『沙門果経』(六師外道の出典)や『聖なる網の教え(梵網経)』(サンジャヤ・ベーラッティプッタ思想を含む)、無記などが収録されている『原始仏典 長部経典1』。不可知論とウナギ論の違い
Posted on 2023.05.21 Sun 20:47:11 edit
ミロク信仰を咎める法華経。植木雅俊『梵漢和対照・現代語訳 法華経』
『サンスクリット原典現代語訳 法華経』。マグダラのマリア、ベヨネッタ、ハンター×2、ファイアパンチ
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-479.html
今回の記事は、大乗ではないよ。
『沙門果経』(しゃもんかきょう)や、『聖なる網の教え(梵網経)』(サンジャヤ・ベーラッティプッタ思想が登場)などが収録されている『原始仏典 長部経典1』についてのメモなどの記事。
※本書のメモより上に書いた、メモ記事ができるきっかけが長いので注意。
※メモした箇所や、引用箇所(誤りがないか何度も確認したメモの個所)の着色は引用者
目次
前置き(なぜ本記事ができたのか)
『原始仏典 長部経典1』(『沙門果経』『聖なる網の教え(梵網経)』含む)備忘録(メモ)
参考資料
前置き(なぜ本記事ができたのか)
本記事はサンジャヤ・ベーラッティプッタの記述が非常に気になったので作成された。
気になったきっかけは以下の引用のうち、サンジャヤや不可知論関連の箇所。
シーア兄貴(イラソのアレ来世触手)2022/5/3~5/30と良呟きや記事の保管庫。うなぎ教(サンジャヤ)や、不可知論とハクスリーなどについて
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-478.html
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
いや…単純に「断見と常見の判断が厳しい」だけかと
仏教に置いての常見・断見の判断は「想起する・されるもの」で、する・されるものの最たるものが「死後」なのよ
死後に対しては誰もわからないんだけど、それに対して様々な人達が「判断」してきたわけ
で、経験論でわからないから無記と置いたのよ
午前4:21 · 2022年5月19日·Twitter for Android
5月19日
ところが、サンジャヤの極端なところは「経験や認識自体を無記」としたところ
効果としては経験・認識を無記と落とせば「想起されるものを全て殺しきれる」そこで殺せば、それ以上語る必要がなくなる
言葉の後に言葉を繋げないために、最初から言葉と言葉の関係を断ち切るのが彼等の教義
5月19日
これも文法学やっていればわかるんだけど
言葉というのはある・ないつくものとつかないものがあり
「ちんぽだ」と言えば、ちんぽです・ではないが生じる
または疑問や命令にすれば、ある・ないは生じないけど、それがちんぽであることが想起や上書きされたりする
コレをサンジャヤは止めたかったのよ
5月19日
まず、ある・ないを「拒絶」する
否定ではなく、拒絶するこれが一つ
そこから疑問が発生するが「拒絶」するので相手の想起と自分の想起を「殺し・拒絶」する
そうすると命令や断定が生じる、そこで「想起された事を再度殺し・拒絶」するの
非常に明確で、説明する事で起こる利益・不利益を拒絶するんよ
5月19日
要は断定する・しない事・疑問を呈したり・命令で判断するという様々な言葉の動きが利益・不利益を形成し
不利益・利益を追求してしまう手段として言葉があるので、その最たる手段を潰す事で解脱・輪廻から逃れられるのではないか
と、考察した結果がこの論法・思想になったんだと推測する
5月19日
判断中止というよりは判断自体が貧富を形成し、不安定な状態・世界を作り上げているので
その判断の元たるものを絶てば、貧富や不安定な状態から、安定したものへと移り変わる「態度」がああなったんでしょう
アレだけ口伝大好き・アーリアな連中よ、懐疑ではなく
口伝で起こる、不安定が対象よコレ
これねー、うちらでも伝承があって
口達者は資産を築き、唖は貧しいというのがあってね
形而上やそういう議論は、口達者な連中が考え・物語を作ってきたのよ
で、その口達者な連中の寝言を根っこから潰すのがサンジャヤの教義
勿論、幸せ・不幸すら生じさせずに常に「不動」となるのよ
午前5:23 · 2022年5月19日·Twitter for Android
(
ありがとうございます! なるほど、仮にこういう教えだったのなら舎利弗(シャーリプトラ)と、目犍連(マウドガリヤーヤナ)がウナギの弟子になってもおかしくない。釈迦の教え〔当時は仏教と呼ぶべきではない〕は意外とウナギと似ていたのかもしれないな。
ウナギは
「もし、あなたがあの世はあるかとたずね、
自分があの世は、あると考えたなら、あの世は、あると答えるであろう。
しかし、私はそうしない。
そうとは考えない。
それとは異なるとも考えない。
そうではないとも考えない。
そうではないのではないとも考えない。」と言ったらしいが他には以下について述べたらしい。
サンジャヤ・ベーラッティプッタ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%97%E3%83%83%E3%82%BF#CITEREF%E6%97%A9%E5%B3%B61982
”真理をあるがままに認識し説明することは不可能であるとする不可知論である[4]。形而上学的な重要問題に対して確答せず、判断を中止する態度を採った。懐疑論とも言える立場であるが、彼の態度は、抜け出すことの困難な形而上学的な難問を議論することの意義を問う判断中止(エポケー)の表明であると言える[5]。
彼は「来世があるのか」という問いに対し、次のように答えた[4]。
もしもあなたが「あの世はあるか」と問うた場合、わたしが「あの世はある」と考えたならば、「あの世はある」とあなたに確答するでしょう。しかしながら、わたしはそうしない。わたしはその通りだとも考えないし、それとは異なるとも考えないし、そうでないとも考えないし、そうでないのではないとも考えない。(『沙門果経』ディーガ・ニカーヤ)[4]
続いて、「あの世はないのか」「あの世はあり、かつないのか」「あの世はあるのでもなく、かつないのでもないのか」の問いに同様に答え、善悪二業の報いは存在するか、如来(人格完成者)死後に存在するのかについても、同じように判断中止の態度を示し、明確な答えを避けた[4]。このような彼の議論は、「鰻のようにぬらぬらして捕らえがたい議論」とも言われる[4]。
仏教学者の早島鏡正は、「人間の行為についての業論や霊魂論を、実践の本質を探究する面から捉えなおそうとしている点で、ジャイナ教や仏教に与えた影響は看過できない」と評している[4]。ジャイナ教の開祖マハーヴィーラは、サンジャヤの懐疑論は実践の指針にならないとして退け、知識の問題に関して「ある点から見ると」と限定して述べる相対主義(不定主義)を唱えた[6]。釈迦の無記(人生の救いに役立たない形而上学的な問いに、沈黙して確答を与えない考え)に影響を与えたとも考えられている[4][5]。
〔中略〕
最終更新 2022年1月21日 (金) 22:40 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
”
沙門果経 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%99%E9%96%80%E6%9E%9C%E7%B5%8C
”日本語訳
『世界の名著 1 バラモン経典 原始仏典』 中央公論社
『南伝大蔵経・経蔵・長部経典1』(第6巻) 大蔵出版
『パーリ仏典 長部(ディーガニカーヤ)戒蘊篇I』 片山一良訳 大蔵出版
『原始仏典 長部経典1』 中村元監修 春秋社”
無記 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E8%A8%98
”無記(むき、巴: avyākata, アヴィヤーカタ、梵: avyākṛta, アヴィヤークリタ)とは、仏教において、釈迦がある問いに対して、回答・言及を避けたことを言う。仏説経典に回答内容を記せないので、漢語で「無記」と表現される。主として形而上学的な[1]、「世界の存続期間や有限性」「生命と身体の関係」「修行完成者(如来)の死後のあり方」といった仏道修行に直接関わらない・役に立たない関心についての問いに対して、このような態度が採られた。
その数から、「十無記」(じゅうむき)、「十四無記」(じゅうしむき)、「十六無記」(じゅうろくむき)等とも呼ばれる。無記答(むきとう)、捨置記(しゃちき)ともいう[2]。
また、仏教では、倫理的価値を (1) 善、(2) 悪、(3) 無記の3つに分けるが、このうち「無記」は、「善とも悪とも記別することができないもの」をいう[3]。
〔中略〕
アーナンダ経
パーリ仏典無記相応のアーナンダ経では、釈迦はヴァッチャゴッタ姓の遊行者の以下の問いかけに対し、どちらにも黙して答えなかったと記されている[1]。
1. 我(attā)はあるか?
2. 我はないのか?
この問いに答えなかった理由は、あると答えれば常住論者(sassatavādā)に同ずることになり、ないと答えれば断滅論者(ucchedavādā)に同ずることになるからと説いている[1]。
一切漏経
パーリ仏典一切漏経では、我への愛着につながる「無駄な探求」として、以下の16の問いかけを挙げている[4]。
1. 私は過去に存在したのか?
2. 私は過去に存在しなかたのか?
3. 過去の私は何物だったのか?
4. 過去の私はどのようにあったのか?
5. 過去の私は何物から何物となったのか?
6. 未来に私は存在するのか?
7. 未来に私は存在しないのか?
8. 未来の私は何物となっているか?
9. 未来の私はどうなるのか?
10. 未来の私は何物から何者となるのか?
11. 私は存在してるのか?
12. 私は存在していないのか?
13. 私は何物なのか?
14. 私はどのようであるか?
15. 私はどこから来たのか?
16. 私はどこへ行くのか?
釈迦はこれらの思考は、常見、断見といった悪見につながると述べている。
十無記
パーリ仏典中部63経『小マールンキャ経』では、有名な「毒矢のたとえ」と共に、「十無記」について記述されている[5]。
釈迦が舎衛城の祇園精舎に滞在している際に、マールキヤプッタ尊者の中に、
1. 世界は永遠であるのか
2. 世界は永遠でないのか
3. 世界は有限であるのか
4. 世界は無限であるのか
5. 生命と身体は同一か
6. 生命と身体は別個か
7. 修行完成者(如来)は死後存在するのか
8. 修行完成者(如来)は死後存在しないのか
9. 修行完成者(如来)は死後存在しながらしかも存在しないのか
10. 修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか
といった10の疑問が生じた(上記の通り、対になる選択肢を統一すれば、実際は4つの疑問である)。
〔中略〕
といったことを考えていたとしたら、その人はその答えを得る前に死んでしまうのと同じように」「それらの答えが与えられてはじめて、人は修行生活に留まるということはない」「それらがどうであろうと、生・老・死、悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い・悩みはあるし、現実にそれらを制圧する(すなわち、「毒矢の手当てをする」)ことを私は教えるのである」「故に、私は説かないことは説かないし、説くことは説く」「先の疑問の内容は、目的にかなわず、修行のための基礎にもならず、厭離・離欲・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃に役立たないので、説かない」「逆に四聖諦は、目的にかない、修行のための基礎にもなり、厭離・離欲・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃に役立つので、説く」「この説かないものと、説くものとの違いを、了解せよ」と諭される。
〔中略〕
最終更新 2021年11月13日 (土) 04:10 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
”
「生命と身体は同一か」「生命と身体は別個か」は現代的に表現するなら霊魂と物質(肉体)のことだろうから、無記により霊肉二元論ではないことがわかる。霊肉が同じかとか違うかなんて考えたり論争するのはやめなさいってこと。
)
[中略]
来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
5月16日
基本、怒っているんだけど
わしが何に怒っているかはわかっていて「どうしようもない理由・そうでしかないという根拠がないのに『言葉が増えていく』事に怒っている」
考え方の土台が今年固まったので概論書でも書き始めるとか、考え始めたのは「言葉を減らす・統合するため」もう飽き飽きなんだ
5月16日
この前、同期と話した時からずっとブチ切れているんだけど
何で、半可通ほど「神秘主義やりたがるのはなんで?」
神秘なんてもんは、その言葉の真意の広がりが「限定でも、一般でもない事を直視『してしまった』時」にカツーンと落ちてくるもの
そうやって「神秘を殺戮・虐殺していく」のが神秘者なの
5月16日
例えばね
クルアーンの別名って、ジクル・キターブ・フルカーンの4つでこれ全部、一般的に解釈やるときはクルアーンと見做すんよ
んでね、クルアーンというのは4つ意味あることは前にいった
で、キターブの語根自体の意味は動物の皮と皮とつなぎ合わせてつくった布の事をカツブいう
5月16日
ジクルは思い起こす・口で呟きながら、忘れないようにする事をいう
フルカーンに関してはまだ調べていない
で、なんでこの4つがクルアーン扱いなのかは「一つにする・外にでてしまったものを最初へ戻す」などを意味しているんよ
5月16日
クルアーンは原初への根拠である
クルアーンは原初への言葉である
クルアーンは原初を集めた物である
クルアーンは原初への蒸着である
クルアーンは原初から編まれた物である
クルアーンは原初から刻まれた物である
クルアーンは原初を忘れさせない為に繰り返すものである
だから、クルアーンなのよ
5月16日
それ故に、クルアーンはその様々な様態と言葉を一つにした「ジャーミド・固有名詞である」のでクルアーン以外の表現が「できない」の
恐ろしいでしょ?
クルアーンという単語注解上「何で5つも意味があって、異音同意義語が存在する」理由がこれ
辞書と注解を見れば、神秘何ぞ幾らでも虐殺出来る
5月16日
わしが、今年でまた一段階昇れた気がするのは自分の中で「神秘でしかなかったものを殺せた」から
神秘主義者というのは、神秘者が殺したものを「著述する仕事」に過ぎないのよ
だから、シンボルとかの話になると速攻殺しにいくでしょ?
で、現代で最もモノを貰っている商売はそれを「増幅する仕事」
5月16日
増幅する仕事は尻と耶蘇のお得意の「悪行」
また「無記」はこの増幅と再生産・言葉やシンボルを留めると止める為にするんよ
で、12イマーム派はコレら全てを形而上・預言者・13人の無謬な人達に必着させる事で止めるの
しかも、その一人は「生きている」「統治し続けている」のである
5月16日
12イマーム派が理性や知性を行使する際は、その背景に必ず「生きている統治者の支配下」にあり
その絶対支配者から「見える形で許認可を受けた人しか、法判断ができえない」の
その絶対支配者はガディールの末裔であり、形而上・預言者・アリーの正統な末裔であるが故に「統治できる」のよ
5月16日
シーアという単語は力・親友・援助者などの意味があるんだけど
一般的には追従者を意味する
で、この追従という意味なんだけど、暗君・愚君・暴君に追従する時には用いない、預言者や啓示者に追従するときに用いる
即ち「形而上・預言者・正統な統治者に追従する人達をシーア」という
5月16日
また、このシーアという単語は単数であろうが、複数であろうがシーアと変わらないのである
要はね、シーアというのは形而上・預言者のスンナに臣従・追従し、それがガディールの誓いによって「アリーとその子孫」が追加されたから、この世界の統治者であるその末裔に臣従しているだけなんよ
5月16日
因みにアル・ガディールの伝承はサヒィーヒどころか、ムタラートルといって一切の伝承系統に瑕疵がなく、その上で80以上系統があんの
ムタラートルの場合は何か弱い系統や否定する伝承があったとしても、一切否定されない最も強いハディースなの
スンナ・シーア・異端派で例外でない限り否定されない
5月16日
勿論、アスバーブ・ヌズールといって、啓示された理由という学問やると一つ一つのアーヤ・徴が預言者とその家族にかかっているのがわかるんだけど
コレは自分自身わかっていない議論が大量にあるので、勉強をもっと進めてから触っていこうとおもふ
ほんと、日本語ではイスラーム存在しないよ マジ
(
何で、半可通ほど「神秘主義やりたがるのはなんで?」ってそりゃあ、
わからないから好き放題言えて気持ちいいからでは?
スピ系とかそれが顕著。
スピ系の神道カルトが超古代と縄文が大好きなのと同じですな。仏教や儒教が無い時代なのも理由だけど。
縄文って普通に争いがあるし人が人を56しているってわかっているのにね。栄養状態も悪い。
そういや、縄文信者かつ玄米菜食主義者っているけどさ、縄文時代って玄米を食べてないんだよね(笑)
ごく一部では食べていた可能性はあるけど。
縄文人の男性平均身長は158cm、女性平均身長は149cmらしいのだが、これって栄養が足りてなかったんじゃないの?
健康的か? 遺伝子組み換えとかはないが、健康的かと言われると疑問だな。
縄文時代にも争いが普通にある証拠↓
https://twitter.com/wolvesknow/status/784339891161337856/photo/1
”狼たちは知っている
@wolvesknow
昔は人民の争いはなかったとのtweetが流れてったが。いつの時代の話だろう?縄文時代として中学歴史には矢が幾つも刺さった人骨とバリケードで防御する村の写真が載ってる。大和国家では鎧やカブトが古墳から出土。いつの時代の話なんだろう?
画像
午後7:29 · 2016年10月7日·erased1064506”
(
おそらく教科書の画像。同じ呟きの埋込版は本記事内にある)
わからないから好き放題言えるからこそ、それを防ぐために何が神秘でないかの確認作業とか、顕教をしっかりやるとかが必要なのだが、ああいうのは「気持ちよくなりたい」が神秘の探求より優先されるのでどうしようもないんだよな。
そんなに簡単なら、インドの行者が聖典と解釈を学び、山に籠って体を変な方向に曲げて特殊な呼吸したり瞑想したりなんてしないでしょ。
私はウナギ〔サンジャヤ以下略のことね〕はある程度は評価している。極端すぎる無記だけど無記〔無用な論争を避け、言葉を増やさない〕なので。まあ極端すぎて駄目なんだけどさ。あのウナギについてもっと教義のことを残してほしかったな。なぜウナギ教になったのかの理由が知りたいんだよな。あのウナギ自身にウナギ思想に至った根拠と過程を書いてほしかった。六師外道の記録ってなぜそのように考えるに至ったかまで仏典では残してくれない〔だって仏教じゃないもん〕し、当時は文字に残す文化じゃなかったからなあ〔ウナギの後継者がいたかもよくわからない〕。舎利弗(シャーリプトラ)と、目犍連(マウドガリヤーヤナ)はウナギの弟子だったのだから、記録に残っている教義以外で2人が惹かれるほどに優れた箇所があったと思うんだよな
)
[中略]
来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
でた、科学的手法
科学は暫時の判断はできるけど、経常なる判断は出来ない
周波数のふれは生きている・音が動いているから出来るもの
では、そのふれの基準はどこから発生したのかを答えられないのが科学
だから、形而上を「もの」にすんなとずっといってる
午前1:04 · 2022年5月14日·Twitter for Android
(
以下についてだろう〔本記事の一番下にある〕。もしかしたら以下ではなく科学的手法による宗教批判の何かを見たのかもしれない(そういうの多いからな)。
https://twitter.com/KoderaMito/status/1524047136949944325 と続き
”Mito Kondoria
@KoderaMito
「すばらしい新世界」で知られるオルダス・ハクスリーの兄、ジュリアン・ハクスリー。
FRS(王立協会フェロー)の一員。
進化生物学者、優生学者、英国優生学協会の代表、国際主義者、ユネスコ初代事務局長、WWF創始者の一人。初代英国ヒューマニズム協会会長。
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午前0:22 · 2022年5月11日·Twitter for iPhone
「神は多分いない」
ヒューマニズム協会は世俗的ヒューマニズム(secular humanism) の信条「盲目的な信仰のかわりに、科学的な手法による真実の追求」が奨励される。
世俗的ヒューマニストの中には、アシモフやアーサー・C・クラーク、バートランド・ラッセル、ノーム・チョムスキーなど。
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午前6:14 · 2022年5月11日·Twitter for iPhone
”
初代英国ヒューマニズム協会会長がオルダス・ハクスリーの兄ジュリアン(優生学者、英国優生学協会の代表)である時点で駄目じゃん。
”「盲目的な信仰のかわりに、科学的な手法による真実の追求」”ねえ。
ヒューマニズムって人間中心主義つまり、「俺たちがゴッド〔選別者〕になる」って意味ね。
科学的な手法ってつまり、「観測機器で感知できないものは扱わない」、
「ゴッドなど人を超えた存在を扱わない
(扱わないだけだよ。だから科学でゴッドの存在を否定できないし存在証明もできない)」ってことだぞ。
つまり、科学で宗教を分析するのは大変慎重でないといけないってこと。
上記のシーア兄貴の呟き通りだよ。
「科学的な手法でゴッドのように支配したい」が本音だろう。
agnosticism(不可知論と訳されるがゴッドの実在が前提。グノーシス否定なだけ)であるT.H.ハクスリーの方がマシじゃん。
マシといってもこういうヒュー魔ニズム誕生のきっかけの1人がこいつだけどな!
で、”ヒューマニズムって人間中心主義つまり、「俺たちがゴッド〔選別者〕になる」”の話に戻る。
この思想も神痴学が起源↓ 少なくとも強まったのは神痴学のせい。またかよ。
以下の、
「ダーウィンの進化論において「人間は動物から進化した」と唱えられたことにより、両者の違いは絶対的なものではなくなってしまった。また、その反面、「人間がもっと進化することができれば、神にもなれるのではないか」という発想が呼び込まれることになったのです。生身の人間が、進化して神になったり、退化して動物や悪魔になったりする。」
がヒューマニズム〔中身は選民思想による恣意的な選別〕ね。
ダーウィンの進化論って「どこかが強くなって、どこかが弱くなる」ってことだぞ? 全体が全て強くなることはないんだぞ?
人間が腰痛に悩まされるのって二本足で立つようになったからだぞ? で、二本足で立つのも進化(生物的には変化という意味でしかない)の結果だぞ? それを改悪して霊性進化論では「全てにおいて強くなる(段階が上がる)」という意味になっている
(根拠は、霊性が上がることで生じる弊害について書いた信者の記述を見かけたことがないから)。
ダーウィン思想ですらないわけよ。ぶっちゃけ霊的カーストを作るのに利用されただけだな。
まあダーウィン家も相当怪しいんだけどな!
なぜ人間はオカルトにハマってしまうのか? 『現代オカルトの根源』の著者、大田俊寛氏に聞く
https://toyokeizai.net/articles/-/18156
"「霊性進化論」は、本書の副題にも挙げられていますが、どのような思想を指すのでしょう?
その端緒と見なされるのは、19世紀後半、ロシアの霊媒ブラヴァツキー夫人が創始した「神智学」というオカルト思想です。彼女は『シークレット・ドクトリン』という著作において、ダーウィンの生物学的進化論に対抗し、「根幹人種論」という特異な進化論を提唱しました。それによれば、地球上で人類は、第1から第7まで、7つの根幹人種を経て段階的に進化する。そして人間は、ひとつの生物種として肉体的に進化するのみならず、その「霊性」もまた進化するのだと唱えたのです。
さらにブラヴァツキーは、人類の中には「神人」に進化しうる種子が含まれている一方、霊性の次元から目を背けて「動物化」する人間もいる、という二元論を立てたのですね。私はこうした考え方を「霊性進化論」と呼んでいます。
(中略)
神智学に代表される近現代のオカルティズムにおいて特徴的なのは、「進化」という概念が重要な役割を果たしていることです。キリスト教が支配的であった近代以前の世界観においては、人間は「神に似たもの」として創造された地上の支配者と位置づけられ、人間と動物との間には絶対的な違いがあると考えられていました。
ところが、ダーウィンの進化論において「人間は動物から進化した」と唱えられたことにより、両者の違いは絶対的なものではなくなってしまった。また、その反面、「人間がもっと進化することができれば、神にもなれるのではないか」という発想が呼び込まれることになったのです。生身の人間が、進化して神になったり、退化して動物や悪魔になったりする。「進化」という概念を媒介することによって、従来の二元論がより具体化・先鋭化されたところに、現代オカルティズムの特色があると考えています。
(中略)
――進化論の影響がオカルト思想にまで及んでいるとは、驚きです。日本では1970~80年代にオカルトブームがあり、現在もスピリチュアルがはやっています。日本にスピリチュアリズムが入ってきたのはいつ頃なのでしょうか?
本書でも触れたように、日本におけるスピリチュアリズムのパイオニアと見なされているのは、戦前に活躍した浅野和三郎という人物です。彼はもともと英文学者であり、その素養を生かして、世界のスピリチュアリズムの動向を積極的に日本に紹介したのですが、すでに彼の思想にも、神智学からの影響をうかがうことができます。
浅野は1923年に「心霊科学研究会」を設立し、その組織を中心として、日本社会にスピリチュアリズムの考え方が普及していきました。ちなみに、「スピリチュアリル・カウンセラー」として有名な江原啓之氏も、その系統に属する人物ですね。
1960年代から80年代にかけて急成長した宗教団体のひとつに、高橋信次という人物が設立した「GLA」があります。この団体の教義は、スピリチュアリズムと神智学を融合させることによって成り立っていました。オウム真理教を創始した麻原彰晃は、若い頃、高橋信次の著作を愛読していたことで知られています。
(中略)
麻原の世界観では、人類全体が2つの種類に大別されていました。ひとつは、自らの霊性のレベルを高め、超人類や神仙民族と呼ばれる存在に進化する「神的人間」であり、もうひとつが、物質的欲望におぼれ動物化していく「動物的人間」です。麻原の見解によれば、現在の世界は「動物的人間」がマジョリティを占めており、他方、「神的人間」はマイノリティとして虐げられている。この構図を転覆しようというのが、「種の入れ替え」という言葉が意味していたものです。
(中略)
オウムの世界観においても、「神への進化」と「動物への退化」という霊性進化論的な二元論が、極めて根幹的な役割を果たしていたのです。
”
擬神化(霊性進化(笑))の帰着は上記で書かれている通りだよ。優生学的選別によるオーム(創造・維持・破壊)だよ。
ヒュー魔ニズム狂怪がやろうとしているのは「科学的な真実(笑)=優生学」に基づく、オウムやったような選別だよ(優生学信者がいる時点でやることの方向性は決まっている)。
オーム教(既存の体制を「破壊」→都合の良い新秩序を「創造」→新秩序を「維持」のバラモン由来のサイクル狂)はマジで害悪だな。
ヒュー魔ニズム狂怪もオーム教なんかだから、「盲目的な信仰のかわりに、」とほざいているくせに、盲目的な信仰をしてんじゃん。信仰対象が優生学という科学じゃん。
浅野和三郎は大本教の幹部だった奴ね。また大本教かよ。和風スピリチュアル部隊が大本教系。
経常=「常」に一定して変わらないこと。平常。
)
[中略]
来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
管理や所得となる個人の資質を「個性」といい
管理できない・所得とならない個人の資質を「障害」いってきているんだけど、わかってる?
言葉にはね、善悪ないの天秤が0の状態なんだけど
でも、立場と見解で善悪の天秤が動き、その軸によって軽重が動くんよ
専らあんたらは動いた所しかみてないの
午後2:57 · 2022年5月13日·Twitter for Android
もう無理に「分類して、命名し、意味を与える」のをやめなよ
想像の創造が止まらないのはわかるんだけど、アンタらが何かを命名しようとすると、大体「ラテン語とかに取り憑かれる」でしょ
今ある、ギリシャ→西洋哲学とかの解説だって「誰の解説書が主」よ?
言葉は状況で意味が七色変化するんだよ?
午後3:23 · 2022年5月13日·Twitter for Android
5月13日
多分、耶蘇とイスラームの違いは不動の動者とヴァージェブ・ウジュード・必須存在という「言葉と判断の違い」
必須存在は「生存して、不動」でわしらのような「生存して、動態」ではないの
即ち、翻訳が間違っているか・解説者が間違っているか・その師匠が間違っているか・学派が間違っているかなの
5月13日
こういうのはね、わしみたいにスタータパック・ウムーム・教養過程からやっていると
諸派によって、見解違いがかなりあるのがわかるんよ
で、恐らくはその見解違いを無視して突っ走っているか、その分派の判断だけみているかでしかないのよ
それやめれ、言うているんだけどねぇ
5月13日
分類して、命名して、意味を与えると「個人や団体の学者や研究者の名前が残る」の
コレが地獄の創造ね
で、この欲求は「阿闍世」といった相当修業した僧侶でも贖えない欲求なの
とすれば、毎年辞書が厚くなる理由がわかるだろ
(
え、アジャセ? 阿闍梨(あじゃり。仏教の先生〔つまり基本的に高僧〕)の方だな。
アジャセは頻婆娑羅(びんばしゃら。Bimbisāra)王を殺して王様になって、後に歴史的な釈迦〔法華経的な意味ではない〕の教えに帰依した人。
阿闍梨(あじゃり)の意味 - goo国語辞書
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E9%98%BF%E9%97%8D%E6%A2%A8/
” あじゃり【×阿×闍▽梨】 の解説
《(梵)ācāryaの音写「阿闍梨耶 (あじゃりや) 」の略。教授・軌範・正行などと訳す》
1 弟子たちの模範となる高僧の敬称。あざり。
2 密教で、修行を完了し、伝法灌頂 (でんぽうかんじょう) を受けた僧。また、伝法灌頂の職位を受けた、天台宗・真言宗の僧。あざり。
3 勅旨によって修せられる法会を執行する僧。
”
阿闍世とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E9%97%8D%E4%B8%96-424688
”
あじゃせ【阿闍世】
(Ajātaśatru の音訳) 古代インドのマガダ国の王。父王ビンビサーラを殺し、母后を幽閉して王位につき、マガダ国をインド第一の強国にした。後年釈迦の教えによって仏教に帰依し、仏教の熱心な保護者となった。アジャータシャトル。〔観経疏‐序分義〕
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
デジタル大辞泉「阿闍世」の解説
あじゃせ【阿闍世】
《〈梵〉Ajātaśatruの音写》前5世紀ごろのインドのマガダ国王。父の頻婆娑羅王を殺して王位に就いたが、のち釈迦の教えに従い、仏教教団の保護者になった。アジャータシャトル。
出典 小学館デジタル大辞泉について”
)
来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
天皇から人性をきり離してこなかったから、ずっと古代やってる
もう飽き飽きなんだ、日本語表現下での苦しみの全てがここから始まっているのに無視している
結局、アンタら「偶像になりたいだけ」でしょ?
画面だったり、文字だったり、映像だったりでね
一元・二元・多元はイメージから生じてるんよ
午前2:46 · 2022年5月13日·Twitter for Android
(
2013-01-20
仏教とヒンドゥー教の哲学上の相違についてまとめ
仏法
https://lipoyang.hatenablog.com/entry/20130120/p1
”目の前にある何か(人でも物でもなんでもいい)について、それがどういうものであるか列挙してみよう。例えば「御坂美琴」は「ツンデレ」であり「女子中学生」であり「科学サイド」であり「レベル5」であり「エレクトロマスター」であり「常盤台のエース」であり「短髪」であり… この場合、「ツンデレ」や「女子中学生」といった属性をインド哲学ではダルマ(dharma,法)と呼び、それらのダルマを有する「御坂美琴」という個体をダルミン(dharmin,有法)と呼ぶ。
〔画像省略:
御坂美琴がダルミン。
ツンデレ、女子中学生、科学サイド、レベル5がダルマ〕
では、「御坂美琴」から「ツンデレ」や「女子中学生」や「科学サイド」といった属性をすべて剥ぎ取って素っ裸にしたら(*´Д`)ハァハァ 、そこに何が残るだろうか?
「御坂美琴」の存在の核たる何かが残る。無色透明な「たましい」のような何かが有る、と考えるのがヒンドゥー教である。ヒンドゥー教ではそれをアートマン(ātman,真我)と呼ぶ。アートマンはなにものでもない。「〜である」という説明はすべてダルマであって、ダルマをまとう核たるアートマンではありえない。なにものでもなく、なにものにもなりうるのがアートマンである。GHOST IN THE SHELL でいう「ゴースト」である。そして、アートマンはなにものであるかを超えて不滅であり、宇宙の根本原理であるブラフマン(brahman,梵)と一体であると説く。これを梵我一如(ayam ātmā brahma)という。自分の内にある自分の本体は世界そのものの本体に通じていると。まあ、今風に言えば「セカイ系」な思想である。
いっぽう、何も残らないと説くのが仏教である。「御坂美琴」とは「ツンデレ」や「女子中学生」や「科学サイド」といった無数の属性の集合体にすぎず、それらを離れたところに「御坂美琴」の本体など無い。これを諸法無我(sarva dharma anātman)という。諸法無我は三法印(trilakṣaṇa)のひとつであり、仏教の基本中の基本である。たとえばブドウ糖C6H12O6が炭素と水素と酸素の化合物であって、ブドウ糖という不滅の実体など無いように、「御坂美琴」も「ツンデレ」や「女子中学生」や「科学サイド」といったダルマの化合物であって、「御坂美琴」という不滅の実体など無い。有ると考えるのは妄想にすぎない。ヒンドゥー教の悟りがアートマンの実在を悟る「自分さがし」であるとするなら、仏教の悟りはアートマンの不在を悟る「自分なくし」である。
〔画像省略。とあるブッダの涅槃寂静(ニルヴァーナ) と書いてある〕
そのため、仏教はヒンドゥー教正統派からはしばしば虚無主義(ナースティカ,nāstika)呼ばわりされてきた。ブラフマンとアートマンの不滅を説くヴェーダ(veda)の教えを否定する異端のニヒリストめ、と。しかし、仏教はけっしてニヒリズムではない。そもそも「あるある!」とか「ないない!」とかいう極論をしりぞけるのが仏教のスタンス、中道(madhyamā-pratipad)である。永遠不滅の「御坂美琴」が実在するというのも極論。「御坂美琴」なんてどこにも存在しないというのも極論。さまざまな偶然と必然からダルマが寄り集まって、「御坂美琴」は一時的な存在として、しかしたしかに存在している。ブドウ糖が炭素と水素と酸素の化合物であって、燃焼したら水と二酸化炭素になるからといって、いまブドウ糖が存在しないということにはならない。この世の全ては夢まぼろしのように儚いものかもしれないが、われわれにとってその儚い夢まぼろしこそ全てである。
この一見すると否定にみえるけどじつは肯定しているツンデレ論理こそが仏教の真髄だと思う。諸法無我とは「すべての存在に実体は無い」というよりは、
「か、かんちがいしないでよねっ。すべての存在に実体なんて無いんだからっ!」
というニュアンスである。
〔画像省略。
プラトンの上にダルマ、アリストテレスの下にダルミン とある〕
ところで、このダルマ/ダルミンの議論を見て、西洋哲学かじった人なら気づくと思うけど、古代ギリシアのプラトン、アリストテレスから中世の実念論VS唯名論に続く議論とそっくりである。まったくインド人とヨーロッパ人は親戚。同じ穴のムジナというか、同じユーラシアのインド・ヨーロッパ語族である。しょうじき、日本人の自分にはこんな議論はまったくどうでもいいと思う。(^^;)
”
モロに存在と存在性の議論じゃん。さすがインド思想。
「~である」と言ったら、というか言えたらアートマンではない。
ギリシャ哲学にはインド哲学の影響があるんだから当たり前じゃん。
)
来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
5月12日
いや…意識は六識の一つに過ぎず、五識・色を統合したり、誤魔化したりするんだけど
その意識以前には七識・八識があり、八識のアーラヤ識となるとその種子そのものなので種子そのものを意識する事叶わず、それは物質ではないんよ
偽科学程「物質と認識を一体にしたがる」のは何なんだろうね
5月12日
イスラームでは、意識していないというよりは「忘れている」だったり、あるものがその有り様であるのに「見ないようにしている・隠している」という
ペルシャ語だと
حق می بیند اما کتمان کند
で、終わるんだけどね
後はシャイターンに「着せられている」という言い方もあり
だから、無意識ではないの
5月12日
全部意識しているんだけど、その意識の段階に差があるのよ
確実に六識しているもの・大体・半分半分・全くとわかれるだけで、無意識と判断しない
神学に置いてはひじょーにひじょーにひじょーに非常に重要な部分で
この世界の統治者の存在と関わってくるのよ、コレに気づいたのもマジ最近
5月12日
要は存在している、この世界の統治者をどっかでみているんだけど
わしらは「その存在だと、確信していない」なぜなら「その存在の存在『性』しか知らない」からだ
で、存在「性」を集めてもその「存在」自体とはならない
だから、七・八識の段階でイマーム・世界の統治者を見ないといけんのよ
5月12日
すがす、その段階で「見れる」には鍛錬と様々な存在「性」を深めていった上で「相手が現れて、許可を貰わない」といけず
で、そこで見たイマームは「確実にかの存在でしかない」のよ
そこまで至って、確信・確実をやっと獲得できるの
意識と無意識というよりは霧が晴れていくというべきなんだろう
5月12日
その段階までいくとタスリィーム・何をしても矩を超えない状態なので、何をしてもイスラームとなる
すべての行い・言動・考えから何から何まで、イスラームそのものとなり
何をしても義務と推奨行為・ヴァージェブとムシタハッブとなり、一切の罪・それに関係する事がその人にはないのよ
5月12日
で、この境地が神秘主義者・一般的な法学者として最高の境地となんの
前も言ったね、顕教やっていれば勝手に密教もついてくると
ところが何でもかんでも物質や表象・現象に繋げたり、その逆だとしても、迷妄の穴に嵌まりこむだけ
無学って、学もどきに騙されるから無学という事もあんだけどね
(
グーググ〔ジャソプ漫画のすごーいスマホが元ネタ〕翻訳だと
حق می بیند اما کتمان کند
は「彼は真実を見ますがそれを隠します」って出た。
以下をRTしたことについて。動画は面白かった。面白かったと同意は別なのに注意ね。
意識・無意識だとフロイトと電波ゆんゆんぐ思想の枠組みだもんな。
リツイート済み
日坂あいや
@aiya0710
·
5月9日
人間の意識には
行動を決定する能力は無い
って興味深い話だなあ
【ゆっくり解説】人間に「意識」が存在する本当の理由
youtube.com
【ゆっくり解説】人間に「意識」が存在する本当の理由
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ghksdajfalksvlajsdhgq
@ghksdajfalksvl1
5月9日
(霊魂を含めた)主体的意識を否定する受動意識仮説は知っていたけれど、
それではなぜ意識が存在するのかっていうのは
確かに考えたことなかったな
https://youtube.com/watch?v=09pUUstB_Rs
日常の出来事を
記憶可能な形に情報圧縮するため
という説があるのか...
youtube.com
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shog
@shogos99
·
5月8日
受動意識仮説に関する素晴らしい解説。
無意識とは脳の各所で発生した小規模な脳の働きであり、瞬間の判断は無意識が行っている。意識は遅れて体験しているだけ。
しかし意識があれば、クオリアを用いて効率的なエピソード記憶・意味記憶を行い、長期的な判断ができる。
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ネリス
@cott_age
·
5月9日
もし「意識」が無かったら、会話は一言一句完全に暗記し、食事は味だけじゃなく値段とか材料とかを全部記憶してしまう。脳があっという間に容量オーバーになるので、人間は意識でまとめるようになってるんだな。
【ゆっくり解説】人間に「意識」が存在する本当の理由
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〔
上記の動画で私はカントの統覚を想起したのでカントについてもRTした。
〕
リツイート済み
TAKEMULA_Hiloshi
@takemulahiloshi
1月29日
日本国語大辞典は「とう‐かく【統覚】」を二つにわけて説明している。カント(の日本語訳)に出てくるそうなので、熊野純彦訳『純粋理性批判』の事項索引を覗いた。ありがたや「とうかく(Apperzeption)」(831)がある。
「自己自身の意識(統覚)は『私』という単一な表象」(96)。
引用ツイート
TAKEMULA_Hiloshi
@takemulahiloshi
· 1月29日
日本国語大辞典「とう‐かく【統覚】」は「①心理学で、表象が意識にはいってはっきりした知覚になったもの。また、その働き。」と説明している。「無意識的な統覚的習慣」とは「表象が意識にはいってはっきりした知覚に」する過程が無意識になされる? https://twitter.com/takemulahilosh
リツイート済み
Kawakita Chikako / e-presence
@e_presence
·
2018年4月30日
初めて出会った言葉で感覚が広がった!
ーーーーーーー
【統覚】 〔ドイツ Apperzeption〕
カントの哲学で,多様な経験を総合して可能にする意識の統一性(超越論的統覚)。
リツイート済み
友田 幾大
@tmddy111
2011年8月3日
返信先:
@miyai15さん
@miyai15
空間、時間的直感能力(感性=Sinn)、それらの概念的把握つまりカテゴリーによる統合(悟性=Verstehen)、それら意識作用の統覚=Apperzeption これらの能力を純粋につまり先験的に前提とする
〔
統覚(とうかく、独: Apperzeption、英: apperception)は、近代ラテン語の
adpercipere(ad-「の方へ、に向かって」
+percipere「獲得する、知覚する、理解する」)に由来。
方向性がある。
〕
リツイート済み
子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子)
@kitsuchitsuchi
·
2017年12月27日
返信先:
@kitsuchitsuchi
さん、
@kikuchi_8
さん、他5人
『純粋理性批判』
認識には、習慣で作られた信念ではなく
それ以外ではありえないような型がある。
認識の前提となる鋳型・形式がカテゴリー。
この12種類のフィルターを通れないものは認識できない。
カテゴリー(範疇、純粋悟性概念)で感覚情報を統一して
はじめて「客観的な現実」として認められる
リツイート済み
友田 幾大
@tmddy111
·
2011年8月3日
返信先:
@miyai15さん
@miyai15
空間、時間的直感能力(感性=Sinn)、それらの概念的把握つまりカテゴリーによる統合(悟性=Verstehen)、それら意識作用の統覚=Apperzeption これらの能力を純粋につまり先験的に前提とする
[中略]
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%BF%92%E6%B0%97
”じっけ/習気
何らかの存在や行為により、その場に残される影響をいう。特に煩悩を断じたのちも残存する煩悩の余勢を意味する。Ⓢvāsanāの訳語。伝統によって、「じゅって」「じゅっき」「じゅっけ」などとも読む。単に習ともいう。『大智度論』二七(正蔵二五・二六〇下)では難陀尊者が淫欲の習気のために阿羅漢道にあっても女性を意識したことなどを挙げる。声聞や縁覚には完全に断ずることはできず、仏のみこれを滅するという。習気に対し煩悩そのものは正使という。法相宗では阿頼耶識に熏習された染浄法の種子のこと。『成唯識論』二には「種子とは既に是れ習気の異名なり。熏習するに由て有り。麻の香気の華を熏ずるが故に生ずるが如し」(正蔵三一・八中)という。また『成唯識論』八(正蔵三一・四三中)によれば名言習気・我執習気・有支習気の三種に分類される。
(略)
【執筆者:小澤憲雄】
このページの最終更新日時は 2018年3月30日 (金) 06:26 です。
プライバシー・ポリシー
新纂浄土宗大辞典について”
[中略]
来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
いや…科学って、上導集合なので次の瞬間「その集合が崩れる事がある」がないと科学にならんのですよ
しかも、それは不可知論とかではなくて、結果として今までの集合が崩れる「だけ」であって
不可知を「選択」している時点で、意志と決定があるわけです
不可知なのに決定しているなら、矛盾でしょ
午前1:30 · 2022年5月3日·Twitter for Android
5月3日
お釈迦様の反駁相手・6師外道に不可知論者いたけど、どう反駁している?
そんなの、手塚結社虫と法華系キリスト教のゴータマ像読めばわかるだろ
現代に残っている不可知論系の宗派だって、反駁に対抗するべく、極端な見解は切り捨てている筈よ
田舎ものの愛恥学振り回して、脳死で持ってくんな
5月3日
この世界の存在を見ることは叶わなくて、常に存在「性」
ある・ないは存在自体にかかるのではなく、存在「性」にかかるわけ
例えば、男はちんこあるけど、まんこはないね
で、そのちんこ「性」で再度ある・ない分けるよね
時には、ちんこ自体にまんこ「性」与えるよね
で、存在してのちんこは何処?
5月3日
不可知論というのは、ちんこかもしれないし・ちんこではないかもしれないという「ちんこ性を選択している」立場
無神論はちんこなんぞないという「ちんこ性を選択している」立場
信条論はこれらを「性質を『与えることでしか判断』出来ない愚か者」と断じるのよ
そんなゴミ持ってくんな言うわけ
5月3日
なーんでこういう事起こるかというと、単語述解・読解・成り立ちから勉強してないから
既存のある言葉「借用仕切れているか、判断せずに落とし込んでいる」ので生じているのよ
その上でその議論がどれだけしょうもないものか、判断する「全体知」がない
二百年ずーっとコレ、アホかアンタらは
5月3日
言葉とその定義を疑え・確立してから議論せよ
って、全ての基本・お約束よ?
できない人おおいけどさ
(
以下に対してだろうな。
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳さんがリツイート
Masahiro Hotta
@hottaqu
2019年12月21日
不可知論と、唯物論や無神論とは、全く別ものだということも世間の人々には伝わりにくいことらしい。物理屋の中にも「唯物論が当たり前」と哲学者に不用意に語ってしまって揚げ足を取られる人もいる。科学で言及できるのは不可知論であって、唯物論や無神論はその人自身の信念以上のものではない。
〔
科学では観測できず、数値化できないなら扱えないんだよなあ。なお、観測できないのと存在しないは同義ではない。
なので、ゴッドの実在も非実在も科学では証明するのは不可能。
上記の「不可知」が「観測装置にひっかからない」という意味ではなさそうだ。単に扱えないと言ったら正確だったな。
〕
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳さんがリツイート
脱原発.com @ 改憲阻止☭☭☭
@battlecom
2017年11月8日
返信先:
@ALIEN_M31NGC224さん
近代科学の一つの思想根底にある哲学的唯物論に至る思想の歴史が日本にはないため、唯物論を物質主義と勘違いしているバカが日本には多い。共産主義者までそうだから困る。日本の理系を中心に不可知論がまだ生息している点でその勉強不足は目も当てられない。彼らは思い込むだけでそうなるようだ。
(
「田舎ものの愛恥学」とも言っているし、これも含めているだろうな)
https://twitter.com/madaraiguana/status/1521086194494640129 と続き
”なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
神の存在証明
https://twitter.com/madaraiguana/status/1306008885501796352?t=2hGoBGO41daBhC-PTy7FDw&s=19
実相と仮相
https://twitter.com/madaraiguana/status/1363093374467641344?t=2hGoBGO41daBhC-PTy7FDw&s=19
実在論と観念論
引用ツイート
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
· 2020年9月8日
なぜならば、
(B)に答えるためには、「物理学とは?」の議論が必須で、これには実在論と観念論の完全な理解が要請される
最初の「(B)のボタンの掛け違え」は、
ギリシャ哲学(プラトン+アリストテレス)の次の二つの側面
このスレッドを表示
午後8:16 · 2022年5月2日·Twitter for Android
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
@EpisodeNeo
@Agito_Ryuki
無神論と不可知論ってどこがどう違うの?
btcmatters.hatenablog.com
無神論と不可知論ってどこがどう違うの? - E.N.R. クリプトモネダス
無神論と不可知論の違い。併せてグノーシス主義にも簡単に触れる。100%確信がある人はグノーシス、ない人は不可知論者だが必ずしも無神論者とはいえない。
午後10:46 · 2022年5月2日·Twitter for Android
〔
Deep Forest
@EpisodeNeo
·
5月3日
こういう事を自分の貴重な時間を使って教えてくれるの感謝しかない。
ありがとうございます。
引用ツイート
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
· 5月2日
@EpisodeNeo
@Agito_Ryuki
無神論と不可知論ってどこがどう違うの? https://btcmatters.hatenablog.com/entry/atheism-versus-agnosticism
このスレッドを表示〕
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
神様は居ると言うことにしないと理屈が通らないと考えるので私は有神論者と言うことになります。
感覚では分からないので不可知論者でも有ります。
引用ツイート
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
· 5月2日
@EpisodeNeo
@Agito_Ryuki
無神論と不可知論ってどこがどう違うの? https://btcmatters.hatenablog.com/entry/atheism-versus-agnosticism
このスレッドを表示
午前0:49 · 2022年5月3日·Twitter for Android
不可知論という言葉を発明したのはオルダスハクスリーのじいさんなのね。なんだ一気に信憑性無くなったわ。
引用ツイート
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
· 2019年11月15日
オーウェルもハクスリーもウェルズもフェビアン主義者。
フェビアン主義
https://kotobank.jp/word/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9-123200
抜粋
「フェビアンたちは、資本主義社会における階級分裂や搾取の事実を認めているが、国家を階級抑圧の機関とみる階級国家論をとることなく、国家の中立性を信ずるのである。
このスレッドを表示
午後6:48 · 2022年5月3日·Twitter for Android
〔
「不可知論という言葉を発明したのはオルダスハクスリーのじいさんなのね」は午前1:30 · 2022年5月3日より後だな〕
〔
来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
いや…科学って、上導集合なので次の瞬間「その集合が崩れる事がある」がないと科学にならんのですよ
しかも、それは不可知論とかではなくて、結果として今までの集合が崩れる「だけ」であって
不可知を「選択」している時点で、意志と決定があるわけです
不可知なのに決定しているなら、矛盾でしょ
午前1:30 · 2022年5月3日·Twitter for Android
)
(
ハクスリー家の者が英語での呼び名agnosticismを考えたことは私が書いて公開しようと思ったのだが、先に言われてしまったな。
後述する。
)
(上の前提というかきっかけになったのも引用しておく)
〔
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳さんがリツイート
Deep Forest
@EpisodeNeo
5月2日
ジャガイモが神だから
有神論かな~。
無神論
世界観の説明に神の存在、意思の介在、宗教のような精神的、超自然的、または超越的な概念などが存在しない、または不要と主張する考え方。
不可知論
ものごとの本質は我々には知り得ず、認識することが不可能であるとする立場。
引用ツイート
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
· 5月2日
@EpisodeNeo
@Agito_Ryuki
無神論と不可知論ってどこがどう違うの? https://btcmatters.hatenablog.com/entry/atheism-versus-agnosticism
このスレッドを表示〕
〔
上記の前提も載せておく。
https://twitter.com/madaraiguana/status/1520987819061411840 と続き
”なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
お稲荷さんはお米の神様。
ヒツシヒツジ馬鹿にするけどあれだって人類の糧になって下さったから奉られてるんだよ。
ヨーロッパは犠牲になって下さった命を供養しましょうって儀式を願いを叶えるために生贄を捧げましょうって魔術に変換してしまったんだよね。目的が手段になってしまったんだよね。
引用ツイート
Deep Forest
@EpisodeNeo
5月2日
ごめんごめん
神や救世主居たわ
畑に。
このスレッドを表示
画像
午後1:45 · 2022年5月2日·Twitter for Android
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
引用ツイート
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
· 2020年8月28日
このスレッドを表示
画像
〔引用者注:血まみれで十字架を持つイエス〕
午後1:47 · 2022年5月2日·Twitter for Android
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
引用ツイート
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
· 2021年2月22日
形而上が不可能な事をさせないは無価値や無意味をさせない、同時に個人や集団の意思・こういうは形而上の目的とは無関係じゃないと無毒化できん
で、形而上の意思や目的が個人や集団の意思と目的であるという無毒化した部分を逆転させる事で猛毒にしているわけなんよ
このスレッドを表示
午後2:20 · 2022年5月2日·Twitter for Android
”
〔
https://twitter.com/EpisodeNeo/status/1520978721506684928 と続き
”Deep Forest
@EpisodeNeo
ごめんごめん
神や救世主居たわ
畑に。
画像
午後1:09 · 2022年5月2日·Twitter for Android
うちの畑の神は御布施も要求しないし、余分なこと言わないし、要所でキッチリ仕事するし、これは神だわ(笑
午後1:12 · 2022年5月2日·Twitter for Android
”
〕
〔
上記の前提がこれ:
https://twitter.com/EpisodeNeo/status/1520558048200126464
”Deep Forest
@EpisodeNeo
神なんかいねぇよ。
午前9:17 · 2022年5月1日·Twitter for Android”
神(人を超えた存在)はモノじゃないでしょ。
〕
〕
https://twitter.com/madaraiguana/status/1521284852137738241 と続き
”なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
これペルシャの作った世界は悪い世界だって言ってるだけなんじゃないの?
ペルシャさんの作った高速道路網逆走することでペルシャ乗っ取ったくせに何言ってんのこいつって思ったこなみかん。
グノーシストって逆恨み人間なのかもね。
↓
午前9:25 · 2022年5月3日·Twitter for Android
twitter.com/madaraiguana/status/1521123951644405760?t=dc5vlMPzdogUMWhsxu2cbQ&s=19
>gnosticismといえばグノーシス主義とかグノーシス思想。これはヘレニズムといって、アレクサンダー大王がにっくきペルシャを滅ぼしてギリシャ帝国を建てた時代から連綿と成長してきた、キリスト教のネガのような宗教思想です。
引用ツイート
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
· 5月2日
@EpisodeNeo
@Agito_Ryuki
無神論と不可知論ってどこがどう違うの? https://btcmatters.hatenablog.com/entry/atheism-versus-agnosticism
このスレッドを表示
午前9:26 · 2022年5月3日·Twitter for Android
彼らは何を100%確信したのかといえば「世界の実相」についてです。少なくてもグノーシストの主観の中では、本来の崇高で善なる霊が悪に転落し造ったのが現実世界なのです。この世界は堕落しているのです。
午前9:26 · 2022年5月3日·Twitter for Android
”
https://twitter.com/madaraiguana/status/1521347665979936768 と続き
”なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
神様という単語の定義付けの時点で躓くんですがそれは。
無理もないし無理なんですけど。
画像
午後1:35 · 2022年5月3日·Twitter for Android
廃仏毀釈の先にあったのがゴリゴリの偶像崇拝だったからね。聖徳太子の頃からずっとこれ。
呪術廻戦はガス抜き。
https://twitter.com/madaraiguana/status/1520555131280171008?t=51b_3NYIJymLQTZgfVNnIw&s=19
日本にミントの根のように張り巡らされているの秦氏=八幡=マニ教=地下資源人脈だよ。
https://twitter.com/madaraiguana/status/1271849647514898433?t=51b_3NYIJymLQTZgfVNnIw&s=19
引用ツイート
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
· 2021年5月14日
なぜか大工や鍛冶屋など手工業者の信仰なのである。しかしこれももう読者諸賢にはご明察であろう。そこに弘法大師(ダイシ)も流れ込み、太子・大師信仰となっていく。弥勒たる八幡神と秦氏がこれを裏打ちしていたのだった。天台宗と真言宗が、なぜ聖徳太子を問題にし、また山岳信仰に深く関わるのかも
このスレッドを表示
午後1:48 · 2022年5月3日·Twitter for Android
日本列島は資源採掘地であって人が生活する土地ではないんでしょう。
歴史的に農奴と資本家しかいませんでしたし、人が住む世界は京都市内だけでしたし、江戸時代ようやくスタートラインに立ったけど徳川の権威で持たしてたので有って裏付けとなる宗教はやっぱり無いわけで。
午後1:56 · 2022年5月3日·Twitter for Android
藤原王朝のバックボーンがマニ教だとしたら日本開始100年でもう詰んでたわけで。武家は実務者だから宗教は寺に丸投げだったし。その寺も寺でなんか知らんが仕事してないし。
神社が駄目駄目なのは前提として寺がやる気なさ過ぎるのもう、な。
4年前から言ってるけど。
午後2:02 · 2022年5月3日·Twitter for Android
鎖国中何があったのか知りてえな。
オランダと密約が有ったんだろうけどさ。
午後2:04 · 2022年5月3日·Twitter for Android
グノーシスめんどくさいなあほんとに。
画像
午後2:05 · 2022年5月3日·Twitter for Android
グノーシスというかルサンチマンというか劣等感というか逆恨みというか。
午後2:08 · 2022年5月3日·Twitter for Android
何を言っているか分からねえと思うが。
午後2:08 · 2022年5月3日·Twitter for Android
”
上記のグノーシスが不可知論と無関係かと一見思えるが関係しているんだよな。少なくとも西洋思想ではね。
少なくとも英語での呼び名を文字通り解釈すると「gnosticism」(グノーシス主義)の否定だからだ。
やっと本題に入れる。
ハクスリー家は代々尻社員の家系なんだろうな。『すばらしい新世界』という計画書も書いたもんな。
ハクスリーとは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC-113729
”
ハクスリー
Huxley, Thomas Henry
[生]1825.5.4. ミドルセックス,イーリング
[没]1895.6.29. イーストボーン
イギリスの生物学者,科学啓蒙家。 C.ダーウィンの進化論を擁護し,その普及に努めた。チャリング・クロス病院で医学を学び,ロンドン大学で医者の資格を得たのち,1846年海軍の外科医として『ラトルスネーク』号に乗込み,オーストラリア探検に加わる。航海中にクラゲの比較解剖学的研究を行い,ロイヤル・ソサエティの機関誌に論文を発表 (1849) し,生物学者として認められる。 50年帰国。 54年,海軍を退役して王立鉱山学校の教授となる (後年,同校は彼の尽力により王立科学大学となる) 。ダーウィンの『種の起原』を宗教界が攻撃したのに対し,ハクスリーは進化論を擁護し,神学者や聖職者と対決,60年のイギリス学術振興協会年会の席上で,主教 S.ウィルバーフォースと論争した。 63年,ハクスリーは『自然界における人間の位置』を著わして,ダーウィンもまだ触れていなかったヒトの起源について,ヒトは類人猿から進化したと唱えた。 R.オーウェンがヒトと類人猿とでは脳の構造が異なるとして批判を加えたが,彼は両者の脳の構造が同一であることを実証してそれにこたえた。また,人間の精神活動は脳の生理作用によると説き,ヒトと類人猿の間に連続性を考えるための根拠とした。このほか,頭蓋骨を脊椎の変形したものとみる L.オーケンらの説を否定するなど,比較解剖学,古生物学での研究もあり,鳥類の分類も行なっている。また,啓蒙書執筆や講演を通じて科学の普及をはかり,教育制度の改革や科学教育の充実化に尽力するなど,幅広い活動を行なった。『科学と文化』 Science and Culture (81) ,『進化と倫理』 Evolution and Ethics (93) など多数の著書がある。
ハクスリー
Huxley, Aldous Leonard
[生]1894.7.26. サリー,ゴドルミング
[没]1963.11.22. ロサンゼルス
イギリスの小説家,評論家。生物学者 T.H.ハクスリーを祖父に,J.ハクスリーを兄に,詩人 M.アーノルドを母方の親戚にもつ。イートン校を経てオックスフォード大学を卒業。医学を志したが,眼疾のため文学に転向。雑誌編集者となり,『火の車』 The Burning Wheel (1916) 以下3詩集を出すかたわら小説に筆を染め,短編集『がらくた』 Limbo (20) に続く長編『クローム・イエロー』 Crome Yellow (21) ,『道化踊り』 Antic Hay (23) で認められ,第1次世界大戦後の幻滅,不安,懐疑を濃厚に反映する,1920年代を代表する作家の一人となった。その他の主要作品には『対位法』 Point Counter Point (28) ,『すばらしい新世界』 Brave New World (32) ,『ガザに盲いて』 Eyeless in Gaza (36) ,評論集『目的と手段』 Ends and Means (37) など。
ハクスリー
Huxley, Sir Andrew Fielding
[生]1917.11.22. ロンドン
[没]2012.5.30.
イギリスの生理学者。生物学者のトマス・H.ハクスリーの孫。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで修士号を取得,1941~60年トリニティ・カレッジで講義と研究を続け,1960年にロンドンのユニバーシティ・カレッジの生理学教授となった。1953年同僚のアラン・L.ホジキンとともに神経線維に刺激が伝わる仕組みを物理・化学的に解明(→神経伝導)。この功績により1963年,ホジキン,オーストラリアのジョン・C.エクルズとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。ほかに,筋肉の収縮に関して重要な業績がある。1969年からロイヤル・ソサエティの生理学部門の研究教授となり,1974年にナイトに叙された。1980~85年ロイヤル・ソサエティ会長。
ハクスリー
Huxley, Sir Julian (Sorell)
[生]1887.6.22. ロンドン
[没]1975.2.14. ロンドン
イギリスの生物学者,科学行政家。 T.H.ハクスリーの孫。オックスフォード大学卒業後アメリカに遊学。ロンドン大学教授 (1925) 。ホルモン学,発生学,鳥類学,生態学にわたる広い分野で多くの業績を上げた。第2次世界大戦後ユネスコの事務局長 (46~48) 。 1958年ナイトの称号を贈られた。主著に『相対成長の問題』 Problems of Relative Growth (32) ,『進化。現代的総合』 Evolution ,the Modern Synthesis (42) ,『進化とはなにか』 Evolution in Action (53) がある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について
”
予想以上に尻だな。
T.H.ハクスリーはダーウィンの進化論の熱心な支持者であり、ダーウィンすらまだ触れていなかったヒトの起源について発言した(人間は類人猿から進化して誕生したと主張)。つまり、既存の西方キリスト教神学を完全に否定して、新たな神学を作る側の人物。しかも、agnosticism(不可知論)を造語した。上記を見るに尻社員だろうから、グノーシスの意味を込めた命名だろう。
「a」で否定しているので、グノーシス派も否定しているんだな。
後述の引用で「不可知論という語を初めて用いたといわれるトマス・ハクスリーやスペンサーといった実証論者は、知識を経験可能な事実だけに限り、形而上(けいじじょう)学的な諸問題に関しては、はっきり不可知論を主張した」とあるので、T.H.ハクスリーはagnosticism(不可知論)の立場。
不可知の「知」はグノーシス主義の真なるゴッド〔の本質〕についての知識とか、それについて知ることだな。
ハクスリーが造語したagnosticismが、「ゴッドは実在するが、それについて知りえない」なのか「ゴッドが実在するかしないかについてすら知りえない」なのかそれ以外なのか不明……と書いたのだが、
後述する引用で「原語の中の〈知られえぬagnostic〉という言葉は,T.H.ハクスリーが1869年,《使徒行伝》でパウロの伝えるアテナイの〈知られえぬ神にagnōstō theō〉と刻まれた祭壇に言及しつつ自己の立場を語った講演が起源である。訳語は明治40年代からのものである。」とあるので、T.H.ハクスリーの思想は、有ゴッド論の中での「グノーシスは不可能」論だろうな。不可知論というよりグノーシス不可能論だな。
トマス・ヘンリー・ハクスリー - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC
”ハクスリーの子孫には英国の学界において著名な人物が多数存在し、孫のオルダス・ハクスリー(文筆家)、ジュリアン・ハクスリー(ユネスコの初代事務局長、世界野生生物基金の創設者)、そしてアンドリュー・ハクスリー(生理学者でありノーベル賞受賞者)が含まれる。
〔中略〕
今日見られないもう1つのハクスリーの重要な提唱は、学校で聖書を教えることの普及促進であった。これは彼の進化論からすると調和していないように思われるかもしれないが、しかし彼は聖書が英国の倫理に非常に関係ある重要な文学的、道義的な教訓を持っていると信じた。彼は彼の著書『進化と倫理』での進化と倫理を和解させようとし、「生き残るための可能な限り多くの調整」の原則を提言した。
〔中略〕
最終更新 2022年3月2日 (水) 13:42 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
”
聖書を学校で教えるよう言っているから有ゴッド論だな。つまり、訳語としての不可知論は、有ゴッド論が前提つまり範囲内(少なくとも造語した時点ではそう)。
西洋の不可知論は西方の神学と哲学を多少は知らないときちんと理解できないな(当たり前だ)。
不可知論とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E7%9F%A5%E8%AB%96-123769
”不可知論
ふかちろん
agnosticism
不可知論の起源を古代ギリシアのソフィストや懐疑論者にまでさかのぼって考えることもできるが、しかし神の本体は人間によっては知られないとする中世の神学思想から始まるとみるのが妥当であろう。つまり、人間は一種の知的直観であるグノーシスgnosisによって神の本体を直接知ることができるとするグノーシス派や本体論者の主張に対し、そうしたグノーシスを否定するのがアグノスティシズム、すなわち不可知論である。
ローマ・カトリックは、神の存在は人間理性に生まれながらに備わる「自然の光」によって知られるが、しかし神の本体そのものは知られないとして、グノーシスを否定した。神は現世に生きる人間には鏡に映る姿のようにおぼろであり、神と直接に面をあわせることができるのは別の世においてであるという。
不可知論は、近世に入って、人間は有限な存在でその知力も限られており、世界それ自体が何であるかを知ることはできない、といった哲学説に再登場する。神すなわち自然の属性は無限であるが、そのうち人間が認識できるのは延長(物体)と思考(精神)だけであると説くスピノザ説や、人間の知識は印象と観念に限られていて、それらを超えた事柄は知識の対象にはならないとするヒュームの主張も、ある意味では不可知論であるし、物自体は認識できず、主観形式である時間、空間のうちに与えられる現象だけが認識できるとするカントの『純粋理性批判』での考えも、一種の不可知論といえる。また不可知論という語を初めて用いたといわれるトマス・ハクスリーやスペンサーといった実証論者は、知識を経験可能な事実だけに限り、形而上(けいじじょう)学的な諸問題に関しては、はっきり不可知論を主張したが、この傾向は現代の論理実証主義やその系統を引く分析哲学にも引き継がれている。
なお19世紀後半のドイツの自然科学者デュ・ボア・レイモンは、「世界の七つの謎(なぞ)」として、〔1〕物質と力の本質、〔2〕運動の原因、〔3〕感覚と意識の成立、〔4〕意志の自由、〔5〕生命の起源、〔6〕有機体の合目的性、〔7〕思考と言語の発達、をあげ、このうち〔5〕から〔7〕までの謎は解けるが、〔1〕から〔4〕までの謎は解くことができず、また将来においてもその解明は不可能であるとして、これらの謎について不可知論を主張した。
[宇都宮芳明]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「不可知論」の解説
不可知論
ふかちろん
(1) agnosticism 超経験的なものの存在や本質は認識不可能であるとする哲学上の立場。認識の可能領域は現象界に限られ,超越的なものは類比的認識すらも不可能であるが,神や死などの究極的問題について判断を中止することはかえってそれらの存在を認めることになり,信仰に根拠を与えると主張するのは I.カントで,認識可能領域を明示する点で懐疑論と異なる。この認識の限界づけの思想はあらゆる実証主義や現象論の根底にある考え方で,A.コント,H.スペンサー,W.ハミルトンなどはその系列にあり,論理実証主義はその最も極端な例とみることもできる。 (2) ajñānavāda インドでは六師外道の一人サンジャヤが唱えた。彼は,来世が存在するか,善・悪業の果報は存在するかというような形而上学的な問題に関して,ことさら曖昧な返答をして確定的な返答を与えなかった。ここに形而上学的問題に関する判断中止の思想が初めて表明された。原始仏教における無記の思想の起源とみられる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
百科事典マイペディア「不可知論」の解説
不可知論【ふかちろん】
英語agnosticismの訳。T.H.ハクスリーの造語。一般に究極的実在,絶対者,神といったものは人知をもってしては知りえないとする立場。宗教的敬虔の基本的態度として古くよりあるが,近年ではW.ハミルトン,H.スペンサーらが代表的論者。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
精選版 日本国語大辞典「不可知論」の解説
ふかち‐ろん【不可知論】
〘名〙 (agnosticism の訳語) 哲学で、ある種の主題の認識が人間には不可能であるとする認識説。また、神学で、人間には神を認識することはできないとする宗教的認識説。不可思議論。〔英独仏和哲学字彙(1912)〕
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
デジタル大辞泉「不可知論」の解説
ふかち‐ろん【不可知論】
《agnosticism》哲学で、経験や現象とその背後にある超経験的なものや本体的なものとを区別し、後者の存在は認めるが認識は不可能とする説。また、後者の存在そのものも不確実とする説。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
世界大百科事典 第2版「不可知論」の解説
ふかちろん【不可知論 agnosticism】
一般に,事物の究極の実在,絶対者,無限者,神は知られえぬと説く立場を指す。原語の中の〈知られえぬagnostic〉という言葉は,T.H.ハクスリーが1869年,《使徒行伝》でパウロの伝えるアテナイの〈知られえぬ神にagnōstō theō〉と刻まれた祭壇に言及しつつ自己の立場を語った講演が起源である。訳語は明治40年代からのものである。ハクスリー以外では,人間の認識を有限なものの経験に制限し,無限で絶対的な神については学的な認識はありえず,ただ信仰による道徳的確信をもちうるのみと説くW.ハミルトン,進化の法則で現象界を説明し認識しうるが,相対的な現象,事実の認識は科学的には思考されえぬ実在ないし力,すなわち〈知られえざるものthe Unknowable〉を前提するとし,現象や事実をその〈表明〉とみなすH.スペンサーなどが不可知論者に属する。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
世界大百科事典内の不可知論の言及
【現象】より
…一つは,時空間的に制約されることのない本体(noumenon)あるいは本質を想定し,それが時空界に現れた姿を現象と考える。カントの現象概念がその典型であり,彼は物のそれ自体における姿つまり物自体と,われわれの感性にとってのその現れつまり現象とを区別し,われわれ有限な人間には物自体は認識不可能であり(不可知論),認識可能なのは現象界だけだと考えた。 それに対して,現象の背後にそうした不可知な本体を想定することは無意味であり,本質とは現象そのもののうちに認められる可知的連関にほかならないとする考え方がある。…
※「不可知論」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
” (着色は引用者。他の引用も同様)
語源gni, gno (知る)の英単語の意味まとめ
https://eng-etymo.com/archives/354
”agnostic /ægnάstɪk/ : 不可知論者
agnosticは「不可知論者」を意味し、語源はa(否定)とgno(知る)に由来します。不可知論者(agnostic)とは人には神様や超次元的な存在を認識できないと主張する人たちのことです。神様の存在を認めているため、無神論者(atheist)の隠れ蓑に使われることもあります。”
やっと語源や誕生経緯などが終わったよ。
つぎは外道の1人について。外道ってのは仏教以外って意味であり、本来は悪人って意味じゃないよ。
サンジャヤ・ベーラッティプッタという名前は長いし、鰻のようなぬるぬる議論をするので、これより「ウナギ」と呼称する。
舎利弗(シャーリプトラ)と、目犍連(マウドガリヤーヤナ)はウナギの弟子だったが仏弟子になった。
2007-05-05
仏教と不可知論 - G RDIAS
https://gordias.hatenadiary.org/entry/20070505/1178315654
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当時、「来世はあるか」「来世に生まれ変わりはあるか」「善悪の果報は来世にうけるか」「ブッダは来世に生まれ変わるか」などの問題が、多くの哲学者や宗教家たちによって論議されていた。サンジャヤは、それらは来世の問題で、人の知識の及ばないところであるから、論じるに値しないと考えた。
たしかに死後の世界について誰でも教えてくれた人はいない。死後の世界についての文献もない。書かれていても経験の上で伝えたものではない。想像の域を出ない。そこでサンジャヤはそんな形而上の問題についての思考は停止することをよしとした。
だがマウドガリヤーヤナ、シャーリプトラたちは、来世のことは確かにわからないかもしれないが、わからぬというだけで、来世についての思考を停止することはおかしい、と考えた。この生存のなんらかの連続として死後があるとすれば、そこに何かの説明ができるはずであり、それを、ただ人知を超えたところといって思考を放棄するだけでは、一体いまの修行は何のために行っているのか、ということになる。
(中略)
釈尊も来世についての論議は好まなかった。なぜか。ただ来世があるといえば、その実態を説明しなければならない。経験がないのにそれを説明することは不可能である。といって、来世がないわけではない。今世における修行の意義と、その目的である解脱の意義とがかみ合わなくなるからである。ただ釈尊は来世に関する一切の問題について、解答を与えなかった。それは答える必要がなかったというより、因果の道理の上からすれば、おのずから解答が与えられるからである。(pp.51-52)
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ゴータマ・ブッダは、一口で言うと、実存主義的経験論者でした。つまり、ゴータマ・ブッダが関心を集中したのは、みずからの実存である輪廻的な生存(という苦)にまつわる経験的な事実と、それらが織りなす因果関係の鎖がどのようにあるかということでした。(p.60)
「死後は存在するか」などの形而上学的問いについて、ブッダは答えを与えない。しかし、それらは不可知だからといって、考える意味はないということはない。ただ、ブッダにしてみれば、実存的な経験からの因果関係における語りこそが重要であったのだと解することができるだろう。
「生を一回限りのものとするか」、「死後の生も存在するとするか」は、明らかに世界観の問題であり、その世界の上で成立する価値の問題である。さしずめ、これらの問いを――不可知ゆえ考えない、のではなく――考え抜こうとするならば、自らの実存を賭けなければならない、そのようにブッダは教えてくれているのかもしれない。
”
確かに、ウナギの教えだと「なぜ修行するの?」ってなるよね。私もウナギが目の前にいたらおそらく同じような反論をするだろうな。
問題はウナギの教えの詳細がわからないことなんだよな。もっと詳しく仏典に記してほしかった。
ハンド塚に出てくる場面はこれ↓
https://twitter.com/mt_sanage629/status/1356806054860836864
”
サンジャヤ・ベーラッティプッタという古代インドの不可知論者を思い出しました。 https://t.co/6qgb75HALn pic.twitter.com/AD4idtLdrP
— 原 誠 (@mt_sanage629) February 3, 2021
”
〔上記のセリフはハンド塚流のアレンジだな。
以下の記述がある『沙門果経』(ディーガ・ニカーヤ)を読んだのではなく、それに言及した本をもとにしたのだろう。
https://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/sanjaya.htm
”6. サンジャヤの不可知論
サンジャヤは、あらゆる問いに対して確答を避ける「不可知論」の立場をとった。次のように答えることを習わしとしていたという。
「もし、あなたがあの世はあるかとたずね、
自分があの世は、あると考えたなら、あの世は、あると答えるであろう。
しかし、私はそうしない。
そうとは考えない。
それとは異なるとも考えない。
そうではないとも考えない。
そうではないのではないとも考えない。」
このような彼の論法は、「うなぎ論法」といわれ、仏教の「無記」の考え方に影響を及ぼしたと考えられる。ブッダの二大弟子サーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目連)は、はじめサンジャヤの弟子であったと伝えられている。
また、この思想は、ジャイナ教のスヤード・ヴァーダと似ている。不可知論的な傾向は、ブッダ時代に濃厚にみられるが、このような思想風土が、自己と他者の思想の白黒をはっきりさせないで両立させる文化多元主義の基盤になっている。 ”
https://twitter.com/caracolcaracole/status/1042556622906638337 と続き
”くるくる
@caracolcaracole
最近話題の岩波新書『初期仏教 ブッダの思想をたどる』を読んでるんですが、ブッダ以前にガンジス川流域に現れた新思想のなかのサンジャヤ・ベーラッティプッタの「懐疑論」がすごい。「死後の世界は存在するか否か、天界や地獄の生類は存在するか否か、善行・悪行の報いは存在するか否か、→
如来は死後存在するか否かといった命題について、そうであるとも思わないし、そうではないとも思わないし、そうではないのではないとも思わない」ということだけど「そうではないのではないとも思わない」て全然意味がわからなくてとにかくすごい。
”
サンジャヤ・ベーラッティプッタ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%97%E3%83%83%E3%82%BF
”サンジャヤ・ベーラッティプッタ(パーリ語: Sañjaya Belaṭṭhiputta、音写:刪闍耶毘羅胝子、散若夷毘羅梨沸など)は、インドの思想家。不可知論者、懐疑論者である。正統バラモン教の伝統にとらわれず自由な思索を行い、当時サマナ(沙門)、または正統バラモン教側からはナースティカ(虚無論者)と呼ばれた在野の自由思想家の一人である[3]。釈迦に先行する思想家で、古い仏教文献では六師外道と記されている[3]。
〔中略〕
真理をあるがままに認識し説明することは不可能であるとする不可知論である[4]。形而上学的な重要問題に対して確答せず、判断を中止する態度を採った。懐疑論とも言える立場であるが、彼の態度は、抜け出すことの困難な形而上学的な難問を議論することの意義を問う判断中止(エポケー)の表明であると言える[5]。
彼は「来世があるのか」という問いに対し、次のように答えた[4]。
もしもあなたが「あの世はあるか」と問うた場合、わたしが「あの世はある」と考えたならば、「あの世はある」とあなたに確答するでしょう。しかしながら、わたしはそうしない。わたしはその通りだとも考えないし、それとは異なるとも考えないし、そうでないとも考えないし、そうでないのではないとも考えない。(『沙門果経』ディーガ・ニカーヤ)[4]
続いて、「あの世はないのか」「あの世はあり、かつないのか」「あの世はあるのでもなく、かつないのでもないのか」の問いに同様に答え、善悪二業の報いは存在するか、如来(人格完成者)死後に存在するのかについても、同じように判断中止の態度を示し、明確な答えを避けた[4]。このような彼の議論は、「鰻のようにぬらぬらして捕らえがたい議論」とも言われる[4]。
仏教学者の早島鏡正は、「人間の行為についての業論や霊魂論を、実践の本質を探究する面から捉えなおそうとしている点で、ジャイナ教や仏教に与えた影響は看過できない」と評している[4]。ジャイナ教の開祖マハーヴィーラは、サンジャヤの懐疑論は実践の指針にならないとして退け、知識の問題に関して「ある点から見ると」と限定して述べる相対主義(不定主義)を唱えた[6]。釈迦の無記(人生の救いに役立たない形而上学的な問いに、沈黙して確答を与えない考え)に影響を与えたとも考えられている[4][5]。
〔中略〕
最終更新 2022年1月21日 (金) 22:40 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
”
釈迦は「いや、確実に言えることもあるでしょ」ってことでウナギ教(極端な判断中止論、限定なしの不可断定論)を排して、一部の事柄について無記という教えを確立したのだろう。ウナギから「断定しない」という思想を学んだのだろう。
ハンド塚のあの漫画は新キリスト教みたいに曲解していること間違いなしなので、あれに反論が載っていても(読んだことがあるが覚えていない)仏教的に正しいかわからないんだよな。
『泥ろ』の真言立川アピールでわかるように、大乗仏教の多数派は間違いなく嫌いだろうしな。『泥ろ』の主人公の父の姓が醍醐で
息子と高僧を生贄にし、額に×(カインの刻印)を得る。
創価の解釈も一般的ではないだろう。
法華経の特徴は久遠実成(くおんじつじょう)や二乗作仏などがある。
久遠実成は「釈尊は遥か遠い昔にすでに悟っていた」という「永遠のブッダ」思想。
二乗作仏は、仏になることができないと言われていた者も仏になれるという思想。
https://twitter.com/10mokun3961/status/1519163622806921216
”岡野友治 No Cats No Life
@10mokun3961
『『法華経』の「最も勝れた」点とは、主なものを挙げれば、あらゆる衆生が平等に成仏できるとする「一仏乗の思想」、釈尊はすでに遥か昔に成道していたとする「久遠実成の思想」、その久遠実成の思想に裏づけられた「永遠の菩薩道」の三つだと言える。』(植木雅俊著『法華経とは何か』)
午後0:56 · 2022年4月27日·Twitter Web App”
久遠実成とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E4%B9%85%E9%81%A0%E5%AE%9F%E6%88%90-54994
”久遠実成【くおんじつじょう】
歴史上のブッダガヤーで悟った釈迦は仮の姿で,久しく遠い過去に実際に悟りを開き成仏し,以来人びとを教化し続けたのが真実の釈迦であるという法華経の説。久遠本仏,無始古仏とも称し,天台宗・日蓮宗の重要教義の一つ。浄土教では十劫(じっこう)の昔に成仏した阿弥陀仏を久遠実成の阿弥陀仏という。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「久遠実成」の解説
久遠実成
くおんじつじょう
仏教用語。仏教では種々の教えを説くが,それは,歴史上の人物で肉身をそなえた釈迦牟尼 (釈尊) が説いたものではなく,時間,空間を超越した絶対的真理の表われにほかならず,釈迦牟尼は,はるかの昔に悟りを開き,人々を教化し続けているのだとする思想。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
デジタル大辞泉「久遠実成」の解説
くおん‐じつじょう〔クヲンジツジヤウ〕【久遠実成】
仏語。法華経思想の一。釈迦仏がこの世に生まれたのは仮の姿にすぎず、永遠の昔に悟りを開き成仏して限りない時間を人々の教化に尽くしてきたと説くもの。久成正覚。
”
二乗作仏 - 新纂浄土宗大辞典
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%8C%E4%B9%97%E4%BD%9C%E4%BB%8F
"にじょうさぶつ/二乗作仏
声聞と縁覚の二乗が成仏すること。二乗成仏ともいう。一般的には二乗は仏になることができないとされるが、『法華経』では法華一乗の立場から、二乗と菩薩の差異は本質的なものではないとして、二乗もまた成仏すると主張する。また『涅槃経』には一切衆生悉有仏性説を説き、すべての衆生に仏と成り得る本性があるとして、二乗のみならず一闡提においても成仏する可能性を示唆している。自分のさとりだけを求める小乗の心をひるがえして大乗に向かうことを廻心向大といい、天台宗や華厳宗では一切皆成の立場からすべての二乗が廻心して成仏することを主張する。一方、法相宗では五姓各別の立場から、二乗に決定性と不定性の二種があり、決定性の二乗は廻心向大することがなく、不定性の二乗は無余涅槃に入る直前に廻心して大乗の菩薩になると理解する。 "
法華経といえば天台宗だな。天台宗ではどう考えているんだろうな。
天台宗について - 法話集
No.144釈尊の教えでないもの2
https://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=168
”「善知識」(ぜんちしき)という仏教の言葉があります。幸せになるために役立つ知識と思われるかもしれませんが、原語は、Kalyāṇamitraで、Kalyāṇa(カルヤーナ)は、美しい、善い、優れたという意味で、mitra(ミトラ)は、友達、仲間という意味です。ですから、善知識は、善き友、善き仲間という意味です。私達は友に支えられ、友の成功や失敗から多くのものを学んで成長して行くものです。今回は、お釈迦様にとって善知識であったかもしれない思想家達(六師外道)の中からアジタ・ケーサカンバラとサンジャヤ・ベーラッティプッタをご紹介します。
アジタ・ケーサカンバラは、世界は元素から構成され、人間も元素からなり、死ぬと元素に戻るだけで、死後には何も残らない。そこには、霊魂や来世、善業・悪業の果報も存在しないので、祭祀や布施など無意味であると考えました。そして、地水火風の4つの元素のみが実在であり、それらの活動領域として虚空があると考えました。元素については、仏教でも同じように考えておりました。今でも時折使われます「四大不調」とは、四大(地水火風)の調和が崩れて病気になることをいい、「四大空に帰す」とは、死ぬことを意味します。しかし、仏教では、善い行いや悪い行いの果報が有ると考え、それに基づいて輪廻を考えるところが異なります。
サンジャヤ・ベーラッティプッタは、お釈迦様とほぼ同時代の人で、仏教教団を支えた二大弟子の舎利弗・目連は、彼の弟子であったといわれています。彼は、形而上学的問題に関する判断中止の思想を明らかにしました。例えば、「死後の世界があるかどうか」の問いに対して、「私は、有ると考えたなら有ると答えるであろう。しかし、そうだとは考えない。そうらしいとも、そうでないとも、そうでないのではないとも、・・・とも考えない」と答えたといいます。彼のこうした考えは、後に、ことばと対象・認識に関する深く広大な思想に係わっていきます。お釈迦様は、形而上学的問題には、無言をもって答えられました。これを「無記」といいます。
お釈迦様は、当時の思想家達を「彼らは互いに論争をし、反対論者を愚者だという。彼らは、己の見解への執着によって汚されている」と評されました。意見を十分聞いて、幸せになるために役立つかどうかを考えて、諸々の論争を超越したのがお釈迦様の教えであるといわれています。
(文・北総教区 長福寺 鈴木 晃信)
掲載日:2016年03月01日”
ウナギに対して反論していないな。いや「幸せになるために役立つかどうか」は反論ともとれる。
ウナギ教だと幸せにはなれそうにないよなあ。
無ゴッド論についても書いておく。
無ゴッド論を徹底すると単なる仏教の空思想(実体論の否定)になるぞ。というかそこまで徹底しないと、ゴッド論の一派にしかならんぞ。ゴッド崇拝派生のサタン崇拝と同じくね。サタンの実在の前提がゴッドだから派生だよ。
私の思想は今のところ不言及〔限定的不可断定〕論(無記、不語怪力乱神でありagnosticismではない)側なので、有ゴッド論(実在すると断定)でも無ゴッド論(非実在だと断定)でもないよ。「限定的」と書いたのは限定的でないならウナギになるからだよ。
不可知論と書かなかったのはこの「知」はグノーシスだから、仏教や儒教の思想に使うの不適切だからだよ。
アグ「ナ」スティシズムについては以上。「ナ」にアクセント。
「上導」の意味は↓
シーア兄貴(イラソのアレ来世触手)2022/4/5~5/2と良呟きや記事の保管庫
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-475.html
"〔「不完全な下降と狭い上揚か乱らな上揚、それに遠く・関係がない類推の3つ」はやってはいけないこと。
”4月13日
奴隷仕様というのはある事柄に対しての「不完全な下降と狭い上揚か乱らな上揚、それに遠く・関係がない類推の3つ」で何か知らんけどアンタらはコレをする
わしらはずっと「コレするな!」と、叩き込まれる
この前アホな学生が神秘主義的なこといって「その根拠はどこにあるんだ?」と迫られていた”
〕
「不完全な下降と狭い上揚か乱らな上揚、それに遠く・関係がない類推の3つ」の、
「下降」は「ディダクション」、「上揚」は「インダクション」のことだろう。
帰納(インダクション)と演繹(ディダクション)は、ラテン語のinductio(インドゥクティオ)とdeductio(デドゥクティオ)が由来。
deductio(デドゥクティオ)を直訳すると下導。
inductio(インドゥクティオ)を直訳すると導入。
導入と対比させるために下導を「導出」にするのもありだな。
それか導入を「上導」にする。
ラテン語のdeductio(デドゥクティオ)
=接頭辞de(デ)(「下降」「起源」)
+名詞ductio(ドゥクティオ)。
ductio(ドゥクティオ)はduco(ドゥーコー)(「導く」「引き出す」)という動詞から派生。
下に導き出す(導出)なので、ディダクションは「下導」。
deductio(デドゥクティオ)は
より上位に位置する普遍的な概念から、その「下」位に位置づけられる個別的な概念や具体的な事物の存在を「導」き「出」すという推論の形式。
deductio(デドゥクティオ)は上から下に下る。
それに対して、inductio(インドゥクティオ)は下から上に上がる。
となると「上導」。上に導く。下導と対比になるし。
ラテン語のinductio(インドゥクティオ)
=接頭辞in(イン)(「中へ」)
+動詞duco(ドゥーコー)(「導く」)。
なので、そのまま訳すと「導きいれること」「導入」。
「導出」をデドゥクティオの訳語にするなら「導入」もあり。
(一般語の導入と混ざるから使いたくない、という思いもあるが定着したら問題はなくなるな)
ラテン語のinductio(インドゥクティオ)は、
具体的事物や個別的な事例を挙げることによって、そこから普遍的な結論を導き出すから、上へ導くまたは上を導く。
インダクションは、下位に位置する個別的な概念や具体的な事例を、「上」位の普遍的な概念へと「導」き「入」れ昇華するとという推論の形式。
「西洋を周くせん」による演繹(ディダクション)と帰納(インダクション)という意図的な誤訳疑惑がある訳語は使わない方が良い。
このオランダの目イソン野郎は、
①意味が推測できない漢字を使う
(漢字の意味がない。音写じゃねーんだぞ!)
②訳語に使う熟語の意味が、訳す対象の意味と違いすぎる
(致命的)
を平気でやるからな。しかも論理的な推論の訳語でだぞ? つまり思考に干渉しているってこと。
「観念」(イデー)なんて完全な誤訳だしな。
イデー(意出、意出絵)と言う方が害がはるかに少なかったな。
「意出(いで)」「意出絵(いでえ)」は私による音写なのだが意味的にも多少はあっているからな。
仏教用語だと観念は「心静かに智慧によって一切を観察すること。また一般に、物事を深く考えること。」という意味。
イデー(心に現れる表象、想念、意識内容)の訳語にあてるのは不適切だ。
なぜなら仏語の観念には「観察」や「熟考」の意味が必須だからだ。
誤訳による仏教破壊だろこれ。憑依戦術。
なぜ前回も言ったことを長々と書いているのかというと、思考関連の訳語だからだよ。
そういえば芥川は欧米語をカタカナどころかアルファベットで書くことがあるのだが、あれは上手く訳せない場合は、誠実な態度だな(こいつも尻社員だろうけど「西洋周し」よりは日本語を大事にしているということはわかる)。
)
)"
(
https://twitter.com/KoderaMito/status/1524047136949944325 と続き
”Mito Kondoria
@KoderaMito
「すばらしい新世界」で知られるオルダス・ハクスリーの兄、ジュリアン・ハクスリー。
FRS(王立協会フェロー)の一員。
進化生物学者、優生学者、英国優生学協会の代表、国際主義者、ユネスコ初代事務局長、WWF創始者の一人。初代英国ヒューマニズム協会会長。
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午前0:22 · 2022年5月11日·Twitter for iPhone
王立協会フェローのメンバーには、ニュートン、ダーウィン、チャーチル、アインシュタイン、イーロン・マスク、数学者のチューリング、インターネットの父ティム・バーナーズ・リーなど約8000人(うち現在生きている人1707人)
CRISPRのジェニファー・ドウDNAもフェローですね。
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午前1:14 · 2022年5月11日·Twitter for iPhone
ジュリアン・ハクスリーはビルダーバーグ・グループ創設メンバーの一人でもあるオランダ王配ベルンハルトやエジンバラ公フィリップ、ゴッドフリー・ロックフェラーと共にパンダのロゴでお馴染みのWWFも創設。
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午前2:44 · 2022年5月11日·Twitter for iPhone
いまや世界最大の環境保護団体となり、地球温暖化対策に関しては影響を与えている。
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午前2:50 · 2022年5月11日·Twitter for iPhone
「神は多分いない」
ヒューマニズム協会は世俗的ヒューマニズム(secular humanism) の信条「盲目的な信仰のかわりに、科学的な手法による真実の追求」が奨励される。
世俗的ヒューマニストの中には、アシモフやアーサー・C・クラーク、バートランド・ラッセル、ノーム・チョムスキーなど。
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午前6:14 · 2022年5月11日·Twitter for iPhone
現在のヒューマニズム協会の会長。
アリスさん。
Alice Roberts
王立協会フェロー。
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午前8:08 · 2022年5月11日·Twitter for iPhone
”
”
https://twitter.com/pizano1215/status/1558075632570863616
”ゴスロリ同胞団
@pizano1215
『梵網経』の情報が全然なくて困る……
午後9:59 · 2022年8月12日·Twitter Web App”
(これも本記事作成を後押しした)
『原始仏典 長部経典1』(『沙門果経』『聖なる網の教え(梵網経)』含む)備忘録(メモ)
『沙門果経』(しゃもんかきょう)が収録されている『原始仏典 長部経典1』 中村元監修 春秋社のメモに入る。
『沙門果経』(しゃもんかきょう)以外のも経典も面白かった。
『原始仏典 長部経典1』 中村元監修 春秋社
原始仏典〈第1巻〉長部経典1
中村 元【監修】/森 祖道/浪花 宣明【編訳】/橋本 哲夫/渡辺 研二【訳】
『聖なる網の教え(梵網経)』『修行の成果(沙門果経)』『真のバラモン(種徳経)』『説法の奇跡(堅固経)』など「長部経典」第1経から13経までを収録。
メモ開始。
凡例
一 読者の理解の一助とするため、底本にない訳文を〔 〕で補った。また、底本の省略部分(…pe…)は、省略せず訳出し、同様に〔 〕で囲み表記した。
一 訳文中、読者の理解の便宜をはかるため、適宜、原文にはない小見出しを付した。
一 訳文中、[ ]で囲み表記した数字は、底本の頁数を示したものである。
一 読者の理解に資するため、巻末に訳註を付した。末尾に(N)と付した註記は、編者(浪花)の補註である。
第一経 聖なる網の教え―梵網経
〔『梵網経』(ぼんもうきょう、Brahmajāla-sutta, ブラフマジャーラ・スッタ) 〕
浪花宣明[ナニワセンミョウ] 訳
(冒頭の解説より)
「小さな戒」 荒々しいののしりことばをいわない(不悪口)、つまらぬ饒舌をいわないこと(不綺語)
常住論に始まり現法涅槃論に終わる六二の見解が説かれる。ブッダによれば、これらの見解は、存在の本質についてのなんらの知的判断でもなく、渇愛に囚われた者の感覚器官と対象との接触(触)から生じてくる感受(受)にすぎない。この感受(見解)により愛着が起こり、愛着より固執(取)が起こり、固執から生存(有)が起こり、生まれること、老いること、死ぬこと、悲しみ、嘆き、苦しみ、悩みが起こる。如来はこれらの見解の生じてくる原因と消滅させる道とを知っているから、如来はこれらの見解を越えている、と説く。
(
植木訳『法華経』の、梵語と漢訳がない版の上巻の注より、
十二因縁
人の苦悩の成立原因を、
①無明(無知)
②行(潜在的形成力)
③識(識別作用)
④名色(名称と形態)
⑤六処(六つの感官)
⑥触(接触)
⑦受(感受作用)
⑧愛(妄執)
⑨取(執着)
⑩有(生存)
⑪生(生まれること)
⑫老死(老いて死ぬこと)――の十二段階に分けて説いたもの。
〔
愛は妄執、取は執着
〕
不悪口では、当然、罵倒としてのファックはダメである。出家したら性行為的な意味でのファックもダメである
)
第一経 註
p.589から
(40)世俗の哲学 lokāyata
語義は「世の習いにしたがった」。漢訳経典では、「順世論」「順世外道」と訳されている。インド思想のなかでは唯物論がlokāyataと呼ばれているが、ここではもっと軽蔑された呼称であろうと思われる。
(44)心の統一(定) samādhi
漢訳仏典では「定」とは心が対象に対して散乱せずに集中し統一されていることを原意とし、その集中には強弱の差がある。それゆえ、samādhiの語がつねに禅定(jhāna)をさすとはいえない。 samādhi(集中)の強弱の差はのちのアビダルマの思想家たちの注意を引き、 samādhiの対象に対する心の集中の作用は、日常、事物を認識するときは無論のこと、夢のような不安定な心理作用においてもはたらいているとされ、その作用が最強となるとき、 samādhiは禅定となると説明されるようになる。ここで説かれる samādhiは禅定ほど強い集中ではないであろう。
(46) 趣く先 gati
漢訳仏典では「趣」または「道」と訳される。自分の行なった行為(業)の結果として、再生して趣く境涯をいう。
六趣。六道。
(48)光音天 ābhassara
devaは漢訳仏典では「天」と訳されるが、現代では「神」と訳されることもある。「神」と訳されても、それは輪廻転生の世界に属する無常な存在である。仏教の救済論には天の存在は本来必要でないが、天の存在はインド思想に深く根づいており、仏教の教説のなかにも天が採り入れられたのである。仏教では瞑想によって獲得される境地を「天」ということばで表したが、やがてその境地に対応する空間的世界が外界に存在すると考えられるようになり、さまざまな階層の天の世界が考え出されている。善い行ない(善業)を行なうことにより、または瞑想を修行することにより、それぞれの天の世界に天人となって転生することができると説かれるようになる。天ということばは個々の神をさすと同時にその神が住む世界をもさす。光音天は色界(清らかな物質からなる領域)の第二の瞑想(第二禅)に対応すると考えられた天であり、雷雲から稲妻が発するように、全身から光を発しているから、この名前がある。
(p.582からの略号表より、
D Dīghanikāya
DA Dīghaṭṭhakathā(Sumaṇgalavilāsinī)
(アッタカター=説明・注釈)
※引用元ではnの上に点なのだが、検索してもnの下に点ばかりだったのでこちらで代用)
p.591から
(54)詭弁 amarā-vikkhepa
このうちでamarāの語義には二種の解釈が行なわれている。DA.i.115によれば、その一つはamarāを「不死」とするものであるが、不死と解釈したのでは意味が不明となることを註釈者自身が認めているようである。謂く「死なないから不死である(Na maratī ti amarā)。それはなにか。私はこのようにも考えない(evam pi me no)などの仕方で結論のない、悪見者の見解であり言葉である」。他の解釈ではamarāは「うなぎ」であり、うなぎのように捉えどころなく詭弁を弄することをamarā-vikkhepaという。謂く「amarāというのは魚の一種であり、それは浮き沈みしながら水中を動きまわり、捕まえることができない。このようにこの論も、ここからここへと動きまわり、把握することができないというので詭弁といわれる」。
原始仏典において詭弁論はこのような一方的な非難にさらされるのみであるが、この主張も一つの理論にほかならない。人の本質については、それを我(ātman)と見るか、身体と見るか、この二つしかない。死によって人は滅すると見れば、人間の本質は身体(物質)であり、唯物論になっていく。反対に、死によって人は滅しない、すなわち輪廻すると見るなら、その本質は我である。人の本質を我とみなせば、死後有我論になり、我と身体との結合した状態が輪廻であり、身体を離れた状態が解脱となる。また人の本質を身体とみなせば、人は身体が生まれるときに始まり、身体が死ぬときに終わる。輪廻も解脱も否定され、断滅論になる。しかしながら、人の本質は身体であるというのも、我であるというのも、ともに理論以前の不可証明の前提である。前提が異なれば、それによる理論も異なる。それゆえ、理論の妥当性には限界があり、絶対的真理があると考えるのは誤りである。この点を指摘するのが詭弁論である。
第一経 聖なる網の教え―梵網経 に戻る。
p.29からp.33まで
〔詭弁論〕
二三、「比丘たちよ、沙門・婆羅門たちのなかには、詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、四つの根拠により、ことばの錯乱した詭弁(54)に陥る。ではかれら尊敬すべき沙門・婆羅門たちはなにに由来して、なにに依存して、詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、四つの根拠により、ことばの錯乱した詭弁に陥るのか。
二四、比丘たちよ、ここに、ある沙門あるいは婆羅門は、これは善であると如実に知らず、これは不善であると如実に知らない。かれは次のように考える、『わたしはこれは善であると如実に知らず、これは[25]不善であると如実に知らない。しかしわたしはこれは善であると如実に知っておらず、これは不善であると如実に知っていないにもかかわらず、〈これは善である〉と答えるとすれば、あるいは〈これは不善である〉と答えるとすれば、それについてわたしは弱い欲望(55)を、あるいは強い欲望を、あるいは弱い怒り(56)を、あるいは強い怒りをもつ。わたしがそれについて弱い欲望を、あるいは強い欲望を、あるいは弱い怒りを、あるいは強い怒りをもてば、わたしはそれについて偽〔って語〕ることになる。わたしが偽〔って語〕れば、わたしは〔偽って語ったことを後悔して〕苦悩することになる。わたしが苦悩すれば、それはわたしには障害となる』と。このようにかれは偽って語ることを恐れ、偽って語ることをきらって、『これは善である』とも答えず、また『これは不善である』とも答えない。質問を尋ねられるごとに、ことばの錯乱した詭弁に陥る、『わたしはそのようには思わない。そのとおりであるともわたしは思わない。異なっているともわたしは思わない。そうでないのでないともわたしは思わない』と。
比丘たちよ、これが、それより由来し、それに依存して、一部の沙門・婆羅門たちが詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、ことばの錯乱した詭弁に陥るところの、第一の根拠である。
二五、また第二に、尊敬すべき沙門・婆羅門たちはなにに由来して、なにに依存して、詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、ことばの錯乱した詭弁に陥るのか。
比丘たちよ、ここに、ある沙門、あるいは婆羅門は、これは善であると如実に知らず、これは不善であると如実に知らない。かれは次のように考える、『わたしはこれは善であると如実に知らず、これは不善であると如実に知らない。しかしわたしはこれは善であると如実に知っておらず、これは不善であると如実に知っていないにもかかわらず、〈これは善である〉と答えるとすれば、あるいは〈これは不善である〉と答えるとすれば、それについてわたしは弱い欲望を、あるいは強い欲望を、あるいは弱い怒りを、あるいは強い怒りをもつ。わたしがそれについて弱い欲望を、あるいは強い欲望を、あるいは弱い怒りを、あるいは強い怒りをもてば、わたしはそれについて執着することになる。わたしが執着すれば、わたしは〔執着したことを後悔して〕苦悩することになる。わたしが苦悩すれば、それはわたしには障害となる』と。[26]このようにかれは執着することを恐れ、執着することをきらって、『これは善である』とも答えず、また『これは不善である』とも答えない。質問を尋ねられるごとに、ことばの錯乱した詭弁に陥る、『わたしはそのようには思わない。そのとおりであるともわたしは思わない。異なっているともわたしは思わない。そうでないのでないともわたしは思わない』と。
比丘たちよ、これが、それより由来し、それに依存して、一部の沙門・婆羅門たちが詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、ことばの錯乱した詭弁に陥るところの、第二の根拠である。
二六、また第三に、尊敬すべき沙門・婆羅門たちはなにに由来して、なにに依存して、詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、ことばの錯乱した詭弁に陥るのか。
比丘たちよ、ここに、ある沙門、あるいは婆羅門は、これは善であると如実に知らず、これは不善であると如実に知らない。かれは次のように考える、『わたしはこれは善であると如実に知らず、これは不善であると如実に知らない。しかしわたしはこれは善であると如実に知っておらず、これは不善であると如実に知っていないにもかかわらず、〈これは善である〉と答え、あるいは〈これは不善である〉と答えるとしよう。また、沙門・婆羅門の賢者であり、聡明で論争に長じ、毛の端を射抜く〔射手〕のように、みずからの智恵で他人の見解を論破しながら歩き回っている者がいる。かれらはわたしにそれについて意見を質し、理由を質し、過ちを質すであろう。かれらがわたしにそれについて意見を質し、理由を質し、過ちを質しても、わたしはかれらに答えることはできないであろう。答えることができなければ、それはわたしには苦悩となる。わたしが苦悩すれば、それはわたしには障害となる』と。このようにかれは詰問を恐れ、詰問をきらって、『これは善である』とも答えず、また『これは不善である』とも答えない。質問を尋ねられるごとに、ことばの錯乱した詭弁に陥る、『わたしはそのようには思わない。そのとおりであるともわたしは思わない。異なっているともわたしは思わない。そうでないのでないともわたしは思わない』と。
比丘たちよ、これが、それより由来し、それに依存して、[27]一部の沙門・婆羅門たちが詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、ことばの錯乱した詭弁に陥るところの、第三の根拠である。
二七、また第四に、尊敬すべき沙門・婆羅門たちはなにに由来して、なにに依存して、詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、ことばの錯乱した詭弁に陥るのか。
比丘たちよ、ここに、ある沙門、あるいは婆羅門は、愚鈍であり愚昧である。かれは愚鈍であるために、愚昧であるために、質問を尋ねられるごとに、ことばの錯乱した詭弁に陥る。『〈来世はあるか〉と、もしあなたがわたしにたずねて、もしわたしが〈来世はある〉と考えるなら、〈来世はある〉とあなたに答えるであろう。しかしわたしはそのようには思わない。そのとおりであるともわたしは思わない。異なっているともわたしは思わない。ないともわたしは思わない。ないのでないともわたしは思わない。
〔もしあなたがわたしに〕〈来世はないか〉とたずねて、〔もしわたしが〈来世はない〉と考えるなら、〈来世はない〉とあなたに答えるであろう。しかしわたしはそのようには思わない。そのとおりであるともわたしは思わない。異なっているともわたしは思わない。ないともわたしは思わない。ないのでないともわたしは思わない。
〈来世はあり、かつまた、ないのか〉〈来世はなく、かつまた、ないのでないか〉
〈化生(57)の生ける者はいるか〉〈化生の生ける者はいないか〉〈化生の生ける者はおり、かつまた、いないか〉〈化生の生ける者はおらず、かつまた、いないのでないか〉
〈善と悪の業の果・熟果はあるか〉〈善と悪の業の果・熟果はないか〉〈善と悪の業の果・熟果はあり、かつまた、ないか〉〈善と悪の業の果・熟果はなく、かつまた、ないのでないか〉
〈如来(58)(生ける者)は死後、存在するか〉〈如来は死後、存在しないか〉〈如来は死後、存在し、かつまた、存在しないか〉〈如来は死後、存在せず、かつまた、存在しないのでもないか〉と、もしあなたがわたしにたずねて、もしわたしが〈如来は死後、存在せず、かつまた、存在しないのでもない〉と考えるなら、〈如来は死後、存在せず、かつまた、存在しないのでもない〉とあなたに答えるであろう。しかしわたしはそのようには思わない。そのとおりであるともわたしは思わない。異なっているともわたしは思わない。ないともわたしは思わない。ないのでないともわたしは思わない』
比丘たちよ、これが、それより由来し、それに依存して、一部の沙門・婆羅門たちが詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、ことばの錯乱した詭弁に陥るところの、第三(原文ママ。四の間違いだろう)の根拠である。
二八、比丘たちよ、これら沙門・婆羅門たちのなかには、[28]詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、四つの根拠により、ことばの錯乱した詭弁に陥る。比丘たちよ、沙門、あるいは婆羅門で、詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、四つの根拠により、ことばの錯乱した詭弁に陥る人たちは、すべてこの四つの根拠によるが、あるいはそれらのうちのどれかにより、これよりほかにはない。
二九、比丘たちよ、これについて如来は次のように知る。『このように執着され固執された見解は、このような趣く先をもたらし、このような未来をもたらすであろう』と。如来はこれを知り、またこれよりも勝れたことを知る。比丘たちよ、しかしそれを知って如来は固執することがなく、また固執がないから、心の内に寂静があり、感受の〔生起する〕原因と消滅と過患と出離とを正しく知って、執着を離れている。
比丘たちよ、これらが、如来がみずから悟り体現して教示している、深遠で、見がたく、了知しがたく、寂静で、勝れており、思考と思惟とを越えており、微妙で、賢者だけが理解できる諸法であり、またそれら〔を賞賛すること〕によって、如来をあるがままに賞賛し、正しく語ることになる〔諸法〕である」
p.592から
註
(55)弱い欲望を、あるいは強い欲望を
「知らないのに、強いて、善を善であると、また不善を不善であると説いた後で、『私はこのことについてこのように答えたが、それは正しく答えられたのか』と他の賢者たちに尋ねる。かれらが『賢者の顔をした者よ、あなたは善を善であると正しく答え、不善を不善であると答えた』といわれたとき、『わたしのような賢者はいない』と、それについてわたしは弱い欲望を、あるいは強い欲望を起こす、という意味である」(DA.i.116)。
(56)弱い怒りを、あるいは強い怒りを
「反対に、善を不善であると、また不善を善であると説いた後で、賢者たちに尋ねて、かれらから『あなたは間違って答えた』といわれたとき、『私はこんなことすら知らないのか』と、それについて自分自身に弱い怒りを、あるいは強い怒りをもつ、という意味である」(DA.i.116)。
(57)化生の生ける者
化生は何もないところから忽然として生じるものであり、天界や地獄に生まれるとき、このようにして生まれるとされる。
(58)如来(生ける者) tathāgata
これらの問いは『中部』第六三経にも現れており、そこでは次のことが問われている。すなわち、仏教では、生ける者(satta)は死後、輪廻するとされる。ところが如来とは解脱した人であり、解脱した人は輪廻を離れており、もはや輪廻しない。輪廻を離れている如来が死んだら、その如来は死後、存在するのか、存在しないのか。『中部』第六三経では質問者は仏弟子マールンキャプッタであり、それゆえかれは「如来」に関して質問するのであろうが、この経典では疑問をもつ者は異教徒の詭弁論者であり、そのかれが「如来」について疑問をもつとは考えづらい。それゆえDA.i.118は、ここのtathāgataの語は生ける者(satta)の意味であると註釈している。ただし、「如来」と文字どおりに解釈すべきか、「生ける者」と解釈すべきかは、訳者のあいだでも見解は異なっている。「如来」の語は仏教以外でも、当時の諸宗教を通じて、「修行を完成した人」を指すから、如来についての無記・捨置記の論議も諸宗教を通じてのものであった、という説もある。中村元『ブッダ最後の旅』(岩波文庫、239頁)参照。
(
詭弁論ではなく非断定論と訳したらいいじゃん。
サンジャヤ・ベーラッティプッタの教説だろうな。別人の教説の可能性はあるけどね。
「絶対に嘘を言わない」つまり嘘をつかない戒律の徹底とも解釈できるな。
それと断言から生ずる業の遮断。
断言という結果を生じさせる過程〔=思考〕に伴う想起や感情など〔とそれによる業〕の遮断。これらは「ただ沈黙し続ける(喋らない)」だけでは達成されないので、思考自体を意図的に止めている。論理的な選択肢を並べるが選ばないという姿勢だ。
言わなくても人は行動しないといけない〔食事など〕ので、「どうするべきか」は行動で示してしまう。なので、完全に何も主張しないのは不可能。食事だと「何を食べないか」自体が教えだからね。言わなくても行動を見たらわかっちゃうからね。
シャーリプトラと目連が弟子だったんだからさ、もっと詳しく教えを残してほしかったよ。この2人に聞いた結果が上記なのかもしれないけどね。
この2人が惹かれた理由を残してほしかったよ。
この2人がいるので、サンジャヤ・ベーラッティプッタ教については正確な記述である可能性が高いな。
目連って目犍連(もくけんれん)だったり、梵語でMaudgalyāyana マウドガリヤーヤナ、巴語でMoggallāna モッガッラーナだし初見だと同一人物だとわからないな。
「犍」が変換で出ない。腱「呼んだ?」 鍵「俺のことだな?」 呼んでないし違うよ。
無記 - インド思想史略説
https://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/muki.htm
”第2節 原始仏教の教理
ブッダに帰依する人々が集まり、僧団が形成され、それが発展するとともにブッダの教えは、急速に整備され、体系化されていった。そして、三宝・三法印・縁起・四諦八正道などのまとまりのある説が成立してくる。
1. 無記
原始仏教が思想を構築していく上でとった基本的な立場は、無記である。
「無記」(avyākata, avyākṛta)とは、形而上学的な問題について判断を示さず沈黙を守ることである。無用な論争の弊害からのがれ、苦しみからの解放という本来の目的を見失わないためにとられた立場である。
『マッジマ・ニカーヤ』(中部経典)第63経「小マールンキャ経」は、世界が永遠であるか否か、有限であるか否か、生命と身体は同一のものであるか否か、人は死後存在するか否かという問題について、ブッダが何も語らなかったことを「毒矢のたとえ」によって巧みに表現している。1)
毒矢にいられ、苦しむ人を前にして、医者が、患者の身分、階級、弓の種類、矢の種類などについて知られない間は治療しないとしたら、その人は死ぬ。
世界が永遠であろうとなかろうと、有限であろうとなかろうと、生命と身体が同一であろうとなかろうと、人が死後存在しようとしまいと、人は生まれ、老い、死に、嘆き、悲しみ、苦しみ、憂い、悩む。
ブッダは、現実にそれらの苦しみを止滅することを第一義の目的とした。あくまでこの目的を見失うまいとするのが「無記」の立場である。ここには、心の病の医者としてのブッダの側面が如実に現れている。2)
【次へ】【目次へ】
1) 田中教照訳「毒矢の喩え」(『ブッダのことば III』講談社、1985年) 1頁以下。後代の『倶舎論』では十四無記が説かれる。高崎直道『仏教入門』東大出版会、1983年、77頁。【本文へ】
2) この「無記」の立場は、経験できないものについては語らないという点で、現代の実証主義に通ずるものがある。この思想的な態度は縁起・無我の教義と結びついて、大乗仏教の空の思想へと発展していく。【本文へ】”
)
p.41
〔断滅論(63)〕
p.593
註
(63)断滅 ucchedavāda 死後、我は消滅すると説く。
(65)
空間の無限を観ずる境地(空無辺処)から想があるのでもなく想がないものでもないという境地(非想非非想処)の四つは物質のない純粋に精神的な領域(無色界)の四段階である。
p.44から
大まかな考察(尋)ともない、細かな考察(伺)をともなっているが、〔五つの蓋いからの〕離脱によって生じた喜びと安楽とをそなえた、第一の瞑想(初禅)にはいり、そのなかにいる。
〔第二の瞑想の〕喜びを離脱することによって、中庸(捨)(68)となっており、注意力(念)(69)と明瞭な意識(正知)(70)とをもち、身体により安楽を感受し、聖なる人たちが〈中庸となり、注意力をそなえた者は安楽がある〉というところの、第三の瞑想(第三禅)にはいり、そのなかにいる。
p.594
註
(67)大まかな考察(尋)
大まかな考察(vitakka)は通例、「尋」と漢訳され、細かな考察(vicāra)は通例、「伺」と漢訳される。両者はしばしば一緒に出るが、そのときには、vitakka(尋)は考察を開始した初期の状態をさし、ものごとを大まかに考察することをいう。vicāra(伺)は考察を継続しつつある状態をさし、ものごとを精査し、細かく考察することをいう。
(68)中庸(捨) upekkhā(upekha)
漢訳仏典では「捨」と訳される。原始仏典の範囲ではpekkhā(原文ママuが抜けている)に二義がある。
(一)苦でもなく楽でもない対象に接して生じてくる、中庸な感受。
(二)対象の苦楽や好悪に心を動かされず、中庸に保たれた精神。
ここでは後者の意味である。
(69)注意力(念) sata
名詞形satiは漢訳仏典では通例、「念」と訳される。原始経典において、sati(念)は
(一)対象を記憶して忘れないこと、
(二)こころが放縦にならないように気をつけ注意力がそなわっていること、さらに
(三)無常・苦・無我などをつねに念頭に置き、忘れないこと、すわなち(原文ママ)四念住の意味に使用される。ここでは(二)の意味である。またこの意味では次項の正知(sampajañña)としばしば対となって原始仏典の随所に現われる。
(70)明瞭な意識(正知) sampajañña
漢訳仏典では通例、「正知」と訳される。自分が今なにを行なっているかを明瞭に自覚して識知していることをいう。
(
尋伺 - WikiDharma
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%98%E3%82%93%E3%81%97
五禅支 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%A6%85%E6%94%AF
Sampajañña - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Sampaja%C3%B1%C3%B1a
)
p48から
〔六十二種の見解の本性は感受されたものである〕
三五、比丘たちよ、これらのうちで、かれら沙門・婆羅門たちは、詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、四つの根拠により、ことばの錯乱した詭弁に陥るが、それはかれら尊敬すべき沙門・婆羅門たちが〔真実を〕知っておらず、〔真実を〕見ていないために感受されたものであり、渇愛に陥っているためにおののき狂躁したものにすぎない。
(
他の見解でも同様に、真実を知らず見ないために感受されて渇愛に陥ったと結論されている)
p54から
〔六十二種の見解を超越する道〕
(前略)、またかれら沙門・婆羅門たちは、詭弁論をもち、またかれら(中略)沙門・婆羅門たちは、過去の限界について考察し、未来の限界について考察し、過去の限界と未来と限界とについて考察し、過去の限界と未来の限界とについて見解をもち、六十二の根拠により、過去の限界と未来の限界とに関して種々の浮説を主張するが、それらのすべては六つの接触(74)の場に触れて感受するのである。それらには感受を縁として渇愛が〔生じ
〕、渇愛を縁として固執が〔生じ〕、固執を縁として生存が〔生じ〕、生存を縁として生まれることが〔生じ〕、生まれることを縁として老いることと死ぬことと、悲しみと嘆きと苦しみと憂いと悩みとが生じる。比丘たちよ、比丘が、六つの触処の原因と消滅と楽しみと過患と離脱とを如実に知れば、かれはこれらすべてより一層すぐれていることを知る。
比丘たちよ、如来の身体は生存へ導くものを切断している。かれの身体が存続しているあいだは、天人も人もそれを見る。身体が滅んで命が終わったあと、天人も人も見ることはない。
p594から
註
(72)比丘たちよ…
以下では六二種の見解の本質が説かれる。それらの見解は「感受されたもの」(vedayita)といわれている。感受されたものとは感覚器官で対象を認識するときに、人に感受されることがらをいう。感受は認識作用にともなう生理的反応とでもいうべきものであり、理性的な判断の加わっていない心理作用である。六二種の見解を理性の伴わない低次元のものとして否定するブッダの姿勢が現れている。Da.i.123fには、「見解の魅力と見解の安楽と見解の〔縁となる〕感受されたものとによって喜悦したかれらは、四つの根拠により、自我と世界とは常住である、と主張するが、それもかれら尊敬すべき沙門・婆羅門が、如実のものごとの本質を知らず、また見ていないために、渇愛に陥って、感受されたものである。ただ単に渇愛に陥った者たちに感受されたことにすぎない。それはまたおののき狂躁したものであり、見解と称され、また渇愛と称されたおののきによって狂躁し、動転し、動揺しているにすぎない。あたかも籾殻の山に突き立てた杭のようである」と説明されている。
(73)接触を縁とする
人が対象物を認識するとき、仏教では感覚器官と対象とが接触すると考え、接触なしに認識作用は起こらないとされる。この接触はphassaと呼ばれ、漢訳経典では「触」と訳される。
(74)
接触の場 phassāyatana(触処)
āyatana(「処」と漢訳される)は認識作用が生じる場所という意味で、六つの感覚器官とそれに対応している六つの対象をいう。ここで「接触の場」とは、六つの感覚器官をさしている。
(
植木訳『法華経』の、梵語と漢訳がない版の上巻の注より、
十二因縁
人の苦悩の成立原因を、
①無明(無知)
②行(潜在的形成力)
③識(識別作用)
④名色(名称と形態)
⑤六処(六つの感官)
⑥触(接触)
⑦受(感受作用)
⑧愛(妄執)
⑨取(執着)
⑩有(生存)
⑪生(生まれること)
⑫老死(老いて死ぬこと)――の十二段階に分けて説いたもの。
〔
愛は妄執、取は執着
〕
)
第二経 修行の成果―沙門果経
〔『沙門果経』(しゃもんかきょう、Sāmaññaphala-sutta, サーマンニャパラ・スッタ)〕
森祖道[モリソドウ](訳)
(冒頭の解説より)
本経は、父王殺しの悪人として名高いアジャータサットゥ王(阿闍世王)の質問告白に対して釈尊が応答説示するという筋立ての、比較的長い経典である。
経典の前半は、アジャータサットゥ王が釈尊と初めて出会い、その時までに自分が当時の有力な六人の指導者より受けた教説について、一説ずつ説明する内容が中心である。当時、数多く輩出したサマナ(沙門)と呼ばれる反バラモン教的な新興宗教家自由思想家たち(釈尊もその中の一人であった)の中の六人であって、仏典では「六師外道(ろくしげどう)」と記されている人たちのことである。
p.60から
「陛下、かのサンジャヤ・ベーラッティプッタ(15)という者がおります。かれこそは出家教団の教主、信奉者の教主、集団の師として名高く、名声があり、教祖であり、大勢の人たちに善人として尊敬され、経験が豊富で、出家して久しく、長い人生の旅路を歩んで高齢に達した方です。陛下はそのサンジャヤ・ベーラッティプッタをお訪ねなさいませ。サンジャヤ・ベーラッティプッタをお訪ねになれば、おそらく陛下のお心は浄まることでしょう」
(
上位の名前の箇所を入れ替えただけの記述が他に5回登場する。つまり、上記はすべて六師外道の紹介文。当時は有名だったのだろう。
お経に共通部分や繰り返しが多い理由の1つは、覚えやすくするためだろうな。当時は口承であり口伝だからだ。文字で記録していない。お経は詩や歌の側面もあるので繰り返し箇所があってもおかしくない)
「陛下、修行完成者(17)であり、正真の覚者(18)であるかの世尊がおられ、わたくしどものマンゴー林に、千二百五十人の修行僧からなる大僧団と一緒に住んでおります。その世尊には、次のようなすばらしい称賛の声があがっています。『このように、かの世尊(19)は、修行完成者(20)であり、正真の覚者であり、明行足(21)であり、よく逝ける者(22)であり、世間を見抜いた者(23)であり、無上なる存在(24)であり、人間の調練者(25)であり、天と人の師(26)であり、仏(27)であり、世尊である』と。陛下はその世尊をお訪ねなさいませ。世尊をお訪ねになれば、おそらく陛下のお心は浄まることでしょう」
p.596から
註
(6)布薩日 uposatha
元来は月に四回ある休日・斎日のこと。仏教教団では同一地域内の比丘たちが、毎月の新月と満月の日に一堂に会して戒条を読誦(どくじゅ)し、この半月間の修行生活の過誤を告白懺悔して自己反省する。また在家の信者はこの日は八戒を守り、説法を聞き、出家者に食事を供する。
(7)古代インドの暦法では、満月の翌日から次の満月に至るまでを一カ月とする。
(太陰暦なんだ
)
(13)アジタ・ケーサカンバラ Ajita Kesakambara
いわゆる「六師外道」の一人で断滅論者・虚無論者といわれる。かれは人間の毛髪で作られた衣服を着していたとされ、その所説は本経二二節(本書六九頁)以下参照。
(15)サンジャヤ・ベーラッティプッタ Sañjaya Belaṭṭhiputta
所説は一種の詭弁論であって、捕らえどころがないので捕鰻論・不老憍乱論(amarā-vikkhepa)ともいわれた。
(17)修行完成者――阿羅漢のこと。
(18)正真の覚者 sammā-sambuddha
三藐三仏陀(さんみゃくさんぶっだ)と音写し、正遍知とも正等覚者とも訳す。「正しく真に覚った者」の意味で、この語の上にさらに無上(anuttara. 阿耨多羅(あのくたら))の語を加えることもある。仏の悟り(原文ママ)は声聞や縁覚などの低レベルの悟りとは違ってベストのものという意である。
(
般若心経の阿耨多羅 三藐三菩提
(あのくたら さんみゃくさんぼだい
anuttara-samyak- saṃbodhi)の
アノクタラとサンミャクサン
)
(20)修行完成者であり
以下、10の名称が列挙されるが、これは「仏の十号」といわれ、釈尊の卓越した特性をいろいろな角度より説明した敬称である。
(21)明行足 vijjācaraṇa-sampana
明(智慧)と行(修行の実践)を具足完備した者の意。仏は悟りの智慧とそれを獲得する実践体験を具備している者ということである。
(22)よく逝ける者 sugata
修伽陀と音訳し、善逝・好去と意訳する。完全に仏の悟りの世界に逝き、二度と衆生の迷いの世界には戻ることのない者という意である。
(23)世間を見抜いた者 lokavidu
世間(衆生凡夫の世界)のすべてを真に見抜き見透した者の意味で、漢訳では世間解と訳す。世間に対するこの知解、洞察力によって、仏は衆生を悟りへと教化救済できるわけである。
(24)無上 anuttara この上ない最高最上の人という意。
(25) 人間の調練者 purisadamma-sārathi
調御されるべき人の調御教育者をいう。漢訳では調御丈夫と訳す。仏性を具え教化教導可能なすべての人をよく訓練する御者のことである。
(26)天と人の師 satthā devamanussanaṃ
天神や人間などすべての生きとし生ける者の教導の師という意。
(27)仏 buddha
この天地人間の真理真実に目覚めた者すなわち覚者のことで、自ら悟り他を悟らせる者。
(
世尊はbhagavat。
世尊 - 新纂浄土宗大辞典
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%96%E5%B0%8A
”釈尊の呼称。原語はⓈⓅbhagavatであり、「幸運を有する者」の意。釈尊には様々な呼称があり、「如来の十号」と言われるように、仏、阿羅漢、正等覚者など一〇の異なった呼称があるが、この語もその中の一つ。婆伽婆や薄伽梵と音写されたり、世尊や有徳と意訳されたりする。これは古代インドのヴェーダ聖典や叙事詩においても、弟子が師匠に対して「先生」と呼びかける際の言葉であり、仏教もそれに倣ったとされる。通常、経典では釈尊を描写する際に最も一般的に用いられる。例えば単独で、あるいは「仏」という語と共に、「ある時、世尊は舎衛城郊外の竹林精舎で時を過ごしておられた」というように、経典の語り手が第三者としての釈尊を客観的に描写する際に使われたり、また仏弟子や在家信者が、「私は世尊のもとで梵行を修したいのです」というように、二人称として釈尊を呼ぶ場合にも使われる。 ”
)
(
Buddha Guṇā [帰依仏]-パーリ語 常用経典集 - 法楽寺
http://www.horakuji.com/BuddhaSasana/Theravada/paritta/Buddha_guna.htm
“Buddha Guṇā
仏陀の九徳(仏十号・如来十号)
パーリ語原文
Itipi so Bhagavā Arahaṃ Sammāsambuddho
Vijjācaraṇasampanno Sugato Lokavidū
Anuttaro purisadamma-sārathi
Satthā devamanussānaṃ Buddho Bhagavā.
カナ読み
イティピ ソー バガヴァー アラハン サンマーサムブッドー
ヴィッジャーチャラナサムパンノー スガトー ローカウィドゥー
アヌッタロー プリサダンマサーラティ
サッター デーワマヌッサーナム ブッドー バガヴァー
日本語訳
かの婆伽梵[ばがぼん]は、応供であり、正遍知であり、
明行足であり、善逝であり、世間解であり、
無上士であり、調御丈夫であり、
天人師であり、仏陀であり、世尊である。
日本語訳:沙門 覺應
帰依仏
パーリ語原文
Ye ca Buddhā atītā ca, ye ca Buddhā anāgatā,
Paccuppannā ca ye Buddhā, aham vandāmi sabbadā.
N'atthi me saraṇaṃ aññaṃ, Buddho me saraṇaṃ varaṃ.
Etena saccavajjena, hotu me jayamaṅgalaṃ.
Uttamaṅgena vande'haṃ, pādapaṃsuṃ var'uttamaṃ,
Buddhe yo khalito doso, Buddho khamatu taṃ mama.
カナ読み
イェー チャ ブッダー アティーター チャ,イェ- チャ ブッダー アナーガター,
パッチュッパンナー チャ イェー ブッダー,アハン ヴァンダーミ サッバダー.
ナッティ メー サラナン アンニャム,ブッドー メー サラナン ヴァラン.
エーテーナ サッチャヴァッジェーナ,ホートゥ メー ジャヤマンガラン.
ウッタマンゲーナ ヴァンデーハン,パーダパンスム ワルッタマム.
ブッデー ヨー カリトー ドーソー,ブッドー カマトゥ タム ママ.
日本語訳
かの過去世の仏陀達、かの未来世の仏陀達、
そして、かの現在世の仏陀達すべてを、私は敬礼いたします。
私には、他に帰依処などなく、仏陀こそが、私の尊い帰依処。
この真実の告白によって、私に勝利をもたらす吉祥あれ。
私は、(自分の額を仏陀の)御足の尊い塵につけ、最上の礼拝をいたします。
仏陀について、私になにか過失や罪があったならば、仏陀よ、どうか許したまえ。
日本語訳:沙門 覺應”
)
(34) 旗手 celaka
戦闘において勝利の旗を掲げて先頭に進む者のこと。
p.65から
〔プーラナ・カッサパの説〕
一六、「尊師よ、あるときわたしは、プーラナ・カッサパのところに訪ねて行きました。訪ねて行って、プーラナ・カッサパとたがいに挨拶をし、喜ばしく印象に残るようなことばを交わしてから、一方の場所に坐りました。一方の場所に坐ったわたしは、尊師よ、プーラナ・カッサパに次のようにいいました。
『君、カッサパよ、〔世間には〕さまざまな技能職業があります。たとえば、象に乗る者、馬に乗る者、車に乗るもの、弓の射手、旗手、〔中略〕またほかにもこれに類するさまざまな技能職種の者――かれらはこの世において、目に見える技能の報酬によって生活しています。かれらはそれによって、自分自身を安楽にし満足させ、母と父とを安楽にし満足させ、子供と妻とを安楽にし満足させ、友人知人を安楽にし満足させ、〔そしてまた〕沙門やバラモンに対しては、天界に生まれ天界の安楽なる果報をもたらす立派な布施をきちんと行ないます。そこで、君、カッサパよ、ちょうどそのように、この世において、目に見えるかたちで〈修行の成果〉を示すことがおできになりますか』と。
一七、尊師よ、このようにいわれて、プーラナ・カッサパはわたしに次のように答えました。
『大王よ、〔自らの手で〕傷つける者、〔命令して〕傷つけさせる者、〔他人の手足などを〕切断する者、切断させる者、苦痛を与える者、苦痛を与えさせる者、悲しみを与える者、疲れさせる者、恐れおののく者、恐れおののかせる者、生き物を殺す者、与えられない者を盗(と)る者、家に押し入る者(41)、強盗を働く者、一軒家を襲う者(42)、追剥を働く者、他人の妻と通ずる者、嘘をつく者――こういう者の行為は罪悪とはなりません。たとえ周囲が剃刀のように鋭利なチャッカ(43)によって、この地上の生き物を〔切り刻んで〕一つの肉の塊り、一つの肉の山にしたとしても、それによって罪悪はなく、罪悪の出現はありません。またたとえ〔凶暴な人々のいる〕ガンジス河の南岸(44)に行って、殺害しても、殺害させても、〔他人の手足をなどを〕切断しても、切断させても、苦痛を与えても、与えさせても、それによって罪悪はなく、罪悪の出現もありません。またたとえ、〔信心深い人々のいる〕ガンジス河の北岸(45)に行って、布施をしても、布施をさせても、大供養を行なっても、大供養を行なわせても、それによって功徳はなく、功徳の出現はありません。[53]布施によっても制御(46)によっても〔戒による〕自制によっても、真実のことばによっても、功徳はなく、功徳の出現もありません』
一八、尊師よ、このようにプーラナ・カッサパは、わたしに目に見える修行の成果について問われたのに、〔行為はなんの結果ももたらさないという〕『非作用』を説きました。尊師よ、それはちょうど、マンゴーについて問われたのに、ラブジャの木(48)のことを説明し、あるいはラブジャについて問われたのに、マンゴーのことを説明するようなものです。尊師よ、プーラナ・カッサパは、わたしに目に見える修行の成果について問われているのに、〔行為はなんの結果ももたらさないという〕『非作用』を説きました。尊師よ、〔しかし〕そこでわたしは、このように考えました。『どうしてわたしごとき者が、領内(49)に住んでいる沙門やバラモンを非難しようなどと考えてよいであろうか』と。尊師よ、そこでわたしは、プーラナ・カッサパの言説を称賛もせず非難もしませんでした。称賛もせず非難もせず、内心不満ではありましたが、不満のことばを出さず、かれのことばを聞き流すだけで、傾倒することはしないまま、座を立って退出しました」
p599から
註
(40)修行の成果 sāmañña-phala
ここでは修行(sāmañña)とは最上なる修行道、つまり、正見ないしは正定までの八聖道のことであり、修行の成果とは、聖なる成果、つまり、預流果ないしは阿羅漢果までの四つの果のことである。
(43)チャッカ cakka
相手にむかって投げつける円盤形の武器。
(
チャクラム?)
(44)ガンジス河の南岸の人々は残酷で凶暴であると考えられていた。
(45)ガンジス河の北岸の人々は信心深く浄信をもち、仏法僧を信奉していると考えられていた。
(46)制御 dama
これには感覚器官の制御(indriya-dama)と布薩の制御(uposatha-dama)がある。
(48)ラブジャ labuja
パンの木の一種。果実を焼くとパンの味がするからbread-fruit(パンの木)と呼ばれる。種類が多く、古くから食用とされ、品種の改良も行なわれてきた。古代インドでも重要な食料の一つであった。(N)
(49)領内 とは命令が行きわたる地域のこと。
p66から
〔マッカリ・ゴーサーラの説〕
一九、「ここにまた、尊師よ、あるときわたしは、マッカリ・ゴーサーラのところに訪ねて行きました。訪ねて行って、マッカリ・ゴーサーラとたがいに挨拶をし、喜ばしく印象に残るようなことばを交わしてから、一方の場所に坐りました。一方の場所に坐ったわたしは、尊師よ、マッカリ・ゴーサーラに次のようにいいました。
『君、ゴーサーラよ、〔世間には〕さまざまな技能職業があります。たとえば、象に乗る者、馬に乗る者、車に乗るもの、弓の射手、旗手、軍司令官〔中略〕またほかにもこれに類するさまざまな技能職種の者――かれらはこの世において、目に見える技能の報酬によって生活しています。かれらはそれによって、自分自身を安楽にし満足させ、母と父とを安楽にし満足させ、子供と妻とを安楽にし満足させ、友人知人を安楽にし満足させ、〔そしてまた〕沙門やバラモンに対しては、天界に生まれ天界の安楽なる果報をもたらす立派な布施をきちんと行ないます。そこで、君、ゴーサーラよ、ちょうどそのように、この世において、目に見えるかたちで『修行の成果』を示すことがおできになりますか』と。
二〇、尊師よ、このようにいわれて、マッカリ・ゴーサーラはわたしに次のように答えました。
『大王よ、生けるものには、汚れの直接原因も間接原因(縁)(50)もない。生けるものは、直接原因も間接原因もなく汚れるのである。生けるものには、直接原因も間接原因もない。生けるものは、清浄の直接原因も間接原因もなく清浄になるのである。自己による諸行為はなく、他者による諸行為もなく、人間による諸行為もなく、力もなく、精進もなく、人間の精力もなく、人間の努力もない。すべての生けるもの(51)、すべての呼吸する者(52)、すべての発生したもの(53)、すべての生命あるもの(54)は、自在力もなく、力もなく、精進もなく、決定と〔偶然の〕結合(55)と本来の性質(56)とに左右され、六種の生まれ(57)の階級〔のいずれか〕においてのみ、楽と苦とを実感するのです。[54]じつに主要なる胎(生まれ)には百四十万種があり、また六千種、また六百種がある。行為(業)には五百種があり、また〔五官に応じた』五種があり、また〔身体・言語・心による〕三種がある。〔そのうち身体と言語による行為は〕一つの行為であり、〔心による行為は〕半分の行為である。また六十二種の修行道があり、六十二種の中間劫(こう)があり、六種の生まれの階級があり、八種の人間(58)の〔修行の〕階位があり、四千九百種の職業、四千九百種の遊行者、四千九百種の蛇の住処、二千種の感覚器官、三千種の地獄、三十六種の塵の世界、七種の意識をもつ生物(59)、七種の意識をもたない生物(60)、七種の節のある生物(61)、七種の神々(62)の神々、七種の人間(63)、七種の鬼(64)、七種の湖(65)、七種の結び目、七百種の結び目(66)、七種の断崖(67)、七百種の断崖、七種の夢(68)、七百種の夢があります。そして八百四十万の大劫(69)があり、その間、愚者も賢者も流転し輪廻をくり返した後、〔ようやく〕苦の終滅を実現するでしょう。その場合、〈わたしはこの戒により、禁制により、苦行により、梵行によって、いまだ熟しきっていない業を完熟させ、あるいはすでに熟しきった業には〔その報いに〕くり返し触れて、消滅させてしまおう〉などということはありません。まったくそのようなことはないのです。楽と苦とは〔いわば〕桝(ます)で量られたようなもので、輪廻は期限が限定されていて、そこには増減もなければ、消長変動もないのです。ちょうど糸玉が投げ出されると、〔糸がなくなるまで〕解けながらころがって行くように、愚者も賢者も流転し輪廻した後で、〔ようやく〕苦の終滅を実現するでありましょう』と。
二一、尊師よ、このようにマッカリ・ゴーサーラは、わたしに目に見える修行の成果について問われているのに、輪廻による浄化のことを説明しました。尊師よ、それはちょうど、マンゴーについて問われたのに、ラブジャの木のことを説明し、あるいはラブジャについて問われたのに、マンゴーのことを説明するようなものです。尊師よ、マッカリ・ゴーサーラは、わたしに目に見える修行の成果について問われているのに、輪廻による浄化のことを説明しました。尊師よ、〔しかし〕そこでわたしは、このように考えました。『どうしてわたしごとき者が、領内に住んでいる沙門やバラモンを非難しようなどと考えてよいであろうか』と。尊師よ、そこでわたしは、[55]マッカリ・ゴーサーラの言説を称賛もせず非難もしませんでした。称賛もせず非難もせず、内心不満ではありましたが、不満のことばを出さず、かれのことばを聞き流すだけで、傾倒することはしないまま、座を立って退出しました」
ここまでp68
p.599から
註
(50)直接原因も間接原因(縁)も
「直接原因」の原語はhetu(「因」と漢訳される)、「間接原因」はpaccaya(「縁」と漢訳される)。仏典の中でhetuとpaccayaは区別なく同義に使われる場合と、直接原因(hetu)と間接原因(paccaya)に区別される場合とがある。マッカリ説では両語は同義であると註釈されている。
(55)結合 saṅgati. 六種の生まれの階級にそれぞれ赴くこと。
(56) 本来の性質 bhava. 自性 (sabhava)のこと。
(57)六種の生まれの階級
(メモ者注:表記方法をわかりやすく変更した。6が最上位)
6 純白の階級:ナンダ、ヴァッチャ、サンキッチャ、マッカリ・ゴーサーラ
5 白い階級:アージーヴィカ教徒(邪命外道(じゃみょうげどう))、
女アージーヴィカ教徒
4 鮮黄色の階級:白衣の在家者、裸形者の弟子
3 赤い階級:ジャイナ教徒、一衣者
2 青い階級:仏教の修行僧
1 黒い階級:
屠羊者、屠豚者、捕鳥者、猟師、漁師、盗賊、刑吏、獄吏、その他の残酷な職業人
(
マッカリ・ゴーサーラつまりアージーヴィカ教による
色の階級は、
純白>白>鮮黄>赤>青>黒。
教祖や信徒の階級は、
アージーヴィカの教祖>アージーヴィカ教徒>(おそらく)アージーヴィカの在家、裸形者の弟子(おそらくアージーヴィカ教徒とは限らない)>ジャイナ教徒>仏教の修行僧>(おそらく非殺生の壁)>残酷な職業人。
アージーヴィカ>ジャイナ>仏教。ジャイナ教が仏教より上なのは仏教の戒律がゆるいことが理由の1つだろうな。仏教はジャイナ教みたいに服を着るかどうかで宗派が分かれたりしないし、食べられるものもジャイナ教より多いからね。
ヌード写真つき薄い本『ジャイナ教とは何か』、六師外道全員、特にジャイナ教とアージーヴィカ教に詳しい薄くない本『ジャイナ教入門』
Posted on 2019.01.25 Fri 12:02:29
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-267.html
”自由思想家の特徴
1 ヴェーダの権威と祭祀の有効性の否定
2 ヴァルナ差別の否定
3 広範囲の人々を対象に平易な言葉で教えを説いた
4 個人としての自己主張をし、
信者が出身に関係なく個人として帰依するなど
生まれではなく個人の能力、意志、行為が評価された。
個が血縁の中に埋没していた前代の社会には見られなかった現象
自由思想家たちすべてが精神的肉体的に極めて厳しい修行を積んでいる。
唯物論者や快楽主義者ですら苦行を行い、生涯簡素な生活を送っていた。
釈迦が乗り越えた六人の自由思想家。
1 プーラナ・カッサパ 道徳否定論
祭祀を行なっても
施しなどの善行をなしても
自己にうち克ち感官の制御をし
真実を語ることによっても
善の生ずることもないし、
また善の報いも存在しないという。
反対に
生きものおよび人間の体を切断し苦しめ悲しませ戦わせ
生命を奪っても
さらに与えられざるものを奪い
家宅侵入、掠奪、強盗、
追いはぎ、姦通、虚言などをしても
少しも悪をなしたのではない。
悪業に対する報いも存在しないという。
因果応報を否定し
善悪の別は人間が定めたことであり
真の意味では存在しないと主張し
世間的な常識、社会通念を否定。
(プーラナ・カッサパの行為の善悪否定論
http://user.numazu-ct.ac.jp/%7Enozawa/b/purana.htm
”プーラナ・カッサパは、行為に善悪はなく、行為が善悪の果報をもたらすこともないと主張した。
傷害・脅迫・殺人・強盗・不倫・虚言などを行ったとしても、悪にはならない。
悪の報いはない。施し・祭式・節制・真実を語ることを行ったとしても、善にはならない。善の報いもないと説いた。
この教えは「道徳否定論」として紹介されることが多いが、決してそのような思想ではない。
すぐあとで扱うパクダ・カッチャーヤナの思想と同じく、あらゆるものごとを「平等」にみることによって、行為に附随する罪福へのこだわりとその結果生まれる苦しみから心を解き放とうとする教えであろう。
このような教えは、特に生きものを殺すことを職業とするため、業・輪廻説にしたがうかぎり、苦を果報として受けることが避けられないとされる人々に対して説かれたのではないかと考えられる。
これは、その本質において、
『バガヴァッド・ギーター』2.38の「苦楽、得失、勝敗を平等のものと見て、戦いに専心せよ。
そうすれば罪悪を得ることはない。」という「平等」の教えと同じであろう。1)
パーリ仏典『沙門果経』の第17節 (PTS, DN, I, p.52) において、プーラナの思想は次のように紹介されている。
「行為する者、させる者が、(人を)切ったり、切らせたり、
苦しめたり、苦しめさせたり、悲しませたり、疲れさせたり、
恐怖を与えたり、与えさせたり、生きものを殺したり、
与えられないものをとったり、家を壊して侵入したり、
掠奪したり、盗みを働いたり、路上で追いはぎをしたり、
不倫したり、嘘ついたりしたとしても、悪いことをするわけではない。
また、まわりが剃刀のような円盤で、(あらゆる)地上の生きものを、
一山の肉、一塊の肉にしてしまっても、それによって悪があるわけではなく、悪の報いはない。
ガンジス河の南岸に行き、人を殺したり、殺させたり、
切ったり、切らせたり、
責めたり、責めさせたりしても、それによって悪があるわけではなく、悪の報いはない。
ガンジス河の北岸へ行き、施しをしたり、施しをさせたり、
祭式を行ったり、祭式を行わせたりしても、それによって善があるわけではなく、善の報いはない。
布施、克己、節制、真実を語ることによって善があるわけではなく、善の報いはない。」”)
2 パクダ・カッチャーヤナ(七要素集合説、唯物論)
人間の各個体は七つの集合要素、
すなわち地・水・火・風の四元素と
苦・楽と霊魂から構成されている。
これらは作られたものでも、
他のものを産み出すこともない。
山頂のように不変で石柱のように不動。
これらは互いに他を害うこともない。
それゆえ世の中には殺す者も殺される者もなく
教えを聞く者も聞かせる者もなく
知る者も知らしめる者も存在しない。
たとえ鋭利な刃物で他の頭を切り落としても
これによって何人も誰かの生命を奪うことはない。
ただ剣の刃が七要素の間隔を通過するにすぎないという。
宇宙あるいは人間がいくつかの要素の集合から構成されているという主張は
インドでは積聚説(アーランバ・ヴァーダ)と呼ばれる。
仏教にもジャイナ教にも見られるし、
後代のインド六派哲学のヴァイシェーシカ哲学の原子論にも継承されていく。
このパクダの教説はまだ要素の集合を説くのみで
ここの要素の細分化の可能性つまり原子論的な展開は見られない。
パクダの教説はインドにおける唯物論の先駆といわれている。
(パクダ・カッチャーヤナの七要素説
http://user.numazu-ct.ac.jp/%7Enozawa/b/pakuda.htm
”パクダ・カッチャーヤナは七要素説を説いた。
人間は七つの要素、すなわち地水火風
楽苦と生命(あるいは霊魂)からなるもので、
これらは作られたものではなく、何かを作るものでもない。
不動、不変で互いに他を害することがない。殺すものも殺されるものもなく、学ぶものも教えるものもいない。
たとえ、鋭利な剣で頭を断っても、誰も誰かの命を奪うわけではない。剣による裂け目は、ただ七つの要素の間隙にできるだけである。行為に善悪の価値はないとする。
さきのプーラナ・カッサパの教えと同じく、これも道徳破壊の思想とされるが、そうではない。
人間の本質は霊魂にあると見て、霊魂は不動、不変なものなので、殺すことも害することもできないというのである。
『バガヴァッド・ギーター』2.24の
「彼は断たれず、焼かれず、濡らされず、乾かされない。
彼は常住であり、遍在し、堅固であり、不動であり、永遠である。」という思想と同じものである。”)
3 マッカリ・ゴーサーラ(運命決定論、無因無縁論)
※ゴーサーラは別の章で詳述されるほど重要。
ゴーサーラによると
一切の生きとし生けるものが輪廻の生存を続けているが
それは無因無縁である。
生きものたちが清らかになり解脱するのも無因無縁。
かれらには支配力もなく、意志の力もなく、
ただ運命と状況と本性に支配されて、
いずれかの状態において苦楽を享受するのである。
意志にもとづく行為は成立しない。
840万の大劫の間に、
愚者も賢者もただ流転し輪廻しつづけ、苦の終わりに至る。
その期間のなかで修行で中途に解脱することは不可能。
ちょうど毛糸の球を投げると、
ほぐれながら糸球は糸の終わるまで転がっていく
(糸がなくなると転がるのをやめる)ように、
人は愚者であれ賢者であれ
定められた期間は流転しつづける、と主張。
ゴーサーラの教説は
生き物によってすべてのことは無因無縁であって、
運命的に定まっているという運命決定論であるとされている。
(マッカリ・ゴーサーラの宿命論
http://user.numazu-ct.ac.jp/%7Enozawa/b/gosala.htm
”マッカリ・ゴーサーラは、アージーヴィカ教の代表者である。
彼は、ジャイナ伝説によれば、シュラーヴァスティーにおいて、ジャイナ教のマハーヴィーラと激しい論戦の後、没したという。その年、マガダのアジャータシャトル王が、ヴァッジ族に戦争をしかけたが、この戦争は、ブッダの最後を物語る『マハーパリニッバーナ・スッタンタ』に準備中として出てくる。1)
これによれば、ゴーサーラとブッダは、わずか数年の違いで没したことになる。2) ちなみに仏滅年代には二説あり、前486年、あるいは前383年とされる。
彼の思想の特徴は厳格な宿命論にある。
その説によれば、一切万物は細部にいたるまで宇宙を支配する原理であるニヤティ(宿命)によって定められている。輪廻するもののあり方は宿命的に定まっており、6種類の生涯を順にたどって浄められ、解脱にいたる。転がされた糸玉がすっかり解け終るまで転がっていくように、霊魂は転生する。それまで8,400,000劫(カルパ)もの長い間3) 、賢者も愚者もともに輪廻しつづけるという。
行為には、運命を変える力がない。行為に善悪はなく、その報いもないと考える。当時、支配的な思想であった「業」の思想を否定する。
運命がすべてを決定しているという主張を構成する論理は、およそ次のようなものである。
人が同じことをしても結果が異なることがある。行為以外の何かが結果を決定している。
神はそれではない。神では結果の多様さ、特に不幸が説明できない。
それは、(ローカーヤタ派が説く)自然の本性(スヴァバーヴァ)ではない。(仏教などが説く)行為の結果(カルマ)ではない。それは、宿命(ニヤティ)である。宿命と一致するとき、人は成功する。宿命のみが人の幸福と不幸を説明する。4)
「アージーヴィカ」とは、「命ある (jῑvika)限り(ā)( 誓いを守る)」という意味で、5)出家者には苦行と放浪が義務とされ、多くが宿命を読む占星術師や占い師として活躍したという。
宿命を説く一方で、苦行を義務づけるのは、一見したところ矛盾のようであるが、
アージーヴィカにとって、解脱は「転がされた糸玉がすっかり解け終る」ことに喩えられるように、こころとことばとからだによるすべての行為が消滅することであり、それは、6ヶ月にわたって飲食を減らしていき最後は何も飲食せず死(最終解脱)に至るスッダーパーナヤ(清浄なものを飲む)と呼ばれる苦行において実現されると考えていたからである。6)
アージーヴィカ教はマウリヤ朝のアショーカ王とその後継者ダシャラタ王の時代に保護され、大きな勢力を誇った。
アショーカ王の碑文(第7 Delhi-Topra碑文)に仏教(サンガ)、バラモン教、ジャイナ教(ニルグランタ)と並んで この派の名アージーヴィカが出る。7) 当時、栄えていたことを推定させる。その後、衰えながらも、南インドのマイソールなどには存続し、14世紀までは続いたといわれる。
…
注
1)DN No.16 PTS vol.2, p.72.中村元訳「偉大な死」『仏典I』世界古典文学全集、筑摩書房、1966年、p.43
2)Basham, A.L., History and Doctrines of THE ĀJĪVIKAS, p.74.
3)カルパ(劫)という時間の長さについては、定方晟『須弥山と極楽』講談社現代文庫、1973年、p.100.参照。1辺1ヨージャナの大きな岩を百年に一度、天女の衣でなでて、岩が擦り切れてなくなるまでの時間などとされる。
1ヨージャナは、古代インドの距離の単位で、牛車を引く牛が次の牛と交代するまでに進む距離とされる。1ヨージャナの換算については、2.5マイル、4ないし5マイル、9マイルなどさまざまな説がある。Monier williams, Sanskrit-English Dictionary, yojanaの項参照。
4)Basham, History and Doctrines of THE ĀJĪVIKAS, pp.230f. ちなみに、仏教のアビダルマでは、カルマが世界の多様性を生み出すとされる。Abhidharmakośa, ed. by P. Pradhan, Patna 1967, IV.1a, p.192: karmajaṃ loka-vaicitryam.”)
4 アジタ・ケーサカムバリン(唯物論、快楽主義)
アジタ・ケーサカムバリンによると
存在を構成するのは地水火風の四元素で四元素以外にはない。
人は死ねば構成していた四元素はそれぞれの本来の元素の場に戻っていくのであり
人間そのものは死と共に無に帰す。
屍が焼かれると後には鳩色の骨が残り
供物は灰となるのみ。
死後の霊魂は存在せず、したがって来世も前世も存在しない。
善業による善果も存在せず、
悪業による悪果も存在しない。
布施も祭祀も供犠も無意味、と説いた。
哲学的には唯物論。
道徳を否定し、現世の享楽を説くので快楽主義に分類される。
アジタ・ケーサカムバリンの主張はインドでは一般に
ローカーヤタ(順世派)と呼ばれ、
チャールヴァーカ派に同様の説が見られるが、
アジタ・ケーサカムバリンのは一番最初の先駆的なものだといえる。
(当然アートマンも否定。
アジタ・ケーサカンバリンの唯物論
http://user.numazu-ct.ac.jp/%7Enozawa/b/ajita.htm
”アジタ・ケーサカンバリンの「ケーサカンバリン」は「髪の毛で作った衣を着る者」の意味である。
アジタは、教団を開いたが、それは、古代ギリシアにおけるエピクロス派の教団のような、
素朴な人生の喜びをともに分かち合う共同体のようなものであったと推測される。この教団は後にチャールヴァーカとかローカーヤタと呼ばれるようになる。
彼は唯物論を説き、業・輪廻の思想を否定した。
善悪の行為の報いはなく、死後の生れ変りもない。
人間は地水火風の四要素からなるもので、
死ねば、四要素に帰り消滅する。死後存続することはない。
布施に功徳があるとは愚者の考えたことであるとする。
「人は(地水火風の)四要素からなる。
人が死ぬと、地は地、水は水、火は火、風は風に戻り
感覚は虚空の中に消える。
四人の男が棺を担いで死体を運び
死者の噂話をして火葬場にいたり
そこで焼かれて、骨は鳩の羽根の色になり
灰となって葬式は終わる。
乞食(こつじき)の行を説くものは愚か者。
(物質以外の)存在を信ずる人は空しい無意味なことをいう。
からだは、死ねば、愚者も賢者もおなじように消滅する。
死後、生きのびることはない。」(『沙門果経』§22-24.『バラモン教典・原始仏典』世界の名著1、p.512.)
だから、宗教的な行為は無意味で、
この世での生を最大限利用して楽しみ、そこから幸福を得るべきだという。
「生きているかぎり、人は幸せに生き、ギー(溶けたバター)を飲むべきだ。
たとえ借金をしてでも。
というのは、からだが灰になるとき、何がこの世に戻れよう。(何もないからだ)」1)
しかし、楽しみには悲しみがつきまとう。
それを恐れて喜びから退いてはいけない。時には訪れる悲しみも喜んで受け入れよと説く。
「人は、悲しみがともなうことを恐れて、喜びから退いてはいけない。
この世での喜びのためには、たまに訪れる悲しみも喜んで受け入れよ。
魚をもらうとき、骨がついてくるように。
米をもらうとき、籾殻がついてくるように。」2)
この思想は宗教や道徳の根本を破壊するものと恐れられ、他のインド思想諸派から激しく攻撃された。
それにもかかわらず、この派が栄えた時代もあったことは否定できない。
マウリヤ朝のチャンドラグプタの大臣カウティリヤの作と伝説される『実利論』第1巻第2章は
「哲学は、サーンキヤとヨーガと順世派(ローカーヤタ)とである」とする。3)
この書の成立年代は明確でなく、紀元前3世紀から紀元後4世紀までの間とされるが、
1世紀の後半から2世紀の前半に明確な形をとったと考えられるヴァイシェーシカ学派の名があげられていないことから推定すれば、ヴァイシェーシカ学派に先立つ紀元後1世紀までに、ローカーヤタ派が栄えていた時代があったのであろう。
この派の文献で、現在まで伝わるものは極めて少ないが、8世紀ころの成立とされるジャヤラーシの『タットヴァ・ウパプラバ・シンハ』(「真理」を破壊するライオン)は現存する。
『タットヴァ・ウパプラバ・シンハ』は、
自然の運行に「自然」(スヴァバーヴァ)そのもの以外の原因を認めず、
知覚(感覚)だけを唯一の知の源泉として、推論に基づく<確実な知>の存在を徹底的に疑う懐疑主義の立場をとって、
当時の主要な哲学・宗教諸派が立てる形而上学的な原理に対し、鋭い批判をあびせるものである。”)
5 サンジャヤ・ベーラッティプッタ(懐疑論、不可知論)
サンジャヤ・ベーラッティプッタは
「来世が存在するか?」と問われたとき次のように答える。
「もしもわたしが
『来世は存在する』と考えたのであるならば
『来世は存在する』とあなたに答えるであろう。
しかしわたしはそうだとは考えない。
そうらしいとも考えない。
それと異なるとも考えない。
そうではないとも考えない。
そうではないのではないとも考えない。」と。
同様にサンジャヤ・ベーラッティプッタは善悪の業の果報について
天や地獄の存在者の有無について
修行完成者の死後の有無について
質問されるとことさら意味の把握されない、
困難であいまいな返答しか与えなかったという。
サンジャヤ・ベーラッティプッタの立場は
「鰻のようにぬらぬらして捕らえどころのない議論」と呼ばれた。
確定的な知識を与えない点で
一種の不可知論(アジュニャーナ・ヴァーダ)とも呼ばれた。
詭弁論とも懐疑論とも呼ばれている。
懐疑論は単なる疑いに終始すると懐疑論に潜む本質的な矛盾から脱することは困難であるが
サンジャヤの場合
形而上学的な難問に踏み込むことの意義に疑問を投げかける判断中止(エポケー)の態度を
インド思想史上、最初に表明していると評価されている。
とくに、形而上学的な難問に踏み込むことの意義に疑問を投げかけるという点で
ゴータマ・ブッダはサンジャヤと同様に無記の態度を表明。
ブッダの二大弟子サーリプッタ(舎利弗)と
モッガラーナ(目連)は初めはこの懐疑論者サンジャヤの弟子だったと伝えられていることも
あわせて注目すべき。
(サンジャヤの不可知論
http://user.numazu-ct.ac.jp/%7Enozawa/b/sanjaya.htm
”サンジャヤは、あらゆる問いに対して確答を避ける「不可知論」の立場をとった。
次のように答えることを習わしとしていたという。
「もし、あなたがあの世はあるかとたずね、
自分があの世は、あると考えたなら、あの世は、あると答えるであろう。
しかし、私はそうしない。
そうとは考えない。
それとは異なるとも考えない。
そうではないとも考えない。
そうではないのではないとも考えない。」
このような彼の論法は、「うなぎ論法」といわれ、仏教の「無記」の考え方に影響を及ぼしたと考えられる。
ブッダの二大弟子サーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目連)は、はじめサンジャヤの弟子であったと伝えられている。
また、この思想は、ジャイナ教のスヤード・ヴァーダと似ている。
不可知論的な傾向は、ブッダ時代に濃厚にみられるが、
このような思想風土が、自己と他者の思想の白黒をはっきりさせないで両立させる文化多元主義の基盤になっている。 ”)
6 ニガンタ・ナータプッタ(マハーヴィーラのジャイナ教、霊魂論と苦行主義)
釈迦の活躍したのとほぼ同じ頃、
同じ地方に興起した。
動物を犠牲にするバラモン教の供犠や祭祀に反対。
当時絶対的と思われていたヴェーダの権威を否定。
宇宙は限りがあるかないか、
あの世は存在するかという形而上学的問題に
沈黙を守り無記の態度をとったブッダや、
懐疑論、不可知論の立場を主張したサンジャヤなどと同様に、
マハーヴィーラは
真理は多様に言い表すことができるとし、
あらゆる事柄について、
一方的に判断することを避け、
物事を相対的に考察せよと説いた。
相対主義はアネーカーンタ・ヴァーダ(多面的見解)と呼ばれる。
断定を避け、
常に『ある点からすると』(スヤート)こういえると言い、
全てのものは多数の見方ができると主張。
(賢者の思考法=多様な視点自体を教義にしている)
六師外道のうち
アージーヴィカ教の当時の代表的人物であった、
運命決定論、無因無縁論のマッカリ・ゴーサーラは
ジャイナ教とも関係が深い。
マッカリ・ゴーサーラの生涯の詳細は不明だが
仏教、ジャイナ教、アージーヴィカ教の三つが有力な宗教として
互いに勢力を競っていた紀元前五世紀ころと考えられる。
牛小屋=ゴーサーラ。
ジャイナ教の聖典『バガヴァイー』によると
ゴーサーラははじめジャイナ教のマハーヴィーラの弟子となって
六年間修業を共にしたが、
ゴーサーラがその時々に行った種々のできごとが伝えられている。
そのまま事実とはいえないが、ある真実に基づいた伝承が含まれていることは確実であろう。
ゴーサーラの所説は詳しく仏教の『沙門果経』に伝えられている。
「生ける者たちには煩悩の汚れがあるが、
それらには因(原因)もなく、
縁(二次的原因)もない。
生ける者たちは、因も縁もなくして煩悩に汚されている。
また生ける者たちが清められるのには、
因もなく、縁もない。
生ける者たちは、因も縁もなくして清まるのである。
自分が作りだすということもなく、
他の者が作りだすということもなく、
人が作りだすということもない。
力は存在しないし、
意志的行動は存在しないし、
人間の勢力は存在しないし、
人間の努力は存在しない。
すべての生ける者たち、
すべての生気ある者たち、
すべての存在する者たち、
すべての生命ある者たちは、
みずから支配することもなく、
力もなく、
活力もなく、
宿命(ニヤティ)と出会い(サンガティ)と
生来の資質(バーヴァ)に影響支配されて
生存の六種類の生まれ(アビジャーティ)のうちのいずれかにおいて、
苦楽を感受するのである。
八百四十万の大劫があり、この期間には、
愚者も賢者も流転し輪廻して、
ついに苦しみを終滅するにいたるであろう。
この期間には、
『わたしはこの戒行によって、
また誓戒によって、
あるいは苦行によって、
あるいは清浄行によって、
いまだ果報の熟していない業を完全に熟させよう。
あるいは、すでに果報の熟した業をくり返しその報いに触れながら、
順次にその果報を消滅することにしよう』ということはおこることはない。
こういうわけで、輪廻は苦楽が、
いわば桝によって量り定められたものとして終滅に達することはないのである。
またそれの盛衰もなく、増減もない。
あたかも、糸毬が投げられると、糸の終わりまで、
ついには解け終わるように、愚者も賢者も、
流転し輪廻して、ついに未来に苦しみを終滅するのである。
(『沙門果経』20-21.vol.Ⅰ,pp.53-55)
修行で中途に解脱することは不可能で
定められた期間は流転し続けるという無因無縁論にして運命決定論。
煩悩に汚れるのも清浄になるのも
原因があるのではなく
自然の定め(ニヤティ)によってそうなる。
物事に原因を認めないから、無因論者と呼ばれる。
すべては自然的に定まっているから人間の努力的行為は意味が無い。
どのような悪い行為、善い行為をしようともそれで運命が変わることはない。
苦から逃れようと努力しても無駄。
苦は定まった輪廻が終わったときにおのずと滅する。
運命を変えようとする人間の行為が無駄であることを主張するから
無行為論者でもある。
(もしかしてこの行為ってカルマ?)
これは人類の思想の中で特異な
万人平等解脱を認めていることとなっている。
解脱は賢者も愚者もなくやってくる。
論理的に考えるとすべてが自然の定めであるから、
苦行によって輪廻から脱しようとする人間の努力も無意味となるはずであるが
文献の伝えるところによれば
ゴーサーラの一派、アージーヴィカの徒たちは苦行をしていたという。
仏教の『マハーサッチャカ・スッタ』は
ゴーサーラの先駆者であるナンダ・ヴァッチャと
キサ・サンキッチャと
ゴーサーラたちが行う「行」について次のように伝えている。
「かれらはじつに裸形であり、
〔座して食することなど〕世間の習慣を捨てていて、
〔立ったままで食し〕、
食後には指を食べて清め、
〔行乞の際に施食を受けるために〕近づくことと、
暫時待つことを乞われても、それに従わず、
〔行乞に出る前に庵室に〕持ってこられた施食を受けず、
とくにかれみずからのために料理された食物を受けず、
食事に招かれても応じない。
かれらは〔食物を料理した〕鍋釜などから直接に食物を受けず、
敷居よりも内部・杖の間・棒の間に置かれた食物を受けず、
二人を食事をしているときにそのうちの一人の提供する食物を受けず、
妊娠している女・
授乳している女・
男と交わっている女からは食物を受けず、
旱魃時には信徒が集めてくれた食物を受けず、
犬が近くにいるところでは食物を受けず。
ハエが群がっているところでは食物を受けず、
魚・肉・種々なる酒を受けず、
粥を飲まない。
かれは一見の家で食物を得て〔すぐに托鉢から帰ってしまう〕
『一口食う者』である。
あるいは二軒の家で食物を得て、二口食う者である。
あるいは七軒の家で食物を得て、七口食う者である。
一つの小椀の食物のみによって暮らし
あるいは二つの小椀の食物によって暮らし、
あるいは七つの小椀の食物のみによって暮らす。
このようにして半月にいたるあいだでも〔中止期間をおいて〕
順次の規定に従って食物を得ることに専念している。
またあるときにはきわめて美味なる食物を食し
きわめて壮麗な臥床に臥し、
きわめて美味なる飲料を飲む。
かれらはこのようにして身体を力づけ、
力を増させ、肥らせる」
(『中部経典』vol.Ⅰ,pp.237-238)
最後の一文は修行としては奇妙であるが
中村元博士は、恐らく苦行のみには耐えられず、
時々楽な生活をしてまた苦行に戻るのであろうと、推測している。
驚くべきことに
ここに描写される修行内容は現在のジャイナ教空衣(派は略す)の文献に相当する個所を見つけることができる。
アージーヴィカ教とジャイナ教の関係は相当近いものと考えられる。
(ジャイナ教の、特に裸形派への影響が強い。
立ったまま食べるとか、
布施は偶然余ったものを偶然通りがかることで得られるべきとかは本記事にある)
アージーヴィカ教では苦行は無意味なのになぜ苦行をなしていたのか。
この点は不明であるがバシャム博士は
おそらくアージーヴィカたちが苦行者であるのも
自然の定めがそうさせているからであると考えたのであろう、と推察している。
(カルマ論を否定しているのがすごい。でも輪廻は否定しない。
インド圏では輪廻は思想ではなく事実だという認識だからね。
無因無縁論と運命決定論は
悪行に歯止めをかけるどころか加速させるので広まるとまずいのでは?
苦行したくなって実践するのも運命だと言っていた?
苦行しても無意味だということを苦行をして示した?
でも苦行しても解脱できないことをどうやって第三者が確認できる?
仮に「ほらこんなに苦行しても解脱できないでしょ?」って言っても
「あなたが修行に失敗しただけでしょ」と言われそう。
苦行が無意味だから解脱できないと、
苦行という修行に失敗したから解脱できないを区別できるの?
苦行で尊敬を集めて生活のための布施を得ていたのかも。
なにやりたいと思ってもそれがあらかじめ決まっているなら何やってもいいじゃん
→やりたいことをやろう→苦行がやりたい
なのかも。
教義の中核が一部抜けていて意味不明になっているのかも)
アージーヴィカ教を率いるゴーサーラは
ヴェーダの権威を否定する当時のサマナ(自由思想家)のなかでも
最も有力な人物の一人であり
恐らくはマハーヴィーラやブッダと同等以上の扱いを受けていたであろう。
現在アージーヴィカ教の聖典は隠滅して直接検討できない。
マハーヴィーラとゴーサーラが六年ともに修行したことからもわかるように
両者は密接。
ブッダとデーヴァダッタの関係にも比べられよう。
仏教の中に釈迦牟尼仏を供養しないデーヴァダッタの徒がいたというように、
両者は正統と異端の関係にあったとも考えられる。
白衣の第五アンガ『ヴィヤーハパンナッティ』第十五章などによれば
ゴーサーラは絵解きの遊行者であった。
キャンバスに描かれた絵を見せながら
その絵に描かれた物語を歌にして
人々に聞かせながら、
村から村へ遊行しながら生活の糧を得ていた。
教義を聞かせるために違いないが
語りが娯楽であり
新しい知識や外の世界の情報の源泉でもあったであろう。
(インド版吟遊詩人だ)
絵解き遊行は現代インドでも存在していることが報告されている。
日本にも古くから仏教の絵解き説法師がいて
民衆教化に大きな役割を演じた。
平等解脱思想はブッダやマハーヴィーラから激しく攻撃されたが
日本の浄土系絵解き説法師の極楽往生まちがいなしとの救済を請け負うがごとき
断言の口調に似て
アージーヴィカ教の信者の多かったと目される民衆、
カースト下層の人々にとっては大変な福音となり
救済思想となって受け入れられたであろう。
(たしかに浄土教に似ている。
アージーヴィカ教
「輪廻の期間は決まっているから修行で期間短縮できないよ。
修行できなくても全員解脱する運命だからみんな救われるよ」
を釈迦は否定したのに
修行できなくても救われるのが浄土教(一応釈迦系思想)と共通で
真宗視点の悪人も救われるとしたのが面白い)
マンカリプッタの言葉として、
(この章の名前がマッカリ・ゴーサーラなので
ゴーサーラ・マンカリプッタはジャイナ教での呼び名だろう)
ジャイナ教の伝える『聖仙の語録』に
「じつにターティ(模範となる人、仏教の如来に相当)は
四方にわたる輪廻の荒野から、
自分も他人も救い出す、というので救済者(トラーイン)と呼ばれる。」
とある。
” ※着色は引用者
オススメ動画シリーズを紹介する。
【ゆっくり解説】3分でわかるアージーヴィカ教
https://www.nicovideo.jp/watch/sm36242813
(コメント抜粋
”結果的に商工業や金融など、比較的蔑視されやすい人らに支持されそう”
”決まってるからこそ頑張って生きるんやで”
”当時の東洋哲学はほんと、20世紀に西洋で流行る哲学の先取り”
)
p69から
〔アジタ・ケーサカンバラの説〕
二二、「ここにまた、尊師よ、あるときわたしは、アジタ・ケーサカンバラのところに訪ねて行きました。訪ねて行って、アジタ・ケーサカンバラとたがいに挨拶をし、喜ばしい印象に残るようなことばを交わしてから、一方の場所に坐りました。一方の場所に坐ったわたしは、尊師よ、アジタ・ケーサカンバラに次のようにいいました。
『君、アジタよ、〔世間には〕さまざまな技能職業があります。たとえば、象に乗る者、馬に乗る者、車に乗るもの、弓の射手、旗手、軍司令官〔中略〕またこのほかにもこれに類するさまざまな技能職種の者――かれらはこの世において、目に見える技能の報酬によって生活しています。かれらはそれによって、自分自身を安楽にし満足させ、母と父とを安楽にし満足させ、子供と妻とを安楽にし満足させ、友人知人を安楽にし満足させ、〔そしてまた〕沙門やバラモンに対しては、天界に生まれ天界の安楽なる果報をもたらす立派な布施をきちんと行ないます。そこで、君、アジタよ、ちょうどそのように、この世において、目に見えるかたちで『修行の成果』を示すことがおできになりますか』と。
二三、尊師よ、このようにいわれて、アジタ・ケーサカンバラはわたしに次のように答えました。
『大王よ、布施(71)というものはありません、供犠というものはありません、供養というものはありません、善行・悪行の果報、報いはありません。この世はなく(72)、あの世もありません(73)。母はいないし、父もいません。化生の生き物たち(74)はいません。この世には、正しく〔最高の境地に〕到達し、正しく〔道を〕実践し、この世とあの世とを自ら覚知し、目の前に見えて解き明かすという沙門やバラモンたちはいません。〔ただ〕この人間とは、四大元素から成り、死んだときには、〔そのうちの〕地〔の元素〕は地の本体に帰元し、水〔の元素〕は水の本体に帰元し、火〔の元素〕は火の本体に帰元し、風〔の元素〕は風の本体に帰元します。もろもろの、感覚器官は虚空に転移します。棺を第五番目とする〔四人の〕人間は死者を運んで行き(75)、火葬場に着くまで、〔死者に関して〕いろいろなことをことば(76)で知らしめるが〔その後、焼かれた〕骨は鳩色になり、供物は灰となります。この布施〔の功徳〕というものは、愚者の考え出したものです。たとえ、誰かが〔四元素以外の〕実在論を唱えたとしても、それは虚偽虚妄の戯論(けろん)です。愚者も賢者も、〔自身の〕肉体の消滅によって、絶滅し滅亡し、死後には存在しません』と。
二四、尊師よ、このようにアジタ・ケーサカンバラは、わたしに目に見える修行の成果について問われているのに、『断滅論』(77)を説きました。尊師よ、それはちょうど、マンゴーについて問われたのに、ラブジャの木のことを[56] 説明し、あるいはラブジャについて問われたのに、マンゴーのことを説明するようなものです。尊師よ、アジタ・ケーサカンバラは、このように目に見える修行の成果について問われているのに、断滅論を説明したのです。尊師よ、〔しかし〕そこでわたしはこのように考えました。『どうしてわたしごとき者が、領内に住んでいる沙門やバラモンを非難しようなどと考えてよいであろうか』と。尊師よ、そこでわたしは、アジタ・ケーサカンバラの言説を称賛もせず非難もせず、内心不満ではありましたが、不満のことばを出さず、かれのことばを聞き流すだけで、傾倒することはしないまま、座を立って退出しました」
(70)アジタ・ケーサカンバラ
底本では、この箇所以降、Ajita Kesakambalinとなっているが、前出に従って、ケーサカンバラと改め統一する。
(71)布施というものはない 布施には果報はないという意味。供犠・供養についても同様である。
(72)この世はなく あの世にとどまる者にはこの世はないという意味。
(73)あの世もない この世にとどまる者にとってはあの世はないという意味。
(74)化生の生き物 両親が存在せず自然発生的に生まれるように見える生物。
(75)棺を第五番目とする〔四人の〕人間
棺と棺の台の四本の脚をもって立つ四人の人間という意味。
(76)ことば pada
かれはこのように持戒者であった、このように破戒者であったなどというやり方で始められる功徳・非功徳のことば。
(
アジタの唯物論
https://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/ajita.htm
”3. アジタ・ケーサカンバリンの唯物論
アジタ・ケーサカンバリンの「ケーサカンバリン」は「髪の毛で作った衣を着る者」の意味である。アジタは、教団を開いたが、それは、古代ギリシアにおけるエピクロス派の教団のような、素朴な人生の喜びをともに分かち合う共同体のようなものであったと推測される。この教団は後にチャールヴァーカとかローカーヤタと呼ばれるようになる。
彼は唯物論を説き、業・輪廻の思想を否定した。善悪の行為の報いはなく、死後の生れ変りもない。人間は地水火風の四要素からなるもので、死ねば、四要素に帰り消滅する。死後存続することはない。布施に功徳があるとは愚者の考えたことであるとする。
「人は(地水火風の)四要素からなる。
人が死ぬと、地は地、水は水、火は火、風は風に戻り
感覚は虚空の中に消える。
四人の男が棺を担いで死体を運び
死者の噂話をして火葬場にいたり
そこで焼かれて、骨は鳩の羽根の色になり
灰となって葬式は終わる。
乞食(こつじき)の行を説くものは愚か者。
(物質以外の)存在を信ずる人は空しい無意味なことをいう。
からだは、死ねば、愚者も賢者もおなじように消滅する。
死後、生きのびることはない。」(『沙門果経』§22-24.『バラモン教典・原始仏典』世界の名著1、p.512.)
だから、宗教的な行為は無意味で、この世での生を最大限利用して楽しみ、そこから幸福を得るべきだという。
「生きているかぎり、人は幸せに生き、ギー(溶けたバター)を飲むべきだ。
たとえ借金をしてでも。
というのは、からだが灰になるとき、何がこの世に戻れよう。(何もないからだ)」1)
しかし、楽しみには悲しみがつきまとう。それを恐れて喜びから退いてはいけない。時には訪れる悲しみも喜んで受け入れよと説く。
「人は、悲しみがともなうことを恐れて、喜びから退いてはいけない。
この世での喜びのためには、たまに訪れる悲しみも喜んで受け入れよ。
魚をもらうとき、骨がついてくるように。
米をもらうとき、籾殻がついてくるように。」2)
この思想は宗教や道徳の根本を破壊するものと恐れられ、他のインド思想諸派から激しく攻撃された。それにもかかわらず、この派が栄えた時代もあったことは否定できない。マウリヤ朝のチャンドラグプタの大臣カウティリヤの作と伝説される『実利論』第1巻第2章は「哲学は、サーンキヤとヨーガと順世派(ローカーヤタ)とである」とする。3)
この書の成立年代は明確でなく、紀元前3世紀から紀元後4世紀までの間とされるが、1世紀の後半から2世紀の前半に明確な形をとったと考えられるヴァイシェーシカ学派の名があげられていないことから推定すれば、ヴァイシェーシカ学派に先立つ紀元後1世紀までに、ローカーヤタ派が栄えていた時代があったのであろう。
この派の文献で、現在まで伝わるものは極めて少ないが、8世紀ころの成立とされるジャヤラーシの『タットヴァ・ウパプラバ・シンハ』(「真理」を破壊するライオン)は現存する。
『タットヴァ・ウパプラバ・シンハ』は、自然の運行に「自然」(スヴァバーヴァ)そのもの以外の原因を認めず、知覚(感覚)だけを唯一の知の源泉として、推論に基づく<確実な知>の存在を徹底的に疑う懐疑主義の立場をとって、当時の主要な哲学・宗教諸派が立てる形而上学的な原理に対し、鋭い批判をあびせるものである。
【次へ】【目次へ】
1) 中村元『インドの哲学体系 I』(マーダヴァ『全哲学綱要』)1994年、p.31
2) 中村元『インドの哲学体系 I』(マーダヴァ『全哲学綱要』)p.20.
3) 上村勝彦『実利論』岩波文庫、上、1984年、p.28.”
)
p.70から
〔パクダ・カッチャーヤナの説〕
二五、「ここにまた、尊師よ、あるときわたしは、パクダ・カッチャーヤナのところに訪ねて行きました。訪ねて行って、パクダ・カッチャーヤナとたがいに挨拶をし、喜ばしい印象に残るようなことばを交わしてから、一方の場所に坐りました。一方の場所に坐ったわたしは、尊師よ、パクダ・カッチャーヤナに次のようにいいました。
『君、カッチャーヤナよ、〔世間には〕さまざまな技能職業があります。たとえば、象に乗る者、馬に乗る者、車に乗るもの、弓の射手、旗手、軍司令官〔中略〕またほかにもこれに類するさまざまな技能職種の者――かれらはこの世において、目に見える技能の報酬によって生活しています。かれらはそれによって、自分自身を安楽にし満足させ、母と父とを安楽にし満足させ、子供と妻とを安楽にし満足させ、友人知人を安楽にし満足させ、〔そしてまた〕沙門やバラモンに対しては、天界に生まれ天界の安楽なる果報をもたらす立派な布施をきちんと行ないます。そこで、君、カッチャーヤナよ、ちょうどそのように、この世において、目に見えるかたちで〈修行の成果〉を示すことがおできになりますか』と。
二六、尊師よ、このようにいわれて、パクダ・カッチャーヤナはわたしに次のように答えました。
『大王よ、これら七種の要素は、作られたものではなく、作らせられたものではなく(78)、創造されたものではなく(79)、創造するものではなく、何物をも産み出さず、山頂のように不動で、石柱のように直立しています。それらは、動ぜず、変化せず、相互に他を害することなく、相互に他を楽とし苦とし、楽苦とすることはありません。その七種とはなんでしょうか。地の要素、水の要素、火の要素、風の要素、楽、苦、〔そして〕第七として霊魂です。これら七種の要素は、作られたものではなく、作らせられたものではなく、創造されたものではなく、創造するものではなく、何物も産み出さず、山頂のように不動で、石柱のように直立しています。それらは、動ぜず、変化せず、相互に他を害することなく、相互に他を楽とし苦とし楽苦とすることはありません。そこには、殺害する者も、殺害させる者も、聞く者も、聞かせる者も、知る者も、知らせる者もいません。たとえ鋭利な刀で頭を断ち切っても、誰かが誰かの生命を奪うことにはなりません。ただ七種の要素〔と要素〕の間隙を、刃による切れ目が落ちていくにすぎないのです』と。
[57] 二七、尊師よ、このようにパクダ・カッチャーヤナ、わたしに目に見える修行の成果について問われているのに、別の観点から違うことを説きました。尊師よ、それはちょうど、マンゴーについて問われたのに、ラブジャの木のことを説明したり、ラブジャについて問われたのに、マンゴーのことを説明するようなものです。尊師よ、パクダ・カッチャーヤナは、このようにわたしに目に見える修行の成果について問われているのに、別の観点から違うことを説明したのです。〔しかし〕そこでわたしは、このように考えました。『どうしてわたしごとき者が、領内に住んでいる沙門やバラモンを非難しようなどと考えてよいであろうか』と。尊師よ、そこでわたしは、パクダ・カッチャーヤナの言説を称賛もせず非難もせず、内心不満ではありましたが、不満のことばを出さず、かれのことばを聞き流すだけで、傾倒することはしないまま、座を立って退出しました」
p.601から
註
(78)作らせられたものではなく
「あなたはこのように作りなさい」と誰かの〔命令〕により〔それを〕作る者もいない、という意味である。
(
創造主の否定じゃん)
(79)創造されたものではなく
神通(iddhi)によっても創造されたものではない。
(
死体の首を斬るのと、生きている人の首を斬るのは違う(構成要素の状態や挙動が違うことで価値が生じる)とか、
粘土を斬るのと、粘土で作った人形を斬るのとは違う(構成要素と構成要素の集まりでできた何かは異なる)などと反論されたのだろうな。切断で生じる現象の意味は構成要素に注目した場合は確かにカッチャーヤナの言う通りだが、別の観点もあるからね。
それを認めない宗教なのだろうけど。
科学的な現象の説明からは倫理・道徳は出て来ないことがわかる教えだな〔原子論なのでここでは「科学」という単語を用いた〕。
「じゃあ今からお前の首を斬るけどいいよね?」って言われたらどう対応したのだろうな。
古代ギリシャ哲学の原子論に影響を与えたのだろうな。エピクロスは前342(341)-271(270)の哲学者。カッチャーヤナよりも後だ。
パクダ・カッチャーヤナとは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E3%83%91%E3%82%AF%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%A4%E3%83%8A-113750
”
パクダ・カッチャーヤナ
Pakudha Kaccāyana
前6~5世紀頃のインドの思想家。原始仏教経典のなかで紹介されている六師外道の一人。人間は7つの集合要素 (地,水,火,風,苦,楽,生命) から構成されており,これらの7要素は不変であり,生命を奪うということはありえないとした。だから彼は人を殺してもその人の生命を奪ったことにはならないと考えた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
百科事典マイペディア「パクダ・カッチャーヤナ」の解説
パクダ・カッチャーヤナ
前6―前5世紀のインドの自由思想家(六師外道)の一人。地水火風と苦・楽・生命の7要素のみの実在をいう唯物論を説いた。
→関連項目自由思想家
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて”
パクダ・カッチャーヤナの七要素説 – インド思想史略説
https://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/pakuda.htm
” パクダ・カッチャーヤナは七要素説を説いた。人間は七つの要素、すなわち地水火風楽苦と生命(あるいは霊魂)からなるもので、これらは作られたものではなく、何かを作るものでもない。不動、不変で互いに他を害することがない。殺すものも殺されるものもなく、学ぶものも教えるものもいない。たとえ、鋭利な剣で頭を断っても、誰も誰かの命を奪うわけではない。剣による裂け目は、ただ七つの要素の間隙にできるだけである。行為に善悪の価値はないとする。
さきのプーラナ・カッサパの教えと同じく、これも道徳破壊の思想とされるが、そうではない。人間の本質は霊魂にあると見て、霊魂は不動、不変なものなので、殺すことも害することもできないというのである。『バガヴァッド・ギーター』2.24の「彼は断たれず、焼かれず、濡らされず、乾かされない。彼は常住であり、遍在し、堅固であり、不動であり、永遠である。」という思想と同じものである。1)
【次へ】【目次へ】
注
1) 野沢正信「古代インドの宿命論アージーヴィカ教について」『印度哲学仏教学』第18号、2003年、pp.34-51.参照。”
https://twitter.com/kikuchi_8/status/1268584656070275073 と続き:
”
菊池
@kikuchi_8
裏権力の思想は大体「実体論」を基本とする。「常住不変の実体」という観念は「ワンワールド」とも相性がよい。思想工作員は「実体の否定」は「存在の否定」即ち「虚無」と決めつける。が、それは論理的におかしい。まずは「実体」とは「原因や条件によらず、それ自体で存在するもの」と定義出来る。
午前1:45 · 2020年6月5日·Twitter Web App
むしろ事物事象に「実体」を認める方が「虚無」になるというのが論理的帰結である。例えば、悪政に実体があるなら悪政を正す事は不可能である。悪政はそれなりの原因と条件によって成り立つ。悪政を正すとはそれらの原因と条件を変え、除く事である。悪政に実体がないからこそ悪政を正せるのである。
午前1:49 · 2020年6月5日·Twitter Web App
人間の心身に実体があるなら学んだり鍛えたりしても全く向上する事はない。実体は変化しないからである。また「善」に実体があるなら「それ自体」で存在するので人間の行為とは全く無関係なものとなる。努力も無意味。これこそ虚無でありニヒリズムである。このように実体論を突き詰めると虚無に陥る。
午前1:53 · 2020年6月5日·Twitter Web App
虚無論は実体論から出てきた。例えば、釈迦と同時代の「六師外道」と後に称された古代印度の非バラモン系哲学学派があった。その一人である「順世派」のアジタ・ケーサカンバリンは「地・水・火・風」という物質を実体視する唯物論を唱え、倫理道徳を否定し、ひたすら現世での快楽を追求せよと教えた。
午前2:12 · 2020年6月5日·Twitter Web App
パクダ・カッチャーヤナは「地・水・火・風」に「苦・楽・命」を加えた七要素を実体視する説を唱えた。七要素は独存する常住不変の実体で影響を与え合う事はなく人間の行為や努力は無意味とした。実在するのは七要素だけなので鋭利な剣で人を斬っても殺した事にならないというとんでもない主張をした。
午前2:19 · 2020年6月5日·Twitter Web App
七要素だけが常住不変に存在する実体なので人の行為や努力、倫理や道徳は無意味であり、例え鋭利な剣で人を斬っても七要素の間を通り抜けるだけであり人を殺す事にはならない、などというとんでもない主張である。虚無論とはこういう思想を言う。実体論からこそ虚無論が出てくる事が分かる事例である。
午前2:24 · 2020年6月5日·Twitter Web App
まだある。アージーヴィカ教のマッカリ・ゴーサーラは「霊魂・地・水・火・風・虚空・得・失・苦・楽・生・死」という12の実体を掲げ、「ニヤティ(宿命)」という実体論的な原理を設定した。全ては宿命なので人間の行為は無意味とする宿命論である。この思想も実体論が虚無論になる事を示す例である。
午前2:28 · 2020年6月5日·Twitter Web App
このように実体論を突き詰めると論理必然的に虚無に陥る。実体に執着する西洋の思想も然りである。もし虚無に陥ってないと思うのなら、それは思想の論理が不徹底だからである。実体論に立つ古代印度の思想家が虚無論に陥ったのは、彼らが西洋の思想家より論理的思考が優れていた証拠と言えるだろう。
午前2:34 · 2020年6月5日·Twitter Web App
実体論が虚無に繋がる事から見ても、プラトン以来の西洋哲学やその大衆版としての猶太教・基督教を「ニヒリズム」と断じたニーチェの洞察は妥当である。グノーシス主義も「霊魂」「物質」「光の神」等の実体を設定する実体論である以上虚無論である。虚無でないと思うなら論理の詰めが甘い証拠である。
午前2:39 · 2020年6月5日·Twitter Web App
西洋の実体論は印度の実体論に比べて論理が甘く不徹底である。例えば、常住不変の超越者が「創造」という変化を起こすとしたり、常住不変の一者が万物を「流出」又は光の如く放射したり、など。「不変なのに変化を起こす」が論理矛盾と気づいていない。その点、古代印度の哲学者の論理は一貫していた。
午前2:43 · 2020年6月5日·Twitter Web App
以前にやったグノーシス主義批判もこのような実体論の論理の分析を前提とする。霊魂(精神)と物質がそれぞれ実体ならパクダ・カッチャーヤナのように「相互に無関係」「不変なので修行や努力は無意味」としないとおかしい。自称グノ派にはそれが全く理解出来なかったようだ。
引用ツイート
菊池
@kikuchi_8
2018年6月30日
最近方々で「グノーシス」という言葉を目にする事が増えた気がするのでグノーシス主義について分析しておく。グノーシス主義は「認識論上の錯誤から生まれた形而上学」というのが吾人の分析である。人間の心の問題を物質の問題に転嫁したのである。物質に対する「欲」の問題を「物質が悪い」とした。
このスレッドを表示
午前2:50 · 2020年6月5日·Twitter Web App
実体論の論理を突き詰めると、アジタ・ケーサカンバリンのような快楽主義、パクダ・カッチャーヤナのような道徳否定論、マッカリ・ゴーサーラのような宿命論(決定論)になる。つまり実体論は虚無論に帰結する。逆に、事物事象に於ける実体の否定は道理・道義の意義を確立し、人の行為を成り立たせる。
午前2:55 · 2020年6月5日·Twitter Web App
「虚無」に執着する虚無論は「虚無」を実体視している。言い換えると「虚無」という「有」を立てて執着している訳である。人間の思考が持つ概念作用(対象化作用)によるもの。「虚無」という言葉がある以上は概念や表象としては「無」ではなく「有」である。「空」の概念も実体視すると同じ事になる。
午前3:00 · 2020年6月5日·Twitter Web App
自称グノは論理の詰めが甘すぎる。本家の古代グノ派ですら古代印度の哲学者に比べたら神話レベルの思考であり論理を突き詰めた哲学とは到底呼び難いと思う。実体論を徹底したらパクダ・カッチャーヤナのような恐ろしい結論になる。西洋の実体論は論ではなく現実に恐ろしい結果を招いた(異端審問等)。
午前3:06 · 2020年6月5日·Twitter Web App
パクダ・カッチャーヤナの道徳否定論と違い、西洋の実体論的思考は現実に厄災をもたらした。異端審問、魔女狩り、革命仏蘭西の暴虐等々。。「神」「理性」「物質」など何であれ実体観は執着の対象となり中正ならぬ行動を引き起こす傾向がある(唯識で「遍計所執性」、廣松哲学で「物象化的錯視」等々)
午前3:11 · 2020年6月5日·Twitter Web App
自称グノ一味が排他独善的なのは裏権力製の実体論の影響と言える。思想教義に異常に執着している。教会が教義に執着して異端審問や魔女狩りを行ったり、「理性」「最高存在」という実体観に執着するジャコバン派が反対派に血の粛清(666氏は「粛清」という言葉を使う)を敢行したのと同じ機制である。
午前3:20 · 2020年6月5日·Twitter Web App”
)
〔ニガンタ・ナータプッタの説〕
二八、「ここにまた、尊師よ、あるときわたしは、ニガンタ・ナータプッタのところに訪ねて行きました。訪ねて行って、ニガンタ・ナータプッタとたがいに挨拶をし、喜ばしい印象に残るようなことばを交わしてから、一方の場所に坐りました。一方の場所に坐ったわたしは、尊師よ、ニガンタ・ナータプッタに次のようにいいました。
『君、アッギ・ヴェッサナ(80)よ、〔世間には〕さまざまな技能職業があります。たとえば、象に乗る者、馬に乗る者、車に乗るもの、弓の射手、旗手、軍司令官〔中略〕またほかにもこれに類するさまざまな技能職種の者――かれらはこの世において、目に見える技能の報酬によって生活しています。かれらはそれによって、自分自身を安楽にし満足させ、母と父とを安楽にし満足させ、子供と妻とを安楽にし満足させ、友人知人を安楽にし満足させ、〔そしてまた〕沙門やバラモンに対しては、天界に生まれ天界の安楽なる果報をもたらす立派な布施をきちんと行ないます。そこで、君、アッギ・ヴェッサナよ、ちょうどそのように、この世において、目に見えるかたちで『修行の成果』を示すことがおできになりますか』と。
二九、尊師よ、このようにいわれて、ニガンタ・ナータプッタはわたしに次のように答えました。
『大王よ、この世において、ニガンタ(81)は四つ部分(原文ママ。「の」の脱字?)からなる防護によって守られているのです。大王よ、ニガンタはどのようにして四つの部分からなる防護について守られているのでしょうか。大王よ、この世において、ニガンタはすべての水を避け(82)、すべての水によって〔悪を〕制し、すべての水によって〔悪を〕除き、すべての水によって〔悪の制御を〕体得します。このように、大王よ、ニガンタは四つの部分からなる防護によって守られているのです。大王よ、このように、ニガンタは四つの部分からなる防護によって守られているので、大王よ、このニガンタは、自己の完成者、自己の制御者、自己の確立者と呼ばれるのです』と。
[58] 三〇、尊師よ、このようにニガンタ・ナータプッタは、わたしに目に見える修行の成果について問われているのに、四つの部分からなる防護のことを説きました。尊師よ、それはちょうど、マンゴーについて問われたのに、ラブジャの木のことを説明し、あるいはラブジャについて問われたのに、マンゴーのことを説明するようなものです。尊師よ、ニガンタ・ナータプッタは、わたしに目に見える修行の成果について問われているのに、四つの部分からなる防護のことを説明したのです。〔しかし〕そこでわたしはこのように考えました。『どうしてわたしごとき者が、領内に住んでいる沙門やバラモンを非難しようなどと考えてよいであろうか』と。尊師よ、そこでわたしは、ニガンタ・ナータプッタの言説を称賛もせず非難もせず、内心不満ではありましたが、不満のことばを出さず、かれのことばを聞き流すだけで、傾倒することはしないまま、座を立って退出しました」
p.601
註
(82)すべての水を避け
すべての冷水を拒絶しているという意。かれは冷水に対して生けるものと見る考えの持ち主であるから、これを用いないのである。
(
六師外道の列挙については、ほとんど共通の箇所があるのだが、「ほとんど」つまりわずかに違いがある箇所があるので結局確認しないといけない。なのでコピペしても時間短縮にあまりならないな。
この箇所はジャイナ教の中核思想ではないのだがこの教義だけで終わっていいのか?
中核って解脱の方法なのでは? 上記に、中核思想であるジーヴァも業も出てこない。
【2023年5月12日に追加:
『ジャイナ教聖典選』によると、
訳注
p.462
(160)
出家者が生涯にわたり冷水、つまり生命体を含む危険性のある生水を飲まないことは戒律上必須であり、出家後の事績として特記する必然性はない。
p.226から
第三章 低劣な行ない(14)
三・一
自己が自制においてよく確立し、〔諸々の結びつきから〕解き離れた聖人のニッガンタたちや大仙たちにとって、以下は禁止行為である。
三・二(15)
①〔特定の修行者のために〕指定された食事、②〔修行者のためにあらかじめ〕買ってきて作られた食事、③〔特定の在家者からの〕常態化した食事(16)、④持って来られた食事〔を受け取ること〕、⑤夜食、⑥沐浴、⑦香、⑧花輪、⑨扇子(17)、
三・三(18)
蓄えること(19)、在家者の食器〔を用いること(20)〕、王が〔望みを〕尋ねて与える食事(21)、マッサージ(22)、歯をすすぐこと、〔身体の埃を〕払うこと(23)、鏡、
三・四
八ますの〔目のある〕板(24)、筒状の薬入れ(25)、傘を〔病気等の〕理由なく保持すること、治療、足にサンダル〔を履くこと〕、火を点けること、
(訳注p.487
(24)ます目のある板でゲームや賭け事に用いられた。
(25)後にでてくる「治療」とともに、ジャイナ教の出家者に薬の所持と使用は原則として禁止されている)
三・五
寝台(=寝場所)〔を与えること〕により〔輪廻を〕渡る人からの施食(26)、小さなソファーと立派なソファー(27)、家の中にある長椅子(28)、身体の摩擦(29)、
三・六
在家者に対する奉仕、そして生業を行うこと、未加熱処理のもの(=水)を享受すること、そして病人の拠り所〔となること(30)〕、
三・七
大根、生姜、未加工の砂糖黍、そして生きている根〔菜〕や根、生の果実と種子〔を食べること〕。
三・八
スバルチャラ産の塩、シンドゥ産(31)の塩、そしてローマ産の生の塩、海の塩、そして生の黒い塩(32)、
三・九
煙を吸う〔医療具としての〕パイプ(33)と吐瀉剤、浣腸、下痢、軟膏、楊枝、肢体に塗油すること(34)、装飾、
三・一〇
これらすべては、大仙ニッガンタたちにとって禁止行為である。だから〔彼らは〕自制に専心し、身軽なものとして過ごす。
三・一一
ニッガンタたちは、五漏〔が何を原因とするか〕をよく知って〔それを〕離れ(35)、〔意・口・身の〕三つを防護し、六〔種の生類〕に対して自制し、五つ〔の感官〕を制御し、堅固で真直ぐに見るものである。
(訳注p.488
(35)業(カルマン)の漏入(āsava, Skt. āsrava)の五つの原因とは、不殺生戒を初めとする五大誓戒(第四章)を犯すこと、あるいは、五つの感官が働くことという二つの解釈がある。)
三・一二
〔彼らは〕夏には酷暑に身をさらし、冬には〔衣などで身を〕覆わず、雨期には〔滞在所に〕引き退いて、自制し、よく集中している。
三・一三
危難という敵を調伏し、迷妄を振り落とし、感官を抑制し、すべての苦の放棄のために、大仙たちは前進する。
三・一四
諸々のなし難いことをなし、耐え難いことを耐えた後、あるものは神々の世界に、あるものは〔業(カルマン)の〕塵を欠くものとして成就する。
三・一五(36)
以前の業(カルマン)を苦行と自制により滅して、最勝の成就(37)に到達した聖人は、完全に静まったものとなる(38)。
——以上のように私は語る。
訳注p.488
(38)対応するPāli parinibbutaは周知の通り「般涅槃」と訳される。
本書は読了済みであり、読書メモ記事は作成中だ。
追加終わり】
ヌード写真つき薄い本『ジャイナ教とは何か』、六師外道全員、特にジャイナ教とアージーヴィカ教に詳しい薄くない本『ジャイナ教入門』
Posted on 2019.01.25 Fri 12:02:29
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-267.html
”マハーヴィーラの生き方がジャイナ教でもっとも理想的な生き方であり
彼のような修行生活を送ることによって輪廻からの解脱を果たすのが出家の最終目的。
ジャイナ教では
業=非常に微細な物質。
日常的な活動を行うと
業が我々のジーヴァ(霊魂)の中に入り込み付着。
ジーヴァは一種の生命原理のようなもので
業の一切付着していない本来の状態では上昇する性質を持っている。
しかしこれに業が入り込むことでその性質が制限され、
上昇することなく輪廻の世界をさまようことになるという。
ジャイナ教の世界観ではこの世はいくつもの階層からなる巨大なビルのような代物で
人間が生活しているのはそれらの中のちょうど真ん中あたりの一階層にすぎない。
それよりも下が地獄であり
上方がいわゆる天界である。
我々は業の付着度合いによって生まれ変わるごとにこれらの階層を上下しつつ輪廻を重ねている。
この世の最も高い場所には特別な場所があり
ジーヴァが本来のまっさらな状態になることができれば
そこへ到達し二度とそこから下方へ落ちることはなく
それ以後は何者にも生まれ変わることはない。
これが輪廻からの解脱。
自らのジーヴァを業の一切付着してない状態へ戻すことがジャイナ教の究極目的。
そのためにはまず業がジーヴァに入り込むのを阻止し
ジーヴァの流入を遮断してから
ジーヴァの内に残存している業を滅し尽くさなければならない。
[中略]
托鉢の偶発性を重視。
提供される飲食物はあくまでも余り物であることが求められていた。
たまたま余った食べ物が、
またまた通りがかった修行者に托鉢として供されるのが理想。
よって、在家が托鉢の出家のためにわざわざ調理して提供しようとしても
出家者は受け取ることができない。
つまり招待食は禁止。
特定の在家との依存関係が確立してしまったり
一つの家庭に負担が集中することを避ける側面もあると考えられる。
出家者が在家に命じて離れた場所にあるものを取って来るように命じたり
わざわざ買いに行かせたりすることは禁止。
偶発性を重視するために
間違いなく施しを受けることができるような場所、
例えば親族の家々や食事を振る舞っている宴会場などに行って、
施しを受けることは勧められない。
施しを受けられるかどうかは偶発的なので結果に一喜一憂すべきではないとされる。
ランダムに訪れるためにジグザグに家々を回ったり渦を巻くように回ったりするルートまでもが
細かく規定されている。
適した時も定められており
家庭の食事がちょうど終わるような時刻に家々を回るべきであり、
在家(たいていは女性)が家族のために料理を準備している時などには
訪れるべきではないとされている。
※空衣では托鉢で得た食を持って帰ることはせず
手のひらで食を受け取り
その場で衆人環視のもと
それに小さな生物が混入していないか指で子細に確認しつつ立ったまま食べる。
(立ったままなのって手がふさがっているから座る前にやわらかい箒で地面を掃けないから?)
[中略]
一部の生物を害することは回避できない。
不可避なのが不動の生命体。
植物を食すのも殺生だがより高次の生命体を害するよりマシ。
ジャイナ教の菜食主義の観点は
そこに生命が存在する可能性
そこから生命体が発生する可能性である。
在家の根本的美徳という食の規定では
自然死した動物を含めて肉類
蜂蜜
イチジク類の果物、
酒類、
濾過されていない水などを摂るのが禁止。
なぜなら殺生によって得られるだけでなく
そこに無数の微生物がいるから。
葉の物、
湿った食べ物、
発酵食品、
腐敗した食べ物などが
無数の微生物がいるので規制。
無数の身体(アナンタ・カーヤ)と呼ばれるカテゴリーに属する植物も規制対象で
玉ねぎなどの球根や
大根などの根菜類、イモ類などの地下茎などの植物も含まれている。
共通する特徴も新たな生命が生じるからだろう。
同様の観点から
多くの種を持つもの(バフ・ビージャ)も禁止で
ザクロ、ナス、トマトなどが該当。
根のものを避ける理由の一つで
収穫する際に地中の生物を害してしまうからというものもよく聞かれる。
[中略]
在家も日没後の食事は勧められない。
家庭での作り置きも推奨されない。
著者が目撃したのが
ターリー(プレート)で食べた後に
コップの水をそこに注いで細かい食べ残しをきれいに洗い
その水を飲み干す作法。
残りかすがついたまま放置されると小さな生物が集まるから。
食べられるべきではないものリストがあり
雪、氷、
(それらに微細な生物が潜んでいる可能性)
毒(腹の中の生命体を害する)、
土、
(微細な生命体を含み、
蛙のような五つの感覚器官を有する高次の生物を産み出す源
だと考えられていた。
口にした者の腸に深刻なダメージを与える病の原因とも考えられていた)
味がなく中身のない空洞上の植物、
(空腹を満たせないので不必要に生命体を害してしまう)
正体不明の植物などが禁止。
(何が食べられるか列挙した方がわかりやすそうなほど厳しい)
”
サンジャヤ・ベーラッティプッタの個所↓)
『沙門果経』(『原始仏典 長部経典1』 中村元監修 春秋社 に収録)
pp.74-76
”
〔サンジャヤ・ベーラッティプッタの説〕
三一、「ここにまた、尊師よ、あるときわたしは、サンジャヤ・ベーラッティプッタのところに訪ねて行きました。訪ねて行って、サンジャヤ・ベーラッティプッタとたがいに挨拶をし、喜ばしい印象に残るようなことばを交わしてから、一方の場所に坐りました。一方の場所に坐ったわたしは、尊師よ、サンジャヤ・ベーラッティプッタに次のようにいいました。
『君、サンジャヤよ、〔世間には〕さまざまな技能職種があります。たとえば、象に乗る者、馬に乗る者、車に乗るもの、弓の射手、旗手、軍司令官〔中略〕また、ほかにもこれに類するさまざまな技能職種の者――かれらはこの世において、目に見える技能の報酬によって生活しています。かれらはそれによって、自分自身を安楽にし満足させ、母と父とを安楽にし満足させ、子供と妻とを安楽にし満足させ、友人知人を安楽にし満足させ、〔そしてまた〕沙門やバラモンに対しては、天界に生まれ天界の安楽なる果報をもたらす立派な布施をきちんと行ないます。そこで、君、サンジャヤよ、ちょうどそのように、この世において、目に見えるかたちで〈修行の成果〉を示すことがおできになりますか』と。
三二、尊師よ、このようにいわれて、サンジャヤ・ベーラッティプッタ(83)はわたしに次のように答えました。
『もしあなたがわたしに、〈ほかの世界は存在するか〉と質問したとすると、もしわたしがほかの世界は存在すると考えているなら、ほかの世界は存在する、と答えるでしょう。しかし〔実際には〕わたしはそうはしません。そのとおりだともわたしは考えないし、別であるとも考えません。そうではないとも、そうではないのではないとも考えません。もしあなたがわたしに〈ほかの世界は存在しないのか〉と、〔また〕〈ほかの世界は存在し、かつ存在しないのか〉と、〔またさらに〕〈ほかの世界は存在するのでもなく存在しないのでもないのか〉と質問するとしても、〔同じように答えるでしょう〕。
〔またもしあなたがわたしに〕〈化生の生き物たちは存在するのか〉〔と質問したとすると、もしわたしが化生の生き物たちは存在すると考えているなら、化生の生き物たちは存在すると答えるでしょう。しかし実際にはわたしはそうはしません。そのとおりだともわたしは考えないし、別であるとも考えません。そうではないとも、そうではないのではないとも考えません。もしあなたがわたしに〕〈化生の生き物たちは存在しないのか〉と、〔また〕〈化生の生き物たちは存在し、かつ存在しないのか〉と、〈化生の生き物たちは存在するのでもなく、存在しないのでもないのか〉〔と質問するとしても、わたしは同じように答えるでしょう〕。
〔またもしあなたがわたしに〕〈善悪の業に結果・報いはあるのか〉〔と質問したとすると、もしわたしが、善悪の業に結果・報いはあると考えているなら、善悪の業に結果・報いはあると答えるでしょう。しかし実際にはわたしはそうはしません。そのとおりだともわたしは考えないし、別であるとも考えません。そうではないとも、そうではないのではないとも考えません。もしあなたがわたしに〕〈善悪の業に結果・報いはないのか〉〔また〕〈善悪の業に結果・報いはありかつないのか〉〔またさらに〕〈善悪の業に結果・報いはあるのでもなく、ないのでもないのか〉〔と質問するとしても、わたしは同じように答えるでしょう〕。
[59]またもしあなたがわたしに〈如来(84)(悟った人)は死後存在するのか〉〈如来は死後存在しないのか〉〈如来は死後存在し、かつ存在しないのか〉〈如来は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか〉と質問したとすると、もしわたしが如来は死後存在するのでもなく存在しないのでもない、と考えているならば、如来は死後存在するのでもなく存在しないのでもない、とあなたに答えるでしょう。しかし〔実際には〕わたしはそうはしません。そのとおりだともわたしは考えないし、別であるとも考えません。そうではないとも考えないし、そうではないのではないとも考えないのです』と。
三三、尊師よ、このようにサンジャヤ・ベーラッティプッタは、わたしに目に見える修行の成果について問われているのに、錯乱したことを説きました。尊師よ、それはちょうど、マンゴーについて問われたのに、ラブジャの木のことを説明し、あるいはラブジャについて問われたのに、マンゴーのことを説明するようなものです。尊師よ、ちょうどそのようにサンジャヤ・ベーラッティプッタは、わたしに目に見える修行の成果について問われたのに、錯乱したことを説明しました。尊師よ、そこでわたしは、このように考えました。『かれはかれら沙門・バラモンのなかで、もっとも愚かでもっとも愚鈍である。いったいどうして目に見える修行の成果について問われたのに、錯乱したことを説明するのであろうか』と。尊師よ、〔しかし〕そこでわたしはこのように考えました。『どうしてわたしごとき者が、領内に住んでいる沙門やバラモンを非難しようなどと考えてよいであろうか』と。尊師よ、そこでわたしは、サンジャヤ・ベーラッティプッタの言説を称賛もせず非難もせず、内心不満ではありましたが、不満のことばも出さず、かれのことばを聞き流すだけで、傾倒することはしないまま、座を立って退出しました」
”
※ルビは再現していない。註釈の数字もルビとしてふられているのだが、再現していない。「如来」の「如」の横に「(84)」と書いてあるのだが再現できない。「如(84)来」ではなく、「如来(84)」と表記した。「サンジャヤ・ベーラッティプッタ(83)」も同様。実際は、「サ」の横に「(83)」がある。
(凡例
一 読者の理解の一助とするため、底本にない訳文を〔 〕で補った。また、底本の省略部分(…pe…)は、省略せず訳出し、同様に〔 〕で囲み表記した。
一 訳文中、読者の理解の便宜をはかるため、適宜、原文にはない小見出しを付した。
一 訳文中、[ ]で囲み表記した数字は、底本の頁数を示したものである。
一 読者の理解に資するため、巻末に訳註を付した。末尾に(N)と付した註記は、編者(浪花)の補註である。)
p.601
註
(83)サンジャヤ・ベーラッティプッタは…――サンジャヤ説は「うなぎのように捕らえどころがないぬらりくらりした錯乱論」(amarā-vikkhepa)と説明されているが(DA.i.168)、要するに一種の詭弁論であった。これを「不死憍乱論」と訳す場合があるが、これは amara-vikkhepaと取ったがためである。
(84)如来(悟った人) Tathāgata.
ここはサンジャヤの言説中のことばではあるが、仏教の通常の解釈訳語を採用しておく。
(
六師外道の中で、サンジャヤ・ベーラッティプッタに対してだけ、「もっとも愚かでもっとも愚鈍」って言っていることが重要だな。とはいえ、釈迦は無記の思想を彼から学んだのだろうな。極端な無記でもあるからね、ウナギ教は。
サンジャヤの和訳だけ「技能職”種”」となっていて他は「技能職”業”」なのはなぜなんだろうな。ここだけ原文が少し異なるのかもしれない。
光明寺経蔵
https://komyojikyozo.web.fc2.com/
”このサイトは、管理人:光明寺住職(真宗大谷派所属)による仏典翻訳のサイトです。現在はパーリ三蔵を訳しています。”
というすごいサイトがある。
原文を示し、品詞分解まで載せているのがすごいな。
サンジャヤ・ベーラッティプッタの説
https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnskv/dn02/dn02c09.files/sheet001.htm
”・以下、サンジャヤの所説は「梵網経」の詭弁論者のうち第四のものとほぼ同一である。”
のように翻訳だけでなく解説もあり、それ以外の六師外道の和訳もある。
サンジャヤ・ベーラッティプッタとは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%A4%EF%BD%A5%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%97%E3%83%83%E3%82%BF-1170002
”
サンジャヤ・ベーラッティプッタ(英語表記)Sañjaya‐Belaṭṭhiputta
世界大百科事典 第2版の解説
サンジャヤ・ベーラッティプッタ【Sañjaya‐Belaṭṭhiputta】
前6~前5世紀の古代インドの思想家。生没年不詳。不可知論者,懐疑論者とされる。釈迦と同時代の人で,伝統的バラモン文化の価値観を否定した自由思想家の一人。漢訳仏典では散若夷毘羅梨沸と音写される。マガダ国の首都王舎城に住したとされ,後に仏陀の弟子となった舎利弗と目連は彼の弟子であった。その思想は,《沙門果経》などの仏典の中で,否定されるべき異説(〈六十二見〉〈六師外道〉)として扱われている資料から推察できる。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
世界大百科事典内のサンジャヤ・ベーラッティプッタの言及
【不可知論】より
…また,宗教実践上の観点から,さまざまな世界のものごとについての判断は無用である,ないしそのような判断を停止したほうが心の平安が得られるとする考えも有力であった。例えば,〈鰻のようにぬらぬらとしてとらえがたい議論〉を用いたサンジャヤ・ベーラッティプッタ,来世の存在などの形而上学的な問題に答えなかった釈迦などはそうした考えの持主であった。【宮元 啓一】。…
【目連】より
…バラモンの出身。はじめ六師外道の一人サンジャヤ・ベーラッティプッタに学んだが,舎利弗(しやりほつ)の紹介で釈迦に帰依し,高弟となり,その教化活動を補佐した。六通(6種の超人的な能力)を得て神通第一と称された。…
※「サンジャヤ・ベーラッティプッタ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について
”
p603
註
(98)戒律を守ることによって守られ
律儀とは悪を防止し抑制するものの意味。
またpātimokkha(別解脱、波羅提木叉(はらだいもくしゃ)と音写される)とは、あらゆる悪を一挙に防御するのではなく、戒の条項の一つ一つによって、それに対応した悪から一つ一つ離れるという意味である。在家者の五戒と八斎戒、沙弥・沙弥尼の一〇戒、正学女の六法戒、比丘の二五〇戒、比丘尼の三四八戒が別解脱律儀である。(N)
波羅提木叉 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E7%BE%85%E6%8F%90%E6%9C%A8%E5%8F%89
)
(100)注意力 sati
漢訳仏典では通例「念」と訳される。原始経典のなかでsati(念)は
(1)記憶(師の教えを忘失しない)を意味することもあるが、それはむしろまれで、
(2)心が放縦になったり、散漫になったりしないように、注意力をそなえること、
(3)さらに、常に無常・苦・無我などを念頭に置き、忘れないこと、すなわち四念住
(satipaṭṭhāna)の意味で使用される。ここでは(2)の意味である。(N)
(
四念処 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%BF%B5%E5%87%A6
)
(101)明瞭な意識 sampajañña
自分がいま、なにを行なっているかを明瞭に自覚し識知していることをいう。(N)
p.90から
意によって法(事象)を知る場合、その全体相にも捉われず、その細部にも捉われません。この意の感覚器官を制御しないで生活する結果として、もろもろの貪欲と憂悩という悪不善の状態がはいり込むことになりますから、かれはその制御につとめ、意という感覚器官を保護し、意という感覚器官の制御を達成します。
〔注意力と明瞭な意識〕
六五、「また、大王よ、修行僧はどのようにして、注意力と明瞭な意識を身につけるのでしょうか? ここに、大王よ、修行僧は進むにも退くにも、明瞭な意識をもって行動します。前を見るときも、後を見るときも、明瞭な意識をもって行動します。〔腕を〕曲げるときも、伸ばすときも、明瞭な意識をもって行動します。サンガーティ(大衣)を着け、鉢をもち、チーヴァラ(通常衣)を着けるときも、明瞭な意識をもって行動します。食べ、飲み、嚙み、のみ込むときも、明瞭な意識をもって行動します。排便・排尿するときも、明瞭な意識をもって行動します。歩き、立ち止まり、坐わり、眠り、目ざめ、語り、黙するときも、明瞭な意識をもって行動します。このようにして、 [71] 大王よ、修行僧は注意力と明瞭な意識を身につけます。
(ヴィパッサナー瞑想または、その元ネタだろうな
)
〔満足〕
修行僧はどのようにして満足(106)しているのでしょうか?
身を包むだけの衣と腹を満たすだけの托鉢による食物で満足し、かれはどこへ行くにもそれだけで出かけます。
p.603
註
(106)すべての生活必需品(paccaya)について満足していること。すなわち衣食住と薬の四項について満足していること。
p.91から
〔障害の除去〕
六七、さて〔以上のように〕、かれ(修行僧)は、この高貴な一連の戒を身につけ、この高貴な感覚器官の制御を身につけ、この高貴な注意力と明瞭な意識を身につけ、この高貴な満足を身につけて、森(107)・木の根元・山・峡谷・洞窟・墓地・籔(やぶ)地・露地(110)・積んだ藁(111)といった人里離れた寝起きの場所に親しみます。〔そして〕かれは托鉢から戻り食事の後、両足を組み(結跏趺坐)身体をまっすぐにし、面前に注意力を集中して(112)坐ります。
六八、かれは、世間に関する貪欲を捨て、貪欲の消えた心をもって生活し、貪欲から心を浄めます。〔かれは〕悪いと怒りを捨て、悪意のない心をもって生活し、すべての生き物を益し、思いやりの気持ちをもって、悪意と怒りから心を浄めます。沈鬱と眠気を捨て、沈鬱と眠気から離れて生活し、光明を想起し、注意力と明瞭な意識を身につけ、沈鬱と眠気から心を浄めます。心の浮動と後悔を捨て、落ち着いて生活し、内に平静な心をもつ者は、心の浮動と後悔から心を浄めます。疑うことを捨て、疑いを脱して生活し、もろもろの正善なる教えに対する疑いのない者は、疑いから心を浄めます。
修行僧はいまだ捨てられていない五種の障害(煩悩)(113)を、ちょうど借金のように、病気のように、牢獄のように、奴隷の境遇のように、荒野の道のようなものとして、自己のなかに見るのです。
p604から
註
(110)露地
覆うもののないところ。望む者はそこに布で住房(テント)を作って住む。
(112)面前に注意力を集中して
業処(禅定を実習するとき、心を集中させる対象物)に向けて注意力を専注し、あるいは、顔前近くに注意力を専注して、という意味。
(113)五種の障害(煩悩)
pañca-nīvaraṇa
漢訳仏典では「五蓋」と訳される。善心を妨げ覆いかくすという意味で「蓋」と呼ばれ、五組あるから五蓋といわれる。その内容は本経六八節で説かれたところである。
(
「貪欲を捨て、貪欲の消えた心をもって生活し、貪欲から心を浄めます。〔かれは〕悪いと怒りを捨て以下略」について。
五蓋だ。pañca nīvaraṇāniだ。Five hindrancesだ。単数形だと nīvaraṇa。
五蓋 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%93%8B
”五蓋(ごがい、巴: pañca nīvaraṇāni, パンチャ・ニーヴァラナーニ)とは、仏教における瞑想修行を邪魔する、5つの障害、つまり5つの煩悩の総称。蓋(がい、巴: nīvaraṇa, ニーヴァラナ)とは文字通り、認識を覆う障害のこと。
解脱道論によれば、十結には五蓋すべてが含まれる[1]。
なお、これと似た概念として、生存者を欲界へと結び付ける5つの束縛としての五下分結(ごげぶんけつ、巴: pañca orambhāgiyāni saṃyojanāni[注釈 1])という概念もある。下分(げぶん)とは、下の領域すなわち欲界のこと。結(けつ、巴: saṃyojana, サンヨージャナ)とは「束縛」のこと。
〔中略〕
五蓋の内容は、以下の通り[2]。
• 貪欲(とんよく、巴: kāmacchanda) - 渇望・欲望
• 瞋恚(しんに、巴: byāpāda、梵: vyāpāda) - 怒り・憎しみ・敵意
• 惛沈・睡眠(こんじん すいめん、巴: thīna-middha、梵: styāna-middha) - 倦怠・眠気
• 掉挙・悪作(じょうこ おさ、巴: uddhacca-kukkucca、梵: auddhatya-kaukṛtya) - 心の浮動、心が落ち着かないこと・後悔
• 疑(ぎ、巴: vicikicchā、梵: vicikitsā) - 疑い。信頼の欠如。
経典での扱い
沙門果経では、出家者が戒律を収めた後、初禅に入る前の段階として、この五蓋の除去が言及される[3]。この五蓋が取り除かれることで、その人には歓喜・喜悦、身体の軽安(きょうあん)・安楽・三昧が生じ、初禅へと入っていく準備が整うと述べられる。
適切業品では、釈迦は慧の具足(paññāsampadā)との形で、在家信者に五蓋を説いている[4]。五蓋に心が打ち負かされると「行ってはならなことを行い、行うべきことを行わないので、彼の名誉と幸福は破滅する」と釈迦は述べている[5]。
〔中略〕
最終更新 2021年5月28日 (金) 11:47 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
”
)
(118)〔心に〕付随する煩悩 upakilesa
この語には次の二義がある。
(1)心に随って起り、心を染汚するという意味で、すべての煩悩を指す。
(2)根本的な煩悩(貪・瞋・癡・慢・疑・悪見の六煩悩)に付随して起る、付随的な煩悩という意味で、根本六煩悩以外の煩悩を指す。ここでのupakilesaは前者の意味であるとブッダゴーサは説明する。
(120)意から成る智
「さまざまな超能力(神変)」は神変の中の第一の「決意神変」に相当する。それは「一身多身神変」から「身自在神変」の10種からなる。また決意神変とは「このようになれ」と智によって決意することによって完成するから、この名前がある。
(この註釈で「神通=禅定を修習することによって得られる人の能力を超えた自在な能力」の後世の、分類・整理された、『清浄道論』にもとづく図が載っている。
フィクションで「魔法」をどう呼ぶかというのが作品の特徴を示す場合がある。
「神変」を魔法の意味で使っている作品は私は知らない)
第三経 青年バラモンのおごり―阿摩昼経
〔『阿摩昼経』(あまちゅうきょう、Ambaṭṭha-sutta, アンバッタ・スッタ) 〕
渡辺研二(訳)
第四経 真のバラモン―種徳経
〔『種徳経』(しゅとくきょう、Soṇadaṇḍa-sutta, ソーナダンダ・スッタ) 〕
渡辺研二(訳)
(本書は、戒蘊篇(かいうんへん、Sīlakkhandha-vagga, シーラッカンダ・ヴァッガ)のお経を集めているので内容が被っている箇所が多い。それだけ大切だということだ。
各地で作られた教科書〔書ではなく音声であろうが〕だったのだろう)
第五経 バラモンの祭りと真の祭り―究羅檀頭経
〔『究羅檀頭経』(くらだんずきょう、Kūṭadanta-sutta, クータダンタ・スッタ)〕
渡辺研二(訳)
p244
戒めの体系(戒蘊)をまもるとき、かれの心の内部になんら汚れのない幸福を体験するのです。
第六経 マハーリの問い―マハーリ経
〔『摩訶梨経』(まかりきょう、Mahāli-sutta, マハーリ・スッタ) 〕
渡辺研二(訳)
(本文前の概要)
「三つの束縛」(三結)を滅することによって、また、八正道を実践することによって、さらに、智慧を完成させることこそが仏教の目的であると述べる。また、経の後半に「霊魂と身体」が同一か否かについて、論じられるが、ブッダの時代に流行したこのような哲学議論は、仏教の修行のためにならず、解脱のためにならないことを説く。
経典メモ
p.268
三つの束縛を滅することによって、愛着(貪)・憎悪(瞋)・迷妄(痴)が希薄になり、一度だけ帰る人(一来者)となります。そして、ただ一度だけこの世界に戻ってきてから、苦の終わりをなすのです。
五つの下位の束縛(12)を滅することによって、自然発生の生き物(化生者)となり、そこで完全に束縛をときほぐされた者(14)、この世界に帰ってくることのない者となります。
第六経 マハーリ経の註
p.621から
(9)三つの束縛 ti-saṃyojana
「三結」ともいう。
(1)有身見(うしんけん、sakkāya-ditthi (調べて出た綴りはsakkāya-diṭṭhi):あらゆる存在を形成している五つの要素の集まり(五蘊)のなかに「自我」があると、また五つの要素の集まりは「自分のもの」であると誤って考えること。
(2) 疑(ぎ、vicikiccha)(調べて出た綴りはvicikicchā):仏法僧の三宝、あるいは四諦に対する疑念。
(3)
戒禁取(かいごんしゅ、sīlabbata-parāmāsa):誤った戒律や禁制などに執著すること、の三つをいう。(N)
(12)五つの下位の束縛
下位、すなわち欲界に人を結びつける煩悩の意味。
整理された教説によれば、三結は預流道において断じられ、欲貪(欲界に対する貪欲、kama-rāga)(調べた綴りだとkāma-rāga)、瞋(paṭigha、怒り)とは一来道によって弱められ、不還道において断じられる(すなわち五下分結は不還道で断じられる)。
阿羅漢道では五上分結(上位、すなわち色界と無色界とに人を結びつける煩悩)が断じられる。五上分結とは色貪、無色貪、慢(māna)、 掉挙(uddhacca. 心のうわさ)、無明を指す。この経典では、一来道において貪欲(rāga)と怒り(dosa)と愚痴(moha)が説かれており、通常の説とは異なっている。(N)
(13)化生者 ここでは不還者が意図されており、不還者は天界に化生者として生まれ、そこで涅槃に達する。(N)
(
五下分結 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%B8%8B%E5%88%86%E7%B5%90
”五下分結(ごげぶんけつ、梵: āvarabhāgīya saṃyojana, アーヴァラバーギーヤ・サンヨージョナ、巴: orambhāgiya-saṃyojana, オーランバーギヤ・サンヨージャナ)とは、仏教において衆生を「欲界」へと縛り付ける「5つの束縛」としての煩悩の総称。「下分」(げぶん)とは「下の領域」すなわち「欲界」のこと。「結」(けつ)(巴: saṃyojana, サンヨージャナ)とは「束縛」のこと。
〔中略〕
五下分結の内容は以下の通り[1]。
1. 有身見(うしんけん、梵: satkāya-dṛṣṭi、巴: sakkāya-diṭṭhi) - 五蘊を自己とみなす見解[1]
2. 疑(ぎ、梵: vicikitsā、巴: vicikicchā) - 疑い
3. 戒禁取(かいごんしゅ、梵: śīlavrata-parāmārśa、巴: sīlabbata-parāmāsa) - 誤った戒律・禁制への執着
4. 貪欲(とんよく、梵: 巴: kāma-rāga)- 五欲への執着[1]
5. 瞋恚(しんに、梵: pratigha、巴: paṭigha) - 怒り
五蓋とは2及び4-5が共通。三結とは1-3が共通しており包括した関係になっている。
四向四果との関係
四向四果における不還果に到達すると、欲界への執着が断ち切られ、この五下分結も消え去る[2][3]。
預流果に達した段階で、既に五下分結の3-5である「三結」は絶たれており、続く一来果で4-5が弱まり、不還果で4-5が絶たれ、欲界への再生と完全に断ち切られることになる。
〔中略〕
最終更新 2019年9月27日 (金) 12:41 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
”
上記の記事の表がわかりやすい。
上分結(6. 色貪、7. 無色貪、8. 慢, うぬぼれ、9. 掉挙、10. 無明)から解放されるのが阿羅漢。つまり、それ以外の3つでは解放されない。これらが一番解放されにくいグループ。
次に解放されにくいのが下分結のうちの2つ(4. 欲の貪り(カーマラーガ)、5. 憤怒(瞋恚, パティガ) )であり不還(欲界及び天界には再び還らない)(阿那含〔あなごん〕)でやっと解放される。
最も解放されやすい(最初に開放される。といっても容易ではないが)のが、1. 有身見 (無我)、2. 疑(教えに対しての疑い)、3. 戒禁取(誤った戒律・禁制への執着)。
悟りの第一段階の境地である預流果〔預流=悟りへの流れに到達する〕ですら難しい)
p269から
『友、ゴータマさん、霊魂と身体は同じものでしょうか。それとも、霊魂と身体は異なるものでしょうか』
(上記の質問に答えずに、戒の話や、感覚器官の門を外界から守ること、気を落ち着けること、正しく自覚すること、五つの蓋いを捨て去ることなどについて語った後で以下に続く)
p.285
「『友よ、そのように知り、そのように見る修行僧に、〈霊魂と身体は同じものである〉とか、〈霊魂と身体は異なるものである〉などのことばは、相応しいでしょうか』」
「『友よ(23)、このように知り、このように見る修行僧には、〈霊魂と身体とは同じものである〉とか、〈霊魂と身体とは異なるものである〉などのことばは相応しい』」
「『友よ、わたしもまた、このように知り、このように見ます。しかし、わたしは、〈霊魂と身体は同じものである〉とか、〈霊魂と身体は異なるものである〉などということをいいません。
一七、さらにまた、友よ、〔第一の精神集中の〕思慮と考察をやめることによって、心の内部で平静になり、心の一点への集中があり、思慮と考察とを離れた心の安定(三昧)から生ずる喜びと安楽をえて、〕第二の精神集中(第二禅)に〔はいっているのです。(以下略)』」
p.623
註
(23)友よ…
世尊は二人の出家者に「霊魂と身体との異同を問うことは適切か否か」とたずね、二人が「適切である」と答えても、それを否定しない。ただ「わたしはそのような問いを問わない」とだけ答えて、さらに教えを説き続ける。こうして次第に二人を高い段階に導き、最後に漏尽智を説く。二人は世尊の教えの真意を理解して、「霊魂と身体との異同を問うことは相応しくない」と答える。
(
「それは違う」とか「あなたは間違っている」とは言わないのが重要だな
釈迦の思想は、霊肉一致論でもないし、霊肉二元論でもない
)
(四禅、たとえ、超人的な能力(神通)、煩悩の汚れの消滅を知ることなどについてさらに説いた後で)
p.298
友よ、このように知り、このように見る修行僧に、〈霊魂と身体は同じものである〉とか、〈霊魂と身体は異なるものである〉などということばは、相応しいでしょうか』」
「『友よ、そのように知り、そのように見る修行僧に、〈霊魂と身体は同じものである〉とか、〈霊魂と身体とは異なるものである〉などということばは、相応しいものではありません』」
「『友よ、わたしもまた、このように知り、このように見ます。しかし、わたしは、〈霊魂と身体は同じものである〉とか、〈霊魂と身体は異なるものである〉などということをいいません』」
(
このページで本経は終わり)
第七経 遍歴行者ジャーリヤの問い(霊魂と身体)―ジャーリヤ経
〔『闍利経』(じゃりきょう、Jāliya-sutta, ジャーリヤ・スッタ) 〕
渡辺研二(訳)
第八経 さまざまな苦行 倮形梵志経
〔または『大師子吼経』(だいししくきょう、Mahāsīhanāda-sutta, マハーシーハナーダ・スッタ)
または『迦葉師子吼経』(かしょうししくきょう、Kassapa-sīhanāda-sutta, カッサパシーハナーダ・スッタ)) 〕
渡辺研二(訳)
(本文より前の解説)
本経は漢訳『長阿含』巻一六の「倮形梵志経」(らぎょうぼんじきょう)(大正蔵一、一〇二下以下)に相当する。
ブッダが裸形の修行者カッサパに説いたものである。ブッダ当時のさまざまな苦行が列挙されていて、詳しく苦行の様子をうかがうことができるが、経の主旨は、さまざまな苦行の実践によっては、真の出家者にはなれず、八正道を実践し、戒め・精神統一・智慧(戒定慧)の三学の完成こそが真の仏教修行であるということである。その後、ブッダは「わたしは大衆のなかで、自信をもって説法する」云々といい、みずからブッダの説法、すなわち「獅子吼」の特徴を説く。
p.381
すぐれた戒め(増上戒)
すぐれた智慧(増上慧)
p.627
註
(27)人間の毛髪よりなる衣 kesa-kambala
人間の髪の毛で作られた織物。寒いときは寒く、暑いときは暑い、色が悪く、悪い臭いがし、肌触りが不快な衣。いわゆる六師外道のひとりアジタはこの衣を用いていたために、かれはAjita Kesakambalinと呼ばれている。
(28)髭髪を抜く者
ジャイナ教の出家修行者の習慣である。
(34)冷水を飲まないことに徹する…
冷水を飲むのをやめている者。ジャイナ教の修行者の習慣として知られている。
第九経 心理作用の消滅
〔『布吒婆楼経』(ふたばろうきょう、Poṭṭhapāda-sutta, ポッタパーダ・スッタ) 〕
渡辺研二(訳)
(本文前の解説)
ポッタパーダは心理作用とアートマン(我)との異同について、また「世界は常住か否か」「世界は有限か否か」「生命と身体とは同一か否か」「修行の完成者(如来)は死後、存在するか否か」についてたずねる。ブッダはこれらの問題に直接答えずに、我への執着を捨てて、無我を体現すべきことを説く。
p.411から
〔「虚空は無限である」と観じる境地〕
修行僧は、すべてにわたり、物質的領域の心理作用を超え、物質的にさまたげるもののある心理作用が消滅して(11)、さまざまな心理作用を考えないことから、「虚空は無限である」と空間の無限を観じる境地(空無辺処)に達しているのです。かれには、以前の物質的領域の心理作用が消滅するのです。そのとき、『虚空は無限である』と観じる境地という微細な真実の心理作用が生じるのです。そのとき、かれは『虚空は無限である』と観じる境地という微細な真実の心理作用を有する者になるのです。
『識別作用は無限である』と観じる境地(識無辺処)に達しているのです。かれには、以前の『虚空は無限である』と観じる境地という微細な真実の心理作用が消滅するのです。
『なにものもない』ということを観じる境地(無所有処)に達しています。かれには、以前の『識別作用は無限である』と観じる境地という微細な真実の心理作用が消滅するのです。
p630
註
(8)心理作用(想) abhisaññā, saññā
この経典には両語が同義に使用されている。
(10)微妙で真実である心理作用
心理作用(表象する意識作用、想)
(
これって心の中に像を思い浮かべるとみなしていいのかな。心って何?ってならない?
上記だと心ではなく意識。心理作用とも訳しているから心でもいいのか?
イメージすること程度で考えておく方が良いかも。
英訳はconceptualization, distinguishing, perception, cognition)
p414から
心理作用は人のアートマン(個我)なのでしょうか。それとも心理作用とアートマンは異なるものなのでしょうか
三種のアートマンが語られる。
(1)粗大であり物質的なるもの、形態をもつもの、四つの元素(地水火風)からなり、通常の食物を食べるもの
(釈尊は心理作用は生じるし、消滅するという主旨の返し)
(2)意よりなるもの、大小の四肢がそなわっているもの、感覚器官を完全にそなえたもの
(同様の返し)
(3)無形態なるもの、心理作用からなるもの
(動揺の返し)
p631から
註
(16)もろもろの心理作用が別に生じ…
我(アートマン)が常住であるのに対して、心理作用(表象する意識作用)は無常であり、次々に生滅をくり返していることをこのように表現する。
(
想は常住ではない。アートマンは常住だ。よって両者は異なる存在)
(17)心理作用…別物となる
以上で三種の我(アートマン)があげられ、それぞれ心理作用と異なるとされるが、異なる理由は、我が常住であるのに対し、心理作用は無常であるという点にある。(N)
p416から
〔ゴータマ、形而上学的問題に黙して答えず〕
「ポッタパーダよ、あなたは、異教の見解によっているため、異教の忍耐によっているため、異教の目的によっているため、異教の実践によっているため、異教の師によっているため、『心理作用は人のアートマンである』とか、あるいは『心理作用とアートマンは異なる』ということを知り難いのです」
「(前略)知り難いというのであれば、お尋ねします、尊い方よ、世界は常住でありましょうか。これのみが真実であって、他は虚妄でしょうか」
「ポッタパーダよ、わたしは『世界を常住であるかどうか。これのみが真実であって、他は虚妄であるか』ということについて、黙して答えを与えません」
(これより、共通部分はわかりきっているので意味がわかる程度に略す)
「世界は常住ではないのでしょうか」
「黙して答えません」
「世界は有限でしょうか」
「黙して答えません」
「世界は無限でしょうか」
「黙して答えません」
「霊魂と身体は同じものでしょうか」
「黙して答えません」
「霊魂と身体は異なるものでしょうか」
「黙して答えません」
「修行完成者は死後存在するのでしょうか」
「黙して答えません」
「修行完成者は死後存在しないのでしょうか」
「黙して答えません」
「修行完成者は死後存在し、同時に存在しないのでしょうか」
「黙して答えません」
「修行完成者は死後存在するのでもなく、存在しないのでもないのでしょうか」
「黙して答えません」
「なぜ、この問題について黙して答えないのでしょうか」
「なぜならば、これは目的にかなったものではないからです。真理(法)に[189]かなうものではないからです。清らかな修行の基礎になるものではないからです。〔世俗的なものを〕厭い離れることのためにならないからです。〔欲情から〕離れることのためにならないからです。〔煩悩を〕制し滅することのためにならないからです。心の平安のためにならないからです。すぐれた英知のためにならないからです。正しい覚りのためにならないからです。やすらぎ(涅槃)のためにならないからです。それゆえ、わたしは、これについて黙して答えないのです」
「尊師が解答されるものはなんでしょうか」
「『これは苦しみである』と解答します。
『これは苦しみの起こる原因である』と解答します。
『これは苦しみの消滅である』と解答します。
『これは苦しみの消滅に導く道である』と解答します」
(
サンジャヤのうなぎ教と異なるのは断定することと、断定しないことをきっちりと分けていることだ。断定する理由としない理由は上記の通りだ)
第一〇経 仏陀の賞賛した法―スバ経
〔『須婆経』(すばきょう、Subha-sutta, スバ・スッタ) 〕
橋本哲夫(訳)
p.633
註
(14)戒律箇条の体系・自己規制
pātimokkha(音写「波羅提木叉(はらだいもくしゃ)」)の原意は、「それぞれの煩悩について解脱を得ること」(漢訳「別解脱」)。それより、「戒律箇条の体系」をも意味するようになった。
(42)
色界(ほとんど欲望を伴わない物質的世界)
(44)物質 ルーパ
漢訳は「色(しき)」。原始仏教経典中の比較的古いとされるガーター(韻文)の中では、「美しい姿」「様子・状態」「姿・形」「物質」「〔眼の対象としての〕色形」「パターン」などと訳し得るが、ここでは、「物質」の意味。
(46)意識 viññāna
漢訳は「識」。認識の主体。五つのまとまり(五蘊)のうちの「識」および十二因縁の「識」も同じ語であるが、内容が同じとは限らない。
(53) āsava
漢訳は「漏」。原義は、草木から抽出された覚醒剤の一種であったが、精神を酔わせるということから、正常心を失わせるもの、すなわち煩悩を意味するようになった。なお、別の原義は、「流出」と「流入」を同時に意味する「流れ」のこと。たとえば、水の入ったビンを傾けると、水が出るとともに空気が入っていく。この事態を一語で表現したもの。
第一一経 説法の奇跡―堅固経
〔11. 『堅固経』(けんごきょう、Kevaṭṭa-sutta, ケーヴァッタ・スッタ) 〕
橋本哲夫(訳)
(本文前の解説)
世尊は、「四種の〔世界の〕構成要素(四大)は、どこに跡形もなく消え去るのか」というある比丘の疑問は、四天王神を始め、大梵天にいたるまで誰も答えられないことを知らしめ、その質問自体が間違っており、「どこで、四種の〔世界の〕構成要素は足場をなくすのか」と問うべきだと教え、「涅槃において四種の〔世界の〕構成要素は足場をなくす」と答える。
p.510から
(マハー・ブラフマーつまり大梵天の発言)
わたしは、この四種の構成要素、すなわち地界・水界・火界・風界は、どのような場合に跡形もなく消滅するのかを知らないのである。だから、比丘よ、かの世尊を措いて、その質問の答えをほかに求めることは、あなたの失敗であり、罪である。比丘よ、世尊のおられるところまで行き、この質問をせよ。そして、世尊があなたに答えられたままを記憶しなさい』と。
(ゴータマ・ブッダの発言)
比丘よ、次のような質問をしてはならない〈世尊よ。この四種の構成要素、すなわち地界・水界・火界・風界は、どのような場合に跡形もなく消滅するのか〉と。比丘よ。次のように尋ねるべきである。
どこで、水、地、火、風は足場をなくすのか(存在しなくなるのか)。
どこで長・短、細かさ・粗さ、浄・不浄は〔足場をなくすのか〕。
どこで名称(名)と形態(色)は跡形もなく消滅するのか〉
ここにその解答がある。
定義づけられない、限定のない意識(識)(33)を完全に捨てる場合。
ここに水、地、火、風は足場をもつことはない。
ここに長・短、細かさ・粗さ、浄・不浄も〔足場をもつことはない〕。
ここに名称と形態は跡形もなく消滅する。
意識(34)の消滅によって、これ(名称と形態)が消滅する』」
このように仏陀はいった。
p.636から
註
(8)心の作用 cetasika
漢訳は「心所」。心に属するもの。心の働き。精神現象。
(9)大まかな思慮内容 vitakkita
探求的な粗大な心の働きによって得られた知識内容。
(10)細かな考察内容 vicārita
観察的な微細な心の働きによって得られた知識内容。
(尋と伺と似た綴りだから派生語?)
[2023年5月21日に追加:
格変化かもしれない。原文をそのまま載せたのだろう。
尋伺(じんし。Vitakka-vicāra)とは綴りが違うが、パーリ語には格変化があるし、原文の時点で誤字脱字があることもある。
追加終わり]
(11)意識 manas
manasとcitta(cetas. 心)は、意味が似ているが、最初期の韻文中では次の違いがある。(1)manasはvāca(言葉)と対でいわれることが多いのに対して、citta(cetas)はkāya(身体)と対でいわれることが多い。
(2)manasは能動的であるのに対して、cittaは受動的である。
(3)cittaは、「心よ」と呼びかけられるが、manasにはそのような用法がない。
(4)六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)の一つとしての「意」の原語は、常にmanasである。
(30)名称と形態
原語はナーマとルーパ。ナーマは「名称」を意味し、ルーパは最初期の韻文中では、「美しい姿」「様子・状態」「姿・形」「物質」「(眼の対象としての)色形」「パターン」などと訳し得るが、ナーマとルーパがセットでいわれた場合は、「個体」を意味する。その場合、ナーマを精神、ルーパを身体と説明されるが、そのように解するのは教義学者たちが無理にこじつけた解釈であろう。インド思想一般の用例としては、ナーマを精神と解することは無理である。また、ナーマルーパ(ハイフンなしで合体して綴っている)はウパニシャッドでは全ての存在を意味する。
(33)意識(識) viññāna
認識の主体。知覚したものを分節化する働き。たとえば、連続したスペクトラムの集まりである虹から数種の色を分離して、名付ける働き。
第一二経 非難されるべき教師のたとえ―露遮経
〔『露遮経』(ろしゃきょう、Lohicca-sutta, ローヒッチャ・スッタ) 〕
橋本哲夫(訳)
第一三経 正しい道とはなにか―三明経
〔『三明経』(さんみょうきょう、Tevijja-sutta, テーヴィッジャ・スッタ)(訳)〕
橋本哲夫(訳)
本文メモは以上。
参考資料
君子(くんし)は庖厨(ほうちゅう)を遠(とお)ざく
https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/kotowaza28
"出典
孟子(もうし)・梁恵王(りょうけいおう)・上
意味
男子たる者は台所に入り込んで、料理・家事のような女子のする仕事に口を出すべきではない、という意味で使われることが多い。「庖厨(ほうちゅう)」は、台所・炊事場のこと。現在、日本では右のような意味に用いられているが、本来の用法とはかなり異なっている。本来は、君子は生あるものを哀れむ気持ちが強いから、生き物を殺す料理場に近づくことは、とうてい忍び得ないという意味である。「君子は庖厨を遠ざかる」という読み方もある。ここでは一般に出典とされている『孟子(もうし)』による。
[略]
〔曰(いわ)く、傷むこと無(なか)れ。これ及(すなわ)ち仁術なり。牛を見るも未(いま)だ羊を見ざればなり。君子の禽獣(きんじゅう)に於(お)けるや、その生を見てはその死を見るに忍びず。その声を聞きては、その肉を食らうに忍びず。是(ここ)を以(もっ)て君子は庖厨(ほうちゅう)を遠ざくるなり、と。〕
訳文
(斉(せい)の宣王(せんおう)は、祭りの犠牲(いけにえ)にする牛が哀れで見ていられないので、代わりに羊を使うことにした。人民は、王がけちなので、小さな羊にするのだと悪口を言った。王はそのことを残念に思い、孟子(もうし)に尋ねた。孟子は、王が真に生き物を哀れむなら、牛も羊も哀れなことには区別がないはずだと言った。王がそれを肯定すると、孟子は次のように)言った。「王はご心配なさるに及びません。犠牲になる獣を哀れむ心こそ仁への道筋です。今までは牛の哀れなようすは目に留められましたが、羊には目を留められなかったからです。君子が禽獣(きんじゅう)に対するとき、生きているのを見ると、その死ぬのを見るのは堪えられないものです。その死ぬときの声を聞いては、とうていその肉を食べる気にはなれません。ですから、君子は生き物を殺す料理場には近寄らないものです。」
解説
「忍びざるの心」は、『孟子(もうし)』の仁という道徳の基本である。この「忍びざるの心(=哀れなものをじっと見ていられない心)」を拡大すれば仁になる。これを「惻隠(そくいん)の心(こころ)」といい、『孟子(もうし)』の性善説の基本となっている。
"
https://twitter.com/ms06r1a/status/787127291235008512
"中村甄ノ丞あるある早くいいたい
@ms06r1a
返信先:
@ms06r1a
さん
「男子厨房に入らず」のオリジナルは『孟子』の「君子庖厨を遠ざく也」なんだけども、これも君子が屠殺される牛や豚なんか見ると可哀想になってメシ食えなくなって働けなくなるから厨房に近寄るな、っていう意味。
午後0:05 · 2016年10月15日·Twitter Web Client"
https://twitter.com/nabe1975/status/1480090280363966466 と続き
”Watanabe
@nabe1975
「男子厨房に入らず」の出典は孟子の「君子は庖厨を遠ざく」だが、そもそも「君子たる者は仁徳を持つので禽獣が殺される厨房に立ち入るのは忍び得ない」という意味であった。それが本邦に入ると「男子たるもの厨房に入るべきではない」と妙に上から構えた言葉になってしまうのは妙なものである。
午後5:13 · 2022年1月9日·Twitter Web App
そもそも大膳職や内膳司は高位の官職であり、中世以前に男性の調理が忌避されたという記録もないので、男子厨房に入らず云々はむしろ近代化以後に曲解された結果ではないかと考える。
午後5:15 · 2022年1月9日·Twitter Web App
”
ノザキハコネ
@hakoiribox
6月27日
真面目に言うと不殺生戒はおのれの気持ちの問題の領域なので生活のためのやむを得ない殺生と理解するなら別に……。逆に面白半分とかふざけた感情があるならただ見ていた知っていただけでも随喜同業(殺生を喜ぶ気持ちがあったならばそれは実際に殺した者と全く同じ)にぶつかりますね。
引用ツイート
ぱーりんか │ Bar Pálinka
@BarPalinka
6月27日
友人のお坊さんに「家にGが出たらどうするの?やっぱり不殺生を貫き通すの…?」って聞いたら「そうですね…殺めはしませんがホウ酸団子を設置します。それを食べて◯ぬのはGが勝手に自分の欲望に負けただけになるので。」と笑顔で返ってきたの思い出して僕は今日も欲望に負けてビール飲んでます。
このスレッドを表示
ノザキハコネ
@hakoiribox
6月27日
上座部仏教だと僧侶は虫一匹殺すべきではないとして僧侶用の忌避効果のみで毒性のない虫除けスプレーがあったりするわね。
ノザキハコネ
@hakoiribox
6月27日
上座部仏教には僧侶は金銭という不浄な物に触れるべきではないという御立派な考えもあるんですけど、じゃあそういう国で買い物とかどうやってるかというと僧侶本人のかわりに弟子が財布を持って一緒に買い物してるからな。
ノザキハコネ
@hakoiribox
6月27日
初期仏典にも実は三種の浄肉という考えがあって僧侶も「殺されるところを見ていない・自分のために殺したと聞いていない・自分のために殺したと知らない」肉なら食べてもよいと書かれています。要するに殺生そのものではなくて「自分は生き物を殺したのでは?」という迷いが避けられているんやな。
6月27日
殺生を見て全く動揺しない人間はまずいない。頭の中に「俺は残酷なことに手を貸したんだ」という不安が浮かぶ人もいれば「動物を殺して何が悪いんだ」と強がったり理屈をこねたくなる気持ちが湧く人もいるでしょう。その心の乱れこそが妨げなのであって行為そのものが罪という解釈なのではない、と。
ノザキハコネ
@hakoiribox
6月27日
不殺生戒については上座部では行為自体をタブーとして受け取る方向に発展したし大乗では行為そのものに罪があると受け取るようになったのでじつは見解がまちまちなんですよに。
ノザキハコネ
@hakoiribox
6月27日
儒教も「君子庖厨遠ざく」だし大乗仏教の肉食忌避には中国の文化的影響もありそうな気がしている。
うなじさんがリツイート
ぱーりんか │ Bar Pálinka
@BarPalinka
6月27日
友人のお坊さんに「家にGが出たらどうするの?やっぱり不殺生を貫き通すの…?」って聞いたら「そうですね…殺めはしませんがホウ酸団子を設置します。それを食べて◯ぬのはGが勝手に自分の欲望に負けただけになるので。」と笑顔で返ってきたの思い出して僕は今日も欲望に負けてビール飲んでます。
うなじさんがリツイート
ノザキハコネ
@hakoiribox
6月27日
真面目に言うと不殺生戒はおのれの気持ちの問題の領域なので生活のためのやむを得ない殺生と理解するなら別に……。逆に面白半分とかふざけた感情があるならただ見ていた知っていただけでも随喜同業(殺生を喜ぶ気持ちがあったならばそれは実際に殺した者と全く同じ)にぶつかりますね。
引用ツイート
ぱーりんか │ Bar Pálinka
@BarPalinka
· 6月27日
友人のお坊さんに「家にGが出たらどうするの?やっぱり不殺生を貫き通すの…?」って聞いたら「そうですね…殺めはしませんがホウ酸団子を設置します。それを食べて◯ぬのはGが勝手に自分の欲望に負けただけになるので。」と笑顔で返ってきたの思い出して僕は今日も欲望に負けてビール飲んでます。
このスレッドを表示
うなじ
@unajiperopero
6月27日
在家の五戒ならお気持ちの問題で済むかもしれないけど、比丘の波羅提木叉は各罪の定義がカッチリ決まってるので、普通に奪畜生命戒で波逸提だと思う
うなじ
@unajiperopero
6月27日
もっとも、その友人のお坊さんとやらが何宗だか知らんけど、日本の場合は出家者でも具足戒を受けない場合が多いという世界的にも特殊な事情があるので、律の解釈をそのまま適用するのが果たして適当かどうかという話はある
うなじさんがリツイート
ノザキハコネ
@hakoiribox
6月27日
儒教も「君子庖厨遠ざく」だし大乗仏教の肉食忌避には中国の文化的影響もありそうな気がしている。
うなじさんがリツイート
遊牧民@候選
@Historian_nomad
6月27日
ジャイナ教どこいったよ
[
ふぎさやか
@fugisayaka
6月27日
返信先:
@Historian_nomadさん
ご指摘ありがとうございます。当該ツイートは削除致します。
(というリプがあるのでジャイナ教うんぬんの対象ツイートがあったことはわかるが、その呟き自体は私が確認した時点では消去済み)
]
うなじさんがリツイート
遊牧民@候選
@Historian_nomad
6月27日
ていうか多分この辺の話も扱ってるかどうか『インド宗教興亡史』を読んでないといけないんだけどまだ読めてねえんだよ(切れ気味(中国圏における肉食拒否に漢文文化圏の影響が絶無とは言わないけどインドでもジャイナ教徒の相互影響で確か忌避には向かってた気がするけどうろ覚え
うなじ
@unajiperopero
6月27日
下田先生の『涅槃経の研究』では、古い経典では肉食が美食の一種として扱われてるのに対して、インド社会が「ヒンドゥー化・バラモン化」するに従って肉食が下位カーストと結びついて不浄視されるようになったのが(大乗)仏教に取り入れられたとある
6月27日
けどこれ少し前の本だから、最近の研究でどう言われてるかはわからんな
うなじ
@unajiperopero
6月27日
肉とセットで香草類も禁止されるのは、チャンダーラが肉と香草類を食べてたのが背景にあるんだとか たしかに殺生とかそっちの理屈だけだと肉は説明できても香草類の禁止は説明できないんだよな
(以下の『梵網経』は大乗仏教の方ね。『梵網経』は2種類あるんだ。
梵網経 (大乗仏教) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E7%B6%B2%E7%B5%8C_(%E5%A4%A7%E4%B9%97%E4%BB%8F%E6%95%99)
”『梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十』とは、大乗仏教の経典であり、『梵網経』(ぼんもうきょう)と通称する[1]。鳩摩羅什訳とされる漢訳が伝わる。上下の二巻本で、下巻を特に「菩薩戒経」とよぶ。
僧肇[2]の序文によれば、原本『梵網経』120巻61品の1品を訳出したものであるという[3]。 漢伝仏教における菩薩戒はこの経典に説かれるものが用いられる。
原本は伝わっておらず、5世紀頃に宋 (南朝)で成立した偽経(中国撰述経典)とみる学者が多い。[4]
パーリ語で書かれた上座部仏教所伝の『梵網経』とは内容がまったく異なる。
〔略〕
最終更新 2022年5月13日 (金) 15:52 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。”
梵網経 (パーリ) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E7%B6%B2%E7%B5%8C_(%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AA)
)
頁(おおがい)さんがリツイート
頁(おおがい)
@Notpoteo
2020年12月4日
下田正弘「東アジア仏教の戒律の特色」を読んだ。東アジア仏教の戒律として広まった『梵網経』は『涅槃経』その他大乗仏典から編纂されているが、肉食や香菜摂取の禁止はインドにおいては仏性と慈悲というよりも、ヒンドゥー文化の「不浄」の観念を受け入れざるを得ない社会的要請によるものであった。
頁(おおがい)さんがリツイート
https://twitter.com/Notpoteo/status/1357551214909485058
”頁(おおがい)
@Notpoteo
佐々木閑先生が強調されるように、僧団は原則として布施に頼って生活しているため、僧団としてもそういったヒンドゥー教的な価値観の浸透という社会的要請を無視できず、僧侶の肉食禁止を標榜するようになったって感じかな。法顕の『仏国伝』には肉食者が街を追い出されるという記述があるらしい。
午後1:46 · 2021年2月5日·Twitter for iPhone
”
パーリ語入門-文字と発音
https://www.manduuka.net/pali/basic/moji.htm
(今回の収録内容がまんま以下の通りだな)
長部 (パーリ) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%83%A8_(%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AA)
”1. 戒蘊篇(かいうんへん、Sīlakkhandha-vagga, シーラッカンダ・ヴァッガ)
• 1. 『梵網経』(ぼんもうきょう、Brahmajāla-sutta, ブラフマジャーラ・スッタ)
• 2. 『沙門果経』(しゃもんがきょう、Sāmaññaphala-sutta, サーマンニャパラ・スッタ)
• 3. 『阿摩昼経』(あまちゅうきょう、Ambaṭṭha-sutta, アンバッタ・スッタ)
• 4. 『種徳経』(しゅとくきょう、Soṇadaṇḍa-sutta, ソーナダンダ・スッタ)
• 5. 『究羅檀頭経』(くらだんずきょう、Kūṭadanta-sutta, クータダンタ・スッタ)
• 6. 『摩訶梨経』(まかりきょう、Mahāli-sutta, マハーリ・スッタ)
• 7. 『闍利経』(じゃりきょう、Jāliya-sutta, ジャーリヤ・スッタ)
• 8. 『大師子吼経』(だいししくきょう、Mahāsīhanāda-sutta, マハーシーハナーダ・スッタ)
(or『迦葉師子吼経』(かしょうししくきょう、Kassapa-sīhanāda-sutta, カッサパシーハナーダ・スッタ))
• 9. 『布吒婆楼経』(ふたばろうきょう、Poṭṭhapāda-sutta, ポッタパーダ・スッタ)
• 10. 『須婆経』(すばきょう、Subha-sutta, スバ・スッタ)
• 11. 『堅固経』(けんごきょう、Kevaṭṭa-sutta, ケーヴァッタ・スッタ)
• 12. 『露遮経』(ろしゃきょう、Lohicca-sutta, ローヒッチャ・スッタ)
• 13. 『三明経』(さんみょうきょう、Tevijja-sutta, テーヴィッジャ・スッタ)
〔中略〕
日本語訳
全訳
• 『南伝大蔵経・経蔵・長部経典1-3』(6, 7, 8巻) 大蔵出版
• 『パーリ仏典 長部(ディーガニカーヤ)』(全6巻)片山一良訳 大蔵出版
• 『原始仏典 長部経典1-3』(第1-3巻)中村元監修 春秋社
部分訳
サーマンニャパラ経(沙門果経) [DN2]
• 『世界の名著1 バラモン教典, 原始仏典 』中央公論社
マハーパリニッバーナ経(大般涅槃経) [DN16]
• 『ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経』中村元訳 岩波文庫
〔中略〕
最終更新 2020年7月16日 (木) 06:48 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
”
原始仏典〈第1巻〉長部経典1
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784393112212
”中村 元【監修】/森 祖道/浪花 宣明【編訳】/橋本 哲夫/渡辺 研二【訳】
価格 ¥8,800(本体¥8,000)
春秋社(千代田区)(2003/02発売)
〔中略〕
サイズ A5判/ページ数 641p/高さ 23cm
商品コード 9784393112212
NDC分類 183.08
Cコード C0315
出版社内容情報
『聖なる網の教え(梵網経)』『修行の成果(沙門果経)』『真のバラモン(種徳経)』『説法の奇跡(堅固経)』など「長部経典」第1経から13経までを収録。
内容説明
500人の弟子との遊行、青年バラモンとの問答…。さまざまな比喩を用い、民衆を仏の道に導こうとしたブッダのこころが、今、よみがえる。最新の研究成果にもとづき、流麗なわかりやすい訳文で贈る現代語訳の決定版。
目次
聖なる網の教え―梵網経
修行の成果―沙門果経
青年バラモンのおごり―阿摩昼経
真のバラモン―種徳経
バラモンの祭りと真の祭り―究羅檀頭経
マハーリの問い―マハーリ経
遍歴行者ジャーリヤの問い(霊魂と身体)―ジャーリヤ経
さまざまな苦行
心理作用の消滅
仏陀の賞賛した法―スバ経
説法の奇跡―堅固経
非難されるべき教師のたとえ―露遮経
正しい道とはなにか―三明経
著者等紹介
森祖道[モリソドウ]
1934年東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程(印度哲学)修了。スリランカ・英国留学。文学博士。東方学術賞受賞。現在、愛知学院大学文学部客員教授、パーリ文献協会(英国)日本代表
浪花宣明[ナニワセンミョウ]
1948年石川県生まれ。プーナ大学(University of Poona)Ph.D.現在、東方研究会研究員
橋本哲夫[ハシモトテツオ]
1949年大阪府生まれ。1972年大阪大学印度哲学科卒業、1981年同博士課程修了。米国留学。現在、種智院大学助教授
渡辺研二[ワタナベケンジ]
1950年東京都生まれ。1974年大正大学梵文学科卒業。現在、大正大学講師、明治大学講師
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。”
https://twitter.com/Prokoptas/status/1388978909673189379
”TOMITA_Akio
@Prokoptas
古代人は本名をひとに知られることを極度に恐れた。本名を知られることは、自分の生魂を掴まれたのと同じく、相手の意のままにされると信じたからである。
月の本名はΜήνη。先に見た如く、魔術師の力能は、自分が勧請せんとするダイモーンの本名を知っていることに存した。
画像
午前7:09 · 2021年5月3日·TweetDeck
”
(輪廻思想の宗教だと、真名で操れるという思想はどう扱われるんだろう?
現世の本名が真名になるのかな? 前世が超有名人ならどうなるんだろうな)
https://twitter.com/Prokoptas/status/1008810984100782080
”
ソロモーンの知恵とは、魔術にも精通した知恵のことであった。神殿建造に使役したダイモーンのことを記した『ソロモーンの聖約(Testamentum Salomonis)』は西洋最古の魔術書とされる。
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) June 18, 2018
「ソロモーンの封印」とは、一筆書きの五芒星のことである。 pic.twitter.com/QoQxGqNEc4
”
https://twitter.com/Prokoptas/status/1271172443386728448
”TOMITA_Akio
@Prokoptas
ダイモーンを使い魔として使役するには、そのが服従せざるを得ない名号を知っていることが絶対条件。ソロモーンがダイモーンを使役して神殿を造り得たのは、その名号を知っていたからである。「ソロモーンの遺訓」https://bit.ly/2U1Jqjx
中世の魔導書の源流がこれである。
画像
午前5:08 · 2020年6月12日·TweetDeck”
https://twitter.com/Prokoptas/status/1388980758828617729
”TOMITA_Akio
@Prokoptas
されば、ソロモーンは神殿建造(前10世紀頃)にダイモーンを使役したと言われるが、彼の力能はダイモーンの本名を知っていることに存した。その数72柱!!!である。その次第は『ソロモーンの聖約』
https://bit.ly/2U1Jqjx
に詳しいが、この書が中世の魔道書の先駆けをなした。
画像
午前7:16 · 2021年5月3日·TweetDeck”
https://twitter.com/Prokoptas/status/1062414681531248641
”
楽園に生い出た生命の樹。
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) November 13, 2018
全体は象徴的な向日葵の花(光の流出の象徴)。その花弁に72の神名。
この72という数は、12の倍数(12×6)であると同時に、360度を10度ずつに分けた「デカン」の2倍(つまり5度ずつに分けた)数。また『ソロモーンの遺訓』に登場するダイモーンの数。 pic.twitter.com/QjVyrx8X3C
”
https://twitter.com/Prokoptas/status/869270541412163584
TOMITA_Akio
@Prokoptas
ギリシア語魔術テキストはἈγαθὸς Δαίμωνの名号を唱えよという。これは7つの母音から構成されると同時に、月の28相(7の4倍)と調和している。アガト・ダイモーンとは、エジプトの創造神のギリシア語名である。
午前4:13 · 2017年5月30日·TweetDeck
"
https://twitter.com/Prokoptas/status/905164018599337984
"TOMITA_Akio
@Prokoptas
新約聖書はディアボロスδιάβολοςとδαίμων(その縮小辞であるδαιμόνιον)とを区別することで、その差異を維持したが、この区別はしばしばぼやけ、多くの英訳がダイモニオンを「悪魔」と翻訳することで、区別をさらに混乱させている。
午前5:21 · 2017年9月6日·TweetDeck"
(綱要(こうよう)= 基本となる大事な所)
https://twitter.com/Notpoteo/status/1542058953969762304 と続き
”
根津美術館のチケットおしゃれな栞になるからすき pic.twitter.com/yv4hv1ndk6
— 頁(おおがい) (@Notpoteo) June 29, 2022
りょう
@PP29H9GixlN66UJ
返信先:
@Notpoteo
さん
旧字体ですか? 唯識関係の文献でしょうか。
午後8:26 · 2022年6月29日·Twitter Web App
頁(おおがい)
@Notpoteo
返信先:
@PP29H9GixlN66UJ
さん
深浦正文『唯識學研究』という本です。かなり古い本ですが、網羅性という点では唯識法相宗の綱要書としてはこの本が一番優れていると思います。
午後9:51 · 2022年6月29日·Twitter Web App
”
https://twitter.com/pizano1215/status/1558075632570863616
”ゴスロリ同胞団
@pizano1215
『梵網経』の情報が全然なくて困る……
午後9:59 · 2022年8月12日·Twitter Web App”
https://twitter.com/jiei_yushi/status/1355111367179522052 と続き
”慈永祐士
@jiei_yushi
いろいろ考え方はあろうが、パーリ仏典では長部の第一経すなわち三蔵経典の最初に梵網経を置いており、これは外道の六十ニ見を検討し仏教の立場を明確にする経典で、Bhikkhu Bodhiは「明らかにストラテジックな意図で置かれている」と述べている。仏教はこの意味で「他との比較検討」からはじまった。
午後8:11 · 2021年1月29日·Twitter for Android
仏教は真理を悟り輪廻からの解脱を目指す教えだが、それはインド諸宗教に共通する。他教他派における悟りとは、解脱とはについて、感覚的にいってもかなり開きがある。初期の仏教と大乗仏教でもそうである可能性は大いにある。自分のところしか知らなければ、自分の基準で他を断ずることも起きうる。
午後8:18 · 2021年1月29日·Twitter for Android
”
[2022年10月23日に追加:
https://twitter.com/jiei_yushi/status/1582963696791277568 と続き
”慈永祐士
@jiei_yushi
いろいろと基本中の基本において、佐々木先生と認識が違いすぎて、最後まで観るのをやめてしまった。認識が違うというより、先生の体調が優れておられず、基本的な認識違いをされているのではとも。
午後2:15 · 2022年10月20日
·Twitter Web App
大貫
@o_nuk_i
10月20日
返信先:
@jiei_yushiさん
そうなのですか?
可能な限りで結構なのですが、どのあたりの認識が慈永さんと異なるのでしょうか?
慈永祐士
@jiei_yushi
返信先:
@o_nuk_i
さん
まず最初は、「肉体と精神を分けてはいけない」「二元論で考えてはいけない」「かならず五つで考えなければいけない」(1:58 https://youtu.be/Fq0ML-lpI68?t=118
)といわれていますが、ロジックが不自然です。「二元論で考えてもいいが、そこに固執してはいけない」ということです。というのは、→
午後3:01 · 2022年10月20日
·Twitter Web App
→二元論を避けても、五蘊それぞれに固執し切り離して考えるのなら意味がないからです。
二元論でみた場合は「名色」(nāma-rūpa)五つで分けた場合は「五蘊」(pañca-kkhandha पञ्च स्कन्ध, pañca-skandha)で分けますよということです。言葉尻のようにみえますが、説明として形式化されています。
午後3:05 · 2022年10月20日
·Twitter Web App
大貫
@o_nuk_i
返信先:
@jiei_yushiさん
なるほどですね。
ご丁寧にご教示いただき有難うございます。振り返れば、あの辺りの説明は歯切れが悪かったように思います。
少し逸れるのですが、せっかくの機会なので、お伺いします。テーラワーダでは、五蘊の精神作用は外界の対象との接触により連続的に生じると考えられているのでしょうか?
午後3:22 · 2022年10月20日
·Twitter for iPhone
慈永祐士
@jiei_yushi
返信先:
@o_nuk_iさん
ご質問のお答えはイエスです。もっとも正確な表現をするならば、五蘊のうち外界が色で、それ以外が精神作用になるわけですが、それはともかく、唯識のような学説をとくに念頭においてそのように法話で反駁するのを時々見かけます。
午後9:27 · 2022年10月20日
·Twitter Web App
大貫
@o_nuk_i
返信先:
@jiei_yushi
さん
有難うございます。
私は「想」の作用がいまいち掴めないのですが、外界の対象を心内でイメージする作用ということで宜しいでしょうか?
午前6:53 · 2022年10月21日
·Twitter for iPhone
慈永祐士
@jiei_yushi
返信先:
@o_nuk_iさん
「想」というのは、簡単にいえばイメージのことです。しかしイメージというのも語弊があります。私たちはイメージというと視覚についてだけのことをいったり、過去の思い出や食べたい物など、想像したものすべてを「イメージ」といったりしますので、それも正確な表現にはなりません。→
午前10:08 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
→我々が「イメージ」というとき「受想行」そして時には「識」まで一体になって用いますが、→
午前10:13 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
「受」というのは、要するに「快不快」のことです。
仏教においては、「快不快」という分け方ではなく「苦/楽/不苦不楽」の3カテゴリーで分けます(これは佐々木先生も触れられていました)。のちに苦楽を肉体/精神の2つのパターンも含め、計5パターンに分類します。
午前10:14 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
「想」は、ですから、「快不快」が含まれないものをいいます。「イメージ」のことではあるのですが、それでは正確ではないので、訳語では認知作用とかperceptionとかいうより厳密な語が当てられています。
午前10:16 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
「行」が、その「受」と「想」によってさまざまに展開される心のエネルギーの流れの総体をいいます。心所はみなこの「行」です。しかし心所のうち「受」と「想」の作用は特に別個に扱いましたから、次のようになります。
「行」=「全心所」-(「受」+「想」)
午前10:25 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
佐々木先生は動画で、「行」はもともと意志作用であったと仰有っておられました。意志作用は、伝統的なアビダンマでは「思」の心所のことです。そしてこの「思」こそが「カルマ」であるとブッダは定義しました。カルマの正体とは、行とくにこの「思」の心所のことであるとブッダは言われたのです。
午前10:29 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
インド諸宗教に通底する「カルマ思想」について、ブッダがこのように具体的に定義した(あるいは「つきとめた」?)ところに仏教のオリジナリティがあります。カルマというのはもともとインドでは、人間の行動一般を示す、もっと広い意味の語だからです。ブッダはこの根源を、心理作用に求めました。
午前10:31 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
「識」とは、「受」「想」「行」のプロセスを経た生成物です。「業」(カルマ)とは「行」を流れるものでありますが、それが心所として「識」という生成物を形成するのです。したがって「識」というのは「果」のことです。
午前10:36 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
「識」というのは、こういったプロセスを経て得られる「認識作用」のことをいいます。我々は「意識を変えよう」ということがありますが、もう既に生成物となった「識」を変えることはできないのです。意識を変えるなら、少なくとも「行」の段階から変える必要があります。
午前10:39 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
「意」と「心」と「識」とは同義語であるともいわれますが、このように考えると、見方によって違いが出てくることがわかります。同義語として扱ってよいかどうかは、その文脈に注意しなければならないように思います。
午前10:42 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
大貫
@o_nuk_i
返信先:
@jiei_yushiさん
とても勉強になります。
順を追って、分からない点をお伺いしたいのです。
想の時点で、犬なら犬、カレーの匂いならカレーの匂いと外界の対象を把握し、判断しているということで宜しいでしょうか。その場合、過去の経験などによって、想の内容は変わりますか?
午後0:17 · 2022年10月21日
·Twitter for iPhone
犬に噛まれた経験があれば、犬が恐ろしく認知されるというような形で。
午後0:17 · 2022年10月21日
·Twitter for iPhone
慈永祐士
@jiei_yushi
返信先:
@o_nuk_iさん
>想の時点で、犬なら犬、カレーの匂いならカレーの匂いと外界の対象を把握し、判断しているということで宜しいでしょうか
「想」は外界の対象の把握はしますが、判断はしません。
が、現実として五蘊は同時発生(sahajāta)し、相互作用するので、時間軸でいえば「想の時点」ということはあります。
午後0:37 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
>犬に噛まれた経験があれば、犬が恐ろしく認知されるというような形で。
犬のイメージが「想」
不快に感じるのが「受」
そこで恐ろしく感じてさまざまな心理作用に展開するのが「行」
そうしてできた「犬の記憶や認識、イメージなど」が識別されるのが「識」
これらが絡み合って働いています。
午後0:40 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
[
慈永祐士
@jiei_yushi
·
10月21日
返信先:
@jiei_yushi
さん,
@o_nuk_i
さん
>犬に噛まれた経験があれば、犬が恐ろしく認知されるというような形で。
犬のイメージが「想」
不快に感じるのが「受」
そこで恐ろしく感じてさまざまな心理作用に展開するのが「行」
そうしてできた「犬の記憶や認識、イメージなど」が識別されるのが「識」
これらが絡み合って働いています。
旭天坊
@kyokutenbo
返信先:
@jiei_yushi
さん,
@o_nuk_i
さん
済みません。教えていただきたいのですが、受想行は識を生成しますが、受想行もその時点の識の影響を受けているという理解でいいのでしょうか。
犬は噛むという識に基づいて不快という受が起こるというような。
午前10:05 · 2022年10月22日
·Twitter for iPhone
慈永祐士
@jiei_yushi
返信先:
@kyokutenbo
さん,
@o_nuk_i
さん
>受想行もその時点の識の影響を受けているという理解でいいのでしょうか。
>犬は噛むという識に基づいて不快という受が起こるというような。
仰有るとおりです。識がまた受を刺激し、想をもたらし行が形成され識が生成されるというプロセスが延々と繰り返されます。
午前10:08 · 2022年10月22日
·Twitter Web App
慈永祐士
@jiei_yushi
返信先:
@jiei_yushi
さん,
@kyokutenbo
さん,
@o_nuk_i
さん
ちなみにですが、佐々木先生が動画で「肉体と精神を切り離して考えてはいけない、仏教では五蘊なのだ」といわれましたが、これは西洋近代主義などの反省でそのようなことがいわれるようになったというのは理解できるのですが、
午前10:12 · 2022年10月22日
·Twitter Web App
昨日もふれましたが、仏教においては「名色」(nāma-rūpa)がそれに相当し、これはブッダの十二因縁の一つでもあり、ブッダはこれを「切り離す」(解きほぐす?)ことで一切の苦の滅尽を成し遂げました。そしてこの考えを忌避してかえって五蘊を実体視するなら同じ弊に陥ることになってしまうのです。
午前10:15 · 2022年10月22日
·Twitter Web App
]
大貫
@o_nuk_i
返信先:
@jiei_yushi
さん
一刹那ずつ起こっていくのではなくて、同時発生なのですね。合点がいきました。
午後0:43 · 2022年10月21日
·Twitter for iPhone
慈永祐士
@jiei_yushi
10月21日
返信先:
@o_nuk_i
さん
そういえば有部アビダルマでは「一刹那」ずつしか怒らないんでしたっけ?テーラワーダ・アビダンマでは詳細は忘れましたが、この同時発生(sahajāta)は、時宜適には「相互発生」ということですから、厳密には一刹那ずつかもしれません(そこはちょっと確認要です)。
10月21日
返信先:
@jiei_yushi
さん,
@o_nuk_i
さん
時宜適→字義的
大貫
@o_nuk_i
返信先:
@jiei_yushi
さん
私もうる覚えなので、はっきりしないのですが、そのような印象があります。
午後1:23 · 2022年10月21日
·Twitter for iPhone
有部は一刹那一法で、唯識は同時生起を認めるのではなかったかと。
午後1:25 · 2022年10月21日
·Twitter for iPhone
慈永祐士
@jiei_yushi
返信先:
@o_nuk_i
さん
ありがとうございます。そういえば私も昔そのように読んだことがあったように思います。
午後4:43 · 2022年10月21日
·Twitter for iPhone
大貫
@o_nuk_i
返信先:
@jiei_yushi
さん
ご丁寧にご教示いただき有難うございました。善い機会を賜り幸甚に存じます。
午後7:22 · 2022年10月21日
·Twitter for iPhone
”
「「意識を変えよう」ということがありますが、もう既に生成物となった「識」を変えることはできないのです。意識を変えるなら、少なくとも「行」の段階から変える必要があります。」
で自己啓発系が全滅してて草。仏教はマジで有効な方法を教えてくれるからな
]
[2023年5月3日に追加:
https://twitter.com/Notpoteo/status/1653275600457723905 と続き
”頁(おおがい)
@Notpoteo
『唯識 これだけは知りたい』、唯識についてこれだけは知りたいと思うことある?という疑問を捨象した熱量ある入門書。インド・中国・日本に至る瑜伽行派とそこから派生した唯識派、法相宗についての歴史と、外界非実在論・三性・八識・行位・五姓各別説の二本立て。仏教をモチーフにした芸術作品も。
画像
午後2:49 · 2023年5月2日
·
4,554
件の表示
第一部の唯識思想の流れについてはやや詳細、第二部の基本的な解説事項は簡潔に纏まっていて良かった。
午後2:52 · 2023年5月2日
·
432 件の表示
1,500円は安い!入門書としても読みやすいし、たいへんおすすめです。
午後2:58 · 2023年5月2日
·
289
件の表示
”
https://twitter.com/Notpoteo/status/1653284786528731136
”頁(おおがい)
@Notpoteo
興福寺の良遍について、天台宗の寺で出家して石清水八幡宮や鹿児島神社、熊野三山に参詣したって記述はどこが典拠なのか気になる。
引用ツイート
頁(おおがい)
@Notpoteo
·
5月2日
『唯識 これだけは知りたい』、唯識についてこれだけは知りたいと思うことある?という疑問を捨象した熱量ある入門書。インド・中国・日本に至る瑜伽行派とそこから派生した唯識派、法相宗についての歴史と、外界非実在論・三性・八識・行位・五姓各別説の二本立て。仏教をモチーフにした芸術作品も。
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画像
午後3:26 · 2023年5月2日
·
429
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追加ここまで]
[2023年5月6日に追加:
https://twitter.com/kadoh108/status/1414207613454012416 と会話
”火童🔥多問第一 @kadoh108 · 17分
@kadoh108
仏教は漢文も他と違うんですよね。サンスクリットのせいなのか、どうなんでしょうね。
午後9:59 · 2021年7月11日
DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
主語と述語の間に「而」が挟まったり「与」と「倶」が対応したり「於何」という表現が出てきたり、いろいろ特殊な句型がありますね(疑問文に割と破格の語順が多い)。金岡照光『仏教漢文の読み方』によると、「問答体、質疑応答という、かなりヴィヴィッドなシチュエーションを、原典から翻訳するため、
午前10:23 · 2021年7月12日
自然、破格な漢文も生まれがちだという理由も考えられる」「特徴的な表現が使われるのは、一つには翻訳のせいもあろうが、さらに、こうした宗教書独自の機能と性格、また念誦するという口頭の働きも加味される文章であるための、リズムの配慮なども、あわせて考えていく必要があろう」とのこと。
午前10:24 · 2021年7月12日
”
https://twitter.com/prapanca_snares/status/1359109292993900549 と続き
”DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
前野直彰『漢文入門』読了。そもそも漢文とは一体何なのかということは考え始めると非常に厄介な問題だということから話を始め、現在の訓読法は昔からあるような顔をしてるけど、実は江戸末期の新訓読の流れを汲んだここ百年余りのものだというところまで話をもっていく。非常にいい本でした。
午後8:58 · 2021年2月9日
「漢文直読」論についても、訓読には便利な面はあるが様々な問題も含んだ方法であるため、現代中国語を用いて読むべきだという主張は原理的には正しいとしつつも、現代中国語を通じて中国の古典を読むことにも別種の危険があり、ときには訓読の方が正確に解釈できることもあるから問題は複雑だとする。
午後8:58 · 2021年2月9日
訓読に問題がある手法であっても、日本人が訓読で中国の古典を読み、訓読の頭で思考してきたのは事実だし、「屹度可被仰付事」みたいな中国語ではありえない奇怪な文章も日本語の一部である以上、それは日本文化の問題としては重要な一部だというバランス感覚ある見解で本書は結ばれる。いいですねぇ。
午後8:58 · 2021年2月9日
遊牧民@候選
@Historian_nomad
先生!!!そこから金文京先生の『漢文と東アジア』にいきましょう!!!
午後11:33 · 2021年2月9日
巻末の齋藤希史先生による解説でも取り上げられてたので、読んでみたくなりました。「訓読は問題を抱えた技術だ」で終わる単純な話ではなく、文化現象として捉えると面白いということがよくわかりました(こなみ)。
午前9:03 · 2021年2月10日
”
https://twitter.com/prapanca_snares/status/1377969759262633985 と続き
”DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
>RT
ここにあがってるやつだと、『全訳 漢辞海 第四版』は現在進行形で非常にお世話になってます。巻末の付録が素晴らしくて、なかでも「漢文読解の基礎」は中国語の文語文法がコンパクトにまとまってる。これを読むだけでも高校の漢文の授業とは全く違う世界が味わえるのでおすすめです。
午後10:02 · 2021年4月2日
漢文の文構造を把握するのに重要な助字についても解説が詳しいし、すべての漢字の語法を分析し、品詞名を与えてもいる。いわゆる訓読語法よりも、「漢文」を外国語として捉える視点で、中国語の視点から漢字を見つめて語法を解説しているのが素人目にもひしひしと伝わってきます。
午後10:03 · 2021年4月2日
”
https://twitter.com/prapanca_snares/status/1303171577723281409
”DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
小川環樹・西田太一郎『漢文入門』には現在進行形でお世話になっております。
午後0:21 · 2020年9月8日”
頁(おおがい)
@Notpoteo
仏教漢文あるある、「所有」を「あらゆる」としか読めなくなる
午後9:01 · 2023年4月14日
·
3,233 件の表示
うなじ
@unajiperopero
漢文のお勉強、最初に漢辞海の付録から入ったが、『漢文法ひとり学び』の方を最初にやった方がよかったかもしれない 薄さに惑わされた
午前8:59 · 2021年9月13日
うなじ
@unajiperopero
『漢文法ひとり学び』の最終章みたいな白文のリーダー(『漢文入門』の返り点付いてない版)があればいいと思って少し調べたんだが、よくよく考えたら、白文と書き下しと語釈と現代語訳が揃ってる古典の訳注はたくさんあるんだから、それを使えばいいだけだった
午前10:27 · 2021年10月17日
うなじ
@unajiperopero
仏教漢文あるある、「如是」で字数調整をする(それは仏教漢文あるあるじゃなくて曇林筆受あるあるだろ!)
午前0:34 · 2023年4月15日
·
1,736
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https://twitter.com/unajiperopero/status/1592504506457419776 と続き
"うなじ
@unajiperopero
荘子、福永訳は漢文(訓点付き)、現代語訳、解説で、池田訳は漢文(白文)、現代語訳、語釈か 福永訳の解説の中にも適宜語釈あるけど、詳しめの語釈欲しいから池田訳かなぁ
午後10:07 · 2022年11月15日
書き忘れてたけど、両方とも書き下しもある
午後10:14 · 2022年11月15日
池田訳、よく見たら後ろに解説もついてるじゃん 文庫なのにフルセットじゃねえか 俺は電子で読んでるけど、これマジで物理の文庫本にしたのか?
午後10:20 · 2022年11月15日
”
https://twitter.com/neko_skt/status/1654609325057343490 と続き
”ネコノ骨
@neko_skt
kāla という語は多義語で時間も黒も死も意味するけど、黒色は置いといて時間と死については連関している。寿命で死ぬことを時に適った死 kālamṛtyu というように時間は生き物の生の期限を定めてしまう。十王子物語で蛇に咬まれた男が kāladaṣṭa と言われるとき「死に咬まれた」と直訳できるけど、
午前7:09 · 2023年5月6日
·
108
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これは意味としては寧ろ寿命だった・死ぬ運命だったという感じ。閻魔さまヤマを殺すシヴァがカーラサンハーラ(カーラを滅ぼす者)と呼ばれるのはヤマの別名がカーラだからだけど、それもヤマが別に誰彼構わず殺してるからじゃなくて寿命を司る神さまだからそう呼ばれてる訳です。
午前7:10 · 2023年5月6日
·
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時間はどうやって観測するの?16世紀の文献で地球儀(たぶん)と四分儀を手にした人が、太陽が時間を生み出しているからこれで太陽を捕まえてコントロールするぜ!と言ってて捕まえるはともかく面白い思想だなと思った。天体観測で時間を支配するんだね。ジャイナ教徒なんだって。ほんまかな…😅
午前7:10 · 2023年5月6日
·
66
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もっと古く遡ってアウグスティヌスの時間論とまさに同じ頃、遠いインドの地でバルトリハリもまた時間を論じていた。彼は時間を存在様態を変化させて「順序」を創り出す二種類の力、或いは働きと論じていた。阻む力と、許す力😶
午前7:12 · 2023年5月6日
·
53
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”
追加ここまで]
[2023年5月12日に追加:
https://twitter.com/unajiperopero/status/1287246284999409665 と続き
”うなじ
@unajiperopero
高田眞治『詩経』
国風だけの訳とかも結構あるけど、これは全訳。白文、書き下し、和訳、語釈、解説と一通り揃っていて、古注新注各種触れられており、便利。解釈は詩序を尊重することが多い。「漢詩大系」版と「漢詩選」版があって、「漢詩大系」版には和訳が付いてないので注意
午後1:40 · 2020年7月26日
2020年7月26日
揃いで手に入らなかったから、上巻は漢詩選、下巻は漢詩大系で持ってるんだけど、下巻に入ってから、「あれ、和訳ねえ」ってなった
”
うなじ
@unajiperopero
高田眞治訳の『詩経』、揃いで手に入らなかったので、上巻は漢詩選、下巻は漢詩大系ので持ってるんだけど、漢詩大系の方のには和訳がないことに、下巻読み始めてから気付いてしまった 内容一緒だと思って、別にいいかと思って買ってしまってた
午後3:52 · 2020年6月4日
まあ、白文、書き下し、語釈、解説は揃ってるから、そこ読めば十分意味は取れるから、問題ないと言えば問題ないんだが、適当に語釈を読み飛ばしながら読んでると意味が取れないので、どうしても読むスピードは落ちるな
午後3:54 · 2020年6月4日
DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
良い子のみんなは『漢文を読むための助字小辞典』(40ページ)をマウスパッドがわりにしてはいけません……! #しばらく乾かすことになりました
午後3:11 · 2022年3月1日
仏教漢文の読み方(金岡照光著) 本の紹介 日本漢文の世界 kambun.jp
https://kambun.jp/books/kanaoka-bukkyo.htm
”書名 仏教漢文の読み方(新装版)
副題
シリーズ名 旧版は「春秋選書」
著者 金岡 照光(かなおか しょうこう)
出版社 春秋社
出版年次 旧版は、昭和53年(1978年)
新装版は、平成12年(2000年)
ISBN 9784393101063(旧版)
9784393101520(新装版)
定価(税抜) 1,339円(旧版)
1,800円(新装版)
著者の紹介 著者(1930-1991)の専門は、唐代俗文学・中国宗教文学史です。旺文社の大学受験ラジオ講座の漢文を十年以上担当されていたことで知られています。『中国故事成語辞典』(三省堂)、『中国名言辞典』(東京堂出版)、『敦煌の文学』(大東出版社)、『敦煌の民衆』(評論社)などの著書があります。
国立国会図書館 仏教漢文の読み方 新装
Amazonへのリンク 仏教漢文の読み方 (春秋選書)
本の内容:
わが国の文化は、古代から仏教の大きな影響を受けてきました。しかし、わが国の漢学は儒学偏重で、仏典(仏教経典)を不当に軽んじています。そのため、漢学を相当に学んだ人でも仏典はまったく読めないということも珍しくなかったのです。たとえば、諸橋轍次博士は百歳にして『三聖対談』(講談社学術文庫)なる本を書いていますが、その序文に、仏典読解にはずいぶん難儀したと、正直に告白しています。そのような事情により、仏典は語学的検討を加えられることのないまま、伝統的・宗派的読解に委ねられていたため、かの『大正新修大蔵経』ですら、初歩的な句読を誤っている箇所があるというのです。
著者はこのような現状を憂え、仏典を語学的に正しく解釈できるようにと、本書においてその読み方を解説しています。執筆態度はきわめて誠実であり、また非常に分かりやすく、仏教漢文の参考書として現在でも最高の本です。
本書は二部に分かれ、第一篇では、漢訳仏典とはいかなるものかを概説し、第二篇で具体的な語彙や語法を解説しています。
第一篇で興味深いのは、吉川幸次郎博士が指摘したという、漢訳仏典の言語的特色です。漢訳仏典は、全部を四字句で構成しようという特徴があること、当時(六朝期)の俗語を交えた雅俗折衷体の文章であることです。四字句作成のために助字や動詞の複合使用が行われ、加えて俗語が使用されたことが、いまや逆に難解の原因となっているのです。梵語の音訳が多いことも難解な理由の一つです。
第二篇でとりあげられる語彙・語法は核心をついたものばかりで、実際の読解にずいぶんと役に立ちます。ひとつだけ例をあげておきます。仏典では、「を」という意味で「於」の字が使われています。一般の漢文では、「を」の意味で「於」の字を使うことはありません。「花ヲ愛ス」は「愛花」であって、「愛於花」とは書きません。しかし、仏典ではほとんどの場合、「愛於花」のようになるのです。ですから、「仏ヲ渇仰ス」は「渇仰於佛」となります。私は本書を読んでいて、何度も目から鱗が落ちる思いがしました。
この本は、一般の漢文から一歩をすすめて、仏典を読もうとする人にとって、最初の導きとなるものであります。
2001年9月9日公開。2002年10月13日一部修正。
”
漢文入門(小川・西田共著) 本の紹介 日本漢文の世界 kambun.jp
https://kambun.jp/books/ogawanishida-kanbun.htm
”書名 漢文入門
副題
シリーズ名 岩波全書233
著者 小川 環樹(おがわ たまき)
西田 太一郎(にしだ たいちろう)
出版社 岩波書店
出版年次 昭和32年(1957年)
ISBN 9784000201018
定価(税抜) 3,100円
著者の紹介 小川環樹氏(1910-1993)には著作集(筑摩書房・全5巻)があります。
西田太一郎氏(1910-1982)の著書には、『漢文の語法』(角川小事典23・絶版)等があります。
角川書店の小型漢和辞典『新字源』は、この両先生が編者になっています。また両先生とも、みすず書房の『荻生徂徠全集』編集に参加されていました。
国立国会図書館 漢文入門 (岩波全書)
Amazonへのリンク 漢文入門 (岩波全書 233)
本の内容:
漢文訓読法を本格的にマスターしたい人におすすめの学習書です。本書の訓読法は、現在用いられている最も標準的な読み方ですから、これから訓読法を学ぼうという方は、本書で基本をマスターされるのがよいと思います。ただし、字が小さく、やや難解な部分がありますので、とっつきにくいと感じられるかもしれません。しかし、途中で投げ出さずに読みきることができれば、ずいぶん力がつきます。少しずつ気長に学習を進めてください。
第一部序説の「語法概説」では、漢文の語法について、簡潔に説明されており、この部分を熟読するだけでも、漢文がかなり読めるようになります。
第二部短文篇では、戦国策、孟子等の先秦の書物から面白い話を選んで、読解を加え、語法についても詳説しています。ここで例文を先秦の書物から選んでいるのは、一つの見識だと思います。唐代以降の古文も、これら先秦の文を学んだものだからです。
第三部は、各体篇で、漢文のいろいろな文体(「論弁類」、「碑誌類」などの様式のこと)について解説し、文体ごとに例文を読解しています。この部分は主に唐宋以降の擬古文を例文に採用しています。漢文では文体ということを重んじますから、この部分もしっかり読んでおく必要があります。
本書の解説には非常に高度な部分もありますから、学習の進展にあわせ、何度も読むのがよいと思います。漢文訓読法は、われわれの祖先が苦労を重ねてあみ出してくれた、非常にすぐれた読解法です。日本文化の正しい理解のためには、訓読法を身につける必要があります。本書を熟読すれば、正確な訓読法が身につけられますので、がんばって取り組んでいただきたいと思います。
2002年2月24日公開。2019年10月19日一部修正。”
https://twitter.com/paotongzi/status/1235392562019495936 と続き
”ぱおとんず
@paotongzi
【漢文が専門外で国語教員となる方向けの必読書】
・西田太一郎『漢文法要説』(朋友書店)
・小川環樹 西田太一郎『漢文入門』(岩波全書)
・古田島洋介 湯城吉信『漢文訓読入門』(明治書院)
・加藤徹『白文攻略 漢文法ひとり学び』(白水社)
※以上は入手しやすいもの。
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午前11:31 · 2020年3月5日
【文庫化により入手しやすいもの】
・二畳庵主人(加地伸行)『漢文法基礎』(講談社学術文庫)
・前野直彬『精講 漢文』(ちくま学芸文庫)
【やや入手困難だが手元にあると便利なもの】
・西田太一郎『漢文の語法』(角川小辞典)
※復刊を望みます。
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午前11:38 · 2020年3月5日
【追加】
江連隆『漢文語法ハンドブック』大修館書店
濱口富士雄 編『改訂版 漢文語法の基礎』東豊書店
※連続ツリー冒頭の「必読」は語気が強かったので「おすすめ」に訂正します。
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午後2:02 · 2020年3月26日
”
こうく
@usedtobe_sth
『白文攻略 漢文法ひとり学び』は、高校生さんや学部の1年生さん、社会に出られてから改めて、まずは漢文法を学びたい人におすすめ
訓読をもといもせず、むしろ漢文の文法を項目ごとに紹介し、巻末には簡単な字引もついた面白い文法書
午前11:39 · 2021年5月22日
追加ここまで]
[2023年5月18日に追加:
うなじ
@unajiperopero
阿頼耶識、認識とかその対象とかを成立させる基盤そのものなので、心識とは別物として整理した方が絶対わかりやすいと思うけど、実際の唯識仏教では心識とされているので、良い感じに教理を改変してくれなかった世親が悪い
午後10:57 · 2022年12月12日
うなじ
@unajiperopero
唯識のすごさをザックリ説明しなきゃならんとしたら、俺ならアビダルマの体系を龍樹が一度破壊して、それを唯識派が再建したってストーリーにして、末那識とかの細かい話は全部カットかなぁ
午後8:53 · 2023年3月21日
·
4,186
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うなじ
@unajiperopero
梵我一如→(三科のそれぞれが無我であることを示す)仏教の無我説出現→三科の関係を整理して五位七十五法へ存在の究極の要素を整理するアビダルマ→法有我を攻撃する龍樹の中観思想→アビダルマ的思考への揺り戻しとしての唯識
という感じの整理かなぁ
午後8:58 · 2023年3月21日
·
5,914
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https://twitter.com/suhamma/status/1658996304264171520
"なたねさんがリツイートしました
યુતકકવસકિ
@suhamma
法蔵館から先日出た『唯識 これだけは知りたい』,早速かって読みましたけれど,いやこれは唯識の参考書の決定版ですよ.ダルマキールティにまで話がおよぶとは思っていませんでした.
pub.hozokan.co.jp
唯識 - 法藏館 おすすめ仏教書専門出版と書店(東本願寺前)-仏教の風410年
午前9:41 · 2023年5月18日
·
5,372
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追加ここまで]
お読み下さり感謝!
ミロク信仰を咎める法華経。植木雅俊『梵漢和対照・現代語訳 法華経』 『サンスクリット原典現代語訳 法華経』。マグダラのマリア、ベヨネッタ、ハンター×2、ファイアパンチ
Posted on 2023.05.05 Fri 19:42:13 edit
植木雅俊『サンスクリット原典現代語訳 法華経』(上下)、2015年
のメモ。
梵漢和対照・現代語訳版よりも、サンスクリット原典現代語訳版のほうが読みやすい。
後者は、梵語原典と、鳩摩羅什による漢訳の文語訳が載っていない。現代語訳と少ない註釈と解説ぐらいだ。
植木雅俊『梵漢和対照・現代語訳 法華経』 岩波書店(上・下)
2008年
■上巻
はしがき
翻訳に当たって、これまでの訳の再考を踏まえて以下の四点を自らに課した。
①正確を期す
(岩波文庫の岩本裕(ゆたか)の訳の誤りを指摘している。
具体的には、崇め尊ぶ対象が「経典」である箇所なのに、「如来」を対象にしてしまっている)
②意訳・深読みをしない
日本語としてよほど読みにくくならない限り極力、サンスクリット語の文章の雰囲気を残すようにした。
③掛詞も見落とさないで訳出する
④曖昧さを残さない
nimitta-(有相)(鳩摩羅什「空無相無作」の箇所のサンスクリット原文の検証について)
第1章:序(序品第一)
p.7
偉大な人であるマイトレーヤ(弥勒)菩薩
ブラフマー神群に属する一万二千人の天子たちに従われたサハー(娑婆)世界の主であるブラフマー神(梵天)も伴っていた。
(1万2千強調。サハーは娑婆)
p.57
註釈23
仏典ではブッダのことをしばしばjina-(勝利者)と呼んでいる。勝利者という語は、原始仏教においてもしばしば見られる。ただし、それは他者に対しての勝ち負けを言っているのではなく、自己に勝つこと(克己)として語られている。
『ダンマパダ』には次のようにある。
「実に自己に克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。自己を調えている人の中で常に自己を抑制している修行者――このような人の勝利したことを敗北したことになすようなことは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない」
仏教で最も重視されたことは、「真の自己」に目覚めることであるが、それは自己に勝つことによってなされる。
(
「真の自己」って表現は誤解されそうなので避けた方が良いのでは?
「本当の私」というアートマンみたいなものを見つける意味にとられかねないじゃん。
欲望を滅し、執着しなくなったことが勝利。これが「真の自己」という意味で使っているのだろうが、それなら、「悟りの境地」でいいじゃん。
)
p.65
注
未来における成仏の予言(授記)
p.41
アジタ(弥勒)
あの”名声を求めるもの”という名前の菩薩で怠け者であったところの人がいた。アジタよ、まさにあなたこそが、その時、その状況で怠け者であったその”名声を求めるもの”という名前の菩薩であったのだ115。
(
仏教化したミトラつまり弥勒〔の前世〕は怠け者だったと書いている。弥勒の格を下げて、弥勒信仰を咎めるための記述
)
註釈p.68から
114
燃燈仏(ねんとうぶつ。ディーパンカラ)は、はるかな過去において、釈尊の前身であった青年に「汝は、将来必ず釈迦牟尼仏となるであろう」と予言(授記)したとされる。この説話は、紀元前3世紀ごろの西北インドに起源するようで、南方仏教にも伝わったが、北方仏教で特に重視された。燃燈仏(ねんとうぶつ。ディーパンカラ)授記をテーマにした浮き彫りが、パキスタン北部からアフガニスタンの一部にかけたガンダーラ美術圏で多数発掘されている。
115
ここでは、マイトレーヤ(弥勒)に対していささか厳しい評価がなされている。マイトレーヤ信仰が強まるのは、クシャーナ王朝になってからと思われる。ガンダーラ仏教美術では釈尊の成道以前(=菩薩)、成道以後(=仏陀)の姿、そしてマイトレーヤの菩薩像が礼拝の対象として彫刻されていた。マイトレーヤ信仰に対するゾロアスター教の影響を指摘する学者もいる。ガンダーラ美術の影響を受けた中インドのマトゥラーやアヒチャトラでも水瓶を持ったガンダーラ式のマイトレーヤ菩薩が見られる。その二例には、「マイトレーヤ像」という文字が刻まれている。マイトレーヤ信仰は、大乗と小乗のいずれにも受け入れられていた。ただし、『雑譬喩経』の冒頭(大正蔵、巻四、499頁中)には、弥勒菩薩に会いたくて死にきれなかった高僧の話が登場する。弟子たちから「弥勒の教えには、六波羅蜜や、四無量心、四恩、四諦の教えと何か異なる点があるのでしょうか」「異なることがないのなら、弥勒の出現を待つ必要などないではありませんか」と諭されて目が覚め、弥勒菩薩を待つことなく阿羅漢に達して往生したという話である。こうした話が記録されているということは、マイトレーヤ信仰に対して仏教徒の中にも疑問を持っていた人たちがいたということであろう。『法華経』も、特にこの序品第一(第1章)や湧出品第十五(第14章)においてマイトレーヤに対していささか皮肉を込めた態度を取っている。
(「お釈迦様の教えと、弥勒の教えが同じなら、お釈迦様の教えを実行すれば良いだけだから、弥勒信仰は不要では?」ってことだ。
バラモン・ヒンドゥー教や、ミトラ教の影響はなかったの?
クシャーナ朝 - 世界史の窓
http://www.y-history.net/appendix/wh0201-051.html
” クシャーナ朝
1世紀頃、イラン系民族が北西インドを支配して建てた王朝。東西貿易ルートを抑え、2世紀ごろ全盛期となった。そのカニシカ王は仏教を保護し、そのもとでガンダーラ美術が栄えた。
〔画像省略。「1~3世紀 クシャーナ朝の統治範囲」。マトゥラーとプルシャプラが含まれている〕
古代インド(近代前)の紀元1世紀中頃、中央アジアから北インドにかけて支配を及ぼしたイラン系の国家。東西交易の大動脈を抑えて繁栄した。2~3世紀ごろの統治者カニシカ王は、前3世紀のマウリヤ朝のアショーカ王と並んで仏教の保護にあたった王として知られている。
・POINT・ 教科書ではマウリヤ朝とクシャーナ朝は連続して説明され、いずれも仏教を保護したことを中心にとりあげられるので、同じような王朝と思いがちだが、同じインド史上の王朝であっても違いがかなりあることに注意しよう。まずマウリヤ朝は前3世紀にガンジス川流域に興ったインド人の国家であるが、クシャーナ朝は後1世紀ごろバクトリア方面から北インドに入ったイラン系国家(次第にインド化したが)であるこを押さえよう。また、クシャーナ朝の支配は南インドには及ばなかったこともを地図で確認しておくこと。
大月氏国とクシャーナ朝
クシャーナ朝(クシャーン朝とも表記する)は中央アジアの大月氏国の支配を脱した同じイラン系民族のクシャーナ族が、西北インドに侵入してつくった国家であり、中国の史書(漢書)にも貴霜として現れる。
月氏ははじめ中国のすぐ西にいたが、前2世紀後半に匈奴に敗れて西方のバクトリア(現在のアフガニスタン)に大移動し、大月氏国を建てた。漢の武帝が同盟しようとして張騫を派遣したあの大月氏国である。大月氏国は国土を有力な5諸侯に分けて統治させていたが、この5諸侯については、大月氏の一族と見る説と、土着のイラン系有力者と見る説とがある。そのうちの一つであるクシャーナ族の首長クジューラ=カドフィセスが1世紀の中ごろ、他の4諸侯を制圧して王を名乗り、西方のパルティアと戦った。続いて北インドのインダス川流域にも進出し、ガンダーラ地方のプルシャプラ(現在のペシャワール)を都として支配した。大月氏はイラン系の遊牧民であったが、ガンジス川流域に支配を及ぼすことによって、次第にインド化し、仏教も取り入れるようになった。<世界各国史(新版)『南アジア史』2004 山川出版社 p.86 などによる>
カニシカ王の仏教保護
クシャーナ朝の第3代カニシカ王(その即位年は78年、128年、144年の三説があるが、2世紀前半のいずれかであろう)は仏教に帰依し、マウリヤ朝のアショーカ王に続く仏教の保護者となった。またこの時代に、ギリシア・ローマ起源のヘレニズムと、ペルシアのイラン文化、さらに中国と中央アジアの文化が融合し、ガンダーラ美術が開花した。都はガンダーラ地方の中心地のプルシャプラ(現在のペシャワール)であったが、その支配が岩持する川流域に及んだので、今日のデリーの近くのマトゥラーを副都とした。またこの時代に、仏教の革新運動としてナーガールジュナが登場し、大乗仏教が成立した。
カニシカ王の像 マトゥラー近郊の遺跡から、カニシカ王の像と言われるものが出土している(山川詳説世界史教科書 p.57)。これは頭部を欠いているが、中央アジア風の外套を身につけてベルトをしめ、フェルトの長靴を履いており、「遊牧民らしい出で立ち」となっていてクシャーナ朝が本来遊牧国家であったことをよく示している。
クシャーナ朝の支配領域
クシャーナ朝はインドの王朝といっても、民族系統はイラン系と考えられ、またその支配領域も現在のアフガニスタン、イラン東部からパキスタンのパンジャーブ地方、インドのガンジス川上流から中流にかけてであった。インド全土を支配したのではないことに注意する。その支配は、ガンジス下流やデカン高原以南には及ばず、デカンにはインド亜大陸の先住民族であるドラヴィダ人の国家であるサータヴァーハナ朝が存在し、さらにその南にはチョーラ朝(前期チョーラ朝)とパーンディヤ朝があり、インド洋交易圏で活動していた。
クシャーナ朝のインド化 イラン系民族であるクシャーナ族は、前2世紀末ごろ、バクトリアに侵入して定住し、さらに紀元後1世紀ごろに領土を拡張し、パルティアやインド北部を征服してクシャーナ朝を建てた。彼らはバクトリア語を話し、ギリシア文字を使い、ゾロアスター教の拝火儀式も行っていたが、その本拠をインドに移すに従い、バクトリア語もゾロアスター教の信仰も棄て、プラークリット語(文語であったサンスクリット語に対するインドの俗語)を話し、大乗仏教の熱心な保護者となった。それによって仏教は内陸アジアに広がっていったが、北伝仏教の中の弥勒菩薩信仰は、ゾロアスター教の救世主思想の影響があったと考えられている。<メアリー=ボイス/山本由美子訳『ゾロアスター教』2010 講談社学術文庫 p.168>
クシャーナ朝と東西貿易
クシャーナ朝時代は地中海をローマ帝国が支配していた時代で、ローマ帝国の支配下のギリシア人商人がペルシア湾からアラビア海に進出し、季節風貿易を展開した。前1~3世紀には、クシャーナ朝だけではなく、デカン高原のサータヴァーハナ朝やインド南端のチョーラ朝も、インド洋交易圏の季節風貿易を利用したローマとの交易を行っていた。インドからは胡椒などの香辛料、宝石、真珠、象牙、綿布などが輸出され、ローマからはぶどう酒やオリーブ油がもたらされたが、常にインド側の輸出超過であったので、ローマから代金として金貨がインドにもたらされた。クシャーナ朝ではローマからもたらされた金をもとに、ローマ貨幣に模して大量の金貨を造った。
後漢、ローマ帝国との関係
クシャーナ朝の王は、東の漢帝国(後漢)に使者を送っている(『後漢書』ではクシャーナ朝も大月氏として出てくる)が、ローマ帝国のトラヤヌス帝の時にインドから使者というのもクシャーナ朝の王の使者であろうと言われている。
クシャーナ朝の衰退
クシャーナ朝は3世紀に西方イラン高原に起こったササン朝ペルシアに圧迫され衰退した。同じころ、ローマ帝国も3世紀の危機といわれる衰退期に入っており、ローマとの交易も衰えたことがクシャーナ朝の衰退の要因の一つと考えられている。
” (着色は引用者)
)
第2章:巧みなる方便(方便品第二)
p.77
〔七つの〕覚りへの要件(七覚支)(しちかくし)
(
本書では
( ):言葉の言い換え
だが (しちかくし)は私がルビの代わりに書いた。
〔 〕:筆者による言葉の補足
)
p97から
シャーリプトラよ、私はただ一つの乗り物(一乗)、すなわち〔衆生を〕ブッダへと到らせる乗り物(仏乗)(ぶつじょう)について衆生たちに法(真理の教え)を説くのだ。シャーリプトラよ、〔そのほかに〕何か第二、あるいは第三の乗り物が存在するのではない 63.
〔法を法たらしめる〕根本の理法(法性)(ほっしょう)はこれなのである。
衆生たちにただ一つの乗り物(一乗)、すなわち、一切種智(仏智)(ぶっち)を終着点とするブッダに到る乗り物(仏乗)(ぶつじょう)について法を説かれたのである。
p145から
63の注釈。
(↓鳩摩羅什による漢訳の文語訳)
「余乗の若しは二、若しは三有ること無し」について。
けれどもサンスクリット原文を厳密に読めば、これは唯一を強調するレトリックであり、「声聞」「独覚」とも、「二乗」「三乗」とも読むのは誤りであることがわかる。
注67
(岩本訳や中公版の誤訳について)
筆者(本書の著者である植木)、
「如来たちは、巧みなる方便である三つの乗り物(三乗)による教示を通して、そのただ一つのブッダの乗り物(一仏乗)を説かれるのである」と訳した箇所は原典では次のようになっている。
省略
(岩本訳では)
「唯ひとつの仏の乗り物」を「三種の乗り物」という言葉に置き換えられて説かれるだけで、名前は変わっても同じものかという誤解を与えかねない余地がある。
それに対して中公版は次の通りである。
「三つの乗り物に分解して」
この場合は、原点にない「分解して」という言葉を補って訳した結果、「仏陀の乗り物」を三つに分解したものが「三つの乗り物」であるかのような誤解を招きかねない懸念が残る。
一仏乗と三乗との間には、「止揚」という関係が無視できない。
三乗は一仏乗を言い換えたものではない。
分解したものでもない。
(
三位一体とかほざいているスピ系がいそうだな
)
p169
註200
私にとって、この世に声聞〔と言われる人〕はだれ一人として存在しないのだ」と
一仏乗の思想によって「声聞と言われる人」を見ると、その人たちも本来、菩薩であって「声聞〔と言われる人〕はだれ一人として存在しないのだ」という意味なのである。
声聞がいなくなるとは、声聞が菩薩になるからではない。
それは、この方便品で展開される「声聞の菩薩への止揚」という考えに反するのである。「菩薩になる」のではなく、「本来、菩薩である」と法華経は主張しているのだ。これは、仏教史上画期的な発言である。
この世に声聞と言われる人はだれ一人として存在しないとは、法華経の根本思想の主張。
(
禅みたいだな。仏になるのではなく、すでに仏であることに気づく。言葉だけでなく心でも理解しないといけない)
(法華経などにいちいち『』をメモでつけないことがある)
第3章:譬喩(譬喩品第三)
p.179の漢訳では「魔」と訳されているのを、現代語訳で「悪魔」と訳しているのが気になるな。
この訳語はよくないよ。私なら避ける。理由は
①キリスト教のイメージが強い
②悪とは限らない
注220
p274
岩本訳は、漢訳の「堕落」を採用して、次のようになっている。
「そこで堕落を続けるのだ」(文庫上、p.211)
漢訳の「堕落」は、他の「墜堕」「墜落」と同様、「落ちる」「陥る」といった意味で訳されている。ところが、岩本訳の用い方はそうではない。
落ちる⇒堕落⇒「おちぶれること」といった意味のずれが生じている。
同じ意味を持つ二つの異なる漢字を重ねた熟語で、中国語が文字通りのことを意味するのに対して、日本語では抽象化される意味が付加されるという具体例が、『漢語からみえる世界と世間』に挙げてある。
超越:
中国語「追い越す」(「前の車を超越する」)、
日本語「ずば抜けていること」「俗事にとらわれないこと」(抽象化されている)。
軽薄:中国語「薄くて軽い」(文字通り)
堕落:漢語ではもとの意味が維持(堕も落も「おちる」)、
日本語では「おちぶれること」(抽象化が行なわれている)。
岩本訳には、その混同が見られる。
(そうだよな、中国語も勉強しないといけないんだよな。本当に翻訳は大変だよ)
第4章:信順の意向(信解品第四)
p321
註9
中村元博士は、法華経に金貨の使用のことが言及されていることから、法華経の成立時期を西暦47年以後と推定されている。大乗仏教が起こるのはクシャーナ王朝の時代であり、クシャーナ王朝において金貨を最初に発行したウェーマ・カドフィセース王の就任の年を基準に割り出したものである。
p310の長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の箇所の漢訳に、
”軟語すらく、『若、我が子の如くせん』”とある。
なんごすらく、なんじ、わがこのごとくせん、と読む。
軟語だぞ。愛語じゃないぞ。
そういえば、法華経には「演説」や「演(の)」(「述べる」の「述」という意味)も登場する。
演説って表現が広まったのは法華経の影響だろう。
法華経の鳩摩羅什訳が日本語に与えた影響は絶大。
天台宗が法華経系だからね。鎌倉新仏教も天台宗系で学んだ人々が作ったからね。
[2023年5月5日に追加:
法然、親鸞、一遍、日蓮、道元、栄西は比叡山で学んだことがある。
つまり、鎌倉新仏教の6人の開祖全員だ。真言宗ではないのが重要だ。
開祖 一遍上人
http://www.muryoukouji.or.jp/founder.html
”この当麻山を開山し、時宗の開祖として崇められている一遍上人は、延応元年(1239)2月15日、伊予の名門武士であった河野家、通廣公の次男として生まれました。
幼名を松寿丸といい、幼くして母を亡くしてしまいますが、父のすすめにより7歳にして同国越智郡の得智山に登り、縁教律師を師として仕え、修行にはげみました。そして15歳のとき、同師について剃髪し、名を随縁と改め、台教(天台宗の教え)を学びます。
18歳のとき、比叡山(延暦寺)に登り慈眼僧正の室に入り、三大部及び密灌をうけます。
22歳のとき、兄通真の死去により、家督相続の争いに巻き込まれ、ますます発心を強くし叡山を出、修行の旅に出ます。
26歳のとき、深く浄土門に帰し、法然上人の弟子として知られた観智上人のもとに赴き7年間修行し、浄土の安心を伝授され名を智真と改めます。
建治元年(1275)、37歳のとき宇佐八幡宮にて参籠の後霊夢を感じ、回国結願の大願を起こし、南無阿弥陀佛の名号の算(ふだ)を作り人々に配り諸国を遊行するになります。
建治2年3月25日、(当時、もっとも阿弥陀の浄土に近い場所とされていた)紀伊国熊野本宮の證誠殿において、百日参籠につとめます。その満願の日、まのあたり熊野権現にまみえ本願の深意、他力の奥旨を悟ります。この時より一遍と名乗り、《賦算(名号のお札をくばる)を続ける》旅に出ます。
弘安2年(1279)、41歳の時、信州佐久郡で踊り念佛を始めます。その後、正応2年(1289)8月23日、摂津国(兵庫)の観音堂で51年の生涯を終えられます。
南は九州から北は奥羽にいたるまでくまなく遊行し、身命を尽くされた一遍上人は法然上人、親鸞聖人と並び日本浄土教を確立された名僧として称えられています。
” ※着色は引用者
歴史 | 延暦寺について
https://www.hieizan.or.jp/about/history
”当時、「仏に成れるもの、仏に成れないものを区別する」という説もありましたが、最澄は、「すべての人が仏に成れる」と説く『法華経』に基づいて、日本全土を大乗仏教の国にしていかねばならないとの願いが募り、『法華経』の一乗の精神による人材の養成を目指しました。
[中略]
平安末期から鎌倉時代はじめにかけては、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮といった各宗派の開祖たちが比叡山で学びました。こうして後に比叡山は日本仏教の母山と呼ばれるようになったのです。
” ※着色は引用者
演説|じつは身近な仏教用語|仏教の教え|日蓮宗ポータルサイト
https://www.nichiren.or.jp/glossary/id319/
”演説
【えんぜつ】
【s:nirdeśa(ニルデーシャ)】
『広辞苑』には「多くの人々の前で自分の主義主張や意見を述べること」と定義し、現在は選挙の際につきものとして使用される言葉です。
演説は江戸時代に演舌と書き、演説は福沢諭吉の新造語だと解釈しますが、誤りです。
元来は仏法を説く事、またはその教えを述べる言葉を指します。
古く維摩経などでも「如来は一音をもって法を演説したまひ」などと用いられ、説経や唱導と同じ意味で仏教語として存在していました。
サンスクリット語[s:nirdeśa(ニルデーシャ)]の訳語です。
”
みじかな仏教語 8 | 黙山斎場・火葬場
http://mokusan.net/2017/06/29/%E3%81%BF%E3%81%98%E3%81%8B%E3%81%AA%E4%BB%8F%E6%95%99%E7%94%A8%E8%AA%9E%E2%91%A7/
”仏教では、教えを演(の)べ説くことを「演説」といいます。ですから演説はいろいろな仏典に登場する語です。
例えば「世尊、我等を哀愍(あいみん)して演説し給へ」(華厳経)、「仏、一音を以って法を演説したもうに」(維摩経)、「世尊、法を演説し」(法華経)、「一切の経典を宣暢し演説す」(無量寿経)という具合です。いずれも、お釈迦さまが真理や道理を人々に説きあかしているのです。
そこから多くの人びとの前で自分の主義主張や意見を述べることをいうようになったようで、街頭演説・応援演説・演説会場・演説口調などすべてこの意味です。また講義し演説することを講演ともいい、これもまた日常よく使われる言葉です。
”
追加ここまで]
第5章:薬草(薬草喩品第五)
p381
〔慈・悲・喜・捨の〕四種類であるところの敬虔なる行為に住すること(四梵住)(しぼんじゅう)と、〔布施
愛語・利行(りぎょう)・同事(どうじ)の四種類によって衆生を〕受け入れること(四摂事(ししょうじ))95とが説かれた。
(
〔 〕は筆者による言葉の補足なのだが、補いすぎでは?
愛語って誤訳っぽいんだよな。キリスト教流入以前はよくても流入後はダメでしょ。
和顔愛語は駄目だけどな。和顔軟語でないとな。
)
p396
注95
「四摂事」は、catvāri saṃgraha-vastūni(〔人びとを〕包容〔して救うため〕の四つの事柄)を漢訳したもので、
①dāna(布施=施しを与えること)、
②priyavacana(愛語=慈愛の言葉)、
③arthacaryā(利行=他人のためになる行為)、
④samānārtha(同事=他人と協力すること)――の四つからなる。
(
高楠順次郎による編集の『大正新修大蔵経』(全百巻)だと「和顔軟語」。欄外の注には、「軟=愛」と表記されている。しかし、現在流布している比較的入手しやすい『無量寿経』のテキストや資料には、「和顔愛語」となっている。意図的に「愛」に変えようとしている奴らがいるってことだ。
仏教では愛は渇愛を想起させるので悪い印象がある。まあ良い意味でも使われるんだけどさ。
無量寿経というなかの和顔軟語というのを、愛にむりやりすり替え、和顔愛語と改竄した経典を広めたグループの一員が高楠順次郎。
高楠順次郎はエスペランティストで、
1906年に黒板勝美らと共に日本エスペラント協会の結成に参加し、東京支部長。
1919年に日本エスペラント学会が設立された際は、当初は評議員として参加。
世界連邦派の仏教を耶蘇化させるための憑依戦術系の工作員。
神戸の裕福な高楠家の婿養子となり、その援助で英国に留学、オックスフォード大学でM.ミュラーに師事し、その後、ドイツやフランスにも留学しているあいだにスカウトされたのだろう。
仏典もできる限り昔に出たものを読まないとダメだね。
仏教は神秘主義という完全に間違ったデマを広めた神智学系の鈴木大拙と、
エスペラントの高楠順次郎がからむ本で仏教を学んではいけない!
仏教経典改竄を平気でやるヤソ勢力。エスペラント大好き大本教の王仁三郎「仏教を滅ぼせ」
以下、というか他の箇所や記事でも基本的に着色は引用者。
浄土三部経 講義
仏説無量寿経上巻
http://tubamedou.egoism.jp/Joudo/JoudoKaisetu/Muryouju01/JoudoKaisetu00.htm
” 『和顔軟語先意承問』:和やかな顔、軟らかい言葉、先に相手の意を承けて問いかけること。”
「愛語」についてだが、キリスト教流入以前からこの言葉は使われている。しかし現代だとキリスト教的に解釈されそうなので使わない方が良いよな。
和顔愛語 - 新纂浄土宗大辞典
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%92%8C%E9%A1%94%E6%84%9B%E8%AA%9E
”わげんあいご/和顔愛語
なごやかな笑顔とやさしい言葉の意味。人に接するときは柔和な表情でやわらいだ笑顔を示し、親愛の情を込めたおだやかな言葉で話すのが、念仏者の常日頃の心掛けである。『無量寿経』上の「四誓偈」に続く一節に、法蔵菩薩の常の姿として説かれている。「和顔愛語して、意に先だって承問す」(聖典一・二三五/浄全一・一二)という経文の説くところは、にこやかにほほえんで、やさしく話し掛けることに加えて、相手の心持ちを先んじて知り、その思いを満たしたいとの気遣いや心配りである。なお別本には「和顔軟語」とある。
【執筆者:勝崎裕彦】
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新纂浄土宗大辞典について
”
愛語とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E6%84%9B%E8%AA%9E-23661
”
あい‐ご【愛語】
〘名〙 (priya-vādita-saṃgraha の訳語) 仏語。四摂(ししょう)の一つ。菩薩が人々を導き、その心に親愛の情を抱かせるために優しい言葉をかけてやること。
※顕戒論(820)上「不レ作二悪語一不二麤鉱語一常説二愛語一説二美妙語一」
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について”
麤(そ):あらい
顕戒論(けんかいろん〔819年(弘仁10)〕)は最澄が書いた仏教書なので、最澄が「愛語」という言葉を使っている。ただし、四摂の1つではなさそう。
顕戒論とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E9%A1%95%E6%88%92%E8%AB%96-60320
”日本大百科全書(ニッポニカ)「顕戒論」の解説
顕戒論
けんかいろん
平安初期の仏教書。最澄(さいちょう)著。3巻。最澄は仏教による護国を実現するためには、純粋な大乗の菩薩(ぼさつ)僧の養成が不可欠であると考えた。そこで比叡山(ひえいざん)に新たに大乗の戒律だけによる受戒によって僧の資格を与える大乗戒壇の設立を志し、天台宗の僧の養成の規則(『山家学生式(さんげがくしょうしき)』)の認可を朝廷に請うた。奈良の仏教界はこれに対して強く反対したため、僧綱(そうごう)の四条式(山家学生式の一つ)への批判に対して最澄が反駁(はんばく)を加えながら、戒律思想を詳説したのが本書である。全体を5篇(へん)に分かち、56明拠(明らかな証拠)をあげて、大乗の寺院のあり方、『梵網経(ぼんもうきょう)』に説かれている大乗の僧の戒律、受戒の儀式の仕方、そのほか関連する事項について説かれている。819年(弘仁10)に著し、翌年朝廷へ提出した。なお、大乗戒壇設立は、最澄没後7日目の822年6月11日に許可された。
[田村晃祐]
『安藤俊雄・薗田香融校注『最澄』(『日本思想大系4』1974・岩波書店)』”
四摂とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E6%91%82-2045882
”精選版 日本国語大辞典「四摂」の解説
し‐しょう ‥セフ【四摂】
仏語。
[1] 菩薩が衆生を悟りに導く際の四つの方法。布施(教えやものを施すこと)、愛語(やさしい言葉をかけてやること)、利行(りぎょう)(=他人の利益になることをすること)、同事(共に同じ仕事にあたること)の四つ。四摂法。
※法華義疏(7C前)二「亦譬下如来有二四摂四等六度一。覆中救六道受レ若衆生上」 〔仁王護国経‐上〕”
西暦7世紀には四摂は登場している。なぜ確認したのかというと、明治以後にできた可能性があるからだ。
)
第6章:予言(授記品第六)
注
24
月を意味する語は、candra-など多いが、ここでは別の単語。
「ウサギ」に所有を意味する接尾辞-inを付したもので、「ウサギを持つもの」を意味する。
中国では昔、月にはヒキガエルがいると考えられていた。ところが、仏教が伝来すると、ウサギがいるという考えに取って代わった。(
月にウサギって仏教由来だったんだ)
(
授記という「将来ブッダになれるという予言」(おすみつき、ほしょう)がなくても修行は続けるなら授記っていらなくないか?って思った。
保証されると心の支えになるのは確かだけどね
)
第7章:過去との結びつき(化城喩品第七)
[ 化城喩品(けじょうゆほん)]
p466から
『無明は行に縁(えん)たり。行は識に縁たり。識は名色(みょうしき)に縁たり。名色は六入(ろくにゅう)に縁たり。六入は触(そく)に縁たり。触は受(じゅ)に縁たり。受は愛(あい)に縁たり。愛は取(しゅ)に縁たり。取は有(う)に縁たり。有は生(しょう)に縁たり。生は老死(ろうし)、憂悲(うひ)、苦悩(くのう)に縁たり。
無明(むみょう)滅すれば、則ち行(ぎょう)滅す。行滅すれば、則ち識滅す。識滅すれば、則ち名色滅す。名色滅すれば、則ち六入滅す。六入滅すれば、則ち触(そく)滅す。触滅すれば、則ち受滅す。受滅すれば、則ち愛滅す。愛滅すれば、則ち取滅す。取滅すれば、則ち有(う)滅す。有滅すれば、則ち老死、憂悲、苦悩滅す』
(
仏教では基本的に愛が悪い意味である理由。
渇愛、つまりめちゃくちゃ喉が渇いている時に水を求めている時のような激しい執着や愛着だからね。
愛着とは深く心を惹かれることだ。
仏教は、「愛=執着」を滅せよという教え。
これはキリスト教徒には気に入らんよな。loveの訳語を愛にした人って愛は執着ってわかって訳した疑惑があるな。
loveの訳語は御大切でよかったじゃん
)
不死(甘露)の太鼓を打ち鳴らしてください。
安らぎ(涅槃)へと到る道を示してください。
法(真理の教え)
『これが苦しみ(苦)であり、これが苦しみの生起(集〔じゅう〕)であり、これが苦しみの滅尽(滅〔めつ〕)であり、これが苦しみの滅尽に向かって行く道(道〔どう〕)である――ということが、〔四つの〕聖なる真理(四聖諦)である』と〔説かれた〕89。
また、〔十二項目からなる〕縁による生起(十二縁起)の機能について詳細に説かれたのである。『まさに以上のように、男性出家者たちよ、無知(無明)を原因として〔存在しないものを存在するかのごとく〕生成する作用(行〔ぎょう〕)が〔あり〕、生成する作用を原因として〔自他彼此(じたひし)などと相対的に〕区別して識(し)ること(識)が〔あり〕90、区別して識ることを原因として心的と物的な要素〔からなる個人存在〕(名色)が〔あり〕、心的と物的な要素を原因として六つの感覚器官(六入)が〔あり〕、六つの感覚器官を原因として〔色・声・香・味・触・法との〕接触(触)が〔あり〕、接触を原因として感受作用(受)が〔あり〕、感受作用を原因として渇愛(愛)が〔あり〕、渇愛を原因として取著(取)が〔あり〕、取著を原因として生存(有)が〔あり〕、生存を原因として誕生(生〔しょう〕)が〔あり〕、誕生を原因として老いること・死ぬこと・憂い・悲嘆・苦しみ・悲哀・憂悩があるのだ。このようにして、この純粋な苦しみの大きな集合からなる〔連鎖的な〕結合が生ずるのである。
〔また〕無知の滅尽から〔存在しないものを存在するかのごとく〕生成する作用の滅尽が〔あり〕、生成する作用の滅尽から〔自他彼此などと相対的に〕区別して識ることの滅尽が〔あり〕、区別して識ることの滅尽から心的と物的な要素〔からなる個人存在〕の滅尽が〔あり〕、心的と物的な要素の滅尽から六つの感覚器官の滅尽が〔あり〕、六つの感覚器官の滅尽から〔色・声・香・味・触・法との〕接触の滅尽が〔あり〕、接触の滅尽から感受作用の滅尽が〔あり〕、感受作用の滅尽から渇愛の滅尽が〔あり〕、渇愛の滅尽から取著の滅尽が〔あり〕、取著の滅尽から生存の滅尽が〔あり〕、生存の滅尽から誕生の滅尽が〔あり〕、誕生の滅尽から老いること・死ぬこと・憂い・悲嘆・苦しみ・悲哀・憂脳が滅尽されるのだ。このようにして、この純粋な苦しみの大きな集合の滅尽が起こるのである』と。
(
渇愛と取の違いは何だろうな。取著と執着は違うのか?
サンスクリット原典現代語訳版(梵語と鳩摩羅什訳がない版)の上巻のp.210では
「感受作用を原因として渇愛(愛)があり、渇愛を原因として執着(取)があり、執着を原因として生存(有)があり、」。
p.211では「渇愛の滅尽から執着の滅尽があり、執着の滅尽から生存の滅尽があり、」。
以上より、取著は執着と同じ意味だとみなしてよいだろう。少なくとも植木訳ではそうだ。
梵語と漢訳がない版の上巻の注で
十二因縁
人の苦悩の成立原因を、
①無明(無知)
②行(潜在的形成力)
③識(識別作用)
④名色(名称と形態)
⑤六処(六つの感官)
⑥触(接触)
⑦受(感受作用)
⑧愛(妄執)
⑨取(執着)
⑩有(生存)
⑪生(生まれること)
⑫老死(老いて死ぬこと)――の十二段階に分けて説いたもの。
とあるので、愛は妄執、取は執着と明言している。
愛とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E6%84%9B-23564
”精選版 日本国語大辞典「愛」の解説
〔中略〕
① 親子、兄弟などが互いにかわいがり、いつくしみあう心。いつくしみ。いとおしみ。
※梁塵秘抄(1179頃)二「遊女(あそび)の好むもの、雑芸(ざふげい)鼓(つづみ)小端舟(こはしぶね)、簦(おほがさ)翳(かざし)艫取女(ともとりめ)、男のあい祈る百大夫」
※太平記(14C後)二九「親にも超(こえ)てむつましきは、同気兄弟の愛(アイ)なり」 〔孝経‐聖治章〕
② 仏語。
(イ) 十二因縁の一つ。ものを貪(むさぼ)り執着すること。欲愛(性欲)・有愛(生存欲)・非有愛(生存を否定する欲)の三愛その他がある。
※正法眼蔵(1231‐53)仏教「十二因縁といふは、一者無明、二者行、三者識、四者名色(みゃうしき)、五者六入、六者触、七者受、八者愛、九者取、十者有、十一者生、十二者老死」 〔倶舎論‐九〕
”
渇愛とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E6%B8%87%E6%84%9B-464079
”渇愛(読み)かつあい
精選版 日本国語大辞典「渇愛」の解説
かつ‐あい【渇愛】
〘名〙 のどがかわいて水を欲しがるように、凡夫が五欲に愛着すること。また、はなはだしい愛情。〔大宝積経‐九三〕〔梁簡文帝‐唱導文〕
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
デジタル大辞泉「渇愛」の解説
かつ‐あい【渇愛】
のどがかわいて水を求めるように、激しく執着すること。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
普及版 字通「渇愛」の解説
【渇愛】かつあい
愛する。
字通「渇」の項目を見る。
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
世界大百科事典内の渇愛の言及
【愛】より
…ただし,巴〈アッタatta‐(梵アートマātma‐)・カーマ〉:〈自己愛〉が,〈自分をたいせつにすること〉として肯定されているのは,注目に値する。 梵〈トゥリシュナーtṛṣṇā〉,巴〈タンハーtaṇhā〉:〈愛・渇愛〉。原義は〈渇き〉で,英語〈thirst〉,ドイツ語〈Durst〉と対応し,英語〈dry(乾いた)〉などと同源で,〈十二支縁起〉の一つとして,〈苦〉の原因とされている。…
【解脱】より
…仏教でも古い文献には,〈解脱〉の代りに〈不死〉という言葉がしばしば用いられている。 仏教では,われわれの輪廻的生存を〈苦〉そのものであるとし,さかのぼってその最終的原因を〈渇愛(かつあい)(トゥリシュナーtṛṣṇā)〉ないし〈無明(むみよう)(アビドゥヤーavidyā)〉と見る。したがって,それを滅ぼせば輪廻的生存はやみ,〈苦〉もなくなることになる。…
※「渇愛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について
”
パーリ語のtaṇhā、またはサンスクリット語のtṛṣṇā, (तृष्णा)の漢訳(中国語訳。日本語訳にも採用)が愛。
日本語訳だと愛または渇愛(渇愛も漢訳かもしれないが、法華経の鳩摩羅什訳では「愛」なので「渇」がつくのは日本特有かもしれない)。
英訳だとthirst, craving, desireなど(英語と比較すると意味が明瞭になる場合があるのは事実だ)。
原義が「渇き」なので、執着の原因としての渇きが元で、そこから派生して執着や愛着自体も意味するようになったのだろう。
(渇)愛を原因として取(しゅ)が生じる。
取(しゅ)について。
パーリ語のupādāna、サンスクリット語のउपादान, (upadana)の漢訳と日本語訳が取(しゅ)。
英訳だと、clinging, grasping, attachment, fuel, material causeなど。
燃料って訳もあるのが面白いな。
渇愛から取(ウパーダーナ)=執着が生まれる。
十二因縁の文脈でないなら、渇愛だけでも執着を意味することがある。
#3458 取著(しゅちゃく) Nov. 17, 2016 [5. こころの洗濯]
https://nimuorojyuku.blog.ss-blog.jp/2016-11-16-4
”南伝の仏教経典は漢訳の経典とは異なりわかりやすい。パーリー語で書かれた経典群は漢訳よりも古く、サンスクリット語訳よりも古い。お釈迦様が衆生にわかりやすい言葉で説かれたことがよく伝わってきます。
増谷文雄訳『阿含経典第1巻』(筑摩書房1979年刊)から「33 取著」を引用します。
〔中略〕
33 取著
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊はサーヴァッティーのジェータ林なるアナータピンディカの園にましました。
その時、世尊は、比丘(びく=僧侶)たちに説いて、かように仰せられた。
「比丘たちよ、取著するものを味わいながら観ていると、その人には愛着の念がいやましてくる。愛によって取がある、取によって有がある、有によって生がある、生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かくのごときが、このすべての苦の集積の生ずる所以である。
比丘たちよ、それは、たとえば、ここに大きな焚き火があって、そこで十把の薪、あるいは二十把の薪、あるいは三十把の薪、あるいは四十把の薪を燃やしておるとする。しかるに、その時、人があって、時を見はからって、その焚き火に、また乾いた草を投じたとする。あるいは乾いた牛糞を投じたとする、あるいは乾いた薪束を投じたとするならば、どうであろうか。比丘たちよ、そうすれば、その大きな焚き火は、そのために、いよいよ久しく燃えつづけるであろう。
比丘たちよ、、それと同じで、取著するところのものを味わいながら観ていると、その人には、愛着の念がいやましてくる。愛によって取がある、取によって有がある、有によって生がある、生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かくのごときが、このすべての苦の集積の生ずる所以である。
しかるに、比丘たちよ、取著するところのものを、これはいけないぞと観ていると、その人には愛着の念が滅する、愛が滅すると取が滅する、取が滅すると有が滅する、有が滅すると生が滅する、生が滅すると老死・・愁・悲・苦・憂・悩が滅する。かくのごときが、このすべての苦の集積の滅する所以である。
比丘たちよ、それは、たとえば、ここに大きな焚き火があって、そこで十把の薪、あるいは二十把の薪、あるいは三十把の薪、あるいは四十把の薪を燃やしておるとする。しかるに、その時、人があって、時を見はからって、その焚き火に、また乾いた草を投じたとする。あるいは乾いた牛糞を投じたとする、あるいは乾いた薪束を投入することをしなかったとするならば、どうであろうか。比丘たちよ、そうすれば、その大きな焚き火も、やがて、さきの薪は燃え尽き、新しい燃料は加えられないということで、消えてしまうであろう。
比丘たちよ、それと同じく、取著するところのものを、これはいけないぞと観ていると、その人には、いつか愛着の念が滅する。愛が滅すると取が滅する、取が滅すると有が滅する、有が滅すると生が滅する、生が滅すると老死・・愁・悲・苦・憂・悩が滅する。かくのごときが、このすべての苦の集積の滅する所以である。」
* この経題の「取」 Upadana=grasping とは所対の境に取著することをいうことばであって、十二支縁起の第八支をなす。いま釈尊は、それを中心として、比丘たちのために法を説いているのであるが、それについて釈尊の説かれた卑近の譬喩(ひゆ)が印象的である。
* 愛 tanha もと喉の渇きをいうことば。それによって激しい愛着の念をゆびさすのである。
============================
「有」には欲界(欲望の世界)、色界(物質の世界)、無色界(抽象の世界)の三つがある。
「取」には見に対する取著、戒に対する取著、欲に対する取著、我に対する取著の四つがある。
「渇愛 tanha」には物に対する渇愛、声に対する渇愛、香りに対する渇愛、味に対する渇愛、感触に対する渇愛、法に対する渇愛の六つがある。
「所対」は能対の対義語と思われる。「能(よ)く対す」に対して、「対せられる所」。能動的に対して受動的という意味。こちら側の意思にかかわりなく訪れるものへの取に言及している。仏教辞典には記載のない用語のようだ。
「八正道(はっしょうどう、巴: ariya-aṭṭhaṅgika-magga, 梵: ārya-aṣṭāṅgika-mārga)は、仏教において涅槃に至るための8つの実践徳目である正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のこと 。」
「十二因縁の支分は、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個であり(支分の詳細は十二の支分の節を参照)、この12個の支分において、無明によって行が生じるという関係性を観察し、行から次第して生や老死という苦が成立すると知ることを順観という 。また、無明が消滅すれば行も消滅するという観察を逆観という 。」
こころに取著が生じたら、これは取著だとありのままに観ればいいのです。ありのままに観ていれば、取著は自然に消えていきます。
南伝の経典群を読むと、言葉を通して限りなく透明な知性を感じます。
”
取とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%96-76660
”精選版 日本国語大辞典「取」の解説
〔中略〕
しゅ【取】
〘名〙 (upādāna の訳語) 仏語。煩悩(ぼんのう)のこと。食欲・性欲などの欲望。十二因縁の一つに数え、また、これを欲取・見取・戒禁取(かいこんじゅ)・我語取の四取に分ける。
〔中略〕
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「取」の解説
取
しゅ
upādāna
仏教用語。 (1) 執着すること。 (2) 初期仏教の重要な教理である十二縁起 (→十二因縁 ) の第9番目のもの。他のものに執着することで,煩悩の別名とされることもある。
〔中略〕
世界大百科事典内の取の言及
【仏教】より
…認識の対象)→(5)六入(ろくにゆう)(眼・耳・鼻・舌・身・意の六種の感官)→(6)触(そく)(認識,感官,対象の接触)→(7)受(じゆ)(苦楽などの感受)→(8)愛(渇愛(かつあい)。本能的欲望)→(9)取(しゆ)(執着。物,物の見方,まちがった行為軌範,自我に対する固執)→(10)有(う)(欲界,色界,無色界という三界の生存状態。…
※「取」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について
”
※以上、着色は引用者
)
第8章:五百人の男性出家者たちへの予言(五百弟子受記品第八)
p551
このブッダの国土は、悪が消滅しており、また女性もいなくなっているであろう17。
自然発生(化生〔けしょう〕)
真理の輝きをもつもの(法明〔ほうみょう〕)という正しく完全に覚った尊敬されるべき如来
p572から
注17
女人成仏を説く『法華経』において、このように女性を悪と並べてブッダの国土から排除するのは、例外的なことである。シャーリプトラなどの他の声聞たちのブッダの国土においては、女性は全く排除されていない。刈谷定彦博士は、この箇所の描写は後世の付加であろうと述べている。著者は、『無量寿経』の思想を割り込ませたものだと考える。その詳細は、cf.植木雅俊著『仏教のなかの男女観』、岩波書店、pp.243-249。
(
新約聖書のマグダラのマリアの特別な地位を見るに、マグダラのマリアもどうみても使徒なのに、使徒が男ばかりなのを思い出すな。
娼婦でない可能性が高い。そもそも娼婦という解釈も女性差別が混ざってそうなんだよな。
外典ではマグダラのマリアは使徒(イエスの弟子)なんだよな。使徒だったのを男尊女卑的に改悪したのだろう。仏教みたいにな。
https://twitter.com/nekonomical/status/1338483666045923328 と続き
”
100分de名著の『法華経』を読むのだ。これでヨライさんもブッダになれるのだ👍 pic.twitter.com/4L4VG32Ptd
— 預言者アライ(ヨライ)さん (@nekonomical) December 14, 2020
紀元前後のインドでは現代で言う小乗仏教が多数派で、大乗仏教は少数派だったのだ。『般若経』は大乗仏教の側から小乗仏教の出家者たちを批判、『維摩経』は保守的で権威主義的な部派仏教を糾弾するものとして書かれたのだ。そして『法華経』は小乗と大乗の対立を止揚するものとして書かれたのだ。
画像
午後11:12 · 2020年12月14日·Twitter Web App
原始仏教から小乗仏教(=「説一切有部」と言う部派が代表)に至る流れで、小乗仏教の権威付けのために多くの改変がされているのだ。
例えばゴータマは「私は人間である」と原始仏教では語っているのに、小乗仏教では「私は人間ではない、ブッダである」と人間離れしたものに祭り上げられたのだ。
午後11:18 · 2020年12月14日·Twitter Web App
原始仏教ではゴータマの弟子アーナンダが「女性も阿羅漢(元はブッダの別称。覚りを得た人)に到ることができます」と言っていたのに、小乗仏教では女性は穢れていて成仏も出来ないと言い始めたのだ。「小乗仏教の差別思想」なのだ。 pic.twitter.com/MsF8ZF63Kl
— 預言者アライ(ヨライ)さん (@nekonomical) December 14, 2020
https://twitter.com/LfXAMDg4PE50i9e/status/1426416539096412160
”
”アマプラでエヴァ観たのでそれっぽいお話。マグダラのマリアはイエスの復活を使徒に告げるため遣わされた人。そんな彼女は何故か中世絵画において毛むくじゃらで描かれる事が多いです。何故なのかは諸説ありますが、隠者として生活するうち衣類が朽ち果てやがて髪が全身を覆ったとする説が有力です。 pic.twitter.com/HVTrZqdyAo
— 昔の風俗をつぶやくよ (@LfXAMDg4PE50i9e) August 14, 2021
〔ベヨネッタの髪の毛の服のモデルってマグダラのマリアなんだろうな。
ハンター×2のパームっていう髪の毛を体にまとう能力者の元ネタかもな〕
https://twitter.com/cameodeed/status/1192085176282566661
”カメレオ
@cameodeed
ベヨネッタの服は髪の毛で出来てて…魔法の媒体に髪の毛を使うので魔法を使う時服が消えるという合理的設計…
午後11:23 · 2019年11月6日·Twitter for Android”
https://twitter.com/hunterx2bot/status/1377196054534361091
”ハンターハンター bot
@hunterx2bot
毛髪で自身を武装するパームの
『暗黒の鬼婦神』は
"ブラックウィドウ"
感情によってその様相を変えるが
その役割は専ら 防御にあり
真におそるべきは
守りを強堅な髪の鎧に
委ねる事でこそ可能な
全身全霊を込めた殴打である
午後6:48 · 2021年3月31日·Botbird tweets”
)
p.555
煩悩(漏)のない、一切知者の智慧(一切種智〔いっさいしゅち〕
(鳩摩羅什訳では「一切智」)
第9章:アーナンダとラーフラ,そのほか二千人の男性出家者への予言(授学無学人記品第九)
p.599
最も微小なる微塵(みじん)(原子)
(
微塵切りも仏教由来なのね)
上巻終わり。
ここから
■下巻
第10章:説法者(法師品第十)
第11章:ストゥーパの出現(見宝塔品第十一,十二)
(十二の方が提婆達多品(だいばだったほん)。
本書では、第11章と、第11章の続きで分けられており、
続きの方が提婆達多品(だいばだったほん)第十二)
提婆達多品(だいばだったほん)第十二
p102
注2
提婆達多品(だいばだったほん)は、文献学的には後代に付加されたものとされている。
龍樹(150~250年?)の著作とされる『大智度論』に提婆達多品(だいばだったほん)の名前は見当たらず、
世親(4世紀~5世紀)の『法華経論』には提婆達多品(だいばだったほん)、および龍女の成仏に言及されており、提婆達多品(だいばだったほん)の登場は龍樹よりも後のことかと考えられる。
鳩摩羅什の妙法蓮華経には初めは提婆達多品(だいばだったほん)が存在せず、七巻二十七品であった。後に提婆達多品(だいばだったほん)が追加され現行の八巻二十八品となった。
p87
まさにデーヴァダッタのおかげで、私は、六つの完成(六波羅蜜)や、偉大なる慈しみ(慈)、偉大なる憐れみ(悲)、偉大なる喜び(喜)、偉大なる平等観(捨)(しゃ)〔からなる四梵住〕(しぼんじゅう)も、偉大な人が見える三十二種類の相(三十二相)、八十種類の副次的な身体的特徴(八十種好)(はちじっしゅごう)、金色の皮膚を持つこと、十種の力(十力)(じゅうりき)、〔説法における〕四つの揺るぐ(原文ママ)ことのない自信(四無畏)(しむい)、〔人々を〕包容〔して救うため〕の四つの事柄(四摂事)、ブッダに具わる十八種類の特別の性質(十八不共法)(じゅうはちふぐうほう)、大いなる神通の力を持つこと、十方の衆生を救うことも完全に成し遂げたのである。そのすべてが、デーヴァダッタのおかげなのである。
男性出家者たちよ、私は、あなたたちに告げ、分からせてやろう。この男性出家者であるデーヴァダッタは、未来の世において、量ることも、数えることもできない劫を経て、”天への階段”(天道)という世界において、”神々の王”(天王(てんのう))という名前の正しく完全に覚った如来で、尊敬されるべき人(阿羅漢)で、学識と行ないを完成した人(明行足〔みょうぎょうそく〕)で、人格を完成した人(善逝〔ぜんぜい〕)で、世間をよく知る人(世間解〔せけんげ〕)で、人間として最高の人(無上士〔むじょうじ〕)で、調練されるべき人の御者(調御丈夫〔ちょうごじょうぶ〕)で、神々と人間の教師(天人師〔てんにんし〕)で、〔目覚めた人(仏陀)で、〕世に尊敬されるべき人(世尊)となるであろう。
(
サンスクリット原典現代語訳版(梵語と鳩摩羅什訳がない版)の下巻では、
「偏見・差別を捨てて衆生を利する偉大なる平等性(捨)」
)
p104
注16
提婆達(デーヴァダッタ)を極悪人とする傾向は、説一切有部などが有力であった西北インドにおいて顕著であった。それは教団維持のエゴイズムに基づくものであり、一種の近親憎悪であると中村博士は見ておられる。
p95から
マンジュシリー〔菩薩〕が言った。
「良家の息子よ、サーガラ龍王の娘(龍女〔りゅうにょ〕)がいるのだ。〔その娘は〕生まれて八年で、大いなる智慧をそなえ、研ぎ澄まされた能力を持ち、智に基づいた身体と言葉と心の行ない(身口意〔しんくい〕の三業〔さんごう〕)を具えており、あらゆる如来が説かれた象徴的表現の意味を会得していて、ダーラニー(陀羅尼)を得ており、あらゆる事物や衆生に対して精神集中する幾千もの三昧(ざんまい)を一瞬にして獲得しているのだ。
〔サーガラ龍王の娘は〕次の詩句(偈)(げ)を述べた。
私にとって完全なる覚りは思うがままであり、その際、私の証人は如来であります。
尊者シャーリプトラ(舎利弗)
「(前略)女性は、今日まで五つの位に到達したことはないからだ。
第一はブラフマーの位、第二はインドラの位、第三は大王の位、第四は転輪〔王(のう)〕の位、第五は不退転の菩薩の位である」
(
仏どころか不退転の菩薩にすらなれねーよって小乗の立場で言っている。
シャーリプトラは汚れ役だな
)
一切世間の〔人々の〕眼前において、また長老シャーリプトラの眼前において、その女性の性器が消えてなくなり、男性の性器が現われ33、そして、サーガラ龍王の娘は、自ら真の菩薩であることをはっきりと示した。
サハー〔娑婆〕世界
p107
注33
「女性の性器が消えてなくなり、男性の性器が現れ」という箇所は、「変成男子(へんじょうなんし)」(変じて男子と成る)と漢訳された。この言葉尻をとらえて、「女性に対する差別」「時代思潮の制約から完全には自由になっていない限界」などといった論評がなされている。ところが、原文の前後を読むと、変成男子は、女性の成仏に必要不可欠な条件として描写されているのではなく、小乗仏教の偏頗な女性観にとらわれた人に、女性の成仏が可能なことを説得するための手段として用いられていることが分かる。
(
デーヴァダッタという悪人でも成仏できる=仏陀になれるという悪人成仏が重要。
①女性でも、②年齢が8歳(1桁の子供)でも、③人間でなくても、仏になれると書いたのが重要。
女人成仏思想。
スピ系が勝手に、両性具有属性とかドラコニアンとかシェイプシフトとか言ってそうな箇所だな。
)
第12章:果敢なる努力(勧持品第十三)
p.114
獅子吼(漢訳仏典)
p.115
世尊の面前で獅子吼をなした。
「世尊よ、以下略
(
獅子吼とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E7%8D%85%E5%AD%90%E5%90%BC-73212
”
獅子吼(読み)ししく
故事成語を知る辞典「獅子吼」の解説
獅子吼
雄弁を振るうこと。意気盛んな大演説をすること。
[使用例] 長い政治経歴の間、演説で論争で獅子吼を続け、つぶれ、きたえ上げられた声だ[小松左京*日本沈没|1973]
[由来] 仏教の経典で、非常によく使われている表現。たとえば、「法華経―勧持品」には、たくさんの菩薩たちが仏の前で「師子吼(「師子」は「獅子」と同じ。ライオンがほえるように力強いことばで弁じること)」して誓いを立てる場面があります。
出典 故事成語を知る辞典故事成語を知る辞典について 情報
デジタル大辞泉「獅子吼」の解説
しし‐く【×獅子×吼】
[名](スル)
1 雄弁をふるうこと。意気盛んな大演説をすること。「壇上に獅子吼する」
2 仏の説法。獅子がほえて百獣を恐れさせるように、悪魔・外道を恐れ従わせるところからいう。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「獅子吼」の解説
獅子吼
ししく
siṃhanāda
釈尊が説法する様子を獅子のほえる様子にたとえたもの。釈尊が大衆に恐れることなく説法することをいう。漢訳仏典では「師子吼」と書くのが通例である。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について”
)
第13章:安楽の住所(安楽行品第十四)
p.140
(鳩摩羅什訳)微妙(みみょう)の義を以(もっ)て、和顔(わげん)にして為(ため)に説け。
p.141
常に嫌な顔をしないで種々の意味を持つ魅力的な〔話〕を語るべきである。
p153
貪愛・憎悪・迷妄〔、すなわち貪欲・瞋恚(しんに)・愚癡の三毒〕の消滅を〔なし〕、あらゆる三界から出離することを〔なし〕、一切の魔を撃退することを〔なし〕以下略
(
愚痴ではなく愚癡。どちらも「ぐち」)
第14章:大地の裂け目からの菩薩の出現(従地涌出品第十五)
第15章:如来の寿命の長さ(如来寿量品第十六)
p226
(鳩摩羅什訳)
我、実に成仏してより已来(このかた)、久遠なること斯くの若(ごと)し。但、方便を以て衆生を教化(きょうけ)して仏道に入らしめんとして、是(か)くの如き説を作(な)す。(大正蔵、巻九、四二頁中~下)
(本書の鳩摩羅什訳は大正蔵が出典)
p227
如来はこのように遥かな昔(久遠)に覚りに達していても、〔如来が〕『私は、久しからざる過去に覚ったのである』とこのように語る 18 ということ――これらの法門が語られたのは、衆生を成熟させるためと、〔覚りに〕入らせるため以外にはないのだ。
p228
我、成仏してより已来(このかた)、甚だ大いに久遠なり。寿命は無量阿僧祇(あそうぎ)劫なり。常住にして滅せず。諸の善男子(ぜんなんし)よ、我、本(もと)菩薩の道(どう)を行じて成(じょう)ぜし所の寿命、今猶(いまなお)、未だ尽きず。
pp.229~230
如来は、それほどに遥かな昔(久遠)に覚りに達し、量ることのできない寿命の長さを持ち、常に存在し続けているのである。如来は、完全なる滅度(涅槃)に入ったことはなく、教化のための願いによって完全なる滅度を示してみせるのである。また、良家の息子たちよ、私は、〔私の〕過去の菩薩としての修行(菩薩道)を今なおいまだに完成させていないし、寿命の長ささえもまた、〔いまだに〕満たされていないのである。
しかもまた、良家の息子たちよ、〔私の〕寿命の長さが満たされるに至るまで、私にとって今なおその〔久遠に成道してから現在に至るまでの時間の〕二倍だけ、〔すなわち、現在から未来へとさらに〕幾百・千・コーティ・ナユタ劫にわたるであろう33。だから今、良家の息子たちよ、私は実に完全なる滅度(涅槃)に入ることはないのに、〔私は〕完全なる滅度〔に入るだろうということ〕を告げるのである。
(
久遠実成(くおんじつじょう)。この寿命の長さだと今現在お釈迦様は生きていることになる。まだ存命。寿命があるので永遠不滅の存在ではない)
第16章:福徳の分別(分別功徳品第十七)
第17章:喜んで受け入れることの福徳についての表明(随喜功徳品第十八)
p297
それらの衆生たちは、その人からその法を聞くであろう。聞いて後に、一刹那、一瞬時、一瞬間にして、すべて〔の衆生たち〕は”〔聖者としての〕流れに入ったもの”(預流〔よる〕=須陀洹〔しゅだおん〕)、”〔天界から人間界にもう〕一度だけ還〔ってきて悟りを得〕るもの”(一来(いちらい)=斯陀含(しだごん)、”〔二度と迷いの世界に〕還ってこないもの”(不還(ふげん)=阿那含(あなごん)となり、、”〔二度と迷いの世界に〕還ってこないもの”の果(不還(ふげん)果)を得て、煩悩を滅し、禅定に専念し、大いに禅定に励み、八種類の解脱によって禅定を行ずる 8 阿羅漢にまでなるであろう。
第18章:説法者に対する讃嘆(法師功徳品第十九)
第19章:常に軽んじない菩薩(常不軽菩薩品第二十)
第20章:如来の神力の顕現(如来神力品第二十一)
p.401
注19
dharmatāは一般に「法性」と漢訳されるが、「法を法たらしめるもの」「法の本性」「根本の理法」といった意味である。翻訳に当たり、分かりやすいようにと考えて、それらを組み合わせて「〔法を法たらしめる〕根本の理法(法性)」とした。
(
そういえば、授記ってもともとは、質問に対しての釈尊(お釈迦様)の解説や、仏典に関する解説や説明などを意味していたんだよな。解説範囲が相手の未来にまで及ぶようになったってことなのだろう)
第21章:ダーラニー(陀羅尼品第二十六)
第22章:“薬の王”の過去との結びつき(薬王菩薩本事品第二十三)
p.450
鳩摩羅什訳
”悪魔、魔民、諸天、龍、”
現代語訳
”魔のパーピーヤス(波旬)がつけ入る機会を得ることがない〔ように〕、魔の集団に属する神々たちも、龍たちも、”
(「悪魔」も仏典にある。デビルを「悪魔」と訳したのは仏典由来なのだろうな。
今は、完全にキリスト教的な意味に上書きされてしまった。
つまり、現代では訳語で避けた方が良いな。別に「魔」一文字で問題ないじゃん
)
第23章:明瞭で流暢に話す声を持つもの(妙音菩薩品第二十四)
第24章:あらゆる方向に顔を向けたもの(観世音菩薩普門品第二十五)
第25章:“美しく荘厳された王”の過去との結びつき(妙荘厳王本事品第二十七)
第26章:“普く祝福されている人”による鼓舞(普賢菩薩勧発品第二十八)
p.558
鳩摩羅什訳
「若しは魔、若しは魔子、若しは魔女、若しは魔民、若しは魔の著する所と為る者、」
〔若(も)し、著(じゃく)する と読む〕
p.559
現代語訳
「魔のパーピーヤス(波旬)も、魔の息子たちも、魔の集団に属する神々の子(天子)たちも、魔の娘たちも、魔の眷属たちも、
(中略)さらには魔によって纏い付かれることがなくなるまで、」
(
鳩摩羅什訳と梵語原文は完全に対応することはないので注意。
「魔女」という単語が「魔の娘」という意味で使われている。
魔術や魔法を使う女ではないが、訳語の出典は法華経かもしれない
)
p.568
鳩摩羅什訳
「少欲知足」
「法の螺を吹き」
(螺は「かい」と読む)
p.569
現代語訳
「自分で得たものに満足している(少欲知足)」
「法の螺貝を吹き鳴らし、」
(螺貝はそのまま「らがい」と読む。
少欲知足も鳩摩羅什訳で広まったのだろうな。
)
第27章:付嘱(嘱累品第二十二)
解説 『法華経』原典と翻訳の歴史と思想
(梵語が無い方の現代語訳の下巻の解説と被っている箇所があるのでそこはメモしない。
先に読んでメモったのが、梵語がない方の下巻の解説だったので)
p588から
ネパール駐在公使であったイギリスのB・H・ホジソン(1800~1894年)が、1837年にネパールから多数のサンスクリット仏典を持ち帰った。その中に『法華経』も含まれていた。
法華経などの初期大乗仏典のサンスクリット原典は、正規のサンスクリットからなる散文の長行と、プラークリット(方言)の混じった仏教混淆梵語(Buddhist Hybrid Sanskrit, BHS. と略記)で書かれた韻文の偈(げ)(詩句)との二部構成になっている。
p594から
「インドの貨幣経済は……ウェーマ・カドフィセース王(在位約37年~)の時代に於いて急激に発展した。故に法華経成立の上限は約西紀40年であると考えられる」と論じておられる。
また、法華経成立の下限としては、「西北インド及びヒンドゥスターンにある多数の仏教のストゥーパは、主としてヴァースデーヴァ王のとき建造されたものであり、この王の時代のものが圧倒的に多い。そうしてこの王以後はストゥーパ建造の風潮が急激に減退しておる……ヴァースデーヴァ王は西紀202~229年頃に統治していた。しからば法華経の嘱累品(ぞくるいほん)第二十二までの部分は40~220年の間に成立したものであることが知られる」とも指摘されている。
(1~3世紀に成立。なお、全体が一気にできたとは限らない。
一部が1世紀、一部が2世紀、一部が3世紀かもしれない。
なおメモのときは漢数字をアラビア数字に変えていることがある)
法華経のタイトルは、「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」である。
サッダルマは「正しい教え」(正法)、プンダリーカは白蓮華(びゃくれんげ)、スートラは「経」。
サンスクリット文法を体系化したカシミール出身のパーニニ(紀元前5-4世紀)の文法書とその注釈書によると、「プンダリーカ(白蓮華)は複合語の後半にきて、前半の語を譬喩(ひゆ)的に修飾する」
従って、「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」と著者は訳した。
p600から
独覚(どっかく)(梵:pratyeka-buddha。パーリ:paccekabuddha)という存在も認められていた。それは、縁覚(えんがく)とも言われ、辟支仏(びゃくしぶつ)と音写される。原始仏教のころは、仙人(r.si)(リシと読むのだろう)などの孤独な隠遁的修行生活を送る者のことであり、必ずしも仏教徒とは限らなかった。ところが、仏教に採り入れられると、山野に自活して三昧(瞑想)に没頭して、縁起の法を内観し覚る者のこととされた。彼らは、独覚果を得ることを目的としていた。
法華経において、一乗と三乗とが真実と方便として立て分けられているとなると、法華経の言う菩薩乗と仏乗との関係は、全同ではないということになる。
仏乗について定義した『法華経』方便品の次の一説が裏づけている。
「一切種智(仏智)(ぶっち)を終着点とするブッダに到る乗り物(仏乗)(ぶつじょう)……」(本書上巻、p.99)
植木雅俊『サンスクリット原典現代語訳 法華経』(上下)
2015年
現代語訳(梵語がない方)の上巻
2015年に発行。
p273から
注
第一章
独覚(どっかく)
他人のために教えを説くことのない利己的な出家修行者のこと。
阿羅漢
ブッダの十種類の別称の一つであり、「尊敬されるべき人」「供養を受けるに値する人」が本来の意味である。ところが、釈尊滅後百年経ったころに始まる部派(小乗)仏教時代には、既にブッダの別称から格下げされ、声聞たちの到りうる最高の位とされた。ここでは後者の意味で用いられているので、前者と区別するために「阿羅漢」と表記する。
カーシャパ(迦葉)三兄弟という。
釈尊は、鹿野苑(ろくやおん)における初転法輪で五人の弟子を覚らせた後、ブッダ・ガヤーへ舞い戻り、そこで教化したのがバラモン教の火の行者として知られたこの三人の兄弟であった。
シャーリプトラは大乗仏典では小乗仏教を代表する役回りで描かれている。
アーナンダ
ここ(第一章)で「有学」と断っているが、鳩摩羅什訳では「有学」とも何とも言っていない。本書の第九章でもアーナンダを有学とは言っていない。ここで「有学」としたのは、後世にアーナンダの地位低下を図ってなされた操作の影響を受けたものであろう。
ダーラニー
心が散乱するのを防いで集中したり、教えや経文を記憶するために唱える呪文。陀羅尼と音写される。
ダシャンは10、
シャタは百、
サハスラは千。
マンジュシリー:
般若経をはじめとする初期大乗仏典に頻出する菩薩。空を覚り、智慧(般若)を具えていて、説法も巧みである。イランの神の影響で生み出された観世音や弥勒と違い、マンジュシリーは仏教の内部から生み出された菩薩である。文殊師利と音写される。
観世音
慈悲による救済を特色とする菩薩で、イランの神の影響を受けて形成されたと考えられている。
マイトレーヤ
弥勒と音写される。釈尊に次いで五十六億七千万年後に現われるとされる未来仏のことで、現在は菩薩として兜率天(とそつてん)に住しているという。ゾロアスター教のミトラ神との関係も議論されている。
シャクラ神
インドラ神ともいう。リグ・ヴェーダで最大の神とされる。
結跏趺坐
足の甲(趺)をそれぞれの反対側の太ももの上に乗せて(跏)、交錯させて(結)、坐ること。
三界
衆生が生死流転(しょうじるてん)する世界を、
①欲界(欲望を有するものの住む世界)、
②色界(欲望を離れ絶妙な物質からなる世界)、
③無色界(物質をも超越し精神のみが存在する世界)――の三段階に分けたもの。
袈裟
「黄褐色」を意味するサンスクリット語のカシャーヤを音写したものである。それは、アウトカーストのチャンダーラ(栴陀羅〔せんだら〕)たちが身に着けていた衣であった。
ヨージャナ
牛の首につける軛のことで、由旬と音写された。それが、牛に軛をつけて車につなぎ荷物を運ばせる際に、牛が疲れて軛をはずしてやるまでに進む距離という意味に転じて、距離の単位となった。一ヨージャナの距離については、種々の説があるが、『ジャータカ序』に、成道したブッダが、ブッダガヤーからバーラーナシーを目指して、「十八ヨージャナの距離の旅路につかれた」とあり、両者は直線距離にして約二百二十キロメートル、道の弯曲などを考慮すると、筆者の計算では一ヨージャナは、十五キロメートルほどと考えることができよう。
(
ウシごとに長さが変わる単位って駄目じゃん)
四聖諦
生きる上での苦を乗り越えるための四つの真理のことで、
①苦諦(この世は苦であるという真理)、
②集諦(煩悩と妄執が苦の因であるという真理)、
③滅諦(苦の因を滅するという真理)、
④道諦(覚りを得るための実践という真理)――の四つからなる。
十二因縁
人の苦悩の成立原因を、
①無明(無知)
②行(潜在的形成力)
③識(識別作用)
④名色(名称と形態)
⑤六処(六つの感官)
⑥触(接触)
⑦受(感受作用)
⑧愛(妄執)
⑨取(執着)
⑩有(生存)
⑪生(生まれること)
⑫老死(老いて死ぬこと)――の十二段階に分けて説いたもの。
第二章の注
p280から
(五種の働き)
五根
解脱に到るための五つの能力。
①信根(信を生じ維持する能力)
②精進根(努力する能力)
③念根(記憶して忘れない能力)
④定根(禅定の能力)
⑤慧根(智慧の能力)。
(五種の能力)
五力(ごりき)
解脱に到らせる五つの力。五根が機能して現れる
①信力
②精進力
③念力
④定力
⑤慧力――の五つの働きのこと。
(p.38の、七つの悟りへの要件(七覚支)(しちかくし)(6)について)
七覚支
覚りを得るために役立つ七つのこと。
①択法覚支(ちゃくほうかくし)(教えの真偽を選び分けること)、
②精進覚支(正しい教えによって努力すること)、
③喜覚支(正しい法を実践する喜びに住すること)、
④軽安(きょうあん)覚支(心身の軽やかさと快適さを保つこと)、
⑤捨覚支(対象にとらわれる心を捨てること)、
⑥定覚支(心を集中して乱れないこと)、
⑦念覚支(記憶して忘れないこと)。
(
要件:大切な用事、必要な条件)
禅定、解脱、三昧、等至:
いずれも心を集中して静かに瞑想することを意味する。
この四語は定型句のように用いられることが多い。
それぞれは、さらに分類され、その数を示して「四禅」「八解脱」「三三昧」「八等至」と表記される。「四禅」は、欲界の迷いを超えて色界に生ずるための四段階の瞑想を意味する。「八解脱」は、三界の煩悩を離脱して解脱する八種の瞑想のこと。「三三昧」は、あらゆるものごとを空(実体がない)・無相(差別相がない)・無願(欲望を離脱している)と見る瞑想のこと。「八等至」は、色界の四禅と無色界の四定(空無辺処定・識無辺処定・無所有処定・非想非非想処定)の八つのこと。
第三章
注
五蘊:
自己とあらゆる存在を物質と精神の五つの集まりとして分類したもの。
①色(しき)(物質や身体)
②受(感受作用)
③想(表象作用)
④行(意志作用)
⑤識(識別作用)。
資産家(グリハパティ)
「居士」「家長」と漢訳されているが、中村元博士は「資産者という階級がひとつの身分として現われ、王族およびバラモン族に次ぐものとして位置づけられている」として、もともとの「家長」の意味が変質していることを指摘している。ここでは「資産家」とする。グリハパティは直訳すると「家(グリハ)の主人(pati)」という意味であるが、特に商工業に従事する実業家や資産家を意味していた。
六通
六神通とも言う。六つの超人的な能力。
①天眼通(てんげんつう)(常人に見えないものを見る能力)、
②天耳(てんに)通(常人に聞くことのできない音を聞く能力)、
③他心通(他人の心の思いを知る能力)、
④宿命(しゅくみょう)通(自他の過去世を知る能力)、
⑤神足(じんそく)通(意のままに行きたいところに行ける能力)、
⑥漏尽(ろじん)通(煩悩を断じ尽くす能力)。
三明
三つの超人的な能力。六通の中の宿命通、天眼通、漏尽通を取り出して、
①宿命明(みょう)、②天眼明、③漏尽明とした。
ティシュヤ
シャーリプトラという呼び名で呼ばれることが普通だが、これは本来「シャーリーという女性の息子(putra)」ということであり、ウパティシュヤという別名でも呼ばれていた。それについては、出家前の俗名などといった種々の説明があるが、よくは分からない。ティシュヤはその省略形である。
ローカーヤタ派
順世外道と漢訳される。古代インドの自由思想の一つで、唯物論の立場に立ち、地・水・火・風の四つの元素と、虚空の実在のみを認めていた。地・水・火・風からなる人間は、死後は無に帰すとして、霊魂、輪廻、業の存在を否認し、祭祀、供養、布施の意義も否定した。
第五章
無生法忍
あらゆるものが空であって、固定的な自性がなく、不生不滅であると認めること。
四梵住
四つの広大な利他の心のことで、四無量心とも言う。
①慈無量(無量の慈しみ)、
②悲無量(他者の苦しみに対する無量の同情)、
③喜無量(他者を幸福にする無量の喜び)、
④捨無量(怨親などの差別相を捨てて、無量に他者を平等に利すること)。
四摂事
人びとを包容して救うための四つの事柄。
①施し与えること(ダーナ、布施)、
②慈愛の言葉(priya-vacana、愛語)、
③他人のためになる行為(利行)、
④他人と協力すること(同事)――の四つからなる。
(
愛語の訳語は慈語じゃダメだったのか?
以下を読むに、親語や優語でいけそうだな。
Priyavacana, Priya-vacana: 9 definitions - Wisdom Library
https://www.wisdomlib.org/definition/priyavacana
”General definition (in Buddhism)
[«previous (P) next»] — Priyavacana in Buddhism glossary
Source: Wisdom Library: Dharma-samgraha
Priyavacana (प्रियवचन, “kindly speech”) refers to one of the “four bases of sympathy” (catursaṃgrahavastu) as defined in the Dharma-saṃgraha (section 19). The Dharma-samgraha (Dharmasangraha) is an extensive glossary of Buddhist technical terms in Sanskrit (e.g., ṣaṣ-pāramitā and priyavacana). The work is attributed to Nagarjuna who lived around the 2nd century A.D.
”
priya - Dictionary | Buddhistdoor
https://www2.buddhistdoor.net/dictionary/details/priya
”
Dictionary Definition :
Definition[1]
:
snyan
[translation-san] {C} karṇa
[translation-san] {C} kāvya
[translation-san] {C} priya
[translation-eng] {Hopkins} ear
[translation-eng] {C} poetry; poem; dear; kind
Source
:
Jeffrey Hopkins' Tibetan-Sanskrit-English Dictionary
Definition[2]
:
snyan pa
[translation-san] {MSA} priya
[translation-san] {MSA} madhura
[translation-san] {MSA} sukha
[translation-san] {MSA} kalā (vāc)
[translation-san] {MSA} yaśas
[translation-san] {MSA} varṇa
[translation-eng] {Hopkins} pleasant; sweet to hear; fame; renown; glory
[translation-eng] praise; well-sounding
Source
:
Jeffrey Hopkins' Tibetan-Sanskrit-English Dictionary
Definition[3]
:
snyan po
[translation-san] {MSA} priya
[translation-eng] {Hopkins} pleasant; sweet to hear; fame; renown; glory
Source
:
Jeffrey Hopkins' Tibetan-Sanskrit-English Dictionary
Definition[4]
:
sdug
[translation-san] {MSA} priya
[translation-san] {MSA} snigdha
[translation-eng] {Hopkins} dear; kind; beloved
[comments] also short for sdug bsngal, suffering
Source
:
Jeffrey Hopkins' Tibetan-Sanskrit-English Dictionary
Definition[5]
:
sdug pa
[translation-san] {LCh} priya
[translation-san] {C,MSA} śubha {C}(=praśasta)
[translation-san] {C} śubhatā
[translation-san] {MSA} iṣṭa
[translation-eng] {Hopkins} attractive; nice; beautiful
[translation-eng] {C} dear; kind; beloved; lovely; wholesome; pleasant; merit; pleasantness
Source
:
Jeffrey Hopkins' Tibetan-Sanskrit-English Dictionary
”
Vacana, Vācanā: 20 definitions
https://www.wisdomlib.org/definition/vacana
”Sanskrit dictionary
[«previous (V) next»] — Vacana in Sanskrit glossary
Source: DDSA: The practical Sanskrit-English dictionary
Vacana (वचन).—[vac-lyuṭ]
1) The act of speaking, uttering. saying.
2) Speech, an utterance, words (spoken), sentence; ननु वक्तृविशेषनिःस्पृहा गुणगृह्या वचने विपश्रितः (nanu vaktṛviśeṣaniḥspṛhā guṇagṛhyā vacane vipaśritaḥ) Kirātārjunīya 2. 5; प्रीतः प्रीतिप्रमुखवचनं स्वागतं व्याजहार (prītaḥ prītipramukhavacanaṃ svāgataṃ vyājahāra) Meghadūta 4.
3) Repeating, recitation.
4) A text, dictum, rule, precept, a passage of a sacred book; शास्त्रवचनम्, श्रुतिवचनम्, स्मृति- वचनम् (śāstravacanam, śrutivacanam, smṛti- vacanam) &c.
5) An order, a command, direction; शुश्रूषां गौरवं चैव प्रमाणं वचनक्रियाम् (śuśrūṣāṃ gauravaṃ caiva pramāṇaṃ vacanakriyām) (kuryāt) Rām.2.12.26; मद्वच- नात् (madvaca- nāt) 'in my name', 'by my order'.
6) Advice, counsel, instruction.
7) Declaration, affirmation.
8) Pronunciation (of a letter) (in gram.).
9) The signification or meaning of a word; अत्र पयोधरशब्दः मेघवचनः (atra payodharaśabdaḥ meghavacanaḥ).
1) Number (in gram.); (there are three numbers, singular, dual and plural).
11) Dry ginger.
Derivable forms: vacanam (वचनम्).”
)
現代語訳(梵語がない方)の下巻
2015年に発行。
第二十一章 ダーラニー(陀羅尼品第二十六)
(陀羅尼品第二十六)
p178
この「ダーラニーの章」が説かれている時に、六万八千の生命あるものたちに何ものも生ずることはないという真理を認める知(無生法忍(むしょうぼうにん))の獲得があった。
第二十二章 “薬の王”の過去との結びつき(薬王菩薩本事品第二十三)
p181から
さらに、その世尊は、"あらゆる衆生が喜んで見るもの"(一切衆生喜見(いっさいしゅじょうきけん))という偉大な人である菩薩を足がかりとなして、それらの偉大なる声聞たちや、それらの偉大な人である菩薩たちのために、この”白蓮華のように最も勝れた正しい教え”という法門を詳しく説き明かした。
その"あらゆる衆生が喜んで見るもの"(一切衆生喜見(いっさいしゅじょうきけん))という菩薩は、その世尊の説法のもとで困難な修行(苦行)に専念した。その菩薩は、一万二千年の間、そぞろ歩き(経行(きょうぎょう))の場所に立ち、卓越した努力精進への取り組みによって、精神統一に専念していた。その菩薩は、一万二千年の経過の後、”あらゆる姿を顕現すること”(現一切色身(げんいっさいしきしん))という名前の三昧(さんまい)を得た。その三昧の獲得と同時に、その"あらゆる衆生が喜んで見るもの"(一切衆生喜見(いっさいしゅじょうきけん))という菩薩は、満足して、心が高揚し、心が満たされ、狂気し、喜悦と歓喜を生じ、その時、次のように考えた。
(略)
そこでさらに、その"あらゆる衆生が喜んで見るもの"(一切衆生喜見(いっさいしゅじょうきけん))という菩薩は、しっかりとした意識をもって、思慮深く、その三昧から立ち上がった。立ち上がってから、次のように考えた。
『神力によって奇跡を顕現して世尊に供養をなすことは、自己の身体を喜捨することによって供養をなすことには、はるかに及ばない』と。
しかも、そのようにして、その"あらゆる衆生が喜んで見るもの"(一切衆生喜見(いっさいしゅじょうきけん))という菩薩は、絶えることなく常に香を飲食し、チャンバカの花の油を飲み続けているうちに、十二年が過ぎ去った。
すると、その"あらゆる衆生が喜んで見るもの"(一切衆生喜見(いっさいしゅじょうきけん))という菩薩は、その十二年の経過の後、自分の身体を天上の衣で包んで香油の中に浸け、自らに願力を加えた。自らに願力(がんりき)を加えて後、如来に対する供養のために、また、この”白蓮華のように最も勝れた正しい教え”という法門に対する供養のために、自分の体に火を着けた。
(法華経も12が好きなんだな
)
すると、その"あらゆる衆生が喜んで見るもの"(一切衆生喜見(いっさいしゅじょうきけん))という菩薩の身体の燈火から放たれたそれらの光と焔に照らされて、八十のガンジス河の砂の数に等しい世界が明らかに出現した。そして、それらの世界において、まさに八十のガンジス河の砂の数に等しいそれらの世尊であるブッダたちのすべてが、感嘆の言葉を発した。
『素晴らしいことである。素晴らしいことである。
これこそが、偉大な人である菩薩にとって、真の努力精進への取り組みであり、これこそが、真実の如来に対する供養であり、法に対する供養である。
これこそが、最高の布施であり、王国を喜捨する布施も、愛する息子と妻を喜捨する布施も、それに及ぶことはないのだ。さらに、両家の息子よ、この自己の身体を喜捨することは法に対する供養であって、最上にして、最高であり、最善で、最も勝れ、卓越したものなのである』
(
これ生贄思想につながるから初期仏教の釈迦ならダメって言うだろうな。
つーかこれアグニ崇拝でしょ。
これ生贄と火の儀式だから、バラモン・ヒンドゥー教の影響だろうな
これを世尊であるブッダたちのすべてが褒めたたえるのがマジでまずいでしょ。
いやまあ、自己の身体を喜捨するつまり焼くことは比喩であり、法華経の教えに全てを捧げるということだと解釈すれば大丈夫だろうけどさあ。
)
その"あらゆる衆生が喜んで見るもの"(一切衆生喜見(いっさいしゅじょうきけん))という菩薩の身体が燃え続けている間に、千二百年が過ぎ去った。けれども、その火が消えるには至らなかった。千二百年が経過した後に、それは消えたのだ。
すると、その"あらゆる衆生が喜んで見るもの"(一切衆生喜見(いっさいしゅじょうきけん))という菩薩は、このような如来に対する供養と、法に対する供養を行なって、そこで死んで、まさにその世尊である”月と太陽の汚れのない光明によって吉祥であるもの”(日月浄明徳〔にちがつじょうみょうとく〕)という如来の説法のもとで、”清らかな布施をなすもの”(浄徳)という王の家に、〔前世の業の結果として〕化生(けしょう)(1)して生まれ、王の膝の上に結跏趺坐して出現した。
(
おいおい、1200年間、燃え続けた後にこの菩薩が死んでんじゃん。
いやこれ、焼身自殺扱いにならないの?
自殺が駄目なのは非殺生戒は自分も含まれるからだよ。
この薬王菩薩本事品は後から付け足されたものだから、もともとは法華経の思想ではなかったことに注意。
法華経 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C
”迹門と本門
鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』は28品の章節で構成されている[注 5]。現在、日本で広く用いられている智顗(天台大師)の教説によると、前半14品を迹門(しゃくもん)、後半14品を本門(ほんもん)と分科する。迹門とは、出世した仏が衆生を化導するために本地より迹(あと)を垂れたとする部分であり、本門とは釈尊が菩提樹下ではなく五百塵点劫という久遠の昔にすでに仏と成っていたという本地を明かした部分である。迹門を水中に映る月とし、本門を天に浮かぶ月に譬えている。後世の天台宗や法華宗一致派は両門を対等に重んじ、法華宗勝劣派は法華経の本門を特別に重んじ、本門を勝、迹門を劣とするなど相違はあるが、この教説を依用する宗派は多い。
また、三分(さんぶん)の観点から法華経を分類すると、大きく分けて(一経三段)、序品を序分、方便品から分別品の前半までを正宗分、分別品から勧発品までを流通分と分科する。また細かく分けると(二経六段)、前半の迹・本の二門にもそれぞれ序・正宗・流通の三分があるとする。
経本としても流通しているが、『妙法蓮華経』全体では分量が大きいこともあり、いくつかの品を抜粋した『妙法蓮華経要品』(ようほん)も刊行されている。
迹門
前半部を迹門(しゃくもん)と呼び、般若経で説かれる大乗を主題に、二乗作仏(二乗も成仏が可能であるということ)を説くが、二乗は衆生から供養を受ける生活に余裕のある立場であり、また裕福な菩薩が諸々の眷属を連れて仏の前の参詣する様子も経典に説かれており、説法を受けるそれぞれの立場が、仏を中心とした法華経そのものを荘厳に飾り立てる役割を担っている。
さらに提婆達多の未来成仏(悪人成仏)等、“一切の衆生が、いつかは必ず「仏」に成り得る”という平等主義の教えを当時の価値観なりに示し、経の正しさを証明する多宝如来が出現する宝塔出現、虚空会、二仏並座などの演出によってこれを強調している。また、見宝塔品には仏滅後に法華経を弘める事が大難事(六難九易)であること、勧持品には滅後末法に法華経を弘める者が迫害をされる姿が克明に説かれる等、仏滅後の法華経修行者の難事が説かれる。
本門
後半部を本門(ほんもん)と呼び、久遠実成(くおんじつじょう。釈迦牟尼仏は今生で初めて悟りを得たのではなく、実は久遠の五百塵点劫の過去世において既に成仏していた存在である、という主張)の宣言が中心テーマとなる。これは、後に本仏論問題を惹起する。
本門ではすなわちここに至って仏とはもはや歴史上の釈迦一個人のことではない。ひとたび法華経に縁を結んだひとつの命は流転苦難を経ながらも、やがて信の道に入り、自己の無限の可能性を開いてゆく。その生のありかたそのものを指して仏であると説く。したがってその寿命は、見かけの生死を超えた、無限の未来へと続いていく久遠のものとして理解される。そしてこの世(娑婆世界)は久遠の寿命を持つ仏が常住して永遠に衆生を救済へと導き続けている場所である。それにより“一切の衆生が、いつかは必ず仏に成り得る”という教えも、単なる理屈や理想ではなく、確かな保証を伴った事実であると説く。そして仏とは久遠の寿命を持つ存在である、というこの奥義を聞いた者は、一念信解・初随喜するだけでも大功徳を得ると説かれる。
説法の対象は、菩薩をはじめとするあらゆる境涯に渡る。また、末法愚人を導く法として上行菩薩を初めとする地涌の菩薩たちに対する末法弘教の付嘱、観世音菩薩等のはたらきによる法華経信仰者への守護と莫大な現世利益などを説く。
現代のサンスクリット学者の見解
近現代のサンスクリット学者は、嘱累品第二十二までが古い時代に成立した原型であり、薬王菩薩本事品第二十三からあとは後世に付け加えられたものと推定している[12]。
『法華経』は、嘱累品第二十二までは、男女平等を説くなど、原始仏教への原点回帰的な主張が多い。ところが薬王菩薩本事品第二十三からあとは、原始仏教が禁じたオカルト的な呪法(陀羅尼)や、極楽浄土に女性はいないとする浄土教系の男女差別思想、『法華経』そのものではなく観音菩薩の神通力にすがる観音信仰など、それまでの記述とは矛盾する異質の思想の混入が目立つ[13]。これらの異質な部分は、大乗仏教が誕生したあとも太古さながらの呪術や迷信を信ずる一般大衆を信者にとりこむため、仏教側が妥協して後から付け加えたものと推定されている[14]。
方便品第二と如来寿量品第十六
『法華経』といえども異質の矛盾した思想があちこちに混入しているため、伝統仏教の一部流派では、迹門の方便品第二と本門の如来寿量品第十六(特に最後の自我偈の部分)を、『法華経』の真髄として重視した。例えば日蓮は、信者に対し、『法華経』の根幹は方便品と寿量品であり他の品はいわば枝葉なので、方便品と寿量品さえ読誦すれば他の品の教えは自然と身につく、と説いた[15]。
妙法蓮華経二十八品一覧
前半14品(迹門)
第1:序品(じょほん)
第2:方便品(ほうべんぽん)
第3:譬喩品(ひゆほん)
第4:信解品(しんげほん)
第5:薬草喩品(やくそうゆほん)
第6:授記品(じゅきほん)
第7:化城喩品(けじょうゆほん)
第8:五百弟子受記品(ごひゃくでしじゅきほん)
第9:授学無学人記品(じゅがくむがくにんきほん)
第10:法師品(ほっしほん)
第11:見宝塔品(けんほうとうほん)
第12:提婆達多品(だいばだったほん)
第13:勧持品(かんじほん)
第14:安楽行品(あんらくぎょうほん)
後半14品(本門)
第15:従地湧出品(じゅうじゆじゅつほん)
第16:如来寿量品(にょらいじゅうりょうほん)
第17:分別功徳品(ふんべつくどくほん)
第18:随喜功徳品(ずいきくどくほん)
第19:法師功徳品(ほっしくどくほん)
第20:常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)
第21:如来神力品(にょらいじんりきほん)
第22:嘱累品(ぞくるいほん)
第23:薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)
第24:妙音菩薩品(みょうおんぼさつほん)
第25:観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)(観音経)[注 6]
第26:陀羅尼品(だらにほん)
第27:妙荘厳王本事品(みょうしょうごんのうほんじほん)
第28:普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼつほん)
その他の追加部分
第29:廣量天地品(こうりょうてんちぼん)[16]
第30:馬明菩薩品(めみょうぼさつぼん)[17]
28品のほか、以上の追加部分も成立しているが、偽経扱いとなり普及しなかった。「廣量天地品第二十九」は冒頭部分のみを除いて失われている。『妙法蓮華経』28品と同じくネット上でも大正新脩大蔵経データベースで閲覧できる。
8巻と28品の対応関係
鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』8巻28品の、各巻ごとの内訳は以下のとおり。
第1巻 第1:序品 第2:方便品
第2巻 第3:譬喩品 第4:信解品
第3巻 第5:薬草喩品 第6:授記品 第7:化城喩品
第4巻 第8:五百弟子受記品 第9:授学無学人記品 第10:法師品 第11:見宝塔品
第5巻 第12:提婆達多品 第13:勧持品 第14:安楽行品 第15:従地湧出品
第6巻 第16:如来寿量品 第17:分別功徳品 第18:随喜功徳品 第19:法師功徳品
第7巻 第20:常不軽菩薩品 第21:如来神力品 第22:嘱累品 第23:薬王菩薩本事品 第24:妙音菩薩品
第8巻 第25:観世音菩薩普門品 第26:陀羅尼品 第27:妙荘厳王本事品 第28:普賢菩薩勧発品
『更級日記』の作者・菅原孝標女が少女時代、夢の中で僧侶から「『法華経』の第5巻を早く習いなさい」と忠告されたのに無視した挿話[18]は有名である。第5巻には、女人成仏を説く提婆達多品や、天台系寺院の勤行で読誦される安楽行品、「本門」(後半14品)の最初の章である従地湧出品などが含まれている。
〔中略〕
最終更新 2022年5月19日 (木) 15:05 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
”
※着色は引用者
)
p269 注
化生には、
①両親なくして何もないところから忽然と生まれること、
②前世の善悪の業の結果として生まれること――の意味があるが、ここでは②である。
(
生まれ変わっているから解脱していない〔輪廻の輪から外れていない〕んだよな。焼身自殺で解脱にはさすがにしていないな
)
p184に戻る。
その世尊である”月と太陽の汚れのない光明によって吉祥であるもの”(日月浄明徳〔にちがつじょうみょうとく〕)という如来に対して、供養を行なった後、私は、”すべての音声に精通している”というダーラニー(解一切衆生語言陀羅尼〔げ いっさい しゅじょう ごごん だらに)を得ました。
(
省略したが、法華経も7が好き。
)
その"あらゆる衆生が喜んで見るもの"(一切衆生喜見〔いっさいしゅじょうきけん〕)という菩薩は、それらの如来の遺骨を納めた八万四千のストゥーパの前で、幾百もの福徳の相で飾られた自分の腕に火を着けた。七万二千年の間、腕を燃やして、それらの如来の遺骨を納めたストゥーパに対して供養を行なったのである。
また、"あらゆる衆生が喜んで見るもの"(一切衆生喜見〔いっさいしゅじょうきけん〕)という菩薩は、供養を行ないながら、その集会の幾百・コーティ・ナユタもの数えることのできない声聞たちを教化した。そして、それらのすべての菩薩たちは”あらゆる姿を顕現すること”という三昧を得たのである。
『この"あらゆる衆生が喜んで見るもの"(一切衆生喜見〔いっさいしゅじょうきけん〕)という偉大な人である菩薩は、私たちの師であり、教化者である。まさにその人が今、身体に障害を持つものとなり、腕のないものとなってしまわれた』と。
(
これ両腕なの? それと、後に腕が元のようになったとあるので、腕を切り落としてから火をつけたのだろう。
『梵漢和対照・現代語訳 法華経』(下)の
第22章:“薬の王”の過去との結びつき(薬王菩薩本事品第二十三)での、
p.436の鳩摩羅什訳で
「両の」臂(ひじ)となっているので両腕
)
〈如来の供養のために私自身の腕を喜捨して後、私の身体を金色(こんじき)にする真実と真実の言葉によって、私のこの腕は元のようになれ。そして、この大地は六種類に震動せよ。空中にいる神々の子たちは、大いなる花の雨を降らせよ〉
すると、その"あらゆる衆生が喜んで見るもの"(一切衆生喜見〔いっさいしゅじょうきけん〕)という菩薩が、この真実の誓いを直ちに立てると、まさにその時、この三千大千世界が六種類に震動し、上方の空中から大いなる花の雨が降った。そして、その"あらゆる衆生が喜んで見るもの"(一切衆生喜見〔いっさいしゅじょうきけん〕)という菩薩のその腕は、元のようになった。すなわち、それはまさにその偉大な人である菩薩の知の力の獲得と、福徳の力の獲得によってである。
(凡例より、
( )は言葉の言い換え
〔 〕は、筆者による言葉の補足 〔私も使うことあり〕
『 』は本文中では、会話(「 」で囲まれた部分)中の会話
〈 〉は、『 』の中の会話)
(
肉体の再生能力を得た。つまり、この菩薩はファイアパンチのアグニ〔再生能力があるのでずっと燃え続けている〕みたいになれるな。創作ネタに使えそう。
)
”薬の王”という偉大な人である菩薩こそが、その時その状況で、"あらゆる衆生が喜んで見るもの"(一切衆生喜見〔いっさいしゅじょうきけん〕)という菩薩であったからだ。
(
薬王菩薩="あらゆる衆生が喜んで見るもの"(一切衆生喜見〔いっさいしゅじょうきけん〕)と明らかになったのだが、
薬の王が自身を焼いたのを、ブッダが褒めたたえるのはまずいよなあ。アグニ崇拝の復活はまずい。
法華経のこの箇所が護摩を焚くことの根拠の1つになっているのだろうな。
ファイアパンチは、バラモンとキリストを混ぜた思想であり、インド系創造維持破壊思想が濃厚だ。
ワンパンやグールの作者と同じ陣営なんだろうな。33も強調↓
ファイヤパンチが新しい巻が3月3日でるのがオススメです。毎巻50ページくらい修正しているので探してみてください。 pic.twitter.com/gHCJ2lo5H0
— ながやま こはる (@nagayama_koharu) 2017年2月28日
ファイヤーパンチの3巻が発売します。ワンパンマンの村田先生とONE先生がステキな帯を描いてくれたのでよかったです。 pic.twitter.com/d8J23sqTQ1
— ながやま こはる (@nagayama_koharu) 2016年12月2日
今日の12時にファイヤパンチが更新されるので読めるのでオススメです。火曜日か水曜日かにファイヤパンチの2巻が出ます。なんとあの東京グールの作者にお兄ちゃんがありがたいコメントを貰っています。よろしくお願いします。 pic.twitter.com/cYx6NZgoc7
— ながやま こはる (@nagayama_koharu) 2016年10月2日
)
注
p.263から
第十一章=続き
〔第12:提婆達多品(だいばだったほん)のこと〕
劫火 kapla-ダーハ
世界を焼き尽くしてしまう大火のこと。仏教の宇宙観では、世界が成立し(成(じょう))、存続し(住(じゅう))、破壊され(破(え))、消滅する(空)という四つの期間(四劫(しこう))を繰り返し、その三番目の世界が壊滅する時に起こるとされる。ここではカルパ・ダーハ(劫焼(こうしょう))という語が用いられているが、カルパ・アグニ(kalpa-agni、劫火)という語もある。
第十三章
チャンダーラ
栴陀羅(せんだら)と音写される。シュードラの男性とバラモン階級の女性との間に生まれた混血種姓のことで、最も蔑視され、嫌悪された。アーリヤ人がインド亜大陸に移動してきた当初と異なり、後にアーリア人の純血をたもつことを重視するようになり、このような混血種姓を最も蔑視することによって、混血を避けさせようとした。
(
アーリヤだったりアーリアだったり表記が一定しない。
女性の方がバラモンの場合の方が悪とされるんだな
)
第二十四章
”自在に観るもの”(観世音)
鳩摩羅什訳には女性も含まれているが、サンスクリット語の原文では男性のみとなっていて異なっている。
インドで発掘された彫刻も、すべて男性の姿である。
p275から
解説
538年に仏教が伝来すると、聖徳太子(574~622年)がその注釈書『法華経義疏(ぎしょ)』を著した。
(
6世紀に日本に入って来た)
最澄(767~822)も法華経を重視した。(『』でいちいちくくらない)
道元(1200~1253年)が著した『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』で最も多く引用されている経典は、法華経である。
日蓮(1222~1282年)は、大地の裂け目から出現した地涌(じゆ)の菩薩、あるいは常不軽(じょうふきょう)菩薩をわが身に引き当てて、「法華経の行者」として法華経を身読(しんどく)したことで知られる。日本仏教は法華経を無視しては語れない。平安文学をはじめとして日本文化の底流に滔々と流れ続けているのが法華経であった。
(
最澄の死後ちょうど400年に日蓮が誕生。道元は1200年ちょうどに誕生。ただし西暦。
西暦の方が覚えるのは楽だもんな。途中で元号が多数あると大変すぎる
)
法華経の漢訳は、現存するものだけでも次の三つがある。
①『正法華経』(しょうほけきょう)十巻二十七品、竺法護(じくほうご)訳、286年
(3世紀には法華経はできていたんだな)
②『妙法蓮華経』七巻二十七品(後の八巻二十八品に補足された)、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳、406年
(5世紀に成立)
③『添品(てんぽん)妙法蓮華経』七巻二十七品、
闍那崛多(ジャナクッタ)と達磨笈多(ダツマギュウタ)の共訳(鳩摩羅什訳を補訂)、601年
鳩摩羅什の『妙法蓮華経』のほうが広く用いられてきた。
法華経は、ガンダーラを含む西北インドで成立したとされるが、そのサンスクリット原典写本は、1837年にネパールで発見されたほか、パキスタン、中央アジア、チベットなどで発見されており、ネパール系(11世紀以降)、中央アジア系、カシミール系に大別される。
本書は、そのケルンらによる校訂本(ケルン・南条本)を底本とした。
原題の意味は「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」
法華経の何をもって、最勝とするのか、それは、方便品第二(第二章)以下に説かれる一仏乗(いちぶつじょう)の思想と、如来寿量品第十六(第十五章)に説かれる久遠実成(くおんじつじょう)の思想に裏付けされた永遠の菩薩道、および種々のブッダの統一ということができよう。それは、以下に述べるとおりである。
思想的格闘の跡としての大乗仏典
法華経は、般若経、維摩経(ゆいまきょう)などとともに初期大乗仏典の代表とされる。近年では、大乗仏典は「非仏説」(ひぶつせつ)とされている。確かに直説(じきせつ)ではない。それでは価値がないのか? 筆者はそうは思わない。中村元(はじめ)先生は『比較思想論』で、北京大学教授などを歴任したフウ友蘭(ユウラン)の「偽書であっても、根本において価値があるならば、価値を失うことはない。また真実であっても、根本において価値がないならば、価値を有することはない」という言葉を引用しつつ、「思想そのものを問題とする場合には、真作か偽作かは大して問題とならない」と述べている。
思想というものは、時代と社会に対する主張を伴って形成されるもので、大乗仏典もその時代の思想との対決の中で編纂されていった。いわば、時代・社会の現実との対決の中で自らの信念を主張し、格闘した足跡だと言えよう。それは法華経も同じで、その代表としてあらゆる人が平等に成仏できるとする一仏乗の思想を挙げることができよう。成仏とは、現代的には「人格の完成」と言い換えることができよう。
人類史上初めて唱えられた平等思想
平等は、「へいとう」と読まないで、「びょうどう」と読む。漢音ではなく、呉音の読み方がなされるということは、「平等」が仏教用語であることを意味している。それは、サンスクリット語のサマ(sama)、あるいはその名詞形サマターの漢訳語である。中村博士は、1949年に出版した『宗教における思索と実践』で、「人類の歴史において『平等』ということを最も明瞭な自覚を以て最初に唱えたのは、インドの仏教徒であった」と論じている。
歴史的人物としての釈尊の教えに近い原始仏典では、際立った平等思想が説かれ、釈尊在世中の教団内ではそれが実現されていた。釈尊は、決して権威主義的ではなく、原始仏典では自分のことを「人間」であり、「善き友人である私」と語っていた。弟子たちから「ゴータマ」、あるいは「ゴータマさん」「君よ」と呼ばれても、全く意に介することはなかった。釈尊在世当時の男女の弟子たちが自ら綴った詩集『テーラ・ガーター』『テーリー・ガーター』を読むと、女性たちが男性たちに勝るとも劣らず、溌剌として「釈尊の教えを成し遂げました」「解脱しました」と語っている(拙著『仏教のなかの男女観』第二章を参照)。ブッダという語は「目覚めた人」という意味で、原始仏典では特定の一人を指す固有名詞ではなく、普通名詞として複数形で用いられていた。釈尊の最初の説法の際の五人の弟子たちの覚り(原文ママ)の場面の描写は、釈尊の場合と全く同じ表現になっていた。
ところが、釈尊入滅後、次第に様相は変化する。釈尊が亡くなって100年ほど経った紀元前三世紀後半以降、教団は分裂を繰り返し、部派仏教(いわゆる小乗仏教)の時代に入る。そこにおいて、教義の緻密な体系化がなされる一方で、男性・出家者中心主義、隠遁的な僧院仏教という傾向を強め、煩瑣な教理の研究と修行に明け暮れ、遂には民衆と遊離してしまった。その中でも特にガンダーラを中心に西北インドで勢力を振っていたのが説一切有部であった。こうして、保守・権威主義的な傾向を強め、在家や女性に対する差別が始まり、仏弟子を意味していた「声聞」から在家や女性は排除されてしまい、小乗仏教の男性出家者をさす言葉に限定された。その結果、大乗仏典で「声聞」という語は、もっぱら小乗仏教の男性出家者を批判する場面で用いられることになった。
こうした思想情況に対して、紀元前後ごろに平等の旗印を掲げて思想運動を展開したのが大乗仏教であり、それが法華経の一仏乗の思想へと結実した。
小乗仏教の差別思想
原始仏典では、在家も出家も男女の別なく仏弟子とされ、在家であっても「智慧を具えた聖なる仏弟子」とまで称されていたが、小乗仏教では在家と女性が仏弟子から排除された。
原始仏典で代表的な仏弟子は、在家・出家・男女の区別なく列挙されていて、女性の智慧第一、説法第一もいたし、在家の説法第一もいた。釈尊の教えを理解できなくて智慧第一の女性に質問し、明快な答えを聞いて感動した男性出家者の話も記録されている(拙著『仏教のなかの男女観』96~100頁を参照)。それなのに、小乗仏教では女性と在家の代表的な仏弟子が削除され、「智慧第一のシャーリプトラ(舎利弗)」「多聞第一のアーナンダ(阿難)」などと男性出家者のみの十大弟子に限定された。
原始仏典で釈尊は、「私は人間である」と語っていたが、小乗仏教では「私は人間ではない、ブッダである」と神格化され、釈尊の言葉に仮託して、「私を喬答摩(ゴータマ)などと呼ぶものは、激しい苦しみを受けるであろう」とまで語られるようになった。最古の原始仏典とされる『スッタニパータ』に、「まのあたり即時に実現され、時を要しない法」(中村元訳『ブッダのことば』)とあったにもかかわらず、小乗仏教では、何劫(こう)(kalpa)もの天文学的な時間をかけて修行(歴劫修行〔りゃっこうしゅぎょう〕)してやっとブッダになったとされ、ブッダが人間離れしたものとされた。
釈尊はその歴劫修行の結果、遥かな過去のディーパンカラ仏(燃燈(ねんとう)仏)のもとで未来成仏の予言(授記)がなされたとされ、ブッダとなるまでの釈尊を「覚り(bodhi)が確定している人(sattva)」という意味でbodhi-sattva(菩提薩埵(ぼだいさった)、略して菩薩)と呼んだ。それは紀元前二世紀ごろのことであった。小乗仏教で菩薩は、釈尊と未来仏のマイトレーヤ(弥勒)に限定され、ブッダになれるのは、釈尊とマイトレーヤのみとされた。男性出家者はブッダにはなれないが、阿羅漢にはなれる。その阿羅漢には、どんなに徳があり、学識があったとしても在家は至ることはできない(在家非阿羅漢論)。ましてや女性は、女性であること自体で絶対に成仏できない(女人不成仏(にょにんふじょうぶつ))とされた。原始仏典では、多くの女性出家者が「ブッダの教えを成し遂げました」「解脱しました」と語り、また在家について「世俗の生活のままで究極の境地に達し得るという思想が表明され」(中村元著『ゴータマ・ブッダⅠ』)ていたのとは、大変な様変わりである。
(
生まれで差別する(性別含む)って放っておったら勝手にそうなるんだろうな。
初期経典に覚りに達した女性がいっぱい出てくるんだよな。岩波文庫から『尼僧の告白』って題名で出てる『テーリーガーター』など。
『テーリーガーター 尼僧の告白』は釈尊の女性弟子たちの発言録で、涅槃に至った人々もいる。
女人不作仏は釈迦の教えではないとよくわかる。
法華経の悪人成仏と女人成仏は革新的。悪人成仏の初期仏教の扱いは知らないけどね。
「かくのごとき車に乗る人は、男であろうと、女であろうと、実にこの車によって、安らぎ(ニルヴァーナ)のもとに至るであろう。」(中村元訳「相応部経典」より)
)
大乗仏教の平等思想と差別思想
それに対して、紀元前後に興起した大乗仏教は、仏弟子(声聞)として仏の説かれた教え(声)を学ぶ(聞く)のみの小乗仏教の自利(じり)の修行に飽き足りず、ブッダと同じく菩薩行を修してブッダの覚りを得ること、人々に対して利他行(りたぎょう)を貫くことを理想とした。その大乗仏教運動の先駆けが『般若経』編纂者たちによってなされた。
彼らは、自らの掲げる教えをマハー・ヤーナ(偉大な乗り物)と称し、伝統的仏教をヒーナ・ヤーナ(貧弱な乗り物)と貶称(へんしょう)した。それぞれ、「大乗」「小乗」と漢訳された。大乗は、「覚り(bodhi)を得ることが確定している人(sattva)」という意味で小乗仏教が用いていた菩薩(bodhi-sattva)という言葉を、「覚り(bodhi)を求める人(sattva)」と読み替え、成仏をあらゆる人に開放するという仏教本来の平等思想を打ち出した。
(だから、大乗は仏教ではない、というのも誤りなんだよね
)
『法華経』をはじめとする大乗仏教の主張は、「釈尊の原点に還れ」をスローガンとする"仏教のルネッサンス運動"であったと言っても過言ではない。
(
※色付けは引用者
ルネサンス - 世界史の窓
http://www.y-history.net/appendix/wh0902-001.html
”14~16世紀、イタリアから始まり西ヨーロッパで展開された文化、芸術の運動。同時期の大航海時代、宗教改革の動きと共に、ヨーロッパの中世から近代への移行期(近世)の出発点となった。
14世紀のイタリアに始まり、15世紀に最も盛んとなって、16世紀まで続いた、ヨーロッパの文化、芸術上の動き。15世紀末に本格化する大航海時代、16世紀の宗教改革、さらにイタリア戦争から顕著になる主権国家の形成などと密接に関係しながら、近代社会の成立を準備した動きと言える。
ルネサンスの意味
ルネサンス Renaissance とはフランス語※で「再生」を意味することばである。日本では「文芸復興」と訳すことも多かったが、それはこの文化運動がギリシア文化・ローマ文化のいわゆる「古典古代」の文化を「復興」させるという面があったからである。まとめると、ルネサンスとはギリシャ、ローマの古典文化を再生すること、ということができる。
※ルネサンスという語は、もとはギリシア語からきた宗教用語で「死者の再生」という意味の「パランジェネジー」と言う言葉を、フランス語式に言い直したもので、フランスでは「新しいものとして生まれ変わる」という意味で使われていた。それを歴史的な概念として用いたのは19世紀中頃の歴史家ジュール=ミシュレに始まる。この項では語源をラテン語としていたが、ラテン語を直接語源としているのではないので訂正した。
ルネサンスの意義
ルネサンスの意義はさまざまな論議があるが、従来の一般的な見方は、ゲルマン民族という蛮族の侵入と、それによってもたらされた封建社会、そして神を絶対視し人間を罪深いものとするローマ教皇の思想が支配している中世を「暗黒の時代」と見て、その暗黒から人間を解放しようと言う運動がルネサンスである、というものであろう。そのような観点からすれば、ルネサンスの意義は、封建社会と神中心の世界観の束縛から、人間性の自由・解放を求め、ヒューマニズムと個性を尊重という近代社会の原理を生み出したこと、と言うことができる。
ルネサンス観の変化
ルネサンスという歴史用語は、19世紀に生まれた、新しい概念である。
〔中略〕
「ルネサンス」観の多様化 こうして現在では、中世=暗黒時代、ルネサンス=明るい近代への序曲、といった単純な見方は影を潜め、中世の段階での文化の豊かさ(カロリング=ルネサンスや12世紀ルネサンス)が強調されるようになり、一方ではルネサンス以降の社会でも例えば魔女裁判が続いたことなどのように暗黒面が残っていたことが言われている。見方はだいぶ変わってきているが、ルネサンスが絵画、建築などの美術や文学の面で新しい内容とスタイルを生み出したものであり、思想の面でもより人間性に光が当てられるようになったことは確かであり、その際の手本となったのがイスラーム文化を通じて伝えられた、キリスト教以前のギリシア・ローマの古典古代の文化がであったことも事実であり、その価値は変わることはない。”
)
ただし、そこには例外があった。小乗仏教の男性出家者、すなわち声聞乗と独覚乗の二乗は除かれ、二乗は「炒れる種」「腐敗した種」とされて、成仏できないもの(二乗不作仏(にじょうふさぶつ))と断じられた。
「在家非阿羅漢論」と「女人不作仏」が小乗仏教の差別思想であるならば、「二乗不作仏(にじょうふさぶつ)」は大乗仏教の差別思想であった。大乗仏教は、新たな菩薩思想によって際立った平等思想を打ち出したものの、差別思想を残している点では小乗仏教と五十歩百歩であった。
(
平等を強調しつつ、例外をつくるのは本当に人の傾向性なんだろうな)
小乗と大乗の差別思想の超克
小乗と大乗のそれぞれの差別思想を超克し、両者の対立を止揚すること、そして普遍的平等思想を打ち出すことが、法華経に課せられた思想的課題であった。
二乗の成仏がテーマとなってストーリーが展開する。過去からの意義付けや、巧みなる譬喩(ひゆ)によって人間存在がいかに尊いものなのかが、手を変え、品を変えして明かされるのだ。そこでは、女性の成仏も当然のことであった、
釈尊は、「私にとって、この世に声聞〔と言われる人〕は誰一人として存在しないのだ」(本書上巻、七二頁)と語り、声聞と言われている人も、実は既に過去に菩薩行を実践している菩薩であるとして、その自覚を促す。菩薩と名乗っている人たちに対しては、声聞も菩薩であるという「秘要の教え」(同)を受け入れるように諭す。
これは、「二乗を非難している菩薩」から「二乗も菩薩であることを受け入れた菩薩」への転換を迫るものである。後者は”真の菩薩”と言っていいであろう。ここには、①二乗を菩薩の自覚に目覚めさせ、②菩薩を"真の菩薩"たらしめる――という二段階の止揚が込められている。
声聞乗〔に代表される二乗〕と菩薩乗に設けられていた例外規定はすべて解消する。”真の菩薩”は、一仏乗と言い換えてもいいほどである。その一仏乗について、釈尊は次のように語った。
シャーリプトラよ、私はただ一つの乗り物(一乗)、すなわちブッダに到る乗り物(仏乗)について衆生に法を説くのだ。シャーリプトラよ、そのほかに何か第二、あるいは第三の乗り物が存在するのではない。(本書上巻、50頁)
これは、一仏乗の独一性を強調した言葉である。だれ人(びと)も例外扱いすることなく平等に成仏させる一仏乗こそが真実の教えであり、だれかを例外扱いする声聞乗、独覚乗、菩薩乗の三乗はいずれも方便の教えだということだ。
目的地は、声聞乗が阿羅漢果であり、独覚乗が独覚果であって、いずれもブッダではない。ブッダを目的地とするのは菩薩乗と仏乗である。目的地が同じであるという意味では、仏乗と菩薩乗は似ている。違うのは、菩薩乗に乗れるのは声聞、独覚の二乗を除いた菩薩だけであるのに対して、仏乗には声聞、独覚、菩薩や、男女の別なくすべての人々が乗ることができるし、そのすべてが目的地のブッダに到達できるとしていることだ。
仏乗は本物の車、菩薩乗は他の二乗と同様に玩具とされている。二乗は出家の男子に限られ、在家と女性は全くの対象外とされる。菩薩乗は、在家と出家の男女の成仏を許してはいるが、二乗を排除している。仏乗は、それらの差別を取り払って二乗も含めた在家と出家の男女のすべてを成仏可能としているという違いがある。
従って、二乗と菩薩乗の違いは、①在家と女性を含めるかどうかということ、②ブッダの境地に到れるとするかどうかということ――の二点である。
仏乗(ブッダに到る乗り物)は、声聞、独覚を含めた一切衆生が乗れる。三乗など一切衆生(在家と出家の男女)が乗る人。
本物の牛の車でたとえられる。菩薩乗は玩具の牛の車でたとえられる。
声聞乗は玩具の鹿の車、独覚乗は玩具の羊の車でたとえられる。
p289から
未来成仏の予言(授記作仏)
久遠の成道に裏付けされた永遠の菩薩道
法華経では、ブッダに成るのは当然のことであり、成ってどうするのかという行為こそが問われる。それは、永遠の菩薩道に徹するということである。
寿量品において久遠実成(くおんじつじょう)(無量無辺の遥かな過去において釈尊が成道していたこと)を明かすのと併せて、
私は、私の過去における菩薩としての修行を今なお未だに完成させていないし、寿命の長ささえも、未だに満たされていないのである。(本書下巻、92頁)
という言葉が記されていること自体が、ブッダであると同時に永遠に菩薩道を貫いている釈尊自身の姿を通して”真の菩薩”の在り方を表明している。
各種のブッダの統一
このように久遠実成の思想を打ち出したことが、法華経の「最も優れた」点とされる二つ目である。それは、当時、多仏・多菩薩の時代を迎え、それらを整理・統合するという意味もあったのであろう。こうしたことを意図した経典は法華経のみである。
釈尊の入滅後、釈尊を慕うあまり、「肉体としての釈尊」(色身、生身(しょうしん)、応身(おうじん)などと表現される)は滅んだが、「真理(法)としての釈尊」(法身)は永遠であるはずだという考えが生じてくる。こうして仏身論が登場する。当初はこの二身論であった。法身は、法(真理)を身体としている仏であって、これは永遠不変のものだが抽象的である。現実世界に対する働きかけができない。応身は、肉体を具えた生身(なまみ)の体で、始まりがあって終わりがある。現実世界への働きかけ(応)が可能であり、具体的だが有限である。この両者は、全くかけ離れている。その両極端の橋渡しをする存在として、報身(ほうしん)が論じられるようになり、三身論(さんじんろん)が登場する。報身とは、永遠性と具体性を兼ね備えた存在である。
それぞれのグループで個別に考えだされた過去仏や、弥勒などの未来仏、そして阿閦(あしゅく)仏、阿弥陀如来などの十方の諸仏をはじめ、イランなどの西方の神々が仏教に取り入れられ観音菩薩や、阿弥陀如来も仏典に登場するようになる。その傾向は法華経以後も続き、毘盧遮那仏も取り入れられる。こうして多仏・多菩薩の時代を迎えることとなった。
それは、釈尊というブッダを差し置くことでもあり、こうした傾向に批判的な人たちもいたのであろう。『雑譬喩経』(ぞうひゆきょう)の冒頭(大正蔵、巻四、499頁中)には、弥勒如来の登場を待望してなかなか死にきれないでいた高僧を、弟子たちが「弥勒の教えと、釈尊の教えに違いがないのに、今、釈尊の恩を受けていながら、どうして釈尊を差し置いて、弥勒に帰するのですか?」とたしなめるという経典が残っている。
こうした傾向の中で法華経は、釈尊とかけ離れてアトランダムに考え出された諸仏を、釈尊という仏陀を根本に据えて、体系化・統一するということを意図したようである。序品第一と湧出品第十五で、未来仏として待望されていた弥勒菩薩が、『維摩経』ほどではないが、まるでピエロのように扱われているのも、その意図の一環として理解できよう。
その統合は、まず釈尊自身の成道が、四十年ほど前のブッダガヤーでのことではなく、想像を絶する天文学的な遥かな過去であったことを明かすことによってなされる。すなわち「永遠のブッダ」ということだ。
(
ブッダをアートマンみたいに扱っていないか気になるな。
空思想と矛盾しないのかどうか。
寿命はあるみたいだから大丈夫なのかな。
寿命があるから「永遠」じゃないじゃん。
https://twitter.com/nekonomical/status/1338493838021722112 と続き
”
法華経の序盤では大勢の弟子や菩薩、神々が集まるのだ。そこで文殊師利菩薩が弥勒菩薩を痛烈に皮肉るのだ。
— 預言者アライ(ヨライ)さん (@nekonomical) December 14, 2020
弥勒は知ってる人多いと思うけど、次期ブッダとされる偉い人なのだ。しかし弥勒はイランのミトラ神を起源とする架空の人物に過ぎないのだ。『維摩経』『法華経』ではこれを批判しているのだ。 pic.twitter.com/CfJBGXybgv
〔
引用者注:
法華経などでわかるように、大乗仏教はミトラ=弥勒信仰を咎めるわけよ。
対して「仏教を滅ぼす」思想の大本教系は「みろくの世(ミトラの世)」を強調する。
仏教大嫌い思想なので、仏教が「良くない」と言っていることを崇めたり褒めたりするわけだ。
〕
提婆達多(デーヴァダッタ)は教団を分裂させた悪人とされてきたのだ。しかし『法華経』では彼を仙人として登場させ、しかも釈尊が『法華経』の教えを請うため奴隷になって仕えたと語られるのだ。悪人とされた提婆達多もブッダの善き友であり、成仏できるのだ。
八歳の龍女でも成仏できるのかという話が面白いのだ。まず龍なので「畜生」なのだ。そして八歳というのは、当時の価値観で「胎児」とされるのだ。そして女性差別は激しく、夫が亡くなったら妻は火の中に飛び込まなければならない慣習だったのだ。(寡婦焚死、ヒンディー語で「サティー」と言うのだ)
このような背景があった上で、龍女は悟りを持っていることを語るのだ。しかし聞いている方(智積菩薩)は簡単に納得できないのだ。そこで龍女は説得のために男性に変身(変成男子)して、成仏の姿を見せ、大衆を説法し、人々を歓喜させたのだ。菩薩も沈黙してしまうのだ。
善女龍王像 長谷川等伯・画
”
)
釈尊は多くの世界に現れては、それぞれの国土で如来としての自分の名前をそれぞれに名乗る。
(並行世界論じゃん。その発想自体に法華経が影響しているかも。日本語以外の言語の翻訳の歴史についてはよくしらないけど)
こうして、多くのブッダ、如来たちが、釈尊という「永遠のブッダ」の化現(けげん)したものだとして統一した。
(お経がたくさんある理由の説明ね)
釈尊は、「遥かな昔に覚りに達し、量ることのできない寿命の長さを持ち、常に存在し続けている」(本書下巻、92頁)、すなわち、久遠以来ずっとブッダであり、存在し続けて説法している。
「永遠のブッダ」は「果徳」であり、「菩薩行の実践」は「因行」に当たる。そうすると、これは報身のことを示す「因行果徳身(いんぎょうかとくしん)」ということになる。永遠性に根差しつつ、現実とのかかわりを持って菩薩としての働きをなし続ける存在だということである。
以上が、法華経の原型とされる部分の概略である。
(寿命があるなら永遠じゃないじゃん。
久遠実成(くおんじつじょう)=無量無辺の遥かな過去において釈尊が成道していたこと)
衣裏珠(えりじゅ)の譬え(授記品)
(
人名みたいだ。エリ、エリージュちゃん)
p.294から
(大乗非仏論について著者が書いた箇所にて。富永仲基が)
p.294、植木 雅俊〔うえき まさとし〕訳『サンスクリット原典現代語訳 法華経』(下)(の植木の解説より)
”
大乗仏典の文献学的考察において独創性を発揮したことは大いに評価されるが、『法華経』の思想的内容にまでは理解が及ばなかったといえよう。中村元先生が、「思想の研究において文献学のみに頼って研究する人を、私は信用しません」と語っておられた(拙著『仏教学者 中村元――求道のことばと思想』(四三頁を参照)ことを思い出す。
”
終わりに
法華経も、形骸化され、権威の象徴に祀り上げられることもあるかもしれない。
それは、ほかならぬ法華経自身が「正しい教え(正法)に似て非なる教え(像法)」という言葉を用いて懸念していたことである。
(スピリチュアル仏教のことかな?
法華経が懸念していたのが像法だもんな。
スピ信者って法華経が好きっぽいんだよな。憑依できそうな箇所があるでしょ?
まさに像法じゃねーか。いや像法どころか邪教というか外道だな。だって根本が違うからな)
あとがき
p299
本書の出版のために手直しした『法華経』の現代語訳
(梵語があるのとは訳文が違うということだ。
マジで素晴らしい翻訳と解説だったよ!)
メモ自体は以上。
参考資料
※着色は引用者
梵漢和対照・現代語訳 法華経 (上)
https://www.iwanami.co.jp/book/b261280.html
“綿密な校訂作業と正確な読解を通して,サンスクリット原典を平易でこなれた読みやすい現代語に移しかえた画期的達成.
梵漢和対照・現代語訳 法華経 (上)
著者 植木 雅俊 訳
ジャンル 書籍 > 単行本 > 宗教
刊行日 2008/03/11
ISBN 9784000247627
Cコード 0015
体裁 A5 ・ 上製 ・ 628頁
定価 6,050円
在庫 在庫あり
この本の内容
目次
著者略歴
経典のサンスクリット原典を,綿密な校訂作業と曖昧さを残さない正確な読解を通して,読みやすいこなれた現代語に移しかえた画期的達成.深い仏教理解に基づく詳細な注解を付した本書は,仏教の教えを学ぶ最良の書と言えよう.
■編集部からのメッセージ
際立った平等思想を説いていた釈尊(前463~383年)が入滅すると,教団は隠匿的な僧院仏教となって民衆から遊離し,在家や女性を差別するなど次第に保守的で権威主義的傾向を強めていった.紀元前後に興った大乗仏教は,それらの伝統的・保守的仏教を“小乗”(二乗)と貶称し,自らを“大乗”(菩薩乗)と称して,だれでもが成仏できるとする運動を展開した.この小乗と大乗の対立と限界を止揚することで登場したのが『法華経』の「一仏乗の思想」であり,「法華七譬」といわれる見事な譬喩などを通して人間への尽きせぬ信頼と,平等を謳歌した.
19世紀に発見された『法華経』サンスクリット原典写本のヨーロッパでの初の出版(ケルン・南条本)から100年.本書は,複数のサンスクリット・テキストに綿密な校訂を施し原典テキストを確定させるとともに,深い仏教理解に基づいて詳細な注解を付した画期的達成である.8年がかりの一点一画をも疎かにしない原典に忠実な訳業により,曖昧さを残さない,読みやすいこなれた現代語訳がここに完成した.テキスト相互の対象を可能とすべく,サンスクリット原典,鳩摩羅什による漢訳テキストも併記した.
植木雅俊(うえき まさとし)
仏教研究家(東方学院),1951年生まれ.九州大学大学院理学研究科修士課程修了.東洋大学大学院文学研究科博士後期課程中退.86年に東洋哲学文化賞受賞.91年から東方学院で中村元氏の下でインド思想・仏教思想論,サンスクリット語を学ぶ.学位請求論文「仏教におけるジェンダー平等の研究――『法華経』に至るインド仏教からの考察」でお茶の水女子大学から人文科学博士の学位を授与される(男性では初めて).日本ペンクラブ会員,日本印度学仏教学会会員,比較思想学会会員.
著書に,『仏陀の国・インド探訪』(メディア・ルネッサンス,1994年),『男性原理と女性原理――仏教は女性差別の宗教か?』(中外日報社,1996年),『仏教に学ぶ対話の精神』(中外日報社,1997年),『マザー・テレサと菩薩の精神』(中外日報社,1997年),『仏教のなかの男女観』(岩波書店,2004年),『釈尊と日蓮の女性観』(論創社,2005年),Gender Equality in Buddhism(Peter Lang Publ. Inc.,2001年),Images of Women in Chinese Thought and Culture(Dr. Robin Wangとの共著,Hackett Publ. Inc.,2003年)など.
論文に「日蓮の時間意識」(『印度学仏教学研究』,1995年),「Sadāparibhūtaに込められた4つの意味」(『印度学仏教学研究』,1998年),「Saddharma-puṇḍarīkaの意味」(『印度学仏教学研究』,2000年),「法華経のSaddharma-puṇḍarīkaの意味――“最勝”を譬喩する白蓮華の考察」(お茶の水女子大学文教育学部哲学科・平成13,14年度科研費研究成果報告書,2003年)など多数.
”
梵漢和対照・現代語訳 法華経 (下)
https://www.iwanami.co.jp/book/b261281.html
サンスクリット原典現代語訳 法華経 上
https://pub.hozokan.co.jp/book/b532084.html
“
サンスクリット原典現代語訳 法華経
この本に関するお問い合わせ・感想
著者 植木 雅俊 訳
出版社 岩波書店
ジャンル 経典・聖典(学術的)
出版年月日 2015/03/01
ISBN 9784000247870
判型・ページ数 B6・301ページ
定価 本体2,500円+税
在庫 お取り寄せ
この本の内容
『法華経』を正しくわかりたいと願うすべての人々のために,決定版翻訳がさらに読みやすく生まれ変わった.綿密なテキスト校訂,深い仏教理解に基づく詳細な注解,細部まで原典に忠実な翻訳,によって多くの読者の支持を得ている専門書『梵漢和対照・現代語訳 法華経』を一般向けに改訂,手に取りやすくした.
■訳者からのメッセージ
仏教は,これまで信仰としてとらえられてきたようだが,思想・哲学としてとらえ直した時,新たな価値が見出されるのではないかと思う.この『法華経』も,思想として読み直した時,新たな意味が発見されるのではないだろうか.例えば,今日「文明の衝突」が危惧されているが,『法華経』の止揚の論理,寛容の思想は,注目されてもいいのではないだろうか.それは,信仰とは意味が異なったものである.
『法華経』が成立したのは,ガンダーラを含む西北インドであったと推定されることは,既に述べた.そこはインド人のほかに,アレクサンドロス大王の西北インド遠征(紀元前三二七年)以来,定住したギリシア人をはじめ,パフラヴァ人,サカ人などが共存していた.異なる宗教,異なる文化を持つ異なる民族が,対立という文明的試練を超え,相融和して暮らしていた.紀元前二世紀後半には,ギリシア人の王ミリンダ(弥蘭)と,インド人の仏教僧ナーガセーナ(那先)との間で行なわれた『ミリンダ王の問い』(漢訳,『那先比丘経』)と題する東西対話の舞台となった.そうした精神風土の中で,『法華経』の止揚・統合の論理は醸成されたのである.
「差異と融合」「対立と融和」を象徴する譬喩が,薬草喩品に見られる.薬草喩品は,同一の雨水に潤されながら,千差万別の植物がそれぞれの個性を持って同一の大地に生い茂っていることを譬えとして,一仏乗の思想を説明している.ここには,それぞれの差異の故に対立するのではなく,差異を差異として認め合い,尊重しつつ,普遍的視点に立って共存・融和するという視点が読み取れる.平等相と差別相の密接な関係が象徴的に述べられている.「文明の衝突」が危惧される今日,異質なものとの対立を乗り越え,共存するための智慧というメッセージが『法華経』に込められているように思えてならない.
――「解説」(下巻所収)より
目次
『梵漢和対照・現代語訳 法華経』(毎日出版文化賞)を経典を理解したいと願う、より広い読者のために生まれ変わった翻訳本。原典に忠実で正確で読みやすい決定版となりました。上・下全2巻。
はしがき
凡例
第一章 序(序品第一)
第二章 巧みなる方便(方便品第二)
第三章 譬 喩(譬喩品第三)
第四章 信順の志(信解品第四)
第五章 薬 草(薬草喩品第五)
第六章 予 言(授記品第六)
第七章 過去との結びつき(化城喩品第七)
第八章 五百人の男性出家者たちへの予言(五百弟子受記品第八)
第九章 アーナンダとラーフラ、そのほか二千人の男性出家者への予言(授学無学人記品第九)
第十章 説法者(法師品第十)
注
植木雅俊(うえき まさとし)
1951年生.九州大学大学院理学研究科修士課程修了.東洋大学大学院文学研究科博士後期課程中退.91年から東方学院で中村元氏のもとでインド思想・仏教思想,サンスクリット語を学ぶ.2002年人文科学博士(お茶の水女子大学).仏教思想研究家・NHK文化センター講師.
著書:『梵漢和対照・現代語訳 法華経』(2008毎日出版文化賞),『思想としての法華経』(2012ともに岩波書店),『仏教学者 中村元』(2014角川書店)ほか多数
“
サンスクリット原典現代語訳 法華経 下
https://pub.hozokan.co.jp/book/b532085.html
“著者 植木 雅俊 訳
出版社 岩波書店
ジャンル 経典・聖典(学術的)
出版年月日 2015/03/01
ISBN 9784000247887
判型・ページ数 B6・310ページ
定価 本体2,500円+税
在庫 お取り寄せ
『梵漢和対照・現代語訳 法華経』(毎日出版文化賞)を経典を理解したいと願う、より広い読者のために生まれ変わった翻訳本。原典に忠実で正確で読みやすい決定版となりました。上・下全2巻。
凡例
第十一章 ストゥーパの出現(見宝塔品第十一)
第十一章 ストゥーパの出現=続き(提婆達多品第十二)
第十二章 果敢なる努力(勧持品第十三)
第十三章 安楽の住所(安楽行品第十四)
第十四章 大地の裂け目からの菩薩の出現(従地涌出品第十五)
第十五章 如来の寿命の長さ(如来寿量品第十六)
第十六章 福徳の分別(分別功徳品第十七)
第十七章 喜んで受け容れることの福徳の表明(随喜功徳品第十八)
第十八章 説法者に対する讃嘆(法師功徳品第十九)
第十九章 常に軽んじない[のに、常に軽んじていると思われ、その結果、常に軽んじられることになるが、最終的には常に軽んじられないものとなる]菩薩(常不軽菩薩品第二十)
第二十章 如来の神力の顕現(如来神力品第二十一)
第二十一章 ダーラニー(陀羅尼品第二十六)
第二十二章 “薬の王”の過去との結びつき(薬王菩薩本事品第二十三)
第二十三章 明瞭で流暢に話す声を持つもの(妙音菩薩品第二十四)
第二十四章 あらゆる方向に顔を向けた“自在に観るもの”の神変についての教説(観世音菩薩普門品第二十五)
第二十五章 “美しく荘厳された王”の過去との結びつき(妙荘厳王本事品第二十七)
第二十六章 “普く祝福されている人”による鼓舞(普賢菩薩勧発品第二十八)
第二十七章 付 嘱(嘱累品第二十二)
注
解説
あとがき
“
大歓喜トップ >> サンスクリット|トップ >> 音読のための基礎文法 >> ローマ字表記と発音
https://www.mahaananda.jp/sanskrit/maana/p02.html
お読み下さり感謝!
仏教系の仏教破壊者4人。臨済流ボクシング。拳法ならぬ仏法。仏法を拳で語る『臨済録』(岩波文庫と中公版)と小川隆の解説書で魔(境)インドフルネスを打破しよう
Posted on 2023.04.22 Sat 10:30:51 edit
はじめに
要注意な仏教系の仏教破壊工作員と判定法
前置き
入矢義高『臨済録』(岩波文庫)
小川隆による『臨済録』の解説書
中公文クラシックス版 臨済録 柳田聖山
参考資料
はじめに
本記事は、作りかけのまま長らく放置していたので、本に対する感想や考察が、いつ頃の見解かよくわからない記事だ(2020~2021年ぐらい?)。私が見つけた一番の手掛かりは、
シーア兄貴(イラソのアレ来世触手)2021/11/1~12/8と良呟きや記事の保管庫
Posted on 2021.11.12 Fri 20:08:35
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-454.html
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
中国古典や仏典読んでいる人間が砂鉄とかいうゴミの戯言垂れ流すなよ
臨済さん、なんて言ってる?
法身仏は?報身仏は?化身仏は?
不動であれば俗だろうと、聖であろうと、不浄だろうと、浄であろうと同じだろ
その上で外へ希求した種があって、それが開く事で内が育ったんでしょ
極端を廃せは基本
午前4:18 · 2021年11月27日·Twitter for Android
11月27日
外だけをのたまうとゴミみたいな「物質主義者の寝言」になるし
内だけとほざくと汚穢みたいな「すぴりちゅあるの戯れ言」になるの
外だけっぽい言葉であれば「孔子の考え方して、孔子の振る舞いして、孔子のように生活すれば孔子」とあるけど孔子そのものになるわけではないでしょ?でも近づけれる訳
11月27日
内だけっぽい言葉を上げれば臨済さんの示衆だけをみればそれっぽくなるがそれだって、行録で若きし頃の臨済さんがあっての事なわけ
誰だって盗石になるわけではないし、誰だって孔子になるわけでもない
当然、誰だって盗石になりうるわけだし、誰だって孔子になりうるわけ
東洋は基本極端を廃すの
11月27日
しかしね
厳格に線を引いて判断する事はある
それはイスラームに置けるフクム・行為に対しての判断だったり
仏教に置いては破戒についての判断だったりするわけ
だから、わざと判断しきらない所と判断を付ける所があるのよ
本当にお前らは邪宗門の色眼鏡から逃れられないな!いい加減にしてくれ!
(
砂の鉄については「ツイッターで受けそうなことを言うのが上手い」という印象しかないな。
処士さんがリツイート
砂鉄
@satetu4401
11月26日
人間というものは肉体の内側ではなく外側に存在しているものだ
多くの科学者が人間を見つけようと脳を研究し、男女の違いさえ見つけられず困惑しているが、それは探す場所がてんで間違っているからに過ぎない
[中略]
臨済は
「物質=悪または劣位 vs 非物質=善または優位」思想ではない。
「物質=肉体=仮 vs 非物質=仏(性)=真」思想でもない。
大乗の空思想の影響下だから当然。
岩波版の(上記とは別の箇所の)註釈(p.84)より、
(「境智依(きょうちえ)」について)
注二
照らし出される対象と、照らし出す智慧の光という相対関係。禅ではその相対性を消し去るか(例えば「境と智と倶に忘ず」)、またはそれを一体化する(例えば「境と智と二なし」)ことを理想とする。「心と境」という立て方も同じ。
(
臨済禅は二元論思想ではない)
”
https://twitter.com/aoJvqLcHOrs7UWg/status/1464317815846887424
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
しかしね
厳格に線を引いて判断する事はある
それはイスラームに置けるフクム・行為に対しての判断だったり
仏教に置いては破戒についての判断だったりするわけ
だから、わざと判断しきらない所と判断を付ける所があるのよ
本当にお前らは邪宗門の色眼鏡から逃れられないな!いい加減にしてくれ!
午前4:39 · 2021年11月27日”
シーア兄貴の一連の呟きの開始が「午前4:18 · 2021年11月27日」、
終わりが「午前4:39 · 2021年11月27日」。
で、この後に私が色々書いた。
「岩波版の(上記とは別の箇所の)註釈(p.84)」なので、すでにこの箇所のメモは終わっていたはず(メモをコピペした気がするので)。
この時点では一回目は読み終えていた気がする(一回目なのだがその一回目が何度も往復したはず)。
「2020~2021年」と書いたが、2022年に岩波版の再読終了かもしれない(岩波版は再読したはずなんだよな)。読む時は少しずつだし、読まずに放置することもあったので、なかなか読み終わらなかったはずだ。
冒頭の「要注意な仏教系の仏教破壊工作員と判定法」「前置き」は読書メモよりも後に作成した。
読書メモの個所での資料としての引用箇所はメモ作成時のものと、後から足したものがあるはず。感想や考察も後から足したのもあると思う。まあ、詳しい年代を特定してもあまり益はなさそうだからある程度特定できたからいいや。
今回は私が何度も読んだ古典を紹介する。
『臨済録』は岩波文庫と中公版を合わせて5~8回は読んでいる(それぞれを5~8回ではなく、この2冊を合わせた回数)。場所によっては10回以上。
書き下し、注釈、現代語訳、原文(白文)を何度も往復するので必然的に読む回数は増える。
これだけ読んでも新たな発見があるのが古典の凄さだ。
要注意な仏教系の仏教破壊工作員と判定法
一番大事なので一番最初。特に初学者が工作員の本を掴まされると最悪だからだ。
要注意人物が四天王になった。
鈴木大拙と高楠順次郎と朝比奈宗源と有馬頼底。
世界連邦派の仏教を耶蘇化させるための憑依戦術系の工作員に注意。
著者の経歴はどの本でも調べようね。
「支配層側ではあるが、学問的な個所は正しいのでは?」と言われそうなので
「それあなたに判定できる? 自分が属する勢力に都合が良い解釈が書かれている可能性が高い」と言っておく。
渋沢栄一や安岡正篤(両者とも人脈がアンチ論語)の論語解釈なんて信用できるか?
無量寿経の中の和顔軟語というのを、愛にむりやりすり替え、和顔愛語と改竄した経典を広めたグループの一員が高楠順次郎。
高楠順次郎はエスペランティストで、1906年に黒板勝美らと共に日本エスペラント協会の結成に参加し、東京支部長。
高楠順次郎博士編集の『大正新修大蔵経』(全百巻)では「和顔軟語」となっているが、欄外注に「軟=愛」とある。
仏教で愛は渇愛であり執着だから悪。
現在比較的入手しやすい『無量寿経』では「和顔愛語」。高楠版の影響だろう。人脈見たら黒でしょ。
仏典もできる限り昔に出たものを読まないとダメ。
仏教は神秘主義という完全に間違ったデマを広めた神智学系の鈴木大拙と、
エスペラントの高楠順次郎がからむ本で仏教を学んではいけない!
仏教経典改竄を平気でやるヤソ勢力。
臨済録の注釈や解説書で大丈夫そうなのを探していたら、要注意禅僧2人、朝比奈宗源と有馬頼底を見つけたので注意喚起しておく。
朝比奈宗源
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%AF%94%E5%A5%88%E5%AE%97%E6%BA%90
”朝比奈 宗源(あさひな そうげん、1891年(明治24年)1月9日 - 1979年(昭和54年)8月25日)は、臨済宗の禅僧。
〔略〕
静岡県清水市(現在の静岡市清水区[1])出身。鎌倉・円覚寺住職。臨済宗円覚寺派管長。水戸黄門、大岡越前など、時代劇の題字を手がけたことでも知られている。
32歳の時に日本大学宗教専門部(現存しない)卒[2]。京都妙心寺、鎌倉円覚寺で修行。1942年円覚寺貫主。1945年円覚寺派管長。1963年に賀川豊彦、尾崎行雄らと世界連邦運動推進のため世界連邦日本仏教徒協議会(世連仏)を結成、会長となった。
教育では、1934年~1942年まで横濱専門学校(現神奈川大学)で倫理学講師を担当、高歯の下駄で鎌倉から通い横濱専門学校の多くの学生から慕われる。1936年2月26日朝(二・二六事件)、一時間目の授業に教壇に立つや「今朝、軍の暴徒が首相始め高官達を襲って暗殺したらしい。こんなことを許していては日本は滅びてしまう」と横濱専門学校の学生に言ったと伝わる。 その後、駒澤大学教授。
大戦中、中国や南方で従軍布教。
1945年、広島に原爆が投下されるや、木戸幸一内府や平沼騏一郎らに終戦決断を迫った。
1974年、生長の家開祖・谷口雅春らに呼びかけて「日本を守る会」(のちの日本会議の前身の一つ)を結成。伊勢神宮に参拝した際に「世界の平和も大事だが今の日本のことをしっかりやらないといけない」という天啓を受けたためという。
〔中略〕
著書
〔中略〕
訳注
・ 義玄『臨済録』訳註 岩波文庫、1935、のち改版、一穂社
・圜悟『碧巌録』訳註 岩波文庫(上下)、1937、のち改版
〔中略〕
最終更新 2019年11月29日 (金) 21:18 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
” (着色は引用者)
臨済録の注釈書を出しているから要注意!
こいつから倫理学なんて教わりたくないな。
生長の家(「仏教を滅ぼせ」な大本教系)と仲良しな時点で坊さん失格。
もし今も生きていたら絶対に「魔インドフルネス」(戒律=非殺生戒を抜いた危険物)推進してる(笑)
禅僧の朝比奈が日本会議の前身の一つの結成を鬼崇拝系(アンチ仏教)の生長の谷口に呼びかけつつ、世界連邦推進なのに注目。
「ニッポン守れ」(日本会議)と「ニホン無くせ」(世界連邦)は矛盾しない。
ニホンでなくニッポンで呼ぶ権力者は高確率で工作員。
ニホンは国名。ニッポンは売国奴の利権名。
撥音も促音も拗音も日本語の音韻として現れるのは平安時代以降なので国号が決まったとされる天武・持統期(飛鳥時代の西暦673-697年)にニッポン読みは実在しない。なので国号はニホンが正しい。国号の読み方を外国語由来で決めようとする時点で工作員確定。
支配層はポンと読め運動を起こしたが、ホンと読め運動は起こさなかった。ホンが普通で多数派だからだ。
戦時体制下では「ニッポン」読みへの圧力が高まった。
鬼崇拝系の和風ヤソなんて臨済ボクシングでボコられる対象じゃん。
朝比奈が水戸黄門の題字を描いた。水戸は南朝崇拝つまり今の天膿を肯定。
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/490744226276065280
”子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子)
@kitsuchitsuchi
返信先:
@yaginuma_sanさん
@yaginuma_san
@lanekota
水戸学=南朝天皇崇拝。
徳川光圀(水戸黄門):神仏分離。神主を京に派遣。楠木正成を讃える墓を建造(後の湊川神社)。ワインを愛飲。黒人家臣。名君伝説が流布したのは江戸末期~明治期=南朝崇拝の宣伝。茨城県が舞台のアニメの傾向が予測可能。
午後3:25 · 2014年7月20日”
https://twitter.com/antiSDGs_WFM/status/1213623663200571393
”世界連邦&日本会議の朝比奈宗源が標題書いた水戸黄門も各藩の争いを仲裁する国際権威の話しですよね。
過度な争いに晒されると、単純な勧善懲悪に流されちゃうんだよね。でもそれも狙い。藩が団結しないよう国替え仕掛ける幕府にも突っ込めよ笑
偽りの世界機構構築戦争はもうオワコンにしませんか?
午前9:50 · 2020年1月5日·Twitter for iPhone”
https://twitter.com/kikuchi_8/status/823188304191361025 とその前後
”菊池
@kikuchi_8
2017年1月21日
九州攻めの折に秀吉が出した「天正十五年六月十八日付覚」という文書に「大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事」とある。宣教師が奴隷貿易に関与していた事が分かる。宣教師は日本人を支那や南蛮、朝鮮に売り飛ばしていた。追放するのは為政者として当然だ。
伴天連追放令には「其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、前代未聞候」とあり、神社仏閣が破壊されていた事が分かる。「國郡在所知行等給人に被下候儀者、當座之事候」は長崎を勝手にイエズス会に寄進して教会領にされていた事を受けていると思われる。神社仏閣の破壊と領土侵略である。
2017年1月22日
孔子は「志士仁人、無求生以害仁、有殺身以成仁」と言ったし、達磨は「無功徳」と言った。司馬遷は「天道是か非か」と嘆いたが、東洋的伝統では見返りを求めず道理を貫く事を重んじる。義士はたとえ刑場の露と消えても一片の悔いも残さない。キリスト教の伝統に由来する「沈黙」のモチーフとは異質だ。
形而上学的断定は安定しない。人間の固定的な分別・判断より現実の方が幅が広く多用でかつ常に変化しているからだ。「断定」は実は安定していない。常に動揺している。よって、何かを断定した絶対的教義への信仰が揺らぐのは当たり前なのである。逆に「囚われない」「こだわらない」は安定している。
「沈黙」のモチーフそのものに関して一言。暴力の脅威に直面しなくても形而上学的な断定に基づく「信仰」は常に動揺にさらされている。形而上学的断定は「こだわり」の立場である。こだわっても現実は多様で常に変化しているので完全に我が物とする(己の認識枠組に捉えきる)事はできない。
形而上学的断定とは常に変動する現実を己の認識の枠組みに完全に捉えきろうとする固執の立場である。固執は無常な現実と矛盾するから、原理的に言って必ず動揺するのである。無常を無常と知り、こだわらないようにできればかえって動揺が無い。何が起きても悠然と対処する者は断定・固執しないと思う。
「神は助けてくれなかった」と嘆くのは「こだわり」「執著」の立場である。そういう雑念妄想をきっぱり捨て切ってからりと晴れた心境になれば、それが「救い」ではないかという気がする。「救い」への拘りすら捨てる。形而上学的な断定をあれこれ下して現実との齟齬に悩み呻吟するのは自縄自縛である。
2017年1月23日
無学祖元は元兵に斬られんとする時「珍重大元三尺劍 電光影裏斬春風」と詠んだ。「斬るなら斬れ。電光が春風を斬るが如し」と。我が身に執着する普通の人間は中々ここまで至れないから悩み苦しむのであるが、あくまで一つの理想像として「沈黙」のキリスト教的前提を相対化するには十分な逸話である。
菊池
@kikuchi_8
返信先:
@kikuchi_8さん
無学祖元は鎌倉時代に来日し北条時宗の帰依を受けた南宋の禅僧で、円覚寺の開山である。円覚寺の住職だった朝比奈宗源は世界連邦運動を推進し、日本会議の前身「日本を守る会」を設立。頑として元兵に屈しなかった無学祖元とはえらい違いだ。憑依型戦術の魔手は様々な所に忍び寄っている事が分かる。
午前0:19 · 2017年1月23日·Twitter Web Client”
有馬頼底
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E9%A0%BC%E5%BA%95
”有馬 賴底(ありま らいてい、1933年2月10日[1]- )は、日本の禅僧。臨済宗相国寺派管長。初名は有馬永頼。道号及び現在の戸籍名は賴底。法諱は承黙。大龍窟とも号する。久留米藩主有馬家(赤松氏流)の子孫。東京市中野区出身。幼稚園時代は明仁上皇の学友であった[2]。
〔略〕
1933年、有馬本家当主でありまた中央競馬の競走名である「有馬記念」に名を残す有馬頼寧の従兄弟にあたる分家有馬正頼男爵の次男として東京で生まれる。正頼は有馬頼多と三番目の妻英子(菊亭公長姉)の子。母は旧沼津藩主水野家当主水野忠亮子爵(水野忠敬長男)の娘・明子。両親は賴底が8歳のときに離婚。1941年、大分県日田市の岳林寺で得度した。
1955年、京都臨済宗相国寺僧堂に入門し、大津櫪堂老師に師事。1968年、相国寺塔頭大光明寺の住職となる。1971年から相国寺派教学部長。1984年、相国寺承天閣美術館設立にあたって事務局長となり、1995年に館長となった。
1985年、京都仏教会(京都府仏教会と京都市仏教会が統合。初代会長:青蓮院門主東伏見慈洽、初代理事長:清水寺貫主松本大圓)設立により常務理事[3]。1988年、京都仏教会理事長に就任した。
1995年、臨済宗相国寺派七代管長(相国寺一三二世)に就任[4]。相国寺、金閣寺(鹿苑寺)、銀閣寺(慈照寺)の3か寺の住職を兼ねる。
人物
・宗教者「九条の会」の呼びかけ人である[5]。
・ MKタクシーの青木定雄の葬儀に参加している[6]
・ 朝鮮民主主義人民共和国とも親しく往来している。在日本朝鮮人総聯合会の式典にも出席し、『故金正日総書記の指導のもとに発展を続ける朝鮮』を讃えた[7]。2016年11月に仏教界代表団として4度目の訪朝をしている。2017年12月24日に大阪府で開催された金正恩著作研究会(北朝鮮・チュチェ思想研究会)結成集会に参加した。『金日成・金正日主義をかかげチュチェ革命偉業を導く金正恩委員長の思想と業績』に学ぼうとする日本各地からチュチェ思想研究者や朝・日友好人士など各界各層の100余人が参加した結成集会で京都の臨済宗相国寺派管長である有馬の著作研究会結成集会の成功を祈念するメッセージが発表されている[8]。
税務問題
大阪国税局の税務調査により、2009年からの3年間で約2億円の所得の申告漏れを指摘され、修正申告した[9]。所得内容は揮毫料で、使途は文化財購入で個人的消費はしておらず、お金もないと主張している。しかし、相国寺・金閣寺・銀閣寺の三つの宗教法人から受ける給与だけで年間所得は3000万円超だと報道された[10]。
著書
〔中略〕
『「臨済録」を読む』講談社現代新書、2015年
〔中略〕
最終更新 2021年2月13日 (土) 05:56 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
” (着色は引用者)
臨済録の解説書を出しているから要注意!
平成天膿の学友かつ、親戚に有馬頼寧(日本中央競馬会第2代理事長。有馬記念の由来)がいる。天皇杯と合わせて考えると、競馬も天膿家の利権の一つなのだろう。ウマ娘がやたら流行った理由の一つだろう。競馬はギャンブル利権。
有馬は九条の会の呼びかけ人かつ、北朝鮮(昔は高句麗)を往来できるので赤い右目側だろう。
チュチェ思想は臨済宗的に正しいの?
こいつも臨済ボクシングで以下略。
「MKタクシーの青木定雄の葬儀に参加している」の箇所が気になったので調べたら、MKタクシーの青木定雄の本名は兪奉植。
https://twitter.com/mkmogura/status/129861625112035329
”村手 さとし
@mkmogura
東国=北朝=高句麗・・・西国=南朝=百済=田布施町
午後7:06 · 2011年10月28日·Twitter Web Client”
https://twitter.com/mkmogura/status/1087296167799472131 と続き
”村手 さとし
@mkmogura
新羅=慶尚道、米軍に使われてるのが、韓国のここの人。
天皇は、韓国の百済。
百済系と新羅系が混じってるのが日本の右翼。
朝鮮右翼ってのはこのこと。元公安調査庁の奴の本で暴露されてる。ま、そいつの裏側は高句麗、北朝鮮=聖徳太子のお師匠さん、に属するのだから笑うっきゃない。
引用ツイート
たろうさんさん
@yama_taro_san
· 2019年1月20日
センター試験は今年で終了。最後っ屁?
#新羅 #アイヌ twitter.com/toyamatsu47/st…
午後7:29 · 2019年1月21日·Twitter for iPhone
〔引用者補足:
2019年度センター試験の日本史Bにて、新羅などとあることについて。
2019年度センター試験 日本史Bの問題|インターエデュ
https://www.inter-edu.com/files/center/2019/japanese-history-b.pdf
”九郎:
渡来人といえば, 京都府の太秦(うずまさ) は, 渡来人の秦氏に由来していますね。
静:
神奈川県の秦野(はだの)なども秦氏に関係する地名だとの説もあるし、渡来人は関東にも多く移住していたようだね。その活動は東北にもおよんでいて, 天平年間に陸奥守として金を献上した百済王敬福は, 倭国に亡命した百済王族の子孫だよ。また, 869年に陸奥国で大地震と津波が発生したときには, 貿易のため太宰府に滞在していた新羅人たちが, 陸奥国に移住させられている。瓦造りなどの技術を復興に役立てることが期待されたんだ。
九郎:9世紀の新羅人は東アジアの国際貿易に乗り出していましたね。
静:
当時, 日本は新羅と対立し, 国交も断絶に近かったけど, 一方で©新羅人の活動はめざましく, 日本を頻繁に訪れていた。唐でも, あちこちの都市に新羅人街ができていて, ゆかりの地名が今に残る例もあるそうだよ。”
※ルビは( )で代用。
百済強調だけでなく新羅も強調しだした。高句麗は登場しない。
九郎と静なので源氏優遇なセンター試験。源氏はさかのぼると皇族。
〕
村手 さとし
@mkmogura
2019年1月21日
日本が右翼化したことで、本来、高句麗、百済の勢力内のセンター試験で、新羅、秦〔これもそっち、景教=キリスト教〕が出てきたと。
ちと、危険信号。
”
〕
村手 さとし
@mkmogura
·
2019年1月21日
返信先:
@mkmogura
さん
日本が右翼化したことで、本来、高句麗、百済の勢力内のセンター試験で、新羅、秦〔これもそっち、景教=キリスト教〕が出てきたと。
ちと、危険信号。”
古典だとウィキに訳注や関連書籍一覧が載っていることがあるので便利。
著者のページがあるなら経歴をすぐに調べることもできる。
臨済録
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%B8%88%E9%8C%B2
ブッダ「女性と目も合わせないニートになれ」『だから仏教は面白い!』『仏教思想のゼロポイント』『阿頼耶識の発見』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-154.html
”村手 さとし @mkmogura 2014年2月24日
飯を作らず、ほーけています。
神道を作った時、仏教界が神道に準じるため、仏教のなかをキリスト教化するための聖典として扱ったのが法華経です。
そして法華経原理主義は仲裁役、ヤクザになりました。日蓮主義者、国柱会とかです。創価学会も元はそこです。
愛語など仏教もキリ教化してます。
村手 さとし @mkmogura 2012年7月8日
@lanekota 今さら、やばいとか気にしないよ。つまり、すごい数なわけよ。例えば寺も、すでにキリスト傘下であって、愛語という言葉を全国の寺で使う。うちの寺もよく出てくる禅宗なのにね。これは無量寿経というなかの和顔軟語というのを、愛にむりやりすり替えたわけ。
浄土三部経 講義 無量寿経
http://www.geocities.jp/tubamedou/Joudo/JoudoKaisetu/Muryouju01/JoudoKaisetu00.htm
” 『和顔軟語先意承問』:和やかな顔、軟らかい言葉、先に相手の意を承けて問いかけること。”
仏教における「愛」について
http://www2s.biglobe.ne.jp/~posteios/PROJ_C023.htm
” 愛という言葉が仏教において否定的な概念ならば、『無量寿経』の「和顔愛語」という仏典の言葉の「愛」は、一体どう解釈したらいいのだろうかということです。ちなみに、高楠順次郎博士編集の『大正新修大蔵経』(全百巻)に当たってみると、「和顔軟語」となっています。欄外の注には、「軟=愛」と表記されています。しかし、現在流布している比較的入手しやすい『無量寿経』のテキストや資料には、「和顔愛語」となっています。いったいいつから「軟」が「愛」に変わったのでしょう?そして、そのような経緯は、西洋文化の交流と関わりがあるのでしょうか。
そこで、手近にあった仏教思想研究会編の「仏教思想1愛」平楽寺書店(1975年初出・1992年第4刷)を参照してみようと思います。
同書の目次を見てみますと、参考となったり、興味を引かれる論文に次のようなものがありました。
はしがき
第一章 「愛」の理想と現実 中村元
第三章 初期大乗経典にあらわれた愛 藤田宏達
これらの章を抄出しながら、簡単なコメントを整理するということで、「仏教における『愛』」についてまとめてみたいと思います。
「はしがき」には、中村元氏が、次のような提言をされています。
まず、西洋の近代思想が、抑圧的な中世の教権に対する反抗として人間の愛を正面きって押し出してきたことがあげられます。また、アジアでも、例えばインドでは、六派哲学に対する反抗として愛(preman)が強調されガンディーに至るまで、愛は人 間の最も尊ぶべきものと考えられています。日本でも、儒学の「仁」「礼」を中心にして考えていたのに対して伊藤仁斎が愛がより根源的なものであると主張しています。
さらに、現代は日本もそうですが、世界の精神的状況は愛を重要な価値基準としています。
これに対して仏教学者は、仏教は愛に対して抑圧的・禁止的であると考えてきました。すると仏教は世間の風潮に敢然と抗争すべきものとなってしまいます。
しかし、最近、日本の仏教系の学園には愛の字を用いたところが出てきています。(思いつくだけでも、相愛、仁愛などの真宗系の学校名があげられます)もし、そういう傾向が何の根拠もないままに進められたというのなら、世の風潮におもねったと いうことになります。また、もし仏典に根拠のあることならば、はっきりとした自覚をもって積極的に推進すべきでありましょう。
このような氏の指摘には、私たちも大変興味をそそられます。しばらく、仏教学者の意見に耳を傾けてみましょう。
「第一章 「愛」の理想と現実」の内容
東洋の諸国においては、仏教の中心の徳として慈悲が説かれています。愛は、それと通じる時もあれば、異なることもあります。ここでは、全般的に仏教においてどのように愛が説かれていたのかが論じられます。
愛という言葉には様々な使いかたがあるようです。愛 piya、priya、親愛 pema、preman、欲楽 rati、愛欲 kama、渇愛 tanha、trstna などです。私は、前三つは、その対象によって分類され(自己、他者、特定の個人)、後二つは、その内容によって分類され(性的愛、盲目的衝動的執着の愛)ているように思われました。
仏教では、この渇愛が人間の愛の本体であり、苦悩の源泉であると考えられます。そして、この苦悩から慈悲の心が生まれるのです。自分の苦悩を本当に知る者が、他者の苦悩にも共感できるからです。そして、この慈悲が他者に対する無条件の究極の愛の姿として「無縁の慈悲」、つまり私が誰かに何かをしてやるという三つの条件を全く意識しないで他者を幸せにするものと説かれました。
仏教の慈悲には人間的な愛の純粋性と共通するものがあります。それで漢訳仏典では、慈悲を愛と訳すことがあるというのです。これで、先の疑問も少しは晴れるというものです。しかし、慈悲は愛と全く同じという訳ではありません。愛が宗教的な自 覚で深められて慈悲となるからです。慈悲は、愛憎という対立を超えた、見返りを求めることのない絶対の愛の姿であり、しかも一切の生きとし生けるものにまで及ぶことを理想としています。
ところで漢訳仏典の中にある愛には、様々な意味が与えられており、全く反対する概念がこの愛の一語で使われています。愛によって憂いが生じ、苦悩が生じることもあれば、心の喜ぶことであるとされ修めるべき徳とも見られているのです。
特に人間関係において、やさしいことばをかけること、愛語が尊ばれます。それはやさしく言うこと、愛情こもったことば、やさしいことば、親愛のことば、親しみのある言葉で話すこと、あたたかい心のこもった言葉をかけることです。そこから、人びとに対してはやさしいことばをかけよ、という教えとなります。この場合、もちろん、愛欲の愛 kamaや渇愛の愛 tanhaというような自己中心的な愛と異なり、慈悲による利他の愛につながるものです。
こういう慈悲の愛から出た言葉が愛語です。ある場合には、互いに愛し合うことという趣意で、愛語を相愛と訳されることもあります。
こうして学んでみると、仏教の中で使われた愛の言葉は、そのまま慈悲になるのではなく、異なる性格をもつものです。愛は、一、恋愛・性愛ともに欲をともなうもの、二、独占しようとするもの、三、限界性があるもの、ということです。 しかし、愛は慈悲に通じるものであり、やがて慈悲へと深まっていくきっかけになるものといえるでしょう。
「第三章 初期大乗経典にあらわれた愛」の内容
初期大乗経典の中で代表的な経典とされるものについての論究がこの章です。原典の文献を読み込んでいるので、少し漢字が多くて難しく感じるかもしれませんが、ここではその中からいくつかを取捨選択して紹介いたします。するとそこに初期大乗の 特徴が見えてくるようです。
まず、初期大乗経典では、愛のつく言葉は否定されるべき執着としての意味で用いられています。「愛着・愛欲・愛垢・愛縛・愛染・渇愛・貪欲・欲愛・染愛」などです。『無量寿経』の五悪段には、愛欲が六回現れます。
こうした愛に対して初期仏教では、愛憎を捨てて離れることが説かれますが、大乗仏教ではこうした愛憎を超越するのが大乗菩薩の実践だと説かれます。つまり、無くすのではなく、それにとらわれない生き方を求めるということです。大乗では、愛憎にとらわれるのは分別に振り回されているからだと説くようになるのです。
例えば『無量寿経』では、極楽世界に生まれた菩薩の姿を「等しく憎愛なし」と示しています。『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』(異なる時代の翻訳)では、「憎愛を遠離す」と訳されています。また、異訳『無量寿荘厳経』では、「愛なく著なし」と訳されています。
しかし、初期大乗経典には、愛を肯定的に見る視点も色々と見いだされます。それは、人間関係を説く場面では愛は積極的に認められています。先に述べたように、愛の深まった姿が慈悲ですが、仏の衆生に対する慈悲を親の子に対する愛という比喩で表現される経典が『法華経』『維摩経』などに見られます。『無量寿経』には、菩薩が衆生のために不請の友(頼まれなくとも相談を解決してあげるよき友)となり、御法(おみのり)を説き聞かせることは「純孝の子の父母を愛敬するが如し」と、先の比喩とは逆に子の親に対する「愛敬」という表現がとられています。
また、五悪段には父子・兄弟・夫婦が「恩愛」をもって思慕し、お互いに「相い敬愛」すべきことが説かれます。さらに、「聖を尊び、善を敬い、仁慈もて博愛」すべきことが説かれます。別の場所では、世間の帝王が、「慈恵ありて博く施し、仁愛ありて兼ね済う」ことが説かれております。
ここでも、仁愛学園の名前が仏典に出ていたことが知られますね。
さらに愛という言葉が肯定的に使われている例として、仏、善知識、菩薩、法、菩提などに対する積極的な使用例があります。『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』には、「若し彼の仏の名を聞くこと有りて、能く一念喜愛の心を生ぜば」という言葉があり、これは親鸞様の『お正信偈』の中にもあるので聞き覚えがあると思います。
すこし漢字が異なりますが、同じ意味の使い方として、仏・菩薩が衆生に慈悲をかける姿を『無量寿経』では、「如来は、無蓋の大悲を以て、三界を矜哀す」という言葉があります。これは、法事の時の表白の中でよく聞くのではないでしょうか。
最後になりますが、親鸞聖人における愛ということに興味をお持ちの方もおられると思います。実は、同書では、早島鏡正博士が「親鸞における愛」という章において、親鸞聖人における愛を幅広く論じておられます。ここでは、紙数がないので、私の視点で書かせてもらいます。
『親鸞聖人著作用語索引(二巻)』によると、「愛」は執着という否定的な意味で使われる「恩愛」「愛憎」(『ご和讃』)という表現と同時に、「信楽といふは、・・・・楽は即ち是れ・・・愛なり」(『教行信証』「信巻」)、「世を救ひ人を度す慈を極す愛を極む」(同「化身土巻」)などの肯定的な表現の双方が見られます。しかし、「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑し」(『教行信証』「信巻」)のようなお言葉が比較的耳にする機会が多いせいか、親鸞聖人においては愛は否定的に用いられているかのような印象をお持ちの方も少なからずおられるのではないかと思います。
以上、見てきたように、仏典においては「愛」という言葉は、様々な意味に用いられているようです。
” ※着色は引用者(この禅の記事って「※着色は引用者」ってつけ始めた頃より前か後かわからないな。どれだけ前から放置していたんだろうな)
(例外的に愛を善い意味で使っている実例をとりあげているのであって、
基本的に愛が仏教では執着だから悪なのは変わらない。
軟を愛に変えるのは完全に経典の改竄、改悪。
無量寿経というなかの和顔軟語というのを、愛にむりやりすり替え
和顔愛語と改竄した経典を広めたグループの一員が高楠順次郎。
高楠順次郎はエスペランティストで、
1906年に黒板勝美らと共に日本エスペラント協会の結成に参加し、東京支部長。
1919年に日本エスペラント学会が設立された際は、当初は評議員として参加。
要は世界連邦派の仏教を耶蘇化させるための憑依戦術系の工作員。
神戸の裕福な高楠家の婿養子となり、その援助で英国に留学、オックスフォード大学でM.ミュラーに師事し、その後、ドイツやフランスにも留学しているあいだにスカウトされたのだろう。
親鸞の浄土真宗に耶蘇教が混ざっている説を想起。
仏典もできる限り昔に出たものを読まないとダメだね)
” ※着色は引用者
前置き
https://twitter.com/Chimaera925/status/1192729269861941248
”峨骨
@Chimaera925
精神なんざ臓器の一部だしな。呼吸が浅くなれば精神が弱まるし、精神が弱まれば呼吸が浅くなる。人間、飲み食いしなくても数日は生きられるが、息が出来なくなりゃすぐに死ぬ。
午後6:03 ・2019年11月8日”
(精神は臓器の一部。臓器という大きなくくりの中に精神が含まれる。名言だな。
ふと思ったのだが、
物質と霊魂を対立させるとする。
霊魂が肉体に捕らわれることはありうるのか?
霊魂って物質を透過するんじゃないの?
肉体は特別製の、すり抜け不可能な素材なのか?
「肉体は魂の墓場または牢獄」思想だと魂は肉体の素材を透過できないらしい。
https://twitter.com/aoJvqLcHOrs7UWg/status/1362822986370269185 と続き
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
イデア論の実相・仮相の議論をつぶすのは簡単で「頭をぶつけたら痛い」それだけなんです
頭ぶつけて痛いと思った自分は普遍で別に精神で誤魔化そうとも痛いものは痛いんです
痛いと思った精神と肉体は言葉・表現上では何とも言えようが痛いで共通なの
こういう詭弁を坊さんはひっぱたいて説いた訳です
午前2:54 ・ 2021年2月20日
よーは「ひっぱたかれていてーっと思ったおめーに実も仮も糞もあるか、ど戯けっ!」というのが禅僧的な説法なわけです
ところが形而上となれば、形而下ではないので実相・仮相というのが出てくるのよ
だから、神学や形而上学の議論を形而下に持っていったらダメだけど、その禁忌を破戒してあるのが現代”
)
私の仏教学習は竜樹あたりで止まっているのだが、「これの前に、これを学んでおこう」と考えすぎるとまったく学習が進まない。
今回は大乗仏教のうち、禅の本として超有名な古典である 『臨済録』(の注釈)のメモ。
臨済録のすごさは、臨済が主役なのに、臨済より上の存在である普化を登場させていることだな。
これにより臨済の神格化を防いでいる。
臨済の教えにも執着したらいけないからね。
禅の坊さんの血の気が多すぎで突然殴り合いを開始するので爆笑不可避(笑)
言葉(仏教の教えを含む)への執着を断てと言葉で言ったら駄目だからなんだけど笑ってしまう(笑)
禅の入門コースは、
①小川隆『臨済録-禅の語録のことばと思想』岩波書店〈書物誕生〉
②臨済録の注釈書(入矢版=岩波文庫か、柳田版=中公版。白文、書き下し)
がオススメ。でないと誤読する可能性が高い。
朝比奈宗源と有馬頼底は避けようね!
入矢義高『臨済録』(岩波文庫)
※禅僧って経典読んでも無駄みたいなこと言ったりするけど、
禅僧はインテリなのを意識してないと誤解するよ。
さんざん勉強している人が言っているので、
本当に全く経典を読んだりして学ばなかったら悟りからほど遠いままだよ。
ありのままといって、本当に何もしなかったら、そりゃあ何も変わらないままだよ。
「ありのままでいいんだよ」って自分で自分を受け入れて優しく抱きしめるのももちろん大事だよ。
臨済(?-876)
(九世紀。日本の禅宗のイメージにより
臨済禅がかなり早期に思える)
p9から 序
p.10
かつて黄檗の山で、したたかに棒で打たれ、
大愚の脇腹を、見事に拳骨で一突きした。
くどくどしい婆さま〔の手ほどきを受け〕、
寝小便たれの小僧〔と罵られた〕。
(ここだけ読むと武術の伝書での著者あるいは
著者の師匠についての説明に思える(笑))
(
https://twitter.com/unajiperopero/status/553655757145530368
”うなじ
@unajiperopero
2015年1月10日
臨済録の冒頭部分の臨済義玄の略歴紹介みたいな部分で、
禅風とか説法の様子とかを差し置いて
「黄檗にめちゃくちゃ殴られたり、
大愚の肋にいいパンチ入れた人です」みたいなこと真っ先に書いてあるの脳筋っぽくて好き”
)
『臨済録』入矢義高注 岩波文庫 | 岡野岬石の資料蔵
https://okanokouseki.com/%E3%80%8E%E8%87%A8%E6%B8%88%E9%8C%B2%E3%80%8F%E5%85%A5%E7%9F%A2%E7%BE%A9%E9%AB%98%E6%B3%A8-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB/
”示 衆(じしゅう)
■「諸君、三界(凡夫の迷いの世界)は安きことなく、火事に会った家のようなところだ。ここは君たちが久しく留まるところではない。死という殺人鬼は、一刻の絶え間もなく貴賤老若を選ばず、その生命を奪いつつあるのだ。君たちが祖仏と同じでありたいならば、決して外に向けて求めてはならぬ。君たちの〔本来の〕心に具わった清浄の光が、君たち自身の法身仏なのだ。君たちの〔本来の〕心に具わった、思慮分別を超えた光が、君たち自身の法身仏なのだ。また、君たちの〔本来の〕心に具わった、差別を超えた光が、君たち自身の法身仏なのだ。この三種の仏身とは、今わしの面前で説法を聴いている君たちそのものなのだ。外に探し求めないからこそ、このような〔すばらしい〕はたらきを具えているわけだ。経論の専門化は、この仏の三身を仏法の究極としている。しかし、わしの見地からすれば、そうではない。この三身は仮の名前であり、また三種の借り物なのである。古人も、『仏身の区別は仏法の教理によって立てたもの、また仏の国土はその理体によって設定したものだ』と言っている。法性の仏身とか、法性の仏国土と言っても、それは明らかにちらつきなのだ。諸君、君たちはそれをちらつかせている当体を見て取らねばならない。それこそが諸仏の出どころであり、あらゆる修行者の終着点なのだ。君たちの生ま身の肉体は説法も聴法もできない。君たちの五臓六腑は説法も聴法もできない。では、いったい何が説法聴法できるのか。今わしの面前にはっきりと在り、肉身の形体なしに独自の輝きを発している君たちそのもの、それこそが説法聴法できるのだ。こう見て取ったならば、君たちは祖仏と同じで、朝から晩までとぎれることなく、見るものすべてがピタリと決まる。ただ想念が起ると知慧は遠ざかり、思念が変移すれば本体は様がわりするから、迷いの世界に輪廻して、さまざまの苦を受けることになる。しかし、わしの見地に立ったなら、〔このままで〕極まりなく深遠、どこででもスパリと解脱だ。」(38~39頁)”
↑
少しだけ写し間違いがあるがほとんど忠実。
臨済は
「物質=悪または劣位 vs 非物質=善または優位」思想ではない。
「物質=肉体=仮 vs 非物質=仏(性)=真」思想でもない。
大乗の空思想の影響下だから当然。
岩波版の(上記とは別の箇所の)註釈(p.84)より、
(「境智依(きょうちえ)」〔後に「境智」に対してだと判明〕について)
注二
照らし出される対象と、照らし出す智慧の光という相対関係。禅ではその相対性を消し去るか(例えば「境と智と倶に忘ず」)、またはそれを一体化する(例えば「境と智と二なし」)ことを理想とする。「心と境」という立て方も同じ。
(
臨済禅は二元論思想ではない)
対して、
以下のサイトの注と現代語訳は岩波文庫そのままではなく、このサイトの書き手によるものなので私は信用していない。
しかも、漢文の箇所も忠実に引用していない。じゃあちゃんとそう註釈しろよ!
なので、三身の説明(岩波版にはない)だけ引用。
臨済録:その1 - SETSのホームページ
https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/rinzairoku1.html
”法身仏(ほっしんぶつ):法身とは肉身のブッダは死んだが
彼が残した法(仏法の真理)は永遠不滅であると考える。
ブッダはこの抽象体である法(仏法の真理)と一体の存在である
法身仏であると考える考え方である。
華厳経や密教で出てくる大日如来(美盧舎那仏)は
この法身仏だと考えられている。
報身仏(ほうしんぶつ):報身仏とは長い間の刻苦修行と無量の慈悲の誓願が
実って仏陀となったとする考え方である。
永年の修行の結果悟りを開いた仏。阿弥陀仏は報身仏とされる。
化身仏(けしんぶつ):衆生済度のため変身変化して現れる仏。
三身仏:法身仏(ほっしんぶつ)、報身仏(ほうしんぶつ)、化身仏(けしんぶつ)
(あるいは応身仏)の三つを仏の三身と呼ぶ。
三身仏の思想は大乗仏教の仏身論である(三身仏の思想を参照)。
三種の依:法身仏、報身仏、化身仏の三つの拠り所。”
p52-53
”若し魔仏弁ぜずんば、正に是れ一家を出でて一家に入る。喚(よ)んで造業(ぞうごう)の衆生と作(な)す、未だ名づけて真の出家人と為すことを得ず。
〔中略〕
魔と仏との見分けもつかぬようなら、それこそ一つの家を出てまた別の家に入ったも同然で、そんなのを〈地獄の業を造る衆生〉というのだ。とても真の出家者とは呼べぬ。”
(キリスト教の敷地内の新耶蘇神殿の中で耶蘇を叩いている奴ら思い出して爆笑。私もそうならないように気をつけないと。
「そんなのを」は原文ママ。
『臨済録』入矢義高注 岩波文庫
https://okanokouseki.com/%E3%80%8E%E8%87%A8%E6%B8%88%E9%8C%B2%E3%80%8F%E5%85%A5%E7%9F%A2%E7%BE%A9%E9%AB%98%E6%B3%A8-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB/
”■いやしくも出家ととあれば、ふだんのままな正しい見地をものにして、仏を見分け魔を見分け、真を見分け偽を見分け、凡を見分け聖を見分けねばならぬ。こうした力があってこそ、真の出家と言える。魔と仏との見分けもつかぬようなら、それこそ一つの家を出てまた別の家に入ったも同然で、そんなのを〈地獄の業を造る衆生〉というのだ。とても真の出家者とは呼べぬ。たとえばここに仏と魔が一体不分の姿で出てきて、水と乳とが混ぜ合わさったようだとする。そのとき鵝王は乳だけ飲む。しかし眼力を具えた修行者なら、魔と仏とをひとまとめに片付ける。君たちがもし聖を愛し凡を憎むようなことなら、生死の苦界に浮き沈みすることになろう。(53頁)”
他の人の引用メモでも”そんなのを”となっていることがわかる。上記の記事は他の箇所も詳しく引用している。
)
臨済録:その2
https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/rinzairoku2.html
” 〔示衆〕5-1
岩波臨済録 p.53~55
問う、
「如何なるか是れ仏魔?」。
師云く、
「汝が一念心の疑処、是れ箇の魔。汝若し万法(まんぽう)の無生(むしょう)にして、
心は幻化(げんけ)の如く、更に一塵一法無くして、
処処清浄なるに達得すれば是れ仏なり。
然も仏と魔とは染浄の二境なり。
山僧が見処に約せば、無仏無生、無古無今、得る者は便ち得、時節を歴(へ)ず、
無修無証(むしゅむしょう)、無得無失、
一切時中、更に別法無し。
設(たと)い、一法の此(これ)に過ぎたる者有るも我は如夢如化(にょむにょか)と説かん。
山僧の所説は皆是なり。
道流、即今面前孤明歴歴地(れきれきじ)に聴く者、此(こ)の人は処処に滞らず、
十方に通貫し、三界に自在なり。
一切境の差別に入れども、回喚(えかん)すること能わず。
一刹那の間に法界に透入して、仏に逢(お)うては仏に説き、祖に逢うては祖に説き、
羅漢に逢うては羅漢に説き、餓鬼に逢うては餓鬼に説く。
一切処に向って国土に遊履(ゆうり)して、衆生を教化すれども、
未だ曽(か)って一念を離れず。
随処清浄にして、光(ひかり)十方に透(とお)り、万法(まんぼう)一如なり」。
”
この箇所はp.53から漢文が始まり、注や現代語訳に続く。
現代語訳はp55から:
五、問い、「仏と魔とはどんなものですか。」
師は言った、「お前に一念の疑いが起これば、それが魔である。もしお前が一切のものは生起することなく、心も幻のように空(くう)であり、この世界には塵ひとかけらのものもなく、どこもかしこも清浄であると悟ったなら、それが仏である。ところで仏と魔とは、純と不純の相対関係に過ぎぬ。わしの見地からすれば、仏もなければ衆生もなく、古人もなければ今人もない。得たものはもともと得ていたのであり、時を重ねての所得ではない。もはや修得の要も証明の要もない。得たということもなく、失うということもない。いかなる時においても、わしにはこれ以外の法はない。たとい、なにかこれに勝る法があるとしても、そんなものは夢か幻のようなものだと断言する。わしの説くところは以上に尽きる。諸君、現に今わしの面前で独自の輝きを発しつつはっきりと〔説法を〕聴いているもの、その君たちこそが、あらゆる場に臨んで滞らず、十方世界を貫いて三界に自由なのだ。一切の個別の世界に入りつつ、少しの影響も受けぬ。一刹那の間に、あらゆる世界に入り、仏に逢えば仏に説き、祖師に逢えば祖師に説き、羅漢に逢えば羅漢に説き、餓鬼に逢えば餓鬼に説き、あらゆる場所で、さまざまの世界に遊行して、衆生を教化(きょうけ)しながら、当初の一念を離れない。いたるところが清らかであり、光明は十方にあまねく、一切のものは一つとなる。
(
「古人もなければ今人もない」。こちらでは時間というより昔の人と現代人。
「現に今わしの面前で独自の輝きを発しつつはっきりと〔説法を〕聴いているもの、その君たち」
)
上記の続き:
臨済録:その2
https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/rinzairoku2.html
” 〔示衆〕5-2
岩波臨済録 p.56~57
「道流、大丈夫児は今日方(まさ)に知る、本来無事なることを。
祇(た)だ汝が信不及なるが為に、念念馳求して、
頭を捨てて頭を覓(もと)め、自ら歇(や)むこと能わず。
円頓(えんどん)の菩薩の如きは、法界に入って身を現じ、
浄土の中に向いて凡を厭(いと)い聖を忻(ねが)う。
此(かく)の如きの流(たぐい)は、取捨未だ忘ぜず、染浄の心在り。
禅宗の見解の如きは、又且(しばら)く然(しか)らず。
直(じき)に是れ現今なり、更に時節無し。
山僧が説処は、皆是れ一期(ご)の薬病相(やくへいあい)治(じ)す。
総べて実法無し。
若し是(かく)の如く見得すれば、是れ真の出家、
日に万両の黄金を消(つか)わん。
道流、取次(しゅじ)に諸方の老師に面門を印破(いんぱ)せられて、
我れ禅を解(げ)し道を解すと道(い)うこと莫れ。
弁(べん)の懸河(けんが)に似たるも、皆な是れ造地獄(ぞうじごく)の業(ごう)、
若し是れ真正の学道人ならば、世間の過を求(もと)めず、
切急(せっきゅう)に真正の見解を求めんと要(ほっ)す。
若し真正の見解に達して円明(えんみょう)ならば、
方に始めて了畢(りょうひつ)せん」。 ”
p.58
現代語訳
諸君、偉丈夫たる者は、今こそ自らが本来無事の人であると知るはずだ。残念ながら君たちはそれを信じきれないために、外に向ってせかせかと求めまわり、頭を見失って更に頭を探すという愚をやめることができない。円頓を達成した菩薩でさえ、あらゆる世界に自由に身を現すことはできても、浄土の中では、凡を嫌い聖を希求する。こういった手合いはまだ取捨の念を払いきれず、浄・不浄の分別が残っている。わが禅宗の見地はいささか違う。ずばり現在そのままだ。なんの手間ひまもかからぬ。わしの説法は、皆その時その時の病に応じた薬で、実体的な法などはない。もし、このように見究め得たならば、それこそ真実の出家者で、日に万量の黄金を使いきることができる。諸君、おいそれと諸方の師家(しけ)からお墨つきをもらって、おれは禅が分かった、道が分かったなどと言ってはならぬぞ。その弁舌が滝のように滔々たるものでも、全く地獄行きの業作りだ。真実の修行者であれば、世人のあやまちなどには目もくれず、ひたむきに正しい見地を求めようとするものだ。もし、正しい見地を得て月のように輝いたなら、そこで始めて修行は成就したことになる。」
(
「直(じき)に是れ現今なり、更に時節無し。」が「ずばり現在そのままだ。なんの手間ひまもかからぬ。」。
「今のお前が仏」であり既に仏なので「今ここ」なんて的外れ。
中公の柳田版『臨済録』での
「ずばり現在完了で、何らの時間的限定がない」
(直〔た〕だ是れ見今なり、更に時節無し)と比較してみると、
現在完了という訳はやはり変だよなあ。文法用語ではなく、現在で完了(最初からずっと仏であるという意味で修行は完了している)という意味かもしれない。それだと「何らの時間的限定がない」という意味がよく通る。仏でなかった時期なんてないからだ
)
p.59
毘盧遮那:太陽のようにあまねく照らす広大な智慧のシンボルとしての仏。
(
補足:仏教用語の「境(きょう)=対象」。
)
p.83
皆な是れ依変(えへん)の境なり。箇(こ)の菩提依(え)、涅槃依、解脱依、三身(さんしん)依(え)、境智依(きょうちえ)、菩薩依、仏依(ぶつえ)有り。你は依変(えへん)国土の中に向(お)いて、什麼物(なにもの)をか覓(もと)む。
p.84
注
二
(「境智」について)
照らし出される対象と、照らし出す智慧の光という相対関係。禅ではその相対性を消し去るか(例えば「境と智と倶に忘ず」)、またはそれを一体化する(例えば「境と智と二なし」)ことを理想とする。「心と境」という立て方も同じ。
p.84
現代語訳
すべて相手次第で変わる境に過ぎない。それ、菩提という境、涅槃という境、解脱という境、三身という境、境智という境、菩薩という境、仏という境があるが、君たちはこういう相手次第の変幻世界に何を求めようというのか。
(
https://twitter.com/aoJvqLcHOrs7UWg/status/1464985907703033864
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
偽物東洋っぽい思想は「極端」の一言
A or notAというには考えずに必ず名が置かれている上で一つの名が多義や状況下では意味合いがひっくり返ることもあるので「名が置かれる」
わしも使用したけど「政治」と「お政治」は言葉は変わらなくても意味合いが反転しているでしょ?
同じ効用で効果だすね
午前0:53 ・ 2021年11月29日?Twitter for Android”
(
先述しましたが、
岩波版の臨済録の註釈(p.84)より、
(「境智依(きょうちえ)」〔後に「境智」に対してだと判明〕について)
注二
照らし出される対象と、照らし出す智慧の光という相対関係。禅ではその相対性を消し去るか(例えば「境と智と倶に忘ず」)、またはそれを一体化する(例えば「境と智と二なし」)ことを理想とする。「心と境」という立て方も同じ。
つまり、二元論の解消により、両極端に走らないようにしていますね。
禅は二元論の解消または否定なのですが、
スピが混ざっているZenは二元論(露骨なものから弱いものまでさまざま)が残っている印象ですね。
で、このZen信者が魔インドフルネスって言っている。スピ系による禅潰しが成功しているから恐ろしい。
jkかわからん人の思想も偽物東洋臭さがある。物質憎悪、軽視があるならたいていはスピが憑依した東洋思想。
)
(
「境智依(きょうちえ)」についての注釈だと思っていたのだが
再読してみると「境智」への注釈だ。
つまり、境智依だと
『「照らし出される対象と、照らし出す智慧の光という相対関係」なんてものは相手次第で変わる対象にすぎない』という主旨の内容になる。
)
p.93から
善知識の如きは、箇の境(きょう)塊子(かいす)を把出して、学人の面前に向(お)いて弄(ろう)す。
注二
「境(きょう)」とは知覚や認識の対象物。
それの塊子(かたまり)とは、座右の品物とか、庭先の花や木や灯籠といった具体的な物をいう。
また真の善知識であれば、〔修行者が来れば〕なにか物を〔次々と〕道具に使って、かれの面前でひねくって見せる。
(你(ニー)は中国語で「あなた」)
示衆
p.96-97
” 道流、出家児は且(しばら)く学道を要す。祇だ山僧の如きは、往日曽(か)つて毘尼(びに)の中に向(お)いて心を留(と)め、亦た曽つて経論を尋討(じんとう)す。後、方(まさ)に是れ済世の薬、表顕の説なることを知って、遂に乃ち一時に抛却して、即ち道を訪(と)い禅に参ず。後、大善知識に遇いて、方乃(はじめ)て道眼(どうげん)分明にして、始めて天下の老和尚を識得して其の邪正を知る。是れ娘生下(じょうしょうげ)にして便ち会(え)するにあらず、還(かえ)って是れ体究(たいきゅう)練磨して、一朝に自ら省(しょう)す。
道流、你如法(にょほう)に見解せんと欲得(ほっ)すれば、但だ人惑を受くること莫れ。裏に向い外に向って、逢著(ほうじゃく)すれば便ち殺せ。仏に逢(お)うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん)に逢うては親眷(しんけん)を殺して、始めて解脱を得(え)、物と拘わらず、透脱(とうだつ)自在なり。
一 梵語ヴィナヤ(毘奈耶)の略で、戒律のこと。
二 黄檗禅師を指す。
諸君、出家者はともかく修行が肝要である。わしなども当初は戒律の研究をし、また経綸を勉学したが、後に、これらは世間の病気を治す薬か、看板の文句みたいなものだと知ったので、そこでいっぺんにその勉強を打ち切って、道を求め禅に参じた。その後、大善知識に逢って、始めて真正の悟りを得、かくて天下の和尚たちの悟りの邪正を見分け得るようになった。これは母から生まれたままで会得したのではない。体究練磨を重ねた末に、はたと悟ったのだ。
諸君、まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢ったら羅漢を殺し、父母に逢ったら父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺し、そうして始めて解脱することができ、なにものにも束縛されず、自在に突き抜けた生き方ができるのだ。”
(一は毘尼(びに)、
二は大善知識についての注釈。
黄檗希運は臨済の師
)
(直後に「何かに依存せずにわしの前に出て来る者はない。」と続くので
外的権威にも内的魔境にも依存するな、惑わされるな、執着するなと読める。
中国での儒教の地位の高さを考えれば、父母の地位も禅的には権威であるから臨済は例に挙げている。
(
岩波臨済録 [示衆]
https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/rinzairoku3.html
ぺ天使の姿と汚告げが見た人の知識そのままなので怪しむべき。
— 子×5(ねここねこという読み方が代表的です、よろしくおねがいします。未整理図書館「読めニク」長です) (@kitsuchitsuchi) 2018年2月8日
なぜ想像したことも見たことも聞いたこともないものではないのか?
本人の知識に合わせた姿をまとう欲望
=「魔」の「境」地。
∴「殺せ」「受け流せ」と禅で教える。
スピの善の宇宙人が金髪碧眼の白人で
悪玉は東洋・黒人なのが典型。
https://twitter.com/unajiperopero/status/1223209388627783680 と続き
”うなじ
@unajiperopero
「殺仏殺祖」を瞑想中の魔境に対する指導と捉えるのは、解釈しすぎじゃなかろうか 臨済録に限らないけど、禅の語録って、問答の中で悟らせるものだから、坐禅の具体的な技術指導なんてのはしないのが基本だし
午後8:40 · 2020年1月31日
「裏に向かい外に向って、逢著すれば便ち殺せ」の「裏」を瞑想中のビジョンと捉えるのは、一応、不可能ではないかもしれないけど、もっと広い意味での内的な観念と考えた方が良さそう
文脈としては、「俺も若い頃は経典とか戒律を熱心に勉強してたけど、無駄だとわかったから全部やめて、禅の先生に会って初めてちゃんと悟ることができたよ。だから、他人に惑わされちゃ駄目だ」というような話に続けて「仏に逢うては~」と続く つまり、ここで言う仏とかは外的な権威のことだろう
魔境は「間違った坐禅」だから、「正しい坐禅」をして悟りましょう、なんてのは、臨済の思想にそぐわないしな 「平常無事」を重んじる人が、正しい坐禅で修行をステップアップしていきましょうなんて言うわけがない
午後8:56 · 2020年1月31日
”
https://twitter.com/unajiperopero/status/1223222754763210752
”うなじ
@unajiperopero
馬祖の立場では、日常生活で見聞覚知するありのままの心がそのまま仏なので、ことさらに坐禅で功徳を積もうとする行為そのものが、それをわかっていない証拠になるわけです
午後9:33 · 2020年1月31日”
https://twitter.com/unajiperopero/status/1223224784890159104
”うなじ
@unajiperopero
馬祖以来、何か適当な物を指し示して、「何だ?」とか「見えるか?」とか質問するのが定番のやり口になるんだが、示しているものが払子であれ柏樹子であれ野鴨子であれ、本当に聞いているのはいつも「それを見ているお前は何だ? それが仏だろう?」だったりする
午後9:41 · 2020年1月31日”
https://twitter.com/unajiperopero/status/1046775193165651970 と続き
”うなじ
@unajiperopero
有名な「仏にあえば仏を殺せ云々」なんてのはまさに、社会的、仏教的に偉いもの、大切にすべきものを思い付くだけ列挙していって、「殺せ」でばっさり否定してるわけだ
午後11:53 · 2018年10月1日
あれ、裏柳生口伝じゃなくて、本来は臨済録だから”
裏柳生について
2012/12/17 13:48
http://tenshinryu.blog.fc2.com/blog-entry-99.html
”「裏柳生」とは漫画原作者である小池一夫先生が「子連れ狼」で登場させた架空の存在です。
表柳生とは江戸柳生家の事であり、徳川の世を治める表の顔であり、裏柳生は架空の人物であります柳生烈堂を長とした公儀刺客人の集団であり、汚れ仕事を引き受けて徳川の世を支える闇の顔であり、この表裏一体が柳生家の正体という設定です。
〔中略〕
このように子連れ狼はテレビドラマにもなり、また連続ドラマ「柳生一族の陰謀」でも裏柳生の用語は用いられ、各話冒頭では次の有名なナレーション、『裏柳生口伝』が流れました。
有名な裏柳生口伝に曰く、戦えば必ず勝つ。
此れ兵法の第一義なり。
人としての情けを断ちて、神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬り、然る後、初めて極意を得ん。
斯くの如くんば、行く手を阻む者、悪鬼羅刹の化身なりとも、豈に遅れを取る可けんや。
実に格好良い名文句です。
「神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬り」というのは、中国唐代に書かれた「臨済録」の中の「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん」という部分からのインスパイアのようです。
元の文章が仏教禅宗であるにも関わらず苛烈な印象がある事から、比較的知られている一節です。”
)
p.99-101
”諸方の修行者たちで、何かに依存せずにわしの前に出て来る者はない。わしのところでは、そういう男は頭ごなしに叩く。
〔中略〕
諸君、ほかならぬ君自身が現にいま見たり聞いたりしているはたらきが、そのまま祖仏なのだ。それを信じきれぬために、外に向って求めまわる。勘ちがいしてはならぬ。外に法はなく、内にも見付からぬ。しかし、こう言うわしのその言葉に飛びつくよりは、先ず何よりも、静かに安らいで、のほほんとしていることが一番だ。すでに起こった念慮は継続させぬこと、まだ起こらぬ念慮は起こさせぬことだ。”
(漢文は検索したらすぐ出るから省略)
(↑より後に↓をメモった。一部が上とかぶってしまったがまあいいや)
p98から
頭上に頭(ず)を安(お)く。
註五 頭上安頭
前に出た演若達多が自分の頭をなくしたと思って探しまわったという話を背景にもつ。
註六 口裏の語を取る
あとにも「我が語を取るなかれ」と戒める。馬祖や百丈や南泉も「我が語を記(おぼ)ゆるなかれ」と繰り返し戒めた。
本来、仏もなく法もなく、修行すべきものも悟るべきものもないのだ。それなのに、ひたすら脇みちの方へ一体なにを求めようとするのだ。盲ども! 頭の上にもう一つ頭を載っけようとは。一体お前は何が不足しているというのだ。
諸君、ほかならぬ君自身が現にいま見たり聞いたりしているはたらきが、そのまま祖仏なのだ。それを信じきれぬために、外に向かって求めまわる。勘ちがいしてはならぬ。外に法はなく、内にも見付からぬ。しかし、こう言うわしのその言葉に飛びつくよりは、先ず何よりも、静かに安らいで、のほほんとしていることが一番だ。
すでに起こった念慮は継続させぬこと、まだ起こらぬ念慮は起こさせぬことだ。
(已起(いき)の者は続(つ)ぐこと莫れ、未起(みき)の者は放起することを要せざれ。)
そういけたら、君らが十年も行脚修行するよりもずっとましなのだ。
示衆
p.117
”一切の境に入れども、随処に無事なり。境も換うること能わず。”
p.118(上記の現代語訳)
”いかなる状況に入っても平穏無事、外的状況に左右されない。”
(
境=状況、外的状況)
p.121
”
今時の学人の得ざることは、蓋し名字を認めて解(げ)を為すが為なり。大策子(だいさくす)上に、死老漢の語を抄(うつ)し、三重五重に複子(ふくす)に裹(つつ)んで、人をして見しめず、是れ玄旨なりと道(い)って、以って保重(ほじゅう)を為す。大いに錯れり。
”
※ルビは( )で代用した。
注一(大策子について)
pp.121-122
”
一 大判の冊子、行脚の先ざきで教えを受けた和尚の言葉をノートに書きとめるのは、このころのしきたりであった。薬山は「策子の中の言葉を覚えこんで自己の知見としてはならぬ」と戒めており(『伝灯録』二十八)、雲門もその習わしのくだらなさを痛罵している(同上十九、『碧巌録』八十五)。
”
p.122
” 当今の修行者が駄目なのは、言葉の解釈で済ませてしまうからだ。大判のノートに老いぼれ坊主の言葉を書きとめ、四重五重と丁寧に袱紗(ふくさ)に包み、人にも見せず、これこそ玄妙な奥義だと言って後生大事にする。大間違いだ。”
※ルビは( )で代用した。
(
裹 | 漢字一字
https://www.kanjipedia.jp/kanji/0000717600
”①つつむ。まとう。つつみ。「裹革」「包裹」”
)
138から
乃至
三乗五性(ごしょう)、
円頓(えんどん)の教迹(きょうしゃく)も、
皆な是れ一期(いちご)の薬病(やくへい)相(あい)治(じ)す。
三乗五性:
声聞・縁覚・菩薩の三乗は大乗より下位の階程。
それと衆生に本来そなわるとされる五段階の成仏への可能性。
円頓:大乗の最高の理念で、
一切の階程を経ずに一気に如来へ直入する教え。
たとい三乗教や五性の教え、
円頓一乗の教えにしても、
どれもさし当たりの対症療法で、
そこに真実の法は全然ない。
p.167
勘弁 一六
渾崙(こんろん)擘(つんざ)き開(ひら)けず、汝に両文銭を与えん。
一 渾崙
コンロン山脈。ここでは、その手のつけられぬ頑愚さ固陋さを大山塊の近寄りがたさに喩える。
僧がやって来るのを見て、師は両手をひろげて見せた。僧が黙っていたので、師は言った、
「わかったか。」「わかりません。」師「コンロン山は鑿(のみ)も受けつけぬ。
草鞋銭ぐらいはくれてやるから出直して来い。」
(
「崑崙山は鑿(のみ)も受けつけんぞ。小銭ぐらいはくれてやるから出直して来い」(意訳)
崑崙山とは、臨済に「出直して来い」と言われた人の喩え。
シーア兄貴(イラソのアレ)2021/3/6~
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-415.html
”
(
https://twitter.com/hitoshinagai1/status/745060067506954240 と続き
”永井均
@hitoshinagai1
悪霊は「私は存在する」という考えを誰にでも何にでも持たせることができるが、持たされたその者(の一つ)がなぜか私であることは悪霊の感知不可能な事態。したがって、その「私」は悪霊を指すどころか彼の能力の外部にある。とデカルトは発見した。
引用ツイート
清水将吾
光る星
本発売中!
@shogoinu
2016年6月20日
「私は存在する」という考えを、仮に悪霊に無理矢理もたされているとしたら、その「私」は悪霊を指すことにならないだろうか。
午前10:05 · 2016年6月21日·Twitter Web Client
永井均
@hitoshinagai1
2016年6月21日
返信先:
@hitoshinagai1
悪霊は本質的に欺く者だがここでは欺けないのは、神は本質的に創造する者だがここでは創造できないことに基づく。神は「私は存在する」と考える者をいくらでも作り出せるが、作り出された者(の一つ)がなぜか私であることだけは神の力も及ばない。とデカルトは発見した
神が私を創造できないのは、彼が創造した「私は存在する」と考える多数の者たちの内から、私を識別する(という私には易々とできる)ことが彼にはできないからだ。彼は私の心の奥底まで知っているが、どれが私であるかは知らない。私は彼の力の外で存在を得ている。
神は「この時点が今である」といえるような無数の時点を創造できるが、それらのうちいつが今であるかを知る=識別する(という我々にはあまりにも容易できる)ことが(それだけは)できない。その一つの理由は、この「あまりにも容易に識別されるもの」が実は実在していないから、というもの。
しかし、この「神が識別できない」「実は実在していない」ものこそが、神の顕現の場なのだ、と拙著『存在と時間』第6章では言われている。つまり、ここで神の意味そのものが変わるわけだ。
「神」(やそれに類する話)はこのように理解するのでなければ意味がない、と私は思っている。この議論にではなく、「神」そのものに関心のある方に、ご意見を聞きたいところ。(中田さんだけでなく。)
「「神」そのものに関心のある方はたいていこの議論が理解できないので「ご意見を聞く」こともできないのでは?」というご意見があり、まあ、事実としてその通りなのですが、私にはそのことが不思議であるわけです。
「……このように理解するのでなければ意味がない」と思っている理由は、超越性へのルートはこれ以外にはありえない、と思っているからです。
”
(
哲学など、言葉について丁寧に厳密に考える分野での誤字は致命的だな:
固定されたツイート
https://twitter.com/hitoshinagai1/status/876931942171594752
”永井均
@hitoshinagai1
2017年6月20日
拙著『存在と時間』の重要な誤記:176頁の後から5行目「一七三頁」→「一七四頁」。236頁後ろから3行目「端的な現実」→「端的な現在」。247頁「動く現在とこの現在」の2行後「一九三頁」→「一八七頁」。259頁8行目「現在の現在」→「現実の現在」(最重要!)。
”
これへのリプに「ここ誤字では?」という指摘がある。
)
(
上記に対してシーア兄貴が書き始めたので、呟きをわざとちゃんと読まずに(読むのをいったん止めて)自分で突っ込みを入れたのが以下(なお、臨済という単語が見えたので私の突っ込みにも影響しまくっている。漢字2語でここまで影響させられる言葉はおそろしいな):
”悪霊は「私は存在する」という考えを誰にでも何にでも持たせることができるが、持たされたその者(の一つ)がなぜか私であることは悪霊の感知不可能な事態。したがって、その「私」は悪霊を指すどころか彼の能力の外部にある。とデカルトは発見した。”
デカルトがそう考えたかは置いておく。
悪霊(ぶっちゃけ全知全能のゴッドでしょこれ)により、
”持たされたその者(の一つ)がなぜか私であること”は私は感知可能つまり、感知の対象。
感知なら特定の電気信号なわけだ。そう感知するときの脳の状態という意味ね。
「そう感知するときの脳の状態」をその悪霊は感知できるでしょ。正確には再現な気がするが。
「私」が悪霊と違う存在つまり他者である以上、完全なコピーは不可能であり、再現とかシュミレーション止まりであり、
「私」でないと全く同じ感知は不可能だといいたいのかもしれない。創造主(想像させる主でもある)と被造物はそりゃあ別の存在だけどさ、「感知」はできるでしょ。感知する器官(ゴッドに人間的な脳はないだろうが、自身の一部を人間〔私〕と完全融合できる存在にしたもの)と人間〔私〕を「重ね合わせて融合させ」(無論、これは物質的表現をとらざるをえないという人間の言語の限界のせいでそうとしか表現できないもの)ることで、「私」が創造主の一部になれば、全く同じ内容を感知できるはずだ。コピー人間を創るような、「別の私」(要は他人)を創る方法ではなくて、同じになる方法だからいけるでしょ。
あと、悪霊は全知全能のゴッドつまり世界の土台みたいな存在なのだから悪霊の能力の外部なんて人間という被造物は関われないじゃん。そもそも能力の外部があるかもわからない。
”悪霊は本質的に欺く者だがここでは欺けないのは、神は本質的に創造する者だがここでは創造できないことに基づく。神は「私は存在する」と考える者をいくらでも作り出せるが、作り出された者(の一つ)がなぜか私であることだけは神の力も及ばない。とデカルトは発見した
神が私を創造できないのは、彼が創造した「私は存在する」と考える多数の者たちの内から、私を識別する(という私には易々とできる)ことが彼にはできないからだ。彼は私の心の奥底まで知っているが、どれが私であるかは知らない。私は彼の力の外で存在を得ている。
神は「この時点が今である」といえるような無数の時点を創造できるが、それらのうちいつが今であるかを知る=識別する(という我々にはあまりにも容易できる)ことが(それだけは)できない。その一つの理由は、この「あまりにも容易に識別されるもの」が実は実在していないから、というもの。
”
上記も「同化」したら可能。
”しかし、この「神が識別できない」「実は実在していない」ものこそが、神の顕現の場なのだ、と拙著『存在と時間』第6章では言われている。つまり、ここで神の意味そのものが変わるわけだ。
「神」(やそれに類する話)はこのように理解するのでなければ意味がない、と私は思っている。この議論にではなく、「神」そのものに関心のある方に、ご意見を聞きたいところ。(中田さんだけでなく。)
「「神」そのものに関心のある方はたいていこの議論が理解できないので「ご意見を聞く」こともできないのでは?」というご意見があり、まあ、事実としてその通りなのですが、私にはそのことが不思議であるわけです。
「……このように理解するのでなければ意味がない」と思っている理由は、超越性へのルートはこれ以外にはありえない、と思っているからです。
”
これについては、『存在と時間』第6章を読まないと何とも言えないな。いつのまにか悪霊が神に変わっているし。
締め。
臨済に脇腹突き三連撃を食らわされそうだな、永井先生。
禅僧が言葉を使わず肉体を使うのは、言葉で言ったら分別知だから。言葉は分けるものだからだ。
本と名づければ、本以外と分けられる。区別できる。これが言葉の作用。
「私」はこの世にただ1人なのに、「私」という単語は他人も使える。
つまり「私」ではそれが指し示す「X」を何段階にもレベルを落とした形式でしか表現しようがない。
禅なら、「じゃあ拳で語るしかないな」(「私」を使うこと自体が誤り)ってなるだろうね。
肉体は「私」ではない。「私の肉体」だから。と、言葉では表現できるが、肉体がなければ「私」なる意識もないのだから、
「私の肉体」とか「肉体は『私』ではない」と考えさせてしまう言葉の束縛、魔力が問題。
じゃあ、肉体言語で「肉体も私(の一部なのか「=」なのかは保留)」と悟ってもらうしかない。
食らえ臨済拳!
(
そして兄貴呟きを引用する
[ 前に前提:
https://twitter.com/aoJvqLcHOrs7UWg/status/1378091081724661761
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
عقل
アグルというのの原義は縄等で結びつけて留めるという意味です、駒止めだすね
理性と訳されてますが本義は結び付け・捕まえることだす
重要なのは世界を著述することではなく、何で世界を著述・捕らわれたいかです
だから、ナグル・物語・著述対象が一対となることでしか世界語れないわけだす
午前6:04 · 2021年4月3日·Twitter for Android
]
https://twitter.com/aoJvqLcHOrs7UWg/status/1378380334195085313 と続き
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
永井先生はアラビア・ペルシャ語世界で理解してないので語るだけ無駄です
وجود و دارای وجود
はごく初歩のイスラーム哲学で分けられている議論で
اندماجی
何かをくっつけている見えない音・あるんだけどないものを無理に表記しようとしている時点で議論自体が成立しません、全くの無駄です
午前0:54 · 2021年4月4日·Twitter for Android
デカルトのコギトの思う・考えるという行為自体がそもそも形而上から与えられた力そのものの範疇にあるので前に話したようにアクル・どこに結びつけるのかの議論に過ぎません
考える・思うという行為自体を形而上の外と捉えるなら、そういった結論に至るでしょうし、そうではないなら逆なだけです
これ日本語の罠で「私」「存在」だけでは意味が通じないんですけど、これだけが名詞なんです
じゃあ、後の「は・する」はどこからきたのかというのが本来の言語上最重要な部分+もしここで音の取り方間違えると意味がガラッとかわるわけです、でそこが真意の全てです
例えば
私は↑存在するぅ↑と言ったら、疑問系になります
私は!存在する!となったら、異世界系の物語になりそうですね
私は存在する…と言ったら、生き返りみたいな感じになります
なので、私・存在という単語・名詞自体は実のところ何も意味ないんです、意味あるのは含意だけです
で、それは表記上・識別上では実存・存在しないんだけど、明らかに内在しているんです
これをさっきいった
اندماجی
エンデマージィといって、表記されない・見えないのだけどどうあがいてもその様にとるように内在しているもので
我・思う・故に・我・在る
がそもそも何で繋がって意味とれるのかです
で、思うというのは典型的な「何かに繋がっている・アクル」なわけで繋げたいものが隠れている事だけが重要なのです
イスラーム哲学として言えるのは「あんたが繋げたいものを故意に隠している・わかっていない以上は語るだけ無駄」で極めて初歩で門前払いです
臨済録のコンロン山は鑿も受けずって奴
イスラーム哲学者から言えば、デカルトが出てくる時点でセンスがないんです
本当に困ったものです…めんどい”
(
臨済録の勘弁編の「渾崙」を崑崙山と解釈した場合、
「崑崙山は鑿(のみ)も受けつけんぞ。小銭ぐらいはくれてやるから出直して来い」(意訳)となる。
岩波版(入矢義高・訳注)の臨済録の勘弁編(p.152)を参考。
りんざいろく
【勘弁】 かんべん、問答の中身について考えます。
http://marihouse.biz/kokoro/rinzai/rinzaiR4.htm#0
”師見僧來、展開兩手。僧無語。師云、會麼。云、不會。師云、渾崙擘不開、與汝兩文錢。
師は僧がやって来るのを見ると、両手を広げてみせます。師がわかったかい? と言うと僧は、分かりませんと答え、師は、ほとけの山は (門の金具を) 撃っても扉が開かず、おまえに (通行料の) 二文銭ぐらいならくれてやるよ。(注46)
(注46) 臨済さんがほとけ世界への入り口である門を実演していて、門を叩いてもそれは開かず、なにやら通行料が必要なようですが、その両文銭とはもちろん棒と喝なわけで・・”
「勘弁」編
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yutakas/kannbenn.html
”先ず第16話。
「師、僧の来たるを見て、両手を展開す。僧無語。師云く、会すや。云く、不会。師云く、渾崙つんざけども開けず、汝に両文銭を与えん。」
目前で突然師が両手を広げて立ちふさがれば誰でも驚く。この驚きを見解を得るきっかけとして期待していたのであろうか。”
)
)”
)
p.175から
普化が臨済から僧衣(=棺桶)をもらったので遷化する(死ぬ)と言って、
今日はやめるを三日言い続けて誰も信じなくなって
四日目に誰もついて来ないようになってから、
ひとりで町の外に出て、
みずから棺の中に入り、
通りがかりの人に頼んで蓋に釘を打たせたが、
町の人が棺を開けてみると、普化はもぬけのからで、
祇(た)だ空中に鈴の響の隠隠(いんいん)として去るを聞くのみ
=ただ空中を遠ざかっていく鈴の音がありありと聞こえるだけであった、という話。
注釈
隠隠(いんいん)
かすかにという意ではなく、
姿は見えぬが歴然と在ることをいう。
(
釘を打つのを承諾した人もすごいな。
https://twitter.com/komorikentarou/status/1264577378249928704 と続き
”小森健太朗@相撲ミステリの人
@komorikentarou
大学時代に筑摩版で一回読んだはずの『臨済録』、岩波文庫であらためて読み返していたら、人間消失の謎が書かれていることに気づいた。「勘弁」巻の末尾(177頁)。臨済の弟子の普化は臨済から法衣をもらったのでわが修行は成就したからこれから遷化する(死ぬ)と言った。(続
承前)これから自殺する僧を見ようと街の人々が集ってきたが、普化は「今日は気が変わった」「今日は気が乗らなくなった」と三日続けて途中で止めたので四日目には見に来る人はいなくなった。四日目普化は棺桶に入って「釘を打ち蓋を閉じよ」と命じた。本当に棺に入ったと聞いて人々が集ってきた。(続
承前)市人競い往いて棺を開くに、乃ち全身脱去するを見る。ただ空中に鈴の響の隠隠として去るを聞くのみ。On opening the coffin, they found that the body had vanished, but from high up in the sky they heard the ring of his hand bell.(I.Schloegl tr.p.76)”
”
自殺は仏教ではダメなのではと思ったがそれにも囚われるなということなのだろう。内容は、一般的にイメージされる自殺というより消失なので、自殺禁止を破ることにはならないのかも。
)
臨済さん、三回聞いて三回殴られるとかリバーブロー喰らわせられるとか超肉体派w 臨場感溢れる語り口です。 【仏教】臨済録(行録)読み下し解説SP【ニー仏】 (01:22:58) #sm6745147 http://t.co/AZqZWPAqRY
— なつき (@natsukissweet) 2015年3月20日
https://twitter.com/natsukissweet/status/796842011005362177
” 2016年11月11日
知識で殴らない。愛で操らない。弱さで縛らない。”
【仏教】臨済録(行録)読み下し解説SP【ニー仏】仏法は拳で語るもの
https://www.nicovideo.jp/watch/sm6745147
(投稿日時2009/04/14 07:35
動画投稿者コメントより(投稿者は二―仏ではない)
”コミュ開設1ヶ月記念で4/12に放送された臨済録(行録)読み下し解説SP放送です。
~ニー仏(生主)コメ~
唐代禅の入門として、『臨済録』の「行録」を読んでいきます。
臨済宗の開祖、臨済義玄が師匠の黄檗のもとで悟りを開いた機縁をしるした一段です。
なお、ここでの主の話は以下に示す参考資料の劣化コピーに過ぎません。
資料を直接お読みいただく前のちょっとした入門、参考程度の講義としてお聞きいただければ幸いです。
柳田聖山『臨済録』(大蔵出版、中公クラシックス)
入矢義高『臨済録』(岩波文庫)
小川隆『臨済録』(岩波書店)”
行録(あんろく)の項。
大前提:
師
=主人公。
=(本書では、当時は師でなくても)臨済義玄(りんざい ぎげん、諡号:慧照禅師、?-867年)
禅の坊さんは口が悪い。
36分~
禅の定式者である馬祖道一(ばそどういつ)の禅:
「即心是仏
=今この瞬間のお前の心がそのまま仏」
をいかに気付かせるか。
)
入矢義高『臨済録』(岩波文庫)では
p.179から
行録(あんろく)
=行状の実録、一代の言行録。
臨済が黄檗に質問しようとしたら、
質問の声も終わらぬうちに、
黄檗に棒で打たれた。
三度問うて三度打たれた。
黄檗に大愚(たいぐ)のもとに行くよう言われ、
大愚のもとに行った臨済。
師(臨済)
「私は、三たび仏法の根本義を問うて三たび打たれました。
いったい私に落ち度があったのでしょうか。」
大愚
「黄檗は、それほど老婆のような心遣いでお前のために
くたくたになるほど計らってくれているのに、
その上わしのところまでやって来て、
落ち度があったかどうかなどと聞くのか。」
そう言われて師は言下に大悟して(p.182”言下大悟”)言った、
「ああ、黄檗の仏法は端的だったのだ。」
(p.182”元来黄檗佛法無多子”
”元来黄檗の仏法多子(たし)無し”)
注一
無多子
あれやこれやの面倒なことはない。端的である。
従来の「大したことはない」「たわいない」と解するのは誤り。
大愚はいきなり師をひっつかんで言った、
「この寝小便たれ小僧め!
(p.182”這(こ)の尿牀(にょうしょう)の鬼子(きす)”
注二 鬼子は愛称としても用いられる)
たった今、落ち度があったのでしょうか、などと泣きごとを言ったくせに、
こんどは黄檗の仏法は端的だなどと言う。
いったい何が分かったのだ。
さあ言ってみろ!
さあ言ってみろ!」
師は大愚の脇腹を握り拳で三度突き上げた。
(p.182”脅下(きょうか)、築三拳”
注三 築 ドンと撞くこと。俗語。)
大愚は師を突き放して言った、
「そなたの師は黄檗和尚だ。わしの知ったことではない。」
黄檗の元に戻り報告する師(臨済。主人公)。
黄檗
「なんとかあいつに会って、
思いきり食らわしてやりたいものだ。」
師
「やりたいものだもあるものか。
今すぐ食らえ!
(p.184”即今便ち喫せよ”))」と言うやいなや、
忽ち平手打ちを食らわせた。
黄檗
「この気狂いめ!(同頁”風顛漢”)
よくもわしに向って虎の鬚を引っぱりおったな。」
すかさず師は一喝した。
黄檗「侍者よ、この気狂いを禅堂へ案内するがいい。」
(脅下=脇腹という急所を狙う臨済。
拳と掌と杖と喝で語る仏教の真髄。
主人公がライバルと戦って両者倒れ
お互いに「やるじゃねーか」と認め合うみたいな熱い展開。
文字通りの肉体言語。
喝も殴打も言語を使わずに気づかせる手法。
説明したら単なる分別知になってしまう。
確かに、禅と武術は相性抜群。
)
解説
p.219から
『臨済録』は、もともと臨済宗の聖典なのではない。そういう宗とか派といったセクトとは全く無縁の書である。臨済禅師は唐代末期(九世紀)の人であるが、そもそも唐代禅には、六祖慧能(えのう)いらい、宗派の別によるセクト意識などは全く無かった。有ったのは、師から弟子への法の継承、つまり師資相承(ししそうじょう)による「家風」(宗風)の伝承と発展であった。しかも、その継承のしかたでさえ、「弟子の見識が師と同等では、師の徳を半減することになる。見識が師以上でなければ、法を伝授される資格はない」とされ、「師の法をすべて肯(うけが)うことは、師を裏切ることにほかならぬ」とまで言われた。さらに唐代では、それら異なった宗風の間での相互の交流や刺激も、極めて活発に行われた。
ほんものの修行者(真正の道人〔どうにん〕)
なにものにも依存せぬその「無依(むえ)の道人」
臨済は「お前たちは無依の道人であるはずだ」という言い方は絶対しない。一貫して「まさにお前たちこそがそのままで無依の道人なのだ」と直示しつづける。
「現今(いま)目前に聴法する無依の道人」というのも、やはり面前の修行僧たちを直指した言い方にほかならない。しばしば誤解されるように、内在的に超越化された〈無依の道人〉なるものが聴法しているということではないのである。
p222から
彼は決して「無位の真人」を内在の主体者として措定したのでもなく、上述の玄沙が批判するような「主宰」者に仕立てたわけでもなかった。「自信不及」の修行僧たちに活を入れるための便法として、これを仮設したに過ぎない。
彼自らも言う「わしが外には法はないと言うと、皆はその真意を理解しないで、今度は内に求めようとする」、「外にも法はない、内にも得られはせぬ」と。
「仏もなく、法もなく、修することもなく、証することもなし」とする究極の空観に彼は立つ以上、もし何らかの主催者を己の内に立てるならば、それはいわばウルトラ仏の内在を自ら認めることにほかならない。それは忽ち「仏魔」と化して、こちらを金縛りにするであろう。「仏を求め法を求むるは、即ち是れ地獄を造る業(ごう)なり」。〈無位の真人〉を臨済禅の代名詞とすることは、たれ(原文ママ)よりも臨済その人の最も忌むところであろう。
外にも内にも求めるな。「平常(びょうじょう)無事」であればよい。「ほかでもない〔今そこで〕この説法を聴いている無依(むえ)独立の君たち道人こそが諸仏の母なのである。だから、仏はその無依から生まれる。もしこの無依に達したならば、仏そのものも無存在なのである。こう会得したならば、それが〔平常の〕正しい見地というものである」(六〇頁)。
臨済は示唆する、「心と仏と衆生とは一つであると華厳は教える。仏と衆生とは心に収斂される。この一心こそは一切の存在を位置づけ、それら一切の価値を定める。これが〈心地の法〉というものだ。その一心をわれわれはみな具有している。
その絶大なパワーをなぜ激発させぬのか。仏も法も、まさにそこから創出されるのだ」と。かくて臨済は、その激発をいざなうための手段として頻りに「喝」を利用する。
それは「カーッ」と発声することではない。大声で怒鳴ることなのであるが、その大喝が威力と効果を発揮するのは、相手の機を見て取って刹那に噴出できるパワーを具えた人に限る。
臨済の喝は早くもその存命中から常套の図式(シェーマ)と化してしまった。
唐代の禅では八世紀ごろから「自己」という用語が愛用され始める。それは、一者・絶対者としての仏と対決する気概を籠めた言葉であり、聖なるものへの反措定であった。臨済の師であった黄檗は、「三千世界(全宇宙)はすべて汝という自己にほかならぬ」と教えた
「仏を殺し祖を殺す」という発言にはギラリとした「自己」(Self)の措定は全くない。
臨済も、このような短絡した「自己」信仰が自らを陥れる穽に転化しかねないことを心得ていたに違いない。
(
https://twitter.com/unajiperopero/status/1336656544629284864
”うなじ
@unajiperopero
臨済録、大悟する前の臨済義玄がめちゃくちゃ真面目クンなのが、フフッってなる(大悟した瞬間に師匠相手のボクシング始めるが)
午後9:58 · 2020年12月9日”
https://twitter.com/unajiperopero/status/1220941086949920768
”うなじ
@unajiperopero
ニー仏さんの解説は明晰でわかりやすいし、種本の入矢義高訳註も読みやすいし、何より臨済録が手に汗握るボクシングなので、二重三重に面白いやつですよ
午後2:26 · 2020年1月25日”
措定
https://kotobank.jp/word/%E6%8E%AA%E5%AE%9A-554732
”デジタル大辞泉の解説
そ‐てい【措定】
1 ある事物・事象を存在するものとして立てたり、その内容を抽出して固定する思考作用。
2 「定立」に同じ。
〔中略〕
措定
そてい
position 英語
thesis 英語
Setzung (Setzen) ドイツ語
Position ドイツ語
Thesis ドイツ語
These ドイツ語
position フランス語
thèse フランス語
定立(ていりつ)ともいう。(1)何かをそれとしてたてること、事態や対象の存在を想定したり肯定したりすることをさす。(2)狭義には、ある命題を証明なしに直接に主張する思考の働き、あるいはそのように主張された命題をいう。したがって措定は推論の開始をなす。(3)フィヒテでは自己や対象を生み出す自我の活動が、ヘーゲルでは弁証法の第一の契機(モメント)が措定とよばれるが、いずれも前述の二つの意味をあわせもっている。両者とも措定―反措定―総合という運動を考えたが、フィヒテが措定を絶対的であるとするのに対し、ヘーゲルは総合に強調点を置く。
〔中略〕
精選版 日本国語大辞典の解説
そ‐てい【措定】
〘名〙
① 推論のたすけを借りないで、ある命題を主張すること。
※現代文学論(1939)〈窪川鶴次郎〉芸術的価値と政治的価値「芸術と政治との関係は、たとい表向きは上記のごとく倫理的な措定(ソテイ)として考えられていたとしても」
② 推論の前提として置かれている、まだ証明されていない命題。また、ある論点について、反論を予想して、反論の前に主張される意見や学説。たとえば、二律背反における最初の命題や、弁証法論理における第一項にあたる命題のたぐい。
”
)
小川隆による『臨済録』の解説書
小川隆『臨済録-禅の語録のことばと思想』岩波書店〈書物誕生〉、2008年
『臨済録』禅の語録のことばと思想 書物誕生 あたらしい古典入門
作者による注意書き:
一、原文のあとに示す訓読および解釈は、所掲の校訂本・訳注本に多くを負いながらも、
最終的にはすべて筆者の責任で新たに考えたものを掲げる。したがって、それは、
その前に記した先行の訳注書の訓読や訳文とは一致していない。
一、引用文中、原則として( )は原文の注記、〔 〕は筆者による補足である。
原則からはずれる場合はそのつど注記する。また引用文に対し、ふりがなの追加、
字体の変更、符号の改変・省略などを行った場合がある。
p.53
千手千眼の観音像。手眼(しゅげん)は手と眼ではなく、掌(たなごころ)についた眼のこと。
(
『わかる仏教史』はこれ一冊で終わらせるとまずい入門書
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-386.html
”大乗仏教で人気ナンバー・ワンのスーパースターはといえば、これはもう観音菩薩にとどめをさします。
観音菩薩の起源は謎。
しかし、観音菩薩が、ヒンドゥー教の最高神ヴィシュヌをモデルにした、大乗仏教最古の神話的菩薩であることは、
状況証拠からしてほぼ明らかではないかと思われます。
まず、観音菩薩は、民衆を救済するために、変化身(さまざまな階層、職業の男女)をもってこの世に現れるとされる。
『法華経』のなかの「普門品」(ふもんぼん)には、三十三の変化身をとるとされている。
(バラモン・ヒンドゥーもゾロアスターも33が大好き。仏教も採用。もろにヒンドゥーからの影響だな)
さまざまな変化身をもって現れるというのは、化身として現れるということであり、これこそは、ヴィシュヌの最大の特性。
また、千手観音は、正式には千手千眼観音という。千の手を持ち、その手のひらのひとつずつにひとつの眼がついていて、
苦しんでいる人をひとりも見逃さずに救済するというわけです。ところが、この「千手千眼」というのは、もともとはヴィシュヌの異名。ビシュヌは本来は太陽神であり、千の光線(カラ)を放つ存在とされる。この「カラ」は「手」という意味もあり、
そこで、ヴィシュヌは、千の手で民衆をあますことなく救済すると考えられたのです。”
)
p.59から
首座(しゅそ)(筆頭の修行僧。第一座とも)
p.105
信不及(しんふぎゅう)――信じ及(き)れぬ
p.113 臨済は、自己の内面に内在的な超越者を想定することを禁じ、活き身の自己の全体がそのまま仏と等しいのだと繰り返す。
(
仏性を特別な超越存在だと考えていないことが重要
)
臨済録に次のような言葉もある。
p.114
修行僧は本来の自己を信じきれず(信不及)、何かというと名辞・言句のうえで理屈をつくりだす。あげく五十にもなろうという頃まで、しゃにむに屍(むくろ)(「仏」という内実を見失った生ける屍のような己れ)を背負い、お荷物のような理屈をかついで天下を走り回っている。そんなことでは、閻魔さまからこの世での草鞋(わらじ)代を請求される日が、必ずやって来てしまうぞ!
p.119
三たび「仏法的的の大意――明確なる仏法の根本義」を問い、そのたび杖によって打ちすえられた。
三度(みたび)、他(かれ)の賜杖(しじょう)を蒙(こうむ)る。
(
黄檗の棒は杖のことなのね)
p.125から(臨済が大悟した後の突き上げ3発の場面)
(
p.125で大愚(たいぐ)となっている。読みが「だいぐ」か「たいぐ」かどちらでもいいのかよくわからない。
究極的にはこの人は日本人ではないので日本語での勝手な読みに執着しても不毛だなあ。
)
大愚の脅下(きょうか)に築(つ)くこと三拳(脅下築三拳)
臨済は、大愚のところにたどり着く。
大愚が問う、「何処よりまいった」。
「黄檗のもとよりまいりました」。
「黄檗はどのような法を説いておる」。
「それがしは、三たび仏法的的の大意を問い、三たび打ちすえられました。
それがしには、いったい、誤りが有ったのでしょうか、無かったのでしょうか」。
大愚は怒る、「黄檗はかくまで老婆心を尽くし、ヘトヘトになるほど、おぬしの為にやってくれておる。
だのに、そのうえこんな処までやって来て、なおも、誤りが有ったのでしょうか、無かったのでしょうか、とは!」
臨済はこの言下に大悟した。
「なんだ、黄檗の仏法には、何ほどのことも無かったのか!」
大愚は臨済の胸ぐらをつかんで迫る、「この寝小便タレの小僧めが! つい今しがた、誤りが有ったか無かったか、などとぬかしておったくせに、今度は"黄檗の仏法には何ほどのことも無い"とは何事か!
いったい、如何なる道理を見て取ったというのだ。さあ、さっさと、言え! 言え!」
すると臨済は、いきなり大愚のヨコ腹を、拳(こぶし)で三度突き上げた。
大愚は臨済を突き放して言う、
「ふん、おぬしの師は黄檗だ。わしには何の関わりも無い」。
p.131から
黄檗は臨済に対し、これら
(潙山霊祐(いさん れいゆう)が老婆親切を尽くしたり、
馬祖がガツンとげん骨を喰らわせたり、
臨済が平手打ちをくらわせたりしたこと)
と同じことを、倦むことなく三度もくりかえしてくれたのである。
そこまでの老婆親切心がなぜ分からぬか、大愚が責めるのも無理はない。
その叱責でようやく黄柏の意図を悟った臨済は、思わず快哉をさけぶ。
――元来、黄檗の仏法、多子(たす)無し!
なんだ、黄檗の仏法には、なんの事も無かったのか。
黄檗の教えは、謎解きも種明かしも必要ない、そのものずばりのものだったのだ!
「元来~」は口語で、「なんだ~だったのか」という、発見と納得の語気を表す。
現代中国語の「原来~」にあたる言葉で、「元来」がもともとの表記だったのが、
「元(モンゴル)が来る」という連想を嫌って、明代以後「原来」と書かれるようになったという。
「多子」は「多事」ともいう。多くのこと、ではなく、余計なこと。それが無いのがつまり「無事」で、
黄檗は「道人は是れ無事(ぶじ)の人」と言った。
くだくだしい道理も意味づけも無い、「即心是仏」という事実の端的な提示、それが黄檗の仏法だったのである。
そこで大愚は、臨済の胸ぐらをつかんで迫る、「この寝小便タレの小僧めが、さきほどまでの泣き言はどこへ行った。何を悟って、かような大口をたたく、さあ、さっさと言え! 言わぬか!」
だが、この時、臨済は、もはやあの「信不及(しんふぎゅう)」にして「馳求(ちぐ)」にあけくれる臨済ではない。押しまくる大愚の脇ばらに、黙って強烈な拳を三発お見舞いする。黄檗から恵まれたのは、つまりこの説明不要の、三発【そのもの】だったのだ!
大愚は臨済を突き放す、「ふん、それが分かったのなら、お前はまぎれもなく黄檗の弟子だ。わしの知ったことではない」。
(
馳=はせる、かける、速く走る
)
「さきのご指教にしたがい、大愚老師に参じさせていただきました」。
「大愚は何と言うておった」。
そこで臨済は、ことの経緯(ゆくたて)を黄檗に告げる。黄檗はいう。
「ふん、どうにか、あやつをひっ捕らえて来て、したたかに打ちすえてやりたいものだ
(ひとがせっかく黙っておったものを、みなまで言うてしまいおって)」。
すると臨済、「来てからも何もござらぬ、今この場でお喰らいなされ!」言うなり黄檗を平手打ちした。
黄檗、「このタワケものめ、もどって来て虎のヒゲをひっぱるとは!」
臨済はすかさず一喝する。
黄檗、「やれ、侍者よ、このタワケものを僧堂に案内してやれ」。
後段には、臨済の黄檗からの嗣法を評した、潙山の次のような言葉も記されている。
見(けん)の師と斉(ひと)しきは、師の半徳を減ず。見、師に過ぎて、方(はじ)めて伝授するに堪(た)えたり。
師と同様の見解(けんげ)では、師の徳を半減させることにしかなりえない。
師を超える見処(けんじょ)を具えて、はじめて師からの伝授を受けるに足りるのだ、と。
(
「即今(いま)便ち喫せよ!」=今すぐ食らえ!って言って平手打ちって禅を学んだものは一度はやってみたくなるかもしれない)
p.143
達磨は死後、棺の中に片方の履物だけをのこして西天へ帰って行ったという。
(
普化(ふけ)は靴すら残さず死んだ=達磨と同格かそれ以上ってことね
)
p.146から
「心を固定して清浄を観じ、心を起こして外面を照(うつ)し、
心を収斂して内面を澄ませ、心を凝集して三昧に入る――かかる類(たぐい)はみな
拵(こしら)えごとに外ならぬ」(神会〔じんね〕の語)
造作(はからい)=拵(こしら)えごと。
《文庫》頁七四
(臨済録で臨済が引用している神会の言葉。
p.93で、入矢訳・岩波文庫本『臨済録』を《文庫》と略すとある。
)
達磨の墓塔を訪れたとき、臨済は「仏も祖(達磨祖師)も倶(とも)に礼せず」と断言していた。
だが、それは「仏」や「祖」という外在的な権威を認めない、というだけのことではない。
もし、それを敷衍して、自らの内なる仏祖を信ぜよ、などと説いたならば、臨済からただちに一喝されること必定である。
外のみならず、自らの【内にも】そうした聖なる価値を定立しない、それが臨済の立場だからである――
(
いわゆる「神との合一」系思想は完全否定なのが臨済の思想。
「お前が仏だ」なのだが、それで「俺凄い」とか選民思想になったらこれも臨済思想では否定される。
なぜなら、「俺特別」とは聖なる価値を自分に見出すことであり、「造作(はからい)=拵(こしら)えごと」であり、
偶像崇拝であり執着しているからだ。
)
p.148から
《文庫》頁109
諸君、わしが己れの外に法は無いと言えば、修行者(学人)たちは誤解して、すぐ自己の内面(裏[うち])に理屈を求め、壁に寄りかかって坐禅し、舌先を上アゴにぴったりつけて不動の境地に入り、これぞ禅門(祖門)の仏法なりと思いなす。間違いも甚だしい!(大いに錯[あやま]れり)
(裏は「うち」であり「うら」とルビを振っていないので「うち」は誤字ではない。
「うち」は何度も登場するので誤字ではなく意図的
)
《文庫》頁96
道流(どうる)、你(なんじ)ら如法(にょほう)の見解(けんげ)を得んと欲さば、但(た)だ人惑(にんわく)を受くる莫(なか)れ。裏(うち)【においても外においても】、逢著(あわ)ば便ち殺せ。仏に逢(あ)わば仏を殺し、祖に逢わば祖を殺し、羅漢に逢わば羅漢を殺し、父母に逢わば父母を殺し、親眷(しんけん)に逢わば親眷(しんけん)を殺す、かくて始めて解脱を得(え)、物の与(ため)に拘(とら)われず、透脱(とうだつ)自在とならん。
諸君、如法の見解を得たければ、ともかく人の惑わしを受けてはならぬ。自己の【内においても外においても】、出逢えばすべて殺すのだ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢えば羅漢を殺し、父母に逢えば父母を殺し、親族に逢えば親族を殺す、そうであって始めて解脱が得られ、外物に拘束されず、自由自在となれるのだ。
仏祖を殺し、羅漢を殺し、父母を殺し、親眷を殺す――いかにも物騒なもの言いだが、これらはむろん喩えである。自己の内外に聖なる価値を一切定立しないこと、それを「殺す」といっているのである。
曹山(そうざん)本寂(ほんじゃく)に次のような問答がある。
(『祖堂集』)
国内で刀を抜こうとする者、すなわち、自己の内面にあって否定の刃をふるおうとする者、それはいったい誰か。
曹山(そうざん)はいう、「ほかでもない、この曹山(わし)だ」。
では、その刃で何者を殺そうとなさるのか。
「ありとあらゆる物を殺し尽くす」。
では、もし「本生(ほんしょう)の父母」――自己を成り立たせている内なる根拠――それに出逢うたら、どうなさいます。
「それを別扱いにする理由はない」
なら、それを殺す「自己」自身はどうされます。
「このわしのことは、誰にも何ともしようがない」。
一切を殺し尽くすといいながら、なにゆえ「自己」のみは殺さぬのです。
曹山(そうざん)いわく、「手の下しようが無いからだ」。
自己のみはいかなる否定もよせつけぬ確固不動のものだ、というのではない。真の自己は無相であり、いかなる行為の対象物にもなりえない。否定の客体たるべき「自己」なるものがそもそも措定され得ないのだ、というのが曹山(そうざん)の意であろう。
(
「自己」がアートマンになったらだめだもんな
)
曹山(そうざん)にはもうひとつ、次のような問答もある。
僧が問う、経文に、一闡提(いっせんだい)を殺せば無量の福が得られる、とあります。その一闡提とは何のことでしょう。
一闡提は仏性をもたぬ者のことで、これが何の経かは未詳だが、『涅槃経』には「一闡提を殺すは、殺しの罪有ること無し」と見える。
曹山(そうざん)はいう、「"仏"や"法"という聖なる観念を立てる者のことだ」。では、それを殺すとは、どういうことなのでしょう。
「"仏"や"法"という聖なる観念を【立てぬ】ことだ」。
臨済の言う「仏に逢わば仏を殺し」「父母に逢わば父母を殺し」云々も、これと同じことである。それは、自己の内面にいかなる聖性も定立しないという譬喩 (ひゆ)に外ならない。
(
自分の外と中にあるものを権威として偶像崇拝し特別視する=聖性の定立。
「俺凄い」も「俺ではない何か凄い」も否定。
)
だが、かくいう臨済にも、次のような失敗があったことを『臨済録』は書き記している。
《文庫》頁165
ある日(一日)、王常侍が臨済院を訪れ、臨済とともに僧堂のようすを見て問うた。
「僧堂いっぱいのこの僧たちは、経典を読むか」。
「いや、経は読みませぬ」。
「では、禅を学ぶか」。
「いや、禅も学びませぬ」。
「経も読まず、禅も学ばず、となると、つまるところ、何をやっておるのか」。
「こやつらをみな"仏"と成らせ"祖"と成らせようとしておるのです」。
「"金の屑は貴いけれども、眼に入ると翳りとなる"
(金屑〔きんせつ〕は貴しと雖も、眼〔まなこ〕に落つれば翳〔かげ〕と成る)という言葉がござるが、その点は如何か」。
「いや、お手前のことを、てっきり、ただの俗人かと思うておったもので……」。
寺を訪れた有力な外護(げご)者、王常侍に対し、臨済はいささか得意げに言う。うちの僧たちは経も読まねば禅も学ばぬ、と。
そこではすでに、仏説や禅道の聖性を否定するという行為自体が、誇るべき新たな価値として定立されている。いわば、聖性の否定を神聖視するという次の矛盾が萌しているのである。それがさらに「仏祖」に【成る】という目的に結びつけられるに至っては、王常侍もひとこと疑義を呈しないわけにはゆかなかった。あなたがた禅宗では、
「金屑〔きんせつ〕は貴しと雖も、眼〔まなこ〕に落つれば翳〔かげ〕と成る」――高い価値をもつ黄金の粉も、眼のなかにはいると幻影のもととなる、そう説くのではなかったか、と。
この成句は、聖なる価値は、聖なるがゆえに人を執着に陥らせるという意味で、
「金鎖〔きんさ〕の難(自己を縛る黄金の鎖)」「解脱の深坑〔しんこう〕(悟りという名の深き陥穽)」などの禅語とも通じあう。
王常侍は、この成句をもち出すことによって、「仏」や「祖」をことさら目指すべき高次の理念として措定する臨済の言に、いささか異議をとなえているのである。
これはワシとしたことが、と、臨済は、おそらく決まり悪げに言いつくろった、
「いや、常侍どののことを、てっきり、一介の俗人とばかり将為(おも)いこんでおったもので……」。
「将為(将謂)」は、実際に反して、そうだとばかり思い込むという意味の「おもう」(現代中国語の「以為」にあたる)。
そうかと思っていたら実は違っていた、という含みで用いられるのが常である。
常侍どのを見くびり、方便のつもりで、つい俗耳に入りやすい言い方をしてしまった。
これはたしかに自分が不用意であったと、さすがの臨済も頭を下げるほかなかったのであった。
もっとも、この話は『祖堂集』雪峯章に昔のある僧の逸話として載っており、もともと臨済の話でなかったものが、のちに『臨済録』に取り込まれたものであるらしい(《文庫》頁165注)。
たしかに、自らが「仏祖【である】」というのが馬祖や臨済らしい言い方であって、
「仏祖に【成る】」といういい方はいかにも臨済に似つかわしくない。
自己の内外を問わず、獲得すべき聖なる客体として「仏祖」を措定することは、臨済の厳しく禁ずる所だからである。
こうした齟齬を犯しながら、臨済にとってあまり名誉とも思えないこうした話が、なぜ、わざわざここに加えられたのか。
その意図や経緯は明らかでないが、結果から言えばこの挿話によって、『臨済録』という書物を否定一辺倒の単調さから救う、ある種の余裕がもたらされているように思われる。この書物の編者は、あるいは我々に、聖性の否定が新たな「金鎖」になる――否定の論理が自己目的化して新たな呪縛となる――という問題を考えさせようとしているのではあるまいか。
p.156から
聖性の否定は、臨済に限らず、禅宗一般の顕著な傾向のひとつである。だが、それと同時に、その否定じたいが硬直した一つの型となることも、また、禅者の深く忌む所であった。
唐の丹霞(たんか)天然(てんねん)が木の仏像で焚き火をして暖をとったという有名な話は、岡倉天心の『茶の本』第三章(1906年)以来、禅の「偶像破壊的(iconoclastic)」精神を示す好例として、たびたび禅に関する英文著作にも引かれてきた。
「木仏」は、寺僧にとっては尊き「仏」であり、丹霞(たんか)にとってはただの「木」であった。禅に「偶像破壊」があるというならば、それは現に実在する偶像を力ずくで破砕するということではなく、ものごとを偶像視する意識がそもそも無い、という意味でなければならない。偶像は人の希求の投影であり、人の心がそれを偶像とすることによって始めて偶像たりうるものであろう。唐代の禅者たちは事物に聖なる意味や価値を付与しようとする、そうした偶像産出の意識のほうを問題にしているのである(さきに引いた曹山の二つの問答を参照されたい)。
(
偶像に力があると考えている時点で偶像崇拝。何の力もないと考えない限り偶像の掌の上。
偶像破壊に執着することは偶像を実体視し心の中に作り出すこと。
無神論も同様で、神に力があると考える限り有神論の掌の上。
神の否定に執着することは神を実体視し心の中に作り出すこと。
禅レベルで徹底しないと偶像神の否定は無理。
)
この一件に関しては、さらに投子(とうす)大同(だいどう)が、師の翠微(すいび)無学(むがく)に次のように問うている。翠微(すいび)は丹霞(たんか)の弟子で、それが羅漢像の供養をしていた時の問答である。
(『祖堂集』巻六・投子(とうす)章)
師〔投子(とうす)〕が翠微(すいび)に問う、「師匠の丹霞(たんか)禅師は木仏を焼かれたというのに、和尚はどうして羅漢像の供養などなさるのです」。翠微(すいび)、「焼いたとて焼けるものではない、供養するなら思うままに供養したらよい」。
真の仏は火をつけたところで燃えるものではない。像は供養したとて、何のさしさわりが有るものでもない。偶像破壊にこだわることは、実は偶像を実体視している――破壊の客体としての偶像を自ら心のなかに作り出している――ことの裏返しの表れであろう。翠微(すいび)はそのことを、肩肘はらず淡々と説いているのである。
平常(びょうじょう)心(しん)是(ぜ)道(どう)――あたりまえの心
聖なる価値を定立しようとする意識も、それをムキになって否定しようとする意識も無い、あるがままの、【ただ】あたりまえのありかた。それを唐代の禅者が「平常(びょうじょう)」といい「無事(ぶじ)」と言っていたことは、これまでの引用にもたびたび見えた。馬祖も示衆で、次のように説いている。
(『馬祖の語録』頁32)
「道」は修める必要の無いもの。ただ、汚さぬようにするだけだ(汚染〔おぜん〕する莫〔なか〕れ)。「道」なるものを拵えようとする【ことさら】な作為(造作〔ぞうさ〕)、「道」を対象物として措定し、それに向かってゆこうとする【ことさら】な目的意識(趣向)、それらはみな「道」を汚すものでしかないのである。
もし「道」そのものをずばりと体得しようと思うなら、自己の「平常心(びょうじょうしん)――あたりまえの心」、それこそが「道」に外ならない。……だから、そのあたりまえの心によって今現に営まれている行住坐臥や物事への対応、それらもまた、すべて「道」そのものに外ならないのである。
無事(ぶじ)是貴人(きにん)――よけいなものが何も無い人
いっぽう「無事」については、六祖(ろくそ)恵能(えのう)の弟子、司空(しくう)本浄(ほんじょう)がある「禅師」をたしなめた次の言葉が参考になる。
(『祖堂集』巻三、頁134)
道は本(も)と無修なるに、禅師(そこもと)は強(あなが)ちに修す。道は本(も)と無作(むさ)なるに、禅師(そこもと)は強(あなが)ちに作(な)す。【道は本と無事なるに】、【強ちに多事を生ず】。道は本と無為なるに、中に於て強ちに為し、道は本と無知なるに、中に於て強ちに知る。
「多事」はすでに看た「多子(たす)」と同義。多数の事ではなく、【よけい】な事。「道」に聖なる意味づけをし、それを対象化して追い求めようとする行為、すなわち馬祖のいう「造作」「趣向」がこれに当たる。「無事」とは、そうしたくだくだしき【よけい】事のない、【ただ】あるがままの「平常」のありかた、ということである。
臨済はいう――
《文庫頁46》
無事是貴人
【無事】是れ貴人(きにん)。但(た)だ造作(ぞうさ)する莫れ、祇(た)だ是れ【平常】なれ。
「無事」であるのこそ貴き人。ともかく拵えごとをしてはならぬ。ただ、「平常(あたりまえ)」であるのみだ。外で一軒一軒たずね歩いて、自分を助けてくれる者を得ようとすれば、もうすでに誤ってしまっているのである。
随処(ずいしょ)に主(しゅ)と作(な)る――どこにあってもあるがままの主人公
《文庫頁50》
随処に主と作(な)れば、立処皆(な)真なり。
その場その場で主人公たれ。さすれば己れのいる場がすべて真実の場となろう
「随処(ずいしょ)に主(しゅ)と作(な)る」は、往々理解されているように、すべてを斥けてわが道を行くという、勇猛果敢の気概を表現した言葉では本来ない。むしろ虚勢も虚飾もない、他愛ないほどのあたりまえさ、それがこの語の表す気分だったのである。激烈な聖性否定の精神がこうした平凡な日常性の肯定と表裏一体になっている点、そこに唐代禅の重要な特徴があるのであった。
p.165から
第八章 無位(むい)の真人(しんにん)
(
これまで禅僧が言ってきたことが、なんか老荘の無為自然みたいだなと思ったが、真人ってもろに老荘用語だよな。
執着からの脱却など、大乗の禅も釈迦の修行目的をきちんと引き継いでいるから、「大乗は仏教ではない」はおかしいよなあ)
面前聴法底(めんぜんちょうぼうてい)――今ここで説法を聴いている汝その人
《文庫頁33》
ただ汝らに「人惑(にんわく)」を受けるな、そう求めるだけのことである。
汝らが「自信不及(じしんふぎゅう)――自分自身を信じきれぬ」なら、たちまちあたふたと外境を追いかけてそれに転ぜられ、あらゆる外在の境にふりまわされて、自らを拠りどころとできぬことになる。
だが、逆に、そうした「馳求(ちぐ)」の心を止めることができたなら、汝らは、そのままで「祖仏」と何の別もない。では、その「祖仏」に自ら会いたいか。それはほかでもない、
【わしの眼の前でこうして説法を聴いている汝ら自身】
(面前聴法底(めんぜんちょうぼうてい))、それがまさしくそれである。修行者たちはそのことを信じきることができず、外に「馳求」してしまう。だが、それによって得られたものがあったとしても、すべてはアリガタイ文字(もんじ)・言句(ごんく)の類にすぎず、活きた祖師の意とはしょせん無縁のものである。
おのおのが釈迦と何の別もない。今この場での様々な【はたらき】、そこに何の不足があろう。
【六すじの霊妙な光】(六道〔むすじ〕の神光)は、一度として途切れたことが無い。そこのところが見て取れたなら、まさに一生「無事」の人に外ならないのである。
これをさらに要約すれば、こうなろう――
(1)「人の惑わし」を受けるな、
(2)己れの外に「馳求」するな、
(3)自分自身を信じ切れ、
(4)その自分自身は「祖仏」と別なく、「釈迦」と別なきものである、
(5)といっても、何も特別のものではない、それは「祇(まさ)に你(なんじ)、面前に聴法せる底(もの)」、すなわち現にこの場でこの説法を聴いている、汝その人のことに外ならない、
(6)その汝の身には途切れることなくはたらきつづける「六道(むすじ)の神光」が具わっている、
(7)それを如実に看て取る者が、つまり一生「無事」の人なのである。
では、「六道(むすじ)の神光」とは何なのか。それが字面から想像されるような、超常的な霊力・神通力の類を言うのなら、「平常」「無事」の説とは甚だしく違背することになろう。
これについては、福州(ふくしゅう)大安(だいあん)(西院大安)の次の語が参考になる。
(『祖堂集』巻17)
汝ら諸人、各自(おのおの)の身中に無価の大宝有り、〔メモ者中略〕六門より昼夜常に光明を放ち、亦(ま)た放光三昧(ほうこうざんまい)とも名づく。……
「六門」から昼夜を分かたず放たれる光、それが六根を通して常にはたらく心身の感覚作用の譬喩であることは右の文脈から明らかであろう。それを大安は身中の「無価の大宝」と称し、臨済は「六道(むすじ)の神光」と呼ぶ。いずれも自身に具わった感官のはたらきを光にたとえたものに外ならない。
光が心の【はたらき】の譬喩であることは明らかだが、これをこうした譬喩によらず、もう少し具体的に言うならば次のようになるであろう。
《文庫頁39》
諸君、心なるものは特定の形(かたち)無く、あまねく十方に行きわたっている。それは眼においては「見る」といわれ、
(メモ者略)
足では「歩く」というかたちで現れる。だが、それは、本来、一つの精明(しょうみょう)が、六根の和合という形で分かれ出たものに外ならない。そのほかに「心」という一つの実体が存在しない以上、随処で解脱するのである(一心既に無ければ、随処に解脱せん)(身心のはたらきのほかに「心」という観念を別に立てる必要はない。そんなものを立てずとも、身心が活きてはたらいているその場その場で解脱が成就しているのである)。
「本より是一精明(しょうみょう)の、分かれた六和合と為れるなり」はもと『首楞厳経』の句で、ここでは身心の種々の作用・運動が1つの「心法(仏性)」の現れに外ならぬ、という趣旨の要約として引かれている。
右の一段に「一心既に無ければ」云々とあるのは、そうした身心の作用・運動のほかに独立の「心」なるものを立てなければ、という意味で、つまり現実態の作用は本来性の現れに外ならず、且つ、本来性もその作用を離れては存在しない、という意を示している。身心の生理的作用(現実態)をそのまま仏性(本来性)と等置するというこの種の考え方は、一般に「作用即性(さゆうそくしょう)」説などと称され、さきの「平常無事」とともに、唐代の禅、とくに馬祖系統の禅の基調をなすものとなっている。
(
楞厳経
https://kotobank.jp/word/%E6%A5%9E%E5%8E%B3%E7%B5%8C-410403
”
楞厳経(読み)りょうごんきょう(英語表記)Léng yán jīng
世界大百科事典 第2版の解説
りょうごんきょう【楞厳経 Léng yán jīng】
大乗仏典の一つ。10巻。詳しくは,《大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経》といい,唐の則天武后の時代(690‐704)に,インド僧般刺蜜帝が南海の制司寺で口訳し,ちょうど流謫中の房融が筆録したとされる。早くより偽経の疑いがあるように,新しく興りつつあった禅や菩薩戒,密教の教義を,仏説の権威を借りて総合的に主張しようとしたものらしい。楞厳とは,クマーラジーバ(鳩摩羅什)訳の《首楞厳三昧経》と同じく,堅固な三昧の意である。
”
)
即心是仏
わが心こそが仏である。
(馬祖から黄檗までの四つの例が引用された後で)
表現は一見まちまちだが、いずれも本来性(心、仏、道、自性、法性 等)と
現実態の作用(六根運用、行住坐臥 等)、
その両者の無媒介の等置を説いていることは明らかであろう。臨済の説く所も、思想としては、これら馬祖系の諸祖の延長線上にある。だが、臨済はそれを理論として説くことをせず、仏性の作用を一箇の人格的なイメージとして表象し、それを個々の学人と即座に同定するという説き方で直指する。臨済の斬新さは、そうした提示の仕方にあった。ありのままで仏であり、仏性とともに躍動し、己れの外に何ら求める必要のない自己、それを臨済は「一生無事の人」と呼び、また「無依(むえ)の道人(どうにん)」「無位(むい)の真人(しんにん)」などと呼ぶ。そして、それを、現にこの場で説法を聴いている個々の学人とただちに重ねあわせてしまうのである。
(
修行不要といっても、当たり前だが、それでまじで何もしなかったら臨済に殴られるだけである。
)
p.178
「活潑潑(かっぱつぱつ)」もまた臨済録の印象的な語彙のひとつである。
「潑潑(はつはつ)」はもと活きのよい魚がピチピチと跳ねるさまをいう擬態語。
p.179から
自己の心こそが仏であり、自己は仏性の活きた作用によって絶えずあらゆる日常の営為・言動をなしている。だから、自己の外に仏を求めることは迷妄であり、自己はありのままで祖仏と何の別もない――「即心是仏」「作用即性」「平常無事」、馬祖禅の基調となるこの三つの考え方は、そのような論理によって一つに結びついている。
しかし、そのことは一般論としてでなく、身体をもった【個々の】学人の問題として説かれ、さらには、我が身の活きた実感として、学人【自身】に自得されねばならなかった。臨済はそれを多彩な語彙の駆使によって鮮やかに説き、また、激しい言動によって「目前に聴法せる」個々の学人に自ら感得させようとしたのであった。
《文庫》頁20
「この活き身の体(赤肉団〔しゃくにくだん〕)の上に、一箇の"無位(むい)の真人(しんにん)"がおり、常におぬしらの六根(面門)を出入りしておる。それを確かめておらぬ者は、看よ! 看よ!」
そこで、一人の僧が進み出て問う。「"無位(むい)の真人(しんにん)"とは如何なるものにございますか?」聞くなり師は禅牀からとび下り、僧の胸倉を摑んで迫る、「さあ、言え! 言え!」言われて僧が口を開きかけたそのとたん(議せんと擬〔ほっ〕するや)、師は僧を突き放して吐き捨てた。「ふん、せっかくの"無位(むい)の真人(しんにん)"が、何というクソ同然のありさまか!(無位の真人、是れ什麼〔なん〕たる乾屎橛〔かんしけつ〕ぞ!)」
臨済はそのまま、方丈に引き上げてしまった。
「赤肉団〔しゃくにくだん〕」は生身の肉体、「面門」は六根のこと(無着道忠『臨済録疏瀹』)。
六根を通じて常に出入りしている「無位(むい)の真人(しんにん)」とは、間断なくはたらく仏性の作用――「六道の神光」――を擬人化したものに外ならない。それが「無位の」と形容されるのは、
その【はたらき】が形相も根本も住処ももたぬ「活潑潑(かっぱつぱつ)」たるものだということである。だが、それは理解の対象として説明されるのではなく、自ら身をもって「証拠(たしかめ)」られねばならぬ。さあ、はやくそれを【自ら】看て取らぬか、臨済は目前に聴法する個々の学人に激しく迫る。
だが、そこに進み出た僧は、それをまるで他人ごとのようにしか聞いていなかった。「その"無位(むい)の真人(しんにん)"とは、如何なるものにございますか?」
臨済はあわてて座を下り、僧につめよる。それをわしに問うのでなく、【自ら】看よと言うておるのだ。さあ、そこを、さっさと言うてみぬか!
胸ぐらをつかまれた僧は、おもむろに口を開こうとする。そこを臨済はただちに突き放す。
「擬~(便)…」が「~しようとしたところ(すかさず)…」という緊密な呼応関係を表わす句型であることは、すでに開堂説法のところで看た。僧は「無位(むい)の真人(しんにん)」を、なおも外在的な対象として理解し説明しようとしている。だが、それは、己れの外に客体として求めれば求めるほど、ますます遠ざかってしまう。僧にそのいとまを与えてはならない。臨済は僧の「遅疑」「疑誤」を断ち切るべく、すぱりと言い捨てた。「"無位(むい)の真人(しんにん)"たるせっかくの汝自身、それが何というクソ同然の体たらくか!」
「什麼~」が疑問でなく「何たる~!」という感嘆を表わすこと、および「乾屎橛〔かんしけつ〕」」が「くそかきべら」でなく干からびた棒状の糞そのものであること、いずれもプロローグで紹介した入矢の論文「乾屎橛(かんしけつ)」に、すでに詳しい考証がある。
だが、この老婆親切心も、僧にはついに届かなかった。せめて後を引かぬよう、後ろも振りむかず、黙って自室に引き上げるしかない臨済であった。
p.189から
第九章 空中の鈴の響き
臨済と普化
(
普化(ふけ)のおかげで臨済録は臨済への個人崇拝を弱めることができている
)
臨済録の行録(あんろく)(行実の記録)(《文庫》頁194)より、
普化は、頭はあるが尾はなく、始めはあるが終りがない(有頭無尾、有始無終)と言われている。
普化は臨済を補佐し(佐輔〔たす〕け)てくれる。
臨済が鎮州にたどりついてみると、そこにはすでに普化がいた。
臨済が一院の住持として世に立つと、普化がそれを補佐した(佐賛〔たす〕く)。
だが、臨済が住持して間もなく、普化は身ぐるみ消えてなくなった(全身脱去〔だっこ〕せり)。
(
仙人とか精霊とか妖精みたいな変人だな。これぞ無執着って感じだ。
達磨は死後、棺の中に片方の履物だけをのこして西天へ帰って行ったという。
普化(ふけ)は靴すら残さず死んだ=達磨と同格かそれ以上ってことね
)
佯狂 風狂
では、普化とはどういう人であったのか。『景徳伝灯録』巻10に普化の短い伝があり、そこに次のように記されている。
鎮州の普化和尚は、何処の出身の人か知れぬ。盤山(ばんざん)宝積(ほうしゃく)禅師に師事し、ひそかに法の奥義を受けついだが、狂を佯(よそお)い、言葉はつねに常規を外れていた。盤山(ばんざん)禅師が世を去る(順世〔みまか〕る)と北方で教化を行った。……人に出逢うと身分の上下を問わず、ひとしなみにシャリンとスズを鳴らした(鐸(すず)を振る)ので、世の人々はこれを「普化――普(あまね)く化(みちび)く和尚」と称した。ある時は人の耳もとでリンリンと鈴(鐸(すず))を鳴らし、ある時はいきなり人の背をたたき、その者がふりむけば掌をひろげて差し出して「一銭、恵んでおくれ」といった。また、食い物があれば、戒律の禁ずる非時(正午以後)であっても、おかまいなしに食うのであった。
右にいう盤山の「順世(逝去)」の際のようすは、同じく『景徳伝灯録』の巻七・盤山章に次のように見える。
師〔盤山禅師〕は遷化(せんげ)(順世)にあたって門下の衆僧に告げた、「わしの肖像(真〔えすがた〕)を描きうる者はあるか」。
「真」(肖像)を写すということには、師の真面目を如実に我が物とするという意が含まれている。だが、
僧たちはみな目に見える師の似姿を絵に画いて提出し、ことごとく師から打ちすえられてしまった。
そこで弟子のひとり、普化が出てきて申し上げる、「それがしには描けます」。
「なら、わしに出して見せぬか」。そこで普化は、ひょいとトンボがえりを打って、さっさと出ていってしまった(筋斗〔きんと〕を打〔た〕して出〔い〕づ)。
盤山はいった、
「この男、いずれ、"風狂"のごとくに人を教化してゆくに相違ない
(風狂の如くに人を接〔みちび〕き)去〔さ〕らん在〔ぞ〕)」。
(
普化の身体能力がすごいな。道化そのものみたいな存在だな。
出身も本名も不明。
馬祖道一の法を嗣いだのが盤山宝積。
盤山宝積の弟子と伝えられているので師匠は判明している。
受戒の僧名も明らかではないらしい。
)
世間が是認する、まことしやかな正しさ、その虚仮(こけ)に耐え切れぬ人間は、自ら狂人となることで、その縛りの外に身を逃す。狂者の位置に身を置くことで、かろうじて自己の「真」を留保するのである。その奇矯な言動が時に鏡となって、世俗のワク内の住人たちに、自らの虚仮を気づかせることはあるであろう。だが、それはあくまでも結果であって目的ではない。敢えて狂を生きる決心は、そうした高みからの指導者意識とは異質な、もっと抜き差しならぬ切実さに迫られたものだったはずである。
普化がなぜそうした道に入ったのか、それはまったくわからない。だが、いずれにせよ、『景徳伝灯録』が普化の言行を「狂を佯(よそお)う」とか、「風狂」の【如き】接化などと説明しているのは、いかにも宋代士大夫社会の書物らしい、上からの教化という意識を表わした用語のように思われる。それは、おそらく、普化その人にとって、最も耐え難く、最も唾棄すべきものではなかったか。右の盤山の最後の言葉を、最も古い記録である『祖堂集』巻15・盤山章はこう記している。
「略」(頁559)(今までのメモも書き下し文は略していることが多い)。
お前のようなヤツ(底〔もの〕)を、わしのところに置いておくわけにはゆかぬ。こののちお前は他所へ行って、瘋癲(ふうてん)をやってゆくことになるだろう(風テンを打〔た〕し去也〔さらん〕)、と。
これなら素直にうなずける。
普化の威厳を嘲笑し、臨済の権威を相対化すること、それこそが普化の「佐輔」であり「佐賛」だったのではあるまいか。
(
普化は、臨済と臨済の思想自体を聖化して権威として偶像崇拝することを防いでくれる、
臨済を助け続けている存在
)
《文庫》頁157
ある日のこと、僧堂の前で、普化がナマのままの野菜を食っていた。それを目にした臨済がいう、「やれ、まったくロバのような」。すると普化は、すかさずロバの鳴き声をした。臨済、「この悪党が!(這〔こ〕の賊!)」普化は、「悪党! 悪党!」と言いながら、そのまま(便ち)出て行ってしまった。
《文庫》頁157
普化はいつも街中で鈴をふりながら、謎めいた呪文のような歌を唱えていた、「明で来れば明で打ち、暗で来れば暗で打つ。四方八方から来れば、つむじ風のように打ち、虚空から来れば殻竿で打つ」。
臨済は侍者をつかわし、普化がそう唱えたところをひっ捕まえて、こう問わせた、「そのどれでもなく来た時は、如何(いかが)する」。
普化は侍者を突き放して言う、「明日は大悲院でお斎(とき)(僧食の配給)がある」。
侍者が帰って一部始終を報告すると、臨済はいった、「だから前からあの男、只者ではないと思うておったのだ」。
《文庫》頁175
ある日のこと、普化は街なかで人々に僧衣を乞うた。人々はみなそれを布施したが、普化はどれも受け取らなかった。そこで臨済は院主(いんじゅ)(寺の事務長)に命じて棺桶一式を買い整えさせた。
やがて普化が、寺にもどって来る。
臨済、「おぬしのために、衣をあつらえてあるぞ」。
普化はさっそく自分でその棺桶をかつぎ、街中にふれてまわった。
「臨済がわしのために衣をあつらえてくれた! わしはこれから東の城門へ行って遷化する」。
街の人々は先を争って、物見高くついてゆく。すると、普化はいう。
「今日はまだ、だめだ。明日、南の城門のところに行って遷化するといたそう」。
こういうことが三日つづいて、もはや信ずる者もいなくなり、四日目にはとうとう、誰もついて来なくなった。
普化はひとり城門を出る。そして、自分で棺桶に入り、通りすがりの者に釘を打ちつけてもらう。噂は、あっという間に鎮州の街中に広まった。
街の人々は、我さきに駆けつける。そして、その棺を開いて見たところ、なんと、普化は、身ぐるみ消えてしまっていた(全身脱去〔だっこ〕せる)。
空中で鈴の音が、リンリンと鳴りながら去っていった(祇〔た〕だ空中に鈴の響の、隠隠として去るを聞くのみ)。
(ここでp.198終わり)
エピローグ
p.199
唐代の禅問答は、一見、こんにゃく問答のようなものであっても、実はそのうちに活きた意味が含まれていた。
老師が修行者の問いに飽くことなく予想外の答えを示しつづけ、時には回答の拒否とさえ見える粗暴な所作で応じたのも、
すべては、あるがままのわが心、それがそのまま仏なのだという事実に【自ら】目覚めさせんがための接化(みちびき)であった。
p.210から
大拙は禅について説く際、しばしば「意識」の重要性を説く。伝統的な禅宗、とくに看話禅は、言語を斥け知的意識を断絶させることで「悟り」の「体験」を得させようとするものであった。だが、大拙はこの関係を逆転し、「体験」は知的な「意識」と一体であり、そこから言語・行為が必然的に展開してゆくと主張する。
大拙の『Living by Zen』(禅による生活)より
……犬はまさに【禅に】生きるが、【禅によつて】生きるのではない。【禅に】生きると同時に、【禅によつて】生きるのは、人間だけである。【禅に】生きるだけでは不十分である。人間は【禅によつて】生きなければならない。即ち、人間は【禅に生きる意識】をもたなければならない。尤もこの意識とは、われわれが普通意識として理解する以上のものであるが。
(北川、小堀 訳 頁267)
同じことを大拙は、他の文章で、「悟り」と「悟る」と言い、また「悟り」「悟りを悟ること」「悟りの表現形式」とも説いている。犬が犬としての「平常生活」を生きることも「禅を生きること(to live Zen)」すなわち「体験(悟り)」である。
その点では、人間も犬もかわりはない。だが、人間だけが「禅を生きる」という「意識(悟る)」をもち、「禅によって生きる(living by Zen)」ことができる。つまり、人や動物が自然のままに生きていることは自ら「禅」を生きているのに外ならないが、しかし、人はその自然状態にとどまらず、それを自覚する「意識」をもち、その「意識」によって自覚的に生きなければならない。それが「禅によって生きる(living by Zen)」ということなのだと、大拙は説いているのである。
(
”「意識」によって自覚的に生きなければならない”って臨済に殴られるぞ。大拙の禅の解説を読むと「乾屎橛(かんしけつ)」って感想が浮かんでくるな。
”人はその自然状態にとどまらず、それを自覚する「意識」をもち、その「意識」によって自覚的に生きなければならない。それが「禅によって生きる(living by Zen)」ということなのだ”って禅と真逆じゃねーか! 西洋の自我とか意識大好き思想に毒されてるじゃん。
意識も自覚もはからい、拵え事、造作だからな。神智学やスウェーデンボルグに毒されたか?
大本教の霊界物語はスウェーデンボルグの鈴木大拙による和訳に露骨に影響を受けているから、万教帰一系も大拙をほめるのだろう。万教帰一系は禅は嫌いだがZenは大好きだからな。
https://twitter.com/kikuchi_8/status/843478143881027585 と続き
”菊池
@kikuchi_8
返信先:
@kikuchi_8
さん
鈴木大拙は禅を神秘主義とした。鈴木は臨済系だが「臨済録」には「念々馳求の心を歇得せば便ち祖仏と別ならず」とあり。執着してあくせく外に求め回る事を止めた平常無事の心を「仏」とした。原始仏教の趣旨と殆ど同じである。一方神秘主義では外に立てた実在を渇望しそこに合一する事を目指す。真逆。
午前0:03 · 2017年3月20日·Twitter Web Client
鈴木大拙は妻が神智学徒のベアトリス・レインという米国人で自身も神智学協会員だった。日本でのスウェーデンボルグの先駆的紹介者でもあった。その辺の思想的影響が「禅は神秘主義」という改釈に表れていると思う。大拙に故意があったかは不明だが神智学協会の影響は否定できない。憑依型戦術の一例。
「念々馳求の心」とは概念を立てて何かを渇望する落ち着かない心だと解釈できる。概念を立てると、その概念に対して執着が生じる事がある。だから臨済は仏や祖という概念を「殺せ」と言う。神秘主義では「一者」等の対象を立ててそこに合一しようとするが、これはまさに「念々馳求の心」で趣旨が真逆。
神秘主義でも神智学でも思想信条の自由であるからそれぞれ勝手にすればよいと思う。しかし、伝統文化との混同は止めるべきである。どっちがいいとか悪いとかの価値判断ではなく、趣旨が逆のものを「同じ」だとする客観的な間違いについて指摘している訳である。この淡々とした作業こそ憑依型戦術破り。”
https://twitter.com/kikuchi_8/status/631873630314430464 と続き
”菊池
@kikuchi_8
返信先:
@kikuchi_8
例として仏教と神秘主義の相違点を挙げる。仏教に置いては意識外に設定される究極実在と合一する、という思想パターンではなく、あくまで現実の心を調整し、貪欲や瞋恚などの強い負の情念を自制し取り除く、という事に重点が置かれる。縁起=無実体=空が基本であり、従って究極実在は設定されない。
午前2:03 · 2015年8月14日·Twitter Web Client
訂正 ×仏教に置いては → ○仏教においては
伝統思想と神秘主義を見分ける際の一つの指標になるのが、この「実体」「究極の実在」を想定するか否かという点。仏教に限らず日本の伝統的霊魂観では魂が増減する=気の固まり、みたいな非実体的イメージで捉えられている。支那の現象主義=気一元論と相性がよい。禅=神秘主義とした鈴木大拙は誤り。
日本の伝統思想とキリスト教の違いは一見明らかだが、神秘主義との違いは結構詰めて検証しないと見えにくい。だからキリスト教徒は人口の1%に満たないのに、神秘主義はかなり広範囲に影響している。もっともキリスト教・一神教と神秘主義は究極実在を設定する同根の思想。偽装を施して一神教も侵入。
”
)
p.219から
現実の問題を処理するためには、むろん「理論・思想・指導方針」といった当事者それぞれの具体的「分別」が必要である。それゆえ大拙は戦時中の著述のなかでさえ、西洋近代の知識や技術を十分に学べと再三にわたって訴えている。
しかし、大拙にとって禅そのものは、そうした個別の知識や技術を提供するものでなく、別次元にあって、それら「分別の思想を働かす【原理】」なのである。伝統的な看話禅が、言語の否定→知性の否定→体験の獲得、という否定と集中の論理から成っていたのを、大拙は逆に、体験→知性→言語・行為、という肯定と発展の論理に反転し、その要となる知的「意識」の重要性を説いてやまなかった。それはひとえに、近代の機構や技術と連動し、それを自由かつ適切に機能させるための原理として禅を再編する試みだったのである。
だが、近代社会の複雑な機構への分析・検証の手立てももたぬ――むしろ、そうした分析的思考を白紙にもどすことをこそ本領とする――大拙の「禅思想」は、近代社会が歪めば、その歪んだ近代社会をそのまま働かせる原理ともなり得るものであった。大拙は時に「禅はアナキズムだ」と言い、また時には「禅は資本主義とも共産主義とも、何とでも一つになれる」と語ったという(『鈴木大拙――人と思想』)。
大拙がそのように語った時、「何とでも」のなかに軍国主義や戦争肯定等は想定されていなかったはずである。
(
何とでも一つになれるわけねーだろ。万教帰一かよと思ったが、神智学系なら帰一系だから何もおかしくないな。禅の中身を帰一カルトに変えようとしているのでは?
大拙の禅(笑)はZenと呼んだ方がいいな。魔(境)インドフルネスの元凶の一人だろう。
アーナパーナサティ、禅の数息観は支配に使えないからマインドフルネスでは勧めないのだろう。
仏教は軍隊や資本主義と合わないからな。だから戒律つまり道徳を抜く。
戒律守れないやつが瞑想やっちゃダメって仏教の教えは無視。魔境にわざとなりやすく改悪しているから
魔境インドフルネスだな。「インド」はインドでもバラモン教の方ね。魔境バラモンフルネス
)
https://twitter.com/unajiperopero/status/1390888058392698891
”うなじ
@unajiperopero
5月8日
自己解決できなかった人だが、某有名イケメン僧侶の「もうすぐ悟れるので、仕上げに修行の旅に出ます」→「解脱には失敗したし、もうすぐ悟れそうだと思ったのは勘違いだったので謝罪します」の動画は普通に面白かった 「私はこんな感じで魔境に入りました」みたいな体験談を詳細に語る人は珍しいので”
”
「瞑想中のビジョンで授記を受けて真に受けちゃう人、やっぱり現代でも普通にいるんだ」みたいなの、普通の仏教の本とか読んでてもまず出てこないからな
”
https://twitter.com/unajiperopero/status/1390889121040588803
https://twitter.com/unajiperopero/status/1387250918291251202
”うなじ
@unajiperopero
今日は腹部の膨らみと縮みに気づきました。明日も腹部の膨らみと縮みに気づきます。
午後0:42 ・ 2021年4月28日・Twitter for Android”
https://twitter.com/unajiperopero/status/1387251677686685698
”うなじ
@unajiperopero
職場の研修とかでマインドフルネス、今時は割とありがちではあるので、(今この空間の中で、講師含めても俺が一番マインドフルネスに詳しいだろうな)って内心で思いながらも、感心してるフリするの、みんなも頑張ろうな
午後0:45 ・ 2021年4月28日・Twitter for Android”
https://twitter.com/unajiperopero/status/1387252931783659522
”うなじ
@unajiperopero
マインドフルネス、「それマハーシメソッドそのまんますぎない?」か、「アレンジしすぎてて、もはやマインドフルネスと称する意味なくない?」の両極端になりがち
午後0:50 ・ 2021年4月28日・Twitter for Android”
https://twitter.com/unajiperopero/status/1387253739325583366 と続き
”うなじ
@unajiperopero
アーナパーナサティ、単純で場所を選ばず始めやすい上に、禅の数息観と実質同じものなので、日本での伝統の蓄積もあるから、マインドフルネスの文脈でもっと取り上げられてもいいと思うんだが、あんまり話題にならんよな
午後0:54・2021年4月28日・Twitter for Android
対象が限定される分、マハーシ式よりむしろ最初のハードルは低めだと思うんだが”
https://twitter.com/unajiperopero/status/1387254698470612996
”うなじ
@unajiperopero
マインドフルネス文脈で呼吸を扱うとき、呼吸を対象にした瞑想よりも、呼吸法でリラックスみたいな方向に行きがち
午後0:57・ 2021年4月28日・Twitter for Android”
シーア兄貴(イラソのアレ)2021/3/6~ と良呟きや記事の保管庫
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-415.html
”https://twitter.com/aoJvqLcHOrs7UWg/status/1386717198174101508
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
道徳が決まってなかったら何しても駄目
その上で宗教毎に観点が異なる、インド系の宗教は消していく作業をするし、セム系の宗教は啓示とこの世界の安定・中庸の為の行動をしていく、精霊信仰とかはそこら辺がまぜこぜ
それ以外は権力者道徳と奴隷道徳しか説かんから、関わるだけ無駄
午前1:21 · 2021年4月27日·Twitter for Android”
(
以下へのエアリプだろう。
私がマインドフルネスは危険であり、仏教破壊工作だと言っている理由の1つが、
仏教の戒律つまり道徳を抜いているから。戒定慧といって、
まずは戒(道徳)を守る生活ができて初めて、
定(瞑想、マインドフルネス)をして良いという順番がある。
理由は以下でわかるだろう。
戒律つまり道徳を守れない生活をしてる者が瞑想しても悪影響が大きいからだ。
青井硝子さんがリツイート
s.nada
@sandman9791
·
4月13日
論文が早期公開されました。「マインドフルネスは有害な行動にむすびつくか?」
倫理観低い人がマインドフルネススキルが高い場合,「きついことを言えば相手はひきさがる」、「他者を傷つけてでも自己の欲求を充足したい」といった能動的な攻撃傾向が高いことが示されました
マインドフルネスは有害な行動にむすびつくか?――マインドフルネスと能動的攻撃の関連に対する危害/ケアの調整効果
近年,マインドフルネスが効果をもたらすためには,他者に害を及ぼさず,思いやることを良しとする倫理(危害/ケア)を必要とする知見が提出されている。また,危害/ケアを欠いた場合,マインドフルネスが有害な結果をもたらす可能性が指摘されている。本研究では,想定される有害な行動として能動的攻撃を取り上げ,マイ …
jstage.jst.go.jp
青井硝子
@garassan
·
4月16日
rt これも経験としてわかる。
いのししを殺す時の感情操作にマインドフルネスを応用しているわけだけれども、それに長ければ長けるほど悪事へのハードルが下がるだろうことは想像にかたくない。
(
戒律には非殺生戒があるからな。これを抜くと最悪
)
リツイート済み
s.nada
@sandman9791
·
4月15日
ちなみにこちらは一昨年の論文。倫理観が高い人は、マインドフルネスが高いほど無執着(物事にとらわれない幸福感)が高いという結果です。
マインドフルネスに倫理は必要か?――マインドフルネスと無執着・視点取得の関連に対する倫理の調整効果の検討
近年,倫理を伴ってマインドフルネスの訓練を行う重要性が指摘されている。本研究では,マインドフルネスと無執着・視点取得の関連に対する倫理の調整効果を検討することを目的として,一般成人193名を対象としたウェブ調査を実施した。階層的重回帰分析の結果,倫理観が強い場合,マインドフルネスが高いほど,無執着が …
jstage.jst.go.jp
(その倫理観が高い人になるために戒律を守ると人前で声に出して誓わせるのが仏教。
マインドフルネスではもちろんしないからダメ。危険物
)
リツイート済み
s.nada
@sandman9791
·
4月14日
補足しますと、マインドフルネス自体は倫理的に中立な概念で、倫理がセットで有益な結果をもたらす。もし当人の倫理観が低い場合には毒になりうるという趣旨です。
リツイート済み
ニー仏
@neetbuddhist
·
2019年12月6日
そして両書でともに述べたのが仏教の瞑想実践に当然伴うべき戒律の意義であって、そのあたりの意識が薄い日本の一部の仏教関係者が今更マインドフルネスの危険性ガーとか言ってるのに対しては、「まずはどの入門書にも書いてある戒定慧の三学から勉強し直してくださいね」としか言いようがないタピね
コアラ
〔中略〕
やけに仏教に詳しいフリーザ
@waraikatahohoho
(お久しぶりです…お元気にされておられましたか…ぼぶさんのお言葉の通り仏道では「気づく」ことが全てです…とにかく「気づく」ことです…まず戒律を守ることで粗いノイズの発生源を取り除きます…その後、瞑想をすることで微細なノイズにも気づけるようになります…すると次第に智慧がでてきます…)
〔中略〕
リツイート済み
子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子)
@kitsuchitsuchi
·
2018年11月18日
返信先:
@kitsuchitsuchi
さん,
@kikuchi_8
さん,
@kaorinosuke
さん
無自覚なら宗教に無知だと暴露しているのだが
自覚的なら世俗主義=宗教と思わせずに宗教で洗脳
なのでどちらにせよ悪質。”
”仏教の一部だけを取り出したマインドフルネスへの懸念
プラユキ
「有機的体系としての仏教全体を学ぶことの重要性を強調したい。
まず不殺生などの戒律を守り、
そのうえで
定によって心を整え
そうしたら智慧が出てくるという順序がある。
段階的に修行しているなら
マインドフルネスによって銃を撃つようなことは起こり得ない。
(悪事も平然とできるように仏教要素を抜いた瞑想だからグーグルや軍に都合が良い。
瞑想に失敗しても大丈夫なように最初に戒律を誓い、戒律を
守る生活をするのだが
そのような安全弁を意図的に抜いている。
宗教要素を抜いたのは不殺生戒が特に都合が悪いから。
上座部の坊さんはお金に触ることを禁止するほどに拝金主義を警戒しているのも都合が悪い。
新ヤソお得意の「仏教に偽装した悪化版バラモン教」の布教のためのマインドフルネス推進。
リツイート済み
UeKeN
@UxKxNx
·
2017年8月16日
ヨーガに打ち込む限りは、アーサナよりも呼吸法よりも瞑想よりもなによりもまず戒律守らないと、ぜったいに体験は深まらない。戒律は単に道徳的な規範というよりも、実践的な観点から合理性有りと帰納された経験則だ。
”
DJ プラパンチャさんがリツイート
”
うなじ
@unajiperopero
4月28日
マハーシメソッド丸写しみてえなのを、宗教とは関係ありません面で紹介しやがってよ~(変なスイッチが入った人の反応)
”
でわかるように、私と同じ一連の呟きをRTしてかつコメントしたのが以下:)
https://twitter.com/prapanca_snares/status/1387356859258966020 と続き
”DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
>RTs
「ここで佐藤(幸治、引用者注)は、太平洋戦争中の一九四四年に刺殺目的で訪れた、熊本のある工場の例を挙げる。その工場では、毎日の朝夕に坐禅を実施することで、生産性を上げているのだという。佐藤が現地に行って確かめたところ、そこでは朝夕の静坐や般若心経の読誦のほかに、→
午後7:43・2021年4月28日・Twitter Web App
→戦時下ということもあり、天皇への帰依心を高めるために日本の神を拝む「行」がなされていた。
佐藤は、こうした「皇道禅」は戦後社会にふさわしくなく、改めるべきだと述べる。(中略)しかし、佐藤はそれが仕事の能率や創造性に寄与しているかという基準から、これを寺院僧堂での禅よりもむしろ→
→真に迫った「禅」だと評価したのである。戦後社会に台頭した、「禅」をめぐるまったく新しい見方が、ここにある」
「戦後の日本社会では、企業の社員研修に、坐禅がしばしば取り入れられたのである。サラリーマン向けに各種の「性格教化法」を紹介する本を書いた保険セールスマンの竹内芳夫は、→
→坐禅も「産業訓練」の一種だとしながら、次のように述べている。
企業内訓練でも、ただ単に「知識」をつめ込む――というだけの教育にあきたらず、「人間をつくる」という立場から、時間をさいて被訓練者を禅寺へやり、坐禅を学ばせている会社もたくさん出てきたようで、→
→一部の禅寺はそのために満員の盛況を呈しています(竹内一九六三)。」
「近代を通して、特に戦後には、坐禅が一般大衆のなかへと拡散していく。そして、そうした坐禅の実践の拡散を後押ししたのが、坐禅は個人の能力開発に役立つという、禅の効能ないしは実益に対する信用であったのだ。→
→禅は、僧侶ではなく一般人に「現世利益」を着実にもたらしてくれる手段の一つとして、その宗教的あるいは社会的な位置を変化させたと言えるだろう」(碧海寿広『科学化する仏教 瞑想と心身の近現代』より)
「マインドフルネス」を巡る近年の諸現象は、特段目新しいものでもなかったりするんですね。
”
(
マインドフルネス以前から日本企業は禅を戒律を誓わせるのを抜いて取り入れている。
糞じゃん。労働教=和風カルヴァン派〔安息日なし。法人がゴッド〕は全てを腐らせる。
)
)
中公文クラシックス版 臨済録 柳田聖山
2004年2月10日発行
凡例
1. 本訳書は、中公バックス版<世界の名著>18(1980)
『禅語録』所収の「臨済録」をもとにしているが、定本を変更するとともに、新たに原文を収め、
訳文・注釈にも全面的な改訂が加えられている。
2. 底本としては、南京図書館蔵『四家録』(元版)所収のものを採用した。流布本を採らず、
『四家録』に拠る理由は解説「『臨済録』と『歎異抄』」を参照されたい。
解説「『臨済録』と『歎異抄』」
p.4から
流布本の『臨済録』は、北宋末期に福州鼓山(くざん)で出版されるが、このときかなり改編の手が加わることを、
誰もみな推定するものの、唐末から宋代初期に至る、『臨済録』の動きをつきとめることは、
なかなか言い易くして難しい。明代に再編される『四家録』が、宋初の『天聖広灯録』に似ることも、
すでに旧(ふる)くより知られていたが、『四家録』第三の「臨済」を、直ちに祖本とするには、すこぶる慎重でなければならぬ。
かつて天下の孤本とみられた、南京図書館蔵の宋本『四家録』も、実際は元版であって、明本の祖本とはなっても、
直ちに福州版『臨済録』の祖本とはならぬ。『臨済録』の祖本は、『天聖広灯録』のテキストをふまえて、
あらためて校訂するほかはない。
『天聖広灯録』の「臨済」その他の章もまた、すでに宋代の改修を含む。
臨済録
p.3から
臨済大悟の話として知られる一段。
(
行録にある話。
本書は岩波版とは話の順番が違うので注意
)
pp.8-
大愚(だいぐ)、「黄檗は、どういうことを教えたのか」
「わしは三べん『仏法の相手』をたずねて、三べん棒をくらいました。
いったい、わしは間違っていたのでしょうか」
大愚、「黄檗はそれほど老婆親切で、君につくしてへとへとになった。
それを君はここに来て、間違っていたかどうかという」
師匠は、その一言で悟った、「なんだ、黄檗ともあろうに、仏法には何のわけもなかった」
大愚はひきすえた、「この寝小便小僧め、今しがたは間違ったかどうかときいて、こんどは逆に、
『黄檗ともあろうに、仏法はわけもない』とぬかす。おまえはいったい、何がわかったのだ。
さあいえ、さあいえ」
師匠は大愚のわきばらを、げんこつで三べんこづきあげる。
大愚はつきはなした、「そなたの先生は黄檗じゃわ、わしの知ったことじゃない」
黄檗、「どこに行ってきたのか」
「先日はありがたいお言葉を頂戴して、大愚に参じてきました」
黄檗、「大愚は、どういうことを教えたか」
師匠は先のいきさつを吐いた。
黄檗、「何とかしてあやつをつるしあげて、【ひとつ】おもいきり、なぐりつけてやりたい」
師匠、「何が【ひとつ】などとおっしゃる。たったいま、すぐにくらうがヨカ」
いいもきらず、平手で(黄檗の頬を)はりつけた。
黄檗、「このフーテンめ、ここにかえってきて、虎のひげをひっぱりよる」
師匠はたちまち、大声でがなった。
黄檗、「侍者よ、このフーテンをひったてて、禅堂につれてゆけ」
【】は傍点の代役。「ヨカ」は原文ママ(口語表現だろう)
〈大愚〉馬祖-帰宗-大愚と、順次に師弟関係にある。詳伝は不明。
〈わけもなかった〉
夾雑物がない、簡単、単純なことで、価値的な意はない。
(仏法には何のわけもなかった
仏法は多子(たす)無し)
〈ひきすえた〉 琴を膝の下に、引きよせるすがた。
〈【ひとつ】おもいきり〉待は、強い願いを示す。さあひとつ、いでや。動詞「待つ」とは別。
(待(まさ)に痛く一頓(いっとん)を与えん。
【ひとつ】おもいきり、なぐりつけてやりたい)
大声でがなった 喝す
(
がなる=大声でどなる、わめく)
(
臨済流三連脇腹ブローと頬張り手とどなり声。
師匠キャラの黄檗は棒使い。
)
p.28
(普化について)この男はなんと、頭はあるが尾はなく、始めはあるが終りがない。
〈頭はあるが尾はなく…〉つじつまが合わぬこと、要するに異常。頭尾、始終は同義語。
p.33から
無位の真人(しんにん)
脱体制の自由*
*もとは道家の語である。「真人」は、アラカンの訳語。仏性、法性、自性、本性、精神、人格など、時と場合によって種々に呼びかえてよいが、それらはとかく概念化し、実体化されやすい。無位はそうした概念化を否定する、たった今の言葉である。
面門
口
(
六根という解釈ではない
)
禅牀(ぜんしょう)
椅子
p.34から
臨済院での三つの問答
三人の修行僧
師匠は、ある修行僧にたずねられた、「どこから来たか」
僧は、すぐにどなる(便ち喝す)。師匠は(にっこり)会釈して坐らせる。僧は何か答えようとする(擬議〔ぎぎ〕す)。師匠は僧をなぐりつけた(打つ)。
注:臨済がどなるのをまねたのである。臨済の家風は、すでに諸方に知られていた。ちなみにいう、喝は、叱と同じく大声でどなることで、「カーッ」とどなることではない。どんな音でもよいのである。
(
なぜどなるのかわからずどなったっぽいな
)
師匠は、修行僧が来るのを見ると、払子をつったてた。僧はおじぎをする。師匠はすかさずなぐりつけた(便ち打つ)。
また、僧が来るのを見て、師匠はこんども払子をたてた。僧は目もくれぬ(顧みず)。師匠はやっぱり、なぐりつけた。
注:払子 元来は坐禅のときに、蚊や蝿を払うための道具だったが、後には禅の老師の小道具となる。
払子を立てるのは、よう来たというあいさつで、歓迎の意である。
(
ボーボボみたいだと思ったがボーボボよりはきちんと目的がある行動だわ
)
p.40から
先生(臨済)はすかさず(便ち)たずねた、「貴様は凡人か聖者か」
普化、「お前まず答えてみろ、わしは凡人か、それとも聖者か」
師匠はすぐに(便ち)、どなりつけた(喝す)。
普化は手で三人を指ざす、「河陽(かよう)は花よめ、木塔(もくとう)はおいぼれ婆さん、
臨済の小わっぱめが、なかなか一見識もっている(却って一隻眼〔いっせきげん〕を具〔ぐ)す)」
師匠(臨済)、「この悪党(賊)め」
普化、「悪党だとも、悪党だとも」。そういって、出てゆく。
注
初祖達磨は、凡聖不二(ふに)と教える。
なかなか一見識:『伝灯録』は「只一隻眼」とする。この場合はほめ方がちがっていて、
片方しか目がきかないこと。融通のきかぬ、堅物である。
(
凡聖不二(ふに)のことは臨済もわかっているはずなのになぜ問うたのだろう。
普化ならどう反応するか知りたかったのかも。
確かに知りたい
)
p.42から
ある日(一日)、普化は臨済僧堂の正面で、生野菜をくっていた(喫す)。師匠が見つけていう、「まるで本もののロバ(驢)だ」
普化はすかさず、ロバの鳴き声をする(便ち驢鳴〔ろめい〕を作〔な〕す)。師匠、「この悪党め(賊)」
普化はいう、「悪党だとも、悪党だとも」。そういって、出てゆく。
注
生野菜:熟菜に対していう語。
ロバの鳴き声:中国では、オノマトペが発達せず、動詞で区別する場合が多い。
馬が嘶く、
竜が吟ずる、
雀が噪(さわ)ぐ、
獅子が吼(ほ)えるなど。鳴くのは、家畜だろう。
(
龍の鳴き声が「吟ずる=詩歌をうたう」ってめちゃくちゃ優遇されているな。
龍吟雲起 虎嘯風生(りゅうぎんずればくもおこり とらうそぶけばかぜしょうず)
http://www.rinnou.net/iroha_uta/09_ri.html
”龍が空で高く吟ずると雲が起こり、霧が起こって来る。力量のある大人がものを言えば、この無心な自然界も自ずからそれに沿って動いて来る。虎が嘯けば自然に風が生じて来る。龍と虎、動物の中でもっともすぐれたものと、昔から中国では言われておるのである。一たび龍が吟ずれば霧が起こり、虎がウーッと嘯くと風が生ずる。自然界が自ずと動くような力があるのが、悟りの開けた大人物の在り方でなければならん。
《原典・碧巌録/引用・山田無文著『無文全集』第四巻「碧巌録」(禅文化研究所)より》”
)
p.44から
普化入滅の一段。『臨済録』は、この一段があることによって、精彩をはなつ。
普化と別れた臨済は、影のない禅僧となる。
普化の別れ
普化はある日、町の大通りで、人々に僧服をねだっていた。人々はみなそれをくれたが、普化はどれも受け取らない。
師匠は事務長に、棺おけを一そろい買わせた。普化が、かえってきた。
師匠、「わしがお前に僧服をくれてやったぞ」
普化はよろこんで、それをかついでゆく。町々をふれてまわって叫んだ、
「臨済がおれに、僧服をつくってくれたわい。おれは東の門に行って、皆におさらばする」
町の人々は、先をあらそって後を追う。
普化、「おれ、きょうはまだダメだ。あした、南の門にいって、おさらばする」
こうして三日もすると、人はもう全く信じない。四日目になって、後をつけるものはいない。
ひとりで町の外に出ると、自分で棺の中に入り、通行の人にたのんで、釘をうってもらった。
たちまち話が広がる。町の人々は、先をあらそって集まる。棺をあけてみると、すでに身ぐるみ消えていた。
〈僧服〉直裰(じきとつ)は、上下一枚つづりになった、正式の僧衣。普化は一生、僧衣をつけなかったらしい。入滅時、授戒である。
(
臨済録は臨済が一番すごいではなく、臨済より格上の普化がいるのが面白い。
格上と思ったのは臨済は人間だが、普化は人間っぽさがないから。特に死体を残さなかったことが人間っぽくない。
合理的に考えるなら人がいないときに棺桶から出たのだろうが、普化ならやりかねないと思われていたのだろう。
東とか南の門というのは四門出遊が元だろう。人が信じなくなるまでずっと先延ばしにすると言うつもりだったのだろう。
大勢の前では棺桶に入りたくなかったのだろう。
通行人に棺桶の釘を打ってくれと頼んでいるのだが、普化が出られなくて死ぬとわかるのに打ったのがすごいな。
殺人犯として捕まりかねない。
直綴・直裰(読み)じきとつ
https://kotobank.jp/word/%E7%9B%B4%E7%B6%B4%E3%83%BB%E7%9B%B4%E8%A3%B0-2045290
に画像あり。
)
p.61から
成仏(じょうぶつ)作祖(さそ)し去らしむ。
かれらを仏にならせ、祖師とならせる
注:ブッダや祖師になるというのは、臨済にとって禁句のはずだ。
(
やはり別人の話か創作だよな。最初から「そうである」のに「なる」のはおかしいって思想だからな
)
金屑(きんせつ)貴しと雖も、眼(まなこ)に落ちて翳(えい)と成る
黄金の粉は高貴でも、眼に入れば病いになる
注:当時の諺
p70から
黄檗禅師のもとで、三べんくりかえして、『仏法の確かな相手』についてたずね、三べん痛棒をちょうだいした(杖を賜う)。
よもぎの枝でなでてもらうようであった
(本書注:
よもぎの枝でなでてもらう:猫をじゃらすように、かわいがること。老婆親切。子供の成長を祝う民俗行事)。
いまはもうひと打ち、くらいたい気持ちだ。(一頓〔いっとん〕を得んと思う)。
だれぞ、わしにくらわせんか」
そのとき、ある僧がすすみ出た、「それがしがやります」
師匠は、棒をとって僧にわたす。その僧は、棒をうけとろうとする(接せんと擬す)。師匠はいきなり(便ち)、ぶったたいた(打つ)。
(
ものを渡してとろうとしたつまりそのものに集中しているときに、攻撃って完全に闘いの技術じゃん。
やはり臨済録は肉体言語録でもあるな
)
[ 2023年4月8日に追加:
臨済録 - asaka3115 ページ!
https://asaka3115.jimdofree.com/%E6%80%9D%E6%83%B3-%E5%93%B2%E5%AD%A6-%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%9D%E3%81%AE%E4%BB%96/%E7%84%A1%E9%96%80%E9%96%A2/%E8%87%A8%E6%B8%88%E9%8C%B2/
”上堂5
上堂、僧問う、「如何なるか是れ仏法の大意?」師、払子を竪起(じゅき)す。
僧便ち喝す。師便ち打つ。又、僧問う、「如何なるか是れ仏法の大意?」
師、亦た払子(ほっす)を竪起(じゅき)す。僧便ち喝す。師も亦た喝す。僧擬議す。師便ち打つ。
師乃(すなわ)ち云く、「大衆、夫れ法の為にする者は喪身(そうしん)失命(しつみょう)を避けず。我二十年黄檗先師の処に在って、三度仏法的的(てきてき)の大意を問うて、三度他の杖を賜うことを蒙る。蒿枝(こうし)の払著(ほっちゃく)するが如くに相似たり。如今更に一頓(とん)の棒を得て喫せんことを思う。誰人(だれびと)か我が為に行じ得ん」。
時に僧有り。衆を出でて云く、「某甲(それがし)行じ得」。
師、棒を拈(ねん)じて彼に与う。その僧接せんと擬(ほっ)す。師便ち打つ。
”
臨済録:その1
https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/rinzairoku1.html
” 上堂5
岩波臨済録 p・23
上堂、僧問う、
「如何なるか是れ仏法の大意?」
師、払子を竪起(じゅき)す。
僧便ち喝す。師便ち打つ。
又、僧問う、
「如何なるか是れ仏法の大意?」
師、亦た払子(ほっす)を竪起(じゅき)す。
僧便ち喝す。師も亦た喝す。
僧擬議す。師便ち打つ。
師、亦た払子(ほっす)を竪起(じゅき)す。
僧便ち喝す。師も亦た喝す。
僧擬議す。師便ち打つ。
師乃(すなわ)ち云く、
「大衆、夫れ法の為にする者は喪身(そうしん)失命(しつみょう)を避けず。
我二十年黄檗先師の処に在って、
三度仏法的的(てきてき)の大意を問うて、三度他の杖を賜うことを蒙る。
蒿枝(こうし)の払著(ほっちゃく)するが如くに相似たり。
如今更に一頓(とん)の棒を得て喫せんことを思う。
誰人(だれびと)か我が為に行じ得ん」。
時に僧有り。衆を出でて云く、
「某甲(それがし)行じ得」。
師、棒を拈(ねん)じて彼に与う。
その僧接せんと擬(ほっ)す。師便ち打つ。
注:
払子:もともとはインドにおいてハエや蚊などを追い払うためにつかっていた道具。
中国に入って本来の目的から転じて煩悩を払う仏具や
儀式用の道具として用いられるようになる。
払子
払子
喪身失命(そうしんしつみょう):生命を亡くすこと。
仏法的的(てきてき)の大意:仏法の究極のところ。
蒿枝(こうし):蓬(よもぎ)の枝。 ”
追加ここまで]
p79から
ありのままで来れば、何かを見失っているのと同じ、ありのままで来なければ、
縄もないのに、自分でくくられてるのと同じだ(無縄自縛〔むじょうじばく〕)。
(
無常の縄。執着の縄。縄は罠)
p.84から
いろいろの僧が、やって来る。臨済は手をさしだすが、僧は応じない。まったくのお手あげである。
「師、僧の来たるを見て、両手を展開す。僧無語。師云く、会(え)するや。云く、不会(ふえ)。
師云く、渾崙(こんろん)擘(つんざ)き開かず。你(なんじ)に両文銭を与えん。
(渾崙(こんろん)擘(つんざ)き開かず。は白文は渾崙擘不開)
師匠は、修行僧が来るのを見ると、両手をさしだす。僧は何もいわない。
師匠、「わかるか」
僧、「わかりません」
師匠、「渾崙の山は、裂こうにも開けようなないナ。君に二文銭くれてやる」
「ナ」は原文では他の字よりも小さい「ナ」。
〈両手をさしだす〉
両の手で、相手をうけ入れる姿。洞山は三路接人を説いて、鳥道、展手、玄路といっている。
〈渾崙の山〉
中国民族が西の果てにあると考えた、空想の山。黒いという意味もある。
地の果てのわけのわからぬ山である。いまは、鈍な相手の僧にたとえる。
〈裂こうにも…〉「擘不開」は、擘開不得の意で、昔、巨霊神が草山を二つに割って、黄河の水はけをよくしたという説がある。
〈二文銭〉草鞋銭である。出直せということ。
(
両文銭
二文銭
草鞋銭=わらじを買う金。その程度の、ほんのわずかの旅費。少額の足代。旅立つ人に送る金。
まあ小銭であってるし意訳と書いたから正しいな
わらじを買うための金銭。転じて、その程度のわずかな旅費。わらじの料。)
p.87から
君たち、そんな絶えまのない欲望(念念馳求〔ちぐ〕の心)を停止できたら、「すでにもう祖師や仏と違いはせぬ(便ち祖仏と別ならず)」。君たち、仏祖に会いたいと思うか。ほかならぬ君たちという、わしの目の前でわしの説法をきいている奴(面前聴法底)がそれだ。修行者(学人)は信じきれないで(信不及にして)、すぐに(便ち)外を探しまわる(馳求す)が、よしんば探し当てたとしても、すべて古典の賛美にすぎず、生きた祖師の心(活祖意〔かつそい〕)を把(つか)むことはできない。
われわれはシャキャムニブッダと、少しも違わぬ。われわれの毎日の動きに、いったい何が欠けとるか。眼と耳と鼻と口と身と心という、六すじの不思議な光明(六道の神光)は、いちどだって止まったことはない。こう考えることができたら、われわれはもう死んでも、無事である。
(本書注:無事である 本来完全で、何も欠けていないから無事である。)
われわれの心というものは、きまった形がなく、十方にゆきわたっている。眼に出ると見るといい、耳に出ると聞くといい、鼻に出ると匂いをかぎ、口に出るとものをいい、手に出るとものをつかみ、足に出ると動きまわる。一つのエネルギーが、六つの器官に出るのである(一精明〔いちしょうみょう〕、分かれて六和合と為〔な〕る)。
本書注:
十方:東西南北とその中間の方角を合わせた八方に、上下を加える)
一つのエネルギーが:精神は、生命力のこと。「一精明」は道家の用語。また、六つの権能は、眼耳以下の六つ。
中公の柳田版『臨済録』
p.107から
質問、「どういうものが、仏という魔ですか」
師匠(臨済)、
「君たちが、心に一瞬のはからいをもつのが、仏という魔である
(一念の心、疑処(ぎしょ)是(こ)れ仏魔なり)。
(本書注:はからい:疑は擬であり、何かを考えること。)
仏もなければ凡夫もいない、
昔(本来)もなければ今(現在)もない(無古無今)から、
把(つか)むならすぐに把んで、手間ひまいらん
(得る者は便ち得て、時節を歴〔へ〕ず)。
(本書注:手間ひまいらん:
「時節」は時間の長短のほかに、何時・何処という状況の意を含む。
要するに、応急手当である。)
修行もなければ、さとり(免許状)もなく、把むことも失うこともない。
どんなときも(一切時中)、特別のカルテがあるわけではない(更に別法無し)。
道流(仲間)よ。たったいま(即今)、わしの目の前で(目前)、
まぎれもなくはっきりと〔孤明(こみょう)歴歴(れきれき)地(じ)に〕
わしの話を聴いている、この男(聴く者)が、どこにも腰をすえず、
十方世界をつきぬけて、三つの迷いをおもいのままにするのだ。
どんな差別のあるところに入っていっても、この男をふりむかせることはできない。
一瞬のうちに、道理の世界に入りこんで、仏にであえば仏を説き伏せ、
祖師にであえば祖師を説き伏せ、羅漢にであえば羅漢を説き伏せ、
餓鬼にであえば餓鬼を説き伏せて、どんな所でも、
さまざまの国土を経めぐって、人々を導きながら、およそ一瞬も心の外に出ることはない(一念を離れず)。
どこも清浄で、十方にかがやきわたって、あらゆる存在が本性を失うことはない(万法一如なり)。
仲間よ、一人前の男は(大丈夫児)、今にして始めてみな何事もない(本来無事)とわかる。
ほかでもない君たちが自から信じきれぬ(信不及)がゆえに、
寸時も休まず(外に)さがしまわり
(念念馳求〔ねんねんちぐ〕して)、
自分の首を放っといて、他の首をさがしつづけて、やすむことができんのである。
完全で本来的な菩薩でさえ、道理の世界(法界)に身をおくと、浄土の中にいながら、凡を嫌って聖を慕う。
こんな連中は、よりごのみの心がふっ切れず、汚れと清浄という、でっかい分別を残している。
禅宗の考え(見解〔けんげ〕)というものは、けっしてそうでない。
ずばり現在完了で、何らの時間的限定がない
(直〔た〕だ是れ見今なり、更に時節無し)。
山法師の説法も同じことだ。すべて一時的な病気を治す薬材にすぎず、てんから決まったカルテがあるのではない。
もしこう見てとれるなら、本ものの出家である。毎日万両の黄金を使うに価する。
仲間よ、おいそれとあちこちの老師たちに、おあいそを言われて、禅がわかり道がわかったなどというが、
たとえ滝のような弁舌の達者でも、
地獄ゆきの業をつむだけだ
(皆な是れ造地獄の業なるのみ)。
(
マインドフルネス的な「今ここ」と言葉で考える時点でダメだとみなすのだろう。
言葉で区切って(分別)している時点で「今」ですらないというか、「今」は「今」ではない(言葉ではそう書くしかない)。
「今ここ」が大事って言ったら臨済に打たれること間違いなし。「それを言葉で言ったらダメじゃん」って意味ね。
今、見るのが現在完了
(ってこれ合っているのかよくわからない。唐代の中国語に現在完了があるのかそもそもわからないので判定できない)。
時節〔時間の長短と、いつ・どこという状況〕でいちいち分けない。
文法用語ではなく、現在で完了(最初からずっと仏であるという意味で修行は完了している)という意味かもしれない。それだと「何らの時間的限定がない」という意味がよく通る。仏でなかった時期なんてないからだ
)
中公の柳田版『臨済録』
(「仲間よ」という訳は違和感があるな
)
p.155から
仲間よ、家を捨てた修行僧は、とにかく道を学ぶことだ。たとえばこの山法師だって、かつてむかしは数十年も、戒律の学問に精を出したものだ。またかつては経論を探しまわって、あげくのはて、それらが俗世の苦悩を救う応急手当てで、表むきの説明にすぎぬことに気づいた。そこですっぱり投げすてて、禅の道に入って、偉大な師匠にめぐりあって、やっと心の眼がひらけ、はじめて世の中の老師を見分け、かれらの真偽を知った次第だ。母の胎から生まれて、すぐに知ったのではなくて、こればかりは我が身を練りあげて、あるとき自分で気が付いたのである。
仲間よ、君たちが堅気を望むなら、けっして世間の誘いに引っかかってはならぬ。内でも外でも、出会ったら、すぐに斬ってすてよ、仏に出会ったら、仏を斬りすて、祖師に出会ったら祖師を斬りすて、羅漢に出会ったら羅漢を斬りすて、父母に出会ったら父母を斬りすて、親族に出会ったら、親族を斬りすて、君ははじめて解放される。物に拘束せられることなく、思いのままに斬りぬけるのだ。たとえば各地の修行ときたら、物によりかからないでやって来る奴を(一人も)見かけん。山法師はまちかまえて、のっけからたたく。腕自慢は腕をたたき、口自慢は口をたたき、眼が自慢なら眼をたたく。まんだ一人も、素手でやってくる奴はない。どいつもこいつも、陳腐な古人の【からくり】にのせられている。
(メモ者注:【 】は傍点の代用)
(「まんだ」は原文ママだが「未だ一箇の独脱〔どくだつ〕して出で来る底有らず、」なので「まだ」の間違いだろう)
参考資料
※着色は引用者による
埋め込みとその続きより
”
禅はこういうとこちゃんと網貼ってるのすき。 pic.twitter.com/5Oi5dNZW9b
— 三崎律日@「奇書の世界史」発売中 (@i_kaseki) 2020年1月31日
魔境=「禅完全に理解した」状態
”
(上記の埋め込み呟きの画像はウィキの魔境の項目の画像。
魔境
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E5%A2%83
”魔境(まきょう)とは、禅の修行者が中途半端に能力を覚醒した際に陥りやすい状態で、意識の拡張により自我が肥大し精神バランスを崩した状態のことを指す。ユング心理学で「魂のインフレーション」と名づけられた状態だという指摘[誰?]もある。
概要
臨済は、「瞑想により仏陀や如来が現れたときは(瞑想内のイメージの)槍で突き刺せ」「仏見たなら仏を殺せ」と教えている。これは、瞑想中に神格を持つものとの一体感を持った結果「自分はすごい人間だ」と思い込んでしまい、エゴが肥大してしまうのを防ぐ、すなわち魔境に入ってしまう状態を防ぐための教えだとされている。
実際に光のようなものが現れても、それは単なる脳内の視覚野の発火現象であるという意見[誰?]もある。 ”
の箇所)
https://twitter.com/unajiperopero/status/1223209388627783680 と続き
”うなじ
@unajiperopero
「殺仏殺祖」を瞑想中の魔境に対する指導と捉えるのは、解釈しすぎじゃなかろうか 臨済録に限らないけど、禅の語録って、問答の中で悟らせるものだから、坐禅の具体的な技術指導なんてのはしないのが基本だし
午後8:40 · 2020年1月31日
「裏に向かい外に向って、逢著すれば便ち殺せ」の「裏」を瞑想中のビジョンと捉えるのは、一応、不可能ではないかもしれないけど、もっと広い意味での内的な観念と考えた方が良さそう
文脈としては、「俺も若い頃は経典とか戒律を熱心に勉強してたけど、無駄だとわかったから全部やめて、禅の先生に会って初めてちゃんと悟ることができたよ。だから、他人に惑わされちゃ駄目だ」というような話に続けて「仏に逢うては~」と続く つまり、ここで言う仏とかは外的な権威のことだろう
魔境は「間違った坐禅」だから、「正しい坐禅」をして悟りましょう、なんてのは、臨済の思想にそぐわないしな 「平常無事」を重んじる人が、正しい坐禅で修行をステップアップしていきましょうなんて言うわけがない
午後8:56 · 2020年1月31日
”
https://twitter.com/unajiperopero/status/1223222754763210752
”うなじ
@unajiperopero
馬祖の立場では、日常生活で見聞覚知するありのままの心がそのまま仏なので、ことさらに坐禅で功徳を積もうとする行為そのものが、それをわかっていない証拠になるわけです
午後9:33 · 2020年1月31日”
https://twitter.com/unajiperopero/status/1223224784890159104
”うなじ
@unajiperopero
馬祖以来、何か適当な物を指し示して、「何だ?」とか「見えるか?」とか質問するのが定番のやり口になるんだが、示しているものが払子であれ柏樹子であれ野鴨子であれ、本当に聞いているのはいつも「それを見ているお前は何だ? それが仏だろう?」だったりする
午後9:41 · 2020年1月31日”
うなじさんがリツイート
DICTATOR@SPQR_RomeFan
1月31日
好意的に解釈すると、座禅という行為に囚われるようじゃ仏にはなれんという事なのかな
うなじ @unajiperopero
1月31日
懐譲に「坐禅なんかやめちまえ」と言われた馬祖、後に弟子が真面目に坐禅している時、耳に息をフーフーして邪魔したエピソードが知られている ウザい
うなじさんがリツイート
うなじ@unajiperopero
2019年12月6日
懐譲「坐禅して何をしようとしている?」
馬祖「仏になろうとしています」
(懐譲、徐にその辺に落ちてる瓦を磨き始める)
馬祖「瓦なんか磨いてどうするんです?」
懐譲「磨いて鏡にする」
馬祖「瓦を磨いても鏡にはならないでしょう」
懐譲「瓦を磨いて鏡にならないなら、坐禅しても仏にはなれんぞ」
うなじ @unajiperopero
1月31日
禅宗で魔境が良くないと言われてるかどうか確認するために語録をめくってみると、魔境以前にそもそも坐禅自体をやめろと書いてあることがわかる
「裏に向かい外に向って、逢著すれば便ち殺せ」
皆さんわかりますね? 裏ですよ、裏! そう、裏柳生です
(
裏柳生とは漫画原作者である小池一夫が子連れ狼で登場させた架空の裏の組織)
DJ プラパンチャさんがリツイート
https://twitter.com/unajiperopero/status/1357620058403397637 とその続き
”うなじ
@unajiperopero
で、実践寄りの話をするなら、「悟ろうとすること自体が迷いだろ!」みたいなのは初期禅宗が一番明快かつラディカルに主張してるやつなんですね 「本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん」ってやつで、自分という鏡から煩悩という汚れを拭き取れば悟れるという発想そのものに対する批判ですね
午後6:20 ・ 2021年2月5日
これは、「悟りとか仏とか大上段のことばっかり言ってないで、今この瞬間に飯食ってクソして寝てる自分自身のことを思い出せ!」っていう方向に発展していって、これはある意味では仏教の基本からの逸脱だけどらある意味では原点回帰みたいなところもあり、禅の独特の魅力の一つはそこら辺にあるわけだ
ただ、この方向性が爆発的に流行して権威化すると、ろくに修行もしないで「修行なんてしてるやつは、それ自体が迷いであることに気づいてない低レベルな奴ですよ」って斜に構えるだけのカスも大量に湧いてくることになる
そうすると、「あんなカスどもが偉そうな顔してるのはおかしい! やっぱりちゃんと大悟の経験を目指すのも大事だよ!」みたいな意見も禅宗内に出てきて、この両極の間の丁度いいところを探して綱引きを続けるのが、ざっくりした禅の歴史なわけですね
”
https://twitter.com/prapanca_snares/status/1357663225114861568 と続き
”DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
「悟りとか仏とか大上段のことばっかり言ってないで、今この瞬間に飯食ってクソして寝てる自分自身のことを思い出せ!」的な発想は仏教が伝わる以前から中国にあって、「真理は遥かな遠くにあるのではなく、目の前の現象世界に“即”して顕現している」というのは中国思想史を深く貫く思考だったりする。
午後9:11 ・ 2021年2月5日
例えば儒家だと、『論語』には「仁、遠からんや。我れ仁を欲すれば、斯に仁至る」とある。『中庸』には「道なるものは須臾も離るべからず。離るべきものは道にあらざるなり」とある。『孟子』にも「道はちかきにあり、しかるにこれを遠きに求む、事は易きにあり、しかるにこれを難きに求む」とある。
儒家と全く逆の立場だと言われる道家でも、『荘子』知北遊篇には、道はどこにだってある、小便や大便にだってあるとある。このような思想は、はるか後世の『無門関』で「仏とはどういうものですか」とたずねられた雲門和尚が「乾いたクソの塊じゃ」と答えているのと相通じると言う人もいる。
鳩摩羅什の弟子の僧肇が書いた『肇論』にある「触事而真(あらゆることが全て真理だ)」という言葉が後世の中国仏教に大きな影響を及ぼしていくことや、『肇論』に「天地與我同根萬物與我一體」という『荘子』斉物論篇と見まがうようなフレーズが出てきたりする根底にはこういう通奏低音があったりする。
ついでに言うと、禅で「以心伝心」なんて言ったりするけど、『論語』里仁篇にはこんな一節があったりします。
先生がいわれた、「参よ、わが道は一つのことで貫かれている。」曾子は「はい。」といわれた。先生が出てゆかれると、門人がたずねた、「どういう意味でしょうか。」→
→曾子はいわれた、「先生の道は忠恕のまごころだけです。」(金谷治訳)
……『荘子』とかではなく、『論語』の一節です。「傍目には理解しがたいガールズトークを通じて師資相承」的な世界は、言語を信用しない『荘子』だけでなく「必らずや名を正さんか」と説く『論語』にすらみられるから根が深い。”
(禅関係で超訳って見かけない気がする。そもそも超訳しにくいのが理由だろうけど。
超訳と書けば原文にない、しかも正しい可能性が低い解釈を勝手に混ぜて書いても許されると思うなよ。
原文に書いてあると思われたらどうすんだ)
だから巷に溢れる粗製濫造の般若心経本のほとんどに対しては「消えねーかなー」って思ってる あんなもん(※任意のクソ般若心経本をイメージしてください)読む価値ねえよ
— うなじ (@unajiperopero) October 2, 2020
粗製濫造クソ般若心経本読むくらいなら入手しやすくて安くて文庫本サイズで内容的にも読みやすい岩波文庫の和訳読めばいいと思うんだが、般若心経が初心者にわかりづらいのは根本的にテキスト自体の問題なので、岩波文庫読んだところで(見当違いな方には行かないけど)よくわからんのは同じなんだよな
「超訳」で予防線張るにしても、「訳」だと言い張るなら、せめて書いてあることを日本語にしてほしいんですよね
無から湧いて出た怪文書を、たとえ無名の誰かとはいえ精魂込めて作った宗教文献の「訳」だと言い張って世に出すの、まあ倫理観を疑うやつですよ
ともあれ、「超訳」の類で噛み砕いて般若心経を理解しようったって、土台無理な話ですよ テキスト自体が専門用語の羅列なので、噛み砕きようがないし、無理矢理「わかりやすく」したら、もう原型残ってないんですよね
https://twitter.com/komorikentarou/status/1264453555622039552
”小森健太朗@相撲ミステリの人
@komorikentarou
英訳マハーバーラタ読んでいるが、ラクシャーサというヒューマノイド兵器が登場する。註釈の説明では、
Rakshasa is said to be a mythological humanoid being
とある。
午後4:09 · 2020年5月24日”
https://twitter.com/komorikentarou/status/1264454179499552768
”小森健太朗@相撲ミステリの人
@komorikentarou
マハーバーラタのプラティスムルティは、神速で移動する能力のこと。
Pratismriti :
This skill allowed the practitioner to travel great distances in a short time.
午後4:12 · 2020年5月24日”
https://twitter.com/komorikentarou/status/1264197146170908672 と続き
”1984年11月東大一年生だった私は、駒場祭企画で浅田彰×中沢新一、ニューアカの旗手の対談を聴講した(一時間くらいだったか)。そのときすぐそばのパネルで「麻原尊師直伝。オウム真理教の正大師来訪」とかやっていて、オウムにも興味のあった私は(こっちも聞きに行こうかな)と思ったりしたものだった。
午後11:11 · 2020年5月23日”
https://twitter.com/komorikentarou/status/1264197891049975810
”その駒場祭の風景を思い起こすと、浅田彰×中沢新一の対談企画があり、オウム真理教の大々的な人気パネルがそばで開催されていたのは、1980年代の知的状況のひとつの断面を鮮やかに照射していたものだと思ったりする。駒場祭でのオウム企画について今となって語っている人は見つからないが。
午後11:13 · 2020年5月23日”
https://twitter.com/komorikentarou/status/1264198945963565056
”その時代の連載マンガ女子校四コマもの「ほんばぢょしこうマニュアル」では、女子高生が誤魔化すために「いま中沢新一とミシェル・フーコーの思想について議論していましたの……」とかいうセリフがある。今日日の女子高生日常ものや空気系作品で、そんなセリフをキャラが絶対に喋ったりしないだろう。
午後11:18 · 2020年5月23日
”
https://twitter.com/prapanca_snares/status/1231216799892426752 と続き
”DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
中村元『龍樹』も“入りとしては”悪い本ではないと思うけど、個人的には梶山雄一『スタディーズ空』と『空の論理 中観』を強く推したいですね。まず前者を読むと後者が理解しやすくなります。ナーガールジュナの思考の襞まで入り込んで解きほぐした上で梶山自身の言葉で語られる解説が素晴らしいです。
午後10:58 · 2020年2月22日·Twitter Web App
2020年2月22日
これは自分一人の体験にすぎないから一般化はできないだろうけど、最初に中村元『龍樹』を読んでそれについてる『中論』の和訳を読んでも、ほとんど理解できなかったんだよな。でも梶山雄一の本で、ナーガールジュナの言語批判の論理がどういうものか知り、そのヤバさを知ってから読むとよくわかった。
自分が中村元『龍樹』をあまり薦めたくない理由について。中村は『中論』は相互依存の縁起を説いていると言ってる。確かにチャンドラキールティはそう理解してる。でも最近の研究では、桂紹隆・五島清隆『龍樹『根本中頌を読む』のように『中論』は相互依存の縁起を説いてないという指摘があるんだな。
例えば、『中論』第10章第10偈にはこうある。
あるもの(甲)が何か別のもの(乙)に依存して成立する場合、もしその甲に依存して甲の依存の対象である乙が成立するなら、いったい何に依存して、何が成立するのか。(桂紹隆・五島清隆訳、前掲書)
この偈は、甲と乙が相互依存関係によって成立するとは言っていない。あくまでも、「甲と乙を実体視して甲によって乙が成立し、乙によって甲が成立すると考えると循環論法に陥る。よって甲も乙も無自性であり空である」と言っているわけだ。
自分も初めて中村元訳で『中論』を読んだとき、この第10章の火と燃料をめぐる考察を、相互依存の縁起という枠組みで読もうとして「???」となったことを今でも覚えている。詳しいことは桂・五島の前掲書に論じられているけど、自分は五島説は肯綮にあたっていると思う。
2020年2月22日
あと、中村元『龍樹』は最後の方で、ナーガールジュナの思想は新プラトン主義であるとか、偽ディオニシウス・アレオパギタやエックハルトの否定神学に対応すると言ってるけど、これも問題があると思う。
否定神学では、神は言語化不可能であり不可説ではあるが厳然として存在するということになっているし、その否定は神を肯定するための相対的な否定である。それはざっくり言えば「言語を超えた何かがある」「否定の果てにどこかに何かが残る、どこかに何かがある」という思想である。
でも『中論』の否定は、肯定も否定もしないという意味の否定である。「Aは有でもなく無でもない」というジレンマ論法は、有や無という言語の外側に真実の世界があるということではない。Aという主語を立てて有とか無とか言った時点で矛盾に陥ると言っているだけで、そこに外側はない。
このへんの問題については、興味のある方はhttps://twitter.com/prapanca_snares/status/1207227868876378112
を見てもらえればと思います。中村先生は言うまでもなく偉大な人だと思うけど、『龍樹』も元々は「人類の知的遺産」シリーズに入ってた40年前の本だし、現在ではちょっと無批判に受け入れるわけにいかない部分もあるということで。
引用ツイート
DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
· 2019年12月18日
>RTs
ちなみに南直哉さんはこのような興味深いことを言っている。
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/8952b84ce88010e0cce1ea14778dabb8
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DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
2020年2月22日
あと、立川武蔵『空の思想史』については、立川武蔵の弟子筋にあたる正木晃の『「空」論 空から読み解く仏教』と併読するのがおすすめですね。『空の思想史』をわかりやすく解説しつつ『空の思想史』にない内容も盛り込んだような本です。”
「即」という名のアポリア 第16回
https://note.com/prapanca_snares/n/n812630b0b7b6
”『中論』では因果関係をめぐる問題は主に第1章と第20章で詳しく扱われています。第20章では、次のように説かれています。
(第7偈・第8偈) (1)さらに、もし結果が因と諸縁の集まりとまったく同時に現れるとするなら、生じさせるもの(能生)と生じさせられるもの(所生)とが同時であるということになってしまう。
(2)もし結果が因と諸縁の集まりより前に現れるとするなら、因と諸縁を欠く結果は、[原因なしに生じる]無因のものとなるだろう。
(第10偈前半) 既に滅して、消え去った原因が、既に生じている結果をどうして生じさせることがあろうか。[そんなことはあり得ない。] (桂紹隆・五島清隆訳)
ここでいう原因と結果というのは、例えば「種から芽が生じる」という場合であれば種が原因で芽が結果です。まず、原因(種)から結果(芽)が生じるということがありえるとすれば、以下の3つに場合分けできます。
①原因である種が滅したあとに結果である芽が生じる
②原因である種が滅する前にすでに結果である芽がある
③原因である種と結果である芽は同時にある
まず、②はありえません。これだと何の原因もないところから芽が生じると言っているのと同じですし、因果関係とは言えません。では①ならどうかというと、これもありえないとナーガールジュナは言うのです。種が滅した後に芽が生じると言うからには、種が滅する瞬間と芽が生じる瞬間にはタイムラグがあるわけです。芽が生じる瞬間には、原因である種はすでにこの世には存在していないことになります。それなら何の原因もないところから芽が生じるというのと同じことでありありえないことだ、とナーガールジュナは言うわけです(第10偈前半)。
では③ならどうかというと、これだと時間的な因果関係が成立しているとは言えません。種と芽が相互に関係しているということにはなるかもしれませんが、種(原因)から芽(結果)が生まれるという因果関係があるとは言えないのです。結局、どのように考えても人間が日常的な思考において想定しているような種類の因果関係は成立しない、とナーガールジュナは言っているわけです。
この点について考えるために、ちょっと「種から芽が生じる」という文章について考えてみましょう。まず、いったん芽が生じたら、そこには種はもはや存在しません。よって種と芽が同時に存在することはできません。そして、原因(種)は、結果(芽)よりも時間的に先行します。ということは、この文章の「種から」という部分と、「芽が生じる」という部分には、時間的なズレがあります。原因(種)が結果(芽)よりも時間的に先行する以上、「種から」というのは、「芽が生じる」という部分よりも前の時点のことです。「芽が生じる」時点では、もはや種は存在しないからです。
そこで「種から」という瞬間を①、「芽が生じる」瞬間を②とおくと、この文章は時間的に①と②に分割できます。
①種から
②芽が生じる
②の瞬間に着目すると、種はもう存在しません。でも、種という原因が存在しないのに芽という結果が生じるのはおかしなことです。そもそも「生じる」というのは現在形ですから、②の瞬間しか指すことができず、①の瞬間を指すことはできません。すると、原因(種)がないのに結果(芽)がわいて出てきたのだ、ということになります。
なぜこのようなおかしなことになるのかというと、「種から芽が生じる」という言語表現は、①と②の間にある時間的なズレを隠蔽することによって成り立っているからです。「種から芽が生じる」という言語表現に対応する瞬間などという「もの」は、人間の言葉の世界にのみ存在する「もの」であって、現象世界には存在しないのです。
もっと言えば、②の「芽が生じる」という部分だけを見ても、矛盾を孕んだ表現だと言うことが可能です。「生じる」というからには、「存在しないもの」が「存在するもの」になるということでしょう。では、「芽が生じる」という文章における「芽」は、「存在するもの」でしょうか。それとも「存在しないもの」でしょうか。もし「存在するもの」なのだとすれば、この文章は「『(既に)存在するもの』が生じる」と言っていることになります。そうすると、(既に)存在する芽が改めてもう一度生じるという話になり、不合理です。一方、「存在しないもの」なのだとすると、「(いまだに)存在しないもの」がどうして「生じる」という動詞の主体になることができるのか、という不合理に陥ります。
人間は日常生活において常に現象世界を分別し、言語で表現しています。「種から芽が出る」もそうですが、「春が去って夏が来る」というのもそうです。種と芽の境界や春と夏の境界を定めているのは、人間の概念的な思考です。この概念的な思考においては、種や芽や春や夏は、自性(固有の性質)をもち、確固として実在する「もの」だと考えられています。そして人間の言語では、それらの自性をもった「もの」が生じるとか消滅するとかあるとかないなどと表現するわけです。
しかしそれは言語的で概念的な虚構であるとナーガールジュナは言うのです。言語にはなぜこのような問題が生じるのかというと、言葉の世界では「種」「芽」「春」「夏」「歩行者」といった「もの」がそれぞれ独立して存在し自性をもっていると考え、「生じる」「来る」「歩く」という作用も存在すると考えた上でそれらをどんどんつないでいくからです。しかし、そのようにして「私は走る」「歩行者が歩く」「種から芽が出る」「春が去って夏が来る」などと言っても、人間が経験する現象を説明することはできず矛盾に陥る、とナーガールジュナは言っているのです。
ここで念のために申しあげておくと、ナーガールジュナは、「歩行行為はありえない。よって、あなたが家からコンビニに歩いていこうとしてもコンビニにたどり着くことはできないし、歩行行為によって亀を追い抜くことも不可能だ」とか「種から芽が出ることはありえない。ずっと種のままだ」とか「あなたは存在するのでもなく存在しないのでもないから、ビルの20階から飛び降りても無事に助かる」などと言っているわけではありません。もしそんなことを言っているのだとしたら、ただの詭弁でしかありません。
ナーガールジュナが言っているのは、「歩行者」や「歩行行為」や「原因(種)」や「結果(芽)」や「私」といった「もの」が独立して自性を持って存在すると考えると、人間が日常的に経験する「種から芽が出る」とか「デレク・ベイリーが走っている」といった現象を説明することができなくなって矛盾に陥るのだということです。そしてその矛盾は、人間の概念的な思考に常につきまとっており、人間の言語は破綻を抱えているのだと言っているのです。
歩行者と歩行行為の場合、両者が別々に独立して存在すると考え、「歩行者」という言葉と「歩く」という言葉をそれぞれ実体視して、それら二つの言葉に対応する「もの」が実在すると考えると、それら二つが同一であっても別異であっても矛盾に陥るのだと、ナーガールジュナが言っていることは先ほども述べた通りです。同様のことは因果関係についても言えます。今見ている『中論』第20章では、ナーガールジュナはこう言っています。
(第19偈)(1)実に、原因が結果と同じであることは、決してあり得ない。(2)実に、原因が結果と異なることも、決してあり得ない。
(第20偈)(1)結果と原因とが同じであるなら、生じさせるもの(能生)と生じさせられるもの(所生)とが同じであることになるだろう。(2)結果と原因とが別々であるなら、原因は原因でないものと同じになるだろう。[したがって、結果と原因とは同じでも別々でもない。] (同前)
もし原因と結果が同じ「もの」だとすれば、種と芽は同じだということになりますが、もちろんそんなことはありません。では、種と芽はそれぞれ、自性を持って独立して存在する別々な「もの」だと考えればうまくいくかというと、そうはいきません。結果(芽)が、結果とは別異な「もの」(種)から生じるというのであれば、種と同様に別異な「もの」である机や椅子からでも芽が生じうることになってしまいます。あるいは、机や椅子から芽が生じないのと同様に、種からも芽が生じないということになってしまいます。
この「同一と別異のジレンマ」とでも形容すべきナーガールジュナの論法でも、行われているのは場合分け+背理法です。ありえる場合をすべて列挙して、いずれの場合にも矛盾に陥ることを示し、「歩行者と歩行行為」や「原因と結果」といった二つの「もの」が独立して自性をもって存在するという常識的な見方はどのように考えても成立しないことを示すのです。そうすることで、歩行者であろうが歩行行為であろうが原因であろうが結果であろうが、すべて空であることを間接証明していくのです。
「同一と別異のジレンマ」の論法は、人間の概念的な思考の陥穽を鋭く抉っています。人間の言語の世界では、AとBという二つの「もの」が存在するという場合、AとBは同じか異なるかしか認められません。AとBは同じだけれども異なるとか、同じでもないし異なるのでもないといったようなことは想定されていないのです。ここでは、同一と別異という二元対立的な枠組みしか認められていないのです。
これは、「Aはある」「Aはない」「Aは存在する」「Aは存在しない」といった表現にみられる有無の問題でも同じことです。Aという主語を立てた時点で、それはもう存在するか存在しないかの二択になってしまい、それ以外の場合は認められないのです。そして、そのような二元対立的な図式しか認めない言葉の論理で「歩行者と歩行行為」とか「原因と結果」という問題を突き詰めて考えると、その論理は破綻せざるをえないとナーガールジュナは言っているのです。にもかかわらず人間は目の前の現象をニュートラルに見ることができず、往々にして言葉のほうを見てしまう、というわけです。
そして、なぜそのような破綻が生じるのかというと、人間の言葉の世界においては、AやBがそれぞれ独立して自性を持って確固として存在するとみなされるからです。そういう見方でいくと、AとBが同じだと考えても異なると考えてもおかしなことになってしまうのです。
この世のすべての「もの」は単独で自立的に存在してはいません。この世のすべては、複合的で流動的で関係的な「事態」です。(種と芽のような)因果関係も、(歩行行為のような)運動も、(「全体と部分」とか「対立と依存」のような)論理的関係も、すべては他との関係(≒縁起)において浮かび上がったり消えたりしている現象です。しかし、いかなる関係であろうとも、それが関係である限りは、それを言語的に表現しようとすると、どうがんばっても「AとB」といった具合に二つ以上の要素を実体視して、それらをつないでいかざるをえなくなります。そうすると、それがどのような関係であろうとも、「同一と別異のジレンマ」に陥ってしまう。このことは今まで見てきたとおりです。このようにして、人間の言語表現はすべて破綻を抱えこんでいるのだとナーガールジュナは言っているのです。
ナーガールジュナの言語批判の型は、ほかにもあります。それは、「AとBはそれぞれ独立して存在しているかのようにみえるが、AによってBが成立し、BによってAが成立するという構造をしている。これは循環論法である。よってAもBも自性を欠いた空なる「もの」であるとせざるをえない」という論法です。具体例を見てみましょう。まず、『中論』第10章にはこうあります。
(第10偈)あるもの(甲)が何か別のもの(乙)に依存して成立する場合、もしその甲に依存して甲の依存の対象である乙が成立するなら、いったい何に依存して、何が成立するのか。
(第12偈)(1)火は燃料に依存(歓待)して成立しているのではない。(2)火は燃料に依存せずに成立しているのでもない。
(1)燃料は火に依存して成立しているのではない。(2)燃料は火に依存せずに成立しているのでもない。 (同前)
また、第23章にはこうあります。
(第10偈)好ましいものに関連(歓待)しなければ、好ましくないものは存在しない。[しかし、]その好ましくないものを縁として、我々は好ましいものを概念的に設定できるのだ[から、両者は相互に依存している]。したがって、好ましいものが[固有の性質を持つものとして]正当化されることは決してない。
(第11偈)好ましくないものに関連(歓待)しなければ、好ましいものは存在しない。[しかし、]その好ましいものを縁として、我々は好ましくないものを概念的に設定できるのだ[から、両者は相互に依存している]。したがって、好ましくないものが[固有の性質を持つものとして]知られることは決してない。 (同前)
以前も述べたように、2億kmというと人間はとんでもなく長いと感じるけど、実際には2億kmそれ自体は長いのでもないし、短いのでもありません。2億kmは1億kmよりは長いけど、3億kmよりは短い。2億km以外の距離と“比べる”という概念的な思考によってはじめて長いとか短いとかいうことが言われるのであって、2億kmそれ自体のなかには、それが長いと言いうる根拠も短いと言いうる根拠もないのです。これは、机それ自体の中にはそれが「本を読み、字を書き、また仕事をするために使う台」である根拠がないのと同じです。
〔中略〕
さて、そうすると、「1億kmは長い。なぜなら1mmより長いからだ。また、1mmは短い。なぜなら1億kmより短いからだ」「Aが善なのはBが悪だからだ。Bが悪なのはAが善だからだ」ということになります。ですが、そのような論理は循環論法であり成立しないとナーガールジュナは言っているのです。よって、善悪とか美醜とか長短とか左右といった相対的な性質は、すべて空なる「もの」にすぎない、というわけです。
ちなみに、『中論』に近い立場で書かれた『廻諍論』という書物があります。以前も述べたように、『中論』の作者と『廻諍論』の作者が同じかどうかは問題がありますが、ともあれ『廻諍論』の第49偈と第50偈にはこうあります。
もし父によって息子は生じさせられ、またその同じ息子によってその父が生じさせられるのなら、その際、いずれがいずれを生じさせるかを言え。
その際に、だれが父であり、だれが息子であるかを君は言え。それらのふたりがともに父と息子との特徴をもっていることになるので、そこにわれわれの疑いが生じる。(梶山雄一訳)
通常、親から子が生れると言うことはあっても、子から親が生れると言うことはありません。しかし考えてみると、親から子が生れるというと、まるで子が生れる前から親という「もの」が存在していたかのようです。いかなる親も、子が生まれるまでは親ではありません。ということは、子が生じることで、子をもうけた人が親になったわけです。そうなると、親によって子が生じ、子によって親が生じた、ということになる。しかしそれは循環論法だというわけです。そういうわけで、生んだ者に親という自性はないし、生まれた者にも子という自性はない。親も子もあくまでも言葉であり実体なき空なる言葉にすぎないという、これまでみてきたような話になるわけです。
ともあれ、「AとBはそれぞれ独立して存在しているかのようにみえるが、AによってBが成立し、BによってAが成立するという構造をしている。これは循環論法であり不成立である」という論法によってナーガールジュナが言おうとしているのは、AやBを実体視し、独立して存在する「もの」だとみなすと循環論法に陥ってAもBも成立しなくなるということです。一方でナーガールジュナは、歩行者と歩行行為(種と芽)について論じるときは、両者をそれぞれ実体視し、独立して存在する「もの」だとみなすと、両者が同一だとしても別異だとしても矛盾に陥るという論法を使っていました。
「循環論法の指摘」も「同一と別異のジレンマ」もいずれも、AとBがそれぞれ自性をもって独立して存在する「もの」だとみなした上で、あらためて両者を結びつけて関係させようとすると矛盾に陥るということを示す論法であることに変わりはありません。このようにしてナーガールジュナは、AやBは自性をもって独立して存在しているのではなくいずれも空であるということを示しているわけです。
”
「即」という名のアポリア 第17回
https://note.com/prapanca_snares/n/n25d409ec00be
”『中論』第18章でナーガールジュナはこう言っています。
(第5偈)業と煩悩とが消滅することにより解脱がある。
業と煩悩とは、概念的思惟より生じる。諸々の概念的思惟は、言語的多元性(戯論)より生じる。しかし、言語的多元性は空性において滅する。
(第7偈)[空性において言語的多元性が滅するとき、]言葉の対象は止滅する。そして、心の活動領域も止滅する。 (桂紹隆・五島清隆訳)
ここで「概念的思惟」と訳されている言葉のサンスクリット原語は、ヴィカルパという言葉です。ヴィカルパというのは、仏教では広く思惟や思慮や判断を意味する言葉で、漢訳では「分別」と訳されています。「分別」という言葉は、仏教では悪い意味合いの言葉だということは以前も述べたとおりです。また、「言語的多元性」と訳されているのは、プラパンチャという言葉で、漢訳では「戯論」と訳されています。プラパンチャというのは、「多様性」や「複数性」を原意とした言葉で、「(言語的)分裂」であるとか、言語や思考の複雑な発展といった意味あいを含みこんだ言葉です。つまり、言語や概念が織りなす多様な虚構を言い表した言葉です。
日本語には「わかる」という言葉がありますが、この言葉は「わける」を語源にしています。「判断」という言葉も、一つの「もの」を「半」分に「断」ち切ることです。「理解」という言葉も、「理」(すじみち)に従って分「解」することです。「分析」という言葉も、「分」かち「析」(さ)くことにほかなりません。
これまで見てきたように、人間が言語を用いるためには、「歩行者と歩行行為」「種と芽」「春と夏」「長と短」「親と子」「美と醜」といったように、現象を二つ以上の要素に切り分けて、それらの要素を実体視してどんどんつないでいく必要があります。判断や理解や分析には、どうしても二つ以上の概念の実在を前提にせざるをえないのです。しかし、そうやって形成された言葉の世界は、文字通りに世界を言い表してはいない。プラパンチャからヴィカルパが生じるというのは、そういうことです。
さて、ここで少し考えてみたいのは、ナーガールジュナの思想において、仏教の根幹をなす無常の教えはどのように位置づけられるかということです。
仏教に何の興味もない人でも無常という言葉を知っている人は多いでしょうし、「(つくられた「もの」は)変化し続けて一瞬たりともとどまることがない」という意味だということもなんとなく知っている人も多いでしょう。ただ、多くの人は無常ということを、「Aという『もの』がまず実在していて、それが変化していく」というイメージで捉えているのではないかとおもいます。しかし、何度も申し上げているように、Aという基体が実在していて、それが変化するという概念的な思考をナーガールジュナは斥けています。
『中論』の思想でいくと、現象世界はただただ流動的であり、そこからAという基体を言語化して取り出してみせたところで、それは言葉の世界にしか存在しない。かようなAはあるのでもないし、ないのでもないのだから、Aは変化するとも言えないし、変化しないとも言えません。変化するとかしないとかいったことを言語的に問題にすること自体が誤りだということになります。
そもそも変化というのは、同一性という概念を前提にした概念です。「火が燃える」という言語表現であれば、「火が変化する」という事態を人間が概念的に理解しようとするときには、まず「変化せずに同一性を保ち続ける火」を概念的に想定せざるをえません。というのも、「変化せずに同一性を保ち続ける火」という、現象世界のどこにも存在せず、人間の言葉の世界にしか存在しない「もの」と“比べる”ということを行わないと、変化を理解することができないからです。ゆえに「Aが変化する」という言語表現はすべて、「変化せずに同一性を保ち続けるAが変化する」という矛盾を孕んでいるということになります。もし、どこかに「変化しない同一性」を設定して、それと“比べる”ことで変化を説明するのが無常だというのであれば、そのような考えはナーガールジュナに言わせれば破綻しているということになります。
それでは、『中論』において無常とはいかなる事態なのか。『中論』に近い立場で書かれている『空七十論』第58偈には、こうあります。
すべては無常(といわれるが)、無常なるものも恒常なるものもなんらあるのでない。存在があるとすると、恒常なるものか無常なるものかであろうが、どこにそのようにあるであろうか。 (瓜生津隆真訳)
先ほどの同一性と変化の話でいうと、人間は「変わる」を理解するために「変わらない」を捏造し、「変わらない」を理解するために「変わる」を捏造してしまうのです。これは、「2億kmは長い」とか「1mmは短い」というようにして、長短や大小や上下や左右や東西南北を捏造してしまうのと同じことです。「有」を理解するために「無」を捏造し、「無」を理解するために「有」を捏造してしまうのと同じだとも言えます。人間には“比べる”という根深い思考性癖があるのです。
「同一性」も「変化」も「変わる」も「変わらない」も、言葉の世界にしかない「もの」であり、現象世界には存在しません。不変性であろうが無常性であろうが、それが言語的に実体視された概念である限りはプラパンチャに過ぎないのです。「Aが」とか「Aは」とか言って主語を立てた時点で本当は誤っているし、「変化する」ということも究極的には言えない。そういう意味では、「つくられた『もの』はすべて無常である」というテーゼが妥当であるというわけでもないし、妥当でないというわけでもないのです。それでもあえて無常ということを言語化するなら、「私」が投げ込まれている、ドゥッカをもたらす関係(≒縁起)的に流動している「事態」だ、とでも言うほかない。
〔中略〕
「概念的に切り分けることができない時間の経過を、空間的な動きに恣意的に置き換えて理解してしまう」という、人間の概念的な思考が孕んでいる問題点を抉っていると取れる一節が、『中論』第2章の冒頭にあります。
(第1偈)[……「誰かが歩いて行く」という文を分析するとき、歩かれている場所は、その人が既に通過した地点か、まだ通過していない地点か、現に通過しつつある地点かのいずれかで
あるが、](1)まず、「既に通過した地点が今歩かれている」ことはない。(2)「まだ通過していない地点が今歩かれている」ことは決してない。(3)既に通過した地点とまだ通過して
いない地点とは違う「現に通過しつつある地点が今歩かれている」こともない。 (桂紹隆・五島清隆訳)
ここでもナーガールジュナがやっているのは場合分けです。例えば、岩倉玲音という女の子が今、家から学校まで歩いている途中だとしましょう。玲音の家がある場所をA地点、玲音が今いる場所をB地点、学校がある場所をC地点としましょう。
まず、玲音はAB間を既に歩き終わってしまっているので、AB間を今歩いているということはありません。次に、玲音はBC間をまだ歩いていないのだから、当然BC間が今歩かれているなどということもない。よって玲音は今、AB間を歩いているわけでも、BC間を歩いているわけでもない。
それでは、玲音は今この瞬間に、AB間でもBC間でもない、Bという“点”を歩いているのか。それもありえない、とナーガールジュナは言っているのです。AB間からもBC間からも切りはなされた独立したB地点などという「もの」は、長さを全くもたない言語的な虚構にすぎないし、玲音がB地点を通過する瞬間――過去でも未来でもない時間の幅を全く持たない一瞬――などという「もの」も、人間の言葉の世界にしか存在しない虚構にすぎない。よって過去においても未来においても現在においても玲音が歩くということはないということになって、パラドックスに陥る。そういうわけです。
このパラドックスはおそらく、岩倉玲音(主語)と、歩かれる場所であるB地点(目的語)と、歩行行為(動詞)の三者をそれぞれ実体視して、それらの空間的な動きを時間の経過だとみなしてしまうことからきているのではないかと思います。本来概念的に切り分けたり分割したりできない時間の流れから、固定化され実体視された三者を取り出してきて空間内に配列し、その空間的な動きを時間の経過だとみなす。そうやって時間的な流れを空間化し、動態を固定化し実体化してしまうことに罠があるのではないかと思います。
これは以前扱った「原因(種)から結果(芽)が生じる」という言語表現にも言えることです。種と芽をそれぞれ実体視して、自性をもって互いに独立して存在する「もの」だとみなすと、そこにあるのは種か芽かのどちらかであり、種でも芽でもない状態などという「もの」はありえないことになります。そうすると、種が芽に変化する瞬間という、時間的な幅をもたない一瞬をどうしても想定せざるをえなくなりますが、それは言語的な虚構です。
この『中論』第2章第1偈は、有部の三世実有説を批判していると解釈することもできるように思います。以前説明したように有部の三世実有説では、未来にある有為法のうち、条件がそろった「もの」だけが一瞬現在において作用して、すぐ過去へと去ります(刹那滅)。有為法を人に置き換え、作用を歩行行為に置き換えれば、構図はほぼ同じです。
また、これはいかなる人間も避けることができない死ということについても言えることです。すなわち、
「私」は死ぬ前は死を経験することはできない。
「私」は死んだ後にもう一度死ぬということはないから、死後にも死を経験することはできない。
そして死ぬ前と死後を離れた死ぬ瞬間などというものは幅をもたない言語的な虚構であるから、結局「私」は死を経験できない。
人間は、他人の死を見ることはできますが、ほかならぬ「私」の死を経験することはできないのです。しかし、「私」がどうあっても死を経験できないということは、死をどのように語ろうとも、死をどのように意味づけようとも、それは「物語」だということです。そうすると、死というのも言葉であり、概念や言葉の世界にしかない「もの」だという点で、「歩行者」や「種」や「芽」や「岩倉玲音」と同じであり、もっと言えば「神」や「ブラフマン」や「道」や「イデア」と同じです。ここでも人間は「私」とか「生」とか「死」という言葉の世界にしかない「もの」を静止的で固定的な「もの」として実体視し、「私」という基体が実在すると考えて疑わないからこそ、いつかはそれが死ぬのだと思ってそれを恐怖するのです。しかし、そのようなプラパンチャは空性において滅するとナーガールジュナは言うのです。いかなる「もの」も、ほかならぬあなたも、生まれてきたのもないしこれから死ぬのでもない。そう言っているのです。
”
「即」という名のアポリア 第5回
https://note.com/prapanca_snares/n/n2aed1f66078c
”今回は、無記についてです。
最初に言っておくと、この無記という教えは、ナーガールジュナの『中論』を読み解く上でも、ものすごく重要です。というのも、ナーガールジュナの『中論』は、無記の考え方を大規模に発展させたものだと解釈することができるからです。では無記とはどういうものか。早速ですが例のごとく経典を見てみましょう。
今回取り上げるのは、パーリ中部(マッジマ・ニカーヤ)に出てくる、マールンキャープッタという人にまつわるエピソードです。この人は、世界がどのようにできているのかとか、生命と身体の関係はどうなっているのかといったような、哲学的な問題に深い関心を抱く人だったようです。
そのとき、尊者マールンキャープッタは人影のないところへ行って静思していたが、その心に次のような考えが起こった。
「これらの考え方を世尊は説かれず、捨ておかれ、無視されている。すなわち――世界は永遠であるとか、世界は永遠でないとか、世界は有限であるとか、世界は無限であるとか、生命と身体とは同一なものであるとか、生命と身体とは別個なものであるとか、人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか、人は死後存在しながらしかも存在しないのであるとか、人は死後存在するのでもなく存在しないのでもないとかいう、これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。世尊がわたしに説かれなかったいうことは、わたしにとってうれしいことではないし、わたしにとって容認できることでもない。だからわたしは世尊のところへ参って、この意味をたずねてみよう。もし世尊がわたしのために、世界は永遠であるとか、世界は永遠でないとか……人は死後存在するのでもなく存在しないのでもないとか、説かれるならば、わたしは世尊のもとで修行することにしようし、もし世尊がわたしのために、世界は永遠であるとも、世界は永遠でないとも……人は死後存在するのでもなく存在しないのでもないとも、説かれないようなら、わたしは修学を放棄して世俗の生活に帰るとしよう」(マッジマ・ニカーヤ第63経 桜部建訳)
少しだけ面倒な前置きを。「人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか、人は死後存在しながらしかも存在しないのであるとか、人は死後存在するのでもなく存在しないのでもないとか」という部分で、「人」と訳されているのはtathāgataという言葉です。これは如来を意味する言葉なのですが、無記の教えで出てくるtathāgataについては、後世のブッダゴーサという人が書いた註釈を根拠に、「衆生(生きとし生ける者)」や「人間」のことだと解釈する説があります。今引用した日本語訳もその説に沿ったものです。
しかし、例えば仏教学者の森章司は、それは誤りであることを論証しています(注1)。そこでこの雑文ではひとまず、「人」ではなく「如来」のことだとして話を進めることにします。
本題に入りましょう。たとえマールンキャープッタでなくても、すんげぇ宗教家がいたら「この人は世界や宇宙や人間に関する、人知を超えたような深い“真理”を語ってくれるんじゃないか」と期待する人もいるでしょう。そうでなかったとしても、宗教といえば、世界や宇宙や人間のすべてを語ろうとするものだとイメージする人も多いのではないでしょうか。
そういう哲学的な問題をめぐる“真理”を釈迦が語ってくれないことを不満に思っていたマールンキャプッタの疑問に対する釈迦の答えは次のようなものでした。
マールンキャープッタ、世界は永遠であるとか、世界は永遠でないとか……人は死後存在するのでもなく存在しないのでもないとか、世尊がわたしに説かれないかぎり、わたしは世尊のもとで修行することはしまい、と、もし人があってこのようにいうとしたら、マールンキャープッタ、如来によってそれが彼に説かれないうちに、その人は死期を迎えることになるであろう。
マールンキャープッタ、たとえばある人が厚く毒を塗った矢で射貫かれたとしよう。彼の友人同僚や血縁の者らが内科医や外科医に手当てさせようとしたとしよう。彼がもし、わたしを射た人は王族であるか婆羅門であるか農商工業者であるか奴婢であるかが知られないあいだは、わたしはこの矢を抜くことはしない、というとしたら、また彼がもし、わたしを射た人の名はこれこれであり、姓はこれこれであると知られないあいだは……、わたしを射た人は長身か短身か中くらいかが知られないあいだは……、わたしを射た人は黒いか褐色か金色の肌をしているかが知られないあいだは……(中略)矢は普通の矢であるかクラッパであるかヴェーカンダであるかナーラーチャであるかヴァッチャダンタであるかカラヴィーラパッタであるかが知られないあいだは、わたしはこの矢を抜くことはしない、というとしたら、マールンキャープッタ、その人がそれを知らないうちに、その人は死期を迎えることになるであろう。
マールンキャープッタ、まったく同様に、世界は永遠であるとか、世界は永遠でないとか……人は死後存在するのでもなく存在しないのでもないとか、世尊がわたしに説かれないかぎり、わたしは世尊のもとで修行することはしまい、と、もし人があってこのようにいうとしたら、マールンキャープッタ、如来によってそれが彼に説かれないうちに、その人は死期を迎えることになるであろう。
マールンキャープッタ、世界は永遠であるという考え方があってはじめて人は修行生活にとどまるであろう、というようなことはない。マールンキャープッタ、世界は永遠でないという考え方があってはじめて人は修行生活にとどまるであろう、というようなこともない。マールンキャープッタ、世界は永遠であるという考え方があろうと世界は永遠でないという考え方があろうと、まさに、生まれることはあり、老いることはあり、死ぬことはあり、悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い・悩みはある。現実にそれらを制圧することをわたしは教えるのである。
(中略)
マールンキャープッタ、何ゆえにそれをわたしは説かないか。マールンキャープッタ、これは目的にかなわない。修行のための基礎となるものではない。世俗的なものへの嫌悪・欲情から離れること・煩悩の消滅・心の静けさ・すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役だたない。このゆえにそれをわたしは説かない。
マールンキャープッタ、これは苦であるとわたしは説く。これは苦の生起する原因であるとわたしは説く。これは苦の消滅であるとわたしは説く。これは苦の消滅に進む道であるとわたしは説く。
マールンキャープッタ、何ゆえにそれをわたしは説くか。マールンキャープッタ、これは目的にかなう。これは修行のための基礎となる。これは世俗的なものへの嫌悪・欲情から離れること・煩悩の消滅・心の静けさ・すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役だつ。このゆえにそれをわたしは説く。(同前)
この経典は「毒矢のたとえ」と呼ばれることがあります。この中で釈迦は、マールンキャープッタの問いに対して、「答えない」という態度を示したわけです。初期仏教では、人間が経験することができる事実に基づいて答えを出すことができない問題については、答えないのです。
これを無記と言います。マールンキャープッタがここで取り上げているような、理論のための理論やリクツのためのリクツにしかなりようがない問題であるとか、人間が経験できないようなことを前提にしてそこから出発することで築き上げられる類の理論体系にかかずらうような不毛なことはせずに、まず己に刺さっている毒矢を抜きなさい、議論のための議論にしかなりようがない水掛け論にしかなりようがない問題は捨ておいてまず己のドゥッカという根本問題を解決しなさい、と教えるわけです。
この無記の教えは、自然科学にも通じるところがあります。自然科学の対象は人間が経験する現象のみです。「神様は存在するのか存在しないのか」
「霊魂は存在するのか存在しないのか」「死後の世界はあるのかないのか」といった問題は、実験や観察といった手段を通じて経験によって認識判断することが不可能であるから、研究対象にはなりません。
縁起説のところでも述べたように、初期仏教では他の宗教のように、(人間が経験によってその存在を証明することができない)絶対的な神様がいて不可思議なパワーで世界を動かしたり、人々に何かを強制したりするといったような形でこの世界の構造について説明したりはしません。すべての現象は何らかの条件によって現れた結果であり条件がなくなれば滅びると考えるわけで、そういうところで自然科学と似通っている部分もあると言えます。
また、この無記の教えからは、初期仏教は学問や哲学のように、世界や宇宙や世界についてのあらゆる事柄を把握し説明するものでは全くないということがわかります。
初期仏教の目的は世界や宇宙について知ることではなく、あくまでも「毒矢」を引っこ抜くことです。己の生老病死という実存をめぐる問題を解決することが目的であり、世界について説明したり記述したりしようとしているのではないというわけです。
ちなみに、この「毒矢のたとえ」を、リクツや理論よりも実践が大事だとを説いたものだと解釈する向きもあるようです。そういった解釈は、外れではないにしてもいささか危険な側面があると私は考えています。というのは、今まで見てきた四諦や無常やドゥッカや無我や縁起の教えからも明らかなように、釈迦は理論を全く軽視していないからです。
これまで引用してきた経典からもわかるように、四諦であれ無常であれドゥッカであれ無我であれ縁起であれ、釈迦は話を論理的に進めています。仏教は、行学の両輪から成り立っており、学ぶことと修行の実践のいずれを欠いてもダメだとされているわけです。釈迦が答えなかったのはあくまでも人間が経験できないことがらに関する不毛な議論やリクツのためのリクツであって、人間が経験できる領域については筋道を立ててリクツを語っているわけです。そこを取り違えてはいけないと思います。
さて、この無記はナーガールジュナの思想とも深く絡んでくる重要な教えですので、ここでちょっと興味深い事実をいくつか示していこうと思います。まず、このパーリ経典でマールンキャープッタが提示した問いは次のように整理できます。
①世界は(時間的に)永遠であるのか
②世界は(時間的に)永遠でないのか
③世界は(空間的に)無限であるのか
④世界は(空間的に)無限でないのか
⑤生命と身体とは同一なものであるのか
⑥生命と身体とは同一なものでないのか
⑦如来は死後存在するのか
⑧如来は死後存在しないのか
⑨如来は死後存在しかつ存在しないのであるのか
⑩如来は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか
ここで着目したいのは⑦~⑩です。この⑦~⑩にたいして釈迦が答えなかったということを一般的な形で言うと、「Aであるとも言わないし、非Aとも言わないし、Aかつ非Aとも言わないし、非Aかつ非非Aとも言わない」と
なります。このような形の論理形式は、古くから仏教経典に見られるものです。ちょっと一例をあげておきます。
傍らに坐した遊行者ティンバルカは、世尊に申しあげた。
「友ゴータマ(瞿曇)よ、苦楽は自作でありましょうか」
「ティンバルカよ、そうではない」
と、世尊はいった。
「友ゴータマよ、では苦楽は他作でありましょうか」
「ティンバルカよ、そうではない」
と、世尊はいった。
「友ゴータマよ、では、苦楽は自作にして、また他作でありましょうか」
「ティンバルカよ、そうではない」
と、世尊はいった。
「友ゴータマよ、では、苦楽は自作でなく、他作でなく、因なくして生ずるものでありましょうか」
「ティンバルカよ、そうではない」
と、世尊はいった。
「友ゴータマよ、では、苦楽はないのでありましょうか」
「ティンバルカよ、苦楽はないわけではない。ティンバルカよ、苦楽はあるのである」
「では、尊きゴータマは、苦楽を知らず、苦楽を見ないのでありましょうか」
「ティンバルカよ、わたしは、苦楽を知らないわけではない、見ないわけではない。ティンバルカよ、わたしは苦楽を知っている。苦楽を見ているのである」
「だが、ゴータマよ、あなたは、苦楽は自作であるかと問えば、しからずといった。また、苦楽は他作であるかと問えば、あなたは、そうではないといった。では、苦楽は自作にして、また他作であろうかと問えば、あなたは、そうでもないという。では、苦楽は自作でもなく、他作でもなくて、因なくして生ずるものであろうかと問えば、あなたは、そうでもないという。では、苦楽はないのであろうかと問えば、あなたは、苦楽はないわけではない、苦楽はあるのだという。さらば、あなたは、苦楽を知らず、見ないのであるかと問えば、あなたは、いや、ティンバルカよ、わたしは苦楽を知っている、見ているのだという。では、尊きゴータマよ、あなたは、わたしのために、苦楽を示したまえ。尊きゴータマよ、わたしのために苦楽を説きたまえ」
「受(感覚)とそれを感ずるものとはおなじであるというのは、ティンバルカよ、いまそなたが<苦楽は自作である>といったこととおなじであるが、わたしは、そんなことはいわない。
また、受とそれを感ずるものとは別であるというのは、ティンバルカよ、いまそなたが<苦楽は他作である>といったこととおなじであるが、わたしはまた、そんないい方はしない。
ティンバルカよ、わたしは、それら二つの極端を離れて、中道によって法を説くのである。いわく、無明によって行がある。行によって識がある。……かくのごときが、すべての苦の集積のよりて起るところである。また、無明を余すところなく滅することによって行は滅する。行の滅することによって識は滅する。……かくのごときが、すべての苦の集積のよって滅するところである、と」(サンユッタ・ニカーヤ12・18 増谷文雄訳)
ここでは、「苦楽は自作でもないし、他作でもないし、自作かつ他作でもないし、自作でも他作でもないのでもない」と説かれています。このような、「Aでもないし、非Aでもないし、Aかつ非Aでもないし、非Aかつ非非Aでないのでもない」という論理形式が仏教では古くからみられるというわけです。この論理形式は、四句否定と呼ばれています。
そして興味深いことに、この四句否定に非常に似かよった論理形式が、インドで仏教が誕生したのと同時期に出てきた仏教外の新興の思想家にもみられるのです。この新興の思想家について触れておくと、仏教が誕生したころに、大きな教団を率いていた人が六人いました。仏教側では彼らのことを六師外道と呼んでいます。
ちょっと脱線するようですが、このあたりの背景事情について簡単に説明しておきます。
仏教誕生当時のインド北東部のガンジス川中流域(釈迦が活動した地域です)は、経済的に大いに繁栄していました。この地域の主要な農産物は、安定的に多量の収穫が保証される米であり、大量の米の余剰生産に支えられて、商業や手工業が著しく発達し、多数の商業都市が出現したのです。都市生活者たちのあいだには、経済力を背景にして既存の伝統的な権威を否定する風潮がありました。インドの既存宗教であるバラモン教は従来の威信を保てなくなっていたのです。
こうした中で、アンチバラモン教の立場に立つ思想家や宗教家たちが陸続と出現し、都市の商工業者や新興の権力者たちの支持を得ていったわけです。六師外道も釈迦も、こういう流れの中で出てきた当時の新興宗教家・新興思想家です。
〔中略〕
そして六師外道の思想をみていくと、そこには善悪の否定や唯物論や快楽主義や徹底した宿命論といったような要素が含まれています。武断的に言うなら、地縁や因習から切り離され、旧来の形骸化した権威を信じることはもはやできない都市生活者の、相対主義的でニヒリスティックな匂いをここに見い出してもいいのではないかと私は思っています。
初期経典にあらわれている釈迦の思想は(世俗的な次元での善悪の否定についてはともかくとして)、唯物論でも快楽主義でも宿命論でもないですし、六師外道の思想とは明らかに異なってはいるのですが、どちらも従来の権威が崩壊した都市から出てきた思想ということで、どこか相通じる匂いを感じさせるところがあります。
いずれにせよ、仏教というと、人里離れた山奥に隠遁して修行するというイメージを持っている人もいるかもしれませんが、もともとのインド仏教はそうではありません。都市と切っても切れない宗教です。ただしもちろん、都市生活をまるごと肯定したわけではありません。都市生活者の「自己否定」として出てくる宗教なわけです。
話を無記や四句否定に戻しましょう。四句否定に非常によく似たもの言いをしているのは、六師外道の一人であるサンジャヤ・ベーラッティプッタという人です。パーリ長部(ディーガ・ニカーヤ)の『沙門果経』というお経に、(仏教側の立場からというフィルターを通してではありますが)彼の主張が描かれているので、みてみましょう。
サンジャヤ・ベーラッティプッタはこう答えました。『もしあなたが、あの世はあるか、とたずねて、わたしがもし、あの世はあると考えたら、あの世はある、とあなたに答えるであろうが、(しかし実際には)わたしはそうはしない。そのとおりだとしてもわたしは考えないし、別だとも考えない。そうでないとも考えないし、そうでないのではないとも考えない。
もしあなたが、あの世はないのか、あの世はありまたないものなのか、あの世はあるのでもなくないのでもないのか、とたずねても、同じことである。――またその他、化生としての存在はあるのか、化生としての存在はないのか、ありまたないのか、あるのでもなくないのでもないのか――、善行・悪行には結果が報いてくるのか、報いないのか、報いもし報いもしないのか、報いもなく報いがないのでもないのか――、さとった人(如来)は死後も存在するのか、存在しないのか、存在しまた存在しないのか、存在もしないし存在しないのでもないのか――と、もしたずねても、さとった人は死後存在もしないし、存在しないでもない、とわたしがもし考えたら、そう答えるであろうが、しかし、わたしはそうは答えない。そのとおりだとも考えないし、それとは別だとも考えない。そうでないとも考えないし、そうでないのではないとも考えない』と。(ディーガ・ニカーヤ2 長尾雅人訳)
サンジャヤはこのように、鰻論法と言われるのらりくらりとしたもの言いをするという懐疑論的な態度を示しています。ここでサンジャヤが取り上げている問題は、以下の通りです。
(1)あの世はあるのか、あの世はないのか、あの世はありまたないものなのか、あの世はあるのでもなくないのでもないのか
(2)化生としての存在はあるのか、化生としての存在はないのか、ありまたないのか、あるのでもなくないのでもないのか
(3)善行・悪行には結果が報いてくるのか、報いないのか、報いもし報いもしないのか、報いもなく報いがないのでもないのか
(4)さとった人(如来)は死後も存在するのか、存在しないのか、存在しまた存在しないのか、存在もしないし存在しないのでもないのか
見ての通り、完全に四句否定の形式です。特に(4)は、マールンキャープッタの⑦~⑩と同じです。
では釈迦とサンジャヤの立場は一体どのように異なっているのか。釈迦の場合は、答えになってないような答えをもてあそんだりはせず、答えずに沈黙したという違いこそあるものの、人間が経験できる事実から出発しない議論から距離を置いているという点だけをとればそっくりです。
一つ言えるのは、釈迦は、この世のすべては一切知りえないのだとする全面的な不可知論者ではなかったということでしょう。釈迦は四諦説や無常やドゥッカや無我など、経験的な事実に基づいたことであれば、積極的に教えを説いているわけです。
また、これは文献から断言できることではありませんが、サンジャヤはこの調子だと、人間が経験できることであろうがなかろうが、たいがいのことを不可知として、のらりくらりと相対主義的にソフィストのごとく言葉をもてあそんでいたんじゃないかと思われます。
どうもこのサンジャヤと釈迦の関係は、古代ギリシャのプロタゴラスをはじめとするソフィストたちとソクラテスとの関係や、古代中国の恵子と荘子の関係と近いところがあるんじゃないかと思いますが、ここではそこに立ち入るのはやめておきます。
ちなみに、釈迦の弟子に、サーリプッタ(漢訳では舎利子)という人とモッガラーナ(漢訳では目連)という人がいます。この二人は、かなり早い時期に釈迦に弟子入りしており、二人とも釈迦から非常に頼りにされていて、初期の教団をまとめる上で重要な役割を担っていたと言われています。そしてこの二人の重要な弟子は、興味深いことにいずれも元々はサンジャヤの高弟だったのです。
伝承によれば、サーリプッタは、釈迦のもとで最初の出家者となった五比丘のうちの一人であるアッサジと出会って大いに感じ入るとことがあり、モッガーラナとともに釈迦に弟子入りしました。その際に、サンジャヤの弟子250人も一緒にこぞって釈迦に弟子入りしたそうです。パーリ律には以下のように伝えられています。
遍歴行者サーリプッタは尊者アッサジにこう言った、「友よ。あなたのもろもろの機官は清く澄み、皮膚の色は清らかで、清潔である。あなたは誰を仰いで出家したのですか? あなたの師は誰ですか? あなたは誰の教えを奉じているのですか?」と。
「友よ、シャカ族の出身で、シャカ族の家から出家した偉大な修行者であります。わたくしはかの尊師を仰いで出家したのです。わたくしの師はかの世尊であります。またわたくしはかの世尊の教えを奉じているのです。」
「では尊者の師は何を主張し、何を説かれるのですか?」
「友よ。わたくしは新参者で、出家して日浅く、この教えと戒律をいま奉じたばかりです。わたくしはあなたに教えを詳しく説き示すことはできませんが、しかし簡略に要点をお話ししましょう。」
そこで遍歴行者サーリプッタは尊者アッサジにこう言った、
「何はともあれ、友よ、多少なりともお話しください。要点だけを言ってください。わたくしは要点だけを求めるのです。多く述べ立てたって、何になりましょう」と。
そこで尊者アッサジは遍歴行者サーリプッタに次の<法に関する教え>を語った。
「もろもろの事がらは原因から生じる。
真理の体現者はそれらの原因を説きたもう。
またそれらの止滅をも説かれる。
偉大なる修行者はこのように説きたもう。」
すると、遍歴行者サーリプッタは、この<法に関する教え>を聞いて、塵なく汚れなき真理を見る眼が生じた、――「およそ生起する性あるものは、すべて滅び去る性あるものである」と。(『律蔵』大品 中村元訳)
サーリプッタはアッサジから縁起説を聞いて、釈迦のもとへ走ったというわけです。インド哲学者の中村元はこのサーリプッタとモッガーラナのエピソードについて、「仏教が懐疑論を乗り超えてひろがったという事情は重要視すべきである」と指摘していることをここに記しておきます。今回はこのくらいにしましょう。(続く)
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(注1)森章司『死後・輪廻はあるか――「無記」「十二縁起」「無我」の再考――』(『東洋学論叢』第30号・東洋大学文学部・2005年)”
「即」という名のアポリア 第18回
https://note.com/prapanca_snares/n/n35cd9114a9c2
”何度か述べたように、ナーガールジュナの論法は、場合分け+背理法です。場合分けによってありえる場合をすべて網羅して、いずれの場合であっても矛盾に陥ることを示し、言語によって打ち立てられたいかなる命題も成立しないことを間接証明しようとするものです。例えば、『中論』第1章のしょっぱなには、因果関係の実体視を否定した次のような偈があります。
(第1偈)(1)自より、(2)他より、(3)自他の両方より、(4)無因より生じるものは、いかなるものも、どこにも決して存在しない。 (桂紹隆・五島清隆訳)
ここでナーガールジュナが言っていることは、「A(このAには人間が言語化できる『もの』ならなんでも代入可能)が生じるということがあるとすれば、(1)~(4)のいずれかであるが、いずれの場合も矛盾に陥る。よって、『Aが生じる』という命題は成立しない」ということです。話を具体的にするために、ここでも以前見た「種から芽が生じる」で見てみましょう。生じる「もの」が芽だとすると、(1)~(4)は次のように置き換えることができます。
(A)芽から芽が生じる
(B)芽以外の「もの」(種)から芽が生じる
(C)芽と芽以外の「もの」から芽が生じる
(D)芽から生じるのでもなく、芽以外の「もの」から生じるのでもなく、原因なしに生じる
まず(A)が成立しないことは言うまでもないでしょう。ドラえもんのバイバインじゃないけど、芽が芽を出産したり、机が机を出産したりすることはありません。次に(B)ですが、これが人間の言葉の世界でしか成立していないことは、この雑文で既に論じた通りです。(C)については、後世の『中論』の註釈者たちが、(A)と(B)が抱えている難点を両方とも備えることになるから成り立たないと指摘しています。(D)が因果関係の解釈として成立しないことは言うまでもないでしょう。
このように、原因と結果を実体視すると、(1)から(4)のいずれの場合においても矛盾に陥る。よって原因や結果や因果関係を実体視するのは誤りであり、それらはいずれも空である。そういう論法です。
この4パターンへの場合分けには、論理形式として問題があるようにも見えます。まず、「自より生じる」をAとおき、「他より生じる」をBとおくと、(1)~(4)はそれぞれ、
①A
②B
③AかつB
④非Aかつ非B
とおくことができます。そうすると、③のAかつBというのは、①のAや②のBと領域的に重複しているように見えますし、場合分けとして問題があるようにも見えます。
〔中略。引用者注:図とその説明は省略。要は「図=この世界全て」〕
このベン図に外側はないわけですから、(1)~(4)のすべてを否定すれば、この世においてはいかなる「もの」も生じることがないということが証明される。そういう論法です。
重要なのは、この図はこの世の全領域であり、図の外側などという「もの」はないということです。ナーガールジュナの思想は、「(1)~(4)のような言葉の世界の外側に、言葉を超えた真実の世界がある」という思想ではありません。ナーガールジュナの思想を指して、「もの」に実体はないという否定神学であると評している人を見たことがありますが、誤りです。否定神学というのは、キリスト教の異端的な神学において見られる思考形式です。これはざっくり言うと、「神は人間が考えられるいかなる概念にもあてはまらない。だから、『神は机でない』『神はパソコンでない』『神はレコードプレイヤーでない』『神は真でない』『神は善でない』『神は美でない』といったように、『神は○○でない』としか言えない。よって、神の領域へは、ありとあらゆる概念の否定を介して近づくしかない」という思想です。
否定神学においては、神は言語化不可能であり不可説ではあるが、厳然として存在するということになっており、結局のところは神が実体視されているわけです。否定神学の否定は神を肯定するための相対的な否定であり、「言語を超えた何かがある」「否定の果てにどこかに何かが残る、どこかに何かがある」という思想です。これはナーガールジュナの思想とは異なるものです。
ナーガールジュナの否定は、肯定も否定もしないという意味での否定であり、「何かが生じる」とか「何かが滅する」とかいった言葉の世界を超えた真実の世界があるなどとは言っていません。(1)~(4)という言語の世界の外側に(5)や(6)という真実がある、などとは言っていません。ただ「歩行者が」「芽が」などと言った時点で矛盾に陥ると言っているだけです。
さて、ここでナーガールジュナは、考えられる論理的可能性を4パターンに場合分けしているわけですが、『中論』では2パターンとか3パターンに分けている例も見られます。前回扱った『中論』第2章第1偈をもう一度見てみましょう。
(第1偈)[……「誰かが歩いて行く」という文を分析するとき、歩かれている場所は、その人が既に通過した地点か、まだ通過していない地点か、現に通過しつつある地点かのいずれかであるが、](1)まず、「既に通過した地点が今歩かれている」ことはない。(2)「まだ通過していない地点が今歩かれている」ことは決してない。(3)既に通過した地点とまだ通過していない地点とは違う「現に通過しつつある地点が今歩かれている」こともない。(同前)
これなどは、過去・現在・未来の3パターンに分けています。また、以前取り上げた第20章第19偈・第20偈にはこうあります。
(第19偈)(1)実に、原因が結果と同じであることは、決してあり得ない。(2)実に、原因が結果と異なることも、決してあり得ない。
(第20偈)(1)結果と原因とが同じであるなら、生じさせるもの(能生)と生じさせられるもの(所生)とが同じであることになるだろう。(2)結果と原因とが別々であるなら、原因は原因でないものと同じになるだろう。[したがって、結果と原因とは同じでも別々でもない。] (同前)
これは、原因(種など)と結果(芽など)が同一だと考えても別異だと考えても矛盾に陥るという論法であり、同一と別異の2パターンに場合分けしています。
考えられる理論的可能性を2パターンに分けることを二句分別、3パターンに分けることを三句分別、4パターンなら四句分別と言います。そして、そうやって場合分けを行ったうえですべてのパターンを斥けることをそれぞれ、二句否定・三句否定・四句否定と言います(二句否定をジレンマ、三句否定をトリレンマ、四句否定をテトラレンマと言う人もいます)。
さて、この二句否定や三句否定や四句否定の論法は、ナーガールジュナの独創なのかというとそうではありません。ここで思い出していただきたいのは、第5回で紹介した、初期経典に出てくる無記の教えです。人間が経験することができる事実に基づいて答えを出すことができない問題については、初期経典は答えないという態度を示しており、「世界は永遠なのか永遠でないのか」といったような問いに対しては釈迦は答えなかったというあのエピソードです。
そのとき、尊者マールンキャープッタは人影のないところへ行って静思していたが、その心に次のような考えが起こった。
「これらの考え方を世尊は説かれず、捨ておかれ、無視されている。すなわち――世界は永遠であるとか、世界は永遠でないとか、世界は有限であるとか、世界は無限であるとか、生命と身体とは同一なものであるとか、生命と身体とは別個なものであるとか、人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか、人は死後存在しながらしかも存在しないのであるとか、人は死後存在するのでもなく存在しないのでもないとかいう、これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。世尊がわたしに説かれなかったいうことは、わたしにとってうれしいことではないし、わたしにとって容認できることでもない。だからわたしは世尊のところへ参って、この意味をたずねてみよう。もし世尊がわたしのために、世界は永遠であるとか、世界は永遠でないとか……人は死後存在するのでもなく存在しないのでもないとか、説かれるならば、わたしは世尊のもとで修行することにしようし、もし世尊がわたしのために、世界は永遠であるとも、世界は永遠でないとも……人は死後存在するのでもなく存在しないのでもないとも、説かれないようなら、わたしは修学を放棄して世俗の生活に帰るとしよう」(マッジマ・ニカーヤ第63経 桜部建訳)
繰り返しになりますが、ここでマールンキャープッタが提示した問いは次のように整理できます。
①世界は(時間的に)永遠であるのか
②世界は(時間的に)永遠でないのか
③世界は(空間的に)無限であるのか
④世界は(空間的に)無限でないのか
⑤生命と身体とは同一なものであるのか
⑥生命と身体とは同一なものでないのか
⑦如来は死後存在するのか
⑧如来は死後存在しないのか
⑨如来は死後存在しかつ存在しないのであるのか
⑩如来は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか
見ての通り、①と②、③と④、⑤と⑥はいずれも二句分別ですし、⑦~⑩は四句分別です。このマッジマ・ニカーヤ第63経以外にも、初期経典の随所に四句分別が見られることは以前指摘したとおりです。ナーガールジュナの論法は、このような初期経典に見い出される要素を受け継いでいると言えます。
ただ、初期経典に見られる無記の教えとナーガールジュナの論理は全く同じというわけではありません。ナーガールジュナは、人間が経験できない事柄については答えないという初期経典の無記の教えを受けて、それを人間の日常的な思考や認識の世界にまで拡張してみせたのだということが言えます。ナーガールジュナが行っているのは、無記の大規模な拡張です。
私は、このような四句否定による無記の思想からは現代人にも得られるものが十分あると思います。例えば、Aという見解が正しいと主張する人々と正しくないと主張する人々が激しく対立し、それがこじれて不毛極まる言い争いや罵りあいに陥っているとしましょう。このAという見解の「正しさ」にまつわるテーゼを四句否定によって網羅すると、次のようになります。
①Aという見解は正しい
②Aという見解は正しくない
③Aという見解は正しく、かつ正しくない
④Aという見解は正しいのでもなく、正しくないのでもない
我々は、政治的なイデオロギーやドグマが絡んだ、プラパンチャがプラパンチャを呼ぶような無益な罵倒合戦であるとか、ネット上でみられる愚かしい熱狂や炎上などといったような現象から距離をとりたいと思っていても、なかなか難しいものがあります。常識的な論理でいくと、①を斥けようとして②の立場に立つことになったり、②を斥けようとして①の立場に立つことになったりして、どちらにしても議論に巻きこまれてしまったりします。そこで関わるまいと思って黙っていると、無言でAに賛成を示したとか、無言で現状を肯定したなどと解釈されてしまったりします。
そこで『中論』は、①~④をすべて否定し斥けるという策をとるのです。そのことによって、①~④というありうる選択肢をすべて斥け、そもそもAを問題にして正しいと言ったり正しくないと言ったりすることは一切成立する余地がないことを示し、議論の土俵それ自体を無効化してしまうのです。「A」という主語を言語表現によって問題にすることそれ自体が根底から成り立っていないことを示し、「A」を実体視して「正しい」とか「正しくない」とか語ってもそれはすべてプラパンチャであると示すわけです。
これはもちろん、政治問題だの社会問題だのといった領域に限った話ではなく、あらゆる言語表現について言えることですから、ほかならぬ己の生死や実存をめぐる問題についても言えます。例えば、
①人生の意味はある
②人生の意味はない
③人生の意味はあり、かつない
④人生の意味はあるのでもなく、ないのでもない
これまで述べてきたように、「歩行者」や「私」や「火」といった独立した主語を基体として立てて、それらに「歩く」「走る」「燃える」という運動や属性が貼りついていると考えると矛盾に陥ります。これと全く同じことが、「人生の意味」という言葉についても言えます。「人生の意味」というのも、「歩行者」や「私」や「火」や「机」や「椅子」や「本阿弥光悦」や「ジョン・レノン」や「ケネディ」と同じで、人間の言葉の世界にしかない「もの」です。それを「ある」と言ったり「ない」と言ったりしてプラパンチャを広げるのが誤りであり、「人生の意味」という言葉それ自体から間違いが始まっているのです。①~④はすべて成立せず、「人生の意味」をめぐる議論はすべて現象世界を言い表したものではなく、人間の言葉の世界だけの出来事であり、土俵から成り立っていない。そのように示すことで、「人生の意味」や「ある」や「ない」という言葉に対応する「もの」が実在するという「物語」にとらわて苦しむ「己」を解放してくれるのが、『中論』の思想なのです。
さて、ナーガールジュナが『中論』でやろうとしているのは、徹底した言語批判によってすべては空であることを示すことだと言えます。初期仏教の、無常やドゥッカや無我を覚り、「物語」や幻想を滅ぼして涅槃に至るという発想は一見すると、そこに至る上で問題になるのは人間の心であるように見えます。ナーガールジュナはそこに、「言語という問題」を大規模に導入したのです。涅槃だの解脱だのというと、いかにも心の問題のように見えますが、それは言語の問題でもあるということをナーガールジュナは明らかにして、とんでもない世界を切り開いてみせたのです。
ただ、この「言語という問題」は初期経典にも見られる要素ではあります。この世において存在しているとみなされている「もの」の多くが言語的な仮構であるという思考は、初期経典にも十分に認められます。ここでは二つ例ほどあげておきましょう。
ことばで表現されたものを(真実と)考えているだけの人々は、ことばで表現された(世界の)なかに安住し(執着し)ている。彼らはことばで表現されたもの(の実体)を知らないから、死神にとりつかれてしまうのである。
ことばで表現されたもの(の本質)を完全に知り、それを表現する主体(神や人間の主体―我)を考えない――、このような人には、その(死神にとりつかれる)ことがなく、それゆえ彼には、それ(ことばによる表現)が過失に陥るようなことはない。(サンユッタ・ニカーヤ 1・2・10 長尾雅人・工藤成樹訳)
「名は一切のものに打ち勝つ。名よりもさらに多くのものは存在しない。名という唯だ一つのものに、一切のものが従属した。」(サンユッタ・ニカーヤ 1・61 中村元訳)
「言語という問題」についてもナーガールジュナは、初期経典に見られる思考を大きく発展させてみせたわけです。他にも、以前説明したように『中論』第15章でナーガールジュナは、釈迦がカーティヤーヤナへ説いた教えを引き合いに出して「有」も「無」も斥けていますが、これも初期仏教の中道の教えの再解釈だと言えます。
ナーガールジュナは、「言語の問題」という、仏教において非常に重要なピースを「発見」した天才だと言えます。ただ、今まで見てきたように彼の思想には初期仏教の要素を受け継いで発展させたり、再解釈した部分をいろいろと見い出すことができます。ですから、ナーガールジュナの徹底した言語批判はブッとんでいて非常に独創的ですが、ナーガールジュナ自身は今までになかった新説を打ち立てる意図などさらさらなく、「これこそがお釈迦様の真意だ」と思っていたのではないかとも思えてきます(これはドラえもんにちょっくらタイムマシンを出してもらって本人に聞きに行ってみないことにはわからないことですが)。
「この世のすべては空である」という思想は大乗仏教で出てきたものであり、初期経典では空はあまり説かれていないし、空という言葉が出てきても「すべては空である」という文脈では用いられていません。初期経典で説かれているのが五蘊や十二処や十八界といった要素をも空じる思想であるとは言い難いです。初期経典を理論的に体系化しようとした部派仏教のアビダルマでも、「すべては空である」とは説かれていません。そういったことを踏まえると、初期仏教とナーガールジュナの思想は同じだと言うことはできません。
ですが、有部のように個々のダルマが確固として実在するのだと考える三世実有説でいくと、かえってお釈迦様が説いた無常や無我や縁起の教えから遠ざかるのではないか。ナーガールジュナはそこに鋭い批判の矢を向けて、無常や無我や縁起という初期仏教の思想にある意味で「立ち戻る」ための解釈を新たに提示してみせたということが言えるのではないかと思います。
ナーガールジュナは、常識的に考えれば仏教徒にとって聖なる領域である仏(=如来)や涅槃にも否定の手をのばしています。『中論』第22章にはこうあります。
(第1偈)如来(=仏陀)は、(1)五蘊と同じではないし、(2)五蘊と異なることもない。(3)五蘊が如来の中にあるのでもないし、(4)如来が五蘊の中にあるのでもない。(5)如来が五蘊を所有することもない。それでは如来とはいったい何者か。
(第2偈)……もしも仏陀が五蘊を因として存在するなら、彼は本来[固有の性質(自性)を持つものとして]存在していない。しかし、およそ本来[固有の性質(自性)を持つものとして]存在していないものが、どうして[五蘊という他者を因として、]他者の性質(他性)により存在し得ようか。
(第3偈)「およそ他者を縁として生じるものは無我(=無自性、空)である」というのは正しい。しかし、そもそも無我であり[、鏡像のように実体性のない]ものが、どうして如来となり得るだろうか。
(第4偈)もしも、固有の性質(自性)が存在しなければ、どうして他者の性質(他性)があろうか。[存在するものは固有の性質を持つか他者の性質を持つかのいずれかであるから、]固有の性質も他者の性質もなければ、かの如来はどのうようなものとしてあり得ようか。
(第5偈)もしも五蘊を因とせずに、「如来」と呼ばれる者が[既に]誰か存在するとするなら、今や如来は五蘊を因とすることができるだろう。[しかし、]そうすると如来は五蘊を因として存在する者になってしまう。
(第6偈)そして、[犢子部によると、]五蘊を因としなければ、「如来」と呼ばれる者は誰も存在しない。しかし、五蘊を因としない限りは存在しない者が、どうして五蘊を因とすることがあろうか。
(第7偈)因とされることがなければ、[五蘊は如来を概念設定するための]因とは決して呼ばれない。そして、五蘊を因としないような如来は、決して存在しない。
(第8偈)如来は五取蘊(=五蘊)と同一のものとしても異なるものとしても、[第一偈のように]五様に吟味分析しても、存在しない。そのような如来がどうして[五取蘊を因として]概念設定されることがあろうか。
(第9偈)また、この五取蘊は、本来[固有の性質(自性)を持つものとして]存在していない。本来[固有の性質(自性)を持つものとして]存在していないものが、どうして他者の性質(他性)により存在し得ようか。
(第10偈)かくして、五取蘊も、[五取蘊を]取る者(如来)もすべて空である。しかし、空なる五取蘊によって空なる如来がどうして概念設定されようか。[したがって、五蘊を因として如来が概念設定されるというのは不合理である。]
(第13偈)ところが、[如来に対する]強い執着を抱く者は、如来が涅槃した後も、「如来は存在する」あるいは「存在しない」などと[四句に]分別し、宣説するであろう。
【別訳】ところが、[如来に対する]強い執着を抱く者は、「如来は存在する」あるいは「存在しない」などと構想し、涅槃した如来についても[様々に]分別する。
(第14偈)しかし、固有の性質(自性)という点で空(自性空)である、この如来について、「仏陀は滅後に存在する」あるいは「仏陀は滅後には存在しない」という思考はまったく当てはまらない。
(第15偈)言語的多元性(戯論)を超越し不滅である仏陀(=如来)を言語的に実体視する人々は、みな言語的多元性によって冒されていて、如来を見ることはない。
(第16偈)如来に固有の性質(自性)は、この世界に固有の性質である。[しかし、]如来は固有の性質を持たない(無自性)。[だから、]この世界も固有の性質を持たない。[一切は無自性、空である。] (同前)
今まで見てきたナーガールジュナの論法とやってることは同じです。第1偈は、5パターンへ場合分けしてそれらをすべて斥けるというやつです。第2偈以下も、釈迦や弥勒などが身心をとって(=五蘊をとって)如来としてこの世に現れるのだとすると矛盾に陥るという話です。如来と五蘊とは同一でも別異でもないし(第8偈)、如来が五蘊をとって現れるというのであれば、そこに変わらぬ実体などないと言っているのです。だから、「如来が」とか「仏様が」などといった形で主語を立てて、如来や仏という人間の言葉の世界にしか存在しない「もの」を実体視した上で、それが「存在する」とか「存在しない」とか論じるのは誤りだと言っているわけです(第13偈~第16偈)。
涅槃については、『中論』第25章にこうあります。
(第4偈)まず、涅槃は存在(有)ではない。[さもなければ、老死(変化や消滅)を超越している涅槃が]変化や消滅の相を持つものになってしまうだろう。というのも、存在は変化や消滅を伴わずにはあり得ないからだ。
(第5偈)また、もし涅槃が存在なら、涅槃は因果関係に拘束されるもの(有為)となってしまうだろう。というのもいかなる存在にせよ、因果関係に拘束されないもの(無為)としては、どこにも知られないからだ。
(第6偈)また、もし涅槃が存在なら、そのような涅槃は[何かを]因とせずに、どうして[知られる(=概念設定される)ことが]あろうか。というのも、いかなる存在にせよ、[何かを]因とせずには、決して知られないからだ。
(第7偈)もし涅槃が存在でないなら、涅槃は非存在(無)ということになるだろうか。[そんなことはない]存在がないところには、[その対立項である]非存在もない[からである]。
(第8偈)また、もし涅槃が非存在なら、そのような涅槃は[何かを]因とせずに[知られることが]どうしてあろうか。というのも、[何らかの存在を]因とせずに知られる非存在はないからだ。
(第10偈)師(仏陀)は、生存(有)と生存からの離脱(非有)[への渇欲]を捨てるよう説かれたのである。したがって、「涅槃は存在でもないし、非存在でもない」というのが合理である。
(第11偈)もし涅槃が両者、すなわち、存在でもあり、非存在でもあるなら、解脱もまた存在でもあり、非存在でもあることになろう。しかし、それは不合理である。
(第13偈)どうして涅槃が両者、すなわち、存在でもあり、非存在でもあろうか。というのも、涅槃は因果関係に拘束されない(無為)が、存在や非存在は因果関係に拘束される(有為)からだ。
(第14偈)どうして涅槃に存在と非存在の両者があり得ようか。というのも、両者は、光と闇のように、同一の場所に存在し得ないからだ。
(第15偈)「涅槃は存在でも、非存在でもあり得ない」という主張は、存在と非存在とが成立するときにのみ成立する。
(第16偈)もし涅槃が存在とも、非存在とも決して知られないなら、いったい「涅槃は存在するものでも、存在しないものでもない」というこのことは、何を根拠に主張されるのだろうか。[いかなる根拠もない。]
(第17偈)世尊の死後、(1)「世尊は存在する」とは主張されないし、(2)「世尊は存在しない」(3)「[存在し、かつ、存在するという]両者である」(4)「そのいずれでもない」とも主張されない。
(第18偈)世尊がこの世におられるときも、(1)「世尊は存在する」と主張されないし、(2)「世尊は存在しない」(3)「[存在し、かつ、存在するという]両者である」(4)「そのいずれでもない」とも主張されない。(同前)
ここでもナーガールジュナがやっていることは同じです。「涅槃はある」「涅槃はない」「涅槃はありかつない」「如来はあるのでもないしないのでもない」という4パターンに場合分けをして、それらをすべて斥ける四句否定の論法です。涅槃が存在するということになると、それは机や椅子みたいに変化して古びたり、燃やすとなくなったりする「もの」だという話になって安らぎでもなんでもないという話になってしまいます(第4偈)。では涅槃は無なのかというと、そうでもありません。第15回でも述べたように、「無」という人間の言葉は「有」を前提にして成立する概念であり人間の言葉の世界にしか存在しない以上、「無」という「もの」であり「有」の一種にすぎないからです(第7偈)。
ちなみに、ここで注目されるのは、第14偈で「有かつ無」というのは不合理であり、「両者は、光と闇のように、同一の場所に存在し得ない」と言っていることです。ナーガールジュナは矛盾律や排中律を認めない、西洋にはない論理学を使用していたと主張する人もいるようですが、それは誤りです。ナーガールジュナは『中論』において論理学の基本的法則を非常に整合的に守っています。その上で、論理や言語の作用を突き詰めていくと、論理や言語が自壊せざるをえないことを示そうとしたわけです。『中論』は、「論理を超えようとする論理」「言語を超えようとする言語」だと言えます。
また、第17偈や第18偈が、マールンキャープッタが提示した問いのうちの⑦~⑩ほぼそのままであることも見逃せません。ここでもナーガールジュナがやっていることは、無記の拡張です。
このようにナーガールジュナは、仏や涅槃にも否定の手を及ぼしているわけです。それでは、『中論』で自身が間接証明しようとしている「すべては空である」という思想についてはどうでしょうか。この点についても、『中論』第13章にこうあります。
(第7偈)もしも空でないものが何か存在するなら、空なるものも何か存在するだろう。しかし、[今まで述べてきたように]空でないものは何も存在しない。どうして空なるものが存在しようか。(同前)
繰り返しになりますが、人間の言葉や概念は、常に世界を二つ以上の領域に分割します。人間がAと言うとき、世界はAと非Aに二分されます。これは人間の言語や概念につきまとう基本的な性質です。空というのも言葉である以上は、背後に空でない「もの」を前提としています。空を概念的・実体的に捉えようとすると、空なる「もの」と空でない「もの」という区別や差別や分類や線引きがなければ、空を理解することができないからです。これは以前説明した、「変わる」を理解するために「変わらない」を捏造し、「変わらない」を理解するために「変わる」を捏造してしまうという、無常をめぐる問題と同型です。
そのようにして実体視された空なる「もの」と空でない「もの」という区別や差別こそが、ナーガールジュナが斥けているヴィカルパ(分別)でありプラパンチャ(言語的多元性)です。だから、究極的には「すべては空である」とも言えないし、なるべくなら言わない方がいいのです。関係(≒縁起)的に流動する現象という言語表現になじまぬ「事態」を言語によって仮に表現するならそうなるというだけの話です。だから、それがもし「すべては空である」というのは絶対の真理だという話になって、空がイデオロギー化しドグマ化してしまったら、もはや空ではないわけです。空もまた、方便であり筏です。
(第13章第8偈)勝者(=仏)たちによって、空性はすべての見解を取り除く手段であると言われた。しかし、空性を見解として持つ者は、救いがたいとも言われた。 (同前)
(第24章第11偈)空性は、間違って理解すると、捕まえ方を間違えたヘビのように、あるいは間違って唱えた呪文のように、愚か者を破滅させる。(同前)
ナーガールジュナが言っているのは、そういう「AはBである」という結論に最後まで飛びつくなかれ、絶えざる批判によってあらゆる「もの」=言葉が絶対化しイデオロギー化しドグマ化するのを斥けて進め、ということです。ナーガールジュナには主張などないのです(より正確に言えば、主張があるのでもないし、ないのでもない)。言語批判によって”ただ”あらゆる命題を斥けて進むのです。
(第7章第34偈)生起も、持続も、消滅も、幻のごとく、夢のごとく、蜃気楼のごとし、と[諸仏によって]説かれている。 (同前)”
(禅が肉体言語ボクシングである理由が納得できた。禅にも竜樹が影響しているのだろう。禅の徒手空拳バトルの「空」に竜樹思想が混ざっている。棒だったり武器も使うのでいつも徒手空拳というわけではない)
「すなわち」のいろいろ: 漢字の使い分け
https://kanbun.wordpress.com/2009/03/26/%E3%81%99%E3%81%AA%E3%82%8F%E3%81%A1%E3%80%80/
”One of the first things you notice about 漢文 is the usage of すなわち. Unlike in modern Japanese, it has more meanings than just “in other words.” The meaning is dependent on the character used. There are at least six characters that are read すなわち. I’ll put examples up if I can find them.
1. 則ち
イ)~すれば・~ならば (Found with a verb/adj (用言) before, read as 已然形+ば 例:以五十歩笑百歩、則何如。<五十歩を以って百歩を笑はば、則ち何如(いかん)。>)
ロ)~においては
ハ)そこで
2. 即ち
イ)とりもなおさず・つまり (modern usage)
ロ)すぐに・ただちに
ハ)~すれば・ならば (則ち、イ)に同じ)
ニ)~においては (則ち、ロ)に同じ)
ヘ)そのときに (例: 今日不雨明日不雨、即有死蚌 <今日雨ふらず、明日雨ふらずんば、即ち死蚌(しぼう)有らん。>
3. 乃ち
イ)ところが・それなのに
ロ)なんと・やっとのことで
ハ)そこで (例: 不覚、衝大尹韓愈。乃具言。<覚えず大尹韓愈(たいいんかんゆ)に衝(あ)たる。乃ち具(つぶさ)に言う。>)
4. 便ち
イ)すぐに・そのまま (The same as 「遂に」かなぁ)
ロ)つまり (same as 即ち、イ) (例:匡廬便是逃名地<匡廬(きょうろ)は便ち是(これ)、名を逃るるの地。>)
5. 輒ち
イ)その度毎に
6. 迺ち
イ)そこで (例: 迺詔斉召蒯通。<迺ち斉に詔(みことのり)し、蒯通(かいとう)を召す。>)
As far as I can tell, the most common usage is ~ばすなわち if in the middle of a sentence/paragraph. If at the beginning, it’s likely そこで.
This is by no means a conclusive list.”
漢文)白文・訓読文・書き下し文の違い?
https://kyoushinomikata.com/hakubunkundokubunkakikudashibun/
『中部』「根本五十篇」「譬喩品」「蛇喩経」
https://komyojikyozo.web.fc2.com/mnmlp/mn03/mn03c04.files/sheet001.htm
から
つづきを読んでいくと↓に筏のたとえの箇所がある
(中阿含経巻第54ー200「阿梨咜経」じゃないのか?)
https://komyojikyozo.web.fc2.com/mnmlp/mn03/mn03c05.files/sheet001.htm
”比丘たちよ、私は、把持を目的としたものでなく、度脱を目的とした、筏の譬喩なる法を教示しましょう。
〔略。引用者注: Kulla筏。 度脱、超度 把持、執持〕
ここに比丘たちよ、〔流れを〕渡って、向こう岸へ行ったその男に、このような〔思いが〕起こったとします。
〔略〕
『私のこの筏はたいへん役に立った。
〔略〕
私はこの筏によって、手足ではげみ、無事に向こう岸へ渡った。
〔略〕
私はこの筏を地面に捨てあるいは水に沈めて、欲する所へ出発してはどうか』と。
〔略〕
そのようになす者であれば、その男は、その筏に関してなすべき事をなす者であるのです。
〔略〕
比丘たちよ、かくのごとく、把持を目的としたものでなく、度脱を目的とした、筏の譬喩なる法が、私によって教示されました。
”
シーア兄貴(イラソのアレ)2021/5/1~20 と良呟きや記事の保管庫
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-428.html
白文、訓読文、書き下し文の違いと漢字表記(新字体と旧字体)について
https://kansi.info/blog/2017/03/article-23/
より
「「白文」ですが、これは原文としての漢文であり、単純に漢字の羅列として表現されるものです。」
「また、本来、古典である原文には句読点はないのですが、それでは「切れ目」がどこにあるのかわかりにくいので、句読点を付けたものもあります。」
「中国においても「標点符号」と呼ばれる「,」「。」や「?!」などの記号を使用することがあります。」
「本サイトでは、この句読点が付いた漢文も「白文」として扱います」
「「訓読文」とは、「白文」に「返り点」や「送りがな」を付加して、漢文を日本語として読めるようにしたものです。」
「「書き下し文」とは、「訓読文」を日本語の語順で書き表したもので、それを読めば「読み下し文」と呼ぶらしいが、私はあまり使い分けていないので、混同して用いることがあります(これは良くないことかもしれません)。」
[
2023年2月4日に追加
シーア兄貴(来世触手)2023/1/5~1/21と良呟きや記事の保管庫。兎(月、復活祭、ウサギ飢餓症、不思議の国のアリス)。あかね落語。臨済録の黒豆。六角形ベンゼン環ウロボロス。薔薇十字。117は重要。ケツ社が子どもを兵士にするリコ百合コ
Posted on 2023.01.06 Fri 21:18:20
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-493.html
”(
https://twitter.com/akokubo/status/109999501216985088
”こくぼあつし
@akokubo
今まで、鈴木大拙って、全然読んだことがなかったので、知らなかったけど、神智学関係者だったのか。
from 小森健太朗『ネメシスの虐笑』
午後11:41 · 2011年9月3日”
(上記へのリプ:)
https://twitter.com/komorikentarou/status/110004749260169217
”小森健太朗@相撲ミステリの人
@komorikentarou
返信先:
@akokuboさん
鈴木大拙は、神智学日本支部京都ロッジの長つとめてました。日本の神智学ムーブメントの中心的人物ですね。RT @akokubo
今まで、鈴木大拙って、全然読んだことがなかったので、知らなかったけど、神智学関係者だったのか。 from 『ネメシスの虐笑』
午前0:02 · 2011年9月4日”
鈴木大拙は禅をZEN(神智学化された禅。神秘主義化された禅。禅ではない)にした人。
https://twitter.com/kikuchi_8/status/843478143881027585
”菊池
@kikuchi_8
返信先:
@kikuchi_8さん
鈴木大拙は禅を神秘主義とした。鈴木は臨済系だが「臨済録」には「念々馳求の心を歇得せば便ち祖仏と別ならず」とあり。執着してあくせく外に求め回る事を止めた平常無事の心を「仏」とした。原始仏教の趣旨と殆ど同じである。一方神秘主義では外に立てた実在を渇望しそこに合一する事を目指す。真逆。
午前0:03 · 2017年3月20日”
(上記へのリプ:)
https://twitter.com/kikuchi_8/status/843480624174309377
”菊池
@kikuchi_8
返信先:
@kikuchi_8
さん
鈴木大拙は妻が神智学徒のベアトリス・レインという米国人で自身も神智学協会員だった。日本でのスウェーデンボルグの先駆的紹介者でもあった。その辺の思想的影響が「禅は神秘主義」という改釈に表れていると思う。大拙に故意があったかは不明だが神智学協会の影響は否定できない。憑依型戦術の一例。
午前0:13 · 2017年3月20日”
(上記へのリプ:)
https://twitter.com/kikuchi_8/status/843482910472601600
”菊池
@kikuchi_8
返信先:
@kikuchi_8
さん
「念々馳求の心」とは概念を立てて何かを渇望する落ち着かない心だと解釈できる。概念を立てると、その概念に対して執着が生じる事がある。だから臨済は仏や祖という概念を「殺せ」と言う。神秘主義では「一者」等の対象を立ててそこに合一しようとするが、これはまさに「念々馳求の心」で趣旨が真逆。
午前0:22 · 2017年3月20日”
https://twitter.com/kikuchi_8/status/1048765936168099840
”菊池
@kikuchi_8
返信先:
@ayajet128
さん
ご指摘をありがとうございますm(_ _)m「欧米では禅と言えば鈴木大拙」というのと似た現象ですね。実際、ユングと大拙は交流がありました。易や禅などの東洋思想に西洋神秘主義的な改釈を施す憑依型戦術だと思います(大拙は神智学協会会員)。大拙もロック財団の支援で講演旅行をしたそうです。
午前11:44 · 2018年10月7日”
https://twitter.com/Court_music_tan/status/1332334223018000385 と続き
”中務典侍☆日本雅楽たんσ(*ゝω・*)
@Court_music_tan
唐人って、他力本願をものすごく嫌うっていうか、自力救済しか信用しないんだよね。だから唐土では白蓮教が弥勒下生信仰を掲げて何百年も反乱を起こし続けたし、浄土教みたいな他力本願の宗派は広まらなくて自力本願の禅宗系の仏教だけが残ったの。
そのうち、唐土の弥勒下生信仰のお話をしようかな。
引用ツイート
ベコ太
@kobe_ota31
·
2020年11月27日
中国仏教て少林寺とか禅宗が強いイメージある。鑑真が日本来たり、密教の継承者である空海が日本に戻ったせいで、学問的なのが残らなかったイメージ。
午後11:43 · 2020年11月27日
中務典侍☆日本雅楽たんσ(*ゝω・*)
@Court_music_tan
弥勒下生経とか弥勒菩薩諸問本願経とか、とくに弥勒下生信仰系の漢籍の仏典は一通り原文で読んでるから、中国仏教の異質さみたいなのはよく分かるよ、私。「なんで中国仏教は異質になったの?」って部分が、儒教と道教のこともある程度勉強しないと、中国仏教にだけ触れても論理が分かんないんだよね。
午後11:53 · 2020年11月27日
”
)
[中略]
来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
黒豆拾いは黄檗と臨済さんの夏の外出を禁じる期間でのやり取り
金科玉条ともいう
午前11:06 · 2023年1月8日
(
ありがとうございます。
臨済宗の開祖・臨済の逸話「臨済破夏の因縁」【禅・臨済録】
https://sai001.com/hagenoinnen/
”仏教には「夏安居(げあんご)」あるいは「雨安居(うあんご)」ともいわれる規則があります。夏安居は釈尊の時代からある規則で、雨が降る夏の間は外出に不便で諸国を行脚できないので、その間は釈尊の側に留まり、説法を聴きながら修行をしたことが起源です。
この安居が行われる夏(げ)の三か月間は「禁足護生(きんそくごしょう)」といって、外出が禁じられます。臨済宗の開祖・臨済には、この夏の規則を自ら破った逸話があります。
これは「臨済破夏の因縁」と呼ばれ、臨済の語録である『臨済録』でもっとも重要な一条だと言われています。
(略)
臨済、夏中に帰る
既に悟りを開いていた臨済は、諸国を遍歴して黄檗のところに戻ってきました。それは夏中のことです。夏安居の規則は、夏の前に来て、夏が終わってから去るというものなので、本来ならこれだけで既に規則違反です。
ところがそれだけでなく、師匠の黄檗のところへ行くと、ちょうど一生懸命にお経を読んでいた師匠を見るなり、こんなことを言いました。
「俺は黄檗こそ天下の大和尚だと思っていたが、何のことはない、黒豆を一粒ずつ拾って食うようなことをするつまらん坊主だったのか」
しかし黄檗は何も答えません。
臨済、夏を終える
数日経つと、臨済は黄檗に挨拶して立ち去ろうとします。
またも規則を破ろうとするわけです。
黄檗はさすがに見咎めて言いました。
「お前は夏の最中に帰ってきて、今度はまた夏が終わる前に去ろうというのか」
臨済は一向に悪びれずに答えます。
「私はちゃんと挨拶に来ました、それで十分でしょう」
黄檗は怒って臨済を叩きに叩き、その勢いのまま僧院を追い出してしまいます。
既に悟りを開いていた臨済ですが、そこにあるわずかな慢心は、師匠の黄檗には見過ごすことのできぬものと見えたのです。
黄檗に追い出された臨済は、構わず数里(1~3kmくらいか)ほど歩きました。
しかし途中で思い直して引き返し、しっかりと夏が終わるまで務めたのです。
この部分の記述は『臨済録』ではとても簡潔で、「師(臨済のこと)、行くこと数里にして、此の事を疑って、却回(きょうい)して夏を終う」とあるだけです。
おそらく、たった数里の間ですが、師匠の黄檗にとって自慢の弟子であるはずの自分を何故それほど怒ったのか、つらつら考えて思うところあったのでしょう。
百丈禅師の禅板と机案
しっかりと夏中の修行を終え、再び師匠に辞するための挨拶に行った臨済に、黄檗は尋ねました。「どこか行くあてはあるのか?」
すると、相変わらず生意気な臨済は師匠にこう答えます。
「河南じゃなければ河北に行きます。河北じゃなければ河南に行くというだけのことです。別に行く場所なぞ決めてはいませんよ」
その答えを聞いて、黄檗は持っていた竹箆(しっぺい・修行者を打つための竹の道具)で臨済を叩きますが、これは臨済を褒めてのことです。しかし、臨済は臨済で黄檗のその腕を掴むと、あべこべに横っ面をひっぱたきます。
黄檗は満足して大いに笑い、侍者を呼びます。
「百丈先師の禅板と机案を持ってこい」
黄檗は自分の師匠である百丈の禅板(ぜんぱん)と机案(きあん)を臨済に与えようというのです。
昔の禅僧というのは夜も横臥して眠らず、座禅の姿勢で眠ったそうです。禅板と机案というのは、禅板を懐に入れて顎を乗せ、背中に机案という板をあてて、座禅しながら眠るための道具です。
そして「百丈先師の禅板と机案」とは、黄檗の師匠である百丈が使っていた形見の品で、これを貰えるということは、臨済を黄檗の禅の正統な後継者として認めたということを意味します。
ところが、禅板と机案を持ってこようとする侍者に臨済はこんなことを言います。
「ついでに火も持ってこい」
そんなものは燃やしてしまえ、というわけです。
しかし黄檗は「まぁそう言わずに黙って持っていけ。この禅板と机案は、わしの正統を継いだ証拠になる。世間の不要な批判をかわす助けにはなるだろう」
こうして臨済は黄檗の仏法を名実ともに受け継いだ、というお話です。
”
第178則 臨済黄蘗看経 : 足利市長昌寺の坐禅会だより
http://blog.livedoor.jp/bosatsudou_zazen/archives/3099700.html
”第178則 臨済黄蘗看経(りんざいおうばくかんきん)
[本則]
臨済、因半夏、上黄蘗山問訊。見黄蘗看経乃曰、我将謂是箇人、元来是淹黒豆老和尚。住数日、乃辞去。蘗曰、汝破夏来、不終夏了去。師曰、某甲暫来礼拝和尚。蘗遂打趁令去。師行数里、疑此事、却廻終夏。
[和訳]
臨済、因みに半夏に黄蘗山に上って問訊す。黄蘗の看経するを見て、乃ち曰く、「我れこれ箇の人と将謂(オモ)えるに、元来これ淹黒豆の老和尚なるのみ。」住すること数日にして、乃ち辞し去る。蘗曰く、「汝、夏を破りて来たり、夏了を終えずして去るや。」師曰く、「某甲、暫く来たって和尚を礼拝するのみ。」蘗、ついに打って趁(オ)って去らしむ。師、行くこと数里にして、この事を疑って、却廻(キョウイ)して夏を終う。
[たより]
臨済、因みに半夏に黄蘗山に上って問訊す
臨済禅師は黄蘗禅師の導きにより真実に目覚め、その後お師匠さんの元を離れ、暫く他の道場で安居修行していました。ところがその道場での「夏安居」の禁足を破り、師匠の黄蘗山へやって来た時のやり取りが今回の話になります。
雨期のある南国のインドに起こった仏教には、修行僧が雨期の百日の間、歩いて小さな生き物を殺さないように一カ所に集まって護生禁足する習慣がありました。この修行を「雨安居(ウアンゴ)」或いは「夏安居(ゲアンゴ)」と言っています。この「夏安居」の規則は、中国に伝えられてからも厳守され、修行僧はどのような理由があっても、この百日間安居し、護生禁足を破る訳にはいきません。それは今日の日本でも修行道場などで厳しく守られています。
ところがこの臨済禅師は「半夏に」とありますから、夏安居の中途で護生禁足の規則を破って、師匠の黄蘗禅師の元へやって来たのです。
暦では毎年八月二日を「半夏生」と定めておりますが、この日が丁度「夏安居」の真ん中の日となります。修行道場では、この「半夏」である八月二日に、大布薩講式という菩薩懺悔式を行ったり、「灸治」といって修行僧同士がお互いにお灸をすえあったりします。この「半夏生」の日にお灸をすえるという習慣は一般にもあって、この日にお灸をすえると健康になると昔から信じられています。
臨済、因みに半夏に黄蘗山に上って問訊す
とにかく臨済禅師が「夏安居」の護生禁足を破って、黄蘗山の修行道場へノコノコとやって来たというのです。
黄蘗の看経するを見て
そして方丈へ上って、師匠の黄蘗禅師に挨拶をしに行くと、黄蘗禅師が仏教の典籍を看経している場面に出くわしたのでした。この「看経」というのは声に出して読む事ではなく、静かに黄蘗禅師が仏教の書籍を読書していたという事です。
この黄蘗禅師は身の丈が七尺豊かな偉丈夫といわれ、またお経を読む時も、話す時も非常に朗々とした声の持ち主だったと伝えられています。
その黄蘗禅師が南泉普願禅師の会下において修行していた時の、次のような問答が残されています。
師辞南泉。泉門送、提起師笠曰、長老身材没量人、笠子太小生。師曰、雖然如此、大千世界絶在裏許。泉曰、王老師■≪(ニイ)漸ノ下ニ耳≫。師戴笠便行。
黄蘗禅師が、南泉禅師の道場を去る時に、南泉禅師が山門までお見送りに出て来られ、黄蘗禅師の笠を持ち上げ次のように言われます。
「あなたは非常に偉丈夫であるのに、こんなにも笠が小さいのか」と、
すると黄蘗禅師は、
「まさに南泉禅師のおっしゃる通りです。しかし大千世界はすべて皆この小さな笠の中に入るのです」と、
そこで南泉禅師も、
「この王老師(わたし)もだよ」と答えると、
黄蘗禅師は笠をかぶってサッサと立ち去って仕舞ったというのですから、まさに痛快です。
(略)
乃ち曰く「我れこれ箇の人と将謂(オモ)えるに、元来これ淹黒豆の老和尚なるのみ」
「私は、あなたが師匠として足る人物とばかり思っていたのに、な~んだ!只のお経読み坊さんだったのか」というのでした。この「淹黒豆」とは黒豆を一粒づつ口に運んで食するように、書籍の文字を一字一字づつ拾い読む様子を、この黒豆を喰う様子に譬えたのです。ですから「淹黒豆」で、「な~んだ!お経読みの坊さんだったのか」といって、師匠の黄蘗禅師を見縊(ミクビ)って仕舞ったのです。
住すること数日にして、乃ち辞し去る
数日の間、その黄蘗山に滞在していたのですが、また何処かへ立ち去ろうとするのでした。
蘗曰く、「汝、夏を破りて来たり、夏了を終えずして去るや」
そこで師匠の黄蘗禅師が、
「お前は夏安居の護生禁足を破って、此処へやって来たのに、ここでも夏安居がまだ終っていないのに、また規則を破って立ち去ろうというのか」と言って臨済禅師を叱責するのでした。
師曰く、「某甲、暫く来たって和尚を礼拝するのみ」
そこで臨済禅師は「私は、お師匠さんにご挨拶する為にチョット立ち寄っただけですよ」と答えると、
蘗、ついに打って趁(オ)って去らしむ。
それを聞いた黄蘗禅師は、臨済禅師をなぐって追い出して仕舞ったのでした。
師、行くこと数里にして、この事を疑って
ところが追い出された臨済禅師は、しばらく歩いて行って、どうしてお師匠さんは私をぶんなぐって追い出そうとされたのかフッと疑問に感じ、そこでやっと師匠の親切が理解出来、親心が心に響いて来るのでした。
却廻(キョウイ)して夏を終う
そこで再び黄蘗山へ引き返して来て、その夏安居を終了したのでした。
規則に縛られず、全くの自由な人が禅僧だと間違って受け止められておりました。ですから臨済禅師も当初は悟れば全くの自由であると間違って考えていたのでした。つまり「大用現前、不存規則」のみを知って、道元禅師の言われる「大用現前、是大規則」という事を知らなかったのでした。
また当時、禅は「不立文字」であり、経典等の仏教書籍を読む事が軽んじられるという間違った考えもあったのかもしれません。それに対しこの黄蘗禅師は決して独断の人ではなく、必ず仏教の書籍に照らし、仏教の教えにチャンと裏打ちされた指導の出来る禅僧であり、また非常に行持綿密な人であった事が、本則からも窺われます。
”
)
[中略]
来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
いや、そうじゃない
相手がどの程度の人間か計算しないと答えても意味ないよ
例えば、神って何?と聞かれてどういう風に回答するかは相手次第でしょ?
それと同じで「近年のアナルほじくり学としては~」何て回答、相手が求めているかどうか踏まえて答えないと意味ない
情報だけの知能ない猿がよくやる
午後1:29 · 2023年1月7日
言葉自体が仮住まいなのに、そんなもんのどこに真があるのやら
仮住まいであることを無視すると黒豆拾いに専念するし
仮住まいであることだけを注視するとちゃっちな感覚を重視する
どっちも極端だっていうのがわからんもんかねぇ
午後1:53 · 2023年1月7日
来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
劉淵から、チベット動乱までかけて凡そ1700年
中国という政治思想で纏めあげて
様々な異民族・多宗教政策を行ってきた果実として、今の中国共産党があるのだが
それをわざわざ本邦でやろうとするアホ共は誠に歴史を反省しない
ニッ畜の権力者は直ぐに捏造・改竄・焼却するが故にはわかってるけどさ
午後2:29 · 2023年1月7日
(
何に対してだろうな。「これかな?」ってのは見つけた。
「神」「真(の)」が登場する、または近い表現が登場するのだろう。それと何か質問のやりとりと、「なんちゃら学では」ってのもあるはずだ。
黒豆拾いってイスラーム的な表現なのかな?
もしかしてこれ?↓
這っても黒豆(はってもくろまめ) の意味・使い方
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E9%80%99%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%82%E9%BB%92%E8%B1%86/
” 這(は)っても黒豆(くろまめ) の解説
黒いものが這い出しても、虫であると認めず、黒豆であると言い張ること。間違っていても、強情に自説を曲げないことのたとえ。
”
「これかな?」ってのを見つけたきっかけは、なたねさんがRTしていたやつ。
なたねさんがリツイートしました
ノザキハコネ
@hakoiribox
一部の人が古神道だとか原始神道だとか本来の神道だなんて呼んでるものは実在しませんからね。
午後1:45 · 2023年1月7日
https://twitter.com/hakoiribox/status/1611608756005277697
”なたねさんがリツイートしました
ノザキハコネ
@hakoiribox
よく言われるのは仏教との対比によって「神道」は初めて認識され体系だてられたという説ですけど、じっさいどうなのだろう。山や川を崇めるってそもそもなんだ?
引用ツイート
名無之直人
@nanasinonaoto
午後2:33 · 2023年1月7日
返信先: @hakoiriboxさん
例の人はさておき、では神道が誕生したのはいつか?を考える意味はありそうです。記紀が編まれた後か先か。時折聞く日本人は古来から山などの自然を崇拝してきたってのも、記紀による神話と全く重なりませんし。特に仏教国教化と習合化が進んだ後の在り方を考えると、信仰心が存在したかも怪しいくらい
午後3:20 · 2023年1月7日”
「相手がどの程度の人間か計算しないと答えても意味ないよ」についてだが、↓
”
ノザキハコネ
@hakoiribox
1月6日
私が引用リツイートで他人とお話する時の意図は「参考になるな!」「楽しい話だな!」「バーカ!」のだいたいいずれかなので各自好きに察してください。
”
だから、テキトーに嘲って遊んでいただけだな。
私ならミュートして終わりだ。
こんな感じだ↓
https://twitter.com/hakoiribox/status/1611587585876570113
”ノザキハコネ
@hakoiribox
じっさいの神社祭祀を無視して「本来の神道」なんて虚像に執着していること以上に、明治の戦争や植民地統治は日本人にとっても周辺国にとってもまだ「過去の歴史」でないということが分からないふりするようじゃ君には何も分からんよ。
引用ツイート
小川幸辰
@YP3xqnYKspOSM59
·
1月6日
返信先: @hakoiriboxさん
はあ。なぜ「どうかしている」のかの具体的な説明は一切なし。で、「百年経たず」「政体(笑)が連続している」というのが「参拝してはならん!」の線引きでよろしいですか?そうすると、明治神宮に参拝するのもダメなんですね?西郷隆盛を祀る南洲神社は?イエスorノー?
午後1:56 · 2023年1月7日
”
ノザキハコネ
@hakoiribox
スピ入った古史古伝信者と真面目に話すよりはカブトムシに相撲でもさせてた方がよいのだが冬だからカブトムシがいない。
午後1:59 · 2023年1月7日
https://twitter.com/hakoiribox/status/1611608756005277697 と続き
”なたねさんがリツイートしました
ノザキハコネ
@hakoiribox
よく言われるのは仏教との対比によって「神道」は初めて認識され体系だてられたという説ですけど、じっさいどうなのだろう。山や川を崇めるってそもそもなんだ?
引用ツイート
名無之直人
@nanasinonaoto
午後2:33 · 2023年1月7日
返信先: @hakoiriboxさん
例の人はさておき、では神道が誕生したのはいつか?を考える意味はありそうです。記紀が編まれた後か先か。時折聞く日本人は古来から山などの自然を崇拝してきたってのも、記紀による神話と全く重なりませんし。特に仏教国教化と習合化が進んだ後の在り方を考えると、信仰心が存在したかも怪しいくらい
午後3:20 · 2023年1月7日
幣束
@goshuinchou
返信先:
@hakoiriboxさん
宗教的に体系化された神道は吉田神道の成立によって初めて神道となった、という論が私はしっくり来ますね。それ以前を、例えば古神道という言葉は既に別の意味があって使いにくいですね。
午後3:43 · 2023年1月7日
ノザキハコネ
@hakoiribox
返信先:
@goshuinchouさん
中世の仏教説話集に出てくるもぐりの祈祷師がスサノオを拝んでいるという描写があったりして日本神話で現代人にもなじみがある神がその時代にも名を知られていたんだなとかは推察できるんですけど、体系だてられて理解されていたかはかなりあやしいですね。
午後3:58 · 2023年1月7日
”
https://twitter.com/hakoiribox/status/1611584796244971526 と続き
”ノザキハコネ
@hakoiribox
一部の人が古神道だとか原始神道だとか本来の神道だなんて呼んでるものは実在しませんからね。
午後1:45 · 2023年1月7日
名無之直人
@nanasinonaoto
返信先:
@hakoiriboxさん
例の人はさておき、では神道が誕生したのはいつか?を考える意味はありそうです。記紀が編まれた後か先か。時折聞く日本人は古来から山などの自然を崇拝してきたってのも、記紀による神話と全く重なりませんし。特に仏教国教化と習合化が進んだ後の在り方を考えると、信仰心が存在したかも怪しいくらい
午後2:33 · 2023年1月7日
”
ノザキハコネ
@hakoiribox
バカの襟首をつかまえてわざわざバカと言うより面白い人たちと面白い話した方がツイッター楽しいな?
午後4:26 · 2023年1月7日
[そうだぞ。私はそうしている]
ここまで書いてきてなんだが、まったく別の呟きに対してだったのかもしれない。
役に立ちそうなことを引用したから間違っていても役には立つはずだ
)
”
追加終わり]
[2023年4月1日追加:
頁(おおがい)
@Notpoteo
師先生の『『大乗五蘊論』を読む』、唯識入門書でもあり、五位百法の詳細な解説書でもある。ほかの唯識の概説書を読んでわからなくなったらつどつど引いて読むようなユニークな本。
午後8:03 · 2020年11月23日
頁(おおがい)
@Notpoteo
高崎直道『唯識入門』読んだ。『中辺分別論』をテキストに唯識の基礎を読み解いていく講義調の本。唯識教理の講義ではなく、あくまでテキストに沿って読み解いていくため専門用語が多く正直最初に読むには難しかったかもしれない。
午後8:23 · 2021年1月13日
https://twitter.com/Notpoteo/status/1352981579140788225 と続き
”頁(おおがい)
@Notpoteo
『唯識ということ 『唯識二十論』を読む』を読んだ。『唯識二十論』は世親が外境実在論者と同じ目線に立って外境というものが存在せず(世俗諦においては)ただ識のみであることを証明するために著したという。現代語訳、漢訳書き下し、梵文和訳に詳細な解説が付いた唯識思想の入門書に相応しい一冊。
画像
午後11:08 · 2021年1月23日
マジでいい本でした。サンキュー興福寺……つぎは唯識の概説書と並行して『唯識三十頌を読む』を読むぞ。
午後11:10 · 2021年1月23日
陣那の外境の実在否定も『唯識二十論』を踏まえて書かれているらしくて、ちょっと分かりづらかった部分も読めそう。
午後11:15 · 2021年1月23日
”
https://twitter.com/Notpoteo/status/1385431012423790596 と続き
”頁(おおがい)
@Notpoteo
横山絋一『唯識とは何か『法相二巻抄』を読む』二ヶ月くらいかけてようやく読んだ。『法相二巻抄』の本文と現代語訳を掲出し、『成唯識論』やその疏を引いて解説する本格的な入門書。三身説と浄土、実践層で唯識の五姓各別説と一乗説とを『解深密経』の一節によって会通する箇所が印象的だった。
画像
午後0:11 · 2021年4月23日
[横山紘一『「法相二巻抄」を読む 唯識とは何か』春秋社の画像]
tam
@tororonto_
返信先:
@Notpoteo
さん
すいません、法相宗について勉強したいので横山先生の本、気になってるのですけど、三性の説明ってありましたか…?遍計所執性、依他起性、円成実性の奴です。
午後1:54 · 2021年5月2日
頁(おおがい)
@Notpoteo
返信先:
@tororonto_
さん
こんにちは。今出先なので確認できないのでまたのちほど確認しますが、三性説にも一章割かれていたと思います。私が読んだのは初版で、その後たしか増補版が出ているはずなので、もしお買い求めの際はそちらを購入した方がよろしいかもしれません。
午後2:11 · 2021年5月2日
頁(おおがい)
@Notpoteo
返信先:
@tororonto_
さん
こんばんは。遅くなってしまいすみません。やっぱり三性説で一章載ってました!2005年の増補版が一番新しいもののようです!
画像
午前0:53 · 2021年5月3日
”
頁(おおがい)
@Notpoteo
唯識の2〜3冊目に読む入門書、これがおすすめです。
画像
午後10:57 · 2021年10月4日
[横山紘一『「法相二巻抄」を読む 唯識とは何か』春秋社の画像]
https://twitter.com/Notpoteo/status/1458027312557948928 と続き
”頁(おおがい)
@Notpoteo
太田久紀といい横山紘一といい竹村牧男といい、唯識の入門書を書く先生方の文章はなんか熱量があるな。特に横山先生。
午後8:02 · 2021年11月9日
岡野守也先生もぜんぶ唯識で読み解こうとしてくる感じある
午後8:04 · 2021年11月9日
”
頁(おおがい)
@Notpoteo
横山紘一先生の唯識入門書、唯識思想がなぜ登場したかとか識の働きとか重要なところ抑えてて改めて読むと結構いい感じだけど、やっぱり思想を身体化しすぎてて置いてけぼりになるというか、ちょっと共感できないところも多いな。
午前4:53 · 2022年1月14日
頁(おおがい)
@Notpoteo
高崎直道の『唯識入門』(のち改題、『スタディーズブティズム 唯識』)は少なくとも入門とはいえないくらい難しかった。
午後10:21 · 2022年3月20日
https://twitter.com/Notpoteo/status/1509362785335275521 と続き
”頁(おおがい)
@Notpoteo
高崎直道『唯識入門』ようやく理解できてきた。龍樹が縁起=空=因施設=中道と捉えるのに対して、実践主体である虚妄分別のみが縁起せるものであり、虚妄分別において把捉する・されるものは縁起ではなく、仮構されただけのものに過ぎない。虚妄分別において能所取がなくなった状態が円成実性=空性。
午前11:51 · 2022年3月31日
やっぱりこれは入門書の域を越えているよ
午前11:52 · 2022年3月31日
文学士K
@miha_KENSEKI_2
返信先:
@Notpoteo
さん
突然にて失礼します。私ば「虚妄分別」の章(空性説明)の所で止まっています。中々理解が出来ません。苦笑
午後7:36 · 2022年3月31日
頁(おおがい)
@Notpoteo
返信先:
@miha_KENSEKI_2
さん
こんにちは。私も最初はそこで挫折しました。入門書というには前提とされる知識がかなり必要ですよね……龍樹の縁起理解と比較する部分でようやく理解できました。
午後7:56 · 2022年3月31日
[龍樹を少しは学ぶ必要があるのね]
追加終わり]
[2023年4月8日に追加:
芥川龍ゑ介のご支援用記事の作成中に発見した、上記と異なる資料保管庫より一部ここに引っ越しする。
禅宗、「以心伝心」とか「不立文字」をモットーにしてるのに、とにかくよく喋るのが特徴
— うなじ (@unajiperopero) 2019年11月2日
唐代禅の膨大な問答、
極端な話、
全部「即心是仏」のシチュエーションに応じたバリエーションみたいなもんなんだが、
「即心是仏」を固定したドグマとして担ぎ上げるのも、それはそれで違うので、同じ口で「非心非仏」とか言い出したりする
法常「如何なるか、これ仏」
馬祖「即心是仏」
法常「悟った」
数年後
馬祖の弟子「法常さんは馬祖先生のところで何を悟ったんですか?」
法常「即心是仏」
馬祖の弟子「最近の先生は違うことを言うようになって、『非心非仏』と言っていますが?」
法常「ジジイが何と言おうがこっちは即心是仏だ!」
それを聞いた馬祖「梅の実は熟した」(満足げ)
この「ジジイ」ってところ、原文でも「老漢」なので、ほぼそういう感じのニュアンス あいつら、とにかく口が悪い
マニとブッダ#一般人には同じように見える2種を貼る pic.twitter.com/48rVTuLqCd
— うなじ (@unajiperopero) 2019年11月2日
マニの絵、学者が見つけるまでは仏画として日本の寺に伝わってたやつだから、一般人どころか、坊さんもずっと菩薩だと思ってたやつ
1件の返信 27件のリツイート 23 いいね
うなじ
@unajiperopero
2 時間2 時間前
よく見ると十字架持ってるのが、申し訳程度のマニ教要素って感じだ
1件の返信 9件のリツイート 16 いいね
うなじ
@unajiperopero
2 時間2 時間前
マニ本人も絵がうまかったらしく、自分で書いた聖典に自分で挿絵付けたりしてたらしい 教祖本人が自分で教典書くこと自体がやや珍しいのに、多芸すぎでは?
1件の返信 9件のリツイート 22 いいね
うなじ
@unajiperopero
2 時間2 時間前
マニが絵がうまかったっていうの、新興宗教の教祖が道楽で芸術に手を出してるようなのをイメージしたくなるんだが、そういうレベルじゃなかったらしい どれだけすごいかというと、マニ教が滅んだ後のイスラームの時代になると、マニが宗教家だったことは忘れられて、有名な画家だと思われていたらしい
1件の返信 20件のリツイート 29 いいね
うなじ
@unajiperopero
2 時間2 時間前
さらにいうと、マニの本業は医者で、ペルシア皇帝シャープールの娘の治療を任されたりするレベルだ マジで多才だな、こいつ
(
有力者か有力者が大切にしている人を治療してスポンサーになってもらうのは超基本
)
[2023年4月8日に補足。
「マニとブッダ」が「午後8:18 · 2019年11月2日」。この呟きから一連の呟きの終わりが、 「さらにいうと、マニの本業は医者で、ペルシア皇帝シャープールの娘の治療を任されたりするレベルだ」であり「午後8:40 · 2019年11月2日」に呟かれた。
つまりこの箇所は「2 時間2 時間前」などとあるので、2019年11月にコピペ保存したとわかる。 追加終わり ]
完全に腐敗している日本仏教
https://mikuriya-tetsu.com/vagabond/6115/
[2023年4月8日に補足。リンク切れ。こちらなら読める:
完全に腐敗している日本仏教
https://mikuriyan.hateblo.jp/entry/2018/07/13/%E5%AE%8C%E5%85%A8%E3%81%AB%E8%85%90%E6%95%97%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BB%8F%E6%95%99
補足は終わり]
仏教とアナーキズムの関係
https://mikuriyan.hateblo.jp/entry/2018/07/08/%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82
バイク上生活――実践と課題
https://mikuriya-tetsu.com/vagabond/6115/
[2023年4月8日に補足。
「バイク上生活――実践と課題 齟齬」で検索しても出ないので非公開にしたか削除したか、題名を変えたかだろう]
けものフレンズ初代
(
なんだ。やっぱルソー教ネタじゃん。 https://t.co/md0BSxNSpr
— ぐだトマト (@pteras14) 2017年2月22日
ルソー教が何か分からないフレンズは
明治時代のおフレンチ神父が書いた
日本初の陰謀本「秘密結社」を
読んでくれ。
国立図書館のサイトで読めるから。
一応言っておくけど、タナハにも、
— ぐだトマト (@pteras14) 2017年2月23日
旧約聖書にも、クルアーンにも「善と悪
の知識の実」が林檎だという記述は
無いぜ?
中世ヨーロッパの画家が間違えて林檎
の木を描いたのが誤解の始まり。
そもそも林檎の樹は中東では育たない。 https://t.co/9NWkzk9wnR
日本語Wikiのみにクルアーンにバナナ説が載っていると唱えてる人物の記述があるが、この記述は英語版には無いし、この奇説を唱えてる人物は
知る所たった一名のみ。通説はイチジクか
ナツメヤシの樹だが、ぐだトマトさんの持論で
は仏教のインド菩提樹を推す。
林檎の樹と言うと石屋を乗っ取った魔王ニュートン卿の逸話があるが、これも後付けとの説が濃厚。まぁ、このアニメを広めてるカルトの教義的にはニュートンの林檎(アップルのロゴの元ネタでもあるw)辺りが妥当でしょうw
ふーん、ジャパリパークってジャパンの
— ぐだトマト (@pteras14) 2017年2月23日
サファリだから日本にあるんだろ?
日本にエデンの園があったんだー、
ヘェ?(棒読み)
それって何て日ユ同祖論? https://t.co/wHEdxlfN94
ぐだトマト
? @pteras14
2017年2月23日
技術的に何の見所も無いアニメが
異常にアニメを真面に評価する能力に
欠けてるオタ共がこぞって持ち上げる
場合は、大体カルトが絡んでるから
要注意な!
もっとアマチュアの本当に頑張ってる
人達の作品を観てアニメを観る目を
養っとけよ?
返信先: @rensou_houさん
正式には「善と悪の知識の実」ですが、
ギリシャ語版の旧約聖書原著かヘブライ語版
タナハ(ユダヤ教版旧約聖書)にあたるのが
より正確かと思われます。
ぐだトマト
? @pteras14
2017年2月23日
やっぱり、万能ドッグフードみたい
なのがあったんだなw
「じゃぱりまん」とかいうのw
雷句の「どうぶつの国」も全ての
動物が共通で食べれる木ノ実があれば
動物間同士の捕食が無くなるってネタ
だったからねw
ラノベ作家のマニさん有難う!♡
— ぐだトマト (@pteras14) 2017年2月23日
お礼にこんなもん見つけちゃった!https://t.co/GBs9Y9ffRP
イマさんの黄金時代は食肉が禁じられ
てたらしい。
老害化したイマさんが食肉の許可を
人類に与えたために不死性を
失くしたらしいよ!#けものフレンズ考察班
ゾロアスター教の楽園では人類は不死で
野菜しか食べなかったらしいんだ。
ところがイラン版ノアさんのイマ(閻魔)
さんが肉食を勧めたため、楽園の人々は
堕落して不死じゃなくなっちゃったんだ。
#けものフレンズ考察班
肉を食べる前に感謝の儀式をやるの!
生贄の儀式のルーツね!
現代ではキリスト教の「頂きます」の
お祈りになって残ったよ!
だから皆んなもフレンズを美味しく
召し上がる前には必ず「感謝の頂きます!」
を言おうね!
ご先祖様のイマさんとの約束だよ?
#けものフレンズ考察班
因みに先の論文だとイマの罪はもう
二つあるらしい。
一つは妹との近親相姦。インドでは
タブーらしいがイラン版ではコレに
よって「完全なる人」が誕生するらしい。
それまでは各々、悪魔の男や女を娶った
らしいが、熊とか猿しか産まれなかった
らしい。
そしてもう一つは「人類史上
初めて嘘を吐いた事」らしい。
「私が世界の創造者だ」と豪語した
のがウソだったらしい。
閻魔大王の嘘吐きの舌を抜く話は
自分の事を言ってるのかもね。
あー!w
だからノアの野郎は洪水明けてから
真っ先にヤハウェ君と焼肉パーティー
やるのかww
そうなるとカインとアベルの
話も興味深いなw
ヤハウェの野郎、肉ばかり喰いやがってw
妹と子供作らないと多分色の白いのが
産まれてこないんだろう。地元の黒い
土人とも子供作ったけど、猿とか
熊みたいなモジャモジャしか産まれて
来なかったんだろうなw
アルビノだったから閻魔大王は
地下に住んだのかなぁ……
直射日光に弱そうだしなぁ、
アンデッド系だしね。
太陽族(アスラ)と嵐族(ダエーワ)か……
雲で太陽が隠れてないと行動出来ない
連中が居たのかもな……
闇が深いな……
暗闇の雲を呼び寄せる程に。
太陽が出てれば作物も育って
じゃぱりまんも作れるけど、
氷河期の間は何食ってたんだろうね。
やっぱフレンズ?w
冷凍室も完備されてそうだしw
そりゃ「永遠の輝き」にも
恋い焦がれるのかもな。
セルリアンの女王=暗闇の雲でおk?
[2023年4月13日に補足:
【重要資料】『原典完訳 アヴェスタ ゾロアスター教の聖典』は7が神聖でイラン版ノアの箱舟(=要塞。優生学儲が喜ぶ内容)を収録
Posted on 2021.05.16 Sun 00:00:20
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-392.html
”
ラノベ作家のマニさん有難う!♡
お礼にこんなもん見つけちゃった!https://t.co/GBs9Y9ffRP
イマさんの黄金時代は食肉が禁じられ
てたらしい。
老害化したイマさんが食肉の許可を
人類に与えたために不死性を
失くしたらしいよ!#けものフレンズ考察班
— ぐだトマト (@pteras14) 2017年2月23日
ゾロアスター教の楽園では人類は不死で野菜しか食べなかったらしいんだ。
ところがイラン版ノアさんのイマ(閻魔)
さんが肉食を勧めたため、楽園の人々は
堕落して不死じゃなくなっちゃったんだ。
肉を食べる前に感謝の儀式をやるの!
生贄の儀式のルーツね!
現代ではキリスト教の「頂きます」の
お祈りになって残ったよ!
だから皆んなもフレンズを美味しく
召し上がる前には必ず「感謝の頂きます!」
を言おうね!
ご先祖様のイマさんとの約束だよ?
因みに先の論文だとイマの罪はもう
二つあるらしい。
一つは妹との近親相姦。インドでは
タブーらしいがイラン版ではコレに
よって「完全なる人」が誕生するらしい。
それまでは各々、悪魔の男や女を娶った
らしいが、熊とか猿しか産まれなかった
らしい。
そしてもう一つは「人類史上
初めて嘘を吐いた事」らしい。
「私が世界の創造者だ」と豪語した
のがウソだったらしい。
閻魔大王の嘘吐きの舌を抜く話は
自分の事を言ってるのかもね。
あー!w
だからノアの野郎は洪水明けてから
真っ先にヤハウェ君と焼肉パーティーやるのかww
そうなるとカインとアベルの話も興味深いなw
ヤハウェの野郎、肉ばかり喰いやがってw
妹と子供作らないと多分色の白いのが
産まれてこないんだろう。地元の黒い
土人とも子供作ったけど、猿とか
熊みたいなモジャモジャしか産まれて
来なかったんだろうなw
アルビノだったから閻魔大王は地下に住んだのかなぁ……
直射日光に弱そうだしなぁ、
アンデッド系だしね。
太陽族(アスラ)と嵐族(ダエーワ)か……
雲で太陽が隠れてないと行動出来ない
連中が居たのかもな……
闇が深いな……
暗闇の雲を呼び寄せる程に。
(イマが嘘をつくとRoyal Gloryが鳥の形をしてイマから出ていった。
Royal Glory
=王の栄光(後光)
は鳥の形をして飛ぶ。
"when (Yima) had added the lie, the untrue word, to his account,
the Royal Glory flew away from him visibly in the shape of a bird."
インドのリグヴェーダでは近親相姦の罪によりヤマは不死でなくなり、地下の王となる。
地下とはインド版ハデスである。
イランの伝統では最近親相姦は宗教的に称賛に値する。)
(ヤハウェが野菜と肉を捧げられたときに肉を選んだのは
バラモンではなくゾロアスター(肉食OK)を選んだことを示すのでは?)
”
(この論文に出てくる『アヴェスタ』の箇所はこの記事でメモっておいた。
肉食ではなく牛肉食が罪だと『アヴェスタ』にある。英語論文ではただ肉としか書いていないからとまとさんは勘違いしてしまっている。肉食全般が罪ならゾ教で肉食OKになるはずないもんな)
”
上記のぐだとま帝が張ったリンク先の論文は、
ヤマ・イマ・ジャムシード、イラン人たちのパラダイスのキング(と書かれている題名である、英語の論文)
https://www.azargoshnasp.net/Din/jamshidkingparadisehelmut.pdf
補足終わり]
ぐだトマト@pteras14
2017年2月24日
スライムが食べた動物の能力を
コピーって魔人ブウもそうだけど、
自分はクーンツの「ファントム」
って小説を思い出すな。
スライムがアメ公のカルト信者を
食べたせいで、そのカルトにハマって
自分が魔王サタンだ!とか言い出す
奴ww
ぐだトマト
@pteras14
2017年2月28日
心配するな、世界が滅亡する時
我ら一般ピーポーは皆んな「のけもの」だ。
ねこたさん、
— ぐだトマト (@pteras14) 2017年2月28日
このブログのボスのサンドスターの
説明って、イマの「人工の光」?
あの床から光るとかっての。https://t.co/XyGe9hiwOC
”ボス(ミライの声)「昨日の事件を見るに、セルリアンはサンドスターを奪っている。というか、食べていると考えられます。ですので、万一フレンズさんが食べられた場合、サンドスター由来の技や、個性が消滅、元動物に戻る、消滅してしまうなどありえるのではと。まだ予測の域ですが。」
…
ペンギン「サンドスターが動物に当たると、フレンズになるんだ」
ペンギン「あるいは動物だったモノとかね」
…
ミライ「生き物や生き物だったモノとサンドスターが反応してフレンズが生まれますが、セルリアンは無機物と反応して生まれることがわかってきました」
ミライ「ただ、別の研究でサンドスターが一種類でないのではという話もあり」
ミライ「え?最初私が宇宙人だと?」
サーバル(alt)「だって私たち、この島の外にもちほーがあるなんて知らなかったもん。それに飛んで来るんだもん。食べられちゃうって言ってる子もいたよ」”
ぐだトマト
@pteras14
2017年2月28日
サンドスター、
プルトニウムか何かなのかな?w
動物をミューテーションする力が
あるみたいだしw
ジャパリパークの所在地がどこか
気になるねw
[2023年4月13日:↓のサーバルの額~は私が書いたやつ。追加終わり]
サーバルの額にMがあるからけもフレも怪しいんだよね。
額にMがある猫なら普通にいるけどね。
なんか一部で「サーバル(けものフレンズ)の額のMマークは幼体の証」なんてのが広まってますが、アレは別に成体幼体の区別ではないし、成体でもくっきり見える個体はいます。
— 生存者 (@seizonsya) 2017年9月14日
もっと言うとサーバル限定じゃなくてネコ科には割と額にMの字あるのが多いです。個体差ですが。 pic.twitter.com/3guZrWAvXs
※カインの刻印=Mの刻印の解釈もありうる
— 子×5(ねここねこという読み方が代表的です、よろしくおねがいします。未整理図書館「読めニク」長です) (@kitsuchitsuchi) 2018年1月8日
ドラゴンボールのダーブラ
(暗黒魔界の王。
他人にMの刻印を刻める)
ベジータ(一時的)
けものフレンズのサーバルキャット
アンパンマンのメロンパンナ
マリオ
イラン在住の人のありがたい解説↓https://t.co/IaNR5k6jvI@narukemist@rai5asa1
結社シンボル集②
— 子×5(ねここねこという読み方が代表的です、よろしくおねがいします。未整理図書館「読めニク」長です) (@kitsuchitsuchi) 2018年1月8日
丸に十字、丸に×の意味。
ギリシア式ゲマトリアだと300が十字架で18がイエス。
カインの刻印×と、Mの刻印。
ハンドサインはインドの印契。
バラモンの祭壇が火の鳥!
要注意な曖昧単語「アーリア、ケルト、縄文」 https://t.co/xeqvgMGoR7
結社シンボル集①https://t.co/x4UXoq3oeb
エヴァのペンペン、
— ぐだトマト (@pteras14) 2017年3月3日
ピングドラム、
けものフレンズ
こいつら何でペンギン好きなんだ? pic.twitter.com/BFzCmhXKc9
ピングドラムに関してはとある レビュアーに拠ると、
インコ教の 教祖に顔が似てるからという説が あるが……
エヴァの飼い犬のMAXって誰か
— ぐだトマト (@pteras14) 2017年3月3日
画像持ってない?https://t.co/j6JHXGWYYl pic.twitter.com/1yKN00dN0o
ぐだトマトさんは犬のMAXって言うと
— ぐだトマト (@pteras14) 2017年3月3日
昔のホラー映画を思い出すぜ!https://t.co/bwvggoLXMj pic.twitter.com/MmnI2SxtFz
(
同性愛は自然に反する。動物をみてみろ!!
— TOKYO NO HATE (@tokyonohate) 2018年10月27日
( ・∇・)あれ?
雄ペアが温めた卵からひな鳥=水族館飼育のペンギン-豪:時事ドットコム https://t.co/e1Y1n8Ph4w @jijicomより
確かペンギンは同性愛するって話がらみで)
ぐだトマト
@pteras14
2017年3月3日
エヴァだとシンジ×カヲル、
ピングドラムだと主人公の男子高校生二人?
ぐだトマト
@pteras14
2017年3月3日
脚本家は君達が思っている以上に
考えて書いているよ。
台詞無し短編アニメとかの絵コンテ
とか作ってみると分かりやすいよ。
観客に制作者のメッセージを伝えるの
が如何に難しいか。
ぐだトマト
@pteras14
2017年3月3日
やっぱゾアノイドじゃねーか!
#けものフレンズ考察班
これか。
— ぐだトマト (@pteras14) 2017年3月3日
ソロモンの指環。https://t.co/ofODyGQC3d#けものフレンズ考察班 #FateGO #FGO
取り敢えずはカバンちゃんの鞄の
中身だな!
ねこたさんが言うナチ党に入党した
— ぐだトマト (@pteras14) 2017年3月3日
ってのはこの動物学者の事な!#けものフレンズ考察班 https://t.co/G9JkF7Jp7C
コンラート博士ね。https://t.co/DpWZYfs83J#けものフレンズ考察班
— ぐだトマト (@pteras14) 2017年3月3日
ほら!
— ぐだトマト (@pteras14) 2017年3月3日
コンラート博士、動物の「擬人化」に
ついて語ってるぞ?whttps://t.co/23iCvyQrwn#けものフレンズ考察班 pic.twitter.com/CBHnMjGvBh
ぐだトマト
@pteras14
2017年3月3日
新約聖書のヨハネさんがお前らの
トチ狂ってるPPPとか言うビーストを
上下反転すると666の獣になるって
言ってたよ!
#けものフレンズ考察班
コンラート博士の専門が「刷り込み」 ってウケるよね!♡
)
子×5(ねここねこという読み方が代表的です、よろしくおねがいします。未整理図書館「読めニク」長です)
@kitsuchitsuchi
2017年12月26日
ねこた
マタイによる福音書 3章 11節
「わたしは、悔い改めに導くためにあなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方はわたしよりも優れておられる。わたしはその履物をお脱がせする値打ちもない。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
え?311人工地震テロ?…
イルミちゃん調べたかったら、マニ教のグノーシスも調べてね。
「マミさんは真のキリスト教に目覚めたようです」 で検索してみて。
これ青木健の「マニ教」という本を買わなくてもいいくらい内容が充実してる。
マニ教の恐ろしさは、既存の宗教に寄生して神話を換骨奪胎して乗っ取る作戦だから
光と闇の勢力が何かを「召喚」して戦わせるって、生殖が嫌いだったマニ教独特の表現だよ?
— 子×5(ねここねこという読み方が代表的です、よろしくおねがいします。未整理図書館「読めニク」長です) (@kitsuchitsuchi) 2017年12月25日
光と闇の元ネタはマニ教なんでマニさんにちゃんと著作権料は払うの忘れるなよ?
「マミさんは真のキリスト教に目覚めたようです」https://t.co/9mTFYga6QHが面白かった!マニ教の本買わなくても内容がわかるよ
【資料補完用記事からの引っ越しはここまで】
ここに引っ越した資料のコピペ引っ越しは終わったので補足。
初代けもフレは、芥川龍乏介の資料記事(まだ未完成なので非公開設定)におけるオススメ作品の個所に載せようと思ったのだが、ふと「オススメかな?」って思ったのでここに載せた。私にはオススメするほど面白くなかった(気合入れて視聴しなかった。飛ばした箇所が多かった記憶)し、「マニ」って単語をけもフレ関連でとまとさんが使っているからここに載せた。
追加ここまで]
お読みくださり感謝!
(公開前からウェブ拍手が1つある。読めないが記事の存在はわかる設定だったからだろうな。「この記事はブロとものみ閲覧できます」と出る設定のことだ。これは私以外は読めない状態であることを意味する)
『わかる仏教史』はこれ一冊で終わらせるとまずい入門書
Posted on 2021.06.27 Sun 00:05:38 edit
https://twitter.com/unajiperopero/status/1306479103860641795 と続き
”うなじ
@unajiperopero
なんというか、「この宗教は良い宗教! この宗教は悪い宗教!」みたいなことを素朴に判別できると考えてる人、そもそもその「何が良くて何が悪いか」という物差しになること自体が宗教の重要な機能の一つなのに、物差しを計る特別な物差しを自分だけは持ってると信じてるの、ナイーブっすね、となる
午後3:24 ・ 2020年9月17日
それができないとは言わんけど、かなり難しい問題なので、少なくとも自明なことではないよ
”
『わかる仏教史』が最初の一冊として手堅いらしいので読んだ。
本書は入門書としては良いのだが、本書は一部に「そうか? 断定しすぎでは?」という箇所があるので注意。
これから更に学ぶ人なら問題ないがこれ一冊で終わらせるとまずいと感じた。
私の最初の一冊としてのオススメ入門書は『だから仏教は面白い!』。理由は仏教への強い興味を持たせることができるから。
仏教の本でこれほど笑えるのは今のところ出会ったことがない。
動画なら
佐々木閑:仏教とはなにか
https://www.youtube.com/playlist?list=PLmwYOQLkF8YhF7Q3jKLadl3iaGImG8wxH
が一番入門としてお勧め。
https://twitter.com/unajiperopero/status/1286592144006721536 と続き
”
YouTuber佐々木閑先生の動画、最強の仏教入門だな、これhttps://t.co/EunfB1Bi7b
— うなじ (@unajiperopero) July 24, 2020
※YouTuberではない
投稿し始めたのは知ってたけど、久しぶりに覗いたら、めっちゃ動画の本数増えてたわ
”
https://twitter.com/unajiperopero/status/1286593789893570560
”うなじ
@unajiperopero
「山の上にある宝箱」を手に入れることを幸福と考えるのが通常の価値観としたら、山の上手な登り方を教えるのではなくて、「宝箱を手に入れたい」という傾向性そのものを相手にするのが仏教だっていう説明、わかりやすい
午後6:27 · 2020年7月24日·Twitter for Android”
https://twitter.com/unajiperopero/status/1286594949815795714
”うなじ
@unajiperopero
そうなんだよなー 仏教の原理的な部分のコンセプトからいうと「宝箱が手に入ろうと入らなかろうと、それに満足する」ようにはなるはずなんだが、みんな仏教を齧ることで「上手に宝箱を手に入れられる」ようになることを期待してしまいがちなんだよなー
午後6:31 · 2020年7月24日·Twitter for Android”
https://twitter.com/unajiperopero/status/1286595506077016064
”うなじ
@unajiperopero
まあ、宝箱が手に入るかどうか余計な心配をやめることでパフォーマンスが上がって、結果的に宝箱が手に入ったりはするかもしれないけど、それを始めから期待しちゃうと、もうその時点である種の矛盾を抱え込んじゃってるんだよな
午後6:34 · 2020年7月24日·Twitter for Android”
https://twitter.com/unajiperopero/status/1286595663224950786 と続き
”うなじ
@unajiperopero
※「マインドフルネスでビジネスの効率アップ」みたいなやつの悪口を言っています
午後6:34 · 2020年7月24日·Twitter for Android
佐々木閑先生がじゃなくて、俺がね”
https://twitter.com/unajiperopero/status/1286592927376932864 と続き
”うなじ
@unajiperopero
仏教入門の最初の一冊にいい本って、俺が知ってる範疇でも何冊かあるけど、わかりやすさとか諸々含めて、この一連の動画見るのが一番いいかもしれんなー
午後6:23 · 2020年7月24日·Twitter for Android
遊牧民@積読の長城を超えて
@Historian_nomad
2020年7月24日
返信先:
@unajiperopero
でも佐々木先生の本に対してどうしても警戒心が解けない私です
うなじ
@unajiperopero
2020年7月24日
喩え話に数学者が出てきたりするのは佐々木先生っぽいですけど、基本的に淡々とした解説なんで、あんまり合う合わないが出てくるほどの色は出てないと思いますよ”
https://twitter.com/Historian_nomad/status/1373881677924069381 と続き
”遊牧民@積読の長城を超えて
@Historian_nomad
宮本啓一『わかる仏教史』文庫版を読み終えたんですが、わかりやすいと同時に初期大乗仏教への評価とか空の論理を「ペテンに等しい」とするところとか、ちょっと「仏教を知りたい」ひとに初手に文庫版を薦めづらい部分もあるように思われますね(めちゃくちゃわかりやすいですけど
午後3:18 · 2021年3月22日
たぶん仏教学者の入門本読んでからか併読した方がいい気がしないでも”
『わかる仏教史』春秋社 2001/角川ソフィア文庫 2017
2つのバージョンがある。後に出たほうは加筆と修正がある。
ソフィアの方を読んだ。ソフィアって尻が好きな単語だな。
著者は宮元 啓一(みやもと けいいち、1948年1月19日~ )。
著者は仏教徒ではない。出世間への強いあこがれをもつアニミスト。
信者の人の本も非信者の人の本も読むべきだ。
p3から はじめに
本書は題名のとおり、「わかる」仏教史ということで、従来になく短い分量のなかで、
仏教の流れをくっきりと浮き彫りにすることを目標としています。
そのため、本書執筆にさいしてもっとも留意した点は、
問題を整理し、端正な単純化を施しつつ、いかに押さえるべきことがらをすっきりと押さえるかということだった。
わかりのよい文章を書くことの成否は、ひとえに、どれだけ書かないでいられるかという、
決断力、胆力にかかっていると、昔、尊敬するあるアメリカの学者に教わったことがある。
いちばん分量が多いのはインド仏教史の部分で、全体の六割を占める。
こうしたのは、仏教とはどのようなものであるかを知るためにもっとも重要なのは、
誕生の地で仏教がどのような展開を見せたのかをよく知ることだと確信するからです。
まずはインド仏教をよく理解していただき、それとの対比の上でわたくしたちの足下にある日本仏教を捉えることによってこそ、日本仏教の特質、歴史的意義がほんとうに深く理解できると考えるからです。
さて、そのインド仏教史ですが、わたくしはそれをできるだけインド思想、インド哲学全体の流れのなかで捉えようと努力しました。多くの仏教学者は、インド仏教をそれらから完全に孤立したかたちで語ろうとするが、それはおかしいと思う。
インド仏教も、インド思想、インド哲学の内にあるものだからだ。
本書に斬新なところがあるとすれば、最大のものはほかならぬこの点です。
この観点からすれば、たとえば、ゴータマ・ブッダ(釈尊)は輪廻思想を否定したと論ずるなど、
言語道断、論外中の論外です。
(
「釈尊は輪廻否定論者」説を主張者に対して、
「現存最古の仏典のスッタニパータの中の最古層の箇所ですでに輪廻の実在が前提の記述があることに対して言うことありますか?」
と聞きたい。
)
また、わたくしは、インド哲学の研究を志してからこのかた、坐禅やヨーガも実修し、
三昧、つまり主客未分で無思考な状態を数多く体験してきた。
本書で、少しくどいほど、三昧は智慧を得る手段ではありえないといっているのは、
文献上の事実、理屈もさることながら、みずからの実体験をも踏まえてのことです。
最後に、執筆者であるわたくしの手の内、つまりわたくしの仏教に対するスタンスを明かしておきましょう。
わたくしは、宗教的には仏教徒ではなく、出世間への強いあこがれをもつアニミストです。
ですから、わたくしは、仏教については、強烈な哲学的関心はもっているが、宗派的関心はまったくもっていない。
わが国の仏教学者のほとんどは、みずからの宗派の教義とか、わが国の仏教諸宗派が基盤にしている大乗仏教とかの視点から仏教を見ようとしてきた。ですから、従来にない本書の第二の特徴は、まさにこの点にあるといえる。
わたくしが仏教を取り扱うさいにすることは、そうしたスタンスから、極力私心のないアカデミックな態度を貫くだけです。
著者識す
p19
出家生活者はふつうの衣は身につけない。
ぼろ布をつづりあわせた衣(糞掃衣)、毛髪を編んで作った衣、樹皮や葉っぱを身にまとう、
極端になると、一糸まとわぬ素っ裸のまま(空衣)でいる。
鉢ひとつをもって在家の人に食を乞う(ゆえに乞食とも呼ばれる)。
草の根や木の実を採食する。
屋根の下、ベッドの上に寝起きしない。
定住せずに(一所不住)さまよい歩く(ゆえに遊行者とも呼ばれる)。
p21から
仏教と似ている六師外道の教え
プーラナ・カッサパは、全裸の苦行者で、この世では、どのような行いをしようとも、
善も悪もなしたことにはならないと主張した。
世俗的な価値を超越するのが出家の目標ですから、出家としては当然の主張で、
ゴータマ・ブッダの主張と本質的には変わりません。
ただ、ゴータマ・ブッダは、初心者には善悪のけじめをうるさくいいました。
(道徳否定。因果応報否定。善因善果、悪因悪果の否定)
マッカリ・ゴーサーラは、厳格な戒律を立てるアージーヴィカ教団の開祖。
かれは、輪廻は定められた期間かならずつづくもので、努力しようがしまいが、
馬鹿でも利口でも、ときがくるまでは解脱できないし、ときがくればみんな解脱するのだと主張。
決定論者といわれたりするが、戒律重視は仏教にも通じる。
(
「皆が救われる」という点で、浄土宗や浄土真宗や時宗の「易行=修行できない人も救われるぜ!」を思い出すな。
アージーヴィカは皆が最終的に解脱=救われるのだから、
解脱の為の行動すら不要というか無駄というカルマ否定論。
輪廻はあるがカルマの法則はない。業の報いの否定。
でも修行はする(笑) 運命を受け入れるためらしい。
そりゃあさんざん考えながら修行した末の結論だから一般人の感覚で考えてはいけない。
アージーヴィカ教は滅んだが、同じような思想の人は今もいる。
優れた解説動画がある:
【ゆっくり解説】3分でわかるアージーヴィカ教
https://www.nicovideo.jp/watch/sm36242813
コメント抜粋
”人生の苦痛に「理由が欲しい」人もいれば「理由を否定して欲しい」人もいますね”
”怪力乱神語っちゃったかーそっかー”
)
アジタ・ケーサカンバリンは、
万物は地水火風の四元素よりなり、善悪も来世もないと主張。
唯物論者ともいわれているが、案外、ゴータマ・ブッダの究極の教え、善悪の彼岸の教えに似ている。
(
来世がないつまり輪廻転生を否定。輪廻否定。カルマ否定。
確かに唯物論だな。「万物は」四元素からなるとあるからな。
万物には霊魂も含まれるはずだ。
四元素の中に「霊」はない。「風」が「霊」なのかもしれないけど。
アートマンについてはどう考えていたんだろう
)
パクダ・カッチャーヤナも善悪を否定し、殺す者も殺される者もないなどと主張したという。
これも善悪の彼岸の教えと見ることができるでしょう。
サンジャヤ・ベーラッティプッタは
経験的事実から出発しない形而上学的な議論を、
ぬらりくらりとした鰻論法でかわした。
エポケー(判断中止)のなかに安心立命を求めようというのだ。
ゴータマ・ブッダもそうした側面をもっている(十難無記)。
(
安心立命とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E5%BF%83%E7%AB%8B%E5%91%BD-29218
”(読み)あんじんりゅうみょう
あんしんりつめい あんじんりゅうみょう ‥リフミャウ あんじんりゅうみょう〔リフミヤウ〕
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
「あんしんりつめい」とも読む。安心は仏教用語,立命は儒教の用語。すべてを絶対のものにまかせて,心が動揺しないこと。
〔略〕
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
安心は仏教語で、安らぎを得、落ち着いた穏やかな心に達した究極の境地をいい、ニルバーナnirvāṇa(涅槃(ねはん))と称した。立命は、儒教の『孟子(もうし)』のことばの転用で、天命による本性をまっとうすること。人力を尽くして仏道を実践し、わが身を仏法にゆだね、なにものにも心を揺るがされない安定した心のあり方をいう。「あんじんりゅうみょう」とも読み、安身立命とも書く。
〔略〕
精選版 日本国語大辞典の解説
〘名〙 儒教で、人力を尽くしてその身を天命に任せ、どんな場合にも落ち着いていること。天命を知って心を平安に保ち、むやみに心を動かさないこと。仏教では、「あんじんりゅうみょう(安心立命)」と訓み、主に禅宗で、悟りの境地に到達して真の心の安らぎを得、主体性を確立すること。
”
)
ニガンタ・ナータプッタは
ジャイナ教の開祖マハーヴィーラのことで、
ものごとは一面的に断定できないという、初期仏教と同じ不定主義を唱えた。
(
スヤードバーダ(英語表記)syādvāda
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%80-85098
”
スヤードバーダ(英語表記)syādvāda
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
インド哲学用語で,不定主義,相対主義の意。特にジャイナ教の立場をいう。事物は種々の立場から多方面にわたって考察すべきであり,絶対的あるいは一方的な判断を下してはならないとする主張。もしもなんらかの判断を下そうとするなら,「ある点からみると」 syādという制限をつけねばならない。たとえば,事物は実体または形式という点からみると常住であると言いうるが,状態または内容という点からみると無常であると言いうる。このようにすべてを相対的に言い表わし,相対的に解すべきであるとする観察法。アネーカーンタバーダ Anekāntavādeとも呼ばれる。
”
)
p25から
伝説では、ゴータマ・ブッダは生まれてからすぐにすっくと立ち、
麻雀と同じ順序で東南西北を見まわし、北に七歩あゆんで、右手を上に、左手を下にして
(花祭りのさい用いられるいわゆる誕生仏は、このようなかっこうをしている)、
「天上天下唯我独尊」(神々もふくめ、世界中でいちばんえらいのはオレだ)と宣言した。
しかし、残念ながら、「唯我独尊」ということばは、今日では、悪い意味にしか用いられない。
そんなものだから、お坊さんや仏教学者で、この傲慢ともいえることばの解釈に苦労する人がけっこういる。
ゴータマ・ブッダが生まれつき傲慢で鼻もちならない人間だったようにとられては困ると、心配になってくる。
人によっては、人間の尊厳をうたったものだなどと、よくもまあといった珍無類の解釈をひねりだしたりしている。
しかし、じつはこれは、目覚めた人(ブッダ)となって説法を開始するために旅をしている途上、
たまたま出会ったウパカという人物に向かって、ゴータマ・ブッダが高らかに自身たっぷりに宣言したことばに他ならない。
仏伝(ブッダの伝記)の作者は、ゴータマ・ブッダを神格化するために、生まれたてのかれにそのことばをかたらせたのだ。
この解釈はきわめて合理的でありまして、なにも悩む必要はない。
(
当時、一番えらいのはバラモン教やバラモンやブラフマーなんだから、
それらより上、つまり仏教こそが真に正しい教え宣言だから俺が一番偉いと言うのはおかしくないじゃん。
梵天勧請もブラフマーが釈迦にお願いする、つまり、梵天より釈迦が上だと示す話だ
)
パーリ『涅槃経』などにあるゴータマ・ブッダの最期の旅のようす。
雨安居のあいだに体に「死ぬほどの激痛」が走る重い病にかかってしまったゴータマ・ブッダ。
まだ教えを完全に受けていないのに不安がるアーナンダにむかって、
ゴータマ・ブッダは、自分はだれかれの隔てなしに教えを説いた、
自分には、なにかを隠すような教師の握りこぶしはないのだと語った。
このことばは有名。
本当の教えは、公開せず、ある特定の人物にだけこっそり教えるというのが当時はふつうであり、
したがって、ゴータマ・ブッダの教授法は、たいへん斬新だった。
さらにかれは、自分なきあとは、
「みずからを島(中州)とし、みずからをたよりとし、他人をたよりとせず、
正しい教えを島とし、正しい教えをよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」と諭した。
これは遺言のひとつとされる。
迷いと苦しみのこちら岸(此岸)から、迷いと苦しみのないあちら岸(彼岸)へ教えを筏としながらも自力で渡れ、との意。
(
筏のたとえって「目的(解脱)と手段(教えを守る=修行)を取り違えるな」って意味なんじゃないの?
筏=教えを悟ったら捨ててもいいといっても、別に教え(戒律含む)を守る必要なしって意味ではないぞ。
なぜなら、筏のたとえを言った相手がアリタ(阿梨咤)比丘という「禁欲しなくても悟れる」思想の人だから。
スッタニパータにも筏のたとえが登場。
筏の喩え
https://ameblo.jp/northahead/entry-12500935283.html
”私の筏(いかだ)は良く組まれ、
とても丈夫に作られていたが、
もう既に激流を乗り越え、
河を渡って彼岸に到達している。
最早筏は必要ない。
神よ、
もしも雨を降らそうと望むなら、
雨を降らせよ。
(スッタニパータ:21)”
以下の記事は中阿含経巻のうち、筏喩経(ばつゆきょう)(阿梨咜経)の漢文、書き下し、現代語訳が載っているすごい記事だ。
筏喩経(阿梨咜経)
http://tubamedou.egoism.jp/SonotaButten/AritaKyou/AritaKyou.htm?v=20190131
大雑把に要約する:
アリタ(阿梨咤)比丘「欲を行なっても修行の妨げにならない」(禁欲しなくても悟れる)
(要は性行為などをしても大丈夫と言った)
しかも、これが釈迦が説いた法だと主張。
他の比丘はそれはでたらめだと批判する。
仏(ゴータマ・ブッダ)「『欲は毒蛇のようである。』などと私は説いた」
(つまり禁欲不要などと言っていない)
毒蛇の喩を語る世尊。
蛇の腰のあたりを手でつかむと、その蛇はつかんだものを噛む。
このような捕え方は道理を理解していない。極めて苦しみ、無駄に疲れるやり方だ。
捕え方を善く理解していない。
先に杖で蛇の首を押さえ、その後で蛇の頭を捕えれば、噛まれない。
(要は、教えには正しい捕え方=理解の仕方、解釈があるのであり、曲解するなということだろう)
そして筏のたとえが語られる。
筏の喩(たとえ)を説く意図は捨てさせるためであり、受けさせるためではない(棄捨せしめんと欲し、受けしめんと欲せざる)。
〔別サイトより引用
初期仏教 ■3.筏の喩
https://www.ni-club.net/panietzsche/3budda/inf01/inf6.cgi?mode=main&no=3
”比丘たちよ、教え(法)というものは筏(いかだ)のようなものであることをなんじらに示そう。
譬えば街道を歩いて行く人があって、途中で大水流を見たとしよう。そしてこちらの岸は危険で恐ろしく、かなたの岸は安穏で恐ろしくないとしよう。しかもこちらの岸からかなたの岸に行くのに渡舟もなく、また橋もないとしよう。そのときその人は、草、木、枝、葉を集めて筏を組み、その筏に依って手足で努めて安全に彼方の岸に渡ったとしよう。 かれが渡り終わってかなたの岸に達したときに、次のように考えたとしよう。すなわち『この筏は実にわれを益することが多かった。われはこの筏に依って手足で努めてかなたの岸に渡り終えた。さあ、わたくしはこの筏を頭に載せ、あるいは肩に担いで、欲するがままに進もう』と。なんじらはそれをどうおもうか?そのひとがこのようにしたならば、その筏に対してなすべきことをしたのであろうか?
そうではありません、師よ。
比丘たちよ、教え(法)とは筏のようなものであると知るとき、なんじらはたとえ善き教え(法)でも捨て去るべきである。悪しきものならばなおさらのことである。
(マッジマ・ニカーヤ 22) ”
〕
〔
『中部』「根本五十篇」「譬喩品」「蛇喩経」
https://komyojikyozo.web.fc2.com/mnmlp/mn03/mn03c04.files/sheet001.htm
から
つづきを読んでいくと↓に筏のたとえの箇所がある
(中阿含経巻第54ー200「阿梨咜経」じゃないのか?)
https://komyojikyozo.web.fc2.com/mnmlp/mn03/mn03c05.files/sheet001.htm
”比丘たちよ、私は、把持を目的としたものでなく、度脱を目的とした、筏の譬喩なる法を教示しましょう。
〔略。引用者注: Kulla筏。 度脱、超度 把持、執持〕
ここに比丘たちよ、〔流れを〕渡って、向こう岸へ行ったその男に、このような〔思いが〕起こったとします。
〔略〕
『私のこの筏はたいへん役に立った。
〔略〕
私はこの筏によって、手足ではげみ、無事に向こう岸へ渡った。
〔略〕
私はこの筏を地面に捨てあるいは水に沈めて、欲する所へ出発してはどうか』と。
〔略〕
そのようになす者であれば、その男は、その筏に関してなすべき事をなす者であるのです。
〔略〕
比丘たちよ、かくのごとく、把持を目的としたものでなく、度脱を目的とした、筏の譬喩なる法が、私によって教示されました。
〔略〕
訳文
比丘たちよ、あなたがたのため教示された筏の譬喩なる法を了知するあなたがたによって、諸々の法は捨離されるべきです。まして非法をや。
メモ
・ここでもdhammaṃやdhammāが何を指しているかは解釈が難しい。前者は「教法」であろうが、後者はadhammāと対置されているから、「信」や「勤」などの大善地法のようなものが想定されているのか。『註』は「諸法とは止観である」dhammāti samathavipassanāとしているが、これを受け入れてよいものか。
”
〕
渡るのに筏は役に立った。その後、この筏を、水中に浸けて置くか、岸の辺に置き去りにして、立ち去った場合、
筏はこの後も、役に立った。
(正しい)法さえも、捨てなければならない。非法ならばなおさら捨てねばならぬ(この法を捨つべし。 況や非法をや)。
そして、次に邪見の生ずる処が、六つあるという話に移る。
六処のこと。
六処は十二因縁の1つで、六境(色・声・香・味・触・法)or六根(眼・耳・鼻・身・意)。
(筏のたとえの前に蛇を捕えることについての話があり、言う相手が釈迦が言っていないことを釈迦の教えだと曲解している比丘なのを合わせて解釈しないといけない。
「お前が言っているのは誤った教えだ→曲解せず正しく理解せよ」の後で、正しい教えの扱い方を教えたものだと私は解釈した。
渡るのに使った筏は渡った後はかついだりするのではなく、捨て置くのが正しい使い方。筏は正しい修行法ではあるが、あくまで渡るための手段。「渡った=悟った」(目的達成)後に「手段=筏」は不要になる。悟った後も筏をかつぐみたいに執着する必要はない(修行中も手段への執着はダメだけど)。
悟ったなら正しい法でも捨てないといけない。非法ならなおさら捨てないといけない、とあるが、
これの「非法」は文脈的にアリタの「欲を行なっても修行の妨げにならない」(禁欲しなくても悟れる)こと。
(正しい)法はアリタの主張の逆のはずなので「悟るための手段として禁欲が必要」。
禁欲が悟りの妨げになるなら捨てよという主旨。禁欲が悟りの妨げになることはないどころか悟りの必須条件なのだが、状況によってはありうるということだろう。
当り前だが、「悟ったら法は守らなくてよい(戒律を破って好き放題してもいい)」という意味ではない。こんなことをアリタの前で言ったらまずいからだ。
一連の話の目的と話す対象を常に意識して解釈しないといけない(筏の箇所の前後も読まないとダメ)。
「欲望のままに行動しても悟れる」という主張に対して「それは誤りだ」と説くのだから、
「絶対的なものなんかない、『私が正しいという考え方はこれ』と自説に固執するな」という解釈は誤り。
筏の喩えは「自転車に乗れるようになったら、もう補助輪は必要ない」(うなじさんの秀逸なたとえ)という話なだけだ。
そもそも悟った後も戒律(当然教え、法に含まれる)は守らないといけない(悟ると、自然に守ってしまうっぽいけど)のだから、
「捨てる」は「もう守らなくてもいい」という意味ではない。それだと相手の「非法でも悟れる」を肯定してしまからだ。
仏教も当たり前だが、「仏法が一番正しい」なのは変えない。一番正しいと確信したからこそ釈迦は教えを説いたのだ。
仏伝の天上天下唯我独尊とはそういう意味だ。
以上は私の解釈であり、仏教学者〔のうち、本当にすごい人〕の意見ではないので注意。
シーア兄貴(イラソのアレ)2020年4月11日~12/31
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-348.html
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
だーかーら、仏道の人間がどーいう解釈するのかを知らない・聞いてないで言い伝えなんてもんは解釈できねーの
阿含教というのは伝承集なのだから、その伝承集の解釈を学んだ人間以外の意見はゴミだっつーの
午後7:11 2020年9月4日
(
荒川和久@「結婚滅亡」著者
@wildriverpeace
釈迦が凄いなあと思うのは、中阿含経にある以下の言葉。
「私の教えは川を渡るための筏のようなものである。向こう岸に渡ったら、筏を捨てていけばよい」
自分の教えなど必要な時に役立てればよいのであって用が済んだら捨てていいということ。
普遍的絶対的なものなんかないと言える、これが仏教の哲学。
「私が正しいという考え方はこれ! 」と自説に固執している人をよく見るが、ああいう人って要するに、
川を渡っても尚、大きな筏を背中に背負ったまま歩き続けるような人ってことなんだよ。
筏が有益なのはあくまで川の上だけなのに。こう聞くと「自分が正しい」に固執する人がいかに愚かしいかわかるね
(
そんな教えだっけ?
この荒川って人は解釈を学んでないでしょう。この人、仏典で直接書いてある箇所読んで、その注釈読んだりまでしてないでしょ。
)
うなじ
@unajiperopero
筏の喩えってそういう意味じゃなくない? 自転車に乗れるようになったら、もう補助輪は必要ないっていう話であって、
自転車に乗る練習をするためには補助輪が絶対必要なのか(あるいは他の手段で練習してもいいのか)っていうのは、また別の話
ていうか、そういう相対主義的なのが好きなら、仏教よりもジャイナ教ですよ 仏典よりも、よほど直接的にそういう話をしてる
(
この人は学んでいるかも。というかかなり突っ込んだ注釈書まで読んでそう。
)”
)
p.57
仏法僧の法というのはダルマのこと。
ダルマは「保持する」を意味する動詞持根「ドゥリ」から作られた名詞で、「保持する力をもつもの」。
世界をかくあらしめている法則・真理・正しい教え(単数形でしかない)や、
この世界を構成する事象(たいがい複数形)など、文脈によっていろいろな意味を持つ。
ダルマは永遠の理法でゴータマ・ブッダ個人を超えたものだという解釈もあるが、
それは後世になってからの解釈で、彼在世のときには、そこまでは考えられていませんでした。
(
ダルマには真実という意味もある)
pp.85-86
初心者には、四念処(しねんじょ)という以下の観法がすすめられる。
「念」(サンスクリット語でsmṛti、パーリ語でsati)というのは、記憶のこと。
つまり、観察の対象を、しっかりと頭に刻みつけることをいう。
最近巷間で「気づき」awarenessという訳が流布しているが、大いなる誤解の種。
ぱっと気づくのではなく、じっくりみっしりと頭に刻みつけるということ。
(
最近はマインドフルネスと呼ばれ、「戒律=倫理・道徳=狂人化を防ぐ防御装置」を抜いている。
これを宗教要素を抜いたと言っている。そうでないと企業や軍隊で使えないからね。
マインドフルネスは新キリスト教系、神智学系のスピリチュアルというバラモン教もどきが仕掛けた、
仏教破壊工作の1つだろう。
念という訳は素晴らしい訳。サティには「記憶=忘れない」という意味があるからだ。
念頭に置く=常に心にかけて常に忘れない。
四念処のパーリ仏典の箇所の翻訳サイトを参考資料で引用しておく。
(こういうこともあるから、気づきではない方のサティ=記憶も重要。書物にしたから覚えなくていいではないぞ)
https://mobile.twitter.com/jiei_yushi/status/1335397796627632129 と続き
”慈永祐士
@jiei_yushi
スリランカでも、タミル侵攻や西欧植民地支配のさいに図書館を焼かれたが、図書館とは知恵の象徴であり、その知恵から焼き払うというのはどうも民族征服などでは定石らしい。「本はまず焼かれるものと思え」というのは、スリランカで学んだことでもある。
午前10:36 ・ 2020年12月6日・Twitter Web App
現代では、積ん読という信仰が流行っているが、これは平和ボケした世の中で蔓延する宗教である。
”
禅はスピリチュアルの中核を否定。
— 子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子) (@kitsuchitsuchi) October 14, 2017
神秘体験は魔境=執着してはならない悪。
スピリチュアルは野狐禅を量産する危険物なので取り扱い注意! https://t.co/C8gC9JIXi8
”フェイド大帝…
ついに恐れていた事が! 前から原始仏教カルトに気をつけろと 言っただろ? 奴ら
仏教を本気で乗っ取るぞ。
(『グーグルのマインドフルネス革命…の画像)
サンガジャパンってのはスマナサーラ の本を出しまくってる出版社な。 元々は純粋な上座仏教の普及組織 だったはずなんだが…… このグーグルの宣伝本は要注意の 箇所が一箇所ある。
「マインドフルネスは宗教要素を 抜いた瞑想メソッドです」 って所な。 知らん人に説明しとくとマインドフルネス ってのは上座仏教のヴィパッサナー瞑想 という瞑想法の事。 釈迦が菩提樹の下で実践してたって 言われてるやつな。
この瞑想法自体は危険でも何でもない。 問題はグーグルが「宗教要素を抜いた」 事にある「宗教要素」というのは要は 「仏教の教義」の事なんだが、簡単に言うと「道徳/倫理」の事で 本来はこれが重要な箇所でどんな 修行も道徳とセットじゃなければ 意味がない
いいか?今から大事な事言うぞ?
仏教の教義を抜いた修行法=ただのバラモン教
グーグルのやり方の汚い所は禅仏教に嵌ってたスティーブジョブズを出汁にしてジョブズ ワナビーのビジネスマンやサラリーマンを取り込もうとしてる所だ。 そもそも仏教の教えを厳密に守ってたら企業活動なんて出来ない。 金に執着してはいけないから。
更に問題なのは、そもそも企業と 関係無いはずの上座仏教普及団体 にすぎなかったサンガジャパンが グーグルを担ぎ上げてる所だ。
(ねこた
”大帝の慧眼に感動したのでRT。神智学というバラモン教が仏教を破壊。”)
実はテーラワーダの瞑想会とかには 良く通ってた経験がある。 グーグルがマインドフルネスとか 持ち上げる前だ。 別にカルトでも何でもなかったし、 お布施とかも自由意志だったから お金を出したくない人は出さなくても 何も言われないし、勧誘も してこない。
パーリ語や倶舎論の勉強会とか もあったので、普通に仏教好きの サークルみたいな感じ。 ただ、気になったのが来てる連中に S学会の脱会組が多かった事だ。
中には本当にS学会に嫌気が刺して 脱会した人もいるのだろうけど、 フェイド大帝は思ったね。 「こりゃ、乗っ取りに来てるな」、と。
まぁ、グーグルがバックに付いてる事から 分かると思うが、イルミちゃんの 戦略の一環だ。 究極的な目的はバラモン教の普及だ。 マヌ法典の歪んだカースト制度を バリバリ盛り込んだやつをな!
ただ、いきなり素のバラモン教を 持ってきたら、マトモな人間は 怪しむだろ? だから同じインド系の仏教から 徐々にインド思想に染めてこようと してるわけだ。
当然バラモン教を否定した仏教思想を 「抜いてる」わけだから、本命の バラモン教を注入するなんてわけない。
聖書にも書いてあるだろ? 「後から来る者が一番多くを得る」って。 キリスト教とイスラーム教の 後にやって来る宗教は何か?って 話だ。
奴らニューエイジ時代にチベット仏教 で一回失敗してるから、次に 持って来るのはまさか上座仏教では? と恐れていたが…… この有り様だ……‼︎
イエス風に言わせて貰えば、 「前もって言っておく。騙されるなよ」
もう二つ重要な事を付け加えておく
一つはグーグルの陰に隠れてよく見えないが、マインドフルネスというのは ハーバードとMITがバックアップしてる
つまり奴らは本気って事だ
笑うなよ?お前ら東大の御用学者ごときにコロ
ッと騙されてたのを 忘れたか?セシウムまみれの安売りされた 福島産の桃を美味しそうに 頬張ってたそこの貴方だ!
東大レベルでこの有り様なのだから 天下のハーバードやMITが本腰 入れたら、お前らはコロッといく。 嘘じゃない。
二つ目は上座仏教の欠陥についてだ。
仏教ってのは出家僧はぶっちゃけ ニートだ。
在家信者が養い続けなければ成り立たない。
仏教では他人から貰った物以外は飲み食いしてはいけないという決まりが あるからだ。
引用ツイート
子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子)
@kitsuchitsuchi
· 2017年10月14日
返信先: @kitsuchitsuchiさん、@nioumasashiさん、他5人
ブッダ「女性と目も合わせないニートになれ!」
『だから仏教は面白い!』
『仏教思想のゼロポイント』
『阿頼耶識の発見』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-154.html
無常・苦・無我は、縁起を三つの仕方で表現しているだけ。
@usagi_mochi22
@SnowLeo2651
つまり、全員が出家したら仏教団体は 自滅する様に構造上出来てる。
(まぁ、これが本来の狙いなのかも しれないが。世は無常ってわけか?)
グーグルにとって全従業員が出家したら 会社が潰れるだろ?w
ところが日本で上座仏教の団体と 言うと複数あるが、出家制度を 導入してるのは一つしかない。 (フェイド大帝が知る限り) 昔の天台宗の歴史とか見れば 分かるが、宗教団体の黎明期と 言うのはまず坊主を増やさない 事にはどうにもならない。
そりゃ布教もそうだが、教えを説明する奴も必要だし、教えを実際に実践してるモデルがいるからだ。在家信者の憧れとなる人物が。そうでなければ信者なんか増えやしない。だが、イルミが必要としてるのは仏教の坊主やバラモンの仙人ではない。最下層で奴隷で搾取の対象のシュードラが奴らは欲しいんだ!
だからマインドフルネスをやってグーグルのマネージャーに私は出家して プロの坊さんになるんで会社辞めますわ〜という事にはならない。そういう風にアレはハナから作られてる。"
@asai_hukai
https://twitter.com/usagi_mochi22/status/918693575335882752
このツイートはありません。
”
サティ (仏教)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%86%E3%82%A3_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
”パーリ語でサティ(巴: sati[1]、梵: smṛti[1]:スムリティ)とは、特定の物事を心に(常に)留めておくことである。日本語では念(ねん)や[1][2]、気づき、英語ではマインドフルネス(mindfulness)[2]などと表現する。漢訳で念。仏教の実践において正念(しょうねん、sammā-sati)とは、八正道(はっしょうどう)の一つとして重視される。正しい念は、三十七道品のなかの四念住(しねんじゅう)などにおける念とあるように、基本概念の一つである。対象に執着あるいは嫌悪などの価値判断を加えることなく、中立的な立場で注意を払うことを意味し、仏教における瞑想の基礎的な技術の一つであり、念を深めると心が固定され、何事にも惑わされない定(じょう)の状態に至るとされる。
《中略》
英語 mindfulness,
awareness,
inspection,
recollection,
retention
《中略》
念は、五根という修行の根本となる5つの能力のひとつであり、心に維持する能力を指す[3]。上座部仏教のテキストでは、念以外は、その力が強すぎても、修行の妨げとなるため、それぞれの力が均衡にはたらくことを瞑想修行を通して目指していく[3]。念はそういった妨げとならないので、強ければ強いほどいい[3]。大乗仏教においても、信仰と智慧、努力と禅定などは対であり、その力の発達には均衡が必要である[4]。
上座部のヴィパッサナー瞑想において、心の状態や、身体の行為など対象を「念じる」という時には、五根という5つの能力をはたらかせているものを指している[3]。
また大乗仏教の禅定の実践においても、禅定の完成のためには、不断の注意深さによって対象に集中する状態を確保することで、ゆえに完全な注意深さである正念(sammāsati)となる[4]。失念とは、この注意深さに欠けた状態であり、正念に対立する[4]。『相応部』(サンユッタ・ニカーヤ)においても、念はあらゆるところで役立つものだと説かれる[4]。
《中略》
あらゆるものへ移っていくという心の散漫な動きを自覚することができるようになる、気づき、心にとどめるという訓練は最も基礎的であり、自分の呼吸を観察するのが一番基礎的で最適だとされる[6]。持続的な訓練によって、より小さな努力で行えるようになり、最終的には自動的に行うことができる[6]。
その特定のことに執着したり、嫌悪の対象として押し戻すように対峙するのではなく、中立的な状態で価値判断を加えることなく、意識を対象物に止めておくことである。また、常に意識を対象物に止めることで、意識の対象物に対する注意が途切れるということや、他の事に気が迷い別のことに意識が向かうこともなく、経つ時間を忘れるということもないとされる。
念が深まると意識が完全に固定され動かなくなる定(じょう、サマーディ)に至り、三昧(さんまい)の境地に入る。この三昧の境地は光悦感が伴い、釈迦は出家後に当時の数々の聖人の元で修行した時には、この念・定・三昧を非常に短期間で習得している。ただし、釈迦はこの光悦感がどれほど高次であろうとも最終的にはその光悦は一時的なものに過ぎないと知ることにより、釈迦これらの聖人達の下から離れて自ら苦行の道に進む。最後にこの苦行にも見切りをつけて菩提樹の下で瞑想するにあたり、まず最高位の三昧の境地に入った後、定の状態からその意識を森羅万象の変化に向けることによって観(かん)を得て、釈迦は悟りに至っている。
止(サマタ)の意識の対象は40程にあたり、息などの生理現象などから、仏・法・僧や戒、神々、また喜捨することを心に浮かべてそれに集中することも念という。例えば、仏を心に想起してこれに集中することは仏随念あるいは念仏(buddhānusmṛti)という。これらの6つの念じる対象を特に六念処と呼ぶ。
チベット仏教では、止を先に実践し最高位の状態へと至ってから、観の修行に入る。観を実践するだけであれば、途中の段階の止の能力にて実践することができる。
対して、近年で特に欧米で広く広まったヴィパッサナー(観)では、この念の対象を40程のサマタの伝統的な対象物でなく、最初から物事の変化に向けるため、念を深めて定に至っても三昧の境地に入ることはできない。また、念の対象を常に変化する現象に向けるため、変化に連続的に「気づく」という意味となるが、サマタの場合は対象物が固定されているので「気に留める」あるいは「意識を固定する」という意味で「念ずる」が適切な訳となる。念の途中で「気づく」たびに三昧から抜けてしまうという意味では念の訳として「気づく」は適さない。ヴィパッサナーではサティとは、「今の瞬間に生じる、あらゆる事柄に注意を向けて、中立的によく観察し、今・ここに気づいている」ことであるとされる。この様な観行にいたる境地と止行により至る境地の違いが現れる。
《中略》
英語のマインドフルネス (Mindfullness) は、1900年にイギリスのリース・デービッスがパーリ語のサティを英訳してから使われるようになった[7]。仏教徒も英語ではマインドフルネスという言葉を使う[4]。
生き方としてのマインドフルネスには2500年の伝統があるが、このマインドフルネスを欧米では近年に入り健康管理に応用している[8]。西洋の心理学におけるマインドフルネスは、仏教におけるものを反映しているが、相違も見られる[9]。西洋の心理学では身体や心理的側面を研究するために、西洋の世俗的な文脈で解釈しているが、仏教では苦しみの性質とそこからの精神的な自由を目的とした実践である[10]。
1979年にはジョン・カバット・ジンが、疼痛患者の治療にマンドフルネスの実践を統合しマインドフルネスストレス低減法 (MBSR) と呼ばれることになる[8]。カバット・ジンは、1970年代初頭にはマサチューセッツ工科大学(MIT)にて分子生物学の博士号を取得し、禅の師による瞑想についての講義に参加しその日に瞑想をはじめた[11]。カバット・ジンが2012年に日本に訪れた際、基本理念は道元禅師の曹洞宗だと述べている[12]。
MBSRは、カバット・ジンの下で学んだウィリアムズとシーガル、ティーズデールによってマインドフルネス認知療法 (MBCT) へと発展し、うつ病の治療のために応用され、他の健康の問題に対しても迅速に広まっていった[8]。以上2つの療法はマインドフルネスの訓練に基づいたものであり、マインドフルネスの訓練を組み込んだものには弁証法的行動療法がある[7]。 ”
英語版ウィキのDeepL訳を示す。英文は後述。
”サティ(Pali: सति;[1] Sanskrit: स्मृति smṛti)とは、マインドフルネスまたはアウェアネスのことで、仏教の修行に不可欠な精神的または心理的な能力(インドリヤ)である。悟りの七つの要素」の第一の要素である。"正しい心」(パーリ語:sammā-sati、サンスクリット語:samyak-smṛti)は、八正道の第7要素です。
《中略
英語で「マインドフルネス」と訳される仏教用語は、パーリ語の「sati」とサンスクリット語の「smṛti」に由来する。ロバート・シャーフによれば、これらの言葉の意味については様々な議論がなされている[2]。 Smṛtiはもともと、ヴェーダの伝統的な聖典の記憶のように、「記憶する」「思い出す」「心に留める」という意味である。また、サティという言葉には、聖典の教えを「思い出す」という意味もあります。サティ」とは、『サティパ・ティクサーナ・スッタ』の中で、現実を認識し続けることを意味しています。 シャーフは『ミリンダパンハ』を参照し、サティの発生は、四つの心構え、五つの能力、五つの力、七つの覚醒因子、八正道、洞察力の達成などの健全なダルマを思い起こさせると説明しています[3]。
サティとは、物事を物事との関係において認識し、それらの相対的な価値を認識することであると理解すべきである。これをsatipațhānasに適用すると、おそらくこれは、ヨガの実践者に、自分が経験するいかなる感情も、熟練しているかいないか、欠点があるかないか、相対的に劣っているか洗練されているか、暗いか純粋であるかなど、さまざまな感情の全体または世界と関連して存在していることを「思い出す」ようにさせるものであるということになる。
シャーフはさらに、これは現代の一般的なサティの解釈である「むき出しの注意」とはほとんど関係がないとし、「それはとりわけ、現象が生じたときにその道徳的価値を適切に識別することを必要とするからである」と述べている[4]。 ヴェッターによれば、ディヤーナはマインドフルネスの維持を助ける仏陀の本来の核心的な修行であったのかもしれない[5]。
www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。”
Sati (Buddhism)
https://en.wikipedia.org/wiki/Sati_(Buddhism)
”Sati (from Pali: सति;[1] Sanskrit: स्मृति smṛti) is mindfulness or awareness, a spiritual or psychological faculty (indriya) that forms an essential part of Buddhist practice. It is the first factor of the Seven Factors of Enlightenment. "Correct" or "right" mindfulness (Pali: sammā-sati, Sanskrit samyak-smṛti) is the seventh element of the Noble Eightfold Path.
《中略》
The Buddhist term translated into English as "mindfulness" originates in the Pali term sati and in its Sanskrit counterpart smṛti. According to Robert Sharf, the meaning of these terms has been the topic of extensive debate and discussion.[2] Smṛti originally meant "to remember", "to recollect", "to bear in mind", as in the Vedic tradition of remembering sacred texts. The term sati also means "to remember" the teachings of scriptures. In the Satipațțhāna-sutta the term sati means to maintain awareness of reality, where sense-perceptions are understood to be illusions and thus the true nature of phenomena can be seen.[2] Sharf refers to the Milindapanha, which explained that the arising of sati calls to mind the wholesome dhammas such as the four establishments of mindfulness, the five faculties, the five powers, the seven awakening-factors, the Noble Eightfold Path, and the attainment of insight.[3] According to Rupert Gethin,
[sati] should be understood as what allows awareness of the full range and extent of dhammas; sati is an awareness of things in relation to things, and hence an awareness of their relative value. Applied to the satipațțhānas, presumably what this means is that sati is what causes the practitioner of yoga to "remember" that any feeling he may experience exists in relation to a whole variety or world of feelings that may be skillful or unskillful, with faults or faultless, relatively inferior or refined, dark or pure."[4][note 1]
Sharf further notes that this has little to do with "bare attention", the popular contemporary interpretation of sati, "since it entails, among other things, the proper discrimination of the moral valence of phenomena as they arise".[4] According to Vetter, dhyana may have been the original core practice of the Buddha, which aided the maintenance of mindfulness.[5]
”
)
一、身念処
いわゆる不浄観。自他の身体について、それが不浄であると見ることによって、
身体への執著(しゅうじゃく)を断じようというわけだ。
生身の身体についていえば、汚いものがいっぱいつまっていて、いつも鼻汁や大小便を垂れ流していることを、
徹底的に観察する。死体についていえば、それが腐乱していくさまを九段階に分けて徹底的に観察する(九相観)。
死体捨て場にいって坐れば、本物の死体を観察できる。それを図絵にしたものが、
わが国でもかつて多数作成された「九相図」です。
(
トイレでやったら効果が高まりそうだな。
現代日本で死体を見るのは難しい。しかも腐乱しても放っておいてよい死体ならなおさら
)
二、受念処
感受作用は苦だと見ること。感受作用から、外界とのかかわりが生じ、ここから、
好悪、愛憎といった執著が生じ、迷いが生じ、苦が生じる。
だから感受作用の主役である感官を制御しなければ、という認識を強める。
三、心念処
心は常住不変ではないから、心を頼りとすることが苦のもとになるとしっかり頭に刻みつけること。
あてにならないものをあてにしてはならない。
四、法念処
すべての事象は無常だということを、しっかり頭に刻みつけること。
要するに、四念処は、身体を中心に、苦観、無常観、非我観を行うこと。
ところで、右に紹介したのは、みな、思考のかぎりをつくすという意味での瞑想。
最初期の仏教の瞑想は、そうしたものだった。
なにしろ、瞑想は、智慧を得るためのものだとはっきり規定されていたからだ。
(
ヴィパッサナー≒観法ばかりだな。止(サマタ)の瞑想も並行してやっていたのでは?
観(ヴィパッサナー)も止(サマタ)も必要でしょ。
)
大乗仏教の章
p.116から
大乗仏教のあの強烈な救済主義
ヒンドゥー教の影響
ヒンドゥー教というのは、バラモンたちが、みずからの古来のヴェーダの宗教に、先住民族の宗教を集合させてできあがった民衆宗教で、紀元前三世紀以降、大きな盛り上がりを見せ、やがて、インドの代表的宗教へと展開していく。
バラモンたちは、仏教やジャイナ教といった、非バラモン主義的で、典型的な都市型宗教の隆盛に危機感をいだき、
それまで野蛮人あつかいしていた先住民族をみずからの社会に取りこむことで、勢力挽回をはかり、そうした新しい宗教をつくった。習合には、シヴァを最高神として、先住農耕民族の地母神をその妻として位置付けるというやりかたと、
ヴィシュヌの化身として位置付けるというやりかたとの、大きく二つに分かれる。
(
最高神が男の場合、支配対象の地母神と結婚させる。
支配対象の英雄や神々は自分らの最高神の化身ということにする。
日本の大乗仏教が本地垂迹説で「神々の正体は仏」として神道(ヤソが混ざる前)より完全に優位に立った。
マニ教は表面的な用語は支配対象(乗っ取り対象)のを使い、骨格をマニ教グノーシスに改造する。
だからマニ教は徹底的に叩かれた
)
ヒンドゥー教の初期には、ヴィシュヌ崇拝が優勢だった。ヴィシュヌはこの世が不義と虚偽におおわれ、民衆が苦しんでいるとき、そのときに応じた化身となってこの世に現われ、正義と真実を回復し、民衆を救済する神として、絶大な人気を得た。
p.119から
ブッダの教えの口伝を担う出家たちが厳しい戒律の下で集団生活をしながら必死にけっしてまちがうことの許されない暗記に励まなければならないのにたいして、書伝(文伝(もんでん))で済む大乗仏教の徒たちは、集団生活をしなければならない必要がまったくありませんでした。ですから、インドの地にあって「大乗教団」がなかったというのは、しごく当たり前のことなのです。
大乗経典の写本に異読・異本が目立つのはまさにこのためなのです。
大乗教団が成立したのはチベットにおいて。七世紀前半にはじめてチベットを統一したソンツェンガンポ王は、新しい国の建国理念を大乗仏教に求め、そこで大乗仏教教団を初めて設立させた、というしだいです。
口伝と書伝(文伝)とがいかに異なったものであるか、これをしっかり認識しておきませんと、とんだ迷路にはまることになりますので、ご注意を。
p.122から
大乗仏教で人気ナンバー・ワンのスーパースターはといえば、これはもう観音菩薩にとどめをさします。
観音菩薩の起源は謎。
しかし、観音菩薩が、ヒンドゥー教の最高神ヴィシュヌをモデルにした、大乗仏教最古の神話的菩薩であることは、
状況証拠からしてほぼ明らかではないかと思われます。
まず、観音菩薩は、民衆を救済するために、変化身(さまざまな階層、職業の男女)をもってこの世に現れるとされる。
『法華経』のなかの「普門品」(ふもんぼん)には、三十三の変化身をとるとされている。
(バラモン・ヒンドゥーもゾロアスターも33が大好き。仏教も採用。もろにヒンドゥーからの影響だな)
さまざまな変化身をもって現れるというのは、化身として現れるということであり、これこそは、ヴィシュヌの最大の特性。
また、千手観音は、正式には千手千眼観音という。千の手を持ち、その手のひらのひとつずつにひとつの眼がついていて、
苦しんでいる人をひとりも見逃さずに救済するというわけです。ところが、この「千手千眼」というのは、もともとはヴィシュヌの異名。ビシュヌは本来は太陽神であり、千の光線(カラ)を放つ存在とされる。この「カラ」は「手」という意味もあり、
そこで、ヴィシュヌは、千の手で民衆をあますことなく救済すると考えられたのです。
(
千手観音 | 仏像ワールド
https://www.butuzou-world.com/dictionary/bosatsu/senjyukannon/
”別名 千手千眼観自在菩薩(せんじゅせんげんかんじざいぼさつ)とも言い、生きとし生けるものすべてを漏らさず救う、大いなる慈悲を表現する菩薩です。千の手と手のひらの千の眼によって悩み苦しむ衆生を見つけては手を差し伸べる広大無限な功徳と慈悲から「大悲観音」、または観音の王を意味する「蓮華王」とも称されます。阿修羅や金剛力士などが属する二十八部衆を配下とします。”
)
p.143
ヴェーダの宗教(バラモン教)への回帰現象
中期大乗経典では、違うことのない真実のことばには驚異的な大願実現力があるとするインドで長い伝統をもつヴェーダの宗教の唯名論の影響がますます顕著になる。
まず、如来蔵(タターガタ・ガルバ)というものがすべての衆生に宿っているから、すべての衆生はやがて目覚めた人ブッダにかならずなれるのだと説かれるようになる。
さて、漢訳では「蔵」とされる「ガルバ」だが、これは「胎児」を意味する。
古いヴェーダ聖典の世界創造神話でもっとも有力だったものによると、生類の主プラジャーパティ(ブラフマン)は、みずからが生み出した卵の中に入り込む。これを「黄金の胎児」(ヒラニヤ・ガルバ)というが、一定の期間を経てから、この黄金の胎児が卵の殻を破って世界の森羅万象を創造するとされる。これは、以前には「自己循環型世界創造神話」といったふうに、いかめしいことばで説明されてきましたが、わたくしが思うに、これは昆虫の変態という現象に触発された発想です。
(
創造神=死は最有力ではないのね。この神話がグノーシス主義の「創造神は悪」に影響しているだろうけど、
ヒンドゥー教では「そういうのもあるが主流ではない」レベルなのだろう。
ヨガや本能に逆らう禁欲をやる理由の一つは、少なくとも最初は、死(創造神とされることあり)と戦うためだろうね。
修行体系を見ると、「創造神=死」は強い影響を与えているように思える。
「創造神=死」は、最古あるいは最初期のブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッドにある創造神話だから影響力はあるでしょ。
後には主流な神話に選ばれなかったのは、「創造神が悪=死」なら崇める価値ないじゃんと思われたのと、
ブラフマー(創造神)やシヴァやヴィシュヌの方が「死」より上位だし、こちらを崇めようとなったからだろう。
オルフェウス教(菜食主義などの禁欲で原罪を克服し輪廻から解脱)
— 子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子) (@kitsuchitsuchi) November 8, 2018
と
グノーシス
(創造神は悪←ウパニシャッドの創造神は死=悪
神との合一←梵我一如
本体あり輪廻)
の元ネタも
プラトン(西洋哲学の根本)の輪廻思想もバラモン教。
『メノン』 ”魂は不死であり、すでに何度も生まれてきており…”
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/964408140698591233 と続き
”子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子)
@kitsuchitsuchi
返信先:
@kitsuchitsuchi
さん、
@kikuchi_8
さん、他5人
いうことですか?
大帝 2015年8月5日
まず仏教にはカルマと輪廻の概念はあります。当時のインドでは一般的な世界観だったんですね。ただ、悟ってブッダになると 輪廻の輪から離れられる様に なります。(つまり輪廻の影響を受けなくなる。
輪廻とは何ぞや?ですが、 ウパニシャッドを読んでると初期は
午後4:56 · 2018年2月16日
物質のリサイクルというか、循環を表してたみたいです。例えば海の水が蒸発して、雲になって、雨が降って、川を流れてまた海に戻るみたいな。 動物で言えば、牛が草を食べて、牛が死んで、土に還って また草が生えるみたいな。
で、この「霊魂」というのも 人間の肉体の中と、外(ブラフマン)をグルグル
行ったり来たりする物と考えられていました。
ですから、当初は人間が死ぬと 霊魂が抜け出て、天に昇って また別の人間に戻るサイクルという捉え方をインド人は していた様でした。
ところが、天に戻る過程で道に迷ってしまう霊魂が登場する様になります。で、行き先を 間違えて人間以外の動物や草花に
入ってしまう霊魂も出てくる。そこで、バラモン僧が登場するんですね。オレが道を間違えない有難いお経を唱えてやるから、金を出せ、と。この単純なバラモン僧の金儲け詐欺に、後代になって尾ひれの屁理屈が付くようになります。奴らの理屈だと、霊魂は本来「清浄」なんですね。で、肉体は「穢れている
」。
何に穢されているかというとカルマ(行為)に穢されてるという事になります。カルマの事を仏教では「業」と言いますが、元のサンスクリット語だと、正確には人間の 行う「行為」の事を指します。
「行為」と言うのは、普段は余り意識しないで行うものなんですね。
例えばお腹が空いた時にチョコを
食べる。特に深く考えないでそこにチョコがあれば食べてしまうのではないでしょうか? ところがインド人は変態なので こう考えるんですね。
「チョコを食べる事は正義か?」
「オレは本当にチョコが食べたかったのだろうか?」
「本当は食べたくないけど、 無理矢理食べさせられてるんじゃないか?」
誰が食べさせているかと言うと 「食欲」という煩悩が 「私」にチョコを「食べさせた」のです。
つまり、人間は基本的に 人生で一度も「自由」に 決断した事がない、もしくは 非常に稀だとインド人は考えました。
つまり人生の99%は「自分」 以外の「何か」に操られている とインド人は考えたのです。
この「何か」が輪廻なのです。
で、この輪廻は単純に言ってしまえば「創造神」が「創造した物=即ち肉体」の事です。
逆に「霊魂=自分」はブラフマン由来なので、創造神とは無縁の物と考えられていました。そこでヨガの修行で、本能を、つまり肉体を「自由にコントロール」出来るようになろう!と考えた
事が、体を不自然な方向に曲げるあの体操みたいな物が出来たのです。
だからバラモン教では「自然=悪」なのです。自然は創造神が創ったからです。 故に「自然」の神はバラモン教では「アスラ」と呼ばれたわけです。逆に「アスラ=自然」をやっつけるのが「デーヴァ」。ゾロアスター教では逆転しますね?
バラモン教では「自然に逆らえば」、逆らう程「自由」になれると考えたのです。 だからまず「肉体」から自由になろう、でヨガなわけです。
ブッダも「輪廻」によって人間が「不自由」であるという点に関しては、バラモン教と 同じ世界観を共有してます。ただ、ブッダは最初から 「霊魂は存在しない」
と確信しているので、 「輪廻」があろうと、無かろうと、どうだっていいわけです。 肉体すら実存しないのだから、
「輪廻」の影響なぞ始めから 受けないと考えました。 お分かり頂けたでしょうか? 説明が複雑でスミマセン。”
@kaorinosuke
さんへ。なぜヨガをするかを意識すると効果が高まりますよ!
”
)
pp.148-151の竜樹への強烈な批判。文庫版にマジで以下のように書いてある。
https://twitter.com/Historian_nomad/status/1373514836189929477 と続き
"遊牧民@積読の長城を超えて
@Historian_nomad
宮本啓一『わかる仏教史』、本当によくわかるんですが、宮本先生は龍樹に対してめちゃくちゃ辛くないですか?
午後3:00 ・ 2021年3月21日
DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
3月21日
返信先:
@Historian_nomad
龍樹を批判するような記述ありましたっけ? 自分の手元には単行本のやつしかないんですけど、文庫版では違うんですかね?
遊牧民@積読の長城を超えて
@Historian_nomad
3月21日
「ありとあらゆる詭弁・虚偽論、つまりはインチキ論法をあっけにとられるほどあからさまになりふり構わず用い」「唯名論にちゃっかり優位を与えようと小細工を施したものに過ぎない」とかあって「お、おう……?」みたいな印象を受けてしまいまして……
DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
3月21日
マジですか。単行本の方は「わりと穏当な」記述なので全然違いますね。うろ覚えだけど、確か宮元先生は「洋の東西を問わず唯名論は実在論を倒す迫力はない」的なことを言ってますね。ご自分の立場を出し過ぎでは感が。文庫版も多少加筆修正してるぐらいでほぼ同じだろうと思ってた自分も迂闊でした。
遊牧民@積読の長城を超えて
@Historian_nomad
3月21日
あと「ですから、実在論者が一切空を論証するなど、ありえないのです。龍樹をはじめとして、実在論の言い分に立った上で一切空は論証されると説く人びとは、とんでもないペテン師だとしかいいようがありません」というのもありましたね…
遊牧民@積読の長城を超えて
@Historian_nomad
3月21日
返信先:
@prapanca_snares
あっらーそうなんですか。たぶんこのへん開いて避けたところがあった気がするんですけど、でもそれはそれとして大変わかりやすいんですよね…
DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
3月21日
そうなんです、リーダビリティは群を抜いてるんです。「釈迦が説いたのは無我じゃなくて非我だ」問題とか、細部を言うと「これはどうなんだ」「これを断言しちゃっていいんだろうか」という箇所もいろいろあるけど、仏教知識がほぼない人も読み通せそうな仏教通史の本が他にどうも見当たらないので…
遊牧民@積読の長城を超えて
@Historian_nomad
3月21日
まあそれいいますと他の仏教概説本でそういうのがないのかというとになりますから…
気になるなら三枝先生はじめ仏教学の先生の本も読めばよさそうですし
DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
3月21日
それは同感です。その辺は読者諸氏にこれ一冊で満足することなくいろいろ読んでもらって、入門書でよくみかける記述も厳密に言えば微妙な問題があることや、容易には断言できないことがいろいろあることを知ってもらうしかないんでしょうね。
遊牧民@積読の長城を超えて
@Historian_nomad
3月21日
ですねえ。まあ歴史学の本でもそうなので当たり前といえば当たり前ではあるんですよね…
"
p.178から
十四世紀には、ツォンカパという大学匠が現れ、中観派の哲学をもって顕教(けんぎょう)を代表させ、
また、その立場からの密教の改革を行いました。
かれは、衆生済度のためには殺人をも肯定する密教専修を危険視し、顕教をマスターすることを密教修行の前提とした。
かれのこの改革は、今日にいたるチベット仏教の基本的なありかたを決定づけるほど大きな影響力を発揮した。
かれが開いた宗派をゲールク派という。以来、ニンマ派が旧教、ゲールク派が新教といわれる。
また、かぶる帽子の色のちがいで、旧教は紅帽派、新教は黄帽派と称せられる。
その後のチベット仏教では、黄帽派が圧倒的な力をもった。
かれの弟子ゲドンドブは、初代のダライラマ(直訳で「海の上人」)となった。
チベットでは、観音信仰がとりわけ熱心に行われ、チベットの国土そのものが観音菩薩の浄土、ダライラマは観音菩薩の化身だとされる。
十七世紀半ばに、ラサにポタラ(観音菩薩の浄土ポータラカのチベット訛り)宮が建造され、第五代ダライラマは、そこに居住して、政教一致の政治を行なう権力者として位置づけられた。以来、ダライラマは、国王であると同時に法王でもあるというようになった。そのころ、パンチェンラマという称号を与えられ、阿弥陀仏の化身とされる人物が登場した。
「パンチェン」というのは、インドのサンスクリット語「パンディタ」(学者)が訛ったもの。ダライラマが世俗政治と宗教の両方の権威であるのにたいし、
パンチェンラマは宗教上だけの権威とされる。
ダライラマとパンチェンラマとは、近代になって政治的に立場を著しく異にするようになります。
外国勢力はこの対立を利用し、ダライラマがイギリスと手を結ぶのにたいして、
パンチェンラマは中国に亡命したりするということが起こったりした。
1959年、中国共産党の人民解放軍(国の軍隊ではないと強弁されているが)のチベット制圧のさい、第十四代ダライラマはインドに亡命したが、パンチェンラマは中国側についた。
(
ダライラマとCIAが結びついているという情報があるのはそのせいなのね。
青い左目がダライラマで、
赤い右目がパンチェンラマ。思想までは耶蘇にも新耶蘇にも染まっていないと思いたいなあ
)
p203
皇帝世祖(せそ)(フビライ・ハン)は、チベット仏教サキャ派のパクパ(発思巴)(ぱすぱ)を帝師として迎え、
かくしてチベット仏教は元朝の国教となった。
モンゴル族は自前の文字をもっていなかったが、パクパはモンゴル文字(パクパ文字)を考案。
やがて、モンゴル文字による大蔵経も出版されるようになった。
元朝は、チベット仏教にあまりにも熱心に帰依してばく大な国庫支出をしたため、国運が傾いていった。
また、チベット仏教一辺倒の国家にたいして、
浄土教系の白蓮教団が強く反発し、ついに全国的な武装蜂起へと連なっていった。
元朝を倒したのは、実質的この白蓮教の一揆だった。
(
浄土教系も混じっている、明教=マニ教もどきの白蓮教。で、誕生したのが明って国。
白蓮教(ミロク系マニ〔明〕教)の一派が中国の天理教(日本の天理教の元ネタ)。
如来、黒住、天理、金光教は全て骨格がキリスト教異端
=元祖和風キリスト教。
)
明代になりましても、仏教の大衆化は進みました。
禅宗がさかんだったが、禅浄双修(ぜん じょう そう しゅ)(禅と浄土教を並列的に修する)の流れはますます深まった。
一方、より大衆的には浄土教が盛んで、秘密結社というかたちをとった浄行社(じょうぎょうしゃ)とか白蓮社などが繁栄した。
こうした仏教系の秘密結社は、しばしば反権力の一揆を起こした。
p.214から
東大寺には、巨大な金銅の毘盧遮那仏(ヴァイローチャナ、密教では毘盧遮那仏、大日如来)を建立することになった。この大仏は『梵網経』の所説にもとづくもので、無数の釈迦仏を糾合するものとされている(大仏の台座の蓮弁には、たくさんの釈迦仏が線刻されている)。これによって、朝廷は、精神世界においても中央集権体制を作り上げようとした。
大仏建立は前後にその規模を見ない壮大なものだったので、朝廷は、それまで弾圧していた行基を大僧正にすえて全国規模の大々的な勧進を行なわせた。折りしも東北で金が大量に採取できることが分かり、大仏建立の気運はいやが上にも盛り上がった。大仏が完成したのは、行基も聖武天皇も没したあとだった。
大仏開眼(かいげん)の大法会の導師役を務めたのは、インド出身の菩提遷那(ボーディセーナ)でした。かれはバラモン階級の出自であったため、一般には婆羅門僧正と呼ばれ親しまれた。奈良時代が国際色豊かであったことの象徴。
(
毘盧遮那仏は『華厳経』に登場する盧舎那仏なので、
菩提遷那が来る前から日本には『華厳経』は伝わっていたのでは?
菩提僊那と一緒に来日したのが、道璿(どうせん)で、道璿(どうせん)が『華厳経》』章疏(教論と注釈)をもたらしたので、日本における華厳経の初伝は道璿(どうせん)による。なお、経典と解釈が伝わるより前に華厳経の教えの一部が伝わっているのは別におかしくない。多少は知っていて、もっと知りたいからこそ道璿(どうせん)の来日を願ったのでは?
なので菩提僊那が『華厳経』を「齎した」は誤り↓インド呪術は「齎した」であってそう。
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/843824702812389381 と続き
”子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子)
@kitsuchitsuchi
フェイド大帝の傑作ツイートを復元 7月29日
”奈良の大仏時代の菩提僊那という
バラモン僧が重要そう。
コイツが華厳経とインド呪術を
日本に齎したらしい。
聖武の娘の孝謙天皇という 女の天皇がかなり怪しい。
こいつは重祚して称徳天皇、所謂 道鏡事件の時の天皇。
午後11:01 · 2017年3月20日
万塔陀羅尼みたいな密教系の呪術が大好きな所。
陀羅尼ってのはいわゆる「真言」って やつなんだ。
マントラってやつね。
だけど密教系は空海の遣唐使帰還後に入ってくるはずなんだ。
孝謙の寵愛してた道鏡は法相宗。
西遊記の三蔵法師の玄奘が興したやつで、これはガチ哲学系なんだ。
呪術とかやらない。
となると孝謙がどこでタントラ仏教呪術を学んだかが肝になって来るんだが、そこで怪しいのが菩提僊那という事になってくる。
菩提僊那の持って来た華厳経ってのは一番カバラ思想に近くて、ネオプラトニズムに近い教義なんだ。成立時期もカバラと重なる。
しかも孝謙は法華寺という寺と関係あるし、母親は藤原家の光明子。
名前もイルミちっくだろう?w
法華経の天台宗と華厳経の華厳宗ってのはセットの仏教だから(本場の中国でって意味だぞ?)、最澄の遣唐使からってのはまた怪しい話になる。
呪術家の卑弥呼に、呪術好きの聖徳太子。称徳天皇(孝謙ね)は読み方も一緒だwこの天皇娘にはもっと秘密がありそうだw”
即身成仏の密教はマニ教を否定
https://kotobank.jp/word/%E8%8F%A9%E6%8F%90%E5%83%8A%E9%82%A3-133317
” ?―760菩提僊那 ぼだい-せんな
デジタル大辞泉の解説
《〈梵〉Bodhisenaの音写》[704~760]奈良時代のインド僧。文殊菩薩を慕って中国に渡り、天平8年(736)遣唐使の要請で来日。東大寺大仏開眼供養の導師を務めた。婆羅門(バラモン)僧正。
〔中略〕
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
704-760 インドの僧。
唐(とう)(中国)にいたとき,遣唐使の多治比広成(たじひの-ひろなり)らの要請をうけ天平(てんぴょう)8年(736)来日。奈良の大安寺にはいり,のち僧正となり,東大寺大仏開眼供養の導師をつとめた。つねに華厳経をよみ,呪術(じゅじゅつ)にもすぐれていたという。婆羅門(ばらもん)僧正とよばれた。天平宝字4年2月25日死去。57歳。
〔中略〕
世界大百科事典 第2版の解説
704‐760
奈良時代に渡来したインド僧。Budhisenaの音訳。世に婆羅門僧正,菩提僧正という。