心の合一論にまでスライドされていく性格のものだったからだ。
これは朱熹の先行する道学者たちが
天と人を
物と我
外と内
と並列したうえで
両者の一体を言うのを受けていて
突き詰めれば内心と外界の関係の問題になる。
天の理と人の理が一貫していることは
自然界の法則性と人心の法則性が一貫していることであり
天のもつ神秘的要素を後退させる。
・儒者が哲学的自己主張をするときに
必ずといってよいほど取り上げたのは
天人論と性説であり、
性説では性にいかに善悪を付与するかが議論の中心。
孟子は生得の心のうちの善への可能性を性とし
荀子は動物性に陥ってしまう側面を性としたのであり
心には二側面があることを両者とも認めていた。
性善説、性悪説、性善悪混、
性三品、性無善悪などが出てくるが
性の内実はばらばらだった。
朱子学によりはっきりと性の善の部分と悪へ流れる部分が分けられた。
それが
本然の性
気質の性。
本然の性
=完全に善である理のままの部分。
気質の性
=理のみならず気を伴う生まれつき。
孟子のいう性は本然の性であり
現実の人間の善悪混在の生まれつきは気質の性。
朱熹は
人間の心を
性と情の統合体と解釈。
この場合の性は本然の性でそのまま理。
情は外界に触発されて働く気であり
気のエネルギーの歪みから悪の本になる。
陽明学は善の根拠を理気に分割する以前の心そのものに見る。
・朱子学における個人と社会の関係で有名なのは
『大学』に見える八条目をめぐる議論。
八条目とは
格物、
致知、
誠意、正心、修身、
斉家、
治国、平天下
であって、
格物から修身までが個人の修養、
斉家から平天下までが家庭を含めた社会への感化。
なお最後の平天下は
天下を統治することではなく
それぞれの天職を務めることを通して天下の安定に貢献することだと
朱熹はしている。
これは自己の内面を完全な人格である聖人に向かって向上させようとする内的欲求と
近世社会が求める分業完遂の要請を両立をさせるものであった。
このように個人の修養が社会への貢献に直結することを朱子学では求める。
その際に重要なのは個人の内面が道徳的に完璧であってこそ
社会への貢献も完全になるという思想を持っていること。
朱熹の
修己治人
(しゅうこ〈き〉ちじん
おのれを修め
人を治む)
つまり
自己の修養を行い
他人を感化するという語は
しばしば儒教の理念を端的に語るものとされた。
八条目の順序を見てもわかるように
朱子学では個々の人間の自己完成があってこそ
理想的な社会が形成されると考えた。
しかしこれではいつまでたっても実現の見込みはない。
そこで社会の政治的安定を優先させ
その中で人々の心性の安定を図る永嘉学派、
永康学派のいわゆる事功派の思想が対抗として意味を持つ。
朱子学では公私について
心が公であればその人間のの社会活動は全て公であるとし
公で塗り固めようとする。
対して
心の領域はあくまでも私であって
その複数の私が調和を得るところに公を見るという思想が
明の中期位から見るようになった。
明末清初の黄宗羲(こうそうぎ 1610~1695)が
人間は
自私(自己本位)であり
自利(自己利益誘導)が自然であり
それをもとに社会を構想しなければならないとしたのは
その流れをくむ。
(蟹ぢから溢れる??@onesyotasekai5月27日
修身
斉家
治国
平天下の前には
格物
致知
誠意
正心があって、暴力の前段階があるのよ
つまり、人間は何かを行使する際には暴力が付きまとうのだけど、
その暴力というものの正体というのは
モノの道理
・その道理に至る為の知識
・知識に対して誠実に行い考え
・それが正しいと揺るがない心ある事が大前提なにょ
つまり、そこで行使される暴力というのは
善悪の基準が確固とし
・己らの中で確かな知識と経験に裏付けられ
・この世に誠意と誠実なモノとして訴えられ
・それは不動な正義として大義を抱えたものが身を修めた上での
暴力を行使する事が叶うわけなのね
で、それは民族叙事詩か宗族の教えにしかないのよ
で、コレは悪とか善で片付けられる話では全くなくて
修身したものにとっては「そうでしかないないもの」という
善悪・正義不正義とか相対的な価値観を木っ端微塵に破壊し尽くした純然でしかないものなの
要は憎悪とか、破壊とかではなくそれは外側の人間の感想でしかなくて中の正気ではないのよ
だから、軽々しく暴力と言ってもいいけど
その暴力は何で出来ているのかを踏まえて言わない限りはただの言葉でしかないのよ
だから、言葉をただの言葉にしなかった宗族の教えを追う事が出来るのであるならば、
それこそ修められた暴力という極致に至れるわけなのよ
ね、ちょー簡単で分かりやすいっしょ)
・儒教では欲望のすべてが否定されるわけではない。
善を実現したいとか人を助けたいのも欲望。
しかし多くの場合欲望は警戒すべきものとして扱われるのは
悪の原因が欲望だから。
朱子学では善なる欲望の存在を認めつつ
悪を引き起こす因子として欲望を警戒し
最初から理を意識して規制をかける傾向がある。
朱子学はその原理主義的性格が危険とみなされ朱熹やその先輩のテイイは弾圧を受けた
のであるが
それが官学の位置を占めると
秩序からの逸脱をチェックする思想として機能しがちになった。
これは革命思想のマルクス主義が
国是となったとたんに統制思想に早変わりしたのに似ている。
・仁斎学と朱子学の対比
1
朱子学は四書が中核
仁斎は論語と孟子が絶対の典拠。
2
朱子学が義理(意味)、文勢(血脈)、事証の読書法を示したが
仁斎は意味と血脈によって論語と孟子を一貫して解釈しようとした。
3
朱子学が天道についても持論の理気論を展開したのに対し
仁斎は天道については
一元気の生生
のみを唱えた。
4
朱子学が天道と人道を一貫する道(理)を強調したが
仁斎は学の綱領として
性、道、教をあげたうえで
道を人道に限った。
5
朱子学が性を本然の性と気質の性に分けたが
仁斎は性を気質の性とした。
6
朱子学が詩経の詩で作者と読者の分離を掘り起こしたのに対し
仁斎は詩経の経書としての意味を読者側に帰した。
7
朱子学が易経を占い書としたが
仁斎は易経を道徳を説いた書として
占いに関係する部分を否定。
朱子学が大学と中庸を駆使して形而上的思考を繰り出すことを
仁斎は両書を否定して阻止。
なお仁斎は大学は
朱子学でいうような孔子および弟子の曾子の語を記した書物ではないとして否定するが
中庸については論語と孟子の内容に合致するところにのみ意義を認める。
あくまで論語と孟子が典拠で
特に論語は
最上至極宇宙第一の書
とまでたたえられた。
なお実際には論語と孟子とでもずれがある。
朱子学も陽明学も自己の心に理があるとしたからこそ自力主義が説けたのだが
仁斎は自力のみで自分を高められるとは思わない。
自分の心をいくら探っても性が単なる生まれつきだけである以上
そこから進みようがない。
必要なのは
最初から他者の中に自己を投げ入れ
それと同時に他者から自己に投げかけられる視線も共有することで
道を獲得していくことなのである。
仁斎が
十人が十人わかり行えるのが道であることを再三強調する。
・仁斎と対照的な存在が山崎闇斎である。
両者は京都で道路を隔てて塾を営み
文字通りライバル的存在だったことが有名。
・朱子学の有名な仁の定義に
仁は愛の理、心の徳
という語がある。
愛の理とは
愛という理ではなく
愛という形で発現する理
である。
朱熹は愛をそのまま理とすることを激しく否定。
人の心のうちの性の部分は理であって、
具体的に仁義礼智=四徳である。
心のうちの情の部分は気であり
具体的に愛、宜、恭、別=四端。
孟子では惻隠、羞悪、辞譲、是非
と表現されている。
気であるというのは
情とは心の具体的な動き
つまりエネルギーの発動であって実感できるものだからだ。
その情には情を情たらしめている理=性があり
それが仁義礼智。
相互関係は
愛ー仁
宜ー義、
恭ー礼
別ー智
であり
仁は愛に対応する理となる。
朱熹は仁をそのまま愛とすることを拒否し
愛に対応する理とする。
対して
仁斎は朱子学の理気論を否定し
仁を愛と断言。
・朱熹は仁と孝悌が次元を異にすることを明確にする。
仁は愛の理(愛という形で発現する理)
であり心の徳。
仁は人の心に具わる四つの徳の中の一つで
四つの情のうち愛に対応する理
という意味。
朱熹は
仁を性=理
愛を情=気
とし両者の相関を説くとともに
仁をそのまま愛とする混同を戒める。
孝悌は具体的な心の動きであるから
仁とは次元を異にしていなければならない。
朱熹は仁と孝悌を
性と情
体と用の関係だとする。
孝悌はあくまでも仁を具体的に実践するときの現われの一つであり
仁そのものあるいは根本ではないとする。
朱熹
心と宇宙を包括的関係でとらえ
心に具わる理を原理化
仁斎
日常実践道徳こそが道の本質
(朱熹を否定)
荻生徂徠
社会全体の組織や制度を見る視点を持つのが
儒教の本質
(仁斎は個人道徳しか考えていないとする)
徂徠にとって
仁斎のように日常道徳のみにかかわるのがなぜ問題なのかといえば
日常の個々の場でのあり方は
社会全体のシステムの把握を抜かしては見通せないから。
(戦術と戦略の関係を思い出す。
個々で見れば善行でも
全体で見れば悪行である場合がある)
徂徠は仁斎と同じく
性を気質の性とし
それぞれの人間の生まれつきは変わらないとする
気質不変化を説いた。
二人とも朱子学の問題意識と用語を使って自己の思想を開陳する。
・江戸時代に朱子学が基礎教養化した。
江戸時代は朱子学のみが圧倒的勢力を持っていたわけではなかった。
儒学の経書の代表である四書の知識は江戸時代で文化的活動をするさいに必須。
この四書というくくり自体が朱子学のものであり
四書の最もスタンダードな注釈書が
朱熹の『四書集注』だった。
この本の江戸時代の発行部数は膨大。
朱子学の歴史書といえば
『資治通鑑綱目』であり
本書は朱熹が計画し
後学の手になった大分な歴史書。
北宋の司馬光の資治通鑑の歴史観を修正し
それにあわせて整理しなおした歴史書。
江戸時代に作成された歴史書に規範としての大きな影響を与えた。
林家の儒者たちが作り幕府が発行した『本朝通鑑』の手本は資治通鑑の方が
『資治通鑑綱目』も強く意識されていた。
対して
水戸で作成された大日本史は紀伝体を採用しながらも
『資治通鑑綱目』を手本の一つとする。
朱子学の正統論が幕末の尊王の思潮の母胎。
・三国志にて
資治通鑑では魏が正統、
朱熹は蜀が正統としたのは有名。
正統論で重要なのは
1
天下には王は一人しかいない
2
その王に万人が忠誠を尽くす
この一君万民は必ずしも常に日本の常識ではなかった。
対して中国の正統論は朱子学に限らず
王は一人しか認めない。
正統論は中世対象として一つの政権しか認めない、
つまり一君万民。
朱子学では天下統一して二代続けば正統。
つまり焚書坑儒した秦も正統。
儒教的には暴君の王朝として有名な隋も
文帝、煬帝と天下を二代にわたって統治したので正統。
(朱熹の正統認定表などがそのまま載っている
[筆記][歴史][江戸時代][儒教]土田健次郎『江戸の朱子学』筑摩選書
https://katawareboshi01.g.hatena.ne.jp/mori-tahyoue/20150106
をどうぞ)
三国では蜀が正統なのは
蜀は漢(これも正統)の王族だから。
蜀の正式名称は漢。
朱子学では正統王朝が地方政権になっても王朝を継承しているなら正統。
別に蜀の劉備が人格者だったからではなく単なる継承の問題。
朱子学では天下統一し二代にわかり継続したことは
天がその王家に天下統治の命令を降した証拠。
簒賊は
帝位を簒奪し正統を侵犯して次世代に伝えなかった者をいう。
次世代につなげられないと正統ではなく簒賊。
皇統論
かかる正統論を日本に当てはめると、
最初に日本を統一して二代以上継続したのは皇室であり、
しかもその皇室が地方政権になっても存続はしているのであるから、
皇室こそが正統ということになる。
ここで特に重要なのは、朱子学の正統論においては、現実に全国的な権力を握っている政権よりも、
地方政権に落ち込んでいても以前の正統の王家を継承するものがあれば、
そちらの方を正統と認定することである。
必然的に忠誠を尽くす対象は天皇に帰結する。
道統
とは天下にはただ一つの道があるという議論。
道統こそ万人が従うべきもの。
丸山真男氏は
山崎闇斎学派の正統論を論じた際に
正統を次の二つに分けている。
1
教義・世界観を中核とする正統
Orthodoxyと
2
統治者または統治体系を主体とする
正統Legitimacy。
中国式の正統論では
1は道統
2は正統
となる。
朱熹の道統論では
堯舜禹の三代と殷湯王、
周文王と武王まで道が伝わり
それを継承したのが孔子とする。
孔子以後は曾子、子思、孟子と伝わった。
しかし孟子以後は暗黒時代が続き
再び明らかにしたのが北宋の周敦頤 (しゅうとんい)
と程顥 (ていこう) と程頤 (ていい)。
彼らの思想を引き継いだのが朱熹自身。
武王までは王者であり正統でもあった。
孔子以後は道統と正統が分離する。
ところで先に述べたように北畠親房は三種の神器を徳の象徴とした。
それを直接的に『中庸』に出てくる
知、仁、勇という「天下の達徳」に割り当てたのは
一条兼良『日本書紀纂疏』であるが、
兼良の場合は同時に仏教の般若、法心、解脱にも当てているのであって、
儒教的にしぼりこんでいるわけではない。
それが江戸時代になると、
儒教の「天下の達徳」に一本化する議論が多くなる
(たとえば山鹿素行『中朝事実』神器章など)。
三種の神器は徳の象徴であり、
それを伝える天皇は徳を伝える存在なのである。
朱子学流にいえば
正統である皇室が
道統をも請け負ったことになりこれが皇統である。
(『日本書紀纂疏』(にほんしょきさんそ)という
『日本書紀』の注釈書を一条兼良が享保6 (1721) 年に出したのが重要。
日本書紀は偽書ではないと今は考えている。
古事記は偽書だと今は考えている。
太安万侶の墓が都合よく見つかったからといって
古事記が偽書でない証明にはならないので注意。
太安万侶が実在の人物である可能性が高まっただけ。
墓誌発見で偽書説は否定されたか。
http://www.geocities.jp/yasuko8787/o-010.htm
”墓誌が発見されたことで、太安萬侶の実在は証明されたが、
墓誌は古事記については何も書いてないのだから、
『古事記』偽書説の否定にはつながらない。
新聞や週刊誌がこのような「墓誌発見=『古事記』偽書説の反証」という発言を伝えると、
多くの人が疑問も持たず、そういうものだと思い込んでいることが、問題である。
なお、太安麻呂という名は、続日本紀に5回も登場する。
しかし、『古事記』撰録についてはなにも書かれていない。”)
かかる皇統の存在は、中国や朝鮮に対する優位と認識された。
それには正統と道統の両者をあわせもち、しかも万世一系ということが大きかった。
朱子学の正統論は日本にあてはめると必然的に皇統重視に帰結する。
儒教が認める帝位継承方式は
1
世襲
親から子へ
2
禅譲
高徳の君主から高徳の臣下へ
3
革命
極悪の君主から有徳の君主へ
これだけは武力を伴う
ただ現実の権力の頂点に立つ将軍こそが日本の正統なる支配者であるという見方のほうが
当初多かったのは当然。
朱子学者でのごく代表的な例のみあげれば
新井白石が朝鮮との関係を対等にするために
将軍の称号を日本国大君から格上げして
日本国王に改めようとしたのは有名であり
また山崎闇斎学派の佐藤直方も皇室を正統と認めていない。
江戸時代は幕府、藩、天皇という複数の権威の均衡によって
調和を保っていたがその構図が崩れ
天皇一尊の尊王思想へと傾斜していくには朱子学的教養が作用していたが
それに拍車をかけたのは外国からの圧力。
・朱熹は人情を全面的に否定しているのではない。
親孝行の徳は親に対する人情をベースにしている。
朱子学では人情が理を逸脱することを警戒するのであり
それが人情の自然な発露に対する消極的な姿勢となって現れる。
・伝統的な易経解釈には
1
象数易
易経には必ずしも書いていない
象
(無数に存在するこの世界の事象を
易経に出てくる具体的事物に象徴させたもの)や
数
(宇宙の数理)
の体系を導入して易経を解釈。
天文学や暦学などが援用され
一種の宇宙論的広がりを持つ。
2
義理易
易経の本文から思想を抽出し解釈。
道家的立場と儒家的立場のものがある。
易経は本来は占いの書であるが
歴代注釈者たちは実際占いで使用する書物という以上に、
そこから宇宙の理法や宇宙に即した人間の生き方の理論を引き出そうとした。
象数易も易経本文の内容を問題にするし
義理易も易経本文にすでに象や数の議論が入っている以上
象数易の要素も入っているのであり
全体の方向性で分けられるということである。
朱熹以前にこの二つの方向性の違いがはっきりと自覚されていた。
朱熹はあえて易経は実際に占いをするときに使用する書物とした。
易経の中核部分は占いの結果が出た時
該当箇所を見てなすべき行為を決定するための文章。
朱熹は繋辞伝をはじめとした部分は理論書としての性格を認めてはいたし
象数の体系には強い関心を持っていた。
対して
仁斎は占いを全面的に否定する。
仁斎は易経を
儒家の易と
筮家の易
(卜筮(ぼくぜい)で占う者の易)
の部分を分け
そのうえで
筮家の易を否定。
仁斎にとっては占い自体が否定すべきもの。
占いは未来の結果を予知したうえで自分の行動を決定するもの。
これは功利的な思考であり
結果などは気にしないでただ行為の善悪のみを問題にする姿勢とは背馳する。
仁斎は孟子の義利の弁、
つまり道義と功利の弁別に重きを置いた。
仁斎は
動機の道徳性の尊重と
占いは矛盾すると指摘。
もし占いをしてその結果次第で行為を決定するとなると
道徳性が関与する余地はなくなる。
そこで朱熹は
占い結果として得た卦辞や爻辞の文章は
有徳者あるいは正しいものであればそのまま妥当するが
徳がない者とか不正の者の場合はそうはならないとする。
朱子語類より
「人がはっきりと道理を認識できていたならば、
いまさら占いをする必要はない」
同書より
「人が卜筮で疑惑を決するより、
道理として為すべきなら、
もとより為すべきだし、
道理として為すべきでなければ、
もともと為すべきではないのであって、
それ以上占いを用いる必要があろうか。
ある種の事で、
吉か凶か道理の岐路があり、
対処しきれぬ時、
占いを行うのである。
放火、殺人、汚職などといったことは、
ともかく為すべきではないのであって、
まさか占いなどはしまい。
また官吏になって汚職や追従、不正な昇進なども、
まさか占いなどはしまい」
朱熹自身、生涯二回しか占った形跡がなく、
しかも両方とも弟子が占筮し、
そのうち一回は朱熹本人すらその場にいなかった。
晩年のいわゆる慶元偽学の禁の中で
あくまで中央で筋を通してがんばるか
退いて教育と著述に励み道を伝えるかのいずれかを選択する段になって
占いをたてた話は有名であり
そのときはこの二回のうちの一回
(当人がその場にいたが実際に占筮したのは弟子)にあたる。
朱熹は占いと道徳の背反する関係に気がついていた。
仁斎は朱子学の易経観を否定するに至った。
・朱熹の経書解釈方法
以下の三者がそろってこそ経書の十分な理解ができるとしている。
1義理(意味)
2文勢(血脈)
3事証
義理
とは個々の語の意味と特に思想的含意
文勢
とは文の流れ
文脈に違い意味だが
同時にそこには道の顕現という意味も付随
事証
とは傍証
個々の語の内容、文脈、文献上の傍証がそろうことを
朱熹は要求する。
(語の意味
文脈上の意味
根拠となる記述
この三つは真に重要な基本中の基本なので早速実践すること!)
・朱子学は本来神秘的要素を受け付けにくい思想。
日本では朱子学は神道と直接結合した。
神道側が仏教から独立する過程で道学的なものを利用してきたが
同時に朱子学という外来思想が日本思想として土着されるときの一つ現われでもあったと思われる。
・朱子学の鬼神論
朱子学の鬼神についての議論をまとめたのが
朱熹の弟子の陳淳の『性理字義』の鬼神の条。
鬼神を次の四項目で整理している。
1 鬼神本意(本来の意味)
2 祭祀祀典(祭祀の原理としての鬼神の側面)
3 淫祀(鬼神をもちだす民間の迷信の否定)
4 妖怪(妖怪としての鬼神の否定)
朱子学が認めるのは祭祀の原理としての鬼神とか
宇宙の霊妙な作用としての鬼神とかであって
民間信仰や新興宗教に出てくるような鬼神は否定。
陳淳の議論であるが朱熹の鬼神論とずれているわけではない。
朱熹が鬼神を張載 (ちょうさい)の
「鬼神は、二気(陰陽)の良能なり」という語と
テイイの
「鬼神は、造化の迹(あと)なり」という語をもとにすることは知られている。
またテイイ
「功用を以て之を鬼神と謂う」もよく引用される。
これらはいずれも陰陽、天地の作用のこと。
鬼神は陰陽の気のすぐれた働きであり
気による宇宙生成の一つのあらわれ。
テイイの造化の迹(あと)とは天地創造の一端が具体化したものということであり
自然の運行のこと。
朱熹の基本的立場は鬼神とは陰陽の二つの気の働きにすぎないとし
鬼神は気にほかならない
とまで言う。
鬼神を陰陽の霊というように
霊妙な働きではあるのだが
しかしそれも結局は陰陽の範囲を出ないのであって
それを超越する人格神的なるものは登場しない。
朱熹の鬼神論は中国思想史の中では神秘的要素を最小限にとどめる傾向。
朱熹は孔子などの聖人に対する信仰をもち
何回も雨乞いの祈祷を行い
儀礼を重視したが
人格的神なものを設定しない。
朱熹は神秘的現象を宗教的に拡張していくことを警戒。
朱熹は天には人の罪悪を批判する天帝は存在しないという。
朱熹は孔子を祭るときに孔子の塑像を安置することには否定的。
確かに祭祀を行うときは霊魂が感応することもあるが
それはいくら霊妙であっても結局は気の感応なのであって
そこから人格神的存在が常に独立して存在するわけではない。
朱熹は古人が壇を作って祭祀をするとき、
その心が気の感応を引き起こすものの、
祭祀が終われば散るだけであって、
それを今人が神像を作ったりしているのは誤っているとする。
霊妙な現象が起こってもそれは祭祀のときだけで
常に霊的な人格神が独立して存在しているのではないので
神像は無用。
朱熹は鬼神を重視せず
把握が容易でない鬼神にかまけることを戒める内容が多い。
追求すべき事物の理は
もっと生身の人間にとって切実であり
明確な理解が得られるものに求められるべきなのである。
朱熹は鬼神を最重要事ではない
第二著(二番手)の問題とする。
(まともな陰謀追及者
は私が知る限り全員、
朱子学と同じく
鬼神=形而上の霊的存在
に執着せず二の次。
まずは
物的証拠=形而下
を最優先。
対して
形而上を最優先にし
形而下の物証を二の次にする者は
平気で藁人形する者が多い。
形而下がなければ形而上を考察することは不可能なのに
形而上の妄想に基づき
ひたすら物証と異教を曲解し続ける。
真理や真実を連呼するが
事件の真相からはどんどん遠ざかる
ヤソと新ヤソ系の魔境中毒者。
後者の形而上を最優先にし物証を曲解する藁人を
陰謀論者=無自覚含め工作員
だと定義する。
朱熹は人格神を認めず
神像崇拝も否定し
形而上に執着するなと説く。
∴ヤソ(ゴッドは人格神)と新ヤソ(形而上精神世界)が朱子学を叩く。
ネット記事つまみ食いで食中毒キメるのも藁人の特徴。
本書は朱子学の解説だが朱子学以外の重要知識も増える良書であり
ネット情報に頼る弊害を痛感する。)
・中国の霊魂論としての鬼神論は観念的な議論の場ではなく
祭祀と連動している。
儒教の祭祀は神主(木主)つまり位牌が中心。
神主に魂を乗り移らせる。
霊魂は魂(陽の気)と魄(陰の気)に分かれ
魂は神主に移り
魄は墓にとどまる。
廟に安置した神主に遺族が祈る。
子供は親の気を受け継いでいるから実の子であれば必ず祈りによって
親の魂は活性化する。
それは
父子一気
だから。
中国や朝鮮で養子を嫌がるのはそのため。
日本に神主が入ってくるのは南北朝時代頃と言われていて
それも仏教の位牌としてだった。
本来輪廻転生の仏教に位牌はない。
儒教の影響で宋代頃に取り入れられたと言われる。
位牌が日本で一般的に普及したのは江戸時代中期とされる。
朱熹は父祖の気と子の気が感応することには絶対的な確信がある。
朱熹は気は馬、理は馬に乗る人とした。
理には運動因はない。
本書の著者の比喩では
理は線路
気は電車。
・神道家で儒教の教理を受け入れる者は江戸以前からあり
中世の伊勢神道や吉田神道はその代表であるが
それは仏教からの独立のために儒教
場合によっては道教の文献を引くという性格のものであって
朱子学とそれ以外の思想を明確に区別しているわけではない。
(儒家神道は日本的に変形させた儒教)
神道では
心は神明の舎
という語を重視するが
山崎闇斎も重視する。
闇斎の神道の師といえば第一に吉川惟足。
神道と仏教には伝授があるが
朱子学にはない。
経書の権威と人の心の普遍性をもとにして
誰でも道に参与できる立場から道の公開性を強調。
・王学(陽明学)左派とされる李贄(リシ 李卓吾)
は、外的規範よりも心の持つ実感力を重視する王陽明の思想をさらに押し進め
全ての価値判断の根拠を限りなく心の実感に一元化していく。
有名な童心説では
まだ借り物の既成の価値観や通念に染まっていない
絶仮純真、最初一念の本心
である童心こそが真心であり
それが経学だの常識だのを学ぶことによってくらまされていくとする。
「六書、論語、孟子は道学の口実であり
偽物の溜まり場である」と言う。
(ここまでくるともはや儒教ではないのでは?
ルソー教と仲良くできそうな思想だな!
既成の価値観や通念なしの童心のままだと
体は大人、心は幼児になるので
気に入らないとすぐ泣きわめいたりするのでは?)
幕末の陽明学には
良知帰寂派(右派)、
良知修証派(正統派)に心を寄せる者が多く
良知現成派(左派)には批判的であった。
例外的に左派を好んだ者が
東沢瀉(ひがしたくしゃ)、奥宮 慥斎(おくのみや ぞうさい)、吉田松陰。
(奥宮慥斎
おくみやぞうさい
[生]文化8(1811)
[没]1877
佐藤一斎に学ぶ。弟子に中江兆民。
李贄と(東洋の)ルソーはつながっている)
参考資料
今のところなし。
お読みくださり感謝!
『儒教入門』メモ。『論語』と『史記』の人物評価基準。吉田松陰と安岡正篤で有名な陽明学はキリスト教と相性が良く儒教カルト✝を作りやすい。
Posted on 2017.11.30 Thu 21:58:41 edit
とまとさんのオススメはほとんど名著。
まず、儒教入門。
— ぐだトマト (@pteras14) 2017年7月7日
この本が鉄板本なので、儒教は
これから入るのをオススメする。https://t.co/bXlQIvECny
横山史記も管仲編とか覇王(昔の中国版
— ぐだトマト (@pteras14) 2017年12月7日
アメリカ大統領みたいな制度)の
在り方と責務みたいなのを説明してる
エピソードとかが手っ取り早く学べて
良いと思うよ。
漫画から入って専門書に移行する
のが良いと思う。
孫子のモデルの呉の孫武の伝記とか
— ぐだトマト (@pteras14) 2017年12月7日
が良いんじゃないかな?
中国人が描いた漫画で良いのが和訳
されてたと思うよ。
後、横山某の史記シリーズも分かり
やすくて良いかも。
江戸時代の朱子学は偽物なので
注意ね。オリジナルにある「諫言」
という制度を意図的に抜いてるので
なるべくオリジナルを勉強した方が
いい。
まぁ、ドイツ人エンジニアも言ってた
けど、学問系で言うと日本人がやった
方が良いのはデータ・サイエンスとか
コンピューター・サイエンス、
マーケティングじゃなくて、
「ストラテジー」って奴。経営学の
中の分野の一つね。次点で「リソース
マネジメント(人事含む)」で、最後に
「組織論」。
組織論、コーポレート・ガバナンス
含むね。
横文字じゃない中国の古典から学ぶ
べきは「佞臣の排除」。日本組織は
これが多過ぎる。佞臣ってのはゴマ
擦りだけが得意で出世しやすい能力
には長けてるけど、組織には害しか
齎さない主君を拐かす悪党の事ね。
勿論、意図してやってるので犯罪者。
孫子のモデルの呉の孫武の伝記とか
が良いんじゃないかな?
中国人が描いた漫画で良いのが和訳
されてたと思うよ。
後、横山某の史記シリーズも分かり
やすくて良いかも。
アメリカ式の奴は文化が違い過ぎて
導入に躊躇する組織は多いと思うけど、
中国の古典なら同じアジア系だから
取り込み易いでしょ?
孫武の呉王の妾みたいなのを隊長に
任命して軍令を守らないから斬首
する逸話とか素晴らしいよ。
あれは呉王がその後「やり過ぎなんじゃないの?」と咎めるシーンが
あるんだけど、孫武が「だってアンタ
兵法を見せてくれって言ったじゃん」
って即答したのに対して、呉王が
反省して認めた所が重要。
孫武関連の逸話は孫武その人よりも
王様の方が兎も角優秀だったって
所が本当のキーポイント。
だから、息子の代以降になると途端に
調子が悪くなってくのよね……
そこもまた面白いんだけどさ。
横山史記も管仲編とか覇王(昔の中国版
アメリカ大統領みたいな制度)の
在り方と責務みたいなのを説明してる
エピソードとかが手っ取り早く学べて
良いと思うよ。
漫画から入って専門書に移行する
のが良いと思う。
中国の古典って今のハーバードで言う
「ケース・スタディ」って奴と
一緒なので、基本。
でも、ハーバードって言うと、
君達毛嫌いするでしょ?w
(ぐだトマトさんがリツイート
BusinessInsiderJapan?認証済みアカウント @BIJapan
12月5日
「抽象的でわかりにくそう」「面倒くさそう」との声が多数のデザイン思考
↓
東大出身、元商社マンの漫画家がシナリオを担当)
ぐだトマト @pteras14
このデザイン思考の漫画、そんなに
良かったのか。読んでみるかな。
デザイン思考の漫画、サラッと読んで
みた。普通にデザイン思考を覚えて
落ちこぼれ店長がサクセスしてく
ストーリーなんだけどさ、EDが
所謂“本社の企画部への栄転”を
“謙虚な可愛い日本人?”理論で
主人公が断っちゃうのよね。
「ずっと奴隷のままでいいっす!」
みたいなw
まぁ、出る杭打たれ文化や脳鷹爪隠し
理論の大好きな如何にも日本ウケする
結末なんだけどさ……
お前さん、出世して経営者になって
こその「デザイン思考」だろ……
と。そもそも、日本企業のマネジメン
ト層に「思考」自体が無いのが問題
なんだからさ……
ぐだトマトさんがリツイート
中国故事名言bot? @koji_meigen_bot
12月7日
勝兵はまず勝ちて而る後に戦いを求め、
敗兵はまず戦いて而る後に勝ちを求む。(『孫子』軍形篇)
勝利を収める軍隊は、まず勝利の条件を整えてから戦をはじめる。
敗北を喫する軍隊は、戦を始めてから勝利をつかもうとする。
マルアフ・ハ・マーヴェット@pendulum318
例えば、ある武将が都市を包囲したとする。その武将は武力で都市を制圧し、略奪しまくって殺しまくることもできたが、
それはせずに降伏勧告を出し、降伏した都市には一切略奪せずに寛大な処置を施した。これは武将が優しい人物だからか。
違う。
降伏をしても受け入れられず皆殺しにされると分かった敵は死に物狂いで向かってくるようになり一層手強くなり、
こちらの損耗も大きくなる。
降伏したあとは殺しも略奪もしないという約束を破った場合も、
だましうちした、と風評が流れ、他の都市を攻略する際に相手は降伏を受け入れなくなる。
反対に皆殺し、謀殺が有効な時は躊躇せずにこの武将は実行できる。
一番目的を達成に有効なことをこの武将はやっているだけ。
外部に顕れているものだけで判断したらこういう事は分からなくなる。
こういう知識はトゥキディデスやマキャベリから仕入れた。
ま、こんな知識があっても自分以外が使っているときにわかるだけで、自分自身が自在に使いこなせるわけではない。
カエサルの知識だけあってもカエサルにはなれない。場数をこなせば違うかもしれんが。
俺自身は大体無愛想な態度で人からは「損な性格」と言われるくらいだ。
マニュアルより思考パターンを盗みたいね。
宿題の書き写しにならないようにするためにはカエサルのマニュアルよりカエサルの思考パターン。
マニュアルにたどり着くための式を知っとかないと応用も効かんだろうし。
両脇には孔子の弟子四賢である顔子、曾子、思子、孟子の像も祀られる。不勉強で孟子以外は知らん。彼等と孔子十哲の位牌も祀られる。儒教なのに位牌?ではなく位牌は元々儒教の文化。仏教が儒教から取り入れたものである。 pic.twitter.com/KsCpeoI40Q
— 幣束 (@goshuinchou) 2016年6月29日
実質ラスボスが中国思想とシステム(孔子と老子=儒教+道教)で仏教嫌いで白人礼賛の『NieR:Automata』ニーアオートマタ。『Undertale』、機械学習本メモ予定。 - 読めないニックネーム(再開版) https://t.co/4h31oBO7Q0
— 山田ひろし雅号@平成歌詠み人ww (@yhgagou) 2017年11月29日
頼母子講は支配層の搾取対策に有効! 『日本書紀』の天地開闢の神話は『淮南子』と『三五歴紀』のコピペ。 聖書思想と天皇崇拝という偽伝統を布教する神道カルト=和風キリスト教が布教する日ユ同祖「教」
— 淳之介:虚構の社会システム (@jun2611) 2015年8月22日
2015/08/19読めないニックネーム http://t.co/0r8CcvaBo9
身体髪膚は之れを父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり。
(『孝経』開宗明義)
(割礼の否定)
お盆は儒教(中核)を仏教で覆ったもの。
カバラ(一神教+新プラトン主義)は易経(儒教の経典)とも道教(多神教)とも無関係!
寸止め陰謀論者が主張するカバラは「クリスチャン」カバラ! 加地伸行『沈黙の宗教―儒教』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-97.html
人物評価技術
『論語』
為政第二 026
http://www.niigata-ogawaya.co.jp/rongo3/s-02-026.htm
”〔 原文 〕
子曰、視其所以、観其所由、察其所安、人焉廋哉。人焉廋哉。
〔 読み下し 〕
子曰わく、其の以す所を視(み)、其の由る所を観(み)、
其の安んずる所を察(み)れば、人焉(いずくんぞ)廋(かく)さんや。人焉んぞ廋さんや。
〔 通釈 〕
孔子云う、
「一にその人の行為をよく注意して視(み)る。
二にその行為の拠って来たる原因・動機を観(み)る。
三にその人がどんな所に安らぎを求めているかを察(み)る。
この様にすれば、その人の正体はすっかり分かってしまうものだ。どうして隠せようか」と。
〔 解説 〕
これが孔子流「人物鑑識法」ですが、この視る-観ずる-察するという方法は、孔子以来、人物を見抜く際の鉄則となったようでありまして、
史記(司馬遷(しばせん)による中国古代の歴史書)の魏(ぎ)世家(せいか)に、魏の文侯(ぶんこう)(戦国時代)に仕えた李克(りこく)という政治顧問が述べた「五観法」と云う有名な人物鑑識法があります。人物を見抜く上で現代でも立派に通用すると思われますので、以下に紹介してみましょう。
一、「居ればその親しむ所を視る」
*不遇の時にどんな人と親しくしていたかを見る。
(付き合っている人達の人品骨柄を見れば察しがつく)
二、「富めばその與(くみ)する所を視る」
*裕福になった時にどんな人やどんな物に金や時間を 割いたかを見る。
(安んずる所・どこに安逸を求めているかが分かる)
三、「達すればその挙(あ)ぐる所を視る」
*出世した時にどんな人物を推挙したか、どんな人を登用したかを
見る。(本人の眼力が分かる)
四、「窮(きゅう)すればその為さざる所を視る」
*窮地に陥った時に苦しまぎ0れに不正を働かなかったか、悪あがきを
しなかったかどうかを見る。 (為す所・節操の有る無しが分かる)
五、「貧しければその取らざる所を視る」
*貧乏した時に邪(よこしま)な稼業に手を染めなかったか、餓鬼に
ならなかったかどうかを見る。 (拠る所・志が分かる)
〔 一言メッセージ 〕
『人を見抜くには、行為・動機・安逸の三つを見よ!』
〔 子供論語 意訳 〕
孔子様がおっしゃった、「その人の人柄をつかむには、まず普段どんな行ないをしているかを見なさい。
次にどうしてそういう行ないをするのか? その理由を考えてみなさい。
最後にその人が一番好きなことは何か?を調べてみなさい。
この三つの方法で観察すれば、ごまかそうったってそうは行かないんだね」と。
〔 親御さんへ 〕
人と接していて、この人の意図はどこにあるのだろうか?どんな思惑があるのだろうか?と考えさせられたことはありませんか?私達は人を判断する際に、どうしても容姿や言語つまり、視覚や聴覚だけに頼って判断しようとしますが、どうもこれが間違いの元のようですね。
実は孔子もこれで失敗しているんです。容姿の方では、澹台(たんだい)滅明(めつめい)という人物が入門して来た時、余りにも容貌が醜かった為に「大したことはなかろう!?」と高を括っていたら、実は正道を貫く大人物であった。
言語の方では、宰我(さいが)の弁舌を信じて立派な人物であろうと思っておったら、行ないがデタラメで手が付けられなかった。澹台滅明も宰我も、これから論語に登場して来ますから、お楽しみに。殊に、宰我などは孔子にこっぴどく叱られています。
人を見抜くには、容貌や言語に惑わされず、
一、日頃の行ないを注視する。
二、その行為の拠って来たる動機を観取する。
三、どんな物や事に安逸を求めているか(安らぎ楽しんでいるか)を
観察する。
という三つの方法が有効なようです。”
ノーブレスオブリージュの無い金持ちはただの豚だから、マルクス先生の言う通りに人権奪ってぶち殺した方がいい。
— 月読美琴@英国紳士に憧れる高等遊民 (@tsukuyomi3510) 2017年11月30日
名づけの呪術の防衛術は儒教に学べ!
— 子子子子子@ロクアカ最新刊10巻分析完了そのうち移動@黒住も金光も天理も世界連邦側 (@kitsuchitsuchi) 2017年11月4日
孔子
「適切な名前をつけよ」
「人知を超えたものを語るな」
「死んだらどうなるか知らない」
名前魔法①教科書↓メモ
ネーミング全史、タイトルの魔力、「名づけ」の精神史
https://t.co/0xaBYgYIWw@kou11lunatic
”わざと間違った名づけの呪術への対策は、
孔子がすでに教えてくれている。
名づけの呪術は、
「人知を超えた確かめられないことの断定」
とセットであることが多い。
こちらも孔子は対策している。
孔子
「必ずや名を正さんか」
「適切な名前をつけよ」
「いまだ生を知らず、焉んぞ死を知らんや」
「死んだらどうなるか知らない」
「怪力乱心を語らず」
「人知を超えたものを語るな」
儒教も無記だし、スピリチュアル否定。
孟子の易姓革命論
「徳を失った王は王の資格を失っているから殺して良い」
孟子「トップがクズなら殺して良い」
支配層が無能だったりクズならぶっ殺してOKな儒教。
血統の断絶ではなく、徳の断絶が易姓革命の根拠。
儒教は両親や君主が間違っていたら子供や臣下が
「あなたは間違っている」って言いなさいって教え。
上に盲従せよという教えだと騙るプロパガンダに惑わされないように。
孔子
「たとえ鞭で打たれようとも親の誤りは正せ」
「三回諫言してもダメなら君主の元を去れ」
ボスが明らかに間違っているなら部下が苦言を呈さないといけないという
諫言も儒教の教義。
適切な名づけ、無記、易姓革命、諫言
を抜いたら儒教カルトであり儒教ではないので注意!
悪政用の万教帰一カルトは上記の悪政を防ぐ教えを抜いているのが特徴。
儒仏の道徳の破壊を実践中の支配層。
せっかく漢字圏に生まれたのだから中国古典を読まないと損だよ!
”
せっかく漢字圏に生まれたのだから中国古典を読まないと損だよ!
— 子子子子子@ロクアカ最新刊10巻分析完了そのうち移動@黒住も金光も天理も世界連邦側 (@kitsuchitsuchi) 2017年11月4日
「儒教は上位者への盲従を説く」との誤解についての解説https://t.co/OilnWsp5Er
では原文と翻訳のセットで丁寧に解説されている。
…
「一度名前を言えれば、あなたはそれを意識し支配し操作できる」”
儒教入門 土田 健次郎
〔2021/4/1にアマゾンアフィリリンクを削除。アカウントを潰されたからだ。また、本記事の誤字脱字を修正〕
・『韓非子』に儒家と墨家を当時の著名学派と併称するように、
墨家は儒家の有力な対抗馬だった。
韓非子の「顕学」では
葬式における儒家の奢侈と孝行の重視を、
墨家の倹約と孝行軽視に対比させている。
『墨子』が葬礼を手厚くすることを批判するのは有名であるが、
葬儀を充実させようとする儒家と正反対。
儒家側の墨家攻撃としては、
兼愛説に対するものが有名。
父と君を否定するのは禽獣だとする『孟子』。
墨家では万人を平等に愛する兼愛という博愛主義。
対して孟子は家族を中心に親疎の差別のある愛を説く。
その正反対は、楊朱の徹底した「為我(我の為にす)」という個人主義。
儒教の特質は、家族主義。
道家と異なり、墨家は仁や義といった語は肯定的に使用する。
(ある一つの思想の解説書では、たいていは別の思想との対比で解説するので、
必然的に複数の思想を学べる。
『』で囲むのが面倒なので省略することがある)
・法家の儒家批判は韓非子に見える。
韓非子では、臣が君につかえ、子が父につかえ、妻が夫につかえるのは
「天下の常道」だとする。
儒家とはこの点では対立しないが、法家ではつかえることを絶対化し、
いかなる場合でもその逆を許すことはない。
王が賢臣に位を譲る禅譲とか、
りっぱな子(舜)が悪い父(コソウ)を放逐した話などを儒家が称揚するものとして否定。
(後者については儒家はこのように言わない)
そして究極的には君主への服従に一元化。
老いた父を養うためにたびたび敵前逃亡をした魯国の人を孔子が讃えたことを批判した際の、
「そもそも父にとっての孝子は、君にとっての背臣(賊臣)である」
という言い方にまでなる。
法家は法の無機性と絶対性を尊ぶのであって、
儒教の尊重する道徳が法の絶対的権威を侵すことを警戒する。
韓非子には権臣の言を聞かずに法律の士の提言に耳を傾けることの重要性が再三言われているが、
儒家の諫言とは異なる。
法律の士の提言とは徹底的に法に従ってぶれないということであって、
君主がこの提言を受け入れて実行するならば臣下は一切口を出してはならない。
対して儒教では常に君主の行為をチェックし必要であればその都度諫言することが求められる。
中国の文化大革命後期に、儒法闘争ということが言われた。
儒家は封建道徳尊重の保守主義とされ、
対して法家の思想を採用した秦の始皇帝を反封建の革命性を持つ者として評価した。
儒家は徳治主義で、法家は法治主義と言われるが、
法の観念が近代と異なるため、
法治という語の使用には注意を要する。
徳の名目による恣意的な統治から脱するという名目は共通しても、
民の自主性を認めない点では決定的に異なる。
法家は儒家以上に上下秩序の厳守を説くのであって、
儒家は国家に対する家族の優位性、個人の道徳的自立、君主と臣下の間の相互規制を説く。
・仏教については、
儒教との一部両者の一致論はあり、
棲み分けもあったが、基本的には儒教と対立。
儒教が仏教を批判する主要論点は次の三つ。
1仏教は社会的道徳や秩序をないがしろにする
2仏教は夷狄の思想であって中国文化や価値観に反する
3仏教はありもしない霊魂の不滅を説く(輪廻転生のこと)
もっとも軸になったのは1であって仏教が中国で思想的に問題になりはじめた当初から延々と反復されてきた。
仏教と対比したうえで浮かび上がる儒教の特質とは、
道家の場合と同じような道徳主義という面、
それに現世中心主義。
仏教の虚の思想に対する儒教の実の思想という対立。
(仏教は霊魂の不滅を否定している。
かといって無になるわけではないらしいのでややこしい。
霊魂は不滅の実体ではないと実体思想を否定)
・天に二つの太陽はなく、
土に二人の王者はなく、
家に二人の主人はなく、
尊者に二つの至上はない。(礼記)
父子関係と君臣関係の間に成り立つ忠と孝は万人が踏み行うべき実践道徳。
忠孝は世界中で見られた徳目。
忠孝を漫然と説くだけでは一般的現象であるにとどまり儒教の特質とはなりえない。
中国における孝の重さは格別であり、親殺しには可能な限りの厳しい罰が加えられた。
親や君に害を加える以前にそのたくらみが発覚しただけでも重い誅罰の対象になったのであって、
孝にそむくことは社会的かつ身体的な抹殺を意味し、
それがまた孝の重みを増した。
かかる中国において孝を否定する議論を見出すことは困難。
それゆえ、唐の禅僧の臨済(九世紀)が、あらゆる既成の価値観から脱却し
心に備わる仏性の自然な発露を実現させるため、
父母に会っては父母を殺し(臨済録)
と言ったのは比喩ではあれ極めて衝撃的なものであった。
この語から逆に孝が既成の価値の最たるものだと確認できよう。
なお仏教は中国社会に定着していく過程で、孝の思想を取り込んでいった。
中国で作られた仏教の経典、いわゆる偽経(疑経)である盂蘭盆経や父母恩重経は代表的。
・儒教の孝で父母を比較した場合、特に重要なのは父に対する孝。
禽獣は母を知るも父を知らず(『儀礼』)
母子は生物的関係であり、それのみでは人間の尊厳性は得られない。
父子関係はそこにさらに制度的規範性が加わっているのであって、そのことが重要。
孝は父子間の孝が軸であり、『孝経』では父子間の孝は君臣関係に転移できるとある。
ただ孝が生来の道徳であることの説得性を増すために母子関係が持ち出される例も少なくない。
しかしそれはどちらかといえば経書よりも説話など啓蒙書の類に著しく、
また後漢に中国に入った仏教が中国化していく過程で孝思想を取り入れていくのであるが、
その中で母子関係を強調するものが目に付く。
仏教は社会の一部分としての人間よりも、単独者としての個人を問題にするのであって、
生物的関係を制度的関係にスライドできる父子関係よりも、
実存的に向かい合う母子関係の方に目が行くことになったのであろう。
このことは儒教の父子尊重を補完する働きをもっているといえよう。
孝であれば忠であるならば、
孝である若者を登用すれば必ず忠義の臣になるということになるはず。
この考えを使って漢代に孝廉(こうれん)という推薦制度が行われた。
宮仕えをまだしていない地方の青年で孝行者を推薦させれば、確実に忠義の臣を得られるという発想。
(
2021/4/2に以下のとまとさん呟きを増補と修正〔「‼︎」が「?」になっていたので修正〕。埋め込みの意味がなくなったので、埋め込みでない形式に変更〔埋め込みが多いと記事が重くなりすぎてフリーズすることがある〕。あと、修正の見本にした記事も載せておく(私の記事からの引用記事ね)。
ぐだトマト
@pteras14
2016年8月13日
イスラームもそうだけど、儒教も
四書五経やコーランの「文言」だけ
勉強しても意味無いんだよ‼︎
なぜ?その戒律が重要なのか?
なぜ?孔子はこの徳目を重視したのか?
その背景が重要なんだ。
適当に「親父に孝行しとく?w」って
選んだわけじゃない。
#FGO
#FateGO
後、孔子の引用の「親が三度諫言しても
聞き入れない場合は泣いて従え!」
の文言も解説足らずで間違ってるから
注意な!
これは中国というか、孔子の時代
(つまり春秋時代)の"孝"が何を指してた
のか考えないとダメだ!
この"孝"ってのは"父親"の事。
ぐだトマト@pteras14
2016年8月13日
返信先: @pteras14さん
なぜ"親父"なのか?
ここが重要なんだよ‼︎
つまり"母親"と"父親"の違いは
何か?って事。
1件の返信 12件のリツイート 3 いいね
ぐだトマト @pteras14
2016年8月13日
儒教の世界、というより昔の中国では
"父親"ってのは生理的に"赤の他人"
と捉えれていた。何故か?
赤ちゃんはお母さんのお腹から
出てくるだろ?で、本能的にも
"母親"に対する愛着ってのは勝手に
発生する"自然現象"だと捉えられて
いた。
1件の返信 12件のリツイート 5 いいね
ぐだトマト@pteras14
2016年8月13日
何でか?というと昔の中国人は
「他の動物を良く観察した」んだよ。
で、人間以外の動物の世界でも
"父親"の地位が低かった。
狼は例外的だけど猫とか熊とか
子猫や子熊は母親と暮らすけど、
父親は生殖行為だけしてお別れだろ?
1件の返信 13件のリツイート 6 いいね
ぐだトマト@pteras14
2016年8月13日
そこで昔の中国人は"赤の他人"で
ある"父親"を大事にする子供に
なればきっと"心の優しい大人"に
育つはずだ!と、考えたの!
これが"孝"のなぜ"父親"を大切に
しないといけないのかの倫理的意義
なんだよ‼︎
1件の返信 16件のリツイート 6 いいね
ぐだトマト@pteras14
2016年8月13日
その背景には孔子の生きていた
春秋時代という戦争ばかりやって
人の命の価値がゴミみたいな
時代だったから、ともかく「心の
優しい思いやりのある人間」への
憧れと拘りが強かったのではないかと
言われている。
ただ、不思議な事に現代日本は
— ぐだトマト (@pteras14) 2016年10月15日
「武士道」も、「禅」も、「家康」
も、「朱子学」もベースになって
ないと思う。
強いて言えば、
「藤原道長の血族システム」、
「室町末期の下剋上システム」、
「平安の荘園制寄生虫システム」、
「孝謙、後醍醐のオカルト傾倒」、
「田沼式拝金主義」。
ぐだトマト @pteras14
2016年10月15日
返信先: @pteras14さん
これにGHQ時代の
「真赤朝の歪んだ石屋思想」
明治/大正の
「薩長土肥式戦闘民族化」が
掛け合わさってより凶悪化してる
イメージ。
以下は私の
イスラームと中東情報はアラビアと現地語ができる人から得よう!原語無視のクルアーン解釈は粗デマ!『イスラム飲酒紀行』『イスラーム思想を読みとく』『クルアーン入門』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-257.html
からの引用記事:
※強調は私、ねここねこがした(下線、赤色、太字)
政治向け 2018/09/26
面白い話です・・。
http://tyuubukou.blog.shinobi.jp/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%90%91%E3%81%91/%E9%9D%A2%E7%99%BD%E3%81%84%E8%A9%B1%E3%81%A7%E3%81%99%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%80%82
”読めないニックネーム(再開版) より
上記文抜粋
・・・・・・・・
ぐだトマト
@pteras14
2016年8月13日
イスラームもそうだけど、儒教も
四書五経やコーランの「文言」だけ
勉強しても意味無いんだよ‼︎
なぜ?その戒律が重要なのか?
なぜ?孔子はこの徳目を重視したのか?
その背景が重要なんだ。
適当に「親父に孝行しとく?w」って
選んだわけじゃない。
#FGO
#FateGO
後、孔子の引用の「親が三度諫言しても
聞き入れない場合は泣いて従え!」
の文言も解説足らずで間違ってるから
注意な!
これは中国というか、孔子の時代
(つまり春秋時代)の"孝"が何を指してた
のか考えないとダメだ!
この"孝"ってのは"父親"の事。
2件の返信 19件のリツイート 6 いいね
ぐだトマト
@pteras14
2016年8月13日
なぜ"親父"なのか?
ここが重要なんだよ‼︎
つまり"母親"と"父親"の違いは
何か?って事。
2016年8月13日
儒教の世界、というより昔の中国では
"父親"ってのは生理的に"赤の他人"
と捉えれていた。何故か?
赤ちゃんはお母さんのお腹から
出てくるだろ?で、本能的にも
"母親"に対する愛着ってのは勝手に
発生する"自然現象"だと捉えられて
いた。
1件の返信 18件のリツイート 6 いいね
ぐだトマト
@pt
何でか?というと昔の中国人は
「他の動物を良く観察した」んだよ。
で、人間以外の動物の世界でも
"父親"の地位が低かった。
狼は例外的だけど猫とか熊とか
子猫や子熊は母親と暮らすけど、
父親は生殖行為だけしてお別れだろ?
1件の返信 18件のリツイート 6 いいね
ぐだトマト
@pteras14
2016年8月13日
そこで昔の中国人は"赤の他人"で
ある"父親"を大事にする子供に
なればきっと"心の優しい大人"に
育つはずだ!と、考えたの!
これが"孝"のなぜ"父親"を大切に
しないといけないのかの倫理的意義
なんだよ‼︎
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ぐだトマト
@pteras14
その背景には孔子の生きていた
春秋時代という戦争ばかりやって
人の命の価値がゴミみたいな
時代だったから、ともかく「心の
優しい思いやりのある人間」への
憧れと拘りが強かったのではないかと
言われている。
・・・・・・中略・・・・
ぐだトマト
@pteras14
7月10日
ま、元凶はイスラーム先生の言う通り、
組織や法人に人間と同じ人格と人権を
与えたが為に、本物の人間の価値が
チープな存在に成り下がったんだな。
法人はアダムみたいな形状してない
からね。いずれ人類の方を迫害するさ。
・・・・・・中略・・・・
信頼性を有さない者は
1 不信仰者
2 幼児
3 狂人
4 不義者(≒犯罪者)
5 ハディースを捏造していたが悔悟した者
6 不信仰には至らないような教義上の逸脱者
7 ハディースの伝達によって報酬を得ていた者
であるとされ
端的に言えば
利害を離れて正直に真実を語っているかどうかが審査される。
厳正性を有さない者は
1 誘導に引っかかる者
2 孤立した伝承の多い者
3 不注意な伝承の多い者
4 伝承における間違いを指摘されても自説を曲げない頑固者
5 口承との校合(きょうごう)がされていない不十分な写本に基づいて伝承する者
とされる。
(情報の真偽判断にさっそく活用しよう)
・・・・・・中略・・・・
小森健太朗@相撲ミステリの人@komorikentarou
9月17日
私の個人史でいえば、インドから実体験として持ち帰った、マザーテレサに苦しめられているインド民衆の声の数々、それをキリスト教の研究会で発表しても、決してそんなものが存在するとは認めようとしなかった酷薄非道なキリスト教徒の姿と、今のおたく差別を認めない連中の姿がダブってみえます。)
・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり
最後の良いですは・・・
マザーテレサは、「親切の押し売り」で、さらのその末流になると、それで圧迫する。
まあ、耶蘇らしいですは・・・
私も、胡散臭さを感じますよ。
自分の教え以外認めない、耶蘇のいうことなど、信用できない。
まあ、マザーテレサが最晩年絶望して死んでいったのも、その蒙にとらわれた悪事をしまくった因果応報。
お読みくださりありがとうございます。”
)
・一般論としては中国では孝が優先されるのに対し、
日本では忠が優先される傾向が言われてきた。
中国で孝が優先する例としては、
君を何度も諫めて聞き入れられなければそのもとを去るが、
父の場合には泣いて従うという議論がある。
人臣としての礼は露骨に諫めないことである。
三度諫めて聞き入れられなければそこを逃れる。
子が親につかえる場合は、三度諫めて聞き入れられなければ、号泣してそれに従う。(礼記)
これは父子関係を先天的なものとして君臣関係に優先させる顕著な例。
(相手が親でも君主でも間違っていたら正すように言わないといけないのが儒教。
相手が君主など上司なら去れだから、臣下であることをやめよ、会社なら辞めよって教え)
忠孝を一致させようとした議論もなかったわけではない。
忠孝一致論は中国より日本で目立つ。
特に明治時代以後、天皇を頂点にする一君万民論のもとで、日本の美風として強調された。
天皇は日本国民の祖であり、同時に日本国民の主なのである。
忠孝重ね合わせ議論は、中江藤樹(十七世紀)のように孝でくくる場合と、
儒家神道のように忠に統括していく場合がある。
君主を三度諫めて聞き入れられなければそこを去るが、
親の場合には従うとすることについて、
儒家神道では天皇への絶対服従の立場から永遠の臣従を強調することさえある。(吉川従長)
この議論は、君のために不義も行い、そのために自分や子孫が汚名を受けても顧みないとする。
君とともに不義を行った結果身が亡んでも悔いないとする。
君が不義を続けていても、諫言はするが君には仕えつづけるものであって、
中国のように不義を行う君と決別するという議論を否定する。
忠孝一致論は幕末の水戸学にも見られた。
(会沢正志斎『新論』1825年・文政8年、
藤田東湖『弘道館記述義』-弘化3年(1846年))
また近代以降は日本儒教の枠として顕彰(功績などを一般に知らせ、表彰すること)された
中国には家族よりも広く宗族があるが、国家全体が一家族という発想はなかった。
(父子と君臣の違いは先天的か後天的か。
先天的の方が優先なら実の両親が天皇より優先だが明治政府に都合が悪い。
天皇教に儒家神道が関わる。
忠に統括なら支配に都合がいい。
孝が最優先でない日本儒教は支配に都合がいい。
日本儒教は儒教カルトっぽい。
儒家和風キリスト教。
悪をなす君主から去れ=従うなを消して凶悪化。
水戸学=儒教カルト。
国家全体が一家族+天皇絶対
=全体主義。
ご参考までに「万世一系の天皇をいただく王朝交代の存在しない国柄」という意味での「国体」の登場は山縣有朋以前、水戸学の中で醸成され、会沢正志斎が『新論』において初めてその意味で用いました。一般的な意味での「国体」は欧陽脩の「新唐書」や、荻生徂徠の『政談』にも既に出ています。
— Spiky (@5PIKY) 2017年11月30日
マイナー哲学者bot @minorquiz
12月8日
会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)…江戸末期の思想家。藤田幽谷の門下。藤田東湖と共に徳川斉昭を擁護し、教育者として弘道館の初代教授を務めたことで知られる。著書『新論』は「尊王攘夷論」を唱えたことで有名。晩年は徳川慶喜に開国を要求した『時務策』を提出し一部から「老耄」と揶揄された。
)
・諫言は儒教の重要要素。
もともと中国では天子の圧倒的尊貴を言いながら、
同時に臣下の権威が高く説かれることもある。
臣下が皇帝を教導したり諫めたりすることを認めるのも儒教の特色。
中国では諫官として専門の役職がおかれ、
これは官僚を監視する御史台とともに、宰相らの権力が及ばないのをたてまえとした。
中国では皇帝に直接ものを申せる官職が制度化されているのに対して、
日本では置かれなかった。
しかし諫言は日本儒教においても臣下の必須の義務とされたのであって、
日本の古代や中世において儒教が話題になるときは諫言が問題になる場合が目立つ。
近世でもこのような話がある。徳川家康にある家来が諫言したとき、家康はうなずいて聞いていた。
その家来が去った後、ある臣下がなぜあのような凡庸な内容に耳を貸すのか質問したところ、
家康はそれはわかっているが耳を貸す姿勢が重要だと答えた。
(室鳩巣、『先哲叢談』直諫は一番槍より難し)
儒教は王者が諫言を聞き入れる態度を求める。
ただ臣下全員が諫言していてはかえって無秩序になる。そこで家老職などの上位者だけが諫言すべきであるという議論もあった。
葉隠でも主君にもの申すには出世しなければいけないという現実的なところも見せているし、
近年の研究だと、葉隠には一方的な服従ではなく諫言によって主君を啓発する姿勢があるという。
( 峨骨@Chimaera925
2016年1月11日
葉隠は面白かったな。主君に好感持たれる顔付きになる為に蟄居して日がな鏡とにらめっこした作者。いつも爪を磨いて綺麗にして、血色良く見せる為の頬紅(チーク)はいつも懐に忍ばせておく等々、愛され武士になる為のテクニックや(女色より高尚とされる)男色のお作法なんか書いてあるし。
0件の返信 9件のリツイート 5 いいね
ストラテさんがいいねしました
峨骨 @Chimaera925
2014年4月28日
返信先: @Kohakunotamagoさん
@Kohakunotamago その武士道で有名な葉隠を何人が読んだ事あるんだろうな。武士道における衆道の心得とかも書いてあったけど身も蓋も無い話、「上司に愛される部下になる為の自己啓発」本だぞ。自分がサムライだとか言う奴らって男色家って事でOKなんだよな?
1件の返信 9件のリツイート 7 いいね
峨骨? @Chimaera925
2012年11月5日
名利薄き士は多分えせ者になって人を罵り、高慢にして益に立たず、名利深き者には劣るなり。今日の用にたたざるなり。 葉隠より
0件の返信 2件のリツイート 3 いいね
峨骨? @Chimaera925
2011年12月19日
アメリカ陸軍 サバイバル・マニュアル、スイス民間防衛、ロートレアモン全集、悪徳の栄え、論理哲学論、葉隠、SAS特殊部隊式・実践格闘術ハンドブック、我が闘争、ヒトラーとの対話 #他の人の本棚には無い本晒せ
1件の返信 4件のリツイート 2 いいね
)
また臣下から君主に働きかけるものとしては、
王者を教育する帝王学に儒教が使われたことも重要。
帝王学とは帝王に徳治政治を身に体させるものであって、皇帝にとっては重荷であった。
北宋の哲宗の教師であった程頤(ていい)、
南宋の寧宗の教師でもあった朱熹はともに皇帝からうとまれた。
ただ帝王がこのような教育を受けることは臣下たちにとっては好ましいことであって、
帝王学として朱子学などの道学は当時の士大夫たちにアピールしたのである。
儒教は単なる上位者への単純な服従を説く教説ではない。
君主への忠誠を要求しながら、同時に君主に対して諫言や教育を行い、
後述するように天災をもとに君主の反省を求める思想でもあった。
・殉死で言われる、二君に仕えずは文字通り二人の君主に仕えないことである。
中国での二姓に仕えず、つまり二つの王朝に仕えないことで意味が異なる。
中国ではきちんとしたお世継ぎがいるのに君主の死に殉死することは考えられないことであって、
お世継ぎが新たな君主になればそれに仕えていくことこそ忠。
明などでは皇帝や王の死に際し宮女を殉死させたことはある。
日本の儒者たちは必ずしも殉死に肯定的ではなかった。
山鹿素行は
「殉死して終わるのは容易であって世に多いが、
常に君を諫め戒めて君を助け民を救うのは困難。
ただ死ぬことは忠勤ではない。」と殉死をはっきりと否定。
厳格な朱子学者の山崎闇斎も同様に言う。
「色欲は女色のみではない。男色のわざわいは長い。…近頃いよいよ流行してきて、
追腹(切腹による殉死)する者が、それにつれて盛んになってきた。無見識なことである」(『大和小学』明倫第二)。
山本博文氏は、主君に対する殉死はそのために家がよい待遇を受けるようにという打算から来るいわゆる「あきないばら」ばかりではなく、
それ以上に積極的に死に赴いたという。
しかも君主に拝謁したこともない下級武士に多く、それは一種の男だてであったらしい。
有名な赤穂浪士も下級武士が多いように、よほど優れた君主でないかぎり、主君は身近にいるより距離があった方が忠誠の対象としてあこがれを持ちやすいという事情もあったかもしれない。
(君主と簡単に会えないほうがあこがれが増し、
身近でよく会うほど神っぽさが薄まるなら、
神は一切姿を現さず人間と接触しないのが最善となる。
実在しない神なら絶対に会えないので最適)
儒教は同性愛を否定する。
儒教における性愛では子を作り子孫を維持することが重要であるのに対し、
同性愛は子づくりと関係なく快楽を自己目的的に追及するからである。
儒教では子を作り子孫を維持することが孝。
儒者たちは意外なほど殉死に冷淡。
武士の慣習では男色は認められている行為であったが、
儒教はそれを否定し、また殉死があまりに情緒的で規律を破壊することに批判的だった。
山鹿素行の議論を読むと、主君個人より藩などの組織に対する忠誠が浮かび上がってくる。
このような例は江戸時代では他でも目につき、たとえば主君「押込」ということさえも行われた。
押込とは主君が無能あるいは非道ならば主君を押し込めて別の主君をたてるということであり、
重要なのはそれがある程度まで公認されていたことである。
室鳩巣
「君主にかわる人を選ぶときは親疎の別なく平生の行いを考えて善し悪しを決めるのは、
家老、頭分たる者が合議すべきことである」
伝・黒田長政
「子孫に至り、不義・放逸ばかりにうつつをぬかし、
諫めを聞き入れず、勝手気ままで掟を守らず、
みだりに財宝を費やす者があれば、
家老中申し合わせ、その者を退け、
子孫の内から人柄を選んで主君とし、国家を存続させるべき」
中国ではどうか。
黄宗義は君主の言うことに盲従するだけでは君主の僕妾であり、
公ということで仕えれば君主の師友であるとし、
古代の聖天子はは天下を私物化しなかったが、
後世の皇帝たちは天下を自己の財産と見なし歴代相続し続けたとまで言った。
王家にではなく公に対する忠誠心とでもいうものがある。
忠は組織や社会に向けられることもあったが、
さりとて君主の存在は必須の前提としているのであって、そこが近代政体とは異なる。
また君主という人格があってこそ忠に対する実感が持ちうるという心理があることも見逃してはならないであろう。
たとえば忠という道徳が成り立つうえでは、忠をめぐる歴史や物語が大きく貢献する。
これは世界共通であって、幾多の史書や叙事詩や悲劇、さらには美術や音楽が題材にしてきた。
このような物語は臣下と君主の情の通じ合いが前提となることが多いのであって、
忠の思想の説得力にはこの意味でも君主の存在が必須になる。
もし君主が不在で組織のみへの忠誠であれば、
それは例えば愛国心というような形となる。
愛国心は近代の産物と言われるが、「国」とは時の政権とか政治組織とかでは説得力は持ちえず、
国民とか国土とかを持ち出しても抽象的にすぎる。
その近代の政体であっても、象徴的であれ国王とかカリスマ化された指導者とか、
建国の物語や理念がこめられた国歌や国旗などの視聴覚に訴えるものが国と重ね合わされ、
忠のリアリティーが増す。
(君主が生身の人間でなくても、君主制は成立するってことじゃん。
民主主義も実質君主制。国が神にして君主)
・貞は男についても使用されたが、妻が夫に献身する道徳として定着した。
貞はフェミニズムで攻撃の対象になっている道徳であって、
それに先立ち明治時代で儒教批判を展開した福沢諭吉などは当然としても、
西村茂樹のような儒教に比較的好意的な人物も儒教の問題点として男尊女卑を挙げている。
福沢が批判したのは江戸時代の貝原益軒に擬せられた女大学であり、封建的女性観を端的に示すものとして名高い。
中国近代でも多数の貞に対する批判があるが、有名なものとして魯迅の「私の貞烈観」をあげておく。
儒教の現代的意義を説く論者もこのような女性観については修正の必要を認めている場合がある。
(お札に書かれる人ってロクなのがいないな。
本人はまともでも身内や先祖が支配層側だったり。
諭吉の脱亜論は典型的な欧米の植民支配技術である隣国と仲たがいさせよを実行せよってことで、
欧米の利益のため。
しかも売春婦を輸出して金を稼げって天皇家に進言し、しかも採用される。
最低最悪だ。
全然女性を尊重していない。
Sylvia_ginno @Sylvia_silvers
7月12日
かの有名な福沢諭吉さんは人は平等ではないと説いたのに、今や人は平等だと説いたことになっておられる。
何故なのか
高橋あきこ @Tyositugu
5月2日
福沢諭吉 人の上に人をつくらず 人の下に人をつくらず とも言えり・・・
と言ったのです。”とも言えり” ここが結構大切 人はみな平等と考えた人ではない。他人の言葉を言っただけ 実際は差別主義者 経済第一・・。正に今の政権そのもの 本当に真実を知るのには時間が必要です。
damas @damasidamasare
2015年12月9日
元祖「ヘイトスピーカー」で元祖「新自由主義者」の福沢諭吉の実像に迫る
「福沢が平等を説いたのは、あくまで中産階級に属する男性に限定してのことであって、農民や職工、さらに女性に対しては、徹底した差別主義者だったという」(IWJ)
:奴隷制度を基盤とした古代ギリシャ型民主主義と同じ
S ・Kuroda @kuroda06sayuri
2015年8月1日
売春婦として日本人女性を海外に「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、天皇一族はこのプランに飛び付き実行しました。(福沢諭吉全集 第15巻)"
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denjihahigaiさんと他79人さんがフォロー
Mr.カトー@Mrkat0
2013年9月6日
天皇家と三菱と福沢諭吉 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=280559&g=123203 … 明治維新により富国強兵を進めた日本は、欧米からあらゆる兵器を購入したが、支払資金が不足していた。そこで福沢諭吉は「賤業婦人(売春婦)の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」と天皇に進言。⇒「からゆきさん」)
儒教で夫が一方的に離縁できるものと思われているが、
実際には規制を設けている。
離婚してもよいのは、
父母に逆らう、
子がない、
淫乱、
嫉妬深い、
悪疾がある、
おしゃべり、
竊盗(せっとう。窃盗)するという七つの場合であり、
七去という。
離婚してはならないのは、
帰る家がない、
三年の喪に服している、
前は貧しかったが後に富貴になった、
という三つの場合であって、
三不去と呼ばれる。
結婚に関しても
五不取といって、
五つの女子を娶らない場合がある。
逆族の家、
罪人を出した家、
悪疾のある家、
男やもめの長女である。
最後のケースは母親の教を十分に受ける機会がないからだという。
中国や朝鮮では再婚は厳しく咎められた。
忠君は二君に仕えず、貞女は二夫に変えない。
程頤(ていい)は未亡人が飢え死にしても再婚すべきではないとまで言った。
それに対して日本では再婚が多く、熊川蕃山などは堂々と肯定までしている。
・朋友関係に関するものでは、
師友という言い方があるように、
儒教では師弟関係も重要。
孔子の学団においては家柄や血縁よりも学問や徳行の優劣によって序列が定められ、外の世界と別世界を築いていた。
そこでの師弟関係と朋友関係は中国史上において画期的だった。
論語の朋の遠方より来たるありの意味は、
学問の場においては血縁や地縁と関係ない遠方から、
学問のみによって結びついて朋が参集するということであった。
・儒者は問題解決の際に、
経書の語句を随時典拠として解決を図るが、
経書の内容の雑多性ゆえに時に儒者によって意見が食い違う。
逆に言えば儒教の幅にゆとりを持たせ、儒教の硬直化を防いできた。
・儒教で重要な徳に中庸がある。
中には
状況の応じて過不及がない中央に位置することと
不動の中心に中(あた)ることという両方の意味がある。
庸=平常とか恒常。
・儒教の価値の源泉は天。
天には単なる天空の意味もあることと、
一定の方向性は確かにあるが神格はないことが重要。
ただ天の神の存在をうかがわせる例もある。
天の神は天帝とか上帝とかよばれる。
天が具体的せりふを発することはない。
論語に「天は何を語っていようか」とあり、
天は文字通り無口であって、
基本的には天帝の意志は自然界や人間界の動向の中に現れるのみ。
書経に
「天はそこで禹(う)に洪範九疇(こうはんきゅうちゅう。九条の天地の大法)を賜った」
とあるが天帝が与えた具体的描写はない。
物言わぬ天は仏典や聖書やコーランの物言う神と対比すると特色がよくわかる。
天には天の神、天空、自然、自然界の理法という複数の意味が含まれる。
天に人格的要素が希薄なのは経書に神話が乏しいことにも現れている。
中国古代の神話世界を語る場合には『楚辞』や山海経だのが持ち出されるが、
正統的な儒教の経書にはきわめて少なく、おそらく古代信仰の残滓と思われる経書に時として見える神格の加護にしても、
体系化されて示されているわけではない。
中国古代で神話がなかったわけではなく、
ギリシャ・ローマや日本のように神話が体系化され経典化されなかったことが重要だという指摘があるが、
神話を儒教があまり必要としなかったのは確か。
明末に中国で布教したイエズス会の宣教師は
キリスト教の神と儒教の上帝を重ね合わせ、儒教と結んで仏教を叩こうとしたが、
それが可能だったのは儒教における神話の乏しさがキリスト教の聖書と儒教の経書の内容調停を比較的容易にしたからである。
儒教に神話が多ければ聖書の奇跡との内容のつじつまをあわせなければならなかったであろう。
天を統一的に説明するには天を超えた高次元の原理や神格を持ち出すのが自然に思えるが、
儒教ではそうしなかった。
(本当にイエズス会は仏教が嫌いだな。
キリスト教は反仏教という点で儒教と組めるから、
廃仏毀釈側に儒教・儒家神道勢力がいる)
天の機能で重要なのは、
天の意向で道徳内容が変更されることがないこと。
日常の道徳を順守することが天の実現なのであって、
いかなるときも天は道徳の内容の変更を要求することはない。
親への孝は天は絶対に否定しない。
キリスト教の神が親をも超えて命を降すのとは異なる。
天とはそれ自体が特別な意味を持つことよりも、
事物の自然な状態こそが理想的状態であること、
そして道徳とは人間にとっての自然な状態であることを権威づけるために機能している。
この自然は現状追認ではなく本来的ありかたとしてのもの。
自然が理想的状態である以上、
キリスト教の造物主のようなそれを超えたものは必要とされず、
イエズス会のマテオ・リッチは嘆じている。
天があるゆえに天より高次の神格は登場しえず、時に過度な宗教的要素が入り込む防波堤になる。
(形而上の教義を防止する策がすごい)
儒教の主流としては天人相関思想であり柱であるが、
天人分離を唱えた人もいる。
天神分離を唱えた荀子だが単純に天を無視するのではなく、
天を必要以上に人為に介入させない態度。
北宋の欧陽脩は天を過度に重視することを戒め、
続く王安石は天を敬いはするが政治原理とすることは否定。
例えば災害があるのが失政のせいだとすれば、
聖人天子である舜(しゅん)の御代に禹が黄河の氾濫を治め功績をあげたのはおかしいことになる。
禹が聖人で完璧な統治をしていたのであれば黄河の氾濫という天災はありえないはずだからである。
天人相関思想が儒教の柱なのは、天子であることの根拠に天命が降ったということがあるのが大きい。
実際には武力統一でも理論上は天命を受けたことになるので、
天と人を切り離してしまうと天子たる正当性の保証を得難くなるからである。
天が具体的な災害を降して人間を譴責する思想
=天譴思想
=政治の良し悪しが自然の運行にまでも作用する思想は皇帝に警告を与えるきっかけを提供する。
自然界の天候不順はしばしば起こるのが普通で、
そのたびに政治のチェックを恒常化させることになるからである。
天を借りて野放図に広がる皇帝権力を抑制する効果も持った。
(人権は仏性とかグノーシスの内在する神性とかストア派の理性とかの言い換え。
人権はゴッドから与えられる。
人権人権うるさい世俗主義者=ライシテ教信者に言ったら発狂しそう。
国、人種、平和、自由、美とか
— なえなつ (@japan19890108) 2017年12月9日
今の概念になったのは全部白人さんの世界でーすw
)
・養子の否定
故人の子供が神主に対して礼拝すると子供の気が発して位牌にある故人の魂と感応する。
中国や朝鮮では養子を忌避する。
それは親の気がこに伝わるゆえに親と子は気が同じであって(父子一気)、
それゆえ子の気に故人の気が感応できるからである。
養子では気が異なってしまうので感応できない。
どうしても子供ができないときは甥を養子にするが、
それは甥ならば気はつながっているからである。
中国では男子を生むのを必須とする。
女子は嫁に行き実家の祭祀には参加できない。
血のつながった男子を代々産み、祭祀を継続させることこそ、
父祖の魂の活性化を保証する。
男子がいなくなれば礼拝してくれる者がいなくなり、
それゆえ故人の魂も反応のしようがなく、無と同じになってしまう。
「不孝に三種類がある。
その中では後継ぎがいないのが最も大きい」『孟子』
というように、男子を作れないのが最大の不幸であるのは、
男子の祭祀が途絶えると、
自分も自分の父祖も魂が活性化できなくなるから。
なお日本では平気で養子をとる。
(ふと思ったが儒教で性転換手術はどうなのだろう。
特に女から男への。
イランはシーア派で同性愛禁止だが、性転換手術はOKらしい。
身体髪膚は之れを父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり。(『孝経』開宗明義)
— 中国故事名言bot (@koji_meigen_bot) 2017年12月15日
我々の身体は、髪一筋や皮膚一片にいたるまで、父母から頂いたものである。この身体を傷つけないようにすることが、親孝行の第一歩である。
に反する?)
・死の物理的説明
始祖以外は新しい神主のように個別には礼拝されない。
つまり実際には限りなく無に接近していく。
それでも痕跡は必ず残るとは言うが。
儒教は死後の世界も、魂の再生も語らないし、天国も地獄もないし、
あの世の具体的描写もないし、輪廻転生のような生まれ変わりもないし、
道教のように永遠の不死を得ることも説かない。
死後も魂の存続は説くが、無に接近していくのそれに対しての心理的安定は得難い。
一方、自分の気は子孫に伝わっていき、そこに永遠性を感じることもあげられてきた。
自分の肉体は「父母の遺体」(父母が残した身体)である(礼記)。
身体髪膚は之れを父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり。(『孝経』開宗明義)
もこのような思想による。
経書の葬礼の理由づけは多くは生き残った者の倫理的態度に終始し、
死者の魂の鎮魂はあまり問題にされてない。
死者の魂が生きている人と同じように知覚を持っているかについて儒教はかなり曖昧。
たとえば『税苑(ぜいえん)』(『孔子家語』にも取り入れられている)では、
孔子が
「私が死者に知が有ると言うなら、親孝行な子や孫が生を軽んじ進んで死を送ることが懸念されよう。
もし知が無いと言うのなら、不孝な子や孫がうち棄てて葬式を出さないことが懸念されよう。
汝は死人に知が有るのかはたまた無いのかを知ろうとしているが、おいおい知ることになってもおそくはない」
『礼記』では
「孔子がいわれた、死を送る際に死んでしまっている(知覚が無い)ときめつけるのは不仁であってすべきではない。
死を送る際に、まだ生きている(知覚がある)ときめつけるのは不知であってしてはならない」。
知覚の有無自体よりもどちらかを採用した場合の効果の方を問題にしている議論であって類似内容は儒教のみならず、
墨子や韓非子にも見られる。
(儒教は霊魂に知覚があるかどうかには無記)
儒教では死の物理的説明は気の集散で説明する。
人間は気が集まって生まれ、散ずれば死ぬ。
(儒教以外、道家『荘子』にもある)
気=生命力的エネルギー。
気が散ずる
=魂と魄の分離。
鬼=霊魂。
儒教での死の恐怖への心理的克服の議論はあまりはっきりしない。
程頤(ていい)は自然になりきることで万物との一体を実現し常に万物と一つであることによって永遠性を獲得しようとした。
来世も再生も不死も説かない解決法であり一般人の生存欲をなだめるのにはかなり困難。
(魂魄論って、他の宗教から見たら、ひとりの肉体の中に二つのタマシイともとれるな)
論語に孔子の弟子の子路が鬼神に仕えることをたずねたとき、
孔子「まだ人につかえられないのに、どうして鬼につかえられようか」
子路はさらに死についてたずねた。
孔子「まだ生を知らないのにどうしか死を知ろうか」
と答え、
孔子は死について関心が低かったことになるし、
儒教は死の問題を語りたがらないとみなされてきた。
(オニじゃなくてキ=ゴースト!)
死の恐怖への心理的説明について儒教が弱い。
対して仏教は「無常迅速、生死事大」と言い、
死の問題を持ちだすことで勧誘し続けた。
宋以後儒教が活性化したが、仏教や道教が存続した原因の一つがここにある。
儒教にのっとり家廟で父祖の位牌を礼拝している士大夫たちも目前に死がちらつくときには寺院に足が向いた。
・陰陽五行は儒教に限定されていたわけではないが、
儒教ではこれ以外の原理を用いることは稀。
陰陽五行を説明原理にするのは、万物の構成原理の究明をつきつめていくよりも、
現実の事物の作用や運動の様態のほうに関心が向く中国的思考をよく反映しているといえよう。
中国のみならず近代以前のヨーロッパでも物質とエネルギーを分ける発想は乏しく万物の原質は時には物質、
時にはエネルギーとして立ち現れるものであった。
中国の自然理論による宇宙生成論は細胞分裂のように一気が分かれ、陰陽となり五行となり万物を生じていくもので、
造物主である神は登場しない。
イエズス会のマテオ・リッチは中国人は本当の無を知らないとしたがそれは中国の無が渾沌という意味だからだ。
枠組み無き渾沌たる世界は、枠組み無きゆえに個別認識が成り立たず、それゆえ無。
対してリッチは造物主である神が無から有を創造した神だから現在の世界にも超越的に関わるとした。
陰陽五行理論にのっとる限りキリスト教的な神観念の需要は困難をきたす。
(キリスト教って陰陽五行理論も嫌いそう、というか異教は全部悪魔だから嫌いだろう)
・仏教が道徳からの超越を説くのに対し、
儒教では道徳をそのまま天とし天以上のものは無いとして仏教を批判する。
天は道徳の権化。
(儒教は非常に社会構成力がある)
・儒教の性の説は四説が基本。
1 性善(孔子)
2 性悪(荀子)
3 性善悪混(揚雄)
4 性三品(韓愈)
さらに性無善悪(王安石、蘇軾(そしょく))がつけ加わる。
孟子の性善説は力による覇道ではなく徳によって統治する王道の提供の基礎理論。
論語では孔子が性と天について語られるのは聞くことができないとある。
荀子の性悪説は聖人を目標に学問することを説くのであり、
キリスト教的な原罪を説くものとはもとより異なる。
荀子は単なる生まれつきでは禽獣のようになってしまうから後天的努力により自己を向上させていくことを唱えるのであり、
後天的な礼楽の学習などの意義を説くために本性を低く見てはいるが、
人間の道徳的可能性自体は否定していない。
荀子は性=悪と決めつけてはいない。
性善悪混はは性には善悪が混ざっているとする。善を伸ばし悪を矯正する。
常識的と言え、儒教でも異端ではない。
が、揚雄が簒奪者の王莽につかえたことが評価に及ぶ。
中国では善い思想は立派な賢人にしか語りえないとみる。
(悪をなした者が言うことは悪って詭弁だよ)
性三品説はすでに漢代にあったが、
有名なのは唐の韓愈の原性で、これには性には性善、性善悪混、性悪の三段階(三品)があり、
圧倒的多数は中間の善悪混在なのでその人々を儒教で善へ導くことを説く。
韓愈は当時隆盛していた仏教の仏性論を意識していた。
仏性論では人間はみな仏としての本性を持っている一種の性善説で、
それに対抗して儒教道徳の意義を説く必要があった。
性無善悪(王安石、蘇軾(そしょく))は性自体には善悪が言えないというもの。
なぜなら善悪は心がいかに動くかについて言われるので、
心がまだ動いていない性の段階で善悪を言うのは無意味だから。
王安石は性善説もとりつつ、善は人間の営為や環境の力を借りなければ顕現しないし、
性自体は操作できないのだから、
善悪が無いのと同じだとする。
蘇軾(そしょく)は人間が自己認識できないブラックボックスが性だとする。
欧陽脩のように性が善でも悪でも混ざっていても儒教道徳を学習する必要はあるのだから性説の乱立は混乱の種を作るだけだというものもある。
最終的に力を持ったのは性善説。特に朱子学や陽明学は徹底した性善説。
孟子は万人が聖人になれるという一貫した主張を展開しない。
朱子学や陽明学だと万人に聖人に向かって歩むよう求めるので、仏教特に禅宗の影響がある。
仏教ではみな仏になる(悉皆成仏)を説くがその仏が聖人に置き替えられた形なのである。
万人が聖人と同じ心境になるとは人間における天の実現でありこれ以上はないとする。
他宗教でいえば神にまごう存在となるのであり他宗教との違いがわかる。
・儒教の天と一般的な宗教の神との違いは、
儒教関連の文章で天と神を置き換えた違和感からも理解される。
儒教の天の特質は、道徳以上のものを持ち込めないように作用することである。
天の名のもとに道徳が変更されることもない。
忠孝の根拠に天が言われる場合、天は忠孝の絶対性を言うためであって、
天が忠孝を左右することはないのが、キリスト教と異なる。
キリスト教でもモーゼの十戒のように親へ孝を尽くすことが出て来るが、神はそれを超えた存在なのである。
対して、儒教は孝の価値を弱める存在は認めない。
天の意志と孝が矛盾する事態などは最初から想定しない。
明末に中国へ布教したマテオ・リッチは中国人向けの著作の中で、
「子が上の命(神の命)に聴くのであれば、
下(父)に逆らっても孝であるのを損なわない」と、
子が神の命令に従うときは父に逆らっても孝であると明言。
新約聖書の使徒行伝の「人に従うよりは神に従う」という立場は儒教とは対立せざるをえないものであった。
儒教の人倫主義は、人倫を超えた権威を見ないことであり、
天はひたすら人倫の権威を保証する。
・儒教の個人の祭祀で重要なのは直接に天に対するものではなく、
父祖の霊を対象にする祭祀。
父祖の対する祭祀に先行するものとして親の葬礼があり、
この葬礼と祭礼は礼の中でとりわけ重要なものであった。
そもそも礼の中に祭祀が含まれていること自体が、儒教の宗教性を論ずることを困難にしている。
これは祭祀を礼という日常に引きずり下ろしているとも、
日常の礼を宗教化しているともとれる。
もともと宗教は深く死とかかわる。
隠れキリシタンが発覚したときは、しばしば葬儀の特異さが見咎められたのが発端だった。
どの宗教の信者かは葬儀で見当がつく。
それこそが宗教としてゆずれないからである。
儒教は遺体を部屋の中に安置し、すぐには地中に埋葬しない。
埋葬の前に位牌を作る。この位牌は「神主」や「木主」という。
遺体の霊魂は魂と魄に分かれ、
魂は天に上り空中を飛んで神主に宿り、
魄は大地に帰っていく。
家には廟を作り、そこに神主を置いておくと魂が宿る。
中国人は墓を盛大に作りたがるが、祭祀の中心はむしろ神主(位牌)。
人体には魂魄があり、
魂は陽の気、
魄は陰の気である。
魂は感覚器官や心の活発な作用で、
魄は記憶など沈潜していく作用と作用の母体。
「人が思慮し計れるのは魂のなせるわざ。
記憶し弁別できるのは魄のなせるわざ」『朱子語類』
陽である魂は軽く上昇し神主に移す。
陰の気である魄は重く地にしみこんでいく。
魂が乗り移った神主が家廟に安置されることになり、
礼拝の対象は主として家廟にある神主となる。
遺体を墓に埋葬して帰宅し、
その日の内に「虞(ぐ)」という祭りを行う。
喪主以下みな沐浴して供え物をし、
祝が神主を座等に出して主人以下は見な入哭し、
神(死者の魂)をそこにおろす。
(
江戸期まで喪葬令で平民が墓を作る事は禁じられていた。墓石制限令が出て限定的に所有できるようになったが、現代のようなものではなかった。現代のような墓地は明治から。火葬して骨壺を納めるのは昭和から。紫陽花寺には餓死者や病死者の墓は無いし、平民が名字が付いたのは明治。〇〇家の墓?ねぇよ
— 峨骨 (@Chimaera925) 2016年3月6日
鎮魂は国策。死んだら仏様ってのも明治の廃仏毀釈から。天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六道を繰り返し生まれ変わる事を輪廻転生と呼ぶ。迷信打破運動したのに国家神道、靖国、大本教、それの鎮魂帰神法。墓や先祖供養は御霊信仰と祖霊信仰。偽経の盂蘭盆経や父母恩重経から。
— 峨骨 (@Chimaera925) 2016年3月6日
日本の歴史を見ると平民は死体を川に流したり、そのへんに投棄したりしていたんだっけか。平安に化野、鳥辺野あたりが死体遺棄の場所として公認されて清水寺の舞台(崖上から投棄する為に作られた台)からポイと。平安末期から鎌倉時代に盛んになった仏教では火葬が推奨されたけど、火葬は一部の金持ち
— 峨骨 (@Chimaera925) 2017年12月11日
火葬するにしても遺体燃やすなんて燃料が非常に嵩むからな。ファンタジーなんかでたまに見られる丸太を組んで遺体を置いて点火なんてやり方だと火力がいまいちだろう。少ない燃料で効率的に燃やす技術が無いと、コストが嵩んでなかなか一般化しないわな。現代の方式は明治以降の産物だろうけど。
一昔前だと、近所付き合いで葬式上げる為に手伝いなんてよくあったし、香典や香典返しで相互互助みたいなところもあったわけで。都市部だとそんな付き合いはないし、葬儀や火葬場の順番待ちもあったな。死ぬにも金が要る、と。世知辛い世の中だこと。
— 峨骨 (@Chimaera925) 2017年12月11日
)
・明末の李贄(りし)
は強い欲望肯定と既成の価値観への批判で有名。
衣食住に関わる日常の欲望こそが道徳。
童心説にて幼児の心こそが聖人の心であり、
幼児が成長過程で経書の学習だとを強要され本来の心を失い既成価値観で心を支配されてしまった。
経学批判までしているので儒教と言えるのであろうかということになるが、
李贄(りし)は伝統的儒教的発言もしているので総体として儒者。
李贄(りし)の愛読者が吉田松陰なのは有名
(儒教の異端派のリシが吉田松陰に大きな影響。
昭和最大の黒幕と呼ばれた(時点で黒幕じゃないだろ)安岡正篤は陽明学者で、
紅卍と大本教と仲良しなのはなぜか気になっていたが、
陽明学はキリスト教と親和性があり、
新キリスト教を作りやすいという記事発見。
吉田松陰が陽明学者なのも優遇の理由だろう。
戦後歴代首相の指南役・安岡正篤=陽明学、神国日本と紅卍字会が合流する地点に存在
— ken (@kenkatap) 2015年3月24日
【るいネット http://t.co/ykSXHxGiiP
▼山本五十六、蒋介石と親交
▼紅卍字会員
▼安岡氏は、陽明学、伝統的日本主義及び紅卍字会が合流する地点から、「神国日本」の守護者として存在
世界はうまくいくようにできている:三分でわかる陽明学
http://sumioka-history.blog.jp/archives/8209743.html
”陽明学は、世界は本来は善なる世界を維持する、という楽観的な天下性善説なので、
世界は本来は善になっていくように神が創造した、というキリスト教の摂理説とも相性がよく、
万民一体の仁はそのままその博愛の精神と重なり、
致良知は、回心し霊として生きる、という話とつながった。
同様に、このキリスト教の摂理説を踏襲しているレッセフェール(なすにまかせよ)の社会や経済の自由主義とも、陽明学は相性がよかった。
くわえて、朱子学があくまで自分自身を中華とし、外野や庶民の現実を雑音として徹底的に排除することを旨として、近代化のきっかけを逃したのに対し、
陽明学は、すべての事象を天理の一端として自分に取り込むことに努めたことによって、時代の変化の波をうまく受け入れることができた。
ただし、朱子学は、学べばだれでも天下取りの聖人君主になれる、とするのに対し、
陽明学は、あくまでもともと天下人である者の、天下人としての心得、つまり帝王学であって、なんの政治的配慮の権限も無い、そこらの庶民が高名な政治家たちの顰みをまねて陽明学なんかやったところで、茶番になるだけ。くわえて、朱子学は八条目の階梯を順を追って修養していけばいいが、陽明学はいきなり、万物万民一体の仁を養う、などという、どう考えても天賦の才なしにはできないような超人的なことを要求する。
万物万民一体の仁もないくせに、基本の朱子学を侮って最初から陽明学なんかに心酔すると、自分の感情的な独善を天理とかってに誤解し、それに変に確信を持って強引に実現しようとする偏狭なテロリストになってしまう。陽明学は、生まれながらに天下人になるべく中庸中正の感覚を全身に叩き込まれてきた文字通りの本物のエリートのためのもの。そうでないなら、まずきちんと朱子学を学んで中庸中正の感覚を身につけてからにした方がいい。”)
・儒教は学派はあっても統一的宗教的組織がない。
仏教のように師の認可が不要なので経書に典拠が得られれば儒者。
士大夫(官僚および官僚予備軍)は読書人であった。
読書の書とは漢文。
漢文の権威は仏教にも影響。
原テキストではなく漢訳経典が漢字文化圏では使用された。
・礼の最重要条件は
①聖人あるいは王者が規定した
②内容が天下に一律
③万人に内容がいきわたる
④忠孝思想と背馳しない
礼はもともと士大夫が行うものであった。
・孔子廟にたいてい孔子像がない。置かれることもある。
それ以外の場所にも少ない。
画像や彫刻が崇拝対象にならない。
儒教の美術、芸術作品としての音楽、文学は発達しなかった。
儒教が天上や来世へのあこがれと無縁なのが大きく作用。
儒教は小説や戯曲の類よりも歴史書の方が重要。
・徳治主義
官僚の徳の所有を証明するのは経書学習。
有徳者に天命が降るとしたので天子であること自体が有徳の証とされた。
・革命
民心の動向が天の意志の現れであり、民が王から離反し、別の人間を推戴したらその王を討伐して政権を取ってもよい。
倒される側が極悪人で、倒す側が聖人なのが必須条件。
孟子は、仁者や義者を弾圧し傷つける者は一夫(一介の男)にすぎず、
一夫を誅殺しても君主を弑殺してはいないと答えている。
(天子の資格無き君主を殺してもOK)
孟子の革命説は警戒された。
司馬光は孟子を否定した。
・日本で三年の喪を一年前後によいとしたのは中国と朝鮮儒教からすれば信じがたいことだった。
・儒教の日本的展開に儒家神道がある。
仏教、儒教、道教の三者合一思想はあったが、あくまで三つの教の存在を前提とする。
(三一教のように限りなく一体化させるものもないではないが)
三教が心の場で合一する議論が基調だったように、
共存の傾向を見るべき。
(帰一ではない)
対して、
儒家神道は儒教と神道が当初から一つの教説として合体しているのであり、
継続的にかなりの勢力を持ったことが重要。
神道家が儒教を導入するのは中世伊勢神道から始まり、仏教からの脱皮の意志があった。
儒家神道の儒教とは朱子学のこと。
朱子学の正統論は全国を統一して二代続けば地方政権でも正統王朝と認定する。
日本では朝廷が正統となる。
忠誠対象を一元化する正統論が適用されることで尊王主義が浮上。
天皇が代々継承する三種の神器が儒教の徳の象徴とされたことが、
道の継承である道統論を引きずり込んだ。
道統とは、古代の聖王の道が孔子に伝えられ、弟子から弟子へと伝わり、
孟子以後は絶えてしまうが、北宋の周敦頤や二程兄弟(程顥と程頤)によって明らかにされたというもの。
江戸時代に広く見られるのは神器の鏡、玉、剣を
礼記の知、仁、勇にあてはめる類。
(林羅山、山崎闇斎、山鹿素行、先駆は北畠親房の神皇正統記)。
皇室が正統と道統をあわせもつ皇統論が出現。
(三種の神器の元ネタは道教なのに。
天皇論に道統論を入れることで仏教排除を狙ったのだろう)
・日本で仏教だと思われている位牌は儒教のもの。
宋代頃に禅宗が位牌として取り入れたものが南北朝時代あたりに日本に渡来。
位牌が普及したの江戸時代中期と言われる。
自覚されない儒教。
・朝鮮儒教は中国儒教を忠実に行おうとした。
・漢字の効用
漢字の造語力に注目。
西欧近代の学術用語や専門用語が漢語に訳され、
現在でも使われ、
中国にも輸入された。
翻訳にたよることは自国語を保存することであって、
漢字文化圏は自国語を保存している地域。
自国語の保存は言語に組み込まれた文化を自然に継承することを可能にしている。
漢文教育廃止論も明治から存在した。
主唱者の中には現在視点では保守系がかなりいる。
富国強兵、国家独立のためにいちはやく西欧文明の導入が必要でありそのために西欧言語の習得に引っ張っていかなければならなかった。
実は近代になっても漢文は意外と隆盛していた。
(漢字廃止しろと言っている奴が西洋の手先ばかりである理由)
・安岡正篤氏のような政治家のご意見番のような場合、
政治家の意に逆らって諫言したのかが問われる。
丸山真男
「日本では近代以後、儒教的一君万民を標榜しながらも
諫言という君主への批判が欠落していく」
この現象は吉田神道における天皇への永遠の臣従という心性を反映しているのか、
近代日本が儒教のうち合わない部分を捨て去った結果なのかは検討が必要。
諫言なしには儒教は単なる政権の美化の道具でしかなくなる。
(諫言=悪をなす君主を止めるを抜いたら儒教カルト。
儒教の最高原理は天=道徳の権化。
天はゴッドであり忠孝を創ったとか、
天より上のゴッドがいるとか言っているなら儒教ではなく、
キリスト教化された儒教カルト。
日本であれだけ和風で覆って中身がキリスト教なのを隠した和風キリスト教があるのだから、
中国でも儒教や道教で覆った中国風キリスト教が紅卍以外にも大量にあるのだろう。
儒教は原罪否定で基本は性善説で、性悪説も後天的教育でなんとかなるって思想なので結局は性善説。
耶蘇は儒教の性善説も嫌い。原罪否定だから。
葬儀は信者にとって譲れない点なのは重要。
骨の髄までカトリック信者のロヨラのお墓は明確にカトリック式でありユダヤ教式ではない。
イエズス会の本部が置かれたイタリア・ローマのジェズ教会には悪魔の彫刻があり
神、仏、阿弥陀、釈迦が悪魔に含まれている。
今もあるのでいかに仏教に日本での布教=侵略を邪魔されたことを恨んでいるかがわかる↓
加賀百万石異聞・高山右近 - 北國新聞社
「天地創造」に拒否反応 かみ合わない宗教観
http://www.hokkoku.co.jp/kagakikou/ukon/ukon23.html
”北國新聞朝刊(2002/08/13付)
~ 神と悪魔 ~
「天地創造」に拒否反応 かみ合わない宗教観
カトリックの総本山で世界最大の教会「サン・ピエトロ大聖堂」内部。世界中から多 くの観光客や信者が集まる=バチカン市国
イエズス会の本部が置かれたイタリア・ローマのジェズ教会には、奇妙な形をした彫刻がある。同会創立者のイグナチウス・デ・ロヨラ像が威風堂々と立つ傍らに、踏みつけにされ、打ちひしがれた悪魔の彫刻である。
その悪魔の一部には、こんな文字が刻まれている。
「Cames(神)、Fotoques(仏)Amidas(阿弥陀)、Xaca(釈迦)」
ローマ法皇に絶対服従を誓うイエズス会は、異教の神には一片の寛容も持ち合わせていなかった。日本人がキリスト教を受け入れないのは、神や仏という悪魔にたぶらかされ、真理を見る目を曇らせているからだと考えていたからである。「悪魔」として刻まれた神や仏の文字には、イエズス会の怨念(おんねん)がこめられているかのようだ。
高山右近をはじめとするキリシタン大名の領地で少なからぬ信者を獲得したとはいえ、大方の日本人は、キリスト教を受け入れなかった。キリスト教徒が人口のわずか1%以下に過ぎない現代日本の姿と見事に符合するわけを、小堀桂一郎・東大名誉教授の評論「キリスト教創造主と日本の神々」を手引きに考えてみたい。
まず、当時の日本の知識人は、キリスト教をどうとらえていたかである。時代はやや下るが、江戸中期の碩学、新井白石は、密航で捕らえられたイタリア人宣教師シドチを訊問した。白石は、訊問に際し、西洋の国情や文化、天文、地理などの科学知識について詳細に聞き出し、シドチの博覧強記ぶり、優れた西欧の学問水準に驚嘆した。このときの問答を元に、白石が書いた「西洋記聞」「采覧異言(さいらんいげん)」は鎖国下での貴重な西洋研究書である。
だが、シドチがここぞとばかりに熱弁を振るったキリスト教の教義に関して、白石は冷笑をもって答えた。キリシタン禁制下ゆえに、白石が耳を貸さなかったからではない。シドチの説明があまりにも非論理的に思えたからである。それでもシドチが食い下がると、白石はこう反論した。
「天地万物を創造したデウスがいるというなら、デウスにもまた必ずこれを造り出した作者がいたはずだ。デウスが自ら成り出でることができるものならば、天地もまた自成し得ることに何の不思議もない」
白石の反論は、右近の時代に庶民が宣教師たちに反駁(はんばく)した理屈と基本的に同じであり、現代を生きる非キリスト教徒の素朴な疑問とも共鳴し合う。西欧人と日本人の思考方法には、単なる宗教観の違いを超え、どこか決定的にかみ合わない部分があるのかもしれない。
…
秀吉の伴天連追放令のなかには、「宗教は8つも9つもあるのだから、どれを選んでもよい」との記述があり、宗教の選択権はあくまで人間の側にあると考える日本人の宗教観がここにも反映されている。
数多いキリシタン大名のなかで、領国を捨ててまで信仰を貫いたのは右近だけである。イエズス会宣教師たちを感嘆させた右近の信仰心の篤さは何によって育まれ、根を下ろしたのか。その生きざまが日本人のなかのとびっきりの少数派であるがゆえに、右近は日本史のなかで異質な光彩を放って見えるのである。
●〔聖ザビエルの手紙〕
日本人は、論理的思考を好みます。故に私が地球が丸いことや、雨の原因について説明すると、彼らは夢中になるのでした。しかし、私が「全能である神が、悪魔を含む全宇宙を創造した」と話しても彼らは納得しないのです。なぜ、善である神が、悪魔を創造したのか?全能である神が、人間をこれほど弱く、罪を犯しやすいように造ったのか?このように質問してくるのです。(1552年1月29日付)”
イエズス会の上智大学の教学支援システム「Loyola」はロヨラが由来。
ヘブン状態のロードさん@kusarimizu
2イエズス会自体も日本人の知的レベルが高くて布教が思うように進まなかったから
Cames(神)、Fotoques(仏)、Amidas(阿弥陀)、Xaca(釈迦)って悪魔を踏み付ける聖人の像を建立するくらいに憎んでいたという…。
ああ、「Cames(神)、Fotoques(仏)Amidas(阿弥陀)、Xaca(釈迦)」とかいう悪魔をデッチ上げた、イエズス会の日本侵略担当は五体解体されてるのか。日本人的には爆笑するところだけど、クリスチャンが偶像崇拝ってどうなんだろうね。
我乱堂@SagamiNoriaki
2012年3月3日
昨日『ロヨラの聖イグナチオのお墓には、悪魔が踏みにじられているレリーフがあるそうですが、その中には「Cames, Fotoques, Amidas, Xaca」が含まれているそうです』とか聞いたが、なんのことか解らなんだ。聞くと『日本語のカミ、ホトケ、アミダ、シャカ』だという…)
言売了感言射(エセ漢文)!
お盆は儒教(中核)を仏教で覆ったもの。カバラ(一神教+新プラトン主義)は易経(儒教の経典)とも道教(多神教)とも無関係! 寸止め陰謀論者が主張するカバラは「クリスチャン」カバラ! 加地伸行『沈黙の宗教―儒教』
Posted on 2015.08.16 Sun 04:58:48 edit
真に効果のある反対運動を潰す為に偽の類似品を作っておくのですよ。
寸止め陰謀論者に、陰謀に気づいた者を洗脳させるのと同じ手法ですね。
煽ってるのは体制側のカルト要員で、大衆を騙すことで給料をもらっています。
職業に貴賎なしって嘘だよね。
洗脳されたデモ教信者の(×立ち上がった)大衆が(集団圧力で)一丸となって向かう先にあるのが「国民投票」(秘密投票なので結果は支配層が決められる)じゃあ「戦争賛成」って言っているのと同じなんですけど。
戦争法案に賛成or反対という二択の罠にはめるという、
AかBかを選ばせてCという選択肢を考えさせない詐術も弄しております。
効果のあるデモは報道されません↓
ヒラ:// @punanny_chang 7:39 - 2015年8月14日
そうだ、昨日の夜、有楽町でたぶん九州電力の東京支店の前だと思う。デモっつーか抗議行動やってたよ。駅にいてイヤホン越しに怒声が聞こえるぐらいだった。
で、どこかメディアは取り扱いしましたか?と。
なにがSEALDsだよ、絶対止められないのに。部屋でクーラーあたって震えてな。
結局、都合の悪いことはTVに映らないんだよ 報道の自由とか死語でしょ まやかしの中に生きてるんだよ
……
盂蘭盆期間中なので、盆についての記事にしました。
お盆は儒教思想(中核)を仏教思想でコーティングした思想が基盤です。
輪廻転生したなら先祖の霊が帰って来るなんてありえないでしょ?
釈迦みたいに輪廻の輪から外れても帰って来ないし。
生まれ変わりといえば、詐欺師がよく主張します。
Xの生まれ変わりを自称するのは、Xの権威を奪うためです。
輪廻転生を外れた釈迦が生まれ変わることはないので、
釈迦の生まれ変わりを自称する宗教家は全て嘘つきです。
イエス・キリストの生まれ変わりを自称する宗教家も全て嘘つきです。
聖書ではイエス本人が偽キリストが現われると言っています。
そもそも実在しないので生まれ変わりなんてありえないんですけどね。
ちなみに、盂蘭盆にはゾロアスター教の影響があるという説があります。
…
カバラが道教の八卦思想のパクリだと言っている人がおるけどな、嘘やで。
八卦は四書五経の一つの易経が元なので儒教の思想。道教ちゃうで。
カバラは新プラトン主義の影響を受けとる。
一者からの流出という、唯一の絶対者がいるという神秘思想は、
中国の多神教+現世利益思想とは真逆やで。
カバラの中核は
①一神教
②新プラトン主義なので
多神教の時点で偽物確定!
生命の木カバラは中世からなので
古代ユダヤの生命の木(と日本)云々ときたら嘘確定!
生命の木であなたがイメージするカバラは
15世紀以降成立のクリスチャン・カバラ
=キリスト教化されたユダヤ・カバラです。
寸止め陰謀論者はキリスト教の手先だから、主張するカバラはユダヤ・カバラではなくクリスチャン・カバラなのです。
ユダヤ陰謀論と日ユ同祖論と同じく、キリスト教に見えにくいキリスト教思想
=外見がユダヤでも中身がキリスト教思想。
物証成立年代を捏造するのが日ユ同祖論者の特徴ですが、
カバラに関しても、教典の成立年代を確かめないと騙され放題ですよ。
カバラの基本経典は紀元前には存在しません。
①イェツィラー
(3~6世紀。新プラトン主義成立後)
②バヒル(12世紀)
③ゾーハル(13世紀)。
ユダヤ・カバラは旧約聖書重視(カバラにもともとは生命の樹なし)。
クリスチャン・カバラ(生命の樹中心)は15世紀にピコが創始。
インドの伝統的思想を破壊してキリスト教思想で塗りつぶすために、インド風キリスト教神学である神智学が利用されているように、
カバラが道教だとか日本原産だと言う輩は工作員か騙されているかのどちらかばかり。
一神教と多神教、
神秘主義と現世利益が同じに見えるのなら、
イエズス会士のロドリゲスが17世紀に発明した中ユ同祖論と
イエズス会士のロドリゲスが源流の日ユ同祖論でも唱えておけば?
統一教会教祖の韓ユ同祖論もどうぞ。
○ユ同祖論はキリスト教思想(=聖書の古代ユダヤ教徒の実在が大前提)でカモを洗脳するための、キリスト教に見えないキリスト教思想です。
「十の民族が東へ一年半進んで、アルサレトに定住したとはエズラ第四書の第十三章に述べてある通り」と、
17世紀のイエズス会士ロドリゲスが中ユ同祖論を主張する文脈で述べています。
私が知る限りではこのロドリゲスの中ユ同祖論が日ユ同祖論の原型です。
実際に第4エズラ書が日ユ同祖論の(根拠になっていない)根拠として使われていますし。
なお、正距方位図によるとイェルサレムから日本への方向は「東北」であって東ではありません。
メルカトル地図で方角云々しても意味がないことすら判らないって不勉強すぎだろ!
シオニズムはキリスト教思想だし、シオニストはクリスチャン。
古代からユダヤはキリスト教の盾。
カバラ詐欺師に騙されないためにも、儒教について学びましょう。
日本思想に対しても儒教の影響力はすさまじいです。
…
加地伸行『沈黙の宗教―儒教』(筑摩書房、1994)
※加地伸行は暴走するので注意
・儒教では、正門から祖先の神主(しんしゅ。仏教の位牌の元ネタ)をおさめた宗廟(みたまや)に向かって、神道(しんどう)という道が作られている。
・或る火災保険会社が、火事になったとき何を持ちだしますかというアンケート調査を実施。
一位は貴重品(不動産の登記済証やキャッシュカードなど)であったが、
二位は位牌。貴金属類より上だった。
平成五年の夏、自身が原因で北海道の奥尻島が津波・火災の大災害に襲われた。住民の一人が、位牌とパジャマだけつかんで逃げたと答えた。
位牌は持ちだしたが、その位牌を安置している仏壇の最上段にまします本尊はほったらかしであった。
もし寺が火災に遭ったなら、僧侶が持ちだすものの第一は本尊。
第二は過去帳。過去帳は信者に関する記録であるから、その縁に頼って寄進を頼めば寺の再建ができるので実務的な意味が強い。
・死者を「ホトケ」と呼ぶが、このホトケは仏教の仏ではない。このホトケはこの世にうろうろしている霊である。位牌に託されている霊は儒教がいう死者の魂のことである。
仏教でも死者の魂は認めるが、四十九日を過ぎると輪廻転生する。別の存在になるのだからこの世に霊としてうろうろすることはありえない。
死者としてのホトケ=儒教の死者の魂=この世にいる霊。
儒教では霊はあの世ではなくこの世、現世にいる。
草葉の陰とは墓地であり、墓地はこの世にあることから判るように、霊はこの世にいるとみなしている。
仏壇を見れば、仏教徒にとっては最重要の本尊は最も奥に飾り物のように置かれていて、仏壇が拝まれるときも注目されない。
・五感の喜びを大切にし、現実的・即物的・具体的な性格の中国人の場合、そうした民族にふさわしい説明をする宗教者が登場する。その宗教者を儒という。儒の歴史は古く、孔子から始まったのではない。
儒は心身二元論思想を持っていた。
精神を主催するものを「魂(こん)」、
肉体を支配するものを「魄(はく)」とした。
アジアにも心身二元論はあった。
(でもデカルト的な肉体を機械とみなすものではないでしょうね)
魂と魄のイメージは、中国人は五感を離れて抽象的には考えないので、あくまで現実的・即物的に考えて生まれたものである。
魂の左側の「云」に雨冠をつけると「雲」であり、この空に在るあの雲が魂のイメージである。
魄の左側は「白」であり白骨を意味する。死体を白骨化させる為に野ざらしにする場合、犬などが運び去ってしまう可能性がある。そこで死体管理の方法として、土をかぶせて遺骨が散逸しないようにした。すなわち墓(盛土しないで埋めるだけ)、あるいは盛土した、いわゆる土饅頭の墳が作られることになる。
のちに土饅頭の墳が儒式の墓の典型となり、中国・朝鮮半島では今もその形式を守っている。
しかし日本はモンスーン地帯であり、梅雨期も長いので土が崩れやすく、雑草も生えやすい。そこで石塔に変化していった。
・魂魄の統合の儀礼を司っていたのが原儒=職能的シャーマン。
死体を焼いたり、どこかへ捨て去ってしまわないのは、白骨(「魄」は旁〔つくり〕が「白」)がないと死者がこの世に帰って来る儀式
=魂を招いて魄を回復させる招魂復魄(この世への再生)
(魂魄はこの世(あの世ではない)にあることが前提)
=祖先祭祀
ができなくなるから。
よって、インド人のように焼いた骨をそのまま河に捨てることを絶対にしない。
つまり、日本人の遺体に対する考えや、日本の仏式の葬儀や仏壇には、儒教の影響が大きい。
・白骨化したあと、頭蓋骨に神秘的なものを感じたのか、頭蓋骨を廟(みたまや)に安置し、その他は埋葬した。死者の頭蓋骨では気持ちが悪いので、しだいに代替物が使われるようになる。最初は、魌頭(死者の顔に似せたマスク)である。
これも異様であり、更に単純化しして生まれたのが、木の板で作った「神主」(しんしゅ)、別名「木主」(ぼくしゅ)であり、仏教にとりこまれて「位牌」(いはい)になった。
・戒名も儒教の神主との関わりを示す。俗名(諱・字に当たる)・死亡日時・行年(=享年。死去したときの年齢)を記す儒教の神主を仏教の位牌の発明者(原始仏教には勿論ない)が真似たのである。
仏教の位牌の特徴は本名の漢字を入れることが多いこと。
儒教では本名は諱=忌み名なので隠すべきものであるが、日本の大乗仏教では本名を隠さない。
家でも祖先の名と同じ漢字を子孫の名に与えていくのは、中国や朝鮮半島では絶対にありえないことである。
仏教の位牌は個人的なものであるが、儒教はそうではない。
(魔術にとって、本名=住所=目立つ的。
やはり日本人は呪術に対して無防備過ぎ。
ナンモノヒカリ @nanmonohikari 2013年7月7日
「仏像」は仏陀釈尊が亡くなられて五百年後に造られ、「仏壇」の始まりは天武天皇の仏教興隆の勅により、「戒名」の始まりは中国の「あざな」の習慣であり、「位牌」の始まりは中国儒教であり鎌倉時代の禅宗に輸入された。インドに基本的に墓はない。仏陀釈尊の知らないものが日本仏教の正体です。
ダイドウコウジン@DydoCorzine1月5日
日本で「仏事」と思い込んでいる様式の殆どは「儒教」から拝借したものだった。 本来の仏教では死体は川に流して終わり。戒名は近年葬儀の為に後から作られたもの。:沈黙の宗教――儒教 )
・針供養、眼鏡供養、電話帳供養など、日本では物に対しても供養する。
(人間的知性を持たない生物に魂はないとするキリスト教思想では考えられませんね)
・民族の思考はその民族が使う言語の性格や組み立てに負うところが大きい。
よって儒教思想には漢字の性質が大きな影響を与えている。
漢字は表意文字として出発した。
もっとも現在使われている漢字の大半は、その後に増えた発音中心の漢字であって、文字の一部に表意的な部分がある状態である。
「江」の右の「工」は発音、左の「さんずい」は水の意味。このような文字を形声文字という。形(表意性)+声(発音)を両方を持つからである。
形声文字と異なり、形が全てなのが形を象った=象形文字。「大」は人間が手を広げた姿であり意味だけを表している。
表意文字の象形文字よりも、表音文字的な形声文字のほうがはるかに多い。しかし形声文字は象形文字よりも後から生まれてきただけでなく、部分とはいえ表意性を継いでいる。
中国古代、甲骨文字の時代では表意文字が中心であり、表意文字による思考や感情の原型がまず形成されたと考えてよい。
(はじめに実物ありき。原典がギリシャ語で書かれた新約聖書のギリシャ哲学を反映したロゴスと真逆ですね。
はじめにロゴスありきを、言葉ありきと訳すのは誤訳。言葉はイメージを名づけたものなのでイメージより後にできたもの。
よって論理とか秩序とかとういった訳でないと駄目)
・輪廻転生思想を徹底すると歴史感覚が希薄になる。
インド人のインド文献は歴史感覚が乏しい。よってインド文献の成立時期を示すような手掛かりは充分ではない。
聞けば、文献の成立時期の誤差が数百年ということがあっても不思議ではないという。インドに歴史的事実はあっても、インド人にはそれを引き受ける歴史感覚が乏しい。
しかし、
東北アジア人の我々は或る始祖から始まって祖先がいて……という感覚であるから、歴史的事実に対して関心が深く、その根底には招魂再生観がある。中国・朝鮮民族・日本人は文献の成立時期を示すことが好きである。細々とした事件に日時を記す。中国・朝鮮半島の民族が一族の系図を記す族譜を大切にするのは、その典型。
輪廻転生するのであれば、その家とは関係がなくなり、その家の系図である族譜とは無縁となる。
在日朝鮮民族が日本に帰化しない大きな理由の一つは、儒教的歴史感覚にある。帰化して日本人になると朝鮮半島において続いてきた一族の歴史と断絶することになり、耐えがたいことである。
(となると最も帰化に抵抗が無いのはインド人?)
……
帰ってきた魔法使いハンターねこた @lakudagoya 7月25日
@0406magi カバラに生命の木が登場したのは15世紀ですよ。そもそも今の聖書と違う聖書ってどんなことが書いてあったんですか?最古のヘブライ語写本はアレッポ写本ですが、それ以前の内容をあなたは知ってるのですか?根拠がありますか?
帰ってきた魔法使いハンターねこた @lakudagoya 5月25日
モルモン教の飛鳥昭雄が天皇崇拝してる理由ってさ、(戦前の耶蘇教教会の父と子と天皇陛下か?ww)平田篤胤や出口王仁三郎などの成立プロセスがまんまモルモン教と同じであることとリンクしてるよねー?恐らく作者が同じだからこそシンパシーがあるのだと思うんだ。そいえば、船井も神社の家の出身。
帰ってきた魔法使いハンターねこた @lakudagoya 5月2日
@kikuchi_8 @bakkajyane_www 神道系の人たちの仏教に対する憎しみは凄いですね。天皇家が仏教にすがってたのにそれを完全に無視した歴史を捏造してます。八咫烏も本当は仏教徒でないといけないですね(笑)空海の話さえなかったことにされますね。
(仏教国教時代を無視したいのが隠れキリシタン=神道家。
金光教と大本教は鬼結社+和風キリスト教。ヤタガラスって単なる和風キリスト教じゃないの?)
中ユ同祖論の提唱者にして日ユ同祖論の原型を作った17世紀のイエズス会士ロドリゲス『日本教会史』と
茶の湯とキリシタン大名とキリスト教人脈と大河ドラマと
大日本皇道立教会と
鹿児島版田布施の加治屋町
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-90.html
““もしそれらの学芸、特に天文学(アストロロジーア)〔占星術〕を最初に作り出した人々が誰であったかを推測せねばならないとすれば、われわれはそれが洪水以前の最初の父祖(パードレ)たち(3)であったことを容易に理解するであろう。事実よく事情に通じたエウロッパ人はみずからそう考えているが、それは適切なことである。なぜなら、バビローニアの地で言語が混乱し、ノエー〔ノア〕の子孫がいろいろな地方に分かれて行き世界中に住みついた時(4)、その子孫のなかに同じ祖先をもつ九人の族長〔カベツサ〕がいて、それぞれがその下に一四〇の部族を従えていたが、それら部族のあるものが東方にやって来て、シナ王国に住みついたのである(5)。これら一四〇の部族の名は今日まで存続していて、そのなかに三人の名高い賢者がいた。彼らはそれぞれそれら部族の族長であったが、彼らのことを書いた史書から推測されるように、同時代の人々であった(6)。もっとも学問における継承関係に見られるように、その働きざかりや年代ではたがいに前後していた。これらの人々は法令や統治機構や文字や学問、学芸および技芸を定めて、シナ人の国家を形成した。その最初の統治機構は部族的で、族長による貴族政治的(アリストクラーテイコ)と言ってよいほどのものであった。しかしながら、王国が建てられるや直ちに君主政治的な機構が導入された。”ロドリゲス『日本教会史』下巻p.107-108
“(5)シナ人がオリエントの地からやって来たという考えは、ロドリーゲスの『日本大文典』の記述のなかにも見られる。「すなわちシナ人は十の民族からなり、それはイスラエルのオゼアス〔ホセア〕王の九年、ユダヤのエゼキアス〔ヒゼキア〕王の六年に、サルマナサル王〔シャルマナサル五世〕が捕虜として連れて来てメディア人とアッシーリア人との間に置いたのだという。……〔この〕十の民族が東へ一年半進んで、アルサレトに定住したとはエズラ第四書の第十三章に述べてある通りであり、その地は多くの地図がシナの隣りに置いているからである。……これらの哲学者〔老子や孔子〕はこの十の民族からなるユダヤ人の系統に属することはありうることである。すなわち彼らがシナに来て、そこにいた民族と混血して自ら変質したが、彼らの持って来た文学や学術は、その周囲のいかなる民族も持たないものであって、その後も引続いて、その方面の支配力を持っていた(土井忠生訳『日本大文典』一九五五年、三省堂、八四三ページ参照)。ここに記述されていることは紀元前八世紀の出来事であって、もちろん「言語の混乱」以後のノアの子孫の移住とは区別されなければならないが、いずれにせよ、こうした中国民族および中国文化のバビロニア起源説というべきものは、ロドリーゲスがこの後一貫してとっている立場である。” ロドリゲス『日本教会史』下巻p.109-110”
フェイド大帝 @FeydoTaitei 10月20日
中国道教や風水は神秘的なのか、
中国思想でも人気だ。
だけど本来、中国思想は儒教と
セットだ。抱朴子も下巻は
売れるが、上巻は売れ残る。
仙人が山で霞を喰う話は神仙思想
の観点からは、気功やヨガを
彷彿させるが、あれは本来そういう
意味じゃない。
あの逸話は余りにも国家が腐敗して、 貯金も収入を失くした老人が 山に引き篭もって霞を喰うぐらい しか許されてないと政治に対する 皮肉を語っている話なのだ。 当然、これは儒教的なお話だ。 確かにインドからの輸入品も 多いが、中国人というのは 根本的にはインド人とは異なる。
フェイド大帝 @FeydoTaitei 3月15日
五摂家の中では鷹司家が重要くさい。
三菱や三井などの財閥系の黎明期 の頃に鷹司家が結構活躍している。
江戸時代と言えば「朱子学」だが、 これ教科書でも評判悪いし、 2chとかでも酷評で、中国の中華思想や 韓国の選民思想も全部朱子学が諸悪の 根源だとか唱えられている。
ところが朱熹の著作ってほとんど 日本語の現代語訳がないのよね。 陽明学の王陽明の方は訳され まくっているのに。
個人的にはこの江戸時代に流行った 「朱子学」が重要なんじゃないかな。 徳川システムにも確かに悪い所は あるけど、日本の歴史の中では 一番マトモな方だったと思うのだが……
重要なのは徳川時代ってのは 天皇家や公家や仏教家の権力を 削ぐ政策も採ったって所だな。 特に朱子学には商業活動(つまり資本主義) を批判する立場を取っていた。
この商業の「商」の語源は 古代中国の「殷」の別名から 来ているらしくて、基本的に周の 時代に発展した儒教はこの「殷」を 批判しているとの見方もあるらしい。 殷ってのは金儲け重視、オカルト偏重 の政治が特徴で、昔の朝鮮王朝や 日本の天皇家のご先祖様と言えるの だけど、(実際、周にやられた後、殷 の残党は朝鮮半島方面に逃げている)
この殷の創設者が「契」という 皇帝。これは「契約」という言葉 の語源だとも言われているらしい。 「商売」を行う際に「契約」を 重視するかららしい。
ところで儒教ってのはヒンドゥー教 みたいにカーストを設定する教え ではないからね?
既にカースト制が存在している社会 (つまり共同体としての国家の事) において、トップカーストのリーダー はどうあるべきかを説いた教えだから、 民衆を奴隷化するための教義という解釈の 仕方はズレている。
儒教は基本オカルト嫌いだしね。 易経が今ではオカルトだけど…… 当時は最先端科学だったしね。 MAGE政府の大嫌いな徳川システム が重視していた教えだから、 なんかいい事書いてあるんだろう。 訳書もないし。
江戸時代はキリスト教もフリーメイソン も長崎の出島に隔離されてた所が 重要ね。最も家康も初期の頃は キリスト教も、メイソン教にも寛大 だったらしいが。
あ、後、韓国における朱子学、民間巫女 信仰、キリスト教の関係も面白いよ。
朱子学と巫女信仰というのは相性 悪いから、支配層側の朱子学連中は 巫女教を当然弾圧した。 弾圧された巫女教は地下活動化した わけよ。で、その潜伏先が何処か というと、キリスト教の教会だった わけ。 これが韓国でキリスト教も
キリスト教が韓国でブレイクした 理由。 韓国系の新興宗教がキリスト教神学 とは関係のない神降しを重視するのも これの名残りでしょう。
いづる @iduru 2014年8月13日
お盆豆。
今イラクでISISに迫害されてるヤズディ教徒。このヤズディ教はイランやロシアに現存する、拝火教たるゾロアスター教の流れを汲んでいるんだが、実はお盆の習慣は仏教ではなくこのゾロアスター教の流れを汲むという説がある。確かに迎え火送り火などお盆は火を崇めるからねえ。
kenji_ism @kenji_ism 12月22日
神社の注連縄は本来は稲藁ではなく、麻縄を使用した。仏教ではお盆に麻柄(おがら)を焚く。ゾロアスター教では拝火壇で燃やす火の中に大麻を投入した。覚醒作用とお経や教義がセットになり、宗教が広がった。
帰ってきた魔法使いハンターねこた @lakudagoya 5月12日
日油同祖論はイエズス会が特許を持ってる製品だけど(ネットや本での使用は無料だけど著作権はイエズス会にあり)、その他ユダヤ同祖論もイエズス会製だろう。で、やたらと日油同祖論で渡来人が偉いと賛美するのは背後に統一教系などの韓ユ同祖論があるからだろうな。
菊池 @kikuchi_8 5月2日
とはいえ国際政経学会も良質な部分となると限られてくる。日猶同祖論者や神代史派も多かったからだ。酒井勝軍や小谷部全一郎等の日猶同祖論者、竹内文書、大本教や世界最終戦論や狂信日蓮主義を明確に批判しているのは確実に確認した限りでは愛宕北山先生とその弟子・渡部悌治先生くらいである。
菊池 @kikuchi_8 3月6日
3)古代のラビと修験者の頭巾やほら貝、服装が似ていたとしても「だから何」という程度の話に過ぎない。そんな事より、明らかに意図的に「天地の創造主」というキリシタン神学由来の概念を導入した平田篤胤の方が問題である。出口王仁三郎もその神観を継承している。同祖論もこの周辺が主に唱える。
菊池 @kikuchi_8 3月10日
石上神宮に安置されている七支刀がメノラだ!とかこじつける者もいる(笑)メノラは燭台であって刀ではないであろう。そもそもアニミズムの日本と一神教の猶太という根本的な相違がある。日猶同祖論者はわずかでも共通点があれば針小棒大に取り上げ、違いはどんなに大きいものでも無視する。
甲斐宗運act4 (早川 数秀) @KazuNoSaru 2012年9月18日
@kcin_tokorozawa ああ、文献に八幡書店のものがありますね。八幡書店が大本教であることはご存知かと思いますが、http://ow.ly/dMSa2 と白鳥の http://ow.ly/dMSeZ とを比べてみてください。 天津教=竹内文書です。
@kcin_tokorozawa ここに三村三郎が出てきます。対談者の一方、武田崇元は八幡書房社長にして、出口王仁三郎の孫娘の婿であり、大本の幹部にして、雑誌「ムー」の最高顧問です。 「日ユ同祖論」の謎の淵源を探る - http://ow.ly/dQDDJ
“──王仁三郎は日ユ同祖論についてどういう見解をもっていたんですか。
■武田 王仁三郎がユダヤ問題についてまとまった形で述べたものはないんですが、如是我聞のような 形で彼がいろいろ言っていたことは事実で、たとえば、ユダヤ民族の12の支族のうち11支族は外国にあり、日本には一番よい流れが入ってきたものの、その 後、変質したので本当のものは少ないということを強調したりしています。
また、王仁三郎は、ユダヤ人は神命奉仕者で、神様から選ばれたのだから神の選民であることは間違いないが、天孫民族とは全く違うと述べています。日本は天孫民族だから選民と違って神の直系であるというわけです。
”http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb411.html
大宮司朗氏
(神道霊学・霊術界の巨匠)
×
武田崇元氏
「日ユ同祖論」の謎の淵源を探る
ユダヤ教カバラの歴史 ~起源、および第1期(発端期)から第5期(衰退期)まで~
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/kabbara2.htm
” 一般にカバラは、以下の5期に分けられている。
・第一期(発端期) 紀元1世紀~10世紀
いわゆる「創造の書」(成立したのは2~6世紀頃)が注目を集めるまでの期間。瞑想が行われるようになり、実践者達は、神や天使の階級について思索し、神の玉座を幻視していた。さらに、護符や呪文を用いた魔術も早くも実践されていたらしいことが、「ガオン・ハイ」なる書物に書かれている。この時代に活躍したカバリストとしては、ベン・アキバが有名。
しかし、この時期には、カバラの教義は、まだ整理・統合はされていなかった。
・第2期(成長期) 10~12世紀
「創造の書」を中心にし、発展した時期。
これ以前のカバラ思想が、神学的な思弁・瞑想に留まっていたのに対し、宇宙論や「宇宙の創造の過程」、と言った考察が始まる。ピタゴラス主義が流入する。
この時期のカバリストとしては、ベン・サムエル・ハ・シャフィド、エレアザール・ベン・ユダ等が有名。
・第3期(前期完成期) 12~16世紀
「バヒルの書」登場。
神学的考察と宇宙論、宇宙の創造論、これらが一体化する。
こうして、「生命の樹」の概念が作り出される。
さらに「ゾハール」が表舞台に登場する。
輪廻転生(!)の思想も取り込まれる。
この時期のカバリストとしては、生命の樹の理論の原型を作った盲人イサクと、その弟子達が有名。
キリスト教へのカバラ移入が始まる。
・第4期(後期完成期) 16~17世紀
「ゾハール」の研究、本格化。ゲマトリアを始めとした文字によるカバラの体系も完成する。
今、我々が知っているカバラの形が、整えられる。
この時期のカバリストとしては、イサク・ルリア、モーゼス・コルドベロが有名。「石榴の園」が書かれる。
キリスト教カバラも活発化。
・第五期(衰退期) 17世紀以降
サバタイ・ツディ運動で異常な盛り上がりの後、急速に衰える。
護符や呪文を用いた魔術カバラが盛んになる。ユダヤ教カバラの魔術書「ラティエルの書」出版さる。
正統派ラビ達は、次第にカバラを異端視する。
そして、ユダヤ教カバラは、事実上、消滅する。
カバラは、キリスト教カバラおよびオカルティストの魔術カバラだけが生き残ることになる。
そして、ユダヤ教カバラは、かのG・ショーレムの登場によって、20世紀になって、復活を果たすことになるのである。
我々が関心を持っている魔術カバラは、後に詳しく触れるように、キリスト教カバラの流れを組むものである。”
盲人イサク
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/shinpi/mouisaku.htm
"盲人イサクの生涯について正確なところは依然、謎が多い。
ただ、彼は1165年にフランスのナルボンヌ地方ポスキュール村で生まれたらしい。
(…)
彼こそがカバラ第三期の立役者であり、カバラの中興の祖とでも呼ぶべき存在である。実際、「カバラ」と言う言葉を最初に秘教的伝統の意味で使ったのは、彼であると言う。
また、カバラの研究に、文字通り生涯を捧げた最初の人物でもあった。
彼の思想は極めて感照的で新プラトン主義およびグノーシス思想の強い影響が認められる。
何は無くともカバラを学ぶには瞑想が絶対に必要である、これがイサクの思想であった。単なる神学の形而上的な考察だけでは駄目なのだ。
彼は、特に精神的な緊張を伴った瞑想を重視している。そして、各種の瞑想には、それぞれに合った祈りが必要であり、その祈りはセフィロトの系統に従って構成されたものでなければ成らないと考えた。
早くも彼は今日の「生命の樹」のそれに近い概念を持っていたのである。
とは言うものの、彼のカバラ思想を理解しようとする場合、今現在、我々が知っている完成された生命の樹でもって、それを当てはめようとすると混乱する。
彼の時代のセフィロトは、現代のセフィロトとは異なるものである。
しかし、彼が、現代伝わる「生命の樹」の原型を作ったとも言えるのである。
セフィロトの考え方自体は、すでに「創造の書」の中にも見られたが、これは12世紀に入ってから、大きく変化する。というのも、これまでセフィロトの概念は神学的な考察どまりだったのに対し、宇宙の創造論と一体化するのである。
この全く新しいセフィロト論の創始者こそが、盲人イサクと言われているのだ。一説には、彼こそが「バヒルの書」の著者だと言われることもあるのだ。
彼の思想は3つの重要なコンセプトから成り立っていた。これは神性における3つの次元とも表現できる。すなわち、アイン・ソフ、思考、言葉である。
アイン・ソフ、この未顕現のものを思考を通じて理解することは不可能であり、思考の虚無化が成されてやっと到達できる。アイン・ソフは聖なる思考そのものと関係しており、そこは超越的な領域である。
「思考」は10個のセフィラには含まれない。セフィロトの数を完成させる「知性」は「思考」と「コクマー」との中間に位置するものである。聖なる意思は「思考」を活性化し、優位のものとする。この「聖なる思考」もセフィラには含まれない。
「思考」とは、宗教的高揚感が中核となり、そこにあらゆる神秘的感情が結合し、持続するところの球体である、すなわち、この「思考」それ自体が「隠れた神の顕現(あるいは「未顕現」)」であり、「アイン」とも呼ばれる。これは第一の流出であり、最も隠れた高位の神性の存在であり、人間の俗的な思考を虚無化させることによって、やっと存在を知ることの出来る高位の思考である。
これより下位の世界は「言語」によって成される。なぜなら、創造主による言語表現によって宇宙は形成されたからである。神性内部の「言語」の発展と共に世界は創造された。これこそが、盲人イサクの思想の中核である。
すなわち、神が言われた聖なる「言葉」が流出し、物質化することによって全ての創造は成し遂げられた。「言葉」は表面上は無意味だが、その「言葉」に内在するものの顕現することによって創造は成されたのである。これは「聖なる言葉」が、流出によって「物質的存在」に移行する、とも言い換えられるだろう。
こうして生じたセフィロトは、「分離できる世界」と呼ばれる原則でもある。この意味は、現実的存在の多様性という意味である。そこでは、絶えることのない超越した神性からの流出が続いており、それが「分離できる世界」へと注ぎ込まれている。
我々は、ここにも「生命の樹」の原型を見ることが出来るであろう。
ともあれ、盲人イサクは、こうした複雑かつ難解極まりないセフィロトを理解する具体的手段として瞑想、誠意、献身をすべきであるとした。
瞑想によって、人は万物の本質と流出による創造の各段階の相互関係が理解できる。万物は相互に照応し合い、関係し合い、そしてこれら万物は全宇宙的流出のプロセスに内包されるのである。
そう、ここでも「生命の樹」の基本概念が見られる!
そして、最終的には、流出による創造とは、神ご自身の瞑想の結果である、ということが了解できる。
ただ、ここで注意すべきは、イサクは瞑想による「神との合一」はあくまで「一致」あるいは「密着」であり、「融合」ではない、としたことであろう。それは一度獲得されれば、それでお終いというわけではない。瞑想、誠意、献身によって、絶えず繰り返される行為でもあるのだ。
(…)
ともあれ、盲人イサクの登場によって、カバラは大きく変化し、発展した。
彼の登場以降を「カバラ」と呼ぶべきであり、それ以前は「ユダヤ教神秘主義」とすべきだ、という主張すらある。
我々が知っている「生命の樹」に基ずくカバラの原型は、彼によって作り出されたと考えて良いであろう。 "
「ルネサンス」の舞台裏
http://inri.client.jp/hexagon/floorA7F/_floorA7F_renaissance.html
”ピコ・デラ・ミランドラ。 カバラを深く研究し、
様々な異教思想をキリスト教的に解釈しようとした
思想家であり、「キリスト教的カバラ」の創始者、
または最初で最大の解説者であった。
同じくコジモ・デ・メディチのもとにいて、マルシリオ・フィチーノの親友であったピコ・デラ・ミランドラは、「キリスト教的カバラ」の創始者、または最初で最大の解説者であった。ピコ・デラ・ミランドラは、ユダヤ神秘主義のカバラ神学によって、キリスト教の真理を確認できると考えていたし、カバラもまたモーセより伝わった古代の叡知の伝承だと信じられていたので、これによって古代の異教とされる「ヘルメス文書」も確証できるものと思っていたようである。
ピコ・デラ・ミランドラは、カバラの10のセフィロトによる段階を宇宙の天球層と関係づけて、それらの天球層の更に彼方にある神秘主義的な無に至る上昇を試みた。これはグノーシス主義とも新プラトン主義ともとれるマルシリオ・フィチーノ風のヘルメス思想とカバラが合体した考え方で、ピコ・デラ・ミランドラはカバラの聖なる力が、マルシリオ・フィチーノの術を悪魔の影響から守ることができるとしている。
こうしてピコ・デラ・ミランドラが創始した「キリスト教的カバラ」は、マルシリオ・フィチーノの「ヘルメス主義的魔術」と共に、ルネサンスの中心的思想を作り上げたのであった。
なお、ルネサンスは、一般に「人間復興」などと訳されているが、それはイタリア・ルネサンスの思想的な意味での中心人物であったピコ・デラ・ミランドラの、次の言葉に由来している(ピコ・デラ・ミランドラは、これをイスラムの書物から学んだことを告白している)。
「神は言う。『すべてのものは私が制定した法に服すべきである。しかし人間だけが自分のあるべき姿を決定することができる』と。そこで我は叫ぶ。父なる神の恩寵よ! 人間はなんと偉大で幸福であるか! 」(『オラティオ』)”
ユダヤ教徒の「カバラ」と
「メシア運動」の歴史
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hd/a6fhd600.html
” ユダヤ教の神秘思想が「カバラ」という呼称で統一されるようになったのは、歴史的には中世に至ってからのことである。そこに至るまでの間、カバラの伝統は、キリスト教が支配する世界からは、完全に隠されていた。
しかし、12世紀に至って北スペインやフランス南東部のプロヴァンス地方にカバラについての秘義を語る者が現れだすと、以後、カバラはヨーロッパ世界に急速に広まっていった。その際、特異な神秘思想を展開するカバラ奥義書が、数多く執筆・編纂されていった。
(…)
●現在、カバラには三大教典があるが、そのうちで最も古いものは『イエツィラの書』(別名『形成の書』/紀元3~6世紀に成立)で、残りの『バヒルの書』(別名『光明の書』)と『ゾハルの書』(別名『光輝の書』)はこの時期(12世紀~13世紀)に成立した。
(…)
●ところで、ハシディズムと政治の関係についてであるが、1912年に結成された宗教政党「アグダト・イスラエル」がイスラエル国家に協力的姿勢を保っているのに対し、超正統派ユダヤ教の政党「ナトレイ・カルタ」は、現在のイスラエル共和国を国家として承認することに反対している。
彼らはイスラエルが独立する際にも、断固反対した。真のイスラエル国家は、メシアとともにしか現れないからだという。
この超正統派ユダヤ教は、規模は小さいが、原理主義的傾向が極めて強いのが特徴である。彼らはメシアの出現を待望してやまず、そのために祈りと戒律を厳守した、極めて求道的な生活を日々送っているのである。
(…)
■■第7章:本質的に「シオニズム」と「ユダヤ思想」は別物である
●「シオニズム」(別名 ZION主義)とは、パレスチナにユダヤ人国家を建設しようという思想である。聖地エルサレムの「シオン(ZION)の丘」にちなんで名付けられた。
現在のイスラエル政府の「シオニズム」は、人種差別的なイデオロギーと軍事思想に基づいているといえる。
(…)
「シオニズム」に抵抗する人々
●一般に「シオニズム」と「ユダヤ思想」の違いはあまり意識されることはない。
そのため、「シオニズム」と「ユダヤ思想」は同じものだと思っている人が多い。しかし本質的に、「シオニズム」と「ユダヤ思想」は別物である。
基本的にシオニズム強硬路線派は、無神論者といっていい。ユダヤ教そのものにはあまり関心のない連中である。自分たちの行動を正当化するためにユダヤ教を利用することはあっても、ユダヤ教そのものを信仰してはいない。
●『反シオニズムの正統派ユダヤ教徒』と題された本には次のように書かれている。
「正統派ユダヤ教徒の大半は、パレスチナの地にユダヤ人のための民族の郷土を設立するというシオニストの野望に反対である。これはシオニズムそのものではなく、シオニストに反対するという側面が大きい。
なぜならば、シオニストは大半が脱宗教的であり、伝統的なラビの権威よりも、社会主義や民族主義といった『非ユダヤ的』なイデオロギーを優先しているからである。正統派ユダヤ教徒は、自分たちの立場を神学的な面から正当化するため、救済を早めることを禁じたラビの伝統を様々に引用し活用している。」
「イスラエル共和国」の独立宣言(1948年)
●シオニスト強硬路線派が悲願の建国を果たした「イスラエル共和国」──。
しかし、超正統派ユダヤ教徒はこの国を認めようとしない。
なぜならば、イスラエル共和国は建国において“メシア信仰”を無視し、しかも政教分離という近代国家の原則を採用した世俗国家であるためだという。超正統派ユダヤ教徒からすれば、このようなイスラエル共和国が“国家”と名乗ること自体、神に対する許しがたい冒涜に他ならないという。
この超正統派ユダヤ教徒は「聖都の守護者」を意味する「ナトレイ・カルタ」(前出)と呼ばれ、現在のイスラエル共和国はユダヤ教の本質を完全に逸脱した世俗的な寄せ集め集団に過ぎない、として徹底的に批判している。
「シオニズム」を批判する超正統派ユダヤ教徒たち
イスラエルの国旗を燃やして、「シオニズム」に反対
●1985年4月4日、超正統派ユダヤ教徒グループ「ナトレイ・カルタ」は、次のような声明文を発表した。
「シオニストの大冒険は不名誉な終わりを迎えようとしている。最初はシナイ半島だった。今度はレバノンである。独立した真のユダヤ教徒であるトーラーのユダヤ人にとって、これはまったく驚くことではない。我々は両親からも教師からも、シオニズムはユダヤとユダヤ思想の敵だと教えられてきた。
シオニストの政治的策動は、一時的には成功するかもしれないが、長い目で見れば、その命運は尽きているのである。 〈中略〉
シオニズムはユダヤ思想とは全く反対のものである。ユダヤ思想は数千年にわたり、シオニズムなしに存続してきた。シオニズムのいう『メディナ』は全くの作り物であり、真のユダヤ思想を歪めるものである。」
(…)
●更に彼らは、1992年に次のような声明を発表した。
これは「シオニズム」に対する強烈な批判メッセージであった。
「敵であるシオニストと私たちの戦いは、妥協の余地のない、まさに “神学戦争”なのである。」
「ユダヤ人たちが全世界に追放されたのは、神の意志によるのであって、彼らが神の律法を守らなかったためである。あらゆる苦難をへて、メシア(救世主)が到来するまでそれは続く。メシア到来によってのみそれが終わるのである。それゆえに、シオニストあるいはその関係機関が神を無視して世界中からユダヤ人たちに帰ってくるように強要するのは、ユダヤ人たちをいよいよ危険に陥れる“不敬の罪”を犯していることになる。」
「もしシオニストが神を無視し続けるならば事は重大である。ここ、すなわちイスラエルは地上で最も危険な場所となろう。」
「シオニズム」に反対するユダヤ人たち
「Zionism is Nazism」(シオニズムは
ナチズムだ)と書かれたプラカードが見える
(…)
●サザン・バプテストの 「新約聖書学」教授フランク・スタッグは、以下のような見解を述べている。
「今日のイスラエル国家は数ある国々の一つにすぎない。それは他のあらゆる政治国家と同様に“政治国家としての運命”を辿らなければならない。他のあらゆる政治国家のように判断されなければならない。
現在のイスラエルの国や国民を“神のイスラエル”とすることは、『新約聖書』の教えにおいて致命的な誤りを犯している。」
●また、プレズビテリアンの 「旧約聖書学」教授オーバイド・セラーも、このことを次のように結論づけている。
「現代のパレスチナにあるユダヤ国家は、聖書や聖書預言によって正当化されるものであるというシオニストたちの主張を支持するものは、『旧約聖書』にも『新約聖書』にもないということに私とともに研究している者たち全てが同意している。”
Thank you for reading this long blog post!
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