読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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なかたこうじちゅう最初の一冊に最適な『となりのイスラム』をまずどうぞ。『私はなぜイスラーム教徒になったのか』 

かわゆいなかたこうじちゅう長すぎるので別記事にするね。一つ目のは完成。『となりのイスラム』『私はなぜイスラーム教徒になったのか』






”改宗式には3日間で約100万人もの仏教徒や改宗希望者が参加するが、その多くは不可触民と呼ばれる人々だ。半世紀ほど前、数十万人しかいなかった信者が今では約1億5千万人を超えた。その仏教復興の中心的な役割を果たしたのが、1967年、32歳でインドにひとりでやってきた佐々井なのである。

インド12億人のうち一番下の奴隷カーストにすら入れない不可触民と呼ばれるアウトカーストの人々は約2割おる。3千年間も触れれば穢(けが)れると人間扱いされてこなかった人々だ。学校にも行けず、仕事も選べず、井戸を使うことすら許されない。そんな悲惨な状況だからこそ、人は何かにすがらないと生きていけない。だから自分を差別するヒンドゥー教の神様でもけなげに信じてきたんだ。しかし平等主義の仏教を知ることで彼らは『自分は人間である』と目覚め始めたのです」

「差別と闘ったのはガンジーだと思い込んでいたんだ。ところがナグプールに着いてわかったのは、不可触民の間で絶大な人気を誇るのはアンベードカル博士。ガンジーは不可触民を『ハリ・ジャン(神の子)』ときれいな名前をつけてごまかし、むしろカースト社会を残そうとしていた。
博士は国際的にも評価され今では国内でもカーストにかかわらずガンジーよりも偉業が知られている。もっと日本でも研究されてもいいのだが」

仏教に改宗しただけでは、生活そのものはよくならないのだ。そこで佐々井は寄付を集め、学校や病院、養老院などを作り、上位カーストから嫌がらせを受ける人々が団結して抗議できるよう組織作りを進めた。自分に自信を持ち、礼儀を身につけてほしいと日本から空手家を呼んで人々に稽古をつけてもらったこともある。

街に希望が生まれた。佐々井は、3千年も支配されてきて、それが当たり前と思い込まされていた人々に「仏教はカーストなんてない。人間らしく生きる権利がある」と説いて回った。特に力を入れたのが子どもの未来だ。「大事なのは教育。自分で考える力だ。お金がないなら、1食、抜いてでも子どもを学校にやりなさい」と親に言い続けた。学ぶことで今を知り未来を考える。いい仕事に就けるし、自分で会社を興すこともできるようになる。治安最悪といわれたバラックの街が半世紀で、お寺を中心として清潔で安全な街に生まれ変わったのだ。”

”ガンジーは不可触民を『ハリ・ジャン(神の子)』ときれいな名前をつけてごまかし”
って発想が「ヤソの下賤を高貴に」そのまんまじゃん!
ガンジーはカースト維持に賛成だから欧米支配層が持ち上げている。
仏教は絶対に持ち上げない。
密教は持ち上げることがあるけど、ほとんど場合解釈が一神教的で万教帰一に都合よすぎる解釈。

私がどこかの寺所属の坊さんとか身内に坊さんいるとか、
廃仏毀釈で大きな被害を受けた家系とか考察している人がいるっぽい。
別になんの問題もないね!
身内が一神教信者で幼少時から強い影響を受けている日本列島在住の人って少ないのでは?
仏教ってすっごーい!(サーバルちゃん風)になったのは意外と最近。
ごく最近は
イスラムってすっごーい!(同上)ってなってる。
ヤソってむっごーい!(同上)がより強くなってる。

イスラームは神の下の平等なので当然カーストはない。
カーストは神格化を生み、ただの人間を偽りの偶像崇拝の神にしてしまうから。
超越的存在により共通点などの平等性を確保して差別対策をするのは宗教の良い側面。
差別の原因にもなるのが厄介。
有効な弱者救済の具体策はすべてイスラームで実施されていた件。
日本を良くする方法はイスラームが実行している救貧制度と子育て援助制度と偶像崇拝禁止(拝金主義の否定)を取り入れることだけど、少なくとも列島の東側は単なる放射性物質廃棄場になる前に救うのは無理。

ムハンマドを「最後の」預言者なのがカルト対策に非常に有効。
「俺が真の最後の預言者だ!」の手口対策。
労働教を否定しまくるイスラーム


B、C、D、以下ずっと続くを覚えるのは大変だが、
それらがすべてAからの派生であることが多い。
そのAをまずしっかりと教えてくれるのは良書。
大前提からその派生へ
は説明の基本。
Aは複数があるが、
最重要なのが、

唯一神以外の権威を認めない
=唯一神以外を不要に特別扱いしないこと。

法人を認めない、
国家概念を認めない
(移動の自由を確保せよ。
法人も国家も偶像)、
などは上記の派生。

一神教という前提で論理的に考えれば確かにそうなるなと
納得できることが多いのがイスラム。
ユダヤ教も納得できる。

だが、キリスト教、てめーはダメだ!
キリスト教は論理的整合性がとれていないものほど正統になり、
論理的整合性がとれているほど異端になる本末転倒思想。
同人誌が新約聖書より上なのだから当然か。
新約は真実なのに、互いに矛盾する福音書が四つある(笑)
異次元やパラレルワールド説なら矛盾はないけど、
それだと神が四柱いる疑惑が浮上する。
異次元の科学的研究はゴッドの居場所探しでもある。


イスラムも棄教は大罪。
じゃあムスリムが酒飲んで豚食ったらどうなるかと言うと戒律を破ったムスリムになるだけ。
ラーイラーハイッラッラー(アッラーのほかに神はなし)
ムハンマドゥンラスールッラー(ムハンマドはアッラーの使徒である)
唱えて誓ったらムスリムになれる。
本当は儀式(ムスリムの立ち合い)は不要。
そもそも儀式などという信徒かどうか判定する基準みたいなものを人間が用意する時点でアッラーへの冒涜。

↓これより先に信仰告白の文句と礼拝方法を覚えること。
     服装は肌を隠す、スカーフを用意。男はあごひげは伸ばす。




iano? @ianoianoianoo 2016年7月3日

もしもの時の為に「ラー・イラーハ イッラッラー」(アッラーの他に神は無い)と「アッラー、アクバル」(アッラーは偉大なり)この2つだけは覚ておこうと思う。とてもじゃないがコーランは覚えられないから。
5件の返信 2 retweets 31 likes



かんな丸? @pgate1 2016年7月3日

イスラム圏で銃を向けられたら「ラー・イラーハ イッラッラー」と叫んでください。最低限これだけで生き残る確率が高くなります。意味は「アッラーの他に神は無い」です。イスラム教では教徒に危害を加えることは不徳とされています(例外あり)

Hiroshi Matsumura? @hmatsumu 2016年7月3日
返信先: @kei_teamさん
昔、イスラム圏に行くときは「ラー・イラーハ イッラッラー ムハンマド ラスールッラー(アッラーフ(神)の他に神はなし ムハンマドはアッラーフの使徒である)」だけは覚えておけと言われたことがあります。これを唱えれば少なくともいきなり殺される可能性は低くなると。

シャハーダ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%80


イスラームの税金の安さは異常。
イスラーム圏は税金が安いよ。
貧しい人からはできるだけ金をとらない。
日本の消費税は生活必需品にかけるうえに、多重課税で、どんな貧困層にも課税し、子供にもかけるからな。格差を広げるために実施したのが消費税だからね。
金持ちから金とる方がより多くとれるのに、貧乏人の方がより負担がかかる消費税を積極的に実施するのは搾取のため。
異教徒への対応が寛容。
キリスト教なら改宗か追放か殺害か、
自治を認めるが重税と差別だな!





最初の一冊に最適な
内藤正典『となりのイスラム』ミシマ社

意図的にイスラームじゃなくてイスラムって統一して使っているね。
浸透している呼び名だし四文字だし言いやすいし。

「人には使命がある、何かをなさねばならい」ってカルト思想は本当に有害。
この思想は労働教の別動隊。
イスラーム圏のトルコのケイフを滅ぼしたいカルヴァン資本主義勢力!


イスタンブルの街中を歩いた人なら誰しもが見たであろう、たとえば路上にただ立ってるだけで何もしていない人たち。あるいは雑貨屋でお客が商品をレジに持ってくるまでただ座って外の風景を見ているだけの売り子。それらは皆ケイフという「何もしない」という「至福の行為をしている」人たちなのだ。
イスタンブルのボスポラス海峡を臨む橋のたもとのカフェで、マルマラ海を眺めチャイを嗜みただ何もしないで時を過ごす。 私はこの「何もしない」というトルコ人のケイフ文化を垣間見るためだけにもトルコに行く価値は充分あると思っている。それだけ悠久の時が太古の昔からこの地には流れているのだ。



kous37(Kosuke Hotta)‏ @kous37 9月7日
イスラムの本質は教科書的な説明の中にあるのではなく、「自分の才能で儲けたと思うな」という人間の奢りを戒め弱い立場の人を助けるところにある。と。「となりのイスラム」。なるほど。

ドイツ生まれのトルコ移民が「トルコ人だ」といってもドイツ人は冷淡だが、「イスラム教徒だ」というと身構えるので、アイデンティティをイスラムにおく若者が増えたと。「となりのイスラム」なんかこれは世界のマイノリティに共通する心理かもなあ。

「ドイツは戦後徹底した非ナチ化を進めて変わったと思うか?」とたずねると、トルコ移民からは「全くそうは思わない」という言葉が返ってきたと。ユダヤ人迫害の本質的な問題が解決しているなら、自分たちはこんなに差別されないはずだ、と。「となりのイスラム」より

コーランの豚肉禁止の個所には、「好き好んで食べてはいけないが、無理強いされたり、他に食べるものがなかったときには食べてもいい」と書いてあるのだという。「となりのイスラム」なんか思ったよりずっとゆるいな。

女性専用車は極めてイスラム的に正しいとされていると。イスラム的に正しい、か。ポリティカルにではなくイスラミックに。 「となりのイスラム」トトロではない。










中田考『私はなぜイスラーム教徒になったのか』
表紙の著者がひげを伸ばしていることに注目。

・神に従うとは、アッラー以外のものに従わず、
権威を認めないということ。
ムスリムになる際にまずそのことを誓わなくてはいけない。
信仰告白(シャハーダ)という誓いは、
アラビア語で二つの章句を唱える。

ラーイラーハイッラッラー(アッラーのほかに神はなし)
ムハンマドゥンラスールッラー(ムハンマドはアッラーの使徒である)

ターグート(アッラー以外で人間を隷従させるすべてのものの名前)
を拒否しないといけない。
世俗の権力者、聖職者、その他、
人に隷属を強いるあらゆる組織の権威を認めない。
イスラームは神中心であり従うべきは神だけであり、
いかなる人間や組織にも他者を隷属させる権利はない。
その意味でヒューマニズムという言葉はイスラム的にはありえない。
ヒューマニズムとは人間中心主義であり、
そこには人間が人間を従わせるという意味が含まれる。

人間が人間を隷属させるのは、神にみずからをなぞらえる行為であり、
それだけで反イスラーム的。
他者に隷属を強いる人間に従うことも許されない。
権力者や独裁者に従うとは偶像崇拝にほかならない。
神以外のあらゆる権威から自由であるということ。

この認識を政治、法律、経済から日常生活にいたる、
人間の営みのすべてについて貫こうとするのがイスラーム。
なので、聖職者と俗人の区別はない。
聖職者とは神と人間の間に立つ宗教的権威。
キリスト教であれば教会という組織があって、
入信にあたっては聖職者である神父や牧師が権限を持っている。
彼らが認めなければ信者にもなれない。
しかしイスラームでは入信にあたっていっさいの権威は必要とされない。
入信儀礼も、信者を承認するための機関もない。
先ほどの二つの章句を唱えれば誰でもその瞬間からムスリムになれる。
聖職者と俗人に分けて、聖職者に妻帯を認めないように異なる法を適用することもない。

イスラーム法は法人概念を認めない。
法人とは法律によって権利能力を認められた存在で学校や会社や国家なども含まれるが、
イスラーム法では来世で懲罰を受けることがない法人には存在の余地がない。
つまりイスラムは国家という概念を認めていない。
国家という枠にも民族や出自という枠にもとらわれず国境を越えて自由に移動できる、
というのが本来のイスラームの在り方。

(世界一人を殺している”生物”は法人!)


・しかし現実のイスラーム諸国はは国家という枠にとらわれ、
政府をはじめアッラー以外の無数の権威やイデオロギーに従属させられている。
いまこの地上にイスラームが実現されている国はひとつもない。
植民地支配から独立し、植民地宗主国の隷属からは脱却したものの、
新たに西洋に押しつけられた領域国民国家というシステムに隷属した。
本来のイスラム的な自立性を回復したのではない。

そういう世界をイスラムの国々と呼び、本来イスラム的でないものが
イスラムの名のもとに正当化されたまま今日までつづいている。







領域国民国家とは
領域、国民、主権の三要素から成立する国家システム。
領域を区切る国境が存在し、
そこで生まれた人が国民となり、
その領域内に主権をもった統治者がいる。
領域国民国家の台頭はこの2、3世紀の間に起きた、歴史的に新しい現象。
しかしこのシステムが肥大化して人間生活すべてを覆い尽くすまでになり、
ふだんわれわれは国家に従っているという意識さえない。

日本もまた明治時代以来、領域国民国家として成立している。
産まれると間もなく好き嫌いにかかわらず役所で国民として登録され、
一定年齢に達すると学校で義務教育を受けさせられる。
義務教育は近代国家の条件のようにいわれているが、
見方によっては国家による拉致・監禁・洗脳ともいえる。
著者は学校が嫌いだったので、
学校へ行かせられるのは拉致されるようなものだと感じていた。

(私もうそう感じていた)

出生、教育、婚姻、離婚、居住、職業、年収など生活の細部にいたるまで
国家の管理下。
「そんなことはない、
民主主義国家の日本では国民みずからが政治参加して国家を作っている」
(典型的な奴隷の発言)

と反論する人もいるだろうが、
国家に管理されているのではなく、
自分たち自身が国家を作っているというふうに信じ込まされている。
そのくらい国家というシステムは身体化され、
空気のように当たり前の存在になっている。
学校へ行くのも当たり前、
結婚して子供が生まれたら役所で届けるのも当たり前。
疑問も浮かばないし、国家に服従していることすら意識されない。
そしていつのまにか国家を守ることは無条件に正しいという意識が身体の中に浸透してしまっている。

(真に民主主義なら世襲ばかりの支配層なんてありえないはずだが?)


・植民地化、それに伴う国民国家イデオロギーはイスラム的価値観や世界観を大きく破壊。
とりわけ一般のムスリムにとって大きかったのは時間の破壊かもしれない。
イスラムでは字間とは一日五回の礼拝で計られるものだった。
夜明け前、ほのかに東の空が明るくなってくるとき、
ムスリムはそれを見て、その日最初の礼拝をおこなう特別な時間だと知る。
そして日が昇る前に起きて礼拝して、
クルアーンを読んだり神を念じたりし、
それから朝食をとり、商売に出かけ、
昼はまた礼拝。
日没にも礼拝。
夜は友人や家族と語らい、夜食をとり、
就寝前にまた礼拝。
このように太陽のめぐりを観察し、
一日五回の礼拝をすることによって
人々はイスラムの世界観を日々再確認。
ところが、
西洋による植民地化がはじまると、
恒常が作られ富国強兵型の近代的な労働制が敷かれたり、
なんの権威もない上司や上官の命令が絶対になったり、
無意味な規律や時間を守らなくてはならなくなる。
礼拝で計られていた時間は断ち切られ、
始業・就業の時間に人間が縛られるようになる。
敬虔なムスリムにとってこれは耐えがたい屈辱であったでしょう。
アッラーの前に平等であるはずのムスリムが、
異教徒の命令に従わなければならない。
しかも最も重要とされる礼拝の時間が危機にさらされたわけだからだ。
教育も荒廃。
兵制改革や義務教育などを通して、
西洋の唯物論的世界観や物質的知識を覚えなくてはならず、
その過程で、イスラムの知の習得は犠牲にされた。



(カルヴァン派の変形、労働教では定時時計が必須。
日本も食らいまくった。
西洋の暦で季節感を破壊。
不定時法の廃止、
遅刻の誕生など。




原理主義とはイスラームの根本であるクルアーンとハディースに忠実に、根本的なことを大事にする態度であって、
クルアーンにもハディースにも具体的な規定のない些細なことにこだわり、
勝手に決まりを作ろうとするのは些事拘泥主義と呼ぶべき。

些事拘泥主義の例が
サウジアラビアの法学者が出したファトワ(宗教見解)。
雪だるまは反イスラームなので禁止とし、
像を作るのは遊びであっても許されない。
木、船、果実、建物など魂を持たないものなら作ってもよろしい。
以上のように回答したとのこと。

(木にも霊的なものを見ているはずなんだけどなあ。



基本的にサウディアラビアのワッハーブ派はこういう些細なことにこだわる傾向がある。

一般向けの解説書を見ると、イスラームでは偶像崇拝禁止なので異教徒の偶像は破壊され、美術でもアラベスクや幾何学文様、書道などが表現手段の中心となったという記述がみられる。
しかし本当にそうか。旅したことがあるならかならずしもそうでないと気付くと思う。
アジアや西洋に比べれば絵画や像は少ないが、イランの細密画などには人や動物がたくさん描かれている。ほとんどのイスラーム諸国ではお札に為政者の顔が印刷されていたり、為政者の顔写真がいたるところに貼られている。

注意しないといけないのは、
偶像崇拝と、像や絵画の作成は同じではないこと。
創って拝むなら問題だが作成すること自体はどうか。
クルアーンには像を作ることを禁じる章句はない。
ハディースでは動物の像を描いたり彫ったりすることを禁じる記述がある。
それは偶像を拝むという信仰にかかわる問題ではなく、あくまで法学的にやってはいけないレベルの問題。
像をつくったことへの罰則規定もない。
ハディースに、ムハンマドは幼妻のアイーシャが人間で遊ぶのを黙認した、という記述がある。
ゆきだるまをつくって遊ぶことは反イスラームとはいえない。

(サウジってイスラームを利用して民から搾取しているだけじゃね?
弱者からの搾取は神の命令に反するのでは?
でも人形は持って行ったり作ったりしちゃちゃだめだよ。
イスラームうるさいくせに不勉強が奴がいるからね。
男女とも半ズボン禁止で長袖。
上半身は女性は肌を隠すこと!
あと男性はあごひげはのばしておこう、少しぐらいは。

偶像崇拝で特におかしいと私が思うのが十字架を拝むこと。
処刑器具じゃん!
十字かはイエスを殺した不吉なものだからシンボルにするな!
って言ったまともなボゴミール派は異端とされたのさ!
ドラクエ11の元ネタの一つね!





フランスで2015年にムハンマドの風刺画を掲載した新聞社が過激派に襲われた事件があるが、これについての報道のほとんどは偶像崇拝禁止と、西洋の表現の自由の対立という構図で論じられてきた。
しかし描画は禁止されていない。動物や人物画は見られるし、イランでは預言者の肖像画の描かれている本もある。
風刺画事件がイスラームにとって問題なのは預言者の絵を描いたからではなく、
まちがったイメージを流布して預言者を誹謗したから。
預言者については絵であれ文章であれ正しい伝承に基づいて真実を伝えなくてはいけない。
誹謗中傷は誰に対しても許されるものではないが、とくに預言者については厳しく禁止。


(預言者を誹謗中傷したから激怒したって当然だよね。
本記事も他の記事でもイスラーム本の偶像崇拝関連の個所は詳しくメモしています)

・われわれ日本人が慣れ親しんだ西洋的な概念、自由、民主主義、人権、平等といった概念はほとんど身体化されていて、それらが善であることをふだん疑うことすらない。これらがいかにあいまいで欺瞞を含むかは、預言者風刺画で表現自由の名のもとにそれに反発する自由を抑え込む欺瞞からも明らか。
自由をうたいながらフランスはムスリム女性がヴェールをつける自由を認めない。

イスラームにはなにものにも束縛されない人間の抽象的な自由という発想はない。
形容詞フッル、抽象名詞フッリーヤが自由を意味するが、古典アラビア語では、
アブドゥ(奴隷、下僕)ではないという意味でしかない。
自由とはドーナツの穴のようなもので、ドーナツ本体は法あるいは制約を表しそれがないところを自由と呼んでいる。
存在するのはドーナツであり穴が存在しているわけではない。
なのでこの国には自由があるとか自由がないとかといういい方には意味がない。
あるない問題ではなく国によってドーナツの形が違うだけ。
この国では穴にあたる部分がほかの国ではドーナツで占められている。
自由がないのではなく制約の範囲が違うだけ。

イスラームでは妻は四人までもてるが日本では一人までだから日本は自由でないとはわれわれはあまり思わないのではないでしょうか。西洋的な自由の穴の範囲が普遍的だという考え方をほかの価値観をもった人たちにも押し付けることによって問題が生じている。
イスラーム法で自由な行為が成り立つのは、
人間の五つの行為カテゴリーのうち、
推奨 やったほうがいいもの
許可 やってもやらなくてもかまわないもの
忌避 やらないほうがいいもの
の三つの領域。
神の定めた義務と禁止以外の領域が人間の自由にまかされているのであって、
ほかの束縛を一切受けない抽象的な自由という観念はもともとない。
いかなる社会でれ、法の禁令があり、その禁令の及ばない自由な領域がある。
そのことに自覚的であり、それを主体的に引き受けるのが自由に対するイスラム的な向き合い方。

民主主義とは制限選挙寡頭制。
国民主権、国民こそが支配者とはフィクション、虚構、嘘。
民の意志と言いつつ一部の人間が多数決で選んだ少数の者たちが、
大衆がほとんど認知していない法律に基づいて政治を行うシステムを民主主義と呼んでいるだけ。
(多数決主義は全体主義であって民主主義ではないけど、この全体主義は大半の教師は大好き。
教師じゃなくてもたいていの人は大好きだけど)

国によって制限の幅は異なるが寡頭にあたるものが王様や独裁者や内閣や議会など違いはあるが、制限選挙寡頭制。
ヨーロッパには民主主義があるが、アラブにはない
は不正確で、選挙の制限範囲が違うだけ。

また民主主義とは国民が国会議員に立法権を与えてそれに従うシステム。
人に立法権を認める時点で人が人に従うことを否定するイスラームとは相いれない。

日本では義務教育がありながら法律はほとんど習わない。
罪刑法定主義(どのような行為が犯罪となり、それにどのおうな刑罰が科せられるかは既定の法律によって定められる主義)の建前を掲げるが、
義務教育では刑法の殺人罪や窃盗罪され教えられない。

(労働法をまず教えるべきだが教えない。
一番必要なのは有用な議論の仕方だが。
事実と個人的感想をごちゃまぜにするやつとは話ができない。
裁判官ですら、こいつむかつくから重罪にしたい、
という人の性から逃れられないのに、
一般人に裁判員やらせたら証拠ではなく印象の良い悪いだけで判断するのは必然)

スンナ派のカリフ制も制限選挙寡頭制。
シーア派のイラン・イスラーム共和国でも隠れイマーム(導師)が再臨するまでの期間は、間接選挙によってえらばれた最高指導者を頂点に、
直接選挙によってえらばれた大統領や議員が統治する制限選挙寡頭制。


・命の値段はラクダ百頭。

ヨーロッパ的人権概念は普遍的ではない。
イスラームは基本的に義務の体系。
権利はあくまで義務の裏返し。
イスラームで基本的人権にあたるものがあるとすれば、
イスラーム法における権利と義務の体系。
カリフがイスラーム法によって統治する土地(ダール・アル=イスラーム)が存在する場合には、そこに合法的に居住する者すべてに対して宗教、民族、性別などによる差別なく生命の安全が保障される。
ただし、イスラーム法では、殺人、強盗殺人、背教、姦通罪などに対しては死刑を認めている。

西洋の多くは平等をうたっているが国民と非国民にわけて国民だけで大地を囲い込む領域国民国家というイデオロギーがすでに平等の理念にあからさまに反している。

イスラームでは神の前ではだれもが平等。神は無限に遠い存在であり、神と人の差異に比べれば、人間同士の差異はほとんど無視できるほどに小さい。
その点ですべての人間は平等。
同時にイスラームではすべてのものは別々だと考える。
人間は唯一無二であり、同じ人間はおらず別々に扱われるべきだが、人間の情報処理能力では不可能なのでカテゴリーに分類して同一カテゴリーに属するものは法的に同一に扱うことにするのが、イスラームでの法の下の平等。
人権思想と結びついた理想化された抽象的な平等とは違う。

(西洋は理想化が好きだが実行がめちゃくちゃ。
現実にまったくあっていない理想=設計図だから上手くいかなくて当然。
現実に即して設計するのではなく、設計図に現実を無理やり合わせるって経済学だな)

西洋では平等といいつつ保険や賠償、慰謝料などの計算で命の値段を生涯賃金などによって別々に算出する。稼ぎが大きいなら命の値段は高く、無職だったり社会不適合者だと安くなる。
イスラームでは平等で、殺人の損害賠償額はムスリムの自由民ならカリフだろうが生活保護を受ける喜捨受給者だろうが一律にラクダ百頭。
ただし女性の損害賠償額、異教徒の損害賠償額は男性ムスリムより少ない、というのが通説。
(平等じゃねえ!)


カトリックの教会(エクレシア)はもともとキリスト教共同体を意味していた。教会は建物であると同時に法人。
モスクはどこにも属さないし、ムスリムもどこかのモスクに登録されるのではない。

イスラームだと法人否定。つまりキリスト教会組織も否定。
建物と組織は分けないといけないのかな)

モスクの建て方。
ここにモスクをたてたいという寄進者が土地を購入し、
建築費を負担して上物(うわもの。その土地の上に建っている建造物)をたて、
できたモスクを神に奉献し、所有権の移転を永久凍結し、
まわりに店舗や住宅、農場などを建てて、その収入をモスクの維持管理費に回す。
モスクのそばにクルアーンを学ぶ学校を建てることもある。

モスク建設は基本的に個人の寄進者による。
スルタンやカリフのような大権力者が多方面に寄進して多くのモスクをたてることはあるが、基本はあくまで個人で中央集権的な組織とはかかわっていない。
慈善事業のために寄進された財産や建物は土地はワクフと呼ばれイスラーム経済で大きな位置を占めてきた。
ワクフは止めるという意味でワクフとなった土地の所有権は永久停止。
よっていったんたったモスクは壊すことができない。

(所有権の移転を永久凍結に注目!
まわりに店舗や住宅、農場などを建てて、その収入をモスクの維持管理費に回すまでするのが素晴らしい)


近代以前はイスラーム世界の土地の半分くらいがワクフ。
近代になりイスラーム世界が国民国家システムの中に取り込まれると、
ワクフの国有化が始まる。
これはイスラームにとって大打撃。
国有化とは宗教が国家の管理下に入ったということ。
以後イスラーム世界全土で宗教の自立性がいちじるしく失われていく。
現在、エジプトにはワクフ省という役所があり、登録されていない人は説教も禁止。
説教内容をワクフ省の人があらかじめチェックすることもある。
ただし、
シーア派のイランではワクフ国有化がうまくいかなかった。
当時のパーレヴィー国王はワクフの国有化を実現して宗教を骨抜きにしたかったが、ワクフ管理権を持つウラマー(学者)たちが断固として抵抗し、ワクフを守り抜いた。
イラン・イスラーム革命が成功したのはワクフ国有化を許さなかったことで宗教の力が維持されたことが大きな理由の一つといえるだろう。


(パーレヴィー王朝はCIA支配下ってシーア派概説書に堂々と書かれていたな。
だから今のイラン共和国は反アメリカ。
キリスト教勢力がずっとやっているのがイスラームの力をそぐこと。
ワクフは福祉でもある)


・イスラームは政教一致ではない。
カリフ制は宗教国家、神権国家ではなくむしろ世俗国家。
神に代わって人の罪を許す聖職者もいない。
いるとすれば法に詳しい人間とそうでない人間がいるだけ。
その意味ではかなり早い段階から政教分離。

サウジはムスリム女性はみな顔と体を黒い布ですっぽり覆い隠していて、
車の免許もとれない。
礼拝時間になると町中の店が閉まる。
それだけ見ると政教一致に見えるがサウジでも政治と宗教はしっかりと分かれている。
たとえば、
サウジの人に
イスラーム法では税金はないはずなのに、サウジではあるね。
ムスリムは本来イスラーム世界を自由に出入りできるはずなのになぜ日本人ムスリムにはビザがいるの。
どうして同じムスリムなのにインドネシア人は給料が低いのか
など言うと、
サウディ人はスィヤーサといって口をつぐむ。
スィヤーサ=政治。
政治の領分であり王族が語るべきことで一般人が語るべきではないということ。


・政教一致のシーア派

スンナ派カリフは世俗的指導者だが、
シーア派のイマームは無謬の存在でありムハンマドの後継者に選ばれたとし、
このイマームの絶対的権威を認めることがシーア派ムスリムの条件となっている。
イマームの無謬性や絶対的権威を認めないスンナ派は、
シーア派から見るとムスリムではないことになる。

イランの十二イマーム派では九世紀の終わりごろに十二代目イマームが地上から姿を消して霊的な次元に隠れ、いまなおその状態が続いているとする。隠れイマームが最後の審判の前に再臨するのが十二イマーム派。
シーア派のイマームの権威は非合理的で神秘的でありその政治は神権政治。

・大学で当時の指導教官に入信したと告げると嫌な顔をされた。
文化人類学などでは、調査対象に感情移入しすぎて中に入ってしまうと、
客観的調査でなくなるといわれる。
でもイスラームを客観的に研究するというのはそれとはちがう。
客観的とはいいつつ、西洋フィルターで見ている。いわゆるオリエンタリズム。
オリエンタリズムすべてが悪いのではないが、それでは見えなくなるものもある。


・アラブのIBM


インシャアッラー
タクシーに乗ってどこそこへ行ってほしいというと
インシャアッラーと返される。
神が望まねば着いてくれないのかとあきれる人もいるが、
結果は神にゆだねるほかはないというイスラームの発想。


ボクラ(明日)


マレーシュ(なんでもない)

上記三つを合わせたIBMはアラブ人の仕事を揶揄する意味を込めて使われる。
これは皮相な見方。

(労働教信者は自身の信仰が打ち砕かれまくって目が死にそう。
動労教信者は元から目が死んでいると言ってはいけない)


役所で手続きなどをしようとすると担当者がお茶を飲んで仲間同士でおしゃべりしながらボクラと言ったりする。これは文字通り明日ではなく
今ではない
という程度の未来を意味する。
明日もう一度くれば手続きができるのではなく、
今ではないが神が望めばいつかはなんとかなるかもしれない
と受け取るべき。

(後でやる、そして後もやらないって意味にとられても仕方ないのでは?)

マレーシュは
なんでもない、きにするな、すみません
といった意味で過去に起きてしまったことに対して用いられる。
うっかり他人の靴を踏んでしまったとき両者がともにマレーシュと言うこともある。
ただしマレーシュといっても問題が解決しない場合もある。
車をぶつけてしまった場合、
マレーシュと言ったら
ムミシュマレーシュ(なんでもなくない)
と返されるだろう
エジプトでは相手がどう考えているかは気にせずに、
互いに好きなことを言い合う。これは喧嘩ではなく交渉。

(一般的日本人だと、好きなことを言い合う時点で喧嘩とみなされるもんね。
相手の文化とか知りようがないのだからとにかく外に向って言わないとどうしようもないからまずは言い合うのだろう。)

外国人がタクシーに乗ると料金でもめたりする。メータは大抵壊れているし、そうでなくてもそこの料金とは異なる料金を請求されたりする。
外国人観光客の中には理不尽だとか嘘つきだとかいう人がいるが、
タクシーに定価があるべきだという発想そのものをなぜ疑わないのか。
タクシーはいつも一定のサービスが提供できるわけではない。
そんなサービスに定価があると考えるほうがおかしい。
エジプトでもお金持ちは沢山払う。
外国人はお金持ちだと思われているのでたくさん払うのはある意味当然。
いやなら交渉すればいい。
相場を知っていたり情報を持っていればぼられることはない。
たとえば、
カイロのイスラーム地区にある有名な市場であるハンハリーリに行くのはいかにも観光客然として英語で
ハンハリーリ、プリーズ
といったらそれはぼられて当然、
ハンハリーリに面してフセイン・モスクという庶民に人気のあるモスクがあるのだが、
そこを目的地としてたとえば
サイドナー・フセイン、インシャアッラー
われらが長フセイン様の許へ
といえばまずぼられない。


・気前の良さ(カラーマ)こそ美徳。
自分にお金がなくても自分より貧しい人がいると条件反射的にお金を与える。
無意識、身体的。あらゆる階層の人々に共通。


町中で食事をしている人と目があったりあいさつを交わしたりするとかならずといっていいほど、
ここへきて一緒に食べろ
と勧められる。
これも染みついた自動反応。
おもてなし文化は
中東では宗教にかかわらずどこにでも見られる。
人が来たら泊めて食事を出してもてなす。
お金がない人には施しをする。
困っている人がいれば皆で助け合う。
砂漠では分け与えるのが当たり前。

(日本のおもてなしっておもてなしじゃなくて
かねもうけ

だもんね)

・利子とはお金をため込むと利息が発生して資産が増える仕組み。
預けるとは余剰分のお金を滞納しているのと同じ。
物やお金の流れが滞り持たざる者や食べられない者は困る。
日本では貯蓄は善とされ老後に備えて貯金して子孫に財産を残すことが美徳とされてきた。
人生の目的や価値はあたかもどれだけ稼いできたかで計られがちだといっても過言ではない。
(日本人がやたら貯蓄するのは税金が高すぎるからって他の本で言ってた。
人生の目的や価値はあたかもどれだけ稼いできたか
=労働教、拝金主義)


しかし人の命は永遠ではない。
ハディースには、
本当の自分の財産とは使ってしまったものだけだ。残して持っているものはやがて相続人のものになるだけなのだから
とある。
お金はため込むよりもどんどん回す方が世のため。
いつ訪れるかわからない死をつねに意識していかに今を充実させるためにお金を使うかがイスラームにおけるお金の考え方。
なのでイスラームには貯蓄とか銀行とかという発想がもともとない。
滞納するくらいなら喜捨するか貸せばいい。貸す場合は利息無しの無償貸与。

投資も構わない。投資にはリスクが伴う。損したらリスクは当人が負う。
利子は流れをせき止めているだけ。
イスラームは利息を禁じることでお金の流動性を高めている。
イスラームでは返せない借金は返さなくもいいことになっている。
強制取り立てはできない。
貸し損にはならない。借金をチャラにしてしまうと死後天国での位階があがるとされる。
借金棒引きは喜捨するのと同じ。
イスラームの浄財の使い道の一つに借金の肩代わりがある。
借金で首がまわらなくなった者は、貸した人が債権を放棄してくれなくても浄財を集めた国庫に申請すれば借金を返すお金を回してもらうことができる。

イスラーム金融は嘘だらけ。
実態はイスラーム的ではない。
本来イスラームは不換紙幣を認めない。
紙幣になぜ価値があるかというと、国家がこの紙には価値があると勝手に決めて人々に押し付けたから。実際はただの紙切れ。国家が決めた約束ごと。

イスラームの正貸とは金貨や銀貨。
金は総量が決まっており希少性ゆえに価値尺度としての安定性は抜群。
価値なき紙切れに国家が近田ずくで通貨としての価値を与えることが反イスラーム。

ただし正貨が金銀でも持ち運びが大変なので代わりに為替を使うことは許される。
ヨーロッパのチェックの語源はアラビア語のスィッカ。
イスラームでは金銀の代わりに小切手で決済を行う信用取引が発達していた。
金銀との交換が可能な兌換紙幣はイスラームでも認められている。
金銀の裏付けなき不換紙幣は禁止。
マレーシアでは紙幣に金貨をはめ込んでパウチしたものを使っている州がある。

イスラーム金融が非イスラーム的なのは利子をとっていないが、利子に当るものを実質とっているから。
時価百万円の車を買うのに、
買う側が年利50パーセントで、
一年後に百五十万円払う契約で銀行から百万円を借りて、
その金で買う側から車を買えば利子の禁止に抵触してハラーム。
ところが、
イスラーム銀行と称する会社が車を売主から百万円で買い上げ、それを代金一年後の後払いの百五十万円で買う側に売ればお金の流れとしては年利50パーセントの利息でお金を借りて買ったのとまったく同じなのにハラール(合法)になる。
利子回避の脱法行為は古典イスラーム法学でも多くの実例があげられている。
イスラーム銀行は詐欺だと中田は思っている。
イスラーム銀行には
不換紙幣による取引
利子付き貸し出しによる信用創造をおこなう中央銀行との関係
イスラーム法の認めない法人
など根本的問題がある。

(イスラームの不換紙幣禁止と法人禁止とかもぶっ壊して不換紙幣の中央銀行の信用創造でヤソは支配したいから、金融分野は浸食がすすんでいるのだろう。

利子禁止の理由はお金を停滞させるのを防ぐためか。そしてそれは弱者救済につながる。
だって貯蓄しろってしたら喜捨するお金がなくなるじゃん!


移動生活してきたから身に着けられるものと知恵と技術とかが真に自分の財産だと考えているのだろう。
知恵についてこんなのがある。
このbotかなりためになる。
幼少時からこうした知恵を教えられ続けたら嫌でも頭がよくなるし、
成功するだろうね。


もし生活が貧しくて物を売らなければならないとしたら,まず金,宝石,家,土地を売りなさい.最後まで売ってはいけないのは本である。

賢い人はアイディアを語り、普通の人はモノについて語り、愚かな人は他の人について語る。

最上の名医は地獄にいる/最上の名医でも地獄に落ちることがある。(ユダヤに律法では医師はその医療ミスによって殺人罪等に問われることはありません。しかし、その動機が常軌を逸した金儲けである場合は免責されない。)


もし、神が地上に住んでいるなら、人間は、神の家を壊しているだろう。

何も打つ手がないときにも、ひとつだけ必ず打つ手がある。それは、勇気を持つことである。

金持ちに、子供は居ない、後継ぎが居るだけだ。

失敗を恐れる方が、失敗を犯すよりも悪い。

本のない家は,魂を欠いた体のようなものだ。

隣人とつねに平和を求めよ。隣人を楽しい席に招け。どの国から来た者も、豊かな者も貧しい者も、同じく裸で生まれた。そして最後には同じく土に眠るのである。

全人類は、たった一つの先祖しか持っていない。だから、どの人間がどの人間よりもすぐれている、ということはない。

人は3つの名前を持つ。両親が生まれた時につけてくれた名前。友達が親愛の情を込めて呼ぶ名前。そして、自分の生涯が終わるまでに獲得する名前である。

人間は、20年かかって覚えたことを、2年で忘れることができる。


楽観は、自分が明るくなり、他人も明るくする。

あなたが知識を増やさないということは、実は知識を減らしていることになる。

自分の肩書きを人に教えようとする人間は、すでに自分の人格を傷つけている。

忍耐力のないものは教師にはなれない。

相手の立場に立たないで、人を判断するな。

もしあなたの周囲に傑出した人がいないなら、あなたがならなければならない。

自分で自分のためにやらなければ、誰があなたのためにやってくれるか。

学ぼうとする生徒は、恥ずかしがってはいけない。

貧しい人の息子はたたえられよう。人類に英知をもたらすのは彼らだからだ。

今それをしなかったら、いつできる日があるか。

自分のことだけ考えている人間は自分である資格すらない。

記憶を増進させるもっともよい薬は、感服することである。

学校のない町には人は住めない。



・ハサン中田の博士論文執筆の家庭教師はイスラーム主義者(サラフィー主義者)のムハンマド君。

カイロ大学に留学したのは博士論文執筆のため。
中田の専門はイブン・タイミーヤ(12から13世紀)のシリア生まれのイスラーム法学者。
イブン・タイミーヤは今日のサラフィー・ジハード主義の創始者とされる学者。
サラフィー主義とはクルアーンとハディースに基づく初期イスラームへの回帰を旨とする立場で、スーフィズムに由来する聖者崇拝や、
聖廟への参詣を厳しく批判。ジハードはイスラームを脅かそうとする異教徒との戦いという位置づけ。
しかし
イブン・タイミーヤはムスリムなのにシャリーア(イスラーム法)に背く統治をしている為政者に対してもジハードが成り立つという革命のジハード論を唱えた。

これがジハード団やアルカイダなど現代スンナ派の武装勢力の思想、サラフィー・ジハード主義と結ぶつかっていった。

サラフィー・ジハード主義は狂信的で暴力的なイメージがあるがそうではない。軍事部門の人については付き合いはないが、ムハンマド君のようなダウワ(布教啓蒙)部門の人たちはそういうタイプではない。
私の知るサラフィー・ジハード主義者は普通のエジプト人たちよりも礼儀正しく、正直で、教養もあり信頼に足る人たちだった。

(作者が自身の立場を表明している貴重な個所)

近代のジハード主義者たちはイスラーム法に従っていない為政者は背教者でありそれは異教徒より悪いとして打倒の対象にした。
しかしサラフィー・ジハード主義者はジハード主義以前にサラフィー主義なのでサラフィー主義者の主要な関心は政治以外のところにある。
黒魔術や聖者崇拝、悪魔やジン(精霊)といったイスラーム世界に広く見られる民間信仰との戦い。
ムハンマド君は除霊を依頼され、除霊経験はなかったが、ハディースには預言者ムハンマドが悪霊を破った記述があり、やりかたも書いてあるのでそれを知っていたムハンマド君は精神科医に連れられて看護師のもとにいった。
その看護師は尋常ならない様子だった。
ムハンマド君は除霊にきくクルアーンの個所を朗唱し悪霊を追い払いたまえとアッラーに祈りをささげると看護師は正気にかえった。
看護師はキリスト教徒の経営する病院に通っていて、そこでクリスチャンの医者に言い寄られたが、拒絶したら呪いをかけられて意識を失ってしまったとのこと。


(魔術戦だ)
黒魔術は悪魔やジンの力で行うもので根拠なき迷信ではない。
サラフィー主義者は基本的に政治への関心はあまりない。
サラフィージハード主義者は政治意識が強いが、ほとんどのサラフィー主義者にとってはもっとも大きな関心はイスラームを冒涜する黒魔術を使う者たちを滅ぼすこと。
これは外国メディアではほとんどニュースにならないのですが、イスラーム世界全体にみられる現象。
とくにシリアは黒魔術がさかん。
攻撃対象の優先順位は
1 黒魔術、聖者崇拝
2 シーア派
3 外国勢力


サラフィー主義者があてにならない裁判所のような公権力に代わって社会風紀や道徳を守ることに一役買うこともある。
彼らが弾圧される一方で、現場の警察の中には彼らの役割を評価するものもいた。


・スーフィー教団にも出入りする著者。

スーフィーとは、日本では一般にイスラーム神秘主義と呼ばれることが多いのですが、もともとは九世紀から十世紀頃、イスラーム法の定める規範に従った日常生活に飽き足らず、神に身も心も捧げる生き方を追求した修道者たちの運動。
イブン・タイミーヤはスーフィーが犯している誤りについて厳しく批判しているが、タイミーヤ自身はイスラーム法を重視するカーディリー教団に属するスーフィーでスーフィズムそのものを否定していない。
スーフィズム批判も学んでいたが、スーフィズムは原理的には正しいとも感じていた。
スーフィズム的な部分をすべて否定するとイスラーム全体が成り立たなくなる。
批判されている側も批判する側も研究するのが学問。

(対立する思想を両方学ぶのは大事)

イスラームには組織がない。
スーフィー教団の場合、師匠と弟子の一対一の関係を重視し、その一対一関係をベースにネットワークが広がっている。
メンバーも常に流動的。

・イスラームでは預言者ムハンマド時代に霊的な意味で頂点を迎え、あとは徐々に没落していくとする。

・スーフィズムへの誤解。
イスラームでは聖俗を明確に分けない。
キリスト教の修道院のように世俗を断ち切った別の世界を作る発想がイスラームにない。


スーフィズムはしばしば聖者崇拝と結びつく。
スーフィーの中には奇跡をおこなったり病気を治したり、神の言葉を伝えるものもいる。
そうしたスーフィーは聖者として尊崇を集め、死んでからもその墓には特別な力があると信じられ、人々が願掛けにやってくるようになる。
エジプトでも聖者廟に詣でて子宝祈願、病気平癒、合格祈願など現世利益を求めて願掛けする人は後を絶たない。
このような聖者崇拝はイスラーム全土にみられる。聖者をイスラームは否定しない。

・カトリックでは聖人や聖遺物には奇跡を起こす力があると考えられ聖人を教会が公認しているが、これはほとんど多神教。
イスラームでは聖者の存在は認めるが聖者か判断できるのはアッラーだけ。
願いを聞き届けてくれるのもアッラーだけなのでそれなら聖者ではなくアッラーに直接お願いしなさいというのがサラフィーの考え。
反イスラーム政権や外国勢力との戦いをしているのはサラフィー主義者の中でも少数派のサラフィー・ジハード主義者がやっていること。
大多数のサラフィーは政治に疎い。
実際にイスラーム世界の多くの地域でジンをはらうとか黒魔術を撃退するとかの方法を書いた実用書がたくさん出版されている。


・神秘体験は救済と無関係。
イスラームの救済はムスリムになることで、死後アッラーよりもたらされる。
神秘体験とはただ、あるだけ。


アッラーは人格を離れてはありえない。
人間だけに人格があるという発想は間違い。
アッラーは人格を解体した果てではなく、
人格化を進めたところにある。
イスラームはどう妥協しても東洋思想的にはならない。
アッラーは外在の存在。


・ダール・アル=イスラーム(イスラームの家)
=イスラーム法で治められている土地。

それ以外
=ダール・アル=ハルブ(戦争の家)


ダール・アル=イスラーム(イスラームの家)は理念的には一つで、ムスリムなら人種、国籍、民族を問わず、
たとえダール・アル=ハルブ(戦争の家)に住んでいようとウンマ(イスラーム共同体)の一員として、
だれでも受け入れるし、自由に移動することができる。
ダール・アル=イスラーム(イスラームの家)にはムスリムだけではなく、異教徒も住むことができる。
キリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒、仏教徒、ヒンドゥー教徒も含まれる。
彼らはイスラームの秩序を乱さないという誓約をして、ジズヤ(人頭税)を払えば宗教的に自治を許され共存できる。
ジズヤは定額制で成人男子にだけ課される。
額については諸説あるが、有力説では、
富裕層なら年間4ディナール、いまだとだいたい七万五千円くらいとひじょうに安い。
中間層はその半分、
貧しい人はさらのもう半分、
それより貧しいと免除。
イスラーム法の定める範囲内で、改宗無しで自分の宗教を守れる。

(安!
年間でかよ!
イスラーム圏は税金が安いよ。貧しい人からはできるだけ金をとらない。
日本の消費税は生活必需品にかけるうえに、多重課税で、どんな貧困層にも課税し、子供にもかけるからな。格差を広げるために実施したのが消費税だからね。
金持ちから金とる方がより多くとれるのに、貧乏人の方がより負担がかかる消費税を積極的に実施するのは搾取のため。
異教徒への対応が寛容。
キリスト教なら改宗か追放か殺害か、
自治を認めるが重税と差別だな!)


オスマン帝国時代の
ダール・アル=イスラーム(イスラームの家)は植民地支配で分断される。
植民地支配から独立してもダール・アル=イスラーム(イスラームの家)の復活ではなく、
国境で物流と人の移動は制限され単一のウンマの一員だったムスリムは国家に忠誠と服従を余儀なくされ、ムスリム、異教徒を問わず国民としてまとめ上げられてしまっているのが現状。

イスラームは法の論理に結びついた宗教であり、責任能力がなければ罪にならない
責任能力には知識も含まれるので
知らなかったのではすまされない
ではなく、
知らなかったら義務も責任もない。

・イスラーム主義者を生み出すのは貧困や搾取だという説明がテロが起こるとまことしやかに言われるが正確ではない。
多くのイスラーム主義者を動かしているのはイスラームの教えを守る生活のための抵抗。

スカーフの着用、職場で定刻に礼拝などへの抗議であり、近代や西洋そのものを敵視しているわけではない。

これもうヤソ側がジズヤみたいなのやってそのかわりムスリムは宗教的生活をするために便宜を図る制度創る方がよくないか?
ヤソが創るとジズヤを高額にしそうだけど。
講和条約と住み分け


・ヨーロッパは殺戮の歴史でありイスラームの比ではない。

・イスラームは、EUをモデルに国境を越えた移動を実現し、通貨統一し、巨大な経済圏を作り上げ、国家システムをなくす。
客人を歓待する、持っているものは回す、助け合うイスラーム社会の精神をさらに強める。
イスラームはもともと強い支配機構を必要としないシステム。
国家は治安と防衛という最低限ラインだけを守るのがかつてのイスラーム世界。

・カリフは独裁者ではなく、権限は限定的。
戦争するかどうかの決定、
ザカー(喜捨)やシズヤの徴収や分配、
裁判官の任命など限られた権限。
カリフは教育にタッチしない。
国家が教育を行う、義務教育とは国家が検定した情報と価値観をすりこむことで人々に国家に対する疑問を抱かせなくするシステムであり、洗脳。
日本も含め現代の教育ベースになっているのはヨーロッパのキリスト教文明。
キリスト教文明では国家が人間の肉体を支配し、教会が人間の心を支配していた。
告解や懺悔という制度は人間の内心を教会の支配下に置くことを目的としていた。何を考えているか心に何を抱いているかを管理するのが教会。近代になり教会の権限が失われると今度は国家が管理する学校教育がその役割を担う。
(学校は教会の後継者で内心を監視する役割!)


イスラームでは人の内心を知るのは神だけ。
クルアーンでも詮索してはならない
とある。
教育は社会や共同体が行えばいい。
国家が介入しなくても無秩序な混乱は起こらない。
教育も結婚も国家がなくても問題なし。

・イスラームでは法人を作ってはいけない。
商売ではすべてにおいて個人が責任を負う。
法学派によるが、最大でも二つ以上の約款をつけた契約をしてはならない。
アメリカのように訴訟に備えて何百ページも契約書をつくらない。
そんなことをしなくても何億円単位の商売をしている個人経営の小さな店もある。

(約款=条項。

法人を認めないということは宗教法人を認めないってことね。
法神の否定。
宗教法人(教会)=偶像邪神の否定であり、
企業=偶像邪神の否定でもある)


・現在のグローバル経済の主流は欧米の新自由主義であり、自由な経済ではない。新自由主義は国家の力を背景とした経済であり政治と経済が分離していない。超大国がグローバル企業に有利な法律を作ってそれを力づくで外国に押し付けることで非関税障壁を取り除こうとするのは自由主義ではなく国家主義。

本来の経済自由主義なら不当な取引をする企業とはだれも契約をしなくなる。
新自由主義は国家による統制経済であり、国家をコントロールしているのは一部の金持ちたちであり自分の利益のために法律を作っている。


・厳格なサラフィーであるワッハーブ派にとってシーア派は最大の敵であり、
法学的にもシーア派はカーフィル(不信仰者)とみなされる。
シーア派もスンナ派を神学的にカーフィルとみなしている。
タキーヤ
=危害が加えられる恐れのある時に信仰を隠すこと。

(タキーヤのせいで、スンナの過激派は問答無用でシーア派を殺すらしい。
タキーヤはスンナ派も別にしてもいいことに注意)


・宗教交流イベントが具体的に実を結んだ例はほとんどない。
ほとんどがイベント・ビジネスになっているから。
仲良くしましょう、どちらも平和を愛する宗教と言う空疎な言辞。
宗教交流イベントがダメなのは、共通点ばかりをあげて、仲良くしましょうというだけで、違うところは無視しているから。
友達になる必要はない。価値観を共有しない敵同士がどのように対話するかが問題。交流ではなく交渉。
イスラームはほかの宗教とはけっして価値観を共有できない前提に立つ。しかしそれは価値観を共有しない相手とは対話も交渉もできないということではない。
価値観の共有できない相手を、悪魔、テロリストと呼んで、いっさいの対話や交渉を拒み、殲滅しようとする欧米のテロとの戦いとは異なり、言葉が通じ約束が成立さえすれば共存の道はあると考えるのがイスラーム。

(共通点ばかりやたら言うのってエキュメニカルのためでもあるな)


・宇宙人が地球にやってきたらイスラームではどう対応するかと言うと、
まず宇宙人が食べられるかどうか。
それから宇宙人のところに預言者が遣わされていたかどうかを確かめなくてはいけない。
遣わされていたら、それはムハンマド以前の預言者なので、その法は破棄して新たにムスリムになってもらう。


・インタビュー

(イスラームがわかりにくいのは、日本人にとって宗教が悩みや苦しみなど心の弱い部分のサポートや癒しをつかさどっているイメージが強いせいもある気がするとインタビュアー)

中田
「子供が死んだりお金を失ったりするのはアッラーが決められたこと。
ムスリムにとってこの世の不幸は天国で報われる。これでは慰められませんか(笑)
礼拝すればいい。この世で救われなくても、礼拝すれば天国で救われる。
この世で救われなくてもいい。」

(日本人にとって宗教=生活ではないからね。
イスラームは宗教=生活。
信者でない人に役に立つこと言ってくれと言いたくなるが、私はこれで救われたと言いたいのはわかる。
来世がなかったらダメじゃん!
輪廻が正しいと仮定しても記憶が保持できないからやりなおしじゃないし!)


(悩んでいるときいきなり天国を持ち出されても本人はなかなか納得できないと
インタビュアーに言われて)

「悩みは個々のケースで違うと思いますが、
礼拝もできない人間にどうしろというのですか」

(中田先生は完全に宗教的救い=生活での実践なのでこう答えるよね)

(仏教だと苦しみそのものの構造を見つめなおすことで、苦しみから解放されるという発想がある。
キリスト教でも懺悔のような形で個人の悩みにアプローチする手立てがある。
イスラームではそういう視点が見えてこない)

(インタビューする人がうまい。
インタビューはする側がダメだと返答もダメになりがち)



こっからこ

参考資料

カルヴァン主義派生の労働教、生贄教、過労死教、軍隊システム










だから戦死する企業戦士。
朝礼もだな。



















国家とお金が神のようにふるまっていることの一例。




皇族の結婚式をマスコミ(またこいつらか)が大々的に取り扱って広めたのがみんながやってる結婚式でしょう。本来は自宅で祝言だわな














真ん中抜かすなという教訓。










悪魔が強くて悪魔大好きキリスト教







資本主義カルトはこういった町の店屋を潰したい。


" 一番大きいのは、人件費がほとんど掛からないことだ。町中華には、夫婦で切り盛りし、忙しい時間帯には子供も手伝うようなお店が多い。

また、自分の店で食事をとれば食費も浮くので、生活にかかる経費を大きく落とすことができる。さらには、店と自宅が共用であれば、家賃負担も大きくならない。

畢竟、企業において肝心なことは、固定費の削減にあります。

かつて、堀江貴文氏は以下の4つを兼ね備えた商売を「うまくいく商売」の条件としました。

1.利益率の高い商売

2.在庫を持たない商売

3.定期的に一定額の収入が入ってくる商売

4.資本ゼロあるいは小資本で始められる商売

在庫がなく、小資本で始められる商売とは、すなわち「固定費がゼロに近い商売」です。



余談ですが、そう言った経営を実践しているのが、芸能事務所です。”

えらいてんちょう@えらてんバー9/29‏ @eraitencho
「IPhoneは毎日使うもので10万くらい安くない、投資だ」の派生で、物書きはいいイス買え、いい仕事道具買え、そうすればパフォーマンスあがって収入もあがるとかそういう文章がたくさん流れてくるが、たいていの人間は高いもの買っても収入あがらないと思う。

ショボイ起業論としては、イスだとかそういうどーーーーでもいいことに金使うなんて言語道断で、イスは「高級なイスを買ったから前のイスがいらなくなった」というひとが捨てたイスを拾うという、ハイエナ方式を推奨している。ボールペンとか、拾い集めれば買う必要ないくらい集まるし。

金を払うことで自分の仕事のパフォーマンスがあがると思ってるとしたら本当に救えない阿呆だよな。金は払うよりもらうときにパフォーマンスが向上するもんだ。「買うのは簡単・売るのは難しい」というのは商人の共通標語だし、マルクスも「命がけの飛躍」といている。








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逃散=集団引越こそが有効。西洋がやろうとしているワンワールドは、 イスラームがある限り達成不可能。カワ(^◇^)ユイ『イスラーム 生と死と聖戦』 

初手ダジャル記事の補足
『如来のあまねく智慧の光』を象徴した「一切如来智印」も三角目玉の元ネタの一つじゃね?
この「一切如来智印」は本ブログのプロフィール画像のピラミッドの目玉ある部分に私が張り付けたやつね。
新規読者のために元ネタを書いて置きました。
密教ってかなりバラモン教寄りだもんね。
でも空で実体は否定するけど。
アメリカは今はWASP原理主義だけど、建国当初は真逆の思想だったのさ。
というか今もじゃね?
しっかし、三角目玉っていったいどれだけミーニングを込めているのだろう。
トリプルどころじゃなさそうだぞ。










これが神の命令であり人が果たすべき義務だからあれだけ広まっているのだろう。










え、日本?


(これ全分野においてだからね?
だってお金と企業カルトは神だもんね!銭ゲバの神って邪神じゃねーか!)

中田
ナショナリズムは偶像崇拝
イスラームでは不信仰よりも多神教の方が悪いこととされる。
多神教とは神でないものを神とすることであり、言い換えれば偶像崇拝。
イスラームから見るとイエスを神の子とするなんてとんでもない話。
仏教は不信仰に近いと思うが、それよりもナショナリズムのほうが罪が深いとイスラーム的には考えられる。
イスラームの定義では
神=崇拝されるもの。
主=命令を下す権力を有するもの。
命令を下せるものが主である。
主は神である。

国家も命令を下すものである限りそれはまさに神であるはずなのに、
実際の国家は人間が人間を支配する便宜のために作られた組織、フィクション、虚構の法人。
虚構の法人である国家は本来の神から見れば偶像神なのでイスラーム的には最大の悪。

だからナショナリズムあるいは、エタティズム(国家主義)は最悪の偶像崇拝だと私は思う。
国家を崇拝したり、帰依したりすることはイスラーム的には酒を飲むことなんかよりはるかに悪い。
人間が人間を支配するのはいけない。
国家も民族も人間が人間を支配するという不正を隠ぺいするヴェールにすぎない。
それをはっきり言える一神教はイスラームしかない。
今の人間はすべて国家に従っている。
戦争にしろ刑罰にしろ直接的に物理的な力を最終的に担うのは国家。
その力に従っている。
そうでないところではお金に従っている。
お金をくれる人に従う。
国家権力と金の力、これが現代の偶像神


逃散=一斉引っ越しは圧政に対抗する有効な手段
だから妨害に必死な支配層。



”あれだね。やっぱシムシティ大作戦が
正義みたいだね。クソ市長が統治した
場合、皆んなで集団引越し出来る制度。


つまり、欧米史上最大の天才はウイル・
ライトだったって事か。

イスラームの本読んでて感じるのは、
あの聖書って書物は西洋人の観念で
読んじゃダメだって事かな。

やっぱり中東人の感覚を持って読まない
とダメだな。

中田氏の「神」の定義が中々面白くて、
「神=人間の意志に対して何らかの
強制力を強いる物、命令を下す物」

で、現代の欧米型先進国は
「神=金、
国家、領土、企業」。

つまり、日本語の「法人」は本来
「法神」という綴りの方が正確。

「企業の偶像神化」w
こいつぁ良く考えたもんだぜ!

傑作だ!”
とまと

イスラームの
神が人を支配しないといけない、
人が人を支配するのはダメ、
についての私の解釈。

カリフなどの神の法の執行者がクズなら簡単にぶっ殺して別のよりふさわしい人をあてられるようにしていると思う。
人間であり、あくまで実行事務の部長にすぎない。
社長は歴代預言者。
オーナーは神。

当然、お金、企業、国家なども神ではないので明確な悪だと確定すれば、
神格化という障壁なしにぶっ潰せる。
私利私欲に走り搾取三昧しようとすれば物理的に文字通り殺される緊張感こそが大切。



人が人を支配すると、支配する側が神格化されるから、
実質的に、偽の神(人)が人を搾取することが簡単できてしまう。
神格化されると殺しにくくなるからね。
ほら、西洋の支配層って自分ら「だけ」は殺されないと思っているでしょ?
西洋に支配層も意外と「自殺、通り魔、事故死、病死、不審死、変死、心不全」しているけどね!
首相とかの人形を辞めさせても、別の人形が来るから無駄だけど、
人形が登場するたびに次の人形候補も含めぶっ殺していったら効果があるよ。

西洋がやろうとしているワンワールドは、
イスラームがある限り達成不可能。


アッラーから人格を抜くと、
仏教の法(普遍で不変)に近くなる気がする。
法を唯一の権威とし、それにより国と法人とお金を神として崇める思想を潰す。
仏教では
残酷刑は禁止。
豚どころか肉禁止。
輪廻という循環的時間と、
終末という直線的時間は相反する。
縁起と空の適用範囲次第では実体が容認される領域を作れる。
実際、仏教には実体の否定が不徹底な宗派もある。
そもそも仏教は無神論
(この神はゴッドという意味ね。神々は存在している)。

イスラームは神は唯一なので、人間に一方的に命令できる権威を持つ神以外の一切を否定することで、
人間が神格化した偶像を理由に他者を搾取する支配体制を否定しているのが重要。
絶対最強最上永遠無限の何かの素晴らしいお力。
拝金主義と、企業が運営する国家神リヴァイアサン崇拝を潰せるし。
イスラームはあれだけ弱者救済するから、労働教は絶対否定だし。
やろうとしたら端的に執行者が殺されるか半殺されるだろうね。
イスラームでは、金儲け的な意味での成功は本人の個人的才覚にはよらず、神のおかげだと考えるし。


イスラームは、人類の創造主はエイリアン説を否定しているのもポイント。
神は人の姿などいう限定した姿を持たない
ので、
イエスを神だとか神の子とも認めないし、
十字架上の磔による死も否定(生贄思想の否定)だし、
ヤソカルトにとっても非常に都合が悪い。
なおこのイスラーム思想はグノーシス系キリスト教の磔否定思想や、
イエスはただの人間とする派閥の影響がありそう。
要はカトリックに迫害されたキリスト教の異端(カトリック視点)派閥がイスラームに影響を与えた可能性。

全身を覆ってしまえば、服やファッションにうつつを抜かさなくなるよね。
外出するときのお化粧も軽くあるいはまったくしなくてもなんとかなる。
でも身内に見せるためにおしゃれはするよ。
男女ともに下半身の毛は剃らないといけないけどね

ユダヤ・イスラーム教の戒律で思ったけど、311のせいで魚介類を食べていけない戒律の人は長生きする傾向にこれからなるだろう。








史記の高祖本紀にある劉邦は秦の首都を攻略して秦の民に新たな法を布告。
1 人を殺したものは死刑
2 人を傷つけた者は罰する
3 人のものを盗んだ者は罰する



ハサン中田先生はこんな感じの人
(自伝みたいなイスラーム解説は次の記事)
ハサン中田ツイッタープロフィールが面白い。
https://twitter.com/HASSANKONAKATA
” 中田考
@HASSANKONAKATA

イスラーム学徒、放浪のグローバル無職ホームレス野良博士ラノベ作家、老年虚業家、「カワユイ(^◇^)金貨の伝道師」、
「皆んなのカワユイ(^◇^)カリフ道」家元、プロレタリア革命戦士(労働英雄)、食品衛生管理責任者。イスラームの話は殆どしませんが、全てはイスラームの話です。
バーチャル・ヒラーファ
bit.ly/9S1NHG
2009年8月に登録 ”







中田考『イスラーム 生と死と聖戦』

ムスリムがよく唱える
インシャーアッラー
=神様の御心に適うならば
=自分としてはできる範囲で全力を尽くすが、
人間の力の及ばないことについては神様の思し召し次第なので神様のお力添えを願う。

イスラームの感覚では、俺に任せておけば絶対大丈夫などと安請け合いすることは傲慢で、かえって誠意のない態度になる。
神様の思し召し、お力添えがあってこそいまがある、そのことに感謝して日々を生きるという謙譲の美徳。

剣かコーランか(改宗しないと殺す)は間違いで、
正しくは
剣か税かコーランか。
税金さえ納めれば改宗する必要もないし異教徒でも子々孫々まで永住権が保証される。
学会では常識。
(改宗しても税を払っても殺すのがヤソ教ね!)



ジハードは天国へのいちばんの近道です。これは過激派だからとか原理主義だからという話ではなく普通のイスラームの教義。
ムスリムであれば誰でも同じ死ぬのであればジハードで死にたいと思うのが本当なのです。ムスリムであればみんなそのはずです。

ジハードとは自殺でも自爆テロでもなくあくまで戦闘であって戦い抜いた結果。
死ねば天国に行けるというのがイスラームの教え。
イスラーム法学においてジハードとは異教徒に対するイスラームのための戦闘であるとされています。これがジハードの法学上の定義です。
イスラームを守って広めるための戦闘がジハードです。ですからムスリム同士の戦闘はそもそもジハードにはなりません。

あくまでイスラームのためであること,戦う相手が異教徒であること,という二つの条件を満たして初めてジハードと呼ばれる資格が生じます。これが法学的な定義です。
イスラーム法に従うならジハードは異教徒の攻撃からの自衛に限定される戦闘行為。
異教徒がイスラーム圏に攻め込んできたときの防衛抵抗反撃はジハードでありカリフの命令がなくても各人の主体性にゆだねられる。
一方で、
ダール・アル=イスラーム(イスラーム法が施行される空間)を拡大するためのジハードはムスリムの権威であるカリフの命令が必要。イスラームの使命とは改宗の推進ではなく、ダール・アル=イスラーム(イスラーム法が施行される空間)の拡張


ハディースでは敵を焼き殺すことは禁じられている。
現代の戦争でもちいられているのはミサイル、爆弾、重火器などどれも人を焼き殺すものばかり。
空爆によって兵士以外の一般市民も巻き添えにされているが、これもイスラーム法では犯罪。
大量破壊兵器を用いる現代の戦争はあからさまにイスラームの倫理に反する。

(銃は許してあげておくれ。

イスラム過激派とか原理主義がイスラムの教義では地獄行きのことをやる理由は、
スポンサーがキリスト教勢力だからだよ。
イスラムのふりをしてイスラムを叩くのさ。
だからイスラムの教義を破っていて当然。
偽旗作戦。人工芝。グラディオ作戦。



そうえばジョジョのアブドゥルって火を使うよね?
あごひげを伸ばしていないからムスリムではなさそう。
カトリックでもプロテスタントでもないキリスト教宗派かな?
ひげも伸ばしてないし。

【ジョジョ】みんなでアヴドゥルの過去を考えてみよう | ジョジョ速
http://jojosoku.com/archives/445533412.html
”ダービーとの戦いで賭け事が苦手と言っていることから察するに、腹芸が出来ない。即ち占い師としては三流。あと装身具やクロスファイヤーの形から見るに、イスラム教徒ではなくコプト教徒(エジプトのローカルなキリスト教)の可能性が高いと思う。”)


イスラーム法
=神の定めた掟。
政府が決めた法律ではない。
国境を越えてイスラーム圏で通用する社会のありかたについての共通了解のようなもの。
現在のイスラーム圏を分断している国境線は欧米列強による植民地化の傷跡でしかない。
もともとイスラーム圏はイスラーム法の枠組みの中で、多文化、多民族、多宗教が共存する広大な法治空間だった。


人の決めた法律に従うことは人が人に従うこと、
法律とは人による人の支配の道具。
これはイスラームの教えから遠い。
法律で人を支配する国家を崇拝するのは偶像崇拝、多神崇拝そのもの。


イスラーム法では知らないものは罰せられない。
罪とは神に反抗することなので神の命令を知らない者は反抗できないので罪はない。
キリスト教ではイエスを救い主と認めなければ救われない。
戦国時代にキリスト教が伝わったとき当時の日本人の多くはキリスト教を知らずに死んでいった自分たちの祖先が救われない、と聞かされて理不尽だと感じた。
イスラームではイスラームの教えを知ることができなかった者にはイスラームを信じる義務はないので罪はなく、神様の慈悲により救われて天国に入ることができる、というのがイスラーム神学の通説。
先祖がムスリムでなくても先祖は天国に入ることができる。

現代はカリフの治める正しいイスラーム社会のすがたが実現されておらず、真のイスラームを伝える宣教者もいない時代なので、イスラームを知る機会がないのは現代の日本人も同じ。
なのでいまの日本人はみな、イスラームを信じなくても救われると思っている。
現代ではメディアや本などでイスラームを知ることができるから、
知らないから信じなくてよいといういいわけは通用しないというムスリムのほうが多いので、
著者のような者は少数派。

(あれだけメディアが発達しイスラームの日本語本が流通していうからさすがに無理だと思う)


イスラーム法とは翻訳語でそのまま当たる言葉はアラビア語にはない。
イスラーム法と訳されているのはシャリーアという言葉で、狭い意味での法律ではなく、
あえて訳すなら法という一文字であらわすべきもの。
仏法の法は法律ではなくダルマ(真理)の訳語なので仏法には戒律も含まれているけど教えも含まれている。
シャリーアはそれに近い。


ザカー=貧しい人への施しの義務。
お金に限ると、一年間ずっと自分が持っていた額の2.5%を喜捨するのが義務。
たとえば一年の最初一月一日に百億円持っていたとしても、
途中の七月の時点でいったん所持金がゼロになったら、
そのあとまた十二月までに百億円稼いだとしても喜捨すべき金額はゼロ円になる。
一年間ずっと持っていなかったから、それはもうその人のものではないという考え方。

イスラームの教えとしては、十二月の時点で百億円持っていれば、
本当はその中からできるだけたくさん貧しい人にあげるのが望ましい。
教えとしてはそうだが、法的義務としての喜捨は収入ではなく資産を基準にするので資産がいったんゼロになれば、
もうその一年に関してはザカーの義務はゼロになる。

(使い切ったら払う必要なし!
要は金をため込んだまま使わないことを防いでいる。
イスラームは税金が超安いよ。
日本は世界最高レベルに高いよ。生活必需品に消費税を多重課税なんて悪逆非道の極みでしょ?)


罰したり報奨するのは人間ではなく神。
イスラーム法は基本的に神と個人の関係なので裁判所の扱う法律のようなものはない。
豚を食べた罰は来世で神に罰せられるということ。
盗みを働いて手を切り落とされたとか、
姦通罪でむち打ちとかは、
人間が罰を与えていると疑問に思われる人もいるかと思います。
これらはクルアーンで神から命令されているからであって、
命令に背くと泥棒や浮気者だけでなくとがめなかった為政者も罰せられるから。

イスラームは誰がムスリムか決定する機関がないので、
学者を認定する機関もない。


歴史的にイスラームは世界観を異にする宗教に自治を認めて上手に共存する経験、ノウハウを蓄積してきた。
イスラームでの他の宗教への寛容は、
現代西欧の宗教の自由とはまったく違う。
イスラームと不倶戴天の敵と思われているイスラエルが、
西欧的な世俗法制度と並んで、
婚姻などに関係する宗教問題についてはオスマン朝のミッレト制(宗派制)を踏襲する宗教法による自治を認めていることはあまり知られていない。

イスラームはプライバシーを重んじる。
私的なこと、心の中は人間同士でもわからない、神にしかわからないと考えるので、だれも干渉してはいけないとされ、内面に関しては本当に干渉しない。
なのであの人は隠れて酒を飲んでいると疑ってその人の家の中に入って酒があるかどうか調べることは許されていない。
これはムスリム同士のあいだでもそう。
家はプライベートな場であり、イスラームは公私の空間をかなり厳密に分け、プライバシーを重んじる。
スパイをしてはならないという規定がある。神が隠したものは隠したままにしておきなさいという教えがある。


イスラームの信仰をもった時点ではじめてイスラーム法の義務も発生し、報奨も有効になる。
信仰がなければ義務はそもそも義務として成り立たない。
義務を遂行しても無効。
推奨行為をしても無効。
異教徒はイスラーム法の対象外なので、イスラーム法の地域では、
異教徒は税金さえ払っていれば信仰という点では基本的には何を信じていてもかまわない。
何を信じていようがかまわない。
イスラームでの信仰の自由は胸中に留めておくことに限った信仰の自由なので、
一言でも口に出せばそれはもう内心ではないので、
私は神を信じない
と口に出す自由はない。
(絶対言っている人いるよね)
内心で信じないのは自由だが、言葉にして表現すれば社会的影響が生じ、
もはや個人の内心の問題ではなくなる。
イスラームでは表現の自由と内心の自由、信仰の自由はまったくの別物。

イスラーム社会ではムスリムでない人も自分の家から外に出て酒を飲んではいけない。
家の中なら構わない。
公的な場で公然とイスラームを侮辱すること、
預言者を侮辱することは許されない。
家の中で家族同士で何を言ってもかまわないがムスリムが聞いているような場でイスラームの悪口を言うことは許されない。


(異教徒が払う義務がある税金が安いらしい。
スパイ禁止は守られていないだろう。自衛のためならOKだろう。
十分異教徒に寛容だな、イスラームは。
異端審問も積極的殺害もしないし。
寛容はなんでもありじゃないし、これだけはダメどいう線引きがある)


人を殺すなという法に人間の理性で考えうる範囲での究極的な根拠はない。
だからと言って殺すなが間違っていると断言できるのでしょうか。
違反しうるからこそ殺さない法を守ることに意味がある。
殺してはいけない理由は神は創った法だからとしか言いようがない。


森羅万象はアッラーを讃える

イスラームの世界観の基本はアニミズム。
人間だけを理性的存在として特別視する発想はイスラームには無縁。
森羅万象はすべて霊的存在であり、それぞれの言葉でアッラーを讃えている。
イスラームで人間をほかの存在者と分けるのは、アッラーの命令に従うか背くかを選ぶ意思の存在。人間以外の森羅万象が選択の余地なく必然的にアッラーを讃えているのに対し、

人間だけがアッラーに背くことができる。
罪を犯すことができる倫理的存在であることが人間の本質。
人間は罪を犯し、罰を引き受ける可能性と引き換えに、自らの意思でアッラーの命令に従い、自らの意思でアッラーの下僕となる可能性を選び取ることができる。そこにこそ人間の尊厳と栄光がある。

イラーハは神を意味する一般名詞、アッラーはムスリムが信ずる唯一神のことですが、たくさんの神様がいて、そのうちの一柱がアッラーという名前の神様だと考えるとイスラームを誤解することになります。
日本の文化はそもそもイラーハという枠組みでものを考えないから、その意味ではこの根本教義に反するものは日本にはない。
八百万の神々はイラーハにはあたらないのでイスラームからはあるとかないとかの議論の対象にはならない。
あえてイスラーム的に考えていくと日本の神々はアラビア語でルーフと呼ばれる霊や、
ジンと呼ばれているものに似ている。
道教、ヒンドゥー、ギリシア・ローマの神々などもジンに近い性格を持っている。

アニミズム=多神教ではない。
多神教とは神でないものを神として崇拝する偶像崇拝と結びついた概念。

神という言葉を自然界と人間界を貫く普遍的な原理と置き換えてみたらどうか。
普遍的な原理が複数あったらおかしなことになる。
ある原理が不変ならそれ以外の原理は不変とはいえない。
(それはどうかな?)
多神教とはこの矛盾に目をつぶり、人間のさまざまな欲望に対応した複数の原理を同時に神として崇めることだ。
アニミズムは精霊信仰と訳されることもあるが、基本的には物に霊が宿るという考え方。
霊それ自体は普遍的原理ではないので神とイコールにはならない。

イスラームではすべての物がそれぞれの独自の言語を持っていると考える。
無生物も言葉を持つ。

たとえば、椅子はわたしたちの言葉とは違うけれども言葉を持っている。
椅子には、ネジやクギが使われています。ネジ穴とネジが合うと入るわけですが、合わないと入らない。
イスラームでは、それはネジとネジ穴にとってコミュニケーションだと考え。原子レベルでもそう。
言語というコミュニケーションツールでそれぞれ神を讃えている。
そのコミュニケーションツールは同種のものにしか働かないのでほかの種にはわからない。
わかるのは神だけ。神の特別な恩寵があれば動物の言葉がわかる。ソロモン王は動物の言葉がわかった。
すべてのものには言語があり意識があり神を讃える。
すべてものに意識がある、つまりルーフ、霊があると言ってもよいのであり、まさにアニミズム。

基本的にはユダヤ教、キリスト教では人間だけが神の似姿。
だからユダヤ教、キリスト教では人間と神プラスそれ以外の自然という図式になる。
ところがイスラームでは神は超越しているのでこの世界のどこにもいない。
なので神以外のほかのものはすべて、基本的に全部同じ立場。
そこが決定的に西欧の宗教間と違うところ。

イスラームでは神とそれ以外という図式で、自然と人間は基本的に同じ。
なぜ人間だけが違うのかというと、西欧では人間を理性的動物と考えるのが主流ですが、イスラームでは理性とか意識とかによるのではなく、責任の有無による。
だからイスラームの人間観ではあくまでも倫理的な存在が人間なわけだ。
イスラムの世界観では自然も全部霊を持っていて、意識を持っていて、それぞれが言葉、コミュニケーションツールを持っているという点では人間と変わらない。
けれども自然は悪を犯さない。すべて神の意のまま。ところが人間だけが自由意志を持っていて神の意に反し、悪を犯しうる。悪を犯しうる存在であるということにおいて人間は宇宙の中で独自の存在。

(特別でも特権でもなく独自なだけ。
西欧だと人間は動物や植物と違って魂があるから特別! だからこいつら下僕!
とかほざいているもんな。
ヤソ教信者の癖に動物愛護ってギャグかな?

イスラームは人は神と姿が似ている考えないし理性的だから特別とは考えないのが特徴。
確かに神のもとの平等。
人間の体なんて欠陥だらけだからどう見てもアッラーを制限しているからね。

アッラーを見ることができるかできないかで宗派で争いがあるけど、
どうやって見るのか気になる。
イスラームの過去記事で、天使は善しかなしえないとある。
善しかなしえないということは天使の性格自体は善でも悪でもない。
やったことの結果が善か悪かは相対的でしょう、人間にとっては。
悪しかなしえないのも同様。
倫理的非難は不毛ともいえる。
善人は悪もなせないと善人ではない。
逆もまた真。
悪を知らぬものが善をなそうとすると結局、悪をなしたりするよね。
絶対悪と絶対善を認めるか否かは非常に興味深いが割愛)


ジンも人間のほかに悪を犯しうる存在。
ジンは妖精とか精霊、あるいは魔神などとも訳される。
ポピュラーなイメージが千夜一夜物語、アラビアンナイトの魔神たち。
近年アニメ化された大高忍の『マギ』でもジンが活躍。この作品の舞台設定はイスラーム世界の中でも、インド・ペルシャ系の神話的世界を参考にしているようです。
まさにアラビアンナイトの世界です。主人公アラジンの持つ笛の中に潜んでいる巨人ウーゴがジンです。

(魔神族とか魔人族とか魔族ってイスラムのジンじゃないの?
フェイド大帝はマギはイスラム要素が全然ないって指摘していたね。
中田先生はちゃんとわかっているね。
今週号のマギでは強制アセンション願望が解かれていたね。
強制アセンションというのは、シンドバッドが、皆のルフを書きかえて、
皆でルフに帰ろう=死のうって思わせて実行させようとしたけど、
結局シンドバッドはダビデを裏切って、アセンション否定派になってた)



ランプの精やウーゴはアラジンを助けてくれるが、ジンはみな人間に好意的で頼りになるかというとそうでもない。気まぐれで悪戯好きなジンもいれば、より悪魔に近く人間に道を踏み外させるようなジンもいる。もっとも抽象的な存在のルーフが霊。
ジンはほかのアニミズム的な意味での動物の霊とは違って、ふだんは人間には姿が見えないけれども人間と同じようなかたちをしていて、理性や自由意志があって、善も悪も犯しうる。
人間よりは悪魔に近いので、なかに例外的な善いものもいますけれども基本的には悪いものだと考えられている。
天使は善しか行わないし、悪魔は悪しか行わないが、人間とジンは善も悪も犯しうるのでその点ではジンも人間と同様に倫理的存在。
ジンは超自然的力、いわゆる魔法の力を持っているので、人間から見れば神々のようにも思えるかもしれませんが、失敗もするし、悪いこともする。

知恵のある人間にだまされてへこむこともある。そういう存在です。
こうしたジンをアラビアンナイト的な神話的イメージから切り離して抽象化すると、
霊的存在のひとつということになる。
イスラームではこの世界のすべては神の創造した被造物なので、万物に宿る霊も被造物。
霊的存在も神の被造物であり神ではない。
死者の霊を神とすることもある日本文化の文脈での神概念はイスラームと決定的に異なる。
日本人が神と呼んでいるのはジン的存在。

(確かに日本の神は霊と同様の意味のときがある。
というか神秘のシンでしょ。
神はスピリットの訳だからゴッドにはふさわしくないって聖書翻訳の時に言われていたよ。上帝や天主のほうがまだ近いよね。
イスラームでは著作権についても独特っぽい。
人間が何を発明してもそれは正確にはアッラーが創ったものを発見しただけって解釈をおねしょた兄貴がいってた。これが十二イマーム派の共通見解なのかは不明だが、
創造主ならそう考える方が自然。
ヤソは本当に適当な一神教だな。

悪魔って悪しか行わないの?なら悪魔は善も知っているはず。
この悪魔って異能を持つ透明人間じゃね?
透明人間なら光を透過するから目が見えないな!)


アッラー(アッラーフ)は「あれ」といえばそれはもう「ある」ということができる創造主。
あれと命じられるまでは世界の中にはない。
しかし、あれと言われる前から神の知識の中にはある。
神は時間を越えているので神の世界は時間がない世界。時間がない世界では人間には生まれたり消滅したりしていくように見える世界のすべてのものは神の知識としてもともと存在している。
それが人間世界であり神の世界と違う。

(時間を創ったのも神になるが。ここで矛盾。
ここでは時間=変化の前提、条件と定義する。
創る=存在しない状態から存在するへの状態変化。
しかし変化できるために必要な時間はまだ誕生していない。
どうやって創られるのか?
言語自体が順番に従っているから言語で時間の誕生云々は同語反復と矛盾表現でしか語れない。
順番「A→B」がないと時間的変化は成立しない。
ではこの順番も創られる以前は、そもそも誕生に必要な、
A(ない)からB(ある)という状態変化順番もないから、
どうやって順番は生まれたのか。
となるとすべての根源(これも順番が前提)は混沌が一番近いが、正確には
言語では語りえないが正解。
当然人間はわかりようがない。
アッラーが時間を創ったとは何を意味しているのだろうか?
時間の外にいるアッラー。時間の「外」ってなんだろうね?)


アッラーは空間的存在でもないので神には場所も空間もないのだが、
比喩として言うなら、すべてを知っている神の地図というものがある。神の地図の中には世界の始めから終わりまですべての出来事や事物が全部入っている。
すべてのものが詰まっている。

時間的でも空間的でもない存在って人間にとっては「存在しない」になるので、思考によってのみ存在を類推できる存在ともいえる。

ふと思ったんだけど、
時間停止って異能でわりとあるけどさ、これあらゆる変化の拒絶なら、光の反射により見えることもないよね?
本当に時間停止したら光の反射をしないよね?
あらゆる変化を拒絶するには端的に存在しないようになるしかないので、真に時間停止したら消滅するのでは?アッラーの世界に行くの?
つまり時間停止って言っているけど単に状態変化の速さが変わるだけだよね?

ヨガの呼吸で相対的時間を変化させることで長寿になる技術があるよ。一生の呼吸の数が決まっているなら、呼吸を深く長く遅くすれば長生きでるんじゃね?って発想らしい。
実際、呼吸が静かで深くて長い人は精神が安定しているし健康だからあっているだろう。
これウパニシャッド全文読んだら考察しなきゃ)


私たちはカレーの具材。
説明する側にとってはすべてがわかっていても、カレーというものの全体像を知らず、はじめて作り方の説明を聞いている人にとっては話される順番に沿って理解するしかない。
説明されていない先の調理は未来の範囲。
私たち人間にとっての世界の現在とは途中までの説明のようなもの。

(説明途中
って解説が秀逸。で当然生じる、最後まで説明してください!っていう要求)

ですから本当の意味で存在しているのは神様だけ。
自分が存在していると思ったらそれは神様の特徴を持っていないのに持っていると主張するのと同じこと。
私たち自身は存在しない。存在しないけれども、存在しない原型、本質が神の知識の中にはあって、それに対して神があれと言うことによってこの現象世界に一時的に存在する。

(あれ、インドっぽくない?

とまとさんとねこたさんのいうようにインドの影響があるな。
ペルシャの影響はゾロアスター教の終末論見れば明らかにあるでしょ。
インドだと世界=神だったり、世界=神の一部。
神も輪廻する。ヨガを極めた人間は神より強い。それがインド神話)

私たちは本当は無に近いものでそれが一瞬だけその場に仮象として現れる。
いま見ているこの世界こそがまさに現実に見えるが、
実際は仮の世界であって、真実の世界はここにはない。
真実の世界は神の世界。
世界は最初から最後まで神の知識の中にある。

最初から最後まで決まっていて過去も未来も含まれており、それ自体には時間はない。
人間も永遠の昔から神の知識にあった。
神の知識は無時間世界なので人間には基本的に把握できない。
天国は被造物なので時間は流れているので行き来可能。

(ここまで書いてわかると思うけど、ハサン中田は法学者だから説明がうまい。
イスラム法学者は学者でない人にわかりやすく説明して生活のアドバイスをできないといけないからね。
私が一番わくわくするのは法学より哲学の説明なんだけどね!)

宇宙創造の前にすべての人間が天上的な世界で神と対面をする。
(マジで?)
そこで人間と神との関係が明らかにされて、人間は被造物で、神は主だということが確認される(クルアーン7章172節参照)。
ここまでは神の領域なので超歴史的。
すべての人間とは単に世界中の人間という意味ではなく人類史が始まってから終わるまでこの世界に生まれるはずのすべての人間が時間を越えて呼び出されるわけです。
神の知識からいったん天上的な世界に呼び出されて神との対面を終わった後ですべての人間はまた神の知識に戻る。そしてアダムが一応人類の祖先とされているので人類史的にはそこからすべてが始まる、そういうイメージ。
創造前に神との対面を済ませているがこの世界に生まれてきたときに忘れてしまう。
クルアーンでもアダムは土からつくられ神により霊が吹き込まれる。
アダムからイブが創られる。
現在の人間はみなその二人の子孫。
イスラームでは胎児が大きくなっていく過程で、これも所説あるが、
四十日あるいは三か月で霊が吹き込まれるとされる。
それまではただの肉の塊だが霊が吹き込まれてからは人間になるのでそれ以降は基本的には堕胎は許されない。
人格と権利能力を認められるのは基本的に生まれた時点から。
生まれた時点で生きていて一言でもおぎゃーと言えば、一応生きたことになるので、相続権などが生じる。その時点で死んでいれば相続権も存在しない。

(7. 高壁 (アル・アアラーフ)
http://www.way-to-allah.com/jp/quran/7.htm

アダムは巨人らしいよ。
霊は吹き込めるものらしい。しかも胎児が形成されてすぐに宿るのではないらしい)



イスラームでの死
=肉体と霊が離れること。
霊肉二元論。

イスラームでは肉体は死ぬが霊魂にはしばらくは意識があるというのが通説。
霊魂は肉体の死後も肉体からすぐに離れずに意識を持っている。

死者がお墓に入るとお墓の中の審判がある。
お墓の中で神の遣わした天使に何を信じたか、お前の主は誰か、お前の預言者は誰かなどと審問される。
その期間中信仰者はお墓の中でいい暮らしができるし、
不信仰者は天使に責められる。信仰があやふやだった人はおちおち死んでいられない。
そうしたことがあったあと、死者の魂はいつの間にか眠ってしまう。いつから眠るとははっきり書いてないが、
ハディースなどによると死者はお墓の中の審判のあとは眠っていて最後の審判のときによみがえるというのが大枠。死者の魂は永い眠りについているのであって、魂が消滅したり天国と地獄とかどころか別のところに行ってしまうのではなくあくまでこの世界にいると考える。

(土葬されなかったらどうなるのだろう)

ルーフは霊だが、ほかにも霊魂に当る言葉がアラビア語にはある。
ナフスは聖書ともギリシャ的な伝統とも近い。
ナフスは息という意味のナファスから生まれた言葉で、
ギリシャ語のプネウマという語が息という意味と生命や霊魂という意味を持っているのに似ている。
ただしアラビア語のナフスは息のようでもあり、魂でもあって、霊でもあるが同時に身体を持った人間
も指す。
オリエンタリストのあいだでは初期イスラムはキリスト教的霊肉二元論はなかった説があるが専門的な議論はここではおいておきましょう。

(霊魂は風属性らしい)

ルーフは元はリーフ、風。アラビア語の姉妹語のヘブライ語では風と霊はまったく同じルーァフ。

(この書き方は初めて見た。ヘブライ語学習書ではルアハだったぞ。「ア」を忘れちゃだめだぞ!)
風からきているのがルーフで、
息からきているのがナフス。
アラビア語だとルーフのほうが上で霊に相当し、
ナフスのほうはむしろ魂というくらいちょっと下。
(ルーフ=風=霊> ナフス=息=魂あるいは自我、欲望)
あるいは自我とか欲望といった意味のもっと下の流れ。

中世の聖者伝などを読むと、ある聖者は、ナフスはイタチのかたちをしているて逃げていくとか、霊はもっと高級なかたちを持っていたりとかそういった話もある。
ナフスという、自我とか魂と訳されているものも、イスラーム神学の中では、非常に生命力の小さな、薄い、軽い物体としてあるという議論もある。


イスラームの存在論では、場所を占める物質と、物質に宿る性質の二つに分ける。
神以外の被造物はすべてそういう場所の中に存在するものだというのは初期イスラーム神学。
霊とはある意味、魂がある以上は場所を占めていると解釈する。場所を占めていないものは存在しないわけなので、場所を占めているけれども、すごく小さくて薄いものだからよく見えないとか、そういう考え方もある。

最後の審判の後に来る永遠の来世がイスラームの考える天国であって
死んだ人はすぐに天国に行けるわけではない。とりあえず肉体はいったん死んで霊魂は最後の審判の時まで眠っている。
天国に行けるかどうかは最後の審判で決まる。
最後の審判では宇宙自体が死ぬという壮大な過程があって世界が別の秩序に移る、それがイスラームの来世。宇宙自体が死ぬ前に歴史の終末が来る。
最終戦争が起きて歴史が終焉を迎える。
イスラームの終末論は二本立て。
最終戦争で善の側のイーサー(イエス)とマフディー(メシア)の側が勝って正義の平和が実現する。
けれどもキリスト教の千年王国とは違ってこの平和はあまり続かない。

(イスラムはキリスト教の千年王国を否定!
あとユダヤ教が千年王国とかありえねーからな!
キリスト教終末論の一つってはっきり定義されている。
千年王国に直接言及する聖書の箇所は、ヨハネの黙示録20章4節から7節だから新約だ。
旧約じゃねーぞ!
もし言っているなら異端だな。
たしかboがデマ飛ばしてたな。
あと黙示録のこのあたりでクリスチャンを空中にひきあげられる
=携挙=ラプチャーの話が出る。
ラプトだねえ。

ディスペンセーション主義と患難前携挙説について知っておこう。

あと大本教の教義がキリスト教の千年王国思想とよく一致すると指摘したのが安丸良夫)


善の側は現世的世界で一回勝つがそのあと天変地異がおとずれてこれで完全に世界が滅ぶ。
世界が滅亡するとこの宇宙のすべての者が天使も含めて皆死ぬ。すべて死んだあとでそれまでに死んだすべての死者がよみがえって最後の審判で裁かれる。そのあとは永遠の来世が続く。こういう世界観の中で個人の死というものが位置づけられる。


アッラーは慈悲深いので、善のほうをたくさん勘定してくれる。
悪は一ポイント。
善は十倍から最大七百倍に勘定されることになっている。
善行をやろうと思ったが結局寝過ごした場合も一応一ポイントもらえる。
悪いことをしようと思っていたが思いなおしてやめたならプラス。
理由のない不幸、道端で転んだとか落ちてきたものに当ってけがをしたとかあればその分を悪から引いてもらえる。
悪に対する罰を先払いしたという扱い。

巡礼をすればそれまでの罪のすべてが消えるとされる。
金曜日の礼拝をやると次の金曜礼拝までの小さな罪はすべて許される。
基本的に点数をあげてくれようとする。
預言者は「私の名前を唱えた人間はちゃんと許してあげてください」と頼んでくれる。
イスラームの天国の門だあまり狭くはない。
アッラーを信じていれば全員天国入れるのが基本。

(イスラームはキリスト教と違って冤罪の思想ではない。
イスラームは苛烈さとポジティヴさをあわせもつ。
キリスト教は苛烈さとネガティヴさをあわせもつ。
カルヴァン派の卑屈さがやばすぎる。
この卑屈さが日本人に流れ込んでさらにやばい。
ヤソは原罪という、赤ちゃんまで罪人にする悪逆非道の教義だからね。
これも赤ちゃん大好きなイスラームには許せないのだろう


イスラームの天国は死後の世界ではない。
死んでもすぐに別の世界に行くわけではない。
人間の魂は死後この世にとどまり眠っていて、最後の審判ではじめて天国か地獄かに行く。
人間の目から見れば、世界の終末の後に行くところは遠い未来の話であり、いまは天国にしろ地獄にしろ死後の世界は存在しないということになる。
が、神は時間に限定されないので神の知識の中では字間を越えてすべてがすでにあるものであって、人間にとっては遠い未来のことのように思えても、神の知識にとっては天国も地獄もすでにあるといえる。本当はこの世とあの世の違いは実は時間軸ではなく次元の違い。
それが時間的な現在と未来の違いのように私たち人間の目に映っているだけです。
天国での最大の喜びは神に拝謁すること。
基本的に天国の人々は無駄口を叩かないということなので、
サラーム(平安)と言っているなど静かな安らぎに満ちた世界。
(スンニ派では神を見ることは可能だとする。シーア派だと不可能だとする)

イスラームの地獄は信仰者で罪を犯した人間が一定期間焼かれるところで、そのあとで最終的には救われる。しかし多神崇拝をした人間、積極的な無神論者は許されない。
漠然と神様なんていないんじゃないかと思っているのであれば、その人には宣教が届いていなかったということで許されるというのが通説。

漠然とした不信仰者は死後、現世と来世の境にあるバルザフという場所に行く。
バルザフとは境界、障壁という意味。
煉獄のようなもの。
イスラームの教えを知らなかったものや信徒ではなかったけれども信じなかったわけでもない人がとりあえずそこに行って現世と来世の両方を見ている場所。

(私は無神論者ではないよ。この神は神秘を含むよ。人格神は私は認めない。
アッラーって本当は人格はないのでは?
神格はあるだろうけど。
仏教的な法は認めるけど、人格がついて擬人化と偶像化された法人は認めない私。
アッラーに人格に相当するものがあるとするのは人間がアッラーの真意を理解しようとする手段に過ぎない疑惑。
じゃあクルアーンのあのどうみても人格あるとしか思えない記述はなんだよってことになる。

信者だけが救われるにしないとその宗教の信者になるメリットがないじゃん。)


イスラームでの葬儀は土葬。死者の霊魂はこの世界にとどまっているだけでなく意識や感覚もあるとされる。
(死んでないじゃん)
なので火葬にされると熱い。
死体損壊も禁止。
臓器移植反対の人が多い。
葬儀の礼拝は立ったまま。
遺体の顔はメッカの方に向くようにする。
人が死ぬとまず全身に沐浴を施して白い布に包む。これが普通の人の葬儀の基本。

が殉教者ならやらない。体を清めない。死んだときの服のまま血まみれのまま礼拝をささげてそのまま土に埋める。
法学的にも殉教者はほかの死者とは別扱い。
爆撃で殺された人は殉教者扱いになるので今のシリアでは日常。
殉教者の霊は天国に直行し天国で生きていると考えられる。
アッラーの道において殺された者を死者と言ってはならない。いや生きている。
イスラームでは普通の死者は最後の審判の日まで眠りにつく。
ジハードで亡くなった者は天国に直行。天国で食べ物を与えられて生きている。天国では食べなくても大丈夫だが楽しみなので食べるイメージ。
殉教者は世界の終末も最後の審判もパス。
クルアーンでは現世で死んだあとでも天国で生きているとされるのは実は殉教者だけ。
預言者ムハンマドも天国にいるはずだとなる。
殉教者より位が高いので天国にいないはずがない。

殉教者が天国に直行できない例外が借金。借金していると天国に行けない。
借金を返さないのはよほど悪いことである。
イスラームでは神に対する罪と、人に対する罪は分ける。
礼拝は神と人だけの関係。
人を殺すのがいけないとか盗みはいけないという戒律は神の命令なので、すれば神に逆らうことになるので神との関係における罪だが、
同時に人間に対する罪との複合である。当然被害を受けた側の人間に損害賠償を請求する権利が生じる。
人間を通すことによってしか神も赦さないのが人間の権利。
借金は人間の範囲の事柄。
現世での人間の権利と義務を果たさないと天国に行けないので借金を残してはいけない。

また、
両親の許可がなければジハードに行けない。
任意のジハードなら親がダメと言ったらだめ。

ムスリムの土地に異教徒が攻めて来るとか、カリフから招集命令が来たり、義務なら親の命令より優先される。
ジハードを命じることができるのは本来カリフのみであり、カリフが存在しない現在、許されるのは異教徒の攻撃から自衛するためのものだけになる。
イスラーム社会を守れというカリフの呼びかけに答えることは天国への直行切符をもらったも同然で教義上はムスリムとしてこれに勝る喜びはない。
カリフとムハンマドの後継者を意味するハリーファを欧米風に訳したものでイスラームの最高権威のこと。


政教分離は現代の迷信。


イフティヤール=選択の自由
とされるがイスラームでは選択という意味のアラビア語のイフティヤールが自由という意味である。
選択=自由。人間が自由意思を持っていて自分の行為を自分で選択しているという意味での自由。

自由意思に対立するのは自然法則で規定される自然界。自然界では政治という概念は成り立たない。万有引力の法則は政治的に決定されたものではない。
人間とジンだけが自由意思を持つ。別の選択肢を選べるのが自由。
この自由があってこそ責任や義務も意味を持つ。
自然界には自由も責任も権利も義務もない。雨雲を道徳的に非難できないしクリーニング代を請求できない。
自然現象には悪意も善意もなく結果について責任を問われることはない。

人間の習慣と動物の本能の違いは、ふだんやっていること以外の行動を選べること。


すべては神の知識の中にあるなら、創造主が神なら人間の行為の良し悪しは神の意志であって、人間の自由意志など意味がないのではないかという疑問は古来、幾度も提起されてきた。

イスラーム神学では明快で、神は存在するものの根拠であり、人間に規範を示し、人間がそれに従うべき主であること、つまり善悪の根拠でもある。
存在するものはただ存在するだけで善悪はそれとは別にある。

山や川がそこにあるのは善悪と無関係でただある。交通に不便だとか田畑に水を引けるから便利だとかは人間の都合であって山や川の問題ではない。
存在の領域と、善悪(当為)の領域がある。
イスラームはその区別を明確にする。
愛だけだったり、善悪がなかったり、存在が根拠づけられないことはほかの宗教ではあるが、イスラームでははっきりしている。
何を望むか望まないかを神が人間にお任せになった領域があり、それは人の行為にかんすることでそれが善悪の領域である。この善悪の領域がなりたつためには人間に自由が必要。人間の自由は善悪を説明するためにあるので、自由がなければ善悪は成り立たない。
だから倫理は自由とセット。

(あるものの存在が善悪の原因で、そのものの存在の原因が神。
しかし、神は存在させただけで善悪の領域にはないということ?
人間視点での善悪における、悪を完全に滅せないってこと。悪の存在の根拠も神だから)

自由に議論するためには人間のアイデンティティの話、そもそも今の私と五分後の私が同じかどうかから話をしないといけない。
自由とはいまの私と五分後の私が同じ人間だという前提があって初めて成り立つ。


コーヒーか紅茶を飲もうか迷い、コーヒーを注文し、五分後にコーヒーを飲んでいるとする。
五分前と後のあなたが別の存在ならコーヒーを飲んでいるのはあなたの選択の結果ではなく、ただ単にコーヒーを飲んでいるだけ。
ある行為の結果がその行為主体の自由な選択の帰結であると言えるためには、
選択する前と選択した後の人格が連続していないといけない。
これが自由が成立するための基本的な条件。
しかし連続性を保証するものは何もない。

(自由意志は認めないと裁きが不可能になるから認めないとまずい。
仏教の空のたとえでコーヒーを思い出す。
コーヒーに属するとされる色、におい、液体の感覚、熱などの諸要素のネットワークの集合体、
それがコーヒー。コーヒーそのものは実在しない。これが縁起であり空。
お、超短く言えたぞ)


イスラームでの神の創造とは、最初から創った世界をちょっとずつ加工・変形してというのではなく、すべてが一瞬ごとに無から創られていく。
なので今から一瞬前の世界というものはいったんすべて消えるし、今から一瞬あとの世界というものもまた新しく創られる。
映画で例えると、
完成した映画を見ている私たちには最初のシーンからラストシーンまで一連の出来事がひとつの物語となっているように見えるが、実際には場面ごとに監督が作り出したもの。


『涼宮ハルヒの憂鬱』には
あなたを含める全人類がそれまでの記憶を保ったまま、
ある日突然世界に生まれてきたのではないということを、どうやって否定する?
いまからたった五分前に全宇宙があるべき姿をあらかじめ用意されてから世界が生まれ、
そしてすべてがそこから始まったのではない、と否定出来る論拠なんてこの世のどこにもない。
という趣旨の小泉のセリフがあり、
世界五分前創造仮設というかなりポピュラーな仮説。
イスラーム神学では一瞬ごとに世界は創造されていると考える。

連続性が見かけだけで絶え間なくリセットされているとすると、
自発的な意志、自由行為、行為の結果への責任、道徳、倫理も意味がないものになってしまう。

イスラーム神学ではアリストテレス論理学の
必然、可能、不可能のカテゴリーを使って考える。
不可能というのは一つしかないし、
必然というものも一つしかないが、
可能というものは不可能と必然のあいだにあって無数にある。
人間も、この世のすべての者は存在の在り方としては可能態になる。
可能を意味するアラビア語ムムキンの複数形はムムキナート。

これがアッラーの知識の中にすべて含まれている。

本当に強い意味での神の全知全能性の議論だと、神はすべてを知ったうえで最善の行いをするのであり、
いまある世界はこれ以外にはない最善の世界なのであり、
すべては必然なので、そもそも可能態というものはないことになる。
ただそうなると自由と悪について議論ができなくなる。
(中田は最善世界説を否定。
ところで、論文では人名は名字で呼び捨てが常識って知ってる?
直接の担当教授に出すときもその担当教授の名前も名字で呼び捨てでないといけないのでかなり抵抗感がある)

ところがイスラーム神学では可能態を認めてきた。
可能態を認めるとは、この世界のほかに無数の可能な世界があるということ。
無数の分岐点がある。


西欧哲学では可能世界意味論みたいなものもあるし、
物理学では宇宙は最初のビッグバンから無数に分裂していって、
可能なかたちがたくさんあったという多世界論という考え方もある。

(パラレルワールド説ってまたイスラームからネタをとってきた疑惑。
仏典も異世界=他の仏の世界からこの世界に来たって設定が多いらしい。仏教なら転生は教義に沿っているな。
ラノベの異世界転生ものは仏教ではなく異端はヤソの輪廻だろ!
人間に転生することは仏教では難しいぞ)

それらがすべてムムキナートなので世界はまさに無数にあり、それらがすべて神の知識の中に含まれている。

いまここにある私だけが、
私である
と言える物理的な理由はない。
瞬間ごとにたくさんの選択しがあって、その中には随意運動のように自分の選択で選べるものもあれば、不随意運動的というか、自分の選択によっては変えられないものもある。
自分でコントロールできるもの、できないものを含めて、そういった無数の選択肢の中からひとつのものが選ばれているということが、いまの自分が昔の自分と同一性を持って最後の審判までひとつの流れであるということを説明できる。
そしてすべてのことはその人間から見ると自らの選択の結果として必然であったかのように見えるということだ。
本当に私たちの世界が実在するようなかたちで、
すべてのムムキナートが実在するかどうかというのは、これはクルアーンには明示的には書かれていないのでイスラーム的な理解として適当かどうかよくわからない。

私(中田)自身の暫定的な神学的結論は、無数の世界がすべて実在するというもの。
私がいない世界とかといった世界がすべてアッラーの知識の中にある。
もう死んでしまっている私もいるかもしれない。
すべては同時に存在している。
私たちが今生きているこの世界、選択肢だけが私一人だけではなくて世界中の人にとって、
唯一そこで人間が意識を持っている世界である、というのがいまの私の暫定的な結論。


この世界だけが唯一の世界として倫理的な意味を持つ。
こうした議論は哲学の中にもある。
意識があるのは自分一人だけで、ほかの人間は意識があるように見えるだけで、実は意識のない人形のようなものではないか、というものもがあり、
そのような存在を哲学的ゾンビという。

私が生きているこの世界以外にある無数の可能世界には哲学的ゾンビしか存在しない。
つまりこの世界以外にも私と同じような人間が生きていたり、寝ていたりする世界があるわけですけれども、そこの人間には一切意識はない。
この世界だけが意識ある世界なのでこの世界だけが唯一の世界として倫理的な意味を持つ。
この世界だけが意識があって罰があって、報酬があって、感情もあるというのがいまの私の暫定的な結論。
私はこの世界だけに意識がある人間が存在すると思っているが、必ずしもそうでないかも。
私の考えだと他の世界は影だけであってこの世界だけがその意味ではリアリティーを持っている。
選択を重ねてきて、ほかにもありえたかもしれないけれども、
現実にはこの唯一の人生について一人の人間として認められる。
私たちというものが存在することが、神によって認められるのが最後の審判。
すべての自分、昔の自分もいまの自分も含めて、すべての自分がひとつになったものとしての意識を持って、神の前に立つ。それが最後の審判。

(こういったことについては永井均先生がさんざん議論している。本ブログのメモをどうぞ。
そりゃあ他の世界を実感するなんて無理でしょ。

永井均の著作三冊:『子どものための哲学対話』・『翔太と猫のインサイトの夏休み』・『私・今・そして神』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-61.html
”“だれも覚えていない過去はつくれない
 世界は、その時そうであった通りのあり方で、本当はまったく実在しない過去を「覚えている」と思い込んでいる全住民ととともに、五分前に突如として存在しはじめた――これは少なくともどういう事態が起こったのかがわかる。だから、全能でいたずら好きの神さまなら、≪その≫事態を引き起こすことができる。しかし、その神さまでさえ、だれも覚えていない過去を≪そのとき≫同時に作り出すことなどはできない。全能の神でさえ、それは≪不可能≫なのである。
 全能なのにできないことがある? そうなのだ。だって、住民のだれひとりとしてその時点で「覚えている」と思い込んでさえいない過去そのものを、≪その時点で≫つくるって、いったい何をすることなんだ?
 もし≪その時点で≫つくられたなら、やっぱり過去には存在しなかったんじゃないか。神が≪いま≫それをつくったということがいったい何をしたことなのか、どういう事態を起こしたということなのか、われわれにそれがわからない。われわれにそれが理解できないのだ。だから、それだから、全能の神でさえ、≪そんな≫ことをすることはできない。神でさえ≪それ≫は作り出せない。≪それ≫はわれわれの言葉で表現され、われわれの理解によって指定されている事態だからだ。神の全能でさえ、この壁は打ち破れない。なぜなら、この壁は神の側からは存在せず、われわれの側からだけ存在する壁だからだ。

 だから、ひょっとしたら、気まぐれな神さまは、五分前に、だれも知らない五年前の出来事を急につくったかもしれない。それは五分前にできた以上五年前にはなかったのか、それとも、神が五年前という時点に設置した以上五年前にもうあったのか、答えはない。時間の内部でその時間をつくり直すという想定がわれわれに理解できないかぎり、この想定は不可能な想定なのである。「記憶一般と記憶の対象とを同時に可能ならしめる条件」に反しているからである。世界にはわれわれに理解可能なことしか起こりえない。なぜなら、われわれに理解できる形で捉えられたときにのみ起こったとされるから。この意味において、神もまたわれわれに理解可能なことしかなしえない。“
p.27-28 原典の傍点を≪≫で代用。”
























自由に選択できることは悪も選びうることなので、それなら最初から善のみを選ぶようにしておいてくれればよかったのに、
という意見もあるでしょう。
善も悪も選びうるから善を選ぶことに意味がある。
それが意識のある存在というものだ。
意識と選択と自由は一つのもので、これがない人間は瞬間ごとに生じては消えてゆく世界の映像の一コマにすぎない。


善悪の基準であるシャリーアを知らせる使命を託されたのがムハンマド。
ムハンマドを開祖とか教祖とかとする説明を見かけるが、新しい宗教を創始したという意味で使うならムハンマドについては少し違う。
ムハンマドは自分で教義を考えだしたり、崇拝対象をこしらえたりしたのではなく、神の呼びかけに答えて神の法を託された預言者。
預言者の特徴は法をもたらすことと無謬であること。
預言者以外の人が無謬だと主張したら異端。
絶対に間違いを犯さない人も国家もありえない。


イスラームではムハンマドも人間で、イエスも人間だとする。
イエスは先輩格の預言者であっても神の子だというのは誤伝だとする。
キリスト教でもイエスを崇拝して

イミタチオ・クリスチ(キリストにならいて)


などというが実際にどれだけイエスにならっているかというとすごく疑問。
そもそもイエスの言葉はほとんど残っていない。
近年の文献学の進歩は新約聖書の記述がイエスの実像をあらわしているという夢を打ち砕いた。
新約聖書でイエスの言葉とされているものの中で、実際にイエス本人が言っただろうとされるものはほんのわずかしかないことが明らかにされている。
イエスにならえ、キリストにならえ
といっても実はイエスがなにをやっていたかよくわからないので、
あまりならいようがない。
イエスは30歳ぐらいまでしか生きていないので公の場面では結果も残していない。
しかもキリストとして活動した期間は約二年間。

イスラームではムハンマドは預言者として22、3年間にわたって活動。
残っている記録の量が全然違う。彼の言行録のハディースも多すぎるくらいにある。
なのでムハンマドの行動に照らして自らの生活を律しようとするときまさしくそのようにできる。
彼が1400年前にやっていたのと同じ日程で、同じ言葉で、同じサウム(断食)で、同じ礼拝をする。同じものを飲食する。そこまでやる。
キリスト教とはまったくレベルが違う。
預言者との一体感はサウディアラビアなどに行くとよくわかる。
ムハンマドは自分たちの先祖と考えている。


TPPは自由主義を旗印に掲げているので、関税の自由化、つまり関税撤廃の是非が議論されている。基本的にイスラームは自由の宗教なので、禁じられていないことはすべて許されている。
貿易は許されているので、移動が許されているのは資本と商品。その意味でTPPで関税をなくすのはイスラーム的には正しいが、
それよりも自然権的な意味で認められるべきなのは、まず人間の移動。
人間の無条件の移動が100%許されていない。
国境があるからです。人間の移動の自由がないところで物と資本だけを移動させるというのは、富を偏在させることになります。これは不公正でしかありません。だからグローバル資本主義は偽物です。

領域国民国家は国境で人間の自由な移動を制限することで成り立っている。
だから領域国民国家がある以上は自由も人権もそもそもすべてが偽物です。

完全に国境が開いていて人間が動けるなら、住みたくない、いたくないなら出ていけばいい。こうすれば戦争は起きないし、人間を大事にしない国家は人間が動くことで自然に淘汰されていく。それが国境を開くだけでできる。

領域国民国家システムは正義、人権、平等、人類愛などの理想とも矛盾するし、大地がすべての人に解放され、移住の完全な自由を保障されるため、領域国民国家の国境は廃止されなければならない。
いま国家という枠組が強くなりすぎている。国家の法律によって自由化を言ってもそれは誰も矛盾とは考えないが、実は自由化ではない。
国境による移動の制限、これはかのホッブズが描いた、領域国民国家であるところの怪物リヴァイアサンの呪縛。


(そういえば、全然愛って言わないな、イスラームは。アッラーの慈悲は言うけど)

(中田考? @HASSANKONAKATA 2010年10月27日

「自由」が実体的に有るなどという幻想を抱き有り難がるのはいい加減に止めにしよう。自由は禁止の隙間に過ぎない。
禁止がドーナツなら自由はドーナツの穴、ドーナツがあって初めて「ドーナツの穴」が仮象する。では「禁止」は「存在」するのか?「存在」しない禁止が有る事を知る者だけに答が有る。

中田考? @HASSANKONAKATA 2013年10月8日
自由とはドーナツの穴に過ぎず、それ自体として実在するものではない。
人間が自由であるとの錯覚、幻想に陥っている西欧人は、単に自分たちを縛る文化拘束性に無自覚に隷属し、その存在すら目に入らなくなっているに過ぎない。『イスラーム革命の本質と目的』

中田考? @HASSANKONAKATA 2013年6月28日
自由とはドーナツの穴のようなもの。存在するのはドーナツ(=制約、法、義務etc)であって穴ではない。しかしいかに巨大なドーナツであろうとも宇宙の虚空に比すれば無に等しい。ドーナツの穴を小さく感ずるのは、ドーナツに囚われ、穴が宇宙の無限と繋がっていることが見えない知性の不自由さ故。






えらいてんちょう? @eraitencho
真理情報です。

自由は客観的な指標として存在するのではなくて、自分を制限するものがなんなのかを把握することによって現れます。
ーーー

古代エジプトどころかイスラーム的にも重大な資料があるかも。




現代のイスラームが抱えている課題と、
日本が直面しているのに多くの人が気づいていない課題は、
案外似ているかもしれないとわかる。

グローバル化といえば聞こえはいいですが、アメリカ資本の都合のいいようなルールが強制されるだけであれば、
それは植民地支配となんら変わるものではありません。
かつて西欧列強は非ヨーロッパ世界に軍隊や行政官や教育者ら、
大勢の人間を送りこんで植民地経営をしましたが、
いま、アメリカとその大企業は,独立した諸国と対等に見せかけた契約を結ぶというかたちで、同じことをしようとしているわけです。
超大国アメリカに単独で対抗できる国は,いま見当たりません。

(イランじゃね?イランを筆頭にしたシーア派連合)

その上、環境問題にしろ、貧富の格差にしろ、現代の課題は一国内のことにとどまらず、世界規模で発生しています。
従来の領域国民国家の枠組みで解決できるものではありません。
そこで、グローバルな課題に対してはグローバルな連帯とそれを支える体制が必要だというのは衆目の一致するところでしょう。
それではグローバルな連帯とはいかなるものか。
これについてイタリアの思想家アントニオ・ネグリとアメリカの思想家マイケル・ハートが「マルチチュード」という概念を提唱して、日本でももてはやされました。
インターネットなどの通信手段の発達によって,各地の独自の抵抗運動が結びついて自由なネットワークをつくりそれがグローバル資本主義への対抗運動になるというのですが、私には希望的観測というか妄想にすぎないように思われます。
(人工芝があるもんね!)

マルチチュードとはマルクス主義の言うプロレタリアートの焼き直しで、
しかもマルクスが前提にしていた国際的に連帯した労働組合運動のような組織を欠いているだけに画に描いた餅に終わるでしょう。


それではなにか希望を託せる構想はないのかというと、
私はイスラームの本来のカリフ制こそがグローバルな連帯のモデルになりうると考えています。
(きちんと西洋の政治学も学んでいる著者。
カリフ制にも問題点があるけど、ここでは割愛。カリフ制議論に注力した著作読まないとなんともいえない)


カリフ制の本質を大まかにいうと、法の支配、正確に言うと自然法の支配。
最近、法の支配と法治主義が混同されていることが多いので、説明しておく。

法治主義
=国家が定めた法令、
つまり法律と行政命令に則って統治することで、
国家が定める法律を至上のものとする発想に立っている。

対して、
法の支配
=自然法の下に国家を置く支配。

西欧で言うところの自然法とは実定法に対立する概念ですから、
国家法の上に自然法がある。自然法が国家の法を超えることになります。
だから自然法に反するような国家法はすべて否定する。
西欧で言うところの自然法がイスラーム法と言われるものにいちばん近い。
ですから、ほぼイコールで自然法の支配がカリフ制だというふうに言えます。
その自然法のいちばんわかりやすい例が、
たとえば「人間は自由に移動していい」
という話なのです。

本来のカリフ制が実現するはずなのは、国境を越えた、ある意味で出入り自由の大きな経済圏というよりは、
生活圏という感じの社会です。それを現存の国家の上位というか、より優位なものとして認めていこうというのです。

(やっぱりですます調で長く書くと、だである調との記述時間の差がだんだん顕著になってくる。
丁寧語ほど長く言い終わるのに時間がかかるもんね。
俗語って短いでしょ?短縮表現も多い)

私の考えというかイスラームの考えだが、最後の審判が来るまで世界は完全なイスラーム化はしない。だからカリフ制が復興された地域に住む人間もいれば、
その外ではグローバル資本主義を進めようとする勢力もいて、
最後まで残ると思う。
両者の対立をできるだけ物理的な戦争にしないような形で共存させるのが私の望む世界。
(敵の絶滅ではないことが重要)

戦争をしてしまうとどちらも滅びますから。
私が考える理想のカリフ制のもとではEUのようなかたちで人間が自由に動けるようになる。
ただその外には領域国民国家の制度も残っている。この二つがまさに自由に入りたいものは誰でもは入れるように国境を開いておくべきです。
イスラーム世界といまいうところの領域国民国家システムが出入り自由なかたちで共存していれば、かなり流動化が進むでしょう。
そうすると暴力革命をしなくてもそういう人にやさしくない政権から人間が出ていけば当然国が成り立たないので自発的に改革するようになるはず。

(あれほどイスラームをヤソが攻撃するかわかるでしょ?
天敵だ。

欧米型のワンワールドでは移動が自由なのは特権階級だけだもんね!
国境なくなってもベルリンの壁とか万里の長城みたいなのは作るんでしょ?
一人につき一つか複数のドローンが側近にいて、危険人物認定されたら毒とか注入して「事故死や自殺」するんでしょ?

ヤソ型とイスラーム型の二つのワンワールドが冷戦みたいに並び立つ世界になりそうなんだけど)












カリフ制がイスラーム的自然法の下にあるという意味で、カリフ制は自然法が認める人権も認める。
人権を認める以上は当然日本国民の権利は自然法が認める人権ではなく、限られた国民の権利なのでそういうかたちは認めない。
多国籍の人間には認められていないような権利はすべて認めない。
実はカリフ制とはそういうものであって、だからまず国境をすべて取っ払うという話になる。
カリフ制が支配する地域では国家の法律はないというのが基本。代わりに自然法がある。

史記の高祖本紀にある劉邦は秦の首都を攻略して秦の民に新たな法を布告。
1 人を殺したものは死刑
2 人を傷つけた者は罰する
3 人のものを盗んだ者は罰する


この三箇条だけだったのでそれまでの秦の煩瑣な法律に苦しんできた人々は大喜びしたという。
この法三章は自然法の基本的な姿をあらわしている。
自然法とは人を殺してはいけないのように、基本的にはすべての人間が理性によって理解するものでそれを超えるようなものは法律として強制してはいけない。

(生物の本能=死にたくない!
に根差しているから理解は理性でもするし、
感情でもする)

強制は堂々と強調するべきであり、カリフ制は民主主義のようなごまかしはしない。
自分たちが決めたことだから守るのが議会制民主主義の建前だが、
実際には議員は民意を反映などしていない。
カリフ制は神が定めた法の執行機関なのでそんなおためごかしは言わない。
守ってもらわないといけないものは力でもって強制する。
それを守るのが嫌だったら反乱すればいい。

(神の法への革命権と抵抗権はないのでは?
いつの時代も制限選挙寡頭制であり、上層部は血縁者でかたまっている)


イスラーム法への順守を力で強制するなどというと、カリフ制は独裁制だと思う人もいるだろうが少し補足。
西欧の政治学は人間の支配ということでしかものを考えていない。
デモクラシーにしてもアリストクラシー(貴族制)にしても全部そうなっている。
政治の在り方を人間の数で三つに分けるのが基本。
君主制・独裁制は一人による支配、
貴族制・寡頭制は少人数による支配、
民主制・衆愚制は多数による支配。
しかし
イスラームではそもそも人間の数でわけない。
むしろなぜ政治を人間の数で分けるのかということが問われないといけない。
これはイスラームだけではなくて、
歴史的に中国思想を見れば、
基本的には法治主義か徳治主義か。
法が治めるか徳が治めるかだから人間の数なんてどうだっていいわけだ。

私たちは西欧に植民地化されたので人間が治めるという西欧的な考え方に染まっている。

イスラームでは神が治める。
神が治める実態を人間から見ろと法が治めることになる。
法と言う枠組みがあってその執行権力としてカリフがいる。

(カントってイスラームについてどう考えていたのだろう。
カントも道徳の根源と保証は神)


ただ、私の言っているカリフ制は、もちろんイスラームのカリフ制に違いはないのですが、カリフという人間にはほとんど重点を置いていないので、その意味ではかなり特殊な立場です。
西欧的な政治学の枠組みから見ると、ひとりのカリフが元首となるカリフ制がイスラームの政治学であるように見えて来るが、それは私たちの思考の枠組み自体が西欧的な政治学の概念構成になれているため、支配者あるいは支配機構に焦点を当てる、
そうするとカリフを支配機構の中心としたシステムに見えてしまう。

要するに,私の言い方では,法の支配こそがカリフ制なのです。
法が上にあって、その下に人間がいる。その意味で民主制なんていう言葉を使わないでカリフ制という言葉を使う。
この法はシャリーア。
日本では法と法律の区別があまりないので、国家の法律ではないという意味で自然法という言葉を使って、自然法の支配と言った。
カリフ制は自然法の支配であるとはそういう意味。
イスラームを成り立たせているのは,あくまで法なわけです。
法があればいいのです。法が支配する。すべての人間が法に従う。人間が人間を支配する統治機構はいらない。
ただし個々人の判断だけではすまない場合、たとえば解釈をめぐって争いが生じたとき、
あるいは法に書いてない突然敵国軍が攻めてきて戦うか和平条約を結ぶか決める、
といった集団的な決定をしなければならないときにはじめて統治機構が問題になる。
イスラームは個人で回っていくようにできているので、
統治機構が必要な部分は本当に小さい。
ただし問題が起きた時に国境をつくらせない、分裂しないために一人のカリフが必要。

そもそも人間が人間を支配するのは不正なのです。
だから支配する人間はいないにこしたことはない。でもムスリムの意見が分かれたときには、
誰かが彼らをまとめて不満な者にも我慢させなければならない。
そういう人間は少なければ少ないほどいい。でも一人だけならいてもよいのではないか。一人のカリフというのはそういうことです。領域国民国家をつくらせないために法の一体性を守るためにあるのがカリフなんです。
だからカリフは法が一つであって、
ダール・アル=イスラームも一つであるということの象徴といえる。
そのために一人のカリフがいる。カリフもどきの支配者が大勢いてはまったく意味がない。
イスラームにかりふは世界に二人いてはいけない。
二代目カリフのウマルが伝える預言者ムハンマドのハディースに、二人のカリフが立ったら二人目は殺せとはっきり言われているので二人目はいてはいけない。
それをごまかして一つの国が一つのイスラーム世界であってその大統領あるいは国王がカリフであるようなそういう嘘を通してきたのが現状。
カリフがそういった余分な権力者を立てないためにいることを考えれば、まさに反対のもの。
カリフ制とはカリフ的な無数の人格が出て来るのを封じるための権力乱立の制御装置。
(唯一神のみに権力を認め、ほかは偶像だから権力を認めないのと似ている)
だからカリフは一人。
カリフに中心はない。
システム自体ができていますから,人間はどうだっていいといえばどうだっていいのです。イスラームは基本的に法のほうが重いわけですからカリフが何を言おうとそれがイスラーム法に反すると思えば誰も従わない。
初代カリフのアブー・バクルの言葉を思い出してください。

「私が正しければ私を助け、私が誤りを犯せば私を正して下さい」
「私がアッラーフとその使途に従う限り私に従いなさい。
もし私がアッラーフとその使途に背いたなら、あなたがたには私に従う義務はない」

独裁者ならなにがなんでも服従せよというはずなので、その意味では独裁制から最も遠いのがカリフ制。

国王だろうが大統領だろうが、自然法に反したことをしてはいけないと、
はっきり言えるのがイスラームのよいところ。
自然法の支配とは裏返せば人間による支配の否定。アナーキズム(無支配)。
西欧のアナーキズムは本質的にアナーキー(無秩序)なのでまとまらないのだが、
イスラームだけが世界中、どこでも人間による支配を受けずに生きていけるというそういうシステム。

中田は大学をやめたときに保険は脱退した。自分の健康について国家がお金を徴収して世話を焼くことがイスラーム的にどうもおかしいと感じたから。
寿命、生死の問題は最終的には神のご意思にゆだねるべきことのように思われるし、そもそも領域国民国家が運営する国民健康保険というものがなんともうさんくさく感じられた。
イスラームのシステムなら相互扶助のために領域国民国家を経由する必要はない。
世界中から国境を越えて救援の手が差し伸べられることになる。
カリフ制復興を唱える自分が領域国民国家のまやかしの福祉に加担するのはどうもしゃくにさわったので、保険から抜けた。今の病院は保険がなければ払えないほど高額なのでもう病院にも私はかからない。それで死ぬなら神の思し召しだと思っている。

イスラームの歴史では病院は篤信者の寄進(ワクフ)によって運営されてきた。

国家が介入すべきことではない。
中田は年金もやめた。任意で入るものは一切入らない。
自動車を買うときに入らされた自動車保険、会社の事務所を買うときに入らされた火災保険などは別。
(本当に一貫しているな)

ナショナリズムは偶像崇拝
イスラームでは不信仰よりも多神教の方が悪いこととされる。
多神教とは神でないものを神とすることであり、言い換えれば偶像崇拝。
イスラームから見るとイエスを神の子とするなんてとんでもない話。
仏教は不信仰に近いと思うが、それよりもナショナリズムのほうが罪が深いとイスラーム的には考えられる。
イスラームの定義では
神=崇拝されるもの。
主=命令を下す権力を有するもの。
命令を下せるものが主である。
主は神である。

国家も命令を下すものである限りそれはまさに神であるはずなのに、
実際の国家は人間が人間を支配する便宜のために作られた組織、フィクション、虚構の法人。
虚構の法人である国家は本来の神から見れば偶像神なのでイスラーム的には最大の悪。

だからナショナリズムあるいは、エタティズム(国家主義)は最悪の偶像崇拝だと私は思う。
国家を崇拝したり、帰依したりすることはイスラーム的には酒を飲むことなんかよりはるかに悪い。
人間が人間を支配するのはいけない。
国家も民族も人間が人間を支配するという不正を隠ぺいするヴェールにすぎない。
それをはっきり言える一神教はイスラームしかない。

イスラームしかないと言っているのが私しかいないことが困ったことだが、
本来イスラームの学者はみんなそう言うべき。

つまりナショナリズム活動する奴はムスリムではないな!
あれ、ナショナリズムってヤソ圏由来だよね?
ナショナリズムってイスラームを壊すのに便利だなー。
アッラー以外の存在を命令を下す主としてはいけない、
神格化禁止ってイスラームの根本なのにちゃんと守られていないのは西洋に戦争で負けたから


イスラームには教会も公会議も教皇もない。
ムハンマドの正統カリフ時代からそう。
モスクは礼拝所であり所属する人間はいないので教会ではない。
教会は建物のことではなく教区があってそこに集まる人間の組織が教会。
モスクはただの建物で礼拝するところでしかない。
モスクの中はキリスト教会の十字架(イエス像)、仏教寺院の仏像、神社の御神体にあたるものがない。
何もなくてただマッカの方角がわかるようにしてあるだけ。
ムスリムはマッカを拝んでいるかというと、マッカは現代のサウディアラビアにある都市にすぎないのでそれを拝んでいるのではない。
ムスリムが大勢で礼拝をするときみんながてんでんばらばらにやると収集がつかなくなるので、マッカの方を向いてやることになっているだけ。
これもクルアーンに明記されている。

イスラーム法の結婚は国家に届けるのがおかしい。婚姻届けを国家に出すのはイスラーム法に反するが今はそういうねじれが生じている。
(たしかに国家がお墨付きを与えるのはおかしいな)


今の人間はすべて国家に従っている。
戦争にしろ刑罰にしろ直接的に物理的な力を最終的に担うのは国家。
その力に従っている。
そうでないところではお金に従っている。
お金をくれる人に従う。
国家権力と金の力、これが現代の偶像神であり
、こうした偶像崇拝を打破して、本来のダール・アル=イスラームを回復する。そのためのカリフ制再興であり、それはひいては国家と企業の連合体が推進するグローバル化に対抗する、もうひとつのグローバルな連帯の形成にも役立つ、というのが私の主張です。

逃散=一斉引っ越しは圧政に対抗する有効な手段なのは日本史を学べばわかる)



誤解が生じるといけないので断言しておきますが、私の方から誰かを、戦闘員としてイスラーム国へ行くようにすすめたことは一度もありません。今回の大学生に限らず、私には大勢の教え子や若い友人たちがいますが、私からイスラーム国に行けとすすめられた人間は一人もいないはずです。また今後も、私から渡航をすすめることはないでしょう。

(ぐだトマト @pteras14
5月13日
中田考の集英社新書のイスラーム本
立ち読みで全部読んだ。
分かりやすいね。

カリフ制というか「人間の移動」と
「領民領土の偶像化」という概念が
理解出来ると、旧約聖書のアベルと
カインの逸話も分かり易いw

ヤハウェ君がアベルの方を選んだのは
そういう訳だったのねw

中田氏が件の新書で大高忍のマギと
ハルヒに触れている箇所があるんだけど、
マギは世界観がインド/ペルシャ型だって
言ってたよ。

あれだね。やっぱシムシティ大作戦が
正義みたいだね。クソ市長が統治した
場合、皆んなで集団引越し出来る制度。


つまり、欧米史上最大の天才はウイル・
ライトだったって事か。

イスラームの本読んでて感じるのは、
あの聖書って書物は西洋人の観念で
読んじゃダメだって事かな。

やっぱり中東人の感覚を持って読まない
とダメだな。

中田氏の「神」の定義が中々面白くて、
「神=人間の意志に対して何らかの
強制力を強いる物、命令を下す物」

で、現代の欧米型先進国は
「神=金、
国家、領土、企業」。

つまり、日本語の「法人」は本来
「法神」という綴りの方が正確。

「企業の偶像神化」w

こいつぁ良く考えたもんだぜ!
傑作だ!

個人的にノーベルぐだトマト文学賞を
授与したいぐらいw

そう考えるとFGO 6章のアルトリア
シティを中東のど真ん中に建てるの
って意味深だな。

アルトリア・シティには西欧文化の
邪悪が全て詰まってる。

聖槍ロンゴミニアドってただの大英
博物館だしな。人間が展示品な
だけで。

#FGO
#FateGO

しかし、中田氏が言う様に「人間の
移動を制限しない」事が中東文化だと
言うならば、ますます新約聖書の
「ヨハネの黙示録」の異質さが際立つ。

あれはハッキリとネオエルサレムに
入れる奴と壁の外で歯を食い縛ってる
人間とを明確に隔ててるからね。

一応、聖書学上、「ヨハネの黙示録」
の文体がアナトリア(現在のトルコ)式
のギリシャ語ってとこまでは割れてる
からなー

でも、あの領土をカッチリ決めて
仲間外れごっこをする文化って
西ヨーロッパ的だと思うんだけど。

ただ、イスラームの専門用語見てる
限りアレ絶対にバラモン教の影響
入ってる。

どーも、大洪水の時代かどうかは
分からないけど、現代のイラン?インド
の間でとてつもない邪悪が誕生した事
だけは分かる。

それが型月の教義上のアンリ・マンユって
奴なのか分からないけども。

このバラモン教ってかヴェーダ教
ってのは本当に曲者だ。

アイクも「巨悪はヒマラヤの山頂に座
している」って書いてたしな。

「ソロモン神殿」ってのは
ある特定の場所云々というより
「十戒の石版」が収められてる
「聖櫃」を置く所って性質が
重要なんだ。

「十戒」ってのは奴等の教義上
「神の法」であって人間の制定法
じゃあない。ココが重要なポイントよ?

だからFGOでも聖王ソロモンの
神殿は時空を超越した「外」に
あったでしょ?

時空を超越してるって事は、
「書き換えが無い」って意味。
つまり「立法権が無い」わけよ。
人にはね。神が制定した法なんだから。

だから人理修復なんて無意味だよ。



まずね。このユダヤ・カバラの
「生命の樹」、君達が興奮した
エヴァのOPにも出てたアレね。

此奴は神が世界を創造する時の
プロセスを図式化した物。
玉みたいなのを「セフィラ」と
呼ぶ。(複数形でセフィロト)

一番上のケテルって玉から稲妻上に
順番にマルクトって一番下の玉まで
神の力が作用して「奇跡」が顕現する。
マルクトってのはまぁ、君達人類の
言葉で言う「地球」みたいなもん
だと思ってOK!


ぐだトマト @pteras14
5月14日
で、こっからが君達の学研カッバーラ
に無い情報なんだけど、
そもそも「神が絶対善ならば、なぜ
この世に悪が存在するのか?」
って禅問答が起きる。

当然、この世に「悪は間違いなく実在
する」から「悪」も神が創ってなきゃ
おかしい。


そう!
つまり型月的に換言すれば、
BEASTはこの世界よりも先に存在
してた!

世界はね、決して「無」から創られた
わけじゃないんだよ。旧約聖書の
創世記みたいにね。

「悪」こそが根源的「実在」なんだよ!

ユダヤ・カバラ上ではッ!


「エドムの王」ってのはね、モーセや
ダビデ達がイスラエルを建国する前に
あの辺りを陣取ってた現地人の王様
達の総称なんだけど、カバラ上は
「根源悪」。で、セフィロトの玉と
同じ数あるの。

で、ヤハウェ君(神の事)が天地創造
するにあたりこの「エドムの王」達を
まず惨殺するとこからスタートする。
つまり「悪のセフィロト」の玉を
全部粉砕するんだ。

そして「天地」は悪の死骸の上に
初めて打ち建てられる。

だから「破壊」と「創造」は
常にワンセットなんだ。

この世界はね、フフッ、「悪」を
生贄に捧げる事によってのみしか
存在し得ない泡沫の夢……

イエスを磔にして「新約」を
神と結ぶ理屈、お分かりかな?

だから、君達カルデアのマスター
がいくらBEASTを狩り続けても
全ては「神」の計画の内さ!

君達はね、ゲーティアがやろうとしてた
事と同じ事をやってるだけなんだよ。
即ち、「天地創造」をやり直してる
だけなんだよ!

そう!「何かを犠牲にして」、
その等価交換としてしか存在しえない
この「世界」。
そんな邪悪なシステムに名を付けると
したならば……

そうだなぁ、「地獄」辺りが妥当
なんじゃないかな?

人理修復など所詮は「地獄職人」の
戯言のお遊戯さ!

FGOにガチャが永遠に存在する通り、
「地獄」も「地獄職人」が存在する
限り永遠なのさ!

「課金」か「破壊」かの違いでしか
ない。時々、星5が出てくるから
「創造」している様に錯覚してる
だけさ!


ねこた(なつやすみ)? @lakudagoya 5月13日
その他
返信先: @pteras14さん
とまーてさん、解説ありがとう御座います。 神の計画ってのもユダ公の発想でなくて。
約束を破ったユダ公を無視するわいじめるわ。
むしろイエスの言う優しくてニャンゲンを見守る神ってのはむしろストア学派の神に近いような気がして、マルキオンは空気読まない子だと思いますよ。

ぐだトマト @pteras14
5月14日
@lakudagoya だって元ネタのバラモン教の
神が「死」ですから……
「地獄職人」から産まれる物は
常に「地獄」ですよ。

ねこた(なつやすみ)? @lakudagoya 5月13日
その他
返信先: @pteras14さん
なるほどです。旧約聖書もストア学派のモロにバラモン教のパクリ要素がありますね。
地獄にしても、不条理も神の意志ってストア学派も行ってますし。 やはりアーリア系は避けて通れません。 バラモン教由来のものがある限りこの世は地獄思想が消えないわけで。

ぐだトマト @pteras14
5月14日
@lakudagoya あれはイエスが生き返るシーンこそに
救いがある物語と思ってて、ま、
さっきの通り結局は「生贄」システム
なんですけど、「君の善行は決して
無駄じゃないんだよ!」と諭す所に
優しさを感じるのでは?

でも、イスラームも最後の審判の
前に世界を打っ壊す!って言ってる
ので……

ぐだトマトさんはね、
何か大切なものを「生贄」に捧げなけれ
ば成立しないベルセルクみたいな
システムはね、結局「地獄」しか
生まれてこないと思ってるんだ。

やっぱりね、刃牙のガイアみたいに
自分を痛めつけないで綺麗なまま
強くなる方法を模索すべきだと
思うんだ。


ねこた(なつやすみ)? @lakudagoya 5月13日
その他
返信先: @pteras14さん
なるほどです。イエスの生贄ってパウロの影響で正教会はそう捉えないみたいなので。
確かに新約の神は優しいのですが、生贄システムを否定しないのがどーなのかなぁ? どこに新約の解釈の軸を置くかで代わりますけど、おいらはむしろ全体の構造を見ますね。

ねこた(なつやすみ)? @lakudagoya 5月13日
その他
おお!とまーてさん、中田考氏の本を読まれたのですね。 あれ、中東人のセンスを知るには良い本ですね。 その視点で見ると、なんかこう、新約聖書って違和感ありますよね? あのユダ公などのズルさと泥臭さを感じないのですよ。 アラブ的なセンスに欠けてるっていうか。

ぐだトマト?@pteras14 5月13日
その他
カリフ制が少し曲者ですね。あの制度って
型月達の大好きな「聖王ソロモン」と 「神殿」と同じシステムでしょう?
別名、「アーサー王」&「キャメロット」 システム。
中国の管仲の時代の「覇王」システム
にも似てる気が……

ねこた(なつやすみ)? @lakudagoya 5月13日
その他
こんばんわ、とまーてさんのレビュー面白かったです。 はい、そうですよ。
ビザンツの皇帝のようなシステムです。特にあの中田考氏のカリフ論はイマーム論に近いです。
ですので、魔法少女たちが中田考氏のカリフ論に靡くってのが不思議で、あれもアーリアなのかな?と思いますよ。
ちなみに、イスラーム哲学は印哲の影響強いです。あっらーさんの説明はブラフマンに似てました。
イスラームの時間論も印哲のそれです。
ですから、ユダヤ人がアーリアの影響強いようにまたイスラームもアーリアの影響強いかと
。)




こっから

まだまだ追加

参考資料

となりのイスラム 内藤正典先生インタビュー
http://www.mishimaga.com/special01/068.html
”内藤「あの人たちはイスラム教徒じゃない」というのは、私たちには決められないんです。イスラム教においてそれを決めるのは神であって、ふつうの信徒が「お前は良いイスラム教徒だ」「お前は悪いイスラム教徒だ」とは言えない構造になっている。

 なんでそう言えないのかというと、イスラムはカトリック教会におけるバチカンのような、教会制度を取ってないからなんです。ローマ教皇みたいな人もいない。つまりイスラム教には正教会も総本山もないし、最高位聖職者もいないんですよ。ただし、もし本当にカリフが登場すれば別ですが。カリフは、全イスラム教徒の長として、判断を下すこともできます。

―― なるほど。そうか、モスクは礼拝所であって、教会ではないですもんね。

内藤では何がイスラムにおける偉さの基準になるのかというと、ひとつはイスラムについての学識の有無です。イスラム教は内面の信仰だけでは成り立たない宗教で、外形的というか、イスラムという法の体系でありルールなんですね。

 こんなことを言うとイスラム教徒に怒られるかもしれませんが、イスラムの聖典であるコーラン(神がムハンマドに下した啓示を集成したもの)は、ルールブックである面がかなり大きいです。結婚するときにはこうしなさい、離婚するときにはこうしなさい、あれは食べてもいいけどこれは食べてはいけない、と言っているわけですから、人生で経験しうるあらゆるところに神がルールを示した、と見ることもできる。
 そうなると、そのルール(法)に関する法学が学識ということになります。法学はちゃんと勉強をして、知識がないとわからない。

「イスラム的に正しいか」ということをどう判断するかというと、まずは絶対的な法源であるコーランが典拠です。それにプラスして、預言者ムハンマドが生前に何を言ったか・何をしたかという言行(これをスンナと呼ぶ)がつぎの典拠になります。そのスンナを集めて、これは正しいだろうと言われているものを書物の形にまとめたものがハディースです。日本ではまだ少ししか翻訳が行われていないんですが、ハディースを見ると「預言者があるときこうした」「それを誰が伝えた」ということが膨大に書いてあります。それがまた別の伝承ではこうなっている、また別の伝承ではこうなっている......というのが延々と書いてあって、最終的に「どうもやっぱりそうらしい」ということになります。
 この二つに関しては、典拠があるので動かせません。預言者が良いと言ったものを、悪いとすることはできないですよね。

―― 預言者は神のお告げを伝えているわけですもんね。

内藤対してコーランにもハディースにも典拠がないとなると、過去に明らかにされている典拠を基にして、そこから論理的に引き出せるかどうかが肝となります。

 たとえば、ムハンマドが生きていた時代に飲まれていたお酒というのはワインだったろうと言われています。イスラムでは飲酒は禁止されていますが、ではワインではなくウイスキーは、日本酒は良いか悪いかと言ったとき、コーランに「日本酒はダメ」とは書いていない。だからそこで、「なぜ飲酒は悪いと言っているのか」と考えるわけなんですね。
 実はムハンマドは生きていたころに、どうもお酒を飲んでいたみたいです。それであるとき酔っ払って、コーランを朗唱しようとしたら読み間違えた。これはいかんという話になり、だんだん厳しくなっていくんですね。

となると、お酒を飲むと魂を惑わされて、理性も惑わされる。だからいけない
、という話になる。そうすると「なぜいけないのか」というロジックが立ちますよね。では日本酒なるものを飲んだ場合はどういうことがそこに起きるのか、と言うと、同じことが起きると。したがって日本酒も禁じられたものになる、というふうに、論理的に導きだします。けれどそれでも結論が出ないこともあって、そういう場合はあちこちに住んでいるイスラム法学者たちの見解を聞いて、そこで合意が成り立つかどうか、と持っていくようです。

 たとえば、よく例にあがるのはコーヒーですね。コーヒーはみんな中世の頃から飲んでいるし、しかもあの中東のあたりはコーヒーの原産地でもある。けれど、コーヒーも一種の精神作用があるとことがわかったんですね。だから「これはダメだ!」と言った人もいるし、「構わないだろう、酔っ払うわけじゃないし」と言った人もいた。コーヒーについての典拠がないから、完全に意見が分かれるんです。そうなったとき、コーヒーを飲んだからといって読み間違えるわけではないから、まぁいっか、という話になってくるんですね(笑)。そうして概ねコーヒーについては飲んでも構わない、となるのに、何世紀もかかっているらしいんですよ。

それとはまた逆のケースもあるわけです。たとえばタバコも、どちらにも典拠がないんですよ。ごく最近のことですが、イスラム圏で禁煙がけっこうブームになっています。そうすると宗教上はどうするのか、という話になり、イスラム学者がタバコは是か非かということを議論しはじめている。恐らくタバコは緩慢な自殺であると解釈して、非となるのではないかな、と思います。イスラムでは自殺は厳禁されているので、喫煙が緩慢な自殺に当たるというような合意形成ができると、ダメだという方向にだんだん傾いて行く可能性がある。

 つまりイスラムには、元の典拠になっているものに関しては極めて厳格な法の体系の部分があり、そこから論理的に演繹して結論が導けるかどうか、さらには学者先生たちで合意できるかどうか、という3段階があるんですね。合意が成り立たないと、全面的に是か非かという話が形成されない。ムスリムに言うと怒られちゃうんですが、そこにイスラムの遊びがあると思うんです。
 たとえば妊娠中絶は、宗派によって「いつまで中絶できるか」という考え方が違います。スンニ派の場合は主要な法学派が4つあるんですが、その中で見解が分かれている場合、自分の家の法学派がどれかわかっている人はそれに従って、そうじゃない人は従わない、となる。イスラム教徒全体を拘束できるかというと、必ずしもできないのです。

内藤日本の場合はイスラムに対するリテラシーが低いので、混乱が起きることも多いです。
 たとえば「イスラム国」と呼べるか呼べないか、というのも同じことです。日本政府はいま「ISIL(アイシル)」という呼称を取っていますが、ISILは「Islamic State in Iraq and the Levant」の略称です。この「Levant(レバント)」は、もとはフランス語の「ルヴァン」。18〜19世紀ごろ、フランスがあのあ地域を分割して支配しようと企んでいたときに使っていた地域の名称なんですね。
 私が必ずしもISILという呼称を良いと思わないのは、ISILとはどういう意味ですか? と聞かれたら「イラクとレバントのイスラム国」と言わなきゃいけないからです。けれど日本人はレバントを知らないですよね。レバントというのは東部地中海沿岸地域の名称なんですが、シリアもパレスチナもレバノンも入っちゃうし、ヨルダンも入っちゃう。今現在、イスラム国がいない地域まで入ってしまうんです。
 そうすると「ISILと言ってあげれば、イスラム教徒の人は落ち着くんじゃない?」というのは一種のごまかしでしかない。そういう口先だけの話で理解したつもりになるというのは、やっぱりダメなんじゃないかと思います。

「ISIS(アイシス)」だと「イラクとシリアのイスラム国」の意味なんですが、これは「イスラム国」の前身組織なんですね。「イスラム国」にするって彼らが自分たちで変えてしまった。
 もう一つ、ちょっと知っている人だと「ダーイシュ(DAISH)」という言い方をする人もいます。けれどアラブ人曰く、ダーイシュってアラビア語の語感として、なんか悪い感じがするらしいです。元の単語があるわけではないらしいんですが、音がなんだかおバカな感じがする、とイスラム国は嫌っているんです。「イスラム国」の人間に「ダーイシュ」と言うと殺される、というくらい。

今敵対している側のアラブ圏の国は「ダーイシュ」と言っています。それで日本のジャーナリストでもそういうふうに言っている人がいるんですが、気をつけて使わなきゃいけない言葉です。
 ダーイシュはアラビア語のアクロニム(頭字語に別の読み方を与えたもの。AIDS=エイズなど)なので、元の意味は「al-Dawla al-Islamiya fi Iraq wa al-Sham」なんですよ。イラクとシャームのイスラム国という意味ですが、シャームってどこのことを言うのか、これもまた日本人は知らないですよね。

シャームというのはアラビア語です。ダマスカス(シリアの首都)を指していることもあるし、シリア全体を指すこともある。たとえばトルコ語で「シャーム」と言った場合には、シリア全体を指してしまうんですね。元々はシャームというと、東部地中海沿岸地域一帯のことを指しています。そこのイスラム国、という意味なので、実はレバントと同じことになります。イスラム国側がこのダーイシュという言い方を嫌っているので、たとえばフランス政府のようにイスラム国に反対する人たちは「ダーイシュと言おう」と言っています。けれど日本人のジャーナリストが現地に取材に行って「ダーイシュ」と言っていたら、相手がもし敵方の人だったら売られてしまいます。ダーイシュというだけで、敵だとわかってしまうから。
 その辺のリテラシーというのをきちんと押さえた上で使うのならいいんですが、単に「イスラム教徒の人がかわいそうだからISILにしとこう」では、結局イスラムに対する理解は深まらないと思うんですね。

昔は貧乏人の子だくさんと言っていましたが、その状況もたしかにあります。ただそれで増えるという説明では説得力がないので、ほかの面をお話します。まず一つは、イスラムの人々は、子どもを持つということは絶対的に良いことだと思っているからなんですよ。

―― なるほど......。それは、ヨーロッパとはだいぶ違いますね。

内藤ええ、まったく違います。絆がどうとかではなくて、家族というのがどういうものか、家族になるということに対して、彼らはかなりの重みをもっています。子どもができるということに相当な重みがあるんです。
 日本だと、結婚をしても子どもができないご夫婦に対して、ひどくつらい思いをさせるという嫌な文化がありますよね。ところが不思議なことに、イスラム教徒にはそれが無い。まともなイスラム教徒の場合、子どもができるかどうかは神が決めることであって、できるできないでもって「お前のせいだ」と言うことは、神が決めることに人間が介入することになります。だからそれは許されない、と思っているんでしょうね。子づくりという言い方もしないです。

―― なるほど。

内藤さらにここが面白いんですけれども、性行為そのものは快楽のためである、とちゃんとハディースにも書いてあります。結果としてお子さんが生まれるのは望ましいのですが、夫婦間の性行為(イスラムの場合婚姻外は姦通になり厳罰)に関しては快楽の追求であってかまわない。善行なのだそうです。
 だからその結果として、子どもが生まれる、生まれないは、神の手にあるんです。それができなかったからどう、と言ったり非難したりすることは、ひどく不道徳なことだと感覚的に捉えているんでしょうね。そういう考えのもとだと、子どもも生まれてくるでしょう。

―― そうですね。そういう考えのもとだったら、放っておいても子どもを生むひとが増えると思います。


内藤根本的なものの考え方や原理が、私たちとは違っているんです。子どもはたくさんいるほうが可愛いから、ということではないんですね。しかもある程度保守的な人になると、結婚する前に男女で付き合うことも避けます。我々の社会だと、以前は禁止されていたものを認めるようになるということが一種の進歩である、ととらえがちです。けれど、その感覚が彼らにはないんですね。つまり、世の中が変わるにつれて何らかのルールや規範が変わる、という考え方自体がない。規範は1400年前のところで止まっているんですよ。
 家族はお子さんが誕生すればすごく喜ぶし、お子さんを溺愛します。それが必ずしも良いとは思いませんけれどね。私も20年ほど前に、まだ一歳くらいだった私の子どもを連れてトルコに行ったのですが、みんなものすごく優しいんです。


―― ほお〜。

内藤独身だと半人前扱い。結婚してようやく0.75人前くらい。子どもがいると一人前の扱いになるということが、実際に子連れで行ってみてよくわかりました。そして、とにかく周りの人がみんな子どもを見ていてくれるんです。
 たとえばベビーカーを押してレストランに行くとします。日本の場合、高級レストランになると「12歳以下お断り」とか書いてあるところもありますが、そんなことをしたらトルコでは「人間じゃない」と言われます。むしろそういうときは、奥の席にいる人が立って退いてくれるんですね。「奥の席にいらっしゃい」と言って。なぜかと聞いたら、「入口の席だと、風が吹いて赤ちゃんが風邪をひいたらいけないじゃないか」と。そういう社会だと、やっぱり出生率は減らないですよ。

―― なるほど。すばらしいですね。

内藤その価値観というのは、日本のように規律で決めてどうこうというのではなく、おそらく信仰の中から出てくるものだと思うんですね。
 けれどイスラムの場合、子どもが小さい間、お母さんは家にいるべきだ、という考え方は強いです。母親じゃなければできないことがあると確信している。そこだけを見ると、女性を家の中に閉じ込めておくのか、という批判は可能です。しかし、家の中で一番偉いのは間違いなくそのお母さんなんです。父親のほうは、哀れにも外へ行って飯の種を稼いで来なくてはならない存在、ということになっている。

 一家の中心は子どもを育てる母親であって、父親はその命令によって外で食い扶持を稼いで来なくちゃならないんです。だから父親が外に出て好き勝手なことをしているととるか、父親は可哀そうにも外へ行って現金を稼いでくるととるか......それは宗教的な価値観からくるものなので、これを否定しても実はあまり意味がないですね。もっとも、それでいて一家の長は男性だとする家父長的な価値観も根強いです。母親のほうが強いから、家族についての決定権は父親に与えるのかもしれません。


―― 面白いですね。日本人が学ばなければいけないところがたくさんある気がします。

内藤そう、その網の目のようになっている事柄の中に、学ぶべきことがたくさんあるんです。だからある断片だけを取り出して、イスラムは女性に対して抑圧的だと決めつけてしまったりしてはいけない。実際にそんなに抑圧的なんだったら、子どもは増えないと思いますよ。半分は女性なんだから、「イスラムなんていやだ」となるでしょう。


「あれをしたからこんなことに!」はイスラムにはない

内藤先ほど子どもができる・できないの話をしましたが、イスラムでは一般的に病気の場合も「病気になる」ではなく「病気にとらわれる」という言い方をします。つまり、悪いことしたからこうなった、という因果関係を言わないんです。原因と結果というのは、神の手にあることだから。因果関係というのは、とくに西洋が近代科学を発展させていくプロセスで重要でした。とにかく因果律で縛るわけです。トルコ人の医者でさえ「あれをしたからこうなった」とは言わないそうなんです。

 トルコには生活習慣病の人がごまんといるのですが、それでも言わないんですよ。最後の寿命、命というのは、神の手にあるんだということなんです。日本だと「貴方があれをしたからこうなったんですよ」と全部言われますよね。内科の医者へ行ってみると、「あれをしたらこうなります、最後は失明します、足の切断です」とか言われます。鬱陶しいじゃないですか、そんなことばかり言われたら。

―― (笑)。たしかに、自分は何にもできなくなるのでは、と変に不安になってしまったりもします。

内藤糖尿病外来なんかに行くと、全部因果関係で説明されますね。もう因果応報の世界ですよ。けれど面白いのが、トルコの医療はすべて西洋医学なので、何が原因で患者さんがそうなったかは医者もわかっている。わかっているけど、患者さんを前にして「貴方の過去がああだったからこうなったんですよ」と言うのは、ひどく不道徳な感じがして言えないらしい。ましてや患者さんが弱っているんだったら、そういうことを言って聞かせるというようなことはできないと。

―― おお、なるほど。

内藤もちろんちゃんとアドバイスはすると言っていたけれど、そこなんですよね。日本のほうが、おそらく医者の警告をきちんと聞く人は多いでしょう。どうも、トルコ人の場合ですが、生活習慣病については、あまり注意を守らない。お酒は飲まなくても、甘いものや脂っこいもの、大好きですからね。お菓子をたべながらおしゃべりするのは、イスラム圏の女性たちの最大の楽しみ。おいしい食事を家族と一緒に食べるのは、ほんとうにもう、あらゆるイスラム教徒の楽しみと言っていいでしょう。その楽しみを奪うというのは、なかなかできません。日本だと、節制しなければいけないという価値観が強くて、中高年の人たちはすごく真面目に健康管理をしますが、トルコあたりでは、それがなかなかできないんです。

 そのおかげか、トルコの心臓血管外科医は腕がいいそうです。なんせあまりに多くの患者さんが心筋梗塞になって運ばれてくるものだから、バイパス手術を田舎の病院でもすぐにやってくれるらしい。それでトルコは今や、医療ツーリズムの目的地になっています。ヨーロッパは医療費が高いからね。患者さんが多いから腕が発達した、という話なんですよね、今度は(笑)。

―― みんなバイパスの手術をしなければいけないから、いやでも技術が上がるわけですね(笑)。

内藤そうなると考えてしまいますよね。日本が、高度先進医療がどうでそのために備えなきゃいけないものが......と言って思い悩んでいるという、あの感覚はイスラム教徒にないんですよ。原因に対する結果という考え方を重んじていないから。それが良いんだとは私も思わないけれど、トルコ人が何を嫌がっているのかというのもわかるんです。とくに人の命に関することというのは、神が決めることであってね。



イスラムに学ぶべき知恵

内藤私はトルコに家を持っているんですが、はじめのトルコの家で隣だったご家族のお嬢さんは障害をお持ちでした。そしてそのお嬢さんが、よく我が家にふらっと来るんですね。一生懸命うちの子どもと遊ぼうとするんです。そのうち隣のお母さんが来て「この子こういう子だからすいませんね」と言って連れて帰っていく。そんな障害を持った子が来ると、日本の普通の感覚でいうと嫌がるでしょう。

 だけど逆に言うと、その子がいるために、周りがみんな手伝うんです。周りの人にしてみると、その子を助けることで善行を積むんですね。彼女も、隣家の我が家の子どもと遊んであげることで良い行いをしようとする。イスラムで善行を積むということは、来世で天国に近づくということです。だからそういう障害をお持ちの方がいることによって、自分が天国に近づくと考えているんですよね。
 その障害を持っている子どもがいる家族は、どうしてうちに障害を持った子が生まれてしまったんだろうなんてことは絶対に言わないし、考えもしない。こういう感覚には学ぶべき点があるように思いませんか?


―― はい、素敵です。

内藤 日本の場合、そこから延々と悩み続けてしまいます。テレビはテレビで家族の苦悩みたいな描き方をするしね。イスラムの場合、まったく発想が反転してしまうんです。
 それに気がついたのも、物乞いにお金をあげても何でありがとうと言わないか、を考えたからです(笑)。つまり、私のほうが物乞いよりお金持ちなわけですから、私が彼にお金をあげることによって善行を積み一歩天国に近づいたのであって、物乞いにしてみればありがとうと言う筋合いはないわけです。「俺がいてよかっただろ?」という。


 これからどんどん、多くの高齢者を抱えるようになっていく日本にとって、そういうのは必要な知恵じゃないかなと思うんですよね。高齢化が社会問題だと言う前に、まったく別の受け入れ方がありうるんだということを知らなければいけない。

―― 本当にそうだと思います。

内藤たとえば認知症になることも、そう神が定めたということになります。これは神の定めだということになったほうが、家族もあんまり悩んだりせずにすむし、気が楽ですよね。それはムスリムでなくても、なんとなくわかる感覚だと思います。

 私も去年の11月に母が亡くなり、その後父は急に認知症が悪化したんです。母は父の認知症に気がついていたらしいんですが、私は全然気づかなかったくらいでした。父は母が亡くなった後の、直近の記憶が今に至るまでほとんどないんですね。それで医者に連れて行くと、「かなり認知症が進んでいる」と。うんうんと聞いていると、医者が深刻な顔をして私に「こういうことを言うとご家族の方は、そんなはずはないっておっしゃるんだけど......」と言ったんです。それで、大丈夫、わかってるから、見ればわかるから、と(笑)。
 父は86歳まで健康に生きてきて、最後に母親を看取るところまで自分でやったわけで、そのショックもあっただろうし、それで嫌な記憶ごと消しちゃったのかもしれない。どうして認知症になったのかと考え、悩んでもあまり意味はないと思うんです。それより、これからの生活の質をどう維持するかを考えるほうが重要だと思います。

”東アフリカがコーヒーの原産地である。
十六世紀のジャジーリー『コーヒーの正当性のために』ではコーヒーの起源を紅海対岸の東アフリカーーつまりエチオピアと考えられる――としている。
しかし、イエメンのモカ(※)をコーヒー発祥の地とする起源伝説があるように、イスラム教とコーヒーの関係は深い。エチオピア対岸に港町モカがあることも重要だ。
はじめはコーヒーは嗜好品ではなかった。夜の礼拝などに、コーヒーを眠気覚ましとして利用したのである。カフェインの利用である。
何せ、コーヒー起源伝説はすべてイスラームの僧侶伝説であり、すべてスーフィーと呼ばれるイスラム神秘主義(スーフィズム ※※)の僧侶である。さらに限定すれば、アル・シャージリー(十二世紀末生まれ)によって開かれたシャージリーア教団のスーフィーである。この教団(教団成立はシャージリーの没後)では眠気覚ましとしてのコーヒーとの結びつきが強く、この教団から十三世紀ごろにコーヒーが流布し始めた。

アルジェリアではコーヒーをシャージリーエと呼ぶらしい。東アフリカ原産のコーヒーノキからコーヒーを作り普及したのはイスラム神秘主義の僧侶、スーフィーたちの関与が大であっただろう。
かくして、「黒いザムザムの水」(※※※)の勢力拡大は加速し始める。

※モカは、アラビア半島の南西の端にあり、紅海に面する港町(現在イエメン共和国にある)。
イエメン共和国の首都サナアの外港で、15世紀から17世紀にかけてコーヒー豆の積出港として栄えた。モカの港だけはイギリス、オランダ、フランスなどヨーロッパの船舶が直接寄港を許され、買い付けを許可されていた。17世紀にこの地を支配したオスマン帝国は紅海を通行する船舶にモカでの納税を義務付けたという。現在、コーヒー豆集散地の機能は無く、漁業と観光で成り立つ。

「メッカ事件(1511年。コーヒー取り締まり事件)の克服でコーヒーが更に広まる」
しかし、イスラム圏では当初はコーヒーが広まるには障壁があった。イスラム教では炭を食べてはいけないのであるが、コーヒー豆は炭に見え、コーヒーは墨色なので、戒律を犯すと考える者がいたのである。コーランにはもちろん、コーヒーに関する記載はない(預言者なのに未来のことを見越して書けないの?)。
しかもコーヒーを「カフワ」(恐らく珈琲:coffeeの語源)と呼ばれたが、コーヒーが普及していない頃は軽い白ワイン(イスラム教徒は酒を飲んではいけない)という意味が主流であった。イエスキリストの血液や白人のための一神教を想起させたのである。
いくらコーヒーを広めているスーフィズムがイスラーム哲学や文学に貢献しようとも、イスラム神秘主義者は少数派である。ワイン禁制のイスラム世界では、カフワと聞けば飲んではいけないワインを想起する人が多かったはずである。
十五世紀末、アラビア・フェリックスに出現したコーヒーは瞬く間に広まっていき、十六世紀初頭にはメッカ、メディナの二聖都や、エジプトのカイロのモスクで、コーヒーを飲みながら礼拝を行うスーフィーが見られた。
しかし
コーヒーの飲み方には、アッラーを蔑(なみ)するものだとみなされることがあった。
アラビアには熱い料理に息を吹きかけて食べてはいけないという作法がある。
それは大食漢の印であり、息には生命の息吹が宿っており無闇に吐き出すべきではないからである。
塵芥でできた黒人のアダムは、GODがその鼻に生命の息を吹き込むことで生きた者となった。
従って、客人には湯気の立つ熱い食事を出したりはしない。
湯気や煙はそもそも悪魔の宿る場所である。アラビアンナイトで煙に続いて登場するのは大抵は悪魔である。

じゃあアニメとかで魔法のランプで出て来る魔人(イフリート=イスラム教における堕天使)は悪魔なのね。
ランプの魔人=イフリート=イスラム教での悪魔(堕天使)だから、「敵にとっての悪魔はこちらの味方(かも)」論理で、クリスチャンやイスラムに弾圧された古代宗教はイフリートを優遇してもおかしくない。
『マギ』(表向きイスラムで中身イランってまんまシーア派)で出て来る青い巨大な方々はイスラム圏では悪魔なのかー(※)。
マギってイスラム圏モデルのくせに髭を生やしたイスラム教徒っぽい人が全然出てこない。
イスラム圏の悪魔=イフリートっぽい(青い肌)方々が主人公達の味方だし。
ちなみに、マギでのアモンの全身魔装のイメージモチーフは大日如来像(真言宗)です。使用者の名前がアリババなのに髪の毛が黄色(笑)。主人公のアラジンは青(笑)。
キリスト教の「アーメン」=アモンってことはマギは反イスラムかつイスラムが弾圧したペルシャ(インド-イラン)の秘境を崇めてメーソンを宣伝(マグノシュタットのマークは一つ目)漫画・アニメなんだね!

また、三人の天使を迎えた時のイブラヒム(アブラハム)のように、食事は迅速に、かつ音を立てずに済まさないといけない。
息を吹きかけて冷まし、音を立てて啜り、しかも炭らしきものを飲んでいるのだから、反発するムスリムがいて当然である。
メッカ事件が1511年に起こり、コーヒー弾圧が始まるが、長くは続かなかった。お上から、反イスラム教を伴っている場合のみ取り締まるべきだという結論を出されたからだ。
結局、
コーヒー禁止の議論に終止符が打たれたのはようやく十七世紀に入って、アハメッド1世の下で宗教的権威たちが、コーヒー豆は炭と呼ばねばならぬほど強度に焼かれていない、という統一見解をまとめ上げることによってであった。

かくして、
イスラム圏はコーヒーのメッカになった。メッカは全イスラーム世界の中心である。一生に一度はメッカ巡礼を行うイスラーム教徒たちは、カーバ神殿の黒石に接吻し、ザム・ザムの聖水を飲み、そしてもう一つの「黒いザム・ザムの聖水」を飲む。イスラーム世界。それはオスマン(トルコ)帝国がスレイマン大帝の治世(1520 - 66)を迎えてますます強大化し、膨張の一途を辿っている。十六世紀は世界史的に「オスマン帝国(トルコ)の世紀」であった。ちなみに、十三世紀はモンゴルの時代(1258年のモンゴル軍によるアッバース朝の滅亡など)であった。

「十六世紀に史上初のコーヒーハウス誕生→十七世紀にヨーロッパに普及」
エジプトのカイロで、イエメンのスーフィーたちのコーヒーを飲む姿が見られたのは十六世紀の初頭であった。十六世紀は「オスマン(トルコ)の世紀」、(オスマン)トルコは当然コーヒーの流布に大きな影響を与える。
オスマン・トルコ帝国の首都イスタンブールには1554年、ハクムとシャムスというシリア人によって二軒の「コーヒーの家(トルコ語 カーヴェハーネ kahvehane)」が建てられた。その数はたちまち増え、スレイマン二世の治世下(1566 - 74)のイスタンブールにはすでに600余りの「コーヒーの家」があった。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-14.html
コーヒーの歴史。
臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る――近代市民社会の黒い血液』(中公新書 1992年)の要約に、メーソンや百科事典の歴史を絡めるとコーヒーハウスは隠れメーソンロッジだとわかる。
キリスト教のアーメンは白人主義の象徴なので『マギ』は反イスラム+親キリスト+メーソンとイランの秘教崇拝 。ヤク中特攻隊。振武寮。高級茶はカフェイン=快楽物質が多い。※香辛料は奴隷と変換して下さい



1957 井筒俊彦 『コーラン』岩波書店
2014 中田考,中田香織,下村佳州紀,黎明イスラーム学術・文化振興会『日亜対訳 クルアーン――「付」訳解と正統十読誦注解

English translations of the Quran
https://en.wikipedia.org/wiki/English_translations_of_the_Quran

イスラーム神学(思弁神学)を概観できるような著作自体が限られてきたという現状がある。単著としては、井筒俊彦『イスラーム思想史--神学・神秘主義・哲学』、奥田敦(訳著)『フサイニー師「イスラーム神学50の教理」--タウヒード学入門』、訳書としてはW.M.ワット(福島保夫訳)『イスラムの神学と哲学』、ガザーリー(中村廣治郎訳注)『中庸の神学--中世イスラームの神学・哲学・神秘主義』「イスマーイール派 神話と哲学







ハーフィズ著『ハーフィズ詩集』(東洋文庫 299)(黒柳恒男訳) 東京, 平凡社 , 1976.12
ハーフィズ占い

” ハーフェズの詩が様々な意味に取れることから、イランではハーフェズの詩を占いに使うことも行われています。「ハーフェズ占い」として知られるそれは、自分が占いたいことを心の中で念じながら、「シーラーズのハーフェズよ、あなたはあらゆる秘密を解く人。占いに正しい答えを与えよ」と三度唱え、ハーフェズの詩集をぱっと開き、あるいはページに針を刺し、そこに書かれた詩の内容によって自分の運勢を占います。”
http://sarasaya.exblog.jp/3611892/







平野貴大氏が翻訳なされた、ムハンマド・クライニー著シーア派ハディース集『キターブ・アル・カーフィー(十全の書)』は、いつ発売されるのかな。かれこれ2年は経過してるような……意欲的な出版社が無いとか。 英語でさえ全訳されてないらしいこの書が和訳されたことは、重大なのに。




シーア派の自画像
歴史・思想・教義
モハンマド = ホセイン・タバータバーイー 著
森本 一夫 訳
本書はシーア派の第一級の宗教学者によって執筆されたものであり、「シーア派によるシーア派入門」ともいえるもの。イランでは神学校教科書として読まれている。ただし、訳者による丁寧な解説により、日本の読者にはより客観的な理解が得られるようにした。
▼著者タバータバーイーは、フランスのコルバンや日本の井筒俊彦など、非ムスリムの研究者とも交流をもつなど国際的に活躍した聖職者。本書は英語、フランス語、ドイツ語をはじめとする各国語に翻訳されるなど、国際的な評価がきわめて高い。(原著は1975年刊。)






















くまきち? @kuma_kichi_1Q63 2010年9月12日

「アーイシャが「聖戦は最も功徳の多い行いだと思われますが、私達もそれに参加できるでしょうか」と尋ねたとき、神の使徒は「いや、できない。しかし敬虔な気持で行う巡礼は最も功徳のある聖戦なのだ」と答えた。」(『ハディース〈3〉イスラーム伝承集成』中公文庫p.98)


スレイマン @sulaymanhakiym 2015年1月28日
中央公論社(現中央公論新社)から出ている『ハディース‐イスラーム伝承集成』は牧野信也訳『サヒーフ・ブハーリー』です。もう一つのサヒーフである『日訳サヒーフ・ムスリム』は磯崎定基・飯森嘉助・小笠原良治共訳で日本ムスリム協会から発行されました。

『ハディース――イスラーム伝承集成』(中央公論社 全3巻、1994年/中公文庫 全6巻、2001年)







お読みくださり感謝!カワユイ(^◇^)

資本主義国家の神は金と国と法人!理想的ワンワールドはイスラームがすでに達成していたがキリスト教勢力が破壊!『一神教と国家』『失われた宗教を生きる人々』 

世俗主義にすると神が国とお金と法人になる!
資本主義国家の3大神は金と国と法人!
世界一人を殺している生物は法人(白人製)!
理想的ワンワールドはイスラームがすでに達成していたがキリスト教勢力が破壊!
イスラーム流のワンワールドは住み分けOK、内心には踏み込まないから、
要は文化と宗教の多様性を認める!
移動の自由は絶対なので国境でやたら区切ることはしない!

内田樹は日ユ同祖論とユダヤ陰謀論を否定!
















(碧眼。銀髪。英国国教会信者。リンゴ=知恵の象徴を持つ。
十万三千も数秘術だろうけど元ネタ不明。13?)



内田樹・中田考『一神教と国家――イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』集英社新書


イスラーム学者の本は今のところハズレがゼロなんだよね。
その中でも特に中田考・内田樹『一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』(集英社新書)は当たり本。
内田樹と中田考の対談本。

内田樹は合気道+フランス人脈だろうけど、
大本教の教義である日ユ同祖論とユダヤ陰謀論を否定しているからね?
内田はユダヤ教徒にして有名な哲学者レヴィナスのフランス語著作の翻訳もしている。

・ユダヤ教では豚肉、ウナギ、エビ、カキ、イカ、タコなどの海産物もダメ。
シーア派エビや魚は食べるが、タコや貝は食べない。
(311以降海産物を食べない宗教信者の方が寿命が長くなる傾向になるだろう)

・イスラームでは男に対してはそれほど服装規定はなく、
とにかく膝からおヘソまでを隠せとなっていて、あとはトップレスでも構わない。
実際にはそんな恰好で街中を歩いてる男はいない。
むしろサッカーやボクシングなどのユニフォームなどのほうがまずい。
膝が出ちゃっているので。
女性は手首から先と顔をのぞく全身を覆うのが基本。
(見た目がいい女性は狙われるからその対策でもある。
化粧やファッションに心奪われることも防げる。)

ひげを伸ばすのは義務ではないという説もあるがハディースには、あごひげは手でつかめるくらいに伸ばしなさいとある。
くちひげは切るか剃る。
中田の頭は坊主だが決まりではなく、散髪が面倒だから。
帽子にも意味はない。頭をそったばかりなので青々としていて皆さんが気持ち悪いかなと。

・内田「この道場、神棚があるし、植芝盛平の写真も飾ってあるけど気にしないでくださいね」

中田「イスラームもそれほど厳しくはない。イランなどは原理主義の総元締めのことくに言われてますが、
ホメイニ師の特大の写真が飾ってあってりしますし。
なぜかというと、写真は偶像ではなく影だという判断で、鏡と同じようなものだからいいそうです。


戒律も実はそんなに厳しくない。人間の自由度はあくまで慣れの問題。
日本にもある。サラリーマンが夏でもスーツとネクタイ。今ではクールビズのおかげで軽装になった。
でもこんなに暑いのに俺はなんで服を着ているのだろう、脱いでしまって裸になったりシャツとネクタイをむしり取ったりしない。

女性のヒジャーブ(スカーフ)もそれと同じ。はた目には戒律を守っているように見えるかもしれないが、必ずしも宗教意識ではない。
別に窮屈だと当人たちは感じていない。イスラーム世界では当たり前。

フランスなどでムスリム女性にヒジャーブをつけさせるのは抑圧だといって禁止していることについて。
フランス人はフェミニズム的にそういうふうに教え込まれているからであり、
そういうふうに教えられていなければ抑圧なんて思わない。
もともとあれは女性の身体を目立たないように隠すのが目的。
それが立法趣旨なのに特にアフリカや東南アジアなどでは原色のものすごく派手な、日本だったらとってもこんな格好して歩けないぞっていうくらい派手なのをつける。
トルコなどはすごく洗練されていてスマートなのですけど、彼らは完ぺきにファッション
。実際有名デザイナーがデザインしたものもたくさんある。
ヨーロッパのファッションショーに出ているものもある。

(パリコレもイスラーム服装の排除にかかわっていそう。商売敵が減るからね。

ムスリム女性には髪の毛を見せるのは恥ずかしいからつける人もいるらしい。つまり無理やり脱がせるのはセクハラ。
あれ~フランスはセクハラは許さないんじゃなかったのかな~?
ああそうか、ムスリムは「人」じゃないから人権はないんだね!
人権も民主主義も世俗主義も無神論も啓蒙主義も結局はキリスト教思想の根本は否定しないもんね!
フランスもどこまでいってもヤソから逃れられないよね。
カトリックを潰しても別の奴ら、世俗主義至上主義のメイソン教が異端審問やっている。
イスラームを受け入れたり共存しようとしないグローバリズムや文化相対主義は偽物だから注意ね!)

決まりを守るという点では日本の方がずっと厳しい。
服装はみんなきちんとしているし、
電車は時間通りに来るし、中田先生は今日もこの約束(おそらくこの対談)に二分ほど遅れて焦ったのですがそれって外国人から見たら「なぜ!」ですよ。
たった二分をなぜそんなに守るのかと。
日本社会の儀礼の方がはるかに煩瑣。
(しかもこの時間に異常に厳しいカルトの誕生原因もまたカルヴァン派キリスト教)


マナーに外れたものへのまなざしも厳しいですね。
他国の人から見たら日本人ほど戒律をよく守る民族はいない。

(世界一カルヴァン派に忠実だもんね。
不要なマナーを作るのも好き、
他人の内心に平然と踏み込むのも好き。
FF外から失礼します、が典型的。
ツイッターでこれ以上変なローカルルール作るなよ。
ツイッターは構造上知らん人が話しかけられるシステムになるように組んであるだろうが。そんなに話しかけられたくないなら鍵かけてくれ)

中にいれば全く不自由は感じません。イスラーム圏では豚肉はそもそも存在しません。
なければ食べたいとは思わない。
礼拝もそう。礼拝のあいだ休めるし、仕事するより礼拝しているほうが楽。
礼拝に行くというと、絶対に止められない。
どんな労働をしていても中断してよい。礼拝の権利を妨げるのはたいへんな罪。
モスクで寝ている人がいる。

イスラームは許す文化であり、
吝嗇は最大の恥。
目には目を、歯には歯を
が単純な復讐法だと思っている人が多いが、
厳密にはそうではなくて、
イスラームの場合はゆるすのが一番いい。
クルアーンにはっきりと書かれていて、
人の罪を許すと自分の罪の償いになるので許すのが一番いい。
けれどもそれができない場合には同じことをやり返してもいい。
しかし自分がされた以上の過剰な復讐は決して行ってはならない。

ユダヤ教では目を潰されたら目を潰さないといけない。義務であり厳しい。
キリスト教だと汝の敵を許せなので許さないといけないので厳しい。
しかしイスラームは二段構え。

(合理的だね。汝の敵を許した現クリスチャン支配層を見たことがないのはなぜだろう?)

またイスラームは施しの文化であり、
困っている人に分け与えることをとても良しとする。
たしかに、ぼったくりはある。
百円のものを五百円でうりつけるとか、そういうところは日本人にたいへん評判が悪いのですが、
彼ら的には問題なくて商売として強欲なのはOK.
しかし人間として共有すべきものは共有すべきだというシェアの思想は厳然としてある。
例えばタクシーに乗ったら運転手さんがお水を飲んでいて目が合った。そのときにお客さんに「どうぞ」とすすめないのはとんでもないこと。これはやらにあのはどけちであり末代までの恥。
日本では強欲とケチをわけないがイスラームではまったく違う概念。
強欲はかまわないが、ケチ、吝嗇は最大の悪口。
強欲はタムウ、
吝嗇はブフルで言葉からまったく違い、まったく別の概念でありかなり普遍的に身体化されたエートス。宗教的に熱心でない人にも共有されている。

ラマダンも施しの文化。
日の出から日没まで飲食禁止で、日が暮れてから解禁となり、
市中のモスクやレストランで食事がタダでふるまわれる。
教会と違ってモスクはメンバーシップがないので誰でもは入れてお金がなくても食べられる。
日が落ちると人がいっせいに集まってくる。
ドゥユーフッラフマーン
といい、
アッラーの客
という意味。
メニューはお肉とかもありわりと贅沢。
貧乏な人でもラマダンのときには腹いっぱい食べられる。しかも一か月。
かなりよくできた福祉制度。
今どきの洗練された考え方では、
魚をあげるよりも魚を釣る方法を教えなさいと言うが、
やっぱり食べ物を配る方がいい。
絶対に。
やり方を教えたって現実にはできない人の方が多いんですから。


内田も同様にまず食べ物をあげるべきだと賛同。

イスラームでは施しの考え方が発達しているので、
普段からパンくらいは恵んでもらえます。
そのうえ、一年のうち一か月はたらふく食べられる。
日本の貧しい人、おいしいものを腹いっぱいになんかまったく食べられてませんもの。」

(このメモは必ずしもどちらがしゃべったか書きません。
まあイスラムについて詳しくしゃべっていたら中田先生なのはわかるけどね)


(釣る方法を教えないさいって言いだしたのっておそらく生活に余裕がある人だろうね。
餓死したら魚は釣れません。
魚がかかるまえに死にます。

財布を落としましたという表現はぜひ覚えておくこと。これ言うと変な奴が来ても去っていく)

喜捨の文化が発達している。
喜んで捨てるのでいやいやではなく進んであげる。
喜捨すると死後天国で報われる。
厳密には喜捨には義務のものと任意のものがあって、
義務のものは公然とやるので名誉みたいなものを得られる。
任意のものは人知れずやるのでその分来世で報奨を得られる。

大学に行ったりする世俗教育は有料だが、
今でもイスラーム教育は初等教育から高等教育まで無料。
どこへ行ってもタダ。
医療はグラデーションはあるが無料のところが多い。
社会主義の国は社会主義だから無料で、
湾岸の豊かな国は豊かだからという理由で無料。
ただし有料のところのほうが質やサービスがいい。

(イスラーム圏ではよほどのことがない限り餓死しない理由)

ミネラルウォーターに誰かが自分の名前を書いて置いておいたら、
現地人がこんなやつと一緒に働けないとすごく怒った事件がある。
イスラーム圏では水は回し飲み。
砂漠で水は貴重であり、私有、占有してはならない。
日本人から見ると貴重だから独り占めするほうが合理的に思えるので、言われた側はなぜ咎められるのか意味がわからなかった。
イスラームでは水だけでなく分かち合うものは多い。
食事は大きなお皿に盛ってみんなでわける。
イスラームではお茶も自分でついで飲むことはない。
つぐ人間がみんなのところを回る。

日本もそうだった。来客にお茶も出さないのは基本的に喧嘩腰。

たばこも。中田は吸わないがイスラームではたばこをみんなで楽しむ文化が伝統的にある。

自分がほしいものはまず他者に贈与して、他社から反対給付をうけるかたちで手に入れるのは共同体の基本ルールだったと思うんですけどね。

hystericな禁煙・嫌煙イデオロギーって本質的には健康志向ではなく反共同体志向。
禁煙運動を地方自治体レベルでやっている政治家っておおかた新自由主義者、つまり自分のものは自分のもの、他人のものは他人のもの、資源の共有は嫌でわかちあいの発想がない。
嫌煙は本質的に吝嗇の文化だと思う。
イスラームでは共有する文化が大勢。

(呼吸器が弱い人にとって煙は地獄だよ!咳が止まらなくなる
=呼吸困難になるよ!

タバコ弾圧ってイスラーム弾圧でもあるのだろう。
でも放射線で汚染されたたばこはダメです。
国産たばこはアウト。
添加物と放射性物質が含まれるからタバコでがんになるのさ。
本来の無添加有機海外産たばこは薬なのさ。
でないと支配層がたばこを吸うわけないでしょ?)

中田
今日のユダヤ教はラビ・ユダヤ教で、キリスト教とほぼ同時期に並行して成立したもの。

(とんでもなく重要なこと言っているぞ)

キリスト教も成立当初には後にユダヤ教と呼ばれるようになる別の宗教と別の宗教という自意識はなかった。それ以前の宗教は便宜的に古代ユダヤ教と呼ぶこともあるが、イスラエルの民の宗教としか呼びようのない名無しの宗教だった。
アダムがユダヤ教徒だったと言う者はいない。
イスラームでは単純明快、神の啓典を授かった者はすべて預言者であり、
アダム以来の神の宗教はすべてイスラーム。
イスラームはユダヤやキリストと異なり、服従や帰依を意味する一般名詞であることが、イスラームの普遍主義を示し象徴的。
モーセが授かった律法はヘブライ語聖書ではなく、
イエスが授かった福音は新約聖書ではない。
聖書記者たちが編集したモーセの伝記、イエスの伝記だから。
イスラームにとっては、預言者ならぬ人間の言葉を聖典とし、権威に祭りあげることであり、
許しがたい被造物神化である。
イスラームがアダム以来の預言者たちのオリジナルでありキリストとユダヤ教は歪曲されたもの。」

(服従と帰依は唯一神アッラーにのみする
「ので」
他のいかなる存在=被造物を神格化して服従も帰依しないって意味ね。
だから後述のハラール認証は悪。
政府の神格化につながる。というか今の国民国家では国家は神)

食べてよいものだと許可する印をつけたハラール印がある。
中田はイスラームに反する多神崇拝の大罪ではないと思っている。
許可はハラール、
禁止はハラームというが、
クルアーンやハディースには個別の食品ごとに書いてあるのではない。
盗んだものは食べてはいけないとか、
合法的でない取引で獲得したものは食べていけない。
判断はムスリムが個人ですべき。
権威を装ってハラール、ハラームを決めて強制するのは神の大権を冒すたいへんな冒涜。
イスラームでは神以外に立法者はいない。
ラビや司祭などが神の名のもとに権威としてふるまうことがユダヤ教とキリスト教への批判の主要な論点の一つ。
イスラームに聖職者はいない。
ハラーム証明などというものを強制するのは神の大権の簒奪に等しい大罪。
マレーシアとインドネシアがまず始めて、中東にも広がってきた。
マレーシアにはハラール水もある。
政府の息がかかったイスラーム機関が出している。

イスラーム圏では
こっちからこっちは俺の領分だから入ってくるな
って感覚は希薄。
共生し共有するのが基本。
イスラームの人は共同生活が好き。
マレーシア人などは一人暮らしなんて寂しくて死んじゃうってくらい。
イスラーム世界では人と人のつながりをすごく大事にする。
大事にするというか、依存するというか、すり寄っていくというか、
ちょっと親しくなるとすぐ頼りにする。


ユダヤのネットワークもすごい。僕たちには想像できないくらい強固な宗教的・民族的ネットワークを持っている。
だからユダヤの陰謀なんて言葉が生まれてくる。
別にユダヤ人が世界支配するために作った中枢的な機関なんか存在しないんですけど、
彼らが僕たち日本人には想像できないくらいに緊密なネットワークを持っていることは事実ですね。紀元前から存在しているわけですから、これも一つのウンマ(共同体)だと思います。


内田は能楽の稽古をしているが、
能楽では旅の僧が山の中とか海辺とかを旅しているときに日が暮れて一夜の宿を請うところから始まるのが多い。
約200曲のうちたぶん50曲ぐらいがそういう話から始まるんじゃないかな。
不思議なことはこれがどれもまず断られるんですね。
結局泊めるのに最初からお泊りくださいという話はほとんどない。
日本はたとえ泊めてもまずは断る文化。

イスラームだと来られたら泊めないといけなくて少なくとも三日間は客人としてもてなさねばならないのが義務。

ヨーロッパでも南の方はノマド的でスペインとかではバックパッカーを気軽に泊めるみたいですね。
突然知らない若者が訪ねてきて、こないだおたくの息子さんと旅先で知り合った者です、だから泊めて
とかそれだけでも泊めちゃうらしいですね。北の方はそうでもないみたい。
アメリカもいきなりピンポンして泊めてはない。

(スペインってイスラム圏だったじゃん。

能楽でも登場する宗教家は坊さんつまり仏教徒ね)

レヴィナスは正統派ユダヤ教徒の哲学者で内田の専門。
レヴィナスはリトアニアのミトナグディームという非常に知性的なユダヤ教の流れに連なる人。
東欧のハシディズムはかなり情緒的・感性的なユダヤ教のかたちだが、
ミトナグディームは知性的で学問的なユダヤ教徒。
同じ一神教の仲間なのでキリスト教とイスラームに対しては繰り返しエールを送っている。
戦時中ヴィシーの反ユダヤ政策の実施を拒否したムスリム君主ムハンマド五世への敬意を表している。


内田
「ニューヨークのジェイコブ・シフというドイツ系ユダヤ人の銀行家がいて当時のアメリカの財界に君臨した大物。
彼はロシアでのポグロム(ユダヤ人迫害)についてロシア皇帝に深い恨みを抱き、当時ロシアとの開戦に備えて戦時公債の引き受け手を探していた高橋是清と会ったことを奇貨として日本を財政的に支援して帝政ロシアを打倒しようと考えた。国際ユダヤ資本に指示して日本が起債した戦時公債を買い取った。
同時にロシアの戦時公債の買取を拒否させた。シフと世界のユダヤ人の金融ネットワーク支援で合計二億ドルの戦費を調達できたことで日本は日露戦争に勝てた。
戦後シフは日本に呼ばれて明治天皇に拝謁して勲一等旭日大授章という勲章をもらっている。
これは日本人のユダヤ人観に深い影響を及ぼした。
一つはユダヤ人は親日だというある種の主観的願望。
もう一つはユダヤ人は戦争を買うことができるほどの超国家的勢力であるという恐怖に似た感情。
ユダヤの国際的ネットワークで日露戦争に勝った事実は一般の日本人には開示されなかった。
でも大日本帝国の指導部には重要情報として共有されていた。
石原莞爾が満州にユダヤ人の自治州を作ろうという計画をいいだした。
対米最終戦争で雌雄を決するまで戦争は先延ばしにしたいのでユダヤ人と組んだらどうだという話。」

中田
「河豚計画。
日猶同祖論というものもありますがほんとなのですか?」

内田
「ウソです。
日猶同祖論についていろいろ調べたことがある。
明治末期、日露戦争後に出現し、戦後はしばらく忘れられていたが今また出てきている。
言い出したのはスコットランドの商人で、明治初期。
日本はユダヤの失われた十部族の末裔だという説を唱えた。
でも自分たちとユダヤ人のルーツが同じだという話は世界中にある。
このスコットランド人は、
スコットランド=ユダヤ人同祖説という故郷で聞き覚えた物語を日本に適用しただけ。
アメリカにはインディアン=ユダヤ人同祖論説もあるし、
黒人=ユダヤ人同祖説もある。」

(黒人・インディアン=ユダヤ人同祖論説はどう見ても布教用。

内田は同祖論否定。ユダヤ陰謀論も否定(力はあることは認めている)。つまり大本教系が唱える同祖論と陰謀論の否定。
これが私が学者の立場を見極める基準で重視しているものの一つね。
現代オカルトの根源の著者も同祖論否定だし。
同祖論については英語とフランス語でも調べてほしかったな。ロドリゲスが登場する。
マクラウドが商人だとは確定できないよ。マクラウドはビジネスマンか、宣教師。

石原莞爾は国柱会と一緒に調べましょう。

私は別にユダヤ資本ネットワークが存在しないとは言っていないからね。
さらに親分がいる、かつユダヤ教徒でない奴もいると言っている。
ユダヤの中身が単なるクリスチャンでヘブライ語聖書もタルムードもまったく学んだことがなかったりする。
ユダヤ系クリスチャンって何?
親がユダヤ教徒で本人がキリスト教に改宗したってこと?
それって単なるキリスト教徒じゃね?
超国家勢力にキリスト教が含まれない謎。
世界中のどこ行っても教会はあるらしいよ。
シナゴーグはないらしいよ)


内田
「日本の軍部はイスラームに興味を持ちましたよね。
あのころイスラーム学の組織や友好団体を立ち上げた人たちは頭山満、大川周明をはじめ右翼が多かったのですがどういう説明がつくのでしょうか」


(ヤソ系の万教帰一側ばかりがイスラームを持ち上げているのに注目)

中田
「政治的な側面、特に中国に対抗するための戦略としてイスラームを利用した側面が強いと思う。ウイグルやマレー人などムスリム諸民族を漢族、華人と対立させ、イスラームとの連帯をうたってムスリム諸民族を味方にして中国を支配し、ムスリムの多いマレーシア、のちのインドネシアなどの石油など天然資源が豊富な東南アジアの国々を植民地化して欧米と対決しようとしたのではないでしょうか。

日本人がイスラームに対して同じアジアの宗教だという親近感の意識を持っていた。
イスラームはアニミズムと一神教を両方兼ねる。
神と便宜的に訳されるアラビア語のイラーフとはまるで違う概念なのでアニミズムにあたる部分に対して神々というような言葉を使っていないのでアッラーばかりが唯一絶対の感じがするが実は全部含まれている。
アニミズム的なものも事実としてあると認めたうえで創造主は一人という考え。ユダヤ教はどうですか?」

内田
「ユダヤ教の場合は神秘主義やハシディズムが比較的多神教のにおいがする。
ハシディズムの場合は千里眼とか空中浮遊する聖人に対する民衆的な信仰がある。

カトリックは布教の過程でゲルマンの土着信仰と接触して、習合的な聖人崇拝を生み出していくがアニミズムとまではいえない。」

中田
「同感。
非アニミズム的。人間だけが理性を持った生き物で、それ以外はすべてモノであるといった考え方が強い気がする。だからこそ近代的知性や合理主義のけん引役になったのでしょうけど。
先ほどのノマドの話もそうだが、一神教の中でもキリスト教はやっぱり異質な部分が多い気がする。
徹底した人間中心主義で世界を認識していく。

イスラームは異端審問のように人の内心には踏み込まない。人の内心はわからないと考える。イスラームにはそもそも教義決定機関がないのでキリスト教的な正統と異端という概念はありえない。魔女じゃないと本人が言っているのに無理やり魔女だと言わせるのはない。自分が違うと言ったらおしまい。自己申告。
異端審問的な事例はあるが非常に少なく宗教的というよりも政治的な問題。

また自分の宗教が知られると身に危険が及ぶ場合には信仰を隠すことをタキーヤといい、
シーア派では命じられており、スンナ派でも許されている。
内心の問題を神にゆだねて詮索しない柔軟性も千年以上にわたって多宗教が共存する中東アジアに根を張るイスラームの特徴の一つでしょう。
それに対してよくも悪くもキリスト教の西欧文化は人間の内面に精神というものがあると考える。
確固としてあると考えすごく重視する文化。
一方イスラームではあまりそういうことは考えない。そもそも内面に最初から悪魔とか悪人とかいろんなものが入っていると考える。それが当たり前だと考える。」

内田
「内面より行為というのはユダヤ教もそうです。
戒律か信仰か、形式的な正義か内面的な正義かというのはユダヤ教とキリスト教の最大の対立点。
新約が激しく批判するのはユダヤ人たちが内面より行為を重んじること。
ユダヤ教はある種のリアリズムだと思う。
心では慈愛にあふれているけれど貧者に何も差し出さない人間よりは、
心は何を考えているかわからないけれど貧者に食べ物を恵む人間の方を重く見る。

その人が何であるかではなく何をなしたかに基づいて人の価値は考量されるべきだという考えはマルクスの思想そのものですが、
このきっぱりと内面を無視する態度はユダヤ教の系譜から生まれてきたものだと思う。」

利他をおこなわせるなら、外から見える行動を内面より重視する方がいいよね

中田
「ですからカトリックの告解制度は恐ろしい制度だと思う。
内面を暴き出して人を支配していくってことですから。
イスラームでは罪を犯してもできるだけ人には言わない。
あくまで神と自分の関係とする。
対してキリスト教は人の心を他人が知ることもできて支配することもできると考える」

内田
「内面にフォーカスするキリスト教は一神教としては例外的なかたちなのかもしれませんね。神と人間の距離が近くて人間の内面の言葉を聞き取ってもらえるわけです。
ユダヤ教では神との距離は絶望的に遠い。戒律の理由も説明がつかない。
人間世界の実用性や合理性に基づいて戒律の適否や意味を論じてはならないということを叩きこむために戒律はあるんじゃないかと思う。
キリスト教だと戒律の採否は人間側に決定権がゆだねられる。」

(カトリックの告解制度って要は弱みを握るってことだもんね。
キリスト教だけ一神教のくせに人間中心なのは正しい)

ミトナグディーム
(反対者。ミスナグディーム)
=十八世紀に起こった立法研究よりも祈祷を重視したハシディズムを異端視した正統派ユダヤ教徒による運動。


ハシディズム
=十八世紀の東欧でイスラエル・ベン・エリエゼルによって唱えられたユダヤ教の運動の一つ。
東欧ユダヤ人に広まり、のちにイスラエルやアメリカに伝わった。神秘主義的傾向が強くツァディークという指導者を中心に祈祷によるエクスタシーを重視。

中田
国家の歴史は短い。
しかし国家は主権を持ち、国民の生殺与奪の権を持ち、国民は国家に死ねと言われたら死ななければならない。そういう奇妙なものが国民国家。
ホッブズはこうした近代国家のことを地上における可死の神リヴァイアサンと呼んだ。


領域国民国家は西欧の世界支配システムであり、西欧が国家承認さえすれば実体がなかろうが、存在が住民に大きな厄災あおもたらそうが独立主権国家として存続してしまう。
本来はある地域の人が独立国家を作ることに意味があるとすれば少なくとも二つの条件を満たす必要がある。
一つは国家内部に一つの国家として束ねられているだけの顕著な同一性があること。
もう一つはその国家と外の国家の間に境界が必要なほどの異多性があること。
その点からいうとイスラームの国々はあまり独立している意味がない。
インドや中国は上記の条件にとてもよくあてはまる。

イスラームでは宗教儀礼言語はアラビア語、ムハンマドという一人の預言者、一つの聖典クルアーン、一つのイスラーム共同体があり、それをベースに国民国家がおかしいなら変えてしまえばいい。

今グローバリゼーションと呼ばれているものは単なるアメリカの覇権でしかない。
領域国民国家システムがリヴァイアサンの偶像崇拝なら、
資本主義というかアメリカ流の拝金主義はマモン(銭神)崇拝。
アメリカ流のグローバリゼーションは本当の意味でのボーダーレスな自由な世界を目指すものではなくマモンとリヴァイアサンの配偶神を拝む偶像崇拝


リヴァイアサンは越境する者を潰す。

ウエストファリア体制以降近代国民国家の体裁が整ってゆくわけですけども、その時にまず敵視されたのはカトリックとユダヤ人。彼らは国民国家の概念にうまくなじまなかった。
ユダヤ人は国なき民なので領域的な国家への帰属意識や忠誠心を持ちようがない。
カトリックも国民国家とかなり確執した。
政教分離は十九世紀末だが、あの時期のフランス文学を読むとここまで悪く言うかというくらいイエズス会が悪者にされている。何かあればイエズス会の陰謀にされる。
街頭でデモなんかしている。
もともとカトリックの国で、つい十八世紀までは聖職者が貴族に並んで権勢を揮っていた国で、国民国家が成立するといきなりイエズス会のような国境を越えた宗派が目の敵にされる。
国民国家にはボーダーを越える者に対する生理的な憎しみがある。
イエズス会もユダヤ人もフリーメイソンも何かあると黒幕に見立てられる。
他には同じような理由で国民国家から暴力的に弾圧さえたのが、
植民地統治の尖兵の東インド会社。東インド会社は条約締結権や徴税権や交戦権まで持っていた。国民国家を越えるグローバル存在。
近代国民国家が成立する過程ですべて潰された。
フランスではフランス革命直後に潰された。オランダでもイギリスでもほぼ同時期に解体され、利権は国庫へ。その矛先がイスラームにも。
国境というイデオロギーにこだわり、クロスボーダーを攻撃するのは、
国民国家というものの土台が脆弱だという危機感があったからでしょう。
ただの恣意的な線にすぎない国境線というものが実は人間たちを隔てる決定的な切断線であって、これを越えて利害が一致する者たちはもはや人間ではないという話を作りこんでいった。

(資本主義国家の二大神は金と国であり反イスラーム!
理想的ワンワールドはイスラームがすでに達成していたがキリスト教勢力が破壊!

イエズス会陰謀論はかなり昔からあってプロテスタント系がよく主張していた。
国境を越えた宗派にはメイソンも入るから叩かれたんだろうな。
ボーダーを越える存在を叩く癖に特権階級は越えてもお咎めなしの二重基準。
東インド会社は北欧勢力も作っていたことが重要。
あと東インド会社は潰れるべき存在でしょ。






東インド会社
17~18世紀にかけてイギリス、オランダ、フランス、
デンマーク、スウェーデン各国が設立した東洋貿易のための独占的特許会社。当初香辛料などの輸入が目的であったが、植民地経営、行政にも深くコミット。


アメリカが必死で目指している経済のグローバル化が完了するためには世界市場が単一の言語、単一の通貨、単一の度量衡、単一の商慣習によって統合されていることが必要。
世界中の人々が英語を話し、ドルで売買し、同一の商品に欲望を抱き、金があるやつがいちばん偉いという価値観を共有するときにはじめて経済のグローバル化は完了する。
それは完成していない。それを阻む巨大な障壁がイスラーム圏。
西はモロッコから東はインドネシアにわたる人口16億の巨大なイスラーム圏が存在する。
同一の宗教儀礼、同一の儀礼の言葉、同一のコスモロジー、同一の人間観が共有されている。
グローバリストにとっては大いなる脅威。イスラーム圏は潰すしかない。
私的な信教として家の中で信仰する分には構わないが、イスラーム法による統治だとか、イスラームの商習慣に基づく経済活動は絶対これを許さないというのがグローバリストの立場。
個人的信仰としてのイスラームは許容するが、社会的な制度としてのイスラームは許容しない。
イスラームは国民国家ではなく国民国家という枠組みとは相性が悪い。遊牧民的な集団なのでクロスボーダーな仕方で連帯している。それがアメリカにとっては一番困る。
アメリカがある国のイスラーム勢力を軍事的に叩いても彼らは簡単に国境をすり抜けて隣国に逃げてしまう。
彼らにしてみたら自分たちのことを別に隣国に逃げた外国人だとは思っていない。
その辺を何百年も前から自由に行き来していたのに、最近になって鉄条網で境界線を区切って
こっちには来るなと無法なことを言い出すやつらが出てきた。ふざけたことを言うなが遊牧民的なメンタリティの本音でしょう。
遊牧民的な連帯を打ち砕くために、
国民国家・領域国家それぞれの主権と独立性を強化し、
隣国との利害の対立を強め、
国民同士が憎しみあうように仕向ける。


(世界連邦作って国境なくすと矛盾するな。国境作りまくった勢力と国境なくそう勢力が同じ勢力だから自作自演だな。
海外移住する日本人が少ないのって領域国民国家の呪いだろう。
国境超えたら死ぬって潜在意識では思ってるんじゃないの?)


中田
欧米国がイスラーム世界の植民地支配を永続化させるために残していった彼らのエージェントたちが、独立を与えられたそれぞれの領域国民国家の支配層だったわけですが、彼らが作ったカルテルがOIC(イスラーム協力機構)です。
OICはイスラーム諸国の連帯を目的としているように見せかけながら、実は加盟国各々の既得権を守るためのカルテルとして機能して実際にはイスラーム圏の分裂を固定化するものとして働いているんです」

(OICが人工芝ってことは他の著書でも書いている)


内田
「ですからこれからのアメリカの世界戦略は、非イスラーム圏に対しては国民国家を解体する方向で圧力をかけ、
イスラーム圏に対しては逆に国民国家を強化するというかたちで圧力をかける、
ダブルスタンダードを使っていくのじゃないかと思います。
自由貿易で市場開放、食糧の自給自足体制の破壊、英語公用化、固有の食文化や商習慣を廃絶、国民国家としての自立性・主権性をなし崩しに無化。
一方、
正統性の乏しい独裁的な政権を支援して、境界線によって厳しく分断し、イスラーム内部の連帯が成立しないように全力を尽くす。
イスラーム圏という領域国民国家を超えた巨大な宗教的連帯が存在する以上、ダブルスタンダードでいくしかない。」

金貨の伝道師の中田
「世界はフラット化する必要はないし、フラット化しちゃいけない。

世俗主義が生んだ最大の魔物、マモン(銭神)はお金。
イスラームなり、ユダヤなり、カトリックなりが伝統的に持っていたグローバリズムは宗教文化としてある普遍的な理念を擁していたと思うのですが、世俗主義に徹した今のアメリカ型のグローバリズムになんらかの理念があるのかといったら、ない。
あるのは結局お金だけ。それだけ。拝金主義以外の何物でもない。
ある程度は必要ですけど、それ以上は持っても仕方がないでしょう。

イスラームではお金は金貨銀貨であり貴金属なのでそれ自体に何円かぶんの価値がありそれと同じだけの価値を持ったものと交換できる。
紙幣はただの紙切れであり国家が暴力を背景に押し付けたというだけで、何円かぶんの価値があるということになって流通している記号。
記号だから実体を離れて自己増殖を始める。利子が利子を生むマネーゲームの根本原因。
人間は記号を操って生きているので完全否定する必要はないが、放っておくとモラルを逸脱してとめどもなくエスカレートしていく性質を持っているからそうやって抑えるかがカギ。
紙幣は記号なので実体から遊離すると偶像に堕す。
純粋な記号の数字だけの電子マネーはもっと露骨な偶像。ゆえにそういうものの暴走は許さないというのが基本的なイスラームの考え方。
記号は記号でしかなく、それには記号が代理する実体に対応する価値を与えない。
イスラームは言葉と事物は正しく対応しうると考える。
言葉自体は記号でしかないので事物との対応は自然には保証されない。
言葉が事物との対応を失い、虚偽の幻想によって人々を支配するようになること、それが偶像崇拝。
イスラームは実体と対応した記号、言語の正しい用法にこだわり、記号が実体から遊離し、偶像崇拝に陥ることを常に警戒する。
本来はキリスト教も同じで、言葉と事物の正しいつながりを信じていたはずです。
ところが西欧近代言語学は言語と事物のつながりを断ち切り、言語と事物の関係を純粋に恣意的なものとしてしまった。
結果、名前はあるけれども実体のないものの存在を容認することになって、それがマネーという記号の独り歩きを助長。
それを避けていこうというのがイスラームの偶像崇拝禁止の概念。」

内田「だから金貨。金貨にしてもある種の物神性とか記号性は持っている。半分記号、半分物質みたいなもの」

中田「ええ。イスラームにも兌換紙幣はある。
西欧の小切手の起源はアラビア語の証券。
問題は金の裏付けのない不換紙幣でイスラームの世界にも中央銀行制度が入ってきているので不換紙幣も当然流通。
利子は禁止。
が、中央銀行が商業銀行に有利子でマネーを貸出している以上、だれもが完全に無縁ではいられない。
イスラーム法では利子(リバー)が禁止されているのは金と銀と穀物など一部の食料に対してだけなので、紙切れの紙幣に対しては適用されないとの説がある。これは紙幣を無効とし、金銀本位制に復帰することを説く人たちの議論。
やっぱり基本は金貨なのでアメリカみたいに完全に記号の世界にはなっていない」

(神以外の権威を認めない
=拝金主義の否定。
つまりカルヴァン派と資本主義の否定。
支配層の神格化も認めないから、
特権階級だけ金持ちという矛盾した共産主義の否定。

世界一言葉と中身がかけ離れているのがカトリックとプロテスタントとその変形だな。法律名と中身の乖離。

真の金持ちが紙幣を実物に変える理由がわかるでしょ?








中田
公共料金に支払いなどのために口座を維持する最低限の額以外はできるだけ金にかえている。
と言ってもわずかなものですが。
手持ちの現金は金貨にする方がいい。金貨を持っているとビジュアル的には守銭奴みたいだが、そんなことはない。金貨だとたくさんもっていてもしょうがないって思うようになる。」

内田
「電子マネーだと使わなきゃいけないという気持ちも起こらない。」

中田
「金貨は人間の身体にくっついた等身大の存在であるからため込まなくなる。」

内田
「金貨の物質性が、物神化を抑制。利子をつけない効用は?」

中田「流動性。利子禁止の理由は金は回していくものだという考えが根本。貯蓄してもしょうがないし、貸し付けるいみもないからぱっぱと使う」

内田
「貨幣は等価のものと交換する以外にはなんの使用価値もないものだ、ただの物の交換を加速さえるための装置にすぎないということをきっぱり宣言している。
貨幣の本務はものをぐるぐる回すことなので停滞する理由はすべて排除。利子で滞留するぐらいなら利子をつけない。紙幣にすることで退蔵されがちになるなら金貨を使え、合理的。

昔は日本は金をため込むことは卑しいという文化があった。金は不浄だから子供は金に触ってはならないというルールも僕の子供のことまではあった。子供は金の話をするなと父親に一喝されたり。金の毒への警戒心。金をため込むと体に悪いという人類学的な知恵は今はさっぱり感じられない。」

中田
「喜捨の文化も発達していない。ムスリムならあなたお金をたくさん持っているのだから寄付しなさいよと言ったらポーンと出す。
日本人が出さないのは気前よくお金を使ってもあまり褒められないから。貯蓄すると褒められる。つつましんだかケチなんだか。税金が高いから日本人はため込む。しかも税金の使い道が見えない。」


内田
「日本の英語教育がダメなのは目的が卑しいから。英語ができないと金にならないという発想そのものが子供たちの学習意欲を根本的なところで腐らせている。企業の求めるグローバル人材とは要は企業の収益を増やす人材」




アメリカは占領した国の経営が下手。イスラームの伝統と文化をちゃんと研究したのかと。基本的に同害報復という考えがあるので一人殺したらエンドレスになるとなぜわからないのか。とんでもない相手に喧嘩売っちゃった。

内田
「日本とドイツには成功。アメリカは日本はきちんと研究した。
それ以降のアメリカの占領統治は失敗。
日本占領の件は、ベネディクトの功績だけでなく、日本兵と交戦経験のない中西部出身の新兵たちで進駐軍を編成したのも成功だった。第二次世界大戦で仲間を殺された兵士たちが日本を占領していたらもっと暴力的な衝突があったと思う」

中田
「1990年代前半までは日本とイランの間にビザ免除の協定があったので出稼ぎに来ていた人も多くて親日」

内田「野球のダルビッシュはイラン人とのハーフ」

中田「彼の親世代がイランと日本が一番親密だった時代。

今、2013年現在のようにシリアが紛糾するようになった最大の要因は、
いちがいにはいえないがやはり西欧的な思想が入ってくることによってもともとあった人々の共存システムが崩されてしまったところにあるのではないでしょうか。
オスマン帝国解体後にシリアはフランスの植民地になりその後独立。
不自然な境界線によって仕切りが作られることによって複雑なものが混在しつつ生きてきた許容力みたいなもの、知恵のようなものが破壊されてしまったのではないかと。
シリア、レバノン、イラクもそう。

今のシリアを見ているとイスラームに政府も国家もいらないと実感する。このあいだシリアの反政府側の支配地に行った。当然無政府地帯だけどなんの問題もなく秩序が保たれていた。
イスラームの教えに従い相互扶助で生きていてけっこう安らか。
北斗の拳のような世界に政府がなければなるというのは現実に基づかない妄想。
動物行動学や人類学の知見に照らしても生物のデフォルトはいうに及ばず共存であり、争いはかならず起こるにしても例外。
自然状態を万人の万人に対する闘争と考えたホッブズは間違っており、
自然権が実現された平和状態と考えたロックが正しかった。

シリアでは政府のあるダマスカスのほうが誘拐や強盗が頻発してはるかに治安が悪い。
ムスリムはボーダーレスなグローバリストだということも改めて実感。国境はなく、アッラーの教えという連帯があるだけ。
シリアに亡命する人がいるのは暮らしやすいから」

法人概念がムスリム最大の敵

イスラーム国家がなぜこうもそろって放っておくと独裁政権になるのかについて。
部族主義で族長という大きな存在があったが、西欧的な国民国家の概念が結びついて最悪になったケースが多い気がする。
トップが個人ならいかにワンマンでもたいした力は持ちえないが国家は違う。
法人であり機関。レベルが違う。
これに族長みたいな性格をもたせたらたいへんなことになる。
すべてをいいように牛耳る権力になり危ない独裁体制が出現してしまう。
トップが個人か法人かにはとてつもない落差があることがわかってない。
国家はスルタン、カリフみたいなものだろうと思っている。
根底には究極のところ、この世は神がお決めになった法によって成り立っているのであり、人間の支配などはどうでもいいと考えていることがある。
イスラームにとっては法人概念が最大の敵、最大の偶像だと思っている。
下手するとスターリニズムみたいになってしまう。
カリフ制になると全体主義になるからよくないという人がいますが、ぜんぜん違う。むしろ逆。カリフ制のリーダーは個人であり法人ではない。
逆に法人概念がなくなるので保険とか保障とかもなくなり教育も個人になり、基本的に税金もとれなくなるので大規模なプロジェクトもなくなる。
今の日本でやっているような財政投融資もなくなる。全体主義にはならない。
本当のカリフ制なら大きな政府はなくなる。
イスラームには拠点とか相互扶助の文化がありそれに支えられた共同体があるので政府がなくてもカリフがいればやっていけるということ。

部族主義とは族長のところに部族のすべての資源を集中して族長がみんなに再分配するかたち。
なのでドカンと大きく集めてぱっぱと分配する気前のよい族長ほどよい族長。遊牧民の文化。とはいえ即座にリーダーの独擅場になるのではない。
彼らは一人では生きられないので群れから離れる自由がない。そこにある種の民主主義が発生。
近代民主主義とは違う。
遊牧民の民主主義は判断を誤ったら死ぬの絶対に間違ってはいけない民主主義。

族長が自分のところにひとまず集めることでリーダーの権威が保たれるので卑怯ではないのだが、これが近代国民国家概念と悪く結びついて改悪されることでおかしくなった。
西洋では解毒剤として人権思想とか西欧民主主義などを用意したが、
イスラームではその解毒剤がないまま国家という外枠だけが入ってきた。
これが族長制度の拡張主義と合体してとんでもないものになってしまった。


(これ、日本でカルヴァン派が凶悪化して労働教になった経緯と似てる。
安息日=休めという神の強制的命令
という解毒剤が抜かれているでしょ?)


遊牧民では軍隊組織的な厳しさがあり即断即決で切り抜けないといけないのでスピードと強いリーダーが求められる。
一方、定住の農耕民はもっとのんびりしたネゴシエーション文化になる。時間をかけて話あう。」


イスラームは占領経営が上手かった。

イスラームは世界的にみてものすごい速さで広がった。
ムハンマドが七世紀初頭に現れ彼の死から一世紀ほどのあいだに西アジアから北アフリカ、ヨーロッパまで達した。
こういう急速な広がり方をしたのはアレキサンダーの帝国とモンゴルとイスラームだけ。

イスラームで特筆すべきなのは、征服しても自分たちの宗教を信仰するようには決して強要しなかったおかげで民衆の反乱がほとんど起こらなかった。

千年以上ももつ安定したイスラーム法による法の支配を施行する全体の外枠のような仕組みだけを作って、そこに自由な貿易圏を展開したイメージ。
イスラームは相手が攻撃してこないかぎり内面にあまり興味を持たない。

イスラームは他者に対してはある意味政教分離的であって宗教による枠組み
法による共存の枠組みは別物と考える。けっこう高度なグローバリゼーション。
かえって欧米の方が混同していて、政教分離といいながら宗教的な価値観を背負って相手の陣営に攻め込んでいるところがある。
民主主義も人権も彼らは宗教だと思っていませんが、立派な宗教であり、特にアメリカにはその狂信者、宣教師がたくさんいる。
政教未分離。

ヨーロッパでも東方教会はほんとの政教分離。戦時中でも政教分離の原則を貫いて、その時の政権がどんな政権でも彼らのために祈る。
しかし西欧のキリスト教は結局は政権にかかわる。なぜなら彼らの政教分離の原点は世俗と宗教の分離ではなく、国家と教会の分離だったから。
ローマ帝国と教会が戦っていて、どちらも官僚組織で、どちらも地上の権威でかぶるので、
教会は来世、国家は現世の利益に書かある権威だとした。
しかし本質的分離ではなので為政者はなまなかな宗教心を抱いたまま戦争し続けることになる。これが西欧キリスト教の一番の問題。オバマも敬虔なクリスチャン。

世俗という概念自体が宗教的概念です。
戦争して人を殺してもこれは宗教ではなく政治の部分によってやっているのだと言いぬけする。
イスラームは潔く宗教だと断言」

(異端審問やりまくると結局反発されて上手くいかないのさ。
欧米のキリスト教圏って世俗主義とか政教分離とかほざくくせに、
背後の団体が宗教団体だったり、
単に神を別の言葉を言い換えただけだったり、よりカルトが奥に隠れただけじゃん。
人権の権利はゴッドから与えられているので宗教だろ。
民主主義も宗教だし。
政教分離って利権のとりあいの果ての妥協だよね。
政治家が全員無神論でも問題は解決されない。
無神論も宗教の一派であり、ゴッド信仰の系譜)


中田
大ジハードは自分の中であれかこれかの葛藤があること、克己のこと。
戦闘などは小
ジハード。
相手に勝つより自分に勝つ方が難しい。
イスラーム法学用語では異教徒との戦闘。
イスラーム法は女子供を殺してはならない、戦利品をどう分配するかなどのジハードのルールを定めている。

一国単位では本当にイスラーム共同体はできない。
領域国家の概念をまとうと、隣の国に飢えたムスリムがいてもどうしても自分の国に入れまいとするようになる。
サウジアラビアなどが良い例。

モロッコに貧しい人がいれば金持ちのサウジアラビアが手を貸してやるのが本来のイスラーム。
いくら国内で盗人の手を落とす厳格なイスラーム法を実施しても隣の貧しい同胞を救えないのならイスラームではない。」

アラウィー派
イスマイル派からの派生と考えられる。
神が人間の姿になって顕現することがあるとする。
シリア、レバノン、トルコ南東部などに信者が多く、
シリアの人口の約一割を占め、
政府、軍の高級将校にアラウィー派の占める割合が大きい。
アサド大統領をはじめバアス党幹部に信徒が多い。
バアスは復興を意味する。
バアス党はアラブ民族主義を掲げる。正式名はアラブ復興社会主義党。

アラウィーのアサド政権はロシア、中国、北朝鮮など全体主義独裁強権政権から軍事政治的支援を受けている。
シーア派十二イマーム派のイランの革命防衛隊、
イランをバックに持つレバノンのヒズボラ、
イラクのマフディー軍などから軍事支援を受けており、
いわばシーア派軍閥。
シリア反体制派勢力の主流はシーア派。

(さすがにイスラーム情勢の情報は詳しい。
西洋系のイスラームニュースの偏りがよくわかる。
ホメイニ革命以降の今のイランは徹底的に反アメリカ。
王政時代はCIAの傀儡の王様が支配していたからね。)


サラフィー
スンナ派。クルアーンとハディースの直接参照を義務を唱え、
イスラーム学の伝統の権威を否定。
特に神学とスーフィズムには激しく敵対。預言者ムハンマドとその教えを直接受けた教友の時代を理想視し彼らの行動や考え方を自らの道徳規範とする。
サラフ=先達。
(サラフィーはたいして勉強しなくてもなれるのが特徴)


五章 カワユイ(^◇^)カリフ道

にある画像が
カリフ制再興まであと一歩だ
と書いたブローチ(インドネシア)
なんだが、
左に思いっきり擬人化された蜂がある。
バグズライフみたいな蜂だな。
蜂を書いてあるからヤソ系結社が後ろにいるんじゃね?
イスラームで蜂がどういう意味かは私にはわからない。

中田
「石油は本来イスラーム全体の資源ですから、一国で囲い込んでいいのかという話がある。やっぱりみんなで恩恵を共有すべきだろうと思う」

内田
「イスラーム全体で石油資源を共有して、分かち合えばいいんですよね。
それ、いい話ですね。合理的だと思います。
そういう視点からも、かつてのイスラーム圏が持っていた連帯と相互扶助のシステムをもう一度賦活させたい、と。」

中田
「ええ。イスラームは一神教ですから、
当然、神は宇宙にいます唯一の神であり、
どこかの特定の国の神ではありません。
すべてのムスリムは天と地の主であるところの1つの神による1つの法に従うことによってムスリムとして生きることができます。
カリフ制を再興させることによって、その秩序ある生き方を甦らせたいわけなんです。

まずEUのようなかたちを目指すのが平和的なシナリオだと思います。


2007年にインドネシアのジャカルタの一番大きなスタジアムを貸し切って、
カリフ会議というのをやった。公称ですが十万人集まった。
2013年の二回目は十二万人。
主催は、解放党の人たちで、イスラームのいろいろな団体のかなり偉い人達が来てお祭り騒ぎになった。
解放党はパレスチナで第イスラーム学者が創設した国際イスラーム運動の組織で、カリフ制再興を目標に掲げている。
本部は中東にある。
私、中田はカリフ制再興を世界中に発信しようみたいなことを訴えた。
そしたら盛り上がりYOUTUBEで流れて国際的なお尋ね者みたいに私はなった。
アメリカのDIA(国防情報局)の要注意人物ですって。
たぶんもうアメリカのビザは降りないと思う」

内田
「義理と人情を秤にかけりゃの
高倉健の『昭和残侠伝』のファンである尾田栄一郎が書いているのがワンピース。
あの海賊コミュニティは侠客の共同体」

中田
「原泰久『キングダム』が好き。
中国の春秋戦国時代を舞台に、大将軍を目指す少年・信と後の始皇帝となる秦国の若き王・政が主役で、
信が
国境があるから国々ができ戦いつづける
と言うシーンがある。


『マギ』では金本位制の廃止と不換紙幣の発行の病理をわかりやすく解説している。」

中田先生のオススメ本が
内田先生の『先生はえらい』であり、
中田先生は脱血だブログの熱心な読者にして伝道者。

【感想・ネタバレ】先生はえらい(30件)のレビュー
https://booklive.jp/review/list/title_id/217099/vol_no/001
”内田氏のこの著作『先生はえらい』を自分なりに解釈すると、学ぶ側(学生、生徒)は、
「自分は何を知らないか、できないか」を適切に言うことができない状態を適切だとしている。
そして、先生は、その「何か=知識」を教えてくれるものではなく、
「スイッチ=媒介装置」の役割をすることが適切だと、
つまり、教師は、知識を教授する、しないは、あまり学ぶ側にとって真に必要とせず
学ぶ側が何を知りたいかを自己に問いかけるような存在になるべきだということです。
学ぶ側が、あっ自分自身は、こういう「知」を知りたいんだ、勉強したいんだと、
心の底から思える状態ではあれば、教師の役目は半ば終了し、
学ぶ側は、以後、自発的に学ぶ。

今、学校の授業はシラバス方式(いつ、何を、どう教えるを開示したもの)になっているらしい。
これは、先生を知識提供サービス者とし、勉強する側は消費者とする、
まさに、ビジネスの論理で教育を考えている。
これをやっちゃおしまいよという言葉がありますが、
内田氏曰く、お終いなのでしょう。

つまり今の状況は、学ぶ側にメリットがあるように思えるが
(だって知識を効率的に分かり易く教えてくれるんだから)、
しかし、実はあまりメリットがない。
そもそも、教育に対してメリット、デメリットを考えしまうこと自体が、
ナンセンスなのだろうと思う。

結局は知識の過多で点数をつけられるから、仕方ないかもしれないが、
これでは、今も昔も大量の勉強嫌い(点数をつけられ、順番をつけられることが嫌だと思うこと)
を生んでしまうように思う。”


『失われた宗教を生きる人々』
ピザノザウルス@ほぼイラスト垢@pizano1215
「ラクダやウサギの肉を食べてはいけない」
「自分と異なる性の動物の肉を食べてはいけない」
「イマーム・アリーに神性は無く、単なる立法者(これに関しては、タキーヤの可能性)」

↑『失われた宗教を生きる人々』より、アラウィー派に関する情報の内、個人的に初見のものを列挙。







(アラウィー派では性別不明の生物の肉はどうするのだろうか。)

・秘密の儀式では聖別されたワインを飲み、ミサと呼ばれる。

(飲酒OK。
聖典にイエスの記述あり。クルアーンにもイエスは登場する。)


・イランの伝統も取り入れゾロアスター教から受け継いだものを儀式の中心に据え、
その儀式で飲まれるワインを神と交わる一つの手段としている。

(ゾロアスター教も飲酒OK。)


・人間は人間だけでなく植物や動物に生まれ変わることもある。

(六道輪廻には植物は含まれないから、植物は食べていいとするのが仏教。
仏教型輪廻ではない。
人間は人間にしか生まれ変わらないとするゆがんだ選民思想のスピ系輪廻でもない。)

・ある種の木が聖なるものとして重要性をもつらしい。

(たいていの宗教では聖なる木が存在するんだけどね。)

・アラウィー派の聖典(信者以外には読めないが西洋学者が公表)
の思想は初期ムスリム哲学者によって正当性を証明されている。

(きちんと翻訳して公表した保証なし。
そもそも本物の聖典である保証なし。
秘密主義なら暗殺もやるでしょ。
クリーニング屋や葬儀屋や医者とかに扮してね。)


・神のしもべはムハンマドはイエスだけでなく、プラトンやアレクサンダー大王などの古代ギリシャの偉人もいる。最重要人物はムハンマドの娘婿アリー。
アリーは人間の目に見ることのできた神の姿あるいは神の像であり、限りある人間の精神にも理解可能な、地上における神に最も近いものだ。
アリーは神だ
といってアリーを賛美することは正しいが、
神はアリーだ
と言って神を限定することは間違い。
アラウィーでは、
神の像は神であるが、神は像ではない
という。
ネストリウス派の
メシアは神であるが、神はメシアではない
とよく似ている。

(神の像は神のごく一部を表現しているが、それは神そのもの=全体ではない
ってことだろう。
偶像崇拝禁止に抵触しそう。)

・ヤズィード教徒やハッラーン人と同じようにアラウィーも惑星を崇拝する。
彼らの部族名には太陽や月にちなんだものがある。
少なくともアラウィーには太陽や月への崇拝を美徳だと考える者がいる。
アラウィーの部族と生活をともにしその経験を本にまとめた十九世紀のイギリス人宣教師サミュエル・ライドは部族のメンバーが他の部族のことを「彼らは月を愛していない」と批判するのを聞いている。
また、
地上で最も神に近い存在であるアリーは、太陽の中心に隠れた
というのも聞いたという。
アラウィーが祈りをささげる際に太陽に向かう根拠だろう。
かつてはミトラ神も同じように考えられていた。
それがある時点で何かを隠すためか、あるいはアリーへの崇拝をミトラ教と融合させる意図によって、
アリーの名がミトラ神のかわりに使われ、その後、時の経過とともに忘れられていったのかもしれない。


(被造物=星崇拝もイスラームに反する。
ミトラ教も混ざっている疑惑。)

・アームスロトングが月面着陸するとアラウィー神学者に危機が訪れた。
ハッラーン人の思想と同様に、
アラウィーでは月は天の序列で神と人間の間にある精霊が物質の形をとったものだと信じられていた。


(実際は月に人間は行っていないし、
そもそも見える月が本物かわからないから大丈夫さ!
アポロ疑惑で放射線の話が避けられる傾向にある理由は割愛。
月の線量、月を往復する過程での線量の情報が出ない。
計算したことがあるけど、こりゃ人は死ぬわ)

・この問題を説明するためにアラウィーのシャイフは『月を求めて』という本を書いた。
この本は実際に出版されたことを確認できたし、星や惑星の性質を論じたものだと裏付ける書評も見つかった。が、本は一冊も残っていなかった。
本が消えたのは秘密主義によるものだろう。
徹底的に秘密を守るこの態度は、十三世紀の十字軍のアッコ(現在のイスラエル北部の西ガリラヤ地方の都市)の司教ヤコブ・ド・ヴィトリアーコが「法」と呼ぶアラウィーの秘密の教義に関する文章によくあらわれている。
「母親に法を明かした息子は、容赦なく殺さなければならない」
アラウィーは今も秘密主義。著者はあまり質問しないようにした。

対して、ヤズィード教徒は権力を持たないため、両目がつぶれるようなこともあまりない。
太陽を支配する、とミールザーのいうシャイフ・シャムスは、神の知恵を広めるために人間の形をとった地上に降りた天使でもある。ハッラーン人、アラウィー、ヤズィードの三者にはほかにもよく似たところがある。
三つとも輪廻転生を信じ、火を崇拝する
(ヤズィードは決して火につばを吐かない。手に炎を通すことがよくあるが、
そのやり方はまるで火にキスをして火で顔を洗うかのようだ、と十九世紀のイギリスの宣教師パーシーは書き記している。)。
ヤズィードとアラウィーは太陽に向かって一日三度祈りをささげ、
ハッラーン人は南に向かって一日三度祈りをささげる、とビールーニーは書いている。
日中太陽は南に面しているので、両者に違いはない。
ヤズィードにも魚を殺すことを禁忌とする人々がいる。
魚は水に住むため神聖なものとされるからだ。
(「千三百五十年前にヤズィード教の聖人がダマスカスでテントを張ったとき魚が川から出てきてそのテントの杭となったんです。
それ以来、ヤズィード教徒は魚を殺したことはありません」
とアブー・シバーブは付け加えた。
ビールーニーはハッラーン人の神殿がダマスカスにあったことを千年前に記録している)。
ハッラーンとヤズィードとの関係は分からない。
だが月神シンを崇めるこの古代の星辰崇拝者たちがオリエントの様々な宗教に影響を与えたことは想像に難くない。
そして中にはもちろんヤズィードも含まれているはずだ。

(秘密結社の秘密を一番言ってはいけない対象が母親らしい。

アッコってやっぱりユダヤ・キリスト教要素がある名前なのね。

宣教師が潜入しすぎだろ。

杭になる魚ってダツみたいなやつ?

ここまで火を崇拝するならゾロアスター。

アラウィーはイスラームではないな。
イスラームと対立した思想の隠れ蓑だったっぽい。
めちゃくちゃ万教帰一じゃねーか!
秘密主義の宗教は内容を一部公開してもすべて嘘の可能性があるからなあ。
アラウィーも面白いけど、
フェニキアの末裔だと主張するマロン派キリスト教も面白い




お読みくださり感謝!

イスラームの偽救世主ダジャルは右目が見えずイランから来るが、偶像崇拝の部族に似ているだけでユダヤ教徒ではない!『イスラーム神学』とカレイドスコープのデマへの反論 




イスラームではダジャル(偽預言者)は片目が見えない(両目とも見えない説もあり)とある。
一つ目ダジャルはイラン、ペルシャから来て、
イーサー(イエス)に退治されるらしい。
イスラームも反ユダヤ主義要素がある。
イランのイスファハーン出身(出身なのかそこにいただけか不明)の七万人のユダヤ教徒がダジャルに忠誠を誓う。
イエスがダジャルを倒すのだからイスラーム的にはユダヤ教よりキリスト教のほうが地位が上なのだろう。

エスファハーンはイランの都市で、世界の半分と呼ばれている。
インドとイランとグノーシス・異端派キリスト教が大好きなドラクエの
竜王の「世界の半分」は文字通りの意味と、このペルシャ地域のダブルミーニングだろう。

七万人のユダヤ教徒が部下にいるがダジャルが何教かは不明。
私が調べた限りでは、
ダジャルはクザーア族(Banu Khuza’a)の人物に似ているとある。
ユダヤ教徒とは書いていない。
クザーア族とは、キリスト暦の4、5世紀頃まではカアバ神の主神偶像フバル神を持ち込み、
カアバ神殿を管理し、メッカを支配してきた部族で、
要はイスラームの敵であり、偶像崇拝宗教側。
クザーア族は偶像崇拝側でユダヤ教徒ではない。
よって、ダジャルはユダヤ教徒ではないと私は結論。
しかもクザア部族はペルシャあたりに住んでいたことがある。
厳密には南部のイラク(Iraq)サマワあたりに定住していたらしく、ここからメッカに来た。

そもそもイスラームではユダヤ教徒は啓典の民なのだから多神教より優遇する。
ダジャルの部下にイランの七千人のユダヤ教徒がいるとあるが、別に部下全員がユダヤ教徒ではないだろう。
おそらくこれはキリスト教由来の反ユダヤ主義が混ざっているからだろう。
ユダヤ教はそもそもイエスを預言者だとすら認めないし。


✞煉獄のカレイドスコープ✟ブログより

”クルアーン(コーラン)には、イスラム圏で「ダジャルと呼んでいる反キリストはユダヤ人で一つ目である」と、はっきり書かれています。「一つ目」というのは、何かの象徴でしょう。”
http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-202.html
反キリストは「一つ目」のユダヤ人

は?
調べたらクルアーンじゃなくてハディースからばかりなんだけど?
カトリックのカレイドスコープ(と部下の一人の笑い男)は
ユダヤ教徒だとわざと嘘をついているか、
無知及び解釈能力不足でそうなったか、
そもそも資料が間違っていた、と私は結論。
クルアーンの全訳読んだら報告予定。
ハディースは全文は無理。

”1) The Holy Prophet (SAWS) has informed that Dajjal will be a Jew.”
http://hamditabligh.web44.net/LastTTimes/Zaki/English/dajjal_is_coming.htm

を一部、カレイドが誤訳している。

”まず、CHAPTER 1の「TRADITIONS ABOUT DAJJAL」(ダジャルの言い伝え)を翻訳してみましょう。

1)聖なる予言者は、「ダジャルはユダヤ人である」と伝えている。”

willの意味知ってる?
「~である」(断言)と
「~だろう」(推論含む)だと全然違うだろうが!
ムハンマドだから未来形も確定だって?
でもムハンマドは「人間」だからね?
しかもダジャルがクザア部族の人(ユダヤ教徒ではない)に似ていると言ったのも預言者だからね?

カトリックだからユダヤ陰謀論のために捻じ曲げたのだろう。
偶像崇拝する部族の人に似ているといわれるダジャルが偶像崇拝否定のユダヤ教徒ではないだろう。
あと、仮にクルアーンに明確にユダヤ教徒ってあったら、
ハディースにそれを否定する箇所は出てこないのでは?

あと、カトリックは明確に反キリストだからね?
だって聖書のイエスの言葉を守ってないもんね!
同人誌、二次創作が教義になり、それを否定する聖書の文言は無視だもんね!
イスラームだとハディースがクルアーンより上に来るなんて絶対にないからね!

カレイドがwillを訳し忘れる時点で英語力が低すぎる。
反論したいなら、ダジャルがユダヤ教徒だと明言している記述がクルアーンの何章何節にあるかはっきりと引用して(アラビア語でなくていいです)書いてください。
元の英文がwillなのは、ユダヤ教徒を引き連れている記述から推測されるという意味なのでは?

ユダヤ教徒説を否定したので、次はどちらの目かどうか。

英語版ウィキにあるハディースの引用によると、

ムハンマド
「ダジャルは右目が見えない。両目はふくらんだブドウのようである」

アリー
「ダジャルの右目はつぶれているだろう。左目は額まで上がっているだろうし、星のように輝いているだろう」

(額に一つ目=左目があり星のように輝くって、あの1ドル札のプロヴィデンスの一つ目じゃん!
あのデザインは元はインド・イランの拝火壇だし、ダジャルはイランがらみだ)

ダジャルはあくまで擬人化された比喩だという解釈や、人の心に現れるとする解釈もある。

左目陣営の可能性が高い。
しかし、両方見えない説などあるので注意しないといけない。
ハディースは複数の言い伝えがあるのがふつう。
この異説を排除しないのがイスラムの姿勢。
タルムードもさまざまな説、解釈を併記する。

” 終末の大きな前兆——ダッジャール
 「導き手=救世者」の出現後、イーサーの降臨よりも前に、神を騙る偽救世主ダッジャールが出現する。「ダッジャール(Dajjāl)」という名は、「真実を覆うこと、隠すこと」を意味する” dajal”の派生語であり、「大嘘つき」を意味する。審判の日に至るまで、ダッジャールより大きな試練はなく、これまで遣わされたすべての預言者はダッジャールについて人々に警告した。
 ダッジャールは、「導き手」が到来し、その当時不信仰者の手に落ちているとされるコンスタンティノープルをムスリムが陥落させた後に、「東方」から出現する。伝承によっては、ホラーサーンからともエスファハーンからとも言われる。また、彼自身、エスファハーンのユダヤ教徒のなかから現れるとも、彼にエスファハーンのユダヤ教徒たちが付き従うとも言われる。ダッジャールの正体は、人間であるとも悪魔(ジン)であるとも言われる。
 彼は預言者を自称し、その後に神を自称する。
地上のあらゆる土地におもむき、奇跡を見せて人々に追従を求めるが、天使が護衛につくマディーナとマッカには入ることはできない。伝承によっては、エルサレム、そしてダマスカスにも入ることはできない。彼に従った者は栄え、彼を拒んだ者はすべての富を奪われる。
 彼は水——あるいは楽園——と火を所持するが、人々の目に水と見えるものは実は火であり、火に見えるものは実は水——あるいは楽園——である。そのためムハンマドは、ダッジャールの時代を生きるムスリムは、彼が持つ火のなかに飛びこむよう助言した。
 ダッジャールは腐ったぶどうのような盲の片目——両目とも盲であるとも、片目が盲で片目に疾患があるとも言われる——と、縮れた髪を持ち、両目のあいだに「不信仰者」あるいは「不信仰」を意味する「カーフ(k)、ファーウ(f)、ラーウ(r)」の文字が書かれている。すべての信仰者はこの文字を読むことができるが、不信仰者は読むことができない。
 ダッジャールの試練を避けることができるのは一万二千人の男と九千人の女だけだと伝えられる。彼は、地上に四十日、あるいは四十カ月、あるいは四十年のあいだとどまるが、その後、降臨したイーサーに殺される”


松山洋平『イスラーム神学』pp. 408-409

※イスファハーン=エスファハーン。
イランの都市。エスファハーン州の州都。テヘランの南約340kmに位置する。
「エスファハーンは世界の半分
(Esfahān nesf-e jahān ast、エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン)」
で有名。

ホラーサーン=イラン東部の州。











ぐだトマト @pteras14 7月29日
イエス風に言うと、「予め言っておく
が」ダジャル君側は最初から負け組側
だから、その辺よ~く注意して創作
活動した方が良いんじゃないかな?

あ!ダジャル君が何か分からない人は
自分でググって調べてね!♡

ドラクエ、11番目だから
夜勤と坊主の意味で良かったのかな?w

"ニューエイジ"という言葉の初出は
メイソン教だと罰缶は言ってたけど、
これを一躍有名にしたのは部落派憑子
ちゃんというのが罰缶の公式見解。

"アクエリアンエイジ"の初出は
憑子ちゃんクラブ三代目の有栖部絵里
ちゃんだけどね。

グノーシス主義というか黎明期キリス
ト教異端もヴァレンチノス派、
モンタノス派とあって、
後にカタリ派
が出てくるけど、メイソン教がやたら
とご執着なのはカタリ派の方なのよね。

イギリスメイソン教が基本おフレンチ
のユグノー教徒の残党
で、そいつら
を基地外老ニュートンが取り込んだ

天空のS価フローネもニュートンが
ラスボスだしねw

しかしカソリックとプロスタントカル
トの内ゲバに無関係な他国や他者を
巻き込まないで欲しいね。

イスラームにダジャル君が登場してる
という事は、脂ハム三兄弟は確信犯。

グノーシス主義自体も実際はバラモン
教のヨーガまんまだから、アレキサン
ドリア経由でインド&イランから輸入
したと考えるのが妥当。仏教学では
ロザリオの元ネタが数珠なのは常識
だし。

新訳のパウロ君の日記にも元々
アレキサンドリアにはキリスト教の
別派閥のアポロ君が居て、パウロ教
の布教に失敗したと言ってるしね。
パウロ君がローマに行く前に変な
夫婦がローマでテロリスト扱いされ
てたから、パウロ教から派生した
カソリック以前に別流派があったの
だろう。








フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 6月8日
英語のプロビデンスの目のWikiの 編集者同士の掲示板で面白い投稿が。 イスラームのハディースにダジャル という一つ目の偽預言者の伝承が あるらしい。 イスラームの神学者に拠ると三角目玉は ダジャルの目の事らしい。 日本ではねこたさんが話題にしてる カレイドなんとかぐらいしか扱ってないが、カレイドはダジャルを ユダヤ人としているが、英語版では クザア部族の出身と書かれている。 ハディースに拠ると、 「ダジャルはアッラーではない。 何故ならアッラーは一つ目ではない からだ」 とある。

ところでユダヤ教の偽預言者は アルミルスと呼ばれている。 ローマの創始者のロムルスを もじっているとも言われているが、 一説ではその語源はゾロアスター教の 邪神「アンラマンユ」ではないか とも考えられている。

@lakudagoya ハディースのアッラーの発言で こんなのが: 「ユダヤ教やキリスト教では教えて ない偽預言者の㊙︎情報を特別に アッラーが明かそう!」 「実は偽預言者ダジャルは一つ目 なのだ!」 ちょw、アッラーww

ちなみにハディースに拠ると ダジャルの潰れてる方の目は 右目らしい…… 1777年のフリーメイソン設立とは なんだったのか……


帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月8日
@FeydoTaitei ちょwアッラーwwwムスリムだけに出血大サービスですな。私はイスラーム世界にある聖書ネタの口伝やハディースの伝統など面白いと思ってるんですよね。割と西洋の耶蘇教世界にはないネタがあったりしそうなんです。それはタルムードもそれで興味があり。

@FeydoTaitei 私は、欧州のフリーメイソンなどの秘教の流れはイスラームから来てるんではないか?と見てます。西洋秘教伝統のシンボリズムとスーフィズムのシンボルかぶりますしね、クリスチャン・ローゼンクロイツの留学先はモロッコとかシリアとかスーフィズムの聖地ですわい。

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 6月8日
@lakudagoya どーも、イスラーム設立以前のあそこの 土着宗教(つまりバビロン、アッシリア、 ペルシャ、ギリシャ、ローマの宗教) に秘密がありそうですね。 ハディースの成立が一番遅いので 1000年代だとすると、フリーメイソン 創立の1777年より前に目玉野郎が暗躍していた事実は驚異ですぞ。
後、一つ目で怪しいのがケルトの バロールと北欧のオーディン。 ちなみにウラヌスの子供の サイクロプスとヘカトンケイルは アーリアのミトラとヴァルナに そっくり。

実はヴェーダではミトラは一つ目、 ヴァルナは無数の目で隠喩されてるん ですね。 昼間は太陽一個だけしか見えない=ミトラ 夜間は星が一杯=ヴァルナ。 両方とも「空」の形態ですね。 ギリシャでは「天空」神ウラヌスの 子供ってオチ。

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月8日
@FeydoTaitei ミトラちゃんは一つ目なんですか。知らなかったです。インドのカーストがなぜ夜=星であるヴァルナとされてるのか?そのあたりが不思議ですね。ミトラ=一つ目とくるとふりーそーめんがユダちゃんじゃなくて、アーリア思想持ってる理由がわかりますね。

@FeydoTaitei たしかに驚異かも知れません。でも中東にはファティマの手や目玉のお守りがあるのでは?セム系のアブラハムの宗教の背後には、アーリア宗教ってきわめて秘密がありそうですね。本当にアーリア人(笑)なんていたんでしょうか?

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 6月8日
@lakudagoya 更に気になるのが、イスラームの伝承 ですと、ダジャルの部下にはイスファハン 出身の7万人のユダヤ人がいるらしいん ですね。 で、イスファハンってのはイランに あるんですねw

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月8日
@FeydoTaitei そうそうwイスファハーンなんですよね。素敵なモスクがあるとこ。セム系宗教って本当にアーリア系宗教を敵に回してますよね~?(笑)イスラームの勃興だってサーサーン朝ペルシャの破壊を狙ってましたし。何でここまでセム系ってアーリア系を嫌うのでしょうか?

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 6月8日
@lakudagoya 多分、昼と夜は永遠と闘い続けねばならない という思考なんでしょう。 で、この闘いの原動力が時の神こと クロノス=ズルワーン=ウパニシャッドの 創造神「死」。

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月8日
@FeydoTaitei そうなんですか。へえ、ウパニシャッドの創造神ってズルワーンの事だったんですね。ズルワーン神学では、アフラマズダーとアーリマンの親ですよね。ロードスの一応のラスボスがカーラ(時間)だったのもそういう意味なのですね。時間の属性を持つキャラに要注意。

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 6月8日
ウパニシャッドには「死」としか 書かれてないので、厳密には ズルワーンではないのですが、 ズルワーン自体はこの「死」 から派生してると思われます。

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月8日
@FeydoTaitei なるほど~興味深いですね。賢者の石の永遠の命の話もそこから出てそうですねw

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月8日
@FeydoTaitei ドラゴンランス伝説で最後、レイストリンという(過去と現在の主、砂時計の目)をした魔術師が神になる話があるんですけど、そいつが支配してる「未来」が(この作品も多次元宇宙論です)死んだ世界なんですよね。ということは、ウパニシャッドにかなり忠実に描かれてる?

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 6月8日
@lakudagoya キリスト教というか、教会や帝国が 頑張り過ぎちゃったせいで、他の 物語が存在しないから、皆んな同じ 元ネタからパクってるから似通った 作品しか出来ないんですね。 アニメで言うジブリ病、庵野病みたい なものですね。

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月8日
@FeydoTaitei たしかにそうですね。でもメイソンのイラン人でもインド人でもないのにアーリア思想好きって異常に見えますよ?イエイツだってウパニシャッドにハマってたそうですし、おめー関係ねーぢゃん!みたいなw

Frederich Ⅹ ‏@6thCrusader 6月8日
@lakudagoya @FeydoTaitei メーソンは教会嫌いだから別の所に拠所が欲しかったってのがあるのと、ヨーロッパに昔からある東方コンプレックスの変種だと思う

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月8日
@6thCrusader @FeydoTaitei ああ、キリストの代わりに賢者のイメージのザラスシュトラを持ち上げたりですね(笑)この東方コンプレックスをこじらせて、アーリア人(笑)みたいな観念をでっち上げたのか。19世紀末の中産階級とかいいですよね~こういう中二病信じれてw

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 6月8日
@lakudagoya @6thCrusader インドラやルドラのシヴァが デーヴァ=文明神であることを 考えると、ナイルの氾濫じゃない ですけど、水っぽい奴=文明=「死」より 強い!(キリッ! って発想なのかもしれない。

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月8日
@FeydoTaitei @6thCrusader 何でやつらって文明生活享受しつつ、アスラちゃんみたいなのが好きなんですかねぇ?謎過ぎるw


フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 6月8日
@lakudagoya @6thCrusader とは言えども、当時の西洋人にとったら プラトンを凌駕する賢者が褌一丁で 氷山に引き篭もって氷の上で 変な方向に体ひん曲げてたら 衝撃ですよ?w 奴ら牛の小便も飲むしw


http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-112.html
お年玉3つ ①明治18年にできた初詣は伝統じゃねーよ! 
②修験者の法螺貝はインド起源。埴輪の帽子もユダヤと無関係。マイナス検索が大事。 
③『ヨーガの哲学』と良ツイート集

(ctrl f で出るボックスに「Dajjal」入れてみてください。

Talk:Eye of Providence
https://en.wikipedia.org/wiki/Talk:Eye_of_Providence

Banu Khuza'a
https://en.wikipedia.org/wiki/Banu_Khuza%27a)

イスラム圏でのメーソン禁止についての英語版ウィキの要約と『グノーシスの神話』

”カトリックは教会法(≒教義)でメーソン入会禁止。
初期メイソンはユダヤ教徒入会禁止。
ほとんどのイスラム圏ではメーソン自体が禁止。
必然的にメーソンはプロテスタントだらけになる。
メーソンがイスラム圏で禁止なのはイスラムをプロテスタント化させる秘密部隊だからでしょう。

英語版ウィキの反メーソンの項目の要約。
誤訳があったら教えてください。

カトリックの12世(ローマ教皇)が、フリーメイソンを排斥する初めての教皇文書「イン・エミネンティ」(1738年)が発令すると、
オスマン帝国のスルタンであるマフムト1世もメーソンを違法にし、メイソンを無神論とみなす。

フランス系の大東社の反教会と無神論傾向が強まるとでさらにメーソンへの圧力が強まる。
第一次大戦後、イギリスの影響下でイラクにいくつかロッジができる。
が、1958年のクーデターでイラクは王政から共和制に移行すると、メイソン許可証が無効となり、その後の法律で禁止。
イラクのサダム・フセインがメーソン含むすべてのシオニスト団体への弾圧強化。

イスラム圏での反メーソン陰謀論は、反ユダヤ主義と反シオニズムと強く結びついている。
ダジャル(イスラムの偽救世主)と結びつけられることもある。
イスラム教徒の中には、メーソンがユダヤ教徒を支援し、目的の一つがエルサレムにソロモン神殿を再建し、アル=アクサー・モスクを破壊することにあると考えるものがいる。
ハマースはメーソンだけでなくロータリークラブも類似団体も禁止。
イスラム教徒が多い国の多くがメーソン系組織の設立を禁止。
イスラム圏でメーソンロッジがあるのは、
トルコ、モロッコ、レバノン、マレーシア。
トルコとモロッコにはグランドロッジがある。
レバノンとマレーシアにはグランドロッジの保証の元で地方グランドロッジ(District Grand Lodges)がある。


(ハマースは、イスラーム主義を掲げるパレスチナの政党でスンニ派原理主義。
ムスリム同胞団のパレスチナ支部を母体として創設。

イスラム圏のメーソン陰謀論もキリスト教圏のユダヤ陰謀論と同じ設計図。用語を少し入れ替えるだけ。
広まるきっかけの本がありそうだけどアラビア語が読めないから断念。
ローマ教皇が出したメーソン叩き文書の劣化コピーっぽいけど。

第一次世界大戦後のオスマン帝国の解体により、3つの州(副地区)から成るオスマン領イラクはイギリスの支配下に置かれイギリス委任統治領メソポタミア(British Mandate of Mesopotamia)となった歴史があり、英国系メーソンロッジができた。
共和制になったイラクがメイソン禁止して、フセインがさらに強化。
イラクが徹底的に攻撃された理由の一つ。
イラクの英米系WASPロッジを潰したことへの復讐。

モロッコは元フランスの植民地。
現在のレバノンから到来したフェニキア人が現在のチュニジアあたりにカルタゴを建設し、モロッコ沿岸部にも港湾都市を築いたからメーソンが超必死なのかも。

トルコがメーソンOKなのは当然。
トルコ建国の父ケマルがメーソン=新キリスト教だから。
彼がトルコを脱イスラーム化しキリスト教化させた。


レバノンではキリスト教マロン派(マロン典礼カトリック教会)が先祖がフェニキア人だと主張しているのが気になる。
マロン派はフランスと密接で、レバノン大統領はマロン派から選ばれる習慣らしい。
日産ゴーンがマロン派ということは彼はフェニキア人の子孫かつ教義がカトリック。
教会用語や祈祷書が古シリア語やアラビア語。バチカンから独立していることが重要。

マレーシアは華僑関係だろうね。
日本は東アジアなのに華僑系の陰謀情報が少ないのが露骨だね。

レオ13世は『フマヌム・ゲヌス』にて、メーソンが下位メンバーにすら上層部の情報を教えないことを非難し、マニ教と同じシステムだと非難。
わざわざマニ教という固有名詞をだした理由は本記事後半の記事でよくわかるでしょう。
でも、カトリックも下位メンバー=信者には上層部がやっていることを教えないよね。
真のトップの名簿も明かしていないよね。
ローマ法王はあくまで看板。
そもそもメーソンがカトリックの支配システムを取り入れているからね。

英語が読めないと本当に損だなあ。
日本語訳されていない英語文を読めるようにあがくのが一番手っ取り早く英語力がつくよ。
知らない単語はドラッグして検索し、画像検索もして映像とともに意味を記憶する。


フェイド大帝 @FeydoTaitei15年6月25日
@lakudagoya
メイソン嫌いの法王レオ13世に
よるとメイソンもマニ教も
秘密主義で例えば組織のトップの
名簿を一般公表しない事が気に
食わなかったらしい。
http://w2.vatican.va/content/leo-xiii/en/encyclicals/documents/hf_l-xiii_enc_18840420_humanum-genus.html)

カトリックはメーソンはマニ教を真似ていると指摘して禁止
しているので当然マニ教が警戒された理由も知っておくべきなので↓読書メモも載せておく。”


http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-159.html

How did Masih ad-Dajjal lose his eye?
https://mythology.stackexchange.com/questions/858/how-did-masih-ad-dajjal-lose-his-eye


Narrated 'Abdullah bin 'Umar:

Allah's Apostle said. "While I was sleeping, I saw myself (in a dream) performing Tawaf around the Ka'ba. Behold, I saw a reddish-white man with lank hair, and water was dropping from his head. I asked, "Who is this?' They replied, 'The son of Mary.' Then I turned my face to see another man with a huge body, red complexion and curly hair and blind in one eye. His eye looked like a protruding out grape. They said (to me), He is Ad-Dajjal." The Prophet added, "The man he resembled most is Ibn Qatan, a man from the tribe of Khuza'a. "

Source: Translation of Sahih Bukhari, Book 88: Afflictions and the End of the World, Volume 9, Number 242

※resemble
 =似ている、ように見える(appear like)
(他動詞なのでtoは不要)

※Sahih Bukhari=サヒーフ・アル=ブハーリー
 =スンニ派の6つの主要なハディース集の一つ。ハディース学者のブハーリーによって収集された。
 『サヒーフ・ムスリム』と並び、最も権威あるハディース。この二つのハディースにある伝承は原則的に真正であるとみなす。
 ハディース学では、信憑性によって、サヒーフ (真正)、ハサン(良好)、ダイーフ(脆弱)などの分類を行う史料批判を行う。
 なおこのハディースは牧野信也による、『ハディース イスラーム伝承集成』の書名の全訳がある。
 なお私もサヒーフ (真正)、ハサン(良好)、ダイーフ(脆弱)のような分類法を使っている。



”I would like to quote a Hadith from Sahih Muslim,

It is narrated on the authority of ‘Abdullah b. Umar that one day the Messenger of Allah (may peace be upon him) mentioned in the presence of people about al-Masih al-Dajjal. He said: Verily Allah (hallowed be He and High) is not blind of one eye. Behold, but the Masih al-Dajjal is blind of right eye as if his eye is like a swollen grape, and the Messenger of Allah (may peace be upon him) said: I was shown in a dream in the night that near the Ka’bah there was a man fair-complexioned, fine amongst the white-complexioned men that you ever saw, his locks of hair were falling on his shoulders. He was a man whose hair were neither too curly nor too straight, and water trickled down from his head. He was placing his bands on the shoulders of two persons and amidst them was making a circuit around the Ka’bah. I said: Who is he? They replied: Al-Masih son of Mary. And I saw behind him a man with intensely curly hair, blind of right eye. Amongst the persons I have ever seen ibn qatan has the greatest resemblance with him. He was making a circuit around the Ka’bah by placing both his hands on the shoulders of two persons. I said: Who is he? They said; It is al-Masih al-Dajjal. (Book #001, Hadith #0324)

Sahih Muslim: (Book #001, Hadith #0324) (Book #001, Hadith #0327)
Sahih Bukhari: (Book #55, Hadith #649) (Book #55, Hadith #650) (Book #87, Hadith #153) (Book #87, Hadith #153) (Book #88, Hadith #242)

This Hadith has been narrated in slightly different detail in all the other Sahih hadith I have referred above. But all of them have Abdul Uzza Ibn Qatan as a common reference.

Now, Who is Ibn Qatan? Abdul Uzza Ibn Qatan was a man from the al-Mustaliq tribe of Khuza’a, who died in the pre-Islamic times, and the Prophet (pbuh) referred to him as to have a greater resemblance with Dajjal. With this said, calling dajjal a system and interpreting blindness in one eye as spiritual blindess etc, are meaningless.

I would like to mention a few of those ideas which are commonly spread among people, about the Dajjal.

• Most people believe that Blind in One Eye means ‘Internal Blindness’
• Some people even say that Dajjal is in fact the Western Culture, i-e- Materialism
• Some people call the Television a Dajjal, seeing how it appears like a One-Eye, etc.

Whatever the issue may be, the above hadith clearly denies all of them. Dajjal will be a Being in Human Form, and Not a System.”

付録1 ムハンマド(Prophet Muhammad)
http://saudinomad.karuizawa.ne.jp/muhammad.html
”4.1.1メッカ支配者となったクサイイ(Qusayy as Meccan Ruler)

キリスト暦の4、5世紀頃まではカアバ神殿(Ka'bah or Kaaba)*の主神偶像フバル神(Hubal)*を持ち込んできたイスマーイール族(Isma'ilite)*のアラブ部族であるクザー’ア族(Khuza'ah)*がメッカ(Mecca)を支配してきたが、もう一つのイスマーイール族(Isma'ilite)で、後にクライシュ族(Quraysh)*がメッカで支配力を増し始めた。そのクライシュ族の部族民の1人が神の最後の預言者に選ばれた。

クライシュ族のクサイイ(Qusayy, c. 400 - 480)がクザー’ア族(Khuza'ah)の族長の娘と結婚し、後にメッカの統治者でカアバ神殿(Ka'bah or Kaaba)*の守護者となった。クサイイは聖地に住むクライシュ族とその外に住む者達の両方を支配した。クサイイは能力のある統治者でカアバ神殿の周囲に同心の環状地帯を作り、住人をそれぞれの社会的な階級によって決められた環状に割り当て、メッカの市作りを行った。この割り当てでは地位の高い者達から「古代の家(Ancient House)」の近くに住む様に決められた。そしてその痕跡は最近の数十年(20世紀)の都市計画の到来までは実際に見つけられていた。”

その4 近代化する聖地メッカ
(No. 4 Modernizaing Holy City of Mecca)
http://saudinomad.karuizawa.ne.jp/mecca.html
”クザー’ア族(Banu Khuza’a or Banu Quda’a)*はラフム朝の苦難(Trials of Lakhmids)の後、イエメン(Yemen)を追放され、ラフム朝(Lakhmid Kingdom, 266 - 602)*南部のイラク(Iraq)サマワ(Samawah)に定住していた。

(注) ラフム朝の苦難(Trials of Lakhmids)とは「シャープール二世(Shapur II, 309 – 379)が捕虜達の肩に穴を開け、ロープを通して数珠繋ぎにした」と云う325年のラフム朝へのサーサーン朝(Sassanid, 226 - 651)による侵攻だと私は思う。

ハリサ アムル ビン ムザキバ(Haritha Amr binMuzaqiba)としても知られるクザー’ア(Khuza’a)はアズド カハタニ族(Azd Qahtani)の主要一族の長であり、マール ザハラン(Mar al-Zahran)に来るまでヒジャーズ(Hijaz)を自分の一族と流浪していた。クザー’ア族(Banu Khuza’a or Banu Quda’a)*はメッカ谷(Mecca Valley)とその井戸をアマレク人(Amalekites)*と関係のあるジュールフム族(Banu Jurhum)*から奪い取った。それまでのメッカ(Mecca)の住人だったジュールフム族(Banu Jurhum)はメッカ(Mecca)を追い出され、カアバ神殿の守護権も失った。その時期はハッキリはしないが、遅くとも4世紀の終わりでまでである。
クザー’ア族(Banu Khuza’a or Banu Quda’a)*の族長アムル イブン ラヒ クザ‘イ(Amr ibn Lahi ak-Khuza’i)*はフバル(Hubal)*と云う名の偶像神をシリア(Syria)から持ってきて、自分の支配の継続と云う意味でフバル神を遇するためにカアアバ神殿(Kaaba)に持ち込んだ。フバル神(Hubal)は長いあごひげをした老人の形をし、紅玉髄(Camelian)で作られていたが、その右手は切り取られていた。


5世紀にクザー’ア族(Banu Khuza’a)はカアバ神殿(Kaaba)守護の権威を失くし、族長の娘婿で同盟しているクライシュ族(Quraysh or Quraish)族長クサイ イブン キラブ(Qusayy ibn Kilab ibn Murrah)*に義父を引き継ぐ形で譲った。
ほとんど確実な事はアドナーン(Adnani)系統のクライシュ族(Qurayshiyya)がカハタニ(Qahtani)系統のクザー’ア族(Banu Khuza’a)に取って代わって古代聖地の守護者となったことである。クザー’ア族(Banu Khuza’a)から引き継いでクライシュ族(Quraysh or Quraish)*の主神の1つとなったフバル神(Hubal)の切り取られていた右手はクライシュ族によって黄金の腕で修復された。

クサイはその聡明さで偉大な名誉と高名を自分の部族にもたらしたと評価されている。クサイは荒廃していたカアバ神殿を再建し、神殿の周囲に同心の環状地帯を作り、住人をそれぞれの社会的な階級によって決められた環状に割り当て、メッカの市作りを行った。クサイは又、アラビア半島で最初の政庁舎(Town Hall)を建設したことでも知られている。異なった一門の家長達がこの政庁舎で社会的、商業的、文化的、政治的問題を議論するために会合を開いた。先見の明のあるクサイは法律を作り、市民から税金を徴収し、メッカを訪れる巡礼達が食料と水を受け取れる様にもした。

この様にしてメッカを制圧したクライシュ族は熟練した商人や交易業者にもなった。6世紀になると世界の他地域での戦争で交易路が危険の多い海路からより安全な陸路に変り、クライシュ族も利潤の多い、香料貿易に参加した。ビザンティン帝国(Byzantine Empire)*はそれまで紅海を支配していたが、海賊が増えその支配に陰りが出て来た。アラビア湾からチグリス・ユーフラテス川(Tigris-Euphrates River)を経由するもう一つのそれまでの交易路もササン朝(Sassanid Empire, 224 - 651)*の搾取やラフム朝(Lakhmids, 266 - 602)*およびガッサーン朝(Ghassanids, 3rd Century - 636)*による妨害さらにローマ・ペルシア戦争(Roman-Persian War, 92 BC – 627 AD)*によって脅かされた。安全な陸路の交易中心としてのメッカの卓越さ(Mecca’s Prominennce)はペトラ(Petra)*やパルミラ(Palmyra)*の両都市を凌いでいた。

6世紀半ばまでに北部アラビアには3つの大きな定住地があり、3つとも東の広大な砂漠と海岸の間ある紅海の西岸に沿った居住可能な地域にあった。この地域はヒジャーズ(Hejaz)と呼ばれ、水のあるオアシス(Oases)の周囲に発展した定住地に特徴がある。ヒジャーズ中央にあるのがヤスリブ(Yathrib)で、後に「ムハンマドの市(Madinatun Nabi or City of Prophet)」に因んでマディーナ(Madinah)と改名された。ヤスリブ(Yathrib)*の南400kmに位置する山岳都市がターイフ(Ta’if)であり、その北西にメッカ(Mecca)がある。メッカの周囲の地域は完全に不毛であるけれども、有名なザムザムの井戸(Zamzam Well)*から湧き出る豊富な水と主要隊商路の交差点の位置にあった為に3つの定住地の中では一番裕福であった。”

The Dajjal (Anti-Christ)
http://www.discoveringislam.org/anti-christ.htm
” 3. The Dajjal's Parents


The following weak Hadith is reported by Abu Bakara: "His father will be tall and thin and his nose will be pointed like a beak, while his mother will be fat with two long hands. They will both remain thirty years without a child. After thirty years, a son with visual impairment in one eye, biting teeth and of little benefit will be born to them whose heart will remain awake while his eyes sleep." (Tirmizi)





4. Dajjal's Physical Description & Characteristics



Based on the Hadiths listed below, some of them could be weak Hadiths, the Dajjal (Anti-Christ) is relatively young1, fat man2, reddish in complexion3 , with a broad chest 4,and biting teeth5. He resembles Abdul Uzzah bin Qatad from the tribe of Khuza'a.6 His head will have coarse, curly hair8 . He has a hairy body7. On his forehead, the Arabic letters ك (ka), ف (Fa), ر (Ra) (which mean unbeliever) will be appear written between his eyes which every believer will be able to clearly see and read, regardless of whether the believer is literate or illiterate 9. He has a shining forehead10.. He walks briskly11. He has no children.12

Many Hadiths state that the Dajjal (Anti-Christ) is Awar which means having one or two eyes deformed /disfigured:

- Most Hadiths indicate that the right eye is the seriously deformed /disfigured one; but some Hadiths indicate that it is the left eye.


- Most of the Hadiths that indicate both eyes are deformed /disfigured seem to portray that the condition of the right eye is more serious to the extent that he is most likely blind in his right eye, while the left eye is not blind, but just looks ugly.


However, the Dajjal does NOT necessarily have to be have physically Awar. It is possible that the word Awar, numerically, tells us something distinctive about the Dajjal.

Abdullah ibn Umar narrated that Allah's Messenger صلى الله عليه وسلم stood up amongst the people and then praised and glorified Allah as He deserved and then he mentioned the Dajjal, saying, "I warn you of him, and there was no prophet but warned his followers of him; but I will tell you something about him which no prophet has told his followers: Ad-Dajjal is Awar (has a deformed eye) whereas Allah is not." (Sahih Bukhari )

Ubada ibn Saamit narrates that the Prophet صلى الله عليه وسلم said, "I have explained Dajjal to you, but I fear that you might not have understood. The Dajjal Messiah (False Messiah) will be short and his legs will be crooked. The hair on his head will be Aja'd (coarse and curly). He will be Awar (has a deformed eye), while his other eye will be flat. It will be neither deep, nor protruding."

Ibn Umar narrates from the Prophet صلى الله عليه وسلم regarding Dajjal (AntiChrist), "…red complexioned, fat, with coarse hair, Awar (has a deformed eye) in the right eye which looks like a bulging grape." (Sahih Bukhari)

" The Dajjal will be Awar (has a deformed eye) in the right eye. He will have thick hair on his body ...." (Sahih Muslim)

Several Hadiths mention the Dajjal will have particular influence over women.



We think his staunchest followers will most likely be Zionist Jews/Christians, and possibly some of the Shia.







The following Hadith has been reported in several variations, among them:



1. Version 1:

حدثنا منصور بن أبي مزاحم حدثنا يحيى بن حمزة عن الأوزاعي عن إسحق بن عبد الله عن عمه أنس بن مالك

أن رسول الله صلى الله عليه وسلم قال يتبع الدجال من يهود أصبهان سبعون ألفا عليهم الطيالسة

Anas bin Malik said that the Prophet (صلى الله عليه وسلم) said "Seventy thousand of the Jews of Isfahan (a city in Iran) will follow the Dajjal, wearing Tayalisa (type of hoods or turbans)." ( Sahih Muslim)

2. Version 2:

حدثنا محمد بن مصعب حدثنا الأوزاعي عن ربيعة بن أبي عبد الرحمن عن أنس بن مالك قال

قال رسول الله صلى الله عليه وسلم يخرج من يهودية أصبهان معه سبعون ألفا من عليهم التيجان

Mohammad bin Musab said that the Prophet (صلى الله عليه وسلم) said: " Seventy thousand from the Jews of Isfahan (a city in Iran) wearing Al-Tijan (crowns or turbans) will come out with the Dajjal." (Musnad Ahmad and Tabarani)



3. Version 3:

أبي سعيد الخدري قال : قال رسول الله صلى الله عليه وسلم : يتبع الدجال من أمتي سبعون ألفا عليهم السيجان

رواه البغوي في "شرح السنة"، ورواه عبد الرزاق في "مصنفه"

Abu Saeed Al-Khudri said that the Prophet (صلى الله عليه وسلم) said: " The Dajjal will be followed by seventy thousand from my Umma (nation of Muslims) wearing Al-Sijan (type of hoods or turbans, associated with Sijistan, known today as Sistan, in Iran). " (Al-Baghawi and Abd-Al-Razzaq)



3. Version 4:

حديث أبي هريرة رضي الله عنه؛ قال: سمعت رسول الله صلى الله عليه وسلم يقول

لينزلن الدجال خوز وكرمان في سبعين ألفا وجوههم كالمجان المطرقة

رواه الإمام أحمد وإسناده حسن

Abu Huraira said that The Prophet (صلى الله عليه وسلم) said: " The Dajjal will go down to Khuz (lands east of Iran) and Kerman (region in Iran) with seventy thousand (soldiers) whose faces look like flattened shields." (Musnad Ahmad)



4. Version 5:

‏حدثنا ‏ ‏محمد بن بشار ‏ ‏وأحمد بن منيع ‏ ‏قالا حدثنا ‏ ‏روح بن عبادة ‏ ‏حدثنا ‏ ‏سعيد بن أبي عروبة ‏ ‏عن ‏ ‏أبي التياح ‏ ‏عن ‏ ‏المغيرة بن سبيع ‏ ‏عن ‏ ‏عمرو بن حريث ‏ ‏عن ‏ ‏أبي بكر الصديق ‏ ‏قال ‏
‏حدثنا رسول الله ‏ ‏صلى الله عليه وسلم ‏ ‏قال ‏ ‏الدجال ‏ ‏يخرج من أرض بالمشرق يقال لها ‏ ‏خراسان ‏ ‏يتبعه أقوام كأن وجوههم ‏ ‏المجان ‏ ‏المطرقة



Abu Bakr Al-Siddiq (r.a.) narrated that The Prophet (صلى الله عليه وسلم) said: "The Dajjal emerges from a land in the East called Khorasan (region that includes Northeastern part of Iran, Afghanistan, , parts of Pakistan, Uzbekistan and Tajikistan, etc.). He will be followed by people whose faces are like flattened shields." (Tirmizi, Ahmad, Ibn Maja, and Al-Haakim)



There are some narrations that the followers of the Mahdi will emerge from Khorasan. This should make us more cautious about accepting the story that links the Mahdi to Khorasan because it seems like both the Mahdi and the Dajjal are linked to Khorasan.

Al-Masih ad-Dajjal
https://en.wikipedia.org/wiki/Al-Masih_ad-Dajjal
”Al-Masih ad-Dajjal (Arabic: المسيح الدجّال‎‎ Al-Masīḥ ad-Dajjāl, "the false messiah","liar" or "the deceiver") also referred to as "the anti-christ" is an evil figure in Islamic eschatology.[1] He is to appear, pretending to be al-Masih (i.e. the Messiah), before Yawm al-Qiyamah (the Day of Doom). He is to be an anti-messianic figure, comparable to the Antichrist in Christian eschatology and to Armilus in medieval Jewish eschatology.

Name

Dajjāl is an adjective of Syriac origin.[2] It is also a common Arabic word (دجال) whose root is dajl meaning "lie" or "deception". Al-Masīḥ ad-Dajjāl, with the definite article al- ("the"), refers to "the deceiving Messiah", a specific end-of times deceiver. The Dajjāl is an evil being who will seek to impersonate the true Messiah.

The name Dajjal also is rooted in an Arabic word dajel, which means "to gold plate" or "to coat in gold". It is derived from word meaning "to mix".
Hadith

According to hadith, Muhammad is said to have prophesied that the Masih ad-Dajjal would be the last of a series of thirty Dajjal or "deceivers".[3]

Muhammad is reported to have said:

Ad-Dajjal is blind in the right eye and his eye looks like a bulging out grape.[4]

Ali was reported to have said:

His right eye will be punctured, and his left eye would be raised to his forehead and will be sparkling like a star.
Only the believers will be able to read the word "Kafir" [disbeliever], inscribed in bold letters, on his forehead. There will be big mountains of smoke at both front and backsides of his caravan. People will anticipate food within those mountains, during the severe famine. All rivers, falling in his way, will become dry and he will call upon people in a loud voice, "O my friends come to me! I am your lord who has made your limbs and given you sustenance."[5]

Muhammad is reported to have said:

If he comes forth while I am among you I shall be the one who will dispute with him on your behalf, but if he comes forth when I am not among you, a man must dispute on his own behalf, and Allah will take my place in looking after every Muslim. Those of you who live up to his time should recite over him the opening verses of Surat al–Kahf, for they are your protection from his trial. We asked: How long will he remain on the earth? He replied: Forty days, one like a year, one like a month, one like a week, and rest of his days like yours. We asked: Messenger of Allah, will one day's prayer suffice us in this day which will be like a year? He replied: No, you must make an estimate of its extent. Then Jesus son of Mary will descend at the white minaret to the east of Damascus. He will then catch him up at the gate of Ludd and kill him.[6]

Muhammad is reported to have said:

The flourishing state of Jerusalem will be when Yathrib is in ruins, the ruined state of Yathrib will be when the great war comes, the outbreak of the great war will be at the conquest of Constantinople and the conquest of Constantinople when the Dajjal (Antichrist) comes forth. He (the Prophet) struck his thigh or his shoulder with his hand and said: This is as true as you are here or as you are sitting (meaning Mu'adh ibn Jabal).[7]

Signs of coming of Al-Masih ad-Dajjal

Hadith attributed to Muhammad give many signs of the appearance of the Dajjal who would travel the whole world entering every city except Mecca and Medina and tempting people to follow his false religion.[8][9] Muhammad is reported to have exhorted his followers to recite the first and last ten verses of Sura Al-Kahf (chapter 18 in the Qur'an), as protection from the trials and mischief of the Dajjal.[5][10] The following signs are ascribed to Ali in the coming of Dajjal:[5]

People will stop offering the prayers
Dishonesty will be the way of life
Falsehood will become a virtue
People will mortgage their faith for worldly gain
Usury and bribery will become legitimate
There will be acute famine at the time
There will be no shame amongst people
Many people would worship Satan
There would be no respect for elderly people

Signs of emergence

The following signs will occur just before emergence and these signs are mandatory condition for Dajjal to appear.

Drying up of Sea of Galilee.
When date-palm trees of Baisan stop bearing fruit.[11]
Worship of Satan becomes common.
The sun will rise from the place it usually sets.[12]
The conquest of Constantinople (modern day Istanbul, Turkey) by the Islamic Caliphate.[7]

Signs post-emergence

70,000 jews from Isfahan, Iran will pledge allegiance to Dajjal wearing persian blue-black traditional shawls.[13]
He will do miracles and yield resources (minerals, food) from land by his power.
He will lay siege of Medina while overlooking prophet's mosque.

Eschatology
See also: Islamic eschatology, Mahdi, and Jesus in Islam
Sunni

Sunni Muslims believe that Isa will descend on Mount Afeeq, on the white Eastern Minaret of Damascus. He will descend from the heavens with his hands resting on the shoulders of two angels.[14] His cheeks will be flat and his hair straight. When he lowers his head it will seem as if water is flowing from his hair, when he raises his head, it will appear as though his hair is beaded with silvery pearls.[15] He will descend during Fajr (sunrise) and the leader of the Muslims will address him thus, "O' Prophet of God, lead the prayer." Isa will decline with the words, "The virtue of this nation that follows Islam is that they lead each other." Implying that he will pray behind the imam (the man that leads the prayings (Mahdi)) as the word of God was completed after revelation of Qur'an and Muhammad being the last prophet of God.[15]

After the prayer, Isa will prepare himself to do battle and shall take up a sword. An army shall return from a campaign launched before the arrival of Isa. Isa shall set out in pursuit of Dajjal. All those who embraced the evil of Dajjal shall perish even as the breath of Isa touches them. The breath of Isa shall precede him as far as the eye can see. Dajjal will be captured at the gate of Lod. Dajjal shall begin to melt, as salt dissolves in water. The spear of Isa shall plunge into Dajjal’s chest, ending his dreaded reign.[16][17] The followers of Dajjal will be rooted out, for even the trees and rocks will speak out against them. Isa will break the cross and kill the pig (the animal). Then all battles shall cease and the world will know an age of peace. The rule of Isa will be just and all shall flock to him to enter the folds of the one true religion, Islam.
Shi'a

Shias believe that Dajjal will be killed either by Muhammad al-Mahdi or Jesus.[18][19] However, their version of mahdi will eforce the law of prophet Solomon (the jewish law). And will also kill 3,000 Quraysh men in groups of 500. This according to many scholars refers to Dajjal fooling the Shi'ites in believing that he is Al-Mahdi.
Ahmadiyya

The Ahmadiyya take the prophecies about the Dajjal as pertaining to a collectivity of people centred upon deception instead of one individual. Ahmadiyya teachings interpret the prophecies regarding the appearance of the Dajjal (Anti-Christ) and Gog and Magog in Islamic eschatology as foretelling, in essence, the emergence of two branches or aspects of the same turmoil and trial that was to be faced by Islam in the latter days and that both emerged from Christianity or Christian nations. Hence the reason why Muhammad specifically exhorted the recitation of the first and last ten verses of Sura Al-Kahf (chapter 18 of the Quran) as protection from the Dajjal.[20][21] Its Dajjal aspect relates to deception and perversion of religious belief while its aspect to do with deception and disturbance in the realm of politics and the shattering of world peace has been called Gog and Magog. the Dajjal being blind in his right eye while being sharp and oversized in his left is seen as indicative of being devoid of religious insight and spiritual light but excelling in worldly and material attainment, with the right eye representing godliness and spirituality, and the left eye representing worldliness.[21]

Ahmadis consider the widespread Christian missionary activity that was aggressively active in the 18th and 19th centuries and whose spread was propelled by the Industrial Revolution as being part of the prophesied Dajjal (Antichrist) and view Gog and Magog as emerging in modern times out of predominantly Christian nations.[21] Accordingly, the emergence of Russia and the United States as superpowers and the conflict between the two nations (i.e., the rivalry between communism and capitalism and their influence over the nations of the world) are seen as having occurred in accordance with certain prophecies regarding Gog and Magog.[22] Thus, Ahmadis believe that prophecies and sayings about the Antichrist are not to be understood literally, they have deeper meanings. Masih ad-Dajjal is then a name given to latter day Christianity and the west.[23]

Mirza Ghulam Ahmad, the founder of the Ahmadiyya movement whom Ahmadis believe to be the Promised Messiah and Mahdi, writes extensively about dajjal in his books, in Shahādat-ul-Qurān, which is briefly mentioned in a topic-based, five-volume collection of his writings titled "Essence of Islam", he states:

The Holy Qur’an then specifies that in the latter days the Christians will dominate the earth, and they shall be the cause of all kinds of mischief running rampant. Waves of calamities will rise on all sides and will race down from every height ... They will possess great material strength and dominion, against which all other powers and states will seem powerless. They will also enjoy supremacy in all kinds of knowledge and sciences and establish new and wonderful industries. They will also be dominant in their policies, projects, and good administration, and will show great resolve in their worldly enterprises and will also excel in their endeavour to spread their faith. They will leave behind all other nations in their social, agricultural and commercial policies, as indeed in everything else.
— Shahādat-ul-Qurān, page 361-362[24]

Mirza Ghulam Ahmad gives a more direct definition of the meaning of Dajjal:

As to the Antichrist, now listen, I will explain to you the reality on the basis of the clear and pure revelation that I have received. Then understand, my dear ones, that it has been disclosed to me that the reference to the Antichrist as one individual is not designed to indicate his personal individuality, but his unity as a class, meaning thereby that in that class there will be a unity of ideas as is, indeed, indicated by the word Dajjal itself and in this name there are many Signs for those who reflect. The meaning of the word Dajjal is a chain of deceptive ideas, the links of which are so attached to each other as if it was a structure of equal-sized bricks of the same colour, quality and strength, some of them firmly overlapping others and further strengthened by being plastered from outside.[25]

Thus essentially the Dajjal is not believed to be a physical person or an individual but as representing a collectivity of people who would pose a great challenge to Islam; it is, essentially, a name given to the European nations of the latter days. In contrast to the Christians and mainstream Muslims who believe Jesus to be still alive and one who would return himself towards the end of time, Ahmadis believe that Jesus is not alive but survived crucifixion and died a natural death.[26][27] The prophecies concerning the second coming of Jesus are thus interpreted as the coming of one from within Islam in the likeness of Jesus, who will correct the doctrines of Christianity which from the perspective of Islam are deemed erroneous and establish the truth of Islam to the world especially as against western scientific and philosophical ideals. Ahmadis believe their founder Ghulam Ahmad to have fulfilled in his person the prophecies of the second advent of Jesus by representing Islam in its pristine form and having revived the high morals it inculcates. Moreover, Ahmadi Muslims also believe the "Promised Messiah" and the "Mahdi" are the same person, and that it is through his teachings, influence and prayers – and those of his successors and followers – that Islam will eventually overcome the Anti-Christ or Dajjal in a period similar to the period of time it took for nascent Christianity to rise (see also: Ahmadiyya relationship with Christianity); and that the Dajjal's power will slowly fade away, heralding the prophecised final victory of Islam and the age of peace. They also believe that the 'Gate of Lud' mentioned in certain Hadith refers to Ludgate where St Paul is thought to have preached the message of Christianity according to the Sonnini Manuscript of the Acts of the Apostles.[28]
Modern views

According to Ahmed Hulusi the Dajjal is not an external entity, rather he descripes a part of the human mind. The Day of Resurrection is not a global event, but something, that each person will experience for themselves. Therefore the Dajjal is the part of humans consciousness, which claims to be God. Then a human trust his inner Dajjal, he believes to be his physical body and an independend self, leading to bodily desires. Living in believing to be the physical form, is associated with the heaven of Dajjal, which is actually hell, as it was stated by Muhammed.[29]”
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ユダヤ教の偽救世主Armilus
https://en.wikipedia.org/wiki/Armilus
”Armilus (Hebrew: ארמילוס‎‎) (also spelled Armilos and Armilius)[1] is an anti-messiah figure in medieval Jewish eschatology, comparable to medieval interpretations of the Christian Antichrist and Islamic Dajjal, who will conquer Jerusalem and persecute the Jews until his final defeat at the hands of God or the true Messiah. His inevitable destruction symbolizes the ultimate victory of good over evil in the Messianic age.
Sources

The Sefer Zerubbabel is probably from the 7th century. Armilus is thought to be a cryptogram for Heraclius and it is thought that the events described in the Sefer Zerubbabel coincide with the Jewish revolt against Heraclius.[2]

The 11th Century Midrash Vayosha, which describes Armilus, was first published at Constantinople in 1519.

According to the Jewish Encyclopedia, Armilus is "a king who will arise at the end of time against the Messiah, and will be conquered by him after having brought much distress upon Israel." He is spoken of in the Midrash Vayosha, Sefer Zerubbabel and other texts. He is an adversary similar to Gog and Magog. In the Sefer Zerubbabel he takes the place of Magog and defeats the Messiah ben Joseph.[3]: 60

The origin of this figure, said to be the offspring of Satan and a virgin, or Satan and a statue (or "stone"), is regarded as questionable by the Jewish Encyclopedia, due to the variation and clear relation (if not parody) to Christian doctrine, legend, and scripture.
Name

The name might be derived from Romulus, one of the founders of Rome, or from Ahriman, the evil principle in Zoroastrianism (Arimainyus = Armalgus).[4]
Appearance

Midrash Vayosha depicts Armilus as bald, partially deaf, partially maimed, and partially leprous.[5]”
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松山洋平『イスラーム神学』


本書はスンナ派の立場なので注意!

・キリスト教では人間である預言者イーサー(イエス)を神の子とみなすが、被造物に神性を帰す点で過剰である。

ユダヤ教徒はイーサーが預言者であることを否定し、姦通によって生まれた子と考えるが、イスラーム的には不足とみなされる。

イスラームは両者の中間に位置する。イーサーを無謬の預言者と信じるものの、神性を帰すことはせず、中庸。

擬人神観(アッラーに体や肢体、感情的起伏がある、変化が起こると考えること)は過剰、
アッラーが人間の行為の創造者であることを否定(カダル派)は不足だという説明もある。
スンナ派ではアッラーはいかなる性質も被造物と共有することはない。

属性否定論とは、アッラーの属性や名を一部あるいはすべて否定する立場で、具体的にはジャフム派やムウタズィラ派――ともにスンナ派から異端視され現在は消滅した宗派――などが該当する。
属性否定論者によれば人間が理性で想起できるものはすべて被造物であるため、超越者たるアッラーを人間が理解できるような属性で形容することは許されないとされる。

スンナ派ではアッラーはたしかに人間といかなる性質も共有しない存在であるが、
同時に特性の属性を有する。
スンナ派はさらにアッラーが特定の名を持ち人間はそれらの名によってアッラーを名指すことができると考える。


強制論とは人間は自分の行為を起因させる意志や選択を持たず、
人間のあらゆる行為はアッラーによって強制的に創造されると考えるジャブル派の立場である。
天命否定論とは人間の行為は純粋に人間の自由な選択のみによって生起されるものとし、
人間の行為に対するアッラーの関与を否定するカダル派の立場。
スンナ派は人間の体に不可避に生じる震えなどの現象と、
意志を伴う選択的な行為とを区別し強制論に反対の立場をとる。
同時に世界の現象の一切はアッラーの定めのままに創造されるものであると信じ、
人間の行為はもちろん、選択的行為に先立って存在する人間の意志もまたアッラーの意志のもとにあると考えるので、天命否定論もスンナ派は否定。

(ムウタズィラ派は極限まで人間に裁量を認めており、異端審問まで行ってOKだったほどの、理性主義派閥。
つまりイスラームでは普通は地獄行きの異端審問OK
=人間に許されている範囲が大変広い。

キリスト教の理神論や理性主義のおそらく元ネタ。
ここまで人間に許される範囲が広いと人間中心だと批判されても仕方ないよなあ。
でもこの派の思想は一般的日本人にも比較的理解しやすいだろう)

スンナ派三神学派

1 アシュアリー
学祖アシュアリーは元ムウタズィラ派。
ムウタズィラは聖典テキストよりも理性による論証を重んじる神学派閥で今は消滅。
アシュアリーは40歳になってからスンナ派に転向し、ムウタズィラ時代に培った思弁神学
でスンナ派を護教。

(ムウタズィラ要素は完全に排除できてない。
イスラームは思考と理性・論理も重視するから当然だけど)

アシュアリーの転向以降、聖典の引用と理性による論証を駆使してスンナ派の信条を護教する方法は急速に支持を拡大し、
セルジューク朝期にはアシュアリー神学派がムウタズィラに対して優位に立つまでにいたった。

マートゥリーディー神学派と並び、アシュアリー神学派のスンニ派正統神学派としての地位は、オスマン朝のころには、不動となる。
今日アシュアリーが有力な地域は、
アラブ圏および東南アジア。
エジプトのアズハル大学、
チュニジアのザイトゥーナ大学、
イエメンのムスタファー学院など、
アラブ諸国の主要なイスラーム教育機関では基本的にアシュアリー神学にもとづいた神学が教授されている。


ムスリム共同体は誤謬について意見を一致させることはないと考える。
ムハンマド「私の共同体は、過ちに見解を一致させることはない」
と伝えられており、合意は正しさを知る根拠とされる。


ムウタズィラの少なくとも一部のサークルの教義では、
正義なる存在であるアッラーは人間各人にとっての最善の事態を采配する存在とされる。
スンナではアッラーは望むままに一部の者を導き、望むままに一部の者を迷わせる存在であり、被造物たる人間に最善の事態を采配する義務を負わない。

(最善世界ってライプニッツかよ!
イスラムの影響受けてそうだなー。
キリスト教神学の主要な説ってイスラムに原型があるものばかりでは?
間違いなく結社員だし。
最善世界説は矛盾出まくりだからね。
不信仰者はそもそも異教徒のところなら生まれないのが最善、
生まれてからある日まで信仰者である日から不信仰者になったとしたら、
その不信仰になる前に死なせるのが最善になるからね。
でも実際は異教徒として生まれる人がいるし、
不信仰者になってもそのまま生き続ける人もいる。)

2 マートゥリーディー神学派


マートゥリーディー神学派は、アシュアリー神学派と同じく、
理性による論証を聖典テキストの引用による立論と同様に尊重する思弁神学派。
多くの共通点を持ち、長らくその正統性を認めあってきた。

聖典の文言よりも理性による論証を重視したムウタズィラと異なり、
マートゥリーディー神学派の祖であるマートゥリーディーは伝聞情報(クルアーンとスンナ)を理性とともに知識の源泉と規定した。
クルアーンには不明瞭な節や直接的に読めば擬人神観に直結しかねない節がある。

アシュアリー神学派の特に後期では、これら曖昧な節をより明瞭な意味を持つ別の言葉で置き換えて比ゆ的に解釈することが積極的に推奨され、場合によってはそうすることが義務であることまで言われる。


一方、マートゥリーディー神学派ではクルアーンの文言をそのままの言葉で承認し満足する傾向が強く、あいまいな節を別の言葉で言い換えるのは特定の条件下で許容されるに過ぎない(積極的推奨ではない)。
なお、後述の三番目の神学派閥のハディースの徒の多数派はあいまいな節を別の言葉で置き換えて理解することを禁じている。

マートゥリーディー神学派ではアッラーの言葉は聞くことができるものではなく、聴覚はアッラーの言葉を指示するものをとらえるのみとされるが、
アシュアリーではアッラーの言葉は人間が直接聞くことができるとされる。

マートゥリーディー神学派では、背神行為にはアッラーの意志、意図、予定が伴うものの、彼の満足、嘉し、命令は伴わない。
アッラーはすべての人間に信仰することを命じているが、実際はアッラーの定めのままに不信仰にとどまる人間が存在する。この場合、アッラーは不信仰者の不信仰を意志し意図し定めているが、満足していないし、嘉していないし、命じているわけでもない。
一方、
アシュアリーではアッラーの満足と嘉しは彼の意図と同様にあらゆるものを包括するものとされる。

マートゥリーディー神学派ではアッラーが人間に達成不可能な行為を義務として課すことは許容されないが、
(義務としてではなく試練として)耐えることができない負担を負わせることは許容される。
アシュアリーではどちらも許容されない。

マートゥリーディー神学派は義務賦課にかかわる法規定の一部は理性によって認識することができる。なぜなら人間は理性的推論によって一部の事物の美醜や恵みをもたらすものへの感謝が義務であることなどを認識することができるからである。
それゆえアッラーの教えの宣教を受けていない人間にも理性をとおして造物主の存在を信仰することが義務となり、それが救済の条件となる。
(無茶いわないでください)

アシュアリーでは預言者をとおしてもたらされた教えが伝達されるまでは、何ものも義務とならず、何も禁じない。そのためアシュアリーではイスラームの宣教が到達せずに生涯を終えた人間は死後救済にあずかるとされる。


マートゥリーディー神学派では男性であることは預言者の条件であるが、
アシュアリーでは条件ではなく女性の預言者も存在しえたとされる。


3 ハディースの徒

上記の二つの神学のように理性による議論と聖典テクストの引用をともに駆使して議論を組み立てるのに対して、
ハディースの徒は聖典の引用を主軸に議論を組み立てる。
この意味ではハディースの徒はスンナ派で反・思弁神学の潮流として理解することができる。ハディースの徒は上記二つと比べて神学の統一性が低く、比ゆ的解釈をどの程度許容するのかという根本的問題においてに内部対立がある。
ハディースの徒の主たる構成学派であるハンバリー学派内部の諸潮流の布置を概観する。
(省略する)
ハディースの徒は法学的にハンバリー学派とおよそ重複する。


・日本ではスーフィーはスンナ派の正当な潮流とは異なる神秘主義的潮流の担い手として紹介されてきたあるいは紹介されているが、
後期スンナ派に確立したタリーカ制度や、特定の時間に特定の文言を唱える時祷、
預言者や死者へのタワッスル(アッラーへの祈願を依頼すること)などはスンナ派の全法学派において承認されてきた正統な宗教実践であり、スーフィー実践に与する学者は今日に至るまでスンナ派の主流を占めている。
スーフィー全体を非主流の潮流と考える本邦の一般認識は誤ったものである。

タリーカ
=ひとりの師に複数の弟子がつき、その師に伝わる特定の修行方法を実践する集団。
後期の霊学で発達し、現代まで受け継がれている制度。

(スーフィーへの誤解がひどいよなあ。
偶像作るタイプのスピ野郎が持ち上げたりするけど、イスラームなんだから偶像作るタイプの神秘主義はダメでしょ。
偶像作らなくても瞑想はできるよ。
あと、神になると、神と合一と、神に近づくと、神の真意を知るもわけないとね))


・カダル派(≒ムウタズィラ派)

スンナ派から見たカダル派の代表がムウタズィラ派。
擬人神観論者とは対極的に、ムウタズィラ派はアッラーの属性を否定。
人間や動物の行為はアッラーではなく人間や動物自身が発生させていると考え、
被造物に対するアッラーの権能、およびアッラーの天命を否定。
これをもってカダル(天命)派と呼ばれる。
カダル派の異端性についてはムハンマドの次のような言葉が伝えられている。

「カダル派は、この共同体のゾロアスター教徒である。彼らが病に伏しても彼らを見舞うな。彼らが死んでも(葬儀に)参列するな」
(アブー・ダーウードの伝えるハディース)

「すべての共同体にゾロアスター教徒がいる。この共同体のゾロアスター教徒は『天命などない』と言う者たちである。彼らのうち誰かが死んでもその葬儀には参列するな。彼らのうち誰かが病に伏しても彼らを見舞うな」
(アブー・ダーウードの伝えるハディース)

(すべての共同体に拝火教とがいる、ことはない。
拝火教って天命がないって言ってたっけ?)


バグダーディーはムウタズィラ諸派が共有する異端的教説を六つあげている。
1 永遠の属性の否定
2 見神の否定
3 アッラーの言葉の無始性の否定(クルアーン被造物説)
4 人間や動物の行為に対するアッラーの権能の否定
5 信仰者と不信仰者の中間の範疇の設置
6 アッラーが望まなかった行為が存在することの承認

スンナ派ではアッラーは生命や知識や権能など種々の永遠の属性を有する存在である。
スンナ派では属性は、
彼(アッラー)ではなく、彼とは別のものでないもの
として説明されるので、永遠の属性を認めることはアッラーではないものが無始の存在としてアッラーと併存することを認めることにはならない。

ムウタズィラ派はすでに消滅したが、教説の一部はシーア派に受け継がれている。
(さりげなく重要なこと言っているな



思うんだけど、日本人が一番受け入れやすいイスラームの派閥ってムウタズィラ派なんじゃないの?
ヤソの理神論や理性主義やリベラルな科学重視キリスト教の源流だろうし。
ムスリム名乗っててもエキュメニズム賛成のやつはイスラームじゃないから注意な!
そもそもエキュメニズムはプロテスタントが始めた運動だ)

・有名なハディースに
「殺人、姦通、背教のいずれかの場合以外では、『アッラーのほかに神はなく、ムハンマドは神の使徒である』と告白したムスリムの血を流すことは許されない」
(アル=ブハーリーの伝えるハディース)

とあるように、原則的にはムスリムの殺害は既婚者が姦通罪を犯した場合、
故意の殺人、背教の三つの場合以外には許されない。
しかし歴史的にはムスリムへの害悪が広がるのを防ぐ目的でのムスリムの処刑が政治的判断による死刑や裁量刑による死刑などの名目で理論化され広く適用されてきた。

・(スンナ派の教義の要約である
ナサフィー『信条』の全訳が載っているのが本書の売り。
認識論と真偽判定基準が面白い。
当然だが、スンニ派以外の教義を否定するように書いている)

被造物が知識を得る原因は
健全な感覚
真実を伝える伝聞情報
理性の三つ。

真実を伝える伝聞は二種類。
第一はムタワーティルの伝聞であり、
これは虚偽を申し合わせることが想定しえないほどの数の民が伝える確証された伝聞によって、
過去の時代の王や遠い国々についての知識のような、必然的な知識を導く。

第二の種は奇跡(ムジウザ)によって授けられた使徒の伝聞であり、これは典拠によって得られる知識を導き、
それによって確立した知識は真実性と確実性において必然性によって確証された知識に等しい。

理性もまた、知識を得る原因である。そのうち本能的に確立したものは、
「ある物の全体はその一部よりも大きい」という知識のように必然的な知識である。
他方、そのうち、典拠にもとづいた導出によって確立したものは、獲得される知識である。

直感は、真理の徒においては、物事の正しさを知る原因ではない。
(非常に重要。理性>直感がスンナ派)

クルアーンは至高なるアッラーの創造されざる言葉である。

至高なるアッラーを視覚によって見ることは、理性によって可能な事態であり、
伝えにもとづけば必定である。
来世において信仰者たちがアッラーを見ることを肯定する天啓的典拠が伝わっている。
(理性>直感
であり理性で見られるとあるのが重要)

至高なるアッラーは、不信仰や信仰、服従や背きなどのしもべの諸行為の創造者である。
それはアッラーの意図、意志、裁定、予定、定めによる。
しもべには選択的行為がある。彼らはそれによって報奨を与えられ、懲罰を与えられる。
その献神行為には至高なるアッラーの満足を伴うが、そのうちの悪行には彼の満足は伴わない。
(悪の扱いは一神教では超重要)

しもべは彼の力量に適わないことを課せられない。

殺害された者は、彼の天寿に応じて死したのである。天寿は一つ。

(赤ちゃんとかは死ぬと自動的に天国行きらしい。
なお、カトリックは洗礼前の赤ちゃんは悪魔であり地獄行きっていってました。
しかも産婆を魔女狩りなどで殺しまくりました。本当に女子供にやさしくない宗教だな。
イスラームでは男は戦士であり、女子供を守らないといけないし、弱者救済は神の命令なのにね)

至高なるアッラーは望む者を迷わせ、望む者を導く。しもべにとって最善のこと(をなすこと)は至高なるアッラーの義務ではない。

諸預言者の最初の者はアーダーム――彼に平安あれ――であり、
最後の者はムハンマド――彼に平安あれ――である。

(「俺が預言者だ!」っていう奴対策。
つまりダジャルが預言者を名乗った時点で偽物確定。
神を名乗る時点で偽物確定。アッラーは人の姿ではないからね)

天使はアッラーのしもべであり、彼の命令の遂行者である。また彼らは男性とも女性とも形容されない。

イマームはおもてに現れている者でなければならず、隠れている者であってはならず、またその出現が待たれている者であってもならない。
(シーア派対策。特に十二イマーム派だろうね)

土器の壺でつくった発酵飲料は禁じられない。
注釈:ナツメヤシの発酵飲料とする写本あり。

(クルアーンとスンナの)聖典の確定的典拠が変更を加えないかぎり、その直接的な意味にしたがって解釈される。
そこから離れ、秘儀的解釈の民が主張する意味におもむくことは、不信仰の伴う迷妄である。
(シーア派対策)

不可知の領域について巫者が教えることを真実とみなすことは不信仰である。
(「私は神の声が聴ける」っていう者対策。
対策がすごいな。
万教帰一はイスラームではありえない。
イスラームを偽装したヤソカルトで、
「俺が真の最後の預言者だ!」
「聖典は更新された!書いたのは俺!」ってやつがある)

人間の使徒は天使の使徒よりも優れており、
天使の使徒は一般の人間よりも優れており、
一般の人間は一般の天使よりも優れている。

(スンニ派では人間の地位が天使より上なのか。
人間の使徒>天使の使徒>一般人>一般天使)

(『信条』はここまで。ここから著者の解説がしばらく続く)

理性(アクル)の定義は学者ことに異なる。
諸器官が健全であるときに必然的なものについての知識をもたらす生来の性質。

知識のうけいれにそなえる力

知識と視覚の前提となる自我が持つ力。

自我が必然的な知識と典拠に基づく知識を知覚するための霊的な光。

(理性=霊的な光とする定義がある)

これらの定義では理性が知識を受容する前提となる力、つまり知識とは別のものとしてとらえられている。
他方、理性を知識の一種としてとらえる見方もある。

スンナ派では理性は実体であり、偶有ではない。理性が存在する場所については県下の相違があり、脳とする説、心臓とする説、両方に共有されるとする説がある。
スンナ派では個々人が持つ理性には優劣が存在する。ただし個々人の理性に優劣はないという説もある。この説だと生命や意図と同じように理性は増減を受け付けないものであり、日常で使用される「甲は乙よりも理性的である」という表現はその者がより経験豊富であることの比喩にすぎない。


直感が知識の原因ではないという命題は、
無謬のイマームの直感によって知識が得られると信じるシーア派などへの反論が意図されたものである。

・ムウタズィラではアッラーは善のみを意志する。

・ムウタズィラでは言葉を内的な言葉と発声される言葉に区別せず、発声された言葉のみを認める。
そのためアッラーの言葉は「護持された書板」のなかに創造されたものとされ必然的にクルアーンもアッラーの被造物とされる。
この派でもクルアーンはアッラーの言葉である。

スンナではクルアーンはアッラーの永遠の言葉であり被造物ではない。
これは、マートゥリーディー神学派、アシュアリー神学派、
ハディースの徒の一致した見解。
クルアーンを被造物とみなすのが不信仰であるのは、ムハンマドの使信を虚偽とみなすことにほかならないから。
預言者に虚偽を帰す者は不信仰者である。

ムウタズィラは人間を行為の創造者とする。

護持された書板
=過去と未来の世界に生じるすべてのことが書かれた第七天の上に存在する物体。
(アカシックレコードに元ネタ?)

・人間は魂と身体の両方がともなった状態で復活する。


・信仰者を親に持つこどもが成熟する前に死去した場合は、信仰者として楽園に入るのはスンナ派の共通見解。

スンナ派の多数派説では、不信仰者を親とするこどもが成熟前にこどものまま死んだ場合、死後楽園に入る。
異説あり。
(多数派は異教徒の赤ちゃんが死んだら楽園行きなのね)
不信仰者のこどもは両親とともに火獄に入るという説を支持するものも少なからずいて、この説が多数派説として言及される場合もある。
(どっちなんだよ!)

クルアーンの預言者の一人スライマーン(ソロモン)

父ダーウード(ダビデ)から王権を継承したイスラーイールの民の三代目の王。
エルサレムに神殿を建設。
鳥などの動物の言葉を解し、
鳥、シャイターンを含むジン、人間を従えた。
風を操る権能も与えられた。
治世は栄華を極め、多くの恵みと奇跡が与えられた。
それを見たシバアの女王は太陽崇拝を止め、アッラーを信仰した。
(クルアーン27と38章参照)

(あの666ソロモンね。スレイマン~世というのはソロモン~世って意味だよ。
ソロモンが太陽信仰をやめさせたことと、風を操る風属性だとかシャイターンを従えたとか重要要素満載)

・預言者の封緘であるムハンマドはすべての人類とジンにたいして派遣された預言者である。
(ジンに対しても派遣されたのか)

・天使はジンや人間と異なり罪を犯すことがない。
アッラーに奉仕するために創造された。
アッラーを助けるためではない。
天使に性別はない。
人間には記録天使がついている。
善行を記録する天使は右側に、
悪行を記録する天使は左側に待機する。
多数派説では記録天使の数は人間一人当たり二人。
記録天使は担当する人間が用を足す際と交接する際にはその人から離れるあるいは
グスル(大汚からの洗浄)の際にも離れると言われる。
不信仰者に記録天使がついているか否かについては見解が分かれる。
多数派説では不信仰者にも天使がつくとする。

・イブリースが天使かどうかについてスンナ派で見解が分かれている。
スンナ派の有力説ではイブリースは天使ではなくジンの一人とする。

イブリースは悪魔の党首。
かつて天使たちとともにアッラーを賛美していたがアーダム創造のさいに驕りから背神した。火獄に入るまでの猶予期間のあいだ、人間やジンを不信仰へと誘う。

悪魔(シャイターン)
=人間とジンの不信仰者のうち、アッラーに背く、とくに醜悪な者たち。
ときに一部の動物も悪魔と呼ばれる。一説ではジンの中の悪魔はすべてイブリースの子孫とされる。

ジンは火から作られた。天使や人間と同様にジンも理性を持つ。
ジンの中にも信仰者と不信仰者がいる。来世において審判を受ける。
通常は人間の目には見えないが、人間が生きるこの世界で生活している。

アル=マスィーフ・アッ=ダッジャール(偽メシア)の到来は終末の前兆の一つ。再臨するイーサーに殺される。
イーサーはイスラームでも重要な予言者であり、
母マルヤム(マリア)が処女のまま産んだ子だと認める。
病気治療や死者蘇生の奇跡も認める。
しかし、十字架上で磔になったことはイスラームでは否定し、
生きたまま天に上げられたとする。
当然、磔のあとに復活したことも信じられない。
イーサー(イエス)はムハンマドより前に派遣された最後の使徒でありムハンマド到来の吉報を人々に告げた。
(イエスの磔は見せかけだってグノーシスじゃん)

・クルアーンには「廃棄される節」がある。
廃棄される節とはクルアーンの規定や教えを放棄し、新しいものに取り換える権能を持つ節を指す。
(矛盾しか記述があるならそう解釈するよね)

・霊魂
=それが宿ったものが生命を持つようになる物体。
スンナ派の多数派説では霊魂は単子からなる実体ではあるが一説では空間を占めない霊的存在とされる。


・アシュアリー神学派の一説では啓示のメッセージが到達していない民の責任能力は否定される。そのため、アシュアリーの通説では「不能の民」(一人の預言者の教えが消滅した後に、そのつぎの預言者が派遣されるまでの空白の時間に生きる者)には創造主への信仰も法規定順守も義務とならない。
彼らがいかなる内容の信仰を現世でもっていたとしてもどのような行為をなしたとしても来世において例外なく救済される。異説あり。

マートゥリーディー神学派の多数派説では不能の民や、地理的要因で宣教が達していない民にも創造主への信仰が義務付けられそれが救済条件となる。
(無茶言わないでください)


太陽が西から昇るようになった直後、その日のうちとも一日後とも
あるいはその直前にアラビア半島に巨大な獣が出現する。

地を這う獣
=太陽が西から昇るようになる前後にアラビア半島に出現する巨大な獣で、終末の前兆の一つ。

獣は一匹説や複数存在説がある。
見た目にもいくつか説あり。
一説では、
雄牛の頭部、
豚の目、
象の鼻、
鹿の角、
ダチョウの首、
ライオンの胸、
豹の色、
猫の腰まわり、
ヤギの尾、
ラクダの四足を持ち、
関節と関節のあいだは預言者アーダームの腕十二本分の長さがある。
アーダームの身長は三十メートルほどであったため、アーダムの腕の長さは数メートルあると考えられる。

有力な一説では、獣は預言者ムーサー(モーセ)の杖と、預言者スライマーン(ソロモン)の指輪を所持しており、
「まことに人々はわれらの諸々の徴を確信していなかった」(クルアーン27章82節)
と大声で叫んだあと、ムーサーの杖ですべての信仰者の額にしるしをつけ、
スライマーンの指輪によってすべての不信仰者の額あるいは鼻に印をつける。
信仰者の両目の間に信仰者と、
不信仰者の両目のあいだに不信仰者の文字を書くともいわれる。
獣がつけた印は顔じゅうに広がり、不信仰者の顔は白く、
不信仰者の顔は黒く染まる。誰が信仰者が不信仰者かが一目瞭然となる。

(ナディアやエヴァでアダムが巨人なのってイスラムが元ネタ?)
腕を横に広げた長さ=身長
なのが普通の人間の体形。
アダムの肩幅+両腕の長さ=30メートル。
腕の長さが3メートルとすると肩幅が24メートルもあることになるぞ。
あと肩幅は身長の1/4と等しいのが標準なので標準の肩幅は7~8メートル。
腕を横に広げた長さから肩幅分を引くと身長の3/4になる。

鹿の角!
この獣が巨大すぎる。これ地面の人間には足しか見えないよね。
666の獣の変形が登場。


【人体の不思議】 のサイズで の大きさが大体わかる - NAVER まとめ
https://matome.naver.jp/odai/2138570285049819001)

” 終末の大きな前兆——ダッジャール
 「導き手=救世者」の出現後、イーサーの降臨よりも前に、神を騙る偽救世主ダッジャールが出現する。「ダッジャール(Dajjāl)」という名は、「真実を覆うこと、隠すこと」を意味する” dajal”の派生語であり、「大嘘つき」を意味する。審判の日に至るまで、ダッジャールより大きな試練はなく、これまで遣わされたすべての預言者はダッジャールについて人々に警告した。
 ダッジャールは、「導き手」が到来し、その当時不信仰者の手に落ちているとされるコンスタンティノープルをムスリムが陥落させた後に、「東方」から出現する。伝承によっては、ホラーサーンからともエスファハーンからとも言われる。また、彼自身、エスファハーンのユダヤ教徒のなかから現れるとも、彼にエスファハーンのユダヤ教徒たちが付き従うとも言われる。ダッジャールの正体は、人間であるとも悪魔(ジン)であるとも言われる。
 彼は預言者を自称し、その後に神を自称する。地上のあらゆる土地におもむき、奇跡を見せて人々に追従を求めるが、天使が護衛につくマディーナとマッカには入ることはできない。伝承によっては、エルサレム、そしてダマスカスにも入ることはできない。彼に従った者は栄え、彼を拒んだ者はすべての富を奪われる。
 彼は水——あるいは楽園——と火を所持するが、人々の目に水と見えるものは実は火であり、火に見えるものは実は水——あるいは楽園——である。そのためムハンマドは、ダッジャールの時代を生きるムスリムは、彼が持つ火のなかに飛びこむよう助言した。
 ダッジャールは腐ったぶどうのような盲の片目——両目とも盲であるとも、片目が盲で片目に疾患があるとも言われる——と、縮れた髪を持ち、両目のあいだに「不信仰者」あるいは「不信仰」を意味する「カーフ(k)、ファーウ(f)、ラーウ(r)」の文字が書かれている。すべての信仰者はこの文字を読むことができるが、不信仰者は読むことができない。
 ダッジャールの試練を避けることができるのは一万二千人の男と九千人の女だけだと伝えられる。彼は、地上に四十日、あるいは四十カ月、あるいは四十年のあいだとどまるが、その後、降臨したイーサーに殺される”


松山洋平『イスラーム神学』pp. 408-409

※イスファハーン=エスファハーン。
イランの都市。エスファハーン州の州都。テヘランの南約340kmに位置する。
「エスファハーンは世界の半分
(Esfahān nesf-e jahān ast、エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン)」
で有名。

ホラーサーン=イラン東部の州。



やさしい神さまのお話
@KamisamaHanashi
タウヒード(唯一神性)とは、存在しているのは神さまだけであり、なにかが存在するとすれば、それは神さまの存在によって存在しているだけで、それ自身で存在しているわけではない、ということです。(18 神さまに至る道)

参考資料


Al-Kahf 『洞窟』(クルアーン第18番目の章(スーラ)。110の節(アーヤ)から成る)
聖クルアーン » 洞窟 (アル・カハフ)
http://www.krn.org/ja/18.aspx




アフマディーヤ、アフマディー教団
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%A4



お読みくださり感謝!

万教帰一の道会(儒教的キリスト教)の大川周明も、スウェーデンボルグ礼賛で初期スピリチュアル推進のブッシュ教授(ブッシュ家)もイスラム研究!『イスラーム入門 文明の共存を考えるための99の扉』 

覚えておいてほしいただ一つのこと。


タイトル関係ねえ!
イスラム的には正しい対応策を教えることもサダカだからOK?


重要個所三つだけ(そこだけ読むと5分以内で終わる!)

①アメリカの現大統領の曾祖父の曾祖父(つまりブッシュ家)にあたるティモシー・ブッシュの弟、
ジョージ・ブッシュ博士が最初に出した本が
『ムハンマドの人生』。
なお、ムハンマドへの評価は悪い。
スウェーデンボルグ派の著名な教会員でもあった。
ブッシュ教授はアメリカのスピリチュアリズム(心霊主義)興隆の仕掛人。
スピリチュアリズムの父であるデーヴィスを広めるのに協力しまくったのがブッシュ家の教授なのに注目。
今のブッシュ家はWASP原理主義側で、反スピリチュアルなのを忘れずに。
スピリチュアルの布教も本当に仕組まれた茶番だな。
イスラム研究
+スウェーデンボルグを翻訳し研究
+スピリチュアルの実質的教祖の一人を応援。


②勘違いしている人が多いので言っておくけど、
ユダヤ教やイスラーム教で豚を食べてはいけない理由は、
「聖典で神が禁止しているから」
であり、豚が不衛生だから云々は全て、
異教徒への説明用あるいは異教徒が自分を納得させるために言っているだけだからね?
あくまで「神ではないただの人間の解釈の一つ」だからね?
なお、キリスト教は、
「人間の解釈(聖典に書いてないもの含む)>聖典」
という、「外見だけ一神教」ね。
二次創作が原作より上と言う意味不明設定。
西洋の法律学の本を見てみると、
聖書の~に基づくなんて全然書いてないでしょ?
ほら、一神教を実行していない。
「人が勝手に決めた法>聖書にある神の法」


③大川周明が属した道会が万教帰一、世界連邦側の儒教的キリスト教。
所属していた大川がイスラム研究しているのが重要。
道会の二代目会長の松村吉助がユダヤ陰謀論本を出していることも重要!
大川はシュタイナーの社会三層化論(メイソン教が基盤)を日本に紹介。

”ルドルフ・シュタイナーは社会三層化論を主張。
フランス革命の理念である自由・平等・友愛の源流は元々フリーメイソンの思想に由来。
社会三層化論では、
「精神生活における自由」
「法律上の平等」
「経済生活における友愛」に基づいて運営される社会を理想とする、メーソンまんまの思想。
しかもこのメーソン社会論をを日本に紹介もしたのが右翼と左翼の胴体あたりにいる右翼思想の大川周明。
学生時代に参謀本部でドイツ語の翻訳をしており、
宇垣一成、荒木貞夫、杉山元、
建川美次、
東条英機、永田鉄山、岡村寧次らと知己があったひとです。
北一輝、満川亀太郎らとも親交。
北が計画している「日本改造」の原稿を託される。
「日本改造」を実践する結社猶存社や、
行地社、神武会を結成。貴族院議員の徳川義親侯爵と親交が深く、徳川義親から金銭的援助を受けていた。
徳川義親は、大川やその他日本改造主義者たちの経済的パトロン。
大川周明は満州事変に際しては首謀者の一人板垣征四郎と親しかったり、
肥田式強健術で有名な肥田春充とともに日米戦回避のため開戦前夜まで奔走したり〔自作自演だろ〕、
大東亜省の大東亜共同宣言の作成にも携わったりしたまあ、思想的には黒幕レベルですな。”

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-75.html
オウムはインド風に偽装しているけど神vs獣の善悪二元論・
終末論・
ハルマゲドン・
隣人愛でわかるように中身はキリスト教!
オウム思想の中核は神智学(インド風キリスト教。創世記とギリシャ哲学の動物蔑視)の霊性進化論=神か獣かの善悪二元論+霊的カースト制度。
神智学がユダヤ陰謀論=キリスト教の伝統を広めるのに協力。
大田俊寛著『現代オカルトの根源』(ちくま新書)。
「誠の神様はただ一柱」とする大本教は
「天地の創造神」というキリスト教的な神を導入しつつも多神教の枠組みを一応維持していた平田派神学以上にキリスト教。


終わり!

――

ぐだトマト‏ @pteras14 7月7日
イスラームは取り敢えず中田考氏の 入門本から入ってけば良いと思うよ。

イスラーム入門 文明の共存を考えるための99の扉 (集英社新書)

・イスラームの教えで最初に知るべきことは、
イスラームを教えることができるのは預言者ムハンマドだけだということ。
イスラームについて、個人であれ、機関であれ、
正しさを保証された「公的権威」のようなものがある、
と思いなすことは、
キリスト教や仏教に影響された誤解、
そしてハラール認証ビジネス等のように国家の認証を有難がる現代日本人の偶像崇拝的心性の産物であり、イスラームの理解を妨げるヴェール。

・イジュティハード(努力)
=明文の典拠が見つからない問題で規定を探すこと。
※典拠=クルアーンとハディース。

ムジュタヒド(努力する者、勤勉な者)
=イジュティハードの資格を満たした者。

イジュティハードの条件を満たさない者がムジュタヒドの見解に従うこと
=タクリード。

スンナ派ではイジュティハードの条件を完全に満たすムジュタヒドは四代法学祖らの世代以降は存在せず、
後の世代には学祖たちのイジュティハードに倣いそれを敷衍することしか許されない、
との見解が主流になり、
イジュティハードの門は閉ざされた
と言われるようになる。
学祖=無限定ムジュタヒド
いずれかの学派に所属する後代の法学者の一部
=学派内ムジュタヒド。

四大法学祖のイジュテイハードの拘束性を認めず、
万人のイジュティハードの義務を説く、
十四世紀没のイブン・タイミーヤの流れを汲むサラフィー主義は、
前近代では少数派だが現代では影響力を増しつつある。

他方、シーア派では現在でもイジュティハードが認められており、
フッジャトゥルイスラーム(イスラームの証)や
アーヤトゥッラー(神の徴)の称号を有する法学者はムジュタヒドであり、
平信徒はムジュタヒドのいずれか一人にタクリードすることが義務とされている。

ジハード(力を尽くすこと、努力)
=イスラームのための異教徒の敵との戦闘。
(これ、戦争限定じゃないはず。
キリスト教勢力はいつものごとくプロパガンダ。
プロパガンダの語源はバチカン由来だからお似合い)

・正統と異端を決める基準はない
orthodoxyではないheresyは共同体から追放(破門)されるカトリックの伝統。
有資格の聖職者の洗礼という入信儀礼により共同体のメンバーシップを厳密に管理し、
教義の正誤を政治的に決定できる「公的」機関である公会議によって異端宣告をしたものを破門でき、正しい説と誤った説、共同体の内部と外部を一義的に区別できるカトリックには、正統と異端の概念は適用できるが、
教義もメンバーシップも決める機関がないイスラームには適用できない
多数派、少数派と呼び分けるしかない。
(イスラムでは異端審問したら地獄行きなので、イスラム教徒は異教を積極的に迫害してはいけない。異端審問対象が本当に異端かどうかなんて神でないと判定できないし。
「正しい」教えを人間ができるわけないからね。
産まれてから死ぬまでのすべての言動と内心を認識できない限り、
「完全な判定」なんて不可能だし。

バチカンがイスラムを作ったデマの元凶は、自称元イエズス会メンバーで、反カトリックになったリベラ。カトリックではなプロテスタントの罪もカトリックのせいにする工作員リベラ。
カトリックを作った勢力とイスラム作った勢力が同じというのはありえるけどね。
対になるようになっているし。
リベラについて知りたいなら英語情報も読まないとダメだよ)

・サラフィー主義
=プロテスタント的なスンナ派超正統主義。

サラフィー主義(サラフィーヤ)
=サラフ(先人=イスラム初期三世代)に倣う者。
イブン・タイミーヤのプロテスタント的思想が源流で、
ワッハーブ派などの流れに連なる。
現代のサラフィー主義の圧倒的多数は政治的には静寂主義であり、
アルカーイダやイスラーム国(IS)のような反体制武装闘争派は少数派。
ワッハーブ派
=サウディアラビア国王の正当性を認めるサラフィー主義者。

(IS=外見スンニ派、中身プロテスタント。親分がWASP系だから当然)

・陽は昇り沈み、春夏秋冬と季節は廻り、時間は円のように同じところに戻り無限に繰り返すと、
古代の社会の多くでは考えられた。これを円環的時間観と呼ぶ。
一神教では創造から始まり終末に向って流れる一回限りの時間観は直線的時間観と呼ばれる。
イスラムも一回限りの歴史は教義の根幹であり重要だが、歴史記述のディティールを見れば相違も明白。
聖書では天地創造の7日間の創造の御業を詳細に記しているが、
クルアーンでは天地が7日で創造されたとあるだけ。
キリスト教では聖書根本主義者だけでなく、古より聖書に基づき宇宙の年齢が計算されてきたが、
イスラームにはそのような思想はない。
ユダヤ教とキリスト教では聖典での出来事に基づく祭が多いが、
イスラム法の定める祭は、
イード・フィトル(開斎祭)、
イード・アドハー(犠牲祭)の二つしかなく、
いずれもムハンマドにちなんだ歴史的事件とは無関係。
ムハンマドの生誕、逝去、クルアーンの啓示の始まり、ヒジュラなどの重要な歴史的出来事も特に祝祭日とはされない。
イスラームはユダヤ・キリスト教と比べると、ムハンマドにちなんだ歴史的個別性よりも普遍性を重んじているといえる。

偶像=自己の欲望の投影。
クルアーンは多神崇拝の禁止を繰り返し説いているが、
彫像の禁止は明記されていない。
34章13節には、ソロモン王がジン(幽精)に彫像を作らせた、とあり、
古典注釈書はソロモンのシャリーア(聖法)では彫像は許されていた、と述べている。
またハディースのレベルでは預言者ムハンマドが幼妻アーイシャが人形で遊ぶのを黙認したという真正な伝承の明文が残されており、イスラーム法は子供の玩具であれば人形を合法化している。
彫像だけでなく動物の絵も禁じるハディースも数多くあり
、預言者ムハンマドがマッカを制服したときに行ったのがカアバ神殿にあった360体の偶像の破壊であったことはよく知られている。
具象的偶像が原則的に禁じられており、キリスト教や、仏教、ヒンドゥー教のような宗教美術がほとんど存在しないのも事実だが、
ユダヤ教の偶像崇拝の執拗な具象化の拒否、造形、彫像の禁止はイスラームでは緩和されている。
むしろクルアーンは具象的な偶像崇拝の禁止を超えて、多神崇拝が虚偽意識の問題であることに目を向けさせている。

「自己の欲望を自分の神とする者を汝らは知っているか」25章43節

「アッラーの他に汝らが崇めているものは、汝らと汝らの父祖たちが命名したただの名前に過ぎない」12章40節

イスラームでは偶像とは自己の欲望の投影であり、
偶像崇拝者とは自らの欲望を神に祭り上げてそれに仕える我執の虜にほかならず、
唯物論、無神論、無宗教、法人概念、実体経済を逸脱した拝金主義等も
人間の我執の幻影への隷属、
形を変えた偶像崇拝。


自己の欲望を自分の神とする者は悪、
他人が命令した名前を崇めるな、
素晴らしいお言葉。
欲望を自己と錯覚し、自己=欲望に執着するのを咎めるのは仏教もだね。
禁欲とは欲望は自己とは違うことを痛感させる訓練だともいえる。
法人と拝金主義も悪なのも重要。

仏教って無神論なのかな?
神々は聖典に登場するんだけどな。
実体を否定し、唯一神を否定するからダメか。
釈迦も偶像崇拝禁止したのにな。

イスラム教徒とユダヤ教徒の子供に人形なんてあげちゃダメというのが私の考え。イスラム圏に行くなら人形やぬいぐるみを持って行っちゃだめ。確実に人形はすべてアウトって考えているやついるだろうし。
人形爆弾使うIS はイスラムじゃないよ。玩具じゃないし。)


・貨幣 正貨は金と銀

預言者ムハンマドが生きた時代のアラブ社会では貨幣は知られていたが、
貨幣経済は未発達。
ハディースには物々交換の様々な形態が描かれている。
当時のアラブではローマのディナリウス銀貨、
ペルシャのディレム銀貨よりも、
むしろ金地金、銀地金が用いられていたことが、
クルアーン3章14節からうかがわれる。
最初のイスラーム独自の貨幣は金銀貨。

イスラムの認める正貨(ナクド)は金と銀であり、ザカー(浄財)の課せられる最低額、
窃盗罪の成立する盗品の最低額などが金と銀の価格で定義されている。
利息と訳されているリバー(不等価交換)の禁止が定められているのは、
実はリバー財と呼ばれる財だけであり、
金銀、大麦、小麦、ナツメヤシの実、塩が
ハディースの明文で定められており、
正貨と重さあるいは嵩(かさ)で量り売りされる食物とされており、
同種のものの売買では、等量の現物交換のみが許され、
先物取引が禁じられる。
この正貨の先物取引の禁止は、
債権と債券の売買の禁止と相俟って、
実体経済を伴わない金が金を産むマネーゲームを抑制する。
しかしこの規定は、国家が軍事力を背景に、金銀の裏付けのないただの紙切れを通貨として強制的に流通させる
現在の不換紙幣の通貨制度の下では機能しない。
本来価値のない記号に過ぎない紙幣に価値を持たせ、
それをさらに電子信号に変換してバーチャル空間に投影した現在の貨幣システムは、虚構の像を拝む偶像崇拝の一種、
聖書の言うマモン(銭神)崇拝の最終形態と言うことができるだろう。


マモン崇拝者=日本人の大半。
だって、芸術見せても「?」の人に~円って言ったら目の色変える奴いるじゃん?
そいつは九分九厘拝金主義者ね。
価値判断の基準が金だけになっているの。

正貨は金銀しか認めないのが素晴らしい。
生活必需品の独占も抑制できる。
金銀本位制でも金銀大量に持っている奴が強いのは、
紙幣本位制と同じ



・啓典の民
私的空間では宗派ごとに自治が認められていた。
イスラムでは異教徒の屠った肉を食べること、
異教徒の女生徒の結婚を禁じているが、
クルアーン5章5節は啓典の民(ユダヤ・キリスト教徒)による屠殺肉を食べること、
啓典の民の女性との結婚を許している。
9章29節は、ジズヤ(人頭税)を払うなら、啓典の民との戦争を禁じ、
カリフが統べるダール・イスラーム(イスラームの家)での永代居住権を認めている。
屠殺肉の食用と女性との結婚が許されるのはユダヤ教徒とキリスト教だけだが、
ジズヤの支払いによる永代居住権の付与については、
ゾロアスター教徒が準啓典の民として認められており、
多神教徒にも認める法学派もある。

啓典の民は公的空間ではムスリムと同じくイスラーム法に服するが、
婚姻や離婚などの家族関係を含む私的空間においては、
キリスト教徒ならカトリック、プロテスタント、
アルメニア教徒、正教徒、コプト教徒というように
宗派ごとに自治が認められていた。

イスタンブールの東方正教徒の画像がp.31にあり。

啓典の民は特別な服装を定められ、
カーディー(裁判官)になれないなどの一定の差別があったが、
生命、財産、名誉を保証されており、
概して厚遇されていた。
啓典の民の中で著名な人物を一例挙げると、
アイユーブ朝のスルタンの宮廷医だったユダヤ教哲学者マイモニデス(1204年没)が有名。


・ハディース(話)は一般に
「私はAから、AはBから~、
『ムハンマドが~と言われてた(なされた)と聞いた」
という形式。
~から聞いたの部分が、伝承経路(イスナード)、
ムハンマドが~の部分が本文(マトン)。
個々のハディースごとに現在まで精査が続けられており、
正典は存在しない。
スンナ派では、中でもブハーリー(870年没)とムスリム(875年没)の集成は
世伝(サヒーフ)集として重んじられている。
なおシーア派のハディースはイマームの言行録。

(イスラム学者の立場がスンニかシーアかは把握しておきましょう。

ハディース学があるから、耶蘇が偽書でイスラム系を騙すのは難しいな。
中身と、言った人を分けているし、
重要度に応じて重みをつける。

これ歴史学、文献学の基本だけどこういう素養がないから、
陰謀追及者の大半が騙されて無自覚工作員になるんだよね)


・聖俗一致は、預言者ムハンマドの死後、
スンナ派では存在しない。

聖俗一致はヨーロッパでできた概念。

イスラムではムハンマドの統治は西洋と違うが聖俗一致。
しかし、
ムハンマドの死後、
後継者カリフにはアッラーとのコミュニケーション能力も
アッラーとの仲介者の役割も認めないスンナ派では聖俗一致はない。

対して、
ムハンマドの後継者を預言者と同じくアッラーに導かれた
無謬のイマームと考えるシーア派イスラームでは、
イマームの支配はムハンマドの支配と同じく聖俗一致、

預言者の権威は、
スンナ派では、
政治的権威はカリフとその臣下、諸侯、
法的権威はウラマー(学者)、
霊的権威はスーフィー(神秘家)
が担う形で分化。
ウラマーは直接政治に介入しないが、
イスラムの法の支配はウラマーにより守られてきた。
一方、
人々の死や病気などの悩み事、
精神修養といった心の問題はスーフィーが受け持った。

こうした文化もアッラーの啓示に基礎づけられるので
やはり権威は啓示に帰一する。

・ウラマーは文字通り学者たち(単数形はアーリム)であり、聖職者ではない。
学僧のような存在でもない。
ウラマーには、絶対者と人間を仲介して救済をもたらす権能もなければ、
平信徒とは違った特別な戒律もないことから、
やはり聖職者とは違う。

(耶蘇よりもはるかに神の下の平等を体現している)


・ジズヤ(人頭税)が課税されるのは成人男性だけ。
講和の場合は、額は交渉次第。

ジズヤは人頭税と訳されるが、典拠はクルアーン9章29節。
啓典の民、つまりユダヤ教徒、キリスト教徒に対しては、
ジズヤを払うまで戦わなければならないと命じている。
この句は、一般に多神教徒に対するジハードの命令の、
ジズヤ支払いによる講和を許す例外規定とみなされているが、
啓典の民以外の扱いについては見解が分かれている。
ゾロアスター教徒が啓典の民に準ずる者として講和の対象となり、
庇護民として永代居住権が与えられることはイスラーム神学のコンセンサス。

彼ら以外については背教者がジズヤを払っても永代居住権を与えられないことには
異論がないが、

その他の異教徒については全てが認められるとするマーリキー派、
(マディーナの慣行を預言者のスンナの表現と考えた)

全て認められないとするハンバリー派、
(ワッハーブ派、サラフィー主義者の源流)

シャーフィイー派、
(古典イスラーム法学の基礎を築いた)

シーア派、

そしてアラブの多神教徒を除き全て認められるとするハナフィー派
(特にトルコ、チュルク系諸民族の間に広まる。
オスマン帝国、ムガール帝国の公式法学派。
アフル・ラアイ=自由裁量学派=理性重視。
ハディース学派よりも認められる範囲が広い。
範囲が広い分、トルコにメイソン教が入り込みやすかったんだろうな。


※自由裁量学派と対立するのが、
ハディース重視のアフル・ハディース
=ハディース学派であり、
こちらはスンナ派四法学派の内、
ハナフィー以外が属す。つまり、
マーリキー、シャーフィイー、ハンバリーが属す)

で見解が分かれる。

ジズヤは女性、子供、無職の貧者は最初から免除されており、
課税されるのは成人男性だけ。

額はカリフが決める。
戦わずして講和が成立した場合は額は交渉次第。
ジズヤの支払いに応じた場合には、
ムスリム側には拒む権利はなく、講和は義務。
ジズヤの支払いによる庇護契約は、
ムスリムには確定契約でいったん締結されると破棄は許されないが、
異教徒の側からはいつでも取り消し破棄することが許されている。

イスラム圏の税金は超安い。
というか日本が高すぎ。
日本の消費税率は8%なのは嘘。
多重課税で20%を超える。
しかも生活必需品にも課税。
貧乏人ほど苦しむ地獄。
ジズヤは女性、子供、無職の貧者からとらないことが重要!


永代居住権を簡単に与えると、
集団引っ越しで乗っ取られちゃうからね、規制しないとね。

拝火教を優遇しているなあ。元ネタだもんね。
でも、イスラムは拝火教を否定しまくる内容。
拝火教では、犬は善、飲酒OK、断食は悪など。
イスラムだと犬は悪、飲酒ダメ、断食は義務



・イランの十二人のイマームのポスターの画像。
12代目の隠れイマーム(874年に姿を消したムハンマド・ムンタザル)
の顔は描かれていない。
(イマームの姿を顔ありで描くのはOKだという点に注目)


イブリース(悪魔)は火から作られたとクルアーンに述べており(7章12節)、
最初から天使とは組成が違う別種の存在。
悪魔を堕天使とする考えはイスラムにはない。

クルアーンには多くの天使が登場するが、
はっきりと固有名詞が記されているのは、
ジブリールとミーカール(ミカエル)だけ。
ジブリールは啓示をつかさどる天使で、
ムハンマドに最初にクルアーンを伝えたのも、
エルサレムのアクサ―・モスクからの昇天でムハンマドの先導を務めたのもジブリール。
ジブリールの本体は600の翼を有する巨体だが、
人間の姿をとってムハンマドのもとにしばしば現れたとも伝えられている。

三大天使とは、
啓示を司るジブリールを筆頭に、
地上の糧を差配するミーカール、
クルアーンには名前が述べられていないが、
復活の日を告げるラッパを吹き鳴らすイスラーフィール。
また、クルアーン32章11節にある死の天使はアズラーイール(アズラエル)とされる。

墓での尋問を担当するムンカルとナキール、
火獄(ジャンハンナム)の番人であるマーリクも固有名を有する信ずるべき天使であるとも言われている。
クルアーンによると、すべての人間にはその行為を記録する二人の守護天使ラキーブ(監視する者)、
アティード(待ち構える者)がおり(50章18節)、

マーリク以外にも火獄にはザバーニヤと呼ばれる獄吏天使群がいる(96章18節)。
イスラムの世界観では天と地は神を褒め称えてやまない有名無名の無数の天使に満ちている。

(堕天使は悪魔ではないのがイスラム)


天使の細密画の画像。
(顔は削られていない)

・ムスリムがクルアーン以外の啓典も信じているといっても、
タナハ=ヘブライ語聖書や聖書を信じていると思うのは二重の意味で誤解。
第一にムスリムが信ずるのはタナハや聖書ではなく、
タナハでは律法や詩編など預言者たちが授かった諸啓典のみ、
新約聖書では預言者イーサー(イエス)が神から授かった福音書のみであるからであり、
第二に、
現行のタナハの『律法』(モーセ五書)、『詩編』、新約聖書のいわゆる四福音書は改竄されており、
オリジナルなムーサ―(モーセ)の『律法』、
ダーウード(ダビデ)の『詩編』、
イエスの『福音書』とはまったくの別物だからだ。

(新旧聖書は改竄されている!って立場ね。
コーランは改竄されていないの?)


・すべての民族は過去に使途が送られている(クルアーン16章36節)。
最後の使徒がムハンマド。
預言者の数は十二万四千人、
そのうち使徒の数は313人。

(多い)

・シーア派の内、
十二イマーム派
(イマームを預言者と同じ無謬の存在と考え
政教一致の体制を志向)
がイランの国教で、
イラク、バハレーンで多数派で、
レバノンでも有力。

ザイド派がイエメンで多数派。
インド、パキスタンなどにはマイノリティとしてイスマーイール派が存在する。
イスマーイール派はアッバース朝時代に、
北アフリカにファーティマ朝を建国。

(インド!
~派の覚え方=区別の仕方は、
誰を後継者にするかでもめたか把握すること!)

・信仰告白に特別な場所、手続き、儀礼はない。
預言者ムハンマドの弟子ウサーマ(674年没)が、
ジュハイナ族との戦いに派遣され、一人の男を刺し殺そうとしたときに、
その男が
「アッラーの他に神なし」と唱えたにもかかわらず、刺し殺してしまった。
ムハンマドは
「お前はアッラーのほかに神なしと証言した者を殺したのか」
と厳しく咎め、
ウサーマが「彼は命が惜しくてそう言ったのです」と抗弁すると、
お前は彼の胸の中を割い(て知っ)ったのか」と譴責されたとの真正な伝承もあり、
ハナフィー派は、多神教徒や無神論者の入信には神の唯一性の承認だけで十分だと述べている。
他方、ハナフィー派は、ユダヤ教徒やキリスト教徒のような、
もともと預言現象を認めていた者は、
ムハンマドが神の使徒であることを認めるだけでは不十分で、元の自分の宗教との絶縁が必要としている。

イスラムは内心には踏み込まない。
外から観察できることで判断する。
その人が本当にイスラム教徒か判断できるのは神のみだからね。


没年だけ書くのがイスラムの慣例なのだろうか?
あと預言者などの特別な存在の後に付ける祝福文句も省略している)


・サダカ(自発的な施し)
二人の人間を仲裁することはサダカ、
人がロバに乗るのを助け、
荷物をそれに載せてやるのもサダカ、
優しい言葉もサダカ、
礼拝に向う歩みもサダカ、
道に危ないものが落ちているのを拾うのもサダカ、
同胞にほほえみかけるのもサダカ。

サダカの語義は正義、誠実。
ユダヤ教で正義、浄財を意味するヘブライ語ツェダカー(義務の浄財)と同じ語源。


クルアーンは、あらゆる民族にはイスラームが伝えられた、
つまり人類すべての民俗の原宗教がイスラームであることを示しており、
イスラームの普遍主義の典拠となっている。
(!?)


・イスラムで最も重大な罪は、
法学的なハラーム(禁じられたもの)ではなく、
神学的な多神崇拝(シルク)。


・イスラームの月は新月が見えた時点で始まるので、
ラマダーン月の始まりもラマダーン月の終りも新月を目視することで始まる。
雨などで新月が見えなくとも一か月が三十日を超えることはないとされているので、
ラマダーン月の日数は29か30.
ラマダーンは酷暑を意味する動詞ラミダの派生語だが、
イスラーム暦は太陰暦で毎年ずれていくので必ずしも暑い月というわけではない。
飲食や性行為を慎む。
ラマダン月の善行は特に推奨されていることもあり、
モスクで日没の礼拝後に断食明けの食事が無料で振る舞われ、
貧しい人々もラマダーン月の一か月間は満腹するまで夕食が食べられる

一方、
大食して太る者も増えるのが現代のムスリム社会の実情。

(ラマダン明けにまぐわいまくるやつがいるだろうな。

新月が「見」える?)


・ムハンマド「結婚は信仰の半分」
イスラムで結婚は奨励されている。
イスラームに修道院制度(ラフバーニーヤ)はない、
とも言われており、独身が貞操として推奨されることはなく、
去勢は禁じられている。

イスラムにはキリスト教のような性の罪悪視はないが、
性行為も売買と同じく契約行為
とされ、
契約によらない性行為、つまり婚外交渉は不法行為、姦通罪とみなされる。
姦通罪で守られる法益は血統であり、家族制度。
イスラムでは結婚契約によらない性関係は全て厳禁。
婚外交渉に対しては男女を問わず未婚者には鞭打ち100回、
既婚者には投石による死刑が科されるが、この石打ち刑はイスラム法の中でも最も過酷な処刑方法。

夫の義務は妻の扶養であり、
妻の義務は夫の許可なく外出しないこと。
性行為は夫の権利であると同時に義務であり、
性行為ができない夫に対しては妻は離婚の権利を得る。
家事や子供の養育は妻の義務ではなく、
召使の雇用が夫の扶養義務に含まれる。
授乳ですら妻の義務ではなく、夫が乳児に乳母をあてがわねばならない。
近代西欧で作られ日本に輸入された良妻賢母の概念をイスラムに投影することは慎まなくてはならない。

(遊牧民は血縁が土地の代わりなので極めて重要。
民族乗っ取り対策でもある)


・イスラム法における刑罰
来世における懲罰。

イスラム法の根本概念は来世での懲罰と報奨によって定義されているので、
ムスリムにとっての刑罰とは一義的に来世での最後の審判による懲罰。
最後の審判の日は清算の日と言われ、
天秤が置かれ善行は右の、
悪行は左の皿に置かれ、
右が重かった者は楽園に入り、
左が重い者は火獄に落ちる。

クルアーン11章114節は「善行は悪行を消し去る」
と明言しており、
現世の災難もまた悪行の贖罪、来世の懲罰の先取りとなる。


重要なのは、罪を一つ犯すごとに逮捕され裁判にかけられるのが原則である欧米の法とは異なり、
イスラムの教えでは審判は復活の日の最後の審判の一回だけ。

来世における最後の審判を信ずるだけでなく、
法の裁きがなくとも現世でも善悪の因果応報が存在すると信じ、
また悪行を犯した後でも善行による贖罪により来世の懲罰の軽減が可能
であるとの刑罰観を有するムスリムの法意識は、
多くの日本人や欧米人の法意識とは全く違ったもの。

・イスラームでは泥棒は罰として手首を切断される話は、
日本人でも知っている人が多いかと思う。
実は窃盗に対する罰ではない。
クルアーン5章38節で命令されているのは、
盗みの禁止ではなく、
為政者に対する窃盗の手首を切断せよとの命令であり、
その命令を執行しないことは神の命令への反逆にほかならず、
そのこと自体が来世での火獄の懲罰に値する罪である。



タキーヤ(身を守ること)
=自分の信仰を明らかにすると危険な場合に信仰を隠すこと。

スンナ派ではタキーヤは認められている一方で、
生命の危険を顧みず殉教を恐れずに勇敢に信仰を貫くことがより優れている、
ともみなされている。

しかし、シーア派ではタキーヤが義務。
スンナ派支配下でタキーヤにより信仰をタキーヤにより信仰を隠して暮らしている
シーア派コミュニティの存在を危険にさらす恐れがあるためである。

(思想誘導系の工作員が耶蘇とその派生のくせに
タキーヤしまくってて卑怯すぎる件。

スンニ派もタキーヤできる。
シーア派も危険がなければ普通に信仰告白するよ)



・イスラーム法の規定するアブドは奴隷slaveとは似て非なる概念。
イスラームは債務奴隷制度を認めていないため、
イスラーム世界では新たに奴隷になる者はいない。

ムハンマドのハディースに基づき、
アブドの主人には自分の扶養家族と同様にアブドを扶養する義務がある。
気に入らないアブドに対するパワーハラスメントの禁止と、
転職の斡旋が命じられている。アブドの虐待も厳禁。
ハディース「自分のアブドを殺した者は我々は同害報復で殺す」


ムハンマド
「従順で気に入ったアブドにはお前が食べるものを食べさせお前が着るものを着せなさい。
気に入らないアブドは売りなさい。アッラーの被造物をいじめてはならない


・イランのアルメニア正教会の天使画の画像。


・十字軍はエルサレムを攻略するとムスリムだけでなく、
ユダヤ教徒や東方の諸教会のキリスト教徒住民に対しても
「血が膝の高さに達するほどになった」とも言われる大虐殺を行い、
その後も非道な扱いを繰り返していたが、サラディンは捕虜を殺さず解放し
敵に対しても礼節を守り寛大であったため、
敵の十字軍からも騎士の鏡として名声を勝ち得た。

宗教を超えた騎士の鏡としてのサラディンの名は西洋にも長く記憶され、
ダンテは『神曲』にて預言者ムハンマドを地獄に入れている一方、
ソクラテス、プラトン、アリストテレス、
シーザーら異教徒の偉大な哲学者や政治家と共に、
哲人たちに囲まれて座したる”智者の師”(サラディン)を、
私は仰ぎ見たと記している。

(でもイスラムの影響が指摘されている『神曲』)

・ジャラールッディーン・ルーミー
十三世紀のペルシャ最大の神秘主義詩人。

マウラーナー(我らが師)が別名。
1273年没。
『精神的韻文(マスナヴィー・エ・マウナヴィー)』
はペルシャ語のクルアーンと言われ、
ペルシャ神秘主義詩の最高傑作と言われる。
ルーミー自身はスーフィー教団を組織化しなかったが、
弟子たちによってルーミーの廟のあるトルコのコンヤを中心に
彼を名祖とするメヴレヴィー教団
(メヴレヴィーはマウラーナーと同義のトルコ語で我が師を意味する尊称)
が形成された。
セマーという独特の音曲を伴う旋回ダンスの形式のズィクル(念神)
を特徴とし、ルーミーの子孫を母とするメフメト一世ら
オスマン朝のスルタンたちの手厚い庇護を受け、
踊る修道者 whirling dervishes
として西洋でも有名だったが、
オスマン朝を滅ぼしたトルコ共和国によりスーフィズムが禁じられたとき、
教団は解散させられ、
コンヤのルーミーの霊廟、
メヴレヴィー教団は法律上その存在を禁じられたままだが、
セマーは観光用の興業として演じることが許可
されており、
トルコ国内だけでなく、海外公演も盛んで、
たびたび来日もしている。
ルーミー自身はスンナ派のムスリムだったが、
イランのシーア派のイスラーム学者たちの間でもそのペルシャ語神秘主義詩は高く評価されており、
またムスリム世界を超えてスピリチュアリストたちの間で人気が高く、
その英訳はマドンナやデミ・ムーアらによって朗読されたものがCDになって販売されている。


(トルコ建国の父がメイソン=ヤソ異端だし、
トルコにはメーソンロッジあるし、
世俗主義=ライシテ教=メーソン教だし、
トルコはメーソン教に浸食された。
イスラム圏ではメーソン禁止、
たしかロータリーも禁止。
スーフィー禁止するなんていかにもメイソン教だねえ。
スピ系がルーミーを評価しているのに注目。イラン大好きなメーソン)


・ムハンマド・ラシード・リダー
が現代のサラフィー主義の興隆を理論的に準備。
リダーはイスラーム改革を唱道する雑誌『マナール(光塔)』を発行。
この雑誌はクルアーンとスンナを直接参照して現代の問題に対応する規範を引き出さねばならないと
イジュティハードの義務を説き、
法学派の定説の拘束性を否定し、
神学とスーフィズムをクルアーンとスンナの教えから逸脱するものとして否定するサラフィー主義

アラブ世界だけでなく、インド、東南アジアにまで広めた。
インドネシアのムハンマディアや
アルジェリアのウラマー協会は『マナール』の影響下で作られた。
リダーは『ヒラーファ(カリフ制)』でカリフ制の義務を説いた。
サラフィー主義と近いワッハーブ派の後のサウディアラビア国王
アブドルアズィーズ・ブン・サウード
を支持し、アブドルアズィーズもリダーを援助。
『マナール』を主催したリダーとアブドルアズィーズの協力関係により、
サラフィー主義の祖とみなされるイブン・タイミーヤの著作が校定・出版され
イスラーム世界各地に普及したことが現代のサラフィー主義の興隆を理論的に準備することになった。

(サラフィー主義って反知性主義じゃん。
反知性主義はイスラムに反するね。
酒が禁止なのは理性と考える力、判断力を失わせるからだし。
サラフィー主義ってプロテスタント原理主義に都合がいいなー)



・ムハンマド・ブン・イブラーヒーム・アール・シャイフ
西洋の人定法の継受は多神教であり背教である。
アール・シャイフ(シャイフ家)とは、
ワッハーブ派の名祖アブドルワッハーブの子孫を示す。
ワッハーブ派では、アブドルワッハーブとサウディアラビア王族の祖サウードの政教盟約以来、
ワッハーブ派の政治指導者をイマーム、
宗教指導者をシャイフと呼ぶ。
アール・シャイフは、サウディアラビアの西洋化、特に人定法の継受に激しく反対。
西洋の人定法の継受が背教にあたり最悪の多神崇拝
であると断じた著書
『タフキーム・カワーニーン(人定法に裁定を求めること)』
は小著ながら現代ワッハーブ派の最重要作品。
アール・シャイフはサラフィー・ジハード主義の形成に大きな影響を与えたが、
影響は現在のIS(イスラム国)にも及ぶ。

人定法は一神教ではないというのは正しい。
しかしイスラームで王族認めるのってまずいのでは?
王はどうしたって神格化されるから


解放党
平和的なカリフ制樹立を目指す国際イスラーム政治団体。
解放党はカリフ制の憲法、国家組織、経済論などについて数多くの研究を公刊しており、
それらの学習を終えた者にのみ入党を認めている。
解放党は、領域国民国家、民主主義はイスラームの考えに反するとして
既存のムスリム諸国のすべての政府の支配の正当性を否定するが、
カリフ制の樹立の方法論を、預言者ムハンマドの事績に倣い、
有力者に助力を求めて説得することで、
平和的にカリフ制を樹立すべきと考える点で、
他のサラフィー・ジハード主義諸組織とは一線を画しており、
IS(イスラーム国)がカリフに擁立したアブー・バクル・バグダーディーは
カリフの資格を満たしていないとして認めていない。

2013年、インドネシア解放党の国際カリフ会議での著者の写真。
(著者の立場がわかる)


(イスラム関連年表がついてきたの覚えやすそうなの抜粋。

570頃ムハンマド誕生 六世紀
609頃ムハンマド啓示を受け宣教開始 七世紀
(上下逆にしても609。
誕生からサンキュー39後)

622ヒジュラ(足して十)
632ムハンマド死去(ヒジュラの十年後)

650頃クルアーン結集(ムハンマドが死んで18)
651サーサーン朝ペルシア滅亡(クルアーン結集の翌年)

909ファーティマ朝成立 十世紀
1171ファーティマ朝をサラディンが滅ぼす 十二世紀


歴史の勉強法。
年号だけ覚えても無意味。
時代→世紀→年号の順で覚える。
重要なら年号まで。
重要なら最低でも世紀まで覚えていないと、
勉強が足りない。

いつどこで誰がどのように起こしたか、
目的、発端、最盛期、衰退期、
結果、影響、勢力関係など。

イスラームよりイスラムという記述を私が好むのはその方が短いので早く打ち終わるから。
回数が数百、数千超えるとだいぶ時間が浮く。
ですます調をできるだけ避けたいのも同じ理由。
丁寧にするととにかく長くなるからね。)

・バハイ教は、日本では、
1914年に来日した米国人バハイ教徒アグネス・アレクサンダー女史によって宣教の基礎が築かれ、
1932年に日本にもバハイ教の行政機関である地方行政会が、
1974年には日本全国行政会が設立されている。
柳宗悦の民芸運動と深く交流したイギリス人陶芸家バーナード・リーチが信仰したことで有名。

(柳宗悦が優遇される理由がこれ。
しかも神智学系の鈴木大拙の弟子。
朝鮮とのゆかりもある。

リーチは1940年、画家のマーク・トビーとの交友を通じバハイ教に入信。

STB‏ @RC_StB 2015年7月20日
英国詩人の大家ウィリアム・ブレイク
スウェーデンボルグの影響を受け、
独自の神話体系には「世界卵」が登場
日本の本格的受容の切っ掛けとなった紹介者柳宗悦は鈴木大拙の弟子で、
その子供は志賀直哉の子供と結婚



・大川周明は日本のイスラム研究の創始者とされている。
東京帝国大学の哲学科に進学し、
宗教学、インド哲学を専攻。
マルクスを読み社会主義も学んだが、
唯物論に飽き足らず、
万教帰一的な新興宗教団体「道会」に加入。
インド独立運動にもかかわる。

南満州鉄道に入社し、
東亜経済調査局の編集課長となり、
その後、東亜経済調査局を財団法人として独立させ、その理事長となる。
イスラム研究者育成をはかり、
東亜経済調査局は、
井筒俊彦や前嶋信次のようなイスラム学の泰斗を輩出。


大川の師匠である姉崎正治が、大川の『回教概論』を絶賛。
大川はコーランも翻訳。

(なお、イスラムでは法人は禁止。
頭おかしくなったから処刑されなかったのって茶番でしょ。

道会がどうみても万教帰一、世界連邦側の儒教的キリスト教。
そこに属していた大川がイスラム研究しているのが重要。
道会の二代目会長の松村吉助がユダヤ陰謀論本を出していることも重要!


歴史が眠る多磨霊園 松村介石
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/matsumura_k.html
”1859.10.16(安政6)~ 1939.11.29(昭和14)
明治・大正・昭和期のキリスト教指導者、
宗教家、教育者
1870(M3)上京し、安井息軒の塾にて儒教を学び、のち京都の市村水香の塾、神戸にて無月謝で英語を教えてくれるアトキンソン宣教師に英語を学ぶ。
1876横浜のジョン・クレイグ・バラ学校(バラが主任教授をしていたヘボン塾)に学費が安いという理由で入学。 ここで聖書に触れ、
「キリスト教で解く神は、儒教の天帝、皇天に他ならず」との天啓にうたれ、キリスト教
に入信。
1880バラ学校が東京築地に移転し築地大学となるにあたり、介石は舎監として働き、また同じ築地にあった一致神学校(明治学院)でキリスト教を本格的に学ぶ。しかし、わずか2ヶ月で外人教師たちと対立して辞める。
 1882キリスト教に対する熱意と才能を惜しんだ新島襄と金森通倫(15-1-13)が、
備中(岡山)の高梁教会の牧師として迎えた。
当初18人であった信者を1年間で118人に増やした。
しかし、備中は反基督教色が強い土地であり、治安を取り締まるべき警察署長が公然と、基督教会追放を唱え住民を煽動することもあり、
1884高梁教会迫害事件が起きた。
集会中の投石等で負傷者が出るも、迫害にくじけない意志のもと毎週の集会を続けた。迫害は続き、暴徒達を前に「しばらく時間をくれ、私が声の涸れるまで弁じて、最早声がでなくなったら石でもって自分を殺してくれ」と最後の演説を嘆願し命を賭けた演説を行った。 結果、当時の高橋岡山県知事の耳にも入り、県知事が派遣した警部と巡査が暴動の最中に到着したため、今まで煽っていた警察署長が驚き、暴徒達に解散を命じたため、介石の命はつながった。
 高梁教会を去り、「福音新報」、「基督教新聞」などの主筆を務める。その後、山形英学校を経て、北越学館教頭となる。 北越学館は1887新潟に設立された基督教系学校で、教頭の内村鑑三(8-1-16-29)が学校側と対立(北越学館事件)で去った後任として呼ばれた。 事件後混迷する生徒たちに向かって、介石は基督教色が強い学校において、陽明学の「良知良能」を基礎とした教育を施す決意をし、校則を全廃すると告げた。しかし、「自ら省みて悪いと思うことは一切してはならない。ただ善と思うことのみをすべきである。これが我が校唯一の校則である」と宣言したという。 この生徒の良心に訴える校則全廃運動は当初は勝手振舞う生徒たちが多かったが、介石の生徒たちへの諭しにより、赴任中の2年間は生徒たちに受け入れ何の問題も起きなかったという。
 1890リンカーンの伝記である『阿伯拉罕倫古龍(「リンコルン伝」)』(アブラハムリンコルン)や『修養録』を著す。
1892から5年間、東京神田の基督教育年会館で道徳教育講話や古今東西の英雄豪傑伝の講演を行ない、毎月6000人もの聴衆が集まる盛況であった。
1896頃「足尾銅山鉱毒事件」にも深い関心を示し、田中正造とともに鉱毒地を見て回ったり講演会を開いたりもした。
1905鎌倉に閑居して「万国最近史」を執筆。この頃より、宗教にも教育にも社会事業にも収まらない幅広い活動が、かえって介石に「一体吾は何を為さんとするのか」との疑問を抱かせることとなる。 加えて、キリスト教指導者として活動をする途上において、来日している宣教師の東洋人を差別して見下げる態度や戒律を守らない姿勢、キリスト教にも様々な宗派が存在すること、またその神学にも互いに矛盾するような教理があり、加えて、旧約聖書にあるおとぎ話的内容の疑問とダーウィンの進化論など、改めてキリスト教と向き合うことが多くなる。 そして「真に生ける宗教をもってその大任を全うするべきである」という内容の天啓を受け、伝導に一生を捧げる一大決心をするに至る。
 '07古典的な正統派のキリスト教から離れ、老荘・王陽明の思想と日本古来の思想を融合した、特定の教派に属さない、儒教的キリスト教を解く宗教団体「日本教会」を設立。
その信条は神を信じる事「信神」、
徳を修めること「修徳」、
人を愛すること「愛隣」、
霊魂不滅の「永生」の4ヶ条である。
機関誌「道」を発行。大倉孫兵衛・森村市左衛門ら財界の支持を得た。
'08相互に精神的交友を結ぶ目的として「道友会」を結成。
新渡戸稲造(7-1-5-11)や尾崎行雄など各界名士が参加した。
'09「心象会」を結成し、藤田霊斎の「息心調和法」や心霊治療の普及に尽力し、翌年、「真養会」を組織して、藤田霊斎の「息心調和法」を重要な修行法のひとつとし、
更にこれを大隈重信に紹介したり、宮内大臣に頼み調和法の本を天覧に供したりしたため、世間では「呼吸法ブーム」「強健ブーム」が巻き起こった。 他にも、哲学・宗教・道徳などを、普通の人々にも解りやすく解説するために、講談のスタイルをとって講釈する「教談会」の結成や、毎月青年たちの弁論大会を開催した「不朽青年会」を結成した。
'11日本教会を「道会」(どうかい)と改称する。道会の中心的存在として大川周明らがいる。

松村吉助
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/matsumura_kt.html
”長野県出身。旧姓は香山。道会始祖の松村介石(同墓)の養子となり、1939(S14)介石没後、儒教的キリスト教を解く宗教団体「道会」(みちかい)の二代目会長となる。
'56(S31)「真に世に役立つ人」を育てるため宗教法人道会附属 松村幼稚園を創設した。 幼児の個性を大切に慈愛をそそぎつつ育くまれることという幼童を「道会」に加えた。また照子夫人の内助の功による婦道も教示。
主な著書に『猶太民族と世界制覇の陰謀』(1944)、『暗夜を憂うること勿れ―言志四録抄』(1949)などがある。 ”)


ねこた(なつやすみ)‏ @lakudagoya 7月13日
その他
モグラくんのツイート光ってるからもっと研磨できたら良いと思うけど、私もそれ手伝えなくてすまない。

で、この前は手のネタにお気に入りありがとうですが、大本教ってそーとーにイスラーム・シーア派に心酔して背乗りしようとしてるとわかって唖然ですね。大本の陰謀を暴いた功績は凄いかと。


村手 さとし‏ @mkmogura 7月13日
返信先: @lakudagoyaさん

時代背景もちゃんと読まないと。
イスラーム心酔とかが、一時のキリスト教界も含めて帰一教ブームだったからなのか、のっかっただけの話か、それとも、それ以上なのかで全然ちがう。ブッシュ祖父がスピリチュアルを盛り上げてだけど、今はキリ原理右派とスピは犬猿でしよ?


ねこた(なつやすみ)‏ @lakudagoya 7月13日
その他
返信先: @mkmoguraさん
帰一教ブームに乗ったというのもありますし、キリスト教のダメさをシーア派の御用理論が天皇御用理論として鞍替えしようとしたのではないかな?と。

でも戦後はそれを忘れ去られてるって感じかも?

プッシュの分析については親父がスピってたのですね。知らなかった。

村手 さとし‏ @mkmogura 7月13日

いっときの思想と根本かどうかで、全然意味はかわる。
本当に大本とイスラームの分析をしたいなら、大本自体は追いかけにくいから、エスペラント語をキーワードに年表作って、調べれば少しはわかるかもね。
英国、ブリッジチャーチ、バチカンの帰一教宣言とかも、もちろんシンクロして調べるの。


答えはどこかに書いてあるものではない。あなたが、考えてひねり出すものだ。 信じるな、疑え。読むな、分析しろ。 他人に自分を批評されたとして、嬉しくて共感できる自己評価より、むしろ、どうしても嫌だなと思うけど、当たってるなと納得してしまうものの方が答えでしょ? 全ての情報同じだよ、


(親父? 祖父? 間違ってない?

仕組まれたスピリチュアルブーム(神学の改悪=宗教改革)。『近代スピリチュアリズムの歴史』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-78.html
”入神中のデイヴィスの口述を筆記することを引き受けた牧師フィッシュバウのおかげで、
1845年11月、デイヴィスの最初の大著でありその後の著作の根幹となる『自然の原理――その聖なる啓示と人類への声』の筆写が始まった。この時デイヴィスは19歳。デイヴィスはその1年前まで無学な職人だった。
著作の大部分は口述のままであると、フィッシュバウ牧師(筆記担当)とライオン博士(催眠担当)の二人の協力者は言っている。
これは、奇蹟を見ようと押しかけてきた多くの者(エドガー・アラン・ポーもその一人)が目撃している。
その中のジョージ・ブッシュというニューヨーク大学のヘブライ語教授は、デイヴィスがヘブライ語を正確に引用していると証言した。ブッシュは更に「この本は深淵にして精緻な宇宙哲学を述べたもので、そのコンセプトの壮大さ、論旨の正しさ、説明の明瞭さ、記述の秩序正しさ、内容の百科事典的拡がりにおいて、これを凌駕する書物を見たことがない」とまで褒めた。
ブッシュ教授の熱心な推奨もあって、
1847年に出版され、その後30年間に34版のロングセラーになった。
が、ブッシュ教授は出版されると間もなく、わざわざ小冊子を発行して、デイヴィスの本には数多くの誤謬や偏見や荒唐無稽なことが書いてあるから世間の人たちは気をつけたほうがいいと警告した。
この態度の変化は一説によると、デイヴィスのキリスト教に対するスピリチュアリスト的な考えが明瞭になり、敬虔なキリスト教徒であるブッシュ教授はそれについていけなくなったためだと言われている。


(1848年3月31日はスピリチュアル元年とも言える記念日。
この日に合わせて事件が起きるかも。

デイヴィスが新事態を予知したと信じたい人がいるでしょうが、デイヴィスが無学でありメスメリズムにであったわずか2年ではとても書けない本を書いたいうのは実に疑わしいです。
①初めからインチキ(ゴーストライター)
②特殊な能力開発法(メスメリズム?)による高速学習により超短期間で該博な知識と深い思慮を身につけたデイヴィス本人が全て言った(口述)。
③初め本物、途中からインチキ。
④初めインチキ、途中から本物。
⑤ときに本物、ときにインチキ
などいろいろなパターンが考えられますが、胡散臭いです。
1年前に出た本と当日に予言ってインサイダーじゃないの?
スウェーデンボルグというブルーブラッドがらみだし。
あのブッシュ大統領の先祖であるジョージ・ブッシュ教授(ブルーブラッド)はスウェーデンボルグ主義者だし。
デイヴィスが上記の「生きた人間がやって見せる(a living demonstration)」のような内容を何度も書いていたのかどうかが気になります。
ブッシュ教授の態度が豹変したのって、内容じゃなくて本当はインチキだと判ったからじゃないの?
いや、ブルーブラッドならインチキだと元から知っていたかな。

ジョージ・ブッシュ(1796– 1859 ニューヨーク大学教授で、スウェーデンボルグの翻訳がある)は、デイビスがヘブライ語、アラビア語とサンスクリット語で口述する彼の能力を調べた。そしてブッシュは、デイビスがスウェーデンボルグからチャネリングを受けたかもしれないと思った。
デイビスが、スウェーデンボルグの作品から剽窃していると考える者もいた。

アメリカの 現大統領の曾祖父の曾祖父にあたるティモシー・ブッシュの弟、ジョージ・ブッシュ博士(一七九六-一八五九)は、ニューヨーク大学のヘブライ語教授だった が、スウェーデンボルグ派の著名な教会員でもあった。彼はアメリカのスピリチュアリズム(心霊主義)興隆の仕掛人でもある。スピリチュアリズムの父と称さ れるA・ジャクソン・デーヴィスを世に出したのは彼だからである。
デーヴィスの教えに感化され、スウェーデンボルグ主義を標榜して、労働と冥想を重んずる「新生同朋団」を結成したのが、トーマス・レイク・ハリスである。
若き森有礼(ありのり)と新井奥邃(おうすい)が入団したのはこの教団にほかならない。有礼は帰国した後に初代文相となった。奥邃は三十年近く同教 団に残った。帰国したのは五十三歳。その後私塾を開き、高村光太郎をはじめ多くの人びとを感化した。田中正造も奥邃と親交があり、彼を亜聖と呼んでいる。”

このブッシュ教授が最初に出した本はなんと『ムハンマドの人生』!
なお、ムハンマドへの評価は悪い。


George Bush (biblical scholar)
https://en.wikipedia.org/wiki/George_Bush_(biblical_scholar)
"George Bush (12 June 1796, Norwich, Vermont – 19 September 1859, Rochester, New York) was an American biblical scholar, pastor, abolitionist, academic and advocate for the restoration of the Jews to the Holy Land. He is distantly related to the Bush political family.[1]

Bush graduated from Dartmouth College in 1818, and then studied theology at Princeton University, where he was a tutor 1823–1824. He was ordained in the Presbyterian ministry, spent four years as a Christian missionary in Indiana, and in 1831 became professor of Hebrew and oriental literature at New York University.[2]

His first book The Life of Mohammed was the first American written biography of the religious leader. It refers to Muhammad as "this remarkable man" and “irresistibly attractive", but is a largely negative assessment of him, showing him up as a fraud and hoaxer. It also takes a dim view of the state of Christianity of Muhammad's age. The book fell out of print, but became briefly controversial in Egypt in 2004.[3]

In 1845 he embraced Swedenborgianism and went on to write many defenses of his new faith.[6] He translated and published the diary of Emanuel Swedenborg in 1845, and became editor of the New Church Repository.[2])


『イスラーム入門』は、なぜ日本語史上最強のイスラーム入門書であるのか?
http://mkamiya.jugem.jp/?eid=716
”99の項目は第一章 法の宗教(1~24)、第二章 イスラームの下の暮らし(25~64)、第三章 イスラーム人物伝(65~77)、第四章 イスラームと現代(78~99)という形で、カテゴリーに分け配列され、単なる五十音順の配列ではない。ここが本書のミソである。



99の項目は、イスラームの思想史を扱う第一章「法の宗教」、イスラームの教えに則る信仰生活と社会を扱う第二章「イスラームの下の暮らし」、歴史上の有名なイスラーム教徒の略伝を纏めた第三章「イスラーム人物伝」、現代世界の問題を理解する鍵となる概念を解説する第四章「イスラームと現代」に分かれていますが、どこから読み始めても構いません。p241

「1 ムハンマド アッラーの啓示を授かり、イスラームを開いた預言者」や、「4 ハディース ハディース集成はクルアーンに次ぐイスラーム法の第二法源」、「10 スンナ派 預言者の逝去以来のムスリム社会の多数派」のように、知らない人にもとりあえずわかった気にさせる、一行におさまるような説明が目次段階ですでに加えられている。本文ページをめくることなしに以前読んだ記憶を喚起することもできるし、とりあえずの説明を人に対して行うことができ、便利なことこの上ない。


『イスラーム入門』は通読による一般的な理解、項目を調べることによる理解の深化、他人に説明する際の要約的一文の活用という風に三通りに使える便利な本なのである。


そうする中で浮かび上がってくるのは、(一部の集団を除き)イスラームという宗教の寛容性、奥の深さである。それは、何がイスラームの正しい知識であるかを、預言者ムハンマド以外の人は知ることができないという基本的な考えから来ている。そもそも判断の基準となる公的な機関が存在しない以上、杓子定規な判断があるはずだと考えるのは、キリスト教圏などの人間の類推から来る誤りなのだ。



 しかしムスリムであることと、イスラームを理解していることはイコールではありません。ムスリムであるからといって、イスラームの教えを正しく理解しているとは限らず、ましてやイスラームを体現していることにはなりません。誤りを犯さずイスラームを正しく知る無謬な存在は預言者だけであるというのがスンナ派の合意事項です。p12



 読者諸賢が目にするイスラームとはまず、こうしたイスラーム教徒たちが引き起こした出来事、紡ぎ出した言説、いや、それについての「噂」です。噂話とはえてしてあてにならないものですが、それはそれで構わないのです。噂の真相を知りたくなれば、自分の目でそれを見るにしくはありません。私たちは噂話を通して、世界の真実を知る旅に誘われるのです。本書はイスラーム教徒についての「噂」の中から特に人目を引きそうな99の項目を選び、現代の日本人の認識の枠組みと語彙を用い、同時にイスラームの視点から、できる限りわかりやすく語り直すように努めました。p240



99の項目以外に加わっている二つのコラムがある。近代日本のイスラーム理解を進めた二人の偉才としての、大川周明と井筒俊彦についてのコラムだ。とりわけ井筒の博覧強記ぶりは、初耳でないにせよ、魂が奮い立つ内容だ。



 英独仏露語などの現代ヨーロッパ諸語は言うに及ばず、ギリシア語、ラテン語、サンスクリット語、パーリ語などのインド・ヨーロッパ語族の古典語、アラビア語、ヘブライ語に加えてペルシャ語、トルコ語、マレー語といったイスラーム世界の諸言語など三〇以上の言語に通じた言語の天才で、他の追随を許さない語学力を生かして古今東西の思想、哲学の一次資料を読みこなして自在に論じ、独自の東洋哲学を樹立しました。世界に発信し、高名な人文科学者が集うエラノス学会を活動の場として空前絶後の碩学との国際的評価をかちえましたが、イスラーム研究においても、クルアーンの意味論、イスラームの神秘主義の分析に大きな足跡を残しました。p233-234

マイモニデス
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/shinpi/maimonidesu.htm
”12世紀の最も重要なカバリストと言えば、やはりモーセス・マイモニデスことモーゼス・ベン・マイモンであろう。
 彼はカバリストであると同時に、アリストテレス主義者であり、新プラトン主義者でもあり、これらの思想を両立させようとした哲学者であった。
 彼はしばしば、「中世の最も偉大なユダヤ哲学者」とまで呼ばれる。

 マイモニデスは、1135年コルドバのゲットーで生を受ける。
 コルドバでは多くのユダヤ人が居住し、ユダヤ文化が花開いた都市でもあるが、同時に過酷なユダヤ人迫害が何度も行われた町でもある。迫害者はキリスト教徒のこともあったし、イスラム教徒のこともあった(イスラム勢力が駆逐された後もユダヤ人迫害は何度も起こり、15世紀の大迫害によって、ゲットーは消滅する)。
 1148年、狂信的なイスラム教徒アルモハズ派がコルドバを占領すると、ユダヤ人達は迫害を受けた。
 マイモニデスの一家は、この迫害を逃れて、8~9年間に渡る放浪の旅を行う。彼らはスペインの南部をさまよった。少年だったマイモニデスは、この間、教養人だった父親から教育を受けた。
 また、彼は25歳までラビ・ユダ・ハ・コーヘンというラビに師事し、ユダヤ神学を学んだ。さらに医学の勉強も開始していた。
 1160年、彼の一家は北アフリカのモロッコはフェズに居住した。フェズは、何かとカバラと関係の深い町である。ここにおいて、マイモニデスは学者としての活動を開始する。ユダヤ暦に関する論文、論理学に関する論文、そして彼の主著たる「発光体」の下書きにも取り掛かったらしい。
 しかし、このフェズも安住の地とは言えなくなった。狂信的なイスラム教徒アルモハズ派の猛威が荒れ狂い始めたのである。ユダヤ人達はイスラムへの改宗を強制され、従わない者はリンチで殺されることも珍しくなかった。
 1165年、彼の家族はフェズを脱出する。パレスチナへの移住を決心したからである。一家は船に乗り、嵐に悩まされ、どうにかパレスチナノのアークルに到着した。彼らは聖地を巡礼したが、エルサレムは安住の地にはなり得なかった。ユダヤ人は少なく、しかも貧しい町だった。
 結局、彼らはパレスチナ居住をあきらめ、エジプトへ向かう。アレクサンドリアに2年間住んだ後、カイロへ行き、そこを住居に定める。
 そこで、弟の始めた宝石商が成功し、やっと一家は安定した生活を手にすることができた。
 マイモニデスも学問に専念することが出来るようになった。
 彼が夥しい著述活動を開始するのも、この頃からである。
 1168年に彼はタルムードの注釈である、代表作「発光体」を発表する。これは、現代でも非カバリストのタルムード研究者達からも高い評価を得ている。
 1170年には「戒律の書」なる613の命題からなるユダヤ教戒律の注釈書を出す。
 さらに彼の研究は、カバラや占星術にもおよんだ。
 しかし、1174年、突然大きな不幸が襲う。一家の生活を支えていた弟が商用旅行の途中、海難事故で溺死。これは経済的打撃はもちろん、兄弟仲が良かっただけに精神的ショックも大きく、これがきっかけで彼は病気にもなった。
 彼は、生計を支えるために医者を開業する。もともと医学の知識は豊富であったが、実践経験は無かったために、不安なスタートではあった。しかし、彼は医者としての才能があった。それも天才級の。
 たちまちのうちに、彼は名医と呼ばれ、イスラムの王侯貴族達を診察し、遠くイギリスのリチャード1世からお呼びがかかるほどの成功を手にした。
 また、彼の学識と人格は、エジプト在住のユダヤ人達から高く支持され、「フォスタットの聖人」と呼ばれるまでに至る。
 
 さらに彼は「迷える者の手引き」を著す。これは、ある意味、もっとも重要な著書であろう。
 この著書は、後にラテン語に訳され、キリスト教神学者達からも高い評価を受ける。アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アキィナス、マイスター・エックハルト達だ。
 この著書では、彼はアリストテレス主義をユダヤ神学に導入しようとした。

 神は第一の動因であり原因である。神の実在はアリストテレスの論理によって証明可能である。すなわち、アリストテレスの「自然学」や「形而上学」の言うところの「存在の連鎖」の概念に基づいて、これを論じている。
 先にも書いた通り、神は被造物に対する第一の動因であり原因である。神それ自身は純粋現実態として被造物から、かけ離れている存在であるがゆえに、その「本質」に関しては肯定的な知識を我々は持つことが出来ず、否定的な道によってのみ認識可能であると考えた。
 これは、かの有名なトマス・アキィナスの「第一の神の証明」の前身にあたる考え方である。
 彼は、決してアリストテレスの盲目的な信望者ではない。むしろ、新プラトン主義の思想を援用することにより、一神教を理論的に解析し、旧来のアリストテレス哲学による一神教批判に対抗しようとした。すなわち、アリストテレスが説く世界の永遠性に関する哲学的教説を拒否し、代わりに聖書を取っているのである。
 また、彼は個々の人間に対する神の摂理を論じ、また占星術を認めながらも天体は人間の「行為」にまでは影響を与えないとした人間の自由意志の主張も行った。
 言ってみれば、彼はアリストテレス主義や新プラトン主義といったギリシャ哲学とユダヤ教神学との調和を目指したのである。そういった意味では、彼はアヴィケブロンと同じ所に居た。

  ……ともあれ、彼がこの著書において、一番言いたいことは、人間は自らの持つ知識によって、生活の指導的原理を理解する。よって人生の目的は明確化されうる。人生はその目的を探求することによって、到達すべき目的が発見されるのである。さらに、神の行為が正しい知識によって理解されたとき、神への礼拝は必然的なものになる。これこそが「神への知的礼拝」である。
 要するに、彼は霊魂と肉体との相互関係をカバラ的に考察しようとしていたのだ。宗教こそ、肉体と霊魂の最良の保護手段だというわけだ。
 彼の思想は、後に「ゾハール」成立に至る大きな潮流の一つを作ったのである。


 カイロでの彼は成功しすぎたため、凄まじい激務をこなす生活を送った。
 睡眠はおろか、食事ですら満足にとる暇はなく、貴族から貧民まで、友人から敵に至るまで、平等に治療を行ったという。
 1204年、彼は永眠する。この日、エジプト中のユダヤ人達が、彼のために三日間の喪に服したという。


「カバラ」 箱崎総一 青土社
「中世思想原典集成13 盛期スコラ学」 上智大学出版局
「世界神秘学事典」 荒俣宏篇 平河出版社
「カバラ Q&A」 エーリヒ・ビショップ 三交社
「カバラ」 A・サフラン 創文社”




ダーウード=ダビデ。
スライマーン=ソロモン。

聖クルアーン: 34. サバア 章 - Way-to-Allah
http://www.way-to-allah.com/jp/quran/34.htm
” 10. われは,且つてダーウードに恩恵を授け(て言っ)た。「山々よ,ダーウードと共に(われを)讃えなさい。また鳥たちも。」われはまた,かれのために鉄を軟らかにして,

11. (言った)。「あなたは鎖帷子を造り,環をよく整えなさい。そして善行に勤しめ。本当にわれは,あなたがたの所行をよく見ている。」

12. またスライマーンには風を(支配させ),(その風の一吹きで)一朝に一ケ月(の旅路)を,また―夕に一ケ月(の帰路)を(旅させた)。またわれはかれらに熔けた銅の泉を湧き出させた。また主の御許しによりあるジン(幽精)に,かれの面前で働かせ,かれらの中われの命令に背く者には,烈しい(焔?)の懲罰を味わわせた。

13. かれらは,かれ(スライマーン)のためにその望む高殿や彫像や池のような水盤,また固定した大釜を製作した。(それぞれの持場で)「あなたがたは働け,ダーウードの家族よ,感謝して働け。」だがわれのしもベの中で感謝する者は僅かである。

14. われがかれ(スライマーン)に死の断を下した時も,かれらにその死を知らせたのは,一匹の地の虫がかれの杖を蝕ばんだことであった。それでかれが倒れると,ジンたちは(始めて)悟った。もしも幽玄界のことを知っていたならば,恥辱の懲罰に服している要もなかったのに。

15. 本当にサバアでも,その住まいに一つの印が授けられていた。右側と左側の2つの果樹園。(そしてかれらに仰せられた。)「あなたがたの主の与える食物を食べ,かれに感謝せよ。土地は立派で,主は寛大であられる。」

16. だがかれらは(アッラーから)背き去った。それでわれは,かれらに洪水を送り,かの2つの園を,柳と僅かばかりのハマナツメの苦い実を結ぶ園に変えた。

17. そのようにわれは,かれらが不信心であったために報いた。われが,不信心(恩を忘れる)者以外に報復などしようか。

18. われはかれらと,われが祝福した都市との間に,(旅人が)見付け易い幾つかの町を設け,その旅程を定めた。「昼も夜も安全に旅をしなさい。」

32. 倣慢であった者は,無力であった者に言う。「導きがあなたがたに届いた後,あなたがたをそれらから背かせたのは,わたしたちであったというのか,いや,あなたがたこそ罪作りであった。」
33. 無力であった者は傲慢であった者に言う。「いや,夜となく昼となく,(あなたがたは)策謀をしていました。現にアッラーを信じないし,かれに同位者を立てるよう,あなたがたは(不断に)命令しました。」かれらは懲罰を見るに及んで,後悔する。われは不信心な者の首に枷をかける。かれらは,その行ったことで,報いを受けるだけである。
34. われが町に,警告者を遣わす度に,そこの富裕な者たちは,「あなたがたが遺わされたことを,わたしたちは信じません。」と決まって言ったのである。
35. 「また,わたしたちは多くの財産と子女があるので,懲罰される(ような)ことはありません。」とも言った。
36. 言ってやるがいい。「本当にわたしの主は,御心のままに豊かに御恵みを与えられ,また乏しくもなされる。だが人びとの多くは理解しない。」
37. あなたがたをわれにもっと近づけるものは,財産でも子女でもない。信仰して善行に勤しむ者は,その行いの倍の報奨を与え,高い住まいが保証される。
38. またわれの印を頓座させるために努力する者は,懲罰に引きたてられる。
39. 言ってやるがいい。「本当にわたしの主は,そのしもべの中から御心に適う者に,御恵みを豊かに与えまた或る者には乏しく授けられる。かれはあなたがたが(主の道のために)施すものはすべて返される。かれは最も優れた御恵を与える方であられる。」
40. 一斉にかれらを召集なされる日。かれは天使たちに向かって仰せられよう。「これらの者は,あなたがたを崇拝していたのか。」
41. かれら天使たちは(答えて)言う。「あなたに讃えあれ。あなたはわたしたちの愛護者であられます。だがかれらはその限りではありません。かれら(人々)はジンを崇拝していました。多くの者は,かれら(ジン)の信者でした。」
42. あなたがたはこの日,お互いに益にも害にも役立たない。われは不義を行っていた者たちに言う。「あなたがたが偽りとしていた,火獄の懲罰を味わえ。」
43. 明白なわれの印が,かれらに読誦されても,かれらは言う。「これは一人の男が,あなたがたの祖先の崇拝していた神々から背かせようとするのである。」また言う。「これは只捏造した,作りごとである。」また真理を信じない者たちは,それがかれらに現われると,「これは明らかに魔術に過ぎない。」と言う。
44. われは(前もって),かれらの学び得る啓典を下していた訳ではない。またあなた以前に,どんな警告者もかれらに遣わさなかった。
45. かれら以前の者も(真理)を嘘であるとした。われが昔の人々に与えたものは(マッカの人びとにとっては)十分の一にも達しない程(優遇)したのに,われの預言者を嘘つき呼ばわりした。わが怒りは何と激しかったことか。
46. 言ってやるがいい。「わたしは忠告する。あなたがたはアッラーの御前に,2人ずつまたは1人ずつ立ってよく考えなさい。あなたがたの同僚は,気違いではない。かれは厳しい懲罰の(下る)以前に,あなたがたに警告するに過ぎない。」
47. 言ってやるがいい。「わたしは,どんな報酬もあなたがたに要求しない。それは(凡て)あなたがたのものである。わたしは報酬を,只アッラーから(戴く)だけである。かれは凡てのことを立証される。」


コーラン第9章 タウバ章 悔悟 第56節~第60節
http://japanese.irib.ir/programs/%E5%85%89%E3%81%AE%E5%BD%BC%E6%96%B9%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%97%85%E7%AB%8B%E3%81%A1/item/29200-%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E7%AC%AC9%E7%AB%A0-%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%90%E7%AB%A0-%E6%82%94%E6%82%9F-%E7%AC%AC56%E7%AF%80%EF%BD%9E%E7%AC%AC60%E7%AF%80
”第60節
「まことにザカート・喜捨は、
恵まれない人、
貧しい人、
それを管理する人のため、
また人々の心を惹きつけるため、
隷属や借金からの解放のため、
そして神の道における戦い[ジハード]のため、
また道の途中で途方にくれた人々のためのものである。

これは神が定めた宗教義務である。神は賢く英明であられる」 (9:60)

一部の人々が、ザカートの分け前をくれと表明したことを受け、この節は、イスラムで義務とされるザカートの使い方について定め、こう語っています。「ザカートは、困窮にあえぐ人や生活力のない人、あるいは借金を抱え、それを返済する能力がない人に届けられる。また、旅のさなかで災難に遭い、途方に暮れた人にも配られる。非イスラム教徒をイスラムへと惹き付けるためにも、ザカートを費やすことができる。また必要とあらば、奴隷を買い、解放することもできる。もし戦いが起こったら、ジハードの経費のためにザカートを費やすことができる。もちろん、ザカートの収集とその支払いを請け負う人々への報酬も、そこからまかなわれる」

興味深いのは、コーランの中で、イスラムの喜捨のひとつであるザカートが、常に礼拝と共に取り上げられていることです。伝承では、礼拝が認められる条件として、ザカートの支払いが挙げられています。このことは、神と人々の結びつきを物語っており、人々との関係がなければ、神と関係を持つことなどできないということを意味しています。伝承によれば、神は富める者の財産の一部を貧しい人の権利だとしており、もし彼らがザカートを支払っていれば、この世に貧困は存在しなかったとしています。ザカートを分配する際、8つのザカートの使い方のどれかに当てはまる分配額が必ずしも平等である必要はなく、イスラムの統治者の監督の下、相応の分け前にEQ \* jc2 \* "Font:MS PGothic" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(あずか);与)るべきであり、必要であれば、多く支払われる権利があります。

ザカートは、社会の富のバランスを保ち、階級格差をなくすものです。ザカートは、人間の心に寛大な気持ちと友愛の精神を芽生えさせ、物質への執着を薄れさせます。ザカートは、社会保障の支えであり、おのずと知らず知らずのうちに貧困、借金、病気、その他の経済的な問題に陥った人に保障を与え、彼らに生きる希望を与えます。そうして、再び努力するよう奨励し、通常の状態に戻ることができるようにするのです。ザカートは、イスラムの指示のひとつであり、貧困を撲滅し、社会に公正を確立するための最良の方法です。

第60節の教え

・信仰の誠実さを表すのは、ザカートなど、義務とされる施しを支払っているか否かです。コーランは、ザカートという言葉の代わりに、サダガという言葉を使っていますが、それは嘘をつかないこと、誠実さという意味を持っています。

・ザカートを支払ったからといって、それを受け取る人に恩を着せてはなりません。ザカートは受け取る人たちのものであり、神がその分け前を定めています。

・統治政府が奴隷制度を広めようとしていた時代、イスラムは、奴隷の解放のために予算を定めていました。

・イスラムは、礼拝を行うだけの宗教ではありません。社会の経済問題に関しても様々な規定を設けています。”



お読みくださり感謝!