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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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『禅の本』。禅はスピリチュアルの中核を否定。神秘体験は魔境=執着してはならない悪。スピリチュアルは野狐禅を量産する危険物なので取り扱い注意! 

弟子「私は悟った! 仏が目の前に現れて真理を語り、私と一体化した! 私は選ばれた!」

師匠「ばっかも~ん!
それは魔境や野狐禅と言ってな、気が変になっただけじゃ!
お主が体験したことはな、条件を整え、修行すれば誰でも体験できるから特別でもなんでもないわ!
仏に出会ったら、仏に囚われずに受け流せという教えを忘れたか!
選民思想という執着に囚われないために戒律があると教えたことを忘れてはならんぞ!」



スピが大好きな魔境と野狐禅で狂人にならないための知恵

野狐禅(やこぜん)とは、まだ悟っていないのに悟ったと思いこんでしまうことです。
「私は悟りを開いた」や「覚醒した」言っている人のほとんどは、野狐禅です。
悟った「つもりになっているだけ」であり、悟った「という夢を見ている」だけです。

魔境(まきょう)とは、禅の修行者が中途半端に能力を覚醒すると起こりやすい、エゴが肥大し、心の平安が乱れた状態のことです。
魔境は、瞑想や座禅の修行中に発生する幻覚、妄想、知覚の歪みなので、どんなに魅力的でも無視しないといけません
当然、悟りでも真理でもないものです。
臨済禅で、「仏見たなら仏を殺せ」と教えているのは、
「超越的存在に出会った自分はすごい能力を持つ優れた人間だ」と思い込んでしまわないようにすることで、魔境という執着から抜け出せるようにするためです。
天女や天使や仏や神や宇宙人が目の前に現れたり声を聞いたりするような、
スピ信者が大喜びするものが典型的な
「魔境=頭がヘンになっただけの偽真理=執着=悪」です


魔境は狂人への第一歩なので、冒頭の寸劇のような魔境対策のための検証がないなら極めて危険です。
弟子の「経験を疑う」ことで魔境でないか判定する指導者が必要
です。
禅やヨガ礼讃の癖に、それらに含まれる
真理探究の姿勢=経験を疑って検証する姿勢」や、
魔境の危険性を都合よく無視するのがスピリチュアルです。
スピリチュアルはキリスト教の弱点を減らした新キリスト教なので、インド思想の論理重視の姿勢と対立する宗教です。
少数の霊性の高い人だけが真理を得られて、霊性の強弱を判定できると言っているスピ信者がいるそうですが、
「少数の優れた人の発言に従え、疑うな、検証して神秘をはぎとるな!」ってことですか?
検証をやめたらカルトと同じですよ!


ヨガや仏教の修行で最初に戒律と禁欲を誓わせるのは、修行で生じる全能感や選民思想や魔境や禅病や野狐禅を封じるためです。

無記=超常的な存在や世界については否定も肯定も言及もしない姿勢
も有効です。
無記は、原始仏教における釈迦の基本姿勢の一つです。
釈迦が経験的に確かめられない、あるいは確かめることが難しいことがらについて断定してしまうと、
それが「教義=執着=悟りの妨げ」になってしまうので断言を避けたのです。
「執着をなくし精神を安定させよ」と言っている釈迦は自分自身が執着を生みださないように工夫したのです。
釈迦はスピリチュアル=バラモン教風キリスト教を否定しています。
釈迦の思想はバラモン教の否定であり、キリスト教と真逆なので当然です。
占いも禁止


釈迦を褒めるスピ信者ってどうみても釈迦を世界最高レベルで馬鹿にしているんですけど
神秘体験を疑わないし。
体験を疑わなかった(疑わせなかった)オウムの悲劇はご存知ですよね。
オウムは、ユダヤ=フリーメーソン陰謀論を主張していることからわかるように、思想の中核はキリスト教です。
厳密には神智学(バラモン教風キリスト教)の霊性進化論です。
表面はインド思想ですが、インドっぽいパッケージに騙されてはいけません


(エーリッヒ・フロムBot ‏@FrommBot
釈迦が弟子たちからそのような問題(世界の成り立ちについて)を問われた時、彼はいつも次のように答えた。「私は知らない、それは私に関係のないことだ。というのは、その答えがどうであれ、それは私が関心を持つ一つのこと、どうして人間の苦しみを減ずるかという問題には何の役にもたたないからだ」

(横浜の駄洒落皇太子 ‏@hamadajare
【無記】例えば「死語の世界は有るのか」等の幾つもの問いを弟子に投げ掛けられた時、仏陀は答えなかったという。経験していない、或いは確かめる事ができない物事について語る事はできない、という立場を取ったらしい。

【仏陀の客観視】弟子が例えば“あの世があるのか”等幾つかの質問をしたら、仏陀は答えなかったという(無記)。経験や実証できないことを議論しなかったらしい。仏陀は物事を客観視
するタイプだったようだ。)


神秘体験による凶悪な洗脳の実例

↓で紹介されている動画では、神秘体験によって洗脳する手法が暴露されているので自分の意見を交えつつ要約します。

条件を整えると誰でも起きる神秘体験を、グルの力によると錯覚させて洗脳。
通常とは異なる体験をしている人に対しては強烈な洗脳をかけることができる。
強烈な神秘体験をするのは、教祖の超能力でも何でもなく、誰でも起きる、人間なら誰でも起きる「変性意識現象」である、という視点が大切。
一見不思議だが脳にとっては当たり前の現象

信者たちのなかには、リトリートと呼ばれる独房の中にいるときに神秘体験を得た者が多い。
暗い部屋に、それもできれば体温と差のない静かな所に、長い間閉じ込めておくとそれだけで変性意識になる。
上手にヨガをやれば光を見たりする。
そのときに「それはグルのおかげです」だとか「グルの超能力です」と言われて引っかかってしまう


企業もカルトと同じ手口を使って、軍隊を作る為の訓練=洗脳を行う。
社畜=信者=兵隊。
企業研修=カルト宗教の入信儀式(入隊式)。

大勢の店長の前で(=監視下で)絶叫アピール。
人前で宣言すると宣言したことを撤回することが難しくなる、一貫性の法則の悪用。
絶叫した後で、訓練担当官が絶叫した人を抱きしめることで、洗脳をより強烈にする。
調教されたことに怒るどころか、感謝する奴隷の完成。
×店長が育てば会社が育つ。
○奴隷隊長が増えれば社畜から搾取出来るので会社がより肥え太る

いったん精神を動揺させてから洗脳。
紐付き陰謀論者が衝撃的な(黒幕の核心を外した)ネタで価値観を破壊して、洗脳されやすい状態にしてから、偽の黒幕(ユダヤや在日)を本物だと信じさせる手口と同じ。
紐付き陰謀論者自体がカルトの手先だから当然か。

だから、私は洗脳手法、詐欺の手口、人間心理の傾向、プロパガンダのやり口などをまず学び、紐付き陰謀論者の本やブログや講演を無視しなさいよ
、っと言っているんですけどね。

prometheus ‏@prometheus2054
【必見】オウム信者を脱洗脳した苫米地博士が、オウムの修行で変性意識状態を作りだし洗脳される過程を解説☞http://youtu.be/_VU7qOPBhJg?t=13m7s … 開始13分~これを見た後、日本の就活や企業研修がこれと似たことを行っていることが分かる→http://bit.ly/b23q0i

(国会議事堂占拠計画-国家権力掌握へ、白い愛の戦士 オウム総括6/10
https://www.youtube.com/watch?v=_VU7qOPBhJg&feature=youtu.be&t=13m7s

餃子のなんちゃら
https://www.youtube.com/watch?v=jpC_kJbS3RQ&feature=youtu.be

ようつべだと、動画再生速度を変えられるので、まとめるのが楽ですね)

以上の洗脳って、禅の修行を意図的に失敗させているとも言えるのですよ。
野狐禅の量産による狂人の量産です。
過労死するまで働く=会社の為に死ねるって十分狂人でしょ?
安息日なしのカルヴァン派プロテスタント的労働思想
=過労死教の狂信者は日本には特に多い
です。

禅を学びたいなら、禅を曲解して反知性主義に改造するニューエイジャーやヒッピー系の本ではだめですよ。
スピ系が大好きなインド思想はキリスト教=反知性主義に都合よく改悪されているので、インド思想の論理的思考重視の姿勢をなかったことにしております



禅は神秘体験を否定しているのでスピったらダメ

 上記で理解していただけたと存じますが、
一定の状況で神秘体験は意図的に作り出せるのですごくもなんともないです。
自分の意思で自在に神秘体験をコントロールできるならすごいです。
つまり、神秘のヴェールをはぎとって「自分の技術」にできるならすごいです。
神秘体験を神秘体験でないようにするのです。
神秘体験や神秘主義は仏教の方向性とは真逆です。
釈迦は神秘主義者ではまったくなく、透徹した合理主義
者です。

目の前に神や仏や宇宙人が現れて、自分だけが選ばれたと救世主気分におぼれたり、宇宙霊と合体して天にも昇る素晴らしい心地がしたと感激する、などは魔境であり、悟りの邪魔であるから、囚われたりこだわってはならないと、禅ではいましめています。
つまり神や仏や宇宙人や宇宙霊や選民思想が現れても、相手にせず受け流し、軽くかわさないといけません。
禅はスピリチュアル=インド風キリスト教を否定しているのです。
心の平安と執着からの解放が仏教の目的なのだから、超越的な存在や愛という執着を主張する時点で偽物です。

禅宗の修行では、一般の人々(特にカルト信者)が喜びそうな奇跡的現象は、大悟の妨げとして厳しく排除されます。
そもそも禅の目的は超能力、いわゆる神通力を得ることではありません


(陀羅尼縁学 ‏@daranijizai 11月5日
仏教の宗派には、過剰にスピリチュアルや、霊感、霊能を禁忌として捉える所もあるが、それは一種の禅病を防止する為もある。
瞑想中にそういう不思議な感覚に囚われ行き過ぎた追求をすると、禅病になる。
禅で和尚にパチンと叩かれるのも、禅病予防
。禅は追求するとヨガに行き着く。)

前回の記事などで真の伝統である仏教を学びましょう!

斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

(菊池 ‏@kikuchi_8 11月13日
チベット仏教は密教のイメージだが、実は顕教はインド中観派が正統に継承さる
【斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう! 】
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 11月5日
ねここねこさん、フェイド大帝 が紹介したチベット仏教本 読んだのかw
偉いな……
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

今回の記事の内容、仏教を理解 するには凄く重要なのに、 ブログ拍手がいつもより少ないのが 笑えるw
やっぱ、専門的な話になると みんな読みたがらないのかなー この二冊、仏教書の中では 易しいほうなんだけどなぁ。

仏女・仏教をたたえる天才・偉人bot ‏@genius_200
自分は昔からこれまで、このような素晴らしい教えを聞いたことがなかった。
(仏教を日本に受け入れた 欽明天皇)
(われ昔よりこのかた未だかつてかくの如き微妙(くわ)しき法を聞くことをえず)
それから1500年間日本は仏教国

STB ‏@RC_StB 6月24日
日本会議が如何に低能か 薩摩長州の芋侍が出てきて、廃仏毀釈をやらかし、そいつらの生き残りが「日本は保守の国」と嘘を付き続けている して、これを見よ
「天皇、仏法を信じ、神道を尊ぶ」(用命紀)
「仏法を尊び、神道を軽んず」(孝徳紀)
大日本帝国は日本史上稀な伝統破壊者
だぞ(笑)

神道家にとって道教と平田篤胤はアキレス腱。神道・惟神・天皇・神器は道教用語であり、神道用語ではないので本居宣長がやろうとした漢意を排除する試み(神仏分離!)は最初から破綻していますな。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-84.html


…今回の最重要な引用…

“ 坐禅がもっと進むと、今度はいよいよ魔力に支配された境地に入っていく。それを「魔境」という。魔境にはいろいろあり、『楞厳経』(りょうごんきょう)という経典によると、実に50種の魔境があるといわれている。また釈迦仏陀でさえも成道の直前に魔境に悩まされたことは、よく知られている。
これは釈迦が悪魔マーラを呼びだして、本当の悟り、(菩提)を得るための最後の戦いをする、というものである。マーラは世にも恐ろしい兵器で攻撃をしかけてくるが、釈迦はそれを花に変えてしまう。マーラは次に自分の娘たちに命じて、釈迦を誘惑させるが、釈迦は受け流す。
マーラは最終兵器で最後の攻撃をしかけてくる。しかし釈迦は、ついにそれらすべてが水面に映る月影のように、幻覚・妄想にすぎない、と知る。このマーラ物語が、魔境の原型であり、魔境の本質を示しているようである。
魔境という文字の形からは、なにか恐ろしい感じを受けることだろう。確かに、『源氏物語』の生霊とか『今昔物語』や『雨月物語』に出てくるようなすさまじい魔境もある。しかし多くはそうではない。かえって、これぞ悟りの境地ではないか、というようなものが少なくないのである。
たとえば、心の中にとんでもない妄想や屁理屈が出てきて、自分は天才だと密かにうぬぼれる。目の前に神や仏や宇宙人が現れて、自分だけが選ばれたと救世主気分におぼれる。宇宙霊と合体して天にも昇る素晴らしい心地がしたと感激する、などさまざまだ。
だがくれぐれも、そんなものにとらわれたりこだわってはならないと、禅ではいましめている。前章で書いた澤木興道のように「その内容は受け流すだけ」、つまり相手にせず軽くかわすだけのことなのである

もっとも、どんな境地が魔境でないかは、なかなかわかりにくいようである。たとえば禅の心理学で世界的に知られる、ある高名な学者の例がある。
「なにもかもが新鮮にみえる。道端に何気なく生えている雑草さえ、この世のものでない美しさに輝いて目に映る。見性体験を得たとき、私はこれこそ禅の心だ、と思った。」
と彼は専門誌に発表した。やがてLSDという、ライ麦の麦角(ばっかく)から製造した強力な幻覚剤の服用体験の論文を読み、彼は、これぞ禅の悟りそのものであると説いたのである。
このためアメリカの西海岸では「LSD、5ドルで天国」とばかりにインスタント禅というものがはやり、ヒッピーたちは先をあらそって服用した。しかしその結果は無残にも、つかの間の悟りの後はぐったりとしたボケ症状におちこむばかりであった。つまりこれは魔境でしかないことが、事実をもって証明されてしまったのである。“『禅の本』p.147-148


自分は多少マシになっただけで大して目覚めていない覚醒していない、まだまだ洗脳されているからそれに気づく為に気をつけて検証しないといけない、と自覚して自戒する方がよっぽど「覚醒」しています。
信者=酔っ払いの言う「覚醒した!」って「俺は前よりも更に酷く洗脳された!」
ってことなんじゃないの?
白昼夢(一応起きているけど夢心地)から目覚めてほしい。
せめて明晰夢(これは夢だと自覚)の状態になってほしい。
スピ系陰謀論者は、「真実は隠されてる!」というくせに、嘘を見抜く技術として重要な論理的思考や、歪められた思想の毒抜きなどを学ぼうとしない、布教活動が主体の人がほとんどです。
スピ系の大半は真実を求めていません。スピ系の大多数の人々が求めているのは選民思想的な優しい嘘


(社畜 ‏@ShachikuNow 8月14日
「自称・目覚めた人間」こそ危ない。知識をどんどん高め、自分を理解しない人々を無関心だB層だと馬鹿にし「私はもう騙される事はない」と思ってる人間ほど大きく騙される。支配者が振る猫じゃらしの先っちょにすぐ飛びつく。敵は手強いよ。大衆心理をもの凄く研究してる。周りを見てよ。罠だらけだよ

knznymmmy ‏@knznymmmy
まーた、目覚めた覚醒したと連呼する アホが流れてきた だからお前は目覚めてねえよ ベロベロに酔ってるくせに 酔ってない、酔ってないって うるさい酔っ払いみたいな奴だな

【定期】
例えば9.11やイラク戦争の嘘に気付いた自称覚醒者の諸君
なんで君たちは日ユ同祖論や日月神示を見破れないのかな?
君たちは目覚めてなんかいない。
「目覚めたという夢」を見ているだけ


…読書メモ…


『禅の本―無と空の境地に遊ぶ悟りの世界』 (NEW SIGHT MOOK Books Esoterica 3)
1993/4、 学習研究社
(学研の『禅の本』)

禅では超常現象のような奇跡を認めない。もし奇跡があるならば、なにげない、あたりまえの自然の働きこそ、本当の奇跡であるとする

禅宗の修行では、一般の人々が喜びそうな奇跡的現象は、大悟の妨げとして厳しく排除される。
禅の目的は大悟することであり、超能力、いわゆる神通力を得ることは目的ではない。
だが、禅の修行している過程で不思議な現象が生じることが往々にしてある


禅に限らず、仏教では疑団(ぎだん。疑問)というものを非常に重視する。
自分とは何か、人生とは何か、道とは何かなどという大疑団を起こし、その疑団を打破することが悟りに通じると考え、とにかくどうであれ疑団を起こせと教える。
禅の公案は疑団を課題として与えること

だが、公案禅は、真摯な求道から離れて一種の知的ゲームに堕するという悪弊があった。

[禅に限らず仏教は言葉と論理的思考を否定しません。
公案は、言葉(ロゴス)で表現されます。
論理的思考(ロゴスを活用する思考モード)だけでは到達できない答えを得るためには、公案という言葉(ロゴス)による問題が必要なのです。
ロゴスと非ロゴスの合わせ技こそが公案。
ロゴスの限界を深く実感することで非理性という新たな技術を獲得し悟りに至るのです。
思考は言葉でなされます。
教えも言語で残されます。
理性的思考から非理性が生み出されるのです。

公案を重視するのは、看話禅の臨済宗。
黙照禅の曹洞宗は、ひたすら座禅する只管打坐を基本としますが、道元自身も公案(=禅問答)を引用しているので、曹洞宗だから公案否定とは言えません。

論理的な人は論理を知るがゆえに非論理的に思考することもできます。
逆に、論理的思考ができない、非理性に偏った人は論理的思考モードになりたくてもなれません。
知っている人が知らないふりはできますが、知らない人は知っているふりができないのと同じです。

そもそも、弟子が修行で得た見解や体験したことを師匠に語るには、言葉=ロゴスが必須。
師匠が弟子の見解と体験を疑って検証していることが重要です。
禅問答は言語抜きの行為だけでなされることもありますけどね
]

心底悟った師匠は、相手の力量をたちまちに看破しつくす。だからこそ弟子に「犬コロにも仏になれる本性があるかないか」と質問して、悟っていない人が答えるときには「有」「無」どちらと答えてもまだまだと棒、喝をくらわせ、悟った人が答えるときにはどちらと答えて即座に相手の悟りを許すのである

不立文字、教外別伝である禅では、公案に対する回答は論理や説明による演繹や帰納で導きだされるわけではない。正解は存在しない。頭で考えてわかるものではない。理性や感性を超えたところから出て来るもので全身全霊で打ち込まねばならない。

・アルファ波は正常な人が心身ともに安静の状態で目を閉じているときに出やすい脳波。目をあけると、アルファ波はおさえられ、代わってベータ波が出てくる。
脳波計によって明らかにされた禅僧の脳波を測定したところ、半眼であるのにアルファ波を出した。
座禅は半眼、目を半分ほど開いて行うのでベータ波だと予想されたが、アルファ波だった。
脳医学においては、正常人が目を開けていながらアルファ波が出ていると、脳機能に異常があるものとされている。これはボケ(本文ママ)あるいは無気力・無感動・うつ病的症状などのボケ的症状なのである。
最近ではアルファ波トレーニング装置でむりやりにアルファ波を出させるとボケになる場合もある、アルファ波精神公害が問題にもなっている。
座禅の最中は頭がボケているのではないだろう。仕事の休息時間や家に帰ってくつろいでいるときボーッとしてアルファ波の状態になることがあるが、このリラックスのときにあたるかもしれない。または仕事をしていも慣れた作業を楽しくやっているときにはやはりアルファ波が出ているがこちらのほうかもしれない。
名僧、澤木興道(さわきこうどう)のような修行を積んだ僧侶になると、坐禅はさらに深くすすみ、ついにはシータ波というありえないような波まで出てくる。シータ波とは一秒間に四~七回くらいのゆっくりした波(徐波)で、その大波のうえにさらに十三~十四の周波数で、紡錘状の独特のかたちをしたさざ波が乗っているものである。
シータ波は寝入りばなのときに出る脳波である。が、僧侶は居眠りをしているのではない。脳科学によるとシータ波の状態のときにはいろいろと不思議なことが起こることが知られている。シータ波が出る情況は心理学と深くかかわる。


“ 坐禅がもっと進むと、今度はいよいよ魔力に支配された境地に入っていく。それを「魔境」という。魔境にはいろいろあり、『楞厳経』(りょうごんきょう)という経典によると、実に50種の魔境があるといわれている。また釈迦仏陀でさえも成道の直前に魔境に悩まされたことは、よく知られている。
これは釈迦が悪魔マーラを呼びだして、本当の悟り、(菩提)を得るための最後の戦いをする、というものである。マーラは世にも恐ろしい兵器で攻撃をしかけてくるが、釈迦はそれを花に変えてしまう。マーラは次に自分の娘たちに命じて、釈迦を誘惑させるが、釈迦は受け流す。
マーラは最終兵器で最後の攻撃をしかけてくる。しかし釈迦は、ついにそれらすべてが水面に映る月影のように、幻覚・妄想にすぎない、と知る。このマーラ物語が、魔境の原型であり、魔境の本質を示しているようである。
魔境という文字の形からは、なにか恐ろしい感じを受けることだろう。確かに、『源氏物語』の生霊とか『今昔物語』や『雨月物語』に出てくるようなすさまじい魔境もある。しかし多くはそうではない。かえって、これぞ悟りの境地ではないか、というようなものが少なくないのである。
たとえば、心の中にとんでもない妄想や屁理屈が出てきて、自分は天才だと密かにうぬぼれる。目の前に神や仏や宇宙人が現れて、自分だけが選ばれたと救世主気分におぼれる。宇宙霊と合体して天にも昇る素晴らしい心地がしたと感激する、などさまざまだ。
だがくれぐれも、そんなものにとらわれたりこだわってはならないと、禅ではいましめている。前章で書いた澤木興道のように「その内容は受け流すだけ」、つまり相手にせず軽くかわすだけのことなのである。
もっとも、どんな境地が魔境でないかは、なかなかわかりにくいようである。たとえば禅の心理学で世界的に知られる、ある高名な学者の例がある。
「なにもかもが新鮮にみえる。道端に何気なく生えている雑草さえ、この世のものでない美しさに輝いて目に映る。見性体験を得たとき、私はこれこそ禅の心だ、と思った。」
と彼は専門誌に発表した。やがてLSDという、ライ麦の麦角(ばっかく)から製造した強力な幻覚剤の服用体験の論文を読み、彼は、これぞ禅の悟りそのものであると説いたのである。
このためアメリカの西海岸では「LSD、5ドルで天国」とばかりにインスタント禅というものがはやり、ヒッピーたちは先をあらそって服用した。しかしその結果は無残にも、つかの間の悟りの後はぐったりとしたボケ症状におちこむばかりであった。つまりこれは魔境でしかないことが、事実をもって証明されてしまったのである。“『禅の本』p.147-148


“心の中にとんでもない妄想や屁理屈が出てきて、自分は天才だと密かにうぬぼれる。目の前に神や仏や宇宙人が現れて、自分だけが選ばれたと救世主気分におぼれる。宇宙霊と合体して天にも昇る素晴らしい心地がしたと感激する、などさまざまだ。
だがくれぐれも、そんなものにとらわれたりこだわってはならないと、禅ではいましめている。前章で書いた澤木興道のように「その内容は受け流すだけ」、つまり相手にせず軽くかわすだけのことなのである。

ねえ、禅をほめるくせに禅を何も理解していないスピ信者、聞いていますか?
野狐禅と魔境を避けるのことを知らない禅大好きスピ信者は、ヘルメットとマットなしで人間ピラミッドの建築を強制される学生のようなものですよ!
ツイッターでねこたさんにからんできたスピリチュアル信者の言動を見ると、自分がまるで全知全能なるゴッドみたいに、上から目線で選民思想をまとった発言をしていました。自分が単なるコピー機であることには無自覚。思想にオリジナリティが感じられません。
「本当に正しいか? もっと良いものがないか? 偽物をつかまされていないか?」
などの自己懐疑がない時点でアウト。
お手軽な選民思想をインプットして安心感を得ることが信者の第一目的なので、それが正しいかどうかの検証は二の次なのでしょう。
スピ思想が支配層に悪用されていることを話題にしているのに、スピ思想自体の真偽に話題にすりかえるのは、信者の証です。
「教義>自分の思考の自由」の人がやっているのは
「陰謀論=検証作業」ではなく
「陰謀教=カルト思想の布教と押しつけ」なのでお断り。

真実ではなく安心感を求める信者お断り。
全能感や万能感を得たと感じたら、それは魔境です。偽涅槃です。狂人への第一歩です。
そうした状態に執着することなく一蹴しないといけません。涅槃自体への執着もだめですからね。全能感や万能感なんて選民思想という悪質な執着をもたらす害悪です。
スピ信者もうっとうしいですが、日本の超古代文明信者もうっとうしいです。
超古代文明を断定的に語ってるやつはほぼ間違いなく神道カルトの工作員か、カルト本を鵜呑みにしてるコピー機です。
優越感を持って日本の超古代文明はあったと主張する連中は無自覚含め工作員と確定していいです。
超古代文明については断定できるほどの証拠がそろっていないので、本当に探究心がある、信者でない人は断定をできるだけ避ける、慎重な語りになります。
哲学や思想や歴史は「活用」すべきものであり、ドグマとして信奉するようなものではありません。
信者が「精神の自由」を言うのは滑稽すぎます。
私は、何が真実かではなく、何が真実「ではない」かを探求しております



・日本で最初の精神分析の医者として知られる古沢平作(こさわ へいさく)は欧米流の精神分析の限界を知ったなら、まず親鸞の真宗をへてから、禅に進むのがよい、説いた。

・日本独自の精神療法として世界的に知られる森田療法は1920年ごろに森田正馬によってはじめられた。森田療法は、日本人によくある神経質症、つまり完璧主義とか教条主義の人にみられる精神的な病に、特に効果があるとされる。この人たちはこだわりっ子タイプとか勉強のできる子タイプ。「~するべからず」「~べし」という信念にとらわれるが、現実に足をすくわれ挫折して不安や葛藤に悩むことになる。
この神経質症に対し、自分の足もとの現実を「あるがままに」認めて受け流し、いかに生きるかの「すべ」のほうを考えるように仕向けていく。これが森田療法の大筋であるが、この療法を確立していく際に役に立ったのが禅の体験
だったといわれている。

カルト信者、特に原理主義者と同じ症状ですな

『完全教祖マニュアル』で騙す側の視点を獲得しましょう。
(◞≼◎≽◟)☝本当は教えたくないのですが、選ばれたあなただけに特別に今だけ、教祖として成功する秘訣をお教えします!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-106.html
“・(わざと困らせて)救済を与えよう(自作自演)
そして救世主になろう!


救済の与え方の分かりやすい例として、浄土真宗系の新興宗教から発展した「内観療法」という精神療法をご紹介。
内観療法では、まず、相手に対してセラピストが
「あなたが(お母さん、お父さん、兄弟姉妹、上司など)に
①してもらったこと、
②して返したこと、
③迷惑をかけたことを調べて下さい」
などと過去の記憶を思い出すよう促します。
そして、真面目に思い返してみると、してあげたことよりもしてもらったことの方がはるかに多いわけですよ大抵は。
なんとも申し訳ない気分になってきます。そう、不安を与えているのです。ほら、こんな困ったことになっているぞってね。
これを続けているうちに、対象者の心情にある変化が生じます。
「自分はなんて駄目駄目な奴なんだ」
という思いから、
「こんな駄目駄目な自分でもみんなに助けられてちゃんと暮らしていけるって幸せだなあ」
という考えへとチェンジしていくのです。
この変化が生じれば内観療法は成功です。
周囲に感謝できる新たな価値観を手に入れたのです。この瞬間、不安は救済に変わるのです。
内観療法は、アルコール依存症や神経症、家庭内暴力や犯罪者の再犯防止などに効果があると言われています。
なお、内観療法は宗教的要素を抜いていますから
「みんなに助けられてちゃんと暮らしていけるって幸せだなあ」
という形に最終的に落ち着きます。
が、この元になった「身調べ」は浄土真宗系の修行ですから、
「こんな悪人の自分でも阿弥陀仏は救ってくれるんだ。今までよりももっと信仰するぞ」
と最終的にその宗教が正しいと言う確信を強めるようにする(より抜けられなくなる)わけです。
大切なのは、
不安を与える設定(原罪などの教義)を作って、
「それを解決できるのは自分達だけだ!」
と自作自演するわけですね。
ここで大事なのは、
「うちの宗教を棄てたり信仰を怠るとまた不安にさいなまれるぞ!」
といったニュアンスを上手く伝えることです。

くれぐれも直接堂々と
「地獄に堕ちるぞ!
呪われるぞ!
不幸になるぞ!」
などと下品に脅す必要はありません。
外聞が悪くなるしツイッターに書かれるし良くありません。
もっとお上品に、
「あなたが今幸福なのはこの宗教を信じているからですよね?」
と言うだけで良いのです。
教団への永続的なコミットメントを要求できるように救済を与えましょう!

さあ、「虐殺しまくっているのに紳士の国・英国」方式でレッツ自作自演!
(そう考えると、消耗品を買わせる手口って素晴らしいですね! 幸せの水とか!)

英国国教はカトリック的プロテスタント(教義はプロテスタント、儀礼と礼拝はカトリック)ですが、違うプロテスタントのカルヴァンの予定説は実に素晴らしい手法です。
予定説とは、
「人が救われるのは、人間の意志や能力なんてまったく関係なく、神がすべて決めているから願っても無駄です」
という神は絶対的に人間より上だという思想をより強化したものです。
そして予定説では、信者が神を信じることすら信者の自発的意志ではなく、
神が「信じさせてくれている」(神が救う為にやってくれている)のだとします。
そして、異教徒は自発的意思によりプロテスタントのカルヴァン派を信じないのではなく、神から見捨てられているわけです。予定説から見れば、異教徒は神から見捨てられたとっても哀れで可哀そうな、全人類を愛している「とは思えない」の神の創造物なのです。

これを儲の立場から考えてみましょう。もし、あなたが儲だとします。あなたが急にふと唯一神の存在を信じられなくなったとします。予定説だとその瞬間、神から見捨てられたことになります。儲であるあなたは自分が神に見捨てられたなんて考えたくありませんし、信仰が薄れているなんて認めたくありません。ならば必死に信仰に篤いとアピールする為に熱心に活動したりするわけです。
これはつまり、
「信仰を失うという脱キリスト教的な動きすらも、キリスト教の枠内に抑え込んでしまう教義」

「信仰を失ってもキリスト教から離れることができず、逆にキリスト教の中で失墜するだけにしてしまう教義」

「信仰を失った者にさえ、なお『自発的に』信仰を求めさせて自己説得させることができる教義」

なのです。
組織固めの為にも、とても参考になると思いませんか?

予定説も凶悪ゲフンゲフン優秀ですね。
あれ、予定説も異教徒も神が作ったんだよね? 
そして異教徒であることも神の意志なんだよね?
自作自演ゲフンゲフンゴッドの正体は悪魔うわなにするやめて。

あと日本の過労死教の元ネタはカルヴァン思想です。
資本主義を発展させたのはユダヤではなくカルヴァン思想ですからプロテスタントですね。

とにかく、信者を逃がさないために執着を強化し、欲望を煽りましょう!
一番お手軽なのが、
「我々は正しいから迫害される」
という教義です。
「我々は既知外だから迫害される」
の間違いなのですが、教義で既知外を正しいことにしておけばOK!
あとは、「異教徒は救われない憐れむべき存在」だという教義で信者の選民思想も強化しちゃいましょう!


・食物規制をしよう(禁欲)
そして帰属意識を高めさせよう。

組織を高める為には「差別化」が必要です。あなたの教団内に特殊なルールを採用し、教団の内側と外側に温度差を作ることで信者たちを教団に繋ぎ止めるのです。
食事規制は身近であり、食事は毎日何度も行うものですから実に有効です
。”)


1893年(明治26年。西暦1900=明治33年)、シカゴで万国博覧会が開かれ、その付属行事として「世界宗教会議」が開催された。
日本からは鎌倉円覚寺の釈宗演(しゃく そうえん)老師が参加し、臨済禅の立場から禅の心を説いた。
海外における禅についての公式の講演としては最初であった。

(万博=独仏+北欧系の科学重視メイソンの祭典。世界宗教会議は宗教統一の準備。

釈宗演は、慶應義塾で、人格は最悪の福澤諭吉に英語、洋学を学ぶ。
釈宗演の弟子に、「肩こり」という造語を創造することで「肩こり」患者を増加させた夏目漱石と、
禅を曲解した神智学寄りのくせに禅の権威扱いの鈴木大拙がいます。


社会毒はいらない!!さようなら偽善! ‏@hinode8 11月5日
1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社、日本郵船が創立した。明治維新で富国強兵の道を歩んだ日本は、欧米から兵器を購入し続けていたが、欧米への支払いに当てる資金が日本にはなかった。そこで福沢諭吉は、賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべきという指示を天皇に与えました。

福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」という指示を天皇に与えました。 賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、天皇一族はこのプランに飛び付き実行しました。(福沢諭吉全集 第15巻



釈宗演は帰国後もポール・ケラスというアメリカで思想雑誌を出版していた人物と交流を続けていた。そして会議から4年後、円覚寺で釈宗演のもと、禅を学んでいた当時、27才の鈴木貞太郎(大拙)に渡米のチャンスが与えられた。以来、鈴木大拙は11年間の研究生活を送り、禅の書物の翻訳を続けた。

(STB ‏@RC_StB 7月19日
英国詩人の大家ウィリアム・ブレイク
スウェーデンボルグの影響を受け、独自の神話体系には「世界卵」が登場
日本の本格的受容の切っ掛けとなった紹介者 柳宗悦は鈴木大拙の弟子で、その子供は志賀直哉の子供と結婚


菊池 ‏@kikuchi_8 2012年5月9日
【東洋思想と西洋神秘主義の違いについて一考】1)東洋思想と西洋一神教が違うのはもはや明白であるが、西洋神秘主義は東洋思想に似ているといわれることがあるので、以下、少し考察してみたい。

2)結構前に定方晟氏という仏教学者の方の「空と無我」という本を読んだ。非常に鋭い論理で空思想が分かりやすく解説されてある好著であるが、その本に空思想と神秘主義の違いについて非常に興味深いことが書いてあった。

3)空思想は端的に「二ではない」であるが、神秘主義は「二が一になる」思想である、という趣旨の指摘である。なるほどと思った。

4)自分なりに解釈すると、現象界の構造を客観的に観察する(止観の観である)と、そこにある「縁起・無自性・空」という不二の真理が見えてくるというのが空思想であり、個我と実在の二元をあらかじめ立てて、それを後から融合させようとするのが神秘主義である、と思う。

)空思想はありのままの現象界にそのまま「不二」を見るが、神秘主義は「二を一にする」という作為を経なければ一なる真理にたどり着けないとする。たとえば禅は日常の行住坐臥に真理を現すが、神秘主義では非日常の神秘体験に真理を見ようとする。

6)このあたりの論理構造の違いに東洋思想と西洋神秘主義の決定的な違いがあるように思う。空思想だけではなく神道にしてもシナの陰陽思想にしてもそうであると思う。

7)神道には禊祓の思想と行があるが、これは自我と実在を融合させる行ではなくして、本来神ながらに神の子として生まれた人の心に後天的に付着した穢れを払うことで本来の神ながらな清い心を回復させるための行であって自己とは別の実在との融合を目指す行ではない。

8)それは、たとえていえば泥に汚れた宝石を洗うようなものである。泥に汚れても宝石は宝石、清めればまた輝くのである。この禊祓は本来的な神人一体の確信に基づいた行であって、操作的に自我たる人とそれとは異質な神たる実在を合一させる行ではないのである。

9)シナの陰陽思想は二元論だと言われがちだが、吾人はそうは思わない。陰と陽は同じ太極の二つの側面を言うにすぎない。これも最初から「不二」であって 陰陽という「二」を太極という「一」に帰一する思想ではないと思う。「一陰一陽これを道という」のである。この場合、道と太極は同義である。

10)また、天の理と心の理を区別せず本来同じとする陽明学の心即理説は神道の思想に近いと思う。陽明学を学ばれた先哲・熊沢蕃山先生は神道家でもあられた。

11)ありのままの現象界そのものに「不二」を見る東洋思想は「一即多、多即一」であって、そのありのままに多様性を持つ世界にそのまま真理を認める。 (これは猷太似非神道的な、世界征服的ワンワールド的な解釈ではなく、「各々所を得しめる」という正しく解釈された八紘一宇の原理にも通じる。)

12)一方、西洋神秘主義は「二」から「一」を求めるのため多様な世界を一つに導こうとする傾向がある。つまり多を一に収斂させようとするワンワールド思想である。西洋神秘主義の結社であるフリーメイソンが「一つの世界」を目指すのはその思想の論理の帰結である。

13)国際秘密力の世界征服主義者が一神教とともにカバラ哲学など神秘主義を信奉するのもむべなるかな。世界征服思想は西洋神秘主義の政治思想的顕現であると思う。端的に「不二」である東洋思想と「二が一」である西洋神秘主義にはこのように決定的な差違があるのである。

14)一見、西洋思想の主流である一神教とは違って、より東洋思想に類似するように見えた西洋神秘主義思想であったが、東洋思想とはこのように決定的な違いがあったのである。「不二」と「二が一」、表現の違いはわずかだが、まさに毫釐も差あれば、天地懸隔す、である。

15)ちなみに禅学者の鈴木大拙氏は禅を神秘主義の一種だとしている。この人は「霊性」という言葉を好んで使うが、フリーメイソン思想家スウェーデンボルグの思想の影響を受け過ぎだと思う。

16)ボルグ思想は現象界と霊性界の二世界観を前提とする典型的なグノーシス的二元論であって不二の法門を目指す禅とは相容れないはずである。鈴木氏は神 道に批判的な一方で、一神教的な真宗思想に好意的であるが、ここにもこの思想家の組織宗教的な硬直的・固定的な教義を好む西洋的宗教観を感じる。

17)鈴木氏の神道批判を読んだとき基督教宣教師の神道批判の物言いとそっくりだと感じたものだ。禅を神秘主義だとする鈴木大拙氏は、はっきり言って、同 じようにスウェーデンボルグに影響を受けていた、西洋的一神教的な終末思想に神道的粉飾を施した出口王仁三郎や浅野和三郎と同類だと思う。

18)日本と東洋古来の思想を換骨奪胎して西洋化する、あるいは西洋的思想に日本的東洋的粉飾を施す思想家宗教家には注意が必要である。西洋の看板と実質 で正面から来る場合より、日本文化東洋文化への侵食度が見えない分、被害が大きい。これもまた偽装を旨とするタルムード戦術であろう。【終わり】

菊池 ‏@kikuchi_8 12月9日
「鈴木大拙」の項目に注目した。→【“神智学徒”であるか、もしくは神智学の影響を多大に受けたらしい人物の列挙 】
http://houjugusya.web.fc2.com/human.htm
“*鈴木大拙
 1870年11月11日(明治3年10月18日) - 1966年(昭和41年)7月12日)は、禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者(文学博士)である。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。梅原猛曰く、「近代日本最大の仏教者」。1949年に文化勲章、日本学士院会員。
 《神智学徒で禅の研究をしていたアメリカ人女性と結婚し、自身もインド・チェンナイにある神智学協会の支部にて神智学徒となったのが世界的な禅研究者として知られる鈴木大拙です。大拙はブラヴァツキー著『沈黙の声』を絶賛して、夫人のことをこう評していたといわれる。
 『チベット仏教についての知識は、その当時の大衆や西洋の学者が入手できる情報よりも豊富であり、彼女はまた秘密仏教の修行についてもよ く知っていた。この知識は鈴木大拙博士によっても裏付けられた。彼は述べている。「次の世紀に禅を西洋にもたらした人物であり、疑いもなく、ブラヴァツ キー夫人はある意味で大乗の教えのより深いところに参入していた。」』(『ヘレナ・ブラヴァツキーに当てられる新しい光---コニー・ハーグレイブによる書評』より)》”

風の子 ‏@makeanovel 7:26 - 2015年11月16日
今年、ローマ法王庁から「福者」に認定される高山右近絡み?で賑やかな金沢・能登(北陸新幹線・ドラマ「まれ」で能登が注目浴びる)ですが、鈴木大拙は金沢出身で、金沢に鈴木大拙館というやたら凝ったミュージアムが最近オープンして話題になってる https://twitter.com/kikuchi_8/status/542346315393286145 …
菊池 ‏@kikuchi_8 12月9日
鈴木大拙は神智学協会に入会して米人の妻は神智学徒であったのか。。禅を神秘主義と言い、スウェーデンボルグを紹介し、アメリカで講演旅行をした(どこかの財団の支援?)ということで、限りなく怪しいと思っていたが、完璧なインサイダーであったのだな。神智学徒が「世界的な禅の権威」扱いとは!

風の子 ‏@makeanovel
江戸幕府がキリシタンを弾圧しはじめたとき、元々匿うために能登半島の七尾市にそれ用の寺を用意してあり、金沢のキリシタンはそこに逃げて匿われた。ドラマ・まれで指導役をした世界的パティシエ辻口氏はこの七尾出身。マニラで病死したとされる高山右近は密かに能登に戻ってきた説が残ってるそうだ。

1615年没の高山右近の今年は没後400年で、「カトリックで最高の崇敬の対象とされる「聖人」となる前段階の「福者」に認定する手続きを進めることを 了承した。バチカン関係筋が明らかにした」(ニュースより)。その記念すべき年に北陸新幹線と、匿ってくれた能登が持ち上げられたんじゃないの?

鈴木大拙館 http://kanazawa5towns.com/shop/suzukidaisetzkan.html … ニューヨークのMoMAの改修工事のコンペを勝ち抜いた世界的設計者・谷口吉生氏(やはり建築家である谷口氏の父が確か金沢出身)が、この鈴木大拙館も設計して建築家の間でも注目を浴びてるとか。。

利長がキリスト教を家臣に奨励しており、さらに自分の母(利家の妻、まつ)や、姉妹にもキリスト教の説教を聞き、洗礼を受けるようにすすめたそうだ。だか らまつが洗礼を受けたがったというのは、2代目の息子の利長の影響。まつは心を動かされて説教を聞くためにわざわざ当時都から大坂へ出向いた

利長があまりにも手放しでキリスト教に好意を寄せるので、右近が困惑するほどだったという。自分はすでに半分キリシタンである、などと語るので、キリシタン嫌いな武士たちが不都合なことをしでかさないために、右近が話題を転じる必要があったことすらあったそうだ


この「キリシタンの記憶」というのは金沢在住でキリスト教徒で金沢の教会に勤務されてる著者が、これまで調べたことなどをまとめた本だそうで、陰謀論とかではなく、むしろ熱心なキリスト教徒の方の書いた本なので、トンデモとかではないですね。

当時の外国人宣教師がローマのイエズス会本部に送っていた年報によれば、1601年金沢にきた外国人宣教師は右近の費用で建てられた教会で120名の洗礼を授けたが、そのうちの13名は利長の家臣、その後51名の洗礼のうち24名がやはり利長の家臣だった

これが能登のお寺に残ってるという、胸部を開くと十字架が隠されているという仏像の写真です~^^; pic.twitter.com/4U30oqddOJ

キリスト教系人脈?^^;やたら世界的に活躍する人物も金沢から? 鈴木大拙、MoMA設計者、谷口吉生、パティシエ辻口氏は七尾だけど、きゃりーぱみゅぱみゅをプロデュースしたアーティスト中田ヤスタカも金沢出身、星稜高校からは松井(ヤンキース)と、サッカーの本田(ミラン)も。^^;

王王大栄 ‏@ououdaiei
@makeanovel @kikuchi_8 高山右近は確かに立派な武人で数寄者だが、神仏を弾圧した狂人である。それが福者?ていうことは、バチカンは、まだ十字軍をしてますよな。
鈴木大拙は、本当の禅者ではない。一応参禅したようだが。鈴木俊隆は、ちゃんと僧侶の真っ当な禅僧。https://ja.wikipedia.org/wiki/ 鈴木俊隆 偽物がもてはやされる腐った社会ですよな。)

・アレン・ギンズバーグは処女作『吠える』で一大センセーションを巻き起こした詩人である。
1955年、サンフランシスコ市で詩の朗読会が開かれた。主役は詩集『吠える』で当時の若者の人気を一心に集めていたアレン・ギンズバーグ。一様に長髪、髭、ジーンズ姿の破天荒とも思われる青年ばかりが集まっていた。その中の一人ジャック・ケルアックは自らの世代を「ビート・ジェネレーション」と呼んだ。
1957年にはケルアックの周辺にいたビートたちの姿を描いた『路上』が出版され、爆発的な売れ行きを示した。そして、翌年、1958年には続いて『ダルマ行者』(邦訳『ジェフィー・ライダー物語』)が出版された。

アメリカにおける禅の大衆化を語るうえで避けて通ることのできない人物の一人である、アラン・ワッツは、1915年にイングランドで生まれた。
17歳でロンドンの仏教界の機関誌の編集長を務め、鈴木大拙の著作を読みあさり、
1936年にはロンドンの世界宗教者会議で大拙に会い
、若干21歳のときに自著『禅の精神』を出版。22歳で米国に移住。ワッツの禅理解に関しては評価のわかれる面もあるが、50年代に刹那の生きがいを説き、57年に出版された『禅の道』などは強い影響を与え、ビートのグル(導師)として「ZEN」を広めていった。
アラン・ワッツはZENをビートからヒッピーへと橋渡しした。

ワッツは、組織に属することを拒み、快楽を愛し、酒を飲み、LSDで神秘体験 を味わったそうです。全然、禅的じゃないんですけど

アメリカではケルアック以前にすでに『ライ麦畑でつかまえて』のサリンジャーも禅に傾倒していた。現代音楽の巨匠ジョン・ケージも作品に禅の影響を認めている。
イギリスではさらに以前からオルダス・ハクスレー(ハクスリー)や詩人のW・B・イェーツ、T・S・エリオットなども禅に関心
を示している。そのような例はドイツやフランスの文学者、芸術家、哲学者などにも見出すことができ、それもこの紙幅で紹介しきれない。
ただし、この50年代を中心とした「ZEN」ブームは、ビート詩人たちに源があることから類推されるように、東洋へのエキゾチックなあこがれと考案に見られる言語の飛躍的な使用などに注目したもので、各自の知的興味や芸術的な関心からのものだった。禅の瞑想などの実践面はまだまだ理解されていない。とはいえ、この時期から自らの内面の問題として禅に関心がもたれはじめた。

1967年、サンフランシスコの人口は75万人だった。この周辺におよそ30万人の長髪の若者が集まっていた。文明社会を否定し、ビートの効いたロックに酔いしれ、マリファナをまわしのみする彼らは、「ヒッピー」と呼ばれた。ベトナム戦争下にあった当時、その悲惨さを逃れ多くの若者がドロップアウトした。その中には「スズキズム」と称して読経をあげ、香を焚き、瞑想にふける一群の若者たちがいた。この仏教への指向が、はたして本物なのが、大いに議論のわかれるところである。実際、現実からの逃避に、東洋へのあこがれを口実にしたにすぎないととらえる向きが多い。

ハーバード大学の心理学教授であったリチャード・アルパートは、ハーバード大学のティモシー・リアリーとLSDなどを使ったサイケデリックドラッグの研究を重ねた。それが原因で放校処分となるがアルパートの探求は終わらない。インドへと旅立ち、ヨーガ行者などとの交流を通して、古来から伝わる精神伝統の世界に触れ、ドラッグに頼らない精神探求へと向かっていった。この一連の体験に基づいて書かれたものが、
1971年に出版されたババ・ラムダスと署名されたアルパートの『ビー・ヒア・ナウ』なのである。この書物自体はインドのヒンドウー(ヒンドゥー)系の流れに多くを沿って書かれているものだが、ヒッピーたちの聖書となり、精神世界探求のガイドとなった。この本の最終部には、精神修行の場の一つとして、サンフランシスコ禅センターが紹介
されていたのである。

(風の子 ‏@makeanovel 11月6日
(再掲)ブレード・ランナー原作フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」は放射能汚染された第3次世界大戦後という設定。テレビでは「今日の天気予報。衛星からの報告によりますと、放射性降下物は午前中にもっとも強まり、次第に衰える見込み、外出される方は・・・」等と。

KTanaka ‏@tanaka93225760 11月8日
@makeanovel 映画・ブレードランナーの立ち食い蕎麦屋が新橋とか、暗示してたんですね。

風の子 ‏@makeanovel 11月8日
そうですね、原作小説では日本は出てきませんが、映画だと日本が舞台じゃないけど、日本っぽいものが出てきて暗示だったのかなと。屋台のおじさん日本語だし、芸者みたいな広告とか。  RT @tanaka93225760 映画・ブレードランナーの立ち食い蕎麦屋が新橋とか、暗示してたんですね

風の子 ‏@makeanovel 11月8日
「ニューロマンサー」の舞台が千葉市ってのも暗示的。。 “臓器移植や神経接合や微細生体工学と同義語となった千葉”、“千葉の闇クリニック群こそ最先端” とか描写されるチバシティがメインの舞台の1つですよね。。  @tanaka93225760

KTanaka ‏@tanaka93225760 3 時間3 時間前
@makeanovel 『ニュー・ロマンサー』読んだ当時は気味が悪くて、今思うと「731部隊」の残党の話しだったのかと。日本はとても不気味な国。とらえどころが無くて、鵺のよう感じるこの頃です。

風の子 ‏@makeanovel 3 時間3 時間前
ニューロマンサーを書いたギブソンの仕掛け人が、ティモシー・リアリーという、「素晴らしき新世界」のハクスリー(1984年のオーウェルの恩師でもある)と一緒に麻薬使った実験したり、タビストック人間関係研究所の洗脳実験MKウルトラ計画にも関わった人  @tanaka93225760


・カトリックの総本山ヴァチカン(バチカン)では、
1962年から3年間にわたって第二バチカン公会議が開かれ、カトリックが異宗教との対話を進めることが決議された。さっそく仏教、中でも禅に対話を求めた
1969年の第一回目の東西霊性交流では、禅の関係者五十数名がヨーロッパを訪問し、各地の修道院に地財し、修道生活を体験するとともに、武道、茶道、書道といった禅の周辺文化を紹介した。

バチカンが統一宗教を作るのに協力します宣言。
仏教に近づいて、仏教を取り入れますよと言いつつ、実際は仏教の中核を抜いて一神教寄りにに改造。
中核思想がカトリックと禅は真逆なので、統合は無理です。
共存ならできますけど。
一神教を改造した新キリスト教に協力することに反対しているカトリックの保守派が、イエズス会士バリュエルが発明したイルミナティ陰謀論やキリスト教の伝統であるユダヤ=フリーメーソン陰謀論を布教しております。
スピリチュアル禅やヒッピー禅やニューエイジ禅は魔境を悟りだと勘違いさせる邪禅(野狐禅)である可能性が高いので注意!


帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 5月10日
禅宗にふりーそーめんが取り憑いて世界に広めるのも、エックハルトとセット売りして禅の本質を骨抜きにするつもりかね?純インド産ヨーガが流行らず、アメリカ産ニューエイジ系のヨーガばっかりになってるように。ほんま、マニさん戦術の宗教乗っ取り作戦は怖いですわ。マニ教の本質は本当に怖い

つねまげ ‏@tunemage 1月5日
ニューエイジは禅やヨガなどの東洋思想を取り入れているけど、彼らが求めたのは欧米から見た規制の価値観(キリスト教倫理・資本主義・科学礼賛など)へのアンチテーゼとしての東洋思想な気がする。だから、僕らから見ると外国映画に出てくる忍者を見るような違和感があるんだな。)


・中国の臨済禅を日本に紹介した栄西は厳格な戒律主義。
渡航が困難な時代にあって、栄西は二度も入宋した超エリート僧であり、多くの寺を次々と建立する造営の才に恵まれていた。
栄西は臨済宗 黄龍派の伝法を受けた。帰国後は北条政子や源頼家など最高権力者を味方につける抜群の政治的才覚の持ち主であり、京都に建仁寺、鎌倉に寿福寺を開き、臨済宗の発展の基礎を築いた。
栄西は禅の立場をとりながら密教(天台密教)も一緒に取り込んだ。栄西が開基した京都の建仁寺は比叡山の末寺としてスタートしているが、禅だけでなく、天台・真言の三宗兼学の道場でもあった。栄西は日本臨済宗の開祖であると同時に、天台密教葉上(ようじょう)流の祖でもある

公案は論理的な解決の拒否

以下しばらく公案
・達磨安心(だるまあんじん)

壁に向かい続ける達磨のもとに神光という名前の男が訪ねてきた。

神光「心が不安でたまらないのです。先生、この不安を取り去ってください」
ダルマ「その不安でたまらない心を持ってこい。安心させてやろう」
神光「心にはかたちがないので出せません」
ダルマ「それがわかれば安心したはずだ」

神光は、達磨から慧可(えか)という名前を与えられ弟子となり第二代の祖となった。

(knznymmmy ‏@knznymmmy 8月19日
ワロス 持ってこれないなら存在しない、か そういう時はだな、思いっきりその達磨を殴るんだ 「痛い!」って言ったら 「ほう?そうかい? じゃ、その痛みを持ってこい」 「無理っす」 「んじゃ、痛くないんだろ?」 ともう一発殴る

どみにをん525 ‏@Dominion525 2013年1月29日
一休さんの「屏風の虎を出してください」って、無門関四十一則達磨安心の「その不安な心とやらを出してみろ」のオマージュなんだよね?

MURAJI ‏@murajidash 6月7日
一休さんって、後小松天皇と南朝系貴族の女性の間に生まれたとされてるので、北朝系だけど足利が気に食わない奴ら&南朝系が、同時に旗印に担げる貴重な人材なんですよね)


・狗子仏性
(くしぶっしょう。「趙州狗子」じょうしゅうくし。「趙州無字」じょうしゅうむじ)

ある僧「犬にも仏性がありますか?」
趙州和尚「無」
ある僧「なぜないのですか」
趙州和尚「自分に仏の性質があることを知らないからだ」

大乗涅槃経にある、一切衆生悉有仏性という森羅万象に仏の性質が宿っているという大乗仏教の基本理念を、「無し!」と否定したことがポイント。
先入観を崩したのです


“一切衆生悉有仏性
いっさいしゅじょうしつうぶっしょう
生きとし生けるものは,すべて仏陀になる可能性 (仏性) をもっており,すべて悟りうるという仏教の思想。諸説もあって,なかには仏性をもたないものもありうるとする説 (法相宗) ,草木などの精神性をもたないものにまで仏性があるとする説 (天台宗) ,精神性をもたないものは仏性をもたないとする説 (華厳宗) などがある。“
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E5%88%87%E8%A1%86%E7%94%9F%E6%82%89%E6%9C%89%E4%BB%8F%E6%80%A7-31464)


ぺん ‏@hanashibeta 7月13日
禅は御存知のように不立文字というが、禅ほど多弁なものはない。灯史を開けばそこは公案ワールドだ。ただ禅問答と揶揄されるように欧米系論理学では読み切れないものだらけで、結局禅のいう不立文字の文字とは言葉のことではなく「既成論理の枠組み」を指しているのだろう。ビバ狗子仏性!

主人公
瑞巌師彦(ずいがんしげん)は毎日自分にこう呼びかけた。
「おい、主人公よ」
そして、自分で答えた。
「はい」
また呼びかけた。
「おい、しっかりと目覚めているのだぞ」
「はい」
「おい、いつどこで、他人に欺かれないとも限らないぞ。しっかりするのだぞ」
「はい、はい」
こうした問答を生涯続けたという


私も禅語の主人公の姿勢で本ブログを執筆しております。
主人公も仏教用語なのですね


鷹島修@アラフォー&イクメン ‏@sic_taka 9月29日
禅語での主人公は、本来の偽らざる自分という意味らしい。 毎日自分のなかの主人公に呼びかけて、覚醒させておくことが大切。 そうしないと、すぐにとらわれた自分になってしまうということらしい


曹洞宗大本山の永平寺は、すべての建物が回廊で連結されており、法堂は頭、仏殿は腹部、山門は股など人体のそれぞれのパーツに密接に照応して設置されている。行住坐臥のいっさいが厳格綿密な修行であることを悟らせるような禅的な宇宙観に基づく。
「永平」とは中国に仏教が初めて伝来した年の年号


(フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 2015年11月12日10:51 - 11:47
ねここねこさんの工事中の 禅仏教の記事読んでるけど、 永平寺システムに一個だけヒント。
「永平寺修行記」では便所での ケツの拭き方とか、食事の細かい
作法とか、寝るときに仏陀みたいな 態勢になる様に布団でグルグル
巻いて簀巻き状態にしたりする……

これは現代の工場で作業の 手順がこと細く決まってるのと 同じ思想なのね。
目的は「ヒューマン・エラー」 の撲滅。
なんでこういう思想が生まれた のかというと、
禅仏教では、理想の生き方ってのが ブッダの生き方なわけ。

ところが人間ってのはブッダの 生き方が中々出来ないわけよ。
そもそもブッダの生き方自体が 分からない。
だったら、人間の取る全ての 行動を寺側が管理して、
強制 させれば、全員ブッダの行動を
取るわけだから理想の社会に ならね?
って考えが永平寺の 仕組

で、これを娑婆の世界で実現
したのがトヨタ生産方式みたいな
工場の仕組なわけ。

ところが工場で働いてみれば
分かると思うけど、アレが
どうしても「理想社会」じゃない
って事に人間は本能的に気付く
わけよ。
でも工場側はこれはブッダの 生き方をトレースしてるんだから
これ以上の理想社会は無いんだから 黙って続けろ!
と言うわけだ。
曹洞宗の凄いところは実は
ここで止まらないで、実は このネタの続きを用意して ある所なんだ。

「永平寺修行記」を良く読めば
分かるんだけど、作法の合間に
ちょくちょく坐禅の時間が
あるのよね。
所謂、曹洞宗の「只管打坐」って
やつの実践ね。

「永平寺修行記」の著者が
ここで重要な所を漏らすん
だけど、
この「座っている時だけが天国だ」 という表現を著書の中でしてるんだ。
トヨタの工場で言うと「五分間の 小休憩」の時間みたいなもんだ。
ブッダの行動を全てトレースして 生きているはずなのに、
本当の 幸せは「坐禅」してる時だけって
不思議だろ?w

ここが曹洞宗のスゴイ所なのよ。

つまり「本当の悟りはブッダの
行動をトレースした強制された
ロールプレイには無い」
と言い切るわけだw

本当に重要なのはブッダの
ロールプレイに疲れて
ただ座り始めた時の
「なにもしてない状態」
これが悟りだ!

トヨタの工場の例に置き換えると 工場で真の利益を挙げているのは
「作業者が作業している 時間じゃない」
工場で一番重要で本質的なのは
「休憩を取っている時間」

と曹洞宗の坊さん達は言い切った わけだ!w

この「なにもしない状態」、
ただ座って、休憩してる時間こそが 悟りであり、人類の理想だって 説いてるわけよ。
あの厳しい修行はそこに気付かせる ための念入りに組まれたカリキュラム なのね。
まぁ、流石はインテリの坊主 の考えた仕組だわ。

問題はトヨタも、東大のMBAも、
ジョブズも、Googleも、 この「禅の本質」に気付いたか どうか。
まぁ、第一目的が利潤追求や ドラッカーのいう需要の創造 じゃ気付かんだろうw

あくまで只管打坐の曹洞宗の 話しよ?
公案ベースの臨済宗はまた 別の話しよ?
pic.twitter.com/8ulmJZvPLG
(野々村 馨 『食う寝る坐る永平寺修行記 (新潮文庫)』)

また、ミソは「ブッダの ロールプレイ」の否定が
間接的に空海が持ってきた、
天台宗が後に重視した
密教の批判になってる所ねw
ここが重要なポイントよ?w

この永平寺の修行の仕組は
よ〜く観察すると、釈迦が バラモン仙人の下で苦行されて
参った後、菩提樹の下でただ
座って悟ったエピソードと リンクしている所も キーポイントよ?
w 以上

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 9月19日
RAPT君の執着するトヨタの
経営手法も基本的に曹洞宗の
永平寺の運営システムの
パクリ
だしなw

王王大栄 ‏@ououdaiei 2015年11月
トヨタは、永平寺の経営システムを学び用いているらしい。そういえば豊川稲荷は、曹洞宗。でトヨタのロゴはここのダキニ天の如意宝珠も表しているとか。繋がりますよね。松下は醍醐派の清滝権現の神社を祀っているし・・でも今は醍醐寺もカルトの汚染にやられている・・・。因果応報?

永平寺のシステムは、結構軍隊のシステムに似ている。ので、企業が喜んで取り入れるのかな。
戦後日本の企業経営は、結構軍隊の影響が多き。それを誤魔化すのに禅仏教を騙る。
禅宗は、妙に軍隊臭いところが嫌い。永平寺のシステムも、ある意味で選ばれた人しかついていけない。それを無闇に誰にでも押し付けガチに思える。それは発達障害気味の人間には拷問ですは。学校も妙に禅宗と軍隊の合わせ技だし



フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 1月22日
今まで東大だけMBAが
なかったんだが、最近東大EMP
という社会人用EMBAコース
みたいなのが出来ていた。

学位はくれない。修了証のみ。
ハーバードとの差別化を謳い
文句にしていて、所謂
「マネジメント」、
「マーケティング」、
「リーダーシップ」を
教えない。
代わりに政治学、宗教、医療 とか教えているみたいだ。 元々日本企業は欧米系の ビジネススクールで経営学 を齧った小賢しい若造が 経営者に意見するのを 毛嫌いする傾向が強い。 東大のカリキュラム 見ると松下政経塾の 神道を仏教に替えた だけの感じだが

コーランを読み込んだり、 坐禅を組んだりするそうだ。w これで半年600万。 う〜ん、ハーバードでも 金積めばMBAくれるし、 卒業名簿にも加えてくれる んだがなぁ〜 確かにHBS(ハーバードの ビジネススクール)は安くは ないけど。

ってかマネジメントをやらない MBAってMBAなのか? 東大のカリキュラムを見ると 確かに日本の経営手法に 合致してると言っちゃ 合致してるが…… オカルト偏重がそもそも 日本のモノづくりを 弱らせてることが 何で分からんかなー

この東大EMPのカリキュラム に日本型経営の問題点が 要約されてる感じがするね。 禅仏教をやらせるのは 多分ジョブズの影響だな。w 坐禅組んでイノベーション 出来るなら確かに凄いかも しれないが。w

確かにGMとかクライスラー だけを見るとアメリカの経営は ショボイけど、そもそもアメ公 エリートは自動車メーカーに 行かないからなぁ。 NASAとか軍需産業の イメージかな。 スタバ、マイクロソフトとか の成功例を取れば、学ぶべき 所はあるのだけど。

まぁ、トヨタ生産方式って 道元の永平寺の運営手法そのもの だからな。w そこに気付いたのは流石に 東大と評価すべきか。w)

『禅の本』
坐禅の仕方
・結跏趺坐(足の裏を天に向けて両足を組んで坐る。結跏=足を組む。趺=足の裏)で座る。
①座蒲(ざふ。なければ座蒲団の上にさらに二つ折りした座蒲団)を置き、その上に浅く腰を下ろす。
②右足を左のものの上に乗せ、かかとが下腹につくくらいまで、なるべくつけ根のほうまで引き寄せる。
③左足も同じように右のももの上に乗せる。
両膝と尾骶骨で、床の上に三角形ができる。このとき膝が床から離れてはいけない。
足が痛くて結跏趺坐ができない人は、左足だけをももの上に乗せる半跏趺坐を用いてもよい。
それも辛い人は普通に正坐して行ってもよい。
・目は自然におとす。閉じると眠気を催したり、妄想に陥りやすくなる。
・手は法界定印(ほっかいじょういん)を組む。
右の掌を上向きにして、組んだ足の上に置く。
その上に左の掌を同じように上向きにして重ね、親指の先を合わせて卵形の輪を作り、その手はへその下あたりに置く。
両方の親指をかすかに合わせる。離れても押しつけてもいけない。
・体の位置は真中心におく。時計の振子のように上体をまず大きく左右にふって自然に止まった位置、次に前後にふって上体がまっすぐ安定した位置。
・頭は顎を引き、左右に傾かないようにする。視線は1m先くらいに自然におとす。
・口は軽くむすび、舌先を上あごの歯のつけ根に軽く当てる。
・肩は力を抜き、水平にする。
・背中はまっすぐ伸ばす。腰は後ろにぐっと引く。腹は少し前につきだし、鼻と一直線になるようにする。
・呼吸は自然と鼻からの呼吸にまかせ、息は長すぎも短すぎもしないようにする。息はまず吐き出してから吸う。下腹の底から吐く心地で息をすると、下腹はへこむというよりも充実感がある。すると自然に鼻から吸うことができる。



…参考資料…

秋山絵香 ‏@Eka_isdd 2012年12月22日
仏教的にいえば「愛」は執着、こだわることであって、煩悩という悪である。「愛」を断ち切ることなくして悟りは開けない。 日本人が「愛」を何かよいものと思うのはキリスト教の影響

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 5月3日
仏教を激しく憎んでる神道カルトが、マニ教と同じ手法を使いながらスピリチュアルを洗脳していってるのは、和風クリスチャンである神道カルトがそれだけ仏教を破壊したくてたまらないということだろう。スピリチュアルと仏教では、似ているようで実は違ってスピはキリスト教の変形だからだ。

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 4月30日
今のヌッポンで英諜報機関が作った神智学系スピリチュアルが蔓延してるのは、仏教破壊作戦と見ていいだろう。大本教などの神道カルトは、徳川家が国教とした仏教を激しく嫌ってた。五重塔を二万円で売りに出すとか。そいつらがスピを蔓延させるのは、日本の仏教的な価値観や感性を壊すため

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 11月1日
そういえば、今思い出せるだけでも、仏教の坊主がニートを叩くというものは本当になかった。それどころか、現代のような煩悩が多い社会に生きてると心が壊れて当然で世の中のほうが狂ってると言った坊さんが多い事実を思い出した。労働教の大人はニューソート好きでも仏教は嫌いだもんな。

やつらは日本を破壊するために、会社というカルトを盛り立て、地域の共同体だった寺から隔離して仏教的な叡智から遠ざける工作をやってたのではあるまいか?松下幸之助がニューソートやキリスト教カルトと懇意だったのは偶然じゃないんだよ。PHPの貢献賞はきっと仏教破壊工作なんだよね。

やつらの本質はマニ教だからさ、仏教的な伝統があるヌッポン社会でも受け入れられるよーに努力精進みたいな教義を入れ込むけど、それでも資本主義カルトって欲望を最大限に拡張させる事だから、仏教で一番大事な要素である修行の果てに心の平穏がないわけ。だから死ぬほど努力した後に過労死する。

こう考えると、マニ教的な既存の宗教の換骨奪胎ってのは実は人を何十万人も殺せるほど恐ろしいものであるという事がわからないか?宗教でも思想でも意図的に混ぜ合わせる事で一番大事な部分を骨抜きにしてしまうやつ。これは自然な習合だとあまり起こらない事なんで、意図的なミックスまじで怖い


山崎いつ@日本号来まっしや ‏@itsu_yamazaki 11月25日
ベルギーでは、オウム真理教や創価学会に並んで『禅』や『浄土真宗』を、カルトに対する政策において『不法行為や危険な行為が継続されていないか監視する必要がある』としている。http://bit.ly/1FoNbBk

Ken ITO 伊東 乾 ‏@itokenstein 2010年7月1日
カトリック布教を武器とする帝国主義宗主国の進出を阻む現地抵抗勢力となりうるもの、すべてとりあえず悪と認定しておく。実に原則的! @tjmtmtk 浄土真宗と禅がベルギー政府からはカルトであると指定されているということを今知った。パッとリストを見た限り、薔薇十字団とか太極拳も

Ken ITO 伊東 乾 ‏@itokenstein 2010年7月1日
@shoshoshosho ベルギー&カトリックに言わせれば「長崎26聖人殉教」など切支丹の大弾圧、殺戮を繰り返してきた対抗教義になるので、日本の仏教は軒並み暴力カルトと見て不自然でないでしょう。とくに九州は西本願寺と曹洞宗が強いので、真宗と禅の指定は非常にストレートに判ります。

サイ / 三原卓也 ‏@rhinoeye 2011年4月27日
ベルギーのカルト団体リスト http://bit.ly/i718Q8 はざっくりしてるなあ。オウム、創価学会、統一教会、真光、エホバ、といった日本でもおなじみの面々や、サイババ、ラエリアン、太陽寺院みたいな懐かしめのやつや、アーミッシュ、モルモン、YWCA、ヨガとか禅も入ってる。

knznymmmy ‏@knznymmmy 7月23日
ほうほう。ベルギーはカトリックが7割少々という カトリック国家でありながら ザクセン=コーブルグ=ゴータ家といえば プロテスタント

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 9月19日
バチカンの護教書だけど これが良く書けてて勉強に なった。 マニアックなキリスト教書専門店 にしか売ってないのが残念だけど、 一応Amazonとかでも取り扱って るみたい。 pic.twitter.com/14CUqnVXyg
(『ニューエイジについてのキリスト教的考察』教皇庁文化評議会)

この本に拠ると、ニューエイジ カルトの本拠地はカリフォルニアの エサレン、
スコットランドの フィンドホーンとスイスの モンテ ヴェリタスという所らしい。

で、ニューエイジの語源は 一般的にはアリス ベイリーだと 言われてるけど、バチカンは 元々メイソン用語だと述べている。
で、これを一気に広めたのが 部落派月子ちゃんと言うのが バチカンの認識らしい。

ともかくバチカンがやたらと
敵視してるのが部落派月子と
有栖部恵理、捨体無の神智学系列 の人脈の様だ。
また、イエズス会の中にも 神智学人脈の工作員が 潜入している
と書いてあるw

この本はニューエイジ教と カトリックの教義の比較も してるんだけど、キリスト教って 妙に中国の儒教に似ている様な 気が……
「イエス」とか「神」の部分を
「君」とか「王」に換えれば まんま儒教なんだが……

案外、孔子がイエスのモデル なのかも。
ローマの猿共に優しく儒教を 解説するために多少、
アーリア宗教要素で脚色した 感じか


最初は東洋思想の中では 仏教の浄土教系がキリスト教に
一番近いと思ってたんだけど、 これ多分、儒教の方が近い。

となると、 やはり徳川イエス君が MAGE政府に憎悪された
のも これが要因かw
フェイド大帝的には神道は キリスト教よりもニューエイジ教 (つまりグノーシス主義)の 方に近いと考えている。

あ、後、バチカンが言うには 日本の宗教の中ではジョブズの 好きな禅宗にニューエイジ工作員 が沢山潜入してるから気を付けろ ってさ。
カトリックの強いおフレンチで 政府認定カルトの中に禅仏教 が入ってたのは多分これが 理由だな。

RAPT君の執着するトヨタの 経営手法も基本的に曹洞宗の 永平寺の運営システムの パクリ
だしなw

初めてキリスト教書専門店に 行ったついでにさっきの本買った んだけど、(本当は「聖ベネディクト の戒律」と「キリスト教神秘主義 著作全集」を探してたんだけど 無かった) 韓国人の書いた本が異様に 多かったけど、どうも福音主義系 の本屋だったみたい……

面白かったのが泉パウロが 普通にキリスト教の本も 書いてた事と、ケリー篠沢先生の 作品が聖書マンガ以外にも 沢山あるという事が発見出来た のが収穫だったw

取り敢えずせっかくだから 福音主義派の異端折伏マニュアル みたいなやつを何冊か買って来た。

立ち読みした時は余りにも 下らなくて、ゲットして いなかったスウェーデンボリ の著書も買ってきたから、 一度真剣に読んでみますわ……

さっきのバチカンの本には 霊媒系の元ネタはスウェーデンボリ
で、部落派月子もこっから パクったと書いてあった。
日本の新興宗教で同じ様な 霊媒による宣託やってる所も
スウェーデンボリがルーツだと 分析してる。

つまりバチカンの調査だと 日本のカルトの霊媒技術は
恐山のイタコみたいな土着信仰 からの派生じゃないと判断してる 事が重要


あ、後、バチカンが言うには 最近流行りの適職診断の
エニアグラムとかの類型に 層別してやる心理テストは
カバラ系カルトが元
だから 気を付けろってさ。

なんかバチカンはスイスの モンテ ヴェリタで開かれた 統一宗教の国際会議の出席者 名簿が興味深いと書いている けど、誰とまでは書いてない。 どーも、調べると黄金の夜明け団 やOTOのロイスとかが集まってた っぽいな。 いわゆる魔術結社系ってやつね。

神道は人間が神になってもOKなのでグノーシス主義を完全に拒否しません。
物質=悪
霊=善
の二元論は神道にはありませんけどね。
神道カルト=和風キリスト教
=新キリスト教。
(既存のキリスト教にとっては異端)

ニューエイジ=新キリスト教。

神道カルトの特徴は
聖書が根拠の日ユ同祖論、
キリスト教の伝統であるユダヤ陰謀論、
善悪二元論、
明治以降の偽伝統である神道家の天皇崇拝。
なお、反天皇だったり、天皇すり替えに言及する場合があるので、ユダヤに対する態度と、一神教的な善悪二元論かどうか確かめるのが重要。
日本人の伝統的な神々に対するイメージはほとんど仏です。
日本語は仏教用語だらけですが神道用語はほとんどありません。
神道、神器、天皇、随神は道教用語。

やっぱり陰謀論者の煉獄のカレイドはカトリックなのかねえ。


狼たちは知っている ‏@wolvesknow
クリスチャンだと、カレイドさんもそうだから、時に方向が違ってたり、歯切れが悪くなる。
まあ、宗教は事実を遠ざけるから仕方ないけど。

カレイドさんは敬虔なクリスチャン。しかし、女性を含めて複数で書いてる。ハッピーさんは、時々、選手交代する。文章には必ず、本人の癖が出る。

カレイドさんは複数で書いてる。女性も混じってるね。で、彼らはクリスチャンだよ。記事によってはかなり信用できる部分もあるけど、時折見せる終末思想がウザい。耶蘇教は終末思想大好きだからね。

つか、カレイドさんが同時運営してる、アーバンプレッパー読めば、終末思想なのは一目瞭然


魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 10月27日
陰謀論コミュもそーだけど、色々な世界で有名人になる人ってみんな「クリスチャン・在日・ホモ」のどれかの属性を持ってるのよね。たとえばシールズの奥田愛基君は在日でクリスチャンだし、さゆふらは元ホストだからホモで在日かも?で在特会の西村もホモで在日って話だよね?ホモソーシャルすげー!w

前にさ、耶蘇教福音派の宣教師がホモは地獄に落ちる~とか脅してたのに、自分がホモだとバレて失脚した話があったんだよね。耶蘇教、特にプロテスタントがホモや魔術などを必死にファビョってバッシングするのを見ると、特定の利権があるんだろうね?利権を守るためにバッシングするみたいな。

そー考えるとさ、陰謀論コミュの面々も「クリスチャン・在日・ホモ」の3つの属性のうちひとつは持ってるもんね。泉パウロも在日顔でクリスチャンだし、カレイドも韓国絡みでクリスチャン。ハローバイバイの関暁夫もイスラエル寄りのクリスチャン(キリストの幕屋かな?)だし、宇野もそーなの。

カレイドって南朝鮮のメディアと組んでたんだけどさ、こいつも統一教会なんかな?プロテスタントは統一教会に多額の資金提供されてるし。カレイドが輪廻転生とかいってんけど、メイソン臭いキリスト教じゃね?
http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-3855.html …

Abby ‏@Abby51576401 9月23日
@lakudagoya @AmboTakashi カレイドがシールズを持ち上げているし、石田純一にも同様。いつも的確な批判を書くのに、変です。http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-3820.html …
日刊ゲンダイもシールズを持ちあげ、批判は全くなし。「敵」だらけになった。

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 5月17日
カレイドが、エドガー・ケイシーを悪魔崇拝者だと断定しててワロタ。おい、エドガー・ケイシーは敬虔なクリスチャンで聖書を隅から隅まで読んで日曜学校で教えてたくらいなんだぞ?そいつが悪魔崇拝者ですかそーですか。http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-165.html?sp …

カレイドスコープの「私はクリスチャンでありませんし、一切の宗教とは無縁です。再三書いていますが」と言ってるのに魔術は悪魔崇拝だからいけませんとか、煉獄の火で焼かれるとか(煉獄はプロテスタントにはないよ?)何でクリスチャン臭い発想なの?http://mjk.ac/taBsBn

カレイドスコープの引き寄せの法則が悪魔崇拝なら、恐らく引き寄せは仏教の阿頼耶識縁起の説がパクリだから、俺ら一般のヌッポン人はサタニストか?そんなバカな!http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-165.html?sp …

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya
ふふふ、RAPTのブログにこのマルティン・ルター家の家紋を引っさげて殴りこみしてみようかな?カレイドの時のよーに、想定内のファビョり反応をするかな?いやーカレイドの時は、キリシタンそのものだった反応なのでホリエモンになったかと思ったw pic.twitter.com/0YaZWdN1GK
薔薇十字ルター


ルター家の紋章は薔薇に十字ですよ。まー、ミツバチのマークのステーキハウスのフルールドリスの太陽王のルイ王朝も似たよーなもんなのでしょうけどね。

プロテスタントというのは、元はカトリックとは違うグノーシス系キリスト教の影響を受けてます。薔薇十字団というものがありますが、ルター家の紋章は薔薇と十字です。あと二元論はマニ教の影響があるでしょう。

ミツバチといえば、フランス王家の紋章のフルールドリスも百合ではなく、ミツバチをかたどったものだとフリーメイソンさんの本に書いてありました(笑)メロヴィング家もミツバチの小物が出てる

この前、佐藤優の「神学の思考」読んでたら、プロテスタント神学は、見える教会と見えざる教会という2つの教会があると信じると書いてあった。おや、薔薇十字団の見えざる大学かね?(ルター家の紋章は薔薇十字)この神学の定石を知ってるだけでも、RAPTの思考が一発で背後まで読み取れる
のさ。

あーカレイドスコープを釣った時にはホリエモンになっちゃったかと思ったよ。 耶蘇教1800年以上の歴史と伝統を感じる、教父時代から変わってない伝統的な半島人も足元に及ばないファビョり方つーか、ローマの古典に書いてある事をありありと感じるよーだ。思わず 「想定内です!キリッ!」とw


「怪力乱神を語らず」
という無記っぽい姿勢の儒教がキリスト教のモデルとは思えません


子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2014年9月16日
キリスト教「自分がされたいことを他人にせよ」
孔子「自分がされたくないことを他人にするな」
は全く違う。自分がしてほしいことが他人がしてほしいとは限らないから。信者がしてほしいこと=異教徒の絶滅なので、信仰の押しつけによる侵略を推進するのに都合が良いのがキリスト教の聖書の黄金律


菊池 ‏@kikuchi_8 2014年8月2日
14)己も空・他も空、諸法=万有は同じ空という道理の上にあるので、己の身に引き比べて生類を傷つけてはならない、という慈悲の心が導かれる。形而上学を用いない道徳律、これは「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」という孔子の道徳律と並ぶ東洋の黄金律であろう。

knznymmmy ‏@knznymmmy 9月20日
あー、エニアグラムってどこかで聞いたと 思ったら 昔読んだ「9つの性格」がエニアグラムだな あれ確かアラビア方面に起源がとか書いてたような気がする そーいやカバラもアラブ経由の疑惑が濃厚だったから まー、エニアグラムとカバラ 元ネタはかぶってるかも

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 11月6日
カルトよけスプレーとして無記は最強すぎる虫除けスプレーですねRT https://twitter.com/kikuchi_8/status/662672509964173312 …
菊池 ‏@kikuchi_8 11月6日
仏陀が無記の態度を示したのはツイッターに巣食うカルト工作員を見れば明らかと思う。つまり、根拠提示も証明作業も無い独善的カルト教義をまき散らし、憎しみを増長して無益な争いに終始する「修羅道」に堕ちたカルト工作員の姿。思想の自由が謳歌されていた古代印度も似たような状況だったのだろう

王王大栄 ‏@ououdaiei 11月6日
@lakudagoya @kikuchi_8 論語で孔子が「昔の史官{歴史記述担当の役人}は、よくわからないところは書かなかったものだ」とボヤキとも回想ともいえることを言っている。「わからんものはわからん。ってわきまえることが知恵」という趣旨の言葉も・・。

S̸ąΐǤσợƑꐕ ‏@saigoofy 7月16日
“仏教の開祖である仏陀(ガウタマ・シッダールタ、紀元前463年? - 紀元前383年)は、世界の始まり、時間の有限/無限などに関するいくつかの形而上学的な問いについて、無記(むき)または捨置記(しゃちき)と呼ばれる立場を取った。それは解答しない、という立場である。”

横浜の駄洒落皇太子 ‏@hamadajare
【無記】例えば「死語の世界は有るのか」等の幾つもの問いを弟子に投げ掛けられた時、仏陀は答えなかったという。経験していない、或いは確かめる事ができない物事について語る事はできない、という立場を取ったらしい。

【仏陀の客観視】弟子が例えば“あの世があるのか”等幾つかの質問をしたら、仏陀は答えなかったという(無記)。経験や実証できないことを議論しなかったらしい。仏陀は物事を客観視
するタイプだったようだ。

ベローシファカ ‏@saru_madagascar 2014年6月22日
原始仏教では無記と言って、形而上学的な問題については沈黙を守るとした。仏陀の毒矢の例えに示されるように、それは仏教の本質ではないのだ。語り得ないことについては沈黙しなくてはならない。http://bit.ly/1iYcUG2~nozawa/b/muki.htm …

日高 ‏@akazuki1287 2013年12月21日
仏教だと十無記とか原始仏典の仏説はかなり実証主義的で、その上でインドの輪廻思想を否定せずに上手く当時の人をカウンセリングしてるなーって感じるけど、仏陀が死んだら神格化しちゃってやっぱり宗教なんだなあと。

マサトク-18san-sui 19大蔵 ‏@masatoku 2013年9月4日
霊だの何だのは仏陀のいうところの「無記」(そんなん知らんし余計なこと考えてないで修行しろ)だと思ってるので眉唾だけど、本人の体験としてはあるんだろうなとは思う。大変なことがあったりすると、人間の脳はそういうものを見せるもんだ。

陀羅尼縁学 ‏@daranijizai 11月5日
仏教の宗派には、過剰にスピリチュアルや、霊感、霊能を禁忌として捉える所もあるが、それは一種の禅病を防止する為もある。
瞑想中にそういう不思議な感覚に囚われ行き過ぎた追求をすると、禅病になる。
禅で和尚にパチンと叩かれるのも、禅病予防
。禅は追求するとヨガに行き着く。)

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 2015年11月11日
前、紹介したバチカンの ニューエイジ解説本に奴等 の使う「アセンション」の 用語の詳しい解説が載ってる。 ニューエイジャーの言う 「アセンションによって 以前の旧い価値観が180度 変わります!」 という文句はカトリックが 滅びます!と同義というのが バチカンの公式理解

RAPTの野郎が「人は空中携挙 されうるか」という気持ちの 悪い記事を書いてるなw 有料だから中身は分からんけど。

この本な。 RAPTの有料記事読む前に これ読んどいた方がいいよw 教皇派の主張を理解するには 教皇庁の書いた本読むのが 間違い無いでしょうww pic.twitter.com/YdCbg2YhS7


安保 多稼士 ‏@AmboTakashi
紐付きは半分の真実と半分の嘘によって、洗脳に気づいた人を再び洗脳するのが仕事。
陰謀論者ラプトの元ネタはラプチャー=携挙。
隠れ含めキリスト教系と大本教系陰謀論者は仏教嫌いの法則!

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-82.html

もしキリスト教系(の時点で支配層側の)陰謀論者のRAPTさんに出会ったらまずは、元ネタはRAPTure(ラプチャー。携挙)ですよね? と聞こうと考えております。患難前携挙説を正しいと考えていますか? とも聞こうかな。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-83.html

菊池 ‏@kikuchi_8 2時間2時間前
@3nihonzin @sakurakouyouhen あなたの使っている概念はニューエイジそのものなのですが。アセンション、次元上昇という「携挙」からキリスト教風味を薄めた教義を喧伝している。あなたが信奉している神智学の二代目会長のアニー・ベサントはフェビアン社会主義者ですよ。

@3nihonzin @sakurakouyouhen どこが「神国日本」か?あなたはただの神智学信者では?使っている概念が全て西洋のオカルトですね。中身は西洋かぶれなのに、保守愛国派を偽装している訳で。伝統に憑依して破壊する反日偽装愛国主義者。そういうのが多すぎますね。

@sakurakouyouhen @3nihonzin アセンションがどういう妄想かは存じませんが、ティモシー・リアリーがLSDを摂取して体験した幻覚の描写がプロティノスの「神秘体験」とそっくりの描写でした。キリスト教で言う「携挙」のニューエイジ版だと思われます>アセンション

「次元上昇」「艮の金神が動く」とか言い、「マハチョハン」「セント・ジャーメイン」
がどうたら言う神智学かぶれのオカルト信者が安倍支持勢力の周辺で蠢 く。横文字左翼にオカルトの影があるのは先日言及したが、安倍支持派にもオカルトの影。西洋かぶれのオカルト・アセンション信者が何故愛国だ?

次元上昇=アセンションは、キリスト教の神の国に引き上げられるって思想からキリスト教色を抜いて、似非科学的な感じにしたものです。
アセンション自体が「キリストの昇天」という意味のキリスト教用語。

というか、スピ信者が愛愛うるさい時点で中核がキリスト教って気づけよ。
仏教思想なら愛は悪だぞ。

仏教含めインド思想は論理的思考「も」重視するので、スピ信者の妄想を全否定します。
スピ信者がほざく「覚醒」の九割は「悪酔い」です。

キリスト教の「愛」も、スピリチュアルの霊的体験も、
「物質ではない」=反証できないものなので、
支配者にとって、とても都合がいいです。
反証できないもので価値観を形成するのは全て洗脳です。
こちらが物証出せと言ったらスピ本=宗教書か物質を超えたものがと言って逃げます。
スピも悪質ですが、
唯一絶対神「民主主義(みせかけ)」と
「拝金教」「デモ教」「選挙教」「過労死教」「学歴教」に比べればマシです。
日本ではバラモン教のような霊的カーストで支配せずに、宗教色を抜いた宗教である学歴というカースト制度を支配層は採用しました


帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 4月8日
アセンションって、キリストの昇天とかこっぱずかしい用語と思ったら、ハルマゲ丼であぼーんで幽霊さんになることか?それならほーしゃのーだって無敵だもんな確かに。

風の子  ‏@makeanovel 24分24分前
愚民政策として知られる3s政策って、スポーツ、スクリーン、セックスって言われるけど、代わりにスキャンダルをいれる説もみたことあるけど、もしかして、受験のお勉強としてのスタディが本命なんじゃないかなとかたまに頭をかすめる。もしくはスクールとかね。
(苦行=スタディで洗脳し、苦行=スタディに耐え続けるために娯楽で快楽を感じる。
この娯楽も洗脳用ばかり。
二重の洗脳


しかし生まれたあとにする洗脳なんてまだかわいいもので、フェビアン協会、ハクスリーが1930年代に発表した「すばらしい新世界」の物語の中では、、庶民層は生まれてくる前の受精卵とかの段階で劣化させられちゃうんだよねー。怖いー。

え?生まれてくる前の受精卵の段階で?そ、それってもしかしてこのふくいち事故による放射能おせ
・・・((((;゚Д゚))))

Lia misaki∞ ‏@lia_misaki 2012年1月27日
そもそも一般的に宗教やスピリチュアルこそが一番の洗脳の手段として使われる。日本では、もちろん3Sと、学校の4S(娯楽ではないが、強烈)が一番の洗脳手段だが。合わせて5Sか(笑)これでほとんどの人々は完全にノックアウト>アセンションに関する嘘の8割を見抜け @lia_misaki

じじばば ‏@dedetyan 2014年10月17日
キリスト教の「主」は貧しい家庭で生まれ、弟子に裏切られ罪人として磔の刑で33歳で死す。一方仏教の「主は」王家の王子という出自。80歳のとき弟子達に囲まれて大往生。伝統的な宗教の「主」の最後が真逆だ。キリストの死はヒステリックでブッタの死は牧歌的。宗教の誕生に大きな違いを見る。

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月9日
大帝の慧眼に感動したのでRT。神智学というバラモン教が仏教を破壊。 https://twitter.com/FeydoTaitei/status/608307730064015360 …
フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 6月9日
@FeydoTaitei いいか?今から大事な事言うぞ? 仏教の教義を抜いた修行法 =ただのバラモン教

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 6月9日
ついに恐れていた事が! 前から原始仏教カルトに気をつけろと 言っただろ? 奴ら仏教を本気で乗っ取るぞ。 pic.twitter.com/Er3FuBZK8k
(『グーグルのマインドフルネス革命―グーグル社員5万人の「10人に1人」が実践する最先端のプラクティス(付録:マインドフルネス実践ガイドCD)』(サンガ編集部)
の画像)

サンガジャパンってのはスマナサーラ の本を出しまくってる出版社な。 元々は純粋な上座仏教の普及組織 だったはずなんだが…… このグーグルの宣伝本は要注意の 箇所が一箇所ある。

「マインドフルネスは宗教要素を 抜いた瞑想メソッドです」 って所な。 知らん人に説明しとくとマインドフルネス ってのは上座仏教のヴィパッサナー瞑想 という瞑想法の事。 釈迦が菩提樹の下で実践してたって 言われてるやつな。

この瞑想法自体は危険でも何でもない。 問題はグーグルが「宗教要素を抜いた」 事にある 「宗教要素」というのは要は 「仏教の教義」の事なんだが、 簡単に言うと「道徳/倫理」の事で 本来はこれが重要な箇所でどんな 修行も道徳とセットじゃなければ 意味がない


いいか?今から大事な事言うぞ? 仏教の教義を抜いた修行法 =ただのバラモン教

グーグルのやり方の汚い所は 禅仏教に嵌ってたスティーブ ジョブズ を出汁にしてジョブズ ワナビーの ビジネスマンやサラリーマンを 取り込もうとしてる所だ。 そもそも仏教の教えを厳密に 守ってたら企業活動なんて出来ない。 金に執着してはいけないから。

更に問題なのは、そもそも企業と 関係無いはずの上座仏教普及団体 にすぎなかったサンガジャパンが グーグルを担ぎ上げてる所だ。

実はテーラワーダの瞑想会とかには 良く通ってた経験がある。 グーグルがマインドフルネスとか 持ち上げる前だ。 別にカルトでも何でもなかったし、 お布施とかも自由意志だったから お金を出したくない人は出さなくても 何も言われないし、勧誘も してこない。

パーリ語や倶舎論の勉強会とか もあったので、普通に仏教好きの サークルみたいな感じ。 ただ、気になったのが来てる連中に S学会の脱会組が多かった
事だ。


中には本当にS学会に嫌気が刺して 脱会した人もいるのだろうけど、 フェイド大帝は思ったね。 「こりゃ、乗っ取りに来てるな」、と。

まぁ、グーグルがバックに付いてる事から 分かると思うが、イルミちゃんの 戦略の一環だ。 究極的な目的はバラモン教の普及だ。 マヌ法典の歪んだカースト制度を バリバリ盛り込んだやつをな!

ただ、いきなり素のバラモン教を 持ってきたら、マトモな人間は 怪しむだろ? だから同じインド系の仏教から 徐々にインド思想に染めてこようと してるわけだ。

当然バラモン教を否定した仏教思想を 「抜いてる」わけだから、本命の バラモン教を注入するなんてわけない。

聖書にも書いてあるだろ? 「後から来る者が一番多くを得る」
って。 キリスト教とイスラーム教の 後にやって来る宗教は何か?って 話だ。

奴らニューエイジ時代にチベット仏教 で一回失敗してるから、次に 持って来るのはまさか上座仏教では? と恐れていたが…… この有り様だ……‼︎

イエス風に言わせて貰えば、 「前もって言っておく。騙されるなよ」

もう二つ重要な事を付け加えておく 一つはグーグルの陰に隠れてよく 見えないが、マインドフルネスというのは ハーバードとMITがバックアップしてる つまり奴らは本気って事だ
笑うなよ?お前ら東大の御用学者 ごときにコロッと騙されてたのを 忘れたか?

セシウムまみれの安売りされた 福島産の桃を美味しそうに 頬張ってたそこの貴方だ! 東大レベルでこの有り様なのだから 天下のハーバードやMITが本腰 入れたら、お前らはコロッといく。 嘘じゃない。

二つ目は上座仏教の欠陥についてだ。 仏教ってのは出家僧はぶっちゃけ ニートだ。 在家信者が養い続けなければ成り立たない。 仏教では他人から貰った物以外は 飲み食いしてはいけないという決まりが あるからだ。

つまり、全員が出家したら仏教団体は 自滅する様に構造上出来てる。 (まぁ、これが本来の狙いなのかも しれないが。世は無常ってわけか?) グーグルにとって全従業員が出家したら 会社が潰れるだろ?w

ところが日本で上座仏教の団体と 言うと複数あるが、出家制度を 導入してるのは一つしかない。 (フェイド大帝が知る限り) 昔の天台宗の歴史とか見れば 分かるが、宗教団体の黎明期と 言うのはまず坊主を増やさない 事にはどうにもならない。

そりゃ布教もそうだが、教えを 説明する奴も必要だし、教えを 実際に実践してるモデルがいるからだ。 在家信者の憧れとなる人物が。 そうでなければ信者なんか 増えやしない。

だが、イルミが必要としてるのは 仏教の坊主やバラモンの仙人ではない。 最下層で奴隷で搾取の対象の シュードラが奴らは欲しいんだ!

だからマインドフルネスをやって グーグルのマネージャーに私は出家して プロの坊さんになるんで会社辞めますわ〜 という事にはならない。 そういう風にアレはハナから作られてる


魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 6月9日
@FeydoTaitei 大帝こんばんわ~。この宗教要素を抜いた技法のみの普及で宗教を破壊する気満々ですね。神智学が上座部仏教に取り憑いて破壊しようとしてるかも?

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう@lakudagoya2015年11月13日
ねこねこブログ見てる。大帝の過去ログが乗ってるのだけど、上座部仏教の勉強会の創価学会の元信者ねぇ。組織を乗っ取りに来る場合さ、自分は創価学会を「脱会」しましたとか、自分はフリーメイソンの「メンバーじゃない」と主張して自分だけは違うという感じで入り込むの、工作員の常套手段だよ?

あとね、組織の内情を漏らす場合でも現在進行形の事を「過去にはそうだったけど、今はそうではない」とか他のも複数パターンで内情をはぐらかす手法がどこぞの本に紹介されてたなぁ?彼らの組織への献身は本物だぞ?そうだな、奥田愛基君がしばき隊やアベチョンと蜜月なよーに結束力が硬いのさ?

おいらのフォロワーにもさ、相当な数の「集団ストーカー被害者」と「創価学会」の脱会者がいるようだ。おっと、組織を乗っ取りに来る場合は「組織から逃げてきました」とか「狙われてます」主張して敵対側に入り込むのはいつだってやつらの常套手段なんだぜ?ファンタジーファンをナメんなよ!あ?


菊池 ‏@kikuchi_8 8 分
ねこたさんがおっしゃるように「カルトや結社から抜けた」という設定で陰謀追及者を安心させた上で主導権を握って言説を誘導したり、カルトや結社を批判して見せて陰謀追及者を信用させて陰謀論コミュニティに潜り込み、相互の対立を煽ったり、内部攪乱させる、という工作が確かにあるように見える

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月9日
@FeydoTaitei 大帝こんばんわ~。この宗教要素を抜いた技法のみの普及で宗教を破壊する気満々ですね。神智学が上座部仏教に取り憑いて破壊しようとしてるかも?

菊池 ‏@kikuchi_8 9月
横文字デモにはヒッピー文化信奉者やロッカーくずれなどが多いようだが、対抗文化人脈だったら当然と言える。対抗文化とニューエイジは密接な関係にあるから周辺にオカルティストがいるのも不思議ではない。おそらく「サイケデリック革命の父」ことティモシー・リアリーの思想的影響が強いと思われる。

ティモシー・リアリーを調べると、ヒッピー・ニューエイジ・ロックンロール・ドラッグ文化がすべて相互に関係しているのがクリアに見えた。ジョン・レノン がティモシー・リアリーのために曲を作っている。サヨクの好きな「ラブ&ピース」はマルクス主義よりこの辺がネタ元である。西洋神秘主義
の流れ。

ティモシー・リアリーはスマイル・メッセージという妙な文章を残している。ニューエイジそのものの内容だが、「全ての生命体が故郷への帰還しなければなら ない」という事を言っている。一つの「始原」に収斂させようとする志向性は新プラトン主義以来の西洋神秘思想の系譜を引いている事がよく分かる。

ティモシー・リアリーの初のLSD投与で見た幻覚→「光だけでできた生命の中心で神と出会い、永遠の炎に包まれて完全な宇宙のドラマを眺める」プロティノスの神秘体験とそっくりだ。神秘体験≒幻覚。【自己啓発の歴史(2) サイケデリックの発見】http://www.tachibana-akira.com/2013/02/5560

(松窪 努 ‏@Federicopanini
@kikuchi_8 同じカウンターカルチャーになるんでしょうがカルロス・カスタネダの「ドン・ファン」シリーズでも同じことが書かれていますね。同じように、仏教の無量光の元の意味ではと推測するのですが…。

菊池 ‏@kikuchi_8 4 時間4 時間前
@Federicopanini なるほど、ご教示ありがとうございます。「神秘体験」というのは大体全世界共通していますね。「光が見えた」とか。具象的に見える幻覚は文化依存的だと思います。天使だとか悪魔とか、聖霊、菩薩、等々。。

松窪 努 ‏@Federicopanini 4 時間4 時間前
@kikuchi_8 具体的な幻覚は文化依存的というのはすごい的確で、ハッとしました。その意味では薬物に頼る人に止観が出来るものか半信半疑なのです。ドン・ファンは内的対話を止めろ。というのですが禅宗と全く同じですね。

菊池 ‏@kikuchi_8 4 時間4 時間前
@Federicopanini 恐縮ですm(_ _)m薬物によって幻覚を見たり、知覚を拡大させることは、本来の仏教の目指す所と真逆だと思います。感官と対象の接触から生じる感受に執着する所から「苦」が生じる、という観察ですので、知覚の拡大は逆に執着の念を強める結果になると思います。

松窪 努 ‏@Federicopanini 4 時間4 時間前
@kikuchi_8 その通りだと思います。私は雑念が多いのでとても止観の境地には入れないのですが、ましてやこれ(自分)に薬物を投入して果たして無量光が観れるのかと自分で思います。LSDで観たものと止観で観たものは別かもしれませんね。幻覚と想念を遮断した視覚です。

菊池 ‏@kikuchi_8 4 時間4 時間前
@Federicopanini リアリーらは「薬物で幻覚見た」只それだけの事ですからね。止観行で言う「観」=ヴィパッサナーの方を「マインドフルネス」と称し欧米の多国籍企業が幹部教育に取り入れているとか。彼ら何にでも憑依しますね。詳しく調べていないですが捻じ曲げている可能性大です。

松窪 努 ‏@Federicopanini 4 時間4 時間前
@kikuchi_8 ヴィパッサナー瞑想、マインドフルネス瞑想。調べてみました。面白いですね。(申し訳ありません、知らないというのもお恥ずかしい話しです)私は原始的な文字通り思考や想念を切り離した視覚(直接知覚)という意味で使いました。仏教でも変質しているようです。

菊池 ‏@kikuchi_8 4 時間4 時間前
@Federicopanini はい、当然ながら薬物投与で見た幻覚と通常の知覚は異なると思います。幻覚はサイケデリックという模様に表現されていますね。とんでもないです、私も詳しくは知らないのですが、知覚されたありのままを観察する行のようです。天台宗で止観行を重んじるようです。

松窪 努 ‏@Federicopanini 3 時間3 時間前
@kikuchi_8 ドン・ファンは捏造の人物説もあるのですが、観ることには力が必要でそれには「無駄な消耗をさけて力をできるだけ貯めること。」だそうで、瞑想術ではないようですね。力があれば観れるようになるもののようです。

菊池 ‏@kikuchi_8 3 時間3 時間前
@Federicopanini なるほど。知覚には認識対象だけではなく人間の脳や感官も関わっているので、人間という認識主体の側の力のよってある程度知覚を操作できる技術がある、というのは分かる気がします。

松窪 努 ‏@Federicopanini 3 時間3 時間前
@kikuchi_8 私たち現代人は日夜煩悶することが多く禅病人のようです。そこに瞑想法や薬物はミスリードのような気がします。「真実へは技術ではなく力で到達する。」のが実は近道なのかもしれませんね。カウンターの仕掛人は隠してるのかもしれません。

菊池 ‏@kikuchi_8 3 時間3 時間前
@Federicopanini なるほど。江戸時代の白隠禅師が若い時に禅病にかかって死にかけた事があるそうです。神経衰弱のような症状だったようでまさに現代人の病と同じ種類かも知れません。明治の「煩悶青年」というのも近代病患者だと思います。分別し過ぎると病気になりますからね。>力

松窪 努 ‏@Federicopanini 3 時間3 時間前
@kikuchi_8 たぶん近代化とともに脳の使い方をどこかで間違えたんだと思います。言語が大変影響していると思います。言語以前へ戻す。たぶん消耗を減らす方法のひとつだろうとおもいます。禅には禅病を治す瞑想法があって馬鹿馬鹿しい話です(笑)

菊池 ‏@kikuchi_8 3 時間3 時間前
@Federicopanini 白幽仙人という仙人から白隠禅師が禅病を治す技術を習った、みたいな伝説がありますね。仙人というからには道教の技法のように思います。言語は世界を分節化して、分節化されて認識に現れた「事物」に執着させる働きがありますからね。おっしゃる通りだと思います。

松窪 努 ‏@Federicopanini 3 時間3 時間前
@kikuchi_8 日本の禅宗の座禅もティモシー・リアリーという人の薬物による瞑想もなんだか似た構造のような気がします。止観はそもそも認識しない知覚を目指すのに禅宗もリアリーも認識の領域や解釈に明け暮れている

菊池 ‏@kikuchi_8 3 時間3 時間前
@Federicopanini なるほど。禅宗は「無念無想」の境地を目指すそうなので、基本的にそういう幻覚の類は「魔境」として排斥すると思います。臨済系と曹洞系でまた違うのかもしれません。「想=イメージ」を立てて瞑想する点では密教と西洋の瞑想法が類似点多いと聞きました。

松窪 努 ‏@Federicopanini 2 時間2 時間前
@kikuchi_8 密教は脳内認識構造を変化させて人を苦しみから救う部分があって対処療法ですね。そのためにイメージを沢山使います。西欧も似ているのでしょう。またそのイメージを利用する中で西欧ではオカルトが産まれ東洋にはオカルトは根付き難かった。というところでしょうか?

菊池 ‏@kikuchi_8 2 時間2 時間前
@Federicopanini なるほど。曼荼羅とかの図像イメージを積極的に使うのはその為なのですね。西洋のオカルト魔術は自然界や他人に意志を強制して思い通りにする事が目的なのに対し、東洋のそういった技法は基本的に心や人格を磨く事が目的の場合が多いようです。

松窪 努 ‏@Federicopanini 2 時間2 時間前
@kikuchi_8 たぶん原始仏教や初期の止観の目指す根本療法が認識されていたために方便にすぎないイメージ操作は一段低いと東洋では考えていたのでしょう。呪詛が現実に効果があることも知っていたのですが高い部分では夢中になることはなかった。のではないかと

菊池 ‏@kikuchi_8 2 時間2 時間前
@Federicopanini なるほど。仏教では基本的に「想=表象作用」と「受=感受作用」「識=(主に言語による)識別作用」を迷いの根本にしているから、イメージ=想を使った技法を副次的なものにとどめたのでしょうね。魔術的なものもしかりですね。

竹田義男 ‏@take35c 16 時間16 時間前
@kikuchi_8 テモシー・リアリー→オルダス・ハクスリー→フェビアン協会。優生思想http://blog.goo.ne.jp/happysupport/e/95d46b8283da71c32b5d72a775e08c63 … wiki↓
pic.twitter.com/JyNKo2Zwop

菊池 ‏@kikuchi_8 5 時間5 時間前
@take35c 情報を感謝です。オルダス・ハクスリーはティモシー・リアリーに大きな影響を与えたようですね。マルクス主義ではなくフェビアン主義系の社会主義ならば神秘主義に近いですね。リアリーは「進化した選ばれた人間だけが宇宙に進出できる」みたいな優生学的な思想を唱えていますね。)

オルダス・ハクスリーやティモシー・リアリーがフェビアン協会系ならその影響下にあるカウンター・カルチャーはフェビアン協会系の思想運動という事にな る。神智学協会二代目会長のアニー・ベサントもフェビアン主義者。オカルト含むカウンター・カルチャー系の左翼運動=フェビアン主義系の左翼運動。

西洋神秘主義の傾向性は一言で言うと「異常体験志向」であろう。平常からかけ離れた意識状態に固執する。ティモシー・リアリーはLSDを導入するに至っ た。これを視覚化したものが所謂「サイケデリック」。CIAがMKウルトラ計画でLSDを使用。薬物中毒者を量産するだけの洗脳科学に過ぎない

西洋思想史の基本的構図は「キリスト教会VS秘教勢力」だが、近代になり科学合理主義が台頭する中でキリスト教会の力が相対的に低下。「秘教」という前近 代的なオカルトも危機に直面するが、近代社会の中で逆に科学的装いを取り入れて生き残る。これが神智学→ニューエイジという近代オカルトの流れ。

対抗文化は最近調べただけ。が、世界が関係性の網で成り立っている以上、全く孤立した現象というのはあり得ず、必ず原因や条件、起源や由来、履歴がある。 それを注意深く手繰り寄せる事で現象が解明される。当たり前の話だが常にその事を意識していれば新規の事象に面食らう事も少なくなる筈と考える。

ニューエイジが胡散臭いのは「個の自由」を強調しながら、個別具体性を超えて「魂の故郷への帰還」の様に一つの根源的実体を立ててそこに収斂させようとす る所。「一者」との合一を目指す新プラトン主義と基本的に同じ構図。ニューエイジは「自由」の掛け声と共にワンワールドに誘導する思想である。


はい、ワンワールド誘導→ティモシー・リアリー「君たちの惑星の生命体はすべてひとつ
であり、そのすべてが故郷へ帰還しなくてはならない。完全な自由、責 任と種を超越した調和が、故郷への帰還を可能にするだろう。種族や文化、国籍によっている幼生的アイデンティティーは超越しなくてはならない。」

一つの根源に収斂させる新プラトン主義的世界観、神智学の霊性進化論、優生学的思想、千年王国的ユートピア論、宇宙人、等々ニューエイジの諸要素が詰め込まれたティモシー・リアリーの文章。【謎のSMI2LE(スマイル)メッセージ全文】http://www.asyura2.com/2002/bd20/msg/635.html

キリスト教という「抑圧」→ニューエイジによる「自由」の高唱→「一つ」に収斂するNWO。おなじみ「正・反・合」の弁証法的展開である。ニューエイジな どが「対抗文化」と言われるのは「キリスト教文化への対抗文化」を意味する。つまり最初から耶蘇と両建対立する事が予定された思想潮流という事。

西洋文化の根本がキリスト教なので。キリスト教から離れた「西洋」は基本的にないと思われる。教会と対立する秘教ですらキリスト教の範疇。ニューエイジは世俗化されたキリスト教神秘主義
、と言えるかもしれない。https://twitter.com/klSV7pulcS0nNux/status/642373119974371329 …

ほつま(Hotsuma) ‏@hotsuma 2012年12月30日
大田俊寛先生 @t_ota "オウム事件の反省を明確にしないまま、「ニューエイジ思想」や「スピリチュアリズム」といったものを肯定的に語り、それを社会に広めていくことが宗教学の役割なのだと言っている研究者さえ少なくありません。" B! http://synodos.livedoor.biz/archives/1929261.html …

中尾 綾 ‏@ayajet128 6月21日
T. リアリーの友人にオルダス・ハクスリー、ジョン・レノンがいる。彼はGive Peace A Chance の歌詞にでてくる。ワンワールドのための反戦ソングかな?イマジンも。本当のプロテストソングになってないんじゃないの? https://twitter.com/lakudagoya/status/612586866785693696 …
帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月23日
まーなんかな、ティモシー・リアリーの間接的な繋がりネタ、陰謀コミュでは勘違いされるけど、ぶっちゃけ、ネットで知り合った外人のサークル仲間にリアリーがいただけ。直接的な面識はない。その当時はまさかこいつが陰謀人脈とか想像できなかったぞ?(笑)

竹田義男 ‏@take35c 6月22日
@ayajet128 オルダス・ハクスリー→https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%80%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC … 「水瓶座の陰謀」の中心人物達をつかまえて、何を仰ってますやら。

竹田義男 ‏@take35c 6月22日
@ayajet128 究極の革命の項を… 20%の暗示にかかり易い人と、その反対の20%の暗示にかかり難い人と、程々に暗示にかかる大勢の人達、という事で社会のコントロールを考えていたり、幻覚剤の多幸感が民衆のコントロールに役立つのでは、という様な事を言っていたり、危ない人。

風の子  ‏@makeanovel 6月23日
今見えてきたNWOの人口や人民の管理を、この時代にすでに書いてますもんね。広報だったということですかね。試験管で生まれるのが普通の社会で、間違って母親の胎内から生まれてしまったのは恥ずかしいという認識の未来を描いてるとか。。  @take35c @onigiri3_

先ほどK・ディックとコナンドイルについて書きましたが、ハクスリーも神秘主義研究に傾倒して、精神科医にハクスリー自らが幻覚剤のモルモットとなることを申し出、1953年春、幻覚剤のメスカリンによる実験が開始されたとありますね。。  @take35c @onigiri3_

竹田義男 ‏@take35c 6月23日
@ayajet128 @makeanovel @onigiri3_ イエズス会やメロン家との関わりに注意→テモシー・リアリーhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%A2%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC …

風の子  ‏@makeanovel 6月23日
「ニューロマンサー」のウィリアム・ギブスンを、サイバーパンク作家に転向させたのが、 このティモシー・リアリー氏なんですね。麻薬の幻覚による可能性を訴え続け投獄もされ、晩年はコンピュータの可能性。で、ギブスンか。  @take35c @ayajet128 @onigiri3_

個人的には「素晴らしい新世界」のハクスリーがオーウェルのイートン校での恩師のみならず、このティモシー・リリーという人を通じてウィリアム・ギブスンにまで繋がってることが驚きです。なんかみんな身内~みたいな?  @take35c @ayajet128 @onigiri3_

中尾 綾 ‏@ayajet128 6月23日
@take35c @makeanovel @onigiri3_ アレン・ギンスバーグはポール・マッカートニーとコラボしてるし。もうなくなったけど。オノ・ヨーコもドラッグ肯定派だし。親戚が国連大使だったから。ラブ&ピースはビジネス。愛よりビジネスが大事とインタビューで言ってたし。

風の子  ‏@makeanovel 6月23日
ティモシー・リアリーが麻薬所持で最高裁で有罪判決がでたとき、ジョン・レノンが応援ソングとか作って、ここも繋がってるんですねえ。なんだかもうお腹いっぱい・・・。  @ayajet128 @take35c @onigiri3_

表舞台にいる人はみんな誰か同じ存在の管轄するナニカに所属する同じチームっていうのもよくわかった感じですね。みんなほのめかし要員。。  RT @onigiri3_ @ayajet128 @take35c どんだけはりめぐらされた壮大な仕掛けなんだっていう。。。

かあこ ‏@0nigiri_3_ 6月23日
@ayajet128 @take35c @makeanovel ヨーコの母方の曾祖父が旧安田財閥(現芙蓉グループ)なんですね。http://www.fuyou-fc.jp/about/index04.html …

風の子  ‏@makeanovel 6月23日
ちょっと前までオノ・ヨーコが財閥のお嬢様だっていうのも知らなかったですよ。わたし・・・。しかし世の中そんなのばっかで自分が世間知らずだったとも思うけど、隠してる(というか特に言わないことがそうなってる)のもなーと。 @onigiri3_ @ayajet128 @take35c

かあこ ‏@0nigiri_3_ 6月23日
@makeanovel @ayajet128 @take35c だから、ねこたさんがtwしてるような世の中では絶対的な秘密のようなネットワークで強くむすばれてるって話も納得できますよね。

風の子  ‏@makeanovel 6月23日
ほんとですね。結社の儀式とか、嘘くさいし大げさなって庶民は思ったりしてますけど、命がけの結束で守ってきたかった、莫大な利権とかがあったんですよ。庶民がそういうの笑ってる影であちら側の人はそれを秘密に死守してきた。 @onigiri3_ @ayajet128 @take35c

風の子  ‏@makeanovel 6月23日
誰かの出自を調べるのは下品ってことになったり、僻みだととられる風潮を作って、特権階級だけが利権を独占してきたのを意図して隠蔽してきたんですねえ。 @onigiri3_ @ayajet128 @take35c

かあこ ‏@0nigiri_3_ 6月23日
@makeanovel @ayajet128 @take35c そうそう。またそれを逆手にとって差別されてるから虐げられてる詐欺みたいな手法もありますもんね。

中尾 綾 ‏@ayajet128 6月23日
@makeanovel @take35c @onigiri3_ ハクスリーの短編小説に神童というのがあって。天才が現れても親がその素質に気づかなければ子供は不幸になる、という考えがあるみたい。だから天才は天才によって見いだされ、育てるべきという考えのようです。

風の子  ‏@makeanovel 6月23日
ハクスリー自身、名門の生まれで特権階級ですが、そういう特権意識や優生学を否定しないし、むしろそれが正しいっていう考え方、さらにそれを広報する役目を負っていた人っていう感じですねえ。  @ayajet128 @take35c @onigiri3_

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月21日
ああ「覚醒」ね、1970年代のアメリカ西海岸とかのニューエイジャーがLSDとか飲んでトリップしてたアレか?ティモシー・リアリーの本みたいなやつ?覚醒したら陰謀論なんていらないなら陰謀論やらければいいんでね?覚醒したやつの書いた本なんて、俺シャブ中の日記にしか見えんのだが?www

寺尾淳 ‏@junterao 6月19日
反省。ちゃんと系統立てて並べないといけませんね。オルダス・ハックスレー「知覚の扉」→ドアーズ→ティモシー・リアリーの「意識革命」→LSD→サイケデリック・アート→コミューン(ヒッピー・ムーブメント)。ウィリアム・バロウズやアンリ・ミショーなどは別立てで「独自の闘い」。

中尾 綾 ‏@ayajet128 1月7日
@kikuchi_8 ティモシー・リアリーは亡命を求めてスイスに渡ったとき、サンド社の研究員で1943年にLSDを発見したアルベルト・ホフマンと出会う。コールマンの本ではリアリーとオルダス・ハクスリーが友人とか?アドルノは父がユダヤ系だがプロテスタントの洗礼。息子にはカトリック。

菊池 ‏@kikuchi_8 1月7日
@ayajet128 アドルノは父親がプロテスタントに改宗した猶太人で、母親がカトリックだそうです。

裕福な家柄のようです。学生時代から音楽評論を手掛けたりなど、英才教育を受けるだけの家柄的な基盤がありそうですね。啓蒙主義にひそむ暴力性を批判しながら、自らは洗脳科学の研究に取り組むなど、言動に矛盾があって、ものすごく「国際秘密力的」な人物像を感じます


菊池 ‏@kikuchi_8 1月7日
@ayajet128 サンド社とティモシー・リアリーの繋がりですね。リアリーとオルダス・ハクスリーが協力関係であったことがダニエル・エスチューリンの本にも載っていました。ハクスリーは民衆が思考能力を奪われて定期的に投与される薬物で奴隷状態にされる「新世界秩序」を描いていますね

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月13日
俺、魔道師マニアだからさ、スピ雑誌の「Star People」の刊行本リスト見てその中に西洋秘教伝統の翻訳本が紛れ込んでないか探してりゅ。うーん、何でこんなにも中身のないスピ本が溢れてるんでしょーね?超森林資源の無駄遣いだよね?地球に優しいとか言ってるスピ、全然優しくないだろ!

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月13日
この「ピュア禅」とかさ、見てくれよ?神智学(スピ)が禅に取り憑いた好例のようなもんだろ?http://www.amazon.co.jp/%E3%83%94%E3%83%A5%E3%82%A2%E7%A6%85%E2%80%95%E6%82%9F%E3%82%8A%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%82%88%E3%81%8F%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%A6%85%E5%83%A7%E5%88%97%E4%BC%9D-%E8%A6%9A%E9%86%92%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E7%8C%AA%E5%B4%8E-%E7%9B%B4%E9%81%93/dp/4864510830?ie=UTF8&redirect=true …禅って神秘体験を否定してるのに、スピっちゃったらいけないだろ?wwwスピ系ってまるで創価学会みたいにあらゆる宗教に入りこんで操ってるよな

およ?「Star People」の刊行本リスト読んでたら、この著者の人http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E2%80%95%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AE%E8%A8%98%E6%86%B6%E3%81%AE%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8%E3%81%AB%E8%A1%8C%E3%81%8F%E6%96%B9%E6%B3%95%E2%80%95-%E3%81%AF%E3%82%8B%E3%81%B2%E3%81%AA%E3%81%9F/dp/4864510121?ie=UTF8&redirect=true …龍馬伝でタロット指導やったとか書いてあったお。ふーんマスゴミ業界の悪の魔道師の痕跡発見だな!いやーアチラ側の動向がわかって面白いですね~(笑)

この「Star People」という雑誌さ、古神道やらの神道カルトも食い込んでるよ?大本教が如何にスピリチュアルの輸入商社だったか、その背後がさくっとわかるよ?(笑)http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AB%E2%80%95%E6%99%82%E7%A9%BA%E3%81%AE%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%81%BF%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%97%E3%80%81%E5%AE%87%E5%AE%99%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%82%92%E3%81%B2%E3%82%89%E3%81%8F%E6%82%9F%E3%82%8A%E7%B3%BB%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3-Vol-46-StarPeople-2013-Autumn/dp/4864510903?ie=UTF8&redirect=true …


フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 6月13日
@lakudagoya あの雑誌はどちらかというと アメリカの最新スピ団体の カタログ本みたいなもんで、 次に日本に何が輸入されるか予想 するために使ってますw スピ業界の競馬予想雑誌みたいな 位置づけですw

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 6月13日
@lakudagoya ちなみに「今現在、日本で何が 流行ってるか?」を調べるためには Anemoneという雑誌を使いますw

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 6月13日
@FeydoTaitei どうも大帝。スピ業界の競馬予想雑誌ですか(笑)たしかにスピ系のカタログ本って感じですよね。自分的にはスピよりもカバラーとか西洋秘教伝統本がもっと増えて欲しいです!

 ぴりお堂 ‏@1108v1011v1110 2012年10月29日
パンとサーカス(羅: panem et circenses)は、詩人ユウェナリスが古代ローマ社会の世相を揶揄して詩篇中で使用した表現。権力者から無償で与えられる「パン=食糧」と「サーカス=娯楽」によってローマ市民が政治的盲目に置かれていることを指摘した。ガス抜きや愚民政策の例え

仏女・仏教をたたえる天才・偉人bot ‏@genius_200 10月30日
ゴータマ・ブッダは、神秘主義者ではまったくなく、透徹した合理主義者であった。 (宮元啓一) 仏教は神秘的ではないんだ。

仏女・仏教をたたえる天才・偉人bot ‏@genius_200 3 時間3 時間前
自分は昔からこれまで、このような素晴らしい教えを聞いたことがなかった。 (仏教を日本に受け入れた 欽明天皇) (われ昔よりこのかた未だかつてかくの如き微妙(くわ)しき法を聞くことをえず) それから1500年間日本は仏教国!

STB ‏@RC_StB 6月24日
日本会議が如何に低能か 薩摩長州の芋侍が出てきて、廃仏毀釈をやらかし、そいつらの生き残りが「日本は保守の国」と嘘を付き続けている して、これを見よ
「天皇、仏法を信じ、神道を尊ぶ」(用命紀)
「仏法を尊び、神道を軽んず」(孝徳紀)
大日本帝国は日本史上稀な伝統破壊者
だぞ(笑)

とう tou 透 ‏@tou_itter 2013年10月17日
神道メモ: 日本書紀より、「天皇、仏法を信じ、神道を尊ぶ」

これは用命天皇(在位585~587)の条で、仏教が伝来して後、仏教(仏法)と区別して古来の信仰を神道と呼ぶようになったと考えられる。

菊池 ‏@kikuchi_8 10月21日
仏教は「無常」を説くが「世界全体は常住か無常か」という命題には「無記」の態度を取った。では仏教は何について無常を説いたのか?五感と思考で捉える経験世界(眼耳鼻舌身意・色声香味触法=十二処)について無常と説いたのである。断定は飽く迄経験的に確かめうる範囲に限定する徹底した経験主義

ohira taishi ‏@kalitandava 11月5日
@kikuchi_8 @siegrinde それはゴータマはそこまでしかまだ意識がなかったからだ。

菊池 ‏@kikuchi_8 11月5日
@kalitandava それ自体形而上学に踏み込んでおり、特に根拠がない話です。「意識が拡張すれば高次の世界が見える」と神秘主義者は言いますが、その「高次の世界」が幻覚でないという保証はないわけです。

@kalitandava また「高次の世界」が見えると自称する人が通常人より、道徳的で立派かというとそうとは限りません。むしろ傲慢で他人を見下し、排他独善的態度を取る事も多いと思います(ひどいのになると救世主を気取ったりもする)。

菊池 ‏@kikuchi_8
仏陀が無記の態度を示したのはツイッターに巣食うカルト工作員を見れば明らかと思う。つまり、根拠提示も証明作業も無い独善的カルト教義をまき散らし、憎 しみを増長して無益な争いに終始する「修羅道」に堕ちたカルト工作員の姿。思想の自由が謳歌されていた古代印度も似たような状況だったのだろう

@aoyamaakiko3 其々が個別であることと、「空」である点で同じである事が同時に成り立ちます。つまり、現象的には個別ですが、原理的には同じ。だから敢えて「一つにする」必要は全く無い、諸法皆空なのだから、となります。個別性と同一性が同時に成り立ちます。華厳で言う「事事無礙」

@aoyamaakiko3 一方、NWO思想は「それぞれが実体として独存している」という前提があるからこそ、「一つにしよう」という衝動が生まれてくるんだと思います。でも華厳哲学の考えによれば「個別はそのままで空=理事無礙」となるので「一つにしよう」という衝動は生まれません

菊池 ‏@kikuchi_8
神智学協会二代目会長アニー・ベサントがフェビアン主義者だったようにフェビアン主義と神智学やオカルトは近い関係にある。フェビアン主義とはソ連型共産主義とは系統が違う英国フェビアン協会の社会主義思想の事。それにしてもここまでものの見事だとは。オキュパイウォールストリートも彼らが背後。

トロツキー主義的共産革命に挫折した新左翼の中から超古代史やオカルトに傾倒する流れが出て、一部は大本教に合流した。この辺のオカルト左翼人脈はごく少 数の勢力だろうが、国際秘密力がアニー・ベサントのようなフェビアン主義的オカルト勢力を育成しようとする場合その界隈に着目する可能性はある。

FREEDOMMUNEの概念=意識の拡張、らしい。音楽やレーザー(ピラミッド)を駆使した「イニシエーション」で、変性意識状態に誘導するという事だ ろうか。非日常的意識状態を到達目標とする点でプロティノス以来の神秘主義の「伝統」を引き継いでいる。思想的パターンは早々新造はできない。

神秘主義の特徴
①なんらかの非日常的な意識状態をもって到達目標とする
②そのためには自我なり魂と、何らかの究極に実在(「一者」「宇宙意識」)などとの 「合一」を強調する
③その意識状態に到達する為の何らかの儀式・イニシエーションが設定される(これは狭義の儀式に限らず音楽ライブ
等も含む)

ドミューンという団体主宰者がインタビューで述べるコンセプトを読んだが、神秘主義のパターンに全て当てはまっていると判断する。①意識の拡張を目指す② 集合意識や宇宙意識を設定③意識を拡張させ「自由意識」に到達する為のイニシエーションの設定。ポップなスタイルだが西洋神秘主義の伝統に忠実。

西洋の神秘主義の流れがサブカルチャーという装いでかなり浸透していると思われる。その証拠に本来は既存文化への「対抗文化」のはずが、「普通の人」の文 化扱いになっている。ここに日本独特の問題がある。つまり元々キリスト教社会ではない日本には西洋神秘主義が侵入しやすい。大本教や鞍馬寺が例。

日本の思想国防上の課題は現地の伝統に組み付いて換骨奪胎して侵入を図ってくる西洋神秘主義の基本的思想フレームを明確に把握し、日本の伝統思想との違い を明確に認識し、伝統思想やポップな文化の装いで入り込んでくる思想ウィルスを見抜いて摘出する事であろう。これは明治から一貫した課題である。

例として仏教と神秘主義の相違点を挙げる。仏教に置いては意識外に設定される究極実在と合一
する、という思想パターンではなく、あくまで現実の心を調整 し、貪欲や瞋恚などの強い負の情念を自制し取り除く、という事に重点が置かれる。縁起=無実体=空が基本であり、従って究極実在は設定されない。

伝統思想と神秘主義を見分ける際の一つの指標になるのが、この「実体」「究極の実在」を想定するか否か
という点。仏教に限らず日本の伝統的霊魂観では魂が 増減する=気の固まり、みたいな非実体的イメージで捉えられている。支那の現象主義=気一元論と相性がよい。禅=神秘主義とした鈴木大拙は誤り

日本の伝統思想とキリスト教の違いは一見明らかだが、神秘主義との違いは結構詰めて検証しないと見えにくい。だからキリスト教徒は人口の1%に満たないの に、神秘主義はかなり広範囲に影響している。もっともキリスト教・一神教と神秘主義は究極実在を設定する同根の思想。偽装を施して一神教も侵入。

「神秘主義はかなり広範囲に影響している」と書いたが具体例を挙げる。浄土真宗僧侶
藤無染が神智学の影響を受け折口信夫に影響、鈴木大拙が禅を神秘主義扱 いしスウェーデンボルグを紹介、同じくボルグに影響を受けた出口王仁三郎の教義がスピ界隈に広く浸透、歴史ある鞍馬寺が神智学に宗旨替え、等。

ポップカルチャーを装い浸透してくる神秘主義という視点は今まで希薄だったが、事情は前述のものと全く同じだと言える。表層に囚われず、思想的な基本的骨 組を抽出して分析すれば基本的パターンの組み合わせで成り立っているのが分かる。仏教が人間を「五蘊」に分解して分析した手法は結構有効である。

ドミューンは、視聴者参加型の音楽ライブや各種トークセッションという日常的「イニシエーション」(「イニシエーション」というのは主催者インタビューよ り)を通じ、「対抗文化」の信奉者を量産するシステム、と言った所だろうか。これはネット時代に合わせたかなり巧妙なシステムである。侮れない。

このような「イニシエーション」洗脳システムを作るとは結社側も工夫していると見える。今までこのようなシステムが存在すること自体を知らなかったのは実 に不覚だった。が、存在に気付けば三日程で仕組みが大体分かった(笑)装いは新しいが伝統的なメーソンシステムの大衆的アレンジ、と言えそうだ。

菊池 ‏@kikuchi_8
「意識が拡張すれば高次の世界が見える」と神秘主義者は言いますが、その「高次の世界」が幻覚でないという保証はないわけです。
また「高次の世界」が見えると自称する人が通常人より、道徳的で立派かというとそうとは限りません。むしろ傲慢で他人を見下し、排他独善的態度を取る事も多いと思います(ひどいのになると救世主を気取ったりもする)



小森健太朗 ‏@komorikentarou 2月27日
長谷川説、古代ギリシア語の「ロゴス」と、サンスクリット語の「ダルマ」が、かなり似通った意味になるというのは、私も自著でふれたことがある。しかし『ヨハネ福音書』冒頭の「ロゴス、神」が、「ダルマ」に等値されるというのは、間をよほど埋めないかぎりトンデモ説だよな。
(典型的なインド思想破壊工作。「ロゴス=言語や理性」が「ダルマ=言葉や理性で『ないものも含む』法」なわけないでしょ。ダルマが最上位、ロゴス=神が最上位、よって神=ゴッドが最上位って持っていきたいんでしょ。人格がある時点で根源でも最上位でもないよ


臨済録:その3 〔示衆〕10-6 岩波臨済録 p.96~97
http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/rinzairoku3.html
” 道流、出家児は且(しばら)く学道を要す。祇だ山僧の如きは、往日曽(か)って毘尼(びに)の中に向かいて心を留(と)め、亦た曽って経論を尋討(じんとう)す。

後、方に是れ済世の薬、表顕の説なることを知って、遂に乃ち一時に抛却して、即ち道を訪い禅に参ず。後、大善知識に遇いて、方乃(はじめ)て道眼分明にして、始めて天下の老和尚を識得して其の邪正を知る

是れ娘生下(じょうしょうげ)にして便ち会するにあらず、還って是れ体究練磨して、一朝に自ら省(しょう)す

道流、汝如法(にょほう)に見解せんと欲得(ほっ)すれば、但だ人惑を受くること莫れ。裏に向かい外に向って、逢著(ほうじゃく)すれば便ち殺せ。仏に逢(お)うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん)に逢うては親眷(しんけん)を殺して、始めて解脱を得、物と拘わらず、透脱自在なり

注:

毘尼(びに):梵語ヴィナヤ(毘奈耶)の略で、戒律のこと。

大善知識:臨済の師黄檗希運を指す。
   
現代語訳
お前達、出家はともかく修行が肝要だ。わしの場合、最初の内は戒律の研究をしたり、経典を色々読み漁ったものだよ。しかし、そのようなことは世間の病を治す薬や広告の文句のようなものだと分かった。そこで、全てを投げ打って、禅の道に参じたのだ。
後で、大善知識(黄檗希運禅師)に遇って、始めて悟りの眼がはっきり開き、天下の老和尚どもの悟りが本物かどうかを判別できるようになった。この能力は生まれつき会得したものではない。体究練磨を重ねた結果、ある時はっと悟って目覚めたのだ。

お前達、真正の見地を得ようと思ったら、他人に惑わされては駄目だ。

内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢えば羅漢を殺し、父母に逢えば父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺せ。

そうして始めて解脱することができ、何者にも束縛されず、突き抜けたように自由に生きることできる
のだ。

コメント
この示衆の冒頭で臨済は

「禅では修行が肝要だ」と「修行の重要性」を説いている。

その後、自身の求道の旅を語っているのが注目される。

彼は最初戒律や経典などを色々研究した。しかし、そのようなことは世間の病を治す薬や広告の文句のようなものだと自分の誤りに気付いた。そこで、彼は全てを投げ打って、禅の道に入ったのである。
そこで大善知識である黄檗希運禅師に遇って、始めて悟りの眼がはっきり開き、天下の老和尚どもの悟りが本物かどうかを判別できるようになる。この能力は生まれつき会得したものではない。刻苦修行した結果、ある時はっと悟って目覚めたのだと半生を回顧している。

示衆の後半部で臨済が言う

「仏に逢(お)うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん)に逢うては親眷(しんけん)を殺して、始めて解脱を得」

と言う言葉が特に有名である。

臨済が「お前達、真正の見地を得ようと思ったら、他人に惑わされては駄目だ」と言うように他人に惑わされないためには、祖仏、父母、親眷などあらゆる権威を否定し(殺し)無依独立の道を行かねばならない

そうして始めて解脱することができ、何者にも束縛されず、突き抜けたように自由に生きることできる。

このように空、無相の自己に帰依することが<真正の見地>だと言っている。

これは仏教の教祖ゴータマ・ブッダが説いた<自帰依>の精神に近いと言えるかも知れない(原始仏教を参照)。

キリスト教やイスラム教などの一神教は神への絶対帰依を説く。一般的にほとんどの宗教では教祖や神を絶対的存在として帰依崇拝する。

教祖や神を批判したり、自分と同じレベルで論ずることはゆるされない。

たとえばイスラム教において開祖ムハンマドを批判したりすると死刑宣言が出ることからも分かる。ところが禅では臨済以来そのような束縛を脱している。

ゴータマブッダ以来の伝統を引き継ぐ反骨と人間主体の精神を持つ自由な宗教であることが分かる(原始
仏教を参照)。

これと似た思想は雲門宗の開祖雲門文偃にもあったようだ。「碧巌録」16則の評唱には次ぎのようなことが述べられている。

雪竇云く「釈迦老子、初め生まれ来たりて、一手は天を指し、一手は地を指して、四方を見回して云く『天上天下唯我独尊』と。雲門云く、「我当時もし会わば、一棒に打殺(うちのめ)し、狗子(いぬ)に与えて喫却(くらわ)しめ、貴(ひとえ)に天下の大平を要(もと)めん」と。

雲門は仏教の開祖釈迦に会ったら「一棒のもとに打殺(うちのめ)し、狗子(いぬ)に与えて喫却(くらわ)しめ、貴(ひとえ)に天下の大平を要(もと)めん」と宗教者とは思えない過激な言葉を吐いているのである。

仏教では祖仏は神に相当する神格的存在である。それを否定することは他の宗教ではありえない。

その意味で、このような権威否定の自由な批判精神は宗教においては珍しい
。眼を見張るほど新鮮である。

科学者は真理発見の過程において権威を否定しそれを乗越えることはしばしばある。そのような創造的精神に通じると言えるだろう。

これは仏教の教祖ゴータマ・ブッダが説いた<自帰依>の精神の禅的表現と言えかも知れない。

この有名な言葉は示衆5-1に見える

仏に逢(お)うては仏に説き、祖に逢うては祖に説き、羅漢に逢うては羅漢に説き、餓鬼に逢うては餓鬼に説く」

という言葉の否定形
になっている。

示衆5-1に見えるこの言葉は臨済の何物にも縛られない自由な<悟りの境地>を表わしている。

そのような<悟りの境地>をも否定し、更にのり超えることを言っているとも取れる。

このように、禅には一般宗教の常識を突き抜けたところが見られる。 ”

Aurora Del Monte ‏@MonteAurora 10月6日
逢佛殺佛。逢祖殺祖。逢羅漢殺羅漢。逢父母殺父母。逢親眷殺親眷。始得解脱。 仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷を殺せ。始めて解脱を得ん。 (『臨済録』示衆)

吉田直樹 naoki yoshida ‏@tensinkai 10月26日
「仏に逢うては仏を殺せ」(臨済) 禅宗の教えです。 仏は利用してもいいが、仏にすがらず、自分の力を使いなさい。 「仏だと言って出てきたら、ソイツは偽者だから消しなさい。頼るべきものを自分以外に持つな」という意味です。 セルフ整体というのも、同じ意味です。丈夫になる最短経路ですね。

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 5月9日
創造神プタハは言葉と思惟により世界を創造した。ヌッポンの売国奴精神を注入されたなんちゃって哲人政治教育を受けたエリートはによって創造された腐った世界に住まわせられる俺ら。そうだ、バラモン教の聖仙(リシ)が言うように、この世界は神の観念でできてるマーヤーなセカイなんだな。

(マンダ教のプタヒルの元ネタかも


他の教義の無我 誤った見解である無我の考え方
http://space.geocities.jp/tammashart/kami/muga-3.html

本居宣長のキリスト教と親和性が高い思想を改悪した
平田篤胤の神道=和風キリスト教。
神道=和風に偽装する隠れキリシタンが名乗る宗教


ふぎさやか ‏@maomaoshitai
平田篤胤はアダムとイヴの神話は、日本のイザナミとイザナギの神話が西洋に伝わったものだと考えていました。どんだけ日本中心なんですかあの人。

平田篤胤は色々な地域によく見ると似たタイプの神話や伝説があることには気がついていたのですけど「どれも日本の神話が海外に間違って伝わったものなのだろう」と解釈しています。日本中心主義が前提なんですこの人。

本居宣長も平田篤胤も宗教の話になるといきなり本性が出ます。「日本中心に物事を考えすぎではないか、中国やインドにも神話はある」というような反論は当時からもうあるのですけどね。それに対して「各国の神話は雑多で間違いがあるが、日本の神話は正しい」の一点張り
になります。

南北朝時代に北畠親房という人がいたのですけどね。彼が書いた『神皇正統記』という著作は、前書きで「中国やインドの伝説では最初の国王は人望のある人間が民から選ばれているけど、それに対して日本の皇室は神により選ばれて今でも続いている、偉大だね」と自画自賛しています。

『神皇正統記』はあくまで各国の神話を比較し、日本の特徴を明らかにした程度なのですけどね。後代の本居宣長や平田篤胤になってくると、更に一歩進み「中国やインドの神話は間違いで、真実は日本の神話なんだよ」という領域に到達します #正に国学
平田篤胤は本当に酷く、中国やインドの神話やキリスト教などは「日本神話の訛り(日本神話の一部が誤って伝わったもの)」と解釈します。世界各国に似た内容の神話がある秘密は、全て日本から派生した同根の神話だからというわけです。ここが彼の学者としての限界であったとしか言いようがありません。

平田篤胤は「世界の神話が日本起源である以上は、もちろん文字なども日本は中国から学んだわけではなく、元から日本独自の文字があったはずだ」と考えるのですけどね。その中で「神代文字」という怪しげなものに行き着きます(当時は国学者の間で既にはやっており、篤胤が考えたわけではありません)


国学者の一部は当初から「日本中心に物事を考え過ぎでは」という批判があったのですけどね。本居宣長などは「日本人なんだから、日本中心に物事を考えるのは当然。そもそも日本はこれほど素晴らしい国で・・・」と2chとかでいそうな反論をしています。

そもそも平田篤胤は最初からちょっとおかしい人でしてね。本居宣長の息子に「私は夢で本居宣長に会い、弟子にしてもらいました」という怪文書を送っています。彼は本居宣長から実際に学んだことは一度もありません、ただ彼の生前の著作を取り寄せて読み込んでいただけです。

じゃあ私も夢の中で平田篤胤の弟子にしてもらったので、平田篤胤の直弟子を名乗りますよ!

宗教家や武術家の世界では時たま「霊夢」の話があります。夢で××の弟子にしてもらった、秘術を学んだと言い出して正統性を主張するやり口です。日本の宗教家でも夢で聖徳太子や熊野権現に会ったとかいう伝説を持つ人がいますよね。これもその教祖の正統性を演出しようとしたものでしょう。

平田篤胤の弟子という肩書で右翼のフィクサーになりたいです。

本居春庭(本居宣長の息子)も、生前に父と全く交友がなかった謎の男から「私は夢の中であなたの父親の弟子にしてもらいました」などという怪文書が送られて来たら怖かっただろうなとは思います。平田篤胤は現代で言えば妄想をこじらせた熱狂的なファンみたいなものです。

孔子も「最近は夢の中で古代の聖人と語り合うことが減った」とか言っていますけどね。あれは夢で古代の聖人と交信していたという神秘現象ではなく、強く焦がれている人が夢に出てくるという普通の話
だと思っています。孔子もあまり深くそれについて掘り下げていませんし。

fukuebisu ‏@fukuebisu_tao 1月16日
『道教と日本思想』福永光司著‥Ⅲ 天皇と真人 p122最後に先ほど「天皇と真人」の日本古代史における問題を裏付ける第1点の中で保留しました、中国古代神道について少し説明を補いたいと思います。神道というと何か日本の専売特許のように考えられている方が多いと思いますが、それは認識不足
→ 最後に、先ほど「天皇と真人」の日本古代史における問題を裏付ける第1点の中で保留しました、中国古代神道について少し説明を補いたいと思います。神道というと、何か日本の専売特許のように考えられている方が多いと思いますが、それは認識不足です。→
→ 神道を日本の専売特許のように強調したのは、江戸末期の平田篤胤です。
→篤胤という人は、中国古代の神道について実によく研究している。その目的は先に申しました記紀の神代の巻における日本の神道をもっと深く学問的に研究したいということでスタートしたものだと思います。→
→ところが、8世紀の段階で、文字化された記紀の内容を文字を媒介にして学問的に研究しようということになれば、どうしても中国のもとのものを学ばなければ研究にならないわけです。→
→ その点、さすが篤胤は、実に勢力的な勉強をして、長崎に船が着くと中国の神道に関する書物(主として緯書類)を高い金で買って、その喜びを自著の中に書き記している。例えば各種の緯書を輯(あつ)めて校定した明の学者孫瑴の『古微書』を手に入れ→
→(*篤胤が明の学者孫瑴の『古微書』を手に入れ)たときの喜びを記しているのがそれですし、また緯書の『春秋命暦序』などに詳しい注釈も書いている。彼の主著の一つである『古史徴』などを見ましてもその努力がよくうかがわれます。→
→ しかし、篤胤の神道についての結論は逆立ちしている。日本の神道が中国に行ったというのが彼の結論なんです。→
→ もともと日本の古代で、神道という言葉が初めて使われているのは、『日本書紀』の用明紀と孝徳紀です。用明紀には「天皇、仏法を信じて神道をも尊ぶ、」とあり、孝徳紀には「天皇、仏法を信じて神道を軽んず」とあります。→
→ 一方は「神道を重んず」で、一方は「軽んず」と逆になっていますが、いずれにしても日本で神道という言葉が使われ始めるのは、『日本書紀』あたりからだろうと思います。西暦8世紀の前半頃ですね。→
→ ところが中国の古代では神道という言葉は、西暦4世紀ないし3世紀頃から使われているわけです。それは『易経』の観の卦の彖伝(かのたんでん)に「天の神道に見て四時忒(たが)わず、聖人は神道を以って教えを設けて天下服す」
という文章として出ております。→
→ 『易経』の中ですから基本的には儒教の考え方ですが、宗教的な色彩が全くないわけではありません。 と言いますのは、儒教もまた、すでに申しましたように、天皇大帝と同格とされる昊天上帝の祭りを礼典のなかに載せているのですから。→
→ また今引いた『易経』の文章の「神道」にしても、すぐその上に「盥(てあら)いて薦(すす)めず」とあり、神を祭る者の敬虔な気持ちと関連づけられて説かれていますから、宗教的な世界と関わりを持つと言えます。→
→そして『易経』のこの神道という言葉は、(*紀元)前1世紀、漢代になると、死者を葬った墓に通ずる道路の意味にも使われるようになります。→
→ さらにまた2世紀、後漢の時代になりますと、呪術宗教的な世界の真理もしくは道術を意味するようになり、『太平経』の中にも多く用いられている神道の語が大体それです。→
→そして、この神道という言葉と関連して、「晴明」などという日本の神道で重視される言葉もその中に用いられていることは先ほど申しました
。→
p125→ ようするに、天皇、真人、そういったものを含む超越的、宗教的な世界の真理を意味する神道という言葉が中国に古くから成立していて、その神道という言葉が『日本書紀』の執筆者たちによって取り入れられ、→
→(*天皇、真人、そういったものを含む超越的、宗教的な世界の真理を意味する神道という言葉が中国に古くから成立していて) やがてこの神道がまた日本の仏教以前の古代呪術、宗教、信仰を一括する言葉として重視され、次第に意味付けが行われてゆくのです。→
→ しかし、その日本の神道学が、文献的な拠り所とする『古事記』、『日本書紀』の記述そのものが、すでに神話伝説の成文化の段階で大きく中国古代の宗教思想(神道)の影響を受けている
わけです。→

日本固有の習俗信仰の上に、中国的なものがまぶされているという事実は、それからあと奈良、平安、鎌倉、室町と展開する日本の神道の教義書というものを見ても明らかなのですが、その本格的な研究はまだほとんど行われておりません。→
→ それを研究するためには、まず中国古代の神道(道教)をその宗教哲学とともに教理形成の思想史に関しても本格的に研究しなければなりませんが、それもまだ緒についたばかりだというのが現状
です。

(そりゃあ「神道」は日本オリジナルなんて嘘だと証明する研究は妨害されるだろうしなあ。戦前だし

益田啓一郎 ‏@mapfan7 2011年4月27日
福岡県出身の先哲には魅力的な人物がキラ星のごとくいる。学習研究社(学研)の創業者・古岡秀人もすばらしい。人間模様も魅力的(五木寛之の父と古岡の父は親友同士等々)、小学館、主婦の友社を経て独立、「科学と学習」ルーツは福岡にある!

xtra heavy ‏@xtraheavy 9月12日
学研は皇族資本って聞いたことがあるけどな…。>「筑豊炭田の監督の息子」「父は五木寛之の父と友人同士」>古岡秀人 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%B2%A1%E7%A7%80%E4%BA%BA … >RT小学館

PS ‏@shogakukan_ps 2010年4月20日
【小学館社史より】1935(昭和10)年~38(昭和10)年5月30日の比較的短期間ではあったが在職し、その後、主婦之友社や保険会社、商事会社を経て、46(昭和21)年に学習研究社(学研)を興したのが古岡秀人である。戦後の小学館にとって大きな脅威となる。(「小学館の80年」より)

学研の創業者である古岡秀人は小学館で働いていました。
父は五木寛之の父と友人同士で、その関係から五木は古岡を「おやじさん」と呼び習わしていたそうです。
1935年に小学館へ入社し、オーガ相賀武夫のもとで働きます。
1946年に学習研究社を創業します。

相賀は、仏教の中で一神教にかなり近い日蓮宗。
学研の『~の本』シリーズで『日蓮の本』が出ているのは、相賀ファミリー意識かも。
本記事は『禅の本』。

相賀武夫[おうが たけお] は小学館および集英社の創業者
。別名、相賀祥宏。長男は小学館第2代社長の相賀徹夫。孫は小学館第3代社長の相賀昌宏=徹夫の長男。
1926年には、小学館から娯楽誌出版部門を分離独立させ、集英社を設立。
1929年から病床生活を余儀なくされ、夫婦で日蓮宗に帰依)

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 56分56分前
電子書籍、便利だと思うけど。 アメリカとかkindle版の ラインナップ豊富だし、 マニアックな本とか、絶版本とかも 手に入るし。 日本だとラインナップがクソ 過ぎてどうしようもない。

アウグスティヌスとか、アクィナス みたいなやたらと巻数が多くて 嵩張るヤツとか電子書籍化して くれると助かるのだが…… 後、仏教の大蔵経とか、 日本史の国史大系とかね。 多分ジョブズの本にも書いてある 通り、日本の出版印刷業界の 支配者に知恵遅れが多いんだろう。

仏教のお経とか結構文庫化 されてないやつとかあるからね。 華厳経とか池袋のジュンク堂 本店ぐらいでしか置いてあるの 見た事ないぞ。 しかも大蔵経シリーズだから クソ高い。

電子書籍の良いところは kindleアプリを使えば、スマホ でも読める所だ。 これの何が良いかというと 会社みたいなやたらと拘束 時間が長くて、国民に知識を 身につけさせない愚民化させる 様な強制収容所でも本が自然に 読めてしまう事だ。

これの何が有効かというと、 例えば経営学者の様なアカデミック な連中にとっては時代遅れの、 クリステンセンの「イノベーション のジレンマ」みたいなジョブズが 唯一読んだ経営学書とかも堂々と 職場で読める様になる。

大学でしか働いた事の無い 学者連中には分からないかも しれないが、サラリーマンの 知的水準なんて本当に悲惨な 状況で、競馬新聞を通勤中に 読むだけで精一杯みたいな 危機的状況なんだ。 当然古臭いポーターの「競争の 戦略」とかも読んでるはずがない。

結構、日本人のサラリーマン とかでも良い年したオッサン がやたらと漢字が書けなかったり、 読めない人も多い。 ワープロソフトの進歩で 昔程、漢字を覚える必要が なくなったのは分かるけど、 ドイツ人社員や帰国子女よりも 読めないのは問題だと思うぞ。

また日本語以外の本が楽々と 読める所も素晴らしい。 英語以外の言語もね。 データだから納期も直ぐだから 民間強制収容所に拘束されてて 郵便屋が不在で持って帰っちゃう 事もないしね。

和訳が絶対なされないだろう 英語本も安くゲット出来るのも 嬉しい。 アメリカの弓を使った狩猟 マニュアルとか、銃器の 教科書とか、ライフル戦術の 教本とか、所謂日本政府が 絶対に国民に読んで欲しくない 類いの本ねw

コレにプラスして最大の特徴が 自費出版本の取り扱いね。 例えば前君達に紹介した 純丘教授のメイソン本は ネットの記事が削除されて しまっているw 今だとkindle版しか残ってない。 (まぁ、コレも削除リスクは あるのだけど)

要は相賀に検閲されるのと、 ジェフ・ベゾスに検閲されるのと どっちがマシかという事だ。

範馬勇次郎の所で漫画家デビュー しても、三角目玉ばかり描かされる のは気が滅入るだろ? アーチストならば。

@knagasaki 個人の好みによっても 異なると思いますが、私はkindle の方が読みやすいと思います。 電子インクの特徴なのかも しれませんが、液晶より ずっと文字がクッキリ見える と感じています。

日本史の子供向け漫画。 受験対策にも使われてる。
集英社: 相賀家オーナー
小学館: 相賀家オーナー、大高忍、 浦沢直樹等のイルミ漫画家多し
学研: 小学館の元社員が創業。 ムーとかもココ

刃牙の勇次郎(オーガ)の元ネタって 小学館の相賀だろ
。 pic.twitter.com/orWwynDxlB

仏教国教時代を無視したい勢力
=金光教と大本教
=鬼結社+和風キリスト教。
鬼とヤタガラスって単なる和風キリスト教じゃないのかな


desuperado ‏@desupehannari 8月9日
九鬼一って、九鬼一族かいな?九鬼っつーのは、京都綾部っすわw大本教とか見てる人はみんな知ってるおねw綾部w

U ‏@wayofthewind 2月3日
「鬼」は異邦人を指すこともあるので、マイノリティと一体化している大本教やサンカでは、差別しないように持ち上げるんですよね。 半島と仲のいいカプコンは、主役が鬼に変身する「鬼武者」なんてゲームまで出しています。 ラスボスが信長に憑依した幻魔(笑)@etketketketke

菊池 ‏@kikuchi_8 12月11日
鞍馬寺が神智学に影響を受けたルートは神智学協会アリス・ベイリー派→三浦関造→鞍馬寺貫主信楽香雲。大江山の霊媒集団(大江山鬼の交流博物館のHP上の資料を参照した。大江山の鬼・酒呑童子とは仏教勢力に追われた渡来系の鉱山民の首領ではと推測した。)→大本教。王仁三郎「わしは仏教を滅ぼす」)

小学館、集英社、白泉社、… 講談社以外のこのメジャー出版社 群は一つのオーナー一族が経営している。 相賀家だ。 特に二代目の経歴は興味深い。 ちなみにこれらの出版社、株式上場 していない。つまり客観的な経営等 行われているはずもない。

つまり大半の子供達は「相賀教」 に知らずのうちに洗脳されている わけだ。 ちなみに相賀は出版物の内容に 細かく介入することで有名である。

大高忍、鳥山明、藤子不二雄、 荒木飛呂彦、三浦健太郎、美内すずえ、 ……… これらの漫画家は皆「相賀軍」に 属している
わけである。


長い記事をお読みくださり誠にありがたく存じます!
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斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう! 

 禅ではスピリチュアル(=インド風キリスト教)思想は魔境かつ執着なので悪だとしています!
目の前に神や仏や宇宙人が現れて、自分だけが選ばれたと救世主気分におぼれたり、宇宙霊と合体して天にも昇る素晴らしい心地がしたと感激する、などは魔境であり、悟りの邪魔であるから、とらわれたりこだわってはならないと、禅ではいましめています。つまり神や仏や宇宙人や宇宙霊や選民思想が現れても、相手にせず受け流し、軽くかわさないといけません。
瞑想だけじゃ悟れないし、ひたすら座禅だけ組んでも駄目だし、いきなり言葉を否定しても駄目だし、考えることも大事だとしている
のが禅です。
禅宗含め、仏教は虚無論ではありません。このような誤解や曲解を予想して、先回りしてちゃんと否定しているのが仏教哲学です。
禅に限らず、心の平安と執着からの解放が仏教の目的なのだから、愛などの執着を善だと主張する時点で偽物です。

愛(=執着)は善なのがキリスト教で、
愛(=執着)は悪なのが仏教
です。

禅で禁欲と自省と道徳を養うことが修行で必須とされるのは、魔境により生じる選民思想を防ぐためです。
野狐禅(=危険な邪禅)をすすめるスピ詐欺師が多いので注意!
スピリチュアル、神智学、ニューエイジなどのインド風キリスト教は、本来のインド思想、特に仏教思想を破壊するために支配層が盛んに布教活動をしている思想です。
支配層が仏教思想の中で特に破壊したいのは、論理的思考を重視する姿勢と、一神教と新プラトン主義を完全否定する無記と空と無常と縁起の思想です。
だから、紐付き陰謀論者がキリスト教と神道カルト(大本教系)だらけで、工作員でない(可能性が高い)陰謀論者の思想が仏教寄りであることが多いのです。
天皇家が欧米に留学し、ミッション系の学校へ通い、ティアラを正装とするくせに「神道」なのは彼らにとっての「神道」が和風に偽装したキリスト教だからです。
「陰謀論」や「陰謀論者」を「狂人」という意味でレッテル張りしてくる工作員がいるのですが、調べれば出る情報をもとに考えているのだから、「比較陰謀学者」や、「比較陰謀論学者」や、「”陽”謀論者」や、「真相追及者」と呼んでほしいですね。

禅の詳しい記事は次回にして、今回は、「キリスト教思想で都合よく改悪されていない本物の」チベット密教についてです。
論理と言葉を軽視あるいは否定する、チベットチベットうるさいスピリチュアル(=インド風の新キリスト教)信者に、チベット密教は論理的思考重視でありスピリチュアルを否定していることを示す以下の証拠↓を食らわせたら、迷惑な酔っぱらい(スピ信者)のごく一部はしらふに戻るでしょう。
信者が「自分」だと思っているものは実は欲とカルトの教義であり、それを自我と信じ込んでいるだけです。


“仏教論理学(因明[いんみょう])と認識論に関しても、チベット仏教の伝統は、実に高度な論議を蓄積してきました。「比丘や諸々の賢者たちよ。金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊 敬のゆえに受け入れてはならない」。これは、チベットのラマたちがよく引用する聖句です。お釈迦様は弟子たちに――あたかも金の純度を確かめるがごとく ――自らよく考えて教えの中身を吟味し、その後で初めて教えを信奉するように強く戒めています。チベット仏教では、こうしたお釈迦様の精神を受け継ぎ、盲信や実践至上主義を排し、明快な論理による思考を重視しています。”
p.20、斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社

“「視覚ではなく意識で、しかも次第に直感的に……」というのが、第一のポイントです。
第二のポイントは、「向こうから現われるのではなく、こちらから向こうへ置く」ということです。瞑想の中で、「自分の意思とは関係なく、本尊などが向こうから突然出現した」というような神秘体験は――何らかの印や徴候と認められるケースも稀にあるでしょうが――多くの場合、修行者の妄執が生み出した幻覚にすぎません。それゆえ、実践の正しい拠りどころとして、ほとんど信頼できません。また、実際にそうした幻覚が現われなくても、あたかもそうであるかのごとく瞑想することは、間違った方向へ心を慣らすばかりなので、いくら実践しても望ましい成果を期待できません。そうした突然の神秘体験に執着せず、あらかじめ自分の意思で「こういうふうに瞑想しよう」と計画を立て、それに従って意識の力で本尊の姿を認識対象として確立し、それを繰り返し瞑想して習熟することが肝要です。
では、信頼できない神秘体験と正しい瞑想の成果を区別する基準は何かといえば、「その瞑想に十分習熟したとき、いつでも意のままに同じ内容を再現できるか否か」という点です。もちろん最初からは無理ですが、本当に瞑想に熟達した密教行者なら、複雑な曼荼羅を――どんな大きさにでも――瞬時に再現できるといいます。「こちらから向こうへ置く」という感覚で瞑想するからこそ、習熟すれば自在に再現可能となるのです。”
p.92-93、斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社

“仏教の修行というものはすべて、お釈迦様を信じて拠りどころとしなければ成立しえません。この点で、仏教は、決して単なる人生訓や思想哲学や瞑想テクニックではないのです。
  しかし、「理屈抜きにただ信じる」というわけではない点で、他の多くの宗教とは趣を異にしているといえるでしょう。第二章で引用したお釈迦様の言葉を思い 出してください。「比丘や諸々の賢者たちよ、金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊敬のゆえに受 け入れてはならない……」。“p.192斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社

“知恵者らよ、自性が空という空性の意味は、縁起の意味である。しかし、功用が空(効果的作用がない)という非存在の意味ではない
p.54、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/クンチョック・シタル/齋藤保高 共著『チベットの般若心経』春秋社

“植物は、有情の中に含まれない。仏教では、植物は生命体であると認めるが、心を有しているとは考えない。したがって、植物が輪廻転生することはあり得ない。植物は、色の範疇に属し、無生物とともに宇宙全体を構成する環境的な要素(器世間 [きせけん])と位置づけられる。”
p.73、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/クンチョック・シタル/齋藤保高 共著『チベットの般若心経』春秋社

勝義諦すなわち空性を体得するためには、まず言葉によって概念的に理解するしかない。 我々は、この点を肝に銘じておく必要がある。具体的には、最初に教えをよく聴聞し、次にその論拠を徹底的に考察し、それらを通じて概念的に確立された空性理解をもとに、止と観の修習を重ねることが肝要だ。もし、「勝義諦は言説を超越した次元なので、概念的に理解しようとしても無駄だ」などと誤解し、聞・ 思・修の過程を軽んじてひたすら禅定を重ねたとしても、有暇具足の貴重な人生を無駄にするばかりで、一向に空性を体得することはできない。そうした実践至上主義を厳しく戒めるため、あえて「邪な妄分別によって悪道(三悪趣)へ赴く」という強い表現を用いた、そのチャンドラキールティの密意をよく汲み取るべ きだろう。”
p.57、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/クンチョック・シタル/齋藤保高 共著『チベットの般若心経』春秋社




斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社
※本書はチベット仏教の内、ツォンカパ大師が開いたゲルク派(新カダム派)の教えに基づいています。

・チベット仏教の伝統では、あらゆる不幸の根源を、自己愛着という唯一つのことに集約して考える。
自己愛着の正体とは、自分自身や自分の所有物、自分の側に属するものごとに対し、執着、欲望、過度の期待を抱くこと。

・自己嫌悪の根底にも自己愛着がある。自分に対する過度の期待と現実の自分とのギャップが広がって自力では手が負えないと感じるようになったとき、自己嫌悪に陥ってしまう。

・「幸せを実現すること」と「自己愛着を満足させること」を混同してしまうのが問題。幸せを求めて努力しているつもりなのに、実はあらゆる不幸の根源にほかならない自己愛着を増長させるためひたすらエネルギーを注ぎ続けている……。
自己愛着を満足させるために貪りや怒りなどの煩悩を起こし、それによって自己中心的な行動を積み重ねていくパターンになりがち。
自己愛着を断ち切る最も強力・確実な方法とは、他者に対する大きな慈悲の心を育むこと。

(「幸せにならないといけない教」に注意。幸せは義務ではありません。幸福論は面白くないんですよね。実は不幸論のほうが面白いし、幸福論よりも役立つ幸福を得るヒントを教えてくれたりします


・チベット仏教は、インド仏教の本流を直接に受け継いでいる。チベットはヒマラヤ山脈をはさんでインドと隣接しているので、師僧を招いたり留学僧を送ることが頻繁に行われていた。
チベット仏教が規範として仰いできたインド仏教は、残念ながら十三世紀の初頭に滅びてしまった。当時の総本山、東インドのヴィクラマシーラ寺がイスラム教徒の襲撃で破壊されたとき、最後の大座主シャーキャシュリーバドラは、難を逃れてチベットの地へ赴き、インド仏教が守り抜いてきた法灯を残らず伝え、チベットの僧侶たちに後事をすべて託した。

“仏教論理学(因明[いんみょう])と認識論に関しても、チベット仏教の伝統は、実に高度な論議を蓄積してきました。「比丘や諸々の賢者たちよ。金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊敬のゆえに受け入れてはならない」。これは、チベットのラマたちがよく引用する聖句です。お釈迦様は弟子たちに――あたかも金の純度を確かめるがごとく――自らよく考えて教えの中身を吟味し、その後で初めて教えを信奉するように強く戒めています。チベット仏教では、こうしたお釈迦様の精神を受け継ぎ、盲信や実践至上主義を排し、明快な論理による思考を重視しています。”p.20
スピ信者って偽物が大好きだから、本物のチベット仏教の勉強をしないんだろうね

・中観帰謬論証(ちゅうがんきびゅうろんしょう)派では、実体性を欠如しつつ単に存在する「私」を「単なる私」と表現する。
「単なる私」とは堅固な実体性を欠如した状態で輪廻転生する主体


・諸煩悩をすべて根こそぎ断ち切り、
その後に残った負の影響=所知障(しょちしょう)
も滅し尽くしたとき、悪い要素のひとかけらもない仏陀の境地が実現する。

我執=実体視の習慣。
空性=実体性の否定。
煩悩の根源にあるのは空性に対する無知であり、あらゆるものを実体視する習慣。
空性は仏教の究極的な真理であり、あらゆる存在に関して「それをそれたらしめている本質的なもの」を徹底的に追及していったとき、そのような実体性は何一つ得られない

チベット仏教の伝統教学における最終結論、つまり中観帰謬論証派の立場では、
空性とはあらゆる存在(一切法)に実体性が全くない、ということ。
実体はないが存在はしている。
実体性を欠如した状態で存在していることを、「単なる存在」とか「単なる私」
という。
中観帰謬論証派の特色は、実体性の否定と、単なる存在の肯定とを明確に区別し、両方とも徹底させる点。実体性であればどんな微細なものも見逃さず、すべて完全に否定します。もし、わずかでも否定しきれず残ってしまえば、空性理解は不完全なものとなり、覚りを得ることはできない。
逆に、単なる存在を少しでも否定してしまえば、虚無論に陥り、覚りを得られないどことか、大変な悪業を積む結果になりかねません。なぜなら、哲学的な虚無論を発展させれば、事物の効果的作用を否定し、因果関係を否定し、善悪の区別も否定するところまで行きつくからです。
否定すべきものと肯定すべきものを明確に分け、否定すべきものを否定しきれない実体視の誤りと、
肯定すべきものを
否定してしまう虚無論の誤りという、
この二つの誤りを完全に排除した後に残るのが「中道」というありかた。
つまり、本当の中道とは、決して中途半端で曖昧な状態ではありません。例えば、「この本に、実体はほとんどないけれど、多少はある」とか、
「この本は、あるともいえないし、ないともいえない」というふうに、否定すべきものと肯定すべきものを区別せず、安易に中途半端な存在感を設定してしまうことを指して、ツォンカパ大師は「矛盾ばかり述べて、中観の意味など少しも説いていない」と厳しく批判しています。
空であり実体がないからそれらに対して慈悲を起こすのは無意味だ、というのは重大な間違い

仏教以外の多くの宗教で主張している創造神とか、バラモン教やヒンドゥー教の哲学で個々の人格の上に設定している真我(アートマン)などは、最も粗い実体性の例。
そうした粗い実体性は、仏教哲学の全学派が、揃って否定している。
宇宙を創造した神の存在、あるいは創造された人間に宿っている永遠不滅の本質など、そうした粗い実体性を一切認めないのが、仏教の思想哲学の大きな特徴。
逆にいうと、もしそれらを承認してしまえば、もはや仏教思想とはいえなくなる。
密教の根本的な本尊である持金剛仏や大日如来などを、そうした創造神であるかのように位置づける見方もありますが、少なくともチベット仏教の伝統教学からすれば、それは完全に間違っている。
粗大な実体性の否定に関しては、このように、仏教哲学の全学派が一致
している。

・仏教用語で「自性」とか「自相」(それ自体の側にある、それをそれたらしめている本質的なもの)と表現されている微細な実体性。
人間は生まれつきの習慣として自然に実体視してしまう。本当は全く存在しない自性や自相を「存在する」と誤って把握している。
その実体する意識のことを「我執」
という。
自性や自相はまったく存在しない、という真理が空性であり、それを無自性や無我とも表現されます。そのとき、「Xの実体がない」という、そのXが人間や生き物であれば「人無我」、それ以外のあらゆる存在であれば、「法無我」という。

単なる存在が他の何かに依存する形で成立する形で成立していることを「縁起」という。
実体性を欠如した単なる存在は縁起という形でしか成立しえない。
他の何かに依存するという場合、三つの意味を想定できる。
①原因や条件に依存
②部分に依存
③概念と結びつけて仮に設定
これら三つの意味を通じて、縁起として成立しているがゆえに実体性が否定されること、逆に実体性がないからこそ縁起というあり方になるという、その両者の相互関係。縁起によって空性を理解し、空性によって縁起を理解する
というのが、中観帰謬論証派の哲学の最も絶妙な部分。
本尊にも実体はない。
空性という究極真理も実体視してはいけない。
「この本の空性」をテーマに実体性の追求を行なった場合、結論は「“この本の空性”の空性」という結論になる。
空性の空であることをいつも忘れないようにしなければならない。

(いいですか、「実体」は否定しても「存在」は否定していませんからね。仏教を無神論や虚無主義だとわざと曲解して叩く工作員の「藁人形論法=わざと相手の主張を叩き易いように加工してから叩く」に注意ですよ。
支配層は仏教の「空」と「縁起」が支配に向かず、カルト化を防ぐ思想なので大嫌い。
ツイッターを見てると、「空=神」と主張して布教している悪質な輩がいます。


 子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 33 分33 分前
新キリスト教陣営の工作員用のクソリプ用画像。
ババリアのイルミナティの象徴はミネルバ(アテナ)のフクロウ。
右目=太陽派(特にフランス)

緑=世界連邦カラー
フランスの女神は右目=太陽を見せるマリアンヌ
@wolvesknow
右目側でNWO色=緑髪の『隻眼の梟』=一つ目フクロウ
『不殺の梟』(『隻眼の梟』の父)も右目を強調
右目=太陽派(特にフランス)、緑=世界連邦カラー
フランスの女神は右目=太陽を見せるマリアンヌ

私をブロックしている女神アテナ @gathena1が
“「空」=「神」=「全宇宙」=「1個の光子」”を布教。
アテナ=ミネルバが「一者への帰一」思想(典型的な新キリスト教=メーソン教)で空の神格化というタブーを犯し、支配層が嫌う空の思想=仏教の中核を破壊
。 @wolvesknow

支配層が仏教の中で特に破壊したいのは、論理的思考を重視する姿勢と、一神教と新プラトン主義を完全否定する無記と空と無常と縁起の思想。 工作員はキリスト教か神道カルト(大本教系)信者だらけ。工作員でない人の思想は仏教寄りの人が多いです
@wolvesknow @lakudagoya

画像の意味は上から、
右目側でNWO色=緑髪の『隻眼の梟』=一つ目フクロウ
『不殺の梟』(『隻眼の梟』の父)も右目を強調
右目=太陽派(特にフランス)、緑=世界連邦カラー
フランスの女神は右目=太陽を見せるマリアンヌ


詳しくは前回の記事
支配層の最重要レベルのシンボルがフクロウ、アテナ、ミネルヴァ、一つ目! 最多は十字架!
『東京喰種』では、右目側でNWO色=緑髪の『隻眼の梟』=一つ目フクロウ が最強!    
「空」を神格化するなどして仏教を破壊する工作に注意!

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-107.html
をどうぞ。

菊池 ‏@kikuchi_8 5月11日
工作員連中がよく使う詭弁の一種。→ストローマン「議論において対抗する者の意見を正しく引用しなかったり、歪められた内容に基づいて反論するという誤った論法、あるいはその歪められた架空の意見そのものを指す。藁人形論法ともいう。」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3 …

菊池 ‏@kikuchi_8 8月24日
工作員業界の「工作現場」の主力「中級工作員」の手口。①レトリックを使いひたすら対象の貶め②詭弁の多用。特に対象の主張を歪めた上で攻撃する「藁人形論法=ストローマン」がよく使われる。③議論や対話ではなく相手を論に詰まらせることのみを目的にひたすら質問を繰り返す。詭弁と修辞が武器。)

六道輪廻の枠組みに植物は含まれない。植物は意識を持たず、輪廻転生しない。
植物にも生命組織はあるが中有の意識が来世に再生する拠りどころとはならない。
生きとし生けるものすべて(一切衆生)とは、意識のよりどころとなっている生き物全部(一切有情)ということであり、植物はその中に含まれない


・風(ルン)
=気体エネルギー。風は心を乗せて動くことができるが対象を認識する機能はない
心には対象を明らかにして認識する機能があるが、自分で動くことはできない。
心は、五感に依存した心(根識)と、心自身に依存した心(意識)にわけられる。いずれにしてもその拠りどころとなる風を必ずともなう。
仏教哲学でいう「意識」とは、心そのものに依存した識であり、外側の対象は必ずしも必要ない。

・倶生の大楽(くしょうのたいらく)
=空性を直感的に理解している意識の状態。きわめて微細な幸福感であり、私たちが日常に体験するさまざまな「心地よい」感覚の根底にある潜在意識。

・仏陀という理想の境地を実現できたら、私たちは、大まかに整理すると、
法身(ほっしん。仏陀の心)と色身(仏陀の身体)に分かれる。

法身
=すべての存在を知りつくす完璧な智慧であると同時に、全宇宙に遍満する究極的な真理でもある。

色身は報身(ほうじん)と応身(おうじん)に分けられる。
報身は仏陀の智慧の力で集められた微細な風によって構成され、宇宙の頂点というべき場所から生きとし行けるものすべてを大慈悲のまなざしでご覧になっている。
そして、実際に救済の手を差し伸べる必要性に応じて、あらゆる場所へあらゆるときにあらゆる姿で化身を現わす能力を持っている。そのような化身を応身という。

・仏性(如来蔵)
=生きとし生けるものすべてに具わっている、仏陀の境地を得られる可能性。
仏性の正体は、「心の空性」。
普通の人間の心は、業と煩悩で非常に汚れているが、心自体には、業と煩悩で汚染されたものたらしめている本質は存在しない。
つまり、業と煩悩で汚染された状況は絶対不変のありかたではない


・「六座グルヨーガ」では、まず眼前の虚空に自分のラマをツォンカパ大師、またはお釈迦様の姿で顕現させ、その周囲にさまざまな聖者や本尊や菩薩などが集まっている様子をイメージし、それらを対象に帰依の祈りなどを捧げる。
そして、生きとし生けるものすべての幸せを願い、そのために自分自身が仏陀の境地を得よう……と誓願を立てる。そのうえで、自分の前に顕現したラマや聖者たちから「菩薩戒」を授かった……と自覚する。これは実際に灌頂などでラマから菩薩戒を授かったことの、いわば追体験。
続いて、仏性を想起する。
自分はすでに志も立てたし、それに基づいて菩薩戒も受け、その結果これまで眠っていた仏性が今こそ目覚めたのだ……と強く思念し、「将来必ず仏陀になる」という決意を新たにする。
心の空性を瞑想しながら、眼前に展開していたラマたちの集まりを自分自身へ修練し、それによって自分の諸々の煩悩が浄化された……と思念する。
ここまでが「六座グルヨーガ」の準備段階の瞑想。
こうして空性を瞑想している状態から、眼前の虚空に蓮華・月・太陽を重ねた宝座をイメージし、その上に自分のラマを持金剛仏父母尊の姿で顕現させる。
本尊の姿などを、視覚の識で見ようとしてはいけない。
意識で思い描いて把握しないといけない。
目の前の仏像を見るのと同じように、瞑想すべきものを目で見ようとしたのでは、正しい瞑想にならない。
瞑想のときに目を完全に閉じてはならない。
瞑想すべき本尊の姿を目で見ようとしていると、実際に目の前に見えている別の風景が気になり、つい目を閉じてしまう。
しかし、意識で思い描いて把握することに集中できれば、実際に目の前に広がっている風景などは全然気にならなくなる。
意識とは五感に頼らず、心そのものに依存して認識する
ことである。
意識にも概念的思考と直感的認識の二種類がある。
瞑想の最初の段階では、概念的思考を交えながら、「身体の色は青で、手に金剛杵と鈴を持って、胸の前で交差し……」という具合に思い描いていきます。
しかし、瞑想を何度も反復して習熟度が増せば次第に概念的思考を減らしても、直感的に認識できるようになります。
最終的には一瞬で本尊の姿を明確に顕現させ、全体像も細かい部分も直感的に把握できるようになる


“「視覚ではなく意識で、しかも次第に直感的に……」というのが、第一のポイントです。
第二のポイントは、「向こうから現われるのではなく、こちらから向こうへ置く」ということです。瞑想の中で、「自分の意思とは関係なく、本尊などが向こうから突然出現した」というような神秘体験は――何らかの印や徴候と認められるケースも稀にあるでしょうが――多くの場合、修行者の妄執が生み出した幻覚にすぎません。それゆえ、実践の正しい拠りどころとして、ほとんど信頼できません。また、実際にそうした幻覚が現われなくても、あたかもそうであるかのごとく瞑想することは、間違った方向へ心を慣らすばかりなので、いくら実践しても望ましい成果を期待できません。そうした突然の神秘体験に執着せず、あらかじめ自分の意思で「こういうふうに瞑想しよう」と計画を立て、それに従って意識の力で本尊の姿を認識対象として確立し、それを繰り返し瞑想して習熟することが肝要です。
では、信頼できない神秘体験と正しい瞑想の成果を区別する基準は何かといえば、「その瞑想に十分習熟したとき、いつでも意のままに同じ内容を再現できるか否か」という点です。もちろん最初からは無理ですが、本当に瞑想に熟達した密教行者なら、複雑な曼荼羅を――どんな大きさにでも――瞬時に再現できるといいます。「こちらから向こうへ置く」という感覚で瞑想するからこそ、習熟すれば自在に再現可能となるのです。”
p.92-93

野狐禅も野狐瞑想も駄目ってことです。スピ信者が薬物でヒャッハーでハイな状態になる瞑想や禅をしたり賛美したりするけど、彼らが歩んでいるのは邪道で危険な道です。単なる狂人になってしまいかねませんからね。単に気がヘンになっただけです。
そもそも仏教は心の平安を目指しているのに、ヤクでハイになったら駄目でしょ。
やっぱりスピ信者は、キリスト教によって改悪されてしまう前の真のインド思想なんて勉強しないんでしょうね。
偽物を崇めて「覚醒した!」って笑えませんな。
「別の価値観に洗脳された! 勘違いして選民思想を持った!」の間違いでしょ。
『魔法入門』でも別人格を出現させたりするときは絶対に意識的に自覚的に行なわないといけない、と何度も注意しております。でないと廃人になってしまったり、別人格に乗っ取られてしまいますからね。
修行方法が書かれていても、ちゃんと危険性と注意点を明記しないものは避けましょう。精神病院で精神病が治らないことは本ブログ読者ならよくご存じでしょう。
ちなみに、『魔法入門』に書かれていることの元ネタの多くはインドのヨガと密教でしょうね


第三のポイントは、本尊の身体の質感。
仏像や仏画を見て参考にしながら本尊の身体を意識で思い描いていくが、鍍金の立体や紙の平面のごとくイメージしてしまいがち。しかし、実際の本尊の身体は、微細な風(ルン)を集めて成立したものであり、そのエネルギーが光となって顕現している。
それゆえ、瞑想の対象の本尊も、光でできた身体として思い描くことが大切。
けれどもぼんやりした不明瞭なものではいけない。目の前に本当に座っているように、手を伸ばせば触れられるように、きわめてリアルに、明確に顕現させる必要がある。しかもそれを認識しているのは視覚や触覚ではなく、あくまで意識である。

眼前の虚空に、自分のラマを持金剛仏父母尊の姿で顕現させた。
そのように瞑想した本尊などのことを密教用語で「三昧耶尊」という。
この三昧耶尊と同じ姿の「智尊」というものをお招きし、手に印を結んで真言をとなえながら、三昧耶尊と一体化させる。
ラマと本尊を完全に一心同体として瞑想することが最も重要な秘訣。
眼前にラマを持金剛仏父母尊の姿で瞑想し、智尊と一体化させたら、祈願や供養を捧げる。それを繰り返して善なる意思の力が十分に蓄積されたとき、ラマである持金剛仏が自分の頭頂へ降りてきて、自分と完全に一体化する……と観想する。このとき必ず空性を瞑想しなければならない。
まず頭頂へ降りてきた持金剛仏を対象とし、その実体性を追求することに心を集中させる。そうすると実体性を何一つ見出せないので、ついには虚空のごとき感覚になる。
同様に自分自身の実体性を追求すれば、やはり何一つ見出せないので、これも虚空のごとき感覚になる。そのとき、虚空と虚空は無差別であると強く念じ、虚空のごとき空性というあり方において、持金剛仏と自分の一体のものとして瞑想する。
また、そのように瞑想している心自体も、やはり空であるゆえに一体となり、そうした体験がこれこそが「倶生の大楽」(くしょうのたいらく)にほかならず、これこそ本尊の法身である……と強く思う

この状態から、ラマの導きの力、そして前もって蓄積された善なる意思の力により、自分の法身から色身の状態へ立ちあげる。
このときの自分の色身の姿は、前にラマを持金剛仏父母尊として瞑想したのとまったく同じ。
こうしてラマの助けを借りながら、私が持金剛仏であるという自覚を得られるようにしていくのが、六座グルヨーガの特色といえる。
現実の自分のあり方を顧みて、菩薩戒と三昧耶戒を守った生活ができているかどうかチェックする必要があります。戒律に反する行ないは、なるべく早めにそれを自覚し、懺悔の瞑想で浄化することが肝要

本尊と一体化する修行は選民思想を生むので、それを防ぐ為に禁欲と自省と道徳を養うことが修行で必須とされます。
欧米の支配層はインド思想を取り入れる癖に、我欲を抑えないからあんな滅茶苦茶をやるわけです。支配層が禁欲しない✝カースト制度✝なんて最悪です。


本尊を理想の自分におきかえたらまんまイメージトレーニング。
理想の自分を召喚して自分に憑依させる密教的魔術を現代ではイメージトレーニングといいます。「降りてきた」ではなく、意志の力で「降ろす」術



“仏教の修行というものはすべて、お釈迦様を信じて拠りどころとしなければ成立しえません。この点で、仏教は、決して単なる人生訓や思想哲学や瞑想テクニックではないのです。
 しかし、「理屈抜きにただ信じる」というわけではない点で、他の多くの宗教とは趣を異にしているといえるでしょう。第二章で引用したお釈迦様の言葉を思い出してください。「比丘や諸々の賢者たちよ、金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊敬のゆえに受け入れてはならない……」。“
p.192



ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/クンチョック・シタル/齋藤保高 共著『チベットの般若心経』春秋社

・法(ダルマ)という用語には、
①真理、教え
だけでなく、
「存在」という意味もある。
三宝は①真理、教え、

一切法、諸法は②存在
に該当する。
あらゆる存在すべてを含めて一切法あるいは諸法という。
存在するといえるものごと(有[う])のすべてが、一切法(諸法)である。

昨今の一般的な傾向として、仏教の内容を説明するとき、専門用語の使用を極力避けるようになってきている。著者も基本的には賛成であるが、ある程度本格的に学んで実践しようという場合、仏教用語の使用を避けていると、かえって混乱を招いてしまうケースも多い
例えば、五蘊を「五つの集まり」と表現したとする。
「五つの集まりの範囲は、あらゆる存在の範囲よりも狭い」
(仏教用語なし)

「五蘊の範囲は、一切法の範囲よりも狭い」
(仏教用語あり)
と表現すれば無用な誤解を避けられる。
五蘊を五つの集まりと表現したら知らない言葉はなくなるが、五蘊の中身を知らなければ結局何のことだかさっぱりわからない。
五蘊の、意味、実例、分類などを知ったうえで、ある任意の存在についてそれが五蘊の範囲に入るか否かを正しく判断できるようになったとき、五蘊を本当に理解したといえる。
知らない言葉が出てこないように置き換えたからといって、内容を正しく理解しているとは限らない
仏教用語を使わないことが、強い関心のある読者にとって、本当に親切なやり方なのだろうか。

・有は、「正しい認識(量)の対象(所縁)となるもの」と定義される。
一切法の範囲は、仏陀の智慧として知られるべきもの(一切智智の所知)の範囲と完全に広さが一致する。この一切法の中に含まれなければ、それは全く存在しないもの(畢竟無)である。
仏教論理学の伝統的な表現では、畢竟無の喩例として、「虚空の蓮華」とか「兎の角」などをあげている。これらは幻覚や誤った認識によって知覚されるかもしれないが、正しい認識の対象とはなりえない。
また、「宇宙の創造神」といった概念も、仏教の立場からすれば、誤った見解の産物にほかならず、いかなる意味でも存在するとは認められないので、一切法の範囲外に位置づけられる。

・①境(きょう)
=対象
=慧(え。知性)によって知るべきもの。

②所知
=知るべきもの
=慧の境(知性の対象)と認められるもの。

③所量
=量るべきもの(量る=認識して理解する)
=量(正しい認識)によって了解(りょうげ)すべきもの。

④有
=存在するもの
=量(正しい認識)によって縁じるべきもの。
(縁じる=心を対象へ向けて認識する)

⑤成実(じょうじつ)
=基体として成り立つもの
=量(正しい認識)によって成就(成立)しているもの。


=存在
=自らの体(存在性)を具えるもの


⑦所縁
=縁じるべきもの(縁じる=心を対象へ向けて認識する)
=量によって増益(ぞうやく。付加)を断つべき基体。

これら七つの用語はすべて同義であり、範囲の広さは一致する。
⑦所縁を補足説明。
例えば、ある人がリンゴというものをよく知らなければ、ナシを見た時にリンゴだと思うかもしれない。そのように誤った知識によって把握される要素が、「リンゴに増益(ぞうやく。付加)された部分」である。リンゴをよく知っている人は、この増益(ぞうやく。付加)さえた部分を全部排除して、本物のリンゴだけを選ぶことができる。つまり、リンゴ理解している量の所縁とは、その量が、増益された部分を全部排除する形で、これがリンゴだと把握する対象である

・一切法は有為法と無為法にわけられる。有為法とは成立・維持・消滅(成・住・滅)という三つの性質(三相)を有する存在で、原因と条件(因・縁)に依存して成立する。このように因と縁によって作られたことを「所作性(しょさしょう)」という。所作性ならば、あり方として無常である。
死や破壊は無常のわかりやすいあらわれである。さまざまな因果関係の中で一刹那ごとに変化していくあり方そのものが、無常という意味にほかならない。それゆえ、脆く儚いものも、堅固なものもあらゆる有為法は無常だということになる。
また、有為法であれば、それ自身が因や縁となることにより、他の有為法へ何らかの効果的作用(功用[くゆう])を及ぼしうる
。このような存在を「事物(じもつ)」という。
つまり、有為法と所作性と無常と事物とは同一の存在を別々な側面から見た表現であり、範囲の広さはいずれも一致する。
範囲の広さが一致するとは、有為法なら必ず無常であり、無常であれば必ず有為法である、という二つの主張命題が両方とも成立することだ。
五蘊とは、あらゆる事物を色・受・想・行・識という五つの集まりに分けたもの
であり、五蘊の全体と有為法とは範囲の広さが一致する。

読み方を通常と違うものとすることで、意味を区別できるし、口頭で話しても混同されないようにできます

自性(じしょう)
=ものごとの本質
であるが、経文の中での自性は、ものごとの本質という意味に加えて、
「他の存在から独立した基体」、
「そのとおりに真実として存在すること」
という非常に強い概念を含んでいる。
もしあるものがそのような自性として成立しているならば、そのものは他に依存することなく独立して存在し、恒常不変で絶対的な性質を有することになるだろう。
これは、仏教哲学で「無我」というときの「我」と同じ意味だ。もちろん仏教でも、普通に我というときは、単に「私」や「自分」という意味で用いられる。
一般的な我なら無我という言葉で否定すべき理由もない。
私という人間は単純に存在するが、そうした私という概念にはしばしば普遍的な実体性が付与される。
「他から独立した実体として、自分が存在している」とか、
「私の概念のとおりに、真実として自分が成立している」との思いは、日ごろから「私」や「自分」という言葉を口にするときにさえ、その裏付けとして潜在的に心の中で芽生えているはずだ

ものごとが存在しているというとき、その存在の確からしさは一様でない。
それを大別すれば、
相対的な存在の次元である「世俗」、及び
絶対的な存在の次元である「勝義」(しょうぎ)という二つの段階を設定できる。
世俗の次元の存在は、それ自体の力で成立しているかのように顕現していても、実際には他のもの――因や縁など――に依存することで初めて成立し得る。独立した実体ではないので、存在の確固たる根拠を、それ自身の中に何一つ見出せない。
本当は他に依存しなければ成立しえないものなのに、独立した実体であると何の疑いなく自然に誤認してしまう。これはあらゆる凡夫の衆生に共通する、本能的な思い込み
である。
一方、勝義の次元の存在は、顕現と実際のあり方との間に、そうしたズレがまったくない。勝義の次元において、もし、それ自体の力で成立しているように顕現している何かを見いだせるならば、それは実際に他のものからまったく独立し、堅固な実体として成立しているはずだ。
私が単に存在することは、世俗の次元においてである。
実体性を虚構する根源的な無知を「無明」という。我(私)という思いを「我見」、私のもの(我所)という思いを我所見という。
両者を合わせて、有身見(うしんけん)といい、衆生が輪廻転生を繰り返す第一の原因と位置付けられている。
有身見を中心とする無明をもとにして凡夫の衆生はさまざまな煩悩を生じる。

「自相」(じそう)
=対象それ自身の側で成立しているとされる固有の性質や作用で、無明によって対象の上に虚構されたもの。
つまり自性の一種なので本当は成立していない。
煩悩は、虚構された事物の自性のみに対して働く


世俗と勝義は、瓶を例に挙げると、両者とも瓶という同じ一つの存在の上で吟味すべきであり、眼前の瓶は世俗、そこから遠く離れた世界が勝義だなどと誤解してはいけない

一方が偽物で一方が本物だとか、イデア界だとか、西洋的二元論でとらえてはいけません

自性の否定のされかたで注目しないといけないのは、基体である瓶(あくまで一例)と否定対象である自性が、別個のものとして設定されえないという点だ。
瓶に自性がないというのは、瓶と自性の関係は、瓶の中に水がない、というようなものではない。そうではなく、瓶そのものが――いかなる部分も――自性として存在することはない、という意味で理解しないといけない。
無自性は絶対的な存在の次元の真理、すなわち勝義諦(諦=真理)であり、この真理を指して空性(くうしょう)という。
究極の真理のことを真如(しんにょ)や真実義(しんじつぎ)といい、あるいは法性(ほっしょう)や法界(ほっかい)ともいう。
無自性、勝義諦、空性、真如、真実義、法性、法界などの用語はすべて同義であり、無為法に属する。無為法であるならば、因や縁によって生じたのではなく、無常でもない。つまり、このような真理は誰かに創りだされたものではないし、時とともに変化するものでもない。一切法は本来から無自性、すなわち空なのである。仏陀が出現しようとしまいと、それを説こうと説くまいと、一切が空である点に何の変わりもない


無為法とは一切法のうち有為法に該当しない存在であり、成・住・滅の三相から離れている。因と縁によって作られたものではないから、「非所作性」であり、いつも変化することがないから「常」であり、それ自身が他の因や縁となって効果的作用を及ぼすこともないから「非事物」である。
無為法の例としては、空性や真如という言葉によって表現される究極の真理そのもの、輪廻から解脱して因果の束縛を離れた境地である涅槃、そして虚空をはじめとする概念的存在などがあげられる


諸法の無自性以外に実体としての勝義を設定してはいけない。
空性や法性・法界そのものを実体視してはいけない。
勝義において自性を何も見出せないなら勝義諦も得られない、と主張し、勝義諦や空性を所知(知るべきもの)として認めない立場は誤り。

「空」自体を神格化して崇めてはいけません

・分別
=名称や概念を交えながら対象を努力して把握する知
であり、このような対象把握のやり方を執着性という。

縁起
=他に依存して成立するというありかた。
一切法が自性として存在するかを追求すれば、虚空の如き空性にいきあたり、一切法が単に存在することを吟味すれば、すべて縁起と言うあり方で存在している点を見いだせる。
縁起
①因と縁に依存して成立すること
②部分に依存して成立すること
③分別による名称の付与に依存して仮に設定(仮説[けせつ])されたものとして成立
すること

部品の集まりが車であることも認められない。もしそのようであれば、分解された部品の集まりも車だということになってしまうからだ。
部品の集まりの上に設定された形状が車だということも認められない。車「の形」であり、形状は車「の属性」
であるからだ。

空によって否定すべきものは、他から独立した実体性であり、諸法が諦として成立することであり、諸法が自相によって成立することだ。否定すべきものの範囲が狭すぎるとき、諸法に何らかの実体性が認められ、諦として成立する何ものかが残ることになる。そのようであれば、常辺(じょうへん)という極端論へ陥り、輪廻への執着を完全には断ち切れず、したがって輪廻から解脱することは不可能になる。

名称の付与に依存して仮説されたものすら、その存在をまったく否定してしまう極端論を「断辺」(だんへん)という。断辺の見解は縁起の虚無的な方向での全面否定である。それにより、世俗において因果関係の成立も否定され、善悪の区別も否定され、三宝の存在も否定される。結果、三悪趣(地獄・餓鬼・畜生道)へ堕ちる因を作ることになるので、これは常辺より更に悪い見解と位置づけられる。
一切法は空である、という空の意味を、世俗においても絶対的な無と捉え、何も全く存在しないことと解釈するのは断辺に陥った理解である。
常辺と断辺の二辺から離れ、空によって否定すべきものの範囲を適切に設定できれば、空性と縁起の関係も正しく理解し得る


“知恵者らよ、自性が空という空性の意味は、縁起の意味である。しかし、功用が空(効果的作用がない)という非存在の意味ではない”(本書p.54)
とツォンカパは『菩提道次第広論』(ラムリム・チェンモ)観の章にて、聖教(しょうきょう)を引用して、強調している。

(※ツォンカパ[1357-1419年]はチベット仏教最大の学僧。
代々のダライ・ラマの所属する宗派ゲルク派[黄帽派]の開祖。
ツォンカパ=葱の地の人=「葱畑の人」。
守護尊[イダム]は文殊菩薩と
ヴァジュラバイラヴァ=『金剛の畏るべき者』=大威徳明王。
大威徳明王=『死神ヤマをも殺す者』=降閻魔尊)

四法印(しほういん)に、
①一切の有為は無常である(諸行無常)
②一切の有漏は苦である(一切皆苦)
③一切の法は無我である(諸法無我)
④涅槃は寂静である(涅槃寂静)

と説かれている。
無常なる有為法と無我なる一切法の範囲の広さが異なる点に留意。
仏教徒か否かを判断する基準が三宝への帰依であるのと同様、仏教思想か否かを判別する基準が四法印である。
ただし、無我の意味は仏教哲学の浅深によって解釈が異なる。最も広義には、「常住・単一・自在なる我」を否定することを指す。自在とは他に頼ることなく、全く自律的に存在することをいう。
有漏法(うろほう)とは有為法の中から道諦に属する法を除いたもの、
無漏法は無為法と道諦に属する法である。
涅槃は滅諦であり、無為法に属する。

同一の存在に別々な側面があることを「同体異面」という。

・補特伽羅(ふとがら)
=心を有するものとしての存在。
身体は色(物質的な存在として現われるもの)に、
心は知(精神的領域。心。対象を明らかにして把握して理解するもの)に属する。
補特伽羅(ふとがら)を分類すれば仏陀と有情(うじょう)になる。
有情とは心を有する生き物のうち、仏陀の境地を得ていないものの総称。

“植物は、有情の中に含まれない。仏教では、植物は生命体であると認めるが、心を有しているとは考えない。したがって、植物が輪廻転生することはあり得ない。植物は、色の範疇に属し、無生物とともに宇宙全体を構成する環境的な要素(器世間[きせけん])と位置づけられる。”p.73
(植物は輪廻転生しないから食べてOKなのでしょうね。植物も食べたら駄目なら修行完成前に死ぬしかありませんからね。六道に植物道はありません


知を分類すると、心王(しんのう)と心所(しんじょ)の二つになる。
心王は精神的な分野において主たる役割を果たしている中枢部分。
阿毘達磨(アビダルマ。仏教の教説の解釈・注釈書)では、その状態を、
①善心
②不善心
③無記心(善でも悪でもない中立の心)
などに細かく分類している。

③が二元論の罠を打破するために重要な概念です)

・心所は心王の働きにともなって派生する精神作用で五十一に分類される。

・心不相応行
=色と知のいずれにも該当しない有為法であり、補特伽羅、及びそれ以外の存在(時間、瓶の無常など)に分けられる。

・根=知覚機能。

勝義諦と世俗諦の二諦。
諦=真実。
勝義=絶対的な存在の次元。
世俗=相対的な存在の次元。
何らかの存在、例えば瓶が「諦として成立している」場合、世俗の次元で我々が見てきたとおりのものが、勝義の次元においても真実して成立していることを指す。
しかし、実際に諦として成立するものは何一つ存在しない。
一切法が諦として成立しないという、そのこと自体が勝義の次元における真実であり、それを勝義諦という。
したがって、瓶という存在について考えたとき、勝義諦とはすなわち瓶の空性である。
一方、世俗の次元において、瓶は瓶として存在するので、この場合の世俗諦とはすなわち瓶である。しかしこれは、瓶の真実のありかたである瓶の無自性とは別の現われ方で顕現したものなので、真実として認められない。しかし、瓶の真実のあり方を追求するというようなことをせず、世間の正しい認識によってのみ判断した場合、一応真実と認められるだろう。
そのように、あくまで、「世間の側からみて諦であるところの、世俗の次元の存在」という意味において、世俗諦と呼ばれるのだ。
聖者にとって、瓶は、諦ではなく「単なる世俗」として認識される。
この単なる世俗という意味こそ、空である瓶が縁起として幻の如く存在すること――換言すれば名称の付与に依存して仮説されたものとして存在すること――にほかならない。
世俗諦は、それを諦成就と思い込む世間の迷乱した認識によって諦とされるのであり、決して実際に世俗の次元で諦として成立しているわけではない。もしそのように誤解すれば、中観帰謬論証派の立場――世俗においても、諸法や諦や自相として成立する余地を完全に否定する見解――と著しく矛盾することになる。

“勝義諦すなわち空性を体得するためには、まず言葉によって概念的に理解するしかない。我々は、この点を肝に銘じておく必要がある。具体的には、最初に教えをよく聴聞し、次にその論拠を徹底的に考察し、それらを通じて概念的に確立された空性理解をもとに、止と観の修習を重ねることが肝要だ。もし、「勝義諦は言説を超越した次元なので、概念的に理解しようとしても無駄だ」などと誤解し、聞・ 思・修の過程を軽んじてひたすら禅定を重ねたとしても、有暇具足の貴重な人生を無駄にするばかりで、一向に空性を体得することはできない。そうした実践至上主義を厳しく戒めるため、あえて「邪な妄分別によって悪道(三悪趣)へ赴く」という強い表現を用いた、そのチャンドラキールティの密意をよく汲み取るべきだろう。”
p.57

瞑想だけじゃ悟れないってことです。ひたすら座禅組んでも駄目ってこと。いきなり言葉を否定しても駄目。考えることも大事

チャンドラキールティ[梵: Candrakīrti]
=月称[げっしょう]。
7世紀なかばのインド仏教の中観派に属する。
空の思想と対立する考えには帰謬論証[きびゅうろんしょう]で対応すればよいとした。

チベットの般若心経/聞・思・修の過程
http://mitsubachi-bros.seesaa.net/article/154958416.html
“※有暇具足(うかぐそく)第四章の註(12)P221~
八つの有暇と十の具足を合わせたもの。仏教を修行するのに適した条件。
「八有暇」とは、次に示す八つの悪い条件(八無暇、八難)から離れた境涯。すなわち、(1)地獄に生まれる、(2)餓鬼に生まれる、(3)畜生に生まれる、(4)長寿の天に生まれる(長寿と享楽や禅定に甘んじて、仏道修行に努力しがたい)、(5)仏教の実践者である四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)が活動せぬ辺境に生まれる、(6)仏陀が出生せずその教えを知らぬ時代に生まれる、(7)知覚能力が働かない、(8)邪険を抱く。
「十具足」は、(1)人間に生まれる、(2)四衆が活動する場所に生まれる、(3)教えを理解して修行する能力が具わっている、(4)五逆(父母の殺害・阿羅漢の殺害・仏身を傷つけること・僧伽の和を破ること)を犯していない、(5)律をはじめとする三蔵への信心を抱いている、(6)仏陀が降誕した、(7)仏陀が正法を説いた、(8)説かれた法が現在まで存続している、(9)上師や修行者たちがその法を実践している、(10)周囲に人々の助けも得られるという十の条件で、(1)(1)~(5)を「自身の五具足」、(6)~(10)を「他の五具足」という。”

六波羅蜜/チベットの般若心経
http://mitsubachi-bros.seesaa.net/article/183458328.html)
「禅定」とは、心を対象に集中すること。
 禅定の実践では、対象を把握して保持する「臆念(おくねん)」、及びそれが正しくなされているかを調べ る「正知(しょうち)」という、二つの心の働きが重要である。カマラシーラ(蓮華戒)の『修習次第』中編では、「いかに所縁をよくつかんでいるか、それと も沈み込んでいるか、それとも外境に高揚のせいで散乱しているかと[心を]観察すべきである。<中略>臆念と正知の策によって、意の象を、その所縁の幹へ 縛りつけるようにせよ。いつか昏沈(こんじん=沈み込み)と掉挙(じょうこ=昂ぶり)がなくなり、その所縁へ心が正しく向かうように見えたときこそ、努力 を緩めて平等になし、その時点から欲するまで[そうした状態に]留まるのだ。そのように止(心の集中)に習熟した者の身と心が軽安になり、望むまま所縁に おいて心が自在になったとき、止は成就したのだと知るべきである」と説かれている(この中で「意の象」とは、未熟な心を野生の象に喩えた表現。また「軽安 (きょうあん)」とは、止の実践を通じて心身を制御し、その結果として、働きが鈍重で意のままにならぬ状態から脱すること。まず心軽安を達成し、それから 身軽安を実現するという
)。”)

空は五蘊を我のものとする見方の否定。
無我は五蘊を我とする見方の否定。
空は「五蘊を自分の家の如く考えても、その中に持ち主たる我を見いだせない」ということ。
常住・単一・自在なる我の否定。

・有身見(うしんけん)とは「我と我が物」に執着する誤った見解。「私だ」と思う対象を自相として把握する「我見」、
及び身体などを「私のもの」と考えて自相として把握する「我所見」に分けられる。
有身見こそが、自分が来世に輪廻世界へ生まれる実際の根本原因である。これを無明という。

・辺執見(へんしゅうけん)とは極端な考えに執着する誤った見解。極端な考えとは、諸法が諦として成立すると考える「常辺」、
諸法が単なる言説としても存在しないと考える「断辺」、
諸法が諦として成立するここと言説においてないことの両方があると考える「有辺」、
諸法が諦としてないことと言説においてあることの両方ともないと考える「無辺
」など。

甚深四句の法門(じんじんしく の ほうもん)
とは、「色は空である。空性は色である。色より別の空性ではない。空性より別の色でもない」のことである。
「色は空である(色即是空)」という経文は、その中に「自性が」という言葉が省略されていると考えるべきだ。それゆえ、色は自性が空である、あるいは、色は無自性である、と言い換えたほうがわかりやすい。したがって、色即是空は勝義諦を示す言葉として解釈できる。
「空性は色である(空即是色)」という経文で、空性とは、色の空性のことである。
色の空性そのものが、世俗の次元では色として幻の如く存在する。
換言すれば、色は自性がないゆえに、勝義の次元では虚空の如き空性として認識されるしかないけれど、そうでありながら世俗の次元では色として顕現し、色であると認識されるのだ。
したがって、この「空即是色」という経文の全体は、世俗諦を示す言葉として解釈できる。

「色より別の空性ではない。空性より別の色でもない(色不異空。空不異色)」
とは、色とは別のものとして、色の空性があるわけではないし、また色の空性とは別のものとして、色の存在が成立しているわけでもない。もし、色には自性がないという、そのこととは別に色の空性があるならば、それは諦成就(他に依存せず自らの力でそのとおり成立していること)の空性なってしまう。
それゆえ、色や空性が諦として成立することを否定するのが「色不異空。空不異色」の意図である。
色と空性は全く同一のものではない。
勝義・世俗の二諦は、本質として同一の存在を別々な側面から見たものにすぎない(同体異面)。いま説明してきた経文では、空が勝義諦、色が世俗諦に該当する。
色は空であると説いて常辺を排除し、
空性は色であると説いて断辺を排除し、
二辺の極端論から離れた中道を提示している。
(勝義と世俗を厳密に分けないので、プラトン流のイデア界とこの世界というような二元論を排除しているのが重要
です)

世俗の次元で因果関係の効果的作用は確かにある。
常辺と断辺を排除することにより、
①因果関係を絶対不変のものと誤解する運命論と、
②空によって世俗の因果関係も否定されると誤解する虚無論という、
両極端へ陥る危険性を摘み取る
ことができる。

無為法の実例は、虚空・涅槃・空性など。これらは因果関係を超越し、恒常的に存在する。しかし、こうした無為法もまた、独立した実体として成立しているわけではなく、縁起として存在するにすぎない。
無為法は部分に依存し、及び分別による名称の付与に依存して仮説されるからである。それゆえ、無為法は縁起である。縁起として存在するならば必ず空である。空性も空である(空空性)


「不生不滅。不垢不浄。不増不減」
不生とは、一切法が実体として成立しないゆえに本来から実体性をもって生じない、という意味。
因や縁によって単に生じることと、実体性をもって生じることとの区別をよく認識しておかなければならない。
実体としての生起を排除し、常辺を排除。
因や縁による生起まで否定したら、有為法は全く生じないことになり、断辺に陥ってしまう。
不滅とは、実体性をもって生じないのだから、実体性をもって滅することもない、という意味。因や縁によって滅するが実体としての滅ではない。
不生不滅とは、そのものが縁起として存在している
、ということである。
(不垢不浄と不増不減は以下同様なので省略します)

・「五蘊がない」という箇所は、そもそも「世俗の次元で五蘊がどのように存在するか」ということなど論議の対象としていない。
つまり、「五蘊がない」という経文は、そのような高い境地の三昧における観じ方を表現したものであり、世俗の次元での有無の論議とは区別しないといけない。世俗の次元でも五蘊がないことになると、非常に危険な虚無論へ陥ってしまう。「得るということもなく、得ないということもない」という箇所まですべて、この世俗次元の有無を扱っていないことをよく踏まえて解釈すべきである。般若心経において最も誤解しやすい部分であろう

・法境(境=認識対象)は、意根(精神的な領域を知覚する機能。根=感)のみによって把握される。

四摂事(ししょうじ)
①布施(他者へ惜しみなく施すこと)
②愛語(心のこもった優しい言葉で語りかけること)
③利行(りぎょう。相手のためになるように行じること)
④同事(どうじ。相手と同じ立場で修行すること)


村手 さとし ‏@mkmogura 2012年7月8日
@lanekota 今さら、やばいとか気にしないよ。つまり、すごい数なわけよ。例えば寺も、すでにキリスト傘下であって、愛語という言葉を全国の寺で使う。うちの寺もよく出てくる禅宗なのにね。これは無量寿経というなかの和顔軟語というのを、愛にむりやりすり替えたわけ

村手 さとし ‏@mkmogura 2011年10月28日
まあ、ブログでも最後の方に書いたんだけど、高野山って真言宗の全てを焼き討ちした秀吉のお母さんの寺なんだよ。時代も何も、宗派も真言宗とは関係ないよ。空海=弘法大使ってことだが、そもそも弘法=仏教をつたえるえらい坊さんって形容詞でしょ?神や、アーリアと一緒同じ手法

木村 仁 ‏@mucunren 7月17日
命を攻撃する事は悪いことです。愛は何かを好んで可愛がるので、一見攻撃とは無関係で悪とは無縁に見えます。 しかし、普通の人が言う「愛」は大体執着による「渇愛」です。 渇愛ならば愛する者を失えば悲しみ、傷つけられれば怒り、恨みます。 つまり渇愛は攻撃などの苦と表裏一体なのです

菊池 ‏@kikuchi_8 12月1日
1)仏教への西洋的神秘思想の混入を破すために仏教とグノーシス主義の違いを指摘する。グノーシスでは物質と精神の二元論で、物質は悪とされそこから文字通り脱却して純粋な霊の世界に至ることを目標とする。仏教では、渇愛とともに嫌悪も執着とされるので、物質を嫌悪し憎み悪と断じることはしない

y_hotta(桑名市) ‏@JR2ENQ 2011年2月11日
・・・この愛が仏教用語です。仏教では「一切苦悩を説くに愛を根本と為す」とあるように、愛は迷いや貪りの根源となる悪の心の働きをいいます。のどが渇いたときに水を欲しがるような本能的な欲望で、貪り執着する根本的な煩悩を指します。愛欲、愛着、渇愛などの熟語は、そのような意味を持っています

仏教ちょっと教えて - 仏教の「愛」について - Biglobe
http://www2s.biglobe.ne.jp/~posteios/PROJ_C023.htm
“この題だけを読むと、例えば「近代文学における愛」とか、「異文化交流における愛」といった「愛」の姿を思いおこされる方もおられることでしょう。しかし、少しでも仏教に関心を持ったり、あるいは知識を得た人ならば、次のような疑問を抱いたことがあろうかと思います。

 たとえばキリスト教では「愛」という言葉を重視します。しかし、仏教では「愛」という漢字を使う場合、渇愛という熟字に代表されるように、煩悩を意味する言葉として使われ、あまりいい言葉として扱われていないということがあります。

 さらに、もう少し突っ込んで考える人は、このような矛盾も感じるでしょう。

 愛という言葉が仏教において否定的な概念ならば、『無量寿経』の「和顔愛語」という仏典の言葉の「愛」は、一体どう解釈したらいいのだろうかということです。ちなみに、高楠順次郎博士編集の『大正新修大蔵経』(全百巻)に当たってみると、「和顔軟語」となっています。欄外の注には、「軟=愛」と表記されています。しかし、現在流布している比較的入手しやすい『無量寿経』のテキストや資料には、「和顔愛語」となっています。いったいいつから「軟」が「愛」に変わったのでしょう?そして、そのような経緯は、西洋文化の交流と関わりがあるのでしょうか

 そこで、手近にあった仏教思想研究会編の「仏教思想1愛」平楽寺書店(1975年初出・1992年第4刷)を参照してみようと思います。

 同書の目次を見てみますと、参考となったり、興味を引かれる論文に次のようなものがありました。

  はしがき
  第一章 「愛」の理想と現実  中村元
  第三章 初期大乗経典にあらわれた愛 藤田宏達

 これらの章を抄出しながら、簡単なコメントを整理するということで、「仏教における『愛』」についてまとめてみたいと思います。

 「はしがき」には、中村元氏が、次のような提言をされています。

 まず、西洋の近代思想が、抑圧的な中世の教権に対する反抗として人間の愛を正面きって押し出してきたことがあげられます。また、アジアでも、例えばインドでは、六派哲学に対する反抗として愛(preman)が強調されガンディーに至るまで、愛は人 間の最も尊ぶべきものと考えられています。日本でも、儒学の「仁」「礼」を中心にして考えていたのに対して伊藤仁斎が愛がより根源的なものであると主張しています。

 さらに、現代は日本もそうですが、世界の精神的状況は愛を重要な価値基準としています。

 これに対して仏教学者は、仏教は愛に対して抑圧的・禁止的であると考えてきました。すると仏教は世間の風潮に敢然と抗争すべきものとなってしまいます。

 しかし、最近、日本の仏教系の学園には愛の字を用いたところが出てきています。(思いつくだけでも、相愛、仁愛などの真宗系の学校名があげられます)もし、そういう傾向が何の根拠もないままに進められたというのなら、世の風潮におもねったと いうことになります。また、もし仏典に根拠のあることならば、はっきりとした自覚をもって積極的に推進すべきでありましょう。

 このような氏の指摘には、私たちも大変興味をそそられます。しばらく、仏教学者の意見に耳を傾けてみましょう。


  「第一章 「愛」の理想と現実」の内容

 東洋の諸国においては、仏教の中心の徳として慈悲が説かれています。愛は、それと通じる時もあれば、異なることもあります。ここでは、全般的に仏教においてどのように愛が説かれていたのかが論じられます。

 愛という言葉には様々な使いかたがあるようです。愛 piya、priya、親愛 pema、preman、欲楽 rati、愛欲 kama、渇愛 tanha、trstna などです。私は、前三つは、その対象によって分類され(自己、他者、特定の個人)、後二つは、その内容によって分類され(性的愛、盲目的衝動的執着の愛)ているように思われました。

 仏教では、この渇愛が人間の愛の本体であり、苦悩の源泉であると考えられます。そして、この苦悩から慈悲の心が生まれるのです。自分の苦悩を本当に知る者が、他者の苦悩にも共感できるからです。そして、この慈悲が他者に対する無条件の究極の愛の姿として「無縁の慈悲」、つまり私が誰かに何かをしてやるという三つの条件を全く意識しないで他者を幸せにするものと説かれました。

 仏教の慈悲には人間的な愛の純粋性と共通するものがあります。それで漢訳仏典では、慈悲を愛と訳すことがあるというのです。これで、先の疑問も少しは晴れるというものです。しかし、慈悲は愛と全く同じという訳ではありません。愛が宗教的な自 覚で深められて慈悲となるからです。慈悲は、愛憎という対立を超えた、見返りを求めることのない絶対の愛の姿であり、しかも一切の生きとし生けるものにまで及ぶことを理想としています。

 ところで漢訳仏典の中にある愛には、様々な意味が与えられており、全く反対する概念がこの愛の一語で使われています。愛によって憂いが生じ、苦悩が生じることもあれば、心の喜ぶことであるとされ修めるべき徳とも見られているのです。

 特に人間関係において、やさしいことばをかけること、愛語が尊ばれます。それはやさしく言うこと、愛情こもったことば、やさしいことば、親愛のことば、親しみのある言葉で話すこと、あたたかい心のこもった言葉をかけることです。そこから、人びとに対してはやさしいことばをかけよ、という教えとなります。この場合、もちろん、愛欲の愛 kamaや渇愛の愛 tanhaというような自己中心的な愛と異なり、慈悲による利他の愛につながるものです。

 こういう慈悲の愛から出た言葉が愛語です。ある場合には、互いに愛し合うことという趣意で、愛語を相愛と訳されることもあります。

 こうして学んでみると、仏教の中で使われた愛の言葉は、そのまま慈悲になるのではなく、異なる性格をもつものです。愛は、一、恋愛・性愛ともに欲をともなうもの、二、独占しようとするもの、三、限界性があるもの、ということです。  しかし、愛は慈悲に通じるものであり、やがて慈悲へと深まっていくきっかけになるものといえるでしょう。


  「第三章 初期大乗経典にあらわれた愛」の内容

   初期大乗経典の中で代表的な経典とされるものについての論究がこの章です。原典の文献を読み込んでいるので、少し漢字が多くて難しく感じるかもしれませんが、ここではその中からいくつかを取捨選択して紹介いたします。するとそこに初期大乗の 特徴が見えてくるようです。

 まず、初期大乗経典では、愛のつく言葉は否定されるべき執着としての意味で用いられています。「愛着・愛欲・愛垢・愛縛・愛染・渇愛・貪欲・欲愛・染愛」などです。『無量寿経』の五悪段には、愛欲が六回現れます。

 こうした愛に対して初期仏教では、愛憎を捨てて離れることが説かれますが、大乗仏教ではこうした愛憎を超越するのが大乗菩薩の実践だと説かれます。つまり、無くすのではなく、それにとらわれない生き方を求めるということです。大乗では、愛憎にとらわれるのは分別に振り回されているからだと説くようになるのです。

   例えば『無量寿経』では、極楽世界に生まれた菩薩の姿を「等しく憎愛なし」と示しています。『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』(異なる時代の翻訳)では、「憎愛を遠離す」と訳されています。また、異訳『無量寿荘厳経』では、「愛なく著なし」と訳されています。

 しかし、初期大乗経典には、愛を肯定的に見る視点も色々と見いだされます。それは、人間関係を説く場面では愛は積極的に認められています。先に述べたように、愛の深まった姿が慈悲ですが、仏の衆生に対する慈悲を親の子に対する愛という比喩で表現される経典が『法華経』『維摩経』などに見られます。『無量寿経』には、菩薩が衆生のために不請の友(頼まれなくとも相談を解決してあげるよき友)となり、御法(おみのり)を説き聞かせることは「純孝の子の父母を愛敬するが如し」と、先の比喩とは逆に子の親に対する「愛敬」という表現がとられています。

 また、五悪段には父子・兄弟・夫婦が「恩愛」をもって思慕し、お互いに「相い敬愛」すべきことが説かれます。さらに、「聖を尊び、善を敬い、仁慈もて博愛」すべきことが説かれます。別の場所では、世間の帝王が、「慈恵ありて博く施し、仁愛
ありて兼ね済う」ことが説かれております。

 ここでも、仁愛学園の名前が仏典に出ていたことが知られますね。

 さらに愛という言葉が肯定的に使われている例として、仏、善知識、菩薩、法、菩提などに対する積極的な使用例があります。『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』には、「若し彼の仏の名を聞くこと有りて、能く一念喜愛の心を生ぜば」という言葉があり、これは親鸞様の『お正信偈』の中にもあるので聞き覚えがあると思います。

 すこし漢字が異なりますが、同じ意味の使い方として、仏・菩薩が衆生に慈悲をかける姿を『無量寿経』では、「如来は、無蓋の大悲を以て、三界を矜哀す」という言葉があります。これは、法事の時の表白の中でよく聞くのではないでしょうか。

 最後になりますが、親鸞聖人における愛ということに興味をお持ちの方もおられると思います。実は、同書では、早島鏡正博士が「親鸞における愛」という章において、親鸞聖人における愛を幅広く論じておられます。ここでは、紙数がないので、私の視点で書かせてもらいます。

 『親鸞聖人著作用語索引(二巻)』によると、「愛」は執着という否定的な意味で使われる「恩愛」「愛憎」(『ご和讃』)という表現と同時に、「信楽といふは、・・・・楽は即ち是れ・・・愛なり」(『教行信証』「信巻」)、「世を救ひ人を度す慈を極す愛を極む」(同「化身土巻」)などの肯定的な表現の双方が見られます。しかし、「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑し」(『教行信証』「信巻」)のようなお言葉が比較的耳にする機会が多いせいか、親鸞聖人においては愛は否定的に用いられているかのような印象をお持ちの方も少なからずおられるのではないかと思います。”

「和顔軟語」よりも「和顔愛語」のほうがキリスト教が喜びますからね。仏教では愛は悪寄りなのだから、愛語は不適切ですね。軟語にすべき



魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 10月15日
悪の魔道師に対抗するためには、アリストテレスより竜樹がスゲーと本質的なまでにわかることかな?西洋論理学から生まれる連鎖的な階層構造に反駁できたのは恐らく、空と縁起の思想を唱えた竜樹くらいしかいないんでね?おっと、ふりーそーめんが嫌いな東洋思想はきっと「空」と「縁起」だよね。

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 2015年11月3日
あのね、サマーディーは「三昧」ディヤーナは「禅」カルマは「業」ね。で、カタカナのサンスクリット語を使うのは何でか漢語の仏教用語が嫌いな法則。

これだけ日本語はサンスクリット語由来の漢語が日常に溶け込んでるので、わざといカタカナで言うのはよっぽど仏教が嫌いだったんだろうか?


魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 10月17日
陰謀論コミュには、聖書の引用をベタベタ貼ってやつらを叩く陰謀論者はいても、般若心経やスッタニパータやダンマタなどの仏典を引用してやつらを批判する陰謀論者っていないよね?なんで?

そもそも、東洋の教育って基本的に我欲や我執を拡大させるためにやるんでなくて、自然にそこから離れていく思想が組み込まれてる。確かに漢籍の知識が科挙 に合格するために必要なものだったのも知れないけど、漢籍の雰囲気はなんかこう、我欲と我執向きだしって感じがしないとゆーか。

メイソン教の洗脳教材の教養小説(ビルディングス・ロマン)ってのあるんだけど、これ子供に「教育的」だと賛美されてっけど、これこそがメイソン教の洗脳 の本丸でもあんだよね。教育で近代的自我を確立するってやつ。これは自我は妄想と切り捨てる仏教などの東洋思想の伝統破壊工作だよね。

西洋の教育の根本は近代的自我の確立。基本的に我欲や我執を拡大させるために勉強する。その本質を覆い隠すためと、それをバーターするために社会に対する 奉仕って観念で釣り合いを取ってる。でも、西洋の教育の根本は我欲と我執の拡大だからエリートほど贅沢や権力にうつつを抜かす


王王大栄 ‏@ououdaiei 10月17日
@lakudagoya 自我ってめんどうですよね。弱いと周りに潰されるか状況に流される。強いと我欲我執で自他を破壊する

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 10月16日
薔薇十字の陰謀論って流行んねーな。フクダルマン君でさえ、見えざる大学ネタつぶやいてたのにな。

薔薇十字の陰謀ってさ、数ある陰謀論の中でも断トツで性質が悪い陰謀論だぞ?世界中の宗教や文化をメイソン教的な西洋神秘主義に換骨奪胎して支配するつー ワンワールド思想さ。クリスチャン陰謀論者もそこ悪魔崇拝とボカさないでハッキリハッキリ言ってくださいね。プロレスかというほど歯切れ悪いしw

かつてUFOはプロレスであると言った人が言ったが、至言だと思った。メイソンを迷信臭い悪魔崇拝ネタで叩くクリスチャン陰謀論者ってきっと悪役レスラー みたいなもんなんだろーな。わざと怖い演出をするやつ。メイソンの本質を守るためにプロレスの悪役やってダメージコントロールしてます
みたいなw

薔薇十字団という架空の団体の思想が近代科学を作ってオカルトメイソンいわゆる魔術結社にも受け継がれてますね。
諸悪の根源というより、薔薇十字思想がいけないのは西洋と東洋を統合するふりをしつつ、世界中の宗教をメイソン教の西洋神秘主義に換骨奪胎するかなり悪質なワンワールド思想ですね。

菊池 ‏@kikuchi_8 7月6日
実証主義を「物質主義だ」とする非難があるそうだが、実は実証主義を徹底させると唯物論というより唯心論に近くなる。つまり、経験主義を徹底させると人間に直接立ち現われる知覚経験だけを事実確定の証拠とする事になる。実際にエルンスト・マッハが実証主義を徹底させそういう立場に近づいた。

唯物論と実証主義は実は方向性が逆。唯物論では意識経験から独立した「物質」という実在を想定するという前提があるが、実証主義はそういう前提を立てず知 覚的感覚的に経験された現象を基礎に事実を確定しようという方向性である。必然的に、経験を超える形而上学的実在については「無記」となる。

最古の原始仏典の「スッタニパータ」に「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知っ てよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」とあるが、仏教が経験主義的実証主義的な立場を取っている事が分かる。形而上学には無記

菊池 ‏@kikuchi_8 7月21日
工作員の皆様にはこの言葉を贈る。是非立ち直ってもらいたい。人生を組織に飼われて空費するなかれ。「自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。」(ダンマパダ 160)

菊池 ‏@kikuchi_8 10月19日
参考までに。仏教哲学では「迷い」を「煩悩障」と「所知障」に分類。前者は所謂「煩悩」のことで感覚的情動的な迷いであり受=感受作用による。後者は知性的概念的な迷い(物事を自存視=実体視する等)であり想=表象作用による。後者は言葉が大きく関係する。概念は言葉を離れてはありえないからだ。

「物事を捉える概念の枠組み」に関する迷いが「所知障」とされる。これは現実の観察によって得られた縁起・無自性(無実体)・空・無常・無我等々の見方に 反する形而上学的なものの見方を主に指していると思われる
。廣松渉哲学で言う主観や客観の自存視等を意味する「物象化的錯視」という概念に近い。

人間は物事を概念的に把握するので概念を操作されると認識を捻じ曲げられてしまう。これは単に呼び方を変えるだけでも十分効力を発揮する。オーウェルの小 説で、戦争遂行の役所が「平和省」、拷問を加える秘密警察が「愛情省」と呼ばれる「ニュースピーク」がまさにそれ。人為的「所知障」=認知操作

吾人が仏教哲学をよく援用するのは、それが西洋哲学より優れた論理的思考の用具・枠組みと考えるから。陰謀追及には論理的思考が必要だが、それを鍛えるに は哲学が有効と思うものの西洋哲学はキリスト教や形而上学と表裏一体でドグマや信仰がこびりついておりそのままでは思考用具には不向きと考える。

一方、仏教哲学は原始仏教と初期大乗である中観・唯識が世界的に見ても大変優れた哲学となっている。唯識が生きた学派(法相宗)として残っているのは恐ら く世界で日本だけである。日本人が論理的思考を鍛える場合、キリスト教圏の哲学より仏教圏の哲学を援用した方が本来馴染むのではないか?と思う。

仏教圏の哲学がキリスト教圏の哲学より論理的思考の枠組みとして優れていると思う点は二つ①人間の判断できる範囲を超えた形而上学については判断を敢えて 保留し言及しない「無記」の姿勢②「無記」と関係するが、逆に断定を下す事柄は基本的に経験的論理的に確かめられた事象に限定する実証的姿勢。

前述の①②の理由から仏教哲学を西洋哲学より優れた枠組みと判断し度々援用している。西洋人が論理的に思考する場合に西洋哲学の枠組みを使うのと基本的に 同じで、東洋哲学の枠組みを援用する訳である。仏教哲学と言ってもピンキリだが原始仏教と初期大乗(中観・唯識)が優れている。特に中観は凄い。

日本人は論理的思考が苦手と言われがちだが、自らの風土に合わない西洋哲学を無理に援用しようとするからではないだろうか?西洋の哲学的枠組みはキリスト 教文化圏で育まれたものであり、仏教文化圏に生きる日本人には基本的に馴染みにくい。だったら仏教文化圏の哲学を援用したらいい
と思うのである。

形式論理学の同一律・排中律・矛盾律は西洋の形而上学と存在論が前提になっている。「AはA、Aは非Aでない」と言える前提は「Aは自己同一的な実体である」という事。この存在論的な前提が無い限り西洋の形式論理学は成立しない。

これは常に変化する現象世界では必ずしも成り立つ法則ではない。つまり、現象は時間的存在だから昨日のAと今日のAは微妙に相違する。だが、形式論理学で は「時間」は捨象されているから、昨日のAと今日のAは区別されない。それは只の約束事だから問題は無いが、変化する現象と乖離する事は事実だ。

西洋の形式論理学が前提とする西洋独特の存在論を対象化・相対化する視点を得てこそ、形式論理学も有効に活用できるというもの。東洋伝統の哲学はその視点 を提供してくれると考える。日本人が論理的思考を鍛えるには元々伝統的に馴染んできた仏教文化から資源を活用すべき
というのが吾人の結論である。

ついにお坊さんと間違われてしまったので^^;仏教哲学を度々援用する意図・理由をご説明させていただきましたm(_ _)m個人的には、「入門 哲学としての仏教」竹村牧男著(講談社現代新書)がお勧めです。


仏教は「無常」を説くが「世界全体は常住か無常か」という命題には「無記」の態度を取った。では仏教は何について無常を説いたのか?五感と思考で捉える経 験世界(眼耳鼻舌身意・色声香味触法=十二処)について無常と説いたのである。断定は飽く迄経験的に確かめうる範囲に限定する徹底した経験主義

masao ‏@mini5945 28 分28 分前
@kikuchi_8 自然が根本であれば、信仰でねじ曲げられることはない…? アメリカ国民の一部は、未だに進化論を否定して、処女懐胎を信じているのか…?

菊池 ‏@kikuchi_8 23 分23 分前
@mini5945 東洋は基本的に自然崇拝が基本になっているので、進化論に対して抵抗はないと思います。ただ、個体間の闘争を強調する、突然変異・自然淘汰が基本の西洋の進化論に対し日本には独自の進化論があります。「棲み分け理論」で有名な今西錦司博士の進化論です。k

(風の子 ‏@makeanovel 9月4日
ある条件下でたまたま条件的に合致して生き残っただけであり、それが強かったとか優れてた訳じゃないのか
RT @kitsuchitsuchi
進化論=生き残ったものが生き残ったという結果論。優れた強いものが生き残るのではなく、生き残ったから優秀で強いということにされた。順番が逆

アニメアイコン ‏@the_drunken 2013年11月28日
「進化論は結果論」なのですよ。
進化はランダムな事象に左右され易く運の要素が強いから結果が予測できないという事ももっと広く知られるべきだと思う。

らると ‏@rarunyan15 2013年8月27日
進化論について。進化論は「進化」という言葉を使っていることが間違っている。

いかにも努力して勝ち上がってきたんだぜ!すごいだろ?と言わんばかりな言葉。

実際の所は、運の要素が強い
。結果論に過ぎない。

finalvent ‏@finalvent 2013年9月9日
適者生存は結果論だから結局運の良し悪しでは。“@AriettaAoi: ダーウィンの進化論
この世で生き残る生物は もっも頭の良い生き物でもなく もっとも強い生き物でもなく もっとも変化に対応できる生き物だ”

ヒラ:// ‏@punanny_chang 8月25日
弱い者から死ね
これが自然の摂理でしょ?問題は「弱い」の定義で肉体的に、頭脳的に、強いから生き残るわけじゃない。バカなハナタレでも資産家の子供であれば食っていける。屈強な男でも信号待ちに車で突っ込まれれば死ぬ。
「弱い」の定義とは実は「運がない」という事なんだろう。

そして最も強いとされる立場とは争い災いから物理的に一番遠い所にいる者のことなんだろう これって生まれによって全て決まる、って言い切ってるのと同じなんだよね ツバ吐いてやる


underpondof12shrine ‏@racist_banana 6 分6 分前
@kikuchi_8 これはデモクリトスの原子論にまで遡る 古い物質観と関係があります。 原子という物質の最小単位は、その内部に「空虚」を持たず 不可分(それ以上分割できず) 不変(永久に変わらない) というものです。 自らは自らに等しいので 運動(変化)の余地はありません。

菊池 ‏@kikuchi_8 4 分4 分前
@racist_banana ご指摘感謝です。おっしゃる通りだと思います。現象世界の背後に想定されるプラトンのイデア説も西洋の実体論の原型でしょうね。質料主義の実体論の代表が原子論で、形相主義の実体論の代表がイデア論だと思います。

隠者(人間) ‏@inja650rr 11月3日
@kikuchi_8 @sunamajiri 世界の在り方についての無記は
形而上学であるからだと思います。

これに関しては毒矢の喩えが非常に解りやすいと感じます。
毒矢に射られた人と、形而上学に拘り死を迎える人とを対比させた極めて秀逸な言い伝えであるように私は感じます。

(miwa ‏@n_miwa 12月28日
「この毒矢はどこから飛んできて、なぜ私に刺さったのだろう?そこにはどんな宇宙の意志が」とか言う前に、早く毒矢を抜けよ、というお釈迦様の言う毒矢の例えは、凄く現実的な教えだと思うし、宗教家がこれ言っちゃうのも実は凄いよね。

かわたろう ‏@kawataro84 2014年9月14日
NHKスペシャル「臨死体験」。最後、立花隆さんの「死はそれほど怖くない。あれこれ想念を巡らすから怖くなる」という話はとても仏教的だね。そのお釈迦様は「毒矢の例え」で、死後の世界がどうこうと時間を費やすのは無意味と説いていた。神秘体験の真偽に興味はあるが、こだわらずさらっと流そう

木村 仁 ‏@mucunren 2014年4月29日
毒矢が刺さっている人が、この矢を射ったのは誰で、出身は何処で身分は何か、矢尻の形と毒の作者が誰か全てわからない限りこの矢は抜かないと言っていれば、その間に毒が全身に回って大変な苦しみを味わいながら死んでしまいます。
この例え話の毒矢は煩悩と執着
です。

あブラだこす ‏@aburadakos 2013年10月24日
自分の名前を捨てると想定するとき、名前であったものは何か?名前そのもの、それは何であったか? 自分とは何か?と問いただしてみると良い。私であったもの。正に毒矢の例えのごとく、私と言う存在論が執着として、それが名前と言う象徴によって表現されている。名前と言う私と言う現象、幻想の欠片

慈永祐士 ‏@jiei_yushi 2013年5月18日
まあ、基本的にブッダの説法方法は、「お前さんが信じとるやり方はそういうやり方かもしらんが、それをやっているとこういう風になるよ」という説法の仕方がメインスタイルなわけである。そういえば毒矢の例えとか、ソーナという元・竪琴演奏者だった比丘に対しても、同様な方法でしたね。

メロウ*ライク ‏@mellowlike 2009年10月2日
@hasso_ 「「「「毒矢の例え」の例え」の例え」の…」ってなってるよね。哲学系の人って。「本を読むための本を読むための本を読むための本」とか。)

菊池 ‏@kikuchi_8 11月3日
@inja650rr 毒矢の例えは有名ですね。同感です。形而上学的に世界がどうあろうとも、人間の生老病死の「苦」の現実には変わりは無く、またその「苦」を克服する道も形而上学的世界観に関わりなく存在するから、人間が判断・決定できない事に関わるより現実に結果が出る実践を優先すべきと。

隠者(人間) ‏@inja650rr 20 時間20 時間前
@kikuchi_8
御釈迦様は入滅までの間死後の世界などの形而上の世界については一切語りませんでした。仰る通り無限ループに嵌り真理には絶対に到達せず一切皆苦の解決には無意味であるからでしょう

神通力の中でも畢竟漏神通とは、実は正に二律背反の回避であると私は読解しています。

(漏尽通(ろじんつう)=煩悩を打ち消し悟りの境地に至っていることを知る超人的能力
)

菊池 ‏@kikuchi_8 10 時間10 時間前
@inja650rr なるほど、「漏尽通=二律背反に陥って決して決着できない形而上学を回避すること」という解釈ですね。形而上学への執着も「煩悩」ですからね。素晴らしく合理的な解釈であられると思います。原始仏典に出てくる「悟りを開いた人間」としての釈尊のあり方と整合性があります。

隠者(人間) ‏@inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 有難うございます。
漏神通は形而上学に限った事ではないと考えます。
この世は如何に二律背反に陥る無益な議論が多い事か僕は憂います。

菊池 ‏@kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr そうですね。「対象化された事物への執着・煩悩を断つ」という趣旨だと思います。「法執」というものですね。形而上学も事物の一つですからね。そして、おっしゃるような、答えのでようもない、憎しみや争いだけを助長する無益な議論が本当に多いと思います。同感です。

隠者(人間) ‏@inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 御釈迦様の言う中道の精神は想像以上に困難でありつつも、
悟りという境地は存在すると僕は確信をしました。
決して現代仏教に言われるような空理空論のようなものではなく遍く公衆にとって非常に有益な思想であると思います。仏の道を僕は進みたいと思います。

菊池 ‏@kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr 素晴らしいお志だと思います。仏教の四諦の教えにしても、非常に論理的実証的で筋が通っている実践的な哲学だと思います。「悟りの境地」は分からなくても、執着を幾分か減らせばそれだけ苦しみが減る、という事は誰しもが確かめられるように思います。

(SHIVA ‏@francisco_bot
【四諦】は原始仏教の核となるもっとも根本的な考え方。

ザクッと言うと

①人生は苦である。※仏教における「苦(dukkha)」の意味は「思い通りにならないこと」
苦の原因は渇望(欲望)にある。
③渇望を滅すれば苦も滅する

④苦を滅する道は八正道である。

【八正道】 正見(正しい理解) 正思惟(正しい思考) 正語(正しい言葉)
正命(正しい生活) 正業(正しい仕事)
正精進(正しい努力) 正念(正しい気づき) 正定(正しい集中)
※ブッダが最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る(瞑想)修行の核となる8つの方針)

隠者(人間) ‏@inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 人間は、動物が群れで過ごすように、孤独を恐れる存在であると思います。執着とは正に孤独を恐れるが故の動物的本能なのかもしれません。
ならば理性を持った人間の本来的な在り方とは孤独である事なのかもしれません。

菊池 ‏@kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr 確かにそうかもしれません。私は人間が執着するのは「言葉を持つ動物」だからだと考えます。つまり、本来は一つながりの「縁起」の世界を言語によって分節化し対象化する。そうやって取り出された事物=法を縁起によらず独存していると見なすところから執着が始まる、、と。

隠者(人間) ‏@inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 なるほど、言語とは個体同士が意思疎通をする為の手段。だとするのならば、コウモリやイルカの超音波でのやり取りもまた言語とも言えましょう。
言語には意味と感情が含まれると考えます。
コード(暗号)に載った感情こそが人間同士の不調和を齎す原因なのかもしれませんね

菊池 ‏@kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr はい。そして人の言語はとりわけ発達しています。言語とはシンボルの一種で、シンボルとはある事物を置き換えた記号ですが、現実の事物が存在しなくても、記号なら数に限りが無く拡大されますので、それにつられて記号にともなう感情も拡大され不和を招く事もあると思います。

隠者(人間) ‏@inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 中道とは左右から非難を喰らいつつも真理を追究する精神、そして智慧なのかも知れないと僕は仮説を立てます。

仏教は智慧の教えであると言われるように、偏りの無い思考力を持ち、本質を探る事が出来れば世の中は御釈迦様の言うように世界は調和できるものと確信しています


菊池 ‏@kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr そうですね。両極端な立場からの非難に動じることなく泰然として、ゆるぎないバランス感覚をもって、偏らない思考をし、物事の本質を的確に見出していく。極端に偏らない中道(中る=あたる 中道=適正な道筋に適合する)は調和の道でもありますね。おっしゃる通りです。

隠者(人間) ‏@inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 常楽我浄の顛倒により一切皆苦が生じるのだとすれば、
四法印の内一切皆苦とは、
「生きる事は苦しい事だ。だから諦めなさい」なのではなく、
「生きる事は苦しい事だ。だからこそ一切皆苦を克服しなさい」と言っているように僕には感じられてならないのです。

( 隠者(人間) ‏@inja650rr 5 時間5 時間前
@sunamajiri
常楽我浄…

無常であるのに常と見て、
苦に満ちているのに楽と考え、
人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、
不浄なものを浄らかだ

…とみる事
。)

菊池 ‏@kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr おっしゃる通りです。四諦の「諦」とは「あきらめる」ではなくて、「あきらかにする」という意味だと思います。そして、「生きる事は苦であるが、苦には執着という原因がある。その原因を克服する事で苦を乗り越える事が出来る」この道理を「あきらかにせよ」だと思います。

隠者(人間) ‏@inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 四諦の理を理解する為の八正道。
四諦の理を超える事で涅槃寂静。即ち≒0の精神に到達できるのでしょうね。

菊池 ‏@kikuchi_8 8 時間8 時間前
@inja650rr 四諦と八正道は相補的だと思います。八正道の最初「正見」とは四諦の理を認識することが含まれていると思います。四諦の理と申しましても、そこに到達する真理のようなものではなくて、あくまでも実践上の指針のようなものだと思われます。四諦を実践する事で「涅槃寂静」にと

隠者(人間) ‏@inja650rr 8 時間8 時間前
@kikuchi_8 八正道の正見は、御釈迦様のいう中道の精神に欠かせないものだと思います。
プラス側にもマイナス側にも思考が偏らない境地を目指す事。
それこそが、涅槃寂静
(≒0)なのかもしれません。

菊池 ‏@kikuchi_8 8 時間8 時間前
@inja650rr はい、まさに中道ですね。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月10日
キリスト教徒やカルト信者と並び西洋近代哲学信奉者も、「自己相対化」という事がとことん苦手らしい。彼らの依拠する絶対的前提が揺らぐことへの過度な恐怖心を持っている。例えば「空」を「虚無」と曲解し感情的に反発するのは、「実体」概念という自らの基盤を掘り起こされる事への恐怖心だろう。

西洋近代哲学信者は「空」や「無常」を虚無と曲解する。しかし不変の「実体」を想定する事が実は虚無なのだ。変化しないからどのような意志的努力も無意味 となってしまうからである。より良い自分になろうとしたり、良い環境を作ろうと努力することも変化しないなら全て徒労。これこそが「虚無」だ


菊池 ‏@kikuchi_8 6月10日
↓いつも的確なコメントをしてくださり感謝です。本当にその通り。哲学のふわふわした議論を数日も続けていると現実と接点のない空虚な遊戯をしている感覚になる。もっと実のある事を語るべきだ。西洋近代哲学信者が耶蘇やカルト・スピとあまり変わらない体質だと分かった事をせめてもの収穫としよう。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月11日
「善と悪の最終戦争」という危険思想は「善」と「悪」を実体視する所から生まれる。最初は何気ない言語化から始まるが、その度合いが進むと形而上学化し、さらには宗教化、最後には絶対的ドグマとなる。その妄想が本当に戦争を引き起こす。「実体視」というのは 事程左様に危険な思考習慣なのである。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月6日
@sunamajiri 心を認識作用と捉えるならば、心も時間という形式を持っているようにも思うのですが。つまり、「作用」という限りは、時間的幅があるはずです。対象は常に認識された対象なので、対象が時間性を持つならば、その認識自体も時間性を持つように思うのですが。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月9日
ドイツ観念論はほとんど無意味な事を語っていると思える。「こういう説明の仕方もできる」という事なら意味があるが、それが事実そのもののように語るとしたらもはや迷信のレベルではないだろうか。形而上学を語っているという事に無自覚な形而上学の徒はとても厄介。「高級版スピ信者」では。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月16日
明治以来よくいる西洋崇拝者=「洋学紳士」諸氏の有様①西洋の権威を取りあえず鵜呑み・脳内西洋人と化す②脳内西洋人の視点から日本を歪んだ視点で捉える③歪んだ視点で拵えた日本に関する偽問題を論う④最初の対象認識が歪んでいる以上無意味なから騒ぎ(基本的にストローマン)➄ご苦労様である。

明治の「洋学紳士」は基本的に左翼の自虐史観派の精神構造のプロトタイプである。西洋イズムを気付かれないように伝統に混入する手口よりは、ひねりが無く ストレートではある。手口の差異はあれど結局同根だが。洋学紳士の系譜からキリスト教社会主義者・マルキストの系譜が派生する。新人会が萃点だ。

親英米保守は脳内イギリス人と言える。彼ら「保守」を名乗るが、違和感を感じるのは、イギリス貴族的な差別意識と傲慢さが強い所。心の底では日本人を馬鹿 にしている。イギリス精神に憑依されている。イギリス貴族文化被れのくせに何が「保守」だと。一方、おフランス大東社精神に憑依されたのが左翼

菊池 ‏@kikuchi_8 6月10日
西洋近代哲学信者から「廣松主義か?」と、考察で取り上げただけで随分料簡の狭い質問を受けた。何度か申したが哲学は「参考までに」という捉え方である。哲学や思想は「活用」すべきものであり、ドグマとして信奉するようなものではないと考えている。現実解釈として理に適えば参考にするのみだ。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月5日
廣松哲学の、「世界が世界を認識する」総世界的連関体、という考え方が非常に華厳的だと思った。「無限の縁起的関係性」を説く華厳思想と、認識の「総世界 的連関体」を指摘する廣松哲学は、かなり酷似しているのではないか?と感じる。縁起・無自性・空が基本の華厳と実体概念の破棄を唱える廣松哲学。
@kikuchi_8 認識は縁起的に関係的に成立する、ということだろう。例えば、脳はそれだけで機能する自己完結的なシステムではなく、人体の他の部位や人体外の自然環境と連動するオープンシステムであり、そういう連関構造の中で初めて機能すると。実に仏教の縁起思想的だ。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月5日
直接倒せないなら、宮中周辺にキリスト教徒やメーソン員を送り込んで内側から乗っ取る、というのが国際秘密力の対御皇室戦略の骨子だと分析している。八切止夫が述べたサンカ人脈から得たと思われるインサイダー情報によってある程度裏付けられると思う。直接倒せないなら憑依する、が国際秘密力戦略

菊池 ‏@kikuchi_8 6月5日
「唯識」は「物に対して心だけ」とか「物質に対して精神だけ」という観念論というよりも、「人間にとって世界が展開する場は(深層心理を含む)意識」という哲学だと考え る。認識主体にとって「物質」は五感や思考の対象としてしか現前しないと。その上で近代哲学と違い「物自体」を否定する。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月5日
唯識を考える上で参考になりそうだ。量子力学のコペンハーゲン解釈:量子力学の状態は、いくつかの異なる状態の重ね合わせで表現される。このことを、どちらの状態であるとも言及できないと解釈し、観測すると観測値に対応する状態に変化すると解釈する。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E8%A7%A3%E9%87%88 …


菊池 ‏@kikuchi_8 6月5日
量子力学のコペンハーゲン解釈を聞くと、廣松渉の「四肢的構造連関」という認識論が思い浮かぶ。認識主体と認識対象は主客で二元的に分かれているのではなく、一体の構造であり、認識主体のあり方が認識対象のあり方を規定する側面を指摘する。廣松氏は能所の不二一体性という仏教的表現をしていた。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月5日
アインシュタインの相対性理論はエルンスト・マッハの認識論(マッハ主義)に依拠する部分が多いそうだ。マルクス・レーニン主義者はマッハ主義を「観念論」として嫌うそうで、だからソ連では相対性理論は禁圧されていた由。では何故核兵器開発ができたのか?西側からの援助だろう。冷戦捏造両建芝居

菊池 ‏@kikuchi_8 5月28日
エベールは理性を崇拝し、ロベスピエールはそれを批判し「最高存在」(「自由」の理念のことらしい)を崇拝する。これはあまり大差ないだろう。前者は認識主体の側を実体化して崇拝し、後者は認識対象の側を実体化して崇拝しているだけの違い。唯識で言う見分と相分を其々実体化した「無明」の立場。

@kikuchi_8 「空」(勝義)を踏まえない哲学的立場(なんらかの実体を想定する実在論の立場の事と思われる)は全て「道理世俗」と呼ぶらしい。「実体」は「不変」をそ の性質としているので、実体を想定すると変化する現象世界が説明できず、必然的に現象と実在の二元論二世界論に帰結する

@kikuchi_8 「我法二空」(「我」は主体、「法」は客体、主体以外の事物)というが、理性崇拝は主体である「我」を実体視して固執する「我執」の立場、「最高存在」の崇拝は客体である「法」を実体視て固執する「法執」の立場、と言えるかもしれない。いずれも実体論の範疇である。

菊池 ‏@kikuchi_8 5月28日
豊臣秀吉の伴天連追放令は天正15年(1587年)だが実はその20年以上前の永禄8年(1565年)に正親町天皇がキリシタン追放の綸旨「大うすはらい」を出されている。豊臣、徳川よりいち早くキリスト教の危険性を看破されていた朝廷。明治以後耶蘇勢力が宮中に狙いを定めた動機はこのあたりか。

イエズス会HPにキリシタン関連の年表があったが、1565年のところにしっかりキリシタン追放の綸旨「大うすはらい」(でうすはらい)が載っていた。連 中しっかり覚えている模様。日本への文化侵略の為に彼らがどこを狙っているのか。宮中御周辺にキリスト教徒が多いのは決して偶然ではないと思う


一神教では、偶像崇拝がいかんと言われるが、「造物主」崇拝というのも偶像崇拝ではないだろうか。物質的な偶像と言えども認識主体に認識されている限りで は知覚的な表象である。造物主概念は想像的な表象である。それぞれ知覚的か想像的かで違いがあるだけで、対象的事物であることに変わりはない

仏像を破壊するときのキリシタンの心像風景を想像するに、彼らの意識対象には強烈に「でうす」という想像的な表象が浮かんでいたと思われる。仏像という知 覚表象より「でうす」という想像表象が優越する合理的理由などは無い。仏教では「縁起・無自性・空」を説くから究極的には対象化は否定される。

@kikuchi_8 意識は意識作用(主体=見分)と意識対象(客体=相分)からなる。「造物主」という想像的な表象以外は全て無価値とするのがキリスト教である。唯識仏教で はあらゆる対象は意識作用の対象面だと考えるから「造物主」も形として浮かんだ仏も単なる意識対象=相分という事になる。

菊池 ‏@kikuchi_8 10月27日
「空」は「無」と混同されがちで、空思想=ニヒリズムと誤解される事が多い。しかし本当は「空」は「縁起」と同義なので「空」であるものは「存在する」という事。中村元先生の解説によれば「縁起だから無自性。無自性だから空」という論理的順序だそうだ。結局、縁起は空と同義とのことであった。

「自性=実体として存在しているのでない」となれば、「どのように存在しているか?」という疑問がわくが、その答えが「縁起として存在している」となる。 つまり、他の力を借りずにそれ自体で存在しているのではなく、常に原因条件に依存して縁起的=関係的に存在している=空である、という事。空≠無

宗教は人心支配の為の強力な武器になっているようです。「こういう風に大衆を誘導したい」という狙いから逆算して宗教構築


菊池 ‏@kikuchi_8 6月19日
耶蘇原理主義者が「善悪二元論は勧善懲悪という事だから普通の事」みたいに書いていたがさにあらず。善悪二元論は常識的な勧善懲悪論ではなく善と悪という概念を実体視した形而上学。この意味で「神と悪魔の闘争」という耶蘇教が「光と闇の闘争」というゾロアスター教の影響下にあるのは明らかだろう。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月6日
@sunamajiri 無常論は常に変化しつつある現象の容態を観察して記述しただけのことだと思います。シンプルです。そもそも「時間」というからにはそこに「変化」のニュアンスが概念的に含まれているはずであり、もし不変であり恒常ならむしろ「無時間性」が帰結するようにも思います。

菊池 ‏@kikuchi_8 5月25日
高度なテクノロジーによる管理支配というのはまさに「イルミナティ」の思想。理性を軽視又は放棄するキリスト教への反動から理性を過信する理性崇拝教が生まれた。両極端だが、何かを実体視して妄信している点は共通している。キリスト教で崇拝する「造物主」を内面化したものとしての「理性」を崇拝

菊池 ‏@kikuchi_8 5月25日
理性とは推論する能力。推論には出発点が必要。最も確実と思われる出発点は知覚等により経験的に確かめられたもの。できるだけ不確定な要素が無い方が結論はより適切になる。だが自然が対象ならまだしも統治体制をデザインするにはあまりに不確定要素が多すぎる。これが「できる」とするのがイルミナ

yajima-mieko ‏@emieko 5月26日
自然や自然現象といわれるものこそ不確定要素が強いどころか、人間にとり不可知でないか、と思っておりますが、自己の外在物であるものとしてそれを対象化する働き=知性においては。なんであれ理性によって遍く支配できるとするのが顛倒想でNWO。 https://twitter.com/kikuchi_8/status/602863211193368576 …
菊池 ‏@kikuchi_8 5月25日
推論能力としての理性は比較的確実な知覚による経験が可能な自然現象に適用する分には割りと的確な結論が出る。だが理性でゼロから統治秩序が設計可能か?理性を機能させる前提はこの場合どこに置く?各国の歴史・文化の相違等の不確定要素が多いので理性を全世界に適用してNWOを構築など不可能

菊池 ‏@kikuchi_8 5月26日
@emieko 自然界ですらそうなのですから、複雑な人間の意志や感情が交錯して形成されている社会組織のデザインを理性の能力でゼロから構築するのは不可能事だと思われます。社会組織は歴史的慣習の叡智を重視しつつ、悪い部分は慎重に改良していく、という漸進的なあり方が無難と考えます。

@emieko それに、量子力学(これについては私は無知ですが)などで解明されたミクロの物質世界における「非決定性=一義必然性の否定」からすると、自然界そのものが不確定要素を含んでいる事が明らかになっておりますね。

@emieko はい。対象自体・意識内容・意識作用という近代哲学の三項図式からしますと、「自然界そのもの」(があると仮定して)は確かに不可知であると思います。人 間にとって現前する自然はどこまでも視覚や触覚、あるいは思考作用で概念的に把握された限りでの「自然」であると言えますね。

菊池 ‏@kikuchi_8 5月26日
自然現象こそ不確定で不可知なものではないか、というご指摘を受けた。確かに。認識主体としての人間に現前してくる「自然」とは常に視覚や触覚等の感覚作用、思考作用で把握された概念としての「自然」であり、意識作用を離れて「自然」を感知することはできない。その意味で確かに「唯識」である。

@kikuchi_8 認識主体に立ち現われてくる五感の作用(電子顕微鏡等の器具を使った拡大された知覚を含む)を概念的にまとめて、その規則性を記述する=科学といえるかも しれない。「理性」は感受された五感作用を概念的にまとめた上で、概念同士を操作して推論を遂行する能力と言えるかも。

@kikuchi_8 五感として現成する自然現象は一応規則的だから自然科学は比較的正確。このように自然科学の場合は理性を機能させる前提を広義の感覚や知覚に置く。だが 「理性で世界政府を構築」となると、何を基礎に「理性」を機能させるのか。NWOは理性を過信した者以外からは出てこない。

菊池 ‏@kikuchi_8 5月26日
理性崇拝とはキリスト教の「造物主」を「理性」に変えただけの実体的な絶対者崇拝。西洋における反キリスト教思想は発想の根底がキリスト教と共通。引用:(理性崇拝とは)神に代わり人間の「理性」を崇拝しようという非キリスト教化運動。【理性の崇拝】http://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-075.html …

iseakira ‏@iseakira 5月26日
@kikuchi_8 結局これってキリスト教(または旧約含む)世界の中の話でしかないわけす。理性崇拝の極端な形の、知性の実を食べさせた蛇を崇拝するだの、サタン崇拝だの見れば構図は分かりやすい。非キリスト教的自称のものも含めて、みなその世界観の中のおはなし。「しらんがな」なわけです

菊池 ‏@kikuchi_8 5月26日
@iseakira まさに「はげどう」というやつであります。理性崇拝にしろ、理性崇拝を人格神的に表現したと思われるルシファー崇拝にしろ、「神との合一」の西洋神秘思想にしろ、キリスト教世界のフレーム内での相互対立でしかないわけですね。非耶蘇圏からするとまさに「しらんがな」ですね。

(“理性の崇拝

フランス革命のジャコバン独裁期に、エベールらが推進した非キリスト教運動。
フランス革命が進行し、ジャコバン派独裁政権が成立した時期の1793年に、左派のエベールによって進められた神に代わり人間の「理性」を崇拝しようという非キリスト教化運動。アンシャンレジームのもとで王権と結びついていたカトリック教会に対しては、革命当初から批判が強められており、特にジャコバン派の中の急進派であるエベール派がキリスト教否定の立場をとっていた。
 1793年に国民公会でカトリック暦が廃止されて革命暦(共和暦)が採用されたことで非キリスト教運動は盛り上がり、教会の破壊や聖職者の妻帯を進め、その一方で「理性の祭典」が組織されていった。10月、パリのノートルダム大聖堂は革命派に占拠され、祭典が強行された。


ロベスピエールは理性の崇拝を批判
 しかし、ロベスピエールを中心とする公安委員会は、「理性の崇拝」の強要は無神論であり、またその強要は信仰の自由に反するとして、エベール派を批判、またダントンらの右派も反対した。その結果、94年3月にロベスピエールによってエベールが反革命として処刑され、理性の崇拝は廃止された。ロベスピエールはキリスト教の神に代わる「最高存在」を革命のシンボルとしてつくりあげて、それを祝う祭典を計画し、同年6月に「最高存在の祭典」を挙行する。”
http://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-075.html)

通常より短い記事をお読みくださり本当にありがとうございます!