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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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 『道教の本―不老不死をめざす仙道呪術の世界 』と主に道教系魔術の資料。 

完成。資料集だから超絶長いよ。

過去記事↓の追加個所(とその周辺)を載せておきます。

千と千尋が性風俗の話だと宮崎駿監督が明言しているのに、無視や拒否反応が多いことから、日本人がキリスト教化されたことと、キリスト教に逆らえない評論家(笑)ばかりなのを実感しよう。日本人は無自覚クリスチャン(家畜の証)。日本人の労働観はプロテスタント以上にプロテスタント=過労死教。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-60.html
”フィクションで真実を暴露することは真実を隠蔽する役割がある。
大衆にとってはフィクション=嘘なのだから、フィクションにして発表しておくと真実だと認識しにくくなる。
子供のものだと大人に馬鹿にさせるように仕向けられているものに真実を仕込む。
そしてそれを大人になるにつれて否定させるように誘導して洗脳完了。
実際は、大人になってから触れる機会が増えるものの方が嘘が多いのだ。

後に引用する文の宇宙人支配者説の箇所についてあらかじめ述べておく。

宇宙人支配者説→TVや本で発表できる。
キリスト教と大本教系が黒幕説→TVでも本でも発表不可能。

オカルトという胡散臭さを演出している分野に真実を隠すのは有効。
だが、最重要の秘密ならそもそも宇宙人支配者説の情報すらTVや本で出ないのではないのだろうか。
或る程度漏れたから、あえて或る程度公開したのだろうか。
しかしそれだと、キリスト教と大本教系が陰謀論の元締めであり陰謀の黒幕だということも少なくとも陰謀論の本で出てもおかしくない。
しかしまったく出ない。
陰謀論者の所属団体がキリスト教と神道カルト(和風キリスト教)だらけなのをオカルトの分野にするのは流石に無理があるからだろうか。

宇宙人支配者説はフィクションで大変多い。
キリスト教や大本教黒幕説の場合は名前を変えたりして、カルトが世界を牛耳っていると暴露するフィクションはある。

最低限言えることは、
宇宙人説を唱えている人は明確にキリスト教を否定していないといけない。
キリスト教が支配用の最強の宗教=実行部隊だと言っていないといけない。
いくらキリスト教を否定したふりをしようが
キリスト教の伝統であるユダヤ陰謀論
聖書が根拠の日ユ同祖論
を主張したらアウト


千と千尋の神隠しに限らず、物語は大規模洗脳に利用される。
物語の抽象性は潜在意識に入り込み、誰でも簡単にアクセス可能な為、老若男女問わず洗脳可能。
なので、聖書を読んだことがなくても、聖書思想を無自覚に吹き込んだりできる。
昔も今も聖書思想をアニメ・漫画・映画・ゲーム・音楽に滑り込ませたり散りばめたりして、とにかく意識できない部分に埋め込もうとしている。

ユダヤ陰謀論も日ユ同祖論も聖書が根拠であり、聖書物語による洗脳。
聖書のユダヤ人の実在を信じることは、キリスト教を黒幕だと認識できなくなることに等しい。

………

千と千尋が性風俗の話だと宮崎駿監督が明言しているのに、無視や拒否反応が多いことから、日本人がキリスト教化されたことと、キリスト教に逆らえない評論家(笑)ばかりなのを実感しよう。
日本人は無自覚クリスチャン(家畜の証)。
仏教で愛は悪。

日本人の労働観はプロテスタント以上にプロテスタント。
過労死教。
プロテスタントですら、過労死するほど労働しようと考えない。
「働かざる者食うべからず」は聖書が元ネタ。
「勤勉な日本人」は明治以降の偽伝統。

日本の学校のモデルは神学校(音楽・体育・遠足・文化祭あり)
=イエズス会のセミナリヨ=キリスト教製。
学校は定時奴隷労働者の訓練施設。
英国の産業革命以降の労働者育成用なので時間と規則に厳しい。
不登校は実はまとも。

日教組の母体である啓明会を作った下中弥三郎は教育支配の為の工作員。

煩い親や教師には
①学校制度は産業革命により神学校をモデルに奴隷労働者を育成するために生まれた
②給食は毒塗れ
③予防接種は危険
こんなことすら知らずどうやって子供を守れるのかと聞こう。
抵抗しよう!



「ユダヤ」なんてキリスト教の盾に過ぎません!陰謀論者のデスノート 陰謀業界人の宗派リスト 。派閥別工作員の特徴リスト(ねこた+まっこうもぐら製)。
 http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-50.html


子子子子子(ねここねこ)‏@kitsuchitsuchi
「鬼道=シャーマニズムの道教」に、老子の道(タオ)と易経の神(シン)の思想が混ざり
2世紀、後漢の時代の中頃から「神道の道教」となる。

真俗を対比させる『荘子』の哲学の盛行で
3世紀頃から「真道の道教」となる。

聖道を名乗る仏教に対抗し
6世紀に道教側も「聖道の道教」となる。「聖」が最高。

道教の宗教認識:
鬼道(シャーマニズム。卑弥呼)
<神道(墓道の意味もある。格下扱いする『日本書紀』)
<真道(真人=最高の人。天武天皇は真人を八色の姓での最高位とし諡にも入れさせた)
<聖道(道教と仏教)。

本地垂迹説に基づく寺(道教混合)による異教支配の根拠。
明治以前の神=道教の神仙。

神道のお札の元ネタは道教のお札。
茅山道教を創始した陶弘景(5・6世紀。皇帝の相談役)は「道教は神道」と主張。
天皇崇拝は星崇拝であり太陽崇拝ではない(天照は誤り)。天皇は天皇大帝の略称。天皇大帝は北極星の神格化であり剣と鏡の二種を象徴として持つ。日本の皇室でも元来は二種の神器。

神道に教義も教典もないのは、当時の神社は地方の祭壇で、思想体系が整備されていない土着の信仰だったから。
天皇が採用=国教なら、哲学体系が整備されるので仏教思想は発展。
寺に支配された神社に権力はなく
記紀は道教国教時代に誕生。
日本の皇室でも元来は二種の神器=中国の道教用語。

5~6世紀の道教家の陶弘景が道教の一派「神道」の起源。紫宮に住む天皇を仙の世界の長とし真人を高級官僚として「神道の道教」世界を構想。道教の剣と鏡=天皇大帝の象徴を重視。
天皇大帝は北極星の神格化。×太陽
天武・持統天皇合葬陵は八角形=道教思想。
神道のお札の元ネタは道教のお札。

道(タオ)→伝道(暴力=武道で脅す)。
八咫烏好きは記紀が道教書で、企画者の初代「天皇」天武が道教家で、神道も陰陽道も道教の一派の中国原産で、明治以前の国教が道教混じりの仏教なのを隠す。
JFAの八咫烏マークに影響した内野台嶺は曹洞宗で儒学者=アンチ道教。


伊勢大神宮寺。 伊勢神道は食べ物の神の外宮が天照の内宮より格上。 反本地垂迹説=反仏教だから明治以前の天皇は伊勢神宮を参拝せず。 ダビデの星つき石灯籠の設置は戦後。 以上を隠す為の説明が道教用語=神道・天皇・神器と仏教用語多数なのをチェックしてみては?


嶋田 龍一(ららにもさくらも真冬です)‏@lalasakura
日本の宗教は昔から道教だと思う。今も。国として成立して一番初めに来た宗教が道教だから。高松塚古墳の壁画は道教。伊勢神宮の「太一」信仰も道教。北枕が駄目なのも、春分の日が休みになるのも、お中元を贈るのも七夕の祭りも道教。神道-道教=殆ど0。御神籤も鬼門も道教だ。

嶋田 龍一(ららにもさくらも真冬です)‏@lalasakura20082010年7月7日
七夕か。なぜ、日本の古代社会は道教の影響が強いのだろう。古事記も道教。竹取物語も道教。暦も道教。源氏も道教。古墳の壁画も道教。「北」信仰。干支。方違え。今でいうなら鬼門。風水。みんな道教。古代の宇宙学かな。


Ken ITO 伊東 乾‏@itokenstein
国風文化、本地垂迹というと仏教と神道の混交と思われ易いですが、どうですか、日本の風習たとえばお雛様、端午の節句、七夕、七五三などなど。道教を始め各種の大陸諸信仰のアマルガム以外の何ものでもありません。と同時に元来日本に根をもつものも大いに変質していった、そういう道程でもある訳です
でも日本の庶民感覚って 一番近いのは道教じゃないですか?「おひなさま」「たんごのせっく」「たなばた」「七五三」みんなこれですよね。なぜか9月は重陽の節句とかいわずに 月見団子だけに矮小化されていますが^^ あとはお盆とかでしょう で 正月とか秋祭りにわずかに鎮守みたいな形で神道。


ボロ親父:高瀬敏幸‏@borooyaji2011年3月2日
NHKオンデマンド「こころの時代‐古代中国の思想と日本‐福永光司」。日本人が抱いている迷信などが、儒教と道教の相反する思想の両方に支配されている。たとえば儒教は偶数、道教は奇数で七五三などと。それにしてもあの戦争中の大和魂も、支配者に都合のよい儒教魂ではないか。目から鱗だった。


『道教の本―不老不死をめざす仙道呪術の世界』
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・神道・惟神・天皇・神器は道教由来。
・神道という言葉の初出は、八世紀成立の『日本書紀』の第三十一代用明天皇の条(用明紀)にある
「(用明)天皇信仏法尊神道」
(天皇は仏法を信じ、神道を尊びたもう
天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ)
の一文。
欽明天皇期の仏教伝来以前から、日本列島には民間道教が浸透していたらしいこと、
用明天皇のころには今日的な意味でも神道という語は成立していなかったことなどから、
用明天皇即位前記や、孝徳天皇即位前記において、仏法と対句的に用いられた神道という語は、道教を指すと考えて差し支えない。
神道という言葉の元をたどれば、『易経』や『太平清領書』に行きつく。
また、神道の「かんながら(惟神)」という語も元来は道教用語で、『晋書』の「隠逸伝」に「惟神之常道(いしんのじょうどう)」とある。
神道でも重要な禊も民間道教が起源だという説がある。
『荊楚歳時記』(けいそさいじき)に、三月三日に川辺で水を浴びて邪悪を祓い、病気や災難から逃れる禊祓いの行事の記述がある。この行事は、魏のころから行なわれるようになり、奈良時代に渡来人によって伝来したのではないかと、研究者はみる。
(水で清める儀式は世界中にあるけど、一番近いところから伝わったと考えれば、朝鮮半島と中国大陸ですな。水で清めるという概念は人類普遍レベルのような気がするけど)

荊楚歳時記…六朝時代の荊楚(現在の湖北・湖南省)地方の年中行事や風俗を記録したもので、七夕=7月7日、牽牛と織姫が会合する夜の記述などがある。梁(りょう)の宗懍(そうりん)の撰。6世紀半ばごろ成立。


源統隱士 休齋@minamoto33 • 2012年6月25日
日本の神道は神乍道(かむながらのみち)或いは惟神道と書いて(かむながらのみち)と読むが、「惟神道」の当て字の元は大陸の宗教である道教に有る「惟神道教」から採ったものである。


・孝明天皇の礼服には、龍、鳳凰、北斗七星など道教のシンボルがある。

・伊勢は神仙境として位置づけられた。
天照が伊勢神宮に鎮座するようになったのも、道教の神仙思想と深い関係がある。
伊勢神宮は神仙たちが住む楽園世界という言うべき、「常世」に最も違い場所として想定された。
伊勢神宮の東にある朝熊(あさま)山、現世と神仙界を結ぶ霊山とされていたという。

・天皇という称号は、道教の最高神の一柱とされる天皇大帝に由来している。天皇大帝は、元来は北極星が神格化され、三世紀ごろに成立したとされる道教の神である。
日本で天皇という称号がいつから使われるようになったかは、定説がない。
一説には、七世紀初頭の推古天皇から八世紀末の天武天皇の時代にかけてであったとも言われている。
熱心な道教信者であった唐の高宗皇帝が、生前に自ら天皇と名乗り、死後に天皇大帝と諡(おくりな)されたこととの関連性である。遣隋使や遣唐使による、細心の文化や知識が請来されており、天皇という称号も日本に渡来していたと考えられる。
ちなみに、高宗皇帝と同時代に活躍した天武天皇、およびその皇后でのちの持統天皇は道教の信奉者であった。天武天皇は、天文・遁甲(とんこう。占星術と隠形術〔おんぎょうじゅつ〕)という道術をマスターし、道教的な占星台の造営や、道教の神である風神と祀るための社も建立している。
天武天皇の諡は、天渟中原瀛真人(あまのぬなはらのおきのまひと)。
瀛真人とは、道教の最高神仙を意味する。
瀛は、三神山(さんしんざん。蓬莱、方丈、瀛州)の一つで、中国東方の海上にあるとされた神仙境のことである。
また、真人は仙人を指す道教用語。天武天皇は生前に自ら八色の姓という家格制度を定め、その最高位に真人という称号を置いた。

怒れる不動明王‏@goubuku_fudou
そもそも日本の天皇という名称も、右翼たちは何も知らずに崇拝するだけであるが、それは中国の古い民間思想の道教の最高神である「天皇大帝」という言葉から取られたものなのである。本当は皇帝と称したかったが、中国の手前それができず、やむなく天皇という名称になっただけの事である。

・三種の神器(八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣)は、道教の影響で成立したと考えられる。
7~8世紀の唐代の道教の宗派・天師道の司馬承禎(643- 735年)が『含象剣鑑図(がんしょうけんかんず)』にて、宇宙の最高神と地上の最高権威を直結させる象徴的な神器が鏡と剣(二種の神器)であると説かれている。
道教では当初は鏡と剣の二種の神器が強調されていたが、次第に三という数字を神性化するにあたり、古風の副葬品などにもみられるように勾玉を加えて三種の神器として整えられるようになった。

第14章 二種の神器と三種の神器
http://blog.goo.ne.jp/isaq2011/e/931adc74167ca3368e27e592652e8ec7
“倭国王家から天皇家へと脈絡する支配層の祭政手法(信仰的儀礼)は、中原王朝のそれに倣ってきた。これに、後漢末の中国で盛んになった天師道(初期道教)の要素が複合すると述べたが、その最たる事例が「三種の神器」である。
 中国学界でも道教研究者として知られる福永光司によると、道教の前身たる張魯の天師道は鏡と剣を二種の神宝としていたという。これが4世紀末ごろに儒教を取り込んで、道教として体制内宗教に昇華したとき、儒教の神宝の玉ぎょく( 勾
玉ではない)を加えてはじめて三種の神宝が揃う。(ということは、三種の神宝が登場する以前の3世紀に鬼道(天師道)を修という卑弥呼は、鏡と剣を二種の神宝にしていたことになる)。そこで次に、わが国における三種の神宝に関する考察を展開する。


●中国古来の鏡信仰
 鏡と剣の用途機能しては、権力の継承や権力そのものを象徴する神器と、神の象徴や神の依り代として祭祀の核となる祭器と、そして、破邪・駆邪の呪具として死者に副葬する明器の3種がある。古墳や遺跡から出土する鏡は、すべて明器と考えて差し支えない。

●「中国では古くから鏡に呪術的な機能があるとして、貴族たちは人が死ぬと墓に鏡を副葬した。漢代になると、皇帝は臣下が死んだ際には遺族に副葬用として鏡を贈るようになる。鏡は身分や男女の区別なく副葬され、一人一面だけでなく複数の場合もあり、一つの鏡を2つに割って、二人別々の棺に納められていた例もある」。
●「中国において鏡を神霊視する意識はかなり早い時期から現われ、帝王権力を象徴する玉鏡、天鏡、金鏡があった。それ以外には、通常は悪鬼を駆除し災を回避するための道具として使用された。このような、銅鏡を、邪をはらう・神に会うための呪具とする信仰は、(のちに)道教の中に継承されることになる」。
●「道教では、人が死ぬと冢墓に入り、冥界で生前の罪状の審判を受けなければならないとされる。もしも、死者の魂が親族からの救済を得られず恨みが生じれば、冥界で訴訟が起こされることになる。冥官の懲罰は死者の親族(生者の側)にまで及び、彼らに災いや病気をもたらし死に至らしめるとさせる。懲罰が生者にまで及ぶことを恐れ、生きている人間の不幸を防ぐためには、道士が解除の法術を行なう必要があった」。(「道教文物の概説」王育成)

●「道教の神学において、最高神である天皇大帝は、その宗教的神聖性の象徴として二種の神器を持つとされる。鏡と剣とがそれであり、神器という言葉も道教の経典などにその用例が見える。道教の神学における鏡と剣を二種の神器とする思想信仰は、中国の六朝時代、『抱朴子』の著者・葛洪や『真誥』編著者・陶弘景らによってその理論的基礎が確立されるが、この二種の神器の思想信仰を日本の天皇の皇位の象徴として、ほとんど直訳的に採り入れているのは、8世紀初頭に成った『日本書紀』である。(『道教と古代日本』福永光司)

 一方、中国社会科学院歴史研究所教授の王育成氏によれば、「(道教成立後の)道教経典では、「鏡、剣、玉璽」が道家の三宝とされたという。(道家の三種の神器は鏡・剣と玉の印璽だったのである)。というわけで、日本列島に三種の神器が登場するのは、少なくとも道教が伝来する5世紀以降になる。
 わが国の古墳から三種の神器が揃って出土したという声もよく聞くが、5世紀以前の古墳から出土する鏡と剣と勾玉は、三種の神宝として揃えられたのではなく、多くの副葬品の中に「たまたま」それらがあったにすぎない。むろん、「壱岐の原の辻遺跡から最古の三種の神器が出た」とか、「2~3世紀の弥生時代の遺跡から三種の神器が出た」という説は明らかな歴史錯誤である。
 
 わが国の古墳に鏡と剣を副葬する葬送儀礼が、道教の前身たる天師道にあることは明確な事実である。鏡と剣について語るには、どうしても天師道(初期道教)に触れる必要がある。この天師道こそが、体制側の歴史書たる『三国志』が邪教扱いして、批判的に鬼道と書いた民間宗教でもある。

❶天師道
 遠く周王朝下の斉で、宣王が居城の門下に大学をつくる。中国全土から集まった食客は数千人といわれたが、彼らは衣食住に何の不自由もない環境で厚遇され、日夜勉学と議論に明け暮れた。ほどなく諸氏百家の時代を迎えるのだが、ここで、老子の思想に斉の地に古くからあった黄道を取り込んだ学問が、黄老学(道学)として開花する。この道学を修めた張陵が『道書』24篇を著わす。142年、鶴鳴山で太上老君の命を受けて『道書』を基礎とした天師道を創立する。

❷巫鬼(ふき)道
 のちに蜀領となる漢巴の地域には、古くから巫鬼道の信仰があった。張陵はこの漢巴に自らが極めた道学を持ち込む。一気に信徒を増やす中で、旧来の巫鬼道と対立して排除していく。(一説によると、巫鬼道は人間を鬼神への生け贄にしていともいわれる。張陵があえて漢巴を布教の地に選んだのには、巫鬼道を駆逐する意図があったのかも知れない)。張陵は戒律を制定し太清玄元の神を崇め、邪道に誘う鬼を祭ることを禁じた。張陵の天師道は盛んに伝わり、当地の巫鬼道の巫覡もくら替えして天師道の祭酒・道民になり、天師道は四川(漢巴)に次第に根をはっていった。 張陵が、157年に世を去り、その子の張衡が跡を継いだ。その張衡が179年に死ぬと、これを引き継いだ張脩によって巫鬼道が再び盛んになる。

❸五斗米道
 もともと巴郡の巫人(巫鬼道の巫覡だった)張脩は、張衡の死を境に天師道と巫鬼道を一つにして天師道の信徒を統括した。信徒や患者に米を拠出させたことから、米巫・米賊とも呼ばれた。そもそもは、これが五斗米道であり『三国志』のいう鬼道である。
●益州牧(長官)の劉焉は張脩に投降帰順させて五斗米師を接収して、張脩を別部司馬に任命する。 一方、張衡の息子の張魯(張陵の孫)を督義司馬に任命して、張脩とともに漢中太守の蘇固を攻撃させる。張魯は、張脩と蘇固を奇襲したあと張脩をも襲って殺し、全軍を掌握した。祖父のつくった教団を、父親の死後に横取りした形の張脩に対する報復と教団奪還の思惑があってのことだろう。張魯は思惑どおり教団を奪い返している。

❹初期道教
 劉焉の死後に子の劉璋が立ったが張魯がこれに従わなかったので、劉璋のところで布教活動をしていた母と弟を殺された。そこで張魯はそのまま漢中にとどまって支配した。威光の衰えた朝廷は張魯を懐柔。張魯は漢寧太守となり漢中に天師道王国を建てた。張魯の政治は独特で、長吏(軍事長官)を置かず、すべて祭酒(大学教授)に治めさせた。人々は平穏安楽で、張魯の漢巴支配は30年間続いた。
 張魯の教団は、張脩の鬼道色を少しは残しながらも天師道と称していた。米を収める規定が張魯の教団にあったか否かは不明だが、社会一般には五斗米道と呼ばれ体制側からは鬼道と呼ばれた。
この天師道が道教の原形をなすもので、一般には原始道教とか初期道教と呼ばれる。

●二種の神器と二種の明器
 天師道を基礎とする道教における鏡と剣の位置づけについて、天津社会科学院教授の王金林氏はこう述べている。
●「墓に副葬された道教の呪具の中で、玉は不朽で永遠に存続する、銅鏡は神仙と会い悪魔を制御する、さらには、銅鏡を被葬者の左右に置く日明鏡、銅鏡を前後左右に置く四規鏡は、神仙と会い悪魔を制御し、俗から離れて仙人になる目的を達成する思想による」。
●「道教において鏡は神仙示現・予知・不老長生・辟悪などに関わる呪具として用いられるものであり、副葬品としての鏡もまたそうした多様な呪術的性格を持ち合わせていたのではないかと思われる。たとえば、三角縁神獣鏡に描かれた神仙や霊獣が道教的思想を反映して描かれたことは、神仙が東王父・西王母などに対応して配置されていること、霊獣が巨(矩)と呼ばれる呪具などをくわえた例などからもうかがわれる。その際、霊獣は神仙の乗り物として死者の霊魂を仙人のいる天上世界に導いてくれることを期待されたのではないか」。(「古墳出土の玉・鏡・剣の副葬品からみた道家思想の影響」王金林)


●剣の副葬と尸解(しかい)術
 剣は被葬者の生前の社会的地位を示すと同時に、祭祀具としての宗教意識を内包するものである。東大寺山古墳出土の環頭大刀銘に「上応星宿、下辟不□」と刻されているように、大刀は宿星信仰に基づいてその呪力が期待されて副葬された。道教では神仙の地位の上下(総じて九品)が決まっており、道士は修練によって神仙世界に昇ることができるが、その修練の度合いによって昇天の方術は飛天・隠遁・尸解(魂が昇天する)の3つに分かれる。(王金林)

 どうやら、古墳に副葬された鏡と剣の配列にも信仰的意味があったらしい。中でも死者に副葬された剣は、死者が神仙世界に昇るための呪具だったというわけである。




●古代における信仰改革
 中国における道教とその原形をなした天師道(鬼道)は、一般には宗教と思われているが、実態は無数の人びとの知識と学問の集大成である。中国古来の森羅万象の学問を背景としたものだから、いささか非科学的な要素を包含するとはいえ、医薬学・方位学・易学などの多様な分野で現代まで通用してることで、その真価のほどを実証している。
 先に述べたことのくり返しになるが、鬼道と呼ばれた道教の前身が、医療・施薬から治病祈祷、さらには武運・戦勝、航海安全・破邪・駆邪・地鎮に至るまで効果を発揮したことは容易に推察できる。こうした様子から、鏡と剣を二種の神宝とする鬼道様式が、劇的な大改革を起こしただろうことは想像に難くない。
 とくに古代において、生命と直結する治病祈祷や安全祈願など現世利益を提供する鬼道は、それまでの銅鐸祭祀にくらべれば極めて大きな魅力で、人心を掌握したに違いない。 人心の掌握は有力な政治手段として機能する。 わが日本列島では、弥生前期から古墳時代へと脈絡する集落遺跡が多く、また、列島をあげての大きな戦いの痕跡がないことなどから、鏡と剣を神宝とする鬼道様式を活用した、勢力拡大と統一事業の経緯をうかがうことができる。


●古墳時代は鬼道がもたらした
 銅鏡を死者に副葬する習慣は中国でも古くからあって、青銅器を地下に埋めることで土地の神を鎮める地鎮の意味があったようである。また、「破鏡重円」という信仰めいた考え方があって、破鏡を副葬した実例もある。わが国では、破鏡を含む銅鏡は墳墓に副葬されているだけではなく、開拓・開墾された住宅地などにも埋められている。これと同じ現象を見せるのが銅鐸で、そもそもは地鎮の呪具として地下に埋められたとも考えられる。
 そうしたところへ、後漢末に新興宗教の鬼道=天師道(初期道教)が登場する。この宗教は鏡と剣を神宝・呪具とし、死者を神仙へ導くために、棺内での副葬配列にまで意味を持たせて様式化している。この鬼道が神宝・呪具としたのが神獣鏡で、神獣鏡は鬼道が生んだ鏡である。むろん、呉地域から多種かつ大量に出土する典型的な呉式鏡である。

 ところで、わが国で最古級とされる古墳をみると、その副葬品から大きくは2タイプに分けることができる。
●中国古来の漢式鏡を副葬している最古級の古墳。
 多くは方格規矩や内行花文鏡などの漢式鏡か、その破鏡を副葬している。
①鶴尾神社4号墳/獣帯方格規矩四神鏡
②茶臼山古墳/中国製細線式獣帯鏡
③美濃観音寺山古墳/方格規矩四神鏡、重圏文鏡
④平塚古墳/内行花文鏡
⑤平原1号墳/内行花文鏡、方格規矩鏡、四螭文鏡、大型内行花文鏡
 以上の古墳は古い漢式鏡を副葬しており、鬼道と神獣鏡がさほど普及していなかった3世紀初頭の築造と思われる。
●鬼道の作法で新しい呉式鏡(神獣鏡)を副葬している古墳。
 鬼道と神獣鏡がセットで普及して、最初に副葬呪具に用いられたのが画紋帯神獣鏡だろう。画紋帯神獣鏡を副葬している古墳は、最古級といわれていても、その築造年代は比較的新しい。
①萩原墳丘墓/画文帯神獣鏡
②ホケノ山古墳/画紋帯神獣鏡
③古冨波山古墳/三角縁神獣鏡
 以上の3つの古墳は神獣鏡を副葬するようになった時代の築造で、真の最古級古墳よりは新しいとみなされる。とくに三角縁神獣鏡を副葬した古冨波山古墳は初期の築造とされているが、築造年代が疑問視されるホケノ山古墳よりもさらに新しいようである。
  
 画紋帯であろうが三角縁であろうが、神獣鏡は鬼道が生んだ鏡であり典型的な呉式鏡である。中でも画紋帯神獣鏡は呉地域で数多く出土している事実からも、呉地域からもたらされたとみなければならない。かくして、神獣鏡が副葬されるようになってから(換言すれば鬼道の葬送様式が普及してから)、日本列島では古墳づくりが本格的に行なわれるようになる。こうした実情から極論すれば、「古墳時代は鬼道がもたらした」といっても過言ではない。


●三種のひとつの玉璽(ぎょくじ)が勾玉(まがたま)に変ったわけ 
 天師道から道教へと続く中国古来の宗教が、鏡と剣と玉印を三種の神器としたことは理解できた。ところが、三種の神器をそのまま受け入れてきたはずの日本では、鏡と剣と勾玉を三種の神器とする。これはいったどういうことだろうか。 わが国における三種の神器は、天孫降臨の際に天照大神から授けられたという鏡(八咫鏡)・剣(天叢雲剣)・玉(八尺瓊勾玉)を指す。天皇の位を受け継ぐ際に授受され、この三種の神器を所持することが正統な皇位継承の証しとされた。
 『日本書紀』神宮皇后紀では、鏡と剣が二種の神器として登場する。また仲哀天皇紀では、岡県主の熊鰐、伊都県主の五十迹手らが、白銅鏡、八尺瓊、十握剣を掲げて馳せ参じている。ここで注意したいのは、地方豪族たちの所持する三種の一つが「玉ではなく」縄文以来の「勾玉」になっている」ということである。
 一方で、『日本書紀』の皇位継承のシーンでは、璽符・璽・璽印・璽綬(印璽と綬)・神璽といった表現で何度も登場する。
①允恭天皇紀「天皇の璽付(じふ)を捧げて再拝す」
②清寧天皇紀「璽(じ)を皇太子に奉る」
③顕宗天皇紀「天子の璽(じ)を取りて天皇の坐に置きたまう」
④継体天皇紀 鏡・剣・璽符(じふ)が登場
⑤宣化天皇紀 天皇の即位に鏡と剣だけが登場
⑥推古天皇紀「因りて天皇の璽印(じいん)を奉る」
⑦舒明天皇紀「天皇の璽印(じいん)を以て田村皇子に奉る」
⑧孝徳天皇紀「璽綬(じじゅ)を授けたまいて位を禅りたまふ」

 『日本書紀』は、皇位継承の証したる神宝を「璽(じ)・璽符(じふ)・璽印(じいん)という表現で、いずれも「玉の印璽」を意味する書き方をしている。皇位継承の証したる神器は勾玉ではなく「玉の印璽」だったことがうかがえる。厳然たる事実として、皇位継承のシーンに「勾玉」は登場しない。このように『日本書紀』は、皇位継承の証したる神器は「玉の印璽」としながら、三種の神器のうちの玉は勾玉としている。同じ『日本書紀』の中に非常に奇妙な食い違いが認められるのである。

 中国では、夏・商・周代には鼎を王権神授・正統な王権継承の礼器とした。秦の始皇帝が正統性を欠いていたために九鼎は失われ、それ以後は御璽(印璽)を礼器(王権継承の神器)とした。これに倣って、日本でも皇位継承のしるしは御璽(印璽)だったわけである。
 天皇が伝世所有する宝器としての玉璽(印璽)があり、神宮皇后紀では神に祈る祭器としての鏡と剣が登場し、仲哀天皇紀では鏡と剣と勾玉の三種をかかげた豪族が登場する。ここに一種の分かりにくさがあるが、整理すると次のようなことだろうと思われる。

 道教の三種の神宝の概念が伝わる5世紀以前までは、皇位継承のしるしとしての玉の印璽があって、鬼道の二種の神宝としての鏡と剣があった。やがて、5世紀頃に鏡と剣と「玉璽」を三種の神器とする道教が伝わった。そこで、『日本書紀』が書かれる時点で玉璽を「勾玉」へと変更したものと思われる。
 その理由は明解である。
 玉の印璽(玉璽)は、天子・天皇が所持する唯一無二の皇位継承のしるしたる神器である。あとからやってきた三種の神器の一つがこれと同じでは都合が悪い。そこで三種の一つの玉の印璽を勾玉にした。『日本書紀』が神代紀の冒頭で天照大神の言葉を通じて、鏡と剣と勾玉を三種の神宝とするよう告げさせたのも、このことを徹底させると同時に、天皇が所持する玉璽と、豪族たちが所持する三種の神器を区別する意図が働いていたものと思われる。
 かくして、「鏡と剣と勾玉」の三種の神器が権力や権力継承の証しとして、豪族の間で流布することになる。だが、天皇家の三種の神器は変わらず、「玉璽と鏡と剣」だったはずである。
  ”

・『淮南子』では、天皇大帝の前身を、紫宮(しぐう)に棲む太一神(たいいつしん)と称し、この太一神を信仰すれば不老不死の神仙になれると記している。
その後、太一神は漢代の末から天皇大帝と呼ばれるようになり、東方を治める最高神として信仰されるようになった。中国大陸の東方には日本がある。
太一神の太一という語は、伊勢神宮別宮・伊雑宮(いざわのみや)の御田植祭(おたうえさい)で用いる祭具に書かれている文字でもある。そして、伊勢神宮の遷宮に伴う用材の運搬などには、大一(だいいち)(明治までは「太一」。道教の痕跡を消したかったんだね)と印した旗を掲げるのが慣習となっている。
天照と太一を同一視する信仰(日本の太陽神=道教の神)は、鎌倉時代ころから伊勢神道でも説かれている。
(でも、伊勢神道では、天照=太陽を祀る内宮は、豊受大御神=食べ物の神を祀る外宮より格下)


Shinya Watanabe 渡辺真也‏@curatorshinya
伊勢神宮の神職たちが行う八度拝八開手(はちどはい やひらで)は易の八卦の、20年置きに入れ替わる式年遷宮は陰陽の、心御柱の五色の糸は五行説の、すなわち全て、道教の影響ではないか?ここまで来ると、日本の神道の根底に流れているのは、完全に道教の陰陽五行説だと私には思える。
伊勢神宮の根底に流れる海人たちの道教の流れは、中国から元伊勢へと移住した徐福の流れではないか?そして神道の「道」とは、道教の道のことを指すのではないか?

hattorin8‏@hattorin82013年9月14日
伊勢神宮の天照大神は中国の火の神に由来する。同時代の道教の影響も強い。伊勢神宮が国家神道として持ち上げられたのは明治以来の幻想。本当の神道は、言語的なものは少なく、「むすひ」というような原初的つながりの思想。事実を理解する。

源統隱士 休齋‏@minamoto332013年4月3日
一度は道教の最高神であった天皇大帝(てんおうだいてい)は別名、紫微大帝(しびたいてい)とも太一(たいいつ)とも言うが、不思議な事に伊勢神宮に太一の幡が立てられる祭りがある。これは天照大神(皇室)が太陽神と北極星と双方の性質を帯びている事を示している。

鈴木芳宏 (動作法 おおみや)‏@hizadati2013年2月4日
『伊勢神宮 東アジアのアマテラス』千田稔 (中公新書)天智天皇、天武天皇持統天皇の陵墓は八角形なのは道教の考えを取り入れたと言われている。「天皇」の称号も道教における北極星を指すことばから。本書は、アマテラスのが東アジア起源の可能性を論じた。純粋性を追求する人は残念だが。

嶋田 龍一(ららにもさくらも真冬です)‏@lalasakura20082013年2月3日
日本の宗教文化の古層は、縄文以来の自然崇拝(アミニズム)と後期の弥生人がもってきた道教だと思う。古事記も道教の影響が強いし古墳にも描かれている絵は、道教の神だ。伊勢神宮には「北」を尊ぶ思想が顕著である。神道の中心思想の形成は、自然崇拝と道教だと思う。

†てしかちさき†‏@Re_mkon2012年12月15日
@_keiai_ ぜひぜひ!!そうなんですよ!例えば天之御中主神という神のモデルになったのは元始天尊である可能性があるとか、伊勢神宮の「神宮」という言葉は道教の言葉だったとかetc...神社の方は作務衣も着てますが、袴(はかま)を履いてる方が多いですね!剣道とかで着るあれです!

伊勢神宮の道教遺跡(その5伊勢神宮の秘密)
http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-c00b.html
“「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新聞社)では、『  伊勢神宮の造営に、この道教思想が大きな影響を及ぼしたことは想像に難くない。』と述べているが、このことに関連して、次のようにも述べている。すなわち、
『 桜井徳太郎氏は、伊勢神宮そのものが、朝熊山の里宮として成立したとする説を提起している。(中略)朝熊山があるからこそ、伊勢神宮がここに遷座した。その理由を説明するには、飛鳥時代末の天武・持統天皇が、伊勢国にどういう思いを知る必要がある。天照大神が伊勢に祀られたのは、垂仁天皇の時代であると「日本書紀」は伝えるが、五十鈴川のほとりに社殿が整備されるのは、天武・持統天皇の時代であることは誰も認める。20年ごとにご神体を移す式年遷宮が初めて行なわれたのは、持統四年(690)のことだった。』
『 伊勢神宮の場合、ご神体は「皇太神宮儀式帳」(804)によると鏡とある。(中略)道教の根本教典「南華真経(なんげしんきょう)」(荘子)に至人(道を体得した人)の徳を鏡に譬えたことや、6~7世紀の南北朝、随唐朝の道教教典が宇宙の最高神「天皇大帝」や「元始天尊(げんしてんそん)」の権威のシンボルを鏡や剣とした神学教典を根本に踏まえていることは明らかである。』
『 天武天皇は、死後この世とあの世の境、常世の重浪帰する国にいたのである。天武天皇が、天帝に仕える最高官僚「瀛真人(おきのまひと)」の諱を持つことを考えれば、希望通り神仙となったと見なされていたのであろう。持統天皇はその姿を夢のうちに見て、自らも神仙に憧れていただけに、「天武天皇は伊勢国におられる。うらやましいことだ。」という趣旨の歌を詠われた。万葉人にふさわしく、極めて率直な心の表現といえる。』・・・と。
さらに、「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新聞社)では、伊勢神宮が道教と深く繋がっていることに関して、次のように述べている。すなわち、
『 「皇太神宮儀式帳」(804)によると、社殿新築の際の用材や「心の御柱(しんのみはしら)」を伐採する前に行なう祭祀などに五色の薄絁(うすぎぬ)や金属製の人形(ひとがた)を使うとある。道教教典の「抱朴子(ほうぼくし)」登渉篇によると「山中で五色の繒(きぬ)を大きく石の上に懸ければ、求むる所必ず得らる、すなわち願い事必ずかなう。」とあり、五色の薄絁(うすぎぬ)は、道教関係の儀式で盛んに使われている。伊勢神宮の場合、この五色の薄絁(うすぎぬ)が「見ることはもちろん、語ってもいけない。」と言われる「心の御柱」を建てる際に重要な役割を果たしている。(注:「心の御柱」を伐り出す「木本祭」は、神宮の域内で、夜間に行われ、それを建てる「心御柱奉建祭」も秘事として夜間に行われる。猿田彦神社の宇治土公宮司に聞いた話によると、伊勢神宮でもっとも重要な行事であり、猿田彦神社の宇治土公宮司がそれを司祭するのだそうだ。)』
『 いつ頃に起源するかは詳らかではないが、外宮の神官であった度会氏(どかいし)が、内宮と外宮の中間にある岡崎宮で、道教の神・泰山府君(たいざんふくん)を祀る山宮祭を主宰したことは先人たちが論考している(佐藤虎雄「北辰の崇敬と度会氏の岡崎宮」(神道研究4ー2・3、1942年)。』
『 三重県志摩郡磯部町上の郷に「伊勢神宮別宮の伊雑宮(いぞうのみや)がある。鳥羽から10キロ、朝熊山のほぼ真南である。祭神はやはり天照大神で、漁師や海女の崇敬が篤い。この伊雑宮では毎年6月24日に華やかな田植え祭のあることで知られる。香取神宮、住吉大社のお田植えとともに、日本三大お田植え祭とも言われる。このお田植え祭に、興味ある祭具が登場する。神田の脇に、忌柱が立てられ、そこに巨大な二個のさしばのついた「忌竹(いみたけ)」と呼ばれるものが飾られる。さいばは上にあるのは円形で、下は普通のうちわの形をしており、俗に「軍配うちわ」と呼び習わされているそうだ。忌竹の高さは14・5m、上の円形さしばは直系2・5m。下の軍配うちわは縦m、横幅はもっとも広い肩の部分で3m。問題はこの下の軍配うちわである。五色の帆に風をいっぱいにはらませた千石船が進んでいる様子を描いているが、その帆に大きく「太一」とある。「太一」とは言うまでもなく道教の最高神、天帝のことである。』
『 内宮、外宮のいちばん外側の垣根には、東西南北四つの門があり、その門の前に蕃塀(ばんぺい)という独立した垣根がある。どこの神社にもあるというものではない。これは中国で「泰山石敢当」などと刻んで魔除けに使った石敢当の変形したものではないだろうか。』・・・と。

・風水師は現在も韓国、台湾、香港などに数多くおり、家や墓の指導をしている。
また、株をはじめとする投機のアドバイス業も兼任している者もいる。
(金融占星術は実在する。メーソンで習ったと普通に暴露している人がいる。秘密結社で秘密なのは
①教えられている技術・知識・(インサイダー)情報
②今生きているメンバー(で特に金融関係の職業の者)の名前
であり、過去のメンバーやロッジの場所をいくらバラされても構わないのは本を出版できたりTVで放送できたりすることからわかる。
メイソンはキリスト教系の組織なので、結局はキリスト教人脈が銀行を支配しているということ。これを隠す為に、「ユダヤ」=悪というキリスト教思想が根拠であるユダヤ陰謀論というデマを流したりする。
メーソンメンバーの大半がクリスチャンだとはっきり言わない秘密結社の情報は信用してはいけない。大半が教会が流したデマのコピペだから)

相手の運気を下げたりするために、敵の墓石の方向をずらしたり、土を掘って龍脈を切ったりすることがある。

・東京西部郊外の大岳山にいる笹目秀和は自ら仙人と称し、神意を占う扶乩(フーチ。道教版コックリさん)を行なっている。笹目秀和は、大本教とも提携している世界紅卍字会系の多摩道院の統掌(とうしょう。代表)でもある


takuhiro (kinosy,歴担)‏@Kino_see·2013年5月13日
そういえば、こないだ亡くなられた俳優の夏八木勲さん。実は神仙道を深く信奉されていたんですよ。「奥多摩の仙人」こと仙道家・仙術研究家の笹目秀和師と交流して神道、道教や神仙道を学び、「暉因(きいん)」の道号をもって、笹目翁の開いた道院の二代目統掌をしておられたのです。 #陰陽道

奈良泰秀/神職‏@99nara·2011年6月6日
昨日のセミナーに笹目秀和先生の道院の道統を継承したM氏来場。来週台湾の道院本部に行くが大本からも大勢行くそうだ。大本が道院付属の世界紅卍字会との同盟関係は大正末期。笹目先生は弾圧直前に王仁三郎から中国崑崙山にご神体の鎮座を依頼された。王仁三郎のロマンは人の繋がりを拡げている…

田辺道則‏@tenma35·2010年7月7日
笹目仙人= 故笹目 秀和氏 宗教家、著述家、本名恒雄笹目 秀和氏(ささめ・しゅうわ=宗教家、著述家、本名恒雄=つねお)心不全のため東京都東村山市の病院で死去、94歳。戦前、中国東北部(旧満州)、モンゴルに渡り、戦後、東京・奥多摩に仏教、儒教などを取り入れた多摩道院を設立した。

風の子 ‏@makeanovel·1月17日
間接統治などにマイノリティを使う
RT @kitsuchitsuchi キリスト教とその変形が大衆に八百長を見せている。在日とユダヤは単なるバイト
↓両方ともボスは和風キリスト教。
自民党=ワールドメイト+生長の家+神道政治連盟。
民主党=ワールドメイト+生長の家+スピリチュアル


和風キリスト教  大本教系=紅卍字会

スピリチュアル
      ↑
金光教→大本教 → 世界救世教
      ↓  ↓  ↓
      ↓三五教 真光
      ↓ 神道=✝↓
      ↓→ワールドメイト
      ↓
   生長の家→ 白光真宏会
    ↓
幸福の科学(+ GLA)



子子子子子(ねここねこ)‏@kitsuchitsuchi
紅卍字会会員③ 情報下さい。
内田良平(アジア主義。黒龍会主幹)
笹川良一(巣鴨プリズン組。辯天宗信者〔松下幸之助も信者〕)
呉清源(昭和の棋聖)
陳漢森
今小路了円
林出賢次郎
張海鳳
笹目秀和
中西旭
伊與田覺

紅卍字会会員④
伊與田覺(安岡正篤の弟子。論語普及会学監)

中西旭
(國學院大學卒。上智大学元教授。米国留学。神社本庁と國學院大學〔皇典講究所=神道捏造機関派生〕顧問。神道国際学会初代会長)
世界救世教「おひかり」=光(明会)=SHINE!

陰謀論の黒幕=耶蘇教。
紅卍字会(大本)会員の中西旭は上智大学(イエズス会)元教授で國學院卒。
出口王仁三郎も皇典講究所(國學院)卒。

『モンゴル神仙邂逅記』笹目秀和


・記紀や源氏物語にも道教の決定的な影響がある。
『日本書紀』冒頭では、
混沌から独神(ひとりがみ)が生じて、陰陽二神が生まれ、天・地・人の元の日、月、島などを生み、万物の発生をみたとしている。
これは
『老子』の
「混沌状態の道(タオ)から一が生まれ、一は二を、二は三を生じ、三から万物が生まれた」という、
混沌→1→2→3→万物の構造と一致している。

『古事記』(上巻・冒頭)
「天地初発のとき、高天原に成れる神の名は、
天之御中主神、
次に高御産巣日神、
次に神産巣日神。
此の三柱の神は並独神成り坐して、
身を隠したまひき。」
では、これら三柱の神を造化之首(ぞうかのおびと)としている。
三という数字から万物発生を説いている。

≡‏@KagayakiNitoh•2012年11月8日
古事記の冒頭との関係が深いといわれる文「陰陽の始め、玄(水)は黄牙(黄色の芽)を含む。…金を水母と為し、母は子を胎に隠す。水は金の子にして、子は母の胞に蔵る。(胞胎より生まれ出でし)真人は、至妙にして有るが若く亡きが若く、大いなる渕に髣髴として、乍は沈み、乍は浮ぶ」『周易参同契』

okano tigaya‏@tigayam·1月7日
「『日本書紀』における「天地開闢の神話」なるものは、『淮南子』と『三五歴紀』のコピペで済みます。」 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5187/
え、そうだったの。

『淮南子』と『日本書紀』 ~天地開闢~。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5187/

源統隱士 休齋‏@minamoto33
古事記、日本書紀が道教に影響されている事は昔から指摘されているが、まさに天武天皇は道教好きで知られ、当時文化の輸入元である唐王朝は上清派(茅山派)道士(道教の方士)が帝室に取り入り唐の国教だった。#神道 #道教
奈良時代、日本は唐から道教の信仰を押し付けられそうになったが、茅山派道教が唐帝室に取り入って唐の国教となっていた事が関係している。日本の遣唐使は国書を必要としない所謂朝貢外交では無かった為、道教を通して日本が唐室を崇拝する様に仕向け様としたが、日本は上手くかわした。


「源氏物語と道教」
http://www.clubbit.net/~syourouan/memo10-06.html

○「紫」
作者も紫を名乗りますが この紫は道教で最も高貴な色とされます
○紫宸殿(シシンデン)
古来北極星はその位置を変えないことから 宇宙に君臨する支配神とてあがめられてきました
また 古くは北極星は紫色に輝くとされ 紫色は北極星を表したのです
宸は天帝を表す言葉で 紫宸殿とは 天子という神が住む所です
cf 中国では漢の武帝の頃からその住居を‘紫宮’といい 後には‘紫禁城’

○壷
「源氏物語」の第一帖は “桐壺”です
主人公光源氏のお母さんは 桐壺の更衣と呼ばれていました
他にも‘藤壺’などいくつかの壷のつく名前が登場しますが この「壷」も道教からの言葉です  仙人の住む所を蓬壷(ホウコ)と言います
帝に使える女官の住まいという意味に使われました
cf ついでに‘桐’という木は想像上の鳥である鳳凰が止まる聖なる木とされます

○庚申信仰
第二帖“帚木”には「雨夜の品定め」と言われ 源氏を始めとした男性四名が 一晩中女性談義をするというくだりがあります
これは‘庚申信仰’と言われるものが前提となっています
道教では「人の天命は120年あるが 体の中の三尸(サンシ)と言われる虫が庚申の日の夜 体を抜け出し天帝にその悪事を報告し 報告されると人はその寿命を削られる」というのです だからその夜は寝てはいけないわけです
○方忌み・方違え
凶とされる方角を避けて 直接そちらに向いて行かず 寄り道をすることなどで 難を避けようとすることです
同じく“帚木”の「雨夜の品定め」の翌日 方違えのために 訪れた館で 空蝉との出会いが描かれます


・『日本書紀』によれば、513年(継体天皇7年)、百済から五経博士の段楊爾(だん-ように)が派遣されたとあり、これが陰陽道誕生の端緒となった。
(陰陽師の宣伝は、百済=南朝系の宣伝も兼ねているのね)

・陰陽道が正式に朝廷の官僚機構になったのは、701年に天武天皇が陰陽寮を開設したことに始まる。陰陽寮は、陰陽博士、暦博士、天文博士、漏刻博士などで編成され、陰陽五行に基づき、天文、暦数、卜筮(ぼくぜい。「卜」は亀の甲、「筮」は筮竹〔ぜいちく〕)、相地などを行なった。

高橋圭也☆彡占い、陰陽師、菜根譚、山鹿流‏@KeiyaTakahashi2013年2月9日
陰陽道は「卜筮相地」を行うとされる。この卜筮は六壬式占で諸事を占うことで、相地の方は風水や四神相応の事と従来言われてきた(私もそう思っていた)。ところが、陰陽師が行った相地は四神相応などの土地の相を観ることではなく、都や邸宅などの土地の良否善悪を六壬式占で占うことだったのである。

・陰陽道の語源は、『乾鑿度』(けんさくど)の「陰陽之道」にもとづき、その源流は『易経』(『周易』、『易』)にある。
なお、八卦、つまり易は道教ではないので注意。周の時代の易経が元なので、儒教の思想。
儒教の基本書籍である五経に入っているから易経は儒教の経典。
中国思想は儒教とセットなので、道教だけやってもよく理解できない。
また、仏教が衰退した理由は儒教文化を理解しないと説明できない。
排仏論では、仏教の剃髪の習俗が攻撃目標となった。
『論語』と並んで儒教の最も基本的な経典とされる『孝経』の冒頭に、
「身体髪膚、之を父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」
(身体や髪の毛、皮膚は父母からの授かりもの、それを傷つけまいとするのが孝の第一歩)
とあり、沙門が剃髪するのは髪の毛を傷つける行為なので「孝」の徳に反するからである。

・晴明の家紋でもある桔梗印(セーマン)=五芒星は、道教の北斗信仰からきたもの。
ちなみに九字を表す(臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前)は芦屋道満にちなんでドーマンと呼ぶ。

・陰陽道の安倍家は土御門家と後に称し、江戸時代中期に土御門泰福(やすとみ)が道教系の神道である土御門神道(安家〔あんけ〕神道)を創始している。土御門神道の主神は道教の神の泰山府君(東岳大帝)である。
泰山府君は、延暦寺別院の赤山禅院の本尊である赤山明神と同一視される。
陰陽道では泰山府君祭など、日本化された道教の祭りを行う。

陰陽道たんと式神@今年は乙未(きのと羊‏@onmyoudoutan1月15日
【式】泰山府君祭。泰山府君は、道教の閻魔様ポジション。寿命をつかさどってたから、主に貴族たちの延命のお祭りだったんだ。泰山府君の下には、冥道十二神という道教・仏教から冥界に関する神様を集めたものが設定されてるよ。個人向けのお祭りもあったんだね。

高橋圭也☆彡占い、陰陽師、菜根譚、山鹿流‏@KeiyaTakahashi12月12日
陰陽道の祭りの際、道教系の神々を祭る。実は平安時代に陰陽道が祈祷や祓いを盛んに始めた頃に真言密教の影響を受けたが(例・泰山府君祭は密教の焔摩天供を参考にした)、実際、密教の修法の時に仏の他に日本の神々や泰山府君なども含めた道教系の神々も招くため、道教の知識を密教から得たのは確か。

高橋圭也☆彡占い、陰陽師、菜根譚、山鹿流‏@KeiyaTakahashi2011年2月16日
陰陽道を日本版道教と考える人が多い。これは未だに陰陽五行説が起源だ、と考えているのと江戸時代に土御門家が長い戦乱の中でその祭式道具や文献資料の大半を失って密教と道教色の強い吉田神道の祭式作法等を導入し、さらに土御門泰福がそれらを研究・編成し直して神道化したことにもよるのだろう。

高橋圭也☆彡占い、陰陽師、菜根譚、山鹿流‏@KeiyaTakahashi2012年11月22日
江戸時代に土御門泰福によって陰陽道を神道化した天社土御門神道を研究する際には神道や儒学・道教の知識が必要だが、安倍晴明の頃の陰陽道は密教の知識が不可欠である。当時は、密教に道教が混入した密教修法の星祭り、さらに焔摩(閻魔)天供や冥道供を参考にした泰山府君祭などを行っていたからだ。

・星辰信仰の中心は北辰(北極星)と北斗(北斗七星)である。中国では北辰は天の中枢にある不動の星で、他の星を統御し、天下の興亡を支配し、あらゆる不祥邪気をお斥け、不老長生を保持させる力があるとされた。
道教の北辰・北斗信仰は、五世紀ごろに仏教と習合し、北辰菩薩となり、人間の生死禍福を支配すると信じられた。陰陽道だけでなく、仏教にも取り入れられ、妙見菩薩となった(大阪の能勢〔のせ〕妙見が有名)。
日本に入った北辰・北斗信仰は、更に願望成就の霊符で知られる鎮宅霊符信仰へと発展していく。神社仏閣などで配布している霊符、お守り、お札も結局は道教が本家。
霊符には
①護符
邪神邪霊の災厄から守護する防御的なもの
②呪符
天上界の神々に直接働きかけて悪鬼邪神を駆逐する調伏的な効力を持つ
の二種類がある。
なお、両者の性質を併せ持つ霊符もある。
霊符には、道教起源を示す「急急如律令」と記されたものがある。中国漢代の公文書の末尾に、「急々に律令のごとくに行え」という意味で書かれた言葉である。

陰陽道の幻想
http://www10.plala.or.jp/mituha/sa_na/onmyo.htm


198.庚申信仰        高橋俊隆
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index198.htm
“【庚申信仰】
また、日本に伝来し定着した道教信仰に庚申信仰があります。各地に庚申塔や庚申堂が造られ、庚申講や庚申待ちという組織や風習が定着しています。青面金剛が祀られたのは江戸初期のことです。江戸時代には結核の原因が三尸としたり、伝染病は邪悪な虫の侵入によって生ずるという俗信がありました。(宮田登著『カミとホトケのあいだ』一七二頁)。現代でも、庚申堂を中心とした庚申信仰の行われている地域では、軒先に身代わり猿を吊り下げる風習が見られます。古くは『捜神記』などにみえ、『雲笈七籤』巻七九「符図」章に、詳細な庚申信仰について書かれています。紫式部の『源氏物語』や、藤原定家の『名月記』のなかにも道教の泰山府君信仰や、方違(かたたが)えなどの方角に関する禁忌が書かれています。神道・密教・修験道など民間信仰や習俗などが見られる複合信仰です。柳田国男氏は庚申信仰を日本固有といいましたが、中国の道仏二教の守庚申の儀式や信仰と、中世以前の日本の庚申信仰を比べると、日本固有の行事や信仰ではないといいます。(窪徳忠著『道教入門』二三三頁)。
この庚申信仰が日本に伝えられたのは、皇極天皇(六四二年)のときといわれ、文武天皇の大宝元年(七〇一年)の一月七日に天王寺において始めて庚申待が行われます。庚申信仰は道教の三尸説(さんしせつ)をもとにしています。この起源は中国の三国時代から西晋にかけての三世紀中頃に道教で説いた「三尸」にあります。『抱朴子』によりますと、人の体内にいる三尸(霊魂・鬼神)という虫が、庚申の夜に人が眠りに入ると天にいる天帝にその人の罪を告げるというもので、天帝は罪深き者を早死にさせるといいます。この虫はその宿主を早く死なせたく思っています。宿主が死ぬと虫は自由に歩き、死者に供えたものを食べることができるからといいます。それで、庚申の夜になると天に昇って宿主の過失を報告するというのです。これを防ぐために庚申の夜は眠らないで身を慎む守庚申がなされました。これが、庚申待(おさる待ち)といい、庚申の日に神仏を祀って徹夜をする日本の民間信仰です。平安時代の貴族は庚申御遊といって、碁・詩歌・管弦の遊びを催してその夜を過ごしたといいます。三尸は三彭・尸虫・尸鬼・三虫などともいいます。平安期に丹波康賴が著した『医心方』に、三虫は長虫(ヘビ類の俗称)・赤虫(オオユスリカ・アカムシユスリカの幼虫)・蟯虫(袋形動物線虫綱の寄生虫)を指し寄生虫のこととします。尸は祖先の祭に神霊に代わって祭を受ける形代・依り代のことで、病気の原因である寄生虫を、悪霊の憑依する呪物としたといいます。これを道教の方術士が天帝に結びつけ、それを陰陽師や修験者が庚申信仰として民衆化しました。また、『雲笈七籤』には三尸は上尸を蓋東、中尸を彭侯、下尸を蝦蟇といい、上尸は眉間の奥三寸の泥丸宮に、中尸は心臓の背後三寸三分の中泥丸に、下尸は臍下三寸のところ下泥丸に宮殿楼閣をもつとあります。その三尸が庚申に天に上るわけです。『淮南子』の天文訓によりますと庚と申は五行のうちの「金」になります。庚申は天神決断の日とされています。北極大帝が諸門を開いて鬼神の訴訟を許すときにあたり、その人々の善悪を聞いて賞罰の判断を行うといいます。(村山修一著『日本陰陽道史話』三〇二頁)。「金」は刑を意味します。刑が執行されるのは辛酉の日です。ですから、辛酉の前日の庚申は三尸虫の報告を受ける日になります。
この天帝を帝釈天と見なし仏教と結びつけます。『四天王寺庚申縁起』には四天王寺の行法尊記上人のもとに、帝釈天の使いが下って「庚申の法」を広めることを勧めます。これは、精進潔斎を教えたものと思います。『長阿含経』忉利天品第七には、四天王が帝釈天に斎戒布施を行う善人がいることを報告し、一同が歓喜する場面が説かれています。ここに、仏教との接点が認められるといいます。(望月良晃稿「法華仏教と庶民信仰」『近世法華仏教の展開』所収、五八七頁)。日本の三庚申は大阪四天王寺の庚申堂・八坂の庚申堂・金谷三光寺の庚申堂(豊田市)です。日本最古の庚申塔は、川口市の実相寺にある文明三年(一四七一年)の板碑です。一般に庚申信仰は室町中期ころから拡大し、日本で確認される最古の庚申縁起は永弘文書の中にある、明応五(一四九六)年の「庚申因縁記」です。これらの庚申縁起を作成したのは、日蓮宗系の僧侶であったといいます。(『日本民族大辞典』上。五九五頁)。庚申縁起によりますと、庚申待に始めは拝礼する神仏はなかったが、室町時代の終わり頃から、特定の神仏を祭祀して三尸昇天を防ぎ、安穏・延命などを祈願するようになったとあります。この庚申信仰と帝釈天信仰を結んだ柴又の題経寺があります。題経寺の縁起によりますと、江戸中期に行方不明であった寺伝の板本尊が、たまたま安永八(一七七九)年四月六日庚申の日に発見されたことから、当時流行していた庚申信仰と結びついたといいます。
帝釈天は漢字に音写して「釈提桓因」といい、日蓮聖人は御本尊を認めるときは「釈提桓因王」と書かれています。日蓮聖人は帝釈天を娑婆を知行する梵天王の眷属とされ、帝釈天は三十三天の主であると同時に四天王を統率しているとのべています。『法華取要抄』に、
「梵王云 此土自廿九劫已来知行主。第六天帝釈四天王等以如是。釈尊与梵王等始知行先後諍論之。雖爾拳一指降伏之已来梵天傾頭魔王合掌三界衆生令帰伏釈尊是也」(八一一頁)
と、梵天・帝釈・四天王の立場を示しています。帝釈天に関する説話として有名なのは、『涅槃経』聖行品にある雪山童子の説話です。帝釈天は羅刹となって雪山童子の修行を試みます。そして、過去仏所説の「諸行無常・是生滅法」「生滅滅已・寂滅為楽」を示します。日蓮聖人はこの説話により、『松野殿御返事』に、
「誠に我身貧にして布施すべき宝なくば我身命を捨て、仏法を得べき便あらば身命を捨てて仏法を学すべし。とても此身は徒に山野の土と成べし。惜みても何かせん」(定一二七二頁)
と、不惜身命の法華弘通を示され霊山浄土の法悦を説いています。日蓮聖人において帝釈天は、四天王や日月天王、そして、日本の大小の神祇を司る善神としてうけとめ、法華経の守護を誓った仏弟子として曼荼羅御本尊に勧請されました。
中国が最も国際的であった七世紀の唐の国教は道教でした。日本と中国は多数の使節や留学生・留学僧を送り交流を深めました。道教は気学を完成させ、医術・天文学・科学技術においても高い水準に達していました。道教の正式な道士・天師の渡来はなかったとはいえ、先に挙げた道教の養生・錬丹・方術という神仙術などは、古代日本に伝来していました。それは豪族の氏神信仰と、天皇家の儀式や陵墓にうかがえました。また、中国の陰陽道に近い宿曜道は密教から発展したものです。これ以前の呪術中心の密教を雑密といい、以後のものを純密と呼びます。奈良朝は雑密全盛の時代でした。(村山修一著『日本陰陽道史話』二二一頁)。しかし、天智八(六六九)年を最後として唐との直接交渉が途絶え、一方、新羅との使節の往還が頻繁になります。その背景には天智二(六六三)年八月の「白村江の戦い」による日本軍の敗北、そして六六八年に高句麗と百済が、唐と新羅連合軍に首都平壌を奪われて滅亡し、そして、六七六年に新羅の統一国家ができたことによります。


閑人(かんじんorひまじん)‏@azumainari10月2日
@nora_gg @marimaro 三尸(さんし)というのは道教で 人間の体内にいる三匹の虫です。 これらは庚申の日に眠ると体から抜け出して 天帝にその人間の罪告げて寿命を操作するのです。 日本では庚申講で虫が出るのを防ぐのです


Shinya Watanabe 渡辺真也‏@curatorshinya5月6日
日本の庚申信仰が道教に由来するとすると、日本書紀が讖緯説を取ったこととも整合性が取れます。貴重なご意見、ありがとうございました! @kosuukeizai 例えば日本における庚申信仰は元は道教由来であるとされています。

本の付喪神‏@youkaisho_bot1月14日
庚申の日は体内から三尸の虫が抜け出し、天帝にその人間の悪事を報告して寿命を縮めるとされた。このため虫が抜け出さないように一晩中寝ずに過ごす「庚申待ち」が行われた。しょうけらは三尸と同一視されるが、庚申の本尊・青面金剛が左手で掴んでいる小さな女人をショケラと呼ぶという説がある。

今井幸哉‏@bowkun080312月31日
虫が抜け出す日はおよそ60日に一回。夜の間に体から抜け出し告げ口をしに行く。しかし三尸にも弱点がある。宿主が起きている間は体から抜け出すことが出来ないのだ。なので三尸が告げ口をしに行く庚申の日には人々は酒盛りなどをし、お互い寝ないよう集会を開き過ごすのが庚申講である。

片野貴夫‏@katanota10月13日
道教の神仙感応経の中に 三台北斗の神君あり、人の頭上にありて、人の罪悪をしるし、その紀算を奪う。「三尸の神」あり、人の身中にありて、庚申の日至る毎に天曹に登りて人の罪過を言う。4.000年前の日本人は「三尸」の尸の名前と役目を全員知っていたからいちいち説明していないのでしょう。


加賀美修介bot‏@shuusuke_kagami1月15日
庚申の申は十二支の猿だ。だから不見、不聞、不言の三猿、つまり日吉山王信仰と結び付いた。その日吉大社は天台宗延暦寺の護法神でもあるのさ。竃の神様も三尸同様、大晦日に悪事を告げ、寿命を減らすと言われている。

そうこう箒‏@soukouhouki10月15日
明日は庚申さんと閻魔さんの縁日バッティングですか。庚申信仰の面白い所は、祀る対象が天帝や閻魔ではなしに自分の罪の報告を回避する事に重点が置かれているところ。青面金剛を祀るのは三尸の虫を食べてくれるから。明日はどう誤摩化せばよいのやら

京からす‏@KYOKARASU9月23日
京都 八坂の塔の西にある庚申堂。日本三庚申の1つ。門の上に三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)があります。

・鏡を魔除けにし、九字を切る修験道にも道教の影響がある。
修験道の行者は入山するにあたって、霊符や鏡を必ず携帯したようである。
晋代の道士・葛洪の『抱朴子』には、神仙修行のための入山の際には鏡を魔除けとしたとある。
九字とは、右手の人差指と中指のみを伸ばして手刀と見立て、一字を唱えるごとに横、縦、横の順番で空中で文字を描く方法。

北斗柄@生涯六壬者.多分‏@hokutohei·1月6日
ん?九字がオリジナルである老君入山符の『臨兵闘者皆陣列*前*行*』と
今の九字の『臨兵闘者皆陣列*在*前*』がゴッチャになってる。素人さんは混乱するだろ。

御影舎‏@hinowakamiya·11 時間11 時間前
@hokutohei 北斗柄先生、今の素人さんはネットで無駄に知識は拾ってくるので、両方あるのを知っている人も多いようです。
それと九字は、おっしゃる通り抱朴子初出ですが、六甲秘祝としてよく読むと臨から始まらない真伝の呪文が抱朴子にちゃんと書いてあります。

北斗柄@生涯六壬者.多分‏@hokutohei·6 時間6 時間前
@hinowakamiya 抱朴子登渉篇の六甲秘祝は『臨兵闘者皆列前行』ですが、他に六甲秘祝があるのでしょうか?


wikipedia bot スマホ対応版‏@WikiBot_SmaPho·2013年7月1日
九字 http://goo.gl/hntAy 九字(くじ)は、道家により呪力を持つとされた9つの漢字。西晋と東晋の葛洪が著した『抱朴子』(zh:抱朴子)内篇巻17「登渉篇」[1]に、抱撲子が「入山宜知六甲秘祝祝曰臨兵鬥者皆陣列前行九字常當密祝之無所不辟要道不煩此之謂...

高橋圭也☆彡占い、陰陽師、菜根譚、山鹿流‏@KeiyaTakahashi·2013年6月7日
@onmyoudoutanはじめまして。私は少し陰陽道をかじった者ですが、陰陽道と修験道の間には共通性や類似性はほとんどないです。修験道を語る時に「陰陽道の影響がある」とされますが、あれは陰陽五行説のことで陰陽道ではありません。また陰陽道の陰陽は陰陽五行説 のことではありません。

修験の九字は、中国の葛洪の「抱朴子」の入山の際や薬草を取る際に唱える呪文と禹歩をもとにしています(呪文が少し違います)。ですが、抱朴子では九字を空間に切りません。空間に九字を切るのは密教に呪文が採用され、それが発展したものではないか、と思います。

抱朴子は「前を行く」で、密教や修験のものは「前に在り」です。

「密教や修験道が陰陽道を取り入れた」という説が当然のようにまかり通っている。だが、陰陽道を導入したのなら、天文占や陰陽(占い、主に六壬式占)を行ったことになるはずだ。実際は陰陽五行説や道教思想だから、それらは仏教経典中にすでにあるし、中国思想は大学寮の明経道や紀伝道が専門である。

・疫病除けの護符、蘇民将来は道教と深い関係がある。

小暮宣雄 KOGURE Nobuo‏@kogurenob2010年7月18日
daysento様、まいどありがとうございます。RT @daysento 上元→左義長、中元→送り火(日本以外に盆はない)、下元→お焚祭。道教色はなくなって祭祀だけが残ったり 祇園さんの蘇民将来符なんてお札も道教由来かと

・正月の御屠蘇(おとそ)、七草粥は道教の影響。
葛洪の『肘後法』には、屠蘇や七草が不老長寿の仙薬として紹介されているし、中国江南地方で、三世紀頃にそれらを服用していたという記録もある。日本でも奈良時代には伝わっていたらしいが、一般化したのは平安時代である。

1. のりと‏@norit52010年6月22日
「七草」は当初、道教的神仙思想を背景にもった不老長寿の養生法としてあったといえよう。

行事・風習と道教
http://kosmochlor3.at.webry.info/201212/article_2.html
“年が明ければ新年、...先ずは元旦の屠蘇 (とそ) にはじまり、初詣の おふだ、おみくじ、護符etc...、更には七草粥、トンド焼き、節分の豆まき (元は大晦日の宮廷行事) と行事が続く、...これらは日本古来の厳粛な新年の行事の筈だが、実は全て古代中国から伝わった、しかも道教由来の風習である。 ...他にも年中行事の、桃の節句や端午の節句、七夕祭り、七五三の祝いゴト...、夏の中元贈りや 大安・仏滅の六曜暦から厄除けに至るまで、何れも道教の影響を受けて日本に定着した風俗・風習である。

 奈良の飛鳥にある亀石・酒船石・猿石...etc、これらの石像の由来は日本史的発想では中々解けない、だが道教の知識を駆使すれば解けるから不思議だ。 ...我国では第 27代の斉明天皇が、道教由来の石造物を並べて広大な庭園を造ったり、不老不死の仙人の住む天宮を吉野の多武峰に建てたり、吉野の山に離宮を造営したりして道教の神々を祀っていた。 ...唐では、末期の武宗の時代に外来の宗教を排斥して道教を保護したが、もともと道教は現世利益という固有の生活信条と民間信仰を基盤とする民族宗教であり、2000年の昔から中国民衆と共にあった風習と信仰が結集したもの。 ... 従って、道教は初期の頃は 教祖も教典も持たない自然態の宗教だったが、時代が下がるにつれて老子の思想や陰陽五行説、神仙思想などを 次々と取り込んで行った、その結果 いろいろな神々を祀る宗教へと大きく発展した。

 儒教が古代中国の知識階級を対象にした道徳・規範の教えだったとすれば、道教は庶民の生活に根付き日々の幸せを大切にする現世の教えだった。 ...自らの名前を 「道教」 と決めて教理や教典を作り、既存の宗教の仲間入りを果たしたのは 5世紀の後半である。 教典名は、正統道蔵と云い約 5400巻から成る大著だが、目先の現世利益を願う庶民たちが この教本を読むコトは先ず無い。 ...魯迅は 「道教が解かれば 中国が分かる」 と書いたが、空飛ぶ仙人や不老不死を願う道教の懐の大きさには感じ入らざるを得ない。... 日本の道教は、弥生時代から平安時代に掛けて、日本列島にやってきた大陸発の移民たちが断続的に、或いは断片的に持ち込んだ生活習慣で、これらが次第に既存の仏教や神道とも混じり合い日本独特のの新しい習俗を形成していった。 ...過去に、道教の系統的思想が日本に上陸した形跡は無い。

 道教の厄除けの一つに石敢當 (いしがんとう) 建立の風習が有った。 石敢當とは鬼を追い払う魔よけの石柱のコト。 当初は中国の福建省辺りの風俗だったものが、唐の時代の 8世紀頃から周辺に広がり始め、15世紀迄には台湾や東南アジア、沖縄、日本の本州へと伝播して定着した。 ...埼玉県騎西町上埼の龍興寺の構堀の山門脇に立つ石敢當は、現在は町指定の有形民俗文化財であり、高さは 70㎝で柱の横に 1771年 (明和8年) 晩春との彫がある。 或る調べでは古い石敢當の分布は全国の 29都道府県に及んでいるが、埼玉県内には 2基しかなく他は加須市の千方神社で 1817年建立のものである。 その点でも龍興寺の石敢當は東日本では珍しく古い塔である。 ...研究者の坂出さんは、石敢當を前にして 台湾では線香が供えられるが、沖縄では手を合わせる姿もない、さて本州では如何であろうかと書いている。

 中国本土では既に廃れているのに日本で重用されているのが、暦の中に伝わる六曜説である。 ...老若男女を問わず今の日本人が秘かに気にする六曜説は、先勝に始まり友引・先負け・仏滅・大安・赤口を繰り返すのが (一部の例外を除き)、基本ルールである。 13世紀の南宋の時代に起こり、元・明 の時代に流行して、現在では台湾や香港にその痕跡を残すのみの 六曜暦だが、どう云う訳か日本では昭和の戦後から盛んに使われる様になった。 葬儀社や結婚式場の都合なのかもしれないが、現代科学を学んだ若者ですら個人的には仏滅や友引を忌み嫌う様を見るにつけ、道教の遺した影響力の凄ましさには舌を巻かざるを得ない。

 華僑が海外へ進出する時には必ず自分たちの守護神を携行し、新しい土地に廟を造りその周囲に町作りをする。 ...そこで祀られるのは、殆どが媽祖像か関帝廟である。 長崎や横浜の中華街も例外ではない。 関とは三国志演義に出てくる武将の関羽 (かんう) だが、宋の時代に山西省の塩の商人たちが 「義」 の神として祀って以来、商業の神として定着する様になった。 媽祖は航海の神である。 ...何れも今なお続く道教の神々の海外進出である。”

・端午の節句は道教の習俗。
武者人形の中には玄宗皇帝を悪鬼から守護した道教の神・鍾馗(しょうき)がいる。

蓮・慈光美術‏@renjikoh2013年8月28日
「鍾馗図」http://jikoh.co.jp/?p=12773 鍾馗(しょうき)は、主に中国の民間伝承に伝わる道教系の神。日本では、疱瘡除けや学業成就に効があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したりする。鍾馗の図像は魔よけの効験があるとされ、旗、屏風、掛け軸として飾ったりする。


もんじゃ焼きお好み焼き わらべ‏@warabe401
鍾馗(しょうき)は、主に中国の民間伝承に伝わる道教系の神。日本では、疱瘡除けや学業成就に効があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したりする。また、鍾馗の図像は魔よけの効験があるとされ、旗、屏風、掛け軸として飾ったり、屋根の上に鍾馗の像を載せたりする。


神様紹介bot(神ボ)‏@myth_god_bot
《ショウキ/中国神話》鍾馗。道教の悪神を祓う神。唐の玄宗皇帝が病に倒れ、悪鬼の夢を見た際に現れてたちまち悪鬼を食い殺し、皇帝を病から救ったとされている。日本にも伝わり五月人形やのぼりに描かれ、魔除けと子供の成長を願うものとされている。

・六月の夏越(なごしの)祓いの神事に伴う儀式、茅の輪くぐりも道教由来。茅(ちがや)は本来薬草で、山中で幽鬼に出会ったら、茅を投げつけると直ちに死ぬと『抱朴子』に書かれている。

“「茅の輪くぐり」と「道教」との関係
 茅の輪くぐりの起源として有名なのは『備後国風土記』逸文にある蘇民将来の伝説で、北の国の武塔(むとう)の神(素盞嗚尊とされる)が南の海神の娘のところに行く途中、日が暮れた。 そこに二人の兄弟がいた。兄の蘇民将来は貧しく、弟の巨旦将来は富んでいた。武塔神は先ず弟の所へ行って宿を借りようとしたが断られた。そこで兄の所へ行くと、粟柄で座をつくり、粟飯を食べさせた。 その後、神はお礼にやってきて、子供に茅の輪を腰の上につけておくようにと伝えた。その夜、蘇民将来はの娘一人を残して、みな滅ぼした。
 だから疫病が流行りそうな時には蘇民将来の子孫と言って、茅の輪を腰につけておくと免れる。
茅の輪を腰につける代わりに茅の輪をくぐって同じ効果を得られるとして、大祓、六月祓の茅の輪の夏越しの神事となったとされている。
 茅萱(ちがや)が何故使われるのか?ここに道教の匂いがある。
 茅萱の根茎は茅根(ぼうこん)、白茅根と言われて、チャイナでは古くから利尿、消炎、止血に使われた仙薬である。無関係ではない。
 江南道教の聖地は「茅山(ぼうざん)}という山だそうだ。『抱牧子』によると、山中で幽霊に出会ったら、チガヤを投げつけると即死するとある。江南道教とチガヤ、特別な関係があるようで、 茅の輪くぐりの習俗に道教とのかかわりを見ることができる。

           -『日本史を彩る道教の謎』から- ”
枚岡神社 東大阪市出雲井町7-16 - 神奈備にようこそ
http://kamnavi.jp/mn/osaka/hiraoka.htm

・道教では桃も、茅(ちがや)と同じく魔除けに使われる。
桃は邪気を祓うと古くから中国では信じられていた。
『荊楚歳時記』には「桃は邪気を厭伏(えんぶく)し、百鬼を制する」とあり、
『抱朴子』にも、桃の木に呪符を書けば抜群の効果を発揮するとある。
この道教思想は日本にも取り入れられ、古風の副葬品などからも魔除けの為と見られる桃の種が出土している。
また、記紀にも黄泉の国でイザナミも追いかけられたイザナギが、桃を投げつけて穢れを祓い、生還する話がある。

陸奥@境界をゆく‏@mutsukyoukai2013年8月25日
桃太郎は奈良・三輪から大和川を下って、吉備に向かい、鬼退治をして凱旋しました。この桃太郎は、道教思想で死者(鬼)を追い払う桃の信仰とイメージが投影されています。

あお.dmng@アストラエアの白き永遠‏@ao53072013年7月5日
桃は別に道教とか関係なく、古代中国において結構神聖視されていましたし、花といえば(古代中国では)桜じゃなくて桃の花ってくらいで、例えば桃源郷とかに見ることもできます。日本のイザナギがイザナミを桃で追い払ったのもその影響が大きい、って、やっぱり桃から古事記に繋がるのは教養ですね。

∞音∞ a.k.a. 風*月‏@fuhgetsu2013年4月12日
尾張一宮の真清田神社の例大祭は、旧暦三月三日の桃花祭。桃の枝を折って身の穢れを祓い、その枝を川に流すという神事。これは桃太郎の鬼退治や、イザナギが桃を投げてイザナミから逃げる神話につながる。鬼道をしていた卑弥呼。邪馬台国や纒向遺跡の時代から、道教では桃が邪気を祓う霊力の宿る植物。

中島多加仁【MARIA HOUSE】‏@hoshiyomi_taka2013年3月1日
中国や韓国で伝えられた道教では、桃の実を尊びます。東方朔(とうぼうさく)が盗み食いをした三千年の桃の実を持っていたのは、西王母という道教の神。桃の神秘の力を信ずる人々が日本に渡来し、進歩した珍らしい風習として流行した。その道教が、神道の基礎となったと考えられます。


SaToShi Noda‏@stsnoda2013年10月28日
纒向遺跡(邪馬台国の候補地のひとつ)から破壊された銅鐸と,桃の種が出てきたことから,弥生時代の銅鐸信仰が破棄されて鬼道(初期の道教)信仰に切り替わったという説があるらしい。でも道教の巫女(卑弥呼と仮定)ってどうやって道教を学んだんだ?



∞音∞ a.k.a. 風*月‏@fuhgetsu7月30日
http://twitpic.com/e932ir - [補足] 桃符(とうふ)は、桃の木でつくった道教のお札。 門に付いて、邪気を退治し得る。 鬼やらいで邪気を祓うのは、邪気ではなく無邪気。 道教では、桃は無邪気、天真爛漫、無垢の象徴。

寅丸星の四方山話bot‏@toramaru_yb_bot23 時間23 時間前
毘沙門天は七福神としても有名ですが、同役に道教の神がいます。そのうちの一柱「寿老人」は、不死の霊薬を含む瓢箪と、長寿の象徴である桃を持ち、長命と自然の調和の象徴とされる牡鹿を従えます。鹿というと鹿野苑が思い浮かびますね。御釈迦様が悟りを啓いた後、初めて説法を行われた場所ですよ。

紅 侘助@因州浪人・戯作屋‏@beniwabisuke2013年12月10日
@pochi_go ちなみに道教の道士の使う桃剣(とうけん・桃の木の木剣)や銭剣(穴あき銭を紐で綴った剣)は悪鬼には利きますが人は斬れないでしょうなぁ。> https://www.google.co.jp/search?q=%E9%8A%AD%E5%89%A3&newwindow=1&client=firefox-a&hs=cJJ&rls=org.mozilla:ja:official&hl=ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=HcKmUpmpDcLfkAXk_IHICg&ved=0CCsQsAQ&biw=1250&bih=644#imgdii=_ …

1. ロードさん@がんばらない‏@kusarimizu2012年7月10日
@papa_gano 桃なのは道教の仙桃とか仙人果の影響だと思う。鬼が牛角で虎パンツなのは鬼(キ=幽霊)が艮(うしとら)の方角だからで、犬と猿と雉は逆の方位の暗喩。キビ団子は吉備の地方で、下敷きは朝廷の土着民討伐譚だと聞いたような。 #誰も聞いてない

・道教由来のお中元の品を贈り合うようになったのは、江戸時代から。

Den‏@DensukeThS8月9日
明日は旧暦の7月15日。Ngày rằm tháng 7は中元節。道教由来の風習で上元節(1月15日)、下元節(10月15)の三元が一年の中でも重要な節目だと考えられている。日本でもお盆の時期に日頃お世話になった人へ贈り物をする習慣の事をお中元と呼ぶのはこの中元節からきている。

さらどぅ/saradox‏@virusyana6月24日
「中元(ちゅうげん)は、道教に由来する年中行事で三元の1つ」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%85%83 … 「中国仏教では盂蘭盆会」 「日本では神道と習合し、お盆の行事となった。江戸時代には、盆供(先祖への供物)と共に、商い先や世話になった人に贈り物をするようになった」


嶋田 龍一(ららにもさくらも真冬です)‏@lalasakura20082013年7月13日
お盆は、仏教ではなく、実は、道教や儒教からくる習俗で旧暦の7月15日にするのが本当。中元の祭りで、半年たって、先祖の神をお迎えして、無事を祝う祭り。新暦の7月15日では早すぎるので、8月15日にずらしている。七夕も旧暦の7月7日で、新暦なら8月中旬。

moto‏@motonm2011年9月13日
@Hime_Yoshino http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%85%83 … ←この道教の三元、中でも中元は仏教の盂蘭盆と結びついて重要です。旧暦7月7日はゾロ目の日で尚且つ新月から満月の真ん中の日となり、盂蘭盆入りの重要な日が七夕になります。中華文化を知る上では知っておいた方がいいかも

うちゆう‏@nousagiruns1月14日
【上元(じょうげん)】この日に小豆粥を食べると、その一年は疫病が避けられると言われる。7月15日を中元、10月15日を下元と言う。元々は中国の道教の行事で、龍王の3人の娘と人間の間に生まれた龍王の孫、三官大帝の誕生日が三元として祝われるようになったという。(wiki)

J‏@ZuvuyaWave8月11日
お盆は、元々、道教の三元のうちの中元をお祝いするもので、自分が思うに、その本質は、一年の中間の時期の満月の日に、何かに対して許せないという思いを、満月の力で手放しましょう、ということだと思う。許すことで、心を軽くして、一年の後半を歩いていこうという知恵。

うちゆう‏@nousagiruns2013年7月15日
【三元】元々は中国の道教の行事で、上元・中元・下元の3つの日(旧暦1・7・10月の15日)の総称のこと。三元を司る3神を三官大帝といい、龍王の3人の娘と人間の陳子椿との間に生まれた龍王の孫で、それぞれ天官大帝(神徳は賜福)・地官大帝(赦罪)・水官大帝(解厄)という。(wiki)

・テルテル坊主は中国由来(道教なのか?)。
別名、「てるてる法師」、「てれてれ坊主」、「日和坊主」(ひよりぼうず)。
元ネタは、中国には箒を手にした切り紙の人形である掃晴娘(サオヂンニャン)。掃晴娘と日本のてるてる坊主との類似はすでに江戸時代の榊原篁洲『榊巷談苑』で指摘されている。
ヘボン『和英語林集成』は「TERI-TERI-BŌZU」に「掃晴娘」の字をあてている。掃晴娘は文献上、金末元初の李俊民の「掃晴婦」詩に見えるのが古い。
『燕京歳時記』によれば、北京などで六月に長雨が続くと、掃晴娘と呼ばれる人形を作り、門に掲げて晴天を祈ったという。


丸山天寿‏@tenjumaruyama2011年10月7日
【俗信】ー「テルテル坊主」-起源は中国の「掃晴娘」、箒を持った人形で、これを木に吊るした。箒は霊や幸福を掃き寄せる呪具で、晴れの気を寄せると考えられた。平安期に日本に伝わったが、娘から坊主に変わったのは僧侶の方が霊力が強いと考えられたから。昔は「南天=難を転じる」の木に下げた。


喜助‏@crons_game2011年6月19日
テルテル坊主は実は女だった!:本来は顔を作り着物を着せ箒を持たせるそうです。その箒で雨雲を払ってしまおうと思ったそうです。日本には平安時代に伝わってきて照法師(てるほうし)、掃晴娘(さおちんにゃん)と呼ばれていました。ということで名前からも、てるてる坊主は女の子なんです。

整備中‏@ranger_julius2013年3月16日
皆様、有名なてるてる坊主の3番の歌詞を御存知ですか?「晴れなければお前の首をちょん切る」...というような内容です。しかし中国から伝わった当初は「晴れなければ共に泣こう」という歌詞だったのですよ。因みに、顔を描いたものは雨を、描いていないものは晴れを祈願するものなのです。

上海人形の東方雑ネタbot‏@shan__zatsu7月20日
シャンハーイ!寺と言えば坊さんだけど、てるてる坊主もまた日照りを願う僧侶などの事を指してるようね!因みにてるてる坊主の歌の二番には晴れさせてくれれば甘いお酒を飲ませますって歌詞になるんだよね!さらにこの歌の三番は、ソレでも雨を降らしたら坊主の首をはねるぞって怖い歌なんだよね!


掃晴娘(てるてる坊主)
http://pengzi.maruzen.com/season02/saoqingniang.htm
“調べてみるとてるてる坊主は中国の”掃晴娘”(サオチンニャン)が由来だそうです。
掃晴娘は天(空)の雨雲を掃いて掃除して晴れにする女神さまといったところでしょうか。
”掃晴娘”とはどんなものなのだろうかと、以前、北京っ子の李華さんにきいたところ、知らない... という返事が返ってきました。そしてしばらくたってから、
「そういえば、小さいころに、軒下に、紙で作った人形というかなんかがぶら下げてったことを思い出したけど、それが掃晴娘だったのかも」
と話してくれました。
その後調べたところ、中国最後の士大夫と言われる作家の汪曾琪(1920-1997)が、『私の家』(我的家)という文章の中にこんなことを書いていました。
雨は相変わらず降り続いている。
従姉は紙を切ってつくった人形を壁に貼り付けた。人形は片手に箕のを、もう片手には箒を持っている。
風が吹くと、揺ら揺らと揺れる。
これが掃晴娘だ。
ほんとうに不思議なことに、掃晴娘は一日空を掃き
二日目には少しだったが晴れになった。
特徴は、紙で作るということ、名前に掃くとあるように、箒をもっていることのようです。
ほかに調べてみると、顔は白、衣装を着た胴体はいろいろな紙や布で作った人形に箒を持たせたもの... というのもありました。

日本のとは違ってカラフルな掃晴娘
(画像は台湾のもの日本の影響があるような感じ...)
天を掃くということについて、前述の李華さんが面白いことを話してくれました。
「私は雨が降ったときに、空を掃く動作をするだけれど。
年配の人達がするようなことだから、最近は恥ずかしく、皆が見ていないときにだけするけれど。小さいころからの習慣で、雨がたくさん降っているときにするの。そのことを「掃晴」っていうのよ。」
なかなか面白い風習だと思います。
それからおまけに、小さいころ歌ったと言うこんな歌を教えてくれました。
老天爺 別下雨 蒸了饅頭 往上挙
老天爺 別刮風 蒸了饅頭 往上扔
天の神様、雨降らせないでね お饅頭を蒸したら、あげるから
天の神様、風吹かせないでね お饅頭を蒸したら、あげるから


「てるてる坊主の術」というのを考えた。
術者は女性で箒を持っていないといけない。
術を使える場所は雨が降っている場所。
術者が対象に術をかけてから二十四時間その場所に(多少移動してよし)留まっていて
かつ二十四時間後まで
術をかけた場所で雨が継続して降っていたならば、
対象の首がちょん切られる呪術。
なお、対象が出家した仏教徒でなくても効果がある。
条件が厳しいな。
宿屋とかに泊ってもらえば成功し易いんじゃないかな。

※このアイデアを使うには私、ねここねこの許諾が必要です


・華僑がいるとこには、道観がある。つまり日本にも道教施設がある。
横浜の関帝廟の前には一対の狛犬が鎮座している。
黄檗宗の寺を改造してできた関帝廟が大阪の天王寺にある。


イシ夕'' 匕〒''キ**゚.‏@hideki27fc58月10日
横濱関帝廟(横浜市) 横浜中華街にある道教の寺院。幕末の1862年の創祀で1873年に廟を創建したそうです。三国時代の蜀の武将である関羽が神格化されて祀られています。 #道教 #道観 #横浜 #中華街 #関帝 #関帝廟 #三国志 pic.twitter.com/6akH1wbZBu

うすぼんやりくん‏@gudoon_gudeen2011年12月27日
日本においても関帝人気は高く、近世には禅僧や儒者が『三国志』の登場人物の倫理を論評し、庶民は『通俗三国志』などで『三国志演義』の英雄に触れていたそうで。華僑コミュニティの関帝廟だけじゃなく、大阪の清寿院など黄檗宗寺院を中心に、関帝のお堂があったりします。

S・F‏@sat42912013年4月24日
面白かったところ三。黄檗宗清寿院、あるいは大阪関帝廟。もとは黄檗宗の寺院だったところ、1887年に改修して中華圏の寺院っぽくなったお寺。寺院内には中国語とか年号の光緒とかが溢れている。 http://twitpic.com/cllfgl http://twitpic.com/cllg5h

にゃも‏@AkaNisin9月26日
これまで見た感じだと、日本での関帝祭祀のパターンは4つに分類できそうな。 (1)チャイナタウンの関帝廟 (2)黄檗宗の寺院 (3)他の廟などの道教施設 (4)その他、個人的に祀る https://twitter.com/vitalize3k/status/515401156437086208 …

ふくちゃん ‏@MF61321月13日
納棺師でございます。先日テレビにて、般若心経を複数の宗派で一斉に唱えておりました。既述の通り、日蓮宗のお寺さまは使わない為に、不参加でした。 黄檗宗は般若心経を「唐音」で読みます。発音が違うのです。 各宗派の違いを知って、互いに尊重することが、日本仏教の良い所ですよね。

日本の般若心経(黄檗宗・唐音)を聴く
https://www.youtube.com/watch?v=yBCR7Affkk4&feature=youtu.be

“京都の萬福寺さんで読誦している般若心経をご紹介致します。
萬福寺さんは黄檗宗の大本山ですが、黄檗宗は比較的新しい宗派で、350年前に日本に¬伝わりました。当時の中国の禅宗の様式を取っており、お経の発音も、他の宗派の読誦法¬とは異なります。

日本の伝統的な読誦法は、大半が1400年前の仏教伝来当初の中国の発音法(呉音・ご¬おん)です。本国では消滅した発音法が、日本の仏教文化の中で生きています。
平安時代に入ると、桓武天皇の時代に、漢文の発音は「漢音」と呼ばれる発音法にあらた¬められました。しかし仏教界では、呉音の発音法が継続されました(漢音での読誦法もあ¬ります。有名なのは、真言宗で詠む理趣経です。また天台宗にも漢音で詠むお経がいくつ¬かあるそうです)

黄檗宗の読誦法は、唐韻(とういん)と呼ばれます。350年前の伝来で、なぜ唐なのか¬と思われるかもしれませんが、中国の僧侶さんから聞いた話では、中国の経典読誦法は、¬唐代から今に至るまで変わっていないとのことでした。それで唐韻と名付けられているの¬でしょう。また、この唐韻のことを、「唐音」または「宋音」「明音」と呼ぶこともあり¬ます。

余談ですが、現在私たちが使っている日本語は、大和言葉・呉音・漢音・唐音のまじりあ¬ったものになっています。
経…呉音(きょう)漢音(けい)唐音(きん)
行…呉音(ぎょう)漢音(こう)唐音(あん)
明…呉音(みょう)漢音(めい)唐音(みん)

他国の読誦法について申しますと、日本だけでなく漢字文化圏の仏教国、台湾・ベトナム¬・韓国も正式な法要では中国語でお経を唱えます。
ただし、どの国の発音も、現代の中国語の発音とは異なります。ですので、正確には「中¬国語での読誦」とも申せません。「漢文の日本読み」「漢文のベトナム読み」などと言う¬べきでしょう。”“

・召鬼法(しょうきほう)=鬼(キ)を操る術。
道教での『鬼』が意味する範囲は広い。
幽霊、邪鬼、精霊、悪霊(恨鬼)、動物(蛇、狐、猿、亀、猫、犬などが代表)や植物の死霊、人霊(人魂)、邪悪な気、病気(瘟鬼、瘧〔マラリア〕鬼)など。
多くは不幸にも死に至ってしまった人々の霊。
恨みを晴らすことのできない「怨鬼」は、身代わりを見つけるとこの世に再生できるとされ、夜になると盛んに活動を開始する。
そこで、方士はまじないによって鬼を招き、符や呪言を使って鬼を動かす。
鬼を呼び寄せ、使役するには、怪鬼の正体を看破する力が無いと極めて危険である。そのために鬼の正体を写し出す鏡となる水を用いる。看破できたらそのときどきに応じて符を書する。そして具体的な支持を与えるために剣をもって行う。
水、符、剣の三種の道具は、召鬼法において重要な意味をもつらしい。特に符を上手く使うことが、よく鬼を制し、自在に操るポイントだと『雲笈七籤』にある。
したがって、召鬼法では制鬼、刻鬼、召鬼、使鬼の手順を踏むことが多い。

・巫蠱(ふこ)
蠱は、蛇、ムカデ、オタマジャクシ、ウジ虫、トカゲ、クモ、バッタ、蚕、シラミを指し、爬虫類も含んでいる。虫や爬虫類を使役するのが本義だが、広く解釈して魚や鳥、犬や猫、羊など哺乳類を操る場合もある。
最も一般的なのが、蚕に似た虫で、食錦虫(しょくきんちゅう)という昆虫を使う金蚕蠱(きんさんこ)であろう。
『幕府燕閑録』にある話を紹介。
主人公が門の外に小さな竹籠があるのを発見。封もしていないので開けてみると、銀製の酒器が数十個。重さにして約百両。
これらを持ちかえり、妻に天からの授かりものだと言い終わらぬうちに、自分の股の間に何かが蠢いていることがわかった。見ると一匹の金色に輝く蚕である。
払いのけようとしてもまとわりついて離れない。踏みつけても駄目。踏みつぶしたはずなのに瞬時に胸や腹に移動する。水に捨てても火に投じても、刀や斧でも駄目。
呪術に詳しい友人いわく「それは金蚕蟲で災いも大きい。ついには人の腹中に入り内臓を食いつくしてはじめて去るものだ」
主人公が経緯を話すと、友人は蟲と縁を切る方法を教えてくれた。
「君がこの蟲をよく養えば、希望通り財を手にすることができるだろう。しかし君にはそれはできない。もし金蚕蟲と縁を切ろうとするなら、この財の数倍の利息と現物とを併せて送り返さなければならない。この方法を“嫁金蚕”(かきんさん)という。これで蟲は去るだろう」
主人公は清貧であったので、大きな利息は払えない。まして他人を害する蟲を放置してもおけない。
主人公は意を決して蟲を飲んでしまった。誰もが主人公の死を覚悟したが、月日がたっても何の変化もなく、拾った銀で家も富み、ついに天寿をまっとうした。
至誠を尽くす者には巫蟲も通じなかったというおちである。

蟲毒を用いた呪殺術がある。蟲毒の作り方は以下の通り。
まずムカデ、蛇、蠍、ヤモリなど五種類の毒虫を採取して一つの甕に入れる。
これを密封しておくと共食いする。
生き残った毒虫を蟲毒として巫蟲呪(ふこじゅ)に使い、蟲を相手の家の敷地に埋めたり、直接、相手に飲ませて殺すのである。
蟲を封じるには、蟲の正体を明らかにし、蟲に向かってそれを告げること。
また、同類の蟲か、蟲の天敵の蟲をもって解毒することが効力を持つとされる。
(名前と正体を特定することが重要なのは魔術の大前提らしい)

妖怪bot(試運転)‏@wj_youkai_bot
蠱毒(こどく)
古代から伝わる呪詛の一つで「蠱術(こじゅつ)」「蠱道(こどう)」「巫蠱(ふこ)」ともいう。特定の動物霊を使役する呪詛で、器の中に複数の虫を入れた後、互いに食い合わせ、最後に残った最も生命力の強い一匹を用いる。平安時代には既にその呪術に対する禁止令が出された。

“道教

巫蠱(ふこ)

蠱は虫と言う意味ではない。小動物のことである。

『幕府燕閑録』をパラパラと捲ると様々な巫蠱があることに驚かせる。

代表的なものは『伝屍虫』と『五毒虫』だろう。

『五毒虫』の中に金蚕蠱に関する巫蠱呪が方術の一つとして乗っているが虫が得意でない人は読まないことをオススメする。

また蠱毒の作り方が乗っているが、様々な条件がある。
どうやら何でも間でも瓶に入れるのは良くない。
蠱毒は大変に良く効いた毒であったらしいが、読む限りでは解毒の作り方が簡単なので効率が悪いものであったのかもしれない。

『仙人の入門初級編』張道陵著より抜粋”
http://estar.jp/.pc/_msg_view?mid=2241038

しえーさん先生じゃないです‏@4A_win2012年7月9日
金蚕は特に有名なものを錦蚕蟲といい、文字通り錦を主食にする蟲毒。飼い主(または押し付けられ主)が「錦蚕蟲の糞(致死毒)を混ぜたものを飲食した事」で死ぬと大量の富を呼ぶという風変わりな存在。追い出したい時は金銀財宝を入れた箱ににこの蟲を入れて捨てる「嫁金蚕」をする必要がある。

・禁呪
気や念の力で対象物を思いのままにする。
禁呪は、山中に修行する道士が毒蛇の攻撃を避けるために呪縛し、身動きできなくしてしまう金縛り術である。
禁呪は相手の自由を奪う法から、更に呪いをかけてきた邪悪の祓除(ふつじょ。呪詛返し?)を行い、今度は相手を使役する法にまで発展していく。こうなると金縛りよりも役鬼(やくき)の法に限りなく近くなる。
従って禁呪には、釘、矢じり、刀などの武器類、鍬や鋤といった農具類、水や火、動物にいたるまで、念力でもって自由自在に動かしてしまう拾い意味が含まれている。
「禁じる」とは禁呪で操作=気や念の力で金縛りにしてコントロールすることを意味する。
究極の禁呪は人を対象にした「禁人」(きんじん)であろう。

・雷法
中国の古い文献を読むと、中国人は雷に特別の念をもって処していたことがわかる。日本でも神鳴りと称しているように、単なる気象法則や自然現象だとは見ていない。
中国では特に不徳の者が雷に打たれて一命を落とすといった信仰が根深かったようだ。つまり雷は神罰を下す主体として捕えられていたのである。
。雷法とは、雷の力を呪力の源泉として、雷部に属する神将・神兵を使役し、邪を制する法である。
道士は雷の力を体内に入れる儀礼を初春にやっておくという。

高橋圭也☆彡占い、陰陽師、菜根譚、山鹿流‏@KeiyaTakahashi10月31日
東洋大学在学中、道教の雷法の神将や鬼神(幽霊)の使役術の資料を集めて読み漁り、たまに来日する道士に手土産持って質問攻めし、必死に道教呪術や導引気功法を研究していた。実は昔の記録などに「陰陽師は鬼や死人の霊を式神にした」とあるが、梓巫女等の一部のシャーマン的職業の人の間違いだろう。

・剪紙成兵術(せんしせいへいじゅつ)
紙を剪(き)って兵と成す、物を人と化して行う呪術。
まず、紙を思いのままに剪(き)って床に並べる。
髪を被り刀を持ち禹歩(うほ。呪術的歩法)を行なってから呪詛する。
次に口に含んだ水を紙人に吹きかけると紙人が動きだす。
紙人を目的のところへ行かせ、戻ってきてから同じ所作をすれば、再びもとの紙に戻る。
木で作る木人、歴史的には新しい藁人形、草を用いる草人など、物を人と化して行う呪術は枚挙にいとまがない。
また、紙を使用するものでも竹で骨をこしらえ紙を立体的に張りつける張り子の呪法もある。
一般的に木人の法は、紙人よりも強烈な法験(ほうげん)があるという。例えば、
ある家の主人を快く思わない大工がいるとする。大工はひそかに屋根の梁に木人をくくりつけるのだ。木人は様々な姿勢、形にしつらえる。ときには男女が激しく争っている姿を一対にしつらえ、呪いを行う。するとその家の夫婦は争いが絶えなくなるのだ。
剪紙成兵術についてこんな話がある。
吉凶を見る達人、宋術師は一人の男を占ってやったが、謝礼金が少な過ぎてその男を恨んでいた。夜、男が家で易経を読んでいると、外で風の音がする。見ると手に刀を持った怪物が襲ってくる。思わず易経を投げると怪物はばったりと倒れた。しかし怪物は次から次へと襲ってくる。そのつど易経を投げて撃退したが、それは三枚の紙人、二男一女の人形であった。翌朝、男のもとに宋術師の三人の子供が死んだという噂が伝わってきた。宋術師は子供たちの生魂(しょうこん)を託して術を行なったが撃退されたために魂が帰れず、人を害するための呪いが己に返ってしまったのだ。


・尸解(しかい)
尸は屍の部首。
尸解法を用いないと仙人になれないという最高の奥義。
尸解は凡人の目には死んだように見えるが、実は死んだのではなく、別のものを死体だと思わせているだけ。この法には二種類があり、
上尸解は刀剣を使い
下尸解は竹や木を使う。
上尸解の方法は筆に神丹(しんたん。仙薬の一種)を溶かした水をひたし、刀の左右に「太上太玄陰府」(たいじょうたいげんいんふ)という符を書いて横たえておく。そのままいなくなれば周囲の人にはその刀がその人の屍に見えるのである。
下尸解の竹や木も同じように使う。
なお、生まれる前から仙人になることが決まっている嫡仙(神仙が人間界で人間の姿をしているだけ)は尸解なしで仙人になれる(戻る)。
最高の道を極めた道士は、死期が到来しないうちに神仙の世界に真胎(霊胎)を結成し、自分の本体をあらかじめ引越しさせるという。すなわち仙居である。尸解仙は死体が葬られたあとでも、必要なときには生前の生身の姿で現れる。
なお、『荘子』の真人とは区別して語られることが多い。


源統隱士 休齋‏@minamoto332013年9月25日
道教の尸解(しかい)と言う言葉は尸解仙などと使われる様に人間が仙人になる事だが、道教の道士、神仙道の方士が死亡した際に「尸解した」と使われる。生きたまま昇仙出来る様修行や丹薬の発明に励むも叶わず寿命が尽きて肉体から解放され尸解仙と言うランクの仙人になる思想



Urakawa=1/8192‏@movewired•1月13日
尸解仙の理屈をよく理解してない。というか今まで読んできた文献に記述があんまりなかったんだな。何かそれっぽいのが載ってるのがないかな。


ぱらでぃん‏@nekohaus
@movewired 『雲笈七籤』には、剣や杖を肉体の代用にして薬を飲むなどの儀式を行なうと道具が自分の死体のように変化して蝉化できるなどとあるですぅ。

Urakawa=1/8192‏@movewired•1月13日
@nekohaus おお、ありがとうございます。寄り代となる物品に、自分の代わりに死んでもらうって感じなんですね。


・禹歩(反閇。へんばい)
あらゆる方術はしかるべき形と手順をもってしなければ力にならない。
禹歩は日本の陰陽道や修験道にも伝わっていて、共通項として北斗七星の形を踏むことがある。
まじないや、まじないを封じ返す場合には、禹歩の術が必須になっていることが多い。

相撲にも道教の影響がある。

takuhiro (kinosy,歴担)‏@Kino_see2012年2月14日
陰陽師が反閇(へんばい、兎歩とも)を踏み、力士が地面を踏みしめるという一連の流れが簡略化されたものが現在の四股と言っても良いだろう。なお、手の動きは気を臍下丹田に集中させる為とも言われる。「ハッケヨイ」も「八卦よし」という意味だといわれ、天地を示しているという。 #陰陽道
【補足】反閇は中国古代の伝説の皇帝、燕の兎王が行ったとされる。兎王は左足が悪かったので、右足を前に出して左足をひきづる形の歩き方をする。これで暴れる川の鎮めを行ったものが兎歩・・・つまり反閇  #安倍家りびんぐ留守番隊

Shinya Watanabe 渡辺真也‏@curatorshinya6月2日
(道7)相撲の軍配は伊勢のゴンバウチワがルーツにあり、そこに太一つまり陰陽の合一が書かれているからこそ、相撲の軍配には道教と習合したシュメールの須弥山信仰である太陽と月が左右に描かれたのではないか?また八岐大蛇も八咫の鏡も八紘一宇も八幡大神も、道教の八卦の影響下にあるのは明白だ。

園丁: entée‏@entee_o5月31日
@lanekota 「喩え」というよりはほぼ同じものが別の様態として発展したものだと理解しています。日本においては庚申塚のあるところには庚申信仰がつい先頃まで存在していた(それを道教とも考えずに)し、神事と謳われる相撲も道教そのものです。庚申思想といえばそれはつまり道教思想です。

安倍晴明‏@wakamiya022012年11月29日
反閉(へんばい)道教の呪術歩行法の「兎歩」に起源を発する歩行法による呪術。反閉は先に出した足に後ろ足を引き寄せて左右に足を運ぶ。悪星を踏み破り福徳を得る事が出来る。現在でも相撲の四股に名残が伺える。四股は神への奉納儀式である相撲を取る前に悪霊を祓い、場を清める役割として残っている

・道教経典によると、神仙が山岳や川の様子や太陽・月・星の動きなどの自然現象を写し取ったことが霊符の起源である。

・霊符に誤字があると意味が変わるので効力がなくなる。

・霊符は至誠の念をもって書写し使用しなければならない。
まず、精進潔斎する。シャワーを浴びたり、口をすすいだり、手を洗ったりして清めること。
衣服も清潔なものに着替える。
霊符を書くときは、心を正しくして息を止め、その一息のあいだに一字を書くことがコツとされている。できるなら、一枚書きあげる間、息を凝らしていることができればなおよい。つまり息を止めて一気呵成に書くべきである。
筆が線を描いているあいだは息を止めないといけない。
書写した符を見せびらかしてはいけない。符を作ったことも周囲に言ってまわってはいけない。

・霊符を書写するにあたって、神咒=呪文で水・紙・筆・硯・墨・下筆(筆を下すとき)など、それぞれに対して神咒が設定されている。
霊符書写に関しては、呪文のみならず、さまざまな観想法がある。
一例。
①自分の心身は五色の霊玉であると観想する。
すなわち
春なら青、
夏なら赤、
秋なら白、
冬なら黒、
四季の土用の日なら白
の霊玉であると観想する。
②心願の内容を凝念して、空中より金色の光が舞い降りて来ることを想像し、それを呑み込む。
③筆墨から金色の光がほとばしり、その光で霊符を書くことを想像して、一気呵成、一息に霊符を書写する。
霊符の字体が多く人息に書写しがたいときには、二・三息という具合に定めて、一気呵成の威力をふるって書写する。
筆墨をもって符を書くと考えず、自己に通霊した宇宙の大いなる気を持って符を書くものと思わねばならない。

・符を書写する吉日がある。

・霊符作成用の筆・墨・紙などは決して他の俗事に使ってはならない。

・霊符の使い方
①紙や板に浄書し、身につけたり、建物に貼ったりする。
②病人の枕の下に敷いたり、枕元の柱や天井に貼る。
③清水を清浄なコップに入れ、割り箸をわたし、その上に符面が水に映るようにして霊符を載せ、霊符を一刻すなわち二時間以上その水面に映したのち、その水を呑む。
④小さい薄い紙に書いて呑む。
⑤霊符を浄火をもって灰となし、それを服用する。病符に多い。
⑥盃などに符をしるし、神水を注いでそれを飲む。
⑦霊符を手に持って静かに気長に何回も体をさする。
⑧「童子をして符気に感ぜしむ」
童子=目を意味する隠語。
謹書した霊符を顔の前に捧げ持って、その符を童子=目で注視する。
そしてその霊符に宿る符気を、自分の丹田に納めるという気持ちで静かに鼻から息を吸う。
吸い終わったら目を閉じ口をわずかにあけ、ゆっくりとかすかに息を吐く。
そして二・三回普通に呼吸し息を整え、同様のことを繰返し続ける。
これにより符の持つ霊威力を身につけることができる。

・最も効果のある霊符の活用法は、符を三つ作り、一つを目の高さより高い清浄な場所に安置し、一つは常に身につけ、一つはその図を観想し、図の気を呼吸とともに吸うこと。

・霊符を処分方法
①浄火で焼く
②清浄な山中などに埋める。

書き損じをゴミ箱に捨ててはいけない。霊的障害を避けないといけない。
お焚きあげで符や書き損じを処分してもらおう。
お札は時間が経つほどに力が「強く」なるので注意。弱くならない。どんどん強くなるのが霊符。

・財運用の霊符をむきだしのまま財布に入れるのは駄目。穢れが符についてしまう。よって紙などで包んで身につけるべき。

※道教の霊符は必ずその流派の道院のハンコ を押さないといけない。
ハンコに使う朱は 天然辰砂を使う。なければ白い雄鶏の血。最悪自分の血。
血液を使う理由は、昔は術を掛ける前に 生贄を捧げていた=何かを殺さないとパワー が得られない仕組みだったから。が、それだと余りに効率が悪いので水銀の原料で ある辰砂の朱を使う方法を道士が開発した。
欧米のレプティリアン教の連中は愚かにもいまだに本物の生贄を 捧げるという非効率な 術の掛け方をしている。
効果は弱まるが、普通のインクに自分の血を一滴混ぜるだけでもよい。
辰砂は毒だから入手し辛い。
もう少しパワーアップさせるならアフリカのフードゥーで使う天然ハーブを混ぜたインクでもいい。
以上フェイド大帝が授けてくれた貴重な有難い魔術の実践法でした。


Shinya Watanabe 渡辺真也‏@curatorshinya9月18日
(道10)私が見てもらった沖縄のユタが使っていたお札は、この道教の北斗信仰が沖縄化したお札だったと思う。おそらく台湾経由で中国から齎されたものが沖縄化し、現在まで残ったのだろう。
先日、沖縄のナカモチ(ユタ)が使っていたお札が道教のお札と同じだいうことに気付いたとツイートしたけれど、沖縄にはやはり北極星信仰と道教の教えがローカライズして残ったのだと考える。

哉羅さま‏@kanarabot1月17日
太上神仙鎮宅霊符(太上秘法鎮宅霊符・鎮宅七十二道霊符)は七十二種の護符からなっており、『太上秘法鎮宅霊符』が元になっていると言われている陰陽道・仏教・神道の護符じゃ。元は道教の玄天上帝だったのが妙見菩薩や天之御中主神等と習合し鎮宅霊符神の護符とされておる。

「日本と道教文化」  
http://02219715.at.webry.info/201402/article_18.html
“坂出祥伸著、角川選書、2010年刊

<裏表紙紹介>より
長生きをしたい、金持ちになりたい、幸せになりたい、日常的な願望をかなえてくれる神さま、それが道教の神々だ。仏教でも神道でもない宗教的な風習、吉凶を占う「おみくじ」や疫病除けの「おふだ」も道教が起源。薬草を発見した神農、七福神のひとり福禄寿、邪気を払う鐘軌、疫病除けの神獣・白沢など奇怪不可思議な神々に彩られた道教の世界を日中にわたり紹介し、日常生活に溶け込んだ多様な道教文化を再発見する道教入門書。”

“<はじめに>p8~9
 私たち道教研究者の理解と一般人の道教理解とはかなりかけ離れていると思っている。さきほどフランス人の道教理解の例を挙げたが、おそらく日本の文化的背景が妨げとなっているからであろうが、一朝一夕に「中国は儒教の国」という固定観念が消えることはあるまい。そこで本書では、われわれが今見聞きしている風俗・慣習の中に、道教的要素が隠れている、私たちは気づいていないだけのことだ、という点をあれこれ取り上げて、道教に親近感を抱いていただこう、道教になじんでいただこう、という願いをこめて角度を拡げて考えてみた。
 まず、最初に道教というのは、どのような宗教なのかを、不十分ながらも概略的に説明しておいた。これまで、ともすれば仏教は高尚であり、深遠な教理や哲学をもっているが、道教は迷信的であり、低俗なものであると見なされがちであったが、道教も正当な宗教であることを予め知っておいていただきたいのである。

 次に横浜、神戸、長崎などの華人街に、なぜ関帝廟とか馬祖像が置かれているのかを考えてほしいのである。海外に移住する中国人は郷土から自分たちの守護神をたずさえてきて、集団自治の中心である廟を先ず建て、これを中心に街が形成されるのが一般的である。あたかもヨーロッパでキリスト教の教会を中心に市街が形成されているのと同様なのである。
 パリの13区にある華人街には玄天上帝(真武神)を祀る潮州会館がある。ベトナム難民であるパリの華人は本来は潮州出身者なのである。しかし、海外の華人街の守護神として最も多いのは、馬祖廟(天皇廟とも)だといわれ、次に多いのが関帝廟だという。
 (中略)
 日本文化が取り入れた道教的要素は神農、鐘軌、福禄寿神、泰山府君などのような吉祥をもたらし災禍をしりぞける種々の神格、あるいは、十二直説、九星説などのような運勢を知って禍を避ける占いであるが、こうした呪法は現在の日本ではほとんど消滅してしまったようである。しかし、今なお残っていて根強く信じられているのが、仏滅、大安などの六曜説であり、あるいは家屋を作る場合の鬼門説であり、さらには、若い人々が半ば遊び心で、しかし半ばは本気で信じている「おみくじ」「おふだ」である。「これも道教ですか」といぶかるお方は、どうかそれがれっきとした道教起源であることを本文を読んで知っていただきたい。併せて各地で出土している木簡呪符をも紹介したので、日本文化史の研究の立場とは別の角度から木簡呪符についても解説をしておいた。”

“<道教とはなにか>p11~13
 道教とは、どのような宗教なのか。はなはだ答えにくい問いであるが、私見では、その根底にあるのは中国思想一般と同様に「道」の観念であり、特に道教にあっては「道(タオ)」とはすなわち「気」だと考えられる。
 そこで道教は「気の宗教」であると定義しておきたい。「気」という視覚では捉えられない存在、それは人間をも含んだ万物を生成する根源的なエネルギーであり、道教では、その「気」を操作することによって仙人とか真人とか称される最高の境地に到達することを目指すのである。こういう定義には当然多くの反論が予想されよう。儒教でも「気」の観念に依拠しているのではないのかと。

 儒教が最終的に目指しているのは、社会の経済的安定であり、そのために為政者(士大夫)は「修身」つまり、強い意志によって自分の「気」を暴発させないように身体を修練し、ついで「家をととのえ、さらには国を治め、最終的には天下を平和にする」。こういう政治的目的のための「気」の修練である。そこで、道教的な修練は、「独善」すなわち独りわが身を善くするだけであり、他者を救済しようとしないという非難が儒教側から出るのである。
 それでは、「気」とはなにか。これもまた説明がむつかしいが、身体を流れる「気」をトレーニングするという健康法としての「気功」が日本でも市民権を得ているので理解していただけようが、中国では古代から生命をもつ存在は運動して止むことのない「気」から成り立つと考えられている。

 ところで、道教は創始者つまり誰かが創始した宗教ではなく、自然に発生し展開した宗教である。キリスト教はイエス・キリストを創始者としており、仏教は釈迦(ブッダ)を創始者としている。イスラム教はムハンマドを創始者としている。日本の神道は天照大神を最高神として尊んでいるが、これを創始者だとは誰も言わない。ただし、神道は万物に生命力とか霊力を認めていて、万物それぞれを神とする多神教である。道教はこれと極めて似ている。道教について老子が創始者ではないかという疑問や指摘を受けることがある。たしかに道教では老子が非常に尊ばれている。けれども後漢末ごろに組織的教団として初期道教が成立した時、それは老子が創始したのではなくて、いわば権威付けにかつがれたのであり、じつは数えきれないほど多数の神格を持つ多神教なのである。
 さらに道教は、仏教やキリスト教、イスラム教のように国境を越え民族を超えて信仰されているような、世界的宗教ではなくて、その信仰は一部の少数民族を除けば、ほとんど漢民族に限られているという意味では民族宗教と考えてよい。”

“<なにを目指している宗教か>p13~14
 道教の目指すものはなにか。「福・禄・寿」という現世利益を得ることである。とりわけ寿、すなわち永遠の生命の達成を目指すのである。そこで「気」を操作して「永遠の生命」を獲得しようとする宗教だともいえよう。儒教は宗教ではないとされるが本来は祖先祭祀を行っているので、一種の宗教的性格を備えているが、一方では政治的倫理的色彩が強くなって宗教的側面は希薄になってしまった。元来、『論語』によると孔子は、「生きている世界のことも分からないのに、どうして死後のことが分かろうか」と述べていることで分かるように、死後の世界とか霊魂のありかたについては非常に冷淡であり、その代わりに「経世済民」、つまり社会の安定と物質的豊かさという現実的な救済を目的としているのであって、死者の霊魂の救済には無関心であった。そこで中国に仏教が伝来した時、貴族や士大夫たちは中国仏教特有の霊魂観にもとづいて来世意での救いに安心の境地を得ようとしたのである。ただし、儒教は古代社会の基盤となっていた宗族制という男系血縁共同体を祖先祭祀の根幹としていて、親から子へ、さらに孫へ、というような生命の連続性を重んじている。これこそがいわゆる「孝」である。
 (中略)
 なお、中国社会が儒教によって代表されているように、男性中心の社会システム(宗族制)の中にあって、道教では早くから西王母をはじめとする多くの女神が重んじられ、魏華存、鮑姑のような女仙、詩作に秀でた女道士・魚玄機の名も知られている。天皇(馬祖)とか碧霞元君などの女神は今でも崇拝の対象とされているし、また全真教では女性司祭者が高啓、経師などとして儀礼を主宰している。このように、男女平等とまでは言えないが、道教では女性が古くからきわめて重んじられているのに注意したい。”

“<道教の将来像>p21
 儒教が滅んでも道教が滅ぶことはない。なんとなれば、漢民族の民族的宗教であるからである。近代文学の巨人・魯迅は、「中国の基礎は全て道教にある」と喝破している。現今の中国も少子化、近代化(工業化・都市化・人口の流動化など)の進行によって儒教のよって立つ存在基盤が崩れつつあるが、まさにそのために為政者は儒教の権威の回復を図ろうとするが、崩壊を止めるのが次第に困難な状況である。一方、道教は中国共産党による弾圧、その後の文化大革命による破壊にもかかわらず、急速に復活し、その信仰はますます広く深くなっている。民衆の生活に深く根ざした宗教にほかならないからである。”

“<関帝>p25~26
 横浜の中華街には道教の神さま―関帝が祀られている。横浜の中華街といえば、東京近辺の人ならたいてい中華料理を食べにいかれるから、良くご存知ことであろう。そして、そこに「関帝廟」という中国風の大きなお寺によく似た建物があることもしっていることであろう。ここの案内パンフには、「発財の神さま」とお書かれていて、華僑はお金が儲かりますようにと祈ると書かれている。
 けれども、それが道教の神さまだとは説明されていない。先ず、廟というのは仏教でいえばお寺のこと、キリスト教では協会である。廟という名称のほかに宮、観とも呼ばれている。北京には「白雲観」、瀋陽には「太清宮」という有名な道教寺院があり、中国旅行の観光ガイドブックにも載っている。
 さて、ここに祀られている関聖帝君というのは、三国時代の蜀漢の武将・関羽のことであり、明代に『三国志演義』が著されてから、民衆の人気が一躍高まり、儒教、道教、仏教のいずれにも関わるようになった。関羽の郷里は、山西省解州西関にあり、ここにある関帝廟は「関帝祖廟」と称され、全国で最もスケールが大きくて壮観だそうである。秋の大祭には国内、海外の崇拝者が列をなして多数参詣する。世界各地にある華人街で最も多い道教神は馬祖であるが、これに次いでいるのが関帝廟だといわれている。

 日本でも横浜の関帝廟には主神が関帝で、脇に地母神と観音が祀られている。横浜のほかに神戸、長崎、大阪、函館のような華僑・華人の多く住んでいる都市には関帝が祀られている。ただし、関帝が主神となる場合は横浜のほかには、神戸・中山手町の関帝廟があり、ここでは脇に馬祖と観音が祀られている。また、大阪市天王寺区寺田町の清寿院というお寺に関帝が祀られ、脇に馬祖と財神が祀られている。長崎の崇福寺では観音が主神で脇に関帝が韋駄天とともに祀られている。函館には大町の中華会館の中に関帝壇が設けられている。”

“<おふだの種類・目的効用・材料・霊力>p173~178
 なんといっても、おふだの本場は、もちろん中国である。「おふだ」は中国では非常に古い起源をもっているが、道教の発祥する後漢時代には、道教と深く結びついている。
 日本の紙符は白い紙に黒色の墨で呪言が書かれるのが普通であるが、中国では古くから今に至るまで、黄色の紙に朱色で呪言を書く。
(中略)

「おふだ」の目的は人間の願望を叶えるためであるが、そこで種類は人間の願望の数だけ、願意の数だけ、つまり無数にある。例えば、開運出世、学業成就、受験合格、良縁祈願、家内安全、交通安全、旅行安全、子授け祈願、災厄消除、社運隆盛、商売繁盛、病気平癒等など。だから多くの神社、仏寺ではこれら数多くの願望に応じた効用のある「おふだ」を用意している。
 名古屋の熱田神宮に参詣した時、社務所前に並べられた「おふだ」「お守り」の数がなんと三十数点に及んでいた。
 今日私たちが家で貼る「おふだ」や所持する「お守り」はたいてい印刷されている。しかし、本来は、直筆のものがいちばん霊力がこめられている。なぜか。おふだには書く人の念力がこめられている。直筆の場合には、書き上げたあと「ふっ」と息を吹きつける。印刷したものでは、住職や宮司は印刷されたおふだの束をまとめておいて、加持祈祷のうえ威力をこめるのである。
 「おふだ」は世界中どこの国にも、どんな民族にでもある。私は1989年、フランスに滞在していた時に、ノートルダム寺院からメダルの「お守り」を授かったし、モン・サン・ミシェル寺院からは交通安全の「おふだ」を授かった。これは車に貼る。
 隣の韓国でも財布に入れる「お守り」をお寺の和尚さんが書いてくれるそうである。韓国の呪符は中国の呪符に図柄が似ていて、日本のものとはかなり違っている。
 
 おふだの材料について説明すると、おふだと言えば、すぐに紙符、つまり紙に書かれたり印刷されたものを思い浮かべるであろう。今では紙符が一般的になっているのであるが、竹や木の板に書かれたもの、絹布に筆で書かれたもの、素焼きの土器に書かれたものなど材料は種々様々である。台湾の澎湖島には石版に刻された呪符が一般的である。
 次におふだの用途から見ると、貼るとか吊るす、携帯するという場合が最も多いであろうが、紙のおふだを呑むという場合が今でも意外に多い。中国や台湾ではおふだを粉末にした薬を包んでいることがよくあるし、また燃やして灰にして飲むという場合もある。今の日本ではそういう例は見られなくなった。”



AIN‏@ANIMA_MYSTICA5月25日
最近、中国の道教本を、ちょくちょく読むんですけど、道教の瞑想法って多種多様なイメージを用いますね。東方の空から仙人が天女を引き連れて、雲に乗ってやってきて、霊符を授けてくれるというものをイメージするのもあったり。


とまほーかーまえかわ‏@maekawa_san•2011年12月11日
葛洪の書いた抱朴子。それを薬を使わず、内的に儀式を行い、占星術の照応で、体を仙人、真人にするっていう。魏伯陽の周易参同契。いわゆる、魔術的な大宇宙と小宇宙は照応するっていう基本的な思想、概念を用いた二つの仙人育成の中国思想。
まぁ、現在でいうところの気功だな。































フェイド大帝‏@FeydoTaitei
これは魔術の基本なのだが、
ある道教の道士が言うには、

西欧科学: 観測出来る物は存在する
東洋魔術: 感じた物は存在する

この違いが分かってないと
両方の医学理論の違いも
分らない。

西洋科学: 観測可能な物は実存する
東洋&魔術: 心が感じた物は実存する

だから西洋医学は死体解剖をやる
ので人体図が正確

中国医学は解剖をやらないので
食道が三本あると考えられてた。

魔術と科学の境界はアプローチ
の仕方


東洋人の釣り思想は周の太公望
まで遡り、後代の道教のタオの
思想にも繋がる、魚の収穫は
さほど重要ではなく、釣る行為
そのものにタオと人生を
見出すのが肝なんだ

また、一匹も釣れない日も
あるが、そこがまたいい。

中国道教や風水は神秘的なのか、
中国思想でも人気だ。
だけど本来、中国思想は儒教と
セットだ。抱朴子も下巻は
売れるが、上巻は売れ残る。

仙人が山で霞を喰う話は神仙思想
の観点からは、気功やヨガを
彷彿させるが、あれは本来そういう
意味じゃない。
あの逸話は余りにも国家が腐敗して、
貯金も収入を失くした老人が
山に引き篭もって霞を喰うぐらい
しか許されてないと政治に対する
皮肉を語っている話なのだ。

当然、これは儒教
的なお話だ。
確かにインドからの輸入品も
多いが、中国人というのは
根本的にはインド人とは異なる。

確か香港のカジノでは客が金をスリ
やすい様に子供の死体を埋めて
邪気を充満させていると
、風水の
解説本に書いてありました。

神道批判家のフェイド大帝だが、 北野天満宮のお守りはガチだと 思う。 パキスタン駐在も取り消して くれたし、お守りなんて 下らない迷信だろうと 駅のゴミ箱に捨てたら、 翌日会社のロビーにお守り が捨ててあった。 拾ったら、 「北野天満宮」のお守りだった。 ガクブル
ってか、道真公、神道界 最強の怨霊だろう。 奴の呪殺のキルスコアは FPSのチャンピオンも 顔負けレベルだ。w
中華街のお土産屋とかで 売られてる桃木剣は吊り下げる タイプで魔除けのお守りみたいな 奴だけど、本物の殴れるタイプ の大きさのもある。 呪符とかを刻み込んだり 儀式で霊力を吹き込まないと いけないから、素人には無理。 カナダのボッタクリ道士が 一本200万で売ってる。
ちなみにお札と同じ期限付き だから、交換要。w
後、大宮ナントカの霊符は あのままだと使えないよ。 道教の霊符ってのは必ず その流派の道院のハンコ を押さないといけない 仕組みになってる。 ↓こういう奴ね
pic.twitter.com/630AaJeena

ちなみにハンコに使う朱は 天然辰砂の物を使う。 なければ、白い雄鶏の血か 最悪自分の血。
何で血液かと言うと 昔は術を掛ける前に 生贄を捧げてたのよ。 何かを殺さないとパワー が得られないという 仕組みなのね。 ただそれだと余りに効率 悪いから、水銀の原料で ある辰砂の朱を後の道士 達が開発したわけ。
欧米のレプティリアン教に 連中はおバカだから、 いまだに本物の生贄を 捧げるという非効率な 術の掛け方をしている。
効果は弱まるけど、普通のインクに 自分の血を一滴混ぜるだけでもOK。 辰砂は毒だから入手し辛いしね。 もう少しパワーアップさせるなら アフリカのフードゥーで使う 天然ハーブを混ぜたインクでも いいけど。
よかったな。本物の中国道教を フェイド大帝に教えて貰えて。 しかも無料で。
横浜の中華街の廟でやっている 霊符の開眼法は偽物だから 気を付けろよ。
中国人や台湾人がやってるから 本物だと信じ込むのは危険。


※画像は引用しませんのであしからず。画像は引用元をご覧ください。


”命門(めいもん)
命門とは、督脈にあるツボ。位置は、へその真後ろ、真裏。
第二腰椎の棘突起(きょくとっき)と第三腰椎の棘突起の間にあるツボで、
肋骨のいちばん下と同じ高さの背骨の突起の下
にある。
停滞しがちな気血の流れを整え、体力・気力共に増強させる。
命門は、生命の根源、先天の気が宿る場所、命に力をつけると言われ、
気功でも重要なツボ。立禅を行う際は、この命門を開くように、
骨盤を締めて立つのがコツ。すると、下丹田に気が集まりやすい。”
http://kikou.info/page/cat10/320.php



中国道教の本物のスワイショウのやり方
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-549.html
”スワイショウはれっきとした気功=チーゴンである

つまりどういうことかというと

呼吸法が重要なのだ

ただ腕をブラブラさせるだけの動作じゃない

日本ではここが勘違いされているケースが非常に多い。
腕をブラブラ振ることによって微振動が体に良いだとか、
血行を促進するだとか、邪気を飛ばすだとか、肩が
リラックスできて気持ち〜〜
だとかのような気持ちの悪い解釈まである。

これらは全部デタラメ

伝統的な中国道教(道家思想)から言ったらだが。

では、正しい”スワイショウ”とは何か?

元々、このスワイショウ、陽の臓器(大腸等)をマッサージ
するための気功法だ。
腕を振ることよりも腹式呼吸でお腹をポコポコ前後運動

させることに意味がある。
まるでエイリアンの幼虫が入っているかのようにお腹を
ポコポコさせることにより中の内蔵に刺激を与えているわけである。

正しいやり方を図にしたので参照頂きたい。
(絵が下手で申し訳ないが......)



腕を前に振る時に鼻から息を吸って、下丹田を膨らませていく。
吐く時に腕を後ろに振ってお腹をへこませる。この時、お腹の
前面が腰の”命門”というツボに触れる様な感覚を意識
してやる
ことが重要だ。

そして、重要なのが呼吸する時の舌の位置

上の前歯の付け根に舌の先っぽを付けないといけない。
このポイントは五行でいう”火”
の位置を表している。

何故、舌を上顎にくっつけるのかというと、中国の人体の気功ルート
というのは下丹田から始まって背骨に沿いながら頭のてっぺんの百絵を目指し
体の全面の方を下りながらまた下丹田に戻っていく様になっている。
いわゆる仙道で言う”小周天”というやつだ。

ところがこのルート、口の中で切れてしまっているのだ!

だから舌で上顎から下顎に掛けて”橋渡し”をしてやる必要

があるのだ。

この方法でスワイショウをやってみれば分かると思うが
この方法だと腕をリズミカルにブラブラさせるのが大変
難しい。
太極拳のように”ゆっくり”やることしかできない。
太極拳も元々気功としてやるから、あのゆっくりとした
動作になるのだ
。戦闘に特化した太極拳がやりたいのなら
”陳さんの田舎拳法”でもやっていればいい。
(陳式太極拳のこと)
私は”陳式”を非難していないが、例のカナダ人の道士に
よると、太極拳で気功的に唯一価値があるのは”武当山”の
太極拳だけらしい。
その道士に言わせると”陳式”なんてのは中国の片田舎の
農家のおっさんが教えていた拳法で、こんな道教の寺院で
も何でもない小村に本当に気功として優れたノウハウが
あると本気で思っているの?ということらしい。
その道士に言わせると中国の優れた技術は由緒ある寺院等に
しかないとのこと。
本当の事かどうかは分からないがちゃんと中国の茅山で
修行した中国人が言うのだから本当なのだろう。

ということでスワイショウに話を戻すと、よく気功教室で

腕を高速でブラブラ振っているおばあちゃんとかは
間違っているということ

あれはきちんとした動作でゆっくりやるものである。
気功なんだから


中々こういう情報って日本では手に入らないでしょ?
日本にいる中国人や台湾人も大半は道教の修行を
きちんと積んだ人間でもなんでもないからね。
占い師が教える気功も間違っている場合がほとんどだ。
こういった”占い師”達も道士でも何でもないからだ。

よく、本土の中国は文化大革命で伝統的な中国文化が
残っていないと台湾人や香港人が吹聴しているが、
常識で考えてあんなデカイ国で一つの歴史ある文化を
完全に根絶やしにできるわけがなくて、ちゃんと残っている
所には残っている


フェイド大帝は台湾や香港の本も勉強しているが、
個人的にはやはり中国本土の本が内容的に優れている
物が多い様な気がする。
もちろん台湾や香港にもいいものはあるが。

もし可能ならば、中国本土の龍虎山や、武当山等で
本格的に修行できるのが一番なのかもしれない。”


【少年サンデー マギ】黒焦げテス【BBQ坊や】
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-626.html
”少年誌では珍しく、子供(少年)が丸焦げの
焼身死体が描かれている。

2chや他の掲示板でも、「やり過ぎ」だとか
「気持ち悪くなって吐いた」という感想が
主なようだ。

実はあのシーンの本当の意味を理解している
読者はほぼいないだろう。

「マギ」というのは紛れもない”イルミナティ漫画”である。

つまり、魔術の観点から読んでかないと全く理解できない
構造になっている。

今回、あのバーベーキュー・シーンに至まで、ウーゴが
ひたすら変な呪文を唱えるシーンがある。

あの呪文のデザインは大高忍オリジナルだと思われるが、

中国道教の霊符に使われる文字によく似ている。

漫画の間違った道教知識しか持たない連中には
ウーゴの呪文はさしずめFATE等で言う”魔術回路”を
パクったデザインだと考えるだろう。
実際に何らかの電子回路の様なデザインだ。

だが、中国道教では北斗七星等の星や星座の
動きをああいう「電子回路」みたいな図形で
描く手法がある


だからウーゴの呪文の意味はフェイド大帝にも
流石に分からないが(まんま中国道教ではなく、
おそらくイルミナティ魔術のオリジナルが入っている)

あれは何らかの儀式の前に唱える呪文のはずである。

ちょうどウーゴの呪文のシーンが終わってから
来るのが例の少年テスの丸焦げシーンだ。

実は子供を焼き殺して捧げる儀式というのは
魔術の世界では珍しくない。

ここで言う”魔術”とは別に西洋近代魔術に限らず、
タイやマレーシアの呪術でも普通にある。

大高忍が入れこんでいる中東地方でいくと、
バール教が子供を焼いて生け贄に捧げていた
らしい。

旧約聖書でもアブラハムが生まれたばかりの息子を
生け贄に捧げようとするシーンがあるが、
寸前の所で神ヤハウェに止められる。

つまり公式上はユダヤ教はそれまで中東で伝統的に
行われて来た子供の生け贄を禁じているわけである


だから、大高忍はユダヤ教派では決してない。

登場人物はユダヤ教の歴史的人物の名を
冠しているが、明らかに大高忍の思想背景は
ユダヤ発足以前の中東土着信仰
がベースに
なっていると思われる。

ちなみに中東で生け贄を捧げる時の動物の
殺し方は基本的に二通りある。

 1.火炙り
 2.刃物で出血死
させる

例えばトルコで毎年行われる羊だか
山羊の生け贄儀式は確か2.の手法を
用いていたはずである。

1.は基本的にイランやインドのアーリア
宗教で用いられる場合が多い。

生け贄を焼き殺す理由は、火で焼いた後に
出る煙が天へと昇っていくことから、
天上に座する神の下へ届くと信じられて
いたからだ。

つまり”呪文+子供を焼いて生け贄”というのは
大高忍が仕込んだある種の”魔術儀式”であると
推察できねばならない。

”魔術儀式”完了後には当然なんらかの”リターン”が
あるはずだ。

つまり次号で何か大きな展開
があるのではないかと
フェイド大帝は睨んでいる。”

タイの人造座敷童”クマントーン”
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-632.html
”本日は世界の恐ろしい魔術の一例として

タイの人造座敷童”クマントーン”をご紹介しよう。

クマントーンというのはタイのお土産屋とかで
売っている、開運アイテムの置物で、
ミニチュアの仏像の様な形をしている。



ところで、所謂”開運グッズ”なので、お土産として
買った人は大体次ぎに紹介するブログの記事の
様なノリの認識が主流だろう。

ttp://plaza.rakuten.co.jp/ravia/diary/201007250000/

このブログ主は今時の女性または主婦のような感じ。

「座敷童ちゃんカワイイ〜。毎日お世話しちゃうわ〜!」

みたいなポジティブな反応だろうか。

しかし、このブログ主は実際にコレをどう作るのか
知らないのだろう。

日本で唯一これの作り方を知ってそうなブログがあった。

ttp://ameblo.jp/hiropomin/entry-11641421642.html

この方は実際にタイに住んでそうである。

ちなみに”クマントーン”の概要は以下のブログで。

ttp://khmersurin.blog62.fc2.com/blog-category-5.html

特に上のブログをしっかり読んで頂きたい。

「・・・その黒い所に埋めてあるんですよ


 胎児を焼いた灰を」

埋めてあるんですよ、胎児を焼いた灰を

!?

そう、読み間違いじゃない。

造り物でもない。

本物の生きた人間の胎児を焼いて作るのだ!

実はタイというのは子供の誘拐事件が多い。
人身売買のマーケットが地下で発達しており、
実際に黒魔術用の材料として高額で取引されるのだ。

こういった例はナイジェリア等のアフリカの未開国家
でも行われている


下記ブログでも紹介されている通り実際にニュースにも
取り上げられた事もある。
ttp://www.glitty.jp/2012/05/009460post_5097.html

※ちなみに逮捕された密売人がイギリス人である所に
 注目頂きたい

”クマントーン”は一般的には一番上の仏像の形をした
物が大半だ。

ところが”クマントーン”にもグレードがある。

一番高い奴は胎児の死体を丸ごと使い、金箔を
貼って作る






これが凄まじい”開運効果”なのだそうだ。

世界中の金持ち達が大金を積んででも、タイに
買い求めにやってくるそうだ。

しかも東南アジアの未開そうな金持ち達ではなく、

欧米先進国や香港からも金持ちが買いに来る。

当然、日本からも来ているだろう。

なぜ、そういった迷信を信じなさそうな欧米先進国の
教育豊かな大人達がこぞってこんな怪しい代物を
大金を出してまで買うのか。

実は商売をやられていたり、株等の投資経験の
ある方なら分かると思うが、

経済活動というのは不確定要素が多すぎる。
ノーベル経済学賞の理論でも説明不可能な
事象が日常茶飯事に起きる。


つまりビジネスで儲かるか、損するかは
本人の”努力”も確かに重要だが
それ以上に”運”の要素が強いのである。

だから長財布がお金を運んで来るという迷信が
一時期日本でも流行ったが、これは重要である。



この本では金持ちのアンケートを取っており、
お金持ちは長財布を使っている人が多いそうだ。

また財布の中に”お守り”を入れているケースが
多かったと報告している。

そう、商売が成功するか、しないかは誰にも分からない。
努力が実らない場合だってある。

だから金持ちは験を担ぎたがるのである。

これが”クマントーン”が世界中でベストセラーになる
理由
だ。

ここまでは予備知識。

このコーナーは”フェイド大帝流魔術”なので

実際にこの”クマートーン”の作り方をお教えしよう。

これはフェイド大帝が茅山道教の勉強をして
入手した作成レシピである。

※前回書いた様に中国人は三国志の時代に
 南蛮の呪術にこっぴどくやられた過去があり、
 タイの呪術が逆輸入で道教にも取り入れられている


まず、

 ①近日中に死んだ赤ん坊の墓を暴いて
  死体を手に入れる。もしくは
  適当な赤ん坊を誘拐する。
  生きた赤ん坊を使った方が効果が
  高いので
、後者が推奨される。

 ②火で加熱した金属網で攫った赤ちゃんを
  生きたまま
焼く

 ③火加減は弱火〜中火ぐらい。このくらいの
  温度で焼くと赤んちゃんの脂肪が液体状に
  なり、これを回収
する

 ④この焼いた生きた赤ちゃんから採取した
  脂肪を小さな瓶に詰める。

 ⑤この瓶を人通りのある公園等の大樹の
  根元
に埋める

 ⑥仏教僧(密教)が49日間お経を唱えながら
  大樹の周りをグルグル回る。

  ※49日というのは仏教の有名な数字で
   日本でも葬式等で耳にしたことがあるだろう。
   人間が死んだ後、魂が体から抜けて輪廻転生
   するまでの期間が49日
であると言われている

 ⑦お経の効果は公園の周りを彷徨う

  浮遊霊を脂肪瓶の中に閉じ込める
効果が
  ある。

  ※これは一種の呪術トラップである。
   その辺を彷徨う成仏しない浮遊霊というのは
   大半が悪霊であり、悪霊を瓶の中に
   閉じ込めて捕獲し、これを使役して
   術者の願望を叶
えさせるというメカニズム
   である

 ⑧悪霊を封じ込めた脂肪を瓶から取り出し、
  仏像の置物に埋め込む

 ⑨クマントーンの完成

使用上の注意:

 クマントーンは生きた”悪霊”を使うので

 捕まえた”悪霊”が餓死しないように
 毎日お供え物という食料をお供え
 しなければならない。

 お供え物を忘れると、悪霊はお腹が空いて
 元気が出ないので、開運効果が落ちる。

 ※神道の神棚の仕組みも基本的には
  クマントーンと同じである。
 
 注意点はお供え物が豪華すぎると
 
 悪霊が栄養を付け過ぎて、封印が
 壊れる場合がある。

 だから、お供え物の匙加減が重要なのである。
 ちなみに神道の神棚では”塩”や”水”等の
 粗品が多く使われるのは、一般人が間違って
 悪霊”天照等の古代の亡くなった人物”に
 お供え物を与えすぎると、

 悪霊は家主に牙を向く危険がある。

 ”霊”というのは時間が経てば経つ程、強力に
 なる性質がある。

 ※だから神道の神棚のお札は一年で強制交換
  させる

 だから、”クマントーン”は長期保有すべきではない。

 これの処分の仕方が分からないと大変な事が起きる。
 お土産で自国に持ち帰ったお金持ちがしばらく経つと
 開運どころか、悪運に苛まされるのはこれが原因である。

 であるので、”クマントーン”を使うのであれば、
 タイの呪術者の知り合いが必要不可欠である


以上だ。

フェイド大帝流魔術の導入編としては結構な
記事を提供出来たと思っている。

だが安心してほしい。フェイド大帝流では
基本的に黒魔術の類いは使用しない。

また、魔術の基礎からしっかり勉強して
いくつもりだ。

将来的にはこういった黒魔術の呪物を
払う退魔の技術
も身につけていく。

※ところで、クマントーンの知識があると
 サンデーのマギで大高が子供を焼いた
 エピソードを描いたのが如何に危険か
 良く理解出来たであろう。
 テスが黒焦げになる前に、ウーゴが
 変な呪文を唱えているのでこれは
 確信犯である
。”

無料でDL出来る魔術書(英語だけど)&魔術修行の覚悟について
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-634.html
”ところで、フェイド大帝だったら魔術師とは
ケンカしたくない。

奴らを怒らせるのは危険すぎる。

何故なら魔術師の使う魔術や呪術、邪術は
本当に恐ろしいからだ。

前回もタイのクマントーンという邪術を
紹介したが、世界にはこの他にも様々な
邪術が掃いて捨てるほどある。

例えば「呪いの藁人形」が有名だ。
これは魔術の分類では「Hexing doll」と
呼ぶ。Hexは「縛る」みたいな意味だ。
実は藁人形文化は世界中の至る所で
似た様な術がある。

特にユーラシア大陸は同じ術が大陸中に
広がったのではないかと思うぐらいだ。
アフリカにもあれば、もちろん中国にもある。

ところで日本の陰陽道の「藁人形」、
元は中国道教から伝わった物だと思われるが、

中国道教と作り方が違う。

中国道教の作り方の方がずっと複雑で細かいので
恐らく日本版の物は劣化版であると思われる。
作った後のメンテナンス方法も伝わっていないよう
だしね。

この術は、世界中に存在するのとかなり歴史が古い。

つまり実際にはかなり効果があったのだろう。

いくら古代人が現代人に比べて未開だったとしても
全く効果が無ければ、何千年もこの術が後世まで
伝わるはずがないのである。

未だにこの術が残っているということは、
この術は”本物”なのだろう。
迷信以上の何かがあったはずなのだ。

ところで、この呪物(藁人形)、呪う相手の
体の一部(髪の毛等)か持ち物があれば
ピンポイントで術を掛けれるのだが、

現代のこの術は更に改良されている。

いいか?今から2chの様な匿名掲示板で
安全な所から毒を吐く連中にとっても非常に
恐ろしい事を言う。

現代の中国道教のこの術は相手が匿名でも
呪いが掛かる様に改良されている!


実はプロバイダにコネがないとIPから相手の
個人情報を特定するのは不可能なことは
ネットワークを多少勉強した人間なら常識だ。
恐らく、悪質なコメントを匿名掲示板で書き込む連中も
現代の一般人の持つ技術では個人を特定出来ない
ことが分かっているから、公の掲示板などで
でかい顔をして威張って投稿している。

彼らに取っての悲報は”魔術”は魔術師に
手を出した時点で、”繋がり”が形成されることだ


オタクが好きな言葉で言い換えると
「魔術回路」というのが繋がってしまうのである。

しかも、大半の人が更に勘違いしていることがもう
一つある。

”魔術”とはアニメやゲームの様に、手の平から
炎やビームを出す技術ではない。

本物の魔術は目に見えなければ、音もしないし、匂いもない。

そして現代の法制度では裁けない。

理由は簡単だ。”魔術”に用いられている理論というのは

現代科学(主に物理学)に基づいた理論ではない。

だから仮に貴方が本物の魔術師を怒らせて、
何らかの術を掛けられたとしたら、

まず、魔術知識も技術もない貴方は全くの
無防備で術を防ぐ術が無い。

そして、

キャリア出の警察官でも司法試験をトップで
パスした裁判官でも貴方を守る事はできない。

物理的な証拠等残らないのだ。魔術は。

ここでフェイド大帝が言う魔術とは19世紀の
ヨーロッパで流行った、近代儀式魔術の事を
言っているのではない。
あんなのはイギリスの魔術オタクが作った
お遊戯レベルの術以前のものだ。

前回のクマントーンの記事で頭のいい人は
気付いたと思うが、世の中には数百年、
数千年、伝わってきた本物のガチ魔術が
存在する。

別に迷信でも、ただのハッタリだと思って
頂いても一向に構わない。

忘れかけた頃に、不幸が突然やって来る。
誰かが術を掛けたのかもしれないし、
貴方が考える様にただの”偶然”かもしれない。
しかし、そんな事を心配してどうする?
いずれにせよ調べようがないのだ。
真相は常に闇の中だ......
少なくとも術者本人でない限りは


だから、貴方は気軽に魔術師になりたいと
言う。
イルミナティの様な世界の”悪い魔術師”
達から人類を解放したいと願った。

しかし、貴方は本当に”魔術師”になりたいのか?

闇の魔術師と闘うということがどれだけ恐ろしいか
理解出来ているのだろうか?

はっきり言って、オタクがアニメやゲームに憧れて
魔術の真似事で倒せる様な輩ではない。

正直に言うと、”フェイド大帝流”をいくら極めても
勝負にならない。

魔術師としてのキャリアが違いすぎる!
奴らと我々とでは!

だから、月並みな表現で申し訳ないが、

”フェイド大帝流”は遊びじゃない。

本気で学ぶ事になるのだ。邪術を退ける防護術を!

ただの秋葉の魔術オタ以上を本気で目指す気が
あるのなら、

決死の覚悟で臨んでほしい。

口を酸っぱくして何度でも言う。

本物はガチでヤバイ……!!

・・・・・・

ちょっと厳しめの記事になってしまったが、

ところで、具体的な「藁人形」の作り方、使い方は
まだ教えない。
皆さんの準備がまだ整っていないからだ。

その代わりと言ってはなんだが、皆さんに取って
お得な情報を今回はお裾分けしようと思う。

下記のサイトに注目。
ttp://darkbooks.org

このサイトのBooksのタブからかなりマニアックな
魔術書(英語だが)PDFで無料でダウンロード出来る
様になっている。
基本、著作権の切れている本ばかりではあるが、
日本では入手出来ないマニアックな古典も沢山
あるので是非目を通して頂ければ幸いだ。


【少年サンデー マギ】230話ウパニシャッドの創造神話を知らない謎は解けない
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-633.html
”※ところで小学館についてもう少し詳しく知りたい方は
 「相賀一族」で調べて貰えると色々勉強になると思うよ。
  特に二代目
が要注意人物な。

今週のサンデー・マギ、また爆笑させてもらった。

フェイド大帝が前回解説した様に、ダビデが後方基地を
襲い、テスを焼いたのはイル・イラーに捧げるための
生け贄としてだと告白した。(笑)

※ちなみにテスを焼いた日が、イル・イラーの
 吉日だという台詞から、大高が中国神秘学を
 下敷きにしたのが分かる。キリスト教文化でも
 擇日の文化はあるが、マイナーだ。
 擇日の影響が深く根付いているのが中国文化

 である。

ところでダビデが”運命”がどうのこうのと
言っている箇所だが、これも「大高は竹本泉
からパクっている!」と叫ぶのが精一杯の
2chラー達の浅い学識じゃさっぱり謎が
解けない。

実は、これはフェイド大帝の書いた
「ヴェーダ/バラモン教編」を読んで
頂ければすぐ理解できる。

古代アーリア系宗教では創造神は”悪”
なのである。また、”死”を表し、人間や
動物は創造神のための”餌”として創造
されたに過ぎない。

だから人間が”不幸”なのは最初から
決まっている事だから、この事が
ダビデの言う「絶望する運命」なのだ。

ではソロモンがどうこれに抗うかなのだが、
恐らく自分でパラレル・ワールドを作るのだろう。
自分が神=聖者になれば、”死”を司る創造神より
マシな世界が出来上がるだろうという考え。

「人間が神になる」という思想はインド・アーリア系
宗教では梵我一如の思想の様に当たり前であるが、
ユダヤ教系では人間が神になるのは絶対に許されない。

これはルシファーが神に成り代わろうとした神話
ともリンクするし、「打倒キリスト教!」を
掲げ、科学の発展によって人間が神の代わりに
なろうとするフリーメイソン教とも相性がいい


大高忍が「過去の最低帝国」を毎日読んでいるのか
どうかは知らないが(アクセス解析を見ると串で繋いで
いる奴が一人いるので、大高かもしれないが......)
まぁ、大高の考える事は実に分かり易い。(笑)”


新しく”フェイド大帝流魔術”を興そうと思っている
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-630.html
”実はマギという漫画、なぜ「シバ」という少女のキャラに

角が生えたいるか考えた事はあるだろうか?

旧約聖書の伝説によると史実のシバの女王は
エチオピアもしくはイエメンの女王だった。

ところが、人間の頭に”角”を生やすという特徴は

ケルト人文化かシュメール文化の特徴なのだ。

ケルトではケルヌンノス神のように頭に鹿の角を生やす。
マビノギオン等のケルト神話を読んで頂ければ
早いが、ケルト文化では”怒り”を表現するのに
”角を生やす”という例えを用いる。

また、シュメールやバビロニアでは”神”と
呼ばれる者達や王族は牛の角を模した
冠り物を冠る特徴がある。

牛は古代文明においては重要な家畜
であったため、自然と牛は崇敬の
対象となったのだろう。

だが、いずれにせよケルトもシュメールも

エチオピアやイエメンとは関係がない。

つまり大高が世界の王たるソロモンの妻
としてシュメールの血筋の者を推したかった
事情が掴んで取れる。

これらはある意味”魔術”なのだ。

”魔術”程、日本が遅れている分野はない。

実は”魔術”というのはアフリカやアマゾンの
原住民だけが行う土着呪術ではない。

意外に思うかもしれないが、先進国の
金持ちや権力者程、魔術を実践
している。

ここでフェイド大帝の言う”魔術”とは
”心理学”だとか”哲学”のことを指しているの
ではない。

あの魔方陣を描いて悪魔だか精霊を呼び出す
例のアレのことを言っている。

タイやマレーシアは魔術先進国である。
三国志で孔明が南蛮遠征にいく箇所が
あったと思うが、制圧完了後、孔明は
南蛮人に人間の首を川に流す風習を
止めさせている。

代わりに小麦粉で肉や杏子を包んだ
料理を頭の代わりとして川に流させる
ように変えた。
これが”饅頭”という料理の起源らしい。

実は、史実ではこの時、中国人はかなり
南蛮の呪術に苦しめらていたのだ。

南蛮の呪術が余りにも効果的であったため、

伝統的な中国道教の道術では全く歯が立たなかった。

一般的には三国志のエピソードの様に中国人が
南蛮人に苦戦したことは書かれていない。
中国人はプライドが高いからだ。
しかし中国道教の界隈では中国人が南蛮人に
全く歯が立たなかった事実は有名な話である。

結局は南蛮の優れた呪術を逆輸入して
発展したのが

茅山道教である。

道教の茅山派というのは日本では文献学者が
創始者が陶弘景であるぐらいしか記述がないが、

世界的に茅山派の呪術は恐ろしい効き目と
いうのは”常識”である。

日本人ぐらいなものである。明治維新後の西洋科学かぶれ
に傾倒し、古来の魔術文化、知識を廃棄してしまったのは。

そのせいで、日本人は世界で最も魔術/呪術に
対して免疫力の弱い民族となってしまった。

つまり、日本人には魔術を掛け放題なのだ!

当然、魔術には相手を攻撃する術もあるが、
他の魔術師の攻撃を防御する術もある。

しかし、日本人は防御魔術等全く使えない。
これでは「呪いを自由に掛けて下さい」と
世界に発信しているようなものである。

本来、魔術というのは師匠に弟子入りして
覚える物であるし、中国道教では
武当山に道士を育てる教育機関
がある。

しかし、一介の日本人がなんのコネもなく
これら本物の魔術師に弟子入りするのは
非現実的だ。

日本の神道でさえコネがなければ神主に
なれない。

当然、フェイド大帝も本物の魔術師の
弟子ではない。

しかし、このまま敵対勢力の魔術師達に
良い様にされるのは好ましくない。

そこでフェイド大帝が今まで蓄えてきた
魔術・オカルト知識を総動員して

新しい魔術流派を起ち上げようと思う。

それが”フェイド大帝流魔術”である!

はっきり言っておこう。フェイド大帝流を修めても
既存の伝統的な魔術流派の魔術師達には勝てないだろう。

こういう新しい流派の開祖というのは、やたらと
自分の宣伝をし、やれ最強だのなんだの
風呂敷を広げるものだが、

フェイド大帝はそんな無責任な開祖と
同じではない。

なぜなら、フェイド大帝は「本物の魔術」
が真に恐ろしいものであることを十分知っている
からである。

アマチュア研究家が気分転換に起ち上げた流派
でどうのこうの言う以前の問題なのだ。

だが、それでも尚、日本の皆さんにフェイド大帝が
開発した新しい魔術を紹介する意義はあると思っている。

本物の魔術師には遠く及ばないかもしれないが

しかし、本格派だ。

魔術の玄関前の玄関マットの端っこぐらいには
立てる様にはなるだろう。

具体的には

中国道教をベースとする。

これは比較的文献が豊富であり、
秘伝を学ばなくても応用できる部分が多いから
である。

不足部分はヨーガとチベット密教で補う。

というのも中国道教がの主要道術が
開発されたのは古代中国であるが、
現代の中国道教は北京語や広東語で
呪文を唱える。
これは本来効果がないはずである。
なぜなら呪文というのは音声そのものを
重視するからだ。
だからインドのマントラや密教の真言は
古代のサンスクリット語から何も変えていない。
で、あるため中国道教の主要呪文を該当しそうで
あるヨガのマントラに置き換えるのが
フェイド大帝流の特徴だ。

また密教は呪術としての実績がとにかく凄い。
日本の歴史を振り返ってみれば分かるが、
密教呪術は何度も神風を起こしている。
蒙古も退けたし、アメリカのルーズベルト
大統領の呪殺にも成功している。
この密教の中でも特に完成度の高いと
言われている

チベット密教を織り込んであるのが
フェイド大帝流のもう一つの特徴である。

さらに、ユダヤ・カバラも織り込む予定である。

これは”黄金の夜明け団”系のクリスチャン・カバラではない。

本物のユダヤのカバラだ


これら様々な魔術技術を組み合わせれば、
かなりいい線いくのではないかとフェイド大帝は
睨んでいる。”


”なぜ日本のアニメーターはオカルト・シンボルを盛り込みたがるのか?”について
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-568.html
”まず、アニメで一番最初にメイソン的なメッセージを盛り込んだのは
アメリカのウォルト・ディズニーだと思われます。
というのもディズニーは実際にフリーメイソンの会員でした。

アメリカはヨーロッパ大陸と違ってローマ・カソリック教会の
キリスト教の支配力が比較的及んでいない大陸なので、
おなじ白人でもフリーメイソンや神智学のような18世紀〜19世紀
に興った新興宗教
が信者を獲得しやすい環境だったのです。
ヨーロッパは比較的伝統的なキリスト教勢力が強いので、
近代化が進んで信仰心の薄くなったイギリス、フランス、ドイツ、
オランダを除くとメイソンや神智学の様な新興宗教が
流行り辛い環境でした。
つまり伝統的なキリスト教を信じない人、ヨーロッパで
まともに生活できない人達がアメリカに多く移民してきたのです。

またユダヤ人も一般的なユダヤ人というのはユダヤ人同士で
固まる傾向が強くて、信仰も基本的に伝統的なユダヤ教です。
メイソンみたいなキリスト教系の団体に入りたがるユダヤ人
というのは伝統的なユダヤ社会ではむしろ例外だったわけです。
つまりユダヤ人の中でも”相当変な人”達がこぞってメイソンに
入会したり、アメリカに渡ったわけです。

従いまして、当然メイソンに入会していたディズニーも
どちらかというと”変な白人”の仲間だったわけです。
(これは差別表現ではなく伝統的なヨーロッパの
 白人と比べた場合の話です)

なぜディズニーが”ダンボ”等の作品にそういうメッセージを
入れてたのかというと、当時は第2次世界大戦の前後でして、
アメリカでも右翼とそうでない人達に分かれていました。
元々、アメリカはウッドロウ・ウィルソンが大統領になるまで
どちらかと言うと他国の政治紛争に関わらない政治体制を
貫徹しておりました。
この伝統は当時のアメリカでもまだ根強く残っていて、
大戦に参加しない意見を持っていた人達が多かったのです。

ところがフリーメイソンというのはその名前からも分かる通り、
”民衆の自由”のために戦う組織が元なのです。
ですのでフランス革命のときは革命側として専制政治を
行っていたフランス王家側を相手にゲリラとして戦って
いたわけです。
イルミナティの黒い教皇と呼ばれているアルバート・パイク
という著名なアメリカ人の軍人さんがいますが、
私、フェイド大帝はパイクの主著である”モラルとドグマ”
を原文で読んだことがあります。
(この本は何故か和訳されていません)
陰謀論家が騒ぐほど酷いことが書かれている書物ではないのですが
パイクはこの本の中でフリーメイソンの組織の目的を
定義しています。
パイクによると、

「フリーメイソンとは民衆を苦しめる
専制/独裁政治を地球上から無くすために活動する組織」

と定義しています。

これは18世紀のヨーロッパで興った民主主義革命の延長線上
にある考え方でして、当時のヨーロッパ人の知識人達にとって
は至って普通の考え方です。

従いましてフリーメイソンは表向きはキリスト教系の組織として
設立されましたが、

本来、キリスト教会とは相性の悪い理念
の組織なのです。

というのもヨーロッパの中世史に詳しい方には一目瞭然ですが、
ローマ・カソリック教会というのは元々、専制/独裁的な組織だった
わけです。民主主義的な組織ではないわけです。

従いましてフリーメイソンにとってキリスト教会と
いうのは本来倒すべき”敵”だったのです。

民主主義を広めるための組織ですからね。

だから民主党の鳩山家がフリーメイソンの思想に迎合する
のは当然なのです。

アメリカに話を戻すと、当然当時のフリーメイソンはドイツの
ナチスを仮想敵としていました。
ナチス党は民主主義とは真逆の独裁政治制だからです。

ところが上述の通り、アメリカの一般大衆は戦争に
消極的だったわけです。
そのため、アメリカの当時の反ナチ勢力というのは
主にゲリラでした。公には活動していなかったわけです。
当然敵はドイツですから、ヨーロッパ本土にも沢山
反ナチの工作員がいたわけです。

ここで問題が一つ生じます。

アメリカ大陸とヨーロッパ大陸との連絡手段です。

当然ドイツでは反ナチ的な番組はテレビやラジオでは流れません。
当局からの検閲があるからです。

ところがアニメだけは例外で放映されていたのです。

そのため、ヨーロッパ本土の工作員との連絡手段としてアニメ放映は
普通に利用されていたのです。
フリーメイソン・メンバーであったディズニーがメイソンのメッセージを
自分の会社のアニメに盛り込んだ目的はここにあったわけです。

これがアニメにオカルトシンボルを盛り込む慣習の
起源になったわけです。

元々は政治目的
だったわけですね。

では何故日本のアニメにもメイソンシンボルを
盛り込む様になったのか?

当時の日本アニメの質というのはアメリカのディズニーと比べると
非常に劣った品質でした。
現代では競合社の製品を研究分析する手法のことを
”ベンチマーキング”と経営学では呼びます。

日本人というのは研究熱心な民族ですから、

アメリカのディズニー作品を大変良く研究したわけです。

当然セル画一枚単位まで分析するわけですから、当然ディズニーの
メイソン・シンボルにも気付いたはずです。
当時の日本の主要アニメ・プロダクションは手塚治虫の
虫プロぐらいしかなかったわけですから、手塚治虫のような
仏教系オカルト好きの人間には絶対に見抜かれていたはずです。
シンボルの意味まで理解していたかは不明ですが、
当時の日本の”モノづくり”というのは基本的に欧米諸国の
コピーに終始していました。

より良い製品を開発する体制が日本企業で一般的に
なったのは実はつい最近の話なのです。

従いまして、日本アニメの黎明期にはディズニー・アニメの
モロ・パクリ・コピーが主流だったのです。

こういった歴史的事実があるため、ディズニーが後に”ライオン・キング”を
発表した時、

虫プロは”ジャングル大帝”のパクリだと騒がなかったのです。

当然、天下のディズニー様が”アトランティス”を発表した時も、
庵野秀明の様な東洋の特撮オタクごときが”不思議の海のナディアのパクリだ”
と騒ぐこともできなかったのです。それはディズニー様に対して
大変失礼な態度だと日本のアニメ業界では考えられていたのです。

ですので、庵野監督はご自分の立場が良く分かってらっしゃる方なので
ディズニー様に敬意を評して、”エヴァンゲリオン”という出世作に
オカルト・シンボルを大量に盛り込むというディズニー・アニメの
伝統的手法
をオマージュとして採用させて頂いたのです。

ところが、現代の若いアニメーター達はそういった歴史的
背景/事情を知りません。

彼らは”エヴァンゲリオン”が大変な成功をおさめたという前例にならって

エヴァンゲリオンのモノマネ・コピーをしているだけです。

厳しい言い方をするとエヴァの真似をするだけで精一杯なのが
今のアニメ業界の実力なのです。

これが、未だにアニメにオカルト・シンボルを入れたがる
主な理由の一つです。

ちなみにアニメ以外のニュース番組等に”33”等のヒンドゥー/仏教系
の暗号
を入れる伝統はディズニーとは関係ありません。
TV業界の話はまた別の機会にします。

ちなみにガンダムの富野監督に関しては上記の事情とは
少し異なります。

実は富野監督の若かった時代というのは左翼運動が盛んだった
時代と重なります。
ソ連の共産革命時代ですね。
当時は日本でも学生運動とかが盛んでしたね。

宮崎駿監督の”ナウシカ”も反資本主義
バリバリのアニメでした。

当時はそれが普通だったのです。

ところが学生運動に参加していた学生というのは
反体制的ということで、

一般のマトモな職業には就けなかったのです。

会社側でそういう学生の採用を避けていたのです。

ですのでそういう偏った思想を持った
若者がアニメ業界等に流れていったのです


富野監督のインタビュー記事を読んでも分かりますが、
富野監督が若かった時代はアニメーターというのは
世間に”職業”として認識されていませんでした。
ですので税務署に確定申告をしても税務官に

「アニメーターってなんですか?そんな職業あるんですか?」

と逆に聞かれたそうです。

つまり、普通の会社に就職できなかった
ちょっと頭が普通の人達と違う人が
アニメーターになっていたわけです。

だから富野作品はちょっと変わっているのです。

富野監督は多分、手塚治虫の影響だと思いますが、
思想的に仏教寄りです。それも本場インドの。

だから富野作品にはインド人が沢山出てきます。

”Vガンダム”のエンジェル・ハイロウという兵器も
ヒンドゥー教のグルの格好をしたシャクティという
インド人の少女が変なヨガ・ポーズを取ると、それが
波動になって、照射された人々が赤ちゃんに退化して
しまうという現象が置きます。

これは中国の道教の知識とウパニシャッド哲学に精通していると
意味が明らかになります。

道教では人間の理想的な精神状態を”先天の氣”と
考えています。

これは何かというと、人間というのはお母さんのお腹に居る時は

完全に”善”の状態なのです。

つまり道教というのは性善説
なのですね。

ところが赤ちゃんが生まれて成長していくと、

外的環境から”悪”の知識が心に芽生えると考えました。

だから大人の人間社会から悪が無くならないのは
成長の過程で悪のテクニックを学んで身につけて
しまったからだとインドや中国では考えられていたのです。

これを道教用語で”後天の氣”と呼びます。

道教の気功やヒンドゥー教のヨーガというのは

この”後天の氣”を吐き出して、”先天の氣”に戻すための
技術なのです。

だからVガンダムの世界でザンスカール帝国が理想的な
人間社会を構築するために人間を”赤ちゃん”の状態に
戻そうと試みたのです。

宮崎駿もそうですが、富野監督にとっては”文明”というのは
”大人の悪の知識”がもたらした物と捉えています。
これは旧約聖書のアダムとイブが知恵の実を食べて
天国を追い出された説話とも関係しますね。

ですので宮崎監督も富野監督も”文明=資本主義は悪”

という考え方が基本になっているのです。
(宮崎監督はこれに”少女は正義
”という思想が加わります)

だから∀ガンダムの月光蝶で文明を消し去ったり、Gガンダムの
デビルガンダムが無限膨張したりするのです。

今の若手アニメーターというのはこういった先人の
アニメを観ながら育ってきたわけです。

だから変な思想やオカルトチックなアニメ
ばかり作りたがるのです。

つまり宮崎駿監督、富野監督、庵野監督の”マネ”から
抜け出せていないのです。”
”まず、フリーメイソン型の秘密結社というのはフリーメイソン以外にも
掃いて捨てるほどあります
。(笑)
で、中には政治と密接に関係のある組織もあります。
例えばイスラエル系(ユダヤ系)の組織とかがそうで、これは
単純に政治学の世界でイスラエル・ロビーと呼ばれているもの
と一緒ですね。余りにもあからさまなので秘密組織でも何でないのですが.....
こういった政治ロビー系の団体は別にイスラエルだけに限らず、
他の国も皆そういう団体があります。日本ももちろんあります。
例えば海外での日本企業が活動しやすい様に当局政府に便宜を
計ってもらうよう働き掛ける団体とかあります。
日本の場合、基本的に官僚系の組織ですけどね。

当然こういった組織は自コミュニティの利益追求が
主なインセンティブですから、部外者から見たら
”悪の組織”に見えたとしても不思議ではないでしょう。(笑)

こういった政治系やビジネス系以外ですと純粋な宗教系の
団体も存在します。これらは主に自教義の布教活動が主ですね。
キリスト教系とか多いですよ。日本だと仏教系かな?
ただ本来、仏教はあまり布教とかやらない教義なんですけどね......

日本のアニメ業界を牛耳っているのはどちらかというと宗教系だと
思われます。

フリーメイソンが”悪の組織”かどうかですが、まずフリーメイソン
というのは支部によって運営方法だとか考えが異なります。
「会員同士仲良くしなさいよ」みたいな全支部共通の理念みたいな
物はありますが、キリスト教会の様に法王みたいな統括者がいて
全体が一丸になって.....みたいな仕組みにはなっていません。
一応、新しい支部を設立するには他のグランド・ロッジの承認や
推薦はいるみたいですが......
ですので、支部によって活動の性格が大きく変わる様です。

多分、日本で問題になっているのは主にアメリカ系とフランス系の
支部なのではないでしょうか?(個人的には根っこにドイツ系が
絡んでいると睨んでいますが)
歴史的にもアメリカとフランスのメイソンは革命活動に熱心
でしたしね。

まぁ、でもどこの組織にも”変な人”はいますから別にフリーメイソンに
限った話でもないと思いますけど。

結局は組織云々よりも所属しているの個人の問題なのではないでしょうか?

後、余談ですがイギリスの”黄金の夜明け団”という魔術結社の
マニュアル本には複数の組織に二股かけて所属せよという指示があります。
別の組織で”グランド・マスター”と同等の位にならないと”黄金の夜明け団”
では出世できない仕組みになっています。
なぜ二股を掛けるかと言うと一つは他団体の秘儀(情報)を盗んでくるためと
他団体を乗っ取るためだとそのマニュアルには書かれています。
”黄金の夜明け団”自体は潰れてしまって現在は存在しませんが、
余りメジャーではありませんがいくつかの孫組織は現代まで
生き残っています


個人的にはこういう”魔術結社”系が一番怪しそうですけどね。


この”精神世界本”が意外と良かった
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-639.html
”そして”笑っているシーサー”には効き目が
ほとんどないことを突き止める。

これは魔術的に全く正しい。

沖縄のシーサーは本州では神社の狛犬に
相当するが、元々は中国の風水アイテムの
獅子の置物から来ている。
この文化はチベット経由で中国に伝わるが、
元々はインド/イラン、シュメールの中東
地域が発祥であると考えられている。
昔のシュメールの王族はライオンを飼う
風習があったらしく、いつのまにか
ライオンを模した像が魔除けの効果を
持つ様になったと言われている

(FATE zeroのEDのギルもライオンを飼っている
 描写がある)

だから、本来はイカツイ顔をしている。
ライオンが笑っていたら効果がないのは
当たり前
だろう。

そして、橋本氏の目の付け所のいい所が
もう一つある。

犬のいる部屋はゴーストが少ないらしい

と考察している所だ。

実は、フェイド大帝は今、”超運犬”の研究を
しているのだが、どうやら世界的に見ても
犬が魔除けの効果を持たらすケースが
非常に多いのである。
逆に猫は余りそういった逸話がない。

具体的には魔除け効果の高い犬種と
そうではない犬種がいるらしいことも
分かってきた。

ところで、今日本で流行っている犬種は

全然、超運効果がない。
(少なくとも歴史的な根拠に乏しい)

しかも、品種改悪によってワザと
超運効果が削がれている犬種も
その中に含まれている。

多分、日本を弱体化するためのイギリス人
の策略なのだと思う。

イギリス人の犬の改良に関する執念は全く
の異常であり、犬の世界の優生学は
旧ナチスもびっくりするぐらいの徹底ぶりである。

しかも、イギリス王家はやたらと犬を集めるのが
好きだ。

これはただペットが飼いたくて集めているわけ
ではないだろう


そう、犬には重大な秘密が隠されているのだ。


法隆寺の爬虫類人像は干支の十二神将!道教の儀式道具です!!
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-649.html
”法隆寺にトカゲ頭の座像があるということで
大騒ぎしている連中がいる。
シュメールのレプティリアン像と同じだの
何だの。

ttp://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/



よく見ると分かるが、トカゲ頭としているのは

本当は馬頭。

で、他にも鼠頭とか鳥頭がいる。

これはそんな珍しい物ではなく、
中国の道教の干支型十二神将
の像だ。

学研の「風水の本」より↓



だからレプティリアンと何の関係もない。

では、何でこんな奇妙な道教の像が
仏教の寺の法隆寺にあるのか?

法隆寺というと聖徳太子だが、
こいつの伝記を読んで貰えば分かるが

コイツかなりの呪術オタ。

元々、聖徳太子は最初から仏教の教えなんざ
全く興味がない。

ええ〜!? じゃない。

聖徳太子は実在しなかったのではないかと
いう説もあって、彼が大乗仏教に精通されている
と思われる著作集、「維摩経」、「勝鬘経」の
解説書は後代になって偽造されたものである
との疑いもある。

現に聖徳太子の仏教知識なんぞ目も当てれない
ぐらい稚拙なレベルだ。

物部守屋を討つ時に彼が取った行動を
じっくり分析すれば明らかだ。

奴は物部守屋に矢が当たる様に仏像に
願掛けしている。

おいおい、仏教ってそういう使い方じゃないだろ!(笑)

聖徳太子や日本の皇族が仏教を何が何でも
輸入したかった理由は

仏教の呪術としての効果に期待してだ。
だから後代になって皇族はやたらと
密教呪術に傾倒していく。

つまり、物部氏の神道の呪術よりも
仏教の方が呪術効果が高いと判断した
からなのだ。

だから、空海の密教等がもて囃されたりもした。

逆に最澄の入れこんだ天台宗というのは
”ガチ哲学”系の仏教だ。

だから、最澄の仏教は彼の生前時には全く人気が
なかった。

後に最澄の弟子達が密教を中国から再輸入してから
天台宗が一気に日本の国教へと出世するようになった。

だから法隆寺という聖徳太子縁の寺に道教の
呪術用の道具が置いてあっても何ら不思議は無い。

多分こいつらは隣国のありとあらゆる呪術を
輸入して試してみたのだろう。

で、たまたま偶然なのか、本当に呪術効果があったのか
は分からないが、仏教が一番効果が高かった。

だから日本は仏教国になった。

決して、仏教の教えに感銘を受けたからではない


日本という国は所詮、卑弥呼の”鬼道”の
頃のメンタリティから全然成長してなかった
ということなのだ。

ちなみにこの道教の十二神将像の呪術、
基本的には戦争で相手の将軍を遠隔地から
呪殺するための儀式に使う。

道教の呪術の中ではルーズベルトを屠った
”大元帥の法”と同じぐらいの威力を持った
強力な術だ。

こんなヤバイ術を集めていたとは如何にも
聖徳太子や皇族の連中らしいと思ったが
。(笑)

ちなみにこの道教の呪術、フェイド大帝はこれの
やり方も知っているが、この術はかなり手順が
複雑なのと、動物の生け贄やら血とかを沢山
使う上、この”神将”という悪霊が制御しにくい
上、扱いを間違えると術者を攻撃してくる

性質があるので、教えるのは省くことにする。

どうしても知りたい場合は自分で探してくれ。

まぁ、扱いにくいから仏教に乗り換えたんだと
思うけどね
。(笑)”


【アイク】何故、地球は月から攻撃を受けるのか【ムーンマトリックス】
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-491.html
“デービッド・アイクというと、有名なおじさんなので
知っている人も多いと思うけど、
陰謀論の大御所の一人ね。

爬虫類人に地球は支配されているという説を
唱えた人。

日本のスピ業界や新興宗教で扱っている
レプティリアンの元ネタの人。

そのアイクがヒカルランドという文庫で出している
シリーズが”ムーン・マトリックス”。

その中のネタの一つで月にレプティリアンの基地があって
地球を巨大なアンテナ兵器で霊界に飲み込もうとしている
とかなんとか。

このネタ、始めて聞く人には突拍子もないように聞こえるし、
アイクの想像力に舌を巻く人もいると思うけど、

「このネタ、ちゃんと元ネタがある」

ご存知の通り、アイクを”洗脳”したと言われているのが
スピ業界の大物、ベティ・シャイン女史だと言われている。

アメリカのスピ業界ってのは近年になってぽっと出たわけではなく
ちゃんと歴史がある。
基本的には19世紀イギリスの”黄金の夜明け団”という魔術結社と、
ブラバツキーの”神智学協会”が元。
この二つの組織の元ネタはインド哲学とネオ・プラトニズムの
プロティノス辺りね


だから、アイクの妄想の戯言も大体この二つの組織の知識が
元ネタなわけ。



上図はご存知の通り、ユダヤ・カバラの”生命の樹”。
アニメのエヴァで有名になった奴ね。

この図は11個の玉(セフィラ)で構成されている。
それぞれの玉に占星術の惑星の記号が振られている
通り、この太陽系の惑星を表している。
で、一番下の”マルクト”ってのが地球。
”マルクト”の玉の中に三角形が4つあるでしょ?
これは物質を構成する四大元素(火、土、水、風)
を表しているわけ。
だから我々の住む可視世界=地球なわけ。

で、この”マルクト”の上から線が一本伸びて
”イエソド”に繋がっている。
この”イエソド”は月を表している。
月ってのは魔術の世界では”霊界”を表している。
何故かと言うと魔術師は四大元素の他に
第5の元素があると考えているわけ。
この第5の元素は目に見えない精神的な
物の構成要素。
だから、彼らがアストラル・ボディとか読んでいる
幽体離脱ってのは第5の元素を通して精神を肉体(四大の内の土の塊)
から分離する作業なわけ。
でこのアストラル・ボディを使って霊界を旅するわけ


だから、四大を表す地球から線が一本、月の方へ
伸びるわけ。
これを魔術的な図式で表すと五芒星になる。
だから召還魔法で床に五芒星を描くのは
霊界の世界から四大の世界(つまり地球)に
モンスターを連れてくるという意味になるの。

だから、アイクに取っては地球に一番近い
レプティリアンの基地は月にないといけないわけ

で、アイクによるとこのレプティリアンというのは
低層四次元の生命体。目に見えないし、人間に
憑依もする。それは彼らが”霊界”を表す”月=イエソド”
を住処にしているから。
アイクが毎回本の最後のほうでほざく高次元を目指そう
の高次元っていうのはこの”生命の樹”の”ティファレト”
以上の世界の事。
”生命の樹”ではユダヤの神(プラトンの言うデミウルゴス)
ってのは”ケテル”の玉の中に住んでいる。
”ティファレト”ってのがちょうど真ん中にあってこの玉は
キリストを表すのね。
で、人間ってのは”マルクト”に留まっている限りは
動物と変わらないわけよ。
この”生命の樹”の元ネタを作ったプロティノスという
ネオ・プラトニズムの哲学者が元々、啓蒙思想主義者だった
からね。
人間ってのは特別な存在で必ず理想型というのが存在しないと
いけないわけ。
これはプラトンのイデア思想からきていて、イデアってのは
理想の世界なわけだから、人間にも人間のイデアってのが
あるわけ。
で、人間のイデアってのが神だと考えたわけよ。中世ヨーロッパ人は。
聖書に”人間は神に似せて作られた”って書いてあるからね。

じゃ、人間が神になるにはどうしたらいいか。
それには精神の修行が必要になってくるわけ。
これはインドのバラモン思想から来ていて、
道教の神仙思想にも通ずる。
ブラフマン=神とアートマン=人間/自己の
統合のことね。
だからブラバツキーの”神智学”というのはこのインドの
バラモン思想を下敷きにしているわけね


で、魔術結社にとってはブラバツキーをパクるわけには
いかないから、ユダヤ文化に助けを求めたわけ。
それがカバラ思想。
だから”生命の樹”ってのは人間が精神的にレベルアップ
するための道標なわけ。ステップが色々あるわけね。
レプティリアンが下級な生物なのは彼らが”ケテル”
まで辿り着いていないから。

ブラバツキー世代の神智学協会員に取って高次の存在ってのは
上述の理由からインドのバラモン僧だったわけよ。
ところが研究が進んでいくとインドのバラモンが特別でも
なんでもないことがヨーロッパ人にも分かってくると
神智学の三代目のアリス・ベイリーが高次元は
チベットのヒマラヤにあると唱え始めるわけ。
ところがこのチベットにも神秘的な物がないと
分かると、次はアンドロメダ評議会だのなんだの
の宇宙人が登場するわけよ。
もしくはエドガー・ケイシーみたいに古代のエジプトに
アトランティスの叡智が眠っているだとか、ハンコックの
様に古代文明にロマンを求め始めるわけよ。
そういった連中がアメリカでシャスタ山だのなんだの
騒いでいるわけよ。

アリス・ベイリーのチベットで気づいた人もいると
思うけど、オウム真理教ってのは正しくこういう
ブームに乗った新興宗教だったわけ。
大元は19世紀のイギリスで起こった反キリスト教
思想のヒューマニズム(啓蒙主義)にあるわけ。
大本教ってのもこの流れの中に位置している。

で、このイギリスの残党が多くアメリカに残って
しまったわけ。
こいつらがやれフリーメイソンだ、セミラーミスだ、
コロンビアだ、自由の女神だ、ほざいているわけよ。

アメリカやイギリス、ドイツで大ブレイクした新興宗教
だからこそ、日本にも多かれ少なかれ信者がいるわけよ。
こいつらが”まどかマギカ”や”電脳コイル”みたいな
ユダヤの暗号を混ぜたトンデモ・アニメばかり
作るわけ。

このヨーロッパ人共の困った思想の源流は
間違いなくピタゴラス経由で仕入れたと思われる
インド哲学に感化されたプラトンにあるのだが、
困ったことにプラトン以降のヒュームだとか
カントだとかの哲学者もモロに影響受けちゃっている
わけよ。

そういった意味では西洋文化ってのは
この”イルミナティ主義”から抜け出せないのかも。
ただじゃ東洋はいいのかというと、これもダメで
道教/仏教経由でインド哲学が日本まできてしまっているから
同じくイルミナティ思想に毒されている。

つまり、

「インド人、責任取れ!」

と叫びたいわけ。
(ガンダムの富野のアニメはやたらとインド人が出てくる。偶然?)

まぁ、インドは唯一の突破口になりえそうな仏教を
自分達の手で潰してしまったからなぁ
......

以上、アイクの読み方でした。“

【改運戦略】運命とは何か
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-530.html
”まず、中国の古い諺に次の様な物があります。

1命、2運、3、風水、4積陰徳、5念書学問

占いに詳しい人なら、四柱推命の本や、風水の解説本
に良く出て来るのでご存知の方もいると思います。

これは中国の老人が自分の人生を振り返った時に、
自分の人生を決定してきた重要な要因を順番に
挙げた物になります。

日本の占い本には五番目までしか書かれていない
ケースが多いですが、本来は12項目まであります。
ちなみに12個全部は以下の通り。

一命,二運,三風水,四積陰德,五讀書,六名,七相,
八敬神,九交貴人,十養生,十一擇業與擇偶,十二趨吉及避凶

5番目までを順に説明すると、

宿命>運>環境>気付かれずボランティア>学力


という順番になります。

興味深い事に日本や欧米で重要視されている”学力”の
優先度はそんなに高くないんですね。
(とは言っても12項目中の5番目なので重要な事には
 変わりないが)

ちなみにこの諺、民間の一般的な諺らしく、特に中国の
有名な古典から引用とかではないそうです。

一番目の宿命とは先天的に決まっている要因のことで
後から変えることはできません。
例を挙げると、自分の性別だとか、生まれた場所、両親
等のことです。

2番目の運は宿命と違って、後天的に変えることが
できます。

3番目の風水というのは生活環境のことですね。

4番目は人の見ていない所で善行を行うこと。

5番目は勉強のことです


以上をふまえた上で、ここでいう”改運戦略”とは
何の事かというと、2番目の”運気”を良い方向に
後天的に変えることができる技術のことを指します。

そのために風水も使うし、学問も修めます。
運を良くして、幸運な人生になるよう様々な
テクニックと実践を行います。


【改運戦略】なぜ”オカルト”が重要なのか
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-531.html
”ところで、”占い”とか”風水”とか”運”とかの単語が出て来ると
一般の人はオカルトくさくて、うさんくさいと思うでしょう。

確かにオカルトであることは否定しません。

ただし、フェイド大帝は”オカルト”を非常に重要視しています。

というのもフェイド大帝は元々バリバリ理工系でして、
職業も技術職を多くやっておりました。
高校時代も理数系でして特に生物学が得意で、
学校の代表として製薬会社(今話題のグラクソ社)の主催
する新教材企画のコンクールで準決勝まで勝ち残った
経歴もあります。

ですので、一般的な人達よりもどっぷり西洋科学の
世界に浸かった人間と言っても差し支えないでしょう。

愛読書に”ファインマンの物理学”やブラディーの”化学”等が
挙げることができます。

ピングドラムのレビューを書くために”素粒子物理学”や
”量子力学”も独学で勉強しましたし、趣味で医学書等も
結構読みます。(医学部生が読む様な本格的なやつ)

なのに”オカルト”にハマるわけです。

では、”オカルトではない”物とは一体なんなのでしょうか?
この質問に明確に答えれる方がどれだけいるでしょうか?

一般的には”オカルトではない”物というのは”科学”で説明できる
事象のことを言っているのだと思います


”トンデモ”をネタにして似非科学だとか吹聴している
SF作家でと学会会長の山本弘とかが典型的な一般人でしょうね。
山本弘自身は聞く所によると作家なだけあって結構念入りに
取材とかするタイプだそうです。
ただフェイド大帝が見た感じではあまり”科学”を真顔で
語れるほどの知識も知力もなさそうだし、”オカルト”の
知識も大してないように思われます。

いちネット・ブロガーがプロの作家様をバカにするなんて
何様のつもりだ!と憤怒される方もいらっしゃると思いますが、
どう”科学的”に見ても、”客観的”判断をすればするほど、
やはりバカはバカだなという結論しか出せません。
これは恐らく”客観的事実”ということなのでしょう。
メジャー作家という職業ステータスと本人が”バカ”であるか
ないかは関連性がないわけです。

本題に戻ります。

そもそも”科学”とは何の事でしょう?

一般人の言う”科学”とは具体的になんなのでしょうか。

元々、古代ではギリシャ哲学の事を”科学”と見なしていたわけです。
プラトンとか、ピタゴラスとかあの辺りですね。

じゃ、現代人が普段生活する上で、プラトン哲学をベースに
価値判断をしているのかと言うと違うと思います。

一般人のいう科学とは”ニュートン物理学”のことでしょう。

万有引力を説明している、リンゴのあれね。
そういえばピングドラムもリンゴが良く出ていましたね。
で、リンゴの姉が”桃”、中国の仙道で魔除けや不老不死
もたらすあの果物のことです。
ピングドラム、やはり興味深いアニメですね。(笑)

ニュートン物理学の理論その物は今回余りテーマにしません。

重要なのはその特性です。

ちなみにニュートン物理学以外の物理学では量子力学とかがあるわけです。

ニュートン物理学の特性というか特徴とは何のことでしょうか。

それは、

同じ条件を揃えれば、同じ結果が再現できる


という特徴です。

ところが、モノ作りを職業としておられる方には常識的なことですが

現実では同じ条件でも同じ結果になりません

そう、同じ設備、同じ工法、同じ材料、同じ作業者、
同じ場所、同じ時間等の条件を揃えても同じ物が作れないのです。
理論上、偶然全く同じ物ができる可能性はあります。
ですが現実的に同じ物が出来る事はないのです。

これはどういうことなのでしょうか。

理由は簡単です。

ニュートン物理学は完璧な理論ではない。
説明できない現象も存在する。

いいですか、これは”事実”です。
だからこの欠点を補うために量子力学等の他の
物理学が誕生したわけです。

”事実”は変えれません。

山本弘が自分のブログで間抜けな記事を書いても、
自分の気に入らないコメントを削除しても
”事実”は”事実”なのです。

科学というものは”事実”を重要視します。
ですので量子力学では”不確定性の原理”という
のがあって、

同じ条件を揃えたら、同じ結果が再現される”確率”が
あると説くわけです。

現代物理学というのはぶっちゃけ、”オカルト”と大差がありません。
ある物質が別次元からワープ
してくる等と言う議論が
ハーバードやMIT等で真面目にされているわけです。
それもノーベル賞級の知能を持った学者達がです。

では、なぜ”物理学”は”オカルト”になってしまうのでしょうか?

答えは簡単です。元々、物理学のご先祖様の哲学が
オカルトだからです。
基本的に西洋科学というのはギリシャ哲学が基になっています。
そこから生物学だとか物理学だとかに枝分かれしたわけですね。
ギリシャ哲学の中でも特にプラトンの影響がすごく大きいです。
ピタゴラスの影響も大きいですね。
で、プラトンっていうお爺ちゃんは

見えない物が見える人なのです。

この世界のあらゆる事象にはイデアという原型があって
この世の全てはそのイデアなるものの劣化コピーなのです。
で、その劣化コピーもデミウルゴスとかいうユダヤの
創造神みたいなやつから流出して出て来るわけです。
アダムの子孫である人間がアダムに対して世代を経る
毎にどんどん劣化していく理屈もプラトンさん辺りが
元ネタだと思われるわけです。

なんでプラトンがこんなぶっ飛んだ発想に至った
かというと、秘密はプラトンが住んでいた場所に
あるのです。
ギリシャというのは他の西欧諸国と比べても地理的に
ペルシャに近いんですね。ペルシャは今のイランの
ことです。でこのイランというのはアーリア人が
住んでいたことで有名なのですが、インドに非常に
近い文化を形成していたわけです。
イランとインドの宗教の神と悪魔は名前を引っくり返した
だけなんですね。
で、古代インドでプラトンの元ネタであるウパニシャッド哲学
というのが発展するわけです。
あのブラフマン/アートマンで有名なアレですね。

インドのウパニシャッド哲学なんて”オカルト”そのものです。
宇宙と人間は実は同じ存在だとか言っちゃうわけです。

何で、こんなトンデモ・オカルト理論がインドで発展したかというと
インド人というのは”世界がどのように作られたか”、つまり
”この世界の始まり”を探求するのが好きなんですね。
ですんで、ブッダの仏教の教典にもインドのバラモンが
しつこくブッダに”世界の始まり”を問う場面が沢山出てくる訳です。
ブッダは「そんなもん知らん、うるさい」と答えたりしています。

そんなインド/イランのオカルト哲学に見事にハマったのが
プラトンさんなわけです。ピタゴラスさんに至っては
”世界の始まり”を数式で表現してやる!と当時の人から
みたらただのキチガイ爺さんにしか見えない発言を
しているわけです。
ちなみにプラトンさんはピタゴラスさんよりも若輩者で、
プラトンさんはピタゴラスさんを凄く尊敬していました。

そんなプラトンさんの意志を受け継いできたのが
現代物理学なのです。
ですから物理学の究極目標というのはこの世界の
全てを説明しつくすことにあるわけです。

だからやたらと物理学者が”世界の始まり”(ビッグ・バン説だとか)
にこだわるのはプラトンさんの名残なわけです


そんな現代物理学でも説明できない事象なんていくらでも
あるわけです。
ですので、説明できないことは”オカルト”になってしまうわけです。

この事を踏まえると、中国の”気”だとか、
インドの”プラーナ”とかをバカにできないわけです。

残念ながら人間の”運”のメカニズムを物理学ではまだ
解き明かせておりません。
しかし、だからと言って”運”等というものが”オカルト”で
この世に存在しない狂人の妄想であるとなぜ言い切れるのでしょうか?

まして”オカルト”を妄言とバカにする人間の大半が
物理学者でも何でもなく、しかもニュートン物理学ですら
マトモに理解しているのか怪しい一般人である場合が
多いのです


ですので、長くなりましたが”過去の最低帝国”では

オカルトを否定しません。

むしろオカルト・パワーを重要視し、”運”をどうにか
コントロールする術
を追求していくわけです。


【改運戦略】運命の乗り換えのメカニズム
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-532.html
””運命の乗り換え”というのは実際どのような物なのでしょうか?

元々、この表現はアニメ”輸るピングドラム”から来ています。
この作品では不治の病に罹った女性が最終的には”運命を乗り換える”
ことによって死を免れるというような内容になっています。

”運命”という言葉をもう少し詳しく考えてみましょう。

まずこの世界というか宇宙は実際には真っ暗な空間に
天体と呼ばれる石、ガスの塊が浮かんでいて、これらが
ある決まった規則の下に移動をしています。
実際の現代物理学では観測できていない物にダーク・マター
とダーク・エネルギーがありますが、この二つは未だに何なのか
分からないので取りあえず今回は無視して話を続けます。

天体の規則的な移動はありますが、宇宙その物には”時間”の概念が
ありません。ただ状態が”変化”しているだけです。
基本的に”時間”というのはこの”変化の順序”
のことを指します。

では、この宇宙に地球という惑星があって、この地球の表面に
我々人間を始めとした生き物が生活しているわけです。

人間も生き物も残念ながら不老不死ではありません。
つまりある一定の”時間”が経つと老衰して死んでしまうわけです。
人間が生まれた時点からこの老衰して死ぬまでの期間を
”人生”と呼びます。
人間は宇宙空間の様に不死身ではないので”時間”という概念を
重視するわけです。
というのも寿命というのは結局はある一定の”時間”を指している
だけだからです。

人間というのは生まれた時点では赤ちゃんです。
ところが普通に元気に育って成長して、やがて死を
迎える時は赤ちゃんの姿ではなく老人の姿になっている
わけです。
これが何を指しているかというと、この”人生”という
期間の間、人間は赤ちゃんから老人へと変化したという
事実があるということです。
生まれて直ぐに死んでしまった場合を除くと、
”人生”というのは”変化すること”でもあるということです。
これは脚本指導家のロバート・マッキー氏が定義した様に
人生=物語=変化すること”と同義です。

この”変化”にはあるパターンがあるわけです。
このパターンで後天的に変えれない物が”宿命
”です。
性別だとか、生まれた場所とかですね。
ところが我々人間は人生に於いて様々な”決断”を行います。
”決断”をしてから何かしらの行動を始めて行うわけです。
これは”決断”自身はその本人が行うものなのでこれは
先天的な”宿命”とは区別されないといけません。

人生というある一定期間の間、人間は様々な決断を下します。
そして死を迎えた時、その人の人生を振り返ってみると
過去に決断した選択肢のパターンが浮かび上がります。
つまり決断した選択肢のリストですね。

この決断した選択肢のリストが”運命
”のことなのです。

では、”良い運命”と”悪い運命”とは具体的に何なのでしょうか?

これは上述の”選択肢のリスト”を振り返った時に自分の下した決断に対して

満足したか、それとも後悔したか

ということです。

満足した=良い運命、後悔した=悪い運命 というわけです。

この理屈でいくと、”良い人生”というのは如何に自分が後悔しない
決断/選択を続けたかにあるということになります


ここから少し小難しい話になります。

人間というのは人生という定められた期間の間に
決断を行うことまで述べました。

ところが残念なことに人間というのは一度決断をしてしまうと
その判断を後悔したとしても、もはや決断する前の状態に
後戻りすることができません。

つまりある決断できるのはそれぞれ一回限りということです。

トライ&エラーができません。

つまり酷な話をすると、”幸福な人生”というのは全て一発で
正解の決断を引き当てることなのです。

もちろん間違いの総数は分かっていません。
つまり”幸福な人生”というのは確率論的に実現するのが
至難の技なのです


何でこんな意地悪な仕組みになっているのかはフェイド大帝にも
分かりません。それこそユダヤの全能神みたいな神に聞くしかないと
思います。

しかし、ここから導きだされる結論は

不幸な人生”を高確率で送るのは宇宙の法則である

という事実です。これは数学的にそうなのです。
酷い話ですね。

ここまで言い切ってしまうと夢も何もない話ですが、

実はこの法則には一つ穴がある。

それは量子力学でいう”不確定性の原理
”です。
つまり物事というのは観測者に観測されるまでは不確定で
あるということです。
これはオタクの人達が好きな”シュレディンガーの猫”の理論です。
つまり猫を箱に閉じ込めて中に毒ガスを入れても、
箱を開けてみないと人間には猫が実際に死んだのかどうか
は分からないという理論です。
実際は高確率で死んでいるのですが、万が一にも猫がガスが
散布された瞬間、息を止めてガスを吸引しない確率も
非常に限りなく低いですがあるわけです。

これが”希望”です。

では”絶望”とは何でしょう?

それは”絶望=全知”です。

始めから全てがどうなるか知っている、救い様のない
話です。

ところがニュートン物理学では正にこれをやろうとしたわけです。
つまり全ての現象を物理法則によって解明できれば、一つの要因から
次に何が起きるか正確に予測できるはずであるという考え方です。
そのためには全ての変数を明らかにする必要があるわけです。

だからアインシュタインは”神はサイを振らない”と
言ったわけです。

ところで皆さんは”マルチ・バース理論”というものを
聞いたことがあるでしょうか?

これは簡単に言うと”パラレル・ワールド”の理論です。

例えば、ある女性と結婚するとします。
女性はA, Bの二人います。
Aと結婚するか、Bと結婚するかで今後の人生が
それぞれ変わります。
しかし、決断は一回限りです。
Aさんと結婚したら、Bさんと結婚した場合の人生
というのは消えてなくなります。

ところがマルチ・バース理論ではこのBさんとの結婚人生
が消えないのです。Bさんとの結婚人生は別の次元に
於いて存在するのです。ただAさんを選択した人間には
それが認識できないだけなのです。

これはどういうことかというと全ての”決断/選択肢”に
於いてそれぞれ別次元が存在するということです。

つまり”もしもあの時ああしてたら......”の
”もしも”の世界が存在しているということなのです。

即ち”運命の乗り換え”とは

気に喰わない決断/選択をしたときに別の決断/選択の
世界(次元)に移動することなのです。

この理論に基づくと、ある選択肢群に於いてどの
選択肢を選ぶかに関しては”確率”が存在するというわけです。
通常で言えば選択肢が二つあれば、確率は50%です。

ところが不思議なことにこの”確率”というのは状況によって
変動します


例えば、お腹が空いているとしましょう。

目の前にリンゴとウンコがあります。

数学的に言うと、リンゴかウンコを選ぶ確率は
選択肢の総数が二つだから50%のはずです。

ところが実際にはウンコを選択する人はほとんど
いないはずです。(スカトロマニアを除けば)

つまり、リンゴを選ぶ確率というのは限りなく100%
に近いのです。
この現象を数学は説明することができません。
もちろん低い確率ですがウンコを食べてしまう人間が
存在することも数学は説明できません。

みなさんが普段の生活において絶大な信頼を
寄せているあの数学がです。

これは何か数学的な物とは別の要因が影響している
ということになります。

心理学で言えばリンゴの方が美味しいからですし、
医学で言えばウンコはアンモニア等の毒の固まりで
体に悪いものを本能的に避けているからと説明するでしょう。

いずれにせよこういった数学以外の要因がこの確率を
変動させているのです。

この要因の事を取りあえず”気”と呼ぶ事にします。

ところが、面白いことに経営学の”マーケティング”、
心理学の”洗脳”という技術を使うと、
高確率で人間にウンコを食べさせることができます。

例えば、NHK等のニュース番組に東大医学部の
偉い先生が出て来て、ウンコは実は体に凄く健康
だと宣伝します。
そうするとほとんどの人がウンコを”おいしく頂いて”しまう
でしょう。

笑い話だと思わないで下さい。実際にこれに近いことが
例の福島原発報道の時に行われたのですから。
フェイド大帝の近くでも知り合いの主婦が安いという
理由のため、福島産の放射能まみれの野菜を大量に
買い込んだ人がいたぐらいですから。

こういった悪意を持った決断を誤らせる要因のことを
取りあえず”邪気”と呼ぶことにします。

つまり、ある決断を迫られた時にどの選択肢を選ぶかは
ある程度、操作が可能であるということです。

そこで”邪気”を沢山受けて、間違った選択をした人は
”不幸な人生”を送る事になり、
”良い気(中国風水では旺気
と言う)”に恵まれた人は
正しい判断と決断を行い、”幸福な人生”を送ることが
できるのです。

一番最初に未来を確実に予測できる方法はないと書きました。
ですので”改運”なんて実際には無理じゃないかと思われている
方も多いかと思います。

しかし、明らかに間違った選択肢を外すことはできます

例えば先程例に挙げた”ウンコを食べる”様なことです。

ですが、実際にはマトモな判断の出来る人間というのは
意外と少なく、”ウンコを貪る様に食べている”人間の方が
現実には多いのです



【改運戦略】”気”と人体の構造
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-533.html
”中国4000年の歴史とは言いますが、実際の現代でいう
素粒子の様な”気”の概念というのは比較的新しい思想です。
その原型は大体、劉邦で有名な漢の時代がスタートで恐らく
現代の様な陰陽五行を用いた理論は朱子学で有名な朱熹の
時代に体系が整ったといわれますので、宋の時代(西暦1200年頃

がその起源でしょう。

ですので、風水で有名なレイモンド・ロー老師の理論も
4000年前の物ではなく、実際には800年ぐらい前の
理論体系なのです。

これは”気”という漢字の意味の歴史を辿っていけば明白ですが、
元々古代中国では”気”というのは”氣”という字で、”米”という
字が含まれています。ですので元々は”ご飯”のような食
物を
指していたと考えられています。

これは考古学的事実です。この辺をしっかりと認識しましょう。

ところがこの様な歴史的事実も含めて説明できる気功家や
占術家が一体どれほどいるか。中国人であってもこう言った
知識のない人間の方が実際は大半なのです。

ですので、”気”と聞くとすぐオカルト方面を連想して
”サティアンでサリンを作っていた連中と同類か”みたいな
頓珍漢なコメントを書き込む日本人が実に多いのです。

従いまして今回は”気”のお勉強をしたいと思います。
とはいっても”気功”自体はフェイド大帝自身もまだ
研究中なので余り大したことは説明できませんが。

ところで、上述した”氣”の説明が歴史的な考古学、
文献学の”気”の説明です。

では、オカルトの”気”はどこから生まれたかというと
道教が起源だと思われます。
道教というのは仏教、儒教と並ぶ中国の三大宗教のうちの
一つです。
三国志の時代の黄巾党の張角と五斗米道の張道稜が創始した
と言われる呪い主体の宗教です。
インドで言うアタルヴァ・ヴェーダ流に近い信仰ですね。
(厳密には近くないが)
上に書いた通り、現代風の”気”の概念は宋の時代からですので、
三国志時代の道教にはオカルトチックな”気”は出てきません


宋という時代は道教がかなり発展した時代でもあるので、
恐らく現代に通ずる体系的な物はこの時代にできた物と
考えることができます。
ちなみに道教で有名な霊符ですが(キョンシーの頭に貼る奴ね)、
道教徒は道教オリジナルだと言いますが、考古学的には仏教の
護符文化が元だと考えられています

中国や華僑にも仏教を敵視する”道教右翼”がいるようですが、
歴史的事実は先に述べた通りのようです。

ですので”改運戦略”のコーナーではオカルトに注目していますので
近代道教の”気”の概念を取り扱うことにします。
物理学や現代科学も補足するためには引用しますが、
”運命”の様な抽象的な概念を説明するには西洋科学の
体系は向いていないので基本は無視して考察していきます。

何故、オカルトの話がメインなのに考古学や歴史的な
”気”の説明を長々と説明してきたかというと、
別にフェイド大帝は完全なスピリチュアル/オカルト被れ
の精神異常者ではないということをまずアピールしたかった
からです。

オウム真理教をネタにしたコメントを書き込んだ投稿者が
一つ勘違いしていることがあります。

それは学問の神学(つまりキリスト教の)を議論する際に

神学者にそもそもキリスト教の神は存在するのかと問う
バカはいないということです。

神学という学問はそもそも聖書に書かれていることが事実で
あるという”前提”の下に成り立っていますので、神が実在するか
しないかはそもそも的外れであり学問研究の対象にはならないのです。

もう一つ例をあげますと、中国医学(漢方)のバックグラウンドを
形成している理論は陰陽五行理論です。この理論は西洋の物理学
とは全く異なる理論です。
ですので診断の仕方から治療まで全く西洋医学とは異なります。
ところがこの事が良く分かっていない不勉強者は処方された
漢方薬に対してこの薬の医学的(西洋医学の)根拠は何だ、
迷信/新興宗教(オウムみたいな)じゃないのか?
と場違いも甚だしいケチをつけたりするわけです。
多分、こういうケチをつける輩に限って西洋医学の
事についても何も知らない場合が多いと思いますが


ですので、フェイド大帝が道教の”気”について話ますよと
言うときは、歴史的/考古学的事実の”気”の概念は場違い
なのでシャットアウトして下さい。

本題に入ります。

まず道教では”気”と言うものは大きく2種類に分類できます。
この二つの大分類がそれぞれ、

 1.先天の気
 2.後天の気

です。

これらの気は更に小分類として先天の気は精気、元気に分かれ、
後天の気は元気、地気
に分かれます。

これらの気をそれぞれ説明すると、
先天の気というのは母親の胎内にいたときに母親から
受け継ぐ気のことです。
後天の気は、生まれた後、呼吸したり、飲食したりして
養った気
のことです。

ですので先天の 1.精気=生命維持に必要な気
        2.元気=母親の免疫力等
    後天の 1.元気=呼吸で吸収する気
        2.地気=食物から得られる栄養

が”気”の定義です。

これらの四つを合わせて”真氣
”と呼ぶわけです。

ですので、中国道教の”気”という概念は元々
肉体の健康維持
を主眼とする概念なのです。

古代中国語の”氣”という文字が米という文字を含み、
”食べること
”をまず表現しているの中々興味深い
関連だと言えるでしょう。

このため、昔の中国人は健康体操をやったり、
漢方薬を研究したり、食文化に強く拘ったわけです。
(気功自体はインドのヨガのプラーナ・ヤーマ
の影響
 があると思われますが)

次に道教における人体の構造について。

道教では人間の体は主に三つの要素から成り立っています。

 1.精
 2.気
 3.神

の三つです。

精というのは食べ物から得られる栄養のことです。
気は精によって得られたエネルギー(熱等)のことです。
神は英語のゴッドのことではなくて気分や精神状態のことです。

で、”精”によって”気”が生成され、”気”が充実すると
”神”が安定して強くなるのです。

ですので、気功だけやっても健康にはなりません!

この三つはセットなのです。

健康になるためにはバランスの良い食事を取って、しっかり栄養を取って、
ストレスのない生活をする必要があるのです。
風水を整えるのも同じ理由からです。

つまり気功(内丹)だけやって仙人のような超人になれると
吹聴する気功家や仙道家というのはこの道教というより
中国文化のイロハのイが全く分かっていないのです


風水で有名な山道帰一氏の様に仙道と道教は違うという主張も
ありますが(山道氏の養生大観という著作にそう書いてあります)
上の体系は道教といいつつもどちらかというと中国の一般的な
思想なので、仙道がどうのこうのと言う方が本来はおかしいのです。

山道氏のブログによると彼は仙道で一時期有名だった高藤総一郎氏
と同門だったと明かしています。(高藤氏は修行に付いてけなくて
ドロップ・アウトしたとも書いてありますが)
仙道の東派とかいう流派だそうです。
しかし、山道氏というのは元々、張明澄さんという帰化台湾人の
弟子でしてこの張さんというのは五術の専門家と謳っていますが、
事実上、占術が専門の人です。特に仙道の”山”の部分はあまり
得意分野ではなさそうです。(本人の著作物や講演の内容から察して)
ちなみにこの張さんの流派は日本の東洋占術業界のグルのような存在
でして、基本的に日本の東洋系の占い師はこの人の流派の影響を
多大に受けた人が圧倒的に多いのです。
実際、張さん以外で名の知れた台湾人や中国人は日本に来ていません
から、日本の本屋さんでもやたらと占いの本ばかりが充実していて
道教の本が少ないのはこういった事情もあるのです。
ですので道教文化を知りたい人はアメリカとかで探した方が
良い文献や師に巡り会える可能性が高いのです

(本場の中国は共産の文化大革命で伝統文化がほとんど死滅して
 いるため、良く探さないと見つかりません)

本題に戻りますと、何故皆さんに道教の人体構造を事細かに
説明したかというと、これが”改運”に深く関わって来るからです。

人間の栄養や健康のためになる”気”が存在すれば、当然、人間を
害する”悪い気”、即ち”邪気”も存在するわけです。
これは陰陽理論から来ていて、全ての物には陰と陽の相反する
要素があるという理屈です。
ですので、”気”も”良い気”と”悪い気”があるわけです。

問題はこの”悪い気=邪気”です。
というのも西洋科学が主流の現代日本においては
”気”の知識なんて大体の日本人が持っていません。

つまり”邪気”に対する対処が全くできない状態なのです。

”邪気”というのはそこら中にあります。
それは病原菌だったり、ウィルスだったり、公害だったり、
放射能だったり、他人の邪念だったりするわけです。

ですが、こういった自然の”邪気”というのは

実はレベルの低い”弱い邪気”なのです。

実はもっと質の悪い強力な”邪気”も存在します。
これについてはまた今度話します。
こう言った特殊な邪気は上述の身体構造の、例えば
”神”をピンポイントで狙い撃つことが可能だったりもします。

ところが現代の日本人はこの”弱い邪気”に対してすら
身を守る方法を知らないのです。

”改運戦略”ではこの”邪気”に対する防衛技術も
考察していく予定です。


コメント
”とりあえず、応答いただいたことに感謝します。

>ですので、”気”と聞くとすぐオカルト方面を連想して
>”サティアンでサリンを作っていた連中と同類か”みたいな

ご自身でオカルトって言ってましたやん…。
まあいいや。

オウム云々は「自然科学の専門教育を受けているはずなのに、大事な部分が身についてなくて、オカルトにはまってしまう」って点を指して言った。東洋占術や東洋医学をことさらに否定する気はないので、そっちには突っ込まないけれど、近代科学批判の内容が杜撰すぎ。

・同じ条件を揃えても、同じものは作れない
→具体的にどういう製品を想定しているのかは知らないけど、単に完全に同じ条件を揃えることは不可能というだけの話。同じ製造装置を使用しても、一回ごとにに劣化していく訳だしね。それを近代科学の限界云々に結びつけるのはお門違い。

・シュレーディンガーの猫の話
→この話のキモである、「放射性原子を崩壊が観測されたら」毒ガスを注入するという点が抜けてるよ!これでは、単に実験者は猫の生死を知らないというだけの話で、本来的に生死が定まってないという状態にはなりえない。

・リンゴとうんこのどちらかを選択する確率は50%
→これが成り立つのは、臭い・視覚等の情報を被験者から遮蔽し、無作為に選択させた場合のみ。高校で習う確率論でも、「白玉と赤玉の入った箱の中から、無作為に玉を取り出す」といったシチュエーションが問題になるでしょ?どちらか一方を過たず選択するのに必要な知識(「情報」という言葉の定義そのもの)がある場合は、すでに確率で論ずるのは無意味だ。数学で説明できないのではなく、完全に範疇の外。

・そもそも運の話をするなら、槍玉にあげるべきはニュートン力学でなく熱・統計力学だろう。(7/28のエントリは、熱力学第二法則を念頭に置いて書いているようにも見えるけど) ”

アメリカの道教の解説本がヤバすぎる
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-534.html
”思っていたよりも早くアメリカから注文した道教関連の
解説本が届いた。

下記サイトの著者が書いた本を全巻揃えた。
ttp://daoistmagic.com/

チラッチラッと見た感じだと、

内容がヤバすぎる!

道教関係の本ですと日本の物ではアカデミックな物から、
三多道長のエッセイ本までほぼ全て読んでいるのですが、
歴史だとか、文献学からの観点で書かれている物が多く、
じゃ、一体どうやって道術を掛けたり、その背景的な
理論が何なのか詳しく書いてあるものが皆無だ。

その点、このジョンソン氏の本は理論と実践方法しか書いていない。
こういうのを探し求めていたのだ!

しかし、この本、内容がガチすぎる。
山道帰一の仙道本/風水本なんてレベルじゃない......

後、驚いたのがパワーストーンに通ずる、鉱石を道教では
多く用いている点かな。
占星術家の鏡リュウジは日本のパワーストーン文化は
「図説宝石と鉱物の文化誌 ジョージ・フレデリック・クンツ」
が源流だと言っていたが、これも一種のミス・インフォメーション
だろう。(日本の魔術業界がお得意な本当の事を一般に教えないという
腐ったイルミナティ主義
。鏡リュウジは元々魔術結社畑の人間だ)

一応、本場の中国からも風水の本と道教のマニュアル本を
取り寄せ中である。
一応、前もって調べた所によるとこの中国の本は
結構深く突っ込んだ内容らしい。

さすが中国と言った所か。
日本の魔術/呪術本ってのは”去勢”されているからねぇ......


改運理論見直し中
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-538.html
”この前購入したジョンソン博士の道教マニュアル本を
読み始めたのだが、内容が余りにも濃すぎて本当に
目からクロマグロ一尾並みの鱗がポロポロ。

実はジョンソン博士、ちゃんと道教の修行をした
人なのよね。(正一教、茅山派、等々)
何と道教聖地である龍虎山(中国)まで修行に
行っちゃっている。

シンガポールの有名なブロガーに道教(マレーシア系だと思われる)
の本物の呪術士がいるのだが、ジョンソン博士の本は
その呪術士のお墨付きでもあるのだ。
ただ、唯一の欠点は呪文等が中国語ではなく
英語に訳されているため、その呪術士が言うには
中国語で詠唱しないと効果がないらしい


フェイド大帝自身も道教の古典(周易参同契や真诰、淮南子、等々)
や学術書なんかも読んでいるし、マスペロの著作も
読破している。一番有名な抱朴子ももちろん制覇している。

それでもこれらの和訳された著作を全部合わせても
ジョンソン博士の本の一冊分の質にも及ばない。

これは風水の山道帰一氏の言葉を借りると、
やはり”学者と実践家の違い”だからだと言える
のではなかろうか。

ともかくそれだけレベルが違いすぎる。

ともかく日本の道教関連のノウハウの程度が
低すぎる。

第二次世界大戦の頃、劣勢の日本軍がアメリカの
ルーズベルト大統領を”調伏”するために真言密教の
儀式を行ったことが有名だが、これはある意味
追い詰められた日本がパニック状態になって
非科学的なオカルトにまで縋ろうとしたのでは
ないかと言えないこともない。
しかし、旧日本軍といえば当時のエリート中のエリートで
あり、現代で言えば全員、東大の法学部を出ている
様な秀才が参謀になっていたわけである。
いくら昭和だからと言って、そのようなエリート達が
効果があるのかどうかも定かではない呪術に頼るとも
思えない。
日本という国は過去の歴史を振り返っても”神風”だとか
一種の”運=オカルト・パワー”に救われたケースが多い。
福島原発の事故の時も風向きのおかげで日本本土が
放射能汚染されるリスクが大幅に下がった。
これも一種の”神風”だ。
そもそもプルサーマル増殖炉の名前が両方とも
仏教の菩薩の名前だ。
卑弥呼の時代に至っては完全に”オカルト”だ。
歴史的な経験から当時の日本軍はオカルト的パワー
の存在をある程度は認めていたのかもしれない。
旧ナチ・ドイツもヒムラー等がオカルト専門部隊を
持っていたし、旧ソ連も超能力を研究していた。
その結果、システマというちょっと不思議系な
格闘技まで生み出してしまった。
しかし、戦後になって東電やマツダ、手塚治虫は
ともかくとして
日本はすっかり”オカルト”から
離れてしまい、そのかわり工業大国を目指した。
その努力が実って、科学技術や工業に関しては
欧米先進国と肩を並べるぐらいにまで成長した。

しかし、”オカルト”は全然ダメだ。

もし、台湾やタイ、マレーシア等の”オカルト先進国”
から”呪術戦争”を吹っかけられたら、秒殺されてしまうだろう

勝負にならない。
”オカルト”でも何でもない韓国にもその方面では手こずっている。

ここはやはり”本物の道教”を勉強して”オカルト”方面でも
日本は先進国の仲間入りをしなければならない。

幸運なことに、我々日本人にはジョンソン博士という
偉大な先駆者がいる。博士のおかげで我々日本人は
大きく成長できるだろう。
博士がいなければ道教の秘儀は一部の華僑が独占する
形で秘匿されてしまっただろう。
道教の秘儀の知識は三多道長のポケットの中に
しまい込んで秘密にされたままではいけないのだ。
これらの秘儀は卑弥呼の教えを失ってしまった日本人が
共有の財産としなければならない。

※というわけで改運理論を今見直しています。
 本物の道教の知識がほとんど欠けていたため
 元々たてた仮説が基礎からグラついてしまったので......
 ちなみにフェイド大帝が道教を高く評価しているのは
 中国贔屓だからではありません。
 バラモン教やイスラム神学、ユダヤ・カバラ、西洋魔術、
 仏教(インド・タントラ、チベット含む)、神道等諸々の
 宗派と比べて検討した上で”オカルト・パワー”に関しては
 一番体系や理論がしっかりしていると
判断したからです。”

中国の道教呪術本が届いた
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-539.html
”実はカナダにちょっと有名な帰化香港人の道士がいる。
その人は元々は茅山上清派の道士だったのだが、
カナダに移民する際、自分の流派を起ち上げてしまったみたい。
かなり原理主義的で他の宗教や宗派を一切認めない上、自分の
ブログや無数に作ったダミーブログを使って他の流派を攻撃
するものだから、一応カナダ政府にはカルト指定されている。

だがブログに書かれている道教自体の知識は相当だと思う。
で、この人の特徴は邪術系の道術を一切行わないことを
信念としていること。道教、特に茅山派というのは邪術や
呪術で特に有名な流派だ。日本の呪いの藁人形のルーツ

ここにある。このカナダ道士は元茅山派なのだが、
何があったのか良く知らないがともかく茅山の邪術/呪術を
目の敵にしている。

このカナダ人道士が仰天するほどとんでもない邪術の
書というのが今回フェイド大帝が購入した本だ。
実はこの本、”入門”とか書いてあって台湾では
結構簡単に手に入るようである。

日本人もアメリカ人もそうなのだが、皆秘伝を求めて
死にものぐるいで台湾や中国本土のマニアックな老師を
探し当てて弟子になろうとするのだが、茅山の呪術に
関してはあっさり入門書の形で本屋さんに置いてあった
ようである。正に灯台下暗しか

まぁ、そのカナダ人は本物の道士だから、アマチュア研究家
の外国人よりは目利きなのだろう。

ところでこの1週間、かなり中国語を勉強した。
元々、中国語なんて勉強したことないから
本当に大変だ。だがこれも全て本物の道教の
知識を得るため!

......

ところがいざ届いた本を読もうとすると、

さっぱり分からん。

なんか、文法が勉強した本と全然違う。

ひょっとしてこれ台湾語だったりして......?

ってか台湾でも北京語が主流じゃなかったのか〜〜〜!!!(怒)

っく、くそぉ〜!!ど、どうする?台湾語も勉強しちゃう!?

香港は香港で広東語なんだよなぁ、あの国は......

言葉が分からないと、壇の作り方がさっぱり分からん。
壇が何かだって?壇ってのは”祭壇”のこと。
映画だと道士がお札とかを手裏剣みたいに投げてたりするけど、
実は道教の道術というのは”祭壇”がまずないと霊力を吹き込めない
仕組みになっている。
だから霊符の図柄だけ分かってても意味がない。この霊符に
天からの霊力を吹き込んで初めて使えるお札になる。
で、この天の霊力を集める装置ってのが”壇”なわけ。
この”壇”、道教の流派によって作り方とそれに付随する
儀式が異なって来る。茅山派では”六甲壇”というのを作る
必要がある
。ところがコイツの作り方が全部台湾語で
書かれているっぽくてさっぱり分からんのよ。

まぁ、竹川文男の本や、ジョンソン博士の本にも作り方は
書いてあるのでそれを参考にすれば良い訳だが......

ジョンソン博士の本を勉強しながら台湾語も勉強するか......”

どうやら風水グッズ&パワーストーンは日本の捏造ではないらしい
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-542.html
”中国の風水吉祥物の本が中国本土から届いた。

風水グッズやパワーストーンと言うと日本では
開運業界が仕組んだ詐欺商売だと思われがちである。

実際にパワーストーンのブレスレットとか、風水と
何の関係もないよなぁ、と思っていました。

ところが中国から取り寄せた風水本には
ちゃんとパワーストーン・ブレスレットも
風水の吉祥物として紹介されていました。

風水グッズもちゃんと中国の伝統品を扱っている
お店のグッズは本に載っていました。
もちろん日本の”ニューエイジ風水”の
黄色のアイテムとかは載ってませんが。

中国語がまだ断片的にしか読めないので、アレですが
気になった所を何点か。

まず睚眦(ヤアズ)。



こいつ龍の九番目の子供とかいうやつで、こいつを玄関に
置いておくと邪気をバクバク食ってくれるらしい。

だが、取り寄せた中国の本では室内の装飾品にこいつを
使うのは禁忌だとか。刀剣等の装飾か、外
に置くのが
本来正しい使い方らしいとのこと。

つぎに養龍(ヤンロン)について。



所謂、”玄関に龍の置物”というやつですね。
やられている方も多いのではないかと思います。
でコップに新鮮な水を入れて毎日口元に置いてやると
幸運を呼び込むのだとか。

一応、龍の置物自体は中国の本に載っていました。

ただし、重要なのは盃の方くさい。

専用盃。



コレね。

実はこの盃、正式には”開光招財盃”というらしい。
”開光”という言葉が聞きなれないと思いますが、
本来は仏教用語らしいのですが”開光点眼”と言って
仏像等の置物に天の神様の霊を憑依させて、
神通力を置物に持たせるための”儀式
”の事を
指します。
当然中国道教にも同じ様な儀式があり、
通常は辰砂(水銀の材料、赤い絵の具の原料でもある)に
鶏の鶏冠の血を混ぜた絵の具で置物に印を付けていきます。

この”開光”をしないと、置物に特別なパワーが
宿らないと言われています


道教の”開光儀式”動画

ttp://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=mq7OAJnMyD8

ttp://www.youtube.com/watch?v=PqqyhnuFlQg&feature=player_embedded

ttp://www.youtube.com/watch?v=-S2WtGjcizE&feature=player_embedded

ttp://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=6ATdgJX8pfU

日本の風水ショップがこういう事をきちんと行っているのか分かりませんが
通常はこういった”儀式”で置物に”霊”を吹き込まないと効果が
ないのです。

ですのでこの”毎日盃に水を入れて供える”という行為自体が
ある種の”開光の儀式”だと思われます。
実は”養龍(ヤンロン)”というのは龍の置物に
霊を吹き込んでいるわけですね。

ですので日本の風水本に”長期旅行で龍に水をあげれない
場合はどうなりますか?”という質問に対して

”ただの置物になるだけなので問題なし”

という回答を載せているわけです。

実際には本物の道士に”開光”して貰うのが一番良いのですが、
日本で本物の道士を探すのは困難なので、専用盃で水をあげるのが
一番手っ取り早いのかも


というわけで風水グッズは本場の中国でも取り扱っているみたいで
日本のスピリチュアル・占術業界の捏造ではなさそうでした。
一応、本場の中国に根拠があるみたいですね。

こういう情報を日本の”開運本”は一切語っていないので

一応ご参考までに。”


ゆるキャラ登場↓でも静止画の連続だから他の開光儀式も見るべき。
武財神-玄壇元帥開光儀式
https://www.youtube.com/watch?v=l45t-xB9YVk


ニワトリ登場↓
西羅殿,廣澤尊王開光儀式
https://www.youtube.com/watch?v=8Ba0uLMayqk


2013.05.07鹿陶開基北極殿 玄天上帝開光儀式
https://www.youtube.com/watch?v=pMGPVaUtTVY



【改運戦略】邪気を弾き返す気功力&”氣”を”神”に変える重要性
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-543.html
”ジョンソン博士の気功本が大分読み進めたので
途中経過を。

以前の記事で人間の体は精、氣、神の三種類によって
構成されていると書いた。

ところで東派仙道とかいう流派だと精、氣、神、力、識の
五つらしい。これが五体満足の”五体”の語源らしいが、
これが本当かどうかは少し懐疑的。というのも東派仙道
でしかこの表現を使っているのを見た事がないし、
そもそも仙道に”東派”という流派が実際に存在するのかも
怪しい。というのも台湾の仙道解説サイトを覗いても
”西派”だとか、”伍柳派”とかはあっても”東派”なんてのは
見た事がない。
この”東派仙道”、学研で有名な高藤氏の流派でもあったのだが、
元々は日本の中国占術のドンであった故張明澄氏の流派だ。
日本ではこの流派が圧倒的に有名なのだが、個人的には
張氏のでっち上げ流派である確率が高いと思う。
断言はできないが。

というわけで伝統的な中国道教では精、氣、神の
三種類が人体の構成
となっている。

重要な事は、

精から氣が生まれ、氣から神が生まれるということ。

人間の持っている”氣”というのは、量が決まっており、基本は食物で
摂取するか、呼吸によって吸収する。

つまり気功をやっても氣は増えない


ここを勘違いしている気功家が実は多い。
では気功とは一体何なのか?

ここで、日本の健康ダンスである一般的な”気功”と区別するため、
中国道教の伝統的な”気功”を”Qi gong=チーゴン”と呼ぶことにする。

チーゴンとは体の中の氣の流れをコントロールする
 訓練である。

何のために氣の流れをコントロールするのかというと、氣を上丹田に
上げ、”神”へと変化させるためである。

ここでまず、”丹田”について説明したい。
”丹田”とは下腹部に位置する氣の溜まり場という認識が
一般的である。(特に武術とかでは)

ところが実際には丹田は三つある。

上丹田、中丹田、下丹田の三つだ。

一般的に言う武術の”丹田”とは下丹田のことだ。

中は鳩尾の辺りで、上は頭の中だ。

まず呼吸をすると、”氣”はまず最初に下丹田の方に溜まっていく
性質がある。
そこでチーゴンを使って、下丹田の氣を中、上へと上げていく必要がある。
上丹田に上げた氣を今度は更に”神功=シェンゴン”という技術を使って
”神”へと変えていくのだ。
シェンゴンとは基本的にヨーガでいう瞑想法
のことである。

なぜこんな話をするかと言うと、道教に於ける、

神通力の源泉(魔力)が”神”だからだ。

つまり”神”とはRPGでいうMPみたいな物。

逆に精と氣はRPGで言えばHPみたいな物。

HPだけ多くてもMPが0だったら魔法が使えますか


もうお分かり頂けたと思う。

道教の術をフルに活用するためには”神”を育て上げないといけないのだ。

だからチーゴン=気功だけやっても幸運/健康にはならない。

ここで一つだけ例外事項がある。

それは、

”氣”は”邪気”を弾き返すバリヤーの原料になる。

精を養って、氣を高め、チーゴンで氣を体に巡らせれば、これが
邪気を弾くシールドとなるのだ。

一点気をつけなければならない点がある。

”氣”のバリヤーでは”神”による攻撃は防げない。

これはどういうことかというと、敵対する呪術士等と交戦状態にある場合だ。
敵方の呪術が所謂”神”属性の攻撃だ。こいつは”氣”を貫通し、こちら側の
”神”を直接攻撃する手段となる。

なぜそうなのかというと、中国道教の”氣”というのは
基本的に2種類あると考えて欲しい。
まず、人体その物が生成する”氣”を”地(地球)の氣”と呼ぶ。

”神”が天の星々や天体、神々と交信し、分け与えて貰う
”氣”のことを”天の氣=霊氣
”という。

つまり、道術や呪術/魔術の攻撃というのはこの”天の氣”を
使う仕組みになっている。

当然”天の氣”は”地の氣”より強い。

こういったメカニズムから、呪術や魔術というのは元々
地球の技術ではなく、天から授かった神秘的パワーなのだ。

もし貴方の”不運”が呪術士による呪いに起因するもので
 あったならば、これを改運するには同じ”呪術/神力”で
 対抗するしかない


ここまで読んで頂けた方には”神”の重要性がご理解頂けた
ことだと思う。

ではどうやったら”神”を強化することができるのか?

ここで思い出して頂きたい。
”神”は”氣”から生まれ、”氣”は”精”から生まれる。

つまり大元の”精”を鍛えればいい訳だ。

この”精”は食事療法や、武術、呼吸法で鍛える。

これらの中で特に重要なのが”食事”だ。

というのも中国道教にはより効率的に”精”を生成する食物が
存在する。

それが所謂”仙人食”だ。

松脂だとか棗
の実とかがそうだ。

そこで現代で入手しやすい物を三種類挙げよう。

まず、”ショウガ=生姜”。

これはお茶だとかサプリメントで入手しやすい。

次に”黒胡麻”。

これもサプリメントがある。

そして仙人食最強の”霊氣”を持つと言われる”霊芝”。

これはキノコの一種だ。マンネンタケとも呼ばれている。



こいつは入手しづらいが、通販等でサプリメントが
売っている


これらの”仙人食”を食して、チーゴンを行い、瞑想をすることで
”神”を強化できるのだ。

※注:この記事で挙げた内容はあくまで中国道教の中での話なので
   実際に西洋科学的/医学的な根拠があるわけではありません。
   サプリメントや食事療法は各自の判断にて実施して下さい
。”

【改運戦略】実は銅製の置物と水晶は相性が悪い!?
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-547.html
”本物の道士でもあるジョンソン博士の本を読んでいて
気になることが......

実は銅製の置物は水晶と相性が悪いらしい

つまり、こういうことはしてはいけない!



ええ!!? と驚かれる方も少なくないと思う。
何せ日本の風水ショップでは銅製の置物に水晶を置くのが
半ば常識化しているのだから......

何故、中国の道教で銅製のアイテムが好まれるかというと、
古代の中国人は銅は天と地の氣を結ぶ格好の導体と考えたらしい。
また治癒や魔除けの効果もあったのだとか......

銅と相性のいいパワーストーンは:

アヴェンチュリン、ロードナイト、タイガーアイ、雲母

金属質の鉱石であるかららしい。(つまり銅と感応しやすい)

銅と相性の悪いパワーストーン:

珊瑚(コーラル)、真珠(パール)、水晶(クオーツ系)

水晶系唯一の例外はアメチストらしい

銅製の置物を家に置いている人は要注意。

この話に根拠がある/無いよりも、中国道教ではこう信じられている
というのがポイント。

一応、中国道教でもパワーストーンや水晶は重要なアイテム
らしいけど、使い方を間違えたら意味ないよということ
。”

本場中国風水の最終奥義は”引っ越し”!?
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-548.html
”本の題名から分かると思うけど、”化殺風水”関連である。

”化殺風水”というのは日本では一般的に置物やグッズ等を
使って風水でいう凶作用のパターンである”殺”を解消する
方法を指している。

上述の本を読むと、本場中国では”化殺”は置物やグッズに
限らず、間取りや建物の建てる位置等従来的な風水の
対策のことを指しているようである。
日本では俗に言う”巒頭風水
”の事。

ところで、フェイド大帝は改運法としての風水では
伝統的な風水を余り重要視していない。

伝統的な風水というのは家の向きだとか位置だとかで
山脈のパワースポットである龍穴の氣を一番多く集める

手法のことなのだが、

これは実際に本格的にやろうとすると難しい

氣の充実した良い土地を持っていないといけないし、
実際に家を建てたり、リフォームするには莫大な資金が
必要だ。

賃貸暮らしだとまずできない。

また”理気風水”もフェイド大帝は余り高く評価していない。

例えば玄空飛星風水で会社の職場が悪い風水だったと
仮定しよう。
社長の机の位置が悪かったとして、
実際、社長に

「社長!机の位置が風水的に悪いので移動させましょう!」

と言えるサラリーマンが本当にいるのだろうか?

まず間違いなくコイツは頭がおかしいと思われるだろう。

だからフェイド大帝は風水グッズや置物による”化殺風水”を
風水手法の中では一番重視している。

グッズや置物はリフォームや家を建てるより安くできるし、
自分の机の周りに置く程度だったら、会社であっても
そんなに不自然ではない。
机の引き出しの中とかに入れてしまえば、人の目にも
付かない。

つまり一番庶民にとって現実味のある風水なのだ。

良く、ネットで聞く風水の批判として、

”風水は金持ちの改運法である”

つまり土地を沢山持っていたり、家を完全に建て直せる資金力の
ある人しか使えないという批判である。

こんなことはフェイド大帝に言わせれば当たり前で、

元々、風水って中国の皇帝とかが使っていた改運法

なのだから、

皇帝でもなんでもない庶民が使える代物なわけないだろう

ところが、日本の中国伝統風水業界の連中は質が悪くて、
伝統的な中国の皇帝が使っていた風水以外は本物の風水じゃないっ!
とか鼻息を荒くしながら宣伝するものだから、風水は金持ちしか使えない
役に立たない技術とされてしまっている。

フェイド大帝がそういった意味で中国文化の中で特に
”道教”を重視する理由がご理解頂けたと思う。

道教は皇帝ではなく”庶民”の宗教だからだ

三国志の張角や張陵の教団を思い出してほしい。基本的に道教の信者というのは
皇帝にイジメられる側の人間のための宗教だ。
だから当然、庶民がやりやすい様に考慮されている。

ヨーガとか仙道でも良く理解できないのだが、ヨーガや仙道というのも
元々”庶民”がやるための修行法ではない。
インドでは定年したバラモン・カーストの人間がやっているし、
ブッダも元々は王族だ。
バラモンでもクシャトリヤでもない日本のシュードラ(奴隷)階級の
我々がやっても意味がない。
ぺーぺーのサラリーマンがアメリカ大統領の執務法を勉強しても
意味がないのと同じだ。
サラリーマンはサラリーマンらしく、TOEICかEXCELの勉強でも
してなさいってことだ。

ところで本題の上述の風水本の紹介に戻ると、
上の本には色々な風水の”殺”が載っている。
その一つ一つに対して解決法(つまり化殺方法)が
載っているのだが、

風水最大の奥義は”引っ越し”らしい

さ、流石!中国4000年の知恵......!!
まさかその手があったとは......

合理主義的な中国人らしい解決方法だと思わないか?

風水が悪ければ、グッズや間取りよりも引っ越せばいいだろという
考え方だ


「リーベン人(日本人)馬鹿アルね。風水が悪ければ引っ越すのが一番ネ」
というわけだ。(笑)

もう一つ本の例を紹介すると、

”エアコン殺”という凶殺がある

エアコンの下にベッドがあると風邪を引き易いという”殺”だ。

”エアコン殺”の”化殺方法”:

「ベッドを移動させるよろし


これが中国4001年目の紡ぎ出した結論ッッ〜!!

つまりエアコンの下に龍の置物を置いても”エアコン殺”は防げないッ!!

龍の置物置くぐらいならベッドを移動させろよ、と。

う、う〜む、本場中国風水の知恵恐るべし。

※冗談ではなく、本当に上記の本には”エアコン殺”の説明がある。
 他には”家の隣がガソリンスタンド殺”だとか
 ”肥だめの上に家を建てちゃった殺
”だとかがある。
 本場中国風水は現代の生活にもちゃんと対応していたのだ!”

太平経、雲笈七籤、等道教の教典が届いた
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-552.html
”本場中国の本ですが、三国志の張角に影響を与えたと言われている
”太平経”と道教の魔術百科書と呼ばれている”雲笈七籤”、その他
仙道、武当山気功の本を中国系専門の書店から取り寄せました。

まだ中国語が完璧に読めるわけではないので......
勉強も兼ねて教材として使って行きたいと思います。

しかし、中国の道教/仙道関係の本って挿絵が少ないね。
霊符や気功のやり方とか絵や写真がないと分からないと
思うのだが......

見事に漢字ばっかりです。

ちなみに仙道は西派と伍柳派という流派の本を
揃えました。(日本で一番有名な”東派”という流派は
見掛けたことがない)

ところで何故、チーゴン(気功)の本を買ったのかと言うと
この前”氣塾”という団体のセミナーに参加しました。
ttp://kijuku.org/

怪しい宗教団体かどうか心配な方に参考として言いますが(笑)

フェイド大帝は無事帰って来れました

所謂、高藤仙道みたいな気功のクラブです。

全般的な”氣”の歴史の講義と体内の気脈の詰まりを取るとか
言って、指でこちらの手に向かって念じてコホォオオッ!とか
って息を吐きかけられるだけです。
”氣”の素人のフェイド大帝には何も感じられませんでしたが
無事、気脈が開通されたらしい。

元々、古式マスターヨーガというのが実際にインドに存在するのか
は分からないのですが、HPに武当派太極内丹法という
カナダの例の道士も認める気功法を教えているということ
だったので門を叩いてみました。

そこで基本の呼吸法を教えて貰ったのですが、
次の日、それを張り切ってやりすぎたため
頭痛というか首の寝違えみたいな症状が一週間も
続いてしまいました。
これが所謂”クンダリーニ症候群/気功偏差”と
言われている症状でしょうか?

ともかく頭の氣を抜く方法が良く分からなくて
一週間苦しんでいました。
一応、セミナーでテンションの掛かった部位から
氣は抜けて行く性質があると言っていたので、
頭と首の筋肉を緊張させながら呼吸法を続けたら
大分痛みが和らぎました。

別に”氣塾”が悪いと言っている訳でなく、呼吸法を
毎日続けるとチャクラがどんどん開いていくと
言っていたので、ちょっとオーバーにやり過ぎてしまった
だけみたいです。

ただ、クンダリーニ症候群/気功偏差に罹った事によって
インドや中国の”氣/プラーナ”というものが事実存在する
という確信が得られたのは大きいです。
これが実際に”氣”なのかどうかは分かりませんが、
少なくとも古代インド人や中国人の開発した呼吸法に
何らかの技術が存在することだけは確かのようです。

そのために”氣”をうまくコントロールするために中国の
仙道/チーゴンの本を勉強してみようと思ったのです。
(一応、西洋医学的な観点から急激な呼吸による頭痛の発生が
 あるのかも調べたのですが、ネットでは何も見つかりませんでした。
 ですのでやはり”氣”は存在するのかな
、と)

武当派チーゴンは一応DVDもあるみたいなので
今度買ってみようと思います。
中国語の聞き取りの勉強にもなるし。”

氣と人体の構造・補足、及び魔術、龍の置物のメカニズムについて
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-553.html
”ジョンソン博士の内丹の本を遂に読み終わった。
600ページ強の大著なので疲れた〜

今、呪文と詠唱、印契、禹歩編を読み始めました。

さて、そこで中国道教に於ける人体の構造について
大分分かってきたので補足したいと思います。

まず中国道教では体は”精、氣、神”の3種で構成されている
ことは前回話しました。(日本の仙道では5種という説もある)

実はこの世界そのものも”精、氣、神”の三種類の次元に
よって成り立っているというのが道教の考え方です。


”天、人、地”という表現もありますね。

で、この”精、氣、神”がさらに”陰陽”の二つに分かれて、
そしてそれが更に”先天”と”後天”の二つに分かれます。
つまり合わせて全部で”12の要素
”にてこの世界は
成り立っていると考えます。

道教ではこの”神の陽の先天”が重要になります。

これを”元神=ユアン・シェン”と呼びます。

この”元神”を我々人間が身につける事によって
”道=ダオ(タオ)”と繋がることができるようになるのです


まず、”精、氣、神”が具体的に何なのかを説明しましょう。

前回は人体の構造に照らし合わせて”精=栄養、氣=エネルギー、神=精神
と説明しました。
実は、これは人体に於いては確かに合っているのですが、道教の哲学では
もっと深い意味があったのです。

 精=物質世界(物理法則の及ぶ世界)
 氣=精と神を結ぶ媒体物の世界
 神=意味世界(心の世界、霊の世界)


これは魔術のメカニズムにも繋がっていくのですが、
古代中国人に取って、実際に目に見える世界と人間が心の中で思考
する”念”の世界というのはそれぞれ別であると考えています。

つまり物理学的に言ったら次元が二つあるわけですね。
で、更にこの二つの次元を繋ぐ架け橋のような中間の次元が
あって、これが”氣”の世界です。

古代中国人に取って地球の自然に実質影響を与える事ができる
物質は”風”であると考えていたようです。
この”風”は目に見えないので”氣”で出来ています。

これが風水の格言の「乗生気也。氣乗風則散...」の
本当の意味です。

この”氣”という物質は仏教で言う”空”のことであり、
バラモン教の”アーカーシャ”と同じです。

古代インドでは人間の話す”言葉”というのは”アーカーシャ”
で出来ていると考えられています。

古代中国もおおよそこの考え方で、”言葉”というのは
”氣=風”に乗って届くという性質があると考えられて
いたのです。

この”氣=風”に乗ることが出来るのは”言葉”だけでなく、
人間の”思い”や”念”を始めとした精神的な物も含まれるのです。

つまり”神”のことです。

ここからが重要なのですが、

この3つの次元はそれぞれ切り離して考えるべきではなく、
古代中国ではこの3つの次元はお互い密接に関連し、
影響力を及ぼしていると考えられていました。

つまりどういうことかというと、

”神”で念じた事は”氣”を伝って”精”に影響
を及ぼす

ということです。

これは逆の順序にすると、
”精生氣、氣生神”(精から氣が生まれ、氣から神が生まれる)という
人体の構造と同じになるわけです。

つまり、我々の世界というのは

物理的影響力(強)

 精(人)    → 精(世界) =物理法則
 ↑          ↑
 氣(人)      氣(世界)
 ↑          ↑
 神(人の思い) → 神(世界) =意味の世界(心象世界)

物理的影響力(弱)

という構造になっているわけです。

物理法則に一番影響力が強いのが同じ物理現象
です。

例えば、貴方が誰かを憎んでいて、復讐したいと考えたとします。
一番簡単な方法が相手を直接殴る方法です。
これは”物理的”に復讐したわけです。

ところが、相手に直接暴力を振るう事が許されない場合
(法律等で)、心の中で相手の不幸を念じたとしましょう。
物理学の世界ではこれは物理的な効果はありません。
ところが古代中国では心に念じただけで、間接的に
物理の世界にも影響があると考えたわけです。

この仕組みが”魔術”の正体です。

この仕組みを理解できると、何故、龍の置物が幸運を
呼ぶ力があるのかも理解できてきます。

龍の置物というのは物理学の世界では、
想像上の動物である龍の形をした銅の塊です。
それ以上でも、それ以下でもありません。
化学的には”銅”という金属なので”銅”が
持つ特性しか持っていないわけです。
この”銅”の塊がただ龍の形をしているだけで
幸運を呼ぶ等、物理学では全くナンセンスな
迷信と解釈されてしまうわけです。

ところが古代中国人に取って、”龍の形をした
銅の塊”というのは”ただの金属の銅”ではないのです。

古代中国人はこの世の物質、存在にはそれぞれ”意味”
があると考えているのです。

いいですか、この考え方が重要なのです。

”意味”というのは”神”の次元に属している現象と
考えられています。

つまり”意味”というのは”物理現象”ではない

ということです。

”物理現象”ではないということは”物理法則”に従わないということです。

龍の置物の場合、

 龍の置物の意味=幸運を呼ぶ

になります。

この”幸運を呼ぶ”というのは人が信仰しているわけですから
”神”の次元に属しています。

つまり”神”は”氣”を通じて”精=物理世界”に影響を与えるわけですから
「龍の置物を置く」という行為は現実の物理世界に「幸運を呼ぶ」
という現象を間接的
に起こす物と古代中国では考えられていた
わけです。

これこそが「龍の置物を置く=幸運を呼ぶ」のメカニズム
なのです。

このメカニズムを中国思想の観点からここまで明確に
説明ができた日本の風水師がいたでしょうか?
いませんね?当たり前です。彼らは”中国道教”について
何も知らないのですから。
中国道教というのは教団としては三国志の時代から
存在します。(つまり漢の時代)
黄帝や禹歩の元になった禹(建設大臣の名前)にその
始まりを求めれば、殷や夏の時代よりずっと古いわけです。

これはよく勘違いされているのですが、日本の風水師(香港の風水師もそうだが)
が拠り所としている”陰陽五行理論”というのは朱子学の”朱熹”が
始まりだと文献学的には考えられています。
つまり宋
の時代の思想なわけです。
しかも日本の風水師や占い師が引用してくる台湾の
古本屋で見つけてきた書というのは大体が古くて
明の時代に書かれたか、大半が清か民国時代以降
の本ばっかりです。(彼らが言う様に周の時代に
書かれた古い物であれば竹簡じゃないといけません。
状態の良い冊子の形であるということは近年誰かが
書写した物であるということです。この場合、書写
された物が”本物”である確証はありませんし、
書写した者が編竄した可能性も否定できないでしょう)

つまり、”陰陽五行理論”というのは比較的
新しい理論なのです。
4000年の歴史はありません



ですので、”中国道教”を勉強しないと”中国文化”は理解
できないのです。”仙道”がインドのヨーガや道教より
古いという誤った認識も一部あるようですが、
中国では(台湾は知らないが)”仙道”より”道家思想(つまり道教)”
の方が古いというのは常識のようです
。”

中国道教に於ける呪文詠唱のメカニズム
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-555.html
”中国道教では呪文の詠唱というのは、密教(仏教)で言う
”真言”に当たる。ヒンドゥー教、バラモン教でいうと”マントラ”だ。

これらの呪文/真言/マントラというのは当然”言葉”で構成されている。
この”言葉”は道教では”氣”を媒体にして伝わる物とされている。
これはインドのバラモン教でも同じで、”言葉”というのは
”プラーナ”で出来ていると
ウパニシャッドに書かれている。

恐らく、中国道教のこの考え方もインド哲学が基になっていると
思われる。

何故、インドや中国では”氣”、”プラーナ”(仏教では空/アーカーシャ)
を重要視するのか?

それは”生命の根源”はプラーナであるという考えから来ている。
どういうことかというと、人間の五感というのは睡眠中は
シャットダウンされる。目も見えないし、音も聞こえない、
味覚もなければ、意識もない。

ところが”呼吸”だけは睡眠中でも絶えず行われている。

では、人間はいつ”呼吸”をしなくなるのか。

それは死んだ時である。

目は閉じても死なないが、呼吸を止めたら人間は
生きていけない。
だからインドでは”呼吸”を生命に密接に関係する
要素として捉え、これをコントロールすれば
長寿/不老不死を手に入れる事ができると考え
ヨーガの様々な呼吸法が生まれた。

つまり、インド/中国のオカルトでは”空気”という
媒体は非常に重要な意味を持つ訳である。

人の話す言葉というのは口から”息を吐く”様に
発せられるので、言葉は空気(氣/プラーナ)で
出来ていると解釈されている。

そもそも”言葉”とは何なのだろう?

これは当然、”音声”である。
だが、この”音”には”意味”が備わっている。
つまり人間の”神(意識)”を表現できる
ツールなのだ。

従って、人間の”言葉”というのは”氣”を通して
”神”に作用する性質
を持つということである。
これは前回説明した通りだ。

ところが面白いことにインド人と中国人はある
面白い現象があることに気付いた。

それは言葉(音)には自然や心理に作用する力のある物
とそうではない物が存在する。

自然や生物の心/意識に強い影響を与える”音”のことを
”真言=マントラ
”と呼んでいる。

もう少し詳しく説明しよう。

例えば犬の”ワンワン”という吠え声があるとしよう。
犬が唸りながら”ワンワン!”と強く吠えられたら
誰でも”恐怖感”を抱くだろう。噛み付いてくるのではなかろうか、と。
ところが言葉/音声上は”ワンワン”というのはただの
音でしかないし、文字にしてもこれに恐怖を感じる人は
いない。当然、犬ではなく別の人間がモノマネで
”ワンワン”と叫んでも怖くない。

犬が吠えながら”ワンワン!”という音を発声すると
人間は恐怖を感じる。

つまり、犬の”ワンワン”という吠え声には一種の”霊力”が
備わっているのではないかと古代インド人や中国人は
考えたわけだ。
しかもこの犬の声は国籍問わず、全ての人間が同じ恐怖を
感じるし、動物もまた同じ感情を抱く。

つまり犬の”ワンワン”は真言/マントラである


ジョークの様に思われるかもしれないが、密教の真言も
この考え方からスタートしているのだ。

だから、台風の”ビュウ、ビュウ”や雷の”ゴロゴロ”も
真言/マントラなのだ。

つまり、ある特定の”音声パターン”が重要なのだ。

ところがこれを”文字”にするとある問題が生じる。

それは国籍によって、同じ”音”でも表現が異なる現象だ。

犬の”ワンワン”で例えてみよう。

 日本人:ワンワン!
 アメリカ人:バウワウ!(Bow-wow)
 フランス人:ウフウフ!(Wouf, wouf
)

これだとどの国の人が言った犬の鳴き声が
本来の犬の声に近いのか分からない。
鶏の声なんかもっと最悪だ。

だから”真言/マントラ”はオリジナルの音声をいかに再現
できるかが重要になってくる。

これが仏教徒がやたらとサンスクリット語(梵語)での音声表記に
拘る理由だ。

つまり言っている”内容”が重要なのではなく、”音”そのものが
重要なのだ。

だから、サンスクリットの真言も道教の呪文も
意味不明な語句を含むことがあるのは、あれは
”音声”を忠実に再現しているからだ。
呪文や真言句の内容自体はあくまで二次的で、
”神”に人間の”念”を伝えるぐらいの意味合いしか
持たない


前回説明した通り、”神”の物理現象に対する
影響力は最も低いと話した。
真言/マントラという音声は人間の”念”より
ずっと強力な影響力を持つと考えられている


この理屈からすると、

フェイド大帝は中国道教の呪文を高評価できない。

理由は道教の呪文というのは”古代中国語”で唱えないと
効果がないということになるからだ。
ところが、道士が香港人か、台湾人か、北京人かで
同じ呪文でも使用する言語が全く別になる。

香港人は広東語だし、台湾人は台湾語を使う。
中国本土の道士なら当然北京語で発音する。

これではどの言語の音声が”真言/マントラ”なのか
さっぱり分からない。

恐らく、中国の長い歴史の中で呪文の正しい唱え方に
関してはノウハウが失伝してしまったのだろう


同じ理由で日本の神道の”祝詞”もフェイド大帝は評価しない。
そもそも神道なんて本当に日本に存在したのかも怪しい。
というのも江戸時代まで日本の神様も仏寺に祀られていたし、
歴代天皇の祈祷事例も圧倒的に真言密教が多い。
神道が本当に由緒正しくて、超常パワーを持った
神通力を発揮できるなら、歴代天皇も旧日本軍も
真言密教を使ったりしなかっただろう。
確証はないが、現代の神道に関しては明治政府が
持ち上げたデッチ上げ宗教なのではないかと思っている


ところで、フェイド大帝は”真言密教”を高く評価している。

というのも日本の歴史において真言密教が強い
神通力を発揮した事例が多いからだ。
平将門の調伏もそうだし、蒙古に対しての神風、
ルーズベルトの調伏等、実に効果的であることを
証明する事例に富んでいる。
昔の豪族や皇族も政敵を蹴落とすのに真言密教の
呪法に頼っていた。

ところがご存知の通り、真言密教の”真言”の発音は
オリジナルのサンスクリットの発音からは大分かけ離れている。

日本語訛りの”真言”ですらこれだけ神通力を発揮するのだから、

オリジナルはどれだけ強力なのか。

ということで、呪文を唱えるならサンスクリットのマントラを
練習して使うのが一番効果があると思われる。

ところが現代日本ではサンスクリットのマントラ集を
扱っている書籍、CDがほぼ皆無。

真言密教かチベット密教の本に参考程度に仏の名前が
チョロっと載っているぐらいだ。
後はヨガの本に少し載っているぐらいか?

というわけで、アメリカからサンスクリットのマントラ辞典

を取り寄せ中である。

もちろん著者はちゃんとインドで修行したヒンドゥー教の
本物のグルだ。

ところで、フェイド大帝が”西洋魔術”についてどう考えているか
知りたい人が沢山いると思う。

結論から先に言うと、

フェイド大帝は西洋魔術を全く評価しない。

理由は、現代知られている”西洋魔術”というのは19世紀イギリス
でオカルト同好会の”黄金の夜明け団”の教義が基になっているからだ。
つまり歴史も浅いし、そもそもあれは団のオカルト・オタクによる
捏造儀式が多い。
あれはギリシャ占星術(バビロン系)、ヒンドゥー教、でっち上げエジプト魔術、
即席で入会させたユダヤ人ラビ見習いのでっち上げカバラ(本来の伝統的
ユダヤ・カバラと何の関連性もない)を継ぎ接ぎして作っただけの
インスタント・マジックでしかない。ウィッカ(魔女宗)というのも
”黄金の夜明け団”からの派生流派だ。
西洋は残念なことに本物の魔術は中世カトリック教会がほぼ全て根絶やしに
してしまった。
本来はケルトのドルイドの呪術だとか、興味深い物が沢山
あったはずなのに非常に残念だ。

まぁ、ケルト文化はドナウ川を通じてイラン/ペルシア、
インド/アーリアと同じルーツを持つらしいので、
インドのバラモン教に近い教えなのではないかと思っている。
ケルト人も口伝メインで文書をあまり残さないという
文化も共通している


さて、最後に中国道教の伝統的な詠唱力訓練法を紹介する。

 ①まず、水のたっぷり入った鍋を用意する。
 ②鍋の水に向けて両手の平をかざす。
 ③息を吸って下丹田に氣を貯める。
 ④下丹田の氣を中丹田に上げる。
 ⑤中丹田は人間の”心”のある場所なので
  ここで念じると呪文に”神”に働き掛ける
  力を込めることができる。
 ⑥念の篭った呪文と氣を喉のチャクラまで上げる。
 ⑦息を吐くと共に水面に向かって呪文を詠唱する。
  この時、口と両手の平から水面に向けて氣を
  発しているイメージをする。
  キン肉マンのジェロニモの必殺技の様な
  イメージだ。(ネタが古くてすまない)
 ⑧水面に波紋が生じれば合格。
  (詠唱する呪文によって波紋のパターンが
   変化するのが理想



Volksミク人形を予約した
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-556.html
”実はこのミク人形、道教の祭壇用の神像に改造しようと思っている。

「えぇぇぇっ!!!???」

まぁまぁ、落ち着いて聞いてほしい。

実は道教の儀式で使う神像というのはただの人形じゃない。
仏壇に本尊を飾る時のことを思い出して欲しいのだが、
あれもお寺に開眼しに行くでしょ?

それと同じで、道教にも神霊を人形に降ろす秘術がある。
本来は風水の置物もこの儀式をやって魂入れをしないと
効果が薄いらしい。

元々この開眼の儀式は仏教由来でこれを道教が吸収(つまりパクった)
したのだが、仏教の仏像と違う点は、

人形の中に細工してある。

実は道教の神像というのは中に水晶だとか絹とかは
色々詰め込んで作る。

マニアックな物では蝉の抜け殻やタツノオトシゴの死体
とかを詰める


まぁ、色々理屈があるんだけどね。

そういうわけで、人形の中が空洞である程度の大きさが
必要なわけよ。

通常のフィギュアだと中は空洞じゃないし、そもそも
小さすぎるので使えない。

え?別にミクじゃなくてよくない、だって!?

いや、確かにそうなんだけど......

でも、ミクの方が絶対面白いでしょ?

天照大神とか大日如来とか憑依させるんだぜ?
興味あるだろう?

え?フェイド大帝は神仏を畏れないのかだって!?
バチ当りだって!?

あのね、神霊や鬼神をコントロールするのが魔術師なの!

”神を畏れて敬う〜作法に感謝の念を込めて〜”なんてのは
明治政府デッチ上げ神道の神主がやっていればいい



神社のお札やお守りが1年しか持たない理由
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-559.html
神道のお札の文化がそもそも中国道教由来なのか?という疑問が
まずありますが、

かなり高い確率で中国道教が元ネタ
だと
思われます。

というのは、フェイド大帝は社家(神社の子息)でもないし、神職
ではないですが、神職が神道の学校(宮司とかの資格を取るための学校)
とかで使う”教科書”を実は持っていたりします。(笑)
マニアックな本屋に行けば売っていたりします。
市の図書館とかには余り置いてないみたいですね。
まぁ、神道関係の教科書よりも仏教の僧侶用の
教科書の方が入手しづらいんですけどね、実際は。
で、その神職用の教科書にお札の由来とか作り方とか
が書いてあるわけです。

正直言って大した内容は書いてありません

そりゃ明治以降の寄せ集め宗教だからねぇ......)
恐らく中国道教由来であると書かれているだけです。(笑)

お札に思いっきり”急々如律令”
と書いてある。(笑)

(漢字が違うのは知っている。日本語のフォント変換だと出てこないだけだ。
 漢字が分からないわけじゃない)

この”急々如律令”という文言は道教特有(陰陽道も使うけど)の
文言で”天帝のお墨付きですよ。ちゃっちゃっと取り掛かって下さい”
という意味で、元々中国の皇帝の出す勅令の文章の末文から
コピーして来た文句です。
だから仏教系のサンスクリットで書いてあるお札にはこの文言は
つきません。
逆に道教の霊符には佛という仏教の”仏”という文字を入れる場合が
あります。これは仏教から仏様を道教側がパクったわけですね。
元々、仏教が中国に伝わったばかりの中国では道教自体が原始的
な宗教から抜け出しきれておらず、仏教の方がずっと教義が
高度だったのです。
つまり現代の台湾や中国の道教教義というのはかなり後世に
なってできた物なのです。最初から高度な老荘思想とかを
含んでいたわけではありません。

というわけで神道の教科書のお札の例に”急々如律令”と
書かれているということはほぼ100%中国道教由来と
考えて良いわけです。
ただ、問題はこのお札の開眼(仏教用語だが要は魂入れのこと)
方法が中国道教のやり方じゃないことです

2chのスレでレスに書いてあった

宮司が祈祷してカーッとやる方法”

がその本には書いてありました......

はっきり言ってそれじゃ効果ないです......
(道教の観点からという意味で)

ちなみに横浜の馬姐廟だかでオバちゃんが
やっている線香の煙にお札をまぶす方法も間違いです。

これは完全にいいかげんチャイナのオバちゃんにカモられているね。

フェイド大帝は中国道教の正一教(張陵の系譜)、茅山派、閭山派、
という超メジャー流派のお札の作り方のマニュアルを持っていますが
”線香の煙にまぶすだけ”という方法は存在しません。
(尤も他の流派は良く知らないけど)
実際は気功で体の中を浄化したり、禹歩を踏んだりとか
やたらと手順が複雑に出来ています


後、2chで出ていた木製のお札についてですが、
これの起源について説明しましょう。
(2chでは誰も知らないみたいだったので)

これは元々、中国でお札というのは桃の樹の木片
に書いて使っていたからです。
桃というのは魔除けの木としても有名ですね。
桃太郎の鬼退治というのもここから来ているわけです。
じゃ、なぜ桃の木に魔除けの効果があるのかというと、
古代中国では北東に日本でいう”鬼門”という霊界とこの世を
繋ぐ出入り口があったと信じられていました。
で、その”鬼門”のすぐ側にでかい桃の木が生えていたわけです。
この桃の木には二人の門番が見張りをしていました。
この二人が現代の中国の門神の元ネタです。
この門番達は悪霊(中国では”鬼”と呼ぶ)が悪さをしようと
この世に入ってこようとすると、桃の樹の枝を切り取って
ツタ状にして捕り縄として使っていたのです。

桃の樹のロープで悪霊=鬼を縛り上げていたわけですね。

だから桃の樹には悪霊をとっちめるパワーがあると
信じられる様になったのです。

で、この故事を基に二人の門番の似顔絵を玄関の門の左右の扉に描く
風習が中国で広まったのです。
この門の扉が”木”で出来ていたので

この木の板に門神の絵を描く=魔除けのお札がお札の起源
になったわけです。


↑中国の門神

昔の中国の聖職者というのは修行をしたり、金丹を作るための
材料を取るために良く山の中に入りました。
昔の山ですから、毒蛇だとか、トラだとか危険が一杯あったわけです。
で、魔除け/厄よけとしてお札を携帯するようになったのですが
門の扉を担いで山を登るのは大変ですよね?(笑)
そういうわけでお札はどんどん小さくなって腰帯に
木の板を巻き付ける様に変わっていったわけです。

ところで何で絵を描いたお札に魔除けの効果があるのか?

その理屈は何か?

確かにお札は桃の木で出来ていますが、門神が使っていたロープ状
ではなくただの板っ切れです。
こんな物にビビる悪霊はいません。

実はこの板っ切れに描いてある”門神”が重要なのです。

これは要するに

悪霊に対して”俺は怖い友達を沢山知っているんだぞ!”と
アピールしているのです。

”俺は身内にヤ○ザがいるんだぞ!”、”政治家の偉い先生を知っているんだぞ!”
と同じ理屈です。(笑)

これがお札の理屈です。(笑)

で、紙が発明されてからはお札もだんだん木材から
紙へと変わっていったわけです。

これがお札の起源の話です。

次はなぜ神道ではお札を毎年替えないといけないのかについて。

お札とは別の構造なのですが、中国道教には日本の
”呪いの藁人形”のような呪物を製作する技術があります。

この系統の呪術というのは何をやっているのかと言うと
人形の中に悪霊を封じ込めて使役しているわけです。
元々、悪霊とか生霊というのは本来霊界にいないと
行けないのですが、時々、人間でいう”不良”みたいな
やつが居て、この世にちょっかいを出すために稀に
やって来る浮遊霊のようなのがいるわけです。
で、こういう霊というのは姿が見えないので人に気付かれず
に悪戯をしたり取り憑いたりして害を及ぼす特殊能力を
持っているのです。
で、流石中国人というべきなのですが、この悪霊を
”利用”する方法を考えたわけです。
悪霊というのはその辺に浮かんでいたりするのですが
藁人形が一種のトラップとして作用して、この悪霊を
人形の中に封印して閉じ込めてしまう技術があります。
閉じ込められた悪霊は自由に身動きが取れませんし、自分で
”食物”を摂取することもできなくなります。
従って、完全に術者に飼われている状態になるわけです。
ですので、

呪いの藁人形は実は食事を与えないと餓死して
効果が無くなってしまいます。

こういうの陰陽道じゃ教えないでしょ?

人形にどうやって食事を与えるかというと、
お供え物をするわけです。
これを一般的に”供養”と呼びます。
ヒンドゥー教では”バリ”と呼びます。
ですのでお盆で果物とかをお供えするのは
先祖の霊に食事を与えているわけです。

で、ここで食事の量だとかをコントロールすることによって
悪霊を無理矢理、術者の命令に従わせることができるのです。
悪霊が言う事を聞かなかったら、孫悟空の冠の様に
悪霊に”体罰”を与える呪術とかもあります。

つまり中国式は暴力で従わせているってこと。

まぁ、この悪霊自体も元はチンピラ気質なので、
自分より強い暴力には弱いのでしょう。

で、こういう悪霊を呪う相手にけしかけてダメージを
与えるのが”呪いの藁人形”の本当のメカニズム
なのです。

ちなみにここが重要なのですが、

悪霊というのは基本的に”死霊”です。

つまり元々は人間だったり、動物だったりするわけです。

中国では人や動物が死ぬと、”鬼(グイ)”と呼ばれる”死霊”になるのです。
普通はそのまま霊界に行って成仏するのですが、
死霊にも個人差があって素直に成仏しない奴がいるんですね。
こういうのが道士等の呪術師
に利用されるわけです。

で、なんでこんな話をしたのかというと、

神道のお札はこの死霊召喚のメカニズムを
使っている可能性が高い

勘の良い方は気付かれたと思いますが、

神道の神というのは基本”死霊”です。

だから名前の後ろに”何とかの命”って付くでしょ?

あれは元は生きている人間だったわけです。

だから神道系の葬式だと仏教でいう”戒名”の代わりに
”命”という字を故人の名前に付けるわけです。

神社のお札というのは天照だったり、氏神だったり、ともかく
”何とかの命”なわけです。
だから”死霊”なんですね。
で、こいつらを紙のお札に封じ込めちゃうわけです。

だから神棚って毎日供養しろって言うでしょ?

餌を与えないと天照が餓死してしまうからね

それで、身動きの取れない天照にやれ金を増やせだとか、
恋人をつれて来いだとか、
東大に受からせろとか無茶苦茶な要求をするわけです。

日本神道エゲツない

天津神、死んでもサラリーマン

ところが、中国道教由来のこの呪術、

一個だけ落とし穴がある。

実は人形に霊を憑依させて使役する呪術ってのは

時間が経つにつれ強力になる

お守りは時間が経つとパワーダウンすると言っているそこの貴方!
逆ですよ?

古ければ古いほどお守りは強くなるんです

これは実は厄介な現象なのです。
というのも

強力になりすぎた霊は中途半端な呪術師の手に余る

術者が相当強力な霊力を持っていれば良いのですが、
神社でお守りを買って来るだけの一般人にそんな霊力も
技術もありません。

つまり、天照を長く飼いすぎるとヤバいことになる

そりゃ元が死霊なんだから報復してくるわけですよ。

つまり本来、

日本の神職はネクロマンサーなのだ

良く考えて下さい。

貴方の地元の世襲宮司に暴走した天照を抑える
霊力が備わってそうですか?

多分駄目でしょう。
神道学校で教えてませんから。

じゃ、どうするのかというと、ここも流石中国人。

実は人形に霊を憑依するときに寿命を設定する

要するに最初に人形に封じ込める時に”自決プログラム”を
組み込んでおくわけです。

寿命一年とかに設定しておけば自動的に一年経つと無害な
ただの人形に戻る様に出来ているわけです。

だから神社のお札も恐らくこのシステムを採用しているはず。

何ですって!?貴方の宮司のカーッには寿命設定の
祈祷がないですって!?

その天照、持ち続けていると危険ですよ?

今直ぐお炊き上げに行きましょう。

しかし、この理屈だと、

日本神道では毎年、天照を焼身刑に処しているわけか

こりゃ、魏の皇帝も卑弥呼は”鬼道”
使いと呼んだ訳だ。”


術を習いたければ入門するしかない?,
2013/9/17
投稿者 フェイド大帝
レビュー対象商品: 口伝 茅山術 (単行本)
"もう一人のレビュアーが書いている通り、この本は茅山呪術の
マニュアル本ではない。ただ茅山道教にはこういった呪術が
ありますよ~というツカミだけの術名カタログ本の様な感じ。

恐らく著者は実際に神戸で新興宗教?を開いているのか、
そこで入門した弟子にしか茅山術を教えないようである。
(伝授料金も高額だという噂もある)
一応、この本を読んだ後、著者の団体に入門しようと
コンタクトを取ってみたが返事が全くない。
あまり弟子を取るのに熱心ではないのだろう。

中国系というか東洋文化は秘伝商法といって何でもノウハウを
秘密にし書物に著さない暗黙の文化がある。
要するに肝の部分は口伝でしか教えない

まぁ、題名の通りではある。

茅山道教に本当に興味のある方はアメリカ人の書いた
本を購入された方が良いと思う。
キリスト教文化圏のアメリカは東洋人のように
秘伝を余り隠さない傾向があるからだ


オススメはJerry Alan Johnson博士とMichael Saso氏の
著作だ。両者ともちゃんと中国本土の道教寺院で修行を
積んだ本物の道士だ。
両方とも日本のAmazonでは取り扱っていない。
著者のサイトで購入して頂きたい。
ただし、Saso氏の本だけはアメリカ国内にしか
配達してくれない様だ。
値は張るがJohson氏の自費出版本をオススメしたい
。"
http://www.amazon.co.jp/review/R4A1IIR90UWNM

フェイド大帝の他のレビュー。
http://www.amazon.co.jp/gp/cdp/member-reviews/A210MWNNEISZEY?ie=UTF8&display=public&page=3&sort_by=MostRecentReview
” 前のレビューが消されている..., 2012/9/25
レビュー対象商品: 風水住宅図鑑―風水で住宅をみるための基礎知識(太玄社) (単行本(ソフトカバー))
よく分からないが前投稿したレビューが消されている。
無条件で★5を付けないと消されるのか? AMAZONは。
”言論の自由”って知ってますかぁ~?
って知らないか。アメリカ企業だもんな。”自称”民主主義国家の。

じゃ、また消されない様に要点だけ淡々とレビューしときますか。

まず風水”図鑑”と題名に書かれていますが、本の中身の半分は
著者の山道氏のコラムで構成されています。
”中国伝統風水”(つまり著者の言う本物の風水とかいうやつ)の蘊蓄が
つらつらと綴られています。
その根拠となっているのは著者が台湾の古本屋で見つけてきた怪しげな本や
台湾のどっかの老人の隠れ本棚から引っ張り出してきた”秘伝の書”とやらです。
出ましたね”秘伝”。中国人ってホントこの言葉好きですから。
中国武術界なんて”秘伝”のバーゲンセール状態です。
現代の工業製品を見てもらえば一目瞭然ですが中国はコピー万歳!主義
なので当然”秘伝の書”もコピーされまくるわけです。
しかも大半がオリジナルより”劣化
”していたりします。
著者はそれらの”秘伝の書”を集めるのをご趣味とされている様で
どこぞでレア本をゲットしただの”伝説の老師”に弟子入りできただの
著者本人のブログで得意げにPRしています。
(事実なので非難されるいわれはありません)
そして東大を始めとした国内の中国思想を研究されている学者を
”中国語が読めない”、”実地(台湾)でフィールドワークをしない”
等とブログで非難しています。
(これも事実です)
ところが実際は上述の非難には何の根拠もありません。
実際に台湾で現地調査及び研究をしている学者もおりますし、
中国の古典は”偽書”も多く、考古学的に信用できウラの取れる
文献にしぼって論文を書かれています。
”マニアックな秘伝の書”が論文に引用されないのは決して
”中国語や漢文が読めない”からではないのです。
例えば山道氏がコラムで挙げている”風水”という言葉の
起源になっている郭璞の「葬書」がありますが、この書物を
”郭璞が著した”という確証がなかったりします。
昔の中国人が有名人である郭璞の名を借用したという
説が有力と考えられています。

また、著者の山道氏が引用してくる”秘伝の書”は
明・清代以降の書物が圧倒的に多いです。
理由は主に3つあると考えられます。

 1.時代が新しいので書物自体の保存状態が良いので
   比較的状態の良い物が古本屋/台湾の老人の本棚から手に入りやすい
 2. 陰陽五行論がしっかり確立された時期が宋の朱熹以降からであり、
   古代中国(漢以前)の”風水理論”自体が比較的”稚拙”
であったため
 3.著者のバッググラウンドが明代以降の文献を贔屓目に評価している。
  (本人のプライバシーなので深堀はしませんが...)

そういった背景の下で本書は著されているという”事実”を
もう少し”真摯”に受け止めて頂きたく思います。
私が本書を”高評価”しないのは単なる”意地悪”からではありません。
ちゃんと根拠があります。

が、しかし図が沢山載っていて読みやすいことと、ラントウ風水に関しては
嘘をついた事が書かれていませんので、贔屓目にみて★2を結論としたいと
思います。


”風水のマスター・ローの風水本, 2012/9/25
レビュー対象商品: 完全定本 風水大全 (単行本)
世界のマスター・ローの風水本です。
つまりロー老師の専門分野である風水(玄空飛星派)の本です。
流石ご専門のフィールドなだけあって脱帽です。
何はともあれこの本を読まなきゃ風水は語れないでしょう
というくらい完成度の高い内容です。
風水グッズの”正しい使い方”も載っています。
高いグッズを買いそろえて玄関に置きまくる必要は全くなし。
アイテムを置くにもちゃんと陰陽五行論に基づいた背景が
あることに気づかせてくれる一冊です。

そもそも本屋さんの”占いコーナー”にこの本が置かれていること
自体が本来大変失礼にあたるくらいです。
”東洋思想”の学術本と並べても全くおかしくないくらいハイレベルな
内容を取り扱っております。

私は山道信者ではありませんがこの本は文句なしに満点です。”

”分かりやすい、安い、見やすい, 2012/9/25
レビュー対象商品: フライング・スター風水術―人生が劇的に変わる実践香港風水 (単行本)
分かりやすい、見やすい、安い、軽いので持ち運びが楽と良い事尽くめの本書。
巻末には飛星チャートの全パターン一覧も付いているため、建物の方位さえ分かれば
直ぐに鑑に入れるという優れもの。
確か「風水大全」の謝辞にも著者の名前が入っていたので、知り合いの華僑とは
ひょっとしてマスター・ローその人か?

また著者は文章を書くことに慣れているのか非常に読みやすい文章で書かれている。
玄空飛星派風水の入門書としては価格も安い分だんぜん風水大全よりもオススメです。
本書で一通り予習してから風水大全に行きましょう!”

こめ‏@u3110·2011年9月29日
『雲笈七籤』 曲晨飛精なる丹薬で文字を書した剣を抱いて寝臥し、曲晨飛精につばきを混ぜた丸薬を服用した上、しかるべき呪文を唱える。呪文を唱え終わり、目を閉じて息を咽(の)むこと九十回、そこで目を開けると、たちまちにして太一の神が天馬をもって迎えにやって来るのが見えるであろう。

wikipedia bot スマホ対応版‏@WikiBot_SmaPho·1月18日
天喜 http://goo.gl/gNWVs 天喜(てんぎ)は、日本の元号のひとつで永承の後、康平の前。1053年~1058年の期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。『抱朴子』の「生有レ通、則嘉祥並臻、此則天喜也」より。天喜元年藤原頼通により宇治平等院鳳凰堂が建立さ...

あまり聞かない名言‏@kouji_hukushima·1月17日
耳を信じて目を疑うは、古今の患う所なり~葛洪「抱朴子」:他人からの伝聞を信じて、実際に見たことを信じないというのは、昔から弊害とされてきた

出たらいいね諺故事成語bot‏@kotokoji_bot·1月16日
【千雀万鳩、鷂と仇を為す】・・・『抱朴子』
読み:せんじゃくばんきゅう よう あだ な
意味:弱い者が大勢いても強い者にはかなわないたとえ

一秒で身につく国語力‏@1tum04awase1·1月15日
知らないと話にならない四字熟語
【玉石混淆(ぎょくせきこんこう)】
玉=宝石
宝石と石が混ざり合っている状態。つまり、いいものと悪いものが入り混じった状態。
語源:晋の葛洪『抱朴子』より

長門有希の100冊Bot‏@YUKI_N_100b·5月15日
036: 抱朴子(葛洪/岩波文庫/哲学 魔法) 中国における道教が発達した理論的基礎。内篇20篇、外篇52篇からなる。錬金術の名著としても知られており、仙人が服用する仙薬の作りかたが書かれているという。

円環フワルナ‏@kuninosagiri·2013年7月27日
道教は、後漢代の五斗米道に始まる。その教団が三国の魏によって制圧されると、一時、その系統は表には現われなくなるが、4世紀初頭に、葛洪が現われ、『抱朴子』を著わして不老不死を説く道教の教理体系を整備した。ーwikipedia


出たらいいね諺故事成語bot‏@kotokoji_bot
蠹啄みて梁柱を剖く】・・・『淮南子』
読み:と ついば りょうちゅう さ
意味:災いは小さいうちにのぞかないと大変なことになる


【江河は漏卮を実たす能わず】・・・『淮南子』
読み:こうが ろうし み あた
意味:長江や黄河でも、水の洩れる杯を満たすことはできない


鼠穴を治めて里閭を壊る】・・・『淮南子』
読み:そけつ おさ りりょ やぶ
意味:小さい害を取り除こうとして大切なものを台無しにするたとえ


世界の偉人名言集‏@uzuki_h_14711·1月18日
一隅を守りて、万方をわする。「淮南子」☆一つのことにこだわって、全体のことを忘れてしまってはいけません

basco‏@basco_laoag·1月16日
陰徳あれば陽報あり 】〔淮南子人間訓〕 人知れず善行を積んだ者には必ずよい報いがはっきりと現れる。 #daijirin

あまり聞かない名言‏@kouji_hukushima·1月16日
水積もりて魚聚(あつ)まる~淮南王劉安「淮南子」:環境を整備しなければ魚は集まってこない。まして人間の場合はもっと心しなければ人は集まらない。 


子ども達に贈りたい言葉‏@kyouikusan·1月15日
学ぶに暇あらずという者は、暇ありといえどもまた学ぶこと能わず

『淮南子』より

中国中心名句bot‏@Chinameiku_bot·1月14日
今儒墨は三代文武を称すれども行はず、是れ其の行はざる所を言ふなり。今時の世を非とすれども改めず、是れ其の非とする所を行ふなり。其の是とする所を称して其の非とする所を行ふ。是を以て尽日慮を極むるも而も治に益無く、形を労し智を竭すも而も主に補ふ無し。(『淮南子』巻十三氾論訓)


♨︎かごんまのnozapi♨︎‏@boyhaaaaa·12月12日
人間は、山のように大きなものに
つまずくのではなく、

アリ塚のような小さなものに
つまずくのだ。

淮南子より

小さな害だから、些細なことだからと軽くみて後悔することは多い。


ririri@決戦‏@ririri1108·11月5日
「出典は中国前漢時代の思想書『淮南子(えなんじ)』「人間訓」の以下の故事から。」やっぱりそうだね。|塞翁が馬(さいおうがうま) - 語源由来辞典 http://gogen-allguide.com/sa/saiougauma.html …

もりそは゛大明神‏@morisobamyojin5月9日
〜ニンニクと宗教〜 仏教「食ったらムラムラしちゃうからダメ」
修験道「栄養付きすぎて修行になんねえから食ったらダメ」
アイヌ土着信仰「魔除けにどうぞ」
道教「臭いからダメ」
神道「ニンニク投げたら神様倒せたったwwwwwwwwwwwwwww」

高橋圭也☆彡占い、陰陽師、菜根譚、山鹿流‏@KeiyaTakahashi1月9日
「三国志演義」の赤壁の戦いの所に諸葛孔明が奇門遁甲の秘術で東南の風を吹かせる話がある。実は中国の奇門遁甲書には呪術や霊符に関する部分が多く占め、道教の道蔵には遁甲の呪法呪術書が多数ある。日本では遁甲を方位術と思う人が多いが、中国では遁甲を神秘的な呪法呪術と思う人の方が非常に多い。

古代中国奇書館‏@Liu_jian•2011年8月27日
易の歴史はテクノ系とセオリー系に分かれるのね。テクノ系は漢代の易林⇔易伝⇔宋代の梅花の予測術へと進み、セオリー系は周易参同契という錬丹術(身体論)へ進んでいるんだな。陰陽五行論が完成形態に発展する歴史を感じる。岩波文庫の『易経』はセオリー系のプロトタイプであるけれど実践的ではない



高橋圭也☆彡占い、陰陽師、菜根譚、山鹿流‏@KeiyaTakahashi•1月18日
安倍晴明以来、陰陽道宗家・賀茂家にいつもしいたげられて頭が全然上がらない安倍家を確固たるものにせんとして晴明から5代目の子孫・泰親は、生前は陰陽寮の普通の一官僚だった晴明を超人的スーパー大陰陽師に仕立て上げ、安倍家の権威を高めようと様々な画策をした節がある。超人晴明の誕生である。

安倍晴明は生前の賀茂保憲に頭が全然上がらず、陰陽道の重要典籍の閲覧も許されなかったことから、戦国時代に賀茂家本家の勘解由小路家が断絶するまで陰陽道の宗家は賀茂家になる。だが安倍家にしても家の跡継ぎだけに真伝や秘伝を伝えたらしく、他の兄弟達には一般的な陰陽道しか教えなかったようだ。

仏教では「内に因あれば、外に縁あり」また「外界は心の投影(外の世界は心が描き出す姿)」という。また天源淘宮術(運命改善を目的とする占い)に「災いは皆自らにあるものを外から来ると思う愚かさ」とある。つまり人の内に悪因子がないと運勢や星巡りが悪くても何も起きないので恐れる必要はない。

易経に「積善の家、必ず余慶あり」とある。つまり日頃から徳を積み、修養を心がければ、いざという時に不思議と救いがあるもの。また風水は「一・命、二・運、三・風水、四・積陰徳(修養や積徳・善行を行う)、五・唸書(勉強)」といって人間自身の能力と本人の努力も大切。意識的改革が全ての根本!

高橋圭也☆彡占い、陰陽師、菜根譚、山鹿流‏@KeiyaTakahashi•10月18日
東洋大学時代に道教の研究をしたから陰陽道の理解が早いと私は思っていた。だが陰陽道は密教に道教的要素が入り込んだ密教経典を参考にしたことを知り、参考程度に留めた。第一、今の道教の正統道蔵は明の正統年間に編纂されたものであり、それ以前の北宋代より前の道教は「雲笈七籤」によるしかない。


☯古代中国奇書館☯
http://ameblo.jp/jinshu-fanyi/

Henri Maspero マスペロの道教

日本人が知らない本当の道教 三多道長 (2009/7/15)

『抱朴子』
『淮南子』
周易参同契
太平経
真誥
『雲笈七籤』
『山海経』
『聊斎志異』
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永井均『マンガは哲学する』。藤子・F・不二雄『藤子・F・不二雄[異色短編集]1 ミノタウロスの皿』・〈異色短編集〉2『気楽に殺ろうよ』 

やあ、ワタクシはあなたの人生に何回登場しましたかな。
最近あなたの人生に登場する回数が少ないと思いましたので登場したのですぜ


あなたはニーチェぐらいにまじめな人と出会ったことがあるかな。
あるならば、あなたは狂人と出会ったことになる。
ニーチェぐらいまじめ=狂っている、なので結局は狂っていることになるからね。
さあ、まじめに考えよう。そして同時に狂って考えよう。
まじめと狂うは「神」一重。
二兎を追う者は実は一兎を追っているのだ。
ゆかいな狂人の著作の、始まり始まり~

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今回の引用ページは↑であって↓ではありません。

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「まえがき」より
“ 私はまじめな話がきらいである。この世の規範や約束事をこえた、途方もないくらいまじめな話ならいい。少なくともニーチェのような水準のまじめさなら、まあゆるせる。中途半端にまじめな話はだめだ。ところが、世の中はそうした中途半端にまじめな話で満ちあふれている
 私だってまともな大人だから、それが必要であることは、もちろん百も承知だ。それでもやはり、この世の中で通用している通念や規範を最終根拠とするご立派な主張を耳にしたり(ときには口にしたり)すると、ばかばかしさがこみあげてくるのをどうすることもできない。そうしたすべてをぶち壊すような真実の声を聞きたい、そうでなければやりきれないではないか!
 マンガに、ときにそれが聞き取れることを、私は以前から感じていた。その点で、つまり発想の破天荒という点で、マンガは小説などの他のジャンルをはるかに凌駕しているように私には思われたのである

二十世紀後半の日本のマンガは、世界史的に見て、新しい芸術表現を生みだしているのではないだろうか。世の中の内部で公認された問題とはちがう、世の中の成り立ちそのものにひそむ問題が、きわめて鋭い感覚で提起されているように思われる。だれもが自明と思い、その自明性のうえに通常の世の中的な対立が形づくられているような、《もとのもと》の部分がそこで問題化されている。哲学という形で私が言いたかったこと、言いたいことの多くが、萌芽的な形態において、マンガ作品のうちに存在している。
 いや、それどころか、ひょっとすると、マンガという形でしか表現できない哲学的問題があるのではないか、と私は感じている。私はその理由を解明していない。現在のところは、表現形式の問題もさることながら、ジャンルの世の中での位置のようなものが影響しているのではないかと思っている。マンガは《子ども》が読むものだという通念が、大人が読むマンガの中にまで波及していて、大人の常識に惑わされない問題提起をゆるしているように思われる。たとえばアンデルセンなどの童話が、トルストイやドストエフスキー、夏目漱石や森鷗外などよりもはるかに深く、そして単純な意味で哲学的であるのと似ているだろう。
 私がマンガに求めるもの、それはある種の狂気である。現実を支配している約束事をまったく無視しているのに、内部にリアリティと整合性を保ち、それゆえこの現実を包み込んで、むしろその狂気こそがほんとうの現実ではないかと思わせる力があるような大狂気。そういう大狂気がなくては、私は生きていけない。その狂気がそのままその作者の現実なのだと感じたとき、私は魂の交流を感じる。それゆえ、私がマンガに求めているものは、哲学なのである。
この本は二兎を追っている。マンガ愛好者には、マンガによる哲学入門書として役立つと同時に、哲学愛好者には、哲学によるマンガ入門書として役立つ、という二兎である。マンガ好きの方々には、君たちはそれとは知らずにじつは哲学に興味を持っていたのだよ、とぜひとも言ってみたかったし、哲学好きの方々には、その問題ははるかにポピュラーな形でもうマンガに表現されているのだよ、と言ってみたかった。
私自身のほんとうの執筆意図はむしろ後者にあったが、じっさいには前者の意味で読まれるほうが多いかもしれない。もちろんそれでいい。哲学の兎とマンガの兎に見えたものは、なんとじつは一ぴきの兎だったのだというのが、この本における私の究極のメッセージなのだから
一九九九年十一月
永井均“
《もとのもと》《子ども》は原典では《》は存在せず、《》内の部分に傍点。


第一章 意味と無意味

1  相対主義の原理と限界――藤子・F・不二雄「気楽に殺ろうよ」,「流血鬼」

“ 藤子・F・不二雄は、現実をつねにありえたかもしれない他の可能性との対比の中で見ている。われわれが信じて疑わないこの現実が、彼の目には、そうでなくてもよかったひとつの偶然的なあり方のように見えているのである。藤子のようなこういう感覚をばかばかしいと感じる人もいるだろう。しかし私は、このような感覚に強いリアリティを感じる。
現実を支配している規範を単純に信じ込んでいるような人のほうが、私にはばかばかしい。「気楽に殺ろうよ」は、性欲よりも食欲が隠されるべきもので、殺人の権利が売買されるのがあたりまえであるような、別の世界に入り込んでしまった男の話である。ある日、目覚めてみると、まわりのすべての人がそう信じていたとしたら、どうだろうか。自分のほうが正しいと確信できるだろうか。それとも、自分のほうがおかしくなったと思いはじめるだろうか。
それ以前に、そもそも人前でセックスをすることは恥ずかしいことなのに、人前で食事をすることはなぜ恥ずかしくないのだろうか。ついでに言えば、売買食はゆるされるのに、
なぜ売買春は禁止されているのであろうか。正直のところ、私には意味がわからないことのひとつである。
このようなことを言うと、世の中のまともな(つまりばかばかしい)人々は、すぐに、それではあなたは売買春を肯定するのか、といった話をはじめる。そうじゃないんだよな。そういう種類の話がしたいんじゃないのさ
。“p.18-19


人口爆発の解決策として、殺人権利ではなく、生存権の売買が行われる社会が到来しそうだ。生存「券」を大量所有するのは結局のところ銀行に類似した機関あるいは白人至上主義支配者に集まるんだろうなあ。
生存権の権利って実質は殺人の権利だから、売買できるとなると、死が日常的になってしまい、結果、生殖行為への本能が活発化してタブー度が食事と逆転することがありうるかもしれない


大量殺人をしたくてしたくてたまらない主人公が、前半と中盤までは殺人「券」を大量に集め、殺人権大量所有者になるために頭脳バトルが繰り広げられるが、殺人権大量所有所者となったあとの中盤以降は主人公が大量殺人を喜々としてやりまくり最高の生の充足を他者の大量死のおかげで達成し、最期は自分を殺す権利も買っておいたので、殺人権売買世界では最高難易度の自殺権の行使により、自殺し、歴史書に記録が消滅するまで残ることになる、という物語を考えた。このアイデアは盗作禁止ですよ。


“ われわれが絶対的な悪だと思っているものも、いったん彼らの視点に立ってみれば、そしてすべての人がそうなってみれば、現在の多数派がつくりだしている世界よりも、はるかによい世界なのかもしれない。ひょっとしたらオウム真理教がそうかもしれないなどと言うと、またまた顰蹙を買いそうなのでやめておこう。
ともあれ、どうしても王様が裸に見えてしまうので「王様は裸だ!」と叫んでしまったあの子どもは、まわりの進歩的な大人たちにくらべて、あまりに保守的であっただけだ、という可能性があることは忘れてはならないだろう
。さて、それでは、何がそれを決めるのであろうか。”p.22

家畜人ヤプール人 ウルトラマンA 宇宙のエース


家畜人ヤプー
http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%AE%B6%E7%95%9C%E4%BA%BA%E3%83%A4%E3%83%97%E3%83%BC

よりの引用
“10 : ななしのよっしん:2012/08/02(木) 21:30:17 ID: AM3+5oneAk >>5 勘違いしていないか?
あの小説で描かれているのは
白人の楽園ではなくて日本人の天国なんだぞ。

生きる意味、日々の幸せ、死んでいく理由、
それら全てを完璧なまでに保証されているヤプーが
一番人生を楽しんでるんだよ。羨ましくないか?
別に俺はマゾじゃないけどそう思うよ“


ミノタウロスの皿
http://dic.pixiv.net/a/%E3%83%9F%E3%83%8E%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%81%AE%E7%9A%BF
”主人公
原作では名無し。アニメ版では「立花」という苗字のみがついている。
ビーフステーキが好物。
宇宙船で事故に遭い、たった1人行き残りイノックス星に不時着。
助けてくれたミノアに惚れ、ズン類に食べられる事になった彼女を助けようと奔走する。

ミノア
主人公を助け、彼と交流を持つ美少女。実は「ウス」の中でも特に最高級とされる育ちで
本人もおいしく食べられる事を誇りに思っており
、逃げる様説得しつづける主人公とは
まったく会話が噛み合わない。

本作での設定

・イノックス星を支配しているのは牛のような容姿の「ズン類」で、人間のように見える「ウス」を食用、愛玩用などに飼育している。
・「ズン類」はおおむね理性的かつ文化的だが、宇宙船を飛ばす程の文明はまだない。一方で、「ウス」をおいしく食べるための「活け造り」の技術など妙なところで高いテクノロジーを持つ。
・地球人と酷似した「ウス」は言葉も通じ感情もあり、服なども着ているが、自分達が食べられる存在である事に疑問も持っておらず、むしろおいしく食べられることを誇りと考え同族で競い合っている。特に大祭の時に食べられる「ミノタウロスの皿」に選ばれることは最高の誉れであり、等級が落ちハムやソーセージや肥料にしかならないことを死以上の屈辱
と考えている。


 2  異文化との出会い?――藤子・F・不二雄「ミノタウロスの皿」,「サンプルAとB」,「絶滅の島」

異星人が地球人AとB(男女の若いカップル)を観察し母星に報告する話「サンプルAとB」

性行為=“外皮を取り去った両者の体には相違点がある(…)ともあれAとBはその相違点を奇妙な形で利用しあったのである。(…)この行為は相求める両者の欲求の帰結であったらしい。AもBも深い充足感に満たされた

※相違点利用図=挿入断面図つき。

服って確かに、最外部の皮膚=第二の皮膚だよな


剣による戦い
=“彼等の行動の意味は我われには理解しがたいものであった。上肢に持った金属片を相手の体の中に挿入するのが目的のようである”

食事
台上の物体にはかつて生命活動をおこなっていたらしい形跡がある。A、A´、A″はこれを身体上部の穴へ押しこみはじめた


「絶滅の島」
保護獣指定動物「チキューケナシザル」


 3  この話に作者はいるか――手塚治虫「ブラック・ジャック――第七話 幸運な男」

街で、このところ会っていない人にたまたま出会ったとき、その人が「いやあ、近ごろ、出番が少ないんでね」なんて言ってくれたら、どんなにすばらしいか――あるいはどんなに気味が悪いか――と思うのだが、そんな経験は一度もない。私の人生の作者は、出番のバランスというものをさほど気にしない方のようである。”p.31

4  言語ゲームと哲学的感度――吉田戦車『伝染るんです』

“ 話はそれるが、私は大学の教員をしていて、哲学を学ぶことが哲学的感度を殺してしまう例を、毎年のように見ている。大学一、二年のときには、まだ輝くほどの哲学的感度を持っていた学生が、本格的に哲学の勉強をし、大学院進学を決意しはじめるころには、もうすでに、哲学界で哲学の問題であるとされているものを、ただこねくりまわすだけの人になってしまっているという例を、何度見てきたことだろうか。”p.41-42


吉田戦車「伝染るんです。」ベストセレクション その1
http://www.nicovideo.jp/watch/sm252657


吉田戦車「伝染るんです。」ベストセレクション その2
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5085790


吉田戦車「伝染るんです。」ベストセレクション その3
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8424168



哲学を学ぶほどに哲学をただ研究するだけの人になってしまう。これは歴史学者に似ている。歴史学の真に正しい姿勢とは定説も自説もどうでもいいと思って取り組むことであるが、そんな者はそもそも歴史学者になりはしない、という構造に似ている。となると、アマチュアの重要性は極めて高いと言える。そして同時に、素人の見解、特に素朴で常識的な疑問こそが大事なのだ。専門バカはこの文章読んでも理解できないだろうな。理解できても実践しなけりゃ理解していないのと同じです。

 6  感情の客観性(2)――諸星大二郎「感情のある風景」

感情は形となって周囲の空間に示されるので、他人に対して自分の感情を偽ることができない世界を描く。
あなたの感情が目に見える形で外部に現われたらどんな形をしていますか。
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私の今の感情の形は↓
<⇋⇋⇋⋛∰≓⊂(⌒,_ゝ⌒)⊃≓∰⋛⇋⇋⇋>(´´ψ←剣の形してるね)

では決してありません。


第三章 夢――世界の真相――
 3  現実という性質は客観的か――佐々木淳子「メッセージ」

夢と現実の大きな違い二つ
①夢には現実のような一貫性、連続性がない
②現実の側からは、夢に言及して、夢について(現実の中で)語ることができるが、夢の側からは現実に言及して現実について、(夢の中で)語ることができない。現実は夢に一方的攻撃を――こちらは正しいと(「正しい」という語はそぐわないはずなのだが)――加えているとも言えよう


 4  現実は映像か――佐々木淳子「Who!」

少年の周囲に誰もいなくなる。
ある女性に出会う。
事情を述べると、その女性は、
「ああ 映像物感触回路の故障ね」
と言って、どこかのスイッチをカチリと入れる。
すると少年の周囲に突如として人物に溢れた街並みが現われる。

“ もちろん、もっともっともっともっと哲学的な人が、どこまでもいるだろう。哲学とは、要するに、なぜだか最初から《少し》哲学的だった人が、本来のまともな人のいる場所で――哲学をすることによって――帰ろうとする運動なのだが、小さな隔たりをうめようとするその運動こそが、おうおうにして深淵をつくりだしてしまうのである。”p.106 《》は原典にはない。実際は傍点。

世界最高レベルに哲学的なひとはただの一般人なのかもしれない。


 6  神の不在証明は可能か――楳図かずお『洗礼』

証拠という性質は相対的である。それは、ある根本的な世界解釈の内部でしか役立たない。根本的な世界解釈それ自体を、証拠だてるものなどは存在しない。“p.119

“「人は……真理にしたがって生きるよりも……作り出したかりそめのありえぬ夢に、自分自身をなぞらえ……人生をあてはめ作りあげていこうとする」。しかし、「真理」とは何か?それもまた、つくりだされたかりそめの夢ではないのか
 また、物語の最後に、谷川先生の口からは、次のような言葉が聞かれる。「狂った世界の中にただ一人狂わない者がいたとしたら、はたしてどちらが狂っていると思うだろう?」。だが、おそらく、狂った世界の中にただひとり狂わない者がいるなどということは、《ありえない》のである。「狂っている」という性質は、世界の中のあるひとりを除いて他の全員がそうであることができるような性質ではないのだ。“p.121
《ありえない》の《》は原典にはない。実際は傍点五つ。

狂っている=極少数派に属する、という定義であるから、大多数が狂う=多くの人が極少数派に属する、ということは言葉では作れても現実ではありえない。


第四章 時間の謎  

 1  ドラえもんは何のためにいるのか――藤子・F・不二雄『ドラえもん』

のび太のせいで大借金をいまだ払い続けている孫のセワシ君は、「特定意志薄弱児童監視指導員」の肩書きを持つドラえもんをのび太のもとに送り込む。ここまではいい。
では、のび太が借金を子孫まで残すような大失態をやらかす原因が、ドラえもんによって消えたならば、ドラえもんがのび太のもとにいる原因(理由)そのものが消えてしまう。
そう、ドラえもんは、自分自身の存在理由自体を消し去ることが存在理由なのだ
!

自分の存在理由を消し去ることがその存在理由である存在! 彼が少しでも内省力のあるロボットなら、ある日そのことに気づいて、「ぼくっていったい何のために存在しているのだろう」という実存の不安に襲われるはずである(実際にはそんなようすはまったく見られない。のび太ほどの思索力もない、能天気なやつなのである)。p.125-126

ドラえもんはのび太ほどの思索力もない、能天気なやつなのかー。
のび太の言うことの方が哲学的な気がする。


蛇足
ドラえもんを送り込んだセワシ君自信は借金から逃れられないんじゃないの?

けいと‏@keitotanner
1970年に自分がタイムトラベルするとしたら、そのときその瞬間に起きた出来事は、「自分が1970年に行った」なのか。それとも、「自分の周りの世界が全て復元された」のか?(「タイムトラベルの
哲学」からかいつまんで引用)

 2  殺されつづけるのは誰か――手塚治虫『火の鳥――異形編』

火の鳥の道徳観が浅薄であるのは、とにかく殺人はいけないという一般原理の水準でしかものを考えておらず、殺人禁止の規範の成立根拠までさかのぼって思考していないことにもとづく、と私は考えた。だが、手塚治虫のような大衆的な大御所マンガ家には、錯誤にもとづく道徳観を持つ必要性=必然性があるのだ。
だれもが「とにかく人を殺してはいけない」と信じている社会と「場合によっては人を殺してもよい」と信じている社会とでは、どちらが安全で快適な社会か、と言えば、明らかに前者である。じつを言えば、みんながそう信じ込むということは、安全で快適な社会を実現するための手段にすぎないのだが、そういう社会を確実に実現するためには、道徳がそのための手段にすぎないという事実は、知られないほうが都合がいい。だから、道徳は盲目的に信じ込まされるほうが――信じ込まされる当人にとってさえ――好都合なのである。そして、手塚治虫のような人こそが、そのために一役買う使命を負わされているのである
。”p.136-137

嘘は絶対についちゃいけない」と子どもも大人も嘘をつく
道徳の嘘と原発の守護者・手塚治虫


 5  自分会議の決定を尊重すべきか――藤子・F・不二雄「自分会議」

“ このとき、過去や未来の自分は一種の他人であるという、この章のこれまでの考察から得られた結論が効いてくるのではないだろうか。私はなぜ、九年後や、二十三年後や、三十三年後の自分のために、いまの自分の利益や幸福を犠牲にしなければならないのだろうか。それは一種の利他主義にならないだろうか。長期的な利己的配慮は、それを要求する「自分」たちが他者としていまここに実在してしまえば、もうすでに利《他》主義であり、一種の道徳に転化するのである。真の利己主義は利《今》主義を含むはずなのである。「己」は「今」を含むからである。
しかし、完璧に利今主義的な利己主義者は少ない。たいていの人は、多少とも将来の自分のためにいまの自分を犠牲にする。なぜそうなのか、理由はわからない。だが、もしそうでなかったとしたら、つまりすべての人が利今主義的な利己主義者だったとしたら、道徳や法律は機能しなくなるにちがいない。
道徳や法律というのは、要するに、他人の利害を将来の自分の利害に換算するシステムなのではあるまいか。それらは、結局、他人に害を与えれば、それが(将来の)自分に害を与えることになるようにつくられた社会システムなのだと思う。道徳は、そんなことをすることは《結局は》自分のためにならないと説教し、法律は、未来の当人を処罰する。真に利今主義的な利己主義者にとっては、それらは無意味な──抑止力のない──制度にすぎないだろう
。“p.154-155
《》内部は本文では傍点


第五章 子ども VS.死――終わることの意味

 1  未来にまかれた種としての子ども――楳図かずお『漂流教室』

社会が崩壊したときにはこれまでの常識道徳は役に立たない。だが、道徳的な《しばり》はこれまで以上に必要不可欠になる。このとき必要なのは、道徳の本質に対する洞察である。それは何のために存在し、何を実現しようとするのか。その原理を直観的にであれ、とらえていないと、これまでの安定した社会状態を前提にした常識道徳に頼った、まちがった判断をしてしまいがちなのである。”p.160
《》は原典では傍点。

道徳は個人的感情から生まれた、秩序維持の手段であるから、平時と非常時とでは当然違ってくる。平時では「道徳だから守れ」で上手く行くが、非常時ではそれを主張する「善人」はただの邪魔であり、とんでもない損害を生みかねない。なにせその「善人」は道徳の意味を理解せず、ただ何も考えずに守っているだけだから融通がきかないのだ。実はその意味では、「善人」は全く道徳的でないのだ。不道徳な善人もいれば、道徳的な悪人もいるのだ。
「善人」は道徳的に正しい主張がいつでもどこでも優先されると考えている点で決定的にまちがえている。正しい道徳は大抵の場合は実行されるべきだが、非常時は「大抵」には含まれないのだ



 3  なぜ子どもは大人になるのか――諸星大二郎「子供の遊び」

あなたは大人から生まれたのに、子どもという種族で生まれた。
子どもは不完全な大人ではない。
子どもとは独立した種族なのだ。
ある日、子ども族のあなたは変な動物を飼い始める。
その動物は大人という種族の胎児なのだ。
大人族の胎児は成長し、大人という成人となる。
そして育て親の子どもであるあなたと交替する。
では、あなたはどこへ行ったのですか。


子供が変化して大人になるのならば、変化の基体が変化後にも存在し続ける、つまり、変わらない何かが存在しなければならない。
もし変化の基体が存在しなければそれば変化ではなく消滅(と別のものの誕生)である。
子供と大人の共通点がまったくないのであれば、子供から大人に「変化」することはありえないということ


【閲覧注意】諸星大二郎の意味不明さは異常 駅から出られらないやつの恐怖感は異常
http://narcissu.doorblog.jp/archives/21164103.html


 7  包み込まれていく死――しりあがり寿『真夜中の弥次さん喜多さん』

“ 死ぬということを、この世的な意味の次元に引きもどして考えるなら、だれかの夢の世界に入ることと考えるのがいちばん美しく、またいちばんふさわしい。
 だが、ほんとうの死は、その夢からもなお排除されることなのである。子どもの死も同じことだろう。ある意味では大人の夢の世界に取り込まれることによって、しかしまた同時に別の意味ではそこからも排除されることによって、子どもは死ぬからである
。”p.188

私が死ねば主観的には完全に死ぬ。
そして私の死は半分完了される。
そして、私の記憶と記録がすべてなくなれば、客観的にも完全に死ぬ。
そして私の死は完了される。


第六章 人生の意味について


4  捨てるべきものがあれば――坂口尚『あっかんべェ一休』

後小松天皇の子供であるが、南朝の志を継ぐ可能性を封じるために幼少時に出家させられた一休さんの貴種流離譚の趣のある、真の悟りあるいは禅を求めるお話。


おまえが〝チリ〟という時〝清浄〟が
〝浄らか〟という時〝汚れ〟たものが
おまえの心の中に生まれるのじゃ

おまえが〝善き〟ものと思う時
おまえの心は〝悪しき〟ものを生んでいるのじゃ

坂口尚『あっかんべェ一休』上, 講談社漫画文庫, 1998年,P.278

欲を断ち切ろうと思う時点で、「欲を断ち切ろうという欲」という欲から逃れられていない。この無限背進を断ち切るにはどうしたらよいのか
無意識においてははじめから達成されているのだが。意識ではどうしようもないのかもしれない。

“このマンガの中で、彼は「人の世の争いは無くならぬものでしょうか」という問いに「争いを無くしたいなら平安も求めぬことだ。平安という夢を…信仰を…!」と答えている。過激だが、水で薄められていない禅の極意があるのかもしれない。”p.206

組織に属している限り悟りなんてありえない。
悟りって楽しいの?


 7  これも究極超人だ――赤塚不二夫『天才バカボン』


“ 言葉でやたらに駄洒落を言う人はいるが、あれはくだらない。バカボンのパパは、言葉で駄洒落を言うのではなく、行為で駄洒落を《する》のだ。と言うより、人生そのものが駄洒落みたいなものなのだ。こんなふうに次々とギャグそのものを生きているような人がいたら、さぞ疲れるだろう、というのが私の正直な感想である。
駄洒落というのは、言葉の表層上の類似だから、当然、意味上のつながりを欠いている。意味連関が欠けた生を生きるということは、人生をきわめて短期的に生きていくということだ。キリストも、明日のことを思い煩うな、程度のことは言ったが、三十秒後のことを思い煩うな、とまでは言わなかったし、ましてそんなことを実践することはできなかった。あしたはあしたの風が吹く、どころではないのだ。一瞬ごとに、次は次の風が吹く、ということなのである。人生の意味もへったくれもない。そんなことを言っているから駄目なんだ!
この類型は、文字どおりの超人(スーパーマン)であるから、常人にはまねをすること自体が不可能である。しかし、これが人生の理想の一方の極であることはまちがいない。一休が最後にたどりつくべきなのは、このバカボン・パパの境地なのではあるまいか?“p.213-215


“だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。”
マタイによる福音書の第6章34節


バカボンのパパって絶対に世話をする人が必要だよね。
俺の生活はまかせた。俺は駄洒落をする。←キャーカッコイイ(?)。みたいな感じだ。
バカボンパパと結婚することを決めたママって凄いな。


おまけ 感想や引用がない箇所のタイトル

 5  感情の客観性(1)――中川いさみ『クマのプー太郎』
 7  感覚の客観性――城アラキ・甲斐谷忍『ソムリエ』
 8  合理性の洞察――福本伸行『カイジ』

第二章 私とは誰か?
 1  死んだのは誰か――萩尾望都『半神』
 2  愛は記憶を超える?――萩尾望都『A-A'』
 3  私は記憶を超える?――吉野朔美『ECCENTRICS』
 4  この身体は私のものか――士郎正宗『攻殻機動隊』
 5  もうひとりの私――高橋葉介「壜の中」
 6  私は二人いる――川口まどか「ツイン・マン」
 7  今はオレだ!――田島昭宇・大塚英志『多重人格探偵サイコ』

 1  夢はわたしに覚める――高橋葉介「夢」
 2  固有の夢こそが現実をつくりだす――佐々木淳子「赤い壁」
 5  夢の懐疑とロボットの懐疑――諸星大二郎「夢みる機械」

 4  回帰は実在するか――佐々木淳子「リディアの住む時に」

 2  子どもという狂気――楳図かずお『わたしは真悟』
 4  大人のなり方(1)――松本大洋『鉄コン筋クリート』
 5  大人のなり方(2)――吉野朔美『ぼくだけが知っている』
 6  純化された死――永井豪「霧の扉」

 1  被差別空間の感触――西原理恵子「はにゅうの夢」
 2  人生の意味と幸福――業田良家『自虐の詩』
 3  「真実の愛」が見つかるまで――しりあがり寿『ヒゲのOL藪内笹子』
 5  いながらにしていない――つげ義春「無能の人」
 6  これが究極超人か!――ゆうきまさみ『究極超人あ~る』

第七章 われわれは何のために存在しているのか
 1  倫理から存在論へ――星野之宣『2001夜物語』
 2  答えを超える問い――石ノ森章太郎『リュウの道』
 3  何も守らぬ闘い――永井豪『デビルマン』
 4  守るべきもののリアリティ――岩明均『寄生獣』
 5  私は何のために生まれてきたの?――星野之宣『スターダストメモリーズ』


藤子・F・不二雄『藤子・F・不二雄[異色短編集]1 ミノタウロスの皿』小学館文庫 1995-07
表紙が素晴らしい。あたらしく出たやつよりもこっちのほうが表紙がいいね。

ミノタウロスの皿 (小学館文庫―藤子・F・不二雄〈異色短編集〉)ミノタウロスの皿 (小学館文庫―藤子・F・不二雄〈異色短編集〉)
(1995/07)
藤子・F・不二雄

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読書ガイド↓
Fの異色短編集、何が好き?
http://alfalfa.livedoor.biz/archives/50926133.html
漫画家 藤子・F・不二雄氏(以下F氏)が手がけた漫画作品群である、「SF異色短編」(以下、「SF短編」)の事について解説する。
http://dic.nicovideo.jp/a/sf%E7%9F%AD%E7%B7%A8


オヤジ・ロック
商品を売りつける相手と自分をひそかに、その商品が売れている場面がある未来へ飛ばし、日本人は「周りに合わせる教」大好きなので超効く「その他の人も買っているよ買っていないのはあなただけ」だと見せつける。そしてひそかに元の時空に戻り、商品を買わせる
濡れ手に粟だね。
しかし、現代で商品が売れる理由が未来にあるというのは変だな。買う場面を見せないとだめだから一つは買う人がいないといけない。まあ身内に自作自演させればいいか。

スタンピード【stampede】
=大挙して逃げたり押し寄せたりする、群衆の突発的行動やパニック。


じじぬき
じじが死ねばみんな上手くいくんだ、という家族たち。
じじは死にました。じじは天国へ。天国でばばと再会。
――――
じじは天国の役所(死役所だね)の戸籍係にお願いして生亡(生き返るという意味だろう)するがやはり家族に嫌がらせをされたので、ついに堪忍袋(どこにあるのだろうか股間かな)の緒が切れたじじは、息子に対して、
おまえを一人前にするまでの養育費 学資のいっさい、今の物価指数に換算して合計してある。応ぜねば訴訟!! 敗訴覚悟で徹底的に争って広く世間にわしの最後っ屁
を撒き散らしてやるんじゃと狂った笑いをした
―――――
という事実はなく、単なる天国の戸籍係の人が、蘇りたいと希望するじじに見せた予見夢だった。
じじは蘇ることをやめて、ばばと一緒に暮らします。
締めに、墓参りに来た家族のうち、母親のおじいちゃんがお喜びになるような良い子になるのよと言う。
今さらおせーよ。おじいちゃんが生きているうちから良い子でいろよ。

それにしても孫の目が怖すぎ。


・自分会議
 学生のぼくはある日突然、時価約三億円の山林の相続者となった。
ここで九年後のぼくが登場する。
九年後のぼくはドボンのギャンブルにはまって金に困っていることは勿論言わずに、山林を売って自分に預けろ(よこせ)と言う。
ここで二十三年後のぼくが登場する。
二十三年後のぼくは、九年後のぼくがギャンブルで金に困っていることを暴露する。
二十三後のぼく(一人称わし)は、わしの時代は爆発的なインフレで三億円が紙クズ同然になっているから山林は売るなと主張する。
ここで三十三年後のぼく(一人称わし)が登場する。
わしの時代では一切の土地が国有化されてしまい今や一文なしじゃ、山林を売るべきじゃ、山林を宝石に変えて全部わしに預けろと主張するのだ。
これらのぼくの主張は皆、学生のぼく視点では本当か確かめるすべがない
より年上の自分に、より年下の自分の言っていることが正しいかと確かめることはできるが、凶暴されていたらアウトだし。
九年後のぼくがギャンブルにはまっていて金に困っているのは本当っぽいけど。
 学生のぼくを主人公にすると、はっきり言って未来のぼくも過去のぼくも他人だから、みな別の時代のぼくを騙そうとしても別におかしくない。
「自分は他人のはじまり

 そうしているうちに未来のぼく(学生のぼく基準で九年後、二十三年後、三十三年後、の三人)と主人公の合計四人が山林を売るか売らないかで多数決をとるが、九年後と三十三年後は売る派、現代のぼくと二十三年後のぼくは売る派となる。同数である。不毛な多数決だなあ。
過去の自分にも発言権があるはずだと幼いぼくを一人呼ぶ。
だが未来の三人の良い争いは激化する。

解決策。
二十三年後のぼくに、学生のぼくの頃でも二十三年後でも高い価値があるものをきいて、それを買っておいて、年代ごとに等分したらいいじゃない
が、そのような結論にいたる前に、険悪すぎる雰囲気に耐えられなくなった幼いぼくが窓から落ちた。
飛び降りたのか、単にどこでもいいから出ようとしたらたまたま窓だったのかはわからないので、最後のコマを見るに死んだのだろう。
つまり主人公も主人公の未来も死にましたとさ。
めでたくなし。めでたくないはなし

最終的な決定権は学生のぼくにあるのだから、実は学生のぼくが最高権力者なんだけどね。
ぼくの人数が少ないのはわざとかな。大勢にしようとしたが短編では収拾がつかなくなったのかもしれない。

9、23、33って数秘術を意識していそうだね

おまけ
 5  自分会議の決定を尊重すべきか――藤子・F・不二雄「自分会議」

“ このとき、過去や未来の自分は一種の他人であるという、この章のこれまでの考察から得られた結論が効いてくるのではないだろうか。私はなぜ、九年後や、二十三年後や、三十三年後の自分のために、いまの自分の利益や幸福を犠牲にしなければならないのだろうか。それは一種の利他主義にならないだろうか。長期的な利己的配慮は、それを要求する「自分」たちが他者としていまここに実在してしまえば、もうすでに利《他》主義であり、一種の道徳に転化するのである。真の利己主義は利《今》主義を含むはずなのである。「己」は「今」を含むからである。
しかし、完璧に利今主義的な利己主義者は少ない。たいていの人は、多少とも将来の自分のためにいまの自分を犠牲にする。なぜそうなのか、理由はわからない。だが、もしそうでなかったとしたら、つまりすべての人が利今主義的な利己主義者だったとしたら、道徳や法律は機能しなくなるにちがいない。
道徳や法律というのは、要するに、他人の利害を将来の自分の利害に換算するシステムなのではあるまいか。それらは、結局、他人に害を与えれば、それが(将来の)自分に害を与えることになるようにつくられた社会システムなのだと思う。道徳は、そんなことをすることは《結局は》自分のためにならないと説教し、法律は、未来の当人を処罰する。真に利今主義的な利己主義者にとっては、それらは無意味な──抑止力のない──制度にすぎないだろう。“永井均『マンガは哲学する』講談社 2004-08
p.154-155
《》内部は本文では傍点


・間引き
ほのぼの狂気が実に上手い。
無差別殺人ではない。ちゃんと相手を厳選しているから差別殺人である。厳選は大事。
人間が食糧になる時代が来る。必ず来るって。狂っていようがいまいが腹は減るのだから。配給制度が始まりお食事券ならぬお食事権を取り合う汚職事件が大量発生するだろうね。共食いもするだろうし。動物もどんどん減っていくだろう。食べるものないから。ペットも全部食用になるかもね。
芥川龍之介の『河童』では河童が本にされております。
人間が食料になるどころか、あますところなく死体があるいは生きたまま利用される時代が来――てほしくないな。人骨の家具なんて嫌だ

あ、中身の話しなくちゃ。

表紙が主人公であるお爺さんの結末そのまま。
腹が減ればモラルも減る、愛情も減る、いろいろ減る。あなたをHELL!
秩序なき世界へGO! この話の感想なのか考察なのか意識か無意識たれながしの無秩序文章へGO! 
どころかすでに無秩序だよん。
クレーマーにはご飯あげることで怒りが緩和されるらしい、という言説って間違いじゃなさそうですね。電話とかだとどうしようもありませんが。
新聞記者の名前を木地捏造って名前にすればよかったのに。

カロリー保険
①被保険者の死亡年齢を平均寿命からさし引き、
②今後摂取されたであろうカロリーの三分の一を食券として遺族に渡す、
③料金は掛け捨てだが安い、
本人の承諾なしでその本人を他人(家族限定かも)が勝手に入れることができる保険。
(掛け捨て=払った金は戻って来ない、だが決してそうは言わないのが詐欺ポイント)
(死亡原因には言及されていないのが怖い

つまり、早く死ぬと腹をすかした遺族が得する保険であり、長生きすると払った金は無駄になるからこの保険に入った人はほぼ間違いなく早死にする超恐ろしい保険である。
(カロリー保険の危険性をわかりやすく説明せよって問題思い付いた。漫画読んで解釈する問題も入試でありだと思う)
愛情を薄れさせるように働きかければ完璧だね。

“On 5月 29th, 2013, まっこうモグラ(管理人) さんのコメント:

人口爆発は収束しないと考えています。
 
根拠は主に二つ。
時間がない。あと数十年で限界値ですから。
そして、もう一つは、掛け算で増えていく人口に対して、資源量は足し算で増えるしかないからです。
 
むしろ、日本の現状は「人口を減らす=収めるためのテスト地域」ではないのかさえ自分は考えていますし。

先進国だから人口は減ってく。収まるわけで、多数の後進国が存在しないと成り立たない国=先進国であるわけです。
大多数の後進国では、人口増加は押さえられません。
だからこそ、後進国に自分達のための経済活動を斡旋しながら「人口を直接的に調整する」方向性が、今、出てきているのだと思います。
 
もし、人口調節のために原発からの放射能流出を計画していたのがテスト地域の日本
でなら、BRICSで、もしくは、それに続きそうな国で、数年後に原発事故がおきる可能性があるかもしれません。
 
人口調整のためにエイズがばら撒かれた、これは、よく考えれば、実に理にかなった「人間というのが平等という考えから離脱した場合」では、「正しいこと」と言えてしまう訳です。“

“On 5月 29th, 2013, まっこうモグラ(管理人) さんのコメント:

人間=平等ではなく、それ以上の視点で正しいことをすべきか?は、啓蒙思想の土台です。
人口が掛け算で増えていくことと、そこらへんの啓蒙思想がどう関わったかは、今、自分達の経済活動がどうなのか、チョコレートを食べたことがない人が、先進国のためにカカオを育てている経済活動の理由とか、ここらへんは、この記事あたりから、関連記事を追いかけていくとわかりやすいかも、しれません。
 
http://www.mkmogura.com/blog/2009/12/17/577“
ベジタリアンで知る今ここにある食の危機【20130502】
http://www.mkmogura.com/blog/2013/05/02/1374

選民思想は経済学から進化論へ【20091217】
http://www.mkmogura.com/blog/2009/12/17/577


・3万3千平米

広い土地とマイホームが欲しい主人公だが、現実は24坪≒80㎡(一辺4√5≒9メートル)の土地が限界だったが買うかどうか決めかねる。売り手が信頼できる友人だから騙されないことが保障されている土地のなのにそれを買わずに、いかにも詐欺師みたいなやつに、もうまとまりかけている話がなどという典型的な騙し言葉(あせらせて判断力奪う。限定、ぐずぐずしていると他の人に取られて「損をする」と思わせれば簡単に引っ掛かってくれる)に乗せられてそいつから別の土地を買ってしまう。
その土地は緑地地域(緑地帯を維持することを目的に建築物の新増設や景観の変更が厳しく制限される)であり、家が建てられないのだ。法律条件はきちんと満たされているので業者側に落ち度はないので裁判しても負ける。
物権説明書はちゃんと読まないとカモ。
主人公は土地と家が欲しい癖に不動産のこと全然勉強してないのな
。抜け目抜け穴だらけですな。

子どもに家を建ててやれないなんてなどと失意に沈む主人公だが、息子は家なんてめんどくさいものいらないし、借家でいいからもっと広い家に引っ越そうと家だけに建設的なことを言う。不況時代を先取りしとる思考ですな。
以前より、寺主(主人公名)の家に奇妙な格好をした開発局用地課の男が現れ、寺主の持っている3万3千平米の土地を売ってほしいといわれていたのだが、主人公には意味が分からない。
結局、強制的に主人公の3万3千平米の土地は時価三億円の宝石で買い上げられた。主人公は億万長者になり、広い土地とマイホームを手に入れる。
主人公は思い出した。千円出して一万坪の火星の土地を買ったことを。
火星の土地権利証を持っていることを。
開発局用地課の男は
①火星を開発しようとしている異星人
②未来の地球人
のどちらかでしょうね。①だろうけど。
異星人は律義に地球人が勝手に決めた権利や法律を守ろうとし、
地球人は法律を盾に詐欺まがい契約がされているという対比
も印象的だった。
異星人が主人公に(とばっちりだが)まったく誠意がないと言われているし。


おまけ
宅地建物取引業法第35条http://ja.wikibooks.org/wiki/%E5%AE%85%E5%9C%B0%E5%BB%BA%E7%89%A9%E5%8F%96%E5%BC%95%E6%A5%AD%E6%B3%95%E7%AC%AC35%E6%9D%A1
(重要事項の説明等)
第35条  
1. 宅地建物取引業者は、宅地若しくは建物の売買、交換若しくは貸借の相手方若しくは代理を依頼した者又は宅地建物取引業者が行う媒介に係る売買、交換若しくは貸借の各当事者(以下「宅地建物取引業者の相手方等」という。)に対して、その者が取得し、又は借りようとしている宅地又は建物に関し、その売買、交換又は貸借の契約が成立するまでの間に、取引主任者をして、少なくとも次に掲げる事項について、これらの事項を記載した書面(第五号において図面を必要とするときは、図面)を交付して説明をさせなければならない

一  当該宅地又は建物の上に存する登記された権利の種類及び内容並びに登記名義人又は登記簿の表題部に記録された所有者の氏名(法人にあつては、その名称)

二  都市計画法 、建築基準法 その他の法令に基づく制限で契約内容の別(当該契約の目的物が宅地であるか又は建物であるかの別及び当該契約が売買若しくは交換の契約であるか又は貸借の契約であるかの別をいう。以下この条において同じ。)に応じて政令で定めるものに関する事項の概要

三  当該契約が建物の貸借の契約以外のものであるときは、私道に関する負担に関する事項

四  飲用水、電気及びガスの供給並びに排水のための施設の整備の状況(これらの施設が整備されていない場合においては、その整備の見通し及びその整備についての特別の負担に関する事項)

五  当該宅地又は建物が宅地の造成又は建築に関する工事の完了前のものであるときは、その完了時における形状、構造その他国土交通省令で定める事項

六  当該建物が建物の区分所有等に関する法律 (昭和三十七年法律第六十九号)第二条第一項 に規定する区分所有権の目的であるものであるときは、当該建物を所有するための一棟の建物の敷地に関する権利の種類及び内容、同条第四項 に規定する共用部分に関する規約の定めその他の一棟の建物又はその敷地(一団地内に数棟の建物があつて、その団地内の土地又はこれに関する権利がそれらの建物の所有者の共有に属する場合には、その土地を含む。)に関する権利及びこれらの管理又は使用に関する事項で契約内容の別に応じて国土交通省令で定めるもの

七  代金、交換差金及び借賃以外に授受される金銭の額及び当該金銭の授受の目的
八  契約の解除に関する事項
九  損害賠償額の予定又は違約金に関する事項
十  第41条第1項に規定する手付金等を受領しようとする場合における同条又は第41条の2の規定による措置の概要

十一  支払金又は預り金(宅地建物取引業者の相手方等からその取引の対象となる宅地又は建物に関し受領する代金、交換差金、借賃その他の金銭(第四十一条第一項又は第四十一条の二第一項の規定により保全の措置が講ぜられている手付金等を除く。)であつて国土交通省令で定めるものをいう。以下同じ。)を受領しようとする場合において、第六十四条の三第二項の規定による保証の措置その他国土交通省令で定める保全措置を講ずるかどうか、及びその措置を講ずる場合におけるその措置の概要
十二  代金又は交換差金に関する金銭の貸借のあつせんの内容及び当該あつせんに係る金銭の貸借が成立しないときの措置
十三  当該宅地又は建物の瑕疵を担保すべき責任の履行に関し保証保険契約の締結その他の措置で国土交通省令で定めるものを講ずるかどうか、及びその措置を講ずる場合におけるその措置の概要
十四  その他宅地建物取引業者の相手方等の保護の必要性及び契約内容の別を勘案して国土交通省令で定める事項
2. 宅地建物取引業者は、宅地又は建物の割賦販売(代金の全部又は一部について、目的物の引渡し後一年以上の期間にわたり、かつ、二回以上に分割して受領することを条件として販売することをいう。以下同じ。)の相手方に対して、その者が取得しようとする宅地又は建物に関し、その割賦販売の契約が成立するまでの間に、取引主任者をして、前項各号に掲げる事項のほか、次に掲げる事項について、これらの事項を記載した書面を交付して説明をさせなければならない。
一  現金販売価格(宅地又は建物の引渡しまでにその代金の全額を受領する場合の価格をいう。)
二  割賦販売価格(割賦販売の方法により販売する場合の価格をいう。)
三  宅地又は建物の引渡しまでに支払う金銭の額及び賦払金(割賦販売の契約に基づく各回ごとの代金の支払分で目的物の引渡し後のものをいう。第42条第1項において同じ。)の額並びにその支払の時期及び方法
3. 宅地建物取引業者は、宅地又は建物に係る信託(当該宅地建物取引業者を委託者とするものに限る。)の受益権の売主となる場合における売買の相手方に対して、その者が取得しようとしている信託の受益権に係る信託財産である宅地又は建物に関し、その売買の契約が成立するまでの間に、取引主任者をして、少なくとも次に掲げる事項について、これらの事項を記載した書面(第五号において図面を必要とするときは、図面)を交付して説明をさせなければならない。ただし、その売買の相手方の保護のため支障を生ずることがない場合として国土交通省令で定める場合は、この限りでない。
一  当該信託財産である宅地又は建物の上に存する登記された権利の種類及び内容並びに登記名義人又は登記簿の表題部に記録された所有者の氏名(法人にあつては、その名称)
二  当該信託財産である宅地又は建物に係る都市計画法 、建築基準法 その他の法令に基づく制限で政令で定めるものに関する事項の概要
三  当該信託財産である宅地又は建物に係る私道に関する負担に関する事項
四  当該信託財産である宅地又は建物に係る飲用水、電気及びガスの供給並びに排水のための施設の整備の状況(これらの施設が整備されていない場合においては、その整備の見通し及びその整備についての特別の負担に関する事項)
五  当該信託財産である宅地又は建物が宅地の造成又は建築に関する工事の完了前のものであるときは、その完了時における形状、構造その他国土交通省令で定める事項
六  当該信託財産である建物が建物の区分所有等に関する法律第二条第一項 に規定する区分所有権の目的であるものであるときは、当該建物を所有するための一棟の建物の敷地に関する権利の種類及び内容、同条第四項 に規定する共用部分に関する規約の定めその他の一棟の建物又はその敷地(一団地内に数棟の建物があつて、その団地内の土地又はこれに関する権利がそれらの建物の所有者の共有に属する場合には、その土地を含む。)に関する権利及びこれらの管理又は使用に関する事項で国土交通省令で定めるもの
七  その他当該信託の受益権の売買の相手方の保護の必要性を勘案して国土交通省令で定める事項
4. 取引主任者は、前三項の説明をするときは、説明の相手方に対し、取引主任者証を提示しなければならない。
5. 第1項から第3項までの書面の交付に当たつては、取引主任者は、当該書面に記名押印しなければならない。


劇画・オバQ
=「オバQの世界」-漫画的許容+現実的シビアさ。
表紙怖い。

皆が集まって酒に酔っているシーンで、頭だけが子どものころに戻っているコマがある。酔わなければ子どもには戻れないのだ。子どもはもはや異常な状態となってしまっているのだ。
因囚はね、酔った時しか子どもに戻れないの」
「無意識こそが子どもなんだよ。でも殆どの人は意識が大人になって、意識が強くなりすぎて因囚になっていくんだ


ドジ田ドジ郎の幸運
 超大きな悪運偏差のせいで運が超悪い(らしいが死んだり大けがはしていない)ドジ田ドジ郎が、ゴンスケという、自己修復回路の故障で3.5次元の世界を漂流していたロボット(外見は『21エモン』に出てくるゴンスケまんま)と出会う。
ゴンスケの肩書きは「宇宙合目的調整機構統計局均整課偶然係長」。
主人公は突然運が良くなるが、周りの人は運が悪くなった。

ゴンスケは確率操作できるのか。ドラえもんと是非闘っ――いやもしもボックスあるから――いや「たまたま」壊れたんだ――やっぱりゴンノスケの方が――ドラえもんがゴンノスケの能力を知っていて、ゴンノスケはドラえもんの存在すら知らないのならドラえもんの勝ち――以下略


T・M(タイムマシン)は絶対に
“しられたくない秘密はだれにでもあるもんだ。
個人の情事から、それこそ国家機密にいたるまで。
それがあるうちはT・Mは実用化されないんだよ永久に。“

p.151

タイムマシンが実用化されない理由は技術的問題だけじゃないことを描く。
過去に行って過去の自分に出会っても別に何も起こらないからね。
いや、その過去に行った自分が過去の自分に出会ったという記憶があったら会っていいし、なかったら会っちゃだめ、というのが正しいかな。
ちなみに、過去に行った自分にとっては、過去世界は未来世界だ。過去世界は未来から来た人にとっては新天地にすぎないからね

あと、侵入者は国家機密側の人だろうね。


・ミノタウロスの皿
傑作すぎる。まず見るべし。
アニメ版のできもいい。 

ミノタウロスの皿
http://www.nicovideo.jp/watch/sm12672294


イノックス星の家畜(ウス)=見た目は地球の人間
何号舎の所属か決められている。
とはいえ、狭い場所に閉じ込められているわけではない。
愛玩種、労働種、食用種の三種類あるいはそれ以上の区分がある。
ミノア(髪の毛がソーセージに見える)が血統のいい肉用種と呼ばれていたが、これは食用種のさらなる区分けの一つかもしれない。
自分の境遇に関して疑問や抵抗感を全く抱かず、食用種はズン類に「おいしく食べられる」ことこそが一番の栄誉と考えており、自身が「おいしくなる」ために幼い頃から競いあう。「発育が悪い」と判定されたり、体に傷や痣がついて等級が下がりハムやソーセージ(自分の腸の中に自分の他の部位の肉が詰められるのかうげげ)や肥料にしかならないことは何よりも忌まわしい屈辱と考えていて、死への恐れはそれに比べて小さい。
大祭のときに食べられる「ミノタウロスの皿」と判定されることが最高の栄誉で、食われるウス(ヒロイン)が賞賛の言葉を聞きながら食べられたいので、活け造り(人工肺で意識を保るので自分自身が食べられている様子が見られるうげげ)になることを自ら希望するほど。
草や木の実ばかりをエサとして(料理ではない。ウス≒人間は自分たちが食べるものをエサと呼ぶ)食べていることから草食性かもしれないが、単に作者が牛の食べ物を人間に似た生き物に食わせているだけかもしれない


イノックス星の人類(ズン類)=見た目は地球の牛人間ミノタウロス
外観は地球の牛によく似ていて、二足歩行をする。
ウスと違って肉も食べる。ウスの肉も当然食べるので、地球人からみれば牛が人間をくっているように見える。
ズン類はウスを保護し住居とエサを与え、ウスはその愛情にこたえおいしくなろうとつとめる。
また、愛護週間、ギャクタイには厳罰を与えるなど非常に食べ物として大切にしている。
多少訛りがあるもの(東北弁などの地方訛り?)の言葉を喋り(ウスより高い身分であることも象徴かもしれない。身分ごとに言葉が違う)、性格は温厚で理性的

宇宙船を作るほどの科学技術はないが、ウスを美味しく食べるために麻酔薬とソースを兼ねた人工血液や「活け造り」用の人工心肺を作るなどかなり高い技術力を持つ。

家畜人ヤプーよりは設定がソフトだな。
家畜人ヤプーほどスサマジイものもあまりないだろうけど。

http://www.fujiko-f-fujio.com/fan/sf/sakuhin/mino.html
“【ミノタウロス】
 ギリシア神話で、半人半牛の怪物。ミノスの王妃が牡牛と通じて生んだ子。後にテセウスがアリアドネの助けで迷宮ラビュリントスで退治した。
【ミノア】
 『ミノア文明』クレタの伝説的な王ミノスの名にちなんでいう。紀元前20~15世紀を最盛期としてクレタ島に栄えた文明で、エーゲ文明の中心。20世紀初頭、エヴァンズによるクノッソス宮殿の発掘でその存在が知られた。ギリシア本土にも影響を及ぼし、ミュケナイ文明興隆の一因となった。
【イノックス星】
 ミノア文明の遺跡。20世紀初頭にエヴァンズが発掘。迷宮ラビュリントスや壁画で有名。
【カストル条約】
 『カストル』双子座の首星。白色で光度1.6等の連星。“


冒頭で主人公は水も食料もない状態でどうやって行きのびろというんだというシーンでは仲間の死体が描かれている。そう、その死体を食糧および水分補給源だと思っていないことがわかる。


昔はウス=人間似、も食べられるのは嫌だったのでしょう。ですが、おそらくは戦争で負けてそのあとで徹底的な洗脳がはじまったのでしょう。そして今や支配するズン類側でもその歴史を知る者はほとんどあるいはまったくいない状態になっているのではないでしょうか。


“「ここにいたら食べられちゃうんだぞ。」
「じゃ、地球では食べられないの?」
「あったりまえだ!!
牛が人間を食うなんて、そんなベラボーな!」
「まあっもったいない。
ただ死ぬだけなんて……なんのために生まれてきたのか、わからないじゃないの。
あたしたちの死は、そんなむだなもんじゃないわ。
おおぜいの人の舌をたのしませるのよ。
とくべつおいしかったら、永久に大祭史に名がのこるのよ

競争がはげしいの。生まれたときからその日のために努力するの。
すこしでもおいしくなるよう。あたし自信があるわ。
発育が悪いとそりゃみじめなものよ。
並肉でだめならハムかソーセージ。
もっと悪けりゃ畠の肥料……」”p.171-172

どうせ死ぬなら生きてきた意味と栄誉が欲しい。この報酬と引き換えにウスは命を差し出すのだ。
これはイノックス星の存在からすれば残ぎゃくではない。相互理解し、虐待などを禁じているのだからかなり良心(?)的である。傷つけずに管理するのに一番合理的だったからかもしれないけど。
だから、主人公が「残ぎゃくな風習」と言って食人をやめさせようとするが、ズン類の一人は「意に反すて生命をうばわれる」ことだと返す。

有史以来五千年間、食べる者、食べられる者 身分について疑問を持たれた例はかつてない。おおきな視点でみれば食物連鎖の一環に過ぎない。ウスは草を食い ズン類はウスを食い 死ねば土にかえって草をそだてる。うらみっこなしでしょうが。と風呂に入っていたズン類は風呂から出てウス女性に体をふかせたりマッサージさせたりしながら言う。

正論ゆえに恐ろしい。
言葉は通じるのに話が通じない奇妙な恐ろしさだった。


あ、これって人口爆発対策になるね。これから本当にそうなりそうだな。食料がなくなるから。人口減らしつつ食糧確保。うげげ。

あなたは、
米を食べるなんて残虐過ぎる!
すぐにやめなさい!
だって、相手の了解をとらずに一方的に斬り殺して死体を煮て食べるなんておかしい
!」
と言われて、米を食べるのをやめますか?

稲は人間の食料にされているが、それは同時に、稲は人間に種の保存を補助させているともいえる


主人公の子孫がやってきて、今度はウスがズン類を食べるのが当たり前になっている世界になっていたという続編を考えた。
が、それ単なる地球だった。否、牛の知性は人間と同等ではないから事情が違うな。

言葉だ無理なら暴力しかないと大祭を中止させようとするが無理だった。
ウスのエサである木の実や草を食べながら主人公は、救助船が来ればうまいビフテキが食える 人造肉じゃないのを腹いっぱい! と思ったり、
鼻輪をつけながら星際法(国際ではない)ってものがあるんだぞ! カストル条約にてらし宇宙連合に提訴し、聯合艦隊をくりだして
 おまえらをビフテキに――など叫んだり、
最後のコマでステーキを食べて泣いたりしている
のですが、
この地球人の主人公の考えはまんまズン類=牛人間と同じ構造だといういうことに本人はまったく気づきません。
主人公はズン類を食べるための牛だと見ていましたし。
人造肉。たしかにズン類がウスからつくった肉も人造肉ですな。

第一処理室で消化器系統を洗浄され、
第二処理室で血をいれかえられ、人工血液により麻酔と味をつけられ、
第三処理室で香料風呂に入ったミノアは食われ、食われている最中で人工心肺につながれて首だけになっておいしいと言う賛辞を聞きながら喜びそして死ぬのでしょう。
ズン類とウスにとってはハッピーエンド。
主人公にとってはバッドエンド。

ちなみに、若い女性の肉がおいしいとは限らないそうです(どこ情報?)。おっぱいは脂肪の塊ですので燃料に使われます。骨はどうするんだろうね。
ウスの味覚は描写されていないので分りませんが。
カノッサの屈辱的には
女性=医薬用外劇物、だそうですから当然ですね。


おまけ
猿は肉を食べるのか その1【20121125】
http://www.mkmogura.com/blog/2012/11/26/1218

猿は肉を食べるのか その2【20121126】
http://www.mkmogura.com/blog/2012/11/25/1211

人は人を食べるのか【20121127】
http://www.mkmogura.com/blog/2012/11/27/1224


女性を、“医薬用外劇物”
“「クリスマス」は異性との生殖行為を誘発するための日”
だと定義づけた貴重な、女性の化け学をかたる動画

クリスマス化学史 元素記号Hの発見
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18681098?group_id=deflist
日本のクリスマス
“「もみの木」はドイツ、「サンタクロース」はスウェーデン、「くつ下」はトルコ
「七面鳥」はイギリス、「きよしこの夜」の曲はオーストリア


ミノアが最後当たりの場面で見につけている、○+Tみたいな円形の取っ手の付いた十字は、古代エジプトにおける生命の象徴アンクだね。
もしかして○の部分は太陽で、Tの部分は南十字星?
キリスト教十字のモデルかもね。

エジプト十字(エジプトじゅうじ)とも呼ばれる。そもそも、 Ankh という古代エジプト語自体が生命を意味しており(ツタンカーメンの項目の語源解説を参照のこと)、生命的宗教的象徴とされる。
ツタンカーメンも Tut-ankh-amen の ankh の部分にこの文字が用いられている
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%AF
アンクについて
http://www.karakusamon.com/egypt/ankh.html

ツタンカーメン(トゥトアンクアムン、Tutankhamun[1]、Tutenkh-、-amen、-amonとも。紀元前14世紀、紀元前1342年頃 - 紀元前1324年頃)は、古代エジプト第18王朝のファラオ(在位:紀元前1333年頃 - 紀元前1324年頃)。より厳密な表記ではトゥト・アンク・アメン (Tut-ankh-amen)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3
父アクエンアテンの生存中に、唯一神アトン信仰が説かれていたためにトゥトアンクアテン(Tutankhaten、「アテンの生ける似姿」の意)[2]と名乗っていた。アクエンアテンの死後、即位すると伝統的な神であるアムン=ラー(アメン=ラー)[3]の信仰を復活させ、トゥトアンクアムン(「アムン神の生ける似姿」の意)と改名した。


一千年後の再開
 盲亀の浮木・優曇華の華。
もしかしたら、漫画で出てきたゼロよりは大きい最低確率で、ギネス記録かもしれないね。


・ヒョンヒョロ
藤子・F・不二雄 「ヒョンヒョロ」
http://www.youtube.com/watch?v=1wRF8xmAwn8


【藤子】ヒョンヒョロ【短編】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7521671


よりコメント抜粋


ヒョンヒョロ※ジョジョ7部のD4Cの元ネタだろうなとなりのせかい・・・?
ここの宛名が重要なわけね
↑ あいらぶ湯
<◎>  <◎>ボクヲ ツカマエタ ツモリ?幼児言葉
たぶん緑色の大男も宇宙人だな
「常識」ってのがね
「誘拐されるのは子供」という固定観念が、後の大惨事を招いたのか・・・
子供を巻き込まないでくれ・・・これ伏線な
まーちゃん以外の人類全員誘拐されましたあれは息子に対しての脅迫状、そして誘拐の対象は・・・ウサギ族には子供がいない、つまり子供だからという概念は・・・↑いや子供以外を誘拐するのは当初の予定からだぞ だからこそ最初の宛名は「子供宛」だったんだよ
まー君が隣の世界に誘拐されて、あえてそっちを描いたのかと思ってた(隣の世界はドラえもんで言う鏡の世界みたいなもんかと)
子供を巻き込まなかったことの伏線は「それによって、ヒョンヒョロの正体が絶対に露見しなくなった」部分だよな。
「子供は巻き込まない」って約束しちゃったからもう渡す機会ないよ
たかだか地球人ほぼすべての命であの星人からひょんひょろ守ったんだから、結果勝ちでは?大うさぎが「うちの子供と関わらないでくれ」という約束を遵守したら永久に・・・


←何故って事件性もないことに呼び出されたら怒るでしょ
藤子世界って男性の身長低いよね 女性の方が高い傾向がある
Fはドラえもんを「子供を見降ろさない高さ」に設定している
藤子作品の大人「非常識から目をそらす」
まあ確かに死体の肉片食ってるな
俺の持ってる版だと おかしな人→きちがい になってるな
修正前のセリフ「精神病の血統はないんだけどな」
精神病→変な病気、に修正した意図が分からん。精神病は別に差別用語じゃないだろう…
小学館の言葉狩りに酷さは異常
分裂繁殖すげえww
あんたが今やってるのはひょっとして
生体の組織に異物を挿入しこれを破壊しようという試みではありませんか。
ならば無駄です次元が違う。

日本の漫画の言論統制が酷い件【言葉狩り】
http://narcissu.doorblog.jp/archives/20775737.html

大きなうさぎ型の地球外存在の名前はヒョンヒョロではないが、大きな以下略は長くて面倒なのでヒョンヒョロをうさぎっぽいこいつ↓の呼称にするかもしれません(ではこいつの名前を「うさヒョン」にしようそうしない)。
   /∥    ∥ヽ
         | ∥    ∥  |
         |  ∥   ∥  /
        ヽ ∥   ∥ /
         ヽ ∥  ∥ /
         ┴┴─┴┴ - 、
       /             ヽ
      |     MM  MM   |
      |     (゜ ) (。)   │
    三三/⌒    ⊂⊃   ⌒三ミ   
      \____人_______ノ
 Ci^iっ  |       \|/      |
  ヽ \┌─────────-、
   ヽ │ ○   \Δ /  ○ i \
      |        /      |

大人が理解できない存在。なかったことにしたい存在
・子どもだけに見える空想上の友達――ではなく実際は別次元の宇宙人
・単性生殖、分裂による増殖を行う生物
・地球人の次元の干渉が一切不可能な存在
・自分の手紙を読むのがとても恥ずかしい



冒頭の“あいらぶ湯”p.210でなごむとびっくり仰天度が増しますな。

きょうはく状
ヒョンヒョロをください
くださらないと誘拐するてす
マーちゃんどの
”p.212
(する「で」すではなくする「て」す)

宛先がマーちゃんであって両親ではない。
(そもそもあのウサギもどきに子どもと大人区別があるのか不明。分裂で増えるのはわかっているけど)
あと何を誘拐するかを書いていない。
人間の子どもは誘拐される対象だという「常識」で大人たちは対応する。警部らしき人が幼児言葉なのはわざとだね。

保護するためにマーちゃんは遠ざけられる。ヒョンヒョロの意味を知っている人が関われなくなってしまった

マーちゃんは大うさぎを両親の前に連れてくるが両親は幻覚として無視。徹底的にスルー。

葉ッパヤ魚ノ死体ヲ食ウデスカ?
タイヘン素ボクナ食事デアルネ
。”p.219

両親無視。
寝室で両親が、なんでマーくんがあんなになったのかと話をする精神病のけはないんだけどなあとかいって口論になるも仲直りしチューしたあとで二人目をつくるんですかねというところにうさヒョン乱入。
風でドアが開いたと両親は華麗にスルー。

ドウシテヤメルデスカ キョウミアルデス。
ボクノ星ノ生物ミナ分裂繁殖。
イッペン有性生殖ノ実サイヲ観察シタカッタデアリマス
。”p.225

ウサギ族ちゃんには子供がいないだろう(大きさは半分なのかは知らない。一気に三体以上に分かれるのかもしれない)。
ボクという一人称があるが、分裂生殖に異性は不要なので、おそらくは股間のかたちが人間のオスににているからボクにしたのかもしれないし、ボクは女性でも(俺よりは多分)使うので僕が異性も同性も好きになれないのはきっと自分が実は異性生殖生命体にたまたま似ている単性分裂生殖生命体だったんだ――!
話中断――、「私」でいいじゃんそれなら。
おちけつ私!

皆分裂生殖ってことはヒョンがいるところはヒョンみたいなのしかいないのか、他の生物も分裂するんだろうな。

地球の風俗を考証しても、子どもと大人の区別は暗黙の了解なので調べた資料には書かれていなかったのかもしれない。
息子に対しての脅迫状を送ってもなんらおかしくない。
そして誘拐の対象は、子どもと大人を区別しないうえに、人数は書かれていない(もしかして数と言う概念がない? いやいや分裂という概念があるなら数の概念はあるはず。場所と時刻指定の概念もあるし)。
脅迫状の誘拐対象を書かなかったヒョンちゃん側も問題だな。
子どもと大人を区別しない(というよりそういう概念がない)うさぎ存在との対比だね。

出て行けとパパがものを投げる。このときはじめてパパとママはともに同じものを見ているとわかり、でかいうさぎもどきが本物だと確信する。
自分以外にも見えているかどうかもっとはやく確認すればあの悲劇は――否それでもさけられなかっただろうね。

小さな子どもには現実と空想の区別がつかないとパパは言うが、両親の方が現実と空想(幻覚)の区別がついていない皮肉。

で、“続きょうはく状”(日時と時刻が指定されている)を警察に届け、パパはどなりながら依頼する。
誘拐予告犯が警官の目の前にいたりして混乱する警部らしき人。
誘拐のお手本を見せるためにパトカーと運転手をトナリノ世界へと送る。
平行世界なのかひょんうさぎの世界なのか別の世界なのかはわからない。
狂乱の警部はうさぎもどきに手錠をかけたり銃をぶっぱなしするが無効。

“アンタガ今ヤッテルノハヒョットシテ、
生体ノ組織ニ異物ヲ挿入シコレヲ破壊シヨウトイウココロミデハアリマセンカ。
ナラバムダデス次元がチガウ
。”p.231

三次元より上の次元では三次元のようにものとものが衝突することはないから当然、手錠や銃も無駄。高次元から射影で三次元世界に存在しているのがこの兎なのだろうか。うさぎが本来四次元存在なら、この兎のすがたは四次元存在の「断面」=三次元立体、であるが、このようなはなしは別の機会があればすることにする。
ドラえもんの四次元ポケットにあんなにも詰め込めるのは、この「詰め込む」ということ自体が四次元では当て嵌まらないからだ。四次元では三次元のようなものとものの衝突はありえないから

これいじょう子どもをまきこむのはやめてくれ、とパパは頼むが
エッソレハチョットオカシイノデハ……
という大きな兎。
となると、うさヒョンには子どもと大人の区別がついていることになるな。
でも子どものマーちゃんはきょうはくのまさに当事者である。
だって最後の場面で明かされるが、ヒョンヒョローって落ちてきた星(のかけら)こそがヒョンヒョロなのであり、マーちゃんが持っているのだから

マーちゃんにひょんうさがきょうはく状を送ったのは、そのマーちゃんこそがヒョンヒョロの所有者だからだ。
例えばヒョンヒョロ初版版を要求するならば、ヒョンヒョロ初版版を持っている人に要求するように。
しかし変則ダガヤクソクスルデス。
と言ったように子どものマーちゃんをまきこまないことを約束するでかうさぎ。
もはやヒョンヒョロを渡す機会は失われ、ヒョンヒョロの正体が絶対にわからなくなってしまう。

時間通りにパパが
宝石や札束=石ころと紙クズ、をもってくるがうさぎは激怒。
ヒョンヒョロとは何かと大人たちはきく。

“宇宙最高最大ノ価値アル、アノヒョンヒョロヲ!?
非常識ナ! アマリニモ非常識ナ!!
イーヤ信ジラレナイ!!“
p.237

知っているのに知らない振りして誤魔化したと思ったのだろう。
これが兎側の「常識と非常識」だ。

誘拐ヲ実行スル!!”p.237
    |  ∥        //    “LW”  
 実”      ヽ ∥       //      ノ  
“行        ヽ ∥     // /    .誘    
 ス        ┴┴───くY/     .拐  ..
ル      /  ミ m三三三mlllヽ      ヲ
 !!     /  ;;;ミ( \三三/);;|     
       三三/⌒彡彡 ̄(⌒)⌒三ミ
       / ;;;;;人____人__ノ
       / ;;;;;;|l||||||||||||\レ|lll/;;;)
      /  ;;;;;;\llll⌒Y⌒|llll/;/
Ci^iっ  /       \___)/
 ヽ \┌─────────-、
  ヽ / ○   \Δ /  ○ i \
    |          /     |


ヒョンヒョロ所有しているマーちゃん以外の全員が誘拐されてしまったというおち。


うさぎちゃんをドラえもんで置き換えて読み返してみよう。
ドラえもんが受け入れられたことが最大の謎
だとわかるから。

このうさぎはD4Cの元ネタと言っている人がいる。
D4C(いともたやすく行われるえげつない行為)とは、漫画スティール・ボール・ランの登場人物である、ファニー・ヴァレンタイン大統領の持つスタンド能力である。

ファニー・ヴァレンタイン
http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3
”非常に長いスタンド名なため、作中では「D4C」と呼ばれる。物同士に挟まれる事により無数の別次元に移動する能力を持つ。別次元の物を持ち込む事もできるが、同じ物同士が出会うと破壊されてしまう。人間も同様。例外は大統領のみ。自分自身は例外なのを利用してダメージを受けた時、別次元の無傷の大統領と入れ替わってくる事ができたり、平行世界の自分を基本世界へ連れて来て共同で相手を襲ったりできる

詳しくは『D4C』の項目を参照。

D4C -ラブトレイン-

終盤においてD4Cが大統領の所有する遺体(遺体化したルーシー)の力を得た際のスタンド名。遺体を軸にして空間に次元の狭間が出現し、大統領のみがその次元の狭間に入ることが出来る。次元の隙間にいる限り、大統領に対するあらゆる攻撃が無効化し、この世界の誰かがその攻撃を代わりにくらう。即ち、(大統領にとっての)幸運のみを残し不幸を地球上のどこかに吹き飛ばすというとんでもない能力である。ただし”未知なる回転エネルギー”は例外で、次元の壁を打ち破り対抗することができる。”

http://dic.nicovideo.jp/a/d4c
”そっくりそのままの少しだけ違う世界を行き来できる能力を持ち、移動の際には何かの間(ガラス片や水滴のような液状物でも可)に挟まることが必要である。
また、対象を何かの間に挟むことで、それを別世界へ送ることもできる。

一つの世界に「同じもの」は大統領本人を除いて存在することはできず、同じ者同士が出会ってしまった場合、それらはお互いに細切れのスポンジのように崩れ、消滅を始める。(つまり、別世界から金を持ってきても消滅してしまい、お金持ちにはなれない。)
複数の世界から大統領を複数人連れてくることもできる。

さらに、同じ空間上に隣の世界の出来事を同時に起こす事も出来る。
隣の世界は基本的に基準の世界と同じ運命を辿ることになり(時差は有るが)、大統領本人がその運命に干渉できる。

能力の特性上、たたきつけたり、挟み込んで押しつぶすような攻撃が通用せず(Dioの場合は「手刀で突き刺す」方法で攻撃、実際効果はあった)、大統領を絶命させることができずに別世界へ逃亡を許した場合、別世界の『無傷』の大統領が入れ替わり襲いかかってくることとなる。

なお大統領自身は意識を共有しており、作中ではすでにDioとホット・パンツによって3人は倒されている。しかしそのたびに『別次元の大統領』を連れてくるため、実質不死身も同然である。倒すには新たに『別次元の大統領』をつれてくる前に、大統領を全員殺害するしかない。ただし平行世界移動能力を持つのは基本世界の大統領のみであり、他の次元のD4Cは単純な近距離パワー型スタンドと思われる。

”D4C-ラブトレイン-

【破壊力 - A / スピード - A / 射程距離 - C / 持続力 - A / 精密動作性 - A / 成長性 - C】

聖なる遺体をその身に宿したルーシー・スティールを中心に世界中からルーシーにとって「吉良(きちりょう)」なるものが集まり、反対に「害悪」となるものは遠くへとはじかれていく。
その過程でできたルーシーを中心として放射状にできる空間のすき間をD4Cは移動することができる。
すき間にいる大統領およびD4Cへの攻撃(害悪なるもの)はそのすき間の延長線上にいる誰かに何らかの不幸という形でふりかかり(ヘタをつかまされる)、大統領に敵対する人物が何らかの形で負った傷(これも害悪なるもの)もはじかれてその心臓や頸動脈などに到達する。
これを利用して大統領はすき間から一方的に攻撃を加えることが可能になり、その攻撃によって負った傷はかすり傷でも致命傷となる。
また攻撃を加えたものはすき間からヘタをつかまされた誰かの不幸を目の当たりにすることになる。


言葉狩りについて

いかなる言葉も差別用語にすることができる!
「食べ物」を差別用語にして見せよう
「人間」を差別用語にして見せよう
「差別用語」自体を差別用語にしてみせよう

http://www.nicovideo.jp/watch/sm7521671にあるコメント抜粋(今はあるかわかりません)


俺の持ってる版だと おかしな人→きちがい になってるな

小学館の言葉狩りに酷さは異常

修正前のセリフ「精神病の血統はないんだけどな」

精神病→変な病気、に修正した意図が分からん。精神病は別に差別用語じゃないだろう…“

そう、しらないひとがきいたらきちがいだと思うよ。
きちがい→おかしな人
言葉を変えてごまかしても子ども使いまくってるんですけどきちがいって言葉。むしろ子どものほうがよく使います。
きちがいは異常な言葉狩りをする方だ。作者死んでるのに。


わが子スーパーマン
幼い子どもがスーパーマンの力を持ち、超ささいな悪いことをしたものにも過大な暴力を加えて「正義」を実行する話。
ヒーローもののテレビ番組の悪役の中の人をぶっ殺すのだから、現実と虚構の区別すらできていない。
強大な暴力を誰が持つか、使うかが大事だと痛感。
成長したらどうなるんだろうか。
個人が正義を行う時点で、客観的正義なんてありえないし。


・コロリころげた木の根っ子
谷崎潤一郎『途上』
江戸川乱歩『赤い部屋』
確率殺人
(蓋然性犯罪)
=成功する「かも」しれない殺人(事故・病死・老衰・自然災害・人間以外生物など)

昔のくみ取り式便所はメタンガスが溜まりやすいので、トイレでタバコ吸うと爆発したりする。
サルは致死性の感染症を媒介し得る

などなどを利用するのです。
糞夫作家がすべてを知っていたのならそれはそれで面白いな。ガス抜き工作?

不健康になる方法が書かれているので反面教師として健康になれるかもしれないサイト
http://white.ap.teacup.com/otokotosake/106.html
http://white.ap.teacup.com/otokotosake/107.html


『気楽に殺ろうよ』(小学館文庫―藤子・F・不二雄〈異色短編集〉2)
気楽に殺ろうよ (小学館文庫―藤子・F・不二雄〈異色短編集〉)気楽に殺ろうよ (小学館文庫―藤子・F・不二雄〈異色短編集〉)
(1995/07)
藤子・F・不二雄

商品詳細を見る


・ミラクルマン

木関(きせき)
=名前の通り奇跡を起こし、思った出来事を実現できるサラリーマン。
=奇跡↓

マンガ物理学
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AC%E7%89%A9%E7%90%86%E5%AD%A6
“マンガ物理学(マンガぶつりがく、Cartoon physics)とは、アニメーションでは通常の物理法則が、ユーモラスな方向で無視されるという事実を、冗談めかして指す言葉である。
例えば、カートゥーンアニメのキャラクターが走って崖の端を越えてしまっても、しばらくそのキャラクターに重力が作用しない、など。”

“空中、または水面を走ることが出来るケース 仲間が危機に陥っている、あるいは自身が敵に追跡されているなどの理由で忘我状態にある場合に限り、特殊な装備や能力を持たなくとも空中あるいは水面を走ることができる。ただし、本人が空中あるいは水面にいる事に気づくと落下あるいは落水する(ただし、溺れているように手足をばたつかせることで数秒間空中に留まれることもある)。『ドラえもん』の野比のび太や『ルパン三世』に例が見られる。より現実的な例としては、同様のきっかけによって足の悪い少女が歩き出すというものがある。”

VS
郷里(ごうり)
=木関の話を合理的に説明するサラリーマン。
=合理↓

夢の仕組み パノラマ視現象
http://d.hatena.ne.jp/ugon105/20101005/1286291962
“また、夢の中で飛び降りたら現実世界でベッドから落ちた、という経験はないでしょうか。仮説ですが、これは「夢の中で飛び降りたから現実でも身体が動いて落ちた」というより、「ベッドから落ちる"瞬間"に飛び降りる夢を見ている」のではないかと思います。事故の瞬間に走馬灯のように映像が浮かんでくるという現象も同じ原理だと考えます。”

・大予言
 脳はせいぜい少し先の未来までくらいしか考えるようにできていない。現在を最優先するのは当然。

・老雄大いに語る
 オチの後が気になる。

・光陰
時間が早く流れるようになる=状態変化が早まる、とする。
主人公たちの状態変化は早まっていなくても、周囲よりは遅くなっているならば、相対的に主人公たちの周りの時間が早く流れるようになっているので主人公の主張は正しい。

・幸運児
創造主は不平等待遇を採用しているなり。

中ピ連
=“中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合(ちゅうぜつきんしほうに はんたいし ピルかいきんを ようきゅうする じょせいかいほう れんごう)は1970年代前半に活動した戦闘的なウーマンリブ団体。中ピ連の略称で知られた。代表は元薬事評論家の榎美沙子。新左翼のものを模した♀印のついたピンク色のヘルメットと過激な活動内容でマスコミを賑わせ、当時の社会現象となった。”
“1973年10月23日には突如日本家族計画連盟主催の討論会「産児制限を考える」に乱入し、「ピルを解禁せよ」とシュプレヒコールをあげたほか、1975年4月5日には京都市内で開催されていた日本産婦人科学会総会に押しかけ、ピル解禁を政府に勧告するよう要求するなどしている。このほか人工妊娠中絶の制限を主張し国会で優生保護法改正を提案していた自由民主党の参議院議員、玉置和郎と当時その秘書だった村上正邦(後に自民党参議院議員、賄賂で逮捕)に対し、「優生保護法改悪反対運動」等と称し街頭で玉置・村上を四方八方から取り囲んでもみくちゃにしたり、玉置・村上の自宅や参議院議員会館に押しかけたりした[1]。

1^ 玉置・村上の支持団体である
宗教法人、生長の家が妊娠中絶に反対している。”のでこの団体が支持している人が叩かれたりしたそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%B5%B6%E7%A6%81%E6%AD%A2%E6%B3%95%E3%81%AB%E5%8F%8D%E5%AF%BE%E3%81%97%E3%83%94%E3%83%AB%E8%A7%A3%E7%A6%81%E3%82%92%E8%A6%81%E6%B1%82%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A5%B3%E6%80%A7%E8%A7%A3%E6%94%BE%E9%80%A3%E5%90%88

風の子 ‏@makeanovel·1月17日
間接統治などにマイノリティを使う
RT @kitsuchitsuchi キリスト教とその変形が大衆に八百長を見せている。在日とユダヤは単なるバイト
↓両方ともボスは和風キリスト教

自民党=ワールドメイト+生長の家+神道政治連盟
民主党=ワールドメイト+生長の家+スピリチュアル

和風キリスト教  紅卍字会

スピリチュアル
      ↑

金光教→大本教 → 世界救世教
      ↓  ↓  ↓
      ↓三五教 真光
      ↓ 神道=✝↓
      ↓→ワールドメイト
      ↓
   生長の家
→ 白光真宏会
    ↓
幸福の科学(+ GLA)


knznymmmy‏@knznymmmy
神道修成派の教庁は杉並区松庵。幸福の科学の総合本部が一時杉並区松庵に置かれていた。大川隆法(中川隆)の父で善川三郎(中川忠義)はGLAに籍を置いていたが生長の家に生長の家に池田大作氏も傾倒。生長の家の谷口雅春氏は大本の出身。
大本の聖師出口王仁三郎は御嶽教で免許を授かっている


yamtom/山口智美‏@yamtom·5月27日
日本の右派の歴史に、生長の家が果たした役割も大きいし、日本会議を支えている最大の団体は神社本庁だし。70年代以来、フェミニズムは、とくに妊娠中絶をめぐって、生長の家と闘ってきたともいえるし。


生長の家の現役・過去の幹部・有力信者
http://blogs.yahoo.co.jp/mikaeru0628/38314807.html
”>そもそも「生長の家」なるカルトはいったいだれが入信しているのでしょうか?

確か、竹内まりや・・・。良い歌歌っているのに残念ですね。
選挙パワーだけなら創価学会が最強です。しかし、生長の家の
恐ろしさは、楯の会、一水会、在特会、つくる会、日本会議、
チャンネル桜、頑張れ日本はすべて、生長の家
のカルトであり、
右翼組織という暴力装置を支配しているのが生長の家の特徴の
1つ目であり、2つ目の特徴は、生長の家から、法の華三法行、
幸福の科学、白光真宏会、国際正法協会
といった、問題の
カルトを多数輩出している点、この2つの危険性です。GLAも
実質は、生長の家の講師だった園頭広周が内部に潜入して、
教団をGLAと国際正法協会の2つに割ったことから、生長の家の
影響下です。幸福の科学の教祖である大川隆法は、昔、生長の家と
GLAの2教団に入信しておりました
。これで、分かるでしょ、
生長の家のヤバさが。

~生長の家の現役・過去の幹部・有力信者~

★→生長の家の確実に信者
☆→生長の家の信者疑惑あり

★鈴木邦男
⇒一水会の最高顧問、産経新聞社の元記者

★大川隆法
⇒幸福の科学(カルト宗教)の総裁

★古賀浩靖(改名後:荒地浩靖)
⇒楯の会(三島由紀夫が創設した右翼テロ組織)のメンバー、
生長の家の幹部、生長の家の第2代総裁である谷口清超の娘婿

★小賀正義
⇒楯の会(三島由紀夫が創設した右翼テロ組織)のメンバー

★松浦芳子
⇒楯の会(三島由紀夫が創設した右翼テロ組織)のメンバー、
チャンネル桜の発起人の1人、頑張れ日本(右翼団体)の
事務局長

★高橋史朗
⇒チャンネル桜の発起人の1人、新しい歴史教科書をつくる会の
役員

★伊藤哲夫
⇒日本会議(生長の家{カルト宗教}の傘下の右翼政治結社)の
常任理事

★福永法源
⇒法の華三法行(カルト宗教)の教祖



★園頭広周
⇒国際正法協会(カルト宗教)の教祖、GLA(カルト宗教)の幹部

★五井昌久
⇒白光真宏会(カルト宗教)の教祖

★井脇ノブ子
⇒衆議院議員、小泉チルドレンの1人、中曽根康弘
(内閣総理大臣)の秘書

★衛藤晟一
⇒参議院議員、安倍晋三(内閣総理大臣)の兄貴分

★村上正邦
⇒参議院議員

★竹内まりや
⇒歌手

☆平沼赳夫
⇒日本維新の会の国会議員団代表、たちあがれ日本の発起人、
経済産業大臣、徳川将軍一族

☆稲盛和夫
⇒京セラの創業者、KDDIの創業者、JALの名誉会長

☆リチャード・コシミズ

⇒ただのデブ、バイセクシャル、嘘つき、精神病患者

<おまけ>
え~~と、独立党の東北支部の渡部という男が、
生長の家に入信している可能性が強いと私は思っております。

独立党とチャンネル桜を繋ぐものは生長の家。
311当時、被災した渡部さんは、なんと独立党の天敵であるはずの。
チャンネル桜のインタビューに答えて、
しかもチャンネル桜の「2000人委員会の方」として紹介されておりました。

独立党には生長の家もいっぱいいるということです。(高英の言うとおりだ!)
リチャードもそうじゃね?



チャンネル桜は統一教会ではなく、
生長の家が母体になっているようです。

~チャンネル桜の発起人と役員と番組審査員の名簿~
☆発起人☆
★田形竹尾
誇りある日本をつくる会の会長、日本書道教育学会の参与
★梅沢重雄
日本航空学園の理事長、中国国際商会四川商会国際顧問
中国西部国際博覧会組織委員会国際顧問、JAA財団の会長
★松浦芳子→生長の家系
生長の家の信者、楯の会のメンバー、頑張れ日本!の事務局長
★高橋史朗→生長の家系
生長の家の信者、新しい歴史教科書をつくる会の役員”
”この一水会の鈴木邦男さんが、赤軍派の塩見孝也とかオウム村井を刺した徐さんとか、関東連合の中野ジローさんとかとも仲がいいのです。
(自分のお誕生日パーティーに呼んでるから~~~
w)”

・やすらぎの館
 主人公にやすらぎの館に浸らせて厄介払いしようという作戦だったのかもね。
 大きな家具と巨人症の女性により幼い時代に精神後退させる。ガキ大将を母親役が追っ払うことによりお客の母親役に対する依存度を上げ成功率をあげる。真っ白な空間すなわち周りの小道具を置かないことで想像力により更なる幼児退行を促す。すべての義務から解放されすべてを母親に委ねるやすらぎを味わいつくす

これは逃れられない快楽ですな。箱男みたい。


・定年退食
鳥の鳴き声はするが、鳥の姿がまったくないので食べられてしまったか環境汚染で死んだか他の土地に移住したのだろう。いてもロボット鳥だし。
肥満剤と満腹感剤を使う程切羽詰まっているのになんで畑だらけになっていないんだよ。牛肉作るよりは鶏肉の方が餌に比べて肉が得られる量が多く、イナゴなら更に多い。虫を食うのが盛んになるはずだしするだろう。汚染で虫が死にまくったのかもしれないけど飼育箱で育てればいいし


定員法…非生産者となる定年のことを1次定年(56歳から)とし、国家の扶養を失う事を2次定年(75歳から)=切り捨てとする法律。
楢山節考首相が、定員法の更なる縮小を宣告し、一次定年56歳、二次定年57~72歳となり、主人公への食糧年金医療などすべての国家保障は打切りとなった。

・サンプルAとB
小森麻美作画。元ネタはロミオとジュリエット。
語り手は炭素系生物ではない(人間を炭素系生物と表現しているので)。
・p.117“各個体の外観は まちまちで 体の大部分は繊維質の外皮に包まれている。”
外皮=服。
p.117“上肢に持った金属片を 相手の体の中に挿入”
=剣術


語り手は金属系生物ではないだろう。金属系なら我々の一部などと表現するだろうし。プラズマ生命体かな

・p.118“彼等は二本の下肢の付根を支点とし 重心の移動によって前進する。”

彼等という表現から語り手は個体の区別がついている生命体であり、全員で一個体=群体ではないことがわかる


受光孔(眼)と太陽光で認識。
・大気の振動でコミュニケーションを行う


・p.120“石と木で構築された巣。巣に共生する他の個体 いずれもAグループ。サンプルAと近似点多し。以下A´と呼ぶ。A´´と呼ぶ。台上の物体には かつて生命活動を おこなっていたらしい形跡がある。A、A´、A´´はこれを身体上部の穴へ押しこみはじめた。”

サンプルA=ロミオ。Aグループ(モンタギュー家陣営)

・p.121“彼等は これを摂取 することによって 身体構成素子を増殖し活動のエネルギー源としているらしい。 数時間後 不要物質の排出が見られた。 摂取→排出孔は 曲りくねった長い管で接続されている。 極論すれば この生物のモデルは 一本のチューブで表わし得るわけだ。 その後の観察によって チューブを満たす行為は彼らの日常生活の 主目的となっていることが明らかにされた。”

・p.122“彼等の目的地は Bグループその他の大群生地であった。これは先刻の激しい反発ぶりからみて不可解というほかはない。
群は上肢をつなぎあい律動ある単調な運動をくり返している
。”

手をつないでダンスしている。観察存在には戦いの訓練という概念がないのかもしれない。

・p.124“一つの因子と推定されたのは頭部表面の凹凸である。 他の個体の観察例を集計した結果 凹凸の微妙な差と異変との間に明らかな相関関係が示された。”

美醜=頭部表面の凹凸の微妙な差。
美人=「異変を起しやすい」絵と、不美人=「きわめて起しにくい」絵が描かれている


・p.125“二個は発振孔を接した。前述した通り発振孔は栄養摂取孔をもかねている。 彼等はこのような時にも栄養摂取欲を失わないのである“
キスの起源は口移しかも


・p.126“AはBグループ群生地に引き返しBの静止室に接近した。
註:彼等は 生活単位時間の 三分の一を静止状態で過す。このための区画が静止室だ。”
観察存在に睡眠の概念はないのだろう。
・p.128“静止不足”=睡眠不足。
・p.129“A、B両者が恒常的に近接して存在したい”=結婚したい



・p.130“この儀式には A、B、Xの他に第三者が介在していたようだ。「至高の存在・万能者」などとXは呼んでいた。 そんな高等動物にならぜひ会ってみたいと 手をつくして探査したが ついに発見できなかった。”
儀式=ロミオとジュリエットの内密の結婚式
X=僧ロレンス。
ゴッド=高等動物、ならば探査すれば見つかるはずだという合理的思考


・p.132“鉄片はa´の中に吸いこまれた。 組織が破壊され搬送液がまきちらされた。 a´は生命活動を停止した。 おどろくべきもろさである。 こんどはAがbの生命活動を停止させたのだ。 前出の規制者(Zと呼ぶ)がきた。 ZはAに対し棲息地を遠く移すことを命じた。 A、Bは永遠に離れて存在することを強いられたわけである。”
語り手は人間よりは死ににくいらしい。

・p.133“Bは受光孔から液体を分泌した。この液体は他の個体の思考波に影響を及ぼすものらしい。Yは影響された。”
涙。

p.134“外皮を取り去った両者の体には相違点がある。 他のあらゆるサンプルについても この相違点は認められた。種族の違いか? それとも単なる個体差か? ともあれAとBはその相違点を奇妙な形で利用しあったのである。 この行為は相求める両者の欲求の帰結であったらしい。AもBも深い充足感に満たされた。 相違点の利用は夜中 飽くことなくくり返された。”

相違点利用図=女性器及びその内部の男性器を示す断面図。
交尾しまくったということ。
=有機物質で構成された先が丸い円柱状のものを、同じく有機物質の壁によって構成された蠕動する窪みに挿入する行為の繰り返し。
充足感という概念などから、観察存在は人間に似通っている(そもそもそうしないと人間が理解できない)。

・p.135“朝をむかえ A、Bは大気振動を交わす。 以下はその大意である。
 ちがう あの大気振動は昼行性飛行小型生物によるものではない。あれは夜行性飛行小型生物のものである。
 事実と相違する。遠距離上方を受光せよ。 分裂していく浮遊水滴集団をふちどる朝の光を ただちにこの位置から移動しなければ 生命活動停止あるのみ。
それもよい 光は衛星からのものと仮説する 大気振動は夜行生物のものと仮説する。 Aも移動したくはない。現状の継続こそ望ましいのだ。
いや朝だ あの不快な大気乱振動は昼行生物のもの。時間を消費せず移動せよ。光量が増大してくる。
Aは長距離移動した
。“

ここで中野好夫訳『ロミオとジュリエット』(新潮文庫)の該当箇所が登場する。これは気が狂っていた(虚航船団風)ということはない。
p.135あたりから始まる第三幕 第五場が元ネタ。
p.136”ほら、御覧、あの向うの東の空、別れていく雲の裂目を縁どって、あの意地悪い朝の光を。(中略)往って生命を助かるか、ぐずぐずすれば死があるだけだ。“
観察している存在は昼夜の区別があるところに住んでいるのだろうか。

p.136より観察存在も生命活動停止は一大事であることがわかる。
p.137“恒常的近接生活は 通常 非生命体との間にはおこなわれない。 したがってBは「元生命体貯蔵所」に放置されるはずだ。”
p.138“頭部保護細管”=頭髪


・休日のガンマン
虚構を楽しむコツは俗世間のことを持ちこまないことさ!
このテーマパークってリピーターが少なそうだな。金持ち以外。
現実世界での資金力と立場が反映されるテーマパークなんて願い下げさ!

・分岐点
辿らなかった方の人生の分岐点を辿っても特別良いことなんかないよ。

・換身
藤子先生作品では男は女よりも背が低くて太っているな。

・気楽に殺ろうよ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97%E6%A5%BD%E3%81%AB%E6%AE%BA%E3%82%8D%E3%81%86%E3%82%88
“価値観の変わったもの[編集]
食欲と性欲
種の保存と繁栄に必要不可欠な性欲は公益的性格を持つが故に罪深いものではなく、むしろ個体の生存にのみ必要不可欠である食欲の方が独善的性格を持ち、罪深く恥ずかしいことである。そのことからすると、性を扱った本や映像記録を持つことは恥じることではない。そのため、子供用の絵本であるはずのシンデレラが結婚したシーンに、王子とシンデレラが性交をしている描写がある。逆に食事中の写真をもつ事は恥であり、またポルノの換わりであるという事になる。ちなみに病院の先生は乱食パーティーの写真や8ミリをコレクションしていた。

平日と休日
月曜日が休日となっていることから、日曜日が平日になっている。

公共交通機関
主人公の知り合いが、切符を値切っている。

殺人
殺人が公認されているのだが、1人殺すためには子供を1人作って権利書を貰う必要があると考えられる


登場人物[編集]
主人公
名字は河口で、名前は不明。突然価値観が違う世界に入り込んでしまう。

主人公の妻。夫がおかしくなったと感じ、病院に行くように勧める。
先生
主人公の担当医。
学生のカップル
体型が父親に似た赤ん坊をゴミ箱に捨てて、新しい子供を作るべく駅のプラットホームで性交しようとしたが、駅員に注意される。
駅員
子供を捨てたカップルに対して、「ちゃんとスペア(次の子供)を作ってから保健所へ電話するのが順序だろ」と注意
をする。


・ウルトラ・スーパー・デラックスマン
USDマンと略される。

【藤子】ウルトラ・スーパー・デラックスマン【短編】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15927984


ウルトラスーパーデラックスマン
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13714659

マンガ物理学
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AC%E7%89%A9%E7%90%86%E5%AD%A6
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永井均の著作三冊:『子どものための哲学対話』・『翔太と猫のインサイトの夏休み』・『私・今・そして神』 

永井均『子どものための哲学対話』

子どものための哲学対話子どものための哲学対話
(1997/07/23)
永井 均、内田 かずひろ 他

商品詳細を見る


子供から〈子供〉までの超難問集。
小学生でも読める。
でもわからないかも。
大人でもね。
いや、大人だからこそかな。
本書は何よりも
〈子供〉のためのものだ。


※引用ページは、文庫になる前(哲学本が文庫になるってすごいと思う)のハードカバー本のものです。

永井均,内田かずひろ 『子どものための哲学対話』講談社,1997

※講談社文庫版発売日 2009/08/12
子どものための哲学対話 (講談社文庫)子どものための哲学対話 (講談社文庫)
(2009/08/12)
永井 均、内田 かずひろ 他

商品詳細を見る



二人の人がそれぞれ一つの穴を掘っている。
Aさんが掘っている穴Aの傍には「ボクは今 世の中のためにあなを掘ってます」と書かれた看板がある。
Aさんは、「ヘイ! どう!? ボクのあな!! かんそうおまちしてまス」
と外の人に言ってます。
一方、
穴Bの側には看板が立っていない。穴Bを掘っているBさんは、外に一切話しかけず、「ああ あなをほるのはたのしいな」と心の中で思いながらニコニコして穴を掘っている。

Aはネクラ
…表面的な明るさや暗さではなく「根」が暗い。外部に意義を求める、他人に認めてもらわなくては満たされない人。それが下品ってこと。

Bはネアカ
いつも自分の中では遊んでいる人。「根」が明るい。なにかの目標のために努力しているときも、なぜかいつもそのこと自体が楽しい人。
根本的に、自分自身で充ち足りていて、意味のあることをしていなくても、他人に認めてもらわなくても、ただ存在しているだけで充ち足りている。
それが上品ってこと



根が明るくて上品な人が、自分の遊びのために他人を酷い目に遭わせることは勿論ある。あまりないが、絶対ないとは言えない。
上品な人は道徳的な善悪なんてあまり重視しないから、けっこう平気で悪いとされていることができる。
逆に、下品な人は、道徳的な善悪を重視しがち。なぜなら、自分の外側にしか、頼るものがないから。
それなら、上品な人があまり悪いことをしないのはなぜか。
将棋で例えよう。
上品な人は、勝つという結果が絶対に大事ではなく、勝とうとしながら将棋をするという「過程自体」が大事だから。それが将棋が遊びになったということ。達成目標第一主義ではないってこと。
だから、インチキをしてでも勝つってことはしない。インチキをしてでもわざと負けることはあるかもしれないけど。
下品な人が上品になったり、上品な人が下品な人になったりすることはもちろんありうる。


第一章 8 こまっている人を助けてはいけない?

ぼく:こまっている人や苦しんでいる人がいたら、やっぱり助けてあげなくちゃいけないよね? 助けてあげるべきだよね?
ペネトレ:いや。こまっている人や苦しんでいる人を、やたらに助けちゃいけないよ。そのときかぎりの単純なこまりかたの場合ならいいよ。たとえばけがをしたとか、さいふを落としたとかね。でも、もっと深くて重い苦しみを味わっている人を助けるには、きみ自身がその人の苦しみとおなじだけ深く重くならなくちゃならないんだ。そんなことは、めったやたらにできることじゃないし、できたとしたら、きみの精神に破壊的な影響を与えることになるんだ。もし、「きみ自身が深くて重い苦しみを味わったことがあるなら、それとおなじ種類の苦しみを味わっている人だけ、きみは救うことができる可能性がある。」そういう場合だけ、相手が助けてもらったことに気がつかないような助けかたができるからね
ぼく:なんだかむずかしいはなしだな。
ペネトレ:そんなにむずかしいはなしじゃないんだけど……。じゃあ、これだけ覚えといてくれよ。自分が深くて重くなったような気分を味わうために、苦しんでいる人を利用してはいけないってこと……。“p.30‐31
※「」内は原文では太字


p.31の三コマ漫画
男の子
「どうしたの!? しょんぼりして…」
女の子(泣いている)
「あした えんそう会なのにワタシのクラリネット
“ド”と“ミ”と“ソ”と“ラ”の音が出なくなったの」
男の子
「ちょうどよかった
ボクは“レ”と“ファ”と“シ”の音が出なくてこまってたとこなんだ
協力してくれないかい」

二人ともクラリネットを楽しそうに演奏しています。
その光景を、ぼくとペネトレがにっこりして見ています。
※“”は原典では傍点

破れ鍋に綴じ蓋。


第一章 10 学校には行かなくてはいけないか?

“ぼく:猫はいいなあ。学校に行かなくてもいんだから。
ペネトレ:どうしてきみは、学校に行かなくちゃいけないんだい?
ぼく:だって、お父さんもお母さんも先生たちも、みんなそう言っているよ。
ペネトレ:世の中のいろんなことにはね。公式の答えというものが用意されているんだ。世の中をこのままちゃんと維持していくためには、どうしてもみんなにそう信じてもらわなくちゃこまるってことなんだよ。そういうものを、すこしも疑わずに信じられる人のほうが、うまく、楽しく生きていけるんだけどね。でも、もしどうしても信じられなかったら、無理はいけないな。
ぼく:信じなくてもいいってこと?
ペネトレ:小さい集団にはその外というものが必ずあるからね。外に出ればいいんだ。どうしても学校になじめなければ、行かなければいい。でも、死なないかぎり、この世の中そのものの外に出ることはできないな。『だから、世の中そのものが持っている公式の答え、世の中が成り立つためにどうしても必要な公式の答えは、受け入れなくちゃならないんだ。』すくなくとも、受け入れたふりをしなくちゃならないんだ。それさえどうしてもいやなら、死ぬほかない。あるいは、殺されるほかはない。
ぼく:殺される?
ペネトレ:たとえば、きみがもし人を殺してはいけないという世の中の常識をどうしても受け入れられなくて、受け入れているふりをすることさえもできないなら、そのことで、きみは殺されることになるかもしれないよ。きみの考えをきみ自身に適用することで、世の中はきみに復讐をするのさ。
ぼく:それって死刑ってこと? じゃあ、死刑は必要なの?
ペネトレ:刑務所の中で生きているのでは、世の中の外に出たことにならないとすればね
。”
p.35-36
※『』内は原典では太字


言葉の意味は必要から変わる

気が置けない
気を許せない、信用できない
気を使わずに、遠慮なくつきあえる


情けは人のためならず
他人に情けをかけることは、情けをかけられたその他人のためにならない
他人に情けをかけることは、情けをかけた自分のためになる。

通用している意味(建前、つまり嘘なので、ほとんどの人が表だって公言する意味)
他人のためという利他主義を根拠にして他人に同情しないことをすすめる。
(四の五の言わずに助けろよ! 
めんどくさがってんじゃねーぞ! 
他人に情けをかけるなって言ってるが、本当は単に他人を助けるのが面倒なだけだろうが!
と言いたい人がいそうですねー
ウルトラマンとかエミヤとか上条さんとかね)


本当の意味(ほとんどの人が表だって公言しない意味)
自分のためという利己主義を根拠にして他人に同情することをすすめる。
他人を助ければ、自分を誰かが助けてくれるから結局、得をする。

本当の(もともとの)意味を隠すように、新たな公共の意味が発明される」。
圧倒的な多数派に支持されたから正しい意味になったのではない。
それが必要だったから圧倒的な多数派に支持されるようになったはず。
もっとも、そのこと自体が、圧倒的な多数派の支持があったあとで、はじめてわかることだ。


元気が出ないときどうすればいいか

気分や感情は無理に抑え込もうとすると心の中でくすぶり続けるから、ただ忘れるのが一番いい。
でも、嫌なことほど、心の中で反復したくなるし、嫌な感情ほど、それに浸りたくなる。その嫌なことを忘れてしまうと、自分にとって何か重大なものが失われてしまう気がしてしまう。
嫌なことは、何かで埋め合わせしたいと思うから

どうしたらいいのか。
不愉快な気分や嫌なことを自分で上手く処理する方法を身につけている人が、本当の意味で大人。
じゃあ、子どもでもできるやりかたは?
ヒントだけ。
1、元気が出ない本当の原因や理由を、一度徹底的に考え直してみる。理由や原因を曖昧にしておいては駄目。できたら紙などに書いてみたり、パソコンでワードなどに打ってみたらいい。対策もかきだす。
すべて考え出したと思ったら、そこで考えるのをやめる。できる対策はこれから実行していくことにして、どうしようもないことは諦める。

2、もうそのことは繰り返して考えないことにする。そして、なんでも良いから他のことに没頭する。別の喜びを見出す。今問題になっていることと関係ない遊びをはじめる。
3、時間が経つのを待つ。時が解決。

原因を考えてわかれば不安も解消されます。
1と2はさまざまな場合に有効。

ある感情が沸き起こって来た原因をよく理解すると、その感情が薄れたり消えたりすることがある。頭でよくよくわかれば、心のもやもやも消える。
いやな奴がいやな奴にならざるをえなかった必然性=原因、がある。

心理学を学ぶのも手ですね。これはこういう法則にもとづいているなー。実例が目の前にあるなー、とか思ってたら、冷静でいられますからね



「強さ」について

一生懸命やっても上手くいかなくってがっかりしたり後悔したりする。
でも、そういうことは結局、そうでしかありえなかった。人為だけではできないことはもちろんある。
そうでしかありえなかったのだから、それでいい。そう、自分に言ってやらないと。くよくよ悩む必要なんてぜんぜんない。
誰かがそう言ってなぐさめてくれれば、安心できるのですがねー。
そう思うなら、あなた自身が、自分で自分がいいと思えずになやんでいる人に向かって、そう言ってやればいい。いや、ただ言ってやるだけじゃなくて、本気でそう思えるようになればなおいいね。
あのありかた、そのままでいいんだってね。
あなたがそう心から思えるってことが、その人にとってものすごく力になると思うよ。
誰かがぼく自身にも言ってくれるかな。
誰も言ってくれないさ。他人からそんなこと期待しても駄目だよ。
自分の場合は、自分自身で「これでいいんだ」って思わないと。
ほんとうにそれができることが「強い」ってこと。
でも、
たとえきみがそこまで強くなれなかったとしても、ひとにそう言うことなら、簡単にできる。
言うだけじゃなく、本気でそう信じることだってね


人はみな、肯定を望んでいる。
何かを失っても、その人自体はありのままにそのままです。


第2章  6 友だちは必要か?

“(前略)
いまの人間たちは、なにかまちがったことを、みんなで信じこみあっているような気がするよ。それが、いまの世の中を成り立たせるために必要な、公式の答え(…)なんだろうけどね。でも、その公式の答えは受け入れないこともできるものだってことを、わすれちゃいけないよ
ぼく:猫のことは知らないけど、人間は、自分のことをほんとうにわかってくれる人がいなくては、生きていけないものなんだよ
ペネトレ:そんなことはないさ。そんな人はいなくたって生きていけるさ。それが人間が本来持っていた強さじゃないかな。ひとから理解されたり、認められたり、必要とされたりすることが、いちばんたいせつなことだっていうのは、いまの人間たちが共通に信じこまされている、まちがった信仰なんだ
ぼく:そんなことを言ったのはペネトレだけだよ。
ペネトレ:『人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なによりたいせつなことなんだ。』
そして、友情って、本来、友だちなんかいなくても生きていける人たちのあいだにしか、成り立たないものなんじゃないかな?
ぼく:そんなはなしは、はじめて聞いたよ。“
p.62-63 ※『』内は原典では太字


友だちの基準ってなんだろう?
知り合いとの違いは?


いやなことをしなければいけないとき
1、そのことが正当なこと、すべきことであることを自分に言い聞かせる。
それが終わったら
2、じゃあやろうかな、と思って、ちょっと待っている。力を抜いて。そうすると、すーっと、ふと、やれるときがくる。
その時が来るのをただ待つ。大切なのは、不図=意図なしに、やってみること。
なれてくれば、人生全体をふと生きることができるようになってくる。
そして、人生全体から小さな作為をすこしずつ取り去っていく。そうすると最後には、いやなことなんて、なくなっちゃうさ。

勉強や仕事などいろいろ
まずやりはじめてみる。なにかをやりとげようとしないで、ただやりはじめる。はじめるだけでいいって考える。
ふと続けていく。
やめかたのコツは、なんとなく調子が出てきて、もっと続けたいと思うところでやめる。
一区切りついたところでやめると、あとでまた続けるのに力が必要なので、わざと区切りをつけずに持続力を残しておく。


勉強は、人生を遊ぶためにする。
将来遊ぶより、いま遊んだほうがいいいのでは?
ちゃんとした人=自分の未来のために自分の現在を犠牲にできる人
どうしようもないやつ=自分の現在のために自分の未来を犠牲にしちゃう人。

善人=他人のために自分を犠牲にできる。
悪人=自分の為に他人を犠牲にしてしまう
善人や悪人になれるのは、ちゃんとした人だけ。

どうしようもないやつは、ちゃんとした悪人にさえなれない。

善でも悪でもなく中立な人はどんな人なんだろう?

ネクラや下品な人がちゃんとした人になるためには、なにか人生全体に対する「理想」のようなものが必要。そういうものをどっかから借りてきて、その理想の観点から見て、いまやってることに意味があると自分に言い聞かせなければならない。
ネアカや上品な人は、そんな理想は不必要で、未来の遊びのための準備それ自体を現在の遊びにしてしまう。他人のための奉仕を、自分の娯楽にしてしまう



うまく眠るこつ

人間がするたくさんのことのうちには、自力で絶対に実現できないことがある。眠ろうとすることはできても、あとは待つしかない。
自分で何かをやろうとしたらかえって妨げになる。
眠れなくていいんだと信じこまないと。
眠る時にだけ使えるいいやりかたを紹介。
眠るとは、別の世界に入ること。起きている時の世界を忘れること。ただ忘れることは、ただ待つことよりも難しい。
だから逆に、眠ってから入る世界のほうをあらかじめ自分で作ってしまうほうが簡単。夢の世界を勝手に作ってその世界の中で生きている気になっちゃうのさ。それが完璧に成功したときあなたはもう眠っている

羊を数えても効果ないよ。英語だとsheepがsleepを連想させるけど日本語じゃあ無理だから。


青い鳥はいつ青くなったのか?(1)

“答えはね、「あとから青く変わった」でもなければ、「もともと青かった」でもなくて、『「<もともと青かった>ってことにあとから変わった」』
なんだ。”
p.83 ※『』内は原典では太字

×青くない→青
×青→青
○「どっちか不明」だけど青かったことにしとこう→(今も)青(だということにした


ものは見えるからあるのか、あるから見えるのか?
“物はたんに「見えるから存在する」のでもなければ、たんに「存在するから見える」のでもなくて、『「<存在するから見える>というように見える」』ってことになるんじゃないかな
?”
p.86 ※『』内は原典では太字

×見える=原因→存在する=結果
×存在する=原因→見える=結果
○「どっちが原因で結果か不明」

泣くから泣き虫なのか、泣き虫だから泣くのか?

“たんに「しょっちゅう泣くから泣き虫」なのでもなければ、たんに「泣き虫だからしょっちゅう泣く」のでもなくて、『「しょっちゅう泣くから<泣き虫だからしょっちゅう泣く>」』ってことなんでしょ
?”
p.89 ※『』内は原典では太字


自殺に成功すると、「あいつは自殺したかった」と判断される。
自殺に失敗すると、「あいつは“本当は”死にたくなかった」と判断される。
“本当は”は本人のみぞ知る


天才だとか、成功したのは努力が報われただとか当て嵌まる例はいろいろありそうです



青い鳥はいつ青くなったのか?(2)

 “(前略)
ペネトレ:たとえば、人にうまくだまされたりして自分は幸福だと思いこんでいた人が、だまされていたことに気づいたとき、そのとき不幸になるんじゃなくて、もともとほんとうは不幸だったって思うようになるだろう? つまり、たんに「気づいたときに不幸になった」わけでもなければ、たんに「もともと不幸だった」わけでもなくて、「気づいたときに<もともと不幸だった>ことになった」ってわけだ。「青い鳥」の場合はどうだろう?
ぼく:そうか、「青い鳥」の場合はその逆なんだ! 『子どもたちは、そのとき幸福になったわけでも、もともと幸福だったわけでもなくて、そのとき<もともと幸福だった>ってことになったわけだ。』”
ペネトレ:だから、幸福だと思ってはいなくても、ほんとうは幸福だったってことは、ありうることになるね
ぼく:ほんとうは幸福だったってあとから思うってことが、でしょ? それって、ほんとうに、ほんとうは幸福だったってことなのかな?“p.92‐93
※『』内は、原典では太字

人生体験マシンで幸福な人生を体験している人は、幸福なはずです。なぜなら、その中にいる人は「外」なんてものは認識できませんから。
しかし、人生体験マシン内の「私」と人生体験マシンを使用している「私」は違う存在なのでは?


クジラは魚である!

“ペネトレ:クジラは魚のように見えるけど、ほんとうは哺乳類で、魚じゃないってはなし、聞いたことある?
ぼく:もちろんあるよ。クジラは、魚のようにえらでじゃなくて肺で呼吸するし、魚のように卵の形で子どもを産むんじゃなくて、クジラの形で産むんだよ。それで、産まれてきた子どもは水中で母乳を飲んで育つんだ。だから、クジラは魚のように見えるけど、ほんとうは哺乳類で、魚類じゃないんだよね?
(…)
ペネトレ:つまり、『そういう点ではクジラはどうしても哺乳類のように思えちゃうけど、肝心な外形や生活環境が魚みたいだから、ほんとうは魚なんだ』って言ったら?”
ぼく:なんで外形や生活環境のほうが肝心なのさ?
ペネトレ:そんなら、なんで内部のしくみのほうが肝心なのさ?
ぼく:だって外形のほうがだいじなら、ほんものと見分けがつかないようなにせもののダイヤモンドは、ほんもののダイヤモンドだ、ってことになっちゃうよ!
ペネトレ:そうなんじゃない? とくに宝石なんて、見かけの美しさこそがいちばん肝心なんだから。内部構造はぜんぜんちがうけど、いちばん肝心な見かけがおなじだから、『ほんとうは』ダイヤモンドなんだ、って言えると思うよ
ぼく:そんなの、なんかおかしいよ。
ペネトレ:それはきみが科学に洗脳されているからだよ。科学っていうよりもっと根本的な、ある種のものの見かたにだな。見かけや外形の奥にかくれているものこそが、その物のほんとうの姿である、っていうような
ぼく:そうじゃないの?
ペネトレ:それは、ひょっとしたら、奥にあるものを知っている人が知らない人たちに対して権力を持つために作り出した作り話だったんじゃないかな? みんな、うまくだまされちゃったのかもしれないよ
ぼく:まさか!
ペネトレ:でも、分類のしかたによってはクジラは魚でもあることは、たしかなことだよ。外形や生活環境よりも内部のしくみを重視するって前提があってはじめて、クジラはほんとうは魚じゃないなんて言えるんだ。じゃあ、なぜ内部のしくみのほうを重視するのかっていえば、それはぼくらがそういう文化の中に生きているから、としかいいようがないんだよ。いつか人間たちが、クジラはやっぱり『ほんとうは』魚だったって思うようになる日がくるかもしれないんだ。“
p.94‐97 ※『』内は原典では太字


科学は、構造や構成要素や因果関係を解析するのが目的ですから、ものの内部が本質だと考えますからね。
むしろクジラが哺乳類ってことは、「教えられなければわからない」ので、
人間の自然な感覚からしたら不自然で、魚だという認識の方が自然でしょう

その教える側の教師や教科書だって、クリスチャンで白人の銀行家(金の支配者)と銀行家を手先として使っている王侯貴族たちが都合よく決めるのですから。

あとダイヤモンドの話ですが、違いが分かる人が存在しなければ、本物も贋物もありませんから。
目利きがいなけりゃみーんなモノホンってこった。
厳密にはな、パチモン・ホンモン自体が成立せーへんねんけどな
。ナンセンスや。

8 地球は丸くない!

ぼく:地球が丸いってことも、太陽のまわりをまわっているってことも、『発明された』の? 
ペネトレ:そうさ。でも、地球は丸いのに、どうした下のほうにいる人が落ちちゃわないんだと思う?
ぼく:そりゃあ、引力があるからじゃん!
ペネトレ:でも、引力って引っぱる力だろ? そんなものがあるんなら、もっと地面に引っぱられているような感じがするはずじゃないかな? どうして引っぱられて、はりついているような感じがしないんだろうね?
ぼく:たしかに、そんな感じはしないけど……。
ペネトレ:だから、ほんとうは、ぼくらは引っぱられてなんかいないんじゃないかな? 『引っぱられるっていうのは、この地面の上にいて、ひとに腕を引っぱられたりするときの、あの感じについてだけ、言えることなんじゃないかな?』
ぼく:じゃあ、引力はないって言うの?
ペネトレ:引力がないだけじゃなくて、地球が丸いっていうのも、ちょっとあやしいな。
ぼく:どうしてさ!?
ペネトレ:丸いっていうのは、この地面の上にある、スイカとかボールとかについてだけ、言えることなんじゃないかな?この地面が球体であるって考えたとたんに、ぼくらは地球というものを、この地面のことじゃなくて、この地面の上のほうにある巨大なボールのようなものだと考えてしまっているんじゃないかな?その証拠に、地球は丸いのに下のほうにいる人が落ちないのは引力があるからだ、なんて考えてしまうだろう
ぼく:どこがいけないのさ?
ペネトレ:地球には「下のほう」なんてないはずだからだよ。でも、ぼくらは上下のある絵しか描けない。できるって言うんなら、上下のない地球の絵を描いてごらんよ。世界地図だって、地球儀だって、星座早見盤だって、必ず上下がある。それはつまり、地面の上に乗っているってことだよ。だから、ぼくらが住んでいるとされる地球という名前の惑星をふくめて、ほんとうは、すべてのものが、この地面の上にあるんじゃないかな?
ぼく:ペネトレ、それ本気で言ってるの?!!!”p.100‐102
※『』内は原典では太字

物理法則という客観的だとみなされている(この法則の観測は主観的になされる)のですが、結局のところ、人間の肉体的制約や生活様式の前提に縛られます。
肉体的制約とは、左右対称、上下非対称などで、
生活様式の前提とは、重力下で生活(頭は上、足は下)などです。
地球上にいる時、われわれにとっての地球とは地面のことであり、そこから逃れられないのです。
仮に、人間の体が完全な球体だとすれば、文字は左から右へだとか、その逆だとか、縦書きだとか、横書きだとか、という概念が生まれるか?
などなどさまざまな思考実験ができますな。

森博嗣『笑わない数学者MATHEMATICAL GOODBYE』文庫版
にある鏡に映ると左右は入れ替わるが、上下や前後は逆にならない理由↓

鏡に映った像は、左右が反対になりますね。どうして、上下や前後は逆にならないで、左右だけ入れ替わるのか、刑事さん、答えられますか?」(…)
「定義の問題です。左右だけが、定義が絶対的でないからです。上下の定義は空と地面、あるいは、人間なら頭と足で定義されます。前後も、顔と背中で定義できます。では、左右はどうでしょう?左右の定義は、上下と前後が定まったときに初めて決まるのです。人間の体型が左右対称ですし、歩いたりするときも横には動きません。上下と前後の定義が独立していて、絶対的なものであるのに対して、左と右の定義は相対的です。この定義のために、鏡で左と右が入れ替わるんですよ
「待って下さい(…)鏡の映像に……、そんな、人間の考えた定義が関係するのですか?あれは物理現象であって、人間の言葉には関係がないと思いますが……」
「いいえ、我々は、ものを定義して、それを基準に観察するんですよ
(…)僕たちに、顔がなかったとしましょう。そのかわりに、片手だけが大きくて、バルタン星人のようにハサミがついているとします……。この場合……、ハサミのある大きな手が、右と定義される。顔がないから、前後の定義が相対的なものになります。つまり、上下と左右が定まって、初めて前後が決まることになります。この顔なしバルタン星人が、鏡を見たら、前後が逆になりますよ。良いですか?ハサミの方の片手を挙げて、鏡を見てみましょう。鏡の中の自分も、やっぱりハサミの手を挙げているでしょう?つまり、左右は入れ替わっていない
(…)
「それでは……、こういう説明ではどうでしょう。右と前、左と後ろ、この言葉を入れ替えて使う国があったとしましょう。その国では、右という言葉は前のことです。左という言葉は後ろのことです。顔がある方が右、背中が左です。さて、この国では、鏡を見て、左右が入れ替わるでしょうか?」“p.433‐435


ぼくが生まれるために必要なこと(2)

 “ペネトレ:まだ人間のいない世界を考えてみよう。そこで神さまが五人の人間を作るとする。もちろん、それぞれ顔かたちも性格もすべてちがう五人だよ。さて、そのとき、ただたんに五人のちがう人間が作られるだけじゃなくて、その五人のうちに自分というものがふくまれているためには、神さまは、それぞれ個性を持った五個の肉体と精神を作る以外に、なにをしてくれればいいのだろう?
ぼく:自分って、このぼくってこと?
ペネトレ:そうだよ。でも、その世界には、まだ、きみというものは一度もあらわれたことはないんだ。そのとき、神さまがいまのきみのような肉体と精神を作ったとしても、そいつがきみになるかどうかはわからない。どれかひとりがきみであるためには、なにが必要だろう? 神さまは、なにをしてくれればいいんだろう?
ぼく:五人のうちのひとりがぼくであるためには、神さまが五人に、それぞれちがった肉体と精神を与えるだけじゃ、足りないね。それだけじゃ、五人がそれぞれみんな平等に、それぞれの個性を持ったそれぞれの自分である、ってことにしかならないからな。その中のひとりだけが、ぼくであるという特別のありかたをするためには、肉体や精神のもつ個性とはちがったなにかが必要だな
ペネトレ:しかし……、そのなにかを与える能力が、神さまにあるだろうか?全能の神でも、その能力だけはないんじゃないだろうか?
ぼく:どうして?
ペネトレ:もし、「その五人のうちのひとりがなぜかたまたま自分だったとしても、そんなことはなかったとしても、神さまには、そのちがいを見分けることができない」からだよ。だって、その二つの世界は、五人のうちに自分というものがふくまれているかいないかという点以外は、まったくおなじ世界なんだから
ぼく:見分けることができないんだから、作りわけることもできないってこと?
ペネトレ:神さまにできることは、さまざまな心や体を持ったさまざまな人間を作ることだけなんだ
ぼく:その中にぼくがいるかどうかは、神さまにとっては、なんのちがいもないのか……。つまり、神さまは、ぼくが存在していることを知らないんだ。だから、神さまは、ぼくのような人間を作ることはできても、ぼくというものを作ることはできないのか……。”p.110‐113
※「」内は原典では太字

宗教における死後の世界を「生きている」人間にわかるはずがない。
全部嘘っぱち。
あるいは錯覚


“ぼく:夢の中では夢の外のことを考えられない?
ペネトレ:夢の中で、自分はいまふとんの中で眠っていて、夢を見ているだけだ、と思ったとしても、そういう夢を見ているだけのことだろう?夢の外のことを考えたことにならないだろ。それとおなじように、きみが中心にいるこの世界の中で、きみ自身が消滅することを、どんなに考えようとしても、それはどうしても、この世界の中で起こるひとつの出来事になっちゃうんだよ。それから、夢なら、逆に、さめてからその夢の中のことを覚えているから、夢の外からその夢について考えることはできるんだけど、人生の場合はそれもできない。死んでから生きていたときのことを覚えていることはできないからね。だから、人生は、さめたときにはけっして覚えていられない夢みたいなものさ
ぼく:死後の世界はないの?
ペネトレ:だから、考えることができるきみの死後の世界というのは、すべて錯覚なんだ。そういう意味で、死後の世界というものはありえないんだよ。死ぬっていうのは、すべてが終わることなんだ。それなのに、生きているうちは、そういうすべての終わりであるような死について考えられないから、だから、そういう錯覚が起こるんだよ
ぼく:死ねばすべてが終わるのか……。
ペネトレ:世の中がきみに与えることができるいちばん重い罰は死刑だね? 死刑以上の重罰はないだろ? ということはつまり、世の中は、死ぬつもりならなにをしてもいいって、暗に認めているってことなんだよ。「認めざるをえない」のさ。“
p.116‐117
※「」内は原典では太字

死を恐れない存在ほど怖いものはない。
目的しかないから。
未来を対価にして現在における強さを手に入れる。


翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫)翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫)
(2007/08)
永井 均

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“精神病院で自分はナポレオンだと信じてる患者がいた。
あるとき、医師が
「なぜキミは自分がナポレオンだと主張するんだ」
と訊くと、その患者は、
「神様がおまえはナポレオンだと言った」
と答えた。
すると、すぐそばにいたべつの患者が怒った顔でこう言った。
「おれはそんなことを言った覚えはない!」
” http://koee.net/1096

永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み――哲学的諸問題へのいざない』を参考にして、
主に言語を学べる条件について考える。

実は、『ロボット』とか『人間』とか『黒』とか『痛み』などの言葉の意味を習得しつつある子供には、人間がロボットに見えるとか、黒が白く見えるとか、痛みが眠気に感じられるとかを主張する権利はない。
意味が固定=基準が決定、された後にはじめて事実に関する極端な主張ができるようになるのであって、意味を学びつつある段階では、誰もが凡人。
なぜなら、
人間=ロボット、だと認識している人が、
人間がロボットに見える=人間とロボットは一般的には別物である、と言えるはずはないから


子供のころから汚水をきれいだと感じて、浄水をきたないと感じる人がいたとすると、その人は『きれい』や『きたない』の言葉の意味を学べない。
なぜなら、私たちは言葉の意味を「実例を通じて学ぶので、最初から多数と判断が一致していないと、そもそも意味を学ぶことはできない」から。
つまり、感じていること、考えていることなどが同じ(あるいは「ほぼ」同じ)だという前提のもとで、はじめて意味を教えたり学んだりすることが可能
になる。

例えば、日本語が母国語の人が、マレー語をまったく知らずにマレーシアに行ったとしても、その人は少しずつわかるようになっていくだろう。
なぜなら、なんとなくわかることがあるから。
自分を指差して何かを言ったら自己紹介をしているのだろう、
自分以外を指差して何かを言ったら指差されたものについて何か言っているのだろう、といったことなどだ。

ではなぜ、「何かを指差して何かを言ったら、その言った内容は指差したものに関係しているはずだ」って思うのか?
まさにそこがキモ。
要は、相手がこちらが予想できることをしてくれないと、相手の言葉は絶対に学べないということだ
そうでないと、相手の話している内容を推測して、自分の言葉(おそらく母国語)にあてはめて理解し学んでいくことはできない。

他にも言語を学ぶ前提はある。
相手が言っていることの意味がわかるようになっていくためには、相手が、(こちら側の基準で)まともでありふれた存在でないといけない。
そうでないと予想すらつかない。
相手がほとんど正しいことを言っていると前提しないとどうしようもない。
皆が真理を語るとは限らないが、相手がこちらの観点から見てたいていは真理を語っている、理のあることを、整合性があることを言っていると前提することが、理解の前提


つまりは、自分とぜんぜん違う言葉が喋っている人が、「汚水はきれいだけど、浄水はきたない」って意味のことを言うことは「ありえない」ってこと。
それが意味理解の前提なので、ひょっとしたらほんとうはそう思っているかもしれないってことすらない。

相手が自分と同じ信念を持ち、自分が真実とみなすものを真実だとみなす、といった言語以前の形式--人間は言語は違っても、重力下で生き、表皮は固体で、左右対称で、生存のためにはエネルギー摂取が必要で、挨拶し、自己紹介し、などなどといった共通項--
を少なく或る程度はもっていると前提しないと、意味の理解ははじまらないってこと。

いや、この「言語以前の形式」以前の形式、
つまり、カントのカテゴリーなどのものさえ共有できていればまだ理解は可能かもしれない。

感性(感覚みたいなもの)的に見出される経験における一般性を支えるのが「悟性」(知性と訳すことあり)である。
悟性的な理解とは、それが何であるかを把握する能力である。
五感で感覚される対象が一般的に何かであることは悟性によって規定される。
悟性固有の形式が、純粋悟性概念=カテゴリー↓

カントのカテゴリー
 ※悟性…感性が与えてくれた対象を、カテゴリー(質、量、関係、様態など)に基づいて判断。

①分量
(すべてのものか、
特殊なものか、
それともこのひとつか)

②性質
(これは~である、といえるものか、
これは~でない、といえるものか、
これは非~である、といえるものか)

③他のものとの関係
(いついかなる場合であってもこれは~である、といえるのか、
もし…なら、~である、という条件付きのものか、
これは~か…のどちらかである、といえるのか)

④様相(物事のありよう)
(~であるだろう、といえるのか、
~である、といえるのか、
かならず~でなければならないといえるのか)

別の表現だと
1. 量(単一性、多数性、全体性)
2. 質(実在性、否定性、限界性)
3. 関係(実体性、因果性、相互性)
4. 様態(可能性、現実存在、必然性)


[アリストテレスの10のカテゴリー(範疇)

1実体
主語が何であるか

2量
主語がどれほどの量であるか

3質
主語がどのような質であるか

4関係
主語が他のものとどのような関係にあるか

5場所
主語がどのような場所にあるか

6時
主語がいつあるか

7状況
主語がどのような状況にあるか

8状態(所有)
主語が(物との関係で)どのような状態にあるか

9能動
主語が他のものに対してなにをしているか

10受動
主語が他のものから何を被っているか]

カテゴリーは認識のフィルターのようなもので、カテゴリーに引っかからなければ認識されないので、カテゴリーを外れたものは存在しないとみなされる

言語の話に戻す。
相手が人以外でも同様。
何やらよくわからない異世界あるいは宇宙空間からやって来たらしきものが、どうやら言葉を話しているようなのだが、何を言っているのか意味がさっぱりわからない存在がいたとする。
では、その存在が言語(らしきもの)を話していると仮定して、そいつの言っていることを推測していくにはどうしたらいいのか。
外国語学習とまったく同じく、私たち基準で合理的に行動していると解釈する場合にしか、彼らが言語を持っているとか、何か考えているとか、みなすことはできない。
人間以外の動物や植物なども同様。

よって
言葉は持っていて私たち人間にもその意味もわかるけど、私たち人間と(言語が成立する前提的な意味で)まったく違う考え方をしているものなんて「いない」。
いるかもしれないが私たち人間には決してわからない、なんてことに意味は与えられない。
そして、意味が理解できるようになってはじめて、相手の間違いやこちらの誤解がわかるようになる。
考えや理解の違いを確認するためには、相手がほとんど言葉の意味を間違えず、相手が今まで従ってきた意味体系と同じ体系に従っていると前提しないと成り立たないからだ。

話すたびにまったく違う意味体系に従って喋っていて、なおかつその場にまったく関係ないことしか喋らない存在の言語なんて学びようがないってことです。せいぜい、わめいている、と認識されるのがおちでしょう


言葉の意味がわかるようになる場合
①相手がまともで言葉が違うだけのとき
②相手の気が狂っているが、正しく日本語(一例)を使っているとき

言葉の意味がわかるようにならない場合
(その人が何を信じているかもわからない)
①相手の気が狂っていて、しかも間違った日本語(一例)を使っているとき。
②相手の気が狂っていて、しかも私たちの知らない言葉を使っているとき。


冒頭の引用のような精神病的妄想を持っている人に対して、精神科医やカウンセラーは、普通、相手が言葉の意味自体は誤解していないって前提で接するらしい。
私はナポレオンだ。神がそう言った。
と言ったら、「その人はそういう妄想を持っている」と考える。
言葉自体は受け入れる。
ナポレオンが実は「敵前逃亡の一兵卒」だったり、神が実は「人間」だという可能性は、相手に質問して肯定しない限り、あの有名なナポレオンとみなす。
そうしないと、話が成り立たない。


今度は、「色」という概念が存在しない(必要としない)宇宙生命体(生命体の定義も実に曖昧だがここでは議論しない)を仮定する。
私たちがとらえる世界では、物の種類とその色とは対応していない。
しかしもし、物の種類と色が完全に対応している、例えばカラスは絶対に赤いといった風に、と彼らが認識していたら、彼らに「色」なんて概念は存在しない

また、例えば三角形は絶対に青いと認識していれば、やはり「色」の概念は存在しない。
「形」と「色」が一体となっているとも言える。
つまり、「形」と「色」が一体となった概念が誕生しているはずだ


我々から見れば、認識の一部が欠けているとみなされる。
が、先に行ったカテゴリーを少なくともある程度は共有していれば、宇宙生命体の言語も学べるのである。

カテゴリーのことを相手に伝えればいいのではないのか。
と言いたい人がいそうである。
カテゴリーは頭の中や心の中にあるものではなく、言葉を使って「実際に活動しているその活動の中に“示されている”形式」。
活動中に意識するなんてありえない。意識しようがない。

絵がどんなものかは言語で伝えられない。
「とにかく見て!」と言って見てもらわないといけない。
見ないとだめだから「示す」しかないように。言葉の限界を示す。
カテゴリー「について言葉で言う」のではなく、
カテゴリー「に従って
『赤いリンゴ五つ!』と言う」。
そうすると、
果物屋は、
「まず」『リンゴ』という「実体」のある場所へ行って、
「次に」『赤い』(性質)のを、
「最後に」『五つ』(個数)選ぶ。
この順序は変えられない。
まず個数から初めて、次に性質、最後に実体(=個数や性質の前提)
なんてことは、カテゴリーの中で生きる人間には想像すらできない。
果物屋のこの「必然的な行動形式の中にカテゴリーが示されている
」。

そしてこの「カテゴリーに背後はない」。
カテゴリーは動物の必要からできたってことはありえない。
なぜなら、動物とか生物といったとらえる枠組み自体がすでにカテゴリーに依存しているから。
因果関係が逆。
原因と結果を入れ替えてはいけない。
「まず」カテゴリー「によって」ものごとがとらえられ、「そこからすべてがはじまる」。

神や宇宙生命体の姿をイメージすると、思わず人型になってしまうのは当然だということ。人間の思考形態に当てはめないと思考すらできないから。
カテゴリーを外れた宇宙存在とは交流不可。
正確には、存在自体を認識しないから交流以前の問題
である。

このような日常の大前提について徹底的に考えたウィトゲンシュタインが偉大なのは、
「意図的にするはずがないことを意図的にする」
という、いと面白き意図を持って哲学し、哲学史に
「無意識的に意識的になるような」不思議で奇跡な書物を残したからである。

青山拓央『新版 タイムトラベルの哲学』ちくま文庫、2011
p.261における、永井均による本書の解説(本書をヒントにした永井独自の哲学小論)
“ともあれ私は、このような考え方を、というかこのように考えていくやり方そのものを、(二人ともこんな考えは自分とは関係ないと言うであろうが)『純粋理性批判』のカントと本書の青山拓央から学んだ。本書を書いた時点で青山は哲学を学び始めたばかりの学生にすぎなかった。そんな素人の議論と哲学史上最大の古典を並べるのを可笑しく思う人がいるかもしれないが、それは違う。哲学界で慣習的に受け入れられている思考法に依存せずに、自ら手探りでゼロから哲学をするやり方そのものを直に学べるのは、素人と古典からだけであるからだ(言い換えれば哲学の古典はどれも素人の書いた書物である)。だが、素人なら誰でもいいわけではもちろんない。いったい本書の何がこれに類例のないほどの啓発力を与えているのか、それは各人が自らの探究と摺り合わせて確認していただくほかはない。”


永井均『私・今・そして神』

私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)
(2004/10/19)
永井 均

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『私・今・そして神――開闢の哲学』(講談社現代新書、2004年


“私は、私を叱った先生よりも、私の発言を支持した生徒たちから、理解されなさを強く感じたのを覚えている。
哲学的疑問は理解されない。哲学はつねに無力であり、力があるのは科学や常識や思想である。授業科目や学問領域としての哲学の問題は理解できても、実際に哲学的疑問をなまで感じる人は驚くほど少ない。表明してみても、ほとんど理解されない。理解しているつもりの人も、実際にはぜんぜんちがう意味に取っていることが多い。
 そういう体験を重ねて、私は哲学的疑問をみだりに口にするのはやめた。それは慎みを欠く行為である。いまではその理由もよくわかる。学問領域としての哲学の世界に足を踏み入れてからは、ふだんはみんなと口裏を合わせて、なんとなく適当なことを言っておいて、本当に言いたいことは自分の哲学としてだけ語ることにした。
 もちろん、哲学の世界といえども、中学校と同じで、そこで通用している一般的常識は、これまた驚くほど疑われない。そこにもまた、あの理科の先生のような人たちと、あの生徒たちのような人たちがいる。それは当然のことである。なぜなら、私自身も他者に対しては、そのように振る舞うことにしたのだから。
この本で書いたようなことは、実際の人生の中で口にされることはまずない。そんなことを言うのは、つねに的はずれだろうから。幸か不幸か、私が言いたいと思うことは、なぜかこの種のことが多いのだ。”p.4-5

“音楽を例に取ろう。日々音楽を聴くことを糧として人生を過ごしており、たとえばリパッティの演奏するショパンのワルツやルプーの演奏するシューベルトの即興曲やグリュミオーの演奏するヘンデルのソナタから、えもいわれぬほど大切な何かを聴き取る感性は持つが、しかし楽譜ひとつ読めず練習曲ひとつひけない人と、日々スケール練習に余念がなく、たとえばリストなりパガニーニなりを高速で正確にひけるが、しかし人生の中で音楽を聴く歓びを味わったことのない人、この二者を比較してもらいたい。音楽の本当の意味と価値を知っているのはどちらだろうか。
 この二者の比較であるかぎり、前者の人であることは疑う余地がない、と思う。この比喩によって私は、俗に「ついて論文」といわれる(典型は「○○期××の『△△』の概念について」)研究論文を書くことを主要な仕事としている「哲学」学者を馬鹿にしてはいけない、と言いたいのである。彼らは哲学をそのもの〔原文ママ〕を自分でやってはいない、としばしば言われる。たしかにそうかもしれないが、その彼らこそが哲学の本当の意味を理解している可能性は十分にある。逆に、出来合いの哲学練習問題集に収められている「哲学問題」をどんなにスマートに解くことができても、それはじつはちっとも哲学ではない可能性はきわめて高い。たいへんに頭がよく、とてもよく勉強もしているが、少しも哲学が感じられない(先ほどの比喩でいえば音大生の技巧誇示のような)読むからに寒々しい「哲学論文」を書く人は――私の印象では最近とくに――多い。
 とはいえ、「ついて論文」派と「練習問題」派への分裂は、哲学を殺してしまうように私には思われる。それはたぶん、哲学が学問でありながらも、じつはなにか特別の種類の天才の、凡人に真似のできない傑出した技芸の伝承によってしか、その真価を伝えることができないようにできているからだと思う。矛盾対立する学説がいつまでも淘汰されずに共存しつづけ、敬意を払われつづけるのは、たぶんそれゆえだろう。このことについては、本書の内容とは直接に関係ないから、ここではくわしく論じない。
 かわりに、哲学を志す若い人にちょっとした提案をしたい。先生筋の模範演奏からではなく、古典的名演奏から直接に何かを学び、しかし崇め奉るのではなく、それらを直接勝手に使って、自分自身の哲学をやったらどうか、ということである。たとえばプラトンやアリストテレスを「研究」するのではなく(かといって出来あいの無人称的な「哲学問題」を直接考えるのでもなく)、彼らの仕事を勝手に使って、そこから直接問題そのものを考えたらどうか。本書を書きながら、私はそういう可能性があると感じた。
 私は本書において、ライプニッツとカントをはじめとする古典的な哲学者について論じ、彼らの議論を自分の問題を考えるために利用している。「ついて論文」派の専門研究者から見ればこれらはほとんど牽強付会に近いものだが、それでも彼らの議論のある面は確実に継承されているはずである。哲学の古典はこのように利用してもいいし、むしろそうすべきものであろう。この点に関しては、私の真似をすることを、おおいに勧めたい。”p.6-8

だれも覚えていない過去はつくれない
 世界は、その時そうであった通りのあり方で、本当はまったく実在しない過去を「覚えている」と思い込んでいる全住民ととともに、五分前に突如として存在しはじめた――これは少なくともどういう事態が起こったのかがわかる。だから、全能でいたずら好きの神さまなら、≪その≫事態を引き起こすことができる。しかし、その神さまでさえ、だれも覚えていない過去を≪そのとき≫同時に作り出すことなどはできない。全能の神でさえ、それは≪不可能≫なのである。
 全能なのにできないことがある? そうなのだ。だって、住民のだれひとりとしてその時点で「覚えている」と思い込んでさえいない過去そのものを、≪その時点で≫つくるって、いったい何をすることなんだ?
 もし≪その時点で≫つくられたなら、やっぱり過去には存在しなかったんじゃないか。神が≪いま≫それをつくったということがいったい何をしたことなのか、どういう事態を起こしたということなのか、われわれにそれがわからない。われわれにそれが理解できないのだ。だから、それだから、全能の神でさえ、≪そんな≫ことをすることはできない。神でさえ≪それ≫は作り出せない。≪それ≫はわれわれの言葉で表現され、われわれの理解によって指定されている事態だからだ。神の全能でさえ、この壁は打ち破れない。なぜなら、この壁は神の側からは存在せず、われわれの側からだけ存在する壁だからだ

 だから、ひょっとしたら、気まぐれな神さまは、五分前に、だれも知らない五年前の出来事を急につくったかもしれない。それは五分前にできた以上五年前にはなかったのか、それとも、神が五年前という時点に設置した以上五年前にもうあったのか、答えはない。時間の内部でその時間をつくり直すという想定がわれわれに理解できないかぎり、この想定は不可能な想定なのである。「記憶一般と記憶の対象とを同時に可能ならしめる条件」に反しているからである。世界にはわれわれに理解可能なことしか起こりえない。なぜなら、われわれに理解できる形で捉えられたときにのみ起こったとされるから。この意味において、神もまたわれわれに理解可能なことしかなしえない。“
p.27-28 原典の傍点を≪≫で代用。

人格神は全能ではありえない。
人間化=不完全化され、人間が解釈できて人間の理解の範囲のことだけができる、
宗教家の操り人形だから。
「全知全能」という記述すらも人間の理解の範囲内にある。

そもそも物事の誕生の根源があるとすれば、それは創造神ではなく、「変化」それ自体である

Aが存在し「ない」状態から、
Aが存在「する」状態への「変化」がなければ何も誕生することができない

「変化」がなければ創造神は何もなすことができない。
その創造神に人格があるとされていることも奇妙だ。
人格がない状態のときには既に変化は存在していた。
つまり、創造の根源は存在していた。
したがって、意志によって初めて創造が行われたとするのは誤り。
その「意志」が誕生するための「変化」こそが創造の源泉なのだから。
仏教ではこの「変化」を
諸行無常
と呼んでいる。

無論、人格はないので、解釈者=宗教家が支配に利用することができないようにしている点が重要である。

万物の根源が「人格と意志ある」存在だという宗教家の主張は嘘だということだ。
人格と意志が誕生する為の前提=変化が根源だ。
創造神を想定するなら最初は無感情だったということだ。
後に感情が誕生して感情的になったといえる。
つまり、創造神が文字通り無慈悲で無感情だったころがあるということだ。
その創造神が一神教の神ならば、感情、人格を持ってからもやっていることは、無慈悲な悪魔そのものである。
悪、悪魔を創り、そのまま悪を滅していないのだから。
そもそもゴッド=善、ということ自体が悪が存在しないと成立しない。
善と悪は同時に生まれたものだ。
一神教は敵=悪を必要とする。
ゴッドとサタンは同業者であり一心同体。
共倒れしない程度に自作自演しているわけだ。
ゴッドが悪魔を創ったとわかる聖書は世界一流布している本であり、安価(時にはタダ)であることが、聖書が偽りであることの証明である。
支配層にとって都合が悪いなら、ここまで流布することはありえず、値段も高額になるはずだからである



“外界だけの懐疑論を、五分前世界創造説との類比でつくってみよう。それは、知覚されているものがじつは五十センチ前方でつくられている、というようなことになるだろう。もちろん、記憶はふつうに成立している。これを「五分前世界創造説」に対応させて「五十センチ先世界創造説」と呼ぼう。
少し考えてみると、五分前世界創造説の「五分前」という条件は、なかなか味があることがわかる。第一に、五分前にできたということは、できた時点が固定していて、その後は世界創造の時はしだいに遠ざかっていく、ということである。まさかラッセルは、世界が<つねに>五分前につくられている、なんて想定をしたわけではないだろう。もし、つねに五分前につくられているのだとしたら、これは大変なことだ。そして、じつをいえば、この大変さこそが近ごろの私を捉えて離さないテーマなのだ(ある意味で本書は全体としてこのテーマをめぐって展開しているともいえる)。
第二に、五分前であって今ではないということは、その五分間はふつうの記憶が成立していたということだ。これをもし、今できたということにしてしまうと、今からはじまるふつうの記憶の身分があやしくなってしまう。そもそもそれが記憶であるとなぜいえるのかが不明確になってしまうのだ。すでに成立しているちゃんとした記憶があって、それと<連続的に>贋物の記憶がある、というところが、とてもうまくできているところだ。
五十センチ先世界創造説ではどうか。眼の五十センチ前方であって眼の位置ではないということは、その五十センチの区間はふつうの知覚が成立しているということだ。これをもし、眼の位置でできたということにしてしまうと、それがそれでも知覚であるということの意味が不明確になってしまう。前方五十センチの間はちゃんとした知覚があって、それと連続的に贋物の知覚風景が開けている、という点がとてもうまくできている……と言えるだろうか。
どう考えても、これはまずいところがある。第一に、今から五分前は客観的な時間点だが、私から五十センチ前方は客観的空間点ではない。今と私の性質の違いがどうしても気になる。だって、私の前方三メートルのところにはよく他人というものがいて、なぜだか私に話しかけたりしてきて、場合によっては、五十センチ以内に近づいて、私に触ったりもする。もちろん、触角はすべて本物で、聴覚は(五十センチ以内の至近距離から発せられた音以外は)贋物なのだろうが、それにしても、その他人がもつ知覚はどうなっているのか、という問題はやはり気にはなる。世界を完璧に独我論的に考えるという条件を入れないと、この世界描写は完結しない。”p.33-35
<>は傍点の代役。


気分を率直に語るなら、「私」と「今」とは同じものの別の名前なのではないかとさえ感じている。そもそもの初めから存在する(=それがそもそもの初めである)ある名づけえぬものに、あとから他のものとの対比が持ち込まれて、<私>とか、<今>とか、いろいろな名づけがなされていく、といった感じである。
 他人との対比が持ち込まれれば<私>ということになり、過去や未来との対比が持ち込まれれば<今>ということになる。身体との対比が持ち込まれれば<心>ということになり、外界との対比がもちこまれれば<内界>ということになり、死との対比が持ち込まれれば<生>ということになり、さらに非現実との対比が持ち込まれれば<現実>ということになり、もっとさらに決定論のようなものとの対比が持ち込まれれば<自由意志>ということにもなる……といったぐあいである。
対比が持ち込まれた後では、あたかも対比が成り立つための共通項がもともとあったかのような錯覚が生まれる。そして、この錯覚こそが現実になるわけだ。<私>と他人との対比が持ち込まれると、あたかもそれらに共通の「人間」というものが存在するかのように考えられることになり、<今>が過去や未来と対比されると、あたかもそれらに共通の客観的な「時間」というものが存在するかのように考えられるようになる。
もともと存在しているのは< >で囲んだほうだけなので、それがそれ以外のものと一緒にその内部に位置づけられるような共通項は、じつは存在しない。人間たちの中に私はおらず、時間の中に今はない。むしろ<私>の中に人間たちが、<今>の中に時間がある

< >で囲んだほうが存在することこそが、世界の開闢そのものなのである。これを「開闢の奇跡」と呼んでおこう。
ところが、対比が持ち込まれた後では、話が逆になって、もともと存在していた< >で囲んだほうが共通項の中の一つとされるので、その例外的なありかたを何とかうまく共通項の中に埋め込んで消去しようとする、倒錯的な努力が開始されるわけである。
開闢それ自体が、それによって初めて成立したはずのものの内部に位置づけられることになるわけである
。”
永井均『私・今・そして神』P40-P42より 

時間的に表現すれば、すべての始まりであって、時間的位置を持たないはずの開闢の奇跡に、その内部に存在する事物の存在基準が適用され、時間的位置を持たされるということだ。つまり、開闢は、それ以上遡行不可能な単なる奇跡にすぎないのに、そこで開闢したものが「存在する」といえる基準は、対比が持ち込まれて共通項が設定された後で、その共通項の中で決まることになるわけだ
 〈私〉についていえば、他人と対比されて自己同一性(self-identity)という問題が生じ、それが他人と同じ人物同一性(personal identity)の基準なしには把握できないものとなる、というわけである。
 開闢それ自体が、その内部で後から生じた存在と持続の基準に取り込まれる。そのことによって、われわれの現実が誕生する。だから、現実は最初から作り物であって、まあ最初から嘘みたいなものなのだが、しかし、それこそがわれわれの唯一の現実なのだから、それを認めてやっていかなければならない。この構造こそが、本書全体を通じて私が問題にしたことの根源である。“p.43

“たとえば、五分前に突然できたのか、ちゃんとふつうに継続してきたか、というこの違いのように、われわれの能力によっては原理的に識別できないのに、われわれの知性にはその違いが理解できるようなことがらが存在する。しかしなぜ、われわれの能力によってその違いがけっして識別できないのに、違いがあることが理解はできるのだろうか。
 それは、つまり、われわれが神を信じているからなのである。神の存在を、というよりは神の概念を、つまり、われわれに理解できる全能者という概念を、である。
 言い換えればわれわれは、(違いが)識別できること、(違いを)理解できること、(違いの)理解さえできないこと、の三つを区別しているのだ。重要なのは真ん中である。つまり、識別はできなくても理解はできるという領域を認めること。それによって、われわれはある種の超越性を容認
しているのである。”p.47

永井均の神(の概念)
①人間が理解できることのみをなす(なしたことになる)全能者。
②全ての前提たる開闢(開闢後は、レベルが強制的に下げられてしまう=殺されてしまうもの)。
要は、超越的なものは皆が信じています(あるいは思考の前提になっています)よってこと。単なる自然法則と言う人もいそう。人間の語る神など所詮は人間が勝手に設定した人間の能力に縛られた神でしかないということ。


“心を与える者は、ぜひとも神(あるいは神のごとき者)でなければならない、ということである。これはきわめて重要な条件なのだ。たとえばロボット工学者は、このロボットに心を与える能力がない。ロボット工学のいかなる進歩を想定しても、原理的にない。ロボットがどんな反応をするようになっても、心が付与されたかなお付与されていないかは、いつまでも謎にとどまるからだ。ここで想定されている意味での心を与えるということが何をすることなのか、ロボット工学はけっして理解することができない。
 だから、五分前世界創造説の場合と同様、人間に識別できない違いなどはないのと同じことだという立場も、十分に成り立つ余地がある。しかし、人間に識別できないという点こそが重要なのだ。もし神というものに固有の仕事があるとすれば、それは世界に人間には識別できない(が理解はできる)変化を与える仕事だからである。自然や人間にもできる土木工事(世界の物的創造)や福祉事業(心の慰め)は本来の神の固有の領分ではありえない。
 だから、ロボットのこの変化を理解し、そういうことがありうると思った人は神の概念を信じているのであり、(識別できるかぎりではこのロボットと変わりがないはずの)他人たちに心があると現に信じている人は、神が現に存在していることを、つまり神の実在を、信じているのである!”p.49


“ロボットに心が与えられるケースは他者に起こる変化であり、人間から心が奪われるケースは私に起こる変化であること、それが問題の本質なのである。
だから、後者のケースの本質は、私から心が奪われることにあるのではなく、私が<私でない>者にされることにある。そこで私ではなくなった者がなお心を(もちろん<そいつの>)持っていたとしても、問題の本質に変化はない。それゆえ、前者のケースであっても、ロボットに心が与えられるだけでなく、そのときロボットが<私になる>のだとすれば(それまでその世界に私は存在しなかったとしよう)、そこに識別可能なはっきりした変化が起こったことになるだろう。
それなら、私におけるこのような変化<と同じこと>が他者における変化の場合にも起こっていることを、私が(識別はできなくても)理解はできるのはなぜだろうか。それは、心を与えたり奪ったりするのが神だからであり、かつ私が神(の概念)を信じているからなのである。実際には私の場合にだけ識別できる違いを、他者にもあてはめて理解するとき、この超越を根拠づける存在は神でしかありえない。
この理解可能性が五分前世界創造説などよりも複雑な構造を持つのはここである。私から心が奪われるとは、私が私でない者に、つまり他者にさせられることであった。すると、他者から心が奪われる場合、他者はもともと私ではないのだから、どうしてさらに他者にさせられることなどができようか。<他者の≪私≫>というものを想定しておいて、それが奪われると考えるほかはないだろう。それはしかし、あの「開闢の奇跡」が複数化されるということなのだ。世界の開闢そのものである私とは、世界にひとりしか存在しない本性上の唯一者なのだから、相並ぶ他の私などはありえない。しかし、神によって、そして神によってのみ、そのありえないことが易々と実現されてしまうのだ。
『省察』のデカルトは、方法的懐疑によって「私の存在」の確実さに到達した後、まずはその内部から「神の存在」の証明をしなければならなかった。『省察』を読む者の多くがそこで躓くが、以上のように考えれば、それは理解しがたいことであるどころか、むしろ、それ以外にはありえないほどの必然的な道筋だったはずなのである
「心」とは、世界を開く「開闢の奇跡」を世界<の内部に>複数個並存させるためにつくられた高度に抽象的な超越概念である。「個人」も同じだ。だれもがロボットに心が与えられる際の変化の意味を理解できるはずだ、と私が言うとき、私はすでにこの超越性に乗ってその内部で発言している。”p.51-52
<>は傍点の代用。

擬人化して人間の認識、言語をあてはめて物事を理解するのが人間。そして人は擬人化ならぬ「擬私化」して他者などを理解する。しかし私と他者とは別次元のごとき隔たりがあり、「私」に擬するなんて不可能なのではないか。それを繋ぎ可能にするのが超越する何か(永井曰く神だが人格神ではなくてもよいように思える。神の概念でも可)。世界に唯一しか存在していない特別な開闢の前提の私が、特別でもない他者と繋げられるのはなぜかということ

<>は傍点の代役。

“たとえば、五分前に突然できたのか、ちゃんとふつうに継続してきたのか、という違いのように、われわれの能力によっては原理的に識別できないのに、われわれの知性にはその違いが理解できるようなことがらが存在するのはなぜだろうか。
この問いに対する前節の答えは、それはわれわれが神を信じているからだ、というものであった。そのさい私は「神」の概念を「われわれに理解できる全能者」という概念に言い換えていた。何でもできるのだが、何をやっているのかわれわれに理解できないようなことができるのではなく、やっていることの意味がわれわれにも理解できるようなことが何でもできるような全能者、である。識別できないのになぜ理解できるかといえば、理解には本質的に拡張的な性質があるからだ。”p.53

“自分(たち)が識別できない違いを、識別できないにもかかわらず理解はできることには、だから、必然性がある。自分(たち)が識別できることによって獲得した概念の適用範囲を拡張し、とりわけそれを自分(たち)自身にも遡及的に適用すること、これがわれわれの世界把握の基本的なあり方だからである。
 さて、それでは、神はどこにいるのか。開闢に神の業を見るか。それとも、開闢は自明の所与とみなして、そこからの超越にこそ神の業を見るか。私が存在することが神の業なのか。それとも他者が、つまりありえないはずの他の私が存在することこそが、神の業なのか。今が存在することが神の業なのか。それとも、ありえないはずの他の今が存在することこそが神の業なのか。
 もちろん、どちらも神の業だ。しかし、両者を一つに束ねる「心」とか「自我」とか「個人」とか「実在」とか一様に流れる「時間」とかいった概念が生まれ、そちらのほうが出発点とされることによって、神は死ぬのである。もちろん、神の死は必然である。なぜなら、神が死ななければ、われわれがふつうに理解している客観的世界は生まれないからだ
さてそれでは、なぜ神が世界を五分前に創造したと想定することが可能なのだろうか。それは、結局のところ、こうしてできたわれわれの客観的世界を、開闢の視点へと引き戻してみることが、つねに可能だからなのではあるまいか。そのような仕方で神を復活させることが、つねに可能だからなのではあるまいか。
もちろん、いったん神が客観的に存在するものとされてしまえば、開闢と結びつかない神の業も当然ありうることになるだろう。宗教というものを信じている人は、基本的にこの形で神を表象することになるだろう。だが、それは神の死のもう一つの形態ではなかろうか。“p.55-56

「世界把握」を「世界は悪」と誤変換された。しかし或る意味では「正」変換である。

 開闢=神の死、それは原因と結果の逆転。すべての前提である開闢を理解する為には、開闢のおかげで生まれた言語によって開闢のレベルを下げなければそもそも人間に扱えない。どんな高次のものでも、言語表現するためにはレベルを強制的に下げないといない。
 文章でも何でもそうだが、筆者の主張あるいは重要だと考えていることは、形をかえて繰り返されることが多い。読書のコツ。読解のコツ。国語問題を解くコツ。

神(開闢)の死=言語による開闢の隠蔽=(人間の言語)世界の誕生


“ある夜、哀れに思った神さまが、ロボットに心を与えた。あくる朝、意気揚々と学校にあらわれた彼が、友人たちに向かって「今日からぼくは心があるんだぞ」と言ったら、友人たちはどう反応するだろうか、というのが前節の問いであった。
しかし、彼が「今日からぼくは心があるんだぞ」などと言うはずがない。なぜならその夜、神は彼に心そのものをはじめて与えたのだから。それはつまり、それまでの人生の記憶も与えたということだ。だから、そのとき与えられた心は、その内側から見れば「そのとき与えられた心」ではない。「はじめからずっと存在していた心」なのである。それでも、<神は>彼にそれを与えたのだ。
それでも、神はそれを与えた? しかし、いつ? そして、だれに?
いつ、というなら、それはもちろん「その夜」である。この変化は、他人たちにも自分自身にも、だれにも知られることはない。だれにとっても変化ではない。それでもこれが変化だといえるとすれば、それはこれが神による変化だからであり、まさにこのような変化を与えることこそ、神にふさわしい業だからである。――というのが、私の神学上(?)の見解なのであった。そこで、神に敬意を表して、だれにも知られなくとも、やはり変化はあったのだと考えることにしよう。さてしかし、その変化はだれに起こったのだろうか?
 ここで重要なことは、前節の、逆のケースを経由した考察を思い出すことである。逆のケースとは、神が人間から心を奪ってロボットにしてしまうというケースであり、それは私に起こることなのであった。この場合、問題の本質は、私から心が奪われることにあるのではなく、私が私でない者にされることにあることが分かった。この考察を経由して、私はこう書いた。「前者のケースであっても、ロボットに心が与えられるだけではなく、そのときロボットが私になるのだとすれば、そこに識別可能なはっきりした変化が起こったことになるだろう」と。
 では、ロボットは、心を付与されるだけではなく、私になるのだとしよう。そこに私に識別可能なはっきりした変化が起こっているだろうか。
 たしかに私は、昨夜までは心などなかったのかもしれない。しかし、神が昨夜、私に心をあたえてくれたのだとしても、私はそれを知ることができない。だから、それは<私に>起こった変化ではない。むしろ神が、そして神だけが起こしうるある変化によって、私ははじめて誕生したのである。それまでもずっと存在しつづけてきたとの確信とともに。
 つまり、問題は五分前世界創造説の場合とまったく同じなのである。前に使った言葉を使うなら、これはいわば開闢である。しかし、この開闢は、実際に「それまでもずっと存在しつづけてきたこと」と<だれにも>区別がつかない。
 五分前世界創造説と対比して、これを昨夜私創造説
と呼ぼう。
 さて、そこで一つの問題は、後者が私に起こった変化だといえないなら、同様にして、前者も世界に起こった変化だといえないということにはならないか、というものだ。
 もう一つの問題は、神による私の創造が昨夜一回だけではなく毎晩であることは可能なことだろうか、というものだ。これはもちろん、世界がそのつど五分前につくられているという想定に対応する。“p.57-59 <>は傍点の代用。

“ロボットが私にさせられるとは、ロボットに記憶が与えられることではない。記憶が与えられても、それだけでロボットは私になるとはかぎらない。ロボットが私にさせられるとはまた、ロボットに感情や感覚が与えられることでもない。思考力や想像力が与えられることでもない。記憶も含めて、そういうものがすべて与えられても、ロボットは私になりはしない。せいぜい人間になるにすぎない。私にさせられるとは、世界が私という特異点を持ち、世界がそこから開かれるようになる、ということなのだ。そこから開かれるような世界が、新たに誕生するということなのである。
さて、このように考えたとき、神には〈私〉の着脱能力があるか。これが問題だ。これは、感情や感覚のような心理状態や、記憶や知覚のような表象状態を着脱するような、なまやさしい話ではない。もし神にこの能力があるのだとしたら、それはロボットに心を与えたりする通常の神より高階の神でなければならない。すなわち、開闢の神
である。
 通常のオーダーの低い神では、世界の中にそもそも私が存在するかどうか、かりに存在するとして、どれが私であるか、識別する能力がない。神はただすべての人の心をお見通しなだけである。すべての人の心を見通したって、そのうちのどれが私であるかはわからない。識別能力がないのだから、神はもちろん私を創造する能力もない。ある特定の性質をもったある特定の人間を造れるだけである。私が生じるのは神の手の及ばない≪偶然≫である(デカルトの「我」が「欺く神」に対抗できるのはそれゆえである)。
 だからもし、神に私を創造する能力があるとすれば、ふつうの神より高階の神を考えなければならない。心を持った人間が複数存在する世界を(主として物理的に)創造する神という神表象を捨てなければならない。どれが私であるかを含み込んだ世界をつくる神を考えなければならない

さて、私にかんするこの高階の「神の事実」に対応するような、世界にかんする高階の「神の事実」がありうるだろうか。これが問題であった、そしてこれが、これから考えていきたい問題である。
この高階の神なら、実在の過去そのものを作ったり消したりできるかもしれない。なぜなら、どの人間が私であるかを含み込んだ世界をつくる神は、どの時点が今であるかを含み込んだ世界をつくる開闢の神でもあろうから。”p.65-67  ≪≫は本書の傍点の代用。

「私」を着脱する能力者が「ある人の私」を剥奪して、哲学的ゾンビ=永井の言うロボットになったとしても、その人以外の人にとっては何の変化もないし、その変化を感じる「その人の私」はもはや存在しない。つまり、実質なにも起こっていないように思える。
読者などの上位存在だけが認識可能な変化。これこそ魔法である。しかも最上位の。
最も驚くべき点は最上位、否、世界の開闢に関わるのだから位を超越した絶対魔法は、「何も起こらない」のだ!
こんな物語はどうか。
この絶対の魔法による変化が前後でわかる者を探す旅の話だ。
「ずっと……<私>のあるなしを、私の世界の開闢の存在と不在の違いを感じられる存在を、探していた。私にとっては最強にして最高の、他者にとっては最弱で最低どころか無意味の絶対魔法、<私>の着脱を使える術者を」

で、その術者により<私>を持つ存在全員から<私>が抜かれていて、三次元世界に<私>は文字通り存在しないが、高次元に<私>は送られた、というオチ。
<私>が抜かれようが、抜かれまいが、高次元にいようが、三次元にいようが、今の生活が何一つ変化しないことに恐怖を覚えないだろうか?


 開闢後の世界で開闢を操作できるのかな? 
何せ、操作する操作される、操作「前」・操作「後」の区別すらないのが開闢あるいは開闢以前(以前という言葉に意味があるのかな)なのに。
でも言葉は前後関係無しでは絶対に成立しないから言葉ではそもそも議論できないのでは?
「変化」が根源だと前述したが、その「変化」以前があるかどうかをそもそも議論できないのと同様の問題=言語の限界である。
言葉が通用しない分野ではロゴスの権化たる哲学は無力すぎる。


“デカルトの方法的懐疑では、まずは、これは夢ではないか、と疑い、次に、悪霊に欺かれているのではないか、と疑う。これはいわば、神の位階を上げているわけだ。
 <これ>が夢だとしても、夢の中でも外でも、二たす三は五で、四角形の辺は四つである。夢には、現実ではないことを現実だと思わせる力はあるが、それだけの力しかない。神の能力にあてはめれば、これはかなり位階の低い神だ。デカルトが次に想定する悪霊(欺く神)の位階はもっとずっと高い。悪霊には、たとえば、われわれが四角形の辺を数えるたびごとにまちがって四つであると思い込ませるといったような力があるのだ。これはなかなかすごい力だ。そんな力があるなら、言葉の意味をすべてまちがって理解させるといった力もあるにちがいない。しかし、そんな可能性を「疑う」なんてことがそもそも可能だろうか。その疑いの遂行において使われている言葉の意味がすべてまちがっている可能性を疑うなんてことが。(そもそもこういう場合「まちがっている」とはどういう意味なのだろうか。この点については第3章で考えよう。)
 夢なら覚めることがある。そして、覚めたかどうかがわかる。たとえそれもまた夢だったとしても、少なくともそれ以前に見ていた夢から覚めたことはわかる。で、悪霊の位階が高いことは、まず、悪霊の欺きから覚めたかどうかがわからない、という点にあらわれるだろう。覚めるということの基準そのものを、いやそれどころか「覚める」という概念そのものを(!)、この悪霊が(われわれを欺いて)作り出しているのかもしれないからだ。さらにまた、もしほんとうに覚めたとしても、悪霊の能力があまりにも巨大なら、欺かれて成立していた世界とその外部の世界とに共通するものは、もう何もないだろうから、やはり「覚めた」といえる根拠はないだろう。たとえば、時間というものそのものをそいつが作っているのだとすると、「覚めた」なんて過去形は適用できない、とか。何度も言うけど、これはすごい力だ。
とすると、そもそもほんものの神とこういう悪霊との区別は、どこにあるのか。この悪霊は何が悪なのか。もちろん、われわれが知っている善悪や真偽の区別は、この悪霊が作り出しているはずだ。それでも、そいつはほんものの神ではなく、私はそいつに<欺かれ>ているのだ
、という認定はどこからなされるのか。さらにもっと位階の高い神の視点からか!
それで思い出したのだが、『創世記』のような神の世界創造の場面の描写を読むといつも疑問に思うことがある。それは、ナレーターは誰なのか、という疑問だ。人類未到の山頂への初登頂の模様を、テレビカメラが山頂から撮影しているといったことにちょっと似ている。もしそれが開闢であるなら、そこにナレーターがいるはずがないじゃないか、とよく思ったものである(私は神を信じているにもかかわらず宗教というものに対する不審の念はとことん深い)。
話は逸れたが、欺かれて出来たこの世界の外に本当の世界があるとしても、断絶があまりにも大きくて、私(あるいは私たち)が同一性を保ったまま、その二つの世界を架橋することが不可能ならば、欺かれているという認定には実質内容がなくなる。結局、この世界こそが現実の世界だというほかはなく、悪霊こそが神だということになるだろう。”p.68-70 <>は原文にはなく、原文では傍点。

GODによる世界創造が三人称視点で記述されている=GODの創造を見ている存在がすでにいる。
GODの一人称で記述されていない時点で、創世記はGODがなしたことの記録ではない。一人称という一番厳密な語り方をしない時点で、三人称というより厳密でない=不完全な語りをGODが採用したという、完全ゆえに矛盾だらけな問題が生じる。
三人称視点で記述した文章は「完全」なのだという前提を逆手に取ると、三人称視点が正しいのならGODを見ている何らかの別の存在の視点を認めていることになり、GOD以前あるいはGODと同時にGODに類する存在が生まれていたことになり多神教化する。
ナレーターこそが真の創造神かもしれない(すでに多神教になってしまい一神教破綻)。
創世の物語は文字の読み書きができるエリート層の人間が書きました。識字率は非常に低かったから。てゆうか全知全能のGODなら人間の脳に記憶をインプットすればいいよね。
徹底的に疑って論理を積み上げるが哲学なのに、わざわざ絶対に疑って検証してはならない宗教を信仰するってアホ過ぎますな(身を守るために表向きに表明しているだけである場合は除く)。
 悪魔も異教徒も創ったGODが善であるはずはなく、自作自演で騙す悪魔そのものである。ほんものの神がいるとすれば善悪を超越した人格なき単なる世界全体そのものあるいは世界が誕生する前提そのものであるから、原理的に人間が解釈することなどできないし、ましてや意志など存在しない。人格神は絶対に全能になれない。人間が全能ではないからだ。

哲学のお勉強は、それに先立って相手の問題水準まで自分なりの問題意識から(つまり相手とは独立に)到達していないと、何の役にも立たない。到達していればおおいに役に立つが、それはもちろん、相手の言っていることとは全然ちがうことをそこから読み取ることができる、という意味である。
ライプニッツは真理を、理性の真理と事実の真理の二種類に分類した。理性の真理は必然的で、そうでないことは不可能だが、事実の真理は偶然的で、事実はそうであるが、そうでないことも可能ではある。
理性の真理は、概念を分析するだけで真理であることがわかる。どんな未亡人の夫も必然的に死んでいる。それは世界の事実を調べてみなくても、「未亡人」という概念を分析するだけでわかる。対して、事実の真理は、世界の事実を個別的に調べてみなければ真理であるかどうかわからない。三島由紀夫が割腹自殺する(した)かどうかは、いくら「三島由紀夫」概念を分析してみても、世界の事実を調べてみなければわからない。だから、三島由紀夫が割腹自殺しなかった可能性もじゅうぶん考えられるのである。
しかし、ライプニッツには充足自由律(=十分な理由の原理)というものがある。すなわち、すべての事実には必然的にそうであるべき理由がある、というのだ。だから、「未亡人」という概念(一般概念)に「夫が死んでいる」ということが含まれているのと同じように、「三島由紀夫」という概念(個体概念)にも「割腹自殺する」ことが含まれている。そうすると、「三島由紀夫」という概念を分析するだけで、彼が割腹自殺する(した)ことを知りうる者がいることになる。それはだれか?
神である。つまり、三島由紀夫が割腹自殺することは、もともと「神の知性」の中に用意されていたことなのである。しかし、もともとそうだったのだとすると、神はいつ、どこで、おのれの自由意志を行使できるのだろうか。アルノーのこのような問いに、ライプニッツはこう答えている。

「三島由紀夫と彼の割腹自殺の結びつきは、神の自由意志に依存しないという意味で必然的な結びつきなのではない。というのは、可能的なものとして考えられた神の自由な決定は、可能的な三島由紀夫の概念の中に含まれていたのだが、まさにこの決定が≪現実≫となったとき、つまり、神がそう意志したとき、≪現実の≫三島由紀の原因となるからである。三島由紀夫のような個体的なものは、その個体概念のうちに、神の自由意志を原因として持つ、ということを含んでいるのである。一般概念や理性の真理が、神の自由意思を仮定しないで、もっぱら神の知性にのみ依存するのとは、その点が違っているのである」(『ライプニッツ著作集8』工作舎、二六〇-一頁参照)。

神ではなく、一七世紀のヨーロッパ人にすぎないライプニッツが、なぜ三島由紀夫のことを知っているのか、などという野暮な疑問を持たないかぎり、ここではきわめて重要なことが言われていることがわかる。概念や理性の真理は、もっぱら神の知性にのみ依存し、神の意志を必要としない。それは、神の知性の中にあるあらゆる可能世界に同じように存在するから、≪現実に≫創造される必要がない(正二十面体が可能であることが証明されれば、正二十面体はそれだけで存在する)。対して、個体や事実の真理は、その概念のうちに、現実世界で生じるということが含まれているので、神の知性のみならず神の意志もはたらく必要がある。つまり、神によって≪現実に≫創造されなければならない(三島由紀夫は個体概念として可能であることが証明されても、それだけでは存在することにならない)。だからこそ、≪それ≫が現実には創造され≪ない≫ことも可能であるわけだ。
お勉強ついでに一言。この分類において、神の知性を神の意志に吸収してしまうのが、デカルト哲学。逆に神の意志を神の知性に吸収してしまうのが、スピノザ哲学である。
さて、しかし、三島由紀夫の個体概念が、彼に関して成り立つすべてのことをあらかじめ含んでいるなら、どうして≪彼が≫割腹自殺しなかったことも可能なことではあるのか。それは不可能ではないか。”p.84-87

一般概念・理性の真理(定義的に絶対正しい)
…神の知性にのみ依存。神の自由意志なし。

事実の真理(正しいかどうか検証が必要)
…神の自由意志を原因として持つ。神の知性も必要



“何が起ころうとそれが起こるのは現実世界である。ある意味で、これは自明であって、疑う余地がない。
では、こういう場合はどうか。この現実世界の内容が、あるとき突然、これまでとまったく関係ないものになってしまったとする。人類は突然消滅してしまう。自然法則も無くなって、世界は突如としてまったくの無秩序になってしまう、等々、どんな突飛なことを考えてもいい。何であれ、考えられるようなことは、すべて考えられるようなことなのだから。どんな内容であれ、現実にそれが起こってしまったのなら、それは仕方がない、起こってしまったのである。何が起ころうと、それが起こるのは現実世界なのだから、それは現実だ。
ここまで読んで、「それは、そうだ」と思ったなら、この状況に次のような想定を付け足してみたらどうなるか、考えてみてほしい。現実世界に異変が起こったちょうどそのときから、現実世界のこれまでの歴史経過と内容的に完全に連続した内容が、別の(非現実の!)世界で生起しはじめる、という想定である。非現実というのは、神の知性の中の可能世界でもいいし、だれかが見ている夢の世界でも、何でもいい。だから、もちろん、この連載もその世界でつづくことになる。つづけて読んで下さいね!
さきほど「それは、そうだ」と思った人も、今度はむしろ、内容上の連続性によって、その非現実の世界のほうが現実世界に<なる>、と言いたくなりはしないか。だって、そっちには、これまでどおりの自然法則が支配していて、これまでどおりの人間たちがちゃんといるんですよ。でも、もしそうだとすると、まったくの無秩序になってしまった世界のほうはどうなるのかなあ? <現実に>そうなってしまっただけなのに、非現実ということにされてしまうのか
?
二つの原理が対立している。何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だ、という原理と、起こることの内容的なつながりによって何が現実であるかが決まる、という原理だ。この対立は、何が経験されようと経験するのはつねに私だ、という原理と、経験されることの内容的なつながりによってどれが私であるかが決まる、という原理との対立に、平行的である。現実の場合も私の場合も、前者をライプニッツ原理、後者をカント原理と呼ぼう(勝手な命名だが)。
ある意味で、ライプニッツ原理の正しさは疑う余地がない。さまざまな可能性のうち、最も起こりそうなことが起こったのは現実だ、なんていえるわけがないからだ。どんなに起こりそうもないことが起こったって、それが起こってしまったなら、それが現実だ。最も起こりそうなことが起こっている可能世界のほうは、非現実というほかはない。
同じことは私についてもいえる。私とは、現に世界がそこから開けている唯一の原点のことである。だから、何が経験されようと、経験されてしまったなら、それを経験するのは必ず私なのだ。ということは、経験される内容に関係なく、ということである。経験される内容のつながり方によって、どの人物が私で、どの人物が私でないかが決まる、なんてことはない。もし全然つながらないことを経験するようになってしまったなら、つながらないことを経験するようになってしまっただけのことだ。現に端的にそこから世界が開けている主体は一つしかなく、原理的に一つしかありえないのだから、つながり具合を相互に比較してみることなんか、そもそもできないのだ。いちばんつながりぐあいのいいやつが私になるなんて芸当ができるわけがない
私が分裂するという、よくある思考実験の場合だと、別れた二つは内容的にほとんど同じ人物なので、どちらが私になるかは、ただ偶然が(言いかえればただ神の意志が)決める。問題なのは、それまでの私の記憶をちゃんと受け継いでいるほうがなぜか私ではなく、受け継いでいないほうがなぜか私である、という場合だ。ライプニッツ原理によれば、そういうことが起こりうることになる。私である人物の経験内容の継続として最もふさわしい人物は、しかし、他人でありうるわけだ
言うまでもないことだが、この思考実験を物体の分裂と並行的に論じるのは、まったく的はずれである。心的性質を持つ物体である人間や動物でも駄目だ。「現実」の歴史経過と「私」の記憶との類比こそが問題の本質なのだから。並行的に論じて哲学的意味を失わないのは、世界の分裂、今の分裂、そして神の分裂! だけである。
しかし、それにもかかわらず、私の場合と世界の場合とでは、事情が異なるのではないか? だって世界の場合には、現実世界のこれまでの歴史とつながった歴史経過が別の世界で生起しはじめたら、内容上のつながりによって、その非現実の世界のほうが現実世界に<なる>、と言いたくなったではないか。私の場合にも、これと対応することが考えられるだろうか?
もし私の場合と世界の場合とで事情が異なるのだとすれば、その理由は、現実世界とつながった歴史経過が別の世界に起こると考えたときに、その別の世界にもとの世界から連続した<私が>存在しつづけていると感じたからではないか。それはつまり、どの世界が現実であるかはそこに私が(しかも今)存在するか否かで決まる、ということではないか。
もしそうだとすると、神は、人間たちの中から一人を選んで意志によって私を創造するとき、諸世界の中から一つを選んで意志によって現実世界を創造するときの意志と知性の対比をそこでもう一度<反復>したのでは<ない>ことになる。その二つの行為は、じつは二つの別の行為ではなく、同じ一つの行為でしかありえなくなるからだ
。”p.104-108
<>は傍点の代役。

ライプニッツ原理
何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だ
何が経験されようと経験するのはつねに私だ
現実世界や私の同一性は、起こったことや経験の内容と無関係
何かが起こったり、何かを経験さえすれば、現実世界や私は同一〔そして恐らく唯一〕のままである)

カント原理
起こることの内容的なつながりによって何が現実であるかが決まる
経験されることの内容的なつながりによってどれが私であるかが決まる
(現実世界や私の同一性を前提とせず、起こったことや経験内容によって現実世界や私であるかが決まる。現実世界や私は、起こったことと経験の大前提なのだが、その大前提が逆転している。これだと、私が二つに分裂して、片方だけが記憶を引き継げるとすると、記憶を引き継いだ側=私、となる。
対して、
ライプニッツ原理だと、今までの記憶を引き継いでい「ない」側が私となり、記憶を継いだ側が他者となりうる。
私が二つに分裂するということが私という言葉の定義上=唯一であると制約上、そもそも想定してはいけないのではないのか。私が、私①と私②に分裂したとしても、私=私①、私②=私あるいは私①から見た他者、となるだけで、私が分裂したことにならないのではなかろうか。他者が増えただけなのではないのか)

何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だ
(あまりにも今までも違うことが起こっても、同じ世界のまま。
あまりにも今までと違っていても別の世界とはみなさない)

起こることの内容的なつながりによって何が現実であるかが決まる
(今まであまりにも違っていれば、別の世界とみなす。複数の世界を想定)

何が経験されようと経験するのはつねに私だ
(経験内容に関係なく私はずっと私のままであり、別の私なるものはない)

経験されることの内容的なつながりによってどれが私であるかが決まる
(あまりにも今までと違う経験をする私は、別人Xであり私ではない。
あるいは、その別人こそが真のあるいは新たな私である)


開闢そのものが、それによって開かれた世界の内部に位置づけられ、その内部を支配する条件の側から、その存在と持続の基準を与えられることになる。そうなれば「何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だ」などとはもう言えない。これがカントの洞察だ、と。開闢とは、ここでは、その条件設定そのものの開闢である。
で、こんどはカントのお勉強。その条件とは、同じ世界が連続して存在しているといえるための条件である。世界のつながり方には因果性をはじめとする一定の型があって、それに従っていなければ同じ世界が連続して存在しているとはいえないのだ。その条件が、同じ私が連続して存在しているといえるための条件と一体をなしている。それがカントの決定的な洞察である。
一体をなしているから、「我思うゆえに我あり」という原理だけから客観的世界の存在が証明できる。なぜなら、意識に与えられたまとまりのない多様なものが、私の側が与える条件に従ってまとめられることが、すなわち客観的世界を構成する(=客観的世界が成立する)ことだからである。だから、意識の一定のまとまりだけで(そしてそれだけが)客観的世界を成立させることができる。それゆえ、すべての現象は、たとえ外的な事物であっても、ある意味ではやはり内的であるわけだ。
すると「内的」という言葉には二つの意味があることになる。客観的な外的世界をも含み込む意味での「内的」世界と、それを含まない「内的」世界、つまりいわゆる「心の中」とである。
だが、その「心の中」にも、二つの意味があるはずだ。客観的世界を成立させるはたらきそのものであるような「心の中」と、成立した客観的世界の内部に位置づけられるような「心の中」とである。カント的な用語で言えば、前者は「無規定的な(=位置づけられていない)私の存在」の「自己意識」にあたり、後者は「規定された(=位置づけられた)私の存在」に対する「自己認識」にあたる。つまり私は、ただ私であるだけで、この客観的世界そのものをはじめて成立させる主体であり、それと同時に、その世界の内部に存在する、身体をもって持続的に存在する、一人の人間でもあるわけだ。ここにもやはり、開闢を開闢された世界の内部に位置づけるという構造が見て取れるだろう。
しかし、ただ私であるだけのものが、客観的世界をはじめて成立させるはたらきなんぞというだいそれたものを、なぜ持てるのか。それは、私であるというまとまりをなすことが、それだけですでに、客観的世界を成立させるというまとまりをなすことと不可分の関係にあるからだ。だからこそ、「我思うゆえに我あり」という原理だけから、客観的世界の存在が証明できるどころか、証明されてしまわざるをえない、というわけだ。「我思う」から「我あり」を導く「ゆえに」の一語には、客観的世界の成立という大事件が隠れているのでなければならないのだ
しかし、ここにはある循環構造がはらまれてはいまいか。ただ私であるというまとまりをなすことが、<すでにして>客観的世界を成立させるというまとまりをなすことと不可分の関係にあるのなら、その不可分の私は、すでにして成立した客観的世界の内部に位置づけられるような客観的人間なのではあるまいか。”p.109-111
<>は傍点の代用。

“「心の中」の諸表象が因果性その他の条件によって相互に関係づけられれば、そのことによって「心の外」の外界が成立する。そのように関係づけられて外界を成立させたとき、それは知覚や記憶等の客観的判断とされ、そうでないとき、<そのことによって>それは夢や幻覚や妄想等の主観的経験とされるわけだ。私が自らを一人の人間として客観的世界の中に位置づけていれば、たとえ私の客観的判断が他者によって訂正されても、私であるその人間の主観的経験(という名の客観的なもの)の実在が、なお認められるわけである。
因果性その他の条件によって関係づけられる、と言ったが、その条件がカテゴリーと呼ばれるものである。どんなに奇想天外な世界を想定しても、それがおよそわれわれに経験可能な世界であるならば、それはカテゴリーに従っていざるをえない。世界がこういう点で現実と違っていたらこのような概念を使うことができない、ともし語ることができるならば、そのような概念は単なる経験的概念であってカテゴリーではない。そんな場合をそもそも想定することができないとき、その概念はカテゴリーとなるわけだ。
ということは、カテゴリーはそもそも語る(枚挙する)ことができないはずではないか、という疑問(ウィトゲンシュタイン的疑問)が自然に湧いてくるが、それはいまは棚上げしておこう。カテゴリーの適用によって客観的世界が成立するなら、夢もまた客観的世界ではないか
、という疑問もいまは棚上げにしよう。それよりも先に、カントのデカルト主義批判に注目すべきだからだ。
カントは、我思うゆえに我ありという原理だけから客観的世界の存在が証明できると言った。しかしこのことは、世界全体を経験する単一の非物質的な主体(肉体から離脱した霊魂あるいは自我)が実在するという意味ではない。世界を成立させるはたらきそれ自体もやはり世界の中に位置づけようとする傾向のために、われわれは、統覚のこの統一作用を世界の中にある単一の非物質的主体であるかのように誤認しがちである。だが、経験を可能にする統一のはたらきは世界を成立させることそのものなのだから、世界の中の一対象として現れることはできないのだ。客観的世界とそれを成立させる心のはたらきとの、この表裏一体性の認識は、カント哲学の比類なき洞察である。
この洞察によって、私が同じ私でありつづける条件と世界が同じでありつづける条件とが文字どおり一体化する。この洞察によって、私が二つに分裂するという思考実験が世界そのものが二つに分裂することとして理解されなければならない必然性がはじめて理解され、「私の今」が突然三十年前に戻ってしまうと無関係な森昌子も「せんせい」を歌ってデビューせざるをえない必然性がはじめて理解される
だが、カントのこの比類なき洞察にも、致命的な難点が含まれている。たしかにカントは統一的な客観的世界の成立可能性の条件を示した。だが、統一的な客観的世界はまだ唯一の現実的な世界ではない。統一的な客観的世界としての条件を満たすもののうち、どれが唯一の現実世界となるのか。ライプニッツにあった唯一の現実世界の成立条件の問題が、カントにはないのだ。決定的とも見えるカントの批判からデカルトを擁護する道が、そこになお残されているはずなのである。”p.114-116
<>は傍点の代役


“私が夢を見ているとき、私は私の存在を客観的時間の中に位置づけてはいない。しかし、それがわかるのはつねに後からだ。私は、夢の中でも、その世界の他者と客観的世界を共有し、共通の客観的認識に達している――というように自分の諸表象をまとめあげている。私は、夢の中でも、知覚と幻覚を区別して体験することができる。いま私が夢を見ているとしても、私はそういう客観的世界の構成には成功している
夢の中での知覚と幻覚の区別は夢の中での相対的区別にすぎないではないか、と言われるかもしれない。しかし、相対的区別という点では、現実の知覚と幻覚の区別も同じだ、というのがカントの根源的洞察であったはずだ。だから、「それがわかるのはつねに後からである」という構造自体は、夢でも現実でも変わらないだろう。他の諸世界を非現実として内部に位置づけて、いま私が存在する世界こそが、現実世界なのである
夢世界は、他人にとってもまたそうであるという形で現れてくるかぎり、カント的には、統一的な客観的世界である。因果性その他の条件によって相互に関係づけられることで現実が存在するなら、夢もまた現実なのだ。”p.117-118

“私のあずかり知らぬところで、私のあずかり知らぬ主体が、突如として私のこれまでの経験の記憶を(私以上に正しく)受け継いだとしても、それは私には関係ない。たしかに一方ではそう言える。たとえその主体のその記憶がその主体自身にとって真なる記憶で、私にとってはそうでないとしても、である。
しかし他方では、内容的連関こそが「何が起ころうとそれが起こるのはつねに……」という原理を凌駕するとも考えられるのだ。このときはたらく原理は、現実と内容的に連続した世界でありながら現実世界でなくなることはありえない、という原理であり、私と内容的に連続した人でありながら私でなくなることはありえない、という原理である。それはすなわち、そこで神の意志がはたらくことは不可能である、神でさえそこに自由意志をはたらかせることはできない、というカント原理なのである。
ここには原理の対立があるのだが、ここで重要なことは、ライプニッツ原理とカント原理は、一方の原理によって他方の原理を包み込んで消滅させることはできない、ということである。
ただし、カント原理がライプニッツ的現実の内部でしかはたらかなくてもじゅうぶんカント原理だといえたのと同じように、ライプニッツ原理も、カント的に可能なもの『の中からの選択』(そのうち一つの現実化)としてしかはたらかなくても、じゅうぶんライプニッツ原理だといえるだろう。可能性の空間をはじめてつくりだすような強いライプニッツ原理は、むしろデカルト原理と呼ばれるべきかもしれない。

さて、この議論において、カントにはさらにもうひとつの貢献があるだろう。ライプニッツは無数の可能世界の中から一つを選んでそれに現実性を付与する能力が神にあると考えたが、私は、この能力は無数の人間の中から一人を選んでそれを〈私〉にする能力に対応すると考えた。カントは、『もし』神のそういう能力がありうる『とすれば』、その二つは同じ一つの能力でしかありえないことを論証したことになる。”p.126-127『』は傍点の代用。〈 〉は原文ママ。

“夢を見ているとき、われわれはそれが≪後で思い出される≫ことを意識していない。それは突如として思い出される。かりにもし夢を見ているときに後で思い出されると思っていたとしても、その思いと思い出しとは結びついていない。
現実に生きているとき、われわれはすでにそれが≪後で思い出される≫ことを知っている。思い出される可能性があらかじめ知られていて、それが思い出される。現在は、過去になったときはじめて過去だとわかるのでなく、現在であるその時すでにして必ず過去になることが知られている。つまり、現実の現在は、可能な現在のひとつにすぎないことが、その現場においてあらかじめ知られているわけだ。現在を可能な現在としての過去や未来の視点から位置づける超越論的構造が体験自体に宿っている
文(命題)は否定できるが、絵(像)は否定できない。否定文(命題)は作れるが、否定絵(像)は描けない。これが言語の本質に属することは、『論理哲学論考』の根本洞察だった。だがそれなら、文は時制変換可能だが、絵はそれが不可能だ、も同じだろう。肯定絵を否定絵に変換する操作と同様、現在絵を過去絵に変換する操作もない。が、肯定文を否定文に変換する操作と同様、現在文を過去文に変換する操作は必ず存在する。言語をもつ存在であるわれわれは、端的な現在を可能な現在の一例として把握できるからだ。そしてそれは、まさにカント的な超越論的構成作用に基づいている。”p.140
時制と同じことは、人称についてもいえるだろう。一枚の人物画はそれ以外の情報なしには自画像であるともないとも分からない。絵は人称を描けないからだ。対して、文は文自体の中に人称情報を繰り込むことができる。つまり私は私自身を、つまり現実の私を、可能な「私」の一例として把握し、「私は」と語り出すことができる。そのことによって、ただそのことによってのみ、過去や未来と同様、他我(他者の「私」)もまた必然的に存在することになるわけである。いわゆる独我論が誤りであることの根拠は、結局はそこにしかありえないだろう。
客観的時制構造と客観的人称構造を構成することによって、今と私をその内部に含んだ(客観的に位置づけた)客観的世界を成立させることができること、人々が「あたりまえ」のように感じているこの事実は、真に驚くべき事件なのである
。いいかえれば、カント哲学の洞察の深さはほとんど驚天動地というほかはないのである。もう一つおまけに四字熟語を使うなら、文字どおり空前絶後。”p.141 ≪≫は傍点の代役

「私」や「今」が唯一絶対のもののはずなのに、「他人も『私』や『今』という言葉を使え、しかも意味が了解できる」。
つまり、「私」や「今」が言語化された瞬間に、レベルが一段階下がってしまい、唯一絶対のはずのものが、共有可能で相対的なものになる。それが成立することは正に奇跡的でスサマジイことである。

“全宇宙に生起するすべての事実が記されている巨大な書物を想定しよう。その本には、文字どおりすべてが書かれている。昨日私が東千葉駅で見かけた野良猫の、二〇〇四年二月二十一日正午における身体全体の毛の総数までちゃんと記されている。でもその本には、いつが今であるかは記されていない。その本の中の「全宇宙史年表」が時計機能をあわせもっていたとしても、その針は、それだけでは今を示せない。それが今を示せるのは、その本の外に(そして時間の中に)いるわれわれが、それを『いま』見ることによってだからである。
 同じことはもちろん「私」についても言える。その本には、だれが私であるかは書かれていない。全宇宙史年表の時計の針と同様、その本には各人の自己意識の記述があって、『私が』覗けば「永井均」と書かれているわけである。
 どちらも、この本にあらかじめ書き込むことができない。だから、この二つの事実は「実在しない」というわけである。神の意志が神の知性の中にはないように
。“p.144-145

今=私=私の世界=神の意志。 
世界=神の知性

“哲学者たちはいわゆる独我論の誤りをいろいろな形で論じてきた。しかし、逆の問いが手つかずに残されている。すなわち「それなら逆に、その他人たちは私ではないのはどうしてなのか?」という問いである。
「私と同じように心をもち、ただ個性が違うだけの人間に、私でないという根本的な違いが生じているのはなぜなのか?」――肝腎かなめのこの問いに、多少とも肉迫できた哲学者は、史上ひとりもいない。哲学の終焉とか哲学の生き残りとかを語る人々がいるが、私は哲学はまだ始まっていないと思っている。
もう一つの不満は、歴史上の哲学者たちがみなそうだったからであろう、下々の哲学徒たちまでが彼らの真似をして、彼らの下請け作業に没頭するばかりで、ふつうに生きていて素朴に哲学的関心をはぐくめば当然問題に感じてよいはずのこの問いに、だれも迫ろうとさえしないことだ。不可思議な事実のほうはまるで自明の事実であるかのように前提しておいて、それが不可思議であるということに驚嘆した不器用な誇張表現にすぎないいわゆる独我論なんか批判したって、何の意味もないことはあまりにも明らかではないか?
とはいえ、そうでもしなければとことん寄る辺ない存在になってしまう哲学者たちが、ほかのだれよりも伝統や風習や作法や定石(や徒党や流行!)に寄りかかってしまうことは、いまに始まったことではないし
、また同情の余地もあるので、しつこく責めるのはやめて、マクタガートをめぐる議論にもどろう。”p.150-151

p.166“ところで、一般に哲学においては、議論で劣勢にまわる側に魅力的な視点と深い洞察が隠されていることが多いようだ。劣勢とはつまり、問題が解決されない側、解決できない側で、それなのに相手の「解決」にはどこまでも納得できない側である。”

“≪どちらか≫一方が私≪なら≫他方は私ではない。これは前提である。このとき、≪どちらか≫一方だけが私でありうる、というのがカント的意味で、≪この特定の側≫が現に私になってしまっている、というのがライプニッツ的意味だ。後者だけに、神の意志がはたらいている。それは端的な現実を作り出し、そして跡形もなく消えるのである。

 神自身にもあてはまる
 この区別は神自身にもあてはまるのではないだろうか。神の知性と神の意志の区別は、神自身にも遡及的に妥当するのではないだろうか。神の現実存在もまた、神の本質と独立に考えられねばならないからだ。神の存在についての、いわゆる存在論的証明をめぐる問題は、そのことを示している。
 存在論的証明とは、たとえばこんなふうな証明である。「神は定義上完全である。ところで、もし存在しなければ完全さを欠く(完全ならば存在もまたするはず)。ゆえに、神は存在する。」こういう証明である。ん? 何か変だな、と誰でも思うだろう。
 この証明をする(読む)人が神の存在を完璧に信じているほうがおもしろい。まちがいなく存在するはずの≪あの≫神に、この証明は到達しえているだろうか。最後に「ゆえに、存在する」とされた≪その≫神は、現に実在する≪あの≫神だろうか? 論証された「ゆえに、存在する」の「存在」の意味は、現に存在するあの「存在」(つまり現存在)を指せているだろうか?
(ここまでp.175 中略)
 近代に入ると、デカルトが存在論的証明を復活させた。この伝統に対して、またまたカントが決定的な批判をおこなう。その趣旨は、「存在する」をその他の通常の述語と同列に並べることはできないというものである。定義上「立方体で赤くて軽くて小さい生き物」を考えると、それは定義によって立方体で赤くて軽くて小さい。その定義に「存在する」を加えると、それは定義によって存在もするようになる。つまり、それが赤くて小さいことが必然的真理であるのと同様、それが「存在する」こともまた必然的真理となる。しかし、そうなったからといって現実に存在するようになりはしない。それならというので、定義に「現実に」を付け加えて「現実に存在する」と定義してみても、定義上「現実に存在する」ようにはなるが、少しも現実に存在するようにはならない。「夢ではなく十億円持っている」という夢を見た人が、夢ではなく十億円持っていることにはならないように。そこにはつねに決定的な「断絶」(本章第2節)があるのだ。“
p.174-177≪≫は傍点の代役

言葉の世界の恐るべき特殊性。

“「我思うゆえに我あり」もまた、神の存在論的証明が成り立たないのと同じ理由で、成り立たない。
 まちがいなく存在するはずの≪この≫私に、この証明は到達しえているだろうか。最後に「ゆえに、存在する」とされた≪その≫私は、現に存在する≪この≫私だろうか? 論証された「ゆえに、存在する」の「存在」の意味は、現に存在しているこの「存在」(つまり現存在)を指せているだろうか? 先ほどの神の存在を完璧に信じている人と同じ問題がここでも起きる。

 神・現実・私・今
 私もまた概念と存在(本質と実存)の一致を実現することはできない。
 思うことによって存在が帰結するのは、思っていることが直接明らかな「私」だけであることをいくら強調しても、そのことはどの「私」についても言えるのだから、このコギト命題は結局「ある人思うゆえにその人あり」という概念的関係に還元されることになる

(中略)
 神が≪現実に≫存在することを証明するとは、この現実世界に神が存在することを証明することだろう。すると、神が存在しない可能世界もあることになる。このような存在の仕方は、神の本性に反してはいないか。そもそもそうした諸可能世界そのものが神の知性の内部にのみあるのではなかったか
 現実世界は諸可能世界の内の一つの世界であるにすぎない。ところが逆に、それらの諸可能世界はすべて、現実世界の内部で(そこに現実に存在するものを基にして、それを変容させて)構想されているにすぎないともいえる。だから、われわれはその現実世界の存在を「証明」することはできない。それは必然的に(あらゆる可能世界で成立するという意味での必然性よりももっと根本的な意味で必然的に)前提されるほかはない。すべてはそこから始まるのだ。
神はこの意味での(こういう二重性を持った)現実世界の創造者であるのだから、このことに対応して、同じ二重性を持つことになる。それは現実世界に現に存在するという意味では偶然的存在にすぎないが、同時にそのとこ〈引用者註。「そのこと」の間違いだろう〉によって必然的存在である。すべての可能世界はその内部にあるのだから。(ただし、神はその現実世界を超越したその創造者であるから、現実世界の存在とちがって、神の存在を前提にすることはできない
。)“p.178-180

「完全」(=「存在する」という設定)という「設定」がある存在ならなんでもかんでも存在を証明してしまう。しかも、その証明はGOD以外の完全な存在を認めてしまう。そして複数いる完全な存在同士を区別したり不在だと証明はできない。


言語は開闢を隠蔽する。逆に言えば、世界を開く。人称、時制、様相は、客観的世界の成立に不可欠な要件だが、それは開闢それ自体を隠蔽することによって可能になるのだ。「私の今の言語」――この言い方が、言語の内部ではその人称概念と時制概念に吸収されて理解されることになる。”p.222
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千と千尋が性風俗の話だと宮崎駿監督が明言しているのに、無視や拒否反応が多いことから、日本人がキリスト教化されたことと、キリスト教に逆らえない評論家(笑)ばかりなのを実感しよう。日本人は無自覚クリスチャン(家畜の証)。日本人の労働観はプロテスタント以上にプロテスタント=過労死教。 

フィクションで真実を暴露することは真実を隠蔽する役割がある。
大衆にとってはフィクション=嘘なのだから、フィクションにして発表しておくと真実だと認識しにくくなる。
子供のものだと大人に馬鹿にさせるように仕向けられているものに真実を仕込む。
そしてそれを大人になるにつれて否定させるように誘導して洗脳完了。
実際は、大人になってから触れる機会が増えるものの方が嘘が多いのだ


後に引用する文の宇宙人支配者説の箇所についてあらかじめ述べておく。

宇宙人支配者説→TVや本で発表できる。
キリスト教と大本教系が黒幕説→TVでも本でも発表不可能


オカルトという胡散臭さを演出している分野に真実を隠すのは有効。
だが、最重要の秘密ならそもそも宇宙人支配者説の情報すらTVや本で出ないのではないのだろうか。
或る程度漏れたから、あえて或る程度公開したのだろうか。
しかしそれだと、キリスト教と大本教系が陰謀論の元締めであり陰謀の黒幕だということも少なくとも陰謀論の本で出てもおかしくない。
しかしまったく出ない。
陰謀論者の所属団体がキリスト教と神道カルト(和風キリスト教)だらけなのをオカルトの分野にするのは流石に無理があるからだろうか。

宇宙人支配者説はフィクションで大変多い。
キリスト教や大本教黒幕説の場合は名前を変えたりして、カルトが世界を牛耳っていると暴露するフィクションはある。

最低限言えることは、
宇宙人説を唱えている人は明確にキリスト教を否定していないといけない。
キリスト教が支配用の最強の宗教=実行部隊
だと言っていないといけない。
いくらキリスト教を否定したふりをしようが
キリスト教の伝統であるユダヤ陰謀論
聖書が根拠の日ユ同祖論
を主張したらアウト


千と千尋の神隠しに限らず、物語は大規模洗脳に利用される。
物語の抽象性は潜在意識に入り込み、誰でも簡単にアクセス可能な為、老若男女問わず洗脳可能。
なので、聖書を読んだことがなくても、聖書思想を無自覚に吹き込んだりできる。
昔も今も聖書思想をアニメ・漫画・映画・ゲーム・音楽に滑り込ませたり散りばめたりして、とにかく意識できない部分に埋め込もうとしている

ユダヤ陰謀論も日ユ同祖論も聖書が根拠であり、聖書物語による洗脳。
聖書のユダヤ人の実在を信じることは、キリスト教を黒幕だと認識できなくなることに等しい


………

千と千尋が性風俗の話だと宮崎駿監督が明言しているのに、無視や拒否反応が多いことから、日本人がキリスト教化されたことと、キリスト教に逆らえない評論家(笑)ばかりなのを実感しよう
日本人は無自覚クリスチャン(家畜の証)。
仏教で愛は悪。

日本人の労働観はプロテスタント以上にプロテスタント
過労死教
プロテスタントですら、過労死するほど労働しようと考えない
「働かざる者食うべからず」は聖書が元ネタ。
「勤勉な日本人」は明治以降の偽伝統


日本の学校のモデルは神学校(音楽・体育・遠足・文化祭あり)
=イエズス会のセミナリヨ=キリスト教製。
学校は定時奴隷労働者の訓練施設。
英国の産業革命以降の労働者育成用なので時間と規則に厳しい。
不登校は実はまとも。

日教組の母体である啓明会を作った下中弥三郎は教育支配の為の工作員


煩い親や教師には
①学校制度は産業革命により神学校をモデルに奴隷労働者を育成するために生まれた
②給食は毒塗れ
③予防接種は危険
こんなことすら知らずどうやって子供を守れるのかと聞こう。
抵抗しよう!



千と千尋の神隠し:
白人の魔女が、八百万の神々(男の客)よりも上に住み、有色人種をこき使う。
神道=キリスト教が土着の信仰を乗っ取って作った和風キリスト教。
キリスト教>神道(仏教否定)。
キリスト教嫌いの宮崎駿はキリスト教否定の新キリスト教(スピリチュアル、ニューエイジ)派閥。

ポスターは主役が登場します。
魔法使いが支配する性風俗が舞台の千と千尋の日本版ポスターの主役は
千(数字=奴隷)、豚(家畜)、目屋(生あります)。
電車の荷物にも生の目あり。ナルトにも目屋登場。
アイドルは処女はマリア崇拝。耶蘇教の性管理。

北欧神話のブリュンヒルデ=ポニョが津波が起こし全員死亡させつつ、原作のキリスト教要素を否定する宮崎作品。
ハイジも原作のキリスト教要素を抜いたキリスト教否定作品。マギやハリポタと同じ陣営。


町山智浩が宮崎駿「千と千尋の神隠し」と性風俗の関係を徹底解説
https://www.youtube.com/watch?v=scZzCOS8hLQ&feature=youtu.be



町山智浩のモンドUSA  第11回目『千と千尋の神隠し』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9049123



宮崎駿自身が、千と千尋の神隠しが売春についての映画だと言っている

宮崎駿「僕が子供のころには新宿にだって文字通り赤いランタンが灯っているような街がありましたからね。もともと日本は性についてあっけらかんとしたものでしたから。ヨーロッパ人から貞操観念がないんだとあきれられて性道徳を押しつけられるまではね。何もそれを復活しようと言っているわけじゃないんですが、今の世界として描くには、何が一番ふさわしいかといえば、それは風俗産業だと思うんですよ。日本は全て風俗産業みたいな社会になっているじゃないですか。今の女性達は売春窟に似合いそうな人が物凄く増えている」
“PREMIERE日本版 2001年6月21日号”


・全世界共通で赤い提灯は売春宿の印。飲み屋も赤提灯だったりするが、もとは売春宿の印。
・湯屋の柱が赤く塗られているのは売春宿の印。遊郭ものの映画を見ればインテリアが同じだとわかる。

・“人は自分が聞きたいものを聞くw”
・“というか女優はもともと売春が機嫌”
・“神社の周りも売春窟だったらしいね”
・“神社自体が性的な接待が行われてた場所だからね”
・“今で言うと「泡姫」みたいなもんだな”
・“パヤオの「こんなこといいな、デキたらいいな♪」じゃねえかwww”
・“江戸時代の旅籠の「飯盛女」とかね”

・トルコ風呂、湯女風呂が流行った。銭湯は男女混浴で落ち着かない。だから男専門の風呂の需要があった。湯女風呂は個室浴場=ソープ。風呂というのは隠れ蓑で実際は売春がメインのウリ。
当時江戸時代は売春宿は政府が管理していた。吉原の花魁や太夫は女性である花魁・太夫側が客とセックスするかどうか決める。当然、いくら貢いでもセックスできない男がでてくる。金がないなら尚更できない。
そこで、ウチは誰でも断りませんよ、という湯女風呂ができる。
千尋がどろどろで汚い客を洗って綺麗にしてあげて、抜いてあげる。

・“混浴といっても湯気で男女の判断ができないくらいだったそうです。”
・“湯女ってwikiひいたんだけど、関連項目に千と千尋がでてきた”
・“”日本も昭和30年代までは合法売春地帯があった
・“いや、花魁って高級遊女の事だから客を選べるよ。切見世、湯女、飯盛り女、夜鷹あたりは悲惨だけど…”
・“汚れ役は置屋で処女を奪うという仕事だったかな”
・“鎌倉とか伊勢とかデカイ神社の周りは風俗街だったんだよね”
・“しかしこんなものを日本歴代興収一位にする宮崎ってすげえよな“
・もののけ姫のタタラ場の女性はエボシ御前が買い取った売られた女性。彼女らはマージナルな存在で社会の保護を受けられない。
・“MARGINAL=周辺 つまり中心部に居ない人達を指す”
・“エボシ様はハンセン病患者や娼婦が差別されない火事場労働を与える早すぎた名君。同時に困った科学万能主義者”
・千と千尋では、千尋がもう嫌だ我慢できないと言ったら助からないとしている。そうした話は昔から沢山ある。苦界(仏教用語。この世全て。売春しないといけない境遇)に堕ちる話は多い。お姫様など高貴な心の美しい娘が売春をしないといけなくなり、その中で耐えしのぶことができれば成仏できたり綺麗なお姫様に戻れるという話。
・“中世から鉢かぶり姫の話はあるが、いいことしたらご利益があるっていうおちになるのは江戸時代から”
・誰にも相手にされない醜く変形した売春婦に誰かが手を差し伸べると、その人の前で、女神やお姫様という正体を表す話も昔から世界中にある。
・“貴種流離譚ね”
売春婦と聖女や姫を同一視する物語は昔からある。典型的なのはグラナダ(マグラダ?)のマリアは売春婦。
売春婦は神と接触する能力があると考えられた。社会の外側、厳しい環境で売春という辛いことをするのは一種の聖者だと考えられた。神の一種だと考えられた。
中世の修道院は売春をしていた。
看護婦の起源は従軍看護婦であり、その人達は売春もやっていた。従軍慰安婦と看護婦は全く同じものだった。
・“修道女は看護婦もしてたしなぁ”
“ハムレットで「尼寺へ行け!」ってセリフはビッチ!っていう意味で言ってたしね”
・“日本の巫女や、ギリシャの神殿娼婦だね”
・“聖女=性女”
・“なんだっけ、老婆になった自分の正体に気付いてくれる人がいたら元に戻れる話って”
・“「罪の女」とあるけど、俗説では売女ってことになってるね”
・聖女=売春婦。
白拍子、出雲阿国の歌舞伎。歌舞伎はもともとは女性がやるものだった。歌舞伎はお芝居を見せた後でセックスもしていた。
神に近いところにいる人は、芸能を司ったり、看護婦として命を救ったり、修道女として神と結婚したりしながら、男の人に体を分け与えるというかたちで、人間ではなかなかできないことをしていた。
“日本神話でも舞踏は性と繋がるよね、アメノウズメとか”
“弁財天は芸能と売春の神だもんな”
“旅芸人=売春”
“アポロン神殿の巫女とかもな”
・宮崎駿監督自身が言っているのに決めつけで否定するなよ。

湯女(ゆな)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E5%A5%B3


・江ノ島の弁天様を見に行く=本物の女と売春。
 
・自分と自分の相棒しか性風俗の話だと指摘している人がいなくて、軒並み売春のことを無視している。インタビューで宮崎駿が売春や性風俗の話をしても話を逸らそうとする。

“売春=絶対悪という西洋的歪んだ価値観に支配された人間の戯言”

湯婆婆の恰好が十九世紀の欧米の売春宿のマダムと同じ。
アメリカの西部開拓地は男ばかりで、売春宿があり、その主人は湯婆婆の恰好をしていた。
・千と千尋に登場する湯女はお風呂で体を洗うだけだということにしているが、若い女ばかりで、必要以上にセクシーに見える。
しかも、お客様が男の神様ばかり。
画面に思いっきり回春=アソコを元気良くするって書いてある

“逆にただの風呂屋の女将がなんでドレス着て宝石ジャラジャラなんだよ?ってな”

宮崎駿は売春は日本の伝統だから禁止するべきではない、西洋文化の押しつけだと、売春禁止に反対している。
“公営の売春を禁止するから非合法の売春が蔓延するんだしな、一理あるよ”
“禁止するから暴力団の資金源になるんだよなw”
・宮崎駿インタビューで言ったことの英訳を更に日本語訳「頭が悪くて、見かけの悪い女の子でも、若くてセーラー服さえ着ていれば、価値があるっ!それこそ彼女が売れるものなのだ」
あと、『もし、女の人をお金で買ったときに、あなたが得られるものはお金で買えるものだけなんだ。けれども、彼女が売春婦だとしてもあなたがその彼女が本当に好きならば、それは本当の本当の愛なんですよ』と言った旨の引用も宮崎監督はしている


“作ってるよ、自分の欲望の発露したアニメばっかりw キキのスカートのために三ヶ月間女学生視姦し続けた男だぞ?”


・トトロの猫バスは、不思議の国のアリスのチェシャネコ。
売春宿に入っていきなり売春はしない。まずは下働き。千尋も下働き


見習いの千尋に対してノーフェイス=カオナシは金を持って追っかけまわす。鈴木プロデューサーいわく、カオナシは宮崎駿自身のこと。それを聞いた宮崎駿が、焦って「いやいや、そんなことはない、カオナシ的要素はいろんな人にある」
町山さん「ないと思うんですよ。十歳の女の子にお金払って何かさせてくれと思うのは変わった人だけ



映画評論家町山智浩アメリカ日記
2004-03-14 「千と千尋」はなぜ「湯女」なのか
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040314
人は証拠や論理よりも、自分の信じたいことだけ信じる、という話の別例。

宮崎駿の『千と千尋の神隠し』に関しては柳下毅一郎の対談本『映画欠席裁判』その他で書いてきたとおり、娼館を舞台にした物語である。

しかし、そう指摘されると怒る人が多いんだ、これがまた。

 主人公は「湯女」として働かされるのだが、国語辞典でも百科事典でも何でもいい。「湯女」という言葉を引いて欲しい。

たとえば『日本大百科全書』にはこうある。

「温泉場や風呂屋にいて浴客の世話をした女性のこと。一部は私娼(ししよう)化して売春した」

『大辞林』にはこうある。

「江戸時代、市中の湯屋にいた遊女」、

『岩波古語辞典』だと「風呂屋に奉公し、客の身体を洗い、また色を売った女」。

「そういう見方もある」だの「そういう解釈もある」だのというレベルではなく、「湯女」とは「娼婦」を意味する名詞なのだ。

ただし、昔から風俗においては初潮前の少女は見習い(半玉という)として下働きをさせられる。千尋の場合はまだ、その段階だ。公衆浴場には銭湯と湯女風呂の二種類があり、銭湯の客は男女両方で、背中を流すのは三助という男だが、湯女のいる湯女風呂の客は男だけである

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E5%A5%B3

「湯女」で検索すれば、いろいろと湯女風呂の解説や図版が出てくる。

 これで明らかなように、湯女は基本的に娼婦である。

http://www.wind.ne.jp/asakusau/asakusa/ukiyoe/ukiyoe7.htm

http://www5.ocn.ne.jp/~ukiyo26/yuya11.html

http://www.c-c.co.jp/huzokusi4.htm

http://homepage1.nifty.com/shincoo/m124-2furo-nihon.html

http://www.1010.or.jp/menu/history/rekishi04.html

http://1010.or.jp/sento/history/04.php

 ダメ押しで言っておくと、トルコ風呂がトルコ人からの抗議でソープランドに改名された時、最後まで残った有力候補は「湯女風呂」だった。もし、湯女風呂になっていればソープ嬢は「湯女」と呼ばれていたはずだ。

『千と千尋』ほど数多くの映画評や新聞記事で取り上げられた映画はなかった。なにしろ「国民的大ヒット」だから。

 ところが何一つ「なぜ湯女なのか」ということに触れはしなかった


 たとえば渋谷陽一は宮崎駿に何時間もインタビューしながら一度も湯女の意味に触れなかった。まあ、彼は単に知らないだけだろうが、『ユリイカ』の「千と千尋特集」では何十人もの学者や「インテリ」に論じさせながら、「なぜ湯女なのか」誰も触れていない。売春の「ば」の字も出てこない。

 かくしてオイラと柳下だけが「国民的名作をいやらしい目で観るヒネクレ者」ということにされてしまった。

なかには「風俗と結び付けるいやらしい見方は許さない」と怒る連中も多かった。

実は風俗うんぬんはオイラたちが最初に指摘したわけではない。

最初に言ったのは、宮崎監督本人である。

日本版『プレミア』の2001年6月21日号での『千と千尋』についてのインタビューで、どうして今回はこういう話にしたのかと質問された監督はこう答えている。

「今の世界として描くには何がいちばんふさわしいかと言えば、それは風俗産業だと思うんですよ。日本はすべて風俗産業みたいな社会になってるじゃないですか」

 以下、宮崎監督はえんえんと日本の性風俗について語るのだが、要約すると、『千と千尋』は、現代の少女をとりまく現実をアニメで象徴させようとしたので、性風俗産業の話になった、と監督は言っている


風俗産業で働く少女を主人公にするというアイデアを出したのは鈴木敏夫プロデューサーで、「人とちゃんと挨拶ができないような女の子がキャバクラで働くことで、心を開く訓練になることがあるそうですよ」というようなことを宮崎監督に話したら、「それだ!」とアニメの発想がひらめいたそうだ。

ちなみに「プレミア」誌のインタビューで鈴木プロデューサーは「カオナシは宮崎監督だ」と言っている。

奇妙なのは、この『プレミア』の聞き手は、宮崎監督が性風俗について熱心に説明しているというのに、それを『千と千尋』と一切結びつけずに聞き流してしまうのだ。子供向けアニメが性風俗を扱うはずがない、と思って監督の一生懸命な説明も理解できなかったようである。

人は、たとえ監督本人が作品のテーマを説明しても、それが自分の考えていたものと違っていれば、受け入れないものなのだ。
 湯女風呂の歴史的事実と『千と千尋』をしっかり結びつけた評論は日本では見当たらない。恥ずかしいことにアメリカにはちゃんとある


 ウィスコンシン大学のボブ(18)とUSCのミンク(20)という日本語を学ぶ学生が運営するサイトだ。

http://www.bobmink.com

『千と千尋』に関するQ&Aで「湯女」の語義を解説したり『プレミア』の宮崎駿インタビューを引用して、湯屋は娼館であることを説明している。まあ、アメリカ人でも見ればわかるのだ。だって湯婆々の服装は19世紀欧米の娼館の女主人(マダム)そのものだから。

ちなみに、少女が娼婦に身を落として、自分や親の罪を贖うという物語は実は世界中のあちこちにある。お姫様や絶世の美女が苦界に落ち、我が身を男たちに与えていくが、本当の優しさにめぐり合った時、天女になって天に召されるという草紙だ。

この映画の場合、両親が犯したのは飽食の罪だ。オイラはこれは、89年まで続いた戦後日本の高度経済成長と飽食、享楽主義のツケが、90年代から続く底なしの不況として返ってきたこと、それが女性の就職難につながり、風俗産業という苦界に身を投じる必要性が増している状況を象徴していると思う。「プレミア」のインタビューで宮崎監督は現代日本の女の子が性風俗のあふれる社会で生きていかねばならない現状を語っている。

また千と千尋の客が神様(全員男)なのは、古来、神に仕えるものと娼婦は同一視されていたからだ。

古代から、世界各地の神殿の巫女は売春もしていた。

最も聖なる者と最も下賎なる者は同じと考えられていた。

日本に限らず、世界中で神に仕える女性は同時に娼婦でもあった。

神に身を捧げることと、誰にも分け隔てなく我が身を与えることは、同じことだからだ


タルコフスキーの『サクリファイス』に、主人公が世界への祈りとして魔女と性交するシーンがあるが、

キリスト教以前の社会では、巫女との性行為を通じて人は神と対話した(ギリシアの巫女の例がよく知られている)。

民俗社会においては、巫女は、神の妻であり、人間にとっては処女であり(誰の妻でもなく)、、同時に娼婦でもある(誰の妻でもある)。

だから湯女たちは巫女の衣装を着ている


性職者は聖職者だった。古今東西

また、中世のキリスト教教会は娼館を認可し、必要なものとしていた

http://www.medievalsociety.org/2008/02/21/brothels-and-prostitutes/

中世の「聖なる娼婦」の伝説。

http://www.jstor.org/discover/10.2307/3704459?uid=3739256&uid=2129&uid=2&uid=70&uid=4&sid=47699119792967

性風俗と国民的アニメを結びつけるなんて!

と怒った宮崎ファンはもういちど『プレミア』の監督インタビューを読むべきだろう。

そこで宮崎監督は、性風俗を悪いことと決め付けるのは、キリスト教的倫理の押し付けのせいだ、と怒っていらっしゃいます

結論

宮崎駿先生には、堂々とポルノを作って欲しいです。

手塚治虫先生は、三本も作りましたよ。

『クレオパトラ』『千夜一夜物語』『哀しみのベラドンナ』…”

「千と千尋の神隠しは性風俗産業の話である」という町山智浩さんの見解
http://matome.naver.jp/odai/2134150153275995801?&page=1

千と千尋の女体盛り
http://my.shadowcity.jp/2014/11/post-6056.html
”千と千尋が、ソープに売られた娘の物語、という話なんだが、ところでおいらが小学校に入学したら、学校のすぐそばに、女郎屋の廃墟があったわけですw いわゆる「赤線廃止」が1958年なので、それからわずか数年。かつての女郎屋は、近くの工場の社員寮になっていた。そこから学校に通って来る生徒もいて、だから、小学校低学年のおいらは、女郎屋の建物で遊んでましたw 特徴としては、やたら玄関が広くて、廊下が広くて、外観にも特徴がある。なので、千と千尋の建物を見た瞬間に、「あ、女郎屋」とすぐに気がついたw


宗教象徴学
「千と千尋の神隠し」
http://mandalaya.com/sen.html


フェイド大帝‏@FeydoTaitei·9月29日
また、イルミ系の漫画でやたらと
富士山噴火ネタが多い。
美内すずえのアマテラスでは
アメリカのキリスト教カルトの
司祭が魔術を使って富士山を
噴火させる呪い
を掛けるシーン
がある。

美内すずえはアイクが処女作を
出す前にレプティリアン説を
漫画に織り込んでいる。


現代の女が現代の男を作っている
http://magicaldragon.blog.fc2.com/blog-entry-384.html
”宇宙の他の星の含め、基本的に人間というのは女が中心。社会は女が主導なのだ。しかし、地球ではそれ以前に支配層と奴隷層とが存在し、支配層が主導となる。支配層は奴隷層の女さえ制御すれば、自動的に奴隷層の男を誘導・制御できる。以前に「女の性を制御する事により、男を奴隷労働に誘導できる」のような話をした。映画ゼイリブでも「結婚して子供を産め」という暗示キーワードが紛れ込む。奴隷層が結婚すれば、自動的に男は奴隷になるというわけだ。男は子供ができちゃった時などに結婚はしてもいいが、企業などの奴隷になってはいけない。女ならば、相棒を企業の奴隷にしてはならない

宇宙は女が中心という概念は「オーシャンガール」という実写物語に出てきた。オーシャンガールでは海洋研究所を舞台に、鯨と会話ができる不思議な少女と少年達の交流を描く。彼らは宇宙人なのだ。残念ながらDVDなどは発売されていない。テレビで放映されるような物語のクリエーターは魔導師なので、何らかの真実を語っていると解釈する。つまり、「他の星では女が主体で男はサポート」というのが真実だという認識だ。善を名乗る宇宙人の本でも多くの場合、女が主体だと記されているはずだ。
以前の記事では「魅力エネルギーの大きな方にお金は流れる」のような話をした。つまり、男が女に貢ぐのが一般的という事は、女の方がエネルギーが大きいという話になる。あくまで傾向であって、女ならば無条件でという事はあり得ない。お金目当てじゃない方が愛される事は間違いない。男でも不思議な魅力がある場合、「女は俺に貢いでくれる存在」のように考える者もいる。

よく、男女に区別を付けると「女性蔑視だ」のようにヒステリックに語り出す女がいる。しかし、筆者の根底は原則、区別=女性上位となる。ただし、階級(奴隷層や支配層の違い)、年齢や容姿というのもあるので、女性だから全ての男よりも上位という話をしているのではない

当ブログでこのような話をしていたら、「成功した後に、男性は若くて美人の嫁を貰っているんだ」のように食ってかかる女性もいた。いやいや、そういう嫁は2人目3人目であって、成功した男性はそれまでに他の女性も含めて付き合っていたから成功できたのだ。そもそも、そういう結婚は付き合っていたから実現したのであって、結婚が男女関係のスタートではない。セックスを得ていない男性が成功する可能性は、これっぽっちも無い。ただし、最近はゲーム・アニメの女の子にはまって、四次元の彼女達からパワーを得る男達もいるので、必ずしも生身の女とのセックスである必要は無い。この事実の前では、筆者の説は破綻してしまうのでフォローをしておくと、そういう四次元愛好家も、お金を持てば、生身の女に気が向く事もある。結局は生身の女によって、四次元から借りたエネルギーを返す事に繋がるのだ。
筆者はゲーム・アニメキャラに対して二次元という表現をしない。どこにでも存在し、時空を超えるという性質は、四次元というわけだ。また、スピリットが宿っているという意味でも、四次元だと認識する。宿っているスピリットはいわゆる淫夢魔とか精霊のようなイメージとなる。キャラを生み出しているのは女神信仰の魔導師なのだから、女神でもいいだろう。

「男にとって、女がいなきゃ、セックス出来なきゃ仕事頑張れない~」ってのが真実なのだ。男がこの説に対して、「俺は男がいるからいいよ」とか、反論するならば分かるが、女が反論を語っても説得力はゼロ
だ。側面としては「俺はもう性欲が薄れたから、働く必要が無い。高収入を目指す意味は無い」という立場もあろう。

現代の洗脳された女性にとって都合のいい男というのはどんな像だろう? 奴隷のように働き、自分や子供に金品を運んでくる男だろう。現代の女は、そういう男が好きになるように、支配層に仕向けられるという事だ。女にそう思い込ませれば、現代のような奴隷社会が成立する

「稼げている男性は女性を見下さない」のような話をする女性もいる。何の根拠も無い。貧困層で見下す人もいれば、富裕層で見下す人もいる。その逆も然り。富裕層の方が女を金で囲いやすくなり、愛人希望の女は高い金額へ流れる。かと言って、別に見下しているわけではない。色々と訳の分からない話をして、当ブログの「女が男を奴隷にしている」という説を崩したいようだ。同じ人が「男性の資源がお金ではないなら、同性同士で何で勝負するのか?」のように吐いている。つまり、男をお金としか認識していないわけだ。男を物扱いしかしていないので、男女に関わるあらゆる主張が男による女性蔑視に思え、自分が物として扱われる妄想に囚われる

筆者にはプチ高収入時代(年収1500~2000万円)があったので、お金によって女の目の色が違う事は認識している。普通にデートしたはずなのに、「私は海外旅行が好きなので、スポンサーを探している所なんです」と分かりやすい女もいた。若くて、割りと美人で、武道・芸能にも取り組んでいる女性だった。しかし、愛する事ができないと判断し、二度と会っていない。

「ビジネスを大成功させて支配層側になれないのなら奴隷世界のルールで生き抜くしかない 」という主張もあった。支配層側だからビジネスで成功できるという定理は置いておく。当ブログの話は、支配層の作ったルールは無視しよう。要するに、洗脳された人間は無視しようという話だ。奴隷社会でうまく生き延びるという状況は、奴隷の常識にうまく沿う事ではない

社会というのは女が主導なのだが、それを男の主導にすり替えるのが黒魔術師達の役目だ。また、女が虐げられていると女に思い込ませる事も呪術と言える。支配層に虐げられているだけなのに、男に虐げられていると女は考えるわけだ。
次が重要なので噛み締めて貰いたい。こういう事を書いた人物が男というだけで叩かれる場合がある。女が同じ事を書いても問題無いという場合が通常だ。男が書くと「都合のいい女を量産している」のように思う女性も現れるし、女が書けば「そうかも知れない」となるわけだ。つまり、支配層はまず男と女を分断する事で統治していると言える。支配層による分割統治が支配の決め手という状況は、主張者が男か女かで結果が変わるという事実からも判明するわけだ。確かに国同士の分断も統治に役立つが、男女という根本的な分断に気づく事が、霊力のある人間の思考となろう


筆者は冒頭に
宇宙の他の星の含め、基本的に人間というのは女が中心。社会は女が主導なのだ。
と記した。これを女が書いていたら、受け入れられない男が発生し、男からはクレームや嫌がらせがあるだろう。男女にこれ程までに溝を作った黒魔導師達には感服さえ感じる


なお、当ブログでは、別に男に都合のいい女を作っているわけではない。どちらかと言うと、現代の男は経験の少ない女を求める。多くの経験を積んだ女はむしろ好まれないのだから。

他の記事を受け入れてくれた人が当ブログの性愛コーナー読むと、「性愛のコーナーまであって面白い」と好意的に受け取られるのだろう。だが、検索などでポッと当ブログに来て、性愛コーナーだけを読むと、反感に繋がるのかも知れない(爆) 当ブログの深い読者だと、筆者の語っていない事も補完して納得してくださるのだろうが、ポッと訪問した人だと魔力が伴っておらず、筆者の意図が読み取れないのだ。ただでさえ誤解を生みやすい男女の話だが、当ブログに通う程の人じゃないと、性愛のカテゴリーだけ読んで、他の情報まで捨ててしまうというわけだ。というか読んでないからクレームが来たと言える。

分析としては、自分の常識である「男は収入で勝負し、女は若さや美貌で勝負」を崩してきた者が、たまたま自分を満たしてくれない存在である男に属していた。だから噛み付いたというわけだ。

性愛カテは基本的に当ブログが1日100アクセス未満で好き放題書いていた時の内容となる。よって、今、前面に出すと矢面に立ちやすい、奥にしまってあるのをわざわざ引っ張り出さないでもらいたい。

格好言い台詞かどうかは分からないが、お金以外で結び付いた男女こそが、人も羨む理想のカップルだと言える。老人の富豪が美人女優と結婚して、本当に羨ましいかい? 加藤茶は哀れまれているだけでしょ。

本当はもっとクレーム者の論調に反論したいのだが、支配層によって男女が分断されている以上、男の立場で語れる事には限界がある。まあ、更新が鈍っている当ブログの更新を望む人、特に女性による異次元のエネルギーが筆者に働きかけたというわけだ。筆者としては、そのような不思議な理力を持つ人を女性だと認識するのだ。他は女性以前に被洗脳者とか奴隷だとしか認識できないのだ。

当ブログ読者からのコメントに対して返答。余計な話かも知れないが。

お金目当てで男性を選ぶ女性が多いと言っていますが、私の周りにで経済的に自立した女性が多く、その人たちからするとセックスしたいと思ったり、その人の子どもを産みたいと思う男性が少ない、と。男性が魅力的でなくなった(=性的でない)のも支配層の陰謀なのでしょうか。
是非女性が洗脳から本能に目覚めるためにも、男性が魅力的になるにはどのような方法、魔法があるのかブログで語って下さい!

その人の子どもを産みたい」と思う時点で洗脳されている。どの男の種かすら分からなくていいというのが本来の女性。そもそも自分の子というのは確実なのだから、それ以上に何を気にする必要があるのか? 養わせる前提だから、男を特定したくて仕方が無いという思想に侵されているわけだ。自分の子が特定できなくて困るのは男だけ。女が経済的に自立しているならば、別に男に養わせる必要は無い。養わせようとするから審査が厳しくなる。そもそも、セックスさせてみて、漸く興奮できたかが初めて判る。やる前から排除して、何の思惑があるのか? 「この男ならばやらせてもいい」とか考えている内は覚醒はしていない。判定するにしても、やってからの話だ。以前に語ったが、セックスに満足できるか、男の場合には、やる前から正解が分かる傾向があり、女の場合にはやるまでは正解(興奮したり感じるか)は分からない傾向にある。「セックスしたいと思える男に会えない」にもう一度注目するが、男に何を求めているのだろう? 優しさとかテクニックならば、やられてみないと分からないはずだし、やられない内から想像しても無意味というわけだ。結局、肩書とか甲斐性とかで男を決めているという話になる。女が「この男の子供ならば」と決めたはずの相手、いざという時に相棒のサイズとか持続時間が合わなかったら、どうするつもりなのだろう? 特にセックスしたいと思った場合、要するに間違っていたという事でしょ? これらが、やるまでは女は正解を当てられない根拠だ。この話は筆者が実際に関わった女性から聞いた話も元にしている。サイズとか持続時間が(爆)な人が元彼氏で初体験という女性だった。もし、その元彼がサイズも持続時間も充分だったら、筆者は敗北だった(笑)

幻の桜さん(若めの女性が管理人)によると、女が男を選ぶのではなく、自分に寄ってきた男を受け入れるのが女の立場だ。つまり、「したい」と言ってきた男こそが、セックスすべき相手なのだ。したいと言える時点で、水準の高い男。自信が無い男ならば、女に声は掛けない。異性に性的魅力を感じるのは男の方であって、必ずしも男に充分な魅力がある必要は無いのだ。女は自分に男が寄ってくるという現実こそが自分の魅力を認識するチャンス。

男性の魅力だが、日本に関しては昔の男は多くが自信を持っていたので、今よりは魅力はあっただろう。しかし、裏を返せば、性が満たされていたから自信があったのだ。原因と結果を間違えてはいけない。ちなみに、自信が無かった男は末端の坊さんなど、性が満たされない者達だった

返答は以上。

現代の女が現代の男を作っている。あえて言ってみると、現代の女の多くが洗脳されているので、あまり魅力的な男にならない方が現代の悪女には好かれず、マシな人生になる事さえある(爆)

現代の性の乱れが原因でうんぬん……という話は、ことごとく作り話。古来の日本ではその乱れとやらで、うまくいっていた。性を制御されるのは家畜のみ。性の乱れ(実際には本来の姿)よりも恐ろしいのが、性の管理や制御なのだ。

当ブログの主張としては、「地球は実は宇宙人によって支配されているのだから人間は家畜同然。皇族王族は宇宙人の手下のような存在だから、皇族王族でいられる。お金を発行している一族も同様。男女関係の常識が正しいはずが無い
」という思想が根底なのだ。”

キリスト教「お前らの新年祝いは俺の暦のお陰だぞ。感謝しろよ」 。神道家=キリスト教の手先の偽書の見抜き方。 

キリスト教「お前らの新年祝いは俺の暦のお陰だぞ。感謝しろよ」
キリスト教暦=時間支配装置、の下での生活を変えることが、私が生きる目的の一つです

除夜の鐘や初詣といった「日本人のお正月」は神社(神道=和風キリスト教)の集金イベントとして作られた。
「初詣」の初出は明治18年
除夜の鐘が風物詩になったのは昭和のラジオが原因。
『日本の伝統』の多くは明治期の✝製の『創られた伝統』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-47.html
神仏習合は仏教圧倒的優位.、
日本の真の伝統は仏教。
明治以降のキリスト教と和風キリスト教(神道)による偽伝統一覧
神道の現人神、
神前結婚式、
仏前結婚式、
武士道(白兵戦重視)、
相撲は国技、
全面的に良い意味としての愛、
初詣
金剛峯寺、
個人の誕生日(満年齢)を祝う、
年越し行事としての除夜の鐘
勤勉な日本人、働かざる者食うべからず

元日に一斉に年をとる数え年から、誕生日に年をとる満年齢へキリスト教が変えたことが個人の誕生日祝いの起源で普及は戦後
数え年のままなら、今でも一般人の誕生日は祝わず、ロウソクつき丸いケーキ=ギリシャの月崇拝の儀式を行う正月の伝統ができていた?

国家神道=天皇一神教
の元ネタは平田篤胤の平田神道=和風キリスト教。
平田篤胤はクリスチャンで
神=善神に一元化。
1806年の『本教外篇』で
本教=和風キリスト教=神道にした。
国学者の篤胤はハングルをモデルに神代文字を捏造

当時の天皇は仏教徒。
天皇・神道・神器は道教用語


✝の平田篤胤の本教外篇より
本教=和風キリスト教=神道。
平田の弟子の大国隆正も本教を主張。
大国の弟子が
福羽美静(明治天皇の侍講)
と玉松操(岩倉具視の腹心
)。
大本教は大本と名乗り
 本教を隠す。
大本教系の日月神示の元ネタの一つが
平田篤胤の神字日文伝(神代文字を捏造)。

1446年にハングルを制定した李氏朝鮮の第4代国王の世宗は
1447年にハングル文学の『釈譜詳節』を作らせた。
平田篤胤生存時の李氏朝鮮の支配層は公式に漢字を使用していたが、ハングルの使用者は実在。
キリスト教の禁書と共にハングル本を入手したのでしょう。

古代の発音数と文字数が合わないことと、何でも日本起源にしたい大本教の日本雛型論者がいるので、平田篤胤がハングルをモデルに神代文字を捏造したと判断。
多々良=大内=周防を支配した百済=南朝系。
周防=山口県に田布施。
後の周防支配者の毛利が平田篤胤に干渉?

神道に教義も教典もないのは、当時の神社は地方の祭壇で、思想体系が整備されていない土着の信仰だったから。
天皇が採用=国教なら、哲学体系が整備されるので仏教思想は発展

寺に支配された神社に権力はなく
記紀は道教国教時代に誕生。
日本の皇室でも元来は二種の神器=中国の道教用語。

5~6世紀の道教家の陶弘景が道教の一派「神道」の起源。紫宮に住む天皇を仙の世界の長とし真人を高級官僚として「神道の道教」世界を構想。道教の剣と鏡=天皇大帝の象徴を重視。
天皇大帝は北極星の神格化。×太陽
天武・持統天皇合葬陵は八角形=道教思想。
神道のお札の元ネタは道教のお札。

「天皇が信仰した思想体系がある伝統宗教」=神道は明治期のキリスト教による捏造
明治以前の神道
単なる土着神崇拝。神社は地域土着の祭壇。政治に影響力なし
②道教の一派としての神道(天皇と神器も道教用語)。
本地垂迹説=仏教優位で神仏習合。
#日ユ同祖論 は道教と仏教を無視。

明治以前の天皇は仏教徒→伊勢神宮に参らない
明治以降の偽天皇は神道家=和風キリスト教徒→伊勢神宮に参る。
伊勢神道では食べ物の神の外宮が天照の内宮より格上だった。
神道五部書は偽書。
仏教国教時代を否定する為に、超古代と明治以降の偽伝統を強調する神道家は半島+クリスチャン人脈

仏教の神は「~天」(天部)←創造神の意味あり
神=祭壇+雷←本来は創造神の意味なし
梵天で分かるように「天」は創造神という意味で江戸以前から使用。
カトリックではGodの訳語は「天主」が公式

Godの訳語に「神」を初めて使った漢訳聖書が18世紀初頭の四史攸編
偽書を見抜こう。

四史攸編を参考に
1813年に新遺詔書(神=ゴッドと訳す)が広東で出版
される。
米国聖書教会側が改訳した聖書(1860年前後)では
ゴッド→○神 ×天主
スピリット→○霊 ×神
ラブ→○愛 ×仁。
神=創造主とした19世紀のプロテスタントの漢訳聖書が現在の和訳聖書の元ネタ。

現存最古のゴッドの日本語訳は16世紀の「大日」。
真言宗とキリスト教の接点。
支配層も大衆も仏教徒だらけなので訳語が仏教用語。
神道用語は実在しない

金剛峯寺の設立は明治。
高野山を金剛峯寺と名づけ、明治以前から真言宗の総本山であると偽装。
景教碑は真言宗がキリスト教陣営の証。

どちりなきりしたん(16世紀。イエズス会製)での訳語。
ゴッド→でうす、御作者、御親
悪魔→天狗、天魔(仏教用語)
イエス→御主ぜず-きりしと、ぜずゝ、御子
×罪 ○科
つみ…道徳や法律に反する
とが…生まれつき
聖書→経
ラブ→○かりだあで、御大切 ×愛
仏教用語の愛=執着=悪


神に創造神の意味が混じり
愛が完全に良い意味で
仏教徒の天皇を神道家だとする神道の本は捏造

超古代と明治以降の偽伝統✝を強調するのが神道家=和風(なのに半島人脈)クリスチャン。

伊勢大神宮寺。
伊勢神道は食べ物の神の外宮が天照の内宮より格上。
反本地垂迹説=反仏教だから明治以前の天皇は伊勢神宮を参拝せず。
ダビデの星つき石灯籠の設置は戦後。
以上を隠す為の説明が道教用語=神道・天皇・神器と仏教用語多数なのをチェックしてみては?

明治以前は
仏教用語、仏教美術、仏教文化、
仏教徒の皇室と側近の僧侶、
徳川と皇室の菩提寺、
門跡寺院など仏教徒の歴史で

神道用語、神道美術、神道文化、
神道家の皇室と側近の神主、
徳川と皇室を弔う神社、門跡神社はない。

石清水八幡宮←護国寺だった
鶴岡八幡宮←寺だった(八幡は菩薩=仏教化)
宇佐八幡宮←宮寺が弥勒寺
伏見稲荷大社←愛染寺が管理
出雲大社←鰐淵寺が管理
祗園社←祗園は仏教用語
伊勢神宮←仏教徒の天皇は参らなかった


たっちゃん@古代史研究‏@t7a7t0o14月20日
今の日本語の母音はaiueoの5つしかない。でも奈良時代以前は8つ、上代仮名遣いは88音だった。神代文字は奈良時代以前の文字と言われるのに、神代文字の母音はaiueoの5つで50音しかない。これが明治時代に橋本進吉に発表されたことで、神代文字はほぼ平安時代以降の贋作と言われ始めた

琢‏@777Taku712月8日
@kitsuchitsuchi @yaginuma_san 神代文字は現代日本語と同じく50音しかない事が落ちですね。古事記・日本書紀・万葉集の万葉仮名により、古代日本語が50音以上であった事が判明しています。

"「顕宗3年、三韓の支配者として紀生磐宿禰は『神聖』という称号を自ら称した」
紀氏は・・・神聖ローマ皇帝ですか?
(明らかにキリスト流入後、江戸末期以降の捏造
だよな、これ。)
これ日本書紀ね。"
http://www.mkmogura.com/blog/tag/%E5%A4%A9%E6%B5%B7


桐沢 凛々子‏@kirisawaririko2013年5月17日
現在、我々が読んでいる「日本書紀」は黒板勝美が編集したもの。 朝鮮総督府朝鮮史編修會」の顧問であり、朝鮮史改竄の首魁と見なされている人物。 直系の弟子にあたるのが日本歴史学会の最高権威の一人東京大学の坂本太郎。http://www.mkmogura.com/blog/2009/04

淺井憲‏@asaiken232012年1月28日
東大の歴史学者は、全員が自虐史観論者の指摘がありますが?そうてしょうか、私には戦前の万世一系の皇国史観を信奉し日本書紀、古事記の著述至上の黒板勝美東京帝国大学教授が編纂した国史大系の軛から逃れていないと考えていましたが、事実は小説より奇なりですか?

淺井憲‏@asaiken232012年2月22日
明治王朝と維新の元勲達を守るため帝国憲法と日本書紀のセットで万世一系の皇国史観 をプロバガンダ。東大国史学教授・黒板勝美氏は宮崎県西都原古墳群にある卑弥呼の陵墓・男佐穂塚古墳を円墳から前方後円墳に改竄し被喪者はニニギノミコトとした。その他、日本書紀に不都合な事象は徹底改竄した。


我乱堂‏@SagamiNoriaki2012年6月4日
@tatsuhikoP 神道の発生がどの辺りにあったのかが今ひとつ判然としませんからね。私は古神道論者の言説にははっきりと懐疑的です。そもそも神道という言葉が道教にある言葉ですからね。天之御中主などは天帝などの影響が伺えますし、記紀の時点で仏教はともかく道教の影響はあります。


有吉屋@生態的にアナゴ‏@ariyoshiya·2月3日
恵方巻きだけど、キリスト教は根付かないのにクリスマス商戦は根付いてる。初詣は実は明治以降の鉄道が出来てからの習慣。バレンタインはチョコを贈る日ではないが今では外国の有名ショコラティエが参入。商業イベントは根付くのな日本って。

遠藤‏@enco2001
年賀状普及は政府の陰謀。財源不足に悩む逓信省(当時)が全国的なキャンペーンをはり、明治32年ごろから「年賀の挨拶は信書で代替」と年賀状のサービスをはじめた。それまでは必要な人々は直接挨拶に伺っていた。 #皆が知らない真実

ゲルマン民族なさかもと‏@_saka_pon_
前島密が逓信省作って郵便制度を整えるまで葉書自体なかったわけだし、そもそも戦後すぐの混乱期における安否確認の意味で広まったのだから、年賀状は日本の伝統でもなんでもない。通信手段が発達した以上、メールで済ますようになるのも当然の流れ。と屁理屈こねつつ、年賀状が来ると嬉しいものだ。


きゃんちー‏@canchiee
『日本は古来より数え年で年齢を計算していた。誕生日にかかわらず新年元日を迎えるたびに年齢を加算する方式。
満年齢が導入されたのは明治35年「年齢計算ニ関スル法律」そして昭和25年「年齢のとなえ方に関する法律」が施行されてからのこと。』
知恵袋からひろってきた。

smw‏@Shi_MeiWo
誕生日を祝う週間は明治以降、満年齢を採用するようになってからで、それまでの数え年では正月に全員が1歳年をとる「年取り」=誕生日だった。だから「明けましておめでとう」なのである。一休(=宗純)が詠んだ「冥土の旅の一里塚」とは、この「年取り」を露悪的に表現したものである。


らん改めアーサー王の聖剣‏@excaliburnimue
神道における「カミ」とは非業の死を蒙った菅原道真が「天神様」に祭られたように本来は「祟る」ものの意味です。
招魂は陰陽道が起源で死者を兵士として召還して使役する呪術ですよ。

菅原道真は仏教徒なのに神社っておかしいだろう、と思わせない為の偽伝統捏造

”明治に建てられた靖国神社は神社ではなく、もともと「東京招魂社」。招魂は慰霊ではなく、攻撃を開始する陣中で、前の戦闘で死んだ死者の魂を招き寄せ、生者に憑依させて「攻撃の鬼」にする(暗示をかける)呪術。「魂鎮め」などとは無縁です。日本古来の国禁であった死霊招魂式を開始してしまい、さらに神社のふりをさせて誤魔化していますが。。皇軍軍人のみの戦死霊を招き出し国のために招魂式をする場が招魂社。儀式の時だけでなく何時でもこれからもずっと招魂し続けるように改名したのが「靖国神社」です”
http://japanese.ruvr.ru/news/2014_10_17/278800160/

「どちりいな-きりしたん」16世紀にGODを神と訳していないし、loveを愛と訳していない。偽書を見抜こう。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-21.html
”「あなたをを愛しています」の意味が真逆になった日本。
キリスト教徒"I love you."(耶蘇教に支配された日本の現状)
仏教徒「あなたは私の迷いの原因なので別れて下さい。」
(仏教国教時代)

日本思想大系〈25〉キリシタン書・排耶書 (1970年)内収録
どちりいな-きりしたん 一五九一年版国字本 ヴァチカン図書館蔵 H.チースリク  土井忠生  大塚光信  校注

当時の使用語彙と訳語がわかる。
仏教用語を利用しつつ、根源的な用語は訳さずに、そのまま使っていることが多い。ただし、アルファベットではなくひらがなで。
16世紀にGODを神と訳していないし、loveを愛と訳していない。
「GODの訳語の神も、loveの訳語の愛も聖書の中国語訳→日本語訳に輸入」で入ってきたもの。
国教だった仏教では神は大したものではない。
「天」=超すさまじい神。
「愛」=執着をもたらす悪であり捨て去るべき迷いの根源。
大したことない「神」(だって漢字からして、祭壇+稲妻だし単なるよくある自然現象)
と悪である「愛」を良い意味に変えたのはキリスト教が原因であり、聖書の訳語を和風キリスト教徒(神道家)とクリスチャンらが広めまくったから


神道関係に多い偽書を見抜こう(偽造するのは当時存在していなかった証拠。仏教時代以前の超古代と和風キリスト教が国教の明治以降が大好きなのが神道家でなぜか半島人や中身クリスチャンが多い)。

どちりなきりしたん(ドチリナ・キリシタン。ポルトガル語でDoctrina Christão、ラテン語でDoctrina Christiana)は、
16世紀にイエズス会によって作成されたカトリック教会の教理本。どちりなきりしたんは、 慶長5 年(1600年)に長崎で和訳されたキリスト教の教義。信徒たちに広 く読まれたキリシタン本のひとつ。。
ザビエルによるキリスト教伝来(1549年)からキリスト教禁止令(1614 年)の間に刊行された。
日本で刊行されたドチリナ・キリシタンは、刊行年・刊行地共に不明の国字本「どちりいな・きりしたん」、 天正19年(1591年)に島原半島の加津佐で刊行されたとされる。文禄元年(1592年)発行の天草版ローマ字本、慶長5年(1600年)発行の長崎版ローマ字本、同年発行の長崎版国字本「どちりな・きりしたん」の4種類がある。 長崎版「どちりな・きりしたん」は、長崎の町年寄であった後藤宗印により刊行された。長崎の出島を管理していたのが佐賀藩。佐賀藩はクリスチャンだらけ。幕末に最新鋭の技術をクリスチャンから手に入れていた

ひいです…信仰 Fides ラテン語(以下ラ)
ゑすぺらんさ…希望。望徳 Esperança ポルトガル(以下ポ)

God
でうす…Deus ラ
御作者(ごさくしゃ)
御親(オンをや)

“ぽろしもは皆でうすの御(おん)写(うつ)しに作給(ツクリたま)へば也“p.51…
ぽろしも=隣人、は皆ゴッドの写し身、の「隣人」に異教徒は含まれるのかな?

悪魔 デビル サタン
天狗、天魔(の奴〔やつこ〕)、狗兄(グヒン)

くるす…十字架 Cruz ポ
ゑけれじや…教会 Ecclesia (ラ)

イエス・キリスト
“御主(オンアルジ)ぜず-きりしと”p.14  何度も登場
ぜずゝ
御扶手(オンタスケテ)
御(オン)子

御(ご)ぱしよむ。御ぱしよん…受難。パッション。 Passiom ポ古

マリア
びるぜん-だうみな-さんた-まりあ
Virgem Domina Sancta Maria
びるせん-さんた-まりあ
御母(オンハワ)さんた‐まりあ
びるぜん‐まりあ
※処女マリアだけでなく、童貞マリアって表現が公式にある。


「罪」、「罪人」、「原罪」は一度も使われていない。
科(とが) が百回以上登場
一度だけp.28“罪科(ざいくわ
)”

※『全訳古語辞典』によると、
つみ…道徳、法律などに反する行為。罪を犯した結果としての「罰」をも意味した。
動詞「罪す」「罪なふ」なども「(処)罰
する」ことを意味する。

とが…「生れつきの」欠点や不注意からくるあやまち。中世以降多用される。

科を送る…罪の償いをする
科送り…罪の償い。贖罪

科人(トガニン

“「科(トガ)を犯(ゝか)す者は天魔の奴(やつこ)也」”p.20

原罪
=“受(う)け続(つゞ)く初(ハジメ)の科(トガ)”p.24
=“おりじなる科(トガ)”p.65
=一人の科


“天狗(テング)は善悪の智恵(ちゑ)の木(コ)の実(ミ)をもて(モツテ)、我等が先祖(せんぞ)をたばかりすまし、又一人(ひとり)の科(トガ)を以(モツ)て一切(さい)人間を我(ワ)が進退(しんだい)になしたるごとく(以下省略)”p.43
進退…自由にする。支配する。


もるたる科
=死に至る罪(永遠の生命の損失)
=大罪

七(ナナツ)のもるたる科=七つの大罪


※大罪によってゴッドの恩寵である神的生命=永遠の生命、を失うので、「死に至る罪」
霊魂は不滅だと考えるので、霊魂は死なないとするが、天においてゴッドの生命と幸福に参与する資格と能力を失い、しかがって永遠にゴッドから離れてしまう結果となるそうだよ。


べにある科
=小罪

愛(する)
かりだあで…love。 Caridade ポ
御大切…love。キリスト教の愛。

大切に思し召す…お愛しになる

御大切に思ひ奉る=「大切に思ふ」のでうすに対する尊敬表現
…愛する

恋の歌、恋する、恋慕、など「愛する」ではない

御作の物…被造物



和訳聖書の「神」は漢訳聖書によって生まれた。
和風クリスチャン平田篤胤の弟子が国家神道政府の立役者。
鰐淵寺が出雲大社を管理
していた。
真言、浅間大社、オウム、創価(法華神道系)、白光真宏会(大本教系の生長の家信者が教祖)は全て富士関連。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-23.html
"子子子子子(ねここねこ)‏@kitsuchitsuchi
明治以前の「神道」
①単なる土着神崇拝。神社は地域土着の祭壇。政治に影響力なし

②道教用語としての神道(天皇と神器も道教用語)。天武・持統天皇合葬陵は八角形(道教思想)。
本地垂迹説なので神仏習合は仏教が上。 日ユ同祖論者は道教と仏教を無視。”

仏教徒の天皇は伊勢神宮を参っておらず、家康も仏教徒なので宮中と幕府に「神道」の影響力はないです。「神仏習合」とは「仏教圧倒的優位」を隠し神と仏が対等だと思わせる嘘。クリスチャンが土着の信仰に「神道」と名付けました。”

”和風耶蘇教=神道に経典も教義もないのは他の宗教と混ぜて宗教統一するため。八百万の神々=何でも神様説で単なる自然崇拝まで神道にして耶蘇教化させる。伊勢神道では食べ物の神の外宮が天照の内宮より格上で、神道五部書は偽書。よって南朝偽天皇に都合が悪く、明治以降に神道経典=和風聖書を捏造。”

平田篤胤という「神道」に貢献した国学者がいます。平田篤胤はクリスチャンでした。「神道」に貢献した「国学者」がキリスト教徒なのです。実際、平田篤胤が「神道」や「国学」(アンチ仏教学)の本を数多く出すのは、『本教外篇』というキリスト教の禁書読書ノート+キリスト教の和風化の試みの本を書いてからです。
そして、平田篤胤門下が廃仏毀釈や明治新政府に関わり、岩倉具視も平田神道系=和風キリスト教系
です。
かくして(隠して)、「神道」という和風に偽装したキリスト教の一派が日本の頂点にたったのです。
日本を侵略するために少数派(アンチ仏教)に近づき、和風クリスチャンを増やし、少数派(マイノリティ)に間接統治させる、欧米のいつもの支配戦略にまんまとはまり、そして今なお「神道というでっちあげ伝統」を信じ込まされているのが日本の現状なのです。
そう、日本の単なる土着神信仰を「神道」と名付けまくったのがクリスチャンです。
そしてなぜか、日本人っぽくない人ほどに、「武士道」やら「日本刀」やら「和服」を強調するのです。
無論、普通の日本人はそんなことはしませんし、実際半島人やクリスチャンが好きなのが「日本の伝統」であり、中身はキリスト教による偽伝統です。
本当の伝統である仏教文化と仏教徒の天皇や皇族や門跡寺院は、廃仏毀釈と神仏分離により破壊しました。
その江戸末期にクリスチャンにでっちあげられた「伝統の神道」が、本来は単なる土着の、政治的影響なんてなかった素朴な信仰までもが、「神道」という名前をつけて取りこまれたことに気づかれないように、「神道」には教義や教典がないことにしました
本当は、そもそもそんなものがないからであり、なぜか超古代や明治以降に「神道書」が急増します。GOD臭い神(一応多神教ですが)が登場したりします。「神道」自体がでっちあげなので、でっちあげ教典だらけなのです。
そして、「神仏習合」という、神と仏が対等であったかのようなデマを流しています。主流だった本地垂迹説とは仏優位の思想であり、仏が土着の自然神信仰を取りこんで管理支配する為の思想でした。
単なる外交政策である「鎖国」と同様、「神仏習合」とは「仏教圧倒的優位」を隠す為の用語です。天皇は本来、仏教徒です。「神道」が宮中の仏教要素をなかったことにしました

平田派の神官が今に至るまでのキリスト教とメーソンによる支配の尖兵を担ったのです。

”島根の津和野=山陰の小京都。
森鴎外、西周、大国隆正(平田篤胤門下)、福羽美静(大国隆正門下。明治天皇の侍講)の出身地。
玉松操(元・真言宗醍醐寺僧。岩倉具視の腹心)も大国隆正門下
”私のツイッターより。

森鴎外のどこがすごいねん、という突っ込みをしたことがあるあなた、鋭いですね。

(…)
現存最古のGODの日本語訳は16世紀の「大日」
※正確にはデウス(Deus:ラテン語=ヘブライ語のエロヒム)なのですが便宜的にGODとします。

聖書の日本語訳の記録が残っている限りでは、イエズス会(またかよ)のザビエルの弟子のヤジロウ(弥次郎、1511年?-1550年?)の訳がはじめだそうです。ヤジロー、または当時の音韻からアンジロウ(アンジローとも)は、史料上確かな最初の日本人キリスト教徒とされています。
アンジローは鹿児島で罪を犯し、ポルトガル船で逃れていて、ザビエルがマラッカで伝道中(洗脳中)の1547年に出会ったそうです。ゴアのサン・パウロ学院にアンジロウを送って勉強させたうえで、アンジロウは1548年5月の聖霊降臨日(ペンテコステ)に受洗されたそうです。
ヤジロウが、聖書の『聖マテオ福音書』を日本語に訳したのですが、原本も写本も残っていません。
が、ザビエルがさかんに「大日を拝みなさい」と説いたことから、ゴッドを大日と訳したことが窺えます。
他の訳語も同様に仏教用語を使ったと思われます。
聖書翻訳は、真言宗とキリスト教(イエズス会)の明確な接点なのです。
ヤジロウの出身地の鹿児島の民衆の間には比較的真言宗が信仰されていたらしいです。真言宗用語が多かったでしょう。
大日は性的な隠語だったらしく、「大日を拝んではいけません」になったそうな。
大日如来の「如来」や「如来様」にはそうした用法があるらしいです。
で、ザビエルはラテン語のデウスに変更。
今度は発音から、「だいうそ=大嘘」と罵られたりしたそうな。
本質を捉えてますな、当時の日本人。

このような弊害(とうか仏教の一派だと思われて終わりだし)のせいで、仏教用語を使用せずラテン語やポルトガル語をそのまま使う方針に変更しました。
当然、GODを「神」と訳していません。

(…)
・現存最古のまとまった日本語訳聖書を含む書写本『バレト写本』
(GODは「デウス」とそのまま使用)

『バレト写本』の作者はイエズス会のバレト(1564-1620年)で、1591年に成立したとされています。
訳語ではなく重要語をそのまま使っております。
(…)
16世紀の『どちりな きりしたん』でもやはり原語主義です。
「御主ぜす」などとGODを訳しております。
loveにあたる言葉は「愛」とは翻訳しておりません。
loveにあたるcharidade(かりだあで)は『どちりな きりしたん』では「御大切」
『羅葡日辞書』のAmorは「Taixet」つまりは「大切」
「仁愛」という訳語もあったらしいです。
(『天主実義』などでは、「仁」の一つのはたらきとして「愛」が語られているので、儒教的素養があればなんとか通じたらしいです

当時、愛は、仏教では迷いの根源=悪であり、感情的、肉体的な愛情であり、不潔な快楽と受け取られていました。良い意味ではないので訳語に使わなかったのです。
「憂国」はあっても「愛国」はありえなかったし(国家概念自体がないですけど)、「愛」ではなく「情」
でした。
(…)
GODを「神」と訳した現存最古の史料が18世紀のバッセ『四史攸編』(ししゆうへん)。

GODとしての神が初登場するバッセ『四史攸編』(全訳ではない)の正式名称は、『四史攸編耶蘇基利斯督福音之会編』。
 リヨン出身のバッセ(Jean Basset,1662-1707)(パリ外国宣教会所属)による最初の漢訳=中国語訳聖書(全部ではありませんが)です。バッセは1689年、パリ外国宣教会宣教師として広東に派遣されました。中国各地で布教ののち、バッセは1702年から四川省で活動します。このころ以降に翻訳はなされたと思われます。(矢沢利彦「最初の漢訳聖書について」)。大英博物館所蔵の写本は、このバッセの訳本をもとにして1737年ないしは38年にかけて作成されたものです。文字の筆記からみて、写本したのは中国人らしいです。
バッセは1707年、広東で死去します。

『四史攸編』の訳語(右に訳語)
GOD…神
アニマ→命、魂
アンジョ(天使)→神使
アポストロ→使徒
バウチズモ→洗
ベアト→福
セイザル→責撒
クルス(十字架)→十字架
エワンゼリヨ→福音

ヒイデス→信
ゼンチョ→異民、異教者
ゴラウリヤ→栄光
ガラサ→寵
イゲレイジヤ→教会
インヘルノ→永獄
ジュスチイサ→義
マンダメント→律
オラシヨ→祈禱
パン→餅
パライゾ(天国、楽園、パラダイス)→天国、楽域

ペニテンシヤ→痛悔
ポロヘエタ→先知
ポロシモ→邇人
サバド→撒罷日
サタン→魔、魔鬼、撒探
スキリツウラ→経
スピリト(聖霊。スピリット)…聖神、聖風
テンタサン→誘
テスタメント→遺詔

音訳はセイザル、サバド、サタンぐらいのもので、できる限り中国語で訳す姿勢がみられますね。


GODの訳語を「上帝」か「神」かでもめる(統一訳語まだなし)。

マテオ・リッチ(1552- 1610年。イエズス会員。利瑪竇。り まとう)『天主実義』(1595年)でわかるように、カトリックが採用したGODの訳語として「天主」が中国で使用されたことは確かです。そしてリッチは、天主=上帝(儒教)、であると主張(『天主実義』)しました。
加えてリッチは、中国人の信徒が儒教などの儀式への参加を認めました。
中国の都には、天の「上帝」を祭るための天壇(「神」ではなく「天」なのに注目)といわれる祭壇があり、冬至の日には皇帝がここで儀式を営みました(冬至=これから太陽が強くなる=日照時間が長くなる、より太陽崇拝の儀式)。
これには当然役人の参加が要求されるので、中国人クリスチャンの参加を認めなければその役人は職を失いますから、出席禁止にすると布教を阻害してしまうのです。祖先崇拝や、孔子廟での儀式など現地の儀礼参加を認めるか否かは、カトリック内でも大変な問題だったのです。何せ、位牌(元もは儒教由来で仏教関係無し)を前にして、位牌の中に両親がいると思ってはいけないのですから。
で、「典礼問題」(祖先を祭る儀式に参加するなどの中国伝統宗教に妥協するか否か)が起こるのですが、最終的には、1715年の教皇クレメンス11世の「典礼問題」に対する最終教皇令「エクス=イルラ=ディエ(その日から)」を要約すると、ゴッドの訳語は
「天も上帝もダメ! 天主を使え!」
「天主堂=教会内に『敬天』=天を敬え、の扁額を飾るな!」
(『中国とキリスト教』)
カトリックは明確に、GODの訳語を「天主」としたのです。「神」ではありません
。上帝は皇帝崇拝に繋がり、天は自然崇拝に繋がるからでしょう。
それを受けたのか、リッチ『天主実義』の後の版では「天」や「上帝」が「天主」に変わっているものがあります。

・プロテスタントの英国人モリソンは『四史攸編』を参考にしてGODを「神」と訳した『新遺詔書』を19世紀に中国で出版し、後に旧約も含めた『神天聖書』も出

中国最初の旧約と新約聖書の全訳で、今日代表的なものとされているのがモリソンの『神天聖書』です。モリソンは中国に向かう前、大英博物館に存在するバッセ訳『四史攸編』 (Evangelia quatuor Sinié)のことを知り、その全文を書写(中国人と協力か)し、それを携えて1807年に中国に到着します。
ここで重要なのは、宣教師の間でも『四史攸編』は出回っていなかったことです。GODの訳は「天主」が教皇お墨付きの主流派であり、「神」とするものは『四史攸編』ぐらいしかありませんし、大英博物館に保存するほどに希少だったからでしょうから。それに海外布教を担う宣教師は優秀な者が選ばれるはずですし、出回っていたら真っ先に教会が渡すはずです。

モリソンはGODを「神」と訳している(「天主」ではない)『四史攸編』を参考にして(旧教と新教の共同訳聖書の先駆け)、
1813年『新遺詔書』(しんいしょうしょ)を広東で出版します。
遺詔=テスタメント(契約
)。
バッセ訳と共通する訳語は
「神使、使徒、洗(または洗礼)、十字架、、福音、異民、栄光、義、祈禱、天国、先知、聖風(または聖神風、神風←クリスチャンと半島人だらけで日本人のふりをするために和服や日本刀を利用する右翼が大喜びしそうな訳語)」。
この他、後の日本語訳に影響した他の表現については、
「地之塩」「世之光」「律法」「日用糧(にちようのかて)」「負債(おいめ)」「天空之鳥(そらのとり)」「隈之首石(すみのおやいし)」「一杯冷水」など、後に日本で普通に使われる表現があります。メシアは「弥賽亜」と音訳されています。まだ「救世主」は登場していません。

モリソンの聖書翻訳に、同じくロンドン伝道会のミルンが協力し、
1823年に、(『旧遺詔書』+改訂した『新遺詔書』=)『神天聖書』をマラッカで刊行。
モリソン・ミルン漢訳『神天聖書』(1823年)の原本の表紙の写真にちゃんと“載旧遺詔書”・“兼新遺詔書”(新字体に引用者が直した)と書いてあります。

・GODを上帝とするか神とするかで論争

モリソンとミルンのGODの訳語一覧。
ミルンは晩年には「上帝」を使用。
モリソンは以下のように多数の訳語を使用。
神、真神、神主、神天、天、
上帝、神天上帝、神天大帝、天帝、天皇、天皇神主、天皇上帝、天帝主神、
天上上帝、真神上帝、天上之上帝、天皇神父、上帝神帝。
(日本で現人神=イエスキリスト=天皇にする土台かも



「神」派(アメリカ系宣教師)(ブーンやブリッジマンら)
VS
上帝」「帝」派(イギリス系宣教師)(メドハーストら)
メドハーストが「神」は駄目だとする理由↓

1、「神」は中国では「すぐれたもの」としてのGODを示す語として使われたことがない。
(それ以前に神にGOD的意味が含まれる神道書は偽書ってこと。当時の日本語の「神」も同様)
宣教師のお墨付き
!

2、「神」=見えない存在(invisible being)であり、spiritであり、しかも必ずしも礼拝の対象にならない。
3、「神」はいい悪い(悪にも使えるから駄目)、高い低い、尊敬される軽蔑される、天にいる、地にいる、など「複数いる」ので、「唯一」神は誤り。しかも「先祖の霊」を含む(キリスト教では拝まない)。
4、「神」は人の所有するスピリットであり、礼拝対象としてのGODではないので、「神」だとmy Godという表現はおかしくなる。
5、「神」はスピリットの訳語として最適であるから、GODの訳語にとられるのは損失。
6、ローマ・カトリックによって以前から「神」はspiritの訳語である。

米国聖書教会から出された「中国語訳聖書に関する報告」(1850年)では「神」がもっとも妥当だとしていて、「上帝」は駄目だとしている。理由↓。
1、上帝=天の支配者、至上の支配者、であり政治的な役職であり、実際、中国の皇帝が「上帝」と呼ばれている。
2、知識階級はともかく、一般大衆にとっては物質的偶像である。

で同じく米国聖書教会のブリッジマンとカルバートソンが改訳した聖書(1859年に新約聖書、1862あるいは63年に旧約聖書)では、
GOD…「上帝」ではなく「神」
spirit…「神」ではなく「霊」
love…「仁」ではなく「愛」。
正に今の日本語聖書訳で使用されているものであり、聖書日本語訳に恐らく一番影響を与えたGODを「神=創造主」とした19世紀のプロテスタント訳
です。

で、これからまた日本語訳の話に戻ります。

・日本語訳聖書のGODの訳語は「天主」が主流だったのであり、国学者の平田篤胤はクリスチャンでキリスト教の本を書いた後で、国学や神道の本を出した

GODの訳語としての
「天主」は、
エヴォラ屛風下張文書(びょうぶしたばりもんじょ)の解読により、1580年の末から翌春ごろには既に使用されていたと推定されています。
エヴォラ屛風下張文書の主な部分は、カトリックであるヴァリニャーニの『日本のカテキズモ』(1586年リスボアから刊行)の和文の稿本に近いことから、
「天主」はカトリックによるGODの訳語としてが初出でしょう。
ヴァリニャーニ(ヴァリニャーノ。1539-1606年)は安土桃山時代に来日したイタリアのカトリック宣教師で、(鉄砲や大砲撃つための火薬が欲しい大名と)人身売買取引したりしていたイエズス会所属です(またかよ)。後に明治以降の日本の学校制度のモデルとなるセミナリヨ・コレジヨを設立したり、天正遣欧少年使節派遣を計画・実施したり、活字印刷機を日本に伝えてキリシタン版を刊行したりしました。

日本の近代教育=啓明会(理性と科学)+イエズス会(バチカン)製。フィクションで人気の織田信長がセミナリヨ(神学校。音楽と体育を重視。遠足。文化祭で歌と劇。)設立の為にイエズス会に協力。”
私のツイッターより。

創造主」
という訳語が1801年 山村昌永(山村才助。蘭
学者)『西洋雑記』にあるらしいです。

(…)
平田篤胤の「神」は以下の特徴があります。

・篤胤は、神=善神に一元化

(完全にキリスト教概念。本居宣長は悪神を認めています)

・篤胤は「善悪を知る心」を人間精神の本性とする(知恵の実を食って善悪を知る)。
(本居宣長は人間の心を「うまれつきたるまゝ」に留め、そのことを重くみている)

篤胤は来世死後の審判があって善者に福、悪者に禍のある世界だと明言。
(本居宣長は来世を不可思議な世界と見るのに留まる)

・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を唯一神とはしていないが、中心神としている。(宗教学では一神教は二種類あって①他の神を認めない唯一神教②他の神を認めるが中心的神を崇める拝一神教

どう見ても和風クリスチャンです。本当にありがたくないです。

平田篤胤の親類に原胤昭(はら たねあき)というキリスト教徒がいます。
出版業者である十字屋(後の銀座十字屋。十字はキリスト教由来
)をやっていたり、和漢対訳『新約聖書』を自分で作って1878(明治11)年に出版したり、出版および新聞紙条例違反で処罰されたり、平田篤胤の子孫の家にキリスト教関係書物をもらいに行ったりした人物です。というか、平田家にキリスト教関係書物が秘蔵されていたとばらしちゃった人です。

篤胤(1776~1843)(明治維新が1867年)
が31歳の1806年(文化3年)成稿の『本教外篇』(
平田篤胤が「未許他見」=見るな、と書いています)には中国のキリスト教書『七克』(しちこく。1614年)から書写した部分が少なからずみられます。
『七克』では「聖経有言」と名づけられている聖書からの引用部分を「聖経」の語を省略して、篤胤がそのまま写している部分が随所にあります。GODによる天地創造とアダムとイブの話も既に登場しています。
 パントーハ(龐廸我)『七克』だけでなく、同じくキリスト教の禁書である、アレニ(艾儒略)『三山論学紀』、利瑪竇(マテオ・リッチ)『畸人十編』など、を自分の思想と合わせて翻案したものです。直訳ではなく、自らの思想に合わせるように多少改変している。第5部が、パントーハの『七克』のほとんど全部に訓点を付けたもので「山上の垂訓」など、多くの聖書の句がおさめられています。篤胤は公表しませんでした。

平田篤胤『本教外篇』におけるGODの訳語は、
「造物主、真主、上帝万物之大父母、天帝、大神、産霊大神、我人の本生の大父母」
天でも天主でも上帝でもない訳語があるのが大変重要です。「神道」に繋がります。
大神と、「大」がついているのは、この大神が神を生むからです。
『本教外篇』では、人間は「天帝」より「霊性」が与えられているという表現が八か所出てきます

『三山論学記』の「賦我霊性」が元ネタ。
『本教外篇』に登場する他のキリスト教用語。
全智全能、降世、天国、原罪、十誡、審判、復生、罪人、贖罪、讃美、一夫一婦

“産霊大[天地万物に一大霊明の大父母ありて天上に坐て万有を主宰し給ふ御名を産霊大神と申す]は。天地万有の真主なり。天を生じ。地を生じ。人を生じ。神を生じ。物を生じて其を主宰し。其を安養し。我人の本生の大父母にて。心身性命すべて此の大神の賦賜物なり。”
(『平田篤胤全集』七、名著出版、1977。[ ]内は頭註)

上記の文の元ネタは『三山論学記』で次のようになっています。

天主也者。天地万有之真主也。造天。造地。造人。造神。造物。而主宰之。安養之。為我等一大父母。心身性命。非天主孰賦畀。”
(中国史学叢書『天主教東伝文献続編』(一)収録の1847年重刊本)

天主」を使わず「産霊大神」という「神」を含む語に変えただけで、残りはほぼ日本語に置き換えただけですね。神にキリスト教要素を移植しようとしています。
また、
GODを父なる神とすることが性差別とされ、父なる神を改めた聖書があります。『三山論学記』と『本教外篇』の父母神思想は、父つまりは男だけだと不完全だから、完全なる神は両性具有のはずだとする欧州支配者の思想ど真ん中です(だから同性愛OK)。
(『三山論学“紀”って表記しているものもあったけどどっちが正しいのやら)

平田篤胤『本教外篇』
“義の為にして。窘難(きんなん)を被るものは。すなはち真福(にて)その已に天国を得て処死せざると為るなり。これ(我も)神道の奥妙。豈(あに)人意を以て測度すべけんや。“

アレニ『三山論学記』
“為義而被窘難者。乃真福。為其已得。天国不虚死也。此於奥妙。豈可以人意測度。”

(海老沢有道『日本の聖書―聖書和訳の歴史』講談社学術文庫 p.83-84)

窘…苦しむ
穆…ほんのり暗い。おだやか
穆然(ぼくぜん)
…沈黙して深く思うさま。音のかすかなさま。和らぎ慎むさま。

マタイによる福音書
『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年
5:10
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、 天国は彼らのものである。

此於穆奥妙→これ(我も)神道の奥妙

「穆」をもっと詳しく漢字辞典で調べると、
①ほんのりと暗く、見えにくくて、静まりかえったさま
②ほんのりとやわらぐ。ふんわりと一体をなしているさま
③穏やかで、慎み深い
④昭穆(しょうぼく)とは中国代の祖先をまつる御霊や順位をあらわす言葉。
昭=はっきり。穆=あいまい。
穆」をどう翻訳しても「神」にはならないので、これは意図的に変えた箇所。
「神道」という語を使っていますね


意訳して見ると
「キリスト教を信仰しているという理由で苦難に遭う者は、真に幸福であり天国に行けて永遠の生命を得る。『これ(我も)神道の奥妙。』どうして人(という神より劣る存在)に分かるだろうか」
此於穆奥妙=曖昧でよくわからないがとにかく奥深い素晴らしいもの。
これ(我も)神道の奥妙。=(私も恩恵を受ける)神の御業(みわざ),
「道」には「やり方、専門技術」という意味があります。

「神道」という①土着の信仰(政治的影響力なし)
②道教用語
③墓場
などを意味する言葉に新たにGOD的概念(完全にGODではない)が持ち込んだのが平田篤胤だということです。
この出版年から考えるとカトリック系の天主教(キリスト教)の本教外篇。
そして平田篤胤が「神道」あるいは「国学」(欧米だろこの「国」って。今もだけど)の本を出すのは和風キリスト教の『本教外篇』の後
から。 
このような功績があったので、国学者(アンチ仏教)の四大人、4人の凄い学者、という称号を与えられましたとさ。
日本の伝統は仏教です。

で、平田派神官の玉松操(元・真言宗醍醐寺僧)らが岩倉具視のブレーンになり、同じく平田派が神道国教化(仏教破壊)運動をするなど、和風キリスト教完全支配の為に奔走します。
玉松操は王政復古の大号令の発布に参画し、「諸事神武創業ノ始ニ原(もとづ)キ……」は玉松の提案です。醍醐寺は今でも嘘の中核で、真言宗(天台宗ではないことが大事)
です。
玉松操は大国隆正の弟子。大国隆正は平田篤胤の弟子。ちゃんと繋がっております。
大国隆正は長崎で蘭学も学んでおり、王政復古の理論的指導者であり、神道国教化に大きな影響を与えます。大国隆正は自分の学問を「本教
本学」と唱え、京都に報本学舎という塾を開いたり、復古神道を唱え、廃仏毀釈の口火を切るなど、仏敵の権化ですね。
(私は原始仏教徒「的」な思想ですが、別に「信仰」=思考停止
、まではしておりません)

島根の津和野は、山陰の小京都と呼ばれております。
森鴎外、西周(「哲学」の訳語を創ったメーソン)、大国隆正(平田篤胤門下)、福羽美静(大国隆正門下。明治天皇の侍講)の出身地。

国学者(アンチ仏教)の師弟の系譜
平田篤胤(和風クリスチャン)
→大国隆正(蘭学=メーソン学者)
→玉松操(元・真言宗醍醐寺僧。岩倉具視の腹心
)」

島根の出雲市にあるのが出雲大社。出雲大社を管理していた寺が天台宗の鰐淵寺(がくえんじ)。
鰐淵寺(がくえんじ)は、出雲大社(杵築大社)の
別当寺(べっとうじ)=神社を管理する寺でした(神宮寺、神護寺、宮寺なども同義)。
鰐淵寺の僧侶が経所で大般若経転読を行い、社殿では読経もしました。また、江戸時代初期には社僧が寺社奉行と杵築大社(出雲大社)の運営管理に関する交渉を実施していました。
が、17世紀の寛文年間の遷宮時に出雲国造家が神仏分離・廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められ、寛文4年から寛文5年にかけて仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却され、併せて祭神は素戔嗚尊から、古事記や日本書紀などの記述に沿って大国主大神に復しました。
でも寺に明確に支配されていた歴史は消えないよ!
寺は神社よりも権力があるから、神宮「寺」や別当「寺」なんですよ。
出雲人脈の神道家は鰐淵寺などの神宮寺について言われると嫌がるでしょうね。
(…)
ちなみに、国学者(アンチ仏教)にして元真言宗の坊さん玉松操の本名は山本真弘。「まひろ」という名前のフィクションで売れているものを探してみると面白いかもしれませんね。
大本教トップの出口ハルヒが涼宮ハルヒであるように。
吉田松陰の通称は寅次郎。男でなくても、現実は辛いよ。
吉田松陰は陽明学に傾倒していましたね。またしても仏教以外。

・最初のまとまった和訳聖書ではGODはカシコイモノ、又はゴクラク、テンノツカサ

最初のまとまった日本語訳聖書(最初のちゃんとした和訳聖書)であるギュツラフ訳『約翰福音之伝』(無刊年だが1837年=天保8年、シンガポールで発刊と推定)。
中国語訳ではGODとしての「神」は登場していますが、和訳ではまだなのです。

(ヨハネ福音書)
冒頭は
“ハジマリニ カシコイモノゴザル、コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル、コノカシコイモノワゴクラク。ハジマリニ コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。”

冒頭を漢字に直せば、「始まりに 畏いもの御座る」でしょう。 

はじめにロゴスがあった。ロゴスはゴッドと共にあった。このロゴスはゴッドそのものであった。ロゴスははじめからゴッドと共にあった。
(記事主訳)

※最初の英和・和英辞典である、メドハースト『英和和英字彙』(1830年バタビアで出版)をギュツラフが参考にしました。
メドハーストが主張したように、ゴッドを「上帝」とは訳していませんが。
なお、モリソンとミルンの『神天聖書』も参考にしています。

しかし
『約翰上中下書』(同じく1837年シンガポールで発刊)
では、
ゴッドを「テンノツカサ」という、天主や上帝に近い主宰者的訳に変えています。

『約翰福音之伝』と『約翰上中下書』の言葉を併記します。


テオス Theos(≒God)を「カシコイモノ」「ゴクラク」、「テンノツカサ」

プネウマ Pneuma(聖霊)を「カミ」
(本来の「神」=鬼神・精霊・精神≒spiritだから)
※人の霊(精神)の場合には「シン」と区別。
明治訳では霊「みたま」と霊「れい」を区別。
ロゴス(言霊、御言葉)Logosを「カシコイモノ」
ゴクラクノクニ…ゴッドの国
love…メグミ(恵み)、カワイガル(可愛がる)
devil(Satan)…ヲニ

sabbath…モンピ(安息日。物日)
glory…クライ
Messias…メシヤス
Saviour…スクウヒト
church…ヨリヤイヤド
priest…シントシヤドモ、クゲ
scripture…キヨモンノホン
Holy Ghost…アリガタイカミサマ
baptize…コリヲトル
angel…アマツカミ
prophet…マエカラシイテオルヒト
neighbor…トナリノヒト
聖書…キヨモン(経文)
※「聖書」という言葉自体は『史記』にもあります。
来世…コシヨウ(後生)
洗礼…コリ(垢離)

音吉ら日本人の協力ありなのでわかりやすいかもしれません。

『約翰福音之伝』は海外に九部、国内に七部現存。
『約翰上中下書』イギリスとパリに二部現存するのみ。


・ヘボン訳ではGODは「神」、愛」はなく「いつくしみ」、「救世主」ではなく「メツシヤ」

ヘボンは1841年にギュツラフ『約翰福音之伝』を入手。
中国語のできるヘボンは中国語訳聖書も参考にしている。

…上記のギュツラフ訳『約翰福音之伝』を入手した
ヘボンの(ブラウンと共訳)『新約聖書馬可伝』(マルコ伝)、『新約聖書約翰伝』(1872年。明治五年)
1873年に『新約聖書馬太伝』(マタイ伝)
の訳語。
love…いつくしみ
devil…あくま
sabbath…安息日(あんそくにち)
heathen…異邦人
glory…威光
God…神
Messias…メツシヤ
church…集会
repentance…悔いあらたむる
priest…祭司
apostle…使者
scripture…聖書
saint…信者(聖人じゃないよ)
Holy Ghost…聖霊
baptism…せんれい
elect…えらまるゝもの
kingdom of heaven…天国(てんこく)
angel…つかひ
gospel…福音
resurrection…よみがへること
prophet…預言者
neighbour…隣

疑問。安息国(パルティア)と安息香酸などは関係があるのだろうか?
詳しい人教えて下さい。

ヘボンは、アメリカ公使デロングを通じ、公使は副島種臣外務卿に天皇に聖書(ヘボン・ブラウン訳聖書)を献上してもらっています。
明治天皇は自署で嘉納の旨、返書されたらしいです。
神道に偽装されたキリスト教が日本の実質的な国教となりました。

・「愛」は仏教では悪なのでヘボンは「愛」をためらった

宗教辞典で「愛」の項目を執筆するには、必ず仏教とキリスト教と対比して説明が必要です。悪と善が真逆だからです。
仏教では愛(渇愛)とは人間の欲望の根源であり、この(渇)愛を滅ぼすことこそが仏教の目的です(だから世を棄てるんですよ)。
対して、キリスト教では愛は(虐殺しまくる)GODが与えられる全面的に善なるものです。
とはいえ、キリスト教概念流入以前でも「愛」は全面的に仏教的に使用されたということではなく、親の子供に対する「いつくしみ」という意味で使われることがありました(「愛情」。でも「情」寄りでしょう)。とちらかと言えば、本能的な愛情の意味です。本能性が強まると「愛欲」というどろどろした自己中心的欲情表現となります。実に人間的であり、超越的な畏怖すべき存在から受けとるものだという感じはまったく感じられないのです(仏教国家なのだから当然)。
これは聖書翻訳にも勿論影響しています。
ブリッジマン-カルバートソンの中国語訳では「愛」(中国は仏教国家ではないから)ですが、ヘボンの日本語訳では「いつくしみ」。
ヘボンは『和英語林集成』では「愛」を次のように説明しています。
“To love, to regard with affection, as a parent or friend.”
親や友の愛情であると捉えていました。

loveにあたるcharidade(かりだあで)は『どちりな きりしたん』では「御大切」
『羅葡日辞書』のAmorは「Taixet」つまりは「大切」
概して、感情的で肉体的で時には不潔な快楽として「愛」が受取られることがあったのです。
それもあって精神的(キリスト教的)愛には「御大切」が使われました。
また「デウス」の無償の(有償だろ)「愛」には適当な言葉なしとして「カリダアデ」が用いられたりしたのです。

感情的肉体的な愛情……愛、恋
精神的な相互愛…(御)大切
超自然的(GOD的)愛…カリダアデ

なんとか仏教的ネガティヴ要素を消そうとして、儒教では善の「仁」を加えた「仁愛」という訳語もあったらしいです。
(『天主実義』などでは、「仁」の一つのはたらきとして「愛」が語られているので、儒教的素養があればなんとか通じたらしいです)
当時、愛は、仏教では迷いの根源=悪であり、感情的、肉体的な愛情であり、不潔な快楽と受け取られていましたことは極めて重要で、「愛」を良い意味で使っている神道書(笑)は偽書だということです。
仏教国家の歴史が大変長かったので、明治維新後ですらしばらくは「憂国」はあっても「愛国」はありえなかったし(国家概念自体がないですけど。国と言えば、今の藩)、
「愛」ではなく「情」でした。
実際、新渡戸稲造は憂国は説いても愛国は叫ばなかったそうです。
クリスチャンが武士道好きなのは新渡戸稲造が原因です。
"

村手 さとし@mkmogura
”情報とは数あるミニ情報をつなぎあわせると、綺麗な円になって、大きな情報になる。それと同じことで、ちまたの嘘つきどもの「おかしいこと」を、繋ぎあわせる、なんで「こんな嘘をつくのか」と気づければ、それ以上に綺麗な円になる。その情報、円の中心が企画者である。嘘をつく理由で円を作りなさい


嘘つきに騙されないと自信がある人ほど、なぜ嘘をついたのかという理由を考えない。嘘とは常に2つがセットである。

嘘や悪いことには、その嘘などの事象とは別に、理由が必ずあります。誰かからお金をもらっていたり、競合する相手を出し抜くためだったりするわけです。
その嘘の理由を意識すると、その嘘についての利益とコストが見えてきます。

むしろ空海は半分以上が別の人のような気がします。弘法大使=ただのとくの高いお坊さんの総称。仏教=天皇を説明できない本屋さんという職業に事実なんてものは、並べられないよ。 なら嘘から情報を読みとくべきでは?嘘は、嘘と嘘をつく理由が常にセットであるし。

信じていない者だけが物事を確かめるようとする。

行動の根源には『納得できないがために実行する』というものがある。
信じて行動するのではない。
『最悪』な社会は素敵な神様に作られた、そう矛盾があるのにバカだけが宗教勧誘をできる。
彼らも無力な自分にも社会にも納得できないのだろう。

キリスト教での創造神を、カトリックは主(しゅ)、プロテスタントは神(かみ)と呼ぶ。カトよりではなく、神というプロよりで日本は神道という嘘が作られたということ。国学の基礎、本居宣長、平田篤胤はキリ教徒である
これは、今の日本、米系メーソンと欧州系メーソンの勢力図そのままである。

そそ。「道=どう」というと、学問、明法道などの平安から続く、系列化され継続されたものに感じてしまう。神道、神社って聞くだけで、多くの人は誤解する。学問(字も含む)が当時の支配者に依存しなきゃ潰れるだけである。歴史上、神社が祭壇以外の意味がなかった

歴史上、神社というものが「単なる祭壇」としてしか、出てこないのでもわかるとおり、そんな中で「系列化した学問、思想があった」とか、主張されても困るわけです。そして日本最古で独自とか主張しちゃうのに「神=キリスト教」の糸がプンプンするんだから、笑えるわけです

うーん。神道という嘘、「神というもの」自体が、キリスト教が聖書を訳したときの都合から、19世紀のころに出来上がった最近の話だということは、なかなか多くの人に伝わらないね。天皇=仏教の構図どころか、歴史に一切の神社がでてこないことに不思議にも思わないのかな。

神社に行くたび、絵馬に「仏教の天皇から神道の天皇にすり替えられたことを、もっと多くの人が気づきますように」とお願いして記入している。

創造神の意味で、「神」という文字が使われたのは、キリスト教が漢訳聖書に文字をあてた19世期初頭である。日本、漢文における創造主は「天」である。

いいですか、嘘を見破るにはコストが必要です。そして社会を変えるには「正しいことに融資」が必要なのです。嘘を見破るだけでは何も変わらないのです。キリスト教が作ったものである神社が初詣で金儲けするのを見破っても放置していては正しさに導けないのです。ちなみに私はパソコンが壊れました。

静岡市探査。ここは金座町。通貨発行の町である。神社も多い。漢文にも日本の歴史にも、神=創造神という概念はなく、神道は明治からキリスト教がでっち上げたもので、日本中の神社が単なる地域祭の祭壇や、稲荷=ねずみ講と知ると、神社に来るたび壮大なコンクリ建築の権化だなと、嘘に感動できる

あけましておめでとうございます。
日本の歴史に神社が出てこないのを誰も説明しない社会は、相変わらずで今年も初詣とかやってます。まあ、それは神社と寺の区別を誰も理解してないことでもあります。今年も頑張ろうと思います。

在日右翼は認知されてきたが、『在日神社』は、あまり知られていない。
宗教法人の無税は誰でも知ってる、これは指針になる言葉だ。
すべてはキリスト教で世界を支配するための戦略があって、日本はこの国に合わせたキリスト教=神道をでっちあげた。そして在日をつかっての間接統治で完全に重なる

例えば、創価学会。
最近まで日蓮宗だけど、もともとは神社教育をするための機関からの派生だから、『神社系組織』でいいんだよ。
宗教法人の特権と在日特権が同じ物だとわかったら、重ねて見ればいいだけ。
だから、在日神社、在日右翼なんだよ

キリスト教組織➡朝鮮人に命令と、キリスト教組織➡神道組織に命令、全く同じ。神社に行くかどうかは、教会に行く気になるかで決めれば?
日本式でっち上げ教会システムが神社と神道になった、つじつまの合わない天皇なわけだし。それが支配の根元

ken‏@kenkatap
日本一高い山ではなかったことも! 海外メディアは富士山をどう伝えてきたのか
【ナショジオ【http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130622-00010002-nknatiogeo-int …
▼富士山の写真が最初に掲載されたのは1921年7月号
▼英国人宣教師、ウォルター・ウェストンによる記事
▼いずれの記事も“聖なる”という表現が目を引く

村手 さとし@mkmogura
いいとこ見てるね。山岳信仰の祭壇を、神社として「あたかも、神道というものが昔からあったかも、と装っているから」といえるんだよ。
その中心が、静岡の浅間神社なわけですな。


豊橋駅に到着。「ええじゃないか」の祭やってる。そう。明治維新前に「外国資本のための尊皇攘夷」という変な話のためのあの大衆陽動。ここの朝鮮海賊=八幡が発症の地。でっちあげ神道を国教にするためであり、東国進出、天皇すり替えにつながる話。秋葉原はここや静岡の秋葉神社とのつながりね。

大昔からあるという、「元祖」の土産和菓子屋。あれれ?それなのに屋号は存在しないの?おかしくない?キリスト教が日本中の神社と天皇崇拝を捏造したことでもわかるが、日本の観光地は外国資本によって明治以降にプロデュースされた物が多い。
なぜか、神社の東照宮とか。観光地自体が、捏造改編だったり。伊勢の赤福を筆頭に、和菓子屋は、伊勢屋=和菓子屋という構図でできあがってるよん。ブログで説明したけど、伊勢屋=江戸で流行った宗教詐欺師=犬のフン。

静岡市探査。斜向かいには、赤十字がある。なぜ、マリア宿のホスピタルと言うか、医療感謝十字架の法則、くしゃみをしても信仰を義務付けられる社会であるかを考えれば、科学結社であるフリーメーソンがキリスト教を使って大衆をどう扱いたいかがよくわかる。実際、日本人が抜け殻になった理由である

高倉健の祖先は鎌倉時代の北条家に仕えた刈田式部大夫篤時と言われた北条篤時で、篤時の子孫が西国に移り、大内氏に仕え北九州へ。
大内=百済王=南朝鮮=南朝です。
在日認定は間違いで由緒正しき日本の朝鮮族です。
親玉。韓国との縁を天皇本人が認めてもスルーで嫌韓な右翼から学びましょう

高倉健が朝鮮族というのを、まだリツイートしてくれる人がいる。では追加。
初代征夷大将軍を誰も知らずに、坂上田村麻呂を皆が知っていて、八幡、天満宮の菅原道真神社とか毛利とか、今も芸能界のドン周防、多々良の安倍とか。全部、由緒正しき朝鮮族である。明治の南朝百済天皇すり替えに帰結する

西郷隆盛という戦争を起こした謀反人、国家反逆罪のテロリストを賛美するのは、南朝朝鮮族です。

百済起源の朝鮮族が問題ではなく、テロリストが賛美される特定の民族思想が優遇される社会が問題なのです

右翼の保守と、左翼の革新の違いの根本は、個人の認識による改善を肯定するかどうかになる。
個人を否定すれば規律と伝統を重んじる保守となり、肯定は個人によって改善するという理想論の左翼的に。
保守的なのに意味もわからずに革新を叫ぶ経営者の会社は間違いなく潰れる。
国も同じである

説明した大衆の個人の認識の改善が、右翼と左翼の違い。
媚米、飼われてでしか右翼は成り立たず、お花畑、左翼に団結は期待しても無駄。
そこも大事だが、左翼のイルミナティがなぜSFの進歩主義を掲げ認識の改善を促し、逆にアメリカ、宗教にCIAが歴史のないくせに保守に固執するか考えるべき

学校や部活など、子供への本来の教育の目的は「組織の中で自我をどう上手く主張するか」であって、組織のために自我を殺して協調が出来るかではない

今の日本の社会はどっちだろうね?


yagian@yagian • 2010年5月27日
子安宣邦「本居宣長」読書中。平田篤胤はキリスト教の影響を受けているらしいけれど、本居宣長の神道論もキリスト教に似ているところがある。国学系の神道とキリスト教には親和性があるのかもしれない。

子安宣邦「本居宣長」読了。子安先生によれば、本居宣長の「カミ」解釈には、天照大神を中心とした一神教的性格がある。キリスト教の影響も受けた一神教的な近代の国家神道に、本居宣長の「カミ」観が接続するとのこと。やっぱり本居宣長は日本近代の出発点の一つという思いが深くなる。

ヒラ://‏@punanny_chang
・田布施とその周辺のわずか数万人しかいない地域から、伊藤博文、岸信介、佐藤栄作、鮎川義介(日産グル-プの創始者)、久原房之助(日立グル-プ創始者)、松岡洋介(戦前の外務大臣)、宮本顕治(共産党書記長)などなど。これが偶然などと言うことは天文学的確率でありえない。

村手 さとし‏@mkmogura·2012年9月16日

大昔からあるという、「元祖」の土産和菓子屋。あれれ?それなのに屋号は存在しないの?おかしくない?キリスト教が日本中の神社と天皇崇拝を捏造したことでもわかるが、日本の観光地は外国資本によって明治以降にプロデュースされた物が多い。
なぜか、神社の東照宮とか。観光地自体が、捏造改編だったり。伊勢の赤福を筆頭に、和菓子屋は、伊勢屋=和菓子屋という構図でできあがってるよん。ブログで説明したけど、伊勢屋=江戸で流行った宗教詐欺師=犬のフン。

ド・けちん坊将軍【20120210】
http://www.mkmogura.com/blog/2012/02/10/1058
"暴れん坊将軍!!!!
 
 
まあ、実際のことを言うと、「ケチな詐欺師の親玉」みたいな将軍(?)なんだけどね。
豪快でカッコイイなんてもんじゃない。
 
質素倹約という享保の改革を行った、八代将軍である徳川吉宗。
こんなものを架空の歴史で盛り上げてるのも、まあ、水戸黄門という尊王(南朝天皇)の印籠と同じく洗脳である。
 
紀州藩主。
あの伊勢があるとこ=紀州
だよ。
幼少で将軍職になった家継という徳川本家の後継ぎが死んで、特異な形で御三家から選ばれたという経緯の特殊な将軍だけど。(俺個人としては、徳川家のTOPってだけで、将軍という呼び名さえなかったように感じるのだが)
 
で、こんな言葉がある。
 
「江戸に多きものは伊勢屋稲荷に犬の糞」
 
 
江戸に増えた悪事をうれう言葉である。
 
伊勢屋=伊勢商人(ケチな詐欺師)
稲荷=ねずみ講
犬の糞=そのまんま

 
(5代将軍の綱吉、犬公方様以降だね、動物保護の精神が生まれて江戸に犬が増えたというのは。当時の江戸の人がつい最近までの中国のように野良猫・野良犬を食べなくなった、って意味になるから。)
 
辞書によるとこうなる(広辞苑)
※伊勢屋
江戸時代、倹約を旨とする商人の異名。伊勢出身の商人がよく節倹身を持して、宵越しの金を持たないことを誇りとした江戸人の間に伍して着々商権を拡張し、「江戸に多きものは伊勢屋稲荷に犬の糞」といわれるまでの繁栄を来したからいう。
 
 
↑辞書ではこう書いてあるが、「伊勢屋=繁盛した」というが、犬の糞と並べて「繁盛した」という表現をする馬鹿はいないだろう
それは、カレーのおいしさを・・・マテ。
 
まあ、それでも「伊勢屋=ケチ」なのは間違いないでしょ?
で、伊勢=伊勢参りという宗教=詐欺師で、構図は簡単に理解できるわけ。
で、ケチつながりで紀州の吉宗なわけ。
もちろん、伊勢神道=天皇すり替えでも繋がっているわけ。
デフレ政策=ケチだから、とも言えるわけだ。
 
まあ現在も、この広辞苑と同じく、「犬の糞」とイコールな物、当時の「詐欺師が蔓延したよ」と風刺した物を、「伊勢参りは繁盛した」という資料にされてるだろうけどね

この伊勢という宗教詐欺師が、のちの時代の天皇すり替えに役立ったのは言うまでもないわけですな。
ちゃんと隠蔽する気がないのは、辞書というものが既に、アンチ南朝天皇ともいえる「さすがは百科全書派のながれ
」と言いたいところですが。
 
 
まあ、そういうわけで。 
伊勢神道という宗教を江戸に蔓延させ、質素倹約なんて、本人までもケチ臭い&間違っているデフレ政策の吉宗を、「暴れん坊将軍」として、けち臭さを消すための架空のお話「豪快な人物像」という虚像を作っているわけ
今現在もね。
 
 
伊勢=天皇すり替えの神道
紀州=吉野を中心とした南朝という百済の残骸つながりに一部重なる
 →「紀州藩=真言宗を保護したとこがある」
 
それだけではなく、江戸に宗教詐欺師、伊勢屋を蔓延させた功績と、ケチな奴の親玉であるというのをごまかすための、「暴れん坊将軍」。
 
あと、吉宗は一部洋書を輸入するのを解禁して、それがキリスト教改の国家神道の手先どものできあがる土壌になったから、洗脳=評価されてるというのもある。
まあ、ケチな詐欺師
というのが一番だろうけどね。
 
 
まあ、世の中そんなモンです。
 
「江戸に多きものは伊勢屋稲荷に犬の糞」
たった一言だけど、時代背景とか、重要な嘘の骨格を知ってれば、見えてくるものがあったので、こうやって補足できました。
 
犬の糞をありがたがってる人は今も結構いるようで。"

神道について知る前に【20120211】
http://www.mkmogura.com/blog/2012/02/11
"宗教とは「仮面」である。
魔法の仮面だ。
この仮面をかぶって悪いことをしても、悪いことにならない

それが宗教の本質である。
それは、わけわからん高級羽毛布団はのせられて買わされると詐欺になるが、わけわからん高い戒名の代金を坊主に払わされても詐欺にならないという簡単な事例でも、わかることである
 
これが、個人に対しての宗教の本質、仮面である。
 
「キリスト教」、「仏教」、そして質問できた「神道」、個人に対しての仮面なら、社会における宗教単位で考えた場合、これらの本質は、何になるか?
自分は「看板」、もしくは「のれん」であると説明する。
 
宗教というのは、この看板、暖簾をくぐった瞬間に、その善悪がわからなくなる仮面を強制的にかぶらされるのだ
先ほどの戒名という葬式、そして結婚式の教会、暖簾(のれん)をくぐると強制されて逃げられないという意味はおわかりいただけるであろう。
悪いことをする共犯者にしてしまう仮面、それが宗教にとって唯一の商品である。
 
それが宗教であり本質である。
よって、キリスト教、仏教、神道、それらの宗教という個別の商品は存在しない。
正確に言えば、宗教なんて売り物はない。
やっていることは同じという詐欺師が、別々の看板を下げて多々存在するというだけなのだ
 
だから「神道とはなんですか?」というコメントで頂いた質問は、「神道という宗教はなんですか?」という質問になってはならない。
神道という商品はないのだ。それを探してるのでは一生見えてはこない。
 
『神道という「看板」を掲げてるこれらのお店は何ですか?』
 
 
こういう意味の質問なら、自分は日本で一番明確に答えられるだろう。
「その神道、その看板は、こうして作られたんだよ。」と。
 
では、その答えは次回に。
 
 
 
その前に、宗教という商売の「看板」は、簡単に塗りなおされるという話を。
 
実は、これは以前に説明したことそのまんまである。
では、「宗教という看板を掲げた詐欺師のお店」と説明するのが一番わかりやすいのを、過去の説明から。
 
 
過去に説明したとおり、「スピリチュアルはキリスト教から生まれた(塗りなおした看板)」わけである。
 
弁神論(世界中のものを神様が作ったのなら、悪も作ったのはなんで?)という、神(創造神)にも答えられない質問から逃げるために、スピリチュアルは生まれたわけです。
「神という単語を隠す」というために、そして神という具体的なものではなく「目に見えない何かを信じる」という、とんでもなく都合のいいものを作り上げるためにね。
あと、聖書原理主義のような「個人の解釈で暴走する行為から逃げる」ために、「キリスト教・改」で、スピリチュアルは出来上がったんだと

 
だから、神智学協会がもとの出所であり、間違いなくブラバッキー夫人、エドガー・ケイシー、スウェデンボルグ、それらは全て、キリスト教がもとであると
 
 
看板、「塗りなおした」の意味がわかるよね?

スピリチュアルという商品についての説明、「目に見えないもの」「アストラルパワー」やら、「パワースポット」やらを考えていては、看板として重要な部分「キリスト教と同じ物」という部分は、見えてこない。
 
キリスト教とは、大昔からのできそこないの宗教なわけで、それを何とかしようとした考え方、「神学とかで神の存在自体が邪魔だった」、「聖書原理主義のような凶暴解釈から回避する必要性があった」、「観測できない目に見えないもの=正しいという洗脳だけのほうが便利」などの、仮面を売る上での理由「だけ」が、そこにあるわけ。
 
つまり、その部分、「なぜ看板が塗り替えられたのか?」、この部分のほうが大事なわけ。というか、それ以外は必要ない。
 
神道似ついての質問と同じ事で、「スピリチュアルという看板は何ですか?」という質問なら、「このような理由でできました」、そう簡単に伝えることが出来ます。
 
しかし、ありもしない商品の中身、「アストラルパワーってなんですか?」
と聞かれても、困るわけです。
スピリチュアルの人達が信じてる目に見えない力らしいです。前存在物質とかなんとか。
セフィロトの木の構成要素からもきてるんだが、スピリチュアルは東方ミトラの一番の影響を受けているのでアフラ・マズダがアーリマンの戦いに敗れたことで生まれた光の粒子あたりが、その元ネタになる・・・
って、永遠に目に見えることはないんだから、わかるわけない、そんなのを考える必要さえないだろ!と。
 
どうでもいいでしょ?
あるかどうかも永遠にわからない物質、「それらを逆手にとって価値観を形成する」という「塗り替えられた理由」のほうが重要なわけですから。
 
 
つまり、宗教を批判し、ちゃんと歴史を理解する上で大事なのは、「伝統を守る和菓子屋」なんぞよりも簡単に、宗教というものは看板がすけかえられるということ。
 
この場合、キリスト教がスピリチュアルに変わったようにね。
天台宗という日本の国教が、国家神道に変わったようにね。
実は日本の和菓子業界とかは、これから理解する神道詐欺とかとリンクしている。本家偽赤福や阿闍梨餅とかでわかるように
でも、それ以上に、宗教自体の看板が、いとも簡単に塗り替えられるのだ。
 
 
宗教という、商品ではなく、「その看板はいかにして作られたのか?」という部分が、明確な状況を表す理由で、理解の鍵である。
"
神という字を書いてみよう その1【20120212】
http://www.mkmogura.com/blog/2012/02/12/1064
"宗教という詐欺師の看板の仕組みを理解するためには、その看板が薄っぺらいものだと、もっとちゃんと認識する必要がある。
 
そのために先に、この記事から読んで下され。
神道とは何か?そして、そのことの理解が、「どんな派閥が天皇すり替えという今の詐欺社会を作ったか?」に繋がっていくよという、その具体的な話をする前にね。
 
 
「神なんて物はいない。」
 
 
神という字が、普通の神様の意味、創造神として使うようになったのは「明治以降」である。
まあ、自分も最初、聞いたときは信じられなかったけどね。
 
「愛という言葉」ができたのと同じく、キリスト教を中国語の聖書へと訳す際に、出来上がった言葉である。当てた字である。
それが、神という言葉なんだよ。
 
 
そう神様なんて、薄っぺらな詐欺のために出来上がった言葉である。
最初は信じられなかった自分が、そう確信を持った理由を箇条書きにして説明しよう。
 
・神という漢字
・神という字を日本の漢字の先生中国ではどう扱っていたか?
・昔、神という字を使った創造神を否定する決定的な単語
 
 
さて、では、まず神という字を、広告の裏にでも書いてみてほしい。
漢字、これは象形文字である。
つまり、漢字は絵のようになっていて、字体がどうなってるかが、その字そのものの意味へと繋がっているのである。
 
神というのは『示申』と書く。旧書体で「しめすへん+申」
この「しめすへん」というのは、祭壇を絵にした文字であるわけ。
もっと明確に説明しよう。
神社の儀式だけでなく、鏡餅やら、お月見の団子を置くとかで使われる、あの木で出来た台だよ。そう、白木でできた白いヒラヒラがついたアレ。
「〒」これが木で出来たやつで、その横の転々が白いヒラヒラね。
 
そして決定的なのは右側、「申」である。これはカミナリを意味する。
田んぼに落ちるカミナリね。
つまり、神という文字は、「祭壇と雷が落ちる図」という絵を、簡易化した象形文字である。
 
 
ユダヤ教やキリスト教で、YHWH、それとかエホバ(間違ってるけど)、イスラム教ではアラー(al+rar・冠詞とあのラーね)。
エジプトではラー(太陽)であり、一神教的な言い方であっても、アトン(aton)とかアモン(amon)とかである。
これは「あ」から「ん」まで、最初の文字から最後の文字という意味である。
創造神である神をあらわす際に、最初から最後の文字の全てで表すという敬意的な表現になる。
これは、阿吽(あうん)として、仁王像などのように日本、中国にも伝わってきた。
 
神様という物に対しての呼び名は難しい。
世界を作ったという偉業の象徴の為に、彼らの呼び名、文字は、どの宗教でも威厳のある表現方法が必要なわけだからね。
だから神聖4文字YHWHとか、みだりに神の名を呼んではならないとか。
 
 
で、だ。
チョイマテ。日本の神ってどういうことだと。
世界を作った創造神である「神」よりも先に、木で出来た祭壇の箱があるわけで、神様より「木工師」のほうが先に誕生していたのか?と。
 
それに、そもそも世界中にある最も起源的な宗教、その全ては「太陽崇拝」である。
「白人ではないんだから」、カミナリなんてものを創造神として崇めるなんて事自体が、そもそもおかしい。
有色人種である日本人はもちろん太陽崇拝のはずで、アマテラス(天照)という神道もそのはずだよね。
 
 
 
つまり、これキリスト教改という白人の神、ゼウスだろ!と。
 
ここだけでも聖書からきたと聞いて納得してしまうが、ちゃんと最後に納得してくれ。
では、長くなったので、次回に分けよう。
そもそも日本では、八百万の「神」という表現があることでごまかされているが、道祖神やら氏神、氏(うじ)という祖先が「神になる」というのもおかしいし、創造神としての意味で「神」という文字を使うのなら、おかしすぎる表現が多数ありすぎる。
 
その決定的な物を紹介したいと思う。
 
神という字は、あの、今も使われてるような形の祭壇であることでもわかるとおり、中国でも大昔からある字ではなく、後から作られた類の文字だろう。
 
というわけで、箇条書きの次の項目「中国の用法」などなどに続く。"

神という字を書いてみよう その2【20120213】
http://www.mkmogura.com/blog/2012/02/13
"明治以前にできたもので「神」という文字がちゃんと「世界の全てを作った創造神」の意味で使われたものがあるのか?
 
むしろ、そんな文字は別にある。
そして、それは日本人なら誰でも知っている。

その漢字こそが「天」である。
漢字として「人」、もしくは「大」という人間を表すもの、で、その世界の全てをおおう=支配して、その上にいるという意味で線を追加し、世界全体を指す。
それが「天」という象形文字、そういう絵なの。
人の上、空にいて全てを支配しますよ「お天道さまが見てますよ」ってあれね。
スケールが全然違う。

ここらは中国でも共通の話。
古くからの毘沙門天とかのあれ、「天」という文字自体が神様なんだよ。
天そのものがね。
 
日本の仏教が大乗仏教、生まれ変わりの思想になったのは、インド宗教バラモンからであり、ヒンズー教のもととなった宗教からの影響である。
バラモンの神やヒンズーのシヴァ神のような創造神、それらが輸入されたはずなのに、「神」という字はが当てられた名詞は存在するのか?していないのである。
シヴァ=「大自在天」、インドラ神の「帝釈天」、全部「天
」なのである。
 
 
そういうわけで、「おかしいでしょ?」と言っているわけ。
そして、もちろん昔の中国でも「創造神として神」という意味でこの文字、「神」が使われることはない。
 
神という文字の本来の意味を説明する前に、中国の神という字のことを簡単に説明しよう。
中国でも昔から神仙(仙人)という文字もあるが、これは本来の意味に繋がるので、のちほど。
 
で、神が創造神ではないというのを理解するのに、面白い事例がある。
中国では「神」という文字を使って、名前がわからない人間をたずねるとき「これは誰?」という意味で、この「神」を当てます。
英語でいう「WHO」みたいな使い方なわけね。
 
顔がわかって名前がわからないようなときに、当てる漢字だそうだ。
創造神の意味があるなら、こんな使い方は絶対にしないわけで。
乱暴な使い方だと、「廊下にコーヒーこぼした神はどいつだ?」とかになるわけね。
 
 
では、神という文字の本来の意味を知る段階へ進む。
 
さてその前に、疑問が確信に変わりつつあるところで、決定的な話をしようと思う。
その神という、本来の使い方をあらわす言葉こそが「神無月」である。
 
そもそも「神無月」とは凄い月の呼び名である。
 
ユダヤ教のエッセネ派、キリスト教原理主義の黙示録、インド密教あたりの終末論。
これら世界中のどんな宗教の終末論とも比較しても、1年に一ヶ月も「神様がいなくなる」なんて、こんなふざけた話は、どこにも存在しない。
いなくなりすぎだろ、と。
日本だけである。
 
1年に1月もいなくなるのなら、「神を崇拝しろ」というのも馬鹿馬鹿しくなるし、終末=危機感をあおるという宗教の本質の部分においてでも欠陥になるからである。
 
 
神無月とは、 旧暦一○月の異称である。
「出雲に八百万の神様が集まるから、神無月」という、馬鹿げた話もあるが、一ヶ月も放置してくれる神様を崇めたくなるかぐらいは、考えたほうがいいだろう。
だから出雲では神有月である、こんな嘘が半分通ってしまっている。
 
それに旧暦10月、それは現在の11月であり、秋の収穫祭とは少しずれるが、冬ごもり前の「祭りなどのお祈りのシーズン」でもある。
そんなときに神様がいないなんて、ふざけたことがあるのかと、つまり、こんな呼び名がありえるのかと。
 
ならば、「なぜ神無月という呼び名があるのか?」それが答えでもある。
 
ね、神は創造神をさすのではない。
ちゃんと説明しよう。
では、まず神無月というものが何であるのかと。
 
神無月、これは出雲なんて馬鹿は関係なく、「神鳴」がないシーズン、よって神無月なんだよと。これが、神という言葉の本当の意味を、ちゃんと説明してくれている。
 
神鳴=カミナリ=雷だよ。
それがない穏やかな月という意味での神無月。
 
 
あなたは、もう神というものが見えるはずである。
 
神という文字は「示」祭壇に、「申」カミナリが落ちるという文字である。
カミナリそのものをさす字ともいえる。
 
そして、そこから生まれた神という漢字の別の意味、それさえも「神秘的なことが起きる」という形容詞に過ぎない。アーリアと同じくね。
お祈りをしたら、カミナリが落ちたってね。そこから転じて「神秘的」になったと。
 
中国での神仙、日本での神楽、すべてこのお祈り、祭壇そのものをあらわすか、もしくは「神秘的なもの」を指す言葉に過ぎない。「どんど」=道祖神とかもね。
 
だから、スピリチュアル的にいうのなら「目に見えないもの」的な意味が、本来の神という漢字のもつ意味であり、用法である。
よって、そこから転じて、「雷=イカヅチ=こっちはもともと光 (視覚のほうの漢字)」&「 神鳴=カミナリ=神秘的な音
」という、カミナリになったわけ。
目に見えない何かの力で、音がなったり、木が割れたりとかね。
 
で、中国では「誰かわからない人」に、「目に見えないもの」的な用法で、神の字をあてて使う用法が残っているわけ。
で、それ以外の「神秘的という形容詞」、読んで字のごとく、神仙=神秘的な仙人という意味もあるわけね。 
 
 
創造神=神様ではなく、神とはもともと、目に見えない不思議な力、そこから転じたカミナリという神秘の力だけをさす言葉である。
 
本来の意味ではないそれを、聖書を訳す際に、白人の神ゼウスを崇めるキリスト教徒が嬉々として喜んで「創造した」、それが、今の世の中、日本にある「神」なんだと。
外来の「創造神」を崇めろとしたかったために、もとからあった「天」とかの言葉ではなく、創造した、でっち上げた物なんだよ。
本格的に、神=創造神が確立したのは、明治以降で間違いはない。
キリスト教の輸入時、鉄砲伝来の16世紀に「神」が使われたかは、ドチリナキリスタン(岩波文庫)あたりで、調べてみるけどね。
 
さて「祭壇」や「神秘的なもの」、それと明治以降に作られた、世界の全てを作ったという創造神「神様としての神」、それは全然違う
 
 
ほら、「神道」とかの意味も、もう一度考えてみて欲しい。
「天皇と創造神を重ね合わせる」という行為のための、詐欺師の看板である。
 
 
その看板の一番大事なところであるはずの、「神様」はいないのである。
 
そう、これは国家神道というものがキリスト教を作り直した物でしかない証明でもあり、巷にある創造神の意味になる神は、全部でっちあげである

 
 
うすっぺらいという意味がわかったかな?
 
神なんていない。
神を殺す。これはグノーシス的な帰結である。
創造神を否定することで、自分自身だけが正しいと導かれてしまいそうな話になるが、それは違う。
殺す以前に、その存在を表す記号からして、まがい物なんだからね。
そんな物は必要ないというだけ。
そして自分の力を過信してるようなこともないよ。皆もよろしく。
ただ、グノーシス以前に、正しいことは何かという規範という物、それは結局、自分自身だけで決めるべき物だとは思うけどね。
"

漢訳聖書 神が輸入された時期その1【20120214】
http://www.mkmogura.com/blog/2012/02/14/1072
"キリスト教の伝来した当初から、江戸後期まで、キリスト教の創造神を「神」と訳した文献などは一切存在しない。
ヒンズーやインドラの創造神を輸入した日本の仏教会、同じく中国、及び漢文の世界にも、創造神という意味で神が出てくることはない。
「ある特定の分野のなかだけで、神というのがあった」と主張されているだけである。
 
 
ここらへんの話は、岩波新書「長崎版どちりなきりしたん」の著者、海老沢有道の本が参考になる。
 
日本の聖書~聖書和訳の歴史~
海老沢有道
isbn4-06-158906-7


 
 
本に書かれている海老沢有道の経歴を軽く紹介。
1910年兵庫県生まれ 聖心女子大学、立教大学を経て、国際基督教大学大学教授を定年退職・・・。
 
聖心女子大学=皇室系カトリック学校、聖公会系の立教大学、で同じくブリッジチャーチのポジションであるJロックフェラーでおなじみ、ユニテリアンちっくな国際基督教大学ですか。
 
キリスト教という世界支配のための一番どでかいツールの手先、その、これ以上ないほどの経歴を持つ馬鹿大学の教授が、「神はキリスト教のものだ」という主張、その具体的な経緯、「日本の聖書がどう出来上がったか?」を紹介した本である。
 
その中で、「神という言葉がいつ頃から使われはじめた」と記してあるわけね。
  
キリスト教によって出来あがった捏造神話の「神道」の都合を無視してね。
かわいそうに。
 
今でさえ、「神」という単語で、真っ先にキリスト教を連想するが、キリスト教は江戸後期まで日本と中国の両方で「天主教」と呼ばれていて、神なんて物は「一切」出てこない。
 
16世紀、キリスト教の伝来とともに、火薬の代金として、キリスト教徒が日本人の女性を性奴隷としてせっせと輸出してた頃。
その当時、ちゃんとした聖書というものはない

ヤジロウ訳と言われる私的ノートのような注釈文のようなもの、それ以外では宣教師、つまり外国人による簡単な訳でしかない。
そして、その中で参考になる一番の物は、当時のキリスト教の教理を伝える際のまとめ、教義書のような物、ドチリナ・キリシタンである。
 
ぜ~んぶ、神なんて創造神は出てこない。
これらが、今でいう「神」の部分をどう訳したか具体的に箇条書きしよう。
 
御主ぜす、きりしと(おんあるじゼズ)(※ドチリナ・キリシタン)
デウス(Deus:ラテン語=ヘブライ語のエロヒム)
(※宣教師や初期の布教では、そのまま単語は原語のままデウスとして使った)、
他には、天帝、天尊、天道などがあり、「天主」←これが江戸時代ごろまでの主軸。
1801年山村昌長「西洋雑記」、これは、そのまま「創造主」。
あと、ヤジロウは真言宗的な「大日」という言葉を使ったともいわれている

 
 
ヤジロウ、日本人ではない宣教師、どれもまともな訳と言える段階ではない。
そして、これはその後キリシタン狩り、宣教禁止が行われたことで、江戸時代の鎖国後の19世紀になるまで、今のような日本語に訳された聖書というものは「基本的には存在しない」という状況が続くわけ。
 
そういう、ちゃんとした聖書なんてものはない状況だが、逆に、統一されずに、秘密裏に広がった分、レパートリーは多い。
しかし、ドチリナ・キリシタン、宣教師の資料、キリスト者による出版履歴、それ以外の多くの文献、幕府のキリシタン弾圧の中の禁書の項目など、このまとまりのない多数の物。
その中に、創造主を「神」とあてた例は、調べた限り一切、出てこない。
愛という単語と同じくね

 
では、聖書の創造主が神として最初に出てくるのは、いつなのか?
海老沢有道の記す、聖書の歴史から紐解こう。
それは先述の通り、漢訳聖書からである。
 
基準として考えるべきなのは、1823年のマラッカで出版された神天聖書である。
厳密にはこれが最初ではなく、そのもとなったのは1813年、広東で出版された「新遺詔書」であり、出版物として「創造主=神」となったのは、これが最初である

 
この漢訳聖書の作成のきっかけになったのが、パリ外国宣教会のパゼJean Bassettという人物の迫害下の中で記されたヘブル書第一章までの写本、「四史修編しししゅうへん」(18世紀1700年代の初頭)、これが「神」と訳された最初である。
これは、出版物ではないし、日本に輸入されることは絶対になかったため、いつ「創造神=神」が日本に入ってきたか?を考える際では除外していいだろう

 
説明しておかなければならないのは、そもそも「神」と訳したのは、新教徒プロテスタントであり、江戸の頃にはカトリックでは天主と統一されていた。
そして、東アジア方面でプロテスタントの宣教は18世紀当時では、まだ始まっていない。よって神という単語での布教もない
。そんな状況下で、新約を一部分だけ訳した人がいたという程度の偶然の産物的な話である。

そういうわけで、ここで重要になる聖書、「神=創造主」の始まった時代の基準となる「新遺詔書」「神天聖書」も、もちろん新約聖書である。
つまり、1813年以降である。

この聖書の漢訳を命令したのは、英国の1804年に出来たイギリス聖書教会である。
 
清に宣教すべきという意志をもっていた、当時若干22歳の牧師ロバート・モリソンという人物が、大英図書館で、偶然の産物「四史修編」を発見し、聖書教会の命令を受け、スコットランド長老議会で洗礼を受け、アメリカ→東インド会社の通訳という経歴を経た後、出来上がったのが、アジア圏での最初の聖書、「新遺詔書」と「神天聖書」である。
 
モリソンは、当時の日本の知識人が漢文も読めることに注目し、日本でも活用できるだろうという意思も持ちながら、これらの漢訳聖書を製作した。
そして、日本に最初に神が輸入されたのは、1813年の「新遺詔書」
である。
 
海老沢有道は、この本の中で、1818年の英国商船長ゴードンが2部の新約聖書を浦賀で、1832年に琉球などで聖書が配られたことなどを紹介している。
 
 
 
さて、日本の聖書~聖書和訳の歴史~に記載されていることについては、これぐらいでいいだろう。
大事なことはここではない。

とある分野の人達」を除いて、この漢訳聖書が出来るまでに「創造神=神というものが日本にいた」という記述、歴史書は、どこにもないということ
 
歴史上、創造神=神なんてあてたものは、「あるジャンルを除外する」と、インドの創造神を輸入した仏教でも、漢文つながりで同じく中国でもないわけね。
 
さて、どこからともなく「創造神=神」が日本にいたと主張し、それが、恐ろしいほどの偶然で、キリスト教徒と同じ「神という単語」で物事を言い始めた時期と重なるという、不思議な「あるジャンルの人達」について説明しよう。
 
 
それが「神道」
である。
"

漢訳聖書 神が輸入された時期その2【20120215】
http://www.mkmogura.com/blog/2012/02/15/1074
"厳密には、神道ではなく、国学というジャンルになるが。
神道と神という単語を語る上で、彼らのジャンルの歴史書、日本書紀やら古事記、風土記やらについて。
その説明は必要である。
 
 
前回の記事だけでは反論があるだろう、「天照大神」という単語が出てくるではないかと。
 
「創造神=神」で出てくるではないかと反論があるだろうが、簡単な話である。
 
天照大神というのは、ただの漢文であって、『「天照」の「大いなる」「神秘的な力」が地上に降臨して~~をしましたよ』という漢文に過ぎない。
 
こういう反論をしそうな神道馬鹿は、日本に仏教が伝来したとき、「蕃神」、「客神」、「仏神」などと当てて、なぞらえた呼び方をしたと主張する。
「外の国の神」という意味でね。
 
それなのに、天主に統一される前、神という一神教、カトリックの歴史で「神」という字が日本で当てられた事例はあるのか?、一切ないわけである。
 
インドの創造神を輸入した大昔からある国教である仏教、そこで創造神として神を当てた事例は?
これもない

 
以前、説明したように、中国では、代名詞のようにこの「神」単語を使って、英語の「WHO」のように、名前のわからない誰かに当てて使う用法がある。
起源は一緒で、それに準じる漢文もしかりで、だから日本書記などの神、創造神として「天照」などのことをあらわす時は、神名を必ず記す。(実際は、神ではなく不思議な力だけどね。)
そりゃあたりまえである。単独で「神」だけを使ったら「WHO=名無しさん」のままになっちゃうからね。
 
だから、中国の宗教観の中や、日本の仏教界にも、創造神という神という言葉が、キリスト教が漢訳した以前に存在していたのなら、中国でも日本の神名のように、毘沙門でなく、「毘沙門神」みたいな、「神という字と名前がセットなもの」という、その物ずばりの神様がいるはずである。
中国の書経とかにね。
 
 
一切ない。
日本の「神道」「国学」にあたる部分の分野を除いて、一切、神なんて創造主は出てこない。
 
神が違う意味の文字、「神秘的な力(カミナリ)」、もしくは「祭壇」とだけを意味したのではないかという事例はいくらでも出てくる。
中国では「神」という単語にはカミナリから転じて「たたり」、そして「精神」
という意味もあり、そのものズバリが必要なわけ。
 
日本で言うなら、前回の神無月のように別の意味しかない。
氏神、自分の祖先を神(創造神)となってしまう宗教は、世界的に見ても奇妙であるわけで、キリストやマホメットなどの預言者でもなく神そのものに誰でもなれるのかよと。
死んだ爺さんはヘラクレスだったのじゃ!!
そうじゃなく、これも「神秘的な恩恵」としての神でしょ?
 
あと、キリスト教を「天主」教と名づける日本人が、単なる祈祷師を、神主(かんぬし・神功紀など)と呼ぶのか?と。「祭壇+主」だろと。
中国の春秋左氏伝に「神主」という表現はあるが。これも創造神ではなく神名もない。
 
それに天照なんて言ってるが、じゃあ何で神は、ゼウスの化身=雷の字なんだよと。
全部、神秘的な力などの読み方で意味が通るぞと

 
 
先に結論から言うが、キリスト教が創造神=神としたのと、神道が出来上がった時期は完全に重なる。
そして、神道を作った奴はキリスト教徒である
。では続けよう。
 
 
この漢訳聖書ができあがったころ、その一部が江戸にも入ってきた。
 
そうしたら、恐ろしいほどの偶然で、アジア圏でキリスト教徒が神という創造神の単語を使い始めたのと同時に、「日本を作った創造神=神」という国学思想、神道がうまれて、それが幕府を倒し、明治維新後に「国教」となったのである。
 
そして説明の最重要な部分に入ろう。
 
この神道を作り上げた国学者の平田篤胤(ひらたあつたね)は、キリスト教徒である。
キリスト教を禁止されてた当時に、明らかに天主教(カトリック)に影響をうけた本を書いた人物であるから、キリスト教徒で間違いないのである。
 
その本の題名が、1808年の「本教外篇」、副題「本教自鞭策
」である。
 
 
こいつのことを語る上で、国家神道の元となった国学について少し、話をしよう。
 
本居宣長ぐらいは知ってるかな?
こいつも聖書っぽいもの(当時の天主教の禁書ね)を読んでた奴
ですよ。
 
国学とは、古事記・日本書紀・万葉集などの古典の、文献学的研究に基づいて、儒教や仏教が渡来する以前の日本の固有の文化や精神を明らかにしようとする学問。であるらしい。
 
この国学の学者、荷田春満(1669~1736)、賀茂真淵(1697~1769)、本居宣長(1730~1801)、そして平田篤胤という、おわゆる「国学の四大人」と呼ばれる人間により、国家神道が出来上がった。
 
平田篤胤(1776~1843)(明治維新が1867年)
四大人、4人の学者。こいつ、平田が一番後期の人。
この人物が、会ったこともない本居宣長の弟子と自称し、「彼らはこう言っていた」という文字通りの吹聴する行為で、尊皇攘夷の神道思想を作り上げ、それが国家神道の元となった。
 
その中で、「創造神=神」が、使われるようになったわけである

「本居宣長も、その神は・・・である、と言ってたよ」とかね。
 
 
仏教伝来する以前が本来の日本というのが国学でもわかるとおり、こいつが神代という時代、神武天皇以前の神々の時代=日本固有の文化があると言い放ったわけ。
「蕃神」とかは、そのときを正当化する嘘。
 
平田が、嘘を吹聴ばかりする行為だったのは証明されている。
その神武天皇以前の時代に神代文字、漢字が伝わる以前から日本固有の文字があったと主張して、それがハングルを元にした自作自演の文字だったという、捏造がばれちゃった人物だからね
。【20101126】
ハングル、神道右翼は出来上がる前から、在日右翼ですよと。
 
 
この平田が、国家神道の基本、日本固有→神道に繋がる、国学を作った(想像しちゃった)奴である。
 
で、この平田、キリスト教徒であるわけ。
1808年のカトリック系の天主教(キリスト教)の本教外篇。
で、日本に漢訳聖書がこっそり輸入されてくるのが、1820年代、こいつが国学を作るためにやってた時期。
 
キリスト教徒ってだけでなく、平田は、このように国学を作った張本人、神道関係のストーリーの創作、その出版もするわけですが、その神道関係の本を出すのは、すべて「本教外篇の後」だよ。
つまり、キリスト教の本を書いたのが最初。
で、なぜか国学、神道の本を出版するようになったわけ。
 
それが神道の始まり、歴史上表に出てきた最初の時期とも言える話。
さらに、それは「キリスト教が創造神=神を使うようになったタイミングと完全に一致している」わけ。
 
で、その出来上がった神道も、その後の明治維新で国家神道でわかるとおり、キリスト教の教義、日本の創造主である神武天皇、天照大神、明治天皇で三位一体をなすという全く同じ形態で作られてるから、笑うしかないよね。
 
本教=キリスト教=大本教=神道。
ほら出口王仁三郎の大本が神道はキリスト教に至る道スジであると
言った意味もわかるでしょ? 
 
 
神道とはキリスト教徒が、日本人を騙すために作った捏造神話である。
 
多くのキリスト教徒が、聖書のGODに神という字を当てたのは我々だと、開き直ってるし、所詮、彼らの手下に過ぎない神道の奴らも、一部はそれを認めてるんだから、バレバレでる。
で、どこまでいっても国家神道=神道だし。
神道=「日本の創造主=神」で、天皇とそこを重ね合わせるための思想である以上、創造主という単語がキリスト教から来たというのなら、整合性が取れるわけないのである。
上位であるキリスト教徒が「日本の神道の神から聖書の訳に持ってきた」とでも言ってくれないかぎりね。
 
でも残念、日本とは関係ない中国、清で漢訳した聖書がもとですからね。
当時、ドマイナーな神道があったとしても(ないけど)、それを海の向こうで知るわけないだろ?ってこと。
 

さて、俺のような大学教授などの公的な肩書きを持たない、単なる個人の話でしかないものを、信じる信じないは、個人の自由でかまわない。
 
 
でもね、日本の国家神道の元、こいつら国学者も、当時の政府機関に一切関係ない「単なる民間人」の思想なんですけど。
 
そっちの都合のいい物だけ信じるなよ、と。
 
国学とは名前ばかり大きくて、単なる個人である。
今のように、ネットどころか、図書館、それ以前に出版をまとめた学会もなければ、教育制度もないんですけど。
そんな中で政府とは関係ない民間人の個人の想像をもとに、日本古来の文化として国家神道という物が生まれるわけ。
 
摩訶不思議で奇天烈なお話だと思わないかい?
しかも前科一犯の捏造をやった人物の思想をもとにね。そっちは信じると?
 
で、その国家神道の主格であるはずの天皇の正式な行事、伝統を守ってきたところは、廃仏毀釈で、ことごとく潰され、あるいは真言宗などに改宗されるわけ。
当時仏教徒だった天皇の仏事を、江戸時代までやっていた天台宗系の黒戸の四箇院、天皇の菩提寺、泉涌寺とかの話ね。
それをやったのが、その天皇を神と崇める神道という宗教なんだから、奇天烈どころか、どんなふざけたアメリカンジョークの設定よりも「ありえない」と断定できるよ。
 
その「ありえないことが実際に行われた」、その理由こそが、「神道はキリスト教だった」という至極簡単な理由。ただそれだけ。
 
日本の右翼、神社本庁と統一教会(新教徒=プロテスタント)今の現実とも完全にリンクしてる話でもある。
 
日本史の教授やら、日本思想体系だかなんだか偉そうなことを研究してる人らは、こんな民間人の疑問に答えられるのかな?
 
 
 
だから神道なんて宗教はないよ。
神道の全てはでっちあげの看板である。
 
鎌倉幕府の鶴岡天満宮?
明治になってすぐ、コソコソと仏塔を壊して隠蔽するようなとこが神社?笑わせるなよ。
看板を作り変えただけ。
吉田神道?家康を埋葬した形式が、卜部神道(吉田神道)だというのなら、天台宗の僧、日光東照宮の天海も神道家なんだね?で、その仏教や中国で神の文字がつく創造神は?
吉田兼倶より以前、吉田神道は昔からあったけど、その吉田氏にあたる徒然草の作者、吉田兼好は出家=仏門に入った人間です?やめて、腹がねじれる!!藤原氏が春日神社?仏教とともに歩んできた藤原氏がなんで神社なの?おいおい?
 
 
 
ぜーんぶ、詐欺師の看板である

 
 
 
さ~、そこらへんの話に進もうか。
 
伊勢や出雲、宇佐などの海崇拝の社が、神道という看板をつけた流れのこと、天台宗系がこの神道の軍門に下ったこと、その見返り。東照宮などの徳川と神道。富士崇拝、浅間神社。富士派と創価学会。
 
ちゃんと種類分けして説明してあげよう。
まかしとけ!!
 
ちなみに、フルベッキの写真で有名な、あのフルベッキも聖書の翻訳をしている人物でもあります。
辞書を引けばわかるけど、「神道」という単語は、「墓場へ行く道」という意味があります。"



神道の話 補足【20120506】
http://www.mkmogura.com/blog/2012/05/06/1124
"創造神という神が輸入されたのは、明治以降であるという話。

この根拠として、「江戸末期以前の漢文には、神という創造神はなかった」というのがあり、このことは「神を使い始めた人物」、本人が認めてしまっているのである。
 
 
そう、それこそが「神道」という言葉を作った張本人でもある平田篤胤(ひらたあつたね)である。
 
以前の記事で平田のすべての出版物は、1808年の「本教外篇」、つまり本教=キリスト教から始まっていると
説明した。
 
話を短くするために端折ったが、ここに補足しなければならないことがある。
 
可妄書(1803年)
新鬼神論(1805年)
 
この2冊というのを平田は「書いた」ことになっている。
ええ~1808年より前ジャン!!!、まあ、待たれい。説明しよう。
 
この「平田=神道を作り上げたキリスト教の筆頭」のWIKIでも見ると、この本のことは出てるので、誰でも、すぐ気づくので質問があるかな?と思ったが、なかった・・・でも説明する。
この2つの作品は、1808年の平田の最初の出版作品、禁じられたキリスト教の本、テロリストの本「本教外篇」のあとだよ。
 
一般的に平田の処女作と言われる可妄書(1803年)は、本居宣長に出会った年(1803年)に、草稿した(下書きで出来てあった)と、主張してるが、実際に出版をしたのは1820年である。
 
その1803年「会ったことのない師匠!!本居宣長の存在を平田が知った年」→寝ないで書き上げた。だから1803年。
そうなってるわけね。
 
「不眠不休で書き上げた」なんて、わざとらしい形容詞がついてるからこそ、逆に俺のアンテナが反応してしまうが、まあ「神という存在」を出来る限り「昔から存在していたよ」としたいために、年代をごまかしてるわけね。
 
でも、本居宣長を1803年以前の平田は知らなかったわけで、それ以上は遡れなかった。
1803年→不眠不休→すぐ書き上げた。
 
 
実際の出版は1820年
です。
まあ、簡単な話です。
 
おっと、年代をすり替えた意味を考える上で、推測の部分が多くなってしまう話なので、この程度で。
では、この作品の中身について、説明しよう。
 

可妄書(1803年・出版は1820年) 平田篤胤
・儒家のいう神道とは、「道の体をあやし(神妙)」とほめている形容詞でしかないもの(145項)を、無理やり神道としている。
 
「儒家=儒教」その中の「神道」という文字が出てきたとき。
「神秘的な道ですよ」の形容詞そのままなわけですが、それを「神道=創造神とのつながり」と誤解したまま、突っ走っている。
少し出てきた儒教=儒家。
当時の神道というものを、「あやしの道=神秘的な道」で使われていたのは間違いない。

江戸初期の儒教のことを、「儒家神道」なんて呼び名になっている。
「神道」というジャンルがあったかのようにあたりまえに振舞う。
林羅山とか、吉川神道(毛利の親戚)もこれ、儒家神道だよね。ただ、アンチ仏教の部分があったってだけ。

「神道=創造神と重ねる」なんて、もともとない。神道という言葉が出来たのが、こんな強引過ぎる平田からなんだよ。
 
 
そして、ここで平田は、古事記伝を見ろとしている
可妄書の142項で神道議論もしている。
 
 
「神はこういうもんだ」→「古事記伝を見ろ」
としてるわけね。ソースは古事記伝だと。

この可妄書の中には神道議論がある。昔、「1803年」のこの本ですでに、キリスト教の侵略以前から神道があったとしようとしてる部分もあるわけね。これも年代偽装の意味。実際は、これも1820年以降ですから。
 
 
で言われたとおりに、古事記伝を見ると、本居宣長は125項で5つの神をあげている。(ちなみに梵語の音声当て字は、神=迦微らしい)
 
神は5つあるよ、ということで具体的に本居が上げたのはこれ。
 
1 天地の諸の神たち(これが創造神とも呼べる、でも複数形)
2 やしろ (祭壇)
3 人はさらに云ず(俺の解釈:漢文など用法、精神・とくに言霊を意味する神だと思う)
4 鳥獣木草の類 
5 海山などにかこまれて、徳があって賢いこと
 
 
ちゃんと言われたとおりに見たけど、「創造神=神」ではないでしょ。
本居宣長も、そういう意味で神という言葉をつかったわけではないのがわかるよね。
(本居は、江戸末期のキリスト教の侵略作戦より前だからね。カトリックの禁書は読んでた奴だけど)

いわゆる創造神と呼べるのは、(1)だが、複数系であるし、「天地を作った神秘的な力」なわけ。
(5)海や山の恩恵、(4)鳥獣木草の類=いろんな動物、「草木にも宿るよ」を含めれば、キリスト教的な一神教、つまり唯一神としての神との意味とは、かけ離れてるでしょ?
 
神道で天皇と重なり合わせるのは、そっち、ありもしなかった「唯一神」
なわけで。
 
 
 
そして、もう一つの、この時代の平田の本、新鬼神論では、もっと面白い。
 
 
 
新鬼神論(平田1805・可妄書のあと・実際の出版年は調べてない1820年以降)
 
この本には、こう書いてある。
 
「漢土の古書ども、天とばかり云ひて・・・・・・」
 
中国の漢文のやつらは、天じゃなくて日本の神典が伝える古意、神(天津神)がいるのに、わかっちゃいねぇな・・・・と言ってるわけ。
 
 
漢文では「天しかでてこない」、ね、彼自身がある意味、認めちゃったわけだ。
 
はい、彼の言う日本の神典、日本特有の文字である神代文字の神字日文伝は、捏造作品であることは、既に、ばれちゃっていますが・・・。
 
 
ね、面白いでしょ。
天しかない→認めちゃって→「日本の古典を見ろ」と反論→その神代文字の話は、嘘だとばれちゃった。
 
結局、「漢文には天しか出てこない」という主張だけ残った
・・・。
 
笑える話である。
 
 
平田のやったことは復古神道とかよばれるんだけど、その始まりは儒教の神秘的な道を「神道」と無理やりして、開き直った「反論と捏造」で、できてるんだよ。
でも、捏造だとばれてしまったわけで、逆に本居宣長以前には「神という創造神はなかった」って結論だけが残るわけだけど。
そして、こういう風に年代をごまかしたり、捏造を言い張ったりして「常識」はできている
、それを覚えといて。
 
年代をごまかす行為、AからBをごまかした年代、つまり「Bのほうが古いとして、BからAにすることも出来るよ」ってこと。
何かの模倣品の年代を、それよりも古いと偽装すれば、こっちがオリジナル!!というの主張が出来てしまう、それと同じ理屈の手法なわけね。
 
平田は本居宣長を知らなかったわけで、で1803年という中途半端な時期まで遡れなかったと。

キリスト教が1813年の「新遺詔書」で神という訳を当てるまでは、日本と中国には創造神の神は輸入されていない。
日本で神という字を使い始めたのはキリスト教徒
である。
"

轍(わだち)【20101126】
http://www.mkmogura.com/blog/2010/11/26/972
”日本には、鉄の特性を生かした鉄漿(おはぐろ)があるわけで。
あれは、虫歯防止=おしゃれじゃない。
むしろ、おしゃれじゃないから、戦国時代に男はしなくなったのが、お歯黒。
既婚女性=子供生む=カルシウムを奪われる=鉄漿を継続。
まあ、それが結婚指輪のようにお歯黒=既婚や結婚期をさす表現や象徴みたいになったと。
それを、おしゃれと言うのは無理があるわけで。

歯を塗る化粧自体は、それ以前の縄文弥生などでもあったが、鉄漿、鉄とタンニンを使ったお歯黒は、平安時代から始まった。
錆びた鉄の酢酸第2鉄とタンニンを化学反応させて、虫歯防止をするという最新化学ともいえるお歯黒。もちろん、男もした。
それほど、虫歯は命に関わる最も身近な病気で、お歯黒は優秀な予防治療だった

で、調べたら、百済勢力と、その平安からの鉄文化、おはぐろ文化の強い地域が、一致するわけではないこと、お歯黒のタンニンのもととなる「虫こぶ」が日本では限られた地域でしか取れず、その方法は中国の一般的なタンニン資源の採取法だったことなどなど。
 
よって鉄器=百済という完全な図式は当てはまらない。
 
 
この百済=蹈鞴(たたら)=和鉄精製法という話も、神代紀(神武天皇が支配した以前の時代の話)からきてるとされますが・・・・まあ、実は神代なんて創世神話であって、嘘っぱちなわけです。
その伝記があったという、これまた作り話のお話です。

そんなわけで、我が国固有の文字=この神代文字の伝記が存在しているという話だったんですが・・・。
じつは朝鮮のハングル(ハングルは15世紀の李朝が作った)に擬した捏造文字というのは露呈していて・・・その捏造に気づかず、日本固有の文字であると主張した人が江戸時代の国学者、平田篤胤
なわけ。
 
これは、明治維新前の江戸時代末期の話であって、こいつの理論も一部が継承されて、国家神道という三位一体をつくるんだけどね。
平田篤胤が神代文字であると主張したのの題名が、神字日文伝(カムナヒフミノツタエ)。
さすがに平田(1776~1843)の理論では破綻してたので、昭和になって作り直した(昭和19年)のが、岡本天明が自動書記(笑)で記したとされる、日月神示(ヒフミ・ヒツキシンジ
)なわけね。

まあ、名前もここからきただろうという、国家神道と同じぐらいの出来そこないであり、それがニュートラルの基準みたくなってるんだから、笑うしかない。
これの岡本天明が、大本の出口の弟子にあたるというポジションで、大本教を中心に継承されるわけ。

コメントのお返事【20120428】
http://www.mkmogura.com/blog/tag/%E5%A4%A9%E6%B5%B7
君が代は、紀貫之が醍醐天皇の命令により古今和歌集を編纂したことが起源である。
醍醐天皇ってだけで間違いはないが、当時の右大臣、菅原道真=百済系唯一の出世頭を任命した。
つまり、菅原=土師氏=百済系の桓武天皇の親戚。醍醐寺=土師氏系の寺
という系譜があるので、紀貫之=百済系と判断しても、間違いではない。
くわしくは最近の記事で説明するよ。
 
しかし、日本書紀の捏造された部分である朝鮮討伐やら代記の頃の話に、この紀氏の話がよく出てくる。
簡単にいうと、「天皇の変わりに紀氏が、百済や新羅を攻めた」という話がね。
 
「応神3年 百済に辰斯王がついたが、天皇に無礼だったため、百済の人々は自ら王を殺して謝罪した、よって紀氏は別の王を任命して許してやった・・・・」

とかの、「どう考えても捏造」というストーリーがいくつかね。
もう少し紹介するか。
 
「雄略9年、紀氏は新羅を征服した」ぉぃ!!!
「顕宗3年、三韓の支配者として生磐宿禰は『神聖』という称号を自ら称した」

紀氏は・・・神聖ローマ皇帝ですか
(明らかにキリスト流入後、江戸末期以降の捏造だよな、これ。)
 
これ日本書紀ね。
(捏造だらけ。これらは醍醐天皇の側近に都合のいい話なわけである。過去と捏造のツギハギ。天皇すり替えに一言も言及できない学会の基礎であるこれらは、醍醐寺の館長の甥が編纂したんだから、よく考えりゃあたりまえである。今の時代の話ね。)
 
 
ね、ばかばかしくて、古代史研究の人も「ここらへんは捏造である」とひらきなおってる話がいくつかある。
朝鮮半島の国々と戦争したという三韓討伐とかのところはとくにね。
その時に、よく紀氏が出てくるわけ

 
 
吉田松陰含む、南朝族=百済でいいと思うよ。
よって醍醐系につながる紀氏=百済も、それでいい。(詳しくは最近の記事で説明するよ)
 
でも注意して欲しいのは、今の天皇も「南朝=朝鮮半島で、意識された集団組織」で出来上がってるのに、それを隠そうとしてる「天皇と朝鮮の関係みたいなのはごまかしてる」わけでしょ?
よって、ここらへんの話に引きずられて、ごまかされないで欲しい。ということ。
 
君が代のことも紀氏のことも、天皇すり替え、その元となった南朝の縦糸で見えてくるよ。
後醍醐天皇以前、醍醐天皇とか桓武天皇とかのね。
むしろそれがないと、見えてこない。
そこらへんは、最近の記事で紹介します。
 
 
 
あとの質問にも、適当に・・・こたえる。
 
南朝の出来るまでの縦糸・・・・、仏教界の窓際族=骸骨本尊なカルト化したから、物部神道のような「仏教と対立しただけの文化」にまで頼ってしまい、「天皇=神道という嘘を作らなければならなかった」ということ。
ちなみに仏教伝来時、それを推進した大伴氏に対立したのが、物部氏。
それが物部神道になるわけ。
 
これも、これからの記事を読んでわかんなかったら、また聞いてくれ。
 
 
 
 
>高野山が豊臣秀吉のお母さんの寺って事は、
>よく分からないのですが秀吉が真言宗を
>のっとったという意味ですか? 
 
違うよ。
高野山はでっちあげの本山で、空海どころか、真言宗とも一切関係ないお寺を、真言宗の本山だよと言ってるんだよ。
 
「ユダヤ教の聖地はパルテノン神殿だ!!!」というレベル・・・恐ろしすぎる嘘ってこと。
 
 
秀吉は、文字通り焼き討ち。焼き払ったの。当時の真言宗の本山、根来寺をね。
で、東寺まで放火する寸前で思いとどまった。
だから、「日本では真言宗は一度、完全に焼き払われた=一切なくなった」という感覚のほうが正しい。
 
それを救ったのが家康。静岡県東部に一部、匿ったわけ。
秀吉に対抗する目的のためだけにね。
実際には、そのあと、秀吉により、関東、江戸の開拓へと家康は追いやられるので、はっきり言うと、あんまり真言宗と家康に関係はない。
そして、ちょうど江戸で家康は、天台宗の天海和尚に会うわけで。
 
真言宗を、その後に少しだけ援助したのが、徳川つながりで、江戸時代後の1623紀伊藩主 徳川頼宣とかの、江戸幕府制定後のこと。
あと、忠臣蔵に繋がる浅野家とかも援助してるね。南朝崇拝=忠臣蔵
の補足。
 
まあ、真言宗は南朝天皇の宗教で滅びた、秀吉に嫌われて滅びた=「だから、日本から一切なくなった」、このくらいに考えてくれてもOK。
 
 
で、実際の高野山のことなんだが。
根来氏こそが、高野山から移転してきた真言宗の本山であって、明治以前には、高野山に真言宗の寺なんてものはない。
 
もともと、高野山は大衆=民衆のための浄土信仰のための土地。
(家康も天海和尚に会うまでは、どっちかというと天台宗の浄土系の信仰だった&上に立つ人がそれじゃいかん!怒られて法華経=天台宗の経典を持つようになった&久能寺の国宝)
 
密教(選ばれた人)=真言宗と考えてるため、大衆がやってくるミーハーな土地は却下というのもある。つまり真言宗との関係は、根来寺が昔、高野山にあっただけ。
高野山=高野ひじりで大衆化しているわけだからね。
 
「顕教=一般的な仏教」これは劣っている、こう考えていた「密教」の真言宗は、ただでさえ衰退して滅びてるわけで、大衆信仰都市である高野山に真言宗なんて、なかったわけ。
 
高野山に真言宗のお寺は残っていなかったんだよ。(明治維新まで

 
 
で、南朝(真言宗+神道=キリスト教)という奴らが、天皇すり替え、明治維新を行った。
秋葉権見のお札が降ってきた!!!(秋葉神社=秋葉原の元ね)とかの「ええじゃないか運動」なわけね。
 
それに協力した中心が、静岡西部の真言宗の奴らなわけ。
だって南朝天皇=真言宗だからね。
この家康が優しく保護してやった根来衆(真言宗)が、徳川幕府の崩壊、外国資本に牛耳られていく原因になったわけ。
 
だから、明治維新のとき、薩長軍が有栖川宮を官軍の将として、江戸まで東海道などを進軍する時、普通なら戦争になるよね。
それは、幕府に忠誠を誓う遠江、駿河などの藩と、絶対にぶつかるはずだから。

しかし、この愛知と静岡の神道勢力、および、この真言宗の奴らが、徳川家でつながっていたわけで、だからこそ華麗にスルー=何事もなく東海道をのぼっていった(尾張藩主徳川慶勝が指示)&江戸無血開場→そのながれで、静岡で手打ちになるわけね。

 
で、神道と徳川の協定の象徴のようなもの、久能山の東照宮ができたとかになるわけ。
その後、南朝崇拝の仏教徒、創価学会ができるのとかもね。
創価学会=神道社会の中の南朝崇拝のための仏教徒&法華経=天台宗の経典を守る右翼・・・日蓮主義者、その一部=創価学会・・・などなど。
 
それが過去記事のお話。
 
 
こういう流れだったから「静岡で手打ち=売国和平交渉があったんだよ」って話。
それは、この南朝宗教の真言宗が、深く関わっているってことね。
 
 
 
で、この外国資本の手先どもは、真言宗の再興をしたかったんだけど、「真言宗の寺なんぞ、ろくに残っていない」わけ。
 
関西では秀吉に追い出され、関東での家康は日本の国教、天台宗になっていたわけだから。
もともと南朝宗教なわけだし。
 
で、「真言宗の本山が明治維新前のころにはなかった。」
だから、高野山というのを、文字通り「でっち上げた」。
 
今、日本の真言宗の総本山ということになっている高野山の金剛峯寺というのは、空海とは一切関係ない。
だって、真言宗の本山である根来寺と東寺を、焼き討ちした張本人、秀吉が建てたお寺なんだもん。
もとは青巖寺(剃髪寺)1593年に豊臣秀吉が「お母さんが極楽浄土に行けますように」として建立したお寺。
ね、9世紀の頃の空海とは、一切関係ないでしょ?
 
高野山→空海が立てた修行場→のちに根来時へ移転→滅
びた。
 
 
だから「ない」わけ。
よって、しょうがないので、無理やりでっち上げた。
 
 
そもそも、秀吉=真言宗の仏敵であるわけ。
「滅ぼした」張本人なんだから。
 
ほら思い出して、高野山は浄土信仰=大衆のための仏教で、密教の土地ではなく、とうの秀吉からも追い出された。

でも、南朝=真言宗であり、密教立川流だから、無理やりかえてしまった。
明治維新のせいでね。
 
で、京都とかの数々のお寺を天台宗から、真言宗に強制的にかえさせて、「今では仏教の中の主流派のような顔をしている」というのが、今の真言宗ね。
以前の記事で、自分は、廃仏毀釈の裏には、「神道をすすめるのと、真言宗化したのがあるよ」として説明したつもりです・・・。
 
 
真言宗の総本山なんて偽者ジャン」、
 
これをもし、高野山に行って面と向かって言ってあげると、文字通り、彼らはお墓にお経を上げてくれます。神権天皇制である昭和初期ぐらいまでは確実にやってただろうね。あそこで、重要監視体制が取られていた(監視してる側)のは、あまり知られている話ではない。
 
おっと、今もそうかもね。マジお勧め。
天皇すり替えと立川流もセットでね。
 
 
だから、弘法大使というのも、空海をさす言葉じゃなく、単なる「徳の高いお坊さん」という意味だよ。

そもそも密教=選ばれた人だけが、悟りに行けるという坊さんなのに「修行中の格好=袈裟じゃなく頭巾か?あの偉そうな坊主がつける帽子みたいなものをかぶってない挿絵」しか見たことないでしょ?空海。
 
密教=選ばれる人=階級制
だからね。
ジブリの平成狸合戦ぽんぽこに出てきた、たぬき和尚のかぶってた、金色とかでできた頭巾。ほかに説明がでてこねぇー!!あれあれ。
 
いわゆる曼荼羅(如来=悟りを開いた人)などの密教の仏の世界は階級性でできてるから、密教の坊主も階級制になるわけなんだけど・・・空海は謎!というか、めちゃくちゃ。
逆に、密教以外の大衆信仰は、そこらへんがいい加減になった奴。
 
 
 
「アーリア人」=「アーリア=高貴な」、「神=神秘的な力」。
弘法大使=偉いお坊さん。
 
芸がない。全部同じ手法。
すべて単なる形容詞

 
白人の都合・・・有色人種が起源である人類史に「白人という歴史がなかったために」、インドという国にカレーの似合いそうな「アーリア人という白人がいる」と捏造した。
どんな白人だ???!!!
神道の記事を一瞬で読み解き、同じ詐欺歴史解釈のカーストに例えた、キノコ姉さんに胸キュンした。
ちなみに、浦沢直樹の漫画、マスターキートンの1巻では、白人=印欧族というものに科学的根拠は一切ないと書いてしまったたため、ブックオフとかの中古では売ってま・・・おっと、ここではおいておこう。。
 
神という都合・・・キリスト教の創造神を崇めなさいという都合のために、ありもしない神という創造神、それを日本の歴史のなかにある「神秘的な力という形容詞」を神にして捏造した。
 
真言宗の都合・・・歴史の中に真言宗というのが滅ぼされてほとんどなかった&ドマイナーだったために、弘法大使という「弘法=仏法をひろめる徳が高い人」という形容詞を、それは空海だよとして捏造した。
だいたい、「弘法も筆の誤り」なんて諺があるが、真言宗自体が、ほとんど全滅しかけてたのに、弘法は空海ただ1人を指すなんて、成り立つわけないじゃん

 
 
真言宗の都合・・・、本山というものがなかったために、「真言宗を蹂躙した秀吉のお寺を高野山で、総本山です」なんて捏造をしなきゃならな・・・・これは、いくらなんでも無茶だろう!!!っとなったわけ。
でも、そうなってるの。今現在ね。

寺を放火すると「密教」の「選ばれた仏教の一番偉い人」、いわゆるキリスト教とかのキリスト・・・預言者という立場になって本山として、あがめてくれるのですかね?
 
 
秀吉が乗っ取ったなんて、全然違うよ。むしろ逆。「滅ぼした」
 
彼らの都合で、「でっち上げ本山」を作るときに、よりにもよって秀吉という仇さえも利用しなければならないほど、真言宗は「滅んでいた」ってこと。
そして、それだけ、今ある強大な真言宗は「すべてでっち上げられたもの」ってことでもある。
 


天という文字【20120319】
http://www.mkmogura.com/blog/2012/03/19/1085
”天というパーツを使った漢字は、実はかなり少ない。たぶん、一つ。
それは、天という字が、創造神だからさ。
 
 
天上天下唯我独尊。
 
天には並ぶものなしで、基本的に「天」と他の部首が組み合わさった文字はないと言っていい。
言ったでしょ?どの宗教でも、創造神の呼び名は権威的な表現になるんだって。
だから、漢字では部首にならなかった。天は天だけを表す字だった。
キリスト教の神聖4文字やら、アトンアモン、最初から最初の文字などの表現と同じように権威を込めた表現手法であると。
 
「天」は他の部首、さんずいなどと並ぶ物ではなく、ただ唯一の独立した存在にしてあったってこと。
人や物が並ぶのを許さなかったと言えば、権威的表現なのがわかるよね。

その中での例外が、今回の答えの字になる。
 
さあ、「天」と他の部首が組み合わさった字。誰でも知ってるよ。
たぶん、これくらいしかない。
 
 
 
正解じゃないけど、天が構成されてる文字。
 
「癸 みずのと」
「演奏の奏」
「水俣病の俣」
「昊天」(これは正解だけど)
 

「癸みずのと」「農民一揆」の「揆」の右側ね。。
草冠をつけたら「葵あおい」という人名になる字ね。
これは、「天」なんだけど、もともとは武器のホコが重なりあるという別の部首が簡略化されて「天」になった。つまり創造神の天からではない。
「重なり合うホコ」というのが、字の形成で、そこから生い茂る→「あおい」とかになるわけね。
水俣病の「また」は日本製の字で「俟」から作った。後付けで元からあった漢字ではない。
演奏の中央も天じゃないよ。大にノだし。よって不正解。
「矢」や、「朕」や、「関」も違うよ。ちゃんと「天」と部首。
 
「昊天」=明るい空、しいていうなら、これは正解だけど、後から出来た字っぽいよね。(なんで、この字ができたのかは知らん)
 
 
これ以外に、「なるほど、中国の人はこれを神様の授かり物として、唯一の天がつく漢字にして大切にしてたのか。」という字が、一つだけある。
 
その字は、「中国、及びアジア人が、太陽崇拝の神であるべき」というのを、ちゃんと表してくれている。
 
誰でも知ってるよ。

この字から連想される物は、もともとは別の物だった。
唐の時代から今の意味の難しい字の簡略した当て字として、この字が使われるようになった。
今、この字を小さい辞書などで調べても、今の意味が強すぎて、昔、元のさしてた物は、のってないかもしれないけどね。

「天のつく字」それと、「その字のもとの意味」。
ついでに予想して。
(答えがわかれば、載ってる辞書もたぶんあるので、たどりつけるはず)
もともとの指す物は、錬金術で言うならウロボロス、エジプト学派で言うなら原初の蛇。
その中国版。
 
さらにヒントをいうと、今の意味はフワフワ。大昔のもとの意味はニョロニョロ。
 
さあ、な~んだ?
 
 
では正解は、明日の記事で。
 
ここで俺が調べた以外の漢字が出てくるかな?ないと思うけど。
その場合は、特別賞として・・・別に何も出ません。
 

 
さて、問題だけでは寂しいので。
 
昔、自分の方針は「30の言葉で70を伝える」こと、ということを言った事がある。
100あるうちのね。
 
この「天という漢字の威厳」という話は、その伝えられない(できたら自分で気づいて欲しい)部分の話である。
前回の記事の中の、創造神という呼び名には権威が必要ということ。
そこから、「じゃあ漢字の天の場合は、どうなのかな?」と、本来なら読者自身が調べていく中で気づいて欲しい補足の部分ね。
 
そして、天という部首がないこと、そこから天という創造神のこと、さらには台宗という言葉にも含まれる「天と今の神との比較」などなど。
そして『今使われてる「神」という木工師が先にいるような字はおかしい』というのが説得力のあることに繋がるわけ。
 
与えられる物じゃなく、消化して肉にしてほしい、自己の内面のほうから気づいてほしいことなわけ。
その「考えて欲しい」という意味から、今回はクイズにしたわけだけどね。
 
 
100あるとしたら、30の言葉で70を伝える。後の30は考えてもらう。
 
これは俺のもってる部分のうちの70に過ぎない。しかも理想の話。
自分はそんな表現が上手じゃないので、せいぜい50の言葉で35を伝える程度かな?3分の1程度しか伝わってないのかもね。
 
でもやっぱり、今ある100という全部を伝えようというのでは長すぎてしまうし、全体のストーリーを話すには、どうしても、こうやって省略してしまう部分が多々ある。
これは、あくまでも自分が知った数割の部分でしか過ぎない。
 
例えば、前回の記事などは「神という字の嘘」からわかったこと。

この神という変な字!の創造神をごまかすために、国学者の平田篤胤は「日本固有の神代文字がある」という主張を「しなきゃならなかった」わけ。で、そして、それは捏造だとばれているということ。
 
当時は今とは違い神なんて文字は一般的ではなかった」だから、「神なんて使った宗教なんてなかったよ」と誰でも気づき得たわけ。

で、しかたなく、平田は「過去に失われた固有の文字があり、そこに創造神があった」という嘘をつかなきゃならない都合があった。
それが神代文字であり、日月神事にそっくりな題名の「神字日文伝
」。
「こういう字で書かれていたものがある」という捏造は、文字だけじゃなく「聖典そのもの」を捏造してるってこと。
そして、できたのが神代紀とかの、やたら漢字の「神」が出てくる天皇の時代のこと。
 
嘘をつかなきゃならない理由。
 
以前、「嘘の内容ではなく、なぜ嘘をつくのかの理由、それを知れるべき」といった事は覚えてるかな?
そういうくり返しの部分や、少し考えればわかる部分、よって説明を省いた部分さえも、できたら読み取って欲しいと思う。
 
 
いちいち、こんな長いのとかを説明してたら、流れが、ぶつ切りになっちゃうからね。
 
ちゃんと、ただそうなんだ!!なんて思わないで、「ならこうなのかな?ならこうなるんじゃないか?」って考えて欲しいわけです。
 
そして、そのことで貴方の100、自分とは違う100の理解が生まれて、正しい事が見えてくると思う。
で、それは過去だけでなく今とも繋がっている。
 
今回の構図で浮かび上がる「過去の奥の院」が最近になってやってること。
それは、国宝やら世界遺産で推進運動をしてること。


神という嘘を守る者【20120320】
http://www.mkmogura.com/blog/2012/03/20/1087
”天というのがつく唯一の漢字。
「蚕」かいこ 

もとは「」サン(表示されるかな?)という難しい文字だったが、唐の時代から「蚕」が当て字として使われるようになった。
蚕(飼い蚕)は、紀元前15世紀、つまり漢字より前の時代、殷の時代から、中国で大事に育てられてきた。
まさに天から授かった虫である。よってこの字が当てられたんだね。
 
しかし、もっと昔、もともとの「蚕」の意味は、「ミミズ」である。
(漢和辞典なら、このことが結構のってる)

 
天上天下唯我独尊、「天と他の物を並ぶことはさせない」
 
これが漢字、中国の創造神というものにたいしての敬意的な表現手法である。
だから、天という部首はないし、他の部首とも繋がるのが基本的にない。
 
 
ミミズ、後にカイコだけが天という文字をつけることが許された。
土の中のミミズを尊敬の念を抱くように、昔の中国人、そして日本人の起源は農耕民族である。
 
これを知ると、今の創造神、「神」という漢字のこと、創造神に木工師がでてくること、カミナリを創造神とすること、それらはおかしいよ、という主張にも納得できるでしょ?
太陽崇拝であるべきという意味もね。
紫外線に弱かったために迫害された白人以外では、カミナリ=ゼウスなんぞを神にするか!
って話でもある。
   
さて、では答え合わせがすんだところで。
何の話をするかな?
 
神という字がおかしいこと → 神道というものがおかしいこと
 
ここらの話はこれを説明するための物である。
 
宗教とは薄っぺらい詐欺師の看板であり、神道という看板を掲げてるのは多岐にわたる。

対立するはずの仏教、神道のもととなったキリスト教、そのまんまのプロテスタント臭い神社勢力、南朝天皇に任命される政治屋、国学者、それにくっつく評論家や今のマスコミ、教育制度まで。
全部が協力して、「神という字の嘘」をばれないように守っているわけである。
 
 「今現在も」ね。
 
 
神道は天皇すり替えのために出来た看板」なら、どれもこれも協力者であるというのは、簡単にわかることだよね。
 
 
こういう協力関係なわけで、神道とは別ジャンルだと勘違いしてしまっていたら、嘘にごまかされてしまうわけ。
 
「神道と関係ないこの人達も神はこうだと言ってる」
「日本に漢訳聖書以前に神はいたと、この人も言ってる」「こんな資料がある」
こういう主張という嘘にね。

たいていは、そういう主張する人、その資料のもととなる人間も神道家
だよ。
 
だから、神道という簡単に塗り替えられる看板、日本の歴史を通しての簡単な全体像を話す必要があったわけです。
 
 
 
そして「聖徳太子は神道家だった」という嘘のための偽書(捏造資料)、先代旧事本紀(旧事紀)みたいなものも、実は多数ありまくりなわけ。
これも偽物ってばれてても、作られた年代などが嘘のまま=大昔に作られたよという主張のままになってる。物部氏の創作品。
江戸末期以前、その時代には神も神道もないのにね

(…)
国学者である枝吉南濠の子が副島種臣なわけ。
何度でも言おう。国学=キリスト教学であると。
さらに、佐賀藩と
言うのも重要である。
 
江戸末期、カトリックの聖地である長崎の警備を管轄していたのが、この佐賀藩である。
フルベッキの宣教の本拠地が長崎であり、佐賀藩の家老、村田若狭守政矩、弟である三左衛門綾部、本野周蔵らは、江戸末期の禁教化の中で、洗礼を受けているわけ。
藩のお偉方がね。で、それが幕府にばれても、佐賀藩主の鍋島直正、鍋島直大の歴代藩主は、キリスト者を守り隠蔽にも荷担している。
事実、洗礼した彼らは処罰されず、隠居しただけである

 
 
それが佐賀藩である。
 
副島種臣はその佐賀藩から南朝天皇の側近になった男。
さらに追加しよう。
 
1872年、明治5年の9月、それはアメリカ公使デ・ロングから天皇へと聖書が(ヘボン・ブラウン訳聖書)初めて手に渡った瞬間である。
この舞台をセッティングしたのが、当時の外務卿である副島種臣であり、彼が受け取り、「彼から天皇に手渡された」わけである。
 
神道というものを作り上げ「騙して征服したぞ」という宣言。
今まで禁じられていたキリスト教が、事実上の日本の国教となった瞬間
である。
 
 
ここらは日本の聖書~聖書和訳の歴史~という以前紹介した本の中で、キリスト者が嬉々として「佐賀藩はキリスト教を守った~&聖書が天皇にわたった、嬉しいね」と書いているよ。
(…)
On 3月 20th, 2012, 魔法使いハンターねこた さんのコメント:

こんばんわ。更新お疲れ様です。いつも楽しく読ませて頂いてます。

佐賀藩の話興味深く読ませて頂きました。ちなみにおいらは佐賀県民です。(佐賀中心部とは遠いので県民性はぜんぜん違うのですが)

高校の時に佐賀市内に通っていました。

今振り返って思うのは、佐賀市というのはかなり雰囲気的にアチラ臭い匂いが充満しております。きっとモグラさんが行ったら匂いにやられてむせてしまうことでしょう。

佐賀の出身者にキリスト教や聖書などの橋渡しをした人が多いのはご存知の通りです。そのせいか知りませんが、田舎の田んぼしかない何もない街のクセに雰囲気がどことなく西洋かぶれくさい。更には田舎なのに、やたらと教育熱心なんです。また市民運動が盛んでもありますね。市立図書館の横にあるプロ市民の牙城であるでかい建物が鎮座してます。

具体的な事例を挙げれずに申し訳ないのですが、佐賀市民の行動原理を観察しているとかなりメーソン臭いというか左翼臭いんです。文化関連施設が豪華で、文化で一般人を啓蒙するんだぁ~というよーな雰囲気漂ってるし、プロ市民の活動も盛んでやたらと男女共同参画のどうの、市民による××のどうのといった集まりもよくあってます。その市民運動の盛んなところとかまるで欧米を思い起こす程です。まるで住民が「市民社会」なるものを本気で信じているような有様ですね。

さすが幕末よりユダヤ様のポチをやってたのはガセじゃないという感じです。

そういえば幕末のキリスト教布教関連で前に調べたネタを思い出したのですが、オカルト研究家の江口之隆氏の先祖は、まさにソエジーと同じポジションにいました。幕末に聖書を持ち込んだ人たちでした。先祖は佐賀藩出身だけど、子孫は福岡県出身というところまでまったく同じです。詳しくは以下をどうぞ。

http://www7.ocn.ne.jp/~elfindog/egbaitei.htm

佐賀県民どこまでアチラ臭いねん。頭がクラクラしますな。更に、中学時代の同級生が行ってた某高校のシンボルがペンタグラムだったり、市内路線バスに多布施町(たふせちょう)というバス停があったり、もうねどんだけアチラ臭いんですかとツッコミを入れたくなりますよw”
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