今週のジャンプの『BLEACH』(ブリーチ)でファーティマの手が登場。ギリシア哲学(特にプラトン)とキリスト教「思想」(人は単なる部下)が真の黒幕であり、黒幕の中核(源流。本体)はインド=イラン「思想」。思想は領土がなくても生き残る霊魂。馬と馬車と金属加工の技術を持った秘教集団。トラキアの「死は善。生は悪」が悲劇の起源?良ツイート集。
Posted on 2015.02.23 Mon 21:50:25 edit
ようこそ、人間をすなどる漁師に絡めとられし者よ。
はっきり言っておく、
『BLEACH』(ブリーチ)の話は真摯に記されし囮なり。
続く良ツイート集を読むことで集英社の意図を知るべし。
見よ、撒き餌は既に与えられた。
針に貫かれぬように食いつくがよい。
――魔鯛伝より
霊王の右腕の甲に一つ目の神(ミミハギ様)
=ファーティマの手(ハムサ)
=20世紀少年の”ともだち”
が主人公=剣+キリスト教の元ネタの古代宗教(シーア派はイスラムではない)側。
※『BLEACH』第616(足して13)話「ミミハギ様」
東流魂街七十六(足してまた13)地区の逆骨に伝わる単眼異形の土着神。
自らの持つ眼以外の全てを捧げた者に加護をもたらす。
敵=弓側のボスはYHWH(旧約聖書の神)
ユダヤは旧約のみ、キリスト、イスラムは旧約が聖典に入っている。
つまり、元ネタVS盗作犯
(宗教は元ネタを基本的に明かさないので盗作です。
キリスト教ならユダヤ教という偽の元ネタでなくて、
真の元ネタのミトラとオルフェウスと拝火教
+ピタゴラス学派思想+プラトン哲学+トラキア思想ね。
オルフェウス教とトラキア思想とは、
「生まれる=悪。
死ぬ=善」
詳しくは後述。)
刀側の死神の卍解は「卍」でわかるようにインド意識。
(イエスの元ネタのミトラも元はインドの「契約」と盟友の神。契約の神はインド派生。聖書からではない)
ユーハバッハ
呼称の由来は「YHVH(ヤハウェ)」
=ゼウス(雷を投げる)
=バアル
=雷と嵐の牛神。
ヤハウェ、バアル、 ヨッド・へー・ヴァヴ・ヘー、アドナイ、エロヒム……全部本名ではありません。
本名(=住所。目立つ的)を知られると本名を知る者に魔術で操られてしまうからです。
聖書の神と聖書で悪魔とされるバアルは、実は同一人物、もとい同一神物です(後の引用をどうぞ)。
エロヒムがエル(バアルの父)の複数形だから ヤハウェはバアルではないって?
だからこそ黄金の牛を崇めていたら激怒したって?
ヘブライ語では複数形が文字通りの複数あることを意味するだけではなく
「偉大な」というニュアンスを示す用法があります。
創世記第一章第一節。 「はじめに神は天と地を創造された」
「創造する」の意味で「バラー」という動詞が使われています。
ここではエロヒム(エルの複数形)は「偉大なエル=神」と訳す方が自然。
なぜなら、動詞バラーが 「文法的には三人称・単数・完了・男性形」だから。
(『はじめての聖書ヘブライ語』 青木偉作著 国際語学社 p.52より
著者はヘブライ大学国際政治学科卒)
星十字騎士団って薔薇十字団っぽいね。
バラ(秘教集団の象徴)といえばイラン(ペルシャはマギ=魔法使いの国)
あと、後述しますが、ユダヤ人は実在しません。
聖書によって捏造された固定観念です。
ユダヤ教徒は実在しますが、あなたがイメージするユダヤ教はかなり後にできたものです。
フェイド大帝 @FeydoTaitei
ジャンプの漫画の「ブリーチ」。 敵に各アルファベットが当てられて いる。 アランカル編では数字だった。 この技術はカバラの暗号技術と 重なる。
では、クインシーのボス ユーハバッハの対応文字は 何か?
答えは聖書の神の 「YHVH」=ヤハウェ である。
興味深いのは、 クインシーの武器は 「弓」限定であるという 作中設定。(守られてないが)
アベノミクス三本の矢、 ロスチャイルド家五本の矢。 そう、奴らは「アーチェリー」マニア である。
ロード オブ ザ リングの レゴラスの異常な強さ。 トールキンの原作では あそこまで強くない。 そう、彼は「弓使い」である。
弓とは古代の狩猟具の 主役でもあり、騎馬民族や 古代エジプト、シュメールでは 戦車と組み合わせると最強の 兵器だった。 銃器のコンセプトも基本は 弓の延長である。
つまり「ブリーチ」という 作品は「弓 対 刀」という テーマの作品だよ。
knznymmmy @knznymmmy
そう。昔の日本でもさ てっぽーが登場する前は 弓が主要兵器だったんだぜ 次が槍かな 刀は結構後の時代。 だってさ、離れて敵を殺せるならそっちの方がいいじゃん
「弓馬の術」なんて言葉はこのへんと関係があると思うし 「弓手」「馬手」なんて言葉もある。 刀じゃなくって弓が出てきちゃうんだよ。 今犬HKがやってる「軍師官兵衛」の中にも 「槍働き」云々って長政の台詞が出てきた
私はこの前弓で狙われる夢を見たなー。 てっぽーで撃たれる夢は何回も見てるけど 弓は初かもしれない
イルミちゃんの好きな弓
まどマギではまどかが使う弓
その夢の中ではガソリンでもひっかぶったのかってぐらい すごい勢いで燃え上がってる人間が 私に抱きついてきて 私は逃げまくってたな
つーかね、そもそも論として てっぽー突きつける時は相手から 2,3歩離れたぐらいの距離で突きつけるだよ それをしないとこの動画みたいに 相手から取り上げられるリスクが出てくる また、逆にそれを知っているから 海兵隊は銃を取り上げた後で 必ず間合い取ってるでしょ
RT>そう。居合とかやってる人は絶対に知ってる いくら日本刀でも数人ぶった斬ったらダメになる 昔の戦国の大名とか籠城とかの時は身の周りに 物凄い数の刀を用意してたらしいね (TV版エヴァのゼルエル戦の弐号機ばりにね) 数人斬ったら切れ味がガタ落ちなので次々交換しないといけない
J・ナナミ @pinkglalem 2月10日
古代のセム語族はフェニキア人、アラム人、ヘブライ人。この三つをミックスして創作されたのが聖書の中のユダヤ人。実在の民族ではありません。聖書の神は残忍でコレを信仰するユダヤ人を糾弾することで、ゾロアスター教を貶めたのです。
J・ナナミ @pinkglalem · 11月14日
この神話(ギルガメッシュ)をオリエントやアジアへ運んだのは、陸路や海路で広く交易をしていたアラム人やフェニキア人。セム語系で、バアル信仰の人達です。アケメネス朝ペルシャは彼らを庇護しました。彼らがもたらす交易の利益が目当てで...
J・ナナミ @pinkglalem · 11月10日
ユダヤ陰謀論というのは現代の“#魔女狩り”。勿論、魔女なんていやしない。もともと魔女狩りはゾロアスター・ミトラ教を駆逐する為に教会が画策し大衆を煽動して行われた大虐殺。キリスト教は最凶最悪のカルトだョ。
J・ナナミ @pinkglalem · 3月8日
実はユダヤ人なんて存在していないことを教会は隠している。アシュケナージはイディッシュを話すゲルマン人で、大半の魔女狩りの犠牲者だった。パレスチナもフェニキア人の土地。古代ヘブライ人の末裔はイエメンユダヤ人。
金貸し、金融ユダヤ人というデマを流したのも教会。高利貸しの起源はテンプル騎士団。今の金融システムの本をただせば、全部キリスト教。資本主義の起源は、プロテスタントが唱えていた予定調和説。ユダヤのユの字も出て来ない。
J・ナナミ @pinkglalem · 1月19日
パレスチナ人がユダヤ人だという話があるけど、ユダヤ人なんていない。Aリベラはユダヤの抵抗鎮圧の為にヘラクリアスの依頼でヴァチカンがイスラムを造ったと証言している。皇帝の父はカルタゴの総督で、カルタゴの滅亡以後ユダヤ人が歴史に登場している。つまり、フェニキア人=(歴史上の)ユダヤ人
J・ナナミ @pinkglalem 2014年1月1日
ダビデの星はユダヤの象徴ではない。...ロスチャイルドとイエズス会が捏造した「ユダヤ」...: http://youtu.be/LwZW2X54aw0 @youtube;HEXAGRAM - The Truth Behind the "Star of David"
ユダヤ教は初期の段階で、魔術や生贄を否定した。アブラハムはイサクを殺さなかった。コレに対しキリスト教は魔術を行い。生贄になった者(キリスト)を崇めた。ダビデの星をシナゴーグで見ることは出来ない。ラビが嫌っている為。ところが教会では至る所で見る事が出来る。
J・ナナミ @pinkglalem 2013年12月6日
一方、キリスト教は生贄を神として祀る、明らかなバアルの伝統にねざしている。彼らが強いるのは常に自己犠牲。このバアル教をユダヤ教に偽装する為に書かれたのが、聖書。パレスチナの地の信仰の中心はバアルだった。
J・ナナミ @pinkglalem · 2013年11月15日
面白いと思うのは、「ペルシャ」とはギリシャ人が使っていた呼び名で、当時ペルシャが自分たちをどう呼んでいたのか?は分かっていないンだそーです。古代ユダヤ人も実はヘブライ人ではなくて、同じセム語系のアラム人やフェニキア人をユダヤ人と呼んでいた可能性があるンだそーです。
knznymmmy @knznymmmy
マタイ伝19章にね、 「金持ちが天国に入るのはラクダが針の穴を透るのより難しい」 という有名な説法が出ている。
バチカンども全員地獄行き確定だなw
ユダヤは八百長プロレスの俳優なのさ さあ、この八百長プロレスの脚本を書いてる奴を 引きずり出そうぜ
そもそもユダヤ人という「人種」はいません。
一応、(1)母親がユダヤ人、または、(2)ユダヤ教徒 ...がユダヤ人なのですが
(2)は論外。 仏教徒は仏教人という人種になりますか? キリスト教徒はキリスト人という人種になりますか? だから(2)は論外。
では、現在ユダヤ人を名乗っている「あの人々」は何なのでしょう?
答え>ただのユダヤ教徒です。人種的には有名な スファラディやアシュケナジーだったりします。 アシュケナジーはロシア南部の人種で偽ユダヤとしても 最近有名になってきました。
かと言ってスファラディだって、「本物のユダヤ人」かというと どうも嘘くさいです。さっきの定義でいけば (1)母親がユダヤ人 つまり母方の先祖を辿れば 古代イスラエルに辿り着けば「本物」なんでしょうが 実は、この「本物」に該当する人々は現在イエメンにいます
「聖地」エルサレムからは1000キロほど離れています。 そして彼らはユダヤ人なんぞとは自称していません。 では、アシュケナジーを除いた 自称本物ユダヤ人とは 一体何なのでしょう? 仮説としてはフェニキア人です。
つまり「嘆きの壁」「聖地」「失われた十部族」「シオニズム」 ぜーんぶが詐欺、ぜーんぶがデタラメという事です。 詐欺民族が詐欺宗教の詐欺聖典を根拠に詐欺国家を作って 詐欺戦争をしている。それが中東です。
なぜそんな事をするのか?バカなんですか?カネの無駄じゃねえの? これは八百長プロレスの台本を誰が書いているのかに関わる問題です。 ヤツらにしてみれば練りに練った計画のクライマックスシーンですから カネに糸目なんぞつけません。バカなんじゃなくてカルトなんです
証拠のひとつ
なぜ自称ユダヤ人はカギ鼻や白人だったりするのか? 中東の民族なら黄色人種でないのか?
答え>彼らは"自称"ユダヤです
証拠のひとつ。
エルサレム掘っても古代イスラエル王国の遺跡が出土しないのはなぜか?
答え>そこは聖地じゃないから
証拠のひとつ。だけど嘆きの壁はユダヤの神殿じゃないのか?
答え>あれはバアル神殿です。他宗教の神殿の前で御大層に お祈りしてる暇人がユダヤ教徒です。
(J・ナナミ @pinkglalem • 2013年12月6日
一方、キリスト教は生贄を神として祀る、明らかなバアルの伝統にねざしている。彼らが強いるのは常に自己犠牲。このバアル教をユダヤ教に偽装する為に書かれたのが、聖書。パレスチナの地の信仰の中心はバアルだった。
)
knznymmmy @knznymmmy 2013年12月6日
@pinkglalem 北イスラエルがバアル崇拝に堕落したのではなく 元々バアル教だったとかかな? だとすると、正統派を主張する南イスラエルこそ ヤハウェや聖書を偽造した異端児か。胸熱w
ふーむ。 ユダヤ人=フェニキア人、ハザール人(プラスその他?)
聖書=己の優秀性を自画自賛するために捏造した偽典
エルサレム=あそこが聖地になったのは新約の時代からですw こんな感じか
RT> 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。
恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、
向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
マタイ伝7-6 つまり放射脳、放射脳ってファビョりだすって事だ だから聞く耳を持つ人にしか教えなくていい 死にたいヤツは勝手に死ね
「キリスト教など信じられない」と言いたいのなら簡単です。「死者の復活なんて信じられない」で終了なのです。死者の復活が無ければ、殉教者達の血も、全ての聖書の記述も、空しくなります。ヨブ記も「結局この世において財産回復されて良かったねの話でしかないじゃないか」になります。 以上コピペ
ヨブ記が面白いのはね ヤハウェことバアル、改め牛君が ヨブに論破されちゃってファビョりだすところ こいつぁー、全知全能でもないし善でも正義でも何でもねえぞってところ
RT>私の好きなのは、、、 神様でありながら、悪魔の安っぽい煽りに乗せられて ヨブをいびりまくったけど ヨブにツッコミ入れられて論破されそうになったんで とりあえずブチ切れてみましたけどそれが何か? 、、、だな! ヨブ記ほとんど丸ごとコレw
第四エズラ記(ラテン語聖書には入っている) にもヨブ記と似た展開が出てくる。 神と契約した民が邪教の国に 蹂躙されるのはなぜかとか 義人しか天国に入れないのに 罪人をも神が創造したのはなぜかとか 結構鋭いツッコミをエズラが行う。
ヤハウェ=バアルの考えているのは 結局、人間を殺したい、人間を苦しませたい という事。それが根本原理。 だから、地獄行きな罪人も、はじめっから 殺す気マンマンで作る。 彼らが苦しみ悶える様を想像して ニヤニヤしながら作る。悪魔そのものだ。
RT>モーゼが十戒授かってる間 イスラエルの民は黄金の牛の像を 作って拝んでいた。 明らかにバアルでしょw しかも、モーゼが山から降りてきた時 彼には角が生えていたらしくて (一般の聖書では顔が輝いていたと 書いてあるがこれは意図的な誤訳)
なぜ角なんか生えるのかというと、そりゃ、 牛君=バアルに面会してきたって事でしょw で、自分は牛の角なんか生やしてるくせに モーゼは民が牛の像を作った事に ブチ切れる。折角貰った十戒の石板 ブチ壊すほどブチ切れる これは、神様=牛君っていう図星を つかれたのが痛かったからだろう
自分がバアルだっていう黒歴史を 消そうとしてる目の前で 「バアル、バアル」言われたら そりゃファビョるよwww しかし、こいつが黒歴史を隠蔽する意図は 何だったんだろうな?
という事でやっぱヤハウェ=バアル=牛君 で、牛君と対面してたせいで、ウシが感染っちゃった?せいで モーセには角が生えた・・・?
...私のよく使う表現では牛君だから。 で、ヤハウェはその牛を見てパニクってしまう。 これって図星突かれたからじゃないの?って事。 なにしろ、ヤハウェは自分の正体を隠すのに熱心だから。 あとヤハウェ=バアルと私は考えていて バアルって牛の神じゃなかったっけ?
ベリアル=バアル+イラフ=「バアルこそ神なり」? 確かにね、創世記1章はエロヒムだね。 これがエルの複数形だってのも有名。
私は、ヤハウェが必死に名前を隠すのはなぜだろう?と 不思議に思って、そのへんを調べてたら、 どうも、ヤハウェは半獣半人の神様でバアルじゃね?って事になった。 しかも、その「バアル」すら偽名で、 マルドゥックとも名乗るみたいだけどこれも偽名で...
ヤハウェ=バアルがなぜ執拗に名前を名乗るのを拒否するか? エクソシストとか見ていると分かるのだが 相手に名前を知られて、名前で命じられると 拒否ができないルールがあるっぽい。
例えば、モーセに角が生えたのも 牛の神と対峙したから。 また、シナイ山にモーセが篭っている間、 イスラエルの民は牛の像を作りました。 それはヤハウェ=バアル=牛だからです。 それを見たヤハウェは怒り狂い 今すぐ山を降りろとモーセに命じました。 なぜ怒り狂う必要があるか?
ヤハウェにしろバアルにしろ偽名です。 ヨッド・へー・ヴァヴ・ヘーにしろ アドナイにしろエロヒムにしろ 全部「コイツの本名」ではありません。 そして、両者とも中東の神で、牛の神で 雲を乗り物とし、雷を投げ・・・ 要するに同一人物です。 あ、いや、人間じゃないんですけど。
キリスト教会でこんな発言をすれば 冗談抜きでブン殴られかねないです。 なぜならばバアルは悪魔の代表格で 旧約聖書にも何度も登場するからです。 しかし、ヤハウェにしろ、バアルにしろ あまりにも共通点が多過ぎます。 例えば名前を隠すことに必死な事。
一般のキリスト教ではヤハウェ=牛なんて 教えません。むしろヤハウェは自分自身の 正体を必死になって隠そうとするので それに同調しておくのがキリスト教です。 が、私はあえてもうひとつ言っておきます。 ヤハウェは牛の神であり、 同時にバアルでもある。
少なくともヨブには神が悪魔でもあるという 事は理解ができていました。 だからこそ、彼は 「神から幸いを受けるのだから 災いをも受けるべきだ」と 言ったのです。 「あなたを祝福する」だの何だの 調子の良い事ばかり言う神様から 災いを受ける・・・ これは矛盾してはいません
ふざけるな! ユングの名著「ヨブへの答え」にも 書いていますが、明らかにこれは ヤハウェの失態です。 ここから分かるのはヤハウェは 全知全能でも何でもないという事。 都合が悪くなったらヒステリーを起こす事。 そして悪魔とも普通に お友達付き合いをしている事です。
(聖ヒエロニムスの像。 ヘブル語の聖書をラテン語に翻訳。 助手となったのがパウラだが、先だたれ、パウラの頭蓋骨を机に置いて翻訳作業を成し遂げた。 しかし、大きな誤訳をしてしまった。
◎モーセが光輝いていた。
×モーセに角が生えた。)
誤訳じゃないよ ヒエロニムス訳が正解だ カラーだったかな?何か聖書の中に 2回しか出てこない珍しい単語が出てくるんだよね んで1回はモーセの顔の所 これは光と訳しても角と訳しても文章が破綻しない でもう一箇所はどう考えても角にしかならないそうなw
(美輪様の名言 @miwasamameigen 2013年10月5日
黒があるから白さが分かる。悲しみや苦労を経験した人ほど、幸せのありがたみが分かる。
)
黒も白も悲しみも苦労も幸せすらも 知らない人こそが幸せな人。 つまり、この世に生まれた時点で 完全に失敗。 生まれない人こそが勝ち組 聖書のヨブ記や伝導の書を読んでみよう!
バアル、ヤハウェ、若しくは牛君の 特徴として本名を晒すのを異常に恐れている。 だから出エジプトでモーセに名前を聞かれても "I am who I am"ってごまかしちゃう。 バアルもそう。 「高き所にお住まいのお方」とか たしかそんな意味じゃなかったっけ?
【今日の屁ブリ語】 今やっと18課まで来たんだがそろそろ飽きてきた(w 19課が済んだら「はじめての屁ブリ語」は卒業だな 次は青木偉作著「はじめての聖書屁ブリ語」やりたい。 だけど、この人、名前がモルモンくさいなあ
フェイド大帝 @FeydoTaitei
イルミというのは思想が問題で あって、特定の人物や組織が 焦点ではないぞ? 要は犬やライオンのアルファ 権勢症候群の人間版みたいなもん。 本能的に人間という生物種に 備わっていると思った方がいい。 つまり、イルミ思想というのは 自然発生する。
いくら遺伝子交配で改良しても おバカ犬っているだろう? 処分するのも一つの手だが、 大半は「しつけ」で矯正を 試みる。 「しつけ」と言うのはぶっちゃけ 人間で言う「教育」と思えばいい。
ところがヨーロッパの王族とか 貴族とかの子供は庶民が通う様な 学校には行かないし、普通は勉強 しない「帝王学」を親から まなばされる。
「帝王学」や「拝金主義」というの 「道徳」、「倫理」と相反する。
困った事に、「道徳」というのは 宗教みたいなもんなんだよな。 絶対的で不可侵な常住する 「善」が存在しないと成り立たない。
で、ヨーロッパ庶民の「道徳」の 教育担当がキリスト教だったわけ。 ところが教会もローマ帝国も 意図的なのか、失敗したのか 結果論だけ言うと「道徳」の 先生を上手くやれなかった。
哲学というのは「道徳」を 究める学問ではないからね。 ルネッサンス時代にルソーの ヨタ噺を間に受けたフリーメイソン も結局は「道徳」は教えられない。 そもそもキリスト教を改修して 正しい方向に向かわせれば済んだ 話を、革命によって排除する 方向に走ってしまった。
あらゆる主権を倒した後、 メイソンは何を教える? ルソーにプラトンをトッピング したジャンクしか残ってないだろう?
東洋はまた別問題。 仏教が間違えたのは 「常住善」を否定したこと。 だから、天台宗や華厳宗が 勘違いして「悪も仏性なんだ」 という曲った解釈をしてしまった…
もちろん釈迦はバカじゃないから、 一応の対策を考えることはした。 それが「戒」。 これはユダヤやイスラームの 律法と同系の考え方なんだけどね。
この世に善も悪もないなら 人間は何でも自由にやってしまう。 さてどうする? (フリーメイソンの「自由」追求の 思想的欠陥もここにある)
取り敢えず明らかにコレを やったらマズイだろうと 釈迦が判断する行為を リスト化して、ルール化しよう。 これが仏教のタブーのルール集 「戒」。
不殺生、不邪淫は「戒」と 捉えるのが一般的なのだが。
西洋人の神は常住善と常住悪の 肯定から来ている。プラトンの 言うイデアと一緒ね。 仏教は無常を説くので、 そもそもイデアなんか存在しません というスタンス。 ちなみに常住というのは実存する という意味ね。反対語が無常。
「福島産の食材には消費税が 掛かりません」 という政策があったらイルミさんも 賢いのだが……
コクマー=叡智、ビナー=理解ね。 ユダヤ カバラでは叡智は人間の 言葉では表現出来ないとされてる ので、叡智を理解するという プロセスを経て 初めて人の言葉に変換される。 これを男女の結び付きに隠喩 してるので、父母の関係になる。
最上位のセフィラ ケテルを「王冠」 と表しているのが鍵です。 カバラでは「アイデア」(つまり プラトンのイデアでもある) というのは人間の頭から生まれる のではなく、身体の外から やって来るという発想。 だからケテル「王冠」は人間の 頭の上に被る物
として表現されます。アイデアが 頭の中で固まって具体化すると 「叡智」になるわけです。 それを「理解」することで 初めて「応用」が出来る形になる。 この考え方はカントの理性の 捉え方にも通ずるでしょう。
この思想の恐ろしいところは、 究極的には人間に自立した 思考等存在せず、人間の考える 事は全て「神」から発生するので、 神の命じるままに動きなさいよと 言う聖職者達にとって実に 都合のいい思想な所です。
そもそも角川を除いた大手 出版が同族経営の株式非上場の 独占禁止法スレスレのオーナー 企業ばっかりが「利権の温床」 でないはずがあるまい。
角川もラノベに関しては 独占企業だからね。 電撃だとか、スニーカーだとか 全部角川の子会社だから。 だけど角川は株式上場してるから アマゾン辺りに敵対買収されれば 経営体質が変わる希望はある。
ではアマゾンに対抗するため に、日本の出版、印刷連合が 何をやっているかと言うと 「文化庁」などの政府機関 とツルんで外資を閉め出す規制の 政策ばかり作ろうとしている。
まぁ、アマゾンも文化庁と 同じメイソン、イルミ系企業だが アマゾンは税金を払わない企業 だから、日本のイルミ達からは 嫌われているんだろう。
ちなみに文化庁は「まどマギ」に 賞をくれてやった所ね。 他にも「電脳コイル」や「カイバ」 みたいな思想的にヤバイ アニメに 賞をくれている。
アニメミライなんてご大層な 名前と、日本のアニメ産業の 発奮などと理念はご立派だが、 そもそもディズニーに全く歯が 立たない時点で日本のアニメに 「ミライ」など全くない。
ドイツの「Laura's stern」とか ジブリよりも出来いいぞ? まぁ、日本のアニヲタ達はこういう 物は観ないのだろうけど。
ちなみにディズニーが 「ナディア」や、 「ジャングル大帝」をパクった 時に庵野や虫プロがあまり 騒がなかった理由をよく 考えたことあるかな? 日本のアニメ業界はディズニーに 足を向けて寝ることは出来ない からね。むしろディズニーさまさま だろうね。
日本のアニヲタ達はピクサーの 監督が専門学校時代に作った 「電気スタンド」のアニメ群 ぐらいは観た方がいいぜ? フェイド大帝はあれ観た時に こりゃ勝てんと悟ったね。
ちなみにもう一つ面白いこと を教えてやろうか? 君達アニヲタに好評な 新海誠っているだろう? あいつがグランプリとった コンテスト(猫のアニメで入賞 したやつね)ってのはプロ経験 のある奴は応募出来ないんだ。
ところが奴は日本ファルコムで アニメを作っていた経歴を 隠して応募したんだ。 本当はあのコンテストの グランプリは二位の奴が 受賞すべきだったんだ。
新海誠のアニメは所謂伝統的な 2Dアニメだったが二位の人のは 完全なフル3Dアニメ。 二位の人がグランプリを 取っていれば、日本のアニメも 3Dに移行する方向に進んだ はずだったんだ。
ところが新海が大賞を受賞した せいで、日本アニメはまた古臭い 2Dに逆戻り。 そして3D路線に完全に移行した ディズニーを始めとした海外勢に 大きく水を開けられることになる。 取り返しのつかないほどに。
ついでだ。もう一つ取っておきの タブーを教えてやるよ。 ドラえもん初のフル3Dアニメ 「stand by me」って最近出ただろ?
あれは元は東宝を受けた就活生 の考えた企画が元ネタだ。 当然その就活生は落とされている。 当時、東宝で採用担当していた 人事担当者はその後、本社に 呼び戻されて出世している。
これは「stand by me ドラえもん」 が封切りされる五年前の話だから、 大体あの手のアニメの制作期間 ぐらいの見積もりになる。 いや〜、明るいねぇ〜、 日本のアニメの未来って奴は。w
イタチ @mapetitebelette 11月3日
身内から紹介された(←冗談なのか本気なのか)護身用具の通販ショップ、品揃えがかなりバラエティ豊富で面白い。でも吹き矢って何よ。http://www.body-guard.jp/kate/hukiya.htm
フェイド大帝 @FeydoTaitei 11月3日
@mapetitebelette タクティカル ペンという ただの固いボールペンを 購入したフェイド大帝という 人物がいた事も忘れないで下さい。
警棒とかもそうですが、あの手の 護身具はプロ用です。 だって相手を殺さずに加減して 痛めつける必要があるのって プロしか考えられないでしょう? あ、プロというのは警官や警備員 のことね。アウトローさんのこと じゃないですよ〜。
イタチ @mapetitebelette 11月3日
@FeydoTaitei そうですね、プロ用と明記してありましたしね。 催涙スプレーなどは女性の護身具とありましたけど、それだって余程の身の危険を感じた時にしか使用しないシロモノですしねえ。 所持していても警察に没収されるんじゃ、持ってる意味ないしw
フェイド大帝 @FeydoTaitei 11月3日
@mapetitebelette 昔、仲良くなったベテランの暴走族 が良く携帯してたのが工具の ドライバー。 安い、長さが色々ある、武器として 見られない。使った後その辺に 捨てれる、……
イタチ @mapetitebelette 11月3日
@FeydoTaitei なるほどー。武器として見られずに済むというのがミソですね。厄介ごとを避けようと思うなら重要なポイントだと思います。
フェイド大帝 @FeydoTaitei 11月3日
@mapetitebelette ただしマイナスドライバーは ピッキング用によく使われるため 警官に難癖付けられるリスクが あるので、玄人の不良は プラスドライバーを持つの だそうです。w
物盗りが目的の場合、鉄パイプ で殴る場所も相手の太腿だったり 決まっています。 痣が服で隠れる、致命傷にならない、 逃げにくくなる… 殴っても動じない相手からは 直ぐに撤退します。 金を直ぐに差し出すカモを 効率よく回転させるのがコツです。w
ただし、要注意は外国人で ロシアや東欧系。 奴らは刑務所を怖れないので 危険です。 紛争だとか戦争のある国の 性なのかもしれませんが…… 後、海外は銃持っている場合も あるので注意。
何だかんだ言って一番安全なのは 危険な場所に行かない、交番に 駆け込むだと思いますよ。 複数で行動するとか。 暴漢を撃退する人もいますが、 金を直ぐに出して追っ払う方が リスクが少ないと思います。
これは一つコツなのですが…… 学生さん限定です。
ある程度の規模の不良グループは 必ず盗品市場を開いてる奴がいます。 そういう奴はやたらと地元のギャング や不良グループの勢力図や分布に 詳しかったりします。 ヤンキー漫画の解説キャラみたいな やつね。w
そういう奴と仲良くなっておくと、 街のどこにどんな危険な人間が いるか分かるので、そういう場所を 避ければいいのです。w
大人の場合、警察か地元の自治会 とかでそういう情報を収集している 可能性もあるので、結局は コミュニケーションが大事って ことですかね。
イタチ @mapetitebelette 11月3日
@FeydoTaitei 仰る事、とても分かります。笑 コミュニケーションは大切ですね。いつどのような貴重な情報を得られるか分かりませんから。そのためには人との間に信頼関係を築いておくことですよね。
アルテピアッツァ株式会社 @ArtePiazza 2月7日
【倉庫】今やほとんど使われていないマイナスねじ。しかも今、先端の幅0.5cm以上、長さ15cm以上の大きなマイナスドライバーを、業務等正当な理由なく隠して屋外で携帯すると、最悪の場合、通称ピッキング防止法違反に問われる可能性もあるとか。十分ご注意を。(志)
あーちゃん @Archan_Japan 10月18日
ちなみに、バッグや車のダッシュボードにハサミを入れてるだけで軽犯罪法で捕まえることができる。マイナスドライバーはピッキング防止法に引っかかかる。警察がその気になれば、起訴できるかどうかは置いといて何とでも理由つけてしょっ引くことはできる。
まくはりきょうとう @maq_kyoto 10月8日
それよりも「マイナスドライバーやカッターナイフをかばんに忍ばせた」”だけ”で、ピッキング防止法違反や銃刀法違反になることのほうが知られていないし、現実に判例もあるというのになぜこちらは「知られていない法違反になる行為」で取り上げられないか不思議。
タケダモトツグ @Mototsugooday 2013年3月27日
なんで、マイナスドライバーを所持してはいけないかというと、特殊開錠用具の所持の禁止等に関する法律(ピッキング防止法)の「指定侵入工具」に指定されており、 >業務その他正当な理由による場合を除いて「隠して携帯」すると処罰されることとなった。
ちゃーるう @tya_ruu 2012年6月18日
『仮にこれが、凶器にもピッキングにも使えない只のプラスドライバーだったとしても、工具の不法所持でアウトでしょう。 いずれも軽犯罪法ですが、有罪にすることができます。 2009年の秋葉原では、そうゆうことが本当に横行していたことはネットニュースでも話題になりました。』
魔法使いハンターねこた @lanekota
トラキアの話をまとめてみた(グダグダ要注意)
http://togetter.com/li/611489
“トラキアン・コード見終わったぞ!感想いくで。重要な事がわかったよ!グノーシスの源流かもしれない”
“トラキア。ねこたはね、ディオニュソスやヘルメス神の故郷で、遊牧騎馬民族でいわゆるイラン語派にあるよーな人たちかな?という認識しかなかった。でもこの国重要よ!単なるマケドニアの隣国じゃない!”
“ねこたはトラキアの宗教に対してはほんと、知識がなくてオルペウス>>ピュタゴラス>>プラトンという順序でギリシア哲学に多大な影響を与えたって話しか 知らなかったの。そしたらやべえことがわかったんだよ!テレビの情報なんでクロスチェックしてなくてすまないけど、引用する”
“引用「トラキア人。人が生まれると悲しみの歌を唄い人が亡くなると喜びの歌を唄った。肉体は魂のひつぎであり死ぬと魂が解放され自由になるのだと考えられ ていた。」おお!これグノーシスやん。しかもトラキア人は本来のニャン間の居場所は星の世界にあると信じてたらしいんだ。”
“ギリシア神話のヘルメースはトラキアから来た神なんだよね。エジプトの時代になってヘルメスはヘルメス・トリスメギストスになり、ヘルメス文書というのが書かれたの。私2バージョン持ってるけど、ヘルメス文書の世界観がさ、これまたトラキアの宗教観そのまんまなんだよね!”
“トラキア人は、プラトンやピュタゴラスが言うように肉体を魂の墓場だと考える思想を持っていた。みんあ知らんけど、トラキアのオルペウス教の影響を受けた ピュタゴラスのギリシア哲学に対する影響はパネエものがあってね、ソークラテースが死ぬのウキウキしてた話もピュタゴラス派と対談の中だよ!”
“さっき引用したようにトラキア人は、子供が生まれると悲しみ、人が死ぬと魂の開放として喜び、星辰の世界が本来の人間の住処だとおもってたらしい。これっ てさ、オフィス派の世界観やヘルメス文書などのグノーシス文書にあるよね?地上を抜けた魂は、月下界を抜け、遊星点を抜け、最後は恒星点に行く”
“かなりトラキア人の宇宙論はグノーシス系の宇宙論とかぶるよね。トラキア人の王は、死ぬとき最愛の女房を道連れにするんだけど、この感覚ってインドのサ ティーに似てるわ。旦那が死ぬと未亡人が後を追って死ぬの。これ、上流階級だけの習慣なんですよ。インドの。トラキアでも同じみたい。”
“トラキアの遊牧騎馬民族の文化っていわゆる、インド=イラン系のアーリア(笑)人の文化とかなり似てる。文字を残さなかった所とか、インドでも同じで肉体 は仮住まいだと思ってた所とか、騎馬民族とか、イラン人の美的感覚もこの世のものでないような幻想的な感覚だよね?ああ、なんかgdgdだわw”
“とにかく、トラキア人の文化は、いわゆるアーリア(笑)人と呼ばれるサカ族とか、ペルシア人とかそういったイラン系の遊牧民と共通点があると思われます。 青木健先生の「アーリア人」という本を見ればそのあたりの感覚がよくわかります。遊牧騎馬民族で文字を持たず、冶金に長けてた。コーカサスもそう”
“またヒクソス、トラキア、コーカサス、ケルト、イランこのあたりは馬と馬車を持ち込んだ遊牧騎馬民族なんですよ。私このラインすごく怪しいと思ってます。このラインを追っていくとなぜか、輪廻転生だの独自の宗教観や、金属加工などに優れた面などが出てくるわけですよね。”
“またトラキアってワインの名産地でしてね、ギリシアにディオニュソスの密儀を持ち込んだのもトラキア人なんですよ。ディオニュソスといい、ヘルメスといい、西洋神秘主義で重要な役割をしている神はどうもトラキアに関係あるんですよ。ヘルメスとトラキアhttp://tsukinoshizuku2012.weebly.com/30334295391239829579.html”
“遊牧騎馬民族というのは、アラブのベドウィンもそうだけど、いわゆる商業民でもあるわけやな。中央アジアのゾロアスター教の担い手で有名だったソグドやク シャナ人など、中央アジアのイラン語派系遊牧騎馬民族は有能な商業民でもあった。おそらくトラキアもそうだったんだろうな。”
“あとトラキアのラインを追いかけていったら、陸上の移動としての馬(広大なペルシア帝国は幹線道路が整備されてて早馬だと端から端まで7日でした)とフェ ニキア人などの海洋民族とドッキングしたりもするわけか。フェニキア人も金属加工に優れて民族で、錫を求めてブリテンにまでいってるんですよね。”
“フリーメイソンはフランス語で言うと、リベルタメイソンになり、なんか言葉がおかしいのでフルリ人という意味もある。フルリ人か。ここね、トラキアとフェ ニキアがドッキングした土地なんだよね。ここでの言語は確かイラン語派だったような覚えがあります。フルリ人謎が深いです。gdgdすんません”
“ケルト・フェニキア・トラキア・フリギア・フルリはどうもアナトリアの西部あたりでドッキングすることがわかってんだよな。有名な「イーリアス」に出てく るトロヤはミダス王で有名な黄金文明のフリギアと同じだし、トラキアに繋がる。またローマ人は我々はトロヤから来たという伝説がある。”
“フルリ人といえば、不思議な話があって、フルリ人はアナトリアに住んでたのに、ゾロアスター教の経典の言葉であるアヴェスター語(サンスクリット語とも深 い関連があるで)とそっくりの言葉を話してたんだよ。あのね、ザラスシュトラが話してたアヴェスタ語は、イランのホラサーン辺りの言葉だよ。”
“ゾロアスター教の経典のアヴェスター語は、ヴェーダの言葉であるサンスクリット語と深い関連性があってね、元々はインドに近いイラン東部の言葉なの。そう いった古いインド=イラン語がアナトリアで話されてて、フルリ人の名前がメーソンのダブルミーイングがあってさ、なんかおかしいよね?”
“フルリ人で検索しましたところ、なんということでしょう。ヒッタイトの関連性が出てきました。たんぽぽさんは、エジプトに侵略した謎の民族のヒクソスは ヒッタイトとフェニキアとユダヤの連合軍ではないか?と言ってました。またしても遊牧騎馬民族と金属加工技術が繋がるわけですよ。”
“トラキア人はテレビでもあってたように、ものすごく緻密な金銀細工を作ってる。この冶金って技術大事な視点だよ?錬金術は元は冶金なのよ。トラキア、ケル ト、ヒッタイト、ヒクソスあたりどうやら冶金技術との関連がもりもり出てくるわけよ。なぜ騎馬民族に金属と言えば馬具の必要性からね?”
“なんかこう、gdgdになってもうたけど、フリメの背後に、インド=イラン系の馬と馬車と金属加工の技術を持った秘教集団がおるみたいでな。トラキアもそ の一部で、トラキアのさかさまーな宗教観が古代ギリシアに影響を与えまくってて、その影響から現代も抜けきれないというやばい状態なのよねー”
“フリーメイソンで特別の聖人といえば、カインとトバルカイン。カインは罪人やけど、鍛冶屋の祖でもある。鍛冶屋などの特別な技術を持ったギルドの祖なのよ わかる?また、せんじろうさんの話ではもののけ姫のたたら場(多々良は百済だよ)みたいに鍛冶をやってると目をやられるんだってさー。おめめー”
“おっと、トラキアの生死観の間にあるのがオルペウス教の神話。オルペウス教の詳しいのはこっち読んでね。http://morfo.seesaa.net/article/196190386.htmlこれすごく、イザナギとイザナミの話に似てるよね?それが西洋の輪廻転生やらグノーシスのモトネタとはな”
“引用「オルペウス派によれば、人間はティタンがディオニュソスを殺害した原罪を引き継いでいて、これに対する罰として霊魂が肉体に閉じ込められて輪廻を続 けるのです。 ですから、オルペウス派は肉体を霊魂の墓と考えました。オルペウス派によって初めて本格的な輪廻思想が西洋世界に持ち込まれました”
“引用「ポンポニウス・メッラは、「ヨーロッパの最大勢力であるトラキア人を注意深く観察する者は、この蛮族がおそらく自然信仰のためであろうが、死を恐れないということに容易に気付くであろう」と物語っている。」ここにグノーシスの秘密があると思うんだ。”
U @wayofthewind 2014年1月31日
現代の社会システムは、社畜や生贄(保険m)というヘルメスっぽい哲学で回していますよね。太田龍は何十年も前に、そこに気づいていたところがすごい。 @lanekota“太田龍先生が牧畜こそ邪悪の根源といってましたから、ヘルメスは羊飼いの遊牧民のトラキアの神”
ヒロチャ @hogege55 2014年1月5日
エルメスと苦悩死素が交差する時貧乏が生まれる…!? "@lanekota: トラキアから来たヘルメースとアレクサンドリアでできたヘルメス思想(こっちはヘルメス・トリスメギストス)とグノーシスが交差する時、陰謀は生まれる~♪"
Angeliqua @Ripple1975 2013年9月14日
ヘルメスについてはよく調べてください。彼は古くはトラキアの風の神様。認識と意識、言葉の神様であることをよく理解してから、その神話を追いかけてください。トート神も古くは原初神。その性質は酷似してる。この視点を確実に認識しながら神話を読むと凡てが解明されます。汝自身を知れの格言通り。
罰ゲームメイカー @DoppelDomes 2011年6月24日
《幻想コーナー》【ハルパー】ギリシャ神話の怪物メデューサの首を落としたペルセウスの剣。ヘルメスから与えられた黄金の剣。鉤爪の様な湾曲の刀身で、内側が刃になっている片刃の曲刀。ギリシャの古刀の名称でもあり、ローマ時代ではトラキアの剣闘士の持つ曲刀を指した。切断を象徴する鎌状の短剣。
senは墨と狼喰ってます @sen_wired 2013年12月16日
トラキアのヘルメスの方だったら一応羊飼いと風の神様なんですけどね
平川哲生 @bokuen
時代順に話を進めます。古代ギリシアのディオニュソスの密儀、オルフェウス教、ピュタゴラス教団などは、人と神の「一体化」を求める神秘主義でした。プラトンはこの影響を受け、さらにプロティノスの新プラトン主義に受け継がれます。
へぼん辞林 @hebon_jirin
【オルフェウス教】オルフェウスきょう 紀元前七世紀頃,ディオニュソス崇拝から成立したギリシャの宗教。オルフェウスの詩に基づき,宇宙の起源や神々の系譜を説き,霊魂不滅信仰を中心に密儀を行い,禁欲的苦行を行なった。ピタゴラス教団やプラトンに大きな影響を与えた。 #daijirin
よぼよぼ @yoboyobo · 2011年2月8日
〖Orpheus〗オルフェウス ギリシャ神話に登場する,トラキアの詩人・音楽家。オルフェウス教の創設者とされる。アポロンから与えられた竪琴に合わせて歌う彼の歌は鳥獣・山川草木をもひきつけたという。アルゴー号の遠征に参加。死んだ妻エウリュディケーを冥府から連れ戻 #daijirin
桃園穂鳥 @cawaU
ギリシアの伝説的詩人、音楽家。トラキアに生まれ、母は詩女神カリオペといわれる。オルフェウス教の開祖。竪琴を奏で、美しい声で歌うと、人も木も石も動いたという。死んだ妻エウリュディケを冥府から連れ戻すのに失敗し、いつまでも嘆き悲しんでいたため、トラキアのマイナデスたちに体を裂かれた。
オルフェウスを開祖と仰ぐ古代ギリシアの密儀宗教。英語でOrphism。時間神クロノスや卵生神話を含む宇宙創成論、ディオニュソス=ザグレウスの死と復活に仮託された人間論および輪廻転生説など、特異な教義で知られる。ピュタゴラス学派とは密接な関係にあると思われ、古代末期まで存続、新プラ
風橋 平( 㷑 ) @Kazahashi_O
人が産まれると悲しみの歌を歌い、人が死ぬと喜びの歌を歌う。それは肉体は魂の牢屋であり、自分達は魂として星の世界へ行く。 -トラキアの伝承より
安中 @yasunakayo
トラキア人の、肉体は魂の牢獄だから生まれたときに悲しみの歌を、死んだときに喜びの歌を歌い、星の世界に本当の魂の世界があるってのすごいなぁ
野生の瀬宮ニャンがあらわれた @shin_semiya
これどこから来たのかというと黒海北西部のトラキア発祥で、トラキアにおいては、地上とはあの世であり、人間は生きている間精神生命体として星々の海を巡り、死ぬと原罪により地上で懲役刑みたいな感じで生きることになるとされた。 よく生きよく死ねば、原罪は購われ、より高位の存在になるとされた
くろゑ@3月中旬新曲(予定) @xhloe · 12月13日
Illuminatiシリーズはグノーシス主義的な世界観を借りていますが、グノーシス主義オフィス派は蛇=人類に知恵を授けた聖なる遣いとして信仰していたそうです。
グノーシス主義オフィス派派の『バルク書』によれば、第二の男性原理エロヒムの天使が、第三の女性原理エデンまたはイスラエル(体は女性、足は蛇身)の女性体の部分の土からアダムを創り(蛇身の土から動物を創った)、エデンが魂を、エロヒムが霊を置いた
神話辞典bot @shinwa_jitenbot · 10月10日
ヤルダバオト グノーシス主義のオフィス派の説で7人のアルコンの一人。アリエルとも。名前の意味は「カオスの子」。 創造神として、「不可知な父」「未知の神」のすぐ下の地位を占めている。 http://www.jiten.info/dic/europa/ialdabaoth.html …
まだ夏だった白玉もち @siratamamoti777 · 2014年1月17日
ヒッタイトさん世界初鉄製武器使用戦車使用。バビロニア滅ぼしちゃうぜ。ミタンニさんフルリ人支配しちゃうぜ。 前十二世紀海の民がヒッタイト潰してエジプト後退させる。バルカン半島にまたギリシア系下りてくる。その名もドーリア人。ミケーネ諸王国南下の過程でいくつか潰す。
文キューちゃん @bunkyubotchan · 2月22日
紀元前16世紀頃にフルリ人が メソポタミア北部に建てた国 ミタンニ
世界の歴史 @sekaishiB_bot · 2013年5月17日
BC.1550 フルリ人がアッシリアの北西部にミタンニ王国を築き、西は北シリアから地中海に面したウガリト(現在のラス・シャムラ)まで、東はアッシリアを征服してチグリス川の東方まで進出した。
wikipedia bot スマホ対応版 @WikiBot_SmaPho · 12月21日
フルリ語 http://goo.gl/Giy5ZJ フルリ語は紀元前2300年ごろから紀元前1000年ごろまでメソポタミアに暮らし、ミタンニ王国を築いたフルリ人の言語。ウラルトゥ語と近く、二つをまとめてフルリ・ウラルトゥ語族と呼ぶ。フルリ・ウラルトゥ語族が孤立的である...
casipoco @secapoco · 2013年5月21日
ミタンニ:前16世紀にメソポタミア北部からシリアを制圧した王国。人口の大部分は民族系統不明のフルリ人が占めていた。前15世紀にはエジプト・ヒッタイトと並び繁栄したが、14世紀にヒッタイトに敗れ衰退し、後にアッシリアに併合された。
あかりペディア @akaripedia · 9月15日
ミタンニ(ヒッタイト語:Mi-ta-an-niあるいはMi-it-ta-ni、アッシリア語: Ḫa-ni-gal-bat - 「ハニガルバト」)はフルリ人が紀元前16世紀頃メソポタミア北部のハブル川上流域を中心に建国した王国である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%8B …
神様紹介bot(神ボ) @myth_god_bot · 2013年3月15日
《グルス/ヒッタイト神話》グルスたち。ヒッタイトの女神で名前の意味は「書記」、「運命を決める女性」。彼女達は個々の人間にそれぞれの運命をふりあて、生と死ばかりか、善と悪をも司る。フルリ人は彼女達をフテルナと呼んだ。
AK @ho_ro · 5月5日
エアもしくはエンキは、シュメールの外にも広範な影響をおよぼしたことから、(ウガリットの)エルや、おそらくは【カナン神話の神(エブラの)ヤハと同一視され、フルリ人やヒッタイト人の神話にも、契約の神として登場し人々に特に好まれていた】
神様紹介bot(神ボ) @myth_god_bot · 2013年9月15日
《クマルビ/ヒッタイト神話》先住民フルリ人の神。天候神テシュブに敗れ、復讐のために石の怪物ウルリクムミを生んだ。知恵の神エアが天地を切り離した魔剣でウルリクムミの足を切断して倒し、天候神の支配が確立された。
(石を剣=金属で倒した話。つまりフルリ人の金属加工技術の反映)
愛宕山太郎坊 @HTH_1557_1630 · 2012年9月29日
@pat_1308 ミタンニ王国はフルリ人(民族系統不明)らに建国された国で、ヒッタイトに吸収されたとしか知りませんでしたが、今調べたらサンスクリット系統の言語が使われていて神話も共通しているみたいですね。フルリ人も印欧系の可能性があるんですかね。
パト (派渡)@秘封病怖い @pat_1308 · 2012年9月29日
@Hanumaaaaan あれですよ、確かインド・アーリヤ系の人たちがミタンニのフルリ人を支配してたらしいですね。ヒッタイトとミタンニとの間の条約では「Mitrasil」(=ミトラ)、「Uruvanassil」(=ヴァルナ)、
パト (派渡)@秘封病怖い @pat_1308 · 2012年9月29日
@Hanumaaaaan (続)「Indara」(=インドラ)、あと「Nasatianna」(=ナーサティヤ双神)という神々の名前が出てきましたよ
フェイド大帝 @FeydoTaitei 12月16日
ミトラに拘る人達はヴァルナを もうちょっと調べた方がいい。 ヴェーダ教ではこの二神は ペアでセット。 ミトラが太陽なら、ヴァルナは 夜空の星々。 ミトラが契約の神の意味は? 契約を破った時に罰を 降すという意味さ。 昼はミトラに。夜間はヴァルナに。 監視されてるってことさ。
カフェバグダッド @cafebaghdad · 1月21日
トルコ石のアクセサリー。トルコ石の産地はトルコではなく、イラン北東部ホラサーン地方。写真はチュニジアの首都チュニス旧市街の土産物店で
雑学サディク @Sadick_bot · 2010年2月21日
トルコ石は本当はイランが原産なんだが、イスタンブールから世界へ広がったから「ターコイズ」つぅ名前で呼ばれてんでぇ。ちなみに12月の誕生石。石言葉は自由。冒険心。成功なんかだな
バリうゆ【管弦楽団】 @vprvprvpr · 6月25日
ゴルディアスの結び目(ゴルディアスのむすびめ)またはゴルディオンの結び目(英: Gordian Knot)は、古代アナトリアにあったフリギアの都ゴルディオンの神話と、アレクサンドロス3世にまつわる伝説
ロック・コール @rumble22z · 2013年7月28日
キュベレー(古典ギリシア語: Κυβέλη、英語: Cybele)は、アナトリア半島のプリュギア(フリギア)で崇拝され、古代ギリシア、古代ローマにも信仰が広がった大地母神である。
百科事典を読む者 @wpsurfer · 2010年8月24日
【フリギア - Wikipedia】 フリギア(Phrygia、ギリシャ語Φρυγία)は古代アナトリア(現在のトルコ)中西部の地域名・王国名である。フリュギア・プリュギアとも表記する。 #bot
ken @kenkatap · 2014年1月17日
サンタクロースの帽子=フリギア帽?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AE%E3%82%A2#.E6.96.87.E5.8C.96 …
▼フリギア(トルコ)の名三角帽子で知られる
▼トロイアの王子パリス
▼東方由来のミトラス神も
▼ローマ時代には解放奴隷のかぶりもの
▼自由を求める革命家の象徴→仏の自由の女神マリアンヌもかぶっている
ken @kenkatap · 2014年1月17日
魔法使いの帽子=フリギア帽(トルコ)?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%B9 …
▼ミスラ信仰は、マギ神官 (magi) により小アジア、シリア、メソポタミアに伝道、ギリシアやローマに
▼善悪二元論と終末思想
▼最大のミトラス祭儀は12月25日の祭、キリスト教クリスマスの原型
らすとらだ @naguignol · 10月28日
フランス革命の自由の象徴フリギア帽、ミトラ教の神官が白い雄牛を犠牲にするとき被ってた帽子と同じ形。ややこしいことになってきたぞ
竹田義男 @take35c · 3月9日
@YouTube メーソンがミトラ教に関心を示すのは18世紀。アメリカ上院のマークにも赤いフリギア帽が→http://satehate.exblog.jp/17379282/
地球の歩き方編集部 @arukikata_book · 2013年11月5日
世界の国旗で唯一、表裏がある国をご存知ですか? 正解は南米パラグアイ。赤白青の横縞三色旗に、中央表には国章・裏には赤帽を守る獅子の図が。フリギア帽は古代ローマで解放奴隷が被ったもので、フランス革命時に自由の象徴とされたことに由来します⇒http://bit.ly/aQmdxu
神話辞典bot @shinwa_jitenbot · 2月22日
マギ 複数マグス 古代イラン(ペルシャ)の伝承における司祭階級の呼称。また新約聖書にみられる東東方三博士、そのほか古代ギリシャ語(マゴスmagos)、ラテン語化、ヨーロッパに移入された言葉としてのマギがある http://www.jiten.info/dic/magi.html
神話辞典bot @shinwa_jitenbot · 2月21日
ウロボロス 自分の尾をくわえて輪になった蛇の図像。「尾を貪り食らう者」の意味。3世紀のギリシアの魔よけにみられる。中世ヨーロッパの錬金術師たちが錬金術の象徴として使った。 http://www.jiten.info/dic/uroborosu.html …
神話辞典bot @shinwa_jitenbot · 2月22日
アストラル ラテン語の「アステル aster(星)」に由来する語。魔術、錬金術などの伝承で、火と月からなる高レベルの世界 のこと。アストラル界は凡人が普段はみることができないが人間の感情と強く関わるという http://www.jiten.info/dic/astral.html
”マンダ教 manda (マンダヤ教) (英語mandaeands)
イラン、イラク地域の少数派の宗教。イラン、イラクでもイスラム以外の宗教も共存している。
洗礼者ヨハネの系統であると信じ、祖先はAD70年エルサレム陥落後、東に移住したと伝える。
光と闇の二元論、霊的な魂が物質的な悪の世界にとらわれていると説くグノーシス主義に由来するという。
救世主マンダイヤ(名前の意味は、生命の知、知識)に救われると説く。
マンダ教徒、マンダヤ教徒というのは、この救世主の名に由来する。”
http://www.jiten.info/dic/asia/manda.html
はっきり言っておく、
『BLEACH』(ブリーチ)の話は真摯に記されし囮なり。
続く良ツイート集を読むことで集英社の意図を知るべし。
見よ、撒き餌は既に与えられた。
針に貫かれぬように食いつくがよい。
――魔鯛伝より
霊王の右腕の甲に一つ目の神(ミミハギ様)
=ファーティマの手(ハムサ)
=20世紀少年の”ともだち”
が主人公=剣+キリスト教の元ネタの古代宗教(シーア派はイスラムではない)側。
※『BLEACH』第616(足して13)話「ミミハギ様」
東流魂街七十六(足してまた13)地区の逆骨に伝わる単眼異形の土着神。
自らの持つ眼以外の全てを捧げた者に加護をもたらす。
敵=弓側のボスはYHWH(旧約聖書の神)
ユダヤは旧約のみ、キリスト、イスラムは旧約が聖典に入っている。
つまり、元ネタVS盗作犯
(宗教は元ネタを基本的に明かさないので盗作です。
キリスト教ならユダヤ教という偽の元ネタでなくて、
真の元ネタのミトラとオルフェウスと拝火教
+ピタゴラス学派思想+プラトン哲学+トラキア思想ね。
オルフェウス教とトラキア思想とは、
「生まれる=悪。
死ぬ=善」
詳しくは後述。)
刀側の死神の卍解は「卍」でわかるようにインド意識。
(イエスの元ネタのミトラも元はインドの「契約」と盟友の神。契約の神はインド派生。聖書からではない)
ユーハバッハ
呼称の由来は「YHVH(ヤハウェ)」
=ゼウス(雷を投げる)
=バアル
=雷と嵐の牛神。
ヤハウェ、バアル、 ヨッド・へー・ヴァヴ・ヘー、アドナイ、エロヒム……全部本名ではありません。
本名(=住所。目立つ的)を知られると本名を知る者に魔術で操られてしまうからです。
聖書の神と聖書で悪魔とされるバアルは、実は同一人物、もとい同一神物です(後の引用をどうぞ)。
エロヒムがエル(バアルの父)の複数形だから ヤハウェはバアルではないって?
だからこそ黄金の牛を崇めていたら激怒したって?
ヘブライ語では複数形が文字通りの複数あることを意味するだけではなく
「偉大な」というニュアンスを示す用法があります。
創世記第一章第一節。 「はじめに神は天と地を創造された」
「創造する」の意味で「バラー」という動詞が使われています。
ここではエロヒム(エルの複数形)は「偉大なエル=神」と訳す方が自然。
なぜなら、動詞バラーが 「文法的には三人称・単数・完了・男性形」だから。
(『はじめての聖書ヘブライ語』 青木偉作著 国際語学社 p.52より
著者はヘブライ大学国際政治学科卒)
星十字騎士団って薔薇十字団っぽいね。
バラ(秘教集団の象徴)といえばイラン(ペルシャはマギ=魔法使いの国)
あと、後述しますが、ユダヤ人は実在しません。
聖書によって捏造された固定観念です。
ユダヤ教徒は実在しますが、あなたがイメージするユダヤ教はかなり後にできたものです。
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フェイド大帝 @FeydoTaitei
ジャンプの漫画の「ブリーチ」。 敵に各アルファベットが当てられて いる。 アランカル編では数字だった。 この技術はカバラの暗号技術と 重なる。
では、クインシーのボス ユーハバッハの対応文字は 何か?
答えは聖書の神の 「YHVH」=ヤハウェ である。
興味深いのは、 クインシーの武器は 「弓」限定であるという 作中設定。(守られてないが)
アベノミクス三本の矢、 ロスチャイルド家五本の矢。 そう、奴らは「アーチェリー」マニア である。
ロード オブ ザ リングの レゴラスの異常な強さ。 トールキンの原作では あそこまで強くない。 そう、彼は「弓使い」である。
弓とは古代の狩猟具の 主役でもあり、騎馬民族や 古代エジプト、シュメールでは 戦車と組み合わせると最強の 兵器だった。 銃器のコンセプトも基本は 弓の延長である。
つまり「ブリーチ」という 作品は「弓 対 刀」という テーマの作品だよ。
knznymmmy @knznymmmy
そう。昔の日本でもさ てっぽーが登場する前は 弓が主要兵器だったんだぜ 次が槍かな 刀は結構後の時代。 だってさ、離れて敵を殺せるならそっちの方がいいじゃん
「弓馬の術」なんて言葉はこのへんと関係があると思うし 「弓手」「馬手」なんて言葉もある。 刀じゃなくって弓が出てきちゃうんだよ。 今犬HKがやってる「軍師官兵衛」の中にも 「槍働き」云々って長政の台詞が出てきた
私はこの前弓で狙われる夢を見たなー。 てっぽーで撃たれる夢は何回も見てるけど 弓は初かもしれない
イルミちゃんの好きな弓
まどマギではまどかが使う弓
その夢の中ではガソリンでもひっかぶったのかってぐらい すごい勢いで燃え上がってる人間が 私に抱きついてきて 私は逃げまくってたな
つーかね、そもそも論として てっぽー突きつける時は相手から 2,3歩離れたぐらいの距離で突きつけるだよ それをしないとこの動画みたいに 相手から取り上げられるリスクが出てくる また、逆にそれを知っているから 海兵隊は銃を取り上げた後で 必ず間合い取ってるでしょ
RT>そう。居合とかやってる人は絶対に知ってる いくら日本刀でも数人ぶった斬ったらダメになる 昔の戦国の大名とか籠城とかの時は身の周りに 物凄い数の刀を用意してたらしいね (TV版エヴァのゼルエル戦の弐号機ばりにね) 数人斬ったら切れ味がガタ落ちなので次々交換しないといけない
J・ナナミ @pinkglalem 2月10日
古代のセム語族はフェニキア人、アラム人、ヘブライ人。この三つをミックスして創作されたのが聖書の中のユダヤ人。実在の民族ではありません。聖書の神は残忍でコレを信仰するユダヤ人を糾弾することで、ゾロアスター教を貶めたのです。
J・ナナミ @pinkglalem · 11月14日
この神話(ギルガメッシュ)をオリエントやアジアへ運んだのは、陸路や海路で広く交易をしていたアラム人やフェニキア人。セム語系で、バアル信仰の人達です。アケメネス朝ペルシャは彼らを庇護しました。彼らがもたらす交易の利益が目当てで...
J・ナナミ @pinkglalem · 11月10日
ユダヤ陰謀論というのは現代の“#魔女狩り”。勿論、魔女なんていやしない。もともと魔女狩りはゾロアスター・ミトラ教を駆逐する為に教会が画策し大衆を煽動して行われた大虐殺。キリスト教は最凶最悪のカルトだョ。
J・ナナミ @pinkglalem · 3月8日
実はユダヤ人なんて存在していないことを教会は隠している。アシュケナージはイディッシュを話すゲルマン人で、大半の魔女狩りの犠牲者だった。パレスチナもフェニキア人の土地。古代ヘブライ人の末裔はイエメンユダヤ人。
金貸し、金融ユダヤ人というデマを流したのも教会。高利貸しの起源はテンプル騎士団。今の金融システムの本をただせば、全部キリスト教。資本主義の起源は、プロテスタントが唱えていた予定調和説。ユダヤのユの字も出て来ない。
J・ナナミ @pinkglalem · 1月19日
パレスチナ人がユダヤ人だという話があるけど、ユダヤ人なんていない。Aリベラはユダヤの抵抗鎮圧の為にヘラクリアスの依頼でヴァチカンがイスラムを造ったと証言している。皇帝の父はカルタゴの総督で、カルタゴの滅亡以後ユダヤ人が歴史に登場している。つまり、フェニキア人=(歴史上の)ユダヤ人
J・ナナミ @pinkglalem 2014年1月1日
ダビデの星はユダヤの象徴ではない。...ロスチャイルドとイエズス会が捏造した「ユダヤ」...: http://youtu.be/LwZW2X54aw0 @youtube;HEXAGRAM - The Truth Behind the "Star of David"
ユダヤ教は初期の段階で、魔術や生贄を否定した。アブラハムはイサクを殺さなかった。コレに対しキリスト教は魔術を行い。生贄になった者(キリスト)を崇めた。ダビデの星をシナゴーグで見ることは出来ない。ラビが嫌っている為。ところが教会では至る所で見る事が出来る。
J・ナナミ @pinkglalem 2013年12月6日
一方、キリスト教は生贄を神として祀る、明らかなバアルの伝統にねざしている。彼らが強いるのは常に自己犠牲。このバアル教をユダヤ教に偽装する為に書かれたのが、聖書。パレスチナの地の信仰の中心はバアルだった。
J・ナナミ @pinkglalem · 2013年11月15日
面白いと思うのは、「ペルシャ」とはギリシャ人が使っていた呼び名で、当時ペルシャが自分たちをどう呼んでいたのか?は分かっていないンだそーです。古代ユダヤ人も実はヘブライ人ではなくて、同じセム語系のアラム人やフェニキア人をユダヤ人と呼んでいた可能性があるンだそーです。
knznymmmy @knznymmmy
マタイ伝19章にね、 「金持ちが天国に入るのはラクダが針の穴を透るのより難しい」 という有名な説法が出ている。
バチカンども全員地獄行き確定だなw
ユダヤは八百長プロレスの俳優なのさ さあ、この八百長プロレスの脚本を書いてる奴を 引きずり出そうぜ
そもそもユダヤ人という「人種」はいません。
一応、(1)母親がユダヤ人、または、(2)ユダヤ教徒 ...がユダヤ人なのですが
(2)は論外。 仏教徒は仏教人という人種になりますか? キリスト教徒はキリスト人という人種になりますか? だから(2)は論外。
では、現在ユダヤ人を名乗っている「あの人々」は何なのでしょう?
答え>ただのユダヤ教徒です。人種的には有名な スファラディやアシュケナジーだったりします。 アシュケナジーはロシア南部の人種で偽ユダヤとしても 最近有名になってきました。
かと言ってスファラディだって、「本物のユダヤ人」かというと どうも嘘くさいです。さっきの定義でいけば (1)母親がユダヤ人 つまり母方の先祖を辿れば 古代イスラエルに辿り着けば「本物」なんでしょうが 実は、この「本物」に該当する人々は現在イエメンにいます
「聖地」エルサレムからは1000キロほど離れています。 そして彼らはユダヤ人なんぞとは自称していません。 では、アシュケナジーを除いた 自称本物ユダヤ人とは 一体何なのでしょう? 仮説としてはフェニキア人です。
つまり「嘆きの壁」「聖地」「失われた十部族」「シオニズム」 ぜーんぶが詐欺、ぜーんぶがデタラメという事です。 詐欺民族が詐欺宗教の詐欺聖典を根拠に詐欺国家を作って 詐欺戦争をしている。それが中東です。
なぜそんな事をするのか?バカなんですか?カネの無駄じゃねえの? これは八百長プロレスの台本を誰が書いているのかに関わる問題です。 ヤツらにしてみれば練りに練った計画のクライマックスシーンですから カネに糸目なんぞつけません。バカなんじゃなくてカルトなんです
証拠のひとつ
なぜ自称ユダヤ人はカギ鼻や白人だったりするのか? 中東の民族なら黄色人種でないのか?
答え>彼らは"自称"ユダヤです
証拠のひとつ。
エルサレム掘っても古代イスラエル王国の遺跡が出土しないのはなぜか?
答え>そこは聖地じゃないから
証拠のひとつ。だけど嘆きの壁はユダヤの神殿じゃないのか?
答え>あれはバアル神殿です。他宗教の神殿の前で御大層に お祈りしてる暇人がユダヤ教徒です。
(J・ナナミ @pinkglalem • 2013年12月6日
一方、キリスト教は生贄を神として祀る、明らかなバアルの伝統にねざしている。彼らが強いるのは常に自己犠牲。このバアル教をユダヤ教に偽装する為に書かれたのが、聖書。パレスチナの地の信仰の中心はバアルだった。
)
knznymmmy @knznymmmy 2013年12月6日
@pinkglalem 北イスラエルがバアル崇拝に堕落したのではなく 元々バアル教だったとかかな? だとすると、正統派を主張する南イスラエルこそ ヤハウェや聖書を偽造した異端児か。胸熱w
ふーむ。 ユダヤ人=フェニキア人、ハザール人(プラスその他?)
聖書=己の優秀性を自画自賛するために捏造した偽典
エルサレム=あそこが聖地になったのは新約の時代からですw こんな感じか
RT> 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。
恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、
向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
マタイ伝7-6 つまり放射脳、放射脳ってファビョりだすって事だ だから聞く耳を持つ人にしか教えなくていい 死にたいヤツは勝手に死ね
「キリスト教など信じられない」と言いたいのなら簡単です。「死者の復活なんて信じられない」で終了なのです。死者の復活が無ければ、殉教者達の血も、全ての聖書の記述も、空しくなります。ヨブ記も「結局この世において財産回復されて良かったねの話でしかないじゃないか」になります。 以上コピペ
ヨブ記が面白いのはね ヤハウェことバアル、改め牛君が ヨブに論破されちゃってファビョりだすところ こいつぁー、全知全能でもないし善でも正義でも何でもねえぞってところ
RT>私の好きなのは、、、 神様でありながら、悪魔の安っぽい煽りに乗せられて ヨブをいびりまくったけど ヨブにツッコミ入れられて論破されそうになったんで とりあえずブチ切れてみましたけどそれが何か? 、、、だな! ヨブ記ほとんど丸ごとコレw
第四エズラ記(ラテン語聖書には入っている) にもヨブ記と似た展開が出てくる。 神と契約した民が邪教の国に 蹂躙されるのはなぜかとか 義人しか天国に入れないのに 罪人をも神が創造したのはなぜかとか 結構鋭いツッコミをエズラが行う。
ヤハウェ=バアルの考えているのは 結局、人間を殺したい、人間を苦しませたい という事。それが根本原理。 だから、地獄行きな罪人も、はじめっから 殺す気マンマンで作る。 彼らが苦しみ悶える様を想像して ニヤニヤしながら作る。悪魔そのものだ。
RT>モーゼが十戒授かってる間 イスラエルの民は黄金の牛の像を 作って拝んでいた。 明らかにバアルでしょw しかも、モーゼが山から降りてきた時 彼には角が生えていたらしくて (一般の聖書では顔が輝いていたと 書いてあるがこれは意図的な誤訳)
なぜ角なんか生えるのかというと、そりゃ、 牛君=バアルに面会してきたって事でしょw で、自分は牛の角なんか生やしてるくせに モーゼは民が牛の像を作った事に ブチ切れる。折角貰った十戒の石板 ブチ壊すほどブチ切れる これは、神様=牛君っていう図星を つかれたのが痛かったからだろう
自分がバアルだっていう黒歴史を 消そうとしてる目の前で 「バアル、バアル」言われたら そりゃファビョるよwww しかし、こいつが黒歴史を隠蔽する意図は 何だったんだろうな?
という事でやっぱヤハウェ=バアル=牛君 で、牛君と対面してたせいで、ウシが感染っちゃった?せいで モーセには角が生えた・・・?
...私のよく使う表現では牛君だから。 で、ヤハウェはその牛を見てパニクってしまう。 これって図星突かれたからじゃないの?って事。 なにしろ、ヤハウェは自分の正体を隠すのに熱心だから。 あとヤハウェ=バアルと私は考えていて バアルって牛の神じゃなかったっけ?
ベリアル=バアル+イラフ=「バアルこそ神なり」? 確かにね、創世記1章はエロヒムだね。 これがエルの複数形だってのも有名。
私は、ヤハウェが必死に名前を隠すのはなぜだろう?と 不思議に思って、そのへんを調べてたら、 どうも、ヤハウェは半獣半人の神様でバアルじゃね?って事になった。 しかも、その「バアル」すら偽名で、 マルドゥックとも名乗るみたいだけどこれも偽名で...
ヤハウェ=バアルがなぜ執拗に名前を名乗るのを拒否するか? エクソシストとか見ていると分かるのだが 相手に名前を知られて、名前で命じられると 拒否ができないルールがあるっぽい。
例えば、モーセに角が生えたのも 牛の神と対峙したから。 また、シナイ山にモーセが篭っている間、 イスラエルの民は牛の像を作りました。 それはヤハウェ=バアル=牛だからです。 それを見たヤハウェは怒り狂い 今すぐ山を降りろとモーセに命じました。 なぜ怒り狂う必要があるか?
ヤハウェにしろバアルにしろ偽名です。 ヨッド・へー・ヴァヴ・ヘーにしろ アドナイにしろエロヒムにしろ 全部「コイツの本名」ではありません。 そして、両者とも中東の神で、牛の神で 雲を乗り物とし、雷を投げ・・・ 要するに同一人物です。 あ、いや、人間じゃないんですけど。
キリスト教会でこんな発言をすれば 冗談抜きでブン殴られかねないです。 なぜならばバアルは悪魔の代表格で 旧約聖書にも何度も登場するからです。 しかし、ヤハウェにしろ、バアルにしろ あまりにも共通点が多過ぎます。 例えば名前を隠すことに必死な事。
一般のキリスト教ではヤハウェ=牛なんて 教えません。むしろヤハウェは自分自身の 正体を必死になって隠そうとするので それに同調しておくのがキリスト教です。 が、私はあえてもうひとつ言っておきます。 ヤハウェは牛の神であり、 同時にバアルでもある。
少なくともヨブには神が悪魔でもあるという 事は理解ができていました。 だからこそ、彼は 「神から幸いを受けるのだから 災いをも受けるべきだ」と 言ったのです。 「あなたを祝福する」だの何だの 調子の良い事ばかり言う神様から 災いを受ける・・・ これは矛盾してはいません
ふざけるな! ユングの名著「ヨブへの答え」にも 書いていますが、明らかにこれは ヤハウェの失態です。 ここから分かるのはヤハウェは 全知全能でも何でもないという事。 都合が悪くなったらヒステリーを起こす事。 そして悪魔とも普通に お友達付き合いをしている事です。
(聖ヒエロニムスの像。 ヘブル語の聖書をラテン語に翻訳。 助手となったのがパウラだが、先だたれ、パウラの頭蓋骨を机に置いて翻訳作業を成し遂げた。 しかし、大きな誤訳をしてしまった。
◎モーセが光輝いていた。
×モーセに角が生えた。)
誤訳じゃないよ ヒエロニムス訳が正解だ カラーだったかな?何か聖書の中に 2回しか出てこない珍しい単語が出てくるんだよね んで1回はモーセの顔の所 これは光と訳しても角と訳しても文章が破綻しない でもう一箇所はどう考えても角にしかならないそうなw
(美輪様の名言 @miwasamameigen 2013年10月5日
黒があるから白さが分かる。悲しみや苦労を経験した人ほど、幸せのありがたみが分かる。
)
黒も白も悲しみも苦労も幸せすらも 知らない人こそが幸せな人。 つまり、この世に生まれた時点で 完全に失敗。 生まれない人こそが勝ち組 聖書のヨブ記や伝導の書を読んでみよう!
バアル、ヤハウェ、若しくは牛君の 特徴として本名を晒すのを異常に恐れている。 だから出エジプトでモーセに名前を聞かれても "I am who I am"ってごまかしちゃう。 バアルもそう。 「高き所にお住まいのお方」とか たしかそんな意味じゃなかったっけ?
【今日の屁ブリ語】 今やっと18課まで来たんだがそろそろ飽きてきた(w 19課が済んだら「はじめての屁ブリ語」は卒業だな 次は青木偉作著「はじめての聖書屁ブリ語」やりたい。 だけど、この人、名前がモルモンくさいなあ
フェイド大帝 @FeydoTaitei
イルミというのは思想が問題で あって、特定の人物や組織が 焦点ではないぞ? 要は犬やライオンのアルファ 権勢症候群の人間版みたいなもん。 本能的に人間という生物種に 備わっていると思った方がいい。 つまり、イルミ思想というのは 自然発生する。
いくら遺伝子交配で改良しても おバカ犬っているだろう? 処分するのも一つの手だが、 大半は「しつけ」で矯正を 試みる。 「しつけ」と言うのはぶっちゃけ 人間で言う「教育」と思えばいい。
ところがヨーロッパの王族とか 貴族とかの子供は庶民が通う様な 学校には行かないし、普通は勉強 しない「帝王学」を親から まなばされる。
「帝王学」や「拝金主義」というの 「道徳」、「倫理」と相反する。
困った事に、「道徳」というのは 宗教みたいなもんなんだよな。 絶対的で不可侵な常住する 「善」が存在しないと成り立たない。
で、ヨーロッパ庶民の「道徳」の 教育担当がキリスト教だったわけ。 ところが教会もローマ帝国も 意図的なのか、失敗したのか 結果論だけ言うと「道徳」の 先生を上手くやれなかった。
哲学というのは「道徳」を 究める学問ではないからね。 ルネッサンス時代にルソーの ヨタ噺を間に受けたフリーメイソン も結局は「道徳」は教えられない。 そもそもキリスト教を改修して 正しい方向に向かわせれば済んだ 話を、革命によって排除する 方向に走ってしまった。
あらゆる主権を倒した後、 メイソンは何を教える? ルソーにプラトンをトッピング したジャンクしか残ってないだろう?
東洋はまた別問題。 仏教が間違えたのは 「常住善」を否定したこと。 だから、天台宗や華厳宗が 勘違いして「悪も仏性なんだ」 という曲った解釈をしてしまった…
もちろん釈迦はバカじゃないから、 一応の対策を考えることはした。 それが「戒」。 これはユダヤやイスラームの 律法と同系の考え方なんだけどね。
この世に善も悪もないなら 人間は何でも自由にやってしまう。 さてどうする? (フリーメイソンの「自由」追求の 思想的欠陥もここにある)
取り敢えず明らかにコレを やったらマズイだろうと 釈迦が判断する行為を リスト化して、ルール化しよう。 これが仏教のタブーのルール集 「戒」。
不殺生、不邪淫は「戒」と 捉えるのが一般的なのだが。
西洋人の神は常住善と常住悪の 肯定から来ている。プラトンの 言うイデアと一緒ね。 仏教は無常を説くので、 そもそもイデアなんか存在しません というスタンス。 ちなみに常住というのは実存する という意味ね。反対語が無常。
「福島産の食材には消費税が 掛かりません」 という政策があったらイルミさんも 賢いのだが……
コクマー=叡智、ビナー=理解ね。 ユダヤ カバラでは叡智は人間の 言葉では表現出来ないとされてる ので、叡智を理解するという プロセスを経て 初めて人の言葉に変換される。 これを男女の結び付きに隠喩 してるので、父母の関係になる。
最上位のセフィラ ケテルを「王冠」 と表しているのが鍵です。 カバラでは「アイデア」(つまり プラトンのイデアでもある) というのは人間の頭から生まれる のではなく、身体の外から やって来るという発想。 だからケテル「王冠」は人間の 頭の上に被る物
として表現されます。アイデアが 頭の中で固まって具体化すると 「叡智」になるわけです。 それを「理解」することで 初めて「応用」が出来る形になる。 この考え方はカントの理性の 捉え方にも通ずるでしょう。
この思想の恐ろしいところは、 究極的には人間に自立した 思考等存在せず、人間の考える 事は全て「神」から発生するので、 神の命じるままに動きなさいよと 言う聖職者達にとって実に 都合のいい思想な所です。
そもそも角川を除いた大手 出版が同族経営の株式非上場の 独占禁止法スレスレのオーナー 企業ばっかりが「利権の温床」 でないはずがあるまい。
角川もラノベに関しては 独占企業だからね。 電撃だとか、スニーカーだとか 全部角川の子会社だから。 だけど角川は株式上場してるから アマゾン辺りに敵対買収されれば 経営体質が変わる希望はある。
ではアマゾンに対抗するため に、日本の出版、印刷連合が 何をやっているかと言うと 「文化庁」などの政府機関 とツルんで外資を閉め出す規制の 政策ばかり作ろうとしている。
まぁ、アマゾンも文化庁と 同じメイソン、イルミ系企業だが アマゾンは税金を払わない企業 だから、日本のイルミ達からは 嫌われているんだろう。
ちなみに文化庁は「まどマギ」に 賞をくれてやった所ね。 他にも「電脳コイル」や「カイバ」 みたいな思想的にヤバイ アニメに 賞をくれている。
アニメミライなんてご大層な 名前と、日本のアニメ産業の 発奮などと理念はご立派だが、 そもそもディズニーに全く歯が 立たない時点で日本のアニメに 「ミライ」など全くない。
ドイツの「Laura's stern」とか ジブリよりも出来いいぞ? まぁ、日本のアニヲタ達はこういう 物は観ないのだろうけど。
ちなみにディズニーが 「ナディア」や、 「ジャングル大帝」をパクった 時に庵野や虫プロがあまり 騒がなかった理由をよく 考えたことあるかな? 日本のアニメ業界はディズニーに 足を向けて寝ることは出来ない からね。むしろディズニーさまさま だろうね。
日本のアニヲタ達はピクサーの 監督が専門学校時代に作った 「電気スタンド」のアニメ群 ぐらいは観た方がいいぜ? フェイド大帝はあれ観た時に こりゃ勝てんと悟ったね。
ちなみにもう一つ面白いこと を教えてやろうか? 君達アニヲタに好評な 新海誠っているだろう? あいつがグランプリとった コンテスト(猫のアニメで入賞 したやつね)ってのはプロ経験 のある奴は応募出来ないんだ。
ところが奴は日本ファルコムで アニメを作っていた経歴を 隠して応募したんだ。 本当はあのコンテストの グランプリは二位の奴が 受賞すべきだったんだ。
新海誠のアニメは所謂伝統的な 2Dアニメだったが二位の人のは 完全なフル3Dアニメ。 二位の人がグランプリを 取っていれば、日本のアニメも 3Dに移行する方向に進んだ はずだったんだ。
ところが新海が大賞を受賞した せいで、日本アニメはまた古臭い 2Dに逆戻り。 そして3D路線に完全に移行した ディズニーを始めとした海外勢に 大きく水を開けられることになる。 取り返しのつかないほどに。
ついでだ。もう一つ取っておきの タブーを教えてやるよ。 ドラえもん初のフル3Dアニメ 「stand by me」って最近出ただろ?
あれは元は東宝を受けた就活生 の考えた企画が元ネタだ。 当然その就活生は落とされている。 当時、東宝で採用担当していた 人事担当者はその後、本社に 呼び戻されて出世している。
これは「stand by me ドラえもん」 が封切りされる五年前の話だから、 大体あの手のアニメの制作期間 ぐらいの見積もりになる。 いや〜、明るいねぇ〜、 日本のアニメの未来って奴は。w
イタチ @mapetitebelette 11月3日
身内から紹介された(←冗談なのか本気なのか)護身用具の通販ショップ、品揃えがかなりバラエティ豊富で面白い。でも吹き矢って何よ。http://www.body-guard.jp/kate/hukiya.htm
フェイド大帝 @FeydoTaitei 11月3日
@mapetitebelette タクティカル ペンという ただの固いボールペンを 購入したフェイド大帝という 人物がいた事も忘れないで下さい。
警棒とかもそうですが、あの手の 護身具はプロ用です。 だって相手を殺さずに加減して 痛めつける必要があるのって プロしか考えられないでしょう? あ、プロというのは警官や警備員 のことね。アウトローさんのこと じゃないですよ〜。
イタチ @mapetitebelette 11月3日
@FeydoTaitei そうですね、プロ用と明記してありましたしね。 催涙スプレーなどは女性の護身具とありましたけど、それだって余程の身の危険を感じた時にしか使用しないシロモノですしねえ。 所持していても警察に没収されるんじゃ、持ってる意味ないしw
フェイド大帝 @FeydoTaitei 11月3日
@mapetitebelette 昔、仲良くなったベテランの暴走族 が良く携帯してたのが工具の ドライバー。 安い、長さが色々ある、武器として 見られない。使った後その辺に 捨てれる、……
イタチ @mapetitebelette 11月3日
@FeydoTaitei なるほどー。武器として見られずに済むというのがミソですね。厄介ごとを避けようと思うなら重要なポイントだと思います。
フェイド大帝 @FeydoTaitei 11月3日
@mapetitebelette ただしマイナスドライバーは ピッキング用によく使われるため 警官に難癖付けられるリスクが あるので、玄人の不良は プラスドライバーを持つの だそうです。w
物盗りが目的の場合、鉄パイプ で殴る場所も相手の太腿だったり 決まっています。 痣が服で隠れる、致命傷にならない、 逃げにくくなる… 殴っても動じない相手からは 直ぐに撤退します。 金を直ぐに差し出すカモを 効率よく回転させるのがコツです。w
ただし、要注意は外国人で ロシアや東欧系。 奴らは刑務所を怖れないので 危険です。 紛争だとか戦争のある国の 性なのかもしれませんが…… 後、海外は銃持っている場合も あるので注意。
何だかんだ言って一番安全なのは 危険な場所に行かない、交番に 駆け込むだと思いますよ。 複数で行動するとか。 暴漢を撃退する人もいますが、 金を直ぐに出して追っ払う方が リスクが少ないと思います。
これは一つコツなのですが…… 学生さん限定です。
ある程度の規模の不良グループは 必ず盗品市場を開いてる奴がいます。 そういう奴はやたらと地元のギャング や不良グループの勢力図や分布に 詳しかったりします。 ヤンキー漫画の解説キャラみたいな やつね。w
そういう奴と仲良くなっておくと、 街のどこにどんな危険な人間が いるか分かるので、そういう場所を 避ければいいのです。w
大人の場合、警察か地元の自治会 とかでそういう情報を収集している 可能性もあるので、結局は コミュニケーションが大事って ことですかね。
イタチ @mapetitebelette 11月3日
@FeydoTaitei 仰る事、とても分かります。笑 コミュニケーションは大切ですね。いつどのような貴重な情報を得られるか分かりませんから。そのためには人との間に信頼関係を築いておくことですよね。
アルテピアッツァ株式会社 @ArtePiazza 2月7日
【倉庫】今やほとんど使われていないマイナスねじ。しかも今、先端の幅0.5cm以上、長さ15cm以上の大きなマイナスドライバーを、業務等正当な理由なく隠して屋外で携帯すると、最悪の場合、通称ピッキング防止法違反に問われる可能性もあるとか。十分ご注意を。(志)
あーちゃん @Archan_Japan 10月18日
ちなみに、バッグや車のダッシュボードにハサミを入れてるだけで軽犯罪法で捕まえることができる。マイナスドライバーはピッキング防止法に引っかかかる。警察がその気になれば、起訴できるかどうかは置いといて何とでも理由つけてしょっ引くことはできる。
まくはりきょうとう @maq_kyoto 10月8日
それよりも「マイナスドライバーやカッターナイフをかばんに忍ばせた」”だけ”で、ピッキング防止法違反や銃刀法違反になることのほうが知られていないし、現実に判例もあるというのになぜこちらは「知られていない法違反になる行為」で取り上げられないか不思議。
タケダモトツグ @Mototsugooday 2013年3月27日
なんで、マイナスドライバーを所持してはいけないかというと、特殊開錠用具の所持の禁止等に関する法律(ピッキング防止法)の「指定侵入工具」に指定されており、 >業務その他正当な理由による場合を除いて「隠して携帯」すると処罰されることとなった。
ちゃーるう @tya_ruu 2012年6月18日
『仮にこれが、凶器にもピッキングにも使えない只のプラスドライバーだったとしても、工具の不法所持でアウトでしょう。 いずれも軽犯罪法ですが、有罪にすることができます。 2009年の秋葉原では、そうゆうことが本当に横行していたことはネットニュースでも話題になりました。』
魔法使いハンターねこた @lanekota
トラキアの話をまとめてみた(グダグダ要注意)
http://togetter.com/li/611489
“トラキアン・コード見終わったぞ!感想いくで。重要な事がわかったよ!グノーシスの源流かもしれない”
“トラキア。ねこたはね、ディオニュソスやヘルメス神の故郷で、遊牧騎馬民族でいわゆるイラン語派にあるよーな人たちかな?という認識しかなかった。でもこの国重要よ!単なるマケドニアの隣国じゃない!”
“ねこたはトラキアの宗教に対してはほんと、知識がなくてオルペウス>>ピュタゴラス>>プラトンという順序でギリシア哲学に多大な影響を与えたって話しか 知らなかったの。そしたらやべえことがわかったんだよ!テレビの情報なんでクロスチェックしてなくてすまないけど、引用する”
“引用「トラキア人。人が生まれると悲しみの歌を唄い人が亡くなると喜びの歌を唄った。肉体は魂のひつぎであり死ぬと魂が解放され自由になるのだと考えられ ていた。」おお!これグノーシスやん。しかもトラキア人は本来のニャン間の居場所は星の世界にあると信じてたらしいんだ。”
“ギリシア神話のヘルメースはトラキアから来た神なんだよね。エジプトの時代になってヘルメスはヘルメス・トリスメギストスになり、ヘルメス文書というのが書かれたの。私2バージョン持ってるけど、ヘルメス文書の世界観がさ、これまたトラキアの宗教観そのまんまなんだよね!”
“トラキア人は、プラトンやピュタゴラスが言うように肉体を魂の墓場だと考える思想を持っていた。みんあ知らんけど、トラキアのオルペウス教の影響を受けた ピュタゴラスのギリシア哲学に対する影響はパネエものがあってね、ソークラテースが死ぬのウキウキしてた話もピュタゴラス派と対談の中だよ!”
“さっき引用したようにトラキア人は、子供が生まれると悲しみ、人が死ぬと魂の開放として喜び、星辰の世界が本来の人間の住処だとおもってたらしい。これっ てさ、オフィス派の世界観やヘルメス文書などのグノーシス文書にあるよね?地上を抜けた魂は、月下界を抜け、遊星点を抜け、最後は恒星点に行く”
“かなりトラキア人の宇宙論はグノーシス系の宇宙論とかぶるよね。トラキア人の王は、死ぬとき最愛の女房を道連れにするんだけど、この感覚ってインドのサ ティーに似てるわ。旦那が死ぬと未亡人が後を追って死ぬの。これ、上流階級だけの習慣なんですよ。インドの。トラキアでも同じみたい。”
“トラキアの遊牧騎馬民族の文化っていわゆる、インド=イラン系のアーリア(笑)人の文化とかなり似てる。文字を残さなかった所とか、インドでも同じで肉体 は仮住まいだと思ってた所とか、騎馬民族とか、イラン人の美的感覚もこの世のものでないような幻想的な感覚だよね?ああ、なんかgdgdだわw”
“とにかく、トラキア人の文化は、いわゆるアーリア(笑)人と呼ばれるサカ族とか、ペルシア人とかそういったイラン系の遊牧民と共通点があると思われます。 青木健先生の「アーリア人」という本を見ればそのあたりの感覚がよくわかります。遊牧騎馬民族で文字を持たず、冶金に長けてた。コーカサスもそう”
“またヒクソス、トラキア、コーカサス、ケルト、イランこのあたりは馬と馬車を持ち込んだ遊牧騎馬民族なんですよ。私このラインすごく怪しいと思ってます。このラインを追っていくとなぜか、輪廻転生だの独自の宗教観や、金属加工などに優れた面などが出てくるわけですよね。”
“またトラキアってワインの名産地でしてね、ギリシアにディオニュソスの密儀を持ち込んだのもトラキア人なんですよ。ディオニュソスといい、ヘルメスといい、西洋神秘主義で重要な役割をしている神はどうもトラキアに関係あるんですよ。ヘルメスとトラキアhttp://tsukinoshizuku2012.weebly.com/30334295391239829579.html”
“遊牧騎馬民族というのは、アラブのベドウィンもそうだけど、いわゆる商業民でもあるわけやな。中央アジアのゾロアスター教の担い手で有名だったソグドやク シャナ人など、中央アジアのイラン語派系遊牧騎馬民族は有能な商業民でもあった。おそらくトラキアもそうだったんだろうな。”
“あとトラキアのラインを追いかけていったら、陸上の移動としての馬(広大なペルシア帝国は幹線道路が整備されてて早馬だと端から端まで7日でした)とフェ ニキア人などの海洋民族とドッキングしたりもするわけか。フェニキア人も金属加工に優れて民族で、錫を求めてブリテンにまでいってるんですよね。”
“フリーメイソンはフランス語で言うと、リベルタメイソンになり、なんか言葉がおかしいのでフルリ人という意味もある。フルリ人か。ここね、トラキアとフェ ニキアがドッキングした土地なんだよね。ここでの言語は確かイラン語派だったような覚えがあります。フルリ人謎が深いです。gdgdすんません”
“ケルト・フェニキア・トラキア・フリギア・フルリはどうもアナトリアの西部あたりでドッキングすることがわかってんだよな。有名な「イーリアス」に出てく るトロヤはミダス王で有名な黄金文明のフリギアと同じだし、トラキアに繋がる。またローマ人は我々はトロヤから来たという伝説がある。”
“フルリ人といえば、不思議な話があって、フルリ人はアナトリアに住んでたのに、ゾロアスター教の経典の言葉であるアヴェスター語(サンスクリット語とも深 い関連があるで)とそっくりの言葉を話してたんだよ。あのね、ザラスシュトラが話してたアヴェスタ語は、イランのホラサーン辺りの言葉だよ。”
“ゾロアスター教の経典のアヴェスター語は、ヴェーダの言葉であるサンスクリット語と深い関連性があってね、元々はインドに近いイラン東部の言葉なの。そう いった古いインド=イラン語がアナトリアで話されてて、フルリ人の名前がメーソンのダブルミーイングがあってさ、なんかおかしいよね?”
“フルリ人で検索しましたところ、なんということでしょう。ヒッタイトの関連性が出てきました。たんぽぽさんは、エジプトに侵略した謎の民族のヒクソスは ヒッタイトとフェニキアとユダヤの連合軍ではないか?と言ってました。またしても遊牧騎馬民族と金属加工技術が繋がるわけですよ。”
“トラキア人はテレビでもあってたように、ものすごく緻密な金銀細工を作ってる。この冶金って技術大事な視点だよ?錬金術は元は冶金なのよ。トラキア、ケル ト、ヒッタイト、ヒクソスあたりどうやら冶金技術との関連がもりもり出てくるわけよ。なぜ騎馬民族に金属と言えば馬具の必要性からね?”
“なんかこう、gdgdになってもうたけど、フリメの背後に、インド=イラン系の馬と馬車と金属加工の技術を持った秘教集団がおるみたいでな。トラキアもそ の一部で、トラキアのさかさまーな宗教観が古代ギリシアに影響を与えまくってて、その影響から現代も抜けきれないというやばい状態なのよねー”
“フリーメイソンで特別の聖人といえば、カインとトバルカイン。カインは罪人やけど、鍛冶屋の祖でもある。鍛冶屋などの特別な技術を持ったギルドの祖なのよ わかる?また、せんじろうさんの話ではもののけ姫のたたら場(多々良は百済だよ)みたいに鍛冶をやってると目をやられるんだってさー。おめめー”
“おっと、トラキアの生死観の間にあるのがオルペウス教の神話。オルペウス教の詳しいのはこっち読んでね。http://morfo.seesaa.net/article/196190386.htmlこれすごく、イザナギとイザナミの話に似てるよね?それが西洋の輪廻転生やらグノーシスのモトネタとはな”
“引用「オルペウス派によれば、人間はティタンがディオニュソスを殺害した原罪を引き継いでいて、これに対する罰として霊魂が肉体に閉じ込められて輪廻を続 けるのです。 ですから、オルペウス派は肉体を霊魂の墓と考えました。オルペウス派によって初めて本格的な輪廻思想が西洋世界に持ち込まれました”
“引用「ポンポニウス・メッラは、「ヨーロッパの最大勢力であるトラキア人を注意深く観察する者は、この蛮族がおそらく自然信仰のためであろうが、死を恐れないということに容易に気付くであろう」と物語っている。」ここにグノーシスの秘密があると思うんだ。”
U @wayofthewind 2014年1月31日
現代の社会システムは、社畜や生贄(保険m)というヘルメスっぽい哲学で回していますよね。太田龍は何十年も前に、そこに気づいていたところがすごい。 @lanekota“太田龍先生が牧畜こそ邪悪の根源といってましたから、ヘルメスは羊飼いの遊牧民のトラキアの神”
ヒロチャ @hogege55 2014年1月5日
エルメスと苦悩死素が交差する時貧乏が生まれる…!? "@lanekota: トラキアから来たヘルメースとアレクサンドリアでできたヘルメス思想(こっちはヘルメス・トリスメギストス)とグノーシスが交差する時、陰謀は生まれる~♪"
Angeliqua @Ripple1975 2013年9月14日
ヘルメスについてはよく調べてください。彼は古くはトラキアの風の神様。認識と意識、言葉の神様であることをよく理解してから、その神話を追いかけてください。トート神も古くは原初神。その性質は酷似してる。この視点を確実に認識しながら神話を読むと凡てが解明されます。汝自身を知れの格言通り。
罰ゲームメイカー @DoppelDomes 2011年6月24日
《幻想コーナー》【ハルパー】ギリシャ神話の怪物メデューサの首を落としたペルセウスの剣。ヘルメスから与えられた黄金の剣。鉤爪の様な湾曲の刀身で、内側が刃になっている片刃の曲刀。ギリシャの古刀の名称でもあり、ローマ時代ではトラキアの剣闘士の持つ曲刀を指した。切断を象徴する鎌状の短剣。
senは墨と狼喰ってます @sen_wired 2013年12月16日
トラキアのヘルメスの方だったら一応羊飼いと風の神様なんですけどね
平川哲生 @bokuen
時代順に話を進めます。古代ギリシアのディオニュソスの密儀、オルフェウス教、ピュタゴラス教団などは、人と神の「一体化」を求める神秘主義でした。プラトンはこの影響を受け、さらにプロティノスの新プラトン主義に受け継がれます。
へぼん辞林 @hebon_jirin
【オルフェウス教】オルフェウスきょう 紀元前七世紀頃,ディオニュソス崇拝から成立したギリシャの宗教。オルフェウスの詩に基づき,宇宙の起源や神々の系譜を説き,霊魂不滅信仰を中心に密儀を行い,禁欲的苦行を行なった。ピタゴラス教団やプラトンに大きな影響を与えた。 #daijirin
よぼよぼ @yoboyobo · 2011年2月8日
〖Orpheus〗オルフェウス ギリシャ神話に登場する,トラキアの詩人・音楽家。オルフェウス教の創設者とされる。アポロンから与えられた竪琴に合わせて歌う彼の歌は鳥獣・山川草木をもひきつけたという。アルゴー号の遠征に参加。死んだ妻エウリュディケーを冥府から連れ戻 #daijirin
桃園穂鳥 @cawaU
ギリシアの伝説的詩人、音楽家。トラキアに生まれ、母は詩女神カリオペといわれる。オルフェウス教の開祖。竪琴を奏で、美しい声で歌うと、人も木も石も動いたという。死んだ妻エウリュディケを冥府から連れ戻すのに失敗し、いつまでも嘆き悲しんでいたため、トラキアのマイナデスたちに体を裂かれた。
オルフェウスを開祖と仰ぐ古代ギリシアの密儀宗教。英語でOrphism。時間神クロノスや卵生神話を含む宇宙創成論、ディオニュソス=ザグレウスの死と復活に仮託された人間論および輪廻転生説など、特異な教義で知られる。ピュタゴラス学派とは密接な関係にあると思われ、古代末期まで存続、新プラ
風橋 平( 㷑 ) @Kazahashi_O
人が産まれると悲しみの歌を歌い、人が死ぬと喜びの歌を歌う。それは肉体は魂の牢屋であり、自分達は魂として星の世界へ行く。 -トラキアの伝承より
安中 @yasunakayo
トラキア人の、肉体は魂の牢獄だから生まれたときに悲しみの歌を、死んだときに喜びの歌を歌い、星の世界に本当の魂の世界があるってのすごいなぁ
野生の瀬宮ニャンがあらわれた @shin_semiya
これどこから来たのかというと黒海北西部のトラキア発祥で、トラキアにおいては、地上とはあの世であり、人間は生きている間精神生命体として星々の海を巡り、死ぬと原罪により地上で懲役刑みたいな感じで生きることになるとされた。 よく生きよく死ねば、原罪は購われ、より高位の存在になるとされた
くろゑ@3月中旬新曲(予定) @xhloe · 12月13日
Illuminatiシリーズはグノーシス主義的な世界観を借りていますが、グノーシス主義オフィス派は蛇=人類に知恵を授けた聖なる遣いとして信仰していたそうです。
グノーシス主義オフィス派派の『バルク書』によれば、第二の男性原理エロヒムの天使が、第三の女性原理エデンまたはイスラエル(体は女性、足は蛇身)の女性体の部分の土からアダムを創り(蛇身の土から動物を創った)、エデンが魂を、エロヒムが霊を置いた
神話辞典bot @shinwa_jitenbot · 10月10日
ヤルダバオト グノーシス主義のオフィス派の説で7人のアルコンの一人。アリエルとも。名前の意味は「カオスの子」。 創造神として、「不可知な父」「未知の神」のすぐ下の地位を占めている。 http://www.jiten.info/dic/europa/ialdabaoth.html …
まだ夏だった白玉もち @siratamamoti777 · 2014年1月17日
ヒッタイトさん世界初鉄製武器使用戦車使用。バビロニア滅ぼしちゃうぜ。ミタンニさんフルリ人支配しちゃうぜ。 前十二世紀海の民がヒッタイト潰してエジプト後退させる。バルカン半島にまたギリシア系下りてくる。その名もドーリア人。ミケーネ諸王国南下の過程でいくつか潰す。
文キューちゃん @bunkyubotchan · 2月22日
紀元前16世紀頃にフルリ人が メソポタミア北部に建てた国 ミタンニ
世界の歴史 @sekaishiB_bot · 2013年5月17日
BC.1550 フルリ人がアッシリアの北西部にミタンニ王国を築き、西は北シリアから地中海に面したウガリト(現在のラス・シャムラ)まで、東はアッシリアを征服してチグリス川の東方まで進出した。
wikipedia bot スマホ対応版 @WikiBot_SmaPho · 12月21日
フルリ語 http://goo.gl/Giy5ZJ フルリ語は紀元前2300年ごろから紀元前1000年ごろまでメソポタミアに暮らし、ミタンニ王国を築いたフルリ人の言語。ウラルトゥ語と近く、二つをまとめてフルリ・ウラルトゥ語族と呼ぶ。フルリ・ウラルトゥ語族が孤立的である...
casipoco @secapoco · 2013年5月21日
ミタンニ:前16世紀にメソポタミア北部からシリアを制圧した王国。人口の大部分は民族系統不明のフルリ人が占めていた。前15世紀にはエジプト・ヒッタイトと並び繁栄したが、14世紀にヒッタイトに敗れ衰退し、後にアッシリアに併合された。
あかりペディア @akaripedia · 9月15日
ミタンニ(ヒッタイト語:Mi-ta-an-niあるいはMi-it-ta-ni、アッシリア語: Ḫa-ni-gal-bat - 「ハニガルバト」)はフルリ人が紀元前16世紀頃メソポタミア北部のハブル川上流域を中心に建国した王国である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%8B …
神様紹介bot(神ボ) @myth_god_bot · 2013年3月15日
《グルス/ヒッタイト神話》グルスたち。ヒッタイトの女神で名前の意味は「書記」、「運命を決める女性」。彼女達は個々の人間にそれぞれの運命をふりあて、生と死ばかりか、善と悪をも司る。フルリ人は彼女達をフテルナと呼んだ。
AK @ho_ro · 5月5日
エアもしくはエンキは、シュメールの外にも広範な影響をおよぼしたことから、(ウガリットの)エルや、おそらくは【カナン神話の神(エブラの)ヤハと同一視され、フルリ人やヒッタイト人の神話にも、契約の神として登場し人々に特に好まれていた】
神様紹介bot(神ボ) @myth_god_bot · 2013年9月15日
《クマルビ/ヒッタイト神話》先住民フルリ人の神。天候神テシュブに敗れ、復讐のために石の怪物ウルリクムミを生んだ。知恵の神エアが天地を切り離した魔剣でウルリクムミの足を切断して倒し、天候神の支配が確立された。
(石を剣=金属で倒した話。つまりフルリ人の金属加工技術の反映)
愛宕山太郎坊 @HTH_1557_1630 · 2012年9月29日
@pat_1308 ミタンニ王国はフルリ人(民族系統不明)らに建国された国で、ヒッタイトに吸収されたとしか知りませんでしたが、今調べたらサンスクリット系統の言語が使われていて神話も共通しているみたいですね。フルリ人も印欧系の可能性があるんですかね。
パト (派渡)@秘封病怖い @pat_1308 · 2012年9月29日
@Hanumaaaaan あれですよ、確かインド・アーリヤ系の人たちがミタンニのフルリ人を支配してたらしいですね。ヒッタイトとミタンニとの間の条約では「Mitrasil」(=ミトラ)、「Uruvanassil」(=ヴァルナ)、
パト (派渡)@秘封病怖い @pat_1308 · 2012年9月29日
@Hanumaaaaan (続)「Indara」(=インドラ)、あと「Nasatianna」(=ナーサティヤ双神)という神々の名前が出てきましたよ
フェイド大帝 @FeydoTaitei 12月16日
ミトラに拘る人達はヴァルナを もうちょっと調べた方がいい。 ヴェーダ教ではこの二神は ペアでセット。 ミトラが太陽なら、ヴァルナは 夜空の星々。 ミトラが契約の神の意味は? 契約を破った時に罰を 降すという意味さ。 昼はミトラに。夜間はヴァルナに。 監視されてるってことさ。
カフェバグダッド @cafebaghdad · 1月21日
トルコ石のアクセサリー。トルコ石の産地はトルコではなく、イラン北東部ホラサーン地方。写真はチュニジアの首都チュニス旧市街の土産物店で
雑学サディク @Sadick_bot · 2010年2月21日
トルコ石は本当はイランが原産なんだが、イスタンブールから世界へ広がったから「ターコイズ」つぅ名前で呼ばれてんでぇ。ちなみに12月の誕生石。石言葉は自由。冒険心。成功なんかだな
バリうゆ【管弦楽団】 @vprvprvpr · 6月25日
ゴルディアスの結び目(ゴルディアスのむすびめ)またはゴルディオンの結び目(英: Gordian Knot)は、古代アナトリアにあったフリギアの都ゴルディオンの神話と、アレクサンドロス3世にまつわる伝説
ロック・コール @rumble22z · 2013年7月28日
キュベレー(古典ギリシア語: Κυβέλη、英語: Cybele)は、アナトリア半島のプリュギア(フリギア)で崇拝され、古代ギリシア、古代ローマにも信仰が広がった大地母神である。
百科事典を読む者 @wpsurfer · 2010年8月24日
【フリギア - Wikipedia】 フリギア(Phrygia、ギリシャ語Φρυγία)は古代アナトリア(現在のトルコ)中西部の地域名・王国名である。フリュギア・プリュギアとも表記する。 #bot
ken @kenkatap · 2014年1月17日
サンタクロースの帽子=フリギア帽?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AE%E3%82%A2#.E6.96.87.E5.8C.96 …
▼フリギア(トルコ)の名三角帽子で知られる
▼トロイアの王子パリス
▼東方由来のミトラス神も
▼ローマ時代には解放奴隷のかぶりもの
▼自由を求める革命家の象徴→仏の自由の女神マリアンヌもかぶっている
ken @kenkatap · 2014年1月17日
魔法使いの帽子=フリギア帽(トルコ)?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%B9 …
▼ミスラ信仰は、マギ神官 (magi) により小アジア、シリア、メソポタミアに伝道、ギリシアやローマに
▼善悪二元論と終末思想
▼最大のミトラス祭儀は12月25日の祭、キリスト教クリスマスの原型
らすとらだ @naguignol · 10月28日
フランス革命の自由の象徴フリギア帽、ミトラ教の神官が白い雄牛を犠牲にするとき被ってた帽子と同じ形。ややこしいことになってきたぞ
竹田義男 @take35c · 3月9日
@YouTube メーソンがミトラ教に関心を示すのは18世紀。アメリカ上院のマークにも赤いフリギア帽が→http://satehate.exblog.jp/17379282/
地球の歩き方編集部 @arukikata_book · 2013年11月5日
世界の国旗で唯一、表裏がある国をご存知ですか? 正解は南米パラグアイ。赤白青の横縞三色旗に、中央表には国章・裏には赤帽を守る獅子の図が。フリギア帽は古代ローマで解放奴隷が被ったもので、フランス革命時に自由の象徴とされたことに由来します⇒http://bit.ly/aQmdxu
神話辞典bot @shinwa_jitenbot · 2月22日
マギ 複数マグス 古代イラン(ペルシャ)の伝承における司祭階級の呼称。また新約聖書にみられる東東方三博士、そのほか古代ギリシャ語(マゴスmagos)、ラテン語化、ヨーロッパに移入された言葉としてのマギがある http://www.jiten.info/dic/magi.html
神話辞典bot @shinwa_jitenbot · 2月21日
ウロボロス 自分の尾をくわえて輪になった蛇の図像。「尾を貪り食らう者」の意味。3世紀のギリシアの魔よけにみられる。中世ヨーロッパの錬金術師たちが錬金術の象徴として使った。 http://www.jiten.info/dic/uroborosu.html …
神話辞典bot @shinwa_jitenbot · 2月22日
アストラル ラテン語の「アステル aster(星)」に由来する語。魔術、錬金術などの伝承で、火と月からなる高レベルの世界 のこと。アストラル界は凡人が普段はみることができないが人間の感情と強く関わるという http://www.jiten.info/dic/astral.html
”マンダ教 manda (マンダヤ教) (英語mandaeands)
イラン、イラク地域の少数派の宗教。イラン、イラクでもイスラム以外の宗教も共存している。
洗礼者ヨハネの系統であると信じ、祖先はAD70年エルサレム陥落後、東に移住したと伝える。
光と闇の二元論、霊的な魂が物質的な悪の世界にとらわれていると説くグノーシス主義に由来するという。
救世主マンダイヤ(名前の意味は、生命の知、知識)に救われると説く。
マンダ教徒、マンダヤ教徒というのは、この救世主の名に由来する。”
http://www.jiten.info/dic/asia/manda.html
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「人生というクソゲーを攻略する方法」。原始仏教は宗教=執着=苦しみの原因を否定。つまり原始仏教は苦を克服する為の現実的なカウンセリング術『バウッダ―仏教』。 キリストきょうはユダヤガワルイをとなえた! キリストきょうをたたけなくなった! ✝が黒幕。
Posted on 2015.02.06 Fri 17:55:37 edit
原始仏教は宗教=執着=苦しみの原因を否定。つまり原始仏教は苦を克服する為の現実的なカウンセリング術。
人生というクソゲーを攻略する方法
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20699310
上記の動画作成者は、人生攻略の手段としての執着を取り除くことを重視しています。
この動画の紹介も兼ねて、今回は、道(道一語で仏教を意味する。神道の意味はない)と仏道と仏法と仏教の話。
日本の伝統が神道ではなく仏教なのは日本語が仏教用語だらけなのと、神道・天皇・神器・惟神が道教用語(神道用語って何ですか?)であることから明白です。
金輪際、仏教用語を使わずに日本語を使おうとするとほぼ無理です。
日本語を学ぶ=仏教の概念を学ぶと言っても大袈裟ではありません。
ご飯をシャリというのは、舎利(しゃり。釈迦の骨)という仏教用語が元ネタであるように、明治以前の本物の天皇は仏教徒であり伊勢神宮に参らなかったように、日本の真の伝統は仏教=神と仏の実体を否定する思想です。
(さあ、ここまでで仏教用語はいくつ出てきたでしょう?)
神道家(笑)の息の根が止まりかけそうなことを言っておりますが、神道って「墓場への道」って意味があるんですよね。なのに、死体のことは「仏」とは呼びますが「神」とは呼びません。仏頂面はありますが、神頂面はありません。
神道=和風キリスト教という偽伝統を捏造したキリスト教の得意な呪文が
「ユダヤガワルイ」
キリストきょうはユダヤガワルイをとなえた!
キリストきょうをたたけなくなった!
全部ユダヤ(と在日)のせいにしている✝(と大本教系カルト)が黒幕です。
彼らの根本思想を理解したくないなら、支配層代表のプラトンの演説をどうか見ないで下さい。
【マギ】マギ特殊ED集【モガメット演説】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm22755002
ニコニコ市場に商品を貼ったのは私です。
初期仏教では呪文は禁止。
つまり「ユダヤガワルイ」も「ザイニチガワルイ」の呪文も禁止(冗談)。
この呪文禁止ということは今の一般的な仏教ではまったく守られておりません。
般若心経の終わりのぎゃーてー以下略なんて完全に呪文ですし。
仏教の経典は難しいと思われているのは漢語のままのせいです。聞いても意味が分からないのだから、お経全てが意味不明な呪文みたいなものですよね?
漢文の書き下しを読んでも意味が分からないのだから、やはり意味不明な呪文です。
内容を理解するには、どうしても現在の我々の言葉に直す=口語訳が必要です。
が、多くの仏教学者が、口語訳とは経典の内容を卑属化するから駄目だと主張したせいで口語訳は今でも普及していません。
あの難解な古い訳語を墨守していたら学問自体の発展を邪魔することを判らないのが自称頭のいい学者たちです。
この人たちは仏教学者のくせに、人々に判るように言いなさい(口語訳しなさい)という釈迦の教えを守っていません。
釈迦は、理解力のある人には相応に、一般の人にはとても解りやすく説きました。当然、現地の言葉で、聞く人々が分かるように語ります。少なくともそう心がけるでしょう(通訳を介することはあったでしょうが)。
つまり、経典の口語訳が卑属化であるなどという仏教学者の主張は、釈迦の教えに反する者であり、釈迦が聞けばさぞ残念がるでしょうね。
本記事で登場する般若心経にしたって、意味が分からないのに読んでも悟れるわけないじゃないですか。般若波羅蜜って漢語で言われて(今辞書を引くのちょっと待って)意味が分かりますか?
般若=(悟りの)智慧。
ハラミツ=波羅蜜=修行で完遂・獲得・達成されるべきもの。
釈迦の教え通りに伝えるなら般若波羅蜜多と言わずに、
「悟りの智慧の完成(完全に悟ること)」と今の人が分かる言葉で言わないといけないのです。
私が以下の仏教系ツイートを取り上げるのは、神と愛で侵略するキリスト教に対抗できる思想として、仏教(執着=愛は悪。愛憎を越えた慈悲が良い。神に実体なし)が良いと考えたからです。
私の思想は原始仏教(宗教=執着=悪)に近いですが、別に仏教徒ではありません。
仏教の慈悲は、キリスト教などのいう「人々への」憐憫の思いではありません。仏教においては「一切の生命」は平等で、全生物に等しく与えられるのが慈悲であり、愛憎の対立を超えたものなのです。
キリスト教では創世記で動物を支配させる為に神が人間を創った、とあります。キリスト教では人間は特別で霊魂があり、人間以外の動物にはない、と考えます。だから魚である人魚姫には魂がないのです。
キリスト教がいかに仏教を憎んでいるかが分かりますね?
仏教では愛は悪。愛は執着であり憎悪に繋がる。愛と憎しみを越えた慈悲こそが素晴らしいと説く。
しかも、ミトラ(弥勒)でわかるように日本の仏教にはキリスト教の真の元ネタであるミトラ教が混じっている。
だからこそ神道家(和風キリシタン)が主張する歴史(笑)は、仏教を完全に無視したりするのです。あと、仏教国教時代をなかったことにするために、超古代と明治以降の偽伝統が好きですね。伝統が無いからこそ伝統をでっちあげるのです。
仏教国教時代の多数派の思想である本地垂迹説では、神の正体は仏としています。つまり、神に実体なしとしているのです。神とは仏が被る仮面なのです。仏教では神は仏より格下です。
当然、仏教徒の本物の天皇は現人神ではありません。神に実体はなく、仏より格下なのだから、天皇を現人神と呼んだら反逆者ともみなされたでしょうね。だから現人神は伝統ではありません。
なお、仏教は仏すら実体はないとします(空の思想=絶対的存在の否定)。
朝廷の思想が本地垂迹説=仏>神なのだから、神仏習合は八百万の神々を仏教化して仏教に取り込んで、国教=仏教勢力逆らえないようにする為に行われたものです。
だから神と仏は対等ではありませんでした。神仏習合は神と仏は対等だとする思想だというのは神道(和風耶蘇教)が流しているデマです。仏が神より上です。
仏教圧倒的優位の証明が、八幡大菩薩です。今の八幡宮(八幡神を祭神とする神社の総称)は、八幡は神だとして仏教化(仏教支配)をなかったことにしています。
しかし、昔は寺でした。八幡大「菩薩」を祀っている宗教施設はいくら神社と名乗ろうが「寺」ですから。
石清水八幡宮も昔は石清水八幡宮護国寺でした。「護国寺」=仏教の施設だったんですよ、石清水も。
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi
祇園は祇樹給孤独園という仏教用語の略称なのでシオンを意味することはない。精舎=寺。 ユダヤ教の行事カレンダーの7月は空白でシオン祭りは実在しない。 #日ユ同祖論 はスコットランド人製で #大本教 系の特徴
「天皇が信仰した思想体系がある伝統宗教」=神道は明治期のキリスト教による捏造。
明治以前の神道
①単なる土着神崇拝。神社は地域土着の祭壇。政治に影響力なし。
②道教の一派としての神道(天皇と神器も道教用語)。
本地垂迹説=仏教優位で神仏習合。
#日ユ同祖論 は道教と仏教を無視。
聖書が根拠の偽伝統
神道の現人神、神前結婚式、完全に良い意味での愛、 働かざる者食うべからず(勤勉な日本人)。
仏教国教時代の本地垂迹説では、神の正体は仏=現人神に実体なしだから伝統ではない。
おきむさん @kimrising 2013年3月12日
祇園とは祇樹給孤独園の略。コーサラ国の首都シュラーバスティー(舎衛城)に住み、日頃から孤独な貧者に衣食を給与していて「給孤独」と呼ばれていた長者スダッタ(須達)が、釈迦の住居(精舎)として、コーサラの王子ジェータ(祇陀)所有の林(祇樹)を譲り受けそこに寺院を建て釈迦に寄進したもの
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 8月23日
@lanekota カテゴリーは分析に使うと便利。カテゴリーが通用しないものを人間は存在を認識できない。 支配者の思想の中核となるものの翻訳は特に中核となる箇所では信用できない。大学の研究で翻訳は参考程度なのが普通。特に古代語。シンプルな原文の用語を難解な専門語にするのはわざと。
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 2月10日
猫太”あの難しい翻訳わざとなんですか。ラテン語の教科書といい、どんだけ陰謀にまみれてるんだかwわかりやすい言葉で書かれた古典シリーズを作りたいですう”
言語で分割統治。例えばウィキでは日本のことなのに、日ユ同祖論の起源がイエズス会で布教意図もあったことは英語版にしか書いていない。
たうべ@畜20年 @taubeeeeee 8月29日
愛って漢字あるじゃん あれって訓読みないんだよね ってか基本的にアイしか読み方ない 漢字はもともと大陸由来だからアイって言葉も外来語なはずなわけで 訓読みがない以上はその概念すらなかったんじゃないかと
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 11月9日
@taubeeeeee 「愛」は仏教では執着=悪。 キリスト教では創造神が与える善。 なのでアガペーは16世紀(仏教が国教)の『どちりな きりしたん』では「御大切」と訳されました。 明治維新でキリスト教の植民地になって以降、愛=善というキリスト教思想に染まったのが今の日本人です。
ぴいぷう妖怪 @pirorinpipipi 11月10日
@kitsuchitsuchi @taubeeeeee 「愛」=執着 自分は相手をこんなに愛してるという自己陶酔。もっと愛されたい。もっと○○をしてあげたい。浮気しないで!私だけを愛して!という押し付けがましさ。愛は嫉妬、憎悪、ストーカー、DV、暴力、戦争などトラブルを生む。
@kitsuchitsuchi @taubeeeeee 愛ってウザイし妄想激しいし執着心強いしひとりよがり。激しく愛し合ったカップルほど別れ際は激しい憎悪。キリスト教の「愛」よりも、、、仏教の「慈悲」が大事!! はんにゃ~は~ら~みった~♪
菊池@kikuchi_8 • 12月5日
6)王仁三郎は「わしは先ず仏教を滅ぼす型をやるのや、それが色々な宗教を滅ぼす型になるのや」と日本の伝統宗教を破壊することを明白に意図していた。これはワンワールドの露払いであろう。文鮮明も宗教統一を標榜。日本会議に世界連邦主義者多し。最近の「宗教国連」。意味は同じ。皆同じ穴の貉。
フェイド大帝 @FeydoTaitei 9月25日
西洋人の神は常住善と常住悪の
肯定から来ている。プラトンの
言うイデアと一緒ね。
仏教は無常を説くので、
そもそもイデアなんか存在しません というスタンス。
ちなみに常住というのは実存する
という意味ね。反対語が無常。
J・ナナミ @pinkglalem
以前、学会員の方に言ったんですが、「仏教は宗教ではありません。“空の概念”が存在する限り、アレは哲学です。仏教に信仰を持ち込んだら、ソレは既にカルトです」
...相手は、絶対に納得しませんでしたね。
昔、学会員の人と話してて、佛教とは仏を否定する哲学と言ったら、信じてもらえなかった。創価は佛教を偽装した大本教だから...彼らには理解出来ない。ネズミ講のよーな収奪システムの中で来る筈のない未来の幸福を待ってる。佛教はその“未来”ってヤツを否定してる。
フロイドの精神分析は佛教に似ている。「時間」と「空間」と、それらを造った「神」の否定。これら3つは、人間の作り出した妄想に過ぎない。そう論破したのが、佛教。それゆえに政治的には宗教の目的(人心掌握)をなさなかった。だから本場インドでは佛教は死滅した。
佛教では「愛」を執着とし、否定しました。キリストは執着しました。私も何も信じていない。ところが、どこかで何かを無意識に信じているのです。何かに執着しているnです。私も...カルマですかね?私たちが見る物、信じている物はすべて幻想です。
時間は空間が存在しない限り、存在しない。空間は私たちがイメージの中で造り出しているモノで、現実には存在していない。このイメージに執着する事を、佛 教は「愛」と呼んだ。キリストは愛を説くが、佛教は否定している。故に、佛教は時間を否定するが、キリスト教は肯定している。
人類最大の病はキリスト教。なんで、アラビア半島の局地的な信仰が、世界的に蔓延するのか?誰も疑問に思わない。いや、怖くて口に出さない。あれはただの精神病。#カルト #強迫神経症 #戦争 #ユダヤ陰謀論 #偽情報工作員
出口王仁三郎や笹川良一と血が繋がっていたと言われる牧口常三郎は明確に佛教の戒律を否定しています。だから、在家団体が誕生した。
明治維新の際に、この隠れミトラの佛教を駆逐する為に作られたのが、金光教、天理教、大本教。創価学会は大本の分派。出口王仁三郎と牧口常三郎は異母兄弟。牧口の甥が戸田城聖。牧口が大石寺に通って、在家信者団体創設の許可を取り付ける。佛教に偽装した大本教。
バラモンというのは、あーだ、こーだと、へ理屈をゴネて原住民の存在を全否定して、自分達の支配の正当性を説いたんですが...このへ理屈に特化した邪教(佛教)は、バラモンの存在理由まで否定し始めちゃった。さー大変。インド社会は立ち行かなくなります。
この邪教(佛教)の台頭で、インドの支配階層のヒエラルキーが否定され、危機感を感じたバラモンは理論武装して対抗しました。理論武装で生まれ変わったバラモン教が、ヒンディー教です。
菊池 @kikuchi_8
スッタニパータ1035【 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるもの でのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」】←洗脳防止の指針にもなりうる名句かと。
3)逆に洗脳を防止する為には五感を通して入ってくる感覚や情報に気を付けることが肝要となる。仏陀は最古の原始仏典スッタニパータの中で「煩悩の流れを せき止めるものはなんですか?」という学生アジタの質問に答えて「気をつけること」と答えている。極めてシンプルだが、確かにその通りである。
11)最古の仏典であるスッタニパータに「世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである」と極めて簡潔な煩悩克服法の記述 がある。あまりにも簡潔だがよく考えてみると確かに合理的である。仏教自体が本来極めて理にかなった精神鍛錬法の体系とも言える。
仏陀 ブッダ ことば 仏教 @Buddha_Words
837 マーガンディヤよ、「私はこのことを説く」ということが私にはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における過誤を見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎを私は見た(スッタニパータ)
841 マーガンディヤよ、あなたは自分の教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執着した事柄について迷妄に陥ったのです。あなたはこの内心の平安について微かな想いさえも抱いていない。だからあなたは「ばかばかしい」と見なすのです(スッタニパータ)
1070 よく気をつけて、無所有をめざしつつ「何も存在しない」と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ(スッタニパータ)
855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において他人を自分と等しいとは思わない。また自分が優れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。彼には煩悩の燃え盛ることがない(スッタニパータ)
1119 つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は見ることがない(スッタニパータ)
839 「教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる」とは私は説かない。「教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも清らかになることができる」とも説かない(スッタニパータ)
846 ヴェーダの達人は、見解についても思想についても慢心に至ることがない。彼は宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。彼は執着の巣窟に導き入れられることがない(スッタニパータ)
399 禍いの起るもとを回避せよ(スッタニパータ)
436 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる(スッタニパータ)
437,438 汝の第五の軍隊は物憂さ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊は見せかけと強情と誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己を褒めたたえて他人を軽蔑することである(スッタニパータ)
450 最上の善いことばを語れ。これが第一である。正しい理を語れ。理に反することを語るな。これが第二である。好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。真実を語れ。偽りを語るな。これが第四である(スッタニパータ)
1078 世の中で真理に達した人たちは、哲学的見解によっても、伝承の学問によっても、知識によっても聖者だとは言わない。煩悩の魔軍を撃破して、苦悩なく、望むことなく行う人々、彼らこそ聖者である(スッタニパータ)
中村元/三枝充悳『バウッダ―仏教』 (小学館ライブラリー (80))
・「愛」の語は、阿含経には「渇愛」としてあり、愛は欲望の一種で、最も激しく、自己中心的であることから、厳しく排斥される。愛ないし大愛の語が仏教に迎えられるのは、ずっと後代の、密教に入って以後のことである。
・慈悲
=慈(他に楽を与える。与楽)+悲(他の苦を抜き取る。抜苦)。
・仏教の最初期から慈悲、慈と悲に加えて、喜(き。ムディター)と捨(しゃ。ウペッカー、ウペークシャー)とが一括して説かれることが多い。
喜とは自らの喜びと同時に他を喜ばすこと。
捨とは平静を指し、心に動揺も偏向もまったくない在り方を表現する。それは、いわば完全な無差別から、更に無性に通ずる場に、いわゆる「無縁の慈悲」を招き寄せて、なんらのかかわりをもたぬものに対しても、大いなる慈悲をもって接しつつ、しかも慈悲ということそのものを空(くう)じているという。このような慈悲喜捨は、どこまでも限りなく広げられて、これを四無量(心)(しむりょう。しん)という述語の成立を見る。
・紀元前に釈迦の姿が彫刻されることはまったくありえず、空白のままにするか、あるいは数種のシンボル(仏足跡、菩提樹、法輪など)で表現される。仏像がインド北西部のガンダーラに、また中インドのマトゥラーに最初に出現するのは紀元後一世紀末~二世紀以降というのが定説である。
・古くから仏教教団はサンガと呼ばれ、これが漢訳では「僧伽(そうぎゃ)」と音写されて、日本語の「僧」となる。したがって、僧とは、元来は教団全体を意味し、個人を意味する語ではない。
・インドで仏教が衰退し、滅亡したというのは、正確には、イスラーム軍によって、1203年にヴィクラマシラーの大寺院が徹底的に破壊され、比丘はすべて殺され、仏教サンガがインドから消滅した。
・業(カルマ)と輪廻(サンサーラ)は、すでに仏教創始以前の古ウパニシャッドに説かれており、全インド人に不可避の強固な人生観を形づくって、インド史全体を貫き、現在に及ぶ。現世における業、すなわち行為によって来世に生まれる場が決定される、とインド人は信じて疑わず、来世の場には、地獄・餓鬼・畜生・人間・天の五つを立て、のちのは、畜生と人とのあいだに阿修羅を挿入して、これを六道と称する。
つまり、来世に六道のいずれに生まれ変わるかは、すべて現世の業が決定し、この生まれ変わりであり輪廻は転生とも呼ばれる。これは生あるものは決して逃れられないという考えがインド人すべてを支配している。
・仏塔(ストゥーパ。卒都婆。卒塔婆)崇拝
もともとインドでは、古代から格別に由緒ある人、特に聖者に対して、滅後その故人を記念する墳墓をつくり、それには土饅頭型に土を盛り上げて祀った。通常インドでは、一般の人々は元来(現在もなお)各個人が死後も長く留まる墓に相当するものを設けない。
輪廻転生思想が広く行き渡り、普通の人々は死後最大四十九日までには、再び新たに「生あるもの」に生まれ変わると固く信じていて、墓そのものの必要性も、その意義もないことになる。おおむね死後は遺体が河畔に運ばれて火葬にされ、そこに残る骨も、灰も、ことごとく河に投ぜられる。それがガンジス川であることを強く望み、とりわけその中流のベナレス(ヴァーラナーシー)は最大の霊場として、今日に至る。釈尊は入滅後、インドの古風に従った。つまり、ニルヴァーナ(涅槃)に達して輪廻することのない釈尊の遺体は、クシナーラー村の住人たちによって荼毘(=火葬)に付されたあと、その遺骨と遺灰とを多くの在家信者たちが入手を争い、結局は有力な信徒に八分割され、彼らはそれを持ち帰って、記念碑であるストゥーパ(仏塔)を建設し、その遺骨などを丁重に土の下に祀った。
中国と日本に伝わると文字通りの塔になる。中国では土と木、日本ではもっぱら木(卒塔婆)でできている。
また、スリランカ、ビルマ、タイ、カンボジアなど南方に伝わって「パゴダ」となり、石造のものが多い。
仏塔はインド全体に広がっているが、南部のデカン高原には、数多くの窟院(くついん。レーナ)が開削された。現存するものだけでの千二百以上あるといわれ、その約七五パーセントは仏教に属していた。その古いものは、紀元前二世紀ないし紀元前一世紀にはじめられており、特にアジャンターとエローラとの窟院群が名高い。なお、窟院には、仏塔を祀る礼拝堂と、比丘たちが住む僧院との二種があった。
(え、仏教って墓石を作らないの? じゃあ日本のあのバカみたいに高価な墓石はなんだよ、言いたくなりますが、墓石は儒教の思想です。位牌も儒教ですよ)
・「仏教」という言葉の使用例は存外に新しく、明治期の日本が欧米「近代」の移入を図った時に軌を一にする。「仏教」の語は「仏の教え」を意味する少数の場合を除くと、江戸時代末期まで知られていない。
江戸時代までの文献では「仏教」という語はほぼ絶無。教えないし理論については「仏法」といい、
実践に関しては「仏道」(この原語は「さとり」そのものをいう)の語が用いられており、仏法と仏道という語に日本人は(中国人なども)千数百年間なじんできて、今日でも一部は維持されている。
五世紀以前の中国では「道教」とも呼ばれた。
また、多種多彩な漢訳仏典中から特定の教えをみずから選びとって「宗(むね・主・本・長)」とすることが六世紀の中国に生まれ、その宗の教えとして「宗教」の語がここに発明された。
宗教は仏教の下位概念に属し、仏教徒のあいだでのみ用いられて、日本でも明治初期まで仏教諸宗は「わが宗教」と称し、かつ仏教は仏法や仏道(単に「道」だけでも仏教を意味する)などの語で表現されていた。
江戸末期の開国で外国語の翻訳としての今日の用法が定着する。仏「教」としたところにすでに西洋思想による変容がなされている。
同時期に哲学という造語が誕生し、仏教・宗教の後も本来的意味を改変されて、すでに日常語化して現在に至る。
宗教とは「宗」派の「教」えであるから、仏教の下位概念であり、仏教者のあいだでのみ宗教という語は用いられた。
・バウッダはサンスクリット語でブッダを信奉する人。
古代インドの哲学書などでは、仏教の教説のことをバウッダ・ダルシャナといい、バウッダというときはどこまでも、仏の教えを信奉する人のこと。
インドでは宗教や哲学は各個人のもの。社会的権威によって束縛されるものではない。だから、西洋でいう「クリスチャニティ」や「イスラーム」に相当する造語法が古代インドにはない。
現代インドでは、佛教(仏教)を意味してバウッダ・ダルマといい、スリランカではブッダ・ダンマあるいはブッダ・サーサナという呼称を用いるが、外来宗教に対立する宗教だという自覚が強くはたらいている。
・ブッダ=真理を悟った人。ジャイナ教でも最高の聖者をブッダと呼ぶ。仏教は当時から使われていたブッダを採用した。ジャイナ教徒のあいだでは『聖仙のことば』(イシブハーシヤーイム)という書を伝えている。この書は聖人、賢者とみなされていた哲人のことばを集めたもの、あるいはその哲人たちについて歌った詩を集めたものである。この書ではいかなる宗教の人であろうとも、聖人、聖者をブッダと呼んでいる。
(ブッダは複数いることが重要ですね)
・仏教は「法」を説くのであって、「教義を説くのではない」。諸宗教や哲学の説く教義なるものは偏見として仏教では排斥する。
仏教の説く教えも「方便」である。それは筏のようなもの。目的を達したら捨てられねばならない。筏を大切なものだとして大事にしがみついているのは単に「執著」にすぎない。
原始仏教では法の権威が最高のものであり仏より上位だった。
ブッダは永遠の理法を説いたのであって、新しい宗教を創始したのではない。ブッダは普通名詞であって、幾人いてもかまわない。
(仏教は教祖とされる釈迦が実在しなくてもまったく問題ない教え。
キリスト教は十字架にかけたれたことにされている生贄=教祖が実在していないと教義が崩壊する教え。
そもそも冤罪なのに罪を購ってくれた自分が生まれるはるか前の神の子に感謝って凄い教義ですな。罪=悪を創ったのも神=善のふりをする大悪魔ですよね。
自由意志で悪を選択したって?
じゃあなぜその悪を滅ぼさないんですか?
なぜ悪を野放しなのですか?
そもそも悪という選択肢をなくせばいいのでは?
信仰を試す? 意地「悪」ですね!
悪ではなく「善の欠如」だという言い訳をする人がいますけど、悪という概念は善という概念がないと成立しませんよね? 善に相当するという言葉だけがあって悪に相当する言葉がない言語を教えてくれませんか?
聖書の神を「極悪人」と置き換えて読むと非常に納得できますよ)
・阿含経に満ちているあまたの問いは、すべてみずから現に体験している苦しみ、悩みから発せられ、そのそれぞれに対して釈尊はその質問者の現実に即して答える。ただし、苦悩そのものを即座に解消するような、いわば直接的な手段や方策というよりは、むしろ苦悩に対処してゆくべきその在り方をとりあげて、それを熟慮しつつ答えがなされる。いわば外部の状況その他は不変のままでありながら、みずから苦悩としているところが、実は苦悩ではなくなり、いつしかその苦悩がその内部において消え、安らかな境地にもたらされる、そのような図式を描いて展開する。
釈尊はその答えにおいて、人間の力を絶した創造主としての神も、また祈禱や呪術もことごとく退けており、超自然的なものは排除している。そうではなく、あくまでもこの現実に徹し、この現実に即し、終始この現実において解決しようとする。この意味において、釈尊は、総じて仏教は、常のこの現実を直視し、凝視するという立場に基づく現実主義、と表現され得よう。
仏教では哲学的アポリア(難問)、つまり形而上学を意図的に斥ける。
(釈尊が形而上的な=確かめようがないことを語ると、それが教義になってしまいますからね。
形而上学的なことは現実的思考から離れてしまうので答えなかったのです)
阿含経は十種にまとめ十難と術語化した。
①世界は常住(世界は時間的に無限)
②世界は無常(世界は時間的に有限)
③世界は有辺(世界は空間的に有限)
④世界は無辺(世界は空間的に無限)
⑤身体と霊魂は同一
⑥身体と霊魂は別異
⑦真理達成者(如来)は死後に生存する
⑧真理達成者(如来)は死後に生存しない
⑨真理達成者(如来)は死後に生存し、かつ生存しない
⑩真理達成者(如来)は死後に生存するのでもなく、かつ生存しないのでもない
これらの質問は何回も反復されて釈迦に回答を求める。
釈尊は常に「無記」を通した。すなわち、どのような誘導があり、あるいは誹謗があっても、あくまでも沈黙を守り続けたまま、何の答えもしていない。
・苦=自己の欲するままにならぬこと、思い通りにならぬこと。
・仏教の「生」(しょう)は全て「生ずる」「生まれる」意であり、「生きる」意ではない。
・刹那(クシャナ)=75分の1秒=0.0133……秒
・仏教では「無時間的な実体」のような考えはことごとく排除されている。
・ほとんどの仏教解説書に「実体の否定としての無我」が無我の説明としてあるが、これは阿含経(初期仏教の教典)かならかなり離反している。
阿含経に説かれる無我は、特にその原初形は、「執着の否定としての無我」あるいは「無我とはとらわれないこと」と解さないといけない。
初期の大乗仏教の「空」を理論づけた龍樹も、実体否定論と同時に、一貫して「空とはとらわれないこと」と説いている。
・初期仏教の経典のスッタニパータに
“自己を洲(す)とし、自己を依りどころとして、他を依りどころとせず、法を洲とし、法を依りどころとして、他を依りどころとせずに、住せよ”
「洲」のパーリ語は、ディーパであり、それはパーリ語が、大河の中に浮かぶ島あるいは庇護所を意味するサンスクリット語のドゥヴィーパに相当するこの解釈に基づく(現在の学会では、この解釈が正当とされる)。
しかしサンスクリット語には、上記のパーリ語と同じディーパという語があり、それに結びつけるならば、「あかり、燈明」となる。
先程引用したスッタニパータの箇所を漢訳した阿含経の該当箇所では
“自燈明、自帰依、法燈明、法帰依(自らを燈明とし、自らを帰依とす、法を燈明とし、法を帰依とす)”
・マントラ=マン(考える)+トラ(用具などを表す接尾辞)
=思考の道具。
般若心経の概要(梗概)。
観自在菩薩(観世音、観音菩薩)がまず登場し、般若ハラミツの実践において、ありとあらゆるすべて(五蘊)は空(無執著)であると明らかに観じ取り、一切の苦を離脱した。
そこで舎利子(舎利弗=しゃりほつ。シャーリプトラ)に呼びかけて、この空を五蘊のひとつひとつについていう。
すなわち、まず
色(いろ・かたちあるもの、物質として現象しているもの)に関して説く「色即是空、空即是色」。その大意は、ものと空との完全な一致にあり、ものがそのまま空であり、同時に、空であることがものをそのものたらしめて、そのものとしてあることを示す。
ただちに、五蘊のうちの他の四つ、
受(感受、感覚)、
想(表象、イメージ)、
行(形成力、意志)、
識(認識)について、空を反復し、生と滅、垢と浄、増と減のおのおのの否定がある。
同様に、
六入(眼・耳・鼻・舌・身・意)と
六境(色・声・香・味・触・法)と
六界(眼界~識界)、
十二因縁(無明~老死)、
四諦(諦=真理。苦・集・滅・道)という、
阿含経(初期仏教の経典)から部派を経て大乗仏教までの全仏教に通ずる基本的述語に「無」を付して否定し去って空を裏付け、ここではすでに智も得も所得も同様に無であり、こうして菩薩は般若ハラミツによって、一切の障害は消滅し、恐れもなくなり、転倒(てんどう。ひっくり返る)した思いから遠く離れて、仏教の理想の極致であるニルヴァーナに至り完成する。三世(過去・未来・現在)の仏たちもこの般若ハラミツによってはじめて、至上最高の「さとり」を得たと説く。そのあとに、当時すでに重要な役割を果たしたマントラ(真言。呪)の語を引き、般若ハラミツを無比で最高のマントラとしたうえで、呪を唱えて経を結ぶ。その呪の大要は、
「到達したものよ、到達したものよ、彼岸に到達したものよ、彼岸に完全に到達したものよ、さとったもの(あるいは、さとり)よ、幸あれ」という。
般若心経の空を従来の般若経の説明に引きつけて無執著と訳したが、この経の成立時にはすでにナーガールジュナ(龍樹)の空の理論づけが果たされているので「固定された実体を立てない」、さらには「それだけで存在すると見て固有の本体を有する、という考えから離れる」、と解釈したほうがふさわしかろう。
(「絶対」の否定)
・般若+波羅蜜多=智慧の完成。
六波羅蜜=六種の波羅蜜。
波羅蜜はパーラミター(=最上・完全・極致)の音写。
般若ハラミツ=智慧の完成(到彼岸)。
般若とは空の思想。空の思想は大乗経典の般若経に終始一貫して説かれ、「こころにとどめつつも、とらわれるということがない」「とらわれない」「無執著」と解される。
・空のサンスクリット語のシューンヤは、インド人(人名も年代も不明)が人類史上はじめて発見した数のゼロの原語でもあって、そのゼロ(空)は単なる無でもなく、単なる有でもなく、同時に有でも無でもあり、また有でも無でもないという(例えば、102の0)、一見矛盾に満ちた多面性を発揮する。
ゼロが発見されなかったならばすべての自然科学の根底にある数学(近代数学)はその根拠を失ってしまう。ゼロの発見によって、例えばマイナス(負)の概念が明らかにあり、更に重要なことは十進法(じっしんほう)が成立し(言うまでもなくインドが最も古く、アラビアを経てヨーロッパに伝わるのは千数百年後)、また数学の基本である加減乗除が容易になった。その際、ゼロは加えても減じても、元の数に何の変化もないが、ゼロを乗ずればあらゆる数をゼロに変え、ゼロで割ることは一般には考えられない。
ゼロは日常のいたるところに溢れ、「空」も同じ。「空」によって私たちが現に生きている相対の世界はいちおう成立している。しかしその底には、その相対の世界そのものの否定が厳としてあり、その否定のゆえに、私たちのこの世界すべてはあくまで相対的である。
般若心経の訳例+解説
http://dic.nicovideo.jp/a/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C
“(これは、人智を超えた般若波羅蜜多についての心経である)
全てを識り、全てを見る聖者アヴァローキテーシュヴァラ(観音菩薩=観自在菩薩)は、深遠なる悟りを得る修行の中でこの世の五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊、後述)には実体がないことを明らかにした。この発見により、苦しみは全て解かれよう。
シャーリプトラ(舎利子、仏陀のもっとも古い弟子の一人)よ。この世の形あるもの全てに実体というものはない。実体がないままに形を作っている。形あるものには実体がなく、実体がない故に(あらゆる)形を得る。感じること・気づくこと・思うこと、そして知ること(これら心で作用すること全て)もまた同じだ。
シャーリプトラよ。全てのことに実体はないのだから、全ては生まれもせず、滅することもなく、汚れているということもなく、清らかであるということもなく、増えることもなく、減ることもない。
つまり、実体が無いこの世の真実の世界においては、全て存在しない。真実の世界においては、形作っているもの・感じること・気づくこと・思うことを知ることもなく、目・耳・鼻・舌・感触・意識(肉体で感じること全て)もなく、景色・声・匂い・味覚・ぬくもりも、その相手も、全て存在しない。眼に見えるものと、それによって心のなかで生じたことも、全て存在しない。これら存在しないものへの無知からくる悩みもない。けれどもその悩み自体は尽き果てることもない。この世では老いるということも死ぬということもないままに、老いも死も尽き果てない。苦しみなどない。故にこの世では苦しみを滅する道も、それを知ることも、得ることもない。得ることもないから、苦しみを知る者(菩提薩埵)は、この発見(般若)によって、こだわりをもたず、こだわりがないから、恐れもいだかず、全ての夢想からはなれて、静かなる心の世界(涅槃、ニルヴァーナ)へと至るであろう。
こうした過去・現在・未来(三世)の諸仏は、この深遠なる発見(般若波羅蜜多)によって、悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得る。
故に知れ。この発見(般若波羅蜜多)を述べるこの大いなるマントラ(まじないの言葉)は、明らかに、この上もなく、並ぶこともない呪(言葉)であると。全ての苦しみはこれにより解かれ、そこには真実のみがあり、偽りはない。
故にこの般若波羅蜜多の真言は、
「羯諦 羯諦 (ガテー ガテー:往ける者よ)
波羅羯諦 (パーラガテー:悟りの境地に往ける者よ)
波羅僧羯諦(パーラサンガテー:悟りの境地を往った者が)
菩提 (ボーディ:"菩提"である。)
薩婆訶 (スヴァーハー:幸いあれ。)」
これが真実の悟りの教えである(般若心経)。
(…)
※「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」は『大般若経』以外の経典から引用された陀羅尼(だらに、仏教的呪文)。陀羅尼は暗誦されるのが常だったため、翻訳当時でも正確な原意が失われていた。そのため、ここは音写に頼らざるを得なかった(日本語における「ちちんぷいぷい」みたいなもの)。世に散見される該当部分の解釈は梵語等からの類推であり、あくまで参考の域を出ない。
そもそも陀羅尼は何度も復唱することで無念無想の境地に至ることを旨とするため、その意味をあまり深く考えなくてもよいものなのだ。
※五蘊とは仏陀死後100年の間に分裂した仏教(部派仏教)における世界観を認識する手法の一つで、人間の意識を構成する要素を5つに分けたもの。色蘊(人間の肉体や、それを構成する物質)・受蘊(人間が感覚すること、いわゆる五感)・想蘊(「受」で感覚したことで、出てきたイメージ)・行蘊(「想」のうえで、出た何らかの意志。「~したい」など)・識蘊(「受」「想」「行」を総合して出した判断)の5つである。般若心経ではこれすらも空としている。
(…)
般若心経が描いているのは、釈迦の目の前で、上座部仏教で最も尊い修行者である阿羅漢(あらかん、アルハン。「(崇敬と布施を受けるに相応しい)聖者」の意)の筆頭であるシャリープトラに対して、観自在菩薩が大乗仏教の「空(実体は存在せず、他との関係の中で現れて見えるということ)」の思想を説いている場面である。
その説では、上座部が悟りを得る上で重要視する十二因縁や四聖諦をも含む万物が「空」であり、したがってそれらに依らず、陀羅尼(掲諦掲諦…)を唱え全てが「空」であるという真実(般若)を感得する事(波羅密多)こそが最高の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)に至る道である、とされる。
そして最後に最高の覚者である釈迦が説法の全てを追認し観自在菩薩を褒め称える――つまり上座部を貶めて大乗を賞揚する内容となっている、というのが一般的な解釈である。
「空」とは何か? 悟りとは何か?
さて、般若心経の本質であり、有名な格言「色即是空 空即是色」。ここに説かれている「空」というものは一体なんであろうか。ちなみによく勘違いされるが、「空」は「無」と同義ではない。むしろ「無」ですら「空」によって成り立つ現象のひとつ(色)に過ぎないとされている。
長らく仏教界ではこの「空」を説明するのには多大な労苦が費やされてきており(折空観)、その最も良いテキストが『弥蘭王問経(ミリンダ王の問い)』の仏典だと言われている。ここではその考えを借用して、「空」をごく簡単に説明するのに、パソコンのたとえ話(方便)を用いるとしよう。
パソコンを例にとれば、デスクトップ型パソコンをバラバラに分解してしまえば、それはもはやパソコンとは呼ばれず、それぞれの部品にしても、最早「かつてはパソコンであった」パーツに過ぎなくなり、「パソコンという存在」は消えてしまう。また、パソコンのキーボードからキーを幾つか抜いてもパソコンと認識されるように、部品そのものにもその総体にもパソコンという一個のアイデンティティを示す実体があるわけではない。
だがしかし、一度バラバラにした部品をもう一度組み立て直せば、先程まで消えていた「パソコンという存在」は再び我々の目の前に戻ってくるのである。
ならば「パソコン」という概念は、一体全体どこの何を表現した言葉なのだろうか。ディスプレイだろうか? マウスだろうか? キーボードだろうか? HDDだろうか? あるいはもっと小さなICチップなどであろうか? 答えはいずれも否である。先に挙げたうちの、そのどれもが「パソコン」そのものではない。しかし、いくら否定したところで、パソコンというものがこの世に存在しているのもまた厳然とした事実なのである。では、パソコンとは一体何なのだろうか? パソコンとはこの世に「ある」のだろうか、それとも「ない」のだろうか。答えは簡単、「ある」とも言えるし「ない」とも言えるのである。
つまり、"パソコン"と呼ばれるものは様々な部品がしかるべき因縁で組み合わさった中に垣間見える『現象(概念)』なのである。当然、部品やその集合体にパソコンという実体が存在するわけではない。したがって「無」というものも、パソコンを分解した途端に発生する「空」という本質の一側面に過ぎず(「空」⊃「無」)、パソコンは最初から「ある」とも言えるし「ない」とも言えるのである。「色」とは「現象」のことであり、「空」とはこの現象を引き起こす仕組みそのものを指しているのである。
この考えを応用すれば、基本的にはこの世の森羅万象すべての実在を否定することが出来る(「空」≒「非実在」≠「無」 であることは、これでもうお分かりだろう)。
あらゆる事物の本質は、それそのものの実体とは別に存在し、そしてその本質は人が理解できない次元に存在する。これが般若心経の本質、「色(現象)即是(すなわちこれは)空 空即是(すなわちこれは)色(現象)」である。この世の本質も実体も、実は概念上の物でしかないのである。
その上、ブッダはこの「空」の考えを流用し、最終的には当時信じられていた魂の存在さえも否定するに至った。詳しい説明は省くが、ブッダは瞑想の末に、この世において輪廻転生を繰り返しているのは魂や霊ではなく、「自分」という潜在意識・記憶そのものにしがみつこうとする人の意志そのものであると看破した(法相宗の考え方がこれに近い)。この「自分という存在そのものへの執着」を捨てることが出来れば、転生するはずの「自意識」そのものが消失するため、人間は二度と生まれ変わることはなくなり、輪廻転生の輪から解脱し、何度も生まれ変わって苦しみ、傷つくことはなくなる……というわけである。つまり仏陀が夢想した原始仏教は、「二度と生まれ変わらないこと」を目的として生まれたのである。
「悟り」とはつまりこのことである。ブッダは、人間が転生する仕組みと転生を信じる理由、そしてその転生の仕組みを生み出している人間の深層心理の構造そのものを「悟った」のである。
……と、このような考え方を会得する過程までが『悟りを得る修行』なのであって、悟った後はこの悟りを具象・抽象ひっくるめた万物に適用し、それを単なる知識を超えて感得しなくてはならないのであるから、大乗仏教とはいえ無上の正しい境涯に至る道は決してなだらかな訳ではない。つまり、「悟り」はすごろくの『上がり』ではなく、悟っただけではどうにもならないのである。そういうわけで、人は悟った後、今度はどのようにその理論に即して煩悩や執着を捨てていくか、という問題にぶち当たることになる。
そういうわけで、以後この「悟り」を得るための方法論は枝分かれし、その方法論の違いは本邦に多数の仏教宗派を生んだ。「個人の中に大宇宙を再現し、その中に涅槃寂静の境地を発見する」とする真言宗、「悟りは人間の誰しもの中に最初から備わっているのだから、それを修業によって引き出す」ことを目的とした曹洞宗、臨済宗などの禅宗などがその好例である。
ここまで熟読された方はもうお分かりであろうが、本来仏教は厳密な哲学的・論理的思考の下に成り立っている宗教であり、般若心経はそのための最上のテキストに位置づけられている。肉体的・精神的修行を重視する日本仏教の影響を受け続ける日本人は、この経文自体に霊的な力が内在しているとされていると誤解しがちである。しかし、般若心経は唱えれば何かが起こったり悪霊が裸足で逃げ出すといったまじないではなく、これ自体を意識することなく読唱したり写経したりすること自体にはあまり意味がない。禅宗などの言語を否定する宗派を除けば、あくまで論理的思考によってこの文章を理解し、釈迦の教えをよりよく実践することが悟りのための第一歩になるわけである。
この記事を熟読された皆様は今、まさに悟りの入り口に立ったことになるのだ。求道者たちよ、悟りと共にあれ。”
説話風の訳例
http://dic.nicovideo.jp/r/a/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C/233400
”《一切を知る方(釈迦)に帰命(きみょう。御仏の教えに身命を投げ出して帰依すること)する。》
<わたしはこのように聞いた。世尊(釈迦の尊称)が王舎城(おうしゃじょう。ラージャグリハ。古代インドのマガダ国の首都)にいらっしゃった頃、霊鷲山(りょうじゅせん。グリドラクータ山)を数多の比丘(びく。托鉢行者)と諸々の菩薩(菩提薩埵。求道者)を伴って遊行していらっしゃった。まさに世尊が深い悟りという名の深い瞑想に入られたその時、>
全てを知り全てを見るといわれる菩薩アヴァローキテーシュヴァラ(観自在)は、深遠な悟りの智慧を完全に成就する(般若波羅密多)修行の中で、この世の生き物を構成する五つの要素(五蘊。ごうん)には実体が無く(空)、各々との関係の中であたかも実体があるかように見えるに過ぎない、ということを明らかになさった。
【この悟りの智慧の極めにより、衆生の苦しみは全て解かれよう。(度一切苦厄)】
<すると、長老シャーリプトラ(舎利子。舎利弗(しゃりほつ)とも。「智慧第一」と称される、釈迦の十大弟子の筆頭)は、その御仏のお力を以てして、菩薩アヴァローキテーシュヴァラにこうおっしゃった。
「善男子(ぜんなんし。仏徳の有る男)ならば誰でも、深遠な悟りの智慧を極める修行を望むもの。そうした者には、どのように教えてやったらよいと想いますか?」
そのように訪ねられた菩薩は、長老へこのようにお答えになった。
「善男善女(ぜんなんぜんにょ)ならば誰でも、深遠な悟りの智慧を極める修行を望むものです。そうした者は、次のように明らかにしたらよいと想います。まず彼は、生き物を構成する五つの要素には実体がない、と見なしました。>
「シャーリプトラよ。この世の形あるもの全てに実体というものはありません。実体がないままに形を作っています(色)。形あるものには実体がなく。実体がない故に(あらゆる)形を得ます。感じること(受)、想うこと(想)、気づくこと(行)、そして知ること(識)、これら心に作用すること全てもまた同じです。
「シャーリプトラよ。全ての物事の本質に実体はないのですから。全ては生まれもせず、滅することもなく。けがれているということもなく、清らかであるということもなく。増えることもなく、減ることもありません。つまり、実体が無いこの世の真実の世界においては。形も、感じることも、想うことも、気づくことも、知ることも、五蘊(=色受想行識)は全て無いのです。
「目、耳、鼻、舌、感触、意識の六根(=眼耳鼻舌身意)全ても無く、景色、声、におい、味覚、触覚、想念の六境(=色声香味触法)も全て存在しません。目が有るということ(眼界)から、心が想うということ(意識界)にいたる十八界(=六根×(部位、対象、作用))も全て、有りはしないのです。
「十二因縁(苦しみの根源を説く12の因果の連なり)の最初である無知(無明)すら無く、しかるに無知がなくなることもありません。つまり十二因縁の最後である老いて死ぬ(老死)ということも無いままに、老死がなくなることも無いのです。四聖諦(ししょうたい。四諦とも。悟りの道を示す4つの真理。=苦集滅道)に至っては、あり続けることによる苦しみ(苦。八苦)などありませんから、苦しみを集める原因(集)である生への執着(渇愛)も無く、苦しみを消すために執着を捨てる事(滅)も、その為に行う修行(道。八正道を含めた七科三十七道品)もありません。
「つまり(十二因縁や四聖諦によっては、悟りの智慧を)知ることがありません。得ることもありません。得ることもないですから、菩薩はこの悟りの智慧の極みによっても、何のわだかまりも持ちません。わだかまりがないのですから、恐れもいだかず、全ての災難を乗り越えて、究極の安らぎの世界(涅槃、ニルヴァーナ)へと至ります。過去、現在、未来において菩薩は、悟りの智慧を極める事で、最も優れた正しい悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得るのです。
「故に知るべきなのです。この悟りの智慧の極みである大いなる聖句(マントラ。まじないの言葉)は、霊験あらたかな、この上なく、並ぶものなき聖句であると。全ての苦しみはこれにより解かれるのです。何故ならそこには真実があり、偽りなどありませんから。悟りの智恵を極める聖句とはこの通りです。
『羯諦(ガテー、着きしものよ)羯諦(ガテー、着きしものよ)波羅羯諦(パーラ=ガテー、彼岸に着きしものよ)
波羅僧羯諦(パーラ=サン=ガテー、彼岸に辿り着きし者よ)菩提薩婆訶(ボーディ・スヴァーハー、悟りよ、共にあれ)』
<「シャーリプトラよ、深い悟りの智慧の修行では、菩薩はこのように教わればよいと想います。」
(菩薩アヴァローキテーシュヴァラがこう締めくくった)まさにその時、世尊は深い瞑想から立ち上がりつつ、菩薩へ讃辞を送った。
「いや見事、お見事です、善男子よ。深い悟りの智慧の成就に於いては、まさしくそのように修行を行ったらよいのです。あなたが示した事は、諸々の如来(仏陀(悟りを開いた者)の尊称)や阿羅漢(あらかん。聖者)も認めるところなのですよ。」
世尊は心からお喜びになり、そうおっしゃった。長老シャーリプトラと菩薩アヴァローキテーシュヴァラ、そして諸天(仏教に帰依したインドの善神族)、人間、阿修羅(仏教に帰依したインドの鬼神族)、乾闥婆(けんだつば。仏教に帰依したインドの精霊神族)をはじめとした全世界が、世尊のその言葉に喜んだのだった。>
これが、悟りの智慧の完全なる成就を説く、その心臓となる教えの書(般若心経)の完成である。”
摩訶般若波羅蜜多心経
http://www.nicovideo.jp/watch/sm304046
般若心経のサンスクリット版の歌
Imee Ooi - Mantras Of The Sanskrit
https://www.youtube.com/watch?v=OO1YbUUDBms
第七回現代仏教塾 「死後・輪廻はあるか」Ⅱ近代仏教学の「無記」の誤解・東洋大学名誉教授 森章司
https://www.youtube.com/watch?v=KnAKezi7pNo&feature=youtu.be
人生というクソゲーを攻略する方法
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20699310
上記の動画作成者は、人生攻略の手段としての執着を取り除くことを重視しています。
この動画の紹介も兼ねて、今回は、道(道一語で仏教を意味する。神道の意味はない)と仏道と仏法と仏教の話。
日本の伝統が神道ではなく仏教なのは日本語が仏教用語だらけなのと、神道・天皇・神器・惟神が道教用語(神道用語って何ですか?)であることから明白です。
金輪際、仏教用語を使わずに日本語を使おうとするとほぼ無理です。
日本語を学ぶ=仏教の概念を学ぶと言っても大袈裟ではありません。
ご飯をシャリというのは、舎利(しゃり。釈迦の骨)という仏教用語が元ネタであるように、明治以前の本物の天皇は仏教徒であり伊勢神宮に参らなかったように、日本の真の伝統は仏教=神と仏の実体を否定する思想です。
(さあ、ここまでで仏教用語はいくつ出てきたでしょう?)
神道家(笑)の息の根が止まりかけそうなことを言っておりますが、神道って「墓場への道」って意味があるんですよね。なのに、死体のことは「仏」とは呼びますが「神」とは呼びません。仏頂面はありますが、神頂面はありません。
神道=和風キリスト教という偽伝統を捏造したキリスト教の得意な呪文が
「ユダヤガワルイ」
キリストきょうはユダヤガワルイをとなえた!
キリストきょうをたたけなくなった!
全部ユダヤ(と在日)のせいにしている✝(と大本教系カルト)が黒幕です。
彼らの根本思想を理解したくないなら、支配層代表のプラトンの演説をどうか見ないで下さい。
【マギ】マギ特殊ED集【モガメット演説】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm22755002
ニコニコ市場に商品を貼ったのは私です。
初期仏教では呪文は禁止。
つまり「ユダヤガワルイ」も「ザイニチガワルイ」の呪文も禁止(冗談)。
この呪文禁止ということは今の一般的な仏教ではまったく守られておりません。
般若心経の終わりのぎゃーてー以下略なんて完全に呪文ですし。
仏教の経典は難しいと思われているのは漢語のままのせいです。聞いても意味が分からないのだから、お経全てが意味不明な呪文みたいなものですよね?
漢文の書き下しを読んでも意味が分からないのだから、やはり意味不明な呪文です。
内容を理解するには、どうしても現在の我々の言葉に直す=口語訳が必要です。
が、多くの仏教学者が、口語訳とは経典の内容を卑属化するから駄目だと主張したせいで口語訳は今でも普及していません。
あの難解な古い訳語を墨守していたら学問自体の発展を邪魔することを判らないのが自称頭のいい学者たちです。
この人たちは仏教学者のくせに、人々に判るように言いなさい(口語訳しなさい)という釈迦の教えを守っていません。
釈迦は、理解力のある人には相応に、一般の人にはとても解りやすく説きました。当然、現地の言葉で、聞く人々が分かるように語ります。少なくともそう心がけるでしょう(通訳を介することはあったでしょうが)。
つまり、経典の口語訳が卑属化であるなどという仏教学者の主張は、釈迦の教えに反する者であり、釈迦が聞けばさぞ残念がるでしょうね。
本記事で登場する般若心経にしたって、意味が分からないのに読んでも悟れるわけないじゃないですか。般若波羅蜜って漢語で言われて(今辞書を引くのちょっと待って)意味が分かりますか?
般若=(悟りの)智慧。
ハラミツ=波羅蜜=修行で完遂・獲得・達成されるべきもの。
釈迦の教え通りに伝えるなら般若波羅蜜多と言わずに、
「悟りの智慧の完成(完全に悟ること)」と今の人が分かる言葉で言わないといけないのです。
私が以下の仏教系ツイートを取り上げるのは、神と愛で侵略するキリスト教に対抗できる思想として、仏教(執着=愛は悪。愛憎を越えた慈悲が良い。神に実体なし)が良いと考えたからです。
私の思想は原始仏教(宗教=執着=悪)に近いですが、別に仏教徒ではありません。
仏教の慈悲は、キリスト教などのいう「人々への」憐憫の思いではありません。仏教においては「一切の生命」は平等で、全生物に等しく与えられるのが慈悲であり、愛憎の対立を超えたものなのです。
キリスト教では創世記で動物を支配させる為に神が人間を創った、とあります。キリスト教では人間は特別で霊魂があり、人間以外の動物にはない、と考えます。だから魚である人魚姫には魂がないのです。
キリスト教がいかに仏教を憎んでいるかが分かりますね?
仏教では愛は悪。愛は執着であり憎悪に繋がる。愛と憎しみを越えた慈悲こそが素晴らしいと説く。
しかも、ミトラ(弥勒)でわかるように日本の仏教にはキリスト教の真の元ネタであるミトラ教が混じっている。
だからこそ神道家(和風キリシタン)が主張する歴史(笑)は、仏教を完全に無視したりするのです。あと、仏教国教時代をなかったことにするために、超古代と明治以降の偽伝統が好きですね。伝統が無いからこそ伝統をでっちあげるのです。
仏教国教時代の多数派の思想である本地垂迹説では、神の正体は仏としています。つまり、神に実体なしとしているのです。神とは仏が被る仮面なのです。仏教では神は仏より格下です。
当然、仏教徒の本物の天皇は現人神ではありません。神に実体はなく、仏より格下なのだから、天皇を現人神と呼んだら反逆者ともみなされたでしょうね。だから現人神は伝統ではありません。
なお、仏教は仏すら実体はないとします(空の思想=絶対的存在の否定)。
朝廷の思想が本地垂迹説=仏>神なのだから、神仏習合は八百万の神々を仏教化して仏教に取り込んで、国教=仏教勢力逆らえないようにする為に行われたものです。
だから神と仏は対等ではありませんでした。神仏習合は神と仏は対等だとする思想だというのは神道(和風耶蘇教)が流しているデマです。仏が神より上です。
仏教圧倒的優位の証明が、八幡大菩薩です。今の八幡宮(八幡神を祭神とする神社の総称)は、八幡は神だとして仏教化(仏教支配)をなかったことにしています。
しかし、昔は寺でした。八幡大「菩薩」を祀っている宗教施設はいくら神社と名乗ろうが「寺」ですから。
石清水八幡宮も昔は石清水八幡宮護国寺でした。「護国寺」=仏教の施設だったんですよ、石清水も。
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi
祇園は祇樹給孤独園という仏教用語の略称なのでシオンを意味することはない。精舎=寺。 ユダヤ教の行事カレンダーの7月は空白でシオン祭りは実在しない。 #日ユ同祖論 はスコットランド人製で #大本教 系の特徴
「天皇が信仰した思想体系がある伝統宗教」=神道は明治期のキリスト教による捏造。
明治以前の神道
①単なる土着神崇拝。神社は地域土着の祭壇。政治に影響力なし。
②道教の一派としての神道(天皇と神器も道教用語)。
本地垂迹説=仏教優位で神仏習合。
#日ユ同祖論 は道教と仏教を無視。
聖書が根拠の偽伝統
神道の現人神、神前結婚式、完全に良い意味での愛、 働かざる者食うべからず(勤勉な日本人)。
仏教国教時代の本地垂迹説では、神の正体は仏=現人神に実体なしだから伝統ではない。
おきむさん @kimrising 2013年3月12日
祇園とは祇樹給孤独園の略。コーサラ国の首都シュラーバスティー(舎衛城)に住み、日頃から孤独な貧者に衣食を給与していて「給孤独」と呼ばれていた長者スダッタ(須達)が、釈迦の住居(精舎)として、コーサラの王子ジェータ(祇陀)所有の林(祇樹)を譲り受けそこに寺院を建て釈迦に寄進したもの
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 8月23日
@lanekota カテゴリーは分析に使うと便利。カテゴリーが通用しないものを人間は存在を認識できない。 支配者の思想の中核となるものの翻訳は特に中核となる箇所では信用できない。大学の研究で翻訳は参考程度なのが普通。特に古代語。シンプルな原文の用語を難解な専門語にするのはわざと。
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 2月10日
猫太”あの難しい翻訳わざとなんですか。ラテン語の教科書といい、どんだけ陰謀にまみれてるんだかwわかりやすい言葉で書かれた古典シリーズを作りたいですう”
言語で分割統治。例えばウィキでは日本のことなのに、日ユ同祖論の起源がイエズス会で布教意図もあったことは英語版にしか書いていない。
たうべ@畜20年 @taubeeeeee 8月29日
愛って漢字あるじゃん あれって訓読みないんだよね ってか基本的にアイしか読み方ない 漢字はもともと大陸由来だからアイって言葉も外来語なはずなわけで 訓読みがない以上はその概念すらなかったんじゃないかと
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 11月9日
@taubeeeeee 「愛」は仏教では執着=悪。 キリスト教では創造神が与える善。 なのでアガペーは16世紀(仏教が国教)の『どちりな きりしたん』では「御大切」と訳されました。 明治維新でキリスト教の植民地になって以降、愛=善というキリスト教思想に染まったのが今の日本人です。
ぴいぷう妖怪 @pirorinpipipi 11月10日
@kitsuchitsuchi @taubeeeeee 「愛」=執着 自分は相手をこんなに愛してるという自己陶酔。もっと愛されたい。もっと○○をしてあげたい。浮気しないで!私だけを愛して!という押し付けがましさ。愛は嫉妬、憎悪、ストーカー、DV、暴力、戦争などトラブルを生む。
@kitsuchitsuchi @taubeeeeee 愛ってウザイし妄想激しいし執着心強いしひとりよがり。激しく愛し合ったカップルほど別れ際は激しい憎悪。キリスト教の「愛」よりも、、、仏教の「慈悲」が大事!! はんにゃ~は~ら~みった~♪
菊池@kikuchi_8 • 12月5日
6)王仁三郎は「わしは先ず仏教を滅ぼす型をやるのや、それが色々な宗教を滅ぼす型になるのや」と日本の伝統宗教を破壊することを明白に意図していた。これはワンワールドの露払いであろう。文鮮明も宗教統一を標榜。日本会議に世界連邦主義者多し。最近の「宗教国連」。意味は同じ。皆同じ穴の貉。
フェイド大帝 @FeydoTaitei 9月25日
西洋人の神は常住善と常住悪の
肯定から来ている。プラトンの
言うイデアと一緒ね。
仏教は無常を説くので、
そもそもイデアなんか存在しません というスタンス。
ちなみに常住というのは実存する
という意味ね。反対語が無常。
J・ナナミ @pinkglalem
以前、学会員の方に言ったんですが、「仏教は宗教ではありません。“空の概念”が存在する限り、アレは哲学です。仏教に信仰を持ち込んだら、ソレは既にカルトです」
...相手は、絶対に納得しませんでしたね。
昔、学会員の人と話してて、佛教とは仏を否定する哲学と言ったら、信じてもらえなかった。創価は佛教を偽装した大本教だから...彼らには理解出来ない。ネズミ講のよーな収奪システムの中で来る筈のない未来の幸福を待ってる。佛教はその“未来”ってヤツを否定してる。
フロイドの精神分析は佛教に似ている。「時間」と「空間」と、それらを造った「神」の否定。これら3つは、人間の作り出した妄想に過ぎない。そう論破したのが、佛教。それゆえに政治的には宗教の目的(人心掌握)をなさなかった。だから本場インドでは佛教は死滅した。
佛教では「愛」を執着とし、否定しました。キリストは執着しました。私も何も信じていない。ところが、どこかで何かを無意識に信じているのです。何かに執着しているnです。私も...カルマですかね?私たちが見る物、信じている物はすべて幻想です。
時間は空間が存在しない限り、存在しない。空間は私たちがイメージの中で造り出しているモノで、現実には存在していない。このイメージに執着する事を、佛 教は「愛」と呼んだ。キリストは愛を説くが、佛教は否定している。故に、佛教は時間を否定するが、キリスト教は肯定している。
人類最大の病はキリスト教。なんで、アラビア半島の局地的な信仰が、世界的に蔓延するのか?誰も疑問に思わない。いや、怖くて口に出さない。あれはただの精神病。#カルト #強迫神経症 #戦争 #ユダヤ陰謀論 #偽情報工作員
出口王仁三郎や笹川良一と血が繋がっていたと言われる牧口常三郎は明確に佛教の戒律を否定しています。だから、在家団体が誕生した。
明治維新の際に、この隠れミトラの佛教を駆逐する為に作られたのが、金光教、天理教、大本教。創価学会は大本の分派。出口王仁三郎と牧口常三郎は異母兄弟。牧口の甥が戸田城聖。牧口が大石寺に通って、在家信者団体創設の許可を取り付ける。佛教に偽装した大本教。
バラモンというのは、あーだ、こーだと、へ理屈をゴネて原住民の存在を全否定して、自分達の支配の正当性を説いたんですが...このへ理屈に特化した邪教(佛教)は、バラモンの存在理由まで否定し始めちゃった。さー大変。インド社会は立ち行かなくなります。
この邪教(佛教)の台頭で、インドの支配階層のヒエラルキーが否定され、危機感を感じたバラモンは理論武装して対抗しました。理論武装で生まれ変わったバラモン教が、ヒンディー教です。
菊池 @kikuchi_8
スッタニパータ1035【 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるもの でのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」】←洗脳防止の指針にもなりうる名句かと。
3)逆に洗脳を防止する為には五感を通して入ってくる感覚や情報に気を付けることが肝要となる。仏陀は最古の原始仏典スッタニパータの中で「煩悩の流れを せき止めるものはなんですか?」という学生アジタの質問に答えて「気をつけること」と答えている。極めてシンプルだが、確かにその通りである。
11)最古の仏典であるスッタニパータに「世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである」と極めて簡潔な煩悩克服法の記述 がある。あまりにも簡潔だがよく考えてみると確かに合理的である。仏教自体が本来極めて理にかなった精神鍛錬法の体系とも言える。
仏陀 ブッダ ことば 仏教 @Buddha_Words
837 マーガンディヤよ、「私はこのことを説く」ということが私にはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における過誤を見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎを私は見た(スッタニパータ)
841 マーガンディヤよ、あなたは自分の教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執着した事柄について迷妄に陥ったのです。あなたはこの内心の平安について微かな想いさえも抱いていない。だからあなたは「ばかばかしい」と見なすのです(スッタニパータ)
1070 よく気をつけて、無所有をめざしつつ「何も存在しない」と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ(スッタニパータ)
855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において他人を自分と等しいとは思わない。また自分が優れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。彼には煩悩の燃え盛ることがない(スッタニパータ)
1119 つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は見ることがない(スッタニパータ)
839 「教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる」とは私は説かない。「教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも清らかになることができる」とも説かない(スッタニパータ)
846 ヴェーダの達人は、見解についても思想についても慢心に至ることがない。彼は宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。彼は執着の巣窟に導き入れられることがない(スッタニパータ)
399 禍いの起るもとを回避せよ(スッタニパータ)
436 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる(スッタニパータ)
437,438 汝の第五の軍隊は物憂さ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊は見せかけと強情と誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己を褒めたたえて他人を軽蔑することである(スッタニパータ)
450 最上の善いことばを語れ。これが第一である。正しい理を語れ。理に反することを語るな。これが第二である。好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。真実を語れ。偽りを語るな。これが第四である(スッタニパータ)
1078 世の中で真理に達した人たちは、哲学的見解によっても、伝承の学問によっても、知識によっても聖者だとは言わない。煩悩の魔軍を撃破して、苦悩なく、望むことなく行う人々、彼らこそ聖者である(スッタニパータ)
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・「愛」の語は、阿含経には「渇愛」としてあり、愛は欲望の一種で、最も激しく、自己中心的であることから、厳しく排斥される。愛ないし大愛の語が仏教に迎えられるのは、ずっと後代の、密教に入って以後のことである。
・慈悲
=慈(他に楽を与える。与楽)+悲(他の苦を抜き取る。抜苦)。
・仏教の最初期から慈悲、慈と悲に加えて、喜(き。ムディター)と捨(しゃ。ウペッカー、ウペークシャー)とが一括して説かれることが多い。
喜とは自らの喜びと同時に他を喜ばすこと。
捨とは平静を指し、心に動揺も偏向もまったくない在り方を表現する。それは、いわば完全な無差別から、更に無性に通ずる場に、いわゆる「無縁の慈悲」を招き寄せて、なんらのかかわりをもたぬものに対しても、大いなる慈悲をもって接しつつ、しかも慈悲ということそのものを空(くう)じているという。このような慈悲喜捨は、どこまでも限りなく広げられて、これを四無量(心)(しむりょう。しん)という述語の成立を見る。
・紀元前に釈迦の姿が彫刻されることはまったくありえず、空白のままにするか、あるいは数種のシンボル(仏足跡、菩提樹、法輪など)で表現される。仏像がインド北西部のガンダーラに、また中インドのマトゥラーに最初に出現するのは紀元後一世紀末~二世紀以降というのが定説である。
・古くから仏教教団はサンガと呼ばれ、これが漢訳では「僧伽(そうぎゃ)」と音写されて、日本語の「僧」となる。したがって、僧とは、元来は教団全体を意味し、個人を意味する語ではない。
・インドで仏教が衰退し、滅亡したというのは、正確には、イスラーム軍によって、1203年にヴィクラマシラーの大寺院が徹底的に破壊され、比丘はすべて殺され、仏教サンガがインドから消滅した。
・業(カルマ)と輪廻(サンサーラ)は、すでに仏教創始以前の古ウパニシャッドに説かれており、全インド人に不可避の強固な人生観を形づくって、インド史全体を貫き、現在に及ぶ。現世における業、すなわち行為によって来世に生まれる場が決定される、とインド人は信じて疑わず、来世の場には、地獄・餓鬼・畜生・人間・天の五つを立て、のちのは、畜生と人とのあいだに阿修羅を挿入して、これを六道と称する。
つまり、来世に六道のいずれに生まれ変わるかは、すべて現世の業が決定し、この生まれ変わりであり輪廻は転生とも呼ばれる。これは生あるものは決して逃れられないという考えがインド人すべてを支配している。
・仏塔(ストゥーパ。卒都婆。卒塔婆)崇拝
もともとインドでは、古代から格別に由緒ある人、特に聖者に対して、滅後その故人を記念する墳墓をつくり、それには土饅頭型に土を盛り上げて祀った。通常インドでは、一般の人々は元来(現在もなお)各個人が死後も長く留まる墓に相当するものを設けない。
輪廻転生思想が広く行き渡り、普通の人々は死後最大四十九日までには、再び新たに「生あるもの」に生まれ変わると固く信じていて、墓そのものの必要性も、その意義もないことになる。おおむね死後は遺体が河畔に運ばれて火葬にされ、そこに残る骨も、灰も、ことごとく河に投ぜられる。それがガンジス川であることを強く望み、とりわけその中流のベナレス(ヴァーラナーシー)は最大の霊場として、今日に至る。釈尊は入滅後、インドの古風に従った。つまり、ニルヴァーナ(涅槃)に達して輪廻することのない釈尊の遺体は、クシナーラー村の住人たちによって荼毘(=火葬)に付されたあと、その遺骨と遺灰とを多くの在家信者たちが入手を争い、結局は有力な信徒に八分割され、彼らはそれを持ち帰って、記念碑であるストゥーパ(仏塔)を建設し、その遺骨などを丁重に土の下に祀った。
中国と日本に伝わると文字通りの塔になる。中国では土と木、日本ではもっぱら木(卒塔婆)でできている。
また、スリランカ、ビルマ、タイ、カンボジアなど南方に伝わって「パゴダ」となり、石造のものが多い。
仏塔はインド全体に広がっているが、南部のデカン高原には、数多くの窟院(くついん。レーナ)が開削された。現存するものだけでの千二百以上あるといわれ、その約七五パーセントは仏教に属していた。その古いものは、紀元前二世紀ないし紀元前一世紀にはじめられており、特にアジャンターとエローラとの窟院群が名高い。なお、窟院には、仏塔を祀る礼拝堂と、比丘たちが住む僧院との二種があった。
(え、仏教って墓石を作らないの? じゃあ日本のあのバカみたいに高価な墓石はなんだよ、言いたくなりますが、墓石は儒教の思想です。位牌も儒教ですよ)
・「仏教」という言葉の使用例は存外に新しく、明治期の日本が欧米「近代」の移入を図った時に軌を一にする。「仏教」の語は「仏の教え」を意味する少数の場合を除くと、江戸時代末期まで知られていない。
江戸時代までの文献では「仏教」という語はほぼ絶無。教えないし理論については「仏法」といい、
実践に関しては「仏道」(この原語は「さとり」そのものをいう)の語が用いられており、仏法と仏道という語に日本人は(中国人なども)千数百年間なじんできて、今日でも一部は維持されている。
五世紀以前の中国では「道教」とも呼ばれた。
また、多種多彩な漢訳仏典中から特定の教えをみずから選びとって「宗(むね・主・本・長)」とすることが六世紀の中国に生まれ、その宗の教えとして「宗教」の語がここに発明された。
宗教は仏教の下位概念に属し、仏教徒のあいだでのみ用いられて、日本でも明治初期まで仏教諸宗は「わが宗教」と称し、かつ仏教は仏法や仏道(単に「道」だけでも仏教を意味する)などの語で表現されていた。
江戸末期の開国で外国語の翻訳としての今日の用法が定着する。仏「教」としたところにすでに西洋思想による変容がなされている。
同時期に哲学という造語が誕生し、仏教・宗教の後も本来的意味を改変されて、すでに日常語化して現在に至る。
宗教とは「宗」派の「教」えであるから、仏教の下位概念であり、仏教者のあいだでのみ宗教という語は用いられた。
・バウッダはサンスクリット語でブッダを信奉する人。
古代インドの哲学書などでは、仏教の教説のことをバウッダ・ダルシャナといい、バウッダというときはどこまでも、仏の教えを信奉する人のこと。
インドでは宗教や哲学は各個人のもの。社会的権威によって束縛されるものではない。だから、西洋でいう「クリスチャニティ」や「イスラーム」に相当する造語法が古代インドにはない。
現代インドでは、佛教(仏教)を意味してバウッダ・ダルマといい、スリランカではブッダ・ダンマあるいはブッダ・サーサナという呼称を用いるが、外来宗教に対立する宗教だという自覚が強くはたらいている。
・ブッダ=真理を悟った人。ジャイナ教でも最高の聖者をブッダと呼ぶ。仏教は当時から使われていたブッダを採用した。ジャイナ教徒のあいだでは『聖仙のことば』(イシブハーシヤーイム)という書を伝えている。この書は聖人、賢者とみなされていた哲人のことばを集めたもの、あるいはその哲人たちについて歌った詩を集めたものである。この書ではいかなる宗教の人であろうとも、聖人、聖者をブッダと呼んでいる。
(ブッダは複数いることが重要ですね)
・仏教は「法」を説くのであって、「教義を説くのではない」。諸宗教や哲学の説く教義なるものは偏見として仏教では排斥する。
仏教の説く教えも「方便」である。それは筏のようなもの。目的を達したら捨てられねばならない。筏を大切なものだとして大事にしがみついているのは単に「執著」にすぎない。
原始仏教では法の権威が最高のものであり仏より上位だった。
ブッダは永遠の理法を説いたのであって、新しい宗教を創始したのではない。ブッダは普通名詞であって、幾人いてもかまわない。
(仏教は教祖とされる釈迦が実在しなくてもまったく問題ない教え。
キリスト教は十字架にかけたれたことにされている生贄=教祖が実在していないと教義が崩壊する教え。
そもそも冤罪なのに罪を購ってくれた自分が生まれるはるか前の神の子に感謝って凄い教義ですな。罪=悪を創ったのも神=善のふりをする大悪魔ですよね。
自由意志で悪を選択したって?
じゃあなぜその悪を滅ぼさないんですか?
なぜ悪を野放しなのですか?
そもそも悪という選択肢をなくせばいいのでは?
信仰を試す? 意地「悪」ですね!
悪ではなく「善の欠如」だという言い訳をする人がいますけど、悪という概念は善という概念がないと成立しませんよね? 善に相当するという言葉だけがあって悪に相当する言葉がない言語を教えてくれませんか?
聖書の神を「極悪人」と置き換えて読むと非常に納得できますよ)
・阿含経に満ちているあまたの問いは、すべてみずから現に体験している苦しみ、悩みから発せられ、そのそれぞれに対して釈尊はその質問者の現実に即して答える。ただし、苦悩そのものを即座に解消するような、いわば直接的な手段や方策というよりは、むしろ苦悩に対処してゆくべきその在り方をとりあげて、それを熟慮しつつ答えがなされる。いわば外部の状況その他は不変のままでありながら、みずから苦悩としているところが、実は苦悩ではなくなり、いつしかその苦悩がその内部において消え、安らかな境地にもたらされる、そのような図式を描いて展開する。
釈尊はその答えにおいて、人間の力を絶した創造主としての神も、また祈禱や呪術もことごとく退けており、超自然的なものは排除している。そうではなく、あくまでもこの現実に徹し、この現実に即し、終始この現実において解決しようとする。この意味において、釈尊は、総じて仏教は、常のこの現実を直視し、凝視するという立場に基づく現実主義、と表現され得よう。
仏教では哲学的アポリア(難問)、つまり形而上学を意図的に斥ける。
(釈尊が形而上的な=確かめようがないことを語ると、それが教義になってしまいますからね。
形而上学的なことは現実的思考から離れてしまうので答えなかったのです)
阿含経は十種にまとめ十難と術語化した。
①世界は常住(世界は時間的に無限)
②世界は無常(世界は時間的に有限)
③世界は有辺(世界は空間的に有限)
④世界は無辺(世界は空間的に無限)
⑤身体と霊魂は同一
⑥身体と霊魂は別異
⑦真理達成者(如来)は死後に生存する
⑧真理達成者(如来)は死後に生存しない
⑨真理達成者(如来)は死後に生存し、かつ生存しない
⑩真理達成者(如来)は死後に生存するのでもなく、かつ生存しないのでもない
これらの質問は何回も反復されて釈迦に回答を求める。
釈尊は常に「無記」を通した。すなわち、どのような誘導があり、あるいは誹謗があっても、あくまでも沈黙を守り続けたまま、何の答えもしていない。
・苦=自己の欲するままにならぬこと、思い通りにならぬこと。
・仏教の「生」(しょう)は全て「生ずる」「生まれる」意であり、「生きる」意ではない。
・刹那(クシャナ)=75分の1秒=0.0133……秒
・仏教では「無時間的な実体」のような考えはことごとく排除されている。
・ほとんどの仏教解説書に「実体の否定としての無我」が無我の説明としてあるが、これは阿含経(初期仏教の教典)かならかなり離反している。
阿含経に説かれる無我は、特にその原初形は、「執着の否定としての無我」あるいは「無我とはとらわれないこと」と解さないといけない。
初期の大乗仏教の「空」を理論づけた龍樹も、実体否定論と同時に、一貫して「空とはとらわれないこと」と説いている。
・初期仏教の経典のスッタニパータに
“自己を洲(す)とし、自己を依りどころとして、他を依りどころとせず、法を洲とし、法を依りどころとして、他を依りどころとせずに、住せよ”
「洲」のパーリ語は、ディーパであり、それはパーリ語が、大河の中に浮かぶ島あるいは庇護所を意味するサンスクリット語のドゥヴィーパに相当するこの解釈に基づく(現在の学会では、この解釈が正当とされる)。
しかしサンスクリット語には、上記のパーリ語と同じディーパという語があり、それに結びつけるならば、「あかり、燈明」となる。
先程引用したスッタニパータの箇所を漢訳した阿含経の該当箇所では
“自燈明、自帰依、法燈明、法帰依(自らを燈明とし、自らを帰依とす、法を燈明とし、法を帰依とす)”
・マントラ=マン(考える)+トラ(用具などを表す接尾辞)
=思考の道具。
般若心経の概要(梗概)。
観自在菩薩(観世音、観音菩薩)がまず登場し、般若ハラミツの実践において、ありとあらゆるすべて(五蘊)は空(無執著)であると明らかに観じ取り、一切の苦を離脱した。
そこで舎利子(舎利弗=しゃりほつ。シャーリプトラ)に呼びかけて、この空を五蘊のひとつひとつについていう。
すなわち、まず
色(いろ・かたちあるもの、物質として現象しているもの)に関して説く「色即是空、空即是色」。その大意は、ものと空との完全な一致にあり、ものがそのまま空であり、同時に、空であることがものをそのものたらしめて、そのものとしてあることを示す。
ただちに、五蘊のうちの他の四つ、
受(感受、感覚)、
想(表象、イメージ)、
行(形成力、意志)、
識(認識)について、空を反復し、生と滅、垢と浄、増と減のおのおのの否定がある。
同様に、
六入(眼・耳・鼻・舌・身・意)と
六境(色・声・香・味・触・法)と
六界(眼界~識界)、
十二因縁(無明~老死)、
四諦(諦=真理。苦・集・滅・道)という、
阿含経(初期仏教の経典)から部派を経て大乗仏教までの全仏教に通ずる基本的述語に「無」を付して否定し去って空を裏付け、ここではすでに智も得も所得も同様に無であり、こうして菩薩は般若ハラミツによって、一切の障害は消滅し、恐れもなくなり、転倒(てんどう。ひっくり返る)した思いから遠く離れて、仏教の理想の極致であるニルヴァーナに至り完成する。三世(過去・未来・現在)の仏たちもこの般若ハラミツによってはじめて、至上最高の「さとり」を得たと説く。そのあとに、当時すでに重要な役割を果たしたマントラ(真言。呪)の語を引き、般若ハラミツを無比で最高のマントラとしたうえで、呪を唱えて経を結ぶ。その呪の大要は、
「到達したものよ、到達したものよ、彼岸に到達したものよ、彼岸に完全に到達したものよ、さとったもの(あるいは、さとり)よ、幸あれ」という。
般若心経の空を従来の般若経の説明に引きつけて無執著と訳したが、この経の成立時にはすでにナーガールジュナ(龍樹)の空の理論づけが果たされているので「固定された実体を立てない」、さらには「それだけで存在すると見て固有の本体を有する、という考えから離れる」、と解釈したほうがふさわしかろう。
(「絶対」の否定)
・般若+波羅蜜多=智慧の完成。
六波羅蜜=六種の波羅蜜。
波羅蜜はパーラミター(=最上・完全・極致)の音写。
般若ハラミツ=智慧の完成(到彼岸)。
般若とは空の思想。空の思想は大乗経典の般若経に終始一貫して説かれ、「こころにとどめつつも、とらわれるということがない」「とらわれない」「無執著」と解される。
・空のサンスクリット語のシューンヤは、インド人(人名も年代も不明)が人類史上はじめて発見した数のゼロの原語でもあって、そのゼロ(空)は単なる無でもなく、単なる有でもなく、同時に有でも無でもあり、また有でも無でもないという(例えば、102の0)、一見矛盾に満ちた多面性を発揮する。
ゼロが発見されなかったならばすべての自然科学の根底にある数学(近代数学)はその根拠を失ってしまう。ゼロの発見によって、例えばマイナス(負)の概念が明らかにあり、更に重要なことは十進法(じっしんほう)が成立し(言うまでもなくインドが最も古く、アラビアを経てヨーロッパに伝わるのは千数百年後)、また数学の基本である加減乗除が容易になった。その際、ゼロは加えても減じても、元の数に何の変化もないが、ゼロを乗ずればあらゆる数をゼロに変え、ゼロで割ることは一般には考えられない。
ゼロは日常のいたるところに溢れ、「空」も同じ。「空」によって私たちが現に生きている相対の世界はいちおう成立している。しかしその底には、その相対の世界そのものの否定が厳としてあり、その否定のゆえに、私たちのこの世界すべてはあくまで相対的である。
般若心経の訳例+解説
http://dic.nicovideo.jp/a/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C
“(これは、人智を超えた般若波羅蜜多についての心経である)
全てを識り、全てを見る聖者アヴァローキテーシュヴァラ(観音菩薩=観自在菩薩)は、深遠なる悟りを得る修行の中でこの世の五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊、後述)には実体がないことを明らかにした。この発見により、苦しみは全て解かれよう。
シャーリプトラ(舎利子、仏陀のもっとも古い弟子の一人)よ。この世の形あるもの全てに実体というものはない。実体がないままに形を作っている。形あるものには実体がなく、実体がない故に(あらゆる)形を得る。感じること・気づくこと・思うこと、そして知ること(これら心で作用すること全て)もまた同じだ。
シャーリプトラよ。全てのことに実体はないのだから、全ては生まれもせず、滅することもなく、汚れているということもなく、清らかであるということもなく、増えることもなく、減ることもない。
つまり、実体が無いこの世の真実の世界においては、全て存在しない。真実の世界においては、形作っているもの・感じること・気づくこと・思うことを知ることもなく、目・耳・鼻・舌・感触・意識(肉体で感じること全て)もなく、景色・声・匂い・味覚・ぬくもりも、その相手も、全て存在しない。眼に見えるものと、それによって心のなかで生じたことも、全て存在しない。これら存在しないものへの無知からくる悩みもない。けれどもその悩み自体は尽き果てることもない。この世では老いるということも死ぬということもないままに、老いも死も尽き果てない。苦しみなどない。故にこの世では苦しみを滅する道も、それを知ることも、得ることもない。得ることもないから、苦しみを知る者(菩提薩埵)は、この発見(般若)によって、こだわりをもたず、こだわりがないから、恐れもいだかず、全ての夢想からはなれて、静かなる心の世界(涅槃、ニルヴァーナ)へと至るであろう。
こうした過去・現在・未来(三世)の諸仏は、この深遠なる発見(般若波羅蜜多)によって、悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得る。
故に知れ。この発見(般若波羅蜜多)を述べるこの大いなるマントラ(まじないの言葉)は、明らかに、この上もなく、並ぶこともない呪(言葉)であると。全ての苦しみはこれにより解かれ、そこには真実のみがあり、偽りはない。
故にこの般若波羅蜜多の真言は、
「羯諦 羯諦 (ガテー ガテー:往ける者よ)
波羅羯諦 (パーラガテー:悟りの境地に往ける者よ)
波羅僧羯諦(パーラサンガテー:悟りの境地を往った者が)
菩提 (ボーディ:"菩提"である。)
薩婆訶 (スヴァーハー:幸いあれ。)」
これが真実の悟りの教えである(般若心経)。
(…)
※「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」は『大般若経』以外の経典から引用された陀羅尼(だらに、仏教的呪文)。陀羅尼は暗誦されるのが常だったため、翻訳当時でも正確な原意が失われていた。そのため、ここは音写に頼らざるを得なかった(日本語における「ちちんぷいぷい」みたいなもの)。世に散見される該当部分の解釈は梵語等からの類推であり、あくまで参考の域を出ない。
そもそも陀羅尼は何度も復唱することで無念無想の境地に至ることを旨とするため、その意味をあまり深く考えなくてもよいものなのだ。
※五蘊とは仏陀死後100年の間に分裂した仏教(部派仏教)における世界観を認識する手法の一つで、人間の意識を構成する要素を5つに分けたもの。色蘊(人間の肉体や、それを構成する物質)・受蘊(人間が感覚すること、いわゆる五感)・想蘊(「受」で感覚したことで、出てきたイメージ)・行蘊(「想」のうえで、出た何らかの意志。「~したい」など)・識蘊(「受」「想」「行」を総合して出した判断)の5つである。般若心経ではこれすらも空としている。
(…)
般若心経が描いているのは、釈迦の目の前で、上座部仏教で最も尊い修行者である阿羅漢(あらかん、アルハン。「(崇敬と布施を受けるに相応しい)聖者」の意)の筆頭であるシャリープトラに対して、観自在菩薩が大乗仏教の「空(実体は存在せず、他との関係の中で現れて見えるということ)」の思想を説いている場面である。
その説では、上座部が悟りを得る上で重要視する十二因縁や四聖諦をも含む万物が「空」であり、したがってそれらに依らず、陀羅尼(掲諦掲諦…)を唱え全てが「空」であるという真実(般若)を感得する事(波羅密多)こそが最高の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)に至る道である、とされる。
そして最後に最高の覚者である釈迦が説法の全てを追認し観自在菩薩を褒め称える――つまり上座部を貶めて大乗を賞揚する内容となっている、というのが一般的な解釈である。
「空」とは何か? 悟りとは何か?
さて、般若心経の本質であり、有名な格言「色即是空 空即是色」。ここに説かれている「空」というものは一体なんであろうか。ちなみによく勘違いされるが、「空」は「無」と同義ではない。むしろ「無」ですら「空」によって成り立つ現象のひとつ(色)に過ぎないとされている。
長らく仏教界ではこの「空」を説明するのには多大な労苦が費やされてきており(折空観)、その最も良いテキストが『弥蘭王問経(ミリンダ王の問い)』の仏典だと言われている。ここではその考えを借用して、「空」をごく簡単に説明するのに、パソコンのたとえ話(方便)を用いるとしよう。
パソコンを例にとれば、デスクトップ型パソコンをバラバラに分解してしまえば、それはもはやパソコンとは呼ばれず、それぞれの部品にしても、最早「かつてはパソコンであった」パーツに過ぎなくなり、「パソコンという存在」は消えてしまう。また、パソコンのキーボードからキーを幾つか抜いてもパソコンと認識されるように、部品そのものにもその総体にもパソコンという一個のアイデンティティを示す実体があるわけではない。
だがしかし、一度バラバラにした部品をもう一度組み立て直せば、先程まで消えていた「パソコンという存在」は再び我々の目の前に戻ってくるのである。
ならば「パソコン」という概念は、一体全体どこの何を表現した言葉なのだろうか。ディスプレイだろうか? マウスだろうか? キーボードだろうか? HDDだろうか? あるいはもっと小さなICチップなどであろうか? 答えはいずれも否である。先に挙げたうちの、そのどれもが「パソコン」そのものではない。しかし、いくら否定したところで、パソコンというものがこの世に存在しているのもまた厳然とした事実なのである。では、パソコンとは一体何なのだろうか? パソコンとはこの世に「ある」のだろうか、それとも「ない」のだろうか。答えは簡単、「ある」とも言えるし「ない」とも言えるのである。
つまり、"パソコン"と呼ばれるものは様々な部品がしかるべき因縁で組み合わさった中に垣間見える『現象(概念)』なのである。当然、部品やその集合体にパソコンという実体が存在するわけではない。したがって「無」というものも、パソコンを分解した途端に発生する「空」という本質の一側面に過ぎず(「空」⊃「無」)、パソコンは最初から「ある」とも言えるし「ない」とも言えるのである。「色」とは「現象」のことであり、「空」とはこの現象を引き起こす仕組みそのものを指しているのである。
この考えを応用すれば、基本的にはこの世の森羅万象すべての実在を否定することが出来る(「空」≒「非実在」≠「無」 であることは、これでもうお分かりだろう)。
あらゆる事物の本質は、それそのものの実体とは別に存在し、そしてその本質は人が理解できない次元に存在する。これが般若心経の本質、「色(現象)即是(すなわちこれは)空 空即是(すなわちこれは)色(現象)」である。この世の本質も実体も、実は概念上の物でしかないのである。
その上、ブッダはこの「空」の考えを流用し、最終的には当時信じられていた魂の存在さえも否定するに至った。詳しい説明は省くが、ブッダは瞑想の末に、この世において輪廻転生を繰り返しているのは魂や霊ではなく、「自分」という潜在意識・記憶そのものにしがみつこうとする人の意志そのものであると看破した(法相宗の考え方がこれに近い)。この「自分という存在そのものへの執着」を捨てることが出来れば、転生するはずの「自意識」そのものが消失するため、人間は二度と生まれ変わることはなくなり、輪廻転生の輪から解脱し、何度も生まれ変わって苦しみ、傷つくことはなくなる……というわけである。つまり仏陀が夢想した原始仏教は、「二度と生まれ変わらないこと」を目的として生まれたのである。
「悟り」とはつまりこのことである。ブッダは、人間が転生する仕組みと転生を信じる理由、そしてその転生の仕組みを生み出している人間の深層心理の構造そのものを「悟った」のである。
……と、このような考え方を会得する過程までが『悟りを得る修行』なのであって、悟った後はこの悟りを具象・抽象ひっくるめた万物に適用し、それを単なる知識を超えて感得しなくてはならないのであるから、大乗仏教とはいえ無上の正しい境涯に至る道は決してなだらかな訳ではない。つまり、「悟り」はすごろくの『上がり』ではなく、悟っただけではどうにもならないのである。そういうわけで、人は悟った後、今度はどのようにその理論に即して煩悩や執着を捨てていくか、という問題にぶち当たることになる。
そういうわけで、以後この「悟り」を得るための方法論は枝分かれし、その方法論の違いは本邦に多数の仏教宗派を生んだ。「個人の中に大宇宙を再現し、その中に涅槃寂静の境地を発見する」とする真言宗、「悟りは人間の誰しもの中に最初から備わっているのだから、それを修業によって引き出す」ことを目的とした曹洞宗、臨済宗などの禅宗などがその好例である。
ここまで熟読された方はもうお分かりであろうが、本来仏教は厳密な哲学的・論理的思考の下に成り立っている宗教であり、般若心経はそのための最上のテキストに位置づけられている。肉体的・精神的修行を重視する日本仏教の影響を受け続ける日本人は、この経文自体に霊的な力が内在しているとされていると誤解しがちである。しかし、般若心経は唱えれば何かが起こったり悪霊が裸足で逃げ出すといったまじないではなく、これ自体を意識することなく読唱したり写経したりすること自体にはあまり意味がない。禅宗などの言語を否定する宗派を除けば、あくまで論理的思考によってこの文章を理解し、釈迦の教えをよりよく実践することが悟りのための第一歩になるわけである。
この記事を熟読された皆様は今、まさに悟りの入り口に立ったことになるのだ。求道者たちよ、悟りと共にあれ。”
説話風の訳例
http://dic.nicovideo.jp/r/a/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C/233400
”《一切を知る方(釈迦)に帰命(きみょう。御仏の教えに身命を投げ出して帰依すること)する。》
<わたしはこのように聞いた。世尊(釈迦の尊称)が王舎城(おうしゃじょう。ラージャグリハ。古代インドのマガダ国の首都)にいらっしゃった頃、霊鷲山(りょうじゅせん。グリドラクータ山)を数多の比丘(びく。托鉢行者)と諸々の菩薩(菩提薩埵。求道者)を伴って遊行していらっしゃった。まさに世尊が深い悟りという名の深い瞑想に入られたその時、>
全てを知り全てを見るといわれる菩薩アヴァローキテーシュヴァラ(観自在)は、深遠な悟りの智慧を完全に成就する(般若波羅密多)修行の中で、この世の生き物を構成する五つの要素(五蘊。ごうん)には実体が無く(空)、各々との関係の中であたかも実体があるかように見えるに過ぎない、ということを明らかになさった。
【この悟りの智慧の極めにより、衆生の苦しみは全て解かれよう。(度一切苦厄)】
<すると、長老シャーリプトラ(舎利子。舎利弗(しゃりほつ)とも。「智慧第一」と称される、釈迦の十大弟子の筆頭)は、その御仏のお力を以てして、菩薩アヴァローキテーシュヴァラにこうおっしゃった。
「善男子(ぜんなんし。仏徳の有る男)ならば誰でも、深遠な悟りの智慧を極める修行を望むもの。そうした者には、どのように教えてやったらよいと想いますか?」
そのように訪ねられた菩薩は、長老へこのようにお答えになった。
「善男善女(ぜんなんぜんにょ)ならば誰でも、深遠な悟りの智慧を極める修行を望むものです。そうした者は、次のように明らかにしたらよいと想います。まず彼は、生き物を構成する五つの要素には実体がない、と見なしました。>
「シャーリプトラよ。この世の形あるもの全てに実体というものはありません。実体がないままに形を作っています(色)。形あるものには実体がなく。実体がない故に(あらゆる)形を得ます。感じること(受)、想うこと(想)、気づくこと(行)、そして知ること(識)、これら心に作用すること全てもまた同じです。
「シャーリプトラよ。全ての物事の本質に実体はないのですから。全ては生まれもせず、滅することもなく。けがれているということもなく、清らかであるということもなく。増えることもなく、減ることもありません。つまり、実体が無いこの世の真実の世界においては。形も、感じることも、想うことも、気づくことも、知ることも、五蘊(=色受想行識)は全て無いのです。
「目、耳、鼻、舌、感触、意識の六根(=眼耳鼻舌身意)全ても無く、景色、声、におい、味覚、触覚、想念の六境(=色声香味触法)も全て存在しません。目が有るということ(眼界)から、心が想うということ(意識界)にいたる十八界(=六根×(部位、対象、作用))も全て、有りはしないのです。
「十二因縁(苦しみの根源を説く12の因果の連なり)の最初である無知(無明)すら無く、しかるに無知がなくなることもありません。つまり十二因縁の最後である老いて死ぬ(老死)ということも無いままに、老死がなくなることも無いのです。四聖諦(ししょうたい。四諦とも。悟りの道を示す4つの真理。=苦集滅道)に至っては、あり続けることによる苦しみ(苦。八苦)などありませんから、苦しみを集める原因(集)である生への執着(渇愛)も無く、苦しみを消すために執着を捨てる事(滅)も、その為に行う修行(道。八正道を含めた七科三十七道品)もありません。
「つまり(十二因縁や四聖諦によっては、悟りの智慧を)知ることがありません。得ることもありません。得ることもないですから、菩薩はこの悟りの智慧の極みによっても、何のわだかまりも持ちません。わだかまりがないのですから、恐れもいだかず、全ての災難を乗り越えて、究極の安らぎの世界(涅槃、ニルヴァーナ)へと至ります。過去、現在、未来において菩薩は、悟りの智慧を極める事で、最も優れた正しい悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得るのです。
「故に知るべきなのです。この悟りの智慧の極みである大いなる聖句(マントラ。まじないの言葉)は、霊験あらたかな、この上なく、並ぶものなき聖句であると。全ての苦しみはこれにより解かれるのです。何故ならそこには真実があり、偽りなどありませんから。悟りの智恵を極める聖句とはこの通りです。
『羯諦(ガテー、着きしものよ)羯諦(ガテー、着きしものよ)波羅羯諦(パーラ=ガテー、彼岸に着きしものよ)
波羅僧羯諦(パーラ=サン=ガテー、彼岸に辿り着きし者よ)菩提薩婆訶(ボーディ・スヴァーハー、悟りよ、共にあれ)』
<「シャーリプトラよ、深い悟りの智慧の修行では、菩薩はこのように教わればよいと想います。」
(菩薩アヴァローキテーシュヴァラがこう締めくくった)まさにその時、世尊は深い瞑想から立ち上がりつつ、菩薩へ讃辞を送った。
「いや見事、お見事です、善男子よ。深い悟りの智慧の成就に於いては、まさしくそのように修行を行ったらよいのです。あなたが示した事は、諸々の如来(仏陀(悟りを開いた者)の尊称)や阿羅漢(あらかん。聖者)も認めるところなのですよ。」
世尊は心からお喜びになり、そうおっしゃった。長老シャーリプトラと菩薩アヴァローキテーシュヴァラ、そして諸天(仏教に帰依したインドの善神族)、人間、阿修羅(仏教に帰依したインドの鬼神族)、乾闥婆(けんだつば。仏教に帰依したインドの精霊神族)をはじめとした全世界が、世尊のその言葉に喜んだのだった。>
これが、悟りの智慧の完全なる成就を説く、その心臓となる教えの書(般若心経)の完成である。”
摩訶般若波羅蜜多心経
http://www.nicovideo.jp/watch/sm304046
般若心経のサンスクリット版の歌
Imee Ooi - Mantras Of The Sanskrit
https://www.youtube.com/watch?v=OO1YbUUDBms
第七回現代仏教塾 「死後・輪廻はあるか」Ⅱ近代仏教学の「無記」の誤解・東洋大学名誉教授 森章司
https://www.youtube.com/watch?v=KnAKezi7pNo&feature=youtu.be
永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』を再読したのでメモ。
Posted on 2015.02.02 Mon 16:19:56 edit
私は、理詰めで前提を疑って粘り強く検証する、哲学を大変重視しています。嘘を見抜くには、論理的矛盾を見抜くのが早いですからね。
哲学は支配層が重視している分野です。
プラトン哲学は、キリスト教とともに西洋二大思想です。
なので、支配層の思想=プラトン思想の知識を↓
プラトンは優生学と職人軽視(肉体労働しない者が一番偉い)と理性崇拝と知性主義(馬鹿は人間ではない)と
偽りの公平感を与える儀式(選挙など)の基盤。
マギの弟子のプラトンの『国家』は『マギ』の一つ目フリギア帽子モガメット学長の演説の元ネタ。プラトン『国家』 藤沢令夫訳、岩波書店〈岩波文庫〉
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-43.html
で紹介しました。
しかしそれだと、思考訓練にはならないので、以下の記事を書きました。
永井均の著作三冊:『子どものための哲学対話』・『翔太と猫のインサイトの夏休み』・『私・今・そして神』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-61.html
永井均『マンガは哲学する』。藤子・F・不二雄『藤子・F・不二雄[異色短編集]1 ミノタウロスの皿』・〈異色短編集〉2『気楽に殺ろうよ』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-62.html
今回は、永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』についての読書メモです。
読み直して気づいたのですが、インサイトは黒猫ですよ。
この表紙だと白猫ですね。
“ここにいる生き物が人間じゃなくて猫で、毛の色が黒くて、言葉をしゃべって、哲学者だ……から、『それだから』そいつがぼくなんじゃなくて、そいつがぼくだから、ぼくは猫で黒くて言葉をしゃべる哲学者……なんだ。”p.77-78
『』は原文にはない。原文では『』内の文字一つ一つに傍点。
・「夢は見るたびに違う話。何回か続きものの夢を見るかもしれないけど、ずっと続いている夢なんて考えられない。」
「それなら、もしずっと続いている夢なら現実と同じということになるのか。きみが眠るたびに同じ続きものの夢を見ていて、その夢の世界では、きみは地球防衛軍司令官だったとしたら、平凡な学生のきみの生活なんかより、夢の中のそっちの人生の方がよっぽど強いリアリティ(現実性)を持ってくるんじゃないかな。地球防衛軍司令官が毎晩眠ると、きみが朝起きるところから始まる続きものの夢を見るのかもしれない。どっちがほんとうだか区別がつかないんじゃないかなあ。
つまり、現実とは続きものの夢ってことになるんじゃないかなあ。」
「だとしたら、現実のぼくたちの記憶力がすごく弱くて、毎日、前日のことをほとんど忘れてしまうんだけど、続きものの夢の中のぼくは記憶力がよくて、子供の頃のことまで覚えているとしら、夢の方が現実になってしまうっていうことになるよ。」
「そうさ。だから、自分が死ぬまでずっと繋がっている連続ドラマのことをぼくらは『現実』と呼んでいるだけなんだよ。」
・“「もしね、もしもだよ、かりに立花由美が生まれてから一度も怒ったことがないとするよ、そしてね、急にいま死んじゃうとするんだ。」
「死んじゃうの!?」
「もしも、だよ。そういう場合、彼女がほんとうは怒りっぽかったっていうことがありうると思う?」
「それ、どういうこと?」
「別に立花由美じゃなくたっていいんだけどさ、ある人が一生怒ったことがなかったんだけど、それはたまたま不当な目にあうとか、そういう怒らなきゃならない状況に出くわさなかっただけで、ほんとうは生涯ずっと怒りっぽい人だったってことがありうるか、っていう問題なんだ。」”p.21
彼女はほんとうは怒りっぽいとか、この部屋は見られていないときは存在しないとか、ぼくたちが培養器の中の脳だとか、そういうことが主張できるためには、ぼくたちが実際に手に入れられるような根拠がなくちゃいけない。
・「生前には認められなかったけど、その人の死後で実はすごく重要な仕事をしていたってことが分かることがある(みなされる、そう評価される)。
そういうことがあるんなら、死んでからもずっと永遠に認められなくたって実はほんとうは凄く重要な仕事をしていたって人がいたっていいと思わない?」
「あまりにも天才的すぎて百年、千年たってもその人の仕事の意味が誰にもわからないってことはありうると思うよ。そのうち人類が死滅しちゃえば、その人は結局、なんでもなかったことになっちゃうけど……」
「結局何でもなかったってことに(原文だと「に」が抜けている。脱字)なるってことは、結局何でもなかったってことなのさ。その人は『ほんとうは』天才だったって主張に、意味を与えることはできないんだよ。」
「誰にも認められなくても確かめられなくてもほんとうは……」という立場は、
実在論といってとても由緒正しい立場。
英語だとリアリズム(realism)といい、「ほんとうは」(really)からきているから
「ほんとうは主義」と訳した方がいいかもしれない。
ぼくらが絶対に知ることができなくてもほんとうはそうだってことがある、って考えるのが実在論。
「誰にも認められなくても確かめられないなら結局何でもなかったってことなので、『ほんとうは』天才だったって主張に、意味を与えることはできない」
という立場が、
反実在論とか非実在論とか呼ばれる立場。
哲学に関する様々な対立の根底にはたいていこの実在論と反実在論の対立がある。
・今見えているものが実在しているかどうかは疑えるが、見ていると「思っている」ことは疑えない。主観体験の見え=私は見えていると思っている、は疑えない。
触れている「と感じている」、ということも疑えない。
・幻覚なんてものはめったにない。だから見えたらもうあるって思い込んでいい。もっと強く言えば、ものを見るってことは、見た通りにあるって思い込むこと。
だから、見えたのにそれがあるって思わないで、ないかもしれないなんて言う人がいたら、そんな人の方がそう言うための根拠を示す必要があるんだよ。特に根拠もないのに、見えたのにないかもしれないって言う人は、もうそれだけで懐疑論者だよ。
懐疑論者は用心深いように見えるけど、実はそうじゃなくて、けんかっぱやいんだよ。おまえはそう決めてかかってるけど根拠がないじゃないかって、すぐに食ってかかってくるんだ。
そう言われてみると、こっちもよく考えたた(「た」が一つ多い。言っておきますが、“”でくくっていない箇所は原文とまったく同じではありません)うえで決めたわけでもないから、困っちゃうわけさ。でも実はものごとにはそれぞれものによって勝手に決め込んでいい方向、決めこまなくちゃいけない方向っていうのがあるのさ。それを疑うことに意味が出て来るのは、よほど特別の事情がある場合だけ。
いったん売られたけんかを買っちゃったら何か根拠づけが必要だから懐疑論者の勝ちははっきりしているんだけど、そもそも売られたけんかは買っちゃいけないんだよ。挑戦をうけつけない限りは、こっちの勝ちが決まってる。懐疑論者がけんかを売ってきたらね、おまえのその挑戦自体がまとはずれなんだ、と言い続ければいいのさ。そうすれば勝負はこちらの勝ち。
“「ぼくはね、十五歳以上の人間にはほんとうに哲学をすることは不可能だって思っているんだ。」p.53
・客観的物理的事実だけでは色も音も匂いも味も生み出せない。
色を光の波動と同一視できない。
音を空気の振動と同一視できない。
何かを食べて、脳に物理的変化が生じても味が生じなかったとする。しかし味が生じなくても物理化学的には問題ない。
物理的変化がなぜ味という主観的な現象を作り出すのか、それは永遠に解明されないだろう。ただそうであるっていう事実が認められるだけだろう。痛み、視覚、聴覚、記憶、思考、想像など、身体内の神経や脳の物理的プロセスによって引き起こされると考える限り、なんだってそうだ。
精神現象はまるで幽霊みたいなものだ。
物理的な観点から見れば奇跡みたいなもので、物理理的過程から全く独立したもの。
今そういう意識現象を生み出している物理的な過程が、ある日突然それをやめても、ある意味では何も変わらないのではないのか。
自然現象としての人間は物理的な因果に従って、生き続け、芸術などを生みだし続けるのではないか。
条件等色(メタメリズム)という現象がある。
波長が580ナノメートルのスペクトル光は黄色に見える。
黄緑に見える540ナノメートルの光と、黄赤に見える670ナノメートルの光を合わせても黄色に見える。
それ以外の組み合わせでも黄色に見える組み合わせはいくらでもある。
客観的・物理的には違っていても、主観的・知覚的には同じ色に見える現象を条件等色(メタメリズム)という。
・他人は自分と会っていない時は、本当にいて、本当に自分の生活をしているのだろうか。楽屋で休んでいるんじゃないか。これはなぜか哲学の伝統に登場したことが無い。
・ぼくたちがこころや意識のないロボットをぼくたちの仲間に入れてぼくたち扱いしさえすればそのとたんにロボットにも心や意識が生じる。人間もいくら解剖しても心も意識も見つからない。ぼくたちは人間と、それに似たものしか心あるものとみなさない。
・性質がまったく同じものが二つありうるのは、時間と空間ってものがあるからなんだよ。時間と空間が無い可能世界ってものを想定するとね、そこでは性質がまったく同じものは個数としても同じもの、つまり一個のものになっちゃうんだよ。つまり全性質が同じであるってことと、個数が一個であるってことが、区別できなくなっちゃうんだ。
そもそも、そういう世界では、一個、二個って数えられるような物ってものが考えられなくなっちゃうからね。二つのボールの区別は、時空的な連続性が重要。
・バークリー「何かが存在するとは知覚されているってことにほかならない」
ヒューム「因果の概念は習慣によって作られた我々の信念でしかない」
因果関係そのものは想定されるだけで見えない。
・夢=心の中にあって外界に存在しないもの
・カントは、
“ぼくらのものごとのとらえ方にはね、習慣によって作られた信念なんかじゃなくて、それ以外ではありえないような型みたいなものがあるって考えたんだ。そういう、ものごとのとらえ方の基本的な枠組みみたいなのをカテゴリーって言うんだけどね。日本語で言えば範疇だな。因果性のほか、まえから使っている『ものとその性質』なんていうとらえ方もカテゴリーなんだ。ぼくらは、ものごとをとらえるとき、すでに必ずカテゴリーを使ってるんだ。
カテゴリーのくわしい話はまたにするとして、とにかく、さまざまな感覚的経験にカテゴリーが適用されることによって、はじめて、それが【客観的な現実】として認められることになるんだよ。カントは『視霊者の夢』って変な本を書いてるんだけど、これはね、スウェーデンボルグっていう当時流行の視霊者、つまり霊を見たと称するやつなんだけど、まあ霊媒みたいなもんだな、そいつの言ってることがほんとうかってことを考えた本なんだけどね。結論を言うとね、どんなにありありと見えたとしても、それはありえないこと、つまり『夢』にすぎないんだ。つまり、客観的な実在と対応してないんだよ。なぜかっていえば、要するに因果性のようなカテゴリーが適用されないからなんだな。まあ、カントに言わせれば、猫と話をするなんてことも、ありえないことだ、だからやっぱり『夢』でしかないってことになるかもね。
カテゴリーが適用されることによって、対象は客観的なものになるって言ったけど、そこには統覚っていうはたらきが必要なんだ。統覚っていうのはね、自分が知覚したり経験したりするさまざまなものごとを、カテゴリーに従って秩序づけるはたらきだ〔原文ママ〕なんだけど、それをするのが自我のはたらきなんだ。カントはね、デカルトの『私は考える』っていうあの原理を統覚作用として読み変えたんだ。カントによれば、『考える』っていうことはカテゴリーを適用するってことだからね。
カテゴリーがぼくらがものごとを理解する枠組みだとすると、時間空間はぼくらがものごとを感覚する枠組みなんだけど、その話はまたにしよう。とにかく、カントのこういう考え方はね、バークリーたちみたいに、現実を夢だって言って心の中で起こる夢にしちゃうんじゃなくてね、逆に、時間空間とカテゴリーで、まず心の中で起こる夢みたいなものを考えておいて、客観的な現実全体が実はその中にあら【ねばならない】んだって言う、ってやり方なんだよ。”p.105-107
※〔原文ママ〕も【】も原文にはなく、【】内一文字一文字に傍点。
国家神道=新キリスト教
=平田篤胤思想+現人神思想+ #スウェーデンボルグ 思想。
スウェーデンの貴族スウェーデンボルグの思想が神智学、スピリチュアル、ニューエイジ、宇宙人説、出口王仁三郎の霊界物語、大本教系(主要政党を支配)、大本教系の日月神示の元ネタです。
平塚らいてう(姉が #大本教 信者)が寄稿記事で『霊界物語』と #スウェーデンボルグ の関係を指摘しています。
大本教系の日月神示は和風スウェーデンボルグ。
丸に十字を掲げる大本教の出口王仁三郎の #日ユ同祖論デマ
1766年 - 『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』
Träume eines Geistersehers, erläutert durch Träume der Metaphysik
“1766年、『視霊者の夢』を出版[注釈 3][6]。カントはエマヌエル・スヴェーデンボリについてこう述べている[7]。
「別の世界とは別の場所ではなく、別種の直感にすぎないのである。-(中略)-別の世界についての以上の見解は論証することはできないが、理性の必然的な仮説である。スウェーデンボルクの考え方はこの点において非常に崇高なものである。-(中略)-スウェーデンボルクが主張したように、私は、〔身体から〕分離した心と、私の心の共同体を、すでにこの世界で、ある程度は直感することはできるのであろうか。-(中略)-。私はこの世界と別の世界を同時に往することはできない。-(中略)-。来世についての予見はわれわれに鎖されている。」
”
イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88#.E7.94.9F.E6.B6.AF
“スヴェーデンボリへの反応は当時の知識人の中にも散見され、例えば哲学者イマヌエル・カントは『視霊者の夢』中で彼について多数の批判を試みている。一方で、限定的に「スヴェーデンボリの考え方はこの点において崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である」(K・ ペーリツ編『カントの形而上学講義』から)と評価も下している。”
エマーヌエル・スヴェーデンボーリ(Emanuel Swedenborg, 1688年1月29日 - 1772年3月29日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AA
英知界:理性による思考・観念によって捉えられるもの
現象界:感覚的に経験、物理的に認識できるもの
人間はこの二つの世界にまたがって存在している。
森の中の詩人@morinosijin2011年5月31日
「また前者が感性の形式(空間・時間)によって成り立つ世界であることから、『感性界』と呼ばれるのに対して、後者は、それらの形式から解放されている、あるいは超えているという意味で、『英知界』とも呼ばれる。」(石川文康;カント入門)(補足:現象→現象体・感性界、物自体→可想体・英知界)
山田大輔@YA_DA1月4日
Wikipediaのカント「視霊者の夢」の解説が腑に落ちん。 「ウソかホントかわからんが、少なくてもこの世のことではないからどうでもいいんじゃねえの? 重要なのは、この世の中のことだろ?」って結論だと思うんだが。
11uk3w@11uk3w9月28日
カントもまた『視霊者の夢』のなかで私達の精神や魂が脳味噌にのみ宿る、というのはおおきな誤解である、現に頭部の一部を切除されても問題なく悟性を働かしている人間がいるのだから(逆に臓器の一部を切除して人格が変わった例も存在する)脳への信仰を改めるべきではないかということを書いていた。
京都大学哲学研究会@kyototekken7月14日
あれ、でも理性の限界を超えてることについてはわからないって純粋理性批判のオチと同じじゃね?この思想に哲学的な装いと無駄な文章力とを付け足すことで視霊者の夢ができたように、それをもっと大掛かりにしたらできたのが純理なんじゃね?みたいな話を例会後した
カントの言う『英知界』『現象界』の意味
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1385377388?fr=pc_tw_share_q
・カントは、
デカルトやバークリーの立場を経験的観念論(個々の知覚や経験に関する観念論)と呼び、
勘と自身の立場を超越論的観念論(経験一般の成り立ちと仕組みに関する観念論)と呼んだ。
超越的…我々が経験できる世界を超えてその外にある
超越論的…我々が経験できる世界を超えて、あたかもその外に立ったかのような立場から、我々が経験できる世界の成り立ちと仕組みを調べる
超越的が宗教的で
超越論的が哲学的
観念論…現実は夢だ、心の中にあるという立場
カントによれば、この部屋や本棚は、知覚されるから存在するんじゃなくて、ぼくらが見ていないときにも、誰も見ていないときにも、ちゃんと時間空間の中でカテゴリーに従って「客観的に」実在しているんだよ。でもそれはなぜかっていえばそれはぼくらがそれれらをそのようにとらえているからなんだ。こういうのを超越論的構成って言うんだけどね。
カントの凄いところは、「ほんとうの意味で存在するといえるものは何か」っていう問題の立て方自体を否定したところだな。この問題の立て方はね、哲学が始まって以来、デカルト、バークリー、ヒュームも受け入れていたんだ。
カントは、問いそのものを置き換えて、「そもそも真理とは何か」っていうことを問題にしたんだ。つまりね、「ほんとうの意味で存在するといえるものは何か」
じゃなくて、
「本当の意味で存在するといえるものが、そういえる根拠は何か」を問題にしたんだ。
・相手がこっちの観点から見てたいていは真理を語っているって前提することが、相手の言っていることの意味が理解できる為の前提。そうやって意味の理解が成立した後で初めて考えの違いとか、始めの誤解とかがわかってくる。
全然違う言語を喋っている人達も、「ゴミは糞尿は綺麗だけど花や夕焼けは汚い」って意味のことを言うことは「ありえない」ってこと。
それが意味理解の前提だから、ひょっとしたらほんとうはそう思っているってことさえもない。相手が自分と同じ信念を持ち、自分が真実だとみなすものを真実だとみなす、と前提するんでなくちゃ、意味の理解は始まらない。
相手の間違いを指摘したり、相手の意見に反対したりできる為にも、それが前提になる。
相手の言っていることがほとんど正しくて理にかなっているって前提する態度は、チャリティ原則と呼ばれている。この原則はひょっとしたら間違っているかもしれないような原則ではなく。そうでしかありえない原理。
例えば、動物の言語の場合もそう。アリやハチが僕らの基準で合理的に行動しているって解釈する場合にしか、彼らが言語を持っているとか、何か考えているとか、みなすことはできない。
だから、言葉は持っていて、ぼくらにその意味もわかるけど、でもぼくらとはまったく違う考え方をしている者、なんて「いない」んだ!
いるかもしれないけどぼくらにはわからない、なんてことに意味が与えられない。
“古代人が地球は平らだと信じていた、とぼくらは言うね? でも、それはほんとうかな? 古代人とぼくらでは、むしろ言葉の意味の方が違うって考えられないかな? 彼らが平らだと信じていたとぼくらが言っている地球って、ほんとうにぼくらの言ってるこの地球なのかな? ぼくらは、地球は太陽系の一部で、太陽系は大きな恒星のまわりを回る惑星の集まりだと信じているね。もしある人がね、地球に関して、こういうことをひとつも信じていないとしたら、その人とぼくらの間では、地球というひとつの同じものについて、それが丸いとか平らだとかという点で信念が食い違っているってことすら言えないんじゃないかなあ?”p.139
(英語で地球はアース=地面。自分の足元にあるのが地面で、どこが「下」かを教えてくれるもの。
”8 地球は丸くない!
ぼく:地球が丸いってことも、太陽のまわりをまわっているってことも、『発明された』の?
ペネトレ:そうさ。でも、地球は丸いのに、どうした下のほうにいる人が落ちちゃわないんだと思う?
ぼく:そりゃあ、引力があるからじゃん!
ペネトレ:でも、引力って引っぱる力だろ? そんなものがあるんなら、もっと地面に引っぱられているような感じがするはずじゃないかな? どうして引っぱられて、はりついているような感じがしないんだろうね?
ぼく:たしかに、そんな感じはしないけど……。
ペネトレ:だから、ほんとうは、ぼくらは引っぱられてなんかいないんじゃないかな? 『引っぱられるっていうのは、この地面の上にいて、ひとに腕を引っぱられたりするときの、あの感じについてだけ、言えることなんじゃないかな?』
ぼく:じゃあ、引力はないって言うの?
ペネトレ:引力がないだけじゃなくて、地球が丸いっていうのも、ちょっとあやしいな。
ぼく:どうしてさ!?
ペネトレ:丸いっていうのは、この地面の上にある、スイカとかボールとかについてだけ、言えることなんじゃないかな?この地面が球体であるって考えたとたんに、ぼくらは地球というものを、この地面のことじゃなくて、この地面の上のほうにある巨大なボールのようなものだと考えてしまっているんじゃないかな?その証拠に、地球は丸いのに下のほうにいる人が落ちないのは引力があるからだ、なんて考えてしまうだろう?
ぼく:どこがいけないのさ?
ペネトレ:地球には「下のほう」なんてないはずだからだよ。でも、ぼくらは上下のある絵しか描けない。できるって言うんなら、上下のない地球の絵を描いてごらんよ。世界地図だって、地球儀だって、星座早見盤だって、必ず上下がある。それはつまり、地面の上に乗っているってことだよ。だから、ぼくらが住んでいるとされる地球という名前の惑星をふくめて、ほんとうは、すべてのものが、この地面の上にあるんじゃないかな?
ぼく:ペネトレ、それ本気で言ってるの?!!!”p.100‐102
※『』内は原典では太字
物理法則という客観的だとみなされている(この法則の観測は主観的になされる)のですが、結局のところ、人間の肉体的制約や生活様式の前提に縛られます。
肉体的制約とは、左右対称、上下非対称などで、
生活様式の前提とは、重力下で生活(頭は上、足は下)などです。
地球上にいる時、われわれにとっての地球とは地面のことであり、そこから逃れられないのです。
仮に、人間の体が完全な球体だとすれば、文字は左から右へだとか、その逆だとか、縦書きだとか、横書きだとか、という概念が生まれるか?
などなどさまざまな思考実験ができますな。
森博嗣『笑わない数学者MATHEMATICAL GOODBYE』文庫版
にある鏡に映ると左右は入れ替わるが、上下や前後は逆にならない理由↓
「鏡に映った像は、左右が反対になりますね。どうして、上下や前後は逆にならないで、左右だけ入れ替わるのか、刑事さん、答えられますか?」(…)
「定義の問題です。左右だけが、定義が絶対的でないからです。上下の定義は空と地面、あるいは、人間なら頭と足で定義されます。前後も、顔と背中で定義できます。では、左右はどうでしょう?左右の定義は、上下と前後が定まったときに初めて決まるのです。人間の体型が左右対称ですし、歩いたりするときも横には動きません。上下と前後の定義が独立していて、絶対的なものであるのに対して、左と右の定義は相対的です。この定義のために、鏡で左と右が入れ替わるんですよ」
「待って下さい(…)鏡の映像に……、そんな、人間の考えた定義が関係するのですか?あれは物理現象であって、人間の言葉には関係がないと思いますが……」
「いいえ、我々は、ものを定義して、それを基準に観察するんですよ。
(…)僕たちに、顔がなかったとしましょう。そのかわりに、片手だけが大きくて、バルタン星人のようにハサミがついているとします……。この場合……、ハサミのある大きな手が、右と定義される。顔がないから、前後の定義が相対的なものになります。つまり、上下と左右が定まって、初めて前後が決まることになります。この顔なしバルタン星人が、鏡を見たら、前後が逆になりますよ。良いですか?ハサミの方の片手を挙げて、鏡を見てみましょう。鏡の中の自分も、やっぱりハサミの手を挙げているでしょう?つまり、左右は入れ替わっていない」
(…)
「それでは……、こういう説明ではどうでしょう。右と前、左と後ろ、この言葉を入れ替えて使う国があったとしましょう。その国では、右という言葉は前のことです。左という言葉は後ろのことです。顔がある方が右、背中が左です。さて、この国では、鏡を見て、左右が入れ替わるでしょうか?」“p.433‐435”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-61.html)
・言葉にほんとうの意味ってものがあるとすれば、それは実際に言葉を使っていることの中に「示されている」だけ。そこに示されているものを自分が語るなんてできないのは当たり前。言葉の意味が分かるとはその言葉が実際にちゃんと使えるってことだ。知覚も行為もそう。何かが見えるとは、それが見えてる人じゃなきゃできない仕事が実際にできるってこと。そのことの内に示されること。自分には何が見えているかを自覚しているってことじゃないんだ。ましてそれが口で言えるってことじゃないんだよ。
行為、何かができるってことは、まさにそれがやれるってことで、自分が何をどうやってしているかが説明できるってことじゃないんだ。
・人間は規則を自覚する可能性とともに規則を身につける。はっきりと自覚していなくても、人間はそのときひとつの空間を身につける。
何かを理解するってことは、それが何の否定なのか、何でないことなのか、を理解することを含むんだ。正直な人っていうのはね、嘘をつくと身ぶりで欺くってことがどういうことかを知ってなくちゃ駄目なんだよ。つまり、正直-不正直の空間を身につけたうえで、そのうえで、あえて正直の方を選ぶ人が正直な人なんだ。不正直を選ぼうと思えばできたからこそ正直者。
だから、犬は嘘をつかないし身ぶりで欺きもしないからといって、犬は正直者だなんていえない。自分がなにをしていないのかを知らないから。もちろん、何をしているのかも知らない。
(そう考えると素直で正直な幼児はほとんどいませんね)
・どんなことでも自覚したがるのが哲学の本質。
・「人間は動物ではない。
犬は人間である。
それゆえ、犬は動物ではない。」
「魚は水中を泳ぐ。
マグロは水中を泳ぐ。
それゆえ、マグロは魚である。」
前者が論理的に正しい推論で、後者は非論理的な論理的に正しくない推論。
前者を形式化すると
すべてのBはCではない。
すべてのAはBである。
それゆえ、すべてのAはCではない。」
明らかに論理的に正しい推論。
後者は
「すべてのBはCである。
すべてのAはCである。
それゆえ、すべてのAはBである。」
二つの前提ではAとBの関係については何も言っていないんだから、そこからAとBとの関係について推論なんてできるわけがない。明らかに論理的に間違った推論。
論理的な正しさは、前提や結論の事実的な正しさとは関係ないんだ。二つの前提が「もし」正しい「としたら」、結論も「どうしても」正しく「なくちゃいけない」っていえるかどうか、これがポイント。最初の方の推論は前提も結論も事実的には間違っているけど、もし二つの前提が正しかったら、結論は「どうしたって」正しくなっちゃうから正しい推論。
内容的には間違っていてもいい。論理的な道筋の正しさは、個々の内容が現実と合っているかどうかとは関係ない。
ある議論が正しいかどうかを問われると前提や結論が現実と一致しているって意味で正しいかどうかをついつい考えたくなっちゃうね。でもそういうことは論理的推論そのものの正しさとは関係ない。今でも科学者や評論家の中にもこのことが良く分かってない人が結構いるから注意した方がいいよ。
(論理とは事実的な正しさとは無関係に、前提が正しければそうなってしまう構造、手続きであって示されるしかない規則なのでしょうね。論理的な文章とか論理的な思考が何を教えるには、実際にその文章や思考を示さないといけないから。)
・哲学者クリプキがウィトゲンシュタインのパラドックスを考えた。
四桁までの足し算ができるようになった子供に、ある日、先生が五桁の足し算をやらせたら、子供が答えは1だと言う。先生がなぜかときくと、その子供は「だって、これは五桁だもん。答えは1に決まっているよ」って答える。つまり、この生徒はこれまで教えられた足し算からそういう規則を自分で発見したってこと。
もう一つ例をあげると、主語が第三人称単数のときには動詞の語尾にsをつけるって規則を学んで、その規則を間違いなく適用できるようになった
学生が、主語に「Akira」って日本人の名前が出てきた途端に、動詞の語尾にssをつけた。理由を尋ねられると、主語がAkiraだからssに決まっていると答える。
問題は、生徒が間違っていると言える根拠は先生の側にはないってこと。生徒は、教えられた規則を、論理的な可能性としてはどんなふうにでも解釈することができる。そしてどんな風に解釈してもそれがその規則に従っていることなんだっていう規則解釈が成り立つというパラドックス。
その生徒は怪しい。だってさ、もしその生徒がほんとに規則をそう解釈したのなら、これは五桁だからとか主語がAkiraだからとか「言う」はずないじゃん。自分がなぜそういうふうに規則を把握しちゃったのか自分でもわからないはずだからね。理由を聞かれても「どうしてって、それ以外にどうしようもないじゃん」とでも言うほかないはずなんだ。理由が言えた時点で、その生徒はほんとうは自分が「特別」のことをしたってことを知っているんだよ。五桁のときもふつうに足し算をやる可能性や、主語がAkiraのときもふつうにsをつける可能性をちゃんと知ったうえで、その可能性の空間の中で、あえて別の可能性を選んだんだよ。つまりふつうの規則理解の仕方をちゃんと知っているんだよ。ぼく見るところではね、その生徒は悪質だよ。そいつはほんとうは先生をからかっているだけなんだよ。
どうしてってそれ以外にどうしようもないじゃん、というほかないような言語や規則の捉え方のことをウィトゲンシュタインは言語ゲームと呼んだ。
すべての人が「赤」で同じ色を意味しているとは言えないとか、自分が痛いとよんでいるものは他の人ならくすぐったいと呼ぶ感覚と同じかもしれないとか、そういうことに深く心を動かされた後で、その後ではじめて言語ゲームっていう考え方から見て、そういう疑問には実は意味が無いんだってことを知って、もう一度、今度はそのあたりまえのことの方に深く感動しなくちゃ駄目なんだ。最初からそんなことはあたりまえだと思っている人には、言語ゲームっていう考え方がどんなに素晴らしい、すごいものなのか、結局のところは、わからないと思うな。
"哲学ってみんなそうなんだよ。つまり、結論はそれだけ取り出せば誰でも知っているあたりまえのことを言っているだけなんだよ。でも、いったん問題を感じた人にとっては、そのあたりまえのことのとらえ直し方が、それこそが輝いて見えるんだよ。哲学はね、いつでもある新しい空間を描いて見せるだけなんだ。ある問題に関して、これまでとは違う空間を設定するんだ。その空間が設定されたことで、問題の意味がこれまでとは違う、新しい相貌を見せたなら、そこで哲学の仕事は終わるんだよ。結局、選択するのは個々人だからね。哲学が人々に受け入れられるっていうのはね、みんながその主張に賛成するようになることじゃないんだよ。むしろね、その主張に反対する人でさえも、その哲学が設定した空間の中でしか反対できないようになるってことなんだ。つまり、対立が起こる土俵自体を作り変えてしまうことだね。
翔太、もうきみには教えるまでもないと思うけど、哲学は思想じゃないよ。哲学のいちばん哲学的な部分は、主張じゃないからね。何かが主張されていても、そこで主張されていることではなくて、そういう主張が意味を持つとき前提されることになる空間こそが哲学なんだ。そこを混同したら、せっかく哲学をやっても、そこから何も学べないんだ。"p.167
・自由って観念の源泉は「不自由がない」ってことにしかない。
・オリンピック選手は、オリンピックに出たいって欲望に負けてついつい練習しちゃう意志の弱い人だともいえる。
人間は欲望のおもむくままに自然に行動していると、ついつい善いことをしちゃいがちだから、意志の力でその自然の傾向を抑えて、悪いことができるようにしないといけない。
意志と欲望に善と悪を割り振るのは根拠のない偏見。
・意志は意志したことの実現によってしか満たされないんだよ。だから、意志を持った人はそれを実現しようとせざるをえないんだ。それが意志を持つってことの意味だからね。それに対してね、意志と結びついていない欲望は、どんな形で満たされるか、当人にも予測できないんだ。~が食べたいって欲望は~を食べようって意志と結びつかないかぎり、たぶん~を食べることによって満たされるだろうっていえるだけなんだ。
それに対してね、~を食べようという意志、って表現される意志はね、~を食べる行為って記述される行為によってしか満たされないぞ!っていう、自分に対する宣言みたいなもんだからね。そう宣言しちゃった以上は、もうそれ以外のものによって満たされちゃ「いけない」んだ。意志はね、だから、精神状態じゃないんだよ。それに対して、欲望は精神的・肉体的な一つの状態にすぎないから、欲望を持った人は、それを実現しようとする傾向性はあっても、必然性はないのさ。
意志は心の状態ではない。ぼくらは、自分の欲望を誤認することはあっても、意志を誤認することはない。
・“ある時点で時間が創られるって話は、ぼくらには理解不可能なんだよ。だって、ある時点で創られたんなら、それよりまえはどうなってたんだ、ってことになるからね。ぼくらの時間概念は、そういう時間の創造とか、時間の開始って問題が考えられるようにはできてない、って言ってもいいな。何かが創られたり始まったりするのは、すべて時間の中でのことなんだ。」
「時間が創られたとすると、それは時間内のある時点で、じゃなくて、なんて言ったらいいのか、時間の外からってことになるんじゃない?」
「なるかもしれないけど、そんなことイメージできる? 時間の外から時間を創るなんて。そもそも時間が始まるってこと自体が、ぼくらには理解しようがない観念じゃないか? ぼくらが理解してる『始まる』とか『創られる』って概念はそもそも時間的な性質を持った概念だからね。それを時間そのものに適用しちゃうことなんかできないのさ。」
「空間も同じかな? 空間を空間の外から創るっていうのはどうかな?」
「そもそもね、空間が創られるまえの状態なんて想像できるかい? 時間は流れているんだけど、空間は存在しない世界なんて、そもそも考えられないだろう?」”p.185-186
空間が無い状態を、何かカラッポなイメージをしても、それは結局は空間を想定してしまっている。
空間はどこまで広がっているのかとか、時間はどこから始まってどこまで続いているのか、なんて問いには意味が無い。空間を空間現象だとみなしたり、時間を時間的現象だとみなしてしまうのは錯覚。ぼくらは時間と空間の外に出て対象として眺めることはできない。
だからカントは時間空間はカテゴリーと並ぶ主観の側の形式だと言った。
じゃあ、時間が急に止まっちゃうとか、逆流しちゃうとか、それからタイムトラベルなんてことも絶対不可能ってことになるね。
ぼくらが考えることもできないことは、起こることもありえないさ。要するにね、考えられるかぎりのどんなにへんてこなことが起こったって、ぼくらはそれが時間が止まったなんてみなさないんだからね。だから時間は止まらないのさ。
もうきみは「でもぼくらにはわからなくても、ひょっとしたら、いつか時間が止まったり終わったりすることがありうるかもしれない」なんてことは言わないだろうね。そういうことは最も根本的な意味で「ありえない」ことなんだよ。ぼくらはぼくらの知っているこの時間空間しか知ることはできないんだ。だから、そういう意味で、タイムマシンに乗って過去へ戻るなんてことはありえないさ。もしぼくらが「これから」タイムマシンに乗ってどこかへ行くなら、行きついた世界がどんなにむかしの世界であろうと、それは出発時から見て未来の出来事なんだから。どういうわけか未来の中身が過去と瓜二つだったってだけのことさ。「いまから」ぼくらが過去へ戻るなんてことは論理的にありえないことなんだ。
(百年前に自分が行ったのか、周囲が百年前と同じ状態に変化したのか、区別はつきません)
ある物差しの長さに疑問を持ってその正確な長さを知りたいと思ったら別の物差しが必要。もし物差しが世界に一本しかなかったら、その物差しの正確な長さを計ろうなんて無理な企て。他の全ての者がその物差しで測られるだけで満足しなくちゃならないんじゃないか。
(時間や空間も、たった一つの物差し)
・死は体験じゃないんだよ。痛みや悲しみや欲望のように、他人や自分が持つものじゃないんだ。だから死んだ人だって死を体験してはいないさ。臨死体験はありえても、死の体験はありえないんだ。体験する主体そのものが消滅するってことなんだから、まさにその体験がありえないってことこそが、死ってものの根底的な意味なんだよ。
自分が消滅した状態を自分が「思い描く」っていうことは本質的に不可能。
でも自分の消滅するってことの意味を自分が「考える」ことはできる。
死ぬのが嫌なのは、死んでるって状態が嫌なんじゃなくて、もう生きられないってことが嫌なんだよ。だから長生きはいいことだと思うけど。長死に(大昔に死んで今まで長く死んでいること)は別に悪いことだって思わない。
“愛ってのはね、どこまでいっても、結局は話なんだ。それに対してね、存在と無は、生と死は、究極的にはね、話じゃないんだよ。それは、現実なんだよ。ただ、受け入れるべき現実なんだよ。」
「存在って、ぼくが存在してるってこと?」
「そうさ。それはほんとうの奇跡なんだよ。どんな因果性からも説明できないし、どんな理由や根拠づけも、そこにはおよびえないんだ。『なぜか』そうだったってことから、すべては始まるんだよ。必然も偶然もそのあとの話さ。“p.203
『』は原文にはなく、原文は『』内の一文字ずつに傍点。
“人生に意味を求める人が多いんだけど、あれはまちがいだよ。人生の内側には、もちろんたくさんの意味づけができるし、生きがいはあるさ。でも、人生の全体を、つまりそれが存在したってことを、まるごと外から意味づけるものなんて、ありえないさ。そんなものがありえないってことこそが、それをほんものの奇跡にしているんだからね。そこを誤解しないようにしないとね。人生の内部のさまざまな行為や出来事に意味を与えるのと同じように、自分の存在そのものにも意味を与えてしまったら、人生の深い味わいの大半は失われてしまうんだよ。そもそもね、ぼくらはね、みんな、意味づけの病に陥っているんだ。世の中で何か事件が起こると、新聞やテレビや、学者や評論家が、意味づけ合戦を始めるだろ? あれはもう病気だよ。世の中で起こったことに、意味なんかないのさ。ただ、たまたま起こっただけなんだ。そしてね、表舞台で演じられるああいう意味づけ合戦が、どうしても自分自身に向けられたものとは感じられない『まともな』人々が、かわいそうなことに、自分自身に直接向けられたメッセージを探しに向かうんだよ。でもね、翔太、そんなものはどこにもないんだよ。」
「でも、もしかしたら、ぼくの存在には神さまの計り知れない意志が働いているのかもしれないよ。」
「もしそうだとすれば、そんなことは絶対に考えられないと思うよ。ぼくらはね、自分を産み出している培養器の中の脳について考えられないのと同じ意味で、ほんとうに存在する神については決して考えることができないんだよ。ぼくやきみが生まれてきて、いまここにこうして存在していることには、ひょっとしたら、何か、ぼくらの知らない、ほんとうの意味があるかもしれないよ。でも、もしあるとしても、それがほんとうにほんとうの意味なら、ぼくやきみがそれを知ることはもちろん、それについて考えたり語ったりすることさえ、絶対にできないんだから、こんなふうに言うこともできないんだよ。だから、そういうことが分かるとか、知っているとか言う人は、絶対に信じちゃいけないんだ。」
「でも、もし媒介者がいたらどうなる? そういう超越的な世界とぼくたちが住んでるこの世界とをつなぐような。たとえばイエス・キリストみたいな。」
「もし、それを信じることでこの世界での人生が意味を持つのであれば、そういう話はぜんぶ嘘だって断言できるね。でも、そうでないなら、ひょっとしたら、信じられるかもね。」
「そうでないって?」
「それを信じても、何の意味もないような話なら、ってことさ。たとえば、宇宙は巨人族の庭にあるバケツで、ぼくらは彼らの食料のための餌として備蓄されている虫だ、ってな話なら、信じてもいいさ。それを信じても、自分の人生全体が意味づけられるわけじゃないからね。そうでなくて、人生全体に意味や価値や物語を与えるような話は信じちゃいけないんだ。翔太、きみはニヒリズムって言葉を知っているかい?」
「知ってるよ。すべては無意味だっていう思想でしょ? だから、生きていることなんか意味がないって。」
「むしろ逆だな。ニヒリズムっていうの〔原文ママ。恐らく「は」抜け〕ね、すべてには意味しかないっていう考えのことなんだ。人生は何のためにあるのか、とか、自分は何のために生まれてきたのか、とか、そういう問いこそが虚無的(ニヒル)な問いなんだよ。そして、もし何かひとつの全体的な意味づけの中に一生涯没入して生きる人がいるとしたら、それこそがむなしい、ニヒリストそのものなんだ。」
「でも、宗教って人間を救うためにあるんでしょ? だから、それを信じることによって救われるなら、それでいいんじゃないの?」
「たしかにね、人生の内部での自分の欲望の現実化だけをそのつどの人生の目標として生きていくのもむなしいさ。どんな満足感も慣れれば薄れていって、すぐにまた不満足に変わってしまうからね。だから、そうした全体を意味づける何かが欲しくなる気持ちはわかるよ。特にね、不満足な人、不幸な人はね、まさにそのように不幸であることに、自分が生きているほんとうの意味を見いださざるをえないときがあるからね。それは、やむをえないことさ。
(…)
いま、きみ自身が持っているいろんな素質とか能力とかがあるだろう。若いころはそういうものが自分自身の人生を決めていくような感じを持っている。でも、それは錯覚なんだ。ほんとうは、思いもよらない偶然が君の人生を決定してしまう。幸福な偶然(グッド・ラック)もあれば不幸な偶然(バッド・ラック)もあるさ。幸福でも不幸でもない偶然もたくさんある。そういったことは文字どおりたまたまなのだから、何の根拠も意味もない。でも、そういう意味のないことがたまたま起こったってことには意味があるんだ。その意味のなさこそをよくよく味わわないと。そこでこそ、全宇宙の存在の奇跡と君の存在の奇跡が出会うんだ。そういう偶然を味わうためにこそ、君は一回かぎりこの世に生まれてきたとさえ言える。
(…)
新聞やテレビや、学者や評論家を、絶対に信用しちゃだめだよ。世の中で通用するってことは、ほんとうに大事なことはぜんぶ『はしょって』あるってことの証拠だからね。哲学から学べるような一般論はね、そういう自分に固有の体験の場で鍛えられてはじめてほんものの知識になるんだ。“p.204-208
『』は原文にはなく、原文は『』内の一文字ずつに傍点。
宗教は人間を支配するためにあります。少なくとも布教熱心な宗教は侵略用。キリスト教が典型例。
その宗教が何人救ったかは数えにくいが、何人殺したかは数えやすい。
私たちは私たちの言語と私たちの理解力、認識、知覚の外に出ることはできません。可能性というのはそのなかでしか考えられません。だから、あなたの人生全体の意味がわかる人はこの世に存在することができません。あなたの人生全体の意味がわかる存在がもしいるならば、その存在は私たちの言語、理解力、認識、知覚の外にいますので、私たちは考えることができません。できるって?
それは錯覚。その存在「の想定」をあなたの思考「の中に出現させているだけ」で、絶対にあなたの思考の外の存在には至れませんから。
だから宗教は、宗教の神はインチキなのです。特に唯一神は大ウソ。
“答えが用意されているような問いは、ほんとうの問いじゃないんだ。そういう問いは、答えがないほんとうの問いを問うための練習にすぎないんだよ。問いのまえで茫然とするしかないような問いこそがほんとうの問いなんだよ。”p.209
“哲学することが流行したことなどかつてなく、これからもない。しかし、人間が哲学することをやめたことはかつてなく、これからもない。ただそれだけのことだ。一般の理解に反して、哲学とは主義主張や思想信条のことではない。その正反対である。哲学とはむしろ、主義主張や思想信条を持つことをできるだけ延期するための、延期せざるをえない人のための、自己訓練の方法なのである。少なくとも、本書が思想書として読まれるようなことだけはないようにと、私は願っている。"p.216-217
おまけ
”“精神病院で自分はナポレオンだと信じてる患者がいた。
あるとき、医師が
「なぜキミは自分がナポレオンだと主張するんだ」
と訊くと、その患者は、
「神様がおまえはナポレオンだと言った」
と答えた。
すると、すぐそばにいたべつの患者が怒った顔でこう言った。
「おれはそんなことを言った覚えはない!」
” http://koee.net/1096
永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み――哲学的諸問題へのいざない』を参考にして、
主に言語を学べる条件について考える。
実は、『ロボット』とか『人間』とか『黒』とか『痛み』などの言葉の意味を習得しつつある子供には、人間がロボットに見えるとか、黒が白く見えるとか、痛みが眠気に感じられるとかを主張する権利はない。
意味が固定=基準が決定、された後にはじめて事実に関する極端な主張ができるようになるのであって、意味を学びつつある段階では、誰もが凡人。
なぜなら、
人間=ロボット、だと認識している人が、
人間がロボットに見える=人間とロボットは一般的には別物である、と言えるはずはないから。
子供のころから汚水をきれいだと感じて、浄水をきたないと感じる人がいたとすると、その人は『きれい』や『きたない』の言葉の意味を学べない。
なぜなら、私たちは言葉の意味を「実例を通じて学ぶので、最初から多数と判断が一致していないと、そもそも意味を学ぶことはできない」から。
つまり、感じていること、考えていることなどが同じ(あるいは「ほぼ」同じ)だという前提のもとで、はじめて意味を教えたり学んだりすることが可能になる。
例えば、日本語が母国語の人が、マレー語をまったく知らずにマレーシアに行ったとしても、その人は少しずつわかるようになっていくだろう。
なぜなら、なんとなくわかることがあるから。
自分を指差して何かを言ったら自己紹介をしているのだろう、
自分以外を指差して何かを言ったら指差されたものについて何か言っているのだろう、といったことなどだ。
ではなぜ、「何かを指差して何かを言ったら、その言った内容は指差したものに関係しているはずだ」って思うのか?
まさにそこがキモ。
要は、相手がこちらが予想できることをしてくれないと、相手の言葉は絶対に学べないということだ。
そうでないと、相手の話している内容を推測して、自分の言葉(おそらく母国語)にあてはめて理解し学んでいくことはできない。
他にも言語を学ぶ前提はある。
相手が言っていることの意味がわかるようになっていくためには、相手が、(こちら側の基準で)まともでありふれた存在でないといけない。
そうでないと予想すらつかない。
相手がほとんど正しいことを言っていると前提しないとどうしようもない。
皆が真理を語るとは限らないが、相手がこちらの観点から見てたいていは真理を語っている、理のあることを、整合性があることを言っていると前提することが、理解の前提。
つまりは、自分とぜんぜん違う言葉が喋っている人が、「汚水はきれいだけど、浄水はきたない」って意味のことを言うことは「ありえない」ってこと。
それが意味理解の前提なので、ひょっとしたらほんとうはそう思っているかもしれないってことすらない。
相手が自分と同じ信念を持ち、自分が真実とみなすものを真実だとみなす、といった言語以前の形式--人間は言語は違っても、重力下で生き、表皮は固体で、左右対称で、生存のためにはエネルギー摂取が必要で、挨拶し、自己紹介し、などなどといった共通項--
を少なく或る程度はもっていると前提しないと、意味の理解ははじまらないってこと。
いや、この「言語以前の形式」以前の形式、
つまり、カントのカテゴリーなどのものさえ共有できていればまだ理解は可能かもしれない。
感性(感覚みたいなもの)的に見出される経験における一般性を支えるのが「悟性」(知性と訳すことあり)である。
悟性的な理解とは、それが何であるかを把握する能力である。
五感で感覚される対象が一般的に何かであることは悟性によって規定される。
悟性固有の形式が、純粋悟性概念=カテゴリー↓
カントのカテゴリー
※悟性…感性が与えてくれた対象を、カテゴリー(質、量、関係、様態など)に基づいて判断。
①分量
(すべてのものか、
特殊なものか、
それともこのひとつか)
②性質
(これは~である、といえるものか、
これは~でない、といえるものか、
これは非~である、といえるものか)
③他のものとの関係
(いついかなる場合であってもこれは~である、といえるのか、
もし…なら、~である、という条件付きのものか、
これは~か…のどちらかである、といえるのか)
④様相(物事のありよう)
(~であるだろう、といえるのか、
~である、といえるのか、
かならず~でなければならないといえるのか)
別の表現だと
1. 量(単一性、多数性、全体性)
2. 質(実在性、否定性、限界性)
3. 関係(実体性、因果性、相互性)
4. 様態(可能性、現実存在、必然性)
[アリストテレスの10のカテゴリー(範疇)
1実体
主語が何であるか
2量
主語がどれほどの量であるか
3質
主語がどのような質であるか
4関係
主語が他のものとどのような関係にあるか
5場所
主語がどのような場所にあるか
6時
主語がいつあるか
7状況
主語がどのような状況にあるか
8状態(所有)
主語が(物との関係で)どのような状態にあるか
9能動
主語が他のものに対してなにをしているか
10受動
主語が他のものから何を被っているか]
カテゴリーは認識のフィルターのようなもので、カテゴリーに引っかからなければ認識されないので、カテゴリーを外れたものは存在しないとみなされる。
言語の話に戻す。
相手が人以外でも同様。
何やらよくわからない異世界あるいは宇宙空間からやって来たらしきものが、どうやら言葉を話しているようなのだが、何を言っているのか意味がさっぱりわからない存在がいたとする。
では、その存在が言語(らしきもの)を話していると仮定して、そいつの言っていることを推測していくにはどうしたらいいのか。
外国語学習とまったく同じく、私たち基準で合理的に行動していると解釈する場合にしか、彼らが言語を持っているとか、何か考えているとか、みなすことはできない。
人間以外の動物や植物なども同様。
よって
言葉は持っていて私たち人間にもその意味もわかるけど、私たち人間と(言語が成立する前提的な意味で)まったく違う考え方をしているものなんて「いない」。
いるかもしれないが私たち人間には決してわからない、なんてことに意味は与えられない。
そして、意味が理解できるようになってはじめて、相手の間違いやこちらの誤解がわかるようになる。
考えや理解の違いを確認するためには、相手がほとんど言葉の意味を間違えず、相手が今まで従ってきた意味体系と同じ体系に従っていると前提しないと成り立たないからだ。
話すたびにまったく違う意味体系に従って喋っていて、なおかつその場にまったく関係ないことしか喋らない存在の言語なんて学びようがないってことです。せいぜい、わめいている、と認識されるのがおちでしょう。
言葉の意味がわかるようになる場合
①相手がまともで言葉が違うだけのとき。
②相手の気が狂っているが、正しく日本語(一例)を使っているとき。
言葉の意味がわかるようにならない場合
(その人が何を信じているかもわからない)
①相手の気が狂っていて、しかも間違った日本語(一例)を使っているとき。
②相手の気が狂っていて、しかも私たちの知らない言葉を使っているとき。
冒頭の引用のような精神病的妄想を持っている人に対して、精神科医やカウンセラーは、普通、相手が言葉の意味自体は誤解していないって前提で接するらしい。
私はナポレオンだ。神がそう言った。
と言ったら、「その人はそういう妄想を持っている」と考える。
言葉自体は受け入れる。
ナポレオンが実は「敵前逃亡の一兵卒」だったり、神が実は「人間」だという可能性は、相手に質問して肯定しない限り、あの有名なナポレオンとみなす。
そうしないと、話が成り立たない。
今度は、「色」という概念が存在しない(必要としない)宇宙生命体(生命体の定義も実に曖昧だがここでは議論しない)を仮定する。
私たちがとらえる世界では、物の種類とその色とは対応していない。
しかしもし、物の種類と色が完全に対応している、例えばカラスは絶対に赤いといった風に、と彼らが認識していたら、彼らに「色」なんて概念は存在しない。
また、例えば三角形は絶対に青いと認識していれば、やはり「色」の概念は存在しない。
「形」と「色」が一体となっているとも言える。
つまり、「形」と「色」が一体となった概念が誕生しているはずだ。
我々から見れば、認識の一部が欠けているとみなされる。
が、先に行ったカテゴリーを少なくともある程度は共有していれば、宇宙生命体の言語も学べるのである。
カテゴリーのことを相手に伝えればいいのではないのか。
と言いたい人がいそうである。
カテゴリーは頭の中や心の中にあるものではなく、言葉を使って「実際に活動しているその活動の中に“示されている”形式」。
活動中に意識するなんてありえない。意識しようがない。
絵がどんなものかは言語で伝えられない。
「とにかく見て!」と言って見てもらわないといけない。
見ないとだめだから「示す」しかないように。言葉の限界を示す。
カテゴリー「について言葉で言う」のではなく、
カテゴリー「に従って『赤いリンゴ五つ!』と言う」。
そうすると、
果物屋は、
「まず」『リンゴ』という「実体」のある場所へ行って、
「次に」『赤い』(性質)のを、
「最後に」『五つ』(個数)選ぶ。
この順序は変えられない。
まず個数から初めて、次に性質、最後に実体(=個数や性質の前提)
なんてことは、カテゴリーの中で生きる人間には想像すらできない。
果物屋のこの「必然的な行動形式の中にカテゴリーが示されている」。
そしてこの「カテゴリーに背後はない」。
カテゴリーは動物の必要からできたってことはありえない。
なぜなら、動物とか生物といったとらえる枠組み自体がすでにカテゴリーに依存しているから。
因果関係が逆。
原因と結果を入れ替えてはいけない。
「まず」カテゴリー「によって」ものごとがとらえられ、「そこからすべてがはじまる」。
神や宇宙生命体の姿をイメージすると、思わず人型になってしまうのは当然だということ。人間の思考形態に当てはめないと思考すらできないから。
カテゴリーを外れた宇宙存在とは交流不可。
正確には、存在自体を認識しないから交流以前の問題である。
このような日常の大前提について徹底的に考えたウィトゲンシュタインが偉大なのは、
「意図的にするはずがないことを意図的にする」
という、いと面白き意図を持って哲学し、哲学史に
「無意識的に意識的になるような」不思議で奇跡な書物を残したからである。
”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-61.html
永井均bot@N1951_bot
「じゃあ、よほどのことがないかぎり、約束を破ってはいけないんだね?」「約束を破ること自体が目的の場合は別だけどね。ぼくらはいろんなことについて自分から約束をするけど、約束を守るという約束なんて、自分からすすんでしたことがないからね」『対話』
他者はゾンビなのでしょうか。一つの意味では、まさにそうなのです。だって、そうでしょう。外的な振る舞いも内的な脳や神経の状態もまったくふつうの人間なのに、痛さも酸っぱさも不安も憂鬱も感じない人は、だあれ? と問われたら、この謎々の答えは「他人」しかありえないでしょう。『意識』
アインジヒト「そもそも、世の中には悪人もたくさんいるし、悪事はねんじゅう実行されているのに、そっちの側に立った倫理学説というものが存在しないのはどうしてなんだろうか。これはていねいに考えてみるに値する哲学的問題だと思う」『倫理』
意識とは、言語が初発に裏切るこのものの名であり、にもかかわらず同時に、別の意味では、まさにその裏切りによって作られる当のものの名でもあるのです。どうか、この言い回しを、気障なレトリックだと思わないでください。ここに問題のすべてがあるのです。『意識』
「もしね、もしもだよ、かりに立花由美が生まれてから一度も怒ったことがないとするよ、そしてね、急にいま死んじゃうとするんだ。」「死んじゃうの!?」「もしも、だよ。そういう場合、彼女がほんとうは怒りっぽかったっていうことがありうると思う?」『夏休み』
病気は自分に隠されていた自分の真理を教えてくれる。それは、いかなる理性的説得もおよばない、圧倒的な教育である。だが快癒は、そのパースペクティヴが病のなせるわざにすぎなかったことを教えることになるだろう。『これが』
いったん神が客観的に存在するものとされてしまえば、開闢と結びつかない神の業も当然ありうることになるだろう。宗教というものを信じている人は、基本的にこの形で神を表象することになるだろう。だが、それは神の死のもう一つの形態ではなかろうか。『私今神』
「なるほどね。翔太は神の概念を信じるが、神の存在を信じない。インサイトは神の存在を信じるが、神の概念を信じない」「そんなわけのわからないひとりごとなんか言ってないで、どうして神さまにできないのか教えてくれよ。」「神さまだって意味のないことはできないからさ」『夏休み』
「他人が独我論的世界観を持つことは独我論に反する」という考えもまた、他人が持てば独我論に反する。そして、この構造はどこまでも反復し、どの段階であれ自他に共通の地平で収束することができない。ゆえに、独我論的主張というものは存在しえないことになる。『誤診』
「善なる嘘」は「善なる嘘」だと知られてしまえば、もう有効には機能しなくなってしまう。それはあくまでも(それ自体は善でも悪でもない)真理として語られなくてはならないのだ。『ため哲』
千絵「そういえば、神の存在を信じるようになった人は、自分がなぜ神を信じるようになったのか、そのプロセスが思い出せなくなるらしいよ」 アインジヒト「入信行為の意味そのものが、入信以後の信念システムの中に新たに位置づけなおされる必要があるからね。
だから、入信以前の信念システムから見た、入信せざるをえなかった理由は、もう理解できないのでなければならない。それこそが、入信以前の問題がそこまで本当に解決したことの証拠なんだ」『倫理』
アインジヒト「その問題が恐ろしいのは、自分の自己欺瞞に気づいたとき、気づいたというその思い自体が自己欺瞞かもしれない、というところにあるな。自分を、自分の自己欺瞞に気づいてそれを率直に認めることができるほど誠実な人間だと思いたい、という欲求がそこにあるのかもしれないからだ」
ニーチェは「キリスト教は『大衆』向きのプラトン主義である」と言ったが、それならば、ニーチェ主義は俗人向きのキリスト教であると言えよう。『これが』
古代が驚くべきものとみなし、近代が疑いえないとみなしたものは、実は同じものだったことになろう。実際、究極の驚くべきものと、究極の疑いえぬものは、一致するだろう。『闘い』
「わすれたいのにわすれられないんじゃなくて、ほんとは、わすれたくないんじゃないかな? いやなことほど、心の中で何度も反復したくなるし、いやな感情ほど、それにひたりたくなるんだよ。わすれてしまうと、自分にとってなにか重大なものが失われしまうような気がするのさ」『対話』
「だから、言葉は持っていて、ぼくらにその意味もわかるけど、でもぼくらとはまったく違う考え方をしている者、なんていないんだ!」「そう。いないんだよ。いるかもしれないけどぼくらにはわからない、なんてことの意味が与えられないんだからね。」『夏休み』
子どもの哲学は、何もよきものを求めない。それはよりよきもの、より高きもの、より深きものを、めざしはしない。子どもの問いは、解かれたときに、何かよい結果や効果が得られるようなものではない。しいていうなら、ただふつうの大人になれるだけだ。『ため哲』
全宇宙においてかつて成立した、現に成立している、これから成立するあらゆる客観的事実をすべて記載した膨大な書物があったとしよう。その書物には、永井均に関して真であることは、記憶や現在の身体感覚のような彼にとっての主観的事実を含めて、すべて書かれている。『存在』
しかし、その本のどのページを開いてみても、〈私〉についての記述はない。だから、その本をどれほど詳しく読んでみても、〈私〉が誰であるかはわからないのだ。(同書)
現実の根底には、醒めることができない夢とは別に(だが決して非連続的にではなく)、醒めることを禁じられた夢が存在するように思われる。それに対して、誰もがときに不眠症になり、ときに別の夢を見ることが本当はできるはずの、いくつかの根底的な虚構が存在するように思われるのだ。『態度』
アインジヒト「内面の法廷は、被告人も被害者も目撃者も、弁護士も検事も裁判官も、みんな自分だからね。事実を認定するために必要とされる誠実さという唯一の手段が、それ自体道徳的価値を持っている以上、この法廷では、道徳的価値判断から独立した事実認定が不可能になるんだよ」『倫理』
こと哲学に関するかぎり、青年は子どもに、大人は青年に、そして老人は大人に、かなわない。だが逆に、子どもの哲学は、老人の哲学にだけは、かなわないだろう。そこに哲学というものの限界が示されている。『ため哲』
神には〈私〉の着脱能力があるか。これが問題だ。これは、感情や感覚のような心理状態や、記憶や知覚のような表象状態を着脱するような、なまやさしい話ではない。もし神にこの能力があるのだとしたら、それはロボットに心を与えたりする通常の神より高階の神でなければならない。『私今神』
「表面的な明るさや暗さじゃないよ。根だよ。根が明るいってことが大事なんだよ。根が明るい人っていうのはね、いつも自分の中では遊んでいる人ってことだよ。勉強しているときも、仕事しているときも、なにか目標のために努力しているときも、なぜかいつもそのこと自体が楽しい人だな」『対話』
ふどうに手の届かなかった狐が「あれは酸っぱいぶどうなのだ」と言ったとしても、それはまだ相手を引き下げているにすぎない。だが、その狐が「ふどうを食べる生き方は正しくない」と言ったしたら、彼はひとつの解釈を作り出したのである。このとき、狐の力への意志は解釈への意志に変換される。
「ぼくはね、十五歳以上の人間にはほんとうに哲学をすることは不可能だって思っているんだ」『夏休み』
哲学は支配層が重視している分野です。
プラトン哲学は、キリスト教とともに西洋二大思想です。
なので、支配層の思想=プラトン思想の知識を↓
プラトンは優生学と職人軽視(肉体労働しない者が一番偉い)と理性崇拝と知性主義(馬鹿は人間ではない)と
偽りの公平感を与える儀式(選挙など)の基盤。
マギの弟子のプラトンの『国家』は『マギ』の一つ目フリギア帽子モガメット学長の演説の元ネタ。プラトン『国家』 藤沢令夫訳、岩波書店〈岩波文庫〉
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-43.html
で紹介しました。
しかしそれだと、思考訓練にはならないので、以下の記事を書きました。
永井均の著作三冊:『子どものための哲学対話』・『翔太と猫のインサイトの夏休み』・『私・今・そして神』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-61.html
永井均『マンガは哲学する』。藤子・F・不二雄『藤子・F・不二雄[異色短編集]1 ミノタウロスの皿』・〈異色短編集〉2『気楽に殺ろうよ』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-62.html
![]() | 翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫) (2007/08) 永井 均 商品詳細を見る |
今回は、永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』についての読書メモです。
読み直して気づいたのですが、インサイトは黒猫ですよ。
この表紙だと白猫ですね。
“ここにいる生き物が人間じゃなくて猫で、毛の色が黒くて、言葉をしゃべって、哲学者だ……から、『それだから』そいつがぼくなんじゃなくて、そいつがぼくだから、ぼくは猫で黒くて言葉をしゃべる哲学者……なんだ。”p.77-78
『』は原文にはない。原文では『』内の文字一つ一つに傍点。
・「夢は見るたびに違う話。何回か続きものの夢を見るかもしれないけど、ずっと続いている夢なんて考えられない。」
「それなら、もしずっと続いている夢なら現実と同じということになるのか。きみが眠るたびに同じ続きものの夢を見ていて、その夢の世界では、きみは地球防衛軍司令官だったとしたら、平凡な学生のきみの生活なんかより、夢の中のそっちの人生の方がよっぽど強いリアリティ(現実性)を持ってくるんじゃないかな。地球防衛軍司令官が毎晩眠ると、きみが朝起きるところから始まる続きものの夢を見るのかもしれない。どっちがほんとうだか区別がつかないんじゃないかなあ。
つまり、現実とは続きものの夢ってことになるんじゃないかなあ。」
「だとしたら、現実のぼくたちの記憶力がすごく弱くて、毎日、前日のことをほとんど忘れてしまうんだけど、続きものの夢の中のぼくは記憶力がよくて、子供の頃のことまで覚えているとしら、夢の方が現実になってしまうっていうことになるよ。」
「そうさ。だから、自分が死ぬまでずっと繋がっている連続ドラマのことをぼくらは『現実』と呼んでいるだけなんだよ。」
・“「もしね、もしもだよ、かりに立花由美が生まれてから一度も怒ったことがないとするよ、そしてね、急にいま死んじゃうとするんだ。」
「死んじゃうの!?」
「もしも、だよ。そういう場合、彼女がほんとうは怒りっぽかったっていうことがありうると思う?」
「それ、どういうこと?」
「別に立花由美じゃなくたっていいんだけどさ、ある人が一生怒ったことがなかったんだけど、それはたまたま不当な目にあうとか、そういう怒らなきゃならない状況に出くわさなかっただけで、ほんとうは生涯ずっと怒りっぽい人だったってことがありうるか、っていう問題なんだ。」”p.21
彼女はほんとうは怒りっぽいとか、この部屋は見られていないときは存在しないとか、ぼくたちが培養器の中の脳だとか、そういうことが主張できるためには、ぼくたちが実際に手に入れられるような根拠がなくちゃいけない。
・「生前には認められなかったけど、その人の死後で実はすごく重要な仕事をしていたってことが分かることがある(みなされる、そう評価される)。
そういうことがあるんなら、死んでからもずっと永遠に認められなくたって実はほんとうは凄く重要な仕事をしていたって人がいたっていいと思わない?」
「あまりにも天才的すぎて百年、千年たってもその人の仕事の意味が誰にもわからないってことはありうると思うよ。そのうち人類が死滅しちゃえば、その人は結局、なんでもなかったことになっちゃうけど……」
「結局何でもなかったってことに(原文だと「に」が抜けている。脱字)なるってことは、結局何でもなかったってことなのさ。その人は『ほんとうは』天才だったって主張に、意味を与えることはできないんだよ。」
「誰にも認められなくても確かめられなくてもほんとうは……」という立場は、
実在論といってとても由緒正しい立場。
英語だとリアリズム(realism)といい、「ほんとうは」(really)からきているから
「ほんとうは主義」と訳した方がいいかもしれない。
ぼくらが絶対に知ることができなくてもほんとうはそうだってことがある、って考えるのが実在論。
「誰にも認められなくても確かめられないなら結局何でもなかったってことなので、『ほんとうは』天才だったって主張に、意味を与えることはできない」
という立場が、
反実在論とか非実在論とか呼ばれる立場。
哲学に関する様々な対立の根底にはたいていこの実在論と反実在論の対立がある。
・今見えているものが実在しているかどうかは疑えるが、見ていると「思っている」ことは疑えない。主観体験の見え=私は見えていると思っている、は疑えない。
触れている「と感じている」、ということも疑えない。
・幻覚なんてものはめったにない。だから見えたらもうあるって思い込んでいい。もっと強く言えば、ものを見るってことは、見た通りにあるって思い込むこと。
だから、見えたのにそれがあるって思わないで、ないかもしれないなんて言う人がいたら、そんな人の方がそう言うための根拠を示す必要があるんだよ。特に根拠もないのに、見えたのにないかもしれないって言う人は、もうそれだけで懐疑論者だよ。
懐疑論者は用心深いように見えるけど、実はそうじゃなくて、けんかっぱやいんだよ。おまえはそう決めてかかってるけど根拠がないじゃないかって、すぐに食ってかかってくるんだ。
そう言われてみると、こっちもよく考えたた(「た」が一つ多い。言っておきますが、“”でくくっていない箇所は原文とまったく同じではありません)うえで決めたわけでもないから、困っちゃうわけさ。でも実はものごとにはそれぞれものによって勝手に決め込んでいい方向、決めこまなくちゃいけない方向っていうのがあるのさ。それを疑うことに意味が出て来るのは、よほど特別の事情がある場合だけ。
いったん売られたけんかを買っちゃったら何か根拠づけが必要だから懐疑論者の勝ちははっきりしているんだけど、そもそも売られたけんかは買っちゃいけないんだよ。挑戦をうけつけない限りは、こっちの勝ちが決まってる。懐疑論者がけんかを売ってきたらね、おまえのその挑戦自体がまとはずれなんだ、と言い続ければいいのさ。そうすれば勝負はこちらの勝ち。
“「ぼくはね、十五歳以上の人間にはほんとうに哲学をすることは不可能だって思っているんだ。」p.53
・客観的物理的事実だけでは色も音も匂いも味も生み出せない。
色を光の波動と同一視できない。
音を空気の振動と同一視できない。
何かを食べて、脳に物理的変化が生じても味が生じなかったとする。しかし味が生じなくても物理化学的には問題ない。
物理的変化がなぜ味という主観的な現象を作り出すのか、それは永遠に解明されないだろう。ただそうであるっていう事実が認められるだけだろう。痛み、視覚、聴覚、記憶、思考、想像など、身体内の神経や脳の物理的プロセスによって引き起こされると考える限り、なんだってそうだ。
精神現象はまるで幽霊みたいなものだ。
物理的な観点から見れば奇跡みたいなもので、物理理的過程から全く独立したもの。
今そういう意識現象を生み出している物理的な過程が、ある日突然それをやめても、ある意味では何も変わらないのではないのか。
自然現象としての人間は物理的な因果に従って、生き続け、芸術などを生みだし続けるのではないか。
条件等色(メタメリズム)という現象がある。
波長が580ナノメートルのスペクトル光は黄色に見える。
黄緑に見える540ナノメートルの光と、黄赤に見える670ナノメートルの光を合わせても黄色に見える。
それ以外の組み合わせでも黄色に見える組み合わせはいくらでもある。
客観的・物理的には違っていても、主観的・知覚的には同じ色に見える現象を条件等色(メタメリズム)という。
・他人は自分と会っていない時は、本当にいて、本当に自分の生活をしているのだろうか。楽屋で休んでいるんじゃないか。これはなぜか哲学の伝統に登場したことが無い。
・ぼくたちがこころや意識のないロボットをぼくたちの仲間に入れてぼくたち扱いしさえすればそのとたんにロボットにも心や意識が生じる。人間もいくら解剖しても心も意識も見つからない。ぼくたちは人間と、それに似たものしか心あるものとみなさない。
・性質がまったく同じものが二つありうるのは、時間と空間ってものがあるからなんだよ。時間と空間が無い可能世界ってものを想定するとね、そこでは性質がまったく同じものは個数としても同じもの、つまり一個のものになっちゃうんだよ。つまり全性質が同じであるってことと、個数が一個であるってことが、区別できなくなっちゃうんだ。
そもそも、そういう世界では、一個、二個って数えられるような物ってものが考えられなくなっちゃうからね。二つのボールの区別は、時空的な連続性が重要。
・バークリー「何かが存在するとは知覚されているってことにほかならない」
ヒューム「因果の概念は習慣によって作られた我々の信念でしかない」
因果関係そのものは想定されるだけで見えない。
・夢=心の中にあって外界に存在しないもの
・カントは、
“ぼくらのものごとのとらえ方にはね、習慣によって作られた信念なんかじゃなくて、それ以外ではありえないような型みたいなものがあるって考えたんだ。そういう、ものごとのとらえ方の基本的な枠組みみたいなのをカテゴリーって言うんだけどね。日本語で言えば範疇だな。因果性のほか、まえから使っている『ものとその性質』なんていうとらえ方もカテゴリーなんだ。ぼくらは、ものごとをとらえるとき、すでに必ずカテゴリーを使ってるんだ。
カテゴリーのくわしい話はまたにするとして、とにかく、さまざまな感覚的経験にカテゴリーが適用されることによって、はじめて、それが【客観的な現実】として認められることになるんだよ。カントは『視霊者の夢』って変な本を書いてるんだけど、これはね、スウェーデンボルグっていう当時流行の視霊者、つまり霊を見たと称するやつなんだけど、まあ霊媒みたいなもんだな、そいつの言ってることがほんとうかってことを考えた本なんだけどね。結論を言うとね、どんなにありありと見えたとしても、それはありえないこと、つまり『夢』にすぎないんだ。つまり、客観的な実在と対応してないんだよ。なぜかっていえば、要するに因果性のようなカテゴリーが適用されないからなんだな。まあ、カントに言わせれば、猫と話をするなんてことも、ありえないことだ、だからやっぱり『夢』でしかないってことになるかもね。
カテゴリーが適用されることによって、対象は客観的なものになるって言ったけど、そこには統覚っていうはたらきが必要なんだ。統覚っていうのはね、自分が知覚したり経験したりするさまざまなものごとを、カテゴリーに従って秩序づけるはたらきだ〔原文ママ〕なんだけど、それをするのが自我のはたらきなんだ。カントはね、デカルトの『私は考える』っていうあの原理を統覚作用として読み変えたんだ。カントによれば、『考える』っていうことはカテゴリーを適用するってことだからね。
カテゴリーがぼくらがものごとを理解する枠組みだとすると、時間空間はぼくらがものごとを感覚する枠組みなんだけど、その話はまたにしよう。とにかく、カントのこういう考え方はね、バークリーたちみたいに、現実を夢だって言って心の中で起こる夢にしちゃうんじゃなくてね、逆に、時間空間とカテゴリーで、まず心の中で起こる夢みたいなものを考えておいて、客観的な現実全体が実はその中にあら【ねばならない】んだって言う、ってやり方なんだよ。”p.105-107
※〔原文ママ〕も【】も原文にはなく、【】内一文字一文字に傍点。
国家神道=新キリスト教
=平田篤胤思想+現人神思想+ #スウェーデンボルグ 思想。
スウェーデンの貴族スウェーデンボルグの思想が神智学、スピリチュアル、ニューエイジ、宇宙人説、出口王仁三郎の霊界物語、大本教系(主要政党を支配)、大本教系の日月神示の元ネタです。
平塚らいてう(姉が #大本教 信者)が寄稿記事で『霊界物語』と #スウェーデンボルグ の関係を指摘しています。
大本教系の日月神示は和風スウェーデンボルグ。
丸に十字を掲げる大本教の出口王仁三郎の #日ユ同祖論デマ
1766年 - 『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』
Träume eines Geistersehers, erläutert durch Träume der Metaphysik
“1766年、『視霊者の夢』を出版[注釈 3][6]。カントはエマヌエル・スヴェーデンボリについてこう述べている[7]。
「別の世界とは別の場所ではなく、別種の直感にすぎないのである。-(中略)-別の世界についての以上の見解は論証することはできないが、理性の必然的な仮説である。スウェーデンボルクの考え方はこの点において非常に崇高なものである。-(中略)-スウェーデンボルクが主張したように、私は、〔身体から〕分離した心と、私の心の共同体を、すでにこの世界で、ある程度は直感することはできるのであろうか。-(中略)-。私はこの世界と別の世界を同時に往することはできない。-(中略)-。来世についての予見はわれわれに鎖されている。」
”
イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88#.E7.94.9F.E6.B6.AF
“スヴェーデンボリへの反応は当時の知識人の中にも散見され、例えば哲学者イマヌエル・カントは『視霊者の夢』中で彼について多数の批判を試みている。一方で、限定的に「スヴェーデンボリの考え方はこの点において崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である」(K・ ペーリツ編『カントの形而上学講義』から)と評価も下している。”
エマーヌエル・スヴェーデンボーリ(Emanuel Swedenborg, 1688年1月29日 - 1772年3月29日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AA
英知界:理性による思考・観念によって捉えられるもの
現象界:感覚的に経験、物理的に認識できるもの
人間はこの二つの世界にまたがって存在している。
森の中の詩人@morinosijin2011年5月31日
「また前者が感性の形式(空間・時間)によって成り立つ世界であることから、『感性界』と呼ばれるのに対して、後者は、それらの形式から解放されている、あるいは超えているという意味で、『英知界』とも呼ばれる。」(石川文康;カント入門)(補足:現象→現象体・感性界、物自体→可想体・英知界)
山田大輔@YA_DA1月4日
Wikipediaのカント「視霊者の夢」の解説が腑に落ちん。 「ウソかホントかわからんが、少なくてもこの世のことではないからどうでもいいんじゃねえの? 重要なのは、この世の中のことだろ?」って結論だと思うんだが。
11uk3w@11uk3w9月28日
カントもまた『視霊者の夢』のなかで私達の精神や魂が脳味噌にのみ宿る、というのはおおきな誤解である、現に頭部の一部を切除されても問題なく悟性を働かしている人間がいるのだから(逆に臓器の一部を切除して人格が変わった例も存在する)脳への信仰を改めるべきではないかということを書いていた。
京都大学哲学研究会@kyototekken7月14日
あれ、でも理性の限界を超えてることについてはわからないって純粋理性批判のオチと同じじゃね?この思想に哲学的な装いと無駄な文章力とを付け足すことで視霊者の夢ができたように、それをもっと大掛かりにしたらできたのが純理なんじゃね?みたいな話を例会後した
カントの言う『英知界』『現象界』の意味
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1385377388?fr=pc_tw_share_q
・カントは、
デカルトやバークリーの立場を経験的観念論(個々の知覚や経験に関する観念論)と呼び、
勘と自身の立場を超越論的観念論(経験一般の成り立ちと仕組みに関する観念論)と呼んだ。
超越的…我々が経験できる世界を超えてその外にある
超越論的…我々が経験できる世界を超えて、あたかもその外に立ったかのような立場から、我々が経験できる世界の成り立ちと仕組みを調べる
超越的が宗教的で
超越論的が哲学的
観念論…現実は夢だ、心の中にあるという立場
カントによれば、この部屋や本棚は、知覚されるから存在するんじゃなくて、ぼくらが見ていないときにも、誰も見ていないときにも、ちゃんと時間空間の中でカテゴリーに従って「客観的に」実在しているんだよ。でもそれはなぜかっていえばそれはぼくらがそれれらをそのようにとらえているからなんだ。こういうのを超越論的構成って言うんだけどね。
カントの凄いところは、「ほんとうの意味で存在するといえるものは何か」っていう問題の立て方自体を否定したところだな。この問題の立て方はね、哲学が始まって以来、デカルト、バークリー、ヒュームも受け入れていたんだ。
カントは、問いそのものを置き換えて、「そもそも真理とは何か」っていうことを問題にしたんだ。つまりね、「ほんとうの意味で存在するといえるものは何か」
じゃなくて、
「本当の意味で存在するといえるものが、そういえる根拠は何か」を問題にしたんだ。
・相手がこっちの観点から見てたいていは真理を語っているって前提することが、相手の言っていることの意味が理解できる為の前提。そうやって意味の理解が成立した後で初めて考えの違いとか、始めの誤解とかがわかってくる。
全然違う言語を喋っている人達も、「ゴミは糞尿は綺麗だけど花や夕焼けは汚い」って意味のことを言うことは「ありえない」ってこと。
それが意味理解の前提だから、ひょっとしたらほんとうはそう思っているってことさえもない。相手が自分と同じ信念を持ち、自分が真実だとみなすものを真実だとみなす、と前提するんでなくちゃ、意味の理解は始まらない。
相手の間違いを指摘したり、相手の意見に反対したりできる為にも、それが前提になる。
相手の言っていることがほとんど正しくて理にかなっているって前提する態度は、チャリティ原則と呼ばれている。この原則はひょっとしたら間違っているかもしれないような原則ではなく。そうでしかありえない原理。
例えば、動物の言語の場合もそう。アリやハチが僕らの基準で合理的に行動しているって解釈する場合にしか、彼らが言語を持っているとか、何か考えているとか、みなすことはできない。
だから、言葉は持っていて、ぼくらにその意味もわかるけど、でもぼくらとはまったく違う考え方をしている者、なんて「いない」んだ!
いるかもしれないけどぼくらにはわからない、なんてことに意味が与えられない。
“古代人が地球は平らだと信じていた、とぼくらは言うね? でも、それはほんとうかな? 古代人とぼくらでは、むしろ言葉の意味の方が違うって考えられないかな? 彼らが平らだと信じていたとぼくらが言っている地球って、ほんとうにぼくらの言ってるこの地球なのかな? ぼくらは、地球は太陽系の一部で、太陽系は大きな恒星のまわりを回る惑星の集まりだと信じているね。もしある人がね、地球に関して、こういうことをひとつも信じていないとしたら、その人とぼくらの間では、地球というひとつの同じものについて、それが丸いとか平らだとかという点で信念が食い違っているってことすら言えないんじゃないかなあ?”p.139
(英語で地球はアース=地面。自分の足元にあるのが地面で、どこが「下」かを教えてくれるもの。
”8 地球は丸くない!
ぼく:地球が丸いってことも、太陽のまわりをまわっているってことも、『発明された』の?
ペネトレ:そうさ。でも、地球は丸いのに、どうした下のほうにいる人が落ちちゃわないんだと思う?
ぼく:そりゃあ、引力があるからじゃん!
ペネトレ:でも、引力って引っぱる力だろ? そんなものがあるんなら、もっと地面に引っぱられているような感じがするはずじゃないかな? どうして引っぱられて、はりついているような感じがしないんだろうね?
ぼく:たしかに、そんな感じはしないけど……。
ペネトレ:だから、ほんとうは、ぼくらは引っぱられてなんかいないんじゃないかな? 『引っぱられるっていうのは、この地面の上にいて、ひとに腕を引っぱられたりするときの、あの感じについてだけ、言えることなんじゃないかな?』
ぼく:じゃあ、引力はないって言うの?
ペネトレ:引力がないだけじゃなくて、地球が丸いっていうのも、ちょっとあやしいな。
ぼく:どうしてさ!?
ペネトレ:丸いっていうのは、この地面の上にある、スイカとかボールとかについてだけ、言えることなんじゃないかな?この地面が球体であるって考えたとたんに、ぼくらは地球というものを、この地面のことじゃなくて、この地面の上のほうにある巨大なボールのようなものだと考えてしまっているんじゃないかな?その証拠に、地球は丸いのに下のほうにいる人が落ちないのは引力があるからだ、なんて考えてしまうだろう?
ぼく:どこがいけないのさ?
ペネトレ:地球には「下のほう」なんてないはずだからだよ。でも、ぼくらは上下のある絵しか描けない。できるって言うんなら、上下のない地球の絵を描いてごらんよ。世界地図だって、地球儀だって、星座早見盤だって、必ず上下がある。それはつまり、地面の上に乗っているってことだよ。だから、ぼくらが住んでいるとされる地球という名前の惑星をふくめて、ほんとうは、すべてのものが、この地面の上にあるんじゃないかな?
ぼく:ペネトレ、それ本気で言ってるの?!!!”p.100‐102
※『』内は原典では太字
物理法則という客観的だとみなされている(この法則の観測は主観的になされる)のですが、結局のところ、人間の肉体的制約や生活様式の前提に縛られます。
肉体的制約とは、左右対称、上下非対称などで、
生活様式の前提とは、重力下で生活(頭は上、足は下)などです。
地球上にいる時、われわれにとっての地球とは地面のことであり、そこから逃れられないのです。
仮に、人間の体が完全な球体だとすれば、文字は左から右へだとか、その逆だとか、縦書きだとか、横書きだとか、という概念が生まれるか?
などなどさまざまな思考実験ができますな。
森博嗣『笑わない数学者MATHEMATICAL GOODBYE』文庫版
にある鏡に映ると左右は入れ替わるが、上下や前後は逆にならない理由↓
「鏡に映った像は、左右が反対になりますね。どうして、上下や前後は逆にならないで、左右だけ入れ替わるのか、刑事さん、答えられますか?」(…)
「定義の問題です。左右だけが、定義が絶対的でないからです。上下の定義は空と地面、あるいは、人間なら頭と足で定義されます。前後も、顔と背中で定義できます。では、左右はどうでしょう?左右の定義は、上下と前後が定まったときに初めて決まるのです。人間の体型が左右対称ですし、歩いたりするときも横には動きません。上下と前後の定義が独立していて、絶対的なものであるのに対して、左と右の定義は相対的です。この定義のために、鏡で左と右が入れ替わるんですよ」
「待って下さい(…)鏡の映像に……、そんな、人間の考えた定義が関係するのですか?あれは物理現象であって、人間の言葉には関係がないと思いますが……」
「いいえ、我々は、ものを定義して、それを基準に観察するんですよ。
(…)僕たちに、顔がなかったとしましょう。そのかわりに、片手だけが大きくて、バルタン星人のようにハサミがついているとします……。この場合……、ハサミのある大きな手が、右と定義される。顔がないから、前後の定義が相対的なものになります。つまり、上下と左右が定まって、初めて前後が決まることになります。この顔なしバルタン星人が、鏡を見たら、前後が逆になりますよ。良いですか?ハサミの方の片手を挙げて、鏡を見てみましょう。鏡の中の自分も、やっぱりハサミの手を挙げているでしょう?つまり、左右は入れ替わっていない」
(…)
「それでは……、こういう説明ではどうでしょう。右と前、左と後ろ、この言葉を入れ替えて使う国があったとしましょう。その国では、右という言葉は前のことです。左という言葉は後ろのことです。顔がある方が右、背中が左です。さて、この国では、鏡を見て、左右が入れ替わるでしょうか?」“p.433‐435”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-61.html)
・言葉にほんとうの意味ってものがあるとすれば、それは実際に言葉を使っていることの中に「示されている」だけ。そこに示されているものを自分が語るなんてできないのは当たり前。言葉の意味が分かるとはその言葉が実際にちゃんと使えるってことだ。知覚も行為もそう。何かが見えるとは、それが見えてる人じゃなきゃできない仕事が実際にできるってこと。そのことの内に示されること。自分には何が見えているかを自覚しているってことじゃないんだ。ましてそれが口で言えるってことじゃないんだよ。
行為、何かができるってことは、まさにそれがやれるってことで、自分が何をどうやってしているかが説明できるってことじゃないんだ。
・人間は規則を自覚する可能性とともに規則を身につける。はっきりと自覚していなくても、人間はそのときひとつの空間を身につける。
何かを理解するってことは、それが何の否定なのか、何でないことなのか、を理解することを含むんだ。正直な人っていうのはね、嘘をつくと身ぶりで欺くってことがどういうことかを知ってなくちゃ駄目なんだよ。つまり、正直-不正直の空間を身につけたうえで、そのうえで、あえて正直の方を選ぶ人が正直な人なんだ。不正直を選ぼうと思えばできたからこそ正直者。
だから、犬は嘘をつかないし身ぶりで欺きもしないからといって、犬は正直者だなんていえない。自分がなにをしていないのかを知らないから。もちろん、何をしているのかも知らない。
(そう考えると素直で正直な幼児はほとんどいませんね)
・どんなことでも自覚したがるのが哲学の本質。
・「人間は動物ではない。
犬は人間である。
それゆえ、犬は動物ではない。」
「魚は水中を泳ぐ。
マグロは水中を泳ぐ。
それゆえ、マグロは魚である。」
前者が論理的に正しい推論で、後者は非論理的な論理的に正しくない推論。
前者を形式化すると
すべてのBはCではない。
すべてのAはBである。
それゆえ、すべてのAはCではない。」
明らかに論理的に正しい推論。
後者は
「すべてのBはCである。
すべてのAはCである。
それゆえ、すべてのAはBである。」
二つの前提ではAとBの関係については何も言っていないんだから、そこからAとBとの関係について推論なんてできるわけがない。明らかに論理的に間違った推論。
論理的な正しさは、前提や結論の事実的な正しさとは関係ないんだ。二つの前提が「もし」正しい「としたら」、結論も「どうしても」正しく「なくちゃいけない」っていえるかどうか、これがポイント。最初の方の推論は前提も結論も事実的には間違っているけど、もし二つの前提が正しかったら、結論は「どうしたって」正しくなっちゃうから正しい推論。
内容的には間違っていてもいい。論理的な道筋の正しさは、個々の内容が現実と合っているかどうかとは関係ない。
ある議論が正しいかどうかを問われると前提や結論が現実と一致しているって意味で正しいかどうかをついつい考えたくなっちゃうね。でもそういうことは論理的推論そのものの正しさとは関係ない。今でも科学者や評論家の中にもこのことが良く分かってない人が結構いるから注意した方がいいよ。
(論理とは事実的な正しさとは無関係に、前提が正しければそうなってしまう構造、手続きであって示されるしかない規則なのでしょうね。論理的な文章とか論理的な思考が何を教えるには、実際にその文章や思考を示さないといけないから。)
・哲学者クリプキがウィトゲンシュタインのパラドックスを考えた。
四桁までの足し算ができるようになった子供に、ある日、先生が五桁の足し算をやらせたら、子供が答えは1だと言う。先生がなぜかときくと、その子供は「だって、これは五桁だもん。答えは1に決まっているよ」って答える。つまり、この生徒はこれまで教えられた足し算からそういう規則を自分で発見したってこと。
もう一つ例をあげると、主語が第三人称単数のときには動詞の語尾にsをつけるって規則を学んで、その規則を間違いなく適用できるようになった
学生が、主語に「Akira」って日本人の名前が出てきた途端に、動詞の語尾にssをつけた。理由を尋ねられると、主語がAkiraだからssに決まっていると答える。
問題は、生徒が間違っていると言える根拠は先生の側にはないってこと。生徒は、教えられた規則を、論理的な可能性としてはどんなふうにでも解釈することができる。そしてどんな風に解釈してもそれがその規則に従っていることなんだっていう規則解釈が成り立つというパラドックス。
その生徒は怪しい。だってさ、もしその生徒がほんとに規則をそう解釈したのなら、これは五桁だからとか主語がAkiraだからとか「言う」はずないじゃん。自分がなぜそういうふうに規則を把握しちゃったのか自分でもわからないはずだからね。理由を聞かれても「どうしてって、それ以外にどうしようもないじゃん」とでも言うほかないはずなんだ。理由が言えた時点で、その生徒はほんとうは自分が「特別」のことをしたってことを知っているんだよ。五桁のときもふつうに足し算をやる可能性や、主語がAkiraのときもふつうにsをつける可能性をちゃんと知ったうえで、その可能性の空間の中で、あえて別の可能性を選んだんだよ。つまりふつうの規則理解の仕方をちゃんと知っているんだよ。ぼく見るところではね、その生徒は悪質だよ。そいつはほんとうは先生をからかっているだけなんだよ。
どうしてってそれ以外にどうしようもないじゃん、というほかないような言語や規則の捉え方のことをウィトゲンシュタインは言語ゲームと呼んだ。
すべての人が「赤」で同じ色を意味しているとは言えないとか、自分が痛いとよんでいるものは他の人ならくすぐったいと呼ぶ感覚と同じかもしれないとか、そういうことに深く心を動かされた後で、その後ではじめて言語ゲームっていう考え方から見て、そういう疑問には実は意味が無いんだってことを知って、もう一度、今度はそのあたりまえのことの方に深く感動しなくちゃ駄目なんだ。最初からそんなことはあたりまえだと思っている人には、言語ゲームっていう考え方がどんなに素晴らしい、すごいものなのか、結局のところは、わからないと思うな。
"哲学ってみんなそうなんだよ。つまり、結論はそれだけ取り出せば誰でも知っているあたりまえのことを言っているだけなんだよ。でも、いったん問題を感じた人にとっては、そのあたりまえのことのとらえ直し方が、それこそが輝いて見えるんだよ。哲学はね、いつでもある新しい空間を描いて見せるだけなんだ。ある問題に関して、これまでとは違う空間を設定するんだ。その空間が設定されたことで、問題の意味がこれまでとは違う、新しい相貌を見せたなら、そこで哲学の仕事は終わるんだよ。結局、選択するのは個々人だからね。哲学が人々に受け入れられるっていうのはね、みんながその主張に賛成するようになることじゃないんだよ。むしろね、その主張に反対する人でさえも、その哲学が設定した空間の中でしか反対できないようになるってことなんだ。つまり、対立が起こる土俵自体を作り変えてしまうことだね。
翔太、もうきみには教えるまでもないと思うけど、哲学は思想じゃないよ。哲学のいちばん哲学的な部分は、主張じゃないからね。何かが主張されていても、そこで主張されていることではなくて、そういう主張が意味を持つとき前提されることになる空間こそが哲学なんだ。そこを混同したら、せっかく哲学をやっても、そこから何も学べないんだ。"p.167
・自由って観念の源泉は「不自由がない」ってことにしかない。
・オリンピック選手は、オリンピックに出たいって欲望に負けてついつい練習しちゃう意志の弱い人だともいえる。
人間は欲望のおもむくままに自然に行動していると、ついつい善いことをしちゃいがちだから、意志の力でその自然の傾向を抑えて、悪いことができるようにしないといけない。
意志と欲望に善と悪を割り振るのは根拠のない偏見。
・意志は意志したことの実現によってしか満たされないんだよ。だから、意志を持った人はそれを実現しようとせざるをえないんだ。それが意志を持つってことの意味だからね。それに対してね、意志と結びついていない欲望は、どんな形で満たされるか、当人にも予測できないんだ。~が食べたいって欲望は~を食べようって意志と結びつかないかぎり、たぶん~を食べることによって満たされるだろうっていえるだけなんだ。
それに対してね、~を食べようという意志、って表現される意志はね、~を食べる行為って記述される行為によってしか満たされないぞ!っていう、自分に対する宣言みたいなもんだからね。そう宣言しちゃった以上は、もうそれ以外のものによって満たされちゃ「いけない」んだ。意志はね、だから、精神状態じゃないんだよ。それに対して、欲望は精神的・肉体的な一つの状態にすぎないから、欲望を持った人は、それを実現しようとする傾向性はあっても、必然性はないのさ。
意志は心の状態ではない。ぼくらは、自分の欲望を誤認することはあっても、意志を誤認することはない。
・“ある時点で時間が創られるって話は、ぼくらには理解不可能なんだよ。だって、ある時点で創られたんなら、それよりまえはどうなってたんだ、ってことになるからね。ぼくらの時間概念は、そういう時間の創造とか、時間の開始って問題が考えられるようにはできてない、って言ってもいいな。何かが創られたり始まったりするのは、すべて時間の中でのことなんだ。」
「時間が創られたとすると、それは時間内のある時点で、じゃなくて、なんて言ったらいいのか、時間の外からってことになるんじゃない?」
「なるかもしれないけど、そんなことイメージできる? 時間の外から時間を創るなんて。そもそも時間が始まるってこと自体が、ぼくらには理解しようがない観念じゃないか? ぼくらが理解してる『始まる』とか『創られる』って概念はそもそも時間的な性質を持った概念だからね。それを時間そのものに適用しちゃうことなんかできないのさ。」
「空間も同じかな? 空間を空間の外から創るっていうのはどうかな?」
「そもそもね、空間が創られるまえの状態なんて想像できるかい? 時間は流れているんだけど、空間は存在しない世界なんて、そもそも考えられないだろう?」”p.185-186
空間が無い状態を、何かカラッポなイメージをしても、それは結局は空間を想定してしまっている。
空間はどこまで広がっているのかとか、時間はどこから始まってどこまで続いているのか、なんて問いには意味が無い。空間を空間現象だとみなしたり、時間を時間的現象だとみなしてしまうのは錯覚。ぼくらは時間と空間の外に出て対象として眺めることはできない。
だからカントは時間空間はカテゴリーと並ぶ主観の側の形式だと言った。
じゃあ、時間が急に止まっちゃうとか、逆流しちゃうとか、それからタイムトラベルなんてことも絶対不可能ってことになるね。
ぼくらが考えることもできないことは、起こることもありえないさ。要するにね、考えられるかぎりのどんなにへんてこなことが起こったって、ぼくらはそれが時間が止まったなんてみなさないんだからね。だから時間は止まらないのさ。
もうきみは「でもぼくらにはわからなくても、ひょっとしたら、いつか時間が止まったり終わったりすることがありうるかもしれない」なんてことは言わないだろうね。そういうことは最も根本的な意味で「ありえない」ことなんだよ。ぼくらはぼくらの知っているこの時間空間しか知ることはできないんだ。だから、そういう意味で、タイムマシンに乗って過去へ戻るなんてことはありえないさ。もしぼくらが「これから」タイムマシンに乗ってどこかへ行くなら、行きついた世界がどんなにむかしの世界であろうと、それは出発時から見て未来の出来事なんだから。どういうわけか未来の中身が過去と瓜二つだったってだけのことさ。「いまから」ぼくらが過去へ戻るなんてことは論理的にありえないことなんだ。
(百年前に自分が行ったのか、周囲が百年前と同じ状態に変化したのか、区別はつきません)
ある物差しの長さに疑問を持ってその正確な長さを知りたいと思ったら別の物差しが必要。もし物差しが世界に一本しかなかったら、その物差しの正確な長さを計ろうなんて無理な企て。他の全ての者がその物差しで測られるだけで満足しなくちゃならないんじゃないか。
(時間や空間も、たった一つの物差し)
・死は体験じゃないんだよ。痛みや悲しみや欲望のように、他人や自分が持つものじゃないんだ。だから死んだ人だって死を体験してはいないさ。臨死体験はありえても、死の体験はありえないんだ。体験する主体そのものが消滅するってことなんだから、まさにその体験がありえないってことこそが、死ってものの根底的な意味なんだよ。
自分が消滅した状態を自分が「思い描く」っていうことは本質的に不可能。
でも自分の消滅するってことの意味を自分が「考える」ことはできる。
死ぬのが嫌なのは、死んでるって状態が嫌なんじゃなくて、もう生きられないってことが嫌なんだよ。だから長生きはいいことだと思うけど。長死に(大昔に死んで今まで長く死んでいること)は別に悪いことだって思わない。
“愛ってのはね、どこまでいっても、結局は話なんだ。それに対してね、存在と無は、生と死は、究極的にはね、話じゃないんだよ。それは、現実なんだよ。ただ、受け入れるべき現実なんだよ。」
「存在って、ぼくが存在してるってこと?」
「そうさ。それはほんとうの奇跡なんだよ。どんな因果性からも説明できないし、どんな理由や根拠づけも、そこにはおよびえないんだ。『なぜか』そうだったってことから、すべては始まるんだよ。必然も偶然もそのあとの話さ。“p.203
『』は原文にはなく、原文は『』内の一文字ずつに傍点。
“人生に意味を求める人が多いんだけど、あれはまちがいだよ。人生の内側には、もちろんたくさんの意味づけができるし、生きがいはあるさ。でも、人生の全体を、つまりそれが存在したってことを、まるごと外から意味づけるものなんて、ありえないさ。そんなものがありえないってことこそが、それをほんものの奇跡にしているんだからね。そこを誤解しないようにしないとね。人生の内部のさまざまな行為や出来事に意味を与えるのと同じように、自分の存在そのものにも意味を与えてしまったら、人生の深い味わいの大半は失われてしまうんだよ。そもそもね、ぼくらはね、みんな、意味づけの病に陥っているんだ。世の中で何か事件が起こると、新聞やテレビや、学者や評論家が、意味づけ合戦を始めるだろ? あれはもう病気だよ。世の中で起こったことに、意味なんかないのさ。ただ、たまたま起こっただけなんだ。そしてね、表舞台で演じられるああいう意味づけ合戦が、どうしても自分自身に向けられたものとは感じられない『まともな』人々が、かわいそうなことに、自分自身に直接向けられたメッセージを探しに向かうんだよ。でもね、翔太、そんなものはどこにもないんだよ。」
「でも、もしかしたら、ぼくの存在には神さまの計り知れない意志が働いているのかもしれないよ。」
「もしそうだとすれば、そんなことは絶対に考えられないと思うよ。ぼくらはね、自分を産み出している培養器の中の脳について考えられないのと同じ意味で、ほんとうに存在する神については決して考えることができないんだよ。ぼくやきみが生まれてきて、いまここにこうして存在していることには、ひょっとしたら、何か、ぼくらの知らない、ほんとうの意味があるかもしれないよ。でも、もしあるとしても、それがほんとうにほんとうの意味なら、ぼくやきみがそれを知ることはもちろん、それについて考えたり語ったりすることさえ、絶対にできないんだから、こんなふうに言うこともできないんだよ。だから、そういうことが分かるとか、知っているとか言う人は、絶対に信じちゃいけないんだ。」
「でも、もし媒介者がいたらどうなる? そういう超越的な世界とぼくたちが住んでるこの世界とをつなぐような。たとえばイエス・キリストみたいな。」
「もし、それを信じることでこの世界での人生が意味を持つのであれば、そういう話はぜんぶ嘘だって断言できるね。でも、そうでないなら、ひょっとしたら、信じられるかもね。」
「そうでないって?」
「それを信じても、何の意味もないような話なら、ってことさ。たとえば、宇宙は巨人族の庭にあるバケツで、ぼくらは彼らの食料のための餌として備蓄されている虫だ、ってな話なら、信じてもいいさ。それを信じても、自分の人生全体が意味づけられるわけじゃないからね。そうでなくて、人生全体に意味や価値や物語を与えるような話は信じちゃいけないんだ。翔太、きみはニヒリズムって言葉を知っているかい?」
「知ってるよ。すべては無意味だっていう思想でしょ? だから、生きていることなんか意味がないって。」
「むしろ逆だな。ニヒリズムっていうの〔原文ママ。恐らく「は」抜け〕ね、すべてには意味しかないっていう考えのことなんだ。人生は何のためにあるのか、とか、自分は何のために生まれてきたのか、とか、そういう問いこそが虚無的(ニヒル)な問いなんだよ。そして、もし何かひとつの全体的な意味づけの中に一生涯没入して生きる人がいるとしたら、それこそがむなしい、ニヒリストそのものなんだ。」
「でも、宗教って人間を救うためにあるんでしょ? だから、それを信じることによって救われるなら、それでいいんじゃないの?」
「たしかにね、人生の内部での自分の欲望の現実化だけをそのつどの人生の目標として生きていくのもむなしいさ。どんな満足感も慣れれば薄れていって、すぐにまた不満足に変わってしまうからね。だから、そうした全体を意味づける何かが欲しくなる気持ちはわかるよ。特にね、不満足な人、不幸な人はね、まさにそのように不幸であることに、自分が生きているほんとうの意味を見いださざるをえないときがあるからね。それは、やむをえないことさ。
(…)
いま、きみ自身が持っているいろんな素質とか能力とかがあるだろう。若いころはそういうものが自分自身の人生を決めていくような感じを持っている。でも、それは錯覚なんだ。ほんとうは、思いもよらない偶然が君の人生を決定してしまう。幸福な偶然(グッド・ラック)もあれば不幸な偶然(バッド・ラック)もあるさ。幸福でも不幸でもない偶然もたくさんある。そういったことは文字どおりたまたまなのだから、何の根拠も意味もない。でも、そういう意味のないことがたまたま起こったってことには意味があるんだ。その意味のなさこそをよくよく味わわないと。そこでこそ、全宇宙の存在の奇跡と君の存在の奇跡が出会うんだ。そういう偶然を味わうためにこそ、君は一回かぎりこの世に生まれてきたとさえ言える。
(…)
新聞やテレビや、学者や評論家を、絶対に信用しちゃだめだよ。世の中で通用するってことは、ほんとうに大事なことはぜんぶ『はしょって』あるってことの証拠だからね。哲学から学べるような一般論はね、そういう自分に固有の体験の場で鍛えられてはじめてほんものの知識になるんだ。“p.204-208
『』は原文にはなく、原文は『』内の一文字ずつに傍点。
宗教は人間を支配するためにあります。少なくとも布教熱心な宗教は侵略用。キリスト教が典型例。
その宗教が何人救ったかは数えにくいが、何人殺したかは数えやすい。
私たちは私たちの言語と私たちの理解力、認識、知覚の外に出ることはできません。可能性というのはそのなかでしか考えられません。だから、あなたの人生全体の意味がわかる人はこの世に存在することができません。あなたの人生全体の意味がわかる存在がもしいるならば、その存在は私たちの言語、理解力、認識、知覚の外にいますので、私たちは考えることができません。できるって?
それは錯覚。その存在「の想定」をあなたの思考「の中に出現させているだけ」で、絶対にあなたの思考の外の存在には至れませんから。
だから宗教は、宗教の神はインチキなのです。特に唯一神は大ウソ。
“答えが用意されているような問いは、ほんとうの問いじゃないんだ。そういう問いは、答えがないほんとうの問いを問うための練習にすぎないんだよ。問いのまえで茫然とするしかないような問いこそがほんとうの問いなんだよ。”p.209
“哲学することが流行したことなどかつてなく、これからもない。しかし、人間が哲学することをやめたことはかつてなく、これからもない。ただそれだけのことだ。一般の理解に反して、哲学とは主義主張や思想信条のことではない。その正反対である。哲学とはむしろ、主義主張や思想信条を持つことをできるだけ延期するための、延期せざるをえない人のための、自己訓練の方法なのである。少なくとも、本書が思想書として読まれるようなことだけはないようにと、私は願っている。"p.216-217
おまけ
”“精神病院で自分はナポレオンだと信じてる患者がいた。
あるとき、医師が
「なぜキミは自分がナポレオンだと主張するんだ」
と訊くと、その患者は、
「神様がおまえはナポレオンだと言った」
と答えた。
すると、すぐそばにいたべつの患者が怒った顔でこう言った。
「おれはそんなことを言った覚えはない!」
” http://koee.net/1096
永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み――哲学的諸問題へのいざない』を参考にして、
主に言語を学べる条件について考える。
実は、『ロボット』とか『人間』とか『黒』とか『痛み』などの言葉の意味を習得しつつある子供には、人間がロボットに見えるとか、黒が白く見えるとか、痛みが眠気に感じられるとかを主張する権利はない。
意味が固定=基準が決定、された後にはじめて事実に関する極端な主張ができるようになるのであって、意味を学びつつある段階では、誰もが凡人。
なぜなら、
人間=ロボット、だと認識している人が、
人間がロボットに見える=人間とロボットは一般的には別物である、と言えるはずはないから。
子供のころから汚水をきれいだと感じて、浄水をきたないと感じる人がいたとすると、その人は『きれい』や『きたない』の言葉の意味を学べない。
なぜなら、私たちは言葉の意味を「実例を通じて学ぶので、最初から多数と判断が一致していないと、そもそも意味を学ぶことはできない」から。
つまり、感じていること、考えていることなどが同じ(あるいは「ほぼ」同じ)だという前提のもとで、はじめて意味を教えたり学んだりすることが可能になる。
例えば、日本語が母国語の人が、マレー語をまったく知らずにマレーシアに行ったとしても、その人は少しずつわかるようになっていくだろう。
なぜなら、なんとなくわかることがあるから。
自分を指差して何かを言ったら自己紹介をしているのだろう、
自分以外を指差して何かを言ったら指差されたものについて何か言っているのだろう、といったことなどだ。
ではなぜ、「何かを指差して何かを言ったら、その言った内容は指差したものに関係しているはずだ」って思うのか?
まさにそこがキモ。
要は、相手がこちらが予想できることをしてくれないと、相手の言葉は絶対に学べないということだ。
そうでないと、相手の話している内容を推測して、自分の言葉(おそらく母国語)にあてはめて理解し学んでいくことはできない。
他にも言語を学ぶ前提はある。
相手が言っていることの意味がわかるようになっていくためには、相手が、(こちら側の基準で)まともでありふれた存在でないといけない。
そうでないと予想すらつかない。
相手がほとんど正しいことを言っていると前提しないとどうしようもない。
皆が真理を語るとは限らないが、相手がこちらの観点から見てたいていは真理を語っている、理のあることを、整合性があることを言っていると前提することが、理解の前提。
つまりは、自分とぜんぜん違う言葉が喋っている人が、「汚水はきれいだけど、浄水はきたない」って意味のことを言うことは「ありえない」ってこと。
それが意味理解の前提なので、ひょっとしたらほんとうはそう思っているかもしれないってことすらない。
相手が自分と同じ信念を持ち、自分が真実とみなすものを真実だとみなす、といった言語以前の形式--人間は言語は違っても、重力下で生き、表皮は固体で、左右対称で、生存のためにはエネルギー摂取が必要で、挨拶し、自己紹介し、などなどといった共通項--
を少なく或る程度はもっていると前提しないと、意味の理解ははじまらないってこと。
いや、この「言語以前の形式」以前の形式、
つまり、カントのカテゴリーなどのものさえ共有できていればまだ理解は可能かもしれない。
感性(感覚みたいなもの)的に見出される経験における一般性を支えるのが「悟性」(知性と訳すことあり)である。
悟性的な理解とは、それが何であるかを把握する能力である。
五感で感覚される対象が一般的に何かであることは悟性によって規定される。
悟性固有の形式が、純粋悟性概念=カテゴリー↓
カントのカテゴリー
※悟性…感性が与えてくれた対象を、カテゴリー(質、量、関係、様態など)に基づいて判断。
①分量
(すべてのものか、
特殊なものか、
それともこのひとつか)
②性質
(これは~である、といえるものか、
これは~でない、といえるものか、
これは非~である、といえるものか)
③他のものとの関係
(いついかなる場合であってもこれは~である、といえるのか、
もし…なら、~である、という条件付きのものか、
これは~か…のどちらかである、といえるのか)
④様相(物事のありよう)
(~であるだろう、といえるのか、
~である、といえるのか、
かならず~でなければならないといえるのか)
別の表現だと
1. 量(単一性、多数性、全体性)
2. 質(実在性、否定性、限界性)
3. 関係(実体性、因果性、相互性)
4. 様態(可能性、現実存在、必然性)
[アリストテレスの10のカテゴリー(範疇)
1実体
主語が何であるか
2量
主語がどれほどの量であるか
3質
主語がどのような質であるか
4関係
主語が他のものとどのような関係にあるか
5場所
主語がどのような場所にあるか
6時
主語がいつあるか
7状況
主語がどのような状況にあるか
8状態(所有)
主語が(物との関係で)どのような状態にあるか
9能動
主語が他のものに対してなにをしているか
10受動
主語が他のものから何を被っているか]
カテゴリーは認識のフィルターのようなもので、カテゴリーに引っかからなければ認識されないので、カテゴリーを外れたものは存在しないとみなされる。
言語の話に戻す。
相手が人以外でも同様。
何やらよくわからない異世界あるいは宇宙空間からやって来たらしきものが、どうやら言葉を話しているようなのだが、何を言っているのか意味がさっぱりわからない存在がいたとする。
では、その存在が言語(らしきもの)を話していると仮定して、そいつの言っていることを推測していくにはどうしたらいいのか。
外国語学習とまったく同じく、私たち基準で合理的に行動していると解釈する場合にしか、彼らが言語を持っているとか、何か考えているとか、みなすことはできない。
人間以外の動物や植物なども同様。
よって
言葉は持っていて私たち人間にもその意味もわかるけど、私たち人間と(言語が成立する前提的な意味で)まったく違う考え方をしているものなんて「いない」。
いるかもしれないが私たち人間には決してわからない、なんてことに意味は与えられない。
そして、意味が理解できるようになってはじめて、相手の間違いやこちらの誤解がわかるようになる。
考えや理解の違いを確認するためには、相手がほとんど言葉の意味を間違えず、相手が今まで従ってきた意味体系と同じ体系に従っていると前提しないと成り立たないからだ。
話すたびにまったく違う意味体系に従って喋っていて、なおかつその場にまったく関係ないことしか喋らない存在の言語なんて学びようがないってことです。せいぜい、わめいている、と認識されるのがおちでしょう。
言葉の意味がわかるようになる場合
①相手がまともで言葉が違うだけのとき。
②相手の気が狂っているが、正しく日本語(一例)を使っているとき。
言葉の意味がわかるようにならない場合
(その人が何を信じているかもわからない)
①相手の気が狂っていて、しかも間違った日本語(一例)を使っているとき。
②相手の気が狂っていて、しかも私たちの知らない言葉を使っているとき。
冒頭の引用のような精神病的妄想を持っている人に対して、精神科医やカウンセラーは、普通、相手が言葉の意味自体は誤解していないって前提で接するらしい。
私はナポレオンだ。神がそう言った。
と言ったら、「その人はそういう妄想を持っている」と考える。
言葉自体は受け入れる。
ナポレオンが実は「敵前逃亡の一兵卒」だったり、神が実は「人間」だという可能性は、相手に質問して肯定しない限り、あの有名なナポレオンとみなす。
そうしないと、話が成り立たない。
今度は、「色」という概念が存在しない(必要としない)宇宙生命体(生命体の定義も実に曖昧だがここでは議論しない)を仮定する。
私たちがとらえる世界では、物の種類とその色とは対応していない。
しかしもし、物の種類と色が完全に対応している、例えばカラスは絶対に赤いといった風に、と彼らが認識していたら、彼らに「色」なんて概念は存在しない。
また、例えば三角形は絶対に青いと認識していれば、やはり「色」の概念は存在しない。
「形」と「色」が一体となっているとも言える。
つまり、「形」と「色」が一体となった概念が誕生しているはずだ。
我々から見れば、認識の一部が欠けているとみなされる。
が、先に行ったカテゴリーを少なくともある程度は共有していれば、宇宙生命体の言語も学べるのである。
カテゴリーのことを相手に伝えればいいのではないのか。
と言いたい人がいそうである。
カテゴリーは頭の中や心の中にあるものではなく、言葉を使って「実際に活動しているその活動の中に“示されている”形式」。
活動中に意識するなんてありえない。意識しようがない。
絵がどんなものかは言語で伝えられない。
「とにかく見て!」と言って見てもらわないといけない。
見ないとだめだから「示す」しかないように。言葉の限界を示す。
カテゴリー「について言葉で言う」のではなく、
カテゴリー「に従って『赤いリンゴ五つ!』と言う」。
そうすると、
果物屋は、
「まず」『リンゴ』という「実体」のある場所へ行って、
「次に」『赤い』(性質)のを、
「最後に」『五つ』(個数)選ぶ。
この順序は変えられない。
まず個数から初めて、次に性質、最後に実体(=個数や性質の前提)
なんてことは、カテゴリーの中で生きる人間には想像すらできない。
果物屋のこの「必然的な行動形式の中にカテゴリーが示されている」。
そしてこの「カテゴリーに背後はない」。
カテゴリーは動物の必要からできたってことはありえない。
なぜなら、動物とか生物といったとらえる枠組み自体がすでにカテゴリーに依存しているから。
因果関係が逆。
原因と結果を入れ替えてはいけない。
「まず」カテゴリー「によって」ものごとがとらえられ、「そこからすべてがはじまる」。
神や宇宙生命体の姿をイメージすると、思わず人型になってしまうのは当然だということ。人間の思考形態に当てはめないと思考すらできないから。
カテゴリーを外れた宇宙存在とは交流不可。
正確には、存在自体を認識しないから交流以前の問題である。
このような日常の大前提について徹底的に考えたウィトゲンシュタインが偉大なのは、
「意図的にするはずがないことを意図的にする」
という、いと面白き意図を持って哲学し、哲学史に
「無意識的に意識的になるような」不思議で奇跡な書物を残したからである。
”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-61.html
永井均bot@N1951_bot
「じゃあ、よほどのことがないかぎり、約束を破ってはいけないんだね?」「約束を破ること自体が目的の場合は別だけどね。ぼくらはいろんなことについて自分から約束をするけど、約束を守るという約束なんて、自分からすすんでしたことがないからね」『対話』
他者はゾンビなのでしょうか。一つの意味では、まさにそうなのです。だって、そうでしょう。外的な振る舞いも内的な脳や神経の状態もまったくふつうの人間なのに、痛さも酸っぱさも不安も憂鬱も感じない人は、だあれ? と問われたら、この謎々の答えは「他人」しかありえないでしょう。『意識』
アインジヒト「そもそも、世の中には悪人もたくさんいるし、悪事はねんじゅう実行されているのに、そっちの側に立った倫理学説というものが存在しないのはどうしてなんだろうか。これはていねいに考えてみるに値する哲学的問題だと思う」『倫理』
意識とは、言語が初発に裏切るこのものの名であり、にもかかわらず同時に、別の意味では、まさにその裏切りによって作られる当のものの名でもあるのです。どうか、この言い回しを、気障なレトリックだと思わないでください。ここに問題のすべてがあるのです。『意識』
「もしね、もしもだよ、かりに立花由美が生まれてから一度も怒ったことがないとするよ、そしてね、急にいま死んじゃうとするんだ。」「死んじゃうの!?」「もしも、だよ。そういう場合、彼女がほんとうは怒りっぽかったっていうことがありうると思う?」『夏休み』
病気は自分に隠されていた自分の真理を教えてくれる。それは、いかなる理性的説得もおよばない、圧倒的な教育である。だが快癒は、そのパースペクティヴが病のなせるわざにすぎなかったことを教えることになるだろう。『これが』
いったん神が客観的に存在するものとされてしまえば、開闢と結びつかない神の業も当然ありうることになるだろう。宗教というものを信じている人は、基本的にこの形で神を表象することになるだろう。だが、それは神の死のもう一つの形態ではなかろうか。『私今神』
「なるほどね。翔太は神の概念を信じるが、神の存在を信じない。インサイトは神の存在を信じるが、神の概念を信じない」「そんなわけのわからないひとりごとなんか言ってないで、どうして神さまにできないのか教えてくれよ。」「神さまだって意味のないことはできないからさ」『夏休み』
「他人が独我論的世界観を持つことは独我論に反する」という考えもまた、他人が持てば独我論に反する。そして、この構造はどこまでも反復し、どの段階であれ自他に共通の地平で収束することができない。ゆえに、独我論的主張というものは存在しえないことになる。『誤診』
「善なる嘘」は「善なる嘘」だと知られてしまえば、もう有効には機能しなくなってしまう。それはあくまでも(それ自体は善でも悪でもない)真理として語られなくてはならないのだ。『ため哲』
千絵「そういえば、神の存在を信じるようになった人は、自分がなぜ神を信じるようになったのか、そのプロセスが思い出せなくなるらしいよ」 アインジヒト「入信行為の意味そのものが、入信以後の信念システムの中に新たに位置づけなおされる必要があるからね。
だから、入信以前の信念システムから見た、入信せざるをえなかった理由は、もう理解できないのでなければならない。それこそが、入信以前の問題がそこまで本当に解決したことの証拠なんだ」『倫理』
アインジヒト「その問題が恐ろしいのは、自分の自己欺瞞に気づいたとき、気づいたというその思い自体が自己欺瞞かもしれない、というところにあるな。自分を、自分の自己欺瞞に気づいてそれを率直に認めることができるほど誠実な人間だと思いたい、という欲求がそこにあるのかもしれないからだ」
ニーチェは「キリスト教は『大衆』向きのプラトン主義である」と言ったが、それならば、ニーチェ主義は俗人向きのキリスト教であると言えよう。『これが』
古代が驚くべきものとみなし、近代が疑いえないとみなしたものは、実は同じものだったことになろう。実際、究極の驚くべきものと、究極の疑いえぬものは、一致するだろう。『闘い』
「わすれたいのにわすれられないんじゃなくて、ほんとは、わすれたくないんじゃないかな? いやなことほど、心の中で何度も反復したくなるし、いやな感情ほど、それにひたりたくなるんだよ。わすれてしまうと、自分にとってなにか重大なものが失われしまうような気がするのさ」『対話』
「だから、言葉は持っていて、ぼくらにその意味もわかるけど、でもぼくらとはまったく違う考え方をしている者、なんていないんだ!」「そう。いないんだよ。いるかもしれないけどぼくらにはわからない、なんてことの意味が与えられないんだからね。」『夏休み』
子どもの哲学は、何もよきものを求めない。それはよりよきもの、より高きもの、より深きものを、めざしはしない。子どもの問いは、解かれたときに、何かよい結果や効果が得られるようなものではない。しいていうなら、ただふつうの大人になれるだけだ。『ため哲』
全宇宙においてかつて成立した、現に成立している、これから成立するあらゆる客観的事実をすべて記載した膨大な書物があったとしよう。その書物には、永井均に関して真であることは、記憶や現在の身体感覚のような彼にとっての主観的事実を含めて、すべて書かれている。『存在』
しかし、その本のどのページを開いてみても、〈私〉についての記述はない。だから、その本をどれほど詳しく読んでみても、〈私〉が誰であるかはわからないのだ。(同書)
現実の根底には、醒めることができない夢とは別に(だが決して非連続的にではなく)、醒めることを禁じられた夢が存在するように思われる。それに対して、誰もがときに不眠症になり、ときに別の夢を見ることが本当はできるはずの、いくつかの根底的な虚構が存在するように思われるのだ。『態度』
アインジヒト「内面の法廷は、被告人も被害者も目撃者も、弁護士も検事も裁判官も、みんな自分だからね。事実を認定するために必要とされる誠実さという唯一の手段が、それ自体道徳的価値を持っている以上、この法廷では、道徳的価値判断から独立した事実認定が不可能になるんだよ」『倫理』
こと哲学に関するかぎり、青年は子どもに、大人は青年に、そして老人は大人に、かなわない。だが逆に、子どもの哲学は、老人の哲学にだけは、かなわないだろう。そこに哲学というものの限界が示されている。『ため哲』
神には〈私〉の着脱能力があるか。これが問題だ。これは、感情や感覚のような心理状態や、記憶や知覚のような表象状態を着脱するような、なまやさしい話ではない。もし神にこの能力があるのだとしたら、それはロボットに心を与えたりする通常の神より高階の神でなければならない。『私今神』
「表面的な明るさや暗さじゃないよ。根だよ。根が明るいってことが大事なんだよ。根が明るい人っていうのはね、いつも自分の中では遊んでいる人ってことだよ。勉強しているときも、仕事しているときも、なにか目標のために努力しているときも、なぜかいつもそのこと自体が楽しい人だな」『対話』
ふどうに手の届かなかった狐が「あれは酸っぱいぶどうなのだ」と言ったとしても、それはまだ相手を引き下げているにすぎない。だが、その狐が「ふどうを食べる生き方は正しくない」と言ったしたら、彼はひとつの解釈を作り出したのである。このとき、狐の力への意志は解釈への意志に変換される。
「ぼくはね、十五歳以上の人間にはほんとうに哲学をすることは不可能だって思っているんだ」『夏休み』
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