fc2ブログ

読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

02 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 04

【エロ画像集】黒幕=「意味の範囲が広すぎる曖昧語」とする陰謀論は嘘!         「イルミナティ・メーソンというユダヤが黒幕」は「支配層は悪魔」と同じく嘘!     ノーベル賞はエキュメニカル・スウェーデンボルグ賞!(ロスチャイルド賞は嘘)     ~文章技術について私が守っていること① 『理科系の作文技術』と『日本語の作文技術』を中心として作成した文章技術一覧の活用~   

【えろえろ宣伝画像】(プー閣下風)
緑の世界連邦運動協会BOJ=日銀(目+丸に十字)マルタ騎士団ホワイトフードのシンボルがグノーシス派のハーモニック・クロスflag-invisible-empire-KKK.jpg
ナチスのハーケンクロイツトゥーレ協会丸に十字を回すまどマギOPグノーシスのシンボルor田布施システムにもつながる島津家の家紋
NATOのロゴも丸に十字「弥勒の神の標章は○に十字の神定め」と称する大本教統一教会の旧ロゴ卍生長の家卍日本を繞るユダヤ問題
生長の家(光明思想普及会)の雑誌「いのち」の広告が反ユダヤ主義
生長の家(光明思想普及会)の雑誌「いのち」の広告が反ユダヤ主義
WS000044.jpgWS000037.jpgWS000038.jpg


【超要約】はタイトルそのまんま。

【要約】
「(敵が有効だと判断している)敵のやりかたを真似る」を本記事で実践。
「中身よりもわかりやすい説明の技術重視」
をこのまま真似るとまずいので、
「良い中身をわかりやすく、答えの押し付けにならないように説明」する技術を実践。
わかりやすい説明は一種の洗脳術。
だからひも付き陰謀論者はあんなに
「まるでプロのゴーストライターに書かせたかのように」文章が一番初めの記事からうまい。
ひも付き工作員は「まるで訓練された宣教師のように講演や口頭での発言がうまい。
訓練しないとあんなにうまく話せないし書けない。
でもある程度のわかりやすさは必要なのは確か。
いわゆる「わかりやすい」、別名「馬鹿でもわかる」説明の技術は大事。

・視覚効果を意識(文字の色と大きさと画像)

耶蘇教信者は仏教と耶蘇教は同じなんて、またまたマニさんみたいな事言っちゃってるけどさ
引用《西洋思想すべて「ゴッドや不滅の霊魂など、永遠の不変の超越的なものが実在する」
仏教「全部、妄想だね」
これのどこが同じなんだよ教えてくれ


・冒頭に要約をつける。

・最後に「参考資料」をつけることで、長すぎる引用(による脱線)を防ぐ。

・「キレ」を重視するため
①文章をわざと短く切る
②ズドンといきなり答えから書く
③記事が長くなれば分割
④悪い意味でひっぱらない

⑤画像を多用(いい意味で漫画化)
⑥同じことを反復する(特に重要なことを)
⑦長すぎない引用
⑧「文章の流れ・文脈・つながり」を意識した文章構成。
Aの話題からいきなりBの話題に飛ばない。
Aを話す中で自然とBの話題が出て 「ところでBといえば~」みたいな話題の転換。

・調べやすくするためにあまりに独自の分類をしない。

・抽象的になったら具体例を挙げる.

・「おそれ」と「あわれみ」、「カタルシスによるガス抜き」、「認知」と「逆転」で感情をあおらない
(支配層は感情をあおって操るって言っている人が、支配層をひたすらののしっている自分こそが感情を操られていることに気づかない罠。
まずは支配層の視点を『君主論』や『完全教祖マニュアル』で獲得しないと、イルミ側の視点が見えない)

「寸止め陰謀論という名のカルト思想
=わかった気にさせる偽り」
によるカタルシスによるガス抜き。

アリストテレスの悲劇の定義が陰謀論そっくり。
感情を煽ってガス抜きするって定義がそのまんま。
中核が最後に明らかになるか否かが違う。
キャラよりストーリー重視。
陰謀論の大半はフィクションの手法で作られていることがよくわかる。
アリストテレスは支配王の基礎教養ですから読んでいて当然。

アリストテレスの『詩学』いわく、
悲劇が最も人心を動かすのは、(予期に反する)逆転と、(重要事実の)認知であり、同時に生じるのが最上。

「認知」は「まじ!?=(価値観の)どんでん返し」

 「逆転」は「そうだったのか!=発覚/伏線の回収」

アリストテレス「悲劇とは(…)あわれみとおそれを通じて、そのような感情の浄化(カタルシス)を達成するもの」

私「寸止め陰謀論とは、感情を煽って判断力を奪い、ガス抜きとキリスト教の布教を達成するもの」


・『理科系の作文技術』と『日本語の作文技術』を中心として作成した本記事の文章技術一覧の活用

⓵いい意味でイメージを壊す、印象的な冒頭
(相手が多少は興味ある事柄についてのイメージを壊す。
譲れない部分を壊すのではないのがポイント。
支配体制の打破には大衆に疑問を持ってもらうことが必要。
疑問を持たせるには、疑問を持てるだけの興味があることがらについてでないといけない。 ある程度興味があるが、ゆずれないほどではないことがらから疑問を持たせたらうまくいきやすそう。
「どうぞどうぞ東日本産の食材を食べまくってください。でも私は長生きしたいので嫌です。
あなたはすごい!あなたが汚染食材を食べているおかげで病気にならずに済んでいる人がいるのです!」的なヘーゲル的説得術)

②書き込みがあまり多くない地図
③あまり長すぎない逆向き年表(現代から古代へさかのぼっていく年表)

④あまり詳しすぎない相関図

⑤難しいことばを使わず、です・ます調で敷居を下げる
注釈は、だ・である調。
注釈をうまく活用して、本文がごちゃごちゃしないようにする。

⑥日本人の価値観との共通点を指摘して親近感をもたせる。


・「意味の範囲が広すぎる曖昧語」(バズワード)を使わない。

『黒幕=「意味の範囲が広すぎる曖昧語」』
とする陰謀論は全て偽り。
黒幕は「ユダヤ人」
「イルミナティ」
「メーソンはユダヤ」は
「支配層は悪魔」
と同じく何も言っていないに等しい。
「有名陰謀論者
=定義があいまいな言葉を悪用する詐欺師」
がよく使う。

バズワードとは、何か新しい重要な概念を表しているよう見えるが、実際は明確な定義や範囲が定まっていない、都合よく引用される言葉。
「陰謀論」がレッテル張りに悪用される場合も陰謀論はバズワード。

典型的な曖昧な詐欺ワードである
「ユダヤ人」の定義
①ユダヤ人が母 ←Xの定義にXは使えない
②ユダヤ教徒 ←宗教で民族は定義不可

ユダヤ人の母がユダヤ人っておいおい。
「Xの母がX」はXの説明にXを使っているのでアウト。
「リンゴとはリンゴの木からなるものである」みたいな定義。
こんな定義すらまともにされていない言葉を使っていたら何も具体的なことは言えない。

私のユダヤ人の定義は、
「遺伝的ユダヤ人、つまりユダヤ民族は存在しない。ユダヤ教徒は実在する。」
ユダヤ教徒は本人の思想の問題だから母親の思想とは無関係。
そもそもユダヤ教社会は男系社会なのでは母親が基準である時点でおかしい。
「ヤコブの娘は数えない」など、基本的に女は名前すら書き残されていない。数にすら入れてもらえない。
母方を辿って何か意味が有るのか?途中で途切れるのに。

そもそもユダヤ人という民族自体存在しない。
聖書の登場人物が実在した考古学的証拠もなく、ヘロドトスも言及していないので聖書のユダヤ人は実在せず遺伝子も子孫も実在しない。

「自分はユダヤ人であると自称している人々」を
面倒くさいからユダヤ人と呼んでいるだけ。
ユダヤ人の定義とは「ユダヤ教徒」でしかない。
こんなザルな定義でいいのなら仏教徒は仏人?
キリスト教徒はキリ人?

本家本元・元祖12部族(実在しない)が既に異教徒(多神教信者)と混血しているのだが何人と呼べばいい?

で、クリスチャンやイスラム教徒の人を「ユダヤ人」や「ユダヤ系だよ」って言っている人の「ユダヤ」って何?
単に祖先にユダヤ教徒がいたと言いたいだけ?
聖書のユダヤ人なんて実在しないんだから、遺伝的に聖書の民の子孫なんていない。
それならもう、ユダヤ教徒か否かで判断するしかない。
なのにユダヤ「人」?
はっきり言ってユダヤ「人」って言葉を使う時点で罠にはまる。
ユダヤ「教徒」って言えばいい。
そもそも英語だとどちらもjewだから日本人狙い撃ちな気がする。
ユダヤ人=ユダヤ教徒。
ユダヤ民族=ユダヤ教徒。
なのに、思想も発想も完全にキリスト教徒の人をなぜユダヤと呼ぶのか。
思想も発想も完全にイスラム教徒の人をなぜユダヤと呼ぶのか。
思想も発想も完全に自然崇拝アニミズム多神教の一般的日本人をなぜユダヤと呼ぶのか。
ユダヤユダヤ言うくせにキーパーソンがキリスト教関係者ばかりなのはなぜか。
ユダヤ陰謀論を発明し、反ユダヤ主義で被差別層を作って不満をそらし、ユダヤ教徒に金融特権を与えたカトリックの組織であるイエズス会をなぜユダヤと呼ぶのか。
「サンヘドリン」を強調するクリスチャンである宇野正美のユダヤ陰謀論本『ユダヤが解ると世界が見えてくる』がベストセラーとなるのはなぜか。

「クリスチャンはユダヤの手先(ユダヤ>キリスト)」と主張する人はなぜ、クリスチャンが書いたユダヤ陰謀論がベストセラーになる矛盾を無視するのか。
真犯人が「俺たちが犯人でーす」って主張する本を出版するのをOKすることを説明できるの?
自分が黒幕だと大々的に宣伝する真犯人なんてありえないので、ユダヤ陰謀論は嘘。
逆に、「キリスト>ユダヤ」
かつ、「ユダヤ」=キリスト教の盾
と考えるとすべて辻褄があいます。
これらの「ユダヤ」ってぜーーーーんぶ中身がキリスト教ってこと。

この「ユダヤ」を「神道という日本の偽伝統」に置き換えたのが神道カルト=和風キリスト教。
先述したように、神道カルトの特徴である日ユ同祖論の根拠となるユダヤ「民族」なんて実在しません。
というか、神道カルトがなぜ日本人は記紀の民でアマテラスの子孫とは言わずに、聖書の民でユダヤ人の子孫って言いまくるのかをもっと考えろって!
なぜ神道カルトがアマテラスアマテラスではなくユダヤユダヤうるさいか考えろって!
神道カルト=和風キリスト教の代表格である生長の家(大本教派生)がユダヤ陰謀論本を出していた時点で大本系の正体がわかるでしょ?
光明思想普及会(イルミなんちゃらって訳したくなるなあ)って名前で生長の家だと多少わかりにくくしていましたけどね。


旧約聖書は代表的な三大一神教に共通している聖典なので、旧約聖書に基づいているだけではユダヤ教だと特定できない。

「本物」ユダヤVS「偽」ユダヤ
も嘘。
二択の罠。
二択の前提を疑わせない詐術。
ユダヤ教徒か否かが問題なだけ。
神道を景教とかユダヤ教とか言ってるやつって、自然崇拝(被造物に過ぎない自然の神格化)が一神教ではタブーってことすら知らないか、わざとデマ流してるのだろう。


「メイソンはユダヤ組織」も典型的なバズワードによる論点ずらし。

こういうことを言っている人の大半はキリスト教のデマ文書のコピー機。

カトリックはメーソン入会禁止ってことすら知らないんだろうなあ。
メーソンがプロテスタントばかりなのも知らないんでしょ。
そもそも(少なくとも近代的)フリーメイソンは最初はユダヤ教徒の入会を禁止していたから明らかにキリスト教系組織ってことすら知らないんだろうなあ。
しかもメイソンも新キリスト教(グノーシスなど)が中核なので反ユダヤ主義だったからユダヤ教徒差別をしていたし。
メーソンはキリスト教の異端派(カトリック視点)であって、ユダヤじゃないし。
そりゃメンバーにユダヤ教徒は多少はいたけどさ、「近代思弁的フリーメーソンの父」デザギュリエがプロテスタントなのはどうなの?
「近代思弁的フリーメーソンの父」と呼ばれるデザギュリエはユグノー教徒の迫害を逃れてきた亡命フランス人で、大ロッジ発足にも大きく関わっている。
長老派の牧師で、博識で知られたジェームズ・アンダーソンに、「アンダーソン憲章」を作るように命じた。
つまり、フリーメーソンの憲法とでも言うべき、「アンダーソン憲章」を作ったのって長老派(カルバン系プロテスタント)の牧師アンダーソンなんだけど。

カルヴァン系キリスト人の陰謀!

長老派もユグノーもカルヴァン派プロテスタントでカトリックと対立していたんだけど。
メイソンの中核のどこがユダヤなの。
どうみてもメイソンの中核は反カトリックでしょ。
反カトリックだから異端派やプロテスタントや科学者(=錬金術師)だらけ。

あと、ユダヤ=フリーメーソン陰謀論を広めている勢力の一つがメイソン。
メイソンのフォード(自動車で有名)がユダヤ陰謀論を積極的に広めたことすら知らないの?
あの自動車王ヘンリー・フォードが、「プロトコル」を本物と信じ込み、「国際ユダヤ人」なる反ユダヤ本をプロデユースして、50万部を売り上げるベストセラーとなり、16ヶ国語に翻訳されたことすら知らないの?

フォードはナチスの協力者。
ナチスのスポンサーはカトリック。
あれれ、メイソンとカトリックもフォードの頃には上層部は対立せずにグルになってでユダヤ叩きやってるね。
初期メイソンも「ユダヤ人の入会禁止+反ユダヤ主義」というキリスト教の伝統を守っていたんだね。

なぜ「キリスト教=フリーメーソン陰謀論」をメーソン(=新キリスト教)もカトリック(旧キリスト教)も広めないかわかるでしょ?
自分たちが悪者で―すなんていうわけないからだよ。
メイソンもカトリックのやり方を真似たんだね。
陰謀論の作り方の勉強をしたんでしょうね。
イルミナティ陰謀論を作ったのはカトリックの神父ですからね。

曖昧ワードの代表であるイルミナティ。

イルミナティを黒幕だという人の大半が元ネタのババリアのイルミナティについて無知すぎ。
ヴァイスハウプトのイルミナティは啓蒙主義。
「啓蒙主義=知識を与えることは善」
は、
「キリスト教の反知性主義=知識を与えないことが善」
(ウソがばれるから余計なことを知るんじゃねーよ)
を否定するので、既存のキリスト教勢力には都合が悪かった。
アダム・ヴァイスハウプトはイエズス会式の教育を受けたが、フランスの啓蒙主義や百科全書派の書を読みふけるようになり、次第に反イエズス会の思想に染まっていった。
アダム・ヴァイスハウプトが自由主義の秘密結社の設立を決心した大きな原因が、イエズス会による迫害。
狂信的な反フリーメーソン論者として知られたバリュエル神父やロビンソン教授らが、イルミナティを悪魔崇拝の政治的陰謀結社とする本やパンフを撒き散らしたことの影響が今も残っている。

ババリアのイルミナティのシンボルを一つ目だという人は高確率でデマをつかまされているので信用できない。
フクロウこそがババリアのイルミナティのマークってことすら知らない人がキリスト教のデマパンフの罠を逃れられるとは考えられません。
初期のイルミナティの位階は、新参入者、ミネルヴァル、ミネルヴァル天啓の3つで、元ネタは明らかにミネルヴァ(ミネルウァ、アテナ)。

ババリアのイルミナティ
○キリスト教系組織 ×ユダヤ
○梟がシンボル ×一つ目
○ロスチャイルドは創始者と無関係
○イエズス会士バリュエルに陰謀の黒幕にされる
○秘密結社と悪魔崇拝・ユダヤ・ルシファーを結びつける情報は全てバチカンのデマ。
真の黒幕は自分が黒幕になる情報を流さない。

ヴァイスハウプトがユダヤ人である証拠なし。反ユダヤ・ユダヤ陰謀論はイエズス会(バチカン)の伝統。イルミナティ結成者をユダヤ人だという主張は情報源が同じで書き方を変える努力がない。
バリュエルの死後に彼の幻のユダヤ陰謀論本の噂が流れた。
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/20703727.html

イルミナティ陰謀論の起源はイエズス会士バリュエルの本。 彼の死後に彼の幻のユダヤ陰謀論(✝の伝統)本の噂が流れた。 バチカンの手先が情報源の秘密結社の陰謀論は嘘の塊↓
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/20613985.html
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/20688914.html

イルミナティ陰謀論を広めたイエズス会士バリュエルの著作の概要
仏語で1797-98年、英訳版を1799年に出版。翻訳で更に広まる。
フランス革命の黒幕はヴォルテールら啓蒙思想の百科全書派(科学と理性重視メーソン)、フリードリヒ2世(プロイセン王)、ババリアのイルミナティだと指摘。


バズワードの項目の最後は「カバラ」。
最低でもユダヤ・カバラとクリスチャン・カバラを分けましょうね。

ひも付き陰謀論者が布教するカバラはクリスチャンカバラばっかりなので当然紀元前(キリスト教誕生以前)に存在することはありえません。
本家ユダヤカバラは本来は旧約聖書の解釈中心で生命の樹は十二世紀ごろに原型ができた程度。十二世紀に生命の樹カバラの原型を作った盲人イサクすら知らねえんだろ?
12世紀、十二世紀、じゅうにせいきですよ!
しかも、カバラ三大聖典はすべて紀元前後の本です。

というかクリスチャンカバラを布教するやつがキリスト教側なのは当然でしょ。
神道カルトがクリスチャンカバラを布教するのも中核がキリスト教(の異端派)だから。
一神教と新プラトン主義とグノーシス主義が前提の和風キリスト教が神道カルトです。

circular, harmonic crossをシンボルとする
グノーシス主義とは
①物質=悪
Vs 
非物質(魂など)=善
の善悪二元論

②物質を創造した造物主ゴッドは悪魔だから偽物で下位

③上位の真の善なる神が存在する

④人間の本質(内なる神性)と至高神が本来同一であるという「グノーシス(知識、認識)」を得ることで真の神と合一できる
(真の善なる神と合体して自身が神となる)

という思想です。
既存のキリスト教を否定する、新キリスト教勢力が大好きな思想です。
というか、スピリチュアルの元ネタの一つです。マニ教ももろにグノーシス。
グノーシスってインド哲学の梵我一如が元ネタっぽいね。
でもグノーシスって欲望を抑えて制御する訓練なしだと選民思想野郎だらけになるね。
実際にグノーシス系カルトがたくさんあるし。
仏教みたいに我欲をなくす修行を積むほどに上に登れるシステムにしないとダメだね。
欲望を抑えるシステムにしてもあれだけ上層部が腐るのだから、我欲を抑えない仏教否定勢力の上層部はお察し。

ところで、子供たちに安全な商品とか言ってるホワイトフードのシンボルがグノーシス派のハーモニック・クロスっぽいんですよね。
肉体や物質世界を邪悪と憎むグノーシス派がいくら子供に安全なものを言っても1ミリも説得力がない。
ホワイトフードのシンボルがグノーシス派のハーモニック・クロス

・善悪二元論を悪用した誘導を避ける

二項対立を活用すると非常に説明しやすいのですが、善悪二元論に誘導する手口があるので注意。
私は両側とも上層部はグルで胴体は同じだということで害を中和しています。

イルミナティではなく、啓蒙主義派の新キリスト教勢力(ドイツとフランス系の欧州貴族)と表現すべきだと考えています。
ロスロック対立論(ロスチャイルドVSロックフェラー)も誤解を招くので、

欧州貴族の新キリスト教
(宗教統一=エキュメニズム賛成派。
一神教的多神教OK。新プラトン主義、グノーシス、スウェーデンボルグ派、スピリチュアル、ニューエイジ、神智学など)
VS
保守、原理主義、福音派
(宗教統一反対。既存のキリスト教維持=多神教と「神との合一」の否定)

など、用語でいきなり躓きにくいようにすべきだと考えます。
躓きにくいとは、調べて出るって意味です。
上記の単語で意味不明なものがあるなら概要だけは知っておいてください。

特に
「エキュメニズム
=キリスト教の教派を超えた結束を目指す主義、キリスト教の教会一致促進運動」
は知らないなら必ず歴史を調べてください。最重要レベルですよ。
スコットランドのエディンバラとスウェーデン(ボルグ)系の情報に注目。
というか宗教統一に支配層は動いているって言っている人がエキュメニカル運動知らないってやっぱり「中核だけはコピーしないコピー機」……以下略

ロスロック対立論って二元論なので危ないです。
そこから✝お得意の善悪二元論(一方は悪、一方は正義)に誘導してくるし。

もぐらさんの陰謀論のガイドライン
http://www.mkmogura.com/site/menu3.html
の参考図書の「ロックフェラー対ロスチャイルド」の著者が藤井昇とあります。
藤井昇は共和党とコネクションがあると思われます。
藤井昇は藤井厳喜の本名。
早稲田卒でハーバードに留学。
拓殖大、警察大学、ケンブリッジ・フォーキャスト・グループ・オブ・ジャパン代表取締役。保守派言論人
1999年、岡崎久彦元駐タイ大使、安倍晋三、西村眞悟らの協力を得て、日米保守会議を創設。リチャード・アーミテージ元米国務副長官、ロバート・ゼーリック世界銀行総裁(共に当時は民間人)等を日本に招聘し、日米政界間のパイプ造りに奔走
などと百科全書派系のウィキにあります。

もろにロックフェラー「を目立つ囮にしている」キリスト教維持派(正確には石油利権のアメリカ新興財閥+福音原理主義)くさいですな。

この本には戦前の二大政党の二項対立まで言及されていたのが興味深かったです。

民政党=三菱財閥=井上準之助蔵相=米モルガン財閥=英ロスチャイルド財閥
VS
政友会=三井財閥=高橋是清蔵相
=米クーン・ローブ商会・独ワーバーグ商会=米ロックフェラー財閥

だそうですが怪しい。

結局、ロスロック対立論も耶蘇教流の二元論製品!
ある程度は正しいが。
もぐらさんのいう共産主義ロックフェラー、つまり当時はそんなに分かれていなかった、派閥はそこまで二分(あくまで傾向)されていなかったと思う。
派閥分析は結構あたってますけど、なぜ二元論(0% or 100%、all or nothing)にするの?
二元論の罠と危険性を指摘する人がロスロック二元論にはまっていたりしますからね。
ロスロック対立論はあくまで左右の両手に対する理論であって、ちゃんと胴体という第三者(本体。世界連邦や選帝侯の末裔やハプスブルクなど)もからめないと、✝流の二元論の囮に囚われて終わりです。

結局は、北欧の王侯貴族、スウェーデンボルグを源流とする改造版✝、神聖ローマ皇帝と選帝侯と科学重視メイソンの啓蒙主義とエキュメニカル運動(世界教会主義)、世界連邦が中核。
神聖ローマと北欧こそが隠されるところです。
露骨に北欧系の陰謀論情報は少ないですし。
北欧関連ではヘッセンやハプスブルク級の貴族の名前すら私は知りません。スウェーデンボルグほどの大物は別ですが。科学重視メイソンを語るなら北欧は必須なのにね。
何がノーベル賞がロスチャイルド賞だよ!
決めているのがスウェーデンとノルウェーなんだから、エキュメニカル・スウェーデンボルグ賞だろ!

ノーベル賞に対するロスチャイルド陰謀論は北欧に突っ込ませないのが目的ですね。

・政党名はバズワードなので中身を私は指摘する。

自民党=ワールドメイト+生長の家(初代派)+神道政治連盟。
民主党=ワールドメイト+生長の家(3代目派)+スピリチュアル。
公明党=創価学会(大日本皇道立教会が母体
小沢=ワールドメイト

昭和13年の「日本を繞るユダヤ問題」なるユダヤ陰謀論の発行者「光明思想普及会」は「生長の家」。
日本を繞るユダヤ問題

光明思想普及会=1930年、生長の家出版部として出発。
34年、光明思想普及会
46年、日本教文社
谷口雅春(生長の家創始者)などの生長の家関係者の書籍を刊行
近年はスピリチュアリティを扱う
本社ビルの上に「生命の實相」と書かれた看板

谷口雅春は大本教出身。
第二次大戦期右傾。国家主義・全体主義・皇国史観を説く。
勤労奉仕、戦闘機を軍に献納するなど生長の家は教団を挙げ戦争に協力。
信者には、高級軍人の家族が多くいた戦争肯定派。

生長の家の婦人誌が『白鳩』。
ハトは✝聖霊✝のシンボル。

生長の家形の7光明思想普及会(日本教文社の前身)が出していた月刊「いのち」は反ユダヤ主義(キリスト教の伝統)。
キリスト教系のデマパンフレットである「シオンの議定書」掲載をはじめ、谷口雅春をセンターに、蓑田胸喜、浅野晃、保田與重郎、藤澤親雄、スメラ学塾の小島威彦も登場。
倉田百三とか武者小路実篤(仲良きことは美しき哉)らも生長の家には逆らわない。
生長の家(光明思想普及会)の雑誌「いのち」の広告が反ユダヤ主義

生長の家(光明思想普及会)の雑誌「いのち」の広告が反ユダヤ主義

生長の家の日本教文社及びその裏の末一稲荷神社と呼ばれる社の境内(生長の家が管理しているらしい)は坂倉事務所のすぐ隣、つまりスメラ学塾の脇にある。

・寸止め陰謀論者の話を聞いたり本を読んでも真理の探究の障害になるだけ。
①天皇絶対
(天皇擁護)

②万教帰一
(ワンワールド推進用の東アジア共同体礼讃)
という生長の家の教義に忠実なコシミズ。
教皇派vs天皇派って
キリスト教保守VS新キリスト教派?
(RAPTって自分の信仰と異なるキリスト教派閥は熱心にたたくよね)
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-82.html

コシミズは欧州系っぽいのにアメリカの白人至上主義的であるのは、親分が左右の胴体に近い生長の家だからでしょうね。
①天皇絶対(天皇擁護)
②万教帰一(ワンワールド推進用の東アジア共同体礼讃)
とい
う生長の家の教義に忠実なコシミズ。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-89.html

要約はようやく終わり。
読者さんはもうおなか一杯じゃね?
ここからは「大事なことなので何度も言いました」の実践だ!

――マクラ――

今回はメルセゲルさんの「(敵が有効だと判断している)敵のやりかたを真似る」を実践します。
具体的には「中身よりもわかりやすい説明の技術重視」です。
このまま真似るとまずいので、
「良い中身をわかりやすく、答えの押し付けにならないように説明」する技術を実践します。
(メルセゲルさんは勝手に改変しちゃダメと言っていますが説明術では例外でしょう)
説明の技術を学ぶとわかるのですが、本当にわかりやすい説明って一種の洗脳術です。
だからひも付き陰謀論者はあんなに「まるでプロのゴーストライターに書かせたかのように」文章が一番初めの記事からうまいんですよね!
文章じゃないけど、ひも付き工作員は「まるで訓練された宣教師のように講演や口頭での発言がうまいんですよね!
私は何回か大勢の前でスピーチをしたり、××××(伏字)を披露したことがありますが、よく講演やっている工作員みたいにできませんよ。
あれは訓練がいりますね。信者は天性の才能とかほざきそうですけど。

ねこたさんの音声を聞いてみ?
話し慣れていないことが明らかじゃないですか。
絶対ヴォイストレーニングも説明術も講演術の訓練を受けていませんね。

私の過去記事は今見てみるとひどいなー。典型的な悪文じゃないか。
いやほんとすいません。でも反面教師として残しておきます。

ある程度のわかりやすさは必要なのは確か。
いわゆる「わかりやすい」、別名「馬鹿でもわかる」説明の技術は大事。

――本題――

・視覚効果を意識(文字の色と大きさと画像)

こんな感じ↓
ねこた(おしまい!) ‏@lakudagoya 2月16日
”違いのわかる陰謀論ってコーヒーの宣伝かよって。で、耶蘇教信者は仏教と耶蘇教は同じなんて、またまたマニさんみたいな事言っちゃってるけどさ
引用《西洋思想すべて「ゴッドや不滅の霊魂など、永遠の不変の超越的なものが実在する」
仏教「全部、妄想だね」
これのどこが同じなんだよ教えてくれ



私のブログ記事は文字の大きさは「中」を基本にしています。
標準の大きさだと読みにくいし、誤字脱字を発見しにくいからです。

・冒頭に要約をつける。

・最後に「参考資料」をつけることで、長すぎる引用(による脱線)を防ぐ。

・「キレ」を重視するため
①文章をわざと短く切る
②ズドンといきなり答えから書く
③記事が長くなれば分割
④悪い意味でひっぱらない
(knznymmmy ‏@knznymmmyプー閣下流のわかりやすい説明の技術)

プー閣下のブログとツイッターで学んだプー閣下の文章術はほかには、
⑤画像を多用
⑥同じことを反復する(特に重要なことを)
⑦長すぎない引用
⑧「文章の流れ・文脈・つながり」を意識した文章構成

⑤はいい意味で漫画化するってことです。
こんな感じ↓
circular, harmonic crossをシンボルとする
グノーシス主義とは
①物質=悪
Vs 
非物質(魂など)=善
の善悪二元論

②物質を創造した造物主ゴッドは悪魔だから偽物で下位

③上位の真の善なる神が存在する

④人間の本質(内なる神性)と至高神が本来同一であるという「グノーシス(知識、認識)」を得ることで真の神と合一できる
(真の善なる神と合体して自身が神となる)

という思想です。
既存のキリスト教を否定する、新キリスト教勢力が大好きな思想です。
というか、スピリチュアルの元ネタの一つです。マニ教ももろにグノーシス。
グノーシスってインド哲学の梵我一如が元ネタっぽいね。
でもグノーシスって欲望を抑えて制御する訓練なしだと選民思想野郎だらけになるね。
実際にグノーシス系カルトがたくさんあるし。
仏教みたいに我欲をなくす修行を積むほどに上に登れるシステムにしないとダメだね。
欲望を抑えるシステムにしてもあれだけ上層部が腐るのだから、我欲を抑えない仏教否定勢力の上層部はお察し。

ねこた(おしまい!) ‏@lakudagoya
何で子供たちに安全な商品とか言ってるホワイトフードのシンボルがグノーシス派のハーモニック・クロスなんですか? 肉体や物質世界を邪悪と憎むグノーシス派がいくら子供に安全なものを言っても1ミリも説得力ねーよ。 pic.twitter.com/LfrCpj5K6a
ホワイトフードのシンボルがグノーシス派のハーモニック・クロス

”「丸に十字」はヤツらの大好きなシンボルだ。
例えばグノーシス主義のシンボルでもある。→wiki

flag-invisible-empire-KKK.jpg
或いは以前も紹介したKKK。

マルタ騎士団
マルタ騎士団

ナチスのハーケンクロイツ
ナチスのハーケンクロイツ。
十字の部分がマンジになっているが回転するものだからこれでいい。

トゥーレ協会
ナチスの母体のひとつ。トゥーレ協会→リンク

丸に十字を回すまどマギOP
丸に十字を回すと言えば以前も紹介したまどマギOP

田布施システムにもつながる島津家の家紋
田布施システムにもつながる島津家の家紋。

NATOのロゴも丸に十字
NATOのロゴも丸に十字→公式HP

「弥勒の神の標章は○に十字の神定め」と称する大本教
「弥勒の神の標章は○に十字の神定め」と称する大本教。(霊界物語)
今現在、公式HPのトップには丸に十字は無くなっている。
以前は堂々と掲げていた。→参考リンク

統一教会の旧ロゴ
統一教会の旧ロゴ。(2015年8月に団体名を改称しロゴも変えた)

卍生長の家卍
生長の家。

緑の世界連邦運動協会
世界連邦運動協会も堂々と丸に十字を掲げる。
しかも「偽りのキリスト」のテーマカラーでもある緑→リンク。

BOJ=日銀(目+丸に十字)
BOJ=日銀。 挙げていけばキリがない。”
宇多田ぴカルとかいう、こうさくいんの話3
http://codetripleseven.blogspot.jp/2015/12/3.html

・「意味の範囲が広すぎる曖昧語」(バズワード)を使わない。

『黒幕=「意味の範囲が広すぎる曖昧語」』
とする陰謀論は全て偽り。
黒幕は「ユダヤ人」
「イルミナティ」
「メーソンはユダヤ」は
「支配層は悪魔」
と同じく何も言っていないに等しい。
「有名陰謀論者
=」定義があいまいな言葉を悪用する詐欺師」
がよく使いますね。

バズワードとは、何か新しい重要な概念を表しているよう見えるが、実際は明確な定義や範囲が定まっていない、都合よく引用される言葉のことです。
「陰謀論」がレッテル張りに悪用される場合も陰謀論はバズワードです。

典型的な曖昧な詐欺ワードである
「ユダヤ人」の定義
①ユダヤ人が母 ←Xの定義にXは使えない
②ユダヤ教徒 ←宗教で民族は定義不可

ユダヤ人の母がユダヤ人っておいおい。
「Xの母がX」はXの説明にXを使っているのでアウト。
「リンゴとはリンゴの木からなるものである」みたいな定義だぞ。
こんな定義すらまともにされていない言葉を使っていたら何も具体的なことは言えません。

私のユダヤ人の定義は、
「遺伝的ユダヤ人、つまりユダヤ民族は存在しない。ユダヤ教徒は実在する。」
です。
ユダヤ教徒は本人の思想の問題だから母親の思想とは無関係。
そもそもユダヤ教社会は男系社会なのでは母親が基準である時点でおかしい。
聖書の登場人物が実在した考古学的証拠もなく、ヘロドトスも言及していないので聖書のユダヤ人は実在せず遺伝子も子孫も実在しません。
ユダヤ教徒は実在。
で、クリスチャンやイスラム教徒の人を「ユダヤ人」や「ユダヤ系だよ」って言っている人の「ユダヤ」って何?
単に祖先にユダヤ教徒がいたと言いたいだけ?
聖書のユダヤ人なんて実在しないんだから、遺伝的に聖書の民の子孫なんていない。
それならもう、ユダヤ教徒か否かで判断するしかない。
なのにユダヤ「人」?
はっきり言ってユダヤ「人」って言葉を使う時点で罠にはめられています。
ユダヤ「教徒」って言えばいいのです。
そもそも英語だとどちらもjewだから日本人狙い撃ちな気がする。
ユダヤ人=ユダヤ教徒。
ユダヤ民族=ユダヤ教徒。
なのに、思想も発想も完全にキリスト教徒の人をなぜユダヤと呼ぶのか。
思想も発想も完全にイスラム教徒の人をなぜユダヤと呼ぶのか。
思想も発想も完全に自然崇拝アニミズム多神教の一般的日本人をなぜユダヤと呼ぶのか。
ユダヤユダヤ言うくせにキーパーソンがキリスト教関係者ばかりなのはなぜか。
ユダヤ陰謀論を発明し、反ユダヤ主義で被差別層を作って不満をそらし、ユダヤ教徒に金融特権を与えたカトリックの組織であるイエズス会をなぜユダヤと呼ぶのか。
「サンヘドリン」を強調するクリスチャンである宇野正美のユダヤ陰謀論本『ユダヤが解ると世界が見えてくる』がベストセラーとなるのはなぜか。

「クリスチャンはユダヤの手先(ユダヤ>キリスト)」と主張する人はなぜ、クリスチャンが書いたユダヤ陰謀論がベストセラーになる矛盾を無視するのか。
真犯人が「俺たちが犯人でーす」って主張する本を出版するのをOKすることを説明できるの?
自分が黒幕だと大々的に宣伝する真犯人なんてありえないので、真犯人がユダヤ教徒であるなわけないじゃん
だからユダヤ陰謀論は嘘ですね。
逆に、「キリスト>ユダヤ」
かつ、「ユダヤ」=キリスト教の盾
と考えるとすべて辻褄があいます。
これらの「ユダヤ」ってぜーーーーんぶ中身がキリスト教ってこと。

この「ユダヤ」を「神道という日本の偽伝統」に置き換えたのが神道カルト=和風キリスト教。
先述したように、神道カルトの特徴である日ユ同祖論の根拠となるユダヤ「民族」なんて実在しません。
というか、神道カルトがなぜ日本人は記紀の民でアマテラスの子孫とは言わずに、聖書の民でユダヤ人の子孫って言いまくるのかをもっと考えろって!
なぜ神道カルトがアマテラスアマテラスではなくユダヤユダヤうるさいか考えろって!
神道カルト=和風キリスト教の代表格である生長の家(大本教派生)がユダヤ陰謀論本を出していた時点で大本系の正体がわかるでしょ?
光明思想普及会(イルミなんちゃらって訳したくなるなあ)って名前で生長の家だと多少わかりにくくしていましたけどね。


あと言っとくけど、旧約聖書に基づいているだけではユダヤ教だと特定できないからね。
旧約聖書は代表的な三大一神教に共通している聖典だからね。
実は日本人はキリスト人とイスラム人のハーフの子孫なんだよ嘘だよ。
日本人は仏教人の子孫だから仏教人という民族だよ半分嘘半分真実だよ。

「本物」ユダヤVS「偽」ユダヤ
も嘘だからね。
二択の罠。
二択の前提を疑わせない詐術だよ!
ユダヤ教徒か否かが問題なだけだよ。
神道を景教とかユダヤ教とか言ってるやつって、自然崇拝(被造物に過ぎない自然の神格化)が一神教ではタブーってことすら知らないか、わざとデマ流してるんでしょうね。


「メイソンはユダヤ組織」も典型的なバズワードによる論点ずらし。

こういうことを言っている人の大半はキリスト教のデマ文書のコピー機です。
カトリックはメーソン入会禁止ってことすら知らないんだろうなあ。
メーソンがプロテスタントばかりなのも知らないんでしょ。
そもそも(少なくとも近代的)フリーメイソンは最初はユダヤ教徒の入会を禁止していたから明らかにキリスト教系組織ってことすら知らないんだろうなあ。
しかもメイソンも新キリスト教(グノーシスなど)が中核なので反ユダヤ主義だったからユダヤ教徒差別をしていたし。
メーソンはキリスト教の異端派(カトリック視点)であって、ユダヤじゃないし。
そりゃメンバーにユダヤ教徒は多少はいたけどさ、創設者はどうなの?
フリーメーソンの憲法とでも言うべき、「アンダーソン憲章」を作ったのって長老派(カルバン系プロテスタント)の牧師なんだけど。
「近代思弁的フリーメーソンの父」と呼ばれるジョン・テロフィロス・デザギュリエ(デサグリエ)はプロテスタントなんだけど。
デザギュリエがユグノー教徒の子供として生まれ、11歳のときナントの勅令の廃止によりカトリックに迫害されて、家族とともにイギリスに逃れた亡命フランス人で、イングランドの大ロッジ発足にも大きく関わっているんだけど。
ちなみにデサグリエの上司がフリーメーソン界の大魔王ニュートン。
長老派もユグノーもカルヴァン派プロテスタントでカトリックと対立していたんだけど。
メイソンの中核のどこがユダヤなの。
どうみてもメイソンの中核は反カトリックでしょ。
反カトリックだから異端派やプロテスタントや科学者(=錬金術師)だらけなのです。

あと、ユダヤ=フリーメーソン陰謀論を広めている勢力の一つがメイソンですよ。
メイソンのフォード(自動車で有名)がユダヤ陰謀論を積極的に広めたことすら知らないの?
フォードはナチスの協力者。
ナチスのスポンサーはカトリック。
あれれ、メイソンとカトリックもフォードの頃には上層部は対立せずにグルになってでユダヤ叩きやってるね。
初期メイソンも「ユダヤ人の入会禁止+反ユダヤ主義」というキリスト教の伝統を守っていたんだね。

なぜ「キリスト教=フリーメーソン陰謀論」をメーソン(=新キリスト教)もカトリック(旧キリスト教)も広めないかわかるでしょ?
自分たちが悪者で―すなんていうわけないからだよ。
メイソンもカトリックのやり方を真似たんだね。
陰謀論の作り方の勉強をしたんでしょうね。
イルミナティ陰謀論を作ったのはカトリックの神父ですからね。

はい、できてきましたね、曖昧ワードの代表であるイルミナティ。
(⑧「文章の流れ・文脈・つながり」を意識した文章構成
の実践。
Aの話題からいきなりBの話題に飛ばない。
Aを話す中で自然とBの話題が出て 「ところでBといえば~」みたいな話題の転換。
あまりうまくいってない

イルミナティを黒幕だという人の大半が元ネタのババリアのイルミナティについて無知すぎます。
ヴァイスハウプトのイルミナティは啓蒙主義ですよ?
「啓蒙主義=知識を与えることは善」
は、
「キリスト教の反知性主義=知識を与えないことが善」
(ウソがばれるから余計なことを知るんじゃねーよ)
を否定するので、既存のキリスト教勢力には都合が悪かったのです。

ババリアのイルミナティのシンボルを一つ目だという人は高確率でデマをつかまされているので信用できません。
フクロウこそがババリアのイルミナティのマークってことすら知らない人がキリスト教のデマパンフの罠を逃れられるとは考えられません。
WS000044.jpgWS000037.jpgWS000038.jpg
子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi
ババリアのイルミナティ
○キリスト教系組織 ×ユダヤ
○梟がシンボル ×一つ目
○ロスチャイルドは創始者と無関係
○イエズス会士バリュエルに陰謀の黒幕にされる
○秘密結社と悪魔崇拝・ユダヤ・ルシファーを結びつける情報は全てバチカンのデマ。
真の黒幕は自分が黒幕になる情報を流さない。

ヴァイスハウプトがユダヤ人である証拠なし。反ユダヤ・ユダヤ陰謀論はイエズス会(バチカン)の伝統。イルミナティ結成者をユダヤ人だという主張は情報源が同じで書き方を変える努力がない。
バリュエルの死後に彼の幻のユダヤ陰謀論本の噂が流れた。
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/20703727.html

@knznymmmy イルミナティ陰謀論の起源はイエズス会士バリュエルの本。 彼の死後に彼の幻のユダヤ陰謀論(✝の伝統)本の噂が流れた。 バチカンの手先が情報源の秘密結社の陰謀論は嘘の塊↓
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/20613985.html
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/20688914.html

イルミナティ陰謀論を広めたイエズス会士バリュエルの著作の概要
仏語で1797-98年、英訳版を1799年に出版。翻訳で更に広まる。
フランス革命の黒幕はヴォルテールら啓蒙思想の百科全書派(科学と理性重視メーソン)、フリードリヒ2世(プロイセン王)、ババリアのイルミナティだと指摘。

バズワードの項目の最後は「カバラ」。
最低でもユダヤ・カバラとクリスチャン・カバラを分けましょうね。

ひも付き陰謀論者が布教するカバラはクリスチャンカバラばっかりなので当然紀元前(キリスト教誕生以前)に存在することはありえません。
本家ユダヤカバラは本来は旧約聖書の解釈中心で生命の樹は十二世紀ごろに原型ができた程度。十二世紀に生命の樹カバラの原型を作った盲人イサクすら知らねえんだろ?
12世紀、十二世紀、じゅうにせいきですよ!
しかも、カバラ三大聖典はすべて紀元前後の本です。

というかクリスチャンカバラを布教するやつがキリスト教側なのは当然でしょ。
神道カルトがクリスチャンカバラを布教するのも中核がキリスト教(の異端派)だから。
一神教と新プラトン主義とグノーシス主義が前提の和風キリスト教が神道カルトです。


・抽象的になったら具体例を挙げる.

はい、突然ですが具体例の列挙という名のCM入りまーす!

自民党=ワールドメイト+生長の家(初代派)+神道政治連盟。
民主党=ワールドメイト+生長の家(3代目派)+スピリチュアル。
公明党=創価学会(大日本皇道立教会が母体
小沢=ワールドメイト

菅野完 ‏@noiehoie 1月19日
インスタで投稿したらしり切れとんぼになった。 何が言いたいかというと、この昭和13年の「日本を繞るユダヤ問題」なるユダヤ陰謀論の本、発行者は「生長の家」だってこと。内容もなかなか香ばしい感じで、当時の彼らが何を考えてたかよくわかる。 https://twitter.com/noiehoie/status/689492772785549313 …
日本を繞るユダヤ問題

#本日ノ収穫物 昭和13年発行の「日本を繞るユダヤ問題」。著者は陸軍主計中将・辻村楠造。戦前の一時期流行ったユダヤ陰謀論の本なんだが、注目すべきは発行所。「株式会社光明思想普及会… http://ift.tt/1niJCec pic.twitter.com/op7jITjZqT

ken ‏@kenkatap 1月30日
光明思想普及会=1930年、生長の家出版部として出発
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%95%99%E6%96%87%E7%A4%BE …
▼34年、光明思想普及会
▼46年、日本教文社
▼谷口雅春、清超などの生長の家関係者の書籍を刊行
▼近年はスピリチュアリティを扱う
▼本社ビルの上に「生命の實相」と書かれた看板

ken ‏@kenkatap 2014年5月27日

谷口雅春=新宗教系教団・生長の家創始者
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%8F%A3%E9%9B%85%E6%98%A5#.E5.B0.82.E5.BE.93.E6.B4.BB.E5.8B.95.E5.AE.B6.E6.99.82.E4.BB.A3 …
▼大本の専従活動家になり、出口王仁三郎の口述筆記
▼第二次大戦期右傾。国家主義・全体主義・皇国史観を説く
▼勤労奉仕、戦闘機を軍に献納、教団を挙げ戦争に協力
▼信者には、高級軍人の家族が多くいた

小張 學 ‏@manauwf 1月23日
柳原白蓮『ことたま』。昭和18年のエッセイ初出に「白鳩(光明思想普及会)」。白鳩は生長の家の婦人誌。白蓮事件で大本の保護を受けた白蓮。谷口雅春とも繋がりがあったのだろうか。社会主義者・宮崎龍介の妻が皇道系宗教(当時)と関わり、しかも寄稿の内容がガンジーの平和思想。大変興味深い。

(ねここねこ注:ハトは✝聖霊✝のシンボル)

戦時下の生長の家祭りと聞いて。:光明思想普及会(日本教文社の前身)が出していた月刊「いのち」昭和13年1月号広告。「シオンの議定書」掲載をはじめ、谷口雅春をセンターに、蓑田胸喜、浅野晃、保田與重郎、藤澤親雄など香ばしすぎるメンツが。 pic.twitter.com/88GGRLcBOs
生長の家(光明思想普及会)の雑誌「いのち」の広告が反ユダヤ主義

生長の家(光明思想普及会)の雑誌「いのち」の広告が反ユダヤ主義

戦前の生長の家(光明思想普及会)が出していた雑誌「いのち」の広告。バリバリ反ユダヤ主義。これに、倉田百三とか武者小路実篤(仲良きことは美しき哉)らが毎号のように健筆を振るっていた。東京朝日新聞昭和12年12月22日より。

http://kyokounokoukoku.tumblr.com/post/115277801381/%E6%88%A6%E5%89%8D%E3%81%AE%E7%94%9F%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%AE%B6%E5%85%89%E6%98%8E%E6%80%9D%E6%83%B3%E6%99%AE%E5%8F%8A%E4%BC%9A%E3%81%8C%E5%87%BA%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E9%9B%91%E8%AA%8C%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A1%E3%81%AE%E5%BA%83%E5%91%8A%E3%83%90%E3%83%AA%E3%83%90%E3%83%AA%E5%8F%8D%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%AB%E5%80%89%E7%94%B0%E7%99%BE

寸止め陰謀論者の話を聞いたり本を読んでも真理の探究の障害になるだけ。
①天皇絶対
(天皇擁護)

②万教帰一
(ワンワールド推進用の東アジア共同体礼讃)
という生長の家の教義に忠実なコシミズ。
教皇派vs天皇派って
キリスト教保守VS新キリスト教派?
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-82.html

コシミズは欧州系っぽいのにアメリカの白人至上主義的であるのは、親分が左右の胴体に近い生長の家だからでしょうね。
①天皇絶対(天皇擁護)
②万教帰一(ワンワールド推進用の東アジア共同体礼讃)
という生長の家の教義に忠実なコシミズ。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-89.html

↑濃厚なCMだなあ……


・調べやすくするためにあまりに独自の分類をしない。
固有名詞は学術系の用語を使うことで、ネットや本や動画などで調べられるようにしないと情報の真偽判定すらできませんからね。
敷居を下げるためでもあります。


・善悪二元論を悪用した誘導を避ける

二項対立を活用すると非常に説明しやすいのですが、善悪二元論に誘導する手口があるので注意。
私は両側とも上層部はグルで胴体は同じだということで害を中和しています。

イルミナティではなく、啓蒙主義派の新キリスト教勢力(ドイツとフランス系の欧州貴族)と表現すべきだと考えています。
ロスロック対立論(ロスチャイルドVSロックフェラー)も誤解を招くので、

欧州貴族の新キリスト教
(宗教統一=エキュメニズム賛成派。
一神教的多神教OK。新プラトン主義、グノーシス、スウェーデンボルグ派、スピリチュアル、ニューエイジ、神智学など)
VS
保守、原理主義、福音派
(宗教統一反対。既存のキリスト教維持=多神教と「神との合一」の否定)

など、用語でいきなり躓きにくいようにすべきだと考えます。
躓きにくいとは、調べて出るって意味です。
上記の単語で意味不明なものがあるなら概要だけは知っておいてください。

特に
「エキュメニズム
=キリスト教の教派を超えた結束を目指す主義、キリスト教の教会一致促進運動」
は知らないなら必ず歴史を調べてください。最重要レベルですよ。
スコットランドのエディンバラとスウェーデン(ボルグ)系の情報に注目。
というか宗教統一に支配層は動いているって言っている人がエキュメニカル運動知らないってやっぱり「中核だけはコピーしないコピー機」……以下略

ロスロック対立論って二元論なので危ないです。
そこから✝お得意の善悪二元論(一方は悪、一方は正義)に誘導してくるし。

もぐらさんの陰謀論のガイドライン
http://www.mkmogura.com/site/menu3.html
の参考図書の「ロックフェラー対ロスチャイルド」の著者が藤井昇とあります。
藤井昇は共和党とコネクションがあると思われます。
藤井昇は藤井厳喜の本名。
早稲田卒でハーバードに留学。
拓殖大、警察大学、ケンブリッジ・フォーキャスト・グループ・オブ・ジャパン代表取締役。保守派言論人
1999年、岡崎久彦元駐タイ大使、安倍晋三、西村眞悟らの協力を得て、日米保守会議を創設。リチャード・アーミテージ元米国務副長官、ロバート・ゼーリック世界銀行総裁(共に当時は民間人)等を日本に招聘し、日米政界間のパイプ造りに奔走
などと百科全書派系のウィキにあります。

もろにロックフェラー「を目立つ囮にしている」キリスト教維持派(正確には石油利権のアメリカ新興財閥+福音原理主義)くさいですな。

この本には戦前の二大政党の二項対立まで言及されていたのが興味深かったです。

民政党=三菱財閥=井上準之助蔵相=米モルガン財閥=英ロスチャイルド財閥
VS
政友会=三井財閥=高橋是清蔵相
=米クーン・ローブ商会・独ワーバーグ商会=米ロックフェラー財閥

だそうですが怪しいな~。

結局、ロスロック対立論も耶蘇教流の二元論製品じゃねーか!
いや、ある程度は正しいのですけどね。
もぐらさんのいう共産主義ロックフェラー、つまり当時はそんなに分かれていなかった、派閥はそこまで二分(あくまで傾向)されていなかったと思うんですよね。
派閥分析は結構あたってますけど、何で二元論(0% or 100%、all or nothing)にするの?
二元論の罠と危険性を指摘する人がロスロック二元論にはまっていたりしますからね。
ロスロック対立論はあくまで左右の両手に対する理論であって、ちゃんと胴体という第三者(本体。世界連邦や選帝侯の末裔やハプスブルクなど)もからめないと、✝流の二元論の囮に囚われて終わりです。

結局は、北欧の王侯貴族、スウェーデンボルグを源流とする改造版✝、神聖ローマ皇帝と選帝侯と科学重視メイソンの啓蒙主義とエキュメニカル運動(世界教会主義)、世界連邦が中核ですよ。
神聖ローマと北欧こそが隠されるところです。
露骨に北欧系の陰謀論情報は少ないですし。
北欧関連ではヘッセンやハプスブルク級の貴族の名前すら私は知りません。スウェーデンボルグほどの大物は別ですが。科学重視メイソンを語るなら北欧は必須なのにね。
何がノーベル賞がロスチャイルド賞だよ!
決めているのがスウェーデンとノルウェーなんだから、エキュメニカル・スウェーデンボルグ賞だろ!
ノーベル賞に対するロスチャイルド陰謀論は北欧に突っ込ませないのが目的ですね。

エキュメニズム(世界教会主義)の重要個所を多少列挙しておきます。

・プロテスタントを中心とするキリスト教の教会一致運動を、エキュメニカル運動、エキュメニズム、「世界教会一致運動」という。

カトリックと正教会が中心ではないことが重要。

・エキュメニカル運動の出発点の一つであるエディンバラ宣教会議の議長だったジョン・ローリー・モットがノーベル平和賞(ノルウェー担当)を受賞。

・世界教会協議会(The World Council of Churches 、WCC)は、世界的なエキュメニカル組織で、スイスのジュネーヴが本拠地。
世界教会協議会は、1970年代テロ活動を行っていたグループに資金援助をしていた。

スイスを根拠地するエキュメニズム推進組織がテロ支援ってことは、テロは宗教統一のための自作自演なんでしょうね。


・北欧人の大半がルター派。
1947年、スウェーデンのルンドで、エキュメニカル運動をすすめるルター派世界連盟が組織され、多くのルター派教会(ルーテル教会)が加盟。

北欧のルター派はエキュメニズムの中核の一つ。

・ルター派教会の中でもスウェーデン国教会は最も進歩的で、スウェーデン国教会は同性愛者牧師の任職を認めた上に、女性同性愛者エヴァ・ブルンネをストックホルム教区監督に選出。

新キリスト教の特徴の一つが同性愛OK。

・20世紀になって盛んになったエキュメニズムは、1910年のエジンバラ世界宣教会議が源流の一つ。

スコットランド系の動きが大事。
英国分析にはスコットランド系とイングランド系とアイルランド系で分けないとダメ。

・エキュメニカル運動では、プロテスタントと正教会が加わる世界教会協議会(WCC) が取り組んでいた。カトリック教会も第2バチカン公会議(1962年 - 1965年)以降、エキュメニズム運動が全教会規模で盛んになった。
最も大きなキリスト教の教派の一つであるローマ・カトリック教会はWCCの正式なメンバーではないが、30年以上密接な関係。

・福音派はプロテスタントをエキュメニカル派(リベラル派)と福音派(聖書信仰派)の二派に分類する。
エディンバラ会議より、福音派とエキュメニカル派の分極化が始まったとされている。

バチカンの保守派と原理主義、福音派プロテスタントが、「反エキュメニズム」で組んでイルミナティ陰謀論や統一宗教批判を流布したりすることがあります。
宗教統一反対なのは既存のキリスト教による統一じゃないから気に入らないのです。
陰謀論は布教の手段として利用しています。

・本多庸一(ほんだ よういつ)は、1907年、日本メソヂスト教会を設立。同年青山学院の院長を退いて、初代監督となり、日本独自の宣教組織を確立。
1910年(大正9年)に英国エディンバラで行われた「世界宣教大会」に井深梶之助らと共に出席

・エジンバラ100周年記念世界宣教会議・東京大会、世界宣教東京大会の大会会長は日本人の奥山実。
大会会長の奥山実は、100年前のエディンバラ会議について肯定的。
奥山実(おくやまみのる) は、日本民族総福音化運動協議会総裁。
愛国少年として特攻隊を志願していた。
仏壇等の偶像を破壊するべきだと強く主張。
福音派を代表する牧師、神学者とみなされており、福音派を名乗っていたが、次第に聖霊派に接近。
日本文化チャンネル桜に出演。

右も左もエキュメニカルが主流で反対派がイルミナティ陰謀論などでかみついているのが現状。


・『古代ギリシャのリアル』のわかりやすくて楽しい説明の善用。

ギリシャ神話に最適な入門書 『古代ギリシャのリアル』に学ぶ、面白くてわかりやすい入門書の書き方。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-116.html
”面白くてわかりやすい入門書の書き方のコツ
⓵いい意味でイメージを壊す、印象的な冒頭
②書き込みがあまり多くない地図
③あまり長すぎない逆向き年表(現代から古代へさかのぼっていく年表)

④あまり詳しすぎないオリンポス十二神の相関図

⑤難しいことばを使わず、です・ます調で敷居を下げる
注釈は、だ・である調。
注釈をうまく活用して、本文がごちゃごちゃしないようにする。

⑥日本人の価値観との共通点を指摘して親近感をもたせる。

⓵について補足。
相手が多少は興味ある事柄についてのイメージを壊す。
譲れない部分を壊すのではないのがポイント。

「青い海、白亜の宮殿のギリシャなんて幻想だ。海はワイン色で、古代ギリシャ語には青と海にあたる単語がない。古代ギリシャの神殿は極彩色だから白くないんだ」
「パルテノン神殿は白ではなく極彩色だし、その機能は神殿というより宝物庫だし、パルテノンではなく百足(ヘカトンペドス)と呼ばれていた」というのが古代ギリシャのリアルを伝えて読者を引き込む。。

本書の説明技術はいろいろなことがらに応用できます。

支配体制の打破には大衆に疑問を持ってもらうことが必要です。
疑問を持たせるには、疑問を持てるだけの興味があることがらについてでないといけません。 ある程度興味があるが、ゆずれないほどではないことがらから疑問を持たせたらうまくいきやすそう。
「どうぞどうぞ東日本産の食材を食べまくってください。でも私は長生きしたいので嫌です。あなたはすごい!あなたが汚染食材を食べているおかげで病気にならずに済んでいる人がいるのです!」的なヘーゲル的説得術も組合わせましょう。”


・「おそれ」と「あわれみ」、「カタルシスによるガス抜き」、「認知」と「逆転」で感情をあおらない
(『アリストテレス『詩学』やロバート・マッキーの『STORY』(についてのフェイド大帝の書評)を悪用しない。
詳しくは本記事の末尾の参考資料をお読みください)


支配層は感情をあおって操るって言っている人が、支配層をひたすらののしっている自分こそが感情を操られていることに気づかない罠。
まずは支配層の視点を『君主論』や『完全教祖マニュアル』で獲得しないと、イルミ側の視点が見えません。

「寸止め陰謀論という名のカルト思想
=わかった気にさせる偽り」
によるカタルシスによるガス抜き。

認知(そうだったのか!)と(価値観の)逆転
も、私は支配層とは違って、寸止め陰謀論の中核が偽物だと認知してもらうことで、
嘘を見抜けない価値観から嘘を見抜ける価値観に逆転させるように心がけています。


アリストテレスの悲劇の定義が陰謀論そっくりでびっくり。
感情を煽ってガス抜きするって定義がそのまんま。
中核が最後に明らかになるか否かが違う。
キャラよりストーリー重視。
陰謀論の大半はフィクションの手法で作られていることがよくわかります。
アリストテレスは支配王の基礎教養ですから読んでいて当然。

アリストテレスの『詩学』いわく、
悲劇が最も人心を動かすのは、(予期に反する)逆転と、(重要事実の)認知であり、同時に生じるのが最上。

「認知」は「まじ!?=(価値観の)どんでん返し」

 「逆転」は「そうだったのか!=発覚/伏線の回収」

アリストテレス「悲劇とは(…)あわれみとおそれを通じて、そのような感情の浄化(カタルシス)を達成するもの」

私「寸止め陰謀論とは、感情を煽って判断力を奪い、ガス抜きとキリスト教の布教を達成するもの」


・『理科系の作文技術』と『日本語の作文技術』を中心として作成した文章技術一覧の活用

タイトル
=①ある程度何かをイメージできる部分
+②分からない部分
(内容に興味がそそられるように)

(文書の特徴を端的に表現できる外せない単語を決めて,簡潔で分かりやすくなるよう並び替える。
ヤフートピックスは,13文字でタイトルをつけているらしい)

一文一主題。
主題を決めたら、文の目標を規定する文を書く。
目標規定文に収束するように全体の構想を練る。
目標規定文は書き改める可能性がある、一応の目標。

一文一文に明確な役割をもたせる。
必要でないものは排除し、必要なものはもれなく。

全体から部分へと記述

まず大づかみな説明を与えて読者に概観を示してから、細部の記述に入る。


重点先行主義=大事なことは先に言う。
最も伝えたいことをトピックセンテンス(中心の話題)として定め,そこから内容が逸脱しないようする。

一義的に読めるように。

事実(証拠をあげて裏付けできる)と意見(判断、推論)をきっちりわけろ
事実を述べる文に主観に依存する修飾語(意見)を入れない。
これは「事実」であり、ここからは「意見」、といった区切りを明確にする。

事実=証拠を挙げて裏づけできるもの。
意見=ある人が下す判断。

その分野で長く経験を積み,精通するほど対象読者という視点を見失いがちになる。
自分は知っているからこれ以上説明しなくていいだろう(既知ブロック)に注意。
何のために書いているのか,目的を明らかにする。
誰に向けたものかを考える
わき道に入るときは明示する。

①内容を一つ一つ短文にする
②つなぎ言葉を使って論理的につなぐ
③文の主語をはっきり意識
のように番号付けし、改行して併記すると、句読点で句切るよりも短文かつ簡明にできる。


受身(受動態)よりも能動態
既知の内容を先に、未知の内容を後ろに。
既知=相手が知っていることから言うほうが理解されやすい。


漢字と仮名を混ぜることで、意味の切れ目をはっきりさせつつ、字面を白くする。
改行やスペースで意味の切れ目をはっきりさせつつ字面を白くする。
漢字が多すぎると黒くなりすぎる。
仮名が多すぎると白くなりすぎる。
適切な白さが大事。
意味の区切りを視覚化。

修飾する言葉と修飾される言葉を近づける。
長い修飾語は前に、短い修飾語は後に。
大状況から小状況へ、重大なものから重大でないものへ。
節を先に、句を後に。

節=主語と述語を含むまとまり(長い。情報量が多い)。


句=述語を含まないまとまり(短い。情報量が少ない)。


複雑で情報量が多い部分が先で、簡単で情報量が少ない部分は後ろ。

修飾個所が長すぎるなら独立した文にする。

点は意味の境界に打つ。

一つの文の中で三つ以上のハはなるべく使わない(二つまでとする)。
単語の配置は単語同士の親和度(なじみ)の強弱で決める。


意味のまとまりのある文節を長い順から並べる。


×私は 知人たちと先週の土曜日に桜の名所として知られる吉野を訪れた。
○桜の名所として知られる吉野を 先週の土曜日に知人たちと私は訪れた。


メモに年月日をつける。
思いつくままに無秩序にメモ。
メモ帳は場所に複数置く。
筆記用具と一緒に肌身離さず持ち歩く。
メモをまとめる用のメモ。
メモや筆記用具がが近くにないなら、落ちている紙切れや本の白い部分や紙幣など媒体は何でもいいからメモ。
筆記用具はマッチの燃えさしでも炭でもなんでもいいからメモ。


――参考資料――

knznymmmy ‏@knznymmmy 3月15日
私のブログ見てたら 気付く人は気付いてると思うけど 文章をわざと短く切ってる場面が多い それからズドンといきなり答えから 書いちゃう場面も多い あと、記事そのものが長くなれば分割したりもする 勿論、これがいい事かどうかは別問題だけど 私はこういうのをキレって呼ぶ事がある

子供の集中力が15分ってのは よく言われるでしょ テレビでも15分たったらcm入るじゃん 勿論これも良し悪しは別問題ね こういう意味でのキレがなくて 悪い意味でひっぱりたがるから嫌いなんだよね

なんだろうなあ 私テレビ見ないから あんまいい例が出せないんだけど まだ私がテレビ見てた頃の番組でいえば asayanだったかな? なんかオーディション番組あったじゃん あとはガチンコとか あんな感じ

なんかCM前に 「ついに、衝撃の発表が!!」とか 無駄に煽ってさ んでCM開けも タレントが神妙な顔してるのを ジャーンと変な効果音つけながら ズームアップしてさ おい、衝撃の発表まだかよ、みたいな感じ



”エチオピアだって十分くさい。
例えばエチオピアは国民の6割がキリスト教徒。
しかもエチオピア正教会というマイナー宗派。
あのソロモン王と縁のあるシバの女王の国でもある。
但しシバの女王の国はイエメン説もある。
これも臭い事に変わりない。

古代イスラエル王国は本当はイエメンにあった可能性が高い。
例えば現在のクソラエルはいくら地面を掘っても
古代イスラエル王国の遺跡が出てこない事で有名。当たり前だ。
イエメンと現代のクソラエルは1000キロぐらい離れている。
北海道と九州ぐらい離れている。出る訳が無い。
詳細はカマール=サリービーの「聖書アラビア起源説」参照。
え?じゃあ今のクソラエルに住んでるあの人たちって何なんですか?
アレは世界規模の詐欺師兼、暴力団。

そもそもユダヤ人という民族自体存在しない。
「自分はユダヤ人であると自称している人々」を
面倒くさいからユダヤ人と呼んでいるだけ。
在日朝鮮人の「あいあむ ざぱにーず」みたいなもの。
そもそもユダヤ人の定義とは「ユダヤ教徒」でしかない。
こんなザルな定義でいいのなら仏教徒は仏人か?
キリスト教徒はキリ人か?
たまには頭を使え。バカ。

本当は「ユダヤ人の女が子供を産めばその子供もユダヤ人」
という定義もある。
母方を辿っていって「ユダヤ人」につながるのならおKという基準。
だがその本家本元の「ユダヤ人」というグループが一体何なのか
存在すら疑わしい・定義すら無い段階でこんな事を言うのはアウト


好意的に解釈するのなら次の定義もある。
聖書の中の「ユダヤ12部族」の末裔こそがユダヤ人という解釈だ。
聖書の神を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とも言う。
またヤコブは息子が12人と娘が1人いた。
このうちレビ(族)とヨセフと娘は数えない。
残る10人プラス、ヨセフの子であるエフライムとマナセ。
これが「ユダヤ12部族」だ。
では、母方を辿った結果、この12部族に到達するなら
ユダヤ人だろうか?

しかし「母方を辿る」というルールは絶対に破綻する。
そもそも12部族が「息子たち」で構成されているではないか。
◯◯さんのママンのママンのママンの・・・と
ママンつながりだと絶対に元祖12部族につながらない。
つながるのはあくまでもレビなりヨセフなりのヨメだ。
しかもそのヨメがガイジンと思われる例が複数ある


例えばシメオンのヨメ(の1人)はカナン人。
シメオンの子らはエムエル、ヤミン、オハデ、ヤキン、ゾハル及びカナンの女の産んだ子シャウル。(創世記46章10節)
いや、それどころかシメオンはモーセの遺言の中
(申命記33章)でも完全に無視されている「いらん子」だ。

ヨセフのヨメもエジプト人。
パロはヨセフの名をザフナテ・パネアと呼び、
オンの祭司ポテペラの娘アセナテを妻として彼に与えた。
ヨセフはエジプトの国を巡った。
(創世記41章45節)

このオンの祭司とはエジプトの太陽崇拝の宗教
しかもこの創世記41章の時点でヨセフ以外の一族全員は
エジプトに来ていない。
ヨセフひとりが売り飛ばされた状態。(創世記37章27節)
外国にたった1人で売り飛ばされて、ましてや異宗教の祭司。
どう考えてもポテペラもアセナテもエジプト人だろう。
少なくともユダヤ人のはずがない。
つまり本家本元・元祖12部族サマが既にガイジンと混血してる件。
「パパンがユダヤ人ならその子供もユダヤ人」って事にするか?
おい、さっき「母方を辿る」とか言い出したやつ誰だよ?
だから「母方を辿る」ルールは絶対に破綻する
と書いたではないか。

しかも聖書は男社会だ。
だからさっきも「ヤコブの娘は数えない」
と書いた。
女は名前すら書き残されていない。数にすら入れてもらえない。
勿論アブラハムのヨメのサラ等記録に残る人もいる。
つまり記録だけが全てだと思うな、という事。
しかし「母方を辿る」上でこれは困る。
記録が無いなら無いでハッキリ言ってくれればいいのに。
「記録が無い事もある」という中途半端な状態。最悪だ。
しかも残っている記録の中限定でも
元祖12部族の時点で既にガイジンと混血済。最悪だ。
勿論聖書の捏造・誤訳疑惑もある。最悪。ズタボロ。
こんな状態では母方を辿って何か意味が有るのか?はい、終了。

http://codetripleseven.blogspot.jp/2016/03/knznymmmy6.html
【ネタバレ注意】knznymmmyのガンダマニア入門6

アカウントが消えたのでこのブログも消えそう。


子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2015年3月17日
新聞とTVで陰謀論=検証作業を隠す。
ネットの陰謀論の人気サイトでユダヤと在日を囮にし、キリスト教と大本教系(のうち紅卍字会に教祖が属しているカルト)が黒幕なのを隠す。
本体はインド・イラン・生は悪、死は善・グノーシス思想。

キリスト教と大本教系(紅卍字会)を支配しているのはオカルト=隠されたもの=秘術と秘術を生む知恵・知識・思想とシステム=真の本体(非人間)。
人が生んだ思想が人を乗っ取った。
支配層の魔法・魔術は家畜を管理し間引きする殺人術。

人が死んでも思想=支配システムの設計図(聖書と哲学書と心理学書)は残る。 思想は人を宿主とする寄生生物。宿主の生死に関与。 思想の領土は人の心と記録(=自己保存)。宿主の数が多くなりすぎると宿主が全滅してしまうので人口削減。

勘違いされてるかもしれませんが、私はオカルト、超古代文明、超常現象等を否定しません。この分野に余りに多いインチキと偽物(✝とギリシャ哲学製)を指摘しているだけ。
カルト率が特に高い分野なので本物=秘術の隠蔽が目的なのは明白。

東洋思想を取り入れた西洋思想ですら、キリスト教とプラトン哲学(馬鹿は人間ではない、肉体労働は下等、動物蔑視、優生思想)臭さが抜けているものは稀。神学の中核は哲学。プラトンがアトランティスを広めた。プラトニック・ラブ✝に注意。

魔法使いは実在。悪い魔法使いが価値観形成と潜在意識操作を悪用し大衆を支配。『ユダヤガワルイ』・『ザイニチガワルイ』・『カミヲシンジナサイ』の呪文を魔法の機械と人形に唱えさせて影に隠れている。 子供に語るべき夢のある事実だね!

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 9月29日
キリスト教(新、旧、正)、
古神道、神社本庁(主に度会教)、
グノーシス教、メイソン教、
ニューエイジ教(部落派月子教)
の区別が出来てない人が 多すぎるな
根っこが同じだから皆んな同じ! と叫ぶ人は無勉強すぎだな。
帰一教はグノーシス、メイソン教、 ニューエイジ教の流れだ。

「完全教祖マニュアル」 よりもアメリカの 「教会経営学」の方が レベル高いぞ? アメリカには「教会運営ソフト」 とかも販売されてる。 フェイド大帝が注目してるのは 「オンライン献金」という 機能だなw

アメリカの主要な教会運営ソフト の仕様比較一覧な。 http://ccmag.com/cms/index.php?chartid=1
(Church Management Software (ChMS) Feature Chart)

教会経営学本ね。 pic.twitter.com/bDJr6RPMmA

一応、無神論者も擁護しとくと 最低限この三冊は読んでおくべし。 有名な物理学者とこれに 反論したプロテスタント神学 の有名な神学者。 最後のは心の哲学の有名な哲学者な。 pic.twitter.com/CPa9QPdDGw

(【神は妄想である―宗教との決別/リチャード・ドーキンス】

『神は妄想か?―無神論原理主義とドーキンスによる神の否定 』(A.E. マクグラス、J.C. マクグラス著 教文館)

ダニエル・C・デネット『解明される宗教――進化論的アプローチ』阿部文彦訳、青土社、2010年。 )


何かの主張を批判する時は、 それを擁護している物と、 反論している物を両方紹介した 上で、自分の考察を加える。 面倒だけど、キチンとこういう ステップを踏んだ方が文章の 完成度が上がるよ。 どちらか一方の主張だけってのは カルトと間違われやすい。

だからフェイド大帝も メイソン教の話をする時は カトリックの言い分も引用するし、 メイソン公式ロッジの主張も ちゃんと紹介するでしょ?

訂正。ドーキンスは生物学だったね。 別の奴と勘違いしてた。


菊池 ‏@kikuchi_8 3月30日
オウムに入信する人の動機は「悪の組織と思っていたが、教義を聞いてみたらすごいことを言っている」というのが多いらしい。どんなカルトも表向きは御立派な事を言うではないか。主要な宗教の教義や神秘思想について基礎知識があれば、それらをパクって合成したカルト教義に面喰う事も無いはずである。

日本におけるカルトの教義は「表面は神道や仏教などを偽装。中身は一神教や新プラトン主義、グノーシス思想、神智学」というものが多い。日本の伝統思想には無い「創造神崇拝、救世主思想、終末論、善悪や霊肉の二元論、霊性進化論」などが特徴である。オウムなどは西洋のオカルト思想の劣化コピー版。

教義はいくらでも立派な事が言えるし、ネタ元がある。騙されて偽旗テロのコマにされるのが落ち。引用:「新しく入信する人たちの動機は、『悪の組織だと思っていたけど、教義を聞いてみたら、すごいことを言っているじゃないか』というもの。http://dot.asahi.com/wa/2015031800065.html?page=2 …

「アンダーソン憲章」にある理神論 フリーメーソンの近代化
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/mason/kindai.htm
”フリーメーソンの近代化というのは、このフリーメーソンの憲法とでも言うべき、「アンダーソン憲章」の登場を持って完成する。
 ここで重要になってくるのが、「近代思弁的フリーメーソンの父」と呼ばれるジョン・テロフィロス・デザギュリエ博士である。彼はユグノー教徒の迫害を逃れてきた亡命フランス人で、大ロッジ発足にも大きく関わっている。彼は1719年に3代目の大棟梁に就任する。
 ここで、彼はフリーメーソンの改革に着手するのである。
 まず彼は、王侯貴族達の勧誘に力をいれ、権力者達を大勢入団させた。
 またフリーメーソンで行われる儀式はカトリックの影響が顕著であったが、これをプロテスタント式に変えた。
 しかし、何より重要なのは、やはり「アンダーソン憲章」を作らせた
ことである。

 勿論フリーメーソンには、これまでにも「陸標(landmark)」と呼ばれる規則があったが、これは時代遅れの感がぬぐえなかった。そこで、これを基調にし、より近代的な新陸標、新しい会則が必要と考えられたわけである。
 デザキュリエは、フランス人の自分よりイギリス人が会則を作った方が、イギリス人の会員達の支持を得られるだろうと考えており、長老派の牧師で、博識で知られたジェームズ・アンダーソンに、これを作るように命じた。
 また、1921年には4代目の大棟梁モンタギュー公爵から、正式な会則作りを命じられ、1722年にイギリス国王の承認を得た形で、この憲章は印刷された。
 これが「アンダーソン憲章」である。
 この新しいフリーメーソンの憲法は、イギリスだけではなく、ヨーロッパ中のフリーメーソンに燎原の火のごとく広まった。特にフランスのフリーメーソンは、最も早くこの新憲章を受け入れた。
 とは言うものの、ドイツにしてもフランスにしても保守的な、古来からの儀式や伝統を固持するロッジもあり、こうしたロッジは、新憲章を受け入れなかった。当地のイギリスにおいても、この新憲章を拒否したグループが「古代派」なる分派を作ったこともある。
 このように、「アンダーソン憲章」を受け入れないロッジを「非正規フリーメーソンリー」と呼ぶ。そして、受け入れたロッジが「正規フリーメーソンリー」と呼ばれる。多くの場合、両者は犬猿の仲で、激しい抗争を繰り広げることになる。
 また、「フランス大東社」のように、「アンダーソン憲章」を独自に改正するロッジも現れた。こうしたロッジも「非正規フリーメーソンリー」呼ばわりされることになる。

 では、この「アンダーソン憲章」とは、どのようなものなのであろうか?
 これは5ページからなる短いものではあるが、近代フリーメーソンの思想が見事に集約されている。

・理念
 理神論、啓蒙主義、人権、民主主義、近代科学。これらを尊重すること。
 また、結社内で、政治や宗教の議論、話しはしないこと。特定のイデオロギーを標榜しないこと。
 人種、民族、階級、宗教などによって、会員を差別しないこと。
 (しかし、現実としては、必ずしもこれらは守られたわけではない。)

・入会規定
 健全なる肉体と精神を持った、神を信じる自由民の成人男性であること。
 (逆に言うなら、女性や奴隷、農奴、無神論者の参入は認められなかった。また、ユダヤ人も参入できなかった

退会
 自由であるが、いったんイニシエーションを受けた者は、籍を外されても本質的には会員であり続ける。
 従って、再入会するときは、改めてイニシエーションを受ける必要は無い。


・選挙
 上級役職者などは選挙によって選ばれる。また、入会希望者の受け入れも選挙で決める。ただし、投票権を持ってるのは、棟梁以上の位階に達した者のみである。
 とは言うものの、制度はロッジによって異なることも多い。

・処罰と懲罰
 規約違反、フリーメーソンの対面を汚した者への罰。もっとも重いのが除名であり、資格停止、叱責、警告と続く。

・会合
 各ロッジごとに決める。週1回や数ヶ月置きに1回まで、様々。
 大ロッジは年に4回。原則として欠席は許されない。

・議事録
 会議の議事録、儀式の記録などは半永久的に保存する。

・財政
 会員からの会費、募金、寄付によってまかなわれる。
 巨大なロッジとなると、莫大な金が動いたそうな

 近代メーソンにおいては、この「アンダーソン憲章」を巡って、多くの議論を引き起こし、「非正規」なメーソンを生み出した。
 例えば、「女性の入会を認めない」ことに納得できない人々が、神智学の活動家達を中心に「合同フリーメーソン」なる女性の参入を認めたロッジを作った。女性の参入を認めた以外の点では、「憲章」の思想を受け入れてるにも関わらず、これは「非正規」とされた。

 また、黒人メーソンもある。これは1784年にアメリカで作られた。人種差別はしないと言う建前上、ロンドンの大ロッジは認可証を発行したが、これはやがて休止状態に陥る。これを理由に大ロッジは、認可証の失効を宣言。しかし、1827年に活動を再開。今でもアメリカとカナダに5千を越えるロッジを持っている。しかし、正規派達は、かの認可証の失効を理由に、「憲章」を守ってるにも関わらず、「非正規」と決め付けている。

 こうしてみると、自由、平等、博愛を謡ってる割には、それを本当に守ってるのか? 正直、疑問を感じる部分も無いでもない。
 ただ、現代のフリーメーソンは、さらに寛容化、人権重視の思想を進歩させてきていることは、明言しておくべきだろう。例えば、今ではユダヤ人も参入できる

 しかし、一番の「非正規」は、「フランス大東社」であろう。
 これは、「アンダーソン憲章」の入会規定を、改良したのだ。それは、無神論者でも参入できるとしたことだ。
 それ以外の点では憲章を守っている。しかし、この一点で「非正規」とされた。
 このロッジは大勢力で、フランスのみならずラテン・アメリカも、この派が中心である。
 基本的に、「アンダーソン憲章」は、「理神論」の立場を取っている。
 これは、有神論の立場に立ちながらも、神は人格、個性、感情を持たない純理論的な存在と捉えた。また、啓示や奇跡などにも、科学的、合理的な説明を加えようとした。

 また、世界は神が創造したと考えるが、創造後の世界は、決まった法則や秩序に基ずいて動いている「自動機械」と考え、神の干渉(例えば奇跡)はあり得ないと考えた。
 要するに、これまでの宗教にあった神秘性、非合理性を徹底的に否定し、個人の理性と倫理を信仰の拠り所とすべきと考えたのである。
 彼らは「寛容さ」を説き、プロテスタントやカトリックなどの宗派の違いをも乗り越えた超宗派的な考え方も支持した。それどころか、この「憲章」には、ここで言う神とはキリスト教の神に限らず、「人類にとっての一般的な宗教での神」であると明記されている!!
(しかし、ロッジによっては、非キリスト教徒を受け入れない所もある。)

 これは明らかに啓蒙思想、合理主義の強い影響を受けている。それでいて、有神論
の立場を守っている。
 しかし、これは無神論と混同されがちだったし、事実、無神論者をひきつけたり、あるいは会員を無神論に鞍替えさせる原因にもなった。
 「フランス大東社」は、この理神論の態度を守り続けており、決して無神論を支持したわけではない。
 単に、無神論者の会員を受け入れただけである。
 しかし、大ロッジは、これを背徳行為とみなした
のである。

 ところで、こうした近代フリーメーソンの実態はどのようなものだったのだろう?
 基本的に、会員は上流階級の者が殆どだった。王族、貴族、聖職者、軍人、政治家、財界人が高位につき、中産階級の人間も多く参入した。労働者階級の会員も居たことには居たが、これは少数派で高位につくこともめったになかった。階級によって差別しないはずなのでは? と言う突っ込みもしたくなるが、当時の労働者階級には、読み書きが出来る者が極端に少なかったため、実務的に彼らの参入・昇進は難しい、というのが言い訳だった。
 活動も、哲学的な会話ではなく、上流階級の社交クラブ、サロン、相互扶助のボランティア団体が主であった。

 しかし、あくまで哲学的思想の団体にこだわる者も少なくなかった。
 また、政治運動と結びつくことも少なくなかった。例えばフランスでは、ジャコバイト運動(名誉革命で追放されたジェームズ2世のスチュアート朝の復活を唱える活動)と結びついた。しかも、ジャコバイト運動は薔薇十字団と関係があると言う、よく分からない思想も生まれた(後にメイザースがフランスで、この運動に嵌ったのも、このあたりに要因がある)。”

フリーメーソンとカトリック
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/mason/antimason.htm
”ここでは、「フリーメーソン悪魔崇拝結社説」のもとともなったカトリックとの対立について述べてみたい。

 フリーメーソンとカトリック教会の関係は非常に良くない。いや、対立関係、戦争状態にあると言っても良い。なにしろ、17回にもおよぶ破門宣告、200回以上にわたる警告や干渉を受けて来た。こうした攻撃は、書類の手続き上は主に「フランス大東社」を対象にしたものだったが、間接的には全てのフリーメーソンを意識して出されたものである。
 それでいて、フリーメーソンには多くのカトリック信徒が参入していたし、中にはバチカンの高位聖職者が参入していることすらあった。さらに、多くの平の聖職者は、教皇庁の反フリーメーソン活動には無関心で、両者間に対立があることすら知らない者も多い。一方、フリーメーソンの平の会員は、バチカンや教皇と対立することは望んでいない。
 この問題は、複雑でややこしい。

 教皇庁が最初に行った反フリーメーソンの行動は、教皇クレメンス12世によって1738年に出された破門令である。
 
 なぜ、破門か? 一つはその「秘密性」にあるという。これは、懺悔などの時に、神の前では全てを打ち明け、秘密は一切持たない、という重要な教義と矛盾する、という。すなわち神に対して全てを告白するという「告白の秘蹟」を、事実上無効にしてしまうからだという。
 この「秘密性」に対する批判が、カトリックの反フリーメーソンの最大の論拠とされることになる。
 「もし、悪事を企んでいるので無かったのなら、どうして会を秘密にする必要があろうか?」と言うわけである。
 さらに、あらゆる宗教に対して寛容な態度も問題にされた。プロテスタントも、異教徒も、(フランス大東社に至っては)無神論さえ受け入れるその態度は、カトリックの純潔を汚すという。すなわち、「アンダーソン憲章」にある理神論の思想が、異端とされたわけである。
 その他にも、イニシエーションで行われる、シンボリックな舞台設定が、異教的、黒魔術的に見えたというのも大きい。

 このクレメンス12世の最初の破門令は、かなり厳しいものである。
 フリーメーソンの会員は、聖体拝領などの秘蹟は、一切受けることは出来ない。さらに、異端審問所に、世俗の警察権力と強力して、彼らを逮捕し、追放・処刑を行え!! というものだ。
 しかし、時代は18世紀である。これが中世だったら、恐ろしい結果を引き起こしただろう。だがこの当時は、啓蒙思想が広まり、インテリを自称する者達は堂々と無神論者を気取っていた。ルターやカルヴァンの登場によってカトリックの堕落ぶりが暴露され、教皇庁は対抗宗教改革で、やっと威厳と信頼を取り戻したばかり……という状況である。
 プロテスタント諸国は、もちろんこの破門令を無視した。
 カトリック諸国では、フランス、ポーランド、フィレンツェ、ウィーン、リスボンなどが禁止令を出し、スェーデンに至っては「メーソンは死刑」と言う法令まで出した。
 しかし、これらの禁止令は、バチカンへの外交辞令的な代物で、これらの国の警察機構は、やる気は殆ど無かった。
 だいたい、メーソンの会員は政財界のお偉方ばかりである。どうして、厳しい取締りなんぞ出来よう。
 もっとも、教皇領では、厳しい取締りが行われはしたが。

 次の教皇ベネディクト14世は、前教皇が出した破門令が全然効き目が無かったことに苛立ち、あらたな教書を出す。1751年のことである。この破門令は、さらに厳しさが増し、各国の世俗権力にフリーメーソン弾圧を行うよう、強く要求している。
 さらに、彼は「教会法」の中に、メーソンを禁止する条項を書き加えた。これにより、反フリーメーソンの態度は、正式なカトリックの教義となった(こうした条項は現代もなお残っている)。
 いわゆる「第2335条」である。「教会、または合法的な国家機関に対抗して活動するメーソン派または他の結社の名を使う者は、破門の罰に処せられる」

 これを受けて悪名高きスペインの異端審問所が動き出す。
 そして、民間にフリーメーソンは「悪魔のシナゴーク」である、と主張するパンフや本が出回り出すのも、ちょうどこの時期である。
 内容は、魔女裁判やユダヤ人迫害と大同小異の代物で、「メーソン会員は、この世の快楽と引き換えに悪魔に魂を売る儀式を行ってる」というようなものだ。これは、教養の無い者によって書かれたものらしく、文章も稚拙で中身も支離滅裂、矛盾とデマに満ちている。しかし、これは一般の民衆には、それなりの影響力を与えた。
 今もなお生きている、フリーメーソンを悪魔と結びつける考えは、カトリックの教書ではなく、こうした作者不詳の無責任な中傷パンフに端を発している。

 とは言うものの、この破門令も、メーソンのイメージダウンにはそこそこの効力を発揮したものの、さほど大きなダメージにはならなかった。
 それどころか、フランスではナポレオンの援助もあって、フリーメーソンの勢いは増すばかりであった。
 そこで、ピオ7世は、またもや破門令を1814年に出す。文面も威厳に満ちた厳しいものから、単なる口汚い罵詈罵倒に変わって行く。……いわく「地獄の集会の殺人的発展と陰謀」。
 この破門宣告の教書では、フリーメーソンをイルミナティやカルボナリ党と混同し、カリオストロによって始められたエジプト儀礼なども引き合いに出して、非難している。
 しかし、スペインやイタリアの一部を除いて効き目は殆ど無かった。いらつくピオ7世は1821年にも同様な命令を出すが、事態は変わらなかった。
 それに続く教皇たちも、次々にフリーメーソンを破門する教書を出す。特にピオ9世はことさら熱心で、実に7回も反メーソンの教書を出している。当時、政教分離を唱える啓蒙思想が凄まじい速度でヨーロッパを席捲していたわけだが、ピオ9世はこれと激しく戦っていた。当時のメーソンは、この啓蒙思想と強く結びついていた。それゆえの必然的結果といえよう。
 なお、ピオ9世が、教皇に即位する前はメーソン会員だったという説があるが、歴史家の多くは、彼の政敵による中傷だというのが、定説である。
 このピオ9世の活動も、やはり大きな効果は無かった。
 もう、破門の脅しで政治を左右できるような時代は終わっていたのである。
(…)
 さすがに20世紀に入ると、メーソンとバチカンとの間に、対話が持たれるようになった。
 メーソンからもカトリックからも、和解を探る動きが出始める。
 ピオ13世は、対話に対しては冷淡であった。
 だが、ヨハネス23世による第二回バチカン公会議は、大きな希望であった。これはカトリックの教義を近代化させた大事件である。他宗教との共存を謡い、異端審問を否定し、民主主義を支持し、人種差別に反対し、有色人種の枢機卿を多く生み出すきっかけとなったこの会議は、実は親フリーメーソン派の聖職者たちの働きによる所が大きい。
 こうしてメーソンとカトリックの和解は、可能だろうと思われた。
 しかし、ここで悪い偶然が重なる。
 イタリアでかのP2事件が発覚(後に詳述する)。
 さらに、カトリックの近代化を推し進めてきた革新派のヨハネス23世が、在位わずか30日で謎の急死を遂げる。
 そして、現教皇ヨハネ・パウロ2世が就任する。彼は革新的な部分と保守的な部分が同居した複雑な思想を持った教皇である。バチカン公会議を尊重し、他宗教の指導者達と親しく交流し、禁書制度を廃止し、ダーウィンの進化論に一定の理解を示す一方で、同性愛者の権利を認めず、共産主義を敵視し、メーソンに対しても頑なな態度を示している。
 1983年、ベネディクト14世によって定められた反メーソンの教会法2335条を廃止したが、同趣旨の教会法1328条を作った。そして、同年「これまでのメイソン破門に変更はない」との声明も出している。
 その後も、親メーソン派の大司教が破門されたり、極端な反メーソン派の聖職者も左遷されるなど、トラブルは今も続いている。
 現代、多数派の神学者達はフリーメーソンの「相対主義的な思想」は、カトリックの教義と対立する、という意見を持っているようである。その一方で、反フリーメーソンは時代遅れも甚だしいと考える勢力もある。”

フランツ・J・モリター ~フリーメーソンとカバラ~
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/shinpi/morita.htm
”しばしば、フリーメーソンはユダヤ人と結び付けられることが多い。
 無責任な陰謀論者達は、ユダヤ・フリーメーソンなどという妙な言葉を好んで使うが、ユダヤ人がフリーメーソンを陰謀のために作ったなだという事実は無い。
 しかしながら、フリーメーソンにも誤解を招く原因があったということも、また事実である。
 まず、メーソンの象徴体系には、「旧約聖書」に基づく物の方が、「新約聖書」のそれより圧倒的に多い。次に、18~19世紀にかけて、メーソン内部においてカバラの研究が大流行したことがあった。当然の如く、彼等は好んで象徴体系にヘブライ文字なども取り入れた。
 とは言うものの、メーソンリーをユダヤ起源とするのには、致命的な問題がある。
 初期のメーソンはユダヤ人の入会を認めていなかったのである。

 フリーメーソンの近代化の時期は、ユダヤ人達がゲットーから解放されて、キリスト教徒社会に同化すべく押し寄せて来た時期と重なってる。進歩派のユダヤ人達は、自ら古い慣習を捨て、キリスト教社会に溶け込もうとした。言うまでもなく、知識人の社交クラブたるメーソンへの入会を望む者も多く現れた。
 思弁的メーソンの憲法とも言うべきアンダーソン憲章では、宗教の違いによって人を差別してはいけないと明記している。だったら、ユダヤ人が入団しても、何も問題は無いはずである。
 しかし、感情が理性を押しのけることは、しばしばあることである。
 要するに、ユダヤ人差別の感情が強すぎたのである。
 各国のメーソンは、当初のうちは、この事態に統一した指針を見出せず、右往左往するはめになる。それでも、アメリカやイギリスは比較的早いうちから、ユダヤ人を受け入れた。イングランドでは早くも1731年にユダヤ人を受け入れた。
 しかし、ドイツのメーソンは悪い意味でのキリスト教色に染まっていたため、喧々諤々の大論争を引き起こし、激しい対立を呼び起こした。
 ドイツにおいても、ユダヤ人の入会を認める寛容派が1790年にベルリンにロッジを立ち上げた。とはいうものの、この結社に入会するためには、キリスト教社会に帰化したユダヤ人でなければならないという条件が付けられていた。1791年にはハンブルグに、ユダヤ人を創設者とするロッジも作られた。
 もっとも、これらは非正規メーソンとされた。
 ここで重要になって来るのが、ジギスモンド・ガイゼンハイマーである。彼は早いうちに非正規メーソンへの加入は認められたが、正規メーソンからはユダヤ人という理由で入会を拒否された。この差別に対する屈辱感が、彼を運動に駆り立てたらしい。
 フランクフルトには1789年からロンドンのスコットランド系大ロッジから認可を受けたロッジが存在した。このロッジは、本部から新ロッジを設立する許可を得ていたが、ユダヤ人に対しては頑なであった。
 そこで、ガイゼンハイマーは、パリのフランス大東社の大ロッジと交渉し、ついに新ロッジの開設許可を得る。1807年のことである。そして、1808年にガイゼンハイマーは自分を含めた12人でもって、ロッジを開くのである。彼ら12人の創立者のうち、実に11人がユダヤ人であった。
 これこそが、フランクフルトのユダヤ人ロッジこと「曙光ロッジ」である。

 フランツ・ヨーゼフ・モリターは、キリスト教徒である。それも熱心なカソリックであった。
 彼は1779年フランクフルト郊外のオーベルウルセルで生まれた。そして、1804年にはフランクフルトに移住した。
 始めは法律を学んでいたが、やがて歴史哲学の研究に進む。そしてフランクフルトのユダヤ人グループと接触を持つようになり、1808年に上記の創立間もない「曙光ロッジ」に入会した。
 モリターの入会は、メーソンの歴史に大きな変革をもたらすことになった。彼は極めて哲学的な才能を持った人材ではあった。
 彼は1812~1816年の間、この「曙光ロッジ」の大棟梁となる。まもなくロッジは存亡の危機に陥る。ナポレオンの大頭と没落により、フランスとの関係が複雑化したため、フランス大東社の下部組織という立場が微妙な結果をもたらしたのである。そこで、ドイツのスコットランド系ロッジへと鞍代えをすることによって、事態の打開を図った。しかし、スコットランド系のロッジはキリスト教色にどっぷり漬かっていたため、儀式もキリスト教的であり、位階の昇進制度についても、露骨なユダヤ人差別があった。
 ユダヤ人を嫌うドイツのスコットランド系ロッジ。そして、キリスト教化を嫌う「曙光ロッジ」の内部会員達。騒ぎが起こらないほうが不思議である。
(…)「曙光ロッジ」は、ドイツ中のメーソンから、総スカンを食い、孤立してしまう。
 しかも、モリターは、そんな中、次第にキリスト教へ偏向し始め、それは極端なものになる。ロッジを強引にキリスト教化しようとしたため、ユダヤ人の会員達から反発をかった。
 ともあれ、モリターは結局のところ、「曙光ロッジ」を退会し、「日出ずるカール・ロッジ」なる独自のロッジを創設することになる。このロッジもまた、本家の「曙光ロッジ」同様、孤立してしまうことになる。理由は、カバラ主義、神秘主義色が強かったために、胡散臭い目で見られたからだ。
 もっとも、1835年から会話が始まり、1840年には正式にドイツの大ロッジから認可されることになる。
 「曙光ロッジ」もドイツの大ロッジと和解の方向で動きだす。しかし、あろうことかモリター率いる「日出ずるカール・ロッジ」は、これを妨害しようとした。挙句、モリターのロッジは追放され、代りに「曙光ロッジ」が認可されることになる。
 大ロッジは、モリターのキリスト教に偏りすぎた態度は、アンダーソン憲章と矛盾すると判断したのである。
 その後も、モリターは、こうした「キリスト教色を排除する」大ロッジの方針を批判し続けた。

 20世紀に入り、ユダヤ人への風当たりが強くなる。1920年代に悪名高き「シオン賢者の議定書」が出回ると、ドイツ中のロッジは、ユダヤ人を締め出してしまった。
 メーソンもまた、激しいユダヤ人差別の態度を復活させてしまったわけである。
 しかし、ナチスが政権を握ると、事態は悲惨な結果をもたらした。ナチスはフリーメーソンを「ユダヤ的」と決め付け、過酷な迫害を加えた。これによってドイツのメーソンリーは終戦まで壊滅状態に陥るのである。
 ユダヤ人を差別していたメーソンが、ユダヤ的であるとして迫害を受ける。皮肉な話しである。”

イルミナティ(パヴァリア啓明結社)の興亡
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/mason/iruminateli.htm
”イルミナティは、フリーメーソンやユダヤ陰謀説と並んで、盛んにいい加減なヨタ話の種にされる秘密結社である。

イルミナティは、「パヴァリア啓明結社(イリュミネ)」とも呼ばれ、急進的な社会改革思想を持ち、徹底した自由と平等を唱え、反キリスト教、反王制を唱え、一種のアナーキズムを主張した。そして、原始共産主義的な共和制国家の樹立を主張した。
 とはいうものの、この結社は創立当初においては、そんなに過激な結社だったわけではない。また、初期においては政治的な色彩も薄かった。
 創立時においては、学者の知的サークル的な色彩が強かったのである。

 実際、シンボルによる人間の意識への働きかけを考察し、キリスト教神秘主義者の立場から、魔術、カバラ、ヘルメス哲学を擁護したカール・エッカルツハウゼンも団員だったが、彼は過激な政治的革命思想には批判的だった。

 イルミナティの創立者のアダム・ヴァイスハウプトは1748年バイエルン王国のインゴルシュタッドで生まれた。
 彼の父親のヨハン・ゲオルグ・ヴァイスハウプトは著名な法学者であり、インゴルシュタッド大学に、わざわざ呼ばれて教授となった。
 というのも、当時のパヴァリアを支配したマクシミリアン3世は進歩的思想の持ち主で、教育改革を行うためにインゴルシュタッド大学に科学アカデミーを創設し、そこの責任者に進歩的なイックシュタッド男爵を任命した。男爵はドイツ中から優秀な学者を呼び集め、大学改革に乗り出したのである。
 彼の父のヨハンは男爵の甥にあたり、法学の硬学として名も通っており、まさにうてつけの人材であった。
 当時のインゴルシュタッド大学は、カソリックのイエズス会系学者たちの支配下にあり、この改革は、旧体制的なイエズス会系の学者たちと摩擦を引き起こした。

 インゴルシュタッド大学がイエズス会の強い支配下にあったがゆえに、アダム・ヴァイスハウプトはイエズス会式の教育を余儀なくされた。彼はイエズス会神学校に学び、インゴルシュタッド大学法学部に入学後もイエズス会系の学者たちから教えを受けた。そこで彼は優秀な成績を納めし、わずか20歳で法学の学位を取り、若干24歳にして教授となった。
 彼は、当然の如く初期に置いてはイエズス会の強い影響下にあった。
 しかし、彼はフランスの啓蒙主義や百科全書派の書を読みふけるようになり、次第に反イエズス会の思想に染まってゆく。
 1773年のクレメンス15世によるイエズス会の解散命令は、一つの契機だった。インゴルシュタッド大学では、この事件は逆にイエズス会系の学者達を団結させ、彼らは非イエズス会の学者達に圧力を加えるようになった。
 そのため、 アダム・ヴァイスハウプトは一時期、大学での講義を禁止され、ミュンヘンに逃げるまでになる。
 彼が自由主義の秘密結社の設立を決心した大きな原因が、このイエズス会による迫害にあったことは、間違いない。
 彼は古代エジプト、ピタゴラス学派、ユダヤ教エッセネ派について研究し、さらにはフリーメーソンにも興味を持った。
 彼は一時期フリーメーソンに入会することも考えたらしいが、実現はしなかった。本来のフリーメーソンでは、ロッジ内での宗教議論や政治議論を禁止していたので、彼の思想とは相容れなかったのである。

 彼の目的は、イエズス会の影響を逃れ、自由な学問追求を目指す学者サークルであった。
 1776年、ついに彼は自分の結社を創立する。「完全可能性主義者の会」である。この同年に「パヴァリア啓明結社(イリュミネ)」と改称する。
 結成初期の団員は、いずれもヴァイスハウプトの弟子や友人たちであった。
 しかし、1778年頃に、多くの市民と下級貴族が大挙入団し、組織は巨大化する。

 初期のイルミナティの位階は単純で、新参入者、ミネルヴァル、ミネルヴァル天啓の3つしかなかった。ミネルヴァル以上に昇進した団員は、「戦士名」を授けられる。それは古代古典に出てくる英雄の名が使われた。
 例えば、創立者のヴァイスハウプトはスパルタクスを名乗り、彼の弟子で幹部のマッセンハウゼンはアヤックス、友人で幹部のツヴァイクはカトーであった。
 参入者は団員の紹介が必要である。そして、「保証人」がつく。保証人は新参入者を観察し、彼が団の規則を守っているか、道徳的に正しい人間であるかを調べ、毎月それを書類にして団の上層部に提出する。また新参入者も、同様に自分の保証人について観察を行い、これを上層部に提出しなければならない。
 要するに「相互監視制度」があった。これは実はイエズス会の真似であり、ヴァイスハウプトは反イエズス会を標榜しながら、その影響を強く受け続けていたのである。
 新参入者からミネルヴァルに昇進するときは、イニシエーションが存在した。ここで彼は上層部の幹部から祝福を受け、「戦士名」を授かった。
 そして、仲間の監視報告の他にも日記の提出が義務付けられた。
 ミネルヴァルからミネルヴァル天啓への昇進は、事務的な人事であり、イニシエーションは無かった。
 そして、下級団員達には、上層幹部のことは絶対に秘密であり、首領の「スパルタクス」の正体を知っているのは、一部の側近達だけだった。
 彼らはしばしば集会を行い、反イエズス会や啓蒙思想の本を回覧したり、情報交換を行った。
 そして、独自の暦を作り、これを用いていた。

 しかし、この組織の運営はやがて行き詰まった。
 団員達がフリーメーソンの方が楽しそうと考え、退会が相次いだからだ。
 ヴァイスハウプトは、これを止めるために、新たにゾロアスター思想に基づいた「火の位階」という新位階を設定したが、焼け石に水。
 そこで彼が考えたのは、フリーメーソン的なものを取り入れるということだ。
 彼はメーソンに忠実な団員を潜入させた。
 彼はベルリンの大ロッジにスパイを送り込み、まんまとロッジの認可証を手にれるや、ミュンヘンのロッジを乗っ取る。
 さらに、アドルフ・ファン・クニッゲ男爵の入団によって、イルミナティは大きく変貌する。
 クニッゲは、もともと高位メーソンであり、フリーメーソンの知識や人脈を豊富に持っていた。そのうえ、思想は啓蒙主義的であり、ヴァイスハウプトと意見があった。
 ヴァイスハウプトは、彼にプィロンという戦士名を与え、側近に加え組織の大改革を実行させる。
 クニッゲは、組織の位階制を13位階以上から構成されるメーソン風の複雑なものに変えた。これは1782年に正式に認可される。
 さらに彼はメーソンの人脈を利用して、ドイツ各地の小ロッジを次々に乗っ取った。貴族、政治家、高級官僚、学者、医者、高位聖職者、軍人等の有力者たちが次々に参入し、確かにこの結社はドイツ全土の政界に馬鹿にできない影響……は持てなかった。
 というのも、あまりに成長が急であったために、組織の統一性が思うように計れなかったのである。
 また、イルミナティの最盛期の会員は600人とも2000人とも言われるが、実はこうした人数は、イルミナティの正式な団員ではなく、彼らの思想に共感したフリーメーソン内のシンパを入れての数であるらしい。

 さらに、この巨大化と共に、イルミナティは政治色を強めてゆく。それも急進的な反王制、反教会的な革命を含んだ政治思想である。そして、イルミナティは次第に政治思想的な秘密結社へと変貌してゆく。
 こうなったそもそもの原因は、イルミナティを巨大化させたクニッゲ男爵によるところが大きい。彼は貴族でありながら、反王制・共和主義者であったのだ。
 とは言うものの、クニッゲは暴力革命には、はっきりと反対の立場を取っていた。
 曰く、本来国家の主権は人民にあるべきなのに、王がその座に居座っている。そして、王は人民を従えるために、他国の人々を憎むように教え(いつの時代も偏狭なナショナリストの考えることは同じということか)野蛮な戦争を起こす
 しかし、国家転覆を目指すようなことは考えない。我々はあらゆる暴力を否定する。暴力的な革命はろくな結果を生まない。我々はゆっくりと、政府の高官や支配階級に団員を送り込み、あるいは彼らを教育して同志とし、ゆっくりと国家を改造する。最終的には「国」は消滅し、戦争の無い、人民が一つの家族となる時代が来よう。
 それには数千年かかるかもしれないが、それでも構わない。
 
 さらに、クニッゲ男爵は、実はこの既存の国々を統一し、一つの国を作るという発想は、当時バラバラだったドイツを統一する程度のニュアンスしかなく、全人類レベルのような大それたことは考えていなかったらしい。
 だが、スケールの大小に関わらず、これは既存の国家政府を否定する革命思想であることには変わりなく、当時の支配者たちからしてみれば危険思想であったことには変わりない。
 言うまでも無く、反イエズス会の態度は、教会をも敵にまわす事になる。

 イルミナティの成長は早かったが、崩壊も早かった。
 1777年にマクシミリアン3世が死去すると、イエズス会が勢いを盛り返した。
 インゴルシュタッド大学でも大規模な反動が起こり、廃止されていた本の検閲と禁書制度が復活した。
 この結果、イルミナティはパヴァリアからの撤退を余儀なくされ、本拠地をワイマールとウイーンに移す。文豪のゲーテ(戦士名はアバリス)が入団したのも、この頃である。
 さらに、ライバル結社との抗争も激化する。フリーメーソンの反撃によってフランクフルト進出に失敗。
 そして、ベルリンにおいては、かの黄金薔薇十字団が最盛期を迎えており、彼らはドイツ皇帝を動かしてイルミナティに圧力を加えた。
 そして、最悪なことに、この大事な時期に、イルミナティ内部で深刻な内部抗争が勃発した。
 首領のヴァイスハウプトは、クニッゲ男爵の影響力が強くなりすぎたことに反発し、男爵から全ての権限を取り上げようとした。当然、男爵はこれに反発し、命令を拒否する。
 そして、この両者の決別が、事実上のイルミナティの崩壊であった。1784年のことである。
 クニッゲ男爵は退団し、その後はあらゆる秘密結社を否定する論者となったしまう。

 とどめは1785年にさされる。まず、「政府の許可無く組織を作ることを禁止する」という禁令である。
 さらに致命的なスキャンダル事件が起こる。
 国立アカデミーの教授でイルミナティ幹部だったヨーゼフ・ウイッツシュナイダーが、密告を行った。
 いわく、イルミナティはオーストリアのヨーゼフ2世と結託し、ドイツを転覆させ、ドイツをオーストリア帝国の支配下に置く陰謀を企んでいる。そのために毒殺や短剣を用いた要人の暗殺を企んでいる。
 政府はイルミナティの調査を命令する。結果、反キリスト教的思想、反王制思想、革命思想が発覚してしまう。
 同年、2回目のイルミナティを名指しで禁止する法令が出される。
 一連の指導者は逮捕され、政府高官は左遷、公職追放。
 さらに、団の文書の中から毒薬調合に関する物が発見される。だが、これには胡散臭さがついてまわる。本当に団は毒薬を使う気があったのか? これは謎である。

 ヴァイスハウプトはレーゲンスブルクに亡命し、イルミナティの弁護の著書を次々に出したが、無駄であった。この頃、彼は私生児を設け、これを堕胎させた。
 これは結果的に赤ん坊殺しのスキャンダルに発展し、終いには「イルミナティでは赤子を生け贄にする黒ミサを行っている」というデマまで生まれた。
 さらに、イルミナティの元団員達が裏切り、あることないことを吹聴してまわる。曰く、イルミナティは毒殺と私刑に満ちた恐怖支配の黒魔術結社であり、テロによる政府転覆を狙う陰謀結社である云々。
 そして、狂信的な反フリーメーソン論者として知られたバリュエル神父やロビンソン教授らが、イルミナティを悪魔崇拝の政治的陰謀結社とする本やパンフを撒き散らした。
 (彼らの撒き散らしたデマを信じる人間が現在もなお居るのは、何ともやりきれない)
 政府も世論も完全にイルミナティの敵となった。主な団員は公職追放され、団員達も退会する。
 オーストリアとワイマールの支部は、その後も何とか存続しようとしたが、1786年に壊滅する。
 イルミナティの寿命は、わずか十年間であった。

 ヴァイスハウプトは、その後も、ほうぼうを亡命しなら著作活動続けたが、ドイツ中部のゴータ公領に逃げ込み、彼の支持者だったエルンスト公爵に庇護され、そこで余生を過ごした。1811年に彼は死去した。

 彼は社会的な平等を唱え、全ての人間は「王(神?)」になることができ、そのためには自己の意志に忠実に生きなければならないとした。なにか妙にクロウリーを思わせる思想である。
 彼の理想は古代の家父長制度による原始共産主義的な社会であり、封建君主や教会制度はそこに至るための過渡的なものと捕らえていた。
 こうした制度を排し、一般大衆に「啓明」を与え、先の原始的なユートピアを作ろうと考えた。
 これは非暴力によって行われなければならないが、どうしようもないときは革命も仕方無いと考えていたふしも否定はできない。
 とはいえ、ヴァイスハウプト自身は、政治活動にはあまり関心がなく、あくまでユートピア建設思想を育むために、団員の徳の向上をはかることがイルミナティ創立の目的であった。

 しかし、団は暴走した。
 やがて、イルミナティの名の一人歩き、暴走はさらに続く。
 かのカリオストロ伯爵がローマで逮捕されたおり、苦し紛れにイルミナティなる国際的巨大な陰謀結社があり、自分はその命令通り動いていただけだ、というホラ話しをする。
 さらに、フランスの外交官ミラボー伯がドイツでスパイ活動を行っていたが、彼はここでイルミナティに入団したらしい。彼はその人脈を政治的にも利用したらしい。
 さらにミラボーは、フランスのフリーメーソンの実力者をイルミナティに入団させようとした。
 そして、ドイツで壊滅状態に陥ったイルミナティの難民としてヨハン・ヨアヒム・クリストフ・ボーデなる男が、ミラボー伯の手引きでフランスに現れる。ミラボーは、彼をフランスのメーソンの顧問的指導者にしようとする。
 当時フランスのフリーメーソンはオカルト色が強かった。ボーデはこれを排そうとする。
 しかし、カバラの替わりに政治思想を、ヘルメスの大作業のかわりに暴力革命を持ち込もうとする彼らの思想ははなはだ不評であった。
 それでも、一部の小ロッジの中には、彼らの影響を受ける者もいたが、やがてそこからはジャコバン党のような連中を生み出し、フランス大革命後の血なまぐさい大混乱のさなか、彼らは多くの人々をギロチンに送り、やがて自分等も自滅してしまうのである。
 また、フランスの各地でも、イルミナティを名乗る結社がいくつか作られた。
 しかし、言うまでも無く、これらの結社は、ヴァイスハウプトの正統なイルミナティとは何の関係も無い。勝手に「イルミナティ」の名を名乗っているだけだった。
 結局、こうしたささやかな団も長続きはできずに消滅した。

 しかし、「イルミナティ」の名前だけは生き残り、創立者のヴァイスハウプトの思想とはかけ離れた怪物化がなされ、今もなお一人歩きを続けているのである。”



「シオン賢者の議定書」とオカルティスト
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/seiji/protokor.htm
"当時のロシア皇帝アレクサンドル2世は、オカルトに嵌っていた。
 革命直前のロシア宮廷には、多くのオカルティスト達が出入りをしていた。
 後に、かのラスプーチンが権力を握る下地である。
 1900年代、皇帝はフィリップ・ニジェ・ヴァジョなるフランス人のオカルティストを重用していた。彼は、かのパピュスの師匠だったこともある人物である。
 彼はサン・マルタンの支持者で、心霊療法などにも手を染めていた。
 しかし、彼の宮廷での評判は、あまり芳しくなかった。
 すぐに貴族や高官達の間で反フィリップ運動が巻き起こる。
 その動機は「皇帝を騙してる怪しげな詐欺師を追い払う」ためとは、ちょっと言えない。彼ら貴族や高官達は、それぞれ贔屓のオカルティストを抱えており、フィリップの後釜を狙っていた、というのが正確なようである。
 そうした中、ニルスや、先の「プロトコル」を捏造した秘密警察のイワノフスキーは、反フィリップ運動に関わっていた。
 彼らはフィリップを陥れるために、この「プロトコル」を捏造したらしいのである。
 と言うのも当時、ユダヤ人とフリーメーソンは混同されていた。フリーメーソンはユダヤ人が陰謀のために作った秘密結社であるというデマである(初期の頃、ユダヤ人はフリーメーソンの入会は認められていなかったというのに)。 
 イワノフスキーやニルスが言うには、フィリップはフリーメーソンの一員であり、ロシアを滅ぼすために宮廷に侵入したユダヤの手先であるという。
 もっとも、フィリップはフリーメーソンに所属していたという事実はない。しかし、マルタン主義のオカルト結社には所属していた。だが、皇帝夫妻はフリーメーソンとマルタン主義の区別ができるほどのオカルティズム知識は有していなかったのである。
 結局、フィリップは宮廷を追われた(しかし、皇帝との文通は続いた)。
 あの有名なラスプーチンが現れるのは、それから間もなくのことである。

 勿論、「プロトコル」を喧伝している連中にとって、この文書の利用価値は、フィリップ追い落としのような、ちっぽけなもので終わるものではなかった。
 いや、本当の利用価値はこれからであった。
 ロシアでは革命の気運は確実に高まった行った。
 そんな中、ロシアの支配者階級や極右主義者達は、戦々恐々としていた。そして、こうした革命運動や民主化要求を抑え込むために、この「プロトコル」を利用しようとしたのである。
 曰く、自由だの民主化だのマルクスだのは、ユダヤの世界支配のための陰謀だ!! というわけである。
 もともとロシアでは、ユダヤ人は格好のスケープゴートだった。かのポグロムを見ても分かる通り。
 さらに、ボルシェビキ、メンシェビキ、ともに革命派の指導者にはユダヤ人も居た。
 革命をユダヤの陰謀であるとして、これを封じようとしたわけである。

 この偽造文書は、ロシアからドイツ、イギリス、アメリカ、さらにはフランスにも逆輸入される。
 どこの国にも極右主義者や、反ユダヤの差別主義者はおり、彼らにとって「プロトコル」は、便利な政治宣伝の道具だったわけである。
 これは、燎原の火のごとく世界中に広まった。
 
 もっとも、この嘘はすぐに暴かれる。
 1921年に「タイム」誌が、「プロトコル」の正体をスッパ抜く。
 これはモーリス・ジョリーの「地獄対談」を改造したものだ、と。さらにこの記事を書いたライターは、大英図書館に保存されている現物と比較し、コピーであることを証明してみせた。
 これにより、イギリスでの「プロトコル」ブームは終焉する。

 アメリカにしてみても同様だった。
 最初、あの自動車王ヘンリー・フォードが、「プロトコル」を本物と信じ込み、「国際ユダヤ人」なる反ユダヤ本をプロデユースする。これは50万部を売り上げるベストセラーとなり、16ヶ国語に翻訳された。
 当然、アメリカのユダヤ人達は激怒した。名誉毀損でフォードを告訴する。
 これをきっかけにフォードは、自分の過ちを認め、ユダヤ人社会に正式に謝罪した。
 しかし、なぜか発行者によって否定されたはずのこの本は、その後もしつこく出版された。日本にも、以上の顛末が全く書かれないまま、90年代に日本語版が出されている。

 このように英語圏では「プロトコル」は零落の道を歩んでいった。
 しかし、ドイツはちょっと事情が違った。
 神智学には、アーリヤ人至上主義や人種差別の思想が入っていることは良く知られていることである。「シークレット・ドクトリン」の中で展開される「根源人種理論」である。
 もっとも、神智学は、その後、こうした人種差別的な思想は放棄する方向で進歩した。
 だが、こうしたネガティブな人種主義を捨てきれないどころか、それを教義の中心に据える神智学系のオカルティストも居たのである。
 こうした思想を持つオカルティストとして有名なのが、アドルフ・ヨーゼフ・ランツとグイド・フォン・リストである。
 彼らはスワスティカ(後にナチスのシンボルとなる鉤十字)を自分らのシンボルとし、アーリヤ人至上主義とユダヤ人排斥を唱えた。
 彼らは「プロトコル」を積極的に取り込んだ。ユダヤ人排斥の根拠として。
 彼らの思想は、やがてエーリッヒ・エッカルトと「トゥーレ協会」なるオカルト結社に引き継がれ、やがてこれはアルフレッド・ローゼンベルグの著書「20世紀の神話」の種となる。この「神話」は、かの「我が闘争」と並ぶナチスの聖典となる。"

盲人イサク
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/shinpi/mouisaku.htm
”盲人イサクの生涯について正確なところは依然、謎が多い。
 ただ、彼は1165年にフランスのナルボンヌ地方ポスキュール村で生まれたらしい。
 彼の義父は名高いラビであり、おそらく彼からも高い教育を受けたものと思われる。
 彼は盲目であったが、そのカバラへの造詣の深さと、神秘に通じた熟達者ぶりから「光溢れる者」と言う異名をとった。
 彼の失明が先天的なものであったのか、後天的なものであったのかも謎である。古い写本には「彼の目は生涯にわたって何も見なかった」とあるが、彼の著書に色や光に関する記述があることから、現代の歴史家たちは、彼が光を失ったのは後天的なものだと言うのが定説である。

 それはともかくも、彼こそがカバラ第三期の立役者であり、カバラの中興の祖とでも呼ぶべき存在である。実際、「カバラ」と言う言葉を最初に秘教的伝統の意味で使ったのは、彼であると言う。
 また、カバラの研究に、文字通り生涯を捧げた最初の人物でもあった。
 彼の思想は極めて感照的で新プラトン主義およびグノーシス思想の強い影響が認められる。

 何は無くともカバラを学ぶには瞑想が絶対に必要である、これがイサクの思想であった。単なる神学の形而上的な考察だけでは駄目なのだ。
 彼は、特に精神的な緊張を伴った瞑想を重視している。そして、各種の瞑想には、それぞれに合った祈りが必要であり、その祈りはセフィロトの系統に従って構成されたものでなければ成らないと考えた。
 早くも彼は今日の「生命の樹」のそれに近い概念を持っていたのである。

 とは言うものの、彼のカバラ思想を理解しようとする場合、今現在、我々が知っている完成された生命の樹でもって、それを当てはめようとすると混乱する。
 彼の時代のセフィロトは、現代のセフィロトとは異なるものである。
 しかし、彼が、現代伝わる「生命の樹」の原型を作ったとも言えるのである。
 セフィロトの考え方自体は、すでに「創造の書」の中にも見られたが、これは12世紀に入ってから、大きく変化する。というのも、これまでセフィロトの概念は神学的な考察どまりだったのに対し、宇宙の創造論と一体化するのである。
 この全く新しいセフィロト論の創始者こそが、盲人イサクと言われているのだ。一説には、彼こそが「バヒルの書」の著者だと言われることもあるのだ。

 彼の思想は3つの重要なコンセプトから成り立っていた。これは神性における3つの次元とも表現できる。すなわち、アイン・ソフ、思考、言葉である。
 アイン・ソフ、この未顕現のものを思考を通じて理解することは不可能であり、思考の虚無化が成されてやっと到達できる。アイン・ソフは聖なる思考そのものと関係しており、そこは超越的な領域である。
 「思考」は10個のセフィラには含まれない。セフィロトの数を完成させる「知性」は「思考」と「コクマー」との中間に位置するものである。聖なる意思は「思考」を活性化し、優位のものとする。この「聖なる思考」もセフィラには含まれない。
 「思考」とは、宗教的高揚感が中核となり、そこにあらゆる神秘的感情が結合し、持続するところの球体である、すなわち、この「思考」それ自体が「隠れた神の顕現(あるいは「未顕現」)」であり、「アイン」とも呼ばれる。これは第一の流出であり、最も隠れた高位の神性の存在であり、人間の俗的な思考を虚無化させることによって、やっと存在を知ることの出来る高位の思考である。

  これより下位の世界は「言語」によって成される。なぜなら、創造主による言語表現によって宇宙は形成されたからである。神性内部の「言語」の発展と共に世界は創造された。これこそが、盲人イサクの思想の中核である。
 すなわち、神が言われた聖なる「言葉」が流出し、物質化することによって全ての創造は成し遂げられた。「言葉」は表面上は無意味だが、その「言葉」に内在するものの顕現することによって創造は成されたのである。これは「聖なる言葉」が、流出によって「物質的存在」に移行する、とも言い換えられるだろう。
 こうして生じたセフィロトは、「分離できる世界」と呼ばれる原則でもある。この意味は、現実的存在の多様性という意味である。そこでは、絶えることのない超越した神性からの流出が続いており、それが「分離できる世界」へと注ぎ込まれている。
 我々は、ここにも「生命の樹」の原型を見ることが出来るであろう。

 ともあれ、盲人イサクは、こうした複雑かつ難解極まりないセフィロトを理解する具体的手段として瞑想、誠意、献身をすべきであるとした。
 瞑想によって、人は万物の本質と流出による創造の各段階の相互関係が理解できる。万物は相互に照応し合い、関係し合い、そしてこれら万物は全宇宙的流出のプロセスに内包されるのである。
 そう、ここでも「生命の樹」の基本概念が見られる!
 そして、最終的には、流出による創造とは、神ご自身の瞑想の結果である、ということが了解できる。
 ただ、ここで注意すべきは、イサクは瞑想による「神との合一」はあくまで「一致」あるいは「密着」であり、「融合」ではない、としたことであろう。それは一度獲得されれば、それでお終いというわけではない。瞑想、誠意、献身によって、絶えず繰り返される行為でもあるのだ。
(…) 彼は1235年に没した。(…) 
 ともあれ、盲人イサクの登場によって、カバラは大きく変化し、発展した。
 彼の登場以降を「カバラ」と呼ぶべきであり、それ以前は「ユダヤ教神秘主義」とすべきだ、という主張すらある。
 我々が知っている「生命の樹」に基ずくカバラの原型は、彼によって作り出されたと考えて良いであろう。 ”

[スメラ学塾]総合雑誌『いのち』に注目 Add Star
http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20081107/p1
”「書物蔵」さんも読んだという井上義和『日本主義と東京大学』(柏書房,2008.7)。小田村寅二郎が東大を追われることとなる事件の発端となった寄稿は、光明思想普及会(成長の家)から発行された『いのち』昭和13年9月号掲載の「東大法学部に於ける講義と学生思想生活 精神科学の実人生的綜合的見地より」であった。この『いのち』だが、『生長の家四十年史』によると、

昭和十一年十一月『生命の藝術』を改めて、『いのち』を刊行。(略)執筆陣には、中河与一、本荘可宗、荻[ママ]原朔太郎、杉森光次郎、倉田百三、武者小路実篤、長与善郎、片山敏彦、中谷武世、谷川徹三、伊藤正徳、保田与重郎、小島威彦、浅野晃、難波田春夫、亀井勝一郎氏らの協力を得、常に時局に即応した論文を掲げ、時に特輯号を組んだ。ユダヤ問題に関しては『いのち』が特輯号*1を出して後、次第に世間が騒ぎ出す等先鞭的な面もあった。


スメラ学塾の小島威彦が出てくるね。『いのち』には、ここで名前が挙がっている他に、仲木貞一、藤澤親雄、吉田三郎、黒田礼二、清水宣雄らも執筆しているから、研究の必要な雑誌だね。


*1:昭和13年1月号の「特輯・ユダヤ世界支配の実情を曝く」と思われる。四王天延孝、増田正雄、宇都宮希洋らの寄稿のほか、愛宕北山解説・全訳のシオン議定書を掲載。
コメントを書く

青桃青桃 2008/11/07 18:09 生長の家は、戦前の文献研究が進んでいなくて残念ですね。 
戦後、『生長』という雑誌も出していたようですが、そこに渡辺照宏がルドルフ・シュタイナーについて書いているそうです。
一度読んでみたい。

神保町のオタ神保町のオタ 2008/11/07 19:51 青桃氏も若い(?)のに色々知っているだすね。

uwhuwh 2009/05/12 23:12 非常に参考になる情報助かります。一つだけささやかなお返しを。
生長の家の日本教文社及びその裏の末一稲荷神社と呼ばれる社の境内(フェンスで囲まれた草ボーボーの空き地ですが成長の家が管理しているようです)は坂倉事務所のすぐ隣、つまりスメラ学塾の脇にあります。地図で確認してみてください。

神保町のオタ神保町のオタ 2009/05/13 06:16 はじめまして。そんな関係がありましたか、ありがとうございます。


ゆっくりが論文の書き方を教えるよシリーズ
ttp://www.nicovideo.jp/mylist/36220136

榎本憲男 ‏@chimumu 2015年5月10日
アリストテレスの『詩学』読了した。キモは「認知」と「逆転」、これが大事だと力説しているんだが、オレ流に意訳して、
「認知」は「え、まじ!?」 「逆転」は「ギョエー、そういうことだったの!?」と理解する。
その上で、『オイディプス王』を読むとわかりやすい。(と思うんだけど)

青木陽 AOKI Yoh ‏@Yoh_AOKI 2015年1月19日
お話には出来事の予告や遅延があった方が良い、その方が逆転も認知もより効果的になる。詩学には書かれてない、自分用memo.

かざみさとる ‏@kazami7 2013年11月3日

「詩学」読書中。筋は統一されなければならない。全体の筋に関連性のない出来事は除外し、不可欠な統一ある出来事を中心として筋を組み立てねばならない。ホメロスがそうしたように。悲劇が最も人心を動かすのは、(予期に反する)逆転と、(重要事実の)認知であり、同時に生じるのが最上である。

えかきのルロアさん ‏@ruroa2 2013年2月7日

アリストテレスの『詩学』に書いてある「認知と逆転」というテクニックを最も忠実かつ誇張的に採用した物語ジャンルのひとつがわが国の「少女マンガ」です。たとえば最近アニメ化されもした『ちはやふる』 とか『好きっていいなよ』なんて、「認知と逆転」ですべてのエピソードをつくってるわよ。


ロバート・マッキーの「STORY」読破した
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-472.html
”ロバート・マッキー(Robert Mckee)さんの「STORY」読破しました。
ちなみにTom Monteleoneの「Complete idiot guide: writing a novel」と
Laura Schellhardtの「Screenwriting for dummies」も読みました。
AMAZONのレビューで評価が高かったので......

後、上述の本にアリストテレスの「詩学」が良く引用されていたので
これも読みました。
(Lauraさんが言うにはお守り代わりとして持つのがいいらしい)

で、感想ですが、アメリカのノウハウ本って本が出版された後の”営業”の部分
つまり脚本で言えば映画スタジオに売り込む所、小説だったら
実際に書店で並べられる所まできっちりフォロー
するんですね。
そこが、日本の教則本との一番の違いかな?
ただ作品を書いて終わりにしない
この辺の認識が流石ビジネスの国のアメリカといったところか?
コネの作り方とかもみっちり書かれていたりして、
小説の場合、卸業者のトラックの運ちゃんにドーナッツ奢って
本屋の棚の一番目立つ所に置いて貰うようしろ
とか
かなり生々しいアドバイスが載っていました。

実際のストーリーの作り方に関してはマッキーさんの本が
頭一つ抜けている感じでしたね。

ちなみにスターウォーズのルーカスに多大な影響を与えた
というジョセフ・キャンベルの「千の顔を持つ英雄」も
読んでみたのですが、こちらは訳が酷過ぎて日本語に
なっていないのと、元のキャンベル自身がちょっとヤバイ
薬が完全に決まったニューエイジヒッピーみたいな
思想の持ち主のため、言っていることも支離滅裂で
意味不明のため、断念しました。
う~ん、この本、原本はまともなのかなぁ?

アリストテレスの「詩学」は今まで読んでいなかったのですが
良い機会なので今回トライしてみました。
しかし、こちらも訳が酷い。
「逆転」とか「認知」とかなんだこりゃって感じですわ。
「逆転=どんでん返し」、「認知=発覚/伏線の回収」に
読み替えたら驚くほどすんなり理解できるようになりました。
どうして哲学畑の人ってこう意味不明な単語を訳に充てたがる
のか......

肝心のマッキーさんの本の方ですが、こちらは貴重な本であるにも
かかわらず、和訳がないので簡単に要約したいと思います。
(英語が激ムズのため解釈が間違っているかもしれませんが)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
まず、ストーリーのプロットには三種類ある。

 1.アークプロット: 従来のアリストテレス式の王道
            ストーリー。
            始まりがあって、中間があって、
            終わりがある。

 2.ミニプロット: オムニバス形式で複数の主人公の
           視点で語られる。
           アニメでいえば「カウボーイ・ビバップ」
           みたいな感じか?

 3.アンチプロット: アークプロットの逆。時間軸守らない
            ストーリーは偶然の積み重ね。
            なんか知らない間に映画になっていた。
            アニメだと「けいおん」みたいな
            内容のない日常系がこの類か?

この三つの他にノン・プロットというプロットの無いタイプ
もあるそうです。

で、ハリウッドで一番主流なのが1.のアークプロット型ストーリー。
2とか3は欧州系の芸術映画とかに多いそうです。
ハリウッドで活躍したいならば集客力の良いアークプロットを
中心に制作したほうがいいそうです。

次に”ストーリー”とはそもそも何か?

「ストーリー=変化」

というのがマッキーさんの答え。

つまり、ある状態から別の状態に変化し、しかもその変化が
非可逆的である(つまり元の状態に戻らない)、そういった
”変化現象”が”ストーリー”だそうです。

「つまりキャラや、そのキャラが置かれている状況/世界
 が変化しない物語というのはストーリーではない」

ぞくにいう”キャラが成長するプロット”って一体何のこと?と
日本の教則本を読む時に疑問に思うのですが、”キャラの変化”を
表していたんですね。で、この”変化”がないと物語は面白くならないと。

この次にマッキーさんはストーリーを構成する”単位”を小さい順から
分類していきます。

 ・ビート: キャラの行動を表す
 ・シーン: ビートの集まり
 ・シークエンス: シーンの集まり
 ・幕(Act): シークエンスの集まり
 ・ストーリー: 幕の集まり

なんでこんな分類をするかというと、脚本をリライト(推鼓)するときに
ビート単位でメモ用紙に書きだすんですね。

そしてスタニスラフスキー・メソッド(これがちゃんと出てくるのが
この本の凄い所)を用いてキャラに成りきる。
そのキャラの視点で各ビートを分析していくんですね。
このキャラはこのビートにある動きをとる事に違和感が
ないかどうかとか。

そうやって分析するとストーリーやキャラの行動/言動の
破綻をかなり防ぐことができるらしい。

また、マッキーさんは人間の取る実際の行動と
本心は別であることを強調する。

「人間は本音と建前であると」

だから映画の脚本の場合必ずSubtextを設定しないといけない。
Subtextというのは本音の部分で台詞には出てこないキャラの
気持ちのこと。役者の良し悪しというのはこのSubtextを
如何に汲み取って画面上に表現できるかにあるらしい。

それはまた物語を作るときに

「必ずキャラには本音と建前を用意して行動させること」

そうすることで人間の表現がかなりリアルになるらしい。
つまり”人物に厚み”が出てくると。

マッキーさんが特に重要視するのが物語りの”クライマックス”
ストーリーというのは

「クライマックスへと至る道」

のことでもあるらしい。

プロットというのはまず

 1.プレマイズ(Premise):物語の前提。”もしも
               こんな世界観だったら
               作者の作ったキャラはこんな
               ことをするだろう”

 2.キー・インシデント: ストーリーの発端。この時点を
              越えるとキャラはもう後戻り
              できない。

 3.プロット・ポイント1: 幕1の終わり
 
 4.プロット・ポイント2: 幕2の終わり

 5.クライマックス: 主人公の最終決断

 6.レゾリューション: クライマックス後の
             その後談

 7.エンディング

のような構成になっているらしい。

で、クライマックスってのは単なる”見せ場”のことじゃない
んですね。

「クライマックスでは主人公が重大な決断をする。
 そしてその決断後はもう過去の自分には戻れない」

ストーリーというのは”変化”であるので、クライマックスで
主人公が最終決断することによって最後の変化をするわけですね。

だからただドンパチやったりラスボスとバトルすることが
クライマックスじゃない。

「人間というのは行動を取る前に必ず決断をする動物である」

だからこそ主人公が物語上、最後の行動をとる前の”決断”
というのは実に重要なイベントなんですね。


とまぁ、こういった様な事が多々書かれている本です。
他にも細かい事が沢山書いてあるのですが、きりがないので
興味のある方は是非原著をゲットしてください。

しかし、これの訳本、載っている作例が古すぎるとかいう
理由のため出版社側が出すのに躊躇しているらしい......
これ明らかに名著なんだけど......

出されると困る国内業界人にでも金掴まされているのか?
本当にいい本って中々国内に入ってこないんだよなぁ。”

「詩学」は原則本
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2009/03/post-c04f.html
”わたしたちヒトは、「再現」を好むのだという。この概念はミーメーシスといい、模倣とも再生とも翻訳される。現実そのものを見るのは不快で、その現実を模倣したもの――演劇だったり彫刻、絵画だったりする――を見るのを喜ぶのだという。彫刻や舞台を用いることで、これは「あの現実を模倣したのだ」とあれこれ考えたり語り合うことに、快楽をおぼえるのだ。
(…)
悲劇とは、一定の大きさをそなえ完結した高貴な行為の再現(ミーメーシス)であり、快い効果をあたえる言葉を使用し、しかも作品の部分部分によってそれぞれの媒体を別々に用い、叙述によってではなく、行為する人物たちによっておこなわれ、あわれみとおそれを通じて、そのような感情の浄化(カタルシス)を達成するものである。

 実践に使えるポイントは、二つ。この実践は、いわゆる劇作に限らず、小説や映画などにも効く。

 一つめのポイントは、「おそれとあわれみ」。この感情を受け手に与えると、その作品は成功したといえる。もちろんこれに限らず、すぐれた作品には、恐怖、怒り、憎しみ、嫉妬、喜楽、哀切など、さまざまな感情が渦巻いている。そして、登場人物が抱く激しい怒りや恐怖が、受け手に伝染することがある。

 しかし、それらはアリストテレスに言わせると、「劇中の人物がこれらの感情のゆえに誤った判断をして破滅する、または危機に陥ることを示すため」なのだという。作中の因果の輪の一部をなしたり、トリガーとして「強い感情」が働いているのだという。そして、「おそれとあわれみ」こそが、すぐれた作品にとって必須の条件となる。

 「おそれとあわれみ」を引き起こすためには、「不幸」の要素が必要となる。「幸福→不幸」もしくは「不幸→幸福」となるかはそれぞれだが、多かれ少なかれ不幸の要素がある。観客は自分に似た人物が不幸にあうのを見て、自分もまた同じ不幸にあうのではないかとおそれ、あるいはその人物が不幸に値しないにもかかわらず不幸に陥るとき、あわれみをおぼえるのだという。この感情を引き起こすことが、悲劇の目的なんだとまで言う。

 さらに、この感情を引き起こす効果的な方法まで伝えている。アリストテレスはまず、視覚効果の限界を指摘する。見た目を弄って「怖そうな仮面」や「痛々しい様子」を表現しても効果的ではないという。今風にたとえるなら、びっくり箱的な仕掛けや、どばーん血まみれの映画や小説は、怖いといってもすぐ慣れてしまうようなものか。

 では、どうすれば最も効果的におそれとあわれみを引き起こすだろうか。それは、予期に反して、しかも因果関係によって起こる場合だそうな。予想を裏切るような(でもその中でのリクツは合っている)出来事を見せられると、そこに「驚き」が生じるから。

 ここで、あるフィクションを思い出す。奇妙な死亡事故を調べているうちに、あるビデオを見てしまう男の話。実はそれは「呪いのビデオ」だったというやつ。このフィクション、わたしと友人との間で評価が真っ二つに割れているが、ようやくその理由が分かった。

 カギは、「呪いのビデオ」を信じるかどうかにかかる。少なくとも「ありそうだ」と思えるなら、「おそれとあわれみ」を驚きとともに効果的に味わうことになる。「見た人は一週間で死ぬ」という事実は、見ちゃった後に知らされるからね。そりゃ怖いし、かわいそうだよ。

 その反面、信じられないのであれば、本を投げたくなる。じっさいその友人は「カネ返せ!」と言ってた。「キリストの血統は実は続いてました、それはオマエだ!」なんて奴や、「平凡な少年が実は伝説の魔法使いだった」奴などが、これにあてはまる。自分を重ねられるキャラクターがピンチになったあと、そいつを覆す。危機も逆転も、そのキャラだから起こりうるもの(ビデオ、血統)であれば、より効果的に受け手の感情を引き出せるのだ。

 二つめのポイントは、「カタルシス」。これは注釈のほうが分かりやすい。訳者は二つの説を取り上げていた。ひとつは瀉出説、もうひとつは倫理的浄化(教化)説なんだが、瀉出説のほうがしっくりきた。昔の治療の一手段、瀉血からきているんだろう。

 これは、医療における有害物質の瀉出(除去)にもとづく解釈だそうな。悲劇はあわれみとおそれの感情を引き起こすが、それは結局、これらの感情を高めたうえで、この感情から観客を解放するためであるという。熱病患者には熱を加えて熱から解放する治療のような「類似療法」のようなもの。

 さらに、この効果は知的なものにとどまらない。なぜなら、まさにこの知的な働きによって、肉体も変化するからだという。つまり、肉体はアドレナリンを分泌し、心臓がバクバクし、手に汗をにぎり、目には涙があふれる。泣きゲーで涙を流したり一本抜いたりすると、スッキリするのはこういうこと――戯言兎角、一種の呼び水となっているのだろう、感情の水位を高め、あふれ出すための。

 エッセンスをまとめるとこうなる――観客が感情移入できるような、普通の人がピンチになるが、どうしてそうなったか、最初は分からない。その原因を探っていくうちに、その人は何かの因縁を持っていることが認知される(キャラと観客の両方に)。因縁は劇の外側にしつらえてあり、作中ではその結果や影響しか見えない。適切な不幸とそれに見合った解決で受け手をハラハラドキドキさせ、なおかつドンデン返しする。ただし、「いかにもありそう」な因果でなければならない。で、ラストにホロリと泣かせれば上出来。

 ベストのフレームはこんな感じで、あとはバリエーションの問題となる。そうそう、アリストテレスに言わせると、「みんなが知っているお話」を下地にするのはいいけれど、変えちゃダメだそうな。共有されていつ、大きな物語があるなら、それをベースとする。観客は舞台の「再現」を見ると共に、自分の記憶のなかでも「再現」させるんだ。この二重の再現こそが快の元なのだろう。「あ、知ってる知ってる!」という奴やね。

 ベースとなる神話があるなら、その登場人物は死ぬべきときに死に、戦うべきときに戦う。その構造はそのままにしたうえで、観客に「あわれみとおそれ」を呼び起こすような出来事を、予期に反して、しかも納得できる因果関係でもって引き起こすのがベスト。

 たとえば、いわゆる「時代物」が良例だろう。歴史にIFはないけれど、史実はそのままで、「実はあんな陰謀があったんだ…表沙汰にはならなかったけど」なんて話がぴったりや。「儂の死を三年隠すのじゃ」とか、「自衛隊が戦国時代にタイムスリップしちゃいました」なんてそう。史実を変えずに、どう着地させるかが見所やね。それにひきかえ、「自衛隊が第二次世界大戦にタイムスリップしちゃいました」の方は、偽史展開(パラレルワールド)なので、アリストテレスによると二流扱いとなる。”

アリストテレス『詩学』ノート
http://technoscenario.web.fc2.com/shigaku/_body.html
”逆転

:例
『オイディプス王』
まさに意図と反対のことを行う。
『リュンケウス』
リュンケウスは死刑を執行されるために引き立てられ、ダナオスは死刑を執行するために付き添っていたが、それまでの行為の結果、ダナオスは殺され、リュンケウスは救われる。
認知


印による認知

技法として劣っているが、ほかに方法がない場合よく使われる。
生まれつきのもの
生まれてからえたもの
傷あとのように身体についた印

首飾りや、その人の使う小舟など。
オデュッセウスの乳母による認知。豚飼いによる認知。
「足洗い」のくだりにおける認知のように逆転から生じる認知は、よりすぐれている。
作者によってつくられた認知

自分が誰であると自分が明かす場合のように、つまらない。最低でも、印を使うべきである。
記憶による認知

何かを見て気づくことにより認知される場合。例:
ディカイオゲネスの『キュプロス島の人々』
絵を見て思い出し泣く。それで誰であるかが判明する。
「アルキノオスに語られる物語」
歌を聴いて思い出し泣く。それで誰であるかが判明する。
推論による認知

例:
「誰か、わたしに似た人がきている。しかしオレステスのほかにわたしに似た人はいない。だからオレステスが来ている」。
「姉も生け贄にされたのだから、自分もまた生け贄にされることになるのだ」
「息子を探しに来たのに、自分が死んでいくとは」
「ここで死ぬのがわたしたちの運命なのだ。わたしたちが捨てられたのもここだから」

観客の誤った推論を利用する複合的な認知
AであればBである、すなわち
A→B
である場合、観客は
B→A
でもあると考えてしまいがちである。だから、Aの真否にかかわらずBだけを示しても、Aであると彼らをだますことができる。
出来事そのものから起こる認知
手紙を届けたい、と望みそうな人物を類推して認知する例。

苦難

人物が破滅したり苦痛を受けたりする行為のことで、例えば、目の当たりに見る死、はげしい苦痛、負傷、そのほかこれに類したことがそれにあたる。
(…)
作者がなすべきことはあわれみとおそれから生じる喜びを再現によって作り出すことであるから、このあわれみとおそれを引き起こすものを出来事の中に組み込む形で詩作しなければならない。
では出来事のうちで、どのような出来事がおそろしいもの、あるいはあわれみを誘うものに見えるか。この種の行為が為されるのは、

互いに親しい人たち
互いに敵対している人たち
親しくもなく敵同士でもない人たち

のいずれかの間である。2.と3.については、あわれみを誘うものは少しもない。であるから、兄弟が兄弟を、息子が父親を、母親が息子を、息子が母親を殺害したり、殺害しようと企てたり、その他これに類することを行ったりする場合こそを、作者は求めるべきである。
行為は次の仕方で為される。行為は実行するかしないかのいずれかであり、また、それと知りながらするか知らずにするかのいずれかである。

自分がおそろしい何かを企てていると気づいており、行為しない場合
自分がおそろしい何かをすると気づいていながら行為する場合
エウリピデスがメデイアに自分の子供を殺害させるのがこれにあたる。
おそろしい行為をしているのに気づかず実行し、あとになっておそろしさを認知する場合
『オイディプス王』
何も知らないために何か取り返しのつかないことをしようとし、実行する前に認知する場合

このうちで、1.がもっとも拙劣である。忌まわしいだけで、悲劇的ではない。
もっともすぐれているのは、4.である。たとえば若者を殺害しようとして果たさず、それが息子であると後で認知する場合である。このほか同様に、姉が弟を生け贄にそなえようとする、とか、息子が母親を敵の手に渡そうとする、といった例がある。
悲劇作者は、わずかの家系しか取り上げない。なぜなら、作者たちが上に見たような効果を筋の中に作り出すことを発見したのは、技術でなく、偶然にこれらの家系のなかにそのような筋を見つけたに過ぎないからである。 ”

悲劇の要素とカタルシス ~アリストテレス『詩学』のメモ~
http://syaosu.blog40.fc2.com/blog-entry-1.html
” 「詩人(作者)の仕事は、すでに起こったことを語ることではなく、起こりうることを、すなわち、ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で起こる可能性のあることを、語ることである」(第九章)とアリストテレスはいいます。この詩人の目的は歴史家と詩人とのちがいを比べることでよりはっきり理解できます。「歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語るという点に差異がある。したがって、詩作は歴史にくらべてより哲学的であり、より深い意義をもつものである。というのは、詩作はむしろ普遍的なことを語り、歴史は個別的なことを語るからである」(第九章)。
(…)
 「悲劇が人の心をもっともよく動かす要素は、筋を構成する部分としての逆転(ペリペテイア)と認知(アナグノーリシス)である」とアリストテレスはいいます。逆転とは「行為の方向がこれまでとは正反対の方向へ転じること、すなわち、ある行為がその意図した結果の実現をはばまれ、予期に反して、その正反対の結果を引き起こすこと」(第十一章訳注)です。相手のためを想って行った行為が、かえって相手を苦しめる結果となってしまった、などがこれです。
 次に、認知とは「無知から知への転換――その結果として、それまで幸福であるか不幸であるかがはっきりしていた人々が愛するか憎むかすることになるような転換」のことです(第十一章)。つまり「好きになった女の子が、なんと血の繋がっている実の妹だった」みたいな展開ですね。もっとも優れた認知は、出来事そのものの必然的な推移から、それが逆転とともに生じる場合とされます。つまり「実の妹とも知らずに告白したらOKもらって恋人同士に。やることやった後になって父親から『実はな、お前には妹がいるんだ』と告げられて会ってみたら、なんとあの恋人が血の繋がった妹だと発覚!さらに先の一発で妊娠してしまい……」みたいな展開のことでしょうか。
 逆転と似た概念に「変転(メタパシス)」があります。変転とはひとつの筋の流れのなかで幸福から不幸、あるいは不幸から幸福へ移り変わることです。要するに日常パートにおける自然な感情の変化ということでしょうか。変転は物語の単一的な流れに過ぎませんが、ここに逆転が起こりますと、このひとつの筋の流れが逆流し、筋が複合的になって悲劇に深みが増すのです(ただし、筋が複数ある劇は駄作とされます。つまりふたつの物語が同時並行で語られる劇はアリストテレス的にはダメなのです)。
 逆転も認知も変転も、筋の組み立てから逸脱することは許されません。いずれも筋そのものから必然的に生じるものでなければならないのです。この点、アリストテレスは徹底しています。
 (…)
 「悲劇とは、一定の大きさをそなえ完結した高貴な行為、の再現であり、快い効果をあたえる言葉を使用し、しかも作品の部分部分によってそれぞれの媒体を別々に用い、叙述によってではなく、行為する人物たちによっておこなわれ、あわれみとおそれを通じて、そのような感情の浄化(カタルシス)を達成するものである」とアリストテレスは定義しています(第六章)。おそれとあわれみを引き起こし、それによって観る者にカタルシスをもたらすこと。アリストテレスにとって悲劇の最終目的とはこれです。そのため「もっともすぐれた悲劇の組みたては……おそれとあわれみを引き起こす出来事の再現でなければならない」のです(第十三章)。
では、おそれやあわれみを引き起こす筋とはどのようにあるべきなのでしょうか。アリストテレスによれば、

(1)よい人が幸福から不幸に転じることが示されてはならない。
(2)悪人が不幸から幸福になることが示されてはならない。
(3)しかしながら、まったくの悪人が幸福から不幸に転じることを示してはならない。
(4)よって、これらの中間にある人がなんらかの「あやまち」(ハマルティアー)によって、大きな名声や幸福を享受しているにもかかわらず不幸に陥ることを示さなければならない。

 つまり、観る者におそれとあわれみを喚起させるのは、不幸に陥るのにふさわしくない者(アナクシオス)が大きなあやまちを侵したことで幸福から不幸に転じていくような筋なのです。
 ここでいう「あやまち」とは、その人物の卑劣さや邪悪さによって起こされた倫理的に重大な罪ではなく、数ある選択肢のなかからかれが選んだ知的判断や決断のことをいいます。つまり善悪の問題ではなく、その人物がある運命的な分岐にさしかかった際に選んだひとつの決断が、後に悲劇のきっかけとなってしまった場合、そのときの決断を「あやまち」というのです。
かのオイディプスは、「故郷に近づけば両親を殺すことになる」との神託を受け、自身が故郷と信じるコリントスから旅立ちます。しかしかれの本当の生まれ故郷はテーバイだったのです。そして知らず知らずのうちにテーバイにたどり着き、あの父殺しを犯してしまう。これはオイディプス本人にはどうしようもなかったことですが、何はともあれ、かれは「あやまち」を侵してしまった。『オイディプス王』はギリシア悲劇の傑作のひとつですが、このような筋の展開が観る者におそれとあわれみをもたらすのだ、とアリストテレスはいうのです。
 ところで、先にも述べましたとおり、アリストテレスは筋の組みたては必然的な、ありそうな仕方でなされていなければならないとし、悲劇の筋が「機械仕掛けの神」によって強引に解決することを極力排除するように言います。しかしよくよく考えてみますと、不幸に陥るのにふさわしくない者が不幸に転じる、というのは「必然的(アナンカイオン)」とはいえないような気もします。つまり、観る者に「おそれ」を引き起こすためには、神や運命といった不合理が介在する余地を残しているように思えるのです。ここは『詩学』の研究者の間でもいかに捉えるべきか論争になる部分のようです。私はアリストテレスの研究者ではありませんから何とも言えないのですけれど、アリストテレスは「可能なことがらとは、信じることができることがらである」(第九章)と言っておりますし、その上ならば「不合理なこともときには不合理でないことがある、と答えることもできる。なぜなら、起こりそうもないのに起こるということも、起こりそうなことであるから」(第二十五章)という少々言い訳めいた発言も、要するに「観る者が筋の展開に納得できればそれでよい」とアリストテレスは考えていた、こう解釈できるんじゃないかと思います。
 
10.カタルシスについての考察
(…)
(a)瀉出説
 医療行為における有害物質の除去にもとづく解釈。おそれやあわれみの感情を高めることで、観客をこれらの感情から解放するためとみる。
(b)倫理的浄化説
 瀉出説とは異なり、おそれやあわれみの感情を除去するのではなく、倫理的に高める(浄める)ものとみる。つまり、感情が極端に傾くのを防ぎ、適度な状態に導くことが悲劇の目的となる。
 
 カタルシスは伝統的に大きくこのふたつの捉え方があるそうです。松本/岡さんは、過度の感情が瀉出された後には適度な感情の状態に至るのだから、双方の差異はほとんどなく、よって倫理的浄化が、すなわち感情の均整のとれた境地に至ること、これをカタルシスと解釈しておられます。

 しかし、倫理的浄化をもってカタルシスと見るのは、もちろん研究者でもない私がどうこう言える立場ではないのですけれど、なんといいますか、少しもったいないような気がいたします。カタルシスは医療行為における瀉出とともに、宗教的な浄めの意味でも使われたと言います。私としては、この後者の意味をより重く受け止めたい。つまり、アリストテレスは悲劇に、世界の真実の姿(エイドス)を表現する力を見出していたのでないかと、そう私には思われる。カタルシスとは、そのような世界にさらされた人間がおぼえる「驚き(タウマツエイン)」のことではないか。
 私には、アリストテレスが性格よりも筋を、すなわち個々の人間の主体的行為の要因よりも、それらの行為によって起こった出来事の統合に重点を置いていること、これが重要なように思われる。悲劇においては個々の人間そのものよりも、全体を貫く筋が重要だとアリストテレスは述べていました。それというのも、人間の行為は、たしかに人間なしにはなされませんが、いったん為された行為は、その行為をした当人から離れて出来事として結晶します。ある出来事とそれに関わった行為者との間には、実は深い溝が穿たれているのです。
 (…)
 人間の行為は、行為した本人の統制下から離れて、途方もない悲劇へとその者を導くことがある。このことへの「気付き」、すなわち世界の複雑さに直面しての人間の無力さこそが、悲劇を観る者に「おそれ」や「あわれみ」を引き起こすのではないでしょうか。悲劇は、これを「ありそうな仕方」でまざまざと見せつけます。つまり人間の認識の統合作用そのものが、人間によっては統合されえない世界の臨界地点を示すのです。悲劇を前にしてしまえば、人間はもはや世界を統べる実存的存在として立ってはいられません。人はどうしようもない世界の諸力――もちろん、そこには人間の諸行為によって出来た「流れ」も合流している――を前にして、まさにそれによって己が在ることを知るのです。
 悲劇の筋は「ありそうな仕方(エイコス)」で「必然的に(アナンカイオン)」組み立てられていなければならない、というのもこのことから理解できます。悲劇は出来事を織り合わせた「出来事」であり、観る者にも出来事として体感されなければならない。”


長い記事をお読みくださりありがとうございます。

②に続く!
(「長くなったら分割する」を実践!)
スポンサーサイト



「奴隷制度は自然法則!」と数学的にほざいたアリストテレスの『政治学』『形而上学』。  日本の学校=和風の神学校。 

アリストテレスの主張を超要約
「奴隷は自然に生まれる!」
「完全な家は奴隷と自由人から出来ている!」
「男は女より上」
「魂と精神は肉体より上」
「考える職業は肉体労働者より上」
「自分たちの安全は支配層のおかげであり、また自分たちが不正をうけないのも支配層のおかげだ考えるように仕向けろ」
「体制にそぐわない生活をしている奴を監視しろ」
「(富裕層と貧困層の)中間層を増やして支配せよ」
「財産よりも、出産を制限しろ」
「財産の額を規定するなら、同時に子供の数も規定しろ」
「多くの者が金持から貧乏人になると革命家となるので善くない」


上記や過去記事で語ってきたプラトンやアリストテレスなどのギリシア哲学をベースに西洋哲学を教えてきたのが、キリスト教の神学校。
信者は死んでも蘇るという思想を持つクリスチャンが作った神学校が今の日本の学校教育のモデル。
ギリシャ哲学とキリスト教が基盤なのが日本の教育。
だから聖書に基づき日曜日が休みで、ギリシャ哲学者のアリストテレスが言っているように図画(工作)、音楽、体育(文化祭、体育祭なども)
があるわけです。

以上でわかるように、ひも付き陰謀論者はギリシャ哲学を批判しません。神学の中核なのでギリシア哲学を否定できるわけがないのです。
ギリシャ哲学を善とみなしている陰謀論者は全員アウト。
キリスト教を善だとみなしている陰謀者は全員アウト。
キリスト教をギリシャ哲学で覆ったキリスト教神学の詭弁を使いまくる陰謀論者は寸止めばかり。
「論理(=嘘を見抜ける強力な武器)」を否定するスピリチュアルが改造版キリスト教なのを見抜けない陰謀論者はアウト。
支配層を「悪魔崇拝者」「ルシファー」「悪魔」「ユダヤ」と呼ぶ陰謀論は「すべて」キリスト教思想の支配下。
「だから」本が出せる。「ゆえに」真実ではありえない。
無自覚含め害悪の程度の差はあるが「全員」が「宣教師」。
ギリシャ哲学とキリスト教が真の黒幕。
ギリシャ哲学+キリスト教
=キリスト教神学。
人間はしょせん思想の手先に過ぎない。
神学にもとづく思想とシステムこそが本体。
だから人間をひたすらたたかせて感情をあおって判断力を奪う。


――
わかりやすくて面白い古典が読みたいあなたのために
――

世界の古典つまみ食い
ttp://www.geocities.jp/hgonzaemon/index.html
という素晴らしいサイトはおすすめ翻訳文がたくさんあるのですが、特に重要な。

奴隷制度を肯定したアリストテレス
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/intro_aristetle_intro.html

アリストテレスの『政治学 』 第一巻
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/politics.html
第一章   国家は一種の団体である
第二章   国家は自然に生まれてくる
第三章   家庭と奴隷
第四章   奴隷は道具である
第五章   奴隷制度は自然なものである
第六章   生まれついての奴隷と戦争奴隷の違い
第七章   政治家と奴隷の主人の違い
第八章   自然の摂理に則った財産獲得術
第九章   二種類ある金儲けの技術━商売の誕生 (必読。ここに『資本論』の出発点がある)
第十章    家庭の経営と自然な金儲け
第十一章  金儲けの実践的知識  (タレスの金儲け術の話はここにある)
第十二章  夫婦関係と親子関係について
第十三章  家庭経営に必要な美徳について

をすすめておきます。
ですます調で奴隷制は自然だとか必要だとか、男は女より上だとかを数学の証明のように言われるものすごい恐怖と狂気を感じます。

――
アリストテレスの著作の読書メモとコメント
――


ひとは財産よりも、むしろ産児を制限して或る数より以上に生れないようにすべきであり、またこの人数を定めるにも、生れた者のうち或るものが死ぬこともあるので、そういう場合の災難に対しても、またその他の人々に子のないこともあるので、そういう場合に対しても注意を払うべきであると思うであろう。しかし大多数の国々においてのように、産児が放任されていると、それは国民にとって必然に貧乏の原因となるが、この貧乏はまた国に内乱と犯罪とを作り込むのである。”p.86 第二巻 第六章



“しかるに、プラトンは『ノモイ』を書いた時、或る程度までは不平等を許さねばならないが、しかし最小の財産の五倍以上を所有することは国民の誰にも許さるべきではないと思った。これはさきにも述べた通りである。
しかし、また、次のことは今日見過されていることだけれども、このような立法をする人々の見過してはならないことである、それは財産の額を規定するなら、同時に子供の数をも規定するのが適当なことだということである。というのは、もし子供の数が財産の額を超過するなら、その法律は必然に廃棄されることになる、そしてその廃棄は別としても、多くの者が金持から貧乏人になるのは善くないことである。というのはこのような者が革命家とならないのは難しいことであるから。”p.89-90 第二巻 第七章


“別に一つの支配がある、それにおいては自分と生れの同様な者、すなわち自由人を支配するのである(何故ならここにわれわれの言っている支配は政治家的支配のことであるから)、そして支配者はこの支配を、支配されることによって学ばなければならない、ちょうど騎兵を支配することは騎兵として支配されることによって、将軍として支配することは将軍に支配され、将軍の部下の部隊長として、またその部下の区体長として支配することによってであるのと同様である。それ故また、「支配された者でなければ善き支配者たることは出来ない」という言葉も実際真実である。そしてこの両者の徳は異ってはいるが、しかし善き国民は支配されることも支配することも知り、且つ出来なければならない。そうしてそれが国民の徳である、すなわち、自由人の支配をその両面において知ることが。
そこで、またこの二つが善き人間の徳であることになる、そうしてもし支配者にふさわしい節制と正義の種類が異ったものであるなら――異ったというのは、被支配者ではあるが自由人である者のそれから、の意だが――明らかに善き人間の徳、たとえば正義は一つでないことになろう、むしろ種類を含むものであって、その徳の違った種類に即して支配し支配されることになろう。その違いはちょうど男と女との節制と勇敢とが異っているようなものである(というのは男がもし勇敢な女と同じような程度で勇敢であるなら、卑怯者だと思われるだろうし、また女は善き男と同じような程度で慎しみ深いのであるなら、おしゃべりだと思われるだろうから。それは家政さえも男と女とのでは異っているからのことである、というのは男には獲得することが、女には守ることがその仕事であるから)。
しかしただ思慮だけは支配者に独得な徳である。というのはその他の徳は被支配者にも支配者にも共通でなくてはならぬようであるが、しかし思慮は被支配者の徳ではなくて、ただ真なる意見だけがそうなのである。というのは被支配者は笛作りのような者であり、支配者はそれを用いる笛吹きのような者であるからである。”p.132-133 第三巻 第四章

奴隷は支配される側であって、奴隷に支配されることで奴隷の支配を学べということではありません。自由人と奴隷との間には大きな断絶がありますから、あくまで自由人に限定した話です。
支配する為にはまず支配されよ、は逆AでAを学ぶ有用な技術。
思慮は支配者に独特ということは知性主義の反映です。ボスが馬鹿だと駄目なのはわかりますけどね。笛を作るのにも思慮は必要なのでは?



“ 人々が教育として教えるのを常としているものは大体四つである、すなわち読み書き、体操、音楽、第四に、或る人々によれば図画である”p.363 第八巻 第三章



デーミウルゴスという言葉はアテナイやその他の国で普通には職人という意味で用いられていた。従って、臼作りもデーミウルゴスの一種である。
しかしこの言葉は或る国々では国の重要な役の呼び名でもあった。

・海賊はアリストテレスのころ、いやその後までも東地中海では一種の職業として多目に見られていた


“さて先ず第一に、互に他なくしてはあり得ないものは、一対となるのが必然である、例えば男性と女性とが出産のために一対となるが如きである(そしてこのことは人の選択から起るものではなくて、他の動物や植物においてのように、自分のようなものを別に自分の後に遺そうと欲することが生来のものだからである)、また生来の支配者と被支配者とが両者の保全の為に一対になるが如きである。何故なれば心の働き(ヂアノイアー)によって予見することの出来る者は生来の支配者、生来の主人であるが、肉体の労力によって他の人が予見したことを為すことの出来る者は被支配者であり、生来の奴隷であるからである。だからして主人と奴隷とには同一のことが『為に』なるのである。”p.32-33
アリストテレス『政治学』 山本光雄訳 岩波文庫第一巻 第二章
※『』は原文にはなく『』内の傍点の代役。

完全な家は奴隷と自由人から出来ている”p.37第一巻 第三章


“先ず第一に生物において、主人が奴隷に対してなすような支配も、政治家が同国民に対してなすような支配も見ることが出来るのである。何故なら、魂が肉体を支配するのは主人的支配によってであり、理知(ヌース)が欲情を支配するのは政治家的『或は』王的支配によってであるから。そしてこれらにおいて明らかなことは、肉体にとっては魂によって支配されることが、また魂の受動的部分にとっては理知や有理的部分によって支配されることが自然に一致したことでもあり、また有益なことでもあるということ、しかるにそれらが平等になるか、逆さまになるかすると、凡てのものにとって害があるということである。さらにこの関係は人間とその他の動物との間においても同様である。何故なら家畜はその自然が野獣より優れたものだが、しかしこれら家畜の凡てにとっても、人間によって支配されることがより善いことだからである。そうされることによって彼らは救いを得るからである。そしてさらに、男性と女性との関係について見ると、前者は自然によって優れたもので、後者は劣ったものである。また前者は支配する者で、後者は支配される者である。そしてこのことは凡ての人間においても同様でなければならない。
だから、他の人々に比べて、肉体が魂に、また動物が人間に劣るのと同じほど劣る人々(このような状態にある人々というのは、その働きが肉体を使用することにあって、そして彼らの為し得る最善のことはこれより他にないといった人々のことである)は誰でも皆自然によって奴隷であって、その人々にとっては、もし先に挙げた劣れるものにも支配されることの方が善いことなら、そのような支配を受けることの方が善いことなのである。何故なら他人のものであることの出来る人間(それ故にまた他人のものでもある)、すなわち理(ことわり)をもってはいないが、それを解するくらいにはそれに関与している人間は自然によって奴隷であるからである。というのは他の動物どもは理を解してそれに従うということはなく、むしろ本能に仕えているからである。しかし実は奴隷と動物との間に、有用さという点では大した相違は存しない。何故なら生活必需品のために肉体を以て貢献するということが両者の能(はたら)きなのだから。
”p.41-42第一巻 第五章
※『』は原文にはなく『』内の傍点の代役。

動物蔑視。
家畜(動物)は人間に支配されることが善。
家畜(動物)は人間に支配されることで救われる。
家畜が野獣より優れていると言っているのは、家畜は人間の言うことを聞くからですよ。
動物と奴隷はどちらも道具(「有用」という言葉は普通は人間には使いません)。
男尊女卑。女<男。
魂が肉体を支配する。肉体<魂。
理性主義。欲情(感情)<理知(理性)
奴隷制度は必要=階級制度は必要=平等は有害、悪。
奴隷は理を解することはできる=ある程度は賢いが、理がないのでやはり馬鹿。
あるい程度賢い馬鹿が支配層に必要だから、学校=時間と規則に厳しい労働者育成施設があるのです。
優れた業績によって残ったよりも、支配層に都合がいいから残った側面が強い。
業績<支配者の都合。
支配層がアリストテレスの思想に従った結果アリストテレスが生き残ったのさ!



・アリストテレスの理想は、「財産は私有、だがその使用は共有」。
(奴隷も財産=物なので奴隷も共有
ということに)

国家という言葉で現代で思い浮かべるイメージはアリストテレスのイメージと異なっている。国家、国とはポリス=都市国家、市邦。
都市であって国家であるのが都市国家。この都市は市街地を中心にその周辺の田舎あるいは地方を含めたもの。市街地はスパルタのような特殊な国を除いて、ほとんどが城壁あるいは都壁で囲まれていた。実際、アリストテレスは城壁の有無の善し悪しについて論じている

ポリスの領土は市街地、田舎を合わせて、一般の平均は約70平方マイルくらいで、例外的な広さをもったアテナイが1000平方マイル(全盛期の紀元前5世紀での国民の全人口は15万ないし17万人。婦人と子供含む。国民なので恐らく奴隷は含まない)
、コリントスが350平方マイル
にすぎなかったという。
(70 mile2 = 181.3 km2
1000 mile2 = 2590 km2
350 mile2 = 906.5 km2
ルクセンブルク 2,586km2
香港 1,104km2
リヒテンシュタイン 160km2

アルバ 
180km2
オランダの海外領土で自治政府あり。


日本の面積約38万km2

林学たん ‏@ringaku_tan 16 時間16 時間前
私有林とは個人や会社が所有している森林で約1457万haあります。日本の面積の約38%、森林面積の約58%を占めています。 因みに日本の面積(平成25年)は約37万7961平方kmです。(国土地理院より)

度量衡換算
http://hp.vector.co.jp/authors/VA018451/javascript/jdoryoko.htm
を使用。

国の面積順リスト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E3%81%AE%E9%9D%A2%E7%A9%8D%E9%A0%86%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88

1国際マイル=1760ヤード = 正確に1609.344メートル
1平方マイル → 2589988 平方メートル
1平方マイル
=27,878,400平方フィート
=640エーカーに等しく
≒2.5平方キロメートル。

“1平方マイルは約2.5平方キロメートルです。従って

皇居の面積(1.4平方キロメートル)の2倍より少し小さい

または
ロンドンハイドパーク(2.5平方キロメートル)と同じ

または
東京デズニーランド(0.52平方キロメートル)の約5倍”
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1162774511
重要なのはかなり狭い範囲の国土での最善を考えているということです)

・アリストテレスは彼の考える理想国の人口をはっきりと限りはしなかったが、
生活の自足を目標に、一目でよく見渡し得る数の範囲内で出来るだけ膨張した人口”(p.321 第七巻 第四章)
がポリスの最善の限界であると言った。
またその人口は
「“いろいろの支配の役を値打に応じて分ち与えるためには、国民がお互にどのような性質のものであるかということを知り合っていなければならない。” (p.320 第七巻 第四章)」
を満たす程度でないといけない。
理想的ポリスの領土は
人間の数は人目でよく見渡せるものでなければならないと言ったが、国土もまたそういう風でなければならない、そして一目でよく見渡せるということはその国土が援軍を得易いということなのである。”(p.322 第七巻 第五章)



“人は、(公的な栄誉のためばかりでなく)私的な生活のためにも変革を起こすものであるから、体制にそぐわないような生活をしている人間、すなわち、民主制国家においては民主制にそぐわないような、寡頭制国家においては寡頭制にそぐわないような、そしてその他いずれの体制においてもその体制にそぐわないような生活をしている人間にたいしては、これを監視するなんらかの公的機関を設けなければならない。また、国家のある部分が他の部分に優ってとくに繁栄している場合も、右と同じ理由によって、(すなわち、かれらの私生活から変革がもたらされるおそれがあるので)この部分にたいしても警戒の目をゆるめてはならない。これ(国家の一部に偏した繁栄という状態)に対処するための方策は、その部分に対立するところの部分――一般大衆にたいしてはちゃんとした生活をしている人たちが、富裕な人たちにたいしては貧しい人たちが対立している――に、つねに政務と公職を委ね、こうして貧しい階層と富裕な階層との融合(均衡)をはかるか、そうでなければ、中間層の増大に力を入れることである。というのは、中間層が増大すれば、不均衡に起因する国内分裂を解消するからである。”p.247-248
アリストテレス『政治学』中公クラシックスで2009年11月再刊、田中美知太郎ら訳 今道友信解説 中央公論社

一億総中流の理由は支配のため!
極端(両端=貧乏人と金持ち)は不和を生み、中庸は和を生む。
完全な平等は無理でもかなりの程度平等にする。あるいは最低限は保障し(最低限の保障のレベルが住みやすさのレベル)て、あとは不平等OKにする。
スタートラインが余りに違うことを防ぐ……
ことができるのは宗主国だけだ!
宗主国でもそうはなってねえし!
植民地=日本では特に、中流「意識」を持たせつつ=そうなっていると思いこませつつ、実際はどんどん格差社会化させ、国内分裂させて、国内をまとめつつ格差を解消しよう!を口実(=嘘をつくこと)にして有色人種国家同士で戦争=有色人種の間引きですね。
中間層の増大のために一定の非差別層を作ることはよく行なわれてきました。その非差別層に特権を与えて間接統治
させることが重要です。

“国家は二つの部分から成り立っているのだから、すなわち貧しい人々の階層と富裕な人々の階層から成り立っているのだから、そのいずれもが、自分たちの安全はかれの支配のおかげであり、また自分たちが他方のものから不正をうけないのもそのおかげであると考えるように仕向けなければならない。これが一番大切なことである。だが、いずれの階層にせよ、そのほうが優勢である場合には、とくにその階層の人々を支配の味方につけなければならない。”p.284

生長の家の隠れ死ん者
「この国が平和なのは天皇のおかげ! 御家は正義!」
って
”自分たちの安全はかれの支配のおかげであり、また自分たちが他方のものから不正をうけないのもそのおかげであると考えるように仕向けなければならない”
を見語tに実行していますね。

富裕層がほぼ確実に優勢側だよね?
あとこれは自由人のあいだでの話しな。アリストテレスにとっては、奴隷=動物=道具=非人間ですので。





・アリストテレスは『自然学』にて、
「時間(クロノス)
=前と後とに関しての運動の数」
と定義している。

・アリストテレスの根本思想は、見ること(観照〔テオーリア〕・理論)が、おこうなうこと(実践〔プラクシス〕・行為)よりも優れているというもの。
技術(テクネー)は主として制作(ポイエーシス。生産)に関する技能であるとして、思慮(フロネーシス)や理論を主とする知恵(ソフィア)と区別され、見下げられている。
(よって、実務を行う奴隷は劣っているし、奴隷制度肯定という結論になります。
奴隷所有を是認し賛美するのがアリストテレス)


“経験家もただたんになんらかの感覚をもっているだけのものとくらべればいっそう多く知恵ある者であり、だがこの経験家よりも技術家の方が、また職人よりも棟梁の方が、そして制作的〔生産的〕な知よりも観照的〔理論的〕な知の方が、いっそう多く知恵がある、と考えられるのである。”
p.25『アリストテレス 形而上学(上)』出隆訳 岩波文庫

“いっそう多く王者的な学の方が、これに隷属する諸学よりもいっそう多く知恵であると解されている、けだし知者は、他から命令される者たるべきではなくて命令する者たるべきであり、かれが他の者に服従すべきではなくて逆にかれよりも知恵の劣った者がかれに服従すべきであるから。”p.26『アリストテレス 形而上学(上)』出隆訳 岩波文庫

“明らかにまた、すべては静止していると説く人々も、すべては運動していると説く人々も、ともに真実を説いてはいない。なぜなら、もしすべてが静止しているとすれば、同じ説が永遠に真でありまたは偽であるはずであるが、実際には明らかにそれは転化しているから(というのは、その説をなす者自らが、かつては存在していなかったであろうし、またふたたび存在しなくなるであろうからである)。しかしまた、もしすべてが運動しているとすれば、なんらの真も存在しないことになり、したがってすべては偽であるということになろう。しかし、このことの不可能であることはすでに証明された通りである。なおまた、存在するものは転化するのが必然である。なぜなら、転化は或るものから或るものにであるから。しかしまた、すべてのものが『或る時には』静止しまたは運動しているというのではなく、またすべてのものが『常に』〔永遠に〕そうしているというのでもない。というのは、動いているものには常にこれを動かす或る者があり、しかもその第一の動者それ自らは、不動であるから。”p.152『アリストテレス 形而上学(上)』出隆訳 岩波文庫

キリスト教の神のモデルの一つが不動の動者でしょうね
アリストテレスは仏教に対してはどう反論するのやら。
諸行無常=万物流転=全ては転化する。
しかし、諸行無常自体は例外的に転化しない=不変の法則にして万物の根源。諸行無常自体が不変なのは、諸行無常自体が変わるなら万物の静止状態にいつかなるが、もし万物が静止したならば何も変化しないのだから何も起こらないから

以上のように主張すれば反論されにくそう。
人格的存在ではないことが重要。宗教家の解釈による大衆操作ができない、あるいはしにくいから。人格なき非人間的法則なら、神の「意志」や「お告げ」が使えませんから

フィクションで「不動」という名字の人が出てきたりしますが、
不動明王ではなく不動の動者を意味していることがあるのでしょう
ね。
無論、大した意味はないこともあるでしょう。が主役級なら意味を大抵の場合は込めるものです。)

※角括弧〔 〕の中の文字または文句は、訳者によるものなので注意。

“さらにこの第一の天界を動かすところの或るものがある。動かされ且つ動かすものは中間位にあるものであるから、動かされないで動かすところの或るものがあり、これは永遠的なものであり、実体であり、現実態である。〔では、どのような仕方で動かすか?〕それは、あたかも欲求されるもの〔欲求対象〕や思惟的なもの〔思惟対象〕が、〔欲求者や思惟者を〕動かすような仕方で動かす、すなわち動かされ〔も動きもし〕ないで動かす。ところで、欲求の対象と思惟の対象とは、それぞれの第一のものおいては、同一である。けだし、たんに欲望されるもの〔非理性的欲求の対象〕は現象的にそうある善美なものであるが、願望されるもの〔理性的欲求の対象〕のうちの第一のものは真に存在する善美なものである。しかるに、我々がそれを欲求するのは、それが善美であると思われるがゆえにであって、我々がそれを欲求するがゆえに善美であると思われるのではない。そのわけは、思惟が始まり(アルケー)だからである。
(…)
ところで、なにかがそれのためにであるそれ〔そなわちそのなにかの目的〕が不動なものの部に属することは、それの意味を分割すれば明らかにされる、すなわち、なにかが『それのために』であると言われる『それ』〔目的〕には、(a)或ることが他の『なにものか』〔の利害・害悪〕『のために』なされるその『なにものか』を意味する場合と、(b)或ることが『なにものかを目ざして』なされるところのその『なにものか』を意味する場合とがあるが、これら両義のうち、後者は不動なものの部であるのに、前者はそうではない。だからして、後者は、愛されるものが動かすように、動かすのである、そして、他のものは、動かされて動かす
(…)
自らは不動でありながら動かす或る者が存在しており、現実態(エネルゲイア)において存在しておるから、この或る者は、決して他ではありえない。なぜなら、諸種の転化のうちで第一のものは移動であり、移動のうちでも第一なのは〔天体の〕円運動であるが、さらにこれを動かすのがこの或る者なのだから。そうだとすれば、この或る者は必然(アナンケー)によって存在するものである。そして、必然によって存在するものであるかぎり、善美に存在し、このように存在するものとしてのかぎり、この或る者は原理(アルケー)である。
(…)
そして、この或る者の暮らし(ディアゴーゲー)は、我々にとっても最善の、しかし我々にはほんのわずかの時しか楽しめないところの最善の生活である。“
p.151-153第12巻第7章
『アリストテレス 形而上学(下)』出隆訳 岩波文庫

あらゆる存在の第一のもの〔窮極的原理〕は、それ自体においても付帯性においても不動なものでありながら、しかもあの〔天界の〕第一の永遠的で唯一の運動を動かすもの〔第一の不動の動者〕である”
p.155-156第12巻第8章
『アリストテレス 形而上学(下)』出隆訳 岩波文庫


アリストテレスが不動の動者について述べているのは『自然学』 第8巻
『形而上学』第12巻第7~8章
「神」(希: θεός)
不動の動者(ふどうのどうしゃ、希: τὸ κινοῦν ἀκίνητον、英: unmoved mover)

“第七章 永遠的な運動を起こす第一永遠的な動者は全くの現実態であるからそれ自らは全く不変不動な実体であ り,あたかも思惟の対象や欲求の対象が思惟者や欲求者を(あるいは愛人が愛者を)動かすように,自らは動かないで他のすべてを動かす.この第一の不動の動 者に世界のすべては依存する.これは善であり,生命であり,不断に自らを思惟・観照している純粋理性であり,これが神である.その観照の生活は全く完全で あり,快である
第八章 諸天体の運行を司どる多くの天球の諸運動のためには,第一の天球を動かす第一の不動の動者(神) のほかに,それだけ多くの不動の動者が存在すべきである.エウドクソス,カリッポスの諸天球の設定.アリストテレス自らの設定.その数は,合計五十五また は四十七であろう.第一の不動の動者はただ一つであり,世界も一つである.
”http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/3360440/top.html

――
参考資料
――




子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 7月14日
@lanekota @WorldWildWow 王が獣に紐をつけているのか、獣が王に紐をつけているのか。 国際汎ヨーロッパ連合(太陽十字+メーソン+ハプスブルク+選帝侯の末裔)が元ネタのEUの本部はベルギー。地味故に本丸。黒幕が偽のボスの部下あるいは、民間人に偽装する創作物あり。

猫太”黒幕というのは目立たないとこにいるんですよ。そうやって人を動かすのが悪の魔道師のアリストテレス的な不動の動者。組織を回すエンジニアは目立ってはダメです。”
ユダヤも在日もキリスト教と大本教系の囮。出回っている情報は怪しむべき。目立つ=囮。黒幕は常に良いイメージを保っている。

”学院の例ですと、現場で生徒たちを伸ばす仕事がうまい現場主義の先生と、学院の仕組みをデザインしていかに美学を持った魔道師たる賢者を作る仕組みをうまく作るかの仕事に別れます。管理職と現場は役割違い、どっちが偉いとか間違ってる”
一番大事な食べ物を作る人の地位が低いのは支配層のせい。




いかなる技術、いかなる研究(メトドス)も、同じくまた、いかなる実践や選択も、ことごとく何らかの善(アガトン)を希求していると考えられる。

(アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』高田三郎訳 岩波文庫 第1巻第1章冒頭より引用)

善とか幸福とかは、快楽や名誉や富には存しない(第1巻第5章)


人間は本性上市民社会的(ポリティコン)なものにできているからである。

(アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』高田三郎訳 岩波文庫 第1巻第7章1097b10

魂をすぐれて活動させることが最も善きこと(第1巻第7章)」

「人間というものの善」とは、人間の卓越性(アレテー)に即しての、またもしその卓越性が幾つかあるときは最も善き最も究極的な卓越性に即しての魂の活動であることとなる。

(アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』高田三郎訳 岩波文庫 第1巻第7章1098a18より引用)

節制も勇敢も「過超」と「不足」によって失われ、「中庸(メソテース)」によって保たれるのである。

(アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』高田三郎訳 岩波文庫 第2巻第2章1104a25

生きていることは植物にとっても当てはまる。なので栄養摂取とか成長は人間に特有とは言えない。感覚的な生はあらゆる動物にとって共通のはずなので、これも人間に特有とは言えない。
人間に固有の機能は、魂の「ことわり」(ロゴス)を備えた活動としての生だ。一切の機能は、それ固有の卓越性(アレテー)に基づいて行われる際に、 もっとも最も「よく」達成される。なので人間にとっての善は、人間の卓越性に基づく、魂の活動にほかならない。牛や馬がこうした活動を行うことはできな い。なので私たちは「牛や馬は幸福である」とは決して言わないのだ。

「劇場でおやつを食べる人たちは、演技をする者たちが下手な場合、そのときにいちばんおやつを食べ出すのである。」 アリストテレス『ニコマコス倫理学』1175b

富が我々の求める善でないことは明らかである。富は何かのために役立つもの、それ以外のもののために存在するものでしか無い-アリストテレス「ニコマコス倫理学」

IdeasFromWords ‏@IdeasFromWords 3月31日
医療職に問わず、社会人として仕事をする上で『PDCAサイクル』は非常に重要である。 P: procrastinate (締切直前まで放置) D: delay (期限を延ばさせる) C: cheat (適当に誤魔化す) A: apologize (心を込めて謝罪する)

佐倉 りおね子 @Rio_7th · 5月28日
あ のさー。そろそろ誰か「人格と社会的成功は関係ない」って身も蓋もない事実を言ってあげなよ。カーネギーはナチスの優生学を支持してたしウォルト・ディズ ニーは東洋人を差別してた。心根が綺麗であれば幸せになれるなんて夢物語を語って誰かが不幸になる代わりにあんたの財布が膨らんで楽しいか?

ken @kenkatap · 7月19日
ハンセン病患者隔離=優生学的施策 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%AA%E7%94%9F%E5%AD%A6#.E6.A6.82.E8.A6.81 …
優生学の目的=知的に優秀な人間の創造
▼ナチス独に限らず、米や北欧も
▼米優生学協会は、カーネギー、ロックフェラーなど財閥が援助

▼人間を「尊厳」でなく、「価値」の優劣で理解する思想を、根底に有する

ジャムマン @pookoomoo555 · 2014年2月24日
米国にパイオニア基金と言う財団がある 「有色人種等、劣った人種を遺伝子工学を使い人種改良する」と言う財団 財団の活動資金は、ドレイパー一族が全額出資 ブッシュ元大統領一族と共に米国のアヘン専売企業ラッセル社を創立しキリスト教原理主義教会を創立したドレイパー一族 (オルタナティブ)

いまあつ @imaatsu1974 · 5月29日
カーネギーがナチスの優生学政策を支持してたとは初耳。もともと優生学はアメリカで流行し、(身の毛もよだつようなこともアメリカで行われて)それをナチスも取り入れたそうなので、カーネギーがナチスを支持しても不思議ではないが。

雪月花❀ @setugetuka7 · 2013年10月2日
優生学の手法https://www.facebook.com/satoru.utsumi/posts/457306084353150 … 1920年代からロックフェラー、カーネギー、ハリマンなど裕福なエリート家系の資金を受けてきた優生学勢力が公然と認める狙いは、彼らが「消極法的優生学」(望ましくない血統を計画的に絶やすこと)と呼んだものに具体化した。

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 10月4日
これ、神学をやっていないと 分らない人多いのだが、 キリスト教ってのは死んでも 最後の審判の日には生き返って しまう教え。 信者がいくらクタばった所で 教会は全く気にせん


天正遣欧少年使節の派遣(1582年2月20日~1590年7月28日)
セミナリオではどんなことを学んでいたのか?
http://herculessamurai.web.fc2.com/tenshokenoushisetsu13.htm
“(これは実際にセミナリオで使われていたテキストです。
解読すると、以下のとおり。

Nifon no cotoba to historia vo
(日本の言葉とヒストリア(歴史)を)
narai xiran to fossuru fito no tameni
(習い知らんと欲する人のために)
xeva ni yavaraguetaru Feiqe no Monogatari.
(世話にやわらげたる平家の物語。)

絵の下に書かれているのは、以下のとおり。

Iesus no Companhia no Collegio Amacusa ni voite
(イエズスのコンパニアのコレジオ天草において)
Superiores no go menqio to xite
(スペリオレスのご免許として)
core vo fan ni qizamu mono nari.
(これを版に刻むものなり。)
Go xuxxe yori M.D.L.XXXXII.
(ご出世より一五九二。)
<注>
・イエズスのコンパニア=イエズス会のこと
・コレジオ天草=天草にある大神学校のこと。コレジオは大神学校、セミナリオは小神学校。
・スペリオレス=スペリオール。コレジオの院長のことを「スペリオール」と呼んだ。
・ご出世より一五九二=キリスト誕生から1592年目。つまり西暦1592年発行。

セミナリオ生だけでなく外国人宣教師たちも
平家物語から日本語を勉強しました。
したがって「平家物語」は
初めてヨーロッパ人が触れた日本文学と
いえるかもしれません。
そのほか、形而上学的思考を習得するための、
倫理神学、哲学、神学などの哲学系学問。
プラトンやアリストテレスなどの
ギリシア哲学をベースに
西洋哲学を学びます。
そのほか聖歌、ヴィオラ、オルガンなどの
楽器や歌を学ぶ音楽の時間。

油絵などの西洋画法を学ぶ美術の時間。

地球の構造や天体を学ぶ、地理学、天文学。

体力づくりには欠かせない、体育。

文化祭、体育祭、遠足などの学校行事。
夏休みもありました。
いまの学校とあまり変わりがないと思いませんか?
現代日本の学校教育は、 西洋の学校教育を基礎に作られました。
セミナリオで行われていた授業は、現代日本の学校教育のさきがけ
ともいえます。
(…)
セミナリオの校則
・古典を学んでいるものは、作文または祈りを教師に審査してもらうこと。
・哲学と神学を学んでいるものは、教師の前で討論をすること。
・生徒の情熱を一層かきたてるために、最も優秀なものにはなんらかの褒美を与えること。
・そのために身分の高い人物や、またはその使者、または生徒の親をその場に招待してもよい。
・クラスの教師は、生徒が罪を犯したときには、罰することなく、まずは学長に報告すること。
・クラスの過失について、生徒を罰するときには、生徒自身がおこなうこと。だがそれは、しかるべき程度を超えてはならない。
・起床、祈り、ミサ、食事、学習、就寝時の決まった時刻には鐘を鳴らすこと。
・各生徒は、自分の椅子・机、および夜学習するための各自の蝋燭を所持すること。
・生徒たちはベッドと机を常に整頓し、配慮すること。
・蝋燭は、夜は必ず各部屋で灯をともしていること。
・他人の部屋に入ってはいけない。
・他人のベッドに横になったり、座ったりしてはいけない。
・愚弄されても、激昂してはならない。
・下品なあだ名をつけられたりしないこと。
・外部の人間から大量に贈呈品が送られてきたときは、共有のものとして配分すること。わずかの時は、送られてきた人にあたえ、それが調理されたものだったら、食堂で食べること。菓子かまたはそれに類するようなものだったら、箱にしまい、望み次第いつでもどこでも食べていい。
・生徒がセミナリオの外で泊まったり、食事するのは、稀にはよいが、それ以外は許可してはならない。
・またそれらは、彼らの両親や兄弟の家に限る。
・公の場に出るときは、慎みと静粛を守り、学長の命令に従うこと。
・祭りを見に行ってはならない。

参考…高瀬弘一郎著「キリシタン時代の文化と諸相」

土曜日の授業はお昼まで。日曜日はおやすみ。
旧約聖書の「創世記」の冒頭には
「神は六日間にわたって生命をつくりそして七日目に休息した。」と書かれてあります。
これがキリスト教文化における、一週間というこよみの始まり
です。
もちろん戦国時代の日本にはこのような習慣はありませんので、
一週間という概念をもっていたのはキリシタンだけでした。
キリシタン以外の人は日曜日はおやすみではないし、そもそも日曜日自体ありませんでした


セミナリオ卒業後の進路は?
セミナリオを卒業したあとは、本当に聖職を目指すか否か、自分の進路を決めなければなりません。
今までは学生の身分でしたが、これからは本格的にこの道に入っていかなければならないのですから、
しっかりとした意識を持たねばなりませんね。
セミナリオで学んだことにより、神父になる夢を再確認した者もいれば、
自分には向いていないと断念した者もいることでしょう。

聖職を希望する者は、まずは、修道会入会のための試験と面接を受けます。
特定の修道会に属さなければ神父にはなれません。会社に就職せねば正社員を名乗れないのと同じです。
試験に合格したら、その修道会の修練院(ノビシャド)に入り、修練期間に入ります。
修練期間を経て、適性があると認められれば、修道会への入会が認められます。
そこからさらに修練期間を経て、適性を認められれば修道士となり、
司祭になることを希望する者は、またまたさらなる修練期間に入り、
適性を認められれば、修道士から司祭に叙階されます。
カトリックにはたくさんの修道会があるので、どの修道会に属するかは個人の自由ですが、
戦国時代の日本はイエズス会が一番メジャーな修道会だったので、殆どがイエズス会を希望しました。

セミナリオはヴァリニャーノによる創設なので、イエズス会系の学校ということになりますが、
だからといって、卒業後はイエズス会に入会せねばならないという決まりはありません。
(学生は、在学時は、どの修道会にも属していないフリーの状態にあります。)
フランシスコ会でもドミニコ会でも、自分の希望する修道会に入れます。
しかし学校自体がイエズス会の土壌ですから、教師の殆どがイエズス会士であり、
学生もその影響を受けるので、イエズス会を希望するのが自然であり、てっとり早いといえます。

もちろん、卒業生すべての希望が叶ったわけではありません。
なかには、試験に落ちてしまう者もいます。そのような学生は、再び試験を受けねばなりません。
しかしセミナリオ自体は卒業するので、同宿(教会やセミナリオで働くアルバイト)となり、
司祭や修道士の付き人や雑用をこなし、独学で学びながら、聖職を目ざします。(フリーター…?)
また、セミナリオの上のコレジオに進学する者もいれば、
この道を断念し、家業を継ぐなど、他の人生を歩むか…ですね。

コレジオ(collegio)
コレジオ(collegio)とは、セミナリオの上にある、さらなる専門的な高等教育機関です。
かといって、セミナリオ卒業生はみなコレジオに進学せねばならないという決まりは、ありません。
セミナリオ=中学・高校、コレジオ=大学と考えたらわかりやすいかもしれません。
コレジオは英語にすると、カレッジ(collage)です。
セミナリオが年少者向けの学校であったのに対し、コレジオは大人向けの学校。
(セミナリオには、8~19歳くらいまでという、年齢制限があります。)
コレジオで学べるのは、基本的には、セミナリオ修了者、イエズス会入会希望者、修練期間を終えた者。
神父になりたいが、この歳ではセミナリオに入れない…といった、今でいう社会人入学もありました。
日本語を学びたい外国人神父、ラテン語を学びたい日本人修道士なども一緒に学び、立場は多種多様。
コレジオがあった場所は有馬と、大友宗麟のおひざもとの豊後の臼杵でした。
このように、少年使節が学んでいたセミナリオという西洋式の学校は、戦国時代にありながら、
現代の我々が受けているのと同じシステムの教育が行われていたことがわかります。
そのような画期的な教育機関が戦国時代の日本にあったこと、とても面白いと思いませんか?“

覚えておいて欲しい事は、人間を支配しようと欲する支配者はまず先に神話をいじる。たとえばギリシア神話のメドゥーサは、母系社会のギリシア先住民の神だったけど、魔物に貶められた。こんな感じで共認意識である神話をいじる事で民族を支配するんだ。
魔法使いハンターねこた

JAGD @JAGD_owner · 2月5日
プラトン読みながら、自然と儀式やカバラを連想して対照してる連中は、かなり重傷のオカルティスト。プラトンや新プラトン主義の影響下にカバラやヘルメス哲学が作られてるので、元ネタという意味では、歴史的にはありのはずですが…逆にそこまでくれば一端か?


奴隷制度を肯定したアリストテレス
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/intro_aristetle_intro.html
”「天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず」と言った人がいたが、そのような理想主義者の書いたものが「社会契約論」だった。その初めのほうでルソーはアリストテレス ( Aristoteles 前384-前322 ) の「生まれついての奴隷」という言葉を批判しているが、まさにその言葉がふんだんに出てくるのがアリストテレスの 「政治学」だ。

 ルソーと違ってアリストテレスは理想を語った人ではなかった。現実主義者の彼はまず何よりも人間関係の根本にある第一は男と女であり、もう一つは支配と非支配の上下関係
であると言った。

 種の保存のための男女関係は当然として、人間が自己保存を図っていくためには平等であってはならない、誰かが指導して誰かがそれに従うという関係に立たなければならない、そして知恵あるものが指導者に、知恵なきものは部下になって汗を出すという関係が欠かせないと彼は言う。上下関係のない社会つまり平等な社会は全員が奴隷になってしまう社会だとも言っている。民主主義社会でも同じことで、民主的とはもちろん全員が奴隷になることではないが、さりとて全員が指導者になることでもない。誰か一人が指導者となり他のものたちはその指示に従っていかなければならないのである。それが嫌ならその組織は滅びるほかないと彼は考える。

 そして、その被支配者の最下層にいるのが奴隷だ。アリストテレスは奴隷が奴隷である理由はその生まれの卑しさであるとする。逆に生まれのよい人間には奴隷を支配する権利があるとも言う。そして生まれのよい人間は生まれのよい人間から生まれてくると言うのだ。

 この奴隷肯定論の中には、家事や料理などは奴隷の仕事であって、自由な市民は政治だけやっていればいいのだというふうな文章もあって、現代人にはかなり面喰らうところがある。しかし、現代でも頭を使う人間やアイデアを出す人間の方が、汗を出して働くしか能のない人間より上に置かれているのは確かである。

 そのほかに、この本を読んで感心するのは、アリストテレスが何事も一つ一つ順番に明らかにしていこうとする態度である。彼は一つのことが明らかになるたびに、「~は以上で明らかである」といって、次に進む。だから、この「明らかである」「明らかに~である」が彼の文章には何度も何度も出てくる。「ここまでは明らかになった。では次へ進もう」という感じである。この彼のやり方は、考えようによっては、なかなかおもしろい。つまり、彼はどんな場合も数学的な証明のやり方を守っているのだ。このやり方で彼は何でもかんでも自分の信じることを「明らかに」してしまう。実にこつこつと「証明」を積み上げていくのだ。彼を「論理」にとり憑かれた人間と言うことさえできるかもしれない。彼は、明らかにする必要のあることが無くなるまでこれを続けるのである。

 アリストテレスはどんな事にも目的があると信じている人である
。たとえば、母親は子供を生むときに母乳が出るようになるという事実をとらえて、これは何のためかと考える。そして彼は、母乳は子供がある程度成長するまでの間、母親に子供の食料を手に入れる努力を免除するためだと言うのである。このように彼はこの世のあらゆる出来事に因果関係を見いだしていく。

 また、自然というものをアリストテレスは非常に重視する。世の中の仕組みは、最終的には「自然にできているもの」と「人間が後から作ったもの」の二つに分けられる。この考え方は古代ギリシャ人に共通のものである。そして「自然は全てをうまく作っている」という信仰がアリストテレスにはある。ルソーの「自然に帰れ」などもここから来ているのでないかと思われる。

 ところで、この「政治学」を読む際に注意すべきことは、アリストテレスの言う国、国家とは現代の町や市程度の大きさのものでしかないということである。アリストテレスにとっては村が集まればもう国家ができてしまうのである。

 この本の中身はすべて観察と理屈であるから、小説を読むような面白さはないけれども、それとは違うこの世の謎解きをする面白さがあるといえる。この分析の面白さは読まないと損だと言えるほどのものだから是非一読をお勧めしたい。


 アリストテレスの「政治学」 の日本語訳で現在入手しやすいのは二種類しかなく、そのうち読んで意味が分かるのは中央公論社の「世界の名著」の「アリストテレス」に収録された田中美知太郎氏他の訳しかない。これは非常に達意な日本語で書かれた名訳であるが、残念ながら全訳ではない。とくに、一巻途中から始まる奴隷制度肯定論は省略されている。

 しかし、アリストテレスの言葉を引用する人はたいていこの 「政治学」 の第一巻から引用する。なぜなら、たいていの人は第一巻しか読んでいないからである。最近の「天声人語」に「動物は人間のためにある」というアリストテレスの言葉が大学教授からの又聞きとして引用されていたが、これもこの第一巻から
である。逆に言うと天声人語氏は第一巻さえ読んでいないということであろうか。それぐらい読みにくい日本語訳しかないと言うわけだろう。だから、ここに第一巻だけでも訳出したことは意味があると信じている。(なお、この訳でも「ですます」調を採用したが、それは例によって古代の散文はすべて黙読されるためではなく人前で話すために書かれたものであるからに他ならない)

 もちろん、第二巻以降にもおもしろいことが書いてある。たとえば、第二巻には、財力を政治家を選ぶ基準の一つにしているカルタゴでは、事実上政治家の地位が売り買いの対象になってしまっている、と書いている。政治家はその人の人格だけで選ぶべきだと言うのである。選挙にいくら金を使っても罰せられないどこかの国で、同じことが起こっているのをここで思い出してもよいだろう。

 このようにアリストテレスは色々といいことを書き残している。だから、ヨーロッパ人は宗教の経典のように崇拝して有り難がってきた。しかし、日本ではそれほど有り難がられない。それは、内容の分かり難さだけではなく、そもそもその中身が知られていないからだとわたしは思う。そしてそれは、読んで意味の分かるに日本語の翻訳がないからであるとも思う。しかし、たとえば英語になら直訳しても意味がとれるものになるため、読み進んでいけるだけの英訳はたくさん存在すると思う。たとえば私が参考にしたペンギン文庫の訳なら適当な解説つきで読みやすいと思う。 ”

アリストテレスの『政治学 』 第一巻
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/politics.html
”  そしてもう一つの結びつきは、人間の生存を維持するために欠かせない、生まれついての支配者と非支配者の結びつきであります。つまり、先を見通す知性を持った人間が生まれついての支配者となり奴隷の主人となるのに対して、労働に適した肉体を持つ人間が非支配者となり生まれついての奴隷となるのです。その結果、主人と奴隷の双方に共通の利益が生まれてくるのです。

 このように人間の結びつきには主従関係が欠かせません
が、女と奴隷は本質的に区別せねばなりません。

 自然の摂理は決して人間が万能ナイフを作るような貧しい振るまい方はせず、それぞれに個別の目的を持つものを作ります。多くの用途を持つ道具ではなく、たった一つの用途をもつ道具こそ何にも増して役に立つからです。

 ところが、ギリシャ人以外の民族では、この奴隷と女との区別がないのです。それは彼らには、生まれつき主人となるような知性を持つ人間がいないからなのです。そして主人のいない結びつきでは、男も女も奴隷になるしかありません。ですから、詩人が「ギリシャ人こそは他の民族の支配者となるべきだ」と言ったとき、それはギリシャ人でないものはみな奴隷であると言っているにほかなりません。
(…)
人間が完成して国家を作り上げたときには、全ての動物の中で最も優れた存在になるのに対して、人間がばらばらになって正邪も善悪も知らない場合には、あらゆる動物の中でも最悪の存在になるからです。というのは、悪が武装した場合には最も手強いものになるからであり、人間が持って生まれた様々な武器は善を行なうために分別をもって使うべきものなのに、逆の目的のために使われることが非常に多いからです。そして善意がなければ、人間はこの上なく残忍なものとなり悪の限りを尽くすようになります。なかでも最悪なものは食欲と性欲に基づくものです。ところで、これに対する正義の裁きこそ国家の仕事なのです。というのは、何が正しいかを決定するのが正義の裁きであり、国家がもたらす秩序こそ正義だからです。
(…)
第四章 奴隷は道具である
 さて、財産は家庭を構成する一つの要素であり、また必要最低限の財産がなければ、よい暮らしをするどころか生きて行くことさえできない以上、財産を獲得する技術は家庭の経営に欠かせない要素です。一方、専門的な技術を使って仕事を成し遂げるには、その技術にふさわしい道具が必要です。そこで、家庭の経営にたずさわる人にも、それにふさわしい道具がなくてはならないということになります。

 ところで、道具には命のある道具と命のない道具の二つがあります。

 例えば、船のかじ取りにとって、かじは命のない道具であるにの対して、見張りの男は命のある道具だと言えるでしょう。というのは、使用人は親方の持っている技術を使うための一種の道具であると言えるからです。

 同じように考えていくと、家財道具は生活をするための道具であって、財産はそのような道具の集まりなのですから、一種の財産である奴隷は命のある道具であり、さらに全ての使用人と同じように、多くの道具に先立つ一つの道具なのです。

 奴隷が多くの道具に先立つ一つの道具だというのは、もし道具が命令された通りに、もしくは自分で頭を働かせて、ひとりでに仕事をするなら、つまりダイダロスが作った動く彫像や「神々の集いの場にひとりでに入っていく」と詩人が歌ったヘパイストスの三脚台のように、もし織機のシャトルが勝手に縦糸の間を行ったり来たりしてくれたならば、また、もし琴のばちが勝手に琴の音をかき鳴らしてくれたならば、親方は使用人を必要としなくなるし、主人は奴隷を必要としなくなるからです。
(…)
第五章 奴隷制度は自然なものである
 つぎに、生まれながらにしてこのような人間がはたして存在するのか、人の奴隷になることがはたして良いことなのか、また正しいことなのか、いやそもそも奴隷制度などというものは自然の法則に反しているのではないか、という問題を考えてみましょう。

 この問題は理屈で考えてみても事実から考えてみてもそう難しい問題ではありません。支配非支配の関係はなくてはならないことであるだけでなく有益なことでもあります。初めから支配する側と支配される側に分かれて生まれてくるものさえあるのです。
(…)
 さて、生き物は何よりもまず精神と肉体から成り立っていて、本質的に精神が支配し肉体が支配されるようになっています。

 この本質を論じる場合には、生まれつきの本質を失ったものではなくその本質に則ったものについて観察しなければなりません。ですから、精神が肉体を支配することを明らかにするには、精神も肉体も完全な状態にある人について観察しなければなりません。なぜなら、たとえ一時的にせよ堕落した人間の場合には、悪事に染まって生まれつきの本質を失っているために、しばしば肉体が精神を支配しているように見えるからです。

 それはともかくとして、いま言ったように、まず何よりも生き物に支配非支配の関係を見ることが出来ます。そして、そこには主人の奴隷に対する支配だけでなく、政治家の国民に対する支配をも見ることが出来ます。なぜなら、精神と肉体の間の支配関係は、主人と奴隷の支配関係に似ているのに対して、理性と欲望の間にも支配関係があって、それが政治家もしくは王と国民の間の支配関係に似ているからです。

 この場合、肉体が精神に支配されることが、また人間の衝動的な部分が理性や知的な部分によって支配されることが、自然なことであり有益なことであるのに対して、いずれの場合でも両者の立場が対等になったり逆転したりすることが有害なのは明らかです。

 これは人間と他の動物との間の関係についても言えます。人間に飼われている動物のほうが、野放しの動物よりも本質的に優れていますし、どんな動物にとっても人の支配を受けるほうが生存を維持していく上で良いことなのです。

 さらに男と女の関係でも、生まれつき男のほうが強く女のほうが弱いので、男が支配する側に女が支配される側になります。

 当然これらと同じことが人間全体についても当てはまります。つまり、精神と肉体の間や人間と動物の間にある大きな違い、それが人間同士の間にも存在するのです。

 そして、人間の内でもせいぜい体を使って仕事をするしか能のない人間こそ、これまで述べたものたちと同じように、支配されるほうが望ましい人間、つまり生まれながらの奴隷なのです。なぜなら、生まれながらの奴隷は他人の所有物となる能力を持ち、したがって現実に他人の所有物であって、知性のある者の言うことを理解する能力はあっても知性そのものは持っていないからです。

 もっとも、人間以外の動物は知性に従うことなくひたすら衝動にしたがって行動しますが、利用価値は奴隷とそれほど違いません。奴隷の場合も家畜動物の場合も、体を使って日常の生活に必要な仕事を助けるという点では同じだからです。

 ですから、奴隷と自由人の体が違った作りをしているのは自然の摂理によるものだと言える
でしょう。奴隷の体が日常生活に必要な仕事をするために頑強にできているのに対して、自由人はそのような仕事には向かない、背筋がまっすぐ伸びた体形をしているのです。自由人の体の作りはむしろ国家の一員としての生活、つまり市民生活に向いているのです。(ちなみに、国家の一員としての生活は平和な時の要請に応じるものと戦争の時の要請に応じたものの二つに分けることが出来ます)

 しかし、自然の摂理とは逆のこともしばしば起こります。つまり、自由人の中でも一方で精神ゆえの自由人もいれば、他方で肉体ゆえの自由人もいるのです。しかし、これは仕方の無いことです。というのは、もし単に肉体だけではあるけれども神の肖像のように美しい人がいるとすれば、彼に劣る人たちが彼の奴隷になるのは当然だと誰もが考えるのは明らかだからです。

 しかし、もし肉体を基準にしたこのような区別が実際にあるとしても、それより精神を基準にした区別のほうがはるかに正しいことには違いありません。しかし、精神の美しさは肉体の美しさほど容易に見分けることは出来ません。

 以上によって、生まれつきの自由人と生まれつきの奴隷が存在すること、奴隷にとっては奴隷となることが有益で正しいことは明らかです。

第六章 生まれついての奴隷と戦争奴隷の違い
 奴隷制度に反対する人たちの意見にも一理あることは容易に分かります。というのは、奴隷には二種類あって、生まれついての奴隷だけでなく法律に基づいた奴隷が存在するからです。

 もちろんこれは法律といっても、戦争に負けた者は勝った者の所有物になるという一種の約束事にすぎません。そして多くの法律家たちは、「自分の方が強くて戦いに勝つ力があるという理由だけで、負けた者を奴隷つまり自分の所有物として支配してよいというのではあまりに理不尽であるから、このような権利は違法である」と非難しています。そしてこの考えに賛成している人もいれば反対している人もいます。賢者と言われる人たちの間でも一つの答えに到達していません。

 このような戦争奴隷反対論が起こる原因は、「人格の点で優れている者が力を手にしたときに最もよく勝つことが出来る」ということと「勝つということは必ずやなんらかの点で優れているからである」ということから「力がある者は必ず人格の点で優れている」という力と人格の混同が生じたことにあります。この混同の結果、議論の焦点が「では力は正義なのか」ということに向けられるようになってしまったのです(そこで、一方は力が正義などとは馬鹿げていると言い、もう一方は力のある者に支配権があるのは当然だと言うに至ったのです)。しかしながら、人格の優位を力の優位に結びつけずに論じるなら、戦争奴隷反対論者の先程の議論も、「人格の点で優れている方が支配権を得て奴隷の主人となるべきだ」という説を否定するほどの説得力はないでしょう。

 しかし、戦争奴隷賛成論者のなかには、単純に合法的であるからという理由だけで戦争奴隷を肯定したつもりになっている人たちがいます。しかしそれでは否定しているのも同じことです。なぜなら、戦争が合法的に起こされない場合が多々あるからです。また、いくら合法的な戦争奴隷であっても奴隷になるにはふさわしくない人を奴隷だとは決して誰も言わないからです。さもなければ、非常に生まれがよいと思える人でも、捕虜となって売られた場合には、先祖代々続く奴隷になるということが起こってしまいます。

 したがって、戦争奴隷賛成論者も奴隷という言葉を生まれのよい人たちに対しては使おうとせず、もっぱらギリシャ人以外の民族に対して使っています。しかし彼らがこうするとき、それは取りも直さず、まさに彼らのいう奴隷とは我々が最初に言った「生まれつきの奴隷」であることを示しているにほかなりません。というのは、それは必然的に「どこへ行っても奴隷である者と、どこへ行っても奴隷でない者がいる」と言っているのと等しいからです。

 生まれのよい人間についても同じです。つまり、戦争奴隷賛成論者も、他の民族はその国にいる間だけ生まれがよいのに対して、自分たちはギリシャにいるときだけでなくどこへ行っても生まれのよい人間であると思っています。これは、テオデクトスの悲劇の中で、ヘレンが「神の血を引く両親から生まれたこの私を奴隷呼ばわりする権利が誰にあるでしょうか」と言うように、絶対的に生まれがよく自由である人間とそうでない人間がいると言っているのと同じです。

 そして彼らがこう言うとき、それは取りも直さず、まさに奴隷と自由人の区別、そして生まれの善し悪しの区別の根拠を、人格の優劣に置いていること を示しているにほかなりません。つまり、彼らは人間から人間が生まれ獣から獣が生まれるように、立派な人間から立派な人間が生まれてくると信じているのです。そして自然の神も、時々やり損なうことはあるものの、そうなることを望んでいます。

 以上から明らかなように、奴隷制度に反対する議論はある意味では正しいのです。そして、奴隷と自由人の違いは常に生まれつきらから来るわけではないけれども、生まれつきの違いから一方が奴隷となり他方が奴隷の主人となることが有益である人たちや、生まれたときから支配非支配つまり主人と奴隷の関係が決まっている人たちがいるのもまた明らかです。

 そして、不当な支配が行なわれたときには、それは支配者非支配者の双方にとって有害なこともまた明らかです。なぜなら、部分と全体、そして肉体と精神は利害を共有するものであり、一方、奴隷は命あるもので主人とは肉体的に切り離されてはいるものの、いわば主人の肉体の一部分であるからです。その結果、生まれついての奴隷と主人との間には共通の利益が発生して互いに好意を抱くようになるのに対して、生まれつきではなく法律と強制によってできた奴隷と主人の間には正反対のことが起こるのです。
(…)
 また、ある人が奴隷の主人であるかどうかは、彼が奴隷を使う特別な知識を持っているかどうかではなく、彼が優れた生まれや能力や人格を持っているかどうかにかかっています。それは、奴隷と自由人の違いがその持っている知識の違いではなく、生まれや能力や人格の違いであるのと同じです。

 もちろん奴隷の主人が持つべき知識や奴隷が持つべき知識があるかもしれません。しかし、奴隷の持つべき知識といっても、それは例えばシラクサの男が教えている程度のことに過ぎないでしょう。この男はシラクサで金をとって子供たちに召使のすべき日々の仕事を教えているのです。そのほかに料理の仕方など家事全般を含めることができるかもしれません。「奴隷の主人に序列があるように、奴隷にも序列がある」ということわざがあるように、奴隷の仕事にもいろいろあって、その必要度や重要性にも様々なレベルがあるのです。

 奴隷が知っておくべき知識は全てこのようなものであるのに対して、奴隷の主人が知っておくべき知識は奴隷の使い方の知識です。奴隷の主人であるかどうかは奴隷の入手方法を知っているかどうかではなく奴隷の使い方を知っているかどうかに掛っているからです。とはいっても、この知識の内容はそれほど多くはなく大したものではありません。奴隷は様々な仕事のやり方を知っていなければならないのに対して、主人は奴隷にその仕事を命じる方法を知っていればいいからです。ですから、金持ちならこのようなわずらわしい仕事は奴隷監視人にまかせて、自分はひたすら政治か哲学に打ち込むことでしょう。

 奴隷の入手方法について言うなら、それは奴隷が知っている必要がないのはもちろん奴隷の主人が知っている必要はありません。というのは、正しい奴隷の入手方法とは戦いの仕方や狩りの仕方であって、軍人や猟師が持つべき知識なのです。 奴隷とその主人については以上のような定義で充分でしょう。
(…)
交換という技術は、初めは、誰にも余っているものと不足しているものがあるということから自然な形で生まれたものです。この段階の商売は本質的に金儲けでないことは明らかです。なぜなら、必要の範囲内で物々交換を行なうだけだからです。

 もちろんこの交換という技術は、最初の共同体すなわち家庭の中では何の働きもせず、多くの家庭から成る共同体が生まれてはじめて機能し始めます。家庭の中にいる家族は、同じものをすべて分かち合って暮らしていますが、大きな共同体が発生すると、その中で別々の家庭に暮らす人たちが、自分の家の物を持ち寄って分け合うようになります。彼らは他所の家の持ち物が必要になると、必ず自分の家の持ち物の一部を差し出して物々交換するのです。この物々交換はギリシャ以外の国々でもまだ盛んに行なわれています。

 物々交換では、酒や麦など様々なものをやりとりする場合のように、便利なものをそのままの値打ちで互いに交換しあうだけで、それ以上のことはしないものです。このような交換という技術は、自然の摂理に反しないもので、金儲けの技術の内には全く入りません。なぜなら、それは自然の摂理に適った自給自足の生活ができない場合に、それを補うだけのものだからです。

 しかし、この交換という技術から金儲けの技術が生まれたのはごく自然なことだと言えるでしょう。というのは、不足しているものを他所から取り入れて余っているものを他所へ持ち出すことによる助け合いの関係がさらに外へ広がっていき、その必然の成り行きとして、コインの使用が考え出されたからです。なぜなら、人が自然に必要とするようなものは常に持ち運びが簡単とは限らないからです。そこで、物々交換に際しては、便利なものの中で生活に必要で同時に扱いやすいものを互いにやりとりするという取り決めをしたのです。それは例えば鉄や銀などで、はじめは単に大きさや重さによって区別していましたが、最後には刻印が押されるようになって、いちいち計量する手間が省かれるようになってきます。つまり、刻印によって価値が表示されるようになったのです。

 こうしてコインが考案されることによって、必要から生まれた物々交換は、二種類ある金儲けの技術の内の一つ、すなわち商売に発展したのです。

 商売も初めは単純なものでした。しかし、どこでどういうふうにコインを交換すれば最大の利益が出るかという経験の積み重ねによって、商売は次第に複雑化してきました。その結果、金儲けの技術とは、もっぱら、コインについての技術であり、しかも大量の財産を入手する方法を考える技術であると思われるようになったのです。つまり、この技術はお金による財産を作り出す技術なのです。そして、金儲けの技術と商売の技術がコインについての技術であることから、大半の人たちは財産とは沢山のコインのことだと考えるようになったのです。

 しかしそれとは逆に、コインなど無意味なものだ、単なる約束事であって本来は何の価値もないという人たちもいます。その理由は、使う人が変わればコインは何の価値もないものになってしまい、生活に必要なものを何も買えなくなるからです。そしてコインは山ほどあるのに日々の食料にも窮するという事態がしばしば発生します。実際、豊富な財産に恵まれながら飢え死にするとは、なんと奇妙な財産でしょうか。まるで、欲深いお祈りのせいで食卓に出されたものが全部金になってしまったあの伝説のミダス王そのものであります。ですから、彼らが財産や金儲けの技術を単なるコイン集めとは別のものであると考えているのは間違ってはおりません。


 以上から、まず、自然の摂理に適った財産や金儲けの技術があって、これは家庭を経営する技術に属していることがわかります。さらに、もう一つの金儲けの技術があって、それは商売の技術に属していることも明らかです。

 この後の方の技術は財産を作り出す技術ですが、真の意味で作り出すのではなく、財産の交換によって作り出す技術です。そして、この金儲けの技術がコインについての技術だと思われているのは、コインが売買の手段であるとともに目的でもあるからです。

 そしてこの金儲けの技術によって作られる財産には限度がありません。確かに、あらゆる技術にとって目的は終点でもあるため、一定の目的を目指す技術は無限を目指すことはありえません。しかし、例えば医術が無限の健康を追求するように、どの技術も出来るだけ良いものを求める以上は、無限の目的を持っていると言うこともできます。それと同じように、無限の財産を目的とする以上は、この金儲けの技術も無限の目的を持っていると言えます。

 それに対して家庭の経営に属する金儲けの技術は、無限を目指すことはありません。無限の金儲けは、家庭経営の技術がなすべき仕事ではないからです。したがって、家庭の経営においては、いかなる財産にも限度があるべきなのは明らかです。

 ところが、現実にはその逆のことが起こっています。誰もがコインを無限に増やそうと金儲けに励む
のです。その原因はこの二つの金儲けが非常によく似ていることにあります。二つの金儲けの技術が同じものを対象にしているために、両者の使い方の混同が起こるのです。

 しかし、両者は対象が財産であるという点では同じですが目的が違います。一方は財産を増やすことが目的ですが、もう一方はそうではありません。そしてこの混同が原因で、家庭を経営する技術の役割が、コインによる財産を無限に蓄え増すことだと信じてやまない人たちがいるのです。

 彼らがこんな考えに取り付かれている原因は、彼らが生きたいと願うばかりで、幸せに生きたいと願うことがないからです。そして、この生きたいという願いには限度がなく、彼らはこの願いを叶えるための手段を際限なく追い求めます。

 一方、幸せに生きたいと願う人たちの内でも、肉体面の楽しみを追い求める人たちは、全ての時間を費やして金儲けに励みます。肉体的な楽しみを得るためには、明らかに沢山の財産が必要だからです。

 こうして、二つ目の金儲けの技術が生まれたのです。つまり、楽しみを得るためには余分の財産が必要なために、彼らはこの楽しみの元となる余分の財産をもたらしてくれるような技術を追い求めるのです。

 そして、もし金儲けの技術をもってしても余分の財産を作り出すことができない場合には、他の面でこの分を捻出しようとして、彼らは自分の持つあらゆる能力を無理な形で動員してきます。勇敢さは財産をもたらすものではなく大胆さをもたらすものであり、また兵法も医術も財産をもたらすものではなく、それぞれ勝利と健康をもたらすものです。ところが、彼らは、これらの技術を金儲けの技術に変えてしまうのです。人生の目標は金儲けであり、この目標のためには手段を選ぶ必要はないと思うのです。
(…)
 ミレトスのタレスの話などもその一つでしょう。これは金儲けの一つの工夫を伝える話で、その方法の巧妙さゆえに彼の話として伝わっていますが、一般に適用できる内容です。それは次のような話です。

 タレスは、自分が貧しいことを理由に哲学を役に立たないものであるとけなさると、天体についての知識を使ってオリーブの豊作を見抜いて、冬のうちに無けなしの金で手付けをうってミレトスとキオスにある搾油機を全部借り出してしまったのです。競争相手がいなかったので非常に安く借りることができました。そして、収穫期が来て、突如として大勢の人が一斉に機械を必要とするようになると、彼は自分の言い値で機械を貸し出して大儲けをしたです。こうして、哲学者は金儲けには興味がないが、その気になれば簡単に金持ちになれるということを証明したのです。

 タレスはこのようにして自分の頭の良さを証明しましたが、この金儲けの方法は、すでに述べたとおり、独占状態を作り出すことさえできれば誰にでも可能なものです。ですから、多くの国では財政難になるとこの方法で増収を図ります。つまり商品の専売をするのです。

 ところで、昔シチリアで、ある男が、預かった金で鉱山の鉄を買い占めてしまったことがありました。その後各地の市場から商人がシチリアに到着すると、彼だけが一人鉄を売ることができました。そして値段を法外に吊り上げたわけでもないのに、彼は五十タレントの元手で百タレントを稼ぎ出しました。やがてこの事実をディオニュソス王が知ると、王はこの男が王の利益を損なう金儲けのやり方を編み出したと考えて、男に金を持ってとっとと島から出ていけと命じたのです。しかし、タレスの考え出した方法も結局はこの男のやったことと同じことだったのです。二人とも自分の元に独占状態を作り出したのです。

 このやり方を知っておくのは政治家たちにとっても有益なことでしょう。むしろ家庭にとってより、多くの国々にとってはこのような金儲けの方法が必要です。政治家の中にはこの専売ばかりやっている人がいるほどです。
(…)
全ての人間は美徳を持っているけれども同じようにではなく自分の役割にとって必要なだけの美徳を持っているのです。したがって、支配者は美徳を完全な形で持っていなければなりません。なぜなら、精神の中では理性的な部分が指導的役割をするのと同じく、支配者の仕事はひとえに指導的なものだからです。それに対して、他の人たちはそれぞれ自分にふさわしい程度の美徳を持たねばならないことになります。

 というわけで、上で述べた全ての人たちが美徳を持っていること、しかし、ソクラテスの意見に反して、例えば男と女では辛抱強さが違ったものであること、勇敢さや責任感についても違ったものであることは明らかです。ですから、男の勇敢さは支配者にふさわしい勇敢さであるのに対して、女の勇敢さは支配されるものにふさわしい勇敢さであり、他の美徳についても同様であると言えるでしょう。

 このことは個別のケースを見ればもっと明らかです。というのは、美徳とはすぐれた精神を持つことであるとか、正しい振舞いをすることであるとか、そういう一般的な言い方をするのは間違いなのです。このような考え方ではなく、ゴルギアスのように個別の美徳を列挙していく方が良いのです。ですから、例えば劇作家ソフォクレスが女について「女は黙っているのが美しい」と言いましたが、これは男には当てはまりません。しかし、他の全ての場合についてもこのように考えるべきなのです。子供は未熟なのですから、子供の美徳といってもそれは自分自身の美徳ではないし、自分自身に対する美徳でもない、それは成熟するための美徳であり、自分の指導者に対する美徳であるのは明らかです。

 同様にして、奴隷の美徳は自分自身の美徳ではなく主人に対する美徳なのです。先に第五章で奴隷は日常の生活に必要な仕事を助けると言いましたが、ここからも奴隷に必要な美徳はささいなもので、辛抱できず無責任に仕事を投げ出さない程度の美徳さえあれば良いのです。

 ここで一つ難しい問題が生ずるのは、もしいま言ったことが正しければ、職人はしばしば辛抱できずに仕事を投げ出すことがあるから、奴隷と同じく彼らにも美徳が必要なのではないかということです。それとも、彼らと奴隷とではまったく違うのでしょうか。実はその通りで、奴隷はわれわれ自由人の人生と一体のものなのに対して、職人はわれわれとは別に暮していて、奴隷である度合いが少ないので、それに応じた美徳しか要求されないのです。しかし、手先の熟練のいる職人の仕事にはある程度奴隷的な要素があるとはいえ、奴隷が生まれついての奴隷であるのに対して、靴職人などの技術者はけっしてそうではありません。

 以上から、奴隷が仕事をやり遂げられる程度の美徳は奴隷自身の美徳ではなく元々は主人の美徳であることは明らかです。ただし、それは奴隷に仕事を命ずるだけの美徳であってはなりません。したがって、奴隷の知性を全て否定して奴隷には命令だけをしていれば良いと言う人たちは間違っています。命令すべきなのは子供のほうで、むしろ奴隷には忠告を与えるようにすべきでしょう。”

政治学 (岩波文庫 青 604-5) ぼぼさんが書き込んだレビュー (日本)
http://www.amazon.co.jp/gp/cdp/member-reviews/A1IYC1BYD4Z15Q/ref=pdp_new_read_full_review_link?ie=UTF8&page=1&sort_by=MostRecentReview#RQEWGYV1UEUBW
“ 5つ星のうち 1.0 個人的にはこの翻訳は避けたほうが無難と思います。高いですが牛田さんの訳をお勧めします。また、先にプラトンの「国家」を読んでください。, 2011/7/10
レビュー対象商品: 政治学 (岩波文庫 青 604-5) (文庫)
「翻訳について」
星1つは、翻訳の評価です。
岩波版アリストテレス全集の中心的人物の一人である山本光雄氏の翻訳で、
一種の岩波版スタンダードと言って良い翻訳だが、LOEBのRackhamの対訳や、トマスのコメンタリア
付きのメールベケのラテン語訳、Firmin Didotの対訳などを中心に使ってて、本棚の飾りになりかけてたのを久しぶりに通読したのですがここまで酷いとは思わなかった。
日本語が支離滅裂な部分があり、肝心なロジックが通っていないことが多い。
特に4巻と5巻など真中あたりの巻の部分が酷いと思う。
学生さんにさせた訳を、自分の名前でまとめたのでしょうか?
私は岩波版の高田さんの「ニコマコス倫理学」の翻訳にパクさんの訳に比べてそれほど不自由を感じない人間ですが、
なのに、なぜ大看板の山本さんの訳にこれほど不快感を感じるのか自分自身で理解に苦しむほどです。
読んでて胸がムカムカする翻訳です。

実例を挙げないとフェアでないので、一つだけあげますが、(長くて多少専門的になるのでごめんなさい。
第5巻第4章1303b,30(文庫ではp.236)
「なぜなら過失は初めにおいて生ずるが、初めは「全体の半分」であると言われてるので
初め(アルケー)に於ける過失は、たとい些細なものでも、その他の部分での過失に比べて、それと同じ割合を持つことになるからである。」
は「その他の部分での過失に比べて」の部分がロジックが無茶苦茶で意味が通っていません。
原因論やデュナミス(可能態)の発生論、過失論に関して興味深い叙述なのですが。
要するに、発生の過程において過ち(ハマルテーマ)ができると後に成長して大きくなった
部分でもそれに比例して大きな過ちができるから、最初の小さな過ち・過失をポリスに於いても
政体解体のささやかに見える過失を見逃してはいけない
という意味です。
「その他の部分」というのは「端緒・始原・原因(アルケー)」以外の「成長した部分」という
意味なんですね。
そこに「過失」という言葉を足しその他の部分での過失に比べて」としてるので意味不明なわけです。
「原因・端緒(アルケー)に於ける過失・間違いは、たとい些細なものでも、「その他の部分で比例して」、同じ割合を持つことになるからである。」で初めて意味が通ります。
なぜかと不思議に思ったのですが元本のLOEBのラッカム訳(p.391)を見ますと、
「for error occurs at the beginning, and the beginning as the proverb says is half of the whole, so that even a small mistake at the beginning stands in the same ratio to mistakes
at the other stages.」となってますので、最後の「in the same ratio to mistakes
at the other stages」を英語力が幼稚で表現に引っ張られて「その他の部分での過失に比べて」
と直訳的に誤訳してるんですね。
「部分」と訳してある言葉をラッカムが「mistakes at the other stages他の段階において」
と「段階」とわざと訳している意味が取れてません。
「他の部分において過失が起こった」わけではなくて「端緒以外の他のステージ(段階)
において残された過失に比例してる」わけです。
元のラッカムの英訳の方は正確なわけで、英語の意味が読めてない完全なミスです。
中世に使われたWilliam Moerbekeの訳を見ますと、

「in principio enim fit peccatum, principium autem dicitur esse dimidium totius. Quare et
quod in principio parvum peccatum, propotionale est ad ea quae in aliis partibus.
(なぜなら、端緒において罪・過ちがあったからで、しかるに、端緒は全体の半分と
呼ばれるのである。というのも、端緒において微小な罪も、他の諸部分に対して比例的propotionale に
なるのであるからである。)」

ハマルテーマを、「culpa過失・過ち」で無く「peccatum罪」
と訳してる部分は
あまり納得できないにしても、短く言葉足らずで稚拙でも的確に全体の意味を抑えています。
この部分の山本訳は暗黒時代の理解より酷い訳です。

一般の人は些細なことと思われるかもしれませんが、
ちりも積もればで、あちこちで細かく誤訳で論理破綻してるので、日本語のロゴスの流れにならず、
読んでも頭に残らないし、矛盾にムカムカしながら読むはめになります。

社会科学では重要な文献なので、初めて接する人や真剣な学生さんは4400円と4倍ほどしても無理してでも
西洋古典叢書の牛田さんの訳を買われるのをお勧めします。
または元本になったLOEBのRackhamの対訳など英語で読んでください。(2500円弱で済みます。

「読書の順番」
山本氏の解題のとおり「政治学」という翻訳は漢語による慣習的な誤訳に近く、
「タ・カタ・ポリティコン」、「ポリスに関することども」ぐらいの意味で、
「都市国家としてのポリス論」で、「教育論」「法律論」など現代の政治学の枠外のものも
重要な要素とします。(訳文に比べ山本氏の解題は非常に標準的、模範的です。)
アリストテレス「政治学」を読むには、最低限、師匠のプラトンの
「ポリス論」である、「国家」(と出来れば「法律」)の対話篇を読んでおく必要があります。
アリストテレスの「ポリス論」を「政治学」と翻訳されると
プラトンのポリス論である「国家(ポリス)」との対応性が分からなくなるんですね。
ラテン文献のキケローの「国家」「法律」もこの流れに属します。
特に、プラトン「国家」の方は、アリストテレス「政治学」の中で
常に批判的に吟味、参照されますので、順番として絶対先に読んでください。
後、同じくアリストテレスの「ニコマコス倫理学」も徳性論の基礎になってますので、
先に読んでください。
この2冊を読んどくと読んどかないとでは読書の歩留まりが全く違います。

多少緻密に理解をしようとすると結局、「ボタンの掛け違いみたいなもの」で
順番を間違えるとまた読み直す羽目になります。
説教臭くてレビュー読者の方に失礼で申し訳ありません。
でも、この本に関しては、「読む順番」は非常に大事でそれは「買う順番」にも影響しますので。”


お読みくださり感謝の極みです。