ドラクエは✝王様と教会の宣伝! 庵野もオウム側!エヴァもオウムもスクエニも神智学(インド風キリスト教)の霊性進化カルト! 『ライブ・ア・ライブ』(LIVE A LIVE)
Posted on 2017.02.25 Sat 20:32:30 edit
キリストきょうをたたけなくなった!
【教会豆知識】
— 上馬キリスト教会 (@kamiumach) 2016年12月17日
初期のドラクエでは教会のマークは十字架だったが、キリスト教国への配慮から現在では違うマークが使われている#ドラクエ11 #DQ11 #ドラクエ pic.twitter.com/3TIbTpH2BB
海外宗教事情3 北米版『ドラゴンクエスト』には教会も棺桶もない! http://t.co/vKZuyoy6Tr 記事には載ってないけど、フィールド上のほこらの十字架も撤廃されてるんだよね。
— Nora Shishi (@norashishi) 2014年9月2日
ドラクエ2の太陽の紋章とハーゴン城の十字架ってゲーム内で完全にノーヒントだったよな? https://t.co/v0nvrcd2Yy pic.twitter.com/Oiy45W0Xsn
— ☆YU-KA☆ (@225s7) 2016年9月14日
そう言えば、RPGに出て来る“僧侶”も、キリスト教をモチーフにしたものが多いですね。
— システマ多摩(会員募集中! (@SystemaTama) 2015年11月2日
かのドラゴンクエストも、Ⅲでは十字架が描かれていました_φ(・v・※){余談ですが、この絵は、明らかに鳥山明先生御本人のタッチですね)。 pic.twitter.com/SuvVtaeKdB
日本全土がハルマゲドン。(ドラゴンクエスト3のキャッチコピー)https://t.co/n8ziBJIj3T
— さらしる (@sarasiru) 2016年11月25日
子子子子子(ねここねこ)@kitsuchitsuchi
旧約のロトを理由にドラクエがユダヤの宣伝だと言う人には、
セーブに王や教会が、
死者蘇生に教会への寄付が必要で、
聖ジョージの龍退治(キリスト教の布教)が元ネタで、
敵に龍の魔法使いがいることを指摘して、
単にキリスト教(社長)が派遣社員のユダヤに汚れ役をさせているだけだと説明しましょう。
スピリチュアルや宇宙人を混ぜ検証不可能にして妨害。
悪魔を創った神=弱点を消した神智学と人智学(スピリチュアルの祖)はキリスト教の変形。
カルト工場の大本教(紅卍字会)と元大本教儲で心霊主義運動の父の浅野和三郎がスピリチュアルを広めた。
猫太
”理性を突き詰めてやってた人たちからスピリチュアルがにょろんと生まれるのがほんま皮肉ですね。彼らは理性による統治を目指したけど、結局非理性による統治がベストだって気がついたのかな。”
”ドラクエのストーリーってモロに耶蘇教そのまんまですね。竜王が魔法使いなのもね。”
本物潰し
『二ノ国』のラスボスは、女王とジャボーに憑依したイルミナティ思想とシステム。戦うまでに主人公は学習を積んでいる(脳筋ではない)ことが重要。旅により得た智慧と力が元凶を倒しジャボーと女王を救う。 まどマギのキャラ名は姓名ではなく名名。名字がないのはなぜ?天皇家?
猫太
”二ノ国のやり方はほんと現実世界の陰謀の解決策になってますよね。ジャボーや女王様さえ救ってしまうオリバー君の優しさには感動です。主人公が旅によって智慧を獲得するゲームいいですね。イルミゲームですが名作だと思います。” ”ドラクエは耶蘇教臭いですね、エニックスも。”
知力と武力
賢者の杖は木製で棒+角。賢者は魔法使いと僧侶(キリスト教)より上位。ダーマ(ダルマ)神殿(チベット)で転職してなれる。後に神殿では(輪廻)転生も可能になる。チベット仏教が最上位。遊び人が悟りの書なしで賢者になれるのは性魔術を極めたからかも。
旧約のロトを理由にドラクエがユダヤの宣伝だと言う人には、セーブに王や教会が、死者蘇生に教会への寄付が必要で、聖ジョージの龍退治(キリスト教の布教)が元ネタで、敵に龍の魔法使いがいることを指摘して、単にキリスト教(社長)が派遣社員のユダヤに汚れ役をさせているだけだと説明しましょう。
勇者は派遣。斬る側かつ切られる側。
ドラクエの原点は聖ゲオルギウスの竜退治=✝布教。
セント・ジョージ・クロスは英国の国旗やロシアの国章に採用。
竜王=黙示録の竜=キリスト教の敵
を殺した勇者は処分されないためにお姫様と子作りしましたとさ。
猫太”残虐性でいえば勇者もいい勝負なのですけど、魔道師さんはいつも悪役。俺は勇者を焚きつける白い魔法使いのガンダルフみたいなやつが真犯人と思いますがね。こいつらクソ左翼なみのプロの扇動者”
キリストきょうはユダヤガワルイをとなえた!
キリストきょうをたたけなくなった!
✝が黒幕。
猫太”龍退治モロにキリスト教ですよね。龍は大地の象徴でもあり、龍退治は自然征服文明。でもこの世界を操ってる悪の魔道師を倒すのはニート勇者しかなく。しかしなぜ魔道師はいつもあくやなのかな?” 魔導士=技術を持つ賢者。 支配層に従わない魔導士を悪として迫害。魔導士の知恵と技術を独占。
猫太”龍てか蛇が邪悪なのはゾロアスター教の文化ですよね?ミトラ教もそうで、ミトラはギリシアではペルセウスと呼ばれてました。ペルセウスはメドゥーサを退治した英雄。意味はペルシアから来たもの。ヨハネの黙示録はゾロアスター教のパクリ” 異教=悪魔教が元ネタのキリスト教は悪魔教の集合体。
(
これは凄い。ドラクエの竜王の「世界の半分をお前にやろう」がイスファハンから来てるとか。
— ねこた (@lakudagoya) 2017年2月25日
でも竜王ってペルシャでも敵なんだよね。蛇の王様のザッハークはバビロニア人だよー!
アジ・ダハーカかな?(笑) pic.twitter.com/teenjWTSKS
)
猫太”メイソンやイルミちゃんはサンスクリット好きですよね。ベーダガンダムとかマルガ(道)とか。まあメイソンかが後生大事に持ってるギリシア哲学がインド=イランの思想ですしね。” フランクリンらAPS製の△一つ目。当初は一つ目の下はインド・イランの拝火壇。
@lanekota @pilglim_en @wayofthewind ドラクエで転職するには宗教に頼らないとダメなので陰謀論者には転職できません。ダーマ(ダルマ)は梵語で法。あとブログ再開しました。多くの陰謀論者が無視すること集http://t.co/UiyoNpJk8k
— 子子子子子(ねここねこ) (@kitsuchitsuchi) 2014年4月6日
猫太”ちなみに魔道師の種族は兆一級の嘘つきですが、イラン人は嘘つき多いそうです。シーア派の信仰秘匿するタキーヤの伝統の影響があるそうですが、イラン人は嘘つきなの面白いですよね。”
— 子子子子子(ねここねこ) (@kitsuchitsuchi) 2015年2月9日
イラン=ペルシャのマギ=拝火教神官=魔法使い。
↓黒幕http://t.co/h8PFRGF95y
ドラクエの龍王=魔法使い=マギ
の超有名なセリフが「世界の半分をお前にやろう」。
イラン中部のイスファハーンが別名「世界の半分」。
国際商業都市として繁栄した。
クリスチャンの国王が派遣した脳筋勇者に言っても効果なかったけど。
国王がいないとセーブすらできない。
初代は教会セーブではない。
日本だと当然のように十字架のキリスト教教会だったが、
海外だとキリスト教でもなく、棺桶✝でもない。
「潜在意識が仏教の日本人にはキリスト教を押し付けろ!」
日本が耶蘇の植民地ってことさ。
もうすでに言っている人いたわ。
とうゆき@touyuki 2013年7月8日
久通の「世界の半分をくれてやる!」発言は自分としてはかなり会心の出来だと思うが、サファヴィー朝時代のイスファハーンが「世界の半分」と讃えられていた事と松永久通が城主だった龍王山城とドラクエ1のりゅうおうを組み合わせたネタだなんて普通は気付かねーよ。馬鹿じゃねーの。
とうゆき@touyuki 2013年7月8日
久通の「世界の半分をくれてやる!」発言は自分としてはかなり会心の出来だと思うが、サファヴィー朝時代のイスファハーンが「世界の半分」と讃えられていた事と松永久通が城主だった龍王山城とドラクエ1のりゅうおうを組み合わせたネタだなんて普通は気付かねーよ。馬鹿じゃねーの。
サファヴィー朝(1501~1736)
— 偏見で語る消滅国家bot (@henkenkokkabot) 2017年2月13日
「イスファハーンは世界の半分」とかいう世界史版パワーワードを現出させた国家。オスマン、ムガルと並んでユーラシアの大国の一角を占めた。イラン文明の凄さはもっと知られていいと思う。pic.twitter.com/bMaWt1ctnE
【イラン】イマーム・モスク。「世界の半分がある」と称されたイマーム・モスクは、イラン中部の都市イスファハーンにあるイスラム寺院。1979年に世界遺産に登録されたイマーム広場の南側に面し、中央礼拝堂の内部装飾はイラン芸術の最高傑作。 pic.twitter.com/xZWndugLab
— 一度は行ってみたい世界の絶景 (@WonderSightTW) 2017年2月6日
km@kmc_52i 2月13日
「イスファハンは世界の半分」だけでも十分パワーワードだけど、原語の「エスファハーン・ネスフェジャハーン」は韻を踏んでいてもっとパワーワードだと思う。
語壷にない語源bot@rbot_etymology 2月12日
古代ペルシャ語で「大軍の集結地」という意味の言葉に由来する、世界遺産に登録されている金曜モスクやイマーム広場が位置するイランの都市で、16世紀末にはサファヴィー朝のアッバース1世により首都に定められ、その繁栄ぶりから「世界の半分」と称されたのはどこでしょう?【イスファハーン】
∸――
以上をRTしてまもないツイートだからエアリプ。
ぐだトマト@pteras14 27 分27 分前 23:37 - 2017年2月23日
旧四角はたった一人のイラン人王族
プログラマーにおんぶに抱っこだった
からガチだろ。
ねこた@lakudagoya 18 分18 分前 23:46 - 2017年2月23日
そのイラン人の旧王族な。こいつらパフラヴィー朝は王様が薔薇十字会のメンバーな!
leona_jp@leona_jp 2015年4月23日
「初期のFFで伝説のように語られるナーシャ・ジベリ(※)さんも、FFの前に入ってますよね
(※) 数々の逸話を持つ天才的なゲームプログラマ(参考:Wikipedia)
坂口:ナーシャですね。彼は元々イランの王族で、イラン革命のときに国外に出て米国に渡ったと聞いています
」
>ナーシャ・ジベリ(中略)はコンピューターゲームのプログラマ。
— mtmt (@mtmtlife) 2015年8月1日
>イランの王族であったが、イラン革命により渡米してコンピュータ科学を学ぶ。
>Apple II時代から「天才プログラマー」と言われていた。https://t.co/GOtUpRk6OT
――
おー!なんというグノーシス主義!いやマニ教!
— ねこた (@lakudagoya) 2017年2月25日
スクウェア(結社員の暗喩の事をオンザスクウェアと言う)のいんこ真理教の暗躍に乾杯! pic.twitter.com/2ovFl4Zaws
世界連邦運動の暗躍乙!
— ねこた (@lakudagoya) 2017年2月25日
湯川秀樹や世界連邦主義者はみんなやつらの手羽先だ! pic.twitter.com/OhrsgExg2O
ken@kenkatap
康芳夫=伝説のプロデューサー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E8%8A%B3%E5%A4%AB …
▼父は駐日中華民国大使の侍医の中国人
▼石原慎太郎と知己
▼猪木対アリのコーディネート
▼現在は『家畜人ヤプー』関係の仕事が中心
▼「楯の会」の森田必勝、オウム真理教の麻原彰晃は康の事務所に出入り
ムー (雑誌)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%BC_(%E9%9B%91%E8%AA%8C) …
▼鳩山由紀夫は愛読者、妻・幸が08年、記事掲載
▼麻原彰晃 - 読者参加ページに寄稿
▼上祐史浩をはじめ、ムーでの麻原の記事をきっかけにオウム真理教に入信した信者は多い
オウム真理教放送=92~95年まで放送されたオウム真理教のラジオ番組放送局 https://twitter.com/kenkatap/status/489941657643540480 …
▼国営放送ロシアの声の送信機を露通信省が無償貸し
▼題名はギリシャ語で神聖世界の絶対的真理
▼静岡県富士宮市で編集、モスクワに空輸、ウラジオストクから放送
ロシアの声 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%A3%B0#.E9.96.A2.E9.80.A3.E9.A0.85.E7.9B.AE … ▼オウム真理教放送(ロシアの声の送信機使用) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%83%A0%E7%9C%9F%E7%90%86%E6%95%99%E6%94%BE%E9%80%81 …
▼ギリシャ語で「神聖世界の絶対的真理の告知」
▼静岡県富士宮市教団総本部で編集、モスクワ市のロシアの声のスタジオに空輸、日本に放送
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 2014年8月26日
インド神学では聖音オウム=新秩序創造の為の破壊。
オ=創造=ブラフマー
ウ=維持=ヴィシュヌ
ム=破壊=シヴァ
の三神一体(トリムルティ)。
エヴァの元ネタのエウアンゲリオン(福音)放送をしたオウム。
二ノ国の灰の女王の傍にオウム。
@ekousagitan @lanekota
キリスト教、インド、ペルシャが大好きなのがゲーム・アニメ・漫画業界。
ツイッターでオウム真理教
(アーレフ=ヘブライ文字の一番目)を伏字的に「インコ」と呼んでいる人がいる。
元ネタはゲーム『ライブ・ア・ライブ』(LIVE A LIVE)(スクウェアより1994年9月2日に発売)
の敵組織の兵器のインコ大仏≒エヴァ。
思想はバラモン教風キリスト教=神智学が中核のオウムであり、仏教ではない。
神智学は仏教破壊用カルトなので、敵を大仏にして潜在意識に仏は敵だとすり込もうとしている。
ライブアライブの敵がラテン語「憎しみ」なのは、オウム思想が、薔薇十字・マニ教系の反カトリックだから。
主人公の名前が心が読める超能力者の晃(アキラ)=太陽光。
麻原彰晃の「晃」と同じ。
敵の暴走族(上司が陸軍)の名前がクルセイダーズ=十字軍。
黒幕がラテン語名だから、当然カトリック。
ちなみに、ヨガ漫画の一部と三部のジョジョの敵ディオ(不老不死の吸血鬼)はイタリア語で「神」だからカトリックの象徴。
だから敵。
時間操作するからズルワーン要素あり。
WASP側の主人公の先祖が英国貴族で、主人公一行がクルセイダーなのはカトリックへの嫌がらせ。
ジョジョの人間賛歌
=カトリック的神の否定。
(ルネッサンスのヒューマニズム。反カトリシズム)
ビート、心臓を制御=呼吸を制御したからディオ=神に勝てた。
インド思想ではヨガを極めた人間は神より強い。
時間停止と不老不死もインドのヨガ由来。
911予言の三部はタロットと生命の木の対応が重要。
四部がペプシ推しなのはペプシ=WASP系バプテストのロックフェラー系だから。
(バプテストはプロテスタントだからユダヤ教ではない)
jojoは分析ずみだが記事はまだ。
長くなりそうなので以下略。
“フェイド大帝 @FeydoTaitei
別に文明が悪いわけじゃないと
思うけどねぇ……
巨神兵だって土木工事や救護
に使ってれば役に立つだろう?
スクエニのライブアライブと 天地創造は重要なゲームだから プレイしとけよ。
ライブ〜は小学館プロデュースで インコ教のテロを事前予告してるしね。
後、ルドラの秘宝ってのも 重要なゲームだから。
インコ心理教ってやつ。 スーファミ時代のスクエニの ライブアライブ現代編に登場した 敵の黒幕の新興宗教。
近未来編だった…… https://m.youtube.com/watch?v=JhtBn6jlXdA …
インコ大仏、液体人間という人間の 心だけ抽出した液体を 燃料として動く
エヴァの元ネタと言われてます
ちなみにこのゲーム、四角製ですけど、 監修は小学館、現代編のイラスト担当は 庵野と同級生の島本和彦w
pic.twitter.com/41MQrNQecI
(戦闘シーンの床がメーソン模様なんですよね)“
『もののけ姫』の元ネタ⑤=アスラ(自然)崇拝=反バラモン
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-95.html
あれ、もしかしてエヴァの液体人間の話ってライブ・ア・ライブのパクッ。。 pic.twitter.com/ncCWzl7ULu
— UG (@syarosukisuki) 2014年7月17日
ライブアライブのインコ思い出した
— やじゅC (@obama765) 2015年8月28日
仏ぴにゃ pic.twitter.com/X4YmsvT5un
”シンデルマン
「・・・・かわいそうに・・・・君にはこのすばらしさがわからんのか・・・・
人間と人間が一つにとけ合い・・・・身も心も分かち合えるのですよ!
憎しみも・・・・争いもないすばらしい世界・・・・
それを得るためには汚らわしい肉体など捨てねばならんのだッ!
まぁよい・・・・いくら説明してもわからんだろう・・・・
陸軍が時間をかせいでいる間にすでに2000人の液体人間はささげられた!
この寺のいけの水!これこそ60000リッターの液体人間なのだ!!」”
http://privatter.net/p/655630
LIVEALIVE近未来編セリフ集3(築波研究所後~最後)
綴弄月@t_rougetsu 2016年8月28日
「主人公がロボットに乗って」
(何だろう・・・)
「心や精神ってワードが頻出して」
(エヴァかな?)
「人が液体人間になって」
(エヴァだ!)
「今は昔のバビロニア」
「鋼の拳が天を突く!!」
_人人人人人人_
> 近未来編 <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y ̄
ゆーずぃ低@yuzySAI 2016年12月22日
近未来編の話ってエヴァとグレンラガン足したような感じですよね。エヴァでも液体人間みたいな話あるし、カミナは無法松をイメージしてると思う。
ゆとKING OF PRISM布教中@yutobira 2015年7月25日
LIVE A LIVE 近未来編の液体人間のくだりはエヴァの補完計画と元ネタが一緒っていうのは聞いたことがあるから、似ているのは当たり前だと思うんだけど、液体人間の色とLCLの色が似てるのはなんとなくおもしろいな。赤だと生々しい、青や緑は生物らしさがない、故の黄色かとは思うが。
そーすけ@sousukeryu 2015年6月24日
あと近未来編の島本和彦さんが自分でラジオで語ってるけど、液体人間になって色んな人間が一つになるってアイディアはエヴァより先だよって笑い話にしてたけど確かにその通りだよね。エヴァの庵野さんと島本さん同期の大阪芸大卒だし同じようなインスピレーションがあったのかな。
∸――
庵野監督が元オウム信者の疑惑がある。
オーム教のロシア向け放送の名前が「エウアンゲリオン=エヴァンゲリオン」。
ロシア通信省が許可したことが重要。
エヴァの英語版出版人のMatt greenfield Anno hideakiで検索した結果は後述。
英語だと直接的に庵野はオウム信者って断言している人がいる。
日本語情報はポアしたんだろうね。
真言オーム真理教がロシアから放送していたラジオ番組エウアンゲリオンは古典ギリシア語で「福音」。
オウムの中核は✝だから当然ともいえます。
オウムのエウアンゲリオンの放送期間は1992年4月1日~1995年3月23日。
『ライブ・ア・ライブ』は1994年9月2日発売。
エヴァは1995年10月4日から。
オウムの思想的後継者。
東浩紀
「庵野は元々のエヴァの筋書きを大きく変えた。 理由はオウム教の教義と共通点が多過ぎたから」
アニメ界もはじめから怪しいぞ。
手塚治虫は、映写機の全く普及してない時代に、小学二年生の頃からディズニーアニメを観まくっていたので怪しいな。
案の定、手塚治虫の親父や先祖を辿ると面白いよ。
手塚の父は亡命ユダヤ人と関係があったらしいので、フグ計画辺りに絡んでるかもね。
当時普及していないものに多く触れたり、和訳本どころか原書すらほとんどない時期にそれらを間違いなく知っていた人は重要人物。
エヴァの庵野←神智学(インド風キリスト教)→オウム
庵野が信者かは不明ですがシンパではしょうね。
飼い主が同じ。
当時普及していないものに多く触れたり、和訳本どころか原書すらほとんどない時期にそれらを間違いなく知っていた人は怪しいがらみで思い出したのですが、
イスマーイール派は人類史を七周期にわけました。
神智学と人智学もです。
ブラバッキーやシュタイナーらはどうやってイスマイール派の思想を知ったのでしょうね?おそらくメーソン経由。
“陰謀論者の本を読む代わりに『現代オカルトの根源』を読むべきです!
アイクも登場しますよ。アイク本読もうとしているなら先にこの本を読むべきです。
本書は私のお勧め本ランキングの上位に位置します。
ナチスも大本教もオウムもユダヤ=フリーメーソン陰謀論を唱えていて、どれも思想の中核がキリスト教と選民思想!”“
“・オウム思想の中核は神智学の霊性進化論=神か獣かの善悪二元論。
人間の霊魂は輪廻転生を繰返しながら経験を積み霊性のレベルを向上させ「神人」に近づいてゆく。
が、「獣人」へと退化・堕落する霊魂も存在する。
霊性の進化と退化という二元論で捉える図式を本書では「霊性進化論」と称する。
オウムにおいて顕著なように、霊性進化論は、
神に進化
VS
動物に堕落
の二つに一つという極端な二元論を生む。”
オウムはインド風に偽装しているけど
神vs獣の善悪二元論・
終末論・
ハルマゲドン・
隣人愛
でわかるように中身はキリスト教!
オウム思想の中核は神智学
(インド風キリスト教。創世記とギリシャ哲学の動物蔑視)
の霊性進化論
=神か獣かの善悪二元論+霊的カースト制度。
神智学がユダヤ陰謀論=キリスト教の伝統を広めるのに協力。
大田俊寛著『現代オカルトの根源』(ちくま新書)。
「誠の神様はただ一柱」とする大本教は
「天地の創造神」というキリスト教的な神を導入しつつも多神教の枠組みを一応維持していた平田派神学以上にキリスト教。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-75.html
―― 【参考資料】
すごいかもしれないサイト見つけた
かもしれないっていうのは警戒する為。
だってカルト系のやつばかりだもん。
なんと2007年の記事で大本教や、
メーソン=(薔薇十字系というよりは)マニ教系というシュタイナーの考えなどを紹介していて、
メーソンとユダヤはイコールじゃないと言い、
何よりもイルミナティ陰謀論の発生源が二人のカトリック信者(一人が私がよく紹介しているバリュエル神父でイエズス会士)だと指摘。
あれ、ロビソンはカトリックか調べても出なかった記憶が。
イエズス会関係者の2冊の本とあるが、これはバリュエルが
first two volumes of his eventual four volume studyのことか?
全四冊の内二冊ってことか?
もしかしたら読者の中にはねここねこはこのサイト知っていなかったことに驚きとか言われそうだけど題名だけは何か聞いたことがあったぞ。
kenさんありがとう
ken @kenkatap 2014年6月1日
マニ教とフリーメーソン・・・
【悲しき秀才・改 http://sassasa1234.seesaa.net/article/64281261.html …
▼マニ教は根本的に非キリスト教的
▼光の国は戦いでなく、柔和、寛大、慈悲によって闇の国を克服
▼フリーメーソンは薔薇十字会の流れにも結びついているが、本来マニ教の霊統に属するものである
2007年11月03日
マニ教とフリーメーソン・・・
http://sassasa1234.seesaa.net/article/64281261.html
”とりあえず
「フリーメーソン」≠(不等号)「ユダヤ」ということは理解していただいた上で。
「マニ教」 ルドルフ・シュタイナー(西川隆範・訳)より
聖アウグスティヌスはマニ教に対して戦ったが、カトリック教会に加入する以前は、マニ教に属していた。
マニ教は、西暦三世紀に生きたマニという人物によって樹立された。マニ教は中近東の国王たちによって支配されていた地域、つまり小アジアの西方で発生した。マニ教は最初は小さなセクトだったが、やがて力強い霊的な流れになった。
中世のアルビ派、バルド派、カタリ派はマニ教の霊統を受け継ぐものである。さらに、神殿騎士団とフリーメーソン(*1)もこの霊統に属する。フリーメーソンは薔薇十字会などの流れにも結びついているが、本来マニ教の霊統に属するものである。
マニの生涯はつぎのようなものである。
中近東に、非常に学識に富んだ商人がいた。彼は、『秘儀の書』『聖職者の書』『福音の書』『宝の書』という四冊の本を書いた。この商人は死に際して、これらの本をペルシア人であった彼の未亡人に残した。そして、この未亡人はそれらの本を、身請けして自由にしてやった奴隷に残した。その奴隷がマニである。
マニはこれらの本を学び、またミトラ神の秘儀に参入した。マニは「寡婦の子」、マニ教徒たちは「寡婦の子どもたち」と呼ばれた。マニ自身は自分を、キリストが人類に約束した「聖霊」と呼んだ。マニは自分を聖霊の受肉のひとつだといっているのであって、彼が唯一の聖霊だといっているのではない。聖霊は人間に再受肉してあらわれ、自分はそのような聖霊の再受肉のひとつだと考えているのである。
マニが告げた教えに対して、カトリック教会に移ったアウグスティヌスははげしく戦った。アウグスティヌスはファウストゥスという人物が語るマニ教の教えに対して、カトリック的な観点から戦った。ファウストゥスはアウグスティヌスの敵対者だった。
通常マニ教は、その悪に対する見解によって、西洋キリスト教と区別されている。カトリックは、悪はもともと神的なものが転落したもの、もともと神の善霊が転落したものと考えている。それに対してマニ教は、悪は善とおなじく永遠のものであり、肉体の復活はなく、悪がなくなることはないと教えているのではないか、と考えられている。悪は善と同じく昔から存在するものであり、なくなることはないというのが、マニ教の教えだと思われている。
このような教えを説いているのなら、マニ教は根本的に非キリスト教的であり、まったく理解しがたいものである。
ここで、マニ自身が語る神話によって、本来どういうことが問題になっているのか、真相を究めようと思う。秘儀参入に関係する霊統はすべて、みずからの本質を顕教的神話のなかで表現している。マニ教の神話は宇宙的、超感覚的な神話である。
昔、闇の霊たちは光の国に進撃しようと思った。光の国の境まで来て、光の国を征服しようとした。しかし、彼らは光の国に対してなにもできなかった。そして~ここが大事なところなのであるが~彼らは光の国によって処罰された。しかし、光の国には悪しきものはなにも存在せず、ただ善だけが存在していた。だから、闇の悪魔たちは、もっぱら善なるものによって処罰されたのである。
どのようなことがおこったのだろうか。光の国の霊たちは、自分たちの国の一部を取って、それを物質的な闇の国のなかに混ぜたのである。光の国の一部が闇の国と混ぜられたことによって、闇の国のなか真に混沌とした渦が生じた。この渦から、いままでになかったもの、すなわち死が生じた。闇の国はたえずみずからを消耗し、みずからを消滅させる萌芽を内に担ったのである。そして、このようなことが生じたことによって人間が発生した、と語られている。原人(*2)は闇の国と混ざり、閻の国に存在すべきでないものを死をとおして克服するために、光の国から派遣されたのである。
重要なのは、光の国は戦いによってではなく、柔和、寛大、慈悲によって闇の国を克服するということである。悪に対して戦うことではなく、悪と混ざることによって、悪を救済するのである。光の一部が悪のなかに入り込むことによって、悪はみずからを克服するのである。
(中略)
カトリック教会のもっとも重要な人物であるアウグスティヌスが、なぜ『神の国』において教会の現在の形態を創造し、なぜ未来を準備する形態のはげしい敵対者にならねばならなかったかが理解できる。アウグスティヌスは現在の教会の形態を作った。ファウストゥスは未来の形態を準備しようとする。
このような対立が紀元三、四世紀にあらわれた。この対立は、神殿騎士団、蓄薇十字会、アルビ派、カタリ派に対するカトリック教会の戦いとして表現されている。これらの異端は物質界では根絶やしにされたが、その内的な生命は活動をつづけている。のちに、この対立は弱まったが、西洋文化から生まれた二つの流れ、イエズス会(アウグスティヌス主義)とフリーメーソン(マニ教)として表現されている。カトリックや高位のイエズス会士のことはよく知られているが、もう一方のマニの精神において戦う流れはその表面しか知られていない。
イエズス会(アウグスティヌス主義)とフリーメーソン(マニ教)が対立している。古代の霊統の子どもたちである。イエズス会にもフリーメーソンにも、古代の霊統の儀式が継承されている。イエズス会の教会には、修練士、学究生、霊務幇助士、立誓修士の四段階の秘儀参入があり、本来のフリーメーソンの秘儀参入の位階も同様である。この両者は平行線をたどりながら、まったくべつの方向にむかっている。・・・(後略)
(*1)原注:シュタイナーは一時期、フリーメーソンの高位指導者として活動しており、神智学協会内における「認識儀式」はフリーメーソン儀式を基にしていた。
(*2)引用者注:原人=アダムだ・・・(碇ゲンドウの口調で)
・・・わかりやすく言うと、マニ教神話では、光の国の霊たちが自分たちの国の一部(光の要素)を取って、それを物質的な闇の国のなかに混ぜたことが人間の発生(肉体+魂)ということです。
<心に青雲>殿的に言えば、これが「弁証法」の始まりでもありますね。相互浸透。
「・・・フリーメーソンは薔薇十字会などの流れにも結びついているが、本来マニ教の霊統に属するものである。」
↑ここ、試験に出ますから・・・(笑)
ついでに言っとくと、出口王仁三郎とシュタイナーの比較研究するんだったら、このへん押さえないと意味ないですよ~ 八幡書店さ~ん(笑)
あと、ムーから勝手に引用させてもらったお礼に言うと、ナオと王仁三郎の対立(大本vs皇道大本/旧・愛善苑)と、ブラバッキーとシュタイナーの対立(神智学vs人智学)も比較してみて~(笑)”
2007年10月31日
昭和神聖会よりも過激(笑)
http://sassasa1234.seesaa.net/article/63619888.html
”出口王仁三郎が「昭和神聖会」の次にやったことは、より過激にパワーアップ(笑)
終戦直後に「愛善苑」を設立。(現在の宗教法人愛善苑とは別もの)。
この活動と、霊界物語特別編「天祥地瑞」の内容がリンクして、第三次大本事件へとつながって行く。
このあたりについてはたぶん誰も書いてない・・・
つーか、わかっててもヤバすぎて書けない(笑)
お楽しみに~
”
2007年11月06日
「イルミナティの陰謀・・・」という陰謀(笑)
http://sassasa1234.seesaa.net/article/64986757.html
”真面目な話しますと、さすがの私からしても「イルミナティの陰謀」ってのは箸にも棒にもかからないシロモノでして。
目くらまし用語、撹乱用語ですね。
まあ、欧米では昔から「イルミナティの陰謀」論はメジャーで、1960年代以降のカウンターカルチャー・ムーブメントと並行したオカルトブームも、ほとんどに「イルミナティ云々」という話が絡んできますね。
『コスミック・トリガー ~イルミナティ最後の秘密~』 ロバート・A・ウィルソン 八幡書店
<コスミック・トリガーの謎 超人結社イルミナティの陰謀> (昔のムーの特集の採録)
なんかっていえばイルミナティ、イルミナティ・・・
逆に、カウンターカルチャー・ムーブメントの背景を知るには勉強になりましたが。
で、イルミナティ話の元ネタをたどっていくと、イエズス会関係者の2冊の本に行き着く、と。
『フリーメーソン、啓明結社ならびに主要結社の秘密会合において実行されたヨーロッパの全宗教全政府に対する陰謀の証拠』 ジョン・ロビソン
Robison, John: Proofs of a Conspiracy against all the Religions and Governements of Europe carried on in the Secret Meetings of the Freemasons, Illuminati and Reading Societes. 1797
『ジャコバン主義の歴史のための覚書』 バリュエル神父
Barruel, Abbé Augustin: Mémoires pour servir à l'histoire du Jacobinisme. 1803
原文読んだわけじゃないですけどね。日本語訳あるのかな?
まあ、この2人のよく出来た陰謀論話を下敷きに、いろいろなバリエーションが創作されてきたんでしょうね。
本物の陰謀を隠すのに、とにかく便利なイルミナティ、ってところじゃないでしょうか。
参考:
http://www.masonicinfo.com/illuminati.htm
<追記>
「明るいシリウス 我らの未来」
というのが彼らのスローガンだったような。。。”
イルミナティ陰謀論を広めたイエズス会士バリュエルの著作の概要
— 子子子子子(ねここねこ) (@kitsuchitsuchi) 2014年11月16日
仏語で1797-98年、英訳版を1799年に出版。翻訳で更に広まる。
フランス革命の黒幕はヴォルテールら啓蒙思想の百科全書派(科学と理性重視メーソン)、フリードリヒ2世(プロイセン王)、ババリアのイルミナティだと指摘。
オウム真理教放送
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%83%A0%E7%9C%9F%E7%90%86%E6%95%99%E6%94%BE%E9%80%81
”オウム真理教放送(オウムしんりきょうほうそう)あるいはエウアンゲリオン・テス・バシレイアス(古典ギリシア語:ΕΥΑΓΓΕΛΙΟΝ ΤΗΣ ΒΑΣΙΛΕΙΑΣ, εὐαγγέλιον τῆς βασιλείας, euangelion tēs basileias)は、1992年4月1日から1995年3月23日まで放送されたオウム真理教のラジオ番組放送局である[1]。
放送開始の経緯
そもそも、ロシアの国営放送局の国際放送機関である「ロシアの声」(当時はモスクワ放送)の送信機を保持するロシア通信省が、所有する送信機の無償貸し出しを開始したことから、日本では放送内容の問題で放送できないオウム真理教の布教を目的に、関連番組を専門に扱うことを目的として、1992年4月1日から「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」という番組題で放送開始した[1]。
題名はギリシャ語で「御国の福音=神聖世界の絶対的真理、あるいは神聖世界の絶対的真理の告知」という意味だった。当初はこの番組題のみがアナウンスされたが、すぐに「オウム真理教放送」という名称があわせてアナウンスされるようになった[1]。
放送形態の変遷
番組は当初、静岡県富士宮市にあった同教団総本部のスタジオで編集・制作され、モスクワ市にあるロシアの声のスタジオに空輸し、ウラジオストク中継基地から日本に向けて放送された[1]。
当時は、22:00-00:00(以下、時間はすべて日本時間)の1日2時間の日本語による放送が実施されていた。前半1時間は短波15.315MHz(1992年6月以降は17.710MHz)、後半1時間はロシアの声日本語番組でも使用されていた中波720kHzを通じての放送であった[1]。
しかし1993年元日から、短波は季節ごとの周波数変更があることなどから中止、中波は一部地域での受信状態の問題があることから周波数が変更され、1476kHzでの放送となった。これに伴って、放送時間は22:15~翌日の1:15に拡大・変更。その後1994年元日から00:00~03:00に変更され、衛星中継による生放送番組も行われるようになった[1]。
他方短波では、1992年6月15日より、英語による番組が05:30と13:30の1日2回(各30分間)、ロシアの声の全世界向け英語放送の一部周波数を利用して放送されるようになった。また、同年9月1日からは、ロシア国内向けのラジオ放送、マヤークを介したロシア語放送も行われるようになった[1]。
ところが、1995年3月20日に発生した地下鉄サリン事件の影響も絡み、同年3月23日放送を最後に放送中止となり、そのまま廃局となった[1]。
参考文献
井上順孝編『情報時代のオウム真理教』(春秋社 2011年)
脚注
^ a b c d e f g h オウム真理教放送の開始から中止まで(アジア放送研究会制作「オウム真理教放送録音集」解説文から)
関連記述
オウム真理教モスクワ支部
外部リンク
アジア放送研究会による解説
Radiofly・オウム真理教放送
”
最終更新 2016年11月19日 (土) 16:52 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
「Matt greenfield Anno hideaki Aum Shinrikyo」や
「Matt greenfield Anno hideaki Aum Shinrikyo Russia」
で検索
POST GAME: Aug. 16, Tokyo Summer Comic Market
https://whyweprotest.net/threads/post-game-aug-16-tokyo-summer-comic-market.45286/
"One of the anime/manga series parodied in this manga has a peculiar relationship to that most famous Japanese cult, Aum Shinrikyo - now known as Aleph.
That cult infiltrated government agencies, harassed critics, made sarin gas, tried to bring about the end of the world and then paid those those "new religious movements academics" Gordon Melton and James R. Lewis to come and defend them - you know the drill.
The Evangelion anime started airing on TV a few months after this attack (the manga had already started), and its apocalypbic themes seemed to jive with what Japan had been going through.
The US and UK distributor, ADV commented on it like this to Anime Insider magazine in 2004:
CULT FOLLOWING
‘EVANGELION’ CREATOR HIDEAKI ANNO’S SHOCKING RELIGIOUS INFLUENCES
In March 1995, 10 members of a religious sect called Aum Shinrikyo released deadly sarin poison gas on the subways of Tokyo during rush hour. Twelve people died; thousands were injured. The attack drew worldwide attention.
Elements from the Aum cult’s violent and shocking worldview later turned up in the unlikeliest of places: Neon Genesis Evangelion. Or perhaps it isn’t so unlikely; Evangelion creator Hideaki Anno drew from a wide range of religions and philosophies when creating his masterpiece.
Explains ADV co-founder Matt Greenfield, currently hard at work adapting the Evangelion director’s cut for English-speaking audiences, the parallels between Aum and Evangelion are prominent. “The objective of the Aum cult was that they were going to cause a massive disaster which they would not claim responsibility for,” Greenfield says. The motive was that countries would blame each other, leading to conflict. “Basically [Aum] was trying to start World War III, the idea being to wipe out all human life so everything could be started over…with them, of course, being the survivors. This is actually basically what Evangelion is! Ultimately, it’s about restarting the human race.”
Was Anno himself a Aum cultist? “There’s a space in his life that he doesn’t talk about,” Greenfield says, “but I can’t say ‘Yes, he was in a cult’ or not.”
However, Greenfield does say that the Russian-language broadcasts that Aum produced to promote its beliefs were titled Evangelion. Spooky…
-Tom Root"
Aum Shinrikyo (Tokyo Sarin Death Cult) Anime - The Internet - YouChew
http://youchew.net/forum/index.php?/topic/75229-aum-shinrikyo-tokyo-sarin-death-cult-anime/
” Posted December 29, 2010
On 2010/12/29 at 10:40 AM, The Neoprene Junebug said:
Hideaki Anno was a member of this cult in the early 90s.
JazzDanceForChildren
Crouching Spider, Hidden Wagon
I've never seen any of his stuff, but I know it's supposed to be really trippy and weird. While I smoke pot, that's not the same as doing LSD which is what these Aum guys did. The closest thing I ever did was a hallucinogen called DMT once and yeah, if you deprived me of sleep, put me in these bizarre religious ceremonies, and put the stuff in my food and told me I was gaining extrasensory perception and was gaining absolute knowledge and becoming one with the fabric of the universe, yeah, I'd probably believe you.
(…)
NAveryW
A Good One
Posted December 29, 2010
On 2010/12/29 at 10:40 AM, The Neoprene Junebug said:
Hideaki Anno was a member of this cult in the early 90s.
An unsubstantiated rumor, like most things said about Anno on the Internet. Matt Greenfield is apparently the one to start the rumor, and almost everything he's said about Evangelion is wrong. But there are connections between the Aum Shinrikyo attacks and Evangelion. According to Azuma Hiroki, otaku scholar and acquaintance (friend?) of Anno, Evangelion's scenario had to be changed because after the Aum Shinrikyo attacks, Anno considered certain elements of the story "too close to reality" and he feared it would "not be suitable for broadcasting".
Azuma Hiroki said:
But anyway, the original scenario is so shockingly close to the political motivation of the Aum Shinrikyo group, they fight against the upshot of the enemy, without knowing what the enemy really is. The angels change their form for example into pyramids, into shadows. I asked Anno about such abstract characteristics of the angels. He said that this reflects the feelings of his generation. For his generation the enemy is not political. It is also not definite. I mentioned to Anno that such abstract characteristics of the enemy are very close to the conception of Aum as enemy (e.g. poison gas) which he admitted. He also admitted the similarity of >>Evangelion<< with Aum. Nevertheless it is too simple to conclude that Anno was sympathetic with Aum. He emphasizes the closedness and exclusiveness of this group. They lost any contact with reality. In Anno's view this again is very close to the situation of anime fans. In fact >>Evangelion<< criticizes anime fans, and anime culture: it begins with ambiguous flirtations with conditions central to Aum, and ends with its critique as launched on the situation of anime fans.
”
お読みくださり感謝します。
空をまなぶならミリンダ王だね『空の思想史』『』『龍樹』
Posted on 2017.02.23 Thu 22:59:59 edit
★ヒンドゥー教では、輪廻転生を原則として、ヨーガなどの修行や、神々への熱烈な信仰を通じて「解脱」することを願います。
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2017年7月13日
仏教でもまた、輪廻転生を原則として、瞑想行や坐禅などの修行や、諸仏・諸菩薩への信仰を通じて「解脱」する(涅槃に向かう)ことを願います。 pic.twitter.com/2EXldeMCFT
★このインド的世界観においては、輪廻転生は基本的に理想の人生ではないというところにご注意。この世でも苦しみ来世でも苦しむ(畜生になって殺されるかもしれないし、地獄に行くかもしれない)。だからこそ解脱が望まれる。
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2017年7月13日
「輪廻だといつまでも生きられるからいいな」というのは現代風の楽天主義 pic.twitter.com/6e8EtHyga6
今まで見た中一番わかりやすい、日本仏教相関図。これがわかるようになるまで勉強すればいい。
この鎌倉仏教早見表、いつ見ても出来が良い pic.twitter.com/kRf7KKEp2M
— よと (@yoto_3) 2017年7月5日
今まで見た中一番わかりやすい、初期仏教と大乗仏教の比較。
ツイート消えたから画像消えたけどね。諸行無常。
仏教のポイントは「悟り」にあり言語を超越したものです。成道と死の二つの涅槃です。35~80歳の教団発展史は仏伝においては二義的なものにすぎません。言語を超えた体験を実現する方策として、テーラワーダおよび大乗各宗派それぞれの工夫があり、仏教は多様性の高い宗教となっています。 pic.twitter.com/jgiAxWY1E9
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2017年4月16日
《実にこの世においては、
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2016年6月20日
怨みに報いるに怨みを以てしたならば、
ついに怨みの息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。》
(ダンマパダ5 中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』) pic.twitter.com/65cqFxBaHg
憑かれた大学隠棲:再稼働リプレイスに一俵 @lm700j 5月14日
「寺院は津波で被災したが神社は残った。これは霊力の問題?」
「寺請制度って知ってるか?」
「えっ」
「江戸時代は寺が役場と小学校と公民館の役割があったわけで」
「それか」
「そういう公共施設って集落の便利なところにあるだろ」
「あっ」
「対して神社は山の上でも問題なかった」
魔王アモン @mryensrh11 3時間3時間前
要は日本は仏教国 神社なんか完全にいらん子
立川武蔵『空の思想史』(講談社学術文庫)
『空の思想史』
仏教は、「ある」と「ない」の二元論じゃないのが中核。
「ある」にも最低でも二種類の「ある」がある。
「ない」にも最低でも二種類の「ない」がある。
テトラレンマ思想が理解できないと意味不明らしいので資料はいつも通り下の方にある。
これを空の思想史のチベット仏教の思想が素晴らしくてもチベット仏教政府はゴミクズなので注意。
仏教思想を学ぶと、対比させた方がわかりやすいのでバラモン教の正統思想も説明されるのでおすすめ。
・般若心経の色即是空、空即是色は、インドで編纂された当時は
「色つまり色や形のあるものは無常のものであるゆえに執着するな」という意味であろう。
しかし
中国や日本では「色や形のあるままにもろもろのものは真実である」=諸法実相という意味だと解釈されることが多くなった。
つまりインドでは空の否定的側面が強かったのに対して、中国・日本では空の肯定的側面が強調されるようになった。
・日本人は自らの文化的伝統を他の文化の人々に向って精緻な言葉で説明する伝統を養ってこなかった。
論理的な言葉をつみ重ねて整合的な理論体系を構築するといった方向には進んでこなかった。
能、茶道、華道、俳句といった伝統文化には、言葉を精緻にしてつみ重ねていくというよりも言葉を可能な限り削り取り最後には言葉がなくなった境地に文化の精髄を見ようとする傾向が確かにある。
仏教が日本文化を支えている重要な柱の一つであることに疑いはない。
仏教思想で最重要なもののひとつが空の思想。空とは究極的に言葉を超えた境地を目指しているがゆえに空の思想を体系的な言葉によって説明することは難しい。
にもかかわらずインドの仏教思想家たちは空を可能な限り言葉で説明しようと努力した。
だが日本では理論で説明することをあきらめてきたように見える。この態度は今後変わらざるをえないだろう。
・インドの人々が世界構造について考える場合、
属性(ダルマ。法)
と基体(ダルミン。有法)
という対概念で考える傾向が強い。
実体などの基体の上に大きさなどの属性が乗っているように考える。
この本は重要だ
は、この本には重要性が乗っていると解釈される。
本は実体であり、重要性は属性である。
なおダルマには法、掟、義務、正義、教え、あらゆるもの、存在などさまざまな意味がある。
属性を取り除いていくと最後に何も残らないというのが仏教。
無色透明ではあるが何か基体と呼ぶべき何かが存在するというのがバラモン正統派の考え。
それがなければ成立しないような場が残る。
なければさまざまな性質が集まった現象世界が成立しないだろうとバラモン教は考える。
基体の有無でインドの哲学学派を分類できるが、
他には、属性と基体の間に明確な区別があるか否かという分類観点がある。
属性と基体の間に明確な区別があるとするのがインド型の実在論であり、
明確な区別がないとするのが唯名論と呼ばれる。
インドのバラモン正統派六つ
①ヴェーダーンタ
インド最大。インド哲学の中核。
宇宙原理ブラフマンと個我アートマンの本来的同一性を主張。
2 ミーマーンサー
祭式の執行規定を考察するので文章を肯定する言葉の機能を研究。
3 ヴァイシェーシカ
世界の構造を有限個の構成要素の組み合わせで説明しようとした。
4 ニヤーヤ
論理学や認識論を特に研究。
5 サーンキャ
世界展開の素材ともいうべき原質プラクリティと、純粋先進である霊我プルシャとの二つの原理の存在を想定。
6 ヨーガ
ヨガという古代の身体技法の習得に専念するが、基礎理論は初期にはサーンキャで、後にヴァーダーンタ。
ヴェーダーンタは唯名論。
サーンキャや初期ヨーガは実在論と唯名論の中間。
残り三つは実在論=属性と基体とに明確な区別在り。
唯名論(属性と基体は明確な区別なし)のうち基体が存在しないと考えるなら仏教、
存在するとするのがヴェーダーンタ。
基体=ブラフマン。
ブラフマンはキリスト教的創造主ではない。
キリスト教では神が世界そのものとなることはない。
ヒンドゥー、バラモン正統派ではブラフマンはそこから世界が展開し顕現する根本物質となり、しばしばそれが世界そのものになる。
仏教の場合には現象つまりダルマは
基体ダルミンを吸い上げてしまっているかのような状態である。
仏教も現象世界は一応存在すると見えることは認める。木であったり人間であったり水であったりともかくもそれらは存在するように見える。
しかし、におい、形、重さなどがよって立つような無色透明な場は存在しないと仏教では考えられる。
反対論者であるヒンドゥー教徒が基体に属性が存在するというのに対して、
空思想は「基体は属性に関しては空であり(属性は存在せず)、さらに基体も存在しない」と主張する。
空思想では基体と属性とが明確に異なる二つのものと考えられているわけではないことはいうまでもない。
空思想は日本人にとってはそれほど違和感はないであろうが、バラモン正統派にとってはとてつもない過激分子としてうつったことであろう。バラモン正統派の考えが真っ向から否定されたからだ。
・インド最大の哲学学派ヴェーダーンタ学派は、基体としてのブラフマンあるいは神は存在するが、
属性と基体の間に明確な区別はないと考え、バラモン正統派の唯名論を代表する。
この学派の大成者はシャンカラで、ブラフマンのみが実在であり現象世界はすべて実在であるブラフマンの中に飲み込まれたようなものと考える。
シャンカラ思想モデルとしてフルーツゼリーを考えてみよう。
ゼリー=ブラフマン。
属性=具はすべてゼリーの中に閉じ込められている。
フルーツの色や形などの現象はゼリーを通してみることはできる。しかしゼリーという基体の外では存在しない。
シャンカラによれば現象世界は幻(マーヤー)なのである。
幻といっても現象世界が無ではない。それなりの存在性は認められているのであるが、このブラフマンに付随する性質としてこのように我々に視覚されるのみだと考えられている。
八世紀のシャンカラの哲学的立場はアドヴァイタ(不二論 ふにろん)と呼ばれる。
ア=~を欠落
ドヴァイタ=第二番目のもの。
アドヴァイタ
=第二者不在論
=第一番目のブラフマンは存在する。
二番目ものである現象も空思想よりは存在度合いは強い。
インドではアドヴァヤ=二つのものを欠いた状況・境地という言葉があり、
二つのものとは属性とその基体、見るものとみられるもの、無と有などのことであり、
両者ともに存在しないとする仏教的立場である。
11~12世紀のヴェーダーンタのラーマーヌジャは、
基体としてのイーシュヴァラの上に世界と個我とが載っていると考える。
世界と個我とは神の身体とみなされる。
思想モデルではショートケーキがふさわしい。
スポンジ=神。
スポンジの上のイチゴと生クリーム=世界と個我(神の身体)。
シャンカラのフルーツゼリーと違い、
ショートケーキなのでイチゴと生クリームはスポンジの上に出ている、つまり世界と個我とは神=基体の中に入りこんでしまってはいない。
ラーマーヌジャのイーシュヴァラが存在するようには、世界と個我は存在しない。あくまで神が第一であり、世界と個我は第二番目のもの(ドヴァイタ)であり、シャンカラと同様ラーマ―ヌジャ思想もアドヴァイタである。
どちらにせよ基体は存在すると考えられている。
(ハガレンのユダヤ教徒みたいな人たちがいるけど、
あれインドのラーマーヌジャのイーシュヴァラ信仰=一神教的多神教でしょ?)
九世紀以降になるとヒンドゥーでタントリズム(密教)が理論的体系を持つようになった。
タントリズムでは男性原理シヴァあるいはヴィシュヌと、女性原理シャクティ(妃)とが等価値だと強調される。シャクティは力という意味であるが、ここでは世界も結局は女神の力で生まれたと考える。
タントリズムの思想モデルはバウムクーヘン。
焦げ目のついた部分と焦げ目のついていない部分が渦巻き状に巻かれているが、シヴァやヴィシュヌの男性原理と女性原理シャクティとは一つになる。
ヴェーダンタでもヒンドゥー・タントリズムでもこの現象世界の実在性がどれほどのものと考えられようともブラフマンあるいは神はともかく存在するのである。これは鉄則。神は存在する。二番目がなくても一番目は存在する。
世界と神の両方、属性と基体の両方を否定する仏教徒の差異は明白。
・空思想の力点は中国や日本では、何々がないと言う否定ではなく、
肯定的に解釈され真理の意味になってしまう。
真如や真実という意味にも用いられる。
すると色即是空、空即是色は、色すなわち物質は真実だという意味になる。
もともと色には実体がない、永久不変な実体がない、無常なものだという側面が支配的であった。ところが構成物質は真如だというようになった。禅宗のようにすべてのものの姿はリアリティを表わしているものだということになると、インド的な意味とは違ってきたと言わざるをえない。
・仏教はインド型の唯名論。この唯名論の特徴は、基体としてのブラフマンつまり神と、現象世界との間にはっきりした区別はない。
基体つまり実体、と属性とのあいだにはっきりした区別がある説がインド型実在論。
空思想はインド型唯名論の典型であり、神としての基体の存在を認めず、基体と現象世界としての属性との本質的な区別も認めない。さらに現象世界も究極的には存在しないと考える
・我我が用いている言葉は、ほとんどの場合日常生活において妥当なもの。例えば本を見ていてこれは本であるということは一般的には正しい表現であり、一般常識にかなうことである。ヴァイシェーシカ学派などのインド型の実在論の考え方によれば、そしてこの限りでは西洋の実在論においても同様なのであるが、本という言葉を発することができるのは、対象物としての本というものが存在するからである。そして本というものが存在するから本という言葉も発することができると考えられている。
このような考え方が部派仏教の一派である有部にもみられるがこの学派は仏教諸派の中では実在論に近い考えを有しているといえよう。
ところが、空の思想は言葉とその対象が正確に呼応するという考え方に対して根本的な懐疑を抱いた。
言葉と対象物とは明確な対応関係にないであろうと考えた。
空の立場ではどのようなものも当然ながら神もまた存在しない。
したがって、言葉は実在とともにあった、言葉は実在であった
という表現は、インド大乗仏教の空思想の文献には見られない。
空では神であり、神とともにあるような言葉、すなわちロゴス(論理、理、理性、スピーチ)は存在しない。
・インド仏教は紀元前5世紀あるいは紀元前4世紀に生まれて、
13世紀末ごろにはインド亜大陸から消滅したのであるが、
この千数百年の歴史は初期中期後期の三期に分けることができよう。
初期 誕生から紀元1世紀まで
中期 紀元1世紀から600年ごろまで
後期 紀元600年頃以降、インド大乗仏教滅亡まで。
・初期仏教は大乗仏教成立直前、おそらく紀元1世紀ころまで。
初期は前期後期に分ける。
アショーカ王が現れるまでの時代を原始仏教と名づけ、
アショーカ王が出た後、大乗仏教の成立までを部派仏教と名づけよう。
もっとも部派仏教、特にその教理は大乗仏教の時代でも存続発展していた。
原始仏教を初期仏教と呼ばれることがある一方、
原始仏教および部派仏教をまとめて初期仏教と呼ぶ場合もある。
本書では後者の呼び方に従う。
また部派仏教を原始仏教の中に含めてしまうのは難しい。
それゆえわたしは初期仏教の前半を原始仏教、
後半すなわちアショーカ王意向を部派仏教と呼び双方まとめて初期仏教とよびたいと思う。
原始仏教徒は、釈迦の生きていた時代あるいは釈迦が亡くなったのち、
釈迦から直接法を聞いた人が生きていた時代、および釈迦の教えがかなり直接的に伝わっていた時代の仏教。
仏教啓典には経(経典)、律(戒律)、論(論書)という三つの部分があり、
この三部分をまとめて三蔵と呼ぶ。
原始仏教の時期では経と律についてはある程度整備が進んでいたと考えられる。
この原始仏教の年代であるが、これは仏滅後アショーカ王が現れるまでに100年余りあるという北方仏教の伝承に従うか、
南方仏教の伝統に従いアショーカ王の出征を仏滅後200年あたりと考えるかにより違ってくる。
そもそも釈迦の誕生が紀元前五世紀中葉なのか紀元前四世紀中葉なのかがはっきりしない状態。
もっともアショーカ王の在位は紀元前268~232(紀元前三世紀中ごろ)というようにかなり明確に推測されている。
・原始仏教の第一特徴は、ヴェーダの権威を認めないこと。
したがってヴェーダ祭式の執行でつみ重ねられる功徳もほとんど認めない。ヴァルナ(カースト)にもそれほどの意味を認めなかった。釈迦はヴァルナの権威に対して非常にラディカルな戦いを挑んだわけではなかったがヴァルナに対してはいわば冷めた態度で接した。
すなわち仏教教団に入ればヴァルナの上下の差別は受けないことからいわば消極的な形であるがヴァルナには批判的であったと言えよう。
仏教誕生以前に生まれていたウパニシャッド哲学の中では宇宙の根本原理としてのブラフマンの存在を認めているが、
そういった宇宙根本原理ブラフマンの存在を想定して自己の精神的救済を求める方法を釈迦はとらなかった。
釈迦とわれわれの身体あるいは身体を構成しているどの部分も恒常不変の実体ではないゆえに、
そもそも我というものは存在しないのであると説いた。
これはウパニシャッドが宇宙根本原理を設定し個々の人間、
生物の中にも宇宙の根本実在を分有しているとした立場とはかなり違っていた。
釈迦はブラフマンの存在を否定し、さらには個々の人間の中にもウパニシャッドがいうような個我の原理アートマンというものも認めなかった。
(
ですね。ちなみに仏教では、前者「入れ込みすぎる」を「有愛」、「排除しようとする」を「無有愛」と言って、どちらも「渇愛」の一種と見なしています。
— プラユキ・ナラテボー(公式) (@phrayuki) 2017年7月6日
)
・ところが部派仏教の時代となると、確かに宇宙根本存在ブラフマンを認めないが、世界は有限個の要素でできていると考えられた。有限個の要素の因果関係で世界の生成あるいは修行段階が語られるようになった。すると原因Aから結果Bが生まれた構造を認めることになるが、このAあるいはBといった要素が結局は実体とみなされるようになった。
すなわち、aという対象を指し示す言葉Aに対して、その対象であるaという個物が対応すると考えられて言葉と実在の対応関係の中で世界が考えられていく。
この部派仏教では言葉と実在がともにあったと表現することができよう。これは世界根本原理としてのブラフマンこそ認めないが、小さな多数のブラフマンあるいは実体を認めることを意味する。
結局ものbは実在というような考えに部派仏教は導かれていった。
するとこれは仏教から離反しているのではないかという批判が起こり、この批判は大乗仏教の主要主張の一つであり、特に言葉と言葉の対象は存在するものではない、あるいは言葉と対象とは対応関係にあるのではないと鋭く指摘したのが、大乗仏教の理論的な祖とされているのが龍樹。
・インド中期仏教時代、紀元1~600年ごろは大乗仏教が興隆。
紀元前後から初期大乗啓典が編纂されていたが代表的なものは原始般若経典群。
『八千頌般若経』(はっせんじゅはんにゃきょう)の古い形はおそらく1~2世紀には成立していたと考えらえる。
『阿弥陀経』や『華厳経』の中核部分と言うべき『入法界品』(※)なども2、3世紀には成立していたであろう。
(※にゅうほっかいぼん。スダナ少年=スダナ・クマーラ=善財童子が、文殊菩薩に促され悟りを求める旅に出、53人の善知識=仏道の師を訪ねて回り、最後に普賢菩薩の元で悟る話で、東海道五十三次の53の数字の由来。
華厳経
“仏教経典。詳しくは『大方広仏華厳経』。サンスクリット語で書かれた完全な形の原典は未発見。おそらく4世紀頃中央アジアで成立したものであろうといわれる。いわば,小経典を集成して『華厳経』といったもので,最初からまとまって成立したものではなく,各章がおのおの独立した経典であったと考えられる。
このうち最古のものと考えられる章は,菩薩の修行の段階を説いた「十地品」で,1~2世紀頃の成立。このほか『華厳経』のなかには,善財童子が法を求めて 53人を歴訪する文学的な美しい求道譚「入法界品」も含まれている。
漢訳では 60,80,40巻より成る『六十華厳』『八十華厳』『四十華厳』などがあり,最後のものは,前2者中の「入法界品」に相当する。思想的には,現象世界は互いに働きかけつつ交渉し合い,無限に縁起し合うという事事無礙 (じじむげ) の法界縁起 (ほっかいえんぎ) の思想に基づき,菩薩行を説くことを中心としている。
…
広大な真実の世界を包含する仏が,一切の衆生(しゅじょう)・万物とともにあり,さらに一切の衆生・万物も仏を共有し得る(一切即一,一即一切)ことを,華(はな)の美しさにたとえて説いた経典。
…
世界を毘盧遮那仏びるしやなぶつの顕現として、一塵いちじんの中に全世界が宿り、一瞬の中に永遠があるという。一即一切、一切即一の世界観を説く。また、入法界品の善財童子が五三人の善知識を訪ねる物語は、東海道五十三次など各分野に影響を与えた。
…
詳しくは『大方広仏(だいほうこうぶつ)華厳経』。漢訳には完本として東晋(とうしん)の仏駄跋陀羅(ぶっだばっだら)訳(晋訳、旧訳(くやく))の六十巻本(いわゆる『六十華厳』)と、唐の実叉難陀(じっしゃなんだ)訳(唐訳、新訳)の八十巻本(『八十華厳』)とがある。初期大乗仏教の代表的経典であるが、初め各章が独立に成立し、それがのちに現行の完本の形に集成されたものである。サンスクリット原典が残っている「十地品(じゅうじぼん)」と「入法界品(にゅうほっかいぼん)」は、ともにこの経の古い部分に属し、その成立は紀元1世紀にさかのぼる。本経は、大乗仏教の空(くう)の世界観をその完成された形で詳説するものであるが、その根本は、
自己および人類の現状を包含する世界を、それが慈悲に基づく他者に対する利他の働きかけ(行(ぎょう))である限りにおいての、限りなく広大で美しい種々の荘厳(しょうごん)(飾り)の総体、すなわち華厳の仏毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)(「輝きわたるもの」の意)の法身(ほっしん)とみなす点にある。
そして、世界の空とは、この広大で美しい仏の世界が、実はそれを自らの理想として信解する一人一人の人間の、その理想へ自己を実践的に投入しようという決意(願(がん))と、その実行(行(ぎょう))によって幻のごとくに顕現し、かつ、その実践の永遠の持続によって維持される、といういわゆる法界縁起の思想にほかならない。「入法界品」は、善財童子(ぜんざいどうじ)の求法(ぐほう)の遍歴の経過をたどる戯曲的構成をとりつつ、普賢菩薩(ふげんぼさつ)の行(ぎょう)の曼荼羅(まんだら)と表現されるこの世界の構造と内実、そしてそれが個々の菩薩の願と行とによって実現され、存続せしめられるというその空なる本性とを明らかにする。[津田眞一]
『玉城康四郎訳『仏典2 現代語訳・華厳経』(『世界古典文学全集7』所収・1965・筑摩書房) ▽荒牧典俊校注『十地経』(『大乗仏典8』所収・1974・中央公論社)』”
https://kotobank.jp/word/%E8%8F%AF%E5%8E%B3%E7%B5%8C-59336)
5~6世紀以降には中期大乗経典とも呼ぶべき『楞伽経』(りょうがきょう)や『涅槃経』が編纂されたと推定される。
(『薔薇の名前』と普遍論争
http://blog.goo.ne.jp/aowls/e/52fcb4146ad5bf03f7b13be8ff405863
” 唯名論というのは実在論の対概念であって、ヨーロッパの哲学・神学史においては、この二つの哲学的な立場から行われた論争は―――いわゆる「普遍論争」として―――歴史上もよく知られている。もちろん、こうした論争は、ソクラテス・プラトン以来の西洋のイデア論の伝統の残された世界でしか起こりえない。
私たちが使っている言葉には概念が分かちがたく結びついている。中には、ゲーテの言うように、概念の無いところに言語が来る人もいるとしても。
この概念は、「普遍」と「特殊」と「個別」のモメントを持つが、はたして、この「普遍」は客観的に実在するのかということが大問題になったのである。
たとえばバラという花が「ある」のは、もちろん誰も否定できない。私たちが菊やダリアなどの他の植物から識別しながら、庭先や植物園で咲き誇っている黄色や赤や白いバラを見ては、誰もその存在を否定することはできない。
バラの美しい色彩とその花びらの深い渦を眼で見て、そして、かぐわしい香りを鼻に嗅いで、枝に触れて棘に顔をしかめるなど私たちの肉体の感覚にバラの実在を実感しておきながら、バラの花の存在を否定することなどとうていできないのは言うまでもない。それは私たちの触れるバラの花が、個別的で具体的な一本一本の花であるからである。
それでは「バラという花そのもの」は存在するのか。「バラという花そのもの」すなわち「普遍としてのバラ」は存在するのか。それが哲学者たちの間で大議論になったのである。
この問題は、「バラ」や「船」「水」のような普通名詞であれば、まだわかりやすいかもしれない。それがさらに「生命」や「静寂」、「正義」や「真理」などの、私たちの眼にも見えず,手にも触れることのできない抽象名詞になればどうか。「鈴木さん」や「JACK」などの一人一人の人間や「ポチ」や「ミケ」などの犬猫の個別の存在は否定できないが、それでは「生命そのもの」「生命」という普遍的な概念は客観的に存在するのか。あるいはさらに、「真理」や「善」は果たして客観的に実在するものなのか。
この問題に対して、小説『薔薇の名前』の主人公アドソの師でフランチェスコ会修道士バスカヴィルのウィリアムは、唯名論者オッカムのウィリアムらと同じく、「バラそのもの」は言葉として存在するのみで、つまり単なる名詞として頭の中に観念として存在するのみであるとして、その客観的な存在を認めなかったのである。
話をわかりやすくするために、「バラそのもの」や「善」などの「抽象名詞の普遍性」を「概念」と呼び、そして、「バラ」の概念や、「善」といった概念は、客観的に実在するのか、という問いとして整理しよう。
この問題に対して、マルクスやオッカムのウィリアムなどの唯物論者、経験論者、唯名論者たちは、概念の客観的な実在を認めない。それらは「単に名詞(名前)」にすぎず、観念として頭の中に存在するだけであるとして、彼らはその客観的な実在性を否定する。
唯物論者マルクスたちの概念観では、たとえば「バラ」という「概念」ついては、個々の具体的な一本一本のバラについての感覚的な経験から、その植物としての共通点を抽象して、あるいは相違点を捨象して、人間は「バラ」という「言葉」を作ると同時に「概念」を作るというのである。
だから、経験論から出発する唯物論者や唯名論者は、マルクスやオッカムのウィリアムたちのように、概念の客観的な実在を認めないのである。
しかし、ヨーロッパ哲学の伝統というか主流からいえば、イデア論者のプラトンから絶対的観念論者ヘーゲルにいたるまで、「概念」すなわち「普遍」は客観的に実在するという立場に立ってきたのである。(もちろん、私もこの立場です。)
これは、「普遍」なり、「概念」なりをどのように解するかにかかっていると思う。マルクスやオッカムのウィリアムのような概念理解では、唯名論の立場に立つしかないだろう。唯名論者に対して、プラトンやヘーゲルら実在論者の「普遍」観「概念」観とはおよそ次のようなものであると思う。
それはたとえば、バラの種子の中には、もちろん、バラの花や茎や棘は存在してないが、種子の中には「バラという植物そのもの」は「観念的」に実在している。そして、種子が熱や光や水、土壌などを得て、成長すると、その中に観念的に、すなわち普遍として存在していた「バラそのもの」、バラの「概念」は具体的な実在性を獲得して、概念を実現してゆくのである。そういう意味で、「バラそのもの」、バラの「普遍」、バラの「概念」は種子の中に客観的に実在している。
これは、動物の場合も同じで、「人間そのもの」、人間という「普遍」、人間という「概念」は、卵子や精子の中に、観念的に客観的に実在していると見る。
ビッグバンの理論でいえば、全宇宙はあらかじめ、たとえば銀河系や太陽や地球や土星といった具体的な天体として存在しているのではなく、それは宇宙そのものの概念として、無のなかに(あるいは原子のような極微小な存在の中に)観念的に、「概念として」客観的に実在していると考える。それが、ビッグバンによって、何十億年という時間と空間的な系列の中で、宇宙の概念がその具体的な姿を展開してゆくと見るのである。プラトンやヘーゲルの「普遍」観、「概念」観はそのようなものであったと思われる。
唯名論者や唯物論者たちは、彼ら独自の普遍観、概念観でプラトンやヘーゲルのそれを理解しようとするから、誤解するのではないだろうか。
小説『薔薇の名前』の原題は『Il nome della rosa 』というそうだ。この日本語の標題には現れてはいないが、「名前」にも「薔薇」にも定冠詞が付せられている。定冠詞は普遍性を表現するものである。だから、この小説は「薔薇そのもの」「名前そのもの」という普遍が、すなわち言葉(ロゴス)そのものが一冊の小説の中に閉じ込められ、それが時間の広がりの中で、その美しい花を無限に咲かせてゆく物語と見ることもできる。主人公メルクのアドソが生涯にただ一度出会った少女のもつ名前が、唯一つにして「普遍的」なRosaであるらしいことが暗示されている。”
記号論学者にして文献学者で哲学者であるウンベルト・エーコは結社員だろうね。
バラ。エスペラントにも関心を抱いている。
『フーコーの振り子』というテンプル騎士団陰謀論がテーマの小説もある。
両方とも日本語訳ある)
・仏教の修行の根本は、業(行為)や煩悩を俗なるものとして止滅させること、あるいは否定すること。空は元来否定を意味する。
否定には二種ある。
命題の否定と、名辞の否定。
空思想ではこの二種の否定が明確に区別されており、その区別が空思想の論理学的解明にとって重要。
このプールに女性がいる
を否定するとはどのようなことか。
命題において否定されるのはプールの存在でも、女性の存在でもなく、プールにおける女性の存在である。
一方、名辞の否定は「女性ではないもの」という表現に代表される。
「女性ではないもの」=非女性
とは、今論議されている領域が人間なら男性を意味する。
すなわち、
非女性=全人間の領域-女性の領域=男性の領域
の定立を意味する。
論議領域が生類全てなら、
非女性には犬猫なども含まれる。
つまり、Xではないもの=非X
という表現は、名辞Xの指し示す領域(集合X)を全論議領域より除外して、
残りの領域=集合Xの補集合
を肯定するのである。
「このプールに女性がいない」という命題においては、
「ない」という否定辞は、「いる」という述語動詞にかかる。
つまり「このプールに女性がいる」という命題の否定は、「いる」という述語動詞の否定に等しい。
一方、非女性という語が、人間の中の女性以外のもの=男性を意味するときも、
全宇宙の中の女性以外のもの=男性、犬、花などを意味するときも、
非女性という語は、全論議領域から女性という領域を除いた領域を指示しているのであって、
「プールに女性がいない」という命題の否定辞「ない」とは異なった否定を含んでいる。
このように、命題あるいは文章に表現された否定辞は、
命題(あるいは述語動詞)を否定する場合と、
命題の中の名辞を否定する場合との
二種があるといえよう。
「このプールで女性は泳がない」
という命題から、泳ぐ人が存在するという前提のあるときには、「したがって、このプールで男性が泳ぐ」という命題が引き出される。
このように、ある命題と前提から論理的に引き出される内容あるいは命題を含意(あるいは含み)という。
この場合、「このプールで泳ぐ人間が存在する」という前提がない時には、
「このプールで女性のみならず男性も泳がない」
つまり「誰も泳がない」こともあり得る。
このプールで女性は泳がない
という否定命題から引き出される可能性の或る含意を列挙する。
1かのプール以外(池など)で女性が泳ぐ
2かのプールで女性以外(男性など)が泳ぐ
3かのプールで女性が泳ぐこと以外の(沐浴などの)ことをする。
4かのプール以外で女性が泳ぐ。
否定する場所で含意が変わる。
命題の否定は二種類ある
1述語動詞を否定することで命題全体を否定
2論議領域の部分aを否定=排除してその補集合的部分非aを定立させる。
・唯識派は龍樹にわずかに遅れて活動開始。
唯識派の開祖はマイトレーヤ(270~350頃)であり、
名称が同一だったので弥勒(マイトレーヤ)菩薩と同一視された。
マイトレーヤ思想を受けて唯識説を確立させたのが『唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)』の著者である世親(ヴァスパンドゥ)。
三十頌では世界を八つの認識の複合体として説明。
アーラヤ(阿頼耶)識のアーラヤ=基体、蔵。
ヒマーラヤ=雪(ヒマ)のアーラヤ(基体、存する場)。
世親の唯識ではアーラヤと呼ばれる認識があたかも実在論者の実体のように基体として機能するわけではなく、
すべての現象がそこから引き出されてくるような貯蔵庫でもない。アーラヤ識と眼識などの他の認識とは明確に区別された基体とその上に存する属性という関係ではない。
つまり唯識はインド型の唯名論の伝統に属す。
バラモン正統派の一つサーンキャでは世界は原物質プラクリティの展開したものであり、原物質とは異なった原理である霊我プルシャが存在し、このプルシャは原物質の活動を見守る。眼識など認識は原物質の中に含められる。
プルシャとアーラヤ識は両者の教理体系において似たような立場だが重要な違いがある、
プルシャとプラクリティは実体と属性との関係はないが、両者はまったく別個の者。
サーンキャはインド型実在論と唯名論の論争に関しては中間的な立場でありこのプルシャとプラクリティとの関係がその中間的立場を表わしている。
一方、世親の唯識はアーラヤ識は他の認識とまったく別個の存在ではない
唯識では認識のエネルギーが最終的には智の光というかたちにおいてではあるが、そもかくも残るという前提。
中観派は空に置いて何も残らないと考える。空は中観派でも一種の智慧あるいは境地と考えられ、空が完全なる無と考えられているわけではない。
また唯識学派においても空は重要である。
唯識は心的エネルギーの存在を認め、その働きである認識を構成要素として世界構造を説明しようとする。
比べて中観派は心的エネルギーの存在や世界構造などをが一義的にはともかくも否定しようとする。
唯識では世界は認識内容に過ぎないのであり、
中観派では全てが空なるものだ。
つまりインド中期仏教前半、つまり五世紀ごろまでは言葉とその対象とは止滅しているあるいは実在しないという側面が強調された。
(スピ系が弥勒をわざわざカタカナのマイトレーヤと呼ぶのは日本と中国仏教が嫌いだからだろうね。
宇多田ヒカルは三島由紀夫の「豊饒の海」により「唯識三十頌」を知り、「写経のお気に入りは唯識三十頌」とコメントしているらしいけど、これインドに典型的なこの世は幻(マーヤー)思想に近い唯識思想だからでしょ)
・インド中期仏教の後半、5~7世紀になると仏教論理学派の活躍が始まる。
ダルマキールティ(法称)、ディグナーガといった論理学者たちは唯識学派に属すると考えられた。
(スピ信者が持ち上げる唯識思想を仏教論理学の大成者も持っていたとは!
スピリチュアルの中核は論理学の否定だから相容れないな。
耶蘇が混じっている限りどこまで行ってもインド「もどき」、仏教「もどき」だ。)
仏教論理学の体形はすでに六世紀のディグナーガによって確立されており
七世紀と推定されるダルマキールティ(法称)の論理学・認識論はディグナーガによっているところが多い。
仏教論理学は、直接知覚は概念作用を含まない。
リンゴだ、という認識がたとえ目前に、リンゴと呼ばれるかたちを見た直後に得られたとしても、すでにリンゴという名称をある物体に結びつけるという概念作用を含むので、仏教論理学派のものたちは直接知覚とは呼ばない。
ダルマキールティは概念作用を含まない直接知覚のみが真に存在するものを対象としており、それ以外の認識である概念や推論の対象は真に存在するものではなく言葉によって仮に想定されたものにすぎない、と主張。
彼によれば真に存在する者とはリンゴというような名称あるいは言葉によって指示される以前の個物そのもの(自相じそう)でありリンゴという概念の対象(共相ぐうそう)は実在しないものであった。
また、真に存在するものは言葉と結びついたものではないという態度を保持。
これは仏教論理学者たちが仏教思想家であったことの証。
仏教は最終的には言葉の止滅した境地に至ることを目指しているから。
言葉を超えた智を聖なるものとみなす伝統を尊重し、言葉を超えたところに真実を見ようとする態度は、
縁起という真理にあっては日常の言語が止滅していると考えた龍樹の態度と基本的には同一である。
・論理学派とは別に四世紀ごろから唯識と深い関係をもちながら発展した仏教思想が如来蔵思想。
如来=仏、
蔵=胎(可能性)。
如来蔵思想=仏となる可能性を全ての人が持つという思想。
如来とは、
ありのままに=タター
来られた方=アーガタ
すなわち仏だが、
おそらくはサンスクリットの単語は元来は、
ありのままに=タター
悟られた方(ガタ)だったのを漢語に訳す際に如来と解釈されたものであろう。
蔵とは元来は子宮あるいは胎児を両者の区別なしにさす言葉。
凡夫が仏の胎児を有すると言う思想。
『楞伽経』(りょうがきょう。如来蔵思想と唯識思想、禅について説く)では如来蔵はアーラヤ識と同一視されている。
如来蔵思想の流れが恒常不変な仏あるいはその可能性を求めたことだ。恒常不変の存在を求めることは仏教の伝統に反することであった。
・空思想はタントリズム(密教)の基礎理論。
インド後期仏教における仏教タントリズムにおいて、本書はタントリズムと密教とを同義に用いる。
タントリズム=5~6世紀ごろからインドで急速に台頭した宗教運動。
仏教のみならずジャイナ教やヒンドゥー教も巻き込んだ汎インド的宗教運動。
タントリズムは個人的宗教行為を中心とした宗教が集団的宗教行為の形態を取り込んだものだ。
元来、仏教はホーマ(火の奉献、護摩)とかプージャー(供物をささげること、供養)といった儀礼に対しては冷淡であったが、七世紀になるとそれらの集団的宗教行為の象徴意味を変えて自らのシステムに取り込み新しい形態を創っていった。これを仏教タントリズム(仏教密教)と呼ぶことにする。
7世紀には胎蔵(胎生)曼荼羅を説明する『大日経』(だいにちきょう)が編纂されたと推定されている。
仏教タントリズムが確立するのはこのの成立によるということができる。
七世紀末頃には『真実摂経』(しんじつしょうきょう)が成立するが、これはもっとも代表的な曼荼羅である金剛界曼荼羅を述べている。
この胎蔵曼荼羅と金剛曼荼羅は唐の中国に伝えられ九世紀の初めには空海によって日本へともたらされた。
インドでは『真実摂経』のあともタントリズム経典が成立した。
そして十三世紀初頭にヴィクシマーラ大僧院がイスラム教徒によって焼き払われたことを象徴的かつ実質的な事件としてインド仏教は急速に衰え、十三世紀末ごろにはインド大乗仏教はインド亜大陸よりほとんど消滅していたと推定される。
本書は仏教タントリズム、仏教密教は大乗仏教の一部だという立場に立つ。
密教は儀礼を重んずる一方で、修行者自らの進退によって真理を直接的に経験しようとするものであった。
精緻な理論体系や複雑な儀礼を軽視あるいは排斥しようとするものも多かった。
しかし一方では理論学者でありながら密教修行に関心のある者もいた。
密教全体の傾向としては真理は言葉によって直接指し示すことはできないとしても象徴的に表わすことはできると考えられた。
密教は究極的な真理は直接的に体験できるものであり、その体験は言葉あるいは象徴(シンボル)によって表現されうるという前提に立っている。
密教でおびただしい種類の象徴が用いられるのはそのためであり、密教理論は象徴言語で語られる。
象徴はある面では曖昧なようではあるがある面では言葉よりも雄弁であり密教は雄弁さを有効利用しようとする。
・一般に原始仏教は無我説だと言われて来た。
しかし中村元によれば最初期、つまり原始仏教では「アートマンが存在しない」という言い方はなかった。
従来、うパン自社ッドにおいてアートマンは存在するちうのを否定して、仏教ではアートマンは存在しないとしてきた、といわれているが、そのような理解は正しくない。つまり原始仏教の中でウパニシャッドの説を直接的に否定していることはあるかなきかである。
古典ウパニシャッドで仏教らしきものが批判されていることもほとんどない。
仏教経典の中でこれを言っているのだろうと思われるところもあるが正面からウパニシャッドのアートマン説を否定しているところは見られない。
したがって原始仏教啓典にはアートマンが存在しないといっている個所はないといってよいであろう。
ではなぜ無我説という語が従来用いられてきたのだろうか。
原始仏教では人間の具体的な経験の範囲で客観的に把握されるものはどれをとってもそれは我(アートマン、アッタン)ではないと考えられた。
一方、倫理的主体としての自己つまりサンスクリットでアートマン、パーリ語でアッタンは積極的に認められた。釈迦は自己というものを否定したわけではなく怠けずに努力せよと弟子たちに言い続けた。
有名な、サイの角のごとくただ一人で歩め、という教えは自分というものを持てといっているのであって、いかなる意味の我をもなくすべきだといっているわけではない。
この場合の自分とはウパニシャッドの我アートマン、形而上学的実体ではない。それは否定さるべき我である。
・部派仏教にとって最も重要な理論の一つは、
世界がもろもろの構成要素の因果関係によって成り立っていることである。AによってYがある、つまり原因によって結果が生まれると言うのが鉄則。そうなれば原因と結果の要素は一応固定されたものでなければならない。
そうでなければ因果関係は成り立たないから。しかし原因Aがあるからといってアートマンがあるということにはならない。75の要素は存在するが、一方我は存在しないということはいわば二極分解が起きていることになる。
これを龍樹が代表する大乗仏教は批判。
つまり龍樹らにとっては無我は当然であり、
A,Bと言った常住の要素が存在すること、さらにはAからYが生ずるということに批判の矛先を向けた。
x、yといった個々の要素を一つの単位として世界を考えることは因果関係を認めることであり龍樹にとっては因果関係を認めること自体が是認されることではなかった。
最終的に龍樹は縁起という相関関係は認めるが、アビダルマのようなaからbが生じるというような確定した因果関係は認めなかった。
・『中論』
第一章ではどのようなものにも生ずるということがないこと、が示され、あらゆるものにおける生ずることの存在が否定される。
第二章ではどのような場にも運動のなことや、
どのような人も行かない(歩かない)ことが論証されている。
歩くことつまり運動を歩くこと、歩く人、踏み歩かれる場所(道路)というように三つの要素に分け考察し最終的にそれら三つの要素のいずれも成立しないことを芳名しようとしている。
内容はいずれも否定作業の積み重ねでありそれを通じて空性に至ろうとする意志を感じる。否定の目的は悟りが目的であり否定の際また結果に生ずる様相、新しい世界こそが龍樹の目指すものであった。
竜樹は元来別起源の思想である縁起(あらゆるものやことが互いに依ってある)と空を結びつけることで徹底した空の世界でありつつあらゆる存在を動的なまま受け入れうる特異な世界を作りだす容器となった
縁起の基本は、aに依ってbがある、bに依ってaがあるという、因果の連鎖でものの存在を説明する。原始仏教の縁起ではaからbへというように方向が定められている。十二縁起。
ところが龍樹の縁起ではaに依ってb、bに依ってaというように縁起の方向が相互になる。
(これお互い様思想の源流だよね。日本人はこの八宗の祖からは逃れられない)
世界は二つ以上の項とその間の関係とがあれば成立することに竜樹は注目。
言葉は世界であり宗教学的に言えば俗なるもの。否定を通じて聖なるものの顕現を待つ必要のあるものである。言葉をこのような意味で龍樹はプラパンチャと名付けている。
プラパンチャ=分かれて広がる、分裂。
自性(スヴァバーヴァ)という概念は中論ですこぶる重要。
中論
もろもろのものの自性は縁(原因)等に認められない。
自性が認められないから他性も認められない。
(私の解釈だと龍樹のいう因果関係=aからbへの直線的因果関係。
つまり、原因に依存して結果があるが、結果が原因に依存しているとは考えない因果関係の否定。
お互いさま=相互関係は認めた龍樹。
たしかに、結果のみが存在し原因は存在しないも、
原因のみが存在し結果は存在しないもおかしいからね)
桜の木の本質はこの木にない
=この木は桜ではない。
もろもろの自性は縁(原因)等に認められない
=縁(原因)等はもろもろのものではない。
この場合の自性とは、ものの本質と考えられ、ものと自性とは有法(基体)とその上に存する性質(不変)とであると考えられる。
他性とは他のものの自性であるゆえに、自性が原因等に存しないならば他性という他のものの自性すなわち本質も原因等に存しないと龍樹は主張。
しかし中論では自性(スヴァ・バーヴァ)はこの引用や他の個所において今説明した意味以外にもう一つの意味で用いられている。
もろもろのもの(バーヴァ)が自のもの(ズヴァ・バーヴァ)と
他の者(パラ・バーヴァ)という補集合的関係にある二つのグループへと分割される場合があり、
そのさい、自性はその一方のものの意味でも持ちられている。
ものが補集合的関係に分けられている時、自のものでもなく、他のものでもないものは存在しない。
ものの本質としての自性はダルミンとしてのものに存するダルマであったが、
この第二の意味の自性(自のもの)とはダルミンのレベルにあるのであり、ダルマのレベルにはない。
同様に、他性(他のもの)もダルミンのレベルにあるものである。
このようにあるものを補集合的関係にある二つのグループに分けることは龍樹の論法にとっては不可欠なことであった。
スヴァ・バーヴァ
1 ものの本質としての自性 ダルマ、属性レベル
2 自のもの、ものそれ自体 ダルミン、基体レベル
ものの自体が原因に存しない
=ものは原因ではない
ゆえにもののの他性も原因に存しない
という命題の意図は
自のものばかりではなく他のものも原因ではない
と主張することである。
ここでは前半が ものの自体は原因でない
と主張できるから。
中論
縁は四種である。因縁と所縁縁と次第縁と増上縁とであって、第五の縁はない。
因縁
=因は原因、縁は条件。
所縁縁
=認識の対象(所縁)
(認識論が成立する場面での原因)
次第縁
=一瞬前の存在の認識が次の一瞬の存在の認識の原因となっていること。
アビダルマでは、瞬間はその中で、ものが生じたり滅したりすることのできる幅を持っており、
ものは瞬間瞬間に滅してまた生じていると考える。
今ペンがあるとするとこのペンは瞬間瞬間に滅してまた生じている。ある瞬間のペンの認識は次の瞬間のペンの認識の原因となると考えられた。
増上縁
=aからbを邪魔しなかったので成立原因となっている原因。
ペンを作る際に邪魔しなかった理由において原因となるもの。ペンを作ろうと積極的に貢献した人は当然このペンの存在の原因となるがこのペンを作ることに障害とならなかったもの。
ペンを作った人の飼い犬もペン制作の原因の一つと考えられる。
(この縁を思いついた人は凄いね。
見て見ぬ振りも悪の成立要因ってこと)
竜樹は因縁つまり原因と条件の存在を総括的に否定。
所縁縁
=認識の対象(所縁)
について、
この有の法は無所縁であると説かれる
とし見る対象ではない、つまり見ることはできないものだと言っている。
次に
諸法が未だ生じないときには、滅は可能ではない
つまりものは生じないのだから消滅もなく前の瞬間を考える必要がないという。
次に
増上縁
=aからbを邪魔しなかったので成立原因となっている原因
について
無自性である諸の有体には存在性はないから、彼があるときに此れがあるというこのことは可能ではない
つまり
諸々の者はそれ自身ないのだから因果関係はあり得ないと考えた。
竜樹は
すべてのものは空である、自性がないから
と明言する。
しかし逆に
自性がない故に空である
というには決して言わない。
自性がない
というときの
自性とは何か問う問題は後の仏教史を決定づけるほど重要だった。
(論理と言葉→非論理と非言語
の順番を守らないといけない。
まず最初に言葉と論理で徹底的に思考して修行して、
次に初めて非論理に行くのが重要。
はじめから非論理だと単なる幼児化で、
赤ちゃん状態=本能と欲望に従う
だからこの状態に大人の体でなるのは悪。
非論理を先にするのは大抵がカルト。非論理を先にしているなら防御装置(狂人になった実例はないか、元に戻せるか)があるか確かめること。
論理的な結論がすべて否定されたなら、非論理的なものを試すとよい。(イニストラードを覆う影) pic.twitter.com/Sw6g6wvsuh
— M:tGの名言 フレーバーテキストBOT (@mtgFlavor_bot) 2017年7月6日
言葉あるいは命題が主語と述語に分かれていることが、ここでいう分裂つまりプラパンチャ。
言葉で表現するのもプラパンチャ。
パーリ語ではパパンチャであり、くだらないおしゃべりや本質を突かないおしゃべりという意味で戯論と訳した。
ところが龍樹は中核概念として用いた。
『中論』
「縁起なるもの、それをわれわれは空性と呼ぶ。
それ(空性)は仮説(けせつ)であり、中道である。」
(龍樹のいう解脱を達成するには言葉が世界を切り取る作用の影響から脱しないといけないが、これはただ外形だけ言葉を捨てても達成できない。
なぜなら人間社会に生まれた時点ですでに言葉の世界に強制的に参入させられてしまうから。
仮にまったく人語を学ばずに成長してもその状態は般若=智慧からは程遠い。そもそもそのような人が慈悲をなせるか疑問。
個人個人合わせた最も適切な救済を与えることはできないだろう。
影響を脱しても言葉は依然として使えることが重要。
自由自在に扱えることが解脱の証)
『チベット旅行記』『古事記』『日本書紀』偽書の作り方。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-174.html
書籍「空の思想史」
http://sky.geocities.jp/biyakuren_sutra/kuunosisousi.html
・五蘊皆空
=五蘊は自性が空
にはインドでは三通りに解釈されてきた。
1五蘊はそれ自体が空である(自体を欠いている)
五蘊という現象以外に自性と呼ばれるものは存在しない。
五蘊の自性と現象の区別はなく、五蘊がそっくり存しないという解釈。
空は実体視されていない。
五蘊以外のものは空ではないという含みもない。
これは般若経の空思想の中でも最も基本的。
龍樹の『中論』における縁起=空 理解の基本的側面(戯論を滅する過程)にもこの理解が見られる。
玄奘が五蘊皆空と訳した時は、五蘊それぞれすべてが空である、という意味を考えていたのであろう。
スヴァバーヴァを自体と訳したときにはかえって誤解を招くと考えたのであろう。実際この解釈ではスヴァバーヴァにはそれほど特別な意味はない。
2 五蘊は自性(実体)が空であるが五蘊の現象(言説)は存在する
インドおよびチベットにおいては五蘊が実体としての自性を有する場合と、
実体としてではないが現象つまり言語活動によって仮にその存在が説かれている場合の二つがあると考えられる。
中観派は前者を認めず(実体は認めない)後者を認めるが、
この解釈2のポイントは、日常の言語活動及び言語の対象としての現象世界の成立にある。
もちろんそれらは実体をともなって成立するのではない。
3 現象としての五蘊は自体が空であるが本質としての空性は実在する。
否定さるべきものは現象としての五蘊。
真如(本質)としての空性そのものは否定の対象とはなりえず、実在であり、生、住、滅を離れている。
実在が生、住、滅を離れているという考えは宗教思想では一般である。
ヒンドゥー哲学にもこの考え方は見られるが仏教では如来蔵思想や一部のタントラ経典に見られる。
・p.128
龍樹は命題が二つ以上の項(主語と動詞、主語と動詞と目的語など)によって成立していることに注目。
彼の言葉の分析の結論は、二つ以上の項目に分裂している言葉は究極的に、
すなわち空の立場では成立しえないということであった。
つまり、主語と述語があって意味を成す世界にいる限り、われわれは悟りえないというのが龍樹の立場。
彼にとって空とは言葉の否定を意味した。
この言葉の否定を弁証するにあたって龍樹は、
否定辞の有する二種の機能をたくみに使い分けている。
竜樹は『中論』第2章「観去来品」の
「已(すで)に歩かれた場所(已去処 いこしょ)」
と
「未だ歩かれていない場所(未去処 みこしょ)」
の考察で、
歩く(行く)動作とその動作の行われる場所との関係を扱っている。
彼はまず
道路が(踏み)歩かれる
つまり
道路などに歩くという動作が見られる
という反対論者の意見を想定する。
竜樹に反論するものたちは、
道路という基体に
歩くこと という運動が存在しており、
この基体と運動との関係は
道路が歩かれる
という受動態の文章で表現されると考える。
竜樹は道路が歩く動作を受ける
という命題も成立せず、
さらに究極的には道路とか運動というものは存在しない、
すなわち諸々のものは空であると主張。
a すでに歩かれた場所(已去処)は歩かれない(歩く動作を受けない)。
b まだ歩かれていない場所(非已去処、未去処)は歩かれない。
c 已去処と非已去処を離れた今歩かれつつある所(現去処)はない。
これら3命題では、道路の領域が補集合的関係に分割されている。
aは歩くことがすでに歩かれた道路の領域(gata)に存在しないと述べ、
bは歩くことがまだ歩かれていない領域
(すでに歩かれた領域以外の領域、a-gata)
に存在しないと述べ、
cはそれらに領域を離れた領域は存在せず、
したがって、そこにも歩くことはないと述べている。
abcを総合することで龍樹は歩くべき場(道路)のいかなる領域にも歩くことは存在しないと主張。
すでに歩かれた場所 を意味するガタgataは、
歩くや行くを意味する動詞ガムgamと
過去受動分詞タtaからなる語。
否定を意味する辞a(非)を加えたアガタa-gataは「まだ歩かれていない場所」
を意味する。
aとbにはガタにもアガタにも「踏み歩かれる」という動作がないと述べられている。
踏み歩かれる
は、歩くという動詞の語根gamに受身を表わすyaを加えた
受動形gamyateによって表現される。
英語の動詞goは他動詞には使われないが、
サンスクリットの動詞gamは、踏み歩くという他動詞の意味に使われる。
例えば
太郎が自分の家からポストまで行くのに、
すでに家から歩いてきた道はガタである。
ここは既に踏み歩かれており、過去において動作が行われることはない。
そして現在、
太郎がいる地点は踏み歩かれつつあるもの(gamyamāna)
であるが、ここには場所あるいはスペースがないため踏み歩かれることはない。
ここでアガタはガタという領域の存在の否定ではなく、
全部の領域からガタを除いた領域を肯定している。
このようにサンスクリットで、否定することによって否定されない領域を肯定させること、
すなわち名辞の否定を定立否定(paryudāsa)という。
前述のabc
を書き直すと以下になる。
a′
歩かれたところは、歩かれない
gataṃ na gamyate
※まだ歩かれないところは、歩かれるを含意しないことに注意。
b′
歩かれていないところは、歩かれない
agataṃ na gamyate
c′
歩かれつつあるところは、歩かれない
gamyamānaṃ na gamyate
「已去処」と「未去処」が補集合的な配分。
中論は、名辞の否定a anと、命題の否定naを使い分けるのが論議の核心。
時間を空間的に表象し過去未来現在の存在を否定。
反対論者が現在歩いているという眼に見える動作があるとるが、
それに対し龍樹は過去と未来の間に現在という幅があることを一歩譲って認めている。
そのうえで反対論者の説を批判。
中論
今歩かれつつあるところに、
歩くことがあるとはどうしていえるか。
ここでは、
歩かれつつあるところ=基体 ダルミン
に
歩くという運動=属性 ダルマ
が存することが問題となっている。
今回は過去未来現在ではなく無時間的な観点から、
歩かれつつあるもの=基体 ダルミン
と
そこ(基体、ダルミン)に存する、歩くこと(属性、ダルマ)
が問題となる。
ここでの論議で、
歩かれつつあるというところに歩くことがある
という命題が成立するときには、
歩かれつつあるところ(基体、ダルミン)
と
歩くこと(属性、ダルマ)
とが二つの異なるものである。
二つの異なるものが関係を持つということは、まさにプラパンチャという言葉の意味するところである。
竜樹は反対論者に対し、
今歩かれつつあるところ(基体、ダルミン)
が成立するためには、
「ひとつの歩くこと」が必要であり、
さらに
歩くことがある(ダルマ、属性)
が成り立つために
「第二の歩くこと」が必要である。
しかし、二つの歩くことがあるとは正しくない、と龍樹は言う。
反対論者は、
歩かれつつあるもの
と
歩くこと
の二つを別のものとし、この二つの存在を認めたことから、こういった結果をまねいた。
(意味が分からんぞ!
すでに歩かれたが成立するには歩くことが必要じゃねーか!言葉を話す限り逃れることのできないまあ、あまりに厳密に言葉を分析すると何か変なことが起こるから言葉と現実は完全一致しませんよって言いたいことはわかった)
竜樹の論議は詭弁であるかのように聞こえると思われるが、実際に我々の言葉の持っている矛盾、言葉を話す限り逃れることができない運命を龍樹はついた。
言葉の持つ矛盾とは言葉が主語と述語に分かれていることだ。
言葉が主語と述語に分かれているのか、
もともと一つのものとしてあった意味を主語と述語という形で切り開いているのかさえ、
今も不明なまま。
命題が成り立つためには二つ以上の項が必要。
竜樹はこれら言葉の広がりがプラパンチャでありこれがある限り世界があり、
世界がある限り救いはないと考えた。
第二章の結論は、歩くことも歩く人も歩かれるところも存しない
と述べる。ゆえにすべては空というのが龍樹の言外の意味だろう。
このような論法は、ものは不生不滅であるゆえに空の中には生老病死もなく、
五構成要素(色受想行識)もないというものであり、般若心経でも見られる。
ではすべてのものが無であり悟りも教えも全く存在しないのだろうか。
竜樹は最高真理においては空であるが、
世俗的真理ではすべてのものがありうると主張。
つまり空性はよみがえる。
縁起は空性であり空性は仮説であることを意味する。
竜樹は言葉を否定して空性に至るまでの過程に中論の九割を当てている。
空性に至った人が仮説としてよみがえる世界についてはほとんど述べられておらず、
それらはのちに唯識学派の人々により論議されていく。
アビダルマ仏教は世界は存在し因果関係で成り立つと考えた。
しかしアビダルマでも業と煩悩を止滅させる修行体形を有しており、
否定を繰り返し、厳しい戒律を守りつつ瞑想を行い、業や煩悩を止滅させる限りにおいては、空思想の人々と同様であった。
しかしアビダルマ仏教では世界、特に世界の構成要素としての原子は無になる必要はなかった。
つまり原子は否定の手を免れた。
では空の思想はどうしてすべてをないとしたのか。
竜樹は業と煩悩は分別、すなわち概念作用から生じると考えた。
概念作用はプラパンチャから生じる。
よってプラパンチャを止滅させると概念作用がなくなり、
概念作用が亡くなることで業や煩悩がなくなると言うのが龍樹の言う縁起説。
世界が存在しないと知ることが空の実践の前提条件だった。
このため空思想は徹底した否定作業の必要性を説いた
(これ無意識への影響という縛りからも解放されないといけないからね。
要は言語の世界たる人間世界から離れるってこと。
単に幼児化しても言葉を発しなかったり言語で思考しなくても影響力が残っているならダメってこと)
・原始仏教における無我(非我)の思想が部派仏教にも引き継がれたのであるが、
部派仏教においてはそれ以前に認められていなかった恒常的な世界構成要素が認められた。
すでに述べたように、中観派ではその恒常的な要素の存在があらためて否定された。
仏教では恒常的実体を否定する伝統と、是認する傾向とが存在してきた。
中観派は無自性論者つまりもろもろのものに自性はないと主張する者たちとも呼ばれてきた。
体にも火があって食物を消化すると考えられている。
インドでは眼から火が対象に向って走ると考えられた。
ろうそくにともる火もある。さまざまだが熱さ=熱性はそれらに共通してある。
この暑さこそが火の自性、本性、本質であるとアビダルマ仏教では考えられる。
どうように水の自性は湿性、
地の本性は堅性。
大乗仏教では自性と残りのものとの関係が主要問題。
ヒンドゥー哲学では属性とその基体の関係が極めて重要だったが、
仏教はおおむね唯名論なので属性と基体の間に明確な区別はない。
スヴァバーヴァは自性と訳すよりも自体あるいはそれ自身と訳すほうが適切なことがある。
仏教では属性と基体の区別はほとんど問題とならず、自性と残りのものとの関係が重要。自性以外の残りのものを非自性的諸要素、単に諸要素と呼ぶことにする。
四パターンある。
1 自性と諸要素がともに実在
2 自性と諸要素がともに非存在あるいは非実体的
3 自性は実在ではないが、諸要素は世間的に有効な作用を有する意味で存在
4 自性は実在するが諸要素は非存在あるいは非実在的なもの
(実体 それ以外
○ ○
× ×
× △
○ ×)
部派仏教のアビダルマは1。
この哲学は火の自性である暑さのみならず日の色や形などの諸要素も実体的。
個々の原子に分解されるものは恒常ならざるものである。
原子は勝義有(しょうぎう 究極的存在)、
原子の集積である冷や水は世俗有(せぞくう)と呼ばれ存在が二種に区別されるが、
両者とも実体的なものである。
竜樹にとっては双方とも止滅させられるべきものでこの立場は釈迦の立場に近いと思われる。
竜樹は自性もなくそれ以外の諸要素もないまったき無を究極的真理としたのではなく、
空においてすべての言葉とその対象(戯論)は存在しないが、止滅と導かれたもろもろの存在(縁起せるもの)がよみがえった姿として仮説を認める。
『中論』龍樹は3に近いが2.
彼の後継者の内多くは3.
俗なるものとしての自性を否定するなら2.
聖なるものとしての空性に至って仮説が成立するなら3.
竜樹がアビダルマを批判した後1~2世紀を経ると4が仏教内で徐々に力を得てきた。
自性は宗教的価値を帯びることがしばしばであった。
すなわち自性は常住なる如来蔵(個々人に宿る仏となる可能性)となり、
諸要素は客のように偶然そこに居合わせた非本質な心の汚れ(客塵煩悩)となる。
自性は顕現させられるべき聖なるものであり諸要素は滅せられるべき俗なるものである。
4の代表は如来蔵思想であり、後に仏教タントリズムと深い関係を結び、ヒンドゥー教的要素も有する。
部派仏教の考える自性と残りのものとの関係は1.
竜樹に代表される初期大乗は2.
中期と後期の大乗は3が有力となる。が、如来蔵思想の4も徐々に広まっていった。
・大乗仏教の誕生と殆ど同じくして原始般若経典類が生まれた。
300~350年ごろに般若心経が作られたと推定されている。影響力は計り知れない。、特に日本ではもっとも親しまれている経典といえよう。
・どの時代からスヴァバーヴァに良い、肯定的意味が与えられるようになったのかはよくわからないが、初期般若経、初期中観哲学ではスヴァバーヴァはおおむね、悪い、否定的意味で使われている。
・般若心経の解釈。
五蘊は自性が空である。
インドでは三通りに解釈されてきた。
1五蘊はそれ自体が空である(自体を欠いている)
般若経の空思想の歴史で最も基本的。
五蘊以外のものは空ではないという含みはない。五蘊がそっくり存在しない。
前述の四パターン2.
2五蘊は自性=実体が空であるが五蘊の現象=言説は存在する
インドおよびチベットでは五蘊に関しては五蘊が実体としての自性を有する場合と、
実体としてではないが現象つまり言語活動によって仮にその存在が説かれている場面との二つがあると考えられる。
中観派論者は前者を認めず後者を認める。
ポイントは日常の言語活動および言語の対象としての現象世界の成立。
それらは実体を伴って成立するのではない。
前述の四パターン3.
3現象としての五蘊は自体が空であるが、本質としての空性は実在する
この場合否定さるべきものは現象としての五蘊。
真如(本質)としての空性そのものは否定の対象とはなりえず、実在であり、生、住、滅を離れている。
実在が生、住、滅を離れていることは宗教思想では一般的。
仏教では如来蔵思想と一部のタントラ経典に見られる。
四パターンの4.
(やはり密教はバラモン・ヒンドゥー今日の実体思想が混ざっている。
如来蔵思想はストア派やグノーシスみたいだ。一切衆生悉有仏性思想とも似ている)
インド仏教の空思想では初期は解釈1が有力だったが、時代を下るにつれて解釈2が有力。
・六世紀前半に形式論理学の体系を確立したディグナーガ(陳那、480-540年頃 有相唯識派)。
ディグナーガ論証式あるいは推論式の特質は、あらゆるものの存在を他の物を目印として証明することであった。
論証式の例としては次のものがよく引用される。
主張
あの山に火がある。
理由
煙があるから。
肯定的必然関係と同類例
煙のあるところには火がある。台所におけるように。
否定的必然関係と異類例
火のないところにか無理はない。
湖水の表面におけるように。
この論証式は目前の山から上っている煙を目印(リンガ)としてその山に火のあることを証明しようとしている。
ディグナーガの論理学をはじめとしてインドの論理学では一般にあるところ(場、パクシャ)に存在するものを目印としてその同じ場における他のものの存在を証明するのである。
場におけるあるものの存在が目印によって証明されるとき、そのあるものは証明されるものと呼ばれる。
また目印は推論の原因となるために、因(hetu 原因)とも呼ばれる。
因明(いんみょう)という語は、推論の原因に関する学問(明)すなわち論理学を意味する。
肯定的必然関係とは、
目印があるところには必ず証明されるものがある。という関係。
目印の存する領域は証明されるものの存する領域によって完全に覆われている。
注意すべきことは、ここでは一つの目印の占める領域や一つの証明されるものが占める領域ではなく目印や証明されるものの存する領域が問題となっている。
否定的必然関係とは
証明されるものがないところには目印はないという関係。
目印の存する領域と証明されるもの存する領域は交わらない。
主張
場には証明されるものがある
原因
その場に目印があるから
肯定的必然関係と同類例
目印があるところに証明されるものがある。同類例のように。
否定的必然関係と異類例
証明されるものがないところに目印はない。
異類例のように。
・龍樹によれば世間的真理とは言葉になった教えであり、
最高真理とは言葉を超えたものであった。
・中観派と唯識派(瑜伽行派 Yogācāra ヨーガーチャーラ)を総合した人物がシャーンタラクシタ
であり、
771年、二度目にチベットに入ったとき、彼はチベットの土着的でシャマニズムの強いポン教との論争に打ち勝った。
773年にインドから招いた密教行者パドマサンバヴァと共にサムエ僧院(サムイェー寺)を建立し、そののちまもなく死去。
シャーンタラクシタは臨終に際して、もしもチベット仏教が危機に瀕したならばインドにいる自分の弟子カマラシーラを招くようにとチベット人の弟子に言い残した。
シャーンタラクシタはチベットに導入されたばかりのインド大乗仏教が、チベットで台頭の兆しを見せていた中国大乗仏教と近い将来対決せざるを得ないと見通していた。
チベットに招かれたカマラシーラは中国仏教の摩訶衍(まかえん)を論破し、これにより、
認識論、論理学を重んじるインド大乗仏教の伝統が、チベット王室に正式に導入されることになる。
(シャーンタラクシタ、?-787年頃、寂護。
、パドマサンバヴァ(蓮華生)と並ぶ、事実上のチベット仏教の始祖。
唯識派に近接して行った中観自立論証派(スヴァータントリカ派)
パドマサンバヴァ「蓮華に生じた者」蓮華生、8世紀後半頃。
チベットに密教をもたらした。チベット密教の開祖であり、ニンマ・パ(ニンマ派、漢訳;紅教)の創始者である。「ニンマ・パ」=「古い・宗派」「古派」。チベット仏教における最初の宗派)
シャーンタラクシタは『中観荘厳論』にて
いかなるものも単一の自性を有せず多くの自性も有しない
と述べて中観論者と表明。
後世のチベット人たちはシャーンタラクシタたちの主張した型の仏教を
順に修行階梯を追うことによって悟りに至る(漸悟 ぜんご)仏教と呼び、
中国僧大乗和尚の型の仏教を
修行階梯を順に踏むことには必ずしもこだわらない(頓悟 とんご)仏教と呼んだ。
後者によれば戒律を遵守すること、長期にわたる瞑想の修練、哲学的な理論研究などは悟りを得るために不可欠と言うわけではない。
大乗和尚は心作用を滅することで悟りを得ることができると主張。
彼にとって空性とは視覚、聴覚、思考などのすべての心作用が止滅していることであった。
これとは対照的に、シャーンタラクシタやカマラシーラをはじめとする彼の弟子たちは悟りを得るためには数多の段階を順に追って修行する必要があり、
また空性はそのような不断の修行過程の中でとらえるべきものであって、
単なる心作用の欠如ではないと考えた。
このような階梯を順に踏むことで悟りに至ろうとする考え方はインド後期仏教においても主流であったが、
チベットにおいてはダライ・ラマの学派を開いたツォンカパによって引き継がれ、
チベット仏教の主流として今日に至る。
・七世紀の編纂と考えられている大日経によって仏教タントリズム(密教)が確立されたとすでに述べた。
大日=大日如来は太陽のように光り輝く仏という意味。
経典のタイトルは詳しくは、
大日が悟りを得たのち、衆生のために奇跡(神変)を現して教えを時、大日の聖なる力を衆生に与えた(加持)経。
大日の身体的、言語的、心的活動によってすべての衆生に対して秘密真言などの言葉で教えが示される。
一切智者である大日はすべての無知の薪を焼き、火は尽きない。
智慧の原因は何か根本は何か究極的な境地(究竟くきょう)は何か。
大日如来答えて曰く
「因(原因)は菩提心(すなわち悟りを求める心)であり、
根本は大慈であり、究竟は方便である」
これは大日経を貫くテーマである。
菩提(ボーディ)とは自分の心を正しくありのままに知ること
であり、
菩提には自性がないと述べる。
この経典では心は青でもなく黄でもなく、短くもなく長くもなく、光でもなく闇でもない。
このように心の色や形は捉えることができない。
虚空の自性そのままが心の自性(本質)であり、心の自性そのままが菩提の自性である。
大日経では心の本質そのものが菩提であると考えられている。
もっとも心は恒常不変の実体ではない。
心は色や形を 持たないのもので、あらゆる差別を超えたもので、世意味で事象を有しともかくも存する。
その心の自性は清浄であり、うちにもなく外にもなく、中間にもない。
大日経では自性が中立あるいは良い意味で使われるケースがすこぶる多い。
仏の智慧は大悲つまり他者の苦しみを取り除くことを根本すなわち動機としている。
悟りは他者のためのもの。仏の智慧の究極的なありかたは、自らが悟りの中に一人住むのではなく、
さまざまな他者にあわせてその際に最も適切な「手段(方便)として用いられる。
タントリズムが求めたのは言葉の止滅した境地よりもむしろその境地を経験した後にそれが現実世界でどのように生かされるかである。
・大乗仏教の空思想は2~3世紀の竜樹が確立。
竜樹は世界は縁起の法則で成立したと考えこの思想はブッダ以降仏教の基本思想。
六世紀ごろ、中観派に二つの流れが生まれた。
後世のチベット人は、
帰謬論証派テンギュルパと自立論証派ランギュパと呼んだ。
前者は空性は言葉とは隔絶しているが、
後者では空性は論証で語れると考えた。
・空性を実在しする傾向はチベット仏教でもいくつかの学派で顕著となった。
中国と日本密教でも空性はインドよりも実在性を増している。
要は時代が下るにつれて空の肯定的側面が強調されつつ、空性が実在視される傾向が強まった。
・唯識では認識にイメージ(形相)がある限り、
その認識を誤っていると考える。
認識の対象も主観も、ともに現れたもの(顕現)だと考える。
認識の中に現れる誤ったイメージをなくしていって、
認識作用を光に変えようとするのが唯識の実践。
目指す境地は認識の中のすべてのイメージがなくなり、
光のみの状態に至ること。
中観派がどのような判断も成立しないと主張するのに比べて、
唯識は認識がやがて光になる際の素材だと考えるので認識作用のすべてを否定しようとはしない。
しかし唯識は客観および主観の実在性を否定するという伝統は守る。
・チベットではサキャ派と並んで密教的色彩の濃い宗教であるカギュ派がよく知られている。
開祖マルパはネパール、インドに出かけ、密教行者マイトリーパについたといわれる。
カギュ派は、ものの本質(法性)は生じたり滅したりしないものであり、最高真理は不変だと考えるので、
恒常不変なる根本の存在を認めている。
また、サキャ派と同様に、心は空性であり、
さらに最高真理は光として現れてくると考えられている。
サキャとカギュでは空性自体が一種の実体とみなされる傾向がより顕著にみられる。
カギュの分派としてカルマ派があり、
カルマ派はさらに黒帽派と赤帽派に分かれた。
黒帽派の第三世座主であるランチュン・ドルジェの著作では
心は認識作用(照)と空とが融合したものと考えており、
ヨーガという手段でか汚れなき法身を体得できるように誓願を立てている。
非本質的なものである心の汚れを浄化するならば無垢の法身が体得されるというのは、
明らかに如来蔵思想であり、先述の四パターンの4.
つまり無垢なる法身は恒常不変の自性に相当する。
カギュと如来蔵思想の結びつきをさらに強めたのは、
カルマ黒帽派第八番座主ミキョ・ドルジェである。
彼は中観思想を他空説の立場で解釈しようとした。
他空説では如来蔵と同一視された自性は否定されず、
煩悩などの如来蔵よりも他のもの、
すなわち自性より他の残りのものが否定される(空である)。
要するに他空説の他とは自性としての如来蔵より他のもの、
すなわち煩悩などを意味する。
ゲルク派の立場は自空説と言われる。
この自とは自性である。
自空説では空性の働きとしての否定から逃れるものは何もない。
如来蔵思想的な考えは龍樹など初期中観派とは明らかに相容れない。
・ゲルク派の開祖ツォンカパの思想は、後のチベット仏教の方向を決定。
それほど偉大であり、中観思想、特にインドの中観思想家の月称を重視。
インドでは空は一般的に、
般若心経の五構成要素は自性を欠いている
というようにYはX(自性)を欠くと理解された。
が、ツォンカパは、そのように理解せず、
Yは自性として成立していることを欠く
と理解した。
つまり自性(ランシン)を欠くという際の自性が
自性として成立していること
に置き換えられている。
五構成要素(五蘊)が自性(ランシン)として成立していることの無、
それが有体(もろもろのもの、五蘊)の空性である。
この違いは大きい。
つまりインドの一般的理解では、
YはX(自体)を欠いている
(YはX〔自体〕に関して空である)
は最終的にはYもXも存在しないを意味していた。
空性に至ったのちに甦るとしても、一度は両者とも無になると。
しかしツォンカパはY(五構成要素)は自性として成立していることを欠いているのであって、
自性として成立していないYはその存在が許されている。
彼にとって自性とはものの本質(法性)をいうのであって、その存在が肯定されるべき何ものかである。
現象世界や輪廻の世界を超えた涅槃が、すべて現実的に有効だという意味で存在が認められる。
・中国仏教の歴史
伝えられたのは紀元一世紀、後漢の時代。
チベットに伝えられる数世紀も前のこと。
四つの時期に分けられる。
1伝来時代
紀元一世紀、後漢(紀元25~220)
から西晋(紀元265~316)
2定着
五胡十六国(紀元316~439)
から南北朝(紀元420~581)
まで
3成熟
隋唐時代(紀元581~907)
4民衆浸透
宋朝(紀元960~1279)以降。
インドのマウリア朝(紀元前321~188)の時代にはすでに中国の西隣の西域地方に仏教が伝えられていた。
第二期で仏教は一般に流布していったのであるが、当時の人々が仏教に求めたのは呪術的な機能。
呪術は宗教と同様に聖なるものと俗なるものとの区別を意識。
宗教では目的達成のために行為に自己否定を伴うことがほとんどだが、
呪術では自己否定を伴うことは少ない。
中国仏教第二期では仏教僧もすでに中国にあった呪術的儀礼と仏教徒を結びつけ。
除災、病気治癒といった現世利益の側面を強めていった。
中論を訳した鳩摩羅什(344~413または350~409)や
自らインドに出かけた法顕(339頃~420頃)などが活躍したのもこの時期であり、
第二期は中国仏教が開花する次の第三期の準備期間であったと言うことができよう。
3期の隋唐時代で仏典翻訳にとどまらず中国人の仏教を確立された。
隋(581~618)の時代にはインド中観派の伝統を受け継ぐ三論宗、
さらには中論と法華経思想を統合した 天台宗が発展。
唐(618~907)時代には
インドの唯識の伝統を受け継ぐ法相宗や、
華厳経の伝統を踏まえた華厳宗、禅宗、浄土教、さらには密教が勢力を得た。
智顗(ちぎ、538-597) が開いた天台教学と、
賢首(げんじゅ)大師法蔵が完成した華厳教学は中国人の思惟による仏教思想であった。
第三期では呪術的要素はそれほど強くはなく、厳しい禁欲的修練が前提。
戒律を守り自己を律し世俗的名誉を得ることを自ら放棄と言った自己否定が重視。
自己否定は空思想に基づく。
天台宗などでは空という側面が主要であり、空なるがままにものとして表れる面も主張されるが、焦点は前者。
対して密教では空なるがままに現象が成立するつまり既に聖化された世界にいる側面に焦点があっている。
なお中国の密教は唐が滅ぶと勢力を失ってしまった。
(やっぱり最初は現世利益でないと広まらないよねえ)
・天台仏教の核心である一心三観は、開祖の慧文が読み取ったものだが、
第三祖の智顗(ちぎ、538-597) に伝えられた。
中論に述べられる一心三観思想をみていく。
中論
どのようなものであれ縁起なるものを、
われわれはそれを空性と呼ぶ。
それは仮説(言葉によって仮に述べた存在)であり、
また中道である。
三観=空、仮、中。
一心=現在体験しつつある瞬間瞬間の在り方。
この心とは精神生理的な意味での心ではなく、
一人ひとりが生きているあり方そのものを指す。
天台宗では空、仮、中は三つの真理(三諦)といわれ、この三つの真理を述べているかの中論の偈は三諦の偈と呼ばれてきた。
天台宗では三諦円融という表現がしばしばみられ、空仮中は別個ではなく互いに融合しているという意味。
第三句の「それ」は後世の注釈家の意見だと多くは空性だとしている。
が天台宗では縁起を指すとする。
つまり縁起は空性であり仮説であり中道だと考えられた。
(代名詞はできるだけ使わないようにしましょう)
仮説あるいは仮設と訳されたサンスクリットの
ウパーダーヤ・プラジュニャプティである。
ウパーダーヤ=対象を自分の方に引き寄せて。
プラジュニャプティ=他者にしらしめるための標識。
したがって、合わせて、
対象は実在しないのであるが、それを概念作用に引き寄せて構成し、他者に知らしめる標識として用いられた言葉
を意味する。
要するに現象世界を知らしめるために仮に用いられた言葉。
龍樹の中論の仮説は空性に至った仏が凡夫を導くための言葉あるいは教えなので、
空性体験を既に得た後の状態を指しているのであって迷いの世界の凡夫の心の状態ではない。
仮説とは仏が凡夫たちを導くための方便として言葉を用いて仮に現象世界を知らしめている、というのが龍樹の意図だと思われる。
竜樹の中(マドゥヤマ)とは元来は中間を意味する。
竜樹の言う中道は左右の中間とか激しい動きと停止の中間という王なあり方ではない。
中程度の状態をすすめる個所は中論のどこにもない。
中論の中道とは、
言葉を超えた空性を悟ったものが、その体験を言葉によって語りながら他者を導く場面をいう。
仮説とは悟った者の言語表現であり、
中道とは仮説を働かせる場面なのである。
しかし天台宗の
仮=悟ったものが語る言葉や見る現象世界のみでなく、凡夫の言葉や見た世界も含む。
天台宗の空は無というより根本という意味のほうが強い。
空=さまざまなもの形や働きがそこから現れて来る根本でありものの元は存する。
空に至るならばそれぞれのものはその形や働きを鎮めて根本の空に帰入する。
その根本を智顗(ちぎ、538-597) は如という言葉で説明。
如=もろもろのものの本然のすがた。
無というよりはむしろ有。
天台宗の中=空と仮の調和。
根元としての空と、そこから現れてきた現象としての借りが矛盾することなく成立してしている状態。
竜樹では仮説と中道はほとんど同じ。
が天台宗は違う。
空から働きや形が現れるときに仮となり、
形や働きが隠れるならば空といい、
この両方が融和している事実を中という。
天台宗で三諦円融は仮のまま空、空のまま仮、仮のまま中
という意味。
天台宗ではすべての経典は釈迦が一代で解いたと考えられ、悟りを得たのちの涅槃に至るまでの布教生活を五つの時期に分ける。
本当の自分=実在しない嘘。×自分 ○環境から染み付いた癖。
— 山田ひろし雅号@平成歌詠み人ww (@yhgagou) 2017年2月18日
自分なんて存在しない。「癖」=偏り、習慣、傾向のみが存在する。 - 読めないニックネーム(再開版) https://t.co/JFj0dAXLVo
・華厳経は初期大乗仏典の一つであり、
一と多、特殊と普遍、現象と本質といった一般に存在すると考えられている区別が究極的立場においてはすべて円融していると述べている。
根源的な何者かの存在を認めており、その根源的な何ものかが場面に応じてさまざまなすがたを表わすと考えているところでは天台宗と共通。
天台宗や華厳宗では空性はある種の実体あるいは根源とみなされるようになった。
・法蔵の般若心経の注釈。
1色不異空
2空不異色
3色即是空
4空即是色
第四句。
自である空が否定されて他である色が成立する
これを注釈して、
空、隠れる也
という。
空が隠れてすなわち否定されて色が表面に出て来る。
第三句では、
他である色が眠るすなわち隠れる一方、自としての空が現れる。
第一と第二句は自と他つまり空と色がともに成立する場面を語っていると法蔵は考える。
自と他がともに眠る場面は般若心経には直接述べられていないが言外に意図されておりそれが究極的な場面だと彼は考える。
隠れるとか眠ると言う表現に注目。
彼が空も色もある根源的存在の様態を考えていたことを示す。
彼のみならず華厳経一般では、空と色が相反するものであるかのように見えるが、
その相反する姿を見せる根源的なものの存在が許されている。
この根源的なものは法界と呼ばれる。
法=もろもろのもの。
界=本質。
法界という言葉はもろもろのものが有する本質を意味するのではなく、
もろもろのものに他ならない本質を意味する。
基体としてのものに基体とは異なった本質が存するというのではなく、
基体とその上に存する本質あるいは属性の区別がほとんどないインド型唯名論の考え方を見ることができる。
属性や運動などが存する基体の存在が認められている。
空や色が隠れたり現れたりする根底存在が認められている。
法界という根底はもろもろのことである。
空や色の背後に姿を見せずに世界と離れて存在する実在ではない。
生じたり消滅したりしている眼前の諸々の者が華厳哲学の考える法界。
それは誕生や消滅の基体。かつ聖なるもの。
消滅の基体で聖なるものとはヒンドゥー教の神と同じではないか。
このかぎりにおいては華厳宗はヒンドゥー神学と似ていると言わざるを得ない。
法蔵にとってものはともかくも生ずるものである。
華厳仏教ではものの生ずることがともかくもなくてはならないと考えられた。
竜樹は因果関係そのものを否定しようとしていたのであるが、
華厳では原因結果関係を守ることで空を主張しようとした。
・禅宗の、心も悟りもなく本来無一物思想には、
二種類の極端に走る危険性がある。
1 何物も存在しないことを強調する原理主義的否定的態度。
2 現前の世界は既に完成し円満なる世界なのでいかなる宗教実践も不要とする楽天的態度。
この極端にはしる禅僧も存在した。
ボーディダルマや慧能が歩もうとした道は、どちらの極端にも陥らず、
しかも身体があるとか心があるとかを問題にすることもなく、
塵を払うための時間もなく、
何の囚われもなく無心でいるといったあり方と思われる。
心に塵がある
という表現を用いたとたん、この言葉はその心から遠ざけてしまう。
心に塵がという言葉が用いられた瞬間に、
われわれは心、塵、あるものに他のものが存在することなど複数の項と、
それらの間の関係によって形作られる構造体を考える。
しかし複数項や関係で組み立てられた複合体に関わればかかわるほど我々はものの本当の姿を見ることはできない。
少なくとも禅宗の人々はそのように考えた。
ものの本当の姿を見る為、
それになるため
厳密にはものであるためには言葉からできるだけ離れなければならない。
それになるという言葉も不要。
それのみで十分。
それという言葉を発するのに必要な時間はものから遠く引きはなしてしまう。
ではどうするのか。
あるとかないと言った判断をせず、
ものの名前を呼ぶこともせず、
心という観念を持つこともせず、
静かに息づく。
それが禅宗の求める空。
禅の求める境地は決して精神の弛緩した無緊張状態ではない。
本来無一物という。
しかし禅宗はインドの中観思想家のような空あるいは無を求めていなかったように思われる。
つまり心とか塵とか呼ぶこともできないのは、
心や塵がまったく存在しないからなのではなくて、
反対に言葉を用いてそれらに呼びかける必要のないほどに近くにそれらのものは存在しているからなのである。
われわれはそれの存在に押しつぶされて生きている。
というよりもわれわれはそれらの存在ものものなのである。
そしてそれらの存在は否定さるべき俗なるものとしての世界ではなく、
その存在が肯定される聖なる世界だと考えたのである。
・日本仏教で最も重要な人物は、厩戸皇子つまり聖徳太子であり、高句麗の僧である慧慈が師匠。
『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)の著者。
この三部作はいずれも中国の注釈書に基づいたものであり、太子を中心としたグループが帰化僧慧慈たちの力を借りて食ったものだろう。
(高句麗の坊さんが師匠なのが重要。百済ではない。
聖徳太子は実在せず誰かがモデルなのだろうけど、重要なのは仏教の注釈書が早くも作られていて、内容が中国のとかなりかぶっていること。
『三経義疏』は、聖徳太子によって著されたとされる『法華義疏』・『勝鬘経義疏』・『維摩経義疏』の総称である。それぞれ『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の三経の注釈書(義疏・注疏)。
『法華義疏』は梁の法雲(476年 - 529年)による注釈書『法華義記』と7割同文ってほとんど同じ。
『勝鬘経義疏』は敦煌出土の『勝鬘経義疏本義』と7割同文。
『維摩経義疏』は梁の吉蔵(549年 - 623年)の『維摩経義疏』や敦煌出土の『維摩経義記』と類似。
『三経義疏』はいずれもこれら6世紀前半ごろの中国の書物と相並ぶものとなるが先行するものはそれまで日本にはなく、この後にこの種の書が日本で著されるまでに長い空白があるのは不自然であるという指摘は、古くからあったらしく、偽書かもね。
禁欲が重要な仏教。
日本は仏教時代が長かったけどセックスには肯定的。
おっぱいの大きさを気にするのは欧米の性。
江戸までは一重まぶたで切れ長の女性礼賛でおっぱいは性的シンボルではなかった!今の日本人の性観念は完全に欧米!性観念の変化について。『江戸の閨房術』。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-203.htmlの記事をあげましたが、
別に性道徳を完全に江戸時代に戻せとまでは言っていませんし、
あなたの性道徳の源泉はキリスト教圏ですよって自覚してほしいから書きました。
村手 さとし @mkmogura
東国=北朝=高句麗・・・西国=南朝=百済=田布施町
そのうち、有料化してブログ書くのでよろしく。神道のことといい、自分しか到達できないことをやるので、楽しみにしてて。ちなみに白村江以降、日本の支配に深く関わったのは新羅ではなく高句麗です。えじ!
新羅勢力が日本にきて勢力を作ったというのに、俺は懐疑的。白村江の難民としてくる理由もなかったし、ブログに書いたけどわずかな奴らも途絶えてるし。
もしいたなら、北南朝、東国西国、高句麗百済で綺麗に分かれないから。
ささゆき(ささゆき) @sasayuki102 6月20日
聖徳太子の師匠、慧慈。聖徳太子に仏教を指南した高句麗の僧。信頼関係は厚く、伊予湯岡碑には「慧慈と温泉に来ました」的なことが書いてあるそうです。めっちゃ仲良し。
また慧慈は聖徳太子が没した際に「同じ日に浄土に会う」と宣言して聖徳太子が没した一年後に亡くなったとか。師弟…関係?
何故当時の流行最先端の随ではなく高句麗僧だったかというと、随のお坊さんは剃髪しなかったり娶ったりしていたそうです。真面目に仏教国として頑張ってる高句麗の留学僧が良いよね!ということで慧慈が来日した(諸説あります間違ってたらごめんなさい)
Shu ENKZN @silverfaxx 2016年6月5日
「若き日の聖徳に、いちばん大きな、内面的な影響を与えた人としては、高句麗僧の慧慈(えじ)を思う。……聖徳四十二歳のときに帰国するまで、じつに二十年間、彼は、この慧慈を師と仰ぐとともに、無二の友としたのであった/上原和『斑鳩の白い道のうえに 聖徳太子論』1975」
Shinya Watanabe 渡辺真也 @curatorshinya 2015年2月23日
聖徳太子に仏教を教えたのは、百済博士「慧慈」(百済へ亡命した高句麗僧)だったが、もしかしたらこの時に高句麗道教が百済的なものとして日本に紹介されたのかもしれない。)
・『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』はどれも煩悩を止滅させること、
すなわち否定的禁欲的な生活態度を人々にすすめている教典ではなく、
仏教啓典の中では現世肯定的な態度を強く打ち出したものであった。
このような在家的態度が後の日本仏教でも支配的となった。
南都六宗の宗=仏教研究の科目。
『法華経』はすべての生きとし生けるものが仏となりうるとある。
この考え方は、
すべての生類に仏性があるとする如来蔵思想と区別されるべきであるが、
すべての生類が仏となることが可能であると言うかぎりにおいて如来蔵思想と共通。
如来蔵思想では仏性という浄なるものと煩悩などの不浄なるものとの区別がはっきりしているのであるが、
法華経では浄と不浄の区別がなくいわばすべてが浄。
・最澄の根底が
諸法実相=もろもろの法(ものやこと)がそのまま実相(真実の相=ありかた)そのものである
という思想。
元来、仏教は、現象(諸法)と本質のあいだには根本的区別がないという考え方が基本。
(中論の思想
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E8%AB%96%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3-%E7%AB%8B%E5%B7%9D-%E6%AD%A6%E8%94%B5/dp/4831873438
“龍樹の論理学は、釈尊が重視する現在の瞬間=刹那滅の重要性を論理で理解させること!
著者あとがきに、本書の第1〜2章と第3章の第3〜4節の中の部分が『「空」の構造』第三文明社(レグルス文庫)として出版したとある。そのレビューにも記載したが、ブッダ釈尊の生涯を一言で表現すれば、「上求菩提(自利)、下化衆生(利他)」である。本書の第1章第2節で定義される「俗なるもの」から「聖なるもの」へ向かう第1のベクトル(p.39)は「上求菩提」に対応し、「聖なるもの」から「俗なるもの」へ向かう第2のベクトルは「下化衆生」に対応する。著者の視点の新しさは、上求菩提では止滅すべき「言語的展開(戯論)」が、下化衆生では「聖化された」言語的展開に昇華して実現することを指摘したことである。その具体例が、経律論の三蔵である。
次に、本書の第2章第2節で、著者は『中論』第2章「観去来品」の「已に歩かれた所(已去処)」と「未だ歩かれていない所(未去処)」と「今当に歩かれつつある所(現去処)」を極めて丁寧に論じている(p.127〜)。第2章第3節では、「已去処」と「未去処」が補集合的な配分であることに注目し、これを5タイプ(p.137)に分類して中論頌を整理したことで、『中論』全体の見通しが良くなった。
しかし、その延長線上で「四句分別(テトラレンマ)」を扱う第3章第3節で、大きな間違いを犯したのが残念である。それは、『中論』第1章「観因縁品」第1偈の自・他・自他共・無因を論じる図19(p.253)である。これが間違いを犯した理由は、第2章第2節の図5b(p.130)の導入に原因がある。この図を導入したのは、図19の準備であったと思われるが、「観去来品」の「現去処」の理解を徹底すべきであった。
図19は、本当は「日章旗(日の丸の旗)」の赤円内部を「自」、赤円外部の白地を「他」とし、赤円の円周を「自他共」としなければならないのである。これは『中論』第2章「観去来品」と対比すれば一目瞭然となる。「観去来品」では一次元のB地点が「已去処(A)」と「未去処(非A)」の境界点であり、「Aかつ非A」なのである。これを二次元に拡張したものが図19となるべきであった。「日章旗」は二次元であるが、赤円内部を「已去処」、赤円外部の白地を「未去処」、赤円の円周を「現去処」に対応すると考えるのである。従って、龍樹の論理では第四格が省略された「三句分別(トリレンマ)」が基本になるのである。
さて、赤円の円周である「現去処」とは何か? それは「刹那滅」である。騙し絵のように、ある瞬間には「已去処」が見えて「未去処」が消え、次の瞬間には「未去処」が見えて「已去処」が消えるのである。「刹那滅」だから「空」なのである。
釈尊がヴィパッサナー瞑想で「正念」させたのは、瞬時瞬時(刹那刹那)の記憶である。そうすれば、以前の刹那と現在の刹那の記憶を比較して、今まで気づかなかった習慣となった問題点(著者の表現では、無明と言うべき「俗なるもの」)に気づくのである。その一連の作業を「正定」によって実施するから「四沙門果」の修行が進むのである。それは、著者の言う「自己否定の論理」(p.272)と言うより、「刹那滅以外を否定する論理」なのである。だから、龍樹は釈尊の教法を復活させたことになるのである。”
「空」の構造―『中論』の論理 (レグルス文庫)
https://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E7%A9%BA%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0%E2%80%95%E3%80%8E%E4%B8%AD%E8%AB%96%E3%80%8F%E3%81%AE%E8%AB%96%E7%90%86-%E3%83%AC%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%82%B9%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%AB%8B%E5%B7%9D-%E6%AD%A6%E8%94%B5/dp/4476011691#customerReviews
“龍樹の論理学は、釈尊が重視する現在の瞬間=刹那滅の重要性を論理で理解させること!
ブッダ釈尊の生涯を一言で表現すれば、「上求菩提(自利)、下化衆生(利他)」である。
本書の「俗なるもの」から「聖なるもの」へ向かう第1のベクトル(p.31)は「上求菩提」に対応し、「聖なるもの」から「俗なるもの」へ向かう第2のベクトルは「下化衆生」に対応する。
著者の視点の新しさは、上求菩提では止滅すべき「言語的展開(戯論)」が、下化衆生では「聖化された」言語的展開に昇華して実現するというものである。このことが、釈尊滅後の聖典(仏典)重視の理由である。
(以下略)”
)
“次に「空」という語の意味を考えてみよう。「空」という漢字は、サンスクリットの形容詞「シューニヤ」(sunya 空なるもの)と抽象名詞「シューニヤター」(sunyata 空なること、空性)との両方の訳語として用いられる。抽象名詞である場合は「空性(くうしょう)」と訳す場合も多い。また「シューニヤ」という語はゼロを意味するが、現在のヒンディー語でも「シューニヤ」はゼロの意味に用いられている。
「空」という漢語の意味の一つは、すいているということだ。例えば「今日は電車がすいていた」という。これは客車の乗客が少なかったことをいう。また、「腹がすいた」というときは、腹自体がないのではなくて胃の中にあるべきものがないことをいう。入れ物であるyの中にあるべきxがないのが「空」という漢語の基本的意味なのである。
【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵(講談社学術文庫、2003年)】“
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20100405/p1
「空」の語意
「私」とは属性なのか?~空の思想と唯名論/『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20090201/p1
” ある基体(y)にあるもの(x)が存すると考えられる場合、xをダルマ(dharma 法)とよび、その基体yをダルミン(dharmin 有法〈うほう〉)と呼ぶ。「法」という語にはさまざまな意味がある。掟という意味もあり、義務、正義でもあり、教え、さらにはあらゆるもの、存在をも意味する。一方、哲学的な論議においてダルミン(有法)と対になった場合には、ダルマがそこで存在する基体を意味する。
もう一度白い紙を考えてみよう。この紙には、無色透明ではあるが基体として一つの場があって、その場には白色という属性があり、さらに大きさ、形、匂い、重さといった属性も存すると考えられる。
さて、これらの属性を取り除くことができたと仮定してみよう。白色を取る、匂いを取り除き、重さを取るというようにして、すべての属性を取り除くことができたとしよう。最後に何か残ると考える人もいるだろうし、何も残らないと考える人もいるだろう。
結論的にいって何も残らないという方が仏教的なのである。無色透明ではあるが基体と呼ぶべき何ものかが存在するというのが、バラモン正統派の考え方である。神という基体から白色などの属性を全部取り除いた後にも、目には見えない、匂いもしない、しかし、それがなければ成立しないというような場が残る。何かそのような場なければ、さまざまな性質が集まった現象世界が成立しないだろう、というのばインドのバラモン正統派の考え方である。
【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵〈たちかわ・むさし〉(講談社学術文庫、2003年)以下同】
シャンカラ(バラモン正統派の唯名論を代表する人物、8世紀に活躍し30代で死亡)の思想モデルとして、フルーツゼリーを考えてみよう。ゼリーの中に入っている小さく切られたオレンジ、ピーチ、サクランボなどの「具」は、すべてゼリーの中に閉じ込められている。ゼリーがブラフマンにあたり、オレンジなどが属性にあたる。フルーツの色や形などの現象はゼリーを通して見ることはできる。しかし、ゼリーという基体の外では存在しない。シャンカラによれば現象世界は幻(マーヤー)なのである。幻といっても現象世界が無だというわけではない。それなりの存在性は認められているのであるが、このブラフマンに付随する性質として、このようにわれわれに視覚されるのみだと考えられている。
極めて薄い膜でできた袋があり、その袋の中に水を入れることができたとしよう。この場合、水は自性にあたり、水の入った袋全体は構成要素に当たる。水つまり自性がなくなったときには袋(基体)のみが残るのであるが、この基体はほとんど無に等しい。空とは自性がないことだというのは、袋に入った中味がなく、袋もあるかなきかのものであるゆえに、結局は袋もその中身もないような状態を指しているのである。後ほど見るように、オブラートのように極めて薄い袋とその中の水とは、空思想における基体(y)とその中のもの(あるいは上のもの、x)とに例えることができるのである。
xがyにないという場合、xとyがどういう関係にあたるかということが空思想の核心である。空とは基本的には、xがyにないということであるが、xがないという場合、xの非存在の場所が必要となろう。しかし、空思想ではxの存在すべき場であるyは存在しないという。要するに空思想は「xはyに存在する」という命題を認めないというのである。ということは、「犬に歩くことがある」つまり「犬が歩く」ということも、「花が咲く」ということも、すなわち「あるおのが動作をなす」という命題を認めないことになる。もっともこれは空思想の有する否定的側面なのであって、肯定的側面は、いちど無へと導かれた言葉がよみがえると主張するのであるが、後世には空の意味は変化してきた。少なくとも、中国や日本においては空の思想の力点に変化が見られるのである。何々がないという否定的な側面が強調されるのではなくて、中国や日本では空が肯定的に解釈されて、真理の意味になってしまうのである。
”
846夜『空の思想史』立川武蔵|松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/0846.html
KOKKAこっから
中村元『龍樹』(講談社学術文庫)
龍樹の「空=縁起」(あなたがいるから私がいる。私がいるからあなたがいる)思想
が日本人の潜在意識に流れている。中観派の中核メモ。
中村元『龍樹』(講談社学術文庫)
・仏教の伝統的用語では「空」の思想を「空観」(くうがん)とよぶ。
空観とは、あらゆる事物(一切諸法)が空であり、それぞれのものが固定的な実体を有しない、と観ずる思想である。
空はすでに原始仏教において説かれていたが、大乗仏教初期の『般若経』で発展し、基本的教説となった。
龍樹が空を哲学的・理論的に基礎づけ、大乗仏教の思想を確固たるものとしたので、龍樹は「八宗の祖師」(南都六宗+天台+真言)と呼ばれる。大乗仏教は、みな龍樹から出発した。のちの仏教のいろいろな思想は彼に負うところが非常に多い。
・大乗仏教は、もろもろの事象が相互依存において成立しているという理論によって、空の観念を基礎づけた。
空(くう、梵: śūnyatā〈シューニャター〉、巴: suññatā〈スンニャター〉)
の語源は、「膨れあがった」「うつろな」という意味。膨れあがったものは中がうつろ(空)である。
ゼロはサンスクリット語ではシューニャ。
インド人が発見したゼロは、西記1150年ころにアラビア人を通して西洋に導きいれられた。
・大乗仏教、とくにナーガールジュナ(竜樹)を祖とする中観派の哲学者たちは次のように主張した。
――何ものも真に実在するものではない。あらゆる事物は、見せかけだけの現象にすぎない。その真相は空虚。その本質を「欠いて」いる。シューニャは梵語では「……を欠いている」という意味。
無も実在ではない。あらゆる事物は他のあらゆる事物に条件づけられて起こるのである。
空は無や断滅ではない。
肯定と否定、有と無、常住と断滅というような、二つのものの対立を離れたものである。したがって、空とは、あらゆる事物の依存関係(relationality)にほかならない。
・龍=ナーガ。
樹はアルジュナ(昔の英雄の名)の音写。
龍樹は150-250年ごろの人と推定されている。
・龍樹に関する複数の記録の共通点。
① 南インドと関係。
② バラモン階級の生まれ
③ 博学で特にバラモンの種々の学問を修めた。
④ 一種の錬金術を体得していた。
※インドでは錬金術をシヴァ教の一派の水銀派なるものが昔から行っていた。
この水銀派の開祖をやはりナーガールジュナという。
ナーガールジュナ複数説。
『中論』などの空思想を展開した著者としての、化学(錬金術)の学者としての、など複数のナーガールジュナが考えられる。
・大乗仏教は、上座部仏教を「小乗」であり利己的で独善的だと攻撃した。
大乗仏教は、利他行を強調した。大乗仏教では慈悲の精神に立脚して、生きとし生けるもの(衆生)すべてを苦から救うことを希望する。
・中央インドのマトゥラー市と西北インドのガンダーラ地方とが仏像制作の中心地だった。
マトゥラーではアショーカ王以来のインド国粋美術の伝統に従っているが、
ガンダーラではギリシア美術の影響がいちじるしい。
(釈迦は個人崇拝も偶像崇拝も禁止したのにね。法を説く人を崇め奉るのではなく、法を実践せよと説きました)
・般若経典における空観
すでに原始仏教において、世間は空であると説かれていた。
P.60“「常に心に念じて、〔何ものかを〕アートマン(我)なりと執する見解を破り、世間を空であると観察せよ。そうすれば死を度(わた)るであろう」『スッタニパータ』一一一九”
般若経典ではさらに発展せしめ、大乗仏教の基本的教説とした。
般若経典としては、『大般若波羅蜜多経』、『般若心経』、『金剛(般若)経』、『理趣経』などがある。
われわれは固定的な「法」という観念を懐いてはならない。
一切諸法は空である。
何となれば、一切諸法は他の法に条件づけられて成立しているものであるから、固定的・実体的な本性を有しないものであり、「無自性」であるから、本体をもたないものは空であるといわねばならぬからである。
そうして諸法が空であるならば、本来、空であるはずの煩悩などを断滅するということも、真実には存在しないことになる。かかる理法を体得することが無上正等覚(むじょうしょうとうがく。さとり)である。そのほかに何らかの無上正等覚という別なものは存在しない。
実践はかかる空観に基礎づけられたものでなければならない。
救う者も空、救われる衆生も空、救われて到達する境地も空。
また身相(身体的特徴)をもって仏を見てはならない。
あらゆる相はみな虚妄であり、もろもろの相は相に非ず、と見るならばすなわち如来を見る。
かかる如来には所説(説いている事柄)の教えがない。教えは筏のようなものであり、衆生を導くという目的を達したならば捨て去られる。
かかる実践的認識を 智慧の完成(般若波羅蜜多)と称し、
与える(布施)・
いましめをまもる(持戒)・
たえしのぶ(忍辱)・
つとめはげむ(精進)・
静かに瞑想する(禅定)
という五つの完成と併せて<六つの完成>(六度、六派羅蜜多)と称する。
・在家仏教運動
空観からの論理必然的な結論として、輪廻とニルヴァーナとはそれ自体としては何ら異ならぬものである、と教えられた。
しからばわれわれの現実の日常生活がそのまま理想的境地として現わし出されねばならぬ。
理想の境界はわれわれの迷いの生存を離れては存在しえない。
空の実践としての慈悲行は現実の人間生活を通じて実現される。
この立場を徹底させると、ついに出家生活を否定して在家の世俗生活の中に仏教の理想を実現しようとする宗教運動が起こるに至った。
・『華厳経』の趣意は、現象界の諸事象が相互に密接に連関しているという、いわゆる事事無礙(じじむげ)の法界縁起の説にもとづいて菩薩行を説く。
菩薩の修行には自利と他利との二方面があるが、菩薩にとっては、衆生済度ということが自利であるから自利即他利である。
・浄土教
一部の大乗教徒は現世を穢土であるとして、彼岸の世界に浄土を求めた。
阿閦仏(あしゅくぶつ)の浄土たる東方の妙喜国、弥勒菩薩の浄土である上方の兜率天(とそつてん)などが考えられ、これらの諸仏を信仰することによって来世にはそこに生まれることができると信じたのであるが、後世もっとも影響の大きかったのは阿弥陀仏の浄土である極楽世界の観念である。
阿弥陀仏の信仰は当時の民衆の間に行われ、諸大乗経典の中に現われているが、とくに主要なものは左の浄土三部経(『仏説無量寿経』、『仏説観無量寿経』、『仏説阿弥陀経』)である。
・『法華経』は、とくに有名な鳩摩羅什訳による『妙法蓮華経』によると、
声聞乗(釈尊の教えを聞いて忠実に実践すること)
縁覚乗(ひとりでさとりを開く実践)
菩薩乗(自利利他をめざす大乗の実践)
の三乗が一乗に帰することを、非常に強く主張している。
従来これらの三乗は、一般に別々の教えとみなされていたが、
それは皮相の見解であって、いずれも仏が衆生を導くための方便として
説いたものであり、真実には一乗法あるのみである、という。
種々の教えを成立せしめる根源は、時間的・空間的限定を超えていながらしかもその中に開顕し来る絶対者・諸法実相の理にほかならない。これが久遠の本仏である。世間の一切の天・人は釈迦如来がシャカ族から出家し、修行してさとりを開き、八十歳で入滅したと考えているが、実は釈尊は永遠の昔にさとりを開いて衆生を教化しているのであり、常住不滅である。人間としての釈尊はたんに方便のすがたにほかならない。
・古代インドにおける伝統的保守的仏教(いわゆる小乗仏教)のうちでも代表的な哲学派であった説一切有部(略して「有部」)は中観派を目して「都無論者」(とむ ろんじゃ。一切が無であると主張する論者)と評している。
しかし『中論』はけっして「無」を説いているのではない。『中論』では、有と無との二つの極論(二辺)を排斥している。
ナーガールジュナは「有」を否定するとともに、「有」がない以上、当然「有」と相関関係にある「無」もありえない、と主張する。
さらに有と無を否定する以上、当然事物の常恒性を主張する見解(常見)と事物の断滅を主張する見解(断見)とも排斥している。
『中論』が排斥しているこの断見のほうが虚無論(ニヒリズム)と呼ばれるものであり、現にそういう意を訳している学者もある。
・『法華経』ではただ声聞乗(釈尊の教えを聞いて忠実に実践すること)・
縁覚乗(ひとりでさとりを開く実践)・
菩薩乗(自利利他をめざす大乗の実践)の三乗が一乗に帰することを非常に力強く主張。
従来の三乗は別々とみなされていたが、それは皮相であって、
いずれも仏が衆生を導くための方便として説いたものであり、
真実には一乗法あるのみという。
また、一つの詩句(一偈)を聞いて受持せる者、
否、戯れに砂で塔を造る真似をし、
爪で壁に仏像を書いた幼童でさえも、仏の慈悲に救われる。
仏の慈悲は絶対である、という。
ところで種々の教えが存在意義を有するのはなぜか。
それらは肉身の釈尊の所説ではない。
それらを成立せしめる根源は、
時間的・空間的限定を超えていながらしかもその中に開顕し来る絶対者・諸法実相の理にほかならない。
これが久遠の本仏である。
世間の一切の天・人は釈迦如来がシャカ(釈迦)族から出家し、
修行してさとりを開き、八十歳で入滅したと考えているが、
実は釈尊は永遠の昔にさとりを開いて衆生を教化しているのであり、常住不滅である。
人間としての釈尊はたんに方便のすがたにほかならない。
仏の本性に関するかかる施策を契機として、
その後、仏身論が急速に展開するに至った。
『法華経』の宥和的態度はさらに発展して、
『大薩遮尼乾子所説経』
(だいさつ しゃに けんじ しょせつきょう)や
『大般涅槃経』
(だいはつねはんぎょう)
においては、
仏教以外の異端説にもその存在意義を認めるに至った。
(偈(げ)あるいは 頌 (じゅ)
=詩句。仏教では経典や論書の韻文)
・仏教以外からも、仏教内でさえも中観派は虚無論者だとみなされていた。
説一切有部は中観派を都無(とむ)論者(一切が無だと主張する論者)を評している。
大乗仏教のヨーガ行派からも非難されていた。
『中論』は無も有も説かない。
有がないので相関関係にある無もありえない。
事物の常恒性を主張する見解(常見)も
事物の断滅を主張する見解(断見)も排斥する。
断見が虚無論、ニヒリズムと呼ばれるべきもので、現にそう意訳している学者もある。
『中論』の主要論敵は説一切有部(せついっさいうぶ、梵: Sarv?stiv?din, 巴: Sabbatthiv?da, Sabbatthav?da)。
有部の主張は「一切が有る」。
三世実有(さんぜじつう)、法体恒有(ほったいごうう)。
一切の実有なる法体(法そのもの)が三世において恒有(恒=つねに有る)である。
ダルマ、法の原義はきまり、規範、理法といわれる。
「もの」という意味もある。
説一切有部は縁起によって法の体系を基礎づける立場を捨て、
法を「有り」とみなすことで基礎づけた。
法とは経験的に知覚するものではなく、
したがって自然的存在ではなく、
自然的存在を可能ならしめているありかたである。
自然的存在としてのものは現在一瞬でなくなってしまうが、
われわれの意識において志向されているありかたはけっしてなくならない。
すなわち、「かた」としての純粋の法が先になくて後にあり、
先にあって後になくなることはありえない。
自然的存在は過去未来においては存在しないが、
法は三世において存するという意味であろう。
・『中論』の解説。
第二章の第一詩をみると、
「まず、すでに去ったものは、去らない。また未だ去らないものも
去らない。
さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>
とを離れた<現在去りつつあるもの>も去らない」
「已(すで)に去られた〈時間のみち〉(世路)は去られない。
未だ去られない〈時間のみち〉も去られない」という意味。
「已去」とはすでに去られた
ものであり、すなわち、「行く作用の止まったもの」であるから
作用を離れたものに作用のあるはずはない。
したがって、すでに去られたものが、さらに去られるということは
ありえない。
また「未去」も去らない。
「来去」とは行く作用の未だ生ぜざるものであり、去るという作用をもっていないから。
「未去が去る」は常識的にはわかりやすいかもしれないが、
「去る」とは現在の行く作用と結合していることを意味しているのであり、
両者は全く別なものであるから、
「未来が去る」とは不可能であるという。
さらに、「現在去りつつあるもの(去時)が去る」こともありえない。
現在去りつつあるもの(去時)は已去と未去とを離れてはありえないものであり、
普通に人々は去時なるものが存在すると思っているが、
「現在去りつつあるもの」を追求すれば已去か未去かいずれかに含められてしまう。
(言葉で分けること自体が不可能?)
・ところが已去と未去とが去らないということは誰でも常識的に
理解しうるのであるが、しかし現在の<去りつつあるもの>が
去らないということはいえないはずではないか、という疑問が
起こる。
「去りつつあるもの」というときには、
すでに「去るという作用」と結びついている。
もしも「去りつつあるものが去る」というならば、
その「去りつつあるもの」がさらに「去るはたらき」と結びつくことになる。
それは不合理。
もちろん「去りつつあるものがある」というだけならば、それはさしつかえない。
しかしながら「<現在去りつつあるもの>が去る」とはいえないと主張する。
もしも「去りつつあるものが去る」という主張を成立させるには、
「去りつつあるもの」が「去るはたらき」を有しないものでなければならないが、
このようなことはありえない。
「去りつつあるものが去る」なら、
主語の「去りつつあるもの」の中に含まれている「去」と、
あらたに述語として附加される「去」と二つの<去るはたらき>が
付随することとなる。
<去る主体>と<去るはたらき>とは互いに相い依って
成立しているものであり、<去るはたらき>があるとすれば
必ず<去る主体>が予想される。
故に<去るはたらき>が
二つあるとすると<去る主体>も二つあらねばならぬことになる。
このように全くありうべからざる結論を付随して引き起こすから、
「去りつつあるものが去る」ということはいえないと主張。
上述の論法と似た議論は「中論」のうちの各所に散見する。
吉蔵はこれに「三時門破」または「三世門破」という名を与えている。
どれも「大品般若経」の中の不来不去を註釈するところに
説かれているから、「中論」のこの議論も「般若経」の不来不去を
証明するつもりであったかもしれない。
「中論」は何故に「去りつつあるものが去る」というと二つの
去るはたらきが随伴すると主張するのであろうか。
常識上われわれの理解に苦しむところである。
「去りつつあるものが去る」という命題は「日本人は人である」と
いう命題と同様に何らの矛盾をふくまないではないか。
しかるにこれを不合理であるとしてナーガールジュナが極力
論駁するのは何故であろうか。
竜樹(ナーガールジュナって長すぎ)は
二つの去るはたらきが付随して起こる
という。
彼は「去りつつあるもの」の「去」と、
「去る」の「去」と、意味が異なるとみていたのである。
なぜであるかは中論が法有の立場を相手にしている歴史的連関を考慮するならば、
容易に理解しうる。
法有とは経験的事物としての「もの」が有るという意味ではない。
自然的存在としての「もの」をして、
それぞれの特性において「もの」として有らしめるための「かた」「本質」としての「もの」が有るという意味。
「~であるありかた」が有ると主張する。
エッセンシアをエッセンシアとしてとどめずにより高き領域における
エグジステンシアとして把捉しようという立場。
法有の立場では作用をたんに作用としてみないで、作用を作用と
してあらわし出す「かた」「本質」が形而上学的領域において
実在していると考える。
「去りつつあるもの」もわれわれによって考えられ、また志向
されている「あり方」であるから、たんに意識内容たるに
とどまらず、背後の実在界に根拠を有するものとみなされる。
「去りつつあるものは去る」には、
「去りつつあるもの」という一つの「あり方」という形而上学的実在に関して、
「去る」という述語を附与する判断であらねばならぬ。
ところが法有の立場が、それぞれの「あり方」をそのまま実在とみなすから、
「去りつつあるもの」という「あり方」と、
「去る」という「あり方」とはまったく別のものとされ
去りつつあるものが去る
といえばそれは拡張的判断であり、二つの去るはたらきを含むことになる。
そうだとすると、この二つの去るはたらきを綜合する根拠はいずれに求むべきか。
「あり方そのもの」(法のみ)であり、他のいかなる内容をも拒否している二つの実体がいかにして結合しうるであろうか。
これがナーガールジュナの論点である。
一般に法有の立場に立てば、「去ること」をも実体視せねばならず、
そうだとすると種々に困難が起こるということをナーガールジュナは
強調したのである。
エレアのゼーノーンの論証と比されることがあるが、
竜樹は運動を否定したのではなく法有の立場を攻撃したのであり、
類似を認めることは困難。
・そもそも基本的な態度として、<空>の哲学は定まった教義なる
ものをもっていない。中観派はけっして自らの主張を立てることは
しないという。このことはすでにナーガールジュナの明言した
ところである。
「もしもわたくしに何らかの主張があるならば、
しからば、まさにそのゆえに、わたくしには理論的欠陥が存すること
になるであろう。
しかるにわたくしには主張は存在しない。
まさにそのゆえに、わたくしには理論的欠陥が存在しない」
「中論」の用いる論理は推論ではなくしてプラサンガ(帰謬論法)
である。プラサンガとはけっして自説を主張することではなくて、
論敵にとって願わしからざる結論を導き出すことなのである。
(帰謬論証派の主張をもたずただ対論者の主張の過失を指摘して
空性を論証ってソクラテス方式)
中観派の哲学者たちは、自分たちの立場が論駁されることはありえない、
という確信をいだいていた。 そうして大乗仏教が、(禅を含めて)
神秘的な瞑想を実践しえたのは、そのような思想的な根拠があったから
である。
中国では僧肇(374-414年)が<有>と<無>とが何ものかに
ついて絶対的にまた普遍的に述語されることはありえないと主張した。
龍樹はいわゆる「破邪」の論法によって、当時の諸学派によって
論議されていた種々の哲学的問題を縦横自在に批判したのである。
・不一不異
「去るはたらきなるものが、すなわち去る主体であるというのは正しくない。
また、去る主体が去るはたらきからも異なっているというのも正しくない。」
「もしも去るはたらきなるものが、すなわち去る主体であるならば、
作る主体と作るはたらきとが一体であることになってしまう。」
「また、もし去る<主体>は<去るはたらき>から異なっているとか
分別するならば、<去る主体>がなくても<去るはたらき>が
あることになるであろう、また<去るはたらき>がなくても
<去る主体>があることになるであろう」
「この二つはどうして成立するであろうか」と。 去る主体と
去るはたらきとは成立することはない、という趣意である。
相関関係にある甲と乙の二つの「ありかた」が全く別のものである
ならば両者の間には何らの関係もなく、したがってはたらきも
起こらない。 さらに甲であり乙であるということも不可能となる。
甲であり乙であるといいうるのは両者が内面において連絡している
からである。
故に甲と乙が全然別異であるということはありえない。
「中論」がたんなる実在論を攻撃しているのではなくて、
法有を説く特殊な哲学の根本的立場を攻撃している。
たんなる実在論においては、ここに一人の人が有り、その人が
歩むからその人を<去る主体>といい、歩む作用を抽象して
<去るはたらき>というにすぎないから、両者の一異という
問題は起こらない。
ところが、法有の立場は自然的存在を問題とせず、その「ありかた」
が有る、となすのであるから、一人の人が歩む場合に
「去る」という「ありかた」と「去る主体」という「ありかた」
とを区別して考え、それぞれに実体視せねばならないはずである。
法有の立場を理論的にどこまでも突きつめていけば結局ここまで
到達せねばならない。
しからば両者の一異如何が問題とされることになる。
ナーガールジュナは実にこの点を突いたのである。
したがって、ナーガールジュナは概念を否定したのでもなければ、
概念の矛盾を指摘したのでもない、概念に形而上学的実在性を
付与することを否定した。
このような龍樹さんの批判を「一異門破」(相関関係にある二つの概念は一に非ず異に非ず)と呼ぶ。
・「不断不滅」は仏教徒にとっては絶対の真理である。
しかしながら有部のように、ダルマを独立の実体とみなし、
これが過去現在未来の三世に恒有であるというならば、
著しく集積説に近くなるから、これははたして「不常不滅」を
説いたブッダの思想に忠実であるといいうるのであろうか。
・「中論」はけっして従前の仏教のダルマの体系を否定し破壊したのでは
なくて、法を実有とみなす思想を攻撃したのである。
概念を否定したのではなくて、概念を超越的実在と解する傾向を
排斥した。
西洋中世哲学史における類例を引いてくるならば、実念論(リアリズム)的な
思惟を排斥しているのである。
西洋の学者は経部と中観派とを唯名論者と呼んでいる。
両者が共に概念を超越的実在とみなす傾向に反対しているからである。
・東西における対応は
図式化すると、
実念論 - プラトーン - 説一切有部
実念論に対する反対者-プラトーンに対する反対論- ナーガールジュナ学派
(プラトンと龍樹さんは真逆の思想。
よって大乗仏教はキリスト教にとっての最大の敵の一つ)
・「中論」の目的は、もろもろの事象がお互いに相互依存または
相互限定において成立(相因待)しているということを明らかに
しようとするのである。
すなわち、一つのものと他のものとは互いに相関関係をなして
存在するから、もしもその相関関係を取り去るならば、何ら絶対的な、独立のものを認めることはできない、というのである。
ここで<もの>という場合には、インドの諸哲学学派が想定する
もろもろの形而上学的原理や実体をも意味しうるし、また仏教の
説一切有部が想定する<五位七十五法>の体系のうちの
もろもろのダルマをも含めて意味しうる。
何であってもよいのである。
この<相因待せること>を別の語で「縁起」とよんでいる。
また不常不断は最初期の仏教以来縁起の説明において
常に説かれていたことである。
・「中論」は最初は縁起をもって説き始め、最後も縁起をもって
要約している。
チャンドラキールティの註によれば、「一切のものが縁起せる故に
空であるということが、「中論」全体によって証明されている」という。
・12因縁の1が無明=無知。
8が愛=盲目的衝動。
9が取=執著。
・「中論」の主張する縁起とは相依性(そうえしょう)(相互依存)
の意味であると考えられている。
「行為によって行為主体がある。
その行為主体によって行為
がはたらく。
その他の成立の原因をわれわれは見ない」
「陽炎のような世俗の事物は相依性のみを承認することによって
成立する。
他の理由によっては成立しない。」
自性で成立しない。相依れるがゆえに成立。
・「これがあるとき、かれがあり、これが生ずることから、かれが生ずる」
の解釈。
小乗においては、縁によって起こること、時間的生起関係を
意味すると解されていたこの句が、中観派においては
「あたかも短に対して長があるがごとし」とか、あるいは
「長と短とのごとし」というように全く法と法との論理的
相関関係を意味するものとされるに至った。
長と短が相依ってそれぞれ成立しているように、諸法は相互に
依存することによって成立しているという。
これは法有の立場では絶対にゆるされない。
有部は長と短は互いに相依って成立しているとは考えず、
独立な「長というもの」「短というもの」を認める。
すなわち色境(しききょう。視覚対象)の中の形色(ぎょうしき。目に見えるかたちあるもの)の中に
「長」「短」という法を認め、
「長」「短」という「ありかた」を実体視している。
したがって「長と短とのごとし」という表現はゆるされない。
・相依性、すなわち諸法の相依相関関係を明かすのが実に
「中論」の主要目的であり、そのために種々の論法が用いられ
ている。
浄も不浄もともに自然的存在の「ありかた」であるから、独立に
存在することは不可能である。
古代インド人が問題としていたのは自然的存在の領域では
なくて法の領域である。
浄は不浄によって浄であり、不浄は浄によって不浄である。
自然的存在の領域においては父があって子が生まれるのであるから、
父は能生であり、子は所生である。
ところが「ありかた」としての父と子を問題とすると、そうはいえない。
父は子を生じない間は父ではありえない。
子を生ずることによって
こそ始めて父といいうる。
父と子は互いに相依っているので
あるから、互いに独立な父と子とを考えることはできない。
たとえば認識方法と認識の対象についていえば、「そうしてそれらは
お互いに相依ることによって成立している。
実に認識方法
と認識対象との本性上の成立は存在しない」
(「相互依存しない独立の存在
=自性ある実体」
は実在しないという論証を繰り返していると理解できれば、
中論のほとんどを理解したといえる)
・説一切有部では縁起とは有為法に関してのみ適用。
有部は有為法の外に別に独立に実在する無為法を認める。
無為法に関しては縁起は適用されないのである。
「また有為が成立しないが故にどうして無為が成立するであろうか」という。
有為法が成立しないから無為法も成立しえないという議論は中観派の書のうちにたびたび現れている。
有為法も無自性であり、無為法も無自性であり、両者は
相依相関の関係において成立している。
「中論」は要するに「一切の仏法、皆な是れ因縁の義なり」を
明かしていると説く。
(※有為法=因縁の結合で生じる無常変転するもの。
無為法=因縁の結合で生じない常住不変のもの。
「もの」と書いたが実体視してはいけない。
説一切有部は、有為法と無為法を区別し無常のものには縁起があるとする。
龍樹は有為法と無為法も相依っている関係にあるのですべて縁起が関係すると主張)
・「中論」の主張する縁起が後世中国の
華厳宗の法界縁起の思想と非常に類似。
法界縁起の説においては有為法・無為法を通じて一切法が縁起
していると説く。
中国の華厳宗は一切法が相即円融の関係にあると主張するが
中観派にもその思想が現れている。
チャンドラキールティ
「一によって一切を知り、一によって一切を見る」
「中観派は、一つのものの空性を教示しようと欲しているのと
同様に、一切のものの空性をも教示しようとしているのである。」
一と一切は別なものではない。
極小において極大を認めることができる。
きわめて微小なるものの中に全宇宙の神秘を
見出しうる。
実に「中論」のめざす目的は全体的
連関の建設であった。
(バラモンの梵我一如の影響?)
「中論」の縁起説は華厳宗の思想と根本においてはほとんど
一致するといってよい。
ただ華厳宗のほうが一層複雑な
組織を立てている点が相違するのみである。
(華厳では、この世界の実相は個別具体的な事物が、相互に関係しあい(相即相入)、
無限に重なりあっている(重々無尽の縁起))
中論にあるような表現が原始仏教聖典のうちには見当たらないのに
ジャイナ教の聖典アーヤーランガでは
「一のものを知る人は一切を知る。一切のものを知る人は
一のものを知る」とあるが、中論との歴史的な連絡は今後の研究を待たなくてはいけない。
(※十二因縁=十二縁起=十二有支(うし))
・「中論」の主張する相依性の縁起が「第一義諦」(最高の真理)。
であるとなす説明のあったことは注目を要する。
・「諸法の不生」ということは「般若経」のうちにくりかえし
説かれているところであるが、縁起を不生と解する思想は
最初期の仏教までさかのぼりうる。
ブッダは苦または苦楽あるいは十二支のひとつひとつに
ついて、それが自ら作られたものでもなく、他のものによって
作られたものでもなく、自作にしてもまた他作のものでもなく、
自作にも非ず他作にも非ざる無因生のものでもなく、
実に縁起せるものにほかならぬと説いたという。
したがって縁起が時間的生起の関係を意味するのではないという
思想は最初期の仏教に由来する点もあるということは明瞭である。
・「八不」(はっぷ)
不滅・不生・不断・不常・
不一義・
不異議・不来・不出
「中論」の最初の序の詩句には八種の否定句が述べられている。
これを中国、日本の伝統的教学では「八不」とよんでいる。
嘉祥大師吉蔵は、
「八不は既に是れ衆経の大意にして、此の論の宗旨なり」といって、
「中論」篇の眼目とみなしている。
「中論疏」では、
「八不はただ是れ仏菩薩の本なり」
「八不は即ち是れ三世の諸仏の方等の要経なり」
とさえいわれる。
ナーガールジュナは何故にとくに
の八つのみを選んだのであろうか・・・
ピンガラの註釈には、
「問うて曰く。 諸法は無量なり。(しかるに)何が故ぞ但だこの
八事のみを(論)破するや。 答えて曰く。 法は無量なりといえども、
略して八事を説かば、則ち総じて一切の法を破すとなす」
・無我とは諸法実相(事物の真相)
仏教の伝統的観念である<無我>は、「中論」ではかなり独自の
特徴的な意味に理解されている。
「問うていわく、--真理の特質は何であるか。 どのような
しかたで真理は考察されることになるのであろうか。
答えていわく、--我(アートマン)とわがもの(我所)とを
離れることが、真理の特質なのである。・・・」
「もしも我(アートマン)が(五つの)構成要素(五蘊)で
あるならば、我は生と滅とを有するであろう。 もしも我が
(五)蘊と異なるならば、我は(五)蘊の相をもたぬであろう」
といって、アートマン(我)の観念を否定している。
「<わがもの>という観念を離れ、自我意識を離れたものなるもの
は存在しない。 <わがもの>という観念を離れ、自我意識を
離れたものなるものを見る者は(実は)見ないのである」という。
これは驚異的な発言である。
われわれは平生は我欲に悩まされているから、我欲を離れた
境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地という
ものが別にあると思う人は、実は真理を見ていないのである。
さらに無我とは無自性と同義に解されるに至った。
「無我」の「我」とは「自体」(本体・本質)の意味で
あるという。 したがって無我とは「無自性」の意味であると
されている。
このように無我が諸法実相、空、無自性と同じ意味であるならば、
当然「無我」とは「縁起」の意味に解してさしつかえないのでは
なかろうか。
「もし法(事物)にして衆の縁に因って生ぜば、すなわち
我有ること無し。 五(本の)指に因って拳有れども、
この拳は(それ)自体有ること無きがごとし」
(拳そのものは実在せず、五本指があってこそ拳が実在するのが縁起)
若干の学者の研究によれば、最初期の仏教における「諸法無我」
という説明は結局縁起説と同趣意であると説明されている。
仏教では古来「三法印」ということを説いた。
「三法印」とは「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」を
いうのであり、「一切皆苦」を入れると四法印となる。
「中論」によれば無常なるものは必ず縁起しているし、また
縁起したのではないものは無常ではないというのである。
したがって「中論」は諸行無常を縁起によって基礎づけている
ことが明瞭である。
したがって「中論」は、三法印をことごとく縁起によって
基礎づけていることがわかる。
「中論」が空を説いていることはいうまでもない。
中観派は空性論者と自ら称している。
古来、空は「無」または虚無と解されやすい傾向がある。
当時中観派が虚無論者であるとして他派から盛んに攻撃を受けて
いたということは想像に難くない。
ナーガールジュナは次のように反駁している。
「ここにおいてわれらは答えていう。 --汝は空における効用
(動機)・空(そのもの)および空の意義を知らない。
故に汝はこのように論争するのである」
「無という語の意味は空という語の意味ではない。 しかるに
汝は無という語の意味を空の意味であると妄りに実在視
(増益)してわれわれを非難する。」
空は無ではない。
中観派によれば空性とは縁起の意味であるという。
空とは「縁起せる」という意味であり、不空とは「縁起せざる」
と同義である。
「どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く」
三論宗でも「若し因縁によらば即ち是れ空なり」
従来中国においても、また近代西洋においても、ナーガールジュナは
縁起を否定して空を説いたという解釈がかなり行われているが、
これはかれの原意を得ていないことは明らかである。
しかしこれも無を説いたのではなくて、諸法が自性上無い、
ということを意味するのである。
有を否定して無を主張した
のではなく、実有を否定して無自性を説いたのである。
もろもろの事物(諸法)は無自性であるが故に、現象界の変化
も成立しうると中観派は説明している。
少なくとも中観派以後においては「縁起」(とくに「相互限定」「相互依存」)の意味にほかならないということがわかる。
空といい無自性といっても、ともに「縁起」を意味しているので
ある。
実はあらゆる事象を建設し成立させるものである。
相互限定ということは、二つ以上の連関のあるものが、一方から
他のものに対して否定的にはたらくことである。
相互依存というも、一つのものが、それ自身では成立しえないが
故に他のものの力を持つのであるから、やはりそれ自体のうちに
否定的契機を蔵しているといいうるであろう。
「縁起せるが故に空である。」
縁起が理由であり、空は帰結である。
「縁起せるが故に無自性である」
縁起が理由であり、無自性は帰結である。
「無自性の故に空である」
無自性が理由であり、空は帰結である。
要約すれば、
縁起はつねに理由であり、
空は常に帰結である。
無自性は縁起に対しては帰結であるが、
空に対しては理由である。
自性が、
無自性から空が必然的に導き出される。
「縁起→無自性→空」という論理的基礎づけの順序は定まって
いて、これを逆にすることはできない。
①もろもろの存在は相依って、相互限定に
より成立しているのであるから、
法有の立場において主張する
ようなそれ自体(自性)を想定することはできないということ
が説かれ
②それ自体(自性)が無い
からもろもろの存在は空でなければならぬ。
その中で縁起が根本。
「中論」の帰敬偈において「縁起を説く」と宣言したのも
おのずから明らかであり、そうして「中論」の中心思想は
縁起であるという主張がいよいよもって確かめられることとなる。
・「般若経」がどのような思想的変遷をたどったのか
「八千頌般若」サンスクリット原本についてみるに、第一品
から第七品までは般若空観のたんなる説明と「般若経」護持の
功徳の讃嘆とに終始している。
ところが第八品に至って始めて、「無自性なるが故に空である」
として空観を無自性によって基礎づけようという試みがみられる。
(品(ほん)=経中の編・章。
多くの般若経典の中でも、インド・チベット・中国・日本などの大乗仏教圏に
おいて尊重されてきた『八千頌般若経』は、最古層に属しながらも、内容が
完備した最も基本的な経典)
クマーラジーヴァ訳の「大品般若」によると、最初の属累品
(第六六品)以前をみるに、空観を基礎づけるに当たっては
常に・・・どれも法が自性を欠いているからという意味に
解することができる。
・・・ところが第六六品以後になると、「縁起の故に無自性で
ある」という説明がみられる。
・・その無自性をさらに縁起によって基礎づけている。
従来縁起は辟支仏(びゃくしぶつ)(独覚)に関連して述べられる
ことが多かったのに、ここでは縁起は声聞辟支仏とは無関係な、
菩薩のみの法であるというから、「般若経」の後の部分の作者
は小乗の縁起に対して大乗独自の縁起を十分に意識して主張
していたことが明らかである。
( 【縁覚】 えん‐がく
《(梵)pratyeka-buddhaの訳。辟支仏(びゃくしぶつ)と音写》仏語。
仏の教えによらず十二因縁を観じて理法を悟った者、また飛花落葉
などの無常を観じて悟った者。ともに師によらないため独覚ともいう。
声聞(しょうもん)とともに二乗といい、菩薩(ぼさつ)と区別)
「勝天王般若」についてみるならば、・・・・
あらゆる存在は縁起せるものであるということを強調し、
あらゆる存在は相関的に成立しているから、法の生滅は
実はありえないと説く。
そしてこの「甚深なる縁起」は空と同義であるから、
縁起を観ることによって一切皆空を体得すべきであると
説いている。
論理的基礎づけの順番は
縁起→無自性→空
だが
初期大乗仏教における歴史的発展の順序は
空(およびその同義語)→無自性→縁起
と真逆。
元来空観は仏教の根本思想であり、たんに大乗においてのみこれを
説くのではない。
仏教成立の当初から空の立場は一貫して存続している。
(ブッダのことば」
「自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。 そうすれば死を乗り超えることができるであろう。」)
近年の研究(宇井伯寿博士や西義雄博士)によれば、小乗において
さえも法空が説かれているという。
通常いわれるように小乗は個人存在の空(人空)のみを説いていた
のではなくて、法空をもすでに説いていた。
当時説一切有部などの小乗諸派が法の実有を唱えていたのに対して、
それを攻撃するために特に否定的にひびく「空」という概念を
もちいたのであろう。
ところが「般若経」の始めの部分が成立したころに、反対派の
人々はその主張を聞いて、空を無の意味に解し、空観を虚無論で
あるとして非難するに至ったのであろう。
・・そこで後になると、・・・空の意味を一層明らかにし
誤解を防ぐために、最初期の仏教以来重要であった「縁起」という
語をもってきて、それを「相互限定」「相互依存」の意味に
解して空および無自性とは縁起の意味であると説明するに
至ったのであろう。
「中論」が著されるよりも遥か以前にすでに大乗仏教は空を
説いていたのであるが、空に対して「疑見を生じ」る人が
現れ、「種々の過ちを生ずる」に至ったので、
・・・決して反対者の誤解するような意味ではないということを
「中論」によって闡明したのである。
「中論」は歴史的には、「般若経」の各層を通じてみられるような
空観を基礎づける運動の終わりであるとともに、思想的には
「般若経」理解のための始めである。
・・この運動の最後に位し、新たに中観派を成立せしめるもと
となったのがまさしくこの「中論」である。
ナーガールジュナおよび中観派にとっては、中および中道という
観念がきわめて重要なものである・・・
しかるに、・・・中道という語が「中論」においてはただ一回
出てくるのみである。
「因縁所生の法、我即ち是れ空なりと説く。亦た是れ仮名と為す。
亦た是れ中道の義なり。」
・・・この詩句は中国の天台宗の祖とされる慧文禅師によって
注意されるに至った。
そうして天台宗によってこの詩句は空・仮・中の三諦を示すもの
とされ、「三諦偈」とよばれるようになった。
われわれは空という特殊な原理を考えてはならない。
空というのも仮名(けみょう)であり、空を実体視してはならない。
故に空をさらに空じたところの境地に中道が現れる。
・原文による原意の考察
「亦た是れ仮名と為す」の原文は
「それは仮に設けられたもの(仮名)である」とあり、
チャンドラキールティの註によると「それ」とは空。
空と仮名が同義。
仮名とは詳しく訳せば「縁(よ)って施設せられたこと」である。
車はその車の各部分である車輪などが集まることによって形成されているのであって、
各部分を取り除いたならば、車というものはどこにも認められない。
・中国においては「非有非空の中道」が説かれるが、
チャンドオラキールティの註によれば必ず「非有非無の中道」。
空、仮名、中道は皆縁起の同義語である。
空と無とは厳重に区別する必要があるのに、クマーラジーヴァは
(空)を「無」と訳すこともあったから、「無」と「空」の問題
に関してはクマーラジーヴァ鳩摩羅什の訳を典拠とし議論を立てることは
不可能である。
ナーガールジュナの他の著書について。
「空と縁起と中道とを同一の意義をもったものだと説き給うた、
かの無比なる仏に敬礼し奉る」
といってこの三概念の同義であることを明瞭に断言している。
中国仏教における解釈がインドのもとの
ものと違うということを指摘するのである。
中道の思想はすでに原始仏教聖典のうちにこれを見出すことができる。
純粋に理論的な意味において「中」または「中道」を説いて
いる箇所がある。 「如来は二辺をはなれて中によって法を説く」
といわれている。
苦しみについて、
苦しみが自ら作られたものであることを説くもの
= 常住を執する見解(常見)
= 「一切は有である」思想
= 「霊魂と身体とは同一である」という主張
苦しみが他のものによって作られたことを説くもの
= 断滅を執する見解(断見)
= 「一切は無である」思想
= 「霊魂と身体とは異なっている」という主張
これらは二つの一方的な見解(二辺)である。
上の二つに対して、縁起はどちらでもないから、中道である。
(説一切有部は)「一切が有る」ということを主張したので
あるから、仏教の本来の立場と矛盾することとなる。
したがって・・・なるべくこの矛盾に触れないように、
中道に関しては沈黙を守っている。
中観派は中道を中心問題として扱い、それを縁起の意味で
あるとした。 この点においては中観派は仏教の最初期の
立場に復帰したといいうる。
したがって空は中道と同義であり、有と無との対立を離れて
いることである。 空を無と同一視し有と対立させるのは、
ナーガールジュナの原意に適合していないと思われる。
空とは「縁起せる」という意味であり、不空とは「縁起せざる」
すなわち「実有」の意味である。
仏教の経論の中において有が空と対して使ってある場合には、
「実有」の意味に解してよいと思う。
実有と空とは全く仏教的な概念であるといいうる。
ところがこの空という語は否定的な響きをもつから、インドに
おいても空と中道とを別な概念とみなし、空は無に近い意味
のものと考えられるに至った。
したがって中道も非有非空の意味であるとされた。
さらに、唯識関係の書においてはこの傾向が強く現れている。
そうして中観派にとっては二つの対立的見解を離れているはずの
空がここでは一つの極端説(一辺)とみなされている。
中道が非有非無の意味であるならば、・・・どのような哲学的
意義を有するかを、さらに考察したい。
西洋近世の哲学は、大まかにいえば、自我の自覚に立って
自我を追求する運動の歴史である。
したがって最初の、そして最後の問題は常に主観と客観との対立であった。
ところが仏教は最初から主観と客観との対立を排除した立場にたって、「ありかた」としての種々の法を説いたのであるが、
有部はその法を実有と見なし、中観派はこれを空と説いた。
実に多くの相互に対立した概念に関して中道が説かれている。
故に中道とは一言でいえば非有非無であるが、それを拡大して
いえば、あらゆる対立した一組の概念に関して陳述することが
できる。
「三諦偈」の考察において、・・縁起、空、仮名、中道という四つ
の概念が同義であることを・・・
ヘーゲル流の否定の否定の考えは述べられていない・・・
しかし「中論」においては空見を排斥している箇所がみられる。
「空亦復空」(くうやくぶくう)とはクマーラジーヴァの訳した
青目(ピンガラ)釈において処々に散見する・・
「もしも何か或る不空なるものが存在するならば、空という
或るものが存在するであろう。 しかるに不空なるものは何も
存在しない。 どうして空なるものが存在するであろうか」
「一切の執着を脱せんがために勝者(仏)により空が説かれた。
しかるに人が もしも空見をいだくならば、その人々を
「何ともしようのない人」とよんだのである」
・「空見」は二つある
空は一切の見を滅すことであるにもかかわらず、
その空を有と解すること。
これに反して
空は一切の見を滅すことであるにもかかわらず、その空を
有と解することであり、他にもこのような解釈がみられる。
ところがこれに反して空見とは空を無の意味に解すること、
すなわち「無に執着すること」であると説かれている場合もある。
空見とは、本来非有非無の意味であるべきはずの空を誤解して、
それを有の意味に解するか、また無の意味に解するか、
いずれかで、
普通、空見または空に執着することといわれているのにも、
この二種があるとわかる。
次の「一切皆空」を「一切皆無」と解する説も誤った見解(邪見)
である。
すなわち空そのものは対立を絶しているにもかかわらず、これを対立の
立場において把捉しようというのが空見である。
空見には、空を有と解するものと無と解するものとの
二種類があるのも当然である。
空 対 有無
は
超対立 対 対立
の関係。
空を有無とみなすとともに本来超対立的であるべきはずの空を
対立の立場で把捉しようとすること。
結局、空見とは空という原理を想定する考えであるといえるであろう。
しかるにこの縁起説の真意を体得しないで、空を特殊のもの、
あるいは原理とみなしやすいのが凡夫の立場である。
故に中観派は種々の譬喩を用いて空見に陥ることを警戒している。
薬は病を療すために飲むのであるが、もしも
病が癒えて後にもなお薬が体内にとどまっていて外に出ない
ならば、やはり病を起こすことになるのと同様に、
空は煩悩を滅すために説かれているのにその空に執着する
ならば、かえって目的とは逆な結果を生ずることとなると
いって、「空見に陥るなかれ」と説いている。
要するに空見とは、空が縁起の意味であり、有と無との対立を
絶しているにもかかわらず、これを対立の立場に引き下ろして
考えることである。
「空亦復空」とはこの空見を排斥しているのである。
ヘーゲルは東西の学者によって引き合いにしばしば出されるのであるが、
無限に否定を継続し、正反合の過程を経て究極目的に向かって発展する思想は、
中論に見出すことは困難。
(空を有無という二項対立でとらえる誤りが空見)
当時、空を誤解した人々が非常に多かったということが明らか
であるとともに、中観派が極力空見の排斥に努めたこともわかる。
一切法は無であるが、
しかも有と無を離れているという。
無には二種類ある。
有と対立した無。
その対立を打ち切った無。
無という概念は有という概念を必ず予想し、
それに対立しているから、対立のある無が真の意味の無。
対立を打ち切った無は対立を打ち切ることに仮に命名したしたもの、
つまり不可説であるのに仮に無と名づけたのであり、空と同義。
故に「般若経」の中にたびたびもろもろの事物の無が説かれて
いるけれども、それは対立のうちに終始している凡夫の立場を
脱せしめるために仮に説かれたのであって、空と同義であり、
有と対立した無とは区別する必要がある。
だから「空を説く」ということも実は一つの方便である。
空を絶対視するならば、その瞬間に空は失われてしまうのである。
・「諸法実相」の原語は多数ではあるが、結局は同一の趣意、
すなわち、諸法が互いに相依り相互に限定する関係において
成立している如実相を意味し、「縁起」と同義である。
「他のものによって知られるのではなく、
寂静で、戯論によって戯論されることなく、
分別を離れ、異なったものではない--
これが真理の特質(実相)である」
は
中論の
「戯論が寂滅して幸いである縁起」
と内容的に一致する。
したがって、
諸法実相は「他のものによって知られる
のではなく」であり、すなわち、言語によって表現されえない
ものだ。
なお従来中国、日本の仏教教学においては縁起と諸法実相とは
互いに対立する概念であるかのごとく取り扱われてきたけれども、
その両者は本来同一趣意のものであることは十分留意さる
べきであろう。
・ニルヴァーナという実体を認め、有とみなす有部を排撃するのが中論。
有部では
「煩悩と業と苦しみとの連続のはたらくことを決定的に妨げる
ところの、滅を本質としているものであり、水の流れを妨げる
堰に相当するものである」
説一切有部の教学によると、智慧のはたらきによる滅(択滅無為)
という独立の実体がニルヴァーナを可能ならしめるのである。
これに対して、龍樹(ナーガールジュナ)
もしもニルヴァーナが有(存在するもの)であるならば、ニルヴァーナ
はつくられたもの(有為)となるであろう。 何となれば無為である
有は決して存在しないからである。
しかしこの攻撃が正しいかどうか疑問。
ニルヴァーナも一つの「ありかた」であり、
有部はこれを実体視したのであるから、
ニルヴァーナを有と考えたとしても、その有とは有るもの(das Seiende)の意味であり、
ト・オンの考えに近いであろう。
反して竜樹は有を現実的存在(Existenz)の意味に解して有部を攻撃している。
有部の意味する「有」は(ニルヴァーナに関していえば)、時間的
空間的規定を超越した有であるにもかかわらず、ナーガールジュナ
の意味する「有」は時間的空間的規定を受けている現実的存在
である。
ナーガールジュナ
「もしもニルヴァーナが無であるならば、どうしてその
ニルヴァーナは(他のものに)依らないでありえようか。
何となれば(他のものに)依らないで存在する無は存在しない
からである。」
<無>というからには、何ものかの無なのである。
つまり無は有を前提としている。
無は有に依って施設(せせつ)されている(仮に設定されている)。
形式論理学的立場からいうならば、もしも有でなければ、無で
あることはさしつかえないけれども、相依説の立場に立つ
から一方が否定されるならば他方も否定されねばならないのである。
「師(ブッダ)は生存と非生存とを捨て去ることを説いた。
それ故に「ニルヴァーナは有に非ず、無に非ず」というのが
正しい」
われわれは生存に執著して、妄執によりあくせくしてはならない。
しかしまた非生存(断滅)にとらわれて、人生を捨てて虚無
主義になってはならない、と原始仏教が説いていたことは
事実である。
(説一切有数部の実体視された涅槃(ニルヴァーナ)をゴッドに変えたらまんまインド風キリスト教。
仏教破壊のためにまずは実体思想を完全に否定しない有部に憑依。
有部を徹底的に批判した大乗の中観派の子孫が日本仏教。
『中論』は言葉の限界に挑戦したともいえる。
涅槃と言葉に書くと既にそれが実体思想への足掛かりになってしまう。
結局、偽神秘(言葉と論理で説明できてしまうレベル。スピ信者が崇めているのはこれ)
と本物神秘(本当に言葉と論理で表現不可能なもの。言葉と論理では否定神学~でないでしか語れないもの)の区別をつけたいなら
中論がヒントになる。
中論でわかるのは存在論、存在するとはいかなることかなどを考えないと神秘と偽神秘は区別できない。
存在論的な有無の問題こそが言葉の限界、境界線を示す。
禅宗だとこの世の成立や日常が奇跡であり、私と他者の存在なんて神秘そのものだって思想だが、
これだと俺スゲーできないからスピが嫌う)
・互いに相依って成立している諸事象とニルヴァーナとはどのような
関係にあるのであろうか。
「もしも<五蘊(個人存在を構成する五種の要素)を>取って、
あるいは<因縁に>縁って生死往来する状態が、縁らず取らざる
ときは、これがニルヴァーナであると説かれる」
と説くから、相互に相依って起こっている諸事象が生滅変遷する
のを凡夫の立場からみた場合に、生死往来する状態または輪廻と
名づけるのであり、その本来のすがたの方をみればニルヴァーナ
である。
人が迷っている状態が生死輪廻であり、それを超越した立場
に立つときがニルヴァーナである。
輪廻というのは人が束縛されている状態であり、
解脱とは人が自主的立場を得た状態をいうのである。
両者は区別して考えられやすいけれども、その根底をたずねる
ならば両者は一致している。
この思想は独り中観派のみならず、大乗仏教一般の実践思想
の根柢となっているものである。
ニルヴァーナという独立な境地が実体としてあると考えては
ならない。
ニルヴァーナというものが真に実在すると考えるのは凡夫の
迷妄である。
故に「般若経」においてはニルヴァーナは「夢のごとく」
「幻のごとし」と譬えている。
それと同時に輪廻というものもまた実在するものではない。
諸事物の成立を可能ならしめている相依性を意味する
諸法実相がすなわちニルヴァーナであるとも説かれている。
「諸法実相即ち是れ涅槃なり」
最初期の仏教においては、個人存在を構成する一切の事象が
縁起のことわりに従う如実の相を「真如」とよび、さらに
この真如を<無為>とも称したのであるが、決して無為
という実体を想定したのではないと考えられている。
中観派はその無為という語の原意に復帰して論じている
のであるから、この点からみても空観は最初期の仏教の
或る種の思想を受けついだものであり、或る意味において
正統派であると考えてさしつかえないであろう。
さらにニルヴァーナは空であるとも説かれている。
「空即ニルヴァーナ」といいうるであろう。
・ニルヴァーナは種々に説明されているけれども、その趣旨は
みな同一である。
相依って起こっている諸事象を、無明に束縛されたわれわれ
凡夫の立場から眺めた場合に輪廻とよばれる。
これに反してその同じ諸事象の縁起している如実相を撒見する
ならば、それがそのままニルヴァーナといわれる。
輪廻とニルヴァーナは全くわれわれの立場の如何に帰する
ものであって、それ自体は何ら差別のあるものではない。
われわれ人間は迷いながらも生きている。
そこでニルヴァーナの境地に達したらよいな、と思って、
憧れる。 しかしニルヴァーナという境地はどこにも存在
しないのである。
ニルヴァーナの境地に憧れるということが迷いなのである。
したがって繋縛(けばく)も解脱も真に有るものではない。
一切は無縛無解である。
「もろもろの形成されたものは生滅の性を有するものであって、
縛せられず、解脱しない。
生あるもの(衆生)もそれと
同様に縛せられず、解脱しない。」
という。 ニルヴァーナに入るということを人々は
ややもすれば神秘的に考えやすいが、それはありえない
ことである。
「束縛と解脱とがある」と思うときは束縛であり、「束縛も
なく、解脱もない」とおもうときに解脱がある。
われわれが夜眠れないときに、「眠ろう」「眠ろう」と努めると、
なかなか眠れない。 眠れなくてもよいのだ、と覚悟を決めると、
あっさり眠れるようなものである。
・・・結局各人の体験を通して理解するよりほかに仕方がない
のであろう。
・中論のブッダ論は「一般の仏教徒にとっては
恐ろしくショッキングなものである」と 断ってから始まります。
「中論」においては、ニルヴァーナについて説かれたのと
ほとんど同じことが如来(修行を完成した人)、ブッダに
関しても述べられている。
ナーガールジュナは、「如来は本体の無いものである」といい、
第二二章(如来の考察)において種々の論法をもって
これを説いている。
当時の教義学者たちがブッダの本体を、ああだ、こうだ、と議論
していたのは全部誤っているということになる。
それは教義学を否定することになる。
当時は・・・・美麗細微な仏像が盛んに造られていた。
しかし仏のすがたをとやかくいうのは誤りなのである。
「金剛経」の説くところは徹底している。
ーー身相をもって仏を見てはならない。あらゆる相は
皆虚妄であり、諸の相は相に非ず、と見るならば、
すなわち如来を見る。 かかる如来には所説の教えがない。
教えは筏のようなものである。 衆生を導くという目的を
達したならば捨て去られるーーと。
真実のブッダとは何であるか。
それはわれわれの経験している世界にほかならない。
「如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。
如来は本質をもたない。 この世界もまた本質をもたない」
われわれの経験するこの現象世界がそのままブッダなのである。
これも、一切の事物と如来とは別なものではなく、究極において
一致しているという「般若経」の説を受け継いだものであろう。
「中論」の説くこのような如来は、諸註釈からみると法身
(仏の真実の身体)を意味している。
・・・この如来の法身とは、真如、実際、空などと同じ意味で
あるという。そうしてこれらの諸語は・・・縁起と同一の意味
であるから、・・・縁起の理法そのものを意味するに違いない。
ひとたび縁起の理法すなわち相依性の意義を体得するならば、
凡夫はただちに覚者となり、一切諸法即如来ということが
成立するのである。
諸法の縁起せる如実相を体得した場合に初めて「さとりを
開いたもの」(覚者)といわれるのであるから、「縁起を
見る」ということはきわめて重要な意味を有する。
「縁起を見るものは、すなわち法を見る」の後に、
ときには次に「法を見るものは、すなわち仏を見る」という
句が附加されていることがある。
この縁起の如実相を見る智慧が<明らかな智慧>(般若)である。
「大智度論」においては、諸法実相を知る智慧が
般若波羅蜜であると説明されているが、結局縁起を見る智慧
を意味していることに変わりはない。
般若波羅蜜に関しては古来種々に説明されているけれども、
要するに諸法が互いに相依って起こるという縁起の如実相を
見る(さとる)ところの智慧であるといってさしつかえないであろう。
「この縁起の如実無顛倒なる修習の故に無明(無知)は
断ぜられる」
この般若によって縁起を見るならば、無明が断ぜられる。
十二因縁を説いた後で、「また次に菩薩が無明の体(本質)を
求むるに、即時に是れは明なり。 いわゆる諸法実相を、
名づけた実際(究極の根拠)と為す」
無明とは「諸法実相を解しないこと」である。
無明を断ずるというのは、人間存在の根源への復帰を意味する。
「(十二因縁のもろもろの項目のうちで、)それぞれの(前の)
ものの滅することによって、それぞれの(後の)ものが
生じない。 このようにして、たんなる苦蘊(苦しみの個人存在)
は完全に滅する」
縁起を見ることによって無明が滅することは了解しやすいが、
何故に、無明が滅することによって十二因縁の各項がことごとく
滅することとなるのであろうか。
われわれが自然的存在の領域と法の領域とを区別するならば、
縁起の逆観の説明も相当に理解しうるように思われる。
法の領域においては諸法は相関関係において成立しているもの
であり、その統一関係が縁起と呼ばれる。
その統一関係を体得するならば無明に覆われていた諸事象
が全然別のものとして現れる。
この「縁起を見る」こと、および縁起の逆観はすでに最初期
の仏教において説かれている。
龍樹は、最初期の仏教の
正統な発展を理論的に継承した人ではないか。
(竜樹が原始仏典をどのくらい読んでいたか気になる。
中論が初期仏教をきちんと継承したものなら、
大乗仏教は本来の仏教ではないという大乗非仏教説に対抗できる。
こういうのは「古いほど優れている」カルトになりかねないので注意。
しかし、最初期の釈迦の言説の伝聞を知ることは重要)
・「中論」で、龍樹さんは、「般若経」に説かれている
空の思想を体系化したので、中観派の祖と呼ばれている。
また、日本で八宗の祖と言われているように、後世の大乗仏教に
様々な影響を残している。
中観派の流れ。
龍樹の弟子はアーリヤデーヴァ(提婆)170-270年ころ
「百論」「四百論」などを著した。
ふたたび中観派が活発となるのは五世紀のころになってからであった。
・・このころにブッダパーリタ(仏護 470-540年ころ)と
いう人が現れた。
・・その基本は、そのような主張であれ、それはかならず
誤謬(プラサンガ)に帰着するとし、徹底的な誤謬の指摘を
通じて、存在の空であることを相手にさとらせようとすること
である。
シャーンティデーヴァ(寂天、650-700年ころ)・・・
かれは有名な「さとりの行いへの入門」を著した。
この書は、大乗仏教の求道者にとって奉仕の精神がいかに重要か
を詠じた。
ナーガールジュナの思想の流れは中国にも伝えられた。
それは、クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)の翻訳による
ナーガールジュナの著作「中論」「十二門論」および
アーリヤデーヴァの「百論」にもとづく宗派として成立した。
それは三論宗と呼ばれる。
この派の大成者は嘉祥大師吉蔵(549-623年)である。
嘉祥大師吉蔵(六から七世紀)は安息(パルチア、パルティア)出身だが、
「華厳経」と「法華経」の思想をふまえつつ、中国思想の地盤の上にユニークな思想を展開した。
しかし、唐の中葉ころまでにその力は衰えた。
日本にはナーガールジュナの伝統は、やはり三論宗として伝来した。
それは高句麗出身で、吉蔵の弟子でもあった慧灌が625(推古33)
年に来日して伝えたものである。
(高句麗に注目。
ウマヤドノオウジの師匠も高句麗出身。
今の歴史書は意図的に百済を強調し、高句麗を軽視する。
今の天皇が百済重視だから)
(三論宗の三論とは、『中論』『十二門論』『百論』の3つなので、
中論思想なのは当然。
日本への伝来には、下記の3系統があるらしい。
625年(推古33年)に高句麗の僧の慧灌が伝えた元興寺流。
智蔵(慧灌の弟子、呉出身)が入唐して伝えた法隆寺の空宗。
718年(養老2年)、道慈(智蔵の弟子)が伝えた大安寺流。)
「中論」や「大智度論」などをもととして、空・仮・中の
三諦円融、一心三観にはじまる教理を持つ天台宗ーー智顗によって
大成されたーーもナーガールジュナの思想にもとづくといえよう。
ナーガールジュナの著した「十住毘婆沙論」の浄土教関係の
部分は、後世の浄土教の重要なささえとなり、
またさらに密教も「華厳経」などの影響を受けてはいるが、
ナーガールジュナの思想の延長の上に位置づけることも
できよう。
大乗仏教の<空>の思想を理論づけたナーガールジュナおよび
その後の中観派の思想は、<世界思想史>を「古代思想」
「普遍思想」「中世思想」「近代思想」の四段階ととらえた
ときに、<中世>に位置づけられる。
ここで<中世>というのは、ほぼ普遍的宗教の興起したのち、
近代的思惟の始まるまでの時期をいう。
西洋でいえば、ほぼキリスト教が興起し、ローマの古代帝国が
崩壊し、教権の支配が確立し、のちに宗教改革が起こるまでの
時期をいう。
まず聖典が定められ、それが権威をもって後の時代に伝え
られた。 それが註解され説明されて、神学・教義学が
成立し、中世の主流となった。
・・・釈迦が紀元前5世紀ごろの人、中論を書いた龍樹は
紀元後2世紀ごろの人、その考え方はインドで始まり、それが
数百年の時を経て6世紀ごろ中国に伝わり、7世紀に日本に
伝来。
実体を否定する<空>の思想に対して西洋では全面的な
実体否定論はなかなか現われなかった。
ラッセルの<実体>批判は注目すべきである。
かれは西洋で長年月にわたって優勢であったアリストテレース
の<実体>の概念を手きびしく批判していう、
・・・かれは<実体>という観念は成立しえないというので
ある。 この議論はナーガールジュナやアーリヤデーヴァの
実体批判にちょうど対応するものである。
諸法実相の異名である実際。
(実際も仏教用語か!
熟語は高確率で漢籍か仏典由来。
当時文字の読み書きができる人が読んでいる本が漢籍と仏典だから当然)
インドでリグヴェーダ以来、ことウパニシャッドにおいて絶対者は否定的にのみ把捉されうると説いてきた。
これはとくに般若経典が説く。
中論でも明言される。
究極の実体は概念作用をもって把捉することができないという
見解は、非常に古く・・・
新プラトーン派およびグノーシス派の思想形態、・・・
またそれらがキリスト教的な形態をとったものとして
オリゲネースやディオニシウス・アレオパギタなどの諸著作
・・・後者の「神秘神学」は「般若心経」のキリスト教版
であるとさえいわれている。
(ディオニシウス・アレオパギタは
「5世紀ごろの(おそらく)シリアの神学者。」)
究極の原理としての<空>に対応する思想を、古代中国にも
見出すことができる。 老子はいう。
「道はつねに何事もしない。だが、それによってなされないことはない」
・・・仏教が中国に移入されたころの指導者は、
「空」と「虚無」とを同一視して考えていた。
中観派の哲学者たちは現象世界における変化を否定して、
真理は言語では表現できないものであるという理論を述べた。
しかし道教の徒は必ずしもそれと同じ教説を述べなかった。
・・・<道>を<無>なりとして言及しているが、・・・
「無」が何を意味するかということについて、明らかに
説明することをしなかった・・・
しかし他の註解によると「何もないこと」の意に解せられて
いる。 ・・・ゆえに道は無であるから・・・
否定の否定ー無立場の立場
ナーガールジュナは・・・・すなわち否定そのものが
否定されねばならないのである。 ・・一般に大乗仏教では
否定の否定を説く(「空亦復空(くうやくぷくう)」。
もしも<空>というものが存在しないのであるならば、
<空>はもはや<空>ではありえないことになる。
この観念を継承して、中国の天台宗は、三重の真理
(三諦)が融和するものであるという原理をその基本的
教義として述べた。
(空諦)、(仮諦)、(中諦)、・・存在するいかなる
事物もこの三つの視点から観察されねばならない、と説く。
(天台宗については こちら:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97
「中国の天台宗は、隋の天台智者大師、智顗(ちぎ)(538年-597年)
を実質的な開祖とする大乗仏教の宗派である。」
「慧文は、龍樹による大智度論と中論に依って「一心三観」の
仏理を無師独悟したとされる。それが、慧思を介して智顗に継承された。」
(日本の天台宗は)
「初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍が
日本に入った。次いで、伝教大師最澄(さいちょう、767年-822年)が
延暦24年(805年)唐に渡り天台山にのぼり、天台教学を受けて翌年
(806年)帰国し伝えたのが日本における天台宗のはじまりである。」
日本主要仏教宗派はすべて天台宗の分派)
このような否定の論理をもてあそんだ人々は、実践に関しては
一切の執著やこだわりを離れることを生活目標としていたらしい。
そして、古代インドでも空の論者は虚無論者とかニヒリストだとか
問題にされたらしい、それに対して大乗仏教徒は何と答えたかと
いうと:
<空>の教義は虚無論を説くのではない。 そうではなくて
「空」はあらゆるものを成立せしめる原理であると考えられた。
それは究極の境地であるとともに実践を基礎づけるものである
と考えられた・・・・
・・空の中には何ものも存在しない。 しかも、あらゆるもの
がその中から出て来るのである。 それは鏡のようなものである。
宗教的な直観智による認識は、鏡が対象を映すことに
たとえられる。 ・・・大乗仏教、とくに唯識説では、
われわれの存在の究極原理であるアーラヤ識が転ぜられて
得られる智を大円鏡説と呼んでいる。
・・・「空」の真の特質は「何もないこと」であると同時に、
存在の充実である。 それはあらゆる現象を成立せしめる
基底である。 ・・・空を体得する人は、生命と力にみたされ
一切の生きとし生けるものに対する慈悲をいだくことになる。
慈悲とは、<空>--あらゆるものを抱擁することーー
の、実践面における同義語である。
われわれが空を体得すると、善き行いがおのずから現れてくる。
空の実践は闊達な境地に立って行われる。
こだわるところがない。 この点で虚空を自由に飛翔するという
譬喩がしばしば用いられる。
菩薩は無量無数無辺の衆生を済度するが、しかし自分が衆生を
済度するのだ、と思ったならば、それは真実の菩薩ではない。
かれにとったは、救う者も空であり、救われる衆生も空であり、
救われて到達する境地も空である。
(当時のヒンドゥー教の)「バガヴァッド・ギーター」では
無執著の行為ということを強調する。 これこれの行為をすれば、
これこれの良い報いがある、というようなことを考えないで、
執著を離れて行動せよというのである。
これに類する思想は西洋ではパウロによって説かれている。
ロイスブルークは「神を見る人」についていったーー
「かれの精神は未分であり、区別をもっていない。 それ故に
一体のほかには何ものをも感じないのである」と。
この観念は大乗仏教における<無分別智>(区別することのない
知識)に対応するものであろう。
人間の行動の基本的な徳としての<慈悲ー愛>と絶対者の
<知識>とが実質的には同じものであるという見解は
必ずしも仏教だけに限られたものではなかった。
東西のあいだに対応関係がみられるけれども、西洋においては
否定神学や神秘主義は何といっても付随的なものであり傍流に
すぎなかったが、東アジア・南アジアにおいては、少なくとも
教義的には主流となっていた。
空観のような思想は、・・・東洋では大乗仏教を通じて
一般化した(浄土真宗の教学といえども、空の理論を基礎と
している。少なくとも教義の上では表面的には基本思想と
みなされていたのである)。
メモはこのサイトが私のメモとかぶりまくりだったので途中からこのサイトのメモの引用と改変が多い。
その47(最終) 中村元著「龍樹」ー 「空」は鏡のようなもの? 慈悲?
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/01/post-5ce9.html
その48(まとめと感想) 中村元著「龍樹」: 般若心経の「空」とは何か
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/02/post-3882.html
その18 中村元著「龍樹」ー 中論の「空の論理」とは何か。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/12/post-c4ee.html
このシリーズをセットで読むとわかりやすい。
その23 中村元著「龍樹」ー 一見独断的で、詭弁のようなんだけど・・・
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/12/post-83f2.html
その28 中村元著「龍樹」ー 縁起といっても いろいろあるでよ・・・
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/12/post-fa12.html
その29 中村元著「龍樹」ー 縁起は 時間的生起関係か、相互依存なのか
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/01/post-60a1.html
・
みづはし @the_tenth_art 2015年8月9日
デカルトは意識は松果体にあると言った。これは何でも物事を区分けして考えようとするアリストテレス以来の西洋哲学の悪癖。インド哲学では、ミリンダ王の問いに見られるように一つ一つに分解せずに物事を総体として見る考えがあった。車を車たらしめているのは車輪でも座席でもない。全体が車なのだ。
T-T @TT32768 2010年10月1日
大乗仏教の「ミリンダ王の問い」では「車輪、イス、その他、どれが車か?」と問われ「どれも車ではない」と答え「手、足、体、どれが私か?」と問われ「どれも私ではない」と答え、「ならば私とは何か?」「それらの集まりだ」つまり「すべての名は「仮」のものだ」とする。多一論もそういうものか。
蒼穹のカウパー @shiomura_kojin 1月20日
ミリンダ王の問い、開幕から「坊さん(偉い)がミリンダ王の前世にゴミを捨てるよう命令するも無視したので殴られ、異常に怯えながらゴミを捨てる」だったので腹を抱えて笑ってる。
ミリンダ王の問いに代表される空
http://libpsy.com/mirinda-kuu/4054/
”この世に存在するものは全て実体はない。
すべて因縁によって存在するようになったのが「空」です。
つまり『色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき)』(この世界の森羅万象は空で、しかも森羅万象は空から発生する)のです。
(…)
この理解が難解至極のために、ヨーロッパの学者からも、仏教内でさえも仏教は「ニヒリズム(虚無主義)、無神論、否定主義」などと批判された歴史があります。
(…)
西洋の論理の伝統であるアリストテレス論理(形式論理学)以来の実在論によれば、有か無かどちらかしかないのです。
しかし、ナーガールジュナが著(あら)わしたインド大乗仏教中観派における空の理論の「空観」。そして彼の代表著作の「中論」。
これらでは「有」とともに「無」をも否定しています。
ここに分かりやすい日本の事例をいくつか挙げておきます。
●江戸時代前期の臨済宗の僧の至道無難(しどうぶなん:1603~1673)は
「草木国土、悉皆成仏」(仮名法語)と歌っています。
『草木も 国土もさらに なかりけり ほとけといふも なおなかりける』
ここでは「仏はいない」と仏教僧が公然と言っています。
●浄土宗の開祖の法然(1133~1212)も「空」が難解すぎて全く理解できず、臨済宗の開祖の栄西(1141~1215)に仏について質問しました。その際に栄西は、
『仏などいない、いるのは狸と狐ばかりである』
と言いました。
●キリスト教の宣教師が、江戸時代に日本に来た時に日本の僧侶が仏像を拝むのを見て、
「仏なんかは塵芥(ちくありた:チリ、ゴミ)だ」と僧を批判しました。
キリスト教では愚像崇拝はいけないことだ、と頭から決め込んでいるのです。
しかし、僧は『仰るとおり、仏など塵(ゴミ)に過ぎない』と言って一喝したというエピソードがあります。
「神はあるか?」と問われれば、(ギリシャのアリストテレスの)形式論理学で言えば「ある」「ない」の二つしかない。
キリスト教やイスラム教では「ある」と答えないと信者にはなれない。
「ない」と答えれば無神論者になる。
しかし仏教では「仏はない」「仏なんぞ塵芥(ゴミ)にすぎない」と答えても立派に仏教徒でありうる。
●愚管抄の著者の慈円(1155~1225)は、
『ひきよせて むすべば柴の 庵にて とくればもとの 野はらなりけり』
と歌っています。これも「空」の歌です。
庵(いおり)とは草木で結んで作った質素な小屋のことで、僧や世捨て人が仮住まいとしていたものです。庵は「建築する」のではなく「結ぶ」と言ったのです。その辺の柴をかき寄せてて結んで作って庵、もし結び目を解いてしまえばそこには何もない。
結べば庵はある。結び目を解けば庵はない。
したがって、あるといえばあるし、ないといえばない。
庵はもともと存在しなかった。が、空(非実在性)は実在を生み出す。
結びさえすれば庵ができる。
庵は存在せず「無」。柴を結んで「有」になる(=空即是色)。結びを解けば庵はなくなる(=色即是空)。
●豊臣秀吉の辞世の句では、
『露(つゆ)と落ち 露と消えぬる わが身かな 浪華(なにわ)のことは 夢のまた夢』
と歌われました。夢とは実在ではないが、夢を見ているときは確かに存在していると思っている。秀吉は貧しい農家で生まれ、足軽、侍大将、摂政関白にまでなったことは現実のことなのか、夢ではいけないのか、現実と思うことが誤りではないのか。すべては仮説ではないのか。
・・空と唯識に対しての大変深い理解をうかがえます。
●織田信長が好んで舞った、能の「敦盛(あつもり)」の、
『人間(じんかん)五十年 下天のうちに比べれば 夢幻のごとくなり』
・・これも空とも考えられます。
●戦国大名の大内義隆(1507~1551)が家臣の陶晴腎(1521~1522)に襲われて殺された折りの辞世の句
『討つものも 討たるるものも もろともに 如露亦如電(にょろやくにょでん) 応作如是観(おうさぜにょぜかん)』
討つ側(陶側)と討たれる側(義隆ら)も、露が落ちるように、また、稲光が一瞬の閃光とともに消え去るように、変転果てしが無いこの世の万物の理である。それは、仏が種々に実身を変幻し、他の容を示現する作業と同じことであろう。私は、これらの事を、ありのままに観じ、自己を捨て去ろう。
・・これも同じく空です。
龍樹(ナーガールジュナ)の空の理論を、
古代ギリシャ哲学のアリストテレスの形式論理学を超えたという意味で
『超論理学』と呼びます。
こう呼ばれるのに至ったにも、西方の形式論理学と、東方の超論理学が正面対決したエピソードがあります。
それが「ミリンダ王の問い」(中村元、早島鏡正・訳)です。
ミリンダ王は、凄まじい権力者で哲学教養も豊かでな人物で、紀元前160~140年頃にインドへ侵入してパキスタンを首府にインドを統合しました。
その際に、ミリンダ王は、インドの真の知的優越者ナーガセーナ長老に会いました。
ここで形式論理学(ミリンダ王)vs 超論理学(ナーガセーナ)のバトルが行われました。
この議論の最後に、ミリンダ王は「空」を悟ります。
ナーガセーナ「王よ、あなたが車でここまでやってきたのなら、何が車であるか告げてください。軸ですか?車輪ですか?車体ですか?」
ミリンダ王「どれも違う。」
王は、ナーガセーナの問いに全て「否」と答えた。
ではそこに車はないのか、そこに存在する車は何なのか。名前だけのものか。
ミリンダ王「軸に縁って、車体に縁って、「車」という名前が起こるのです」
ナーガセーナ「そうです。王よ。あなたは車を正しく理解されました。私自身も、形に縁って、感受作用に縁って、表象作用に縁って、形成作用に縁って、識別作用に縁って、ナーガセーナという名前が起こるのであります。そこで人格的個体は存在しないのです。」
ミリンダ王は、実念論(realism リアリズム:普遍的に概念が実在している立場)だけでなく、
文字色唯名論(nominalist ノミナリスト:存在するのは個々のものだけ、普遍的なものは便宜上の名前に過ぎないという者)も克服しました。
この「車の譬(たと)え」は、昔から人々に愛好されたストーリーで仏教入門として最良のものです。
このように車を車輪などのいくつかの構成部分に分解して、車という実体はないと観ずる説明を「析空観(しやつくうがん)」と言い小乗仏教の説く空です。
対して大乗仏教では、ものの存在そのものを空であると見なします。
小乗は、空のみを見て不空を見ないから「但空(たんくう)」で、
大乗は、一切の事物を空であると見なしながら、同時に空でない面も見るから「不但空(ふたんくう)」=中道空(ちゅうどくう)なのです。
”
『ミリンダ王の問い』(Milinda Pañha, ミリンダ・パンハ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%80%E7%8E%8B%E3%81%AE%E5%95%8F%E3%81%84
『ミリンダ王の問い』
http://hishikai.exblog.jp/8109223/
インド文学・数学・仏教
親としてのインド思想
西洋思想への影響の情報集
http://kawauchi.la.coocan.jp/bukyoeikyo.htm
”わが国では江戸時代のベストセラーかつロングセラーであった『塵劫(じんこう)記』(吉田光由著)に初登場している。これは古くインドの仏典にあり、後、中国の『算法統宗』他各名著に記録され、これがわが国に輸入されたのである。一、十、百、千までは一桁の単位で、万以上は四桁ごとの単位である。
万、億、兆、京、垓、杼、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙(こうがしゃ)、阿憎砥(あぞうぎ)、那由化(なゆた)、不可思議、無量大数[無量(1068)と大数(1072)を別にすることもある]。これらの数詞には仏典由来のものが少なくない。
〔使用例〕千載(1047)一遇[各種国語辞典には「千載(千年)に一回しかあえないようなめったにない好機会(chance of a lifetime)」などとしているが、数学では 載年=(1047)年であり、広辞林(三省堂1941版)では千年一遇としていて、千載一遇は載せていない。]
◆小さな数の呼び名
前掲『塵劫記』に、大きな数の呼び名と共に記録されている。このほうは、分が100分の一で、他は一〇分の一単位となっていて、23桁あり、(10-25)になっている。
分、厘、毛、糸、忽、微、繊、沙、塵、埃、渺、漠、模糊(もこ)、逡巡、須庚(しゅゆ)、瞬息、弾指、刹那、六徳、虚、空、清、浄
(→極微→0→涅槃) (→極微→原子論) 〔使用例〕塵埃とか、繊細な神経、または説明が暖昧模糊としている。
虚であり、空であり、清であり、浄であるのは、仏教の涅槃への段階でもある。また極微から原子論への進展もある。
[参考〕比の表し方の一つである歩合では、"割”の単位が”分”の前にある。打率が三割二分五厘とか金利などがそれである。割(ten percent,10のマイナス2乗)は日本独特のもの。
しょう‐じょう【清浄】シヤウジヤウ 清くてけがれのないこと。「―潔白」
〔仏〕悪業の過失や煩悩のけがれをはなれていること。「六根―」(広辞苑)
ごく‐み【極微】〔仏〕(梵語 paramanu) それ以上分割できない物質の最小単位。七つの極微で一微塵を構成し、それらが集まって物質が構成されるとする。極微塵。(広辞苑)
ごくみ<極微>は、梵語パラマーヌ「最も微細な粒子」の訳。あらゆる物質の本質的な構成要素で、見ることも触ることもできないものとされる。現在の原子論は「極微」説に由来するといわれる。(岩本裕著日常仏教語 中公新書288)
(…)
宗教集団としてのピタゴラス派はオリエント風の信仰で、霊を善、肉体を悪とし、霊肉二元論として魂の不死と転生を説く。霊魂の浄化をたんなる祭祀や秘儀にだけでなく、道徳的、政治的活動に、さらに知識の獲得に求めるようにした。霊浄化の手段は純粋の知識の獲得(法門無量誓願学)にテオーリア(静観・理論の意味で、仏教の禅定、仏道無上誓願成)に求められた。
輪廻説のような「東洋的で非ギリシア的な思想」(インドからマケドニア、トラキア起源といわれるオルフェウス教を哲学的に発展させたとされる)はやがてプラトンにもみられるギリシア思想の宗教的潮流となっていく。
(オルフェウス教:レナル・ソレル著、脇本由佳訳、白水社「文庫クセジュ」863)
オルフェウス教は、19世紀以降、墓地の発掘の際に「オルフェウスの金板」が幾つか発見され、それによると、紀元前5~4世紀に遡り、アッテカ(アテナイを含む地域)からシチリア島へ、南イタリアからローマへ伝わったことが証明される。紀元前1~2世紀に宇宙と神々の誕生を説明する新しい説が二つ生まれた。「24の叙事詩からなる聖なる言説」とヒエロニュモスとヘラニコスのものといわれる宇宙誕生譚である。ギリシア各地で「オルフェウスの流れ」が不意に出現してから一千年以上もたった紀元5~6世紀にアテナイとアレキサンドレイアの新プラトン派学者たち(シュリアノス、プロクロス、オリュンピオドス、とくにダマスキオス)が、とりわけオルフェウス教の宇宙と神々の誕生譚に関心を抱くようになり、それを「聖なる書」と見なした。彼等はそれを体系的にプラトンと調和させようと努めることになった。プラトンの著作が一種の神学を伝えると確信していたからだとされる。オルフェウス教の宇宙誕生譚がわたしたちに伝えられるのは、それがギリシア神話に関係づけられるからなのである。そして他方では間接的影響が初期キリスト教に確実に及んだ。聖パウロの神論で、人間の魂はオルフェウス教でいう意味でも、さらにはプラトン的意味でも、「神的なもの」ではない、と断言されていた。オルフェウスは新プラトン派の中心的教義を先取りしていたのだが、その教義を後にキリスト教思想が発展させ、完成することになるのだと説いている。
ピタゴラスの宗教上の意見は輪廻転生の説であり、イタリアのクロトーンにおいて道徳的宗教的教団を組織し、厳格な戒律を布き、宗教的改革家として多大の感化を与えた。(波多野精一著「西洋哲学史要」大日本図書株式会社刊 P34)
釈迦と同時代であり、関係の深さを示す次のような伝説が残っている。
ピタゴラスはシャカと会見し、人間の転生について意見が一致したというギリシアの伝説である。史実は別にして、それほど関係が深かったことに驚いた。
しゃか‐むに【釈迦牟尼】(梵語 ?akyamuni 「牟尼」は聖者の意) 仏教の開祖。その生没年代は、前五六六~四八六年、前四六三~三八三年など諸説がある。インドのヒマラヤ南麓のカピラ城の浄飯王(ジヨウボンノウ)の子。母はマーヤー(摩耶マヤ)。姓はゴータマ(瞿曇クドン)、名はシッダールタ(悉達多)。生老病死の四苦を脱するために、二九歳の時、宮殿を逃れて苦行、三五歳の時、ブッダガヤーの菩提樹下に悟りを得た。その後、マガダ・コーサラなどで法を説き、八○歳でクシナガラに入滅。シャーキヤ‐ムニ。釈尊。釈迦牟尼仏。(広辞苑)
ピタゴラス【Pythagoras】ギリシアの哲学者・数学者・宗教家。サモスに生れ、南イタリアで教団を組織、霊魂の救いを目的とする新宗教を説き、宇宙の調和の原理を数とそれの比例とした。(前570頃 ―)
こんな伝説があるくらいで、仏教思想の影響が大きいと思われ、ギリシア哲学の「アトム」の思想は「極微」によるとされる。(日常仏教語 岩本裕著 中公新書)
(…)
アレクサンドロス大王東征によるヘレニズムと仏教の融合
(アレクサンドロス大王と東西文明の交流展による)
アレクサンドロス大王の東征の後、中央アジア、インド亜大陸では、クシャーン朝下のガンダーラにおいてグレコ・バクトリア・ローマ・インド・イラン式のガンダーラ仏教美術が誕生した。このガンダーラ美術を再読すると、次のように解することができると説いている。神ではないが、「霊魂の導師的存在」であるギリシア神話の中の海獣(ケートス、トリトン)を重視し、それらが仏教の到彼岸=涅槃=極楽往生のエスコートとして用いられ、やがてその役割が釈迦牟尼仏陀に取って代わられ、仏像が創造されたという新しい見解を提示した。また、ディオニュソス神に関係するエロティックな図像も積極的に用いたが、これらが通説とは異なり、到彼岸=涅槃=極楽往生の至福悦楽を具体的に再現している聖画像であったからである。この交流展では、ギリシアの諸神がガンダーラにおいて仏教や天部の直接モデルとなることを図像学的に示していた。例えば「花綱を担うエロスの浮き彫り」(クシャーン朝、2-3世紀、パキスタン、スワート出土)では、花綱はギリシア起源で死者の霊魂を無事にあの世に導くものと考えられ、エロス(アモール)と共にローマ時代の石棺装飾に多用された。これが仏教美術に採り入れられ、ストゥーパの仏伝図を荘厳していた例などが挙げられる。
さらにギリシア神の「ヘルメス」は「大黒天」となって日本に渡り、また「ヘルメス」は「毘沙門天」となって伝わった。「北風ボレアス」は「風神」となり、「ゼウス+雷てい」は「帝釈天」に、「ヘラクレス+棍棒」は「執金剛」「金剛杵」そして「仁王」となり、「テュケ女神」は「訶梨帝母」となり中央アジア原産の石榴を伴って「鬼子母神」となった。「海獣ケートス」はドラゴンに姿を変え、そして龍となって仏教を守護する。また、菩薩像の首飾りによく見られる像であるという。仏塔基壇などを支える「アトラス神」はギリシア神話で天空を支える巨人神であり、肩でストゥーパを支える。ガンダーラで仏教彫刻に採り入れられたギリシア神は、ヘルメス(メルクリウス神で商業の神、体育・教育施設の守護神)、ヘラクレス神(体育・教育施設の守護神)、ディオニュソス神(バッカス神)、ボレアス神(北風神)、テュケ女神(豊穣と都市の守護神)、ニケ神(勝利の神で、ナイキの語源)、ヘパイストウス神(造化・鍛冶の神)、アトラス神(天空を支える巨人神)、ポセイドン神、ニュクス=ノクス女神(夜の神)、エロスなどが上げられている。このようにギリシア神と仏教の融合は極めて深いものがあったのである。
拝火教の影響─弥勒菩薩と東大寺お水取りの火の行法「だったん」
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バクトリア王国 ミリンダ王の問い
アショカ大王の死後統一力を失ったマウリア王朝。 そのため、西北インドはギリシャ王の支配するところとなった。紀元前の2世紀中頃、現在のアフガニスタンのカーブル近郊で生まれたギリシア人のミリンダ(メナンドロス)王は、紀元前2世紀の後半、この西北インドを支配した。王であるとともに偉大な哲人であった彼は次々とインドの哲学者を論破していく。仏教の思想を論破するため当時の仏教教団の指導者の一人であったナーガセーナ長老と対論を始めた。ナーガセーナ長老はインドの仏教界の中で唯一ミリンダ王と対論することが可能であるだろうと思われるインド随一の哲人であった。
あなたは誰か――ミリンダ王の問い (隔月誌『Paramahamsa』27号より)
今よりおよそ二千年以上も昔のこと、古代ギリシアの人々は地中海世界を征服し、その勢いはインドの西北、現在のアフガニスタン、パキスタン辺りにまで及んでいた。そこにギリシア人たちは王国を建て、中でも繁栄を極めたバクトリア王国は、インド内部にまでその版図を広げた。その最盛期に現れたのがメナンドロス王である。メナンドロス――インド名ミリンダ――は実在した王であり、また仏教には、彼に帰せられる『ミリンダ王の問い』なる準聖典が伝えられている。ギリシア人としての哲学的素養からか、ミリンダ王は征服地であるインドの哲人を訪れたいと考えたようである。当地の仏教サンガを率いていた長老ナーガセーナのもとを訪ね、挨拶を交わし、型通り相手の名を問うところから彼の問いは始まる。
「あなたは名を何と言われますか」
「大王よ、私はナーガセーナとして知られています。だがこの『ナーガセーナ』という者、単なる呼び名であり、標識、記号、ただの言葉に過ぎませぬ。人格の実体などは存在しないのです」
王は、これは異なこと、と、そこに居合わせた人々に呼びかけた。
「皆々方、私の言うことを聞かれい。これなる人物ナーガセーナは、ここに人格の実体がないとおっしゃる。さてこんなことを認めてもよいものだろうか」
そしてさらに長老に問うた。
「もしあなたの言われる通りなら、あなたに布施をする者、それを受けて修行する者などはいったい何者でしょうか。戒を破り罰を受ける者とは誰なるや。言われる通りなら、善も悪も、それを行う者も行わせる者もないし、あなたを殺す者にも罪なしとはなりませぬか。あなたは『私はナーガセーナと知られている』と言われるが、その『ナーガセーナ』とはいったい何ですか。頭髪か、肌か、爪か、歯か」
「そうではありません」
「では肉か筋か骨か、腎臓か心臓かそれとも脳髄か」
「そうではありません」
「では肉体、感覚、思い、性格、意識のいずれかですか」
「違います」
「ならば、そういったものとは別に『ナーガセーナ』があるのですか」
「そうではありません」
「何と!私はあなたに問いを重ねながらも、『ナーガセーナ』が何なのか一向に合点まいりませぬ。それは単なる名称に尽きますのか。とはいえ実体なくして名称のみあるはずもない。あなたの言われることは無茶苦茶ですぞ。『ナーガセーナは存在せず』などとは」
長老ナーガセーナはこれに対しこう問い返した。
「大王よ、あなたは今日ここに歩いてこられましたか、それとも車に乗られてか」
「車に乗ってです」
「さらば、あなたは車の何たるかをご存知であろう。私にそれが何かを教えて下さい。それは轅ですか」
「いえ、そうではありませぬ」
「車軸が車だろうか。それとも車輪か、車室か、車台がそれか」
「そうではありませぬ」
「では、軛か綱か鞭か」
「違います」
「ならばそれらを寄せ集めれば車になりますか」
「そういうわけでもありませぬ」
「となれば、それ以外に車なるものがありますか」
「いや、さにあらず」
「大王よ、私は車が何なのか一向に合点できませぬ。それは名称に過ぎぬのか。あなたの言われることは無茶苦茶ですぞ。さてや皆の衆、このような嘘偽りを果たして認めてもよいものだろうか」
この問答を聞くや、ギリシア人たちは長老に歓呼し、王を励まして言った。
「さあ大王様、精一杯弁論して下さいよ!」
ミリンダ王は長老ナーガセーナにこう抗弁した。
「私は嘘偽りなど申してはおりませぬ。『車』というは、轅・車軸・車輪・車室・車台に依存し、呼び名・標識・記号として成り立つものにござる」
ナーガセーナ長老、ここでわが意得たりと、こう言った。
「よくぞ言われた、大王よ。あなたは車の何たるかが分かっておられる。それとまるで同じですぞ。私ナーガセーナとは、頭髪・肌・爪、骨に肉、心臓に脳髄、感覚、思いなど、もろもろに条件的に依存し、呼び名・標識・記号として成り立つ一方、人格の実体ではござりませぬ」
これにはさすがの大王も歓びの声を上げた。
「驚嘆に堪えません、ナーガセーナ殿!まこと鮮やかな問答であります。尊者ブッダがここにおられたなら、さぞお褒めになったでありましょう。ナーガセーナ殿、お見事」
王と長老の問答はこうして始められた。
賢者の論と王者の論
以下は有名な「賢者の論」と「王者の論」について語ったくだりである。
ミリンダ王 「尊者ナーガセーナよ。私とともにまた対論しましょう。」
ナーガセーナ長老 「大王よ。もしもあなたが賢者の論をもって対論なさるのであるならば、私はあなたと対論するでしょう。しかし、大王よ。もしもあなたが王者の論をもって対論なさるのであるならば私はあなたと対論しないでしょう。」
ミリンダ王 「尊者ナーガセーナよ。賢者はどのようにして対論するのですか。」
ナーガセーナ長老 「大王よ。賢者の対論においては、解明がなされ、解説がなされ、批判がなされ、修正がなされ、区別がなされ、細かな区別がなされるけれども、賢者はそれによって怒ることがありません。大王よ。賢者は実にこのように対論するのです。」
ミリンダ王 「尊者よ。また王者はどのようにして対論するのですか。」
ナーガセーナ長老 「大王よ。しかるに実に諸々の王者は対論において1つの事のみを主張する。もしそのことに従わないものがあるならば、『この者に罰を加えよ』と言って、そのものに対する処罰を命令する。大王よ。実に諸々の王者はこのように対論するのです。」
ミリンダ王 「尊者よ。私は賢者の論をもって対論しましょう。王者の論をもって対論しますまい。」
ここにおいて長時間にもわたる「ギリシア思想」対「仏教思想」の問答が開始されたのであった。
①時間の起源とは?
ミリンダ王「過去の時間の起源は何ですか。未来の時間の起源は何ですか。現在の時間の起源は何ですか」
ナーガセーナ長老「過去の時間と未来の時間と現在の時間の起源は、
無明(一切の煩悩の根源)を表している。無明(一切の煩悩の根源)を縁として行(形成力)が生まれ、
形成力を縁として識(認識作用)が生じ、
認識作用を縁として名色(心・精神の有する物)が生じ、
名色を縁として六処(認識領域)が生じ、
認識領域を縁として触(感覚器官による知覚)が生じ、
触を縁として受(感受)が生じ、
感受を縁として愛(迷妄の執念)が生じ、
愛(迷妄の執念)を縁として取(執着)が生じ、
執着を縁として有(生存)が生じ、生存を縁として生(誕生)があり、
誕生を縁として苦(苦しみ)が生じる。
このようにしてこのすべての時間の始源(一切の煩悩の根源)は認識することができない。」
ミリンダ王「尊者ナーガセーナよ、あなたは『始源は認識することができない』と言われましたが、その始源とは何ですか」
ナーガセーナ長老「大王よ、過去の時間がその始源です」
ミリンダ王「尊者ナーガセーナよ、あなたは『始源は認識することができない』と言われましたが、尊者よ、始源はすべて認識できないのですか」
ナーガセーナ長老「大王よ、あるものは認識され、あるものは認識されません」
ミリンダ王「尊者よ、それはいかなるものが認識され、いかなるものが認識されないのですか」
ナーガセーナ長老「大王よ、それよりも以前には全然いかようにも無明(煩悩の根源)が存在しなかったというこの始源は認識されません。しかし以前には存在しなくてもいま生じ、存在してふたたび滅びるというもののこの始源は認識されます」
②輪廻とはなにか?
ミリンダ王「尊者ナーガセナよ、あなたが輪廻と言っているところの、その輪廻とは何ですか」
ナーガセーナ長老「大王よ、この世で生まれたものはこの世で死に、この世で死んだものはあの世に生まれる。あの世で生まれたものはあの世で死に、あの世で死んだものはさらに他所に生まれる。大王よ、このようなものが輪廻です」(77項)
ミリンダ王「尊者ナーガセーナよ、死んでからのち、次の世に生を結ばないものがいますか」
ナーガセーナ長老「ある者は次の世に生を結びますが、ある人は次の世に生を結びません」
ミリンダ王「誰が次の世に生を結び、また誰が次の世に生を結ばないのですか」
ナーガセーナ長老「大王よ、煩悩のある者は次の世に生を結びますが、煩悩のない者は次の世に生を結びません」
ミリンダ王「それでは尊者よ、あなたは次の世に生を結びますか」
ナーガセーナ長老「大王よ、もしも私が執着を持っているなら、次の世に生を結ぶでしょう。またもし執着を持っていなければ、次の世に生を結ばないでしょう」(32項)
長時間にわたりナーガセーナ長老と対論を交わしたミリンダ王は、その後仏教徒になった。
参考書籍:清水書院 森祖道・浪花宣明著「ミリンダ王~仏教に帰依したギリシア人」
東京書籍 中村元著「仏教経典散策」
角川ソフィア文庫 増谷文雄・梅原猛著「仏教の思想 智慧と慈悲」
ギリシア科学のベースとなる分析・総合に、仏典(倶舎論)に見られるような五位七十五法表の分析や解脱の考え方や極微の考えが影響しているのではないかと考えられる(私注)。
アレクサンドロス東征以後で、インド王とギリシア王の交流があったことを示す話が伝えられている。このころ、インド王がギリシアにイチジクと酒と哲学者を注文した際、アンティオコス王は、「イチジクと酒はお送りするが、学者の売買は禁止されていて、できない」と返書したという。
くしゃ‐ろん【倶舎論】(梵語 Abhidharmako?a-bhasya) 三○巻。世親の著。玄奘(ゲンジヨウ)の訳。詳しくは阿毘達磨倶舎論。小乗仏教の教理の集大成である「大毘婆沙論」の綱要書。一切諸法を五位七十五法に分け、迷いと悟りについて詳細に論ずる。仏教の基礎的教学書。倶舎。(広辞苑)
せしん【世親】(梵語 Vasubandhu 旧訳は天親テンジン) 西紀320-400年頃、いまのアフガニスタンのペシヤワル(ガンダーラ)に生まれた北西インドの僧。初め小乗仏教を学び、後に兄無着(ムジヤク)に教化されて大乗に入った。兄と共に唱えた唯識仏教は中観学派と並んでインド大乗仏教の二大系統をなした。著「倶舎論」「唯識二十論」「唯識三十頌」「浄土論」など。世親菩薩。ヴァスバンドゥ。(広辞苑)
ガンダーラ【Gandh ra・健駄羅】パキスタン北西部、ペシャーワル地方の古名。紀元前後より数世紀間にわたって、この地を中心にギリシア美術の影響を受けた仏教芸術が発達。ケンダラ。
「ゼロの発見」(少なくとも前2世紀という)に始まるインド数学の発展は、おそらく、クシャン朝からグプタ朝へと成熟してきたものだろう。その時期は、大乗仏教哲学の形成期でもある。
ゼロの記号を数の記号中に人類が用い始めるまで千年を費やしたという。(カヂヨリ著「数学史講義」一戸直蔵訳 大鐙閣刊 P4)
だいじょう‐ぶっきょう【大乗仏教】‥キヤウ 紀元前後頃からインドに起った改革派の仏教。従来の部派仏教が出家者中心・自利中心であったのを小乗仏教として批判し、それに対し、自分たちを菩薩と呼んで在家者を重視し、利他中心の立場をとった。中国・日本・チベットなどの北方仏教はいずれも大乗仏教の流れを受けている。(広辞苑)
インド哲学の特質について、ホルステッドのように、「空虚な無に対して、単に位置・名称・記号のみでなく、有力な力を与えたのは、その母胎たるインド民族の特質による。それは涅槃を能動力につくりかえたのに似る」などの説もある。インドのゼロを涅槃に結びつけるなら、2世紀からの中国数学における負数を陰陽に結びつ:けることは誰でも思いつくかも知れない。
ギリシア数学が「俗界」を否定し、純粋性を求めたことは、仏教の出家修行の考え方の影響ではないか(私注)。
ギリシア懐疑派の始祖、ピロン(前360-270ごろ)はペロポネソス半島のエリス市の人で、アレクサンドロス大王の軍に従って東方へゆき、インドで行者の苦行をみたという。帰国後エリスで学校を開いた。彼は生の終局目標を心の平静(アタラキシア)におき、このためすべての判断をやめること「判断中止」(Pyrrhonism)を説いた。これは仏教の「無分別」と酷似する。(玉井茂著「西洋哲学史 上」青木書房 P145)
あらや‐しき【阿頼耶識】〔仏〕(梵語 alaya-vijnana) 人間存在の根底をなす意識の流れ。経験を蓄積して個性を形成し、またすべての心的活動のよりどころとなる。唯識派で説く。八識の中の第八識。旧訳(クヤク)では阿梨耶識。略して阿頼耶・頼耶・阿梨耶・梨耶とも。
*インド科学の歴史には、グプタの後の時代に、現在まだ知られていないギャップがあるが、これは遠からず埋められるものと期待される。それは大部分インド半島の発展だったように思われる。平野は蛮族の侵入にあまりにもさらされていて、その侵入は、同じ時期にヨーロッパをも侵し、そこの概してギリシア、ペルシャ型の文化を破壊し、11世紀のアフガニスタンのガズニー朝のマハムード王の略奪で絶頂に達した。しかし、デカン高原と、そのさらに南方には、諸文化の一大会合地があったように思われる。すなわち、北方と海上からはギリシア―ローマ文化が、やはり海上からアラブとペルシャの文化が、また陸路による仏教の巡礼と海路による商人とによって中国文化が運ばれてきた。これらの刺激を得た以上当然ながら、繁栄と文化的進歩の諸条件の下にあった土着のインド人の才能は、知識の総合を生みだし、今度はそれが初期のイスラム科学を鼓舞することができた。科学への主な寄与は、数学と化学にあったように思われる。数学上の観念は、その形からみて、またその誤りの点ではおそらくなおさら、初期の中国のものを手本にした証拠がみられるが、インド人はパビロニア人の概念をも発展させたらしく思われる。(バナール著「歴史における科学 1 」 P103)
8世紀以降、ギリシアがイスラムと交代する。ギリシア数学を継承したのは、イスラム世界であった。ギリシアが現世から遮断された純粋性の中に体系を見出したのと反対に、イスラム人は課題の密着することで問題解決の技術に数学を見出した。特にインドの記数法とも結びついて、数量的処理が発達した。ピタゴラス的哲学でなく、ありのままの量として数を処理することになった。この思弁的でない「数概念」は成熟していった。負数や無理数に「数」としての権利を獲得させたものは、哲学や体系ではなく、この日常性であったという。
これは、インドでの出家から在家の日常への大乗仏教の広がりが影響していたのではなかろうかと思える(私注)。
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仏教論理学と認識論 (三枝充悳著 「仏教入門」 岩波新書 p201-206)
インドでは仏教誕生以前から対論や論争が実にさかんであり、それが論理学の形成を促した。このことは古代ギリシアと類似し、いわゆる論理学が組織的に研究されてその体系を確立したのは、人類史上ギリシアとインドに限られるといってよい。
その論理学を、仏教では「因(理由命題)にもとづく学」(へートゥヴィトヤー、因明いんみょう)と、インド哲学ではニヤーヤ(正理しょうり)と呼ぶ。
仏教論理学の歴史も古い。二世紀ごろの成立と推定される医学書の『チャラカ本集』、漢訳の残る『方便心論』(ナーガールジュナ著述説もある)、ナーガールジュナ著の『廻諍論えじようろん』といったテクストに、論理学への発言が伝えられ、それらに用いられる諸術語は、後代の仏教論理学にもインド論理学のニヤーヤ学派にも、ほぼそのまま共有される。
仏教論理学は精密な理論体系を誇る唯識説において磨かれ、そのひとりディグナーガ(陣那)が、知識論―認識論とともに樹立する。ディグナーガには『プラマーナ・サムッチャヤ』(知識集成論、『集量論じゅりょうろん』と訳されるチベット訳のみ)の主著のほかに、漢訳の『観所縁論』『掌中論ようちゅうろん』『因明正理門論いんみょうしょうりもんろん』などがある。
ディグナーガは、正しい認識(プラマーナ、量という)の根拠として、直接知覚(プラナィヤクシャ、現量)と推論(アヌマーナ、比量)との二種のみを承認し、直接知覚は分別(判断に相当しよう)を離れていて無内容であるが、それに推論が加わることによって具体的な認識として成立するという(このあたりはカントの感性論と分析論とにおける認識の成立と酷似する)。このように推論が効果(アルタクリヤー)を有することは、日常の経験から確認される(この点でアプリオリ…先天的、またトランスツェンデンタール=先験的〔超越論的〕を説くカントから離れる。ただしカントも弁証論では、対象との接触を欠いた理性は仮象を生むという)。
さらにディグナーガは、
推論を「自分のため(スヴァ・アルタ)の推論」と
「他人のため(パラ.アルタ)の推論」とに二分して、その認識論を進め、以後この二種の推論を論証に用いつつ、かれの最大の功績である論理学の確立に向かう(この「他人のための推論」を弁証論と名づける現在の専門家もいるが、それは少なくともカントのいうディアレクテイクとはかなり異なる)。かれはまた、認識の対象を個別(スヴア・ラクシャナ、自相)と普遍(サーマーニャ・ラクシヤナ、共相ぐうそう)とに分け、認識にさいしては両者がかかわると説く。ただし普遍は一種の観念的な存在(分別の所産)にすぎず、独立の個別がただ一回かぎりの刹那ごとに直接の認識の対象となるのであり、存在ではなくて、「他者の排除」を内容とすることを主張する。この排除(アポーハ、離)の話とその応用は、その後の仏教をふくむインド哲学の各学派に重用され、それぞれの認識論のキーワードとして論究される(それはスピノザの説く「否定」がヘーゲルにおいて最重要視された軌跡と類似する)。
ひとこと付加すると、認識の根拠について、上述の直接知覚と推論のほかに、古い資料(たとえぱ『廻諍論えじようろん』など)は「聖典のことば」(アーガマ、聖教量しょうぎょうりょう)と比喩(ウバマーナ、讐喩量)とを加えて四つ(四量)とする。しかし、験伽行派唯識(たとえば『解深密経』、ステイラマティの『唯識三十頒への註釈』)では比喩を除いて三つとし、またディグナーガは「聖典のことば」も推論にふくめて、上述のように二つとする。それは認識の対象が二種(個別と普遍)であることにもとづく。この二根拠(二量)説は、かれ以後の論理学に携わる人々(ダルマキールテイはもとより、バヴイヤなども)に伝えられ、守られた。
ディグナーガの論理学は、推論に関して、理由命題(ヘートゥ、因という)の具えるべき条件を三種として、これを「因の三相」という。その名称のみあげると、遍是宗法性へんぜしゅうほっしよう、同品定有性どうぽんじよううしょう、異品遍無性いほんへんむしょう であり、主として周延しゅうえん関係をいう。また理由命題のあり得る条件を九種あげて、これを九句因(やはり周延に関係して、九種のうち二種のみが正しい因とする)と称する。因の三相はアサンガがすでに説いているが、九句図説はディグナーガの新説とされる。とりわけかれの名は三支作法さんしさほう と呼ばれる新しい推論式の確立によって、インド全体に著名となり、これは新因明しんいんみょう と名づけられる。それはインド論理学(インド正統哲学にあり、またその諸派が採用)の伝統が五つの命題を掲げていた(五分作法ごぷんさほう という)のを、三つの命題(三支)に改革し、かれ以後はインド論理学のすべてに普及した。三支は、宗しゅう(プラナィシュニャー、主張命題。論証されるべきもの)、因いん(へートゥ、理由命題。論証の根拠)、喩ゆ(ドゥリシターンタ、実例。同喩と異喩との二つ)からなる。例はつぎのとおり。
宗……声(音)は無常である
因……(声は)つくられたものであるから
喩……すべてつくられたものは無常である、たえば瓶のように(同喩)。すべて常住のものはつくられたのではない性質をもつ、たとえば虚空のように(異喩)
新因明も因明も論証につねに喩を立てるという特徴があり、その喩は経験にもとづくと考えてよく、その全体は帰納的論理とみなされよう。かれの論理学には、年代不明のシャンカラ・スヴァーミン(商掲羅生しょうからしゅ、天主てんしゅ)の著わした『因明入正理論いんみようにっしようりろん』(玄装訳、サンスクリット本もある)という入門書がある。ディグナーガの論理学は、七世紀のダルマキールティ(法称ほつしよう)によって完成をみる。ダルマキールティの七種の著述がチベットに伝えられるなかで、(1)『正理しょうり一滴論』(『ニヤーヤ・ビンドゥ』、論理学小論)、(2)『量決択りょうけっちゃく』(『プラマーナ・ヴィニシチャヤ』、知識の決定)、(3)『量評釈』(プラマーナ・ヴァールヅティカ、知識批判書)の三部が主著とされ、それぞれ全体または一部にサンスクリット本が発見公刊され、チベット訳は完備する。各本とも諸註釈書があって、同時代にも後代にもいかによく読まれたかが知られる。
ダルマキールティは唯識説によりながら、かなり軽量部きょうりょうぶ に近く、たとえば外界を八識の所産に帰するのではなく、外界の存在は推理されるという。ただし有部うぶ のような外界の素朴実在論的ではなく、外界は推理されるのみと限定する。さらにかれは軽量部の刹那減の説を導入して、対象は刹那減であることを論証し、その意味においては非連続であり、同時にその流れは意識の流れと相応して連続を構想すると主張する。また推論の効果(アルタクリヤー)を重視して、認識の現実性は対象との斉合性であるともいう。
ダルマキールティは認識論にしても、論理学にしても、ほぼすべての問題を網羅し徹底的に論究した。ダルマキールティの全貌解明が現在進められているなかで、かれは仏教論理学を演繹えんえき的ないわゆる三段論法に一新した、と評する専門家もいる。かれの何人かの弟子のうち、デーヴェーンドラブッディなどが知られる。掉尾とうび を飾るかのように、モークシャーカラグプタ(十一―十二世紀)が出て、名著『タルカバーシャー』を著わした。タルカは論理またとくに推論、バーシャーはことばを意味する。この書は、ダルマキールティ説とそれ以後の展開とを、簡潔で内容豊かに紹介し解説して、仏教論理学の最もすぐれた綱要書とされる。
このような諸学問はその後も絶えることなく継承されたが、すでに信者の数も減少し、さらにイスラーム軍による寺院の破壊と出家僧の殺害にみまわれて、その拠点を失い、仏教はインドに衰滅を迎える。
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デカルト【Ren Descartes】フランスの哲学者。近世哲学の祖、解析幾何学の創始者。「明晰判明」を真理の基準とする方法により一切を方法的に疑ったのち、疑いえぬ真理の第一原理として「考える自己」を見いだし、そこから「思惟する精神」と「延長ある物体」とを相互に独立な実体とする二元論の哲学体系を樹立。著「方法序説」「第一哲学についての省察」「哲学原理」「情念論」など。(1596 1650)
スピノザ【Baruch de Spinoza】オランダのユダヤ系哲学者。デカルトの方法をさらに徹底させ純幾何学形式によってその体系を組み上げた。永遠で絶対な自己原因としての神が唯一の実体であり、唯一の存在である(一元論)。すなわち、神即自然(汎神論)。この神の属性中、吾人の認識し得るのは思惟(意識)と延長(拡がり)との二つだけで、世界の万物はこの二属性の諸様態にほかならない。この様態の世界では一切は厳密な必然性に従って生起し、同じく思惟・延長の二様態の合一体としての人間にもまた自由意志というものはあり得ない(決定論)。真の自由は知的観照を通じてこの必然性を「永遠の相の下に」洞察することにあり、これが神に対する知的愛であり、最高の善であるとする。著「エチカ」「知性改善論」「神学政治論」など。(1632 1677) (仏教入門203頁)
ライプニッツのモナッドと仏教
ライプニッツ【Gottfried Wilhelm Leibniz】ドイツの数学者・哲学者・神学者。微積分学の形成者。モナド論ないし予定調和の説によって、哲学上・神学上の対立的見解の調停を試みた。今日の記号論理学の萌芽も示す。近代的アカデミー(学士院)の普及に尽力。主著「形而上学叙説」「単子論」「弁神論」「人間悟性新論」。(1646 1716) (仏教入門182頁)
カントと仏教 (仏教入門202頁)
カント【Immanuel Kant】ドイツの哲学者。ケーニヒスベルク大学教授。科学的認識の成立根拠を吟味し、認識は対象の模写ではなく主観(意識一般)が感覚の所与を秩序づけることによって成立すること(コペルニクス的転回)を主張、超経験的なもの(物自体)は科学的認識の対象ではなく、信仰の対象であるとし、伝統的形而上学を否定し、形而上学を批判的基礎づけの学とした。同様に道徳や美的判断の根拠を明らかにし、文化の諸領域を基礎づけた。著に「純粋理性批判」「実践理性批判」「道徳形而上学原論」「判断力批判」など。(1724 1804)
ヘーゲル (仏教入門203頁)
ヘーゲル【Georg Wilhelm Friedrich Hegel】ドイツ古典哲学の代表者。彼の哲学は自然・歴史・精神の全世界を不断の運動・変化・発展の過程として、その内的連関を明らかにしようとした巨大な試みであり、これを絶対的イデー(宇宙的理性または神)の弁証法的発展として把握した(絶対的観念論)。その弁証法はマルクスにより史的唯物論に基づく歴史の論理として批判的に継承され、キルケゴールやフォイエルバッハ、さらにはサルトルの実存主義などにも影響を与えた。主著「精神現象学」「論理学」「エンチクロペディー」「法律哲学綱要」のほか、死後出版された哲学史・歴史哲学・美学・宗教哲学などの講義がある。(1770 1831)
ヘーゲル‐がくは【―学派】(Hegelianer ドイツ) ヘーゲルの哲学を種々の方向へ発展させた人々。ヘーゲルの死後、学派は、 宗教的には正統派的、哲学的には思弁的、政治的には
保守的な右派(ガプラー・ヴェルダー・グッシェルら)、
無神論的・唯物論的・急進的な左派または青年ヘーゲル学派(シュトラウス・フォイエルバッハ・シュティルナー・マルクスら)、
中間派(ローゼンクランツ W.Rosenkrantz 1821 1874・エルトマン J.E.Erdmann 1805 1892 ら)の三傾向へ分れ、一九世紀末にようやく萎靡(イビ)したが、二○世紀になって各国のヘーゲル学者を一括して新ヘーゲル学派と呼ぶことがある。
ショーペンハウエルと仏教
ショーペンハウアー【Arthur Schopenhauer】ドイツの哲学者。カントの認識論を現象主義的に徹底させて、世界を表象とみなし、その根本原理は生への盲目的意志であり、人間生活においては意志は絶えず他の意志によって阻まれ、生は同時に苦を意味し、この苦を免れるには意志の滅却・諦観以外にないと説いた。主著「意志と表象としての世界」。(1788 1860)
フォイエルバッハ【Feuerbach】 (Paul Johann Anselm von ~) ドイツの刑法学者。犯罪から遠ざけるために心理強制説を主張し、罪刑法定主義を基礎づけ、近代刑法学の父といわれる。著「現行ドイツ普通刑法教科書」。(1775 1833) (Ludwig ~) ドイツの唯物論哲学者。 Ⅰの子。ヘーゲル哲学を批判し、思弁哲学は神学であり神学の秘密は人間学であるという立場から宗教を批判、マルクス・エンゲルスに多大の影響を与えた。著「キリスト教の本質」など。(1804 1872)
キルケゴールの「主体性が心理」と仏教 (仏教入門182頁)
キルケゴール【S ren Kierkegaard】デンマークの思想家。合理主義的なヘーゲル的弁証法に反対し、人生の最深の意味を世界と神、現実と理想、信と知との絶対的対立のうちに見、個的実存を重視、後の実存哲学と弁証法神学とに大きな影響を与えた。著「あれか、これか」「不安の概念」「死に至る病」など。(1813 1855)
ニーチェ【Friedrich Wilhelm Nietzsche】ドイツの哲学者。実存主義の先駆者。キリスト教倫理思想を弱者の奴隷道徳とし、強者の自律的道徳を説き、この道徳の人を「超人」と称し、これを生の根源にある権力意志の権化と見た。また伝統的形而上学を幻の背後世界として否定し、神の死を告げた。著「ツァラトゥストラはかく語りき」「善悪の彼岸」「権力への意志」など。(1844 1900)
(…)
「創世直後、十の三十二乗分の一(10-32)秒の間に、宇宙が十の百乗倍(10100)に一気に膨張した時期があったという理論です。計算によると、この過程で〈子の宇宙〉〈孫の字笛〉という具合に、次々と宇宙が生まれる。互いに行き来はできませんが、理論的には我々のいるこの宇宙以外にも、宇宙は無数にあることになる。最近ではこういう考え方を<ユニバース>になぞらえて、〈マルチバース〉の理論と呼んでいます」
―宇宙がいったん誕生した後の筋道が見えてきたとすると、今度は「宇宙の始まり」そのものがナゾになってきますね。
「そこが長い間、ビッグバン宇宙論の問題点でした。時間をさかのぽっていくと宇宙が膨張し始めるポイントがある。そこでは宇宙の物質が一点に集まって密度が無限大になる。そこは現在の物理理論が適用できない〈特異点〉と呼ばれます。説明不能なら、宇宙を生み出したのは<神>と言うに等しい。だから、宇宙論には宇宙をスタートさせた<神の最初の一撃>という言葉もある。言ってみれば、この世界には神様の入ってくる<穴>が開いていたわけですね」
「ところが、今ではこの問題を解決してしまう理論さえ出ている。イギリスの宇宙物理学者、スティーブン・ホーキングなどが唱える説がそれです。彼によれば、創世の時の宇宙は我々の生きている時間とは違う〈虚時間〉の中で始まったことになる。この辺の話になると、皆さんキョトンとするんですけどね。要するに、虚数の時間というものを考えると、そこには始まりという点がない。そこからある時、今のような時空が始まった。
--まるで禅問答のような話ですね。
「この理論では、特異点なしで宇宙が始まることができる。いわば、神様が入ってくる穴をふさいでしまったんですね。もちろん、そういう物理法則がなぜあるのかという話になれば、これは説明できないと言うしかありませんが」
”
(…)
(…)
「ミリンダ王の問い」『バラモン教典,原始仏典』 長尾雅人編、大地原豊訳、中央公論社〈世界の名著 1〉、1969年5月30日。ISBN 978-4-12-400081-8。
「ミリンダ王の問い」『バラモン教典・原始仏典』 長尾雅人編、大地原豊訳、中央公論社〈中公バックス 世界の名著 1〉、1979年2月20日。ISBN 978-4-12-400611-7。
『ミリンダ王の問い インドとギリシアの対決』第1巻、中村元・早島鏡正訳、平凡社〈平凡社東洋文庫 7〉、1963年11月。ISBN 4-582-80007-6。
『ミリンダ王の問い インドとギリシアの対決』第1巻、中村元・早島鏡正訳、平凡社〈ワイド版東洋文庫 7〉、2003年5月。ISBN 4-256-80007-7。
『ミリンダ王の問い インドとギリシアの対決』第2巻、中村元・早島鏡正訳、平凡社〈平凡社東洋文庫 15〉、1964年3月。ISBN 4-582-80015-7。
『ミリンダ王の問い インドとギリシアの対決』第2巻、中村元・早島鏡正訳、平凡社〈ワイド版東洋文庫 15〉、2003年5月。ISBN 4-256-80015-8。
『ミリンダ王の問い インドとギリシアの対決』第3巻、中村元・早島鏡正訳、平凡社〈平凡社東洋文庫 28〉、1964年10月。ISBN 4-582-80028-9。
『ミリンダ王の問い インドとギリシアの対決』第3巻、中村元・早島鏡正訳、平凡社〈ワイド版東洋文庫 28〉、2003年5月。ISBN 4-256-80028-X。
「弥蘭陀王問経」『国訳大蔵経 経部』第12巻、国民文庫刊行会編、山上曹源訳、国民文庫刊行会、1917-1918。
空(くう)とミリンダ王の問い
http://ameblo.jp/healing-quigon/entry-12105936306.html
”では空を理解するための最適なテキストはなんでしょう?
それはズバリ「ミリンダ王の問い」です。このテクストは初期仏典の一つになります。ミリンダ王とは古代のギリシャの哲学王で、古代ギリシャ人らしく論争が好きです。反対にその相手役のナーガセーナ長老はインド人です。ミリンダ王はギリシャの伝統の実在論に立ち、ナーガセーナ長老はアビダルマ派を代表する非実在論者になります。実在論とは、この場合肉体とは別の魂の実在を認めることであり、反対に非実在論は魂の実在を否定する立場です
空の極意を現したものを以下引用します
「大王どの、もしやあなたが車でおいででしたのなら、それがしに車(のなんたるか)を述べてくださいませ。大王どの、轅がくるまでしょうか」
「いや、先生、そうではありませぬ」
「車軸が…車輪が…車室が…車台が…軛が…軛綱が…鞭打ち棒が、車ですか」
「いや先生、そうではありませぬ」
「そうではなくてと、では大王どの、轅・車軸・車輪・車室・車台・轅・轅綱・鞭打ち棒とは別に、車があるというわけですか」
「いや、先生、そうではありませぬ」
「大王どの、それがしはあなたに問いを重ねつつ、車(のなんたるか)をいっかな合点できませぬ。車とは大王どの、単なる名辞に尽きるのか。そえにしても、(存在なくして名辞はないはず、)ここで車とは何ものか。大王どの、あなたは事実無根の虚言をなされますぞ、『車(なるもの)は存在せず』と。大王どの、あなたは普天のもとに覇王たるかた、しかるに何をおそれてうそ偽りを語られるか。ご参集の各位― 五百のギリシア系市民および八千の比丘衆 ―は、それがしの提言を聞かれたい。これなる人物ミリンダ王は、『それがしは車で参りました次第で』などと申しつつ、『大王どの、もしあなたが車でおいでしたのなら、それがしに車(のなんたるか)を述べてくださいませ』と求められる段には、車(なる存在)を確証できぬ始末ですぞ。このこと、はたして是認してよろしかろうか」
このような弁論がなされるや否や、五百のギリシア系市民は長老ナーガセーナに歓呼し、ついでミリンダ王にこういった
「さあて今度は、大王さま、力の及ぶかぎり弁じてくださいませよ」-と
するとミリンダ王は、長老ナーガセーナに向かってこういった
「それがしは、ナーガセーナ長老、うそ偽りしゃべってはおりませぬ。(と申しますのは、)『車』とは、轅・車軸・車輪・車室・車台に依存し(た相関関係のもとに)て、(はじめて)呼称・標徴・記号表出・言語的通念・名のみのものとして成立する(にとどまり、それ自体としての存在はない)のでございます」-と
「よくこそ申された、大王どの、あなたは車(のなんたるか)がおわかりでいらっしゃる。それとまったく同様でございます、大王どの―それがしにつきましても『ナーガセーナ』とは、頭髪・膚毛……脳髄に依存し、様態・感受・知覚・表彰・認識に依存し(た相対関係のもとに)て、(はじめて)呼称・標徴・記号表出・言語的通念・名のみのものとして成立する一方、絶対的次元におきましては、ここに(相即して特定の)人格的実体(が存在するものと)は認められぬ― という次第であります。
(引用終了 太字はブログ主による)
車という概念は、それ単独で存在するのではなく、そのほかの概念に支えられて我々の前に現れます。つまり我々の自我が車という概念を選び出したとき、その下には様々な概念がぶら下がっていうということです。そして空とは概念のなかで一番抽象度の高いTOPに置かれます。一番上なので任意の概念をすべて包摂します。なにもかもを包摂しているのであらゆる状況に対応できます
空を悟ることができればあらゆることに対応が出来るようになります。あらゆる状況に対応できるとは、なにも先手を打つということではなくあらゆる状況を受け入れられる状態のことをいいます。受けいれられるので、常にリラックスしていて前頭前野で思考できます。そしてその抽象度の高い思考が病を治したり、IQが上がったり、生産性があがることを助けるでしょう
世界の名著〈第2〉大乗仏典 (1967年)/中央公論社”
まんどぅーかネットで連載しているリーディング教材のうち、日本語訳部分だけを抜き出したもの
http://www.manduuka.net/i/p/r/index.htm
[出典記号]
ア=アナセンリーダー
高=高楠『巴利語仏教文学講本』
水=水野『パーリ語仏教読本』
まんどぅーか ミリンダ王の問い
自己はない(名前の問い、車のたとえ)(ア55 高4-1)
http://www.manduuka.net/i/p/r/milinda/mi11.htm
”さて、まことにミリンダ王は、尊者ナーガセーナのいる所に近づいた。近づいて尊者ナーガセーナにあいさつした。日常のあいさつの言葉を終えて、一角に座った。尊者ナーガセーナもまた親しくあいさつをかわし、それによってミリンダ王を喜ばせた。
さてミリンダ王は、尊者ナーガセーナにこれを言った。
「尊師はどのように知られていますか。尊者よ、何という名ですか」と。
(ナーガセーナ)「大王よ、私はまことにナーガセーナとして知られています。大王よ、同輩の僧たちは私をナーガセーナと呼びます。にもかかわらず父母はナーガセーナと、またスーラセーナと、またヴィーラセーナと、またシーハセーナと名づけています。にもかかわらず、この、ナーガセーナとよばれるものは、名称、通称、概念、慣用、名のみのものであり、ここに自己は発見されません」と。
そこでミリンダ王はこう言った。
「尊者たちよ、500人のギリシア人と80000人の乞食修行者たちは私のいうことを聞け。このナーガセーナはこう言った。『ここに自己は発見されない』と。これを賞賛することがはたして有益かどうか」と。”
”さてミリンダ王は、尊者ナーガセーナにこれを言った。
「尊者ナーガセーナよ、もし自己が発見されないならば、それでは誰があなたがたに法衣や乞食の食物や寝具や医薬品や必需品を与えるのですか。誰がそれを享受するのですか。誰が道徳を守るのですか。誰が修行を実践するのですか。誰が生物を殺すのですか。誰が与えられないものを取るのですか。誰が姦淫をなすのですか。誰が偽って話すのですか。誰が酒を飲むのですか。誰が五無間業をなすのですか。それゆえによいことはなく、よくないことはなく、よいことやよくないことを、するものもさせるものもなく、善行や悪行の行為の結果である報いはありません。尊師ナーガセーナよ、もしあなたを殺すものがいても、彼の殺生もありません。尊師ナーガセーナよ、あなたには師匠もなく戒を授ける教師もなく具足戒もありません。あなたが『大王よ、同輩の僧たちは私をナーガセーナと呼びます』と言うなら、この場合のナーガセーナとは誰なのですか。尊師よ、いったい髪がナーガセーナなのですか」と。
(ナーガセーナ)「いいえ、大王よ」と。
(ミ)「体毛がナーガセーナなのですか」と。
(ナ)「いいえ、大王よ」と。
(ミ)「爪…(くりかえし)…、歯、皮膚、筋肉、腱、骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、脾臓、肺、腸、腸間膜、胃、大便、胆汁、痰、膿、血液、汗、脂肪、涙、リンパ、唾液、鼻汁、関節滑液、小便、頭における脳が、ナーガセーナなのですか」と。
(ナ)「いいえ、大王よ」と。
(ミ)「尊師よ、いったい物質がナーガセーナなのですか」と。
(ナ)「いいえ、大王よ」と。
(ミ)「感受作用…概念…構成…意識がナーガセーナなのですか」と。
(ナ)「いいえ、大王よ」と。
(ミ)「尊者よ、それなら物質および感受作用および概念および構成および意識がナーガセーナなのですか」と。
(ナ)「いいえ、大王よ」と。
(ミ)「尊者よ、それなら物質・感受作用・概念・構成・意識以外のものがナーガセーナなのですか」と。
(ナ)「いいえ、大王よ」と。
(ミ)「尊者よ、それなら私は質問しても質問してもナーガセーナを発見できません。尊者よ、いったいナーガセーナとは音声だけのことなのですか。それならここにいるナーガセーナは誰なのですか。あなたは偽って『ナーガセーナはいない』とウソの言葉を話しているのですか」と。 ”
http://www.manduuka.net/i/p/r/milinda/mi12.htm
”さて尊者ナーガセーナは、ミリンダ王にこれを言った。
「大王よ、あなたは実に王族で繊細に育ち、非常に繊細でおられます。大王よ、そのあなたが真昼間に、熱せられた土地や熱い砂の上を、固い小石や砂利や砂を踏みつけて、徒歩で来たのなら、足は痛み身体は疲れ心は病み苦痛を伴う身体の意識が起きます。あなたは徒歩で来たのですか、それとも乗り物でですか?」と。
(ミ)「尊者よ、私は徒歩で来たのではなく、車で来ました」と。
(ナ)「大王よ、もしあなたが車で来たのなら、車を私に告げてください。大王よ、いったい轅(ながえ)が車なのですか」と。
(ミ)「いいえ、尊者よ」と。
(ナ)「車軸が車なのですか」と。
(ミ)「いいえ、尊者よ」と。
(ナ)「車輪が…車のかごが…車の杖が…くびきが…手綱が…むちが車なのですか」と。
(ミ)「いいえ、尊者よ」と。
(ナ)「大王よ、いったい轅および車軸および車輪および車のかごおよび車の杖およびくびきおよび手綱およびむちが車なのですか」と。
(ミ)「いいえ、尊者よ」と。
(ナ)「大王よ、それなら轅・車軸・車輪・車のかご・車の杖・くびき・手綱・むち以外のものが車なのですか」と。
(ミ)「いいえ、尊者よ」と。
(ナ)「大王よ、それなら私は質問しても質問しても車を発見できません。大王よ、いったい車とは音声だけのことなのですか。それならここにある車は何なのですか。大王よ、あなたは偽って『車はない』とウソの言葉を話しているのですか。大王よ、あなたはインド全体の王であるのに、何を怖れて偽って言うのですか。尊者たちよ、500人のギリシア人と80000人の乞食修行者たちは私のいうことを聞け。このミリンダ王はこう言った。『私は車で来ました』と。『大王よ、もしあなたが車で来たのなら、車を私に告げてください』と言われて、『車を用意できない』と。これを賞賛することがはたして有益かどうか」”
http://www.manduuka.net/i/p/r/milinda/mi13.htm
”こう言われて、500人のギリシア人たちは尊者ナーガセーナに同意の声をあげて、ミリンダ王にこれを言った。
「大王よ、さあ今こそ、あなたは可能ならば言え」
さてミリンダ王は、尊者ナーガセーナにこれを言った。
「尊者ナーガセーナよ、私は偽って言うのではありません。轅によって、そして車軸によって、そして車輪によって、そして車によって、そして車の杖によって、車という、名称、通称、概念、慣用、名が起こるのです」と。
(ナ)「実に結構です。大王よ、あなたは車を理解なさいました。まさにこのように、私もまた、髪、体毛…脳…物質…意識によって、ナーガセーナという名称…名のみのものが起こりますが、最上義(勝義諦)からは、ここに自己は発見されないのです。大王よ、また女性乞食修行者(比丘尼)ヴァジラーはこのことを世尊の目の前で言いました
♪部分の集積によって車という語があるように要素があって衆生という名がある」と。
(ミ)「尊師ナーガセーナよ、不思議なことです。尊師ナーガセーナよ、驚くべきことです。質問に対するすばらしい知性が出されました。もし仏陀がご存命ならば、同意の声をあげるでしょう。実に結構です。ナーガセーナよ。質問に対するすばらしい知性が出されました」 ”
http://www.manduuka.net/i/p/r/milinda/mi14.htm
”ミリンダ王は、以下の発言からもわかるように、霊魂を感覚する主体として認識していた。
身体の内にある個我は、眼によって形を見、耳によって音を聞き、鼻によって香りを嗅ぎ、舌によって味を味わい、身体によって触れられるべきものに触れ、意によって事象を識別する。それは、ちょうどこの宮殿に座っている我々が、東西南北どの窓からでも眺めたい窓から眺めることができるのと同じことである。[12]
感覚器官が五感ではなくて、仏教的に、眼、耳、鼻、舌、身、意という六処(Sanskrit: Ṣaḍāyatana; Pāli: Saḷāyatana)となっている点は、ギリシア人の主張として不自然であるが、それでもこの発言を仏教徒による完全な創作と断じることはできない。なぜなら、個我(abbhantare jivo)は、他のパーリ語の聖典には見当たらないからである。この観念は、どうやらミリンダ王独自のもののようである。
ナーガセーナは、ミリンダ王に対して、次のように問い返し、霊魂が存在しないと言う。
ここの宮殿に座っている私たちは、これらの窓を開けて、顔を外に出せば、大虚空を通していっそうよく形を見ることができるでしょうが、それと同様に、眼の門が除去されると、内にあるこの個我は大虚空を通して、いっそうよく形を見るのでしょうか。また、耳、鼻、舌、身体が除去された時には、大虚空を通していっそうよく音を聞き、香りを嗅ぎ、味を味わい、触れられるべきものに触れることができるでしょうか。[13]
もしも人間の中に小人がいると想定し、その小人を感覚の主体とする認識モデルを肯定するなら、小人の中にさらに小人を想定しなければならず、無限後退に陥る。霊魂がそういう意味での実体として身体の中に存在するのではないのは、車を解体すると、中から小さな車の実体が出てくるのではないのと同じことである。
ギリシアの一般人はともかくとして、ギリシアの哲学者たちはそのような粗雑な実体主義には陥っていなかった。例えば、アリストテレスは、霊魂と身体が形相と質料、現実態と可能態、実体と偶有性の関係にあると言う。
霊魂は実体、それも可能的に生命を持つ自然的物体の形相という意味での実体であるということになる。しかし、この意味での実体は現実態であり、霊魂はこのような自然的物体の現実態ということになる。しかし、この現実態は知識(エピステーメ)と知識活動(テオーリア)という二通りの意味で言われる。[14]
形相と質料は概念的に区別できても、空間的に切り離すことはできない。だから、アリストテレスの哲学では、霊魂は身体の中の小人ではありえないのである。アリストテレスが認識しているように、霊魂は知識の選別を行う情報システムであり、知識活動は、物質を通じて行われ、また物質を離れては存在しないものの、情報システムを物質と同一視することはできない。
無我(Pāli: anattā; Sanskrit: anātman)説は、上座部仏教における三相(Pali: tilakkhaṇa; Sanskrit: trilakṣaṇa)、大乗仏教における三法印、つまり、仏教をそれ以外の教えから区別する三つの教義のうちの一つであるが、ガウタマ本人の本来の教えは、「自我への執着を捨てよ」という倫理的実践的教説であって、「自我は存在しない」という形而上学的教義ではなかった。ガウタマは、「死後霊魂は存在するか」といった形而上学的に問題に対して答えず、無記(Pāli: avyākata; Sanskrit: avyākṛta)、すなわち、真でも偽でもないものとした。そうした問題について論争をすると、自説への執着が生じ、修行の妨げになるからである。
では、なぜ無我や無常(Pāli: anicca; Sanskrit: anitya)が仏教の三法印あるいは三相になったのだろうか。もしも自我が存在しなければ、自我への執着はなくなる。自我への執着を捨てたいという願望が、自我は存在しないという思い込みにつながったと考えられる。同様に、富や権力が一時的ではかないものであるならば、それらに対する執着もなくなる。物への執着を捨てたいという願望が、すべては無常であるという思い込みにつながったと考えられる。サンユッタ・ニカーヤ2が無我や無常の否定を「悪魔の思想」とするのは、それが自我と物への執着を呼び醒まし、迷いの原因となるからである。
こうした願望を実現するための思い込みは、仏教に特有の思考である。仏教は、女が不浄であるというが、この女性蔑視の思想は、男の修行僧が女性への執着を断ち切るために、女性が汚くて魅力がなければよいのにという願望を抱くようになり、そしてその願望を実現するために、女性は不浄であると思い込むことで出来したものである。
ガウタマの死後、ガウタマを名乗った仏典が数多く書かれたが、ガウタマでない仏教徒がガウタマに成りすますのは、仏教は無我を法印としており、霊魂の実体的同一性を認めないので、自分とガウタマとを区別する理由がないからと説明することもできるが、ガウタマのようになりたいという仏教との願望が、自分はガウタマであるという思い込みに発展した結果であると説明することもできる。
4 : 輪廻説と無我説は矛盾しないのか
インドでは、生き物は、生前の業、すなわち、カルマ(Pāli: kamma; Sanskrit: kárman)の結果、別の生き物に生まれ変わるという輪廻(Pāli, Sanskrit: Saṃsāra)の思想が古くからあり、仏教もこれを受け継ぎ、生死を超えた因果応報説を信者に説いた。古代ギリシアでは、ピタゴラス学派やプラトンなどの例外はあるものの、輪廻転生説は一般的ではなく、ミリンダ王も輪廻転生に関して多くの質問をしている。無我説は、輪廻説と矛盾しているように見えるし、霊魂の実体的同一性を否定すると、因果応報説が倫理的に無意味になるように思えるからだ。
ナーガセーナによると、輪廻の主体は名色(みょうしき; Pāli, Sanskrit: Nāmarūpa)である。名と色のうち、色は色蘊に、名は他の五蘊に対応する。両者は、アリストテレスの哲学における質料と形相との関係に似ているが、名色は、名も色も実体的同一性を持たないという点で、質料や形相とは異なる。現世の名色と来世の名色は異なるが、因果の関係で結ばれているので連続性があることをナーガセーナは以下のような例を用いて説明している。
ナーガセーナ:それは、搾り出された牛乳がしばらくすると酪になり、さらに酪から生蘇となり、生蘇から醍醐となるようなものです。大王よ、牛乳が酪、生蘇、醍醐と同じであるということは正しいでしょうか。
ミリンダ王:尊者よ、そうではありません。それに依存して、他のものが生じたのです。
ナーガセーナ:大王よ、事象の連続はそれと同様に継続するのです。生じるものは、滅びるものとは別のものではあるが、両者はあたかも前後別物でないかのごとく継続しているのです。このように、それは同じでも異なるのでもないものとして、最後の意識に上るのです。[15]
酪、生蘇、醍醐というのは、チーズやバターのような乳製品で、牛乳を乳酸発酵して作る。乳酸発酵によって、分子の形が変わるので、形相は変化するが、質料は自己同一性を維持すると言うことができる。質料が自己同一性を維持すると言っても、素粒子には実体的な自己同一性はないので、量子力学的なミクロのレベルでは非連続的に連続性を観る仏教的世界観の方が正しいと言えなくもないのだが、ここで例に挙げられているようなマクロなレベルでは、そうした解釈は正当化されない。
ナーガセーナは、牛乳を買うという契約が、牛乳が酪となることによって無効にはならないという例を引き合いにして、名色が不連続であっても、輪廻によって前世の悪業を免れることはできない[16]と言う。だから、無我説は、輪廻転生説や因果応報説とは矛盾しないというのであるが、もしも悪業をなす名色とその報いを受ける名色が、たんに因果関係で結ばれているだけで、実体として異なるものであるとするならば、悪業を免れることになるし、もしも悪業を免れることがないというのなら、変動する偶有性とは別に、責任の主体となる人格の実体的同一性を想定しなければならなくなる。
矛盾している教えを和することを仏教では会通(えつう)というが、ナーガセーナの会通は説得力に欠く。その最大の理由は、無我説を「自我に対する執着を捨てよ」という倫理的教義ではなくて「自我は存在しない」という形而上学的教義にしてしまったところにある。自我に執着するから、自我と一緒に輪廻転生を繰り返すのであり、自我への執着を捨てるなら、輪廻転生から解脱することができる。自我への執着を不可能にするために、自我は存在しないということにすると、存在しない自我がなぜ輪廻するのか、なぜ解脱するとなぜ輪廻転生から免れるようになるのかがわからなくなってしまう。 ”
https://www.nagaitoshiya.com/ja/2012/milindapanha/
ギリシアの有の哲学対仏教の無の哲学
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参考資料
二而不二(ににふに)
http://metalogue.jugem.jp/?eid=2870
ブッダと龍樹の四句分別
http://metalogue.jugem.jp/?eid=2869
2種の否定と2種2階の否定
http://metalogue.jugem.jp/?eid=2868
4値は東に、2値は西に
http://metalogue.jugem.jp/?eid=2867
龍樹の「テトラレンマ」 建築を志す人たちが知っておくべき「建築」の原理原則 No4
http://norisada.at.webry.info/201303/article_3.html
菊池 @kikuchi_8 4月25日
論理の話の続き。よく「日本人は論理的思考が苦手」と言われるがさにあらず。我が国は奈良時代に論理学を受け入れていた。「それは一部の仏僧(当時の知識人)のみ」と言ったところで西欧で最初にアリストテレス論理学を受け入れたのも一部の神父のみである。しかも受容の時期は日本の方が数百年早い。
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• • 菊池 @kikuchi_8 4月25日
我が国が奈良時代に受け入れた論理学は印度に由来するもので「因明=いんみょう」と言う。奈良の仏僧によって学ばれた。因明は古因明と新因明に分かれる。古因明は印度の哲学学派「ニヤーヤ派」が整備した。それに対し新因明は唯識派に属する陳那が整備した。我が国に輸入されたのは新因明の方である。
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• • 菊池 @kikuchi_8 4月25日
ニヤーヤ学派は提案(宗)・理由(因)・喩例(喩)・適用(合)・結論(結)という五支からなる「五支作法」と呼ばれる論証式を作った。陳那はこれを提案(宗)・理由(喩)・喩例(喩)の三支に改めた。前者が古因明で、後者が新因明である。因明は流派を問わず印度の各哲学学派の共有財産となった。
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• • 菊池 @kikuchi_8 4月25日
陳那の論理学まとめ。①提案・理由・喩例(宗・因・喩)からなる論証式=三支作法。②因の三相(正しい理由である為の三条件)。「AはBである。Cであるから」という論証の場合Cが正しい理由である為の条件は三つ。①CはAの性質である。②CはBに随伴(BがCを遍充≒包摂)③Cは非Bから排除。
1件の返信 1件のリツイート 5 いいね
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陳那が唱えた「遍充」とは概念間の包摂関係を意味する。類概念は種概念を遍充している。例えば「人間」という概念は「生物」という概念によって遍充されている。より普遍的な概念がより特殊な概念を遍充するのである。主張命題の述語が根拠を遍充しているとそれは正しい理由とされる(因の第二相)。
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• • 菊池 @kikuchi_8 4月25日
西洋の論理学が「演繹」重視なのに対し、印度の論理学は「帰納」重視だと言われている。陳那はある命題の根拠が正しいと言える為の条件(因の三相)を究明した。因の三相は帰納推理が成り立つ為の条件。印度の論理学の論証式では必ず具体的事例を挙げる事を必須とする点も「帰納」重視の表れと言える。
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• • 菊池 @kikuchi_8 4月25日
陳那は論理学と認識論を重視したが、認識論においては確実な認識手段を知覚(現量)と推理(比量)に限定した。そして概念(共相)を介在しない知覚(現量)を対象そのもの(自相)を捉える一番確実な認識手段とした。このような陳那の経験主義的な姿勢も帰納重視の論理学に反映していると思われる。
菊池 @kikuchi_8 4月25日
「AはBである。Cだから」という命題で「因の三相」を考える。①第一相・CはAが持つ属性でなければならない。②第二相・Cが必ずBに随伴する事。全てのBがCである必要はない。③第三相・Cは非Bの集合から排除されていなければならない。そうでないならば「AはBである」理由になり得ない。
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• • 菊池 @kikuchi_8 4月25日
陳那(ディグナーガ)が唱えた「因の三相」とは何らかの命題を立証する場合に挙げる根拠や理由が正しいと言える為の条件を明らかにしたものである。「因の三相」を備えていれば(三つの条件に全て適合していれば)その理由は正しいとされる。自他の主張命題の根拠を吟味する際に役に立つ考え方である。
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• • 菊池 @kikuchi_8 4月25日
日本人にとっての陳那の因明は西洋人におけるアリストテレスの論理学みたいなものではないだろうか。こういう知的遺産は是非掘り起こして活用していくべきだと考える。戦国時代においてアリストテレスの論理学を駆使するイエズス会宣教師に対して仏僧は陳那が開発した因明を駆使して対抗した事だろう。
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• • 菊池 @kikuchi_8 4月25日
陳那の因の三相は此縁性(しえんしょう)と呼ばれる「縁起」のもっとも基本的な形式「此れが有れば彼有り。此れが無ければ彼無し。」をベースにしていると思われる。随伴と排除の関係である。「渇愛が有れば苦が有る。渇愛が無ければ苦が無い。」「火が有れば煙が有る。火が無ければ煙が無い」など。
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• • 菊池 @kikuchi_8 4月25日
西洋では認識論が発達するのが遅かった。「神」が認識を保証してくれるという前提があったからである。それが崩れ始める近世初頭になるまで本格的な認識論は現れなかった。一方、「絶対神」の観念が希薄な印度では認識論が早くから発達した。特に仏教の認識論は精緻を極めた。陳那はその大成者の一人。
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• • 菊池 @kikuchi_8 4月25日
説一切有部は外界(境)がそのまま認識されるとした。経量部は外界は直接認識されず外界が表象として認識されるする表象主義的な認識論である。これは近代になってカントが論じた認識論と似ている。唯識では外界の存在そのものを否定し、主客は相互依存(依他起)しており全ては認識作用=識だとした。
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• • 菊池 @kikuchi_8 4月25日
陳那の認識論では有効な認識手段は知覚と推理に限定したが、ニヤーヤ学派では知覚・推理・証言・比定の四つを有効な認識手段として認めた。陰謀追及的には「証言」は重要である。情勢分析のソースも大半がニュース、ネット情報、書籍などの謂わば「証言」だからだ。ソースの信頼性の吟味が重要になる。
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• • 菊池 @kikuchi_8 4月25日
陰謀追及における情報の分析では情報のソースの信頼性や複数のソースを比較対照するなど十分に吟味する必要がある。証言は「見る」「聞く」など知覚によって認識するものの証言で指し示されている事実そのものについては直接知覚している訳ではない。証言を知覚や推理と区別する意義はあると思われる。
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• • 菊池 @kikuchi_8 4月28日
「論理」を考える為の資料として印度哲学の中でも論理の研究を専門としたニヤーヤ学派とその姉妹学派であるヴァイシェーシカ派について少し調べた。印度哲学と言えば「梵我一如」を旨とするヴェーダーンタ学派のような神秘主義的な学派のみならず合理主義的な学派もある。神智学一派が無視する側面だ。
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• • 菊池 @kikuchi_8 4月28日
NWO征略で思想工作を担当する神智学一派は印度思想に執着して憑依の対象とするが彼らが利用するのは神秘主義的思想ばかりである。論理と合理を重視する学派は無視する。支配ツールに向かないからだろう。現に印度では論理学はヴェーダの権威を軽視するものとして当初支配階級から警戒されたらしい。
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• • 菊池 @kikuchi_8 4月30日
古代印度の六派哲学の一つにヴァイシェーシカ派という学派があった。「勝論派」と言う。勝論派では世界を「六句義」という六つのカテゴリで説明する。六句義は実体・属性・普遍・特殊・運動・内属の六つである。「概念に対応する実在が外界に存在する」「世界は言語表現通りに存在する」という思想。
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• • 菊池 @kikuchi_8 4月30日
勝論派では「白い牛が歩く」という事態は「白い牛が歩く」という言語表現に正確に対応していると考える。「歩く白い牛」という実体に「牛性」という普遍、「白い」という属性、「歩く」という運動が内属していると考える。主体・運動・属性は相互依存=縁起すると考える龍樹とは正反対の発想である。
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• • 菊池 @kikuchi_8 4月30日
勝論派哲学は言葉と逐一対応する事物が実在すると考えるとどういう世界観が出来上がるかを示すモデルケースだと言える。逆に「言葉と現実にはズレがある」と考えたのが龍樹である。勝論派と中観派は全く逆方向に思考を徹底したよき論敵同士だった。それにしても印度人の思考の徹底ぶりには驚かされる。
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• • 菊池 @kikuchi_8 4月30日
ヴァイシェーシカ派の姉妹学派が論理学と認識論の研究が専門のニヤーヤ学派である。認識と論証に関する十六のカテゴリを設定。ベーダーンタ派が「梵我一如」という神秘的境地に至る事を「解脱」としたのに対し、ニヤーヤ派は「論理学と認識論を極める事」を「解脱」とした。合理主義的な学派である。
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• • 菊池 @kikuchi_8 4月30日
ニヤーヤ派とヴァイシェーシカ派はベーダーンタ派などに比べると合理主義的な学派である。西洋の結社やその手先のカルト勢力は印度哲学の神秘主義的な部分だけをつまみ食い的に剽窃して利用するが印度哲学の強靭な論理的思考は忌避する。印度哲学を神秘主義だけと思い込むと神智学一派などに騙される。
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• • 菊池 @kikuchi_8 4月30日
ヴァイシェーシカ哲学の六句義の「句義」(パダ・アルタ)とは「語の対象」を意味する。即ち語が示す対象的実在には六つのカテゴリがあるというのが「六句義」の意味である。語が示す概念を実体視・実在視する考えである。概念の実体視を批判する龍樹とは対照的な発想であり、激しい論争が行なわれた。
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• • 菊池 @kikuchi_8 4月30日
印度哲学は神秘主義的な学派と合理主義的な学派に二分される。ベーダーンタ派やミーマーンサー派は前者で、ニヤーヤ派とヴァイシェーシカ派は後者。サーンキャ派は二元論的。ヨーガ派のヨーガは全学派共通。仏教は合理主義的だが渇愛を取り除いて苦の滅を目指す倫理的な色彩の強い実践哲学だと言える。
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• • 菊池 @kikuchi_8 4月30日
原始仏教もニヤーヤ派やヴァイシェーシカ派と同じく合理主義的だが主知主義的ではない。ニヤーヤ派は論理学と認識論を極める事を目指すが、原始仏教は「渇愛の滅による苦の滅」を目指す実践重視の哲学である。だが後には中観・唯識に至り論理学と認識論が発達した。ニヤーヤ派とはライバル関係である。
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• • 菊池 @kikuchi_8 4月30日
仏教の中で論理学と認識論を重視したのは唯識派で論理学を確立したのが陳那。三支作法や因の三相については先日述べた。ニヤーヤ派の論理学が古因明で陳那の論理学が新因明。我が国は奈良時代に後者を輸入。因明が伝統として残っているのは日本だけだそうである。日本人は論理的思考は苦手ではない。
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• • 菊池 @kikuchi_8 15 時間15 時間前
弁証法について。「弁証法戦略」と言う場合の「弁証法」は主にヘーゲルのそれである。だが「弁証法」は物事を固定化した相で捉える形式論理学に対し「物事を変化の相で捉える思考方法」という意味で広義に用いられる場合がある。ソクラテス以前のヘラクレイトスの哲学などが弁証法に分類されたりする。
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• • 菊池 @kikuchi_8 15 時間15 時間前
論理学の教科書には形式論理学、記号論理学と並び弁証法論理学についての項目があったりする。そこではソクラテス以前のギリシャ哲学者などに広義の意味での弁証法的思考があったとされる。だがヘーゲルの弁証法は歴史の目的因というか終着点を想定している点で古代ギリシャ哲学の発想とは異質である。
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• • 菊池 @kikuchi_8 15 時間15 時間前
ヘーゲルの弁証法では正・反・合の変化の過程を設定するものの、歴史の最終到達点みたいなものを想定する点でギリシャ的というよりペルシャ的である。ヘーゲル哲学はプロテスタント神学の哲学版などと言われる所以である。キリスト教はペルシャ起源の「歴史の終わり」を想定する終末史観が濃厚である。
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• • 菊池 @kikuchi_8 15 時間15 時間前
「変化の相を捉える思考方法」という「弁証法」の広義の意味では東洋の哲学にも当てはめられる場合がある。だが「弁証法」というとヘーゲルの弁証法が真っ先に連想されるので好ましい分類法とは思えない。ある種の憑依型戦術である。そもそも弁証法とは古代ギリシャでは問答法とか対話術を意味した。
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• • 菊池 @kikuchi_8 15 時間15 時間前
「論理学を生み出したのはギリシャとインドだけ」と言われるが、アリストテレスが整備したギリシャの論理学は諸学問をやる為の「オルガノン(道具)」という性質なのに対し、インドの論理学は各哲学学派間の論争から生まれた討論術を起源としているようだ。後者はさながら討論マニュアルのようである。
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• • 菊池 @kikuchi_8 15 時間15 時間前
ニヤーヤ学派が論理学を研究する学派だった(古因明)が、これに対して陳那が新しい論理学を確立した。陳那が確立した論理学(新因明)は我が国も奈良時代に取り入れている。中村元氏によると因明が現在も伝統として学ばれ続けているのは日本だけだそうである。日本人には論理学の伝統があるのである。
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• • 菊池 @kikuchi_8 14 時間14 時間前
陳那の論理学まとめ。①三支作法②因の三相③九句因。①三支作法とは主張命題(宗)・理由(因)・例証(喩)の三支から成る論証式。それ以前の論証式はニヤーヤ派が確立した主張命題(宗)・理由(因)・例証(喩)・適合(合)・結論(結)からなる五支作法だった。陳那は合と結を削り三支とした。
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• • 菊池 @kikuchi_8 14 時間14 時間前
②因の三相とは主張命題を立証する理由が備えるべき三つの条件。㈠遍是宗法性。理由が主張命題の主辞に属す。㈡同品定有性。理由が主張命題の賓辞を必ず伴う(煙があれば必ず火がある等)㈢異品遍無性。理由が主張命題の賓辞の補集合から排除。㈡㈢を合わせて遍充(賓辞が理由を包摂する関係)と言う。
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• • 菊池 @kikuchi_8 14 時間14 時間前
③九句因とは理由(因)の9のパターンの事。理由が賓辞の集合の全体にあるか・一部にあるか・全くないかの3パターンあり、それが補集合にも言えるから3×3で全部で9パターンとなる。正しい因(正因)は因の三相を満たすもののみ。それ以外は全て間違った因(相違)と正否不明の因(不定)である。
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• • 菊池 @kikuchi_8 14 時間14 時間前
こういう論理学が奈良時代から学ばれていた事を見ても「日本人は論理的思考が苦手」は嘘だと分かる。日本には西洋の自由七科=リベラルアーツに相当する「五明」があった。どちらも論理学を含む。戦国時代に襲来したイエズス会宣教師は論理学を身に着けていたが、我が国の学僧は因明を身に着けていた。
戦国時代に日本がキリスト教の侵略を打ち払う事が出来たのは宣教師が身に着けていたアリストテレス論理学に対抗できる「因明」という論理学で鍛えた論理的思考があったのも大きいのではないかと考えている。当時の仏僧は宣教師と対等以上の論争を行なっている。武力だけで思想工作を破る事はできない。
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• • 菊池 @kikuchi_8 11 時間11 時間前
因の三相を「主張命題:声は無常である。理由:原因によって成るから。」で説明。①遍是宗法性とは「原因によって成る」が主辞「声」の属性である事。②同品定有性とは「原因によって成る」が必ず賓辞「無常」を伴う事。③異品遍無性とは「原因によって成る」が賓辞「無常」の補集合「常住」に無い事。
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• • 菊池 @kikuchi_8 10 時間10 時間前
同じく「主張命題:声は無常である。理由:原因によって成るから。」で「遍充」を説明する。この場合、遍充とは主張命題の賓辞「無常」が理由「原因によって成る」を包摂する関係である。包摂されるので「原因によって成る」は必ず「無常」の集合に存在し、無常の補集合「常住」には決して存在しない。
846夜『空の思想史』立川武蔵|松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/0846.html
菊池 @kikuchi_8
日蓮思想とキリスト教の類似点①末法思想という終末思想が前提②法華経の教え以外の全面禁止の要求(排他性)③久遠本仏という実体的な超越者の崇拝④上行菩薩というメシア待望論➄宗派によっては日蓮が本仏とされ、ゴッド=イエス思想と類似。●平田派の系譜の神道系カルトと並び日蓮系カルト多し。
統一協会はユダヤ・キリスト教的な創造神崇拝、創価は日蓮思想由来の「久遠本仏」思想、という一神教的な「超越者」を設定する所が似ているように思います。私見では、日蓮思想は日本仏教の中で最も一神教に近い宗教思想のように思います。
酒井勝軍は元々プロテスタントの牧師で反猶太主義から親猶太主義に転向した人物で、戦後の日猶同祖論系の陰謀論は酒井の流れだと思います。田中智学のは日蓮主義ですが、日蓮思想そのものが「久遠の本仏」という実在を信仰する思想なのでもともと一神教的だと思います。
久遠の本仏を説く法華経信奉者の北と、基督教的な世界観を持つ大川。明治政府が近代合理主義的な西洋化をしていたことは自明として、それに敵対していたはずの近代日本の在野右翼の巨頭が二人とも西洋一神教的世界観を持っていたことは何を暗示するか。非常に興味深い次第である。
戦前の右翼陣営に影響をもった一神教的な宗教として、大本教と並び立つのが日蓮主義だと思うが、法華系仏教の「久遠の本仏」という超越的実体的な仏の概念が根底で日蓮主義の一神教的な排他性を規定しているように思う。
救済者としての久遠の本仏を掲げ、森羅万象を一つに収斂しようとする傾向のある天台をはじめとする法華経哲学よりも、森羅万象の多様性そのものに帰還する事事無礙法界を説く華厳哲学の方が、より神道に適合的である。華厳の究極では理=真理すら現象界に溶け込むのだ。これはまさに神道の発想である。
1)スピリチュアリズムは西洋神秘主義から派生した。西洋神秘主義の根には古代の新プラトン主義がある。新プラトン主義と言えば「一者」。そして前述の「時は一性(一者)」この様に近代哲学信者とスピ信者が同類だというのは決して誇張ではないことが分かる。一者の観念はキリスト教神学に影響。
2)つまりキリスト教、スピリチュアル、西欧近代哲学は根を同じくする「だんご三兄弟」ならぬ「一者三兄弟」なのである。そしてこの三兄弟は社会組織で言うと、キリスト教会・英国系フリーメイソン・仏蘭西系フリーメイソンにおおよそだが、それぞれ対応する。根を同じくするこれらの分進合撃戦術。
3)西洋思想は複雑に見えるが案外単純である。同じ基本概念を装いを変えて何千年も使い回しているに過ぎないからだ。その基本概念とは主に二つ。一つは「実体」。もう一つはそこから生まれる二元論である。実体という概念が理解できれば西洋思想は至極単純であることが分かる。実体=自存的な基体。
4)西洋思想を見抜くポイントは「何に実体を置くか」と「何と何の二元論か」である。この二つのポイントに着目することで西洋のコケオドシの体系はあらかた解剖される。例えば、実体を神に置くのがキリスト教、自我がそこに合一する究極実在に置くのが神秘主義、理性や物自体などに置くのが近代哲学。
5)「時は一性」なんて言うのもその一バージョン。「時」に実体を置いたわけだ。一旦実体が設定されると「実体」とそれ以外の二元論となる(実在と現象など)。実体が複数設定されると実体Aと実体Bの二元論となる(善と悪など)。小難しい表現をしていても西洋思想はかかる基本的枠組みの使い回し。
6)今まで実体視された概念の具体例を挙げる。「四大」「原子」「イデア」「一者」「造物主」「善と悪」「自我」「理性」「精神と物質」「物自体」「時間」さて、次はどこに置く?どこに於いても大差はないが。「イワシの頭」はどうだろうか?まあ、頑張ってくれ。>西洋人及び脳内西洋人達 (了)
キリスト教世界で言う「神」と「悪魔」は一対。「西欧思想フルボッコシリーズ(笑)」で書かせて頂いた、①実体を設定②二元論的構図を設定(この場合は実体を複数設定し、その実体Aと実体Bの二元論)という順序で言うと、神・悪魔という二つの実体が設定され、この二つが二元論的に対置される構造。
地中海オリエント・西欧(中東以西と取りあえず呼ぶ)の文明の推移は「神中心→人間中心」という流れである。哲学的に分析すると、「神」に実体を置く世界観から「人間」に実体を置く世界観への遷移である。超越者を実体視しても人間を実体視しても、その帰結は排他独善的な支配と破壊の衝動である。
太田龍氏が「西洋文明の根本は我欲我執」と書いておられたが、本当にその通り。さらに分析すると、この我欲我執は「実体観」から来ている。例えば仏教が実体観を排斥するのは、単なる哲学的関心からではなく、「実体」という観念が必然的に執着を引き起こすからだ。執着は主に貪欲と怒り→支配と破壊。
執着は「実体」という対象へ向けて二方向に発現。対象を引き寄せる方向で行けば「貪欲」に、対象を排除する方向に行けば「瞋恚」(怒り)に。それは実体視を引き起こす「無知」による、とする。貪瞋癡の三毒とは事実を錯認し「実体」を仮構する「癡=無知」を根本とする。実体を執する西洋=癡の文明。
耶蘇教徒や近代哲学信者と話すと分かるが、「実体」に執する者達は自己相対化ができないので、友好的で対等な対話がほぼ不可能である。対等な対話の為には各自の自己相対化が必要だが、それが彼らには不可能なのだ。彼らは実体観への執着が強い程異なる考えの者とは闘争か支配の関係しか構築できない。
という訳で、太田龍氏の言う「西洋文明は我欲我執が根本」という指摘は、実感的にも納得が行くのである。「実体」を一旦立てると、それがどのようなものであれ、執着を引き起こし、闘争や支配の衝動に駆り立て、その貪欲さはとどまるところを知らない。寛容さを失い、他者と共存ができなくなるのだ。
「西洋文明は我欲我執が根本」という太田龍氏の指摘を自分なりに少し突っ込んで分析してみた過程とも絡み、仏教と認識論や科学で少し考えた事があるので挙げます。さきほど考察した西洋、もっと言えば地中海オリエント世界以西の根本的思考形式である「実体論」と一応関係する思考です。
仏教では五蘊に依って自己があると説かれる。五蘊=色・受・想・行・識=身体・感受・構想・意志・認識。そして大乗では五蘊は其々相互依存的・相互浸透的=縁起・空だと説かれる。ここには感性=受と知性=識を其々「実体」として立てるが故の「感性と知性の統合」などという偽問題は生じない。
禅の六祖慧能の弟子二人がたなびく旗を見て「旗が動く」「いや、風が動く」と問答をした。慧能は其を見て「心が動く」と言った。認識対象は認識主体と相関的であり、「旗」とは厳密に言えば視覚的な知覚与件。従って「旗がたなびく」とはこの知覚与件が動く、という事。「心が動く」は間違っていない。
つまり某哲学者風の言い方をすれば「射映的現相」が動くと。見えた限りでの対象が動く、という事は視覚そのものが動くという事。常に変動する視覚的与件を「旗」という概念で固定化。さらに言語表現して「旗が動く」となる。慧能の弟子は視覚的与件を外部化させて「旗が動く」「風が動く」とやったと。
相対性理論によれば、空間・時間・物質等は全て相互浸透的・相互依存的・相互規定的だとされる。つまり、それらが縁起的に関係し合い四次元世界を形成しているという。華厳の重々無尽の縁起説を思いだす。華厳思想は宗教的ドグマを説くものではなく、一種の世界観モデルを提示するものと捉えている。
「西欧思想フルボッコシリーズ(笑)」のおまけ編としてまた一つ書きたいことが出ました。なのでそれについて少し書こうと思います。西欧側による「仏教は虚無を説く」という曲解があるようなので、その辺について自分なりの見解を述べます。それプラス、形而上学的思考が生まれる機制についてです。
仏教は仏陀が「自己と法に頼れ」と弟子に言い残したように「法」を重視する教えである。法とはいくつか意味がある。人が則るべき規範であり、宇宙の法則であり、法則によって存在する事物である。総じて一定の規範や決まり、法則を意味しており無秩序や混沌と言うニュアンスの「虚無」とは真逆である。
iseakira @iseakira 2015年6月16日
@kikuchi_8 法を重視するとともに、それを絶対視せず疑って研鑽するベクトルを第一に重要視することで、固定観念化を牽制しているところがポイント。
菊池 @kikuchi_8 2015年6月16日
@iseakira さすがであられます。まさにおっしゃる通りですね。「法が真理」と言うと実体視が起きやすい。だから法を実体視しない、「空亦復空」の実践が大事だと。「法」を実体化したら形而上学と同じになってしまいますからね。実践や現象と相即的に「法」を理解すべきだと思います。
西洋近代哲学信者は仏教を虚無主義と曲解するが前述の通り間違い。イメージだけで物事を論じストローマン(相手の主張をねじまげて解釈する詭弁の一種)を駆使するあたり、キリスト教原理主義者が異教徒を「悪魔崇拝者」と妄想するのと酷似。やはり近哲信者は耶蘇やスピと共に「だんご三兄弟」だ(笑)
では何故に西欧近代哲学信者は仏教を虚無と曲解するのか?それは特殊な思考傾向に由来するはっきりした理由がある。彼らは個々の事物や現象を自存的な実体と見ることしかできない。従って実体であるはずの事物や現象が無常である事に耐えられないのだ。だからプラトンの様に形而上学的実体に逃げ込む。
現象は常に変化するが、そこには変化しない規則性・法則性がある。つまり現象には変化と不変の性質が含まれている訳である。華厳と易経の表現を借りると「事は易にして不易」という事である。ここを見抜けない者は現象の変化に頼りなさを覚えイデア説や一神教など数々の形而上学的迷信を作り上げた。
「法を重視するとともに、それを絶対視せず疑って研鑽するベクトルを第一に重要視することで、固定観念化を牽制しているところがポイント。」というiseakiraさんのご指摘は非常に重要。ここを見逃すと、仏教であろうと形而上学に堕してしまう。「久遠本仏」みたいなのが出てくるのだ。
ふぎさやか @maomaoshitai 2015年11月28日
日蓮正宗では
久遠元初の本仏(この世界が生まれたと同時に悟りを開いた最初の仏)=上行菩薩=日蓮大聖人
という解釈になります。なんでこうなるのというのは、向こうの口伝や法華経・御書の解釈もあるので省きますが。
)
Nirone @Via_Nirone7 1月18日
得意な事を「十八番(おはこ)」と呼ぶのは歌舞伎十八番が元ネタだと思ってたけど、「大無量寿経」で阿弥陀如来が立てた四十八の誓いのうち、浄土宗などでは最も重視され「王本願」とも呼ばれる第十八番目の誓いが本来の元ネタらしい。ホント仏教ってさらっと色んな言葉の元ネタになってんのね。
フェイド大帝 @FeydoTaitei 2014年8月15日
仏教は亀をひっくり返して遊ぶと 地獄に落ちる。これ豆知識ね!
@tomikanjizai @WorldWildWow
日本の仏教は大乗仏教という
ジャンルに含まれます。上座系の
経典も最初は入って来たのですが、
咒要素の強い密教等が日本の
貴族に好まれたのです。
ちなみに初期仏教は咒や占いを 禁止しています。 それらはバラモン教の十八番でした。 ただし、現代の上座仏教にもパリッタ という呪文のような物があるので、 純粋な原始仏教はもう残っていないかも。
ナーガールジュナの時間論・空間論 - j-world
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism16.html
“もし自性論を認めれば、ものの自性は自立・独立・永存していることになりますから、過去・現在・未来はそれぞれまったく別の事象を指しているのか、それと も同一の事象を指しているのか、ということになります。ところが、もし、それぞれが同じものを指しているとすると、過去も現在も未来もその区別がなくなっ てしまうという受け入れがたい事態に落ち込んでしまいます。他方、それぞれがまったく独立した事象であるとすると、明らかに認められる過去と現在と未来の 関係が、全く説明できないという別の受け入れがたい事態に落ち込んでしまいます。こういう受け入れがたい事態に落ち込んでしまうのは、もともと、時に自 立・独立・永存の自性を想定するという間違いを犯しているからだ、というのがわたしの理解するナーガールジュナの批判(1節から3節)です。
もう一つの興味深い批判(6節)は、「もの」と「時間」との関係に関するものです。
もしも、なんらかのものに縁って時間があるのであるならば、そのものが無いのにどうして時間があろうか。しかるに、いかなるものも存在しない。どうして時間があるであろうか。(中村元訳)
「時間はない」というのがナーガールジュナの結論ですが、もちろん、「時間は自性として存在していない」、という意味です。これをわたしなりに具体例を挙げて解説してみますと次のようになります。
たとえば、ふたりの子どもがかけっこをしているとします。ゴールにいる人が、まずA君が到着し、そのあとB君が到着したことを見ました。ここで「A君の到着」という事象と「B君の到着」という事象の間には、先後関係があることが認識されます。この先後関係のことを「時」というわ けです。「過去・現在・未来の三世」とは、事象の先後関係のことに他なりません。さらに、A君とB君がかけっこをしている間にC君はブランコに乗って遊ん でいたとすると、ブランコの「振り」の数で、A君とB君の到着の先後関係を数量可することができます。たとえば、A君が到着してからC君が「3振り半」し たときB君が到着した、といった具合です。これが時計の原理です。つまり、時間という何かがあって、水が川を流れるように、存在の背景でそれが流れている のではありません。あるのは、「A君の到着」という事象とか、「B君の到着」という事象とか、「C君がブランコに乗って遊んでいた」というような事象とそ れらの間にある関係だけです。これらの事象がなければそれらの先後関係、すなわち「時間」もありません。このことをナーガールジュナは
なんらかのものに縁って時間がある・・・
と言っているわけです。つまり、田畑さんが想定されているような、事象の背後に「時間」という背景が事象とは別に存在していて、それが「最初からプログラムされている」というようなものではなく、むしろ、ものから離れて時間は存在しないというのがナーガールジュナの語る時間です。
ナーガールジュナは、さらに、そういう個々の事象(もの)というものも、それ自体で自立しているのではなく、さまざまな原因や条件に依存しているので、ど こまでいっても、他に依存しないで自存するものはない、というぐあいに、自性論者の逃れ道をふさいでしまいます。それが、
しかるに、いかなるものも存在しない。どうして時間があるであろうか。
という後半の部分の、いわば「だめ押し」とでもいうべき批判になります。
まとめると、ナーガールジュナの時間論は次のようになります。
(イ)「先(過去)」とか「後(現在・未来)」は独立した別々の存在でもなく、また、同一存在の単なる別名でもない。それらは依存関係(縁起)をしめす。
(ロ)先後関係そのもの(時間)も、事象に依存している。だから、事象がなければ時間もない。
(ハ)時間が依存しているところの事象さえも、それ自体で成立しているのではなく他に依存している。
このように、時間はさまざまなレベルの縁起によって成立している。
(2)空間論
わたしは、ナーガールジュナが特別に空間について語っている資料を知りませんが、上記にあげた「時の考察」の章のなかで、「過去」が「現在・未来」に依存しているという論証のすぐ後、つぎのように言っています。
これ[過去が現在・未来に依存しているという論証の例]によって、順次に、残りの二つの時期(現在と未来)、さらに上・下・中など、多数性などを解すべきである。(4節)
この「上・下・中」が空間に相当すると考えられます。したがって、時間が「過去・現在・未来」という事象の先後関係として理解されるように、空間も「上・ 下・中」あるいは「左・右」などの物の位置関係として理解できる、と考えてよいのでないかと思います。つまり、ナーガールジュナが一つの例をあげて「あと も皆同じである」として残した空間論の宿題を、わたしなりまとめてみますと、
(イ)「上・下」「右・左」は独立した別々の存在でもなく、また、同一存在の単なる別名でもない。それらは依存関係(縁起)を示す。
(ロ)「上下・左右」の位置関係そのもの(空間)も、事物に依存している。だから、事物がなければ空間もない。
(ハ)空間が依存しているところの事物さえも、それ自体で成立しているのではなく他に依存している。
このように、空間はさまざまなレベルの縁起によって成立している。
というようなことにでもなるのではないかと思います。
このように、時間とは「先後関係」のことであり、空間とは「位置関係」のことであって、時間や空間は事物の背景として、事物とは別に存在している何かではなく、事物の間にある先後関係や位置関係そのものに すぎない、というのが、わたしの理解するナーガールジュナの時間論・空間論です。したがって、言うまでもないことだと思いますが、「時のながれ」というよ うなものをナーガールジュナは認めていません。彼にとって、流れるような何かがあって、それを「時」と呼んでいるのではないことは明らかだからです。
(3)「始め」の概念
このように、ナーガールジュナは、なんでもかんでも縁起として解釈してしまうので、ナーガールジュナの思想は「始めに縁起ありき」である、と解釈する仏教学者もいます(たとえば、長尾雅人博士)。ですから、
縁起とは時の流れのように最初からプログラムされているのでしょうか。
というご質問がでてくるのもやむを得ないと思います。しかし、ナーガールジュナはどこにも、まず縁起があって、それから、すべてが続く、というようなこと は、どこにも、書き残しておりません。むしろ「始め」とか「最初」という概念そのものが、縁起を否定するものとして、しばしば否定されています。「初めが ある」という主張は、原因や条件なしに事象があることを意味するからです。これは、決してナーガールジュナだけに限らず、初期の頃から一貫して、「始め」 の概念は因果関係・縁起を否定するものとして、仏教では認められることはありませんでした。世界とか存在に関する「始め」とか「最初」という言葉ははなは だ非仏教的な概念と言えます。
ある古い仏典には、ひとりの弟子が、「死後の世界はあるか」とか「世界は永遠であるか」とかなどについて教えてくれなければわたしは教団を去る、とブッダ に文句を言う場面がありますが、ブッダは、そのような事柄は人間の経験的知識の領域を越えるものとして、それらについて語ることは避けました。そのとき の、「わたしが説かないことは説かないと了解せよ」というブッダの言葉が示すように、「世界の始め」とか「無限の世界」とかという、形而上学的存在に関し ては語らず、というのが仏教の長い伝統です。したがって、すべては縁起である、というナーガールジュナの主張も、「初めから」という意味ではなく、「見渡 す限り」という意味における主張と解すべきだと思います。
”
四句
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%9B%9B%E5%8F%A5
Ⅱ 四句分別という論法
1 四句分別の起源と概観
(1)仏典は四句分別で出来ている
http://imachannobennkyou.web.fc2.com/84.htm
(2)西洋式に合理化した解釈
http://imachannobennkyou.web.fc2.com/85.htm
お読みくださり感謝します。
菊池 @kikuchi_8 唯識はユングとフロイトよりはるか格上。思想や哲学は世界をどう解釈するかという「世界観モデル」に過ぎない
Posted on 2017.02.19 Sun 13:42:41 edit
kokuhiken.exblog.jp
珍しくブログもやっている。
ずっといい忘れてたんだけどさ、私は思想の比較研究がすきなのであって、陰謀論も思想の一種として趣味で研究してるんだ。
支配層って思想系の資料は特に改竄やらかすしプロパガンダやらかすから迷惑なんだ。
だから支配層叩きもやっているわけよ。
嘘から本当を見つける作業さ。本ブログみても資料集的側面が強いでしょ?
時代が進むごとに、だんだん東洋と中東思想っぽくなるのが西洋思想。
そして自分らは最先端だと言い張る。 東洋中東を取り入れて改悪しただけなのにね。
異端審問性癖とか「信じるか信じないかの二択の善悪二元論」はまったく改善されないし、
実体思想は絶対そのままだし。
善悪の調和をニューエイジ系は言ったりするけど、
善悪の調和に貢献する無記(善悪二元論から逃れる方法の一つ)に対しては異端審問を食らわせてくるから口だけだな。
善悪の調和の元ネタはストア派ね。
グノーシスだと善悪二元論で調和はありえないからね。
でもニューエイジはグノーシス(物質=悪。霊魂=善)も取り入れている。
無記や不語怪力乱神に対してはグノーシス流の「信じるか信じないか断言しろ!」善悪二元論食らわせて来るから悪質。
結局オリエンタリズム。
西洋の最先端思想=古代中東東洋思想を科学的ヤソ的に改造しただけ。 最先端どころか周回遅れ。
工作員っぽいユングの思想って、阿頼耶識縁起の劣化です。 仏教は無意識の研究どころか、阿頼耶識という潜在意識を浄化して悪影響を取り除く技術まで瑜伽行唯識学派が4~5世紀に開発ずみ。
西洋のいう進化や進歩って悪化と劣化の間違いでは?
菊池 @kikuchi_8 2015年5月8日
オカルトと陰謀論のセット売り現象について議論していたのが、いつの間にか霊現象の有無について議論している事になっている怪。
閉店です @lakudagoya 2015年5月8日
@kikuchi_8 いつもこのパターンです。でも、デリケートな問題ではあるようです。
菊池 @kikuchi_8 2015年5月8日
@lakudagoya 信仰を否定された宗教者の火病反応に近いものを感じますが。しかし、現実には私もねこたさんもオカルト現象自体を否定しているわけでもない。「無記」とお互い言っていただけなわけですよね。それがいつの間にかあのような大炎上になっていて驚きました。
閉店です @lakudagoya 2015年5月8日
@kikuchi_8 うーん、このあたりの事は何故かうまく伝わらないんですね。なので陰謀論とオカルトのセット売りと、オカルトの実在については両論併記か別に話す必要があると思ってます。別に二枚舌ではなくて、うまく説得するにはどうしたらいいか?といつも悩みますね。
菊池 @kikuchi_8 2015年5月8日
@lakudagoya スピと陰謀論は野球とサッカーみたいにジャンルが違うとはっきりおっしゃっているわけですよね。野球もゴルフも趣味だという人は別に二枚舌という訳ではないです。しかし野球のルールをゴルフに適用することはカテゴリーミステイクと。そういうご趣旨と承っているのですが。
閉店です @lakudagoya 2015年5月8日
@kikuchi_8 自分は非魔導師の魔道師研究家なので、ホロスコープやゲマトリアがどのくらい効果があるのかは不明なんですが、そういう力が支配力の源泉になってるかもですね。この場合は、不可視な力を用いてと、それを人を騙す宗教詐欺の道具に使っての2パターンあるのでは?と思いますが。
菊池 @kikuchi_8 2015年5月8日
@lakudagoya そう思います。魔術という意味でのオカルトは現実に使用されていると思います。タヴィストックの洗脳科学とかはまさにそうで。「自己の意志を強制し人や自然を操作する技術」とクロウリーあたりが魔術を定義してたようですが、これは近代科学の定義にも当てはまりそうです。
閉店です @lakudagoya 2015年5月8日
@kikuchi_8 私はですね、魔術に関してもできるだけ当たり前に説明したいんですよね。潜在意識が現実を規定してるというものがあれば、いじめとかで自閉気味になってる事で人とうまくコミュニケーション取れなかったりする問題がありますよね。仏教ではそれを阿頼耶識と言いますが
菊池 @kikuchi_8 2015年5月8日
@lakudagoya 魔術を一つの現実的な技術として定義されるお考えは魅力的だと思います。私も唯識は興味あります。人間の思考や行為の積み重ねが、潜在意識のあり方を規定し人格を形成していく、という阿頼耶識縁起の考え方ですね。これはよく考えるとごく当たり前のことなんですよね。
閉店です @lakudagoya 2015年5月8日
@kikuchi_8 私は、スピ系のオカルトを超常現象のように扱う姿勢はどうも苦手なんです。たとえば否定しかされなかった人は自分に自信がない。自信がないから何をやってもうまく行かないみたいな当たり前の話なんですよ。なのでそれを変えるには潜在意識と行動を変えるしか。当たり前の事です
菊池 @kikuchi_8 2015年5月8日
@lakudagoya それはまさに「現行熏種子 種子生現行」という阿頼耶識縁起そのものですね。表層意識でなされる行動の影響が潜在意識に影響を与え、そこに蓄えられた影響力の残滓がある機縁を得て表層意識に上り具体的な行為として現象する。それがまた潜在意識に・・。という循環です。
閉店です @lakudagoya 2015年5月8日
@kikuchi_8 魔術ってですね、そういう仏教で言われた当たり前の法則を「認識」して現実を操る「認識(グノーシス)」の技なんですよね。まあこういうところは自然科学に対する人文科学のようなところがありますけどね、スピ系の言う大きな事じゃないと思う。こういう姿勢が嫌われます(笑)
菊池 @kikuchi_8 2015年5月8日
@lakudagoya 唯識も古代の深層心理学だと思います。性的抑圧で一元的に説明する感じのフロイトや集合無意識という形而上学を立てるユングよりも、より現実に即した理論だと私は思います。魔術も要するにそういう現実に即した近代以前からある経験科学という解釈ですね。納得できます。
閉店です @lakudagoya 2015年5月8日
@kikuchi_8 阿頼耶識や倶舎論ですっけ?そっちのほうがユングやフロイトよりも現実に即してますね。オカルトと切り捨てられるものは大抵経験科学なんですが、一応道教呪術でも何でもそうなんですけど、法則性というものを重視しますよね?スピ系はこのあたりの緻密な法則性無視しますしね。
菊池 @kikuchi_8 2015年5月8日
@lakudagoya 私はそう思っています。阿頼耶識は無記性で、善でも悪でもないという規定は現実的に思います。深層心理に心的実在が宿っているという話でもないです。それなりに経験的に確かめられた限りでの事が理論化されている趣です。法則性より超常性に拘る方が多いのでしょうか?
閉店です @lakudagoya 2015年5月8日
@kikuchi_8 経験則で確かめられた話で仏教などでは既に理論化されてますけど、それが言葉ではなく、体験でしかわからない真理!とか迫ってくるのが苦手なだけで。超常性にこだわる方で私の事を霊的な事体験してないからと見下してくる人は、とても多いですね。量産型イエスキリストさんとか
菊池 @kikuchi_8 2015年5月8日
@lakudagoyaなるほど。経験はそれなりに言語化しないと人には伝わらないですからね。「歩く」という現象は実際に歩いてみないと分からないにしても、「私は歩く」という表現は普通に通用します。超常性に拘ると、なにがしかの選民意識に囚われがちと思うのは私の偏見でしょうか。
菊池 @kikuchi_8 2016年5月
初期仏教の研究者(仏教の思想第2巻存在の分析より)によると我が国では江戸時代までは仏教の宗派を問わず学僧達が倶舎論や唯識学を「性相学」として学んでいたとの事。仏教の基礎学として哲学的なアビダルマ=論が学ばれていた。往生要集で有名な源信は一面では倶舎論研究の学者だったそうである。
しかし、明治以後は仏教宗派を問わず性相学を学ぶという伝統は廃れてしまったそうだ。ここにも憑依型戦術に侵入された原因の一つを見る。江戸時代までは学僧達が初期仏教や初期大乗の基礎学を修める事で異質な要素の流入を防いでいたが、明治以後はその枠が無くなり神智学などに侵入される隙を生んだ。
「桃栗三年柿八年」にかけて論蔵習得の難しさを例えて「唯識三年倶舎八年」と言われる。こういう格言がある事自体、日本ではアビダルマがしっかり学ばれていた事を物語っている。こういうよき伝統はやはり明治で廃れてしまっている。仏耶一元論や神智学化など、この伝統があれば防止できたはずである。
倶舎論と唯識学を習得したほどの学僧ならば、仏耶一元論や神智学など鼻で笑うはずである。鈴木正三などが切支丹に対したように、徹底的に論破した上で日本の伝統思想を換骨奪胎して西洋化する思想攻勢を完全に防ぎ得たはずである。こういう知的武装が解除されてしまったが故に、侵攻を許したと考える。
唯識では、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識という「心王」(しんのう)と、
貪瞋癡など煩悩の心所や無貪無瞋無癡の善の心所など「心所」(しんじょ)
の組み合わせで心=識の構造を説明する。心王とは心の要素の中心。心所とは心王に付随する心作用である。心王と心所が相応する。
唯識の心王心所論の原型は部派仏教の説一切有部の心・心所論だと思われる。
説一切有部を批判する事で中観派の空の哲学が完成し、空を踏まえた上で、説一切有部のアビダルマを再構成したものが唯識である。唯識とはいわば大乗のアビダルマである。アビダルマとは経・律・論の三蔵の中の論の事である。
唯識は最初ちんぷんかんぷんでよく分からなかったが、興福寺僧侶が書いた「唯識 こころの哲学―唯識三十頌を読む」という解説書を読んだら概要がつかめてきた。興味があられる方がおられたらお勧めする。心理や洗脳の分析はフロイトやユング(彼ら自体が罠だから)ではなく唯識を応用して分析したい。
唯識とフロイトでは、深層心理に対する捉え方が異なる。フロイトは表層意識と対立す深層心理はドロドロした動物的衝動が渦巻く領域という捉え方だと思うが、唯識では、深層心理は表層意識のあり方次第で善にも悪にもなり、深層心理自体は価値的に無記だと見る。唯識の捉え方の方が合理的だと感じる。
フロイトはタヴィストック理論に多大な影響を与え、ユングはグノーシスや錬金術など秘密結社と密接な理論なので、彼らの理論自体が国際秘密力の思想ツールと言える。従って秘密力の心理戦術や洗脳工作を分析する場合には彼らの理論をも俯瞰して見ないといけない。だから日本に根付いた唯識理論を使う。
「なんでこやつは唯識の話ばかりしているのだ?」と疑問に思われた方もいるかもしれないが、唯識の理論をよく使っているのは今述べた理由による。フロイトやユングに対抗しうる日本及び東洋の知的遺産を「破国際秘密力」に応用したいという意図である。この古代心理学は現代でも通用すると考えている。
それそのものが国際秘密力の思想ツールであるフロイトやユングを相対化し、日本人として自前の立脚地に基づいて彼らの心理戦術を分析する場合、唯識理論は極めて貴重な「視点」「枠組み」「武器」となると考える。唯識は奈良時代から日本に根付く伝統なのである。活用させて頂かない手はない。
前にも何度も書いているが思想や哲学は世界をどう解釈するかという「世界観モデル」に過ぎないと考えている。世界を分析する為の「枠組み」である。したがって、特定の思想哲学を絶対化する事は危ない。唯識もそういう態度で活用している。何より唯識自身がそういう態度なのである。そこがよいと思う。
つまり、フロイトやユングなど国際秘密力系の心理理論を相対化する為に唯識の視点・枠組みを活用するという事である。
菊池 @kikuchi_8 2015年3月26日
@aliceizer ユングは興味深いですね。心とは、集合無意識という共通の場と自我という固有の領域の二つから成る、というお考えでしょうか?私はそれとは違って、「自己」というあり方そのものが間主体的に形成されており、それが同時に固有のものである、と考えています。
菊池 @kikuchi_8 2016年4月9日
易経は「占いの書」と「義理の書」(哲学の書)という二つの側面がある。義理の書として易経が説く人生哲学は「謙虚」に集約されると思う。驕るとろくなことがないという「真理」は古代も今も変わらないのだろう。慎みを宝とした老子や我執を戒める仏教など年月に耐えてきた思想は大体同じことを言う。
易経の説く所では、四季の様に事物には勢いが伸びる時節と縮む時節があり、要するにバイオリズムだが、事物の循環の中でその時その場で適正な行動を選択する「中庸」が重要であるとする。勢いが伸びても驕らず縮んでも落ち込み過ぎない、中正の態度である。直線的な時間観の終末思想とはかなり異なる。
西洋の終末思想では、「世界の終わりが来て救世主が降臨して最終戦争が起きて」という断定的に空想を語るのが特徴だが、易経では「予言」というより、人生や歴史の経験則を「大体こうすれば大過はないのでは?」と人間の身の処し方を諭す形である。前者は宿命論だが、後者は「生き方指南」の趣である。
仏陀が「世界は有限か無限か」など答えの出ない形而上学的問いを「苦の克服」という実践には役に立たない命題として避けた態度を「無記」と言う。妙な終末論やオカルトが陰謀追及者を惑わし「援兵化」する道具になっているが、現実的な命題を中心とする「無記」の態度は誘導防衛策としても適切である。
易経のよい所も、空想的予言を語るのではなくあくまで歴史や人生の経験則に則って生き方の指針を示す所である。陰陽思想も元々は自然の観察から得られた一つの世界観モデルに過ぎない。自然界で四季が循環する様に人事もまたしかり、という解釈である。東洋の古典は現実的であまり飛躍が無い所が良い。
中尾 綾 @ayajet128 2016年4月9日
@kikuchi_8 ユングも易に興味をもってましたね。
菊池 @kikuchi_8 2016年4月9日
@ayajet128 そうですね。ユングは禅や道教など東洋思想にも興味を持っていたようです。でも、正しく解釈していたとは思えませんが。
中尾 綾 @ayajet128 2016年4月9日
@kikuchi_8 ユングはノーベル物理学賞を受賞したヴォルフガング・パウリと共同研究し、同期性と非因果的な連結の原理という論文を。ユング研究所から共著、自然現象と心の構造を刊行。ヘルマン・ヘッセ、ライプニッツも易を高く評価しています。
菊池 @kikuchi_8 2016年4月9日
@ayajet128 ご教示ありがとうございますm(_ _)mライプニッツが易の影響を受けたというのは何かで読んだ記憶があります。量子論の理論物理学者であるニールス・ボーアが易経や老荘思想に傾倒していたようです。
@kikuchi_8 @ayajet128 陰陽の2爻で万象を現そうとする易は、0と1で全てを表現するコンピュータの母といわれますね。
— 竹田 (@take35c) 2016年4月10日
2進数と東洋思想https://t.co/5QxM2gEJ5B pic.twitter.com/fXMIcXzGFJ
@kikuchi_8 @ayajet128 上座部のアビダルマ哲学では、物質は17刹那の間だけしか存在しないと考えます。
— 竹田 (@take35c) 2016年4月10日
1刹那で「生」じ、15刹那「住」し、1刹那で「滅」します。
通常の意識では1刹那の→観https://t.co/plEmb1YcjS
@kikuchi_8 @ayajet128 pic.twitter.com/HDSQvhGZdO
— 竹田 (@take35c) 2016年4月10日
菊池 @kikuchi_8 2016年4月10日
@take35c @ayajet128 ご教示感謝ですm(_ _)m初期仏教が説く生住滅の三相ですね。確かにコンピュータ科学の基礎になった2進法は陰爻と陽爻で万象を表す易経の世界観と似ていると思います。古代の東洋思想ほど、最先端科学が導き出した世界観と似ているという不思議ですね。
(似ているのでなく真似ただけ。
最先端科学=西洋発。
東洋と中東思想の西洋への流入量が増えるにしたがってそれを反映した科学技術が生まれただけ)
竹田 @take35c 2016年4月11日
@kikuchi_8 @ayajet128 全くもってご理解の通りです。
一切はあっという間に滅して、変化している→「一切行無常」。
全ては滅して変化しているので、変わらぬ自分など無い→「一切法無我」。
それが解らず執着したり、身体や意識を自分と思う事で苦の連鎖に→「一切皆苦」。
解らない人のために少し補足すると、刹那滅であるから一切行無常。全てはあっという間に生滅して変化している。 なので一貫して観察する主体などあり得ない。 ところが仏教ではその一貫した主体を「我」としている、故に一切法無我。
菊池 @kikuchi_8 2016年4月12日
@take35c @ayajet128 その通りですね。もし変化しない実体としての「我」があるとすると、「観察」という時間的幅を持った働きは一連の変化の過程なので不可能になります。例えば、甲という事物の一瞬を捉えた視覚Aが永遠に不変であれば、甲の変化する動きを捉えられません。
政志@綺麗な声に憧れる← @nioumasashi 11 分11 分前
@take35c @kitsuchitsuchi @kikuchi_8 @ayajet128 直リンはしないでおきますh ttps://twitter.com/ryomashiro/status/640472463923503105
久しぶりに易にいったなう。さて、これからご飯👍 pic.twitter.com/EhCLRuEEx3
— 真白リョウ 自由党大阪府第12区総支部長 (@ryomashiro) 2015年9月6日
菊池 @kikuchi_8 2016年5月21日
西洋キリスト教社会では、人と動物の関係に関して二つの見方があるように思う。一つは「人は動物より一段高い」とする見方である。もう一つは「人など所詮動物に過ぎない」という見方である。これは実はどちらも動物蔑視観に基づいている。動物を蔑視した上で人を上にするか否なの違いに過ぎないのだ。
キリスト教では人間は動物より一段高いという前提がある。反対のフロイト思想等は「生物学主義」と言われ、人間を動物と同じ次元に引き下げると批判される。生物学主義は人間など所詮動物だとする。正反対に見えるが、実はどちらも動物蔑視観が前提である。日本人は人も動物も等しく尊いと考える。
フランシス・フクヤマが東洋人は人を動物と同じと考えていると批判していたと記憶している。西洋では「動物は下等」という前提があるので人を動物と同一視したら人を卑しめる事になるのかもしれないが、東洋では人も動物も等しく生命であり尊いとするので「人と動物は同じ」と言っても意味が全く違う。
まとめると、西洋の「人間と動物は同じ」は、「動物は下等」という前提のもと、人間をそこに「引き下げる」というニュアンスであるが、東洋の「人間と動物は同じ」は、「人間も動物も等しく尊い」というニュアンスなのである。前提の違いを無視するととんでもない曲解をしてしまう事になる。
菊池 @kikuchi_8 2015年1月6日
スッタニパータ1035【 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」】←洗脳防止の指針にもなりうる名句かと。
「 ブッダのことば スッタニパータ」中村元訳(岩波文庫)から引用。碩学・中村元先生のわかりやすい名訳。定番である。一読をお勧めする次第である。
菊池 @kikuchi_8 2月17日
参考。唯識は現在でも十分活用できる考察が多い。個人的にはフロイトやユングなどより参考になった。https://twitter.com/kikuchi_8/status/828258668852371456 …
菊池@kikuchi_8 2月5日
唯識が言う対象を識別した際の意識の展開過程
①卒爾心(そつにしん)対象に気づく漠然とした認識)
②尋求心(じんぐしん)「これは何だろう?」と推求する心
③決定心(けつじょうしん)「これは〇〇だ」と判断する心
④染浄心(ぜんじょうしん)対象に執着する心➄等流心(とうるしん)執着心の持続。
菊池 @kikuchi_8 2月
対象認識の発生プロセスを唯識の用語を借りて分析①卒爾心(対象に気づく)②尋求心(「これはなんだろう?」と対象を推求)③決定心(対象について「これは〇〇だ」と判断)④染浄心(対象に愛着や嫌悪が発生)➄等流心(染浄心の継続)
〇「気を付ける」はできれば①~③で行う。④からは誘導の領域。
言葉は強力である。ある言葉を繰り返し刷込まれるとその言葉が示す概念が実在する様な感覚になる(宗教や形而上学)。我々が認識している「世界」も自分で知覚して確かめたものは少なくて(特に国際政治)、大半が誰かが与える情報によって構築されている。だから情報をしっかり吟味する事が不可欠だ。
「意志を強制して対象を操り支配する」というのが「魔術」の本質だが、その定義からすると情報操作や洗脳宣伝、思想工作などはまさに「魔術」そのものだと言える。これらは人間の概念的思考に働きかける。情報も思想も言葉≒概念の塊なので「魔術」を破るには言葉の性質を見破るのが近道だと考える。
言葉の性質の一つが何度か述べている「名と義の相互客塵性(言葉の表記とそれが示す概念・事物の結びつきは本来必然的ではない)」。ある事物をある名称で呼ぶのは社会的な慣習・約束事に基づく。だが、繰り返し使用している内に必然だと思えてくる。西洋のロゴス中心主義はここから来る。魔術の源泉。
ある事物をある名称で呼ぶと実質が無いのにその名称通りの性質があるように思えてきたり(「安倍は愛国保守」等)、証拠もないのに何かの存在を名辞で示すとそれが実在と思えてくる(造物主概念やイデア論など)。ある意味言葉は人間の心理的環境を作り出す力がある。だから魔術師は言葉≒概念を操る。
対「洗脳」「魔術」対策で着目すべき言葉≒概念の性質は主に二つあると思う。
①仮構作用。仮構とは言葉によって事物存在を認識の中に立ち上がらせる作用である。「丸いざらざらしたそれ」を「りんご」として立ち上がらせるなど。知覚が伴わない概念的存在は言葉とイメージ(表象)のみで立ち上がる。
②執着の対象。知覚的存在にしろ概念的存在にしろ、概念によって「それ」として認識された対象は苦(不快)・楽(快)・不苦不楽(どちらでもない)いずれかの値を帯びる。苦は引き離し、楽は引き寄せる。この時点で行動が促される。まとめると言葉の魔術は①対象ひいては環境を作り出し②行動を操る。
言葉の二つの性質①事物存在を認識の中に立ち上げる②認識者の行動を促す。かかる性質を持つ言葉=ロゴスを操作する事で魔術師は人の「(心理的な)環境」を作り人の「行動」を促し操作する。言葉の性質を悪用した技術である。よって対処法は言葉の性質を見破り言葉の魔術を無効化する事と結論できる。
唯識で言う「遍計所執性」とは概念の仮構作用によって立ち上がった事物存在に執着している心理状態を示す。つまり言葉の魔術に嵌められている状態である。「遍計所執性」を破り言葉の魔術に惑わされなくなった心理状態を「円成実性」と名付けた。唯識はある意味「魔術の破り方」そのものだと言える。
吾人が唯識を頻繁に活用しているのは魔術を破る為のヒントがあると見ているからである。国際秘密力は「意志を強制する技術=魔術」を駆使して世界を支配しようとする。印度で1500年以上前に生まれ、日本では1300年以上の歴史を持つ「唯識」という学問は「魔術を解除する方法」としても読める。
一神教や神秘主義などに憑依されていない伝統的学問を活用して魔術を破る。これぞ「破国際秘密力」の醍醐味であると思う。唯識は日本の伝統的学問の中でも極めて論理性が高い。陳那(ディグナーガ)などの論理学を伴うので当然と言えば当然であるが。論理性の高さ故どうしても活用する頻度が高くなる。
とはいえ、唯識を金科玉条にしては元も子もない。どのようなものであれ、あくまで「学問として活用する」「参考程度」という姿勢が大切だと考える。何分1500年以上前のものなので不合理な点も無きにしも非ずである。活用できる部分を活用すべきであろう。思考し活用するのは常に自分自身である。
@kikuchi_8 『魔術は英語の家庭教師』という本を思い出しました。「 自分用の「魔物」を「捕獲・飼育・調教」して、この「魔物」をとおして英語をおぼえるってとこだ。それから、単語をおぼえるのに魔術の象徴体系をつかう。」https://t.co/1QzosmOaC2
— yajima-mieko (@emieko) 2017年2月18日
@kikuchi_8 https://t.co/xAlvjU6jYN「語学はもともとは神様のものという発想」「英語学習本であると同時に魔術的情報処理の入門書」https://t.co/5ALrZKX6rd
— yajima-mieko (@emieko) 2017年2月18日
閉店です @lakudagoya 2017年2月19日
菊池氏のRTにエアリプ。
おばちゃん、それ古典的な記憶術やで。ローマ時代からあるやつ。
4福音書を12宮に関連付けて覚えた強者の話とか。
記憶術って便利やで。
本は一度読めば大抵どの本に何が書いてあったか思い出せる。
商品の棚に置いてあるものも大抵記憶できるから、買い物の無駄足が無くて良いな。
後はインプットに少し時間かかるけど、図書館や大型書店の本棚にどこにあるのか覚えたり。
でも日常のは忘れる。
知識は記憶術を駆使すれば、世界で一番軽い資産になるわけ。
金塊は重くて持ち運べないけど知識や智慧は空気よりも軽いからね。
ほーしゃのー等で脳みそのハードディスクがやられない限り。
あと、記憶術便利なのは一度読めば記憶できるから、本を借りて済ますことができる所かな?
遊牧民が知識や智慧を重んじるのは、持ち運べる中で一番軽い資産だから。
今のようにトラックがあるわけじゃないから、遊牧民は家畜かアクセサリーか知識か智慧くらいしか資産を持てない。
それだから、あまり持っててもしょうがないので溜め込む事があまりないから金離れが良い。
記憶術は古代の哲学者が使ってた通常能力です。
書物文化のあるギリシャ・ローマでも本を丸ごと覚えたりするの普通なのに、書物を使わないケルトとかどうやってたんだろ?
賛歌や詩の文化は文字を持たない地域の記憶術でもあるよ。
ほれヴェーダ宗教。
菊池 @kikuchi_8
西洋思想には「観念論VS唯物論」という両建構造がある。これを「火がついたロウソク」の喩えで「破両建」する。観念論とは「ロウソクがなくても火が単独で燃える」という説である。唯物論は「火はロウソクだ(火は無でロウソクに還元される)」という説である。どちらも不合理である事が分かる。
「火がついたロウソク」の喩えでは火を「精神」に、ロウソクを「身体」「物質」にそれぞれ喩えた。龍樹が「アートマンと心身の不一不異」を論証する為に中論で使った有名な比喩を借りたのである。
「火がロウソク抜きで単独で燃える」とするのは不合理だが、「火は非実在でロウソクは実在なので、火は全てロウソクに還元される」というのも不合理だ。ロウソクに依って火はあるが、だからといって「火はロウソクだ」と還元する事はできない。火とロウソクは同じでも異なるでもない。不一不異である。
「心身と自己」の関係も「火とロウソク」の関係と同様に不一不異である。心身の諸要素を離れて「自己」はないが「自己」は心身の諸要素に還元し尽くされる訳でもない。「音とメロディー」の関係と同じである。個々の「音」を離れて「メロディー」はないが、個々の「音」が「メロディー」なのではない。
たまたま読んだ某印度哲学者の見解があまりに変だと思ったから唐突にこの様な事を書いた。「心身とは別の常住不変のアートマンがある」という見解。証明しようもないが、不合理さは明らかである。「不変」だから心身の動きとは全く無関係で何をしようと影響がないので「努力」などは全く無意味となる。
「無我論」は「自己は無い」論ではなく「実体=自性としての自己は無い」論であり「他に依って(無自性なものとして)自己はある」論と言える。端的に「自己は無い」ではなく「依存関係によって自己はある」と言っている。「常住不変のアートマン」を設定する印度哲学よりこっちの方が合理的だと思う。
印度哲学は国際秘密力研究的にも重要なのでたまに調べるが、印度哲学・仏教哲学クラスタの人々は「アートマンの有無」という形而上学的命題を紀元前さながらに論じている。あまり意味があるとは思えない。定義次第である。「不変」という定義をするなら、あってもなくても全く無意味な概念と言える。
「不変の自己=アートマン」という概念が無意味である事は先に述べた通りである。文字通り「不変」であるなら「自己変革」「自己の向上」という「変化」はありえないので「努力」とか「修行」は全く無意味となるからである。かといって自己=無でもない。変化しつつ持続する。それが「自己」である。
「他に依ってある自己」は「変化しつつ持続する」ので「常住」でも「断滅」でもない。
よって常住論でも虚無論でもない。
そういった両極端を排するのが「中道」である。それはまた現実の観察から得られるので、
仮定と想像に基づく無意味な形而上学的思索=戯論を排する無記の立場でもある。
印度哲学を調べていると、印度哲学や仏教哲学の愛好家達が己の形而上学的見解に固執して無意味な争いをしているのが目に入り、うんざりする事がしばしばである。「ブッダはアートマンを説いたか」などどうでもいい話である。ブッダが説こうと説くまいと「不変のアートマン」は論理矛盾に陥るのだから。
正統印度哲学者など「常住不変のアートマン」に固執する立場からの「無我」説批判は「無我=自己は無い=虚無論」と曲解して藁人形論法の方式で非難する場合が殆どである。「無我」とは「自己に常住不変の実体はない→依存関係によって自己はある」という意味なので完全にこの批判は的外れだと言える。
「無我」とは「変化する現象として自己はある」の意味。
端的に「自己は無い」と言っているのではない。
「空」も同様である。「依存関係に基づいて生起する現象としてある」から「空」なのであって「無」ではない。
「空」であるものは「ある」のである。虚無論でも常住論でもない。だから「中道」。
「自己」とは「実体」ではなく一種の「ゲシュタルト」だと考える事も出来る。「自己」は心身の様々な要素(「五蘊」などと言う)に依存して存在するが、個々の心身の要素がそのまま「自己」なのではない。要素に依存して成立するが、要素そのものでもない。「音」に対する「メロディー」と同様である。
要素に依存して成立するゲシュタルトは個々の要素そのものではないが、個々の要素を離れてあるのでもない。誰が歌っても同じ「桃太郎唱歌」(プロフィール写真にちなむ)であるが、個々の歌い手の「声」「音」は違う。個々の「声」「音」を離れて「唱歌」があるのでもない。要素と全体は相互依存関係。
「アートマンという常住不変の実体がないと認識作用も宙に浮いてしまう」とあるインド哲学者が書いていたがそうではないと思う。抽象的に考えるからそういう結論に陥る。認識作用は抽象的ではなく常に具体的なものである。例えば「見る」作用は常に「具体的な何か」を見ている。「見る」一般は無い。
注記。「アートマン観念が無いと認識作用が宙に浮く」とは「Aさんのアートマン」「Bさんのアートマン」がないとある認識作用がAさんのものなのかBさんのものなのかが区別できないという意味である。印度六派哲学の立場に立つ某印度哲学者の所論である。
「アートマン(常住不変な「私」)がないと誰の認識作用か分からなくなる」という事は無い。認識作用の個別具体性を規定するのは抽象的な「私」ではなく認識が行なわれる「場」である身体が置かれた空間的配置である。空間的配置こそが「個」を規定する、と思う。そこに「私」という名称を与えるのだ。
逆に人から個別具体的な属性や作用、性質を全てはぎ取った末に残る「アートマン(私)」は何の特徴も持っていない無色透明で没個性な抽象的存在(「存在」と言えるのかすら疑問)なので、逆にこのアートマン概念を以てしては自他の区別ができなくなる。近代的な「個人」や「自我」の観念にも通じる。
ここで言っているのは一般的に使われる「個性」「個性的」とかの話ではなく、もっと原理的な話です。「個人」「自己」とはどのような条件で存在しているのか?という。人間は抽象的存在ではありえない。必ずある時間のある空間に配置されている。
どんなに「無個性」と言われる人間でも「個別具体性=個性」はどこまでも付きまとう。まず、人は特定の親から生まれ、特定の環境で育ち、ある時間にある空間を占めつつ存在する。この具体的条件を置いて「個人」は存在しえない。ここで論じたのはそういう個人存在が持つ不可避の構造についてである。
「あいつは個性的だ」「個性的でなければいけない」「没個性な人だ」等々の一般的な価値判断の話ではない。「自己」とか「個人」そのものの存立構造の話である。言葉の定義やニュアンスは「名と義の相互客塵性(能記と所記の結合の恣意性)」の為に様々な解釈が可。よって定義のすり合わせが不可欠。
前出印度哲学者は龍樹ら仏教哲学者は「認識主体は無い」と主張したとして批判していたが「認識対象と認識主体の相互依存性」を説いたのであって端的に「認識主体は無い」と言ったのではないだろう。「行為」と「行為者」も同じ。行為と行為者はそれぞれ実体としてあるのではなく相互依存的に成立する。
六派哲学(ヴァイシェーシカなど)の様な実体論に固執すると「存在は実体としてある」と頑なに信じるようになる為か「依存関係による生起=縁起」が見えなくなるので、長年印度哲学を探求してきたような人こそかえって不合理な結論に陥る場合があるようだ。印度哲学クラスタを観察して得た感想である。
「認識作用が属する常住不変の自己がなければ、ある認識作用が誰のものか区別がなくなる」はない。逆にあらゆる性質や属性を捨象した「自己」ではかえって自他の区別ができない。認識作用が誰に属するかを規定するのは、その認識作用が機能する「場」である心身が置かれた空間的時間的配置だと考える。
ある「個人」から具体的な行為、性質、属性等々を全てはぎ取っても残る「自己」とは無色透明なそれこそ無個性な「存在」?である。これでは自他の区別すらつかない。その人が生きてきた環境や履歴を離れて「個性」はない、と言える。抽象的な「自己」「個人」とは実は「個性」とは真逆の概念である。
印度六派哲学の一つヴァイシェーシカ派(勝論派)は「合理主義的実在論」とされる。しかし実体を想定する実在論は「合理的」である事は難しい。何故なら変化する現象と実体の概念は矛盾するからだ。だから実体観を維持しつつ整合性を保とうとすると現象と実在の二元論(二世界論)にならざるを得ない。
「不変の実体」という概念と現実に観察される変化する現象の整合性を取ろうとすると必然的に「実在界」と「現象界」を二分する二世界論になる。「イデア界」を設定したプラトンが典型である。
部派仏教の説一切有部も無常な現象と実体としての「ダルマ」(それ以上分割不能な存在の構成要素)を分けた。
実体論を徹底すると二世界論になるし合理的であろうとすれば無実体論に落ち着く。ヴァイシェーシカ派が実体論に固執しつつも二世界論になっていないのは思考の不徹底さ故だと言える。しかし、それがまた西洋哲学のプラトニズム的伝統とは違った印度哲学の健全な現実感覚をも表しているのかもしれない。
菊池 @kikuchi_8 2月14日
「『認識主体』を認識しようとすると『認識対象』になってしまい『認識主体』を認識する事はできない」と書いた。
所謂無限後退である。これは「認識するもの・認識されるもの」で構成される認識の構造から来る必然。「認識主体」と「認識対象」は常に相対しているので前者が後者になる事はできない。
この事を踏まえた上で神秘主義を分析する。新プラトン主義では「一者」という実在を対象として立てる。そこに認識主体たる自己が合一するという考えだ。これが何故「神秘主義」とされるのか。「認識主体が認識対象になる事はできない」以上「合一」は「神秘」と説明するしかない。要するに「逃げ」だ。
物事を論理的合理的に思考した上で、その限界を見極め沈黙する事と、最初から論理をすっ飛ばして適当なドグマを作って「神秘」と言い張るのでは全く意味が異なる。理性や論理の限界を弁える者は「無記」「沈黙」にはなるが、「神秘主義」にはならない。主義=イズムとは何らかの独断を意味するからだ。
新プラトン主義(西洋神秘主義の原型)は「一者が存在する」という独断と「一者から世界が流出した」という独断と「我が一者と合一する」という独断から構成される。これは理性を限界まで駆使して見極めた、という類のものではない。沈黙とは逆で言葉で明確にドグマを立てているからである。
つまり、新プラトン主義を原型とする西洋神秘主義では、言葉で明確にドグマを説きながら、その非論理性を誤魔化す為に「神秘」を持ち出しているに過ぎないのである。「非合理故に我信ず」の類である。中途半端に言葉を用いて「神秘」を語るくらいなら、最初から何も語らない方が誠実であると言えよう。
菊池 @kikuchi_8 2月13日
自明視されている「精神と物質」というカテゴリーも歴史のある時点で制作されたものかもしれない。古代日本では「モノ」という言葉で精神も物体も表した。仏教で言う「色」とは「いろ・形」の事で視覚という感覚との関連で物質が捉えられている。精神と物質の境界が西洋のカテゴリより曖昧である。
「精神と物質」を巡る様々な主張も収拾がつかない形而上学的命題の一つである。人の経験世界(知覚し認識する世界)の中で視覚や触覚の作用に「物質」という名称を与えた外部化し、それに対する認識主観の側を「精神」とした、という機制かもしれない。思う程「精神」と「物質」の境界は明確ではない。
菊池 @kikuchi_8 2015年1月6日
@ayajet128 @kitsuchitsuchi なるほど。フランクフルト学派のアドルノの理論がタヴィストック研究所の洗脳科学に大きな影響を与えたそうですね。フロイトがドラック本を書いているのですね。深層心理について研究したフロイトの心理学も洗脳科学の基盤の一つのようです。
中尾 綾 @ayajet128 2015年1月6日
@kikuchi_8 フロイトは1884年、コカについてという有名な論文を書いてました。マリファナじゃないです。コカがインディオの労働に欠かせないものとして使われていることや実験した結果、発見なども記してます。フロイトはアインシュタインと文通してましたね。養老孟司が翻訳してます。
中尾 綾 @ayajet128 2015年1月6日
@kikuchi_8 フロイトは1884年、コカについてという有名な論文を書いてました。マリファナじゃないです。コカがインディオの労働に欠かせないものとして使われていることや実験した結果、発見なども記してます。フロイトはアインシュタインと文通してましたね。養老孟司が翻訳してます。
菊池 @kikuchi_8 2015年1月6日
@ayajet128 ご教示ありがとうございます。中南米系の麻薬ですね。「アヤワスカ」という植物を神秘主義の実践に用いている人たちがおりますね。インディオがコカを傷口に塗って痛みを緩和させていたという話を読んだことがあります。猶太系の科学者同士で繋がりがあったのですね。>文通
中尾 綾 @ayajet128 2015年1月6日
@kikuchi_8 イエズス会についての社会学的研究はロヨラによって定められた心霊修行がそれに従う人々の全ての行動におのずと与えている影響を調べること。この研究はある特定の社会の栄枯盛衰に作用を及ぼしうる諸条件を、イエズス会の構造の分析から一般的に明るみにだすことになるだろう。
菊池 @kikuchi_8 2015年1月6日
@ayajet128 おお、これはまさにイエズス会の手口を現代の洗脳科学に応用しようとしたという決定的証拠になりそうですね。まさに「認知操作」の科学的研究以外の何物でもありませんね。ヴァイスハウプトもイエズス会出身でイルミナティの組織構成はイエズス会から影響を受けているそうです。
中尾 綾 @ayajet128 2015年1月6日
@kikuchi_8 アドルノに関する本を借りたのがかなり昔で、今日メモしたノートを見てたらイエズス会がでてきて。自分でもびっくり。当時はイエズス会にあまり注目してなくて。
菊池 @kikuchi_8 2015年1月6日
@ayajet128 なるほど。すごい発見だと思います。そうやって以前はさほど注目していなかった情報が後々繋がってきて一つの全体像が浮かび上がってくるのが陰謀研究の面白いところですね^^
中尾 綾 @ayajet128 2015年1月7日
@kikuchi_8 タバコを嫌ったヒットラーは覚醒剤の愛好家だった。主治医モレル博士はビタミン剤と偽って覚醒剤の注射をしていた。1942年夏以降依存症状を見せ始める。ナチスドイツはパイロットたちに覚醒剤を支給。英国、連合国、ソ連軍も使用。フロイトはコカイン依存症だった。
トゥーレ協会から勉強した方がいいかも。
菊池 @kikuchi_8 2015年1月7日
@ayajet128 ご教示ありがとうございます。ヒトラーの演説時とかの異常興奮、自己陶酔はパラノイアだからと説明されることが多いですが、薬物の効果でもあったのですね。納得です。フロイトがコカインに関する本を書いていたことを教えていただきましたが、コカイン依存症だったのですね。
子子子子子(ねここねこ)
@kitsuchitsuchi
陰謀追及者必読リスト
※本を出せる陰謀論者のブログや本や講演会は以下(最低限心理操作術と支配層の視点を学んでから)で判断基準が育つまで一切無視しないと信者化!
ネット上に要約があるものもあるので検索推奨
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チャルディーニ『影響力の武器』
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子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 2016年11月27日
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グーラ『論理で人をだます法』
野崎昭弘『詭弁論理学』
架神恭介『完全教祖マニュアル』
マキアヴェリ『君主論』
大田俊寛『現代オカルトの根源』←@kikuchi_8様とねこたさんオススメ
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/801322992584232961 …
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菊池 @kikuchi_8
オカルト好きの人におすすめの本がある。「現代オカルトの根源」大田俊寛著。現代のオカルトの起源が思想史的に解明されている良書。現代の各種思想・思潮というものは必ず過去を遡れば起源やネタ元がある。その辺に自覚的だとどっぷり洗脳されない耐性が身に就くと思う。思想史的な予備知識は…
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子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 2016年11月27日
子子子子子(ねここねこ)さんが子子子子子(ねここねこ)をリツイートしました
ハフ『統計でウソをつく法』
孫子
佐藤優『神学の思考』
聖書(創世記、出エジプト、マルコ伝、黙示録)
魚川祐司『だから仏教は面白い!』
稲生平太郎『定本 何かが空を飛んでいる』
プラトン『国家』
フリース『イメージ・シンボル事典』
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子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi
君主論や完全教祖マニュアル以外の良書集↓
https://twitter.com/ououdaiei/status/791890550550990848 …
https://twitter.com/ououdaiei/status/791891112382205952 …
https://twitter.com/ououdaiei/status/791892495584022528 ……
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子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 2016年11月29日
子子子子子(ねここねこ)さんが菊池をリツイートしました
『統計でウソをつく法』
①誰がそういっているのか?出所
②どういう方法で分かったのか?調査方法
③足りないデータはないか?隠されている資料
④いっていることが違ってやしないか?問題のすりかえ
⑤意味があるかしら?どこかおかしくないか?
子子子子子(ねここねこ)さんが追加
菊池 @kikuchi_8
@kitsuchitsuchi 「詭弁論理学」はいいですね。あと、香西秀信氏の「論理病をなおす!」「レトリックと詭弁」「論より詭弁~反論理的思考のすすめ~」なども参考になりました。工作員の駆使する詭弁術の種明かし本としても活用可能だと思います。
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子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 2016年11月29日
knznymmmy”統計でウソをつく法はおもしろいぞおー♥
全くなにひとつも不正なしに統計を出した結果を操作する実例が紹介されてたりする”
必読真偽判定術
史料批判方法
http://1st.geocities.jp/huhito80/F-M-Siryouhihan.html …
歴史学研究法
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%B3%95 …
1件の返信 8件のリツイート 4 いいね
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 2016年11月30日
木下是雄『理科系の作文技術』
”事実(証拠をあげて裏付けできる)と意見(判断、推論)をきっちりわけろ
事実を述べる文に主観に依存する修飾語(意見)を入れない…
ここからは「意見…区切りを明確に…”http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-118.html …
藤村シシン『古代ギリシャのリアル』
井筒俊彦bot @Izutsu_bot 1月27日
ただ、いわゆる客観的現実と、いわゆる主体的意識とが混淆し融合して渾然たる一体をなしたものが現世している。それが見方によって、力点をどこにおくかによって、客体的現実になったり、主体的現実になったりして現れてくるだけのこと。『イスラーム哲学の原像』
読んでくださり感謝しますが、この人のツイートとブログを直接お読みになってくだされば幸いです。
がこつ王子 我は山の骨、キマイラ 峨骨 @Chimaera925 のゲーム実況オススメ
Posted on 2017.02.15 Wed 21:16:13 edit
キマイラか?
いや、パンだ!
イエスの肉体と化した王子が、
甘き血潮を身にまといその身を焼く!
その食パンの荒行が、
同居人マートンの精神を浸食していく……!
※訳:パンにジャムをつけて焼いているだけ。
制作者はパンの焼き方について真剣に議論したのだろうか?
峨骨(Gakotsu)
酒を飲みながら淡々と実況配信等をしていきます。
https://www.youtube.com/channel/UCealzz3NJPwNk0iVXqLGAwg
峨骨はパンのリスエストが通ってうれしいな。
峨骨はパン=イエスの肉体。ゲームでジャムまみれになっていたのはketueki の比喩表現であり最後に焼かれないといけないのは生贄そのものだよね、槍ならぬフォークに刺されないからぜったに違うっぽいし、ギャグ解釈だからマニ受けちゃだめよー。
追加中 本当の自分=実在しない嘘。×自分 ○環境から染み付いた癖。
自分なんて存在しない。「癖」=偏り、習慣、傾向のみが存在する。
ずっといい忘れてたんだけどさ、私は思想の比較研究がすきなのであって、陰謀論も思想の一種として趣味で研究してるんだ。支配層って思想系の資料は特に改竄やらかすしプロパガンダやらかすから迷惑なんだ。だから支配層叩きもやっているわけよ。嘘からほんとうを見つける作業さ。というの本ブログみても資料集的側面が強いでしょ?
陰謀論とは陰謀について論ずるものなので、言葉の定義特に中核概念が曖昧だと何を言っているのかわかっていないってことわかったきになっているだけ
言葉に鈍感なものは言葉に操られる
支配層最大の武器はロゴス、つまり理性(ロゴス)的に使用される武器「言葉」(ロゴス
使用は理性的でも効果は感情的であるように言葉を操るのがポイント
自分自身使用者は自身が自身の武器で操られないように気を付けている
リンゴ=リンゴの木からはえるもの
それでもいいをなさないがさらいにひどくなると
リンゴ=リンゴの土から噴き出すものみたいな定義自体が完全にまちがっていたいるする。
X=XのA Aすら間違っている
峨- [人名用漢字] [音]ガ(呉)(漢)山が高くけわしいさま。「峨峨・嵯峨(さが)」[補説]「峩」は異体字。
この人はおそらく神かみを信じていないが、神シンにかなり近い。
魔法使いだよ
昔Twitterで回ってきた、僕が大好きな2枚の図。(正式には「Books give you a better perspective」というらしい。) pic.twitter.com/u0AGcoM8nT
— すかいゆき / 藤原惟 (@sky_y) 2017年2月12日
峨骨 @Chimaera925 2月14日
視点が変わっても、全部書き割りだね。なんて皮肉なんだ。
峨骨 @Chimaera925 2015年7月17日
古来から神社売春や寺売春、同性愛なんて普通だったし、性はタブーでもなんでもなかった。日本人の伝統だとか価値観だとか言われているものは、キリスト教。
国家神道だってクリスチャンの平田篤胤が現人神思想とスウェーデンボルグ思想を元ネタに創作した和風キリスト教。
ここから価値観が変わった。
峨骨 @Chimaera925 2015年7月30日
大体、陰謀なんざ何処にでもあるし、
少し歴史を見れば権謀術数渦巻く権力闘争に
他国に対するや野望、陰謀など腐るほどある。
人の歴史は殆どそれだ。
それが無い?
運命や行動は全て予定されていて神の予定通りに行動しているとでも?
キリスト教の運命予定説か。どんな手を使っても勝者は肯定される訳だ。
ねこた(基地外勇者様) @lakudagoya 10月20日
@Chimaera925 失礼します。もう峨骨さんならおわかりだと思います。
やつらの世界を支配するペテン術はみんな西洋魔術の技術の応用でできてると思います。
それを考える場合、ロック爺さんが悪い陰謀論なんて意味ないと思いませんか?
敵は知識と技術と思想のトリニティなのに。
峨骨 @Chimaera925 10月20日
@lakudagoya ええ、取替えの利く駒ですから(笑)
排除しても代わりがいるもの。
特権や力があるとしたら、それを与える源泉、根拠となるもの、それを命じたもの、根底となる思想や知識、技術に着目しますね、普通は。
@lakudagoya ただ、思想や源泉だけに言及すると論理の飛躍と取られかねないので、代えの利く部品の役割の一部と認識してそこに繋がるヒトモノカネの流れを追う作業も必要かな。核心部分を見て結論を取り出しても、そこへ至るまでの証明が出来なければどうしようもないので。
ねこた(基地外勇者様) @lakudagoya 10月20日
@Chimaera925 もちろん、その作業が必要なのは言うまでもありません。
ですが、その思想のフィルターを通してやつらにとって金や権力でさて自分の意思をこの世界に押し付けるためのツールに見えます。
この世界をどうにかしたいからあらゆるものを利用するという視点が必要です
使い方わからん @Show_BujuBanton 2017年2月14日
↓宗教(特に十字架)家真っ青
その後顔真っ赤にして反論しそう。
まともな反論なんか出来やしないであろう。
峨骨 @Chimaera925 2017年2月14日
どれを殺して食おうと、選んで殺しているのは一緒だ。選んで殺す対象が違うだけで貴賤は無いし、善悪もない。それを許さないのは、許さないことにして自身の脳内にある序列や貴賤の下位に他者を組み込みたがる者だ。
誰かに代わりに殺して貰って、パッケージで包装された死の匂いのしない商品を食っていると、感覚が麻痺するのかもしれないな。自分の手で殺した事が無いから、それを野蛮だの残酷だなどと簡単に言える。殺さなければ食えない。好き嫌いや善悪の感情論が入り込む余地は無い。
殺して食うのが宗教的な罪ならば、全知全能とやらの神は何故、人が食わねば生きられぬように創造したのやら。
そもそも、何故、そのような行動が取れるやら。
創ったというならば禁じられる以前に、「最初から出来ない」「しようとも思わない」のでは無いのかね。
そうせねばならぬようにしておいて罪?
罪悪感を植え付けておいて、罪悪感を利用して言いなりにする常套手段だな。償えと言いながら、償えと言う連中に奉仕させる。まったくもって馬鹿げたペテンだ。
死がケガレなら、この世はケガレに溢れているな。おー怖い怖い。
セドレツ納骨堂https://t.co/CjnEAJgAK0 pic.twitter.com/zKNAbehGj6
— 峨骨 (@Chimaera925) 2017年2月13日
絶対的な正義や悪、道徳に不道徳、常識に非常識、法、真理、それらは存在しない。存在するのは解釈。環境や時代、価値観、民族、統治や管理の為のご都合主義、要求、これらによって生み出された解釈でしかない。ある時代と場所で善とされたものが悪となり、また別の場所では善となる。普遍的ではない。
法は宗教的な法ではない。法で裁かれる罪は宗教的な罪とは異なる。便宜上作られたソレに反する者は宗教的な罪を犯した者ではない。マナーや常識も同じだ。しかし、日本では混同されている。故に、それらを利用する者が容易く絶対的な存在であるかのように神格化される。カルト教の運営法そのままだ。
こっちはローマのサンタマリア・デッラ・コンチェツォーネ。通称、骸骨寺。https://t.co/xTnGgILzMz
— 峨骨 (@Chimaera925) 2017年2月14日
あとはミラノにもサン・ベルナルディーノという骸骨寺がある(3・4枚目)。ポルトガルのエヴォラ人骨堂、ペルーのカタコンベもあるな。 pic.twitter.com/PisR8rC1qz
峨骨 @Chimaera925 2月14日
スカル・アンド・ボーンズ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BA …
んで、こっちはイェール大学にある秘密結社。
>ウィリアム・ハンティントン・ラッセルと、従兄弟のサミュエル・ラッセルが1832年に設立した。また彼らはラッセル商会とカルパーリングをも創設した
峨骨 @Chimaera925 2016年7月19日
自由や平等、これもまた呪いだ。自由や平等を万能の魔法のように捉え、他者のそれらを尊重するでもなく勝ち取ろうとする。そうして、自由や平等を与えると偽りの誓約を行った者に空手形一つで支配される。まるで、自由や平等が数限りある特権であるかのように。呪われて勝ち取る為の闘争に呑まれる。
峨骨 @Chimaera925 2016年12月6日
今日も元気だ。酒がうまい。ドーキンスの「神は妄想である」なんぞツッコミ入れながら読んでみる。
社会や国家、貨幣、全部妄想だから、神が妄想でも今更感が。大多数が共有する妄想が常識で現実とされているだけで。
物質やシステム、媒体で括って偶像や呪物にすると、まるでそれらが現実に存在し、影響するかのように振る舞う。生じた事象は、実際はそれらを信じる人々が、それらが真実であるかのように振る舞った結果。偶像や呪物は何もしていない。後からやってきて祝福したり呪ったりして自分の力だとのたまう。
神が世界を作ったなどと言う連中は何故、救世主を崇めるのだろう。
この地上に苦しみが溢れているのは神がそのように作ったのだとしたら、
そんなものの遣いや子なんぞやって来たら、普通に考えて崇めるどころか抹殺するだろうに。
苦しみを与えておいて救済者を遣わして崇めろと言うのだから。
俺よりも遥かに賢いであろう人々が、何故そのような巨大な見えているマッチポンプを無視して崇めるのだろうな。人々を支配し富を集める為に崇めさせる舞台装置として用いる為に、信じなさいと訴えて利益を得る者が全くそれを信じていないのなら話は別だけども。
神の都合でそのように作っておいて贖罪しろって馬鹿かよ。テメェの都合で原発作っておいて、事故が起きたら賠償金を国民に負担しろ、要は責任は国民にあるから賠償しろなどという意味不明な言い掛かりと大して変わらない。
峨骨 @Chimaera925 2016年7月30日
@Chimaera925 人脈は金脈。経歴も金脈。経歴は素晴らしく見えるように、詐欺にならない範囲内で負の側面を省き粉飾する。成功者は競争しない。競争させる事で利益を得る。リスクも犯さない。たまたま成功した者は、その経歴を利用して評論家やセミナーで稼ぐ。ハイリスクを負うのは顧客。
競争や闘争を煽る者は競争しないし、闘争もしない。安全地帯で談合しながら、人々を競争させて利益を得、闘争させて利益を得る。煽動される人々が居なくなれば、彼らは食っていけなくなるから肩書きや経歴を利用してさそれらを煽る。
「私はこれで儲かった、あなたも真似をすれば儲かりますよ」と情報商材やセミナーでそのノウハウを提供する成功者。ノウハウは飯のタネ、独占するからこそ実践する上で強みになる。売れば売るほど陳腐化して参入者が増えて儲からなくなる。それなのに売る理由は一つ。
(中核を抜いて真似されても競合他社になれず地位を逆転されないように劣化させてから売る。
劣化コピーを粗製乱造するのが一番儲かる。
公開されたノウハウは表ノウハウ。裏ノウハウを探し表と合体させて初めて使い物になる)
tyuukakuwonuitearukaramanesaretemokyougoutashaninaranaikarautteiru )
閉店です @lakudagoya 2月14日
人工的なエデンの園で純粋培養で育てられたお嬢様は社会経験ないまま組織の実権を握るけど、男と張り合ってきたフェミよりも社会常識というタガがないので、ものすげーわがままをして組織を潰したりするのよくある。
マジで純粋培養お嬢様はサイコパス以上にこえー存在っすよ!
峨骨 @Chimaera925 2月14日
モノによるけど、行動力のある純粋培養のお嬢様で親が親バカでなまじ権力持ってると手に負えない。あれは災難だった。予想外、想定外の事態に巻き込まれて、学生時代えらい目に遭いかけたな。手も出してねぇし、押し掛けられて抵抗した被害者なのにバカ親が出てきて。親娘揃って人の話を聞かない。
暴走お嬢様よりもヤクザの娘の方がまだマトモだったし、その親もまだ話が通じた。どっちも病んでたけど。人の話を聞かず、人の都合を考えない奴が周りにかたらと多かったな。
@mabatakey 手出してないのに、「娘を傷物にしたな。面貸せや」と呼び出し食らってね。娘の狂言だと理解させて、詫び入れさせるまでが物凄く面倒臭かったよ。
フリーランスでネット関係だよ。アフィやオークションではない。
何でも屋だね。文章書いたり、翻訳したり、テープ起こししたり、特にコレってのは無いよ。国外の仕事だとドル建てで割りがいいから、最近は専ら国外の仕事探して拾っている。
失業保険無いから、働けなくなると詰むので、社保完備のバイトと掛け持ちした方が無難っちゃ無難だろうね。お勧めはしないよ。
風鳴 道草 @mabatakey 2月14日
@Chimaera925 それでも僕はその道に進みたい。ならば、答えはひとつ。弟子にして下さい!
峨骨 @Chimaera925 2月14日
@mabatakey んな大層な者でもないから(笑)堅実な仕事で根気よく実績と信頼を築き上げる、単純で地味で教えるような事は無いよ。必要が学ばねばならない事を教えてくれる。起きた問題が教材だね。必要になった事をその都度学んで身に付けて、手札を増やして、やれる事を増やす。地味だね。
IT革命の時みたいに自分で営業かけて仕事取ってくる手間が無いから楽になったものだよ。
自分ひとりでケツを捲れる範囲をこなして、必要以上に手を拡げすぎないのが鉄則だよ。どうにもならない、なりそうもない仕事は最初から請けてはいけない。安請け合いは出来ないね。ホイホイと安請け合いする奴が居たら信用できない奴だよ。
y 順序つっても、フリーランスの求人フォーラム探して登録して仕事漁るのが手っ取り早いかな。主婦向けで簡単なんて触れ込みの奴は簡単だけどピンハネがな。スキルが無いなら、その分野の派遣なりバイトなり会社に所属してスキル身に付けるのが独学より手っ取り早いだろうね。
とはいえ、日本はこの分野が政策で拡大されて行くのが分かりきっていて、尚且つ派遣の大手も絡んで来るだろうから単価が下がっていくのが分かりきっている。国外の仕事を受注する上で、英語を多少は読み書きできる方が良いだろうね。
あと役立ちそうな事と言えば、税務申告と節税のやり方は調べて活用すべきだ。脱税じゃなくて、あくまで節税。
前世系の純正培養、箱入りお嬢様(山田花子似)は俺を恐怖させた数少ない人間の一人だ。ストーカーはぼちぼち居たけど、あれほどの恐怖は無かった。今なら淡々と対処できるのだろうけど、まだまだ対処に慣れていない当時は強敵。人の話を聞かないから、今でも手こずるだろうが、付け入る隙はやらねぇ。
峨骨 @Chimaera925 2月14日
高級ブランド服としてのバーバリーを買い続ける太客からしたら、低価格路線なんて出されたら安物イメージがしちまうよな。若者にも買いやすい価格帯なんて安価な路線取ったって、若者には金がないんだから無駄無駄無駄ッ!百貨店が業績低迷して買いに来る層は、安物が欲しいわけじゃない。
百貨店というブランドの高級ブランドのイメージを買いに来るわけだ。こいつを中途半端に価格破壊すると店舗の少ない百貨店は特別な商品を売る少数店舗・特化型から、多数店舗・薄利多売型と競い合うハメになる訳だ。最初から規模で負けている。
MBAの教本によく出てくるV字カーブのグラフ。縦軸が利益率で横軸が規模。中間、V字カーブの死の谷が最も儲からない。外食チェーンやコンビニのように多売薄利、大規模化、規模産業で収益を上げるか、少数の店舗で専門性に特化したニッチな商品 pic.twitter.com/tAPFjPZd4m
— 峨骨 (@Chimaera925) 2016年9月15日
規模産業にとって、最大の敵はV字カーブの死の谷を越えてくる企業。参入されるとパイの取り分が少なくなる。規模産業同士は買収や経営統合、パートナーになりうる。独占すれば独占禁止法に引っ掛かるから、最終的には寡占。Appleとマイクロソフトの関係。新規参入を阻む利益は一致している。
政治も寡占。寡頭政治、独裁政治ではない。共産はニッチ産業と同じで、あのポジションが一番利益を得る。自民が富裕層や大企業向けの政策を行うから、そこから漏れた層から共産等は支持を受ける。弁証論の正と反と合。反対されることで正は正となり、正があるからこそ反が成立し、権力は維持される。
そして、中央で起きている政治によって決定されると錯覚させる。そこで話し合われ決定したかのように、まるで独立国家であるかのような偽装が可能となる。その偽装が維持される間は、仮初めの権力は特権として機能する。
(陰謀論業界も
①外食チェーンやコンビニのように多売薄利、大規模化、規模産業で収益を上げるか、
②少数の店舗で専門性に特化したニッチな商品 で分かれています。
①はほとんどがひも付き。②にも当然ひも付きがいる。
①にひっかからない層を取り込むのが②)
峨骨 @Chimaera925 2月14日
んで、低価格商品でテコ入れか。一気に大規模展開型に移行できないとV字カーブの谷間に転落してそのまま消滅コースだ。栄枯盛衰だなぁ。
日本企業にありがちだよな。業績悪化すると安売りしてそのまま自爆するヤツ。んで、中の人の待遇が悪化してノルマもキツくなってますます士気が下がる。安くする分、どこかから削らないと採算取れないから従業員から絞る。そして優秀な営業や開発、末端のやり手販売員が抜けていく。
トップダウンで上層部の頭脳が決定した戦略があれば上手く行くと勘違いしている企業は、末端の声なんざ聞き入れないし、業績悪くても末端の努力不足だなんて意味不明なことを言って泥舟でふんぞり返っている。能力と判断力があるヤツは「こいつはヤバいな」と沈みかけた泥舟から逃げる。
あるいは自分が抜けたら大変な事になると、気負って逃げられなくなって、あれこれ抱え込んで自滅する。これも多いな。職場にぶら下がって一日言われた事していればなんとなく安泰だと漠然と考えている層はこんな事にはならないのだが。評価制度なんて言っても、コストカットにしか使われんから
峨骨 @Chimaera925 2016年12月7日
「心が貧しいから貧困になる」なんの事はない、腐れカルトやスピリチュアル、自己啓発と一緒だ。苦しみの種を植え付けて、金や労力を吸い上げ、「苦しいのは修行が足りないから」「成長や進歩していないから」と縛り付けて奴隷にする。そういや、この発言した奴って親学関係者だっけか。
峨骨 @Chimaera925 2016年9月21日
スピリチュアルやクリスチャンサイエンス、ニューエイジ、自己啓発、カルト教ではこの逆を行い欲望や自意識を増大させて破滅へ導くものもあるので、お勧めはしない。よくもあそこまで依存させ、生きた傀儡を作るようなおぞましい手口を広めようと思うものだ。良いことだと思っているなら救いようがない
峨骨 @Chimaera925 2016年10月10日
カルヴァン派の予定説では、神の救済に預かる者は最初から定められている。禁欲的に天職に勤める事で成功する者が選ばれるのではないか、と。ここで言う禁欲とは、目標(利潤の追求)の為に全精力を傾ける禁欲さ。己の才覚や努力で富を為したと考える中産階級や成金から支持を受けた。エリート選民思想
これに嵌まった者は自分が特別だと思うだろうな。天職に禁欲的に励み(利潤の追求をした)己の才覚や努力で富を築いた、俺は特別だ。神に選ばれているに違いない、と。ここから宗教色を脱色すると政商の説くありがたい労道教の教えやビジネス自己啓発になる。神が出せないから成長や感謝、自己実現等と
峨骨 @Chimaera925 2016年6月2日
解決を成長・自己実現に、実践を努力や感謝、ポジティブシンキング等に置き換えると自己啓発になる。日本の労道なんかまんまソレ。成長や自己実現の定義が無いから、都合のいいようにやりたい放題。やってる事も洗脳と変わらん。峨骨 @Chimaera925 2016年6月2日
スピリチュアル系は終末思想もセットで付いてくるから、毒にも薬にもならんどころか毒にしかならねぇ。不安を掻き立てて、実践しても解決しない。解決しないのは実践(信仰)の仕方が悪いのだ、と。信じる者は救われる、救われていないのは信仰が足りないから。正気の頭ならひっかからんのだけど。
峨骨 @Chimaera925 2016年6月2日
エヴァなんかモロにあっち系。シンジ君を家族がキリスト教系のカルト教の信者で、カルト教に入信させられた被害者として見るとタチの悪い自己啓発セミナーアニメに見える。ネガティブなシンジ君を見てポジティブになればいいのに、と思ったら思う壺。正解は「逃げちゃダメだ」の逆。逃げなきゃダメだ
峨骨 @Chimaera925 2016年6月1日
大本の元幹部で生長の家創設者の谷口雅春はクリスチャン・サイエンスの本を幾つも翻訳し、プロテスタント系のカルヴァン主義への反発で生まれたニューソート https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%88 … を光明思想として日本に持ち込む。自己啓発やビジネス自己啓発、ポジティブ思考はコレ
峨骨 @Chimaera925 2016年2月13日
意味や価値、成長や進歩に強迫観念持ったタイプは多感な時期に人格を否定されて育つか、条件付けでしか存在を肯定されなかったケースが多い。洗脳の第一段階の自己否定が完了しているから、あっさり洗脳にかかる。もしくは既に洗脳されている。自己啓発、クリスチャンサイエンス=スピリチュアルとかね
峨骨 @Chimaera925 2015年1月7日
オカルトまがいの子供騙しが蔓延る。オカルトそのものは実在する。大抵の人が想像するようなソレでない。オカルティックなシンボルやレトリックを剥ぎ取れば意識や無意識をコントロールする技術。自己啓発系はオカルトの技法を使って科学の体裁を取るが肝心な部分が嘘なんてざら。毒にしかならん。
峨骨 @Chimaera925 2012年11月16日
オカルト中毒もそうだけど、自己啓発中毒もタチが悪い。疲れて栄養ドリンクを大量に飲んで元気になったつもりになるようなもので、それらは根本的な原因を取り除きはしない。実践したから良くならなくてはいけないと言う脅迫観念と、良くなっていないと言うギャップがまた次の投資を生む。
ライフハックにしても自己啓発にしてもそうだけど、損してはいけない、得しなくてはいけない、利益につながらなくてはいけない、すぐ結果を出さなくてはいけない、時間をコストに一分一秒生産性を上げなくてはいけない、成長しなくてはいけないって思想は生き難くてかなわんだろうな。
峨骨 @Chimaera925 2012年2月3日
自己啓発書や自己啓発セミナー行って自分を洗脳して、心身のバランス崩し、燃え尽きてしまうケースをしばしば見かける。上からの要望はカイゼンで下からの要望は甘え、そうやって押さえつけられなくなって来たら外国人移民させて使い捨ての労働力確保。出来る範囲で生きやすい世の中にして行きたいね。
峨骨 @Chimaera925 2011年12月21日
自己啓発マニュアルにあるような自尊心あるいは自信を得たりポジティブになる手法と言うのは無理がある。RPG風に言うとMPをHPに変換して無理矢理活動せよと言っているようなもの。不自然な催眠やアファメーションを繰り返し、やがてMPが枯渇してバーンアウトを起こす。
峨骨 @Chimaera925 2月14日
セム系一神教派生の労務真理教の教義なんて末端しか信じていない。今の境遇が苦しいのは神からの試練で、信仰(努力)すれば報われる。なんて苦しみを与えて搾り取る側が吹き込んで、それを信じさせる。そうして搾り取って富を築いた者は、自分は努力して報われた。特別な人間だから報われていると。
峨骨 @Chimaera925 2月14日
逃げちゃダメだと言われたときは、逃げるか、逃げられないなら逃げなくてはいけない危険を物理的に排除・抹殺しなくてはいけない。その選択肢をハナから捨てると、逃げるという選択肢が消える。愛だの協調だのと自分に言い訳して自分を騙す間に、その思想にどっぷり漬かったゾンビにされてしまう。
ガキの頃いじめを受けていた事があったけど、そいつらの仲間内に相互不信埋め込んで仲違いさせたり、皆の前で笑いものにして去勢してみたり、教師の前でわざと殴られて停学にしたり色々やってから、俺をいじめるヤツは居なくなったな。現状維持して潰れていたら今の俺は無いだろう。逃げるか排除だ。
話せば分かると言うが、話しても分らないから犬養毅は殺された。話し合いが通じないなら逃げるか消してしまうかしかない。あるいは、手出しできない状況を作るか。手を出すとヤバイと思わせるのが一番手っ取り早い。殺一警百だ。
いじめられている事よりも、他者に危害を加えてはいけないという洗脳が染み付いていて、やり返そうとすると体が拒絶反応起こすのが子供心にキツかったな。あの一線を越えて、境界線を自由に行き来できるようになるまでが長かった。マキャベリ先生ともっと早く出会っていれば少しは違ったかもな。
飼い主を噛もうとして条件反射で動きが止まる犬みたいに暴力や加害が抑制された子供を作るのが学校教育。反抗せず、言われるまま上位者に従い、集団行動を取る管理しやすい人間を製造する。そこから抜けた結果がコレだから、いいんだか悪いんだか。後悔はしていない。
知力でも魅力でも財力でもいい、何か一つ武器があると世渡りが楽になる。相手の有利な土俵でなく、自分の有利な土俵で獲物を待ち構えて狩る。あるいは有利な土俵に行く。モテるってのも、自分の持っている力が有利な場所に行かないと意味が無いのと同じで。自分の武器を発掘して、とりあえず特化させる
何か一つでも特化させていくと、特化のさせかたが解るから非常に効率が良い。どんなつまらない事でも自分だけの特技、自分だけの強み。これを持っているヤツはどんな分野の人間でも話して居ると非常に面白くて為になり、役立つ。全部極めるなんて無理だし、全部極める必要も無い。
表現したいものが無くなってしまったから音楽はもうやる事は無いだろうけれど、そこで培った経験はあちこちで生きている。専門バカは潰しが利かないと言われるけど、潰しの利かせ方が解ると何かと応用が利く。何かを身につけるための情報収集能力や試行錯誤する根気、習熟のコツ、これらは教われない。
情報噛み砕いて自分なりに血肉に変えて応用する技術は誰も教えてくれない。教わって身につくものでもないけれども。これが一番役に立っている。
作曲でコードの組み合わせが出尽くしているように、世の中にある物事や思想なんて大抵出尽くしていて、完全オリジナルでどれとも被らないものなんて存在しない。あらゆるものを咀嚼して、そのエッセンスを盗み、組み合わせて自分なりの理論や思想を構築していく。ゼロから創造する天才は居ない。
天才や奇才がゼロからオリジナルを産み出す、ロマン主義の幻想だ。全て既存の組み合わせ。オリジナリティ溢れる天才や奇才とやらは、その原典が何処にあるか解らないように組み立てただけだ。原典を知り、現代の事情に擦り合わせ、どのように編集し、既存の概念の組み合わせるか、これが重要なセンスだ
あれもパクリ、これもパクリ。先人の技術や知識を積み重ねていく行為を否定している。研究でもなんでも積み重ね。引き継いで次に手渡す財産だ。こいつを独占されると、独占したヤツの一人勝ちになる。模倣の積み重ね、真似び、学びも基礎も無しに一流になった者など居ない。
世阿弥の風姿花伝は良書だぞ。あれはお勧めできる。
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 2014年7月6日
@lanekota @ekousagitan @wayofthewind 能面が無表情なのは能は表現しないことで表現する控えめさの権化だから。芸能界における裏社会の暗躍は、世阿弥が「好色・博奕・大酒。三重戒。これ、古人の掟なり」と『風姿花伝』=秘伝書で言う程に当時から深刻でした。
えこうさぎ @ekousagitan 2014年7月6日
@kitsuchitsuchi 「風姿花伝」は世阿弥が本当は口伝だけにとどめておくべきところを、後の事を憂えてやむにやまれず書いたんですよね。将軍家の保護も薄くなった上に近頃の若いもんは、、みたいな。
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 2014年7月6日
@lanekota @wayofthewind @ekousagitan ギリシア仮面と伎楽面は後頭部まで包む。能面は顔の前を覆う。能で面をかけられるのは主人公(大抵死者)のみ。
能の多くは最初に脇役が登場し大抵は僧。大袈裟(仏教由来)で喋りまくるのは和風耶蘇でっちあげ伝統多いよ。
猫太”芸能界のヤクザ臭いの大嫌いです”
”天皇崇拝やキリシタンを見破るには、言葉を重んじない日本文化を知るだけでいいですからねー(笑)天皇の神聖さを言葉でまくしたてるのはクリスチャン” 働かざる者食うべからずの元ネタは新約聖書
Hizuru@mirgliP @mirgliPilgrim 2016年12月5日
ココのとこ能楽に関する本を読んでるんだけど、いわゆる能(夢幻能)というのは、旅人が異界に紛れ込んで亡霊と対話し、時間を超越する、日本古来のファンタジー装置であること知った。そのうえ独特の節回しのある謡(うた)によって、観客をトランス状態に誘い込み、異界を体感させるとか何ソレやばい
なんなん @7_nannan 2016年1月27日
>RT くっそワロタwwww
能は旅の僧侶が宿を求める始まりが多いんですよwww
「これは諸国一見の僧にて候…」
とか 決まり文句ですがwwww
菊池 @kikuchi_8 2016年7月9日
能「車僧」の天狗・太郎坊と車僧の問答が哲学的で奥深い。
太郎坊「浮世を車で走り回るとは輪廻の輪を脱していないと見える」
車僧「回る「輪=我」に元々実体などない(=空)のだ。何が回ろうぞ」。
輪=我を実体視する「実体観」に立った生悟りで嘲笑する太郎坊を車僧が「空観」で見事に論破している。
「車僧」では、車僧を「魔道」に引き入れようとする太郎坊は本物の知恵を持つ車僧に打ち負かされる。「人を支配したい」「人を傷つけたい」「人を騙した い」という不純な動機が根底にあるので、国際秘密力や工作員には本当の知恵者はありえない。おまけに彼らには太郎坊のような愛嬌も潔さも無い。
能「車僧」で天狗・太郎坊はもっともらしい理屈とレトリックで車僧を堕落させ「魔道」に引き込もうとする。工作員は高慢で、一見もっともらしい理屈をこねて工作対象者をおかしな道に引き込もうとするが、この天狗の姿とそっくりである。能の筋書きは人間心理の洞察の賜物という感じがする。
初期仏教や唯識のアビダルマの心理論では「怒り」と一口に言ってもいくつかに分けている。まず基本となるのが「瞋」(根本煩悩の一つ)である。
次に随煩悩として「忿」がある。これは杖で相手を殴りたいほどの激しい怒りである。
さらに「恨」。忿が瞬間的な怒りであるのに対して持続的な怒りである。
「恨」とは謂わば「瞋」(怒り)が沈殿して憎悪とか怨念になった感情である。ある対象を思い浮かべて持続的に怒りを持ち続けている状態である。人間だから時には怒る事があるのも当然だが、不快な事が起きても「瞋」の段階で止めた方がよい。「忿」は暴行に結びつくし、「恨」は己自身を蝕んでいく。
初期仏教(「倶舎論」など)や唯識のアビダルマの心理論で言う「心所」のリストは曖昧模糊とした人間心理を整理整頓して明晰に分類している。一口に「怒り」と言っても、単なる怒りと殴ってやりたいほどの激しい怒りと持続する恨みつらみは確かに違う。https://t.co/r3RfemXt7c
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月10日
(心所(しんじょ、巴: cetasika, チェータシカ、梵: caitasika, チャイタシカ)とは、仏教における心・精神の構成要素・機能。
仏教は西洋よりはるか昔から心理学も無意識の研究も応用も実践もやっていた)
峨骨 @Chimaera925 2016年7月16日
ロマン主義以降、著作物は才能や個性、オリジナリティ、ゼロから創造されるものと考えられるようになった。それまでは模倣から始まる職人的なものだった。守破離、守無しに破や離は不可能。個人が全てを創造するなんてのはお伽噺みたいなものだ。古典的フレーズを使うとパクり扱いでは音楽は作れない。
峨骨 @Chimaera925 2016年9月5日
著作権や特許でガチガチに縛られて「あれがパクリだ」「これがパクリ」なんて騒ぐ世相が何のためのものか解りやすいわな。論文は思い付きだけでは書けないから、参考文献が要る。曲は組み合わせが限られているから、古典に学んで現代風にアレンジする。それをパクリだ金よこせと言われたら何も出来んぞ
参考に。気になる良い記事。渾沌堂主人雑記 {大日本国終焉日記 }
”峨骨 @Chimaera925 2016年10月19日
会がお開きになったのは2時くらいだけど、そこから何時もの自営仲間と話し込む。そいつは話し始めるとまた長い長い。相槌や会話が呼び水になって話題が広がり議論が尽きない。自立とはなんぞやってなお題の話しが結構おもしろかったな。そいつは長い事、自営で生活してきて自分の力でどうにかしてきた
そんな自負があるから、何か自分の中の強みを核とした精神的な自負や能力が自立の条件だとする。俺は自分自身に依存し過ぎるのは危険だと言う。確かに柱となるものを内面に持つのは大事だが、外に広く浅く依存の対象を広げてリスクを分散させて一点によりかからない、中庸であること、これが自立だと。
ゲリラやレジスタンスがセーフハウスや物資の隠し場所を幾つも持つように、再起できる拠点(精神的なものや技術も含め)を幅広く用意しておく事が大事だ。一点豪華主義や決め打ちは視野を狭めて、そこで行き詰ったときに対処出来なくなるではないか、と。人は何かに依存している。依存しているように
見えないほど、蜘蛛の糸のように依存を張り巡らせるのだ。どのみち、何にも依存せず生きることなどできはしないのだから。一つがダメでも次、これが安全だ。奴としては、そうなった時、誰も助けてくれないし社会は厳しいから知恵と経験で乗り切るものだと言っていたが、俺としてはその環境に落ち込む
これこそが下策だと考える。追い詰められる前に安全地帯を幾つも作っておく。一点に依存して重く圧し掛からなければ、そう、宿り木程度の場所を確保しておくくらいならばそう負担ではないだろう、と。どちらも経験から来る考えで間違いでは無いのだろうけど。奴は孤立無援が多かったからな。
一点に依存したとき、その重みに耐えられなくなれば折れてしまう。それでは共倒れになる。自身の心が折れるだけならば、いくらでも再起できるだろうが折れてしまって取り返しの付かないものはいくらでもある。氷の上を歩くように、重みを分散させて歩むのだ。
一芸に秀でる、聞こえは良いけど潰しが利かない。一芸をある程度修めて、それらを修める課程で身に着けたものやそれらの応用で他のものにも通じる事が可能となれば話しは別だが、単なる専門バカになると自身の手にした手法を無理矢理当てはめて全てをどうにかしようとするから破綻が生じる。
自分のできる事、得意な事にしか手を出さなくなる、これは貪欲さが足りない。全く異なる分野や一見関連の無い分野でも視点を変えればいくらでも活用できる。百科全書的な考え方だな。
もともと不器用なので、耳に痛い事もあるけど、大事な話に思う。
百姓すらまともにできないが、ほかにすることがないので、している。
ともわれ、それもあって、ほかの分野にも、興味を持つようにしている。
>一芸に秀でる、聞こえは良いけど潰しが利かない。一芸をある程度修めて、それらを修める課程で身に着けたものやそれらの応用で他のものにも通じる事が可能となれば話しは別だが、単なる専門バカになると自身の手にした手法を無理矢理当てはめて全てをどうにかしようとするから破綻が生じる。
日本人って、この手の破綻が多い。
名投手が、投身自殺や強盗に走ったとかの記事をみて、唖然として悲しくなる。
当人も不器用だったのだろうが、「潰しが効く・応用が効く」という柔軟性や多様性を切り捨てて栄光を手にした悲劇だが、それで栄光すら得られず破滅する人の方こそ多い。
教育も、考え方も、完全に変えないといけないところが、日本にはあると思う・・・
そうしないと、悲しい死滅しかなさそう・・・
ただ、その柔軟性・多様性を切り捨てることにより、斬り捨てられた多くの「か弱き者」の復讐が果たされただけかもしれない・・・。
差別も、ネオコン思想も、確実に復讐されるのだ、因果応報という事で・・・。
お読みくださりありがとうございます。”
http://tyuubukou.blog.shinobi.jp/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%90%91%E3%81%91%E3%81%8B%E3%82%82%E3%80%80%E3%80%80%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%8F%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%8B%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E4%BD%9C%E6%B3%95%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%8B/%E5%8F%82%E8%80%83%E3%81%AB%E3%80%82%E6%B0%97%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E8%89%AF%E3%81%84%E8%A8%98%E4%BA%8B%E3%80%82
峨骨 @Chimaera9252017年2月15日
日本語が母国語の利点ってのは言語的な特性もあるだろうけど、一番は膨大な量の日本や中国の古典が母国語で読めるって点だな。四書五経を始めとした数々の重要な文献が在り、尚且つ古本屋で安価に手に入る。これは貴重だ。なかなか無いよ。
宗教としてのナショナリズムってのはとてつもなく有害だ。宗教ナショナリズムを推進した明治政府は国家神道を道徳という形で強制。国民の道徳だとして宗教、信教の自由の上に置いた。 宗教を愛し、それを守っていくには、それを守らぬ者を憎んだり、迫害したりする必要はない モンテスキュー
末端の使い捨ての兵隊や労働者にするには都合のいい教育なのだろうな。くだらぬ道徳や善良さ、勤勉さを持ち、権威に言われた事を懐疑せず従順に従い、論理を理屈と呼んで好まず、分かりやすい感情論を好んで感情で動く。恐ろしい教育だ。
道徳心や愛国心(教育勅語?)に成績付けるクソカルトな学校への登校を拒否させたら児童虐待の疑いだろ?明治テロ政府は国家神道を宗教ではなく道徳だとして、宗教より上位に置いて教育。先日のサミットは各国首脳を国家神道の聖地伊勢神宮に参拝させる。メディアには報道管制かけて訪問と発表させたか
そもそも、針刺されるくらいでいちいち気にした事が無い。ただ、採血で並ぶときはベテランっぽいおばちゃんの列に並ぶ。不慣れそうな若手は避ける。ここ何年も採血なんてしていないけれども。
峨骨 @Chimaera925 2月13日
自分探し?本当の自分?そんなもの無ェよ。最初からありもしないものを有ると信じさせて、今の自分より良いものだと思わせれば、劣等感を持った連中は簡単に言いなりになる。そうして植え付けられた自分なんて概念は連中の考えた都合のいい概念だ。自分なんざありはしない。環境から染み付いた癖だ。
最初から無いものをあると信じさせておけば、最初から存在しないのだから何とでも言える。主観であるとさえ錯覚させておけば現実に無くとも、信者はそれが現実であるかのように振る舞う。宗教なんざ、まさにそれだ。そして力を持つ。あるいは、あるものを無いと信じさせる。使い古された手口だ。
峨骨
@Chimaera925
善玉菌、悪玉菌の分類をいつまで続けるのだろうか。善と悪の呼称で括って本質が見えなくなる。悪玉コレステロールだか悪玉菌だかのように悪を作って退治するナニカを売るには、悪が必要だわな。善玉菌が優勢だと便の滞留時間が短くなり栄養吸収率が下がる、悪玉菌は逆。後者は飢饉や小食の助けになる。
飢餓の時に食料からエネルギーを吸収せずに捨てていたら死んでしまうし、少量の食事で済ませようと思えば後者が優勢であったほうがいい。また、悪玉菌と呼ばれる細菌の毒素は、他の有害な細菌から宿主、人間を守ってくれている。口内細菌なんかでも居なければ口の中にカビが生えてしまう。
無菌室で飼育された、腸内細菌を持たない無菌ラットなんかは病原菌が腸内に入ると大増殖して死んでしまう。適度に群雄割拠して隆中策、天下三分の計よろしく争い釣り合っていてくれたほうが宿主としては都合が良い。まあ、共生関係とはいえ、宿主の体にガタが来ると見切りを付けて殺しに来るんだが。
人間が物を食うとき意識するのは口に入れて楽しみ、腹を満たす感触を楽しみ、それで元気になったと錯覚しておしまい。そこからは臓器や腸内細菌の仕事。そうして、知らず知らずのうちにくたびれ果てた臓器や偏った腸内細菌群に見切りを付けられて大病を患う。大病を予防するには食を慎む所から。
あれを食えば健康になる、元気になると思い込んであれこれ腹に詰め込む。病気になると尚更、あれがいい、これがいいと食う。これがいけない。ものを消化する時はエネルギーを使うから、動物は弱ったときはものを口にせず休養を取り自然治癒に任せる。人間は食や薬でどうにかしようとする。
食わなければ元気になれないと恐れて無理に食い寿命を縮め、薬を飲まねば健康になれないと薬を飲んで症状をごまかし、自然治癒を待つ。あるいは細菌を殺して腸内環境を滅茶苦茶にし、副作用の為に副作用を抑える薬を飲み、更に薬を飲む。得をするのは誰か。少なくとも自分自身ではない。
爪でみるあなたの健康状態 http://www.93tsukada.com/nail/nail.html
一日一食か二食の生活だけど不便を感じた事が無い。爪や舌、髪を見て不足している栄養があればそれを重点的に補うくらいか。自身の健康状態を知る方法はいくらでもある。飯を支度する時間や食う時間を読書に充てられるしな
人間の本来持っている自然治癒力や生命力を伸ばす生活をしていれば、休養を取る事で体力や健康状態が回復する。自然治癒、自己回復せずに外部からの何か、薬や食品を取る事で体力を回復する。ゲームで言えばほっとけば体力回復するゲームと回復アイテムがなければ体力回復しないゲーム。後者はキツい。
そして、回復アイテムを買うには金がかかる、と。実にマゾゲーだ。働いて、働くための健康を維持する為に収入を削り、働く。いつしか、生きるために働くでも、より良く生きるため働くでもなく、働くために生きるになってしまう。
体、内臓を冷やさない事が第一、あとは適度な運動。深い腹式呼吸なら内臓が刺激されて一石二鳥。あとは要らないものを摂取しない。まずはそれが基礎。基本的なことが出来ていないのに後付けで健康になれると言われるモノを飲食しても焼け石に水。却ってよろしくない。
血がドロドロだとかサラサラで健康なんてのは疑似科学。医学的根拠は無い。あれはオカルト。血液を採取して空気に触れれば凝固する。採血して観測する前の時間をずらせば粘性が高いように見せる事ができる。採血前に水を飲んで粘性を低くすることも可能か。血をサラサラにする納豆?腸で分解されるよ。
仮に腸から吸収されて血栓、あるいはたんぱく質を溶かすならたんぱく質分解酵素だな。血を凝固させる血小板が分解されるならば、血が止まらなくなるし、貧血や黄疸、免疫力の低下なんてのも考えうる。何かを食ってもそのまま使われるわけじゃない。肉を食ってもそのまま肉にはならないようにね。
食品で健康や体作りを考えるならボディビルの文献が非常に勉強になる。食って体を大きくする為に多くの被験者(ボディビルダー)が試行錯誤した結果が書いてあるから、下手な栄養学の本より参考になる。
食う回数を減らして、その浮いた金で美味しくて質のいいものを食うのもいいし、粗食にして浮いた金で上質な嗜好品を楽しむのもいい。三食ただ腹を満たすよりもずっと贅沢だ。
ねこた(基地外勇者様) @lakudagoya 10月20日
知り合いの特権階級の姉が亡くなったらしい。相当に不摂生してたから(サシの入った高級にくにくを食べまくってた)仕方ないなと。
あんま食べなくなってやはり峨骨さんが言うように美食をするって内蔵の負担がきついのね。
その人美食しまくりだから50代か60代で果てたのか。
峨骨 @Chimaera925 10月20日
美食を尽くした古代ローマ人ですら、暴飲暴食し味覚や食感を楽しんで吐いていた。
(注釈:ウィテリウス帝は)「食事は常に三度、ときには四度にもわたって、朝食と昼食と夕食と夜更けの酒盛りを摂り、いつも嘔吐によって、どの食事も難無くこなしていた」スエトニウス著『ローマ皇帝伝』
暴飲暴食して嘔吐もせずに全て胃に収めていたら、そりゃね。
水を2リットルほど飲まされたら拷問だと思うのに、砂糖や香料が入った水は飲めてしまう。溺死する事の無いように。溺死しなくともロクな事は無いが。
峨骨 @Chimaera925 9月9日
共産主義社会では、人が人を搾取していると聞く。 一方、資本主義社会ではその逆だ。
(すごいなこの表現。人が人を搾取の逆は人が人を搾取。つまり資本主義も共産主義も搾取の檻ってこと。「その逆」なのに地獄ってことがポイント。逆なのは表面だけで目的は同じってこと。双頭のワシ)
峨骨 @Chimaera925
ミームの乗り物に怒ったところでしょうもない。
百科全書、正式なタイトルは「百科全書、または学問・芸術・工芸の合理的辞典」 タイトルを見てピンと来るマニア向け。百科全書第1巻が刊行されると、イエズス会の攻撃を受け、2巻が刊行されると国王の名において発禁されたという曰く付き。 https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4003362411/ref=mp_s_a_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&qid=1473252707&sr=1-1&pi=SL75_QL70&keywords=%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%80%80%E7%99%BE%E7%A7%91%E5%85%A8%E6%9B%B8 …
(ねここねこは今も辞書を引いたり百科事典を読んだりするけど、昔のある時期はまともに文章を読み進められないレベルで引きまくっていた。言葉の定義を考える習慣がつくのでおすすめ)
綺麗でそれっぽい看板を掲げておけば、納得して(言いくるめられて)しまう。子供騙しだが、語彙と思考が制限されると子供騙しに簡単に引っ掛かる。 定義や実体について議論しなくてはならないのに、イメージについてああだこうだと議論にもならん議論をする羽目になるのだ。
呼称がもたらすイメージで解った気にさせて、本質には突っ込ませない。ゲリラ豪雨の指すゲリラはあくまでイメージ上のゲリラであり、ゲリラの定義は含まれない。 法案や団体名でも同じ事だ。その呼称を聞いて中身まで解った気になって、その中身まで見ず、まして議論などしない。故に何の影響力もない
ゲリラ豪雨などと味気ない造語が一般的に用いられるのは語彙力の低下から。ゲリラ(のイメージ)+豪雨の組み合わせで構成されている。定形のイメージをもたらす単語と単語の合成。
オーウェルの1984年では語彙や思考を縛り、党のイデオロギーに反する物事を考えられなくすることに成功している。
読む対象に適切な語彙のプールを選ぶのも要点か。
多くの者に幅広く読まれたいと思うならば、携帯小説程度の語彙量に絞り漢字を減らし、ひらがなやカタカナの容量を増やす。漢字だらけの文章にすれば、変な輩が滅多に噛み付いて来ないという利点もあるが、読者を増やしたいならばお勧めはしない。
ことば選び実用辞典は歌詞を書くときに非常に重宝した。横文字で誤魔化さず、韻を踏みつつ、表現したい内容に適切且つ不自然でない言い回しを探す際に大活躍だ。読むための文章にも緩急が必要だけど、歌詞は緩急だけでなく音の響きやそれの与える心理や印象も重要だからね。漢文や漢詩も役立ったな。
百科辞典の語彙や定義が頭に入っていれば、そこにあるものだけであらゆるものごとを言葉で表現することができる。故事成語や四字熟語、歳時記に親しんでおくとより豊かな表現が可能となるだろう。
有名?アカウントがお勧めの本を紹介しているから、紹介しなさそうな必読書を紹介してみる。
百科辞典、ことば選び実用辞典。このあたりは必須。調べるのではなく繰り返し読む。物事を考える時、頭の中で言語化されている。語彙が少なければ、深く考える事はできないし、それを表現する事もできない。
MTGフレイバーbot @MTG_FTbot 8月31日
単語───辞書の中にいる間は、かくも無垢で無力な物。しかしそのつなげ方を知るものの手にかかれば、その善良かつ邪悪なることよ!
──ナサニエル・ホーソーン
《文書管理人/Archivist(8ED)》
バズワードとは、何か新しい重要な概念を表しているよう見えるが、実際は明確な定義や範囲が定まっていない、都合よく引用される言葉。 「陰謀論」がレッテル張りに悪用される場合も陰謀論はバズワード。 | 読めないニックネーム(再開版)
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-118.html
峨骨 @Chimaera925 10月
呼吸法で息を止める時、よくありがちな間違いは流れは止めない。息を吐ききって下腹部の筋肉が収縮した状態で静止する。この時、肛門を腸に引き込むように閉めた状態。喉で息を止めるイメージは誤り。緩めると息が入ってくる訳だ。緩めて空気が肺に入るに任せて、弛緩させたまま静止。喉で止めない。
水を一気飲みするみたいに喉は開けたまま。これが極意。歌うときもこうすると、歌がブツ切りにならない。フレーズが途切れても歌の流れが続く。歌わない箇所は休む場所じゃない。歌わない箇所も歌の一部。ここで休むとそこまでの流れが途切れてしまう。
呼吸の訓練では流れを止めない。息は生きること。流れを止めないように意識するとやり易いだろう。もっとも、俺の一番効率の良いやり方に最適化されているから流派(?)ごとにやり方があるだろうけども。
初歩段階では、上体に無駄な力を入れず脱力して息を吐く事を会得する。これを飛ばして吸う段階に行こうとすると無駄な力が入る癖が取れない。濡れた布を詰めた管楽器を思いっきり吹いても楽器は壊れはしないが、声帯は故障する。脱力して息を吐く事を体で覚えるまでは息を吸う事は意識しなくてよい。
一般的な腹式呼吸では腹を前後に膨らませるイメージだが、実際には下腹部の末端から内臓を押し上げるように収縮させ徐々に下腹部が凹み、次に腹部。丁度、切れかけの歯みがき粉のチューブを絞るような感じだ。上に押し上げるような動きだが、イメージでは体が沈み込むように。肩幅に足を開き行うと、
地に根が張ったかのような安定感が感じられるだろう。意識と神経と筋肉を連動させて、より長く細かく制御して段階的に吐けるよう体作りすることで、限界まで声が振り絞ることができる。声帯に負担をかけず、体に負担をかければかけるほど大きく強く高い声が出せる寸法。
ありがちな誤りが、大きく強く高い声が出そうとして上へ上へ意識を持っていくこと。足を踏ん張って下へ下へ行くのが正しい。喩え悪いけど、トイレで踏ん張るあの感じ。両足上げては踏ん張り利かない訳で。意識を上へ上へ持っていくと息の制御が甘くなり、首周りにも力が入る。
呼吸の訓練はしっかりやっていれば必要な筋肉は勝手についてくる。上体を脱力してから、できるだけ時間をかけて徐々に筋肉を収縮させて息を吸い切った所で静止、筋肉を徐々に緩め吸った時間と同じ長さ息を吸い、静止。これを繰り返すことで発声に必要な繊細な息の制御が可能となる神経や肉体が作られる
中学の頃、ボーカルのトレーニング本を何冊も読んだけど、まず腹式呼吸について書かれていても一頁程度。具体的には書いてないし、それで身に付いたかどうかも解らない。息が身に付かないのにトレーニングや技術の話。スポーツで言えば競技に必要な知識や体作りが無いのにいきなり競技の技術練習。
下半身の強化は別途必要か。俺の場合、スキー、スケート、剣道、陸上(短距離走と高跳び)でそれなりに鍛えていたから走り込みとスクワット、たまに站樁功 くらいしかやらなかったけど、粘り強く力強い足腰があった方が重心が安定して踏ん張りが効くしパワーも出る感はある。
呼吸の補足:息を吐ききったあとて脱力して自然と入ってくる過程を息を吸うと表現している。腹を膨らませて吸う必要は無い。脱力が身に付かない段階でそれをやれば息を吸おうとして余計な力が入りいつまでも脱力が体得できない。肩が上がって胸式呼吸になってしまい本末転倒。変な癖が付くと遠回りだ。
歌手の歌真似して変な癖や喉を潰しかねない歌癖が付いてしまうと、なかなか治せない。自分自身の手で自身の声の力、魅力を掘り起こさなくてはならないのに、誰かの劣化コピーになってしまいがち。基礎が無いのにそれをしようとすれば、喉を潰しかねない。百害あって一理無しだ。
役者は体作りから入るのに、歌はカラオケ等で誰でも歌えるから軽視されやすい。昔と違ってマイクや音響機器の性能向上で声が拾いやすくなり、編集やエフェクトも簡単に付けられるから声楽ほどは重視されないし、求められてもいないだろうが、何本もライブ演って持たないのはちょっとな。
あの呼吸法は精神状態や力を入れる箇所、呼吸の加減によってツボに嵌まると呼吸するだけで快楽や多幸感が得られるパターンがある。ある種間違ってはいないがそのやり方はお勧めしない。呼吸だけで賢者モードになり日常や健康に支障が出る。それで悟ったなんて勘違いしても不味い。脳内麻薬の錯覚だ。
そのようにはならないように書いているので恐らく危険は無いだろうが、偶然そうなる可能性もあるので。これで得てしまった神秘体験や特別な体験に思えるものは脳内麻薬の産物で錯覚だ。ほどほどに付き合って、快楽や優越感に溺れてはいけない。それは破滅の第一歩。引き返せ。
敢えて心と書かないのは神秘主義やオカルトが入り込まないように。人間、期待すると見たいものを脳内で作り出して見てしまう生き物なので。そっちは無防備に踏み込むと実に危険で、良いことなど何一つ無い。カルトにハマるくらいならまだマシなくらいに。タチが悪いのを拗らせると人間として終わる。
呼吸法で心身を健やかに、歌唱力を向上させ本来持つ声の魅力を引き出す。求めるのはこれくらいで充分だ。神秘体験や特別な力は求めてはいけない。欲や誘惑に囚われないと思っていても、求めないのが無難だ。そんなもの無くても人間は生きられる。いや、手段に依存するくらいなら最初から無い方が良い。
ありがちなカルトのイニシエーションでまやかしの神秘体験をしてカルトにハマる者を見れば危険性は解るだろうから、これくらいで。
人間ってのは、ある環境や条件、前提となる知識が揃うと簡単に神秘体験のようなものを脳内で作り出して体験してしまうので、研究する側としては面白いのだけどね。やってはいけない見本だ。それを悪用する連中は軽蔑に値する。風上にも置けん連中だ。恥を知れ、と。
白魔術だの黒魔術だの分類されているように見えるが本質は同じだ。まじないにしても呪い。どれも意識の変容の技術。使い方によっては他人の意思をねじ曲げる技術でもある。戯れに手を出して効果が無ければ幸い、あれば最悪。道具は使う者の倫理観に委ねられる。相手を幸福にするから白など単なる欲目。
カルトの教祖の下半身が大抵暴走するように、精神を鍛えてもいない強い倫理観を持ってもいない欲にまみれた俗物がその手の技術を手にしても、肥大化した強烈な自我や欲望を制御できずに破滅に向かう。それならばまだマシだろう。破滅していないならば、破滅と厄災を振り撒き周囲を巻き込む。
ボイトレの定番なぁ。定番ではないけど、仁義を切るhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E7%BE%A9%E3%82%92%E5%88%87%E3%82%8B のが練習になったな。言い間違えたり迷ったりしたら殺されると自己暗示かけて、追い込みかけてからやると一回だけでも身の入った良い練習になる。多分俺以外にやった奴は居ない。
実践に即したトレーニングでは精神面の強化も取り組むと良いだろうな。ライブやっていると人前で表現する度胸や慣れが生じるけど、慣れっこになる内に自分自身や表現に対する甘さが出てくる。そんな状態で練習したって効果は並。ダラダラやって変なクセ付けるくらいなら、短時間で濃密にやるかな。
発声や身体操作による表現は、それを視聴する観衆、相手がいて成り立つ。だからこそ相手に届けなくてはいけない。聴く相手を意識して、どこに向けて伝えるか意識して発声練習をすると、地声はもちろんマイクに声を乗せる時にも効率よく声を伝達できるようになる。標的に声を当てる感じだ。
あとは自分の発声練習を録音して聞く。この作業が非常に重要。自分で発声して聞こえる声と相手に聞こえる声や録音して聞く声は違う。この齟齬を理解しないで自分の聞こえる自分の声だけで判断してしまうと、自分にとっては良い声でも相手にとってはそうでもないなんてお寒い事態に。客観観は大事だ。
呼吸と脱力の鍛練をしていくと息が効率的に運用できるような体と神経が徐々に作られ、次第に声の出力が上がるので、そこからは呼吸を鍛えつつ声の制御。イメージさせたい声を出す、これが難しい。声に感情を乗せるなんて言うけど、それは相手が感じとるもので自分の感情などどうでもよい。自己満足だ。
自分がこのような感情だから相手にも伝わるはずだと自己陶酔して表現するのはあまりにもお粗末。共感性の高い者には伝わるかもしれないが、そうでない者にも伝えないといけない。このあたりはシビアにやらないと身にならない。独りよがりで終わってしまう。理解されないのは相手が悪いなんてのは最悪。
声に感情を込めるのは技巧であって、感情そのものではない。電話口で謝罪する時、感情を込めて謝るよりも頭を下げた姿勢を取り発声することで声の反響やくぐもり方が変わり、それほど感情を込むていなくても相手に謝意が伝わるなんてのも技巧だわな。自分の感情と相手がどう思うかは別物。
主観はそこまで重要ではない。相手がどう感じるか、相手からどう見えるか、客観視する。これだ。これを意識しないと、自分の思うように自分に対するイメージや感情を操作することができない。この操作こそが一種のカリスマ性を作る。肩書きやら宣伝なんかのハロー効果を使わずにな。
自分自身が作品、キャラクターになるってことだ。誰もがやっている事だけど、意識して行う者は少ない。もっとも、俺のやり方は妖刀を作るような邪道なやり方だろうな。ただ、このやり方は才能や生まれは関係なく身に付けられる技術だ。音感も訓練で鍛えられる。俺は才能なんて言葉は嫌いだ。
勿論、感性だって鍛え上げ育てる事ができる。才能ではない。ゼロから産み出された完全なオリジナルのものなんて無いしな。全ては模倣と組み合わせだ。そうでないように見えるものは出典が解らないか、解らないようにしているだけで全ては既存の組み合わせから作られている。だからこそ全ては模倣から。
その際には良い手本を選ぶのは勿論のこと、癖を模倣しないこと。悪い癖が付くとそこからの修正が困難になる。癖なんてのは意図的に繰り返す事で相手が勝手に癖だの味だのと特別視して錯覚するものだから、後からいくらでも付けられる。徹底した基礎と体作り、そしてオーソドックスな題材の模倣。
基礎と言いながら、全て独学だったりする。今思うと、変な指導者に付くよりはマシだったなと。
ねこた(基地外勇者様) @lakudagoya 1時間1時間前
ねこた(基地外勇者様)さんが峨骨をリツイートしました
お見事!この何でもイメージでしか物事を考えない記号的思考は恐ろしいですよね。ナチスのコスプレというわかりやすい「記号」にとらわれていれば、ナチズムはネオリベに化けた事すら気付かない。
実は偶像崇拝禁止ってのはこのイメージ操作を封じる思考なんですよね。仏像の爆破でなく。 RT
ねこた(基地外勇者様)さんが追加
峨骨 @Chimaera925
中傷させてイメージ合戦しておけば肝心の政策の中身について話さなくていいしな。イメージ、心象、心の問題、信仰のお話。信じるか信じないか。中身について論じる事無く、誰も触れる事無く、気付いたら決定していて、あとは騙されたと叫んで終わりさ。信じる者は巣食われる。誤字ではない。
そこに付いている名前などどうでもよい。ネズミに悩んでいて猫を飼うとしよう。この場合、ネズミを捕ってくる猫がもっとも良い猫だ。その猫の血統や見た目などどうでも良い。ネズミを捕ってくる猫かそうではないかではなく、血統や見た目、毛並み、色、そんなものを議論したところで問題は解決しない。
どれだけご大層な名前や肩書きがあったってネズミを捕ってこない(問題を解決しない)のならば、何を選ぼうと一緒だ。ネズミ(問題)に悩まされ続ける。中身を見ない、見せない、中身の無いイメージ戦略、○○劇場、中傷合戦ってのはそういうこった。
ん?どれを選んでもネズミを捕ってこない猫しか居ない?その猫を飼わせようと思ったら、ネズミ(問題)から一旦目をそらさせて、それと関係の無い条件で売り込むだろうな。
よくある定義のすり替え。定義をすり替えて、議論の内容をすり替える。良い猫の定義をすり替える事で、別の猫を選ばせる。
何たら救済法案だの、経済の発展の為だの名前なんざどうでもいいんだ。その名前やイメージだけ見て、「ああでもない、こうでもない」と議論するのはナンセンス。名を捨てて実を取れ。絵に描いた餅よりも、実際に食える餅の方がいい。この人は感動を食べるだけで生きて行けるだろうけど、例外だ。 pic.twitter.com/tvP3ofP3bk
— 峨骨 (@Chimaera925) 2016年11月3日
反対されたくない法案にはきれいな名前をつけるのさ。人権救済だの、子供を守るだの、それっぽい名前をね。事前に反対する者に対する負のイメージを抱くように、メディアを使って悪の偶像を提示してそれに嫌悪感を集めさせて、反対する者を同一視させて悪のレッテルを貼りやすいように巧妙にやるんだ。
だからこそ、負のイメージを集める象徴や偶像あるいはアイコンが提示された時は、その下準備だと考えたほうが良い。不満の矛先を逸らし、怒りや憎しみに変換させ無意識に焼き付ける。そうすると焼き付けられたものとの類似点があるものに同じ感情を抱く。これが偏見というものだ。
(仏教も偶像崇拝禁止だったし、キリスト教ですら偶像崇拝禁止だった)
ねこた(基地外勇者様) @lakudagoya 42 分42 分前
おいらは悪の魔導師のイメージ操作を封じたいのだけどそれをやるにはアブラハムの宗教くらいしかないからね。
おねショタおじさんも言ってたけど所詮ニャンゲンはシンボルとイニシエーションだからこの思考回路何万年も続けてきたからイスラム原理主義者みたいにはなれないんだよ。結構無理してる。
まぁ、それでも近代法の解釈法を作り直してイスラームの法解釈の理論を入れて作り直すくらいの事をしたらマトモにはなるかも知れんけど、日本の特権階級は嫌がるだろうね。 言葉とモノの乖離を許さないという事は虚飾的な神話の上に成り立ってる特権階級の立場を破壊するからね。
言葉とモノの乖離を許さない文明は、虚飾性の上に成り立ってるものをすべて破壊するからね。 そうなると「暗殺はカリフ制の華」にしかならないもの。 古代から支配者が偶像崇拝やパンとサーカスに熱心だったのはこれなの。 人間の心の構造は所詮シンボルと儀式なんでそれが自然だから。
所詮、ニャンゲンの人生は神話と儀礼とシンボルなんだよ。それを操る側がいつだって支配者だよ。
だから一般人にはそれらに注意を払わないといけない。
食べられないシンボルを纏うためにバカみたいな努力をしてるのさ。
おいらはそれから逃れたくてもできなくて苦しんだんだ。大変だよ。
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峨骨 @Chimaera925 6月14日
峨骨さんが峨骨をリツイートしました
99%対1%の戦いが仮にあって勝利しても、後から指導者が送り込まれて元の木阿弥。奴隷の存在無しには生活が成り立たないエリートが、それらを自己正当化する為の詭弁を振りかざし、同じように支配する。思想を破壊しなければ無駄骨。
峨骨 @Chimaera925 4月20日
支配者を打ち倒した後、それらを指導した者達が同じ事を行う。または指導者は後からやってくる。
ボルシェビキ革命の七ヶ月前に皇帝は退位していた。その時、レーニンとトロツキーはロシアに居なかった。米国に居たのだ。彼らは強力な支援を受けてボルシェビキ革命の準備が整ってから送り込まれた。
ねこた(ニート勇者Lv.1 実は遊び人) @lakudagoya 2015年5月2日
映画「レッドクリフ」(三国志の赤壁の戦いな)に凄い名言がある。都市国家が国を守ろうと頑張ってる中、おばちゃんが「どうせ支配者が変わっても私たちは年貢の納め先が変わるだけだ」ってね。イルミの思考の罠はまさにこのおばちゃんの言葉に集約されていると言っても過言ではない。
峨骨 @Chimaera925
俺の呼吸と発声の訓練法の話ってあれだ、スカイリムのスゥームやシャウトの訓練法みたいなノリだなと今更ながら。あそこまで破壊力は無いけどな。 スゥーム http://dic.nicovideo.jp/t/a/%E3%82%B9%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%A0
(” スゥームとは、ベセスダ・ソフトワークスのRPG『The Elder Scrolls』シリーズに登場する魔法の一種である。
「Thu'um」「Su'um」「Dragon Shout」「Storm Voice」とも。
概要
スカイリムの住人であるノルドの民に古くから伝わっている魔法であり、「シャウト」「声秘術(せいひじゅつ)」とも呼ばれる。もとは定命の者たちを支配していたドラゴンが使っていたもので、ドラゴン語による魔法「ドラゴンシャウト」を祖とする。スゥームというのはノルド側の呼び名である。
ドラゴン語ではその一語一語に力が宿っている。スゥームは声を発動の鍵としており、それ一語だけでも力を発現できるが、単語を三つ合わせて一セットとして発音することによりさらなる力を発揮する。
使用者によっては強大な力となり、ノルドの英雄タイバー・セプティムもスゥームの強力な使い手であった。その力はタイバー・セプティムがなにか話すだけで雪崩を引き起こす、山一つ動かせるほどだったとか。ちなみにグレイビアードがスゥームで予言を行った際には山の麓にある村が消し飛んだという。
ただし覚えるのは容易ではなく、シャウトの扱いを知らぬ者がただ発音だけまねても効果はない。また、一語習得するだけでも数年という時間を要するため、マスタークラスになるのは至難の業である。
ただし『Skyrim』の主人公はドラゴンボーンであるため、これには当てはまらない例外となる。
→ 「ドラゴンボーン」
スゥーム(シャウト)について
シャウト自体にも意味があり、トレイラームービーで主人公が発しているドラゴンシャウトも以下のように解釈できる。
Fus Ro Dah (揺るぎなき力)
Fus (ファス / フス)
Ro (ロー)
Dah (ダー)
構成ワード"Fus"が(力)、"Ro"が(バランス)、そして"Dah"が(押す)を意味する。
"Fus(力)"のみでは相手をよろめかせる程度しか使えないが、3つ揃うことにより相手を吹き飛ばす強力な魔法となる。”
“ドラゴンボーン(能力者)
八大神の一柱とされている竜神アカトシュに祝福された存在。ドラゴンボーンとは人間の言葉で「竜の血族・竜の血脈 (Dragonborn)」を意味し、ドラゴン語で「ドヴァキン」「ドヴァーキン」ともいう。作中においては、生態系の頂点に立つドラゴンすら恐れる究極のドラゴンスレイヤーである。
ドラゴンと同じく「シャウト能力(スゥーム)」を使うことができ、更に倒したドラゴンの魂や力を吸収する能力を持つ。これにより、本来は不滅の魂を持つはずのドラゴンを完全に倒すことができる。また、シャウトに対する適応力が非常に高く、素養のあるものですら非常に長い年月をかけて会得しなければならないシャウトを、ほんの些細なことで覚え、使えるようになってしまう。 [1]
帝国の皇帝タイバー・セプティムの一族に代々この能力を持つ者がいたことから、皇帝の血族しかドラゴンボーンになれないと考えられていたが、ドラゴンボーンを代々導いてきた組織であるグレイビアードいわく、皇帝以外にも同様の力を持つ者が時代の変わり目にはたびたび現れていたらしい(ドラゴンボーンの祝福はアカトシュが特定の対象を選んで与えるものなので、ドラゴンボーンだった者の子孫だからといってドラゴンボーンになれるわけではないということである)。
また、ドラゴンボーンとなり歴史を築いた者たち(シロディール帝国皇帝)、ドラゴンボーンを補佐する組織(ブレイズ)、ドラゴンボーンを導いてきた組織(グレイビアード)など、地域によってはドラゴンボーンが世界に対して及ぼした影響を示す痕跡が現在も残る。” http://dic.nicovideo.jp/t/a/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%B3)
峨骨 @Chimaera925 6月1日
スピリチュアルや自己啓発、ビジネス系自己啓発が流行る中、それを通して頭の中がクリスチャンに書き換えられている。「強く願い潜在意識に働きかければ実現になる」これはニューソート。魔術と比較すると、「ああ、コレは失敗するわ」ってな方法が書いてある。成功しないから依存して固定客になる。
峨骨 @Chimaera925 5月7日
人間の心理を熟知して、よく練り込まれている。無から価値を産み出すかのような魔術的な手口だ。価値を所有したかのような夢を見ているに過ぎないが、夢は覚めるまで夢とはなかなか解らないし、覚める術を知らねば自分の意思で覚めることも難しい。
峨骨 @Chimaera925 2012年12月13日
プルーストの場合、マドレーヌを紅茶に浸した匂いで主人公が幼年期を回想するのだったか。魔術では特殊な薫香を焚いたりするけど、意識を変容させる上で特殊な香りを嗅ぐのは非常に効率が良いのかもしれん。
峨骨 @Chimaera925 2012年9月17日
仮に拘束され四肢の自由を奪われ真っ暗闇の中にただ一人閉じ込められても精神は自由だ。思索と想像は暗闇を照らしてくれる。魔術とは意識の変容、目覚めたままで夢を見る技術。パンを生み出す技術ではない。最高のパンを食べたクオリアは生み出せるが。
峨骨 @Chimaera925 7月18日
ガラス玉とダイヤをテーブルに置いて、ガラス玉を選ばせ、自身はダイヤを手にする魔術がある。物体そのものには価値が存在しない。物体に人の手で縫い付けられた影のようなものが価値。これは案外簡単にすり替える事ができるのだ。
峨骨 @Chimaera925 7月5日
@lakudagoya あれも面白いですね。偶像崇拝どころか見世物にしてますし。非教徒から見るとイエスが磔にされるアトラクションはシュールです。ああ、魔術の儀式も似たようなものでしたw
ねこた(基地外勇者様) @lakudagoya 7月5日
@Chimaera925 教祖が生贄になった事に感謝するのに、悪魔崇拝の生贄の儀式ガー!って何のブーメランだよとw
聖書学者や考古学者を集めてこんなもの作っちゃうところには脱帽者ですね。日ユ同祖論もお台場にソロモン神殿建てるくらいのことやったら少しは許してやるwって感じです。
峨骨 @Chimaera925 7月5日
@lakudagoya アベルを殺害したカインが殺されないように印まで付ける神ですから。子孫にまで恵まれてますし。神を見習ったんです(笑)
自由に石を切り出せる巨大な虫を遺伝子組み換えで作って、使役する所から開始ですね。日ユとか無茶な事を言うくらいだからそれくらい出来ますよ。
峨骨 @Chimaera925 2012年11月16日
真っ当な魔術だと願望成就より先に理論と精神鍛錬、内観する所から始まるけど、多くの人が手軽に手を出せるオカルトはまず願望ありき。意識の変容を行う技術でしかないものを、欲望塗れで願望器として使う。そりゃ、悪魔憑きとか狐憑きになるわ。低級霊の餌だしな。
峨骨 @Chimaera925 7月7日
新暦の七夕か。人間の都合でコロコロ予定が変わる織姫と彦星もたまったものではないな。
暦なんざ人間が作ったもの。その暦に合わせて都合よく起こる事件や奇跡は人為的に作られたものだ。運命や偶然があるとして、それがわざわざカレンダーを見てやってくる筈がない。占星術や魔術はそれを利用する。
峨骨 @Chimaera925 10月16日
今週も勢いだけで乗り切ったから、ちょっと疲れたな。何時になったら仕事量減るかね。逆に全く無くなるのも、それはそれで恐ろしいのだけども(笑)
20代の頃はビールなんてちっとも旨く感じなくてウイスキーのチェイサー程度にしか思っていなかったが、味覚ってのは変わるものだなァ。
無性にライブがやりたい。あの業界とは関わりたく無いけれども。錆び付いていてお話にならないけどな。歌は歌えばいいものじゃない。体作りが基本、アスリートと一緒だ。思うように身体を操作するための筋肉と神経、声帯操作のトレーニングにあとは呼吸と発声に必要な人体構造の知識、練習で歌う?論外
最低限が出来てないのに歌ってみて練習なんて最悪だ。練習にもならない。変な歌癖が付いてロクな事にならんよ。ポリープやら何やら出来て手術か引退コースだ。スポーツで言えば、練習しないのに練習試合やるようなもん。無茶苦茶だ。今日日は誤魔化し利くから、歌い手なんて単なる素材だけどな。
ねこた(基地外勇者様) @lakudagoya 10月16日
@Chimaera925 これっていわば肉体の訓練ですよね。自分の意思通りに肉体をコントロールするの。イメージ操作に肉体のコントロールが乗ると最強かも。。。ごくり。
前にカラオケでユーミン歌ってる時に音階のイメージと肉体の発声がかぶればこれはやばいと気付きましたで。
峨骨 @Chimaera925 10月16日
@lakudagoya ええ、肉体と神経、脳のコントロールです。ボックス呼吸と組み合わせるのが正しい利用法だったり(笑)身体、呼吸を操作すれば心理状態や脳波も思いのままに再現できますよ。
お、ユーミン歌うんですかい。
尚、対象の呼吸を限定することで意図した心理状態に操作する事も可能。
大抵の人は呼吸が浅く、胸で息をしているから不安にさせるのは比較的簡単。腹式呼吸なんて言っても、大抵腹式呼吸出来ていない。この呼称が誤解の原因かもしれないが。漠然と腹を膨らませても、苦しいだけで意味がない。腹では浅い。吸うとき逆に腹を凹ませてみると丹田、腸の付近が重要だと解る。
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峨骨 @Chimaera925 24 時間24 時間前
息を吸うのはそこまで重要じゃない。腹を凹ませて丹田のあたりがじわりと熱くなる筋肉の動き、これを吐く時に使う。このように息を吐く事で効率よく息を吐き切る事ができる。すると、反動で勝手に空気が入ってくる。歌のブレスコントロールに必要なのがこの筋肉。笑いすぎると痛くなる筋肉もこの付近。
あと意識するのは背筋か。肩を上下させる胸式呼吸では息が調節し辛い。自分の筋肉を意識して、息の強弱をコントロールして声帯を振動させて、そいつを骨や身体を使って増幅してやる、これが極意。あとは最大効率を得るための脱力。慣れると首を振りながらシャウトできるようになるはずだ。
突き詰めると、一番盛り上げるサビのパートを花の香りを嗅ぐ程度の呼吸をひとつしただけで歌えるようになるだろう。無駄を省いて効率化して最後まで吐いた息を使い切るなら肺活量はそこまで関係ない。無駄な力……特に肩や首、舌、喉あたりが主、あるいは変な歌癖があると難しいな。
@lakudagoya ええ、肉体と神経
リラクゼーションのすすめ ~自律訓練法~
http://www.kaimin.info/part/suffer/dia05.html
この自律神経訓練法をプログラムに組み込むと脱力のコツが掴みやすい。催眠誘導なんかにも使われる古典的な手法だけど、なかなか侮れない。
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峨骨 @Chimaera925 23 時間23 時間前
ちなみに、深い腹式呼吸を行うと腸の血行が良くなり、便秘や内臓の冷えの解消の役にも立つはずだ。なかなかハードな運動になる。素早く鼻から息を吐いて吸うのを片方づつ行うと心身が活性化される。満腹時や妊娠、体調不良時は避ける事。深く息を吐けば勝手に入ってくるので、吸うのは意識しなくて良い
四半世紀くらいやると勝手に身につくので、ユルく、気楽に、テキトーに。完全に手探りだったから時間かかったけど、ある程度のポイントがわかっていればそんなにかからない筈だ。
ここでは滅茶苦茶ざっくり書いたけど自分の脳に電極をセットしたり、fMRIで脳を輪切りにしてデータ取ったりもしたので、それなりにネタは色々あったりする。歌の為に歌以外の事をする奴って他に見かけないな。周りは皆、真面目にひたすら歌っていた記憶が。
腹式呼吸の利点は、他には腹が据わる。動じにくくなる。呼吸の重心が胸に行っている時は動揺しやすく、頭に行っているときは文字通り頭に血が上ったりのぼせやすくなる。おかしな手法で能力開発やらやると頭に行きやすいかな。あとは冷静さを失った時なんかはね。そんな時に呼吸を変えると意識が変わる
催眠誘導の弛緩法と組み合わせて寝る前にゆったりと行うと、リラックスして眠れるかもしれん。俺の場合、フランキンセンスとミルラの香を焚いて、固い床の上で死者のポーズで意識を落とさず横になる事で1~2時間くらいで充分な脳の休息が取れる。時間が無い時はこれで仕事に行ったけど健康体だったな
あとは表情・顔の筋肉と姿勢もポイント。顎を突き出した猫背は最悪。胸部や頚椎が圧迫されるから呼吸が浅くなる。わざと浅い呼吸をしてみれば解るけど思考にもやがかかり精神が不安定になる。顎が突き出される事で舌の位置もおかしくなり、口呼吸にもなりやすい。低位舌はロクな事が無い。
姿見を置いて家を出る前に理想的な姿勢を取ってみて身体に覚えこませて正しい・美しい姿勢を習慣化させたり、作業する傍に鏡を置いて表情を確認するのも効果的だ。なんだか、マイ・フェア・レディみたいな話になってきたな。その流れで行くと、本の朗読をして録音し聞く、これもまた一つの手だ。
姿勢は発声にも影響してくるとはいえ、猫背に慣れると正しい姿勢に必要な筋肉が足りていないので低負荷のチューブトレーニング、アイソメトリクストレーニングやストレッチ、ヨガ等からできるものを軽く行うと良いだろう。まあ、一番は美意識だな。もとの造りが変わらずとも、立ち居振る舞いが変われば
自然と美しく見えるものだ。そうあろうと思う事が一番の近道、かもしれない。あまり気負わず、街中で人間観察して「この姿勢は格好悪いな」と思ったら人の振り見て我が振り直せってな具合に。「見習いたいな」と思えば模倣する。このように動機付ければ人を見ただけでトレーニングが常に意識できる。
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峨骨 @Chimaera925 22 時間22 時間前
常に人の目を意識する、これは結構重要かな。自意識過剰になれって訳じゃなくて、客観的に見て自分がどう見えるか、見られるかを意識する。あるいは、どう見られたいか。自然にこれが意識できるようになると、以前書いた心理誘導の手法を使って自由に自分を演出することができるようになる。守破離だ。
やれ本当の自分だ、ありのままの自分だなんだと言うけれど、大切な人や場所に赴くのに全裸で行ったり目脂だらけの顔で行ったりはしない。それに相応しい装いで向かうはずだ。相手も自分も恥をかく。表情や姿勢も一緒。自分らしさは相応しい立ち居振る舞いをして、隠そうとしても内から滲み出るものだ。
0件の返信925 22 時間22 時間前
それは知性だったり品性だったり色気だったりするかもしれない。ちょっとした演出でそれが滲み出ていると相手に錯覚させる。ジョハリの窓を引き合いに出すまでも無く、人間は様々な表情を持っている。それはひょっとしたら、自分の気付いていない一面かもしれない。そう思うと面白いものだ。
まずは脱力。頭のてっぺんにハンガーのフックが付いていて、それに釣られて立っているイメージ。座っている時もこれ。その際に、腹式呼吸のあの熱を持った部位に軽く力を入れてやると骨盤が安定して腹が据わり自然と背筋が伸びる。あとは背骨の一本一本を意識して隙間を開けて筋肉で支えるような感じで
あとは軽く胸を開いて顎を引く。ヤジロベェのように上体が骨盤の直立するようなイメージだ。椅子の背凭れから拳一つ分離れた位置に座ってこの姿勢を取り上体をユラユラさせてみると、腹部に軽く意識を置く事で安定した姿勢になっているのが確認できるだろう。式典でも役に立つ楽な座り方。
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峨骨 @Chimaera925 21 時間21 時間前
この立ち姿で足を肩幅に開くと、非常に歌いやすい。重心が下にあるから安定性が高い。上に意識があると、首や肩に無駄な力が入り喉が絞まったり、ピッチが不安定になったりしやすい。なにより、シャウトしにくい。
腹が据わらないから上体が上手く脱力できずに、ふんばりも利かない。これは歩くときも一緒。ハイヒールを履いて猫背気味に顎を突き出して歩いている残念な姉ちゃんを見てみればわかるけど、頭部と胸部にかけて重心がある。あれではモデルみたいには歩けない。重心の位置が間違った位置にあるからだ。
ねこた(基地外勇者様) @lakudagoya 22 時間22 時間前
@Chimaera925 よくお金持ちがこういった空気や雰囲気のコントロールをするのでどんな秘術があるのかと知りたくてしょうがなかったのですが、こんな秘密があったんですね。
こんな明晰なわかりやすい言葉で雰囲気で相手を洗脳する方法を知れてとても嬉しいです。やっぱ姿勢と座法大事なんですね。いやはや、ひとつひとつにちゃんと意味があって無駄がない美しさがありますね。
峨骨 @Chimaera925 21 時間21 時間前
@lakudagoya 日本の金持ち、成金でそこまでやっているのはあまり見ないですね。声のトレーニングも全く。コントロールの為の重要度は見た目(ファッション・立ち居振る舞い)、声(話し方・リズム・声質)、最後に話す内容。印象はこれらのトータルコーディネートで成り立っています。
ねこた(基地外勇者様) @lakudagoya 23 時間23 時間前
@Chimaera925
ユーミンの歌をカラオケで歌ってもしや。。。と気付いたのですが大当たりでした。
これやばいっすよ。なんて応用の幅が広すぎる技術なんでしょう考えるだけでですよ。
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峨骨 @Chimaera925 23 時間23 時間前
@lakudagoya かなりはしょったので(本来は本が一冊書ける為)抜けが多い気がしますが、経験が役に立つようなら何より。一応、入門にヤバい情報や手法は省いたので危険は無いかと思われます。
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ねこた(基地外勇者様) @lakudagoya 23 時間23 時間前
@Chimaera925 いやいや、実に素晴らしく要点が纏まっており素晴らしいです。こんな実践アドバイスを集めた本があれば私の宝物になるでしょう。
はい、危ない情報は省いてあり、むしろこんな安全なアドバイスだらけのものはあまりないかもですね。
適格でわかりやすいです。
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峨骨 @Chimaera925 23 時間23 時間前
@lakudagoya それは良かった。セルフ人体実験して「ん!?まちがったかな」した甲斐があるというものです(笑)
ええ、巷に溢れる自己啓発やスピ系のこの手の情報は危険が一杯で、あまりにも不誠実で、見ていてツッコミ疲れます。時に血の気が引きますね。却って逆効果なんてのも多々。
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ねこた(基地外勇者様) @lakudagoya 23 時間23 時間前
@Chimaera925 いやいや、ここまで実験する人はレアですし、その記録は殆ど外に出ませんから凄く参考になるのです。
スピ系はほんと血の気が引くのわかりますよ。不誠実というか、意図して大事な所をくり抜いて技術としては危なっかしすぎるのに、陰謀論とセット売りなんて。。。
ねこた(基地外勇者様) @lakudagoya 24 時間24 時間前
@Chimaera925 あ。。。やはりですか。歌などにも使える技術なわけですから隠れな人音楽の世界にも多いでしょうね。
音楽の再現や脳内の理想のイメージを肉体を操作して自由自在にできればこれはやばいかと。
はい。下手くそですけど、はたとカラオケで気付いた人です。
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峨骨 @Chimaera925 24 時間24 時間前
@lakudagoya 音楽はトランス状態に入る儀式の一つですからね。通じるものがあります。
そのあたりの同期は自分の発声を録音して繰り返し聞き、また発声して録音して聞く作業を繰り返し、自己認識と現象の齟齬を丹念に埋めていくことで可能となるでしょう。便利な世の中になったものです
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ねこた(基地外勇者様) @lakudagoya 23 時間23 時間前
@Chimaera925 そうそう。その方法でやれば凄くうまく行きますね。
というかこの方法は、科学技術が発達すればするほど面白いことできるような気がする。
これを見て、おいらがますますこういうのを血眼で見つける事に熱心になりそうです。狩人として(笑)
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峨骨 @Chimaera925 23 時間23 時間前
@lakudagoya VRやリアルな3Dのゲームは便利ですよ。今では動画どころかモーションキャプチャーまで。
ここに体感が加わればより一層面白いことに。それだけ催眠や洗脳を受ける危険性も伴いますが、所詮は道具なので使い方次第です。
マイクもアンプも使わず、声を届ける範囲を決めて壁の素材や反響考慮して歌うには軟弱な事は言っていられなかったから、当時はそりゃもうひたすらトレーニングだったな。感動や衝撃を与えた時、報われた気がしたけど雨の日も雪の日もよく歌ったものだな、我ながら頭がおかしい。
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峨骨 @Chimaera925 10月16日
おかしくなけりゃ、人前で自己表現なんてやれるかよ(笑)「俺の歌を聴け!」なんて普通に頭のおかしな人だろ。狂気の佐多ほど面白い。テレビ出た時は自分でも、「俺を取材するとか正気か?」と思ったな。所詮は過去の話。今、何か表現している訳じゃないから今は大した事は無い。
最初に曲を作ろうと思ったのは中学の時か。作ってみたら出来た。簡単だったな。そこから知識が付くと、編曲で発狂したくなる事実に気が付く訳だけども。日本の歌は愛だの恋だの夢だの希望だの、それしかないのかと気に食わなかったな。それくらいしか商品として求められていないのだろうけどな。
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峨骨 @Chimaera925 10月16日
ドロドロした人間関係やら業界やら、あれさえ無ければな。無くなりはしないだろうし、話題の電2やら大学のアレも似たような事が起きていてああなんだろうなとは思うが、ああいうのがあるから、あの手のモノには一切関わりたくない。人の夢や希望を食い物にする。俺が潔癖過ぎるだけかもしれないが。
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峨骨 @Chimaera925 10月16日
それなりに満たされてしまうと良いものが作れなくなる。歌詞と曲を同時に一日一曲ペースで、編曲していないから完成させたとは言わないが書き溜めてたいた時期なんかは完全に逃避だったな。まともな心理状態ではなかった。表には出せないから内に溜め込む。そんな時ほど創作が捗った。不思議なもので。
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峨骨 @Chimaera925 10月16日
葛藤や苦しみが解消されてしまうと、表現したいものが無くなるのだ。腹が一杯の時に次は何を食べようとか何が食べたいなんて心の底から思わないようにね。
ねこた(基地外勇者様) @lakudagoya
ちゃんとアトキンソンの本を実践で活かすには、あのディクシャというイニシエーションでウン百万ぼったくる、ヨグマタこと相川圭子の本を読んで補完しながら使うとまぁ、使い物になります。
何でアトキンソンの本を読むのにあのぼったくり合宿のおばちゃんの本読まないといけないか意味不明だよw
峨骨
@Chimaera925
@lakudagoya アトキンソンの本は忘却のプロセスを組み込むとそれなりに使えます。暗示や魔術で使われるオーソドックスな手法ですな。そうすると引き寄せの法則ではなくなる訳ですが(笑)
あの本に書いてある手法だと引き寄せどころか引き離される危険性が。
強力な執着だけ生まれて、願望が達成されない。そして、その願望が手放せなくなるから、法則にますます依存する。なんともおぞましい手口です。
ねこた(基地外勇者様) @lakudagoya
@Chimaera925そーそーアトキンソンの言ってるのわかりますよ。あれ忘却プロセス入れてないのでダメです。
やっぱカルトビジネス用にデザインされてのかな?w
峨骨 @Chimaera925
@lakudagoya 使われない知識ほど意味の無いものは無いですから。役立てば幸い。
引き寄せはモロに福音派。マルコの福音書11:22~とヨハネの福音書15:7を見れば一目瞭然。(聖書は)神からの言葉だからそうなるのだ、と。そして祈りだから忘却のプロセスが無く欠陥品。
@lakudagoya 引き寄せを入り口にして、疑似科学の権威を使って元ネタの聖書、福音派を自画自賛しつつジーザス・キャンプにご招待なんて使い方も可能でしょうね。宗教色抜いた自己啓発セミナーがその役割を担いそうですが。やることはそう大差無いかと。
@lakudagoya 引き寄せの手法は連中の言う悪魔の魔術書からパクっているあたり、ロックを悪魔の音楽と言いながらクリスチャン・ロックやメタル作って布教活動するのとそっくりですな。
ねこた(基地外勇者様) @lakudagoya
@Chimaera925 こんな見も蓋もないギャグってありませんよねw
ジーザスキャンプの子供洗脳技術もここからでしょう?
いやー、この技術って面白いのはどんなものもあいぽんのカバーというかふりかけの味として使えて色々なうまい棒を捏造できるところですねw
@Chimaera925 いやいや、こうやって個人が押し入れにしまっちゃってる技術が凄いお宝ですから。こういった本で完全に端折られる技術的な説明は私にとってはお宝ですよ。
まぁ、思いっきりに福音左派の匂いがします(笑)実際に引き寄せで強固な洗脳かけたりやってますしねw
ねこた(基地外勇者様) @lakudagoya 46 分46 分前
宝物がひとつ増えたな。
こんな素敵な明晰な言葉で簡潔に内容が語られてる宝物はないよ。
おいら如きには勿体無いくらいだ。
こんなのはもらったらラッキー!と布に包んで大事にするんだ。
ぼったくりヨガの行者のおばちゃんの公式サイトw http://www.science.ne.jp/ このオバハンの本、インド哲学の心の構造を西洋哲学っぽく理解するには結構ベストで、この本でスピリチュアル本を補完しながら読むので保管用にはまぁ使えないことはないね。
峨骨さんが、スピリチュアルやニューソートは不誠実だと言ってたけど、あれデザインしたやつは意図的にやってるね。 おいらはニューソートのご先祖様のアトキンソンの本を取り寄せて読んだんだけど、まぁ、あれは一番大事な所をドーナツのようにくり抜いてインド哲学の用語で誤魔化してたw
リラクゼーションのすすめ ~自律訓練法~
http://www.kaimin.info/part/suffer/dia05.html
”心身がリラックスする時はまず、手足の筋肉が弛緩します。これは、なんとなく手足が重たいという状態です。次に、筋肉が弛緩すると血流がよくなり、足の皮膚の温度が上がって暖かさを感じるようになります。これを、意識の方から手足が重い、暖かいと自己暗示を加えることで本当に心身がリラックスしてくるわけです。
この訓練法は標準練習が段階的に公式化されているため、誰でも自宅で簡単に行うことができます。
自律訓練法の手順
ステップ0
背景公式
ステップ0:背景公式
気持ちが
とても落ち着いている
ステップ1
四肢重感公式
ステップ1:四肢重感公式
両手両足が
とても重たい
ステップ2
四肢温感公式
ステップ2:四肢温感公式
両手両足が
とても温かい
ステップ3
心臓調整公式
ステップ3:心臓調整公式
心臓が静かに
規則正しく打っている
ステップ4
呼吸調整公式
ステップ4:呼吸調整公式
楽に呼吸している
ステップ5
腹部温感公式
ステップ5:腹部温感公式
おなかがとても温かい
ステップ6
額部冷感公式
ステップ6:額部冷感公式
額が気持ちよく涼しい
消去動作
両手の開閉運動
↓
両肘の屈伸運動
↓
大きく背のび
↓
深呼吸
※自律訓練法では、特有の生理的変化や意識状態(めまい、脱力感など)が生じることもあるため訓練の後は必ず消去動作(取り消し動作)を行います。
«姿勢»
体全体の筋肉が弛緩しやすいような姿勢がベスト。
椅子に深く腰をかけた姿勢や布団の上で仰向けになって行います。
姿勢
ステップ0から6までが1クールですが、慣れないうちは最初から最後まで全て練習しなくてもかまいません。初めのうちはステップ0から3までというように部分的に行うだけでも、体のリラックス状態を意識的に練習することができるでしょう。できれば眠る前の入眠儀式として毎日行うのが理想的です。”
峨骨 @Chimaera925 6月26日
答えたくない事柄には言葉尻を掴まえて非難し、質問内容をうやむやにし、レッテルを貼り観衆の感情に働きかけ同調させる。ディベートの訓練を受けていない者は、質問に答えられず揚げ足取りした者に正当性を感じる。多数派を味方に付けたから。多数派が正しいとする誤った教育を受けると議論が解らない
@Chimaera925 声がでかく、勝者に見せかけて多数派を味方に付けた者が勝つ。何を言ったかではない。多数派を味方に付けたか、そうでないか。(強そうに見える)強者に従うだけの反知性主義。そこに知能などいらない。強者に媚び、弱者に反逆されないよう、でかい声で強く見せるだけでよい
チンピラは自分を強く見せるのが上手い。威嚇して予想外の言動を取ることで混乱させて主導権を握る。日本の成功者にドロップアウトした元ヤンキーやチンピラみたいな者が多いのはその為。日本の教育を受けた者は、そのような者に従順になるよう教育されている。披雇用者になる訓練しか受けていない。
市民や国民、あるいは雇用者、支配を受けない自由人になる為の必要最低限の教育や訓練を全く受けていない。海外の○○のような人材や経営者が出てこないと言うが、そのような教育も訓練も受けていないのに出てくる筈がない。無理なお話だ。
峨骨さんが追加
峨骨 @Chimaera925
自分は市民だ、国民だと言うけれど、働いて納税し、選挙に行きさえすれば市民や国民だと思っている。市民や国民である必要最低限の教育を受けていない。国家権力側は市民や国民になって貰っては困るのだ。ペテンが見破られるから。効力の無い徒労を繰り返して貰ってガス抜き出来なくなるから。
峨骨 @Chimaera925 6月26日
そして、管理する側は少しだけそのような教育や訓練を受けていれば簡単に支配できる。理系や文系と教育を分割すれば更に支配は簡単になる。どちらが欠けてもアートではない。アートでなければ駄目なのだ。
金持ちや社会的地位の高い者に見える服装や言動をした時と、貧乏そうな服装や言動をした時では態度が明らかに違う。実験してみれば解るだろうが、前者のように見せただけで媚びてすり寄ってくるような、誇りも矜持も美意識も無い者があまりにも多い。だから本物の金持ちはパッと見そうとは解らない。
だから簡単にハリボテの力や権威に目がくらみ騙されて、本当の福の神を見抜けない。観察眼が節穴だ。よく観察すれば成金やチンピラが付けるような下品な高級品でなく、一見高級品に見えないが質や造りが良い衣服や装飾品を身に付けている。あるいは安物か。本物は見せびらかす必要が無い。
当たり障りの無い範囲だと、靴を見れば大まかには解る。足下を見ると昔から言われて、客が上客かそうでないか見極める下足番の仕事。靴に金と手入れの手間を惜しまない者は大抵上客だ。履き潰されていたり、シワや汚れ、踵の減りかた歩き方で職や育ちが大まかに解る。質屋の靴コーナーは面白いぞ。
観察と情報の蓄積、プロファイリングの要領だ。まあ、解っても無粋だから言わないし、職を聞く事も無い。職質じゃあるまいし。この街の酒場に飲みに行くと大抵、初対面の客やバーテンダーですら職質して来やがる。観察眼が無い。相手が自分より上か下か解らないと、態度の取り方すら解らないのだろう。
この手の観察結果や情報を蓄積しておくと、思うがままに相手の自分に対する印象を変えられる。相手に印象付けたい自分の姿に相応しい服装や立ち居振舞いを演出して効果的に、相手に「この人はこういう人だ」と気付かせればいい。自分で気付いた事は外部から植え付けられた偏見でも疑わないものだ。
@Chimaera925 なぜならば、多くの者は実物ではなく、そこから得た自分の頭の中のイメージを見ているからだ。人々は各々、見たいものを都合よく見たいように見て、信じたいものを都合よく信じたいように信じている。
だからこそ不思議なのは、選挙候補者。服装、立ち居振舞いや話し方の訓練をしているのだろうか。確かに人前で話し慣れているようだが、発声が素人。狙っているであろう主題から想像して、必要な声を想定すると、印象付けたい発声が出来ていない。話しの内容が印象に残らなくとも声や姿は印象に残る。
何故、印象操作に最善を尽くさないのか俺には全く理解できないが、党の公認を受けて名前を連呼するだけでハロー効果で安泰ならば、そんなもの必要無いんな。
日頃からそうやって印象操作しているように思われそうだから弁解しておこう。身に付けた知識や技術は自分の欲を満たす為に悪用しないと決めている。暴走しない為の自戒だ。とはいえ、印象なんてものは所詮は偏見。どこまでいっても偏見。真の理解なんて無いし、願ってもいけない。受け入れるだけだ。
自分なんてのもあやふやなものだ。実体がない。自分はこうだと偏見を持っているだけで気付かない側面などジョハリの窓を出すまでもなく、いくらでもある。自分はこうだと決め付けず、自身を観察して様々な顔を見付けて受け入れる。そうして好きな顔をよく観察して、相応しく引き立たせる。
@Chimaera925 あるいは、そのヤンキーやチンピラの社会での上下関係から強者への接し方や弱者を支配する手法を実践しながら技術を本能的に体で覚える。思考力を奪う手段や、支配しやすいカモの探しかた、相手の弱点を見付けて抉る手口、暴力。全能感があるから一般人より行動力がある。
@Chimaera925 仮初めの全能感に指を突っ込んで抉ると赤子のように喚いてすぐに暴力を振るう。本質は臆病なのだ。だからこそ、自分より弱いものや支配しやすいものを目敏く見つけ出し、支配する事で自尊心を満たそうとする。
峨骨 @Chimaera925 6月27日
用意されたシステム下でゲームマスターに勝つには、ゲーム外で勝利するか、チートを使うしかない。完璧なロジックなど存在しないからシステムの脆弱な欠陥、セキュリティーホールはある。しかし、目につく場所にはない。気付いたと察知されれば対策されるから、突くならば一度にやらなければならない。
票を投じる者は何も決定できない。投票を集計する者がすべてを決定するのだ。 ヨシフ・スターリン
>「Yes / No」 >を二元論で問いかける国民投票 二元論に落とし込まれてYESかNOかでしか答えられない白紙委任状がそんなに民主的か?おかしな事を。
峨骨 @Chimaera925 6月25日
タビストック人間関係研究所 wiki >英国支配階級のための国際諜報機関 >最終目的は、英米覇権維持のための国際的な大衆プロパガンダおよび完全な人間の心理操作の追求であり、その手段・技術の研究を行い、成果を実践すること。現在に至るまで数多くの各種の大衆洗脳工作の実施に関与との証言
今回の国民投票の監修にダヴィストック洗脳研究所が関わっていると俺は見ている。寧ろ、技術があって使えば有利になるのなら、使わない方があまりにも不自然。
ヒトラーはダヴィストック洗脳研究所で製造されたって説もある。確かに、独学で心理操作の技術や知識を獲得したか、それを囁いた者が居るはずだ。スピーチを聞いても、心理操作の技術に基づいた訓練を受けているのが解る。現代のプロモーション活動に使われる技術が利用されていて今尚通用する。
英米覇権ってのは寸止めだろうし、ロックフェラーも使いっ走り。話半分でいい。宗教と血統と金融(経済の血液)が本体。国家はそれらを包む包装紙。必要無くなれば包装紙は破り捨てられ、新しいものに変わるだろう。米国なんて東インド会社の北米支社に過ぎない。
不正選挙があるから正しい選挙が存在する。これはペテン師の弁証法。一方を不正とする事で一方を正であると見せかけて、正しい選挙さえすれば良くなると誘導する。 権力を分割統治する手段の一つに組み込めるのならば肯定。仲間内とはいえ立場の違いや利害の対立がある。互いに潰しあって貰うのが良い
ヒュプノスの子、人の夢に入りあらゆる人の姿を取って神のお告げを伝える夢の神の名を持つ男。モスグリーンの服を着た彼が差し出すのは、赤のカプセルと青のカプセル。二つに一つ。しかし、どちらも正解ではない。選べば夢の虜囚。正解は紫のカプセル pic.twitter.com/tJM8EjpGyC
いや、作り物の神の虜囚か。ご都合主義のデウス・エクス・マキナ。機械仕掛けのハリボテ、巨大な舞台装置。夢オチか。
赤にも染まらず、青にも染まらず、中庸であれ。緑は赤と青の構造を作り出した者の遣い。どちらを選んでも行き着く先は緑。提示された選択肢を選ぶ限り、道乗りが異なるだけで行き着く先は同じ。
補足:宗教には思想も含まれる。思想に対する崇拝。
同調圧力などと聞くが、俺はその圧力を感じた事がない。圧力が「ある」と信じているから、実際にあるものとして感じなければならないのではないか。空気を読めなどと言うのは、(権威ある多数派だと信じている)自分に従えと命令し支配する手口。多数決を民主主義とする誤った教育の憐れな犠牲者。
多数派は正しさをどのように証明するのだ?多数決は正しさを証明しない。数の力を正しさと盲目的に信じているだけだ。ある種の力の信仰。強い者が正しい、仮にそうならば証明は必要無いし多数決すら不要。多数派で争いあって最も強い者が決めれば良い。そうして消耗して一人になったら不意討ちしよう。
彼らは絡め手を卑怯だと言う癖に、数の暴力を卑怯だとはちっとも、これっぽっちも思わないし、自身の正しさを疑う事も無い。常に勝者の側に付きたいだけで正しさなど求めない。独自の美学や信念が無いのだ。そして、より力ある者が現れれば媚びる。故に多数と同化できる。
峨骨 @Chimaera925 2011年11月5日
たまに入る喫茶店。店入るなり顔見知りの店員に挨拶しつつアイコンタクト。向こうも頷き返す。水とウェットティッシュのセットと一緒にいつものコーヒー。ブラックしか飲まないので、ミルクは付いて来ない。こんな地味な面にも関わらず、何故かすぐ覚えられるから不思議だ。
オールバックはかなり捗る。セットは髪整えて表面にジェルを撫でつけるだけ。男の世界じゃ、見た目が若いとナメられるので俺は三十路に見られない女顔+童顔なのでオールバック必須。ブローしないで手櫛入れると崩れやすいので、表面だけ固めてやるといい。
髪型や服装や仕草は心理状態を作る。いつもオドオドして自分に自信が無い男は額を出して額と目元を出し、毅然とした態度を心掛けるといい。額は自信や威厳を現す。男と張り合うバリバリのキャリアウーマンが額を出すのもそんな側面がある。形から入っても良い。積み重ねればそれも本物の自分だ。
補足 額は知性も現すので、知的に見られたい場合は額をチラ見せするのも有効。勿論、服装等のトータルコーディネートが重要ではあるが……人は見た目の印象で8割は決まるから、自己演出を考えてコーディネートして行った方が良い。無論、TPOも重要だけどね。
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、初めて解脱を得、物と拘わらず、透脱自在也……か。なかなか難しいものだな。
同僚のおっさんに役者をやっているのかと問われる。声の通りや声量が圧倒的に違うらしい。昔ちょっと声楽をかじった程度ですと答えておく。実は全力の2割程度で手抜きですと言うのは無粋。17年近く積み重ねたボイトレは伊達じゃないが、そんな事、俺だけが知って居れば良い。結果が全てだ。
他者を敵か味方か分類するのは危険。味方の面をして「あいつは敵だ。お前の事を恨んでいる」本当だろうか?戦場に落ちた剣は誰の味方か解らない。しかし、害意を持った者の手に渡れば危害を及ぼすだろう。害意で目が曇れば、剣を拾う者全てが害意ある者に見える。弱者の恐怖と猜疑は手に負えん。
己の敵意や害意を殺せば、敵を一網打尽にしたに等しい。曇り無き眼で観極め、斬らば斬れ。修羅道は六道輪廻の三善趣に含まれる。
らすこり @lascomini 9月6日
「情報断絶状態にすると脳が情報に飢えるからなんでも肯定的に受け取るので都合のいい情報流しやすい」 「情報過剰状態にすると脳が過負荷状態になって思考能力奪われるから都合のいい情報流しやすい」 洗脳の基本みたいですよ
演出 印象 @Chimaera925 ワード検索+期間限定検索で一連のツイート保存
ねこた(基地外勇者様) @lakudagoya 10月20日
おいらは、様々な思想や宗教や色々な社会運動その他を調べたけどさ、おかしいのは、究極の自立の象徴的思考を切り詰めていくと、消去法でファンタジーの魔導師しか見つからないんだよ。 それ以外はみんなドグマというか依存させる要素が入ってる。 それが世の中のおかしいところなんだよ!
結局、自分の「意思」を世界に押し付けるという視点でやつらの計画が動いてる。 この魔王思想を見誤るとリシャール・コシミズのようにやつらは金が欲しいからやってるとかいうアホな話になるよ。 おいらが魔王討伐の勇者とか言ってるのはこの部分の退治だよ。わかるかな?
その思想を切り詰めていくと、結局は「意思(思想)を実現するための知識と究極の三位一体」しか残らなくなる。 このトリスケリオンの女神様は、誰に憑依してもいいんだぜ? それはあなたを明日から拉致して、徹底して洗脳と教育を施せば魔王が乗る座にはなるわけ。 だから敵の正体はだよ。
ぶっちゃけわかりやすい例はさ、ロードス島戦記でさ、カーラが憑依したサークレットを取った盗賊のウッドチャックがかぶっちゃったでそ? 四十路過ぎのムショから出たすぐ盗賊にもカーラが憑依してさ、しかもそのカーラの憑依は取れてもカーラの知識は残るんだぜ? 魔王の正体ってこれでね?
だからさ、魔王はゲームでよく言うでそ?「私を倒しても第二第三の魔王が現れるだろう」と。 これの正体はこれなんだよ。 だからさ、魔王の製造装置を叩かないといけない。 魔王を生み出すシステムが問題。 魔王を生み出すのは世界を支配する知識と技術を思想で統合した教育体系だよ!
魔王が世界征服をしたくても、その願望はその目的を達成する知識と技術がないと実現しえない。 その三位一体を魂のように結晶化させるには、実現のための知識と技術を思想によって統合して、知識と技術の習得段階が進めば進むほど洗脳がかかるような感じにしないといけない。これが魔王製造法。
人はそいつの人格ではなくて、大部分は技術に動かされてる。 それが嫌なんだよ。おいらはさ。 特に人を動かす技術を持った紐付きどもに洗脳されてる連中にさ、ガッカリしたの。 人の善意なんて技術の前には踏みつけにされる。 特に心理学とか見ると人間の心のロボ化は許せないんだ。
洗脳もさ、あまりに深いとショック療法とかでないと解けないんだよ。 特に五感を使った洗脳なんて説得で解けないのはカルトに接してわかってる。 でもカルトの洗脳を解くには、感情的な技術を駆使したがいいとか言われるけど、それはおいらは嫌いだから地味に啓蒙活動とかむくわれないことしてる
リシャール・コシミズのロック爺さんが何でも悪い陰謀論ってさ、ロック爺さんもロス茶も存在する前からこの支配構造あったんだよ? ロス茶なんてただのサラ金屋ぢゃん。 じゃあ、ロック爺さんがいない時代はこの世はやつらの支配しない天国だったのかね? そーぢゃねーだろ?
ねこた(基地外勇者様) @lakudagoya 10月20日
@Chimaera925 失礼します。もう峨骨さんならおわかりだと思います。 やつらの世界を支配するペテン術はみんな西洋魔術の技術の応用でできてると思います。 それを考える場合、ロック爺さんが悪い陰謀論なんて意味ないと思いませんか? 敵は知識と技術と思想のトリニティなのに。
峨骨 @Chimaera925 10月20日
@lakudagoya ええ、取替えの利く駒ですから(笑)排除しても代わりがいるもの。特権や力があるとしたら、それを与える源泉、根拠となるもの、それを命じたもの、根底となる思想や知識、技術に着目しますね、普通は。
ただ、思想や源泉だけに言及すると論理の飛躍と取られかねないので、代えの利く部品の役割の一部と認識してそこに繋がるヒトモノカネの流れを追う作業も必要かな。核心部分を見て結論を取り出しても、そこへ至るまでの証明が出来なければどうしようもないので。
ねこた(基地外勇者様) @lakudagoya 10月20日
@Chimaera925 もちろん、その作業が必要なのは言うまでもありません。 ですが、その思想のフィルターを通してやつらにとって金や権力でさて自分の意思をこの世界に押し付けるためのツールに見えます。 この世界をどうにかしたいからあらゆるものを利用するという視点が必要です。
峨骨 @Chimaera925 2016年7月6日
100均で買ったシュシュが思いのほか重宝している。家でいちいち使ったらヘタるシリコンゴムの使い捨てのヤツを使うのもな。間違っても、このまま外には出ないが。だいたい男の髪が短いのは古代ローマの慣習から。あとはイングランド内戦のクロムウェル派、ピューリタン。あとは仏革命。西洋文化。
峨骨 @Chimaera925 2016年1月11日
男の化粧や長髪、男色なんかは日本の伝統。現代の男らしさは西洋化した明治以降に作られた価値観。西洋人の価値観を持つ日本人の日本の伝統に対する眼差しは西洋人のソレにも見える。未開や野蛮、途上と異文化を見る時、価値観の根底には西洋が中心にあるのに日本人だと思っている。
峨骨 @Chimaera925 2016年7月24日
カルヴァン派の予定説では、神の救済に預かる者は最初から定めら れており、禁欲的に天職に勤める事で成功する者であるといった思想だ。つまり、富を築いた者はなるべくしてそうなった、と。ここで言う禁欲とは、目標(利潤の追求)の為に全精力を傾ける禁欲さのことを指す。天職思想はルター。
峨骨 @Chimaera925 2016年11月14日
『戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事』だっけか、あれは大本とも関わりのある生長の家の創始者の谷口雅春の言葉だろ。ニューソートを光明思想として日本で紹介した人物。大東亜戦争に負けたのは島国根性に凝り固まった「偽の日本」で、真の「神洲日本国」は負けていないなんてのも迷言。
峨骨 @Chimaera925 8時間8時間前
答えが出ないものは、無理に答えを用意する必要が無い。答えや真理など無くとも世界は回っていく。それが無ければ不安だとするならば、詐欺師どもの用意した、紛い物の答えや真理を掴まされて、いいように使われ、精神も肉体も貪り尽くされる。思想はより良く生きるための道具。信仰するものではない。
峨骨 @Chimaera925 1月1日
それら道具に使われる者は、道具としてそれらを扱う者に使われる。無いものをあると同意させ、信じさせたあるいは存在するかのように振る舞わせただけで影響下に置ける。世界中にこのような呪いは溢れている。無いもの始めから無いものとして否定し解呪するならば、呪いから身を遠ざける事が可能だろう
偶像や呪物、シンボルは道具として使うには便利だ。しかし、それらを崇拝してはいけないし、在るものとして扱ってもいけない。必要な時に作り、その場だけ在るものとして心の底から信じて用が済んだら破棄して忘却する。これをしないで扱うのは危険だし、扱うための訓練も必須。
峨骨 @Chimaera925 2016年10月24日
宗教も企業も道具な。その道具を使う連中に道具のように使われていてはいけない。言葉も単なる道具だ。使うものであって依存したり有り難がるものでもない。道具に従う必要は何処にもない。道具を介するものを見聞きし、感じて、自分の意思で選択する。捕らわれるのも捕らわれぬのも自由自在だ。
峨骨 @Chimaera925 2015年7月16日
サンスクリット語のマントラは呪文や真言を指す言葉として用いられているが、本来はマン(考える)とトラ(道具)を組み合わせた言葉で「考える道具」の意味を持つ。憲法や法、民主主義、人権、思想、哲学は唱えただけで何かが変わるような念仏ではない。これもまた考える道具、思考の歩行器。
峨骨@Chimaera925 2月
最も人を殺す生き物に法人が含まれないのがミソだね。
法律よりも法人が優先される不思議の国。労基法よりも法人の都合が優先されているから、労働者は法で守られていない。リヴァイアサン読むまでも無く、本来ならば、力が強く社会的に多大な影響力を持つ法人が、個人、労働者より縛られるはずなのに、「厳しくすると法人が逃げる」だったか?規制緩和。
逃げるぞと脅せば言い分が通り、規制が緩和されるならば、法が存在する意味が無い。どれだけ法人が個人を犠牲にしても、経済を引き合いに出せば通る?とんでもない話だ。金儲けする以前のお話で、倫理観も無ければ個人を守る気も無い。そんな法人に利潤の追求の自由を与えても百害あって一利無しだ。
「小の虫を殺して大の虫を助ける」を地で行く。その大の虫が害しか撒き散らさないくせに「大きすぎて潰せない」なんて言いながら助けるのだから、笑ってしまう。
お客様が神だって言うんならチェーンソーでバラしてもいい訳だ。神だからと横柄な態度を取る奴にとって、神ってのはそういうイメージなんだろうな。そのような傲慢な神が人間に滅ぼされるなんて逸話を知らんのだろうか。神に傅く立場になると言いなりになるようなタイプなのだろうな。
涙を流すのが人間的?涎を垂らしてもそんな事は言われねぇ。どっちも単なる体液だ。人間性の証明では無い。その涙というものに貼り付けられた記号を見て人間性の証明と錯覚する。
そういや、過去に「人間性が無い」と何度か言われた事があったな。同情や共感のポーズを取って思い通りにならないと、「人間性が無い」と言われたものだ。特に「人間性が無い」と言われても何とも思わないけどな。そんなもの定義する者による。誰もが定義を共有する人間性なんざ無い。
定義を受け入れ、罪悪感をまんまと植えつけられてしまえば、人間性という概念上にしか存在しないもので他者に操られ、支配されてしまう。ありもしないものに支配されるのだ。
峨骨@Chimaera925 2012年4月17日
ジェンフリは性差を否定して無性人間作るってカルトだ。フェミの元祖フーリエの思想がマルクスに継承され、レーニンが政策を実行。離婚増加、出生率低下、風俗の乱れ、非行少年急増で国が乱れ、スターリンが撤廃。ブルジョアを粉砕せよ、と男『性』を粉砕せよと何が違うのか。わかんねーだろーな。
峨骨@Chimaera925 2月14日
絶対的な正義や悪、道徳に不道徳、常識に非常識、法、真理、それらは存在しない。存在するのは解釈。環境や時代、価値観、民族、統治や管理の為のご都合主義、要求、これらによって生み出された解釈でしかない。ある時代と場所で善とされたものが悪となり、また別の場所では善となる。普遍的ではない。
峨骨@Chimaera925 2016年1月26日
キリスト教に被れた奴が働かざるもの食うべからずなんて言ったけど、近代になって活用したのはレーニン。不労所得で贅沢三昧の特権階級、資本家や貴族を批判した。今じゃ傷病者や失業者やホームレスを自己責任だ飢えて死ねと叩く言葉に。サテロニケの信徒への手紙では働けない者は食うなとは書いてない
峨骨@Chimaera925 2016年4月20日
支配者を打ち倒した後、それらを指導した者達が同じ事を行う。または指導者は後からやってくる。 ボルシェビキ革命の七ヶ月前に皇帝は退位していた。その時、レーニンとトロツキーはロシアに居なかった。米国に居たのだ。彼らは強力な支援を受けてボルシェビキ革命の準備が整ってから送り込まれた。
本人が解説してくれました。
峨骨@Chimaera925 2月22日
看板と指導者を変えると、本質的に同じものでも別のものに見える。 https://twitter.com/Chimaera925/status/774056876061274112 …
峨骨@Chimaera925 2016年9月9日
共産主義社会では、人が人を搾取していると聞く。 一方、資本主義社会ではその逆だ。
峨骨 @Chimaera925 2012年1月12日
全ては模倣、ごっこ遊びから始まる。真似びは学びに転ずる。見て真似び、試してみて、また見て真似び、幾度と繰り返し真似び、試みる内に洗練され初めて己の業になる。これぞ学業。蓑虫が色鮮やかな色紙や金の毛糸で絢爛豪華な蓑を作っても、素晴らしい色紙や毛糸は蓑虫の業ではない。
峨骨 @Chimaera925 2017年3月12日
俺自身、継ぎ接ぎだらけのキメラだからどこまでが業になったやら。少年老い易く学成り難し、だな。
ある種の本は準備が整っていない者が読むのを拒む。準備が整うと、ある日突然その内容が読めるようになる。
短い眠りで充分な睡眠を取る方法は幾つかある(以前に一つは書いたか)が、そのうち機会があれば書いてみよう。
そうそう、精神的に安定しないときや疲れたときは、シャワーを浴びる際に膻中 https://t.co/S2syoMdCvO に暖かい湯を当ててマッサージすると良いぞ。しこりになったような感触がある時は特にな。俺は結構、精神的に溜め込むタイプだけど、これだけでかなり翌日違う。
— 峨骨 (@Chimaera925) 2017年3月11日
必要最低限の予算や機材、知識が解らないと、あれもこれもとなって準備に動きが鈍る。他の同種の創作やってる奴を参考にし過ぎると、比較してしまって何かする前に何も出来なくなる。やりたい事は何か。漠然としたイメージから贅肉削いで、後から肉付けした方が楽。案ずるより産むが易しってな。
— 峨骨 (@Chimaera925) 2017年3月18日
@lakudagoya デスクトップの録画は下記を読んだらそれなりにいけるかな。大体まとまってる。https://t.co/w21JhTPZmP
— 峨骨 (@Chimaera925) 2017年3月17日
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お読みくださり感謝しますが、このお方のツイートを直接ご覧くだされば幸いです。
魔法使い初級おねしょた兄貴ツイート保存23470円と、 ピザノザウルス@ガリィちゃんはかわいい @pizano1215保存
Posted on 2017.02.15 Wed 01:20:38 edit
23470円さんの傑作”イスラームでは異端審問をしてはならない事になってます
— 子子子子子@黒住も金光も天理も世界連邦側 (@kitsuchitsuchi) 2016年9月4日
これは人間があれがムスリムでこれはムスリムではないという文言を封じるためです。それがわかるのは最期の日な訳で人間が人間を異端扱いして勝手に裁き殺したなら地獄でやかれる事になります。”
工作員=異端審問官
陰謀追及者において重要なイスラム教の特徴
・異端審問の禁止
(人が神に代わって裁くことの禁止)
・多数派は信仰告白が義務
(信仰隠しは少数派の教義のみ)
・神学も法学も、理性と論理的思考も重視
(反知性主義の否定)
・ユダヤ教神学もイスラム神学の理性と合理主義重視派に影響されている
(合理的なものほど異端になるのがキリスト教神学の特徴)
イスラム教徒って工作員に全然向いてないってこと。
信仰隠しを一番するのは新キリスト教系工作員
23470円=おねショタおじさん @douteimaturi さんの傑作
”イスラームでは異端審問をしてはならない事になってます
これは人間があれがムスリムでこれはムスリムではないという文言を封じるためです。
それがわかるのは最期の日な訳で
人間が人間を異端扱いして勝手に裁き殺したなら地獄でやかれる事になります。
陰謀ではお金の流れも重要ですが、もっと重要視せねばならないのは尊厳の流れかもしれません。
むしろ、魔術師退治を考えるなら、尊厳という認識がいかにして作られるかという部分に着目すべきではないかと。
魔術師というものは言葉で人を縛り上げる術に長けていて、そこが魔術の根幹なのです。
例えば、選挙という単語を出すだけでさまざまな言葉が発生します。 不正、民主、多数決などなど、この連想させる力自体が魔術師の魔法なのです。 言葉を支配し、言葉が言葉を繋げる魔術これが最強の魔法です。
謀議論をやる上で必要なもの。 歴史学、神学、心理学、天文学、幾何学、哲学、占星術、数学、帝王学。 特に歴史学と神学、心理学が重要。 基本、歴史に名が残っている先祖の末裔を探し、そいつらが今なにしているかで大体予想がつく。組織もそう、正史を知っていればしっかり繋がる。
紐付きはこの正史の部分を隠そうとするので隠さない人は比較的本物。次に大切なのは神学についてどういう立場をとるかを見る。日本人の95%以上は仏道及びケを信じている人達なのでそうでない場合は立ち位置ありとの判断でその人間の批判の仕方をみて決める。悪魔とか言っちゃうとー評価みたいに
この3つで考えてください 1、反証性 2、論理性 3、合理性
この3つに従ってものを考えれば、そう間違える事はありません
もし、間違えるのであればまず貴方の信じたい事、事実ではない事、思い込みたい事がそこに入っているということです
だから、間違えるのです
わしゃ帰ってきてよく思ったよ 仏法はよくできすぎだし、漢籍はよく完成されてる
まだ、漢籍については戦国策や韓非、孟子しか読んでないけど
この思想と西洋哲学じゃあ2000年遅いことを西洋はやってる こりゃあ、破壊したいし、隔離したいのがよくわかるよ”
工作員=異端審問官
なので異端含め✝系ばかりでイスラム系がゼロ。仏教に詳しい人々に絡む工作員。
私もいつ消されるかわからないので保存お願いします!後悔したいの?
藤原偽天皇”
陰謀追及者において重要なイスラム教の特徴
イスラム神学と法学の理性の扱いが完全に耶蘇教の右目の中の右目派の基盤でびっくり!
桜井啓子『シーア派』などイスラム資料集
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-130.html
更新中ヘブライ語とアラビア語が似すぎ!どこが日本語?
ヘブライ語(イブリット)とアラビア語勉強メモ
『アラビア語が面白いほど身につく本』アラビア語勉強中
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-126.html
ねこた @lakudagoya
「ロクでなし魔術講師と禁忌教典」というラノベで一番面白いのは、主人公の持つ必殺技「愚者の世界」というもので、一定時間そのエリアの魔術の発動を完全に無効化できるっての。 それくらいの力を持ってるよ、イスラーム側の視点は。 やつらの幻術をすべて木っ端微塵にする力があるもの。
私はたまにこのイスラーム側の視点という、やつらの幻術封じを使ってフィールド魔法を解除してるけどな。 あのラノベでも、魔術の発動を完全に封殺した上で敵を無力化してボコってたけど。 これくらいのカードがないとやつらとは戦えないのよ。 これ考えたの陰謀論者では私が初めてだわ。
イスラーム側の視点使って陰謀論って、やりだしたのは私が初めてかな。 おねショタおじさんがもっと凄いの出してる。 だからさ、このカードを持たない陰謀論者は、いくら頑張ってもやつらの手の内から逃れられないよね。 そこ大きなアドバンテージだわ。大きすぎるくらい。
おねショタ魔法使い初級おじさん @douteimaturi 2016年10月25日
中東で日本では毎日、朝に家を出てずっと会社や仕事場に夜遅くまで居て、家に帰るような仕事をして生活をしている、していたと言ったら
「それは人間の社会ではなく、家畜の社会で人間が羊や牛のように屠殺されているので貴方はそのような社会に帰るべきではない」
高々、8ー19時の仕事だったが…
因みに中東では皆、暇や隙があれば茶やコーヒーを飲みます また、大体のお役所や個人商店では昼ご飯後は一回閉めて自宅に帰るなり昼寝したり、子供と遊んだりしてから夕方前に2時間位仕事してから家に帰って家族と一緒に過ごすので仕事はしてますが無駄に働いてはいません
例、個人商店のおっさんの一日 朝礼拝ー二度寝ー朝食、出勤(徒歩5分)ー8時開店テレビ見たり携帯弄ったり世間話ー昼礼拝帰宅後昼食ー昼寝、家族と過ごすー夕方4時再度開店ー夕方と夜の礼拝を店でし、日中と同じ様に仕事ー夜11閉店ー帰宅後シャワーと深夜の礼拝後12時就寝
中東でも立ち仕事やいつ休んでいるんだろう、と思う仕事はありますよ ナン焼き職人とか、ケバブ屋の兄ちゃんや携帯屋の職人とかいますけど日本みたいにストレスが溜まるような働き方はしてませんし、いつどんな時でも茶やコーヒーを飲む瞬間は絶対に忘れません
日本は「過労死や孤独死出来る環境」なんです 例えば、独居老人とか世界にもいますけど毎日親戚が顔出したり、今はSNSがあるから年寄りでも携帯ポチポチしてメールやSNSをしているのはよくある光景です だから、少しでも連絡途絶えたら親族が直ぐ駆けつけますし、大概は周りは知り合いです
毎日、町の礼拝堂に朝来ていた爺さんが今日だけ来なかったとなれば、周りの人が昼前までには爺さんに何かあったかはわかってます つまり、個人が孤独状態に陥るという事は殆どなく、中東で死んで体が腐った状態で発見される事なんて戦場で戦って死んだのに葬られていない死体くらいなものでしょう
こんな事を言うと日本と海外は違うとのたまう人がいるのですけど、はっきり悪いものを自己都合で追認することは絶対不動の悪でしかなく 絶対不動の悪というのは人間の生命環境を狭めたり、汚した上で私益を貪り、そのために詭弁を使うことは絶対不動の悪で絶対不動の悪は相対でほじくり出すのです
中東でもし、現地会社員で親がなくなったので休みが欲しいと言った際に仕事が優先で休むなと言った日本人上司はその瞬間に殴り殺されているか、何か都合の良い鈍器で殴り殺されるか、無視して出て行かれるかの三択でしょう 日本人が中東で商売したら絶対に失敗するというのはこういう部分でしょう
厳しい言い方をすると過労死や孤独死というのはあある程度の相互監視と扶助がある社会であるならば、ありえない現象なのです
特にSNSなどが発達した現代でも孤独死や過労死が発生するという事は社会秩序がない事でしかなく、ロックが言った「万民が万民の敵」というのは日本のことなのです
(ホッブスやルソーではないの?)
こんな事を言うと「日本から出ていけ!」何て短絡的な事を言う人いますけど、実際出て行きましたし帰りたくもないのです それでも帰るのは親、親戚や友人がいるからであり、己が日本という土地に絶対者が創ったのはそれを改めさせる義務からであり、程度の低い感情ではなく義務と命令からなのです
おねショタ魔法使い初級おじさん @douteimaturi 2017年2月13日
ハラール認証の話 そもそもشرکت 会社や法人の存在がハラームなのでそこに関係した上にクルアーンを切り売りする行為は地獄行きなので全部ハラームで地獄に堕ちる為の行為なので地獄で焼かれたかったら食えば? 以上終わり
ルパン@6月からフィンランド移住 @Asena0330 2月12日
マジで日本でイスラム教徒の子供に生まれたら大変だよ。僕は親がガチガチのイスラム教徒だったから、ファストフードだめ、ファミレスもだめ、お祭りもだめ。博多生まれなのに博多ラーメンだめ。中学の打ち上げで何も食べれない。友達には距離置かれるし一種の地獄だよ
あと民族衣装着せられるのが嫌だった。すごい注目浴びて恥ずかしいから小学生には辛かった。そのトラウマで今もすごい人の目を過剰に意識しちゃう。日本にいるイスラム教の偉い宗教家の方は是非日本で生まれたムスリムの子供ができるだけ自由にできるよう働きかけてほしい。
こういう日本人がいるから嫌なんです
— ルパン@6月からフィンランド移住 (@Asena0330) 2017年2月13日
あくまで僕は親に宗教を強制させられただけで、イスラム教徒ではない
昨日の一連のツイートで僕は一言も「私はイスラム教徒」とは言ってないし pic.twitter.com/mFhmSFOfwX
特にこれは偏見に等しいと思ってください
— ルパン@6月からフィンランド移住 (@Asena0330) 2017年2月13日
昨日イスラム教徒の父のせいで好きなもの一切食べれなかったと書いた僕のツイート遡って「イスラムの癖にハラール食べないんだ」「酒飲むんだダウト」というのはひどい偏見です。好きでイスラムやっていたわけではありません。強制されていたんです pic.twitter.com/CSjZurcU2h
あと酒を飲むイスラム教徒は山ほどいます 留学生の知り合いも「日本酒うめえええええ」と1週間に何度か飲んでいます。しかしこれは破門される案件ではありません。偉い人も「異国の地に住んでもストレスなくイスラムを信仰できる生活をすればいい」と言っていました。
最後に 昨日から「父のせいで」と父のこと書いてきましたが、父は好きです。あくまで「宗教を強制する父が嫌い」なだけで、海外から移住してきて僕を私大にまで行かせてくれた父を心の底から嫌いなわけありません。20歳まで一滴も酒は飲まずにすみましたので。
18年間イスラム教のガチガチの食生活を送った後
— ルパン@6月からフィンランド移住 (@Asena0330) 2017年2月13日
1人暮らしになったら肉!酒!肉!ってなるよなぁ? pic.twitter.com/eb4XIWdbeN
もしこれから皆さんがイスラム教徒と出会ったら ・最初は寿司屋かうどん屋に連れて行ってください ・こちらから肉、酒の話はしないようにしましょう ・向こうが肉を注文したら日本はハラールじゃないけど大丈夫?と聞いてあげてください ・それで大丈夫と言ったら焼肉に連れて行ってください
逆に父がイスラム教徒でよかったのは、肉が食べれないから寿司屋によく連れて行ってもらったこと。父の友達のムスリムの方達がお小遣いをよくくれた事。仲間意識が強いから僕が小学校でいじめられた時にアラブ系の人10人を引き連れて職員室に文句を言いにいいってくれた事ですね。
ハラールよりもまず先にムスリムの子供達がいじめられない環境作る方が優先だと思う。多感な時期にいじめられるのがどれだけ辛いか、しかも自分で選べないことが原因のせいで。そういういじめや偏見問題よりも給食の方が大事だとは思えない。まず先にハーフや外国人の子供が勉強しやすい環境作りを。
おねショタ魔法使い初級おじさん @douteimaturi 2017年2月13日
うーん こういうのを見ると最低限毎日、五回の礼拝だけはしとけと何食うにしろ必ず「ビスミッラーヒルラフマーニルラヒィーム」と言えばいいよ というのが最低限の線だろうねえ シーア派のイスマイール派以降ならタキーヤで逃げれるけど、スンニ派だったら一番緩く考えてこうだろうねえ
例えば、スンニ派だとアッラーと個人の契約で押しきりますがこれだと「両親が信徒であれば、子も信徒である」のならば、それは個人の契約ではなく集団の契約と考える他なくなるのです
確かに解釈はいく様にもありますが基本はクルアーンの記述と伝承から離れてはできない部分があるのです
で、一番不味いのは棄教宣言でそういう家庭なら最低でも一回はシャハーダ・信仰告白を言ってしまっている可能性があるのでその場合は告白→後日、強制させられたという場合は棄教という扱いになります これが強制させられて信仰告白というならば信徒ではないは使えるのですが逆の場合はだめです
後、日本人は低脳過ぎて勘違いしているけど、宗教というのは生活原理なのです 全ての生活の原理は宗教素地があった上で成り立っているわけで宗教なき生活と生活なき宗教というものはないのです 例えば、お辞儀 これも道・儒教の宗教思想が複雑なお辞儀の体系を産んだ訳でそれは原理なのです
正直、やべえなぁ…と思ったのはどんなにぐうたらで酒や豚食うムスリム・ムスリマでもネットや外の世界で信じていないや棄教宣言は死んでもしないし、するなら命懸けの事なのにフィンランドでしょ…あそこ地味にイスラーム人口が多いので日本の現状をそのまま持って行ったら村十分くらうかも知れんない
これが日本人というのであれば問題はないのですけどねぇ…取り敢えず、両親が信徒である事がバレない事を本気で祈るまでです
うーん やっぱりダメだ、完全に勘違いしている 両親が信徒であれば、強制という定義は使われないので棄教になる で、無理のないと信仰というのは他者から排除されないという意味であって、基本的な信仰行為が邪魔されないのであれば、それは無理のない信仰が成立しているので言い訳にならない
そもそも、イスラームでは破門というのは存在しないが棄教は存在するので如何なるぐうたらな連中でも棄教になる事だけは本気で避ける
これは中東だけではなく、全世界にあるイスラーム集団に追われる事を意味するのでスンニ・シーア・スーフィー・異端派の全てが「敵に回る」のでガチでこれは避けるの
これはイスラームというのがキチガイとか、狂っているじゃなくて、そいつ自身が完全に狂った事を意味しているので日本で言えば、何処でも全裸で自慰しながら、うんこ塗りたくってそこらじゅうをうろつき回るようなものでそれが正しくて、社会的常識何て言ったら精神病院行きでしょ?
だから、そう思ってもそれだけは口に出さないわけ
日本語って、全く言葉に重みがない言語だからそれでいいだろうけど、アラビア語や英語となると意味合いがまたガラッと変わるからその延長を海外に持って行ったらかなり危険というか、普通にリンチ受ける
いやまあ、わかっているだろうけどtl
また、自由というのも勘違いしているなぁ…自由というのは物質的なものではなく、何かを規定した上で成立する自由が本来の自由であって 所謂、形而下の自由というのは本能的な自由でしかないのね
そういうと何故に「何か」が悪を作ったのかというけど、これも頭の程度が知れる質問なのね
「何か」というものは至善なわけで悪は行わないし、悪を用意することはないの
悪を用意しない存在は完全なる善であり、
またその存在は「何をも必要としない、絶対単性」なわけで悪と善でわかれていればそれは必要としている存在であり、それは「何か」ではないわけ、まずここで破綻しているの
(「悪を用意しない存在は完全なる善」
全でも悪でもないあるいは善悪の分類が無意味な存在というカテゴリーが抜けている。
アッラーの善悪の話だから善でも悪でもないカテゴリーはそもそも想定していないのかも。)
では、その「何か」は何を人に与えたのかというと全ての力・知・生の土台を与えたのよ
例えば、包丁の持つ力・知識というのは何かを切ったり、安全に調理したりする為のものだけど、時には人を殺すわけ で、「何か」は人を殺す事を命令したのだろうか?するわけがない、殺す事は悪だからだ
(包丁からあらかじめ人を殺す性質を消去しなかったのはなぜか。
悪の芽を摘み取らない理由はなぜか。
そもそも殺人に使うこと自体を不可能にしなかったのはなぜか。
あと全知全能=結果がわかるのに「試す」や「審判」の理由がわからない。
少なくともシーア派神学はヨブ記は誤りとするらしいが、結果が見えるのになぜそんなことをするのか。
無駄で無意味なことはしないのではなかったのか)
と、すると強制されている・予定という概念は成立しない
なんで?何で悪という事を「何か」が強制して、しかも地獄に堕ちる事を確定させるんだよ?
そんなの善なる存在ではまったくないでしょ? そんなのは単純な論理でわかるわけ、そんな事もわからないのが現代のやそとスンニ派の大部分です
だから、人間にはその「何か」の力と知識を使う能力があり、その能力をどう使うか「だけが」問題なの
これが「何か」の絶対公正性なわけ、これが神学で哲学・ハシタメのご主人様の正体なわけだ 御主人様は古いようで常に新しいのでショタジジイみたいなものだね、やっぱりおねショタに帰結するんや
(自由意志の必要性!
悪をなす能力がありながら善を選んでなすなら善なる存在と言える。
善「しか」なせないならそもそも「善」なる存在なのか?
悪の性質も悪をなす能力もあるがそれをなさないなら善)
面白くわかりやすくする設計図
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-118.html
おねショタおじさん @douteimaturi
じゃあ、支配者は何であんなにオカルトみたいなのが好きなの?
と、聞かれれば儀式に依存しているわけで儀式を大量に作り出して選別しているだけなのです
つまり、儀式依存症なわけでその儀式に漏れる事を恐れるわけなのです
深い知識や意味があるのではなく、儀式を作って自分から依存してるのです
狼たちは知っている @wolvesknow
バラモン教は、自己の権威を高めるために複雑な祭式規定を発達させたんだよな。
まぁ、アイヌも子供に汚い名前つける風習あるらしいから多少はね(ゴールデンカムイ波感) #大アマゾン pic.twitter.com/UgMfpXiQ2l
— ゲソふらい (@gesofry) 2016年8月7日
これ、ヨーロッパ版よりアジアアフリカ版の方が変化に富んでて楽しい。アイヌは良い名前をつけると魔物に狙われるから子供に汚い名前をつけるらしいけど、エジプトでも子供にずだ袋とか卑下した名前をつけるらしい。人間って似たようなこと考えるんだな pic.twitter.com/Vvbyn3RnbO
— りま (@soyrima) 2015年1月7日
森の人 @mountainhermitt 2015年3月15日
ゴールデンカムイ読んでいたら、アイヌ民族は赤子に病魔が近づかないよう汚い名前をつける風習があると描写されていたのだけど、同じ風習がモンゴルにもあるのよね。
タイだと人間だと思われないよう動物の名前をつけたり。
この風習が広まった経過がとても気になる。
丸焼け @maruyake4 2015年3月5日
そういえばゴールデンカムイでアイヌでは魔除けに幼い子供に汚い名前を付ける風習が出てたけど、モンゴルにも似た習慣があるみたいだし日本の幼名(××丸)もおまるから取ってるって聞くからそれぞれ同じ起源があって分散していったのかしら。
樹木 @ichinenjyu 9月5日
「世界の名前」って新書を読んでると複数の国でわざと悪い名前をつけるってことがでてきて、そうするとアイヌの『幼少期は汚い名前で悪霊を遠ざける』のもそう珍しい傾向じゃないのかなって思えてくる
いざよい@自家通販中 @izayoisakenomi 2月3日
グラニアの名前の意味が醜悪って、アイヌの子供が爺さんの尻の穴とか平安時代の子供がくそまろとか(どちらも魔除けで敢えて汚い名前をつけられる)そういうのとは違うんやろ……フィンの名前なんて黄金の髪が美しいから名付けられたんやろ……何故そんな名前をつけられた……呪術か……妄想するで……
おねショタおじさん @douteimaturi 10月
言葉は呪いで祝詞だと思ってください
そして、邪悪でもあり聖善だと解れば、言葉が持っている本来の属性が分かるはずで
言葉は人の思考を縛るんです
すべての両義的なものは言葉から生まれるのでその言葉は何を縛るのか?という、視点で考える事です
特に日本語は抽象的な表現や暗喩が滅茶苦茶多いので言葉が様々な意味を縛りあげるのです
例えば、ネタ
これだけで噺の種や食べ物、様々な言葉を繋げて縛りあげるわけで
言葉を自由に扱うものは様々な言葉や意味を繋げるのです
だから、言葉を創る仕事が悪の下っ端魔術師の主な仕事なのです
では、上級魔導士は何をしているのかと言うと言葉を創るための源を作ってます
それは表現だったり、物質だったり、階級だったり、社会構造だったり、
単純に考えてください
何で家は家というのですか?
何で猫は猫というのですか?
何で本は本というのですか?
その名前は誰が決定したものですか?
タコという言葉は何で海に住む生き物と空にあげる遊び道具と同じ名前なのですか?
いかという言葉は何で海に住む生き物と体を治す学術、ある標準よりも下のことを同じ発音で発声するのですか?
こういう疑問が出てこないこと、当然とするための言葉作りが上級魔導士の最高魔術で導きの力なのです
つまり、己が魔導士になりたければ言葉を創る苦悩をすればいいのです
言葉を創り、それを独り歩きさせられれば言葉はまるで式神のように人々に取りつくのです
魔導士の仕事は翻訳と言葉の現地化です、
それで全く無関係な文化圏に共通性を創造して、自分が言葉の魔法で人を操るのです
人間は基本何でも出来るように出来ているのです
家も一人で作れるし、物が壊れれば自分で直せるし、多芸に秀でる必要はなく、あれもできるこれもこなせる
それでいいのです
そもそも、分業社会は消費の増大と依存の為にさせられているわけで
秀でていなきゃいけないという妄想や迷信は捨ててください
人類を幸せにできない
思想は全部妄想で出鱈目です、そういったものは完璧なるうそです
それは能力があるものはあるものとしての責任があり、ないものはないものとして責任が免除されている訳なのですが
それが逆転している日本社会は反人類社会でしかないので人類は日本では生きていけないのです
神はいません、但し絶対的なる統治者がいてその知識と神智がこの世界を支配する方法の全てです
要は人類が目指すべき統治法というのは神権、民権でもなく融和した神智政治です それは犠牲を強要する世界ではなく、すべての存在が神智を持っているという世界観であり、其れが最後の日だと信じてます
最後の日というのは全ての存在が神智を得た日であり、全ての存在がこの世界に絶対者に相応しい世界を完結した日でもあるのです
また、それは物質的な意味ではなく精神的に完結した世界とも取れる事ができます
どちらにしろ大乗的、全ての集団が救われる世界というのは精神の共有化にあります
全ての存在には仏性があり、全ての存在には神智がある
要はそれを育てる事ができれば、この世界に仏国土ができ、天国ができ、地獄というものは消えだるわけです
つまりは地獄というのは想像の中にあるのではなく、この世の中にあり
また、地獄を産み出しているのは限定的な善意がその正体でしょう
即ち、己の組織、己の親戚、己の財布、己の家族という限定的な善意によってこの世界に地獄が沢山創られているわけなのです
つまりは執着、または見える範囲での利益共有が交差していくことで私たちは日々地獄をこの世界に増やしている訳なのです
又言葉が増えるというのは執着が増える事を意味します
地獄を減らすには不要な言葉を減らす必要があります
不要な言葉の最たるものがシンボル、象徴です
言葉がこの世に地獄をもたらす種であるならば、シンボルはその果実であり、
果実は種を持ちそれをまた撒き散らすので象徴に意味を持たさない、意味を消す事が地獄を消す方法でしょう
例えば、日の丸
あのシンボルが持つ意味というものを無効化できるのであれば、アレに集団としての帰属性を無効化できますし、
他にもその象徴による儀式体系も認識も滅ぼす事ができます
それにはシンボルを追うのではなく、シンボルを無効化する思想を創造せねばなりません
即ち、魔導士の仕事であるシンボルを追うのではなく、シンボルに力を与えない儀式自体を無効にさせるための構造を作り上げる必要があるのです
しかしながら、それは出来ないでしょう
何故なら、人類史はシンボルと共に歩んできたようなものです
人は滅亡まで表現し、世界に顕現させるからです
(人間から視覚を奪うとどうなる?
目が見えない人もシンボル操作されるの?)
人が絶対に進化しない理由の一つとして、表現をやめない、表現を無効化させずに積んでいくというのがあります
私が絵描きさんしかフォローしない理由も彼らは挫けても表現する事はやめない、やめない故に表現を継続していくことにあります
人類が進化するというのは今迄の表現が無効になる事です
私が言う事の全てが陰謀的な話ではないかもしれませんが様々な陰謀を無効化する術を言っているだけであり、
これを徹底できれば世拾い人になれます
必要な物だけ拾い、不要なモノは鼻からない状態にし、
それは世を捨てたのではなく元からあると勘違いしていた脱いだだけのことなのです
こうやって、魔術師というのは言葉を創るのですが
悪の魔導士は種あり葡萄の様に言葉の中に大量の種を入れては言葉を創り
善の魔導士は種のないぶどうの様にその言葉だけで完結し、
種を作らせない言葉を創り出しては
種ある葡萄を根っこから、種から刈り取るのです
だから、善の魔導士は恐ろしいのです
人の執着の数だけ言葉がある
言葉の数だけ欲求がある
欲求の数だけ執着する
お釈迦様が矛盾する事を言うのは言葉に意味はないということをはっきりさせるために言葉を操っているわけで
矛盾と言っている時点で言葉に意味を求めてしまっているのです
それが執着なわけであり、臨済さんが言うような「頭の上に頭を置くな」というところに帰するわけです
『景徳伝燈録』訳文 - 愛知学院大学 禅研究所
http://zenken.agu.ac.jp/research/25/12.pdf
”宝峯和尚が僧に尋ねられた。 「昔の禅僧は、 一 本のしっかりした道筋をもって、 後輩や初学者を指導している。 貴僧は、 このことを知っていますか」 と。
僧は、 「師にお願いします。 昔の禅僧の 一 本のしっかりした道筋をお示しください」 と言った。
師は、 「そうであるなら、 貴僧はもう既に知っ てしまっています」 と言われた。
僧は、 「頭の上に更に頭を置くというもので、 丁寧もいいところです」 と言った。
師は、 「私、 宝峯は、 ひときまに尋ねるべきではありませんでした」 と言われた。
僧は、 「尋ねることに不都合はありません。 どうぞ質問してください」 と言った。
師は、 「ここ (宝峯院) では、 今まで、 理屈を捏ね回して喋り散らす人は 一 人もいなかった。 出て行きなさい」
と言われた。”
おねショタおじさん @douteimaturi 10月21日
言葉は呪いで祝詞だと思ってください
そして、邪悪でもあり聖善だと解れば、言葉が持っている本来の属性が分かるはずで言葉は人の思考を縛るんです
すべての両義的なものは言葉から生まれるのでその言葉は何を縛るのか?という、視点で考える事です
特に日本語は抽象的な表現や暗喩が滅茶苦茶多いので言葉が様々な意味を縛りあげるのです 例えば、ネタ これだけで噺の種や食べ物、様々な言葉を繋げて縛りあげるわけで言葉を自由に扱うものは様々な言葉や意味を繋げるのです だから、言葉を創る仕事が悪の下っ端魔術師の主な仕事なのです
では、上級魔導士は何をしているのかと言うと言葉を創るための源を作ってます それは表現だったり、物質だったり、階級だったり、社会構造だったり、単純に考えてください 何で家は家というのですか?
何で猫は猫というのですか? 何で本は本というのですか? その名前は誰が決定したものですか?
タコという言葉は何で海に住む生き物と空にあげる遊び道具と同じ名前なのですか? いかという言葉は何で海に住む生き物と体を治す学術、ある標準よりも下のことを同じ発音で発声するのですか? こういう疑問が出てこないこと、当然とするための言葉作りが上級魔導士の最高魔術で導きの力なのです
つまり、己が魔導士になりたければ言葉を創る苦悩をすればいいのです 言葉を創り、それを独り歩きさせられれば言葉はまるで式神のように人々に取りつくのです 魔導士の仕事は翻訳と言葉の現地化です、それで全く無関係な文化圏に共通性を創造して、自分が言葉の魔法で人を操るのです
(ユダヤ教のタナハ=キリスト教視点では旧約
は当然ヘブライ語原文を翻訳せずに読む。
翻訳には積極的ではない。コーランも。しかしキリスト教はやたらと翻訳に積極的。翻訳こそが魔法の場を作る=陣地作製から)
だから、表現規制を言う連中のどの顔見ても下品で知性を持ち合わせていないのは必定なのは 要は連中が己の頭で解釈出来ないものを言葉にする事が出来ないから、発狂しているのです 私は如何なる表現規制を否定します、それは言葉や表現の発明は人類が滅亡まで続く開拓知ですから
人間は基本何でも出来るように出来ているのです 家も一人で作れるし、物が壊れれば自分で直せるし、多芸に秀でる必要はなく、あれもできるこれもこなせるそれでいいのです そもそも、分業社会は消費の増大と依存の為にさせられているわけで秀でていなきゃいけないという妄想や迷信は捨ててください
人類を幸せにできない思想は全部妄想で出鱈目です、そういったものは完璧なるうそです それは能力があるものはあるものとしての責任があり、ないものはないものとして責任が免除されている訳なのですが それが逆転している日本社会は反人類社会でしかないので人類は日本では生きていけないのです
さとう こうじ ζ Koji Sato @sato11koji33 2月7日
キリスト教におけるお辞儀は神様への尊敬や服従を意味しているので、謝罪にお辞儀が付くという考え方がないと思われます
西欧では謝罪でお辞儀があるみたいですが、腰を曲げるのは男性だけです
イスラム教は対人間へのお辞儀は忌み嫌われ、
ユダヤ教は神様以外へのお辞儀は禁止です
閉店です @lakudagoya 2016年10月15日
日本語でシーア派の情報というと、桜井啓子先生のシーア派の本や、松山洋平さんの「イスラーム神学」が参考になるよ。
でもシーア派ってそれくらいしか情報ないよね。
となるとやっぱペルシャ語情報必須なんだよ。
あとシーア派の説明にはね、スンニ派と違って独自のロジックがあるから。
Shi'@Ali @Al_Muwahhidun 2016年12月5日
@lakudagoya 日本語書籍ですと、慶應義塾大学出版、ムハンマド・ホセイン・タバータバーイー著「シーア派の自画像」がシーア派視点で勉強になるとおもいます。桜井氏のは宗教学、松山氏のはスンナ派護教学の視点からみたシーアですから。
@lakudagoya 突然失礼。シーア派に関してはここが、日本語での情報の宝庫です。https://t.co/Jsmjp2YIui
— .Shi'@Ali (@Al_Muwahhidun) 2016年12月5日
今生はただの遊び、戯れ。来世こそが本当の生。もしも彼らが知っているとしたら。(クルアーン29章64節) 『イスラームの論理』https://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&url=search-alias%3Daps&field-keywords=%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E8%AB%96%E7%90%86 … 『イスラーム法とは何か』
「神」という単語をアラビア語における「イラーフ=真に仕えられるべき/崇拝されるべき者」の意で用いる。
これが、アーダム(アダム)創造以降、地上のあらゆる民に遣わされた使徒(人々に創造主の使信を伝えることを命じられた預言者)が訴えた、「タウヒード(唯一なる者となすこと)」の教えである。使徒たちがもたらしたこの教えを受け入れ、創造主のみを崇拝する者を、アラビア語で「帰依(イスラーム)する者」、ムスリムと呼ぶ。
おねショタ魔法使い初級おじさん @douteimaturi 2016年10月26日
名家が道家や法家などなど、諸派から批判を受けたのは単純で中国古代思想は基本的に現象と言葉の乖離を嫌うので論理学と言っても、起きている現象と離れた論理を説くのを否定します
なので、中国古代思想は名と実を別々に認識出来ながらもそれをくっ付ける事に重きをおきます
おねショタ魔法使い初級おじさん @douteimaturi 2016年10月27日
善の顕現としてはお釈迦様やさまざまな預言者等がここに当たるわけであり、悪の顕現としては世界の悪政者や悪魔と言われる存在がここにあるわけです
その上で神道は世界的な宗教論や哲学論を共有して、論理的に組み立てる事ができるわけなのです
だから、神学が必要で組み立てねばならないわけです
で、えぐい事を言えば神話とかなんて偽書を作ってしまって組立ちまえばいいんです 例えば、当時の日本には文字があったなんて言いたいのであればホツマツタエみたいな粗製品ではなく、古代揚子江や長江で発掘されている文字にアルメニアあたりの文字を拾い上げて当時の音声表記すればいいのです
んで、紙とかも当時位に工業的に劣化させて地面に埋め埋めしたものに大切なのは時代時代によって解釈されたような解釈本をちゃんと用意すること 奈良後期、平安時代、鎌倉時代、室町等々ちゃんと歴史考証加えられているように捏造しなきゃいけません
こんなヤバイ偽書が出てきたら怖いねえ 作ったやつは絶対に確信犯だし、やり口がえぐいし、どうせ馬鹿な学者は歴史考証で騙されるんだろうから、カルトの無自覚的なプロパガンダになるだろうしね でも、こういうのが出てこないのは本当に俗世間の陰謀というやつは小学生向けなんだろうね
こういった、天皇主義者や国体論者が出てこない限り彼等を私は信用しないし、できない まあ、出てくることはないだろうね なぜなら、日本人って超排他的で徹底して考える癖を捨てているから、但し天才が現れたなら神学を組み立て直して、哲人的なものを作り出すかもしれないけどね
現代(西)アルメニア語 単行本 – 2004/1
佐藤 信夫
グルジア語の語彙本9000語
グルジア語文法
アラム語入門―ペルシア帝国の国際公用語キリストの日常語―そして現
古代の歴史ロマン2 アラム語—イエスの誕生、キリスト教の全貌
はじめての古代エジプト語入門≪ヒエログリフ入門≫ (オリエンス語シリーズ)
ヒエログリフの勉強を始めようという方はまず、吉成 薫のヒエログリフ入門、ジャニス・カムリン(斎藤 久美子訳)の古代エジプトのヒエログリフ、マーク・コリア(坂本 真理訳)のヒエログリフ解読法あたりから始めて、もっと例文を解読したいと思ったらこの本を購入するのがいいと思います。発音記号、文字の並び方に惑わされずに知識を深めることができます。(*^。^*)
本の紹介 其の四『アルメニア語文法』
http://iftah-yaa-simsim.cocolog-nifty.com/blog/2006/01/post_720b.html
『基礎アラビヤ語』
著者:内記良一 出版社:大学書林
価格:5,040円(本体4,800円+税)
発行年月:1983年1月
ISBN:4475010470
購入場所:東京・蒲田/駅ビルのサンカマタか
パリオの書店
購入時期:1988年初夏の頃
中学までフランス語一辺倒でやってきた僕が、高校に入学し初めてフランス語以外で興味を持った外国語がアラビア語でした。この『基礎アラビヤ語』は4冊目の本です。実際は中学の一時期ドイツ語にも手を出し、その時に買った本が3冊目なのですが、今は訳あって手許にないのでまた別の機会に御紹介したいと思います。話をアラビア語との出逢いに戻せば、何故アラビア語だったのかは実はよく覚えていません。と言うよりも、恐らく当時たまたま書店でパラパラとページをめくってみたのが本書で、そこに書かれていたアラビア文字に何となく興味を持ったというただそれだけの理由だったのではないかと思います。
どうでもいい事なのですが、この本のタイトルが『基礎アラビア語』ではなく『基礎アラビヤ語』となっているところに大学書林らしさを感じてしまいます。先程アラビア語を選んだ特別な理由はないというようなことを言いましたが、この本はよく利用しました。つまり、当時アラビア語の勉強に結構のめり込み、独学で勉強した割には簡単な文章なら書いたり読んだりできるようになりました。この本には別売りテープがありますが(しかし高い!!)、本来が「アラビア語を話し聞く」ということに主眼を置いていないため、アラビア語の会話の勉強は別の本によってだいぶ後になってから始めることになりました。この本は、アラビア語の基礎的な文法事項をクルアーンやアラブの諺などを多数引用し、極めて簡潔に解説した文法書です。文法説明はさっぱりしているのですが、練習問題が豊富なので文法の知識を整理する意味でのドリルとしての使用も適しているかも知れません。内容はガチガチのフスハー(正則アラビア語)の教科書ですが、初めての外国語に接する時は多少お堅い位の共通語(標準語)に接するのが良い、と考えている僕には肌の合った教科書だったと思います。
因みに、別売りカセットに吹き込まれているアラビア語は完全なるフスハーですから(これも一寸妙な言い方ですが)、口語では一般的に発音されない語尾の格変化部分 や名詞のタンウィーンまでしっかり発音されています。アラブの人からするとよそよそしい、やや肩に力の入ったアラビア語といった印象でしょうか。
アルメニアの公用語「東アルメニア語」および「西アルメニア語」を学ぶためのYoutube動画まとめ
http://tagengo-gakushuu.hatenablog.jp/entry/2015/11/11/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%85%AC%E7%94%A8%E8%AA%9E%E3%80%8C%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%82%A2%E8%AA%9E%E3%80%8D%E3%81%8A%E3%82%88%E3%81%B3
勉強するためでしたら、戸部の本は、中古でも買わないほうがいいですし、ただでももらわないほうがいいです。
戸部の本以外の泰流社の本は、もちろんものによりけりですが、大野徹の「ビルマ語入門」や土井久弥「ヒンディー語入門」などは、よくできたいい本です。
泰流社がつぶれたのは戸部の本のせいだと噂されたほどです。あまりにひどいので、泰流社の本全般の印象が悪くなって、他のいい本も売れなくなったのだと。実際は、それだけじゃなく、いくら私費出版請負でも最低限の内容の保証もないような本の出版を自社名で乱発するような経営方針に問題があったはずですが。
私は語学オタクで、戸部の本は出るたびに立ち読みをしてあきれていました。昔、大学図書館に、友人と連名で、こんなひどい本を購入してはいけないと抗議したことがありますが、寄贈してくるので捨てるわけにいかないという返事でした。
戸部の「ケチュア語入門」などは、あるとき大修館の雑誌「言語」で、原著の誤植までまる写しにした本だと指摘されてことがあります。
「ウズベク語入門」には、口蓋垂閉鎖音を表すキリル文字 Ғ (喉の奥の「ガ」)の発音をカタカナで「ファ」で記してあり、ローマ字の f と勘違いしているのです。
「モンゴル語入門」は、大学書林語学学校の小沢重男の授業の配布教材の一部をそそまま載せ、そのままだったらまだいいのですが、自分で理解しないままこれに間違った説明を書き添えています。
「コンカニ語入門」では、「コンカニ語ってどこの言葉だと思いますか。私もそう思いました」なんてレベルの人に入門書を書いてほしくない。
その他多数の「~語入門」は、ほとんどが種本を、自分で十分に理解しないままに和訳して、そこに誤訳と大量の誤植を加え、さらに不正確な説明を添えただけのものです。しかも、種本が不十分のものが多く、簡単な文法説明のあとは単語集だけというのも多いです。それが100ページもないのに新刊書で1万円前後の値段でした。しかも、種本が何かを記さない本が多い、これはマナーとしても問題です。
以上のような本ですから、知識のない人が戸部の本で学ぶのは危険です。それをわかった上で好事家として収集するのでないかぎり、ただでもおすすめしません。
戸部実之 - 同社で多数の語学書を出版していた人物。
実用アラビア語入門の筆者、どこかで見た名前だと思ったらこの人のアイヌ語入門読んだことあるわ というか幅広い言語の入門テキスト書いてるんだな戸部実之
寝んどロイド・にきⰏⰵⱅⱀⰵⱃ傲慢公 @Medtner1880 2016年5月28日
【戸部実之】
言語オタにとっての有名な地雷
新古書店じゃなくてガチの古本屋に行くとずらっと並んでいて、知らずに買っていく人を想像すると真顔になってしまう
#リプで来たものについて語る
中西裕樹 @baslerhund 2014年3月29日
@a_oik 「戸部実之」で検索をかけるとわかりますが、残念ながらこの辞典はトンデモ本かと思われます。中身を見ずに言うのは良くないのですが、ほぼ間違いないかと……。ご存じだったらすみません。
C.C.Beijing 鈕祜祿・一順 @GolminAlin 2014年9月9日
@BlogJoseph 第2期の語学書の内容がなかなか「トンデモ本」で著者の戸部実之(東京外国語大英米科卒らしい)のナントカ語入門本を高額で各自治体の図書館に売り込んでた時期がありまして…。
P・グラレム @pinkglalem 2015年3月8日
最近たまたまテレビを見る機会があって...そしたら、日本とトルコの友好の歴史みたいなモノをやってたンだョね。...ただ、テレビでも学校の授業でもけして教えない闇の歴史が両国間には存在する。相手の恥部を隠してやった歴史がある。#アルメニア人大虐殺
@pinkglalem 現在でもこの史実をトルコ政府は認めていない。第一次大戦後の軍事法廷で裁かれる予定であったのを、日本と米国は強行に反対した;http://matome.naver.jp/odai/2139045989525696201 …
@pinkglalem この虐殺の理由について調べて行くと、アルメニア人というのは独特の宗派のアルメニア正教徒で、ものすごく初期のキリスト教なんだって。そんでもって、これは推測なんですけど、この宗派はキリスト教成立時の色々な秘密を知っていたンじゃぁないかなぁ?
The Armenian Genocide: http://youtu.be/6A1emayyhmI @YouTube;
المذبحة التركية الإسلامية للأرمنTurkish Islamic massacre of Armenians: http://youtu.be/548lD5SvERk
@YouTube トルコ政府の「移送」は絶滅を意味する暗号として伝達, 実行された...;http://www.geocities.jp/armenahit/genocide.htm … …
ローレライ @rolelei 2015年3月8日
『トルコが親日の理由?』@pinkglalemアルメニア虐殺追求を日本と米国は強行に反対した!
P・グラレム @pinkglalem 2012年10月25日
アケメネス朝 #ペルシャ は当時オリエントに栄えた巨大文明で、エジプト、バビロニアから、トルコ、アルメニア、今のアフガニスタン辺りまであって、その地域の人たちに朝貢させていたという。そこから #アレクサンダー大王 が略奪して持ち帰った物って、何だったのか?
P・グラレム @pinkglalem 2013年12月21日
@lanekota @rideigan グルジェフは元々アルメニア正教でしょう?ペルシャの近くの...イランにはアルメニア人がいっぱい住んでる。彼の弟子ウーペンスキーの著作の中にこの実験の模様が書かれています。別の弟子が(確か)アヘンを用いていたと証言しています。
グルジエフ「エニアグラム講義録」郷尚文訳
ゲオルギイ・イヴァノヴィチ・グルジエフ(Георгий Иванович Гурджиев, George Ivanovich Gurdjieff, 1866年1月13日? - 1949年10月29日)はアルメニアに生まれ、一般に「ワーク」として知られる精神的/実存的な取り組みの主導者として、および著述家・舞踏作家・作曲家として知られる。ロシア、フランス、アメリカなどで活動した。
ギリシャ系の父とアルメニア系の母のもとに当時ロシア領であったアルメニアに生まれ、東洋を長く遍歴したのちに西洋で活動した。20世紀最大の神秘思想家と見なされることもあれば、怪しい人物と見なされることもあるというように、その人物と業績の評価はさまざまに分かれる。
以下のうち(1)から(3)はAll and Everythingと題された著作三部作を為しており、グルジエフはこれらは必ず順番どおりに読むように求めた。もともとロシア語とアルメニア語で書かれたものを生徒たちが英語に翻訳した。
(1) Gurdjieff: Beelzebub’s Tale to His Grandson
グルジエフの主著で原書で千ページを越える超大作。グルジエフはまずこれから読むように強く求めた。若き日の反逆ゆえに宇宙の中央を追放されて惑星地球にやってきた主人公ベルゼバブが宇宙船カルナークのなかで孫に語る人間に関する壮大な物語。宇宙、人間、歴史、文明、芸術、宗教、教育などをめぐるグルジエフの見解が総合的に反映されている。英語版も日本語版も翻訳が二種類ある。
グルジエフ『ベルゼバブの孫への話 - 人間の生に対する客観的かつ公平無私なる批判』 浅井雅志訳、平河出版社
グルジエフ『ベルゼバブが孫に語った物語 - 人間の生に対する客観的で公正な批判』 郷尚文訳、電子書籍:Amazon
(2) Gurdjieff: Meetings with Remarkable Men
自伝的体裁の著作だが、「竹馬に乗って砂嵐のなかを旅する」など、あからさまに実話ではないストーリーも含まれていて、ノンフィクションとはなっていない。父、少年時代の師、青年時代に探求の旅を共にした「真理の探求者」のグループの仲間たちなどを章ごとに取り上げ、彼らの人生の軌跡や彼らと共にした東洋の辺境をめぐる旅などについて語る。最終章「物質的問題について」は、カネをめぐるグルジエフの奇想天外な立ち回りや壮絶な闘いの記録となっている。電子版の新訳は、原書の段階から表記などに細かい誤りが多かった地名や人物名や民族・歴史的事項を再調査のうえ、脚注と地図リンクを付与したものである。
グルジエフ『注目すべき人々との出会い』 星川淳訳、めるくまーる
グルジエフ『注目すべき人々との出会い』(脚注・地図リンク付き新訳版) 郷尚文訳、電子書籍:Amazon
(3) Gurdjieff: Life Is Real Only Then, When ‘I Am’
グルジエフはこの第三集で最終的な知識の開示を計画していたが途中で執筆を断念する。現在はその未完の状態のままに出版されている。
グルジエフ『生は<私が存在し>て初めて真実となる』 浅井雅志訳、平河出版社
グルジエフ『生は<私が存る>ときにのみリアルである』郷尚文訳
⓵「事実と意見を区別」②「思う、感じる、感情表現の禁止」を守れば論理的文章がすぐ書ける!←そんなことより 「丸に十字」「人型の十字架」「エプロン」のマンダ教だ! 青木健『古代オリエントの宗教』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-115.html
”・二世紀のローマで成立したマルキオーン主義は旧約と新約のミスマッチを指摘し、旧約聖書全てと新約聖書の大半を切り捨てて、ルカ書とパウロ書簡のみを採用し、これこそイエスの真意であり正しいキリスト教だと論じた。
これを嚆矢として新約聖書の結集が始まり、エジプトやシリアでは同様の発想に立ったグノーシス主義と呼ばれる諸派が乱立していく。
同じ頃に旧約聖書も新約聖書も否定し(部分的には新約の洗礼者ヨハネを尊重する)、独自のマンダ教聖典を作ったマンダ教がヨルダンで成立した。
・マンダ教の成立(1~2世紀)。
1世紀、ヨルダン川流域で成立
↓
2~3世紀、イラン高原西部へ
↓
3~現代、メソポタミア(西アジアのティグリス・ユーフラテス両河川流域=ほぼイラクの中心部。アルメニア高原からペルシア湾にわたる地域)南部に定住し、現在に至る。
(…)
・ミトラ信仰の聖地アルメニア
アルメニア~小アジア=インド・イラン世界の最西端。
アルメニアは、イラン高原の西端がコーカサス山脈の南麓と交わり、複雑な山岳地形をおりなす地域。メソポタミアと並び、地中海世界との交流が密接。
アルメニアの上がグルジア
アルメニアの右がアゼルバイジャン
アルメニアの左がトルコ
アルメニアの下がイラン。
(トルコの下がシリア。
シリアの左にレバノン。
レバノンのすぐ近くにイスラエルとヨルダン。
シリアの右下にイラク)
古代インドの発音ではミトラ
古代イランではミスラ
中世イランとアルメニアではミフル
ギリシア語・ラテン語ではミトラス
(ソグド語でミール
仏教で弥勒 ミロク
ミは共通。
神智学ではマイトレーヤ)
・56年にパルティア皇帝の分家をアルメニア王として送り込み、アルメニアを藩王国としたあたりから、次第にアルメニア史の輪郭がはっきりしはじめる。
この際にアルメニア語にはイラン語(正確にはそのパルティア方言)の語彙が大量に流入。
アルメニア藩王国は、パルティア王国が224年にササン朝に滅ぼされた後も、ササン朝の王家の宗主権の下で
428年までアルメニアを支配した。この合計372年間も存続したパルティア系の王家のおかげでアルメニアにはイラン文化の影響が大きい。
聖都アニやバヴァンには、
アラマズド(アフラ・マズダー)、ミスラ(ミトラ)、
ヴァハグン(ウルスラグナ)、アナヒト(アナーヒター)など
――アルメニア語には長母音がないのでかなり寸詰まりの名前に変化している――
の神殿が立ち並んだとされている。
このうち、ヴァハグンはヴァン湖の底に沈んでいる得体の知れない水棲動物(普通は竜だと考えられているものの、アルメニア人が移住してくる以前から恐れられていた水中の怪物らしい)を退治した英雄であり、
アナヒトは偶像崇拝や神殿売春を斡旋する女神である。
イラン系の神々の中で最もアルメニア王家に好まれたのがミトラであった。古代イラン人のあいだでは相当崇拝された神だったが、ザラスシュトラの宗教改革の結果、ゾロアスター教の中では六大天使のうちにも入れてもらえないほど零落していた。
が、ゾロアスター教の影響が必ずしも及ばないアルメニアや小アジアなど西方ではその人気を順調に維持していたらしく、今も蒼穹を背景にガルニの丘に聳える神殿は、ミスラに捧げて建立されたものとされる。これはオリエント世界で現在確認される唯一のミトラ神殿遺構としてミトラ教研究で非常に重要。ただし、ヘレニズム風の神殿に見える。現在のその神殿は近代になって再建されたものだそうだ。
イランは地中海世界に比べると独自の文字文化の発達が極端に遅かったので、当時のアルメニアでは文字が発達せず、最盛期の実態が同時代のアルメニア語文献からただちにわかるという性質のものではない。アルメニア文化の開発自体がキリスト教布教の目的でなされており、古典アルメニア語文献といえば、キリスト教の聖職者たちが五世紀以降に執筆したキリスト教文献に限定されるのである。
301年にアルメニアの国教がキリスト教になる。世界初のキリスト教国教化。
404年に学者聖人メスロプ・マシュトツによって考案されたと伝わるアルメニア文字がキリスト教伝道の大きな武器になった。シリア文字やパフレヴィー文字が右から左に書くのに対し、
アルメニア文字はギリシア文字と同じく左から右に書く。
(新約はギリシャ語)
イラン高原の方では文字利用そのものが一般化しておらず、パフラヴィー語文献の大量執筆は9~10世紀にならないと不可能だったのだが、アルメニアでは5世紀の段階でかなりの量の文献を残すことができるようになった。
ローマ帝国では
313年コンスタンティヌスによるキリスト教公認
392年テオドシウス一世によるキリスト教国教化。
ミトラ信仰は、海賊やローマ軍兵士を通じて地中海世界、ローマ帝国に流入したらしい。
地上ではなく地下に密室を掘って男だけで寄り集まり、短剣で牛を屠って再生を経験する儀式を行った。
・キリスト教に土着宗教が習合した東方での最初の事例は、4世紀のアルメニアのミトラ信仰。当時のアルメニアではイラン系のミトラ崇拝が主流を占めていた。
アルメニアはローマ帝国とペルシア帝国の境界線上にあり、古代よりイランの影響力が強く、2世紀頃にはミトラがほとんど主神だった。ミトラ信仰は地中海世界に大きく受容され、2~4世紀にはローマ帝国内でミトラ教として完成される。
が、301年にアルメニア王国がキリスト教を国教として採用するとキリスト教の聖人の中に取り込まれた。
アルメニア藩王国はササン朝ペルシアの属国であるからペルシャは
428年アルメニアへ侵攻し、372年間続いたパルティア系王家を廃してアルメニアを直接統治下に置いた。その際にパフラヴィー語で書かれたゾロアスター教改宗勅令によりアルメニア人にイラン高原の文化への回帰を促したとされる。
が、イラン高原の宗教事情も三世紀を境にすっかり変わっており、パルティア時代のミトラ信仰はサーサーン朝が奨めるズルヴァーン主義に置き換わっていた。アルメニア藩王国としてはミトラ信仰への復帰なら考え直したかもしれないが、見ず知らずのズルヴァーン主義への復帰はおよそ考慮の埒外だったかもしれない。
この五世紀ころササン王朝がいかに激しくアルメニア人キリスト教徒に対してゾロアスター教ズルヴァーン主義に改宗することを迫ったかは、1965年にアルメニアの聖地エチミアジンの原始キリスト教教会内部でパフラヴィー語の銘文の施された拝火壇が発見されたことからも明らかにされている。これが400年代中葉にササン朝の占領軍が原始キリスト教教会を拝火神殿に改修した際の動かぬ証拠だと考えられている。
484年には改宗勅令をペルシャ帝国は撤回した。
56年間も戦争状態に陥っていたのでアルメニア正統使徒教会は451年に開かれたカルケドン公会議に代表を派遣できず、アルメニアのキリスト教教義は自動的に単性論派に分類されてしまった。つまりローマ・カトリック教会とギリシア正教会からは異端視される非カルケドン派教会とみなされてしまった。
アルメニア正統使徒教会はズルヴァーン主義に対しては直接の反駁で応じたが、既に民間信仰化していたミトラ信仰に対してはキリスト教への習合を図った。
アルメニアでは異教の神殿をメヘアン(ミトラの変化形)と呼び、奇岩や洞窟をムヘル(ミトラの変化形)と呼ぶなど、ミトラ信仰の痕跡は比較的保存されている。
三世紀以前のアルメニアではミトラは岩から誕生したとされ、奇岩から泉が湧いている光景への信仰がそのままミトラ信仰を意味していた。
聖ナルセス・フライェツィ(1173年没)の詩では、奇岩からの湧水がそのまま十字架上のイエスの脇腹からの出血とみなされ、人類すべての罪の贖いの象徴とされている。
(ローマ帝国がペルシャの力を削ぐ為にアルメニア藩王国に干渉したのでしょう。
「ミトラ=太陽」は雷と嵐の神の象徴である「ゼウス=牛」を殺します。
晴天VS雷雨。
白人宗教のキリスト教は太陽神ミトラ系ですが、白人が日光に弱いので嵐・雷系のゼウス=ギリシャ神話や、セトや、バアル=生贄教などアンチ太陽信仰要素あり。
キリスト教を作った勢力は恐らくミトラ結社出身。だから教義を盗めたのでしょう。
ミトラ結社の離反者がキリスト教の原型かも。
ギリシャ神話・ローマ神話勢力は、キリスト教と大本教系という白人化された太陽信仰系カルトを批判することがありえます。
新左翼がギリシャ・ローマ神話好きかどうか気になるところ。
宗教を、重視する天体や天気の種類で分けると、
イラン・ペルシャは太陽信仰。
ゾロアスター教の最高神アフラ(アスラ)マズダーがアスラ族にして太陽神。
密教≒ミトラ+拝火+グノーシス+仏教など
の毘盧舎那もアスラ王とウパニシャッドで表現されていて、仏教の密教でも太陽神とされています。
インドのバラモン教の主神がインドラ、後にシヴァに変わりますが両方とも嵐の神です。”
まずは根本的な世界観の理解を
MB13 @MB13 2016年1月30日
話題の松山洋平『イスラーム神学』購入。スンナ派の解説云々、ナサフィー信条和訳も付いてるよ!というような書評を目にしていたので概説的な本なのかと思っていたらとんでもない。ナサフィー信条についての極めて丁寧な訳解が大部分で、えっ、こんなすごい本が日本語で読めていいのかと逆に困惑
正典としてのクルアーン―ヘブライ語聖書・新約との比較分析2007/10
中田考
イスラーム神学
著者/訳者:松山 洋平
日亜対訳 クルアーン――「付」訳解と正統十読誦注解 単行本 – 2014/8/2
中田 考
メヴレヴィー教団(-きょうだん トルコ語Mevlevilik)とはイスラム教のイスラム神秘主義(スーフィズム)の教団の一つ。13世紀にジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207年 - 1273年)によって開基された。
概要
セマー(旋舞)の様子
セマー
メヴレヴィー教団は日本語では旋舞教団といわれ、スカートをはいた信者が音楽にあわせて、くるくると回転をし踊るという宗教行為(セマー)で知られる。これは祈りの手段であり、回転は宇宙の運行を表し、回転することで、神との一体を図るというものである。
教団の中心地はルーミー最期の地であるトルコのコンヤであり、墓廟がある。
スーフィズム教団間を統括するような教理体系は現れなかったが、おおむね一致する教理として次のようなものがある[1]。つまり、創造者である神と被創造物である人間の内的な繋がりを仮定し、強い愛の力によって両者の隔たりを消滅させ、精神的合一を目指すというものである。
スーフィーの修行は階梯にたとえられ、神の与えてくれる心的状態(アフワール)を経験するとひとつ上の段階に移行できる。すべての階梯を登り切ると忘我の境地に至り、霊知(マアリファ)と真理(ハキーカ)と呼ばれる高い意識を永続的に得られると考えられた。
スーフィズムでは禁欲的で厳しい修行を行う。 修行法は様々だが、もっとも重要な行はズィクルと呼ばれる祈祷句を読み上げる儀礼である[2]。神に思念を集中し一心不乱に連祷することでファナー(消滅・消融)と呼ばれるトランス状態に入り神秘体験をする。
ファナーに入るために音楽や踊りも盛んに用いられた。たとえば、白い布状の服を身につけて一心不乱に回る、回旋舞踊(セマー)と呼ばれるものを行い、神との一体化を求めた。スーフィーは導師の指導の下、決められた修行(マカーマート)を段階的にこなし、準備を進める。最終段階では、雑念を捨て去り一心に神の事をのみ考え、神と合一したという悟りが訪れるのを待つ。この境地に至った者は、時として聖者に認められ、崇拝の対象となった。
ルーミーによる著作は『精神的マスナヴィー』、『シャムセ・タブリーズ』、『ルーミー語録』などがあり、とくにルーミーが14年の歳月を費やし著した『精神的マスナヴィー』は全6巻で2万5000句から構成され「ペルシア語のコーラン」と呼ばれている。
メヴレヴィー教団
13世紀に小アジアに興った神秘主義教団。旋回する舞踏を行いながらアッラーとの一体化を求める。
イスラーム教が西アジア及びその周辺に定着、拡張していく上で大きな意味のあった神秘主義(スーフィズム)をかかげた神秘主義教団(ターリカ)の一つ。13世紀に小アジア(アナトリア)のコンヤでスーフィーの聖者と仰がれたルーミーを中心に組織された。今もコンヤのルーミーの墓廟は、その聖地として巡礼者が多く、また旋回する舞踏によって神との一体感を得るという独特の信仰が守られている。メヴレヴィー(メウレヴィー、メフレヴィーとも表記する)とは、「我らが導師」を意味するマウラーナーというルーミーに対する尊称に由来する。メヴレヴィー教団はオスマン帝国時代にはムラト2世のころから歴代のスルタンの保護を受け、有力な教団として発展した。
聖者ルーミー
その創始者ジェラレッディン=ルーミー(1207~1273)は、イスラーム神学者の子として現在のアフガニスタンのバルフにまれ、放浪の末、1229年ごろアナトリアのコンヤに定住した。コンヤはルーム=セルジューク朝の都だったので、彼はルーミーと号した。シリアに留学してイスラーム神学を研究していたが、1244年に放浪の托鉢僧シャムス=アッディーン=タブリージーと合い、その生き方に神の愛の完全な像を見いだして、それまでの生活を一変させ、神秘主義のスーフィーとして修行に転じた。神の愛を歌い上げるたくさんの詩を作り、また踊りながら陶酔の境地となって神との一体感を得ようとした。その詩はマスナビーと呼ばれて2万6千句に及び、ペルシア語で書かれ、散文の『ルーミー語録』とともに神秘主義の文化の最高水準とされている。その墓地は現在もコンヤに残されており、信仰を集めている。
Episode 踊る宗教
メヴレヴィー教団の教義はキリスト教やプラトンの思想も包摂する寛容さにあり、社会の上層部から民衆にまで受けいれられる要素があったが、最大の特色は「音楽に合わせて集団で旋回する」(サマーともいわれる)という舞踏を行うことである。ヨーロッパでは彼らは「踊るデルウィーシュ」Dancing Derwishes と呼ばれた。1925年には他の神秘主義教団と共にその修道場は閉鎖されたが、社会の各層にはなお根強い支持者がいる。<平凡社『イスラム事典』1982 p.378>
現在、トルコ有数の観光地となっているコンヤでは、メヴレディー教団で行われていた修道者の舞踏が観光用のショーとして行われ、今も白い肖像をまとった踊り手が集団でクルクル旋回する舞踏を見せてくれているという。
参考文献
『コーラン』I, II 訳:藤本 勝次, 伴 康哉, 池田 修
中公クラシックス
『世界文学大系68:アラビア・ペルシア集 精神的マスナヴィー』 訳:蒲生 礼一
筑摩書房
levha.net
13世紀の宗教者/文学者ルーミーの作品読み下しを中心にその周辺から果ては身辺雑記まで。
http://levha.net/
『ルーミー詩撰』はてな館
http://d.hatena.ne.jp/kyoko_nishida/
フェイド大帝 @FeydoTaitei 8月4日
ねここねこさんの仏教の記事読んだ。 日蓮宗の箇所なんだが…… アレは元々は天台宗原理主義。 だから天台智顗の教えを知ってないと よく分からない。 法華玄義、法華文句、摩訶止観を読破 してほしいw 天台宗はガチ高度だから、パリサイ派の 悪口集であるキリスト教は足元にも 及ばない
仏教哲学の高度さは、一般人には 掴みにくいと思う。 西洋哲学でも「心の哲学」という 20世紀以降の哲学でようやく 同レベル。(サールとかデネットね) アウグスティヌスやアクィナスと 同じ水準だと考えたらいかんよ?
まぁ、それはさておき、 天台宗で重要なのは「悪は何処から来るか?」 という問題。 この時代の仏教ってのは黎明期の 仏教と違って、この世界は仏が 創造したみたいな教えになってる。 すると善の存在である仏が何故悪を 創ったのかという疑問が当然起こる。
元々の仏教は創造神がいないので こういう疑問は起こり得なかった。 まぁ、天台智顗は初期仏教の 阿含経(いわゆる今日で言う原始仏教) を低脳と一蹴してたので、創造神の いる法華経をベースに教義を 組み立てているから、当然この 難問にぶつかる。
そこで出たのが「天台性悪説」。 続きは添付論文読んどいて。 http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/36075/1/rel027010.pdf …
カルトでも何でもいいけど、 これぐらいは知識としてあった方がいい。
天台性悪説の考察――仏教における悪の問題――
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/36075/1/rel027010.pdf
“悪を「欠如」とする考え方がキリスト教の伝統のなかにある。つまり存在するものは善なのだが,完全に善なる
存在である神にとっては,神以外の存在は不完全なものであり,善が欠如していることになる。そして,世界が全体として完全であるためには,あらゆる段階の不完全さをも含んでいなければならない。このようにして,神の絶対性から悪の存在が説明されたのである。仏教では悪について全く違う考え方をする。さしあたり私は仏教を,あらゆる種類の還元論を
否定するものと大まかに捉えておきたい。ここでいう還元論とは,唯一絶対の存在を想定し,一切の事物をそのような根源に由来するものとして説明しようとする思想の傾向を指している。それに対し,仏教がまず関係性から出発し,あらゆるものの相互依存を「縁起」として説くとするなら,その縁起の網の目から超越する存在などありえないことになる。
(…)
天台性悪説とは,狭義には智顗(538-597)の『観音玄義』において説かれた思想であり,その主張の要点は,如来が行為としての悪(修悪)は断じていても,本性としての悪(性悪)は持っているというものである。ひいては,悪は世界の本質(理毒)であり,何か否定されるべきものとして存在するのではないということになる。この性悪説は他の思想的伝統と天台を区別する特徴的な主張であるとされ,中国と日本の天台教学においては一貫して正統なものとみなされてきた。この教説は思想史的にみても非常に興味深い問題を提起しているし,仏教の思想的背景から出てくる独特の倫理と実践を端的に表わしているものとみることもできる。性悪説への導入もかねて,悪についてもう少し一般的な議論を考察の出発点としたい。M. ヴェーバーは,宗教に課された世界の不完全さという問題を,神義論(Theodizee)として一般化した「諸宗教の重要な特性はまさしくこうした要求によって形づくられた。」(ヴェーバー:49)
このような前提から,ヴェーバーは世界宗教における神議論の三つの類型を示した。
1 予定説(キリスト教,イスラム教)
2 二元論(ゾロアスター教,グノーシス)
3 業・輪廻の思想(仏教,ヒンドゥー教)
予定説においては,全知全能の神が限りなく世界から超越しているが故に,その被造物の世界における善悪のような尺度を神に適用することはできない。人間の運命は神によって決定されており,それは神の御意として人間的に測り知ることはできないものである。また,二元論は世界を神と悪魔,善と悪などに表わされる二つの原理の混濁と戦いの場所として説明する。最後の業の教説とは,輪廻の信仰に基づき,この世における苦難や幸福は過去の行為の結果であると説明する。そして罪業や功徳は来世において必ず報いを受けるとされる。ヴェーバーの関心は宗教と合理主義の関係にあったわけだが,ここでは次の指摘の重要性を確認しておくだけにしたい。 それは, 悪の問題は単に苦難の説明や正当化という問題にとどまらず救済を求める実践と直に結びついているということである。つまりそれは,さまざまな救済の前提あるいは方法として,日常の実践や倫理に重大な影響を及ぼすということである。また「性悪」という言葉は中国の儒教思想における性善・性悪の議論と混同されてしまう恐れがあるかもしれない。通常,孟子が本来人間は善である(性善説)と主張したのに対し,荀子は逆に人間の本性は悪だと(性悪説)反論したとされる。しかし二つの説はこのように単純に対置できるものではない。孟子は善へ向かう傾向が人間に本来的なものだとしたのに対し,荀子は人間の性向の後天的な要素を重視した。だから荀子は性(本質)を「礼」によって変化させることを重視する。つまり性を何か絶対善のような本質的な存在として前提とするか,しないかの議論だとみることもできる。いずれにせよ,ここで重要な点は,儒教的な意味での「性(せい)」はあくまで人間の生得的な本質 心理的傾向と捉えられているのに対し, 仏教でいう「性(svabhāva)(しょう)」とは人間に限らず存在する全ての事物(諸法)に適用される言葉であるということである。したがって仏教の文脈で「性」は悪であるといった場合, それは単なる人間社会の問題にとどまらず, そのまま宇宙観・世界観の問題となることに注意しておきたい。
(…)
闡提とは一闡提(いっせんだい)(icchantika)の略であり,断善根とも訳される。それは悟り・成仏の可能性をもたない者のことをいう。この一闡提の存在をどう考えるかは大乗仏教の伝統においても大きな問題とされ, 『涅槃教』においては全てのものが仏性を持つ(悉有仏性)(しつうぶつしよう)という立場から一闡提の成仏も説かれた。この『観音玄義』の場合,如来と一闡提を対比的に捉えつつも,決定的な断絶というものを両者の間に想定しない 如来は実際の行為としての悪 修悪 は断じているが本質・可能性としての悪(性悪)は具えているという。逆に,一闡提は行為としての善(修善)はないが,本質・可能性としての善(性善)を具えているのである。もし悪を完全に断ち切っていたら,如来は煩悩の世界から切り離され,そこにおいて活動できなくなってしまうだろう。悪を断じていないからこそ 如来は衆生の世界において自在に衆生を救うことができるのである(2)。
その逆もまた言えるだろう。つまり,性善というものが,一闡提に限らず凡夫の成仏の根拠となるのである。
(…)
四明知礼は, 「即」のさまざまな解釈を示しつつ,天台の立場を明らかにしようとしている。それぞれ異なるものとしての善と悪が合一している(二物相合)のではなく,同一のものの表裏一体の関係において善と悪がある(背面相翻)というのでもない。天台の当体全是とは,悪を切り離したり善に還元することを説くのではなく,善は善,悪は悪としてそのままで即同一であるというのである。
(…)
このようにして中国で確立された天台教学は,日本においては,いわゆる本覚思想 と呼ばれるものを生み出していくのである。本覚思想においては, 「善悪本より自仏なるが故に,迷ひの時も悟りの時も全く欠くることなし。己心所具の法なり。常住にして改めず。」(『三十四箇事書』, 日本思想大系9,169)というように,善と悪の対立関係すらなくなり,悪は悪としてそのまま肯定される,という方向に思想が展開していくことになる。
(…)
いわゆる天台教学というものの根幹をなすものが『法華文句』, 『法華玄義, 『摩訶止観』の『天台三大部(5)』といわれるものである。そこで示された智顗の思想において基本となっているのが心を観察すること(観心)である。その際,観の対象(境)とされる心が実は世界そのもの(法)であると観ずることが重要なわけであるが,その心=法のあり方が十界として表される。
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の世界が分けられ,それぞれの世界が分割されつつ,互いを分有しているという世界観が智顗の思想の根幹にある。悟りの世界も迷いの世界も孤立しておらず,相互に関連して成り立っているのであり,つまり心は地獄から仏,悪から善へと様々に転化しうる可能性があるとされる。このような心の捉え方は一闡提の成仏の可能性を「性善」とし,如来の救済の能力を「性悪」とした性悪説の理論的な背景となるものといえる。
このような天台教学の体系において悪とはいかなる意味を持つものであるのか。仏教でいう悪とはすなわち煩悩のことである(6)。天台では煩悩に三種を数える。見思(けんじ),塵沙(じんじや),無明の三惑である。
まず見思の惑とは見惑と思惑の二つの惑のことである。見惑とは物の道理に迷う知的方面の煩悩のことをいう。すなわち空の道理を知らずに事物には実体があると誤認することで生じる諸々の見解である。思惑とは物事に執着して喜怒哀楽する人間の感情的・身体的方面の煩悩をいう。
次に塵沙の惑とは,菩薩化導障ともいい,菩薩だけがもつ煩悩とされる。誤った社会的知識により,人びとを救済できないことである。最後に無明の惑とは根源的な無知のことで,分別された世界を生み出す煩悩である。
この三惑を観心の実践によって克服していくのが,天台の基本的な主張だといえる。しかし,智顗は単純にこのような悪を消滅させてしまえばよいと考えていたわけではない。
凡夫の心の一念に即ち十界を具し 悉く悪業の性相あり ただ悪の性相は即ち善の性相なり
悪によって善あり。悪を離れて善なし。(『法華玄義』,大正33,743c)
このように 善と悪は相対性かつ相互依存的なものだと説かれている 見惑(空を見ないこと)と思惑(貪怒痴)によって実体化(有見)が生じ,その有見が善悪の違いを生むのだから,要するに善と悪は有見(一切法,つまり存在するものを有とみてとらわれるありかた)に由来することでは同じである。悪とは端的にいって, 「心=一切法のありかたを有とみるところに成立するいわば認識論的態度」(新田1975:145)だといえるだろう。
大乗にも亦心は一切法を生ずと明かすは 十界を謂うなり 若し心は是れ有なりと観ずれば
善あり,悪あり。...皆是れ中道実相の法にして畢竟清浄なり。誰かは善,誰かは悪...此十法
の邐迤浅深は皆心より出づ。(『摩訶止観』,大正46,52bc)
「煩悩即菩提」とか「生死即涅槃」といった言葉は智顗の著作のいたるところに見出すことができる。それと同じ事態が「十界互具」という言葉で表されているとしたら,観心の対象とされる諸法の実相も,善と悪をともに含んだものでなければならないはずである。
凡夫の一念に皆な十界の識名色等の苦道の性相有り...苦道を離れて別に法身有らず
(『法華玄義』,大正33,744a)
このような主張は性悪説と変わるところはない。それはもちろん,悪の正当化ではない。
「汝今云何ぞ善を呵して悪に就かん。」(『摩訶止観』,大正46,19a)。
悪がそのものとして正当化されるというのは,空へ執着(悪取空)しているものの言葉である。
大乗の観心は,悪心を観ずるに悪心にあらず。また悪に即して,しかも善なり。また即ち悪にあらず,善にあらず。善心を観ずるに善心にあらず。また善に即して,しかも悪なり。また善にあらず,悪にあらず。一心を観ずるに即ち三心あり
(『法華玄義』,大正33,778c)
天台教学において悪とは,善と同じ根源をもつものであり,つまり善と悪はともに諸法としてそのまま真理(実相)なのである。
4 縁起的世界としての諸法実相
ここで,天台思想の核心を表わす言葉である諸法実相(しよほうじつそう)ということが問題となってくる。現象世界(諸法)がそのままで実相(真実のあり方)なのだ,という考え自体は龍樹にさかのぼることができる。中村元によれば,中論において縁起, 「『縁って生ずること』がそのまま諸法実相として捉えられ」(中村2002:283)ている。このように,諸法と実相との二項対立を立てないことが仏教,特に大乗仏教の根幹をなす考えであったとするなら, 『法華玄義』の解釈は法華経の教説を単に正確に注釈するというよりも,むしろその思想的本質を継承し,解釈しなおしたものといってよいだろう。
(…)
縁起は法の本来的なあり方であり,生滅変化してやまない世間の相も,縁起である限りそのままで法の住,法の位,即ち常住であるということである。つまり世間,これは現実の煩悩の世界といってよいと思うが,それが悟りの世界と同じものだと解釈することができる。「法」と「世間」は究極的には同一の真理をあらわすものである。
(…)
真理と現実の断絶を認めるものではないのである。
世界と断絶していたり,すべてがそこに還元されてしまうような超越的存在のようなものはその前提からしてありえない。それは, 「如来・仏」であろうが「心」であろうが例外ではない。このような思想が実践的に展開したのが性悪説であるとみることができる。
(…)
天台の説く如来とは,世界から超越しない如来なのである。つまり,如来といっても単に悪を断ち切って別の世界に行ってしまった存在とは全く異なる 「悟り」というものも世界から隔絶された何か別の存在に変身することではない。
(…)
また重要なのは,天台教学で心が法であるといわれるとき,法と心のどちらかに一方が還元される,という意味ではないということである。それは「心法を仏法や衆生法の根本とするが如き唯心論的思想とは趣を異にしている。」(安藤1968:138)。
(…)
一心が一切法を生じるという説,心とは別に存在している一切法を一心が認識するという説,また心に一切法が還元されるとする説,このような考えがすべて否定されている。心と一切法は時間的,あるいは空間的に関わるのではない。
(…)
ここまで考察してきた天台性悪説の思想構造と特徴をまとめてみれば,すべてが相互依存において成り立つという縁起論的世界観の徹底と,実践的問題意識の追求の二つだといえるだろう。
否定的なものが同一性に回収されない世界を性悪説は説いているといえる。天台の説く世界には中心が無いのである。
性悪説において最も特徴的なのは,救済と修行の基盤・根拠として超越的なものを想定しないということである。超越や還元という考え方こそ,天台思想が批判するものであった。このような観点から性悪説を捉えなおしてみれば,どうなるだろうか。
天台性悪説へ向けられた批判の一つは,その倫理性であった。もちろん悪の正当化であるという理解は誤解である。性悪説は縁起論の正統な理解に基づき,悟りと救済の根拠として説かれたのである。
(…)
性悪説は一闡提の成仏と如来の救済の根拠として説かれた教説であった。その主張によれば,如来といえども縁起の世界から超越した存在ではない。悪を完全に断じた仏・如来という想定は縁起によって成り立つ世界を否定してしまうからである。如来/一闡提という実体が本性として善/悪を持つと理解すると誤解が生じる。いずれも縁起的存在として理解すべきである。そしてこのような性悪説の主張は,決して異端的なものではなく,天台教学,そして仏教の思想の中で正当化できることを示してきた。性悪説は現世の単純な肯定でも拒否でもなく,超越者や絶対の真理というものの実体化を徹底して避ける縁起思想が実践論となったときに行きつく必然的な帰結なのである。
(…)
田辺は天台教学の用語を借用しつつ, 「区別はありながら,互いに融通し合って相互にもちつもたれつ,相即不離の関係をたもち,動的統一を形造るというのが,空仮中の三諦が円融しておるということなのです。」(田辺2003:70)ということを重視する。このような議論は天台と華厳の論争を想起させる。性悪説とは, 「翻善之悪は理に違し物を損す。不善の相は麁にして上位に通ぜず。」(『探玄記』,大正35,319b)というような華厳がたてる理(真如)の基体的性格(7)に対して唱えられたものであった。田辺は,あらゆるものが善なる一者において階層的に発出し,還元されるプロティノス的な基体論,流出論を批判したのである。(…)
如来が悪でなければならないのは,悪が如来そのものだからなのである。このような意味で,性悪説は超越者のいない倫理である。
(…)
超越者のアプリオリな前提が,他者への暴力やニヒリズムというように袋小路に陥ることは歴史が示してきた。今村仁司は,仏教に別の道を探ろうとしている。
超越存在を否定しても,あるいは超越的な神を除去しても,広義の「宗教的態度」が可能であり,また人倫的行為(仏教でいう慈悲行)が完全に可能であり,その可能性が現実的になるということこそ,仏教が教えるもっとも重要な事実であり,またそこに仏教の最大の特徴があり,人類思想史上卓越した意味がある。(今村2004:456)
(…)
仏教の「自他不二」という対場が決してニヒリズムに陥らず,逆に実践の原理となることを示した歴史的な例もある。寂天(じやくてん)の『菩提行経』は,中観派の立場から他者に対する奉仕の実践を説いている興味深い書物である。
まず仏教というものは知っているだけでは何の意味もなく,実践として具現化されなければ何の意味もないとされる。「口に誦するも身に行わざらば,当に何に喩うる所を得べき。譬えば重病人に空しく薬の力を談ずるが如し。」(大正32,547b)。仏教の実践とは苦しみを避けることであった。「如来及び法とは,有情と平等なり。」(大正32,550a)。このように「自他不二」を観ずれば,自分の苦しみと他人の苦しみは別のものではない 「彼が苦怖より脱せずんば,自らに於て当に何にか勝るべき。」(大正32,554c)。つまり自他が不二であることに,他人の苦しみを救う理由があるのである。「自らの苦を消除せずして,他の苦を消除せんと欲す。」(大正32,554c)。
苦しむことが,苦からの脱却を目指す実践となる。性悪説の意味するところは,この逆説なのである。
「十界互具」というものも,本当は悪人も仏なのだというように還元主義的に誤解してはならないだろう。逆にいえば,仏も本当は悪なのである。このことが示すのは, (十界の)ある状態を特権化してそこに安住してはならないということである それ自身であり続けるものなどない。
全ては変わらずにはいないのだし,分節化された世界に住む以上,行為の網の目から超越(善悪の彼岸)することはできない。これは,各々の存在の状態はつねに流動的な円環のなかにあるということに他ならない。悟りに至った如来としてのあり方も一つの始まりにすぎない。地獄を含むどの世界も一つのあり方であると同時に新しい局面の始まる出発点を示している。このような意味で,われわれは仏の影響の外に出ることはできないともいえよう。
(…)
仏教の考える悪の消滅とは,悪という実体が消え去ることではなく,悪を悪たらしめていた条件が解体することであろう。仏・如来というのも超越的な存在ではなく,縁起している世界そのものである。このことの自覚が涅槃である。そこでは,善悪や真偽のような二項対立自体が消え去っているはずである。つまり,涅槃によってこの世界が否定されるのではないということである。何かが否定されたり排除されるのではない。差異は差異としてそのまま法なのである。これこそ,十界互具という言葉で言い表された事態でもある。
このように徹底した縁起論的前提に立てば,実体化された善や悪や絶対神といったものに安住することは決してできないし,安易な現実肯定に陥ることもないだろう。悪はなぜ存在するか,という冒頭の問いに戻るなら,性悪説の立場からはこう答えられるだろう。悪も善(如来)もそのものとしての実体はなく,超越的な存在ではない。両者は救おうとする働きと救われる対象が生み出される働きとして,同一のものなのである。そしてここに, 「救済」と「修行」という実践の根拠を見出すことができるのである。
(…)
仏に性悪があることによって,極悪人が悪をなし,罪を犯すにいたった心情を理解することができ,ひいては救済の能力も出てくるのであり,善のみで悪を知らなければ,悪人を救済することができず,したがって仏の資格にふさわしいものではない。
(…)
悪をめぐる議論は天台だけでなく,仏教全体に関わる問題である。善悪の問題については原始仏教の時代から論じられてきた。仏教にとって悪をなさない,といわれることの根拠は外面的に表れた行為そのものではなく,欲望にある。これが典型的な仏教の考え方だといえるだろう。だから単純に悪がなくなり善だけが残ればよい,というのではない。悪というのは善と同様,欲望がとる一つの形態に過ぎない。逆に,行為をいくら外面的に規制したところで欲望が変わらなければ無意味となる 目指されるべきは欲望のコントロールである 原始仏教では この解脱の道としての善(kusala)と世俗的な意味での対概念である善(puñña)と悪(pāpa)は実は明確に区別されている。”
過去の最低帝国 ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドの創世神話全文公開
”ウパニシャッドというのは古代インドの哲学書。
「奥義の書」とも呼ばれ、基本はヴェーダの解説書でもあります。
言葉的には”近くに座る”という意味が一般的で師匠の側に座って
秘儀を授かるという意味。
そんなウパニシャッド、日本では複数の訳本がある。
高いのと安いのがある。
高いやつは2万5千円以上するので、一般的に入手しやすい
のは文庫系の安いやつだと思います。
「ところが安い文庫はウパニシャッドが全巻載っていない」
またブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドが抜けている場合が多い。
このウパニシャッド、有名人の大哲人ヤージュニャヴァルキヤさんが
活躍するウパニシャッドなのに......
ヤージュニャヴァルキヤは心の哲学とか勉強されている方には
なじみ深い人物だと思います。
皆さんも漫画やアニメで聞いた事がある、「ブラフマン/アートマン」
哲学の大元の人です。
そんな有名なウパニシャッドなのに何故か文庫版では
ことごとく省かれている。
実はブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドにはもう一つ
重要な説話があって、
「それが創造神話である」
インドってのは創造神話のパターンがいくつもあって
中国、北欧神話の様に巨人を切り裂いて天地を作った話や
道教の様に何もない無極から世界が生まれた、世界卵から
生まれた等、世界中の創造神話が集まっているのではないか
ぐらい豊富なのです。
ですから、武術の様にこの創造神話ってのはむしろインドから
世界に広がっていったのではないかとフェイド大帝は考えています。
(実際インド/アーリア人ってのはブリテン島にまで上陸している)
でブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドの創造神話の何が
問題かというと、
「神の正体が何なのかはっきり書いてある」
実はユダヤ教やキリスト教、イスラーム教ってのは
唯一神が何なのか一切教えないんですね。
多分、神様の権威を守るためにわざと教えてないんだと
思いますが。
ただそれがブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドには
はっきり書かれてある。
だから、インド/イラン系宗教に洗脳されやすい日本の出版界ってのは
ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドを闇に葬りたいのだと思います。
そこで、今回はネットにこのブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドの
創造神話を全文載せます。
はっきり言って、この神話を日本国民の目から隠し続けるのは
もはや犯罪レベルと言っても差し支えないぐらいですから。
訳の元本は湯田豊訳版を使います。
以下、本文:
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
初めに、ここには全く何もなかった。まさに死によって、
これは覆われていた、飢えによって。
なぜなら死は飢えだからである。
「私は体を具えるようになろう」と、死は決心した。
そこで死は讃歌を歌いながら行った。
それが讃歌を歌っていたときに、水が生じた。
「まことに私が讃歌を歌っていた時に、私のために水が
生じた」と。
まさにこれが讃歌の讃歌たる所以である。
このように、この讃歌の讃歌たる所以を知っている人、
その人にはまことに、水が生じる。
讃歌は、まことに、水であった。
そこで水の泡であったもの、それは凝固して大地になった。
死はその上で苦労した。それが労苦によって疲れ、熟した時に、
それの熱=精髄は火になった。
それは自己自身を三重に分けた。
三分の一を太陽に、三分の一を風に。
これが三重に分けられた息である。それの頭は東の方角である。
そして、両腕は南東と北東である。それから、それの尾は
西の方角である。そして、それの両腿は、南西と北西である。
そして、脇腹は南と北である。そして、背は天である。
腹は大気である。胸は大地である。これは水において
確立されている。このように知っている人は、どこへ行こうと、
それが行く所で確立されている。
死は欲した。
「私に第2の自己が生まれる様に!」と。
飢えである死は、その思考によって言葉と性交した。
それの精液であったものは年になった。それよりも以前に
年は存在しなかった。これだけの時間、すなわち、一年だけ
死はそれを保持した。
これだけの時間が過ぎた後で、死はそれを流出した。
それが生まれるや否や、死はそれを呑み込もうとして
口を開けた。
それは”ブハーン”と叫んだ。まさにそれが言語になった。
死は熟慮した。
「まことに、もしも私がこれを殺害するとすれば、私は
食物をより少なくするであろう」と。
その言葉およびその身体によって、それはおよそここに
存在する全ての物ーリグ・ヴェーダ讃歌、ヤジュル・ヴェーダ
の祭詞、サーマ・ヴェーダのウドギータ、韻律、祭祀、人間
および家畜ーを流出した。
自分が流出したものが何であろうと、死はまさにそれを
喰い始めた。まことにそれは全てを食う(アド)ゆえに
それはアディティと呼ばれる所以である。
このように、このアディティのアディティたる所以を
知っている人は、この一切を喰う人になるのであり、一切は
その人の食物になる。
死は欲した。
「より大きな祭祀によって、私は更に供物を捧げよう!」と。
それは労苦によって疲れ、激しく熱した。それが労苦によって
疲れ、熱した時に、それの栄光=力は立ち去った。
諸生気はまことに栄光=力である。諸生気が立ち去った時に
それの身体が膨らみ始めた。しかし、まさにそれの身体には
思考が存在していた。
死は欲した。
「私のこの身体(死体)は祭祀に適したものになるように!
この身体によって私は自己を具えるように!」と。
それからその身体は馬になった。それは膨らんだので、
馬祀祭に適したものになった。まさに、それが馬祀祭の
馬祀祭と呼ばれる所以である。
このように馬祀祭を知っているこの人、彼はまことに
馬祀祭を知っている。
とにかく馬を囲い込むことなく、死は、馬を囲い込もうと
考えた。一年後にそれは自己自身のためにそれを屠殺した。
それ以外の家畜を、それは神々に引き渡した。それゆえに
人々はプラジャーパティに属する馬を一切の神々に捧げられた
ものとして屠殺する。
ここで燃えている太陽はまことに馬祀祭である。
年はそれの身体である。この火はアルカである。
これらの世界は、それのもろもろの身体である。
それらの二つは、アルカ(祭火)および馬祀祭りである。
更に、それらはただ一つの神格、まさに死である。
このように知っている人は再死を避ける。
この人に死は到達しない。死は彼の自己になり、
これらの神格の一つになる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
太字にした所に注目して欲しい。
貪り食う死は”アディティ”である
と説かれている。
「アディティとは大女神ディヴのインド版である」
つまり、東條ミトラ教の最高神の正体は死である!
そしてもしアルティメット・まどかのモデルが大女神ディヴで
あるとすると......考えただけでも恐ろしい!
「オタクが”まどか、まどか”と騒いでいる場合じゃない」
「お前ら喰われるぞ、まどかに」
日本のアニメ/コミック業界が広めようとしている
女神信仰、これの正体のおぞましさが理解できましたかな?
はじめましてムックと言います。
今このアニメコミック陰謀論を読んだのですがこれまた興味深いですね。
ミトラ教というのはよくわからんのですがかなり危険な宗教なのですか?
まあ軽くここを読んだ感じですとオカルティックな話だなあと思うのですが
この人達の目的というのが今ひとつわからんのです。
仮にアニメコミックを通してこの宗教の教えを広めたとして具体的に何に
なるのかなあって………
大女神ディヴ=死と解釈するなら人類皆死ぬってことですかね?
私はまどマギはよく知らんのですが制作チームにオカルト信仰者がいて
作品内にその要素を散りばめた所で視聴者にそこまで影響を与えるとは思えないのですが………
仮にこれで洗脳されたとしてもその洗脳力は弱そうですし本気でやるならもっと効率的なやり方があると思います。
結局作品内にオカルト要素を入れてるのは製作者の自己満足であり我々が懸念剃る必要などないでしょう。
ただこういう見方自体は面白いと思います。
私自身陰謀論は嫌いではありませんよ。
[ 2013/07/28 06:12 ] ムック [ 編集 ]
Re: タイトルなし
ムックさん初めまして。
コメント有り難う御座います。
”陰謀論”という書き方をしてしまいましたが、
アニメやマンガに於いてオカルト的な情報や図柄を
入れるのは実際には験担ぎみたいなものだと思います。
フリー・メイソンのシンボル群というのは元々西洋魔術
が起源でして、神社のお守りの護符とかと似た様な物です。
一番最初にアニメ業界やマンガ業界でこういったシンボルを
導入したのが誰かは分かりませんが(多分ディズニーだと思います)
フリー・メイソンのシンボルを入れる事によって作品がよく
売れるかもしれないというような業界慣習があるのではないかな、と
思っています。音楽業界も同じだと思います。
特にこれで誰かを”洗脳”しようだとか、世界を支配してやろう
というような深い意味では使っていないと思います。
まどマギに関しては元々の題材が”魔法”少女物なので
”魔法”の世界観を演出するために美術監督辺りが
フリー・メイソン等の西洋魔術のデザインを
参考にしただけの様な気もします。
ただ、傾向的にこういったデザインを活用する
クリエイターさんが多い様な気はします。
まぁ、日本は信仰の自由が保証されている近代国家
ですから、中には”ガチ”でこういうオカルト思想に
ハマっている人が制作者の中にいたとしても不思議では
ありませんが。
[ 2013/07/28 14:33 ] フェイド大帝 [ 編集 ]
返信ありがとうございます。
験担ぎですか……確かにそういうものにハマっていれば十分ありそうですね。
>特にこれで誰かを”洗脳”しようだとか、世界を支配してやろう
>というような深い意味では使っていないと思います。
まあ実際こんなこと考えてるならもっと効率的な方法がありますからね。
視聴者の限られる深夜アニメで洗脳するったって費用対効果が悪すぎるでしょう。
>フリー・メイソン等の西洋魔術のデザインを
>参考にしただけの様な気もします。
陰謀論やオカルト好きのスタッフが面白半分にこういうネタをいれたらネットでメーソン作品だなんだと騒がれてしまったなんて例もありそうですね。
メーソン作品と言えば以前テレビ東京でエヴァとメーソンのつながりを指摘する番組があったようですがこれって実は日テレにエヴァを奪われたテレ東によるちょっとした嫌がらせとかだったんじゃないでしょうか?
まあ元々エヴァはこういうオカルトアニメの筆頭みたいな感じですが………
>まぁ、日本は信仰の自由が保証されている近代国家
>ですから、中には”ガチ”でこういうオカルト思想に
>ハマっている人が制作者の中にいたとしても不思議では
>ありませんが。
まあ製作者が何教徒であろうと人様に迷惑をかけたりしなければ問題はないと思いますが最近のアニメって昔に比べて随分あからさまにこういうのを全面に出しますよね。昔は出したとしてももう少し薄っすらとしていたように感じますが…………
これはどういうことなんでしょうか?
制作チームにおけるオカルト信仰者が昔より増えたとかそんな感じですかね。
それともお上のご命令?
[ 2013/07/28 18:55 ] ムック [ 編集 ] ”
[ゆっくり朗読] 付喪神絵巻(崇福寺本)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm30556752
付喪神絵巻でわかるように、
付喪神は神道的アニミズムではなく、
真言宗の説く「草木非情 発心修行 成仏」(命あるものが発心修行して成仏できるのであれば、どうして山河草木瓦石瓶盆など命のない物にそれができないといえるだろうか)、
すなわち非情成仏
=草木や国土など情 (こころ) のないものでも仏になれる。
アニミズムと混ざっていてもはや不可分。
霊とか魂≒仏性。
『大般涅槃経』では、仏性を衆生(人間)に限らず、山川草木や生類すべてに仏性があるとする、
「草木国土は悉く皆成仏す」
一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)が説かれた。非常に神道的アニミズムと相性が良い。
[ゆっくり朗読] 付喪神絵巻(国会図書館本系統)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm29742951
[ゆっくり妖怪雑話] 付喪神入門
http://www.nicovideo.jp/watch/sm30058634
[ゆっくり妖怪雑話] 付喪神絵巻考
http://www.nicovideo.jp/watch/sm30264011
おねショタ魔法使い初級おじさん @douteimaturi 2月11日
けものフレンズは無為自然
荘子の無用の用等がけものフレンズの正体なので荘子と老子の説く、小国寡民があの世界
けものフレンズをシーア派的に見ようか? カバンちゃんの正体はعقلアグル、知識及び技術というものは悪意や個人利益等による汚染がない限りは如何なる存在、如何なる状況でも必ず良い結果がやってきて、それは来訪神のように通り過ぎて行くの 知識や技術は必要な時に必要として用いられるのでね
あの世界は無知なのではなく、無用の用と用とする時に用を用いる世界で完知された世界なの
だから、そういう世界では無駄に意味を作り出す言葉は存在する必要がないの 言葉が最低限の世界は象徴も最低限にしか存在しない、それは認識や必要が完全に共有されているから象徴で誤魔化さないの
そして、純然に技術と知識を用いる事が出来るのは困ったことはあっても「不足しているものがない」から
不足しているのものというのは物質的な物から、抽象的なモノまで不足していない世界であり、
不足していないからで不足していないが故に様々な存在がその特性を使い切れる世界なのである
知識が不足すると無知と有知で別れる
物が不足すると過剰と不足で必要と不要で別れる
能力が不足すると無能と有能で別れる
心情が不足すると妬みや嫉妬、傲慢と軽蔑で別れる
シーア派的にはعدلアドル公正・公平が完成された世界であり、このけものフレンズは絶対公平世界と断言でき
ディストピアとか、ユートピアというアホで抽象的な下らない・ゴミ・核廃棄物以下の物ではなく 公正が完成された世界であり、象徴的な思考をする必要のない「用が完結した世界」なのであって、それは荘子が説く世界であり シーア派的にはアッラーの公正で満たされた世界となる
おねショタ魔法使い初級おじさん @douteimaturi 2017年2月13日
象徴があっても、思想があったとしても現代にも出てこないというのは再現性がないもの
再現性がないものは不要なものであるか、元々ないもの
元々ないものであるなら、それは復元のしようがないわけで
元々ないものを復元しよいなんて土台無理ってこと
厳しいけど、意味ある文化なんてそうないんだよ
これも勘違いしているけど、文化というのは根本的にその文化集団に属しているもの以外にとっては全く無意味なの
例えば、食文化なんかわかりやすいけど片方常に米を炊く文化があれば、パンを作る文化があり
米を炊く文化はどこでも米を炊こうとし、その逆もまた真であるのだよね
じゃあ、じゃがいもを茹でる文化の人達にとって米や麦というものは価値があるのだろうか?
食料以上の価値はなく、そこには文化的な意味を持っている物ではないということ
特性帯びるのは文化というか、生活によって発生しているわけで別に何か意味があって行っているものでは根本的にないという事
ここで分かるのは文明は文化の延長では全くないこと
文明はどこの土地だろうが、猫も杓子も関係なく共通した認識の中で共有しあえるものであって、それが文化と文明との大きな違い
で、文明というものには必ず普遍的で不変な知識と技術が存在するのそれを満たさないと文明ではないわけ
言うなれば、米というものを炊く・生産するという技術や知識というのは文明で
その米の食べ方や集団的意味を与えるのが文化と言っていい
んで、シーア派が言うتخت قدرت خدا 全ての力の土台はアッラーさんが用意されたもので文明というのはこの土台を意味するの、それは文化ではないの
なので、全ての種子を集めて保存するというのと全ての知識を集めて保存するというのは全く違うか、真逆な事をしているの
種子=文化
・知識=文明なので種子が幾らあろうとも文明の種にはならんし、
知識さえあれば場合によっては特定の文化を再度発見することができる
なので、文明=知識を集めるの
そんな事を言うと特有の文化が消えていくのはー、と言うのだろうけど
言語何かもそうだけど、何で言語が消えるのかはピジンができないからであり、結局はそれで商売できるのかという事でしかないの
そこから考えるように文化というものは「実用性」によって消える用な代物でしかないのよ
言い方を変えれば、日本のような高度に翻訳文化が発生した土地は様々な文明をつまみ食いした文化を作り出すのが容易いという事でもあるのね だから、文化が素晴らしいというよりも何時でも・如何様にも文明を自由に選択できるというのが強みなわけでそれは文明を盾に文化を守っているとも言える
なので、どっかの文明に被れる必要がないのだからさっさと様々な文明を総合研究して自家薬籠中みたいなものを作り出せばいいわけ
所謂、西洋文化も中華文明もインド文明もイスラーム文明もギリシャ文明も日本にはクソだってわかった・わかっているのなら勝手に作ればいいわけ、ちょー簡単でしょ
思想的に独立するというのはこういう事で思想が独立していれば、文化は不動なの
だから、文化が不動な人々は他の文明は利用しても文化は動かないわけだから、何処にいたって己の中にあるとらわれるべきものは不動なわけ
これが文化を守る魔法でこの魔法はオカルトではなく、反証・合理・論理なのさ
だから、儀式や物質では文化を守ることはできないし、それを守る事が文化を守る事ではないのよ
文化を守るというのはその社会の独立した行動様式を守る事であって、それを弄られると独立した動きができなくなり まるでおもちゃの様に操られては不要になれば捨てられるわけ、でそうなっているよね?
なので、博物学的な英国面・石屋面に堕ちたこと自体が悪の根源なわけ
でも、簡単にそれは捨てれるんだよ?
何でかというと、日本は大量に「自国の言葉と意味で解釈し」翻訳されている古典が腐るほどあるから
なので、困ったら古典を読めばいいし、簡単に帰られるわけこれってかなりの利点なんだよ
例えば、ウルドゥー語やパシュトゥーン語なんかはカントやデカルトですら碌に翻訳されていないし、全部英語となるわけ 但し、英語となるともちろん「英語風の解釈で汚染」されているわけでそこにはその言語独自の意味で解釈されていないわけ その時点でその文化はかなり弱いわけなのだよ
でも、パシュトゥーン人何かがそれでも独自の文化を守れているのはその文化が絶対であり・固定化された生活だからで不動な軸を持っている上に物理的に強い人達だからというのもあるわけ
文化を維持するというのは物理的強さと集団性が必要なのだけど、それは当然ファシズム如きの下らないものではない
そもそも、こういったものを現代の学術的方便で言い回す事が大間違いでファシズムや社会主義という単語以前に彼らはその様な生活をしてきたわけだから、そういった単語で表現する事が意味なく・大間違いなのね
なので、こういった単語はそういう風に見える程度の意味合い以上は持たないし、持てない
なので、そういう風に見える程度の意味合いしかない言葉をそうなければならないとか、それが彼等の固有の文化なんて誇大妄想に取り憑かれる事が迷妄そのものでしかないの
それって、最初商人が来て・やそ乞食が来て・最後に軍隊が来るの精神版なの
だから、左翼というのは文化侵略の手羽先なのよ
それで発生した右翼という発想も文化侵略の手羽先から守るという思想が発生した時点で二元論が発生し、文化探しを始めては物質や儀式としての文化を見つけては己の固有というのを見つけだそうと躍起になるわけ
で、記号化された固有というのは博物でしかないのよ、その時点で完全敗北なのよ
そう考えると西洋の豚共は邪悪で悪辣な流石邪教を捏造するその性癖には驚きを隠せない
イスラームではوطن バタンやأمة ウンマというのには二つ意味がある、
一つは己が属している母集団=故郷と
二つは必ず帰る元がある=イスラームがあり
形而上と形而下で両方の意味での母集団があると見る
なので、形而上での帰る元を想定しない限りは永続的な循環論が続くだけで意味がない
それで捏造したのがヤソ多神教なのだけど、これが大失敗
だって啓典もねえ、預言者がいねえ、思想もねえ、そんなゴミ以下のケツ拭く紙にもならないものを前提にしたので絶望な迄に大失敗したわけ
せめて、仏教か儒教を前提にした上で捏造すりゃ良かったのにただの少しは利口な革命戦士には脳内妄想を外部化するだけの能力がなかったんだろうし、あれってただの英国とフランスの代理戦争以外の意味がないからそこまで手が回らなかったのだろうね
なので、皇道立教会みたいなもん作ったのだけどね
なので、ぜーんーぶ物質で誤魔化したwww
ヤスクンニ神社や軍珍神社みたいな象徴もテンちゃんという物質もテンちゃんだけがする儀式も皇族という象徴もぜーんーぶ物質で物神をこねこねシコシコ作って誤魔化したわけ
で、右も左も物神に取り憑かれているでしょ?
なので、イスラームは全否定すんの
象徴が何故に絶対悪なのかというと、それ自体に全く全然意味がないのにそこに無益に意味を与えてしまうからなんだよ
但し、アッラーがそういう風に作ったのは知恵と知識というものの副産物であり、やっぱりそういう風に認識してしまうのだからそれを外部化するのはやめましょうというのよ
物事って、至極単純で明快で完結しているの もし、そうじゃないのならどっかが間違っているのではなく根本が間違っている事を疑ったほうが早い
確実に土台のどっかが大間違いだから、上に立ち上げているものがズレているわけ
なので、困ったら土台を調べる事 これ以外の方法はまずないです
〔 ピジン言語(Pidgin language、単にPidgin)とは、異言語間の意思疎通のために簡略化された接触用言語。
社会言語学たん @socioling_tan 2016年12月1日
ピジンの具体例はたくさんあるけど、例えばハワイに移住した日系人のピジン英語(英語+日本語)、旧満州国でのピジン日本語(日本語+中国語)などが挙げられるわ。ピジンはベースとなった言語より文法などが簡略化されているのが大きな特徴よ。これを母語とする人間が現れると、クレオールになるわ。
木村接骨院 @kimuraseikotuin 2月9日
ピジンが話されている環境で育った子どもたちが、ピジンをまねするのではなく、一貫性のある文法規則を備えた言語を自然に生み出し…中略…
こうして子どもたちが使うようになった独自の言語を、「クレオール」といい、この現象を「クレオール化」と言う。
─酒井邦嘉『言語の脳科学』p279〕
おねショタ魔法使い初級おじさん @douteimaturi 2月13日
イスラームに存在するのは解釈で解釈全てです
しかも、解釈しその宗教令に辿り着くまでには
アラビア語の語形論サルフとナフブ
クルアーンの読み方と暗記
教条論・アガーエド
ルバイアート・伝承・物語・逸話
歴史とその解釈
の上に科学的知識が入るのでアフカームはイスラームの結晶です
即ち、宗教令を蔑ろするというのは結晶を蔑ろにするのと同じなのですが西洋的な自由思想・実態はただの相対主義に汚染されはじめているのでそれに毒されたバカがしょっちゅうお粗末な宗教令を出す事で信頼がガンガン下がっているのです 例えば、ポケモンGOの話
アズハル大学の学者はポケモンGOをシルク・多神教崇拝とかボケた事を抜かして、失笑されましたがシーア派12イマーム派ウスール学派のイランの学者は単純に社会影響が大きいという社会悪に決めて禁止しました 前者は典型的なローマ法・後者は中国とかでは典型的な社会統治論とかけ離れているのです
イスラームは社会統治論と社会道徳論と社会救済論と社会規範論すべてを合流させたものでそれはあっらーの力と知が生きているから、こういったものが出てきたのです で、それは全て完全に論理・反証・合理で説明されるもので神秘というのはクルアーンと預言者と指導者達の存在で担保されているのです
だんから、イランは憎まれる そりゃそうさ、表面上共産主義にして中身は儒等の合理的社会統治論に変え切った中国と違って、イランは表も裏も社会統治論でやっているから、大量にデマが流される まあ、極右もいるけど、正直他の極右よりもかなり冷静で馬鹿ではないというか極右って学者集団だからね
イランにおいては極左も極右もどっちも学者集団なので活動家というより、学者同士の喧嘩というのが本当のところ しかも、博士とってとかではなくてそこから何十年も学問やっている人が右・左に分かれている訳なのでこれも他の国のレベルとはかけ離れた世界なの、想像ができないだろうけどね
おねショタ魔法使い初級おじさん @douteimaturi 2月14日
イランの薬草学凄い
こいつら食虫植物まで薬草にするし、ケシでシロップ作ったりするし、しかもその作り方が平然と書いてあるから真似できる
朝顔科の植物の花を干したものを15分1リットルの水で煮出して、すぐ様取り除いてこしたものに500gの砂糖かはちみつを混ぜてシロップ作ると書いてある
不眠症の食餌療法とか書いてあって、夜の8時・10時くらいにはこういったものを食べたり、逆に食べるなと書いてあって これが1000pくらいのイランの薬草学百科事典につらつらと書いてある うん、やっぱりあるよ不思議な知識体系と実践思想 多分、他の分野でも発掘すればあると思う
しかも、よくわからないのがニンニクジュースとか、香菜ジュースとか、玉ねぎジュースとか書いてあって他にもイマームサーデック(ع)の伝承を取り上げて野菜や果物の効能についても書かれている うん、やっぱり大学者の知識というものは制限がないから、大学者なのだろうね かなり興奮・驚いた
おねショタ魔法使い初級おじさん @douteimaturi 2月19日
凄い知識や発想というのは石のようにころがっている
石だから拾うものはないが拾うものにとっては如何なる貴金属・宝石に比べる事ができないほどの宝である、宝はものではない
常に認識という叡智の中にしかない
理性は超能力なのだけど、その理性をバンバカ簡単に使えてしかも時には閃きがやってきて世界に光明をついつい差してしまえるようになるには一つのお約束を徹底すればいいだけです
そのお約束が「善悪の判断と基準を確定させる事」これが守れれば、理性や閃きはバンバンやってきます、バンバンです
それでも降ってこない場合はその善悪は相対善・相対悪でしかなく、絶対善・絶対悪ではないという事です
まだまだ、削ったりする事が出来る部分があるという事実なのです
最悪なのは相対善・相対悪を絶対悪・絶対善と決めつける事ですね、
これすると永続に迷いますので形而上を否定するのが無難です
なので、日本で一番資料があって・翻訳されていて・読みやすいのは
形而上をするのであれば孔子・孟子・荀子・朱子・陽明学をやるのが無難で
形而上を絶対殺戮する気なら唯識などの古典仏教と臨済さんとかの古い禅のおっしょさんの文献に当たるのがいいでしょう
それ以外は何一つオススメしません
形而上をやるのなら、本当に良い先生に当たらなきゃいけないけど、
殺すのであれば独学でできます
というかできちゃったからお釈迦様が現れちゃったのだけどね
まあ、お釈迦様が善の化身みたいのを見たとあるけど
あれは後世の真っ赤な嘘ね
だって、生涯形而上的なものを否定した人が見るわけねえじゃん
正しくは無記だけど そういった存在がそういったものを前提に語る事はないわけで
それは無記というのをとった存在の思考ではないのね
そもそも、この世界が悪くなっているのは完全悪が蔓延しているわけで
その完全悪は相対善・相対悪の積み重ねによって誕生したとんでもない奇形児なの
つまり、相対善と相対悪を積み重ねて出てくる結論は簡単で
己以外悪・己だけ善
または己の集団が善・それ以外は悪
という相互が悪と断定する事で全ての存在が悪として戦い出すので
何かはそれだけは絶対に避けるために悪魔を創造したのだけど、
悪魔はあくまでも同じ宗教を信じるものの中にしかいないの
何故なら、悪魔は基本信じているものにしか近づかないし、
ハナから迷っているものはずーっと迷い続けているのだから放置しているの
そういうと「何か」は無力だと完全悪に浸った連中は言うがその為に永続の地獄と天国を用意したわけ
神学って、人間が考える程度の事はちゃんと潰しているから神学なの
ここでわかるだろうけど、宗教を信じないや無神論とか言う人達は完全悪の存在なわけ
これらは己の功利に当たるものだけが善、それ以外は絶対悪と考えているわけで
そのような連中をサイコパスというわけでサイコパスは完全悪な存在なの、
悪魔はサイコパスには近づかないのだって完全悪そのものだからだ
むしろ、シャイターンや悪魔は人を惑わすだけだが完全悪は人間に実害を与える
なので、神学はその完全悪なる悪魔よりも恐ろしい存在が発生させないための防御手段であり
その為に「何か」は法・宗教というものを与えたのです
勿論、人間は自由な存在なので完全悪を発生させる能力と抑える能力があるの
はっきり言うと日本というのは完全悪な社会です、
完全悪の社会では人間は生存できません
ホッブスが懸念したものはこの現代の日本というところで出てきたわけなのです
なので、もしこの地上で一片足りとも光明が差していない社会というのは日本だけでしょう
こればかりは如何なる例外もありません
仏教の弱い所はここで人間は形而上が無くとも広義の宗教を見つけるといいますが、
それは本当に漢字の意味での宗族の教えとなり集団の功利と功利がぶつかるだけの世界になります
んで、それを歴史として顕現したのが中国史なわけで彼等が何故に儒を用いあのような思想体系を産み出したのはその理由です
下は宗族でぶち殺しあっているが
せめて同じ認識を共有する者達だけは殺しあったり、
害をなさないようにしようというお約束が俗習の上にある儒なのです
全ての知識や発見というのは勿論、用意されているのですが
必要によって見つけるのです
歴史という形而下はその意味で最強で強固なものなのです
何だこれ
— おねショタ魔法使い初級おじさん (@douteimaturi) 2017年2月19日
絶対にこの核廃棄物、英語文献読んでねえだろ、グラート文献は英語だとグノーシスバイブルという本やわかっている英語文献はグラート文献で調べればでるから、それをグーグルてんてを酷使すれば多少は読める。
で、宗派ごとに全く思想が違うからまとめあげることはできないのは常識以前の話 https://t.co/BsI939Zhqn
今はアプリで写真撮れば英語とか翻訳してくれるやつがあったはずだから、それ使ってよく読めクソカルト
— おねショタ魔法使い初級おじさん (@douteimaturi) 2017年2月19日
大本みてえな完全悪な邪教は全物質の敵である事を理解してさっさと首吊って死ね、この地上にある空気やガス、物質は手前ら如きの為には一毛たりともねえんだよ pic.twitter.com/ZfngK1tjD3
こいつ、シーア派系の異端(グラート)をちゃんとした名前で言わない。
— ねこた (@lakudagoya) 2017年2月19日
別名じゃなくて、グラートが正しい名前だろ?
このように、神道カルトのやる事は卑劣極まりないな。
徹底的に無教養な馬鹿を騙してやろうという悪意に基づいて行動してやがる。 pic.twitter.com/10TM7I2Y4Z
おねショタ魔法使い初級おじさん@douteimaturi 2月22日
知識は工具みたいなもん
工具は一杯あって、一つ一つ使い方があるように使い方と道具は一緒なの
だから、プラスドライバーでプラスのネジを開けるわけで場合によってはマイナスドライバーでネジも開けられるけど、正しい使い方ではないのね
でも、開けられるわけでその感覚が大切なの
しかし、小さいドライバーでは大きい穴や大きいネジは開けられないし、逆も然りなの よくあるユダヤがーとか、中国がーというのは大きいプラスドライバーみたいなものでそれで開けられるネジは少ないわけ、但し何かをぶち壊す事は出来るわけで殆どの人はその破壊と破壊力を楽しんでいるだけなの
で、よく工具セットとかってあるでしょ? あれが哲学とか、神学なのだけど工具セットにも色々なものがあって道具が完備されていて何時でも整備出来、小さいものから大きいものまで何でもできるのもあれば逆に全部サビてたり、工具自体が壊れているものもあるのなのでそこに警戒しないとダメ
では、良い工具というのは長い間使われていて、壊れないものであるという鉄則を守れば古い哲学や神学をやるのがお約束なわけ 物事って至極単純なんだ、問題なのは常にその使い方で使い方を間違えたり・わからないとバールのようなもので破壊しか出来ないわけ、で今起きている事は正にそれなわけだ
工具で開けたり・閉じたりできるというのは人間が作ったものでなければ出来ないわけ 明らかに人間が作ってないもの・わからないものは工具の使いようがないわけでそれは触れる必要がない=仏教、工具を開発しよう=形而上を想定した哲学・神学なわけ だから、使う工具が目的によって違うのさね
そういう意味では特定の宗教ではない・工具箱の大きさが限られていない、翻訳文献が大量にある・工具の設計図と説明書が膨大にある社会というのは幾らでも工具セットを作りたい放題できるわけ これって、とんでも無い程の利点なのだけどコレに気づかないという事はその程度でしかないという事だ
おねショタ魔法使い初級おじさん@douteimaturi 2月23日
組織で大切なのは個人を追う意味は全くないこと
大切なのはその連中が集まった時に何の目的と議題を共有しているかであること
おいら、個人について話さないでしょ?
それは固有名詞を無駄に増やしてもしょうがないのと
固有名詞というのは魔術の塊だから、
それについて言わないのが簡単な白魔術なんよ
それにもっと厳しいことを言うと固有名詞を追うことは無駄、
本当に上から下の社会であるなら
一日に三回は上からの命令が変わると思っていれば、
組織やその組織同士の繋がりを見る事は無意味で
上というものは勿論所謂組織ではなく、同じ認識なので組織や個人を追うことは全く無意味と簡単にわかる
なので、同じ認識を共有しているという事が重要で
認識の後に組織が出来るから、
まず認識を踏まえる事だけが全て
ただ、ハッキリ言っとくけど認識が共有されていても物質で繋がっている連中は
物質での上下にはかなりの乖離があるということ
例えば容姿・知識・見識で位があるようなもん
なので、そういう不純な連中を知ったところで博物的な知識でしかないのよ
おいらがこういう事を追う事のをやめたのは
形而下を追ったとしても形而下で上位のもの歴史や心理を追う事に意味はあっても、
下位の組織論を追っても大した事が見つからない癖に直接危険があるから意味がないわけよ
こういうのを「金にしかならない、物質にしか変換しない知識」なわけ、
だから過去の人は金にしかならない知識を道具として使っても、
それを最上の知識とは思わなかったのよ
所詮、道具は道具でしかないからね なので、
この感覚を持っている形而上的知識はすべてを統括・支配するのよ
おねショタ魔法使い初級おじさん@douteimaturi 2017年2月26日
物事の単純な解決法としては二つです
逃げるか殺すです
逃げられるのであれば、徹底的に逃げる
逃げられないのであれば、殺す・殺し尽くすしかありません
如何なる社会運動でも究極的に逃げる・殺す以外の選択肢がない社会運動は偽物です
同じことを度々言っていますが備忘録として書いておきます
自然法則だけではただの創造物でしかないのです、
そこに一定の規範を与えたことでやっと統治が始まるわけでそれが何かの公平に繋がるのです
シーア派12イマーム派ウスール学派ではعدالت 公平の中にはشرعتی 規範・法とتکوینی 創造が存在すると考えられています
法や規範は人間も作り出せますが創造に関しては何かだけの特性となります
但し、その創造の痕跡を探す事ができるのは現状人類だけであり、
その特性が全ての存在と人間の差でもあるわけです
動物は本能だけで精霊や天使・悪魔は力はありますが善・悪しかありません
人間は本能と善悪二つ持っている
わけで性質を他の存在よりも多く持っているのは人間だけに与えられた特性であるわけです
つまり、人間にとっての自然というのは動物とは完全に隔絶され、
また善悪を超えた・普遍的な真理とされるものを探求することにあるのです
それが何かから与えられた人間が唯一持っている自然なのです
人間の自然はさまざまな存在の正体を探る事であり、それは形而下の現象の事ではありません
自然というのは何かが創り出した力や知恵の根源を探る事なのです
これが人間にとっての大自然なのです
何で、人間はどこにあろうとも何かの知恵の痕跡の中に存在するので何処でも自然でしかないのです
なぜに何かが人間にシャリーアを与えたのかといえば、単純に人間が人間を支配する為の法であるならば恣意的要素しか入らないからです
しかし、超越した何かの法であればそれは絶対に公平です
ストア学派の失敗は絶対公平を発見することが出来なかった、全てはここに尽きるわけです
イスラームにおいての人間規定は制限能力者と能力者の違いがあります
例えば、ダウン症や自閉症のように産まれから欠格事由がある存在は様々な義務が免責されていますので
彼等は天国へ行く事が確定していますが
能力者はそうではなく
知恵とモノを知れるという時点で能力分せねばならないのです
これはウマイヤ朝の失敗が関与しており、アラビア語においてのバルバロイのような事を言って差別して、
結果として自滅したという部分からの反省でもあり
また、預言者(ص)は伝承の中で白だろうが、黒だろうが最も信仰するものだけが尊いと仰られておるので
そこからも優生的観点は否定されます
むしろ、関係なく人を含んで行ったのが現代のまで続く拡張であるので
知恵がない人種は存在しないというの大前提です
当然、理解の幅・仕方の幅はあります
但し、それは何かが根拠があって創造したのであるから、
その多様性をイスラームが否定する事は絶対にありえません
それは創造の否定ですから
なので、私が大本みたいのを全否定するのは何かの創造が何故に多様させたのかについて思考しないからです
全ては一つといっても、それはまずその一つが何かを考えた上で多様が矛盾せずにあるのかを考えないからです
で、何かの法というのは動きません・不動であるから法であり、動くものは方便です
人類が凄いのは不動の発見であり、その不動というのは死や生などの現象には存在しないと見つけた事なのです
ここで付け足すなら、人間は不死であるというのを発見したのがインド哲学であり、不死であるからこそ解脱せねばならなかったわけでそれを教義化したのが唯一の発見だったのです
であるならば、宗教思想や痕跡を探るのであれば地中海からインドまでの宗教思想を理解していないと何故に唯一を発見したのか、何故に繰り返す生から離れようとしたのかがわかりません
そう考えると中華というものは世界の端なのに独立した思想を作り出したというのは非常に異様な事なのです
答えから言うと同じセム語族で言い方を広げれば、彼等もアラブ人だからです。
— おねショタ魔法使い初級おじさん (@douteimaturi) 2017年2月25日
文化は相互に影響を与えるのと社会感が近ければ、モノの考えも近づきます。
なので、どっちが元祖とかではなく、相互に影響しあって作用してきたという事でしかないのでしょう。 https://t.co/6Ui8Fld7b1
おいらがタルムード読んだときの感想は、あれ?これ何でシャーリアにそっくりなんだろうって。
— ねこた (@lakudagoya) 2017年2月25日
イスラーム法に対するデジャヴが凄かった。
そもそも、何でキリスト教徒はアラブやユダヤなどの部族社会のDQNさを捨ててるのか? pic.twitter.com/EsaCnsbUOH
おねショタ魔法使い初級おじさん@douteimaturi 2017年2月27日
DQNというが男なら、美意識につけこんで孫子辺りを読ます事は簡単で
実社会でどういう風に使うかもチャンと説明すれば彼等は納得する
問題は女
女に関しては正直無理、
何故ならまず語彙を得ようという美意識がないのが多い
で、唯物でしかないので思考や思想による優位という発想がない
女には統治論が不要で連中に必要なのは状況優位でしかない事
状況優位というのは朝礼暮改の社会であり、それだけでは成立しない
中東は法や規範が一日五回変わる事がある社会だが、
それが可能なのは絶対的なる規範が存在する事によって成り立っているので
ローマ法だけではないから成立するのです
よく社会は男性的・女性的という連中が多いが
中東というのは男女の役割が確立して動かないので両性社会です
本来は女性的・男性的と言っている連中の程度が知れるものなのですが、
全ての存在が仕事を与えられているのでそのような社会では
性による仕事が確定されています、なので単性なんてないのです
なので、両性社会でなければ・性による立場が確立していない社会というのは
無政府状態・無統治状態という事でしかなく、
それは何かが性をわざわざ作った理由にならないのです
故に現代社会・西洋文化に汚染された社会というのは無政府・無統治状態でしかないので
それを前提にした政治何て無意味です
神智政治というのは両性社会であり、役割の分担と配分がしっかと確立された世界であり、
そこには虚飾性が一分足りとも入らないのです
入ったとしても状況によって飾る必要がある時だけであり、
それすらも礼儀と規範によって確定されているものなので虚しい物ではなく、意味しかないのです
神学はこの世界が「意味しかない世界と認知してから始まりです」
意味がないものを何かが創造する事はなく、
この世界は人間が不要と思うものですら、何かしらの要があるのです
老子や荘子の要という発想も神学の基礎であり、
全ての思想や学問の基礎は要しかないという前提であり、それが神学なのです
リンゴは北部コーカサスが原産でこの時期、イランではリンゴとみかんが大量に出回ります
因みにイランは北と南で気候差が激しいので北部ではりんごが南部では棗やしとか普通に取れます
しいていうなれば、バナナはとれないみたいでバナナだけはパキスタン辺りからの輸入らしいと聞きました
おねショタ魔法使い初級おじさん@douteimaturi 2017年2月28日
http://jamali.info/simorgh/zalezar-ya-zardosht-azmayesh-kardan-az-ruzgar/ …
えーとね、これはزالペルシャ語でアルビノを指す単語なのだけど
ここにあるزال زرというのが どうやら ザラトーシュトラを意味するみたいで直訳すると古い金になるのね
で、زال زر というのは 最上の人間を意味するみたい
で、زرتشت というのは導き者なので預言者を意味して、多分意味したいところ唯一の預言者として唯一な何かにイランへ送られた存在でシーマルグを何なのかわからないが「全ての人間に時間を教えた」と書いてある どうやら、このサイトはゾロアスターについて詳しい人が書いてるみたい
取り敢えず赤くなっているところだけ 次にザールザルزال زرの唯一なる何かは直訳すると看護婦・しかしここでは実の母ではなく乳母で「ザールザルの唯一なる何かは乳母であり、教師・先生ではない」しかし後に世界と時間を教える彼の先生、または乳母となると書いてある
で、下の赤は「イランの文化として、絵画乳を与える乳母を描く」と書いてあり アレに関係してすべての人間に関与する、時間・人々・世界と書いてある 一応、グーグル翻訳で見たけどある程度は意味がとれるからそのままかけて平気だと思う
ちょっと個人的には部分・部分わかるけど、全体的に意味を取ることはまだできないな 正直、多分この文章はゾロアスター教の基礎を知っている上での文章だから、こっちのゾロアスターについての基礎教本を探して、読んで、理解した後のものかな うーん…暇を見つけたら怪しいもの探しに行こう…。
直感的にザルトーシュトラはアルビノだった可能性がある زالی で、アルビノの人を指すのでもし関係しているのなら、名前がそのまま表していると想定したら またはザラトーシュトラがいた、場所はタジク人とか混じっているので髪は黒いが肌はイラン人と比べて白いのでそれもあるかもしれない
結社員で固定化した発想する連中は下位です
上位は白魔術と黒魔術を自在に操れる
・言葉の効用と反作用を知って使える
ので高須のおっさんは下位の下位
・そもそも、上位は固有名詞を使わないし
・使われないし結社員のお約束から放たれている、
下位が知らない存在が本当に上位なのです
なので、私が本当に結社員の上位の存在であるなら、
結社員の決まり事を知らないふりをして試すでしょう
むしろ、他人を試せる存在というのが絶対上位者の立場であって、
いつの時代も絶対上位者というのは下位のものを試すわけです
それは神学にしろ、伝承にしろ、古典の逸話にしろ全部同じです
だから、よく結社員の決まり事みたいな象徴がネットでよー出て来ますが
あれはある一定の地位者同士での下位と上位でしかないでしょう
いいですか、本当に上位者というのは決まりを創る存在です、
その決まりを堅守しているというのは上位者でありません
上位者は上と下から全部を見れる存在なのです
上位者というのは解釈できる存在です
なので、解釈に従っている存在は結社員の上位者でない事は単純に見据えるのです
つうか、解釈できるようになって一人前なのでまだ下の中ですが
殆どが下の下の下であるので
結社員というのはそういった奴隷以下の虫けら層が大量にいるので幾らでも誤魔化せるのです
因みに高須のオッサンは虫けら層で一生虫けら層でしょう
ああいった結社というのは何代か経て、一定の貢献を続けていないと上に上がれない、
秘跡を得る事が出来ないので一生虫けら層でしょうね
それは東京の小中学校のPTA会長が地元に住んで15代目とかから選ばれるのと全く同じです
相続税を廃さないのもコレが理由です
即ち、自分達以外の結社・地元の血族的繋がりを否定してすり潰して逃散させるのが目的であり
GHQの土地改革も結社という視点から見れば、
血族的結社の破壊が目的という視点で見ることができるのです
相続税は日露戦争からですよね?
はい、そういう事です
つまり、反乱とかしながらも残っていた血族的結社を破壊するために
死ぬと国によって強制的にタワケさせられるのが相続税なわけです
当時は税が重くなかったとか言うでしょうけど、
日常的に殺し合いの運動していた時代ですから国が金や土地を毟るのに躊躇するのは当たり前です
だから、私がしつこく言うように不満があるなら、役所や省庁を焼き討ちすればいいのです
税が重いなら、国税庁や総務省を片っ端から焼き討ってデータサーバーから何から何まで破壊しきって納税関係のデータを消しちまえばいいのです
実際、史記で蕭何が秦の首都で書簡回収したのはそれが理由です
度々、中国史で戦乱が起きると税庫が焼かれる・焼くのはこれが理由です
なので、焼けばいいのです
何も人間が繰り返してきた「自然な営み」なのです、
小・大便をする・子作りする・ご飯を食べる
・困ったから困っているもの同士集まって役人を殺戮して、書類を焼く・非常に自然な行為なのです
私が言っているのは歴史的事実であり、それは必ず起こるという事でしかありません
革命とか、そんな大層な方便じゃないんです
困窮民が日常道具を持って・集まって・殺して・破壊するたったそれだけの事だから恐ろしいのです
これを起こさせない為に結社を解体し、無力化させたのです
小澤 祥司 @ozawashoji 2015年12月15日
年末調整で一喜一憂される方もいるかと思いますが、源泉徴収制度が1940年に戦費調達を確実に効率よく行うため始まったことをお忘れなく。
日清戦争の時には所得税の増税、日露戦争時は酒税と相続税、増税はつねに戦争とともにあり、一度できた税は二度となくならないんです。
宇宙人ぶー @Bu_uuu 2016年1月8日
例えば、日本では、日清戦争では所得税、日露戦争では相続税、大東亜戦争では、源泉徴収税が、それぞれの戦費を調達するために導入された。そして次は「消費税」が導入された←いまここ http://fidelcastro01.seesaa.net/article/399961226.html …
おねショタ魔法使い初級おじさん @douteimaturi 2017年2月28日
うーん、ただの文化紹介的なサイトだったみたい
やっぱり、物を探さないとだめだなぁ…。
うーん、سیمرغ というのはキメラみたいなものなにだけど 象徴ではなく、あれは人間の知恵の一部みたいなものであると言われた あーやっぱり、イスラームは象徴に囚われずに無意味又は性質を問うように考えるように出来ているし、製造元はあれが性質の塊である事を理解しているわ、敵わんね
象徴というのはアレ自体が何か意味するところ、何かの性質でしかないので彼等自身の性質を理解していないと象徴の意味と性質がわからない で、よく共通性とか言われるけど、大陸である以上は影響があるし、また同時発生もありうるので共通性で無理矢理結びつける事は無意味で性質だけを問うべきなの
だから、象徴学辞典がぐちゃぐちゃなのは当然の事なわけでアレはその集団の特性と性質を理解していない限りは象徴同士で結ぶことは出来ないというか、象徴はその集団の性質と特性でしかないので違う集団の象徴同士つなげる事は無意味で繋がる事は絶対にないの うわー、ひっでぇなんだそりゃ
即ち、西洋的な分類学だと象徴の共通性や固有性やらとかを探そうとするけど、全体的に見てあれは性質を顕現したものと見れば、彼等を表す印以上の意味がないの 所詮、影響されあった性質・自家化した印でしかないので追うのであれば彼らの性質を知るためのモノでしかない 西洋魔術完全死亡ひっでぇー
魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 23:18 - 2017年7月1日
また、近くなったのでこのアカウント消すから保存する人は保存してね
じゃ、またね
3:19 - 2017年7月1日
明日の夕方になったら消すからそのつもりで、んじゃ
魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 19時間19時間前
魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがえらいてんちょうをリツイートしました
何だ、娘夫婦が森山という糞ガキ(歳とったガキ)に脅迫されたと糞ガキの電話をレコーダーで取っておけば、型に入れられる案件ではないですかね
どうせ、バカなクソガキは大概言葉が甘いから誘導すれば型にはめ込めるのではないでしょうか?
今からどれだけ脇の甘い事をガキが言うか楽しみです
魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんが追加
えらいてんちょう @eraitencho
やはり大家に対して無効確認及び損害賠償の請求で訴訟を起こすことは必要だろう。ついでに森山にも訴訟を起こそう。法律上の権利義務に関して争いが生じていれば、弁護士法72条に基づいて管理会社は解放されるのである。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 22時間22時間前
宗教に問題なんてありませんよ、常に問題があるのは人間の私欲
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
Fusisya-O @Fusisya_O 6月30日
返信先: @Fusisya_Oさん
ドラゴンフルーツの実が最近の気温と湿度のお陰でモリモリ大きくなってる。①今このくらいのサイズがいっぱい生ってる。②今日撮影した写真③1週間前(6/22)の写真。まだまだ膨らむですよ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
おねショタくださいbot @onesyota_bot 6月29日
なんでもいいのでおねショタください
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
えらいてんちょう @eraitencho 6月29日
【ブログ更新】エデンが立ち退き危機!?たたかうぞー!!イベントバーエデン立ち退き闘争史① 大家と大ゲンカ編 http://eraitencho.blogspot.com/2017/06/blog-post_29.html … @eraitenchoさんから
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月29日
返信先: @cider1d1lさん
そこです
その所有及び権利というものの私有化をどこまで認めるかが重要なのです
ご存知の通り、イスラームは私有財産を認めます
その私有財産というものがただ物質的な物だけをそれとも技術・技能的も認めるのかというとわからないのです
ただ、現時点でわかっているのは知的財産だけです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月29日
返信先: @douteimaturiさん、@cider1d1lさん
常態で存在するも・しないも関係なく、人間如きが発見したもの・出来たものは全てアッラーの創造及び権利であるので人間がもし権利を囲えるのであれば製造権くらいなものです
ここら辺の判断基準はまだ習っておりませんので私が認識している現段階で知っている範囲内での判断です
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月29日
返信先: @cider1d1lさん
自然という範囲が狭すぎです
自然というのはアッラーが創造したもの全てが自然であり、人工という概念は西欧のアホが思いついたものであって正しくは自然界においては常態で存在しないです
全てがアッラーの御業である自然な存在を勝手に権利・金銭化することが問題なのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
青木俊直 @aoki818 6月28日
漁師コンピューター
37件の返信 9,773件のリツイート 10,637 いいね
魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月28日
返信先: @douteimaturiさん
ね、生活の全てを「動機」とか言っちゃうでしょ?
これが形而上と形而下の違いが全く分かっていない証左でもあるのよ、なのでその時点で論外と下すしかなくなってしまうわけ
規範を完全に固定化するものに動機もクソもないという事が分かっていないから、日本の議論空間はゴミだと断言できるのよ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月28日
返信先: @douteimaturiさん
私が知り合いと知っている人にしか絡まないのはそういう事で前提知が完全に欠如しているやつには何言っても無駄だから
無駄な事は無駄で人間の本来の意味での生存期間というのは精々、25〜60までくらいとすると30年くらいしか考えて生きていないのだから一秒でも無駄な時間を費やす必要はない
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月28日
返信先: @douteimaturiさん
表現の自由はアッラーの啓示で預言者が受けた何章の何番目のアーヤでそれを補完する伝承として〜という人が伝えるところでは…と、やりゃーいいのに西欧の乞食学者の戯言上げるのだから当てにならないのよ
所詮、人間の言葉は間違えるのだから、そんな間違えるものを金科玉条の様に扱うのがアホの全て
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月28日
返信先: @douteimaturiさん
鉛筆の機能だけを見ればいいのにそれ以外の事例や例外を指してああでもない、こうでもない言っているわけで規制うんすん言うくらいならじゃー形而上でそういった規制は何かの存在の意思と啓示に反するでいいじゃんと思うわけよ
実際、貴方には貴方の宗教があり私には私の宗教がある訳だからさ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月28日
返信先: @douteimaturiさん
そんな万能なモノを規制するとか言うのだから、本当にアホなのだと思う
例えられるものがないからなんとも言えんけど、鉛筆があるとして鉛筆って書く物でしかないのに凶器になると言い張って、じゃあ黒鉛の部分が何センチ・どれ位の角度なら凶器じゃないみたいな事を何時も議論している感じ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月28日
返信先: @douteimaturiさん
そりゃーそれで得たお金はハラームだけど、別にイスラームに帰依してなきゃ関係ないしね
だから、イスラームの良い所というのは根本的に超世俗的な宗教であり、人間がやらかす事は事前に想定されて作られているという事なのよ
だから、禁欲的にもできるし、そうじゃなくとも出来る万能なのよ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月28日
返信先: @douteimaturiさん
じゃーどスケベ書いてはダメなのですか?
と、言われたら「書いていいですけど、表にしちゃダメですよ」これだけでいいのです
表に出てこなければ、一々問いただす必要性はまーったくありませんから
そうすれば、隠れて一人の金持ちどスケベおじさんが買うという構造の方が金は入りそうだしね
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月28日
返信先: @douteimaturiさん
で、著作権や知的財産というものはアッラーが事前に用意していたものを個人が勝手に宣言して占有する事なのでそれはハラームであり
アッラーの千の性質の一つに最も賢き何かであるのでアッラーの啓示物である知識を一個人が占有することは認める事は出来ないわけで後は宗教倫理だけの問題となる
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月28日
返信先: @douteimaturiさん
そもそも、言論の自由と言うのであれば著作権から否定しなきゃいけないし、知的所有権なども否定しなければならない
何故なら、言論の自由というのは個人の内心の権利を問い正さない事で成立しているものだから、それを小銭に変えたりする著作権は内心を固定化する事で小銭を得ているとも見える
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月28日
返信先: @douteimaturiさん
暴力というのは国家権力とか、そういう大層な物ではなく隣に住んでいた信仰者にサクッとという奴
別にそれは過激な事ではなく、日蓮宗の人間が一揆したり、逆に鎌倉仏教で日蓮さん自身が暗殺されかけたように形而上は生活から思考まで結びつけられて存在するものだから形而下で語るのは無意味なのよ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月28日
返信先: @douteimaturiさん
あえて名指しするけど、青識亜論氏及び彼ら周辺の価値相対論者というのはこういう形而上なる存在を形而下のように扱うから全く信用出来ないんよ
で、連中は結論を出すのではなく、その時その時己に都合の良い事しか言わないのと言論が暴力のよって清算されない社会にいるからあー言えるのよね
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月28日
返信先: @douteimaturiさん
凄えな、日本の価値相対論者は聖典を発行物言うか…つうか、アレは暗記物でありクルアーンالقرآن はقال ガアラ言うの変化系で詠むべきというべきで暗記されて実社会で運用されるのが主目的となっているものであって
クルアーンは人類の全てであって、規制もクソもないんだよ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月28日
返信先: @douteimaturiさん
救われたいやつだけが救われるのでそれでいいし、自分何てものは根本的に無いのだからそれでいい
そう思っているだけで十分だし、それ以上問いただす必要もない
世界に価値はないし、己にも価値はない・また無意味であるし、意味自体も妄想でしかない
だから、勝手につくりゃーいいのアホらし
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月28日
体がカタワな奴は不思議と心もカタワな奴が多いし、クズなヤツ・クズみたいな家庭の奴はクズでしかないのが多いので基本関わらない
汚水槽は上と下に汚物が溜まるので社会的・頭脳的にまともなのは常に中間に集まる
なので、中間層が増えるのは社会の平穏化と正常化にかなりの効果がある
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月27日
石上神社の太陽の道を遮るように存在しているのが天理教の建物です
なので、考え方によっては「もの」を封じめる為の人々達呼んだ人々に恨みある連中が天理教なのかもしれないね
天理教会の真裏じゃないからと言うだろうけど、元々は一体が聖域だったろうから全体じゃないというのは詭弁だろうね
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白川静 @sizukashirakawa 6月27日
わが国では鬼も【もの】とされ、精霊と考えられた。「物部氏」はその精霊を司る職能的部族であろうとする説がある。物部氏はもと兵・刑のことに当たったが[垂仁紀三十九年]にみえる物部首(もののべのおびとら)の始祖は、石上(いそのかみ)の神に請われて、これに仕えた神人であった。
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白川静 @sizukashirakawa 6月27日
世界というものは、複数のものによって構成される。異質なものによって構成されて、初めて世界となるのです。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月27日
返信先: @douteimaturiさん
こーいう考え方というのは教わらないし、日本のイスラーム研究者・神学者だってこういう風に考えるものだって知っている人は中田先生の周りくらいか、中東で勉強した人くらいなもの
だーから、考え方・思考法が間違っているとぜーんぶ・全部間違えるのなのでお約束・思考法が絶対であるのはこういう事
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月27日
返信先: @douteimaturiさん
じゃーなんでイスラームなのかって言うのは124000人の指導者層の最後で最期の存在が預言者(ص)であるからで預言者(ص) の啓示されていたものを正しいとしていれば、124000人分の教え全てが網羅できるからなのよ
だから、イスラームは完璧で最期の宗教で有ると言えるのはココなんよ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月27日
返信先: @douteimaturiさん
仏教や中国思想・皇国史観・民族主義というものをやって行ったら今、辿り着いたものがアハルルバイト派ってだけの事でしかない
なので、右翼と言われたら右翼だし、左翼と言われたら左翼だし、他人の定義なんて己自身にはなーに一つ関係ないのだから勝手にやらせときゃーいいの
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月27日
返信先: @douteimaturiさん
わたしゃ今はムスリムしとるけど、仏教徒ですかと言われたら別に否定せずに「はいそうです」と答える
ムスリムなのにと言われるが仏教の教えや考え方を知らなきゃ間違いなくムスリムになっておらんし、お釈迦様も何かが使わした124000人の指導者層の一人であるので何も問題はないわけ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月27日
人間なんてレッテリングされたものの集合体でしかないので己が何者であるか何て他人に任せりゃいい
皆、バカだなー例えばここではあるイスラーム名で呼ばれているけど、しょーちゅう間違われる
だからといって、怒る気にもならんし、別に彼が私をその名前で呼んでいるのならそれでいい事
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月27日
やっぱり
体格差おねショタ逆レイプイチャラブ共依存というのが一番素晴らしいと気づいた
多分、この真理を覆す概念はこの地上には存在しないし、全くをもって無謬なる真理であると確信を得た
あとはこの真理が如何にして真理なのかを追求する事、30にして立つ事ができた
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月27日
北シリア #Rojava で治安部隊が薬物の一世摘発を行ないその成果を誇示した。
アフガニスタン、イラン経由で流れてくる薬物はダーイシュ #ISIS の戦意高揚やトルコ傘下のテロ組織の資金源にもなっている。勿論トルコ国内にも流入している。
#TwitterKurds
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月27日
返信先: @douteimaturiさん
で、本音が何処にあるのかがパッと見分からないのでこればかりは長く付き合っていくしかない
そういう意味では日本人はかなり田舎者なのだが冗談が通じない・愚直さは彼らにとっては信頼でもあるので非文明的なこの感性は文明的な人々にしてみれば最も面倒な部分でもあるとも言える
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月27日
返信先: @douteimaturiさん
なので、イラン人と話す時は必ず相手の意見を聞いてから対応する
それをしないと中途半端に聞いて、それで感情論を投げるような事をすると千倍の論理と合理的選択による返答が帰ってくる上に彼等は完全に納得しないという事を聞かない
また、要求を通したい際は千回は粘るのでかなりメンドイ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月27日
返信先: @douteimaturiさん
言い方を変えれば宗教が大量発生及び大量流入した土地は様々な宗教が混ざり、また教条論や宗教論も信仰しない者又は他宗教の者に対しても一定の説得・納得できる代物であるようになる
現代のアハルルバイト派の神学が力を持ってしまうのは様々な宗教や習慣と殴りあった結果だとも言える
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月27日
返信先: @douteimaturiさん
即ち、〜だから正しいではなく
それは論理的に正しくて、合理的でもあり、それは反証する事が出来、必ずそれを説明するような諺や物語があってやっと納得させる事が出来るのがイラン人である
で、基本的に彼等の性質はمقابله 反抗的なので特に説得術は彼等の日常生活で行われてる
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月27日
返信先: @douteimaturiさん
例えば、色んな宗教がイラン・インドにかけて発生しては消えて・哲学という形で残っているのだけどミトラにしろ・ゾロアスターにしろ・最も道徳的に正しいとされる宗教や習慣をイラン人・ペルシャ人は選択してきたように見える
だから、彼らの神学は道徳論であり・論理的で納得できる物でしかない
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月27日
街中に出てイラン人と話すとしみじみ感じるのは彼らは道徳的なのと宗教的なのが混ざっているという事
で、イラン人は道徳的であることを評価し、宗教的である事を評価しない
そんな人達がアーリア人とか言って、非道徳的な事を認めるとは到底思えないのよね
先ず、感性がアーリア的でない
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REDmiso @akamiso0608 6月3日
チンポ出すだけで1万RTいく青狸botの居候してる家で道具出す度に大変なことになってそう
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
REDmiso @akamiso0608 6月26日
初めてエロ絵を描こうとしてる人への後押しメッセージ
7件の返信 2,727件のリツイート 3,444 いいね
魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月26日
返信先: @douteimaturiさん
で、報われない上に己に害ある労働→命令者を半殺しか殺して報復する義務がある
これは義務です、言い方を変えれば存在するだけで他人を害する労働であり、己の身をも害する事なのでそれを社会に残すと言うことは社会に対して不正義です
だから、報復して存在を消す義務があるのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月26日
返信先: @douteimaturiさん
なので、報われない労働→無意味なのでやめる
報われる事が少ない労働→やめるか、避ける
報われる労働→意味があるのでする
徳のある労働→絶対するべき
どちらでもない労働→人間関係で決める
どちらかわからない労働→信用ある相手ならする、否ならしない
これだけの判断でいいのです
2件の返信 12件のリツイート 14 いいね
魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月26日
返信先: @douteimaturiさん
言い方を変えれば、人の為にする行為か、人を害する行為かハラーム・ハラール・ムスタハッブ・マクルーブ・モバーハかのどれからであり
労働という概念はなく、アッラーが報いてくれる行為か・背く行為か?のどちらかしかありません
なので、労働で考えるのではなく報われるか否かで考えるべきです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月26日
返信先: @douteimaturiさん
なので、良くも悪くも人の為だの・世の為だの・予の為になることだけが労働価値といえる
その点ではイスラームはよく出来ている、よく働き・良く稼ぎ・よく施す事がこの世とあの世の福徳となっているわけなのでイスラームという世界では根本的に労働という概念はなく、近代になって入ったものである
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月26日
返信先: @douteimaturiさん
必要以上の労働及びそれに対する強制は労働時間と質を個人に負担させる事になるのでそれが社会不安や社会への不安や社会への不満となるわけ
で、それを解消されるのが金銭という空想的な価値を作る事で人を動かすわけだ
労働が価値として出るのはそれが食事・清潔と対人・社会に対してのみである
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月26日
返信先: @douteimaturiさん
で、無意味な労働は無意味な仕事つまりは無意味な労働を再生産する
例えば、ブランドという概念が発生するとそこの真贋→鑑定士
生産工場の厳重化→警備員
他にも例は様々ありそうだけど、つまり無意味な労働によって無意味な価値が生産され、それが選好によって無価値なるものが偽装される
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月26日
労働って、無価値だからね
目的のない労働は無価値でしかなく、無価値なる事を義務にしているという事はこの国は国民に価値のない事をさせる事で成立しているのだろうね
だから、無駄に働く奴は無価値な存在と言えるし、必要以上は働く必要は全くないのよ
故に労働無価値説だけが正しい
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韓非 @Kanpishi 6月26日
君主が為すべき7つのことは参観、必罰、賞誉、一聴、詭使、挟智、倒言、この7つである。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月25日
返信先: @douteimaturiさん
人の内心を詮索し、攻撃するのは無明の時代の悪習でそこから解放されたのがイスラームなわけです
こういったお約束があり、お約束が行われていないものをイスラームだの、何だのは全く言えないのです
で、お約束というのは日本語で習えないので日本でイスラームやるのは無理というのはこういう事です
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月25日
返信先: @douteimaturiさん
論を詰めるとダーイッシュはムスリムでも、イスラームでもありませんし、ありえません
それはスンニ派のオマルが人の家に勝手に入って、酒飲んでいるところを咎めたが預言者はお前のように人の内心を問うような事はしなかったという伝承からもこういった行為は一切してはならないのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月25日
返信先: @douteimaturiさん
じゃあ、シルクって何だというのは他人の信仰行為を否定する行為です
即ち、それはイスラーム的ではないとか、あるとかそういう事を彼等自身がイスラーム的であると思っている行為を糾弾して暴力で支配する事がシルクなのです
なので、ダーイッシュ等が偶像崇拝者である事はここから言えるのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月25日
返信先: @douteimaturiさん
もっと、エグい事を言えば偶像というのは己のなかにその存在が力がある事を言うわけでシルク・シルク言うやつはその心の中にこの存在がこうでなければならないという「偶像」を描いている訳なの
だから、伝統的なスンナ派や主なシーア派は偶像とうるさくないのは偶像は心にあると結論が出てるからです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月25日
返信先: @douteimaturiさん
即ち、如何にマスジドハラームが巨大化しようとも何しようともマッカの方向に礼拝する事が重要なわけであって偶像で飾られていようがなにしてあろうがあの方向に礼拝し、「何か」を信仰するという事だけが重要なのです
このように歴史的・伝承・クルアーン解釈が全てというのはこういう理由からです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月25日
返信先: @douteimaturiさん
これを啓示していると言われているのはバカラ章の144番目で昼の集団礼拝の時であったと分かっているわけ
勿論、神秘主義的解釈をすれば違うけどマッカの方向へ礼拝しなさいというのはこういう事で当時は偶像で穢れていたとしてもこの方向に礼拝しなさいとされていたわけです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月25日
返信先: @douteimaturiさん
で、もっとシルクというのであればマッカの四角いのは元々偶像崇拝の場所で黒曜石が中心に置かれている場所でマッカの四角いあのマスジドを破壊する行為がシルクを潰す行為になるのね
ただ、それは何故に預言者(ص)がイスラエルの方向からマッカへ礼拝の方向を変えたかを知らないからこうなる
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月25日
返信先: @douteimaturiさん
で、カリフ論をいうのであれば地域の権力者やその子孫達が守ってきたモスクを破壊する行為は自殺行為
カリフの選任の条件に地域の権力者の合意があり、その合意をわざわざ己から潰す行為はカリフ制をするにおいて自滅行為でしかない
なので、カリフ制の議論でもないわけ…ただのアホでしかない
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月25日
返信先: @douteimaturiさん
そもそも、そんなんでシルク言うんだったらマディーナのマスジドナビィーも破壊せにゃならなくなるし、小さいイマームザーデ・預言者の子孫達の廟を破壊するくらいなら大本のマディーナを破壊すりゃいいのにさっぱりわけがわからないのですよ
警備が厳しい・厳しくない関係なくね
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月25日
返信先: @douteimaturiさん
つーか、モスクを爆破する行為は廟があってシルクというけど、それ以前にモスクというのは政治的な場所で地域の共有地や合議する場所であったりもするのよ
事実、そこの聖者が寝ているからといって聖者の廟の後ろで礼拝する行為はシルクになりかねないので忌避するのだから爆破せずともいいわけ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月25日
返信先: @douteimaturiさん
共謀罪とかどうでも良くて、昔から警察はやりたい放題なので別になにも変わらない
次にくるのは偽旗・自作自演のテロ演出で官製テロでもダーイッシュが声明出せば、あらまダーイッシュのテロ行為へと早変わり
なので、ダーイッシュというのはイスラーム偽装テロを作る為の組織とも言える側面はある
1件の返信 5件のリツイート 5 いいね
魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月25日
返信先: @douteimaturiさん
コレは原発とかにも言えるわけで根本的に止めたいのであれば被曝というところ接点にすればいいわけで不用意な被曝を避ける事を目的にすれば、全てを包括できるわけなのにそれをしないわけです
だから、中途半端な敵を想定して部分だけ全論を規定せずにしているのは根幹的な問題
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月25日
状況的陰謀論として言えることは今起きている事を中途半端にすると今の様な現状になる
つまり、成功でも失敗でもない状況に落とし込むということコレが第一目的になっているようで逆に言えば、中途半端に残すことでその場所が永遠に物資の消費地へ落とし込むことが出来る
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月25日
ラマダン #Ramadan 終了を祝うイード・アル=フィトル #EidAlFitr で賑わうイドリブ #Idlib の夜市。この日ばかりはヌスラ戦線の恐怖政治も緩まり無礼講ということになったのだろうか。
#Syria
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月25日
アサド政権軍 #SyrianArmy が徐々にダマスカス郊外 #EastGhouta を包囲するなか慎ましくラマダン #Ramadan #EidulFitr を祝うイスラム軍のテロリストたち。
あまりにみすぼらしくえ泣けて来ますね。
#Syrie
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月25日
ダーイシュ #ISIS の首都ラッカ #Raqqa はクルド、アラブ、テュルクメンの連合軍に完全に包囲されジワジワと追い詰められている。南にはアサド政権軍もいるのでもはや逃げ場なし。
#xezebafirate #WrathOfEuphrates #TwitterKurds
#الدولة_الاسلاميةさん、الدولة الإسلاميةさん、الدولة_الإسلاميةISISさん、他6人
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月25日
シリア民主軍 #SDF #YPG の包囲下にあるラッカ #Raqqa ではダーイシュ #ISIS から家を一軒ずつ奪っていく熾烈な戦闘が続いている。
コバニの時と立場逆転した状況だ。
#xezebafirate #WrathOfEuphrates #TwitterKurds
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月24日
わからない事は語らない
確信がないことは判断を置いて他人の意見を聞く
因みに中東では新月がでてないのでもう一日ラマダーンが続きます
また、フェトルの日に齋戒をするのはハラーム行為なのでその日にムスタハッブの齋戒はしてはならなくてと同時にザカートを納め無ければなりません
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月22日
ダーイシュ #ISIS のモスル #Mosul 大モスク・ジャーミーアヌーリー爆破はイスラム過激派時代終焉を祝う祝砲みたいなもん。
イスラム過激派運動は結局イスラム自体の基盤を揺るがしクルド人の露払いに終わった。
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月24日
トルコ軍が侵略行為を続けるアレッポ #Aleppo 県の人々はラマダン #Ramadan を祝い束の間戦乱の疲れから解放されている。
トルコはラッカ解放 #xezebafirate を妨害しようと配下のテロ組織を焚き付けているが全てクルド人に敗北。 #twitterkurds
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月24日
ロシア軍は沿岸部ラタキアに援助物資を送った。テロリストの包囲に苦しむ地域にもイード・アル=フィトル #EidAlFitr の喜びが届いている。
#Ramadan #Syria
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ヨシ@ツムツム @Nk8Va 6月16日
皆さん知ってますか?日本の刑務所では、年間100人以上の受刑者が「急性心不全」、つまり突然心臓が止まるという不審死によって死んでいる事を。
特に国に逆らった者には様々な嫌がらせをしてきます。そんなナチスの収容所のような所に入れられてから後悔しても遅いんですよ!
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韓非 @Kanpishi 6月23日
【老子第38章】徳とは内なるもので、最上の徳とは精神が外界のことに誘惑されず、身が完全に保たれることだ。それは何事にも拘束されず虚心であることによって達成されるが、虚心になろうと執着するのは虚ではない。虚心になった者の無為に決まった形はなく、それだから虚心で徳も盛んだ。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月23日
返信先: @douteimaturiさん
だから、イランにはもうولایت فقیه 現実上の 統治としてはもうありません
ただただ、イランという行政がただ動いているだけなのです
それ故に形而下の政治なんぞ馬鹿馬鹿しくて語る必要がないのは所詮、人々でしかない連中の下等政治と誘導的多数決はアホ暮らしーでしかないからなのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月23日
返信先: @douteimaturiさん
言い方を変えれば、مؤمن モォーメンな人々・モォーメンたろう人々・モォーメンであろうとジハードする人々はイランにはほぼゴムにしかいないのでولایت فقیه はゴムにしかありません
なので、ゴムの人々の支持がない代理統治者は政治統治者ではなくفرعون 悪政者の仲間です
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月23日
返信先: @douteimaturiさん
なので、これが合わさったというのは完全な神聖統治でありそれがこの世の正当な代理統治者という事なのです
そもそも、もしمؤمن モォーメンによる支持というのであればカルバラーでほぼ全員殉教しているわけですし、それに対して学び・行動出来るというのであればイランではゴムにしかありません
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月23日
返信先: @douteimaturiさん
また、فقیه ファギィーヒ(最後のヒは空気が漏れるような音)は宗教知を獲得し、如何なる瑕疵を起こさない・行わない宗教が完成した人物を言うのであって
ただの統治・統帥権でもただの神学者・法学者という意味では全くありません
ここを誤解している時点で先ずお話になりません、論外です
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月23日
返信先: @douteimaturiさん
先ずولایت ベラーヤトというのは集団を統治し、責任を持つ事をいい
統治は人々対してだが重要なのはこの責任というのは誰にかかっているかなのです
当然、この責任はアッラーと預言者(ص)及びイマーム並びに124000人いた指導者層(ع)に対しての代理者統治者という部分の責任なのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月23日
ロウハニのおっさんは相変わらず詭弁を垂れるな
アリー(ع)への信任はمردم 人々ではなく、مؤمن モォーメン敬虔な人からの支持です
それにولایت فقیه ベラーヤトファギィーフを 日本語に翻訳するのであれば「完徳・完知者による神聖政治」であって今迄の翻訳は全部間違いです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月23日
返信先: @douteimaturiさん
シンボルについて知りたければ、漢字の成り立ちについて知るといいですよ
何故、聖者廟は八角形なのか、何故に犬は所謂神様の使いなのかそれは象形文字である漢字の成り立ちが解れば逆引できます
で、人間は取引して生きる生き物なので必ずそれが伝わります・全ての象徴は発生した理由があります
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月23日
返信先: @douteimaturiさん
これも全部、イジュティハードの門・自由思考の門を閉じたのが全部の根源でありこれは全部傲慢の産物
だから、アハルルバイト派だけが正当と言い切ってしまうのは人間の理性の限界性と反省性を踏まえない限りは意味が無いので人間は反省によってのみ理性が担保されているんよ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月23日
返信先: @douteimaturiさん
サウジアラビアはドンドン無明の時代に戻っていくなー
アラブ性というのは頑迷で妄質の上に内部対立と部族間闘争が大好きで不道徳で部族の上部の人間は何してもいいという傲慢さで…と結局連中は記述だけを守っている連中でしかないのだよね
連中のお陰で日本では記述主義が流行らないのがわかる
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月23日
工作の基本は不満分士の支援
だから、不満を持っている連中・冷飯を食っている連中を探して金と武器を渡すだけ
分類するという手段は誰が不満を持っていて、部族や集団内で力を持っているかを見極める事
それを支援すれば、後は勝手に連中が動いてくれる
だから、歴史や宗教は道具として最強
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遊烏氣(社会不適合者な人) @yuki_yugi_paru 6月23日
人間は単純だから、情報出した後に別人装ってその情報は間違いでこっちが本当だって言ったら両方嘘でもどちらか信じる
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LN BB-45 @BB45_Colorado 6月22日
在比米軍が撤退したからISがのさばったって、そりゃ逆で、在比米軍がミンダナオ問題の元凶の一つだろうに。
特に2002年からの合衆国のミンダナオ干渉なんて、今後100年の憎悪の種を蒔いたようなもんだろうに。
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若林 宣 @t_wak 6月22日
若林 宣さんがエターナル総書記をリツイートしました
フィリピンにおけるイスラム教徒について、16世紀にまでさかのぼる抵抗の歴史とか、現在のイスラム教徒が置かれている現状であるとか、そういうことに関心も知識も持たないまま単なるネタとして消費しようとするから「米軍が撤退したからISが入ってきた」みたいな謬見になる。
若林 宣さんが追加
エターナル総書記 @kelog21
返信先: @Raven_6_trpgさん
イスラム国が大暴れして死者が多数出てるのは最近の話です。
RT @Raven_6_trpg: 事実誤認がありますよ。ミンダナオ紛争には2002年からグリーンベレーなどが派遣されています。ブッシュ政権による対テロ戦争「不朽の自由作戦」にもとづくものです。ちなみにMILFやアブ・サ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月22日
返信先: @douteimaturiさん
これが外山恒一氏が「右も左も皆、極左」というのはどっちも国家主義を前提に語り、国家主義というのは近代社会主義・動員量によって権力が決定する唯物的な物でしかないのです
その元で右だ左だ・親日だ反日だ何て言うことが無益なのです
形而上を前提にしない議論は無意味というのはこういう事です
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月22日
返信先: @douteimaturiさん
もし、人間であり・形而上の天皇とあるのであれば下現説等を採用しなければならないのですがそういう事を説いていたのは戦前の研究者か現代の民族派右翼の圧倒的少数なわけです
ここまで知って・言説を述べるのが右翼であり、それ以外はタダのバカか相対的な思考ができないアホでしかありません
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月22日
返信先: @douteimaturiさん
なので、これ以外はネットで国家主義を語ったり、無自覚的に天皇の言葉に阿るようなサヨクというのは全部ネットで右翼とも左翼とも取れるような発言をしている「ネトウヨ・へサヨ」でしかありません
勿論、形而上としての右翼ですので形而上を否定する人間天皇は天皇ではありません、ただの嘘つきです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月22日
返信先: @douteimaturiさん
だから、必ず形而上を置いて話さないと意味をなしません
右翼を定義するのであれば、皇国史観を形而上に置いている人々という定義で私は見ています
即ち、皇国という存在は無謬なものであり、その無謬な皇国は皇統という無謬な万世一系の子孫達の神聖によって統治されているというのが右翼です
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月22日
返信先: @douteimaturiさん
例えば、沖縄の王政復古運動・独立運動は右翼ですか、左翼ですかと言われれば国家主義をとるならば左翼ですが正当な王制を復興する、王政復古運動・維新運動となれば右翼革命になるのです
このように視点で動いてしまうものなので、反体制は体制作りであり、体制が反民族であれば反体制的となるのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月22日
返信先: @douteimaturiさん
それもあって、右翼というのもその都度定義しないと使えないというのはその右翼が天皇主義なのか、国家主義なのか、民族主義なのかで意味や立場、言葉の意図が混ざってしまうからなのです
民族主義というのも近代の博物学の延長から現れたものなのでこの思想も右翼と断言出来るかも怪しいのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月22日
返信先: @douteimaturiさん
また、特定の部族・民族が国家を支配し、他の民族を黙らせるのであれば
民族主義は国家側の民族は右翼、反国家側は所謂左翼になります
しかし、歴史的正当性・例えば長くその土地を統治していたのが今虐られている民族であるならばその民族の復興運動が右翼運動ともなります
論点はかなり動くのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月22日
返信先: @douteimaturiさん
それってどういう事なのと言われると全てを動員し、運用するという国家主義は全体主義であり
全てを動員し、国家という集団の命令の元で運用するというのは社会主義としての思想でもし右翼というものを民族主義として仮定し、国家運営の際に様々な民族を力で黙らせるなら国家主義は相対します
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月22日
返信先: @douteimaturiさん
右翼という言葉は色んな主義思想が入るので厄介なのです
羅列すれば、民族主義・天皇主義・皇国史観・国家主義・英国保守思想・神権主義等パッと羅列しただけでも相対してしまう思想ですら右翼という分類に入る上に基本国家主義を取っているのであれば全て基本は右翼で左翼で、左翼で右翼です
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月21日
返信先: @douteimaturiさん
言って直る奴は元々、そういう素質があったわけで直らない奴は最期の時に清算させられ左手に生前の書を渡されるのでそれでいいのです
アッラーというのは収穫するときに全てを刈取るわけで一々、あーだ・こーだはしないのです
それをするのは所詮、人間だからです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
おきゅうり★東G-48b @qyu_re 6月21日
999一巻からハイパーおねショタで最高ってなった
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月21日
つーか、イスラームに熱心な人は慎みができている人なので他人とやかくは言いません
確かに相手の悪い行いを改めさせることは義務ですがだからといって責め立てるのも正しくは無いのです
どうせ聞かない奴は聞かないですから、言っても仕方がないですし、言う必要もありません
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月21日
返信先: @cider1d1lさん
いや、この人誤解しているでしょう
極端の保守思想と書いていらっしゃるので極端じゃない人、例えば黒色中国氏みたいに反共だけど知中派みたいな人と想像できるのではないかと…。
そもそも、保守というのはいつの時代の日本の事を保守したいのかが分からないので私は使わないことばですが…。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月21日
魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがなかはた@中国のどこかをリツイートしました
仕方がないです、人間は結局主観で生きているので…。
中立はできなくとも一方的な悪意を垂れ流したり、垂れ流させたりは止める事は出来るでしょう
それだけでも十分ですし、元々移民というのは植民地支配の残滓という大前提を抱えていない限りは無意味な議論に陥いりやすいので注意が必要です
魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんが追加
なかはた@中国のどこか @cider1d1l
助けた移民と強姦した移民のニュースを比較できればいいんですけどね、比較できる環境があれば誰でも中立になれると思いたいですが。
情報は平等に溢れてても取り入れ方が恣意的になってしまうのが世の常ということで https://twitter.com/douteimaturi/status/877604437442740224 …
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月21日
返信先: @cider1d1lさん
そうですね
ニュートラルな概念というのは感情を管理出来た上で成立するものなので感情を管理できないと偏るのです
例えば、移民に家族が強姦されたとなれば反移民になりますし、逆に移民に家族が助けられたとなれば擁護的になります
なので、どちらとも距離を置けるのある種の才能みたいなものです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月21日
返信先: @douteimaturiさん
でも、定義しろと言われたら「ネトウヨ」というのは様々な時代及び集団によって意味や用法が異ある日本という社会や体制、日本という単語で杜撰に且つ一元的な意味で己の思い込みで使う集団というのがネトウヨでしょう
だから、違う日本社会や判断していた集団を認めないこれがネトウヨ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月21日
返信先: @douteimaturiさん
なのでネトウヨを定義しろと言われたら、じゃあへサヨという言葉も貴方方は定義して使ってますか?
となるわけでへサヨだって、ただのリベラルもいれば反ヘイトと言われる連中もいるわけでその定義は動くわけです
だから、定義が柔軟にその場で動く言葉を辞書的に落とし込むのは無理なのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月21日
魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがなかはた@中国のどこかをリツイートしました
案の定出てきたから言うけど、日本という単語もその都度定義して使う単語ですよ
明治王政復古や江戸時代・古代・中世・近世で日本という社会体制は異なるので学ある民族派はこの時代の日本はーとその都度、日本を定義して使う
なのでネトウヨというのは日本をその都度定義してない粗末な人という印象
魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんが追加
なかはた@中国のどこか @cider1d1l
外国語の喋れるネトウヨっているんだろうか?もっと世界を見ろ!とか偉ぶる訳じゃないけど
海外で生活して言語を習得する過程で必ずや異民族や異なる価値観に接触するから、外国語話者は排斥主義みたいな極端な保守思想に走らないかな…
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月21日
返信先: @douteimaturiさん、@cider1d1lさん
ですので、強いていうのであれば「人定法・ローマ法はしょーもない事をするなあー」でいいのです
それと同じでクルアーン焼くのは豚に真珠・猫に金貨・馬の耳にドアーدعا なんで焼くのは構わんが反省して信仰者にならない限りはあの世で祟るけど…知らないって幸せだなーくらいなもんです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月21日
返信先: @douteimaturiさん、@cider1d1lさん
で、贈与法及び賃貸使用契約ではハラームなものの相互賃貸及び贈与は禁じられています
例えば、クルアーンを多神教徒に貸したり・あげる行為
また逆にハラームなもの豚や愛玩犬などを多神教徒などから受け取る行為はハラームで「私の罪」となります
因みにこれはホメイニー師の宗教令です
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月21日
返信先: @cider1d1lさん
一般人のイラン人がその程度なので察してください
アフカーム・宗教令はイスラームに帰依したものだけが守るものというのを忘れているのです
例えば、こっちで言うهبة هدیه ヘヴェ ハディーエ贈与法には肉親間ارحام アルハーム内での贈与はないと考えられており制限があります
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月21日
クルアーンを多神教徒やキリスト教徒などのأهل الكتاب アハレ アル ケターブ啓典信徒たちが焼いても精液かけようとも、猫に小判・豚に真珠・馬の耳に念仏でおしまいなのがつらい
しかし、宗教令としては多神教徒にアラビア語のクルアーンをあげるのも貸すのはハラームで罪になるのよ俺が
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月21日
返信先: @douteimaturiさん
で、日本人はこういった解釈の方が大好きでしょ?
要は宗教令的な解釈ではなく、道徳論的な解釈の方が好きでしょ?
クルアーンは意味しかない啓示物なので私はこういう解釈の方が好き
正しいかは別としてもね
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月21日
返信先: @douteimaturiさん
だから、地獄へ落ちたければあのズヌーブ認証受けたものを食えばいいよ、間違いなく地獄へ落ちれるから
また、違う解釈で神秘・精神主義的な思考で見るとあのアーヤー آية 啓示は人間の内面を示していて
豚は貪欲・犬は悪政者への追従・死体食は孤児の遺産を盗むものと解釈できる
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月21日
返信先: @douteimaturiさん
逆にあのマークがついているのはその分、商品に付加価値を与える事になるからハラーム認証と言っている
即ち、イスラーム的であるという事が商品の優位性を上げているのでそれはクルアーンの記述を切り売りすることと同じなのでハラームでذنوب ズヌーブ大罪なのであの印は地獄への近道マーク
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月21日
ハラールかハラームか何てイスラム圏出たら使えねえし、素直にタキーヤしないからそういう馬鹿な事になる
そもそも、こっちの風習を信徒以外に押し付けているのが諸悪の根源
守れないなら、守れないで諦める
守るだったら、相手を不快にしない程度に慎むそれができないからこういう馬鹿な事になる
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月20日
トルコ軍、傘下テロ組織とユーフラテス西岸で対峙するマンビジュ軍事委員会はテロリストのIDカードを公開。
殺されたテロリストからそいつの国のIDが出てくるのはよくあるけどテロ組織発行のIDはそう見ない。
#TwitterKurds #Manbij #SyriaPlot
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Podoron @podoron 6月18日
返信先: @podoronさん
「西側に来て一番辛かったこと。それはね、才能に対する考え方の違い。西側では才能は個人の持ち物なのよ、ロシアでは皆の宝なのに。だからこちらでは才能ある者を妬み引きずり下ろそうとする人が多すぎる。ロシアでは、才能が有るものは、無条件に愛され、みなが支えてくれたのに」
4件の返信 3,009件のリツイート 3,788 いいね
魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月18日
アメリカ軍はタブカ #Tabqa 近郊でシリア軍機を撃墜した。
アメリカ軍側は数度の警告にも関わらずシリア軍機がクルド人部隊 #SDF #YPG への攻撃を止めないから攻撃に至ったとしている。あくまで同盟勢力の保護が目的でシリア政府軍と戦うつもりはないらしい。
#Syria
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月19日
返信先: @douteimaturiさん
つうか、アフカームを守る歳という成人規定というのがあって別に成人していなければアフカームを守る必要はない
なので、夢精などしていないショタは豚食おうがワンコと遊ぼうが問題はないのよ
変な言い方をすれば、ムスリムの息子で小学生まではアフカームを守った生活はする必要はないのよ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月19日
返信先: @douteimaturiさん
まあ、چراغ は専らイルミネーションと考えればいいのでやっぱイルミちゃんじゃないか(大歓喜超絶絶頂)してもいいです
これをچراغانی کردن となると灯りで飾り立てるという意味で光で明るいとかはروشنایی شدن نورانی شدنで 眩しい・明るいになります
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月19日
返信先: @douteimaturiさん
因みにこの全面キラキラ張りの壁はマシュハドのイマームー・リダー(ペルシャ語読みでレザー)廟やゴムのファーテメ・マァスゥーメ廟にもこういった部屋があるので一種の文化なのかと思います
因みに今回のガドルの夜はアホが豚死してくれたおかげで警備がかなり厳しかったですね
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月19日
مسجد شاه چراغ
マスジド・シャー・チェラーグとあるけど
このچراغ というのは光ではなく、灯(あかり)の事です
なので、王の灯り・灯火と訳すのが正確で光は専らنور かروشنあたりを使います
勿論、ペルシャ語は古語と現代遣いは違いますがチェラーグは主に灯火の事
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龍國竣/リュウゴク @Ryuugoku 6月17日
アラ・レベデワ(Alla Lebedeva)による作品。ロシアの写真家。シベリアに名前の由来を持つ猫であるサイベリアンを繁殖させています。「シベリアの猫」を意味し、ロシアの北東部に生息し、厳しい冬の寒さを生き抜くことができます。1980年代から品種改良されてきました。
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とびはち @tonbippo08 6月18日
雀チューブ
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月18日
ダーイシュ #ISIS を茶化したクルド人のコントはこちら。日本ならこれをテロ組織の宣伝というバカが湧くが敢えてタブー視せず正面からイスラムと向き合っている。
クルド人たちは銃や政治運動だけでなく笑いでもイスラムと戦っている。
#TwitterKurds
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月18日
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリアさんがsekaiをリツイートしました
平和な宗教とかほざいてるくせにその聖典で殺人と奴隷取引を奨励してるから。普通の人ならその矛盾に気付くしイスラムこそテロの原因と判断する。
異文化理解()とかのたまう知ったかぶり野郎だけがこんなイカれた宗教を擁護する。
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリアさんが追加
sekai @toshin_sekai
【インタビュー公開中】
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所所長、
宗教学者の飯塚正人(いいづか・まさと)さんのインタビューを公開しました。 https://cards.twitter.com/cards/18ce54ex45h/4ajlh …
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韓非 @Kanpishi 6月18日
小さな誠実をとりあげていると、大きな誠実を妨げる。穀陽は司馬子反に心から愛情を持って仕えたがそれが却って子反を殺すことになってしまったのである。
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月18日
経済紙によるとトルコの製造業は少し持ち直したらしい。
まあこれからシリアが片付いてトルコにはさらなる動乱の嵐が吹くからいみないわけだが。
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月18日
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリアさんが不良将校をリツイートしました
美少女ばっか出てくるオナニー用の下らんアニメばかりじゃなくこういうのもあっていいですよね。
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリアさんが追加
不良将校 @tiger3kai
クオリティ高い。日本で放送して欲しい https://twitter.com/newsfromworld15/status/876271923553910784 …
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月18日
2014年にダーイシュ #ISIS 攻撃で未曾有の人道危機に見舞われたシェンガルではクルディスタン労働者党 #PKK が山地の防衛に逃げた難民の防衛を行った。
防衛に成功して以降彼らの指導の下に #YBS が結成され2015年のシェンガル奪還につながった。
#Yazidiさん、Yazdaさん、Fırat Kalkanıさん、他3人
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月18日
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリアさんが日本人が知らない世界情勢@クルド・シリアをリツイートしました
日本の特攻兵器桜花が馬鹿呼ばわりされてたように自爆なんて愚かな戦法は奴らの大好きなアッラーフも失笑するしかない。
それにしてもテロリストにハエがたかっていたりと芸が細かい。実際あいつら不潔だし。
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリアさんが追加
2:07
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15
クルディスタンのアニメスタジオがダーイシュ #ISIS の自爆兵を茶化すアニメを制作した。自爆バカは相手に恐れられていると勘違いしているが実際は防御戦術も発達しているので笑いのタネでしかない😁…
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月18日
2014年ダーイシュ #ISIS の原油密輸ローリーを撃破するシェンガル抵抗隊(女性隊) #YBS #yjş の兵士達。
彼らはシーア民兵隊・人民動員軍と協力してエルドアンに手出しをさせないようにして国境地帯を掌握しロジャバの経済封鎖を打破している。
#twitterkurds
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月18日
クルディスタンのアニメスタジオがダーイシュ #ISIS の自爆兵を茶化すアニメを制作した。自爆バカは相手に恐れられていると勘違いしているが実際は防御戦術も発達しているので笑いのタネでしかない😁
#twitterkurds #アニメ好きと繋がりたい
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月17日
返信先: @cider1d1lさん
逸話ですとホメイニー師は夜9時に寝て、深夜1時に起きて勉強及び夜の礼拝をしその後全く寝ずに仕事や勉強をされていたという話があります
また、朝の礼拝後に二度寝し一時間位寝る事はムスタハッブだったと思います
ですので、一般人は矩を越えない程度にまたアッラーはそれ以上かしませんから
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月17日
返信先: @cider1d1lさん
それ以前に今日はشب قدر三回ある ガドルの夜の三回目ですし…目的あって起きている事自体がムスタハッブなので
ラマザーン中は夜が短いのであれば仕方がないかと、日中碌に仕事も勉強も出来ないのでであれば起きて作業できるうちに作業すべきであって、それが昼か夜かでしかありません
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月16日
返信先: @douteimaturiさん
で、これらをして一切全くアッラーから与えられた矩を越えないものがイスラームの狂信者です
イスラームを狂信出来たものは矩を越えない、言うなれば孔子や老子・荘子が再度現れたようなものなのです
なので、イスラームの狂信者は矩の中で武器を取るだけで矩が無い場合は握らないのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月16日
返信先: @douteimaturiさん
ですので、ジハードというのは非常に地味な事なのです
例えば、えっちなモノを見ない
ねこが好きすぎても猫に嫌がられるほど触らない
人と会う前にニンニクや韮などを食べない
お布団が強いからといって寝過ぎない
人から借りたものは必ず返す等々、これら一つ一つがジハードなのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月16日
返信先: @douteimaturiさん
というと、جهاد ジハードってなんなんだ?となります
ジハードというのは「努力・辛いことを耐える事」でこの世にある悪徳を避け、またその場の快楽に近寄らず己の欲するところを抑える事がジハードです
戦う事はまた別の単語があり、戦うといっても己の悪欲・貪欲と戦う事なのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月16日
返信先: @douteimaturiさん
この信仰隠しはアハレバイト派の多数とスンニ派の一部が適用しています
なので、例えその人が酒を飲んでいたとしても信仰がないという事にはなりません
信仰というのは確信を丁寧に積んでいく作業であり、狂信というのはその確信を積んだ先にあるものでイスラームを狂信できるものは完知者でしょう
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月16日
返信先: @douteimaturiさん
じゃあ、どうするか?
避けられるなら避ける、避けられないなら飲み食いすればいいのです
そこで発生する概念がتقية タキーヤ・信仰隠しです、タキーヤは史実預言者(ص)自身が3年程信仰を隠して身内だけに広めていたというところに根拠があり、害があるまたは行えない場合適用されます
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月16日
返信先: @douteimaturiさん
なのでイスラームの原理主義は「超世俗的」になります
何故なら、この三つを守って生活するという事になるのでそれ以外は如何様にも解釈が出来るのです
例えば、日本で生活する上で酒はほぼ避けられません
何にでも味醂という酒が入っていますし、お菓子にリキュールと書かれてたらアウトです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月16日
魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがえらいてんちょうをリツイートしました
イスラームは原理がありますがその原理というのはتوحيد عدل نبوت 唯一性・公正性・預言者性の三つが原理です
言い方を変えればこの3つを瑕疵しないのであれば、イスラームは自由に解釈が出来ます
ローマ法とは違い絶対的形而上であり、形而上を満たしているならば絶対に自由なのです
魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんが追加
えらいてんちょう @eraitencho
【ブログ更新】→ 原理主義だけが正しい宗教、狂信以外は信仰じゃない http://eraitencho.blogspot.com/2017/06/blog-post_16.html … @eraitenchoさんから
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月16日
あの極悪テロリストに空爆で死亡なんて楽な死に方は許されるはずがない。
あいつはクルド人に捕まって徹底的に尋問され裁判で洗いざらい全て話した上で初めて死を許される。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月15日
暗殺を恐れず市民と触れ合うバッシャール・アサド。これが通称独裁者と言われる男の姿。
トルコの某氏のほうがよっぽど独裁者っぽくないですかね?
#Syria
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月15日
返信先: @douteimaturiさん
訂正ですがジャーファル井筒訳に関してはペルシャ語訳を重要視したという話があるのでスンニ・シーア派混ざってる可能性があります
なので、一概にスンニ派解釈とはいえないです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月15日
返信先: @douteimaturiさん
部分を集めても全体にはならないように幾ら部分を集めた所でそれは一推論以上はいかないのです
これを踏まえた上でこういった事は述べる必要があるのですが、大概の人間は「知に不敬虔」なので部分を集めて全体を語るのです
日本の議論は全部が全部、知に不敬虔であるが故に無意味な議論をするのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月15日
返信先: @douteimaturiさん
豚だけの問題ではなく、全体の問題であってその全体を問わなければ片手落ちです
だから、科学的とか言う連中はクッソ小さい部分だけを見ますがこっちは全体でみます
全体を解れば、部分を包括した答えが出るので研究者は全体で捉えるのです
故にこの手の議論は無駄で無意味と結論が出てるのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月15日
返信先: @douteimaturiさん
また、宗教令にはその土台となる教条論が存在し、宗教令は暗記ゲーなので中東の宗教学校で7年勉強すれば十分と言われますがその根本的理由については一生勉強してもわからない場合があります
その一例が「何故にナジェスなモノとハラームモノをアッラーは規定されたのか?」です
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月15日
返信先: @douteimaturiさん
その上で正則アラビア語・フスハーを理解して上でやっとこれが読めるようになるのですが、現代のフスハーと預言者(ص)の時代のフスハーは異なります
なので、当時の正則アラビア語を理解、習った上でその先には星の数よりも多い解釈があるのです
だから、一般人に扱える代物では全くないのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月15日
返信先: @douteimaturiさん
現在、日本語に翻訳されたクルアーンは何点かありますがその中で重要なのが
ジャーファル井筒訳・ハサン中田訳・オマル三田訳・イブラヒーム澤田訳の四つです
前者三つはスンニ派の解釈で唯一イブラヒーム澤田訳だけがシーア派の解釈です
クルアーン解釈は最低でもこの四冊を比較する必要があります
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月15日
返信先: @douteimaturiさん
だから、伝承を引っ張ってきて論拠を埋めない限りは「非科学的・非合理的」です
また、クルアーンを抜粋してきたとしてもそれが翻訳されたクルアーンである限りは十全ではありません
あくまでもこの翻訳文は暫時的なモノで完全なるものではありません
なので、原文と翻訳者を両記する必要があります
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月15日
返信先: @douteimaturiさん
で、問題の豚ですがこれはクルアーンだけではなく、その下の伝承・ハディースからも抜粋してこない以上は議論が無意味です
基本、イスラームはクルアーンとハディースが天秤に乗って釣りあった状態で機能します
故にクルアーンのアーヤだけ抜粋してきているのは伝承を知らないのでその時点で論外です
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月15日
返信先: @douteimaturiさん
犬も目的によっては一概にナジェス扱いはされません
例えば、牧羊犬や警備犬、麻薬捜査犬などがそれに該当しこの場合はその使役者はその犬の毛を払ってもついていたとしても礼拝は無効になりません
基本、イスラーム法は礼拝が行える状態か、否かで判断します
勿論、断言ではできませんがね
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月15日
返信先: @douteimaturiさん
なので、イスラーム法というのは恐ろしいほど柔軟です
例えばナジェス穢れنجسの規定では豚・犬・死穢・酒・小大便・血液・精愛液・多神教徒がそれに該当します
しかし、大小便は肥料に変化すればパークپاک 清浄になりますし酒も酢に変化すればこれもまた清浄になります
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月15日
返信先: @douteimaturiさん
モバーハمباح どちらでもない行為にだって、その理由があります
モバーハは例えば、道をただ歩く行為とかがそれに該当しますがこれが集団礼拝する為にモスクに向かうのであればムスタハッブ
逆にパチ屋に行くならばハラームとなります
モバーハというのも目的によって変化するのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月15日
返信先: @douteimaturiさん
例えば、マクルーブمکروه というのは日本語だと「忌避」と訳されますが「行ったとしても罪・最期の時に問われないが行うと良い行いの効果を少なくしたりする行為」と言うのがこの内容で忌避と訳すと罪の様に聞こえるので良い翻訳ではないのです
こういう部分を理解しているか、否かです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月15日
返信先: @eraitenchoさん
これは本当に難解な話なのでウラマー位しか触れられない話なのです
先ず、こういう話になると「では、貴方はムスタハッブとマクルーブとモバーハの違いについてわかりますか?」
という、全体について理解していない限りは科学だの、合理だの言っても無駄です
これはアラビア語で理解してないとダメ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月15日
返信先: @douteimaturiさん
だから、書かれている記述だけで判断してはならないのです
それが全ての神秘である、クルアーンの存在であり
今はその真意が分からないので記述通りだとしているだけで、ハラール・ハラーム論も今人類がわかっている範囲内で暫時的な判断をしているだけなのです
だから、難解にして難解なのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月15日
返信先: @douteimaturiさん
なので、ハラール・ハラーム論は本当に難解な話なので科学・合理・反証という範疇だけでは理解しきれません
また、その豚や犬という記述が本当に豚や犬を指しているのかも不明です
一部の神秘主義者の判断ではあのアーヤーは人間の心情と精神性を指しているのであって、そのものではないと解釈します
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月15日
返信先: @douteimaturiさん
しかし、輸血はどうなるかといいうと現在の科学及び合理性から輸血及びその売買は肯定されており、金銭を受け取らず輸血して人の命を救う行為は奨励・ムスタハッブとなります
ただ、言い方を変えれば血を移すわけですからハラームになりますが目的・ニイヤットが正しい分には適法行為なのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月15日
返信先: @douteimaturiさん
なので、豚がー・犬がー何て言っても意味がないのです
何故にハラームやハラール、また場合によっては奨励行為となるのかは変化します
特にこの例ですと血液が良い例で血液は口にしたらすぐ出さねばならず、口内で唾液と混ざって味がない分には問題ありませんがある場合は気急に吐かねばなりません
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月15日
返信先: @douteimaturiさん、@HASSANKONAKATAさん
そもそも、ハラーム・ハラールはそれ以外にムスタハップとマクルーブ・ナアードの存在を知らない及びそれが如何なる事かを理解し、またニイイヤットについてまで知らない限りは意味をなしません
なので、その違いと適用を知らない限りは議論自体が無意味なのでそれ以前の問題です
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月15日
著作権がある限り如何なる表現にも自由がないのです
表現の自由というのはその表現に対して現世においての見返りがない上で成立します
見返りがある限り及び求める限り、如何なる表現にも自由はない・存在しないのです
なので、イスラームにおいて全ての知識に人類の占有権が無いのはそれが理由です
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月14日
何故、声だけの存在であるのかは下手に人間は接触すると情が発生するからです
なので、その場・その場で最適解を導き出すためには情を断たねばなりません
その合理的判断が声だけで判断するという手口なのです
だから、声だけの存在というのは直接会うと非常に情に厚い人間なのかもしれません
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月14日
バーブ #AlBab でトルコ傘下のテロリスト同士の騒乱が勃発し拡大している。ハムザ師団、アハラール・シャームらテロ組織は双方の陣営を奇襲しテロリストの誘拐および虐待、死体損壊を行っている。
#Syria #Turkey
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
白川静 @sizukashirakawa 6月12日
【隷】左偏は祟りをなす獣の形で、祟をあらわす。右の旁は手に巾をもつ形で、これは領布(ひれ)。この領布に祟りを移しとって、他の者に隷(つ)ける。その祟りを移された者が奴隷です。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月11日
返信先: @douteimaturiさん
日本語って、本当に音を無下に扱うから漢字化させる事で差別をつくっていかないと蔑ろにされるのよ
だから、その日本語の特性を知った上で漢字化させていくことはただの音声記号に意味と役割を与える事だと思っているし、アッラーはこの世界に意味しか与えていないのでそれを明白にする事が信仰です
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月11日
返信先: @douteimaturiさん
という、部分を抜き出して全主というしかない
よくアッラーはアッラーでナマーズはナマーズだからと言う人がいるけど、それは怠惰だと思っている
私は世界史がカタカナ地獄だったのが本当に嫌だったので中国史を読んでいたのだけど、そのお陰でカタカナをカタカナで放置するのは知的敗北だと信じてる
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月11日
返信先: @douteimaturiさん
何でアッラーさんを「何か」と言っているのはそれを要約できてわかりやすい言葉がないからなんよ
強いて言うなら「全主」、中国語だと真主と言ったりするけど真というのであれば偽モノが存在するという二元論が発生するので全ての統治及び創造並びに1000の良い性質を持った全てなる存在
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月11日
返信先: @douteimaturiさん
私のいいね欄ひどいでしょ?
エロ画像とエロ画像とネコ画像とYPG・クルドしかない
ツイッターをしている目的はエロ画像とねこと中田先生の監視の為にやっているおまけで何か呟いているだけだからさもありなん
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月11日
基本というのはお約束でお約束さえ分かっていれば、解釈するのは簡単です
逆にお約束を知らずに解釈するとそれは深淵の森を濃雨の中佇む様なものになります
なので、お約束を身に付けて解釈が自由なる存在が魔法使いでそれを教えてくれる人を教師・導師といいます
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月11日
返信先: @douteimaturiさん
反生殖というのは生殖行為を否定する思考
反出生というのは権利としての人間を発生させる事を否定する思考を言う
なので、セックスをさせない・したいのを否定する思想が反生殖主義で快楽↔禁欲
権利主体や包括した人の営みが再生産する事を否定する思想が反出生主義なので出生は言葉の意味が広い
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月10日
返信先: @douteimaturiさん
いいかい、拗ねた女一人を宥めるにだって教養が必要だし、馬鹿な後輩を思うがままに操作したり、賢くさせるのだって教養が必要なんだよ
表情辞典一冊を読み込み使えば、それで相手の感情なんて幾らでも操作出来るんだ
教養は博物じゃなくて、凶器なんだよ
凶器だから、教養は使い所が難しいんだ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月10日
返信先: @douteimaturiさん
気に食わない相手を型に入れるのも相手の心情を操作するにも古典は例題の宝庫なんだ
だから、例題を教えていけば自ずと勝手に使い始めるし、知らずして使った事があって彼ら自身が納得したりするのでその肯定感がより学を近づけさせるのである
問題は無教養な知識ある連中こいつらはマジで救えない
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月10日
無教養と無知を一緒くたにすんな虫けら
DQNには教養が必要なんだよ、彼等は現場で生きているから現場で生きている分機転の種である教養が必要なの
戦国策や三国志、水滸伝や孫子を読ませて解釈を教えてわからない漢字を覚えさせれば彼等はそれを自由に使うし、またした事があったりもする
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月10日
返信先: @douteimaturiさん
なので、日本の様に単子的な繋がりの社会では反出生主義をとるのが個人同士の選択としては正しく
個人が個人の責任や養育をするとなれば、それは負担以外の何様でもないのでこの地獄においては最も理性的で合理的な判断と断言できる
日本地獄主義社会では救済と集団利己による現世利益もないのである
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月10日
返信先: @douteimaturiさん
推論として出生主義というものは集団性という枠組みの中で肯定されるもので集団の膨張が集団的利己と集団的救済に繋がっている場合のみ出生主義が取られるように見える
逆に個人となれば、反出生的で個人と個人という関係では単子として繋がりでしかないので出生は個人の負担でしかない
1件の返信 8件のリツイート 6 いいね
魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月10日
返信先: @douteimaturiさん
救済思想は集団で救済されるという部分においては出生主義である
だから、ユダヤ教及びイスラームが出生主義及び婚姻主義であるのはこの点において集団救済を目的とした救済思想ならば出生主義で個人救済となると反出生的となる
何故なら、他人を救済してもまず己が救済されなければ意味がないからだ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月10日
返信先: @douteimaturiさん
厭世主義はこの世に禍根を残すという事で反出生的、子供を作るというのは態々己から己を束縛するものを産み出すことにつながるのでこれも反出生的
利己主義も己の権力や己の資産を増やす為であるならば=血縁支配を目指す部分においては出生主義的だが徹底した個人的利己主義なら反出生的
1件の返信 3件のリツイート 3 いいね
魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月10日
返信先: @douteimaturiさん
快楽主義はそのまんまでセックルはしたいし、色々と交わりたいけどそれによる副産物は全くの不要
だから、中絶しようが赤ん坊をゴミ箱に捨てようが快楽としては正しいので反出生的
禁欲主義はセックル厳禁でこの世の快楽は全部まやかしか囚われを作るので苦を再生産するので反出生的である
1件の返信 5件のリツイート 4 いいね
魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月10日
反出生的な思想は強いのよ
だって、根拠しかないから
基本的に人間が思想を突き詰めるとこの五つになる
1、快楽主義
2、禁欲主義
3、厭世主義
4、利己主義
5、救済思想
で、この五つ全部が出生主義を否定したり忌避したりする
一部の救済思想だけが出生主義である
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白川静 @sizukashirakawa 6月9日
儒は葬祭などの儀礼、老荘は神祇官としての祭司階級、墨家は神殿経済に従う工作者的集団、法家は新官僚群を母体とする思想である。このうち老荘的な思考法が基盤となって、また禅的な思想が生まれた。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月8日
返信先: @cider1d1lさん
基本、こっちではラマザンはマグリブの時間になります
しかし、マルジャアによって違うのであなたのダフタレマルジャア دفتر مرجع マルジャアの 事務所にお問い合わせ下さいとオチがつくのが専らです。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月8日
返信先: @douteimaturiさん
無形と不動を獲得している政治統治者は完璧です
それを量産し、海外に人を派遣する体制が出来ているイランという国はライトノベルの魔法国家みたいなものです
ただ…ライトノベルにあるようなスケベぇ…な要素は全くないですけどね
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月8日
返信先: @douteimaturiさん
政治体制と宗教が確定された神権国家であるイランでは政治統治者自身があの国会の下にはイラク・イラン戦争・80年代以降勃発した左派等の爆弾攻撃によって殉教した人々の血と肉で出来ている事を血肉としているのです
だから、あの程度では政治という行為を止めることはありえないのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月8日
返信先: @douteimaturiさん
だから、国会に侵入者・دشمنان が攻撃しようとも議会を停止、逃げたりせずに議会が継続したのは政治行為はشهادت であり、議会で政治行為をして死ぬ事は殉教だからです
武器持って暴れる事ではなく、代理者としての責任と自重と人々を先導することは最も偉大な宗教行為なのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月8日
返信先: @douteimaturiさん
イランの政治や統治者が恐ろしいほど柔軟で時には強硬で無形にして無形なのは彼ら自身、神学者であり・神学徒であるが故にアハレバイト派の思想と宗教理念をこの世界に示す事がアッラーから与えられた責任及び仕事で無謬なるイマーム(ع)と預言者(ص)の統治代理者だからです、責任しかないのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月8日
返信先: @douteimaturiさん
私はアハレベイト派の哲学と叡智は人類が考えうる中で完璧な思想の一つであると思っています
つまり、不動なるものと無形なるものどちらも前提知としてあり、その矛盾したものを調和及び調整するのが人間が何かから与えられた知恵と知識であると確定させているので完璧であると言い切ってしまうのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月8日
返信先: @douteimaturiさん
思想的には天動説を選択しながらも現実の現象から地動説を選択し、その事実上の現象と思想を相対化させずにするには必ず知識と現象、その解釈を与えて行かなければならないのです
なので、必ずその時代・時代のマルジャアはイマームと同じでその時代の必要として顕現されるのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月8日
折角なので何でアハレバイト派が処分権やマルジャア・教導者を選択し、またマルジャアが亡くなれば新しいマルジャアを選択しないといけない理由というのは形而下は無形だからです
即ち、天動・地動説の様に現実の現象に対しては人間は誤解・想像して生きている生き物なので必ず間違えるからです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月8日
返信先: @cider1d1lさん
シーア派12イマーム派でもマルジャアの判断によって異なります
日没なのか、それともاذان مغرب 完全に日が沈んだ時なのかは異なります
但し、اذان صبح 開始時は変わらず、فجر دوم صادق 日が広がった瞬間と変わらないようです
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月7日
去年のクーデター騒動とその後のエルドアンの対応を題材にしたトルコ映画「自演」なんてあったらおもしろそう。
#TurkeyQatar
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月7日
返信先: @douteimaturiさん
正直、今回の事件に関して大きく取り上げていない理由としては面子という部分と今の体制上スンニ派世界との融和を前提としているのでそれを煽る事は言わないというのがあるのでしょう
よくも悪くも政府・政治の事となると常に狡猾で冷静なイランの上層部の判断ですなぁ…。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月7日
返信先: @douteimaturiさん
イランは挑発には乗らないだろうねえ
どっちにしろ国内の問題であるならば、思想調査→炙りだしで事が済むのとこういった事件も八年振りの事だから今まで事前に潰してきたのを突発でやられたという完全に不意討ちだったのだろうね
ラフバルもترقه بازی 花火・爆竹遊びと揶揄しているしね
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月7日
返信先: @douteimaturiさん
哲学というのはこの世界の痕跡を辿ることです
人間は想像の中で生きている生き物なのでその想像を3つの軸で判断する行為を哲学といいます
それが論理・合理・反証の3つで必ずそれは社会や集団によって異なるのです
なので、普遍知というものは厳密には存在しませんが存在すると想像しているのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月7日
返信先: @douteimaturiさん
なので、私は形而上的な政治にしか興味はありません
形而下の政治は無形なるものでしかないのでアメーバについて語るよりも何が土台なのかを語ったほうが遥かに生産的なのです
軸さえ確保できているなら、あとは無形です
それ故に手段と目的は必ず隔絶されていると考えているのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月7日
返信先: @douteimaturiさん
そうでなければ、擬似的階級社会を作りかつ人工芝運動を作ってデモとかを自然発生させないように調整するしか無いわけで実際それが行われ一定以上の効果が出ている以上良いやり口というのは変わらないわけです
だから、もし本当に政府転覆を考えるなら右翼的な秘密結社からしかできないでしょう
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月7日
貧困問題というのは究極的にこれを外部化する事でしか解決しないのです
つまり、中東湾岸諸国のようにパキスタンやフィリピン人等を奴隷階級の様に扱い消費する事で貧困を全部外部化する
そして、何か問題があれば国外追放すればいいのです
それでしか解決はしません
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月7日
返信先: @douteimaturiさん
自爆したら地獄行き〜、相手がムスリムだと思っている相手を殺したら地獄行き〜二重の地獄行き〜
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月7日
てへらんで同時多発テロがあるくらいイランは平和です
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月5日
サウジ他数ヵ国が突如カタール #Qatar との断行を決定したことについてトルコ国内ではカタールとの団結を呼び掛ける動き #TurkeywithQatar が広まっている。
トルコ、カタール、サウジ全てシリアのテロリスト支援国家なだけにシリアのテロ組織にも混乱をもたらすだろう。
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月6日
昨日いよいよダーイシュ #ISIS が「首都」として立て籠もるラッカ #Raqqa 市内への総攻撃が宣言された。
中東からイスラム過激派を一掃し諸民族共生を目指すクルド、アラブ、トゥルクメン、アッシリア人の偉大な戦いが始まった。
#WrathOfEuphrates
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 6月6日
シリア民主軍 #SDF の旗の下決戦に参加するの以下の勢力。
#YPG #YPJ
クルド戦線
革命軍
北の太陽旅団
セルジューク旅団
ハマーム旅団
ラッカ解放軍
ホムス義勇軍
マンビジュ軍事委員会
デリゾール軍事委員会
その他部族軍含む各地の自衛軍
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月5日
返信先: @douteimaturiさん
正しい教養というのは形而上と形而下のがあって、形而上な教養は全くの不動で形而下の教養は無形で変化しかしない
例えば、おにんにんすこすこしてはならないのは何故かというと
一つにはクルアーンで禁止されている=形而上
二つには部族や社会的等・実利的理由=形而下
に分かれる
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月5日
中東情勢はとっくのとうに宗教ではなく、国家社会主義であるか・否かでしかない
今、起きようとしているのはシリアというバース主義・部族国家社会主義とイランという神権国家社会主義が一線に結ばれるという事であり
国家社会主義による平穏がやってくるという事でしかない
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月3日
返信先: @douteimaturiさん
あーそうそう、よくアハルルバイト派は自由意思を重視するというけど、言葉の意味合いとしては何かの力が土台にあっての物であるので厳密には処分権である
即ち、この世界で己の肉体や時間など諸々を含めた上でのそれを処分する事が出来るという意味合いでしかなく
自由意思ではなく処分権であろう
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月3日
返信先: @douteimaturiさん
なので、この世にある怪しいものというのは全部必要・実務的なものです
呪術というのも実務であり、必要が故に発達したものなのです
ただ、呪術というものは根本的に言葉と音なので音を共有しているもの同士にしか通用しません
なので、私は心理術・掌握術の延長としか見ていません
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月3日
返信先: @douteimaturiさん
また、他にも天馬に乗って…等々諸々があり
それに比べて数秘術に関しては表す主体と目的が明らかであるので非常に実務的なのです
なので、秘密にされている部分というのは根っことして部族の危険性からという実務的理由からみるべきで自慰的で空想な西洋の田舎者の虫けら思考は所詮、虫の戯言です
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月3日
返信先: @douteimaturiさん
預言者(ص)が生まれた時の変わり事として
1、千年間一度も消えた事のない、聖火が消えた
2、イランで夜に地震があり、王様の宮殿の一部が壊れた
3、シャイターンが太陽を隠し、また流星が流れた
4、カァバの周りにあった偶像達が地面に落ち壊れた
5、サーバという湖が枯れた
と、ある
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月3日
返信先: @douteimaturiさん
イスラーム数秘術は実務的な案件から考案されたものであり、敵を呪う・聖なる存在を讃える時に使われたものでしかないのである
そもそも神秘的な話と言えば、クソみたいに出てくる
例えば、預言者(ص)が生まれた時の五つの怪しい出来事とかがいい例でそんな話はアホみたいにある
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月3日
返信先: @douteimaturiさん
逆に呪われるべき存在を羅列する際も文字を羅列し、その四則演算法は隠されているがわかるものにはわかるようにできている
この数秘術の発生はそれだけ弾圧されていたわけでもあり、基本的に部族制であるが故に一族連座で皆殺しにされる危険性からここまで発達したのであろうと推測できる
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月3日
返信先: @douteimaturiさん
イスラームの数秘術は根本的にこの数字が誰を表すのかがハッキリしているものでその数字に合わせた文字の羅列がその隠された存在を表しており、二重暗号になっている場合がある
例えば、アリーを表す数字が170ならば170になるように文字が羅列されているのだがその四則演算法は隠されている
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月3日
返信先: @douteimaturiさん
勿論、ジャーヒリィーヤ・無明なる時代と預言者(ص)がこの世界から離れた以後のジャーヒリィーヤ・光を恣意的に消した者達がのさばる時代の二つを歴史的に学んで・理解していないとイマーム論の入り口にも立てないのでここら辺の前提が共有されていない・誤解しているとどうしようもないのである
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月3日
返信先: @douteimaturiさん
そもそも、イマームの存在自体が勝利そのものであり
イマームとそれに担保された信仰が継続している限りは敗北は存在しない
これは下現説とクルアーンの記述及び解釈を理解していないと唯物的な勝利と敗北に惑わされるだけで意味でしかない世界には辿りつく事が出来ない
だから、面倒な世界である
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月3日
返信先: @douteimaturiさん
特に厄介なのはマハディ・最期の導き手の話はかなり難解というよりも凡人には扱える物ではなく
私個人的な意見としては早くて半世紀、遅くて永遠に日本人という枠組みの中でこれを理解・説く事が出来る人間は出てこないだろうと確信している
だから、研究者ごときが言及できるものでは全くない
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月3日
返信先: @douteimaturiさん
前者の三つは例えるなら料理された食事であり、イマーム論はそれを食べて消化されて何処へでるのか=ギアーマ・最期確定する日にどう出てくるかの話なのでイマーム論というのはほぼ内面的な話になるから外部の人間には到底理解できないし、中の人間ですら頭を抱えているのだから言わずもがなである
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月3日
イマーム論はその前にトウヒィード・アドル・ノブーバ
唯一性・公正性・預言者性について学んで、そこから導き出される「どうしようもない結論」から類推されているものだから前提知がないと全く扱えない代物
ただ、物語を知っている・文章で知っているでは誤解しか産まないものでしかない
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月3日
返信先: @douteimaturiさん
ここを軸にするとスンニ派言うように預言者に近しいものたちが多神教者で死んだという風に考えるのは難しくなり
元々、唯一を隠して信仰してきた家系の者たちが預言者の手によって再度開かれたというようにも解釈が出来る
やっぱり、物事は中に入らないとわからないことばかりだなぁ…。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月3日
返信先: @douteimaturiさん
また、ハッジ自体は以前からあったものでマッカへのハッジは預言者が生まれる前からあった習慣にすぎない
事実、イマームアリー(ع)が貧しくてマッカへハッジする事ができない者に対して私にハッジしなさいと仰られているのでハッジは義務であるもののコレの真意を別の所にあると判断せざるおえない
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月3日
返信先: @douteimaturiさん
このハナフィーと言われる人達はイスマイールの子孫達の信仰を守っていたようでどうやら唯一を信じている人達だったようでその家系が預言者(ص)の家系で預言者の家系はマッカの神官の家系で凡そ21代前まで遡る事が出来る
だから、一般信徒と信仰が違った可能性が普通にあるという事
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月3日
返信先: @douteimaturiさん
何かというと前にも言った通り雑民と神官達の信仰が本当に一致していたかが正直分からないところにあって
雑民は儀式に囚われていてうしくんしていたかもしれないが神官達の家系たちは牛くんではなく
その先の存在を信仰していた可能性がある
これをハナフィーと言われる人達と言われている
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月3日
クルアーンの二番目の章である、バカラ章の一つの役割としてバアル信仰の否定です
これねえ…ハッキリ言うと所謂科学的歴史観ではなく、中のひとの歴史学を学んでいないとよく分からない
まず、アル・ウッザーの信仰についてなのだけど本当に預言者の家系がアル・ウッザーを信仰していたか怪しい
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月1日
返信先: @douteimaturiさん
手段を目的化するのも、目的を手段化するのもどちらも正しくはない
目的は目的で不動であり、手段は手段で不動である
形而上は形而下に流出することはあれ共、それは格が落ちたことではないわけ
共に不動ではあるものの解釈によって成立するわけでそこは非常に慎重な部分なんよ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 6月1日
部分で全体語るなゴミ
人工地震というバズワードに対して一つだけの手法を取り上げて全体語るな
やり口は単独で存在しないし、科学の手法は物質の抽出法をみればわかるが様々なやり口がある
状況や状態、設備が変われば手法は変わる
詭弁術の基本は部分の全体化・全体の卑小化である
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月31日
クルアーンはオスマンターが一番簡単
全ての記号や読み方がハッキリ書いていて分かりやすいから、これ以外に読みづらいのはアホみたいにある
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白川静 @sizukashirakawa 5月31日
中国の場合には、滅ぼした王朝の後を絶やさないのです。必ず後をたてて諸侯の一として、一応貴族の身分を与え、先祖の祭を続けさせる。そして自分の先祖の祭のときに、これに奉仕させる。わが国でいえばちょうど国栖舞・隼人舞を献ずるように、征服された者がお祭に参加して、その儀礼に奉仕する。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月31日
ラマダーンは齋戒月と言うべきだろう
即ち、心身共に清める月であり
様々な立場を越えて同じ行動を取る月であり
同じ事をするものが同じ共同体の一員である事・アッラーの元での絶対公平と平等が確立されている月である
月の終わりには各々が責任の元での施し・ザカートを行い立場に戻るのである
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白川静 @sizukashirakawa 5月30日
どのような神も、その神を生んだ部族のなかでは善き神であり、その守護神であったはずである。たとえ荒ぶる神であったとしても、その荒ぶることに積極的な意味が与えられている神であった。邪悪なる神というのは、要するに敵対的な異族の神を意味するに過ぎない。
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白川静 @sizukashirakawa 5月27日
【くし(酒)】|【さけ】の異名。【奇(くす)し】【薬(くすり)】の【くす】と同根の語で、ふしぎな力をもつものの意。【さけ】は【酒(き)】と関係のある語であろうが、その語義はなお明らかでない。【くし】は神酒などをいうほめことばであって、常の名ではない。
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白川静 @sizukashirakawa 5月27日
地上に英明なる大王が出現し、神と人とを繋ぐ臍の緒が切れたとき、大地が生まれた。大地とは、自然と人文との調和的な世界である。跳梁する邪霊は影をひそめ、地上には新しい秩序がもたらされた。天人相関の秩序が樹立されて、文明が生まれた。
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白川静 @sizukashirakawa 5月27日
【晶】星の光。三星をもってその晶光を示す。[説文]に「精光なり。三日に従ふ」とするが三日が並んで出るはずはない。晶光は水晶のように熱のない光を意味し【晶】は星光をいう。
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白川静 @sizukashirakawa 5月28日
【取】|【耳】と【又】とに従う。耳を取るのは聝耳の意。[説文]に「捕取するなり」とし、討ち取った敵の左耳を切り、その聝数によって戦功を数える。凱旋のときには、その聝を廟に献ずるのである。転じて他国を侵すことをいい、すべて他の物を獲得することをいい、また妻を娶ることをいう。
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白川静 @sizukashirakawa 5月28日
【長】卜文・金文の字形は長髪の人の形。長老の人は結髪をなさず、長髪を垂れることが許されていたのであろう。長髪の意より長老をいい、また長短の意となる。人を支配し統治するもの、官の長たるものをいう。
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白川静 @sizukashirakawa 5月28日
【むれ(山)】山をいう。朝鮮語に由来する語。[神功紀四十九年]「千熊長彦と百済の王とのみ、百済国に至りて、辟支山(へきのむれ)に登りて盟ふ。復古沙山(またこさのむれ)に登りて、ともに磐石の上に居り」のように、百済の山名にその訓がみえる。わが国でも牟礼山という重複名が残されている。
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白川静 @sizukashirakawa 5月28日
邪霊は風に乗じて風行することもある。それは風蟲(ふうこ)とよばれる。ときには地下深くより潜行することもあった。それは埋蟲(まいこ)である。
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白川静 @sizukashirakawa 5月29日
【尹】|【|(こん)】と【又(手)】とに従う。手に神杖をもつ形で、それをもつものは聖職者である。杖は神霊の憑りつくものであった。【尹】に祝禱の器である【口】を加えたものは【君】、女君をいう。もと卑弥呼のように、巫女が【君】として臨んだことがあったのであろう。
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月28日
#ラマダン をささやかな食事で祝うテロリスト集団。政権側に投稿すればマクルーバとかもっといいもんでお祝いできるのに無駄な抵抗を続ける愚かな奴ら。
#Ramadan2017 #Ramadhan #ramazan
Yeni Şafak Ramazanさん、携帯電話に強い弁護士さん、中東情勢に強い弁護士さん、他7人
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月28日
テロリストが退去した後のホムス #حمص の #Waer 地区に残された大量の武器弾薬からヘブライ語のプリントがある砲弾が発見された。シリア・アラブ軍はともかくとしてイスラエルの宿敵ヒズボラ #Hezbollah の影響力が拡大するのを許せずテロ組織支援に手を染めていた。
IDFさん、イスラエル大使館さん、身さん、他4人
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月28日
クルディスタン労働者党 #PKK は5月某日の対トルコ軍待ち伏せ作戦の映像を公開した。トルコの不安定化が進んでいるとはいえまだ大規模な作戦を行うには難しい時期だ。
#twitterkurds
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月28日
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリアさんがをリツイートしました
こいつらは午後3時以降戦闘がなければもう夕方感覚じゃないんでしょうか。ダーイシュしかりこいつらイスラムをたてにとって暴れたいだけだから宗教のことなんて本音ではどうでもいいと思ますし。
それにそもそも「普通のムスリム」なんていないですよ。民族、部族、階級で宗教は様々です。 https://twitter.com/izumin_lng9gh/status/868710942606974977 …
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリアさんが追加
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月28日
出先の百貨店でトルコ雑貨フェアなるものをやってた。ナイーブな日本人は知らない人が多いがトルコの反物始め雑貨のデザインは元はアルメニアやクルド、ペルシャからパクったものが殆ど。
野蛮なテュルク人たちは彼らのお陰で文化を手に入れたくせに盗っ人猛々しくもオリジナルと主張している。
トルコ情報さん、J&B Turkiyeさん、J.A.R.V.İ.Sさん、他7人
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月29日
北シリア #Rojava の民衆はテロリズムとの闘争に命を捧げた同志に感謝し称える葬送を盛大に開催した。ダーイシュ #ISIS との戦争が最終局面に入った今犠牲も報われつつある。
#Ramadan #twitterkurds
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
白川静 @sizukashirakawa 5月29日
衰運のときに「我々はかつてかくの如き栄光を持てる民族であった」というふうにして回顧的にそれを宣揚する。そういうときには、大体かなりの誇張が行なわれるものです。
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白川静 @sizukashirakawa 5月28日
今は首都の周辺に外国専用の空港があり、軍隊が駐屯している。都の入口に軍艦も停泊しているという、情けない状態であります。これを同盟国などというのは言葉の誤用であって、これは歴史的な用語では「城下の盟(ちかい)」という。本当は保護領ということであります。
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白川静 @sizukashirakawa 5月28日
【醫】の基本字は【医】であり、それは【匚】で示される秘密の場所、おそらくは洞窟のようなところで呪矢を用いて祈ることを示す字である。その場所で若いシャーマンの巫女が祈るのを【匿】という。その祈りには霊を慝き寄せる力があるのであろう。すなわち【匿】とは「匿(かく)れたる祈り」である。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月28日
返信先: @HASSANKONAKATAさん
アフカーム احکام はイスラームの純結晶です
戒律の話はイスラームの全てが集結した純度100%の結晶なので我々がその純然・余りにも純然なるモノを語る言葉を持っていないのです
戒律に関しては預言者(ص)・シーア派はイマームザマーン(عج )が再臨まで確信は一切ありません
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月27日
返信先: @douteimaturiさん
この伝承集が編纂されたのかアハレベイト派の11番目の指導者であるハサン・アスカリー(ع)の時代で彼は常に悪政者に監視されていて自由が効かない立場でした
なので、推論としては基本的に二つが考えられ
一つは当時の権力者に阿った
二つ目はそういった状況であるのでワザと隠したです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月27日
返信先: @douteimaturiさん
承前)預言者(ص )の愛娘であるファーテメ・ザハラーの伝承は一つしかありません
また、この世界で二番目か三番目にムスリムとなったアリー(ع)に関しては29、しかし二代目カリフであるウマルに関しては300ー400と残されていてかなり恣意性が高いものです
当然、背景もあります
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月27日
返信先: @douteimaturiさん
例えば、サヒィーヒ・ブハリーが残した共通伝承集もそうで彼自身が知っていた伝承は300000といわれ、そこから確信がある2700がそこにある訳ですがこの伝承集はアハレベイト派からの視点からはかなり恣意的な伝承集で信用に足りません
例えば、アイーシャの伝承は270程あるのに対し…
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月27日
返信先: @douteimaturiさん
完全なる預言者の言葉は完全な言葉であるが故に如何なるものでも完璧な理由があって、言葉にされているのでそれが成立しているという前提から俯瞰します
神学・聖典の見分け方というのは希望や期待・権力者達の意志で歪めることは地獄を近くするので非常に慎重をきすものとなります
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月27日
返信先: @douteimaturiさん
当時の現状で・どういった理由でこの伝承が編纂されたのかまで明白にわかっていないと伝承は使えません
なので古事記をこの視点から見るとお話にならない位に欠格事由しかなく、これらの内の一つでもあやふやであるならば信頼できる伝承ではありません
それは完全なる預言者の言葉だからなのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月27日
何で古事記を偽典とバッサリ言うのかというと、基本伝承学・ハディース学の援用で誰が・どこで・いつ・どういった時に・何があって・どの様に・何故その言葉で・どのように伝えられて来て・それを誰が言い伝え・誰が証言しているのか・編纂者は誰で・どのような立場で・いつの時代に編纂され
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月26日
返信先: @douteimaturiさん、@kitsuchitsuchiさん
カエサルのものはカエサルへ、イエスのモノはイエスへ、そして私のものは私へ
自由にして自在なる何かのモノは全てででしかない
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月26日
返信先: @douteimaturiさん
SNSが発達したのはそのガス抜き装置としてであって、この装置がある限りは本当の意味での共謀が行われる事はあり得ません
私自身もツイッタをやっているのはエロ絵と中田先生の監視以外の目的以外ではしていないので後は片手間みたいなものです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月26日
今、世界に民主主義というのはシリアかアフガンにしかないのです
民衆やその集団が武器を持って相手をぶち殺してでも力と権利を確保する社会が最も民主主義的な社会であって、相手を殺して・根絶やしにして・略奪してでも権利を確保できる・する社会の事を指すわけで民衆は直ぐに暴動を起こすのです
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月25日
ダーイシュ #ISIS の拠点シルトを攻めるリビア #ليبيا 国軍ははテロリストからタマンフント空軍基地を奪還した。壊滅寸前に追い込んでから長らく停滞が続いていたダーイシュ掃討が一気に進み和平交渉にも弾みがつくかもしれない。
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月22日
シリア #Syrie のイドリブ #Idlib と国境を接するハタイ県でトラック一台分の小火器が押収された。当局は一緒に押収された大麻から犯罪グループの仕業としている。実態はヌスラ戦線に不正に武器を輸送しようとしたのではないかという疑いは拭えない。
#turkey
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月21日
『トルコの火器関連報道から国内騒乱の予感』日本人が知らない世界のニュース・情勢|http://tinyurl.com/ljcfmzk トルコ内戦の予兆 #このタグ見た人は今考えてる事を答える
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月21日
シリアとの国境を接するヨルダンのルクバン #الركبان 難民キャンプが砂嵐に襲われ難民たちは退避をしなければならない。都市から逃げてきた者たちは祖先のベドウィン生活を思い出さねばならなくなっているようだ。
#syria
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月21日
反体制派メディアによると先ほどイドリブ #إدلب の水煙管 #الأراكيل 店で爆発が発生した。恐らくヌスラ戦線が見せしめのためにやったのだろう。ダーイシュしかりイスラムに脳を侵されたやつらは水タバコを目の敵にしている。
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月21日
イラク軍によって解放されたモスル #mosul の地区においてサウジ製弾薬が発見される。サウジとダーイシュ #ISIS は対立関係にあるがシンパは非常に多く兵員や資金を供給する連中がいる。
#SaudiSummit #TrumpinSaudi
#سمعيةさん、صٍمتٌيَ حٍگآيَہ♡さん、طموحي القمهさん、他6人
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月25日
返信先: @douteimaturiさん
見えるものが見えず、見えないものが見えるものが多すぎる
そういうときは語らずひっそりしているのが一番良いのだな
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
白川静 @sizukashirakawa 5月25日
国語の【失(う)す】は、あるいは【得る】に対する語であろう。【うる】とは増加すること、【うす】とは消滅していくことである。漢字においては【得】は魂振り、【失】は意識を失う意の字である。それぞれ対待の義をなすものである。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月25日
国破れて山河がないと言うのに何を保守するのだか…私には全くわからない
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月25日
返信先: @douteimaturiさん
何故にトルコ語とペルシャ語が必須かというと、正則アラビア語理解の為に大量の天才と秀才を費やした言語であり
何故なら、ペルシャ語でクルアーンの翻訳文を読むとああ…こう訳すしかなかったんだな…と、閃きと苦悩の痕跡を辿る事が出来る
それはまたトルコ語も全く同じである
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月25日
返信先: @douteimaturiさん
翻訳という作業は言葉の誤差を徹底的に縮める事が主目的であり、その為には母国語と対象語に対象語に最も近い言葉を知る必要がある
もし、クルアーンを理解・日本語化するのであれば正則アラビア語・トルコ語所謂オスマン語にペルシャ語に母国語が必須なのではないかと思う
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月25日
アッラーを日本語に的確に翻訳するなら、自由自在な存在でしょうね
何処にでもあり、また無く・如何なる時間・次元にも拘束されない存在なので自由自在なるモノと訳すのが最も良いと思います
また、神というのは申し示す存在であり
これは預言者の事を指すので自由自在なるモノと神なのでしょうかね
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白川静 @sizukashirakawa 5月24日
荘子の思想は、一種の絶対論である。具体的に存在するものは、すべて絶対的なものである。その間に高下貴賤の差があるはずはない、その差があると考えるのは、すべて相対的な認識にすぎない。そのゆえに、道は螻蟻の中に在り、稊稗の中に在り、瓦甓の中に在り、糞屎の中にある。
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mko @trappedsoldier 5月23日
テロリストはひげをそりFSAに合流せよ―ナスラフロントの宗教指導者サウジアラビア人のムハイシニが重要方針決定。停戦対象外のISIS・ナスラは、全滅を避けFSAとして延命を模索。すでにISIS司令官がタンフのFSAに合流。さらに欧州へ
http://www.moonofalabama.org/2017/05/talking-tactics-lacking-strategy-the-generals-on-syria-and-iraq.html …
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mko @trappedsoldier 5月23日
mkoさんがAl-Masdar Newsをリツイートしました
サウジアラビアはろくに軍事訓練もせず、スーダン人を大勢雇い入れイエメンに投入。ずっと戦い強化されているイエメン軍に敗北し全滅。あらゆる意味で非人道的戦争。
mkoさんが追加
Al-Masdar News認証済みアカウント @TheArabSource
Graphic pictures: #Yemeni troops annihilate entire Sudanese contingent paid by #Saudi Arabia https://aml.ink/OveBm
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月22日
返信先: @douteimaturiさん
もし、そういうのであれば物部氏とかが仏教の侵略でとかでと話になるのだけど、そういった痕跡はないし、契沖は物部氏の末裔何かという話になりその文献をどうやって見つけたのかという話しになる
これが伝承と聖典の系譜学であり、これが伴っていない聖典は全部偽典と見なすのが基本です
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月22日
返信先: @douteimaturiさん
よくそう言うと口伝文化だったというけど、じゃあ所謂日本の巫女とかは口伝文化で何故に文字に起こす必要があったのか?
という、話しになるわけで口伝文化が文字に起こされるのは大概文化侵略による圧迫と散逸を避けて文章化されるのだけど、その時代何に文化侵略されたのかという話になる
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月22日
古事記何て典型的な偽典でしょ
真典であるならば、平安以前から注釈本がある筈で聖書だって古いやつはグノーシス文献でしょ
多分、契沖辺りが平安貴族に頼まれて合作した偽書かその師匠あたりが書いたものだろうね
こういうのは考古学の領域ではなく聖書学の範疇なのだけど、わかってないねえ
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mko @trappedsoldier 5月21日
mkoさんがSputnik 日本をリツイートしました
リビアで国連が支持するGNA派がテロで141人を殺害
mkoさんが追加
Sputnik 日本認証済みアカウント @sputnik_jp
リビア航空基地に空爆、民間人141人が死亡
https://sptnkne.ws/ezxE
#アフリカ #リビア #空爆
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白川静 @sizukashirakawa 5月20日
わが国には「史」や「歴史」にあたる固有の語はない…しいていえば、系譜的な意味の【よつぎ】、説話的な意味での「物語」などがそれであろう。歴史はそのようなものとして把握されており、それで[書紀]という名の歴史は、まさに系譜と物語との書である。
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月21日
トランプのサウジ訪問に抗議して星条旗、イスラエル国旗を燃やすイエメン #Yemen 市民たち。欧米メディアは彼らをフーシの支持者と伝えているが反サウジ反米は一般的市民感情である。
#TrumpinSaudi
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月21日
我々が言える、歴史的必然性はアッラーの存在と預言者(ص)の存在だけでそれ以外は全て思い込みでしかない
思い込みを必然と言ったり、偶然と言っている時点で思い上がりそのものでしかない
シャイターンは常に思い上がりと傲慢と共にいる
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
白川静 @sizukashirakawa 5月20日
【四】は古くは四横画を重ねて示した。おそらく算木をその形に並べたものであろう。【一】より【四】までは、その方法による。【五】に至って、算木を交伍する形、すなわち×形においた。横画を並べることは【四】に至って極まる。ゆえにこれを肆陳という。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月20日
返信先: @douteimaturiさん
状況だけの政治というものは政治ではなく、ただのお祭りでしかない
お祭りを眺めたところで感嘆詞くらいしか出ようがないので全くの無意味
政治というのはイスラームの熟知とその行為にあるわけでそれ以外に政治を問うのであれば法家か儒学に沿って語るくらいなものでそうでなければ無駄である
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月20日
イマーム・ザマーン(عج)の代理者である学者による統治が続くのであればどうでもいい
それ以外に重要な事は何一つないし、こいつらの政治関係者は右も左も親戚関係なので語る必要もない
選挙というものは選んでいる気になる構造であり、誠の市民権というのは労働が必要ないものを市民という
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白川静 @sizukashirakawa 5月19日
あのおろかしい戦争のるつぼの中に、すべてが消えていった。アジア的あるいは東洋的という名で考えられていた文化概念、価値概念は、まったく虚しいものとなった。すべてが失われたなかに、救いというべきものが、ただ一つだけ残されていた。それは漢字を通じての、一縷のつながりであった。
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月20日
ダマスカス、ホムス近郊でアフマド・アラブド・殉教者旅団 #قوات_الشهيد_احمد_العبدو は現地の治安維持に貢献していると動画を上げて主張している。
ただ関所作って通る車から通行料をむしり取ってるようにしか見えんのだが...
#Syria
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ぽっこら @poccora_ 5月20日
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月19日
トルコ民族主義最大の記念日である今日エルドアンは民族主義的反体制新聞 #Sözcü のオーナー、ジャーナリストらの逮捕を命じた。スルタンを目指すエルドアンはケマルの権威に本格的に挑戦しようとしている。
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月19日
トルコ人のクルド人襲撃をエルドアンが直接支持した疑いがある。スタッフは車内のエルドアンと何やら会話している映像が拡散された。
本質的に臆病者のエルドアンであるし平和的な集会一つにビビっていたのだろう。
#turkey
#twitterkurds
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月19日
返信先: @douteimaturiさん
なので、西洋の非常に劣った歪んだ多神教に然り、徹底した部族的な利己主義と縁故主義を取れないザー汁メイソンも政体という意味では遥かに劣っているのでどっちも取るべき構造では全くないわけ
こう、どうしようもない程に劣っているのはどちらも輸入品で意味をよくわからずに使っているからだろうね
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月19日
返信先: @douteimaturiさん
なので、ザー汁メイソンの様に未だに中途半端な閨閥に頼っている日本や西洋社会は最低でも部族社会と軍が一致している中東と比べると遥かに劣るわけ
特に神聖なる存在から託されら統治者が軍と行政を握っている社会こそが西の邪悪な多神教の目標だけど、それすらもできていないわけ
まあゴミだよね
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月19日
返信先: @douteimaturiさん
ハッキリ言うと今ある領域国民国家というのは秘密結社が作った国であり
秘密結社が作っていない国はないと言っていい
しかしながら、その秘密結社にもピンキリがあってピンの連中が作った社会というのは独裁だが権利が与えられ、民主だが民主主義ではない、確約された神聖統治が行われている社会の事
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mko @trappedsoldier 5月19日
mkoさんがIbrahim Joudeh
🇸🇾をリツイートしました
【閲覧注意】ISISがホムス北西のアクラブで、シーア派住民46人を殺害。犠牲者の多くが女性や子ども。町に入ったシリア軍兵士が生存者を探す。欧米メディアとNGOは本当のテロにはいつも沈黙
mkoさんが追加
0:40
Ibrahim Joudeh
🇸🇾認証済みアカウント @Ibra_Joudeh
Graphic +18
Aftermath of #ISIS massacre today in #Aqareb town where they killed dozen of civilians most of them women and children
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月19日
返信先: @douteimaturiさん
そもそも、分類学的思考法であるのならば中国は遥かに先をいっている
諸氏百家というのは正にその分類であり、秘密結社にしろ、革命という概念にしろ全てが中国にあるわけ
なので、中国古代思想を理解できていればそれが網羅できる上に大量の母国文献があるわけだからそれに頼るべきなのさ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月19日
返信先: @douteimaturiさん
なので、大した教義はないねと断言できるのは中身の無さが故の実利・利己主義であり
中身があるのであれば、最低でも中国古代思想位の域には達している筈なのであるが達していないのでうちらで言う感覚・経験主義でしかなく、それは大したものではなく、常に間違えるものでしかないのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月19日
返信先: @douteimaturiさん
なので、フリザーの妄想に犯されたナマモノはいつでもどこでも何にでも執着する
これを利用して巨大化したのが汁物ぶっかけAVメイソンなわけで奴らの教義は所詮、シンボル図鑑見ても様々なシンボルに対して統制や固定された解釈が無いように結局は借り物で何も分かっていないものでしかないわけ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月19日
返信先: @douteimaturiさん
フリーソーメンのやっている事は不自然で反自然的の上に誤解しているからである
要はフリーザーメンのやっている事は人を熱狂にずっと叩き込む仕組みであって、熱狂から覚めたら後悔するが熱狂を求め続ける構造になっている
即ち、ずっと薬をキメていないとやって居られない中毒者と同じである
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月19日
政体がない社会の政治何て語っても仕方がない
意味が無い事は意味が無いのだからしょーもない
物事の根っこが見える学者は厭世的になるのは当然で物質だけを追っている連中に説く言葉何て一語足りともないのとそういった熱狂だけを欲している連中は何れ己を歯牙にかけ始めるので調教出来ないのである
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月19日
今日はトルコの独立戦争記念日。各地で民族主義的祭典が催されている。なおこの戦争ではクルド人が参加していたがケマルは彼らを裏切って虐殺した。さらに緑軍といった左翼勢力も攻撃し軍部独裁体制を確立した。
#19may #19Mayıs1919
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月17日
集会に参加した女性にヘッドロックをかける在米トルコ大使館員人。オスマン帝国が弱体化して以降トルコ人は女子ども相手にしか粋がれないと欧米から嘲笑されきたが今回の一件はそれが偏見ではなく真実であることを雄弁に語っている。
#turkey #twitterkurds
だいちさん、Guel Aylinやでさん、岩重光義さん、他2人
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月18日
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリアさんが日本人が知らない世界情勢@クルド・シリアをリツイートしました
ダーイシュ #ISIS の含めこの手のテロリストの兵器工房を見て思うことに砲弾の弾頭にLPガスボンベを使うのが大好きということ。アレッポでテロリストはガスボンベに毒ガスを封入してクルド人地区に撃ち込んでいた。
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリアさんが追加
0:45
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15
アサド政権軍 #SyrianArmy が長い包囲の後ほぼ制圧したダマスカス #Damascus 郊外カーブーン #القابون で地下武器工場が発見される。こいつらは地下道を通じて補給物資を運び空爆を避け今まで生き延びきた。
…
0件の返信 4件のリツイート 3 いいね
魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
白川静 @sizukashirakawa 5月18日
凡そ利のあるところに、人々は蟻の如くに集まり、利を求めては山を崩し海を埋め、地の理を絶って顧ることがない。宇宙の秩序である天文に對して、地上の秩序を地理という。地理とは人に譬えればその血脈の如きものである。その理を失って、大地の生命が健康であるはずはない。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月18日
ダマスカス #دمشق 郊外の別の戦線 #بيت_نايم では政権軍 #SyrianArmy とテロリストの衝突があった。ジュネーブ、アスタナの会議を利用したアサド政権軍の停止もできずテロリストは押され続けている。
#Syria
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月18日
アサド政権軍 #SyrianArmy が長い包囲の後ほぼ制圧したダマスカス #Damascus 郊外カーブーン #القابون で地下武器工場が発見される。こいつらは地下道を通じて補給物資を運び空爆を避け今まで生き延びきた。
#twitterkurds
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月17日
返信先: @douteimaturiさん
どうせ、君らの事だから私の正体を知っているだろうけど
私の正体を知っているという事は私が偽物ではないことも非常に厄介な存在であることもわかってるわけだ
だから、私も相手にしたくないし祖国くらいではのんびりさせてほしいし、性根がにーとなので触れないで欲しいんだ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月17日
返信先: @douteimaturiさん
人が人を教えられれば意味まではたどり着く
しかし、君らは虫でしょ?
人は虫に何かを教える事は出来ないから、精々餌をくれてやる事しか出来ないのよ
残念・本当に残念、でもそれはお前達がお前達自身で汚したのだから誰のせいでもない
お前自身の責任、甘んじて受け入れるのだな
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月17日
返信先: @douteimaturiさん
君ら自身分かっているし、薄々気づいてただろ?
何故に資産や富、権力だけしかくれないかをさ?
単純だよ、君らの頭脳がその理に耐えられないから物質しかあげられないのだよ
君らを知恵の世界に入れられないのはその性根の穢さなんだよ
それも意味だけで完全共通知という遥か先があるのだけどね
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月17日
返信先: @douteimaturiさん
君らは日本では好き勝手出来るけど、日本を出たら虫けら以下なのだから虫けら以下は虫けら以下で地面の中を蠢いていれば良いんだよ
所詮、下っぱ・中間管理職でも最底辺なのだからその程度の教義しか作れないわけ
残念だけど、君らは失敗作なんだ
失敗作だからほっとかれているだけなんだよ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月17日
返信先: @douteimaturiさん
良いかい?
こっちは日本と同じ翻訳文化の社会でまたピンのレベルがかなり高いところだ
で、君らのその粗末な教義は何の焼き直しかすぐにわかってしまうんだよ
また、この社会は過去に秘密結社的でソレの害と効用も知り尽くされているの君らが考えているよりもこの社会はもっと邪悪で凶悪なんだ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月17日
返信先: @douteimaturiさん
あんまり、こういうのは好きではないが日本のカルト共がこっちに連絡かけているのを知っているからね
君らのその程度の低い知能は残念ながら見透かされているのとあそこまで程度が低い教理って中々存在しないから良い資料になっているよ
せめて自然崇拝なら未だしも…アレじゃあねぇ…。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月17日
返信先: @douteimaturiさん
イマームホメイニーのおさーんも言っているけど、イスラームだけが光であり、後は全部邪教で人を暗闇へ、地獄導くものであり
態々、光を目指すものが地獄に堕ちる連中と手を組む何てありえないのです
こういった、基礎宗教論が分かっているのであれば何が偽物か瞬時に判断が出来るわけだ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月17日
子子子子子さんのブログに書かれていた宗教団体を覚えといてね
アレ、全部偽物邪教で本物邪教誘惑者だから
何でかというと規範や規律等や教条論がハッキリしている宗教は他の宗教集団何かとは手を組む事なんてありえない
イスラームなら最低でも生活はできても、内心を共有する事は絶対にない
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
イマームホメイニの金言集bot @botimamu123 5月17日
神学
神学と服従
アッラー以外光は存在しない。
それ以外は偶像化された神々で全ては暗黒の闇である。
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白川静 @sizukashirakawa 5月17日
犬牲は多く自然神、それも天上の神々に対して用いられるものであるから、灼くことを原則とした。【然(もえる)】は犬肉に火を加える形で、のち【燃】の字を用いるが、もとは犬牲を灼く儀礼をいう字であった。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月16日
返信先: @douteimaturiさん
この世界に大学によって都市化した場所は少ないがそこでしか大学を修める事は出来ないので探すしかないのである
といっても、残念ながら大学から発生し、今も尚整備し続けている場所で都市の毒をそこまで受けていない場所はほぼない
ないのだが…もし残っているのであれば宗教都市だけであろう
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月16日
返信先: @douteimaturiさん
学校の外に学生を出す必要のない学校だけが本来の大学であり、大学というのは学生を一毛足りとも邪悪に近づけさせずに学ばさせるところを大学というのである
要は大学自体が「都市化」した土地だけが本当の意味での大学を修める事が出来る場所で
だから、大学が都市化する事が学の整備である
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月16日
返信先: @douteimaturiさん
学校というのは都市に作ってはならないというのはこのことで都市に作られた学校は都市の邪悪に染まるので今の大学が就職予備校とかに堕ちいっているのは当然の事態でしかないのである
再度、大学を作るのであるならば大学で全てが帰結する場所を作らねばならないのである
つまり、外に邪悪がある
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月16日
返信先: @douteimaturiさん
なので、人間が都市に定住化するというのは邪悪化が進むだけで京害あって一利なしなのである
だから、本来の必要な思想は都市から離れるところに集団と学校を作ったわけであり、そこには強い規範をつくる事で集団を維持したのである
それがよくわからない辺鄙な暮らし辛い所に学者が集まる理由である
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月16日
返信先: @douteimaturiさん
つまり、人を邪悪から解放するのは個人主義の否定と都市の否定・中央集権的体制または政体的な政治の否定である
即ち、何とか主義と形容される政体自体が邪悪そのものであり、その発想自体が人間を邪悪にしているのである
中国古代思想は小国寡民・イスラームはカリフ・イマーム制と完結してる
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月16日
返信先: @douteimaturiさん
また、都市は最も邪悪なモノを産むのだがそれが貧困と貧富の差である
この二つが発生すると今度は利己主義が部族のではなく、家族・個人の利己主義と細分化される
細分化された利己主義は個人がすべてを己の力で充当しようとするのでより邪悪が細分化と膨張をするのでより凶悪な邪悪を産むのである
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月16日
この世の邪悪なものが産まれるのは都市からなのだけど、中東においての邪悪と言われるものはサーサーン朝の事でイラクならバクダッド・イランならシーラーズかイスファファンの事だろうね
邪悪の発生源は利己主義と縁故主義なので様々な異なる集団の欲が集まる所が都市なので全ての邪悪は都市にある
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菅谷圭祐 @sugaya_keisuke 5月16日
30歳になる前に「自分は頭がおかしいかもしれない」という事に気付けて良かった。僕は何かやるとき「絶対に間違っていない!」と思いがちだが、「絶対に間違っていない! でも自分は頭がおかしいかもしれない」と思えるようになれたことで、今後もこの世界で何とかやっていける気がする。
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白川静 @sizukashirakawa 5月16日
【もののふ】は物部で、朝廷に仕える文武百官をいう。男女を問わずに用い「物部の臣の壮士」のように分けていうこともある。【ますらを】は男子に限定し武人にいうこともあるので【武士】の字をも用いる。【ぶし】とよむのは折口信夫説によると【山伏・野武士】の上を略したものであるという。
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月13日
イスラム軍とラフマン軍団の戦闘に抗議するダマスカス郊外 #دمشق の市民たち。テロリスト同士の下らない戦いによって市民に犠牲が出ていることから反体制派寄り市民の間でテロリストに対する怒りがどんどん強まっている。
#Syria #SyriaStrikes
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月13日
ダマスカス郊外のカーブーンはシリア・アラブ軍 #SyrianArmy の攻勢により完全に解放された模様。テロリストは奴ら同士の内紛に明け暮れ作戦能力が大幅に低下していたのをうまく利用した。現在ダマスカスのテロリストをイドリブ #Idlib へ移送する作業が始まっている。
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月14日
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリアさんが日本人が知らない世界情勢@クルド・シリアをリツイートしました
ヌスラ戦線指導者ジャウラニ殺害につながる情報提供すれば10億円って聞いてバウンティハンターになろうかと思うレベル。
まあイドリブ周辺に行ったら即殺されるんですけどね。
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリアさんが追加
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15
シリア反体制派連中はアメリカがヌスラ戦線のリーダー・ジャウラニの指名手配画像のアサド版を投稿した。ヌスラ戦線はやつらにとっては仲間だからテロリスト扱いが気にくわない。
…
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月14日
トルコ・アンタルヤ県知事が中国風のコスプレをして中国人観光客の呼び込みをしている。トルコは中国までトルコ人種が支配する国と教えている国と中国人は知ったら驚くだろう。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月14日
民主主義を守るためダーイシュ #ISIS との戦いに身を投じていた人民の戦士ハッファール・マムウド #هفا_ممد が戦死し北シリアに哀しみの声が広がっている。彼は多くの国際旅団兵士に慕われた優秀な現場の指揮官であった。
#twitterkurds
ソヴィエト共産党・労働者党情報局さん、鉄砲先輩(りりぽん命名)@須藤凜々花観察さん、共産趣味者@相互フォロー100%さんと共産趣味同人誌即売会「GOSPLAN」さん。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月14日
北シリアでは農業が活況を呈しているようで各地で豊作報告が相次いでいる。トルコとその手下であるバルザニの経済封鎖による苦境を脱しようと人民たちの自主的な生産活動が活発になっている。
民主統一党指導下にある北シリアは21世紀のコミューン。
#Syria #twitterkurds
ゲバラシャツを着た文化左翼のボブさん、対話左翼を広める会 (質問・絡み大歓迎)さん、コミュニスト革命さん、他7人
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月15日
ダーイシュ #ISIS から解放されたタブカ #Tabqah で忌まわしき黒旗が投げ捨てるられるパフォーマンスが行われた。テロリストの旗が除去されたタブカダム #tabqadam では女性解放を象徴する人民防衛女性隊 #YPJ の旗が翻る。
#YPG #twitterkurds
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月15日
北シリア #Rojava にロシア軍の基地を置いたプーチンはクルド人 #YPG への武器支援はしないとエルドアンへリップ・サービスを行った。ロシアはいいとこだけ取りいつも肝腎なところで裏切るのでクルド人たちは信用していない。
#Türkiye
駐日ロシア連邦大使館さん、ロシア連邦軍Botさん、斑鳩重工株式会社@造船局さん、他6人
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月16日
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリアさんがMehmet Berk Erginをリツイートしました
トルコのバカが機械翻訳の日本語をつけてシリアの悲劇を訴えている。
トルコの奴らは決まってシリア難民を最も受け入れているとかいってシリア人民の味方面をするが殺し屋に金を一番払っているトルコなのだからシリアの惨劇の一番の責任者である。
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリアさんが追加
Mehmet Berk Ergin認証済みアカウント @MehmetBerkErgin
- Unutma, insanlık ölüyor!
- Remember, humanity is dying!
- La humanidad está muriendo!
- Humanidade está morrendo!…
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
えらいてんちょう @eraitencho 5月16日
大相撲ごっつぁんバトルってなにwww期間限定で貴乃花がガチャに出現ってなにwww把瑠都と琴欧洲で欧州デッキってなんだよwww
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
mko @trappedsoldier 5月16日
mkoさんが#Alalamをリツイートしました
イランの沿岸警備隊がヨルダンに向かう700㎏のヘロインを没収。テロリストと米軍がいるところにドラッグが向かう?
mkoさんが追加
#Alalam @AlalamChannel
Iranian Coast Guards Seize about 700kg Heroin En Route to Jordan
http://en.alalam.ir/news/1968726
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月16日
返信先: @douteimaturiさん
根本的な問題は混雑緩和とか、密集率が問題なのではなく男と女が同じ場所にいる事が根本的な問題であり
緩和等の対する投資と男と女を完全に分ける事ができれば生じない問題であり、また間違えて乗ったら痴漢や痴女等というのは前提にもならない邪悪な妄想を前提にする前に沈黙を覚えて欲しい
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月16日
一言、男性専用列車と女性専用列車を作ればいい
それでLGBTとかボケた事を抜かすなら、それは見た目で判断すればいい
見た目が男なら男、女なら女それでいい
他人に内心何ぞ、いかにして平穏にするのかだけを考えれば人の内心を前提に議論するのはバカと下種だけがやることだ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
mko @trappedsoldier 5月16日
mkoさんがWalidをリツイートしました
悪名高いナスラフロントの宗教指導者ムハイシニ。子どもを自爆テロリストに洗脳するワッハビ派のサウジアラビア人が、ホワイトヘルメットを表彰! ホワイトヘルメットがテロリストである、これ以上の証拠がある?
mkoさんが追加
Walid @walid970721
New blogpost: Director of White Helmets’ Idlib branch calls the Al-Qaeda affiliate HTS “my brothers”.
https://yallalabarra.wordpress.com/2017/05/15/director-of-white-helmets-idlib-branch-calls-the-al-qaeda-affiliate-hts-my-brothers/?iframe=true&theme_preview=true … #Syria
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
白川静 @sizukashirakawa 5月14日
【日(じつ)】は象形。太陽のまるい形をかく。中に小点を加えているのは、その円が輪郭ではなく、実体のあるものであることを示す。[釈名、釈天]に「日は實(じつ)なり」とは、「月は闕(けつ)なり」というように、月の盈虚することあるのに対していう。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月14日
返信先: @douteimaturiさん
また、血縁関係は究極的なところ最終的には全世界イスラームになって結婚とかで血縁関係が繋がって、みんなクライッシュるというのがあるので殊更重要な要素ではないということ
カリフ体制というのは全員縁故であれば、それは実力だけが判断基準となり、その社会では実統治能力で選ばれる世界なのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月14日
返信先: @douteimaturiさん
なので、カリフ体制というのは頭の中身が暗いっしゅではなく実統治能力だけが重要である
それがカリフ体制の良い所で悪政者は支持を失い暗殺や反乱などによって引きずり降ろされるので非常に流動的な政体であり
例え、親がカリフでも子も優秀な統治者とはならないので権力が限定されないのである
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月14日
返信先: @douteimaturiさん
大切なのは「アッラーと預言者(ص)の代理者としての責任を全うするか?」ということでこれだけが必要条件なのである
即ち、権力者達が納得して権限を託し、兵士達が彼の為に闘う決意があり、住民達が彼の統治に歓喜し、学者達が預言者の様な矩を持った人と合意するものだけがカリフなのである
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月14日
返信先: @douteimaturiさん
また、マッカ啓示というのも重要でマディーナへ移住する前であり、クライッシュ族でアッラーに従わなかった連中がアッラーの家を守らずに偶像で汚していた訳であるから、そこからも見えるようにこれらの条件は必要条件ではないがあれば好ましい程度のものでしかないという事
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月14日
返信先: @douteimaturiさん
また、そのクライッシュ族からのカリフは同性愛行為してたり、大っぴらに酒飲んだり、マディーナの街でとんでもない略奪などを犯しているのでこのカリフ位というのはシーア派からの見知ではفرعون フェルウン・悪政者・暴政者でしかなく
意味合いとしてはただの権力者以上の意味を持たない
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月14日
返信先: @douteimaturiさん
では、クルアーンにはクライッシュ族という章マッカ啓示の3番目のアーヤには「それ故、彼らはこの家(カーバ)の主に仕えねばならない」とあり
で当時のクライッシュ族の大多数は預言者(ص)に反抗・敵対していたわけでその為に三度も戦争をしている
この様に啓示されている連中が必要条件ではない
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月14日
返信先: @douteimaturiさん
カリフの条件には何個かあるがこれはあくまでも「何かと預言者(ص)の代理」であるという事であり、全ての条件は十分条件でしかない事である
1、クライッシュ族の男系
2、権力者の支持
3、兵士達の支持
4、住民達の支持
5、学者達の支持
というのが主な条件であり全部十分条件である
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月14日
返信先: @douteimaturiさん
つまり、縁故主義を完全に否定した流動的な統治か無謬な縁故者による統治しか腐敗を避ける事はできないのです
なので、スンニ派でいうカリフによる統治かシーア派の言う無謬な血族者による統治の二つだけが神智政治なのです
それ以外は汚物で語る必要も知る必要もありません、無駄です
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月14日
返信先: @four_lessonsさん
これは最後はみんな結婚で繋がって行けば、最終的に全人類がセイエドさん…つまり、一族になっちゃうよねー何故なら、イスラームは全人類の為にあるわけだからいつの日か全人類がイスラームを信じて血族的関係になってしまうという発想からなのです
皆、血族なら縁故何てなくなるよね…という事です。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月14日
返信先: @douteimaturiさん
即ち、イスラームはこの世の政治的腐敗の源泉は縁故主義であると喝破した事にある
その縁故主義による暴政を後押ししているのは国家主義であり、国家主義は全体主義で全てを強制的に動員する思想なので縁故主義と国家主義が二つが合わさる事で最悪な事態になっている
これが腐敗の源泉である
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月14日
返信先: @HASSANKONAKATAさん
イスラームが完全完璧な政態なのは縁故主義を否定するか、無謬な縁故主義かの二つである事
前者はその時・その時の規範的で道徳的な統治者の選択
つまり、カリフは縁故ではなくその時の最も相応しい人による統治
逆にシーア派のイマームによる統治は無謬な縁故者のよる神聖政治であること
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中田考 @HASSANKONAKATA 5月14日
カリフ制再興を妨げるために、カリフがいなくなって一世紀あまり、植民地が独立して約半世紀が経った今もなお、
イスラーム世界では、リベラル٠民主主義٠世俗主義の名の下に不正な独裁/専制政権が権力を握り続けている状況は変わらない。イスラーム世界が未だに西欧の後塵を廃しているのは事実。
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榎宮祐 @yuukamiya68 5月14日
みんな科学を勘違いしている……『科学的にあり得ない』とは”現状未観測/現行理論では不可能と思われる”ことであり、実際にドリルで天元突破されたら「なるほど既存理論が間違っていた」と平伏し解析に取りかかるものである。幽霊も神も魔法も、観測されたらその瞬間から科学の対象だ(真顔)
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月13日
返信先: @douteimaturiさん
例えば、アッラーは天なのか?と、言われたらそれは否定されます
何故なら、アッラーは諸天と地面と書かれているので天だけではなく、地も入っているわけでそこから推論するに何処にでもあるわけです
つまり、天上だけではなく、地面にもどこにでもあるからアッラーなのでアッラーは天ではない
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月13日
返信先: @douteimaturiさん
また、シーア派の主流派とスンニ派のクルアーン解釈にかなりの差があります
それと同じように選択される伝承も異なり、またシーア派はイマームの分だけ伝承量が増えるので尚更難解となるので一概にこうだと言い切る事ができません
なので、現状を鑑みるに日本語でイスラームを語るのは無理でしょう
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月13日
返信先: @douteimaturiさん
例えば、中田先生のカリフ論は現代シーア派12イマーム派のイマーム解釈から始まっているわけで根源としては無謬なカリフという前提から派生しているものです
ところがカリフというのはヒラーファ・代理から来ているものであって、イマーム・指導者・先導者からではありません
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月13日
返信先: @douteimaturiさん
なので、本気でイスラームを理解しようとするのであれば現状では中東に来てホウゼかマドレセに来てやるしか方法がないのが現状で何故なら細かい部分での違いを理解出来ないと理解が混じってしまってとんでもない語弊を産む
それは同じ世界観のモノで比較しないと意味をなさないという事である
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月13日
返信先: @douteimaturiさん
じゃあ、直訳すると「アッラーの名は優しく、赦される」でこれを見る限り様々な文言が足されているのが分かる
また、クルアーンの言葉づかいは古語なので現代とは異なる上にアラビア語は地域別の方言かキツイの全く別物または近くの強国の言葉が混ざっていたりするのでアラビア語=クルアーンではない
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月13日
返信先: @douteimaturiさん
では、このクルアーン
翻訳本やアラビア語ができればわかるのですか?と、言われてもわかるわけがない
まず、翻訳に関しては色々と足したり引かれていたりする
例えば、بسم ٱلله ٱلرحمان ٱلرحيمこの文言
日本語だと慈悲深き慈愛周くアッラーの御名によってと訳される
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月13日
返信先: @douteimaturiさん
そう言うとよく言われるのが「でも、天は何でも知ってるのでしょ?」と言われるのだが、残念ながら私達は「その何か」ではないので私達にはわからないのです
つまり、イスラームは予定説を取らない
ただ、天国へ行く正しい道の方法はクルアーンに詠まれているのでクルアーン理解が優先となります
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月13日
返信先: @douteimaturiさん
これを一纏めにしてمؤمنين モーメニィーン・敬虔な人々とするがここで重要なのはイスラームには仏教で言うところの「仏性」が誰にでもあるという考え方をする
即ち、地獄へ向かおうとする事もできるし、天国へも向かう事が出来ると考えているわけで確定されている訳ではないという事である
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月13日
返信先: @douteimaturiさん
また、無謬な人間とその集団
所謂、اهل بیت アハルベイト 聖家族と訳すがこれは血族だけではなく、ファルマーン・ファールシィー等のجانشین ジャーネシーン・親友、近くに座る者たちも入るので血族だけという意味ではない
なので、無謬またはそれに近い人間に人はある程度なれるわけ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月13日
悪と善というのは究極的な問題なのだけど、基本的に悪というものは不完全性から発生すると考えられていて、それは欠如という事ではない
ここを欠如と読みとくと人が宗教を持つ意味がなくなり、他力にも・自力にも縋る事ができなくなる
欠如は初めから欠けてるわけだから、完全が無い事になるのでない
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月11日
クルド人 #SDF #YPG はタブカダム #Tabqah #TabqaDam の完全解放を宣言した。ダーイシュ #ISIS の脅威が去ったことでダムの水門も解放され稼働を再開している。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月12日
返信先: @douteimaturiさん
あっそうそう中東でもイジメというのはあるけど、学校が直ぐに察知して学校を変える
何故なら、家族同士での喧嘩・最悪殺し合いが始まるからで場合によってはそれを放置していた学校の教師や校長も殺される場合があるのでやっぱりチャンと殺すという選択が入っている社会は本当に実利的
2件の返信 1,048件のリツイート 607 いいね
魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月12日
返信先: @douteimaturiさん
スンニ派の神学の一部には全ては確定されているという教条論を持つ派閥があるがそれを肯定するのがお嬢様のような地獄に焼かれる事が確約された集団であり、こういった存在がひとつの論拠になっている
なので、地獄に堕ちる存在と関わると不幸にしかならないのはこの世に地獄の豪炎をばら撒くからだ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月12日
返信先: @douteimaturiさん
イスラーム的にみればお嬢様という存在はシャイターンそのものであり、ただ存在しているだけで害
しかし、内省を繰り返して・正しいとされる道に気づけばシャイターンを倒す事が出来るが連中の周辺もシャイターン同士なので救うことはまず不能
その意味では地獄で焼かれる事が確約された存在ではある
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月12日
返信先: @douteimaturiさん
しゃいたーんとイブリースはどう違うかというとイブリースはマリク即ち天使やジン・精霊などであり、シャイターンは心の中に入り込む存在で意味合いが異なり
イブリースは外的な、シャイターンは内的な存在で特にシャイターンは人の中に入り込み悪さするので最も凶悪な存在である
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月12日
返信先: @douteimaturiさん
お嬢様というものの本性は穢多精神に傲慢を足したものを言う
何でも自分が上にならんと嫌だし、レッテルを張らないとやっていけない連中をいいこういうのをشیطان シャイターンという
シャイターンに近づくと己が不幸にしかならないので近づかない、コイツらは人類を不幸と地獄にしか送らない
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月12日
返信先: @douteimaturiさん
物事や道理・ある程度共通された経験則というのは誰が聞いてもわかりやすいでしょ?
それは経験を共有しているからというのもあるけど、それはちゃんと理屈・論理・合理・反証の3つをしっかと兼ね備えているからなんだよ
じゃないと、人を説得する事は出来ないわけじゃないと迷信・妄信となる
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月12日
返信先: @douteimaturiさん
世界宗教というのは大人子供女でも誰でも説得・納得できるから普遍化したのであって、ハナから秘密結社的なものは普遍化を目的にしていないので説得術に関しては最悪で詭弁を羅列することになる
私が言っている事は単純で道理に比較的かなっている事を言っているでしょ?
これが説得・納得術
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月12日
返信先: @douteimaturiさん
メイソンの教義何てどうせ中国古典以下でしょ?
めんどくさい遠回しな言葉で飾られているだろうが中身は小卒でも理解できる事を無駄に飾った言葉で誑化しているだけで意味なんてない
教義というのは納得が最優先であって、小学生でも納得できる事・説得できる教義が最良でそうでなければゴミです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月11日
返信先: @douteimaturiさん
つまり、その銀行が利息を得て利益を得ていたとしてもイスラーム外なので関係がないという事でまたムスリム・ムスリマ以外からは幾らでも暴利をムシっていいので幾らでも毟ってもいいがその人間がムスリムになったらその利益はハラームとなるので継続して毟ってはならないという事になる
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月11日
返信先: @douteimaturiさん
銀行法での債券は株券のように見えるが仕事に対して投資・債券を組み立てるので実物財・労働財などからの利益としてとるのでربا リバー・利息ではない
だが、肝があって投資銀行が海外の銀行に投資した際の投資利益はリバー扱いにならない
つまり、最初のنیتがそのつもりなければ利息ではない
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月11日
返信先: @douteimaturiさん
聞いてきた
銀行法即ち債権などの扱いはある
そして、企業法においての責任は個人間に分割された分だけの責任を負うのでその枠内では無限責任なので利益が出る仕事は長く、出ない仕事はさっさとやめるのが基本という事になる
シーア派がنیتを最重視するのでその目的が重要とみなす
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月11日
返信先: @douteimaturiさん
因みに許可を得ずに持っていった場合はقصبガスブと言ってちょっと意味が異なる
所謂、借りパクとか言うのがそれに当たるのだけどこれに関しては許してしまえば、アッラーへの蓄財となるので基本的に気にしない事にしている
で、後で追認する事も出来るので窃盗とは異なるのが重要
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月11日
返信先: @douteimaturiさん
つまり、短期管理はしっかりとした場所に管理されていないという認識で長期管理はしっかりとした場所に保管されているという認識になっている
なので、ここが保管についての認識の違いで軽過失か重過失なのかはどこにどれだけの時間保管せれて、如何に約束を結んだかによって条件が変わる
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月11日
窃盗が重くなるのは二つの意味で一つは財の窃盗・二つ目は器材の破壊なわけでふたつが加わって強盗となる
因みに保管も長期と短期の二つがあって、短期の保管の場合は善管注意義務による賠償が発生するが長期保管の場合は発生せずに窃盗者に全部の罪を被せるのでハット刑案件となる
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中田考 @HASSANKONAKATA 5月11日
中田考さんが中田考をリツイートしました
むしろ、卵と納豆とミックスベジタブルが、それを盗まなければならない困窮者の食卓を潤すなら、むしろ富のより公正な配分になったともいえなくもない。الحمد الله على كل حال
中田考さんが追加
中田考 @HASSANKONAKATA
兵站戦(ジハード)の目的はお金を貯めることではなく、アッラーからの預かりもののお金をアッラーへの奉仕(カリフ制再興)以外の自分だけの消費になるべく蕩尽しないことなので、その意図を持った時点でジハードは成立しており、結果的に盗まれても来世の勘定ではプラスとなる。 …
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中田考 @HASSANKONAKATA 5月11日
中田考さんが中田考をリツイートしました
兵站戦(ジハード)の目的はお金を貯めることではなく、アッラーからの預かりもののお金をアッラーへの奉仕(カリフ制再興)以外の自分だけの消費になるべく蕩尽しないことなので、その意図を持った時点でジハードは成立しており、結果的に盗まれても来世の勘定ではプラスとなる。
中田考さんが追加
中田考 @HASSANKONAKATA
返信先: @HASSANKONAKATAさん
盗まれたとは書いたがイスラーム法で断手刑に値する窃盗(サリカ)は、保管場所(ヒルズ)から掠めとることで、自転車の買い物籠は保管場所にあたらないので、構成要件を欠くため窃盗罪は成立しない。
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中田考 @HASSANKONAKATA 5月11日
返信先: @HASSANKONAKATAさん
盗まれたとは書いたがイスラーム法で断手刑に値する窃盗(サリカ)は、保管場所(ヒルズ)から掠めとることで、自転車の買い物籠は保管場所にあたらないので、構成要件を欠くため窃盗罪は成立しない。
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中田考 @HASSANKONAKATA 5月11日
中田考さんが中田考をリツイートしました
【大悲報】今日の兵站戦は歴史的大敗戦に終わった (ToT) 兵站戦では卵は要町いさみ屋、肉は椎名町アルス、野菜は近所の八百屋で入手するのが常だが、いさみ屋で買った買い物袋を、アイアンオトメの買い物籠に置いてアルスで買い物をしていた一瞬の隙に盗まれた。アイエ~ ((T_T))
中田考さんが追加
中田考 @HASSANKONAKATA
木曜は要町スーパーいさみ屋で特売10個1パック99円の卵をげっとする苛酷な兵站戦の日です。愛車アイアンオトメを駆っていざ出征(`Д´)
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mko @trappedsoldier 5月10日
mkoさんが#Alalamをリツイートしました
2014年夏イラク北部シンジャー地方をISISが襲い、何万人のイエズィディ派を殺害し数千人の女性や子どもを誘拐。女性は性奴隷にし、少年はモスール西部タルアファルのキャンプで自爆テロリストとして訓練。7歳で誘拐され10歳で逃げた少年は、今も恐怖で眠れないと証言。米国が作ったISIS
mkoさんが追加
#Alalam @AlalamChannel
Iraqi boys recount horrors of captivity, training by ISIS
http://en.alalam.ir/news/1965913
#Iraq
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月10日
トランプ #TRUMP が #YPG に直接武器を送る Abd'nin ypg'ye と発表して絶賛ハッキョ中のクルド人たちはエルドアンをあざ笑うが如く悠々を湖を渡った。もはやマンビジュを空にしてもエルドアンはアメリカが怖くて手出しができないのだ。
#turkey
NafakaZedeさん、Gerçek VatandaşさんとYıldırımさん。
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月10日
アルメニア人 #Armenia に対するホロコースト然りトルコ人は昔から無抵抗な相手には強くまともな軍をもっている相手には勝ったためしがない。アメリカが本格的に #YPG を支援する以上もう手出しできなくなりそのことが弱い者いじめが大好きチキン集団トルコにとってたまらなく悔しい
adnan999さんと İsmail Doganさん
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月10日
タブカの戦い #Tabqah の戦いに強力な増援が到着した。トルコの侵略から要衝マンビジュを守る軍事委員会 #مجلس_منبج_العسكري はボートや艀でアサド湖を渡って兵力を移動した。トルコ #turkey は動かないと踏んでの行動か。
#twitterkurds
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月9日
返信先: @douteimaturiさん
つうか、外付けハードディスクが死んで軽く絶望している
特に音声ファイル・授業のほぼ全部が入っているからマジで泣ける
国帰ったら救済方法は知っているのでそれやってどこまで復帰できるかだね…まじつらい
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月9日
一般衆人を救いたいのであるならば、その衆人を最も拘束しているものを否定・批判できなければならない
それが国家主義で領域国民国家という概念なのだがどうやら近代というものはこの存在を前提として論が組められているのでほとんどの人間はそれから逃げられない、下にも恐ろしく近代という妄想
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月8日
シリアのテロリスト連中はフランス大統領選 #frenchelection におけるマクロン #Macron の勝利を祝福している。この小僧ならルペンと違ってテロリストに断固とした処置を取らないと高をくくっているからだ。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月8日
返信先: @douteimaturiさん
つうか、支配者の情報何かどうせ大したことやっていないのでしょ
色んな階級的儀式をしているらしいけど、仏典やイスラーム・中国思想を勿体ぶって焼き直した程度のものでしかないでしょう
だって、現代の人間自体が古典よりも大した事しても言ってもないのだからさもありなん
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月8日
返信先: @douteimaturiさん
究極的には殺戮だけが全てを解決するわけで物事を本気で解決するのであれば、本気で絶滅政策を取るしかないわけ
で、日本という国は絶滅政策をしているわけで本当に日本の支配者は少数派であることの示唆でもあるわけ
だから、オイラは殺戮しろと言っているわけで難しい事ではないのよ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月8日
返信先: @douteimaturiさん
よくある思想対立とか、階級という概念は全部少数派の立場を守るためにあるだけで庶人がこういった概念に囚われるのは多数だからなんだよ
それもあって、国家主義の世界に何も期待していないのはどうせ多数派は何もせずに愚痴ってガス抜きされておしまいでしかないからなんだよ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月8日
返信先: @douteimaturiさん
国家主義というのは全体主義なのだから、世界は全体主義で動いている
これを否定するなら、国家主義というのをまず否定しなきゃいけないのだけど基本国家の中枢の殆どが少数派によって牛耳られているので多数派はそいつらを殺戮しなきゃいけないのだけど、多数派は分派するからそれで分裂させられる
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月8日
返信先: @douteimaturiさん
中東で建築となると自動的に石屋になるからね
因みに建築技師はいつの時代も高度なお仕事で地面をならす作業から、ピンからキリまでするので所謂魔導士さんのお仕事と言ってもいい
何せ、幾何学や算学に工学の全てが詰まっているのでそれを全部収めていないとなれないので建築技師は高度な技術
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月8日
返信先: @douteimaturiさん
つまり、自分は相手の家族とアルハームではなくとも子供はアルハームであるという手を使う事で勢力を拡張していくわけでこの子供を増やして結婚戦略を取るという事は肉親関係が増えていくことになるので敵を減らす非常に有力な手段なのね
また、親族間には贈与という概念がないので資産が増えるわけだ
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月8日
シーア派の規範論においては一等・二等親族間贈与という概念がない
これをارحام アルハームといい、حام で子宮を表すので同じ子宮から出たもの達となる
んで、このアルハームの重要なのは結婚してできた子どもは相互家族のアルハームになるという部分でここが親族が増えていく理由かと
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白川静 @sizukashirakawa 5月8日
【まつ(松)】は神を待つ木の意であろうかとされ、祭事に松迎えの俗があって、【松】を山から迎える神にみたてて「お松さま」ともいう。【祭】も待つ意から出たとする説がある。【待つ】とは神聖なものの出現を期待し、それに奉仕することを意味する語のようである。
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月7日
地下壕を掘るシリア反体制派のテロリスト。こいつらはいつも大国が仲介する停戦を利用して軍事力を増強する。それがあらかた片付くと無理難題をアサド政権、関係各国にふっかけてまた戦争をおっぱじめる。
#
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白川静 @sizukashirakawa 5月7日
殷代の文化は東アジア的な沿海文化であり、わが国が文身の俗をもち、子安貝を宝とし、汎神論的な世界観をもち、霊魂の不滅を信じ、媚毒をおそれ、呪的な世界観をもつことにおいて、両者の古俗には極めて親近性に富むものがある。
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白川静 @sizukashirakawa 5月7日
【旗】を掲げるものは、その氏族神とともにあるものである。氏族の者たちが遠く出行する際に、旗を掲げて行動するのは、その氏族神とともに行動することであり、あるいは氏族神そのものの出行とも考えられる。それが【遊】である。
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月6日
アスタナ和平協議:ある反体制関係者がクルドメディアに語ったところによるとトルコ軍が今日にもイドリブに配置されるとのことである。安全地区保護という名目でシリアの中心にさらに兵を進めようとしている。
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月6日
トルコ軍 #turkey はロシア、イラン、アサド政権との協議を経てイドリブ #Idlib に平和維持軍を送り込みヌスラ戦線を保護する見込みだ。反体制派は嬉ション漏らさんばかりに外国軍の介入を歓迎している。
Türkiye İdlib'e giriyor #Syria
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月6日
その訓練の一つ火の輪くぐりの様子。どうしても曲芸に見えてしまう。シュールな一枚。
#فرقة_الصفوة
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日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月6日
これもなんか凄い。訓練してるテロリストより火花がフォーカスされちゃってる。
#فرقة_الصفوة
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)さんがリツイート
日本人が知らない世界情勢@クルド・シリア @newsfromworld15 5月6日
テロ組織「精鋭部隊」#فرقة_الصفوة は訓練キャンプの画像及び動画を突如公開し兵力増強アピールを行った。内容は勿論のこと見た目もヌスラと変わらんな。
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白川静 @sizukashirakawa 5月6日
【幣】[説文]に「帛(きぬ)なり」とあり、神に供える【ぬさ】の意。[周礼、大宰]「祀るの日に及んで、玉幣・爵のことを贊(たす)く」とあり【幣】とは神を祀る幣帛をいう。幣物は【帛】に限らず、玉・馬・皮革の類を供え、また財貨を用いることもあった…のち貨幣の意となり、幣貨・幣用という。
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mko @trappedsoldier 5月6日
mkoさんがteleSUR TVをリツイートしました
「火に包まれた若者」の写真の真実。バイクを鉄パイプで壊していたギャングが燃料タンクを破壊、近くの火に燃料が引火し若者は大やけど。自業自得の事故だが、ベネズエラ政府の圧政の象徴としてメディアは世界中に流している。印象操作に騙されるな!
mkoさんが追加
teleSUR TV認証済みアカウント @teleSURtv
#Venezuela | La verdad del joven opositor envuelto en llamas cuya foto recorrió el mundo http://bit.ly/2p6032I
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森 祐一 @you55mori19 5月6日
#英語拡散
Comfort woman sex slave nothing more then prostitutes
Besides this statue was victim girl run by US tank
この像は米軍の戦車に轢かれて死んだ女の子です
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白川静 @sizukashirakawa 5月6日
【正】は征服を意味する。征服者の行為は【正】とされ、その収奪するところは【征(税)】とよばれた。【征】はもと徴税を意味する字である。そのような支配・収奪には、当然抵抗を伴うことがあった。それでこれに【攴】すなわち毆撃を加えて、服従を強制した。
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月5日
返信先: @douteimaturiさん
言い方を変えれば、日本とか西洋というのは芸術が完全に滅んでいる世界なのです
芸術が芸術だけで専科で存在しているのは人間の無能化であり、人間の万能性を否定しているわけなのです
まーてへらん行けばそんなのイパーイいるけど、それだけで食えるというのは本来おかしいことなのです
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魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi 5月5日
返信先: @douteimaturiさん
後、イランはペルシャ絨毯が有名だけどアレにだって日用品と絨毯で綺麗な絵を描いて額縁に飾っている商品芸術がある
なので、芸術というのは日用品の片手間でしかないのです
だから、芸術が生きている世界というのは芸術が専科で商品にも骨董にもならずに継続して今にある世界なのです
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ぐだトマト @pteras14 5月5日
後、知らんかもしれんけど、ロマネ・
コンティってバラ売りしないんだぜ?
必ずダース売りでその内の一本だけが
ロマネ・コンティなの!
残りの11本は全部クズワイン。
勿論、全部同じシャトーで作ってる
ワインだよ〜ん。
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ぐだトマト @pteras14 5月5日
ぐだトマトさんがをリツイートしました
あなたロマネ・コンティの畑見た事
あります? 石垣で囲ってある小ちゃな
畑の小面積だけがそれ用の葡萄。
石垣から1mmでも外に出るとガクッと
値段が下がるんですよ、アレ。 https://twitter.com/angry_qt/status/860515398906658816 …
ぐだトマトさんが追加
このツイートはありません
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ぐだトマト @pteras14 5月5日
ふ〜ん、じゃ、おフランスのBDが
日