大勇者の教えである『ジャイナ教聖典選』
Posted on 2023.06.03 Sat 19:03:20 edit
『ジャイナ教聖典選』備忘録(メモ)
参考資料
『ジャイナ教聖典選』備忘録(メモ)
https://twitter.com/KokushoKankokai/status/1570600262082895872
“国書刊行会
@KokushoKankokai
【新刊】『ジャイナ教聖典選』http://ow.ly/oovz50KL6Tq 超難解言語アルダマーガディー語原典から直接訳出された本書により、祖師マハーヴィーラ在世時の姿がここに蘇る。同一詩句が仏典中にも多く見られ、仏教の教えとして伝わっていることがまざまざとわかります。翻訳という作業の尊さを知る1冊。
画像
午前11:27 · 2022年9月16日
·Hootsuite Inc.”
(画像は本書と帯。帯より
「付着した業を振り払い、
霊魂を解き放つため、苦行せよ!
[業は付着するというのが面白い。仏典では聞かない表現だ])
https://twitter.com/suhamma/status/1563321681036582912
”ಯುತಕಕವಸಕಿ
@suhamma
とそのようなわけで国書刊行会さんから9月に『ジャイナ教聖典選』が出版予定です。編・訳(『アーヤーランガ』第1篇と『ウヴァーサガダサーオー』第1章)・解説を担当しております。皆様よしなに・・・
kokusho.co.jp
ジャイナ教聖典選|国書刊行会
ジャイナ教聖典選 古代インドで仏教と同時期に同地域で誕生し、いまなおインドで続くジャイナ教。初期仏典にも多くの記録が残り、祖師マハーヴィーラは六師外道のひとりニガンタ・ナータプッタとされ、主な教義と死亡記事も伝わる。
午前9:25 · 2022年8月27日
·Twitter Web App”
(この人は私がたまに見るアカウントであり、ジャイナ教研究者。この人の名前はわからないが、本書を読んだら担当箇所と担当者の名前が載っているはずなので名前がわかるはず)
(やっとこの人の名前がわかった。
『アーヤーランガ』第1篇は第1章、
『ウヴァーサガダサーオー』第1章は第5章、
解説。
本書の最後の訳者紹介で上記の担当は、
河﨑 豊[かわさき ゆたか])
メモ開始。
解説
河﨑豊 (カワサキユタカ)
p.4から
ジャイナ教の発生基盤
紀元前1500年頃から、アーリヤを自称する諸部族が、カイバル峠を越えインド亜大陸の北西部に漸次移入してきた。定期的な定住による農耕と放牧による移動生活を繰り返して東漸し、前1000年までにその一部はガンジス河中流域まで進出する。彼らが伝えた宗教文献群が、『リグヴェーダ』を筆頭とするヴェーダ文献であり、いわゆるバラモン教と呼ばれる宗教を基礎づける。それは祭火を用いた祭式の執行を基本とし、それにより世界の維持から個人の死後のあり方まで、様々な願望を達成する。
ジャイナ教の発生と特に関わる点は、個人の死後をめぐる思弁の発展である。祭式の挙行依頼者(祭主)が挙行した祭式と支払った報酬に基づく功徳は、祭火を通じて天界へ行き、そこで貯蓄される。祭主が死ぬと遺体は祭火で火葬され、煙となって天界に達する。祭主はそこで、生前の祭式による功徳という貯金で暮らす。ところで貯金は使えばいつかはなくなるものである。この文脈でいえば、功徳の貯金が尽きれば天界で再び死ぬことを意味し、死後も繰り返し死ぬことへの恐れが表明されはじめる。このような死への反復への恐怖が、輪廻(skt. サンサーラ)とそこからの解放——二度と死を経験しないという意味での不死の希求へつながる。バラモン教は、祭式による貯金が不滅であり、天界で不死を得るという理論を打ち立てることになる。
(メモ者注:アルファベット表記を勝手にカタカナに直した箇所あり)
人の死後は、個人の業(skt. karman)つまり行為に左右されると考えられるようになる。善業は良い結果を、悪業は悪い結果をもたらす。しかもその結果は現世のみならず来世以降にも影響し、必ず自らがその結果を負う。
輪廻を克服するにはどうすればいいのか。村落で祭式執行を中心とした社会生活を行なうことで天界再生を目指すあり方を否定し、荒野で苦行的な修行生活をすることで輪廻から脱しうると考える者たちが登場する。仏典やジャイナ教文献がサマナ(サマナ。skt. シュラマナ)つまり沙門と呼ぶ存在は、社会生活への参与を拒否し、旧来の教えにとらわれない思想と実践とを説いた出家主義者たちであり、釈尊もマハーヴィーラもサマナであった。またこのような出家主義は、世俗活動に関与しない者を維持できる社会の経済的余力と、新たな思想を許容する社会の多様性を前提とすることにも注意したい。
「輪廻」「業」「出家主義」は、ジャイナ教が発生するまでにバラモン教内部でなされた思想展開の所産と考えるのが主流である。一方、輪廻や業という観念は、もともとガンジス河中流域一帯に土着の考えで、バラモン教もジャイナ教もそれを摂取したという、ヨハネス・ブロンクホーストの説がある。パーサがマハーヴィーラよりも三世紀ほど前に実在し(後述)、バラモン教で輪廻と業の思弁が十分に発達するよりも前か同時期に、輪廻と業を前提に教団を率いていたことを承認するなら、この説は魅力的である。アーリヤ人は東漸の過程で土着の文化、思想と接触したはずである。そこで土着思想の影響を何ら被らなかったという前提には無理がある。しかし、その影響関係を証明することも容易ではない。
以上、「輪廻」「業」「出家主義」の三つ組を前提としてジャイナ教は発生した。その故地は仏教と同じくガンジス河中流域、今のビハール、ジャールカンド、そしてウッタルプラデーシュ東部にわたる地帯であった。
p.6から
ジャイナ教の開祖
ジャイナ教では、世界は実体としては恒常的で生滅と無縁である。世界を支配する唯一の普遍原理や創造・破壊を司る神の存在を承認しない。ただし状態という点でみると、世界は周期的に繫栄の期間と衰退の期間とを無限に繰り返す。衰退の期間に繰り返し救済者(ティッタガラ titthagara. skt. ティールタンカラ「渡し場を作る者」)が現れてはジャイナ教を宣説する。この観念からすれば、ジャイナの教えは永遠の存在である。正教が滅している時期ならば、救済者はそれを回復させる存在として機能する。つまり、まったく新規に無からジャイナ教を興す意味での開祖ではない。
史実の点でマハーヴィーラが開祖かどうかについては、難しい問題が横たわる。ジャイナ教は今を衰退の期間の最中とし、この期間にマハーヴィーラを含め24名の救済者が現れたとする。初代から22代までは想像の産物と思しいが、23代のパーサは多くの研究者が原ジャイナ教の創始者として実在視し、24代のマハーヴィーラを原ジャイナ教の教義の若干を改革し現ジャイナ教の基礎をつくった事実上の開祖とみてきた。
(ジャイナ教でも23は重要なのか? いやそれならマハーヴィーラを23代目にする気がする)
パーサを実在視する根拠のひとつは、パーサの寿命が100歳で、マハーヴィーラの250年前に出現したという、『ジナチャリヤ』が記す数字が比較的現実的だという消極的なものである。
マハーヴィーラ(「大勇者」)は修行完成後の敬称であり、俗名はヴァッダマーナ(「増益」)とされる。カーサヴァ(「カーサヴァ姓の者」)、ナーヤプッタ(「ナーヤ一族の者」)は血筋に由来する。ニッガンタ(「束縛を離れた者」)や、ジャイナという表現の由来であるジナ(Jina「勝者」)は、彼が達した宗教的境地を示す。彼岸への渡し場(ティッタ)を作る(ガラ)という点、ティッタガラはその救済者性を意識した呼称といえよう。サマナは彼の反バラモン教的な宗教的立場を示している。マハーヴィーラを一貫してジャイナ教がクシャトリヤの出としてきたにもかかわらずバラモンと呼ぶのは、『ウッタラッジャーヤー』25章で示されるような、真のバラモン性の体現者はマハーヴィーラに他ならないという主張のあらわれであろう——マハーヴィーラが実はバラモンの出だったからこそバラモンと呼ばれた、と素直に読む可能性も否定はできないが。
ほとんどの白衣派はマハーヴィーラの生没年を前599年~527年とし、空衣派は前582年~510年とする。
本書が訳していないマハーヴィーラ伝で重要なものに『ヴィヤーハパンナッティ』15章があり、そこではマハーヴィーラが6年間。ゴーサーラ・マンカリプッタと修行生活を共にし、袂を分かつに至るまでが詳説される。ゴーサーラ・マンカリプッタとは仏典のマッカリ・ゴーサーラのことで、アージーヴィカ教の教主となる者である。ゴ―サーラは宿命論を説いたと一般にいわれるが、全く人為を認めないという意味のそれではなく、過去に行なった行為の報いは必ず受けねばならないが、新たに行なう行為は修行で抑制しうるという、いわば半・宿命論のごときものだったと近年では考えられている。
白衣派、空衣派とは、ジャイナ教の二大分派を指す語である。サンスクリットではそれぞれシュヴェーターンバラ「白い衣をまとう者」
ディガンバラdigambara「空間を衣とする者(つまり裸形)」といい、出家者の装いの相違に基づく。
p.10から
白衣派が僧の着衣を認めるのに対し、空衣派は解脱に裸形を必須とするなど、相違点は多い場合に80余項目を列挙するが、本書にとっては白衣派聖典の権威に関わる点に触れれば足る。空衣派は、飢饉の間に古伝承はほぼ途絶えたという前提のもと、白衣派が編纂した聖典の権威を認めず独自に聖典を編成する。白衣派は古伝の一部の喪失を認めつつ、自派の聖典がマハーヴィーラの説法をはじめとする古伝を保存するという点は譲らない。
(本書がジャイナ教の二大分派である白衣派の聖典なのは空衣派の聖典は手に入らなかったか、研究が進んでいないからかもしれない。
本書はアルダマーガディー語原典から訳出したそうだ)
アンガ。マハーヴィーラの直説を伝え、すべて筆頭弟子だちが作成したとされ、聖典の中核をなす。
p.14から
ジャイナ教の教義
最初に述べた通り、ジャイナ教は輪廻と業の理論を前提とし、そこからの解放を目指す宗教である。では、具体的に我々が輪廻する世界とはどのようなものか。なぜ私たちは輪廻しなければならず、どうすれば輪廻から解放されるのか。
世界の形状
我々が住み、また輪廻する世界(loka)は上中下の三層構造であり、上下が広がり中は引き締まるという、いわば8あるいは小鼓のような形状である。
上界の上、いわば屋上に成就した存在の世界がある。これは解脱した霊魂(ジーヴァ、後述)のみが到達しうる。世界の外側は非世界(aloka)と呼ばれる領域が広がっているとされる。
存在論
世界とそこにいる存在物は、ダッヴァ(davva. skt. dravya「もの」)または
アッティカーヤ(「実在集合物」)と呼ばれる実体からなる。実体はジーヴァとアジーヴァ(「ジーヴァではないもの」)に二分される。
本書で「霊魂」と訳されているジーヴァは恒常不滅の輪廻主体・生命原理であり、行為主体かつ行為の果報を経験する主体でもある。
(バラモン型輪廻つまり本体あり輪廻だな。仏教は他の宗教と比べても変わり種。本体無し輪廻だからだ。ジャイナ教も仏教もヴェーダに従わないけど、実体を認めるか否かで異なる。ジャイナ教は認める。仏教は認めない)
(ジーヴァについて)
また重要な特徴として、プッガラ(後述)に付着されない限りは上昇する性質をもつ。ジーヴァは解脱したジーヴァと、輪廻する存在であるジーヴァに分かれる。後者は可動の存在と不動の存在からなる。可動の存在は二~五の感官をもつ生命体である。不動の存在は、植物と地・水・火・風であり、触覚のみを持つ。
『アーヤーランガ』第一章にあるとおり、植物はもちろん地水火風をも生命体とすることは最初期からの前提である。
次にアジーヴァは、ダンマ(dhamma. skt. dharma)、アダンマ(adhamma. skt. adharma)、プッガラ(puggala. skt. pudgala)、アーガーサ(āgāsa. skt. ākāśa)からなる。ダンマはジーヴァとプッガラの進行を、アダンマは停止を補助する要因である。プッガラは単一の原子あるいは原子の集団で構成される物質を指す。アーガーサは、実体に場所を提供する空間である。非一切知者が認識しえない対象を列挙する『ラーヤパセーニヤ経』三〇節における最初の五つは、これら五つの実体のことである。なお、空衣派では時(カーラ)もアジーヴァとみなすが、白衣派では文献により相違する。
ジーヴァと行為
ジャイナ教の行為(業)論の特徴は、行為が物質化してジーヴァを縛るという点にある。行為の物質視がいつ確立したかについては諸説あるが、『アーヤーランガ』第一篇の「行為の身体を振り払う」(五四頁)という難解な表現は、最初期から行為を物質的に理解していた可能性も示す。行為を塵に譬える『ダサヴェーヤーリヤ』、行為の付着をいう『ウッタラッジャーヤー』三・六、過去に犯した邪悪な行為が水のように流出するという八・九なども同様である。
後の標準的な教理によれば、身体・言語・思考による行為をすると、その行為はジーヴァの振動を促し、行為の結果生まれた微細な物質が、ジーヴァの振動でひきつけられる。ジャイナ教ではしばしば、「穴の空いた舟に水が漏れ込む」というイメージを用いて説明する。行為によるジーヴァの束縛は愛憎いずれかの感情で起こる。愛憎は怒り・慢心・たぶらかし・貪りの形をとって現れる。物質化した行為は一定期間ジーヴァに付着した後、いずれかの時点でその果報を生む。良い行為をすれば良い果報、悪ければ悪い果報というように、個々のジーヴァに影響を与えるかたちで消費された後に消滅する。輪廻の問題でいえば、ジーヴァは、付着物がなければ上昇して成就した存在の世界へ到達する。しかし行為が付着すると上昇性を妨げられて「重く」なり、世界のどこかの階層に落ち着くのである。注意すべきは、善悪を問わず行為をすれば必ずその物質がジーヴァに付着することにある。つまり、何であれ行為をする限り、ジーヴァは神であれ植物であれ、何らかの生命体として輪廻し続けるのである。輪廻から脱するには行為を停止するしかない。これは、すでに『アーヤーランガ』第一篇が繰り返し強調する点である。そしてジャイナ教は、行為を停止させるという事態を、二つの側面から考えるに至る。ひとつは、新たに行為物質が蓄積しないよう、行為物質の流入からジーヴァを防護することである。加えて彼らは、既に蓄積した過去の行為も、それが自然に消費されることを待たずとも修行によって人為的に消化できると考えた。このことは、過去の行為の結果は甘受するしかないという思考にジャイナ教を陥らせない、大きな特徴である。
p19から
最初期以来、常に強調されることは非暴力の徹底と無所有である。『アーヤーランガ』第一篇は、自己を取り巻く環境は地水火風含め生命体に満ちており、「殺害されるべきだとお前が思っているもの、それこそがお前というものだ」(七五頁)という箴言が示唆するように、自己と他者の同一視を根拠としながら、暴力を放棄することを徹底的に説く。
無所有については、『アーヤーランガ』第一篇は物心両面での無一物、つまり実際に所有をせず、かつ精神的にも執着をしない状態を無所有とみなす傾向が支配的と思われる。しかしこのような考えは、物理的にものを所有していても、それに対し精神的に固執しなければ所有とはみなさない、という解釈にとって代わる。その発想はすでに『アーヤーランガ』一・二・六・二に現れ、『ダサヴェーヤーリヤ』六・二一の著名な定義「所有とは執着である」(255頁)に結実する。
このように、暴力と所有からの離脱を強調するジャイナ教が、理想の死として断食死を選択することは、自然な帰結であると思われる。肉体はジーヴァの容れ物、しょせんは輪廻から脱するための修行に必要な、単なる道具にすぎない。そしてその道具もいつかは役にたたなくなる。たとえば老いて体も頭もいうことをきかず、不注意に地面を踏みしめ、あるいは糞尿を漏らし、そこにいる生き物を殺す状況を考えればよい。もしくは飢饉や迫害などで、正教を遵守できない状況を想定してもよい。
現代まで続く断食死の伝統は、『アーヤーランガ』一・八が説き、古くから実践されていたと思しい。
一方で、このようなジャイナ教の断食死は、古代から現代にいたるまで様々な論争と批判の的である。ここではその詳細に立ち入らないが、ジャイナ教が断食死を自殺suicideとしない点だけは強調したい。自殺は煩悩に基づく愚者の死だが、断食死は煩悩のない者だけに許された、賢者の死である。
p.22から
認識論と相対主義
本書では、哲学的な側面を主題とする経典を訳出していない。
(「経典」って仏教用語っぽいのだが、じゃあどう訳すんだよってなる。
聖典かなあ。本書の題名も聖典だし。教典ならどうだろう)
ジャイナ教の哲学的特徴は、しばしば相対主義にあるとされる。ここでいう相対主義とは、マハーヴィーラが世界とジーヴァの恒常性を説く箇所が端的に示す。つまりあらゆる存在は複数の性質からなる。ゆえに「世界は永遠である」とは断定しえず、「○○という点では永遠である」と多面的にとらえる必要がある。この主張は、アネーカーンタヴァーダとのちに自称される。またこの立場に基づいてある対象の存在性を表現する場合、「○○は、ある点では(スヤート)存在する」「○○は、ある点では存在しない」云々と七通りの言明が可能とされる。これをスヤードヴァーダという。
対象が必ず複数の側面をもつ以上、複数の観点をもとに対象を把握しなければ、真に対象を理解したとはいえない。「城」という語の指示対象は、城という苗字の人、城の絵、あるいは建設中で未完成の城かもしれない。ジャイナ教は、ニクシェーパという、ある対象を複数の観点から把握する手法を用いる。何種類の観点を導入するかは文献によって相違するが、束縛の内容を実体・場所・時・状態の点で分析する『ジナチャリヤ』一節は、この観念を前提とする。同節の言及が註解的であることが示唆するように、本来は聖典の文言を正確に解釈するための手法だったと思しい。
ジャイナ教と仏教
ジャイナ教と仏教はほぼ同時期、同地域に、ともにヴェーダ祭儀文化に対する革新的な勢力として登場した。ともに輪廻と業の理論を前提として、そこからの脱出をはかった。ジーヴァの存在を前提とするジャイナ教は無我説を認めることはできず、菩薩道のようなありかたもないというように、相違点は多々存在するが、インド学の黎明期にジャイナ教が仏教の分派と誤解されたように、いわば姉妹宗教として多くの共通点を持つことも事実である。無常、涅槃、解脱、如来、佛陀、比丘、慚、優婆塞、慈悲などの原語は白衣派聖典でもしばしば用いられる。
(仏教との共通点と相互影響の研究のためには同じ訳語の方がいいんだな)
もちろん、個々の術語あるいは伝承に両教がこめた意味までもが一致するわけではない。
両教が、同じ語、似た話に何を託したかを逐一検討することが、両教のより深い理解にとって必要な作業である。
読書案内
和書の入門には上田と渡辺を推す。金倉は、白衣派と空衣派双方から権威とされる『タットヴァ・アルタ・アディガマ・スートラ』の和訳を含み、今でも重要である。
(和書が超少ないと思ったら、洋書も少ないな)
第I篇 最古の様相
(【第Ⅰ篇】は古層文献)
第1章『アーヤーランガ』第一篇
(【第1章】『アーヤーランガ』第一篇は、出家修行者が解脱を達成するために遵守すべき禁欲的な修行生活全般を主題とする。なかでも第九章は、マハーヴィーラ出家後の厳しい苦行生活を古風な韻文で描いた、最古の祖師伝である)
担当は河﨑豊 (カワサキユタカ)。
(冒頭)
一・一・一
寿命長き者よ、かの幸いなる方がこのように説いたのを、私は聞いた(1)。この世のある者たちは〔以下のような〕想いを抱かない。
p.449
訳注
(1)
伝統的に、「私」はスハンマ、「幸いなる方」はマハーヴィーラ、聞き手はジャンブーとされる。スハンマは、11名いるマハーヴィーラの筆頭弟子(ガナダラ)の五番目に位置する人。
ジャンブーはスハンマの直弟子であり、マハーヴィーラ涅槃の64年後に一切知を得て解脱したとされる。
「幸いなる方」は、仏典で世尊と漢訳されるbhagavatのアルダマーガディー語形である。このような冒頭は、仏典の「如是我聞」を想起させる。
p.83から
六・五・五
このように彼は決起し、自己を確立し、この世に拘泥せず、精神不動にして活動するべきであり、〔自制の〕外に霊魂の彩(119)を示さずに出家遊行するべきである。よき見識をもつ者は、美しく作り上げられた教え(ダルマ)を分析した後、火がすっかり消えたように鎮まっている。ゆえに、お前たちは執着なるものを見よ。人々は諸々の束縛に縛られ、へたりこみ、欲望の対象に囚われている。ゆえに〔出家生活の〕荒さに震えあがるべきではない。〔出家生活を〕傷つける者たちが震えあがることのないこれら暴力行為は、そういう〔荒さ〕においてはあらゆる面で完全に知りぬいたうえで、放棄されているのである。彼が怒りと慢心とたぶらかすことと貪りを吐き出していれば、この者は超越者である、と解き明かされている。
——以上のように私は語る。
訳注
p.459
(119)
霊魂の彩(lesā)とは、霊魂(ジーヴァ)の純化度を六種の色で段階づける術語。黒、暗色、灰、赤、黄、白の順で純化される。ただし底本のGlossarがいうように、ここでのlesāはほとんど思考作用(manas)と同義、つまり「外部にlesāを示さない」とは、思考作用を自制以外には向けない、という程と考えられる。
(だから「白」衣派なんだな。白が一番良い色なのだろう。一番悪い色が黒。赤は第3位。欧米ケツ社とはまったく異なる基準なのでなんか、安心する)
p.95
八・六・三
「さて、この教義のもとで、この身体を運び回ることに、だんだんと私は疲れてしまった」と、ある托鉢僧が考えるとする。そういう彼は段階的に摂食を減らすべきである。段階的に摂食を減らした後、諸々の精神的な汚れ(137)をやせ細らせ、身体を統一させて板のような〔やせ細った〕体軀をした者として決起した後、身体の火がしっかりと消えたかのような托鉢僧は、
八・六・四
村落、都城、土塁のある村、囲いのある村、離村、大都市、水路と陸路に通じる町、鉱山町、隠棲処、宿場町、市場町、あるいは王都(138)に入った後、諸々の草を乞い求めるべきである。諸々の草を乞い求めた後、彼はそれを受領して一隅に退くべきである。一隅に退いた後、卵・生き物・種・草・露・水・蟻の巣・黴・泥・蜘蛛の巣が僅かな(139)ところで、繰り返しよく調べ、繰り返し拭ってから、諸々の草を敷き広げるべきである。諸々の草を敷き広げた後、こういう教義のもとでイッティリヤ断食死(140)を実行するべきである。
訳注
p.461
(140)
あるいは「イッタリヤ」。iṅginiあるいはiṅgitaと呼ばれる断食死作法を指し、限定的な空間で排泄などの限定的な動作のみが許される断食死をいう。
訳注
p.462
(160)
出家者が生涯にわたり冷水、つまり生命体を含む危険性のある生水を飲まないことは戒律上必須であり、出家後の事績として特記する必然性はない。
p.463
(167)
原則として、ジャイナ教の僧尼は日没後に外出してはならない。
第2章『スーヤガダンガ』第一篇(抄)
(【第Ⅰ篇】は古層文献)
(【第2章】は、『スーヤガダンガ』第一篇第四章と第五章第一節。前者は男性出家者が女性との接触を避けるべきことを教示しており、最初期ジャイナ教のジェンダー観に有意な資料を提供する。後者は最初期ジャイナ教の地獄観を表す資料であり、『スッタニパータ』などの初期仏典、ヒンドゥー教の大叙事詩『マハーバーラタ』や法典『マヌ法典』にも類似した観念が見出され、当時の地獄観の共通認識を知るうえで欠かすことができない)
p.117
四・二・二一
〔霊魂の〕レーサー(Skt. レーシュヤー(7))がよく清らかにされ、知性があり、賢い人は、他人に対する行為を避けるべきである。出家者は思考、言葉、行為において、すべての艱難辛苦を耐えるべきである(8)。
訳注
p465
(7)
レーサー(Skt.レーシュヤー)とは、霊魂(jīva)の道徳的次元を六つの色彩によってあらわすジャイナ教特有の術語である。霊魂はこの六色のうち、どれかの色を持っている。それぞれの色は特性を持っているが、白色のレーサーがもっとも勝れており、以下順に萌黄、赤、灰、青、黒となる。
(欧米の支配層が大好きな紫はないんだな。
萌黄色(もえぎいろ)とは?|Moegi-iro|#86B81B
https://irocore.com/moegi-iro/
”萌黄色(もえぎいろ)とは、春先に萌え出る若葉のようなさえた黄緑色のことです。平安時代から用いられた伝統ある色名で、別に『萌木』とも表記します。
『萌黄色』は新緑の若木の色ということから若さを象徴する色であり、平安時代では若者向けの色として愛好されました。
”
いかにも黄色って色ではないな。黄色というより緑系だ)
第3章『ウッタラッジャーヤー』(抄)
(【第Ⅰ篇】は古層文献)
(【第3章】は『ウッタラッジャーヤー』から古層に属する第一章から第二〇章、そして第二五章。出家者の生活への心構え、説話、伝説、対話篇、修行論、解脱論や業論といった教学的議論など、さまざまな内容で構成され、仏典にも並行する詩句が見出される)
(以前のジャイナ教関係の記事の紹介かつ、仏典との共通個所を紹介しておく。
ヌード写真つき薄い本『ジャイナ教とは何か』
六師外道、特にジャイナとアージーヴィカ教に詳しい『ジャイナ教入門』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-267.html
"偉人が殺されると狂った神格化につながるのでよくない。
人は人として死なせ、死後もずっと人のままでないといけない。
神格化された死者は生者の思想兵器
となる。
神格化された死者も凶悪だが
生者が創造した法人(法神)が人間を牛耳っているのが現状
…
『アーヤーランガ』(最古層のジャイナ教聖典)
「感官の対象(外の事物)なるものは、
〔罪悪のおこる〕根の場所である。
〔罪悪のおこる〕根の場所なるものは、
感官の対象(外の事物)
である。
それゆえに感官の対象(外の事物)を求める放逸なる人は、
大なる苦悩(パリターパ)をもって暮らすであろう」
「快・不快に悩まされてはならぬ。
不快とはなにであるか?
また歓喜とはなにであるか?
これにも執われることなく行ずべきである。
一切の戯笑を捨てて、
心を没せしめることなく、
守って遍歴せよ」
「感覚した事柄に関して無関心となれ」
『イシバーシヤーイム(聖仙の語録』…
「あらゆるところから、業の流れ(ソータ)は侵入してくる。
業の流れをせき止めることはできないのか、と問われたならば
聖仙は答えるべきである。
いかなる方法をとれば、業の流れはせき止めることが
できるのか?」
これに対して、尊敬さるべき・聖仙ヴァッダマーナは答えていった。
「目覚めた(気をつけた)人(聖者)にとっては、五つの感覚器官が眠り、眠っている人(聖者でない人)にとっては五〔つの感覚器官〕は目覚めて(活発化して)いる。人は五〔つの器官〕を通じて汚れ(=業)を受け取る。
五〔つの器官〕のところで汚れ(業)は留まるであろう。
快い音あるいは悪しき音を耳から受け取っても、快い音に愛着してはならない。
また悪しき音について怒るべきではない。
快い音において、愛着をおこさず、また他の(悪い音)において怒らず、
業の流れをせき止めていない者たちのなかにあっても
…眠らずに(気をつけて)いるならば、かくして業の流れはせき止められる。」
…
『スッタニパータ』1034;1035
「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。
その流れをせきとめるものはなにですか?
その流れを防ぎまもるものはなにですか?
その流れはなにによって塞がれるのでしょうか?
それを語ってください。」
…ブッダが答えた。
「世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせきとめるものは、めざめて気をつけることである。〔気をつけることが〕煩悩の流れを防ぎまもるものである。その流れは知慧によって塞がれるであろう。」
…
『法句経』(『ダンマパダ』)183
「すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、
――これが諸の仏の教えである」
(…諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教)
に代表される詩句は…七仏通戒偈(しちぶつ つうかいげ…で
この一句で仏教の教えのすべてを示すとされるほど。
ジャイナ教固有の伝承として
「『わたし(マハーヴィーラ)は、すべての悪しきことをなさないようにしよう』と考えて、
サーマーイカ行(=平静の行)を受け入れる〔行う〕」
(『アーヤーランガ・スッタ』…誓いのことば」として伝えられる
…七仏戒偈…として有名な法句経の「諸悪莫作…もろもろの悪をなすなかれ)がマハーヴィーラの出家時の「誓の言葉」に一致
”
第3章『ウッタラッジャーヤー』(抄)
の訳注
p.466から
(2)
妻子や財産をすべて放棄した修行者は、見知らぬ人々から乞食しつつ遊行することが生活の基本である。彼らには托鉢に歩く「正しい時」が決められており、正午以前、すなわち午前中である。「正しからぬ時」とは正午以降、すなわち午後のことである。仏典Sn 386にも、托鉢僧が正しい時に托鉢に歩き、正しくない時に歩かないことが説かれている。
(3)
五誓戒には大小の二種があり、大誓戒は出家修行者に対し、また小誓戒は在家信徒に対する生活規定である。ジャイナ教の五大誓戒とは不殺生、不妄語、不偸盗、不淫、無所有をいい、ジャイナ教の出家修行者は無条件かつ完全に遵守することを義務づけられている。これらはいずれもジャイナ教のオリジナルではなく、すでに古代インドにおいてバラモン教の遍歴修行者に規定され、実践されていたものを適用したとみられている。五大誓戒は最古経典の一つといわれる第4章『ダサヴェーヤーリヤ』第四章にも詳しく説かれている。一方、仏教の五戒は、不殺生、不妄語、不偸盗、不邪淫、不飲酒である。
(ジャイナ教から見たら仏教って戒律がゆるいって思われてそうだな)
(18)
ジャイナ教では、バター油が注がれた火のように燃えるのを最高の涅槃(ニルヴァーナ)であるという。それに対して、仏教ではDhp 184に、火を消した状況を最高の悟り(涅槃)の境地と譬えている。
(21)
ジャイナ教においては、業身のために霊魂(ジーヴァ)は、無垢・清浄という本来の性質を発揮できず、非世界(aloga)に行くことができないで、輪廻転生を繰り返す、と説かれる。
(alokaの間違い?)
[2023年6月1日に追加:
「”aloga” ”非世界”」で検索したら、ジャイナ教では世界(loga)と非世界(aloga)であり、
lokaとalokaではない。
追加ここまで]
(43)
托鉢で得る食べ物は、その托鉢者のために準備された食べ物ではなく、あくまでも捨てられる寸前の残飯である。このことは沙門の托鉢規定の重要な点である。これに対して、バラモンはバラモンのために用意された食べ物を食べるのである。
(50)
「クサ草」とは吉祥草ともいい、葉は針のように細く尖っている。「クサ草の先端」とは、極めて僅かな分量を譬えていう。
(「くさそう」「くさくさ」。読み方がわからない。ネットスラングが想起されて草)
第八章 カヴィラの詩
p.151
八・一三
体相占い、夢占い、そして体の震え〔による吉凶占い(52)〕をする者たちは実際に「沙門」とは呼ばれないと、阿闍梨(53)によってこのように言われた。
訳注p.472
(52)
占いの禁止は仏典Sn 360, 927でも説かれる。
p.168
感官を制御したハリエーサ・バラという名の托鉢僧がいた。
p.172
(バラ)
「苦行は〔聖〕火であり、命我(ジーヴァ)は火炉である。精進はひしゃくであり、身体はふいごである。業(カルマン)は燃料である。自制、精進、寂静を聖仙によって賞賛された献供として、私は与えよう」
(「命我」という訳語もあるんだ)
第一五章 真の托鉢僧(137)
pp.185~186
一五・八
真言、さまざまな医者の処方、吐剤、下剤、〔煙で〕燻すこと、目に油を塗ること、入浴、庇護〔して欲しい〕病人、医学的治療、これら〔すべてを〕捨てて遊行する人は、〔真の〕托鉢僧である。
訳注p.478
(138)
七—八節。呪法や医療はジャイナ教、仏教ともに嫌っていた。医薬品の使用は仏教徒にも禁じられていたことが知られる。
(当時の医療技術や医薬品は現代と比べて「これはまずい」ものが多いだろうことを考慮すること)
p.481
(179)
修行僧が乞食のあいだに目を落として、種々の物から目を反らすことは、仏教徒とジャイナ教徒に共通の規則である。
p.209
右周りの礼(198)をして
訳注
p.483
(198)
自分の肩を礼拝すべき人の側に向けて、時計回りにその人のまわりを回る礼。当時のバラモンたちのあいだに行なわれていたものを、仏教もジャイナ教も取り入れたようである。
訳注
p.484
(222)
人間の価値は生まれによってではなく、行為によって決定されることを説いている。類似した内容が仏典Sn 650; Sn 136 = 142 に見られる。
第II篇 出家者の生活規定と在家者の宗教生活
(【第Ⅱ篇】は出家者と在家者との戒律文献)
第4章『ダサヴェーヤーリヤ』
(【第Ⅱ篇】は出家者と在家者との戒律文献)
(【第4章】『ダサヴェーヤーリヤ』(十夜経)は、基本的な教義や出家生活上の規定をまとめた白衣派の古層をなす聖典であり、現在でも出家の儀式を終えた者が最初に学習する派もある)
p.226から
第三章 低劣な行ない(14)
三・一
自己が自制においてよく確立し、〔諸々の結びつきから〕解き離れた聖人のニッガンタたちや大仙たちにとって、以下は禁止行為である。
三・二(15)
①〔特定の修行者のために〕指定された食事、②〔修行者のためにあらかじめ〕買ってきて作られた食事、③〔特定の在家者からの〕常態化した食事(16)、④持って来られた食事〔を受け取ること〕、⑤夜食、⑥沐浴、⑦香、⑧花輪、⑨扇子(17)、
三・三(18)
蓄えること(19)、在家者の食器〔を用いること(20)〕、王が〔望みを〕尋ねて与える食事(21)、マッサージ(22)、歯をすすぐこと、〔身体の埃を〕払うこと(23)、鏡、
三・四
八ますの〔目のある〕板(24)、筒状の薬入れ(25)、傘を〔病気等の〕理由なく保持すること、治療、足にサンダル〔を履くこと〕、火を点けること、
(訳注p.487
(24)ます目のある板でゲームや賭け事に用いられた。
(25)後にでてくる「治療」とともに、ジャイナ教の出家者に薬の所持と使用は原則として禁止されている)
三・五
寝台(=寝場所)〔を与えること〕により〔輪廻を〕渡る人からの施食(26)、小さなソファーと立派なソファー(27)、家の中にある長椅子(28)、身体の摩擦(29)、
三・六
在家者に対する奉仕、そして生業を行うこと、未加熱処理のもの(=水)を享受すること、そして病人の拠り所〔となること(30)〕、
三・七
大根、生姜、未加工の砂糖黍、そして生きている根〔菜〕や根、生の果実と種子〔を食べること〕。
三・八
スバルチャラ産の塩、シンドゥ産(31)の塩、そしてローマ産の生の塩、海の塩、そして生の黒い塩(32)、
三・九
煙を吸う〔医療具としての〕パイプ(33)と吐瀉剤、浣腸、下痢、軟膏、楊枝、肢体に塗油すること(34)、装飾、
三・一〇
これらすべては、大仙ニッガンタたちにとって禁止行為である。だから〔彼らは〕自制に専心し、身軽なものとして過ごす。
三・一一
ニッガンタたちは、五漏〔が何を原因とするか〕をよく知って〔それを〕離れ(35)、〔意・口・身の〕三つを防護し、六〔種の生類〕に対して自制し、五つ〔の感官〕を制御し、堅固で真直ぐに見るものである。
(訳注p.488
(35)業(カルマン)の漏入(āsava, Skt. āsrava)の五つの原因とは、不殺生戒を初めとする五大誓戒(第四章)を犯すこと、あるいは、五つの感官が働くことという二つの解釈がある。)
三・一二
〔彼らは〕夏には酷暑に身をさらし、冬には〔衣などで身を〕覆わず、雨期には〔滞在所に〕引き退いて、自制し、よく集中している。
三・一三
危難という敵を調伏し、迷妄を振り落とし、感官を抑制し、すべての苦の放棄のために、大仙たちは前進する。
三・一四
諸々のなし難いことをなし、耐え難いことを耐えた後、あるものは神々の世界に、あるものは〔業(カルマン)の〕塵を欠くものとして成就する。
三・一五(36)
以前の業(カルマン)を苦行と自制により滅して、最勝の成就(37)に到達した聖人は、完全に静まったものとなる(38)。
——以上のように私は語る。
訳注p.488
(38)対応するPāli parinibbutaは周知の通り「般涅槃」と訳される。
(ギャンブル禁止。
大根も駄目。根っこが駄目だから当然だな。
塩が駄目なのって生物が混ざっている可能性があるから?
それか塩が通貨みたいなものだと考えているってこと?
それとジャイナ教の場合は聖典の文字化に対して、「植物を殺さないといけないから反対」って言っている人がいるだろうな。過去にも、今にも。
ヌード写真つき薄い本『ジャイナ教とは何か』、六師外道全員、特にジャイナ教とアージーヴィカ教に詳しい薄くない本『ジャイナ教入門』
Posted on 2019.01.25 Fri 12:02:29
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-267.html
”上田真啓『ジャイナ教とは何か 菜食・托鉢・断食の生命観』風響社
冒頭で言った通り、かなり薄いので入門にオススメ。
[中略]
マハーヴィーラの実在は間違いないとされる。
正確な生没年の統一的見解がない。
ブッダが活躍したのと同時期の紀元前6~5世紀であることはほぼ確実。
厳密にはジャイナ教団の創始者ではない。
両親はパールシュヴァという、マハーヴィーラからさらに遡ること250年ほど前に活躍した人物が率いた集団、ニガンタ宗の信奉者であり
彼はこの改革者だっただろうと考えられている。
伝統的な説ではパールシュヴァの前にさらに22人のティールタンカラ(救済者)が存在していたとされている。
つまりパールシュヴァは23番目のティールタンカラであって
マハーヴィーラは24番目にして最後のティールタンカラであるとされている。
ティールタンカラ
=渡し場を作るもの
という意味の尊称で23と24番目以外は非常に長い寿命だったり
人間的ではない身長だったりするので歴史上の人物とは考えにくい。
[中略]
大きく分けて空衣(くうえ)派=空を衣とする=何も身にまとわない
(別名が裸形派)
と白衣(びゃくえ)派=白い衣を身につける
の二つの宗派がある。
空衣(くうえ)派はマハーヴィーラが出家したと同時に裸形を実践したとして
裸形は解脱に必須の条件であるとしているが
一方白衣派はマハーヴィーラは出家時には衣を身につけていたとして
裸形は必ずしも解脱に必要な条件ではないとしている。
空衣(くうえ)派は
マハーヴィーラ誕生前に起こったとされる母胎の霊魂の交換や
マハーヴィーラの結婚と娘の誕生といった出来事を認めていない。
またマハーヴィーラ以前のティールタンカラに関しても、
白衣派は19番目のティールタンカラであるマッリナータは女性であるとするが
空衣派はこれを認めず男性であるとしている。
これは空衣派が女性の解脱を認めていないことと関連している。
ジャイナ教の聖典群は白衣派において伝承されてきたものであり
空衣派はもともとの聖典は早い段階で全て失ってしまったとして
白衣派の伝承する聖典の正統性を認めていない。
二宗派の中でも尊像崇拝肯定派と否定派に分かれる。
白衣(びゃくえ)派で尊像を崇拝する一派は
ムールティ・プージャカ
(ムールティ=尊像
プージャカ=崇拝する者)
と呼ばれ白衣(びゃくえ)派で最も大きな集団を形成している。
彼らは尊像を安置する寺院の存在も認めるため、
マンディル・マールギー
(マールギー=道を意味する語の派生形)
とも言われている。
対して尊像崇拝しない者たちは
サードゥ・マールギー
(サードゥ=出家修行者)
と言われ、寺院を持たない。
空衣派にも尊像崇拝派と
尊像ではなく聖典を崇拝する派が存在している。
[中略]
出家修行者は
火を用いての調理や
野菜や果実の収穫が禁止なので
飲食物を得るために施しを受けなければならない。
托鉢で得られるべき食は
生命としての価値ができる限り排除された物に限られる。
在家には植物の類を調理することが認められている。
空衣派も白衣派も托鉢は必須。
特に白衣(派は以後省略)の出家修行者が托鉢に出て
食を受けることをゴーチャリーという。
文字通りの意味は
牛のように歩き回ること。
これは食べ物を集めるときに予想や計画なしにランダムに歩きまわり
それぞれの場所で器にほんの少量ずつ集めるように求められることに由来。
在家と食の場を共にすることはない。
托鉢の注意点
生き物が多く存在する道は避けられるべき。
踏みつぶさないように前方をよく確認して歩くべき。
豪雨・強風のときや空中に虫が多数飛んでいるような時は避ける。
間接的に殺生に関わるのも禁止。
施しを行う直前に殺生に関わる行為を行った者から食を受けるべきではないということで
殺生に関与した穢れた手によって施しがなされるのを嫌うものである。
また、何度か器に移し替えられた食べ物も受けるべきではないとされる。
移し替えのさいに不用意に生き物やその他食べるべきではない物が混入するかもしれないから。
水に濡れた手や柄杓、あるいはほこりなどが付着した状態のそれらによって
施しを受けるべきではないのもおそらく同様の理由だろう。
水もまた在家の手で完全に煮沸され
生命が全く含まれていないものを飲むべき。
托鉢の偶発性を重視。
提供される飲食物はあくまでも余り物であることが求められていた。
たまたま余った食べ物が、
たまたま通りがかった修行者に托鉢として供されるのが理想。
よって、在家が托鉢の出家のためにわざわざ調理して提供しようとしても
出家者は受け取ることができない。
つまり招待食は禁止。
特定の在家との依存関係が確立してしまったり
一つの家庭に負担が集中することを避ける側面もあると考えられる。
出家者が在家に命じて離れた場所にあるものを取って来るように命じたり
わざわざ買いに行かせたりすることは禁止。
偶発性を重視するために
間違いなく施しを受けることができるような場所、
例えば親族の家々や食事を振る舞っている宴会場などに行って、
施しを受けることは勧められない。
施しを受けられるかどうかは偶発的なので結果に一喜一憂すべきではないとされる。
ランダムに訪れるためにジグザグに家々を回ったり渦を巻くように回ったりするルートまでもが
細かく規定されている。
適した時も定められており
家庭の食事がちょうど終わるような時刻に家々を回るべきであり、
在家(たいていは女性)が家族のために料理を準備している時などには
訪れるべきではないとされている。
※空衣では托鉢で得た食を持って帰ることはせず
手のひらで食を受け取り
その場で衆人環視のもと
それに小さな生物が混入していないか指で子細に確認しつつ立ったまま食べる。
(立ったままなのって手がふさがっているから座る前にやわらかい箒で地面を掃けないから?)
・施主との関係
出家は在家と親密に接するべきではなく
一定の距離を保つべきであるとされていることから
寝床を提供してくれた在家から飲食物の施しを受けることも禁止。
多くのものを一人の施主に依存することは在家との距離を縮めてしまうと考えたのであろう。
一人の施主に負担が集中するのを避けるためとも考えられる。
出家者は政治的な権力者とも一定距離を保つべきであるとされているため
王などの住居にみだりに立ち入って施しを受けることは禁止。
生命維持のための最低限必要な分だけを食することが求められる。
美味しいものを味わって食べてはならず
味に溺れて執着することがないように心がけられているという。
執着してはならない。
したがって、托鉢によって得た食べ物を長時間にわたって保管するような行為も禁止。
もっともこれは衛生面に対する考慮、
つまり腐った食べ物を食さないようにするためで
多くを貯えない不所有の誓いの観点からも勧められるものではないであろう。
断食は頻繁に行われる。
祝祭日に行ったり
指導者などの命日や
重大な過失を犯してしまった際の罪滅ぼしのために行うこともある。
断食はジーヴァに付着した業を滅するのに有効。
やりかたはさまざま。
サッレーカナー=死に至る断食。
過剰な断食で意図しない死を迎えるのではない。
自殺はジャイナ教で固く禁じられている。
サッレーカナーは長期間にわたって徐々に飲食物を制限することで
計画的に死と向き合いながら、
心の平静を保ったまま自発的に死に至る行為。
非常に神聖な儀式であり理想的な死。
在家の中にも実践する者がいる。
※自殺とは異なる。
サッレーカナーは
①将来的に実践することの決意表明として、
早い段階で略式の誓戒を受けるのが通例
また実践開始にあたって師の許可が必要で
この時点においても本人の意思が確認される
②認められる条件は
災難、
飢饉、
老齢、
不治の病などで
何らかの形で死期が迫っている
③宗教的な理由により自らの意思で死をコントロールする行為であり
死に至るまでの時間は、
聖典の学習・瞑想・マントラの低唱などといった宗教的実践にあてられる
④欲望・憎悪・迷妄などによって自らを滅ぼそうとしているのではない。
また、いわゆる自殺のように毒や武器を用いることもない。
グナ・ヴラタ(徳戒)三つと
シクシャー・ヴラタ(学習戒)四つという
七つの補助的な誓いがある。
グナ・ヴラタ(徳戒)は
方位に関する誓戒
無用な毀損に関する誓戒
消耗品と耐久品に関する誓戒。
方位とは移動範囲の制限。
無用な毀損とは
他人を傷つけることを画策したり
賭け事をしたり
むやみに木を切ったり土を掘ったりすることを戒める。
毒物や武器などの有害な物品を拡散させたり、
他人同士を争いに導いたりすることも禁止。
空衣では煽情的な物語や残忍な物語を耳にするのも禁止。
消耗品~とは特定の物品使用制限で
特定の食物の制限、夜食禁止、特定の職業に就くことの制限など。
学習戒とは
場所に関する誓戒
反省的瞑想に関する誓戒
布薩に関する誓戒
布施に関する誓戒。
場所~は先述の方位~よりも厳しい制限で
一定期間家から出ずに外部との接触を断ったり
近くの寺院よりも遠くに行かないといった制限。
反省~はサーマーイカという日課の瞑想を欠かさないこと。
布薩~は特定の日に普段より厳格に生活し
不殺生を徹底し断食。
時に出家者と同じ空間で一定期間生活することもある
布施~は施しを行うことであるが
対象は出家者だけでなく教団維持のための支援でもある。
(ジャイナ教の理想が実現された社会ってディストピアだろうな。
ジャイナ教の武術家っているのかな?
練習準備だけでも大変そう)
出家者に施すのは宗教的行為であり
物乞いに物を与えることとは明確に区別される。
布施でもジーヴァの状態をよりよい方向へ導けると考えられている。
多くのジャイナ教徒にとってもっとも重要な聖地である
ラジャスターン州のアーブー山や、
グジャラート州のパリタナになるシャトルンジャヤ山にある寺院は
11世紀以降に在家の当時の王国の宰相たちの支援による。
プージャー(礼拝)には
心的、内的なプージャー(礼拝)と
物理的、外的なプージャー(礼拝)がある。
一部の生物を害することは回避できない。
不可避なのが不動の生命体。
植物を食すのも殺生だがより高次の生命体を害するよりマシ。
ジャイナ教の菜食主義の観点は
そこに生命が存在する可能性
そこから生命体が発生する可能性である。
在家の根本的美徳という食の規定では
自然死した動物を含めて肉類
蜂蜜
イチジク類の果物、
酒類、
濾過されていない水などを摂るのが禁止。
なぜなら殺生によって得られるだけでなく
そこに無数の微生物がいるから。
葉の物、
湿った食べ物、
発酵食品、
腐敗した食べ物などが
無数の微生物がいるので規制。
無数の身体(アナンタ・カーヤ)と呼ばれるカテゴリーに属する植物も規制対象で
玉ねぎなどの球根や
大根などの根菜類、イモ類などの地下茎などの植物も含まれている。
共通する特徴も新たな生命が生じるからだろう。
同様の観点から
多くの種を持つもの(バフ・ビージャ)も禁止で
ザクロ、ナス、トマトなどが該当。
根のものを避ける理由の一つで
収穫する際に地中の生物を害してしまうからというものもよく聞かれる。
(マニ教がジャイナ教からかなり影響を受けてそう。
マニ教は植物の根っこを引き抜くことが禁止。
ジャイナ教は
グノーシスの元ネタの梵我一如を説くバラモン教を否定しているから
グノーシス思想ではない。
インド国内で必要な栄養素(のほとんど)が菜食で賄えるのか気になる。
ジャガイモやタマネギは禁止。
根菜禁止はきつい。
シュラヴァナベラゴラのジャイナ教食堂でミールスを食べた
https://www.youtube.com/watch?v=KiuVyjYVOV0
Why Jainism Is The World's Most Peaceful Religion
https://www.youtube.com/watch?v=KAc33hNc7ak)
在家も日没後の食事は勧められない。
家庭での作り置きも推奨されない。
著者が目撃したのが
ターリー(プレート)で食べた後に
コップの水をそこに注いで細かい食べ残しをきれいに洗い
その水を飲み干す作法。
残りかすがついたまま放置されると小さな生物が集まるから。
食べられるべきではないものリストがあり
雪、氷、
(それらに微細な生物が潜んでいる可能性)
毒(腹の中の生命体を害する)、
土、
(微細な生命体を含み、
蛙のような五つの感覚器官を有する高次の生物を産み出す源
だと考えられていた。
口にした者の腸に深刻なダメージを与える病の原因とも考えられていた)
味がなく中身のない空洞上の植物、
(空腹を満たせないので不必要に生命体を害してしまう)
正体不明の植物などが禁止。
(何が食べられるか列挙した方がわかりやすそうなほど厳しい)
”
)
p.239
そして、〔修行者が近づくことで〕王や長者、〔その場所を〕秘密裏に守っている者たちが面倒を引き起こす場所を、遠くから避けるべきである(78)。
訳注
p.492
(78)
カウティリヤの『実利論』からは、古代インドでは出家者、あるいは出家者に扮した者がスパイとして活動していたことがうかがえる。このような状況を背景とした詩節と理解できようか。
(宣教師がスパイなのと同じだろう)
p.493
(90)
ジャイナ教では、一般に「水」は生の冷水を指し「命あるもの、生きているもの」とみなされるので、出家者が水を摂取するには、水が「命なきもの、変化したもの」になる必要がある。水を「命なきもの、変化したもの」とするには、太陽光に熱せられるとか、在家者が加熱処理する方法が一般的である。
本書冒頭の解説より
「『ダサヴェーヤーリヤ』六・二一の著名な定義「所有とは執着である」(255頁)」
p.255
〔五 無所有〕
六・一八
岩塩・海塩・油・清乳・未加工の砂糖を蓄えることを、ナーヤプッタ(102)の言葉に満足する彼らは望まない。
六・一九
思うに、〔いずれか〕一つであっても、〔蓄え〕は貪欲との接触である。蓄えを望むのであれば、彼は在家者であり出家者ではない。
六・二〇
衣・鉢・毛布・足を払うものさえも、自制と羞恥心のために保持し、利用する。
六・二一
聖人ナーヤプッタによって、それは所有と言われない。「所有とは執着であると言われた(103)」と大仙(104)により述べられた。
六・二二
すべて〔の場所と時〕において、資具(105)を伴った悟った(ブッダ)人々は、〔六生類を〕保護するための所有物についてはもちろん、みずからの身体に対してさえも、わが物〔という思い〕を持たない。
訳注p.494
(105)六・二〇にあげられた衣などの出家者に使用が認められている生活必需品をさす。
第4章『ダサヴェーヤーリヤ』
p.275
八・五〇
星〔占い〕・夢〔占い〕・〔星宿との〕結合・前兆〔占い〕・呪文・薬草の調合を、そのような生類に〔混乱や〕論争をもたらす語を、在家者に語るべきでない。
第5章『ウヴァーサガダサーオー』第一章
(【第Ⅱ篇】は出家者と在家者との戒律文献)
(【第5章】『ウヴァーサガダサーオー』第一章は、白衣派聖典中、もっともまとまって在家信者の宗教生活を説く章であるとともに、後に数多く著された在家信者向けの行動規範マニュアルの祖型ともなり、ジャイナ教の在家信者観をうかがう上で欠かすことのできない資料)
p.299
沙門マハーヴィーラに近づき、三度右回りの礼(11)をなし
訳注p.501
(11)
いわゆる右遶三匝(うにょうさんそう)。
(
右遶三匝とは – コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%B3%E9%81%B6%E4%B8%89%E5%8C%9D-1274511
”右遶三匝(読み)うにょうさんそう
世界大百科事典内の右遶三匝の言及
【行道】より
…遶仏(にようぶつ),施遶(せによう)ともいう。インドでは右手を浄,左手を不浄とする思想があり,比丘たちは仏に対して右遶三匝(うにようさんそう)する(右回りに3回回る)のが例法となった。中国では左を上位とする考えがあって戒壇を巡るときに左回りすることもあり,日本でも座禅のときに眠けを覚ますための香版(警策)をもって回る役の巡香(じゆんこう)は左回りであるが,そのほかはすべて右回りである。…
※「右遶三匝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
”
)
第5章
p.311
光熱という霊魂の彩(65)を豊かに蓄え蓄積している者
訳注p.508
(65)
光熱という霊魂の彩(teulessā)とは、苦行によって身体に蓄積される光熱のエネルギー体である。これによって人を焼き殺すことも可能である。『ヴィヤーハパンナッティ』には、後にアージーヴィカ教の教主となるゴーサーラ・マンカリプッタ(パーリ仏典におけるマッカリ・ゴーサーラ)が、ある苦行者にこの力を発せられて殺害されかかったところ、マハーヴィーラに救出されるという逸話が残されている。
(67)
口を覆う布はマスク様の布であり、これで口を覆うことで空中の微細な生物を吸い込み殺害することを防ぐ。
第III篇 仏典との類似経典
(【第Ⅲ篇】は初期仏典と共通する伝承から作られたパエーシ王の物語)
第6章『ラーヤパセーニヤ経』(抄)――パエーシ王物語
(【第6章】には、来世を信じず霊魂と身体が同一であると主張するパエーシ王と、ジャイナ教僧ケーシの対話である「パエーシ王物語」(『ラーヤパセーニヤ経』後半部)を収めた。訳注には、これに並行するパーリ仏典と3本の漢訳仏典との対応箇所を記した)
特になし。
第IV篇 祖師マハーヴィーラの生涯
(【第Ⅳ篇】はジャイナ教の祖師マハーヴィーラの伝記)
第7章『ジナチャリヤ』(抄)――誕生から入滅まで
(【第7章】には、白衣派ジャイナ教在家者にもっともよく知られる『ジナチャリヤ』(ジナたちの伝記)からマハーヴィーラ伝を収録した)
p.399から
尊い沙門マハーヴィーラは、有能で、規範にきちんと従い、容姿端麗で、感官を制御し、幸福であり、慎み深く、ナーヤの者であり、ナーヤ一族の息子であり、ナーヤ家の月〔のごとく〕であり、ヴィデーハの者であり、ヴィデーハディンナーの息子であり、ヴィデーハ生まれであり、ヴィデーハの王子であり、三〇年間ヴィデーハで暮らし、母と父が鬼籍に入った後、長兄と王国の権力者たちから許可を得て、誓いを完遂した。そのとき、慣習に従ってローヤンティヤ神(54)たちが、それらうれしく気分が良くて好ましい、心地よくて心にかなう、華々しくも美しい、幸福で恵まれた、吉祥な、適度な長さの、甘く幸運な、心に届いて心を喜ばせる、誠実で繰り返しではない言葉で、絶え間なく喜び賞讃しながら、次のように述べた。
「勝利せよ、喜ばしいお方よ。勝利せよ、よき方よ。君に幸いあれ、優れたクシャトリヤの雄牛〔のごとき者〕よ。
(メモ者:長いので省略。「勝利」と言っている。「クシャトリヤ」とも言っている)
訳注
p.516
(54)
バンバローヤ(ブラフマローカ)天に住む神格であり、救済者たちが世俗の生活を放棄する場面で彼らを祝福する神格として文献に現れる。
p.401から
そして尊い沙門マハーヴィーラは、次々と、連なった千の眼に見られながら、連なった千の口に称えられながら、連なった千の心によって賛美されながら、連なった千の希望の的とされながら、
〔メモ者中略。1000を強調〕
素晴らしい笛と同時に大いに鳴らされたほら貝・シンバル・太鼓〔後略〕。
(ほら貝はインド圏では普通だな。日ユ同祖論者が無視する場所の1つがインド。イスラエルと日本の間にある場所。
ラビのほら貝←インドのほら貝→山伏のほら貝 の可能性を考えよう。
修験道のほら貝の起源はインド。
ユダヤ教のラビのほら貝も、おそらくインド起源。
インド神話で極めて重要なヴィシュヌ神の象徴がほら貝で、ヴィシュヌはほら貝を吹く。
法螺(ほら)(貝)は、仏教の一派である密教の儀式で使用される法具の1つ。仏教の伝来によって日本にもたらされたとされる。日本に密教が伝来してから、修験道でも使われるようになったらしい。
三重修験道会 - 法螺貝とは
http://www.shugendojapan.com/horagai.html
”ユーラシア大陸の文明文化の道を通り、インド伝来のバラモン教、ヒンズー教の法具である「シャンク」は、チベット、中国を経て文明文化の終着点である日本に到着しましたが、それを否定するどころか、飲み込み自分達の都合の良いように改良、改善して今日の法具、「法螺貝」としてみごとに変化融合させてきました。全ての物質存在は波動から成り立ちますが、音の波動は、音霊としての波動を持ち、次元を超えて、浄化作用や共鳴反応を起こし、行者のみならず、祈りの対象を清らかな本来の存在への変換する法具であります。
法螺貝の起源
修験道と言えば法螺貝、法螺貝と言えば修験道と言えわれる。 起源はインドのバラモン教、ヒンズー教の司祭が使う法具として「シャンク」と呼ばれる貝を、ホーマの儀式(護摩)などで吹き鳴らすことから、古代インドやチベットの大乗仏教においても同様に貝を法具として使用している。 「あ・うん=オーム」の「あ」は宇宙創造の音で、「うん」は地球創造の音として、その聖なる原初音を法螺貝は再現すると言われる。 密教ご真言で「おん~~~」の「おん」はこの宇宙創造の原初音で、ご真言=マントラを法具の貝で吹奏するころからの起源。
〔画像省略。画像は2枚。
1枚目の名前は「法螺貝の起源1」であり、ほら貝を持っているヴィシュヌの絵。
2枚目の名前は「 法螺貝の起源2」であり、1柱の神と、人間がそれぞれ法螺貝を吹いている画像。何の神かはわからないが青白い肌だから神なのは確実〕
法螺貝の教相
「法螺を吹く」と言うと、一般に「大げさに言う」「でたらめを言う」ことを指すが、本来の意味は仏典中、「法華経」には「大法螺を吹いて、大法鼓を撃つ」とあり、また 「鼓音経」には「大戦鼓を撃つ」とあり、法螺はあくまでも大日如来法身説法の内証を示すものであり、過去、現在、未来の三世における諸仏が出世さられて説法される時に、必ず、大法螺を吹かれて、如来説法を一切衆生にいきわたらせ、迷界の衆生の妄心を覚醒されたと伝えられる。
法螺貝吹奏
法螺貝吹奏の目的
謹んで吹奏し奉る金剛三昧の法螺と云者、金剛界バン字の智体にして法身説法の内証なり。 又、天界の音楽なれば、一度之を吹き奉れば、其の響き十方世界に周偏して、諸々の不浄を清め、邪気を除き、悪気魔障立ち所に降伏せしめ奉る。恭しく法楽荘厳の御為に丹誠を致して吹奏し奉らんとす。願わくば本尊聖者哀愍納受を垂れ給はんことを。 三昧法螺聲 一乗妙法説 経耳滅煩悩 当入阿字門 (訳=法螺貝の音は瞑想であり(三昧) 一乗妙法説(法華経そのものである)耳にふれれば煩悩を滅すまさに、阿字本不生の境地に入らん)すわなち、*祈祷においては「諸々の不浄を清め、邪気を除き、悪気魔障立ち所に降伏せしめ奉る。」 *ご法楽や大護摩供においては「法楽荘厳の御為に。」すなはち、「信は荘厳より生ず。」*修行においては、「大日如来説法の内証」「三昧瞑想」「即身成仏」への法具である。(「法螺表白文」より)
” ※着色は引用者
修験道がコダヤ教って言う法螺吹きに注意!
修験道含め、日本の伝統宗教には自然崇拝思想が根付いている。
一神教では自然はゴッドの創造物なので拝むの禁止。
根本思想が違うので表面的な共通点があっても別物。
日ユ同祖論信者のタブーは日本とイスラエルの中間にあるインド・イラン。
AとBが似ている場合
①AがBの元ネタ(A→B)
②BがAの元ネタ(B→A)
③AもBもCが元ネタ(A←C→B)
④偶然の一致など
中間と他の選択肢を与えない典型的な二元論を悪用した詭弁。
右翼と左翼の対立茶番の応用。
両端を極端な目立つ囮にして、真ん中(真の元ネタ)=本体を隠す術。
日ユ同祖論(ユダヤが起源)も、
日本起源説(平田篤胤系の神道カルトに多い)も、
イスラエルと日本の中間にある真の起源(である可能性が極めて高いもの)であるインド・イランを意図的に無視するのが特徴だ
)
p.402から
自身の装身具・花環・衣服を外した後、自身の〔頭髪を〕五摑み分抜いた。抜いてから、二日半のあいだ飲食物を断ち、ハットゥッタラ月宿との結合に入ったときに、天の衣一つを持って、一人で連れ立つ者なく、禿頭となって、家から家なき状態へと出ていった。
尊い沙門マハーヴィーラは、一年一箇月のあいだ、衣をまとっていた。それを過ぎてから、衣を持たず、手を器とした。尊い沙門マハーヴィーラは一二年以上、常に身体を放棄し、肉体を顧みず、天・人・畜生に関わる快・不快などのなんらかの困難が生じれば、それら一切をこらえて我慢し、耐え忍んだ。
そして、家なき者である尊い沙門マハーヴィーラは、(中略)言葉の用心、(中略)意識の用心、口の用心、身体の用心を行い、意識を防護(60)し、言葉を防護し、身体を防護し、感官を防護し、(中略)亀のように感官を防護し、サイの角のように独りで(62)、鳥のように自在に、(中略)象のように賢く、雄牛のように踏ん張り強く、獅子のように近寄りがたく、(中略)月のように魅惑的で、太陽のように光り煌めき、金のように美しく、大地のように触れるものすべてを耐え、よく供物の投ぜられた祭火のように光り輝いた。
(この中略はメモ者が記した。この翻訳書では原典でも「中略」と書いてある箇所があるとわかるように訳されている)
訳注
p.517
(62)
仏典のSn Ⅰ, 3:「犀角経」では、「一本角のサイの角のように一人歩め」という句が繰り返し用いられる。
(「独り」の誤字?)
p.403から
最上の守り、最上の満足、最上の思考、最上の真実・節制・苦行・善行とその結果である完全な涅槃への道を通じて自己を修養しながら、一二年が経過して一三〔年〕目に入った夏季第二月の第四半月であるヴァイサーハ月白分に、(メモ者による中略)ジャンビヤガーマという都市の外にあるウジュヴァーリー川の岸で、霊域から遠すぎず近すぎないところで、家長サーマーガの耕地にある沙羅の木のもとで、踵を合わせて蹲踞の座で日光を受け続ける苦行をしながら、二日半のあいだ飲食物を断ち、〔月が〕ハットゥッタラ宿との結合に入ったときに、瞑想の最中、無辺、無上、無障、無覆、完全、円満な、優れた一切の知識と見解が生じた。
そして尊い沙門マハーヴィーラは、価値ある方となった。勝者、一切者、全知者、全見者は、天・人・アスラの世界の転変を、理解した、見た。全世界のすべての生き物の、来たところ・行くところ・存在・死・生・推理・思考・思惟・食物・行為・楽しみ・明らかな行為・隠れた行為を、価値ある方は、秘密として取り分けることはなく〔すべて理解して〕、それぞれの時間を身・口・意の活動に従事しつづけ、全世界の全生き物の全状態を理解しつづけ、見つづけ、過ごした。
(メモ者による中略)
尊い沙門マハーヴィーラは死亡・逝去・他界し、生老死の縛りを断ち切って成就し、悟って解脱し、最後を作り、完全に涅槃し、すべての苦しみはなくなった。
(王子だし、釈尊っぽさがある伝記だな。途中から全裸だったり、修行が苦行なのが仏教との明確な違い。瞑想中に悟った)
第8章『ヴィヤーハパンナッティ』第九篇第三三章
――最初の母との邂逅と教団の分裂
(【第Ⅳ篇】はジャイナ教の祖師マハーヴィーラの伝記)
(【第8章】『ヴィヤーハパンナッティ』第九篇第三三章「クンダッガーマ」を収めた。前章においてマハーヴィーラは最初にバラモン族の夫人の胎に宿り、胎児のままクシャトリア族の夫人の胎に移った。本章前半では、最初の母であるバラモン族の夫人と夫がマハーヴィーラと再会し、出家して解脱するまでが描かれる。後半部では、最初の教団分裂を引き起こしたジャマーリの出家から死までが記され、仏典におけるデーヴァダッタの破僧事件を彷彿とさせる)
第8章担当は上田真啓(うえだ まさひろ) オススメされている人だ。
上田真啓(うえだ まさひろ)だけでなく堀田和義の名前もある。2人で担当。
訳注
p.518から
(2)
ジャイナ教では、世の中が良くなっていく上昇期と悪くなっていく下降期が、途切れることなく繰り返されると考える。両者ともに六つの段階に分けられており、解脱が可能となるのは、どちらも、良すぎも悪すぎもしない三番目と四番目の時代とされる。伝統的には、経典冒頭の「その時代」という表現は、下降期の第四期を、「その時に」という表現は、その中の特定の時期を指すと解釈される。
(7)
白衣派ジャイナ教聖典では、人物描写などに際し、既出の表現については「中略(jāva)」とのみ記して省略する技法が発達している。ただし、どこまでを省略するかという点に関しては確たる基準がなく、写本や刊本によって異なることも多い。
(8)
ヴェーダは、バラモン教の聖典であり、神々に対する讃歌の集成である『リグ・ヴェーダ』、祭式の準備から終了までの作法をまとめた『ヤジュル・ヴェーダ』、歌詠のための旋律と歌詞を内容とする『サーマ・ヴェーダ』、呪術的、魔術的な呪文の集成である『アタルヴァ・ヴェーダ』の四種類から成り、いずれも神々に対する祭式に深く関わるものである。これらはさらに、マントラの集成であるサンヒター、神話や伝説を交えて、祭式の規定や神学的説明をするブラーフマナ、アーラニヤカ、哲学的な問題を論じるウパニシャッドから構成される。
訳注p.520
(11)霊魂というのは、行為の主体であり、かつ行為の結果である苦楽を引き受け、輪廻転生する実体的な自我のことである。非霊魂は、それ以外のものを指す。沙門の伝統に連なるジャイナ教と仏教は、ともにヴェーダの権威を否定したが、実体的な自我の存在に関しては、見解を異にする。すなわち、ジャイナ教は実体的な自我の存在を認め、無我説を奉じる仏教は、その存在を認めない。実体的な自我の存在を認めない他の立場としては、インドの宗教界で忌み嫌われた唯物論者がいる。
p.414
続けた後、一箇月のサンレーハナー(38)によって自らを擦り減らした。一箇月のサンレーハナーによって自らを擦り減らした後、断食によって六〇食を断った。
p.524
(38)
しばしば、断食死などと訳され、自らの意志により、死に至るまで続ける断食行を指す。ジャイナ教において、断食死は理想的な死に方とされており、出家修行者だけでなく、在家信者にも推奨されてきた。一方、世俗的な立場からは、自己に対する殺生に相当するなどといった理由で非難されることが多い。これに対して、ジャイナ教では、断食死を実践することのできる条件が厳密に定まっていることや、殺生を行う者と断食死の実践者の心理的な側面の違いなどを強調して反論してきたが、現代においても議論は平行線を辿っている。
p.416
ナーガ(50)の祭り
訳注p.525
(50)
蛇、とりわけコブラを意味し、神話的には、人間の顔と蛇の体を持ち、パーターラと呼ばれる地底界に住む半神的存在とされる。ナーガに対する信仰は古く、非アーリヤ系の土着的な信仰に由来すると言われる。仏教においては、ブッダの教化によって仏法の守護神に組み込まれ、漢訳仏典で、竜、那伽(なが)などと訳された。
(この蛇人〔爬虫類人〕がスピ系の地底人の元ネタの一つだろう)
p.427
黄金でできた百八(83)の水瓶、——『ラーヤッパセーナイッジャ』におけるのと同様である——〈中略〉土でできた百八の水瓶によって、あらゆる富〈中略〉非常に大きな〔楽器などの〕音とともに、出家の灌頂を行った。
(※この「〈中略〉」はメモ者である私による省略ではなく、この本に書いてるのをそのままメモした)
訳注p.529から
(83)
インドにおいては、古来より、10、20……100などといったラウンド・ナンバー(端数を処理したきりのよい数)に八を加えることによって、多数や無限などといった意味を表すことがあり、百八もそのような数字の一つと考えられる。百八という数は、仏教ではとりわけ煩悩の数として知られている。
備忘録(メモ)は終わり。
参考資料
https://twitter.com/komorikentarou/status/1133705715439136768 と続き
”小森健太朗@相撲ミステリの人
@komorikentarou
ジャイナ教の戒律でも、肉食完全禁止、動物性たんぱく質もダメなので、卵も牛乳も乳製品もダメ。赤い色の野菜もダメ、根菜類もダメと禁止食物は多いのがヴィーガンに似てはいるが、ジャイナ教は別にヴィーガンを応援したり共闘したりしていないなー。
午後9:04 · 2019年5月29日
ಯುತಕಕವಸಕಿ
@suhamma
2019年5月30日
返信先:
@komorikentarou
さん
はじめまして.個人的体験ですが,数年前にロンドン大学のジャイナ教ワークショップに参加した時,イギリス在住ジャイナ教徒(インド人)がランチ時にヴィーガニズムのプロモーションを熱心にしていました.少なくともインド外ジャイナ教徒は,共闘していないという訳でもなさそうです.
小森健太朗@相撲ミステリの人
@komorikentarou
2019年5月30日
返信先:
@suhammaさん
コメントありがとうございます。ジャイナ教の方でしょうか??
ಯುತಕಕವಸಕಿ
@suhamma
2019年5月30日
返信先:
@komorikentarou
さん
私自身はジャイナ教徒ではなく,ジャイナ教を専門に研究している者です.
小森健太朗@相撲ミステリの人
@komorikentarou
2019年5月30日
返信先:
@suhammaさん
そうでしたか。ジャイナ教にも戒律を厳格に守る派と、ゆるめの派があると思いますが、戒律を厳格に守る派にとっては、移動手段としての飛行機などは使えないのではないですか?そうなると、ジャイナ教徒が英国に留学するのは無理になるのでは……?
ಯುತಕಕವಸಕಿ
@suhamma
2019年5月30日
返信先:
@komorikentarouさん
ヴィーガン活動をしていたのは在家信者です(在家信者は移動OKなので).伝統的に僧・尼は渡航できませんが,白衣派の改革派であるテーラパンタ(テーラパンティー)派は,通常よりランクが下の出家者を設定しており,サマニーと呼ばれる彼女ら(専ら尼さんです)は渡航可能で海外に留学もします.
ಯುತಕಕವಸಕಿ
@suhamma
2019年5月30日
返信先:
@suhamma
さん,
@komorikentarouさん
ロンドン大学にはイギリス在住ジャイナ教徒の出資でジャイナ教研究センターなるものがありまして,修士号や博士号が取得可能ということで,そこにテーラパンタ派のサマニーが実際に留学し,インド外の学会で積極的に発表してらっしゃるサマニーもおられます(私も昨年ヴァンクーバーで遭遇しました)
[枝:
ಯುತಕಕವಸಕಿ
@suhamma
返信先:
@komorikentarouさん
ヴィーガン活動をしていたのは在家信者です(在家信者は移動OKなので).伝統的に僧・尼は渡航できませんが,白衣派の改革派であるテーラパンタ(テーラパンティー)派は,通常よりランクが下の出家者を設定しており,サマニーと呼ばれる彼女ら(専ら尼さんです)は渡航可能で海外に留学もします.
午後4:17 · 2019年5月30日
小森健太朗@相撲ミステリの人
@komorikentarou
·
2019年5月30日
返信先:
@suhamma
さん
なるほど、ロンドン大学に留学しておられるのはテーラパンタの在家信者の方なのですね。
0件の返信 0件のリツイート 0 いいね
ಯುತಕಕವಸಕಿ
@suhamma
返信先:
@komorikentarou
さん
あ,留学しておられるのは在家信者ではなく,出家者です.サマニーはあくまでも「まだ修行(霊的レベル)がそこまで進展していないお坊さん(尼さん)」という位置づけです.
午後4:22 · 2019年5月30日
]
田蛙澄
@taatooru
2019年6月2日
返信先:
@komorikentarouさん
よろしければお聞きしたいのですが、ジャイナ教で赤い野菜が駄目というのは初めて聞いたのですが、どのような理由なのでしょうか。もし典拠をご記憶ならばお教えいただきたいのですが。
小森健太朗@相撲ミステリの人
@komorikentarou
·
2019年6月2日
返信先:
@taatooruさん
トマトなどの野菜が避けられるのは「血の色」に似ているためか、そういう理由だったと思います。典拠はさがせばありますが、インド暮らしでの実聞から知らされたことがらです。
”
ジャイナ教聖典選
https://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336073914/
”ジャイナキョウセイテンセン
ジャイナ教聖典選
河﨑豊/藤永伸 編・訳
上田真啓/藤本有美/堀田和義/八木綾子/山崎守一 訳
発売日 2022/09/16
判型 A5判 ISBN 978-4-336-07391-4
ページ数 572 頁 Cコード 3014
定価 7,700円 (本体価格7,000円)
[中略]
古代インドで仏教と同時期に同地域で誕生し、いまなおインドで続くジャイナ教。初期仏典にも多くの記録が残り、祖師マハーヴィーラは六師外道のひとりニガンタ・ナータプッタとされ、主な教義と死亡記事も伝わる。しかも、ジャイナ教聖典と同一の詩句が仏典中に多く見られ、仏教の教えとして伝わっている。
ジャイナ教徒はインド総人口のわずか0.4%ではあるが、19世紀にはインド民族資本の大部分を占めていたといわれ、マハートマ・ガーンディーの非暴力・菜食主義に影響を与え、南方熊楠はその徹底した不殺生を仏教よりも高く評価した。
本書には、ジャイナ教の二大分派である白衣派の聖典から、【第Ⅰ篇】には古層文献を、【第Ⅱ篇】には出家者と在家者との戒律文献を、【第Ⅲ篇】には初期仏典と共通する伝承から作られたパエーシ王の物語を、【第Ⅳ篇】にはジャイナ教の祖師マハーヴィーラの伝記を収めた。
【第1章】『アーヤーランガ』第一篇は、出家修行者が解脱を達成するために遵守すべき禁欲的な修行生活全般を主題とする。なかでも第九章は、マハーヴィーラ出家後の厳しい苦行生活を古風な韻文で描いた、最古の祖師伝である。
【第2章】には、『スーヤガダンガ』第一篇第四章と第五章第一節を収めた。前者は男性出家者が女性との接触を避けるべきことを教示しており、最初期ジャイナ教のジェンダー観に有意な資料を提供する。後者は最初期ジャイナ教の地獄観を表す資料であり、『スッタニパータ』などの初期仏典、ヒンドゥー教の大叙事詩『マハーバーラタ』や法典『マヌ法典』にも類似した観念が見出され、当時の地獄観の共通認識を知るうえで欠かすことができない。
【第3章】には『ウッタラッジャーヤー』から古層に属する第一章から第二〇章、そして第二五章を収めた。出家者の生活への心構え、説話、伝説、対話篇、修行論、解脱論や業論といった教学的議論など、さまざまな内容で構成され、仏典にも並行する詩句が見出される。
【第4章】『ダサヴェーヤーリヤ』(十夜経)は、基本的な教義や出家生活上の規定をまとめた白衣派の古層をなす聖典であり、現在でも出家の儀式を終えた者が最初に学習する派もある。
【第5章】『ウヴァーサガダサーオー』第一章は、白衣派聖典中、もっともまとまって在家信者の宗教生活を説く章であるとともに、後に数多く著された在家信者向けの行動規範マニュアルの祖型ともなり、ジャイナ教の在家信者観をうかがう上で欠かすことのできない資料である。
【第6章】には、来世を信じず霊魂と身体が同一であると主張するパエーシ王と、ジャイナ教僧ケーシの対話である「パエーシ王物語」(『ラーヤパセーニヤ経』後半部)を収めた。訳注には、これに並行するパーリ仏典と3本の漢訳仏典との対応箇所を記した。
【第7章】には、白衣派ジャイナ教在家者にもっともよく知られる『ジナチャリヤ』(ジナたちの伝記)からマハーヴィーラ伝を収録した。
【第8章】『ヴィヤーハパンナッティ』第九篇第三三章「クンダッガーマ」を収めた。前章においてマハーヴィーラは最初にバラモン族の夫人の胎に宿り、胎児のままクシャトリア族の夫人の胎に移った。本章前半では、最初の母であるバラモン族の夫人と夫がマハーヴィーラと再会し、出家して解脱するまでが描かれる。後半部では、最初の教団分裂を引き起こしたジャマーリの出家から死までが記され、仏典におけるデーヴァダッタの破僧事件を彷彿とさせる。
アルダマーガディー語原典から訳出された本書により、マハーヴィーラ在世時の姿が、ここに蘇る。
著者紹介
河﨑豊 (カワサキユタカ)
1975年生。東京大学附属図書館アジア研究図書館研究開発部門助教。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。
主な業績:『ブッダゴーサの著作に至るパーリ文献の五位七十五法対応語』(共著、山喜房佛書林、2014)、『原始仏典Ⅲ 増支部経典第六巻』(共訳、春秋社、2019)、“New and Rare Words” Collected by Helen M. Johnson from Hemacandra’s Triṣaṣṭiśalākāpuruṣacaritra (共編著、東京大学附属図書館アジア研究図書館上廣倫理財団寄付研究部門、2022) ほか。
藤永伸 (フジナガシン)
1956年生。京都光華女子大学特別研究員。広島大学大学院文学研究科博士課程後期満期退学。博士(文学)。
主な業績:『ジャイナ教の一切知者論』(平楽寺書店、2001)、“Six Dravyas,” in Brill’s Encyclopedia of Jainism. Leiden/ Boston, 2020. “New and Rare Words” Collected by Helen M. Johnson from Hemacandra’s Triṣaṣṭiśalākāpuruṣacaritra (共編著、東京大学附属図書館アジア研究図書館上廣倫理財団寄付研究部門、2022)ほか.
上田真啓 (ウエダマサヒロ)
1980年生。立命館大学非常勤講師。京都大学大学院文学研究科博士後期課程指導認定退学。修士(文学)。
主な業績:『ジャイナ教とは何か 菜食・托鉢・断食の生命観』(風響社、2017)、「ゴーサーラ伝——Vyāhapaṇṇatti第15章和訳(1)」(共訳、『仏教文化研究論集』第20号、東京大学仏教青年会、2020)、「Vyavahārasūtraの注釈文献研究」(『ジャイナ教研究』第27号、ジャイナ教研究会、2021)ほか。
藤本有美 (フジモトユミ)
1977年生。宮城県公立高等学校社会科教諭。東北大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。プネー大学大学院修了(Ph.D. in Prākrit)。
主な業績:「Vyavahārabhāṣya第一章に見られる住処での生活規定について」(『論集』第44号、印度学宗教学会、2017)、「Bhāṣya文献における追放(pāraṃciya)の規定について」(『ジャイナ教研究』第24号、ジャイナ教研究会、2018)ほか。
堀田和義 (ホッタカズヨシ)
1977年生。岡山理科大学教育推進機構基盤教育センター准教授。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。
主な業績:『よくわかる宗教学』(共著、ミネルヴァ書房、2015)、「ゴーサーラ伝——Viyāhapaṇṇatti第15章和訳(1)」(共訳、『仏教文化研究論集』第20号、東京大学仏教青年会、2020)、“New and Rare Words” Collected by Helen M. Johnson from Hemacandra’s Triṣaṣṭiśalākāpuruṣacaritra (共編著、東京大学附属図書館アジア研究図書館上廣倫理財団寄付研究部門、2022) ほか。
八木綾子 (ヤギアヤコ)
1978年生。京都大学非常勤講師。京都大学文学研究科博士後期課程指導認定退学。博士(文学)。
主な業績:「AMg Apaḍinnaの意味について」(『ジャイナ教研究』第14号、ジャイナ教研究会、2008)、‘A Sketch of the Life of Terāpanthi Nuns: A Jain Śvetāmbara Sect in Lāḍnūn.’ (『ジャイナ教研究』第19号、ジャイナ教研究会、2013), ‘Meaning of AMg. allīṇa and pallīṇa.’ in Jaina Studies: Select Papers presented in the ‘Jaina Studies’ Section at the 16th World Sanskrit Conference, Bangkok, Thailand & the 14th World Sanskrit Conference, Kyoto Japan. Ed. by Nalini Balbir and Peter Flügel. New Delhi: DK Publishers Distributors, 2018ほか.
山崎守一 (ヤマザキモリイチ)
1948年生。中央学術研究所顧問。東北大学大学院文学研究科博士後期課程修了。文学博士。
主な業績:A Pāda Index and Reverse Pāda Index to Early Jain Canons: Āyāraṅga, Sūyagaḍa, Uttarajjhāyā, Dasaveyāliya and Isibhāsiyāiṃ, Tokyo: Kosei Publishing Company, 1995(共編), 『沙門ブッダの成立——原始仏教とジャイナ教の間』(大蔵出版、2010)、『古代インド沙門の研究——最古層韻文文献の読解』(大蔵出版、2018)ほか。
”
[2023年5月27日に追加:
https://twitter.com/suhamma/status/1574945454118535168
”યુતકકવસકિ
@suhamma
あと出家前の女性が悪い霊にとりつかれてしまって、このままではまともにジャイナ教徒としての生活ができないので、正気に戻っているうちに断食死を決行するという例などもあります(現代の実話)
引用ツイート
頁(おおがい)
@Notpoteo
·
2022年9月27日
仏教における自死の問題は最近大谷先生の研究でかなりホットだけど、ジャイナ教での自死については「災難、飢饉、老齢、不治の病など…すでに何らかの形で死期が迫っている」時のみ認められるという。初期仏典に見えるチャンナの自死についてはジャイナ教で認める「不治の病」との関連が伺えるかも。
午前11:13 · 2022年9月28日”
યુતકકવસકિ
@suhamma
ジャイナ教の断食死、死期が迫っている時に認められるのは確かにそうですが、なぜ死期が迫っている時に認めるかというと、人間死にかけてるとまともにジャイナ教の戒律が守れなくなるでしょう。戒律を守れるかどうかが最大の基準であり、死期は要因の一つに過ぎないのですわ。
午前11:19 · 2022年9月28日
યુતકકવસકિ
@suhamma
ものすごく簡単に(というか仏教風に)言えば,「なんらかの煩悩に突き動かされて自ら命を絶つ」と「自殺」になり,「煩悩なく断食して死ぬ」と「自殺」にはならない,というのが基本線だと思います.細かい議論のヴァリエーションは色々とあるでしょうが.
午後4:31 · 2018年1月19日
યુતકકવસકિ
@suhamma
ああそうだ,日本語で,堀田さんの優れた論文がありました:堀田和義「死に至る断食 : 聖なる儀礼か自殺か?」『死生学研究』10, 2008, 223-243. 無料でPDFが公開されています → http://jairo.nii.ac.jp/0021/00016250
午後4:35 · 2018年1月19日
યુતકકવસકિ
@suhamma
その一方で,例えば,憑き物にとりつかれてしまった出家前の女性が,これではジャイナ教の教えを損じてしまうというので,正気に戻っている間に断食死を決行し見事死んだ事例がありますが(現代の話です),これは「自殺」とは考えない.
午後4:40 · 2018年1月19日
યુતકકવસકિ
@suhamma
飛び降りに限らず,ジャイナ教は自殺に対して極めて否定的ですね.なお断食死は自殺ではありません.念のため.
午前11:06 · 2021年7月21日
યુતકકવસકિ
@suhamma
馬鹿が酷い悪業を犯しても断食でその全てを焼き払えるぞい,という断食最強説を説くジャイナ僧の記述にぶちあたっている(yad ajñānena jīvena kr̥taṃ pāpaṃ sudāruṇam / upavāsena tat sarvaṃ dahaty agnir ivendhanam // Br̥hatkathākośa 57.516//)
午前10:18 · 2022年12月4日
https://twitter.com/suhamma/status/1599223434571304962 と続き
”યુતકકવસકિ
@suhamma
早くも二詩節後に「誓戒と断食という水によって悪という垢を放棄することができる」などと日和りだした(dhmāyamānaṃ yathā lohaṃ malaṃ tyajati sarvataḥ / vratopavāsatoyena tathā pāpamalaṃ tyajet //57.518//).断食だけでええんとちゃうんかい
引用ツイート
યુતકકવસકિ
@suhamma
·
2022年12月4日
馬鹿が酷い悪業を犯しても断食でその全てを焼き払えるぞい,という断食最強説を説くジャイナ僧の記述にぶちあたっている(yad ajñānena jīvena kr̥taṃ pāpaṃ sudāruṇam / upavāsena tat sarvaṃ dahaty agnir ivendhanam // Br̥hatkathākośa 57.516//)
午前11:05 · 2022年12月4日
યુતકકવસકિ
@suhamma
うーん「vrata たる upavāsa」と読むほうがいいのか.
午前11:23 · 2022年12月4日
”
https://twitter.com/suhamma/status/1009640004715335680
”
”4月頃に「ジャイナ教を勉強したいのだが…」という質問を受けて取り敢えず入門書一覧めいたものを作ったんですけど,またそういう問い合わせが来たので,この際私が作成した一覧を画像でアップしてみます. pic.twitter.com/bmBbStQI3n
— યુતકકવસકિ (@suhamma) June 21, 2018
યુતકકવસકિ
@suhamma
ジャイナ教では一般に断食死のことをサッレーカナーと言いますが,それが自殺ではないという議論については,たぶん英語版ウィキペディアが簡潔にまとまっている
en.wikipedia.org
Sallekhana - Wikipedia
午後4:22 · 2018年1月19日
યુતકકવસકિ
@suhamma
つい最近出たジャイナ教の断食死の現状(裁判で違憲とかされたりしてますのでジャイナ教徒的には割と問題は深刻)をめぐる論文集,少しずつ読もうとしているがなかなか重要で,今後の基本参考書のひとつになるような
https://bibliaimpex.com/index.php?p=sr&format=fullpage&Field=bookcode&String=9788124610480&Book=Sallekhana:%20the%20Jain%20approach%20to%20dignified%20death
,
画像
午後11:07 · 2021年1月3日
યુતકકવસકિ
@suhamma
बृहत्कथाकोश 124話,ジャイナ教徒の国王が敵王と戦争して勝利し,その後断食して天界に行くのだけど,まあそれでいいんでしょうね…
午前10:12 · 2022年12月31日
·
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યુતકકવસકિ
@suhamma
starve は私どもジャイナ学徒には馴染みの言葉ですけどね(断食死を表現するのに、この動詞を使う学者がいる)。子供服ブランドの名前が「飢餓」なんて、悪い冗談にもならない。
午前10:51 · 2012年8月21日
યુતકકવસકિ
@suhamma
とにかくここ数ヶ月でジャイナ教説話から私が学んだことといえば、なんか現実世界でややこしいことに巻き込まれたら、断食するか、断食できなければ pañcanamaskāramantra を唱える・念じれば打開されるということですね・・・
午前10:33 · 2023年1月29日
·
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યુતકકવસકિ
@suhamma
なおジャイナ的には、自殺とは煩悩ゆえに文字通り自らを殺すこと、つまり殺生に他ならないが故にアウトです。いや君ら断食死するやんというツッコミは今も昔もありますが断食死は自殺に非ずのロジック(の変遷)はそれだけで研究の対象でしょう。
午後1:58 · 2017年7月21日
યુતકકવસકિ
@suhamma
1/10発売予定.皆さん買いましょう
ジャイナ教とは何か──菜食・托鉢・断食の生命観 (ブックレット《アジアを学ぼう》) 上田 真啓 https://amazon.co.jp/dp/4894897989/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_bgAuAbT1CMXF6
@amazonJP
さんから
amazon.co.jp
ジャイナ教とは何か―菜食・托鉢・断食の生命観 (ブックレット《アジアを学ぼう》)
ヒンドゥー教・仏教と並ぶインドの伝統的宗教。知られざる教義と歴史、出家と在家の実践、その独自の生命観を食生活から紹介。
午後1:27 · 2018年1月7日
યુતકકવસકિ
@suhamma
電化製品使わないか、と言われてみると、断食死決行中のお坊さんの傍でヒーター入れてたのを見たけど、あれは電気ヒーターだったような。
午前9:04 · 2015年3月31日
યુતકકવસકિ
@suhamma
なお、根本的な問題 ― 断食死は自殺ではないの?は、ジャイナ教徒は断食死を自殺とは考えない。だから訳語は割と困って(suicideという訳語は我々は使いません)、Zydenbos教授は `self-determined ritual euthanasia' を提案してます。
午後8:17 · 2011年9月11日
યુતકકવસકિ
@suhamma
ということで聞いています.最初はジャイナ教の医学文献 Kalyāṇakālaka についてのキーノートレクチャー.alchemy に関する話題が中心ですね
Illness, Medicine, and Healing in the Jain Tradition - UC Riverside
events.ucr.edu
Illness, Medicine, and Healing in the Jain Tradition
UC Riverside Jain Studies Symposium 2020, December 12-13, 2020, 9:00am-4:00pm (PST)
午前2:49 · 2020年12月13日
યુતકકવસકિ
@suhamma
某ジャイナ教文献にある、「断食死(サッレーカナー)は自殺(アートマ・ヴァダ ātmavadha) だろう」、という仏教徒からの論難に、「いやお前らアートマン認めてへんのにアートマ・ヴァダとか何言うてますのん」と批判し返す箇所を読んでいる…
午前8:43 · 2016年4月22日
髙山龍智🇮🇳जयभीम वाला
@nagabodhi
@suhamma
その時の仏教の坊さん、आत्मा वध(アートマ・ヴァダ)をSpirit Slaughterの意味から「殺生だ!」と云ったんでしょうが、無我=アナートマーは否定冠詞アン+アートマーですから、その意味ではアートマー概念ありきの考え方ですからね。
午前8:58 · 2016年4月22日
યુતકકવસકિ
@suhamma
@nagabodhi
そうなんですよね。まあジャイナ教徒が書き残していることなので、どこまで真実を伝えているかは定かではないのですが…仏教徒の残した文献でジャイナ教の断食死を批判している箇所などが見つかると、いいのですけれど。
午前9:01 · 2016年4月22日
યુતકકવસકિ
@suhamma
にしても、断食死マニュアルをやってるの、本当に世界中で僕と Soni 先生だけですな…。で僕も流石にそろそろ断食死マニュアルからちょっと離れたいような。
午後10:29 · 2015年4月24日
યુતકકવસકિ
@suhamma
まあそんな事を言い出したら、ジャイナ教の断食死文献の研究者も、今のところ世界に儂しか居ないわけですが。強制的に世界の最先端。
午後1:53 · 2013年5月4日
યુતકકવસકિ
@suhamma
しかし、これはどうするのかな。今の世界期は「下降・減退」期で、人間の質も劣化するから、愚かしい世俗の法律によって断食死すら許されない…というような解釈をしていくのだろうか、ジャイナ教徒は。
午前8:25 · 2015年8月11日
યુતકકવસકિ
@suhamma
ちなみに昨年末はカルナータカ某所でまさしく断食死決行中の裸形派のお坊様にもお会いすることができました。
午後11:01 · 2015年9月5日
યુતકકવસકિ
@suhamma
にしても、毎日毎日、死ぬことばかり考えてるな。いや、小さいときから死ぬことを考えない日なんて殆どなかったけど、ここんとこはそれがちょっと酷い。しかも今は断食死文献の精読に没頭してるし(笑)。
午後6:42 · 2012年11月12日
યુતકકવસકિ
@suhamma
2011年10月22日
で、夕食を食べに行った積りがつい書店に寄ってしまい、つい書籍を買ってしまい、つい夕食代を使ってしまったので、今日は絶食。そういえば今日は、6日間の断食なるものを勧められたのだった。でも年末年始だなー、試すとすれば。キツいのは最初の二日だけらしい。
追加ここまで]
[2023年6月5日に追加:
2023年6月5日に『ジャイナ教聖典選』の著者の1人に発見されRTされた笑 読書メモ記事へのリンクがある私の呟きが著者にRTされたのは恐らく初。記事の内容への発言(つぶやき)は無し。
2023年6月5日の通知欄の一部:
”
યુતકકવસકિ
さんがあなたの返信をリツイートしました
大勇者の教えである『ジャイナ教聖典選』http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-506.html
マハーヴィーラ(「大勇者」)は修行完成後の敬称であり、俗名はヴァッダマーナ(「増益」)とされる。…ニッガンタ(「束縛を離れた者」)や、ジャイナという表現の由来であるジナ(Jina「勝者」)は、彼が達した宗教的境地を示す。…
”
このアカウントに行って確認した:
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/1664938144691634176
”યુતકકવસકિさんがリツイートしました
子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子)
@kitsuchitsuchi
大勇者の教えである『ジャイナ教聖典選』http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-506.html
マハーヴィーラ(「大勇者」)は修行完成後の敬称であり、俗名はヴァッダマーナ(「増益」)とされる。…ニッガンタ(「束縛を離れた者」)や、ジャイナという表現の由来であるジナ(Jina「勝者」)は、彼が達した宗教的境地を示す。…
yomenainickname.blog.fc2.com
大勇者の教えである『ジャイナ教聖典選』
目次『ジャイナ教聖典選』備忘録(メモ)参考資料『ジャイナ教聖典選』備忘録(メモ)https://twitter.com/KokushoKankokai/status/1570600262082895872“国書刊行会@KokushoKankokai【新刊】『ジャイナ教聖典選』http://ow.ly/oovz50KL6Tq 超難解言語アルダマーガディー語原典から直接訳出された本書により、祖師...
午後7:12 · 2023年6月3日
·
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”
追加ここまで]
お読みくださり感謝!
『インド人の論理学』は論理学、アートマンの定義、議論の規則、詭弁対策、龍樹『中論』の解説などが書いてある当たり本
Posted on 2022.09.16 Fri 19:46:24 edit
『インド人の論理学』は論理学、アートマンの定義、議論の規則、詭弁対策などが書いてある当たり本
論理学が重要な理由↓
論理的思考なのかどうか、つまり自分の思考に矛盾がないか検証できないからね。
陰謀追及するなら詭弁対策は最重要分野の1つだ。
なんで本教もイスラームも「まずは論理学やるのか考えた事ある?」
— 来世は工口触手@キール (@aoJvqLcHOrs7UWg) August 28, 2020
論理学をやれば「正しい組み立てと詭弁・レトリックも自在に語れるようになる」からだよ
で、聖書やクルアーンはその演繹として機能するわけで権力への隷従も抵抗も叛逆も自由自在に説かれ・説く事が出来るからだよ
https://twitter.com/aoJvqLcHOrs7UWg/status/1299457672513646592?ref_src=twsrc%5Etfw
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
なんで本教もイスラームも「まずは論理学やるのか考えた事ある?」
論理学をやれば「正しい組み立てと詭弁・レトリックも自在に語れるようになる」からだよ
で、聖書やクルアーンはその演繹として機能するわけで権力への隷従も抵抗も叛逆も自由自在に説かれ・説く事が出来るからだよ
午前6:23 · 2020年8月29日·Twitter for Android”
(論理学をやらないと、他人の言葉どころか自分の思考の検証すらまともにできない。
論理学の中では最低でも詭弁対策は謀議追及では必須。必須度は最上位。
シーア兄貴の講義で「詭弁を使わずに説得する」ことの重要性を強く感じた。
でないと「そのアッラーとかいう神さまやらはあんたらに詭弁と暴力で布教せよって教えてんの? たいした神ですなあ(嘲笑)」ってなるもんな。わざと、「アッラー」と「神」という表現を使った。いつもは、形而上とか必要存在とか必須存在とか超越存在とかゴッドやそれに類する表現を使うようにしている)
https://twitter.com/aoJvqLcHOrs7UWg/status/1299456114094780416 と続き
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
あのさー
「どんな概念・観念もその時にポッと出てくるものではねーの」で「ポッと出て来たように見えるのは歴史しか知らなくて内部でいわれてきた事を知らねーから」だよ
宗教が権力に隷従していたのは布教活動を自由にするためで内部ではいっくらでも自由に語られていたのを知らねーからだろ
お前
午前6:17 · 2020年8月29日·Twitter for Android
なんで本教もイスラームも「まずは論理学やるのか考えた事ある?」
論理学をやれば「正しい組み立てと詭弁・レトリックも自在に語れるようになる」からだよ
で、聖書やクルアーンはその演繹として機能するわけで権力への隷従も抵抗も叛逆も自由自在に説かれ・説く事が出来るからだよ
午前6:23 · 2020年8月29日·Twitter for Android
真っ当な経典・啓典宗教というのは幅を持っていて「時代の必要に応じて分派が現れてくる」わけなんよ
但し「立場があるからそれを潰す・潰される」わけで一般的な歴史というのは「起こった事しか書き連ねないので近い経緯しか語られない」のだから、~史というのは「全体を知らないと使えない」んよ
午前6:29 · 2020年8月29日·Twitter for Android
だから、ゴミみてーな本読む暇があるなら重要古典読んで一万時間考え・戦う方が意味ある言うただろ
それが全体知るのに一番手っ取り早いからなんよ
わざわざ一番楽で簡単な方法言っているのに従わないのは「お前が情報ヲタク」だから、一生それやってろ
午前6:45 · 2020年8月29日·Twitter for Android
”
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/1408806953254486023 と続き
”
『わかる仏教史』はこれ一冊で終わらせるとまずい入門書https://t.co/kOBkdv0u1m
— 子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子) (@kitsuchitsuchi) June 26, 2021
”南都の学問寺では、仏教学である内明(ないみょう)だけでなく、
医方明(いほうみょう)(薬学、医学)、
工巧明(くぎょうみょう)(数学、建築土木学)、
声明(しょうみょう)(サンスクリット語文法学、朗誦学)、
因明(いんみょう)(論理学)の合わせて五明が必須科目とされた。
…
論理学は詭弁対策にもなるから重要。陰謀追及するなら最低でも論理学のうち、詭弁対策特化の本を1冊は読まないとダメ。
「+孫子+史記+韓非子+ローマ史+詭弁対策+思想史+心理学(特に詭弁と洗脳手法関連)+護身術など」以下略”
午前0:21 · 2021年6月27日
菊池
@kikuchi_8
返信先:
@kitsuchitsuchiさん
ブログ記事のご紹介を頂きありがとうございますm(_ _)m論理学はとても重要ですね。陰謀追及者の必須科目です。私も因明に興味があり少し勉強した事があります。「因の三相」「遍是宗法性」など表現はゴリゴリに古風ですが、内容は論理学そのものです。孫子~護身術まで昔の武芸百般と同じかもですね。
午前5:24 · 2021年6月27日·Twitter Web App
”
本書では演繹と帰納という単語が多用されるのだが、これらの訳語はよくない訳語なんだよなあ。メモは本書通りに記すから安心してほしい。
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/1520710754173059074 と続き
”
シーア兄貴(イラソのアレ来世触手)2022/3/3~4/4と良呟きや記事の保管庫 https://t.co/NpTS0Eevdh
— 子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子) (@kitsuchitsuchi) May 1, 2022
木×3 鴎外(おそらく尻社員)と親戚である「西洋を周くせん」が誤訳で日本語を侵略していることについてなどについて。思考に関わる単語レベルで干渉されていることを自覚しないと正名はできない。
演繹(ディダクション)と帰納(インダクション)は語源を使って、導出と導入か
下導と上導と訳した方が良かったのでは?
deductio(デドゥクティオ)は
より上位に位置する普遍的な概念から、その「下」位に位置づけられる個別的な概念や具体的な事物の存在を「導」き「出」すという推論の形式。
deductioは上から下に下る。
インドゥクティオは具体的事物や個別的な事例を挙げることによって、そこから普遍的な結論を導き出すから、上へ導くまたは上を導く。
インダクションは下位に位置する個別的な概念や具体的な事例を「上」位の普遍的な概念へと「導」き「入」れ昇華するとという推論の形式。
朱熹〔中庸章句の序〕: 是(ここ)に於て、堯舜以來相ひ傳ふるの意を推本し、質(ただ)すに平日聞く所の父師の言を以てし、更互に演繹して、此の書を作爲す。
(私の不正確であろう訳:
ここにおいて、堯舜以来伝わってきた意味を大本まで推し量り[徹底究明して]、父のように敬愛する師のおっしゃった
ことをもって不明な点を明らかにし、交互に「演繹[意義をのべ明らかに]」して、この書を作った)
更互(こうご):かわるがわる。交互。
交互なので「上から下を導き出す」という意味ではないからdeductionを演繹と訳すのは誤訳。おそらく儒教を破壊するための意図的な誤訳。
観念(イデー)も誤訳。
西周「観念の字は仏語に出づ、今此書には英のアイデア、仏のイデーなる語を訳す」
仏教用語だと観念は「心静かに智慧で一切を観察すること。物事を深く考えること」。
イデー(心に現れる表象、想念、意識内容)の訳語にあてるのは不適切。仏教だと自覚しているから意図的な誤訳だろうな。憑依戦術。
思考と推論に関係する誤訳で思考に干渉し続けているから注意。彼と親戚の鴎外も怪しい。
『石の扉』p.199の一部を要約。
西(洋)周(くせん)は、ライデン大学から徒歩五分の所にあるラ・ベルトゥ・ロッジNo.7でフリ目に加盟。推薦はフィッセリング教授。入会申し込み書署名の写真がある。要約終了。
”
インド人の論理学【法蔵館文庫】
問答法から帰納法へ
https://pub.hozokan.co.jp/book/b552184.html
”インド人の思考法は、観察から法則を導き出す帰納法的思考であった。独自に発展した論証法の淵源を仏教の縁起の教えに見出した名著。 ”
新版というか強化版が出たんだな。
法蔵館文庫入りした桂紹隆『インド人の論理学 問答法から帰納法へ』が届いたので、文庫版あとがきを読む。旧版(1998年)刊行後の発展へのフォローや、批判への応答的補足、また、文庫版で行った用語修正、訂正、不正確な翻訳の修正について該当箇所に触れるなど充実。https://t.co/V27qKNmUzl
— 猫の泉 (@nekonoizumi) January 17, 2021
この文庫版あとがきの最後には、旧版あとがきで「準備中」とした本『仏教論理学』が未出版であることに忸怩たる思いがあるとしたうえで、「何らかの形で約束を果たすことができれば」とある。楽しみに待ちたい。
さらに、文庫版あとがきの後に6ページにわたって「参考文献の追加」というコーナーがあり、2000年~2020年の17文献が紹介されている。最後にはつい最近ネット公開されたばかり(2020年12月)の博論にまで言及がある。素晴らしい。
ちなみに言及があるという博論とはこれのこと。
— 猫の泉 (@nekonoizumi) January 17, 2021
小野卓也「インド古典討論術研究 : ウダヤナ『ニヤーヤ・パリシシュタ』における詭弁と敗北の場合」https://t.co/fzeDPH60y0
博論著者のブログを見つけたけど、そこに「査読して下さった先生が御著書の中で言及したいというので公開手続きを行った。」とあり、審査委員にも名を連ねておられるので、むしろ今回の本で言及するための公開だったのかな?https://t.co/WUwqmdDKQE
— 猫の泉 (@nekonoizumi) January 17, 2021
[小野卓也のサイト↓
博士論文のネット公開 – 洞松寺住職ブログ
by adminin Indiaon 投稿日: 2020年12月1日
”3年前に提出した博士論文『インド古典討論術』がネットで全文公開された。
本当はすぐに公開することもできたが、指導教官から紙の本にしたほうがよいと勧められて一旦は非公開に。紙の本にする計画は一向に進まないまま1年半経ったところで、査読して下さった先生が御著書の中で言及したいというので公開手続きを行った。
詭弁の分類とディベートのルールという、研究者が少ないインド哲学の中でも、全国で10人もいない超マニアックなジャンルなので、ネット公開でよかったと思っている。興味のある方はダウンロードしてみて下さい。
東京大学学術機関リポジトリ:インド古典討論術研究 : ウダヤナ『ニヤーヤ・パリシシュタ』における詭弁と敗北の場合
”
]
インド人の論理学 : 問答法から帰納法へ 桂 紹隆(著) - 中央公論社
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784121014429
”初版年月日
1998年10月
(中略)
インド人の思考法の基本は、観察から法則を導き出す帰納法にある。それがギリシャのアリストテレスが創造した演繹法的論理学との最大の違いである。彼らの帰納法的な思考の淵源は、インド文法学の伝統と、さらにさかのぼってブッダの「縁起」の教えにあると推測される。本書は、インドにおいて、どのような論理的思考が、いかにして発展していったか、インドの人々の考え方の基本を、歴史的に明らかにしようとする試みである。
”
専門家もオススメしている。
(ジャイナ教の研究者のおすすめ本:)
https://twitter.com/suhamma/status/342217959424552961
”ಯುತಕಕವಸಕಿ
@suhamma
渡瀬信之『マヌ法典』
矢野道雄『占星術師たちのインド』
桂紹隆『インド人の論理学』
林隆夫『インドの数学』
大林太良『神話学入門』
#個人的中公新書ベスト5
午後6:54 · 2013年6月5日·Twitter Web Client”
https://twitter.com/mandana_misra/status/1360221554131357696 と続き
”川尻道哉
@mandana_misra
『インド文明の曙』辻直四郎、岩波新書
『インド哲学10講』赤松明彦、岩波新書
『インド人の論理学』桂紹隆、中公新書
新書という枠組みで読みやすく役立つもの。このハッシュタグでインド学関係があまり見当たらないので。
#専門家が選ぶ新書3冊
午後10:37 · 2021年2月12日·TweetDeck
ちなみに桂先生の『インド人の論理学』は中公では絶版だが法蔵館がリマスター版を出している。それから
定方晟『須弥山と極楽』(講談社現代新書)もとても面白いがトピックが限定的なので三冊には含めなかった。
#専門家が選ぶ新書3冊
午後10:45 · 2021年2月12日·TweetDeck
”
https://twitter.com/mandana_misra/status/1465683765192437761 と続き
”川尻道哉
@mandana_misra
最近フォロワーの方が増えてきたので改めて自己紹介すると、私はバンドマン崩れのキモオタのインド学者で、東海大学で禄を食んでいます。大学ではなんでも屋扱いで本業を忘れられがちですが、だいたいこのようなことをしています↓
https://researchmap.jp/read0118187
午後11:06 · 2021年11月30日·TweetDeck
川尻道哉
@mandana_misra
researchmap に書いていないことだと、天竺奇譚先生 @tenjikukitan
やアンジャリさん @anjali_masala
とインド神様講座をやったり、大学の生涯学習講座で映画の話をしたりしてました。専門は文法学や言語理論ですがまあいろんなことをしています。
午後11:13 · 2021年11月30日·TweetDeck
”
https://twitter.com/moroshigeki/status/1488864024884178944 と続き
”師茂樹 MORO Shigeki
@moroshigeki
調子に乗ってもう一つ。存在や認識、論理など、インド的な形而上学を知るのに有益だと思う新書を3つ(1つは元新書)。3冊目は第9章「インドの形而上学」のみ(苦しい)。
・インド哲学10講 https://amzn.to/3L6Or5K
・インド人の論理学 https://amzn.to/3gfDlNJ
・世界哲学史3 https://amzn.to/3L1Glvf
画像
午後10:16 · 2022年2月2日·Twitter Web App
唯識や因明に関心がある人は、このへんを押さえておくといいんじゃないでしょうか、みたいな感じ。
午後10:19 · 2022年2月2日·Twitter Web App
”
では本題に入る。
私は、桂紹隆『インド人の論理学』中公新書、1998年ではなく新版の方を読んだ。
メモ開始。
本書は一九九八年十月二五日、中央公論社より「中公新書」として刊行された。
(法蔵館文庫版の出版年月日は2021/01/15)
まえがき
第一章 インドに哲学はあるか?
インドの「哲学」
アーンヴィークシキー (哲学)
アーンヴィークシキー(論理的探求)
哲学の三つの伝統
ギリシャの哲学――弁論術・問答法・論証法
中国の哲学
インドの哲学
第二章 インド論理学の構造
インド哲学への歩み――神話から哲学へ
新たなる神話――業報・輪廻
p.48
人は死ぬと天上の楽土に行くというヴェーダ時代の楽天的な死生観は、やがて天上界における「再死」という観念を経て、ウパニシャッド時代になると、火葬にふされたものは、煙となって天上界に昇るが、「神の道」を通って不死の世界に赴かない限り、「祖霊の道」を通り、雨になってこの地上に舞い戻り、食物連鎖を経て、再生を繰り返すという絶望的な輪廻説へと転換する。一方、よい行為をした人は楽しい結果を得、悪い行為をした人は苦しい結果を得るという業報の思想は、本来輪廻説とは独立に成立したものであろうが、行為の結果は死後も行為主体につき従うと考えられるようになると、輪廻説を正当化する原理と見なされるようになったのであろう。
哲学体系の形成
p.49
紀元前四~前三世紀になると、バラモン教の内部からも、新しい韻文スタイルのウパニシャッドが登場し、そこからインドにおける最初の哲学派というべき、サーンキヤ学派が成立していくのであった。サーンキヤ学派は、ウパニシャッドのブラフマンに当たるものとして、現象世界の根本原因である「原質」(プラクリティ)を立て、アートマンに当たる「精神原理」(プルシャ)と峻別する典型的な物心二元論を主張したが、「人生は苦である」と考え、苦を除去する方法を提示しようとする点、ヴェーダの祭式主義に批判的な点など沙門派と共通する姿勢が見られる。後になって、サーンキヤ学派の二元論は、バラモン教の衰退と入れ替わるように登場し、インド土着の民間信仰を色濃く反映すると考えられるヒンドゥー教の思想的基盤として重要な役割を果たすのである。
認識論・存在論・宇宙論・解脱論
ニヤーヤ学派
(一)認識論
知覚
三種の推理
『チャラカ・サンヒター』
p.56
「共通性にもとづいて(サーマーニヤトー)認識する(ドリシュタム)推理」とは、例えば現在目に見える煙から、隠されているが現に存在する火を推理する場合である。
ヴァーツヤーヤナ
p.57から
『ニヤーヤ・スートラ』の注解者ヴァーツヤーヤナは、『チャラカ・サンヒター』等とは異なる二様の解釈を提示する。
「サーマーニヤトー・ドリシュタム」は、前二者とは違って、全く知覚できない対象領域に関する推理である。例えば先にある場所で見られた人が、後に別の場所で見られるのは、彼が歩行するからであろうが、太陽も同様に東から出て西に沈むのが見られるから、知覚はされないが太陽の運行が推理されるのである。この種の推理は、サーンキヤ学派の「原質」や「精神原理」のように、定義上知覚されえないものの存在証明にしばしば利用されたのであった。
ヴァーツヤーヤナの別釈によると、
「サーマーニヤトー・ドリシュタム」は、例えば欲求などの心理作用から知覚不可能なアートマンの存在を推理するように、煙と火の場合と違って、欲求とアートマンとの間の関係が知覚されることはなくても、
「欲求は属性である。属性は実体に依存する。
したがって、欲求が依存する実体、すなわちアートマンが存在する」
というように、間接的に推理する場合である。
推理を正当化する関係
煙と火のような結合関係、もしくは角と牛のような内属関係
Aと徴表としてBの存在を推理できると言う。
牛特有の角が見えれば、そこに見えなくても牛がいることが推理される
その他の知識手段
p.62
ニヤーヤ学派は、第三の知識手段である「比定」を次のように定義する。
周知のものとの相似によって、証示されるべきものを証示するのが「比定」である。
例えば、町に住む人が「ガヴァヤは牛に似ている」と教えられた後、森に行って、牛とよく似た四足動物を見つけて、「これがガヴァヤだ」と理解するような場合である。牛とガヴァヤとの類似性にもとづく認識であるから服部訳では「類推」(Analogy)と訳されるが、未知の対象に名称を適用することであるから「比定」(Identification)という訳語を採用しておく。
(二)存在論
p.66から
ヴァーツヤーヤナの『注解』によると、「アートマン」はすべてのものを認識する主体、あらゆる事柄を経験する主体であり、その経験の起こる場所が身体、経験の道具が感覚器官、経験されるべきものがその対象、経験内容が意識である。知覚によって捉えられない「アートマン」は、欲求・嫌悪・意志的努力・快感・不快感・知識という特有の属性によってその存在が推理される。
(
このアートマンって不滅の霊魂とか不滅の精神と同じような意味だな
)
「意識」(ブッディ)はアートマン特有の属性であり、認識(ウパラブディ)や知識(ジュニャーナ)と同義語である。
すべてのものが感覚器官によって知覚されるわけではない。記憶・推理・証言・疑い・想像・夢の中の意識・思慮・快感などの内的知覚および欲求などの心理作用の原因として、「思考器官」が要請される。感覚器官によって知覚された内容は、思考器官によってアートマンへ伝達される。
アートマンが、生命体を構成する諸要素である身体・感覚器官・思考器官・意識・感受との結合を捨てるのが死であり、別の諸要素と再び結合するのが「転生(てんしょう)」である。
ヴァイシェーシカ学派の六つのカテゴリー
普遍と特殊
内属
実体
p.73
(ヴァイシェーシカ学派について)
最後に「アートマン」と「思考器官」(マナス)がある。いずれも原子の複合体ではなくて、虚空などと同様に単体であり、知覚不可能である。知覚できないアートマンの存在論証は、ローカーヤタ学派や仏教徒を除いて、すべてのインド哲学諸派にとって共通の重要な課題であった。思考器官は、既に述べたように、感覚器官によって知覚された対象に関する情報をアートマンに伝達する役割を果たしている。原子大であり、一つの感覚器官から別の感覚器官へきわめて敏速に移動するので、私たちは音楽を聴きながら、同時に踊り子を見ているという錯覚を生じるのだとされる。ヴァイシェーシカ学派は、二種の知覚が同時に生じることを認めず、またそれが思考器官の存在証明となると考えている。なお知覚や推理などの認識は、実体ではなくて、アートマン特有の属性とされることを注意しておく。
(実体は九種あり、地・水・火・風・虚空・時間・方位・アートマン・思考器官の九種)
属性と運動
第七のカテゴリー
(三)因果論、 そして宇宙論
p.76から
(四)解脱論
(五)論理学
p.83
「ニヤーヤ学」の目指すところは、アートマンを初めとする対象の正しい認識であり、
(ここからp.84)
その結果としての解脱である。したがって、「ニヤーヤ」を「論理学」あるいは「論証法」と理解するなら、マティラルが最後に言ったように、インド人の論理学はまさしく「目的志向型」である。「苦」の棄却による「解脱」の達成という人生の究極的目的にとって、論理学が最も有効であるということこそ、ニヤーヤ学派の主張である。一方、マティラルが西洋論理学を「プロセス志向型」と呼んだのも正当化されるであろう。ギリシャ以来の西洋の論理学の伝統においては、論証によって導き出される帰結の真偽よりも論証そのものの妥当性・健全性が重視され、現実の論証よりも論証の形式が研究対象とされてきたからである。
(
目的が変われば論理学の体系も変わる。論理学に限らず「何を目的としてその学問があるのか」を理解するのは最重要
)
p.84から
ヴァーツヤーヤナは、さらに、提案・理由・喩例(ゆれい)・適用・結論の五つの支分からなる論証法を「すぐれたニヤーヤ」と呼び、これこそが討論の基本的手段であり、真理の確定もこれにもとづくと明言している。五支論証法こそニヤーヤ学派の論理学の真髄であるということになる。ヴァーツヤーヤナは、例えば、五支からなる論証式として以下のようなものを挙げている。
提案「語は非恒久的である」
理由「発生するものであるから」
喩例「発生するものである皿などの実体は非恒久的である」
適用「語も同様に発生するものである」
結論「ゆえに、発生するものであるから、語は非恒久的である」
疑いと動機
実例と定説
吟味と確定
インド論理学の領域
インドにおける論理学の地位
第三章 インドにおける討論の伝統
ウパニシャッドの神学的対話
p.103から
最古層のウパニシャッドが形成された紀元前七~前六世紀の北インドでは、クシャトリヤ階級による支配体制が確立し、後に初期仏典のなかで「十六大国」と呼ばれる古代王制国家が徐々に形成されつつあったと考えられる。
初期ウパニシャッドの雄編(メモ者注:すぐれた著作、作品)『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』(服部訳)
(についての引用と解説が続く)。
ヤージュニャヴァルキヤは「見ることの最後にある見る主体」にして「叡知の塊」であるアートマン、「非ず、非ず」(neti neti)としか表しようがないアートマンから、世界は生み出されるという観念論的な思想を展開したとされる。
第一の問答
ウパニシャッドの思想の中核をなす「神秘的同一化の原理」(アーデーシャ)によれば、大宇宙に当たる自然界の諸要素と小宇宙と考えられる人間の諸機能、さらに、祭儀の諸構成要素との間に一対一の対応関係があるとされる。
ヤージュニャヴァルキヤは(略)神を祭場に勧請し、賛歌を誦(しょう)して神の威徳をたたえる「ホートリ祭官」を、人間の諸機能のうちの「ことば」と等置し、ことばを自然界の諸要素のうち「火(神)」と等置している。ホートリ祭官=ことば=火神という神秘的直観にもとづいて正しく実施される祭祀は、祭主を天上界へ導き、大宇宙と合一させ、解脱させるというのが、ヤージュニャヴァルキヤの真意であろう。
以下、次々と繰り出されるアシヴァラの問いに答えて、ヤージュニャヴァルキヤは、「アドヴァリユ祭官=目=太陽」「ウドガートリ祭官=気息(プラーナ)=風神(ヴァーユ)」「ブラフマン祭官=思考力(マナス)=月」という神秘主義的等置を指摘して答える。
(ことばは火。太陽は目なんだな。月が思考力。気息は風の神。息は風だよね)
第二の問答
問答の継続
p.109から
師であるウッダーラカ・アールニが、「この世界とかなたの世界、ならびにすべての被造物をつないでいる糸(スートラ)」とそれの内部にあって制御している「内制者(アンタルヤーミン)」とがそれぞれ何であるか、ヤージュニャヴァルキヤが知っているかどうか問いただす。
ヤージュニャヴァルキヤは、その糸は「風」であると答える。さらに内制者については、まず地・水・火・空間・風・天・太陽・方位・月と星・虚空・闇・光という神格に関して、その内制者はいずれも「あなたのアートマンである」と答える。次に被造物に関しても、万物の内制者は同じく「あなたのアートマンである」と答える。最後に、個体に関して言う。以下は、「見ることの背後にある見る主体」という彼のアートマン観をよく表している。
「気息のなかにあって、気息とは異なるもの、気息はそれを知らず、それの身体が気息であるもの、気息をその内部にあって制御しているもの、それがあなたのアートマン、不死の内制者である。(以下、ことば・目・耳・思考力・皮膚・認識力・精液に関して同一の表現が繰り返される)
それは目に見えない視覚の主体、耳に聞こえない聴覚の主体、思考されない思考の主体、認識されない認識の主体である。それ以外に見る者はない。それ以外に聞く者はない。それ以外に思考する者はない。それ以外に認識する者はない。それがあなたのアートマン、不死の内制者である。これ以外のものは災いがある」
(
アートマンと息は同じではないことに注意
)
空間と時間を支える基盤は何かと尋ねると、ヤージュニャヴァルキヤはそれは「虚空」であり、虚空の基盤は「不滅のもの」(アクシャラ)すなわちアートマンであると解説する。
最後の問答
最後の切り札としてヴィダグダ・シャーカリヤが登場する。まず「神々は幾柱あるか」と尋ねて、ヤージュニャヴァルキヤが「三千三百六柱」と伝承されているが、実は「三十三柱」と答えると、その三十三神、そして六神・三神・二神・一柱半の神・一柱の説明を次々と要求する。
(
33が好きなんだな。キリスト教と目イソンなど尻社の33重視の源流はインド・イランだからな。
一柱半の神って何?
ヤージュニャヴァルキヤが登場するブリハッド以下略のメモは以下をどうぞ。
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/1059936057309843456
”
”ヨガの秘伝、聖書の神の正体、
— 子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子) (@kitsuchitsuchi) November 6, 2018
本体移動と秘密の名づけの儀式が載っている、支配層の本体の一つ
『ウパニシャッド―翻訳および解説』メモ。
聖数18(666)、 7、 三重に偉大なヘルメス、 グノーシス、 オルフェウス教、
『ジョジョ』『マギ』『ファイアパンチ』の元ネタ! https://t.co/E9wQ8ruv9s
ウパニシャッドの別の和訳のメモもある。
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/1438835904865468418
”
”佐保田訳『ウパニシャッド』(1979年の本なのでジョジョの元ネタだろう)https://t.co/EMnHk8I9bO
— 子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子) (@kitsuchitsuchi) September 17, 2021
心臓、呼吸、矢、黄金などジョジョの重要要素をご存知なら楽しめる記事だろう。@kikuchi_8_さんの新アカの会話が表示されているか怪しい。通知は来てます?
そもそもこの私の呟きが見えているか疑問。
)
それにいちいち答えたヤージュニャヴァルキヤ(略)。
p.113
「あなたとあなたのアートマンは何を拠りどころとしているのか」とシャーカリヤは問い続ける。ヤージュニャヴァルキヤは「プラーナ」など五種の気息をアートマンの拠りどころとして挙げた後、自身のアートマンに関する「神学的知識」(ブラフマン)を吐露し、最後にシャーカリヤに逆襲する。
(ヤージュニャヴァルキヤの説明を一部抜き出すと、アートマンは)
「不可捉である。それは把捉されないから。不壊(ふえ)である。それは破壊されないから。無執着である。それは執着しないから。それはつながれていないが動揺もせず、毀損されもしない」
王との対論――『ミリンダ王の問い』
討論の心得――『チャラカ・サンヒター』
p.117から
より実践的な討論のための心得が、医学書『チャラカ・サンヒター』第三編において、有名な「問答のためのマニュアル」を説明する前に与えられている。
討論の意味
友好的な討論のきまり
敵対的な討論に入る前の注意
p.120から
自分自身の能力をよくわきまえて、論争しなさい。そして、論争を始める前に、必ず論争相手の特徴・彼我の能力差・聴衆の特徴をよく吟味しなさい。
自分より優れた相手と論争してはならないし、敵対的な聴衆の前では論争してはならない。
論争者の力量をはかる指標としては、
学習した知識、
専門的知識、
記憶力、
語意を理解する直観(ママ。語彙ではなく語の意味)、
表現能力、
すぐに腹を立てないこと、
堂々としていること、
注意力、などが挙げられている。
敵対的な聴衆の前では論争するな
聴衆には賢い聴衆と愚かな聴衆の二種類。
好意的・中立的・相手に加担した聴衆の三種類。
相手に加担した敵対的な聴衆の前では、決してどんな相手とも論争してはならないと、次に明言される。
(
この討論の本は悪辣な手段も載っている
)
愚かな聴衆の前では劣った相手を論破し、優れた相手と論争するな
賢い聴衆の前で
論争においても道理は守るべし
聴衆を味方に付けよ
問答のための諸項目
p.129
提案(=主張命題)
学術書の方法(タントラ・ユクティ)
主張と反主張
敗北の立場
(
論争でこれをしたら負けという規則が列挙されている。その中には詭弁の使用も含まれる。たとえば、)
p.141
【規則六】
提案と理由に続いて、喩例を全く述べずに、無関係な議論をする者は、論争に敗北したと見なされる。
(
的外れ、論点ずらしの詭弁)
p.144から
「論争の回避」
論争の最中に、「今ちょっとしなければならない仕事があります。それが終わったら、
あとで議論をつづけましょう」とか、
(
ここで笑ってしまった。ギャグ漫画かな?笑)
「風邪を引いていて喉が痛い」などの口実を設けて、論争を中断する者は、論争に敗北したと見なされる。
詭弁
p.147から
『ニヤーヤ・スートラ』は「詭弁」を次のように定義し、標示する。
「詭弁」とは、意味の転化が成り立つことにもとづく(相手の)提言の歪曲である。それは三種である。言語上の詭弁、一般化の詭弁、ならびに比喩上の詭弁である。
「言語上の詭弁」は、「意味が規定されずに述べられた場合に、話し手の意図とは異なる意味を想定すること」と定義されるが、要するに同音多義語を利用した詭弁である。
例えば、梵語の「ナヴァ」(nava)という音連鎖は「新しいもの」と「九」という二つの相異なる意味に理解することが可能である。そこで、ある人が「この子はナヴァ・カンバラ(新しい衣)を着ている」と言うとき、別の人は「あなたは、この子は九枚の衣(ナヴァ・カンバラ)を着ていると言うが、この子は一枚しか衣を着ていないではないか」と話し手の意図を故意に曲解し、その言明を歪曲して否定する場合である。
もっとも、単なる駄洒落と考えれば、詭弁などと咎めだてする必要もないのだが。この種の詭弁からは、「討論においては曖昧な多義語を避けるべきである」という、アリストテレスの『弁論術』にも見いだされる教訓を引き出すことが可能である。
(
これをさせないためにも自分で無自覚に使わないためにも、重要な単語はきっちり定義しないといけない。
多義語で思い浮かんだのがダルマ
)
「一般化の詭弁」は、「可能性にもとづいて意味を過度に一般化して適用することによって、ふくまれていない意味を想定すること」と定義される。ヴァーツヤーヤナは次のような対話を想定している。
論者A「ああ、この婆羅門は、ほんとうに学識も徳行(とっこう)もそなえたかただ」
論者B「婆羅門は学識も徳行もそなえているものだ」
論者A「もし、婆羅門は学識も徳行もそなえているものだとすれば、(婆羅門ではあるが師について学習していない)ヴラーティアにも(その特質が)あることになるであろう。ヴラーティアも婆羅門である。したがって、彼も学識・徳行をそなえているはずである」
論者Bは、単に論者Aの話題をうけついで、「人は婆羅門であってこそ、学識・徳行をそなえる素因がありうるのだ」とバラモン一般を賛美する目的で、「婆羅門は学識も徳行もそなえているものだ」と言ったのであって、「婆羅門である。だから、学識・徳行をそなえている」と理屈を述べているわけではない。したがって、論者Aの第二の議論は、論者Bの意図を故意に曲解し、その言明から、元来意図されていない一般的命題を引き出して、論者Bに誤謬を付与しているのである。
(
勝手に主語を大きくして(一般化)、藁人形したって言いたいのね)
人の言葉尻を捕まえて、理屈をこねるのは非常識だということであろう。一方、日常会話の曖昧さをただし、論者Bの真の意図を明らかにするためだと考えれば、このような詭弁も有意義な議論であると言えないこともない。
比喩上の詭弁は「(表現の)規定の転用による(比喩的な)陳述に対して、(陳述を本来の意味に解して、その)意味の事実性を否定すること」と定義される。
「槍どもが城にはいる」に対して「槍をもつ兵士が城にはいるのであって、槍が城にはいるのではない」と、話手の意図する比喩的意味を無視して、ことばのもつ本来の意味だけにもとづき、話し手の言明を歪曲して、否定する場合である。
(他の例は省略。
比喩表現を文字通りの意味だとみなすってこれ藁人形でしょ。
さっきも藁人形だったし、藁人形は本当に事前の対策必須の詭弁だとみなされていたんだろうな
)
討論において、曖昧な比喩的表現は必ずしも歓迎されない。その意味では、この詭弁にも、討論において用いられる言明をより明晰なものにするという積極的な役割を与えることができるかもしれない。
以上の三種の詭弁は、ニヤーヤ学派では「討論における過失」というように否定的に評価され、他人の議論にそれを見つければ難詰すべきであり、自分の議論においては用いるべきではないとされるが、討論・論証においてより厳密な言語表現を追及するという立場にたてば、簡単に排除されるものではないと筆者は考えるものである。
討論
p.152
論議(ヴァーダ)とは、知識手段と吟味とによる論証・論難から成る、定説に矛盾しない、五支分を具備した、定立と反定立の設定である。
同一主題に関する二つの相容れない主張(すなわち、定立と反定立)から構成されなければならない。
主張にせよ反主張にせよ、提案・理由・喩例・適合・結論の五支からなる論証式によって提示されなければならない。
誤った論難
マルヴァニア先生へ
第四章 帰謬法――ナーガールジュナの反論理学
ナーガールジュナ
p166から
中国仏教におけるナーガールジュナの後継者たちは、「三論宗」という独自の解釈の伝統を形成した。一方、密教が主体のチベット仏教もその顕教(けんぎょう)はナーガールジュナから派生したインドの中観仏教に他ならない。日本仏教では、伝統的にナーガールジュナを「八宗(はっしゅう)の祖」と見なし、大乗仏教の最初で最も重要な思想家と尊敬してきた。
なぜナーガールジュナがニヤーヤ学派の勃興にある種の危機意識をもって、徹底した批判を展開したのか、その理由を理解するためには、彼の思想の根本に触れざるをえない。それは、例えば、彼の主著『中論頌(ちゅうろんじゅ)』の次の詩頌(ししょう)によくあらわれている。
業と煩悩の止滅によって解脱がある。業と煩悩は思惟(しゆい)分別(ふんべつ)より生じる。それらはプラパンチャ(戯論(けろん))による。プラパンチャは空性(くうしょう)によって滅せられる。(第十八章第五偈(げ))
他者に依存せず、寂静であり、様々なプラパンチャによって対象化されず、思惟分別を離れ、多様なものではない。これが実在(リアリティー)の特徴である。(同章第九偈(げ))
(突然英語が出てくる謎。
偈(げ)や頌をすぐに漢字変換で出す方法は「げじゅ」と入れて変換することだ。「偈頌」と変換される。二字とも単独だと変換で探すのが手間またはそもそも変換の選択肢にない。
偈(げ)または偈頌は、仏の功徳をほめたたえる詩のこと)
人は業・煩悩によって生死流転(しょうじるてん)を繰り返すが、業・煩悩が止滅するとき輪廻から解脱する。業・煩悩は思惟分別に由来する。すなわち、人が欲望をもち、行為を起こすのは、その対象に関して「隣のバラは赤い」などの概念的判断を下すからである。ここまでは、ごくスタンダートな仏教教義である。しかし、思惟分別がプラパンチャに由来するというのは、あまり他に例を見ないように思われる。
プランチャ――言語本能?
「プラパンチャ」は、「顕現」「展開」「拡大」「冗長」「多元性」「多量」「仮現(けげん)」「幻影」「現象世界」などを意味する語であるが、のちの中観派では「ことば」「言語表現」そして「ことばへの執着」と定義され、現代日本の研究者によっては「ことばの虚構」「言語的多元性」などと理解されてきた。「ことば」という意味の「プラパンチャ」は、次の第九偈の「実在の特徴」のなかで使われており、実在はことばによって対象化されない、つまり、言語表現されえないものと言われる。ナーガールジュナは、ブッダをもまた言語表現を超えたものという意味で「プラパンチャが寂滅したもの」と特徴づけている。このような、いわば表現行為としてのことばは、通常我々の概念的思惟を前提とするものと考えられる。
しかし、ことばと概念とのかかわりは、それほど単純ではない。「哲学」「パソコン」などの新造語の場合のように、ある概念が形成されてあることばが生み出されることもあれば、それらを学習する場合のように、未知の音連鎖が与えられてその意味する内容・概念を習得することもある。ナーガールジュナは、表現行為を生み出す思惟分別の背後にさらにもう一つの「プラパンチャ」を想定しているのである。インドの注釈者たちは、それを「ことばへの執着」と理解しているのであるが、外的な言語として表出される以前の一種の「心的言語」、それなくしては我々が概念的に思惟することができない何かである。
仏教の二つの伝統――頓悟と漸悟
p.169
ナーガールジュナの哲学的営為の究極の目的は、このような言語が創り出す仮構の世界と実在の世界との間の乖離を徹頭徹尾あからさまにすることであった。
ナーガールジュナは、私たちが現に生きている世界、鳥が鳴き、花が咲く世界、名もない牛飼いから世に知られた聖者までが住む世界、この現実の世界を決して否定することはない。悲しいかな、私たちは「鳥」「鳴く」「花」「咲く」「牛飼い」「聖者」などのことばとそのようなことばが表す概念の網の目を通さずには、この世界に対峙することはできない。後代の瑜伽(ゆが)行唯識派の学者たちは、それを「無始時来の薫習(くんじゅ)(=潜在的習慣性)」と呼んでいるが。ナーガールジュナは、実在の世界がこのことばの網の目によっては決して十全に掬いとれないことを、彼の全作品のなかで様々な角度から繰り返し説いているのである。ナーガールジュナにとって、このことばの網を完全に取り払い、概念的思惟を根絶するとき、寂静で一味なる実在の世界が、だれの助けも借りずにおのずから直証される。それが悟りの世界、真実の世界である。
彼は決して虚無論者ではない。
(
一味も仏教用語。真実絶対の立場では全てが同一で平等であること)
アビダルマ
範疇論的実在論批判
p175から
ナーガールジュナの「実在の世界」は、決して我々の常識的な意味での現実世界ではない。「すべては縁起するがゆえに、本質をもたず、空である」と言われるように、まず「縁起の世界」である。すなわち、ナーガールジュナにとってもすべての存在は原因があって生じてきたものであり、原因がなくなれば滅していくものである。この限りにおいて、彼は「縁起説」という仏教教義を否定するものではない。彼が拒否するのは、アビダルマ哲学者のように、縁起の事実を「ダルマのことば」で記述し、本質を介して概念的に固定化してしまうことである。ただあるのは刻々と生々流転する因果の連鎖であり、それは世間のことばにせよ、ダルマのことばにせよ、言語的に固定化することはできない、というのがナーガールジュナの基本的な考えであろう。
したがって、この世界は「空」である。「空」とは決して「無」ではないと、ナーガールジュナは明言する。すべては夢幻のごときものであると彼は言う。
空なる原因が空なる結果を生み出すと考えられているのである。すべてのものは永遠不変の本質などもたないがゆえに変化も作用も可能なのである。
輪廻も涅槃も空であるというナーガールジュナの姿勢は、輪廻や涅槃のプロセスを理論化し、記述することに努めた有部や瑜伽行唯識派の姿勢と厳しく対立するものであったに違いない。
彼は『ヴァイダリヤ論』という一書を著して、ニヤーヤ学派の「十六原理」を逐一すべて否定したのであった。以下、彼の批判の一班を紹介して、当時の学派間の論争の一例とする。その際、ナーガールジュナ自身の帰謬論法を明らかにするとともに、その論理的な問題点も明らかにしたい。
『ヴァイダリヤ論』
以下、訳は『大乗仏典14 龍樹論集』中央公論社、1974年、所収の梶山雄一訳を用いる。
相互依存の誤謬
帰謬法
p181から
次に、ナーガールジュナは、認識方法と認識対象が「他に依存する」と仮定して、以下のような誤謬を指摘する。
存在しているものと存在しないものとの二つは、(他のものに)依存するものではない。(三)
たとえ(他に)依存して成立しているとしても、(それは)存在するものか、存在しないものか、(その二性質を合わせもつ)両性者かであろう。
そのうちまず存在するものは、すでに存在しているのだから、(他のものを)必要とするものではない。というのは、(たとえば)存在している壺は他のものである粘土などを(さらに)必要としない。
また存在しないものも、まさに存在しないのだから、(他のものを)必要としない。
(もしそうでなければ、実在しない)兎の角なども(他のものを)必要とするという誤りに陥るであろうからである。
そして、両性者も(上述の)二つの欠点をそなえるわけであるから、(他のものを)必要としない。(梶山訳、188~9頁)
ここでナーガールジュナは「語の世界」を存在・非存在・両者の三領域に区分し、認識方法にせよその対象にせよ、何か他に依存するものが、その三領域のいずれに所属しても、「他に依存しない」という望ましくない結果(=自己矛盾)をもたらすことを示している。
のちにこれは「プラサンガ」あるいは「プラサンガーパッティ」と呼ばれるようになるが、一種の「破壊的帰謬論証」である。また、「話の世界」を三分している点に注目すると「破壊的トリレンマ」と呼ぶことができよう。後に見るように、ナーガールジュナはほかに「破壊的ディレンマ」や「破壊的トリレンマ」も用いている。
論詰と詭弁
「一切は空である」と主張するために、それに対立するテーゼをひとつひとつ帰謬法によって否定して、結果的に、間接的に自己の主張を確立しているのである。
(
本書では龍樹が詭弁を用いることがあるとも書かれている
)
「両性者」、つまり「存在かつ非存在であるもの」は多少の説明を必要とする。
真偽二つの論理的価値しか認めない立場では、「存在かつ非存在」とは、「Aは同時に非Aではない」という矛盾律に反する、単なる自己矛盾であり、この世にありえないもの、考えられないものである。ただし、それは「非存在」の否定辞「非」を「Aでも非Aでもないものはありえない」という排中律、Aと非Aは相補的関係にあり、あわせて我々の「話の世界」(全論理空間)を構成するという理解を前提としているからである。
二種の否定
p184から
ここで、古代インドの文法学者たちが二種類の「否定概念」をもっていたことに注意しなければならない。そのひとつは、排中律を前提とする否定であり、「相対否定」(パリウダーサ)と呼ばれる。あとひとつは、排中律を前提としない否定であり、「純粋否定」(プラサジュヤ・プラティシェーダ)と呼ばれる。
相対否定とは、例えば
「ここにはバラモンで【ない】人がいる」
(【 】は傍点の代役。以下同様。おそらく一部の他の記事でも同様だろう)
と言われるとき、「バラモンでない」という否定を介して、ここにバラモン以外のクシャトリヤやヴァイシュヤかシュードラがいることが意図されているような場合である。つまり、Aの否定が非Aの肯定を含意している場合である。
梵語の統語法では、このような否定は「バラモン」などの名詞に前接されるので「名辞の否定」とも呼ばれる。
一方、純粋否定とは、例えば、
「ここにバラモンがい【ない】」
と言われるとき、ただ単にバラモンの存在が否定されるだけで、それ以外のクシャトリヤなどの存在が積極的に意図されていない場合である。その場にクシャトリヤなどが必ずいるとは限らない。バラモンはいないがクシャトリヤなどがいるケースと、バラモンもクシャトリヤなどもいないケースという二通りの場合がありうると、暗に示唆されているのである。
このような否定は「いる」などの動詞に付与され、文全体を否定するので「命題の否定」とも呼ばれる。
(論理学における、以下の3つの基本用語を書いておく。これらがわからないと意味不明だろうから。
同一律とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%90%8C%E4%B8%80%E5%BE%8B-103093
”同一律【どういつりつ】
論理学で矛盾律,排中律とともに三大原理と呼ばれるものの一つ。〈自同律〉,〈同一原理〉ともいい,英語ではlaw of identity。この原理は,主語と述語の関係を基軸にした伝統的論理学では〈AはAである〉と定式化され,自明な命題の代表例。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて”
排中律とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E6%8E%92%E4%B8%AD%E5%BE%8B-112939
”排中律
はいちゅうりつ
law of the excluded middle
任意の命題に対して、それが成り立つか、成り立たないかいずれか一方であって、その中間はないことを述べた論理学の法則。記号を用いると、A<~A(AあるいはAでない)がいかなる命題Aに対しても成り立つという主張であると考えてよい。あるいは、いかなる命題も真か偽のいずれかであるというように定式化することもできよう。矛盾律と同様、排中律は古代においてすでに知られていた論理学の法則であるが、近代論理学の発達に伴って、それがかならずしも妥当するものではないという考えがしだいに有力となってきた。実際、数学や論理学を構成的に展開しようという直観主義、あるいは命題の真理値は真と偽に限られるものではないという多値論理の立場にたつと、排中律は一般に成り立つ論理学の法則ではない。
[石本 新]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「排中律」の解説
排中律
はいちゅうりつ
law of excluded middle
形式論理学の用語。あるものについて,その肯定と否定とがある場合,一方が真ならば他方は偽,他方が真ならば一方は偽であり,その両方のどちらでもない中間的第三者は認められないという論理法則をいう。「第三者拒斥の原理」とも呼ばれる。古典論理学では,排中律は同一律や矛盾律とともに論理学の根本原理の一つとしてあげられたが,現代の記号論理学では公理の資格をもたず,公理から導出される一定理にすぎない。また多値論理学の場合では,「第三者拒斥の原理」までは否定されるが,そこで用いられる論理値に1を加えたものには拒斥の原理が認められる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
精選版 日本国語大辞典「排中律」の解説
はいちゅう‐りつ【排中律】
〘名〙 (law of excluded middle の訳語) 伝統的形式論理学で、根本原理の一つ。二つの相矛盾する命題のどちらかに真理が存することをいう。その形式は「AはBであるか、Bではないかのどちらかである」。また、現代論理学では任意の命題について、それ自身かその否定かのいずれか一方が正しくなるとする主張をいう。排中原理。〔論理学(1916)〕
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
〔中略〕
世界大百科事典 第2版「排中律」の解説
はいちゅうりつ【排中律 law of excluded middle】
命題pに対して〈pかpでないかのいずれかである〉ことを要求する法則。排中原理,排中法ともいい,論理的原理の一つに数えられてきた。肯定と否定の中間を認めない点から,その名称が生じた。この原理からは,〈pの否定〉をさらに否定すれば,〈pの肯定〉が結果することになるから,二重否定は肯定に帰着するという二重否定律が得られることになる。それゆえ,二重否定律とともに,伝統的な論理の体系を特徴づけるものと考えられている。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
” ※着色は引用者
矛盾律とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E7%9F%9B%E7%9B%BE%E5%BE%8B-641585
”
矛盾律
むじゅんりつ
law of contradiction
いかなる命題に対しても、それが成り立つと同時に成り立たないということはないということを述べているのが、矛盾律である。記号を用いて、A∧~A(AそしてAでない)は、Aがいかなる命題であっても成立しない、というように定式化することもできる。あるいは、いかなる命題も真であると同時に偽であることはない、と言い表してもよい。
排中律と同様、矛盾律も古代から知られていた論理学の基本法則であるが、論理学の内部で厳密に取り扱われるようになったのは、近代論理学が成立して以来のことである。すなわち、矛盾律が定理として導かれるように、現代の命題論理は定式化されているのである。しかしながら、否定を構成的に理解すると、矛盾律も、排中律と同様かならずしも成り立つわけではない、ということがわかってきた。
[石本 新]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)”
)
四句分別
p186から
ナーガールジュナは、先行するアビダルマの学者たちから「四句分別(しくふんべつ)」(テトラレンマ)と呼ばれる、我々の「語の世界」を四分割して、四つの命題を構成する方法を受け継いでいる、存在と非存在を述語と見なして、「四句分別(しくふんべつ)」(テトラレンマ)を作ると次のようになる。
一 Xは存在である
二 Xは非存在である
三 Xは両者(=存在かつ非存在)である
四 Xは存在でも非存在でもない
さらに、一、二をそれぞれ「Xは存在であるが、非存在ではない」「Xは存在ではないが、非存在である」と書き換え、「存在」をa、「非存在」をbで表せば、四句の述語はそれぞれ
{a.-b} {-a.b} {a.b} {-a.-b}
(マイナス記号〔-〕は相対否定を示す)
に相当して、ヴェン図(図一参照)の四つの領域を占めることになる。この場合の否定辞は、排中律を前提とする「相対否定」である。
ところで、「非存在」という表現の否定辞「非」をやはり「相対否定」として理解すれば、四句の述語は
{a.--a} {-a.-a} {a.-a} {-a.--a}
と表されることになる。
さらにこれに {--A=A} という「二重否定律」を適用すると、
{a.a} {-a.-a} {a.-a} {-a.a}
さらに
{a} {-a} {a.-a} {a.-a}
と書き換えられる。その結果、第三句と第四句の述語は同価値となり、独立した命題と考えられないし、そもそも矛盾律に抵触して無意味である。このような困った結果を避けるために、現代のナーガールジュナ研究者によって、しばしば彼は矛盾律や排中律を認めない「非正統的論理学」(Deviant Logic)を使用していたと主張される。
右のような論理的困難を解決する別の方法は、「非存在」の「非」という否定辞を「純粋否定」として理解することである。その場合、相対否定の記号 {-}と区別して、「純粋否定」を表す別の記号 {~}を使用する必要がある。そうすると、先の四句の述語はそれぞれ
(先の四句が{a.--a} {-a.-a} {a.-a} {-a.--a}なので、)
{a.-~a} {-a.~a} {a.~a} {-a.-~a}
となる。
(このp.188で誤字を発見。(a.~-a} となっている。「(」でなく「{」が正しい)
{-~A=A} という二重否定律は成立しないと規定すると、「非存在」の「非」は相対否定と理解した場合のような問題は一切生じず、四句の述語はそれぞれ有意味となるはずである。このように第二の否定という理解を導入することによって、
{A=T, A=F, ~A=I}(Tは真、Fは偽、Iは真偽不定)
という三つの価値を認める、一種の「多値論理学」としてナーガールジュナの議論を解釈する可能性が示唆される。
しかし、彼の議論の主たる目的は新たな論理学の構築にあるのではない。あくまで対論者の議論を矛盾に導いて、自己の主張を宣揚することにあった。
いずれにせよ、ナーガールジュナが矛盾律や排中律を一切認めなかったという一部の研究者の主張は正しくない。少なくとも、相対否定のレベルではこれら二つの論理的原則はしっかり遵守されているからである。
破壊的トリレンマ
p.189から
それでは、ここでナーガールジュナは「存在」「非存在」「存在かつ非存在」という語で何を理解しているのであろうか。それらはそれぞれ「過去」「未来」「現在」という三時に対応していると考えたい。
1 「存在」とは「すでに生じたもの」(=過去)に対応する。
2 「非存在」は「未だ生じていないもの」(=未来)に対応する。
3 「存在かつ非存在」とは、ある意味では「存在」であり、ある意味では「非存在」である「今まさに生じつつあるもの」(現在)に他ならない。
このように「存在」と「非存在」以外に「存在かつ非存在」という第三の可能性を認める否定辞は「純粋否定」として理解されなければならない。
なお、時間の分析は過去・現在・未来の三時に尽きるから、「存在でも非存在でもないもの」という第四句の述語は、目下の議論の対象とはならないのであろう。また、ナーガールジュナはブッダの説いた「中道」を「存在と非存在の両極端を離れた中道」(離辺中道)と規定するから、「一切は存在でも非存在でもない」というのが彼の立場であり、それは否定の対象とはならなかったと考えることもできる。
『ヴァイダリヤ論』に戻って、その破壊的トリレンマを整理すると、次のようになろう。
1 もし認識方法がすでに存在しているとすれば、それがさらに生じるために他に依存することはないはずである。しかるに、認識方法は認識対象に依存すると言われる。
2 もし認識方法が未だ存在しないとすれば、そもそも存在しないものは他に依存することなどできない。しかるに、認識方法は認識対象に依存すると言われる。
3 もし認識方法が現に生じつつあるとすれば、1・2両方の誤謬が付随するから、他に依存することはない。しかるに、認識方法は認識対象に依存すると言われる。
認識方法は三時のいずれに属すとしても、他に依存することがないはずである。しかし、そのような帰結は、認識方法はその対象に依存するというニヤーヤ学派の定説と矛盾することになる。
つまり、ここでは、考えられるすべての場合を枚挙して、そのいずれの場合にも相手の主張は成立しないと指摘することによって、「認識方法もその対象も、存在とも非存在とも言えず、本質をもたず、空である」という自己の主張を間接的に論証しているのである。
ただし、ナーガールジュナのこの議論にも問題がないわけではない。認識方法とその対象が依存関係にあるというのは、認識のレベルにおいてである。ところが、ここでは存在のレベルでそれぞれが他に依存しないことが、指摘されているだけである。したがって、「依存」ということばの多義性を利用した詭弁であると言われても仕方がない。もちろん、彼はそのことを重々承知のうえで議論しているのである。
秤のたとえ
灯火のたとえ
p.192から
「認識方法」の原語「プラマーナ」は、本来「ものを計量する手段・基準」という意味がある
三時不成の論理
四種の認識方法
『ニヤーヤ・スートラ』第二篇第一章――「三時不成の論理」批判
「秤のたとえ」と「灯火のたとえ」
『ニヤーヤ・スートラ』第五篇第一章――誤った論難
『中論頌』第一章第一偈
再びナーガールジュナに戻ろう。彼の主著は約五百の詩頌からなる『中論頌』である。その冒頭を飾るのは次の一偈である。
いかなる存在といえども、いかなる場合においても、自より生じたものは決してない。他より生じたものも決してない。(自他の)両方から生じたものも決してない。原因なしに生じたものも決してない。(第一章第一偈)
これは伝統的に「四句分別(しくふんべつ)」(テトラレンマ)と呼ばれるものの一種であるが、今の場合は破壊的テトラレンマの結論部分だけを四つの否定命題として列挙したものと考えることができる。ナーガールジュナ自身は言及しないが、注釈者たちの助けを借りれば、次のようにテトラレンマを再構成することができる。
1
もし何かが自分自身より生じるのであれば、既に生じているものがさらに生じることになるが、そのような二度目の生起は無意味である。
したがって、いかなるものにせよ自より生じることはない。
2
もし何かが他より生じるのであれば、灯火から暗闇がというように、全く無関係なものから何でも生じるということになってしまう。
したがって、いかなるものにせよ他より生じることはない。
3
もし何かが自他の両方から生じるのであれば、1、2両方望ましくない結果になるだろう。
したがって、いかなるものも自他両方から生じることはない。
4
もし何かが原因なしに生じるのであれば、すべてのものがすべてのものから常に生じるということになるが、それは不可能である。 したがって、いかなるものも原因なしに生じることはない。
(中略)したがって、四つの条件節が表す命題は、ものの生起に関するすべての理論的可能性を網羅していると言える。
1「ものは自より生じる」というのは、原質からの展開を説くサーンキヤ学派の「因中有果論」である。
2「ものは他より生じる」というのは、原子の集積による物質の構成を説くヴァイシェーシカ学派の「因中無果論」である。
3「ものは自他より生じる」というのは、自相続内の先行する刹那という主要因と他相続に属する様々な補助線からなる「因縁の集合体」からものは生じると考えるアビダルマ仏教徒(小乗仏教徒)たちと考えられる。一方、ものが絶対的に特定の性質のみをもつことを否定し、一つの実在が多様な性質をもつことを主張する「積極的多面説」を説くジャイナ教徒なら「自よりも生じるし、他よりも生じる」と主張したとも考えられる。
4「ものは原因なしに生じる」というのは、いかなる形の因果論を否定するローカーヤタ学派であろう。彼らは孔雀の羽根の美しさはその自然の本性によるのであって、特別の原因があるとは考えないのである。
また、マヘーシュヴァラなどの万物の創造神という「間違った原因」(悪因)を立てる諸学派を想定することも可能である。
いずれにせよ、テトラレンマの各述語によって、ナーガールジュナ当時のすべての因果説が論理的に含まれていると考えてよい。
このような「四句分別(しくふんべつ)」(テトラレンマ)は、二項間に考えられる論理的可能性をすべて枚挙するための、インド仏教の経典解釈学の手法の一つであり、「枚挙法」とでも呼ぶべきものである。
(ナーガールジュナの)
「いかなるものもいかなる仕方でも決して生じることはない」という結論である。
もちろん、これには「究極的には、いかなるものも、その本質(=自己同一性)をもって、生じることはない」という限定が加えられることになる。言い換えれば、「本質をもたず空なる原因から空なる結果が生じる」というナーガールジュナの縁起説理解は否定されないのである。
問題なのは、因果関係を本質を介して実体的に捉えることである。
『中論頌』第二十五章
p.222から
ナーガールジュナの論法は、その細部を検討すれば、詭弁的な要素が多々あるが、形式的には単純にして明快なものである。
1
まず、「四句分別(しくふんべつ)」(テトラレンマ)などを用いて、ある事項に関するすべての理論的可能性を列挙する。
2
さらに、そのいちいちの場合を検討して、すべてに論理的誤謬を指摘する。
3
結論は、当該事項はあらゆる概念的思考や言語的多元性の把捉を超えており、本質をもたず「空である」ということになる。
つまり「枚挙法」と「帰謬法」を併用して、当該事項に関する様々な解釈を論破し、その結果間接的に「空性(くうしょう)」を明らかにするのである。
(ナーガールジュナの論を要約する。涅槃について)
涅槃は「存在する」というなら、およそ存在するものは生死を離れることはないから、涅槃も生死を離れたものではない。定義上認められない。
「非存在である」というなら、およそ非存在は何か(例えば、存在)に依存するものであるから、涅槃も何かに依存するものになるが、定義上認められない。
「存在かつ非存在である」というなら、解脱も存在かつ非存在だがありえない。
「存在でも非存在でもない」なら、涅槃の存在性と非存在性が明らかにされない限り、誰が涅槃は存在でも非存在でもないと言えようか?
涅槃に関してはいかなる概念的構想も成立しないから「涅槃は空である」。
「涅槃は無である」ではない。「無為涅槃」という特別のダルマを立てて、その本質的実在性を主張する有部などに対して、あるいは、「無為涅槃」という特別のダルマを認めず、一種の「非存在」と見なす経部に対して、「有無の二辺を離れた涅槃」を説いているのである。涅槃が空であるからこそ、凡夫が涅槃に入ることも可能なのである。
残余法、 あるいは消去法
(
通言語 文法 02.01.5 「文法」の定義:解説 - 東京外国語大学
http://www.coelang.tufs.ac.jp/mt/grammar/gmod/courses/c02/lesson01/step5/explanation/005.html
”
一般に,複数の単語を組み合わせるのに必要な規則の集合は「統語論」(構文論)と呼ばれ,これが狭い意味での文法にあたります。一方,単語の組み立てについての規則の集合は「形態論」と呼ばれます。広い意味での「文法」は,統語論と形態論とを含むものです。意味を担う最小の言語形式を「形態素」と呼ぶと,統語論は単語に相当する形態素の組み立てについての規則であり,形態論は単語より小さな,単語の部品となる「語基」や「接辞」といった形態素の組み立て(派生)についての規則と,形態素の組み合わせによる複合語形成の規則とからなります。
統語論と形態論の文法に占める割合は言語によって(言語の語構成法の複雑さによって)異なります。たとえば英語の文法は統語論が中心ですが,ラテン語やサンスクリット語の文法では形態論が大きな部分を占めています。 「多総合語」といって,エスキモー語のように,主要語にさまざまな文法接辞をつなげることで,大きな「語」を組み立てる言語もあります。
形態論と統語論の区別については,以下を参照してください。
ブルームフィールド『言語』:第12章「統語論」[三宅鴻・日野資純訳] 1962年,大修館書店。
”
※着色は引用者
統語論=文法(狭義)。
統語論=単語を組み合わせるための規則。
形態素=単語(厳密な定義か不明)。
「形態論=単語の組み立て方」も文法に含めることがある。
次に龍樹の著作の「歩行者」についての箇所の解説に入る。
当時の梵語の文法と論理学の解説がないと意味不明だな。龍樹の良い解説書なのだが題名に龍樹がないから龍樹の理解のための本を探しても見逃しそうだな
)
『中論頌』第二章
p231から
「三時不成の論理」を検討しておこう。彼は『中論頌』第二章で彼(ナーガールジュナ)の否定の論理を詳細に提示している。「歩行者は歩かない」というような表現があることから、「飛ぶ矢は飛ばない」というゼノンのパラドックスと対比され、矛盾律を超越した何か深遠な論理として注目を集めてきたが、彼の真意は別のところにあることを明らかにしておきたい。
既に通過された所が今通過されつつあるということはない。
未だ通過されたことのない所が今通過されつつあるということはない。
既に通過された所と未だ通過されたことのない所とは別の今通過されつつある所が今通過されつつあるということはない。
この偈は破壊的トリレンマの結論部分だけを抜き出したものであり、次の三つの命題を否定している。
1
既に通過された所が今通過されつつある
gataṁ gamyate
2
未だ通過されたことのない所が今通過されつつある
agataṁ gamyate
3
今通過されつつある所が今通過されつつある
gamyamānaṁ gamyate
命題1、2がなぜ否定されるのかというと、ある矛盾をはらんでいるからである。その矛盾は右(上記)の日本語訳では明らかではない。昨日通った道を今歩いているとか、まだ歩いたことのない道を今歩いているということに、私たちは何ら矛盾を感じないはずである。その矛盾を理解するためには、梵語という言語の形態論的分析と統語論的分析のレベルまで降りていかなければならない。
「既に通過された所」を意味する語gatamは「行く」「通過する」を意味する動詞gamに当該行為(進行)が過去に属し、かつその行為の対象を意味する接尾辞{Kta}が付加されて形成されたものである。
「未だ通過されたことのない所」を意味する語{a-gatam}は、gatamに否定辞 {naÑ} が前接されたものである。この否定辞は「純粋否定」の意味で理解すれば、gatam(既に通過された所)の反対、つまり進行行為が未だ生じていず、未来に属する対象を意味していることになる。
もしこの否定辞を「相対否定」の意味で理解すると、agatamはgatamの補集合を意味し、過去以外のすべて(=未来と現在)の進行行為の対象を意味して、命題3(今通過されつつある所が今通過されつつある)が無意味になってしまう。
一方、「今通過されつつある」を意味する語gamyateは、同じく動詞語根(gam)に受動態動詞語幹を形成する接辞yaKと、当該行為が現在に属すことを表す人称語尾が付加されて形成された定動詞形である。
ところで、
gataṁ gamyate
agataṁ gamyate
は、ともに
中性・単数・主格の名詞句+定動詞の三人称・単数・現在・受身形
という形式を取り、主語に当たる名詞句と述部の動詞がともに「同一の対象を指示する」という統語論的特徴をもっている。
以上は、古代インドにおける梵語文法体系の最初の大成者、パーニニ(紀元前四世紀中葉)による言語分析の一端である。ナーガールジュナは、梵語で著作活動をした以上、インド土着文法学に精通していたはずである。また、そのような前提に立たない限り、『中論頌』における彼の議論の大半は正確にその意味が理解できないであろう。あるいはパラドクシカル(ママ)、あるいは詭弁に思われる。ナーガールジュナの議論も、彼の言語分析の文法学的背景を考慮するとき、謎が氷解することがあるのである。
今なお現代的意味を十分もつ、古代インド文化が生んだ最大の文化遺産、パーニニ派の文法学がいかにインド人の思惟方法、インド人の論理学に深い影響を及ぼしたかについては、次章で触れることにしたい。
(
インドでは文法と論理学が密接。論理は言葉を厳密に扱うから当然といえる。
Nの上に「~」は
Ñ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%C3%91
をコピペした。
nの上に「~」をコピペしたいなら、スペイン語の「España」(エスパーニャ)( スペイン)や、「Español」(エスパニョール)=(スペイン語)からコピペしたらいい。
「~」はチルダ(tilde)という(言語ごとに呼び方が変わる。スペイン語だとティルデ)
)
さて、
命題1(既に通過された所が今通過されつつある
gataṁ gamyate)を検討すると、名詞句gatam(既に通過された所。過去)が過去の進行行為の対象を意味するのに対して、
動詞形gamyate(語根+受動態+現在)は現在の進行行為の対象を意味するので、両者が同一の対象を指示しているとは言えないのである。
同様に、命題2(未だ通過されたことのない所が今通過されつつある
agataṁ gamyate)は名詞句と動詞形がそれぞれ未来と現在の進行行為の対象を指示するから、同一指示対象性が成り立たないのである。この意味で両命題は矛盾を含んでいると言われたのである。
それでは、命題3(今通過されつつある所が今通過されつつある
gamyamānaṁ gamyate)はどうかというと、「今通過されつつある所」を意味するgamyamānaṁは、gamyateと全く同じ形態素に分析され、意味的に等価である。ただし、定動詞形ではなくて、接尾辞 {ŚānaC} を伴う現在分詞形である。したがって、命題3の「今通過されつつある所が今通過されつつある」は、日本語の語感からも想像されるように、無意味な語の反復と理解されて否定されるのである。
ナーガールジュナは、さらに引き続き第三命題を文法学的に解釈した場合に引き起こされる問題点を次々と指摘する。例えば、同命題が同義反復になるのを避けるためには、その構成要素にそれぞれ別の進行行為を措定しなければならないが、それでは同時に二つの進行行為が行われていることになり、事実に反する結果となるというようにである。
ナーガールジュナの最終的な結論は、人の進行行為に関わる様々な言語表現、「歩行」「歩行者」「歩行の行程」などは、過去・現在・未来の三時にわたって成立しないということである。しかし、彼は歩行の事実そのものを否定するのではない。事実を行為にかかわる様々な観念によって記述することを拒否したのである。誰かがナーガールジュナに「すべてが空ならば、歩行も成立しないだろう」と難詰すれば、彼は立ち上がって、平然と歩いて見せたに違いない。
(
言語の限界を示しているんだな。
mの上に点もsの上に点も以下をコピペした。
大歓喜トップ >> サンスクリット|トップ >> 音読のための基礎文法 >> ローマ字表記と発音
https://www.mahaananda.jp/sanskrit/maana/p02.html
Ś - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%C5%9A
「´」はアキュート・アクセントまたはアクサンテギュという。名前を知らないと調べにくいので書いておいた
)
ナーガールジュナの反論理学
p.236
ナーガールジュナの批判の論法は、当時の問答法のマニュアルに則ったものであり、討論相手を論破するためには、敢えて詭弁を用いて、相手を敗北の立場へ導くことに躊躇しなかった。
ナーガールジュナのインド論理学に対する最大の貢献は、帰謬法を確立したことであろう。
再びミシガンへ
第五章 インド人の思惟方法――帰納法
ユークリッドとパーニニ
パーニニ文法学
随伴と排除――帰納法の原理
ヴァスバンドゥ
インドの論証形式――五支論証
p258から
論証されるべき主題pに関してS(pに関して論証されるべき性質)を論証する根拠(H)。
論証する根拠(H)は「論証する性質」とも、時には「徴表」(=目印)とも呼ばれる。
論証式一
提案 主題pは性質Sをもつ
理由 性質Hをもつから
喩例 性質Hをもつ実例d(d=同喩例)は、性質Sをもつ
適用 主題pも性質Hをもつ
結論 ゆえに、主題pは性質Hをもつから、性質Sをもつ
論証式二
提案 主題pは性質Sをもつ
理由 性質Hをもつから
喩例 性質Hをもたない実例v(v=異喩例)は、性質Sをもたない
適用 主題pは性質Hをもたないことはない
結論 ゆえに、主題pは性質Hをもつから、性質Sをもつ
このように、インド論理学の命題は「基体xは性質Aをもつ」あるいは「基体xに性質Aが所属する」という基本構造をもっている。つまり、この世に実際に存在するある特定の存在に関する判断という性質を色濃くもっている。その意味で、ギリシャに端を発する西洋論理学の伝統において主流をなす、繋辞(けいじ)により主語・述語の関係を表現する「AはBである」という抽象的な判断形式とは区別される。たとえインド論理学の命題の実際の表現が主語・述語の形式をとっていても、その深層構造として意図されているのは、あくまでも基体・属性の関係であることに注意しなければならない。
(
繋辞とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E7%B9%8B%E8%BE%9E-58839
”
けい‐じ【繋辞】
[1] 〘名〙
① 中国、古の聖人(文王・周公)が、占いの結果あらわれた卦(け)爻(こう)を観て、その吉凶を明らかにするために言葉を連ねたこと。また、その言葉。
※両足院本周易抄(1477)一「婚媾せん者をと思や。此を察して周公繋辞するなり」 〔易経‐繋辞上〕
② (copula の訳語) 論理学、言語学の用語。命題の主辞と賓辞とを連結して否定または肯定を表わす語。英語の be 動詞や、「吾輩は猫である」の「である」の類。連辞。コピュラ。
※論理学(1916)〈速水滉〉一「繋辞は主辞と賓辞を連結する作用を為すもので」
[2] =けいじでん(繋辞伝)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「繋辞」の解説
繋辞
けいじ
copula
コプラ,コピュラともいう。論理学で,主語 (主辞) と述語 (賓辞) とを連結する役割をになう語をさし,のちにこれが文法用語としても用いられるようになった。英語を例にとると,beが代表的なもので,beと同じ統辞的機能をもつ become,get,remain,seem,turnなど,いわゆる不完全自動詞がすべて含まれる。日本語では意味のうえから「コレハ本ダ」などの「~ハ~ダ」が対応するということになろうが,このように言語ごとに対応する表現法の文法的性質が異なるので,文法論的には有効な概念といえない。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
デジタル大辞泉「繋辞」の解説
けい‐じ【×繋辞】
《copula》論理学で、命題の主辞と賓辞とをつなぎ、両者の関係を言い表す言語的表現。「鯨は哺乳類である」の「である」の類。連語。連辞。
出典 小学館デジタル大辞泉について”
)
論証のプロセス――類推
p261から
インドの論証は次のプロセスでなされている。
1
「ある主題pが性質Sをもつ」という主張が提示される。
2
次に、その理由として「pは別の性質Hをもつから」と言われるが、それだけでは十分な説得力をもたない。
3
そこで、実例を挙げることが必要になる。
同喩例は、二つの性質HとSをあわせもつ具体例dを挙げたものであるが、それから「Hをもつならば、Sをもつ」というようにHとSとの間に随伴関係が想定されることになる。同様に、異喩例は、HもSももたない具体例vを挙げることによって、「Hをもたなければ、Sをもたない」という排除の関係が想定されている。
4
このような想定を当該の主題pに適用することによって、「pはSをもつ」という最初の提案が、結論として導き出される。
このようなプロセスは、まさに肯定的もしくは否定的な具体例から推理する、「類推」による推理、「例証」に他ならない。
論証の誤謬――『ニヤーヤ・スートラ』の疑似的理由
「因の三相説」――誤った理由の反省から正しい理由の発見へ
p.271から
(前略)論理学者の間にも、論証を成立させる「正しい理由とは何か」という問題意識が生じて来る。その結果、後にインド論理学で重要な位置を占める「因の三相説」が登場したのである。つまり、論証式中に提示される理由が、三つの特徴(相)をもつ、すなわち、三つの条件を満足させれば、「正しい理由」として認知されるという考えが出てきた。
誰が最初に因の三相説を唱えたのかは不明である。現存する資料のなかでそれに言及する最古のものは、ヴァスバンドゥの実兄とされる、瑜伽行唯識学派のアサンガ(無著[むじゃく]、四~五世紀)が、ナーガールジュナの『中論頌』の第一章第一偈に対する注解として著した『順中論』(漢訳のみ現存)である。
『順中論』に引用される因の三相のフォーミュラを、後代のスタンダードな表現に合わせて多少書き換えてみると、次のようになる。
理由(因)は、
1 論証の主題の属性(主題への所属性)であり、
2 同類に存在し(同類への随伴)、
3 異類には存在しないこと(異類からの排除)。
先の略号を用いて表現すると次のようになる。
1 主題への所属性:理由Hは主題pに存在すること。
2 同類への随伴:論証されるべき性質Sをもつものには、理由Hが存在すること。
3 異類からの排除:性質Sをもたないものには、理由Hは存在しないこと。
『順中論』には、次のような論証式の具体例も挙げられている。
提案「語は非恒久的である」
理由「作られたものであるから。(中略)」
喩例「もしものが作られたものであるなら、すべて非恒久的である。例えば、壺などの如し」
適用「語もまたそのようである」
結論「作られたものであるから、語は非恒久的である。(後略)」
『順中論』では喩例は
「もしものが作られたものであるなら、すべて非恒久的である」
という命題の形で提示されている。これは
「およそ作られたものは非恒久的である」
と書き換えることができ、集合の概念を導入すれば、
「作られたものの集合が非恒久的なものの集合によって包摂される」
という関係である。後にディグナーガによって、「遍充関係」と呼ばれたものに他ならない。「壺など」の実例はこのような「遍充関係」を保証する具体例として挙げられているのである。
(「非恒久的」の領域内に「作られたもの」が含まれる、という意味。だから、包んで取(摂)り入れる、と書く)
類比推理から帰納推理へ
p275から
因(=理由)の三相のうち第一相
([理由(因)は]論証の主題の属性(主題への所属性)である。
主題への所属性:理由Hは主題pに存在すること)
は、理由である「所作性」(作られたものであるという性質)が論証の主題である「語」に所属するということである。論証に際しては、語が作られたもの、つまり、発話者の発声器官や意志的努力などによって生じたものであることが、何らかの仕方でまず確認されていなければならない。そもそも語が作られたものでないとすれば、目下の論証は最初から成立しないからである。
第二相
([理由(因)は]同類に存在し(同類への随伴)
同類への随伴:論証されるべき性質Sをもつものには、理由Hが存在すること)
と
第三相
([理由(因)は]異類には存在しないこと(異類からの排除)
異類からの排除:性質Sをもたないものには、理由Hは存在しないこと)
は、理由である「所作性」が論証の主題である「語」と同様に非恒久的なもの、例えば壺などの「同類」に存在することと、それとは反対の恒久的なもの、例えば虚空などの「異類」には存在していないことである。
実はその両相は、単に正しい理由のもつべき特徴、満足させるべき条件というだけでなく、後に「同類への随伴」と「異類からの排除」と呼ばれることからも分かるように、理由(H)と論証されるべき性質(S)との間に何らかの関係を発見するための「帰納法の原理」として機能している。その関係とは、ことばとその意味の理解、火と煙、感覚器官と認識のような具体的な因果関係ではなくて、喩例に提示される、
「もしものが作られたものであるなら、すべて非恒久的である」
という一般的な法則である。つまり、因の第二相と第三相は、集合Hと集合Sとの間の「遍充関係」を確定するための帰納推理のプロセスを表しているのである。その結果、第二相と第三相を満足させる理由(H)は論証されるべき性質(S)との間に「知らしめるもの」と「知らしめられるもの」という関係を結ぶことになり、「正しい理由」と呼ぶことができるのである。
壺などの非恒久的なもののなかには「所作性」が見いだされ(随伴)、虚空などの恒久的なもののなかには「所作性」が見いだされない(排除)という事実を経験的に確かめたうえで、
「およそ作られたものは非恒久的である」
という一般法則を導き出す。
これを目下の論証の主題である「語」に適用することによって、
「語は作られたものであるから非恒久的である」
という結論に至ることができる。このような推理をもはや「類比推理」と呼ぶことはできない。帰納法の原理によって導き出された一般法則にもとづく「帰納推理」である。それは、アリストテレスによって確立された公理主義的な「演繹推理」とは峻別されなければならない。
「帰納推理」こそインド論理学を特徴づける最善のキーワードである。実に、「因の三相説」の導入によってインド論理学は飛躍的にその性格を変化させ、進歩したと言わなければならない。
帰納領域の分析
p277から
「話の世界」を
1 既に経験した既知のものの集合、と
2 未だ経験していない未知のものの集合
とに二分しよう。
インド論理学における推理・論証は
1
既知のものの集合からなる領域において、随伴と排除によって、ある一般法則を経験的に確立し、
2
それを未知の領域のある項目(論証の主題p)に適用して、
3
結論を導き出す
という基本的な構造をもっている。既知の領域において確立された法則を未知の領域に適用するという点で、まさに「帰納的」である。このような帰納推理を成立させる領域という意味で、既知のものの集合を、マギール大学の仏教学者リチャード・ヘイズにならって「帰納領域」と呼ぶことにする。
帰納領域は、論証されるべき性質(S、例えば「非恒久性」)をもつものの集合(+S)とその補集合(-S)に二分される。前者が「同類」、後者が「異類」と呼ばれる(図六)。
図六:帰納領域
S=論証されるべき性質
+S=同類
-S=異類
(□の領域内に+Sの〇がある。この〇の外の領域が-S)
さらに、論証されるべき性質(S)と理由となる性質(H)とを二項とするヴェン図を描くと、
帰納領域(=帰納推理を成立させる領域という意味で、既知のものの集合)を
{+S.-H} {-S.+H} {+S.+H} {-S.-H}
という四つの領域に分けることができる(図七)。
因の第二相の「理由の同類への随伴」とは、
{+S.+H}(=非恒久的で、作られたもの)に「壺」などの実例があり、空集合ではないということである。
因の第三相の「異類からの排除」とは、{-S.-H}(=恒久的で、作られたものではないもの)の領域には「虚空」という実例があり、やはり空集合ではないということである。――もちろん、虚空の実在性を認めない哲学者たちには、空集合となるが。
一方、{+S.-H}(=非恒久的で、作られたものではないもの)と
{-S.+H}(=恒久的で、作られたもの)は、実例が見当たらないから、空集合である。
この結果をヴェン図で表せば、図八となる(アミ部分は空集合を意味する)。
{+H}(=作られたもの)の集合と
{+S}(=非恒久的なもの)の集合とが外延を等しくすることは明らかである。
(
外延=ある概念という箱(りょういき)に入(はい)れる事物[厳密な定義ではなく私なりの理解]。
「野菜という概念」という箱(りょういき)に入れる事物(人参、かぼちゃなど)が外延。
人参も外延、カボチャもキュウリもキャベツもレタスもトマトも外延。
外延とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%96%E5%BB%B6-42120
”外延
がいえん
extensio; extension
論理学的概念としては,(1) 認識がそれに適用さるべき対象の集合。その場合,概念の外延と命題の外延とがあり,前者の場合はその概念を満足する個体の集合をいうが,伝統的論理学では概念に対してのみ外延を定義した。しかしフレーゲに始る新しい意味論においては命題の外延を考え,その際,命題の真理値がその外延となる。 (2) 論理的操作において考えられた対象ないし個別の集合,つまり命題における賓辞 (ひんじ) の外延は,その命題の外延の全体の一部にすぎない。 (3) ある命題が,単数 (集合的な場合も含めて) 命題か,複数命題かでもつ特徴。もしその命題が複数,ないし集合的な命題であれば,その命題は多かれ少なかれ,一般的な命題であると考えられる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
精選版 日本国語大辞典「外延」の解説
がい‐えん グヮイ‥【外延】
〘名〙 (extension の訳語)
① 概念が適用される事物の全体の、もとの概念に対する称。たとえば、金属という概念の場合、金、銀、銅、鉄などが、これに当たる。⇔内包。
※致知啓蒙(1874)〈西周〉上「之を言はの外延〔 extension 〕と名け」
② 条件を満たすものの全体から成る集合の、もとの条件に対する称。
[語誌]①の挙例「致知啓蒙」に見えるように、西周が extension の訳語として造ったもの。当初「外衍」という訳語も見られた(「教育・心理・論理術語詳解」)が、「外延」が定着した。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
図書館情報学用語辞典 第5版「外延」の解説
外延
一つの概念が適用される事物の範囲.言葉を換えれば,一つの概念の示す本質的性質を具有する表象群をいう.概念の内包が本質的属性の総和であるのに対して,外延は,その概念の適応することのできる範囲となる.両者間には相関関係があって,反対の方向に増減する.内包が増加すれば,適応の範囲は少なくなり,外延は減少する.階層分類では,一般的なものから特定のものへと区分が進行するにつれて,概念の外延が縮小し,内包が増大する.
[参照項目] 内包
出典 図書館情報学用語辞典 第4版図書館情報学用語辞典 第5版について 情報
日本大百科全書(ニッポニカ)「外延」の解説
外延
がいえん
extēnsiō ラテン語
extension 英語
extension フランス語
Umfang ドイツ語
伝統的論理学で、一つの概念が当てはまる範囲を、その概念の外延という。たとえば、「人間」の外延は、個々の人間の全体、つまり人類である。この言い方を広げて、一つの条件が当てはまるものの全体をその条件の外延ということにすると、これは、この条件によって決定される集合と同じものになる。つまり、外延は、現代論理学における集合にほぼ対応するものと考えてよい。
[吉田夏彦]
[参照項目] | 集合 | 内包
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
百科事典マイペディア「外延」の解説
外延【がいえん】
内包に対する。ある概念が適用される対象の集合(クラス)をいう。たとえば〈金属〉の外延には金,銀,銅,鉄など一切の金属がある。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
デジタル大辞泉「外延」の解説
がい‐えん〔グワイ‐〕【外延】
論理学で、概念が適用される事物の集合。例えば、惑星という概念の外延は水星・金星・地球・火星・木星・土星など。⇔内包。
出典 小学館デジタル大辞泉について
”
※着色は引用者
西洋を周ねくせんとする尻社員の訳語かよ! またかよ!
論理学にまで干渉してやがる。帰納と演繹という誤訳をしているから他の論理学関係に干渉していてもおかしくはないけどね。
https://twitter.com/aoJvqLcHOrs7UWg/status/1398061770846134273 と続き
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
この森本という奴、本当に神学学んだの…それでこの程度かよ
現代いわれている知性というのは演繹対象がある知性と帰納対象がある知性です
演繹対象がある知性というのは神学並びに教学です
帰納対象がある知性というのは所謂科学や経験によるものです
で、現代で知性と言われているのは帰納です
午前8:41 · 2021年5月28日·Twitter for Android
で、所謂原理主義というものは絶対演繹対象からすべてを導き出そうという運動です
なので、アメリカの福音派というのは「非常に知性的」です
彼らは絶対演繹からより世界に・道徳的に相応しいものを抽出して、判断並びに行動をしています
これは隠れているものを明らかにしようとしているからです
午前8:44 · 2021年5月28日·Twitter for Android
アメリカ社会がオカルティックなのも「隠れたものを何とか人間の理知の範囲に押し込む・語り尽くす」という目的があって、彼等のオカルティズムが存在します
神学やっていれば様々な教父と言われた大学者達が聖典や手紙を睨めっこして、必死こいて出してきたものをそう軽はずみに語らないんですけどね
午前8:47 · 2021年5月28日·Twitter for Android
で、答えがない問題というのは演繹から考えれば絶対にありません、むりくり帰納で考えるから答えが出なくなくなります
帰納はどうあがいても100%にはなりませんので神学極まっていると科学的根拠というものは「変わるものだから根拠じゃなくて感想だ、ボケっ!」と判断します
科学的感想が正しいです
午前8:50 · 2021年5月28日·Twitter for Android
森本のアホは神学極まってないから「権威で根拠作って、それをカノン・基準にするというのがどれだけ危険かわかっていない」この時点で大学一年生からやり直しです
ニッポン畜園はこういう人が肩書き妙に多いのでわしは相手にしたくないんですよ
0段階から間違っていると修正つかないからなんです
午前8:53 · 2021年5月28日·Twitter for Android
[引用者注:権力者の都合が基準(せいてん)になるから最悪]
知性主義の逆は感性主義といいましたが所謂反知性という文脈で使うなら「根拠のない権威主義」が所謂反知性主義です
根拠のない権威主義というのはそれ自体が帰納によって求められた一般解である科学や経験と聖典などの演繹から求められていない「因習・共同幻想」をいいます
午後0:23 · 2021年5月28日·Twitter for Android
例えば:優秀な学生が欲しければ、学校成績や指標で判断するよりは一旦採用して、試用期間でどれだけ動けるかをみるだけでいいです
それで一定に達していない・動かせる部署がないなら試用期間でさよならすればいいんです
だから、面接や指標でみるより実務で見るのが科学的で経験主義的です
午後0:28 · 2021年5月28日·Twitter for Android
この場合の知性は「実務能力」であって「学校成績や指標」ではありません
知性は見えていないものを明らかにする事であるので知性的に判断するなら、実務という光に照らして白日の元に晒すしかないのです
だから、学校成績や指標は物事に対応してない「根拠のない権威」となるわけなのです
2021年5月28日
で、コレをするなと言い続けているのが「トーラート・インジール・クルアーン」です
根拠のない権威を見せびらかして、最終的にナイル川に沈んだのがフィルウンなのですから、コレすらわかっていない奴が教鞭に立っている時点で論外です
わしの目の前でこんな事言われたらクルアーン開いて説教です
因習から逃れる為にはここの先生方も同じこと言いますが学問というのは「気付いていく作業」です
気付いていくとその知識に対して感動していくわけなのです、良くできているとね
気付く努力をしない動物には全ての物事はただの習慣です、習慣へと堕落させないために希求する事
それが神学生なのです
午後0:42 · 2021年5月28日·Twitter for Android
”
「実務という光に照らして白日の元に晒すしかないのです
だから、学校成績や指標は物事に対応してない「根拠のない権威」となるわけなのです」で法家を思い出した。
https://twitter.com/Kanpishi/status/1496478462659366914
”韓非
@Kanpishi
言葉だけでは孔子でさえ人の良し悪しを見誤るが、実際に役目を与えその仕事ぶりを評価すれば凡人でも迷う事はない。賢君の官吏と言うものは宰相は必ず地方の役人から身を起こし、勇将も一兵卒から出てくるものだ。功ある者に賞を必ず与え出世させることが臣下が精励となり、国のよく治まる王道である。
午後10:34 · 2022年2月23日·twittbot.net”
https://twitter.com/Kanpishi/status/1539511942385061888
”韓非
@Kanpishi
臣下の悪事を止めたいのならば臣下の実際の仕事(刑)と進言した言葉(名)とを審合するべきだ。君主は進言によって見合う仕事を与えるので言うことばかり大きく功が少ないものも、功は大きいがその言が小さかった者も刑名参同しないという害があるので同じように罰するのである。
午後4:33 · 2022年6月22日·twittbot.net”
)
かくして、「およそ作られたものは非恒久的である」という一般法則が確立される。また、外延を等しくする限りは、「およそ非恒久的なものは作られたものである」という関係も成立するが、今は「所作性」という理由によって「非恒久性」を論証することが目的であるから、第二の関係は要請されない。
以上のようにして確立された一般法則を、恒久的であるか否かが決定されていないという意味で未知の領域に属する主題「語」(p)に適用すると、
「作られたものであるから、語は非恒久的である」
という結論が導き出されるのである。
このような随伴と排除という帰納的プロセスによって導き出される一般法則、言い換えると、理由(H)と論証されるべき性質(S)の間に成立する関係は、サーンキヤ学派やヴァイシェーシカ学派が、推理を正当化する関係として列挙した「所有者と所有物との関係」「敵対関係」「因果関係」「内属関係」など、【もの】と【もの】との間に成立する具体的な関係とは違って、二集合間に成立する包摂関係に相当する、いわば抽象的な関係である。
ヴァスバンドゥは、それを「不可離の関係」と呼んでいる。その原語は「XなしにYがあることはない」という意味であり、もしもSとHの間に「SがなければHもない」という関係が成立すれば、HによってSの存在を推理することができるとされる。
例えば、火と煙の間には「火のないところには煙は立たない」という俚諺(りげん)があるように不可離の関係があるから、遠くの山に立ち昇る煙を見て、その下に火の存在を推理することができるのである。「不可離の関係」は本質的には、Sのないところ(=異類)から、Hが排除されるという、因の第三相に相当する。
(因=理由。相=特徴。なので、理由の第三の特徴。
三つの特徴(相)をもつことは三つの条件を満足することなので、「相」は「条件」でもある)
[
本書は先に事前に知っておかないといけない知識が多いと感じたので、役立ちそうなのを先に載せておく。
本書では後に陳那(じんな、ちんな、 ディグナーガ。480年頃~540年頃)についての解説が登場するからだ。
ディグナーガは唯識派なので当然、論理学は教義の根拠を示したり、整備するための研究であり、悟りへの道としての学問である。
学問の目的は大事なので書いておいた。
因明 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%98%8E
によると、
主張(宗)・理由(因)・実例(喩)・適合(合)・結論(結)。
因の三相 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E3%81%AE%E4%B8%89%E7%9B%B8
”因の三相(いんのさんそう)とは、因明、ことに新因明の規定であって、陳那によって明確化された。
陳那は、知識の確実性を論証する際に、現量(直接知覚)と比量(推理論証)の2つの量(pramana)のみを論証規範とした。その比量を、さらに自らの知識の確実性の論証(為自比量)と、他者に対する説示(為他比量)の2つに分けた。
その為自比量とは、三相をそなえた因によって義を観察することであるとする。(『集量論』「為自比量品」第1偈)この三相をそなえた因のことをいう。
第1相は、因は宗の前陳(主辞)の法でなければならないという遍是宗法性(へんぜしゅうほっしょう)
第2相は、因は宗の後陳(賓辞)と同類でなければならないという同品定有性(どうぼんじょううしょう)
第3相は、因は宗の後陳(賓辞)と矛盾するものとは異なっていなければならないという異品遍無性(いぼんへんむしょう)
[中略]
最終更新 2022年7月2日 (土) 06:37 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
”
「因は宗の前陳(主辞)の法でなければならないという遍是宗法性(へんぜしゅうほっしょう)」を言い換えていく。
理由(因)は主張(宗)の主辞(主語)の法でなければならないという遍是宗法性(へんぜしゅうほっしょう)。
https://twitter.com/kikuchi_8/status/863882581141364736
”因の三相を「主張命題:声は無常である。理由:原因によって成るから。」で説明。①遍是宗法性とは「原因によって成る」が主辞「声」の属性である事。②同品定有性とは「原因によって成る」が必ず賓辞「無常」を伴う事。③異品遍無性とは「原因によって成る」が賓辞「無常」の補集合「常住」に無い事。”(強調は引用者)
より、理由(因)が(主張[宗]の)主辞(主語)の「属性(=法)」でなければならないという「(理由は)遍(く)」是「主張」(の)「属性」(でなくてはならない)性(=ということ、性質、条件)。
法=ダルマ=属性。
有法=ダルミン=基体。
実体などの基体の上に大きさなどの属性が乗っていると考える。
つまり、「この本は重要だ」は「この本には重要性が乗っている」と考える。
賓辞=述語。
” じゅつ‐ご【述語】 の解説
1 文の成分の一。主語について、その動作・作用・性質・状態などを叙述するもの。「鳥が鳴く」「山が高い」「彼は学生だ」の「鳴く」「高い」「学生だ」の類。
2 論理学で、判断(命題)において、主語について何か主張されている概念。例えば、「犬は哺乳類である」における哺乳類。賓概念。賓辞。⇔主語。
”
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%BF%B0%E8%AA%9E/#jn-105784
第2相である「因は宗の後陳(賓辞)と同類でなければならないという同品定有性(どうぼんじょううしょう)」は
「理由は主張の述語と同類でなければない
(理由は必ず「主張の述語」を伴わなければならない)」
(定有は遍無と真逆の意味のはずなので、前者と後者は「常に有らねばならない」と「『遍く無いこと』が必須」という意味だろう)
第3相である「因は宗の後陳(賓辞)と矛盾するものとは異なっていなければならないという異品遍無性(いぼんへんむしょう) 」
は「理由は主張の述語と矛盾するものとは異なっていなければならない
(理由は、『「主張の述語」と矛盾するもの(述語の意味の領域外にあるもの)』」と異なっていなければならない」
(つまり、同品とは「主張の述語」の意味の領域内か領域が一致。
異品は領域外[領域と一致することはない]という意味だろうな。
たとえば、賓辞が「無常」なら、異品は補集合「常住」となる。無常ではないなら常住なので。
ある場合では無常、ある場合なら常住の場合を考えない場合ね(それを考えだすと脱線がひどくなるのでやらない)。
https://twitter.com/kikuchi_8/status/863803844412690432
”②因の三相とは主張命題を立証する理由が備えるべき三つの条件。㈠遍是宗法性。理由が主張命題の主辞に属す。㈡同品定有性。理由が主張命題の賓辞を必ず伴う(煙があれば必ず火がある等)㈢異品遍無性。理由が主張命題の賓辞の補集合から排除。㈡㈢を合わせて遍充(賓辞が理由を包摂する関係)と言う。”
https://twitter.com/kikuchi_8/status/863882581141364736 と続き
”因の三相を「主張命題:声は無常である。理由:原因によって成るから。」で説明。①遍是宗法性とは「原因によって成る」が主辞「声」の属性である事。②同品定有性とは「原因によって成る」が必ず賓辞「無常」を伴う事。③異品遍無性とは「原因によって成る」が賓辞「無常」の補集合「常住」に無い事。
同じく「主張命題:声は無常である。理由:原因によって成るから。」で「遍充」を説明する。この場合、遍充とは主張命題の賓辞「無常」が理由「原因によって成る」を包摂する関係である。包摂されるので「原因によって成る」は必ず「無常」の集合に存在し、無常の補集合「常住」には決して存在しない。
”
https://twitter.com/kikuchi_8/status/1408883784972308481
”
菊池
@kikuchi_8
返信先:
@kitsuchitsuchiさん
ブログ記事のご紹介を頂きありがとうございますm(_ _)m論理学はとても重要ですね。陰謀追及者の必須科目です。私も因明に興味があり少し勉強した事があります。「因の三相」「遍是宗法性」など表現はゴリゴリに古風ですが、内容は論理学そのものです。孫子~護身術まで昔の武芸百般と同じかもですね。
午前5:24 · 2021年6月27日·Twitter Web App
”
「遍充」という用語の意味が後によく出てくるので意味をきちんと確認した。
インド仏教における論証の伝統 桂紹隆
”「およそ火のないところには煙はない」という「全称命題」の形で一般法則が提示されていることである。このような一般法則をディグナーガは「遍充関係」(ヴィヤープティ)と呼ぶ。彼以降、仏教徒であるか否かを問わず、インドの論理学者、哲学者たちは、推理・論証の基盤を「遍充関係」におくようになるのである。
[中略]
理由の存在領域が同例群、すなわち推理・論証されるべきものの存在領域に包摂されるという「遍充関係」が成立するわけである。
[中略]
「およそ煙のあるところには火がある」という「肯定的遍充関係」で表現される。
[中略]
「火のないところには決して煙はない」とは、「火」の非存在領域が「煙」の非存在領域に包摂されるということである。この「否定的遍充関係」が「喩例」では「およそ火のないところには煙はない」という形で表現される。帰納的推理にこのような一般法則を導入した点にディグナーガの論証の大きな特徴がある。
”
論証の学としてのインド論理学 - 帰納法と演繹法
” 煙があるところには火があるというように, 共にあることが定まっていることが遍充である。その遍充が把握されるときにのみ, 煙は火を理解させる。これゆえに, 遍充によって火を推論させるがゆえに, 煙は火の徴表である。
[中略]
彼らは, 全称命題の部分で表されているものを, 遍充(vyāpti)と呼ぶ。 「煙を有するものは火を有する」においては, 煙が〈遍充されるべきもの〉 (vyāpya)で, 火が〈遍充するもの)〉(vyāpaka)である。ようするに, 煙の外延は火の外延より狭い(かあるいは同じ)ということである。
”
※着色は引用者
Aの範囲にB全体が入っているか範囲が一致するから遍充つまり「遍く充たす」なのね。
https://twitter.com/kikuchi_8/status/863883059459874816
”菊池
@kikuchi_8
返信先:
@kikuchi_8
さん
同じく「主張命題:声は無常である。理由:原因によって成るから。」で「遍充」を説明する。この場合、遍充とは主張命題の賓辞「無常」が理由「原因によって成る」を包摂する関係である。包摂されるので「原因によって成る」は必ず「無常」の集合に存在し、無常の補集合「常住」には決して存在しない。
午前7:25 · 2017年5月15日·Twitter Web Client
”
https://twitter.com/kikuchi_8/status/823210647517155328 と続き
”菊池
@kikuchi_8
返信先:
@kikuchi_8
さん
両建戦術とは「これがダメならあれをやる」というリスクヘッジも兼ねた巧妙な戦術なので、対処する側も常に複眼的思考をしていないと騙されてしまう。パターンAとパターンBが想定されるなら根拠なくどれかを否定し想定から排除して盲点を作らない様にすべきである。複眼的思考が破両建の基礎である。
午前1:48 · 2017年1月23日·Twitter Web Client
弁証法戦略とは一種の迂回戦術とも言える。「ワンワールド」という目的を設定した場合、一直線に「国境撤廃」を推進するのではなく、一端「ワンワールド」とは逆のナショナリズムや国家主義にテコ入れする。その上で衝突を起こし、その「反省」という名目で改めてワンワールドを強要するやり方である。
午前7:56 · 2017年1月27日·Twitter Web Client
弁証法戦略が持つ「迂回戦術」という一側面によって国際秘密力がグローバリズムなどの各種無国境主義だけでなくナショナリズムにもテコ入れする意味が分かる。最終目標に到達するまでの一過程として最終目標とは逆の性質を持つ事柄にテコ入れする場合も多い。ここが厄介なので注意を要する点である。
午前8:03 · 2017年1月27日·Twitter Web Client
より一層のグローバル化=全球化=NWO化を推進する為に一時的に脱グローバリズムや国家主義、ナショナリズムにテコ入れをする可能性もある。グローバリズムのみならず紐が付いた脱グローバリズムやナショナリズム(例えば国家間の衝突→戦争を煽るようなもの)も見破って騙されないように注意する。
午前8:11 · 2017年1月27日·Twitter Web Client
「両建」は人間の思考の隙を突いて巧妙に入り込んでくる。ある判断Aを下すと別の判断Bは排除される。「時間」が捨象される形式論理学上は「Aは非Aではない」という矛盾律が成り立つが「時間」の形式を持ち常に変化する現実世界ではある状況ではAであり別の状況では非Aであるという事がありうる。
午前7:22 · 2017年3月14日·Twitter Web Client
ある状況はAであり、別の状況では非Aであるというのが現実世界の論理である。「A≠非A」は時間を捨象した単なる思考上の規則に過ぎない。形式論理は思考の規則であって、時間が経つにつれ状況が刻々と変化する現実世界の論理ではない。形式論理を現実の論理と混同し絶対化するなら形而上学になる。
両建はある意味形式論理の絶対化であり、現実の具体的な状況や条件を無視し2択を迫る思考の罠なのだ。よって、形式論理に囚われて「AかBか」という2択を現実世界に適用する思考パターンに馴染んでいると容易に両建の罠に落ちるのである。両建戦術では形式論理の罠に嵌め、弁証法の論理で誘導する。
両建戦術は「形式論理」と「弁証法論理」の合わせ技である。まず、人々の形式論理的思考に乗じて「AかBか」という2択を迫り、2つの陣営に分けた上で衝突を煽る。ここまでは形式論理である。対立構造が形成され衝突が煮詰まったら予め設定した「C」という結論に誘導する。これが弁証法戦術である。
午前7:26 · 2017年3月14日·Twitter Web Client
同一律も矛盾律も言葉を使う思考の規則であり思考の世界の約束事である。現実世界では同一律も矛盾律も厳密に成立するとは言い難い。例えば人は成長するにつれて変化するので10年前のAと今のAが完全に同一だとは言い難い。逆に変化しつつも連続するのでAと非Aが同じだとも言える。要は視点次第。
午前7:39 · 2017年3月14日·Twitter Web Client
「変化しつつも連続するのでAと非Aが同じだとも言える」について補足。10年前の甲を「A」とすると、今現在の甲は厳密には「非A」である。しかしながら、変化しつつも人格的同一性は維持されている。変化しても甲はあくまで甲という人物である。そうでないなら社会的存在として存立できない。
午前7:51 · 2017年3月14日·Twitter Web Client
このように言葉と思考の世界ではない現実世界を観察するならば形式論理はあくまで思考の規則であり約束事に過ぎない事が分かる。約束事はどこまでも約束事である。現実の世界にそのまま適用するとおかしな事になる。「右か左か」という左右両建構造もかかる人間の思考の癖に付け込んで設定される罠だ。
午前7:55 · 2017年3月14日·Twitter Web Client
「論理」の話。「論理的」かどうかは「必要」という偶然的な要素とは関係が無い。「必要」は具体的な条件や文脈によって決まる(「空腹だから食物が必要」など)。それに対して「論理」は純粋に思考と言葉の規則。不必要なホラ話にすら論理がある。異なる次元にある「論理」と「必要」を混同する愚。
午前1:39 · 2017年4月21日·Twitter Web Client
問題となるのは特定の事柄を論証する説明が論理的か否かで「論理的に必要か」という表現は無意味(「必要条件か」は有意味)。論拠と結論が論理的に繋がっているかだけが肝心。「論理」と「必要」は別次元。必要は具体的な条件次第。例えば飢えた人が何かを食べる必要があるのは論理の問題ではない。
午前1:50 · 2017年4月21日·Twitter Web Client
「あなたの推論には論理的な間違いがある」は有意味だが、「あなたの推論には論理的必要が無い」は意味をなさない。「推論の必要性」は論理によっては決定できない。それを決定するのは実際に人を説得しなければならないなどの具体的な条件や状況。逆に不必要な嘘話にすら言葉である以上論理がある。
午前2:03 · 2017年4月21日·Twitter Web Client
論理の話の続き。「論理」とは言葉の繋がりの規則なので「論理的」である事は事実の有無や真偽とは関係が無い。虚偽にも論理がある。例えば「①大前提・犬は魚類である②小前提・ポチは犬である③結論・ポチは魚類である」という三段論法は論理的には正しい。しかし犬は魚類ではないので虚偽である。
午前0:57 · 2017年4月22日·Twitter Web Client
「論理的」と「合理的」が混同して使われる場合が多いと感じる。言葉と言葉の繋がりが飛躍する事無く繋がっていれば「論理的」だと言える。しかし、論理的でも虚偽や空想である可能性もある。事実の有無は論理的な正しさとは別次元なので具体的に検証しなければならない。「合理的」はこの局面で使う。
午前1:03 · 2017年4月22日·Twitter Web Client
「論理」の「理」は文字通り「論の理」。つまり言葉や思考の筋道の意味。それに対して「合理」の「理」は言葉に限らないもっと広い意味での筋道。「目的合理」という場合は目的を達成する為に効率のいい筋道を意味する。個人的には「合理」を「道理に合致する」という意味でも使いたいと思っている。
午前1:22 · 2017年4月22日·Twitter Web Client
「合理」に関しては以前考察した。
引用ツイート
菊池
@kikuchi_8
· 2016年12月31日
「合理主義」中村元著で理性主義を考察。「理」とは二つの意味あり。一つは人間としての道理、筋道という意味。これは人の意志に関わるので行う事も行わない事もできる。もう一つは自然法則などの客観的な法則性。こちらは人の意志に関わりなく一定である。通常「合理」と言う場合は後者に重点がある。
午前1:24 · 2017年4月22日·Twitter Web Client
論理の話の続き。よく「日本人は論理的思考が苦手」と言われるがさにあらず。我が国は奈良時代に論理学を受け入れていた。「それは一部の仏僧(当時の知識人)のみ」と言ったところで西欧で最初にアリストテレス論理学を受け入れたのも一部の神父のみである。しかも受容の時期は日本の方が数百年早い。
午前2:30 · 2017年4月26日·Twitter Web Client
我が国が奈良時代に受け入れた論理学は印度に由来するもので「因明=いんみょう」と言う。奈良の仏僧によって学ばれた。因明は古因明と新因明に分かれる。古因明は印度の哲学学派「ニヤーヤ派」が整備した。それに対し新因明は唯識派に属する陳那が整備した。我が国に輸入されたのは新因明の方である。
午前2:31 · 2017年4月26日·Twitter Web Client
ニヤーヤ学派は提案(宗)・理由(因)・喩例(喩)・適用(合)・結論(結)という五支からなる「五支作法」と呼ばれる論証式を作った。陳那はこれを提案(宗)・理由(喩)・喩例(喩)の三支に改めた。前者が古因明で、後者が新因明である。因明は流派を問わず印度の各哲学学派の共有財産となった。
午前2:33 · 2017年4月26日·Twitter Web Client
陳那の論理学まとめ。①提案・理由・喩例(宗・因・喩)からなる論証式=三支作法。②因の三相(正しい理由である為の三条件)。「AはBである。Cであるから」という論証の場合Cが正しい理由である為の条件は三つ。①CはAの性質である。②CはBに随伴(BがCを遍充≒包摂)③Cは非Bから排除。
午前2:35 · 2017年4月26日·Twitter Web Client
陳那が唱えた「遍充」とは概念間の包摂関係を意味する。類概念は種概念を遍充している。例えば「人間」という概念は「生物」という概念によって遍充されている。より普遍的な概念がより特殊な概念を遍充するのである。主張命題の述語が根拠を遍充しているとそれは正しい理由とされる(因の第二相)。
午前2:36 · 2017年4月26日·Twitter Web Client
西洋の論理学が「演繹」重視なのに対し、印度の論理学は「帰納」重視だと言われている。陳那はある命題の根拠が正しいと言える為の条件(因の三相)を究明した。因の三相は帰納推理が成り立つ為の条件。印度の論理学の論証式では必ず具体的事例を挙げる事を必須とする点も「帰納」重視の表れと言える。
午前2:37 · 2017年4月26日·Twitter Web Client
陳那は論理学と認識論を重視したが、認識論においては確実な認識手段を知覚(現量)と推理(比量)に限定した。そして概念(共相)を介在しない知覚(現量)を対象そのもの(自相)を捉える一番確実な認識手段とした。このような陳那の経験主義的な姿勢も帰納重視の論理学に反映していると思われる。
午前2:38 · 2017年4月26日·Twitter Web Client
因の三相を「提案・安倍は売国奴だ。理由・ISDSで主権放棄するから」という論証式で考える。①第一相・「ISDSで主権放棄するから」は提案の主辞「安倍」に属する。②第二相・「売国奴」は「ISDSで主権放棄するから」を遍充。③第三相「ISDSで主権放棄するから」は非・売国奴から排除。
午前2:39 · 2017年4月26日·Twitter Web Client
①②③を説明する。①は「ISDSで主権放棄する」のは「安倍」だという事。②「ISDSで主権放棄する」人物は必ず売国奴である事(逆に全ての売国奴が「ISDSで主権放棄する」とは限らない)。③「ISDSで主権放棄する」人物は非売国奴の集合から排除される(売国奴以外の何ものでもない)。
午前2:40 · 2017年4月26日·Twitter Web Client
「AはBである。Cだから」という命題で「因の三相」を考える。①第一相・CはAが持つ属性でなければならない。②第二相・Cが必ずBに随伴する事。全てのBがCである必要はない。③第三相・Cは非Bの集合から排除されていなければならない。そうでないならば「AはBである」理由になり得ない。
午前2:44 · 2017年4月26日·Twitter Web Client
陳那(ディグナーガ)が唱えた「因の三相」とは何らかの命題を立証する場合に挙げる根拠や理由が正しいと言える為の条件を明らかにしたものである。「因の三相」を備えていれば(三つの条件に全て適合していれば)その理由は正しいとされる。自他の主張命題の根拠を吟味する際に役に立つ考え方である。
午前2:52 · 2017年4月26日·Twitter Web Client
日本人にとっての陳那の因明は西洋人におけるアリストテレスの論理学みたいなものではないだろうか。こういう知的遺産は是非掘り起こして活用していくべきだと考える。戦国時代においてアリストテレスの論理学を駆使するイエズス会宣教師に対して仏僧は陳那が開発した因明を駆使して対抗した事だろう。
午前2:52 · 2017年4月26日·Twitter Web Client
陳那の因の三相は此縁性(しえんしょう)と呼ばれる「縁起」のもっとも基本的な形式「此れが有れば彼有り。此れが無ければ彼無し。」をベースにしていると思われる。随伴と排除の関係である。「渇愛が有れば苦が有る。渇愛が無ければ苦が無い。」「火が有れば煙が有る。火が無ければ煙が無い」など。
午前7:31 · 2017年4月26日·Twitter Web Client
西洋では認識論が発達するのが遅かった。「神」が認識を保証してくれるという前提があったからである。それが崩れ始める近世初頭になるまで本格的な認識論は現れなかった。一方、「絶対神」の観念が希薄な印度では認識論が早くから発達した。特に仏教の認識論は精緻を極めた。陳那はその大成者の一人。
午前7:42 · 2017年4月26日·Twitter Web Client
説一切有部は外界(境)がそのまま認識されるとした。経量部は外界は直接認識されず外界が表象として認識されるする表象主義的な認識論である。これは近代になってカントが論じた認識論と似ている。唯識では外界の存在そのものを否定し、主客は相互依存(依他起)しており全ては認識作用=識だとした。
午前7:44 · 2017年4月26日·Twitter Web Client
陳那の認識論では有効な認識手段は知覚と推理に限定したが、ニヤーヤ学派では知覚・推理・証言・比定の四つを有効な認識手段として認めた。陰謀追及的には「証言」は重要である。情勢分析のソースも大半がニュース、ネット情報、書籍などの謂わば「証言」だからだ。ソースの信頼性の吟味が重要になる。
午前7:47 · 2017年4月26日·Twitter Web Client
陰謀追及における情報の分析では情報のソースの信頼性や複数のソースを比較対照するなど十分に吟味する必要がある。証言は「見る」「聞く」など知覚によって認識するものの証言で指し示されている事実そのものについては直接知覚している訳ではない。証言を知覚や推理と区別する意義はあると思われる。
午前8:07 · 2017年4月26日·Twitter Web Client
「論理」を考える為の資料として印度哲学の中でも論理の研究を専門としたニヤーヤ学派とその姉妹学派であるヴァイシェーシカ派について少し調べた。印度哲学と言えば「梵我一如」を旨とするヴェーダーンタ学派のような神秘主義的な学派のみならず合理主義的な学派もある。神智学一派が無視する側面だ。
午前1:03 · 2017年4月29日·Twitter Web Client
NWO征略で思想工作を担当する神智学一派は印度思想に執着して憑依の対象とするが彼らが利用するのは神秘主義的思想ばかりである。論理と合理を重視する学派は無視する。支配ツールに向かないからだろう。現に印度では論理学はヴェーダの権威を軽視するものとして当初支配階級から警戒されたらしい。
午前1:09 · 2017年4月29日·Twitter Web Client
古代印度の六派哲学の一つにヴァイシェーシカ派という学派があった。「勝論派」と言う。勝論派では世界を「六句義」という六つのカテゴリで説明する。六句義は実体・属性・普遍・特殊・運動・内属の六つである。「概念に対応する実在が外界に存在する」「世界は言語表現通りに存在する」という思想。
午前2:06 · 2017年5月1日·Twitter Web Client
勝論派では「白い牛が歩く」という事態は「白い牛が歩く」という言語表現に正確に対応していると考える。「歩く白い牛」という実体に「牛性」という普遍、「白い」という属性、「歩く」という運動が内属していると考える。主体・運動・属性は相互依存=縁起すると考える龍樹とは正反対の発想である。
午前2:08 · 2017年5月1日·Twitter Web Client
勝論派哲学は言葉と逐一対応する事物が実在すると考えるとどういう世界観が出来上がるかを示すモデルケースだと言える。逆に「言葉と現実にはズレがある」と考えたのが龍樹である。勝論派と中観派は全く逆方向に思考を徹底したよき論敵同士だった。それにしても印度人の思考の徹底ぶりには驚かされる。
午前2:13 · 2017年5月1日·Twitter Web Client
ヴァイシェーシカ派の姉妹学派が論理学と認識論の研究が専門のニヤーヤ学派である。認識と論証に関する十六のカテゴリを設定。ベーダーンタ派が「梵我一如」という神秘的境地に至る事を「解脱」としたのに対し、ニヤーヤ派は「論理学と認識論を極める事」を「解脱」とした。合理主義的な学派である。
午前2:21 · 2017年5月1日·Twitter Web Client
ニヤーヤ派とヴァイシェーシカ派はベーダーンタ派などに比べると合理主義的な学派である。西洋の結社やその手先のカルト勢力は印度哲学の神秘主義的な部分だけをつまみ食い的に剽窃して利用するが印度哲学の強靭な論理的思考は忌避する。印度哲学を神秘主義だけと思い込むと神智学一派などに騙される。
午前2:24 · 2017年5月1日·Twitter Web Client
ヴァイシェーシカ哲学の六句義の「句義」(パダ・アルタ)とは「語の対象」を意味する。即ち語が示す対象的実在には六つのカテゴリがあるというのが「六句義」の意味である。語が示す概念を実体視・実在視する考えである。概念の実体視を批判する龍樹とは対照的な発想であり、激しい論争が行なわれた。
午前7:30 · 2017年5月1日·Twitter Web Client
印度哲学は神秘主義的な学派と合理主義的な学派に二分される。ベーダーンタ派やミーマーンサー派は前者で、ニヤーヤ派とヴァイシェーシカ派は後者。サーンキャ派は二元論的。ヨーガ派のヨーガは全学派共通。仏教は合理主義的だが渇愛を取り除いて苦の滅を目指す倫理的な色彩の強い実践哲学だと言える。
午前7:35 · 2017年5月1日·Twitter Web Client
原始仏教もニヤーヤ派やヴァイシェーシカ派と同じく合理主義的だが主知主義的ではない。ニヤーヤ派は論理学と認識論を極める事を目指すが、原始仏教は「渇愛の滅による苦の滅」を目指す実践重視の哲学である。だが後には中観・唯識に至り論理学と認識論が発達した。ニヤーヤ派とはライバル関係である。
午前7:37 · 2017年5月1日·Twitter Web Client
[
引用者注:
主知主義(しゅちしゅぎ)の意味 - goo国語辞書
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E4%B8%BB%E7%9F%A5%E4%B8%BB%E7%BE%A9/
” しゅち‐しゅぎ【主知主義】 の解説
1 感情や意志よりも知性・理性の働きに優位を認める立場。主知説。⇔主意主義/主情主義。
㋐認識論で、真理は理性によって合理的に把握されるとする立場。
㋑形而上学で、世界の根本原理を知的・理性的なものとする立場。
㋒倫理学で、行為を律する道徳的原理を知性や理性のうちに求める立場。
㋓心理学で、すべての心理的現象を知的な要素から説明しようとする立場。
2 文芸史で、知性を重んじる立場。
”
]
仏教の中で論理学と認識論を重視したのは唯識派で論理学を確立したのが陳那。三支作法や因の三相については先日述べた。ニヤーヤ派の論理学が古因明で陳那の論理学が新因明。我が国は奈良時代に後者を輸入。因明が伝統として残っているのは日本だけだそうである。日本人は論理的思考は苦手ではない。
午前7:41 · 2017年5月1日·Twitter Web Client
弁証法について。「弁証法戦略」と言う場合の「弁証法」は主にヘーゲルのそれである。だが「弁証法」は物事を固定化した相で捉える形式論理学に対し「物事を変化の相で捉える思考方法」という意味で広義に用いられる場合がある。ソクラテス以前のヘラクレイトスの哲学などが弁証法に分類されたりする。
午前1:11 · 2017年5月15日·Twitter Web Client
論理学の教科書には形式論理学、記号論理学と並び弁証法論理学についての項目があったりする。そこではソクラテス以前のギリシャ哲学者などに広義の意味での弁証法的思考があったとされる。だがヘーゲルの弁証法は歴史の目的因というか終着点を想定している点で古代ギリシャ哲学の発想とは異質である。
午前1:12 · 2017年5月15日·Twitter Web Client
ヘーゲルの弁証法では正・反・合の変化の過程を設定するものの、歴史の最終到達点みたいなものを想定する点でギリシャ的というよりペルシャ的である。ヘーゲル哲学はプロテスタント神学の哲学版などと言われる所以である。キリスト教はペルシャ起源の「歴史の終わり」を想定する終末史観が濃厚である。
午前1:13 · 2017年5月15日·Twitter Web Client
「変化の相を捉える思考方法」という「弁証法」の広義の意味では東洋の哲学にも当てはめられる場合がある。だが「弁証法」というとヘーゲルの弁証法が真っ先に連想されるので好ましい分類法とは思えない。ある種の憑依型戦術である。そもそも弁証法とは古代ギリシャでは問答法とか対話術を意味した。
午前1:25 · 2017年5月15日·Twitter Web Client
「論理学を生み出したのはギリシャとインドだけ」と言われるが、アリストテレスが整備したギリシャの論理学は諸学問をやる為の「オルガノン(道具)」という性質なのに対し、インドの論理学は各哲学学派間の論争から生まれた討論術を起源としているようだ。後者はさながら討論マニュアルのようである。
午前1:39 · 2017年5月15日·Twitter Web Client
ニヤーヤ学派が論理学を研究する学派だった(古因明)が、これに対して陳那が新しい論理学を確立した。陳那が確立した論理学(新因明)は我が国も奈良時代に取り入れている。中村元氏によると因明が現在も伝統として学ばれ続けているのは日本だけだそうである。日本人には論理学の伝統があるのである。
午前1:47 · 2017年5月15日·Twitter Web Client
陳那の論理学まとめ。①三支作法②因の三相③九句因。①三支作法とは主張命題(宗)・理由(因)・例証(喩)の三支から成る論証式。それ以前の論証式はニヤーヤ派が確立した主張命題(宗)・理由(因)・例証(喩)・適合(合)・結論(結)からなる五支作法だった。陳那は合と結を削り三支とした。
②因の三相とは主張命題を立証する理由が備えるべき三つの条件。㈠遍是宗法性。理由が主張命題の主辞に属す。㈡同品定有性。理由が主張命題の賓辞を必ず伴う(煙があれば必ず火がある等)㈢異品遍無性。理由が主張命題の賓辞の補集合から排除。㈡㈢を合わせて遍充(賓辞が理由を包摂する関係)と言う。
午前2:10 · 2017年5月15日·Twitter Web Client
③九句因とは理由(因)の9のパターンの事。理由が賓辞の集合の全体にあるか・一部にあるか・全くないかの3パターンあり、それが補集合にも言えるから3×3で全部で9パターンとなる。正しい因(正因)は因の三相を満たすもののみ。それ以外は全て間違った因(相違)と正否不明の因(不定)である。
午前2:29 · 2017年5月15日·Twitter Web Client
こういう論理学が奈良時代から学ばれていた事を見ても「日本人は論理的思考が苦手」は嘘だと分かる。日本には西洋の自由七科=リベラルアーツに相当する「五明」があった。どちらも論理学を含む。戦国時代に襲来したイエズス会宣教師は論理学を身に着けていたが、我が国の学僧は因明を身に着けていた。
午前2:38 · 2017年5月15日·Twitter Web Client
戦国時代に日本がキリスト教の侵略を打ち払う事が出来たのは宣教師が身に着けていたアリストテレス論理学に対抗できる「因明」という論理学で鍛えた論理的思考があったのも大きいのではないかと考えている。当時の仏僧は宣教師と対等以上の論争を行なっている。武力だけで思想工作を破る事はできない。
午前2:45 · 2017年5月15日·Twitter Web Client
因の三相を「主張命題:声は無常である。理由:原因によって成るから。」で説明。①遍是宗法性とは「原因によって成る」が主辞「声」の属性である事。②同品定有性とは「原因によって成る」が必ず賓辞「無常」を伴う事。③異品遍無性とは「原因によって成る」が賓辞「無常」の補集合「常住」に無い事。
午前7:23 · 2017年5月15日·Twitter Web Client
同じく「主張命題:声は無常である。理由:原因によって成るから。」で「遍充」を説明する。この場合、遍充とは主張命題の賓辞「無常」が理由「原因によって成る」を包摂する関係である。包摂されるので「原因によって成る」は必ず「無常」の集合に存在し、無常の補集合「常住」には決して存在しない。
午前7:25 · 2017年5月15日·Twitter Web Client
”
※着色は引用者
]
(法=ダルマ=属性。
有法=ダルミン=基体。
インドの論理学の「因の三相」は本当に偉大な発見だ。
インド論理学が帰納的なのはゴッドの啓示宗教じゃないからだろうな。
西洋論理学が演繹的なのはゴッドの啓示宗教のためだからだろうな。
帰納(インダクション)の正確な訳は上導。上へ導き入れる。
演繹(ディダクション)の正確な訳は下導。下を導き出す。
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/1520710754173059074 と続き
”
シーア兄貴(イラソのアレ来世触手)2022/3/3~4/4と良呟きや記事の保管庫 https://t.co/NpTS0Eevdh
— 子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子) (@kitsuchitsuchi) May 1, 2022
木×3 鴎外(おそらく尻社員)と親戚である「西洋を周くせん」が誤訳で日本語を侵略していることについてなどについて。思考に関わる単語レベルで干渉されていることを自覚しないと正名はできない。
演繹(ディダクション)と帰納(インダクション)は語源を使って、導出と導入か
下導と上導と訳した方が良かったのでは?
deductio(デドゥクティオ)は
より上位に位置する普遍的な概念から、その「下」位に位置づけられる個別的な概念や具体的な事物の存在を「導」き「出」すという推論の形式。
deductioは上から下に下る。
インドゥクティオは具体的事物や個別的な事例を挙げることによって、そこから普遍的な結論を導き出すから、上へ導くまたは上を導く。
インダクションは下位に位置する個別的な概念や具体的な事例を「上」位の普遍的な概念へと「導」き「入」れ昇華するとという推論の形式。
朱熹〔中庸章句の序〕: 是(ここ)に於て、堯舜以來相ひ傳ふるの意を推本し、質(ただ)すに平日聞く所の父師の言を以てし、更互に演繹して、此の書を作爲す。
(私の不正確であろう訳:
ここにおいて、堯舜以来伝わってきた意味を大本まで推し量り[徹底究明して]、父のように敬愛する師のおっしゃった
ことをもって不明な点を明らかにし、交互に「演繹[意義をのべ明らかに]」して、この書を作った)
更互(こうご):かわるがわる。交互。
交互なので「上から下を導き出す」という意味ではないからdeductionを演繹と訳すのは誤訳。おそらく儒教を破壊するための意図的な誤訳。
観念(イデー)も誤訳。
西周「観念の字は仏語に出づ、今此書には英のアイデア、仏のイデーなる語を訳す」
仏教用語だと観念は「心静かに智慧で一切を観察すること。物事を深く考えること」。
イデー(心に現れる表象、想念、意識内容)の訳語にあてるのは不適切。仏教だと自覚しているから意図的な誤訳だろうな。憑依戦術。
思考と推論に関係する誤訳で思考に干渉し続けているから注意。彼と親戚の鴎外も怪しい。
『石の扉』p.199の一部を要約。
西(洋)周(くせん)は、ライデン大学から徒歩五分の所にあるラ・ベルトゥ・ロッジNo.7でフリ目に加盟。推薦はフィッセリング教授。入会申し込み書署名の写真がある。要約終了。
”
「西(洋を)周(くせん)」ってオランダ系の目イソンなんだよな。明治維新(江戸瓦解)前後のオランダの動きはマジで怪しい。出島にいたからな。蘭学経由でスパイも入れやすいし。
※着色は引用者
苦行むりさんがリツイート
https://twitter.com/exa_desty/status/934203203716915200
”苦行むり
@exa_desty
2017年11月25日
オランダ関係者が日本にしたことを調べてみた
島原の乱で幕府の信頼を勝ち取る
三角測量、化学、写真術、航海術、蘭学、本格的な近代医学
長崎製鉄所建設、軍事学などを教える
おいおい、教育係じゃねえか
しかも教える内容が最初から軍国化狙いとw
”
苦行むりさんがリツイート
苦行むり
@exa_desty
2017年10月29日
東インド会社で調べたら
イギリス以外にオランダ、スウェーデン、デンマーク、フランス
の東インド会社があって吹いた
(イエズスベルグからオランダのマーストリヒト市だから何か引っかかった
苦行むりさんがリツイート
苦行むり
@exa_desty
2017年10月31日
みんな武器商人はアメリカ!イスラエル!としか言わないけど
フランス、ドイツとかオランダを忘れてないか?
つーか紛争地域を追うとオランダの影がちらつくぜ?
https://twitter.com/skytree222/status/780791668739944449
”いつみみふね
@skytree222
西周(にしあまね)旧居。文久2年幕命でオランダライデン大学に留学した。「万国公法」を翻訳し、徳川慶喜公の相談役として西洋の議会制度などを伝えた。新政府にも出仕、陸軍省や文部省に勤めた。「哲学」「芸術」「理性」「科学」「技術」などは彼によって考案された訳語だそうです。
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画像
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午前0:30 · 2016年9月28日·Twitter for Android”
https://twitter.com/OguriBungo/status/1514373713419857920
”小栗豊後@泡沫の夢
@OguriBungo
#オレンジデー
関係ないけれどもオランダが何故『オレンジ色』がナショナルカラーになっているかと言えば、オランダの初代君主オラニエ公ウィレムに由来する。
オラニエ(仏語でオランジェ)
でもオランダ語で果物のオレンジは
sinaasappel (シーナサップル、シーナスアッポル)
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午前7:43 · 2022年4月14日·Twitter for Android”
https://twitter.com/henkenkokkabot/status/1540108217300070401
"偏見で語る消滅国家bot
@henkenkokkabot
オレンジ自由国(1853~1902)
アフリカ南端に移住したオランダ人の子孫たちが、グレートトレックと呼ばれる大移動の末に建てた国。しかし建国後にダイヤモンドが発見されたばっかりに英国の侵攻を受け滅亡。うーんこのブリカス
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午前8:03 · 2022年6月24日·twittbot.net"
https://twitter.com/Pinazetagundam/status/1487388425707671559
”
”4枚目は南アフリカですね
— ピア (@Pinazetagundam) January 29, 2022
この4つの旗(オランダ旧国旗、イギリス、オレンジ自由国、トランスヴァール共和国)の合体です pic.twitter.com/i1OYhnrGRB
https://twitter.com/APR7PlI34TTCVvo/status/1175531534125715456
”
”清とオレンジ自由国の旗 pic.twitter.com/hF6X0xWTXB
— 比嘉ちむ子 (@APR7PlI34TTCVvo) September 21, 2019
)
ディグナーガ――遍充関係
p.281から
ディグナーガは、ヴァスバンドゥの「不可離の関係」を、既に述べたように、集合{+H}と集合{+S}の間の「遍充関係」と捉え直すのである。彼は遍充関係を明示するために、因の三相に新しい解釈を導入する。元来、因の第二相と第三相は、理由(H)が
(2)同類(+S)への随伴、と
(3)異類(-S)からの排除
という二つの条件を満足させていることを確認して、HとSの間に「知らしめるもの」と「知らしめられるもの」という関係が成立することを発見する帰納的プロセスを表すものであった。
(ここからp.282)
例えば、語の非恒久性を論証する場合、同類は論証されるべき性質である「非恒久性」をもつものの集合であり、異類はその補集合である。理由として想定される「所作性」(作られたものという性質)は、論証されるべき性質「非恒久性」と、
「非恒久的なもの(=同類)には、所作性が随伴する」
「恒久的なもの(=異類)からは、所作性が排除される」
という随伴と排除の関係があるから、正当な理由と見なされる。そして、このような帰納的プロセスを経て、
「およそ作られたものは非恒久的である」
という一般法則が導き出されるのであった。
ところが、ディグナーガは因の第二相と第三相に対して、別の定式化をも提示する。
2 同類(=Sをもつもの)に【のみ】、Hが存在すること。
3 異類(=Sをもたないもの)には、Hは【決して】存在しないこと。
「のみ」あるいは「決して」と和訳したのは、いずれも「制限・限定」を意味する梵語の不変化詞(eva)に相当する。パーニニ派の文法学者ヴィヤーディに帰せられる解釈規則によると、XとYの二語からなる文章において、Yにこの不変化詞が付けば、XはYによって限定されることになる。言い換えれば、Xの領域はYの領域に制限されるのである。このようなXは「被限定者」、Yは「限定者」と呼ばれている(図九参照)。
図九「これは牛に【他ならない】」
横長の長方形の中に、大きな〇(Y)。このYの〇の中に小さな〇(X)がある。
長方形の中かつ、Yの〇の外の領域がZ。
X=これ(被限定者)
Y=牛(限定者)
Z=馬、犬など、牛以外の四足動物
第二相では、Sの存在領域である「同類」に限定詞(eva)が付けられているから、Hの存在領域がSの存在領域によって制限される。つまり、前者(Hの存在領域)がSの存在領域によって制限される。つまり、前者(H領域)が後者(S領域)によって包摂されることが理解される(図十)。
図十「Sをもつものに【のみ】」、Hが存在する」
+Sの領域(〇)の中に、+Hの領域(小さい〇)全体が入っている。
一方、第三相では、Hの非存在に限定詞(eva)が付けられているから、Sの非存在領域(-S=異類)がHの非存在領域(-H)によって包摂されると理解されるのである(図十一)。
図十一「Sをもたないものには、Hは【決して】存在しない」
-Hの領域(〇)の中に、-Sの領域(小さい〇)全体が入っている。
両図は表裏の関係にあるから、ディグナーガの解釈に従えば、因の第二相と第三相とは論理的に全く等価であることになる。両者はいずれも「Hの集合はSの集合によって遍充される」という「遍充関係」を肯定的もしくは否定的な形で表しているのである。
先の例に、ディグナーガの因の三相の解釈を適用すると、
「非恒久的なもの(=同類)に【のみ】所作性は存在する」
「恒久的なもの(=異類)には、【決して】所作性は存在しない」
というように、「所作性」と「非恒久性」との間に、
「およそ作られたものは、非恒久的である」
「およそ恒久的なものは、作られたものではない」
という一般的法則、彼の表現に従えば、非恒久的なものの集合による作られたものの集合の「遍充関係」、すなわち「包摂関係」が明示されているのである。
ディグナーガに至って、因の第二相と第三相は、単に随伴と排除という関係発見のための帰納的プロセスを表すだけでなく、それぞれの定式に限定詞(eva)を挿入することによって、帰納的プロセスによって発見された一般的法則、すなわち「遍充関係」を正確に表す論理的言明という役割をも負わされることになったのである。
インド論理学に対するディグナーガの最大の貢献は、この遍充関係の理論を初めて定式化し、推理・論証の基礎理論として確立したことであろう。彼以降のインドの論理学者たちは、学派の垣根を超えて、ほとんど例外なく推理・論証を正当化する根拠としてこの理論を採用するようになったのである。
実に、遍充関係の理論こそインド論理学の中核理論である。
この遍充関係を発見する方法として、文法学派が開拓した「随伴」と「排除」という帰納法の原理が用いられること、さらに遍充関係を正確に定式化するために同じく文法学派の不変化詞の用法が利用されることを考慮すると、インド論理学の発展にインド文法学が決定的な役割を果たしたと言っても過言ではない。
[難しい箇所をきちんと読むためにまとめ直したのが以下。
「AはBである。『Cであるから』(=因)」という論証の場合:
因(=理由)の三相のうち
第一相
C(理由)はAの性質である。
[理由(因)は]論証の主題の属性(主題への所属性)である。
主題への所属性:理由Hは主題pに存在すること)。
遍是宗法性(へんぜしゅうほっしょう)。
理由(因)は主張(宗)の主辞(主語)の法でなければならない。
理由(因)が(主張[宗]の)主辞(主語)の「属性(=法)」でなければならないという「(理由は)遍(く)」是「主張」(の)「属性」(でなくてはならない)性(=ということ、性質、条件)。
法=ダルマ=属性。
有法=ダルミン=基体。
理由が主張命題の主辞に属す。
第二相
C(理由)はBに随伴(BがCを遍充≒包摂)。
[Cが随(したが)う側なのでBが主人と考えると、Bの方が領域が広い(と私は覚えた)。
つまり、理由の方が領域が狭くなくてはいけないし、Bに含まれないといけない]
[理由(因)は]同類に存在し(同類への随伴)。
同類への随伴:論証されるべき性質Sをもつものには、理由Hが存在すること。
同品定有性(どうぼんじょううしょう)。
理由は主張の述語と同類でなければない。
(理由は必ず「主張の述語」を伴わなければならない)。
同品とは「主張の述語」の意味の領域内か領域が一致。
理由が主張命題の賓辞を必ず伴う(煙があれば必ず火がある等)
第三相
C(理由)は非Bから排除。
[理由(因)は]異類には存在しないこと(異類からの排除)。
異類からの排除:性質Sをもたないものには、理由Hは存在しないこと)。
異品遍無性(いぼんへんむしょう) 。
理由は主張の述語と矛盾するものとは異なっていなければならない。
理由は、『「主張の述語」と矛盾するもの(述語の意味の領域外にあるもの)』」と異なっていなければならない。
異品は領域外[領域と一致することはない]。
理由が主張命題の賓辞の補集合から排除。
以上の二と三を合わせたのが遍充(賓辞が理由を包摂する関係)。
A(賓辞)の範囲にB(理由)全体が入っているか範囲が一致するから遍充つまり「遍く充たす」。
「AはBである。Cであるから」という論証の場合Cが正しい理由である為の条件は三つ。
①CはAの性質である。②CはBに随伴(BがCを遍充≒包摂)③Cは非Bから排除。
りんごは植物である。果物であるから。
りんご=A
植物=B
果物=C。
果物はりんごの性質である。
果物は植物に随伴(植物が果物を遍充。植物の方が範囲が広い)。
果物は非植物から排除(果物は非植物の領域にはない)。
遍充(賓辞が理由を包摂する関係)。
植物が果物を包摂する関係。
仮に植物=C、果物=Bだとすると、
りんごは果物である。植物であるから。
植物だからといって果物とは限らないのでダメ。
植物はりんごの性質なのは正しい。
植物は果物に随伴(果物が植物を遍充。果物の方が範囲が広い)は誤り。
植物は非果物から排除は誤り(果物は植物なので。果物ではない[=非果物に属す]植物も存在する)。
]
九句因(くくいん)説
p.285から
インド論理学に対するディグナーガのもう一つの貢献は、同類と異類とからなる帰納領域に理由がどのように随伴し、排除されるかを網羅的に検討し、そのすべての場合を枚挙して、そのなかから正しい理由となる場合を抽出しようと試みた「九句因(くくいん)説」である。理由が
1 同類の全体に随伴するか、
2 その一部にのみ随伴するか、
3 全く排除されるか。
同様に、
1 異類の全体に随伴するか、
2 その一部に随伴するか、
3 全く排除されるか。
それぞれに三つの可能性があるから、三×三=九通りの組合せが可能であるとディグナーガは考えたのであった。
(↓の図とその前後が本書で一番難しい箇所だった)
p.288の図十二 ディグナーガの九句因とウッディヨータカラの十六句因
で誤り(脱字)を見つけた。
十六句因XⅡ(不定)
S=恒久性(「非」が抜けている)
H=所聞性
1=壺
(領域1は、「S(非恒久的)」かつ「非H(聞かれるものではない)」)
(p.298より
【論理式一二】
提案「語は非恒久的である」
理由「聞かれるものであるから」)
(旧版つまり中公新書版p,262だと、「S=非恒久性」ときちんとなっている)
他にも誤りを見つけた。
(p.293から
【論理式八】
提案「語は非恒久的である」
理由「努力の所産であるから」
喩類「およそ努力の所産であるものは、すべて非恒久的である。壺のように。
ただし、努力の所産でなくても非恒久的なものもある。稲妻のように」
「およそ恒久的なものは、すべて努力の所産ではない。虚空のように」)
p.288の図:
九句因Ⅷ(正因)
S=非恒久性
H=努力所産性
1=稲妻、2=壺
4=虚空
とあるが、壺は「3」。
図の領域2は、「非S=恒久的」かつ「努力所産性」なので壺は当てはまらない。
Ⅷは、「異類の全体から排除 2=φ」なので2は空集合
[空集合( empty set)=要素を一切持たない集合]。
よって、当てはまるものがあるのがおかしいからだ。
(旧版つまり中公新書版p,262だと、「3=壺」ときちんとなっている)
(「異類の全体から排除」について。
「理由(因)は異類には存在しないこと」を「異類からの排除」という。
努力所産性は異類に存在しない。異類=恒久性。
努力所産性は恒久つまり常住ではない。努力所産性があれば無常なので、異類の「全体から」排除される)
(「無常である」の範囲は「努力所産性」の範囲より広い。人の努力で作られないものでも無常なものはあるので。
遍充(賓辞が理由を包摂する関係)なので正しい論証)
(稲妻は領域1(「非恒久」かつ「努力の所産ではない(自然発生)」)。
虚空は領域4(「恒久」かつ「努力の所産ではない」))
三種の疑似的理由
正しい理由
ディグナーガの論証式――三支論証
p.292から
提案「主題pは性質Sをもつ」
理由「性質Hをもつから」
喩例「およそ性質Hをもつものは、すべて性質Sをもつ。例えば、dのように」
「およそ性質Sをもたないものは、すべて性質Hをもたない。例えば、vのように」
p.293から
【論理式八】
提案「語は非恒久的である」
理由「努力の所産であるから」
喩類「およそ努力の所産であるものは、すべて非恒久的である。壺のように。
ただし、努力の所産でなくても非恒久的なものもある。稲妻のように」
「およそ恒久的なものは、すべて努力の所産ではない。虚空のように」
SとHとの間の遍充関係を帰納領域において確立するためには、SとHとの間に随伴と排除の両方の関係が成立することを確認する必要がある。
なお、喩例の命題には、しばしば「……であると経験される」という表現が挿入される。
これは、喩例が表す一般法則が必ずしも普遍的なものとは限らず、我々の経験世界、すなわち「帰納領域」においてのみ確立される法則であることをディグナーガが強く意識していたことを想像させるのである。
ウッディヨータカラの十六句因
p.298より
【論理式一二】
提案「語は非恒久的である」
理由「聞かれるものであるから」
純粋否定因
ヘンペルのカラス
帰納法の問題
p.307から
{A→B} {-A→-B}
という形をとる「随伴」と「排除」にもとづいて 遍充関係を確立し、それによって推理・論証するというのが、インド論理学の共通の性格となったのである。――これまで繰り返し述べてきたように、インド論理学の基本的性格は「帰納推理」である。
一方、ギリシャに端を発する西洋の論理学の伝統では、アリストテレスによって確立された公理主義的な「演繹推理」がその主流をなしている。レモンの『論理学初歩』(竹尾・浅野訳、世界思想社、1973年)は、その冒頭(8頁)に「論理学」を定義して、「論証のパターンが、妥当あるいは不妥当となる正確な条件の記号による研究である」と言う。そして、前提と呼ばれるいくつかの言明あるいは命題から結論が必然的に帰結すれば、その論証は健全・妥当であるとされる。おそらく現代の大部分の論理学者は、演繹論理以外の論証の試みを論理学的に妥当なものと認めないであろう。
ところで、ライヘンバッハの後継者であるサモン(改訂版『論理学』、培風館、19頁)が指摘するように、演繹的論証は「すべての前提が真であれば、結論は真でなければならない」が、「結論のなかにある情報あるいは事実的な内容のすべては、すでに前提に暗々裡に含まれている」という特徴がある。演繹的論証は万人を納得させるものであるが、そこには新しい発見は何もないのではないかという疑問が当然生じる。かくして、フランシス・ベーコン(十七世紀)やJ・S・ミルらは、科学的発見の理論として、観察や実験を繰り返すことにより科学的な一般法則を発見する「帰納法」を採用することを主張したのであった。
科学的方法論に関するこのような考えを真っ向から否定したのが、K・ポパーであった。彼は理論の科学性の基準を「検証可能性」ではなく「反証可能性」に置くことによって、帰納的方法論を捨てて、
「批判的方法・試行錯誤の方法――大胆な仮説を提示し、われわれが誤りをおかしたところを検べるために、その仮説を最も厳しい批判にさらす方法」(ポパー『果てしなき探求――知的自伝』、117頁)
を科学の新しい方法論として提唱した。そして、科学的理論を確立するプロセスは「演繹的推論(否定否定式)であると明言する(同書、108頁)。ポパーによると、「演繹的推論はいかなる反例も存在しない場合、その場合にだけ、妥当である」(同書、205頁)。かくして、「科学的理論というものは、たとえ反証されないとしても、永遠に仮説または推測にとどまる」(同書、108頁)ことになる。帰納法による検証可能性、あるいは実証可能性という「神話」は、既にヒューム(十八世紀)によって打ち破られていると、彼は言う。
ヒュームは、個別の観察から一般法則を導出する帰納法がいかにして正当化されるかを問題にする。そして、どれほど多くの個別的な観察を積み重ねても、その結果、未経験の領域に属する対象に関して我々は推理することができない、というのがヒュームの指摘した「帰納法の問題」である。
ポパーの帰納法の否定は、大きな反響を呼び起こしたが、カルナップなど科学的方法論に強い関心を寄せた論理学者たちは、演繹論証の妥当性とは全く異なった意味での帰納推理の正しさの根拠づけを追及している。今なお科学的実験の現場では、帰納法の原理が広く受け入れられていることは否めないであろう。
なお、サモンは、帰納的論証を特徴づけて「すべての前提が真であれば、結論はおそらく真だろう。しかし必然的に真であるわけではない」が、「結論は、前提には暗々裡にも存在していない情報を含む」ものであると言う。帰納的論証の結論は新しい情報を含むが、その妥当性が蓋然的であり、確率の問題である点に大きな特色がある。
ディグナーガ――アポーハ論
随伴と排除――ことばの表示機能
開かれた論理学
ダルマキールティ――遍充関係の根拠づけ
ダルマキールティのアポーハ論
本質的結合関係――開かれた論理学から仏教論理学へ
ダルマキールティの論証式
他心の存在論証
ダルマキールティ以降のインド論理学
インド人の思惟方法=帰納法
p.338から
以上、ダルマキールティまでのインド論理学の発展の経緯を素描してきたが、その本質は本章冒頭で述べたように、「随伴と排除」という帰納法の原理にもとづく「帰納的論証」である、インド人の思惟方法の根本は帰納法であるというのが、本書の結論である。
ところで、インドにおいて文法家たちより以前に、この帰納法の原理を意識的に用いた者がいただろうか?
(
論理学自体はあっただろうからいたのでは? 論理学はなくても論理的思考は重視されていただろう
)
それは、例えば、仏教の創始者、ブッダ(紀元前六~前五世紀)である。ブッダの「覚者」たる所以は、「およそいかなるものも原因なくして生じることはない」という縁起の理法・因果の道理を悟ったからであるとされる。縁起は、初期の仏教経典では、しばしば「十二縁起」説という形で説かれる。例えば、ブッダの後半生の従者であったアーナンダの問いに答えて、ブッダは次のように教示する。
「師よ、それでは縁起についての知が熟達した比丘と正しくいいうるのは、どのような範囲のものでございましょうか」
「アーナンダよ、この点に関して比丘は、次のように知るのである。
これあるとき、かれあり、これの生じることによって、かれが生じる。
これなきとき、かれなく、これの滅することによって、かれが滅する。――
すなわち、迷い(無明)を条件(縁)として生成のはたらき(行)があり、
生成のはたらきを条件として識知(識)があり、
識知を条件として個体存在(名色)があり、
個体存在を条件として六つの知覚の場(六処[ろくしょ])があり、
六つの知覚の場を条件として経験(触[そく])があり、
経験を条件として感受(受)があり、
感受を条件として欲望(渇愛)があり、
欲望を条件として(身体への)執着(取[しゅ])があり、
(身体への)執着を条件として生存(有)があり、
生存を条件として誕生(生)があり、
誕生を条件として老・死があり、憂愁・悲嘆・苦・憂悩(ゆうのう)・苦悶が生じる。
このように、このあらゆる苦悩のかたまりがおこるのである。――
それに反して、
迷いがあますところなく滅し去られることによって、生成のはたらきが寂滅し、
生成のはたらきの寂滅によって、識知が寂滅し、
識知の寂滅によって、個体存在が寂滅し、
個体存在の寂滅によって、六つの知覚の場が寂滅し、
六つの知覚の場の寂滅によって、経験が寂滅し、
経験の寂滅によって、感受が寂滅し、
感受の寂滅によって、欲望が寂滅し、
欲望の寂滅によって、(身体への)執着が寂滅し、
生存の寂滅によって、誕生が寂滅し、
誕生の寂滅によって、老・死・憂愁・悲嘆・苦・憂悩・苦悶が寂滅する。
このようにして、このあらゆる苦悩のかたまりが寂滅する。
アーナンダよ、このかぎりにおいて、彼を縁起についての知が熟達した比丘であるということは正しい」(長尾雅人・工藤成樹訳「種々の界」『世界の名著Ⅰ バラモン教典・原始仏典』所収、490~491頁)
十二縁起説の各項目は、インド仏教の伝統的な解釈に従えば、過去世(無明・行)から現在世(識・名色・六処・触・受)、現在世(渇愛・取・有)から未来世(生・老死)へという輪廻転生のプロセスを表したものであるが、我々の注意を引くのは、
「これあるとき、かれあり、これの生じることによって、かれが生じる。
これなきとき、かれなく、これの滅することによって、かれが滅する」
という短い定型句である。これはまさしく
「XがあるときにはYがあり、XがないときにはYもない」
という「随伴と排除」の関係を表している。
「これあるとき、かれあり」云々という定型句は、「此縁性(しえんしょう)」などと呼ばれ、仏教において「因果関係」を帰納的に導出・確定する原理である。
実に、「縁起=因果関係」こそ仏教の根本的教理である。
悟りを開いたブッダは、ベナレスの鹿野苑(ろくやおん)で五人の昔の修行仲間に向かって「はじめての説法」を説いたとされる。その内容は、「四聖諦」と呼ばれる四つの真理を説いたものである。四つの真理(諦)とは、
1
人生は四苦(生・老・病・死)、八苦(四苦+怨憎会苦・愛別離苦・求不得苦(ぐふとくく)・五陰盛苦(ごおんじょうく))に満ちているという苦諦、
2
苦の生起の原因は渇愛であるという集諦(じったい)、
3
渇愛を滅することが苦の滅であるという滅諦、
4
八正道を実践することが苦の滅に導く方法であるという道諦、
の四つである。ここにも苦とその原因、苦の滅とその手段というように、因果の原理が徹底していることは明らかである。
再びバークレーへ、トゥールミンとの出会い
最後に、喫緊の当否を推理する
あとがき
文庫版あとがき
参考文献
本書のメモは以上。
これほど頭を使った本は久しぶりだ。読むのが大変だった(難解まではいかない難易度)。
参考資料
https://twitter.com/unajiperopero/status/1341361037774241793 と続き
”うなじ@unajiperopero
インド思想に詳しくないけどインド論理学に関心があるって人がもしいたら、この『インド人の論理学』が一冊目の入門書として実質唯一の選択肢です
午後9:32 · 2020年12月22日·Twitter for Android
ちなみに、二冊目に適当な本はない あったら俺が知りたい
午後9:33 · 2020年12月22日·Twitter for Android
”
うなじ
@unajiperopero
2018年11月7日
インド論理学(というか仏教論理学)、四句分別っていって「AかつB」、「非AかつB」、「Aかつ非B」、「非Aかつ非B」の全パターンを網羅する説明をよくやるんだけど、「A=C、B=-C」とかのパターンでこれをやったりするから、めちゃくちゃわかりづらくなる
たとえば、Cを「有」とすると、先のツイートの順番で「有かつ無(非有)」、「無(非有かつ非有)」、「有(有かつ有)」、「無(非有)かつ有(非無)」のパターンになるから、「有かつ無って形式論理学上ありえなくない?」ってなる もちろん、インド論理学の形式ではありうるのである
で、中観派が空の説明をするときは、この四つのそれぞれを否定していくら、「有でない」、「無でない」、「有かつ無でない」、「無かつ有でない」となるんだが、実際にはこの「無」は「非有」表記だったりするから、二重否定三重否定で、もう結局何が言いたいのかよくわからなくなる
仏教の中で一番論理学を得意としたのは唯識派ってのは意外な感じがするけれど、インド論理学は認識論と切っても切れない関係にあることを思えば、ある意味当然といえば当然なんだろう
現代まで残ってる宗派では、まあチベット仏教が一番論理学には強いだろうな
2019年7月7日
この間、公孫竜子読んでて、今ニヤーヤスートラ読んでるんだけど、やっぱり論理学に関しては中国よりインドの方が圧倒的に精緻だな
名家とか墨家とかの論理学に強い学派が滅んで、儒家とか道家みたいな比較的論理学を軽視する学派が生き残ったから、あんまり発展しなかったんだろうな ニヤーヤ学派と仏教の間で数百年に渡って論争が続いたインドとは状況が違う
インドの論理学、議論が堅実っていうか、白馬非馬説みたいなぶっとんだのってあんまり出てこないな いや、中国の名家がそういう変な説好きすぎるだけか?
https://twitter.com/unajiperopero/status/1152770664081657856 と続き
”うなじ
@unajiperopero
2019年7月21日
今、古代インドの論理学書で、目からビームが発射されてるかどうかの議論の箇所を読んでるんだけど、そこに「ガラス越しでも物が見えるのはなぜか」という論点が出てくる 考古学的にもガラスは発掘されてるそうなので、古代って結構イメージよりも色んなところにガラスあったんだなって思ってる
目から発射されてるビームは、昼間は明るすぎて見えないけど、夜は暗すぎて見えないとか、そういうことが書いてある
現代の我々は、目からビームが発射されてないことを知ってるわけだけど、太陽なり蛍光灯なりから発射されたビームが物体で反射したものが目とぶつかることで視覚が成立してるわけだから、考え方の筋道としてはかなりいい線いってるんだよな
”
https://twitter.com/unajiperopero/status/1238476690080165888 と続き
”うなじ@unajiperopero
3月13日
仏教論理学、一冊目は定評のある『インド人の論理学』でいいとして、二冊目にちょうどいい本がない 死ぬほど分厚いディグナーガの和訳に手を出して、無事挫折した
中村元選集のニヤーヤ学派のやつとかは割といい感じだった 仏教論理学じゃないけど
6月14日
あれ、『インド人の論理学』って絶版になってるの? あれなかったら、インド論理学の手頃な入門書って存在しないじゃん
DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
3月14日
返信先:
@unajiperoperoさん
『シリーズ大乗仏教 第9巻 認識論と論理学』とか梶山雄一訳『タルカバーシャー』あたりでどうでしょう。二冊目としては少しハードルが高いですかね。
”
『新版 アリストテレス全集 1 カテゴリー論 命題論』 中畑正志、早瀬篤訳、岩波書店、2013年
『新版 アリストテレス全集 2 分析論前書 分析論後書』 今井知正、河谷淳、高橋久一郎訳 岩波書店、2014年
『新版 アリストテレス全集3 ソフィスト的論駁について ほか』 納富信留訳 2014年
龍樹とインド論理学の誕生
石飛道子
http://manikana.la.coocan.jp/paper/origin.html
インド論理学関係の文献あれこれ、それに、インド論理学研究史も
http://manikana.la.coocan.jp/indianlogic/indian%20logicidx.html
因明
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%98%8E
論理学の歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%96%E7%90%86%E5%AD%A6%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
オルガノン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%8E%E3%83%B3
分析論前書
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E6%9E%90%E8%AB%96%E5%89%8D%E6%9B%B8
分析論後書
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E6%9E%90%E8%AB%96%E5%BE%8C%E6%9B%B8
カテゴリ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA
詭弁論駁論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%AD%E5%BC%81%E8%AB%96%E9%A7%81%E8%AB%96
範疇論 (アリストテレス)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%84%E7%96%87%E8%AB%96_(%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9)
出来立てオスカル
@Akumalollipop
9月22日
実際に血盆経や変成男子は女性差別的な思想だと軽視されておりますが、実際のところ本当そんな思想なのかと疑ってもおりまして。男尊女卑的な時代ではありますが本当にそれだけなのかとそこまで片面的な考え方だったらどうしても広まるようには思えなくて。思想があるとはいえ人間には意思がありますし
DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
自分は血盆経に詳しくないので変成男子について言うと、
これはインドで紀元後1~2世紀頃に成立したと言われる、
初期大乗経典の『法華経』(おそらく日本で最も読まれたお経で、
日本仏教を考える上で非常に重要な経典です)に出てくるお話で、
日本では女も仏になれる根拠として重視されたのは確かです。
確かに女性がそのまま仏にならず、男性に変身してから仏になるのは現代人には差別に見えるかもですが、
当時のインドの価値観と衝突を避ける妥協的な形で女性の救済を説くためにこうしたという見方も成立する余地はあるとは思います(この点にはいくつか傍証もありますが、140字で述べるのはきつい)。
ただ、これは微妙な所で、成立時期が近い初期大乗経典だと『無量寿経』のように極楽世界に女性がいないことを誇らしげに語る経典もあれば、『維摩経』(中国で人気を博し、禅宗にも大きな影響を与えた経典)のように「男」や「女」というのは人間の恣意的な区別であり空なるものだと説くお経もあります。
(「気づき」は仏教をスピ化して骨抜きにするための言葉でもある。
スピ系は仏教用語が大嫌いだから「念」という伝統的訳語を避ける。
カタカナ大好きスピリチュアル=新キリスト教)
𝐒𝐚𝐤𝐚𝐦𝐚𝐤𝐢
@sakamakiuzutaro
9月22日
「気づき」という言葉はすごい多義的だなと思う。
昔、社会福祉関連の仕事をしていたことがあって、そこで受ける研修でよく「気づき」という言葉が出てきてちょっと不思議な言葉だなと思っていた。
その後、ヴィパッサナー瞑想などに興味を持った時、そこでも「気づき」が出てきて驚いた記憶がある。
軽山羽魚(かるざんぱお/Kalzang Pawo)
@KalzangP
9月22日
返信先:
@sakamakiuzutaro
ヴィパサナを行される方各自が仰る気づきの語は各々微妙にニュアンスが違うと感じますし、
上座部のスリムティと日本語の正念もまた違いますし、他の訳語はないものか?といつも感じます。
DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
>RT
「気づき」という表現の歴史は浅く、こんな表現が日本語に広く見られるようになったのはここ数十年のことだという。おそらくこれは、ニューエイジだの精神世界だのといった類の本でよく言われていた“awareness”の訳語として入ってきたんじゃなかろうか。
日本におけるニューエイジ受容はビジネス書から始まっているという側面があり(例えば1981年に邦訳された『アクエリアン革命』なんかには、堺屋太一が監訳として関与している)、そこからうさんくさい自己啓発の類にもつながっていく。「意識」の高そうな世界。
satiとかmindfulnessにどういう経緯で「気づき」という訳語があてられるようになったのかはよくわからない。もちろん言葉の意味は文脈次第だし、satiの訳語として用いるというならそれはそれでいいとは思うんだけど、なんだかなぁと思うところがなくもない。
なんだかんだでsatiの伝統的な漢訳語である「念」という言葉は悪くないんじゃないかという気が最近はしている。 #これはこれで雑念とか妄念とかいった言葉を連想しやすいという欠点はあるかもだけど
𝐒𝐚𝐤𝐚𝐦𝐚𝐤𝐢
@sakamakiuzutaro
@prapanca_snares
さん
実は私も自分のやってることを敢えて表現するなら「気づき」より「念」の方が近いのではと思っていました。
「気づき」という言葉のその都度感とか対象の大きそうな感じが気になっています。
DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
おっしゃる通り「気づき」という言葉には曖昧なところがあると思いますし、先ほど言ったような文脈を感じなくもないので、それなら「念」の方がいい面もあるのかな、と思ってます。satiが南伝経由で欧米に入ったのが“mindfulness”で、北伝で漢訳されたのが「念」なので、元は同じですからね。
うなじ
@unajiperopero
俺のふわっとした記憶だと、中村元訳では「気を付けている」かなんかになってた気がするので、中村訳の影響力の大きさを考えると、「気付き」の定着に一役買ってそう
「気付き」と「気を付けている」だと、微妙な違いだけど、後者の方が僅かだがよりニュアンスを拾えてる気はする
「気付き」に対して「念」の優れているところは、
語の基本的な意味である「記憶」のニュアンスを拾えてるところだけど、まあ「念」じゃ現代日本語訳したことにならんだろってのはわかる
サティに記憶の意味があるのは間違いないんだが、アビダンマ的な厳密な意味で記憶と一対一で対応するかといえば、しないので厄介なんだよな 例えば「想」もある種の記憶としての機能を持ってるし、現実に我々が記憶と呼んでるところの作用には、「尋」とかも補助的に関わってるだろうしな
うなじ
@unajiperopero
インドの宗教文献だと、前世の記憶持ってる人よく出てくるけど、多分そのことによって人格が書き換わったりはしてないな
というか、輪廻転生を前提にした彼らの世界観では、前世と今生は「同じ人」なので、二つの人格を区別する必要性自体が、多分あんまりないんだろうな
記憶喪失の人が記憶を取り戻しても、我々はその人が別人格になったとは考えないけど、それと地続きの感覚なんだろう
うなじさんがリツイート
口を開けて冷や汗をかいた顔
両手を上げる
水鉄砲
イルカ
赤いビックリマーク
@tantankorori
輪廻転生の世界観で記憶はどこに収納されるものなんだろう(インド人のことだから多分設定あると思うんだけど
うなじ
@unajiperopero
インド正統派宗教ならアートマンで、仏教なら無表色とかアーラヤ識とかになるのかなー 自信ないな
記憶関連の機能を直接司ってるのは「念」とか「想」だけど、あれ無常だからそれ自体が記録をずっと保持できるわけじゃないしなー
アビダルマ文献をディープなところまで漁れば、そういう議論ありそう あと唯識派の論書とか
うなじ
@unajiperopero
『『臨済録』禅の語録のことばと思想』、良い本だよなー
臨済録に限らず、唐代の語録全般の入門になってて、前提知識ゼロでもディープな語録の世界に入れるようになってるの、強い
うなじ
@unajiperopero
今更ながら、佐々木閑『仏教は宇宙をどう見たか アビダルマ仏教の科学的世界観』を読んだので、
(おそらく)唯一の類書である『存在の分析<アビダルマ>』との比較を中心にして、ちょっと感想書こうと思う
いや、すごい本ですよ、これは
タイトルをパッと見だとわかりづらいけど、北伝仏教の基礎学と言われる倶舎論の概説書 「宇宙をどう見たか」なんてタイトルにあるので、須弥山がどうとか金輪がどうとかが中心の本に見えるけど、むしろその手の話題は最小限で済ませて、アビダルマのアビダルマらしいところである存在論に集中している
うなじ
@unajiperoper
22分
結論から言うと、アビダルマのコアな部分をより詳細に解説してるのは『仏教は宇宙をどう見たか』で、より取っつきやすいのは『存在の分析』の方かな 『仏教は~』の方も一応、前提知識なしで読めるようになってるけど、「倶舎論って何?」な人は『存在の分析』の方から入るのが個人的にはおすすめかな
うなじ
@unajiperopero
18分
『存在の分析』の方はインド仏教全体の中で有部アビダルマがどういう位置付けかとか、世親の簡単な伝記的解説とかもあるのに対して、『仏教は宇宙を~』の方はそこら辺を最低限の説明で済ませて、いきなり五位七十五法の存在論に入るので、その分、内容がかなり濃密
うなじ
@unajiperoper
15分
あと、本の中で佐々木先生ご本人が断ってる通り、『仏教は宇宙を~』の方は修道論の方はほぼ全面的にカットして、タイトルにある通り「世界観」に話を絞ってる 基礎学として重要なのはそっちの方なので、英断かもしれない その分、かなり内容が濃くなってるし
うなじ
@unajiperoper
個人的には、五位七十五法の説明が終わった後に三科の解説が出てくる『仏教は宇宙を~』の構成よりも、三科の関係を解説してから五位七十五法に入る『存在の分析』の構成の方がわかりやすい気がするなー 倶舎論自体のテキストもそうなってるし
うなじ
@unajiperope
細かいところだと、『仏教は宇宙を~』の方だと、なぜか六因と五果の解説だけあって四縁はスルーされてるんだよな 紙幅の関係なんだろうか
うなじ
@unajiperopero
あと、巻末に載っかってる山部先生に対する反論は、別にこの本に載っけなくてもよかったんじゃないの?って感じがする 論文でやってくれ
午後11:02 2020年8月5日
あと、佐々木先生本は、巻末の簡単な読書案内が便利 倶舎論の和訳、違う訳者、違う出版社のものを繋ぎ合わせないと揃わないので、この本を読んで倶舎論を通読したいと思う奇特な人がもしいたなら、これはかなり有用だと思う
うなじ
@unajiperopero
大西洋三角貿易、勢いでアフリカに行くも、
なかなか黒人奴隷が手に入らないことに気づいたイギリスが、
アフリカ現地人王国が周辺の敵対部族を捕虜に
→捕虜を奴隷としてポルトガルに売る
→ポルトガル奴隷船をイギリス海賊が襲撃
→イギリスが奴隷ゲットの仕組み作るの、登場人物全員ろくな奴いねえな
ブッダの教えは、例えば言行録にかなり近いとされるスッタニパータとか読んでても、言ってることさっきと矛盾してない?、てのが多くあって、それは受け取る人その人その人それぞれへ向けてのものであるから、こーなんだ、ブッダは親への感謝を説いてない!と一律にはならないんです https://t.co/BKBEIVwiEs
— 幣束 (@goshuinchou) August 9, 2020
幣束
@goshuinchou
歴史上のブッダの教説に近い(とされる)パーリ語経典にも親孝行的なものを説くお経はあるよ。シンガーラへの教えとかシンガーラ経と呼ばれる経典の中に出てくる。まだ読んでないけど。
(
対機説法だし、出家向けと在家向けで発言が違うのは当然。
)
うなじ
@unajiperopero
あんたが生まれてくるはめになった原因は親のセックスじゃなくて、あんた自身の渇愛だって十二縁起に書いてあるでしょ 読めばわかるじゃん
この間買ってた阿含経典の1巻に多分、十二縁起関係のも入ってると思いますよ 「読めばわかるじゃん」とか書いたんですけど、「愛→取→有→生」の簡単な縁起関係しか出てこないので、もしかして読んでもわかんないかもしれないと今思い直してます
うなじ
@unajiperopero
午後7:23 2020年8月11日
まあ、インドでも中国でも日本でも、
自分が生きてて苦しむのは親がセックスしたのが悪いなんていう責任転嫁みたいな考えが主流になったことなんて一度もないんですけどね
ただ、仏教に対して儒教サイドから「孝」成分が足りないという批判が繰り返されたのは事実で、
それはまあ中国人の感覚からしたらインド直輸入の仏教に対してそう感じるのはある意味当然なので、そこで遊牧民さんが紹介されてたようや偽経が作られたりもするわけですね
儒教サイドからのよくある批判は、
『孝経』の「身体髪膚、之を父母に受く。敢て毀傷せざるは、孝の始めなり」を引用して僧侶の剃髪をディスったり、
あとはやっぱり出家しちゃうと宗廟を守る義務が果たせないだろうってところですね
遊牧民@積読の長城を超えて
@Historian_nomad
@unajiperopero
そもそも生まれて苦しむことの責任を誰かに転嫁してたらそもそも悟れないじゃんってなりますよね
うなじ
@unajiperopero
そんな反抗期の中学生みたいな主張してるわけないでしょで終わる話なんですけど、
理屈から考えても、生存と苦しみの原因が親のセックスだったら、
それに対して自分ができることは何もないってことにしかならないと思うんですよね
遊牧民@積読の長城を超えて
@Historian_nomad
さっき他の方から
「増支部に父母への孝養を説いてるとこありますよ」って教えていただいて、
そらバラモン教と競合するんだから在家信徒にはそらそういうふうにしていいですよっていうよねみたいな顔になりました
うなじ
@unajiperopero
「無始以来の輪廻の中では、憎いあいつもあんたの母親だったこともあるんだから、
誰を相手にしても母親だと思って接しなきゃ駄目よ」みたいなのもよく出てくるので、逆に言えば親子の情は当然あるものって前提ですね
遊牧民@積読の長城を超えて
@Historian_nomad
@unajiperopero
そしてその話も船山先生が大体書いてるという。船山先生が強い。
遊牧民@積読の長城を超えて
@Historian_nomad
宗教は原初の形が常に最高でベストなんじゃないんだよ、
仏教のみならずキリスト教でもイスラームでもいろんな思想的発展と展開が繰り返されながら世界宗教としての位置を確立してきたんだよということくらいは理解してからしゃべらないとダメなやつですね?
eru
@eru16103483
日本は大乗な仏教国で延々やってきた挙句、明治後に釈迦仏教だの初期仏教だのが西洋経由で発見されちゃった影響で、なんかすげえこじらせてる人が無限に召喚されてる気がするのです。
遊牧民@積読の長城を超えて
@Historian_nomad
中村元先生がパーリ仏典をあれだけのクオリティであの値段で読めるようにしてくださったのはそんなことのためじゃねえぞってブチギレそう(何
この仏教は両親への感謝を解いているか否かという問題ですが、ところで日本の仏教が中国(南北朝隋唐)の訳経事業とその成果を経て受容されたものだというのはみなさん”””当然”””ご承知と思いますが、ここに
— 遊牧民@積読の長城を超えて (@Historian_nomad) August 11, 2020
『仏説父母恩重難報経』という偽(擬)経があってな?????https://t.co/ZFkfNgHJtK
日中における仏教の受容のされ方という問題意識なら「うんうん、それもまた仏教だね」という形でとらえるべきと船山先生の『仏典はどう漢訳されたのか』とかで説かれていますが、だいたいこういう話をするとそういうのは「仏教じゃない」とか言い出す人がいますからね……
原始仏典から儒教的な親孝行は説かれてますけどね…
— tam (@tororonto_) August 11, 2020
「母と父は『梵天たち』と、『前師たち』といわれる。応食者たちであり、息子たちへの、人々への憐愍ある者たちである。」「母と父に対するそれらの奉事によって…彼は死後、天界で喜ぶ」(増支部「伴梵経」)https://t.co/74Mot1gX0a
遊牧民@積読の長城を超えて
@Historian_nomad
ほんまや!!!!!!!!!!!!!!!!!!(ちゃんと読んでないのがばれる(まぁそもそも当時ってバラモン教と競合するわけで在家信徒に対してはそれと折衷できることいいますわよね
小太刀右京/Ukyou Kodachi
@u_kodachi
@Historian_nomad
@tororonto_
「パーリ語を読まずに仏典を語るなかれ」と言われ、パーリ語が身につかなかった私としては耳が痛い限りでございます。
チベト語もまるで思い出せません! 独語と仏語もほぼダメです! サンスクリットもほとんど忘れました! 吊ってきます!
ていうか経典の翻訳と偽(擬)経の作成については船山徹『仏典はどう漢訳されたのか』っていうこれ以上ないくらい素晴らしい概説書が出てんだからまずはそれを読めhttps://t.co/d41cQKDoM8
— 遊牧民@積読の長城を超えて (@Historian_nomad) August 11, 2020
仏教という時にそれがいわゆる初期仏教なのか上座部仏教なのか大乗仏教なのか、
大乗仏教ならインドで発展した密教およびチベット仏教を視野に入れるのか中国での受容を前提とするのか中国での需要を踏まえて理解される日本仏教をどう位置づけるのか、これくらいは考えないといけませんね?(何
父母への尊属殺人は死後、地獄へ直行する五無間業のひとつですし、『父母恩重経』に限って言えばインドの思想に源流があります。『盂蘭盆経』も『餓鬼事経』という元ネタがあります。
— tam (@tororonto_) August 11, 2020
遊牧民@積読の長城を超えて
@Historian_nomad
まぁバラモン教の思想的発展から出たことを考えればそうですよねみたいな>お盆という形に整えたのが盂蘭盆経なだけで
動画主からの問いかけ。濁流の如く流れ出す声、声、声。
— 82(ぱに) (@82Aigis82) September 6, 2019
流れが収まろうとする端を泳ぐ文字が目に止まる。
宗教か。そうか。異世界転生信仰は現代の救いか。このシリーズはコメントも実に興味深い。
世界の奇書をゆっくり解説 第10回 「盂蘭盆経」 https://t.co/HcMfjeF9lA #sm35480841 #ニコニコ動画 pic.twitter.com/Z2wPJca0XT
世界の奇書をゆっくり解説 第10回 「盂蘭盆経」 https://t.co/LhgZv9ooTx
— 三崎律日@「奇書の世界史」発売中 (@i_kaseki) August 2, 2019
こんな怒涛の「死後」概念弾幕、ここ以外では見れないと思うんだ。 pic.twitter.com/9BkDMi1gGW
(
来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
午後8:52 2020年7月30日
これだからヲタはダメなんだ
何故に古い経典が何度も同じ内容の語句を繰り返すのかというと
「説かれた状況と模様が違う」からで
「如何なるものでも同じ状況・模様であるならば同じ事を説かれた」というのが最重要で
「その言い伝えの正当性を担保している」からなの
本当、ヲタ共はしょーもねーな
テラーガーターやテーリーガーターで
僧と尼僧が似たような語句を繰り返し唱えている・朗誦されているのは信用できる様々な仏弟子が同じ事言っているから、似たような事を言っているから「残されているわけ」で
「信用が低い・少数にしか伝わられていないものを省いて指針とするために編纂された」のよ
何かしらの形で
「文字という形で残されているものは必ず編纂・編集されている」のよ
わしが持っている文法書何て毎年改善・改悪されて三桁は編集されているんだけど、
そこまでされるのは誠に基本レベルの本だからなんよ
信用できるものは質と量の双方が担保されて、信用されているんだよ
(
何度も繰り返すのは詩文であり覚えるためなのと、
この形式なら釈迦の時代か釈迦の大涅槃して間もないころから伝承されてきたものだという判断基準と信用確保のためだろう。
「Aは存在しない。ゆえにAと仮設される」のAには何でも代入できるのに、
わざわざいろんな言葉を代入するのは、
それはAに代入しても問題なく成立すると示すだろう。
この単語は例外的にこれは代入できませんということはないということを示すため。
そもそも経典は宗教修行者が読んで理解し修行・実践するためのものであり、
それ以外の人が読みやすいようにとかなんて二の次に決まっている。
当然、伝承の正しさの保証は最重要。
やはりこの視点がないと珍妙な解釈をしてしまうな。気を付けないと。
臨済仏教
DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
7月29日
岩波文庫から出てる中村元訳のやつとか、ちくま学芸文庫に入ってる『阿含経典』(増谷文雄訳・全三巻)とか、
『世界の名著』の第1巻とかいろいろありますけど、ともかくも通読するだけでも得られることはいろいろありますね。
例えば『テーリーガーター』ってありますよね。
昔何も知らずに、キサーゴータミーに白カラシを持ってこいと言ったあの有名なエピソードを期待しつつページをめくってたら、キサーゴータミーが子供を亡くした人であるとは書かれていても、そんなエピソードなど出てこないのに驚いた記憶がありますね。
その後この論文を読んで、ああ、やっぱりかなり後世の人の創作だったんだな、でも対機説法や方便についてよく物語っているいいお話だなぁと思うなど。https://t.co/q1mA015ejL
— DJ プラパンチャ (@prapanca_snares) July 29, 2020
また例えば、仏典の最古の部分だと言われる『スッタニパータ』第4~5章を中村元訳で一読すると、中村による註に「同じ表現がジャイナ経典にもある」「ジャイナ教でも同じことを説く」という指摘があちこちに出てくる。第1~5章を通じて、マハーバーラタでも同様の表現があるという指摘も結構出てくる。
DJ プラパンチャ
@
『スッタニパータ』は古いことは間違いないんだろうけど、仏教特有の語が少なかったりジャイナ経典や『マハーバーラタ』と共通の表現が多かったりする。M本史郎のように、『スッタニパータ』はジャイナ教の苦行者文学で、反仏教的要素に満ちているとまで断じた人すらいる。
DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
7月29日
ちなみに馬場紀寿によれば、『スッタニパータ』などの韻文経典が、パーリ三蔵でいう小部として経蔵に組み込まれるのは、他の四部が組み込まれた後だという。中村註を眺めているだけでも、古い韻文経典のみに基づいて初期仏教像を作り上げることに異を唱える主張の背景にあるものが少しは見えるかと。
DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
7月29日
あと、増谷文雄訳『阿含経典』は平易な現代語訳だしもちろん素晴らしい仕事だけど、一つだけ疑問に思うのは、相応部22・87に見える不治の病を得たヴァッカリの自殺をめぐるエピソードの後半部分や、35・87の(同じく重い病に苦しむ)チャンナの自殺にまつわるエピソードがカットされていることですね。
DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
7月29日
この二つの経典で釈迦は、ヴァッカリについては「おまえの死は罪に汚れてはいない」「完全な涅槃に入った」と言っているし、チャンナについては「チャンナ比丘は罪過なくして刀を取った」と言っている。
DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
7月29日
ヴァッカリとチャンナのエピソードは、初期経典が(もちろん積極的に自殺をすすめているわけではないけど)自殺を条件付きで認めていることを示す非常に重要な経典なんだが、22・87の場合だとその肝心な部分を「その後半は加上であると思われる」と断じて簡単にカットしちゃってる。これはどうかと思う。
DJ プラパンチャ
@prapanca_snare
7月29日
ちなみに相応部4・23には、何度も解脱に達してはその度に心が退いてしまうゴーディカが自殺するエピソードがある。
そのとき悪魔が現れて、釈迦に彼の自殺をとどめるように言うのだが、
釈迦は「思慮ある人はこのようにするのである」「ゴーティカは安らぎに帰したのである」と言ってそれを斥けている。
ともあれ、いわゆる「初期経典」はともかくも通読するだけでもいろんな発見があるという話なんですが、問題は「初期経典」は元々口承で伝えられてきたという性質もあって、同じフレーズの繰り返しや似た話が何度も出てくるから、興味がない人が漠然と読むと飽きるかもしれんということかな(´・ω・`)
午後7:22 2020年7月29日
まぁこれは大乗経典になると事情は変わってくるけど、それでも「なんでこうも同じような話を言葉を変えて何度も何度も言うんだろう(´・ω・`)」「その同じような話がなんで『八千頌般若経』→『二万五千頌般若経』→『十万頌般若経』みたいにして膨れあがっていくんだろう(´・ω・`)」とは思うかも…。
火童
@kadoh108
22時間
返信先:
@prapanca_snares
金剛経ですら、後半いらなくね?って思います。2周してる。
DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
そうですね。要は「Aは存在しない。ゆえにAと仮設される」のAには何でも代入できるという話なんだから、わざわざいろんな言葉を代入してみせなくても……とは思っちゃいますね。
うなじ
@unajiperopero
7月29日
この論文にも書いてある通り、この論文の執筆時点ではキーサ・ゴータミー説話の日本語訳もなかったんだが、
今はそれも含むダンマパダアッタカターの全訳が普通に日本語で読めるから、いい時代ですわ
「ほーん、般若経っていっぱいあるんだなー」→「まあ、短い八千頌般若経でいいか」→「これでも十分長すぎるわ! ていうか、同じような話ばっかりだな!」ってなるやつ
般若経っていうか、大乗経典あるあるだけど、「この経典を読誦(書写)すると功徳がすごいぜ!」っていう自画自賛パートが延々続くと、読むのがしんどくなってくる
)
うなじさんがリツイート
コカイン忍者
@ymskes
大体滅ぶときってパトロンがだめになるとかすからね
これで盛大に大失敗したのが中国道教で黎明期が完全に吹き飛びました()
宗教を長くやるにはパトロン選びと実家の太さが大事なんじゃ
うなじさんがリツイート
ニド
@2ewsHQJgnvkGNPr
6時間
伝統宗教、異端が分かりやすい救済おったてて一時流行るけど
ハチャメチャに怒られて派閥が滅ぶみたいなのを繰り返してる印象
うなじ
@unajiperopero
6時間
宗教哲学齧って「宗教にハマる」かというと、中途半端に一個だけ齧ればそういうこともあるかもしれんけど、満遍なく色々齧ってると、色んな教義が相対化されてくるので、むしろハマりにくくなると思う それが良いことか悪いことかは知らん あんまり良くはないかもしれない
うなじ
@unajiperopero
頭の中に色んな宗教哲学のカタログができてる状態でなお、特定の宗教にハマるようなら、よほどその宗教と相性がいいと思うので、もうそれでいいんじゃねえかな
ギリシア各地の都市国家からエルサレムに集金してたキリスト教、王様と大商人をパトロンにしてた仏教、なんかそもそも自分が広大な地域を征服して支配してたイスラーム、うーん、さすが三大宗教とか言われるだけのことはある
やはり、世界帝国たるサーサーン朝ペルシア皇帝をパトロンとして獲得したマニ教こそ、第四の世界宗教!(なおシャープール2世の死後)
口を開けて冷や汗をかいた顔
両手を上げる
水鉄砲
イルカ
赤いビックリマーク
@tantankorori
6時間
世俗権力と権威に歪なズレが生じてる所が狙い目ってお釈迦様が言ってた(言ってない
うなじ
@unajiperopero
仏教が出てきた背景、バラモンの権威が相対的に落ちて、
クシャトリヤ出身の王族とか新興の大商人がブイブイ言わせてたところに取り入った部分が割とあるので、だいたい合ってる
仏教、カースト制度に反対した側面が強調されがちだけど、
仏典に出てくる仏教徒のほとんどが上位カースト出身だったりするので、やはり当初の仏教はインテリの宗教だったんだな
アオミドリ
@Aomidori2019
5時間
返信先:
@unajiperopero
アウトカーストの人でも機根があればいくらでも悟れるし、仏陀はバラモンとアウトカーストを差別しないけど、やはり悟るために機根を目覚めさせるにはある程度教養や生活の余裕が必要な無情な現実はありますよね
(
親鸞の悪人正機が生まれた理由だろう)
とりあえず、アビダルマ用語について何か知りたい時の最強サイトだけシェアしておきますねhttps://t.co/6JOHXg4r4H
— うなじ (@unajiperopero) July 29, 2020
DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
3月2日
返信先:
@Historian_nomad
自分のおすすめは
①梶山雄一『スタディーズ 空』
②桂紹隆・五島清隆『龍樹『根本中頌』を読む』
③梶山雄一・上山春平『仏教の思想3 空の論理』
ですね。この中では①が最もとっつきやすく、①を読んでおくと③が理解しやすくなります。
それ以外だと、
— DJ プラパンチャ (@prapanca_snares) March 1, 2020
④竹村牧男『インド仏教の歴史』第4章
⑤立川武蔵『はじめてのインド哲学』
あたりもいいかと。あと、中村元『龍樹』は悪い本ではないと思うけど、自分は「積極的には」薦めないかなぁ、という感じです。その理由については少し前にここhttps://t.co/ceIFQfigW2 で書きました。
DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
中村元『龍樹』も“入りとしては”悪い本ではないと思うけど、
個人的には梶山雄一『スタディーズ空』と『空の論理 中観』を強く推したいですね。
まず前者を読むと後者が理解しやすくなります。
ナーガールジュナの思考の襞まで入り込んで解きほぐした上で梶山自身の言葉で語られる解説が素晴らしいです。
午後10:58 2020年2月22日
2月22日
これは自分一人の体験にすぎないから一般化はできないだろうけど、
最初に中村元『龍樹』を読んでそれについてる『中論』の和訳を読んでも、
ほとんど理解できなかったんだよな。でも梶山雄一の本で、
ナーガールジュナの言語批判の論理がどういうものか知り、そのヤバさを知ってから読むとよくわかった。
DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
自分が中村元『龍樹』をあまり薦めたくない理由について。
中村は『中論』は相互依存の縁起を説いていると言ってる。確かにチャンドラキールティはそう理解してる。でも最近の研究では、桂紹隆・五島清隆『龍樹『根本中頌を読む』のように『中論』は相互依存の縁起を説いてないという指摘があるんだな。
DJ プラパンチャ
@prapanca_snare
2月22日
例えば、『中論』第10章第10偈にはこうある。
あるもの(甲)が何か別のもの(乙)に依存して成立する場合、もしその甲に依存して甲の依存の対象である乙が成立するなら、いったい何に依存して、何が成立するのか。(桂紹隆・五島清隆訳、前掲書)
DJ プラパンチャ
@prapanca_snare
2月22日
この偈は、甲と乙が相互依存関係によって成立するとは言っていない。
あくまでも、
「甲と乙を実体視して甲によって乙が成立し、
乙によって甲が成立すると考えると循環論法に陥る。
よって甲も乙も無自性であり空である」と言っているわけだ。
自分も初めて中村元訳で『中論』を読んだとき、
この第10章の火と燃料をめぐる考察を、
相互依存の縁起という枠組みで読もうとして「???」となったことを今でも覚えている。
詳しいことは桂・五島の前掲書に論じられているけど、自分は五島説は肯綮にあたっていると思う。
あと、中村元『龍樹』は最後の方で、
ナーガールジュナの思想は新プラトン主義であるとか、
偽ディオニシウス・アレオパギタやエックハルトの否定神学に対応すると言ってるけど、これも問題があると思う。
DJ プラパンチャ
@prapanca_snar
2月22日
否定神学では、神は言語化不可能であり不可説ではあるが厳然として存在するということになっているし、
その否定は神を肯定するための相対的な否定である。
それはざっくり言えば「言語を超えた何かがある」
「否定の果てにどこかに何かが残る、どこかに何かがある」という思想である。
でも『中論』の否定は、肯定も否定もしないという意味の否定である。
「Aは有でもなく無でもない」というジレンマ論法は、
有や無という言語の外側に真実の世界があるということではない。Aという主語を立てて有とか無とか言った時点で矛盾に陥ると言っているだけで、そこに外側はない。
「即」という名のアポリア 第0回
https://note.com/prapanca_snares/n/n098b20235ddf
”私という人間が生まれるまでに、この天地は無限の時間を経過している。私が死んだ後も、また無限の時間が流れてゆくことであろう。してみれば私という人間は、無限の天地と無限の時間の流れに浮かぶ一点にすぎない。
このわずかな数十年の命しかない一個の人間が、広大きわまりない天下の乱れることを憂えるのは、あたかも黄河の水の流れが少なくなったことを悲しみ、その涙で黄河の水を増やそうとするのに似てはいないだろうか。三日の命しかない蜉蝣(かげろう)が、三千年の寿命をもつ亀のために長命法を心配してやったとすれば、きっと物笑いになるにちがいない。
してみれば、天下の乱れなどは憂えず、ひたすらに我が身の治まることを楽しみとする者であってこそ、はじめて永遠の道を語る資格があるといえよう。(『淮南子』詮言訓)
正義の味方の存在を信じなくなったのがいつのことかは忘れた。しかし悪者はどこかに居ると思っていた。悪いことが起こるのは、「あいつのせいだ」と指差すに足る悪い奴がどこかにいるからだと信じていた。悪者の不在は、正義の味方の不在より千倍も万倍も悲しかった。(『イリヤの空、UFOの夏』)”
[上記までの参考資料は大分前からコピペしておいたもの。
2022年8月13日に追加:
https://twitter.com/prapanca_snares/status/1421842138577334280 と続き
”DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
う~ん……テトラレンマと言っても龍樹の専売特許ではなく仏教史を通じていろんなとこで用いられているし、その方向性もそれぞれ異なってたりするので、テトラレンマについて説明してくださいとだけ言われても困るところがあるというか。まぁその質問者さんはたぶん龍樹のことを言ってるんだろうけど。
午後11:35 · 2021年8月1日·Twitter Web App
龍樹のテトラレンマについては頁さんやうなじさんのおっしゃるとおりかと思います。とりあえず次のようにおいてみましょう。
— DJ プラパンチャ (@prapanca_snares) August 1, 2021
(1)Xは存在である(A∩¬B)
(2)Xは非存在である(¬A∩B)
(3)Xは存在かつ非存在である(A∩B)
(4)Xは存在でも非存在でもない(¬A∩¬B) pic.twitter.com/lfmQK4H9xV
(1)~(4)によってありえる可能性をすべて網羅し、それらをすべて斥けることで、そもそもXが存在するとか存在しないとか言ったりすることが根本的に成立しないことを示し、「X」とか「存在」とか「非存在」といった言語表現や議論の土俵それ自体を無効化するのが龍樹の狙いと言っていいでしょう。
午後11:36 · 2021年8月1日·Twitter Web App
卑近な例で言うと、ここには政治問題や時事問題を巡る愚かしい熱狂や炎上の類が流れてくることがありますが、その手の話には乗せられまいと思っても、常識的な論理でいくと(1)の立場を斥けようとすると(2)の立場に立つことになり、(2)の立場を斥けようとすると(1)の立場に立つことになってしまう。
午後11:36 · 2021年8月1日·Twitter Web App
そうすると何らかの枠組みや土俵に乗ることを余儀なくされてしまう。だからといって関わりたくないと思って沈黙していると、現状を追認したとか無言で賛成したなどとみなされてしまったりする。そこで、そういう議論のすべてが根本的に成立していないと示し戯論を止滅させる戦略をとるというわけです。
午後11:37 · 2021年8月1日·Twitter Web App
ここからはちょっと面倒な話ですが、うなじさんがおっしゃるように
(1)Aかつ非B
(2)非AかつB
(3)AかつB
(4)非Aかつ非B
というとき、Aの否定はBの肯定を意味しBの否定はAの肯定を意味する(つまり非A=B、非B=A)と考えると、それこそ(3)と(4)は同じことになり、二句分別でええやんとなってしまいます。
午後11:37 · 2021年8月1日·Twitter Web App
そこで「非A=B」「非B=A」という具合に相対否定(パリウダーサ)で捉えるのでなく「純粋否定」(プラサジュヤ・プラティシェーダ)と捉え、A(B)の否定はB(A)の肯定を含意しないと解釈すれば、二重否定律は適用されず四句すべてが意味をなすと解釈できるのかな、と(桂紹隆『インド人の論理学』参照)。
午後11:37 · 2021年8月1日·Twitter Web App
でも、立川武蔵先生は(1)と(2)を斥けた時点で論証は終わっているという見解を提示してるし、このへんは素人の自分はちょっと判断を中止せざるをえませんね……。ともあれこういう話に興味があるのなら、まずは梶山雄一や立川武蔵や桂紹隆や五島清隆の著書を読むのがいいのではないかと。
午後11:38 · 2021年8月1日·Twitter Web App
ちなみに、立川武蔵『「空」の構造』は、法蔵の『華厳五教章』にみられるテトラレンマと『中論』のそれとの違いについても論じているから一読されるといいんじゃないかと。あと、テトラレンマの思想史に関するこんな本もあって気になってるんですが、自分は未読です。
amazon.co.jp
The Fifth Corner of Four: An Essay on Buddhist Metaphysics and the Catuskoti
Graham Priest presents an exploration of Buddhist metaphysics, drawing on texts which include those of Nãgãrjuna and Dõgen. The development of Buddhist metaphysics is viewed through the lens of the...
午後11:38 · 2021年8月1日·Twitter Web App
”
https://twitter.com/prapanca_snares/status/1373940136786886656
”DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
日本語で読める既存の仏教論理学入門の本は、
桂紹隆『インド人の論理学』
『講座仏教思想<第2巻>』
『講座・大乗仏教9』
『シリーズ大乗仏教9』
『梶山雄一著作集第七巻』
一郷正道『ハリバドラの伝える瑜伽行中観派思想』
モークシャーカラグプタ『タルカバーシャー』(梶山雄一訳)
ぐらい?
午後7:10 · 2021年3月22日·Twitter Web App”
]
[
2022年8月16日に追加:
(既に引用したものとかぶっても気にしない気にしない)
https://twitter.com/unajiperopero/status/1288737566653648896 と続き
”うなじ
@unajiperopero
宗教哲学齧って「宗教にハマる」かというと、中途半端に一個だけ齧ればそういうこともあるかもしれんけど、満遍なく色々齧ってると、色んな教義が相対化されてくるので、むしろハマりにくくなると思う それが良いことか悪いことかは知らん あんまり良くはないかもしれない
午後4:25 · 2020年7月30日·Twitter for Android
頭の中に色んな宗教哲学のカタログができてる状態でなお、特定の宗教にハマるようなら、よほどその宗教と相性がいいと思うので、もうそれでいいんじゃねえかな
午後4:27 · 2020年7月30日·Twitter for Android
”
五位七十五法関連用語の定義的用例集
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~b_kosha/html/index_75dharma.html#def_pratisaMkhyAnirodha2_top
]
[2022年8月22日に追加:
(将来はタイトルが変わっているかも↓現時点の題名)
随時追加 シーア兄貴(イラソのアレ来世触手)2022/8/16~/と良呟きや記事の保管庫。猿を食う猿、チェンソ-男2期④、呪術怪戦、ジャンケット銀行②、偽キリスト作品一覧、昆虫超人・昆虫型宇宙人、仮面ライダ-竜騎士
Posted on 2022.08.18 Thu 20:18:40
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-421.html
”シーア兄貴(イラソのアレ来世触手)2022/4/5~5/2と良呟きや記事の保管庫
Posted on 2022.04.17 Sun 20:55:31
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-475.html
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
4月23日
アンタらは概論をやってないから「固有名詞を無闇に増やす」、止めたら其れ
わしが今、読んでいる本にね
تفسیر منطق قرآن
クルアーン解釈の論理学という本があってね、そこの解釈の方法として6つが上げられるの
クルアーン
言行何もしないを含めて集めたもの
理性
知識
神秘・霊妙
自己解釈の6つ
解釈学書を扱う際に基本、コレさえわかっていればいいと言えるのが
クルアーン・ハディース・理性の3つで、後の3つは無視でよい
それは確定・ブルハーンではないからで
実際、スーフィー・神秘系やグラート・異端系は傾向として、神秘・霊妙系統の解釈論を選択する
特に多いのが、知識なのよ
午後2:38 · 2022年4月23日·Twitter for Android
4月23日
知識でクルアーンを解釈する際の手段として3つがある
1;クルアーンと新しい知識を合わせてから、推論を立てて抽出する手法
2;クルアーンの文言が先にあって、そこに新しい知識を従わせる手法
3;新しい知識があって、そこにクルアーンの文言で裏付ける手法
で、この3つの内正しいのは2だけなんよ
4月23日
どういう事が起こるのかというと
1を選択すると、クルアーンの文言と新しい知識が組み合わさり(タトビィーグという)混ざったものを抽出することで「二つの下導を一つにして抽出する」という事が生じ
コレは論理学でいう、合成(ムラッカバ)が生じるので無効
下導対象は純正(ムトラグ)であるんよ
4月23日
3は新しい知識が下導主体・底本としてから、クルアーンで推論するのでコレも無効
なので、クルアーンを新しい知識(2つに分かれる、一;自然学系統、二;人文学系統)で抽出する際は必ず2の手法を用いねばならない
んだけど、近現代のアホごみクズ妄想・空想・汚物は2以外の手法から発生しているんよ
4月23日
じゃーどういう例があるかというと
1はクルアーンの文言と生物学合わせて、クルアーン生物学みたいのを作ること
例えば、天使はこういうガス状の生命体があるので、天使もそれに違いないというもの
若しくは天使が見えるというのは、ガス状態で何かしら集まる事で見えるようになるという判断を差す
4月23日
3は、酒はどんな状況でも人体に悪影響しか及ぼさないから、クルアーンは酒を禁止しているという考え方
コレは2の手法に近しいところがあるんだけど、最初の命題(ガジィーア)の設定がクルアーンからではないのと
クルアーンでは最初から禁じてはおらず、徐々に啓示が厳しくなって禁止へと変遷してる
4月23日
2だと、先にクルアーンが徐々に酒に関して厳しくしていき、禁止とした
禁止としたのは人文学系統では、アルコール依存症の社会的問題などが「追認」
自然学系統ではアルコールを分解する際のメカニズムから、人体に有害でしかない事などの「追認」することで「大根拠が後世によって追認された」となる
4月23日
この根拠(サナド)と追認(ターイィド)の順序が、逆になってしまう人が多いので警戒するのよ
で、コレがわかると17世紀以降に発生した「オカルトとドイツ表象主義やイギリスのイデオロギーを虐殺できる」のね
即ち、17世紀以降西欧中心主義的妄想を木っ端みじんに破却できんのよ
4月23日
で、わかったと思うけど
1はアホな国体思想や程度の低い有機体説に偏り
3だと、畜生でしかないのに人間中心主義的な空想へと偏る
で、わしみたいな神学やっていると、どっちも極端な妄想なんで死んでください★ミ
と、なるの
勿論、1と3から発生した学術擬きは全部詭弁・空想で俎上の外へ
4月23日
そんなしょーもないものは、大凡情報としっていればいいけど、それより先は無意味となる
概論から正しくないのなら、前提から間違っているので、間違っているもの「から」議論しないのが、論理学の基本です
間違ったものでも連想ゲーム始めるのが蛆共
DSいって、任天堂じゃねえアホどれだけいるよ?
4月23日
クルアーンの暗記が全く無駄な理由がコレ
暗記したところで使えないなら意味がなく、正しいから正しいでは啓示が来た理由にならない
そりゃ、結論としては「クルアーン『だ か ら』」だけど
その諸知識と前提がわかってなかったら、結論を組み立てられないだろ
豚リマと犬リムはわかってねえけど
4月23日
暗記を有用にするためには、その先があるのを前提として身につける事
どんな学問でも「暗記は基本」、基本だからその先が必要なの
言葉を学ぶのは目的ではなく、その先の事をするため
言葉を学んで・暗記して、現地いけば「ポケモン扱い」はしてくれるよ
わし、そんなレベル2ポッポではないんで
〔上記へのリプ:
紫陽花雪風(シヨウカユキカゼ)
@WRX_spec_C
·
4月23日
暗記もできないで威張るレベル1もおるけどな
「実数aがあるときn≦a≦n+1を満たす整数nが存在する」と言う論理があるけど、その論理は「これから微積分を議論するのに正しいもの”とする”上で」「”そこから考えられることを論理的に示す”」のに必要
感覚的に正しい、は正しいから正しいみたいな妄言
〕
〔上記へのリプ:
来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
4月23日
根拠のない自信というやつね
感覚的というのは「背景がない自信」で、この手が持っている自信は「年上だから、敬意を示される『はず』」や「親が資産家だから、資産家と見てくれる『はず』」というものね
前者は「ただの老い耄れ」だし、後者は「親が養子縁組して、遺留分で放逐」があり得るんよ
〕
(
合成の誤謬って具体的な事物(食べ物とか)だと誤りだとわかりやすいけど、抽象的な内容だと気づきにくいから厄介だ。
他の論理的誤謬も同様。
合成の誤謬と分割の誤謬とは? | 詭弁を見抜く!論理の間違いシリーズ
http://biz-tips-collection.com/2018/08/09/conceptualskill-criticalthinking-fallacy-composition-division/
”合成の誤謬は、部分的な特性を全体の特性とすること
「A高校のBさんは頭がいい。なのでA高校はみな頭がいいはずだ。」
合成の誤謬(fallacy of composition)は、一部分を取り上げて、一部分がこうだから全体もこうだ、と主張する論法だ。
論理展開は以下の通りだ。
・BはXである。
・BはAの一部分である。
・それゆえ、AはXである。
他にも例を見てみよう。
「分子に意識はない。なので、分子で構成された脳が意識の源であるはずがない。」
何かによって構成されたものが、その何かが持たない性質を持つ場合もある。
「サッカー観戦で立ち上がると試合がよく見れる。なので、皆が立ち上がれば皆が試合をよく見れる。」
他の人が座っているからこそ効果があるという条件を忘れて、全員に適用してしまった例だ。このように、一部だからこそ効果のあることを全体がすると効果はなくなる。
また、合成の誤謬は、早まった一般化と似ているが違うものだ。
合成の誤謬は、あるものの一部分の特性が全体に適用されるという前提から主張を展開しているのに対して、早まった一般化は少ないサンプルから主張を展開している。結果同じようなことを言っている場合もあるが、論理展開(論理は間違っているが)が違う。
分割の誤謬は、全体の特性を部分の特性とすること
「A高校は進学校だ。なのでA高校のBさんも成績がよいはずだ。」
上記の例文はどうだろうか。正しい場合もあるかもしれないが、必ずしもそうとは言えないだろう。
全体の平均や合計などから、個々の特性を必ずしも正しく当てることはできない。
分割の誤謬(fallacy of division)は、全体がこうだから、一部分もこうだ、と主張する論法だ。合成の誤謬の逆パターンと言える。
論理展開は以下の通りだ。
・AはXである。
・BはAの一部分である。
・それゆえ、BはXである。
他にも例を見てみよう。
「アメリカは世界一の経済大国だ。お隣のアメリカ人Aも金持ちに違いない。」
アメリカ人全員が金持ちとは限らない。
「Aさんは、ラーメンが好きだ。なので、ネギやメンマをそのまま食わせても好きだろう。」
ラーメンが好きだからといって、材料全てが好きとは限らない。
まとめ
今回は、表裏一体である合成の誤謬と分割の誤謬を紹介した。
まとめると以下の通りだ。
・合成の誤謬は、部分の特性を全体の特性とすること
・分割の誤謬は、全体の特性を部分の特性とすること”
※着色は引用者
「1を選択すると、クルアーンの文言と新しい知識が組み合わさり(タトビィーグという)混ざったものを抽出することで「二つの下導を一つにして抽出する」」
は確かに
「・BはXである。
・BはAの一部分である。
・それゆえ、AはXである。」だな。
二つの下導とは、「「・BはXである。
・BはAの一部分である。」の2つのことね。
)”
[中略]
[上記の合成の誤謬について少し書いておく。
合成の誤謬(fallacy of composition)は、一部分を取り上げ、一部分がそうだから全体もそうだ、という論法。
論理展開は、
①BはXである。
②BはAの一部分である。
③それゆえ、AはXである。
「知識でクルアーンを解釈する際の手段として3つがある
1;クルアーンと新しい知識を合わせてから、推論を立てて抽出する手法
2;クルアーンの文言が先にあって、そこに新しい知識を従わせる手法
3;新しい知識があって、そこにクルアーンの文言で裏付ける手法
で、この3つの内正しいのは2だけなんよ
4月23日
どういう事が起こるのかというと
1を選択すると、クルアーンの文言と新しい知識が組み合わさり(タトビィーグという)混ざったものを抽出することで「二つの下導を一つにして抽出する」という事が生じ
コレは論理学でいう、合成(ムラッカバ)が生じるので無効
下導対象は純正(ムトラグ)であるんよ」
における、
「二つの下導」とは、
「①BはXである。
②BはAの一部分である。」の2つ。
「1はクルアーンの文言と生物学合わせて、クルアーン生物学みたいのを作ること
例えば、天使はこういうガス状の生命体があるので、天使もそれに違いないというもの
若しくは天使が見えるというのは、ガス状態で何かしら集まる事で見えるようになるという判断を差す」
だとどれがA、B、Xだろうな。
BはAの一部ってことは、Aの範囲の中にBがある[領域の一部をなす](Aの構成要素の1つがB)。
一部分(B)を取り上げて、一部分(B)がこうだから(Xである)、全体(A)もこう(X)だ。
「一部分(リンゴ)が果物(X)だから全体(植物)も果物だ」は誤り(文字A、B、Xだけだと間違えるので具体化)。
結論「③それゆえ、AはXである。」すなわち、
「それゆえ、天使(A)はガス状生命体(X)である。」が成立しないといけない。
「ある生物群(B)」はガス状生命体である。(Xは実在すると仮定。Bの中身は天使より領域が広いものを考えた結果)
しかし、「ある生物群(B)は天使(A)の一部分である」は成立するとはかぎらないので駄目だな。
だって天使の方が範囲が広くないといけないんだぞ。
全ての天使がガス状生命体とはかぎらんしな。
X自体の実在を私は知らないのでXを使う時点で駄目。
結論が成立する前提2つ(演繹、下導)が成立しないので駄目。詭弁)”
追加は以上]
お読み下さり感謝!
【ご支援用⑤の資料かつ魔除け】『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』
Posted on 2021.10.31 Sun 21:03:41 edit
タイトルに「ご支援用⑤」とあるけど⑤はまだ完成していない。もうすぐ完成。完成したら告知します。
『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』のメモは本記事の後半にあるよ。前半部は大半が魔除けだよ。
10月31日だから魔除けを重視した記事だよ!
勃起!(魔除けの呪文)
魔除け記事をどうぞ。
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/1059940767270084610 と続き
”新ヤソがハロウィン推しの理由↓
トマトさん
”ドルイド教って言ってもアーリア系ケルトですからね。
イラン辺りの連中が東に行ったのがインド、
西に行ったのがケルトって線が強いかと。
アイルランド神話もトゥアハ・デ・ダナンは
海からやって来たと言ってるので元から島に居た連中じゃないですね。
ケルト神話のトゥアハ デ ダナーン自体が女神ダヌの息子達って意味ですし、ヴェーダにも女神ダヌいますよ。仙人の娘。”
〔中略〕
”Y染色体ハプログループの分布図…DNA分析によって、人間の
移動経路を特定しましょうという理論…
この分布図を見て欲しい。
〔中略〕
西ヨーロッパはイラン辺りからのアーリア系
遺伝子の流入が大半である事だ。
逆にロシア等のスラブ系や北欧は違う遺伝子
分布…。
これはアイルランド神話のトゥアハ・デ・ダナン神族
の入植を裏付ける事実となる。
何故ならダナン神族は”女神ダナの息子”という
意味で女神ダナ=ドナウ川の擬人化だ
と伝えられているからだ。
逆にユダヤ系列のセム系はアフリカ、中東の
外に出ていないことが分かる。
つまりセム人的影響よりもアーリア人的影響力の
方が西ヨーロッパでは強かったのではないかと
思われる。”
”古神道の世界観で有名な日ユ同祖論だが、
個人的には…あり得ないと思っている。”
以上
”今の支配層の本体である思想・システムの核は
バラモン・ゾロアスター教思想を
その子孫である耶蘇と新ヤソ神学で悪化させたもの。
悪化と書いたのは
本体に憑依されている運営役の人間は戒律を一切守っていないから。
奴隷は人じゃないから非殺生戒は破られないって?
でもあいつら肉食も性交もする等
禁欲しないし我欲とご都合主義が行動原理。
我執を滅するのは無理でも弱める修行すらしない。
ハロウィン等のたびに支配層の生贄思想と儀式殺人の話題が盛り上がるが生贄思想と儀式殺人の最大の原因が
教祖が生贄になったことに感謝するキリスト教正統多数派の教義と
バラモン教(ドルイド教の元ネタ)
なのは見事に
ユダヤ(なぜかユダヤ教徒ですらなく耶蘇か新ヤソ信者)、
悪魔崇拝、イルミナティ、
ケルト(アイルランド神話がケルトでなくなる等学会で大問題)等の異常な定義の言葉で覆い隠されているから工作は大成功。
…
支配層が18が好きな理由の一つがウパニシャッドにも登場するからだろう。
バガヴァッド・ギーターもマハーバーラタも18章から成る。
マハーバーラタ戦争は18日間続き
招集された軍隊の数の単位は18アクシャウヒニー。
マハーバーラタの別名ジャヤのジャは8、ヤは1を表す。
666と18は旧約のソロモン、新約の黙示録だけでなく
バラモン教とインド神話の意味も込められる数字。”
遺伝子分布、思想、言語等から
アイルランド神話(最新学説では非ケルト)のダーナ神族
=インド神話のダーナヴァ(アスラ神族)。
トゥアハ・デ・ダナン
=ダーナヴァ
=ダヌの子供達。
アスラ派は自然崇拝=文明否定=反デーヴァ。
ドルイド教もアスラ派も自然崇拝、バラモン教型輪廻、生贄肯定。
オルフェウス教(菜食主義などの禁欲で原罪を克服し輪廻から解脱)
と
グノーシス
(創造神は悪←ウパニシャッドの創造神は死=悪
神との合一←梵我一如
本体あり輪廻)
の元ネタも
プラトン(西洋哲学の根本)の輪廻思想もバラモン教。
『メノン』 ”魂は不死であり、すでに何度も生まれてきており…”
”
”禁欲しないし我欲とご都合主義が行動原理。
我執を滅するのは無理でも弱める修行すらしない。
ハロウィン等のたびに支配層の生贄思想と儀式殺人の話題が盛り上がるが生贄思想と儀式殺人の最大の原因が
教祖が生贄になったことに感謝するキリスト教正統多数派の教義と
バラモン教(ドルイド教の元ネタ)”
への返信が
https://twitter.com/kikuchi_8/status/1060552830757433347 と続き
”菊池
@kikuchi_8
返信先:
@kitsuchitsuchi
さん
スッタニパータに、仏陀がバラモンの生贄儀式を非難したり、そんな儀式は効果がないと否定する話が出てきます。ドルイド教には輪廻転生の考えもありますね。生贄儀式と輪廻転生で確かに酷似しています。あと、神官階級(バラモン、ドルイド)が社会の最上層に位置するという社会制度も似ています。
午前0:21 · 2018年11月9日·Twitter Web Client
イエスを犠牲にする事で人類が救済されたとする基督教の教義は生贄の論理そのものだと思います。新井白石が一笑に付した教義です。個々の宗教から論理を抽出してみるとその異同が明確になりますね。キリスト教はドルイド教と同様生贄の論理を持っています。バラモン教も。というか源流かもしれません。”
邪気を払うためにこれより魔除けを行う。
https://twitter.com/wolvesknow/status/1454431531238236167 とリプライ
”狼たちは知っている
@wolvesknow
神戸のこの辺りではね、地蔵盆というのがあってね。お地蔵さんにお参りに来た子にお菓子を配るんよ。なので子ども達はお地蔵さんをハシゴしてお菓子を集めるねん。
ハロウィンより、こっちが全国区になればええなと思ってる。お地蔵さんは子どもが大好きなんよ。ハロウィンの起源よりええやん。地蔵盆
午後9:54 · 2021年10月30日·Twitter for iPhone
tk
@tk_311_
返信先:
@wolvesknowさん
甲信越ですが、似たような風習があります。地蔵の周りに集まって鐘を打ち鳴らし、大人がお供物をする。お供え物をみんなで山分け。忘れていた記憶が蘇って嬉しい。
午後11:23 · 2021年10月30日·Twitter for iPhone”
(支配層が大好きな「邪視の象徴=目」は生殖器で対策できる)
ローマ神話の神プリアーポスは、牛飼の守護神であり、男性の生殖力の神ともされ、生殖と豊穣を司る神として、果物と巨大な陰茎を持つ姿で描かれている。古代ローマの人々は、邪視(イビルアイ)に対するお守りとしてファルス的な宝石を着けていた。 pic.twitter.com/fAE65R0RTs
— てすら (@Teslamk2t) August 3, 2016
少なくとも帝政初期頃のローマの子供や女性(性的に不完全と考えられていた者)は魔除けとして男根を象った首飾りをかけていたので、サンローランのネックレスはローマ文化を現代の欧州人が受け継いでいることの小差であり、ローマが滅びていないことを示しているな pic.twitter.com/mpiyebdywg
— 瑪爾斯可寒(マールス・カガン) (@kimovoticus) October 28, 2018
@amatlier
— 錆寝(さびね)@喘息&花粉症等メッセージマスク用スタンプ販売中 (@sabineko69) March 20, 2015
ティンティナブラムとか金精様とかも駄目なんでしょうね(´;ω;`)
そう言う人は一度くらい田県神社の豊年祭で耐性をつけた方が…
本当は興味津々だから過剰に卑猥に感じるだけだから( ̄▽ ̄;)
人類の半分はついとるわ pic.twitter.com/yNXnqL5q7h
飯坂温泉 八幡神社 「リンガ(陽根像)」ご立派ですね! pic.twitter.com/nNBtOT7teO
— 甚平さん【ゆるアナキスト】 (@tomomo_h) October 27, 2015
図像的に追うかぎり、道化帽は道化棒(フランス語marotte、英語bauble)より後で、初出は1212年、パリ公会議は司牧がマロットを持つ道化を副助祭として用いることを禁じているという(異貌の中世)。道化棒とは何か?「王杖のアレゴリーとみたい」(p.56)。 pic.twitter.com/yjbTRpIBgz
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) June 10, 2017
道化棒が陽根に淵源することは、諸家ほぼ一致して認めている。
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) June 10, 2017
球形の形状をしたものはギリシア語ὄρχις(睾丸)に由来する。orchis morio(阿呆の睾丸)という欄は、その根が似ているところからの命名という(ビリントン)。 pic.twitter.com/aT03lCRZ21
「伝統的に道化役者は殺された王の寓意である。……メダルの裏側のように王位の表すものの反対となる。すなわち〈生きたパロディ〉である」(世界シンボル大事典)。したがって、道化棒は王笏のパロディに他ならない。 pic.twitter.com/PnRk1Qm0kv
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) June 10, 2017
彼ら「野人」に共通しているのは、先の膨らんだ杖ないしは棍棒をアトリビュートとしたことである。
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) June 21, 2017
デューラーの描いた野人(1499年)。道化棒とよく似ていることに注意。しかし、本来は生木ないし根こそぎにした樹であった(右図)。 pic.twitter.com/Lp7kFs47tY
道化棒が生殖器に淵源することは既述したが、ῥόπαλονにもまた勃起した男根membrum virileの意がある。
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) June 22, 2017
ケンタウロスとヘーラクレース。前6世紀壺絵。 pic.twitter.com/y90O4CvT1t
そして道化棒が生杖であるかぎり、緑の葉が芽吹いているのは当然。しかし、このわずかな徴表が忘れられている版が多いように思う。 pic.twitter.com/LaHs56msDY
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) July 7, 2017
「愚者」札が2本の杖を持っているのはまことに意義深い。1つはῥάβδοςに淵源し、1つはῥόπαλονに淵源すると考えてよい。この交錯が、後の「道化棒」の発想を生んだであろう。 pic.twitter.com/7oJtW3nSqJ
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) October 1, 2018
ゴールデンカムイは学術書ではなく漫画なので、漫画的な改変がなされている可能性がある。
なので、この漫画のアイヌ語監修者にしてアイヌ文化研究の第一人者の解説書が読みたかったので読んだ。
特にトゥレンペについて正確なことが知りたかったからね。
ゴールデンカムイは面白いよ。尻臭さを感じなかった(単に私が当時のことをあまり知らないせいかも)。
アイヌではフクロウは善ぐらいかな。尻に都合が良い箇所は。
フクロウが非常に優遇されている『東京喰種』で主人公が北原白秋の詩『老いしアイヌの歌』を詠(うた)った理由だろう。
でも、ゴールデンカムイ(金カム、ゴルカム)では、主人公やヒロインの相棒がフクロウではないからな。ヒロインの相棒は狼と主人公。フクロウはほとんど登場しない。
「勃起の継承」で泣きそうになるとは思わなかった。
「勃起」には複数の意味があるがその内の1つが以下だ。
谷垣「そうだ… チカパシ 自分を奮い立たせて戦う…
それこそが勃起なのだ チカパシ!!」
(第96話より引用)
(この漫画はやたらとパロディが多い)
https://twitter.com/kemonofriends1/status/1258401502013480960
映画とは違いますが鶴見が部下に演説しているシーンはヒトラーが演説しているシーンと同じです pic.twitter.com/lamn6fAwR1
— くまナイ⛓ (@kemonofriends1) May 7, 2020
『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』(集英社)
中川 裕, 野田 サトル(描きおろしオリジナル漫画)『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』 (集英社新書)
p16から
(カムイは)よく「神」と訳される。
しかし、アイヌの伝統的な考え方では、表を歩いている犬や猫、庭にやってくるスズメやカラスはみなカムイ。
神様のお使いなどということではなくて、その一匹一匹がみんなカムイなのです。そればかりではない。
道端に立っている木も、その下に生えている草も、その間を飛び回っている虫たちも、基本的にはみんなカムイ。
家や舟や、鍋や茶碗などの食器類――つまり人間の作ったものもカムイですし、ガスコンロの火もカムイ。
火がカムイというのは、火を司る神様がいて、それが人間に火をもたらしたという意味ではない。
そこで燃えている火自体がカムイ。
カムイは人間をとりまいているほぼすべてのものを指している。
ただ、もう少し限定すると、なんでもかんでもカムイというわけでもなくて、この世の中で何らかの活動をしていると考えられ、
人間にできないようなことをするもの、人間のために何らかの役に立ってくれているものを、
特にカムイと認めているということなのです。
ですから、さすがに道端に落ちている石ころまでもカムイだと言いませんし、
カエルのようにカムイ扱いされず、積極的に嫌われているものもあります。
ただし、そういうカムイでも人間でもないものも含めて、すべてのものに魂があるというのが、アイヌ文化の基本的な考え方です。
「自然」と訳してもよさそうな気もするが、先ほど言ったように、家や舟、臼や杵、鍋や小刀といった人工物もまたカムイであり、
人間のまわりにあって、人間が生きるために何らかの関わりを持っているすべてのものを指しますので、「自然」ではやはりぴったりきません。
むしろ「環境」と言ってしまったほうがよさそうです。
アイヌとは「人間」を指す言葉ですが、アイヌの伝統的な考え方の根幹にあるのは、アイヌとカムイが良い関係を結ぶことによって、お互いに幸福な生活が保たれるということです。
カムイを「環境」に置き換えると、「人間」が自分をとりまく「環境」と良い関係を保てれば世界がうまくいくということで、私たちにとっても大変納得のいく考え方ですね。
動物たちは神の国では人間の姿をしていて
私たちの世界へは動物の皮と肉を持って遊びに来ている(2巻12話より)
p24から
あるいはシマフクロウという鳥は羽を広げると全長2メートルにもなる、日本最大のフクロウですが、コタンコロカムイ「村を守るカムイ」と呼ばれ、村に厄災が及ばないように監視する役目を負って、天界から村の近くの森に降り、その大きな目で夜中じゅう村を見守っているのだとされる。
(コタンコ「ロ」カムイの「ロ」は小さいロなのだがそう入力できない。
アイヌではフクロウが善なる存在)
シマフクロウをはじめいろいろなカムイたちが、人間の世界に禍が及ばないように気を配り、他のカムイとの仲立ちをして問題を解決してくれたり、あるいは危険が迫っていることを人間に知らせて避難させたりという物語が、数多く伝わっている。
p39から
悪いことをするカムイは人間に罰を与えられる
人間をおびやかすようなものもカムイではあるが、特別にウェン「悪い」という言葉をつけて、ウェンカムイ「悪神、魔物」と呼ばれる。
カムイが「神」とちょっと違うのは、人間とカムイは対等の存在であり、カムイが悪いことをしたら人間がバチをあてることもできるということです。
アイヌの思想では霊魂は不滅であり、霊魂の世界と肉体の世界(つまりこの世)を循環しているので、殺しただけでは退治したことにはなりません。この地下の冥府(テイネポクナモシリ「じめじめした下方の世界」)に落とすことによって、永遠に霊魂を封じ込めることができる。
(アイヌ語の表記で小さい「ク」や「リ」は本ブログでは表現できないので再現していない)
その地下の冥府に落とすのはカムイたちに祈ることで可能になるのだが、その祈りの力は、特別な能力者や司祭といった人たちではなく、男性なら(場合によっては女性も)誰でも発揮することができる。カムイは人間に言われたことには従わなくてはならないということもよく言われる。言葉というのはそれほどの重みを持つので、人間は言葉の力によってカムイと対等の立場に立ち、平安を得ることができる。だから男たちはみんな祈りの力――つまり言葉を駆使する力を磨いてきた。
p.44から
トゥレンペはあなたにも憑いている
2巻13話で、アシリパたちが捕ってきたカジカを、フチ(アシリパの祖母)が手に取って首の後ろに回す場面がある。
これは首の後ろの「ぼんのくぼ」にいる、あるいはそこから出入りしていると言われるトゥレンペ「憑き神」というものに見せているのだと、アシリパが説明している。
(うなじではないんだ
)
「憑き神」などというと、なにか迷信めいた、おどろおどろしいものを想像してしまうが、アイヌの伝統的な考え方では、これはアイヌだけではなく、人間だったら誰にでも憑いているものであり、人間の運命や行動をある程度制御している存在です。
アイヌは人間が自分の意志だけで行動しているのではないことをよく知っている。頭の中ではしてはいけないと思っていることをついしてしまったり、言うつもりでなかったことをつい言ってしまったり、あるいは危ない目にあっている人を見て思わず助けに行ったり。こうしたことをアイヌは、自分とは別の意志を持った存在が自分の中にいて、それが自分にそういう行動をとらせるのだと考えている。それは現代の言葉で言えば「無意識」とか「意識下」と呼ばれるもので、アイヌはおそらくずっと前から、そういうものを自分たちの世界観の中に位置づけてきた。
私(著者)にもちゃんと憑き神がついているそうだ。それはあるおばあちゃんのところにアイヌ語を学びに行っていた時に言われた。そのおばあちゃんによると、私に憑いているのは悪いカムイではないので安心しろということでした。そして「お前が私のところにアイヌ語を覚えに来たのは、お前が来たくて来たんじゃない。お前の憑き神が習いたくてお前を来させたんだ。だから、私はお前ではなくお前の憑き神にアイヌ語を教えているんだ」と言われた(註5)。
p.252
”註
〔中略〕
5 中村裕『アイヌ語をフィールドワークする』大修館書店(一九九五年)”
ちなみに、コミックスではよくわかりませんが、アニメ第4話のこの場面のフチの動作は、そのおばあちゃんが実際に私の目の前で見せてくれた仕草に基づいている。私がアイヌ語を教わった謝礼として出したわずか3枚の千円札を、最初のうちおばあちゃんは固辞していたのですが、しまいに首の後ろで左から右へと手を回し、一枚一枚丁寧に襟首のあたりにかざして受け取ってくれました。その仕草を、こうして映像として再現できたことを、私はうれしく思っている。
(
『ゴールデンカムイ』2巻13話でのトゥレンペの説明は以下の主旨である。
(ヒロインの祖母〔フチ〕が首の後ろの)自分の守り神にお供えしてる。
人に何か貰ったら憑(つ)き神におすそ分けするんだ。
憑き神は首の後ろから出たり入ったりしてる。
『トゥレンペ』といって人間は誰でも産まれた瞬間に守り神が憑くと考えられている。
トゥレンペは火や水や雷 狼や熊などの神様で
人によって違うものが憑く。
人の能力や性格が違うのもそのせいだといわれている。運命も左右する。
アイヌの中にはそれが見える人もいてフチはちょっと見える。
杉元(主人公)はとても強いトゥレンペが憑いているって。
杉元「へぇ… 俺が不死身と言われるのも守り神のおかげかもな」
)
(うなじではなくぼんのくぼなのね。後頭部と書くとどのあたりかわからないな)
夢は現実
アイヌの伝統的な考え方では夢は「現実の一部」であり、夢を見たからこそ、これは本当のことなのだということなのだ。
夢はカムイが人間と交信するために送ってくるメッセージだと考えられているわけで、だから夢に見たことは現実の一部なのだ。
p50から
カムイは汚いものが大嫌い
ところで、すべてのカムイに共通する最大の弱点を教えましょう。カムイは、いいカムイでも悪いカムイでも、汚いものや臭いものが大嫌いということです。ただ嫌いというようなことではなく、ひどい時には臭い匂いをかいだだけで死んでしまう。ということで、アイヌはウェンカムイを退けるためにいろいろ臭いものや汚いものを利用した。
トイレにもまたカムイがいるのだが、このような強烈な匂い(原文ママ)のするところにいつもいるのですから、かなり強力な力を持ったカムイであり、幸いなことに人間の味方です。
p73から
言葉は力
「名前」が持つ特別な力
アイヌの子供への名前の付け方にも、いくつかのルールがあった。その一番強い制約が「同じ名前をつけてはいけない」ということ。誰と同じ名前をつけてはいけないのかというと、自分たちが知っている人たちということですが、その中には亡くなった人も含まれる。亡くなったおじいさんの名前を自分の子供につけるというような例は、いろいろな民族に見られるが、アイヌではそれはやってはいけないことのほうに入る。何とかジュニアなどというのは論外ですね。
同じ名前をつけてはいけない理由は、恩恵も災いも、郵便や宅配便のように名前によって届けられるからで、悪いカムイが同名の人と間違えて、自分に災いを送ってくる可能性があるからだ。
(
恩恵も災いも、郵便や宅配便のように名前によって届けられるというのは魔術的に重要。本名を魔術師に知られてはならない。だから魔術師は自分で本名を作ったりして対策する)
言葉を重んじるアイヌが、同じ名前は災いのもとと考えたのには、深くうなずかざるをえない。
先祖供養の儀式でお供物が供えられるが、その時にかならず送り先の先祖の名前と送り主の自分の名前を口に出して唱える。そうしてないと、あて先不明で相手のもとに届かないことになってしまう。したがって、亡くなった人の名前を覚えておくというのは非常に重要なことであり、名前を忘れられてしまうとどこからもお供物が届かなくて、あの世でひもじい思いをすることになります。もっともちゃんとそれに対するケアもあって、「今、名前を呼ばれなかった人」と呼びかけて送るということもできるので、アイヌのルールはけっこうフレキシブルで人間的なものです。
名前は大きくなってから
アイヌの名前の付け方で、もうひとつの大きな特徴は、生まれてすぐにはつけなかったということだ。
生まれてすぐどころか、六つか七つぐらいになるまでつけなかったという話もある。
そのぐらいになって、性格とか能力とかがはっきりしてきた時に、その子の性格や、その子に関係した出来事などに基づいて名前がつけられたと言われている。
(
やはり「生まれてすぐに軽々しく名前をつけない+改名が普通」方式がいいよね)
ワッカ「水」
(子供に汚い名前をつける実例が紹介される)
なぜこんな汚い名前で呼ぶのかというと、カムイは汚いものが大嫌いなので、子供たちがカムイに気に入られて魂を取っていかれないように、わざと汚い呼び方で呼ぶ。
小さい時に体が弱かったり、あるいは兄弟が幼くして亡くなったような家では、正式の名前としてわざと汚い名前をつけたりすることがある。むしろ、あまり良すぎる名前――たとえばえらいカムイの名前をつけたりすると、「名前負け」して名前のほうに命を取られて早死にしてしまうということも言われる。
p81から
ついでにチカパシも野田先生が見つけてきた実在の人物の名前です。
チカプ(小さい「プ」)は「鳥」 アシは「立てる」で、「鳥を立てる」というのが直訳だが、
これではなんのことだかさっぱりわかりません。
実は野田先生が参照した文献には「陰茎の怒張」という訳がついています。
その文献にはそれ以上のことが書いていないので、その人物がどうしてそのような名前をつけられるに至ったかのかという状況はわかりません。
(
調べたら「怒張」ではなく「怒発」だった。
野田サトルのブログ
チカパシについて
7/7/2016
https://723000451898910026.weebly.com/125021252512464/4643160
"
チカパシという名前は本編で「陰茎を立てる」という和訳を採用したが
本来は チカプ=鳥 という意味で、陰茎というのは暗喩だ。
吉田巌氏「アイヌ史資料集」の中に
「珍奇な名前」としてチカパシは取り上げられており
その本での和訳は
[中略。画像省略。画像では
「チカパシ 陰茎の怒発」
]
見た瞬間「いい名前だ」とつぶやいた。
まさに勃起じゃないか。ぜひ谷垣と引きあわせたいと思った。
”
)
p91
立ったままクマに向かって話しかけるというのはかなり有効な対処法のようです。逃げたところで、クマの方が速いのは明白ですし、死んだふりも木に登るのも意味はないそうだ。
動物は目の高さで相手の大きさをはかるのだろうで、四足で歩いているクマからすると、二本足で立って歩いている人間の目はかなり高い位置にあり、クマにとって人間はすごく大きな動物に見えるらしいのだ。それでクマのほうも人間が怖いので、立ち上がって相手より自分のほうを大きく見せようとしている。そこで人間が逃げ出すと、「あ、なーんだ、こいつ弱いんじゃん」と思って、追いかけてくるわけです。
ところが立ったまま逃げもせずに何か言葉を発していると、クマにとってはとても不気味な存在に映るので、すきがあれば逃げようとする。このように、言葉は本当に武器にもなる。もっとも、子連れの母グマは子供を守るために必死なので、そんなことは通用しないから、山の中で子グマを見かけたら、母親に見つからないうちにさっさと逃げたほうがいいと思います。
地名は土地の歴史を伝える
p112から
物語は知恵と歴史の宝箱
困った時の参考書ウエペケレ(レは小さい)
ウエペケレは日本語でいえばまあ「昔話」というのにあたりそうだが、「昔話」という言葉にはどうも語り手も聞き手も本当のことだとは信じていない作り話だというニュアンスがある。しかし、ウエペケレは本当にあったことだと考えられていたというのが重要なポイントなので、ちょっと昔話とは訳しづらいところがある。そこで私は「散文説話」と呼ぶことにしている。
つまり、ウエペケレというのは、当時のアイヌの人たちにとっては、他の地域の、あるいは昔あった実際のニュースを伝えたものだという意味だったようだ。
p143
すべてのものには魂がある
伝統的なアイヌ民族の考え方は「自然との共生」というようなものではない。自然だけではなく、自分たちをとりまくありとあらゆるものとの共生です。その中核にあるのは、カムイでも人間でも、それ以外のものでも、みんなラマッ「魂、霊魂」があり、人間と同じ人格を持った存在だということだ。そして私たちが暮らしているこの世界では、すべての魂は基本的に肉体の中に入っている。それだから私たちの目に見える。
カムイは本来魂だけの姿でカムイの世界にいて、そこから人間の世界にやってくるわけですが、そこに戻るときにも肉体を離れて魂の姿になって戻らなければなりません。それも自分の力で肉体から抜け出すことはできず、人間の手で開放してもらわなければならないことになっています。それが狩猟であり、木を切ることであり、山菜を採取することであるのです。
参考資料
『ゴールデンカムイ』監修者がおすすめ アイヌ文化を知る厳選12冊
https://book.asahi.com/jinbun/article/13324324
勃起!(魔除け)
お読みくださり感謝!
『妻を帽子と間違えた男』は創作ネタの宝庫。「左」という概念を失った人はジョジョのウェカピポの元ネタ。レーガン大統領の演説が嘘だと見抜いた失語症患者と音感失認症患者
Posted on 2021.10.01 Fri 19:52:38 edit
『妻を帽子と間違えた男』
”彼は手をのばし、彼の妻の頭をつかまえ、持ちあげてかぶろうとした。妻を帽子とまちがえていたのだ! 妻のほうでも、こんなことには慣れっこになっている、というふうだった。”
p.33
忘れにくいし見逃しにくいタイトルが完璧。
妻を帽子と間違えた男を最初に載せているから掴みは完璧。
「あれが私の足かな、そうでしょうか?」あたりで傑作だと確信できる。
自分の足に「あれ」だからね。「これ」ではなく。
足は取り外せる義足でもないし、本人はロボットでもない。
自分の足と靴を間違える男でもある。
文庫版の表紙のイラストが面白い。
左側の人の頭に帽子があるのだが
その帽子が小さな人。
妻を帽子とまちがえた男の頭に妻が帽子となってかぶさっている。
本ブログ読者の多くが興味を持ちそうな個所↓
動画の音声を消して口や手の動きだけを見るのはオススメの観察法。訓練を受けた工乍員かどうか多少は判定可能。
”「大統領の演説」は左側頭葉の障害によって起きる失語症患者が、当時のレーガン大統領の演説を聞いてどっと笑ったというエピソードである。失語症患者は言葉を理解できないから、言葉によって欺かれることはない。そのかわり声のあらゆる表情によって嘘をついているかどうかわかるということだ。つまりこのときの大統領の演説は偽りだらけだったというわけだ。
また右側頭葉の障害によっておこる音感失認症という患者は、単語は理解できるが、声の表情や調子を理解できないそうだ。その患者に同様に大統領の演説を聞いてもらったら
「説得力がないわね。文章がダメだわ。言葉づかいも不適当だし、頭がおかしくなったか、なにか隠しごとがわるんだわ。」
と言ったそうだ。健康な人がだまされて、脳に障害を持った人が騙されないとは、なんとも逆説的なことだ。これを利用して日本でも毎回選挙前に候補者の演説を失語症と音感失認症の患者に聞いてもらえば、彼らが嘘を言っているのかどうかわかり、常に正しい判断ができるのではないか。”
妻を帽子とまちがえた男 みんなのレビュー
https://honto.jp/netstore/pd-review_0600834736.html
https://twitter.com/alucaje/status/858260936783667200 とその続きより
”雅
@alucaje
『妻を帽子と間違えた男』を読んでる。サイバーパンク感が凄い。左足だけ自分の体へだと思えなくなった人とか、全身の感覚が消えて百鬼丸状態になった人とか、19歳以降の記憶が3分しか保たない人とか、盲目の人が還暦を過ぎ初めて手の知覚を獲得する話とか…。
午後7:05 · 2017年4月29日
タイトルは昔から知ってたけど、こんなSF的な読み物だとは思わなかった。人間の認知が神経を少し損ねただけでグチャグチャになるものなら、自分が見てる世界も他の人と全然違うんじゃないかと思えてくるなぁ。
『妻を帽子と間違えた男』より。義肢をつけて上手く歩くために、毎朝無くなった脚の幻肢を“起こす”って、なんかゾクゾクする。 pic.twitter.com/VUfYAtXVYv
— 雅 (@alucaje) 2017年4月29日
『妻を帽子と間違えた男』にウェカピポのスタンドが出てきた。元ネタかもしれない。 pic.twitter.com/5PmsbjBSr3
— 雅 (@alucaje) April 29, 2017
”
有名な本っぽいので調べるといろいろ書評がヒットする↓
妻を帽子と間違えた男 - 日々の読書を糧にして-備忘録と駄文感想
http://d.hatena.ne.jp/deku_dec/20150228/1425073027
オリヴァー・サックス - 妻を帽子とまちがえた男 - Close to the Wall
http://d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/20091215/p1
オリバー・サックス著『妻を帽子とまちがえた男』
なぜ妻を帽子とまちがえるのか、オリバー・サックスの症例P
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n307/n307013.html
・p.30から 妻を帽子とまちがえた男
Pはすぐれた音楽家だった。
長年声楽家としてよく知られ、それからあと、
地方の音楽学校で先生となった。
生徒の顔を見ても誰だかわからないが声で誰だかわかる。
相手もいないのに誰かそこにいるかのようにふるまいはじめた。
消火栓やパーキングメーターを見ると、
子供たちの頭であるかのようにそれをぽんとたたく。
家具の彫り物にむかって愛想よく話しかけ、
応答がないのでびっくりしているふうだった。
彼の音楽的才能は、依然としてすばらしかった。
糖尿病になって、糖尿病だと眼をやられるから
眼科医へ行った。
眼はまったくなんともないが
脳の視覚系の部分に異常があるので脳神経の専門医のもとにいくよう言われた。
Pは私(著者)のところへくるようになった。
彼は通常いわれる精神異常はなんら認められなかった。
たいへん教養があり、魅力的で、話すことはまとも、
会話もよどみなく、想像力もユーモアも十分ある。
だが、彼の顔はたしかにこちらを向いているが、
私に注意をはらっているのは耳であって、眼ではない。
ふつう相手を見るような眼つきではない。
視線はつぎつぎ移って、私の鼻、
右の耳、顎、右眼にいったりする。
顔を全体として把握することもなく
表情をくみとろうとする様子もない。
神経学的検査のうち腱反射で彼の左の靴をぬがせて、
足の裏を鍵でちょっと掻いた。
これは腱反射を調べるためにかならずやることだった。
それがすむと靴をはくようにと言ったが
一分たっても彼は靴をはきおわらない。
彼は下を見つづけていたが靴を見ていなかった。
熱心に見つめているけれど、ちがうところを見ていた。
視線が足に定まった。
「あれが私の足かな、そうでしょうか?」
足を手で触って
「これ、私の靴ですよね、違いますか?」
著者(サックス)
「ちがいます、それは足です。靴はあっちです」
「あっそう、あれは足だと思ってた」
私は手を貸して靴をはかせた。
彼の視力はよかった。
床の上の針でも難なく見つけた。
ただしときどき、彼の左側に置いてあると見逃すことがあったけれど。
著者は『ナショナル・ジオグラフィック』誌をひらいてどんな写真があるか言ってもらった。
彼の眼は写真から写真へとつぎつぎに移ってゆく。
著者の顔を見ていたときと同じように
ちょっとした特徴や固有の特徴はちゃんと見ている。
とりわけ明るく輝いているものや色彩やかたちには敏感。
だがけっして場面全体をとらえてはいない。
全体として見ることはできない。
ひとつの写真を見ても全体とどう関連するかはわからない。
顔の表情までは読み取れない。
風景や情景として理解できない。
見渡すかぎりサハラ砂漠がひろがっている写真を見せると
「川が見えます。
川のほとりにはテラスのあるゲストハウス。
テラスの上で人々が食事をしています。
いろんな色の日傘(パラソル)があちこちに見えます」と答えたが
彼の視線は表紙の上になかった。
空中を向いていて、
見えもしない川やテラスや日傘などを勝手に想像しているかのようだった。
彼は立派な答をした気になっていて微笑がうかんでいた。
テストは終了したと思ったのだろう、
帽子をさがしはじめていた。
”彼は手をのばし、彼の妻の頭をつかまえ、持ちあげてかぶろうとした。妻を帽子とまちがえていたのだ! 妻のほうでも、こんなことには慣れっこになっている、というふうだった。”
p.33
P夫妻の自宅にて。
Pは握手のために手をさしだしながら、壁の掛時計のほうに向かって歩きかけたが
著者の声を聞くと向きを変え著者のところへ来て握手をした。
Pに歌ってもらった。
完璧な耳と声。するどい音楽的知性。
音楽学校が慈善から彼を雇っているのではないことは明らかだった。
彼の側頭葉にはなんら異常はなかった。
音楽にかんする皮質はきわめてすぐれていた。
頭頂部と後頭部がつぎに問題になる。
とくに視覚に関する部分。
立方体、十二面体といった抽象的なかたちだったら問題ないのだ。
トランプのジャック、クイーン、キング、ジョーカーをちゃんと見分けたが
きまりきった図案みたいなものだ。
ひとつひとつを顔としてとらえているのか、
それともたんに型として認識しているのか、それは判断がつかなかった。
似顔絵の本を見せたが特徴を見つけると誰だかわかった。
しかし似顔絵も形式的・図式的といえる。
音が聞こえないようにテレビをつけると映画のラブシーンのところだったが
彼は女優と相手の顔の表情を見てもそれが何をあらわしているか
まったく理解できなかった。
それは激しい場面(シーン)で情熱、驚き、嫌悪、怒りが交錯して
最後におだやかな和解にいたるのだったが彼にはそれらがぜんぜんわからない。
男なのか女なのかもはっきりしない。
われわれがいた部屋のどの壁写真を見ても誰だか彼はわからなかった。
彼自身の写真でさえだめ。
アインシュタインの写真はわかった。例の特徴ある髪と口ひげで見わけがついた。
ほかに一人か二人おなじような理由からわかるのがあった。
角ばった顎、大きな歯は認識できる。
あきらかな特徴がない場合には彼はまったくお手あげ。
知覚能力の欠陥ばかりではなく
態度が根本的におかしい。
抽象的な判じ物かテストをやらされるときのような態度。
自分とのかかわりをなんにも感じていない様子。
じっと見ていない。
見おぼえのあると感じている様子がぜんぜん見られないし、
顔の特徴からわかろうとする努力も見られない。
どの顔を見ても、「あなたは」ではなくて、「それは」でしかないのである。
すべては形式的・外面的で、人間らしいところがまったく見えないのである。
さらに、顔にはなんの表情もあらわれず、
およそ感情の表出などゼロだった。
普通われわれだったら、顔は人だと思って見ている。
顔のむこうには人間があって、
それがこっちを見ているのだと考える。
しかしPの場合は、写真の中に人間は存在していないかのようなのである。
彼にバラの花をさしだすと
とても花をもらった人間とは思えぬ態度で
標本を見せられたときの生物学者か形態学者のような感じだった。
「約三センチありますね。
ぐるぐると丸く巻いている赤いもので、
緑の綿状のものがついている」
匂いをかぐよう著者が言い、かぐとバラだと気づいた。
片方の手袋をとりあげて「これは何ですか」とたずねると
「表面は切れ目なく一様につづいていて、
全体がすっぽりと袋のようになっていますね。
先が五つにわかれていて、
そのひとつひとつがまた小さな袋ですね。
袋と言っていいかどうか自信はないけれど」
著者「体の一部をこのなかへ入れるでしょ、どうです?」
わかったぞ、という表情の兆しはぜんぜん見られなかった(1)。
彼は何を見ても卑近な物として受け入れることができなかった。
目のまえに物を見ながら、彼は生命のない抽象の世界に没しきっていた。
実のところ彼には、視覚の世界はなかったのである。
彼が住んでいるマンションに北側からやってきた場合を
想像するなり思い出してもらい、
途中にどんな建物があるか言ってもらうと、
右側はすべて列挙してみせたが
左側はひとつも答えられなかった。
今度は南側から歩いていく場合を想定しておなじことをやらせてみても
右側の建物しか答えなかった。
前回口にしなかった建物が今度は列挙するなかにちゃんとはいっている。
そして前回見えていたはずの建物のことはひとことも言わない。
左側のものは見えないこと、
左方向の視野に欠陥があることは明らかとなった。
それは記憶や想像力の世界にもおよんでいた。
『アンナ・カレーニナ』について質問すると
物語の筋もみな思いだせた。
だが視覚にうったえる特徴や視覚的な挿話や情景は完全にぬけ落ちていた。
口にすることばはおぼえているが顔は思い出せなかった。
おどろくべき記憶力の持ち主で、ある一節を逐一暗唱することさえできたけれど
そのなかに視覚的な表現があっても彼はなにも感じておらず
感覚的・情緒的にもリアリティは認識できないのだった。
かくしてこれもまた一種の失語症ということになるのだった(2)。
顔とか情景、具体的イメージをともなう話やドラマの場合にかぎり、
視覚化能力の欠陥を見せる。
図式能力はある。
頭のなかでチェスをやらせてみたところ
チェス盤や駒の動きは難なく思いうかべることができ、
ゲームはおそろしく強くて、
私など打ち負かされてしまうのだった。
Pはふんふんと鼻歌(ハミング)をうたいながらケーキをむしゃむしゃ食べ
そのあいだもひっきりなしに歌は続いていたが、
はたと止んだ。
ドアがどんどんとたたかれたのだ。
Pは凍りついたように動かなくなった。
どうしていいかわからないといったようすで
まったくうつろな表情と化した。
奥さんがコーヒーをつぎ、香りが彼の鼻に達したとたん、
彼は現実にたち返り、ふたたびハミングとむしゃむしゃがはじまった。
著者は奥さんに日常生活についてきくと
「さっきの食べるときとまったく同じです。
着るものはわたしがいつもきまった場所に置いておきます。
主人は自分でちゃんと着ます、歌をうたいながら。
何をするときもひとりで歌をうたいながらやるんです。
でも、もし途中で何か邪魔がはいって中断させられ、
糸を見失ってしまうと、完全に止まってしまう。
着るものがどれだかわからなくなってしまう。
自分のからださえわからなくなってしまうんです。
年がら年中うたっています。
食べるときも歌、着るときも歌、
お風呂にはいっても歌。すべて歌です。
うたいながらでなければなにもできません」
彼は絵も描く。
はじめのころは自然主義的リアリズムで
だんだん具体性が欠けてきて写実的でなくなってきているが
抽象画ではない。幾何学的でもキュビスムでもない。
ごく最近になるとナンセンスになっていた。
線は混沌で絵具がぽたぽたついているにすぎなかった。
リアリズムから非写実へ抽象主義へと変わってきていた。
そこに見られたのは芸術家の成長ではなく病気の進行だった。
Pは生涯の最後まで生徒に音楽を教えつづけることができたのである。
Pと似た症例の人も自分の妻がわからず、
わかるためには妻のほうがなにか目じるしをつける必要があったという。
「身につけるものではっきり目立つもの、がよかった。
たとえば大きな帽子、といったように」
この人は鏡にうつった自分が自分だとわからなかった。
しかめつらをしてみたり、舌をつきだしたりして、
子細に観察してはじめて彼はそれが自分であることに気がつきはじめるのだった。
瞬時ではなく徐々に理解していくありさまだった。
(1)彼は後にこれは手袋だとわかった。
ここで思い出されるのは
クルト・ゴールドスタインの間者ラヌーティである。
彼は、品物を目の前に置かれてもなんだかわからず
それを実際に使ってみようとしてはじめて認識できた、という。
(2)Pは画像をつくる上で重要不可欠な視覚皮質にまさしく欠損があった。
彼は夢を視覚的に見ることができなかった。
夢が告げるものはすべて非視覚的なかたちで伝えられた。
Pは生徒がじっとすわっていると誰だかわからなかったそうだ。
イメージとしては把握できないからだ。
しかし生徒がからだを動かすと動きですぐにあてたそうだ。
視覚的失認症の症例はかなりたくさんある。
(Pさんは目が超悪いと言っておけばかなり誤魔化せそうだと思ったが
靴と自分の足を間違えるほどだから誤魔化せそうにないな。
もしかしてPさんも左側にわずかな失認がある?
著者は録音したりしているのだろうか?
これだけ発言を詳細に覚えておけるものだろうか?)
p.139から
よみがえるファントム
義肢の使用にあたっては、幻影肢の有無はひじょうに重要である。
下肢が義足の場合、安心して歩けるためには、そこにファントムがあることが必要であろう。
いわゆる身体イメージというものがその義足の部分にぴたりとおさまって、
一体化したように感じられなければ、満足に歩くことはできないのであろう。
ミッチェルが記すところによると、
腕神経叢に感応電流療法を試みたところ、二十五年間消えてなくなっていたファントムの手がとつぜん「復活」したという。
私の経験でもつぎのような例がある。その患者は毎朝ファントムを「起こす」のである。
朝起きるとまず、切断したあと残っている大腿基部を手前にむかって屈曲させ、
次にそこをはげしくたたく。赤ん坊のお尻をたたくように、数回ピシャピシャとやる。
五回か六回たたいたところで、とつぜん幻影肢が、この末梢性刺激によってにゅっと生えてくる。
生える速さといったら電光石火、一瞬のうちである。そうなってはじめて彼は義足をつけ、
歩くことができるようになる。
・p.154から 右向け、右!
S夫人は六十代の教養ある婦人である。
重い脳卒中のため右脳の深奥部がおかされたが、
知能はまったく損なわれず、あいかわらずユーモアもあった。
コーヒーやデザートが自分のお盆にくばられていないと文句を言う。
「でも左側にある」と言われても腑に落ちないようすで
左を見ようとしない。
看護師が彼女の頭をそっと動かしデザートが右半分の視野に入ってくると
「あら、そこにあるわね。前はなかったのに」と言う。
自分のからだについてもまわりのことについても「左」という概念をまったく失ってしまっているのだ。
口紅をつけたり化粧をするとなると、顔の左半分をまったく忘れている。
左のほうには注意がむかないから、これはどうしようもないのである。
自分がおかしなことをしている認識がない。
そのような行為はおかしいことだと頭ではわかるし、笑うこともできる。
しかし自分自身については人に言われるまではまったく気がつかない。
多分おかしなことをしているのではないかと考えて、彼女は自分の無感覚に対処する方法を考えだした。
直接左を見ることはできないし、左へむくこともできないから、できることといえば、まず右をむいて、
それをくり返してくるりと一周することである。
そこで彼女は回転する車椅子を用意してもらった。
そこにあるはずの物が見つけられないと、彼女は右まわりに一周する。するとそれが視野に入ってくる。
コーヒーやデザートが見つからないときには、この方法が大変よいことがわかった。
自分の分が少なすぎると思ったら、右に目をこらしながら右に回っていくと、前には見えなかったものが見えてくる。
そこでそれを(正確にはその半分を)食べる。だがまだ食べたりない気がしたり、食べのこしの半分しか食べてないことに思いあたると、彼女は残りの四分の一が視野に入るまでもう一度回転する。そしてまたその半分をたべる。普通はこれで十分である。
結局、彼女は八分の七の分量を食べたことになる。
だがとくに空腹だったり、気になって仕方がないときは三回目をまわって、あと十六分の一を手に入れる。
もちろん、皿の左側にある十六分の一は残ることになるが。
「ばかばかしいわ」「ゼノンの矢になったみたい。けっして目的地にはつかないんだから。滑稽にみえるだろうけれど、他にはどうしようもないんですものね」
彼女自身がまわるより皿をまわす方がずっと簡単に思われるだろう。
彼女も試してみた、少なくとも試そうとした。
おかしなことだが、それはむずかしいのである。
自然というわけにはいかない。
椅子ごとまわった方が自然である。
いまの彼女は本能的に右を見てしまうし、
右に注意がむいてしまう。
自然な動きにしろ衝動的動作にしろ、
本能的に右向きになってしまうのだ。
彼女のために顔の左半分が右側にうつる「鏡」がつくれないものかと考えた。
つまり、向かい合っている人が彼女を見るようにうつる鏡である。
カメラとモニターをすえてビデオで試してみた。
彼女は画面の右側に顔の左半分を見ることになった。
ビデオ画面を見て髭を剃ったことのある人ならわかるが、
それは正常な人にとってもまぎらわしいことである。
彼女にとっては二倍もぞっとする経験で、
不気味なことこの上なかった。
彼女が見ている顔やからだの左半分は脳卒中のため
無感覚、無表情で、存在しないも同然だったからだ。
鏡を見ても左側が見えないため、ビデオカメラを経由して左右反転した映像を当人に見せたところ、
「これを片づけて!」と、悲しそうに当惑したようすで彼女は叫んだ。
この試みもそれまでとなった。
物理的にも心理的にもたいへんな問題をはらんでいることがわかったのである。
(ゼノンの矢右だけおばあさん。
病識がない人にその人の病を見せつけることは危うい。
片側失認の人は化粧も片側しかできない。
片側失認の人は失認の場所あるいは方向が異次元だとか思わないのかと思ったが
存在自体を意識しないからそれについて考察自体もできないのだろう。
異次元からのエイリアンと戦っているなどとは思わないだろう。
そういえばエイリアンハンド症候群(Alien hand syndrome 他人の手症候群)という
自分の意思とは関係なく手や腕が動いたり、動かなくなったりする症状がある。
エイリアンハンドシンドローム
http://akademeia.info/index.php?%A5%A8%A5%A4%A5%EA%A5%A2%A5%F3%A5%CF%A5%F3%A5%C9%A5%B7%A5%F3%A5%C9%A5%ED%A1%BC%A5%E0
” エイリアンハンドシンドローム(alien-hand syndrome)とは訳すると「他人の手症候群」とも呼ばれている。
古典的には、半側身体失認などの認知面を強調した、次の3徴候が挙げられる。
感覚障害が無いのに一方の手が他方の手を自己に所属すると認識できない(見ないと自分の手だということがわからない)
一方の手の動きが自己の制御下にないという感覚を言葉で訴える
手の人格化
だが現在では一方の手が自分の意志とは無関係に、あたかも他人の手のように、あるまとまった運動をするという点が重視され、定義も次のようになった。
一方の手が意志による統制から離れて動き、もう一方の(意思に従う方の)手や言葉で表現された患者の意思との間に乖離が生じた状態
↑
道具の脅迫的使用現象と他人の手症候群 †
『縮刷版 精神医学辞典』(弘文堂)H13.11.30初版1刷にエイリアンハンドシンドロームがなかったので、関連すると思われる事柄を調べてみた。
↑
道具の脅迫的使用現象 †
道具の脅迫的使用現象(compulsive manipulation of tools)は、右手が目の前に置かれたものを意志に反して脅迫的に使用してしまい、左手が意志を反映してこの運動を押さえるという現象のことである。
例えば、患者の前に櫛を置いた場合、右手は意志に逆らってこれを持って髪をといてしまう。道具を使用しないでいるためには、左手が櫛を取り上げるか、左手が右手を押さえつける必要がある。
右手には必ず強い把握反射や強制把握を伴っている。このため、右手は道具を使用しようとするわけだ。左手に見られる目的不明の不随意運動である他人の手徴候とは区別される。
左前大脳動脈領域の脳梁で、左前東葉内側面(前部帯状回、補足運動野)と脳梁膝部の病巣に伴って観察されている。
道具の脅迫的使用現象は、病的把握現象の延長線上に位置付けられ、運動の抑制機構の障害によって、視覚刺激あるいは接触刺激に伴って、左半球内にある道具使用に関する運動のシークエンス(エングラム)が触発されて、右手に運動が表れたと考えられている。
運動の抑制機構が保たれている右半球、即ち左手は右手の動きを抑制するように働く。
↑
他人の手徴候 †
他人の手徴候(alien hand sign)の記載は、Brionら(1972年)の仏語論文に始まる。しかし、この原著における他人の手徴候(le signe de la main etrangere)の症候内容は、後に英語圏で使われる他人の手徴候(alien hand sign)とは異なっている。原著における他人の手徴候は、背中に手を回し、左手を右手で掴んだ時に、左手が自分のものではないと感じる減少とされ、脳梁病変による体性感覚に関する半球間離断症状(interhemispheric disconnection syndrome)と考えられている。英語圏あるいは日本における他人の手徴候は、左手が他人の手のように、不随意で無目的な動作を行う現象を指し、後遺障害(behavior disorder)の中で捉えるべき症状であり、この点で原著と大きく異なる。
この他人の手徴候の病巣、機序には他説があり、右側(劣位側)前頭葉内側面病変による半球症状として考えられる場合と、脳梁病変による半球間離断症状として考えられる場合とがある。
↑
参考文献 †
『縮刷版 精神医学辞典』(弘文堂)H13.11.30初版1刷”)
半側空間無視
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E5%81%B4%E7%A9%BA%E9%96%93%E7%84%A1%E8%A6%96
↓の元ネタは半側空間無視。
ウェカピポ
https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%AB%E3%83%94%E3%83%9D
”漫画「ジョジョの奇妙な冒険」第7部「スティール・ボール・ラン」の登場人物である。
〔略〕
レッキング・ボール(壊れゆく鉄球)
ウェカピポが使用する、王族を護衛するために開発・発展してきた戦闘術。
基本的にはジャイロが操る鉄球の技術と同種のものだが、ジャイロの鉄球との一番の違いは「衛星」と呼ばれる14個の小さなパーツが鉄球の表面に付いており、鉄球を投げた時にこれらのパーツも飛ぶ。この衛星が直撃すればダメージは当然だが、少し身体にかすっただけでもその衝撃波により相手を「左半身失調」に陥らせる。これを受けた者は十数秒間、自分から見て左半分のあらゆるものが認識できなくなり、左側からは何も見えないばかりか音も聞こえず光も見えず、手触りも感じない(脳が触った事を認識していない)状態となってしまう。
そのため、失調中は目に映るものや光景も全て、左側半分が消失しているように見える。 ”
ジョジョのウェカピポの元ネタは本書の半側空間無視だと思ったが本書以外の本でも載っている↓
脳の探検
https://waman.hatenablog.com/entry/20081216/1229453931
”2008-12
フロイド・E・ブルーム著『脳の探検』なかなかの分厚さで何度も挫折しかけましたが、なんとか読了。 最初の方はほとんど忘れてます・・・
第11章に出てきた『無視症候群』(半側空間無視)は、「スティール・ボール・ラン」で出てくるウェカピポの『左半身失調』そのものですね。 こういった症状の病気が実際にあるとは。 右大脳半球を損傷すると、こういった症状が出るそうで。 でも無意識の認識はあるらしいので、ジャイロやジョニィなら、敵に攻撃されたら反射的に反撃が出来そう。
脳と行動障害、精神障害の関連が書かれた第12章はなかなか興味深く読めました。”
しかし、左側失調へ対して、右回転するという対策が登場するので、ウェカピポの鉄球能力の元ネタは、『妻と帽子~』の「右向け、右!」だろう。新版の2009/7/5 ではなく旧版の1992/1/30の方ね。上記の本にも右回転という対策が載っているかもね。
‘07 08月号
#28 氷の世界
http://www5b.biglobe.ne.jp/~h-scarem/story2/07-08.htm
”「これはいったい…。な…何だ!?ジャイロッ!」
「君の体半分がッ!」「ぼくの『左半身』がぁああああああ」
「落ち着けジョニィ。あわてるんじゃあねッ!」
不可思議な現象に襲われるJ&J、そして鉄球はウェカピポに帰っていく。
「やつの名は――『オレの祖国の護衛官だった男』……『ウェカピポ』」「これは『左半身失調』ッ!」
「今、やつの『鉄球』をまともにくらっていたら死んでいたが…『鉄球』の衝撃波でもこうなる!!」
「ツェペリ一族のとは違う…!王族護衛の戦闘のための鉄球の能力なんだッ!『WRECKING BALL』『砕けゆく鉄球』と―名付けられているッ!」
ジャイロの鉄球とは違う鉄球術!!
「左?」「何?」「『左半身』が何だって?」
まだ事態がのみこめないジョニィ。それほど不可思議で衝撃的な現象なのであろう。
「自分から見て『左』!『左』が見えていないッ!衝撃波のせいで全ての『左側』半分が無くなっているように見えるッ!『そういう能力』!」
この場面ではジャイロの右半身が無くなっている。つまりこの画はジョニィの主観である。
「だが左腕も左脚も実はある!」ジャイロの説明は続く。「目で見ていても自分の脳が失くなっている認識しているだけなんだッ!そうさせられている!」
「そ…それはお…おかしいッ!みっ、見ろ触れないッ!」「右手で左腕を探してもどこかに行っちまってるッ!ゼンゼン無いぞッ!」
「だからそう思い込んでるだけだ!仮に触れても触ってもいないと脳が思ってしまっているッ!」「いいかあわてるな!『衝撃波』は十数秒で消えるッ!まもなく元に戻るッ!!」
「それよりも問題はソリに乗って『左側』に回り込んだもうひとりの敵だッ!」そうマジェント・マジェント(以後、「マ・マ」と表記)の姿を失調している。「もうひとりのヤツがここへ近づいて来てるはずだッ!それがオレの国の『護衛官が使う戦闘方法』だッ!!」
「や…『山』まで半分になっている!!山斜面の左側が!ない」左側の視界が欠落している、徐々に理解してくるジョニィ。「本当に近づいて来てるのかァッ!?馬のヒヅメもソリをひきずる音もまったく聞こえないぞー――ッ!!」
「いいかジョニィ、今!『左側』は絶対に見えない……あきらめろ!だからおまえは『右』を探せ!」「『右』なら見える!」
「『右』へ『右』へ!視界の方向を一周するんだッ!『右』へ『右』へと見てもうひとりのやつを探せッ!」「首をまわして一周したらどうなる?」
コロンブス的発想で―つまりインドへ行くのに大西洋を横断すればと言う逆転の発想を行えというジャイロ。
「右へッ!右へッ!」”
)
・p.158から 大統領の演説
失語症病棟からどっと笑い声がした。ちょうど、患者たちがとても聞きたがっていた大統領の演説がおこなわれているところだった。
テレビでは、例の魅力的な元俳優の大統領が、たくみな言いまわしと芝居がかった調子で、思い入れたっぷりに演説していた。
そして患者たちはといえば、みな大笑いしていた。
もっとも、全員というわけではなかった。当惑の表情をうかべている者もいたし、むっとしている者もいた。
けげんそうな顔をしている者も一人二人いたが、ほとんどの患者は面白がっているようだった。
大統領はいつものように感動的な話していた。そう、患者たちにとってはふきだすほど感動的だったのだ。
知能は高いが、ひどい感覚失語または全失語で言葉を理解できなくなっている患者については、よく次のように言われる。
失語症にもかかわらず、彼らは話しかけられることをほとんど理解している、と。
したがって失語症と見きわめるために、神経科医はきわめて不自然に話したりふるまったりしなければならない。
とりわけ感受性のすぐれた患者の場合は、人工的機械音を用いて、はじめて失語症が確認できるのである。
すくなくとも感情のこもった発話については、すべての単語が理解できないときでさえ十分意味がつうじるのだ。
私をふくめ失語症患者に接している者がしばしば感じることは、彼等には嘘をついても見やぶられてしまうことだ。
失語症患者は言葉を理解できないから、言葉によって欺かれることもない。しかし理解できることは確実に把握する。
彼らは言葉のもつ表情をつかむのであろう。総合的な表情、言葉におのずからそなわる表情を感じとるのだ。
言葉だけならば見せかけやごまかしがきくが、表情となると簡単にそうはいかない。その表情を彼らは感じとるのである。
同じことは犬についても言える。そこでわれわれは、言葉に気をとられて直感による判断がおぼつかないときには、しばしば犬をつかう。
犬にできることは失語症患者にもできる。しかもはるかに高度なことができるのだ。
表情、しぐさ、態度にあらわれる嘘や不自然さにたいして、失語症患者はとても敏感である。たとえ相手が見えなくても――盲目の失語症患者の場合まぎれもない事実なのだが――彼らは人間の声のあらゆる表情すなわち調子、リズム、拍子、音楽性、微妙な抑揚、音調の変化、イントネーションなどを聞きわけることができる。本当らしく聞こえるか否かを左右するのが声の表情なのである。
失語症の患者はそれを聞きわける。言葉がわからなくても本物か否かを理解する力をもっている。
言葉を失ってはいるが感受性がきわめてすぐれた患者には、しかめ面、芝居がかった仕草、オーバーなジェスチャー、
とりわけ、調子や拍子の不自然さから、その話が偽りであることがわかる。
だから私の患者たちは、言葉に欺かれることなく、けばけばしくグロテスクな――と彼らには映った――饒舌やいかさまや不誠実にちゃんと反応していたのだ。
だから大統領の演説を笑っていたのである。
声の表情や調子にたいして特別な感受性をもっている失語症患者には嘘がつけないとすると、次の場合はどうだろう。
単語を理解する力はあるが、声の表情や調子にたいする感覚がなくなってしまった者の場合だ。
これまで述べてきた患者とはまったく逆の場合である。われわれの病棟にもそのような患者が数人いる。
専門的にいえば、彼らは失語症ではなく一種の失認症、いわゆる音感失認症である。
語の意味は(さらに文法構造も)完全に理解できるのに、声の表情――調子、音色、感じ、声全体の性質――が把握できないのだ。失語症が左側頭葉の障害によっておきるのにたいし、このような音感失認症は右側頭葉の障害によっておこる。
失語症病棟にいる音感失認症患者たちも大統領の演説を聞いていた。そのなかに右側頭葉に神経膠腫のあるエミリー・Dがいた。以前英語教師をしていた彼女は、すこしは名の知れた詩人でもあった。言葉にたいする感覚はなみはずれていて、すぐれた分析力、表現力をもっていた。失語症の患者とは反対の状態にある音感失認症患者にとって大統領の演説はどう映ったのか、彼女はそれを表現することができる立場にあった。エミリーは、もはや声の喜怒哀楽を判別できなくなっていた。声の表情が読みとれないので、話を聞くときには、話し手の顔や態度や動きを見なければならなかった。それで、以前にもまして熱心に注意深くそうしていたのだが、これにも限界がきた。悪性の緑内障で急速に視力が落ちてきたのである。
そんなわけで、いまや言葉とその使いかたに極度の注意を払わなければならないことになったので、彼女は、まわりの人にも厳密であることを要求するようになった。くだけた言葉づかいの会話や俗語、それとない言いまわしや感情的な話がだんだん理解できなくなっていった。そこで彼女はきちんと整った文を話すこと、正確な言葉づかいで話すことを要求するようになった。
文法的に整った文ならば、調子や情感がわからなくてもある程度まで理解できると気づいたからである。
このようにして彼女は、叙述的な話をする能力は失うことなく、それを高めることすらできたのである。叙述的な話なら、適切な語をえらべば意味がとおるからだ。しかし感情のこもった話となると、調子のつけかたで意味がきまってくるので、ますます理解できなくなっていた。
エミリー・Dもまた、石のように固い表情で大統領の演説を聞いていた。よくわかっているようでもあり、わからないようでもあった。だが厳密にいえば、それは失語症患者の困惑した様子とは反対の状態だったのである。彼女は演説に感動していなかった。どんな演説にも心が動かされることはない。感情に訴えることをねらったものは、それが真正のものであろうと偽りのものであろうと、彼女にはまったく無縁だった。感情的な反応を見せることはできないけれど、彼女もわれわれとおなじく、内心では聞きほれ、それに魅せられていたということはなかったのだろうか? なかった。彼女はこう言った。 「説得力がないわね。文章がだめだわ。
言葉づかいも不適当だし、頭がおかしくなったか、なにか隠しごとがあるんだわ」 と。こうして大統領の演説は、失語症患者ばかりでなく、音感失認症の彼女も感動させることができなかったのだ。彼女の場合は、正式な文章や語法の妥当性についてすぐれた感覚をもっていたせいであり、失語症患者のほうは、話の調子(トーン)は聞きわけられても単語が理解できなかったせいである。
これこそ大統領演説のパラドックスであった。われわれ健康な者は、心のなかのどこかにだまされたい気持があるために、
みごとにだまされてしまったのである。(「人間は、だまそうと欲するがゆえにだまされる」)。巧妙な言葉づかいにも調子にもだまされなかったのは、脳に障害をもった人たちだけだったのである。
(
レーガン大統領の演説が嘘だらけだと暴露(笑)
ポーカーやダウトに強そう。失語症や音感失認症の人々を嘘発見官として雇うべきだな。なお失語症や音感失認症の人々も利権と思想などで操られるがやらないよりはいいだろう。嘘発見官対策で文字だけとか機械音声で演説する人が登場しそう。
あなたが失語症でなくても、動画の音声をミュートして、口や手の動きだけを見てみることはオススメの観察法で、訓練を受けた工作員かどうかを多少は判定可能。
https://twitter.com/niigatamama/status/647535527143473152
”Susanna Yukari Oseki
@niigatamama
③サックス先生は失語症とは逆に論理的な言葉は理解できるが、声に込められた喜怒哀楽はつかめぬ音感失認症の女性が演説をどう聞いたかも確かめた。感情に訴える表現を受け付けなくなっていた彼女はこう評したそうだ。「説得力がないわね…なにか隠しごとがあるんだわ」(『妻を帽子とまちがえた男』)
午前7:17 · 2015年9月26日”
https://twitter.com/chronotopos/status/404235261535481856
”異時空-夢想家
@chronotopos
猪瀬都知事の記者会見を見て、人は真偽の程をどう感じていただろうか?
オリバー・サックスは『妻を帽子とまちがえた男』の中で、失語症患者たちがテレビでレーガンの演説を見たときの様子を、噴出すように面白がっていたと報告している。つまり彼の「感動的」な演説には嘘があると見抜いていたと。→
午後10:09 · 2013年11月23日”
https://twitter.com/0086smart/status/294775075595485184
”第四干瓢期
@0086smart
失語症の人は語句の意味や単語同士の関係性は理解できないが、話者の口調や表情などで“空気”は読める(場合によっては常人より上手に)。なのでTVでレーガン大統領の演説を見た患者は、その学芸会まがいの白々しい芝居っぷりに爆笑したらしい。
午後8:53 · 2013年1月25日
”
https://twitter.com/harimarin/status/1227377588827348992 と続き
”ハリハリ
@harimarin
2020年2月12日
失語症の人、ノンバーバルコミュニケーション能力は失われてない(下手すると向上してる)から言葉に騙されづらくなって嘘発見機レベルになる人もいるのか。
レーガン大統領の演説(嘘まみれ)をテレビで見て爆笑する失語症患者たちのシーンが出てくる。
逆に声のトーンとかから感情を読み取る能力が欠損した患者は同じレーガンの演説聞いて「説得力がない。言葉の選び方が不適当。頭がおかしくなったか、隠し事があるかのどちらか」ってバッサリいくの笑う。
医学分野の狭間に入っちゃって、一度発見されたのに忘れ去られた「トゥレット症候群」、今日にも似たようなこと起きそうでドキドキするな。
チックが症状に出るタイプの人たち、もしかしたらネットのおかげでかなり収入口は広くなったかもしれないな。
2020年2月13日
スーパートゥレット症のパントマイム老婆、凄まじいな。筆者の描写力にも拍手。
発作で記憶が強制的に追想されることがあるのか。
脳血栓で側頭葉が刺激されたのがきっかけで、昔に聞いた音楽が延々聞こえ続けるとかほぼ忘れてた記憶がまざまざと思い出される事例。
ある種の記憶を想起させるトリガーになる脳の部分をナノマシンとかで破壊したら、たとえばPTSD治療とかになるのか?(倫理的問題はとりあえず置いておくとして)
嗅覚が増大(というか抑制が解除)された感覚は味わってみたいなあ。
IQ60くらいの知的障害者が、単純作業は出来ないけど音楽に合わせたダンスや演劇はできるのか。面白いな。
サヴァンの知的障害者が自分のやるべきことを見つけて取り組み始めると情緒にも落ち着きや威厳が出るってのは面白い。というか、いわゆる健常者も同じなんじゃないか?
数に対して異様な感覚を持った双子の話、味わい深いな。数に親しんだ人たちにとって特別な数(平方数や素数)は友人みたいに「知ってる」感があるってのはちょっとわかる。
コンピュータかじった人間で、256や1024に親しみ覚えない奴いないでしょ。
双子はお互いに6桁とかの素数を提示しあって「うーん…素数だあ…」みたいに味わうゲームをしていたらしい。解釈の合うオタクのやりとりだ。
2020年2月14日
読了!
原書が1985年初版だし、掲載されてる症例はもっと古い(60年代とかある)から医学知識を得るには不適当だけど、精神疾患や障害に対する認識を良い方向に変えるパワーがある本。親しみを生む。”
)
p.284
18 皮をかぶった犬
薬物常用者だったDは
ある夜、鮮明な夢を見た。
犬になっていて想像できないくらい豊かな臭いの世界にいた。
人には臭相があり顔を見なくても識別できるほどの嗅覚を獲得。
臭いで感情もかぎとれる。
恐怖、満足の度合、性的な状態までかぎとることができる。
三週間後、この奇妙な変身はとつぜん終った。
嗅覚過敏は発作性のこともあるが
ドーパミン過剰状態でも起こりうるし
Lドーパを使用している脳炎後の患者にもおこり、
またトゥレット病患者にもおこる。
(人間でもここまで嗅覚を鋭敏にできるのか。
感情は体臭に反映されるのが重要。
ワンちゃんは飼い主の感情をかぎとっている)
辺縁系が感情の調子をすべて決定し規制する重要なところであるという認識が
近年ますます強くなっている。
辺縁系が興奮すると感情が高揚し感覚が鋭くなる。
別の症例について。
嗅覚神経系をやられた男性。
嗅覚神経系は眼窩のところに横に長くあるので非常に傷つきやすい。
まったく嗅覚を失った結果
世界がひどく味気なくなった。
数か月後、においがわかるようになったが、
彼は完全な無嗅覚症のまま。
傷ついたのが大脳皮質ではなく
嗅覚神経系だけなのが重要なのだが
嗅覚イメージが非常に強く発達してきて、
制御された幻覚症といってもいいような状態が生じてきた。
以前は伴っていた香りを思い出した。
このような代償作用は目や耳の不自由な人たちにも起こる。
(幻香。
においで感情がわかる人間は実在するのね。鬼滅の主人公の能力の元ネタがこの本かもしれない)
ヒルデガルドの幻視
天上の街のヴィジョン
ヒルデガルドの『汝知るべし』Scivias
(ビンゲンにおいて1180年頃書かれた写本より。
この絵からは偏頭痛性のいくつかの幻視が読みとれる。
(これ
The holy city of God in the 'Scivias' of Hildegard of Bingen Rupertsberger Kodex at Wiesbaden (Germany), 12th century pic.twitter.com/aGVUhg5vRr
— Bibliophilia (@Libroantiguo) 2015年3月5日
)
図A
ぎざぎざの同心円に
ちらちら光る複数の星がちりばめられているのが遠景にみられる。
(以下の三番目の図。
◎
○ ○
○ ○
○ ○
The Visions of Hildegard of Bingen (1098-1179). A Benedictine abbess, composer & mystic, at age 43, she received "divine communications" to record the visions she'd been having since age 3. She wrote & illustrated 3 books of visions: The 1st, Scivias, was lost in Dresden in WW2. pic.twitter.com/F9GFLIbMoB
— ewan morrison (@MrEwanMorrison) 2018年12月26日
)
図B
輝く星(眼内閃光)が落ちてきて消えている
(実性及び虚性暗点がつづく)。
(Hildegard of Bingen star で画像検索すると出る、
The Illuminations of
Hildegard von Bingen
(1098-1179)
https://www.healingchants.com/hildegardilluminations.html
の最初の画像が図Bと同じもの。
星のとんがりの数が5、6、7だったり均一でない。
上方にある星は黄色。
下方にある星は黒色で星の中心に○で○の色は黄色っぽい
これ芥川の歯車と同じ症状だ。
ヒルデガルドの星はこの形
きのう閃輝暗点になった。閃輝暗点って知らなかったから失明するのかとびっくりしてググったからその後猛烈な片頭痛には至らなくて済んだけど。画像に書いて表してみた。あとこの動画のような感じだった。http://t.co/C83sYKIv pic.twitter.com/8w6EGhrZ
— まどか (@peppermint_meow) 2012年5月26日
(Visual Migraine Animation
https://www.youtube.com/watch?v=fo139jYAFzA&feature=youtube_gdata_player
”A first attempt to try to visualise the effect many people experience when having a visual migraine. These are not usually accompanied by pain, but sometimes are, and you may feel nauseous through the visual stimulation. They seem to be very common. Nothing can be done to avoid them ”)
であり
こちらではない。
これが片頭痛の前兆としてみられる閃輝暗点(せんきあんてん)。 pic.twitter.com/aGQgqpaY8p
— 青い薔薇 (@Trans_Blue0630) 2013年9月18日
閃輝暗点について。加藤マユミ先生のお話読んで、私も体験描いてみました。症状とかは割愛してるので、加藤先生のとセットで読んでもらえるとわかりやすいかもです~(^^) pic.twitter.com/s1eJWfxv44
— 武浦すぐる『溺恋オフィス~』発売! (@sugurutakeura) 2018年4月16日
”閃輝暗点(せんきあんてん)もしくは閃輝性暗点(せんきせいあんてん)とは、片頭痛の前兆現象として現れることが多い視覚の異常で、定期的に起こる場合が多い。英語名は「偏頭痛オーラ」を意味する「Migraine aura」(マイグレイン・オーラ)。Scintillating scotomaとも言う。芥川龍之介の小説『歯車』のなかで、龍之介が激しい頭痛と共に目にしたと記述している「歯車」はこの閃輝暗点だと言われている。 ”
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%83%E8%BC%9D%E6%9A%97%E7%82%B9
芥川龍之介の遺稿の1つとなった作品『歯車』。そのなかで、龍之介が激しい頭痛と共に目にしたと記述している「歯車」は偏頭痛の前兆としてよく見られる”閃輝暗点”だと言われている。写真参照。 pic.twitter.com/vDhcc0VHJl
— 手術室のウラ側 (@hugehospital) 2013年3月11日
)
図C・D
ヒルデガルドは、
偏頭痛性の幻視に典型的な、
中心からひろがってのびる砦を描いている。
原画では、中心部は彩色され、
燦然と輝いている。
(Dは見つからなかった。
イエス(おそらく)が左手に聖書(おそらく)を持ち、
右手は人差し指と中指を伸ばし、他の指は曲げるよくある手の形。
何かに座っている。
Cは以下の四番目の画像。
左向きの頭部に羽が三つ。おそらく天使。
The Visions of Hildegard of Bingen (1098-1179). A Benedictine abbess, composer & mystic, at age 43, she received "divine communications" to record the visions she'd been having since age 3. She wrote & illustrated 3 books of visions: The 1st, Scivias, was lost in Dresden in WW2. pic.twitter.com/F9GFLIbMoB
— ewan morrison (@MrEwanMorrison) 2018年12月26日
@Libroantiguo See the vision of Hildegard von Bingen in St.Gerlachchapel made by Irene van Vlijmen pic.twitter.com/Q11issLmUl
— Camille Oostwegel sr (@COostwegel) March 5, 2015
)
(これは載っていなかった。
目だらけだ。
“Love abounds in all things, excels from the depths to beyond the stars, is lovingly disposed to all things. She has given "the king on high" the kiss of peace.” Hildegard Von Bingenhttps://t.co/I5R3k0o2sB
— ? BeoWulf ?? ? (@Waasland_Wolf) 2019年1月6日
Sun in summersolstice (?) pic.twitter.com/cykORf1kV9
(アーモンドの形は一つ目に見える)
“Cerevisiam Bibat! (drink beer for health)” Head over to our blog and get up to speed with our 10 best facts about Hildegard Von Bingen - 12th c eco warrior, doctor and Ibiza classic influencer - ahead of #Viriditas our festival dedicated to her work. https://t.co/Yb82LFe2YP pic.twitter.com/H7AoCyGa8J
— Attenborough Centre (@AttenboroughCtr) 2019年1月28日
)
参考資料
(
別に盲目でなく相貌失認でも文字通り見た目というか顔を気にしない存在になるな。相貌失認は顔自体は見えるけどね
)
鰐屋雛菊@waniya_hinagiku
2013年1月30日
人の顔が覚えられない、表情が識別できない。50人に1人いると言われている「相貌失認」とは? http://karapaia.com/archives/52116467.html @karapaiaさんから この症状について初めて知ったのは、たぶん筒井康隆の家族八景。詳しく知ったのはオリバーの「妻を帽子と間違えた男」
南野コミチ@通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃の童貞は好きですか?@sushi6343
12月22日
マジで相貌失認の悲しいとこでさ、もうちょっと時間経つとさ、今講義受けた先生の顔も、昼間下心持って会った女の子の顔もすっかり思い出せないのんな。どんな話してたかは覚えてるのに、顔だけがすっぽり抜けるのんな
浜栗之助@あきらめたから試合終了
@maybe_moonlight
2018年12月22日
返信先:
@sushi6343
さん
結婚後しばらくの間は、目を閉じて妻の顔を思い出すことができませんでした。本当に顔のイメージがすっぽり抜けるんですよね
相貌失認#HURT pic.twitter.com/I7JwwkUqnh
— Yuta (@yuwuta_ryebrook) 2018年12月24日
u10@09y
2018年12月24日
返信先: @yuwuta_ryebrookさん
この女の子は人の顔が認識できない人なんですかね?
有名人でも結構いらっしゃいますよね
Yuta @yuwuta_ryebrook
2018年12月25日
そです!
ゾンビなどが蔓延ってる中、普通の人との見分けがつかない人がいたらどんな話になるだろうと妄想しながら描いてます。
Yuta @yuwuta_ryebrook
2018年12月25日
今まである程度冷静なのも人の顔がわからないが故だったり…
ゴリライモ@kusosabcal
1月2日
うちの父は一卵性の家族すら見分けがつかないそっくり双子なのですが、母と付き合ってる時双子ということを隠したまま車で待たせて双子の兄が戻るという入れ替わりマジックをしたら母親が「なになに誰誰?!?!」と車をとび出たらしく、桜蘭高校ホスト部で勝ち抜く素質があるヒロインであると判明
二人揃って190cmあるので全くあざと可愛いキャラではないのですが間違えて兄の免許を父が持って出てしまった時に警察に確認されたけど通り抜けた逸話もあります。
私は相貌失認って言う、人の顔が病的に覚えられない人(親しい人でも別の場所で会うと気付かずガン無視したり、二人の人をずっと同一人物だと認識していた事もあります)ですが、親でも間違う双子の友人を一瞬で見分けられてました。
— なおん (@UlIfCsUxm1TwBeB) 2019年1月2日
だから、その人と分かるポイントは外見だけじゃないんだよ。
野弧禅がっきー 原チャリレースで魔境へGO! の巻(笑)
— U (@wayofthewind) July 28, 2018
これは「二十年以上も前の個人的な錯覚を、記憶を何度も塗り替えて、どんどん大袈裟にして語っていく」というパターンでもありそうですね。
神秘体験を大袈裟に語る人間って「そんな体験しても人って微塵も成長できないんだな~」と思わせる人ばかりだったりします(笑)
— U (@wayofthewind) 2018年7月28日
悟ったはずなのにキレやすかったり、何年もやってるプロなのに仕事がヘタだったり(笑)
こつこつデッサンでもしていた方が有意義だなって思います(笑)
菊池@kikuchi_8
7月28日
返信先: @wayofthewindさん、@kitsuchitsuchiさん
全くそれです。
神秘体験に執着する者に限って「貪瞋癡」が人より強かったりしますね。
例えば貪=他人をマウンティングしたがる、
瞋=自分の思想を批判されると激怒して粘着する、
癡=基本的な歴史的事実や思想史をすっ飛ばしている、等々。
グノーシス主義というより新プラトン主義みたいですね。「合一」体験の典型という感じがします。先日ねここねこさんが指摘されていたように、ナグハマディ文書の公刊前に拵えた自称「グノーシス主義」で、ただの「精神世界」を「グノーシス主義」と名付けているだけというのが実態なのでしょうね。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2018年7月28日
タイの上座部仏教の僧侶も神秘体験は勿論、所謂「サマタ」(日本で言う座禅)と呼ばれる瞑想で作られる精神集中の状態にすら執着するなと言っていますね。一時的な精神状態に執着すると、それが消えた時に苦しみが生じるからなのだと思います。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2018年7月28日
『宗教的経験の諸相』読書会・part8https://t.co/ikLoxiRfgp
— 子×5(ねここねこという読み方が代表的です、よろしくおねがいします。未整理図書館「読めニク」長です) (@kitsuchitsuchi) 2018年7月28日
(ニー仏さん
「経験することと経験を評価することとは結構違うこと。
光明現象について。
光を見る現象は
仏教ではヴィパッサナー瞑想の中に
ヴィパッサナーに基づいて現れてくる煩悩、
またはヴィパッサナーの穢れと訳されるものがある。
7月28日
「神秘体験したら一刻も早く
詳細に記録=文字で固定して
記憶の捏造を許さないようにして
後日に冷静に慎重に検証と解釈せよ。
批判的な他者の評価を必ず聴け」と
西洋魔術の達人から学びました。
制御できない神秘体験とそれが増幅させる貪瞋癡は
イメージで潜在意識を操作する技術=魔法には邪魔。
菊池@kikuchi_8
7月29日
ニューソートは欲望の妄想で執着心を増幅させて心を落ち着かなくさせる思想ツールだと思います。
何かを認識してから欲や怒りが生じますが、
単なる「未来の想像」のような妄想も認識作用の一つなので、
欲への執着が増大する結果になると思います。
自己啓発詐欺などはこの機制を利用するのでしょうね。
「縁起」と言うように物事は幾つもの原因・条件が合わさる事で生起・成立するものであり、
人間の「意思」「行動」もその一つに過ぎませんからね。
人間の意思や行動以外の原因や条件も揃わないと結果は出ません。
全てを人間の意思に還元するのは「意思→結果」という非常に単純な因果論だと思います。
子×5(ねここねこという読み方が代表的です、よろしくおねがいします。未整理図書館「読めニク」長です) @kitsuchitsuchi
8月4日
返信先: @kitsuchitsuchiさん、@kikuchi_8さん
何かが降りてきたら
目的達成後に帰宅を願う。
帰らないなら偶像の焼却をイメージして強制退去。
呼吸法とリラックス法も併用し、
意識を通常状態に戻す。
以上が退去。
(以前引用したねこたとの会話で抜けていたところ)
峨骨さん
”使われない知識ほど意味の無いものは無いですから。役立てば幸い。
…
主観100%の神秘なんて、本当に毒にしかならんよ。
自分が体験したから正しい、真実なんてな。
確かにお薬やって生じた妄想をそれを体験した真実だと脳が嘘吐くことはあるだろうよ。
脳って結構バカだからな。薬なんぞ無くても条件整えれば誰でも再現できる。
記憶も改竄し放題だしな。神秘は先ず殺せ。"
神秘体験中毒と、
神秘を真理や真実(かもしれないもの)の一部を示すものとして慎重に扱うことは全く違う。
神秘体験を崇め、至上とすることは
脳に爆弾を埋め込んだまま
その起爆スイッチで遊ぶこと。
爆発しても肉体は死なないどころか
脳が吹っ飛んだ(比喩)ことをありがたがることが最高に厄介。
https://twitter.com/Chimaera925/status/896785316559831040 と続き
”峨骨
@Chimaera925
返信先:
@Chimaera925
さん
言葉を尽くして、それより先へ進めなくなるまでは自身や他者に問い、仮説を立て、検証し、僅かながらでも確信を積み重ねていく必要がある。言語化できなくなるまで。非言語の神秘やスピリチュアルから入ると魔境だからな。妄想と確信の区別が付かなくなって、「よつあしいい、ふたつあしだめ」になる。
午前2:27 · 2017年8月14日
主観からどれだけ離れようとして客観視しても、
客観視しているのは自身だから自身の物差しを離れられない。
物差しなんぞ、世の中にいくらでもあるし、その平均値が真実でもない。
真実など誰にもわからない、
だがそれに近づこうとする事は出来る。
人の数だけあるってのは嘘っぱちだからな。
解釈は別だが
主観100%の神秘なんて、本当に毒にしかならんよ。
自分が体験したから正しい、真実なんてな。
確かにお薬やって生じた妄想をそれを体験した真実だと脳が嘘吐くことはあるだろうよ。
脳って結構バカだからな。薬なんぞ無くても条件整えれば誰でも再現できる。
記憶も改竄し放題だしな。神秘は先ず殺せ。
”
日本語俗語辞書 ≫ エで始まる俗語一覧 ≫ 『画を描く(えをかく)』の意味
http://zokugo-dict.com/04e/e-wokaku.htm
”画を描く
E Wo Kaku
画を描くとは、陰謀・策略を練ること。
【年代】 昭和時代 【種類】 不良・ヤクザ用語
『画を描く』の解説
画を描くとはヤクザ用語で敵をハメたり、自分や所属する組に都合の良い状況になるよう、陰謀や策略を練ることをいう。例えば、多額の資金を要す抗争をしなくて済むよう、相手(敵)と思っている人(組)同士がモメ事を起こすような策略を練ったり、目障りな若頭と組長を不仲にする陰謀を画策することをいう。絵図を描くともいう。”
(Gの言う通りマジである(笑) ヤ○ザ用語が学べる場所出身(笑)
DINER ダイナーって漫画の130話で、裏社会の者の陰謀的な文脈で”絵図を描いて”って出てきたので
調べたら普通に上記の記事が出た。
偽グノなどの新キリスト教は、キリスト教と同じ金型で作ってパッケージと味を変えただけの支配層製品)
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/1264931654046375938
”子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子)
@kitsuchitsuchi
返信先:
@kitsuchitsuchi
さん,
@kikuchi_8
さん
ヤ○ザ用語で、計画を立てる事、シナリオを描く事を「絵を描く」と言う。
利益を上げるためや成り上がるために誰かを騙す、はめる時によく使われる。
ヤ○ザが「テメー絵を描いたな!?」というのは「テメー騙したな!?」という意味だ。
今回の社長は頭がキレるという意味で使ったのだと思う。
午後11:49 ・ 2020年5月25日”
「ことば」の不思議さについて既述したが、謎の「ことば」を前にして、哲学者はこれを寓意と解釈し、理性が納得できる「意味」の言い換えを発見するまで諦めない。しかしカバリストは、「ことば」は、最初から言葉にできないものの象徴として、合理的説明を求めない、という。 pic.twitter.com/tkYAVCCPs0
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) June 8, 2018
「カバリストは、テキストを前に”why is it?”とは問わない。ただ、"what is it?"と尋ねる。そして、その問いに答え得る人は、その「存在」に出会った者か、またはそれについての伝承を持つ者だけである。……」
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) June 8, 2018
図はヒルデガルト・フォン・ビンゲン『聖なる作業の書』(12世紀) pic.twitter.com/6ltOoAUuBY
https://twitter.com/Prokoptas/status/1005185707650891776
”TOMITA_Akio
@Prokoptas
「22の文字がある。これを使ってIAM(יאמ)「番軍の主」「全能にして永遠」なる君は3つの「セラフィム(数・文字・音)によって、その宇宙を設計し創造した。そして、それによってあらゆる被造物と将来生成するべき万物を形成した」(『形成の書』第6章9)。
午前5:32 · 2018年6月9日”
西洋では道化師の帽子に鈴がついていた。こちらは何なのか?
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) 2018年4月27日
人間の頭の中には「狂気の石」があり、これが大きくなると狂人になるという。そのため、中世には開頭してこの石を切除するインチキ手術が行われたという。
ボス「石の切除手術」1475年-85年頃 pic.twitter.com/q11csHQ9Ma
「レプラ患者が手にしたカタカタでその接近を健常者に知らせたように、狂人の接近を告げる道化帽の鈴とは、おそらくそんな狂気の石の祝祭的な装置に他ならなかった」(蔵持不三也『異貌の中世』
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) 2018年4月27日
A fool and falcon, (British Library Royal 19 D III, fol. 266), c. 1411 pic.twitter.com/CHuMeH5z6K
音や音楽と色の共感覚はオリバー・サックスが興味ある事例を紹介していた。この研究者は絶対音感研究で有名な新潟大心理の宮崎謙一さんの後継者だろうか。彼とこの話をしたことがある。
— こなみひでお (@konamih) 2017年12月20日
脳が感じる、音と光の不思議なつながり - | 日本の研究.com https://t.co/YIqfxFoQ6c
お読みくださり感謝!
プラトンのナチ的国家を否定する哲人政治を実現したマルクス・アウレリウス帝『自省録』は佞臣対策と ストア派入門に最適! ワンワールド、キリスト教、カント、ヴァイスハウプト、ニーチェに影響大!
Posted on 2019.12.19 Thu 01:41:48 edit
公表するつもりのない個人的メモだから信用できる。
ストア派の特徴
「内なる神的なもの」の元ネタはバラモン教のアートマンかプルシャだろう。
グノーシスの神性も元ネタはアートマンかプルシャだろう。
オルフェウス、ピタゴラス、プラトンもバラモンの影響下!
ストア派の「内なる神的なもの」は皆が持っていて優劣はない。
バラモンの霊性(笑)カーストは否定。
火の終末(正確には円環なので最悪状態。バラモン神話の火の終末後に最善状態に回帰)が元ネタだろう)、
繰り返される円環世界観(ニーチェの永劫回帰の元ネタ)、
不動心(アパテイア=
理性の転倒である情念を完全に免れた、賢者の心)が目標など
ストア派もバラモン教の影響を受けているだろう。
出家を勧めないのがインド系との相違点。
死後に拘らず、今生きている自分がどう行動するかに注力する姿勢は儒教的。
植物でたとえる表現が多い。
ロゴスが神だけでなく
隣人愛もストア派からキリスト教が盗んだネタ。
盗んだと表現するのはあたかも自分らが最初であるかのように装っているのと
元ネタを迫害しているから。
コスモポリタリズムはキリスト教の神の国とワンワールド思想とカントの世界共和国の元ネタ。
ニーチェには永遠回帰だけでなく超人思想にも影響しているだろう。
超人のモデルの一つは不動心のあるストア哲学者だろう。
完全に本書の訳者解説が短くて核心を捉えたストア哲学入門書なのでお勧め!
多少エピクロス派の思想も知ることができる。
ねこたがハマった理由がよくわかる。彼女はストア的善の実践はきちんとできなかったけどね(悲しいね)。
ストア派とエピクロス派はセットで学ぶとわかりやすいので参考資料に
エピクロス派の特徴列挙の記事を引用しておく。
峨骨さんの思想ってエピクロス派っぽさがあるよね。
ストア派がらみの過去記事はこちら。
多少引用。
グノーシスの変容、ユーラシアの神秘思想、スキピオの夢 https://t.co/KaqQaLNYG7
— 子×5(ねここねこという読み方が代表的です、よろしくおねがいします。未整理図書館「読めニク」長です) (@kitsuchitsuchi) 2017年12月25日
マニ教「世の中糞(文字通り)」
マニ教では太陽と月は分離した光の集積所…
物質世界は文字通り悪魔のクソと死体でできている…
肉体=物質=悪
…標的と同じ用語を使って乗っ取る技術を一番悪用しているのが耶蘇教系
キケロ『スキピオの夢』
当時ローマで主流だったストア哲学にローマの伝統を取り込んだ折衷的なもの
“一定の時期に必然的に起こる大地の洪水や大火のために、
我々は、永遠とはいわずとも、永続的な栄光すら得ることはできない。”
“死すべきものは君ではなく、この身体であると心得よ…
その形が表わすものは君ではなく、各人の精神…。したがって君は神であると理解せよ…不滅の魂が脆い身体を動かす…”
ねこた
マルクス・アウレリウスの本を読めば読むほどキリスト教的な道徳がストア派の背乗りに見えて仕方ないのだが。
ストア派の研究をポツポツしたりしてるよ。 「スピキオの夢」全部読んだよ。すげーヤバイ情報盛りだくさんだ…
パウロの言う火と水のバプテスマの元ネタはストア派の終末論かよ。
ストア派に関してネット情報と紙情報を読み比べたけど、ネットには大事な事は一切記されてないよ。
アウグスティヌスの「神の国」の正体が「スピキオの夢」を見たらクリアにわかるんだよね。
…スピキオの夢に描かれるのに似てるストア派の宇宙論…天の世界こそ地上の統治モデルの理想だもん。
ストア派が面白いのは、グノーシスの思想の背景がすっきり理解できる。
「スピキオの夢」で「人間は神なり」という一文があったのだけど、それであー!と全部を理解した。
グノーシス派の人たちが死んだら惑星の層を抜けて天に至るって話の元ネタはこっちだったんかよ…
スピキオの夢」を読みながら、エヴァの「魂のルフラン」を聴くといいよぉ〜!
世界の名著〈第13〉キケロ,エピクテトス,マルクス・アウレリウス (1968年) …
キケロの「スピキオの夢」とかマルクス・アウレリウス「自省録」とか見てますと、
ローマ人は質実剛健な文化あったんだなと思う。
…キリスト教お嬢様教育の理念とか見ると、
古代ギリシャ・ローマに比べて女々しいというか質実剛健で簡素な美しさがないんだよね。
ストア学派によると、宇宙は火で焼き尽くされるか洪水で滅ぼされるかだもの…「スピキオの夢」って本に書いてあるよ。ストア学派の終末論は火で焼き尽くされるか洪水かのどちらなの。
「カルデアの神託」にも神的な火の崇拝が書いてあるよ。断片だけどね。 新プラトン主義って何?
「スピキオの夢」を見ると、ストア学派の人たちはヒューマニストだったんだなと思った。
智者は恒星天というお星様の世界に行くのだもの。
ストア派の考えかたによると、一定の周期が回ってくるごとに、天体を構成するアイテールの勢力が極大に達して、その火力により全宇宙は炎上し、滅び去る。
逆に、海をはじめとする水の勢力が宇宙の火の勢力に打ち勝つと、全地上は洪水に襲われる。ストア派以外にも、…ルクレティウスが…類似の考え
ねこた
マタイによる福音書 3章 11節
「わたしは、悔い改めに導くためにあなたたちに水で洗礼を授けているが、
わたしの後から来る方はわたしよりも優れておられる。わたしはその履物をお脱がせする値打ちもない。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
え?311人工地震テロ?…
この世界はロゴスで動かされてる。
ストア学派は、この世界を動かす原理の事をロゴス(摂理。そーめんのおめめのプロビデンスと言ったがいいかや?)と言ったが、新約聖書の言葉は神であったという一文は、極めてストア派的な世界観が潜んでるのがわかるだろう。
それを実行してるのが耶蘇教な。
後の耶蘇教のフレームとなった、
国家を越えた人類愛とか、奴隷制度はアカンのや!
全ては神の前に平等!とかその他諸々の事は、
実は耶蘇教が言い出す前はストア派の哲学者が言ってたりしたんだよね。
マルクス・アウレリウスとかの本、この人耶蘇教大嫌いなのに、何でこんな耶蘇教臭い発想してんの?とか
となると、アダム・ヴァイスハウプト他が神の代わりに崇拝した「理性」というのは、ストア派の哲学者の皆さんが崇拝した、
自然法則=神そのものであるロゴスの事じゃないかな?
ニャンゲンの理性じゃなくて、この世界を動かしてる自然法則そのものという汎神論的な世界観だと矛盾も出ないよね?…
フリーメイソン=ユダヤって大本教系陰謀論のとこじゃなってるけど、
じゃあ何でフリーメイソンの神話にあるヒラムは太陽が中天に昇るころ、午後の祈りを捧げてたの?
ユダヤ教に午後の祈りとか太陽礼拝の儀式とかあったっけ?
ヤハウェは嵐の性質を持ってるのにこりゃないだろ?w…
ちなみに、アダム・ヴァイスハウプトが近代イルミナティの入会者に最初に勧めるテキストはストア派哲学者のセネカの書簡だった。ヴァイスハウプトは「世界の倫理的完成」なる目標を掲げたが、ストア派の影響が見て取れる。ヴァイスハウプトは理神論の啓蒙主義者だが道徳観は耶蘇と同じストア派由来だ。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2017年3月21日
アダム・ヴァイスハウプトはイエズス会士でインゴルシュタット大学で教会法を教えていた学者。古代のストア派の哲学の影響を受けていた。イルミナティ入門者への推奨図書の第一は古代ローマのストア哲学者セネカの書簡集であった。無神論までは行かず理神論者だったようだ。典型的な啓蒙主義者である。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2017年8月27日
街の猫氏の論争を見ていてわかった方もいらっしゃるけど、議論に負けそうになると経験主義に誘導して「わかってない」と言う。 定義コロコロとかマニュアルでもあんのかな? タルムードの害悪論に経験もクソもない。言葉に縛られるもん。 スピと陰謀論のセット売りは最強の詭弁のツール!
— 子×5(ねここねこという読み方が代表的です、よろしくおねがいします。未整理図書館「読めニク」長です) (@kitsuchitsuchi) 2017年12月29日
何でグノーシスが悪魔崇拝だと断定できるのですか? あれはキリスト教の異端であって、悪魔そのものを崇拝してませんよ。 そしてタルムード教ってあなたはタルムード読んだことあるのですか? 正確に物事は言うべきかと。
タルムードとグノーシスってどのあたりに繋がりがあるのか正確に資料を引用しながら教えてください。
あと、こいつらが聖典を改ざんして乗っ取ると言うならば、じゃあ乗っ取られる前のって何なのか言って下さい。
タルムードが悪だと断定するなら根拠出すべきなの当然ではないですか?
グノーシス派が悪魔崇拝と、タルムード教が悪って間違ってるよ。
グノーシス派はキリスト教の異説であって、タルムードはユダヤ共同体の法律集だろうが!
てか、アダム・ヴァイスハウプトのイルミナティはグノーシスというよりストア学派だけどね!
悪魔崇拝ってバズワード使うんじゃない!
アダム・ヴァイスハウプトのイルミナティもある種のヒューマニズムだもんね。
あれガチでストア学派の智者の生き方をメンバーに求めてる。
だから、セネカくんやマルクス・アウレリウス帝の本を読もうねって言ってるもの。
そこにスルーするイルミナティの陰謀論ってゴミでないですか?w
イスラーム哲学は印哲の影響強いです。あっらーさんの説明はブラフマンに似てました。イスラームの時間論も印哲のそれです。
ですから、ユダヤ人がアーリアの影響強いようにまたイスラームもアーリアの影響強いかと。
それを知るにつれ、ユダヤ教って後代に固まったとしても、タルムードの解釈はあれ正しいと思うのですよね。
神定法だからそこは人間には動かせず解釈のみが許されると考えたユダヤ人はわかってる。
だって人為主義やるとこれモーセの律法守れないもん。ユダヤ人敬虔だから。ズルいけど。
上智大学の神学生に聞いたのだけど、カソリックでは法解釈をローマ法のシステムでやってるの。
ローマ法ってストア学派の自然法だよ?
となると、人為主義が強くてね、ユダ公のタルムードの解釈のように一神教として機能しないの。どこがモーセの神定法なのか?と。”
↑
一神教の絶対規則は
聖典(神の法)>解釈書(人の法)であり
聖典に基づかない法律は作るの禁止。
しかしキリスト教は破戒。
グノーシス主義とは|クロウ #note https://t.co/uzl638X1C4
— クロウ (@crow5874) 2019年12月10日
グノーシス主義の簡単な概要を自分なりの解釈でまとめてみました。
ストア派理性主義キリスト教のカント哲学
— 子×5(ねここねこという読み方が代表的です、よろしくおねがいします。未整理図書館「読めニク」長です) (@kitsuchitsuchi) 2017年12月26日
「ワンワールドが理想だが現実的には連合が良い」
「この世には一つの宗教しかなく表現方法が異なるだけ(万教帰一)」『視霊者の夢』 『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』
『純粋理性批判』『実践理性批判』
https://t.co/w1fNxnfi1R@wayofthewind
カント哲学は
— 子×5(ねここねこという読み方が代表的です、よろしくおねがいします。未整理図書館「読めニク」長です) (@kitsuchitsuchi) 2017年12月26日
啓蒙主義
反イエズス会
共和制支持
ストア派の影響
ヴァイスハウプトそっくりだ!
イルミナティ陰謀論を発明したバリュエル神父は王政側でイエズス会士だから
叩く対象はヴァイスハウプトだけではなく類似の思想家にも及ぶ。
バリュエルが晩年に取り組んでいたのはカント哲学批判。
ヴァイスハウプトはストア派好きの啓蒙主義者で18世紀の知識人として思想的に特異な部分なし。スピ系を無視してたので流行らなかった弱小結社にアドバイスして組織を巨大化させたのが高位メーソンのクニッゲ。彼はメーソンの人脈を利用しロッジを次々に乗っ取った。実質ボス!@kikuchi_8
— 子×5(ねここねこという読み方が代表的です、よろしくおねがいします。未整理図書館「読めニク」長です) (@kitsuchitsuchi) 2016年11月20日
元祖イルミナティのヴァイスハウプトがユダヤ教徒ではなく、ロスチャイルドと無関係で、反カトリックで、啓蒙主義(反知性主義と新プラトン主義とオカルトの否定)で、王政を否定し、ストア派を肯定したことを知らない人が、教会のデマをもとにイルミナティを騙る陰謀論界隈←忘却@kikuchi_8
— 子×5(ねここねこという読み方が代表的です、よろしくおねがいします。未整理図書館「読めニク」長です) (@kitsuchitsuchi) 2016年5月28日
近代イルミナティ創設者アダム・ヴァイスハウプトは理性主義の代表的人物だがヴァイスハウプトがイルミナティ入会者に最初に勧めた文献がストア派のセネカの著作だった。理性主義の根にギリシャ哲学がある事はこの辺からも分かる。ストア派の「宇宙理性」から汎神論色を除くと近代の理性主義に近づく。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年11月29日
神谷訳『自省録』メモ
訳者序
プラトーンは哲学者の手に政治をゆだねることをもって理想としたが、
この理想が歴史上ただ一回実現した例がある。
それがマルクス・アウレーリウスの場合であった。
折にふれ心にうかぶ感慨や思想や自省自戒の言葉などを断片的にギリシア語で
書きとめておく習慣があった。
原題「自分自身に」(ta eis heauton)の示すとおり元来ひとに読ませるつもりで
書いたものではないから全体の構成も文章もととのわず、
難解の個所が少なくない。
また写本の保存もきわめて悪くテクストの過誤や不明個所の多いことでは有名になっている。
それにもかかわらずこの書物は
「古代精神のもっとも高い倫理的産物」と評され、
古今を通じて多くの人々の心の糧となってきた。
それはテーヌのいうように
「生を享(う)けた者の中でもっとも高貴な魂」がこの書の中で
息づいているからであり、
その魂のたぐいまれな真実さがつねにあらたに我々の心を打つからである。
本訳は原語ギリシア語からの訳。
昭和二十三年九月末日
新版に対する序
これを機会に仮名づかいと固有名詞の読みをあらため、
そのほか若干の改定をおこなった。
昭和三十一年四月二日
訳者
(
そもそもタイトルを付ける習慣っていつからなのか。
そもそも他人に見せない手記に題名付けるか?
冒頭をタイトルとする方法でもない。
一巻一
”祖父ウェールスからは、清廉と温和(を教えられた)。”
なので自省という言葉は登場しない。
自分自身を「君」と書くことがあるように自分自身の中の他者との対話録でもある
)
訳者解説
当時マルクス・アウレーリウスの周囲のローマ社会では
ストア哲学が大いにおこなわれていた。
マルクス・アウレーリウスはこの学派の哲学にもっとも傾倒し、
ここに一生の支柱となるものを見出した。
マルクス・アウレーリウスの教師たちはみな当時の一流人物であった。
特愛の師ユーニウス・ルスティクスはマルクス・アウレーリウスに初めて
エピクテートスを教えた人で、
マルクス・アウレーリウスが皇帝になってからも相談役として留まった。
マルクスはみずから軍の先頭に立ってダニューブ河畔に遠征し、
森林や沼沢の多い、
非衛生きわまる地帯に陣営をかまえ、
長い月日を戦いの中にすごした。
『自省録』の第一巻はこのときの陣中手記である。
175年ようやく敵は降伏し、
再び平和と秩序が訪れるかに見えたが、
マルクス配下の将校カッシウスが謀叛し
マルクス・アウレーリウスは死んだといいふらし、
みずから皇帝を名乗って出た。
死が嘘だとわかると、部下の兵士たちが怒って
カッシウスを殺してしまった。
マルクスは自分でカッシウスとよく話し合って解ってもらおうと
思っていたのに残念だ、といったという。
そしてカッシウスの遺族や支持者たちにたいしてはきわめて
寛大な処置を取るように計った元老院宛の手紙が残っている。
謀叛を聞いて東部へ出かけていったマルクス・アウレーリウスは
そのままシリアに赴いたが、その帰途、
行をともにしていた妃ファウスティーナが突然病死した。
マルクス・アウレーリウスの悲しみはひとかたならず、
そこに墓を立ててねんごろに弔った。
その後一人旅を続け、スミュルナ、エペソスを経て
アテーナイに行き、エレウシースの秘儀(ミステーリア)の伝授を受けた。
もっともこれは当時の風習にならったまでのことで、
マルクス・アウレーリウスの信念とは関連のないことであったらしい。
(
ストア派はエレウシース秘義は問題ないらしい)
また当時アテーナイには今でいえば大学に当るような制度があり、
修辞学や哲学の講座があったが、
マルクスはこれに奨励金を与えたり、
新たに四つの哲学の講座――プラトーン学派、
アリストテレースの逍遥学派、
ストア学派、
およびエピクーロス学派――を創設した。
176年ローマに凱旋するやマルクス・アウレーリウスは
亡き妻を記念する意味で貧しい女子五千人を国費で義務教育する施設をこしらえたり、
皇室に負債ある市民たちに免債の特典を与えたりした。
180年シルミウム、また一説にはウィンドボナ(現在のウィーン)において
伝染病のために没した。
享年58歳。
死の直前、意識朦朧としていたとき
「戦争とはこれほど不幸なことか」とつぶやいていたという。
マルクス・アウレーリウスはなによりの平和愛好者で、
戦争は人間性の不名誉であり不幸であるとしており、
よくよくの必要に迫られなければ戦わない方針であったが、
いったん戦う役となれば、正当なる防衛のためにはどこまでも勇敢に戦った。
不幸にしてマルクス・アウレーリウスの在位中はほとんど絶えず戦争が続き、
ために席の温まる暇もないくらいで、
最期も戦塵の中に遂げなくてはならなかった。
マルクス・アウレーリウスは在位中、
仁政によって万人の敬愛を一身に集めていたので、
死後1世紀の間多くの家では
マルクス・アウレーリウスを家の守護神(ラレース)の一人として祀っていたという。
(
ストア派を実践すれば善政になる実例
)
ただマルクス・アウレーリウスの時代にキリスト教徒の迫害が盛んに
おこなわれたことがしばしば問題になるが、
これはトラヤーヌスの時代に非合法結社を禁ずる法律が制定されたのを
そのまま踏襲したにすぎず、
マルクス・アウレーリウスがみずからイニシアティヴをとって迫害をした事実はない。
むしろこの法律の適用を和らげることに努めた形跡がある。
『自省録』の中にはキリスト教徒に言及しているとおぼしき個所がいくつかあるが
マルクス・アウレーリウスのキリスト教にたいする認識はきわめて皮相で、
その本質についてはなんら知るところがなかったように思われる。
(
当時は、イエスが生きていたとされる年代に
イエスの実在する記録なんてないとわかっている人ばかりだったのだろう。
イエスが死んだとされる年のだいたい150年後にマルクス・アウレーリウスが死去。
キリスト教の本質って何か書いてくれ。
当時はいわゆる正統多数派なんてなかったのでは?
マルクス皇帝の時代はモロにグノーシス主義の大物がいる時期じゃん。
バチカンのカソリックってのは 基本的にパウロのキリスト教の事を指すのよね。 聖書が1巻本になったのもずっと後で、マルキオン聖書に対抗してエイレナイオスの時代に纏められたのが原型だと言われている。
— 子×5(ねここねこという読み方が代表的です、よろしくおねがいします。未整理図書館「読めニク」長です) (@kitsuchitsuchi) 2017年12月25日
だから、キリスト教ってのは最初の頃は沢山宗派があったの!
有閑無是
@AlkanMuze
2012年5月27日
『グノーシス―古代キリスト教の<異端思想>』(筒井賢治著)の
第二章「ウァレンティノス派」まで読んだ。
二世紀半ばから後半に、キリスト教グノーシスの有力教師たち、
正統多数派教会の立場からは大異端者たちが続々登場する。
ウァレンティノスと弟子たち、バシレイデース、マルキオンが代表である。
「グノーシス」で検索 Ctrl F
— 宗教nnmn (@nnmnfiction) 2017年8月13日
神学と聖典確定の創始者を異端派(=真のキリスト教)として迫害したキリスト教正統派(耶蘇)こそが本当は異端であるべき!『グノーシス』筒井賢治 https://t.co/uajJ3OkSiS
仰る通りだと思います。カトリック教会はグノーシス主義を批判しますが、実際には西欧中世のカトリック修道士は肉体を軽視して風呂にも入らなかったり、自然を悪魔の宿る場所と思い込んでいたりしたそうです。グノーシス主義の霊肉二元論の発想と同じです。両建同根。グノ派の「不都合な真実」です。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2019年12月3日
要するに裏権力支配下の各種媒体に於いて猶太教や基督教の批判を抑止する事と、グノーシス主義を宣伝する事は、部署による「担当」の違いというだけである。つまり、「両建」である。グノーシス主義が裏権力から抑圧されているならメディアが供給するアニメ、漫画、ゲーム等々に溢れているはずがない。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2019年11月30日
漫画やアニメ、ゲーム等では「悪魔」「デビル」「ルシファー」が善玉で登場する事は確かに多い。「悪魔くん」「デビルマン」等々数え上げたらきりがない。一方で、それ以外の時代物ドラマなどではキリシタンは必ず被害者として描かれるし、ハリウッドでは猶太人が悪役として描かれる事は絶対にない。
一方、漫画やアニメ以外の出版業界はどうか。例えば猶太教や基督教を批判した書物を書店で探してみるとよい。それらを称賛する本に比べると批判的に研究した本は圧倒的に少ないはずである。全くない場合もあろう。また学校の教科書は勿論大抵の歴史本ではキリシタンは「迫害された」としか書かれない。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2019年11月30日
1945年に「ナグ・ハマディ文書」が見つかるまでは、グノーシス思想は基督教側の文献でしか知る事が出来なかったと言われる。基督教会が焚書したからである。論争相手がいない所でイメージを一方的に作った訳である。予防ブロックし本人のいない所で勝手な事ばかり言う自称グノ一味はこれと全く同じ。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2019年12月3日
ストア主義は「ロゴス=理性」に従って情念を抑えた平穏な境地「アパテイア」を目指すとする思想である。倫理哲学的な思想だが、「ロゴス」を重視するので後の理性主義の啓蒙主義に繋がる面を持つ。ストア派は論理学も研究した。啓蒙主義者のヴァイスハウプトがストア哲学に傾倒したのも当然である。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2019年3月18日
ストア派の厳格な倫理思想は汎神論的な宇宙観と切り離されて基督教に取り入れられた。ロゴス重視の思想は「ロゴスは神」という形で受け継がれた。西欧思想の「ロゴス中心主義」は相当根深いものがあると言えよう。基督教の「神」を「理性」に置き換えたのが啓蒙主義であった。「ロゴス」繋がりである。
アダム・ヴァイスハウプトは新プラトン主義をはじめとする神秘主義思想を否定する啓蒙主義者なのでオカルト重視の英国系石屋とは両建対立関係にあった。ヴァイスハウプトの思想は仏蘭西系石屋(大東社)寄りで、実際に自らも含めクニッゲ(後に対立)らイルミナティ結社員で集団加入を行ったようだ。
「近代魔術の祖」みたいに言われるエリファス・レヴィは仏蘭西人だが、
大東社系ではなくむしろブルワー・リットンら英国系石屋と交流があった人物であり、英国薔薇十字協会→黄金の夜明け団という西洋近代魔術の流れに大きな影響を与えた。オカルト重視の英国系と啓蒙重視の仏蘭西系の特徴が見える。
)
マルクス・アウレーリウス
(マルクスと略すことがあるけど、
共産主義のマルクスのイメージが強すぎる)は早くから
ストア哲学に傾倒した。
彼は主としてエピクテートスの書きものを通して身につけたらしい。
一度この思想を受け入れるや、
終生変わることなく忠実に守り通した。
『自省録』の思想はストア哲学。
ストア哲学は紀元前300年頃にゼーノーンが創始し、
以来マルクスの時代までには400年以上も伝統が続いており、
マルクスはいわばその最後の代表者であるともいえる。
この哲学はギリシア発祥だが、
ローマ帝国に輸入されるとローマ人の男性的実際的な気質によく合っていたと見えて、
この地において大いに栄え、
セネカ、エピクテートス、マルクス等を生んで、
いわゆる後期ストアを形成。
後期ストアの特徴は内容が著しく宗教的色彩を帯びてきた点にある。
すなわち
「哲学は初期の人びとの場合のごとくなんの欠乏も感じない精神の自由な活動にあらずして、
道徳的感情的渇望を満足させる方法」となってきたのである。
ストア哲学は三部分に分かれている。
すなわち物理学、論理学、倫理学である。
論理学とは思念を統御し、
客観的事物をあるがままの姿においてのみ認識することを教え、
あらゆる思索に必要な道具であった。
また物理学は宇宙とその中における我々の位置を理解する上に必要な事柄を教えた。
というのは「自然にかなった生活」というのがストア哲学の基調であり、
この自然とは宇宙を支配する理性ないし理法を指す。
しかし物理学も論理学も倫理学にたいして従属的な位置におかれ、
道徳的な生き方を導き出す基礎として必要なかぎりにおいてのみ意義を認められた。
これは特にマルクスにおいて顕著であって、
彼は天体現象を研究したり、
三段論法を分析したりすることに時を費やさなかったのを感謝している
(1・17末尾)。
(
そりゃあ実務に哲学を使うからねえ
)
ストアの信条(ドグマ)に従えば
宇宙は一つ、
すなわち神も物質も一つ。
神、または元始の存在はその形成的能力をもって物質の上に働きかけ、
自分自身の中からまず宇宙を創り出し、
この宇宙はその後因果律に従って変化を続ける。
しかしこれは火によって周期的に破壊され、
その残骸の中から再び新しい宇宙が創造される。
以上の考えは汎神論的であり物質的であるが、
しかし他方においてこの神的な力はゼウス、原因(アイティア)(形相因)、
宇宙の理性、法律、真理、運命、
必然、摂理、等とも呼ばれている。
こうした矛盾はマルクス自身ははっきり意識していなかったように見える。
少なくとも彼の興味はそういう純粋な形而上学的思惟にはなかった。
ストア哲学によれば、
人間は肉体(肉)、
霊魂(息)、
および叡智(指導理性(ト・ヘーゲモニコン))から成る。
(
霊肉二元論ではない)
指導理性は宇宙を支配する理性の一部、
すなわち神的なものの分身であって、
これが人間の心の中に座を占めるダイモーンであり、
人間の人間たる所以のものである。
以上より我々の神、人、自己にたいする義務観念がひき出される。
すなわち神々に対する敬虔、
人にたいする社会性(コイノーニアー)、
自己における自律自足である。
神々という言葉をマルクスは時には当時の民衆の考えるような目に見える神の意味に用い、
時には宇宙を支配する理性の意味に用いた。
彼は永生不死の神々の存在を確信し、
その神々は人類のために配慮し、
人間とともに生き、
悪人さえも助けると信ずる。
人間は神々に信頼し、これに従い、これに仕え、
これに似たものとならなくてはならない。
神々もまた宇宙の一部でその制約を受ける。
したがって我々が運命に忠実であることによって神々の安寧と繁栄に貢献するのである。
すべて理性を持つ者は同胞であるから、
我々人間は一人残らず宇宙国家の市民であって、
互いに睦み合うべく創られており、
宇宙的な仕事に協力すべくできている。
たとえ我々に悪いことをする者があっても、
我々はそういう人びとにたいして善意を持ち続け、
その過ちを正してやるか、
それができなければ彼らを耐え忍ばなくてはならない。
(コスモポリタリズム。
ワンワールド思想の源流
)
すべて生命を有するものの義務はその創られた目的を果すにある。
しかるに人間は理性的に創られた。
ゆえに人間はその自然(ピュシス)に従って、
すなわち理性に従って生きれば、
自分の創られた目的を果すことができる。
そのためには絶対に自律自由でなくてはならない。
他人にたいしてしかり、
また自分の肉体からくる衝動や、
事物にたいする自分の誤った観念や意見にたいしてもそうであって、
これに囚われてはならない。
なかんずく死にたいする恐怖から解放していなくてはいけない。
ストア哲学は実践倫理に特有な思想として、
我々の自由になることとならぬことの区別を強調する。
我々の自由になることとは我々の精神的機能、
わけても意見をこしらえたり、判断をくだしたりする能力である。
また徳および悪徳である。
これに反し我々の外部にあるものは我々の力でどうにもならない。
我々の肉体もその一つである。
これ以外のものはすべてどうでもいいこと
(adiaphora すなわち善でもなければ悪でもない無差別なこと。
あるいはmesaすなわち徳と悪徳の間の中間物ともいう)である。
たとえば健康と疾病、
富と貧、
名誉と不名誉等である。
したがって我々は自分の意志でどうにもならぬことは
これをつぶやかずに忍び、
どうでもいいことはこれを求めもせず避けもせず、
どうにでもなることすなわち我々の内心の営みにのみ本拠において
そこに独立と自由と平安を確立すべきである。
(
健康と疾病、
富と貧、
名誉と不名誉が外部というのが面白い。
ストア哲学者はツイッターで愚痴らない
)
人間の幸福と精神の平安は徳からのみ来る。
徳とは宇宙を支配する神的な力、すなわち「宇宙の自然」に服従し、
その自然のなすことをすべて喜んで受け入れることにある。
また我々の動物性に打克ち、
何ものにも動かされぬ「不動心(アタラクシアー)」に到達することにある。
「人生即主観(ヒュポレープシス)」であるから、
我々は自分の感覚や知覚からくる印象や、事物にたいする判断や意見を
よく吟味せずに無差別に受け入れてはならない。
まずこれを正しく定義し、
分析することによってその真偽をたしかめなくてはいけない。
「自分はなにも損害を受けなかったと考えよ。
そうすれば君は損害を受けなかったことになる」(七・七)とマルクスはいう。
(
アタラクシア、 Ἀταραξία、 Ataraxiaはエピクロス派専用ではない。
”〘名〙 (ataraxia)⸨アタラキシア⸩ 哲学で、
心の平静・不動の状態をいう。
ヘレニズム時代のギリシア人の倫理観、特にエピクロスの処世哲学では幸福の必須条件とされた。
…
【ピュロン】より
…移ろいゆく現象を永遠の実在と錯覚することから魂の苦悩が始まる。
それゆえ,いっさいの判断を〈留保〉(エポケー)し,
魂を何ものにもかき乱されない〈寂滅〉(アタラクシアataraxia)に導くことこそ人生の目的であり,
人間の完成であるとした。後世の懐疑派がもっぱら認識論的批判に終始するのに対し,
彼は魂の安らぎを求める実践的観点から懐疑を主張したのである。”
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%A2-25861
)
しかし人間の力はかぎられており、
その道には越え難い障碍物があらわれる。
したがって賢い人間は何事を志すにあたっても、
かならず
「ある制約の下に」(meta hypexaireseōs)のみこれを考慮する。
すなわち、そのことが到達されうるものであるかぎりにおいてこれを目的とするのであって、
到達されえぬものであった場合には、
さっぱりとこれを諦め、
そのためになんの幻滅も覚えず、
なんの損害も蒙らない。
それのみかかえってこの障碍物を利用して徳を発揮する機会となし、
またほかの目的に達するための足場になしうる場合も少なくないのである
(
注意しないといけないのは理性は神的な力であり、
人的ではないこと。
)
死後の運命についてははっきりした信念はない。
そのまま虚無に帰するにしても、
他処へ移ってある生存を続けるにしても覚悟はできている、という態度であった。
自殺にたいしては、
人間が道徳的な生活を続けることができないような場合にかぎってこれを是認する。
しかしこれについては特に慎重を要する、というのであった。
以上が『自省録』にあらわれた思想のきわめて大まかな要約である。
マルクス・アウレーリウスはエピクテートスのあまりにも忠実な弟子であって、
そこには思想的になんの新しい発展もない。
(
つまり、正統多数のストア派思想なのでストア入門に最適!)
『自省録』は数知れぬ人びとを鞭ち、励ましてきた。
その中にはシュライエルマッヘル、
メーテルリンク、
ルナン、
テーヌのごとき人びとを数えることができる。
(
メーテルリンクは神智学の重鎮だった。
神智学はストア哲学も取り入れている
)
当時のローマの教養ある社会の風習として、
マルクスはギリシア語でもラテン語でも文章を書けるような教育を受けていた。
その頃ローマ人がギリシア語でものを書くのは決して珍しいことではなかった。
しかし皇帝であるマルクスが自分の心の日記を書くにあたってギリシア語を用いたということは、
紀元第二世紀において、
ギリシア文化がいかに優位を占めていたかを証明するに足る事実であろう。
『自省録』が初めて印刷になったのは
1558年、チューリッヒのXylanderの手による。
このeditio princepsはCodex Palatinusと呼ばれる写本にもとづいて
作られたが、その写本はその時から失われてしまった。
ta eis heautonという題はこの版についていたもので、
マルクス自身がつけたものかどうかはわからないけれども、
以後どの版にも踏襲されるようになった。
右のほかに唯一の完全な写本として知られているのは
十四世紀のCodex Vaticanusで、
1774年、パリにおいてde Jolyが出した版はこれにもとづいている。
この二つの写本は独立に成立したらしく、
相違点も多い。
また殊にVaticanusのほうは非常に誤謬が多く、
Palatinusも省略個所や不正確な写しがあって、
原典の読みを知るのに大きな困難を来している。
その他の写本はみな原著からの抜粋にすぎない。
本訳においては原典の読みに問題のある個所を〔 〕の印で囲み、
読者の理解を助ける意味で訳者が挿入した言葉を普通の括弧の印で囲むことにした。
補訂付記 兼利
訳者の神谷が訳した『自省録』は
1956年に岩波文庫版に収められて以来、
多くの版を重ねて読み継がれてきている。
50年を経て版を改めるにあたり、
注を刷新するとともに、
若干の修正を施した。
訳注は、神谷が付したものをとりこみ新たに作成した。
(
欠損が多いから訳す人によって意味がかなり異なる箇所があるのが難点)
第1巻
p.12から
七
ルスティクス(16)からは、
自分の性質を匡正し訓練する必要のあるのを自覚したこと。
詭弁術(ソピスティケー)に熱中して横道にそれぬこと。
理論的な題目に関する論文を書かぬこと。
けちなお説教をしたり、
道に精進する人間、善行にはげむ人間として人の眼をみはらせるようなポーズをとらぬこと。
修辞学(レートリケー)や詩や美辞麗句をしりぞけること。
…
腹を立てて自分に無礼をくわえた人びとにたいしては和解的な態度をとり、
彼らが元へもどろうとするときには即座に寛大にしてやること。
注意深くものを読み、ざっと全体を概観するだけで満足せぬこと。
饒舌家たちにおいそれと同意せぬこと。
エピクテートス(19)の書きものを知ったこと。
この本を彼は自分の書庫から出してきてくれたのであった。
(思想が佞臣対策になっているのがさすがは哲人皇帝)
注16
クイントゥス・ユーニウス・ルスティクス。
133、162年の執政官。
ストア哲学を奉じるローマ貴族の家柄。
市総督在任中の165年にキリスト教教父の殉教者ユースティーノスを
裁いたことでも知られる。
マルクスを修辞学からストア哲学へ導いた人物で、
終生深い関係で繋がれていた。
(
当時のクリスチャンってストア派が大嫌いなんじゃないの?
)
19 エピクテートス
小アジアのヒエラポリス出身の哲学者。
1世紀中頃に生まれ、
135年頃にプリュギアのニーコポリスで没した。
ネロー帝に仕えた解放奴隷エパプロディートスの奴隷だったが、
解放されて哲学を教えた。
彼自身は書物を著さなかったが、
彼の講義を学んだニーコメディア出身のアッリアーノスによる
講義ノート(『語録』)が伝わる(一部は散逸した)。
本個所でマルクスが言及している著作がこの現存する『語録』かどうかは
不明であるが、マルクスは彼に最も深い影響を受けている。
p.15
一二
…
緊急な用事を口実に、
対隣人関係のもたらす義務(26)を絶えず避けぬこと。
注26
ストア倫理学の用語。
義務倫理学の概念との混同を避けるため「ふさわしい行為」とも訳される。
特定の人間が置かれた具体的状況やその社会的役割に適う行為の外的側面で、
自然的社会的関係からおのずと定まる人間の務めを意味する。
何をなすかを選択すること、あるいは「どのように」なすかは思慮の徳(意志)の働きであるが、
人間として社会に生きる以上、「何を」すべきかは多くが
(例えば、父、夫、市民など人間の「役割(プロソーポン、persona)」として)
一応は定まっている。
「緊急の用事」とは、
典型例は生より死を選択する行為だが、
一般的に通常の関係を逆転させる場合
(家族の務めより仕事や友人への奉仕を優先することなど)も含まれる。
(古代ギリシア語で記されているから徳ってアレテーだよね?
アレテーと内心で言い換えて私は読んでいる)
夢(53)を通して種々な薬を啓示されたこと、
…
また私が哲学が好きになったとき、
ソフィストの手に陥りもせず、
論文を書くために腰をすえたり、
三段論法を分解したり、
天体について観察したりもしなかったこと。
注53
当時、医神アスクレ―ピオスの信仰が広まり、
神殿の側で寝て見る夢を通じての治療の啓示が流行した。
例えば、当時の有名な弁論家アイリオス・アリステイデースの『聖なる言葉』は、
そうした夢を克明に記したものである。
(
アスクレピオン(アスクレピオスを祀る聖所)での
夢見による神癒=インキュベーション(incubation)のことだね。
まどマギのQBにはこの意味も込めているだろうね。
この哲人皇帝も体験したのね。
マルクスは論文も書けるだろうし、
三段論法についてもよく知っているだろうし、
天体も観察したりしただろうから
あくまで執着して専念しなかったということだろう
)
注56
ストア派は哲学を論理学・自然学・倫理学の三部門に分ける。
元来論理学はストア派にとって最も重要であり、
帝政期でも学習に組み込まれ、この学派を特徴づけていた。
ローマ期ストア派の現存著作に批判的評言が目につくのもその反映。
またセネカは、生涯にわたり自然学に対する関心を抱き、
晩年に『自然研究』を著している。
(
論理重視。ギリシア系は論理重視の傾向)
第二巻
p.24から
一
…
しかし私は善というもの本性は美しく、
悪というものの本性は醜いこと(1)を悟り、
悪いことをする者自身も天性私と同胞であること――
それはなにも同じ血や種をわけているというわけではなく、
叡智と一片の神性を共有しているということを悟ったのだから、
彼等のうち誰一人私を損ないうる者はない。
注1
ストア倫理学の原則を表す定式。
ここで言われる「美しい(立派・高潔である)」と
「醜い(恥ずべき・卑劣である)」とは、
精神の卓越したあり方(徳)と
その反対のあり方(悪徳)のみを意味する。
これは自己の中にあるもので、
己の力で左右できる。
これに対して、世間一般で善または悪と言われるもの
(健康、美貌、財産等とその反対)は外在的であり、
自己によって左右できない。
二
この私という存在はそれが何であろうと結局
ただ肉体と少しばかりの息と
内なる指導理性(ト・ヘーゲモニコン)(2)より成るにすぎない。
注2 指導理性(ト・ヘーゲモニコン)
ストア哲学の専門用語。
「統括的(主導的)部分」などとも訳される。
理性や知性ともほぼ同義で、
肉体と対比される意味での魂、心とも重なるが、
行為と選択の主体という倫理的な文脈でも用いられるのが普通である。
五
至る時にかたく決心せよ、
ローマ人として男性として、
自分が現在手に引受けていることを、
几帳面な飾り気のない威厳をもって、
愛情をもって、
独立と正義をもって果たそうと。
また他のあらゆる思念(パンタシアー)から離れて自分に休息を与えようと。
その休息を与えるには、
一つ一つの行動を一生の最後のもののごとくおこない、
あらゆるでたらめや、
理性の命ずることにたいする熱情的な嫌悪などを捨て去り、
またすべての偽善や、
利己心や自己の分にたいする不満を捨て去ればよい。
見よ、平安な敬虔な生涯を送るために克服する必要のあるものはいかに少ないことか。
以上の教えを守るものにたいして神々はそれ以上何一つ要求し給わないであろう。
(ファンタジア?)
七
外から起ってくる事柄が君の気を散らすというのか。
それなら自分に暇を作って、もっと何か善いことをおぼえ、
あれこれととりとめもなくなるのをやめなさい。
またもう一つの間違いもせぬように気をつけなくてはならない。
すなわち活動しすぎて人生につかれてしまい。
あらゆる衝動(5)と思念(6)とを向けるべき目的を持っていない人たちもまた
愚か者なのである。
注5
ストア倫理学の専門用語。
動物と人間の行動を惹起させる魂の運動のことで、
人間の場合には理性の同意が先行する。
行動・行為には必ずこの衝動が伴う。
しかしながら、一般語の「衝動」、
理性を欠いた動物的本能という意味と重なる場合も多い。
注6
感覚または思考によって心の中に得られる像。
「表象」と訳されることが多い。
人間行為に関わる場合では、理性的表象として命題化され、
それに理性が同意すると衝動が惹起されて身体の運動と外的な行為が生じる。
本書ではより広い意味での思想や想像を意味することも多い。
一一
今すぐにも人生を去って行くことのできる者のごとくあらゆることをおこない、
話し、考えること。
しかし人類の中から去って行くことは、
もし神々が存在するならば、
少しも恐ろしいことではない。
なぜなら神々は君を悪いことにまき込むようなことはなさらないだろうから。
ところがもし神々が存在しないならば、
もしくはもし彼らが人間どものことなどかまわないならば、
神々の存在しない宇宙、
摂理のない宇宙に生きていることは私にとってなにになろう(8)。
いや、神々は存在する、そして人間どものことを心にかけておられるのだ。
そして人間が真に悪いことのなかへおちこむことのないように、
彼にすべての力を与え給うたのだ。
もし未来において何か悪いことがあるとすれば、
すべての者がその中におちこむのを避けうるように、
神々があらかじめ用意しておき給うたであろう。
人間を悪くしないものが、どうしてその人間の生活を悪くなしうるであろうか。
宇宙の自然が知らないでこのことを見すごしたはずはないであろう。
あるいは知っていながらこれを防ぐことも、
正すこともできないから見すごしたというはずもないであろう。
また無力か無能力のために
あやまって善人にも悪人にも平等に善いことと悪いことを起きるようにしたわけでもないであろう。
とはえたしかに死と生、
名誉と不名誉、
苦痛と快楽、
富と貧、
すべてこういうもの(9)は善人にも悪人にも平等に起るが、
これはそれ自身において栄あることでもなければ恥ずべきことでもない。
したがってそれは善でもなければ悪でもないのだ。
注8
ストア派の摂理説
対
エピクーロス派の偶然説の対比。
マルクスの心を捉えていた問いで、
幾度も提示される。
注9
これらは外的で、それゆえ真の意味では
善でも悪でもない「無差別的なもの」である。
「中間的なもの」とも呼ばれる。
(
ストア派の善人悪人区分は
死と生、
名誉と不名誉、
苦痛と快楽、
富と貧などの外的なものでは判定されないのが面白い。
どの思想でも重要なのは善と悪の定義とそれらの根拠。)
一三
…
自分としては自己の内なるダイモーン(11)の前に出て
これに真実に仕えさえすればよいのだということ…
注11
ダイモーン
神的存在を指す一般的な語だが、
哲学では理性、人間の内なる神的部分を表す。
(
ストア哲学の定義は?
)
一四
…
万物は永遠の昔から同じ形をなし、
同じ周期を反復している(14)、
したがってこれを百年見ていようと、
二百年見ていようと、
無限にわたって見ていようと、
なんのちがいもないということ。
注14
ストア自然学の原則では、
宇宙は理性という、いわば最善の設計図に従いつつ
自己生成し秩序付けられ、
やがてすべてが火に化し、
その後再び同じ過程を繰り返す。
ただし、本個所は、世界の在り方に関する一般的な所感かもしれない。
第三巻
一
…
神的および人間的な事柄に関する知識(1)…
すでに人生を去るべき時ではないかどうかを判断すること(6)…
注1
この時期に最も一般的な哲学の定義の一つ。
注6
自殺は「理に適った離脱」と呼ばれ、
状況的な義務――
苦痛などの自然に反する外的な悪が外的な善を圧倒する場合、
自然に反するもののほうを選択するふさわしい行為――の筆頭である。
三
…
カルダイア人(9)たちは大勢の人間の死を予言したが、
そのうちに運命は彼らをも
つかまえてしまった。
…
ヘーラクレイトス(13)は宇宙の最後の燃焼についてあれほど多くの研究をなしたが、
結局体の中に水が一杯たまり、牛の糞にまみれて死んだ。
デーモクリトス(14)は虱に殺され、
ソークラテースは他の害虫に殺された。
(
ソクラテスは偉大という認識)
注9
バビュローニアの一地方名が元であるが、
古典文学では占星術師を意味する。
ヘレニズム期に東方からギリシアに到来したのちローマに伝わり、
帝政初期に大流行した。
1世紀末までに少なくとも9回罰せられている。
注13
ヘラクレイトス
前540-480年頃。
エペソスの狷介孤高の哲学者。
火を実体とする彼の自然哲学からストア派は大きな影響を受けている。
本個所で触れられる宇宙燃焼(宇宙が最後に火と化す教説)は
ストア派の自然学説である。
彼の水腫と最期については、
ディオゲネース・ラーエルティオス『哲学者列伝』九・三にある。
注14
デモクリトス
前460-370年頃。
アブデーラ出身の哲学者で古代原子論の完成者。
彼は虱で死んだのではなく、
長生きののち絶食死したとされるので、
マルクスは本個所で語られる死に関する逸話が伝わる前6世紀の
ペレキューデース(神話に関する著作を著した)と混同しているのかもしれない。
なお、ヘーラクレイトスとデーモクリトスの二人を
泣く哲学者と笑う哲学者という対にする扱いがローマ期の文学によく出てくる。
セネカ『怒りについて』参照。
四
…
我々はあらゆる人の意見を守るべきではなく、
ただ自然に従って生きる(16)人の意見のみを守るべきであることを記憶している。
注16
ストア派の人間の生の目的の定義
「自然と合致して(同じ理において)生きること」に基づく。
六
…
まっすぐな理性(17)にかなったこと
注17
たんなる人間理性ではなく、
賢者に実現される完全なあり方の理性で、
宇宙を支配する理性と同様である。
注18
エピクテートス
「吟味なき生は生きるに値しないとソークラテースが言っていたのと同様に、
表象を吟味せずに受け入れてはならない」(『語録』)
八
自ら自己を戒め潔(きよ)めた人間の精神の中には、
腫瘍も、汚れも、表面はきれいでいて内部の膿んでいる傷(19)のごときも、
いっさい見られないであろう。
注19
ストア派は初期から情念を傷に喩えるが、特にセネカに顕著である。
九
意見を作る能力を畏敬せよ。
自然にたいして、また理性的存在としての構成素質(21)にたいして
ふさわしくない意見が(我々の)指導理性の中に生ぜぬようにする役目は、
ひとえにこの能力の上にかかっているのだ。
またこの能力こそ(我々が)軽率になるのを防ぎ、
人間にたいする親しみと神々にたいする服従とを約束するのである。
注21
ストア倫理学の用語で、
元来は自然から授けられた動物の身体の造作(自己と種の保存に合致した固有の形態)を言う。
動物はこの自然の基礎に即して行動する。
人間は、自然によって理性が与えられており、
思考し命題に同意することで人間本来の行為をなす。
第四巻
一
…
彼は特にこれという一定の素材(1)を好むわけではなく、
その目的に向かって、
ある制約の下に(2)前進する。
そしていかなる障碍物にぶつかろうともこれを自分の素材となしてしまう。
注1
徳という生の技術が対象とする素材、
つまり具体的な状況のこと。
注2
直訳は「留保とともに」。
ストア倫理学の用語で、
動物のように好ましいか厭わしい表象に即座に譲歩して
衝動の発動を許すのでなくて、
表象内容を吟味すること。
(
日本人に多いお気持ちご都合主義者(高確率で拝金労働教徒)は
ストア派では単に動物的衝動に従っているだけの小人。
ストア派では金持ちか貧乏かはその人が善悪かどうかの基準に含まれないので
金持ち=その人自身が善
貧乏=その人自身が悪 という拝金主義を否定)
三
…
君は全体の中から自分に割りあてられていることにたいして
不満を持っているというのか。
つぎの選言問題を思い起すがよい。
「摂理か原子(3)か。」
また宇宙は国家に似たものであるということがどれだけ多くの事実によって
証明されているかを思い起すがよい。
それとも肉体のことが君を未だにつかまえて放さないのか。
ひとたび叡智が自己を取りもどし、
自己の威力を知ったときには、
平らかにまたは荒々しく動く息(4)になんの関わりも持たないことを思え。
また苦痛や快楽について君が聞きかつ同意したところのこと(5)をことごとく思い浮かべよ。
…
宇宙即変化。人生即主観(6)。
注3
宇宙に関するエピクーロス派とストア派の教説の対置。
いずれにしても不満をもつべきではない。
注4
身体の快感と苦痛のこと。
「滑らか」「ざらついた」というエピクロース派の用語に
ストア派の「息(生体の原理物体)」が付け加えられている。
注5
身体の快苦は「無差別的なもの」「中間的なもの」に属し、
真の善悪に無関係である。
注6
「哲学者デーモクラテースの金言」の題名の下に伝わる86の格言集成の85番目と同じで、
原子論者デーモクリトスの倫理思想と近く、
彼の断片とされる(断片115(ディールス-クランツ))。
四
もし叡智が我々に共通なものならば、
我々を理性的動物となすところの理性もまた共通なものである。
であるならば、我々になすべきこと、
なしてはならぬことを命令する理性(7)もまた共通である。
であるならば、法律もまた共通である。
であるならば、我々は同市民である。
であるならば、我々は共に或る共通の政体に属している。
であるならば、宇宙は国家のようなものだ(8)。
注7
これ自体がストア派の法の定義である。
(
ストア派のコスモポリタニズムはカント哲学に影響している。
カント哲学は
— 子×5(ねここねこという読み方が代表的です、よろしくおねがいします。未整理図書館「読めニク」長です) (@kitsuchitsuchi) 2017年12月26日
啓蒙主義
反イエズス会
共和制支持
ストア派の影響
ヴァイスハウプトそっくりだ!
イルミナティ陰謀論を発明したバリュエル神父は王政側でイエズス会士だから
叩く対象はヴァイスハウプトだけではなく類似の思想家にも及ぶ。
バリュエルが晩年に取り組んでいたのはカント哲学批判。
設計思想:ストア派の自然=神の意図により世界市民主義は広がり
— 子×5(ねここねこという読み方が代表的です、よろしくおねがいします。未整理図書館「読めニク」長です) (@kitsuchitsuchi) 2017年12月26日
世界平和は達成される運命。
…
イエズス会流詭弁を批判…世襲貴族禁止…
世界共和国、世界市民法
(ストア派のコスモポリタリズム)
「神の自然が意志であり、その意志は善なるものなのだ」
というストア哲学そのまんまのカント哲学。
)
十一
君に害を与える人間がいだいている意見や、
その人間が君にいだかせたいと思っている意見をいだくな。
あるがままの姿で物事を見よ。
一二
つぎの二つの思念をつねに手許に用意しておくべきである。
その一つは、王として立法者としての理性が、
人間の利益のためになせと君に命ずることのみ
おこなうこと。
もう一つは、もし誰か君のそばにいて、
君のひとりよがりの考えをただし、
これを変えさせようとする人がいたら、
考えを変えること。
但しこの変化はつねにそれが正しいことであるとか、
一般の人びとの利益であるとかいう確信によるものであるべきで、
――動機はこれに類したことにかぎる――
そのほうが愉快そうだ、とか人気がありそうだ、とかいうのであってはならない。
(諫言は適切なら採用せよ、
甘言は聞くな。
佞臣対策を本当に徹底している)
一四
君は全体の一部として存続してきた。
君は自分を生んだものの中に消え去るであろう。
というよりはむしろ変化によってその創造的理性(13)の中に再び取りもどされるのであろう。
注13
ストア自然学の概念。
種子的理性とも訳され、
種(精子)に含まれる理性(比)で、
遺伝子のようなもの。
ストア派は、宇宙自体と諸事物の生成と進行の過程を、
生物の発生と形質発現の類比で捉える。
十七
あたかも一万年も生きるかのように行動するな。
不可避のものが君の上にかかっている。
生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。
二一
もし魂が(死後も)みな存続するならば、
いかにして空気はこれらの魂を永遠の昔から包含しているのであろうか。
いかにして地球はそんな永遠の昔から葬られた人びとの身体を包含しているのであるか。
地上においてはこれらの身体がしばらく土の中に滞在した後、
変化し分解して他の死体に場所をあけるが、
ちょうどそのように魂も空気の中に移されてからしばらくの間そのままでいて、
やがて変化し、飛散し、宇宙の創造的理性に取りもどされ、
そういうやり方でそこへ住処(すみか)を求めに来る人たちに場所を備えるのである。
魂が死後も存続するという仮定をすれば、
以上が人に与えうる答えである。
このようにして葬られる人びとの数知れぬ身体のみではなく、
日々我々やほかの動物に食べられてしまう動物のことも考えに入れなくてはならない。
かように食べられて、
いわばこれを食べる者の身体の中に埋葬されてしまう動物の数はどんなであろう。
それにもかかわらず、彼らが血になったり、
空気や火に変ってしまうこと(16)によって彼らすべてに場所ができるのだ。
この点に関して真理を見出す道はなにか。
物質(ト・ヒューリコン)と形相因(ト・アイティオーデス)(17)とを分けることだ。
注16
消化され血となり、
それに含まれる気息(火と空気の混合物で魂の素材)に変わること。
注17
「質料的なもの」と「原因的なもの」とも訳される。
ストア派は物体のみで実在であるとする唯物論に立つが、
実体の特質は能動性と受動性の両方向から捉えられ、
前者は神、
後者は質料とも呼ばれる(マルクスは質料を実体(物質)とも呼んでいる)。
これらは人間においては、
心と身体(精神と物質)として把握される。
なお、この文は前の文と無関係かもしれない。
二二
渦巻に足をさらわれてしまうな。
あらゆる衝動において正義の要求するところに添い、
あらゆる思念において理解力(19)を堅持せよ。
注19
「把握」とも訳される。
ストア派の認識論では、
対象そのものに基づく真なる表象は
「把握的表象(phantasia katalēptikē)」と呼ばれる。
二三
おお宇宙よ、すべて汝に調和するものは私にも調和する。
…
「おお親愛なるゼウス(21)の神の都よ!」と。
注21
ギリシアの最高神であるが、ストア自然学では宇宙の理性と同一視される。
(
神の都=宇宙)
三〇
一人の哲学者はシャツなしで暮し、
一人は書物なしで、
もう一人は半裸でいる。
彼はいう「私はパンを持っていない、
しかし理性にたいする忠誠を守っている。」
私はいう「私は学問から生活の資を
〔得ていない、
しかし理性にたいする忠誠を守っている(27)。〕」
注27
ストア派の源流でもあり、
いわゆる犬のディオゲネースで名高いキュニコス派は、
弊衣粗食を旨として(例えば、肌着を着けなかった)、
社会慣習のみならず、
自由人にふさわしい教養学科(ここでは書物で象徴されている)も無用と見なし、
真の幸福に寄与する生の技術としての哲学の実践のみを主張した。
なお、この〔 〕内の個所の解釈には諸説がある。
否定辞を移動させる案を取るなら、
「私は学問からの糧はあるのに、理性を保持していない」、
つまり教養をもちながら哲学の教えを実践していないというマルクスの自己批判になる。
四七
もしある神が君に
「お前は明日か、またはいずれにしても明後日には死ぬ」といったとしたら、
君がもっとも卑劣な人間でないかぎり、
それが明日であろうと明後日であろうとたいして問題にしないだろう。
というのは、その間の期間などなんと取るに足らぬものではないか。
これと同様に何年も後に死のうと明日死のうとたいした問題ではないと考えるがよい。
四〇
宇宙は一つの生きもので、
一つの物質と一つの魂を備えたものである、ということに絶えず思いをひそめよ。
(宇宙は霊的なもののみからなるという思想ではない。
ストア派の宇宙の元ネタがバラモン教のブラフマンっぽいのだが。
Itsuki@Itsuki57343297
5月14日
メモ
『アウレリウス自省録』
・「自然=ロゴス=宇宙の秩序=人間が分かち持つ理性」
・「善」=「ためになるもの」=幸福。
悪=ためにならないもの。
善悪無記。道徳的な意味はない。
・寛容→カエサルのモットーだな。
そもそも人間は許し合い、助け合うもの。
道徳ではなく、その方が生存に適してるから。
なんかアイヌの考えに通ずるものがあるような。
人間も自然(宇宙)の中の生き物なんだから
睡眠とか排泄とか摂食とか“自分の意思”ではないことに支配されてる。
で、みんな幸福(善)になりたい。
この考えがあれば、
人も神様もマキリ(人ができないことを実現する道具等)も同じと思える気がする。
生存戦略。
)
四一
エピクテートスがいったように(42)
「君は一つの死体をかついでいる小さな魂にすぎない。」
(
魂>肉体)
p.70
五一
つねに近道を行け(58)。
近道とは自然に従う道だ。
そうすればすべてをもっとも健全に言ったりおこなったりすることができるであろう。
注58
キュニコス主義はストア派によって「徳への近道」と言われる。
ディオゲネース・ラーエルティオス『哲学者列伝』七・一二一参照。
第五巻
注5
ギリシアの最高神ゼウスは、
ストア哲学では宇宙の理性、摂理、自然などと同定されるが、
元来は印欧語族に共通する天候神であり、
大気内の現象を司り、雨を降らせる。
注6
一巻注(53)参照。
アスクレーピオスはギリシアの医術の神で、二世紀に流行した。
一〇
物事はある点からいえばひどく神秘につつまれているゆえかなり多くの哲学者たち(8)が、
しかも凡庸ならざる哲学者たちが、
これは我々のまったく把握できぬものであると考えた。
しかのみならずストア派の哲学者たちさえもこれを把握し難いものと考えた。
注8
懐疑主義の哲学者たちは、
対象の確実な把握というストア派の認識論を攻撃した。
p,81
…
宇宙が一定の周期に支配されている(12)…
注12
宇宙が周期的に発生から燃焼へ至る同一の過程を繰り返すというストア自然学の教説への言及。
一四
理性と論理の術はそれ自体において、
またその固有の働きにおいて自足せる能力である。
それは自己に特有の原理から出発し前におかれた目標に向かって進んで行く。
それゆえにこのような行動は
「まっすぐな行為(カトルトーセイス)」(13)と名づけられる。
それはまっすぐな道を行くことを意味するのである。
注13
ストア倫理学の用語で、
賢者の行為を指す。
「正しい行為」とも訳されるが、
アウレーリウスの語釈のように「まっすぐな」という形容が含まれている。
一般人の(親の務めというような場合の)義務、
「ふさわしい行為」は、事実的な自然性や慣習に従うものでよく、
行為の始点を問わない。
これに対して、賢者の行為である「完全にふさわしい行為」は、
外的には変わらなくとも、彼の正しい意志に発しており、
宇宙の理性である「正しい(まっすぐな)理性」にかなっている。
(ストア派は理性と論理重視)
一五
人間に人間として与えられていないことを人間の本分と呼んではならない。
これは人間に要求されていることではない。
人間の(内なる)自然はこれを保証しない。
またこれは人間の自然の完成でもない。
それゆえ人間のための目標(14)はこれらのものの中に存在しないし、
その目標を完成するもの、すなわち善もこれらの中にない。
注14
ストア派の生の目的の最も標準的な定式は
「自然と合致して生きること」である。
これは「徳に従って生きること」と同じである。
ディオゲネース・ラーエルティオス『哲学者列伝』七・八七参照。
一六
君の精神は、君の平生の思いと同じようになるであろう。
なぜならば、魂は思想の色に染められるからである。
君は魂をつぎのような思想の連続で染めるがいい。
たとえば――生きることが可能なところにおいては善く生きることも可能である。
しかるに宮廷でも生きることはできる。
ゆえに宮廷(15)でも善く生きることができるのである。
さらに――各々の物はそれが創られた目的に向かって惹かれる。
それが惹かれるものの中にその目的がある。
目的のある所に各々の利益と善がある。
さて理性的動物にたいする善とは社会的生活を営むことである。
なぜなら我々が社会生活を営むように生まれついているということはずっと前に明らかにされた。
それに低いものは高いもののために、
高いものはお互いのために創られていることは明らかではなかったか。
しかるに生物は無性物よりも高く、
理性を有するものは単に生きているものよりも高いのである(17)。
(
ストア派は目的論らしい。
アリストテレスの影響?
理性ある神々>理性ある生物(人間)>理性がない生物>無生物。
ストア派は出家せよという思想ではない。
エピクロス派は出家せよ。
出家といっても、
「与えられていないものを取るな」(盗みの禁止+布施のみで生きよ)ほどではない。
倫理bot@rinnri_bot
12月1日
自然界の事物はすべて自らの形相(本質)を実現するという目的を有しているとする目的論的自然観を説いた……アリストテレス
sandcake@sandcake3
12月3日
アリストテレスは「自然学」を運動の研究と定義した。
可能態から現実態へと向かう目的論的過程として。
また火風水土の四元素はそれぞれ月の領域(火)、
大気圏(風)、
海(水)、
大地(土)と自分の場所を持ち、
自分の場所へ戻ろうとして上下運動(循環)する。
「自然」とは"本来の"(場所へ戻る傾向)という意味。
12月4日
アリストテレスの自然観は目的論的(質料→形相)であり、有機的だ。
さらにスコラ学は形相を実体と呼び、魂(実体)、身体(質料)とした。
この実体は物質にもあり、物質は精気を持つ(物活論)。
デカルトは心身二元論により、物質(延長の実体)と精神(思惟の実体)を区別し、精神を確立し、物活論を排除した。
11月29日
神の存在証明
・宇宙論的証明
原因と結果の「法則」を突き詰めると究極原因が要請される。
アリストテレス、トマス・アクィナスなど
・目的論的証明
自然界の精巧な秩序は、誰かが「目的」をもって設計(デザイン)した証拠である。
使徒パウロ(聖書)、インテリジェント・デザイン論など
・存在論的証明
永遠の「概念」を私は持っている。
存在しないものは永遠とは言えない。よって永遠は存在する。
アンセルムス、デカルトなど
・道徳論的証明
普遍的な「価値」が存在しないなら、人生は無意味で虚無と化す。
ゆえに普遍的な価値の存在が要請される。
カント、キルケゴールなど
coco@imawriter1105
4月10日
大澤真幸の『社会学史』、ルーマンのアリストテレス解釈に触れてるところが面白い。
アリストテレスの特徴はピラミッド型の目的論的哲学。
ルーマンによるとこれは、アリストテレスの生きた成層的なギリシア社会の構造が反映された結果らしい。
こういう見方は知識社会学のそれですね。
)
二六
君の魂の指導理性であり支配者であるところのものは、
君の肉の中に起る剛柔の動き(24)に、
泰然自若としていなくてはいけない。
このような動きにはかかわりあわずに孤立し、
欲情は肢体の中にとじこめておくべきである。
しかし〔他の〕交感性があるために、
一つの体である以上当然考えられるように、
欲情が精神の中にも昇って行くときにはその感覚は
自然のものなのだからこれに抵抗しようとしてはならない。
ただし君の指導理性はこれが善いとか悪いとかいう意見をみずから加えぬようにすべきである(25)。
注24
純粋に身体的な快感と苦痛のこと。
これらは日常語では善悪に含まれるが、
ストア哲学では、善悪は心のあり方(倫理的価値)にしか関わらないので、
無差別的なものである
(ただし、快には自然的=事実的な正の価値、
苦には負の価値がある)。
なお、このあとの「欲情」は、
そうした快苦のもたらす心の興奮状態を意味する。
注25
心身は物体として顕密に連繋する以上、
突発的または強烈な快苦の動と表象が伝達されると、
善または悪でないと分かっていても身体の反応を制御できない。
例えば、勇敢な兵士でも、
戦闘を前に身体の震えなどの情念の表出と類似した反応が出る。
自然的価値と真の善悪を混同すると、
理性は転倒し、情念と化す。
それゆえ理性は、表象に対してすぐに同意せず、
留保をして、それが善や悪であるかどうか吟味すべきである。
二七
神々とともに生きること。
神々とともに生きる者とは神々にたいしてつねに自己の分に満足している魂を示し、
ダイモーンの意のままになんでもおこなう者である。
ダイモーンとはゼウス自身の一部分であって、
ゼウスが各人に主人として指導者として与えたものである。
これは各人の叡智と理性にほかならない。
(
ダイモーン
=指導理性(ト・ヘーゲモニコン)
)
二九
君がこの世から(28)去ったら送ろうと思うような生活は
この地上ですでに送ることができる。
しかし他人(ひと)がその自由を許さないなら、
そのときこそ人生から去って行け。
ただしその場合ひどい目に遭っている人間としてであってはならない。
「煙ったい、だから私は去って行く(29)。」
どうしてこれを重大なことと考えるのだ。
…
注29
エピクテートスの言葉。
「家の中で煙が立ちこめている。
ほどほどなら留まろう。
ひどすぎるなら出ていこう」
(『語録』一・二五・一八)。
みずから命を絶つ「理に適った離脱」は、
「状況的なふさわしい行為」で、
煙に準(なぞら)えられている病苦などの自然的(外的)悪が
自然的善を圧倒する場合に選ばれる。
自然的価値の計量に基づくので、
善悪(徳と悪徳)や幸不幸とは関係しない。
(
自殺を否定しないのがストア派の特徴。
)
三三
…
感覚的なものはことごとく
うつろいやすく動きやすく、
我々の感覚機能も鈍く欺かれやすく、
魂それ自体も血から発散する煙(34)にすぎない。
それならば残るはなにか。
消滅か、もしくは他に移されるのをいさぎよく待つことだ(35)。
その時がくるまで、どうすれば足りるのか。
神々をうやまい讃え、人間に善事を施し、
彼らを「耐え忍び我慢すること(36)」以外のなんであろう。
注34
魂は火的な物体であり、
天の火が海と大地からの蒸発物を燃料とするのと同じように、
血液からの蒸発物によって養われている。
(
魂の燃料は血!)
注36
「(苦痛に)耐えよ、(快楽を)控えよ」
(エピクテートス断片一〇(シェンクル))が
マルクスの心の師エピクテートスの標語であった。
三四
正しい道を歩み、正しい道に従って考えたり行動したりすることができるならば、
君の一生もつねに正しく流れさせることができる(37)。
…
注37
「生の滑らかな流れ」はストア派の開祖ゼーノーンによる目的(幸福)の定義である。
三六
…
〔君もここでそうせよ](38)。
…
注38
一般人(愚者)が自然的な価値(健康、美貌、富、家族など)を
失って悲しんでいる様子を目にしても、
その表象に引かれて悲しんではならない
(それらは真の善ではないのだから)。
自身はそうした感情に溺れずに、
共感の態度をもって相手に助力すべきことを、
(本個所の感情は哀しみでなく喜びであるが)
喜劇の一場面に重ねているのであろう。
老師が子供と別れるさいに、
彼を喜ばそうと、
わざと彼の玩具を記念にくれるように頼む。
子供は一般人または愚者、
玩具は彼にとっての善である自然的価値を意味し、
哲学を納める者は、
それが真の善ではないと知りつつ、
嬉しい態度で受け取るべきである、といったことと考えられる。
なお、この後に数語、大きく破損した原文が続いているが、
神谷に従い訳出を控える。
第六巻
四
すべて眼前に横たわるものはすみやかに変化し、
ことごとく発散(2)してしまうか――
もし物質が一つのものならば――、
あるいは分散してしまうのであろう。
注2
分解して煙のような微細なものに変わること。
ストア自然学では宇宙は最終的にすべてが火と化す。
その過程は常に不可逆的に徐々に進行している。
これに対して、
原子が絶えず結合と分離を繰り返すというのがエピクーロス派の見解である。
ここは死を二つの理論で語ったもの。
六
もっともよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ。
十
注10
ストア自然学では、
万物に浸透している気息(pneuma)が各事物を成り立たせている。
気息は緊張の度合いに応じて、
無機物では「状態(hexis)」、
植物では「自然(physis)」、
動物では「魂(psyche)」、
人間では「理性的魂」または「理性(logos)」となる。
十五
…
各人の生命それ自体も血から蒸発したもの、
空気から吸い込まれたものに似ている(12)。
注12
ストア自然学では、
胎児を活かしているのは植物と同じ自然であり、
生まれて呼吸を始めた瞬間、それが魂に変化する。
十七
上へ、下へ、または円を描きつつ元素は動く(16)。
しかし徳の運動はその中になく、もっと神的なもので、
測りがたき道をいみじくも進んで行くのである。
注16
四元素(構成要素)のうち、
火と空気は上方へ、
土と水は下方へ運ばれる。
これに対して、
天の純粋な火(アイテール)は周回運動を行っている。
注35
ストア倫理学では、有益とは善の固有性質であり、
厳密には徳と徳に即した行為にのみ言われうる。
この観点からすれば個人の善と宇宙の善は合致する。
これに対して、
日常語で有益であると言われる健康や富などの自然的価値をもつものは善悪無差別的である。
第七巻
一七
幸福(エウダイモニアー)とは善きダイモーン、
または善き〔指導理性〕のことである。
ではお前はここでなにをしているのか、おお想像力よ(15)。
神々にかけていうが、あっちへ行け、
お前がやってきたのと同じように。
なぜなら私はお前を必要としないのだ。
それなのにお前は昔からの習慣でやってきてしまった。
私は別にお前に腹を立てているわけではないが、
ただあっちへ行ってくれ。
三一
…
ある人はいう(28)。「万物は法則に従う、
ところが〔実はただ元素のみ〕」と。
しかし万物は法則に従うとだけおぼえていれば十分。〔これできわめて簡潔だ。〕
注28
原子論者デーモクリトスを指す。
なお、本個所の原文と解釈は不確かで、
神谷はヘインズに従って言葉を補っている。
デーモクリトスは、知覚像は相対的であり、
真に存在するのは原子と空虚であると主張した。
マルクスは、デーモクリトスが用いた
「法則(=慣習、主観)」という語を、
ストア哲学の「共通の法」に読み換える。
三二
死について。
原子ならば分散。
統一ならば、消滅かもしくは移住。
三三
苦痛について。
「耐えられぬものは殺す、
長く続くものは耐えられるものである(29)。」
精神は自己を取り戻すことによって平安を保ち、
指導理性はそのために損なわれない。
苦痛によって傷つけられた部分としては、
できるものならこれについていいたいことをいうがよい。
注29
エピクーロスの言葉として名高い。
「大きな苦痛はすぐに過ぎ去る。
長い苦痛は大きさをもたない」、
「なぜなら、過度の苦痛は死に繋がるから」(断片447、448)
第八巻
注1
ローマの上流階級は哲学から距離をもつことを求められた。
三
…
ディオゲネース(4)
注4
ディオゲネス
前412/03-324/1頃。
シノーペー出身の哲学者で、キュニコス派の象徴的存在。
362年以後、シノーペーから追放されてアテーナイとコリントスで過ごした。
形骸化した伝統体制に抗して「自然に従う生」を範に掲げ、
乞食生活と奇行で実践した。
ストア哲学の精神的父として、
帝政期ストア派では尊重される。
注75
誤った語源による説明。
ストア派は俗用語源による解釈を愛好した。
五八
死を恐れる者は無感覚を恐れるか、
もしくは異なった感覚を恐れるのである。
しかし(死後は)もう感覚が無いのだとすれば、
君はなんの害悪も感じないであろう。
またもし別の感覚を獲得するならば、
君は別の存在となり、生きるのは止めないであろう(76)。
(
おそらく輪廻なし説と輪廻あり説)
第九巻
注7
疫病は汚れた空気によって伝染すると考えられていた。
166年に遠征先のメソポタミアから帰還した兵士によってもたらされた疫病の大流行は、
彼の治世とローマ帝国に深刻な影響を及ぼしている。
p.168-169
三
死を軽蔑するな(8)。
これもまた自然の欲するものの一つであるから歓迎せよ。
…
分解することもまた同様の現象なのである。
したがってこのことをよく考えぬいた人間にふさわしい態度は、
死にたいして無関心であるのでもなく、
烈しい気持をいだくのでもなく、
侮蔑するのでもなく、
自然の働きの一つとしてこれを待つことである。
そしてちょうどいま君が妻の胎から子供が産まれ出る時(9)を待っているように、
君の魂がその被いから脱け出す時を期して待つがよい。
注8
本個所はある種の哲学的言説に対する自戒を含んだより一般向けの考察であろう。
注9
ファウスティーナは14人もの子を産んでいる。
まお、死を誕生と重ねる比喩のより巧みな使用は、
セネカ『倫理書簡集』に見出される。
(
今日の言葉:マルクス・アウレーリウス『自省録』から
https://konton88.exblog.jp/8177621/
”「人間にふさわしい態度は、死にたいして無関心であるのでもなく、
烈しい気持ちをいだくのでもなく、侮蔑するのでもなく、
自然の働きの一つとしてこれを待つことである」/マルクス・アウレーリウス『自省録』
(神谷美恵子訳・岩波文庫146)
鈴木照雄訳(講談社学術文庫P159)の文章は大分違います;
「死に対して粗放な態度も短兵急な態度も傲慢な態度もとらず、
却ってそれを自然の営みの一つとして待つこと、
これは思慮を重ねた人間に相応しいことである。」
…
“Est igitur hominis, qui rem reputavit, neque negligenter,
neque violenter, neque fastuose adversus mortem se gerere,
sed eam tanquam unam actionum naturalium exspectare;”
…
“This, then, is consistent with the character of a reflecting man,
to be neither careless nor impatient nor contemptuous with respect to death,
but to wait for it as one of the operations of nature.”
この“contemptuous”は「軽蔑的な」という意味
”
)
注40
「哲学者が統治を行うか、
統治者が哲学をするなら国家は栄えるであろうというプラトーンの言葉を、
マルクスは常に口にした」
(『皇帝群像』「マルクス・アントーニーヌス」27・7、南川高志訳)。
(哲学者が統治するという意味での哲人政治を実現した皇帝マルクス。
コスモポリタリズムに向かって生きた皇帝。
しかしストア哲学でありプラトン哲学の『国家』のようなナチ的制度にはしなかった。
プラトンは世界市民主義についてはどう考えていたのだろうか?
西洋思想の基盤がプラトン哲学と、プラトン主義を凶悪化させたキリスト教。
プラトンは優生学、職人軽視、
知性主義、偽りの公平感を与える儀式(選挙)の基盤。
彼の著作は『詭弁術』シリーズと呼ぶべき。
何か巧妙な籤が作られなければならないだろう。そうすれば、それぞれの組合せが成立するときに、先述の劣ったほうの者は自分の運を責めて、支配者たちを責めないことになるだろうからね 『国家』プラトン
— 峨骨 (@Chimaera925) 2016年4月26日
不正選挙が話題だけど、まるで公正な選挙が存在するかのようだ。この時点で罠にかかっている。
そりゃ、選挙で選べないからな。公約を破っても処刑される訳でもないし、多数派は直ぐに忘れて報道に流される。名前連呼されてワンワードしか唱えない奴が国民の利益になるかどうかなんて、そもそも解らんしな。企業の面接ですら企業の不利益になる人間を見抜けない訳で。
— 峨骨 (@Chimaera925) 2019年12月13日
投票した有権者の責任などと言うが、
公約、約束を反古にする所まで予測して選べと言うならシステムそのものに欠陥がある。
選出された人間の善意や良識、常識、恥の意識なんぞに左右されるシステムなんぞ欠陥品もいいとこだ。
フィクションは支配者の本音漏れまくり。現代でもなお、虚構と現実の区別どころか虚構=現実の一部。プラトンが架空の人物ソクラテスを使ってフィクションとして語らせたのは、結社の攻撃を避けつつ秘教を暴露する為でしょう。真は嘘から出る。」https://t.co/zNMcKijLms
— なかだち (@madaraiguana) 2019年10月6日
万教帰一は他の宗教を滅ぼせが本音なので悪。
— 子×5(ねここねこという読み方が代表的です、よろしくおねがいします。未整理図書館「読めニク」長です) (@kitsuchitsuchi) 2017年10月29日
スピリチュアル♰のワンネスとアストラルの源流が
新プラトン主義の神Oneと
16世紀のパラケルスス派のアストルム。
オカルト百科
パラケルスス(ホーエンハイム)がいなければ薔薇十字もなかったhttps://t.co/GbFqg2hII7
読めないニックネームhttps://t.co/ZR0iLTsDNW
— 不知 (@mod_str) 2017年11月30日
「スピリチュアルとは、新プラトン主義と
スウェーデンボルグ派のキリスト教神学と
神智学(インド風キリスト教)を核に、
その核を隠すために現代の科学知識で覆ったものである」
と私は定義する。言い換えるなら、
作り直された神学=新キリスト教。
プラトンは優生学と職人軽視(肉体労働しない者が一番偉い)と理性崇拝と知性主義(馬鹿は人間ではない)と偽りの公平感を与える儀式(選挙など)の基盤。マギの弟子のプラトンの『国家』は『マギ』の一つ目フリギア帽子モガメット学長の演説の元ネタ。http://t.co/adaAO3RA6j
— 子×5(ねここねこという読み方が代表的です、よろしくおねがいします。未整理図書館「読めニク」長です) (@kitsuchitsuchi) 2014年10月26日
プラトン『国家』を読む。なにかやたらと人が持ち上げる本なので難しいのかと思ったが、今読んでいる箇所はまだ簡単だ。同筆者の『テアイテトス』の方が面倒だった。アリストテレスの『政治学』の土台と聞いて読んでいるが、気楽に読んでもいけそうな軽さだ。
— トピルツィン (@toopiltzin) 2018年8月7日
329A「われわれは、古い諺のとおりに、同じくらいの年齢の者が何人かいっしょに集まることがよくあるのだが、そういう集まりの場合、われわれの大部分の者は、悲嘆にくれるのがつねなのだ。
……なかには、身内の者たちが老人を虐待するといぅてこぼす者も何人かあって……」
紀元前に老人虐待。
「昔は老人は重宝された」という言葉はよく聞くが、プラトンが見た時代は彼らの言う「昔」ではないらしい。
377B-C
「そうなると、どうやらわれわれはまず第一に、物語の作り手たちを監督しなければならないようだ。
そして、彼らがよい物語を作ったならそれを受け入れ、そうでない物語は退けなければならない」
「どのような物語をですか?」
377D
「ヘシオドスとホメロスがわれわれに語った物語、そしてその他の詩人が語った物語のことだ」
紀元前の有害図書指定。
以後、プラトンは色々と子どもに読ませるべきでない要素を挙げていく。
理想論としても潔癖症だ。
・(神同士に関係で)子が親に害を与える
・神対神の策略、敵対行為
・神が人間に災いを与える
・神が変身する
・神が嘘をつく
・死後の恐ろしさ、陰鬱とした雰囲気
・死を嘆く描写
・神々が笑いをこらえきれないこと
・神々が欲望に駆られる様(浮気など)
・神々が貢物を受け取るとおとなしくなること(賄賂として機能した場合)
378A
「たとえほんとうのことであったとしても……
そう軽々しく語られるべきではないと思う。
黙っているに越したことはないけれど、もしどうしても話さなければならないようなことがあったなら、
できるだけ少数の人が秘密のうちにそれを聞くべきだろう」
389B
「したがって、もし偽りを言うことが誰かに許されるとすれば、国の支配者たちだけが、国民なり敵たちのために、それが国家に有益である場合、偽りを言うべきであろう」
この辺の露骨な言論統制は面白い。一応、プラトンは民主政に振り切れたアテナイでこれを書いたはずである。それがまた面白い。
プラトンの表現力は本物だ。読んでいて、なにを言っているかわからないということはまずない。ただ『国家』の中で語られるプラトンの理想には疑問しか抱かない。なんとも言えない表情で読み進めている。
この振り切った理想論をアリストテレスが批判していると聞けば、期待せずにはいられない。
もうそろそろ岩波版の上巻が終わる。それにしても、プラトンの「国家」には住みたくない。
市民を健全なものとするためにとはいえ……
・不健全な芸術・表現の排除
・財産の共有(私有財産制の否定)
・独裁制か寡頭制
・”劣った人間”の排除
・支配体制の確立に神話(作り話)を利用
特に”劣った人間”の排除の箇所は、優生学を何度も思い起こさせた。
ここで言う排除は「生かしておかない」ということで……つまりそういうことである。
下巻を読み始めたがもうプラトンが何を書いてくるか読めてきた。
要するに「ソクラテスは凄い。ソクラテスが国政に携われば良い国になる。だからソクラテスをたくさん作ろう。忍耐強く、真実を愛し、兵士として優れ、死を恐れない”あの人”をたくさん作ろう」上巻は本当にこれしか書いていなかった。
ソクラテスみたいな人間を増やそうって発想がとてもヤバイ。
どのページだか書き忘れたが「優れた人は死後、幸福な生活を送るだろうし他方、仮に死後の世界がなかったとしても……」云々という文章があった気がする。
プラトン自身がどういう立場だったかは難しいが、
よくある反論として「あの世なんてあるわけがない」ということは想定できたようだ。
「古代人は現代人と違って神を本気で信じていた。我々とは全く違う考えだった」という類の……
どこの木村とは申し上げないが、そういう考えの方がいらっしゃるのは重々承知している。
しかし現実問題として、目に見えないものは「もしかして存在しないのでは」と考えるのは自然だし、それがなかったという方が無理がある。なぜ現代人に”だけ”「神はいないのでは」と考えることができて、古代人にできないといえるのだろう。
我々が古代と呼ぶ時代に地球の大きさが測られ、”世界地図”が作られ、地球より太陽が大きいことを知っている人がいた。それでもなお、彼らの知性は宗教には全く及ばなかったとなぜ言い切れるのだろう。不思議である。
しかしそれにつけても……と思うのは、プラトンは「自分が良いと思うものは、他人にも良い」と強く思い込む所である。ある意味では当たり前だ。次のような文章なら通る。「もし私が飢えていたなら、食べ物がほしいはずだ。だから私は食べ物を贈る」
だが、次のような文章なら考え込まずにはいられない。
「私はソクラテスを素晴らしいと思う。だからあなたもそう思う」
「私はソクラテスになりたい。だからあなたもそう思う」
「私はソクラテスは幸せだったと思う。だからあなたもそう思う」
「あなたはソクラテスになったのだから、幸せである」
本気でこんな感じの文章を延々と書き綴っている。
プラトンは馬鹿ではないので、説明が必要な箇所では具体例が入る。
しかし、要するに「ソクラテス」に近い話だと説明なしに、
「当然そうだ」で話が進む。
結果、次のような文章ができあがる。
「理想の国家とは、ソクラテスを養成することにある。
優れた知性の人(ソクラテス)が支配者になるべきだし、
他の人々(ソクラテスでない人)は彼が支配者になるよう懇願すべきだ。
また、兵士たち(部分的にソクラテス)は他の人々の上位に位置する」
「こうして支配者(ソクラテス)>兵士(ややソクラテス)>商人や職人(ソクラテスでない)という理想の社会ができあがる。
節制できる人(ソクラテス)は金銭も持たず、権力も持たず、
給与は現物支給(食べ物)でも文句は言わないし、むしろ幸せである(だってソクラテスなんだぜ?)」
「とにかく、国家の重要な役職は知を愛する人(ソクラテス)が占めるべきである。そうする限り、国家に節制と勇気と知恵(ソクラテス要素)が満ち、正義(ソクラテス要素)もまた国家にある」
率直に言う。誰かプラトンを止めてやらなかったのか?
ついでに「哲人政治」について。マルクス・アウレリウスは哲学者だったが皇帝に抜擢された人物である。この部分だけ切り取って「マルクスは哲人皇帝だ」という文章をたまに見る。
しかし、マルクスはプラトンの望みは叶えなかった。言論統制も、私有財産制の否定も、国家の改造も行わなかった。
同じように若い頃、哲学者として過ごし皇帝に抜擢された人物としてユリアヌスという人物がいる。だがこの人もまた、「プラトンの理想」に近づきもしていない。「哲学者が支配者となれば、国家は変わる」とプラトンは書くが、事実はそうならなかった。哲人政治は未だに実現していない。幸いなことに。
587A
「しかるに、愛知と道理から最も隔たっているものこそが、そのような事態を最も引き起こしやすいのではないだろうか」
ここだけ抜き出すとなにかおかしい。
言うまでもないことだが、ここで言う「愛知」とは知識や知ることを愛することを指す。元々が単語だったので直訳したのだろう。……ところで、日本語の愛知県の語源はなんだろうか。
とりあえず読み終わる。イデア論?の下りを除けばさほど面倒な表現もなく終了。とはいえ、まさにそのイデア論のあたりが、プラトン自身書いててよくわかってない感が伝わっていて辛い。同じことを別の名前を読んではいけないって初期対話篇で自身で書いていたはずなのだが……
ともかく話を広げすぎて収拾がつかなくなった、というのが第一印象。これなら『クリトン』『ゴルギアス』『プロタゴラス』あたりの現実的に納得できる範囲で「正義」を求めた方がスッキリしただろう。
初期対話篇は「私はこうする」でまとまっているのだが、『国家』は「みんなに納得させる」ことを目指していびつになっている。それこそ『クリトン』で述べていたように「このことを納得するのは今までも少なかったし、これからも少ないだろう」と割り切った姿勢はどこに行ってしまったのか。
これはつまるところ、ソクラテスとプラトンの違いなのだろう。初期対話篇は常に現実と理想が並べて語られる。ソクラテスが死んだ理由は正義を貫いたからだが、それに加えて「もし不正を働いたなら、もう正しい人と交わることはできない」とか「老い先短い自分がそこまでして生きる必要があるのか」と
いった至って現実的なことも語られている。それがこの『国家』では!
プラトンがソクラテスを”超えて”いった先の話なのだろうが、なんとも物悲しい。あれほど師匠が気にかけていた現実への配慮を忘れて、ただただ理想を物語ることのなんと虚しいことか! かなり低い点を付けざるを得ない。
特に第十巻614Aあたりはむごい。ここでプラトンは「徳への報酬」を語っているのだが、その内容たるや! 彼によればあの世で1000年苦しめられず、幸せな時間を送れることこそが、600ページぐらい使って語った「徳の報酬」らしい。正気で言っているのか?
もちろん、ソクラテスも死後の世界には触れている。しかし、それは単に当時の常識を語っているに過ぎない。つまり、「冥府の裁判官は自分にいくらか好意的になるだろう」という下りは「閻魔様がいれば、ちょっとでも良いことしておけばマシに扱ってくれるだろう」と言い換えて現代でも語れる程度の話だ
それがプラトンになるとクソ真面目に「魂の不死」だの「来世のくじ引き」だの「1000年もの間与えられる苦しみ」だの、死後の世界を無駄に丁寧に解説、いや作り出している。こんな子ども騙しに引かれて善い人になろうと、そういう人間をプラトンは求めていたのか? 本当に?
ならば私は彼の正気の方をこそ疑わなければいけない。
(
※画像省略)
トピルツィン
@toopiltzin
2016年3月28日
アリストテレス学派のシンプリチオは実験はガリレオ自身が行ったのかどうかを質問した。
ガリレオは「やっていない。その必要もない」と答えた。アレクサンドル・コイレのような歴史学者たちはガリレオは実験物理学者というより概念論者であったとみなしている。
2016年3月29日
アリスタルコスの太陽中心説は力学的説明を欠いていた。それに対して、プトレマイオスの天動説はある程度において惑星の移動を明らかにした。
また、アリストテレスの影響も無視できない。彼は天体は神的で、永遠的であるから、天体の運動は一様にして円形であると考えた。
ガリレオ。彼は望遠鏡を用いることでアリストテレスの唱えた世界観に反論した。また、『対話』という地動説論者と天動説論者(事実上のアリストテレス学派)を議論させ、天動説が理論的に誤っていることを明らかにした。このため、異端審問にかけられた。
興味深いのは地動説の敵はアリストテレス学派であって教会ではないこと。もっとも、カトリック教会はアリストテレス学派を強力に支持していたので両者を同一のものととらえてもよいのだろうが。アリストテレスを教会が取り込んでいく様は哲学史で学んだ。しかし、本来両者は別のものであるはずだ。
頑迷なカトリック教会が現実主義者のアリストテレスを支持したのは皮肉である。また、残念なことにダンネマンの著作の中からプトレマイオスとガリレオの研究の捏造は見つからなかった。これはかなり新しい発見のようだ。
2016年4月2日
教会が天動説に固執したのは次の文章による。
「日よ、とどまれ、ギブオンの上に」(ヨシュア記第10章12節)動かないのに動くなと命じるのはおかしい。聖書によれば天動説が正しいのだ…という理由だそうだ。つまり、アリストテレス学派とは別な視点で地動説に反対していたことになる。
2016年8月11日
訳者も解説で普通に
「この本はイデアについて語った本です」などと書いているが、
なぜ本文に無い単語で『饗宴』を説明するのだろう。ここからは又聞きだが、「イデア」なる単語を定義したのはアリストテレスらしい。
要するにアリストテレスがプラトンが語るところの「永遠なるもの(これは『国家』など複数の著作にあらわれ、それぞれ「永遠なる美」「永遠なる徳」なるものが現れる)」、
これをまとめて、永遠なるもの全て=イデアと定義したわけである。…生徒に定義される先生の作品っていったいなんなの?
もちろん、アリストテレスがプラトンの信奉者で、つまり後継者がその思想を定義したというなら何も問題はないのだが、アリストテレスの困った所はプラトンを全力で批判した所である。師匠の思想を完全に理解して、その上でボコボコにするとか鬼畜の所業である。プラトン校長の精神はボロボロだ。
この二人を比較するなら、プラトンは「あるべき形」を語るのに対してアリストテレスは「あった形、できる形」を語る点である。理想主義者と現実主義者の対立は悲しいものである。要するにアリストテレスはこういうわけだ。「先生。それって実際実現できるんですか?」
それでも、強く思うのはプラトンの文章には強い魅力ということである。惹きつけられるものがある。アリストテレスの言葉には重みがある。だが惹きつけられることはない。人を惹きつけ、「この世のこと」を語ったソクラテスはやはり、かくも偉大な存在である。
ソクラテスを正しい道に留まらせたダイモニオン、あるいはダイモーンを、新約聖書の筆者達は「悪霊」の意味で使用しているのは心に留めておくべきことである。そして、ソクラテスを非難しながら、その弟子のアリストテレスの思想をカトリック教会が支持し続けたことは、滑稽な喜劇である。
2016年10月26日
ルキアノス(著)呉茂一(訳)『本当の話』を読む。アリストテレスについて。p.367「ヘルメース お前は直ぐ彼から、蚊は何時間生きているとか、海はどれほどの深さまで日に照らされるとか、牡蠣の魂はどのようなものかということを学ぶだろう。
買い手 何という精密さだ」
実際、アリストテレスは「やり過ぎている」きらいがあるが、実際指摘されるとけっこう面白い。だがもっと面白いのは、こういう風刺小説が西暦2世紀に書かれたという事実だ。
なお、ルキアノスはただアリストテレスをあざ笑うために前述の文章を書いたのではない。それは続く「漁師」の中でも明らかである。p.398「髯(ひげ)とか、歩き方とか、外套とかいったようなことではまったく賢人達に似ているが、その生活と行動の上では姿とは似ても似つかず、」
「あなた方とは正反対なことをやっており、哲学者という職業の尊厳を瀆(けが)している多くの人達を見た時、私は憤ったのです。アキレウスや、テーセウスや、ヘラクレスを演じながら、英雄的な歩き方も叫び方もしないで、そんな偉大な仮面の下で蹣跚(よろよろ)しているのに似ていると思われたのです
2016年10月27日
阿刀田高『ローマとギリシャの英雄たち 栄華編 プルタークの物語』を読む。よりにもよって、阿刀田か、と少しでも本を読んだ人に言われそうな人選だが。やむをえないことである。というのも、本当にろくな訳がないのである。岩波が固いのはまあ仕方がないとして、ちくまもずいぶん評判が悪い。
期待できそうなのは京都大学学術出版会のものだが、これはこれで読みたい章が未翻訳ときている。ネット上ではある個人が熱心に鶴見祐輔訳を勧めていたが、これもきつい。なんと英訳からの翻訳なのである。だから、キケロはシセロであり、カエサルはシーザーであり、アリストテレスはアリストートルだ。
以上の次第で、もう読みたい章(大王)は岩波で済ませて、他の所は阿刀田氏で軽く済まそうという算段である。少なくとも、読みやすさにかけては氏の右に出るものはいないのであって、その点では安心して読める。デモステネスを読んでいるが、完全に文体が現代のそれで笑ってしまう。
p.244「名声を得るようになってからもデモステネスは、<まず体を鍛えましたね。もともと体は弱いほうだし、
演説には体力が必要ですから。口の中に石を入れて練習しました。口跡がよくなるし、発音も力強く、はっきりする>」
「<坂を駈け上がりながら演説の文句を述べ立てて、息を切らせないよう努めました。
稽古場に大きな鏡を置いて、毎日、その前で自分の演説姿をチェックしましたよ>と後年に述懐している」やってることが古風な点を除けば、現代の新聞に載せてもまるで違和感がない文体である。流石だと言わざるをえない
p.267 対比列伝という形式について「プルタークにはなにかしら考えがあったのだろうが、正直なところ、なんとなく二人を取り上げてしまった、という事情もかいま見えてくる。
あえて言えば”二人を対比する”という方針を採用してしまったので無理をして並べたケースもあったのではないか」
阿刀田氏といい星氏といい、文体が柔らかい人は突然核心めいたことを書いていて驚く。普段は全力でだらけているのだが。
これも有名なひっかけ。 問2 イデアという言葉を使った哲学者はだれですか #センター試験 #倫理 #哲学
— トピルツィン (@toopiltzin) 2018年1月13日
【答】1番の「アリストテレス」 【出現率】出るはずがない
【解説】イデア論はプラトンの唱えた理想みたいなものである。よって、普通は4番を選ぶ。しかしプラトンは自身の考えを上手く言葉にできず、ひたすら「なんかすごい善」を説き続けるハメになった。
#センター試験 #倫理 #哲学
見かねた弟子にして学生のアリストテレスが「なんかすごい善」を「イデア」とまとめ、後の哲学者もそれを使いまわし、今に至る。プラトンの本の解説部分に「※プラトンはイデアとは言っていない」と書かれるぐらいには有名なネタ。あとは大正義Wikipediaにも載っている。
#センター試験 #倫理 #哲学
2018年1月13日
返信先: @rinsmashさん
イデアっぽいことをプラトンを唱えていて、プラトンはその考えをまとめられませんでした。後にアリストテレスがプラトンの”理想の形”を「イデア」と名前を付け、まとめました。なので、アリストテレスというひっかけです。趣旨からして真面目な内容ではないですね。
2018年9月12日
"あたかも、オリュムピアにおいて勝利の冠を戴くのは最も体格の見事なひとびととか最も力の強いひとびとではなくして、そこで実際に競技を行う人々であると同じように、人生におけるうるわしき善の達成者となるのはその能力をただしい仕方で働かせるところのひとびとなのである" by アリストテレス
"プラトンは私の友である。しかし、彼よりも真実を私は友とする" by アリストテレス(哲学者)『ニコマコス倫理学』
これもすき。全体的にアリストテレスの実直な物言いが好き。
1月29日
プラトンの語る内容は石原元知事や森元首相や百なんとかさんの言動よりはるかに炎上することだろう。ただしプラトンの本から「学ぶべき部分もある」ので、生かされている感じはする。全体を鵜呑みにするなら即座に燃える。
プラトンはアリストテレスがハンバーグにする勢いで叩いてくれてるので、悪しき具体例としてはこれ以上のものはない。論理的に筋を通しているのに、頭おかしいのは評価点だ。その辺、現代の燃える人は「筋を通していない」点が違うだろうか。しかしプラトンも大概だしなぁ。
ソクラテスの思想に従っているころのプラトンは現実的で、学ぶべき点が多い。それが持論を展開しだすと途端におかしくなるので、あれはあれで面白い。理性期な議論から感情的な議論に移っていく。そして現実的にいけそうな道を外れ、理想論を話すようになる。
こうした精神が一人の人間に同居していたことは面白い。
1月31日
返信先: @garumurozuさん
「こくまるがらすはいつもこくまるがらすのそばにいる」
アリストテレス『弁論術』
同類相憐れむのような意味……うーん、意外と簡単な言葉にできませんね。まあ似たものが集まる様をいいます。
音がやたらかわいいので記憶に残っています。
たとえば地動説を批判したのは「キリスト教」ということになっています。ところが、科学史の本を読んでみたらどうも「アリストテレス学派」が地動説に強行に反対したというお話を聞いています。
— トピルツィン (@toopiltzin) 2019年10月13日
それでも地球は回っている―近代以前の天文学史 青木 満 https://t.co/7twl3bGPon
もし今でも世間の人々が「宗教は危険だが哲学は安全だ」と考えているなら、そのことを私は心配しますね。
宗教は18世紀末に散々批判されましたし、信教の自由ということで目に見える形で抑え込まれつつあります。合衆国はまだ宗教が頑張っているようですが、信教の自由の名の下、批判されています。
10月13日
対して「唯一の真実」を信奉したソクラテスから始まった呪いは今も生き、そして人々はそれから目を背けているようです。私は、ソクラテスも好みではありますが、ソクラテスが過激な思想の源泉となる「呪い」となったと言われれば、反論するつもりはありません。
なんか『国家』の感想がいいねされるようになった。
— トピルツィン (@toopiltzin) 2019年12月14日
今見ても必要なことは書いている。自分で見ても面白い。https://t.co/ufiJDCJHCd
国仲良治
@jpcryptex
2015年2月23日
とりあえず、
資本主義(兌換、非兌換紙幣)
民主主義(直接、関節)
社会主義(マルクス、修正、教条、レーニン、空想的)
共産主義(プラトン、キリスト教式、無政府主義)
王立主義(封建制、関節封建制、代理統治制)
宗教主義(神式統治、代理統治制)
これぐらいは分かってからきてくれ。
✨✨
@mizunonsan
2013年4月10日
ヤマギシ会の共産主義村ってまんまプラトンの国家でワロタ。
永觀堂雁琳(えいかんどうがんりん)
@ganrim_
2012年9月6日
親は子育ての専門家じゃないんだから親から切り離して子供は育てるべきって考え方はすんなり馴染まないな。共産主義かプラトンの国家かって思うわ。
wakizakaayumi
@ayumiwakizaka
2014年5月20日
プラトンの国家…単純に楽しめなくなってきた。この彼の理想が実現して二十世紀の全体主義や共産主義に発展している
ロックフェラーは自身が「社会主義者」と言う。プラトンだ。共産主義者もプラトンの亜流だ。共通するのは国民管理であり、全体主義者もおなじだ。
— ネズミさん (@Nezmi_san) 2016年12月13日
「同じ事」
なんである、何故か「右と左」に分ける、これは「資本家と労働者」の違いだ。
「金持ち」、「生産者」がおり、民主主義であっても、
軍人、金持ち>生産者(企業)>奴隷
なんである。ロックフェラーが言う社会主義とはあくまでこの構造だ。
社会主義とは管理主義であって、プラトンが説いた。
軍人、金持ち>生産者>奴隷
(軍人と言うが、軍を指揮するものであり、もちろん兵士は奴隷だ)
の構造で、環境をネタに世界投資、支配を行い管理すると言う事である。
)
第一〇巻
七
…
まして物は分解すると、
その各々構成されていた要素にもどるのであるから
なおさらのことである。
つまり構成要素の分散であるか、
もしくは固形物の土への還元、
息(すなわち気体)の空気への還元であるか(12)、
そのいずれかなのである。
後者の場合にはその結果として、
これらのものも宇宙の理性の中に吸いもどされる。
その際、宇宙の理性は周期的に火に焼きつくされるか(13)、
または無限の変化によって更新されるのである。
注13
宇宙燃焼と永劫回帰。
(ニーチェの永劫回帰の元ネタはストア派
)
第一一巻
一四
彼らは互いに相手を軽蔑していながらお追従をいい合い、
互いに相手を出し抜こうとしながら腰を低くして譲り合うのである。
(佞臣対策のための自戒だろう)
一八
…
ただし人に腹を立てるのを警戒すると同様に、
人にへつらうのも警戒しなくてはならない。
いずれも公益に反し、害毒をもたらすからである。
腹を立てたときにすぐ役に立つ思想としてつぎのことを考えるとよい。
怒るのは男らしいことではない。
柔和で礼節あることこそ一層人間らしく、
同じく一層男らしいのである。
そういう人間は力と筋力と雄々しい勇気とを備えているが、
怒ったり不満をいだいたりする者はそうではない。
なぜならばその態度が不動心(アパテイア)(47)に近づけば近づくほど、
人は力に近づくのである。
悲しみというものがひとつの弱さであると同様に怒りもまたしかり、
すなわち双方とも傷を受けることであり降参することなのである。
注47 不動心 アパテイア
理性の転倒である情念を完全に免れた、賢者の心のあり方のこと。
二〇
…
不正、放埓な行為や、憤怒、悲しみ、恐怖等への動きは
自然から離反した者の特徴にほかならないのである。
同じくまた指導理性がある出来事にたいして腹を立てる場合には、
その途端に自分の持場を捨て去るわけだ。
なぜならば指導理性は単に正義のためのみならず敬虔と神への帰依のためにも創られたからである。
そして後者は善隣の観念に含まれており、
正義の実践よりも古くから存在するのである。
(ロゴスが神だけでなく
隣人愛もストア派からキリスト教が盗んだネタだな。
盗んだと表現するのはあたかも自分らが最初であるかのように装っているのと
異教迫害しているから)
第一二巻
一
…
いつなりと君が去って行く時が近づいたならば、
君は他のすべてに別れを告げ、ただ君の指導理性(ト・ヘーゲモニコン)と、
君の内なる神的なもののみを尊び、
自分がそのうちに生きていなくなることは別に恐ろしいとも思わないが、
自然に従う生活をついぞ始めなかったということになりはしないかと恐れる。
そういうふうであれば君は君を生んだ宇宙に値する人間となり、
祖国における異邦人ではなくなり、
日々起ってくる事柄にたいしてこれを予期せざることとして怪しむのをやめ、
あのことこのことに依存しなくなるであろう。
(
「内なる神的なもの」の元ネタはバラモン教のアートマンかプルシャだろう。
グノーシスの神性でもある。
ストア←バラモン→グノーシス
オルフェウス、ピタゴラス、プラトンもバラモンの影響下!
相変わらずバラモンの影響力が凶悪すぎる)
二四
つぎの三つの指針をいつでも念頭に重い浮かべられるように用意しておけ。
第一に、君の行為に関しては、でたらめにやらないこと。
また正義が自らなしたであろうようなやり方で行動すること。
また外側から起ってくる事柄に関しては、それが偶然によるか、
または摂理によるかのいずれかであることを考え、
偶然を攻めることも、
摂理に罪を帰することもしてはならない。
第二に、人間は各々受胎の時から生命ある魂を受ける時まで(26)、
またこれを受けてからその魂を返納する時までの間いかなる状態にあるか。
また人間はいかなる要素から構成されており、
いかなるものに分解するかを考えること。
第三に、もし突然空中に挙げられ、
人間に関する事柄とその多種多様な形態を見おろしたとするならば、
それと同時に君は空中やエーテル層の住人がどんなに大勢いるか(27)を見て、
人類のことにたいする軽蔑の念を禁じえないであろう。
また幾度空中に挙げられようとも、
君はその都度同じものを、
同じ形を、同じはかなさを見るであろう。
こういうものが誇りの種になるのか!
注26
生命原理の気息のあり方は、
胎児においては植物と同じ「自然」だが、
生まれて空気を吸った瞬間に冷却されて「魂」に変わる。
(
ストア派では中絶は殺人にならないっぽい。
胎内のいるときは生まれて空気を吸っていないから植物と同じ扱いだろうからね)
注27
天体以外にも目に見えない神霊が存在する。セネカ『自然研究』参照。
メモは終わりだが本記事は参考資料もそこまで長くないので読んでほしい。
エピクロス派の特徴列挙記事だけは読んでおくれ!
参考資料
無視すんのかな?
— なかだち(フラフラする) (@madaraiguana) 2019年12月8日
ユダヤ陰謀論をやるくせに、ちょー重要な事言ってるこのユダ公をスルーするのはどーゆーわけかなぁー?
世界の創造 (ユダヤ古典叢書) ”←フィロンの著作https://t.co/a3wJDov87u …
”神の国ってバレイシアなわけじゃん。アレクサンドリアのフィロンさんは、バレイシアってのを
智者が統治する王国だと言ってる。
と言う事はこれストア学派の哲人政治だろこれ?
セネカくんは智者はお月様よりも上のお星様の世界に行けるよって。
で、お星様の世界こそが真の国家がストア学派。”
従来のローマの宗教と違いイシスの儀式に女性も参加できた。だから女にウケた…キリスト教も昔は女の宗教と叩かれた…そしてイシス教は個人主義な側面があった。ローマの従来の宗教は家長に依存していた。パパンが司祭でパパンが偉かった…
— なかだち(フラフラする) (@madaraiguana) 2019年12月8日
ミトラ教の記事↓
— なかだち(フラフラする) (@madaraiguana) 2019年12月8日
ポセイドンから、ミトラ教へhttps://t.co/UGfBykVJHt
ヘーゲル左派のバウアーの説=パウロ教はフィロンのプラトン流旧約解釈+セネカのストア派が正解である可能性が高い。
ユダヤ教派生と言うがユダヤ教の中核は抜くパウロ教。律法を人間が更新なんてユダヤ教ではありえない。
ニーチェはギリシア・ローマ古典研究者なのでキリスト教の正体も掴んでいたかも。
新約はユダヤ教のつながりを主張している割に儀式の仕方がミトラスで
信者の目標=救済のされ方がゾロアスターなのだからグノーシスが旧約は不要と言ってもおかしくない。
ユダヤ陰謀論者はユダヤ教徒がキリスト教に改宗すると隠れユダヤと言うが、
ユダヤ教以外の宗教X信者ががキリスト教に改宗しても隠れXとは言わない二枚舌。
旧約に一切記述がない(ギリシア哲学やキリスト教の正統・異端)思想をユダヤと呼ぶ悪質さ。
ラビ系だったマルクス家はルター派に改宗。マルクスの父は啓蒙主義者
ラビ系だったマルクス家はルター派に改宗。マルクスの父は啓蒙主義者https://t.co/RBq9TvvvgA …
— なかだち(毒入り) (@madaraiguana) 2019年12月8日
興味深いですね。フィロンはプラトン哲学を猶太教に導入しようとしたようです。フィロンの思想は猶太教より基督教に影響を与えたそうで基督教は端からプラトン哲学の影響下にあった可能性が高い
エピクロスの思想 - 齟齬 - 御厨鉄
https://mikuriya-tetsu.com/philosophy/3478/
”「パンと水さえあればゼウスと幸福で勝つこともできる」
エピクロスがおもしろい。岩波文庫の「エピクロス――教説と手紙」を読んだので気に入ったフレーズを紹介します。
目次
エピクロスの引用集
エピクロスの生涯
エピクロスと個人主義的アナーキズム
エピクロスの引用集
チーズを小壺に入れて送ってくれたまえ、したいと思えば豪遊することもできようから。
水とパンとチーズ、そして気の合う友人――それがエピクロスの求めるものだった。それさえあればハッピーなのだ。
「エピキュリアン」といえば、贅沢な食事、飲酒、放縦なセックスというイメージがあるが、それはまったくの間違いである。
自然のもたらす富は限られており、また容易に獲得することができる。しかし、むなしい臆見の追い求める富は、限りなく広がる。
私がエピクロスを好きになったのは、自然の与えるもの、水や作物、大地や空気に満足せよ、という教えだ。私たちは膨大な食料に囲まれていながら、仕事を失って飢えることに怯えている。そうして毎日労働している。実に恐怖こそが私たちを縛りつけることをエピクロスは説く。
貧乏は、自然の目的(快)によって測れば、大きな富である。これに反し、限界のない富は、大きな貧乏である。
エピクロスがもっとも幸福に有害だと考えたのは、不要で不自然な欲求、権勢欲、富や地位の追求である。そういうわけで、エピクロスは国政に関わらずに生きることを提唱した。これは非政治的であるばかりか、反政治的でもあった。後に述べるように、当時の激動の社会情勢を反映してるからだと考えられる。
性交が、ひとを益することは決してない。
エピクロスはセックスを明白に否定する。ただし、富や権力と違い、セックスが自然な欲求だということは認めている。セックスに関しては、むしろストア派の方が肯定している。エピクロスは結婚にも反対するが、知者が必要に応じて結婚することもありうるとしている。
質素にも限度がある。その限度を無視する人は、過度のぜいたくのために誤つ人と同じような目にあう。
これには笑った。「ミニマリスト」のような偏執狂に私が抱く違和感と同じだ。節制は自由を得るための手段であり、目的ではない。
あたかもわれわれが長いあいだわれわれに大きな害を与えてきた邪しまな人を追い払うように、われわれは、悪い習慣を、徹底的に追い払おうではないか。
私たちの多くは悪癖に悩まされる。アマゾンでガラクタを買ったり、外食をしたり、酒をガブガブ飲んだり……あるいは、富や権力、セックスの快楽を追求することもある。その結果、私たちは時間とエネルギーを失うだけではなく、実際に鬱病や糖尿病のような病を患う。こういった毒になる習慣を捨てよとエピクロスは説く。
正しい人は、最も平静な心境にある。これに反し、不正な人は極度の動揺に満ちている。
エピクロスのほんとうに好きなところは、堅苦しい道徳を説かなかったことだ。個人の外部に神や道徳律のような規範を求めなかった。あくまで、自分の快楽を追求すること、それによって正義が実現すると考える。それは、快楽や苦痛にあっても正義を追求するストア派とは決定的に異なる考え方だった。
ところで、エピクロスは法律を絶対視しない。ソクラテスのように「悪法もまた法なり」とは考えなかった。それは社会に秩序をもたらし個人を幸福にする限りで有用なものと考えた。この考えはベンサムの功利主義に引き継がれる。
わたしは、決して、多くの人々に気に入られたいとは思わなかった。なぜなら、一方、何がかれらの気にいるかはわたしにはわからなかったし、他方、わたしの知っていたことは、かれらの感覚からは遠くへだたっていたからである。
俗見にしたがって、多くの人々がやたらにふりかかる賞賛をかちうるよりも、むしろこのわたしは、自然の研究にたずさわって、たとえたれひとり理解してくれなくても、すべての人間にとって役に立つことどもを、腹蔵なく語り、神託のように告げることを選ぶ。
このエピクロスの孤高ともいえる考え方からは、プラトン主義が主流だった当時に、大変な反対に合いながら独自の思想を主張した彼の苦労が伺える。
エピクロスはそれでも、自分の信ずる道を説いた。
われわれは、哲学を研究しているように装うべきではなくて、真に哲学を研究すべきである。なぜなら、われわれが必要とするのは、健康であるようにみえるということではなく、真の意味で健康であるということなのであるから。
思想と行動の一致をエピクロスは説いた。それは「思想のための思想」ではなく、人々を救うための実用的な哲学であり、人間の病める精神を治療する医学である。(→テトラファルマコス)
われわれの生まれたのは、ただ一度きりで、二度と生まれることはできない。これきりで、もはや永遠に存しないものと定められている。ところが、君は、明日の〈主人〉でさえないのに、喜ばしいことをあとまわしにしている。人生は延引によって空費され、われわれはみな、ひとりひとり、忙殺のうちに死んでゆくのに。
エピクロスは、明日飢えることを心配するなと説いた。この世界に穀物はたくさんあり、安価に手に入るのだし、数日食わなくても死ぬことはないからだ。だから、今、楽しめと説く。あらゆる恐怖から解放され、自分の快楽を追求したときに幸福がやってくる。
自己充足は、あらゆる富のうちの最大のものである。
だれもこの言葉に反対はしないだろう。
エピクロスの生涯
エピクロスの生涯の前半には、ひとつに貧困があり、もうひとつに政治的激動があった。
彼が生まれたのは紀元前341年であった。紀元前352年に彼の家族はサモスに移住したのだが、これは土地を与えられての入植民(クレールーコイ)であり、それは当時最も貧しい人々であることを意味した。
彼の父親であるネオクレスは教師であったが、読み書きの教師であり、これは当時軽蔑される職業だった。子どもたちの間で生涯を費やすものであり、女や家内奴隷と同じとみなされたのである。
そんな家庭に生まれたエピクロスだが、12歳の頃から当時もっとも主流だったプラトン派哲学を学ぶためにパンビロスに師事した。
彼が18歳になるとき、紀元前323年、アテナイへ出てきた。そしてその年の6月にはマケドニアの大王であるアレクサンドロスが死んだ。その後は、ディアドコイ戦争、つまり大王の後継者を争って繰り広げられた内戦が起きた。まさに動乱の時代である。
エピクロスの思想が生まれ、またそれが受け入れられたのは、背景に政治に対する絶望があったからであるとされる。
エピクロスが自らの思想を説いたのは30歳前後である。レスボス島で学校を開くも、プラトン派が優勢なために受け入れられなかった。Norman Wentworth De Wittによれば実に彼の教義の半分以上はプラトニズムに反するとされる。
彼はアテナイへ移り、わずかな金で庭園つきの小さな家を購入した。そこにエピクロス主義者のコミュニティである「庭園」を創設した。庭園はプラトンの「アカデメイア」に近いとされる。しかし、アカデメイアが(幾何学ができなければ入れない?)教育機関であるのに対し、エピクロス主義の庭園は、パメラ・ゴードンに言わせると「似かよった精神の、ある種の生き方を意欲的に実践する人々のコミュニティ」であったとされる。
当時の哲学者が土地と住居を構えてコミュニティを形成するのは珍しくなかったが、エピクロス主義の特徴としては、当時としてははじめて、女性の参入を認めたこと、奴隷にも教えを説いたこと、そして田舎に拠点を置いたことだった。彼らの庭園がどのようなものだったかの史料はないが、エリダヌス運河の近くにあったことから、水と木々、植物が豊富だっただろうとされる。
彼の死後、エピクロス主義は40万人を超え、当時の最大勢力となった。しかしキリスト教が国家と結びついて布教されると勢力は衰えていった。当時のエピクロス批判のプロパガンダ、つまり「酒池肉林の堕落した快楽主義」という誤解は、現代にも生き残っている。
エピクロスと個人主義的アナーキズム
一般的に、ギリシャ哲学でアナーキズムと親和性が高いのはエピクロス主義と犬儒派であるとされる。ところで、犬儒派が割とおおっぴらに規範に反対する傾向があったのに対し(犬儒派は大道芸人のようなところがあった)、エピクロス主義は規範からの隠遁を唱えた。
アナーキズム思想とエピクロス主義はよく似ている。私がエピクロスに興味をもったのは個人主義的アナーキストのハン・ライナーからだが(彼はエピクテートスの方が好きだったみたいだが)、シュティルナーを日本語訳した辻潤もエピキュリアンとして知られている。現代のエピクロス主義思想家は稀だが、パラントの影響を受けたフランスの思想家ミシェル・オンフレもエピクロス主義者である。
また、中期のニーチェはエピクロスにかなり影響を受けたとされる(PDF)。
あきらかに、エピクロスの思想は個人主義である。つまり反社会的である。その根底には原子論がある。ギリシャ語の原子、アトモンは、ラテン語では「individuum」となる。
具体的に個人主義やアナーキズムと似ている点をあげてみる。
反宗教的であること、つまり死後の世界を否定すること、神の人間への影響を否定したこと。
政治を否定したこと。富と権力を不自然なものとして退けたこと。また、その共同体が女性や奴隷を差別しなかったこと。
人間の幸福に有用ではない法律を否定したこと。
個人の快楽のためにときに文明や文化でさえ否定したこと。
社会を変革しようと試みるよりは、自己の人生の満足を説いたこと。
一方で、同じ思想を共有する人々との共同体を尊重したこと。
おそらくエピキュリアンたちの「庭園」は、かなり成功したフリー・アソシエーションだったのではないかと想像する。特に、シュティルナーの「エゴイストたちのユニオン」にかなり近いのではないか。
政治から逃れて「隠れて生きる」姿勢は、国家から逃れて生きた辺境民「ゾミア」の生き方によく似ている。おそらくゾミアの人々が平等主義的でアナーキーだったように、エピクロス主義もアナーキーだったのではないかと思う。
エピクロス主義のライバルといえばストア派だが、この両者の教義は矛盾よりも共通点の方が多いように思われる。ストア派のセネカがエピクロスを引用しまくっていることは有名である。ニュアンスとして、ストア派の方が一神教的、男性的であるのに対して、エピクロス主義の方が仏教的、女性的であるという違いがある(エピクロス主義は非常に仏教的だ!)。
基本的に私は、状況が許す限りエピクロス主義を支持するし、「隠れて生きる」ことが困難な場合、束縛を免れぬ場合はストア派哲学を採用しようと思っている。
エピクロスは非常に多作な思想家だった。エピクテートスによって「人間の社会性を否定するくせに本をやたらめったら書きやがって」と難癖つけられるほどだった。しかも、彼はほとんど引用をせずに自分の言葉で書いたのだった。
しかし、エピクロスの書籍はほとんど残っていない。左の岩波文庫の本は、一冊で残されたエピクロスの手紙と教義を網羅している。個人的には、バガヴァッド・ギーターやスッタニパータと同じく、ずっと傍においておきたい本である。”
エピクロスの「テトラファルマコス」
https://mikuriya-tetsu.com/philosophy/3165/
”苦痛を癒やし快楽をもたらす四つの良薬
望むべきではないものを望む人。そして恐れるべきではないものを恐れる人。このふたつが私が知る失敗者の典型です。
アリストテレスは幸福を求め、プラトンは理想を求めたのですが、エピクロスが求めたのは快楽でした。快楽は非常に誤解されやすい概念ですが、具体的にはアタラクシア(心の静穏)、そしてアポニア(肉体的苦痛のないこと)を求めた。
人生を喜び多く生きるためには、苦痛や不安があってはいけません。生きる苦しみをとりのぞくエピクロスの「四つの薬Tetrapharmakos」を紹介します。
目次
神を恐れなくてよい
死を心配しないでよい
良き物を得るのは易しい
苦難は耐え易い
終わりに
神を恐れなくてよい
Ἄφοβον ὁ θεός
恐ろしい裁きをもたらす神は存在しません。
古代ギリシャの人々はこう信じていました。雷はゼウスの怒りだ。地震や嵐はポセイドンが起こしているのだ。人間が神の怒りを引き起こしたのだ。
生きているうちに道徳的に悪いことをすれば、死後に楽園(エーリュシオン)にいけなくなる。冥界の審判官が許さないだろうから。
エピクロスは、「神の怒り」を認めませんでした。人間の関わる世界の自然現象は、神がいなくても説明できるからです。エピクロスが現実に目にしたのは、むしろ「神の怒り」への恐怖によって、人生の快楽を失う人々でした。
神に関する「エピクロスのトリレンマ」を、懐疑主義者のヒュームの要約から紹介します。
1.もし神が悪を防ぐことができないのであれば、神は万能ではない。
2.もし神が悪を防ごうとしないのであれば、神は善ではない。
3.もし神が悪を防ごうとし、それが可能であれば、どうして悪が存在するのか?
というわけで、私たちが「神」と呼ぶような全能で善良な存在はいないとエピクロスは主張した。だから、私たちは「神の意志」ではなく、自分の意志に従って人生を生きるべきだ、というのがエピクロスの主張です。
ところで、キリスト者はエピクロスを「無神論者」と批判しましたが、実際には神の存在を否定しませんでした(弟子たちの中には過激な宗教批判者もいましたが)。
私たちの生に影響する・影響されるような神、人格を持つ神の存在など怪しいものだ、と彼は主張するのです。
もし神が何者にも妨げられない幸福な存在であれば、
人間によって悩まされたり不快になることはまったくないだろう。もし神が人間に妨げられるのであれば、そのような神は神とはいえない。
死を心配しないでよい
ἀνύποπτον ὁ θάνατος
エピクロスは、すべての恐怖のなかでもっとも大きなものとして死を位置づけました。死の恐怖がもたらす苦しみは長く激しいものです。死の恐怖があるから、私たちは苦痛や恐怖のないアタラクシアの生活を送ることができない。
しかし、エピクロスはデモクリトスやレウキッポス由来の唯物論を通じて死の恐怖を克服しようとする。死=無であり、死後の世界はない。人間には魂があるが、それは原子として私たちの肉体に行き渡っており、死んだらバラバラになって霧散してしまう。だから、死を経験することはない。
エピクロスは手紙において書いています。
死は、もろもろの悪いもののうちでもっとも恐ろしいものとされているが、実はわれわれにとって何ものでもない。なぜかといえば、われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。
エピキュリアンの墓石の多くには”Non fui, fui, non sum, non curo”というエピタフが刻まれます。これは、「存在しなかった、存在した、存在しない、気にしない」といった意味です。
どうして死後を恐れるのか。生まれる前と同じ状態に戻るだけなのに。とエピクロスは言います。エピクロスは、死の恐怖と長寿への望みを捨てたときのに、人生のほとんどの恐怖はなくなり、生の残り時間をゆたかに楽しめると考えた。
良き物を得るのは易しい
καὶ τἀγαθὸν μὲν εὔκτητον
エピキュリアンといえば毎日酒をがぶがぶ飲んでファックしまくりなイメージがありますが、まったく逆です。
「富める者はもっとも必要とするものが少ない者だ」とエピクロスは言った。彼は人間が必要とするものと、不要であるものを区別した。
・自然で必要なもの――空気、水、食べ物、住処等
・自然で不必要なもの――贅沢な食事、酒、豪邸、セックス等
・不自然で不要なもの――名誉、富裕、栄光、政治、権力等
最後の「不自然で不要なもの」を特にエピクロスは「空っぽ」なものと表現した。獲得するために膨大な努力が必要なのに、手に入れたから満足することはなく、制限に追い求めるようになる。それらは幸福よりも不幸を招く結果になる。「得ることが困難なものは、必要がないのだ」というのがエピクロスの主張です。
ちなみに、古代ギリシャの哲学者で政治を否定する思想に違和感がありますが、当時はヘレニズム時代で内紛や分裂を繰り返しており、社会不安が非常に高まった時期でもあります。
また、エピクロスは、恋愛や結婚についても不必要なものとしました。だれもが知るとおり(?)、恋愛や結婚は喜びより気苦労の方が多いものです。セックスを否定はしませんが、できるだけ避けるべき快楽だとした。
エピキュリアンのスローガンはこうです。「パンと水さえあればゼウスと幸福で勝つこともできる」。これが「快楽」をとことん追求したエピクロスの考え方なのでした。
ところで、エピクロスが何よりも大切なものとして説いたのは「友情」でした。気の合う友人たちと哲学的議論を交わすことをもっとも大きな喜びとした。エピキュリアンの思想「隠れて生きよ」は隠者として生きよというわけではなく、彼らはアテネの郊外の庭園で集団で仲良く暮らした。
世界が与えるものをもっと深く、美しいものとして受けいれよう。今私たちが与えられているものに満足しよう。そうエピクロスは主張した。そうすることで、私たちは多くの恐怖や不安から解放されることになります。
苦難は耐え易い
τὸ δὲ δεινὸν εὐκαρτέρητον
人間は生きている上で、さまざまな病や苦痛に苦しむことがあります。
エピクロスは、そういった苦痛は耐えやすいものだと考えます。その要点は、「激しい痛みは短期的なものであり、慢性的な痛みは鈍いものだから」です。「激しく慢性的な痛み」は例外的である、とエピクロスは考えた。
「人間は苦痛や困難に耐えられる」ということを知っておくこと、今は激しい痛みがあっても、それはすぐに過ぎ去ることを知っておくこと、このことによって人生は楽になるのです。
もちろん、この世には「激しく慢性的な痛み」はある。たとえば末期がんはそのひとつでしょう。そうなれば、人生を終わらせてしまえばよいとエピクロス派は考えます。
終わりに
Summer Haze by John Miller
空虚、とは精神の病を治療することのない哲学的議論を言うのである。肉体の病を除去できなければ医学に価値がないのと同様、精神の苦しみを除去できなければ哲学には価値がない。――エピクロス
エピクロスの思想は非常に実践的で、効果的であり、まさに妙薬といえる。
現代ではマイナーな思想ですが、最盛期には40万人を超えるエピキュリアンを生み、古代ギリシャのすべての組織のなかで最大勢力となりました。エピクロス主義はコスモポリタニズムであり、その共同体である「庭園」は奴隷や女性も数多く参加した。
エピクロス主義が終焉したのはキリスト教が台頭したからです。キリスト教は国家権力と結びついて強力に広がった。恐怖で操作できない人々は支配しづらい。
ただ、現代でもエピキュリアンな生活をしている人は多いと感じます。特に思いだすのは私の大好きなTED動画「Life is easy」のJon Jandai氏です。あと、セミリタイア生活を送るブロガー、人生よよよ氏はエピキュリアンそのものだと勝手に思っています。ついでに、冒険家のからあげ隊長も。
エピクロスは、人間が恐怖から解放され、勇敢に、そして互いに思いやりながら暮らし、真の至福を感じるようになることを望んでいました。
個人的にはアタラクシアやアポニアを理想とすることにはあまり共感できないのですが、それはさておき、テトラファルマコスを知ったときに、私の心はだいぶ楽になりました。良い薬であることは間違いないようです。”
心の中の「自然現象」
https://note.com/neetbuddhist/n/n94a4ab8723e3
”人間の感情(気持ち)の問題に関しては、このところのツイッター界でもずっとホットな話題であり続けているけれども、そうした気持ちに関する人々の呟きを眺めていて、一つ気がついたことがある。それは、どうも現代日本社会のそれなりに多くの人々は、気持ちこそが「自分」というもののリアルな本質そのものだと考えていて、ゆえにそれを周囲の他者や社会に承認もしくは肯定させることができないと、「自分」そのものを否定されたように感じてしまい、それで不幸になってしまうらしい、ということである。
以前の記事にも書いたことだが、少し時間をとって内観してみればわかるように、感情や気持ちというのは、私たちが自分の意志によって心に「浮かばせる」ようなものではなく、様々な条件づけの結果として、心に「勝手に浮かんでくる」ものである。
そんな感情や気持ちを「私そのもの」であると考えて、それに対する所有の感覚や責任感から、「この感情は正しい」とか、「あの気持ちは間違っている」とか、いちいち裁定を下してゆく行為というのは、比喩的に言えば、雨が降ったり風が吹いたりする毎日の天気(自然現象)について、いちいち「批判」を行うようなものなのだから、そんなことをしょっちゅうやっていたら、それは人生がしんどくなるのも道理だろうと私は思う。
ただし、起こってくる感情や気持ち自体に「正しい」も「間違っている」もないとはいっても、その感情に動機づけられて本人がする行為には、正や不正が問われ得るし、社会的な責任も発生することになる。
たとえば、目の前にいる人に対して、「怒り」という気持ちが生ずること自体は止めようがないが、その結果として「相手を殴る」という選択をすることは止められる(ということに、ほとんどの人間の社会は合意している)ので、心の中のいわば「自然現象」として「怒り」が発生すること自体は罪に問われないが、それによって実際に他者を殴ってしまえば、それは多くの場合において、「有罪」だということになるわけである。
こういう事情に関して、ハードコアな宗教者の方々などは、「そんなわけで怒りは『あなた自身』ではないのだから、身体や言葉の行為として怒りを表現するのはやめましょう」と言われたりもするのだが、私自身は、そのようには思わない。これも以前の別の記事に書いたように、世俗の社会で生活する一般人にとって、時には怒りを(適法な範囲内で)表現することが、本人の生活や人間関係を改善することに繋がるケースは、(誰でもが実際には知っているとおり)しばしばあるからである。
こういうことは、もちろんいわゆる「程度問題」で、「怒り」以外の感情であっても、どの程度それに従い、どの程度それを他者に対して表現するかということは、状況に応じてその都度適切に判断する必要がある。
ただ、判断の結果として、その感情の要求することには従わないと決めた際に、そうした気持ちを「ただの心内の自然現象」だと捉えているか、それとも「私自身そのもの」だと捉えているかでは、その後に生じてくる感情や気持ちに与える条件づけが大きく変わってくるだろう。もちろん、後者の枠組みを選んでいる場合には、「自己が否定された」というネガティブな不幸の感覚が、次の心の状態を、条件づけてしまうということである。
私が最初に引用したツイートで、"「感じた気持ち自体に『正しい』も『間違い』もないが、それに私が対処する仕方には正誤があり得る」と考えておく態度"を、「おすすめ」だとしたのはそういうわけだが、そのように感情や気持ちから距離をとる態度というのは、「それ以外のもの」を知らなければなかなか難しいだろうとも思うので、ここは最近また重版になった『仏教思想のゼロポイント』を、未読の方にはぜひ読んでいただきたいと思う夜なのであった。”
ノット後悔バット反省
https://note.com/neetbuddhist/n/n9553a8f047e0
” これはわかる人にだけものすごくよくわかる言い方だと思うが、私にはいい加減なくせに完璧主義なところがあって、事前に決めていた予定の最初で躓いてしまうと、その後の一日はどうにもやる気が出ないまま、ダメダメに過ごしてしまうというようなことがよくあった。
ただ、最近はそうした事態に陥ることは少なくなっていて、これはなんだかんだで瞑想などをやってきたことの副産物だろうと理解している。予定の最初がこなせないせいで残りまで全て駄目にしてしまうのは、最初の失敗にいつまでもこだわって、それを後悔(kukkucca)しているからで、そのように既に終わってしまった過去のことを観念のうちで反芻し続けることをいったんやめて、「いま・ここ」に立ち戻ることが瞑想の一つの意義だからである。
仏教において後悔(kukkucca)というのは「五蓋」という瞑想修行の障害になる煩悩の一つだと言われていて、
基本的には悪いことである。ただしもちろん、悪いのは過去の自身の行為を無益に内心で繰り返し反芻し、それにいつまでも執著し続けるということなのであって、事実を正確に把握して未来の行動を修正するという反省は悪いことではない。
そんなふうに「反省はしても後悔はしない」というメンタリティが多少なりとも身についてきたことを実感すると、まあまあこれまで自身が積み重ねてきたことも、無駄ではなかったのかなあと思ったりするのである。”
「本当に頭の良い人は難しいことを簡単に説明できる」
— トピルツィン (@toopiltzin) December 19, 2019
これ、ずっと気にかかっていたのだが、ようやくわかった。ソクラテスじゃないか。
ゴルギアス (岩波文庫) プラトン https://t.co/ivQxyiDMsb
ただまあ、これは最初の哲学者(ということになっている)からだとも言える。初歩の初歩から始めている訳だ。”積み上がったものはどんなものでも難解である”。
とはいえ、ソクラテス/プラトンタッグの表現力には舌を巻く。
違いますよ
— 🦀🦀🦀اثنا عشر🦀🦀🦀 (@Zfb3PBTklWSvAEB) 2019年12月19日
「本当に頭が良い人は相手に合わせて説明出来る」なんですよ、難しい事を簡単に言うにもその相手がどういう相手なのかで変わるんです
簡単に言うにしても土方のあんちゃんや年端もいかない子供、ずっと土地で生きてきた年寄りとでは簡単に言うにしても言い方が全く変わるのです
土方のあんちゃんだったら、ソシャゲやパチンコ、人情論に落とし込んで説明するし
子供が相手なら、それこそ絵本などの寓話などに落とし込んで説明する必要があるし
土地で生きてきた年寄りではその土地の農業や畜産、気候や土着の習慣で持って喩え話を持ってくる必要があるんです
これ、至極当然な話なんですよ
子供に対しての言い方すれば土方年寄りはキレるし、年寄りの言い方をすれば土方や子供はわからんし、土方の言い方をすれば子供や年寄りはなにそれ?になるわけです
で、これは得意・不得意あるのと技術と方法論は確立されていても一定ではないんですよね…これ
お読みくださり感謝!