読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

03 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 05

追加中 主人公もヒロインも耶蘇教異端派のシンボル側でワロス『ロクでなし魔術講師と禁忌教典』(アカシックレコード)。『進撃の巨人』①アニメが進むごとに更新予定。 

工事中タロットについて追加
進撃とロクアカ系統が似てるから書いとくね。

心臓を捧げよ心臓を捧げようっせーよふざけんな!
結社が大好きなエジプトだと心臓が人間の本体の一つで思考の座ってこと知ってんだろ!
無知性巨人が知性巨人の本体を食うと巨人の力が得られる
空は悪前手段で脊髄液を摂取すればOK。
進撃、鎧、超大型、女型、車力、顎、獣、始祖
大地の悪魔と契約って
ガイアと契約?
巨人化するには体を大抵は刃物で傷つける。
狂人になると傷が回復する。
死と再生の儀式みたいだね。
おそらく
メルガリウス=メルクリウス+ガリア(ケルト)。
くりすたにたいしてゆみるもよろいもけっこんしは当然ぎゃくぐではなく意図的ヒエロス・ガモス(Hieros Gamos、希: ιερός γάμος)またはヒエロガミー(英: Hierogamy, 希: ιερογαμία)は「聖なる結婚」を意味するギリシア語由来の言葉で、神婚、聖婚、聖体婚姻ともいう。 聖婚は神話や儀礼などにみられる男女二神の交合や神と人の婚姻のモチーフである。創世神話において世界の創造をもたらした天の神と地母神の交わり、豊穣をもたらす男神と女神または神と人の結婚を模倣した祭儀、中世ヨーロッパにおいて修道女が神の花嫁と呼ばれたこと、などが聖婚の例として挙げられる。
語源はギリシャ語で、"hieros" = holy(神聖な)、"gamos" = marriage, coupling(婚姻、媾合)。


悪魔を借る側も悪魔の力が必要だという矛盾
東京グールも
進撃の巨人も
ワンピースも
悪魔の力。




頭脳派にして謎解き係のアルミンも金髪碧眼(北欧系)じゃねーか!
しかも超大型巨人になったしな!
ドイツ系作品で金髪碧眼な時点で需要キャラで確定。
進撃は二人も金髪碧眼キャラがいる。
これってアルミンが王様になるんじゃないの
金髪碧眼カップルでヒエロス・ガモス
一期のアニメでいきなり手だけ残された兵士の名前がブラウンからモーゼスになっていたのを忘れてねーからな。
どんなけユダヤ教嫌いやねん。



『タロットの歴史』。のメモが終ったのでリンク。ロクアカののキャラはタロットモチーフだから重要。。

メーソンの一つ目はへそ=親方の目? となると公表されていないサインはへそ周りにサインする?
手をあたりに置いたりへそを指さすとか? 
タロットは反カトリックであり解説書も反カトリック。 
タロットもトランプも両方イスラム化したエジプト起源!
またイスラム起源かよー欧州起源だと勘違いさせる印象操作かよ
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-147.html
“・17 星
マルセイユ版

ノブレ版では描かれている女性が両性具有的だと指摘されている。
中性ギルドの職業哲学でも最も高い親方の位階を示すものが星であると伝えられている。

ドダル版では石工(メイソン)のギルドの伝統の表れとして女性のへその部分に目が描かれていること、彼女の片目がまっすぐ私たちのほうを見ているのにもう一方の目は横向きに描かれている。
石工は石の使い方が腹でわかるようになるよう教え込まれる。
腹で感じる鋭敏な感覚は「親方の目」と呼ばれ、磁石のように石と腹がひきつけ合ったり反発しあったりすることでその石を建物のどこにどのように用いればよいかを感知する力。

(メーソンのあの一つ目って親方の目?
カモワン版にもへそが目。
星=神。
そういえばストア派はお花畑思想ならぬお星さま思想)


 ほかにも追加主人公もヒロインも耶蘇教異端派のシンボル側でワロス 


 峨骨‏ @Chimaera925
仮に、日本語で飛行機の空きが見つからなくても英語で探すと出てくるはずだ。311の直後は英語で探せば出てきたと記憶している。



まぁ、ノイズだと思って聞き流して 貰っても良いけど、在日フランス人が 逃げ始めたら君達も逃げた方がいい。 ヤバイのは米軍基地のある所と、 原発のある所と、トヨタのある所と トンキンね。 米軍基地以外は逆に攻撃された方が アメリカに取ってメリットのある所 ばかりだからね。

ぐだトマト‏ @pteras14 1時間1時間前

ブリティッシュ野郎供が言うように
おフレンチ人とイタリン人が本当に
無能だったら、とっくに絶滅してる
だろ。おフレンチ人のクマムシ並みの
生命力はあの凶悪なロシア人達でも
完全駆逐出来なかった異次元レベル。
0件の返信 0件のリツイート 1 いいね
ぐだトマトさんがリツイート
岡三マン‏ @okasanman 1時間1時間前

岡三マンさんがThe Spectator Indexをリツイートしました

ミサイル発射は新華社の誤報か

岡三マンさんが追加
The Spectator Index @spectatorindex
BREAKING: Reports from Chinese media outlet that North Korea has launched a projectile appear to be inaccurate
8件の返信 1,232件のリツイート 206 いいね
ぐだトマト‏ @pteras14 11:39 - 2017年4月15日

お!来たかw

フランス人は逃げたか?w
福島の時は世界一逃げ足の速い超有能
民族な事を証明しちまったからな。
奴等は。

これが世界史上、イギリスがフランスを
一度も絶滅出来なかった真の理由な!

ぐだトマト‏ @pteras14 2時間2時間前
チョースン系アニメを分析したぐだ トマトさんの解析結果に拠ると ミサイルが落ちて来たら最寄りの 神社に逃げ込むと良いらしい。 (例: 電脳コイル、ひるね姫、君の名は。 、劫火の教典、等々) #ミサイル

サバイバルにも役立つかもしれない知識も載せときました
子子子子子流健康法~今までの主に健康に役立つ記事のまとめ+α~
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-category-30.html

∸――


魔法の基礎にして奥義↓
峨骨‏ @Chimaera925
苛立った時は呼吸に集中するのが効果的だ。何もなくても、いつでもどこでも出来る。

呼吸は吸うことは考えなくてよろしい。まず、一定のリズムで吐ききること。そして脱力すれば肺に空気が入ってくる。吐ききらなければ、空気は入ってこない。軽い過呼吸などでも(なったことは無いが)吐ききりもせず吸おう吸おうとするから空気が入って来ずに余計苦しくなる。そうすると陸で溺れる。

呼吸で感情は再現できる。
怒りと時の呼吸を行えば興奮状態になり、不安や悲しみの時の呼吸を行えば不安になってくる。
コントロールされそうになったり、我を忘れそうになった時は平常の状態の呼吸を再現してやるたけで戻ってこられる。

分かりやすくゲームに例えると、心理状態を予めセーブしておいて、呼吸でロードしてその状態に復帰
する感じか。

――
私、ねここねこは魔法使いです。
ロゴス、論理と言葉でウソをぶん殴る物理、
文字通り、「物」質と論「理」です。
魔法の基礎は
呼吸法、姿勢、リラックス法、
論理的思考、解釈の練習(古典とタロットが有効)、
良い方向性をもたらす知識です。

私の場合は、解釈の練習は漫画とアニメを分析しまくって鍛えました。
シンボル解釈になるからね。

本作の魔法理論は正しい。
『魔法入門』の読者かもしれない。
魔法では物質もおろそかにしてはならない。
物理、肉体、筋肉、骨、姿勢、呼吸、集中、精神。平静な心。
潜在意識を変化させて外界に干渉する、内から外へが魔法。
きちんと呪文は一字一句間違えずに最後まで省略せずに唱えましょう。
短縮は必ず慣れてから。

呪文はあくまで潜在意識を操作する道具。
潜在意識を操作するという目的を突き詰めると、条件を満たすと自動発動(詠唱なし。常時周囲に罠を貼る)レベルになるのが理想。
ただし、自動発動するか否かは確実に操作しないといけない。
自動と手動は混ぜるんだよ!
防御は自動化すべきだけどワンパターンだと裏をかかれるから注意。

魔術師は高位ほど道具を使わないから魔術師っぽく見えなくなるんだよね。
上級は呪文も道具もすべて自作だからね。

上記を応用すると、水と唱えて火を出したりできるけど潜在意識も顕在意識も概念がぐちゃぐちゃになりそうで怖いよね。
声に出すと意表を突けるけど。

心理学を最初に学ぶべきというのが私の持論。
心の法則を知っておかないと魔術は使えないよ。

峨骨師匠
“心理状態を予めセーブしておいて、呼吸でロードしてその状態に復帰する感じか。“
は素晴らしい教え。
呼吸を呪文に変えるとそのまま。
呼吸自体が術だけどね。

おねしょた兄貴が暗記するまで良書を読み込むことが大事って言っているのは、これこそが術者への近道だから。
自動発動レベルになるための暗記。

てなわけで(どういうわけだよ)
般若心経は原文暗唱な。
解釈は本ブログにいろいろあるよ。
当時の意味を踏まえない意味不明な適当な訳に注意な。

私が暗唱までできているのは、
平家物語の冒頭から「及ばれね」まで。
(塵に同じ程度ではだめ)、
般若心経全文、
方丈記の冒頭~「夕べを待つことなし」まで。
枕草子の「春はあけぼの」は「あれは原文の超省略版じゃね?」疑惑があり覚える気にならない。
昔は暗唱できたけど。
芭蕉のおくのほそ道の「月日は百代の過客」は再び暗唱できるようにしたよ。
月日は百代のクロノスにして~道祖神(ヘルメス)の招き~みたいなパロディを考えたけど私はヘルメスが大嫌いなのでやめた。生まれてすぐに泥棒してウソをついた邪神ヘルメスを崇めている奴らなんて信用できないね。
しかも善き羊飼いなのがヘルメス。
徒然草は「つれづれなるままに〜ものぐるおしけれ」まで覚えている。
徒然草だけは全文を現代語訳で読んでおくべき。
非常に役立つ。

私が暗唱できるというか、学校で暗唱させられた古典の名文が、仏教の無常観ばかりで草(葉の影)。
あと外郎売と白浪五人男の連ね。
神道カルトは古典学習と暗唱も廃止しようとしているよ。
知名度と暗唱している人の多さと潜在意識のしみこみ具合から考えると、
日本人にとっての聖書は記紀ではなく般若心経。
般若心経暗唱は学校でやらないのに覚えている人が多いよね。

暗唱もレベルが上がると、
詠唱済み(スペル・ストック)、
時間差起動
(ディレイ・ブート。詠唱済み魔術を任意のタイミングで起動)、
二反響唱
(ダブル・キャスト。一度の呪文詠唱で二度同じ魔術を起動)、
もできるようになる。
このレベルに達しているのは私の場合は般若心経だけ。
「般」で起動するどころか、常時潜在意識に流れている。
他の暗唱できる文はほぼ全て般若心経も基盤だけど。
例としては、
スピ系が「この世は幻である、が最先端理論だー」
ってことに対して
「五蘊皆空。元ネタ言わないなら盗作」 
って瞬時に返せるレベル。
要は大昔から仏教が言っとるわいってこと
ねこたさんもいってたよね。


本作のアニメ版では出なかった重要個所を書いておく。

・基礎呪文ほど改変の余地がなく緻密で高度。
幾多の賢者、あまたの先人が改良を重ねた結果だから。
逆にオリジナルほど難しい。
基礎呪文を超えないとそもそも作る意味がない。
基礎呪文を超えるとは過去の賢者の研鑽を超えないといけないから。
(基礎こそ奥義、秘儀は目の前にってこと)

・グレン=レーダス‏
「はい、注目ー。白猫の顔が真っ赤になりましたねー? 見事に言葉ごときが意識になんらかの影響を与えましたねー? 比較的理性による制御のたやすい表層意識ですらこの有様なわけだから理性のきかない深層意識なんて──ぐわぁっ!? ちょ、この馬鹿! 教科書投げんなッ!?」

(深層意識には理性が干渉できないって点が非常に重要。
つまり潜在意識は洗脳しやすいのに洗脳が溶けにくい。
しかも無自覚で意識より強いってのが厄介。
人間の本体は無意識側にあるからね。
意識なんて出先機関に過ぎない。
アニメが説明不足だなと思って原作読むときちんと説明されていることが多いよね。

ロクアカが面白いのはね、敵が超強いからだよ。計画も智慧を使っているからね。
ベルセルクみたいな感じだね。敵が超強くてぎりぎりで勝つってやつ。


ぐだトマト @pteras14 2月26日
ジャンプのU19?
あれもヒロインが130歳まで無疾患で
生きる超遺伝子の持ち主で大人党
とかいうのに拉致される物語だw

で、主人公が異能に目覚める。
主人公に安易に異能とか付けない方が
面白いんだけどなぁ。
初期のベルセルクのガッツみたいな
方が面白い。

ガッツも人間離れしてるけど、
あの漫画は敵の方が滅茶苦茶強い。

それをなんの異能も使わずに首の皮
一枚で力技だけで斬り伏せるとこが
爽快だったのに。

ちなみに何の異能も持たないけど
ひたすら金の力でゴリ押しするのが
バットマンってヒーローな!

アメ公らしいっちゃらしいが……

アイアンマンも同じタイプか?)

ーー

エリスの胸はパッド入り
・三嶋くろねがイラストを担当すると優遇されるのか?
『この素晴らしい世界に祝福を!(著:暁なつめ←「暁」)』のイラスト担当で、
『はたらく魔王さま! (原作:和ヶ原聡司』のスピンオフ漫画担当だぞ?
ロクアカ(本作の略称)の作者は羊太郎で「羊」。

本作の作者が結社員かどうかは今は断定できる段階ではない。
全員が結社員というわけではなく、無自覚広告人もいる。
過去の名作の影響を受けて作られるので、過去の名作が結社製なら自然と後続も結社くさくなる。
上級結社員が黎明期に投入されるのは土台と設計図の源流を作るため。




(愚者ならこん棒使わないとな!
タロットができた当時の愚者=狂人は護身用に棍棒をもたされていたのさ。
タロットは明確に反カトリック。女教皇(高位聖職者)や異教のシンボルが満載。
主人公グレンは、
元ナンバー0・コードネーム《愚者》であり、
魔術特性の「変化の停滞・停止」を利用して自分を中心に魔術起動を完全封殺する固有魔術【愚者の世界】
とは、異端派耶蘇が国教となった世界みたいなものだと解釈可能)


・敵の「天の智慧研究会」のマークがアスクレピオスの杖。
わざわざヘルメスの杖に似て非なるものにしているね。
メルガリウス=メルクリウス=ヘルメスだから?
あと蛇は智慧の象徴。






神光寺かをり(銭さん家)‏ @syufutosousaku 2013年8月8日
「 (アスクレピオスの杖)」と「☤(ヘルメスのケリュケイオン)」との違いは、 杖の形状(アスクレピオスはシンプルな棒、ヘルメスは羽根飾り付き)と 巻き付いている蛇の数(アスクレピオスは1匹、ヘルメスは2匹)。)

・一巻の敵三人組のトップが左目隠し右目出しで所属組織が「智慧」だから、右目陣営(ドイツとフランス系結社)が敵(シンボルが蛇だから当然)。
主人公は英米系側の貴族主義と血統主義。主人公の血統が気になる。


・金髪王女ヒロインのルミアの髪留めが×十字。
彼女は自分が触れている相手の魔力や魔術を自分の意思で何十倍にも増幅できる異能「感応増幅者」。
彼女は異能者という、帝国では悪魔の生まれ変わりとして迫害されるが、土着宗教などでは信仰の対象となる存在。
予想通り、魔法ものの定番であるヤソ異端OR異教系
=反カトリック。
本作はルーン文字だから北欧+ドイツ系金髪の王女の宣伝だろうね。
ナチスが大好きなアーリア人(笑)思想のシンボルでもあるんだろう。

金髪(北欧に多い)で「大地母神体形(えっちなからだつきの←読み方)」のヒロインが異能者(正当派である北欧系でない魔法も使える)で王女。
進撃の巨人の金髪碧眼でユミルが結婚(ヒエロスガモス?)したがっているヒストリア・レイスと同じシンボル?
元ネタが同じナチズムなんだろう。
進撃の作者は確実に意図的だけど、本作は影響を受けた作品がナチズムだっただけかもね。
内容が支配層の都合が良いなら採用されるからね。

・公に求められ、認められた魔法(ルーンなので北欧系)しか認めず、それ以外の能力はなかったことにされたり、異能者とされ迫害される世界。
迫害される王女様なのもヒストリアとかぶるね。

・舞台は大英帝国がモデルのアルザーノ帝国。
ヨークシャー地方があるので英国。

ヒロインらが通うアルザーノ帝国魔術学院の女生徒用の制服がへそが出ているいやらしいものとなっているのが特徴。これはまずいだろ。
この学園の紋章が四分割盾に卍で両脇にオリーブかゲッケイジュっぽい。
卍。

この帝国は、空にメルガリウスの天空城が浮かんでいる。
この城に執心する魔術師たちをメルガリアンと呼ぶ。
この城の謎に迫ると突然失踪したり変死する。
メルクリウス、ヘルメスだね。

タキトゥスの『ゲルマーニア』によると、ゲルマン人が最も崇拝しているのはメルクリウス=ヘルメスにあたる、死と戦争と知恵を司るオーディンだという。
メルクリウスの日=ヘルメスの日
=ウェンズデーがオーディンの日を意味する。

北欧神話『ハヴァマル』によると、宇宙樹ユグドラシル(オーディンの別名たるイグの馬=ドラシルを意味する)の樹上に九夜にわたり吊るされたオーディンは飲食物も得られぬまま槍によって傷つけられ、自らをオーディンに捧げた(自分自身を自分に捧げた)。すると、オーディンの呼び掛けに応じ、ルーン文字が啓示された。
こうしてオーディンは秘められた知識と詩歌の才能を獲得したというのである。
死の神、戦争の神、神秘的な知恵の神オーディンのみが、密儀において人間を要求し、そして最も崇拝されている。

メルガリウスの魔法使い
=メルクリウス+ガリアの魔法使い
=ヘルメス+ケルト系魔法使い(ドルイドとドルイダス)
=ヘルメス・トリスメギストス+オーディン+ケルト
という童話は
ロラン=エルトリア(エトルリア人だね)
の最高傑作とされる、メルガリウスの天空城を舞台に正義の魔法使いが魔王をやっつけてお姫様を救うという内容の童話。
聖エリサレス教会では禁書指定されており、著者も異端者として火刑に処されたのは、当然、童話風ヘルメス文書だから。

(オーディンは北欧系、ドイツのナチス系一つ目。

オーディンはどちらの目を失ったのか。
https://da.wikipedia.org/wiki/Odin
https://de.wikipedia.org/wiki/Odin
だと左目残し右目なし
ウィキは多数の言語記事の画像を比較できて便利。
画像ならなんとかなる。
塔きょゆグールの主人公は左目がグール目だからね
王はオーディンだから
昔の絵が大事。
エジプトの右目は太陽云々は知らない可能性あるので注意。
右目残しのあの有名な絵は1886年作

【ゆっくり解説】『幻獣辞典』の世界8:鳥たちの知られざる生活
http://www.nicovideo.jp/watch/sm30360594
のコメントによると(この動画シリーズオススメ)


“オーディンがミーミルに目を渡したという記述は新エッダ15章で、"己の目を抵当にやっと(泉を)飲ませてもらった"とあり、”
“↑↑この部分ではどちらの眼を失ったかに言及されていない。また巫女の予言にも"その目"とだけ書かれており、イングリンガ・サガにおいても記述は無いようだ。”
“↑↑↑つまり現状"どちらの眼かは分からない"とされてるわけなんじゃよ”
” ↑↑↑↑ちなみに新エッダの表紙に描いてあるオーディンはこの画像と一緒で右目が無い”

東京グールの主人公はオーディンであり、梟でもあり、両目ある存在)

・タウムの天文神殿
アルザーノ帝国領内の古代遺跡で、
双子の天使が絡み合うような意匠の「天空の双生児(タウム)」が御神体。

(マニに啓示を与えた存在がタウムであり、ミトラとも訳された。
要はマニ教+ミトラ教神殿。
双子の正体は、阿頼耶識の本音だろうけど。

マニに啓示を与えた天使の名は、ナバティア語で「アル・タウム」と呼ばれた。これは「同伴者」の意味であるが、マニ教が広範に布教されるにつれ、当時の西アジアの共通語であったアラム語で「タウマ(双子)」(*)と呼ばれ、またもう一つの共通語であったコイネーギリシア語では、「シュジュゴス(同伴者・配偶者)」と呼ばれた。更に、マニ教が西方に伝播すると、同じくギリシア語で、「パラクレートス(聖霊・仲介者・弁護者)」の名で呼ばれた(東方に伝播したとき、この天使は「マイトレーヤ」と訳された。すなわち西方のミトラであり、仏教の菩薩として、漢訳されて「弥勒」である)。マニは、「活けるパラクレートスが天よりわたしの元に降り、私と親しく言葉を交わした」と述べた。”
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/sophia7/mani-r1.html
第一章 宗祖マニとマニ教の成立)

・銀髪白猫ヒロインのシスティーナは大貴族・フィーベル家の令嬢。また貴族か。
メルガリウスマニア。
システィーナ礼拝堂(カトリック)が異教のヘルメスマニアだというカトリックへの嫌がらせ。
システィーナ礼拝堂の絵画で有名なミケランジェロは異端派結社員っぽいから採用された名前かな。
ルネサンス期の芸術家はイスラムから仕入れた異端だらけだろうし。
ミケランジェロが『最後の審判』のキリストが、右手を上げて左手を下げて一歩踏み出すバアルポーズ(笑)
正体の一柱の暴露(笑)
ハデスもポセイドンも
バアルもミトラもヤハウェも
アフラ・マズダーもまざっているっぽいゴッド(笑)

【ネタバレ注意】knznymmmyのガンダマニア入門8
http://codetripleseven.blogspot.jp/2016/03/knznymmmy8.html

見て笑って下さい。

ついったー記事まとめ ねぷちゅーんパイセンまじかっけーっす
http://codetripleseven.blogspot.jp/2016/05/blog-post_21.html
見ると、ポセイドーンもバアルポーズしている。
悪魔が持っていることで有名な三又槍の元ネタの一つ。
シヴァも持っているのが怪しい。

【ネタバレ注意】knznymmmyのガンダマニア入門10
http://codetripleseven.blogspot.jp/2016/05/1-v-1-v-va-av-aa-vvv-victory-va-aa-avg.html
見ると、タロットの悪魔さんも右手は上げて左手は下げているバアルポーズしている。
しかも、『復活』(シモン・チェホヴィッチ画、1758年)のイエスもバアルポーズ。
要は、意図的だ。

話は戻って、システィのあだ名が白猫。
耶蘇では猫は基本的に悪。
イスラムでは善なのに注目。
エジプトのバステトも意識してそう。
システィはカトリックに偽装した異端・異教のシンボル!
マルセイユ版タロットの愚者の中には、猫が愚者の股に手を突っ込んでいるものがあるけど、関係ないからね!
本作の愚者はウェイト版だからね!
あ、でもウェイト版は猫が出ないからマルセイユ版からきているかもね。
あ、それだとやっぱりおまたに以下略。
ラノベはえろえろだからお色気要素を入れてみた。




∸―
重要資料


魔法おっさん(30代無職童貞)‏ @douteimaturi
また、本を濫読しても意味はありません 本当に重要な本は何回も読まれますし、暗記するのです だから、イスラーム法学者がクルアーンや伝承を暗記してはそらんじ ユダヤの法学者はタルムードをそらんじ 儒学者が論語などをそらんじるのは必要だからであり、本は読み込むものであるという事です

もし、私が初等教育の学校を日本で作りたいと言われたら 4書5教の暗記と解釈論、ギリシャ哲学にタルムードとクルアーンの暗記に解釈論
単純な幾何学と熱力学に化学、天文及び地学を学ばせ、できれば毎日一時間その生徒の親または親戚に今日教えた事を伝え、教えたことを共有してもらいたい

お前ら、中国の学生は道徳教や菜根譚・中庸や大学を読む・暗記それに現代の学者の解釈を知ると同時にクルアーンや共通伝承の六冊にナハジュルルバラーガなどのシーア派の伝承や物語を読み・暗記、勉強しています 勝てるか、ボケ ネトウヨが何言おうが構わんがこっちは現場見て悶絶してるんじゃアホ

子供に様々な事を暗記させたり、記憶をよくさせたいのなら長時間叱る事は絶対にしないでください これすると子供は聞き流す事を身につけて、結果聞いたことを頭に残さなくなります なので、叱る時は簡単で完結に色々と記憶させたいのであるのならば、耳と頭の繋がりを切らさせないことです

理性というのはその自由を得る為の手段であり、理性を獲得していない暗記というのは無意味というより害悪です 知性や理性は暗記ではないのではなく、善悪を確立及び正見が確保された状態を言うのであり 大学というのはこの正見と善悪の確立を確定させるのが本来の大学であり、教育なのです

こんなのは儒学のお約束さえ読んでいれば十分に見通せる話でこの世界で必要な本というのは本当に少ないわけです 四書五経・中国古典・初期仏典と龍樹・クルアーン・ギリシャ哲学・語学書・全部文庫で集めれば一つの本棚で済む量でしかないですが全てはこの派生物でしかないのです

根本義さえ理解出来れば、全てはその派生です なので、根本義だけ見につければ後は洞察でどうにでもなれるのです しかし、最も難しいのはその根本義を教えてくれる教育者を探す事ですが、もし見つけられて師事出来るのであれば貴方は「何者にもなれるでしょうし、何者でもなくなれるでしょう」

漢字の成り立ちと形さえわかれば、漢文は如何様にも解釈できると思う ただ、重要なのは解釈の為の軸を持って解釈をすることで軸がなければその意味を読み取る事はできないわけなのでその解釈の軸を得る・教える事だけが教育でそれを教えない教育は洗脳じゃなくて愚昧教育でしない方がマシである

それでその如何にして解釈するかというのは実際、その場で教えないとわからないのと口頭でやらないと分かりづらいので文面で説明するのは正直難しい ただ、魔法使いの教育は「喋りまくる」事を重視して、書く・読む・議論するの三つを重視してやる、特に議論に関しては毎日する、これでかなり違う

この議論、何でもかんでも議論する 例えば、暗記科目でも議論する・クルアーンの暗記にしろ、宗教令の解釈にしろ何にでも議論する これをすると暗記がかなり早くなる、つまり間違えて覚えていたところは指摘され、恥をかくことで覚える、逆に突っ込んだ側は記憶をより強化させるので一石何鳥である

日本の学習法が何故に悪いかというと喋らせないからで喋らせない学習はすぐ忘れるからである 私が見ている限り、意味ある事・授業の内容などをずっと喋っている学生は常に成績が上位な癖にかなり遊んでいるがそれ以外の時間はずっと授業の内容を喋り続けるのでかなり頭が良かった

逆に親が子供に教える際にガリガリ喋って、理詰めして、関連知を繋げて教えられればショタ魔法使い・魔法少女になる事はほぼ確定でしょう 特に現代は関連知の結び方がネットによって簡単なのと意図的にこういった教育が出来るなら検索の仕方もわかっているので変な解釈にぶつかる事はないでしょう


ねこた‏ @lakudagoya
スピ系の人はこの世はマーヤー(幻)だと言うなら、もっと「五蘊皆空」という言葉が流行ってもよさそうなんだけど、流行らない不思議だ。 カルマだって漢訳されて「業」という言葉になってるし、マイトレーヤーだって「弥勒菩薩」になってるのに、何でカタカナ言葉なんだろう?

(仏教破壊用にスピリチュアルがあるからだよ)

なんかスピ本が300ページやってやる説明を般若心経ではたった一行でやるんだよね。
「五蘊皆空」をうちゅーがホログラムでどうの~とか、あそこまで迷信化させる必要があるんだろうか?って思うぞ。ついでにレプティリアンもいらんだろ?w

何でスピ系は般若心経の「五蘊皆空」四文字を説明すんのに、やれレプティリアンだのああいう話をしないといけないのかね?w この世はホログラムつーより、五蘊を説明したほうがよっぽど論理的じゃまいかw

魔法使いハンターの戦闘スタイルも悪の魔道師の魔法に当たると一撃で戦闘不能になるので、防御よりも回避に特化した構成。 悪の魔道師の魔法を破る最強の呪文は般若心経だな。 五蘊皆空というものがわかれば、やつらの魔法を無効化する事ができる。やつらは五感を使って人を操ってきた。

五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子RT
ねこたさんが追加
愛と虹の天使 フクダルマン @fukudaruma774
我々人間が「現実」として意識しているもの――目に映るもの、匂い、味、音、ものの感触――それら全ては、生理学的に言えば、「脳のシグナル」によって認識されるものである。人工知能だと思われるエージェントスミスはモーフィアスの体臭を憎んだ。彼は何を感じていたのだろうか。
0件の返信 2件のリツイート 2 いいね

※愛と虹の天使 フクダルマンは名前でわかるけどインド系キリスト教=スピ工作員で日ユ同祖論者。






ねこた‏ @lakudagoya
「ロクでなし魔術講師と禁忌教典」って舞台はイギリスに似た帝国なんだけど、おおおおっ!ついにマニ教の専門用語「タウム(双生児)」が出たぞ!この本の作者、マニ教にも詳しいのかっ!なんつーか最近本棚がアーリアン思想全開のラノベばかりなんですけどwww
(マニに啓示を与えた天使の名は、ナバティア語で「アル・タウム」で「同伴者」の意味らしい)

「ロクでなし魔術講師と禁忌教典」は、アクション活劇としては映画を見てるような面白さがあるね。 貴族主義と大英帝国万歳の押し売りがちょーうぜーけど。 でも面白いんだよ。 敵の使う作戦や技が凄く意表を突くもので、こんな手もあったか!と面白い。 生徒はいまいち。ルミアいい子。

「ロクでなし魔術講師と禁忌教典」の中で魔術師の位階が7段階あるのよね。 名前が  1 ウンデ 2 デュオデ 3 トレデ 4 クアンテ 5 クインテ 6 セクステ 7 セプテンデ だったかな?うろ覚え。 セプテンデと聞いたときに思わずセプトゥアギンタか!?とツッコミたくなた

「ロクでなし魔術講師と禁忌教典」というラノベで一番面白いのは、主人公の持つ必殺技「愚者の世界」というもので、一定時間そのエリアの魔術の発動を完全に無効化できるっての。 それくらいの力を持ってるよ、イスラーム側の視点は。 やつらの幻術をすべて木っ端微塵にする力があるもの。

「ロクでなし魔術講師と禁忌教典」も貴族主義と血統主義の押し売りが酷いであるよ。 しかも主人公の就職だってコネで始まるし、それらを正当化する思想が随所にも。 あと貴族主義の押し売りが酷い。 イギリスの貴族主義って大陸に比べて厳格な血統主義だもんな。

この「ロクでなしの魔術講師と禁忌経典」の中に出てくる敵さんたちは、あまりに人材に恵まれすぎててそのあたりが面白いポイントなんだわ。 主人公の戦術もうまいけど。 このラノベに出てくる「天の智慧研究会」の人材にホイホイの性質はとても参考になるものだよ。外道でないこんな組織欲しい。

ああ、きっと、統一教会や生長の家や大本教などのインナーサークルはそーなんだろうね。 一人で一騎当千の働きができるよーに高度な魔導師教育受けてる。 その外道ながらも人材に恵まれすぎた組織の典型例が「ロクでなしの魔術講師と禁忌経典」の「天の智慧研究会」としてある。

最近ナチズム臭いアニメが多い。 そのナチズムってなんか適当に作った感じが強いから大事な所をくり抜いた、イスラム色を完全に抜いたアラビアンナイトのような違和感が。 ラノベの「ロクでなしの魔術講師と禁忌経典」とか、貴族主義の押し付けがましさにうんざり。

この前ブックオフの棚で「ツァラトゥストラへの階段」という作品見つけちゃったんですよねぇ。随分とまーアーリアン思想の強い作品ばかりでww昨日買ってきた「ロクでなし魔術講師と禁忌教典」だって英米系とフランス系の対立あるし、やっぱ娯楽というのは古代から支配者が用意するものなんだね。

ラノベの「ロクでなし魔術講師と禁忌教典」の著者って、現状の詰み状態から予想外の答えを引き出す智慧があるなぁ。この思考の柔軟さと、色々な角度から盲点を探る姿勢は本当に参考になる。下手な陰謀論の本より何倍も有益だよ。

この「ロクでなし魔術講師と禁忌教典」なんですけど、魔法学校モノのファンタジーでは珍しく、生徒ではなく非常勤講師の立場で描かれてるんです。まあ、本人が凄い魔術嫌いなんで、超絶やる気のない授業で蹴飛ばしたくなるけど、本気出せば凄い面白い授業やるし、金八先生みたいなのが楽しいです。

おいらが「ロクでなし魔術講師と禁忌教典」の設定を使って二次創作を作るならば、ファンタジーの魔導師を研究してる学者を出すよ。 それらの哲学は実はここを支える御用理論だったという。 学生には意味のない学問だと思われてるけど、実はそこを支えてた理論的支柱だったというおち。

子子子子子@4記事更新‏ @kitsuchitsuchi 2014年8月1日
魔術(魔法)とは 「戦争(死と再生の儀式)で人間を間引きし世界を更新する術」(たんぽぽ)
「神(支配者)が思うままに家畜(人間)と自然を管理し支配する為の秘密の智識と操作技術」(ねここねこ)
「思うままに意識の中に変革をひきおこす技術」(フォーチュンとバトラー)@lanekota




“グレン『お前達は目に見えないものに対しては異様に神経質になる癖に目に見えるものに対しては何故か疎かになる。魔術を必要以上に神聖視している証拠だ』

『いいか?魔術ってのは超高度な自己暗示だ』
『呪文を唱える時に使うルーン語ってのはそれを最も効率よく行える言語で人の意識を変革させ世界の法則に介入する』
『魔術は世界の真理を追い求める者、なんてお前ら言うけどな。そりゃ間違いだ魔術はな。人の心を突き詰めるものなんだ』
『たかが言葉ごときにそんな力が信じられんとでも言いたげだな。そんなら…』
『おい白猫』
『し…白猫?私にはシスティーナって名前が…』
『愛してる。実は一目見た時からお前に惚れていたんだ』
『はい注目。白猫の顔が真っ赤になりましたね。見事言葉ごときがあいつの意識に影響を与えました』
『言葉で世界に影響を与える。これが魔術…』
『魔術にも文法と公式みたいなもんがあんだよ。深層意識を自分が望む形に変革させるためのな。それがわかりゃ例えば…』
『まぁ、とにかく痺れろ』
『思ったより威力が低いな…ま、これくらいの改変ならできるようになるぜ。深層意識に覚え込ませた術式を有効にするキーワード、それが呪文だ』
『要は連想ゲームさ。例えばそこの白猫の名前を聞いて何を連想するか。呪文と術式も同じだ』
『それがわかればあの程度の呪文改変は難しくない。だがその基本をすっ飛ばしこのクソ教科書でとにかく覚えろと言わんばかりに書き取りだの翻訳だの』
『それがお前らが今までやってたお勉強とわかりやすい授業ってやつだ。アホか』
『今のお前らは単に魔術が使える魔術使いに過ぎん』
『魔術師を名乗りたいなら自分に足りないものが何かよく考えて』
『じゃあ今からそのド基礎を教えてやる。興味ない奴は寝てな』”

『お前らは汎用魔術に対して固有魔術を神聖視しているが実は固有魔術を作るなんて大したことねーんだ』
『じゃ何が大変かといえば緻密に完成された汎用魔術を何らかの形で超えなきゃならないというこの一点に尽きる。じゃねーと使う意味ねーからな』

愚者のアルカナは魔道具
それに魔力を通すことで範囲内の魔術の起動を打ち消す魔術が発動する



598: ななしさん 2017/04/12(水) 01:23:23.05 ID:Dj7l5qUU.net
>>589
つまり相手の魔術を事前に把握する必要もなくて、
魔道具に魔力通すだけでいいわけね
グレンは「このカードに変換した魔術式を読み取ることで」って言ってたけど別に変換してないのはどういうことなのか



616: ななしさん 2017/04/12(水) 01:26:43.91 ID:rxWsW0Vx.net
>>598
カードの絵柄自体が変換された魔術式ってこと



633: ななしさん 2017/04/12(水) 01:32:33.92 ID:Dj7l5qUU.net
>>616
なるほど
無詠唱で起動できるように魔術式を変換したのが魔道具で、
固有魔術って言ってたからグレンしか起動できないってやつなのか
うっかり愚者のアルカナ落としたりしたら終わりだなw
その時はまた再変換すればいいのか

649: ななしさん 2017/04/12(水) 01:36:28.12 ID:kM6R0O/u.net
>>633
要するにアレか、パスワード付きのUSBメモリみたいなモンか

599: ななしさん 2017/04/12(水) 01:23:53.32 ID:Bi3OO/eL.net
ズドンさんは他に戦う手段を持たなかったのか



613: ななしさん 2017/04/12(水) 01:26:06.66 ID:NJD4tmBr.net
>>599
正直あのズドンが強すぎるんだよなぁ
あれショック・ボルトと違って生身で当たったら一発で感電死レベルの魔術だし

636: ななしさん 2017/04/12(水) 01:33:50.88 ID:HHQLKFxd.net
魔術師だからこそ魔術封じられた場合も考えて他に闘う手段持ってないといけないわな
実際1つの物に頼りすぎてると痛い目見るからなぁ


653: ななしさん 2017/04/12(水) 01:37:22.01 ID:NJD4tmBr.net
>>636
魔術師って魔術を素晴らしいものだって思ってる節があるからな
魔術さえ使えれば負けないって過信する奴が滅茶苦茶多いのよ
そもそも愚者の世界はグレンのオリ魔術みたいなもんだから魔術を封印される考え自体が無い “
http://anicobin.ldblog.jp/archives/51055990.html
【ロクでなし魔術講師と禁忌教典】第2話 感想 ロクでなしから人気者に

【ロクでなし魔術講師と禁忌教典】第3話 感想 無敵ではない愚者の世界
http://anicobin.ldblog.jp/archives/51104016.html
“<アニメでカットされた部分の補足>
・グレンの愚者の結界は既に発動されたものは打ち消せない
骸骨軍団や剣は既に発動されて具現化済みだったためあれで対処できなかった

・5本の剣は達人の動きを自動再現した3本と手動操作の2本の組み合わせ
これにより達人の動きと攻撃がパターン化しないことが両立されていた

・本来学園の結界は非常にセキュリティが高いのだが、敵組織のスパイ(ヒューイ先生)は
10年近くもの勤務の間にそれを解析したことで書き換えができた
因みにその10年の間にヒューイ先生は結界操作に関しての技術を秘かに極めていた”



(ちゃんと万能じゃない能力にするんだよ!仲間と協力して助け合いができるようにするんだよ!

自動と手動は混ぜるんだよ!
防御は自動化すべきだけどワンパターンだと裏をかかれるから注意。
心理学を最初に学ぶべきというのが私の持論。
心の法則を知っておかないと魔術は使えないよ。

スリーパーが一番厄介なスパイのタイプ。十年以上住んでいたら警戒されないよね)

ロクでなし魔術講師と禁忌教典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%AF%E3%81%A7%E3%81%AA%E3%81%97%E9%AD%94%E8%A1%93%E8%AC%9B%E5%B8%AB%E3%81%A8%E7%A6%81%E5%BF%8C%E6%95%99%E5%85%B8
”魔術
「原初の音」に近いとされる暗示特化専用言語であるルーン言語を用いて深層心理を変革することで世界法則に介入する技術。肉体と精神を扱う「白魔術」、運動とエネルギーを扱う「黒魔術」、元素と物質を扱う「錬金術」、
使い魔などを呼び出し使役する「召喚魔術」がある。また、生命そのものを扱う白魔術と錬金術の複合術を「白金術」という。
魔術師には下から順に第一階梯(ウンデ)、
第二階梯(デュオデ)、
第三階梯(トレデ)、
第四階梯(クアットルデ)、
第五階梯(クインデ)、
第六階梯(セーデ)、
第七階梯(セプテンデ)の7段階の位階が存在し、
第三階梯が学院卒業資格程度、第四階梯が平均的な魔術師が至る最高階位であり、
第五階梯は天才、第六階梯は超天才、
第七階梯は人外と評される。
なお、遺跡調査などで人員を募集する場合第三階梯以上の者には賃金が発生するという規定がある。
文字通り汎用性の高い「汎用魔術」と、「魂の在り方(魔術特性)」を術式に組み込む個々の魔術師によるオンリーワンな「固有魔術(オリジナル)」の2つに分類される。固有魔術の方を重要視する風潮があるが、たった一人で完成させ汎用魔術を何かしらの形で越えなければならないため、時間と金の浪費になる可能性の方が高い。
その恩恵は一般人に還元されないために、産業革命前頃と同程度まで科学技術も進歩しており、蒸気機関などもすでに開発され普及し始めている。
なお古代人たちが行使していた謎の力は近代人にとっての「理解できない力」で理論的な説明が不可能であるため、「近代魔術(モダン)」に対して「魔法」あるいは「古代魔術(エインシャント)」と称されている。

マナ
肉体に内包する魔力の源となるもの。その本質は生命力であるため、魔術を使用しすぎると「マナ欠乏症」というショック症状を引き起こす。

マナ・バイオリズム
人間の生体マナの状態を表す指標の概念。通常の状態を「ニュートラル状態」といい、精神集中や呼吸法によりマナが制御された「ロウ状態」にすることで魔術を行使できるようになる。魔術を行使するとマナが乱れた「カオス状態」に傾き、完全にこの状態になるとどんな魔術師でも魔術を使えなくなる。

基本三属
攻性呪文の基本となる、炎熱・冷気・電撃のこと。この三属性は魔力を物理作用力(マテリアル・フォース)に変換する際の効率がほかの属性より高く、「ツァイザーの三属比」では10の魔力に対して
炎熱:冷気:電撃=約8.5:7.9:8.2という理論的な極大値が得られる。
風の魔術
重力など様々なパラメータを操作する必要があるため攻性呪文としては基本三属に比べて威力的に劣る系統。一方でパラメータが多いということは呪文改変において無限大ともいえるバリエーションがあるという利点にもなるため、柔軟かつ自由度の高い魔術の行使が可能。
軍用魔術
軍属魔導士が使用する戦争用の魔術。殺傷力が極めて高いため学生に習得させることは許されていない。天変地異クラスの威力を誇る戦術・戦略レベルの複数名で行う儀式による大魔術をA級とし、威力規格が下がるごとにB級、C級と名称が変わる。一般にB級の起動ができるかC級の一節詠唱ができるならば超一流とされる。
時間差起動(ディレイ・ブート)
詠唱済み(スペル・ストック)の魔術を任意のタイミングで起動させる高等技法。
二反響唱(ダブル・キャスト)
一度の呪文詠唱で二度同じ魔術を起動する高等技法。セリカはこれをも上回る「三重唱(トリプル・キャスト)」という絶技を使用できる。

遠隔連続召喚(リモート・シリアル・サモン)
遠隔地に複数の使い魔を呼び出す召喚魔術の超高等技法。
条件起動式
対象に初期設定した条件が達成された時に自動で術を起動する、古くから呪い(カース)や制約(ギアス)に使われる術式。自動で起動し相手にバレにくいという利点はあるが起動タイミングが相手の行動に依存するという欠点がある。
結界魔術
数多くの手順を踏んで構築・行使される儀式魔術の一つ。並みの黒魔術を凌駕するほどの防御性能と効果範囲を発揮できるが、その性質から近接魔術戦には不向き。ただしフラウル家が開発した「宝玉式結界」は精度・威力を落とさず近接戦闘でも使用可能。
人工精霊(タルバ)
人工的に神や悪魔、精霊を生み出す禁呪に近い錬金術の奥義。「等価対応の原則」を逆手に取り、魔薬でトランス状態に陥ることで深層意識に暗示認識させ、疑似霊素粒子(パラ・エテリオン)をスクリーンに空想存在を現実世界に具現化させるという荒業。呪文詠唱による深層意識改変の産物ではないため、【愚者の世界】では封じることができない。
治癒限界
ごく短期間内に法医呪文(ヒーラー・スペル)による過剰回復を繰り返すことが原因で、生体組織活動に深刻な障害を与えることによって起きる障害。とある施術回数から効果が極端に低下しさらには肉体の自壊に至る状態のことで、戦場では「癒し手の手を掴む死神」と恐れられている。
眷属秘呪(シークレット)
固有魔術の一種。血中マナ特性(=魔力特性)を術式に組み込む魔術で、一代限りの固有魔術とは違い、その血族が先祖代々受け継ぎ発展させることが可能。
魔闘術(ブラック・アーツ)
拳や脚に魔術を乗せ、インパクトの瞬間、相手の体内で直接その魔力を爆発させるという異色の近接戦闘術。魔力操作のセンスがなければ使えず遠距離火力という魔術の利点を捨てることになるが、使いこなせればその威力は絶大。
悪魔召喚術
概念存在『悪魔』を、この世界に受肉させて具現化、降臨させる魔術。強力な悪魔を召喚・維持するためには多くの人間の魂を生贄として捧げる必要がある。

悪魔
人の共通深層意識下で広く認知・共有された強大な概念存在。人の様々な忌避や禁忌、恐怖が宗教や信仰と結びついて擬人化し概念を得たもの。人の『意識の帳』の向こう側にある『ここではない、どこでもない場所(ネバー・ランド)』『魔界』に住む。現世の理に依る物理的な攻撃や魔術はほぼ通じないという律法が存在する。

異能者
ごくまれに魔術に依らない奇跡の力を生まれながらに体現する特殊能力者の総称。帝国では悪魔の生まれ変わりとして迫害されるが、土着宗教などでは信仰の対象となることもある。
「感応増幅」「生体発電能力」「発火能力」「冷凍能力」「再生能力」「耐熱能力」「耐冷能力」「耐電能力」などが存在する。基本的に魔術と組み合わせることはできないが、「感応増幅者」のように特殊な例外もある。”

『古代秘教の本』の読書メモと、『アークザラッドII』の軽い分析と、お勧め受験参考書紹介:八柏龍紀『日本史論述明快講義』。メーソンは、フランス・ドイツ・スコットランド系(科学重視)と、イングランド・アメリカ系(聖書重視)とでは根本が違うので分けないとだめ。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-31.html
”・ヘルメスはローマでは商人と弁論家と泥棒などの守護神。ヘレニズム時代の哲学者・神秘家はヘルメスは秘められた知識や知識を司る言語と学問の神メルクリウス(水銀)として崇拝された。このヘルメス(+メルクリウス)がエジプトに入ると、エジプト神話で言語と学問を司る書記神にして大魔術師のトートと結びつき、ヘルメス・トートとなった。ヘルメス+メルクリウス+トートは、ヘルメス・トリスメギストス(三倍偉大なヘルメス)と呼ばれた。

・ローマ時代のヘルメス像(後に錬金術のシンボルになるカドゥケウスの杖=二匹の蛇と両翼がある杖、を持つ。履物に羽)の写真が載っている。。

・犬の顔をしたトート神(犬? 頭からトゲトゲ=恐らく太陽光)が右手に一匹の蛇がまきついた杖(永遠の生を象徴)を、左手に♀(エジプト十字)を持っている絵が載っている。
・ヘルメス文書の神話に基づき描かれたヘルメス・トリスメギストスによる人間創造の絵が載っている。

・先史ヨーロッパ巨石文化の遺構である、復元された墳墓(アイルランド)には、ぐるぐる渦巻き模様の巨石がある。

・カエサルはガリア戦記でケルト社会の支配層であるドルイドについて記している。
ドルイドは
①祭司を司る
②司法を司る
③兵役の義務が無い
④納税の義務が無い

⑤身分が世襲でない
(各地から参集する修行者を長期にわたり教育する学校があった。修行に際して文字の使用が現金だった)

⑥霊魂不滅思想がある
⑦天体の運行に関する知識がある。

ドルイドの語源は諸説あるが、ギリシア語のdrus(樫。オーク)と、印欧語の語根wid(知る)に関係があるとする説が最も有力とされる、つまり、樫の木の賢者である。
(印欧語=インド・ヨーロッパ語族は完全に言語学上の概念であり、特定の文化や人種に結びつけることはできません)
よって、樹木崇拝、特に樫の木、樫の木に寄生するヤドリギを重視していたと考えられる。

ローマの碩学プリニウスは博物誌にて、ドルイドによるヤドリギ狩りの儀式を次のように描写している。
まず典礼に則って樫の木の下に生贄と供物が用意される。白い雄牛が二頭、互いの角を結びあわせて連れて来られる。白衣を着たドルイドが木にのぼり、黄金の鎌でヤドリギを切り取る。樹下の人々は白い厚地の布にそれを受け止め、生贄を捧げて神に祈る。
上記の儀式については、フレイザーが金枝篇(クロウリーの推薦書。金枝=ヤドリギ)にて核心をつくイメージを提供し、広く人口に膾炙し、白衣+黄金の鎌+ヤドリギという通俗的ドルイドのイメージが定着した。
・ドルイドによる人身供犠の作法としては、水を満たした大滝に投げ込み窒息死させる、木に吊るして矢を射かけるなどして傷害死させる、俗にウィッカーマンと呼ばれる木製の巨大な人型の中に大勢の人間を押し込め焼き殺す、といった方法が知られている。

・ギリシアの歴史家シクロスは、ケルト人は戦場で殺した敵の首を切り取り、馬の鞍に結んで飾った、と述べている。ケルト人の頭に対する信仰は強烈だったらしく、壁龕(へきがん)の中に置かれたり神殿の壁に嵌めこまれた頭蓋骨や、頭の形に刻んだ石などが、多数発見されている。頭蓋骨には聖なる力が宿り、災厄から守ってくれるという観念があったのだろう。
フランス系ケルト族の聖域に掲げられた、頭蓋骨が埋め込まれた石柱と石の門めいたものの写真が載っている。
・予言や託宣もドルイドの重要な仕事であった。鳥の飛び方や生贄のない像の状態から未来を占うことができたという。タラの神話に語られる牛の夢と呼ばれる儀式では、ドルイドはシャーマンの様相も示す。犠牲として殺された牛の肉を食らい恍惚状態となったドルイドの傍らで呪文が唱えられ、正気に返った後、夢の中で得た託宣が告げられる。

・ドルイドにも輪廻転生思想がありピタゴラス教団との類似性が指摘されるが細部が異なる。ドルイドは、人間の霊魂は滅びることなく、一定期間を経たのち、魂は別の肉体へと移り第二の生をおくるとする。
つまり、ピタゴラス派のような、罪にけがれた人間の魂は輪廻転生を繰返し地上をさまようとは考えていなかったのであり、ドルイドには原罪意識はない。

ドルイドは楽天的な永生への確信や彼岸への憧れがあったと思われる。ケルト神話の一特色である不老不死の楽土ティル・ナ・ノグ(常若の国。とこわかのくに)。

・アイルランドはキリスト教の布教が最も迅速に円滑に進んだ地域。ケルト十字は太陽崇拝の名残かもしれない。
(ケルト系キリスト教アニメのまどマギに多く登場)

・カエサルはケルトの神々をローマの神に当てはめて分類している。
メルクリウスに相当するのがテウタテスと呼ばれ、技芸・通商の神であり、部族的な性格が強いとされる。テウタテスは、マルスに相当する軍神エスス、
ユピテルに相当する雷神タラニスと共に三位一体をなしており、いずれも人身供犠を好んだとカエサルは記している。
なお、これら三柱を統合する神格として光明神ルーフをメルクリウスに同定する見方もある。

アポロンと同一視されるベレノスは太陽神にして病を癒す神で、アイルランドの信念の火祭りベルティナ(五月一日に催される)は、ベレノスに由来する。
(五月一日といえばメーデーというイルミナティの祭典があります。無論、ケルト意識もあります)

・ミネルヴァにあたる神は、女神ブリギット。ブリギットは生命の源を司る大地母神で別名ダヌともいい、ケルト神話で中心的役割を果たすダナーン神族(女神ダヌを母とする種族)の祖である。
冥府の神にして死の導き手である、角が生えている神ケルヌンノス(角を持つ者の意)。
魔女(古代の異教的知恵に通じた在野の賢者)たちの夜宴サバトで崇められる雄山羊の神は、まさにケルトの有角神ケルヌンノスそのものであり、祭司の呪文にはその名も登場している。
(魔女を敵視するケルト系キリスト教アニメであるまどマギの鹿目まどかは、鹿=ケルヌンノス、に女神ダヌの要素を加えた、目〔あの一つ目〕と円=輪廻なキャラ。最終的に輪廻から魔法少女らを解脱させ、死者を導く。杏子はクリスチャンで胸のソウルジェムが眼の瞳)

アイルランドやウェールズで盛んになっているドルイド教復興運動などは、自然回帰や古代回帰を指向するニューエイジ系の宗教の動向と切り離しては考えられないだろう。

・馬にまたがった女神エポナ。
(ゼルダの伝説でリンクが乗る馬の名前)

・デンマークのゴネストロップで出土した紀元前一世紀ごろの大釜
=グンデストルップの大釜(グンデストルップのおおがま、Gundestrup cauldron)
の画像を見るとわかるようにケルヌンノスが描かれている。
(マナナン・マクリルは、ケルト神話=アイルランド神話に登場する海神にして魔術師。
ティル・ナ・ノーグ=常若の国の王とされる。彼の養子であるルーに与えたのが、決して的を外さない十字剣フラガラッハ。コーマック=コルマク・マク・アルトに与えたのが真実のゴブレット。他には炎の兜、魔法の船「静波号」〔ウェイヴ・スウィーパー。鎮波号, WaveSweeper〕など、多くの魔法の品を持つ)

・タキトゥスの『ゲルマーニア』によると、ゲルマン人が最も崇拝しているのはメルクリウスにあたる、死と戦争と知恵を司るオーディンだという。ローマと北欧の神々の対応関係は、英語やドイツ語、スカンジナヴィア語の曜日名に名残を留めている。メルクリウスの日=ウェンズデーがオーディンの日を意味する。

ヘラクレスは北欧神話最強の闘神トール、
マルスは軍神・法律神チュールであると考えられる。
オーディンには人身供犠を差し出すことになっていたが、チュールとトールには獣類でよかったとされる。
北欧神話『ハヴァマル』によると、宇宙樹ユグドラシル(オーディンの別名たるイグの馬=ドラシルを意味する)の樹上に九夜にわたり吊るされたオーディンは飲食物も得られぬまま槍によって傷つけられ、自らをオーディンに捧げた(自分自身を自分に捧げた)。すると、オーディンの呼び掛けに応じ、ルーン文字が啓示された。こうしてオーディンは秘められた知識と詩歌の才能を獲得したというのである。
死の神、戦争の神、神秘的な知恵の神オーディンのみが、密儀において人間を要求し、そして最も崇拝されている。

・北欧ゲルマン神話では、最高神オーディン、ヘーニル、ローズルの三柱により、人間は樹木から創造される。
まずオーディンが息を吹き込み、
次にヘーニルが魂と考える能力(知力)を与え、
最後にローズルが感覚と肉体的な外観を付与した。
ちなみに、アイスランドに伝わる『巫女の予言』は「古エッダ」に属する貴重なものであるが、それには、樹木に対してオーディンが息を、ヘーニルが心を、ローズルが血と声と姿をそれぞれ与え、人間が誕生したとある。
そして最初の人間は男がアスク、女がエムブラという名前を与えられ、夫婦となった。
男性がトネリコ、女性がニワトコの樹から創造されたといわれている。世界樹ユグドラシルは巨大なトネリコとされる一本の樹木であり宇宙全体を組織している。ドルイドはトネリコを聖なる樹木として扱っていた。
なお、巨人ユミルの左わき腹から人類が生じたという異説もある。
↓では脇の下から男女誕生だから訳の違いかな。
北欧神話の人間創造~はじめ人間?
http://www.moonover.jp/2goukan/north-s/mine9.htm
(ということは北欧神話は男性原理なのかな)”


完全金属騒動が面白すぎて小説家目指したらしい。

Noah@趣味垢‏ @Noah4510471 4月2日
完全金属騒動とか絶対フル〇タル〇ニックじゃんww #ロクでなし魔術講師と禁忌教典

• • みつ‏ @3ckey16 2011年1月4日
フルメタル・パニック→完全金属騒動


日ユ同祖論、景教渡来説、スピリチュアル、神智学は仏教破壊用の兵器! 【落語風解説】 『真釈 般若心経 』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-114.html

斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html


道徳教や菜根譚・中庸や大学
四書五経・中国古典・初期仏典と龍樹・クルアーン・ギリシャ哲学・語学書・全部文庫で集めれば一つの本棚で済む
の暗記と解釈論、ギリシャ哲学にタルムードとクルアーンの暗記に解釈論
単純な幾何学と熱力学に化学、天文及び地学


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お読みくださり感謝
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ヤマギシ会所属歴ありで「大本教は研究しない」宣言をした島田裕巳『日本の10大新宗教』(と『整体入門』) 

仏教が「これをやると幸せになれない」ことを実践しまくっているのが今の支配層。
天理教は一神教だと自分で言っている。神道は耶蘇の隠れ蓑!
老壮会/老荘会(ろうそうかい)がやばい。メンバーに下中弥三郎と大川周明がいるし、名前が道教系で、母体に内田良平(黒龍会主宰かつ紅卍字会員)がいるから、紅卍字会の傘下かつ大本教系。
日本にイスラム思想を入れたやつらが神智学まじりの神道カルトだからはじめから歪んでいる。
大本教完全否定のムスリムの情報が重要。
つまりおねしょた兄貴は超貴重。

大川周明はシュタイナーの社会三層化論を日本に紹介するなどスピ系=インド風の耶蘇の影響を受けている。
クルアーン全文を翻訳。

下中弥三郎は大アジア主義者で、大川周明とも関係が深い。
下中弥三郎『すめらみこと信仰 : 万教帰一の最高具体標識』
下中弥三郎が関わった平凡社(百科全書派)・啓明会・七人委員会・世界連邦運動。
下中弥三郎(平凡社の創業者)は璽宇(大本教と提携している世界紅卍会道院信者の呉清源が信者のカルト)のスポンサー。
下中は第二次大本事件前に『出口王仁三郎全集』を企画し、刊行。
大々的に販売し全国で数万部売れたともいうが下中の璽宇とのかかわりも大本との関係が元にあったものと思われる。
下中弥三郎は大東社メイソンだろうね。でもスピリチュアル系の大本も支援。左右の胴体側かな。
ロッジに問い合わせたら教えてくれるか不明。

イルミナティの実行部隊名を大量に紹介します~下中弥三郎+百科事典+教育系の組織。大アジア主義者で万教帰一賛同者の下中弥三郎はメーソンで、大本教や天津教などとも繋がりがあります。~
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-4.html

バチカンの科学弾圧により秘密結社=科学研究所誕生。
百科事典=聖書を否定する科学の本。
1728年チェンバーズ百科事典
1751年百科全書(↑の影響)
1768年ブリタニカ百科事典
1914年平凡社(下中弥三郎)
1919年啓明会(同上)
下中弥三郎は万教帰一(宗教統一)賛同者。

‘55年11/11発足の世界平和アピール七人委員会。
初代委員:下中弥三郎(提唱者。人選でも中心)、
植村環(日本YWCA会長)、
茅誠司(東大総長)、
上代たの(日本婦人平和協会会長)、
平塚らいてう、
前田多門(新渡戸稲造の弟子)、
湯川秀樹。

∸――
仏教が「これをやると幸せになれない」ことを実践しまくっているのが今の支配層。

大乗仏教では仏性、
ストア派では理性、
グノーシスでは神性、
これら三つは人間の平等性を説く根拠。

ただし大乗仏教では一切衆生悉有仏性なので人と人以外の生物との隔たりが弱め。
あと理性も神性も不滅ではないし、よって不滅の霊魂も否定。
仏教だけ本当に他の宗教と比べて異質だよなあ。

数秘術で思ったんだけど、マニ教の終末の炎は1468年続くとあるけど何か使われている実例が見当たらない。四桁はさすがに埋め込みにくいなあ。


∸―
心の問題うんぬんではぐらかし、宗教は生活基盤であり社会システムであることを隠そうとする人が多い。
議論が劣勢になると言葉や客観的物証を否定して誤魔化すスピ系信者に対して、

「貴方の言語能力が低くて議論できませんってことでOK?
支配層製スピリチュアル教義の言葉に縛られている貴方が言葉を超えるなんて不可能。
なので『言葉を捨てろ』は滑稽。
スピ系のように言葉と理性を捨てると、理性的対話ができなくなるのですね。
私は幼児化したくないので、言葉と論理できちんと議論ができることを重視。
ロゴスを最終的ではなく最初から捨てろと言うスピ系の本音は「幼児化しろ」では?
スピ信者が好むインド思想はロゴス『も』重視」なのはご存知?」

私が必読リストに入れているのは「言葉に操られずに言葉を操れる人」。
「言語能力(文章・論理的思考・文脈を読む・語彙力)が高い
=支配層に都合が良い定義の言葉に縛られている度合いが低い」

劣勢になると言葉じゃないってごまかす奴は工作員でなくとも知力が弱い。

宗教は社会システム。
心の問題ではない。
心は主観的すぎるので詭弁に多用される。
支配層が悪用してるのが問題だからね。
支配層にとっては道具である宗教の使い方が問題。
末端信者の心なんてそもそも問題にしていない。
心ではなく「どう動くかか、操られるか」が問題。



=主観依存すぎて客観的共有が出来ないので議論に使うと「人それぞれ」と同様に「議論は嫌!」という意味にしかならない詭弁用語。「心の問題」という表現が多い。

本人の日本語能力(論理的思考と文脈を読む力含む)はツイートを読めばわかるし、
本当にすごい人は語彙からしてレベルが高いからね。
言葉に操られずに言葉を操れる人以外のツイートなんて読んでいる暇がないよ。
定義をまともに示せないってことは自分で何言っているかわかっていない証拠か、
騙す意図が見え見えなのでどちらにせよ相手にする価値無し。

心云々で、
メーソン=反カトリック≒プロテスタント。
元祖イルミナティ=反カトリック教会≒プロテスタント内の反王政
などを隠すからね。
中身=定義を示すと正体がばれるから定義を聞くと退散するよ。

∸――

本記事にも登場する、活元運動という、野口先生が神道の霊動法から宗教的な要素を抜いた健康法がある。
宗教色をわざわざ抜いたのに戻すのがカルト。
大本系の世界救世教系がこの活原運動を悪用している。
教祖の力で止まったとか、霊が憑りついたとか詐欺の温床。
単なる技術であり信仰対象ではない。
必要な時だけ偶像は作り使ったら即捨てて焼き払わないといけない(魔術師が儀式前と後に必ず行う退去)。
神秘は外部ではなく自身こそが神秘の一部をなすのにね。

初期仏教もユダヤもイスラム偶像崇拝禁止。
偶像は潜在意識に干渉してくるから厄介。

東洋の解剖図が実際にはない内臓があるぞと指摘して悦に入る西洋医学一辺倒野郎がいるが、
そもそも解剖して目で見える内臓のみを記述すること自体が西洋思想。
エネルギーが集まる場所とか人体のエネルギーの流れの拠点とかは一切考えてないあたりが浅い。
チャクラも解剖しても見つからないと批判するのかな。

「存在する」の定義が違う。
西洋…解剖して物理的に認識できるものは存在する
東洋…物理的でなくてもエネルギーが心に感じられたら存在する。
∸―

小森健太朗‏ @komorikentarou 1月22日
河口慧海の『チベット旅行記』電子版で読んでいると、神智学関係者との接触の話が出てきて興味深い。ところで大川周明がイスラム講義のタネ本に使った「クルアーン講義」の著者Ahmed Shahも「チベット密教」とか「インド神秘思想」などを著している神智学系の著者なんだよなー。



















以下本文引用。 《書簡の送付先は天理教信者として公表されている
柳沢伯夫・厚生労働、
甘利明・経済産業、久間章生・防衛、
高市早苗・内閣府特命の各大臣(資格をもつ信者を表す「ようぼく」)と、本部で教理受講中の信者を意味する「別席運び中」の伊吹文明・文部科学、長勢甚遠・法務の両大臣。》

jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-04-09/2007040914_01_0.html …よりまとめ。
#天理教 #柳沢伯夫 #甘利明 #久間章生
#高市早苗
(上記四名は、資格をもつ信者を表す #ようぼく )
#伊吹文明 #長勢甚遠
(上記二名は、本部で教理受講中の信者を意味する #別席運び中 ) (※敬称略)

ふぎさやか ‏@maomaoshitai 2014年5月3日
そういえば天理教は実は一神教で世界と人類の創造主は天理王命(通称親神)ということになっています。私もよく知りませんが、ここはキリスト教の影響も受けているのかもしれませんね。幕末には漢訳の聖書も手に入れられたようですし、本格的な発展は明治以降ですから。




魔法おっさん(30代無職童貞)‏ @douteimaturi 3月25日
シンボル解釈する際は必ずその土地に近いもので解釈しましょう この場合の近いというのはその象徴が発生した周辺の神話や伝説・習慣等の俗習的なモノから引用する事です 往々にして、その象徴には俗的な不満などが詰まっているのでそこから見る事です 西洋画が何故に全裸が多いのと同じです
なのでシンボル辞典を引用する際は必ず土地の歴史や民族と民俗を理解した上で読み解きましょう 西欧の秘密結社みたいに中東のシンボルをアフリカの民俗・アメリカ原住民の民俗で読み解くみたいな欺瞞的普遍・不変主義みたいなことをしない様にそれすると大本みたいなバカが発生するのでやめましょう

つうか、日本にイスラームを持ってきたのは大本系でしょ
大川周明先生とかのアジア主義者がアジアの思想的統一=大本の思想強化と確立の為に持ち込んだのが現代日本イスラームの始まりと見ていいでしょう
その為、日本でイスラームというと見ている限り神道カルトがかなり関係している


おねショタ魔法使い初級おじさん ‏@douteimaturi 2016年10月6日
やっぱり、ヤソは明白な邪教だわ
何で邪教かって?奴らはヤソ以外を悪魔つきだと考えているところなわけでそんな全方面に喧嘩売っている宗教が平和言うのはヤソ以外全部滅びせば平和という事を言っているわけでこんなおぞましい邪教が世界中を汚染し、破壊しているのは必然の事態と言える




【優れた要約】
ゆらゆら ‏@yuurayurari 2013年7月15日
熱波は金井センセイ人気か満席で入れず。10大新宗教を読むことに。はじめに、から様々な論点が出され興味深い。第1章は天理教。著書が大学3年のときに訪れた天理市は宗教都市だったとのこと。行ってみたいな。

新宗教の発生時期3大学説。
①天理教などが生まれた幕末維新期。
②大本教が誕生した19世紀終わりから20世紀はじめ。
③立正佼成会や創価学会が拡大する第二次大戦後。

10大新宗教。①天理教。奈良・丹波市村の中山家に嫁いだ中山みき(享年90歳)が教祖。「お産の神様」として周辺地域で活動。同業・権力からの迫害を避ける為に長男秀司は京都の吉田神道や真言宗の傘下に入る等立ち回る。芹沢光治良『教祖様』はみきの伝記。大西愛治郎の「ほんみち」は分派。

戦後の天理教を教祖の元の教えに回帰させるようとする試みの先頭に立ったのがみきの曾孫・中山正善。東大宗教学科に学んだインテリで、稀覯本の蒐集家としても知られ、皇族とも付き合いがある、とのこと。

ゆらゆら ‏@yuurayurari 2013年7月16日
10大新宗教。
②大本教。京都の福知山で生まれたなおが、綾部の出口家の養子になり婿養子を迎えた。金光教の枠内で活動始めるが終末論的世直しの性格を持つように、更に娘婿の王仁三郎登場。小山内薫や芥川龍之介にも影響を。高橋和巳「邪宗門」
出口和明「大地の母」
富岡多恵子「三千世界に梅の花」。

王仁三郎は一時幹部と対立し大本教を離れるが2年後戻ってきて旺盛に活動再開。
大正維新を掲げ、大阪の有力日刊紙・大正日日新聞の買収など。第一次大本事件という弾圧にもめげず、大陸進出、エスペラント、南洋諸島開発、レコード・映画製作。昭和維新→第二次大本事件(1935年)。

10大新宗教。③生長の家。海外(特に戦後ブラジル)の信者数が国内より多い。教祖・谷口雅春(明治26年、神戸市生)、早大文学部でトルストイの人道主義等に惹かれる。大本教へ入信するも違和感から脱退。清貧、菜食主義、執筆。1929年雑誌「生長の家」創刊=運動の核、読むと病気が治るとも。

画家・松本峻介も一時期入信して「生長の家」の表紙を描いたりしていたが、3年ほどで離れる。また大宅壮一が批判記事を書いたりも。いずれも、哲学を説く思想団体から現世利益を喧伝する宗教団体へと変わっていったことが背景に。戦時〜戦後は、天皇崇拝、保守思想に傾くも冷戦終結で存在意義薄れる。

10大新宗教。④天照皇大神宮教。教祖・北村サヨ(1900年、山口県生)による歌説法。信者は「無我の舞」を踊り「踊る宗教」とも。戦前サヨは生長の家に入ってた。戦後上京し46年高田馬場駅ホームで初歌説法。52年ハワイへ進出 。58年「婦人公論」で深沢七郎と対談。67年没後孫娘が継ぐ。

10大新宗教。④(天照皇大神宮教との関連で)璽宇(教)。璽光尊こと長岡良子が中心。天照皇〜のサヨ同様、天皇の人間宣言により空白になった現人神の座を生き神として継承しようと。46年引退後の双葉山が呉清源に伴われ杉並区関根町(現上荻)の璽宇を訪問、翌年金沢で検挙。下中弥三郎の支持も

10大新宗教。⑤立正佼成会。高度経済成長期に第二・三次産業に就く為地方から都市に移ってきた労働者を信者に拡大。庭野日敬(1906年、新潟県生)が子どもの病から霊友会に、天理教徒だった長沼妙佼(1889年、埼玉県生)は日敬に出会い霊〜入りするが38年教祖への違和感から共に独立開祖。

基本は法華系。先祖供養、妙佼の霊感、日敬の姓名判断、法座(10〜20人が車座で話す)。56年読売新聞に土地買占批判されるも読売を自分たちの行き過ぎを戒めた「菩薩」と。57年妙佼死後は日敬が教義体系化。杉並区和田に本部、大聖堂、普門館(全国大会開催の吹奏楽の聖地)、佼成学園の中高。

10大新宗教。⑤(立正佼成会の母体としての)霊友会。三重県生れの西田無学の仏所護念会が基になり、縁のあった久保角太郎(1892年、千葉県生)とその兄嫁・小谷喜美の男女で発足(立正〜も同様)。久保が組織をまとめ、喜美が神懸かりする霊能者という分担。戦前から現在まで多くの分派を生む。

10大新宗教。⑥創価学会。日蓮・法華系の在家仏教団。「折伏(しゃくぶく)」による積極的な布教活動。創立者・牧口常三郎。北海道の師範学校で学び(小学校校長歴任)、日蓮正宗に入信。先祖供養を否定し霊的なものへの関心を持たず。元は創価教育学会という名で、教育者の団体という性格があった。

息子戦死のショックから獄死した(伊勢神宮のお札・神宮大麻を焼却させ投獄)牧口の後継、二代会長・戸田城聖は学習塾経営等実業家の才あるカリスマ。創価学会に名称変更、会長就任51年に75万世帯の折伏を死ぬまでの目標に掲げ(当時会員は千世帯前後)、実現(58年死去時には会員百万世帯超)。

戸田の攻勢。55年「小樽問答」(日蓮宗僧侶との教義をめぐる議論)、57年日本炭鉱労働組合との戦い(炭労の学会締め出しに対して青年部800名を行動隊として北海道に送り込む)。国立戒壇のために政界進出(政党結成、衆議院進出は否定→この二つを実現したのは60年就任の三代・池田大作)。

敗戦直後に折伏され入信した池田は傘下の出版社や信用組合の立直し等で頭角を表す。会長就任は32歳。創価学会を厳しい批判する人物や組織を「仏敵」と呼び対決→70年「言論出版妨害事件」から政教分離の明確化。70s後半日蓮正宗との対立が契機で会長辞任するも90sの同宗との決裂で「復権」。

10大新宗教。
世界救世教団。岡田茂吉が開祖。尾形光琳の紅白梅図屏風、野々村仁清の色絵藤花文茶壺等国宝があるMOA美術館@熱海はMokichiOkadaAssociationの略で地上の天国として建てられた。岡田は大本信者の経歴があり手かざし(浄霊)を救済システムの中核に据えた。

岡田は浅草の露天商の家に生れ一時画家を志するも肺結核を病み断念。1920年に大本に入信し、31年には夢で啓示を受け開眼、「岡田式神霊指圧療法」等独自の活動を展開し34年に脱退。翌年大日本観音会という宗教結社を組織するも医師でないのに医療行為を行ったと検挙され大日本健康協会に改称。

戦後日本浄霊療法普及会を経て熱海に日本観音教団を再建。観音信仰を背景に手かざし「お光さま」を行う。50年に世界救世教に改称し教団近代化を進める。直後脱税・贈収賄で有罪となると、美術品収集、自然農法の普及などにも手をのばす。55年岡田没後は小山美秀子の神慈秀明会等多くの分派を生む。

ホリエモンって東大の宗教学科にいたと思うのだけど、きっとそこで「人を集める」みたいな原理を宗教から歴史的に学んでそれを応用してライブドアを発展させたのかなあとふと思った。当てずっぽうだけど。

10大新宗教。甲子園と新宗教。全国私立高の約3分の1が宗教団体を経営母体としてる。うち6割がキリスト教系、仏教系は3割、神道系はごくわずか。新宗教は20校程。が、天理高校、PL学園、創価高校、佼成学園、智辯学園・智辯和歌山(辯天宗)、金光大阪(金光教)等多くが野球に力を入れてる。

10大新宗教。⑧PL教団。教祖・御木徳一は1871年松山の商人の家の生れ。父が商売に失敗、寺の養子に出され住職になるも生活が立ち行かず23歳で妻子と大阪へ出て商売を始める。そこで金田徳光(弘法大師信仰→御嶽教=山岳信仰)に出会い徳光教の信者に。徳光はPL教団では「幽祖」とされる。

1919年に徳光が亡くなると後を継ぎ、25年御嶽教徳光大教会本部を設立、28年扶桑教に移り31年扶桑教ひとのみち教団を立ち上げる。この頃、朝参りという早起きの徳を強調する行事始まる。ひとのみち教団は中国や朝鮮半島にも進出し、34年2万人収容の大本殿を大阪に作り信者は百万を超える。
「人生は芸術である」の通り社交ダンスを布教手段に取り入れ芸術雑誌を刊行したりした。毎年8月の徳一の命日には所有の聖丘カントリークラブで12万発(!…隅田川で2万発)の花火大会を行ってる。また370床の総合病院を持ちレジャーランド(PLランド、閉鎖された)を作る等他に類を見ない。

35年第二次大本事件を始め国家が新宗教を警戒すると、体制に従順だったひとのみち教団も特高により解散させられる。不敬罪で徳一は取り調べを受け保釈中に死去。息子で共に活動していた徳近も同じく不敬罪で入獄。終戦後出所すると教団再建の動きが始まりパーマネント・リバティー教団に改称。
パーマネント・リバティーからすぐにパーフェクト・リバティーに改称、46年に佐賀県鳥栖の徳近の妻の実家、でPL教団の立教、47年には基本教義21カ条(徳近が神から啓示を受けた)発表。第一条人生は芸術である、二・人の一生は自己表現である、九・人は平等である等戦後的価値観を反映。

10大新宗教。⑨真如苑。開祖・伊藤真乗(1906年山梨県生)。代々易学が伝わる家で母は天理教信者。17歳で上京し飛行機エンジニアに32年従兄妹の内田友司(霊能者家系)と結婚。36年会社を辞め宗教家として独立する覚悟をし真言宗の修行を。が、長男(1歳)、戦後次男(15歳)を亡くす。

子の死を「抜苦代受」(人の苦しみを代りに受け亡くなる)として乗越え活動を続け大阿闍梨(真言宗の高位僧)に。38年真言宗(醍醐派)傘下で立川不動尊分教会を設立、戦後独立し「まこと教団」設立。友司の霊能者家系の修行も取り入れ真言宗と別方向に。50年修行中にリンチを行ったと告発される。

この「まこと教団リンチ事件」で悪化した教団のイメージアップのため53年真如苑に改称し、友司が苑主になり自身は一歩退く。52年次男の死後「涅槃経」(一切衆生悉有仏性)に出会い57年から仏像制作も始める。67年友司が亡くなり「霊祖」となる。89年真乗死後(83歳)、三女・真聰が継ぐ。

真如苑の中心は「接心」修行という教義独自の秘儀。神懸かりよりもカウンセリングに近い。誰もが霊能者になれるという。世直し的性格、終末思想等も持たず、現世利益を説くが創価学会・立正佼成会ほどアグレッシブではない。信者は両者が爆発的に拡大した高度経済成長期のあとからじわじわ増えてった。

2001年日産工場跡地の取得、07年『真乗 心に仏を刻む』(中央公論新社刊)ベストセラー等現在も活動的。信者公称90万人。宗教ブームの80年代バブル時代に沢口靖子らの入信が報じられる等話題に。立川に本部、応現院がある。応現院は宗教施設というより病院か大学のキャンパスの様な雰囲気。

10大新宗教。(10)GLA。教祖・高橋信次は1927年長野県の農家の家に生れる。戦後日大工学部に学び50年小さな町工場を大田区池上に作り64年大森に高電工業(現在も)を設立。古代エジプトや中国の霊が降りてくる等霊的体験をし68年本格的な宗教活動開始(松島幸之助の霊が降りたり)。

69年「大宇宙神光会」発足70年GLA(God Light Association)に改称。霊言が古代インド語やアトランティスの言葉でなされる等、時代のオカルト趣味とも合致。が、76年高橋は亡くなる。活動は10年未満、生涯専門の宗教家とならず。妻が事業を、娘の佳子がGLAを継ぐ。

高橋は真のメシア「エル・ランティー」、佳子はその助力者「大天使ミカエル」と呼ばれた。佳子を支える教団の青年達は「ビバ・ミカエル」と叫び肩を組んで歌い熱狂的ファンとアイドルのような雰囲気が生れた。古くからの会員が去り、その後講演会(集団的なカウンセリングのよう)開催等現実路線へ。



・天理教教祖のみきは外部の人間には精神異常に見えたが、激しい神がかりを繰り返す彼女を見た信者はそれこそ彼女が神である証だと考えた。

みきがお産の神様として地域の信仰を集めるようになると、同業の民間宗教家と対立するようになる。迫害も受けた。
みきの長男秀司は、京都まで出向き、神社の総元締めである吉田家に入門。吉田家の権威により周囲の民間宗教家からの迫害を避けようとしてのことだった。

中臣六根、御潔めの祓いといった神道式の儀礼を学んだ秀司が中山家に悖ると、神主の格好でそれらを実践した。
天理教の「みかぐらうた」「おてふり」はこれ以降にできるので、吉田神道式の儀礼の影響だろう。
また、吉田神道の影響は天理教の祭神にも及んだ。
当時は、現在の天理王命ではなく、天輪王明神という記紀の十二柱の神々が合わさったものが神だった。
吉田神道では国常立尊を宇宙の根源的な神である大元尊神としてとらえ、一神教的な性格を持っていた。
室町時代末期に吉田神道を集大成した吉田兼倶は、宇宙の根源神である国常立尊から自分に至る血脈を想定していて、その中には、天輪王明神を構成する十二柱の神々のほとんどが含まれていた。
新宗教は既存の宗教的伝統の上に登場する。
天理教は仏教からも強い影響を受けている。

例えば、天輪王の元は仏教の転輪王だと考えられる。
釈迦が誕生したとき、将来において悟りを開いてブッダとなるか、世界の支配者である転輪王になるかそのどちらかだと予言されたという伝承があり、転輪王は仏の世界と世俗の世界両方に通じる神聖王とされている。
また、「ぢば」に据えられた「かんろだい」のもとになった甘露も仏教用語で不死の妙薬である。
教会本部の中心は「ぢば」と呼ばれ、人類発祥の場所とされる。天理市の本部に礼拝に行くことは「おぢばかえり」と呼ばれ、駅には「お帰りなさい」という看板がある。

(吉田神道は一神教的ではないよ。ごちゃまぜ宗教だから神道なのか怪しい。
仏より神が上=反本地垂迹説(神本仏迹説)
=仏教否定しそうだから天理教は採用したんでしょ。
天理教は一神教って自分で言ってるし
清原枝賢(きよはら・しげかた、1520~90)というキリシタン公家は唯一神道の確立者である吉田兼倶の曾孫。
彼の娘マリアは細川忠興夫人に侍女として仕え、セスペデス司祭の指導の下にガラシャの霊名で洗礼を授けた。
神道は耶蘇の隠れ蓑!


九十歳で亡くなった教祖中山みきは肉体としての身はなくしたもののその魂は今でも教祖殿にあって、人々の暮らしを見守っているという信仰がある。よって教祖に対して一日三度の食事が供えられ、季節ごとに衣替えされ、テレビ普及後にはテレビも備え付けられている。
高野山でも空海は今も生き続けているという信仰があり、同様に食事がそなえられている。
おそらく天理教は高野山のこの信仰を取り入れたのだろう。

みきは九十歳で死んだが、生前に人間の寿命は百十五歳までと公言していた。九十歳という早すぎる死は予言外れ、神の約束破りにあたる。
みきには後継者が決まっていて、大工の棟梁だった飯降伊蔵であり、彼も生前から神がかりした。
彼は神がかりし、みきが百十五歳の寿命を二十五年縮めて信者たちの救済にあるのだという意味の言葉を下した。
この言葉が下されるまで、みきの死から六日かかっている。
教団は決定的危機を回避。

(都合いいなあ嘲笑苦笑。
六日間もめたんだろうなあ。
初代教祖が死ぬと危機に陥るのはどの宗教でも同じだなあ。

予言と終末論系は教団が長く続くほど信憑性が薄れていくのもまずい。
「その時」を一万年後に設定して、予言成就の日時を過ぎることを回避しても、教団の思想自体を否定する思想が出てきたらだんだん教団の力は弱まっていく。
特に科学、理性主義、啓蒙思想あたりが天敵。
なお終末論系は世界の終わりを言わなくても、
「未来は必ず良くなる。今は痛みに耐えろ。現状を根本的に改善することはするな」なども含まれるよ


天理教は、みきの死後、教派神道の一派として公認され、それから比較的自由に宗教活動ができるようになる。

天理教は社会的に認知されるために政府に積極的に協力。
戦争が起これば、航空機などを寄付したり、志願兵の応募に積極的に応じた。
満州国が誕生すれば満蒙開拓団にも参加。
教義でも独自の神話を表に出さず、
教典も国家神道の体制に迎合するものに改めて布教を展開。
この教典は現在の教典とは違うもの。
教部省の教則三条の「天理人道を明らかにすべき事」に基づき名称を天理教に改めた。

(うげげ。媚び媚びじゃん。名前まで迎合かよ。
戦後には本当は平和に願っていましたなんて白々しい嘘をついているんだろうなあ。
東京オリンピック中止発表ぐらいに戦争が起こりそうだけどまた協力するんじゃないの?
生長の家よりは戦争協力は消極的だったとか言い訳しそうだが、生長はレベルが違うだろ


天理教が対象の終わりから昭和の初めにかけて信者が急増し都市部を中心に急速な拡大。
このころ天理教は搾取の宗教ともいわれた。
信者の大半が庶民で、信仰の証に布教活動にすべてを費やし、稼いだ金は皆教団に献金してしまったからである。
「貧に落ちきれ」という教義がある。教祖伝にみきが際限なき施しを続けたせいで中山家が没落したとある。これをモデルに教団への献金が勧められた。だが、みきが際限のない施しをしたという証拠はない。地主であった中山家が没落したことは事実だが、原因は米や綿の相場に手を出し、それで損失したから。
信者に献金を迫るため伝承が造られ、信者に伝えられたと思われる。

(まじ搾取の宗教だな!
献金させるために伝承も捏造!
没落理由が相場に手を出し失敗したからって情けないなあ。
教祖の施しの対象って教団じゃねーだろ。
金に困っている人に直接施せよ!

漢字変換ミスで、しん「邪」って出て苦笑。真邪だったら爆笑してた)

・戦後の天理教は国家神道の影響で歪んだ信仰を正し、教祖の元の教えに回帰することを試みた。
先頭に立ったのが二代目真柱、中山正善。彼は東大宗教学科で学んだインテリで珍しい文物や稀覯本の収集家としても知られ、今日の天理参考館や天理大学図書館に結びつく。皇族ともつきあいがあり庶民である信者とは対極。

(天皇人脈の一角が天理教=一神教)


・天理教の特徴は分派が多いこと。
飯降の後、神の言葉を取り次ぐ存在が途絶えたので誰もが天理王命の啓示を受けたと主張できるようになったから。ほんみち(もとは天理研究会)が有名。

神がかり系は分派ができやすい。言ったもん勝ちだから)


・大本
(大本って書くと初見の人が一般的な意味か宗教団体かわからないからそれに配慮して大本教ってかいているのに、正しい読み名も知らないのかってケチ付けて来るやつがいたな。私が知らないとでも思っているのかなあ。あまりに大本大本言い過ぎてそれが一般的意味とかけ離れすぎていることを自覚できなくなった信者っぽいなあ)

大本教関係者が出した小説『大地の母』
を刊行したのは毎日出版社。
毎日は大本が二回目の弾圧を受けた際にその先頭に立って反大本の社会風潮を扇動した。
『大地の母』を著者の島田が知ったのは1980年前後に古武術の甲野善紀を通して。
氏とはその時一度しかあっていない、氏は『大地の母』の面白さについて熱く語った。図書館で借りて読んだ。大本がモデルの『邪宗門』は既読。

(武術カルトの甲野は大本人脈。まさかの登場。ナンバは江戸しぐさのような偽伝統らしい)


・著者の島田は『大地の母』を読んで大本に対する印象は一変した。大本のことだけは研究するまいとも思った。研究者が扱える世界ではなかったからである。大本におこったことを合理的に解釈することなどできない。
『大地の母』 の作者は膨大な事実に基づいて物語を書いている。外部の研究者が資料を集めようとしても、到底そこまではいかない。大本に関しての研究は不可能だという気持ちは今も変わらない。

(宗教学者の島田は大本教の研究はできない、と明記。
掘り下げまくったら突然死しそうだもんな!
宗教学者なら影響力のやばさはわかっているだろうし。カルトと陰謀論の関係もね。
本書で唱えるカルトが唱えた陰謀論の比較はしていないけどね。
大本も生長の家もユダヤ陰謀論だけど。
ユダヤ陰謀論も日ユ同祖論も大本教の教義。
上記の大本教を大本に変えると、大本の研究が、根本的な研究って意味にもとれるね。少なくとも大本教を知らない人には。それもあって大本教と表記するのが私)

・芥川龍之介も『大本神諭』を熟読したという。
芥川は海軍機関学校の教授として英文学を教えるようになったが、その前任者が大本信者の浅野和三郎。
浅野は退任後に大本本部のあった京都の綾部に移住するが、大本関係の本を学校に残していて、それを芥川が読んだ。
浅野は第一次大本事件後の教団を離れ、心霊科学研究会を結成し日本でのオカルティズムの先駆者となった。この組織は名前を変えて存続している。

陸軍と海軍関係者さらには、明治天皇の皇后である昭憲皇太后の姪である鶴殿ちか子が大本に入信。
彼女は鶴殿男爵の夫人で、岩下子爵や宮中顧問官だった山田春三も入信。


(皇族も入信したから、和風キリスト教の国家神道派に警戒されて弾圧されたんだろうね。
和風キリスト教のスウェーデンボルグ派の大本教との利権争い。弾圧されたから善とか幼稚なこと言っている信者っぽい奴がいたなあ。啓蒙主義を叩いていたから露骨に大本スピリチュアルだった。









芥川の河童に生命の木とスウェーデンボルグが登場する。ちらっとだけ。
『悪の果』とあるのでクリフォトの知識もある。当時の西洋文献の専門書を読んだ?

“ 長老は大様に微笑しながら、まず僕に挨拶をし、静かに正面の祭壇を指さしました。
「御案内と申しても、何もお役に立つことはできません。我々信徒の礼拝するのは正面の祭壇にある『生命の樹』です。『生命の樹』にはごらんのとおり、金と緑との果がなっています。あの金の果を『善の果』と言い、あの緑の果を『悪の果』と言います。……」
 僕はこういう説明のうちにもう退屈を感じ出しました。それはせっかくの長老の言葉も古い比喩のように聞こえたからです。僕はもちろん熱心に聞いている容子を装っていました。が、時々は大寺院の内部へそっと目をやるのを忘れずにいました。
 コリント風の柱、ゴシック風の穹窿、アラビアじみた市松模様の床、セセッションまがいの祈祷机、――こういうものの作っている調和は妙に野蛮な美を具えていました。しかし僕の目をひいたのは何よりも両側の龕の中にある大理石の半身像です。僕は何かそれらの像を見知っているように思いました。それもまた不思議ではありません。あの腰の曲った河童は「生命の樹」の説明をおわると、今度は僕やラップといっしょに右側の龕の前へ歩み寄り、その龕の中の半身像にこういう説明を加え出しました。
「これは我々の聖徒のひとり、――あらゆるものに反逆した聖徒ストリントベリイです。この聖徒はさんざん苦しんだあげく、スウェデンボルグの哲学のために救われたように言われています。が、実は救われなかったのです。この聖徒はただ我々のように生活教を信じていました。――というよりも信じるほかはなかったのでしょう。この聖徒の我々に残した『伝説』という本を読んでごらんなさい。この聖徒も自殺未遂者だったことは聖徒自身告白しています。」”
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/69_14933.html
芥川龍之介 河童

↓芥川はどうなんだろ。りゅうのすけ6文字って言いにくい。
  下の名前が4,3,4,3,4文字より多いと避けられそう。
  苗字も5文字で多いなあ。PNは4文字にすべきだね。
STB ‏@RC_StB 2月26日
文芸の世界だと、下の名前で呼び捨てにされて一流だよ 「鴎外」「露伴」「芭蕉」「蕪村」「藤村」で通じるよね 三島由紀夫は「三島」とは呼ばれるけど「由紀夫」とは呼ばれない 川端康成も「川端文学」は使うが「康成文学」とは言わない


STB ‏@RC_StB 2015年3月29日
残念ながら海外で一流の人は日本に留学に来ません 大体英米で日本はその次の次の次くらいかな 日本語教員は結構留学事情を知っている しかも被曝したから余計人気は低い 尚日本語一番勉強しているのは韓国人。旅行者は中国人が多い。ジャパンハンドラーのデマゴーグに騙されて隣国と戦争しないでね)



・稲荷講社所属の金霊学会として王仁三郎は活動。
一次大本を離れて京都の神職養成機関の皇典講究分所に入って神職の資格を得る。建勲神社の主典となり、教派神道十三派に含まれる御獄教や大成教(現在は神道大成教)の役員ともなった。
綾部に帰った後で、金竜殿や五六七(みろく)殿なども建築。

(本当に「明」って言葉大好きだなあ支配層は。大本教は完全にマニ教=明教の一派でもあるし。
5+6+7=18.)


・大正維新を掲げた大本は
1920年(大正9)に大阪の有力な日刊新聞『大正日日新聞』を買収し影響力が格段に高まった。
これにより大本ブームが起こり、学生や知識人、軍人や貴族が入信するようになった。

1921年には世界が壊滅し新たな理想世界が出現するという終末論的予言が主張される。大正十年立替之説。
予言系宗教は、予言が外れることで多くの信者が去り、残りが予言が外れたことを正当化する新たな教えを作って危機を脱するのが典型的パターン。

・第一次大本事件目から王仁三郎はエスペラントに興味を持っていた。
ロシアの盲目の詩人エロシェンコやバハイ教徒との出会いから、エスペラントの本格的普及に力を注ぐ。
世界紅卍字界と連携。頭山満や内田良平と強力。頭山と内田などを発起人に、王仁三郎は世界宗教連合会を設立。本部は北京。普天教、道教、救世新教、仏陀教、回教、仏教、キリスト教などが参加。
1925年、大本の社会的実践団体として人類愛善会を組織。
大本海外進出に積極的。
メディア・ミックスの方法で宣伝活動を行った点が先進的で、音楽部を作ってレコードを出したり、映画製作に乗り出したりした。


・1934年、昭和九年に王仁三郎は昭和維新を掲げ昭和神聖会を結成。昭和神聖会は反体制的な運動ではなく、賛同者には大臣や貴族院議員、衆議院議員、陸海軍の将校なども名を連ねていた。
具体的活動計画が明確ではなかったが瞬く間に成長したことが国家権力にとって脅威であり
1935年に国体の変革を目指しているとして第二次大本事件発生。メディアは一斉に反大本化。

(ねこた(ニート勇者Lv.1 実は遊び人) ‏@lakudagoya 1日1日前
大本教のタチが悪い所は世界中の宗教のものを全部自分のものだと絡めて主張して取り込む背乗り教のモンスターという所ですね。万教帰一を推し進めるならこれほどタチが悪いものはありませんし、そのために世界中の宗教ごちゃまぜアニメを日本でやってるのはその陰謀ですね。 RT
おねショタおじさん @douteimaturi 10月8日
大本というのがやっている絶対にやってはならない事は一点
大本を軸にして比較宗教やっている事です
これは多神教的帰一主義の悪いとこで手口として主管が言っている事を様々な宗教と比較して、どんどん絡んでやっぱり全ての真理は私達にあると一人合点することです

なので、私は大本的な思想を全否定します
基本的に宗教思想というのは譲れない絶対論があって成り立つものであって、それには必ず唯一でしかないものがあるのです
だから、神学としてこういうアプローチがあると言っている時点でその宗教には神学が存在せず吸収して肥えるスライムみたいな物です

神学はスライムではなく、縦軸がしっかりしているものなのではっきり異物は異物として認識がカッチリされています
ただ、大本みたいなものは異物ですら取り込んで飲み込むので私から言わせれば宗教ではなく、学問でもなくただのご都合主義的なその場凌ぎに終始する言い訳であり、宗教や学問でないです

簡単言えば、泥棒で盗癖があって盗みを働いているのにこれは自分のものだと言い張っているようなものでホツマツタエや霊界物語自体が泥棒に泥棒を重ねてどれが盗んだものかわかんなくなっている泥棒の落書き帳なのでそんな落書き帳を研究するなんて人間の所業ではなく、口舌し難い悪人の行いでしょう

別にただの万教帰一的なものなら何もここまで否定しません、しかしながら大本系とそれに近い泥棒の落書き帳を研究とか言っている連中は神学的にありえないので全否定します
繋げる事は非常に簡単なのですがそれを整合つけるのは実に難しいのですが、奴らは大本が軸で結ぶのでそういう苦労をしません

そんな雑すぎるものを学問とも言いませんし、比較宗教学でも神学でもありません
むしろ、神学がないからそんな粗末な思考ができるのでしょう
全く人類、生物として信じられません
もし、人間であるならば何故ここまで違うのかに戸惑うはずですがアメーバなのでそんな事できません物理的に不能です

大本なんて名前が間違っているのですから、スライム教やアメーバ教と本来の存在の名前を言うべきなのです
本当に聖なるものを豚喰い、犬喰い、蛇のように丸呑みする連中は実に醜い


おねショタおじさん @douteimaturi10月8日
はっきり言いますけど、ギリシャ哲学と
中国の諸氏百科それに心身一元論に契約の思想、
イスラームやユダヤを正しく認識していれば西洋哲学はただの毒物でしかありません
あんなよくわからない文章を読むぐらいでしたら、論語や韓非、墨子などを読んだほうが遥かに現実的に使えますし、簡単です

恐ろしいのは西洋哲学は詭弁と雄弁術、修辞学の塊なのでそれなりに聞こえてしまうのと舶来物信仰があるのでそれにコロリとやられてしまう事です
特にぬほん人は舶来物が大好きなので簡単に新しい舶来物に被れて、そこの内容物を問わないという悪癖があります
まあ、軸がない人々という事です

でも、ものの本質を隠すような議論をしても意味がありませんので生活が神学であるイスラームとユダヤはある意味、言行一致を求めるので日本人に受け入れやすいのではないかと思います
ただ、超排他的で徹底的に非寛容な日本社会とその性癖で都合の良い誤解をしていくのは容易に想像できますけどね

イスラームで感じれる人になるまで、クルアーンと正しいとされている6冊の伝承の暗記(全部アラビア語)と解釈法の暗記に主要な学者の説の暗記(全部アラビア語)それに信仰とその確信を持ち、そして弁に長けてかつ人格者であり神秘的な体験をして感じれる人になれます

それにしても、ガチでやばそうな人にアレなアカウントな人達って絡まないのね
まあ、私のTL見てもエロ絵描きさん達ばっかりだし、完全に趣味なんだけど呟いていることは全く真逆だから判断しづらいのかなぁ
それに表面上の話は全然しないから尚更なんだろうね、そんなもんだ

あんまり言いたくなかったけど、汎神論の反対は心身一元論です
無神論は汎神論の一部で絶対者信仰者が思考実験として、絶対者が存在しない世界というのは何か?という議論から始まったものです
で、この議論の結論は出ていて全ての理由は何処にあり、ただの物質主義に陥るか、否かになります

要はこの世界には何かしらの根拠と理由があるのか?という議論で汎神論はあるで無神論はない
で、心身一元論はわからないという立場をとります
心身一元論はそれを言ったところで物質と精神が一緒である、己が良くなるか悪くなるかと問われた時に意味ある行いではないのでしません

基本的に心身一元論だけの宗教というのはないような気がします、まあ事実これは哲学と言ってもいいので仏道のように心身一元論に至るために心身二元論から離れる、道教みたいに魂魄があって魂はあの世でもこの世と同じ生活するという一元的な思考をします、なので唯一と多神という分けも正しくないです

なので、この世で確かめられない世界には言及しない態度と無神論は別で心身一元論が怪物やそういった陽の目に現れないものについては一切言及しない態度
無神論は言及して、否定する態度のことであるんで心身一元論者は神秘、超越な存在について一切口出しません
これ大きな違いです


・生長の家
創設前の話。谷口は、本来の理想的世界=無想不二なる世界と
現実に存在する世界=差別の世界
とを区別していた。
神戸の三宮にあったヴァキューム・オイル会社に翻訳係として雇われ、経済的な自立を果たした。
阪神沿線の住吉村に住む。そこで彼は宗教的悟りを経験し、根本思想である実相論を確立。
色即是空を思い浮かべながら合掌瞑目しているとどこからともなく「物質は無い!」ときこえ、「無より一切を生ず」という声がした。
彼は実相こそが神だと悟る。
「お前は実相そのものだ」という天使たちが自分をたたえる声が聞こえてきた。
一燈園の『光』や、『新時代』といった雑誌に文章を発表。

(新時代=ニューエイジ)


「現象は無い!無いものにひっかかるな。無いものはないのだ。実相のみがある。お前は実相だ、釈迦だ、キリストだ、無限だ、無尽蔵だ」という声が頭に鳴り響いた。
この内なる声に促され、
雑誌『生長の家』創刊号を刊行。
1929年、昭和四年の大みそかに一千部の雑誌が刷り上がり、正月早々無料進呈。
生長の家の特徴は雑誌の出版を主体にしていること。谷口は中退したとはいえ、早稲田大学に学び、英語の思想書を読む力をつけ、文才に恵まれていたからこそ可能な方法だった。
また、かつて所属していた大本の影響があった。大本は出版事業にも力を入れ、機関誌を広く販売するとともに新聞社の買収なども行っていた。谷口は大本のメディア宗教としての側面を積極的に活用。

・実相の世界ではすべてが調和した完全円満な神の世界とされた。
ところが、現象の世界に生きる人間の「念のレンズ」は、歪み、その結果神の世界と人間の世界とに不一致が生じた。迷いという念のレンズの曇りがなくなれば地上にも神の世界が現れるとした。
念のレンズの曇りをとる方法が神想観。
神との一体感を高めるために合掌正座して行う独特の祈り。
雑誌『生長の家』は雑誌の形をした聖書とされ神誌と呼ばれるようになる。
神誌を読んだだけで病気が治ったという人間があらわれ、それに感謝する手紙が多数谷口のもとへ寄せられた。
谷口はすべての病はこころの影、つまりは想念によるもので、病気は本来実在するものでは無いと説いた。

・1934年、自分たちの運動を「人類光明化運動」と名付け、その主体となる組織として株式会社 光明思想普及会を結成。
最初の事業として、『生長の家』の合本である『生命の実相』全集普及版十巻の刊行開始。
宣伝活動には十七万二千円という巨費が投じられた。『生命の実相』は第一巻だけで五万三千部も頒布。
新宗教教団が教祖の著作を大々的に宣伝し多くの部数を売りさばいている事例が目立つがその先駆けは生長の家。
大宅壮一は生長の家の誇大広告を批判するとともに、生長の家の根本思想は素朴な唯心論にあり「病は気から」という俗説を「盲減法」に普遍化し、それを神秘化して宗教に仕立て上げ、徹底的商品化を目指したと分析。
宗教の専門家が宗教的にでたらめだと批評しても、生長の家のお得意先は宗教のアマチュアなので正確な知識はかえって商売の邪魔になると指摘。


谷口はアメリカの新しい宗教運動のクリスチャン・サイエンスやニュー・ソートの流れをくむ思想を学んだりした
経済問題については、マルクスの唯物史観に対して
唯心史観を強調。神は富を無尽蔵に生み出す無限供給者であり近代経済組織は万一の時を恐れて節約に励む人間の恐怖心に基づくもので、そのために富が一部の人間に蓄積され十分に流通しなくなったとした。その恐怖心さえなくせば神によって十分な富が与えられるという。
神の世界を全てが満ち足りた理想世界としてとらえそこに到達するためには心の持ち方さえ変えればいいという、新宗教全般に共通した教えは、前提や有効性を証明できないにしても、広く大衆の心をとらえた。
本来は哲学的で難解な実相思想を、現世利益的な病気直しに結びつけたことが谷口が大衆の心をつかむ才能を示している。
1940年に宗教団体法が施行され生長の家が収去結社として認められると、天皇信仰を強く打ち出す。
谷口は「すべて宗教は天皇より発するなり。大日如来も、釈迦牟尼仏も、イエスキリストも、天皇より発する也。ただ一つの光源より七色の虹が発するごときなり。各宗の本尊の実を礼拝して、天皇を礼拝せざるは、二女の実礼拝して、太陽を知らざる途なり」と主張。
大本の影響かもしれないが、すべての宗教の元は同じだとする万教帰一の考えがあり谷口はその根源を天皇に求めようとした。実相は天皇という実体を得た。
戦争への道を歩んでいた当時の日本社会では、神道を全ての宗教を超越した国家祭祀とする体制が確立されておりすべての宗教が帰一する先を天皇へと求めることは時代の流れに沿う
ものであった。
それは、日蓮信仰と皇国史観を合体させ五・一五事件や二・二六事件といった軍部のクーデターにも影響を与えた国柱会(宮沢賢治や、満州事変の首謀者である石原莞爾が信者)の田中智学などの日蓮主義思想とも重なり合っていた。
谷口は天皇信仰を核に据えることによって生長の家の存在意義を社会に向けてアピールしようと試みた。
谷口は太平洋戦争が聖戦だと主張。
その聖戦に敗れたあとも、谷口は「日本は決して負けたのではない」「偽物の日本の戦いは終わった」と敗戦を合理化し国体が滅びたのではないことを強調する一方で、
生長の家の教えの中に「本来戦いなし」の言葉があるとし、生長の家が平和主義を説いていたと主張。戦後は、生長の家は明治憲法復元、起源説復活、日の丸擁護、優生保護法改正などの主張を展開した。
海外にも進出ブラジルで最も成功。ブラジルに浸透しているカトリック信仰を否定しない。カトリックのまま入信できる


ベルリンの壁やソ連崩壊で天皇信仰や反左翼、反共産主義の政治運動が衰退。
1992年に二代目総裁谷口清超の長男、雅宣(現副総裁)が大西洋戦争を侵略と認め、聖戦論を否定する見解を発表。


(子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2016年6月11日
自民党 =ワールドメイト(大本教系) +生長の家初代派(大本教系) +神道政治連盟

民主党 =ワールドメイト +生長の家3代目派 +スピリチュアル

小沢=ワールドメイト +世界救世教(大本教系)
大本教=和風耶蘇


自分は実相=神だという天使の声が聞こえたって完全に魔境に魅入られた狂人だな。
思想が完全にプラントと新プラトン主義だから仏教完全否定。
色即是空の完全否定。実相ってイデアorゴッドのことでしょ。
天使だからキリスト教。

「現象は無い!無いものにひっかかるな。無いものはないのだ。実相のみがある。お前は実相だ、釈迦だ、キリストだ、無限だ、無尽蔵だ」ってすごいな。
釈迦は輪廻を脱したから釈迦の生まれ変わりは存在しないし、
イエスも生まれ変わりは存在しない。
病気は心の問題ってニューソート=光明思想のパクリだな。
物理と心の両面の対処が大事なのに。
すべては実相だから物理的対処は不要ってか?
ユダヤ陰謀論本の出版もキリスト教系の特徴、というか耶蘇教の変形カルトの王道。
ユダヤ陰謀論本を出すと異端派キリスト教のバックアップが受けられるからね。
異端派っていったのは正統派だと支援を嫌がりそうだから。
極右の実相=神=谷口ってことは生長の家は邪神の組織ってこと。
ほんとうに、天皇流出論、天皇起源論言い出したあたりから完全に有害カルト。
万教帰一、天皇絶対が二大教義。
万教帰一は自分ら以外の宗教を全て滅ぼしてただ一つの宗教すなわち自分らの宗教しか存在しないようにするって教え。
自分の宗教が最高って思想がある限り必ずそうなる。他の宗教はどうでもいいってこと。
特定の宗教信者が万教帰一なんて言った時点で嘘確定。
万教帰一を否定する宗教はどうするの?
潰す以外の選択肢がないよね?
仏教は実体思想否定だから、プラトン哲学も新プラトン主義もキリスト教も大本教も生長の家の大前提を完全否定なので破壊するしかないよね?
仏教の元、根本が全く別物だからね。
万教帰一の大本教も自分らは最高って認識だから大嘘つきだね。

教祖は石油利権派人脈がある。

恐怖心さえなくせば金持ちになれるらしい。心の問題詐欺。個人でどうこうできる問題ではない。
戦争大好き。戦後にしらじらしく平和主義だったとだと。教義の中核はご都合主義と二枚舌だね。



・田布施の天照皇大神宮教(てんしょうこうたいじんぐうきょう)
の教祖北村サヨは自身は「総理大臣として使ってやる」など自信を総理大臣より上だと位置づけていた。
サヨの夫の清之進は一時ハワイに移民していたことがあった。
山口はハワイへの移民が多い地域で後に天照皇大神宮教(てんしょうこうたいじんぐうきょう)がハワイイ進出するのもそうした地理的環境が影響していた。
サヨは生長の家に入っていたことあり。

(また大本人脈かよ。当然田布施人脈
でもある))

・天照皇大神宮教のサヨは第二の璽光尊と呼ばれた。
璽光尊(長岡良子)の璽宇の信者に、元横綱の双葉山定次がいる。
彼は、囲碁の名人、呉清源(「昭和の棋聖」)と璽宇を訪問。
呉は戦中から有力信者で、夫人の中原和子は神がかりして神示を伝えるなど璽宇の中で重要な役割。
双葉山は現役を引退していた。
双葉山は日蓮宗の熱心な信者。璽宇で礼拝していると霊的現象を体験した。

呉清源が璽宇に愛着を示したのは彼が璽宇と関わったいきさつが関係。
璽宇の前身は篁道大教(鉱山関係の実業家で神道系の行者の峰村恭平が中心)。
これが1941年璽宇に改称した際、
大本教系グループと
長岡良子(真言密教系霊能者)が合流。
この大本系グループに、大本教と提携している世界紅卍会道院信者の呉清源が含まれていた。
呉が結婚する中原和子は、峰村の親戚。
1956年に入信した山田専太を通じ海外進出。
彼は柔道と合気道師範で、スコットランドヤードで教える際に布教。
下中弥三郎(平凡社の創業者)も璽宇に共感しスポンサーとなる。
下中は第二次大本事件前に『出口王仁三郎全集』を企画し、刊行。
新宿の紀伊国屋書店では大々的に販売し全国で数万部売れたともいうが下中の璽宇とのかかわりも大本との関係が元にあったものと思われる。


日蓮系、法華経系の立正佼成会(りっしょうこうせいかい)
の母体は霊友会。
創価学会の日蓮系。
佛所護念会も妙智会も日蓮系。いずれも霊友会からの分派。


霊友会のもとをつくった西田無学は、法華経による先祖供養を強調。総戒名と呼ばれる独自の戒名が特徴。夫の祖先と妻の祖先の両方を含む戒名。
祖先の戒名を書きだしていく霊鑑(過去帳)
もつくった。

霊友会から立正佼成会(りっしょうこうせいかい)が派生。
立正佼成会(りっしょうこうせいかい)の武器が、総戒名による先祖供養と姓名判断と法座(座談会)

教団独自の言葉は最初は外部の任を阻む壁となるが壁がある
∴信者となった人間は壁を乗り越えたつまりは試練を乗り越えたという実感をもつことができる。


・戦後に勢力拡大した立正佼成会(りっしょうこうせいかい)は創価学会と対抗し、反創価学会系の新宗教教団が集結した新日本宗教団体連合会(新宗連)の中心として活動。
また自民党と公明党が対抗関係絵だった時代は自民党候補者を応援し新宗連代表議員も出していた。
公明党が連立政権に入ってからは民主党にシフト。
が自民党との関係を切ったわけではなく推進議員の中には自民党候補者もいる。

霊友会二代目会長の継成は東京大学のインド哲学科の博士課程を修了したインテリ。インナートリップ(自分探し)を掲げ若年祖をターゲットに布教。
(法華経カルトが和風キリスト教だらけなのは法華経が一神教に改造するのに都合が良い内容だから。特に日蓮宗系はさらに一神教と親和性が高い。

フェイド大帝…仏は神ではないぞ。 仏が聖書の神みたいな認識に なったのは華厳経と法華経からだ。密教の大日如来も聖書の神ちっくだが、そもそも密教の曼荼羅では 開祖の釈迦が端っこの方に 追いやられている。”
仏教で神が輪廻に囚われた存在なのが我慢できない 新 ✝
@kikuchi_8)

・霊友会や立正佼成会の中核は先祖供養。
が、創価学会では先祖供養にあまり関心を示さない。
牧口は霊的なものへの信仰は邪教で邪宗として完全否定。
先祖供養の重要性を否定。

創立者の牧口は地理学関係の著作もあり、小学校校長を歴任。
柳田国男や新渡戸稲造が関わった郷土会という民俗学研究団体にも入っていて柳田と新渡戸とも交流があった。

・二代目会長戸田は学習塾を開き、公開模擬試験も行い、算数の受験参考書が百万部を超えるベストセラーとなる。手形割引の会社も造った。小口金融事業もした。

・創価学会は「仏法は勝負だ」という思想があり勝ち負けを問題にする。
選挙でも公明党候補者の全員当選は聖教新聞で完勝と表現される。
名誉会長初め会員たちは中国の三国志や水滸伝を好みアニメまで作っている。
(大日本皇道立教会=創価の母体について言及しない島田。
勝ち負けを気にする時点で仏教じゃないな。
創価の二代目ボスが金融やっていたのか)


・世界救世教
教祖の岡田茂吉は大本教信者時代、大本の建て替え思想を五六七(みろく)の世の到来ととらえた。
霊の世界で起こったことが現実の世界に表れるとする霊主体従の法則と、大本教由来の浄霊法を確立
独自の活動をしたので大本の中で批判されたので脱会。

・教祖が大本教出身の世界救世教系分派も多い。世界救世教に分派が多いのは手かざしという浄霊法が救済システムの中核だから。
起源は大本教。出口王仁三郎は患部に手を当てて病を治すことを行っていたが、
やが御手代とよばれる杓子に王仁三郎の拇印を押したものが弟子に渡されそれで病気直しが行われるようになった。地上天国という思想も世界救世教が大本から取り入れたもの。

・崇教真光
の教祖である岡田光玉(本名・岡田良一)は元世界救世教信者で、陸軍の元軍人。

“ 新宗教に入信する動機として、一般に「貧病争」ということが言われる。光玉は、そうした不幸の原因が悪霊による憑依によるものだととらえ、浄霊によってその霊障を取り除くことができると説き、浄霊を「真光の業」と呼んだ。具体的には、霊障に苦しむ者の前に、「(神)組み手」と呼ばれる信者が座り、右手を額の前にかざすと悪霊が動き出す霊動が起こり、それによって浄化され、不幸の原因が取り除かれるというのである。組み手になるには三日間の研修を受ければいい。
 基本的には、これがすべてで、その救済のシステムは極めてシンプルである。真光の業と霊動との関係は、野口晴哉の創始した「野口整体」における「愉気」と「活元」を宗教的、霊的に解釈したものである。”
p.156 島田裕巳『日本の10大新宗教』

(野口晴哉は宗教色を抜いたのに、悪化させる救世教派生カルト。
体が自動的に自身のおかしなところを察知して自動的に整体するように誘導。誰でも条件を整えれば動くし、勝手に止まるので、信仰心とか教祖の力とか全く関係ないが、救世教系はそれを教祖などの力だとして悪用。
宗教的にすると依存心を育てるから病気が治りにくくなることは無視するカルト。

野口晴哉『整体入門』の活元運動の誘導のやり方は
子子子子子流健康法~今までの主に健康に役立つ記事のまとめ+α~
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-category-30.htmlに書いておきます。


・光玉は、1962年から神によるさばきである「火の洗礼」がはじまったとする終末論的予言を行った。こうした予言は、73年のオイルショック以降、世の終わりに対する恐れを抱いた若者を教団の中に取り込んでいくうえで重要な役割を果たした。

(火の洗礼なんて完全にキリスト教)

世界救世教系の自然食品店が全国にある。
著者の島田はかつて農業共同体であるヤマギシ会に属していた時代、ヤマギシ会は一部で世界救世教の土地を借りて農場を営み、そこで生産された食品を世界救世教系の自然食品店で販売してもらったりしていた。
(世界救世教って名前がどう見てもキリスト教じゃねーか。
著者の島田がヤマギシ会所属歴ありって言ってくれてありがとう。
島田が大本教研究をやらない理由の一つっぽい)



・甲子園と新宗教のかかわりは深い。創価学会や立正佼成会以外にも新宗教と関係する高校が多く甲子園常連校もある。
全国の私立高校の内およそ三分の一が宗教団体を経営母体としているそのうち六割がキリスト教系。仏教系はキリスト教系の半分(三割)で神道系はごくわずか。新宗教系は20校ほどに過ぎない。
が高校野球では新宗教系が目立つ

辯天宗(べんてんしゅう)という、大森智辯によって開かれた新宗教の学校が、
奈良の智辯学園高等学校と、和歌山の智辯学園和歌山高等学校。
関西福祉大学や金光大阪は金光教。

PL学園はパーフェクトリバティー教団、通称PL教、PL教団。
PLでは病気をみしらせととらえる。病気を神からのメッセージとしてとらえる。人が聞こえ違いをしたとき神が警告を発すると考えられている。
PLに限らず多くの新宗教で採用されている考えですでに天理教に見られる

一般信者にはどういった聞こえ違いをしているかわからないので、PLは担当教師から原因と対処について解説してもらうのが「みおしえ」。
また、「お身代わりの神事」という信者の苦痛を一時的に教主の肉体に引き取ってもらうものがある。

・真如苑
の開祖・伊藤真乗(1906年山梨県生)は子の死を「抜苦代受」(人の苦しみを代りに受け亡くなる。当時は身代りという表現だった)と解釈。
天理教でみきが本来は115歳で死ぬはずだったがあえて25年縮めて肉体は死に人々の救済にあたるという教義に似ている。
38年真言宗醍醐派立川
不動尊分教会を設立、戦後独立し「まこと教団」設立。
50年修行中にリンチを行った「まこと教団リンチ事件」と告発される。
悪化した教団のイメージアップのため53年真如苑に改称。
次男の死を契機に『涅槃経』に出会う。
法華経でもなく、真言宗の大日経や理趣経でもなく涅槃経を重視しているのは新宗教で真如苑以外にない。涅槃業には一切衆生悉有仏性という日本仏教伝統で重視された思想がある。
真如苑の重要な特徴は世直し的側面が一切見られない点。
一般に新宗教が勢力拡大するのは社会が危機に陥ったり不安定化している時期で、社会の問題点を批判しこのままの状況が続けば決定的な危機が訪れることを強調し、世界の根本的刷新があるという予言を行うことで信者を集めていく、のが基本的パターン。
真如苑は世直し予言的側面はなく、世界救世教のように地上天国の実現をとくわけでもない。
それは真如苑の安定に寄与。終末を予言し外れるという根本的危機を回避。

・GLA
の教祖・高橋信次の義弟に紀元前千三百年、エジプト生まれの「ワン・ツー・スリー」


高橋は古代エジプトや中国の霊が降りてくるなど霊的体験をし
68年本格的な宗教活動開始。松島幸之助(松下 幸之助?)の霊が降りたりもした。
新宗教の霊は普通は先祖の霊。
69年「大宇宙神光会」発足。
70年GLA(God Light Association)に改称。
霊言が古代インド語やアトランティスの言葉でなされる。
60年代の『ウルトラQ』などオカルトへの関心が高まっていたので社会風潮とも合致。76年高橋は亡くなる。
妻が事業を、娘の佳子がGLAを継ぐ。
佳子はミカエル・ボーイズ・アンド・ガールズという親衛隊を作り彼女が登場すると親衛隊は「ビバ・ミカエル」と叫び方を組み歌ったりした。熱狂的ファンに取り巻かれるアイドル

と呼ばれた。佳子を支える教団の青年達は「ビバ・ミカエル」と叫び肩を組んで歌い熱狂的ファンとアイドルのような雰囲気が生れた。古くからの会員が去り、その後講演会(集団的なカウンセリングのよう)開催等現実路線へ。

(エジプト生まれなのに名前が123の英語名(笑)。一二三ひふみって言いたいんだろ?ひふみ神示系だね。
聴き手が高確率で日本語と英語しかできないだろうからそれ以外の言葉で語ればなんでもあり。
そもそも存在しない言語なら絶対に大丈夫。
大本のおふでさきって原文全然読めないし。読めるようにした王仁三郎が都合よく改変したんだろうなあ。
ミカエルっていう有名っぽい陰謀追及サイトがありますね。GLA系への言及に注目。
高橋は真のメシア「エル・ランティー」で、佳子はその助力者「大天使ミカエル」らしいからね。




↓で大本からスピと生長が分かれました。矢印の場所がずれていてすみません。






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補足資料

Shin ‏@Link_Style_ 2014年10月24日
※ 第4階層 GLA総合本部 → 分派のカルト GLA関西本部、高橋信次先生の法を学ぶ会、国際正法協会(生長の家の流れも汲んでいる)、幸福の科学(生長の家の流れも汲んでいる)、レムリア・ルネッサンス、偕和會、千乃正法会(パナウェーブ研究所)

龍陽海容 ‏@unbonvinblanc 2016年3月31日
智辯学園の辯天宗、原健三郎、松下幸之助、笹川良一が有力信者ってのは山口文憲の『日本ばちかん巡り』で読んだ記憶があるんだけど、今ググって知った「婦人部長・浪花千栄子」という衝撃。

■[読書]山口文憲『日本ばちかん巡り』
http://d.hatena.ne.jp/taron/20120108/p1

積読荘の住人 ‏@tsundokulib 2016年5月15日
山口文憲の新宗教・新新宗教ルポ「日本ばちかん巡り」で、信者が家族ぐるみで共同生活するとある宗教で、共同の広い食事室があるけど、家族ごとにだいたい座るテーブルが決まっちゃってて、好みのふりかけとか海苔佃煮のびんとかがごちゃっと置かれてるのに注目したとこなんか、印象的だなあ

塚田 穂高 ‏@hotaka_tsukada 2016年3月20日
「笑え、笑え、笑わんかい」 善隣教教祖・力久辰斎が、自らの死の床において、集まって悲しむ信者らに言った言葉。瀕死の状況で横になりながら、口をひょっとこのように突き出して、周りの泣いている信者たちを笑わせた。没後に、善隣教は「ひょっとこ祭り」という教団年中行事を始めた。

岸本元 ‏@bowwowolf 2015年8月7日
宗教界では善隣教が善隣会の時代から40年以上にわたって韓国原爆被害者協会を通じて在韓被爆者の支援を行っている。これは力久辰斎師が戦前に朝鮮半島でも修行を行ったこと、また力久師が戦後大韓民国を訪れ何の補償もなく苦しんだ被爆者と出会い心を痛めたことが根源となっている。

Kimura SUITCASE Ryo ‏@r_kimura 2010年7月13日
ソフトバンク孫正義氏と新宗教団体「善隣教」BUBKA編集部のブログ http://ow.ly/2aJPC 善隣教は福岡県の宗教団体で、孫氏の父親が病気を機に善隣教に入信。孫氏本人も幼い頃から善隣教の教えを勉強されています。孫氏の「やりましょう」は善隣教の「やります」からきている。

菅野完 ‏@noiehoie 2015年3月3日
生長の家が他の新宗教や新新宗教と違う最大のポイントは、大本やGLAや幸福の科学みたいに、「霊の世界の階級」がないこと(←寺田喜朗「新宗教とエスノセントリズム」引用)。中心にあるのは、「実相」だけ。だからこの実相に「天皇」も「人権」もなんでも当て込める。

菅野完 ‏@noiehoie 2016年10月22日
生長の家の政治運動停止後、信者が幸福の科学に流れたってのは、エル・カンターレ氏の営業努力が素晴らしかったから。彼の「霊言」は、確か最初、日蓮ー>谷口雅春ー>高橋信次の順で出版されたはず。つまり創価学会ー>生長の家ー>GLAと、「新興宗教の信者向けアピール」が濃厚にあったから


ぜん☆G ‏@zen_g3939 2015年8月9日
私的まとめ甲子園宗教校 天理(天理教)・PL学園(PL教)・創価(創価学会)・
智辯(辯天宗)・上宮(浄土宗)・京都成章(日蓮宗)・駒澤大学付属苫小(曹洞宗)・龍谷大学付属平安(浄土真宗西本願寺派)・国学院大学久我山(神道)・聖光学院(プロテスタント)・海星(カトリック)

ゆらゆら ‏@yuurayurari 2013年7月17日
10大新宗教。甲子園と新宗教。全国私立高の約3分の1が宗教団体を経営母体としてる。うち6割がキリスト教系、仏教系は3割、神道系はごくわずか。新宗教は20校程。が、天理高校、PL学園、創価高校、佼成学園、智辯学園・智辯和歌山(辯天宗)、金光大阪(金光教)等多くが野球に力を入れてる。


ken ‏@kenkatap 2014年6月13日
仏教新興宗教・辯天宗(高野山真言宗の流れ)=松下幸之助、笹川良一が信仰 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%AF%E5%A4%A9%E5%AE%97 … ▼大阪府茨木市に本部 ▼系列の智辯高校は、甲子園常連校
▼大森智辯(旧姓・吉井清子)が大辯才天女尊より天啓 ▼特に、笹川は大森家と婚姻関係を結び、本部の土地を寄進

Mas ‏@860masjp 9月5日
自民党国会議員、北村経夫(wiki) 「田布施町出身。天照皇大神宮教の教祖北村サヨは祖母。安倍晋三とは同郷で、親交が深い。北村家と安倍家は、安倍の外祖父・岸信介の代から交流があったとされる。《みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会》所属。元産経新聞政治部配属。」

雅 羊々 ‏@miyabi_yoyo 6月10日
一部で安倍晋三の宗教的背景と噂される天照皇大神宮教(山口県田布施・安倍晋三の足元) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E7%9A%87%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E6%95%99 … 「宇宙絶対神(=天照皇大神)は3千年に一度だけ地球に降臨するとされ、一度目釈迦、二度目教のキリスト、三度目北村サヨ」という明らかな邪教

胸の振り子 ‏@soraigh 10月4日
北村サヨは田布施で生まれた天照皇大神宮教という新興宗教の教祖。息子は自民党の議員になっている。岸信介の故郷の田布施は、もうひとつ神道行天居という新興宗教を生んでいるし、金光教の巨大な教会もある。

小張 學 ‏@manauwf 2月24日

『岸信介の回想』(文春学藝ライブラリー)を読み始めた。単に資料として見始めたんだけど、色んな意味で滅茶苦茶面白い。 天照皇大神宮教の北村サヨ(岸は「踊る神様のサヨ婆さん」と親しく呼ぶ、さすが田布施)は、岸は死刑にならず三年で出所と予言したらしい。

RT ≠ endorsement ‏@stealth_market 2015年11月22日
天照皇大神宮教の教祖・北村サヨ「原爆や水爆が出て皆不安におびえておるが、あれは殺虫剤よ。田に虫が殖えたからホリドールを播くのと同じこと。最後の審判が来たのよ。心の悪魔を掃除しておかぬと皆祓われるぞ。あんたら田布施の道場に来りや」http://d.hatena.ne.jp/Newshirogarasu/20150921/1442801720 …

CPL ‏@meets_tak 2015年1月7日
島田裕巳著『日本の10大新宗教』より生長の家の項目から引用。 〈大本で文才が認められた谷口は、機関紙の編集や聖典である『大本神諭』の編纂作業に当たり、大本の霊学の体系化にも力を注ぐ。そして、一九二◯(大正九)年には、『皇道霊学講話』という最初の書物を東京の新光社から出版した。〉

〈それでも、個人の罪の問題に強く感心をもっていた谷口には、神による最後の審判を強調する大本の路線には違和感があった。〉
〈時の政府は、世の終わりを説き、急成長をとげていた大本に警戒心を強め、教団の調査を行っていて、一九二一年二月十二日早朝、不敬罪ならびに新聞紙法違反の容疑で大本の本部などを家宅捜索した。〉
〈「第一次大本事件」である。谷口は逮捕を免れたが、聖師、出口王仁三郎は中心人物として獄につながれた。〉
〈王仁三郎が拘留の執行停止で出獄中、『霊界物語』の口述をはじめ、谷口はその筆記に当たるが、大本への信仰に疑問を持つようになっていた彼には、その仕事は苦痛以外のなにものでもなかった。〉

さらに、大阪の控訴院から大本の開祖である出口なおが神憑りで記した「御筆先」と、それを王仁三郎が漢字混じりに書き直したものとを比較対照し、不敬罪に該当する箇所がないかを調査する作業を依頼され、谷口は御筆先をすべて読むこととなった。〉
〈彼はその作業を通して、教団の発表した予言にくいちがいがあり、前年の予言のうちで当たったものだけが機関紙に掲載されている真実を知った。〉
〈さらには、御筆のなかに、「天照皇大神宮、地は出口の血すじで治めるぞよ」といったことばを発見し、出口家を天皇家に代わる地上の権力者にしようとする啓示に決定的な疑問を感じる。
〉 以上引用終わり。

最後の部分が印象的。 そら不敬罪になるわなw 最後の部分、非常に重要だと思う。「出口家が天皇家の代わりになる」という部分が。

同書によると、谷口雅春は第一次大本事件の半年後、西田天香が設立した一燈園(京都にある)に出向いたこともあったそうだ。一燈園は宗教的な団体であるが宗教法人ではない。企業や学校などへ行き、トイレ掃除をする。ダスキンの創業者、鈴木清一氏が一燈園の影響を受けている。











鳩特急 ‏@hatoexpress 6月19日
ミスドの運営会社はダスキンだし、ダスキンの元々の母体は、一燈園(京都市山科区)という宗教団体。 突然家にやって来て「トイレを掃除させて下さい」という人達なのだから、なんら不思議ではないのでは。 #ldnews http://news.livedoor.com/article/detail/11523433/ …


nomad 777 ‏@biosphere0054 5月16日
「祈りの経営」というダスキンとミスタードーナツの会社理念は、創業者・鈴木清一が入信した金光教と、それから一燈園、この2つの新宗教の影響が強いらしい。

水の奏で ‏@melodies_of_M 12月19日
テレビで宗教学者の #島田裕巳 が言ってたことが興味深かった。日本人の男性の信仰心は、若い頃は低いけれど、中年になると急激に高くなる。この時代だからではなく、いつの時代も普遍的とのこと。何かの宗教にハマるということではなく、神社やお寺に平穏を見出すということなのかな。








#島田裕巳 著『#日本の10大新宗教 』によると、#岸信介 が#巣鴨プリズン へ拘留される前に#田布施 の実家へ戻ったのだが、その時 #北村サヨ に「三年ほど行ってこい。魂を磨いたら、総理大臣として使ってやるわい」と言ったそうだ。で本当に総理大臣になった。

同じく#島田裕巳 著『#日本の10大新宗教 』によると、#山口県 はハワイへの移民が多い地域だそうで、#天照皇大神宮教 がハワイに進出したのもそういう理由があったかららしい。


三浦晋 ‏@baien_miura 4月15日
創価学会はなぜ社会から嫌われるのかhttp://toyokeizai.net/articles/-/111672 … やっぱり、著者は #島田裕巳。東大教授の肩書きを利用して、頻繁にメディアに露出し、10年以上の間、オウム真理教は素晴らしいと誉めそやしていた方。世間は簡単に忘れませんよ。今度は創価学会ですか。



子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2014年12月13日
ナルトは少年ジャンプの集英社=WASP至上主義の聖書重視=キリスト教原理主義陣営。 小学館は『マギ』に顕著だが欧州貴族の新キリスト教(スピリチュアル、ニューエイジ、宇宙人)で万教帰一+カトリック側。 集英社は小学館からの分派で共に相賀一族支配の一ツ橋グループ。 両者の対立は演技。
相賀家は日蓮宗。日蓮宗に偽装した和風キリスト教で有名なのが創価(聖教=キリスト教)と国柱会(八紘一宇と仏前結婚式)。 国柱会教祖の田中智學が日蓮宗に入り智学と称したのが1871年。 1875年に神智学協会が設立。 神智学=インド的新キリスト教。 智学の元ネタが神智学ではなさそう。


子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2014年11月10日
八咫烏と裏天皇論は #日ユ同祖論(聖書が根拠)・ #ユダヤ陰謀論 (バチカンの伝統)とセットだからキリスト教が黒幕だろ? ユダヤ・カバラで生命の樹理論の元型ができたのは12世紀(盲人イサク)から。 クリスチャン・カバラは15世紀にピコが創始。 八咫烏の元ネタの一つの鶏を崇めたら?



yapoo ‏@blowback2020 2015年8月2日
璽宇 前身は篁道大教(峰村恭平)で1941年改称した際、大本教系グループと長岡良子(真言密教系霊能者)が合流。世界紅卍会道院信者の呉清源。
山田専太(柔道、合気道師範)がスコットランドヤードで教えた。
下中弥三郎(平凡社)がスポンサー



子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2014年7月26日
@lanekota @narukemist @hagino22 紅卍字会会員③ 情報下さい。
内田良平(アジア主義。黒龍会主幹)
笹川良一(巣鴨プリズン組。辯天宗信者〔松下幸之助も信者〕)
呉清源(昭和の棋聖)
陳漢森
今小路了円
林出賢次郎
張海鳳
笹目秀和
中西旭
伊與田覺)

おねショタおじさん ‏@douteimaturi 10月26日
名家が道家や法家などなど、諸派から批判を受けたのは単純で中国古代思想は基本的に現象と言葉の乖離を嫌うので論理学と言っても、起きている現象と離れた論理を説くのを否定します なので、中国古代思想は名と実を別々に認識出来ながらもそれをくっ付ける事に重きをおきます

物事というものは一回通例とされているものをひっくり返して考えてみる事です そうすると思わぬ見方が出来ると思います それを癖にすることが出来れば、思わぬ視点がでてくるでしょう その思わぬ視点が自分の思想的合わない事でもやめない事ができれば、人の考えを操る事ができるようになります

日本というものが破綻しているのは社会道徳がないという事です 社会道徳というものがないという事は善悪がない事であり、善悪がないという事は物事の基準がないという事です 物事の基準がないというのは社会が成立していないのです、だから日本社会というものはハッキリないのです

論理的な方法で理解できないものであるならば、それは存在しないものでただの空想です
人が妖怪を作り出して来たのは感覚の具現化への努力の結果であり、そういう具現化することによって論理的に証明する事に努めて来たのです 論理的というのは時代によって異なりますが人は説明する努力を捨てません

天皇主義者だから言うけど、私は本当の天皇はもう滅んでいてあの天皇らしき物質は全て偽物なのね それは物質的に偽物ではなくて、「物質である」天皇が偽物なわけでもう真正なる天皇はこの地上にはとっくのとうに滅んでいるわけ事実天皇が諱なのはそういう意味でもあるわけなのね

だから、天皇という物質ではなく天皇を含めた皇統という叡智が重要なのであってそこには徹底した神智と現実的統治論としての本当の意味での神学者必要なのね それは儀式ではなく、実質的な統治論を含めた総合的知識体系なわけであってそういった哲人を創りださねばならないわけ

だから、儀式しかせず人々を統治もしない天皇というのは不要であって、いるだけ邪魔な上に最高の哲人である天皇という名前を汚した上に名を簒奪した、最も穢れた存在なの それが150年以上もこの最高の哲人が納める社会を穢し続けているのだから、天皇主義者は一秒でも早く除染することは義務なのね

つまり、天皇及び皇統というのは様々な形で存在で継続して顕現されてきたわけでその中でも重要な顕現された天皇の言業に注目して神智を組み立てるのが神道学者の仕事なわけで祝詞がーとか、伊勢派がーとか、出雲派がーというのは神道学者の仕事では全くないのそんなの歴史学者の仕事なんだよね

例えば、仁徳天皇の言業を神智して本来の天皇の仕事というのは仁を元にした政治であり、仁の政治というのは何か?で、もし天皇が物質的に存在するのであれば天皇の赤子である臣民が苦しむような政治を元首として容認するのであろうか? という、論理を組み出さなければならないのね

であるならば、神武天皇が東征したのは何のためか?それは悪政と同じような名を語る偽物と戦うためであったとするなら、天皇が物質的に存在する仮定の元で臣民が税や悪習に苦しむのを天皇という存在は認めるのだろうか?と神智するならば、天皇が物質的な存在ではない事は一目瞭然なわけなのです

つまり、この地上で天皇が物質的に存在しているということはそれは明らかで明白な偽物であって、天皇主義者及び天皇を神智しそれを政治するのであるならば一刻も早く絶対虚実な存在を滅ぼし神智者、神道学者による哲人政治へと移行させる事は天皇主義者の義務であり、それがカミのクニ造りなわけです

天皇主義者は国家有機体説を取るのが基本で様々な機関は手であり、耳であり、足であり、内臓であり、血液、血管なわけです そして、脳というのは神道学者による哲人政治、哲人協議会であり、その組織は独自に認知する器官を統合するものであって、常に全ての機関からの情報を整理、調整するものである

なので、神道学者や神智者というのは臣民への最高の奉仕者であり、最高の統治者であり、最高の臣民の奴隷でなければならないわけです 知識や見識があるというのはそれだけで責任が発生するものであり、責任を全う出来るものが神智者なわけです だから、地位と責任は常に同じ椅子に座らねばなりません

神道学者や神智者に必要なのは儀式ではありません、実質的統治と善政に平穏を臣民に与えられるかだけが取り柄です 儀式を行うのであれば、内部でだけであって、臣民への形骸化した儀式をする必要は全くありません 重要な儀式は内部に隠されるべきであり、それが社会責任を産む最大の機会となるのです

そこまで考えた上で神智政治を求めるのが天皇主義者であり、皇統、スメラギノミチの探求者であるはずでこれ以外の事を言う連中は天皇主義者ではなく、皇統を仰ぐものでもなく、スメラギノミチの探求者でも、弥栄への求道者でもなく ただのしょうもない権威主義、盲、白痴でしかないのです

または唯物主義者、現物主義者、何かが物で存在することでしか信じられない神智や神秘を認識できない知恵足らずのどれかなのです もし、皇統を仰ぐものが唯物としての穢れた存在を恐れ多くも「てんのう」とのたまっているのなら、それは唯物主義者か白痴のどちらかでしかないでしょう

天皇の叡智というのはある時は善の顕現として、また別のある時は悪の顕現としても出てくるわけです つまり、良き天皇や悪しき天皇というのは必要によって世界に現れて来たわけでそれは世界にどんな土地で会っても似たような物語を共有出来るわけです

善の顕現としてはお釈迦様やさまざまな預言者等がここに当たるわけであり、悪の顕現としては世界の悪政者や悪魔と言われる存在がここにあるわけです その上で神道は世界的な宗教論や哲学論を共有して、論理的に組み立てる事ができるわけなのです だから、神学が必要で組み立てねばならないわけです

で、えぐい事を言えば神話とかなんて偽書を作ってしまって組立ちまえばいいんです 例えば、当時の日本には文字があったなんて言いたいのであればホツマツタエみたいな粗製品ではなく、古代揚子江や長江で発掘されている文字にアルメニアあたりの文字を拾い上げて当時の音声表記すればいいのです

んで、紙とかも当時位に工業的に劣化させて地面に埋め埋めしたものに大切なのは時代時代によって解釈されたような解釈本をちゃんと用意すること 奈良後期、平安時代、鎌倉時代、室町等々ちゃんと歴史考証加えられているように捏造しなきゃいけません

こんなヤバイ偽書が出てきたら怖いねえ 作ったやつは絶対に確信犯だし、やり口がえぐいし、どうせ馬鹿な学者は歴史考証で騙されるんだろうから、カルトの無自覚的なプロパガンダになるだろうしね でも、こういうのが出てこないのは本当に俗世間の陰謀というやつは小学生向けなんだろうね

こういった、天皇主義者や国体論者が出てこない限り彼等を私は信用しないし、できない まあ、出てくることはないだろうね なぜなら、日本人って超排他的で徹底して考える癖を捨てているから、但し天才が現れたなら神学を組み立て直して、哲人的なものを作り出すかもしれないけどね

おねショタおじさん ‏@douteimaturi 2016年10月28日
右翼を真面目にやるのなら、「杉本五郎中佐遺書 大義」と国学の4大人に中国の漢籍を片っ端から読むことです これさえ徹底できれば、俗に言われている右翼、左翼なんてゴミ以外の何様でもなくなるでしょう 何故なら、全てが皇統の弥栄に帰結するという大義が見つかるからです

つまり、共産主義という知識や民主主義という知識、全ての知識は皇統の弥栄のためにあるわけで 皇統を否定する知識や思想も根本は皇統を批判する事でより良い徳治を見出すために存在するのであって、皇国史観を身につけているのであれば皇統を否定、批判する知識も全ては皇統の為にしか存在しません

なので、西部とか、佐伯とかそこらへん読んで保守に被れるやつはただの生ゴミで無駄なことをして時間を浪費している下らぬ連中と心の底から軽蔑していました 誠に曲学阿世の徒ほど全く必要のない妄痴を振り回しては嘘偽りを売って、その下種な心を慰める

イスラームでは天秤の右側にクルアーンが左側に伝承、ハディースがあります ただ、それよりも大切なのは天秤を支える軸であり、それは解釈といいます つまり、クルアーンや伝承をいくら知っていても解釈を正しく理解していない限り天秤は倒れるのです

おねショタおじさん ‏@douteimaturi 2016年10月29日
色々と文献見ていると後世の文献というのが大体、グノーシス主義的じゃねえと思わされる事があって 英語のグノーシスバイブルとマニ教、トマスの福音書と浄土三部教と読み比べて見たんだけど、どう足掻いても既視感しか感じなかったのね やっぱりグノーシス的な思想が世界を蹂躙しているんだねえ

あーそうそう、不立文字というのは共通した真理を見出した事ではなくて、その人間にとっての真理を見抜いた事を指す事だからね だから、免許皆伝者の巻物が白紙というのはそこに自分が手に入れた見識を言葉で伝えた上でその先は己で見いだせという事だから 唯一なる神秘ではないからね


ゆらゆら ‏@yuurayurari 2015年12月13日
宇治は「生長の家」の別格本山というすごい立派な施設があった。で、生長の家ってどんなんだっけと、前に新宗教の本を読んでたときのメモ。
10大新宗教。③生長の家。海外(特に戦後ブラジル)の信者数が国内より多い。教祖・谷口雅春(明治26年、神戸市生)、早大文学部でトルストイの人道主義等に惹かれる。大本教へ入信するも違和感から脱退。清貧、菜食主義、執筆。1929年雑誌「生長の家」創刊=運動の核、読むと病気が治るとも。

峨骨 ‏@Chimaera925 2016年7月2日
@Chimaera925 「自分の中に、あるから近寄ってくるのであるぞ。嫌なこと起こってくるのは、嫌なことが自分の中にあるからぢゃ。」日月神示 ああ、これもニューソートだね(笑) 心頭滅却すれば火もまた涼しと焼け死ぬパターン。心頭滅却しても火は身を焼くんだ。
世の中の不条理は自分の心が作り出した?どこの自己責任論だ。強盗が強奪しておいて、「これはお前の心が引き寄せた。自己責任だ」と言われたらアホか?と思うだろうに。悪い事が起きるのは自己責任。利益を得るのはそれを引き寄せたから。誰にとって都合がいいか。


峨骨 ‏@Chimaera925 2015年12月15日
仏教で愛は己の欲望を満たさんとする執着心。元々仏教国だった日本では今日のような愛の概念は無かった。神の愛の名の下に異教に対する侵略と強奪を繰り返して来たキリスト教、愛を大義名分として他者の意思をねじ曲げようとする者、個人にせよ国家にせよ、愛と呼ばれる発明品は支配の道具に使われる。

峨骨 ‏@Chimaera925 2016年3月5日
神話の国で地獄に行く者は、信心が足りないか、努力(苦行)による成長が足りないと聞く。天国に入れる数に限りがあっても、そこに入れなければ信心や苦行が足りない事になっている。昔、寺に火を放たれた僧は「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言い残して焼死した。餓えた虎を友と思っても喰われる。

峨骨 ‏@Chimaera925  2017年1月2日
嫌なものは嫌と言うか、静かに距離を置く。今のところ、これが最も効果的。無理に我慢して精神ブッ壊れるよりも低コストだし、ブッ壊れたらまともに考える事も判断する事も出来なくなる。しかし、多くの人々は想像できる現在の継続、我慢を選ぶ。拒否した後の具体的な想像が出来ないから。

具体的に想像できない、未知の恐怖は、それが何か具体的に説明できない漠然とした恐怖だから、対策も想像できない。故に、解消できない恐怖となる。恐怖を克服する事は、精神を鍛える事ではなく、調べ上げて知り、想像すること。あるいは知り得ぬもの、想像しえぬもの、未だ起きていない未知が


今現在、現実に起こっていない、現実に無いもの、存在の証明も説明できぬものを想像し、恐れたところでどうにもならない。例えば死後や地獄。恐怖に囚われて何も出来なくなるなら、それについて想像するのを放棄するのが良い。存在しない単なる妄想、徒労だ。現実にそれを確認してから考えれば良い。

不安を解消する手っ取り早い手段は妄想を手放す事だ。思考が全て現実化するならば、誰もが幸福で大金持ちだろう。しかし、現実はそうではない。誰もが不幸や貧困を想像した結果が現在だろうか?それも否。考えた事、想像した事の多くは、都合の善し悪しを問わずそのまま現実に反映される訳ではない。


非論理一辺倒だと簡単に騙されるから論理を扱う。しかし、論理だけではどうにもならないものもある。言語あるいは芸術、非言語これらを用いても語り得ぬものは、沈黙して無いものとしておくのが無難だ。それらに思い悩む必要は無い。無くても回るなら、存在しなくても良い。

危険が迫った時に心の問題、心をどうにかして助かろうとするのは最後の最後で良い。さっさと危険から距離を置くか、危険が何か具体的に知り、現実的に可能な解決手段を考えて行動するのが先決。心、認識をどうこうしたってどうにもならないものは大抵どうにもならない。どうにもならないから苦しむのだ

労力を投入する場所を間違えれば単なる徒労。現実味の伴わない妄想は認識や想像を歪める。

生きたものは殺せば死ぬ。形あるものは壊せば壊れる。厄介なのは思想、イデオロギー、人類に悪霊のように寄生し捕らえる実在しないイデアの牢獄。真の世界や真の認識など探した所でありはしない。無いもの有ると信じ囚われる。無いものをあると信じさせる、呪いのような架空の永久運動装置。

偶像や呪物、シンボルを悉く否定してせせら笑い、存在していないものが偶像や呪物としてでっち上げられる前の状態にしてやる。そうする事で、物理的な危険を除く大抵の恐怖や不安は消える。頭の中にあるだけのものならば。

偶像や呪物、シンボルは道具として使うには便利だ。しかし、それらを崇拝してはいけないし、在るものとして扱ってもいけない。必要な時に作り、その場だけ在るものとして心の底から信じて用が済んだら破棄して忘却する。これをしないで扱うのは危険だし、扱うための訓練も必須。


それら道具に使われる者は、道具としてそれらを扱う者に使われる。無いものをあると同意させ、信じさせたあるいは存在するかのように振る舞わせただけで影響下に置ける。世界中にこのような呪いは溢れている。無いもの始めから無いものとして否定し解呪するならば、呪いから身を遠ざける事が可能だろう

とはいえ、自身にかけられた呪いですら、解呪するのは難しい。呪いを呪いと自覚する段階で、それと認識出来ずに躓く。今までの常識や認識、物差し、これらを進んで否定しようという物好きはそう居ないし、自己を掘り進めて否定するのは容易ではない。その前に意識や無意識、恐れが立ちはだかる。

一歩間違えれば狂人の仲間入りか、社会生活が営めなくなるから、一般常識は方便だと思って流すくらいで留めておくのが無難か。自身の独自の単位や物差しを用意して、自身の中ではそれを適用するようにしておけば、影響を減らしつつ社会生活にも支障が出ないでどうにかなる。

「君達は間違っている」なんて言って回っても、礫か磔刑か火刑か陶片あたりが関の山だろう。どうもこうもないさ。

何らかの情報に触れてそれらを扱う時は、それが自身の考えや思想あるいは調査・検証によるものなのか、自身の外から来た誰かのものなのか分けて考える必要がある。同調し、同化してしまえば懐疑する事すらできなくなるだろう。

情報や思想は検証、考察、考えて判断する為の材料あるいは道具であって、信仰する為のものではない
し、信仰してはいけない。無用な偶像や呪物、シンボルを抱き合わせで植え付けられて、恐れたり崇めたりする羽目になる。

何かを学ぶ時は守破離。守の段階で基礎を身につけ、破の段階で他の分野からも取り入れて型に囚われず改良していく。離ではその一派から離れて一人立ちする。換骨奪胎の手法だ。もともと換骨奪胎は自身の凡骨を取り去って仙骨に取り替え、胎を奪い仙人に生まれ変わる、あるいは生まれ直す事を指す。

守の段階で基礎を構成する必要最低限の要素、基礎の背景にある思想や思考の手法、抜いてはいけない骨
を理解するとコツが手早く掴める。この理解は漠然と繰り返すだけでは進まないし、身には付かない。咀嚼して血肉に変えて、土台の骨に肉付けしつつ、骨を継ぎ足したり削ったりしてやれば破の段階だ。

継ぎ接ぎだらけでも、継ぎ目が見えなければ唯一無二の独創的なものに見える。多くの人々が知らない場所から持ち出せばそれも独創的に見えるか。あくまでそのように見えるだけで、最初は誰しも基礎を学ぶ。ゼロからの創造など不可能な話だ。例え、それが天才であっても先人の試行錯誤が土台にある。

物理的な世界と認識上の世界をまぜこぜにせず、認識が先か物理的な現象が先かを見極める。物理的な現象と認識と誰かの解釈が混ざりあったものを読み解く際にも有効。ふるい分けが足りていないと、まだ起きていない情報により認識を書き換えられただけで、現実が書き換えられてしまう。

まるでARだポケモンGOのアプリをインストールして遊んでいない者にはポケモンの姿は見えないし、認識上の現象にも存在しないが、プレイヤーにはそれが見える。架空あるいは虚構の情報と物理的な現象、現象が重なりあっている。現実を上書きするアプリは頭の中にある。

哲学が金にならなくて食えない?神学や哲学を土台にしたシステムや思想を利用されて、今まさに喰われているではないか。


峨骨 ‏@Chimaera925 2016年11月9日
「汝の欲する事を為せ」セレマ教にしてもファラリス教にしても、間違った解釈は厄介だ。唯、欲する事を為せとしてしまえば無意識の蜘蛛の巣に引っ掛かった記号が、最初から胸の内にあったかのように振る舞うようになり、外部から植え付けられられた記号から来るものを本心が欲していると錯覚する。

まして、注視して集中する訓練を行っていたなら尚更。植え付けられた願望を注視してそれに囚われる。蜘蛛の巣と不純物とを焼き払い、精錬することもなく、植え付けられたものを熱烈に欲してしまう。こいつと紛い物の幻視や幻聴が加わると最悪だ。神秘ありきだと陥りやすい。

全て焼き払い、灰にして、論理と技術で組み立てる。最後の最後に言語では説明出来ない僅かな要素が必要となる。そこまでは全て論理と技術。飾り立てられた神秘は邪魔になる。ちっぽけな人間、自分の意思では越えられない壁を越える道具としては使えるけど、あくまで手段でしかない。

手段が目的となり、神秘に囚われると破滅する。神秘を追い求めるなら、神秘絶対殺すマンになった方が楽。スピ系にありがちな特殊能力だの何だのって、日本で言う狐憑きや狸憑きとそう変わりはしない。コールドリーディングやホットリーディング、多種多様の心理トリックもあるけどな。


峨骨 ‏@Chimaera925 2016年6月14日
洞窟の外に世界や太陽はない。そもそもそんな洞窟など存在しないし、イデア界など存在しない。物理の問題にある摩擦係数ゼロの床と同じだ。プラトンは比喩を使って、仮定を同意させる事で、その存在があると信じ込ませた。まやかしの洞窟は二重構造。


おねショタおじさん ‏@douteimaturi 10月24日
私が心のうんたらかんたらを全否定するのは殆ど生活と認識に必要な事は言葉で説明及び表現されきっているわけでそれをよくわからず心のうんたら言うのはこういう事を言いたくないですが、まず自分が何を認識しようとしているのかがわかっていないのでものを述べる前に黙る事を覚えろとしか言えません
https://twitter.com/douteimaturi/status/790697795481108480

心なんて人によって形成されたもの、通過した儀式、社会経験とその見識によって似たような人はまずいないのでそんな共通性がない言葉を使うこと自体が反則でそれを言った時点で最低でも学識不足といいようがありません 結局、心という言葉が出てきた先の議論はわかりません以外の言葉が出て来ません
https://twitter.com/douteimaturi/status/790699276636749824

だから、馬鹿と詭弁屋は心という単語を多用します 因みにこれを潰すやり方も当然のことながらあるわけで議論を己の感想レベルまで落とすなゴミ、といって再度引き摺りあげるか
こっちも心と言って同じように相手の言ったレベルに落として心という単語を相手より多様して殴るというやり方があります
https://twitter.com/douteimaturi/status/790701454939951104

折角なので例として、#まなざし村 でやってみると心の問題だと行ってきたら 心では個人の認識で散見して分からないので女性についての表現が規制された社会とされていない社会で比較してみましょう 例えば、イスラーム社会ではー、欧米社会の規制ではー、それによる社会的影響はー が、前者
https://twitter.com/douteimaturi/status/790704330265530368

#まなざし村 が心の問題がー、と言ってきた場合 じゃあ、俺の心はどうなるんだ!?俺が表現したいという心をお前はないがしろにするのか!?この差別主義者!心が無い奴め!俺がどれだけ、この心で苦しめられてきたかわからんのか、この人の心がない人非人が!と、言うのが後者のやり方
https://twitter.com/douteimaturi/status/790705354694885377

基本、議論が己へ有利に進んでいる状況下では心何て単語を使うことはまずありえません なので、心という単語は議論の投棄や避ける行為であって議論を進める上では使うことはまずないのです 故に私自身、心という言葉を使わないようにしているのは議論を無意味にするのでそれを避けるわけです
https://twitter.com/douteimaturi/status/790707026338938880
ねこた ‏@lakudagoya
「心の問題   @lakudagoya」検索で出るツイート
https://twitter.com/search?f=tweets&vertical=default&q=%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%40lakudagoya&src=typd

おいらが一番大嫌いな誤魔化しワードが「宗教は心の問題」というやつ。

心の問題なら社会に関わるな!

こういう詭弁を言って、自分は信仰告白しないでキリスト教の押し付けをする事がムカつくわけ。

「宗教は社会システム」が正しい。

その視点からおいらは批判してるのにね。
https://twitter.com/lakudagoya/status/781282651969769473

信仰は個人の心の問題とかのたまう馬鹿がいるけど、いつだって売国を働くのはクリスチャンだと相場が決まってる。キリスト教の信仰は民族主義にとっては邪魔以外の何者でもない。
一番いけないのは底辺のルサンチマンと選民思想を煽って支配してるとこかな?
日本の原住民ニダ!もそういう構造。
https://twitter.com/lakudagoya/status/702818271670587392

キリスト教は明治維新で負けた藩士だの部落などの貧困層を取り込む事で拡大した。そうやって負け組のルサンチマンにつけこみ、そいつらに「神に近い」とか言って選民思想を吹き込んで間接統治と売国の道具に使うんだろ? そのためのツールとしての日ユ同祖論だろ?w 何回も同じ手口に騙されるなって

サウジやオマーンの王族は、欧米の犬になって反イスラーム的な閉鎖国家で利権を貪ってて、利子を取るのが許されないのに金利生活やってるとサラフィーに批判される事ってあるじゃん?

スピリチュアルやキリスト教も本来はこんな批判をするべきなんだよ。

宗教が心の問題ってありゃ嘘だね。
https://twitter.com/lakudagoya/status/781281699233542144

宗教というのは社会構築手段なんで心の問題とか言いながら、政府の公金で工作やってるやつは詐欺師ですね。
https://twitter.com/lakudagoya/status/781288801775738880

宗教の話をしていて心の問題にするのはダメよ。 心の問題ではなくて、宗教は社会システムなの。 天皇財閥は民衆を生贄にした事でイスラム原理主義者に比べるとどれほど悪質かわかります? そのグロテスクな体制がイエズス会謹製でしょ?
https://twitter.com/lakudagoya/status/790491824343306240

ユダヤ教と耶蘇教の違いをあえて言うとしたら、現実的な「生活智」のあるなしだね。もうひとつは共同体の守るルールとしての律法(聖書)があるかどうか。 タルムードってのは、ある種のイスラームのシャーリアに近いの。 心の問題ではなくて、共同体の法と生活ですからってのがユダ公の視点。
https://twitter.com/lakudagoya/status/783761187821326336

宗教は心の問題じゃなくて社会システムだし、カルトもいわば宗教という名の知識と技術の集積なんだもん。 古代エジプトの神殿なんて医療や建築などの現実的な知識と技術を独占してた。 仏教は心を扱う技術の集積を持ってる。   それらを技術を持たないカルトは最悪なんだよ。
https://twitter.com/lakudagoya/status/789492295150084096

大体、心の問題とか言う時点で詭弁だよ。 そもそも権威なるものは情報によって作られてるのだから、テレビのない村に住む土人にテンノー崇拝押し付けても「誰それ?」だもの。 テンノー崇拝バカは、理論的に突っ込まれるとそいつの心の問題とか誤魔化す詭弁屋だというからね。
https://twitter.com/lakudagoya/status/791028127417774080

情報格差とそこから生まれる水位差を利用して権威を作り、偶像崇拝させる輩が大嫌いなのさ。 一般人にはベールをかける必要のある情報があるのはわかる。なんなら影でこっそりやってくれよ。 そんなの一般人に見せつけて偶像崇拝させてそれに突っ込んだら心の問題って何の詭弁だよ?w
https://twitter.com/lakudagoya/status/791027546959646720

イスラームの人たちはアッラーへの信仰を隠さない。 でも耶蘇や神道カルトや偽史カルトは自分らの信仰心をひた隠しにして洗脳工作する。ずるいよなー テンノー崇拝なら最初からそう名乗れ!テンノー崇拝を隠して議論をするから話が噛み合わなくなって心の問題という詭弁を連発するようになる。
https://twitter.com/lakudagoya/status/791029865902288897

全く陰謀論コミュという所は、肝心な話を人の心の問題にして誤魔化そうとする野郎ばかりだぜ。 特定の宗教思想を持った人がそれを洗脳する場なんだな。 だからエスプリが効かず必死。 まだ横文字パヨクのほうがマシだぜ。 面白さではなくて、自分の立場を守る場なのだもの。
https://twitter.com/lakudagoya/status/792042110392242177

神道の特異性を言うやつって、世間一般多くが欧米のメイソンの視点からの自然崇拝すげーになってるからね。 老荘思想や道家の影響はないのか? つーか心の問題って議論としては詭弁なんだよね。 認識論やったら権威なんざ情報を遮断すればそれって美味しいの?だしな。
https://twitter.com/lakudagoya/status/791031107042979840

あとヴィクトリア朝の中産階級のリア充の生き方、あれねちょっと内臓が悪いだけで成り立たない。 あと人生の前半戦に大変なことがあるとそれも成り立たない。 で、イスラームは豚肉禁止の場合、それを知らずに食った場合やそれしかない場合の特例措置があるけど、こっちにはないんだよね。

ヴィクトリア朝の中産階級の生き方は、ごく一部の人が全力投球・全力疾走して何とか守れるものぢゃん。 で、そんな人生なんて何があるかわからない一寸先は闇なのに、不確定要素が襲ってくるとあっけなく崩壊する。 これ生き方のモデルとして普遍化できるものではないんでないか?

こんな守れもしない理想像を作ってそれに縛られて、社会や個人に莫大な無駄をさせる事自体為政者としては失格なわけよ。 しかもこの理想像は我欲だけで押し付けてないか? 社会全体の整合性を考えて作り上げられたモデルではないだろ? こんな為政者としてうんこなのに心の問題はないわ。
https://twitter.com/lakudagoya/status/794237567176577024

しかもさ、欧米が押し付けてくる価値観やマナーなどはみーんな自己都合でしかない。 意味があってある戒律でないんだよ。 例えばイスラームのヒジャーブは女性の商品化を防止する事や虚飾性に走らせて家庭崩壊させないためにちゃんと意味があってあるんだぜ? それを迷信のようにさ。

おいらの悪の魔導師陰謀論は、ニャンゲンは技術に支配される技術陰謀論なんだよ。 例えばこれ紐付きの言動を見る上においてもそうぢゃん。中身ではなく扇動技術に動かされてる。 で、ユダヤが悪いにしてもさ、おいらがタルムード読んだときにこれは社会で成功するわと思ったもの。

だからさ、大本教がユダヤ人が霊的に悪いとか言ってる事を聞いてはぁ?と思ったよ。 あのさ、ユダヤ教の教育をやれば誰だって社会で成功する智慧が手に入るぢゃん。 何で紐付きはユダヤがあそこまでのさばれる教育システムや思想を叩かないの? タルムード朗読会なんてどうかしら?

おいらが初めてだよね。教育システムの陰謀論。 これに気付いたのは色々あるのだけど、何でファンタジーの世界では周期的に魔王を生み出してるのか?という問題だよね。 で、魔族ではなくて魔王になるパターンは高位魔導師の人がこじらせちゃってという事が多いぢゃん。これを見てさ。

ファンタジーの魔導師に出てくる魔導師教育は魔王を作る要素を内在してるんでね?と思ったもん。 それでいてばっちし対策もできないのだから欠陥システムじゃね?と思ったもん。 となるとさ、逆引きしたら魔王を生み出してるのは教育システムという問題に行き着くわけよ。わかるかな?

で、更に妄想すると周期的に魔王を生み出してその対策に疲れた(派遣奴隷の勇者を使って討伐するけどそれも面倒なんだよ!)魔導師さんたちはもうこんな事が二度と起きないように仏教を背乗りする事を思いつきましたとさ。 全ての問題は大きすぎる力を持つものの心の問題に帰結するからさ。
https://twitter.com/lakudagoya/status/795228435001974784

力を持つものが常に心の問題で世界に迷惑かけてるなら魔王も人の子。心の苦しみや不安定さを取り除く技術を持っているのは仏教だけだー!と気付くもの。 多分仏教の背乗り案を思いついた人は「やべ!俺天才かも?」と思ったかも知れない。 そうしたら魔王問題を劇的に減らせる事に気付きました。
力があれば使いたくなるのは人情ですから。 で、今の社会の問題点は力を持つものか剥き出しで弱者を蹂躙してるのはととても良くないです。 それは陰謀論にでも言えるよね?わかるかな?


おねショタおじさん ‏@douteimaturi 11月5日
真実というのは信仰告白をする事であり
事実というのはどうしようもなく起きてしまった出来事を言う
真実を言うものは出来事を信仰で歪めるので私は真実という言葉を使いません
なぜなら、真実を知るものが信仰を知りきっているわけではないからです
https://twitter.com/douteimaturi/status/795007985231728640


菊池 ‏@kikuchi_8
大本教は実質的に出口王仁三郎と浅野和三郎が作ったようなものだからだと思います。「御筆先」の元になった文字列は、出口なおが「常同症」という同じ行為をひたすら繰り返す精神疾患の症状によってなされたもの(この場合は濫書)と中村古峡氏は分析していました。
知られざる名著        
『学理的厳正批判大本教の解剖』
オウム事件は第四次大本事件か?
http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/text/text2.htm

菊池 ‏@kikuchi_8 2015年7月14日
社会主義者の堺利彦は大本教信徒の迷信ぶりは馬鹿にするものの、彼等の「革命」への情熱は「使えるタマ」だと評価していたようだ。この「情熱」を社会主義革命に向けたらと「下心」を滲ませている。中村古峡の大本教批判書に当時の著名な知識人が前文を寄せているが堺もその一人。そこに書いてあった。
https://twitter.com/kikuchi_8/status/620616801936740352

石黒壯明 ‏@Msowmay 2012年9月2日
永井叔もまた、エスペラントを独習した。二葉亭四迷が『世界語』を著して以来、新渡戸稲造、柳田國男、
堺利彦、大杉栄、土岐善麿、秋田雨雀、出口王仁三郎、新村出、
山田耕筰、宮沢賢治、ヤクルトの代田稔、そして永井叔… 日本のエスペランティストの系譜から近代史における意外な横軸が見えてくる。

竹中編集企画室(ホモ エーデンス) ‏@Takeridon 2015年2月9日 神奈 茅ヶ崎市
宮沢賢治がエスペランティストであることはよく知られている。では誰に学んだのか。ひつじ書房『日本エスペラント運動人名事典』後藤斉ほか編 によれば、
川原次吉郎と推定されているという。エッ、川原は吉野作造門下の政治学者で、吉野没後、吉野の随筆集『古川餘影』を編集発行した人。〜

ひつじ書房
柴田巌・後藤斉編,峰芳隆監修『日本エスペラント運動人名事典』
http://www.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/biografialeksikono.html

竹中編集企画室(ホモ エーデンス) ‏@Takeridon 2015年2月11日
『日本エスペラント運動人名事典』はすごいねえ。木下順二を立項し、エスペランティスト菅季治をモデルとした「蛙昇天」をあげているだけでなく、堺利彦と大杉栄をモデルとした人物がエスペラントに言及する「冬の時代」にも言及。素晴らしい事典です。 http://www.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/biografialeksikono.html …

菊池 ‏@kikuchi_8 7月12日
新興宗教は神道系は大本系、仏教系は日蓮系が多く、それ以外だと神智学系もある。大本教は世界連邦やエスペラント運動を推進し、日蓮系は田中智学のように全世界法華経化=ワンワールド思想と結びつきやすく、神智学は言わずと知れたメーソン思想である。新興宗教=NWO側と判断してほぼ間違いない。


※平民社の堺利彦
は日本における最初の『共産党宣言』の翻訳を発表。
明治38年(1905年)に社会主義機関誌『直言』にエスペラントに関する記事を掲載。明治39年(1906年)に発足した日本エスペラント協会の評議員に就任
平民社の標語が自由・平等・博愛というメイソン用語で、エスペラントって真っ黒な世界連邦賛成派。



老壮会/老荘会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E5%A3%AE%E4%BC%9A
”老壮会/老荘会(ろうそうかい)は、左派思想家と右派思想家が一堂に会した大正日本の思想団体。

1918年(大正7年)10月9日の創立。事務所は牛込区(現、新宿区)南町1番地に置かれた。世話人は満川亀太郎がつとめた。

明治31年(1898年)頃から麻布飯倉片町に集い始めた
権藤成卿、飯塚納、小沢打魚、川崎紫山、
内田良平(黒龍会主宰)
大江卓、樽井藤吉、山口弾正、大井憲太郎、
小島文六、三浦伴八、兼松義整、綱島正興ら『南葵文庫の会』の会員と会を母体として、
左翼思想家、国家主義者、社会主義者、国粋主義者など、その職業、思想を問わず、一定の目的も定めずに在京の思想家が一堂に会したような会合であった。月に一度の開催で時局を論じた。

1921年(大正10年)頃まで続いたが、主に左翼派の脱会者が数多くなるに従いのちに分裂。急進的な右翼的な思想を持つ満川亀太郎・大川周明・北一輝らは猶存社へ、
高畠素之らは大衆社へとそれぞれの思想系統へと分岐した。ただし満川はソ連政府を承認すべきことを論じ(「何故に過激派を敵とする乎」)、大川はその見解に対し賛意を示す[1]など、右翼とはいうもののこの二人はいわゆる「反共」ではない。
参加者

左翼派(当時)

堺利彦、高畠素之、
大杉栄[2]、
島中雄三、
下中弥三郎
大竹博吉、中村高一、
北原龍雄、小栗慶太郎、高尾平兵衛、
茂木久平、松延繁次、遠藤友四郎、等。

右翼派(当時)

北一輝、
大川周明

権藤成卿、満川亀太郎、沼波瓊音、渥美勝、
鹿子木員信、笠木良明、岩田富美夫、清水行之助、金内輔平、
山元亀次郎、嶋野三郎、細井肇、等。

その他

大井憲太郎、水野海暁、佐藤鋼次郎、小原達明、
山口正憲、長瀬鳳輔、川島清治、
草間八十八、田鍋安之助、
中野正剛、亀井陸良、宮川貫一、工藤鉄三郎、
石田友治、長谷川光太郎、伊達順之助、上泉徳弥、
平貞蔵、佃信夫、長崎武、臼井清造、
角田清彦、野中負、麓禎助、
阿部真言、十菱愛彦、森伝、等。

参考文献

「愛国団体一覧表」出版地・出版者・出版年未記載。ガリ版。90頁。24cm。オックスフォード大学ボドリアン図書館所蔵。

出典

^ 大塚健洋『大川周明と近代日本』木鐸社、1990年、147頁
^ 鈴木邦男のブログ 北一輝と大杉栄は老壮会でよく会っていた


魔法おっさん(30代無職童貞)‏ @douteimaturi 3月25日
シンボル解釈する際は必ずその土地に近いもので解釈しましょう
この場合の近いというのはその象徴が発生した周辺の神話や伝説・習慣等の俗習的なモノから引用する事です
往々にして、その象徴には俗的な不満などが詰まっているのでそこから見る事です 西洋画が何故に全裸が多いのと同じです
なのでシンボル辞典を引用する際は必ず土地の歴史や民族と民俗を理解した上で読み解きましょう 西欧の秘密結社みたいに中東のシンボルをアフリカの民俗・アメリカ原住民の民俗で読み解くみたいな欺瞞的普遍・不変主義みたいなことをしない様にそれすると大本みたいなバカが発生するのでやめましょう

つうか、日本にイスラームを持ってきたのは大本系でしょ
大川周明先生とかのアジア主義者がアジアの思想的統一=大本の思想強化と確立の為に持ち込んだのが現代日本イスラームの始まりと見ていいでしょう
その為、日本でイスラームというと見ている限り神道カルトがかなり関係している


小森健太朗‏ @komorikentarou 1月22日
河口慧海の『チベット旅行記』電子版で読んでいると、神智学関係者との接触の話が出てきて興味深い。ところで大川周明がイスラム講義のタネ本に使った「クルアーン講義」の著者Ahmed Shahも「チベット密教」とか「インド神秘思想」などを著している神智学系の著者なんだよなー。







エルンスト一世か二世かわからんぞ
ルター保護の選帝侯ならカトリック皇帝が弱くなれば得する。

エルンスト1世 (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%881%E4%B8%96_(%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%EF%BC%9D%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%BF%E5%85%AC)

日本語記事がない元祖イルミナティの創始者の記事
Johann Adam Weishaupt (6 February 1748 – 18 November 1830)
https://en.wikipedia.org/wiki/Adam_Weishaupt
“Activities in exile
He received the assistance of Duke Ernest II of Saxe-Gotha-Altenburg (1745–1804), and lived in Gotha writing a series of works on illuminism, including A Complete History of the Persecutions of the Illuminati in Bavaria (1785), A Picture of Illuminism (1786), An Apology for the Illuminati (1786), and An Improved System of Illuminism (1787). Adam Weishaupt died in Gotha on 18 November 1830.[1][2][3][4] He was survived by his second wife, Anna Maria (née Sausenhofer), and his children Nanette, Charlotte, Ernst, Karl, Eduard, and Alfred.[2] Weishaupt was buried next to his son Wilhelm who preceded him in death in 1802.
After Weishaupt's Order of Illuminati was banned and its members dispersed, it left behind no enduring traces of an influence, not even on its own erstwhile members, who went on in the future to develop in quite different directions.[22]“

Ernest II, Duke of Saxe-Gotha-Altenburg
https://en.wikipedia.org/wiki/Ernest_II,_Duke_of_Saxe-Gotha-Altenburg
“Freemasonry
From 1774 he was a Freemason in the Zinnendorf system and a member of the Gotha Lodge Zum Rautenkranz, which had been founded by Abel Seyler, Konrad Ekhof and other members of the Seyler Theatre Company in the same year. In 1775, he was appointed Grand Master of the Landesloge of Germany (Zinnendorf system). In 1783, he became a member of the Bavarian Illuminati under the name of Quintus Severus and/or Timoleon, and in 1784, he was made Supervisor of Abessinien (a name for Upper Saxony). In 1787, he granted Adam Weishaupt, the founder of the secret society, asylum in Gotha. He was buried wrapped in a white cloth on the park island.“

ザクセン選帝侯領
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3%E9%81%B8%E5%B8%9D%E4%BE%AF%E9%A0%98

エルンスト2世 (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%882%E4%B8%96_(%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%EF%BC%9D%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%BF%E5%85%AC)

Ernest I, Duke of Saxe-Coburg and Gotha
https://en.wikipedia.org/wiki/Ernest_I,_Duke_of_Saxe-Coburg_and_Gotha

Ernest II, Duke of Saxe-Gotha-Altenburg
https://en.wikipedia.org/wiki/Ernest_II,_Duke_of_Saxe-Gotha-Altenburg

イルミナティ(パヴァリア啓明結社)の興亡
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/mason/iruminateli.htm
”イルミナティは、「パヴァリア啓明結社(イリュミネ)」とも呼ばれ、急進的な社会改革思想を持ち、徹底した自由と平等を唱え、反キリスト教、反王制を唱え、一種のアナーキズムを主張した。そして、原始共産主義的な共和制国家の樹立を主張した。
 とはいうものの、この結社は創立当初においては、そんなに過激な結社だったわけではない。また、初期においては政治的な色彩も薄かった。
 創立時においては、学者の知的サークル的な色彩が強かったのである。

 実際、シンボルによる人間の意識への働きかけを考察し、キリスト教神秘主義者の立場から、魔術、カバラ、ヘルメス哲学を擁護したカール・エッカルツハウゼンも団員だったが、彼は過激な政治的革命思想には批判的だった。

 イルミナティの創立者のアダム・ヴァイスハウプトは1748年バイエルン王国のインゴルシュタッドで生まれた。
 彼の父親のヨハン・ゲオルグ・ヴァイスハウプトは著名な法学者であり、インゴルシュタッド大学に、わざわざ呼ばれて教授となった。
 というのも、当時のパヴァリアを支配したマクシミリアン3世は進歩的思想の持ち主で、教育改革を行うためにインゴルシュタッド大学に科学アカデミーを創設し、そこの責任者に進歩的なイックシュタッド男爵を任命した。男爵はドイツ中から優秀な学者を呼び集め、大学改革に乗り出したのである。
 彼の父のヨハンは男爵の甥にあたり、法学の硬学として名も通っており、まさにうてつけの人材であった。
 当時のインゴルシュタッド大学は、カソリックのイエズス会系学者たちの支配下にあり、この改革は、旧体制的なイエズス会系の学者たちと摩擦を引き起こした。

 インゴルシュタッド大学がイエズス会の強い支配下にあったがゆえに、アダム・ヴァイスハウプトはイエズス会式の教育を余儀なくされた。彼はイエズス会神学校に学び、インゴルシュタッド大学法学部に入学後もイエズス会系の学者たちから教えを受けた。そこで彼は優秀な成績を納めし、わずか20歳で法学の学位を取り、若干24歳にして教授となった。
 彼は、当然の如く初期に置いてはイエズス会の強い影響下にあった。
 しかし、彼はフランスの啓蒙主義や百科全書派の書を読みふけるようになり、次第に反イエズス会の思想に染まってゆく。
 1773年のクレメンス15世によるイエズス会の解散命令は、一つの契機だった。インゴルシュタッド大学では、この事件は逆にイエズス会系の学者達を団結させ、彼らは非イエズス会の学者達に圧力を加えるようになった。

 そのため、 アダム・ヴァイスハウプトは一時期、大学での講義を禁止され、ミュンヘンに逃げるまでになる。
 彼が自由主義の秘密結社の設立を決心した大きな原因が、このイエズス会による迫害にあったことは、間違いない。
 彼は古代エジプト、ピタゴラス学派、ユダヤ教エッセネ派について研究し、さらにはフリーメーソンにも興味を持った。
 彼は一時期フリーメーソンに入会することも考えたらしいが、実現はしなかった。本来のフリーメーソンでは、ロッジ内での宗教議論や政治議論を禁止していたので、彼の思想とは相容れなかったのである。

 彼の目的は、イエズス会の影響を逃れ、自由な学問追求を目指す学者サークルであった。
 1776年、ついに彼は自分の結社を創立する。「完全可能性主義者の会」である。この同年に「パヴァリア啓明結社(イリュミネ)」と改称する。
 結成初期の団員は、いずれもヴァイスハウプトの弟子や友人たちであった。
 しかし、1778年頃に、多くの市民と下級貴族が大挙入団し、組織は巨大化する。

 初期のイルミナティの位階は単純で、新参入者、ミネルヴァル、ミネルヴァル天啓の3つしかなかった。ミネルヴァル以上に昇進した団員は、「戦士名」を授けられる。それは古代古典に出てくる英雄の名が使われた。
 例えば、創立者のヴァイスハウプトはスパルタクスを名乗り、彼の弟子で幹部のマッセンハウゼンはアヤックス、友人で幹部のツヴァイクはカトーであった。
 参入者は団員の紹介が必要である。そして、「保証人」がつく。保証人は新参入者を観察し、彼が団の規則を守っているか、道徳的に正しい人間であるかを調べ、毎月それを書類にして団の上層部に提出する。また新参入者も、同様に自分の保証人について観察を行い、これを上層部に提出しなければならない。
 要するに「相互監視制度」があった。これは実はイエズス会の真似であり、ヴァイスハウプトは反イエズス会を標榜しながら、その影響を強く受け続けていたのである。
 新参入者からミネルヴァルに昇進するときは、イニシエーションが存在した。ここで彼は上層部の幹部から祝福を受け、「戦士名」を授かった。
 そして、仲間の監視報告の他にも日記の提出が義務付けられた。
 ミネルヴァルからミネルヴァル天啓への昇進は、事務的な人事であり、イニシエーションは無かった。
 そして、下級団員達には、上層幹部のことは絶対に秘密であり、首領の「スパルタクス」の正体を知っているのは、一部の側近達だけだった。
 彼らはしばしば集会を行い、反イエズス会や啓蒙思想の本を回覧したり、情報交換を行った。
 そして、独自の暦
を作り、これを用いていた。

 しかし、この組織の運営はやがて行き詰まった。
 団員達がフリーメーソンの方が楽しそうと考え、退会が相次いだからだ。
 ヴァイスハウプトは、これを止めるために、新たにゾロアスター思想に基づいた「火の位階」という新位階を設定したが、焼け石に水。
 そこで彼が考えたのは、フリーメーソン的なものを取り入れるということだ。
 彼はメーソンに忠実な団員を潜入させた。
 彼はベルリンの大ロッジにスパイを送り込み、まんまとロッジの認可証を手にれるや、ミュンヘンのロッジを乗っ取る。
 さらに、アドルフ・ファン・クニッゲ男爵の入団によって、イルミナティは大きく変貌する。
 クニッゲは、もともと高位メーソンであり、フリーメーソンの知識や人脈を豊富に持っていた。そのうえ、思想は啓蒙主義的であり、ヴァイスハウプトと意見があった。
 ヴァイスハウプトは、彼にプィロンという戦士名を与え、側近に加え組織の大改革を実行させる。
 クニッゲは、組織の位階制を13位階以上から構成されるメーソン風の複雑なものに変えた。これは1782年に正式に認可される。
 さらに彼はメーソンの人脈を利用して、ドイツ各地の小ロッジを次々に乗っ取った。貴族、政治家、高級官僚、学者、医者、高位聖職者、軍人等の有力者たちが次々に参入し、確かにこの結社はドイツ全土の政界に馬鹿にできない影響……は持てなかった。
 というのも、あまりに成長が急であったために、組織の統一性が思うように計れなかったのである。
 また、イルミナティの最盛期の会員は600人とも2000人とも言われるが、実はこうした人数は、イルミナティの正式な団員ではなく、彼らの思想に共感したフリーメーソン内のシンパを入れての数であるらしい。

 さらに、この巨大化と共に、イルミナティは政治色を強めてゆく。それも急進的な反王制、反教会的な革命を含んだ政治思想である。そして、イルミナティは次第に政治思想的な秘密結社へと変貌してゆく。
 こうなったそもそもの原因は、イルミナティを巨大化させたクニッゲ男爵によるところが大きい。彼は貴族でありながら、反王制・共和主義者であったのだ。
 とは言うものの、クニッゲは暴力革命には、はっきりと反対の立場を取っていた。

 曰く、本来国家の主権は人民にあるべきなのに、王がその座に居座っている。そして、王は人民を従えるために、他国の人々を憎むように教え(いつの時代も偏狭なナショナリストの考えることは同じということか)野蛮な戦争を起こす
 しかし、国家転覆を目指すようなことは考えない。我々はあらゆる暴力を否定する。暴力的な革命はろくな結果を生まない。我々はゆっくりと、政府の高官や支配階級に団員を送り込み、あるいは彼らを教育して同志とし、ゆっくりと国家を改造する。最終的には「国」は消滅し、戦争の無い、人民が一つの家族となる時代が来よう。
 それには数千年かかるかもしれないが、それでも構わない。
 
 さらに、クニッゲ男爵は、実はこの既存の国々を統一し、一つの国を作るという発想は、当時バラバラだったドイツを統一する程度のニュアンスしかなく、全人類レベルのような大それたことは考えていなかったらしい。
 だが、スケールの大小に関わらず、これは既存の国家政府を否定する革命思想であることには変わりなく、当時の支配者たちからしてみれば危険思想であったことには変わりない。
 言うまでも無く、反イエズス会の態度は、教会をも敵にまわす事になる。

 イルミナティの成長は早かったが、崩壊も早かった。
 1777年にマクシミリアン3世が死去すると、イエズス会が勢いを盛り返した。
 インゴルシュタッド大学でも大規模な反動が起こり、廃止されていた本の検閲と禁書制度が復活した。
 この結果、イルミナティはパヴァリアからの撤退を余儀なくされ、本拠地をワイマールとウイーンに移す。文豪のゲーテ(戦士名はアバリス)が入団したのも、この頃である。
 さらに、ライバル結社との抗争も激化する。フリーメーソンの反撃によってフランクフルト進出に失敗。
 そして、ベルリンにおいては、かの黄金薔薇十字団が最盛期を迎えており、彼らはドイツ皇帝を動かしてイルミナティに圧力を加えた。
 そして、最悪なことに、この大事な時期に、イルミナティ内部で深刻な内部抗争が勃発した。
 首領のヴァイスハウプトは、クニッゲ男爵の影響力が強くなりすぎたことに反発し、男爵から全ての権限を取り上げようとした。当然、男爵はこれに反発し、命令を拒否する。
 そして、この両者の決別が、事実上のイルミナティの崩壊であった。1784年のことである。
 クニッゲ男爵は退団し、その後はあらゆる秘密結社を否定する論者となったしまう。

 とどめは1785年にさされる。まず、「政府の許可無く組織を作ることを禁止する」という禁令である。
 さらに致命的なスキャンダル事件が起こる。
 国立アカデミーの教授でイルミナティ幹部だったヨーゼフ・ウイッツシュナイダーが、密告を行った。
 いわく、イルミナティはオーストリアのヨーゼフ2世と結託し、ドイツを転覆させ、ドイツをオーストリア帝国の支配下に置く陰謀を企んでいる。そのために毒殺や短剣を用いた要人の暗殺を企んでいる。
 政府はイルミナティの調査を命令する。結果、反キリスト教的思想、反王制思想、革命思想が発覚してしまう。
 同年、2回目のイルミナティを名指しで禁止する法令が出される。
 一連の指導者は逮捕され、政府高官は左遷、公職追放。
 さらに、団の文書の中から毒薬調合に関する物が発見される。だが、これには胡散臭さがついてまわる。本当に団は毒薬を使う気があったのか? これは謎である。

 ヴァイスハウプトはレーゲンスブルクに亡命し、イルミナティの弁護の著書を次々に出したが、無駄であった。この頃、彼は私生児を設け、これを堕胎させた。
 これは結果的に赤ん坊殺しのスキャンダルに発展し、終いには「イルミナティでは赤子を生け贄にする黒ミサを行っている」というデマまで生まれた。
 さらに、イルミナティの元団員達が裏切り、あることないことを吹聴してまわる。曰く、イルミナティは毒殺と私刑に満ちた恐怖支配の黒魔術結社であり、テロによる政府転覆を狙う陰謀結社である云々。
 そして、狂信的な反フリーメーソン論者として知られたバリュエル神父やロビンソン教授らが、イルミナティを悪魔崇拝の政治的陰謀結社とする本やパンフを撒き散らした。
 (彼らの撒き散らしたデマを信じる人間が現在もなお居るのは、何ともやりきれない)
 政府も世論も完全にイルミナティの敵となった。主な団員は公職追放され、団員達も退会する。
 オーストリアとワイマールの支部は、その後も何とか存続しようとしたが、1786年に壊滅する。
 イルミナティの寿命は、わずか十年間であった。

 ヴァイスハウプトは、その後も、ほうぼうを亡命しなら著作活動続けたが、ドイツ中部のゴータ公領に逃げ込み、彼の支持者だったエルンスト公爵に庇護され、そこで余生を過ごした。1811年に彼は死去した。

 彼は社会的な平等を唱え、全ての人間は「王(神?)」になることができ、そのためには自己の意志に忠実に生きなければならないとした。なにか妙にクロウリーを思わせる思想である。
 彼の理想は古代の家父長制度による原始共産主義的な社会であり、封建君主や教会制度はそこに至るための過渡的なものと捕らえていた。
 こうした制度を排し、一般大衆に「啓明」を与え、先の原始的なユートピアを作ろうと考えた。
 これは非暴力によって行われなければならないが、どうしようもないときは革命も仕方無いと考えていたふしも否定はできない。
 とはいえ、ヴァイスハウプト自身は、政治活動にはあまり関心がなく、あくまでユートピア建設思想を育むために、団員の徳の向上をはかることがイルミナティ創立の目的であった。

…ドイツで壊滅状態に陥ったイルミナティの難民としてヨハン・ヨアヒム・クリストフ・ボーデなる男が、ミラボー伯の手引きでフランスに現れる。ミラボーは、彼をフランスのメーソンの顧問的指導者にしようとする。
 当時フランスのフリーメーソンはオカルト色が強かった。ボーデはこれを排そうとする。

 しかし、カバラの替わりに政治思想を、ヘルメスの大作業のかわりに暴力革命を持ち込もうとする彼らの思想ははなはだ不評であった。
 それでも、一部の小ロッジの中には、彼らの影響を受ける者もいたが、やがてそこからはジャコバン党のような連中を生み出し、フランス大革命後の血なまぐさい大混乱のさなか、彼らは多くの人々をギロチンに送り、やがて自分等も自滅してしまうのである。
 また、フランスの各地でも、イルミナティを名乗る結社がいくつか作られた。
 しかし、言うまでも無く、これらの結社は、ヴァイスハウプトの正統なイルミナティとは何の関係も無い。勝手に「イルミナティ」の名を名乗っているだけだった。”


読了多謝

追加中会話術随時追加 会話などとにかく使える話のコツまとめ 

ああ工事中 ここ下の自分なりまとめ
本当に治したいなら「やるべき、やるなリスト」を作成、印刷、録音、音読しまくって潜在意識まで吸い込んで実践すること。


録音機は救世主。スマホにあるよね。
自分の声を聞いて自分の話す速度と、内容が相手に理解できるものかを客観的に見てみよう。

人に嫌われたり、陰で笑われたり、軽蔑される方法。
相手の話を、決して長く聞くな。
終始自分のことだけをしゃべれ。
早口でしゃべれ。
相手が理解できない用語を使いまくれ。
すぐに相手の話をさえぎれ。
相手はこちらよりも頭の回転が鈍い、下らないおしゃべりをするなと常に思え。
話の途中で遠慮なく口をはさめ。

ジュリアン・トレジャー: 人を惹きつける話し方
https://www.youtube.com/watch?v=eIho2S0ZahI

”You can locate your voice,/ however.//

声を出す場所を 変えられます

So/ if I talk up/ here/ in my nose,/ you can hear the difference.//

鼻から話してみます 違いますよね

If I go down here/ in my throat,/ which is/ where most of us speak from most of the time.//

さらに のどで話してみます ほとんどの方は ここから声を出しますね

But/ if you want weight,/ you need to go down here/ to the chest.//

でも もっと重みを加えたいなら もっと下 ― 胸から出します

You hear the difference?//

違いが分かるでしょう?

We vote for politicians/ with lower voices,/ it's true,/ because we associate depth/ with power/ and/ with authority.//

低い声の政治家に 投票するという事実もあります というのも 私たちは 深さを力や 権力と結びつけるからです

That's register.//

それが声域です

Then/ we have timbre.//

つぎに「声色」があります

It's the way/ your voice feels.//

声の質感です

Again,/ the research shows/ that we prefer voices/ which are rich, smooth, warm,/ like hot chocolate.//

研究によれば 豊かで なめらかで 温かみのある声が好まれます ホット・チョコレートのような声です

Well/ if that's not you,/ that's not the end of the world,/ because you can train.//

あなたの声がそうでなくとも 悲観する必要はありませんよ 訓練できます ボイス・トレーナーを探しましょう

Go/ and get a voice coach.//

And there are amazing things/ you can do with breathing,/ with posture, and with exercises to improve the timbre of your voice.//

息づかいや 姿勢 練習によって あなたは 見違えるように 声質を改善できるのです

Then prosody.// I love prosody.//

そして「韻律(プロソディー)」

This is the sing-song,/ the meta-language/ that we use/ in order to impart meaning.//

私のお気に入りです 抑揚や ― 言葉に意味をそえるメタ言語で

It's root one/ for meaning/ in conversation.//

これこそ会話の醍醐味です

People/ who speak all/ on one note are really quite hard/ to listen to/ if they don't have any prosody/ at all.//

ずっと同じ調子で話されると 聞く気が起きませんね 韻律がないからです

That's/ where the world monotonic comes from,/ or monotonous,/ monotone.//

それこそ 単調で変化に乏しい 一本調子の世界です

Also/ we have/ repetitive prosody now coming/ in,/ where every sentence ends/ as if it were a question/ when it's actually not a question,/ it's a statement.//

それから こんな韻律も よく聞きますよね? 疑問文のように 文末が上がるものです? 実際は疑問ではなく 意見なのに?

(Laughter)/ And/ if you repeat/ that one over and over,/ it's actually restricting/ your ability/ to communicate through prosody,/ which I think/ is a shame,/ so let's try and break/ that habit.//

(笑) これを何度も繰り返していると 韻律を使って 意思疎通を図ることが できなくなってきます それはとても残念なことですから この癖は ぜひとも なくしましょう

Pace.// I can get very,/ very excited by saying something really,/ really quickly,/ or I can slow right down/ to emphasize,/ and at the end of that,/ of course,/ is our old friend silence.//

そして「ペース」 とても速く話すと すごく興奮している 感じになります 一方 ゆっくり話すと 強調できます 究極的には よくご存知の 沈黙です

There's nothing wrong/ with a bit of silence/ in a talk,/ is there?//

ちょっと沈黙したからって 何も問題はないでしょう?

We don't have to fill/ it/ with ums/ and ahs.//

「えーと」とか「あー」で 沈黙を埋める必要はありません

It can be very powerful.//

沈黙には すごい力があります

Of course,/ pitch often goes along with pace/ to indicate arousal,/ but you can do it just/ with pitch.//

感情の高ぶりは普通 「音高(ピッチ)」と テンポで表現しますが 実は音高だけでも可能です

Where did you leave my keys?//

僕のカギをどこに置いた?

Where did you leave my keys?//

僕のカギをどこに置いたんだよ?

So slightly different meaning/ in those two deliveries.//

音高を変えると 少し違う意味になるでしょう

And finally,/ volume.//

最後に「声量」です

I can get really excited by using volume.//

声量によって 興奮した感じにできます

Sorry/ about that/ if I startled anybody.//

驚かせましたかね

Or,/ I can have/ you really pay attention/ by getting very quiet.//

あるいは とても静かに話すことで 注意を引きつけられます

Some people broadcast the whole time.//

大音量でずっと 話す人もいますが

Try not to do that.//

それは避けましょう

That's called sodcasting,/ imposing your sound/ on people/ around you carelessly and inconsiderately.// Not nice.//

それこそ「大迷惑」というもので 何も考えず まわりの人に自分の音を 無神経に押しつけているのです 感心しません

Of course,/ where this all comes into play/ most of all is/ when you've got something really important/ to do.//

こうしたことは 何か重要なことを 伝えるときに 役立ってきます

It might be standing on a stage/ like this/ and giving a talk/ to people.//

こんな風にステージで 話すときかもしれませんし

It might be proposing marriage,/ asking for a raise,/ a wedding speech.//

結婚のプロポーズをするとき 賃上げ交渉や 結婚式でのスピーチかもしれません

Whatever it is,/ if it's really important,/ you owe it/ to yourself/ to look at this toolbox/ and the engine/ that it's going to work on,/ and no engine works well/ without being warmed up.//

それが何であれ ここぞ というときには ぜひ この道具箱を見て これから使うエンジンも確認しましょう エンジンは 温めなければ動きません

Warm up/ your voice.//

声もウォーム・アップしましょう

Actually,/ let me/ show you/ how to do that.//

どんな風にするか お見せしましょう

Would you all like to stand up/ for a moment?//

皆さん ちょっと 立っていただけますか?

I'm going to show/ you/ the six vocal warmup exercises/ that I do before every talk/ I ever do.//

これから 6つの 声の準備体操をご紹介します 私がいつも話す前に していることです

Anytime/ you're going to talk/ to anybody important,/ do these.//

重要な人と話すときは ぜひやってください

First,/ arms up,/ deep breath in,/ and sigh out,/ ahhhhh,/ like that.//

まずは 腕を上げて 深く息を吸って 吐き出します アーーー こんな風にね

One more time.//

もう一度

Ahhhh,/ very good.//

アーーー いいですよ

Now/ we're going to warm up/ our lips,/ and we're going to go/ ba,/ ba,/ ba,/ ba,/ ba,/ ba,/ ba,/ ba.// Very good.//

つぎに 唇の準備体操です こんな風に バ バ バ バ バ バ バ バ いいですよ

And now,/ brrrrrrrrrr,/ just like when you were a kid.//

それから ブルルルルルルル 子どもの頃 やったように

Brrrr.// Now/ your lips should be coming alive.//

ブルルルル これで 唇も準備万端です

We're going to do/ the tongue next/ with exaggerated la,/ la,/ la,/ la,/ la,/ la,/ la,/ la,/ la.//

つぎに舌を動かします 大げさな「L」で ラ ラ ラ ラ ラ ラ ラ ラ ラ

Beautiful.// You're getting/ really good/ at this.//

素晴らしい 皆さん上手ですよ

And then,/ roll an R.// Rrrrrrr.//

それから巻き舌の「R」 ルルルルルルル

That's like champagne/ for the tongue.//

舌のための シャンパンみたいなものです

Finally,/ and/ if I can only do one,/ the pros call this the siren.//

最後に ぜひともするべきこと 業界では「サイレン」と言いますが

It's really good.// It starts with "we"/ and goes to "aw."//

お勧めです 「ウィー」で始まり「オゥ」で終わります

The "we"/ is high,/ the "aw"/ is low.//

「ウィー」は高く 「オゥ」は低く

So you go,/ weeeaawww,/ weeeaawww.//

行きますよ ウィーーーオゥ ウィーーーオゥ

Fantastic.// Give/ yourselves/ a round of applause.//

素晴らしい 皆さんに拍手を

Take a seat,/ thank you.// (Applause)/ Next time/ you speak,/ do those/ in advance.//

お座りください ありがとうございます(拍手) 今度 話をする前には やってくださいね”
TED日本語 - ジュリアン・トレジャー: 人を惹きつける話し方
http://digitalcast.jp/v/20593/

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いろんなところか集めてきたけど出典とか忘れているなあ

欲望を崇めていないか 埋め込まれた欲望  理由を問えば大半の欲望は焼失する

論破はしてもフォローは重要。人間関係まで論破して壊してはいけない

意識と無意識の捜査、切り替え
欲望を崇めていないか 埋め込まれた欲望  理由を問えば大半の欲望は焼失する

論破はしてもフォローは重要。人間関係まで論破して壊してはいけない



たしか人を動かすにあったやつ

<人に嫌われたり、陰で笑われたり、軽蔑されたりしたかったら、次の条項を守るに限る──
 一、相手の話を、決して長くは聞かない。
 一、終始自分のことだけをしゃべる。
 一、相手が話している間に、何か意見があれば、すぐに相手の話をさえぎる。
 一、相手はこちらよりも頭の回転が鈍い。そんな人間の下らないおしゃべりをいつまでも聞いている必要はない。話の途中で遠慮なく口をはさむ。
 世間には、この条項を厳守している人が実在するのを読者は知っているはずだ。私も、不幸にして知っている。>



人を説得して何かやらせようと思えば、口を開くまえに、まず自分にたずねてみることだ-----「どうすれば、そうしたくなる気持ちをあいてに起こさせることができるか?」これをやれば、自分勝手な無駄口を相手に聞かせずにすむ。
誰にでもその人なりの理由があり、自分は正しいと思っている。批判はせず、まず相手を理解する。
誰にでも長所があり、他人に認められたい気持ちがある。長所をほめ、相手に”重要感”を持ってもらう。
常に相手の立場になり、「どうすればその人がそうしたくなるか?」を考えて働きかける。
相手に誠実な関心を寄せる。
常に笑顔で人に接する。
人の名前を憶える。(何回も言葉に出し、メモを書き、見つめて憶えこむ)
人の話は親身になってじっくりと聞く。
相手の関心があることを話題にする。
誠意をこめて純粋な気持ちでほめる。
議論に勝つ唯一の方法は「議論をしないこと」と心得る。
相手の意見を尊重し、間違いを指摘しない。
自分が間違った場合は、速やかにこころよく認める。
友好的な口調で、おだやかに話す。
相手が「YES」と言いやすい質問から始める。
相手に心おきなくしゃべらせる。
意見は相手に思いつかせる。
相手の気持ちになって、相手の考えや行動の理由を理解する。

「私があなたでも同じように思うでしょう」と心からの共感を寄せる。
相手の良心・良識に訴えかける。
事実に動きを与える「演出」を考える。
相手の競争心に火をつける。
まずほめる。
注意は遠まわしに伝える。
自分の間違いを話す。
命令はせずに、意見を求める。
相手の顔を立てる。
わずかなことでも惜しみなくほめる。
相手に期待をかける。
相手を励まし、自身を持ってもらう。
相手が喜んで協力する理由を用意する。
うるさくいわない。
相手の長所を認める。
相手のあら探しをしない。
ほめる。
ささやかな思いやりを大切にする。
親しき仲にも礼儀あり。
性生活に前向きに取り組む。
人を動かす唯一の方法は、その人の好むものを問題にし、それを手に入れる方法を教えてやることだ。これを忘れては、人を動かすことはおぼつかない。
 悪いことをしている人を善い方向に動かしたいと思うなら、「お前は悪いことをしている。だから行動を改めろ」と言ってはいけない。
 非難で人を動かすことはできない。
穏やかに話す
 腹が立ったとき、相手をこてんぱんにしてやりたいという気持ちが起こるのは当然である。
 だが、それが成しとげられたとして、果たして相手は自分の思うとおりに動いてくれるだろうか?
 人を説得するためには攻撃的・威圧的に話すのではなくて、穏やかに、情理を尽くして話すことが大切である。
イエス”と答えられる問題を選ぶ(相手が即座に”イエス”と答える問題を選ぶ。)
体の組織が、進んで物事を受け入れようとする体勢になる。それゆえ、はじめに〝イエス〟と多く言わせれば言わせるほど、相手をこちらの思うところへ引っ張っていくことが容易になる。

 考え方が違うような問題をなんとかしたいと思っているとき、それをはじめに取り上げてはならない。
 はじめに取り上げるべきは、「イエス」と答えてくれるような、二人の意見が一致しているような話題である。たとえば「もうすっかり夏って感じですね」とか。
 そのような話題を重ねていくことで、「自分たちは同じ方向を向いている」ということを確認させることができる。
 「イエス」ばかりを言わせるようにして「ノー」とは言わせないようにする。
 そうすることで、意見の擦りあわせが困難な問題でも、人を説得することができる。
敵をつくりたければ、友に勝つがいい。味方をつくりたければ、友に勝たせるがいい
 人は、自分のことを思う存分話すことを許可してくれる相手に好意を持つ。
 その性質を利用し、相手が望むままに話してもらうのである。たとえば社長に「さぞかし苦労されて、今の会社をお作りになられたと聞いています」と質問するなど。
 聞き手に回ることは、人を説得する上でとても効果が高い。
.思いつかせる
相手に相談を持ちかけ、できるだけその意見を取り入れて、それが自分の発案だと相手に思わせて協力させるのだ。
 人は、誰かに押し付けられたアイデアよりも、自分が思いついたアイデアをやりたがる。たとえそれが相手に「思いつかされた」アイデアであっても。
 だから人を説得する手段の一つとして「思いつかせる」ことがある。
 「これって、どうすればいいかな?」と「相談」を持ちかけ、うまく相手を誘導する。そしてやりたいアイデアを、議論の末に、相手が思いついたように偽装する。
 容易でないことだが、上手く利用できればこれ以上の説得法はない。
議論に勝つ唯一の方法として議論を避ける。
議論は、ほとんど例外なく、双方に、自説をますます正しいと確信させて終わるものだ。議論に勝つことは不可能だ。たとえ買ったにしても、やはり負けているのだ。なぜかといえば、やっつけられたほうは劣等感を持ち、自尊心を傷つけられ、憤慨するだろう。「議論に負けても、その人の意見は変わらない。」
相手の意見に敬意を払い、誤りを指摘しない。
・人の意見を変えさせることは、最も恵まれた条件の下でさえ、大変な仕事だ。何を好んで条件を悪化させるのだ。
・人を説得したければ、相手に気づかれないようにやることだ。誰にも気づかれないように、巧妙にやることだ。
・人に物を教えることは出来ない。自ら気づく手助けが出来るだけだ。
・相手が明瞭な間違いをしている場合は、「実は、そんな封には考えていなかったのですが、おそらく私の間違いでしょう。私はよく間違います。間違っていたら改めたいと思いますので、ひとつ事実を良く考えて見ましょう。」という具合に切り出す。
・私達は、他人からいろいろなことを聞かされるが、そのとき、相手の言ったことに対して理解ではなく、価値判断をまず与えるのが普通である。即座に評価して決め付けてしまう。相手の真意が、どこにあるのか正確に理解しようと努めることは、きわめて稀である。
・われわれは、自分の非を自分で認めることはよくある。また、それを他人から指摘された場合、相手の出方が優しくて巧妙だと、あっさり兜を脱いで、むしろ自分の率直さや腹の太さに誇りを感じることさえある。しかし、相手がそれを無理やりに押し付けてくると、そうはいかない。
自分の誤りを直ちにこころよく認める。
・自分に誤りがあるとわかれば、相手の言うことを先に自分で言ってしまうのだ。そうすれば、相手には何もいうことがなくなる。相手は寛大になり、こちらの誤りを許す態度に出るだろう。
・自分が犯した誤りを認める勇気は、ある種の満足感が伴う。罪悪感や自己防衛の緊張がほぐれるだけでなく、その誤りから生じた問題の解決に役立つ。

・どんなばかものでも、過ちの言い逃れくらいは出来る。事実、ばか者はたいていこれをやる。自己の過失を認めることは、その人間の値打ちを引き上げ、自分にも何か高潔な感じがして嬉しくなるものだ。
・自分が正しいときは、相手を優しく巧妙に説得しようではないか。また、自分が間違っているとき(驚くほど多いものだ。)は、速やかに自分の誤りを快く認めることにしよう。苦しい言い訳をするよりも、よほど愉快な気持ちに慣れる。
おだやかに話す。
・相手の心が反抗と憎悪に満ちているときは、いかに理を尽くしても説得することは出来ない。人間は自分の心を変えたがらないということを、心得ておくべきだ。人を無理に自分の意見に従わせることは出来ない。しかし、優しい打ち解けた態度で話し合えば、相手の心を変えることもできる。
・もし相手を自分の意見に賛成させたければ、まず、諸君が彼の見方だとわからせることだ。
相手が即座に「イエス」と答える問題を選ぶ。
・人と話をするとき、互いに意見の異なる問題をはじめに取り上げてはならない。まず、互いの意見が一致してい問題から始め、それを絶えず強調しながら話を進める。互いに同一の目的に向かって努力しているのだということを、相手に理解させるようにし、違いはただその方法だけだと強調するのである。

・議論をすれば損をする。相手の立場で物事を考えることは、議論をするよりもかえって興味があり、しかも、比較にならぬほど利益がある。
相手にしゃべらせる。
相手を説得しようとして、自分ばかりしゃべる人がいる。相手に十分しゃべらせるのだ。相手のことは相手が一番よく知っている。だから、その当人にしゃべらせることだ。
相手に思いつかせる。
・人から押し付けられた意見よりも、自分で思いついた意見のほうを、われわれは、はるかに大切にするものである。すると、人に自分の意見を押し付けようとするのは、そもそも間違いだといえる。暗示を与えて、結論は相手に出させるほうが、よほど利口だ。
・賢者は、人の上に立たんと欲すれば、人の下に身を置き、人の前に立たんと欲すれば、人の後ろに身を置く。かくして、賢者は人の上に立てども、人はその重みを感じることなく、人の前に立てども、人の心は傷つくことはない。
人の身になる。
・相手は間違っているかもしれないが、彼自身には、自分が間違っているとは決して思っていないのである。だから、相手を非難しても始まらない。非難は、どんな馬鹿者でも出来る。理解することに努めねばならない。懸命な人間は、相手を理解しようと努める。
・相手の考え、行動には、それぞれ、相当の理由があるはずだ。その理由を探し出さねばならない。そうすれば、相手の行動、さらには、相手の性格に対する鍵まで握ることが出来る。
・「もし自分が相手だったら、果たしてどう感じ、どう反応するだろうか」と自問自答してみるのだ。これをやると、腹を立てて時間を浪費するのが、ばかばかしくなる。原因に興味を持てば、結果にも同情が持てるようになるのだ。おまけに人の扱い方が一段とうまくなる。 ・自分に対する強烈な関心と自分以外のものに対するいい加減な関心戸を比較し、次に、その点については、人間はみな同じであることを考えれば、あらゆる職業に必要な原則を把握することが出来る。すなわち、人を扱う秘訣は、相手の立場に同情し、それをよく理解することだ。
・自分の意見を述べるだけでなく、相手の意見をも尊重するところから、話し合いの道が開ける。まず、話し合いの目的、方向をはっきりさせて、相手の身になって話を進め、相手の意見を受け入れていけば、こちらの意見も、相手は受け入れる。
・他人に物を頼もうとするときには、まず目を閉じて、相手の立場から物事を良く考えてみようではないか。「どうすれば、相手はそれをやりたくなるだろうか」と考えてみるのだ。この方法は面倒には違いない。だが、これによって見方が増え、より良い結果がたやすく得られる。
相手の考えや希望に対して同情を持つ。
口論や悪感情を消滅察せ、相手に善意を持たせて、あなたが言うことを、おとなしく聞かせるための文句は、「あなたがそう思うのは、もっともです。もしわたしがあなただったあら、やはり、そう思うでしょう。」といって話を始める。
・われわれが交渉を持つ相手の4分の3は、みな同情に飢えている。それを与えてやるのだ。すかれることは請け合いである。
人の美しい心情に呼びかける。

・通常人間の行為には2つの理由がある。1つは、いかにも潤色された理由、いま1つは真実の理由である。真実の理由は、他のものがとやかく言わなくても、当人にはわかるはずだ。人間は誰でも理想主義的な傾向を持ち、自分の行為については、美しく潤色された理由をつけたがる。そこで、相手の考えを変えるには、この美しい理由をつけたがる気持ちに訴えるのが有効だ。
・相手の信用状態が不明のときは、彼を立派な紳士とみなし、そのつもりで取引を進めると間違いがないと、私は経験で知っている。ようするに、人間は誰でも正直で、義務を果たしたいと思っているのだ。これに対する例外は、比較的少ない。人をごまかすような人間でも、相手に心から信頼され、正直で公正な人物として扱われると、なかなか不正なことは出来ないものなのだ。

演出を考える。単に事実を述べるだけでは十分ではない。事実に動きを与え、興味を添えて演出しなければならない。興行的な手法を用いる必要がある。
対抗意識を刺激する。

仕事には競争心が大切である。あくどい金儲けの競争ではなく、他人よりも優れたいという競争心を利用すべきである。
・成功者はみなゲームが好きだ。自己表現の機械が与えられるからだ。存分に腕を振るって相手に打ち勝つ機会、これが、いろいろな競争や競技を成立させる。優位を占めたい欲求、重要間を得たい願望、これを刺激するのだ。
・人を批判する際、まずほめておいて、次に「しかし」という言葉を挟んで、批判的なことを言い始める人が多い。ところが、「しかし」という一言が耳に入るまで、今のほめ言葉が果たして本心だったのかどうか疑いたくなる。結局は批判するための前置きに過ぎなかったように思えてくる。この失敗は「しかし」ということばを「そして」に変えると、すぐに成功に転じる。

まず自分の誤りを話した後、注意を与える。
・人に小言を言う場合、謙虚な態度で、自分は決して完全でなく、良く失敗するがと前置きをして、それから相手の間違いを注意してやると、相手はそれほど不愉快な思いをせずに済むものだ。
・自分自身の誤りを認めることは、たとえその誤りを正さず、そのままにしておいても、人を変えるのに役立つ。

命令をせず、意見を求める。 ・命令ではなく、暗示を与える。「あれをせよ」「そうしてはいけない」などとは決して言わない。「行考えたらドウだろう」「これでうまくいくだろうか」などといった具合に相手に意見を求める。決して命令はせず、自主的にやらせる。そして、失敗によって学ばせる。
・命令を質問の形に変えると、気持ちよく受け入れられるばかりか、相手に創造性を発揮させることもある。命令が出される過程に何らかの形で参画すれば、誰でもその命令を守る気になる。

相手の顔を立てる!これは大切なことだ。しかも、その大切さを理解している人は果たして幾人入るだろうか?自分の気持ちを通すために、他人の感情を踏みにじっていく。相手の自尊心などはまったく考えない。もう少し考えて、一言二言思いやりのある言葉をかけ、相手の心情を理解してやれば、そのほうが、はるかにうまくいくだろうに。
・相手の自己評価を傷つけ、自己嫌悪に陥らせるようなことを言ったり、したりする権利は私にはない。大切なことは、相手を私がどう評価するか、ではなくて、相手が自分自身をどう評価するか、である。相手の人間としての尊厳を傷つけることは犯罪なのだ

わずかなことでも、すべて、惜しみなく、心からほめる。
人を変えようとして、相手の心の中に隠された宝物の存在に気づかせることが出来たら、単にその人を変えるだけでなく、別人を誕生させることすら出来るのである。

期待をかける。

・相手をある点について矯正したいと思えば、その点について彼は既に人よりも長じているといってやることだ。良い評判を立ててやると、その人間はあなたの期待を裏切らないように努めるだろう。

激励して、能力に自身を持たせる。

・馬鹿だとか、能無しだとか、才能がないとか言ってののしる逆を行くのだ。大いに元気づけて、やりさえすれば容易にやれると思い込ませ、そして、相手の能力をこちらは信じているのだと知らせてやるのだ。そうすれば相手は、自分の優秀さを示そうと懸命に頑張る。、

喜んで協力させる。

・肩書きや権威を与える。

失敗は〝しかし〟という言葉を、〝そして〟に変えると、すぐに成功に転じる。

 「しかし」を「そして」に変えるだけで、注意は遠まわしな注意に変わる。
 「今回の成績はよかったね。”しかし”もっと数学をがんばれなければいけないよ」という注意を「今回の成績はよかったね。そしてもっと数学をがんばることで、次回はさらによい成績になるだろう」と言い換えるだけで、だいぶ遠まわしな表現になる。きっと勉強に前向きにとりくめるようになる。
 ほめたあとは「しかし」ではなく「そして」で文章を繋げる。そうすることで、期待通りに相手が動いてくれるだろう。

.自分の過ちを話す(まず自分の誤りを話したあと相手に注意する)

人に小言を言う場合、謙虚な態度で、自分は決して完全ではなく、失敗も多いがと前置きして、それから間違いを注意してやると、相手はそれほど不愉快な思いをせずに済むものだ。

8.激励する(激励して、能力に自信を持たせる。)

<子供や夫や従業員を、馬鹿だとか、能なしだとか、才能がないとか言ってののしるのは、向上心の芽を摘み取ってしまうことになる。その逆を行くのだ。大いに元気づけて、やりさえすれば容易にやれると思い込ませ、そして、相手の能力をこちらは信じているのだと知らせてやるのだ。そうすれば相手は、自分の優秀さを示そうと懸命に頑張る。>

 けなすよりも激励を。
 長所を見つけほめる。相手は元気がでるし、希望も持つ。向上心を抱えて行動することができる。
 自分の能力自信を持つことで、人は変わることができる。

喜んで協力させる

<これは、子供だましのような気がするかもしれない。だが、ナポレオン一世も同じようなことをやった。彼は、自分の制定したレジョン・ドヌール勲章を千五百個もばらまいたり、十八人の大将に〝元帥〟の称号を与えたり、自分の軍隊のことを〝大陸軍〟と呼んだりした。歴戦の勇士を〝玩具〟でだましたと非難されると、彼は答えた。 「人間は玩具に支配される」
 新しい責任と肩書きを与えられた人は、はりきってばりばり働くようになる。世の中の結婚のうち、五十パーセント以上は失敗に終わっているそうだ。新婚の夢が破れ、離婚の憂き目を見る原因の一つは、あら探しをすることだという。
 家庭において、パートナーの欠点を見つけ、それを咎めることは、決してプラスの効果をもたらさない。
 変わらぬ愛情を継続していくためには、多少気に食わないことがあっても目をつぶってあげることが大切である。
フランス上流階級では、女性の服装について一晩に何度もほめるべきであると、幼少から教育されている。
 結婚を賭博にしないためには、男性は女性の「自分を美しく見せようとする努力」を常日頃から称賛すべきである。
ささやかな心尽くしを怠らない

<普通、男は、あまり多くの日付を覚えなくても、結構暮らしていける。だが、忘れてならない日も若干はある。妻の誕生日と自分たちの結婚記念日だ。絶対に忘れてはならない!
 一般的に女性は男性よりも記念日を重視する。男性は記念日を覚えておくように、特に気をつけたいものだ。
 要は相手のことを気遣っていると知らせることが大事なのである。記念日でなくとも、電話一本、花を数本、と考えてみよう。
礼儀は、いわば結婚生活の潤滑油である。

 親しき仲にも礼儀あり。無作法は結婚生活をめちゃくちゃにする。相手が不愉快にならないように、双方が気を遣うべきである命令をしない(命令をせず、意見を求める。)

 命令を質問の形に変えるだけで、驚くほど受け入れられることがある。
 「この書類、明日までによろしく」ではなく「この書類、明日までだったかな?」
 「君の車を動かしてくれ」ではなく「今、車動かせる?」
 命令をただ実行するのではなく、命令を作る段階に相手を巻き込むことができれば、人は気持ちよく動いてくれるだろう。
 誰かを傷つけると、その人は絶対に自分のために動いてはくれない。
 人は、誰かに押し付けられたアイデアよりも、自分が思いついたアイデアをやりたがる。たとえそれが相手に「思いつかされた」アイデアであっても。
 だから人を説得する手段の一つとして「思いつかせる」ことがある。
 「これって、どうすればいいかな?」と「相談」を持ちかけ、うまく相手を誘導する。そしてやりたいアイデアを、議論の末に、相手が思いついたように偽装する。
 容易でないことだが、上手く利用できればこれ以上の説得法はない。





∸――

あなたの地位と人脈は《スモールトーク》が決めている/ダンバー『ことばの起源』応用篇
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-130.html
” よし。では、3つの中間目標に設けよう。まずはひとつ目の中間目標をクリアーすることをめざせ。それが果たせたとき、自分の進んでいる道が間違いではなかったと、はじめて信じることができるだろう。あとの2つの目標は、それより困難だが、ひとつ目をクリアーした自信がお前を支えてくれるだろう。3つの中間目標は、次の通りだ。
 1.スモールトークをこなせるようになれ
 2.男女混合の集まりを作れるようになれ
 3.他人の恋の相談に乗れるようになれ

ここでいうスモールトークとはプログラム言語のことじゃない。間にスペースを挟んだ「small talk」、
辞書には「light conversation(軽い会話); chitchat(雑談、世間話)」とあるな。
同義語には「banter(気さくな会話、冗談の言い合い), chatter(むだ話), gossip(うわさ話)」なんかがある。要は「たわいもない話」だ。伝えたいことがある場合とは違った、ただそれ自体を目的とした言葉の交換だ。何故これが重要なのか? 
 なぜなら、人はこの「取り立てて内容のない話」によって、相手の人柄を推し量り、人間関係の距離を調整するように進化してきたからだ。スモールトークは、いわば人間関係を支える下草だ。ヒトの言葉の起源は、猿の群れにおける毛づくろいだという話は知ってるか?

群れを作る種である猿たちは、つくる群れの大きさが大きい猿ほど、より長い時間を互いの毛づくろいに費やす。もっとも大きな群れ(平均で個体数50)を作る猿は、活動時間のおよそ2割を費やして互いに毛づくろいする。餌を取るための時間がその分減ることを考えれば、あるいが外敵への注意がその分おろそかになることを考慮すれば、莫大なコストを支払ってまで、サルは互いに毛づくろいする。何故だかわかるか?

 フリー・ライダー(ただ乗り野郎)を排除して、群れを守るためだ。
 群れると、外敵に注意を払うコストをみんなで分担できるし、そもそも襲われにくくなるメリットがある。
 だが、コストを分担せずに群れに居るだけで安心を享受しよう、フリーライダーになろうと誰かがはじめれば、誰もがフリーライダーになった方が得だということになり、結局誰も外敵に注意を払うものがいなくなって集団防衛体制は崩壊する。
 これを食いとめるには、誰かがフリーライダーしだしたら、制裁が加えられるようになってないといかん。
 ところが、このフリーライダーへの制裁ってのも大変だ。50匹いれば、各自が50匹を互いに監視しなくちゃならんとなったら、他のことなんてやってられなくなる。
 だから群れを作る動物は、フリーライダー対策を減点方式じゃなく加点方式でやる。
 つまり身近なところから、少なくともこいつは裏切らないだろうという「仲間」をつくり少しずつ増やしていく訳だ。毛づくろいは、仲間関係の維持・更新手続きだ。猿はお互い、誰に毛づくろいしてもらったか覚えてる。
 その猿の叫び声を録音したものを流すと、そいつと毛づくろいし合った猿だけが反応する。
 いろんな猿を調べていくと、その種のつくる群れの大きさと大脳皮質が脳に閉める割合は比例関係にあることがわかった。これを人間の大脳皮質の割合に当てはめると、人間がつくる最大の「群れの大きさ」は約150人となる。


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 問題は、どうやって仲間関係を維持・更新するかだ。
 毛づくろいは一対一で、しかもお返しも要れると、さっきも要った通りかなりの時間が必要だ。
 これも150人という集団サイズに当てはめると、人間は起きている時間の40%を「毛づくろい」に費やさなければならない。これはもう限界を越えている。

 幸いにも、もっと効率のよい手段が見つかった。
 音声言語、つまりおしゃべりだ。
 本当に親密におしゃべりするには4人程度という限界があるが、それでも1対1の毛づくろいよりは、3倍効率がよい)。
 内容のないコトバの交わし合い(スモールトーク)は、つまるところコトバによる「毛づくろい」だ。
非モテ
それは、つまるところ、大抵の人間がすでにやっているのでは?
親父
 その通り。おまえが同級生相手に話してるバーチャル・ナンパ話もその一例だな。同年代の男同士だから、女子との交際についての「妄想話」が、そこでの人間関係の維持・更新に役に立つ。
 が、そこまでだ。
 つまり、おまえの無駄話は、同年代の女子との人間関係を維持・更新するのに、役に立ってない。
どんな「無駄話」ができるかで、おまえの人間関係は決まる。どんな連中と、どんな関係を結べるかは、どんな「無駄話」をするか、できるかに依存する。
 逆にスモールトークを逸脱すると、どんな目に遭うかは、ガーフィンケルが学生への宿題としてやらせてる。一発で「ひとでなし」になること、うけあいだ。 どうだ、やる気が出てきたか?
非モテ
は、はい。当たり前のようで、目からうろこです。しかし、普段あまりに無意識にやってることなんで、いったい何から手をつければいいのか、皆目見当がつきません。
親父
心配するな。昨日ネットサーフィンしてたら、たまたま「無駄話の仕方」ってコンテンツを見つけた。英語だけどな。

問題ない。おれが親父語に逐語的に訳してやる。


How to Make Small Talk 「どうでもいい話」をする方法
http://www.ehow.com/how_10812_make-small-talk.html

Small talk can be a big challenge, but a little preparation and confidence is all you need.
「無駄話」を舐めるな。大冒険になるかもしれん。だが少しの準備と勇気があれば大丈夫。

1.Practice. Converse with everyone you come across: cashiers, waiters, people you're in line with, neighbors, co-workers and kids. Chat with folks unlike yourself, from seniors to teens to tourists.
練習しろ。すれ違った奴全員と喋れ。レジの人、ウェイター、話が合う人、ご近所さん、同僚に子供(ガキ)、誰でもいいからおしゃべりしろ。老人からティーンエイジャー、観光客、自分と似ていない奴とも話してみろ。

2.Read everything: cookbooks, newspapers, magazines, reviews, product inserts, maps, signs and catalogs. Everything is a source of information that can be discussed.
なんでもいいからとにかく読め:料理本、新聞、雑誌、書評、取説、地図に看板にカタログ。すべては、話のネタになる。

3.Force yourself to get into small talk situations, like doctors' waiting rooms, cocktail parties and office meetings. Accept invitations, or host your own gathering.
「無駄話」しなきゃならない状況に自分を追いこめ。病院の待合室、カクテルパーティー、職場の会議みたいな場面だ。招待はすべて受けろ、でなきゃ自分で集まりを主催しろ。

4.Immerse yourself in culture, both high and low. Television, music, sports, fashion, art and poetry are great sources of chat. If you can't stand Shakespeare, that too is a good topic for talk.
自分を「文化漬け」にしろ。高級なのと低級なの、両方だ。テレビ、音楽、スポーツ、ファッション、芸術、詩、どれもおしゃべりの大きなネタ元だ。おまえさんがシェークスピアに我慢ならないというなら、どれだけ嫌いかというのも十分話題になる。

5.Keep a journal. Write down funny stories you hear, beautiful things you see, quotes, observations, shopping lists and calls you made. That story of the long-distance operator misunderstanding you could become an opening line.
日誌をつけろ。おまえが耳にした笑い話、目にした美しいもの、引用、観察、購入品目リストも、かけた電話番号も書き出せ。おまえを誰かと勘違いした電話交換手の話だって、会話のきっかけになるかもしれない。

6.Talk to yourself in the mirror. Make a random list of topics and see what you have to say on the subjects. Baseball, Russia, butter, hip-hop, shoes ... the more varied your list, the better.
鏡の前で自分相手にしゃべってみろ。でたらめな順番に話題を並べたリストを作れ。そして、それぞれの話題に合わせて何を言わなきゃならないならないか確かめろ。野球、ロシア、バター、ヒップホップ、靴……話題.リストは長ければ長いほどいい。

7.Expand your horizons. Go home a new way. Try sushi. Play pinball. Go online. Paint a watercolor. Bake a pie. Try something new every day.
おまえの活動範囲を拡大しろ。通ったことない道で帰ってみろ。寿司をためせ。ピンボールをやれ。ネットしろ。水彩画を描け。パイを焼いてみろ。毎日、なにか新しいものを試すんだ。

8.Be a better listener. Did your boss just say she suffers from migraines? Did your doctor just have twins? These are opportunities for making small talk.
今よりもっと良い聞き手になれ。上司は、ちょうど片頭痛で苦しんでると言ってなかったか? かかりつけの医者のとこは子は双子じゃなかったか? (連中は誰かにその話をしたくてうずうずしている) 「無駄話」をする機会はいくらもある。

9.Work on confidence, overcoming shyness and any feelings of stage fright. Remember, the more you know, the more you know you can talk about.
自信をつけろ。内気と人前であがることを克服しろ。知識が増えれば増えるほど、話題はどんどん増えていることを思い出せ。

Tips:
おまけ:
 Be yourself. Keep in mind that confidence and humor are superb substitutes for comedic genius or wit.
自分自身であれ。自信とユーモアは、コメディの才能やウィットの代わりを十分果たしてくれることを覚えておけ。

 Remember, you never have to do it alone.
思い出せ。会話しているとき、おまえは決して一人じゃないってことを。



非モテ
も、ものすごく大変なような……。
親父
じゃあ、あきらめろ。話ベタで死んだ奴はいない。だが、言っとかないとフェアじゃない気がするんで、これだけは言っておく。人生で、あらかじめ準備しておけることなど、実はあまりない。大人の仕事は常にやっつけ仕事、恋はいつでも初舞台だ。

非モテ
中間目標の、その2とその3、聞いてもいいっすか?
親父
いいとも。聞いていけ。2.男女混合の集まりを作れるようになれ、っていうのは……、非モテ、合コンに必要なものは何だ?
非モテ
おしゃれな会場と粒揃いの参加者、ですか?
親父
じゃあ、それらをどうやって調達する?
非モテ
どうやって、と言われても……、手当たりしだい声をかけるくらいしか……。
親父
振り出しに戻ったな。そして、事は累積的に進むことも明らかになった。もてる奴は、粒ぞろいの参加者の一人として繰り返し、粒揃いの参加者たちが集う満足度の高い合コンに参加できるし、事によると主催することもできる。
こうやって、粒ぞろいの人脈を元手に、さらに粒ぞろいの人脈を広げていく。これを恋愛市場におけるマタイ効果とよぶ。新約聖書マタイ伝の一節、「富めるものはますます富み、貧しいものは持ってるものすら取り上げられる」というところから命名された。
非モテ
モテるものはますますモテるようになり、モテないものはますますモテなくなる、と。
親父
恋愛市場は労働市場のように二重化ないし多重化されている。大雑把に言えば、モテが参加参入できるモテ市場と、非モテが参加する非モテ市場だ。モテ市場への参加するコストは高い。それなりに粒ぞろいの人脈を投資できないと参加できない
。非モテ市場への参加コストは低いが、そのため供給を上回る需要が「価格」を高める。冷静になると大したことのない異性に、いきなり高値がついたりする。いわゆる女子マネ(ージャ)効果、紅一点効果だな。「オタサーの姫」も同じ理屈の上に成立する。
非モテ
親父師匠、では、どうすれば?
親父
いくつか方法はあるが、お勧めなのはブルー・オーシャン戦略だ。
非モテ
では、養殖少女ではなく、手つかずの天然少女に活路を見出せと。
親父
まあ、待て。とりあえず第一の中間目標がクリアーされていれば、人脈関係は量質ともにかなり改善されているはずだが、まあ、それは置いておいて、違う手を考えよう。
 そもそも何故合コンなんだ?頭数だけ男女同数揃えても、いいところを持って行くのは、いつも決まった少数者じゃないか。結局、男女が出会える場をつくればいいんだろう。わざわざ席替えを盛り込まないと、違う相手と話すことすらできない場づくりは、ほんとに男女交際について最適化されてるのか?
非モテ
確かにそういわれると。
親父
場づくりなら、いくらでも手があるぞ。未成年だから今のうちに言っとくが、月1回しか開かない、ちょっとありそうにない酒場を自分たちで開くなんて、どうだ? 余裕があるなら月2回でも週1でもいいが、無理はするな。
 スタッフはもちろん厳選、しかし「おれと付き合ってくれ」を目標にしてくどくのと、
「どこにもない酒場をやりたいんだけど、なんかアイデアない?」と誘うのとは、困難さにおいても、相手に残る印象の深さでも、雲泥の差があるぞ。酒場なんて原価の安い商売だ、儲からなくていいなら、かなりの良心的価格設定でできる。場所をみつけるのも、大いに助けを募れ。はっきりいってこの手の企画については、女子の方が何枚も上手だ。思う存分、力を借りろ。男性スタッフも女子に紹介してもらえ。一つの企画をやり切ると、参加メンバーの間には特別な関係が生まれる。「次はどんなおもしろいこと、やろうか」って声が出てくるようになれば、おまえさんの人脈はどんどん広がって行くだろう。
 この頃になれば、顔とプロポーションだけを追ってたナンパ馬鹿も、いい女を見ぬく目が育ってくるだろう。女子の間で、女子の評価はかなりシビアだ。いっしょに働くのは、いい経験だ。同じファミレスや居酒屋でバイトするにしても、ただ金と暇を引き換えにするのか、そういう自分の企画のための肥やしにするつもりで勤めるのとでは、見えるものが違ってくる。まあ、だいたい、おなじことを繰り返し言ってるんだがな。


まあ、いきなり店を開けってのは敷居が高いか。
なら、自分でヒトの集まりをつくる前に、集まりに参加することからはじめるといい。
とりあえず色恋と関係ないところ、自分の足が自然には向かないところがいいな(人間関係を広げる第一原則だ)。
あと金はかけろ。クソくだらないお見合いパーティに行くくらいなら、水商売や風俗にいくなら、とも付け加えとくか、たとえば割高な(値段設定の高い)英会話スクールへ行ってみろ。8割は、ちょっとしたお嬢さんだ。まあ語学系は、いずれにせよ女性が圧倒的に多いけどな。
 真面目に英語をやりに来てるから、不真面目だと総スカンを食う。だが、おまえさんが本気で英語をやる気を見せれば、どんなにヘタでも、恥をかくことはない。誰だって最初は初心者だ。むしろ、それを恐れずにやってきたドンキホーテは暖かい目で迎えられるだろう。そして、そういう場所でもスモール・トークができるようになれると、これもまた人脈を育てる。
 とにかく色恋抜きで、男女を混ざった集団を作れ。作れないなら探して見つけて参加しろ。そして参加しつつ、作り方を考えろ。


非モテ
「3.他人の恋の相談に乗れるようになれ」というのは?
親父
企画や集まりのオリジネーター(originator:発案者/発起人)をやってると人脈が広がるところまでは話したな。上下関係のない、フラットな集まりでも、「言い出しっぺ」のところには、様々な情報と悩み事が持ち込まれる。それを公平(フェア)にさばけるようになれば、結果は自動的についてくる。

誰に紹介されたら、女性はおまえをもっとも信用するか。第三者の賞賛が効果的であることは社会心理学の常識だが、中でも、すでに決まった相手のいる恋愛中の女性が、おまえを紹介してくれるなら、こんなに強い援軍はない(ついでにいうと魅力の高い女性から紹介された方がより有利となる)。これは男女どっちでもいえることだが、異性の友人は、異性を紹介してくれる。そしてそこで良い評判を持って紹介されれば、出会いの機会は、倍倍ゲーム的に広がる。異性の友人が増え続け、複数の人間が、おまえの援軍となるわけだ。
 まあ、この段階に至るには時間がかかるだろうけどな。まあ、じっくりやれ。
非モテ
押忍。ありがとうございました。
親父
あ、最後に一つ、さくらももこに『ひとりずもう』というマンガがある。このなかでバカそうな女子高に通ってるちびまるこのクラスメートたちが「ディスコにいって、彼氏を探そう」とか言って浮き足立ってるのを見つけた担任教師が「おまえたちが将来結婚したいような相手は、絶対にディスコなんかで踊ってはいない!そのひとたちは きっと今頃 家で勉強してるぞ!」って一喝するシーンがある。”

コトバによる「毛づくろい」で人の世は保たれる/ダンバー『ことばの起源:猿の毛づくろい、人のゴシップ』
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-125.html
” 実は脳内麻薬は、単調な肉体的刺激によっても分泌される。彼等は確かにイライラしている。それを押さえるための無意識の行動は、繰り返しの動作となることが多い。

 たとえば貧乏揺すり。思えば我々は、小さいころから年老いてまで、無意味に思えるほどの「繰り返し行動」をほんと繰り返し、飽きもせずやっている。事によると、これこそ、このストレスフルな社会で生きる生体防衛行動なのだ。


 しかし猿の毛づくろいは、それ以上の意義がある。

 毛づくろいはもちろん脳内麻薬を分泌させるが、それだったら相手は誰でもよさそうなものである。しかし毛づくろいは、ちゃんと相手を定めて行われる。

 しかも録音した猿の声をつかった実験では、お猿は自分の毛づくろい相手の声を聞き分ける。毛づくろいは、猿社会の紐帯なのだ。

 より大きな群れをつくるお猿ほど、より長い時間を毛づくろいにかける。しかし毛づくろいはかなりコストが高い。それをやってる間は他の事ができないからだ。

 最大の群れ(平均で個体数50)を持つ猿は、起きてる時間の1~2割もの時間を仲間との毛づくろいに費やす。

 人間の大脳皮質の割合から換算した「群れの大きさ」は約150人だから、式に当てはめると大体起きている時間の40%を「毛づくろい」に費やさなければならない。
 大変だ。
 もっと効率のよい手段としてコトバをつかうことにした、というのがオチ(親密に話すには4人程度という限界があるが、それでも1対1の毛づくろいよりは、3倍効率がよい)。

 つまりこういうことだ。
 内容のないコトバの交わし合い(これが言葉の使用の実に3/4を占める)=ゴシップこそは、コトバによる「毛づくろい」だ、と。
 
 あと、昔の人類は150人の群れでよかったが、都市に暮らす現代人はそんなに「毛づくろい」する相手がいないから、ゴシップ小説やカルトが流行る、とか、言わなくてもいいようなことを、最後にちょっとダンバーは付け加えてる。”

雑談の核(コア)となるのはネタではない
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-142.html
雑談(スモールトーク)は、言葉による毛づくろいである。

 重要なのは、何を話すかではなく、どのように話すか(また話さないか)である。
 
 身体に触れなければならない生業の人たちのことを思いだそう。

 見知らぬ他人の身体に触れることは、通常はタブーである。そうした行為が許される職業の人たちでも、相手の心理的障壁は無くなったわけではない。一時的に機能低下させられているにしてもだ。
 だから、少しでも心理的距離を縮めるために、美容師やマッサージ師は雑談(スモールトーク)する。
 もちろん、職業は雑談の必要性を求めても、その技術を保証するわけではない。話を聞けないカウンセラーがいるように、雑談のできない美容師はいる。しかし、あなたや友人が繰り返し指名する者がいるならば、彼らがどのように話すかは学ぶに足りる。あなたが二度と来るものかと思った相手がいるならば、どのように話すべきではないかを学ぶことができる。

 英会話であれ、雑談であれ、会話は話すことを通じてしかトレーニングできない。
 例文や決まり文句を覚えること、発音をブラッシュアップすることは、タタミの上の水泳に等しい。無意味だというのではない。それだけでは身につかない、というだけだ。順序として、まず話してみてから、例文のインプットや発音練習を行なうならば、逆の順序の場合よりも、多くのものを得られるだろう。
 雑談における「タタミの上の水泳」はないのだろうか? いくつかある。しかし話すことを避けては、いずれも意味も効果もないことは言うまでもない。

 雑談における「タタミの上の水泳」その1は、「相手がイエスと答える質問」を考えることである。もちろん、これは「誰を相手にするか?」で異なってくる。具体的に身近な人をターゲットにして、15秒でいくつ考えつくかを試してみよう。できれば書き出すこと。本当にその質問に相手がイエスと言ってくれるか、見なおすことができるし、細かい言い方を変えてバリエーションをもたせることもできる。できれは「イエスと答える」予想確率をそれぞれの質問ごとに予想し書き込んでおくといい。

 その相手と話す機会ができたら、質問の出来を検証する。相手がダイレクトに「イエス」という必要はない。表情を見れば、その質問が「当たり」であったかどうか、確認できる。むしろ表情から確認する力こそ、雑談においては大きなスキルである。
 意識的にであれ、無意識にであれ、ノン・バーバルなサインを拾える人は、雑談能力が高い。まず第一に、余計な言葉で、関係や会話の流れをぶち切ることを回避できる。加えて、話すことに大した内容が無くても、そうした人と話すのは心地好い。いくら話題が豊富でも、こちらの反応を無視して話す人は、ただのおしゃべりかビックマウスにしかなれない。
 
 雑談の能力のうち7,8割までが、ノン・バーバルなサインを拾うことと、ノン・バーバルなサインで相手に合わせること(たとえばうなずくこと)が占める。
 この視点で、誰かが楽しそうに話しているところを観察してみるといい(たとえば携帯で、そこにいない誰かと話している人を)。彼らは実に表情豊かに、身振り手振りもまじえて、ほとんど「どうでもいいこと」を話しているだろう。 
 言葉で嘘をつくより、表情で嘘をつくほうが難しい。

 雑談ベタは、自分のネタを話す事にいっぱいいっぱいで、少しも相手を、相手の反応を見ていない。あるいは悪く解釈できる反応ばかりを拾っている。
 相手があなたに興味を持っていないことが、相手の表情や身振りから分かっても、過敏に反応する事はない。そんなことは、あらかじめわかっていたことだ。だからこそ、あなたは雑談するのだ。

「最近~~はどうなの?」
 互いに知っている相手で、相手の喋りたい事に予想がつくならば、その話をしてくれるように話題を振ればいい。 

「すみません。教えていただけると助かります」

「~へはどう行けばいいですか?」

「ありがとうございました」「助かりました」

「寒くなりましたね」「ひさしぶりに気持ちのいい天気ですね」


 ほとんど初級英会話の例文のようになってきた。実のところ、初歩の英会話は、スモールトークのミニマム・セットだ。挨拶、簡単な自己紹介、天候の話題、依頼、そして感謝を述べること。これだけでは、何か意味のある事を話すには足りないが、人として最低限のレベルをクリアするものがそこにはある。


ーー
声で損をしている人は多い

【大魔導師への道①呼吸法・ボイトレ・姿勢】声と姿勢を良くする秘訣、問われず話すもおこがましいが、知らざあ言って聞かせやしょう!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-134.html


を実践しよう。

発声法に従って以下の文を音読みこめばいい。
般若心経は省いたけど覚えておくべき。

ボイトレ用。
書写山の社僧正シャア少佐の肩たたき器を暖かく迎え入れた柿食う客飛脚の東京特許許可局局長、高架橋橋脚上の究極高級航空機にて六カ国協議今日急遽休暇許可拒否。
公序良俗やお綾や親にお謝り お綾やお湯屋に行くことと骨粗鬆症訴訟勝訴を八百屋にお言い。
老若男女の低所得者層ジャズシャンソン歌手総出演新春シャンソンショー。
 探査車除雪作業中に京のなま鱈奈良なま学鰹に竹立てかけた高速増殖炉内の白装束集団の魔術師助手魔術修業中摘出手術中、集中術著述。


”祇園精舎(ぎをんしやうじや)の鐘(かね)の声(こゑ)、
諸行無常(しよぎやうむじやう)の響(ひびき)あり。
娑羅双樹(しやらさうじゆ)の花(はな)の色(いろ)、
盛者必衰(じやうしやひつすい)のことはり(ことわり)をあらはす。
おごれる人(ひと)も久(ひさ)しからず。
只(ただ)春(はる)の夜(よ)の夢(ゆめ)のごとし。
たけき者(もの)も遂(つひ・つゐ)にはほろびぬ、偏(ひとへ)に風(かぜ)の前(まへ)の塵(ちり)に同(おな)じ。
遠(とほ・とを)く異朝(いてう)をとぶらへば、
秦(しん)の趙高(てうかう)、漢(かん)の王莽(わうまう)、梁(りやう)の周伊(しうい)、唐(たう)の禄山(ろくさん)、
是等(これら)は皆(みな)旧主(きうしゆ)先皇(せんくわう)の政(まつりごと)にもしたがはず、
楽(たのし)みをきはめ、諫(いさめ)をもおもひいれず、
天下(てんが)のみだれむ事(こと)をさとらずして、
民間(みんかん)の愁(うれふ)る所(ところ)をしらざ(ッ)しかば、
久(ひさ)しからずして、亡(ばう)じにし者(もの)どもなり。
近(ちか)く本朝(ほんてう)をうかがふに、
承平(しようへい・せうへい)の将門(まさかど)、天慶(てんぎやう)の純友(すみとも)、康和(かうわ)の義親(ぎしん)、平治(へいぢ)の信頼(しんらい)、
おごれる心(こころ)もたけき事(こと)も、皆(みな)とりどりにこそありしかども、
まぢかくは、六波羅(ろくはら)の入道(にふだう・にうだう)前太政大臣(さきのだいじやうだいじん)平(たひらの・たいらの)朝臣(あそん)清盛公(きよもりこう)と申(まうし)し人(ひと)のありさま、
伝承(つたへうけたまは)るこそ心(こころ)も詞(ことば)も及(およ・をよ)ばれね。
其(その)先祖(せんぞ)を尋(たづ)ぬれば、
桓武天皇(くわんむてんわう)第五(だいご)の皇子(わうじ)、
一品式部卿(いつぽんしきぶきやう)葛原親王(かづらはらのしんわう)九代(くだい)の後胤(こういん・こうゐん)、
讃岐守(さぬきのかみ)正盛(まさもり)が孫(まご)、
刑部卿(ぎやうぶきやう)忠盛(ただもりの)朝臣(あそん)の嫡男(ちやくなん)なり。
彼(かの)親王(しんわう)の御子(みこ)高視(たかみ)の王(わう)、無官(むくわん)無位(むゐ)にしてうせ給(たまひ)ぬ。
其(その)御子(みこ)高望(たかもち)の王(わう)の時(とき)、始(はじめ)て平(たひら・たいら)の姓(しやう)を給(たまはつ)て、上総介(かづさのすけ)になり給(たまひ)しより、忽(たちまち)に王氏(わうし)を出(いで)て人臣(じんしん)につらなる。
其(その)子(こ)鎮守府将軍(ちんじゆふのしやうぐん)義茂(よしもち)、後(のち)には国香(くにか)とあらたむ。国香(くにか)より正盛(まさもり)にいたるまで、六代(ろくだい)は諸国(しよこく)の受領(じゆりやう)たりしかども、
殿上(てんじやう)の仙籍(せんせき・せんセキ)をばいまだゆるされず。”
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den146.htm


”行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。

玉敷(たましき)の都のうちに、棟を並べ、甍(いらか)を争へる、高き、賤しき、人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或いは去年(こぞ)焼けて、今年造れり。或いは大家(おほいえ)亡びて、小家(こいえ)となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中(うち)に、わづかに一人二人なり。朝(あした)に死に、夕べに生まるるならひ、ただ、水の泡にぞ似たりける。

知らず、生まれ死ぬる人、何方(いずかた)より来たりて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰(た)が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主と栖(すみか)と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或いは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或いは花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つ事なし。

予(われ)、ものの心を知れりしより、四十(よそじ)あまりの春秋(しゅんじゅう)をおくれる間に、世の不思議を見ること、ややたびたびになりぬ。

去(いんじ)、安元三年(あんげんさんねん)四月廿八日(にじゅうはちにち)かとよ。風烈しく(はげしく)吹きて、静かならざりし夜、戌(いぬ)の時ばかり、都の東南(たつみ)より、火出で来て、西北(いぬい)に至る。はてには、朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などまで移りて、一夜のうちに、塵灰(じんかい)となりにき。

火元(ほもと)は、樋口富の小路(ひぐちとみのこうじ)とかや。舞人(まいびと)を宿せる仮屋より出で来たりけるとなん。咲き迷ふ風に、とかく移りゆくほどに、扇をひろげたるがごとく末広になりぬ。遠き家は煙(けぶり)に咽び(むせび)、近きあたりはひたすら焔(ほのお)を地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、あまねく紅(くれない)なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔、飛ぶが如くして一、二町を越えつつ移りゆく。その中の人、現し心(うつしごころ)あらむや。

或いは煙に咽びて倒れ伏し、或いは焔にまぐれて、たちまちに死ぬ。或いは身ひとつ、からうじて逃るるも、資財を取り出づるに及ばず。七珍万宝(しちちんまんぽう)さながら灰燼(かいじん)となりにき。その費え、いくそばくぞ。そのたび、公卿の家十六焼けたり。ましてその外、数へ知るに及ばず。惣て(すべて)都のうち、三分が一に及べりとぞ。男女死ぬるもの数十人、馬・牛のたぐひ辺際を知らず。
人のいとなみ、皆愚かなる中に、さしも危ふき京中の家を造るとて、宝を費やし、心を悩ますことは、すぐれてあぢきなくぞ侍る。

また、治承(じしょう)四年卯月(うづき)のころ、中御門京極(なかみかどきょうごく)のほどより、大きなる辻風(つじかぜ)起こりて、六条わたりまで吹けること侍りき。

三、四町を吹きまくる間に、籠れる家ども、大きなるも小さきも、一つとして破れざるはなし。さながら平(ひら)に倒れたるもあり、桁(けた)・柱ばかり残れるもあり。門(かど)を吹きはなちて、四、五町がほかに置き、また、垣を吹き払ひて隣と一つになせり。いはんや、家のうちの資材、数を尽くして空にあり、檜皮(ひはだ)・葺板(ふきいた)のたぐひ、冬の木の葉の風に乱るるがごとし。塵(ちり)を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず、おびたたしく鳴りどよむほどに、もの言ふ声も聞こえず。かの地獄の業(ごう)の風なりとも、かばかりにこそはとぞ覚ゆる。家の損亡(そんぼう)せるのみにあらず、これを取り繕ふ間に、身をそこなひ、かたはづける人、数も知らず。この風、未(ひつじ)の方に移りゆきて、多くの人の嘆きをなせり。

辻風は常に吹くものなれど、かかることやある。ただごとにあらず、さるべきもののさとしか、などぞ疑ひ侍りし。

また、治承四年水無月(みなづき)のころ、にはかに都遷(うつ)り侍りき。いと思ひの外(ほか)なりしことなり。おほかた、この京の初めを聞けることは、嵯峨(さが)の天皇の御時(おんとき)、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳を経たり。ことなるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを、世の人安からず憂へ合へる、げにことわりにも過ぎたり。

されど、とかく言ふかひなくて、帝(みかど)より始め奉りて、大臣・公卿皆悉く移ろひ給ひぬ。世に仕ふるほどの人、たれか一人ふるさとに残り居らむ。官(つかさ)・位に思ひをかけ、主君の陰を頼むほどの人は、一日なりとも疾く(とく)移ろはむと励み、時を失ひ、世に余されて、期(ご)する所なきものは、愁へながら止まり居り。軒を争ひし人の住まひ、日を経つつ荒れゆく。家はこぼたれて淀河(よどがわ)に浮かび、地は目の前に畠(はたけ)となる。人の心みな改まりて、ただ馬・鞍(くら)をのみ重くす。牛・車を用とする人なし。西南海(さいなんかい)の領所(りょうしょ)を願ひて、東北の庄園(しょうえん)を好まず。

その時、おのづからことの便りありて、津の国の今の京に至れり。所のありさまを見るに、その地、ほど狭くて条理を割るに足らず。北は山に沿ひて高く、南は海近くて下れり。波の音、常にかまびすしく、塩風ことに激し。内裏(だいり)は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なかなか様(よう)変はりて優なるかたも侍り。日々にこぼち、川も狭(せ)に運び下す家、いづくに造れるにかあるらむ。なほ空しき地は多く、作れる屋(や)は少なし。古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。

ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり。もとよりこの所に居るものは、地を失ひて愁ふ。今移れる人は、土木のわづらひあることを嘆く。道のほとりを見れば、車に乗るべきは馬に乗り、衣冠(いかん)・布衣(ほい)なるべきは、多く直垂(ひたたれ)を着たり。都の手振りたちまちに改まりて、ただ鄙びたる武士(もののふ)に異ならず。世の乱るる瑞相(ずいそう)とか聞けるもしるく、日を経つつ世の中浮き立ちて、人の心もをさまらず、民の愁へ、つひに空しからざりければ、同じき年の冬、なほこの京に帰りたまひにき。されど、こぼちわたせりし家どもは、いかになりにけるにか、ことごとくもとの様にしも造らず。

伝へ聞く、いにしへの賢き御世(みよ)には、憐れみをもちて国を治め給ふ。すなはち、殿(との)に茅(かや)葺きても、軒をだに整へず。煙の乏しきを見給ふ時は、限りある御調物(みつきもの)をさへ許されき。これ、民を恵み、世を助け給ふによりてなり。今の世のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。

また養和のころとか、久しくなりて確かにも覚えず、二年が間、世の中飢渇(きかつ)して、あさましきこと侍りき。或いは春・夏、ひでり、或いは秋・冬、大風・洪水など、よからぬことどもうち続きて、五穀(ごこく)ことごとくならず。むなしく春耕し、夏植うるいとなみありて、秋刈り、冬収むるぞめきはなし。

これによりて、国々の民、或いは地を棄てて境を出で、或いは家を忘れて山に住む。さまざまの御祈(おんいのり)始まりて、なべてならぬ法ども行はるれど、更にそのしるしなし。京のならひ、何わざにつけても、源は田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへん。念じわびつつ、さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとくすれども、更に目見立つる人なし。たまたま換ふるものは、金を軽くし、粟(ぞく)を重くす。乞食(こつじき)、路のほとりに多く、愁へ悲しむ声耳に満てり。

前の年、かくの如く、辛うじて暮れぬ。明くる年は、立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘(えきれい)うちそひて、まさざまに跡形なし。世の人みなけいしぬれば、日を経つつ、きはまりゆくさま、少水の魚(うお)のたとへにかなへり。はてには、笠打ち着、足引き包み、よろしき姿したるもの、ひたすらに、家ごとに乞ひ歩く(こいありく)。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地(ついひぢ)のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、臭き香(か)世界に満ち満ちて、変はりゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。いはむや、河原などには、馬・車の行き交ふ道だになし。

あやしき賤・山(しづやま)がつも力尽きて、薪(たきぎ)さへ乏しくなりゆけば、頼むかたなき人は、自らが家をこぼちて、市に出でて売る。一人が持ちて出でたる価(あたい)、一日が命にだに及ばずとぞ。あやしき事は、薪の中に、赤き丹付き(につき)、箔(はく)など所々に見ゆる木、あひ混じはりけるを尋ぬれば、すべき方なきもの、古寺に至りて仏を盗み、堂の物の具を破り取りて、割り砕けるなりけり。濁悪世(じょくあくせ)にしも生まれあひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。
また、いとあはれなる事も侍りき。さりがたき妻(め)・をとこ持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、稀々(まれまれ)得たる食ひ物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子の、なほ乳(ち)を吸ひつつ、臥(ふ)せるなどもありけり。

仁和寺(にんなじ)に隆暁法院(りゅうぎょうほういん)といふ人、かくしつつ数も知らず死ぬる事を悲しみて、その首(かうべ)の見ゆるごとに、額(ひたい)に阿字(あじ)を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。人数を知らむとて、四・五両月を数へたりければ、京のうち、一条よりは南、九条よりは北、京極(きょうごく)よりは西、朱雀(すざく)よりは東の、路(みち)のほとりなる頭、すべて、四万二千三百余りなんありける。いはんや、その前後に死ぬるもの多く、また、河原・白河・西の京、もろもろの辺地などを加へていはば、際限もあるべからず。いかにいはんや、七道諸国をや。

崇徳院の御位の時、長承のころとか、かかる例(ためし)ありけりと聞けど、その世のありさまは知らず。眼のあたり、めづらかなりしことなり。

また、同じころかとよ。おびただしく大地震(おほなゐ)ふること侍りき。そのさま、世の常ならず。山はくづれて河を埋(うづ)み、海は傾(かたぶ)きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌(いわお)割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波に漂ひ、道行く馬は足の立ちどを惑はす。都のほとりには、在々所々(ざいざいしょしょ)、堂舎塔廟(どうしゃとうびょう)、一つとして全(また)からず。或いはくづれ、あるいは倒れぬ。塵灰(ちりはひ)たちのぼりて、盛りなる煙のごとし。地の動き、家の破るる音、雷(いかづち)に異ならず。家の内に居れば、たちまちにひしげなむとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、ただ地震(ない)なりけりとこそ覚えはべりしか。

その中に、ある武者のひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、築地のおほひの下に、小家を造りて、はかなげなるあどなしごとをして、遊び侍りしが、にはかにくづれ埋められて、跡形なく、平にうちひさがれて、二つの目など一寸ばかりづつうち出だされたるを、父母かかへて、声を惜しまず悲しみあひて侍りしこそ、あはれに悲しく見侍りしか。子の悲しみには、たけき者も恥を忘れけりとおぼえて、いとほしく、ことわりかなとぞ見侍りし。
かく、おびたたしく震る(ふる)ことは、しばしにてやみにしかども、その余波(なごり)、しばしは絶えず。世の常、驚くほどの地震(ない)、二・三十度震らぬ日はなし。十日・二十日過ぎにしかば、やうやう間遠(まどお)になりて、或いは四・五度、二・三度、もしは一日まぜ、二、三日に一度など、おほかたその余波、三月(みつき)ばかりやはべりけむ。

四大種(しだいしゅ)のなかに、水・火・風は常に害をなせど、大地に至りては異なる変をなさず。昔、斉衡(さいこう)のころとか、大地震ふりて、東大寺の仏の御首(みぐし)落ちなど、いみじきことども侍りけれど、なほ、この度(たび)には如かずとぞ。すなはちは、人皆あぢきなきことを述べて、いささか心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、言葉にかけて言ひ出づる人だになし。 ”
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/houjouki001.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/houjouki002.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/houjouki003.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/houjouki004.html

”月日は百代の過客(はくたいのかかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊(ひょうはく)の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神(どうそじん)の招きにあひて取るもの手につかず、股引の破れをつづり、笠の緒付けかへて、三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住めるかたは人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べつしよ)に移るに、

草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家

表八句を庵の柱に掛け置く。

弥生(やよひ)も末の七日、あけぼのの空朧々(ろうろう)として、月は有明(ありあけ)にて光をさまれるものから、富士の峰幽か(かすか)に見えて、上野・谷中(やなか)の花の梢、またいつかはと心細し。睦まじき限りは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千住といふ所にて舟をあがれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻の巷(ちまた)に離別の涙をそそぐ。

行く春や 鳥啼き(なき)魚の 目は泪(なみだ)

これを矢立(やたて)の初めとして、行く道なほ進まず。人々は途中に立ち並びて、後影の見ゆるまではと、見送るなるべし。 ”
『おくのほそ道』の1:月日は百代の過客にして
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/hosomichi001.html


”序
行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止まる事なし。世の中にある人と住家と、またかくの如し。
玉敷の都の中に、棟を竝べ甍を爭へる、尊き卑しき人の住居は、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或は去年破れて今年は造り、あるは大家滅びて小家となる。住む人もこれにおなじ。處もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、僅に一人二人なり。朝に死し、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方より來りて、何方へか去る。また知らず、假の宿り、誰がために心をなやまし、何によりてか目を悦ばしむる。その主人と住家と、無常を爭ひ去るさま、いはば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花殘れり。殘るといへども朝日に枯れぬ。或は花は萎みて露なほ消えず。消えずといへどもゆふべを待つことなし。

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安元の大火
およそ物の心を知りしより以來、四十あまりの春秋を送れる間に、世の不思議を見ること、やゝ度々になりぬ。
いにし安元三年(*1177年)四月二十八日かとよ、風烈しく吹きて靜かならざりし夜、戌の時ばかり、都の巽より火出で來りて、乾に至る。はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部省まで移りて、一夜が程に、塵灰となりにき。
火元は樋口富小路とかや。病人を宿せる假屋より出で來けるとなむ。吹き迷ふ風に、とかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如く、末廣になりぬ。遠き家は煙にむせび、近き邊はひたすら焔を地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、あまねく紅なるなかに、風に堪へず吹き切られたる焔、飛ぶが如くにして、一二町を越えつゝ移り行く。その中の人現心あらむや。或は煙にむせびてたふれ伏し、或は焔にまぐれて忽ちに死にぬ。あるは又、僅に身一つ辛くして遁れたれども、資材を取り出づるに及ばず、七珍萬寶、さながら灰燼となりにき。その費いくそばくぞ。このたび公卿の家十六燒けたり。ましてその外は數を知らず。すべて都のうち三分が一に及べりとぞ。男女死ぬる者數千人、馬牛の類邊際を知らず。
人の營みみな愚かなるなかに、さしも危き京中の家をつくるとて、寶を費し心をなやますことは、勝れてあぢきなくぞ侍るべき。

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治承の辻風
また治承四年(*1180年)卯月二十九日の頃、中御門京極のほどより、大きなる辻風おこりて、六條わたりまで、いかめしく吹きける事侍りき。
三四町をかけて吹きまくるに、その中にこもれる家ども、大きなるも、小さきも、一つとして破れざるはなし。さながら平に倒れたるもあり、桁柱ばかり殘れるもあり。又門の上を吹き放ちて、四五町がほどに置き、又垣を吹き拂ひて、鄰と一つになせり。いはんや家の内の寶、數を盡して空にあがり、檜皮葺、板の類、冬の木の葉の風に亂るゝがごとし。塵を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず。おびたゞしくなり動む(*ママ)音に、物いふ聲も聞えず。かの地獄の業風なりとも、かくこそはとぞ覺えける。家の損亡せるのみならず、これを取り繕ふ間に、身を害ひて、かたはづけるもの、數を知らず。この風坤の方に移り行きて、多くの人の歎きをなせり。
「辻風は常に吹くものなれど、かゝることやはある。たゞごとにあらず、さるべき物のさとしか。」などぞ(*原文「さとしかなとぞ」)、疑ひ侍りし。

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福原遷都
又おなじ年の六月の頃、俄に都遷り侍りき。いと思ひの外なりし事なり。大方この京のはじめを聞けば、嵯峨天皇の御時、都と定まりにけるより(*薬子の変以後を指すか。)後、既に數百歳を經たり。ことなる故なくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人たやすからず愁へあへるさま、ことわりにも過ぎたり。されどとかくいふかひなくて、御門より始め奉りて、大臣、公卿、こと\〃/く移りたまひぬ。世に仕ふるほどの人、誰かひとり故郷に殘り居らむ。官位に思ひをかけ、主君の蔭をたのむ程の人は、「一日なりとも疾く移らむ。」とはげみあへり。時を失ひ世にあまされて、期する所なき者は、愁へながらとまり居たり。軒を爭ひし人の住居、日を經つゝ荒れ行く。家は毀たれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。人の心皆あらたまりて、唯馬鞍をのみ重くす。牛車を用とする人なし。西南海の所領をのみ願ひ、東北國の莊園をば好まず。
その時、おのづから事の便りありて、津の國今の京に到れり。所の有樣を見るに、その地ほどせばくて、條里を割るに足らず。北は山にそひて高く、南は海に近くて下れり。波の音常にかまびすしくて、鹽風殊にはげしく、内裏は山の中なれば、かの木丸殿もかくやと、なか\/樣かはりて、優なるかたも侍りき。日々にこぼちて、川もせきあへず運びくだす家は、いづくに作れるにかあらむ。なほ空しき地は多く、作れる家は少なし。故郷は既に荒れて、新都はいまだ成らず。ありとしある人、みな浮雲のおもひをなせり。もとよりこの處に居たるものは、地を失ひて愁へ、今うつり住む人は、土木の煩ひあることを嘆く。道の邊を見れば、車に乘るべきは馬に乘り、衣冠布衣なるべきは直垂を著たり。都のてぶり忽ちに改りて、唯鄙びたる武士に異ならず。これは世の亂るゝ瑞相(*前兆)とか聞きおけるもしるく、日を經つゝ世の中うき立ちて、人の心も治らず、民の愁へ遂に空しからざりければ、同じ年の冬、なほこの京に歸り給ひにき。されど毀ちわたせりし家どもは、いかになりにけるにか、悉くもとのやうにも作らず。
ほのかに傳へ聞くに、いにしへの賢き御代には憐みをもて國を治め給ふ。すなはち御殿に茅を葺きて、軒をだに整へず、煙の乏しきを見給ふ時は、かぎりある貢物をさへゆるされき。これ民を惠み、世をたすけ給ふによりてなり。今の世の中のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。

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養和の飢饉
又養和の頃かとよ、久しくなりてたしかにも覺えず。二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。あるは春夏日でり、あるは秋冬大風大水など、よからぬ事どもうち續きて、五穀悉く實らず。空しく春耕し、夏植うる營みのみありて、秋刈り冬收むるぞめきはなし。
これによりて國々の民、あるは地を捨てて境を出で、あるは家をわすれて山に住む。さま\〃/の御祈り初まりて、なべてならぬ法ども行はるれども、さらに其のしるしなし。京の習ひ、何わざにつけても、みなもとは田舍をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操も作りあへむ。念じわびつゝ、樣々の寶物かたはしより捨つるが如くすれども、更に目みたつる人もなし。たま\/易ふる者は、金を輕くし、粟を重くす。乞食、道の邊に多く、愁へ悲しぶ聲耳に滿てり。
さきの年(*治承5年=養和元年〈1181〉)かくの如く、辛くして暮れぬ。明くる年は、立ちなほるべきかと思ふに、あまさへ(*ママ)疫病うちそひて、まさるやうに跡方なし。
世の人皆飢ゑ死にければ、日を經つゝきまはり行くさま、少水の魚のたとへに叶へり。はてには笠うち著、足ひきつゝみ、よろしき姿したるもの、ひたすら家ごとに乞ひありく。かくわびしれたるものども、歩くかと見れば、即ち倒れ死ぬ。築地のつら、路のほとりに飢ゑ死ぬる類は數も知らず。取り捨つるわざもなければ、臭き香、世界にみち\/て、變り行くかたちありさま、目もあてられぬこと多かり。況んや河原などには、馬車の行きちがふ道だにもなし。
あやしき賤・山がつも、力盡きて、薪にさへ乏しくなりゆけば、頼む方なき人は、自ら家を毀ちて、市に出でて之を賣るに、一人が持ち出でたる價、なほ一日が命を支ふるにだに及ばずとぞ。怪しき事は、かゝる薪の中に、丹つき、白銀黄金の箔など、所々につきて見ゆる木のわれ相交れり。これを尋ぬれば、すべき方なき者の、古寺にいたりて、佛を盜み、堂の物の具を破り取りて、わりくだけるなりけり。濁惡の世にしも生れ逢ひて、かゝる心憂きわざをなむ見侍りし。
又、あはれなること侍りき。さり難き女男など持ちたるものは、その思ひまさりて志深きは必ず先だちて死しぬ。その故は、我が身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、いたはしく思ふ方に、たま\/乞ひ得たる物を、まづ讓るによりてなり。されば親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先だちて死にける。また母が命つきて臥せるをも知らずして、いとけなき子の、その乳房に吸ひつきつゝ、臥せるなどもありけり。
仁和寺に、慈尊院の大藏卿隆曉法印といふ人、かくしつゝ數知らず死ぬることを悲しみて、聖を數多語らひつゝ、その死首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなむせられける。その人數を知らむとて、四五兩月が程數へたりければ、京の中、一條より南、九條より北、京極より西、朱雀より東、道のほとりにある頭、すべて四萬二千三百餘りなむありける。況んやその前後に死ぬるもの多く、河原、白河、西の京、もろもろの邊地などを加へていはば、際限もあるべからず。いかにいはんや諸國七道をや。近くは崇徳院の御位のとき、長承のころかとよ、かゝる例はありけると聞けど、その世のありさまは知らず。まのあたりいとめづらかに、悲しかりしことなり。

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元暦の大地震
また元暦二年のころ、大地震ふること侍りき。そのさま世の常ならず。山崩れて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。土さけて水湧きあがり、巖割れて谷にまろび入り、渚こぐ船は浪にたゞよひ、道行く駒は足の立處をまどはせり。況んや都の邊には、在々所々堂舍塔廟、一つとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬる間、塵灰立ち上りて、盛んなる煙の如し。地の震ひ、家の破るゝ音、雷に異ならず。家の中に居れば、忽ちにうち挫げなむとす。走り出づれば、また地割れ裂く。羽なければ空へもあがるべからず、龍ならねば雲にのぼらむ事難し。おそれの中におそるべかりけるは、たゞ地震なりけりとぞ覺え侍りし。その中にある武士のひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、築地のおほひの下に小家を作り、はかなげなる跡なしごとをして遊び侍りしが、俄に崩れ埋められて、あとかたなく平にうちひさがれて(*押し潰されて)、二つの目など、一寸ばかりうち出されたるを、父母かゝへて、聲も惜しまず悲しみ合ひて侍りしこそ、あはれにかなしく見はべりしか。子のかなしみには、猛き武士も恥を忘れけりと覺えて、「いとほしく。理かな。」とぞ見侍りし。かくおびただしくふる事は、暫しにて止みにしかども、その餘波屡絶えず。世の常に驚くほどの地震、ニ三十度ふらぬ日はなし。十日二十日過ぎにしかば、やう\/間遠になりて、或は四五度、ニ三度、もしは一日まぜ(*一日おき)、ニ三日に一度など、大方その餘波三月許りや侍りけむ。四大種(*四大)の中に、水火風は常に害をなせど、大地に至りては殊なる變をなさず。「昔、齊衡(*ママ)の頃かとよ。大地震ふりて、東大寺の佛の御頭落ちなどして、いみじき事ども侍りけれど、猶この度には如かず。」とぞ。すなはち人皆あぢきなき事を述べて、聊か心の濁りも薄らぐかと見し程に、月日重なり、年越えしかば、後は、言の葉にかけていひ出づる人だになし。 ”
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/hojoki.htm
(現世は儚き生き地獄。
来世は墓無き死に地獄。
世の儚さ、対句、七五調、主役の先祖の紹介、
風、火、飢饉、地震の描写はこれら名文を訳して前後の文にあるようにしたらよろし。
古文の勉強は徒然草を現代語訳だけ読むことから始めたらいいよ。
徒然草が自分が習った中では一番役に立っているからね。
一番気になった段の原文を徹底的に勉強して暗唱できるまでにする。
いかに学ぶ価値があると実感できるかが重要)

花伝書「風姿花伝」本文
http://www.geocities.jp/actartcreator/shiryoushitzu/kaden-honbun.html
”古きを学び、新しきを賞するなかにも、全く風流をよこしまにすることなかれ。
 ただことばいやしからずして、すがた幽玄ならんを、うけたる達人とは申すべきか。まずこの道にいたらんと思 はんものは、非道を行ずべからず。ただし、歌道は風月延年の飾りなれば、もつともこれを用ふべし。
 およそ、若年よりこのかた、見聞きおよぶところの稽古の条々、大概注しおくところなり。

 一、好色、博奕・大酒、三の重戒、これ古人のおきてなり。
 一、稽古は強かれ、情識はなかれとなり。 ”

”じょうしき【情識】とは。意味や解説、類語。[名・形動ナリ]1 仏語。心。迷いの心。2 強情であること。また、そのさま。頑固。「稽古はつよかれ、―はなかれとなり」〈花伝・序〉”
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/108600/meaning/m0u/

ビジネスパーソンに捧ぐ世阿弥のことば|
http://www.the-noh.com/jp/zeami/words.html


精神安定術も会話術の一つ。

安那般那念
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%82%A3%E8%88%AC%E9%82%A3%E5%BF%B5
"安那般那念(あんなはんなねん[1]、巴: ānāpāna-sati(アーナーパーナ・サティ)、梵: ānāpāna-smṛti(アーナーパーナ・スムリティ))とは、仏教の瞑想法の一種。安般念(あんぱん[1]ねん)、安般守意(あんぱん[1]しゅい)、阿那波那(あなはな)[1]、入出息念、出入息念、持息念、数息観などとも。
(…)
ānāpāna(アーナーパーナ)とは、「āna」(アーナ)と「apāna」(アパーナ)の合成語であり、「āna」(アーナ)は「入息」を、「apāna」(アパーナ)は「出息」を意味する。
また、sati(サティ)やsmṛti(スムリティ)は、「念」(意識していること)を意味する。
合わせて、ānāpāna-sati(アーナーパーナ・サティ)、ānāpāna-smṛti(アーナーパーナ・スムリティ)とは、「入出息(呼吸)を意識すること」(あるいは、呼吸を数えること)を意味し、上記のような音訳・意訳も含む、様々な漢訳語が生み出され、使用されている。
(…)
安那般那念は、狭義には、文字通り「入出息(呼吸)を意識する」(あるいは、呼吸を数える)ことで、意識を鎮静・集中させる「止行」(サマタ瞑想)の一種、ないしは導入的な一段階を意味するが、広義には、そこから身体の観察へと移行していき、「四念処」に相当する「観行」(ヴィパッサナー瞑想)の領域も含む行法全般を指す。
(…)
「安那般那念経(Ānāpānasati sutta)」では呼吸を使った瞑想法について次のように具体的に記述されている。以下は安那般那念経(パーリ語の英訳版)からの引用である。

Breathing in long, he discerns, 'I am breathing in long'; or breathing out long, he discerns, 'I am breathing out long.' Or breathing in short, he discerns, 'I am breathing in short'; or breathing out short, he discerns, 'I am breathing out short.' He trains himself, 'I will breathe in sensitive to the entire body.' He trains himself, 'I will breathe out sensitive to the entire body.' He trains himself, 'I will breathe in calming bodily fabrication.' He trains himself, 'I will breathe out calming bodily fabrication.'[3][4] 長く息を吸っているときには「私は長く息を吸っている」とはっきり知り(pajānāti)、長く息を吐いているときには「私は長く息を吐いている」とはっきり知る。短く息を吸っているときには「私は短く息を吸っている」とはっきり知り、短く息を吐いているときには「私は短く息を吐いている」とはっきり知る。「私は全身の感覚を把握しながら(paṭisaṃvedī)息を吸おう」と訓練する(sikkhati)。「私は全身の感覚を把握しながら息を吐こう」と訓練する。「私は身行(=吸う息)[5]を静めて息を吸おう」と訓練する。「私は身行(=吐く息)[5]を静めて息を吐こう」と訓練する。

これがどのように修行をするのかについて書かれた一節である。このような修行に関して次のように述べられている。

This is how mindfulness of in-&-out breathing is developed & pursued so as to be of great fruit, of great benefit.[3][6] これが呼吸による気づきであり、このように熱心に行い、自身を訓練することは大きな果報となり、大きな利益となる。
"


読書多謝
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終末なにしてますか?神学ですか?哲学ってもらっていいですか?手加減なしで書く哲学記事と、プラトン『メノン』メモ翻訳比較 

使注追加中う メノン読むと哲学が止まらなくなったのでかき殴った生地。

プラトンは生まれる前の魂は全知だと考えていたらしい。
何でも知っている、輪廻転生を繰り返す不滅の魂は全知であり、刺激を受けてその記憶を想起することで、事物に対する知識を生み出すという想起(アムネーシス)説。
長所(アレテー)を身に付けているのは、知性とは無関係に(知性がなくてもアレテーがある)、神的なもののおかげらしい。

ナルトとプラトンを結びつけて論じたのは恐らく私が初だが今回は渇愛、じゃなくて割愛。私のツイートか過去記事をどうぞ。


フェイド大帝
「プラトンは「メノン」で”徳(アレテー)”は教育によって
教えれる物なのかどうかを問題に挙げている。
結論を言うと、プラトンに拠れば”徳”というのは
先天的にしか身に付かない
と唱えている。
プラトンがイラン系宗教の隠れ信者であったことは既知の
事実であるが、「メノン」ではプラトンが実は”輪廻転生”を
信じている
ことが分かる記載がある。

プラトンは”徳”と言うものは前世が記憶しているからこそ
現世においてそれが”徳”であると認識できるのだと
説いている。
つまりプラトン哲学だと”徳”は前世から「遺伝」
するのだ!

アスラ
=自然/本能の神格化=自然/本能のまま生きる「貪人」

デーヴァ
=自然/本能を制御する文明=本能を制御する「魂人」」

ーーー


プラトン
『メノン 徳(アレテー)について』渡辺邦夫/訳 光文社古典新訳文庫
と『メノン』 藤沢令夫訳 岩波文庫

・アレテー=ものの働きの卓越性、良い性能、優れたところ。
人のアレテーは徳と訳されることが多い。
(誤訳じゃねーか!長所って訳のほうがよくないか?)

『メノン』 藤沢令夫訳 岩波文庫 1994年
“こうして、魂は不死なるものであり、すでにいくたびとなく生まれかわってきたものであるから、そして、この世のものたるとハデスの国のものたるとを問わず、いっさいのありとあらゆるものを見てきているのであるから、魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何ひとつとしてないのである。だから、徳についても、その他いろいろの事柄についても、いやしくも以前にも知っていたところのものである以上、魂がそれらのものを想い起すことができるのは、何も不思議なことではない。なぜなら、事物の本性というものは、すべて互いに親近なつながりをもっていて、しかも魂はあらゆるものをすでに学んでしまっているのだから、もし人が勇気をもち、探求に倦むことがなければ、ある一つのことを想い起したこと――このことを人間たちは「学ぶ」と呼んでいるわけだが――その想起がきっかけとなって、おのずから他のすべてのものを発見するということも、充分にありうるのだ。それはつまり、探求するとか学ぶとかいうことは、じつは全体として、想起することにほかならないからだ。”p.47-48(81C、D)

”徳というものは、もし徳が誰かにそなわるとすれば、それは明らかに、神の恵みによってそなわるのだということになる。”p.118(100B)

『メノン 徳(アレテー)について』プラトン/著 渡辺邦夫/訳(光文社古典新訳文庫)
このように魂は不死であり、すでに何度も生まれてきており、この世のことでも冥府のことでもあらゆることがらをすでに見てきたので、魂が学び知っていないことは何もないのだ。したがって、徳(アレテー)についても他のさまざまなことについても、なにしろ魂が『以前にもう』知っていたことなので、魂がこれらを想起できることには何の不思議もない。
なぜなら事物の自然本性はすべて同族であり、魂はすべてのことを学び知っているので、人が或るたったひとつのことでも想起するなら――このことを人間どもは「学習」と呼んでいるが――、その人が勇敢であり、探究を厭わなければ、他のすべてをかれが発見することには何の妨げもないのである。というのも探究することと学習することは、けっきょく全体として、想起することに他ならないから。
”p.70(81C、D)
※『以前にもう』は、引用元では『』はなく、『』内にある文字に傍点。本ブログ形式ではルビはふれないので仕方なし。
※自然本性(フュシス)はネイチャーの起源であり、日本語の自然よりも意味が広い。
或る物事「の」自然本性、例えば、人間の・国家の・アレテーの自然本性(フュシス)のように様々な語に使える。

”徳(アレテー)は、それが人に備わる場合にはいつも、神的な運命によってわれわれに備わることは明らかである。”p.156(100B)


岩波文庫版
ソクラテス
“おまけに、どうやらぼくは、美しい人たちの前に出ると弱い男だということを、君に見ぬかれてしまったらしいね。……しかたがない、君の機嫌をとるために、答えることにしようか。”

光文社版
ソクラテス
“それに、きみは同時に、わたしが美少年にはからきし弱いということに、どうやら気づいたようだね。
そのようなわけで、わたしはきみの気を引くようにして、答えてあげよう。”p.46(76C)

(オルフェウス教とピタゴラス派は魂は不死だという思想を、プラトンは受け継いでいる。

まったく、「ホモ」・サピエンスの業は深いぜ!
欧州貴族が同性愛容認なのはプラトンの影響が大きいです。
そしてキリスト教では同性愛は(表向き)禁止。
つまり、タブー化による利権が生じるわけです。
禁酒法と同じ構造。
非差別層に特権を与えて間接統治させるのも、差別というタブーによる利権の強化をする目的もあります。
日本の江戸時代みたいに同性愛なんて当たり前だったら裏社会利権化はしないわけです。
同性愛容認か反対かどうかでどの陣営に属するかがわかります。
性に関しては妥協しにくいので分かりやすいです。
聖書絶対陣営(ネトウヨとか)は聖書絶対なので聖書の記述通り、
同性愛者は殺せ=同性愛反対です。
逆に、科学重視派、欧州貴族とバチカンの宗教統一賛成派は同性愛容認です。
これから、人口抑制の為に同性愛を推奨するでしょう。
そして同時にギリシャ文化やギリシャの哲学者を宣伝するでしょう。

すくすく。 @ScreamoTAI · 4月7日
面白いのは、江戸時代までの男色は「大人が美少年とやる」ものなわけです いわゆる「ボーイズラブ」ではない 少年同士の対等な性愛文学は明治後期まで待たないといけない 腐女子というジャンルを生み出した源流は明治時代でした)

プラトン全集読破ポータル
http://narimasu.wordpress.com/plato/
内の
プラトン『メノン』メモ
http://narimasu.wordpress.com/2013/12/11/%e3%83%97%e3%83%a9%e3%83%88%e3%83%b3%e3%80%8e%e3%83%a1%e3%83%8e%e3%83%b3%e3%80%8f%e3%83%a1%e3%83%a2/

徳は教えられうるか
想起説 (例として正方形の面積を求める過程)
「知識」と「思わく」の違い

なお副題は「徳について」。以下は読書時のメモです。

メノン「こういう問題に,あなたは答えられますか,ソクラテス。―人間の徳性というものは,はたしてひとに教えることができるものであるか。それとも,それは教えられることはできずに,訓練によって身につけられるものであるか。それともまた,訓練しても学んでも得られるものではなくて,人間に徳がそなわるのは,生まれつきの素質,ないしはほかの何らかの仕方によるものなのか…。」(70A)

ソクラテス「すくなくとも,君がこの土地のだれかをつかまえて,いまのような問をかけるつもりになってみれば,それがわかるだろう。きっと誰でもわらってこう答えるだろうから。
「客人,どうやら君には,ぼくが何か特別に恵まれた人間にみえるらしいね。徳が教えられうるものか,それともどんな仕方でそなわるものなのか,そんなことを知っていると思ってくれるとは!だがぼくは,教えられるか教えられないかを知っているどころか,徳それ自体がそもそも何であるかということさえ,知らないのだよ。」」(71A)

ここで,ソクラテスの本対話篇での一貫した立場を架空の人物に語らせています。つまり「徳とは何か」が分からないのだから,それがどういうものであるか,つまり教えられるのかどうか,というのも分からない,と。

ソクラテス「君があげたいろいろの徳についても同じことが言える。たとえその数が多く,いろいろの種類のものがあるとしても,それらの徳はすべて,ある一つの同じ相 (すがた) (本質的徳性) をもっているはずであって,それがあるからこそ,いずれも徳であるということになるのだ。この相 (本質的徳性) に注目することによって,「まさに徳であるところのもの」を質問者に対して明らかにするのが,答え手としての正しいやり方というべきだろう。ぼくの言おうとすることがわからないかね?」(72C)

この言葉の前には,「男の徳は~,女の徳は~,子供の徳は~」といったように色んな条件での徳があるとメノンが言い,それに対するソクラテスの言葉です。
所謂「イデア」を思わせる言葉です。…

メノン「正義は,ソクラテス,徳なのですから。」
ソクラテス「徳,だろうか,メノン,それとも,徳の一種だろうか?」
メノン「と言われる意味は?」
ソクラテス「ほかの何についても言えるようなことだ。たとえば,円形というものについて考えてみてもよいが,ぼくなら,それを形の一種であると言って,ただたんに形であるとは言わないだろうね。なぜそういうふうに言うかというと,ほかにもいろいろ形があるからだ。」(73D)

メノン「それでは,勇気が徳であると私には思われますし,それから節制,知恵,度量の大きさなど,ほかにもずいぶんたくさんあるでしょう。」
ソクラテス「再度われわれは,メノン,同じ目にあったわけだね。一つの徳を求めながら,またしてもわれわれはたくさんの徳を見つけ出してしまった。そうなるに至った手順は,さっきとは別だけれども。君のあげたすべての徳目をつらぬいているただ一つの徳を,どうしてもわれわれは見つけ出すことができないのだ。」(74A)


あとこれは知らない人には何の事だかサッパリだと思いますが,ソフトウェア開発の「オブジェクト指向」の考え方で,イデア論やもしくは哲学を説明しようとする試みが行なわれていたのをどこかで見たことを思い出しました。ここの部分は,いかにも is-a 関係 (つまり継承) の例になりそうなので。私自身は,真実を追求する姿勢に数学的・理系的なものを感じたり,対話のやり方にアジャイル的なものを感じることはあっても,ソフトウェア開発の方法論を当てはめる観点でプラトンを読もうと思ったことはありません。

ソクラテス「そして問答法においては,ただたんにまちがっていない答をあたえるだけでなく,質問者が知っていると前もって認めるような事柄を使って答えるのが,おそらくその結果によりかなったやり方というべきだろう。」(75D)

これはさらっと書かれていますが,案外プラトン対話篇をつらぬく重要なことかもしれません。というのは,プラトン対話篇というのは読者に何の前提知識も求めず,何から読んでもそれ単体で読めるものになっているからで,それを示しているようにも思えるからです。知らないことを知っていると思わせないために,「分かった気にさせない」ということでもあるのかなと思います。

メノン「ソクラテス,お会いする前から,うわさはかねがね耳にしていました―あなたという方は何がなんでも,みずから困難に行きづまっては,ほかの人々も行きづまらせずにはいない人だと。げんにそのとおり,どうやらあなたはいま,私に魔法をかけ,魔薬を用い,まさに呪文でもかけるようにして,あげくのはてにこの私を,すっかり途方にくれさせてしまったようです。もし冗談めいたことをしも言わせていただけるなら,あなたという人は,顔かたちその他,どこから見てもまったく,海にいるあの平べったいシビレエイにそっくりのような気がしますね。なぜなら,あのシビレエイも,近づいて触れる者を誰でもしびれさせるのですが,あなたがいま私に対してしたことも,何かそれと同じようなことであるように思われるからです。なにしろ私は,心も口も文字通りしびれてしまって,何をあなたに答えてよいのやら,さっぱりわからないのですから。」(80A)

ソクラテス「それから,このぼくのことだが,もしそのシビレエイが,自分自身がしびれているからこそ,他人もしびれさせるというものなら,いかにもぼくはシビレエイに似ているだろう。だがもしそうでなければ,似ていないということになる。なぜならぼくは,自分では疑問からの抜け道を知っていながら,他人を困難に行きづまらせるというのではないからだ。道を見うしなっているのは,まず誰よりもぼく自身であり,そのためにひいては,他人をも困難に行きづまらせる結果となるのだ。」(80C)

シビレエイのたとえが出てきました。ソクラテスの対話でよく出てくる,所謂アポリアーです。但し前半の言葉によると,実際にソクラテスの容姿はシビレエイそっくりらしいのですが。これは貴重な証言なのではないでしょうか。…

ソクラテス「こうして,魂は不死なるものであり,すでにいくたびとなく生まれかわってきたものであるから,…魂がすでに学んでしまっていないようなものは,何ひとつとしてないのである。だから,徳についても,その他いろいろの事柄についても,いやしくも以前にもまた知っていたところのものである以上,魂がそれらのものを思い起こすことができるのは,何も不思議なことではない。なぜなら,事物の本性というものは,すべて互いに親近なつながりをもっていて,しかも魂はあらゆるものをすでに学んでしまっているのだから。もし人が勇気をもち,探求に倦むことがなければ,ある一つのことを想い起したこと―このことを人間たちは「学ぶ」と呼んでいるわけだが―その想起がきっかけとなって,おのずから他のすべてのものを発見するということも,充分にありうるのだ。それはつまり,探求するとか学ぶとかいうことは,じつは全体として,想起することにほかならないからだ。」(81C)

これが「想起説」と呼ばれるもののようです。そもそもメノンが「知っている事柄については,既に知っているのだから探求する必要がない,しかし知らない事柄については,何を探求すればよいのか分からない」ということを指摘した (実際にはソクラテスに言わせた) のがきっかけで,ソクラテスが語ったことです。
科学的な知見がない時代なので,本能的なものがなぜ人間に備わっているのかを説明しようとしたとも思えます。しかしどちらかといえば,セレンディピティみたいな後天的な閃きに近いでしょうか。それにしても上手い説です。本当によく考察した結果なのだなと思います。

この後,メノンの召使に正方形の面積についての問題を「想起」によって解かせる場面があります。メモは全面的に省略しましたが,面白い場面です。ここは「いかにして問題をとくか」という古典的な本 (理系では有名?) で,生徒に先生がどう図形の問題を解かせるかを教える場面を思い出しました。非常に似ていると思います。つまり未知の問題を解くプロセスとして,この想起説の考え方は今にも生きているのではないかと思います。

ソクラテス「とすると,もし徳というものが,魂にそなわる資質のひとつに数えられるようなものであり,また,かならず有益なものでなければならないとするならば,徳とは知でなければならないことになる。なぜなら,いやしくもすべて魂の資質というものは,それ自体単独では有益なものでも有害なものでもなく,そこに知もしくは無知がはたらくことによってはじめて,有害なものとなったり有益なものとなったりするのだから。こうしてこの議論にしたがえば,徳が有益なものである以上,それはひとつの知でなければならないのだ。」(88C)

この少し前では,「例えば勇気は,正しい知識が伴わなければ害を受け,伴えば有益になる」というようなことを言われます。ということで,徳は善いものであれば知識であり,知識なのであれば教えられる,という論理的な帰結が導かれたことになります。しかしそもそも徳は知識なのか?という疑問が生じ,「思わく」というものを提示した結果,次のように言われます。

ソクラテス「してみると,行為の正しさということに観点をおくなら,正しい思わくは,導き手としての「知」に何ら劣るものではないことになる。そしてこの点こそ,われわれがさっき,徳とはいかなるものかを考察するにあたって,見のがしていたことなのだ。われわれは,正しい行為を導くのはただ「知」だけだと言っていたのだから。実際にはしかし,正しい思わくもまたそうだったのだ。」(97B)

「思わく」の例として,実際に目的地までの道を歩いたことがあり行き方を知っている (知識) のと,歩いたことはないが行き方の見当をつけて,それが結果的に正しい (正しい思わく),ということが直前に書かれています。目的地に到着できるかぎりでは,知識と正しい思わくは同じだと。

ソクラテス「つまり,正しい思わくというものも,やはり,われわれの中にとどまっているあいだは価値があり,あらゆるよいことを成就させてくれる。だがそれは,長い間じっとしていようとはせず,人間の魂の中から逃げ出してしまうものであるから,それほどたいした価値があるとはいえない―ひとがそうした思わくを原因 (根拠) の思考によって縛りつけてしまわないうちはね。しかるにこのことこそ,親愛なるメノン,先にわれわれが同意したように,想起にほかならないのだ。そして,こうして縛りつけられると,それまで思わくだったものは,まず第一に知識になり,さらには,永続的なものとなる。ここにこそ,知識が正しい思わくよりも高く評価されるゆえんであり,知識は,縛りつけられているという点において,正しい思わくとは異なるわけなのだ。」(97E)

ここで「想起」と「知識と思わくの違い」が結びつきます。
「思わくを縛り付けたものが知識」というのは結構実感できる部分です。同じことを訊かれても,その時々で自分の答えが変わるようなことは確固たる知識ではないのかもしれません。他方で確かに自分の中で何か順序だてて答えを導いたようなことは,頭の中でしっかりと定着したような感じになります。このプロセスが「想起」なのだと言われれば,すごく納得します。

ソクラテス「してみると,実際の行為に関するかぎり,正しい思わくは,知識とくらべて何ひとつ劣るところはなく,また有益であるという点でも,けっしてひけをとらないわけだね。同じことは,正しい思わくをもっている人と,知識をもっている人とをくらべた場合にも言えるだろう。」(98C)

ということで,ここから,過去の偉大な政治家等の人物が国を治めることができたのは,知識を持っていたのではなく,正しい思わくをもっていたにすぎない,ということが言われます。知識ではないから,子孫に伝えられなかったのだと言われます。そしてその思わくは,神によって授けられるものである,と言われます。…ただこの結論は,どちらかといえば時間切れという側面なのかなと思います。結局は,ソクラテスの最初からの姿勢である,「そもそも徳とは何であるか」をまず明らかにすべき,というところで終わります。”


ーーー
ここに注目すると思想を学ぶときにより面白いかもしれない論点

うにょうさんそう【右繞三匝/右遶三匝】とは。意味や解説、類語。仏語。礼式の一で、仏に対して右回りに3回まわること。また、その作法。
トリは霊魂の比喩。

このツイート見てエジプトの心臓とか調べてた。
でインドと比較した。

TOMITA_Akio‏ @Prokoptas 20時間20時間前
ところで地獄はどこにあるのか?
エチオピア語エノク書によれば、死者は地上、地下、地獄に分かれて住み、
スラヴ語エノク書では、地下の地獄、第3天北側の地獄、そのほかに第2天と第5天に懲罰の場が存在する。
ギリシア語ペテロ黙示録によれば、七層天のどこかにあるだろう……。(クリアーノ)
精緻を極めたエジプト死者の書によれば、死者の心臓が審判されるのは天でも地でもないツアトである。
仏教的に言えば中有であろうか。ツアトは地上と同じであるが、ただ次元が異なる。その意味で、ウェイト版で恋人/審判/悪魔札の男女の立ち位置がくるくる異なるのは納得のゆくことである。

「この世」の人間と「あの世の」人間と共通するのは心臓のみで、この心臓が秤にかけられる。義人の心臓は返還されるが、そうでない者はそのまま凶霊の国に落とされる。心臓を還された魂は、クウという身体をまとうカーになる。そこで修業すればバーに昇格すると(『死者の書』)。








凶霊の国の詳細はわからないが(とアニは言う)、「そこは水なく空気なく、霊たちは生命力を失ってあてどなく処々を彷徨う」と。これは、エチオピア語エノク書と同じであることが注目。「天蓋が上になく、下に地の基がなく、上に水がなく、鳥もいない、荒涼たる、ものすごい場所を見た」(18章)。
「港に入り、発芽し、クウは育つ、これによりてバーは生きるなり」……「港に入り」とは人間として死んで霊界に入ること……「発芽し」の意味はクウが生まれること……しかしそのクウは無から生まれるのではない。死者の遺体から”発芽”するのだ。……そこで遺体保存……という理路だ。『死者の書』

『死者の書』が腐敗を恐れる程度は半端でない。しかし腐敗はまた生命(体)を生むこともよく知っていた。「エジプトの牛をとある場所に埋め、角だけを地面から出しておき、しかる後に鋸で切り落とすと、蜜蜂たちが飛び出してくる……牛が腐ってその生物に分解するという」アンティゴノス断片19。


死者の書によると、この世界は「原始初生の一滴」の水から生じた、その精が男神ヌウと女神ヌウトだった。「一面水だらけの水面に大きな波が二つ起きた。二つの波は遠く離れた水面に起きたが、それが次第に寄り添ってやがて互いに砕け合った。そしてそこからぽっかりと一つの丸いものが生まれ出た。→

これが実は霊界の生命の根源、太陽神ラアの誕生であった。……二神は相談して、「ラアを浮かべる天の水面として空を生んでやった。「ラアは水から生まれたし、空もまた水から生まれた。そこで空には水面と同じように地上のものが映る。→
ラアは空の水鏡に映った地上……を見間違えて自分の航路を間違えることがしばしばあった」。 天界も地下界も、「この世」の鏡像にすぎない。 「霊の世界はあくまで心の世界だ」と、『死者の書』は驚きべきことを言ってのける(『世界最古の原典エジプト死者の書』p.129)。



無職童貞を無色透明にかえると単なる透明人間である。
透明人間は目が見えないのは当然である。

臓器記憶  輸血 若返る 若返り 
輸血で人格カエル 別人にするとか
呼吸法と輸血が若さの秘訣かもね。ジョジョの作者。
教皇を神と敵対させるカトリックへの嫌がらせのジョジョ。



これらの論点は学んでおくべき。
カルトのいんちき教義の矛盾を突くのに有効。
仏教は本体がある輪廻を否定する、本体なき輪廻。なぜ本体があるとまずいのかが重要。しかし日本人には人間の生は解脱しないかぎり永続するというインド人にとっての絶対的事実が肌でわからないからなあ。

色々浮かんだこと

・人間はどの程度まで考えられるのか。認識不可能なものを思考できるか。
ゴッドについて考えることはできるのか。それは単に人間レベルに落としたゴッドもどきではないのか。そもそも言語化できないなら言語で書かれた聖典とは何か。
非言語でも同様に結局は人間レベルではないのか。超次元だろうが何次元だろうが結局人間が聞けてしまうならその程度ではないか。すごいのはその異次元存在では無くてその人自身ではなかろうか。
デカルトが考えた悪霊がやばいのは、認識の根拠ごと幻影を見せられるからでそれだと結局ただの現実だからで悪霊こそまさにゴッドだから。
逆に言えば、言葉で言葉を創ったゴッドを否定しきるのは不可能ではないのか。
言葉で言葉を創ったゴッドを定義するのは不可能ではないのか。
否定神学というゴッドは~ではないでしか言えないとする手法があるがおそらく正しい。しかしそれすら言語である。結局言葉を超えたものは要請と筆要請(ひつようせい と読む私の造語。ロゴス的要請)ではないのか。
不可知論になるのか無記になるのか。反実在論か。

・ゴッドと絡むが世界の始まりを言葉で知ることはおろか思考も不可能。なぜなら思考も言語もイメージも順序というものが必要だから。順序すらない状態を仮にカオスと呼ぼう。しかし順序がないのでカオスは生まれることができない誕生ができない。ならはじめからあったのか。というかはじめという言葉も適用できない。
ただあったものが変化しないと何も生まれない。何かに干渉したり自分の一部を変化も同様。で結局一部は変化可能でなければならない。あと完全不変なままで他に干渉は不可能ではないのか。干渉すると干渉沙汰ものの影響を必ずうけるのではなかろうか。
突き詰めて考えると人格神が世界の始まりを起こした創造新であることは不可能ではないか。人格は明らかにかなり後に生まれるはず。
慈悲をもって世界を創造とはどういうことを意味しているのか。
善意とか慈悲をもってなんてそれこそわかりようがないのではないか。
そもそも言語表現不可能で言語を超えた、人間的感情に類する善意や慈悲とは何なのか。結局善意悪意うんぬんは後付けなのではないのか。

・理性や魂はみんなあるからみんな仲間思想はかなり有用。

・魂の定義。実在するか。不滅か。生まれ変わるときに必要か・。

・輪廻の定義。輪廻しないのはなぜか。輪廻するのはなぜか。輪廻から脱すると何がいいのか。脱してどうするのか。
輪廻する本体はあるか。輪廻に本体は不要か。記憶を完全に失うなら輪廻とは何なのか。記憶を断片的でも継承できるなら輪廻に本体があるのではないか。
何か共通点があるから輪廻的に前世は云々出きるのではなかろうか。
輪廻前と後になんの共通点もないならそれは輪廻なのか。
輪廻は単なる状態変化なのか。

・人間の本体はなにか。どこから来るのか。そもそもどこかなろといえる場所があるのか。
首の後ろ当たりと言ったがそれはなぜか。肉より電流流れる血液のほうが本体ではないか。むしろ骨ではないか。脳以外にも記憶が宿るのはなぜか。部位によって記憶しやすい事柄があるのか。
エジプトでは心臓が本体だったらしい、脳は鼻水。たしかに心臓がなかったら死ぬ。頭が欠けても生きている実例を見たからだろうか。
インドだと心臓あたりにチッタと呼ばれる記憶貯蔵庫があるらしいが、
唯識の阿頼耶識はどこにあると考えたのだろうか。心だろうか。
調べるとエジプトでは魂なる人間の本体は五つの要素からなるそうで、名前と魂と霊と心臓と影だっけ。心臓だけ物理じゃねーかと思ったが心臓は思考もするらしいから物理ではない。

∸――


宮川 孝幸‏ @M8839 2011年2月2日
血は性格を左右しないと言われるが、体の中を流れる半分以上の血を入れ替えるほどの輸血を経験すると、人間は別人に変わる。数例しかないので科学的根拠までは解っていませんが、副作用として…まぁ、身をもって経験してます。

ホロデッキでポンファー‏ @m5knt 2015年1月5日
そいや昔、親が血を全部入れ替えして性格変わって別人みたいなことになったって話を同僚からきいたっけなぁ

☆かおりのすけ☆‏ @kaorinosuke 2015年7月22日
ママ友さんの話。出産の時に大量に輸血を受ける事態になったのだが、その後物凄く毛深くなって男性のニオイ?が肌からするようになって、ギョッとしたそう。旦那さんにも体臭を指摘されたとか。一年位続いたらしい。


☆かおりのすけ☆‏ @kaorinosuke 2015年9月27日
前にも書いたかもだが、ママ友が出産時輸血した後、凄く毛深くなったり明らかに自分の物と違う男性の体臭がしたりが1年間位続いたらしい。自分の身体じゃないみたな感覚の変化が色々あったとか。
輸血で身体が変化する。

(輸血や臓器移植で別人になれるのなら、特定の人格や体質に改造するために人工輸血や人工臓器を移植しているんだろう。
思想教育だけでなくその思想を持つ人間の血と臓器を入れることでコピーはオリジナルに近くなる。
支配層の頂点レベルと結社員がやってそう。
輸血による若返りが一番の取引材料っぽいけど
ブレサリアンになる技術もありそう。

血液記憶?)

峨骨‏ @Chimaera925 13 時間13 時間前
輸血で性格が変わる、ねぇ?確かに、育毛剤を服用(内服薬)していると献血できない。血に含まれる成分んいよって体質が変化するということはあるだろう。それによって性格が変わるならば、まだ想像が付く。実際問題、俺は生まれてまもなく母親の血を輸血しているんだけど、性格は似てないなぁ。

だいたい、胎児の時に臍の緒を通じて繋がっている訳で。性格がそこで似るというならわかるが、それらの要素で性格が似通ってくるのは後天的なものが強いだろうな。
寧ろ、血を取り変えるような出来事があると、「変わらなくてはならない」という無意識の効果もあるんじゃあるまいか。プラシーボ効果ってのは侮れない。偽薬等は倫理的な問題があるから忌避されるけれども、実際問題そこそこ効果がある。瀉血みたいにロクでもないものでなく、毒にも薬にもならんもの
だったら無害と言えば無害だけれども、それを使う者が有害でないとは限らない。そこに宗教や思想、金銭が絡んでくるから問題があるという事にしておくのが無難だ。






☆かおりのすけ☆‏ @kaorinosuke 2012年5月27日
【科学的事実をいって差別になるなら民主主義国家を標榜するのはやめろ。輸血による被曝は食物接種なんかより心筋にダイレクトにくる。出産による輸血等で無用な事故がおこる。エビデンスを待ってる場合じゃない。一時期の英国滞在者が献血できなかったのと同じ。差別じゃなく区別だ 】




永井均‏ @hitoshinagai1 2016年6月21日
悪霊は「私は存在する」という考えを誰にでも何にでも持たせることができるが、持たされたその者(の一つ)がなぜか私であることは悪霊の感知不可能な事態。したがって、その「私」は悪霊を指すどころか彼の能力の外部にある。とデカルトは発見した。 https://twitter.com/shogoinu/status/744657257162383361 …
清水将吾‏ @shogoinu 2016年6月20日
「私は存在する」という考えを、仮に悪霊に無理矢理もたされているとしたら、その「私」は悪霊を指すことにならないだろうか。

永井均‏ @hitoshinagai1 2016年6月21日
返信先: @hitoshinagai1さん
悪霊は本質的に欺く者だがここでは欺けないのは、神は本質的に創造する者だがここでは創造できないことに基づく。神は「私は存在する」と考える者をいくらでも作り出せるが、作り出された者(の一つ)がなぜか私であることだけは神の力も及ばない。とデカルトは発見した

神が私を創造できないのは、彼が創造した「私は存在する」と考える多数の者たちの内から、私を識別する(という私には易々とできる)ことが彼にはできないからだ。彼は私の心の奥底まで知っているが、どれが私であるかは知らない。私は彼の力の外で存在を得ている。

神は「この時点が今である」といえるような無数の時点を創造できるが、それらのうちいつが今であるかを知る=識別する(という我々にはあまりにも容易できる)ことが(それだけは)できない。その一つの理由は、この「あまりにも容易に識別されるもの」が実は実在していないから、というもの。


しかし、この「神が識別できない」「実は実在していない」ものこそが、神の顕現の場なのだ、と拙著『存在と時間』第6章では言われている。つまり、ここで神の意味そのものが変わるわけだ

「神」(やそれに類する話)はこのように理解するのでなければ意味がない、と私は思っている。この議論にではなく、「神」そのものに関心のある方に、ご意見を聞きたいところ。(中田さんだけでなく。)

「「神」そのものに関心のある方はたいていこの議論が理解できないので「ご意見を聞く」こともできないのでは?」というご意見があり、まあ、事実としてその通りなのですが、私にはそのことが不思議であるわけです。
「……このように理解するのでなければ意味がない」と思っている理由は、超越性へのルートはこれ以外にはありえない、と思っているからです。

永井均‏ @hitoshinagai1 2時間2時間前
永井均さんが森岡正博をリツイートしました
まったくその通りですが、同時代のアカデミックパラダイムで評価される論文を書ける実力を養いつつ、同時にそれによってそのパラダイムそのものを転覆させる計画を虎視眈々と練ればよいので、大丈夫です。両立します!
森岡正博‏ @Sukuitohananika 3月6日
返信先: @Sukuitohananikaさん
現在の世界のアカデミック哲学界を席巻してる英語圏分析哲学がなぜつまらないかといえば、強固なジャーナル査読システムで論文をふるい分け、同時代のアカデミックパラダイムで評価されるもののみを残す仕組みを完成させたからだ。哲学は本来、同時代のパラダイムを転覆させる危険なものだったろうに。




「至神智教団」
ねこた‏ @lakudagoya
モデルは恐らくイスマーイール派かな?
「至神智教団」の学院は恐らくアズハル大学。これ、元々イスマーイール派の学院。
イスマーイール派と言えばブラバッキー夫人のパクリ元じゃん!
 この「至神智教団」ってのはシーア派系の団体だったんかよ!?

なぜイマーム・アリーは重要なの?
それはイマーム・アリーは神智を齎す存在だから。

まさかネットも満足な本もないのにシーア派の情報も入ってるとは恐れ入った!
主人公はフサインのように迫害される。


時間の神である「一の神」の神官である「至神智教団」の祖師様って、もしかして彼の使える神はあっらーさんの比喩かも知れないよ?

イスマーイール派の神話も関係あるかな?

月蝕の巫女を探してたのだから。

時間=お月さまだよ。

で、あっらーさんの娘さんは月の女神だよ。黒曜石だ。


月蝕紀列伝

で、北部は山岳地帯で南部は砂漠のある亜熱帯。

スペインにも似てるけど、アラビア半島で山岳地帯と言えばアシール!

その北部の山岳地帯に本拠地を持つ「至神智教団」ってクルディスタン?

それとも、アラムートの遺跡に本拠地を置いてたイスマーイール派かな?

月蝕紀烈伝に出てた「至神智教団」って教育カルトかな?

「ニャンゲンの可能性を追求」とか言うならば、教育カルト以外になりようがない。

で、神や精霊から離れてニャンゲンの可能性を探求ならば、ストア学派のような理神論を取らざるを得なくなるよー!

月蝕紀烈伝に出てくる理神カルトの至神智教団の教義

「 神々から離れて人間の内に神聖を見いだすこと。人間の持つ無限の可能性を引き出すことです。善と悪、取るべき二つの道があって、たとえ悪の方が魅力的で楽に見えたとしても、結局、人間は善を選ぶものだと、私は信じてるんです。」


LGBTとグノーシス。面白いねぇ。
この前紹介したラノベの「至神智教団」って、封建社会なのに身分にこだわらないんだよ。性別も。

このガチ系啓蒙主義のこだわらなさは世の中の不思議でもある。

この古代から男女平等思想を受け継いだ連中の暗躍が気になる所だが。

この「至神智教団(神智学協会の類似品ではありません!)」の構成員の事を兄弟とおフレンチ語で言っちゃうのってさ(とまーてさんにおフレンチ語が間違ってますぅ!とつっこまれたらいいのにw)、一瞬高須クリニックの人のついったーを思い出したでよ。

あの人素人目から見ても下っ端だとわかるw

大昔のラノベの「月蝕紀烈伝」に出てくる理神論カルトの至神智教団が陰謀まみれの真っ黒黒助でワロタ。

陰謀論者として陰謀を見るのは面白い。

よくここまで頭から腐った陰謀組織が出来上がるわ。

でも、こいつら敵キャラとしては交渉通じそうなのが他のラノベにはない特徴だね。

イスラームは理論的な宗教だけど、やはり一般の信者の中心は現世利益のあったスーフィズムだよ。

この至神智教団ってのも普及すればスーフィズム臭くなるんでね?


「至神智教団」
ニャンゲンの知性のみを信じて、神も精霊も信じない(何それサドカイ派?でもサドカイ派は神を信じてたぞ?)無神論カルトって、中世ヨーロッパみたいな社会で流行るんかい?

これ知識層でないと流行らないね。

普通の社会では現世利益の多神教だよー。

至神智教団の目的

「 神々から離れて人間の内に神聖を見いだすこと。人間の持つ無限の可能性を引き出すことです。善と悪、取るべき二つの道があって、たとえ悪の方が魅力的で楽に見えたとしても、結局、人間は善を入れるものだと、私は信じてるんです。」


「異端の魔道士セイル」というラノベには、理神論みたいな魔道士のカソリックみたいな宗教が存在するけどその名前が「至神智教団」だ。

自然法則を感じる力である理性というものは非常に神的なものであると思われてました。やつらの理性崇拝ってものは根底にはこの思想があります。 また、情動に流されずそれらの自然に従って生きた賢者は死後はお星様の世界で暮らせると信じられてました。
また人間には自然法則を感じる超能力である「理性」が備わってて、人間社会の中での自然法則である自然法を理解する力があるから、国籍や民族に囚われずに人類は皆平等であると言いました。 人類みな兄弟や世界政府みたいな考え方はどう考えてもこれらの思想が根底にあります。


おいら「でも神々を信じる人たちは、魔導師さんたちの事を神を信じぬ人間中心主義の徒と言うのよ?」

魔導師さん「それは間違いね。そもそも神々はニャンゲンに内在してるわけなんだから、外に偶像を作って拝むことが偶像崇拝の邪教の徒であって、それこそが神に対する冒涜じゃないかしら?」

ねこたさんが追加
ねこた @lakudagoya
ねーねー魔導師さん、何でこの魔導師の教団は、神や天使から離れてニャンゲンの理性のみを至上としてるの?

「だって、神は内在していてニャンゲンの内側にあるの。だからわざわ…
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ねこた‏ @lakudagoya 3月11日

ねーねー魔導師さん、何でこの魔導師の教団は、神や天使から離れてニャンゲンの理性のみを至上としてるの?

「だって、神は内在していてニャンゲンの内側にあるの。だからわざわざ外に偶像作って拝む必要ないでしょう?

だってニャンゲンの理性は神と同じ性質を与えられてるのよ?」

ねこたさんが追加
ねこた @lakudagoya
至神智教団の目的

「 神々から離れて人間の内に神聖を見いだすこと。人間の持つ無限の可能性を引き出すことです。善と悪、取るべき二つの道があって、たとえ悪の…

ねこた‏ @lakudagoya 3月11日

ねこたさんが菊池をリツイートしました

啓蒙主義陰謀論こそ実はイルミナティの中核ですよね(笑)

あと理性主義に関しては、近代的理性=頭の中の妄想ではなく、古代哲学で言うところの神々と同質な自然法則を感じれる超能力としての理性の崇拝だと思います。彼らは神が内在してるから外に偶像を作らないのでわからないかも? RT

ねこたさんが追加
菊池 @kikuchi_8
返信先: @kikuchi_8さん
俯瞰すると陰謀論の歴史は西洋の思想史をまるでなぞるように展開してきた事を発見した①キリスト教圏で発生した為にキリスト教系陰謀論が大勢→②神智学系やニューエイジ系つまり神秘主義派の陰謀論が登場しキリスト教を批判(アイクなど)→③啓蒙主義系の陰謀論が登場しキリスト教と神秘…
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ツワブキさんがいいねしました
ねこた‏ @lakudagoya 3月11日

ねこたさんがねこたをリツイートしました

この理神カルトは、外に神々を作って拝まないのはなぜか?

それは、この思想の元になった思想では、グノーシス派のように神は内在してるから。わざわざ外に偶像を作って偶像崇拝する必要がないの。 

だから、神的な存在であるニャンゲンの理性を大事にするよ。 RT

ねこたさんが追加
ねこた @lakudagoya
至神智教団の目的

「 神々から離れて人間の内に神聖を見いだすこと。人間の持つ無限の可能性を引き出すことです。善と悪、取るべき二つの道があって、たとえ悪の…
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ねこた‏ @lakudagoya 3月9日
返信先: @uhehoさん

でも、ユダヤ人はバアルなどの異教の神は悪魔ではなく、異教の偶像崇拝で神ではないと言ってますけどね、悪魔にされたのは耶蘇教のせいです。

ユダヤ教徒は異教と区別してました。
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逆喷射サンチーム驫麤1000番台さんがいいねしました
ねこた‏ @lakudagoya 3月6日

イスラム圏は、偶像崇拝が禁止されてるからシンボルは文字(特に詩など)やデザインで表すのね。

耶蘇教世界はそうでないから、イコンみたいな形で表すのね。

そういう表現の違いはあるけど、で、タロットカードは耶蘇教世界の秘教伝統も加えて完成したのではないかな?と思う。
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夏之さんと他1人さんがいいねしました
ねこた‏ @lakudagoya 2月28日

ユダヤ学やイスラーム学には、そういった大人たちの陰謀を無効化する知恵が詰まってる。

だから、ユダヤが悪いと煽ってタルムードには触れさせないのね。

中国の古典に触れさせないために反中やってるのと同じ。

特に偶像崇拝を無効化する思考は強い。強いよ。
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黄皇大栄さんがいいねしました
ねこた‏ @lakudagoya 2月28日

若者のリーダーや新星って若者にはこの偶像を拝めと押し売りされてるかのようだ。

若者にはおしゃれで権力に反抗するも本質を外すような偶像さえ与えておけば良いという、大人が透けて見える。

若者に希望をもたらすかのような偶像が出てくる度に違和感を感じてたな。

カノポス壷と守護精霊 - Biglobe
http://www5b.biglobe.ne.jp/~moonover/bekkan/sisya/sisya-canope.htm
”古代エジプト人が考えた、人格を構成する五大要素というものについて理解する必要があるかと思う。
 言ってみれば、中国の思想で言うとこの「三魂七魄」みたいなモノで、古代エジプトでの”人間という生命の存在”は、「肉体と魂」という二元管理ではないのである。

 五大要素の内訳は、以下のとおり。

1.カー 2.バー 3.肉体 4.名前 5.影

 以上、五つが結合して初めて完全なる人格が形成されるのだという。
 と、いうことは、一つくらい欠けていても(たとえば名前を持たない子供がいたとしても)人間としてはやってけそうだが、それは完全なる形態ではないのである。



「カー」

人が生まれる時、ともに生まれ、死後もともにあり続ける存在。
生きているものすべて体の中にあって、生きていく力を与える、ミトコンドリアのごとき別生命体というイメージである。
カーが元気をなくすと生きる力も減少するので、カーを元気にする儀式などもあったという。(それが、カーの神格化された由縁だろうか。)
しかも、本人が死ぬと失われるわけではなく、親から子へ受け継がれることがある。

カーは「ひじを曲げて差し挙げた両手」の形で表される。
右図の像(木製)の頭の上に載っているカタチが、まさしく、ヒエログリフの「カー」。

カーは、それが宿る人と同じ姿をしており、宿る人が老齢や病によって変貌すれば、同じように年老いて、弱ってゆくと思われる。なぜなら、カーの生命力は、それが宿る人の生命力でもあるからである。

右図の像は、ホル王のカーを表した像。カーが元気であるように、と、死者の健康で若々しく、最も状態の良かった姿がカーとして表現されている。

日本語の「魂」に近いニュアンスも含んでいるが、本人とは深いつながりに在りつつ、実際は別個のものであるという点において異なる。

「バー」

鳥の姿をとり、その生き物が死ぬと抜け出すが、死後の世界で復活するときは、何故かついて来てくれる”自分の分身”である。
日本語の「魂」に最も近い概念といえよう。

さきの「カー」は本人とは別の生命体のような雰囲気だが、こちらは、その人の一部ということで、欲望も欲求も共有する。また、鳥の姿になっているときも、本体の人の顔をしていることが多い。
もちろん女性のバーは女性の顔、男性のバーは男性の顔である。

肉体と密接な繋がりがあり、バーは定期的に、自分がもと住んでいた肉体へと戻ってくるという。


「サフ」または「アク」

高貴な魂、という意味も持ち、バーとは違った形の、神々しい鳥の姿で表される。右図のような壁画の描かれ具合からして、ホオアカトキというトキの一種だと考えられている。
高い位にクラスチェンジした魂を意味し、一説によると、「カー」と「バー」が一体化した、死後の世界での死者の姿を意味するという。

生きてる間は持っておらず、死後、復活を許された者だけが持つもの、「祝福された死者」の証、それが「サフ(またはアク)」なのである。

「肉体」

五大要素に入っていないがカノポス壷の守護リストに入っている「イブ」は、心臓のことである。ヒエログリフで書くと、まんま心臓の形で表される。
古代エジプト人が肉体の中で最も重要視したのが心臓であり、心も魂も、体に生命力を与えるものはすべて、そこに入っていると考えられていた。


心臓は、死者の審判で胸から取り出され、真実の羽根と天秤にかけられる。もし心臓が罪に穢れていたら、その場で廃棄処分にされてしまう。アメミットの口の中にポイ。罪に穢れていなかったら、返してくれて、胸に入れなおして、永遠の世界へ旅立ちと相成る。
審判の場まで持っていかなくてはならないので、ミイラにするときは取り出さない。

「名前」と「影」

日本にある「言霊」という概念と似て、古代エジプト人は名前を重視していたようだ。影
名前を忘れ去られるということは、その人の存在自体がこの世から消えてしまうのと同じことと考えられており、政権争いの相手が、ライバルの記念碑から名前の部分を削り取るといったことも頻繁に行われていた。また、罪人から名前を奪い、かわりに悪しき名前をつけたという記録も残されている。

影というのは、「影人(古代エジプト語では”カイビト”と書かれている。)」とも呼ばれ、悪しきものから肉体を守護する自分自身の分身で、場合によっては自ら高速移動することも可能とされる。自然光が基本の古代、影は太陽の光によって作られるものだったことと関係があるとされている。


右の図は、自らの影の上を飛ぶバーの図。影も、バー同様に肉体から抜けだす自由な身であったようだ。”

光と祝福 真我の探求 - FC2
http://holyoverflows.blog.fc2.com/blog-entry-22.html
真我は、5つの鞘(コーシャ)に被われ、3つの体をまとう。

真我は、チッタ(心)の中心に座している。
真我を最初に包んでいる最も精妙な体は、原因体、コーザル・ボディ(カーラナ・シャリーラ、またはリンガ・シャリーラ)と呼ばれる。
心臓にある小さな空間に位置するといわれている。


5つのコーシャの内、アーマンダ・マヤ・コーシャ(至福鞘)と重なる。

原因体から生命の光を受け取り、知識エネルギーと活動エネルギーの情報をやりとりしている次なる体は、微細体、サトル・ボディ(スークシュマ・シャリーラ)といわれる。
ブッディ(理知)、マナス(マインド)、5つの微細感覚器官、5つの微細行動器官、5つの微細元素または感覚対象(タンマートラ)、
以上の17の実在原理から構成されている体だ。
脳のブラフマランドラといわれる空間に位置するといわれている。

ヴィジュニャーナ・マヤ・コーシャ(理知鞘)、マノマヤ・コーシャ(マナス鞘)が重なる。
マナスとは、感覚器官や行動器官を制御している司令塔という言い方もできよう。
意思力と、呼んでもよいだろう。

3つ目の体は、物質でできた体だ。
微細体から送られてくる力や刺激によって、肉体の動きは引き起こされている。
微細な物質でできたプラーナ・マヤ・コーシャ(プラーナ鞘)と、粗雑な物質でできたアンナ・マヤ・コーシャ(食物鞘・肉体)から成り立っている。”

佐保田鶴治のヨーガ禅 マントラとお祈りの効用⑤
http://buen-vivir.seesaa.net/article/432755565.html
”近代心理学でも一度経験された印象はすべて潜在意識に残され消えずに機会ある毎に記憶として心の表面に浮かんでくることが知られている。インドでも同じことが考えられていた(4p57)。

 ヨーガの心理学では、前世の記憶を含めて、すべての経験の残存印象が貯蔵されている記憶の貯蔵場所を「チッタ」と呼ぶ。チッタは神経細胞ではなく、今日で言うエーテル体やアストラル体のように、眼に見えない精妙な物質からできているとされる(4p58)。すなわち、過去に経験された心の印象は「チッタ」と呼ばれる心の土の中にいわば種子として保存されている(4p159)。この集積された膨大な経験のトータルな残存印象のことを「行(サンスカーラ)」あるいは「薫習(くんじゅう)」と言う(4p59, 4p160)。

 普段の日常での心の働き、想念も、このチッタから「発現」している。『ヨーガ・スートラ』では、この発現を「転変」と表現する(4p58)。

過去の印象、業が現在の外部環境を作っている

 けれども、過去の経験からの残存物は、過去からの記憶「チッタ」だけではない(4p59)。個人が過去において行なった善や悪の行為の残存印象である(4p61)「業(ごう)」や「煩悩」もある(4p59)。

 記憶の残存印象である「行」の中には外部環境を作らない記憶もあるが、外部環境を作り上げる種子もある。これを「業」と呼ぶ(4p60,4p159)。「業」はチッタに貯蔵されている「行」の一種だが、心理的な内容に「転変」せず、外界を「転変」する原因となってしまう(4p60)。ただし、「業」は自然世界の設計図のようなもので、そのまま世界を創り出すわけではない。この設計図にしたがって、宇宙を作る根源的な力である、天地のエネルギー源、自性(プラクリティ)が流れ込むことによって、世界が作られていく。要するに、過去に行なった無数の残存印象が種子として植え付けられることで、世界を作る神的な力によって畑が作られていくのである(4p61)。そして、記憶に外界の力を作る力があるのは、無意識の世界が環境を作っているからである(4p161)。外界、すなわち、自分の周囲の環境世界は、個々の瞬間毎に各個人の心によって「発現」されているものだと考えれば、心の操作によって、外界も変わっていくことになる(4p61,4p64)。

 よく、ヨーガを正しく習得した人から「このごろ不思議にツキが良くなった」ということを耳にする。これは、守護神の恩加護のためだと考えることも間違ってはいないが、このように考えれば、その理由も理解できるし、ヨーガの神秘性を強調する必要もなくなる(4p64)。

運命とは自分が過去に行った行為の結果である”

パタンジャリのヨーガスートラ
http://www.ultraman.gr.jp/ueno/2-yo-ganew_page_3.htm
”□ヨーガの八支則(アシュタンガ・ヨーガ)

 それでは、これら総合的なラージャヨーガの代表的な教典、パタンジャリの「ヨーガ・スートラ」に添ってヨーガの構造や行法を見ていきましょう。

この教典はパタンジャリという聖人によって紀元前から綿々と受け継がれたヨーガを、紀元後4~6世紀頃に記述され完成されたといわれている教典です。

八段階の積み重ねによって構成されているので、アシュタンガ(8つの部分=八支則の)ヨーガと云われています。

この総合的なヨーガの行法は、その目的に到達するために、日常の生活においての行動の規範である禁戒や勧戒を山の裾野にして、段階的に体を整え、呼吸を整えながら、順次に山の高みに上っていく道のようです。そして、この実践の過程において、先回お話した五つの鞘からなる総合的な私達の存在の各層に働きかけ、人間が本来備えている肉体と精神とそして霊性の資質や能力が高められ、バランスあるものとなり、心身の健康度が飛躍的に高まり,その人自身の生き方(自己実現)に多大な実りをもたらすものとなります。

第一段階 「禁戒(きんかい)」= ヤマ

 心の平安を得るためには、他者とのエネルギーの交流の中に私達の存在が成立しているという事実にめざめ、自ら発する他者への行為を良好にする事が大切です。これは「出したエネルギーの質が、何らかの形で、同じ質のものが当人に帰ってくる」と云うカルマの法則を基盤にしています。

禁戒の後に勧戒という順序は、命に良い事をなす前に、まず命を害するものをとり除くという事が先決で、医学でいえば薬を飲む前に、毒を吐き出させるという事になります。これを「金剛律(ダイヤモンドの戒律)」の後に「黄金律(黄金の戒律)」という順序となります。

ヨーガ・スートラでは、次の最も基本的な五つの生活法則を示しています。

① 非暴力(アヒンサ)…仏教では不殺生戒

    生きとし生けるものに無用な暴力、殺生をくわえない。

すると、害されなくなる。

② 正直(サティア)…仏教では不妄語戒 

言葉と行動を一致させ誠実なものとする。                              すると、信頼を得る。                                                

 ③ 不盗(アステーヤ)…仏教では不盗戒

     他人の物、時間、喜びなどを不当に盗らない。 

     すると、豊かになる。

④ ④梵行(ブラフマチャリヤ)…仏教では不邪淫戒

 性的エネルギーを適切にコントロールする。

      すると、強健になる。

⑤ ⑤非所有(アパリグラハ)…仏教では不貪戒(または不飲酒戒) 

所有欲を克服し、ものに執着しない。 

       すると、生の目的を悟る。



第二段階 「勧戒(かんかい)」= ニヤマ

 この地上において、本来の自己を実現するためには、日々の暮らしの中での良い生活習慣の積み重ねが最も大切です。

この勧戒は、自分自身の生活態度を改善し、心身ともに霊性を高める五つの生活法則「黄金律」が説かれています。

① 清浄(シャウチャ)…ヨーガにおいての清浄とは、外面と内面双方にお ける清潔さが求められています。肉体的な浄化法と心的な浄化法(慈悲喜捨)がそれにあたります。

② 知足(サントーシャ)…与えられた環境・現状をまず受け入れ、感謝し

     肯定の姿勢から物事に対処していく態度です。 

③ 精進(タパス)… 日常において自らに課した「行」や仕事の積み重ね

  によって心身を強いものにして目標の実現力を高めます。

④ 読誦(スヴァーディヤーヤ)…常に聖典を読んだり、真言を唱え、「生命

     の智慧」の理解と学習を怠らない事です。

⑤ 自在神祈念(イーシュヴァラ・プラニダーナ)…各自を守っているハイヤ

    ーセルフともいうべき守護神に、人生における気高い目的の達成を常

    に祈り願う事です。

第三段階 「体位法(たいいほう)」= アーサナ 

いよいよヨーガの特徴である、いわゆるポーズの段階になります。アーサナという名詞は、「座る」という動詞のアースから転化したもので、元来、「瞑想」を主な行法とするヨーガは、座ることが基本でした。およそアーサナ(座法=体位法)は大別して ①瞑想の為のもの ②リラックスの為のもの ③身体を造る為のものとに分けられます。 一説ではシヴァ神は、8400万のアーサナを説いたと云われていますが、その中でも84のアーサナが優れていると云い、他のヨーガ教典では32種類のアーサナを説いています。現在でも、立位、座位、寝位のヴァリエーション(変形)を入れると、多くの種類になりますが、いずれにしても、ゆっくりとした呼吸と共に、身体のその一定の型を通して、動く瞑想、体を使った祈りと云った状態をめざし、身体的な健康を実現します。この領域はアンナマヤ・コーシャ(食物鞘)の調整になります。

 アーサナを日常生活の中で規則的に、一定の時間行じていくと、身体的には、血行を促し、筋肉、骨格、内臓器官、神経、ホルモン体などに良い影響を与え、ひいては、心の状態を安定させ、各人の性格や、生き方にも多大な影響を与えることとなります。

 ヨーガスートラにおいてはこのアーサナを以下のように定義しています。

  「座法(アーサナ)は安定していて、快適なものでなくてはならない」(Ⅱ-4)

  「緊張をゆるめ、心を無辺なものへ合一させなくてはならない。」(Ⅱ-47)  

  「そのとき行者はもはや、寒熱、苦楽、毀誉、褒貶等の対立状況に害されない。

                                 (Ⅱ-48)

※実際のアーサナの代表的な形と種類は後の「身心八統道」の項で説明いたしま      す。



第四段階 「調気法(ちょうきほう)」= プラーナーヤーマ

 調気法とは、宇宙のエネルギー=プラーナ(生命力)を呼吸法によって、コントロール(アーヤーマ)する行法です。様々に工夫された呼吸法によって、酸素を体内に取り入れ、血液を燃焼させ、生命エネルギーに転換する作用に加え、交感神経と副交感神経のバランスをとったり、感情とリンクして心の状態をコントロールのよすがともなるのです。そのことにより心肺機能を高め、病気を追放して、静かで落ち着いた心をはぐくみ、霊妙なる「宇宙の気」と交流します。この領域はプラーナヤマ・コーシャ(生気鞘)の調整になります。

 ヨーガスートラにおいては「プラーナヤーマを行ずる事によって、心の輝きを覆い隠している煩悩が消える」「その外、心が色々な凝念に堪えられるようになる」(Ⅱ-52・53)と述べられています。

※ 実際の種類と技法は「身心八統道」の項に譲ります。



第五段階 「制感(せいかん)」= プラティヤハーラ

プラティヤハーラとは「向けて集める」という意味です。ここから、今までの身体生理的な部門から、心理的な部門へと入る掛け橋となるのがこのプラティヤハーラの段階です。

座法や呼吸法の後、意志的な「動作を納めて」、瞑想の姿勢に入ります。その時、生じてくる静けさの中にて、外の世界に向かう心や、感覚を対象から離し、意思の働きを内部に向けて、冷静に自己をみつめる心理作業の準備となります。外界の対象をはからずも、つかみ、つかまれている自分の思考と五感はおのずから、その対象から離れ、内面へと集中していく行法は、絶えず心を悩ませ、不安を与える問題から一旦心を引き離し、「なにものにも囚われない自在な心」にリセットするきっかけを作ります。この領域は、マノーマヤ・コーシャ(意思鞘)の調整に入ってきます。

ヨーガスートラにおいては「諸感覚器官がそれぞれの対象に結びつかず、あたかも心素(チッタ)自体に似たものの如くになるのが、制感(プラティヤハーラ)である」(Ⅱ-54)と述べられている。

第六段階 「凝念(ぎょうねん)」= ダーラナー

凝念は、心をある一点にとどめて動かさないことです。この凝念と次の静慮、三昧の段階は実際には、はっきり分割できない一連の心理的流れとなり、一括して<統制(サンヤマ)>とよばれます。ここでは、主にロウソクの炎とか、特定の図形や、自分のみけんの一点に心を集中するとか、ひとつのテーマにイメージを集中する方法などを用います。この領域は、ヴィジナーナマヤ・コーシャ(理智鞘)の調整に入ってきます。

ヨーガスートラにおいては「凝念(ダラーナ)とは、心素(チッタ)を特定の対象物(場所)に縛り付けておくことである。」(Ⅲ-1)と述べられている。

第七段階 「静慮(じょうりょ)」= ディヤーナ

凝念で一点に集中していた心が、その対象と同化し始め、それを中心にして、日常の意識を超えてある種の「洞察」や「ひらめき」が起こり、広く深く、自由に展開されていく状態のことです。その直感的映像や思考は、やがて自我の認識領域を越えて、新たなる「生命の智」をもたらす領域へと導いていきます。この「ディヤーナ」を中国で音訳し「禅那」となり、日本に渡って「禅」となっています。この領域は、ヴィジナーナマヤ・コーシャ(理智鞘)の中心的調整作業に入ってきます。

ヨーガスートラにおいては「その対象に対する想念が、ひとつの不断の流れになっているのがディヤーナ(静慮)である。」(Ⅲ-2)と述べられている。

第八段階 「三昧(さんまい)」= サマーディ

自我の認識領域を越え、「生命の智」をもたらす領域の中に入ります。「梵我一如」の心境で対象も主体も、ともに合一した状態をいいます。仏教では、これを<空>といいあらわしていますが、この境地は「なにもない」という意味ではなく、直感的洞察や啓示の場であり、宇宙的意識の働く空間でもあります。そこでは、きわめて鮮明で充実した内容をもって、その味わいは、まさに新たな生命感と、宇宙的啓示と、感涙の時となります。ここは、アーナンダマヤ・コーシャ(歓喜鞘)の開示される領域になってきます。

ヨーガ・スートラにおいては、この体験を「真我がその周囲を取り巻いている自然的存在と自分とを混同していた過失に気づいて、その束縛から脱出することである」と説明しています。

これがヨーガ・スートラの八支則についての構造と行法の概要になります。

□ヨーガの流れ

 古代から伝承され、発達してきたヨーガの思想と行法は、紀元前後にヴェーダンタ哲学を基盤にし、「人生の苦しみからの解脱」を説く「空」なるものの悟りの教えである仏教を生み、その影響をうけながら、やがて、観照者たる純粋精神(プルシャ)と現象する根本原質(プラクリティ)の二元論を説くサ-ンキャ哲学を理論的支柱として、今、検討しました「ラージャ・ヨーガ」の体系であるヨーガスートラが6世紀の頃に成立しました。

ほぼ同時代に併行して、インド思想の原点といわれる叙事詩マハーバラータの成立(BC2世紀~AD4世紀)によって、神への愛と奉仕の道「バクティ・ヨーガ」、行為による悟りの道「カルマ・ヨーガ」、智恵と悟りの道「ジュニャーナ・ヨーガ」が説かれ、8世紀にはヴェーダンタの学匠シャンカラ(700~750頃)によって仏教やヒンズー教を統一する教え=この世はブラフマンという絶対の現われであるという「不二一元論」が生まれ、その後の、インド宗教哲学の中心思想となります。

やがて10世紀を過ぎますと、これまで顕教的、心理的な「私∞宇宙」に対するアプローチから、密教的、感性的「私=宇宙」の捉え方に移行してきました。これをタントリズムといいます。これは現世を苦の世界として否定し解脱を得るという思想から、この世界こそブラフマンの現われであり、陰・陽の原理によって成立しているという現世肯定的な思想の当然の帰結となります。そのことは、人体こそ宇宙(梵)の構造そのものであり、神はその中に宿る生命意識(真我)そのものであるという認識により、その体験を感得する様々な身体技法が考えられ、発達してきました。

13世紀頃になりますと、ヨーガにおいてはその密教的タントリズムの特徴をもった「ハタヨーガ」の教典が聖者ゴーラクシャ・ナータによって書かれ、その後15~16世紀頃には「ハタヨーガ・プラディーピカ」や「ゲーランダ・サンヒター」や「シヴァ・サンヒター」などが成立してきます。

ここでは、様々なヨーガの身体技法や呼吸法や瞑想によって、独自な人体宇宙観が形成され梵我一如の思想が顕現されていきます。その一端を図示し解説を加えていきましょう。

 □ヨーガの人体宇宙観

ヨーガにおいては生命の源は宇宙の気=プラーナであると考えられています。

この宇宙の気=プラーナが人体を満たし、宇宙の雛型である私達を生かし、宇宙もまた私達の雛型であると考えらているのです。

そのプラーナが人体を通る道 はナーディーと呼ばれそのルー トの数は7万2千本とも35万 本ともいわれています。これら は現代医学では血液の循環経路 や神経管の経路とも捉えること ができますが、比較的東洋医学 の鍼灸に用いられる「経絡」に近いものと考えられ、ヨーガで は微細体(プラーナヤマ・コー シャ)の次元の経路と考えられます。そしてそれらのナーディ ーなかでも大切なルートは14 本あり、その中でも特に重要な 幹線が次の3本となります。

・スシュムナー管 

このスシュムナー管が頭頂から脊髄の基底部へと通り、人体の中軸となり、天と地を貫くプラーナの通り道となります。宇宙の生命エネルギーであるプラーナは人体の中ではクンダリーニ・シャクティと呼ばれ、このスシュムナーの基底部で三巻き半のとぐろを巻いている蛇と隠喩されています。またこのスシュムナー管を通る生命エネルギー(クンダリーニ・シャクティ)は、そのの中に7つあるといわれる蓮華の花に喩えられるチャクラ(輪=センター)を経過し、次第にそれらを開花(活発化)させて行きます。

これらチャクラは、ヨーガに基づいた生活をしていると、徐々に活性化されて行くものですが、クンダリーニ・ヨーガとは、ムードラやバンダ等を用いた特殊な体位法や呼吸法、瞑想法等の修行によって、より効果的にその眠っている生命力の源、クンダリ-ニ・シャクティ(女神)を目覚めさせ、それぞれのチャクラを活性化させ、眉間の部位(アジナ・チャクラ)で待っているといわれるシヴァ神(男神)と合体し、体内の歓喜のエネルギー(プラーナ)を宇宙全体に解放し、梵我一如(ブラフマン・アートマン・アイキャ)の体験を実現しようと発達したヨーガの体系です。このクンダリーニ・ヨーガといわれる中には、タントラ・ヨーガやハタ・ヨーガ等が入ります。このスシュムナー管を中軸にして、イダーとピンガラーという二つの拮抗したエネルギーの流れる代表的なナーディ管がチャクラをはさんで左右交叉しながら通っていると考えられている。これらはあたかも現代の医学においての交感神経と副交換神経の働きを指しているようであり、また、そのチャクラ(輪)という微細体のセンターも、医学的には、各種のホルモン体の位置に対応しているとも考えられている。

・ イダー(月の気道)

イダーは月に象徴され、このイダーを通るプラーナの流れは「陰の性質」を受け持ち、冷やす・静的・女性・精神性等が優位になります。上部では左の鼻腔に通じています。ですから片鼻のアヌローマ・ヴィロマなどで、こちらを優位に呼吸をすると、副交感神経を刺激し、また、交叉して右脳(感性)を活発化いたします。

・ピンガラー(太陽の気道)

ピンガラーは太陽に象徴され、このイダーを通るプラーナの流れは「陽の性質」を受け持ち、暖める・活動的・男性・行動性等が優位になります。上部では右の鼻腔に通じています。ですから片鼻のアヌローマ・ヴィロマなどで、こちらを優位に呼吸をすると、交感神経を刺激し、また、交叉して左脳(理性)を活発化いたします。

[チャクラについて]

 これらはプラーナマヤ・コーシャ(微細体=イメージ体)上のものであるので、修行者やその状態によって、異なる場合がありますが、脊椎の基底部から上にスシュムナーに添って、順に説明していきましょう。

ムーラダーラ・チャクラ

 ムーラは「根」「土台」、アーダーラは「支え」「支柱」の意味です。人体においては最下部にあり生命力の源・クンダリーニ・シャクティの内蔵されている場所です。会陰部、または肛門と関わりがあります。瞑想によって、4枚の花弁があり、燃えるような金色をしていると捉えられている。

スヴァディシュターナ・チャクラ

スヴァは、「自身の」「私の」、アディシュターナは「状態」「立場」の意味です。人体において性器の辺りにあり、宇宙の気の出入りを司ります。瞑想によって、6枚の花弁があり、血のような赤色をしていると捉えられている。

マニプラ・チャクラ

マニは「宝石」、プーラは「町」の意味です。人体において臍の辺りにあり、内蔵の働きを調節する太陽神経叢にあたると云われている。瞑想によって、10枚の花弁があり、火をあらわすオレンジ色をしていると捉えられている。

アナーハタ・チャクラ

アナーハタとは「打たれざる」「触れざる」という意味です。人体において胸あるいは心臓の辺りにあり、打たれざる音・「ナーダ音」がします。血液の循環とともに感情のセンターでもあり真我のとどまっている所です。胸腺とも関わりがあります。瞑想によって、12枚の花弁があり、蕾のような内部は緑がかった輝く光で、外側はピンクのバラ色をしていると捉えられている。

ヴィシュダ・チャクラ 

ヴィシュダは、「清浄にされた」の意味です。人体において喉の辺りにあり、

言葉を司り、興奮ホルモンを分泌する甲状腺とも関わりがあります。瞑想によって、26枚の花弁があり、海のような色をしていると捉えられている。

アージニャ・チャクラ

 アージニャは「命令」「指揮」の意味。人体においては眉間の辺りにあり、第三(霊視)の目であり、命の統合・命令・調整を司ります。脳下垂体や視床下部とも関わりがあります。瞑想によって、2枚の花弁があり、白光色をしていると捉えられている。

サハスララ・チャクラ

サハスラは「千」の意味。千の花弁を持つ蓮華のチャクラと云われています。人体においては脳の中、そして頭頂から天に開いています。アージニャ・チャクラでシヴァ神(智恵)とシャクティ女神(生命力=クンダリーニ)が合体しブラフマ・ランドラ(結節)を突き抜けて頭頂へ至り梵我一如の境地を得て、サハスラを経て宇宙へ至ります。千枚の花弁があり、光の虹色をしていると捉えられている。 ”


”・ドルイドにも輪廻転生思想がありピタゴラス教団との類似性が指摘されるが細部が異なる。ドルイドは、人間の霊魂は滅びることなく、一定期間を経たのち、魂は別の肉体へと移り第二の生をおくるとする。
つまり、ピタゴラス派のような、罪にけがれた人間の魂は輪廻転生を繰返し地上をさまようとは考えていなかったのであり、ドルイドには原罪意識はない。

ドルイドは楽天的な永生への確信や彼岸への憧れがあったと思われる。ケルト神話の一特色である不老不死の楽土ティル・ナ・ノグ(常若の国。とこわかのくに)。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-31.html
”オルフェウス教徒は菜食を貫いた。ギリシア神話では、人間が神々に最初の供犠をおこなった際、プロメテウスの入れ知恵で屠った雄牛を二つに分け、骨を脂身で包み、肉と内臓は胃袋に隠した。脂身に誘われたゼウスは骨を選んでしまう。いら、供犠では神々に骨を捧げ、肉は人間が食べるようになった。肉食の起源神話。
菜食、肉食の拒否は、輪廻と魂の不滅が信じられていたからである。オルフェウス教徒たちは、人類が犯した原初の犯罪に対する罰として、魂は肉体に閉じ込められ、死が真実の生活の始まりとなる、と考えた。すなわち、魂は生前の過ちと徳が審判を受けた後、新たに転生するとみなされたのである。魂の不死性は輪廻思想を生み、人間の魂を持っているかもしれない動物を食する習慣をやめたのである。また、肉食の禁止はプロメテウスの教唆で神々を欺いた原罪に対する改悛の表れでもある。”
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永井均 存在と時間 書評 誤植リストを彼のツイートに暴投で置いているよね確か
『存在と時間』哲学探究1 永井均

永井均‏ @hitoshinagai1 2016年4月5日

拙著『存在と時間』の重要な誤記:176頁の後から5行目「一七三頁」→「一七四頁」。247頁「動く現在とこの現在」の2行後「一九三頁」→「一八七頁」。259頁8行目「現在の現在」→「現実の現在」(最重要!)。
さほど重要ではない誤記:24頁4行目「あるもかかわらず」→「あるにもかかわらず」。140頁3行目「繋がり原理」→「繋がりの原理」。
宮武徹雄‏ @miyataketetsuo 2016年4月6日

@hitoshinagai1 257頁11行目「線上ない」→「線上にはない」でしょうか。
1件の返信 1件のリツイート 1 いいね
永井均‏ @hitoshinagai1 2016年4月6日

@miyataketetsuo そのようなので、さほど重要ではない誤植に加えます。



読書多謝

追加中 エリスの胸はパッド入り アニメ分析集めるところ 一時置き場 『20世紀少年』、RWBY、カバネリ、グレンラガン、ウィッチアカデミア、キルラキル 

追加中 エリスの胸はパッド入り

さくやの胸はパッド入り
東方って二次創作設定が原作設定より有名になったリマンマ耶蘇教だよねー
サナエサンが緑で神道で現人神って意図的だよねー。








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個人的アニメランキング
1.蟲師
1.チャージマン研!
1.落語心中

『霊操』と『ニューエイジについてのキリスト教的考察』。後者が前者叩きに感じるのはイエズス会が異端寄りだから! のブログった―をここに移動したし、仏教記事も増補したし一つ前の記事も増補したしいろいろ増補した。
いやギアスとマどマギもガンダムもマクロスも進撃も面白いよ
つーかポケモン考察やってないしツーカポケモン考察なんてやりだしたらきりがないぞ。
 一番オススメの蟲師は民俗学の本のメモとセットでやる。アニメ分析集めるところ 一時置き場 無視しs、カバネリ、グレンラガン、ウィッチアカデミア、キルラキル
あにこ便おすすめ。本編を見なくても最初から最後まで画像と科白付きでまとめてくれているので素晴らしい。
そこまで見る気がしないものは此れで見ている。
これでみて本編も見たくなったらミル。
時間節約。
ニコ道で配信されていたら動画も見る確率が高まる。
ニコ道配信もされていない落語心中は特別に全話映像もアニコビンママと目も見た。
分析はしないけど分析する暇があったら枝雀と米朝と称賛と新逃散と男子らの落語を聞いていたいよ。あだ名とかだと返還がおかしくなるね。
本記事にする作品は全話動画で見ているからご安心を。
というか作りかけで大昔からあったけど放っておいた奴多数。
蟲しが一番オススメ。ルソー教じゃなくて老荘思想とアニミズムだからね。文明悪徳単純な構図じゃないし自然と寄り添って上手くやっていく感じ。主人公が右目隻眼洋服白髪でサンカ人脈だけどな!



耶蘇教一つ前の記事には毛ウrと十字とか言えずスカイマーク釘三本か書いといた。

ブッダ「女性と目も合わせないニートになれ!」『だから仏教は面白い!』『仏教思想のゼロポイント』『阿頼耶識の発見』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-154.html
に足しといた。
流布している無量寿経の経典は耶蘇教に都合よく改竄箇所あり。
(例外的に愛を善い意味で使っている実例をとりあげているのであって、
基本的に愛が仏教では執着だから悪なのは変わらない。
軟を愛に変えるのは完全に経典の改竄、改悪。
無量寿経というなかの和顔軟語というのを、愛にむりやりすり替え
和顔愛語と改竄した経典を広めたグループの一員が高楠順次郎。
高楠順次郎はエスペランティストで、
1906年に黒板勝美らと共に日本エスペラント協会の結成に参加し、東京支部長。
1919年に日本エスペラント学会が設立された際は、当初は評議員として参加。
要は世界連邦派の仏教を耶蘇化させるための憑依戦術系の工作員。
神戸の裕福な高楠家の婿養子となり、その援助で英国に留学、オックスフォード大学でM.ミュラーに師事し、その後、ドイツやフランスにも留学しているあいだにスカウトされたのだろう。

親鸞の浄土真宗に耶蘇教が混ざっている説を想起。

仏典もできる限り昔に出たものを読まないとダメだね)



追加中工事中につき足許及び頭上及び前後左右内侵害真にお気をつけくださいませ長いブログったー
イスラム圏ではメーソン派派生組織のロータリークラブ含めめちゃくちゃ警戒されているって話だとか一つ前の記事にある。

フェイド大帝が全文読む価値あるとおすすめしているサイトを紹介。
オカルト百科
50音索引
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/siryou/sakuinn.htm
と学会メンバーがこのサイトの運営者に噛みついたが、あなたの文のここが間違いあとここもなどコテンパンにされていて苦笑。
このサイトの記事一覧から見つからない半ば隠れ記事があるんだけどね。リンク忘れなだけかもしれないけど。
この記事ね。
と学会、またしても - Biglobe
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/essey/togattkai.htm

と学会、またしても・・・!! その2 - Biglobe
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/essey/newpage1.htm

ぶろっぐたー
イスラム圏ではメーソン派派生組織のロータリークラブ含めめちゃくちゃ警戒されているって話だよ。
本ブログの記事の希少性はよく読んでくださっている人はお判りでしょうが、
恐らくイスラム圏での\メイソンの扱いの情報って他に日本語情報がないよね。
情報源が工作員ブログだから似たようなもののコピペになるのさ。
感との批判書とスウェーデンぼうr具批判とか
アヴェスター
グノーシスの神話
とかカント記事探していたら見つかりまくったぞ。
まあ本ブログ開始前からメモは習慣だったからねえ。


イエズス会を叩く人の主張に対して注目すべきところ。
カトリックの教義の根幹を叩いているか。
イエズス会がカトリックのうち異端派寄りだと叩いているか。
要は、キリスト教の教義をきちんと叩いているか。
キリスト教思想と神学自体を真っ向から批判せずに、
悪魔、悪魔崇拝、ユダヤ、イルミナティ、メーソンなどと言っているなら、
カトリックとカトリックが迫害したキリスト教の異端派という言葉を隠す為。
またはデマの情報源のコピペ。
カトリック内にもイエズス会を叩く派閥があることに注意。
エキュメニカル賛成派と反対派、同性愛や中絶や女性聖職者への態度などね。
私はカトリックの根幹どころか、西洋思想の根幹である実体(=永久不変の何か)思想と実在論(本当は~真実の~見えない実体が世界の根源うんぬん)を否定している。
私は反実在論。
仏教が反実在論で、私は仏教「寄り」なので当然。

お読みくださり感謝と書かなかった場合は読者が減るのだろうか?



私が本であたりを引く確率は高い。運ではなく事前調査が大事。私がリストに入れている人が勧めいてるのは大抵当たりなだけだけど。
しかし英語読めないと損だねイスラムとメイソンの関係の情報が日本語だと全然ないしローマ法王が出したメイソン禁止令の和訳が見つからないし。
メイソン構造がマニ教って言っているんだぞカトリックは。本当にグノーシスを警戒しいているよね。
分析が正確。メイソンがかつて迫害しまくった派が入りまくっているもんね自業自得というんだよね。

アヴェスター読書メモグノーシスの神話 は前の記事お忘れお見逃しなく

妖怪ちょっと学んでいたら、天狗の階級が完全に仏教じゃねーか。
~大僧正って天狗がいる。

異端派のほうが教義が理性的で整合性があるってことはインテリにグノーシス主義者が多かったことと関係ありそうだし、母語ミール派がイスラムに大量改宗したに模様はイスラムが異端審問やらないからだ老死協議がイスラムと親和性あるからだろうね。
というか反抗されたくないならさ、イスラムみたいに自治権認めて異端審問もしないようにして満足させてある程度豊かな生活させるのが一番抵抗されないようね。
とまとさんも言ってただろ生活に満足しているほうが陰謀論やらなくなるって。
耶蘇はわざわざ敵作って反抗させるようにしているから失敗するんだよね。だからイスラムに負けるんだよ。
母語ミールはってシーア派とまざりまくってそうなんだけど。

フェニキア関連では儒教ではフェニキアカラーの紫色が悪なんだよね。
道教では、紫を至高の色…が、儒教では朱が最上で紫は卑しい… 紫色を宗教的に神秘化し、占星術的な天文学と結びつけ…神仙思想によって神聖化したのは戦国末期以来の黄老道家の学者…前漢の時代に最高級官僚が印綬の色にいずれも紫” フェニキア色=善が道教、悪が儒教!
孔子がフェニキアを警戒していた説はあるのかなあ。
孔子が嫌っていた集団のシンボルカラーが紫だった疑惑。

以下の文章殆ど引用は外国語学習でも重要。
相手がしゃべってるときにメモを取ろうとするからアカンのや
相手が社名と名前を喋る⇒復唱して○○社の○○様ですね?と言ってるときに電話を持ってない方の手でさらっとメモに残す
で、そのメモをもって上司のところに行くか、その場で報告して回線を回す
「お世話になっております」
「少々お待ちください」
これ言っとけばなんとかなる
「お世話になっております」にも復唱確認の要素を入れるなら 「あ、C様、お世話になっております」だな 勿論、面識が無いと「え?」みたいな微妙な空気が流れるかも知んないけど で「D部長いらっさいますか」で 「はい、D部長ですね」で復唱確認
何か用事しようと思っても忘れちゃうから 口に出すように習慣づけてるとか何とか 耳によるインプット プラス 自身の口によるアウトプット もちろん自分の口に出したものを耳に フィードバックするのもカウントするから 単純計算で情報量が3倍になる
教科書もただダラダラ読んでるだけじゃ 身につかねえって言うじゃん 例えば音読するとかさ 自分なりにまとめノート作るとかさ 何かしらプラスアルファしなきゃ 「右から左」ってなっちゃうんだよ だから復唱なり何なりしろって話なんだけど

ダビデの星がユダヤだけのシンボルになったのは十七世紀からでキリスト教が決めた(ユダヤではない)ので日ユ同祖論(キリスト教製品)に使えない。
マニ教の概要(山本由美子『マニ教とゾロアスター教』 など)、ダイアン・フォーチュン『神秘のカバラー』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-35.html

マニ教戦術を騙ったり、
ゾロアスター教潰したいなら
断食は悪で犬は善でネコは悪
に対して犬は悪ネコは善で断食義務アリ
ってやっぱイスラムはゾロアスター教狙い撃つうちじゃねーか 
イスラムは反カトリック勢力用に反カトリック異端は悔いるsちゃんが創ったっぽいんだけど 重要なのが身近な生活に関する個所を真逆にしたことねこれにより生活していウrだけで対立しちゃ馬路凶悪

弾論3アニメについて 農家アフロ黒人がいきなり死んだって露骨だな
左目から流血  だって右目側で所 TPPで農業志望ってか 311も
次に死んだのが牛頭さん
でも死んだふりがあるし別人入れ替わりもあり得るからなマスクだもん
牛頭はバアルだろ
死んでも蘇るんだっけバあるって

∸――

これも前の記事に足しといた
福音書ではイエスが釘づけにされたという個所はないのだ。にもかかわらず、彼らはあくまでも釘を打たれたことに固執している。
↓剣のザインは7。釘のヴァヴが6。
キリストの受難を象徴する3本の釘は数秘術だと666なのはあっている。



ヘブライ語/ヘブライ文字 [ 魔術入門 ]
http://magic.dancing-doll.com/magic/hebrew-alphabet.html
をどうぞ。


古典たん(古文漢文)‏ @kotentann 16 時間16 時間前
【漢文発展】武経七書:中国の古典兵法書の中でも偉大な7つをこう呼ぶよ。孫子、呉子、六韜(りくとう)、三略、尉繚子(うつりょうし)、司馬法、李衛公問対(りえいこうもんつい/たい)だね。韓非子に「家ごとに孫呉の書を蔵す」とあったり、六韜と三略を併せて韜略と呼んだり♪

よーすけ‏ @yoshimichi0409 3 時間3 時間前
ユダヤ教徒の解放により近代においては、人種や民族・宗教問わず金融資本の所有者には成れた。マルクスの「ユダヤ人問題について」等でユダヤ的とは何もユダヤ教徒の有り様を指してる訳ではない。金融屋的メンタリティーを指すものとして使われている。正統派ユダヤは寧ろ金融屋には批判的! https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/800279934677630976 …
子子子子子@4記事更新‏ @kitsuchitsuchi 2016年11月20日
ユダヤの定義ができないユダヤ陰謀論者は
自分で何を言っているか分からないorわざと布教
キリスト教徒もユダヤ教徒も【ユダヤ】=金融特権の所有者になれたのは歴史的事実
×偽ユダヤ ×ユダ金
○【ユダヤ】業の白人
https://twitter.com/rolelei/status/573031855684902912 …
@kikuchi_8

子子子子子@4記事更新さんが追加
ローレライ @rolelei
ユダヤ人の定義①ユダヤ人が母←Xの定義にXは使えない②ユダヤ教徒←宗教で民族は定義不可考古学的証拠もなく、ヘロドトスも言及していないので聖書のユダヤ人は実在せず遺伝子も子孫も実在しません。ユダヤ教徒は実在。http://yomenainickname.blog.fc2.com/?mode=m&no=67&cr=2917189433b4f915c4a1c210e2af4bbb …読めないニックネ…

劫火の教典おすすめ 読みわすれが怖いね
ローマのミトラス教は牛を殺していますが、牛(の尿)はゾロアスター教では神聖。
成甲書房ですが、太田竜の編集を務めていた守屋汎は国際縄文学会なる団体のコラムを執筆してますが、この団体の役員にロス茶のお嬢。
昔、阿修羅のあっしっら氏が太田竜はあちら側の人間だと言ってた。



追加中 アニメ分析集めるところ 一時置き場 

∸――

『20世紀少年』



YATAGAI Kazuo‏ @foxhanger 4月23日
地下鉄サリン事件の数日前、霞ヶ関駅に噴霧器つきのアタッシェケースが置かれた事件、知ってる? サリン事件の予行演習だったみたいだけど、当時はメディアも「なにが目的なんでしょうかねえ?」みたいな感じで報じていた記憶がある。
(20世紀少年で防毒マスクのセールスマンが置いていった場面の元ネタ!
やはり元ネタの一つはオウム=真言!
サリン事件の日取りが意図的すぎる。




Shoko Egawa‏認証済みアカウント @amneris84 2015年2月20日
【オウム裁判】トキシンとは、その前にアタッシュケースに噴霧器を仕込んで撒いたボツリヌス毒素のこと。高橋も関わったが、遠藤誠一が作った毒素がうまくできていなかったらしく、事件は失敗。だが今度は、サリンなので実際に被害が出る可能性が高いと、注意しておいたもの、と。


イニシャルG‏ @initialG_A1 21 時間21 時間前
95年3月15日が噴霧器アタッシュケース、3月20日がサリン事件か)


子子子子子の胸は肩パッド入り記事更新‏ @kitsuchitsuchi 2014年4月16日
@lanekota @azkdeathcore バチカン擁護でメーソンを叩く『20世紀少年』では“ともだち”=有色メーソン=悪魔。メーソンの高須克弥がモデルで元教師(イルミナティ=啓明会→日教組)の高須はメーソンの子を宿し医者(メスマー)に「見事な肉体」と称賛される。巣鴨に収監。

子子子子子の胸は肩パッド入り記事更新‏ @kitsuchitsuchi 2014年7月3日
@lanekota @WorldWildWow @wayofthewind こんばんは。イスマーイール派はファーティマ朝の国教。定規とコンパスなしの一つ目だけだとファーティマの手かも。20世紀少年の“ともだち”の象徴はファーティマの手。エジプト「だけ強調」はユダヤと同様陽動作戦。
















∸――





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キルラキル



創っているところがルソー教のキルラキル。
服が敵=文明は悪=アスラ側。


ーーー

カバネリ、




グレンラガン、



(海外アニメRWBY(ルビー)

実はとまとさんには柳沼(メイソン叩いているくせに自分の思想がもろにメーソンスピであることを猫田さんに指摘されまくった哀れな人)が紹介する前から、薦めていたアニメ。
「RWBY」シリーズの原案、Volume 2までの監督、リードアニメーターがモンティ・オウム。
彼は2015年、簡易な治療行為を受けていた際に重度のアレルギー反応を起こし、昏睡状態に陥った10日後の2月1日に亡くなったらしい。享年33歳。
よりによって33。Volume 3から内容がガラリと変わっているか確かめないと。
主人公が赤ずきんで薔薇で月で鎌。
敵側の赤髪のローマンが左目出し右目隠し男。
ボスのシリンダーが右目出し左目隠しの女。
これぐらいだと結社臭くないから結社作品じゃないかもね)








お読みくださり感謝。

『霊操』と『ニューエイジについてのキリスト教的考察』。後者が前者叩きに感じるのはイエズス会が異端寄りだから! 

イエズス会を叩く人の主張に対して注目すべきところ。
カトリックの教義の根幹を叩いているか。
イエズス会がカトリックのうち異端派寄りだと叩いているか。
要は、キリスト教の教義をきちんと叩いているか。
キリスト教思想と神学自体を真っ向から批判せずに、
悪魔、悪魔崇拝、ユダヤ、イルミナティ、メーソンなどと言っているなら、
カトリックとカトリックが迫害したキリスト教の異端派という言葉を隠す為
またはデマの情報源のコピペ。
カトリック内にもイエズス会を叩く派閥があることに注意。
エキュメニカル賛成派と反対派、同性愛や中絶や女性聖職者への態度などね。
私はカトリックの根幹どころか、
西洋思想の根幹である実体(=永久不変の何か)思想と
実在論(本当は~真実の~見えない実体が世界の根源うんぬん)を否定している。
私は反実在論。
仏教が反実在論で、私は仏教「寄り」なので当然。


↓剣のザインは7。釘のヴァヴが6。
  キリストの受難の象徴=3本の釘は数秘術だと666なのは慧眼




ヘブライ語/ヘブライ文字 [ 魔術入門 ]
http://magic.dancing-doll.com/magic/hebrew-alphabet.html
をどうぞ。

なえなつ‏ @japan19890108 4月2日
バスク人怪しすぎ
イグナチオとザビエルの出身部族
さらにケルト文化がありスペインとフランスをまたいだ
国に帰属していない
さらに紀元前からフェニキア人と交流があり
海賊や傭兵として活躍している
ローマが進出してくると協力関係になり
戦士としてローマ軍に参加したそうな



素晴らしい要約をどうぞ。
フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 9月19日
バチカンの護教書だけど これが良く書けてて勉強に なった。
マニアックなキリスト教書専門店 にしか売ってないのが残念だけど、 一応Amazonとかでも取り扱って るみたい。 pic.twitter.com/14CUqnVXyg
(『ニューエイジについてのキリスト教的考察』教皇庁文化評議会)

この本に拠ると、ニューエイジ カルトの本拠地はカリフォルニアの エサレン、
スコットランドの フィンドホーンとスイスの モンテ ヴェリタスという所らしい。

で、ニューエイジの語源は 一般的にはアリス ベイリーだと 言われてるけど、バチカンは 元々メイソン用語だと述べている。
で、これを一気に広めたのが 部落派月子ちゃんと言うのが バチカンの認識らしい。

ともかくバチカンがやたらと
敵視してるのが部落派月子と
有栖部恵理、捨体無の神智学系列 の人脈の様だ。
また、イエズス会の中にも 神智学人脈の工作員が 潜入していると書いてあるw

この本はニューエイジ教と カトリックの教義の比較も してるんだけど、キリスト教って 妙に中国の儒教に似ている様な 気が……
「イエス」とか「神」の部分を
「君」とか「王」に換えれば まんま儒教なんだが……

案外、孔子がイエスのモデル なのかも。
ローマの猿共に優しく儒教を 解説するために多少、
アーリア宗教要素で脚色した 感じか。

最初は東洋思想の中では 仏教の浄土教系がキリスト教に
一番近いと思ってたんだけど、 これ多分、儒教の方が近い。

となると、 やはり徳川イエス君が MAGE政府に憎悪されたのも これが要因かw
フェイド大帝的には神道は キリスト教よりもニューエイジ教 (つまりグノーシス主義)の 方に近いと考えている。

あ、後、バチカンが言うには 日本の宗教の中ではジョブズの 好きな禅宗にニューエイジ工作員 が沢山潜入してるから気を付けろ ってさ。
カトリックの強いおフレンチで 政府認定カルトの中に禅仏教 が入ってたのは多分これが 理由だな。

RAPT君の執着するトヨタの 経営手法も基本的に曹洞宗の 永平寺の運営システムの パクリだしなw

初めてキリスト教書専門店に 行ったついでにさっきの本買った んだけど、(本当は「聖ベネディクト の戒律」と「キリスト教神秘主義 著作全集」を探してたんだけど 無かった) 韓国人の書いた本が異様に 多かったけど、どうも福音主義系 の本屋だったみたい……

面白かったのが泉パウロが 普通にキリスト教の本も 書いてた事と、ケリー篠沢先生の 作品が聖書マンガ以外にも 沢山あるという事が発見出来た のが収穫だったw

取り敢えずせっかくだから 福音主義派の異端折伏マニュアル みたいなやつを何冊か買って来た。

立ち読みした時は余りにも 下らなくて、ゲットして いなかったスウェーデンボリ の著書も買ってきたから、 一度真剣に読んでみますわ……

さっきのバチカンの本には 霊媒系の元ネタはスウェーデンボリ
で、部落派月子もこっから パクったと書いてあった。
日本の新興宗教で同じ様な 霊媒による宣託やってる所も
スウェーデンボリがルーツだと 分析してる。

つまりバチカンの調査だと 日本のカルトの霊媒技術は
恐山のイタコみたいな土着信仰 からの派生じゃないと判断してる 事が重要。


あ、後、バチカンが言うには 最近流行りの適職診断の
エニアグラムとかの類型に 層別してやる心理テストは
カバラ系カルトが元だから 気を付けろってさ。

なんかバチカンはスイスの モンテ ヴェリタで開かれた 統一宗教の国際会議の出席者 名簿が興味深いと書いている けど、誰とまでは書いてない。 どーも、調べると黄金の夜明け団 やOTOのロイスとかが集まってた っぽいな。 いわゆる魔術結社系ってやつね。


∸―
『霊操』、岩波文庫



カトリックの翻訳者が冒頭当たりで禅との類似点を騙っているが、
禅=仏教はカトリックの根本を否定しているから表面的。
愛着をなくすことが重要だと書いてあるが、信仰と祈り自体がそもそも愛着がないと成り立たないということは無視。
仏教では愛着=執着=悪。
愛着を無くすことを徹底するとカトリックを否定するしかない
から仕方ないか。


・p.27あたりから
イグナチオは1491年スペインのアスペチア地方のロヨラ城でバスコ貴族の末子(男八人、女五人の十三人兄弟)として生まれた。
ロヨラ城は今も残っている。
イグナチオはバスコ気質(集中力と内省的、控えめで毅然とした態度、自己の下した決定を確固として守り通す意志)を持っていた。
16歳のとき騎士として教育を受けるために1507年アレバロの城主ドン・ホアン・ベラスケスのもとへ送られ、宮廷で小姓として王に仕えた。騎士的精神はロヨラの生涯を貫くバックボーンとなった。ロヨラは高貴な貴婦人に仕えることを夢見ていた。
ロヨラはパリ大学で人文学・哲学・神学を学び、哲学修士の学位をえた。そのあいだ、ファーベルやフランシスコ・ザベリオ(ザビエル?)などに霊操を授け、その経験から『霊操』の草稿をより具体的な場面に応用可能なものに仕上げた。
イエズス会を創立し若い会員を養成するときラテン語・ギリシャ語とギリシャ・ローマ文学の徹底した勉学を義務付け、そのうえで神学・哲学の研究をさせる。その後イエズス会のコレジウムが全ヨーロッパに広がり、この教育方針が受け継がれ(16世末には200校を超えた)、西洋近代教育史に絶大な影響を与えた。

バスク貴族でお城に住むのはユダヤ教徒だと不可能。どこがユダヤですか?

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 11月20日
ユダヤの定義ができないユダヤ陰謀論者は
自分で何を言っているか分からないorわざと布教
キリスト教徒もユダヤ教徒も【ユダヤ】
=金融特権の所有者になれたのは歴史的事実
×偽ユダヤ ×ユダ金
○【ユダヤ】業の白人

ローレライ ‏@rolelei 2015年3月4日
ユダヤ人の定義
①ユダヤ人が母←Xの定義にXは使えない
②ユダヤ教徒←宗教で民族は定義不可
考古学的証拠もなく、ヘロドトスも言及していないので聖書のユダヤ人は実在せず遺伝子も子孫も実在しません。ユダヤ教徒は実在。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/?mode=m&no=67&cr=2917189433b4f915c4a1c210e2af4bbb …読めないニックネームさん

子子子子子@kitsuchitsuchi
ユダヤ=囮がキリスト教製なので黒幕はキリスト教。
今の金融ユダヤ(中身耶蘇教)は元別民族。
「ユダヤ」=金融特権なので別民族が「ユダヤ」になりたがった。テンプル騎士団やロンバルディア人など金融をやる白人クリスチャン=「金融ユダヤ」業のクリスチャンが誕生。


”証拠のひとつ
なぜ自称ユダヤ人はカギ鼻や白人だったりするのか? 中東の民族なら黄色人種でないのか?
答え>彼らは"自称"ユダヤです”
【ユダヤ】になると金融特権が得られるのでユダヤ教徒以外も【ユダヤ】になった。
×ユダヤ教徒
×偽ユダヤ
×ユダ金
○【ユダヤ】業の白人✝


ねこた ‏@lakudagoya
恐れ入ったぜ。イスラームの捏造(成立)を語るのに東方教会の影響を知らないとは。 イスラームは神学の部分で言えばカソリックよりも東方教会に近いんだよね。 むしろユダヤ教のエントリーモデルと言ったほうがいいと思うけど。 だからカソリック捏造説はおかしいなといつも思ってる。

むしろイスラームに影響を与えたのはネストリウス派などのキリスト教異端じゃないのかなぁ? 東方教会とムハンマドの話はイスラームの研究書でもよく引き合いに出されるのだけど、ユダヤ教エントリーモデルの部分は除いて、一元論っぽい思想はとても西方教会の神学の思想じゃないのかなぁ?とか。

まぁ、中東に叩き出されたキリスト教異端の連中を正統派の別働隊と言っちゃえば成り立たないレトリックではないが。 三位一体をフルボッコにしてる預言者ムハンマドさんの思考回路はキリスト教で言えばネストリウス派なのかなぁ? このあたりの関係はマジでよーわからん。要検証だな。

@jackiemopsy @makeanovel あなたは隠れユダヤ隠れユダヤ言いますけど、ユダヤ人の定義すらできないでしょ?イエズス会のロヨラは貴族だと知りませんか?ユダヤ教徒は貴族になれるんですかね?隠れユダヤの定義がはっきりしないのに、隠れユダヤの陰謀で主婦を騙し放題ですか

ユダヤ陰謀論で絶対触れられないのはイスラム世界からの資金の流れだ。 スーフィズムだかカバリストだとか近い位置にいて思想も似通ってたキリスト教異端にそいつらの資金が流れ込んだ可能性がある。 カタリ派とか見てみな? こいつらイスラーム世界とガッチリツルんでた。

更に言えばカタリ派に影響を与えたボゴミール派はスラブの山中で15世紀まで存続したけど、オスマン・トルコに攻め入られたらイスラームに集団改宗してる。ボスニア・ヘルツェゴビナとかのムスリムはそいつらの子孫。 おっと、オスマン・トルコの成立を助けたのはヴェネチアだよ。
くっさいなー。

中世ヨーロッパでは、異端というものは常にオリエント世界からやってくる毒のようなイメージだった。 実際に各種異端はヨーロッパ内部よりも外部の影響があるもんな。 フランスやスペインの地中海沿岸やイタリアのロンバルディアまで異端のネットワークはボゴミール派から影響受けていた。
スーフィーを見て不思議だと思うのはムスリムなのに、宗教にこだわらないんだよ。 ルーミーという有名なイスラーム神秘主義の人がいるけど、キリスト教徒だろうがゾロアスター教徒だろうが、多神教徒(カーフィル)だろうが来なさい来なさいと言ってる。 ここのあたりに秘密があるんじゃね?

ユダヤ陰謀論の人はあまりキリスト教異端とユダヤとイスラームの仲良し関係は触れたがらない
傾向にあるけど、中世イスラームってヨーロッパに比べたら超経済大国じゃん。 国力がバブル時代の日本と自転車乗ってた時代の中国くらいは差がある。 そうなると資金投資されるとしたらどうなるって話。

そうなると、アメリカとつるむ事で成金国家になったサウジアラビアやUAEのようにイスラーム勢力とつるんだ勢力がキリスト教社会で大きな影響力持つじゃん。 で、問題点があるとすれば、イスラーム勢力はいつもバチカンに投資するの嫌がったって話なんだよ。そこが陰謀論の争点でね。

となると、江戸幕府の支配してた日本なのにイギリスに支援してもらって倒幕しちゃった薩長土肥みたいに、バチカンとしては当然面白くないよね? シチリアのフリードリヒ二世やカタリ派などやつらはいつだってバチカンの不満分子に投資しやがる。 となると生まれるのがユダヤ陰謀論だよ。

ユダヤがバチカンを潰して世界支配を企んでるという陰謀論は、ユダヤを通じてバチカンの不満分子に投資してバチカンの一極支配を崩そうとしてる中東の銀行家が許せないと言いたいんだよ。 でもなぜかそこは叩けないポイントだから、ユダヤがバチカンを内部から操って世界支配みたいな話になるかと。

イエズス会の創設者の貴族の出て元騎士で従軍してたロヨラがユダヤってデマも、ロヨラが関わってたアルンブラドス派などの異端がユダヤを通じて中東から資金援助貰ってたというオチでね? 隠れユダヤ云々の論争の背景には、本人がユダヤというよりユダヤとツルんだ異端のネットワークがあるんでは?

大体、ユダヤ人は教会法で金融業と古物商以外の商売が禁じられてる(商館持つのもダメ)のに、キリスト教徒の貴族階級やそれに類する人しかなれない騎士にユダヤ人がなれるわけねーじゃん。 ロヨラの実家は城も残ってる貴族でユダヤ人の土地取り上げたりしてなかったですか? 隠れユダヤが貴族?

○○は実は隠れユダヤ人でっていう話、ユダヤ教の習慣も信仰も捨てたユダヤ教徒が隠れユダヤってのはおかしいぞ? それなら、隠れムスリムはどうなる?ムスリムなのにあの宗教キチのイザベラ女王様に強制改宗させられたムスリムがクリスチャン化してるのにムスリムとか言えるわけ?



・p.221あたりから
第三の方法 律動による祈り

〔解説〕
この祈り方は東洋的。
ヨーガでは呼吸のリズムとともにマントラを唱える。
禅宗では呼吸と共に数行観(息の数を数える)や無字の公案(吐く息とともにムーを唱える)を行ずる。これらの東洋的瞑想は心身を一致させ、自我の呪縛から脱却し、智慧に達する優れた方法である。

そこで東洋的瞑想方法をこの第三の祈りに取り入れることでより卓越した祈りとなるだろう。
ところでこの祈り方は東洋的瞑想と比べると、次の点で相違する。
後者が一つの短く言葉を繰り返し、一つの言葉を無心で一心不乱に唱える。対して
前者は一呼吸に一つの言葉を唱え、次の呼吸で別の言葉を唱え、一つの言葉を唱える間、その言葉の意味に注意を向けたり、祈りを捧げる方に注目するなどする。
ロヨラが強調するように祈るときには意志を使って祈りを捧げる方に対して深い尊敬の念を保っていなければならない。

〔本文〕
祈りの第三の方法は、息を吐くごとに、あるいは吸うごとに、「主の祈り」か、他の祈りの一つの言葉を唱えながら、心で祈る方法である。だから、息の吸い始めから吐き終わるまでの間に、ただ一つの言葉を唱え、一呼吸から他の呼吸へと時間が流れる間、その言葉の意味、あるいは祈りを捧げる御方、あるいは自分自身の低劣さ、あるいは相手の高貴さと自分の低劣さの差異に注意を集中する。そして。「主の祈り」の残りの部分の言葉も同じ形式と規則を使って祈る。他の祈り、「天使祝詞」、「アニマ・クリスティ」「使徒信経」、「サルヴェ・レジィナ」は普通の通りに唱える

(これ繰り返したら精神病になるだろ)


ーーー
『ニューエイジについてのキリスト教的考察』
教皇庁文化評議会 /教皇庁諸宗教対話評議会 出版社: カトリック中央協議会 2007/4 原書2003/2

ブラヴァツキーの神智学協会やシュタイナーの人智学協会を一つの源流とするニューエイジ思想を批判した教会公文書の邦訳で、
原文はネットで無料。


・ニューエイジという名称は、フランス革命とアメリカ独立革命の時代に、薔薇十字団とフリーメーソンによって用いられるようになったようです。
ニューエイジとは西洋のエゾテリスム(秘教主義)の現代版。
エゾテリスム(秘教主義)はキリスト教初期の時代に生まれたグノーシス主義の諸グループにまでさかのぼる。
ヨーロッパでは宗教改革の時代に盛んになった。
エゾテリスムは自然科学の世界観と並行して成長し、十八・十九世紀を通じて合理的に意味づけられました。
エゾテリスムの特徴は
①次第に人格神を否定
②他の霊的存在を重視
するようになったこと。

こうした霊的存在は伝統的キリスト教では神と人間の仲介者としてしばしば表象されるが改変された。
ニューエイジを発展させたのはダーウィンの進化論。
ニューエイジ=教会が異端とみなした見解の要約。

ヨハネ・パウロ二世
「ニューエイジと呼ばれる衣をまもった古代のグノーシス思想の再来という問題
があります。
これが宗教の刷新をもたらす、などと錯覚してはなりません。
これはグノーシス主義の新しい実践法にすぎません。
グノーシス主義とは、神についての深い知識をもっているという名目で神のことばを覆し、単に人間的なことばに置きかえることに終わるだけの精神的姿勢のことです。
グノーシス主義は一度もキリスト教の領域から離れ去ったことはありません。
それどころか、つねにキリスト教とともに生き続けており、時にはそれぞれの時代の哲学的思潮の形をとり、より多くの場合は、公然とではなくても、実質的にキリスト教の本質と対立する、宗教的、また疑似主教的形態をとりながら存続しているのです。」
(6)
教皇ヨハネ・パウロ二世『希望の扉を開く』曾野綾子・三浦朱門訳、同朋舎出版、1996年、107頁。

(訳者がゴミクズ。

原発もABも要らん ‏@bye2NUKES 2015年9月13日
@catbsky 麻生さん、石破さんもクリスチャンだし、あのとんでもないウヨクのレイシストの曾野綾子さんもカトリック。男は強姦できるくらい元気がなくちゃと言った旦那の三浦朱門も。そうやってくくりたがる気持ちはわかるが、クリスチャン=左翼っていう短絡思考、なんとかならんかな。

ねこた ‏@lakudagoya 2015年4月28日
@izimo_ssp なんか曽野綾子もですけど、クリスチャン以外は人間でないと思ってそうな名誉白人。カトリックにとっては労働は人間に与えられた罰ですからねぇ。前にカレイドスコープに叩かれましたが、彼らは仏教徒は人間でないと思ってそうですね。クリスチャンって思想に憑依されたロボでふ)


・グノーシス主義、ニューエイジ思想が入っている一例がエニアグラム。
エニアグラムは九つの類型による性格分析方法。
これを霊的成長の手段として使用した場合、キリスト教信仰の教えと生活をあいまいなものにしてしまう。

現在のうお座の時代は第三千年期のはじめに水瓶座の新しい時代
=ニューエイジにとってかわられる。
(14)
この語はすでにThe New Age Magazineという表題に用いられている。
この雑誌は1900年以降、
the Ancient Accepted Scottish Masonic Rite in the southern jurisdiction of the United States of Americaによって出版された

(スコティッシュ・ライトがニューエイジ本を出していることが重要。
イングランド系ではなくスコットランド系。
エジプトとスコットランドのつながりがあるという説は、
新時代=ニューエイジの神をエジプトの太陽神ホルスとしたクロウリー
とつながる。

ねこた ‏@lakudagoya
海洋民族にとっては北極星って大事だもんな。
レプティリアン=竜座のα星。
バイキングは航海をするときに壊血病対策として松脂を塗り込んだパンを持参してた。しかしカヌーでの航海は嵐にあったらすぐ沈没するし、あんな太平洋を補給もなしで航海するとかそのモチベーションが不明なんですわ。

ローマ人と混血して「消えた」エトルリア人。ローマと戦って「消えた」フェニキア人。 たんぽぽさんの言うように、フェニキアはヘルメスのように姿を隠す帽子を持ってるくさい。 なぜにやつらはあれだけ古代から多大な影響力を持って消えるのか? 国家という肉体を捨てたのだよね。



(魔王アモン ‏@mryensrh11 8月7日
すこっちらんどの名前の由来は エジプトのスコタ朝 ・・・って昔私がつぶやいたんだよね そしたら先生が、お、よく知ってるねって 返事して それがガチKGBと先生の出会いだった https://twitter.com/lakudagoya/status/761685022063546368 …)
ユダヤ黒幕論もユダヤをフェニキアと読み替えるなら深い考察ができる。
その場合ケルトやエジプトとの絡みも追加で。 もしかしたら、ローマ帝国はフェニキア人の復讐によって知的伝統が破壊されバラバラになっていくのを仕方なく国を守るために西を切り捨てて遷都したのではないのか?

東ローマは、わざと金銀財宝を蛮族に贈って西を襲わせるようにしてたりさ。
西ローマの崩壊はゲルマン人のせいにされるけど実は違うんでね?
もしかしたら、ローマ帝国という国体を守るためにわざと西ローマを犠牲にしたんではないのか? それくらいフェニキア人の陰謀その他がヤバかった事だろ?

もちろん、テトラルキアなどで内戦状態になったローマを立て直すために宗教統一したい勢力はいたさ。 でも国体を守りたいという勢力もいたはずだよ。
で、東ローマではユダヤ人が教育や金融の仕事につくことを禁止してた。
この政策見るとさ、東の連中はずっとフェニキア人と戦ってたはず。

で、西ローマ帝国の崩壊で何が起こったかと言うと。
ヴェネチアやフィレンツェなどの都市国家やバチカンを除いた特権階級以外、ローマの知的伝統を受け継ぐのがいなくなったって事だよ。
フェニキア人の大勝利じゃねーか!
で、東ローマでは知的伝統を捨てて馬鹿になる事はなかったわけで。

東ローマは西側を切り捨てる事で危機を乗り越えて1000年繁栄する事に成功したわけか。 東ローマはなかなかしたたかな国家だなと。
西ローマ帝国と東ローマ帝国は、どっちが栄えてたのですか?
- Yahoo!知恵袋 http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q11144849496 …

魔王アモン ‏@mryensrh11 8月8日
http://www.bibliotecapleyades.net/ciencia/ciencia_suppressedearthhistory02.htm …
すこっちらんどはエジプトとどうつながるの?
(英語)
ふーん。アクエンアテンが出てくるから 前半だけテケトー訳してみる


ねこた ‏@lakudagoya 8月8日
ねこたさんが魔王アモンをリツイートしました
すげぇ!メリトアテンの子孫がスコッチとかびっくらかいた。翻訳おつ!KGBはいい仕事してますね! RT
魔王アモン ‏@mryensrh11
テケトー訳 Read: http://tl.gd/n_1sovstc
“Scotichronicon(すこっち歴代誌?)という中世の文献がある。
これは1435年にWalter Bowerというニート、いや、僧侶が書いた。
その中にすこっちらんどの起源の伝説が書いてある。

昔昔、ファラオの娘のスコタちゃん、通称スコちゃんが
旦那のゲイテロス君と一緒にエジプトを出て行きました。
勿論部下も引き連れて。
これはエジプトに災厄が訪れると聞いたから
カミサマに導かれて出発したのでした。

すこっち歴代誌には出て行った後どうなったかも書いてある。
このエジプト人どもは現在のすこっちらんどに到着した。
しかしエジプト人どもはジモティにボコられて
アイルランドに逃げ込んだ。
そこではジモティと和んで王様になり
すこっちらんどに反撃。
そしてすこっちらんどを支配し
国名を「すこちゃんらんど」改め「すこっちらんど」にしたそうな。

このテの話は中世には多い。
古代のXXガー、今のXXの起源ガーみたいな話である。
例えばHistoria Brittonum(ブリタニア史、とでも訳しておこうか)
によると、ブリテンの語源はブルータスである
(ブルータスよ、お前もかの、あのブルータスね)
同じHistoria Brittonumはヨーロッパの民族
(フランク族とかね)はノアの息子につながると主張していたりもする。

では、すこちゃんらんど伝説はどの程度事実なんだろうか?
まず「すこた」という名前がエジプトの名前ではない件。
これは翻訳のせいでおかしくなっただけなのか?
Walter Bowerは、すこちゃんのパパンがAchencresと書いている。
歴史家のManethoは紀元前300年ごろに
AchencresとはAkhenaten(アクエンアテンつまりアメンホテプ4世)
のギリシア語読みだと書いている。

アクエンアテンは紀元前1350年頃にエジプトを支配した。
そして政治的、宗教的な改革を断行した。
例えば首都を今日のアマルナに移した。
宗教をアテンを崇拝する一神教に変えた。
このアクエンアテンには6人の娘がいたが
そのうち5人はエジプトで死んだ。
長女のMeritatenのみがエジプトの歴史から姿を消している。

ではMeritatenが、すこちゃんなんだろうか?

アクエンアテン時代のエジプトは苦境にあった。
アクエンアテンの死後エジプトは政治的に混乱期に入る。
アクエンアテンの後に続く王は長くエジプトを治められなかった。
(その中にはツタンカーメンも含まれる)
紀元前1320年頃ホルエムヘブがエジプトの王となった。
ホルエムヘブはアクエンアテンが嫌いだったらしい。
アクエンアテンに関連するものは潰しまくった。
これはつまりアクエンアテンの娘なら
ボヤボヤしてたらヤバスという事になる。
エジプト脱出をする動機は十分にある。”

ねこた ‏@lakudagoya
@mryensrh11 スコタの翻訳おつ。スコッチがメリトアテンの子孫だとはびっくらこきました。
0:24 - 2016年8月9日
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1. 魔王アモン ‏@mryensrh11 8月8日 福島 大熊町
@lakudagoya んー。まだ確定じゃないですけだね。 でもまあ、面白いのは面白いし ドサクサでモーセをナイル川から 拾ったのが、すこちゃんだったりしたら 面白いんですけどね

魔王アモン ‏@mryensrh11 8月8日
Summary and conclusionも訳してみた Read: http://tl.gd/n_1sovsuq

“Summary and conclusionも訳してみた
________________________________________
考古学的に発見された出土品等から考えて
アイルランド、ブリテン、スペイン、エジプトあたりまで
青銅器時代には交易のルートがあった可能性はある。
Ferriby(おげれつ東海岸ね)で発見された船は
地中海東部(エジプトを含む)から直接来ていた可能性がある。
しかし、これが、すこちゃんの大冒険にまでつながるのか?
断定しちゃっていいのか?というと話は別だ。

例えばWalter Bowerの、すこっち歴代誌も妙な所がある。
例えば「エジプトに疫病が流行るからと聞いてすこちゃんは脱出した」
と書いてある。
しかし、すこちゃんがエジプト史から姿を消す前のアマルナで
「病気大流行マジヤバス」という記録が残されているのはなぜなんだぜ?
しかもドイツの川としてセーヌ川が出てくるのはなぜなんだぜ?
セーヌ川はフランスの川じゃないのかと小一時間(ry“


燈火 ‏@to_moshibi 8月7日

ヴァイキングの南下は怪しそうですね。イスラム世界にまで進出していますし、しかもノルマンディー公国の成立など欧州地域の秩序にも影響を与えています。

あとは北アメリカやアイスランドにも入植しています。

7世紀にイスラム勢力は地中海に進出しますが、そもそも海軍を元々持たなかった彼らがどうやって地中海に進出できたのか気になります。後の話ですが、世界最強だったモンゴルですらも海軍は南宋の残党や高麗等を利用しています。 なのでイスラム勢力に肩入れした面々がいても不思議ではありません。

魔王アモン ‏@mryensrh11 8月7日
イベリア半島上陸は海軍無しじゃどうにもなんねえな

魔王アモン ‏@mryensrh11 8月8日
RT> >樹高は30メートル以上に達する。
>材質はたいへん硬く、かつ腐りにくい。
>このため、船材やマストには最適だった。 ふーん。 レバノン杉の話ね
そういや、レバノンってフェニキア系の土地で フェニキアのカミサマなポセイドンの聖樹は松じゃん? アイヤーwwww

何がアイヤーかわかったかな?
レバノンスギって 名前はスギだけど松なんだよ? アイヤーww で、中の人がポセイドンじゃね? って疑惑のあるヤハウェくんの神殿は レバノンスギ、つまり松で作られた アイヤーwww

つまりフェニキア&ポセイドンは松が好き
ユダヤ&ヤハウェも松が好き
ねえ、なんで?なんで君たちそんなに 息が合うのかなあ? ねえ?

フェニキアっていつごろから あそこにいたんだろうね
ヤツらが海洋民族として暴れる バックボーンのひとつが 船に使いやすいマツ=レバノンスギだったりするのかな?


ねこた ‏@lakudagoya 8月8日
アモンたんのスコタの話なのだけど、これがもし本当ならば、スコッチとおフレンチとエジプトの関係がわかってさ。 ケルト・フェニキア・エジプトの陰謀論を証明できるかも知れんね。 スコッチとおフレンチは歴史的に仲良しだし、海を嫌った古代エジプト文明の航海の話はフェニキア絡みかも?

ぐだトマト ‏@pteras14 8月8日
@lakudagoya その伝説もう一つバリエーションが あって、
もう一つの方はバベルの塔の 町のニウル王の子で、エジプトで ファラオの娘と結婚、アイルランドに 上陸してバベル崩壊後の72言語を 組み合わせてゲール語発明って パターン。
両方のパターンに共通するのは 何れも自分はスキタイ出身だと 言い張ってる事。 スキタイは髑髏杯のご先祖様で アングロサクソン共が自分達の ご先祖様と言い張ってる極悪 非道の連中ね。

スコタ王女じゃなくて旦那の方の話。 スキタイランド→スコットランド?w


アルマナ文書読む限りだと アラム語だかヒッタイト語だか なんかでバビロンの方に手紙を 出してるんで、当時のエジプトと 中東の間で貿易ルートがあったのは 確かそうなので、あながちバベルの 王子説も可能性あるかも。
あ、アマルナ文書の間違いw アッカド語ですねw

ねこた ‏@lakudagoya 8月8日
とまーてさんありがとう! 前に船長がギリシャ語よりゲール語やゴイデル語が古いよーんと言ってたのだけどとまーてさんの教えてくれたネタをもとに語ってたものだったの!? スコッチに影響与えたのがスキタイだとかバビロンだとかメリトアテンだとかぶっ飛び方がパネェわ! ロスリン礼拝堂!

ねこた ‏@lakudagoya 8月8日

タブー無用の陰謀論者としてはチャンピオン目指したいところだ。

大御所の陰謀論者はみんな金に買われてるフェニキア人の奴隷どもだ。
2件のリツイート 4 いいね
魔王アモンさんへの返信
ねこた ‏@lakudagoya 8月8日

@mryensrh11 うむ。そやな。女の世界はいつもああいうのがマジョリティに見えて噛みつきたくなる衝動との戦いだった。心配かけましたの。
0件のリツイート 0 いいね
ねこた ‏@lakudagoya 8月8日

ねこたさんが魔王アモンをリツイートしました

ラーの鏡照射!
「み、みたな〜」というドラクエ3を思い出す今日この頃w RT

ねこたさんが追加
魔王アモン @mryensrh11
何がアイヤーかわかったかな?
レバノンスギって
名前はスギだけど松なんだよ?…
0件のリツイート 0 いいね
ねこた ‏@lakudagoya 8月8日

ねこたさんが魔王アモンをリツイートしました

ほい、バイキングの壊血病にならない松脂入りのパン! RT

ねこたさんが追加
魔王アモン @mryensrh11
つまりフェニキア&ポセイドンは松が好き
ユダヤ&ヤハウェも松が好き

ねえ、なんで?なんで君たちそんなに…
0件のリツイート 0 いいね)

PONTIFICAL COUNCIL FOR CULTURE
PONTIFICAL COUNCIL FOR INTERRELIGIOUS DIALOGUE
JESUS CHRIST
THE BEARER OF THE WATER OF LIFE
A Christian reflection
on the “New Age”
http://www.vatican.va/roman_curia/pontifical_councils/interelg/documents/rc_pc_interelg_doc_20030203_new-age_en.html
ってコレ英語だとただでネットで読めるのね

“2.1. What is new about New Age?
For many people, the term New Age clearly refers to a momentous turning-point in history. According to astrologers, we live in the Age of Pisces, which has been dominated by Christianity. But the current age of Pisces is due to be replaced by the New Age of Aquarius early in the third Millennium.(14) The Age of Aquarius has such a high profile in the New Age movement largely because of the influence of theosophy, spiritualism and anthroposophy, and their esoteric antecedents.“

(14)The term was already in use in the title of The New Age Magazine, which was being published by the Ancient Accepted Scottish Masonic Rite in the southern jurisdiction of the United States of America as early as 1900 Cf. M. York, “The New Age Movement in Great Britain”, in Syzygy. Journal of Alternative Religion and Culture, 1: 2-3 (1992), Stanford CA, p. 156, note 6. The exact timing and nature of the change to the New Age are interpreted variously by different authors; estimates of timing range from 1967 to 2376. ”


・ニューエイジが示す転換
(1)ニュートンの機械論的物理学から量子力学への転換。
(2)近代的な理性重視から感性、感情、経験への転換
(しばしば「左脳」の合理的思考から「右脳」の直感的思考への転換)
(3)個人と社会における、男性支配と父権性から女性性重視への転換。

・ニューエイジには善悪の区別はなく、人間の行為は覚醒の結果か、無知の結果。
人は罪を定められることはなく、ゆるしも不要。
悪の存在への信仰から生まれるのは否定的な気持ちと怖れだけ。否定的な気持ちを解決するのは愛。

ニューエイジは東洋的表現を西洋的用語で述べる。
生まれ変わりは元来ヒンドゥー教の転生思想の一部。
生まれ変わりはアートマン=個人の神的な核(個我〔ジーヴァ〕)に基づいて行われる。
アートマンは輪廻の繰り返しの循環のうちに身体から身体へと渡り歩く。より上位の世界に生まれ変わること、あるいは生まれ変わる必要から解放されることを人々は希望する。
仏教では身体から身体へとさまようのは魂ではなく、意識の連続(心相続)と考えられる。
現世は終わりなく移ろう宇宙の過程の中に組み込まれている。この過程には神々でさえも含まれる。
西洋ではレッシングの時代から生まれ変わりがはるかに楽観的なしかたで、学習による個人の段階的な完成の過程として理解されてきた。
スピリチュアリズム、神智学、人智学、ニューエイジは皆、生まれ変わりを、魂がより完全な状態へと進歩すること、宇宙の進化への参加と考える。死とは別の肉体へと魂が移ることにすぎない。
この終末観はキリスト教の神の裁きに関する教えが答えられなかった問題に答えるものとされ、地獄の概念を不要にする。
魂が新しい身体と合一すると、これからの人生への予見が与えられる。夢や瞑想で前世を知ることができる。

「仏教では身体から身体へとさまようのは魂ではなく、意識の連続(心相続)と考えられる。」
は間違い。
仏教の輪廻に「主体」は存在しない


ブッダ「女性と目も合わせないニートになれ!」
『だから仏教は面白い!』『仏教思想のゼロポイント』『阿頼耶識の発見』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-154.html
”・カルマ(業)
=(ある種の潜在的な余力、ポテンシャルを持つので必ず結果をもたらす)行為
=後に結果をもたらす働き。

やったら終わりではなく残されたポテンシャルが後に必ず結果をもたらすのが業。
輪廻思想と合わさり、蓄積された潜勢力に縛られているのが衆生。
生まれ変わるので別の個体性(前世が幼虫なら今回はさなぎで来世はガのように)をもつが、カルマは前世から引き継がれる。しかし全体を俯瞰すると同じ虫だともみなせる。
無我なのに輪廻するのではなく、無我=実体我がないからこそ輪廻する。

輪廻に主体はない。何が輪廻するのかという質問はおかしい。カテゴリーエラー。
個体存在の固定的な核、実体的な魂を想定し、その魂が次々と器としての進退を乗り換えながら存在を保っていくというイメージは間違い。
後に結果をもたらす業が現象を引き起こし、それが更なる業の条件となり次に新しい結果を生むことをひたすら続いているプロセスを輪廻といういう。

(バラモン教もバラモン教がモデルのスピも「本体」がある輪廻)
”)

・ニューエイジは全体性を探求し、二元論を克服を追及。
二元分離は覚醒前の過去が生み出した不健全なもの。創造主と被造物の根本的な違い、人間と自然、精神と物質、これらは誤りと考える。これら二元論は西欧文明のユダヤ・キリスト教的起源に基づくとしばしばみなされるが、正確には二元論はグノーシス主義、特にマニ教と関連づけるべき。
科学革命と近代合理主義精神は、とくにものごとを細分化する傾向のゆえに避難される。有機的な全体を機械的構造として扱うから。
ホリズム(全体論主義)はニューエイジの基本要素で、グローバルなネットワークに従わなければならない意識を生んだ。
意識変革、環境保護思想運動、大地の女神ガイア信仰、緑の党。
大地を管理する主体は人類全体だが大地を責任をもって管理するのに必要な調和と理解はグローバルな管理でないといけない。

(大地を管理するのは人間って聖書思想じゃねーか) 

・ニューエイジの根本には汎神論がある。
汎神論が含まれるのでカトリックはニューエイジに積極的な評価を与えない。
キリスト教「人間は本質的に被造物であり、永久に変わることなく被造物にとどまります。ですから、人間の自己が神的な自我に吸収されることは決してありえません」

・十九世紀のエゾテリスムを形成したブラヴァッキーの中心となる主張は女性解放であり、一神教の男性的神への批判も含んでいた。引き継いだのがフェミニスト運動の先駆者であるアニー・ベザント。ウィッカや女性の霊性は父権的キリスト教に対する闘争を続けている。
マリリン・ファーガソンいわく、みずがめ座の時代の先駆者として意識拡張と自己超越経験による変容という未来像の発端を作った人々が、ウィリアム・ジェームズとユング。
ユング思想の中心にあるのが太陽崇拝。太陽すなわち神は個人の内なる生命エネルギー(リビドー)。
これがユングのいう内なる神=すべての人間のうちにある本質的な神性。

ファーガソンがほかにアクエリアン革命家に対して彼らが影響を受けた思想家をたずねたところ、頻度の多い順に以下の通り。
ピエール・テイヤール・ド・シャルダン、
ユング、
マズローカール・ロジャース、
ハクスリー、
アサジオリ、
クリシュナムルティ。

多くあげられた他の人は、パウル・ティリッヒ、
ヘルマン・ヘッセ、ホワイトヘッド、ブーバー、
ルース・ベネディクト、
ミード、グレゴリー・ベイトソン、
タルタン・トゥルク、
アラン・ワッツ、オーロビンド、ムクタナンダ、
鈴木大拙、
トマス・マートン、ウィリス・ハルマン、ボールディング、
エーリッヒ・フロム、マクルーハン、
バックミンスター・フラー、スピ―ゲルバーグ、
コルチブスキ、フェルスター、ジョン・リリー、エルハルト、
イチャーソ、マハリシ・マヘッシ・ヨギ、
パース、プリブラム、
ガードナー・マーフィー、
アインシュタインである。


・スピリチュアリティと心理学の交差はヒューマン・ポテンシャル運動に強く見られる。ヒューマン・ポテンシャル運動は1960年代末にかけてカリフォルニアのエサレン研究所で発展した。
自分の潜在能力を実現するために人は自分の自我、エゴを乗り越えないといけない。それは深いところで神(自己であるところの神)となるためである。

ニューエイジの最初の原動力であった、ある意味で今でも原動力となっている二つの中心地が
スコットランド北東部のフィンドホーンの菜園コミュニティと、
米国カリフォルニア州ビッグスールのエサレンのヒューマンポテンシャル開発センター。

ニューエイジというゆるやかな集合体の共通点
①宇宙は有機的な全体
②宇宙はエネルギー=神的魂、霊によって動く
③霊的存在の介在への信仰
④見えない高次元に上昇し、死を超えて自分の人生を統御可能
⑤歴史以前の、全宗教と文化を超えた永遠の知識がある
⑥覚醒した師に従う

ニューエイジ思想は、キリスト教は真の意味での人間性の完全な発現を妨げてきたというニーチェ思想と一致。
ニューエイジは
人間が完全なものとなりうると考える。この完成とは、自分自身で作りだせ、
獲得できる価値の序列に従い、自己実現を行うことを指す。自己は自己創造者だといえる。
サタンは慣習や規則への反抗の象徴。
ディープ・エコロジーの生命を中心とする主張は聖書の人間観を否定する。
聖書では人間は世界の中心。人間は質的な意味で他の生き物より優れているとみなされる。環境保護は人間を軽視するとはいえ、同様の傾向は現代の法律と教育でも極めて顕著。同じようなエソテリックな文化を基盤としているのが、人工計画政策や遺伝子操作の実験の背後にある思想。

・古典的なニューエイジでは人間は神的ば花火とともに生まれるとし、古代グノーシス主義を思い起こされる。
なので人間は本質的に神的だと考える。人間は神とともに創造する。啓示や救いは必要ない。外部からもたらされるから。自分の中でひそかに行われる救い(自己救済)を経験するだけで十分。
魂の生まれ変わりは罰としての浄化を意味する輪廻ではなく、潜在能力の完全な開発に向けた段階的上昇。

・ニューエイジは、ユダヤ・キリスト教に毒されていない、東洋宗教とキリスト教以前の宗教を重視する。
ニューエイジの神は宇宙の統一をもたらす非人格的エネルギー。万物は一。一元論的、汎神論的な統一。
ニューエイジのキリストとは、自分が神的なものであると認識し宇宙の師と自称できる意識状態に達した人に与えられる呼び名。ナザレのイエスは唯一のキリストではない。ブッダやその他の人に見られるようなキリスト的性格があらわれた多くのうちの一人にすぎない。

釈迦の思想を否定するニューエイジ、ニューエイジを否定する釈迦

・照応の体系は明らかに伝統的エゾテリスムに由来するが、スウェーデンボルグに従う人にとって新しい意味を持つ。伝統的エゾテリスムではあらゆる自然の要素は自らのうちに神的生命を持つのに対して、
スウェーデンぼルにとっては自然は生きた霊的世界の死んだ反映にすぎない。
ブラヴァッキーは照応を否定した。ユングは照応に基づくエソテリックな世界観のために因果律をはっきりと相対化した。

・ニューエイジの重要な擁護者であるデイヴィッド・スパングラー(David Spangler 1945-)は、ニューエイジの問題の一つは、「自分の完全な人生を積極的に造り上げるのでなく、新しい時代(ニューエイジ)の到来を待つことを口実にし て、無力感と無責任にひそかに身をゆだねること」だと指摘

・ニューエイジ思想はビジネスの世界に広く見られる理念と一致する。
ニューエイジ「運動」は市場原理に完全に適応しました。そして、ニューエイジがこのように広まった一つの理由は、それが経済的に 魅力的な商品だったこと。
少なくともある文化において、ニューエイジは市場原理を宗教現象に適用することによって造られた商品の名称。
人々の霊的欲求から利益を得ることがつねに図られている。現代経済における他の諸要素と同様、ニューエイジも、マス・メディアの情報によって造られ、はぐくまれるグローバルな現象の一つ。

 ・ニューエイジが大流行したのは、それが信仰、セラピー、実践をゆるやかに組み合わせたものだから。こうした諸要素は、しばしば、それらがもっているかもしれない対立や矛盾とかかわりなしに、好きなように選択され、組み合わされる。
けれども、これがまさに「右脳」の直感的思考に自覚的に基づく世界観から期待されていること。
だからこそ、ニューエイジの諸思想の根本的な性格を発見 し、認識することが重要なのです。しばしば、ニューエイジが示すものは、いかなる宗教に帰属することでもなく、ただ「スピリチュアル」だといわれる。けれどもそこには、多くの「消費者」が考える以上に、特定の東洋宗教との密接なつながりが見られる。このことは、だれかが「祈り」の集いへの入会を選択す際にとくに重要。しかしそれは、企業経営にとっても深刻な問題。生活と労働の中で瞑想を行い、精神拡張技術を用いることを労働者に求める企業が増加している。

・ヒューマン・ポテンシャル運動の創立は1960年代エサレン。個人の変革のためのさまざまな技術は企業の経営訓練計画の中でますます用いられるようになった。トランスパーソナル技術、内的・霊適格性のための運動、組織発展と組織変革、これらはみな非宗教的な形で行われるが、実際には企業の労働者を個人の自由が問題視される状況の中で異質なスピリチュアリティに服従させることができる。


(京セラのCSIS稲盛が大好きな生長の家=和風ニューソートかな?
資本主義を批判するくせに資本主義カルトの骨格の一部なのがニューエイジ=新キリスト教)

エサレン・ソヴィエト・アメリカ研究所はソヴィエト政府と協力して健康推進計画を進めた。

・ニューソートは十九世紀に米国で創始された宗教運動。起源は観念論だが、ニューソートは観念論の大衆的な形態である。神は完全な善であり、悪は幻想にすぎないとされる。人の精神は生涯の出来事を引き起こす原因なので、人は究極的には自分の状況のあらゆる側面について責任をとらなければならない。


・ニューエイジのキリスト
①人格的・歴史的イエスと、永遠で非人格的宇宙的キリストは別
②イエスは唯一のキリストではない

③キリストであるイエスが苦しみをうけうるという考えを排除するため
、イエスの十字架上の死は否定されるか再解釈される

④外典文書(新グノーシス主義の福音書など)を聖書聖典に見られないイエスの生涯をし知るための真正な源泉資料と考える。
霊や太古の導師によってまたはアカシャ年代記によって知ることのできるイエスに関するほかの啓示が、ニューエイジのキリスト論の基盤。
⑤聖書テキストにエソテリックな解釈を加える。それはエソテリックな本質に近づくことを妨げる、公的宗教としてのキリスト教を清めるため

・自己完成、自己実現、自己救済、ニューエイジはペラギウス主義的。


・ニューエイジ思想の要約
①あらゆる生命、存在は霊、不可知の存在、さまざまな文化でさまざまな名によって知られる至高の意識の現れ
②あらゆる存在と目的と運動は愛、知恵、覚醒を完全に現すこと
③あらゆる宗教は同じ内的現実の表現
④科学や五感で知覚するあらゆる生命は、見えない内的原因としての現実の外皮にすぎない

⑤人間は外的・時間的人格と、さまざまな次元を持つ内的存在(魂、高次の自己)の両面を持つ
⑥外的人格を限界を持ち、愛に向う
⑦内的存在が生まれ変わるのは外的人格の波動と愛を一致させるため
⑧生まれ変わった魂は自分の霊的な道を自由に選べる

⑨霊的な師はその魂が生まれ変わる必要から解放され、限界なき愛と知恵と覚醒を述べる人々である
⑩あらゆる生命は互いに関連付けられたエネルギーであり、霊とこれらのエネルギーとともに働いて現実をともに創造する
⑪すべての生命と環境と自己に共同責任を持つ

⑫この時代において地球と人間の進化はわれわれが個人意識と集団意識における根本的な霊的変化を経験するに至った。
 だからわれわれは新しい時代、ニューエイジについて語る。新しい意識は人が宇宙的な愛のエネルギーと呼ぶものが継続的に受肉した結果である

⑬すべての生命の生き生きとしたつながりに関するこのような新しい意識と理解は完全に新しい地球的文化の展開過程の内にわれわれがあることを意味する。

補足
①世界は高次の、より包括的な神的本性のあらわれ。
②人間の内面には高次の神的自己が隠れている。この神的自己は高次のより包括的な神的本性の現れ
③この高次の本性は覚醒し、個人の日常生活の中心となることができる
④この覚醒が一人ひとりの個人的生命が存在する理由

スパングラ―曰くニューエイジは
①ホリスティック
(グローバル化する。なぜなら唯一の現実・エネルギーが存在するだけだから)

②環境保護的
(ガイアとしての地球が我々の母。人は地球の中枢神経系の神経)

両性具有的
(虹と陰陽はニューエイジの象徴。男性と女性の相補性)


④神秘的
(聖なるものはあらゆるもの、もっとも日常的なものの中に見出される)

⑤地球的
(人間は自己の文化に属すると同時に、普遍的な次元へと開かれたものでなければならない。それは愛とあわれみと平和、さらには世界政府の樹立を推進できるようになるため)

(世界政府が目的なのが露骨)

・ホリズムが避難するのはニュートンとデカルト

ニューエイジの両性具有とは両性の身体的特徴ではなくすべての人に男性的要素と女性的要素があることを自覚すること。
両性具有はアニムスとアニマの調和がとれた状態。


・十九世紀のスピリチュアルはニューエイジに流れ込んだ思潮の一つと考えられる。スウェーデンボルグとメスメルの思想を背景に発展し、新たな種類の宗教となった。スピリチュアルは霊媒であるブラバッキ―の神智学に大きな影響を与えた。ただし神智学協会では最近死んだ人との接触ではなく、はるか昔の霊的存在との接触が重視される。アラン・カルデックはアフロブラジリアン宗教においてスピリチュリズムの普及に影響を与えた。日本の新宗教運動の一部にもスピリチュアリズムの要素が見られる。

・フィンドホーン共同体は1965年に設立されニューエイジの中心思想を体現するものと考えらえた。それはモデルとなり、ロンドンのオルターナティヴス、エサレン、ニューヨークのオープンセンター、およびオメガ研究所である。

・モンテ・ヴェリタはスイス、のユートピア共同体。
十九世紀末以来、欧米の対抗文化の代表者が集まる。
1933年以来、エラノス会議が毎年ここで開催されニューエイジの指導者たちを集めた。エラノス年報はエラノス会議の意図は統一的な世界宗教を作り出すことだとはっきり示している。多年にわたりモンテ・ヴェリタスに集まった人々の名簿は興味深い。

・「訳者あとがき」にあるニューエイジに関係した運動一覧。
・ヒューマン・ポテンシャル運動
(自己啓発セミナー)

・トランスパーソナル心理学
・ニューサイエンス、ニューエイジ・サイエンス
・ネオ・ペイガニズム
・フェミニスト霊性運動
・ディープ・エコロジー
・ホリスティック医療運動

・マクロビオティック
(創始者が世界政府賛同者)

・超越瞑想
・神智学協会
・人智学協会
・クリシュナムルティ・ファウンデーション
・ラジニーシ運動
・グルジェフ・ファウンデーション
・仏教的瞑想・共同体
・レイキ
・気功・合気道
・UFOカルト

・ニューエイジの特徴は、伝統的宗教のようにはっきりとした教団の形をとらず、参加形態が個人的であるところ。

∸――

役に立ちそうな資料
AとBの同一視を探すときは"A B"、"A as B"、"A or B"、"A that is B"、"A aka B"、"A i.e. B"、"A with B"みたいな絶対検索をします。
それでも見つからない場合は、AとBを入れ替えて"B A"、"B as A"~と検索すると良さげです。唯一神と天皇の同一視なんていう習合もこれで知りました(たぶん God≒king of kings≒emperor という類推かと)。
日本語で探すなら"A(B)"、"AとしてのB"、"AあるいはB"、といった感じで。
絶対検索がいつもバチっと当てはまるとは限らないですが、Googleならサジェストでかなり近い資料が見つかります。

http://ch.nicovideo.jp/y_noseru/blomaga/ar1023793


子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 5月18日
”宇宙人はグノーシス派のように肉体嫌い? ・スピ(リチュアル)系の宇宙人=白人説 を主張するアングロサクソン系の白人は、人類はアフリカの黒人が起源であるという説が嫌なだけでは? 北欧は金髪碧眼が多い。アイクの理論だと金髪碧眼の白人は宇宙人であるレプティリアンに憑依されやすい。
北欧貴族にしてスピの源流であるスウェーデンボルグは宇宙人が存在すると述べた。 UFOコンタクティーが遭遇する宇宙人がノルディック(その名のとおり北欧系の金髪碧眼)と呼ばれたりする。” 黒幕は自分たちの思想、見た目、文化を善だと洗脳する。 北欧黒幕説と、キリスト教>ユダヤ教の根拠。

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 5月20日
宇宙人に「選ばれた」のではなく、宇宙人を「呼び寄せて憑依させて活用した」から支配層になれた可能性…人間的な意味での「意志」はないのでは?… エイリアン=地球外からの自然現象説…
エイリアン=憑依させると強力な力が得られる存在。 エイリアンに人間的意志があるかどうかが分かれ目…


「何が良い印象を与えているか=尊厳の流れ」こそが最重要
善とみなしているものは攻撃しにくいからね


❁憂夏ちの幵マスコミ住所†検索
✡ ‏@udx 11月27日
モヒカンは、ネイティブアメリカンの英雄の髪型なのに、悪人の象徴みたいになってしまっている。洗脳だ。
本当の悪は侵略者であり虐殺者である今のアメリカ人たちだというのは少し考えればわかる。その少しも考えさせないのが、ハリウッドを主とするメディアの洗脳だ。

インディアンの豆知識bot ‏@indian_didUknow 8月14日
【モヒカン刈り】ちょっと昔のパンクファッションでお馴染みの、中央の髪を残して回りを剃る髪型は、一部のインディアンの部族が、狩りの際弓を射るのに邪魔にならないように頭の側面を剃った事が原型です。

(日本だと北斗の拳のせいだろうなあ)


ネズミさん ‏@Nezmi_san 2014年7月27日
「AEON」と言うと、日本では「あれね?」となるが、 古代ギリシア語の「時代」という意味だが、 グノーシス主義の創作神話では、この神の至高者の下の存在をアイオーンと呼ぶ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%B3 …

カトリック教会が出している『ニューエイジについてのキリスト教的考察』では
(それ自体は反宇宙論・反創造主、という思想でも無いにも関わらず)ニューエイジ思想が「現代のグノーシス主義」と位置づけられ、警戒されている。http://dic.pixiv.net/a/%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9%E4%B8%BB%E7%BE%A9 …

つまりはグノーシスから見ると天地創造のヤハウェより高次元の神が存在すると考える。
天地創造をしたこの世が悪に満ちている理由付けである。作った神より至高の神が存在するとする。ギリシャのイデア論に近いだろう。 http://sp.okwave.jp/qa/q142917.html

ねこた ‏@lakudagoya 5月5日
新プラトン主義が御用学派なのは分断統治のツールを担保する階層構造を肯定してるから。
といっても、霊的階級社会じゃないのがミソだが。

単にプロティノスの思想だけなら、ある種の神秘主義的な認識論だけど、耶蘇教の天使の階級に取り入れられて、曽野綾子のような階級社会肯定思想になった。

曽野綾子が「貧乏人は実直な精神を養ってればいい」みたいな事言ったのは、カトリックの天使の階級論をベースとしたの天上位階論を具現化したバチカンのトップダウン階級社会の思考から生まれている。
カトリックの神学思想では、階級社会は宇宙の自然状態での状態と聞いたけど本当かなぁ?

新プラトン主義のミソなとこは、オリジナルの流出元に近いところほど純粋でそこから離れると不完全になってダメになるという思想。
だから、アウグスティヌスなどは新プラトン主義の理論を使って欠如してるが故に悪が生まれると誤魔化した。
西洋の神秘主義の根底は新プラトン主義だよ。

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2014年7月19日
@lanekota 国学≒蘭学。
天皇家が関わる万葉集は漢字表記(日ユ同祖論は嘘)。
契沖は真言宗僧侶で徳川光圀がスカウト。
国学の四大人 荷田春満(伏見稲荷の神官)
賀茂真淵(春満の姪が妻。春満門下)
本居宣長(伊勢出身。真淵門下)
平田篤胤(和風クリスチャン。宣長の没後門人)

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2015年2月11日
猫太“うわーキリスト教くさいですのー”
“みっしょんいんぽっしぶる!キリスト教信者ってニコニコしながら支配する気と見下し感半端ねぇ。曽野綾子とか。その感覚が日本的でない”
平田篤胤→大国隆正→福羽美静→明治天皇
大国隆正→玉松操→岩倉具視
✝の平田篤胤の本教=和風キリスト教=神道

アイオーンαἰών
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%B3
“1966年の「グノーシス主義の起源に関する国際学会」等の定義によれば、グノーシス主義は、以下の点をふまえた神話を創作することが一般であると考えられている。
1. 反宇宙的二元論: この世界は悪であり、この世界を創造した劣悪な神とは別に、善なる「至高者」が存在する。
2. 人間内部に存在する「神的火花」「本来的自己」への確信: 人間は、劣悪な造物主に創造されたが、人間の内部には至高者に由来する要素が閉じこめられている。
3. 人間に「本来的自己」を認識させる啓示者・救済者の存在: 以上のことを知らない人間に対して、至高者の下からそれを知らせる使いがやって来て、認識を促す。
この「至高者」の下には、至高者に由来する諸の神的存在があり、グノーシス主義の創作神話では、この神的存在を「アイオーン」と呼ぶ。
• キリスト教グノーシス主義
キリスト教グノーシス主義では、人間に「本来的自己」を認識させる啓示者・救済者とは、もちろん「イエス」であり、イエスは「父なる神」(=至高者)の下から派遣され、旧約聖書の創造神(=劣悪なる造物主)の束縛から人間を解放するため、「本来的自己の認識」を説く福音をもたらしたという神話を持つ(神話の詳細は、グノーシス各派により異なる。)。
キリスト教グノーシス主義は、異端であるとして、正統派・主流は教会から反駁されてきた。
紀元2世紀のリヨン司教であったエイレナイオスや、3世紀のローマ司祭であったヒッポリュトスなど反駁書を記している。ヒッポリュトスは、グノーシス主義の教義や神話などが、ギリシア神話やプラトンの思想や、その他、諸々の素材を元に創作したものであるという説を唱え、「アイオーン」という用語もまた、ギリシア神話やプラトーンの著作から借用したものだと述べた。
このように、伝統的には、グノーシス主義は、諸宗教の要素が混淆したシンクレティズム宗教に過ぎないと考えられていたが、とくにナグ・ハマディ写本の発見により、非キリスト教グノーシス主義の存在が知られるようになり、現在では、グノーシス主義を、単なる混淆宗教、とりわけキリスト教にギリシア哲学や東方の諸宗教の要素を加えただけの異端説として論ずる学者は少ない。
以下に、グノーシス神話における諸の「アイオーン」について概説する。

グノーシス主義におけるアイオーンは、高次の霊または霊的な階梯圏域で、アイオーンこそは「真の神」で、ユダヤ教やキリスト教などが信仰している神は、「偽の神」である。またアイオーンは複数が存在し、プレーローマと呼ばれる超永遠世界にあって、男性アイオーンと女性アイオーンが対になって「両性具有」状態を実現している。
紀元2世紀の大ウァレンティノスと呼ばれるグノーシスの思想家の高弟であるプトレマイオスの説では、プレーローマには、男女を一対として、四対、合計八体の至高アイオーンが存在するとされる。それらは、オグドアス(8個の集まり)とも呼ばれ、次のようなアイオーンで構成される。
• プロパトール - 伴侶:エンノイア(思考)
• ヌース -伴侶:アレーテイア(真理)
• ロゴス - 伴侶:ゾーエー(生命)
• アントローポス - 伴侶:エクレシア(教会)
伴侶は女性アイオーンである。アイオーンの筆頭に来るのは「プロパトール」であるが、この名は「先在の父」とも訳され、超越性の更に超越性にあると される。プロパトールとは何かは、人間は無論のこと至高アイオーンであるオグドアスのアイオーンもまた、それを知ることはなかったとされる。プロパトール は、ビュトス(深淵)の名でも呼ばれる。またオグドアスはプレーローマの中心であるが、そのなかにあって更に上位の四アイオーンは、テトラクテュス(4個の集まり)と称する。
グノーシス主義では、新プラトン主義のプロティノスの考えを取り入れ、「流出説」を提唱した。ウァレンティノス派では、原初、先在の父(プロパトール)が唯一存在し、プロパトールは流出によって諸アイオーンを創造したとされる。
ソピアー神話
グノーシス主義においてはまた、アイオーン・ソピアーの失墜とその回復、分身の地上への落下の物語が記されている。グノーシス文献『この世の起源について』などにおいては、この世界がいかにしてデーミウルゴスによって創造され、人間の悲惨の運命が始まったのかを神話の形において説話している。
アイオーン・ソピアーはプレーローマにおける最低次のアイオーンであったが、知られざる先在の父(プロパトール)を理解したいと云う欲望に取り付かれた。彼女はこの欲望の故にプレーローマより落下し、分身アカモートを生み出し、アカモートは造物主デーミウルゴスを生み出した。デーミウルゴスはかくて、この世と人間を創造するのである。
ソピアーの娘・バルベーローはグノーシス主義バルベーロー派において地上の人間を救うとされているが、キリスト教では悪魔とされている。
ソピアーの救済、従って人類の救済と関連して、イエス・キリストもグノーシス神話においてはアイオーンと考えられた。”

イグナチオ・デ・ロヨラ
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/shinpi/royora.htm
“W・E・バトラーは、その著書の中で「魔術的イメージ」の概念を西洋に持ち込んだ功労者として、心理学者のユングとイエズス会の創始者イグナチオ・デ・ロヨラの二人を挙げている。

 ロヨラの基本的な立場は、「人間中心」の考え方であり、修行者は内面に向かい、自己認識を通じて神なり一者なりを認識するということである。これは、まず神あるいは一者を通じて自己認識を求める「神中心」の修行法と比較される。

 この修行は4週間に配分されて行われるが、それを読むと、この書では驚くほど具体的に瞑想の方法、イメージについて解説が成されていることが分かるであろう。
 イエズス会修道士達は、この書に基づいて修行をしたのである。

 ロヨラの生涯は波乱に満ちている。
 彼は1491年、スペインの少数民族バスク人の貴族の息子として生まれた。ロヨラ家はその歴史は12世紀にまで遡る名門であり、彼は13人兄弟の末っ子として生まれた。冒険好きで、だいぶ血の気の多い家系らしく、彼の三人の兄も遠い異国の地で軍人として戦死している。
 彼は幼いうちに母親を失った。そんな中、彼は学問よりも剣術を好む少年だったらしい。父親と父親の親友であるホアン・ベラスケスという貴族から教育を受けたが、父もその親友もロヨラが若いうちに死去してしまう。
 これを機に彼は単身ナバルラ国へと行き、そこで軍人として仕えることになる。この時の彼の生活は、かなり奔放なものだったらしい。
 1521年の従軍体験が、彼の生涯に大きな影響を及ぼす。
 この時、カスチリヤ国の内乱を鎮圧するためにナバルラ軍が出動したが、当時イスパニアと対立していたフランス軍が1万2千の大軍でもって、これに介入してきたのである。要するに、内乱に乗じて、フランスがナバルラを侵略してきたわけである。
 圧倒的な戦力の差により、ナバルラ軍は成すすべも無く蹴散らされ、ロヨラ達の篭るパンプローナ市の要塞は、フランス軍によって包囲されてしまう。
 この時、ナバルラの指揮官達は降伏を考えていたが、ロヨラは徹底抗戦を主張した。その結果、彼らは要塞に立て篭もって抵抗を続けた。ついにフランス軍は要塞に総攻撃をかけ、要塞は陥落してしまう。この時、ロヨラは右足の関節の下に生涯に渡る深刻なダメージを受け、左足にも重傷を負ってしまう。
 しかし、フランス軍は、彼の勇猛果敢さに敬意を表し、彼を丁重に扱い、手厚い看護を与え、さらに故郷のロヨラ城にまで送り届けてくれたのである。
 彼は1年間の闘病生活を送るが、この時、退屈を紛らわすために読んだ神学書がきっかけで、宗教者の道を進む決心をする。
 この闘病生活の時、彼は幻視体験をし、聖母マリヤの訪問を受けた。
 1521年、彼は兄の反対を押し切って城を出る。
 そして、たった一人で旅を続け、フランス人司祭のもとを訪れ、告白を行い、全財産を教会と貧民に寄付し、修道士となる。1522年31歳の時のことである。
 同年、彼はマレンサ地方の慈善病院に身を寄せる。ここで彼は、ドミニコ会の修道士達の指導のもと、すすんでみすぼらしい格好をし、苦行にあけくれた。彼の支持者は、既にこの頃から集まり始めていた。彼の支持者には女性が多かったらしい。だが、この4ヶ月に渡る苦行も彼を満足させることはできず、町外れの小聖堂に篭り、無茶な断食修行の結果、餓死寸前のところを救助されるという騒ぎを起こす。
 その後も彼は、無茶な断食修行を敢行しようとしたため、先輩修道士達は彼を厳しく説得しなければならなかった。ひとえに、彼の戦闘的な性格を物語るエピソードであろう。
 だが、これをきっかけに彼は、常識を身に付けた。無茶な断食はやめ、かつては風呂にも入らずみすぼらしい格好を好んだところを、普通に質素で清潔な服装をするようになった。
 彼が「霊操」の元となる原稿の執筆を開始したのも、この頃のことらしい。
 1523年に彼は聖地巡礼に出発する。しかし、この時の地中海の情勢は最悪で、キリスト教徒を迫害するトルコ軍や海賊がウロウロしている状況だった。それでも、ロヨラは嫌がる船員達を無理矢理説得して、エルサレムへと出かける。そして、船上で船員達と大喧嘩を引き起こし、殺されかねない騒ぎにまで発展したが、どうにか無事にこれも切り抜け、念願の巡礼を果たす。
 そして今度は地元のイスラム教徒たちをキリスト教に改宗させようという無茶を計画するが、仲間たちに説得されて、これも諦め、翌1524年に帰還する。本当に血の気の多い修道士である。
 しかし、この時イタリアも荒廃していた。フランス軍と神聖ローマ帝国軍の領地の奪い合いで、イタリヤの治安は最悪。ロヨラは、そんな戦場の中をほとんど丸腰に近い状態で強行突破しようとした。途中、神聖ローマ軍やフランス軍に拘束され、拷問され、殺されかけたが、偶然彼を捉えた軍人の中にバスク人がいたため、彼の好意によって釈放され、なんとか無事にスペインへとたどり着いた。本当に無茶な修道士である。
 その後の彼は、バルセロナ、アルカラ、サラマランカを渡り歩き、学問三昧の毎日を送る。少年時代に勉強をサボったツケを払わされ、ラテン語などは子供たちに混じって勉強したらしい。
 だが、彼の情熱と勉強熱心さは教師達を驚嘆させた。
 この時、彼は自分の息子ほどにも歳の離れた少年修道士達を同志とし、五人からなるグループを結成し、学問と修行に励んだ。
 だが、ここで彼の戦闘的な性格が災いする。1526年にアルカラの異端審問所に睨まれ、2回に渡る逮捕を受け、投獄すらされる。しかし、幸いなことに宗教裁判所の判決は無罪であり、釈放された。だが、厳しい監視を受けることになる。
 さらに、サラマンカに移るが、そこでも警戒され、地元のドミニコ会に拉致同然のやり方で、修道院に監禁される。
この時、所持していた「霊操」の原稿が彼らに見つかり、神学者たちはこれを読んで、彼に理解を示し、解放された。
 これ以上、若い同志たちに迷惑をかけるべきではないと判断した彼は、仲間たちと別れ、単身パリに向かう。1528年のことである。
 ここで彼は、若い学生達に混じって、40の手習いを敢行する。普通の学校ではつまらん、ということで、過酷なスパルタ教育で有名なモンテーギュ学寮を選んで入る辺りは実に彼らしい。パリ大学に入学し、1535年に至るまで学問を続けた。
 学問と併行して、彼は新たな修道会の準備をも進めていたが、これには挫折が付きまとう。最初の別れた仲間たちとは、いつしか溝が出来てしまい疎遠となってしまう。その後も三人の貴族を同志とするが、彼らの友人・親族の猛反対により失敗。しかし、3回目には、強力な同志を獲得する。
 ピエール・ルフェーザルと、かのフランシスコ・ザビエルである。当時、優等生だったザビエルは、最初はロヨラと対立していたが、やがて彼の人格に惹かれ、強力な同志となる。その後も、さらに四人の青年を同志として獲得し、1534年に彼らはパリのモンマルトルの聖ディオニシオ聖堂で請願を立てた。これこそが、イエズス修道会の始まりである。
 1536年には、さらに三人の同志が加わり十人となる。
 1537年に彼らは聖地巡礼を志す。この時、さすがにロヨラも慎重に行動するようになっていた。彼はローマ教皇のパウルス3世に謁見し、自分らの立場や思想を説明し、教皇を味方につけたのである。
 聖地に向かうまでの間、彼らはそれぞれに宣教活動を行っていたが、この時に「イエズス会」を名乗ったらしい。彼が、ルターやカルヴァンの猛威に対抗するためのカトリック内部の対抗宗教改革について考え始めたのこの頃らしい。
 やがて、地中海の治安は悪くなる一方で、彼らは聖地巡礼を中止せざるを得なくなる。
 その代わり、着々と新しい修道会の設立の準備を進めていた。
 そして、ついに1540年にイエズス会は、ローマ教皇パウルス3世にによって公認され、正式な修道会となる。このとき、修道会は60人の定員にすべし、という条件がつけられたが、この制限も1944年には解除された。そして1550年には、正式な会則も決まり、活動を開始する。
 彼は1556年に、永眠した。

 それはともかくも、我々は彼の著書「霊操」に注目すべきであろう。
 この著書は1520年代から書き始められたらしいが、当初は稚拙な内容だったらしい。これが1540年以降から大幅な改訂が行われた後に出版された。
 この書が、イエズス会の修道士達の修行の手引書とされたことは言うまでもないことであろう。
 この書においては、瞑想の方法が見事なまでに体系化されている。
 瞑想は4週間に分けて行われる。
 第一週は罪の認知と懺悔、
第二週はキリストの救済活動の観想、
第三週はキリストの受難の観想、
そして第四週はキリストの復活の観想である。
 ここで注目すべきは、従来のキリスト教神秘主義の瞑想者達は、静寂の中に神を観想し、賛美し、祈ることによって神との合一をはかった。すなわち、まず神を観想し、神を通じて一者を認識しようとしていた。つまり「神中心」の瞑想なのだ。
 これに対し、「霊操」では、瞑想者はキリストがどのように神の意志を実行し、模範を示されたのかを観想し、自分はどのようにしてキリストに従って神の意志を実行しなければならないか、というのを観想するのである。そして、瞑想者は自分個人に対する神の意志を知り、人類のための指名を実行することにより、キリスト教的な「真の自己」を覚醒させることにある。
 言い換えるなら、瞑想者は内面に向かい、自己認識を通じて神なり一者なりを認識するということであり、「人間中心」の瞑想なのである。
 この「霊操」の中で語られる、神との直接対話は、極めて実践的である。その瞑想方法は、インドのヨーガとの共通点もよく指摘され(一呼吸ごとに聖句を唱え、姿勢についても規定され、具体的なイメージを視覚化させられる等)、さらには秘教結社のイニシエーション同等の試練が課せられることでも注目すべきであろう。



「霊操」 イグナチオ・デ・ロヨラ 岩波文庫
「フランス ルネサンスの人々」 渡辺一夫 白水社
「キリスト教神秘思想史・3」 ルイ・コニュ 平凡社
「世界神秘学事典」 荒俣宏篇 平河出版社
「魔法入門」 W・E・バトラー 出帆新社”

偽ディオニシオス
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/shinpi/delonisiosu.htm
”ディオニシオス・アレオパギテースによって書かれたという所謂ディオニシオス文書としては、「天使位階論」、「教会位階論」、「神名論」、「神秘神学」、「書簡集」などが知られている。
 6世紀前半頃から、司祭ディオニシオスの著書と称する一連の文書が出回りだした。
 このディオニシオスとは何者か? ヨーロッパでは、長らくこの人物は聖パウロがアテナイで改宗させたという裁判官ディオニシオスであると信じられて来た。この説への疑問は早くも7世紀には出始め、ルネサンス期にも多く指摘されたが、結論が出たのは19世紀に入ってからである。詳細な書誌学的研究の結果から、成立は6世紀頃であると証明された。
 と言うのも、この書の思想はギリシャの新プラトン主義者として知られたプロクロスに依存しており、プロクロスが没したのが485年であり、彼の著書が公の場に現れたのが531年であるから、この頃に書かれたと推測されるのである。
 ディオニシオスが生きた使徒時代より、ずっと後世の成立である。
 それで、この一連の著書には、「偽」の文字が冠せられるようになったのである。

 とはいうものの、この神学書がキリスト教神学に与えた影響は計り知れない。
 6~7世紀の公会議において、これらの文書は真正な物の認定され、カトリック、東方正教会の両方で重要視されたのである。
 そして、何よりも、この著書は新プラトン主義の産物であり、著者はユダヤ教にも通じた神秘主義者であったことは間違いない。
 それゆえに、この本はキリスト教神学に新プラトン主義が流れ込む最大の原因ともなった。
 キリスト教神秘主義の成立において、この書の役割は凄まじい。
 さらに、彼の著書は、後のキリスト教カバラにも大きな影響を与えている。

 この書の登場は6世紀であるが、この時代、ユスティニアヌス帝がアテナイのアカデメイアを閉鎖させた年である。キリスト教の専横によって、ギリシャ哲学が潰された時代であるが、こうした新プラトン主義が、形を変えてキリスト教神学に潜り込むことによって生き延びた。
 この偽ディオニシオス文書は、そんな役割を果たした書でもあったのである。
 ともあれ、この書の著者は、間違いなくギリシャ哲学とユダヤ・キリスト教神学の両立を望んでいたことは間違い無いであろう。

 「天上位階論」においては、天使の階級が語られる。
 まず、神の被造物は3段階に分けられる。天使、人間、事物である。これらには、それぞれ位階が存在する。例えば、「人間」の位階は「教会の位階」であり、事物の位階は「律法の位階」である。


 偽ディオニシオスは言う。人間の魂は、まず感覚によって「律法の位階」を捉えることができる。次に「教会の位階」は、感覚と知性によって捉えることができる。最後の「天使」の位階は、知性によって捉えることができる。こうして、人間の魂は、これらの位階を捉え、理解することによって上昇し、神性の根源へと向かうべきであると言う。
 こうした天使の位階論と神への合一の思想が、キリスト教神秘主義の中で発展し、後世のキリスト教カバラに結実することは、言うまでもない。

 神は全てのものであると同時に、いかなるものでもない。すなわち神はあらゆる存在と非存在を超越している。ゆえに、神は我々の「知」を越えており、我々は神を知ることは出来ない。
 だから、我々は「神を知ることが出来ない」ことを知ることによって「無知」を得る。この「無知」は、実はあらゆる「知」を超えており、「神」のような超存在は、「無知」という体験から露になった現実である。
 すなわち、神は無知でもってのみ知ることのできる存在なのだという。
 神は我々の受容能力に応じて、自らを開示し示す。こうした開示の中でも最高のものが、この「無知」を得て、「神の闇」に入ることである。この「闇」は光の欠如のことではなく、あらゆるものを超えた状態のことを指す。
 我々はまずは最初に「知」によって上昇し、やがて「知」を超えた「無知」によって知ることの出来ない神と「合一」する。
 これがディオニシオスの「神との合一」であった。

 このディオニシオス文書は、しばらくギリシャ語のまま東方正教会に置かれ、西ヨーロッパでは忘れられていた。それが827年頃にビザンチン帝国がフランスに贈った。
 そして830年にラテン語に訳されたが、これは注目を集めなかった。
 しかし、860年にスコートゥス・エリウゲナによる新たなラテン語訳と注釈によって、やっと広く知られるようになる。
 そして、1167年にヨハネス・サラセヌスによるラテン語訳が決定的になった。アルベルトゥス・マグヌスやトマス・アキナスも、この訳に基づいて仕事を行った。



「キリスト教神秘主義著作集・1 ギリシャ教父」 谷降一郎・熊田陽一郎訳 教文館
「中世思想原典集成・3 後期ギリシャ教父・ビザンティン思想」 上智大学中世思想研究所 編・訳 平凡社”

ちょっと立ち止まって考えてみよう σ( ̄、 ̄=) 愚者の侃々諤々 (´▽`)ノ
http://blog.goo.ne.jp/watapi_1968/e/4f2604ce4e7b58086c53eefdb92ef25b

イエス・キリストは本当に十字架に釘づけにされたのか?真実を検証する
http://karapaia.com/archives/52214521.html

よーすけ‏ @yoshimichi0409 3 時間3 時間前
ユダヤ教徒の解放により近代においては、人種や民族・宗教問わず金融資本の所有者には成れた。マルクスの「ユダヤ人問題について」等でユダヤ的とは何もユダヤ教徒の有り様を指してる訳ではない。金融屋的メンタリティーを指すものとして使われている。正統派ユダヤは寧ろ金融屋には批判的! https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/800279934677630976 …
子子子子子@4記事更新‏ @kitsuchitsuchi 2016年11月20日
ユダヤの定義ができないユダヤ陰謀論者は
自分で何を言っているか分からないorわざと布教
キリスト教徒もユダヤ教徒も【ユダヤ】=金融特権の所有者になれたのは歴史的事実
×偽ユダヤ ×ユダ金
○【ユダヤ】業の白人
https://twitter.com/rolelei/status/573031855684902912 …
@kikuchi_8

子子子子子@4記事更新さんが追加
ローレライ @rolelei
ユダヤ人の定義①ユダヤ人が母←Xの定義にXは使えない②ユダヤ教徒←宗教で民族は定義不可考古学的証拠もなく、ヘロドトスも言及していないので聖書のユダヤ人は実在せず遺伝子も子孫も実在しません。ユダヤ教徒は実在。http://yomenainickname.blog.fc2.com/?mode=m&no=67&cr=2917189433b4f915c4a1c210e2af4bbb …読めないニックネ…

【ネタバレ注意】knznymmmyのガンダマニア入門8
http://codetripleseven.blogspot.jp/2016/03/knznymmmy8.html
”さて、十字架の形だ。バカボンのパパも後生大事に握ってるように
十字架は十字型というのが基本。
しかし十字架の具体的な形は聖書にも出てこない。
それどころかキリストが処刑された十字架は
本当はT字型、或いは単なる杭という説
がある。参考1 参考2

ヨハネ伝20章25節にはこう書いてある。
他の弟子たちが、彼に「私たちは主にお目にかかった」と言うと、
トマスは彼らに言った、「私は、その手に釘跡を見、
私の指をその釘跡にさし入れ、
また、私の手をその脇にさし入れてみなければ、決して信じない」
参考で私が持っているギリシア語対訳聖書。
ここから判断すると手が釘で打たれた事になる。
一本の杭よりT字か十字の方が可能性が高いようにも思える。
但し、ヨハネ伝は一番最後に書かれたと言われる。
また捏造・脚色が一番多いとも言われる。
特にこのトマスのエピソードはヨハネ伝にしか出てこない。
だから後世の捏造の可能性が高い。
それからロンギヌスの槍もヨハネ伝のみ。だからこれも怪しい。
逆に一番古い形を残していると言われるのはマルコ伝。

そもそも十字架刑で処刑をする時に手を釘で打っても
人間の体重は支えきれないと言われる。参考HP1 HP2
手の平が体重に耐え切れず引きちぎられてしまうらしい。
そこで仮に手に釘を打つとしたら前腕部に打つ。
これなら前腕部の骨があるから引っかかる。
よって「聖痕」と称して手の平の出血やアザを
得意気に見せるのは詐欺かキチガイ。

若しくはエヴァ旧劇場版のシンジ君。
でなければリリス。ヒントは催眠術。特に自己催眠。
そもそもキリストが釘で打たれたと示唆しているのは
先程のヨハネ伝20章のみ。
福音書でキリストが十字架にかかる場面は
マタイ伝27章、マルコ伝15章、ルカ伝23章、ヨハネ伝19章。
これら全てに関して「釘」は出てこない
先程の「仮に打つとしたら前腕部」の話と合わせて非常にウソ臭い。
よって十字、T字どころかただの棒という可能性含めて以下検証。

聖書の中で十字架という言葉が初出するのはマタイ伝10章38節
また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者は
わたしにふさわしくない。

キリストの処刑と関連した文脈でならマタイ伝27章22節、
マルコ伝15章13節、ルカ伝23章21節、ヨハネ伝19章6節、
その他多数。
原典=ギリシア語だとこんな感じ。ソースはここ
使われている単語はどの福音書でも基本的に同じ。
コレはマルコ伝15章13節。
私が持っているギリシア語聖書だとこう。
さて、この単語が示す形は?と思いつつググっていたら
面白いHP発見。リンク。

軽くダイジェストすると
ラテン十字架(普通の十字架)は
6世紀まではキリスト教美術に出てこない。
初期キリスト教のシンボルは十字架ではなく「よき羊飼い」の像。
初期のキリスト教徒は、むしろラテン十字架をdisりまくり。
例えば3世紀の神父ミヌキウス・フェリクス。

キリスト教以前の古代ではこのラテン十字架は異教のシンボル。
十字架=男性性器。円や楕円=女性性器。
つまり一緒にすると聖婚=ケルト十字。
ついでだ。書いてしまえ。これも似たような象意だろ?
薔薇の花が女性器を示す。ハチは針があるから男性器。
もちろんこの薔薇十字につながる話題でもある。
ケルト十字はエジプトの護符でもあり、
ヒンズー教にもある。(勿論、丸に十字=ヤ♥ツ♥ら♥)
コロンブス以前のアメリカ美術でも十字架は神の愛と死を表す。
イシス崇拝では、イシスが手に十字架とハスの種子の入れ物を持つ。
これも男性生殖器と女性生殖器。
イシスの夫=サラピスはプトレマイオス王に化身した。
ダミエッタ・ストーンには、「救世主プトレマイオス」
という文字に続いて十字架が書かれていた。
十字架がいつキリスト教のシンボルになったのか詳細は不明。
一時期はラテン十字架ではなく、
T字型の十字架がキリストの象徴だった事もある。
このT字型の元ネタはドルイド=ケルトの可能性がある。
現在このタウ十字はラテン十字架に取って代わられたので
一般に、聖ピリポが掛けられた十字架であるとされる。


fate grand orderおもろセリフまとめ1
http://codetripleseven.blogspot.jp/2016/12/fate-grand-order.html
”まず、アーサー王はケルト人の王様だ。しかも6世紀。
勿論、ケルトだドルイドだと言えば
ねこた先生もキリスト教の元ネタじゃないのか?と
大注目の重要ポイントである。
アイヤー(笑

ついでにキリスト教美術には元々十字架なんか登場しなかった。
いや、そもそも美術に限らず、
刑罰としての十字架そのものが存在しなかったのでは?
というのは過去記事で私が仮説をぶち上げている。

それが急に十字架は神の愛がどうだの、神聖だのありがたいだの
意味不明な猛プッシュを受けだしたのがまさに6世紀。
アイヤー(笑

せんせえ、何でアーサー王の時代と一致するんですか?
せんせえ、ついでにケルト十字って何ですか?
せんせえ、ついでにイシス崇拝って何ですか?
せんせえ、「ケルト」十字がエジプトにもあるのはなぜですか?
せんせえ、「すこちゃんランド」とか
けしからんツイッターしてる人がいるのはなぜですか?
せんせえ、ついでにアトン信仰って何ですか?
せんせえ、ついでにアマルナ革命って何ですか?
せんせえ、ついでにアメンホテプ4世って誰ですか?


キリスト教のパクリや経歴詐称がバレるから
そういう質問をしてはいけません(笑”

knznymmmyのラテン語ペラペラプロジェクト8
http://codetripleseven.blogspot.jp/2016/07/knznymmmy8_34.html
”注目点は"cruce" これはcrux=十字架の奪格単数。
キリスト教徒が大好きなあの十字架だ。
例えばcruceで画像検索しても十字架が大量にヒットする。
しかもキリストの処刑のシーンにもこの単語は出てくる。
例えばマルコ伝15章30節。私の持っているウルガタでは
salvum fac temet ipsum descendens de cruce

口語訳だと「十字架からおりてきて自分を救え」
よってcruceが十字架なのは確定。

それなのに創世記40-19で
「十字架」という訳を採用しているのは
ウルガタとエルサレム聖書のみ。他は全て「樹」だ。

エルサレム聖書ではgibetと書いてある。
本来、フランス語で十字架は一般的にla croix
gibetとは何か確認してみた。
私の持っている辞書では「絞首台 磔柱」と書いてある。
そして例として「gibet du christ キリストの十字架」
とも書いてある。私が持っている辞書は
旺文社のプチロワイヤル仏和辞典第4版。
一応googleの画像検索してみた。
画像検索の結果から判断すると絞首刑の台を第一に意味するようだ。
あれ?じゃあ gibet du christ はキリストの十字架じゃなくて
キリストの絞首刑では?
le pendu乙!タロット乙! オーディン乙!

一般的な認識では樹木と十字架は別物のはずだ。
原典のBHSはどうだろうと見てみると「木」だ。
עץ
これ(↑)がBHSの中の「樹・木」だ。
本当にコレが樹木なのか不安なら
コピペしてgoogle画像検索すればいい。
ものすごい数の樹木が出てくる。
しかも創世記3章でも同じ単語は出てくる。
アダムとエヴァが「園の中央の木」の実を食べた場面だ。
ウソだと思うのならここでも見てくればいい。
英語の対訳付きのBHSだ。
だからBHSが「木」と書いているのは確定。

ではウルガタの「十字架」は誤訳なのか?というと
私の解釈ではこの箇所に関しては全部の訳が正解。
誤訳は無い。

しかし、樹木と十字架は別物では?
というのは現代人の浅はかな考え。
樹木と十字架は別物ではない。同じものだ。

過去記事でも既に書いた事だが
キリスト教美術では6世紀まで十字架が出てこない。
むしろ、初期の教父は十字架は異教のシンボルだと言って
disりまくった。
ウルガタが書かれたのは 新約は383年。旧約は405年。
まだ十字架が神聖視される以前だ。
そもそも十字架があのプラスの形で
しかも釘で打ち付けるというのは物理的にあり得ない。
人間の体重を支えきれずに手が裂けてしまう。
だからミトラ教みたいなTの字、
いやむしろ、ただの一本柱の方が可能性は高い。
しかし一本柱にしても人間ひとりの全体重を支える訳だ。
地面を掘り返して柱を立てるのは面倒。
樹木があれば樹木を使う方が手っ取り早い。

そしてこの創世記40章19節のせいで
一本柱どころか樹木では?という可能性が更に上昇する。
元々cruxはただの樹木という意味だった(ウルガタ時代)が
後付けで「十字架」「例のプラスマーク」に改竄された疑惑だ。
しかもそのプラスマークの元ネタが異教。

しかもその一本柱or樹木でどう処刑する?という問題が残る。
一本柱だとしても人間の全体重を支えられるほどの釘があるのか?
という問題が残る。
やはり絞首刑の方が簡単・確実ではないのか?
やはり北欧神話のオーディンにつながってきた。
オーディンはユグドラシルの樹で首を吊った。
これがキリスト教の十字架と妙な一致をすると過去記事で書いた。
そして今回のgibetは「十字架」であると同時に
「絞首刑の台」でもある。
十字架はそもそも絞首刑だったのでは?
形も全然十字じゃなくて、ただの樹だったのでは?という疑惑。
絞首刑、首吊り、オーディン、十字架、キリスト。
全部つながってしまう可能性が更に上がってきた。
いやあフランス語勉強しておいてよかった。
意外な所にオーディンの突破口があるもんだ。
くさい。猛烈にくさい。これはマルセイユタロット。
これはライダーウェイトタロット
あれ・・・!! Tの字じゃないか!とことん臭い。


聖書はプトレマイオス朝のエジプトで書かれたという疑惑がある。
プトレマイオス朝のエジプトは紀元前306年〜紀元前30年。

一般には、ちょうど同じ紀元前3世紀から紀元前1世紀頃に
ヘレニストユダヤの増加に伴い、ヘブライ語の旧約聖書が
ギリシア語に翻訳されたと言われる。
これがセプチュアギンタ=七十人訳。略称LXX

ヘレニストユダヤとはユダヤ人だがヘブライ語ではなく
ギリシア語を話す人々。

また、紀元前の話なのだからキリスト以前の話だ。
だから当時は新約聖書は無い。

私(や、ねこた先生その他)が考えているのは
「既に存在したヘブライ語の旧約聖書」が
実は存在しなかったのでは?という疑惑だ。

いや、完全にゼロとまでは言わない。
過去記事でも、私自身、旧約聖書は古代クソラエルの
南北朝時代に書き始められたと推測している。
勿論、聖書のパクリ元の書物となればそれよりも更に以前だ。
「書き始めた」だけで、全然未完成だった旧約聖書が
プトレマイオス朝で大幅に加筆、書き換えされた。
それが修正というレベルでは済まない程、大規模だったので
「旧約聖書はプトレマイオス朝で書かれた」と言えるのでは?
という問題提起だ。
勿論、大規模とは具体的にどの程度大規模なのか?
具体的にどことどこがプトレマイオス朝で加筆された部分か?
それは今後の課題でもある。しかし既に判明している内容もある。

ひとつは「パロ」 新共同訳での「ファラオ」
これは先生が鋭い事を書いていた。多少省略しながらコピペ。
リンク1 リンク2 リンク3 リンク4

ねこたさんは、旧約聖書は紀元前3世紀頃の
プトレマイオス朝時代に成立したと考えてるの。
大人の世界の聖書学では紀元前6世紀頃に口伝のものを
文字にしたとか言われてるけどありゃ嘘ですな。
旧約聖書の出エジプト記を見ると、ファラオのことを
「パロ」って書いてあるでそ?
(中略)
プトレマイオス朝以前の成立はありえないかと。
ファラオ(大きな家)ってギリシャ語だからね。
エジプト語では「ベル・アア」って言うの。
もしヘブライ語の最古の写本にベル・アアと書いてなければ、
プトレマイオス朝の可能性が出てくるよ。
ねこたさんはね、大人の世界の聖書学では、
ギリシャ語の70人訳のセプトゥアギンタが紀元前70年に
成立したらしいけど、
ヘブライ語聖書の編纂とギリシャ語聖書の成立は
あまり間をあかないで成立したと思う。
プトレマイオス朝が臭いな。

では問題のBHSを見てみる。
パロ、若しくはファラオとしか読めない単語が出てくる。
参考→リンク
出エジプト1章11節のパロ。どう頑張ってもベルアアではない。

ベルアア=エジプト語=大きな屋敷。
これが本来のエジプトでの王様の呼称。
(バアルゼブブも高き屋敷の主というのをお忘れなく♥)
日本語でも「殿様」の「殿」は「御殿」の「殿」だ。
「お宅」は「あなた、お前」を意味するが「宅=家」だ。
(キモヲタの、そっちのオタクはここ20、30年の話だ)
それと少し似ている。

ベルアアではなくてパロ。
或いはパロのギリシア語読みであるファラオ。
これが当然のように出てくるのは怪しいという先生の指摘だ。
プトレマイオス朝はヘレニズム文化=ギリシア文化系だった。
聖書がプトレマイオス朝で書かれたのならギリシア的な
表現や単語が出てきても、むしろ当然という指摘だ。

「パロ」が出てくるのは出エジプトだけではない。
日本聖書協会HPで聖書の全文検索ができる。
「パロ」は旧約限定でも100回以上出てくる。
創世記、出エジプト記、申命記、サムエル記上、
列王紀上・下、歴代志上・下、エズラ記、ネヘミヤ記
詩篇、雅歌、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書にヒットあり。
これだけヒットすれば、かなりの規模の改竄。加筆。
勿論、「パロ」だけが怪しい訳ではない。
怪しい箇所は他にもある。
例えばラクダの飼育が始まったのはいつだ?という問題。
参考→読めないニックネーム
地中海東岸地域でラクダが家畜化されたのは
紀元前10世紀では?と学術的に推測される。
参考→リンク(ナショナルジオグラフィック日本語版)
しかし聖書の中でラクダの初出は創世記12章。
アブラハムの時代だ。
アブラハムは従来の通説では紀元前20世紀頃の人物。
あやしい。実にあやしい。千年以上水増しされている疑惑。

しかもセプチュアギンタの書かれた時代は
3度のポエニ戦争が起きた時代と重なる。
(紀元前264-241、紀元前219-201、紀元前149-146)
そしてポエニ戦争=フェニキア=ユダヤの正体。
あやしい。ユダヤという捏造民族が出て来る丁度その頃に
そのユダヤ人の経典が絶賛執筆中だった疑惑。
しかもその計画立案、指揮命令者のローマを陰で操るギリシア?
(ローマは元々後進国でギリシアの植民地云々の話を思い出せ!)
聖書の中にもこれ本当はギリシア哲学視点で読まないと
意味不明じゃないのか?という箇所はある。
たとえばヨハネ伝1章。ロゴスはテオスとかあのへん。

先生は鍵を握るのはストア派、ネオプラトニズム、ドルイド
あたりでは?と推測中。
そのへんはまだまだ私自身素人。今後の課題。
しかしネオプラトニズムと言えばプロティノスが創始者。
こいつは紀元後3世紀のエジプトの人物。まーたエジプトか!
プラトンは紀元前427〜347。プトレマイオス朝登場の少し前だ。
プラトンが爺さんになった頃アレクサンドロス大王が生まれている。
そしてこのアレ君の帝国が分裂してプトレマイオス朝ができた。

プトレマイオス朝はアウグストゥスによって潰された。

これだって証拠隠滅を兼ねていたのではないか?
情報漏洩を防ぐために遠い異国に発注して、
用事が済めば口封じと証拠隠滅かねて
「もう貴様に用はない」
アウグストゥスはローマ帝国初代皇帝でカエサルの息子。
厳密にはカエサルの姪の息子。カエサルは厳密には養父。
直接の親子関係は無い。

アウグストゥスがプトレマイオス朝を潰す以前から
ローマ帝国とプトレマイオス朝の間には色々と交流があった。
例えばエジプト起源のイシス教がローマで流行。
或いは絶世の美女として有名なクレオパトラは
プトレマイオス朝のファラオでしかもカエサルの愛人


イシス教はここ(あほー知恵袋)がなかなか鋭い。
簡単にダイジェストしてみる。

イシス教は紀元前86年にローマへ流入。ローマ帝国で大流行。
イシスはローマ在来の神々と同一視された。
例えば、ミネルヴァ女神やアフロディーテ女神。
(注:ミネルヴァ=や♥つ♥ら♥)
イシス教が流行した理由はいくつかある。
まず、エジプトは神秘的な国と見られていた事。
そして「密儀」「秘密の儀式」がウケた。
(注:ミトラ教も非公開主義だった件)
また、従来のローマの宗教と違い
イシスの儀式に女性も参加できた。だから女にウケた。
(注:キリスト教も昔は女の宗教と叩かれた)
そしてイシス教は個人主義な側面があった。
ローマの従来の宗教は家長に依存していた。
パパンが司祭でパパンが偉かった。
(注:聖書にこういう一節がある。
「私よりも父または母を愛する者は、私にふさわしくない」
マタイ伝10-37)
勿論、キリスト教の聖母マリアの元ネタのひとつはイシス教。


ふーむ。実に臭い。エジプト要素がウケるのを見た支配者層は
二匹目のドジョウを狙ってプトレマイオス朝エジプトに
下請けでキリスト教を発注した(?)
いや、ミトラ教の記事で書いたように
そもそもイシス教もミトラ教もキリスト教も
全部世界宗教を作るための試行錯誤テストケースだった(?)”

Cross(十字架)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/cross.html
”ラテン十字架(パッションクロスとも言う)が今ではキリスト教の主要なシンボルとなっているが、6世紀まではキリスト教美術には現れていなかった[1]。キリスト教の時代より遥か昔においては、この十字架は、ヨーロッパや西アジアにおいては、異教のシンボルであった[2]。初期キリスト教徒たちは、それが異教のものであったために、排斥さえした。3世紀のキリスト教会の神父であったミヌキウス・フェリクスは、キリスト教徒たちがラテン十字架を崇拝することに憤慨して、次のように言った。「お前たち、それでは異教徒ではないか。木の十字架を崇拝するなんて、それはまさに異教徒のすることだ……お前たちの記章や旗や標識と言えばただぴかぴかの美しい十字架だけではないか。そしてお前たちの勝利の記念品はただの十字架だけではなく、その上に人間を乗せている」[3]。

 太古の昔から、十字架に人形を吊したものが畑に立てられて、穀物を守った。現代でも見られる案山子はこうした生贄呪術(その人形はその血が大地を実り豊かにすると考えられた聖王を表すものであった)の名残りである。実際には案山子を立ててもカラスを脅すことはない、と農夫たちは皆知っていても、その人形が棄てられることは決してなかった[4]。

 十字架はまた男性のシンボルでもあり、男根を表す「生命の樹」であった。そのため、女性性器を表す円、または楕円形と一緒の形になる(聖婚を表す)ことも多かった。男性を表す十字形と女性を表す球体が一緒になると、それはエジプトの「護符ネフェル」、すなわち至福の護符(性的調和の護符)となった[5]。

cross_latin.gif いわゆるケルトの十字架は腕木のところに輪が交叉しているものであるが、それは、ヒンズー教徒にキアクラKakraとして知られている性的一致を表す男根と女陰のしるしに相当するものであった[6]。古代のケルト十字架で今なお存在しているものもあるが、それらは明らかに男根的要素を示している。その先端に尿道がリアルについているものさえある[7]。

 コロンブス以前の南北アメリカ大陸の美術を見ると、そこでも十字架は神の愛と死を表していた。救世主が自分の十字架をかついでおり、それはキリスト教のそれと全くよく似た像であった[8]。

 十字架がいつキリスト教と結びついたか、正確なところは誰も知らない。イエスの初期の像を見ると、それは十字に乗っているイエスではなく、仔ヒツジを連れているウシル〔オシーリス〕のような、また。ヘルメースのような「よき羊飼い」の姿であった。cross_latin.gif後世になると、さまざまな十字架がキリスト教のシンボルとして用いられることになった。ギリシア十字架と言われる縦横同じ長さの十字架もあれば、X型の聖アンデレの十字架、かぎ十字架、グノーシス派のマルタ十字架、太陽十字架(ヴォータンの十字架)、取っ手のついた十字架(エジプトの輪つき型十字形ankhが発展したものウェヌス〔ヴィーナス〕の十字架とも言われる)などいろいろあった[9]。

 ギリシア人は、この十字架は「クリストスやサラーピス崇拝にはよく使われた」[10]と言った。アセト〔イーシス〕崇拝の銘板を見ると、アセト〔イーシス〕の姿は一方の手に十字架を、もう一方の手にはハスの種子を入れる容器を持った姿で描かれている。それらは男性生殖器と女性生殖器を表すものであった[11]。アセト〔イーシス〕の夫であったサラーピスはプトレマイオス王に化身した。ダミエッタ・ストーンには、「救世主プトレマイオス」という文字に続いて十字架があった。敬虔なるキリスト教徒の学者たちが、この文字はやがてキリストが現れることを現実に予言したものであると主張したことがあった[12]。

cross_latin.gif ラテン十字架ではなくて、頭のないT字型の十字架をキリストのエンブレムとした時期があった。異教徒であったドルイドから借りてきたものであったのかもしれない。彼らはオークの木の枝を払って、2本の大きな枝を先端につけ、それで人間の腕を表したT字型十字架を作った。これがタウThau(神)であった[13]。

 T字型十字架は聖なる日のしるしであった。聖なる日とは十字架発見の日であった。それは、エルサレムにあったアプロディーテーの神殿の地下聖堂で、コンスタンティヌス1世の母親であるヘレナが、イエスが掛けられた本当の十字架を発見したことを祝う日であった[14]。

 ラテン十字架に取って代わられたのちは、一般に、T字型十字架は聖ピリポが掛けられた十字架であるとされた。ピリポはプリュギアでT字型十字架に掛けられたと考えられている。彼はそこでドラゴンの姿をした神マルスを退治しようとした[15]。このことはT字型十字架が五月祭の日のしるしであったことを意味する。それというのも、キリスト教会はその日を聖ピリポの日としたからである。そしてドルイド教のタウThauが五月柱と混同されることになった。”

ーーー

お読みくださり感謝しますわ!

イスラム圏でのメーソン禁止についての英語版ウィキの要約と『グノーシスの神話』 

カトリックは教会法(≒教義)でメーソン入会禁止。
初期メイソンはユダヤ教徒入会禁止。
ほとんどのイスラム圏ではメーソン自体が禁止。
必然的にメーソンはプロテスタントだらけになる。
メーソンがイスラム圏で禁止なのはイスラムをプロテスタント化させる秘密部隊だからでしょう。

英語版ウィキの反メーソンの項目の要約。
誤訳があったら教えてください。

カトリックの12世(ローマ教皇)が、フリーメイソンを排斥する初めての教皇文書「イン・エミネンティ」(1738年)が発令すると、
オスマン帝国のスルタンであるマフムト1世もメーソンを違法にし、メイソンを無神論とみなす。
フランス系の大東社の反教会と無神論傾向が強まるとでさらにメーソンへの圧力が強まる。
第一次大戦後、イギリスの影響下でイラクにいくつかロッジができる。
が、1958年のクーデターでイラクは王政から共和制に移行すると、メイソン許可証が無効となり、その後の法律で禁止。
イラクのサダム・フセインがメーソン含むすべてのシオニスト団体への弾圧強化。

イスラム圏での反メーソン陰謀論は、反ユダヤ主義と反シオニズムと強く結びついている。
ダジャル(イスラムの偽救世主)と結びつけられることもある。
イスラム教徒の中には、メーソンがユダヤ教徒を支援し、目的の一つがエルサレムにソロモン神殿を再建し、アル=アクサー・モスクを破壊することにあると考えるものがいる。
ハマースはメーソンだけでなくロータリークラブも類似団体も禁止。
イスラム教徒が多い国の多くがメーソン系組織の設立を禁止。
イスラム圏でメーソンロッジがあるのは、
トルコ、モロッコ、レバノン、マレーシア。
トルコとモロッコにはグランドロッジがある。
レバノンとマレーシアにはグランドロッジの保証の元で地方グランドロッジ(District Grand Lodges)がある。

(ハマースは、イスラーム主義を掲げるパレスチナの政党でスンニ派原理主義。
ムスリム同胞団のパレスチナ支部を母体として創設。

イスラム圏のメーソン陰謀論もキリスト教圏のユダヤ陰謀論と同じ設計図。用語を少し入れ替えるだけ。
広まるきっかけの本がありそうだけどアラビア語が読めないから断念。
ローマ教皇が出したメーソン叩き文書の劣化コピーっぽいけど。

第一次世界大戦後のオスマン帝国の解体により、3つの州(副地区)から成るオスマン領イラクはイギリスの支配下に置かれイギリス委任統治領メソポタミア(British Mandate of Mesopotamia)となった歴史があり、英国系メーソンロッジができた。
共和制になったイラクがメイソン禁止して、フセインがさらに強化。
イラクが徹底的に攻撃された理由の一つ。
イラクの英米系WASPロッジを潰したことへの復讐。

モロッコは元フランスの植民地。
現在のレバノンから到来したフェニキア人が現在のチュニジアあたりにカルタゴを建設し、モロッコ沿岸部にも港湾都市を築いたからメーソンが超必死なのかも。

トルコがメーソンOKなのは当然。
トルコ建国の父ケマルがメーソン=新キリスト教だから。
彼がトルコを脱イスラーム化しキリスト教化させた。

レバノンではキリスト教マロン派(マロン典礼カトリック教会)が先祖がフェニキア人だと主張しているのが気になる。
マロン派はフランスと密接で、レバノン大統領はマロン派から選ばれる習慣らしい。
日産ゴーンがマロン派ということは彼はフェニキア人の子孫かつ教義がカトリック。
教会用語や祈祷書が古シリア語やアラビア語。バチカンから独立していることが重要。

マレーシアは華僑関係だろうね。
日本は東アジアなのに華僑系の陰謀情報が少ないのが露骨だね。

レオ13世は『フマヌム・ゲヌス』にて、メーソンが下位メンバーにすら上層部の情報を教えないことを非難し、マニ教と同じシステムだと非難。
わざわざマニ教という固有名詞をだした理由は本記事後半の記事でよくわかるでしょう。
でも、カトリックも下位メンバー=信者には上層部がやっていることを教えないよね。
真のトップの名簿も明かしていないよね。
ローマ法王はあくまで看板。
そもそもメーソンがカトリックの支配システムを取り入れているからね。

英語が読めないと本当に損だなあ。
日本語訳されていない英語文を読めるようにあがくのが一番手っ取り早く英語力がつくよ。
知らない単語はドラッグして検索し、画像検索もして映像とともに意味を記憶する。

フェイド大帝 @FeydoTaitei15年6月25日
@lakudagoya
メイソン嫌いの法王レオ13世に
よるとメイソンもマニ教も
秘密主義で例えば組織のトップの
名簿を一般公表しない事が気に
食わなかったらしい。
http://w2.vatican.va/content/leo-xiii/en/encyclicals/documents/hf_l-xiii_enc_18840420_humanum-genus.html)

カトリックはメーソンはマニ教を真似ていると指摘して禁止
しているので当然マニ教が警戒された理由も知っておくべきなので↓読書メモも載せておく。

∸――

『グノーシスの神話』(大貫隆):講談社学術文庫


・グノーシス主義
=①人間の本質は至高の神の一部であり、その本質を絶対的に超える存在はない。
②ただし現実の人間は居場所を間違っている。本来の場所へ立ち帰らねばならない。
③このことの「覚知」(「認識」、ギリシア語でグノーシス)こそがその立ち帰りの途を開く。
 =人間即神也。
神々の頂点の至高神が実は本来の人間の別名であることを見抜かないといけない。


・グノーシス神話は大まかに三タイプある

①ナグ・ハマディ文書
主として初期ユダヤ教の影響下。
人間(至高神)は旧約聖書の神をはるかに超越している。代わりに間違った居場所
への人間の墜落の原因も、究極的には人間自身の内面の破れに求められる。

②マニ教
ゾロアスター教に根差している。人間が間違った居場所に拘束されているのは、太古における光と闇の戦闘の結果である。

③マンダ教
両者の混合

・グノーシス主義は初期ユダヤ教の周縁に、原始キリスト教とほぼ同じ頃に現れ、やがてキリスト教と接触するに及んで、最大の異端とされた。なぜなら本来の人間は至高神の一部であり、現実の人間は居場所を間違えていて、それゆえ自分の本質を認識=グノーシスして本来の場所へ立ち帰らねばならない、という思想だからである。

旧約でわかるように、主ヤハウェは創造神であり唯一神であり、被造物たる人間はあまりにも創造主と比べて卑小である。人は人であり神には絶対になりえない。神と人間の間の不可逆・非対称の関係こそが旧約聖書の創造信仰の核心。

ストア派のクレアンテース『ゼウス賛歌』(ストバイオス『詞華集』に収録)を引用する。
クレアンテースは、紀元前四世紀にキティオン(キプロス島)のゼノンによってアテネで始められたストア派の二代目学頭を務め、ゼノンの体系に宗教的色調を添えた人である。

“その雷鳴をもってあなたは世界を導き、万物の中にあまねくロゴスをゆきわたらせ

自ら天の大小の光と混じり合う。
ロゴスをもってあなたは万物のかくも偉大な王であられる。
〔…〕
あなたには敵対するものも友となる。
そのようにしてあなたは善きものを悪しきものに結び、あらゆるものを一つに調和させ
ただ一つロゴスを万物の上に永久に在る
ものとされた。”p.22-23

ストア派ではゼウスは決して旧約聖書のような超越神ではない。
実質上は宇宙万物に内在かつ遍在し、すべての事物を導くロゴス、つまり万物の理法と同一である。
この理法は世界の中に現れる悪をも善きものに結びつけ、あらゆるものを一つに調和させる力である。
まさしくストアの予定調和説である。
ストア派はこの理法・ロゴスが大宇宙の中では恒星天(地上から数えて第八天)にもっとも濃密に宿っていると考えた。そこから地上に向かって七つの天を下降するにつれて、その遍在の濃度は薄くなってゆく。地上では人間種族がそれに最も多く与っている。
さらに小宇宙として個々の人間の内部でも魂が八つの部分からなり、その全体を統括する第八の指導的部分
にロゴスが宿る。
こうしてストアでは宇宙万物と人間がマクロコスモスとミクロコスモスとして大小の同心円として対応する。


『マンダ教祈禱集』第九十四篇、私訳

“幸いなるかな、幸いなるかな、魂よ、
  汝は今この世を立ち去れり。
汝は立ち去れり、滅びと
  汝が住みし悪臭のからだ、
悪しき者たちの住まい、
  もろもろの罪に溢れたこの場所を。
闇の世界、
  憎しみと妬みと不和の世界を、
惑星たちの住むこの住まいを。

彼らは苦しみと破壊をもたらす。
彼らは苦しみと破壊をもたらし、
日々、試練を引き起こす。

立ち上がれ、立ち上がれ、魂よ、
昇り行け、汝がかつて在りし地へ。
昇り行け、汝がかつて在りし地へ、
そこから汝がこの地に植えられた地へ。
そこから汝が植えられた地へ、
ウトラ(神々)たちの間の汝の良き住まいへ。
起き上がれ、汝の栄光の衣を身にまとい、
戴くべし、汝の活ける冠を。
座すべし、汝の栄光の玉座に。
「いのち」が光の地に備えし玉座
に。
昇り行きて住まうべし、
汝の兄弟、ウトラたちの間なる住まいに。
汝が学びしごとく、
汝のいにしえの故郷をさきわい、
汝を養いしこの家の地を
呪うべし。
汝がこの地に在りし年々は、
「七人」が汝の敵なりき。
「七人」が汝の敵、
「十二人」が汝を迫害する者なりき

しかれども「いのち」はいと高く、勝利に満つ、
勝利に満つ、この地から去りしこの者も。“
p.26-28
 
「七人」=七惑星(太陽含む)
「十二人」=黄道十二宮
人間は自分が肉体と魂、すなわち本来の自己に分裂していること、
本来の自己の居場所がこの世界にないことを発見し、この世への絶対的違和感の中で本来の自己がそれらを無限に超越する価値であると信じるのがグノーシス主義。
惑星を創造した神は真の神ではない。グノーシス主義は人間の本来の自己を端的に神だと宣言する。
グノーシスのマンダ教では、死者の魂が目に見える宇宙のかなたの光の地にいるウトラと兄弟であり彼らの間の至高神「いのち」のもとに用意された玉座に座ると表現しており、
魂と至高神は同質であり、人=神である。

・①イラン・マニ教型(東方型)
人間の真の自己の隠喩としての光、対立原理の闇をはじめから設定し、互いに対立させ、二つの原理が混合しあう事件を考える。宇宙生成以前に起きたその事件により光の一部が闇の中に失われた。光の側は失われた部分を取り返そうとし、闇の側はそうはさせまいとする。
目に見える宇宙万物と人間の肉体は、戦略的に創造される。人間の救済は闇の中に捕縛された光の部分の濾過回収がどこまで成功するかにかかっている。

②シリア・エジプト型(西方型)
光そのものの中に一つの「破れ」が生じて、それが原因となってやがて闇の領域に造物神が生成する。造物主によって目に見える宇宙万物が創造され、その中に人間が「心魂」と肉体からなるものとして造られる。その心魂的および肉体的人間の中に光の部分が至上の原理として宿ることとなったのは、その破れを修復しようとする光の勢力が造物神の知らぬ間にそれを注入したことによる。個々人の救済は、このことを認識し、ふさわしく生き、肉体の死後、造物主の支配する領域を突破して、そのかなたの光の世界へ回帰することにある。
この方は後2世紀の半ばのアレクサンドリアに成立したヴァレンティノス派を筆頭に、パレスティナ・シリアにも展開したさまざまなグノーシス主義グループの神話によって代表される。ナグ・ハマディ文書の大半がこの型。

・マンダ教の洗礼の儀式はヨルダンと呼ばれている。

エイレナイオスは『異端反駁』にて使徒行伝にて「魔術師あるいは大能と呼ばれる神の力」と言われているシモンを、あらゆるグノーシス主義の始祖と断定している。シモンの名を継いだシモン派が文献に記録されたグノーシス主義教派としては最古の一つであることは間違いなく、しかもその震源地サマリアはユダヤ教の伝統が異教とまじりあった場所。
シモン派のものという『大いなる宣教』によるとシモン派がシモンを神格化し、シモンから流出した女性的存在エンノイアをめぐる救済神話を創造していたことがわかる。


・キリスト教との接触が明確なグノーシス主義をキリスト教的グノーシス主義と呼ぶ。その最も早い時期の小アジア出身のケリントス曰く、天的なキリストが人間イエスと洗礼時に合体し、イエスの十字架上の刑死の前に離脱したという説(仮現論)を唱えたという。

・二世紀の中葉以降になると本格的な体系を備えたグノーシス主義が登場。その一つがバルべーロー・グノーシス主義でバルべーロー(Barbelo)(原意不明)を救済神話の最上位に近い位置に置く教派で『ヨハネのアポクリュフォン』が代表的。

・自分たちをアダムの第三子セツ(邦訳「セト」)の子孫と考えるセツ派がある。

創世記三章の堕罪物語の蛇(ギリシア語でオフィス)に救済論上重要な役割を与えるオフィス派がある。が同じ特徴を持つナハシュ派(ナハシュはヘブル語で蛇)、ペラータイ派(宿命の鎖を「超克する者たち」の意)、セツ派があるとヒッポリュトスが指摘。

・二世紀中葉は自覚的にキリスト教にかかわりつつ自己形成をとげたキリスト教グノーシス主義者が登場し、最初の人がバシリデース。
バシリデースの神話は
①エイレナイオス曰く、
後述のヴァレンティノス派と同じく神論、宇宙生成論、人間生成論を上方から下方へ垂直的に展開するタイプのものである。

②ヒッポリュトス曰く
「存在しない神」がはるか下方に置いた「世界種子」すなわちやがて生成するべき万物を潜在的に内包した種子から、宇宙万物の創生、人間の種族の分解を極めて体系的に物語る。

バシリデースに少し遅れて登場したヴァレンティノスはキリスト教史上最大のグノーシス主義者、したがって正統主義教会にとって最大の異端者と呼ばれた。
神々で充満する領域(ギリシア語でプレーローマ)、その下の中間界、さらに下の最下位の物質と暗黒の闇の世界のすべてを上位のものが下位のものを流出するという流出原理にもとづいて導出する主義一貫した体系。

・三世紀にグノーシス主義の集大成として花開いたマニ教の背後には善悪の絶対的二元対立から始まるゾロアスター教の伝統が隠れている。西は北アフリカを中心に地中海世界を席巻し、東はシルクロードを通り中央アジアと中国内陸まで達した。ウィグル王国では763年国教になっている。


(ゾロアスター教はマニ教を完全否定する思想なので注意。

⓵「事実と意見を区別」
②「思う、感じる、感情表現の禁止」
を守れば論理的文章がすぐ書ける!←そんなことより 「丸に十字」「人型の十字架」「エプロン」のマンダ教だ! 青木健『古代オリエントの宗教』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-115.html
”マニが24歳のときにペルシア皇帝への献呈を前提として執筆したパフラヴィー語文献『シャーブフラガーン』の中では、マーニー教の最高神格「光の父」が時間の神ズルヴァーンに、
原人が善の神オフルマズドに、
闇の王が悪の神アフレマンに改称され、外見上はイラン系宗教に見えるように粉飾されている。
こうも簡単に置換されてしまう事実は、マニ教では「構造」が重要であり、布教のためならイエス論ですら代替可能であるというマニ教理解に一定の根拠を与えている。

(マニ教が布教したいのは
①イエスの絶対性
②グノーシス主義の二つであり、
②グノーシス主義が最優先事項なのでしょう。
「グノーシス主義=二神論=実質的多神教」こそが真のキリスト教であり、
「悪魔を産んだくせに最善(笑)の唯一神」教は、真のキリスト教ではないと考えていたということです。


ねこた(ツイッター閉店中) ‏@lakudagoya 2015年5月3日
みんあさ、イルミちゃん調べたかったら、マニ教のグノーシスも調べてね。「マミさんは真のキリスト教に目覚めたようです」 で検索してみて。これ青木健の「マニ教」という本を買わなくてもいいくらい内容が充実してる。マニ教の恐ろしさは、既存の宗教に寄生して神話を換骨奪胎して乗っ取る作戦だから

ねこた(ツイッター閉店中) ‏@lakudagoya 2015年5月2日
「マミさんは真のキリスト教に目覚めたようです」が面白かった!マニ教の本買わなくても内容がわかるよ。http://oyoguyaruo.blog72.fc2.com/blog-entry-4797.html ”

ダビデの星がユダヤだけのシンボルになったのは十七世紀からでキリスト教が決めた(ユダヤではない)ので日ユ同祖論(キリスト教製品)に使えない。マニ教の概要(山本由美子『マニ教とゾロアスター教』 など)、ダイアン・フォーチュン『神秘のカバラー』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-35.html
” マニ教(マーニー教。摩尼教、明教、二宗教)
三世紀のマニ(マーニー)がササン朝ペルシアにて創始。
中核は善悪二元論(拝火教+グノーシス主義)。
物質・肉体=悪。
霊魂・精神=善。
菜食主義(肉食禁止)と飲酒禁止。
一日一食。週一度に断食。
動物を殺すことも、植物の根を抜くことも禁止。
食べて良い代表的なものは果物であり、透き通った野菜。
きゅうりやメロンは最も良いとされた。
(衰弱死しそうなんですけど)
白い衣服を着る。
現世否定。性欲否定。
性欲否定は神話の表現にも表れていて、光=善の側は産むとか生まれるという言葉が使われず、「呼び出す」という言葉を使います。
(苦しいですね。性欲否定の宗教の致命的な問題点は、生殖しないと信者がどんどん減ってしまうというものがあります。まあ、だから積極的に広めまくったのでしょう。子宝沢山は惡なのですから)
信者減少対策として、マニ教は、平信徒(聴聞者)と選ばれた者(アルダワーン=義者=拝火教で善をおこなった信者を呼ぶ言葉)に分けました。
聴聞者はそれほど強く戒律を守らなくて良く、結婚も子づくりも許されるとし、生産活動をして選ばれた者を支える役割にしました。戒律を厳密に守ると生産活動が不可能になりますからね。
アルダワーンには女性もなれます。布教師にもなれます。しかしマニ教神話は男性優位っぽいです。でもグノーシスは女性優位なんですよね。

マニ教の神話は色々混ざっています。長いので面白そうなところだけピックアップします。
・はじめに光明の父もしくは偉大な父(ズルワーン=時間)と呼ばれる存在が光の王国にあり、光の王国は上・東・北・西の方位にあり、光の五元素(光、風、火、水、エーテル)をその実体としていた。
闇の王国は下・南にあり、光の五元素に対応する五つの闇の元素からなっていた。
(はじめが父なので、男性優位思想。グノーシスは女性優位なのにね。
しかし神話に反して、女性が「選ばれた人(アルダワーン)」になることはタブーではなく、女性の布教師も珍しくはありませんでした。
ゾロアスター教ズルワーン主義=拝時教、の影響って凄いですね。
南になにか恨みでもあるのでしょうか。理由が知りたいです。
時間=変化の前提が始まりとは哲学的に感心しました。
時間=時計・天体の動きの周期・暦は農業用だったのに今や奴隷を長く働かせる為の道具になっております)

・光明の父(偉大な父ズルワーン=時間)が、生命の母を「呼び出した」(産むが使えないので)。
この生命の母が最初の人である原人オフルミズド(アフラ・マズダーの中世ペルシア語形)を呼び出した。(処女懐胎以上にファンタジーですな)
・光明の父は、生ける霊(ミフルヤズド)も呼び出した。
ミフルは契約の神ミスラの中世ペルシア形で、このころは太陽神と同一化されるようになった。ミフルヤズド(ミスラ神)は、インドにおけるミトラ神、ギリシャ・ローマにおけるミトラス神に相当する。仏教における弥勒菩薩(マイトレーヤ)もまたミスラ(ミトラ)に由来するともいわれている。
ミトラ=密特拉〔中国語〕の漢字表記の頭は「密」なんですよね。密教にもミトラの要素あるし。
マニ教においては光明神としての性格が強調され、太陽と同一視された。ソグド語で日曜日の事もミールと呼ぶようになった)

・この世界は倒された闇の悪魔たちの屍体から創られた。悪魔からはぎ取られた皮から十天が創られ、骨が山となり、身体や排泄物は大地となった。闇のアルコーン(執政官。高位の悪魔)たちは鎖で空に繋ぎとめられた。
汚されていない光の元素から太陽と月が創られた。
少し汚されたものから星が創られた。

(マニ教では、十層の天と八層の大地からなるという宇宙観。なんと日本でマニ教の宇宙図が見つかりました)

闇は、虜にした光の元素を取り戻されないように、物質がすべての悪魔を飲み込み統合して一つの大悪魔を創った。同様に女の悪魔たちも一つの大悪魔となった。その男女の大悪魔によって、憧れの的である第三の使者(光明の父が呼びだした)に似せてアダムとイブが創られた。ゆえに、アダムとイブは闇の創造物でありながら、大量の光の要素を持っていることになる。
自分が光の要素を持っていることを知らないアダムに、自らの光の本質存在を知らせるために、第三の使者の化身であるイエスが送られ、アダムにグノーシス(知識)を与えて覚醒させる。覚醒したアダムは自らの内なる光の本質を救うために物質の連鎖を断ち切ろうと禁欲を誓う。
しかし、アダムよりは少ないがやはり光の本質を持つイブはグノーシスをイエスから与えられなかった。
その理由を理解できず、アルコーンと交わってカインとアベルを産む。
嫉妬に駆られたアダムは、自らを抑えきれずイブと交わり、セトが生まれた。
かくして、人間の生命の営みが始まった。
(男尊女卑)


・この世界は物質である限り、闇のアフリマンの支配下にある。しかしグノーシスを得た人が少しでも光の元素を救いだそうとするので、戦いは続いている。
囚われの光の粒子は、閉じ込めている物質が壊されると解放される。それはまず光の柱を通って月に集められ、月が満ちると太陽に移され、その後に新しい天国に呼び集められる。
(囚われた光の粒子の経路は光の柱→月→太陽→新しい天国

・いずれ光と闇の最終戦争が起き、イエスが正邪を分ける判事としてあらわれる。世界の終わりには神が支えることをやめるので天地は崩れ落ち、1468年間も続く大火によって全て物質的なものは消滅する。イエスは光の王国と合体した新しい天国に戻り、二つの原理はもはや混じり合うことはない。

・「白衣白冠の徒」
といわれた東方のマニ教(明教)は、景教(ネストリウス派キリスト教)・祆教(ゾロアスター教)とともに、三夷教ないし三夷寺と呼ばれた。

キリスト教の異端派がマニ教の変形である例はいくつかある。
アルメニアから始まって、黒海沿岸に広まったパウロ派は、使徒パウロの書簡を重んじる二元論的世界観を持っていた。

ブルガリアに発してコンスタンティノープルにも根拠地を置いたボゴミール派は、サタンによる創造神話や旧約聖書の否定など特徴的な教義が、異端審問の記録により信仰内容が良く知られている。ボゴミール派がブルガリアとビザンツ帝国で栄えたのは九世紀から十二世紀までである。

特にマニ教的だったのが十一世紀から十三世紀に北イタリアから南フランスにかけて受け入れられたカタリ派であるが、フランス統一をはかる北フランスのカトリックの王家により弾圧された。地中海沿岸の南フランスに栄えたのがカタリ派である。
信者自身はマニ教との繋がりを認めてはいないが、宇宙の創造に悪魔が介入していることを認めたり、酒や女の快楽を否定し、結婚をよしとせず、水による洗礼を行わないように、非常にマニ教的である。女性の地位も高い。注意しないといけないのはマニ教だと非難したのはカトリック側であることだ。

(マニ教を守るためかもしれません。マニ教勢力の存在を明確に認めると狙われるから)

マーニーは珍しいことに、自分で教典を書き、バビロニアを中心に教団を形成した預言者。
マニ教団勢力は、サーサーン朝(ササン朝。ペルシャ=イランの拝火教国家)に迫害されるほどに勢力が強かった。
本拠地はバビロンだったが、マニ教が目覚ましい発展を遂げたのはまずローマ帝国領のシリアやエジプト、その他の地中海沿岸地方であった。
エジプトではアレクサンドリア(錬金術=科学の聖地)を中心に発展したことは、元マニ教徒のキリスト教の教父アウグスティヌスが記している。
アウグスティヌスの母はクリスチャンだったが、彼はカルタゴでマニ教に出会って信者(聴聞者)となった。
(アウグスティヌスがマニ教の影響からキリスト教の二元論を強化したと思います。善悪の戦いの強調の源流は拝火教ですけどね)
当時のアレクサンドリアやカルタゴでは様々な宗教の間で公開討論会のようなものが行われ、自己の宗教の優位性を論理的に主張することが普通に行われていて、一種の娯楽だったらしい。折衷主義のマニ教はどのような論点も自己のものとして取り入れることができるので、非常に論争しにくい相手だったであろう。

(何でも信じているか、何も信じていないか、どちらも最強なんですよね。
三世紀から千年以上もユーラシアの西はスペイン、東は中国福建省の泉州にまで広がったが、現在では消え失せしまっている世界宗教。実は中国では生き残っています。
そして現在の統一宗教=イルミナティ教のモデルでしょう。)


預言者マニ(マーニー)は自分で経典を書いた。
予言者が自ら教義書を書いたのは、マニが史上初であろうことは先述したが、マニが主として経典にアラム語を用いたのには、当時の中東世界の共通語として広く意思疎通に用いられていたからであろう。
彼は速やかに経典を各地の言語に翻訳させたが、その際、彼は自身の教義の厳密な訳出よりは各地に伝わる在来の信仰や用語を利用して、入信者が理解しやすいように、自由に翻訳することを勧めた。場合によっては馴染みやすい信仰への翻案すら認め、このことは異民族や遠隔地の布教に有効であった。
マニ教は他の宗教と論戦しながら改宗を勧めていったのだが、相手の宗教を否定せずにむしろ積極的にその宗教独自の概念や神話を取り込んで、違ったものに作り変えてしまうことにひいでていたので大変議論がしにくかった。特有の概念や神の名を異なる脈絡で言及するので強い違和感を与えるものの反論しにくかったはず。
(改良版を売る戦術ですね。マニ教は実は君らの宗教の改良版に過ぎない戦法)

しかし、各地ごとに布教目的で柔軟に用語や教義を変相させていったため、普遍的な世界宗教へと発展した反面、教義の一貫性は必ずしも保持されなかった。

(だから消えても影響が残りまくったのがマニ教。道教みたいですね。神道・天皇・神器は道教用語であり日本由来ではないのです。全部中国産。年号だって漢文から。どこにヘブライ語があるの?)

中国(唐)にマニ教が伝わったのは七世紀。694年、マニ教の教師(佛多誕)ミフル・オフルミズドが、はじめて唐の宮廷を訪れ、則天武后と会見してマニ教の信仰を説いて布教が許された。マニ教はバビロニアの優れた天文学と暦の知識を持っていて、暦の改定を進めていた当時の唐には魅力的だった。
八世紀、758年の安禄山の乱において、弱体化していた唐朝を支援して乱の鎮定に尽力したウイグル王ヤブグ汗(ウイグル族は中央アジアのトルコ系部族)がマニ教に改宗し、ウイグルの国教とした。768年にはウイグル人のために長安にマニ教寺院大雲光明
寺が建てられた。
マニ教の教義はすでに各地で仏教や、ゾロアスター教、キリスト教の教義との混淆を深めていたが、この時期になると、さらに中国独自の宗教である道教の教義とも同一化されるようになった。
マーニーは道教の始祖老子の生まれ変わりとみなされたりした。
マニ教の後ろ盾となっていたウイグル汗が840年に、キルギスに敗れ、ウイグルの領土が高昌(ホッチョ)とその周辺地域に限られるようになると、中国各地でウイグルにたいする反感が吹き出し、ウイグル人の巣窟とみなされた各地のマニ教寺院が破壊された。
842年から4年間続いた武宗(道教重視)による「会昌の弾圧」は、マニ教のみでなく、拝火教、キリスト教、仏教をも含むすべての外来宗教を弾圧したものであったが、マニ教の受けた打撃は大きかった。
 仏教では、寺院4600寺が廃され僧尼26万5千人が還俗させられたので、「会昌の法難」と称している。
福建の泉州に逃れたマニ教徒はこの地で秘密結社のような組織になったという。
マニ教経典は、一見仏教の典籍の一つのようにされ、一部のマニ教徒は道教の一派のように振舞っていたこともある。キリスト教の一派とみなされたことも多く、マルコ・ポーロが泉州であったと述べている「キリスト教徒」はじつはマニ教徒だったといわれる。結局、中国のマニ教徒は十五世紀くらいには姿を消し、これによってマニ教は事実上消滅した。
と思われたが↓
“元を倒した新たな王朝を築いた朱元璋が新王朝の国号を「明朝」としたのも、元朝打倒の原動力になった明教にあやかってのこと

出典中国におけるマニ教
マニ教は843年に唐の武宗によって禁止された後も「明教」と呼ばれ流布しつづけた。”
“中国・福建省でマニ教の寺院が複数現存していることが近年確認されている”
“何百年前に滅んだはずのマニ教が、中国では細々と生き残っていて、寺もあれば信者もいて、毎年マニの生誕祭が開かれている”
“御本尊の摩尼光仏”
【歴史】マニ教 ー消えた世界宗教の謎ー
http://matome.naver.jp/odai/2134904705662315701”)


グノーシス主義は農村部よりは都市部の現象。ヘレニズム時代の地中海とオリエント世界では、思想と宗教の統合はとりわけ都市部で顕著だった。アレクサンドリアはその典型。都市部では人間は個別化され、伝統的基盤から乖離し、社会的方向性と自己同一性の喪失の危機に面していた。この危機は強大なローマ帝国の支配の中に併合されて政治的な禁治産宣言を下された東方地中海世界の諸民族、とりわけ都市の知識層の場合に深刻であった。グノーシス主義は知識層を主要な担い手とするプロテストなのである。
ナグ・ハマディ文書で明らかになったように、グノーシス主義者の自己呼称の一つが「王なき世代」。

(グノーシス主義は都市のインテリ向け。カトリックに反抗する者、プロテスタントの先祖。プロテスタントもグノーシス否定ですけど。教義的には異端派のほうがプロテストしていますよね)



・『ヨハネのアポクリュフォン』、二世紀前半、バルべーロー(Barbelo)派、セツ派


(神話1 『ヨハネのアポクリュフォン』
http://gnosticthinking.nobody.jp/gnosismyth001.html
“『ナグ・ハマディ文書』より

 世界の始源には、至高神だけが存在する。至高神はあらゆる事物に先立つ絶対的な始源であり、絶対的な超越者である。それを限定的な、あるいは実定的な属性によって形容することは不可能であり、ゆえに「否定神学」的な叙述方法が導入される。『ヨハネのアポクリュフォン』によれば至高神とは、見えざる霊、不滅性の中に在る者、いかなる視力でも見つめることのできない純粋なる光の中に在る者、欠乏を知らない者、あらゆる者に先立つ者、断定し難い者、記述し難い者、身体的でも非身体的でもない者、大きくも小さくもない者、等々…
至高神の分身=「最初の人間」
であるバルベーローの発出

 至高神は「霊の泉」に映る自己の姿を注視することによって、最初の思考であり、自己の鏡像=似像である「バルベーロー」を発出する。至高神自身が非限定的で不可視の存在であるのに対し、その似像であるバルベーローは限定と形相を有する。バルベーローとは、至高神が自己観照によって生み出す最初の理念、最初の「アイオーン(永劫性)」なのである。その光景は以下のように描かれている。

霊の泉が、光の活ける水から流れ出た。そして彼は、全てのアイオーンとあらゆる世界を準備した。彼は自分を取り巻く純粋なる光の水の中に彼自身の像を見ることにより、それを把握した。すると彼の「思考(エンノイア)」が活発になって現れ出た。[······]これがすなわち万物の完全なる「プロノイア(予見)」、光、光の似像、見えざる者の影像である。それは完全なる力、バルベーロー、栄光の完全なるアイオーンである。彼女は彼を誉め讃えた。彼女は彼によって現れたからである。そして彼女は彼を思考する。彼女は最初の「思考」、彼の映像である。彼女は最初の人間となったのである。

…プレーローマ界の創造

 こうして誕生したバルベーローは、至高神の承認を得ることにより、「第一の認識」を始めとする種々のアイオーンを次々に発出する。このようなバルベーローの働きを通して、神的な完全性に満たされた世界、「プレーローマ(充溢)」界が創造されるのである。各アイオーンは「不滅性」「真理」「叡知」「言葉」「賢明」「愛」等という実定的属性を指示する名が与えられている。それらは、プラトン哲学の概念でいう「 イデア」に相当する、完全で永遠なる存在者なのである。それぞれのアイオーンは、男女の「対(シュジュギア)」を構成するものとして配置されている。

ソフィアの過失

 プレーローマ界を構成する上述の神々の中で、「ソフィア(知恵)」と呼ばれるアイオーンは、その世界の最下層に位置する女性の神格であった。ソフィアは、自らもまた至高神の似像性を有する一つのアイオーンであるという理由によって、至高神と同じように自分自身の影像を発出したいと願う。

さて、われわれの仲間なる姉妹、すなわち「知恵」は──彼女(もまた)一つのアイオーンであったので──自分の内からある考えを抱くに至った。彼女は霊の考えと「第一の認識」によって自分の中から自分の影像を出現させたいと欲した。彼女のこの考えは無為のままではいなかった。そして彼女の業が不完全な形で現れ出た。その外貌には形がなかった。というのも、彼女は彼女の伴侶なしに(それを)造り出したからである。それには母親の姿に似た形がなかった。

至高神や他の神々の同意と承認を得ずに行われたその行為は、ソフィアの身に大きな悲劇をもたらす。彼女が流産したものは神的存在者にそぐわないその奇怪な姿を露わにし、蛇とライオンの外貌を呈したのである。ソフィアは自らが生み出したその存在を他のアイオーンたちに見られることを恐れ、これをプレーローマ界の外部に投げ捨てる。そして彼に玉座を与え、「ヤルダバオート」と名づけた。


可視的世界の創造

 プレーローマ界から放逐されたヤルダバオートは、自らの出生の由来を知ることのないまま、自らの住まう世界、すなわち可視的世界の創造に着手する。最初に創造されるのは、恒星天や惑星天の星々と同一視される「アルコーン(支配者)」たちである。ヤルダバオートはソフィアから継承していた力の働きによって、無知の裡にプレーローマ界の似像としての可視的世界を創造する。

さて、彼はこれらすべてのものを、すでに成立している第一のアイオーンの像に従って、整えた。それは彼らを不朽の型に倣って造り出すためであった。彼が不朽なる者たちを見たからではなく、むしろ彼の中に在る力──それは彼が彼の母親から受け取っていたものである──が彼の中に美しき秩序の像を生み出したからである。

 ヤルダバオートは、旧約聖書の造物主ヤハウェと同一視されている。ヤルダバオートは世界の創造が自らの力のみによって為されたと過信し、アルコーンたちに自己の唯一性を宣言する。「私こそは妬む神である。私の他に神はない」

人間の創造

 無知と傲慢に満ちたヤルダバオートの言葉に対し、プレーローマ界の創造者であるバルベーローは「人間と人間の子が存在する」と答えて反駁すると同時に、自らの形象を可視的世界の水面に現出させる。ヤルダバオートとアルコーンたちは、水の中に映ったバルベーローの影像を目にして驚愕する。彼らは、「われわれは神の像と外見に従って人間を造ろう。彼の像がわれわれにとって光となるために」と語りあい、バルベーローの立像を模することによって人間の(心魂的)身体を創造する。

 こうして造り上げられた最初の人間は、「アダム」と名づけられる。しかし彼は徒に地面を這うばかりで、立ち上がることができない。これを見たプレーローマ界の諸力は、ヤルダバオートに対し、ソフィアに由来する力であるその霊=息(プネウマ)をアダムに吹き込むようにそそのかす。それは、ヤルダバオートが不当にも保持しているその霊力を奪還するための計画を意味するのである。ヤルダバオートから息を吹き込まれたアダムは力を得て立ち上がるが、ヤルダバオートはそれを喪失する。さらに、霊の力を得て光り輝き始めたアダムを目にして、アルコーンたちは激しい嫉妬の感情に駆られ、彼を物質世界の底部にある「エデンの園」に幽閉する。

「生命の霊」と「模倣の霊」の対立

 『ヨハネのアポクリュフォン』における以下の物語では、エデンの園に続く『創世記』の幾つかの場面が、これまでに描かれたその二元的世界観を背景に解釈される。その記述は幾分断片的であり、しばしば物語の筋道が前後しているが、そこではプレーローマ界が人間を救済するために派遣する「生命の霊」と、可視的世界の支配者がその姿を模して生み出す「模倣の霊」の対抗関係が、物語構成の基軸的な役割を果たしている。

 バルベーローは、エデンの園に幽閉されたアダムと彼に吹き込まれた霊の存在を憐れみ、これに救助者を差し向ける。それは「善なる、憐れみに富む霊」であり、「光のエピノイア」、あるいは「ゾーエー(生命)」や「生命の霊」と呼ばれる。ヤルダバオートはアダムを眠らせ、彼のもとに到来した「生命の霊」を抜き取ることにより、自らが失った力を回復しようとする。しかし「生命の霊」はその手から逃れてアダムから離れたため、ヤルダバオートは「生命の霊」を捕縛するために、その姿を模することによって、物質的な「つくり物」である女性の身体を造り出す。「生命の霊」はこの身体に降り立ち、ゆえに彼女は「生命」=エヴァと称されるようになるのである。

 アダムの側に立っている若い女の姿を目にして、ヤルダバオートの心は「愚かな思い」、すなわち性欲によって満たされる。ヤルダバオートは彼女を凌辱するが、その企みを事前に察知したプロノイアによって彼女からはすでに生命が抜き取られていたため、彼はエヴァの肉体のみと交わったのであり、それによって新たな「肉体の像」、カインとアベルが生み出される。そしてアルコーンたちは彼らに、「生命の霊」を模倣して造り上げた「忌むべき霊」、「模倣の霊」を分与する。彼らは「暗闇の無知」、「身体のこしらえ物の洞窟」と呼ばれる物質的身体の持ち主であり、さらには彼らを支配する「模倣の霊」が常に激しい性欲を惹起するので、悪しき交接に絶え間なく駆り立てられ、洞窟内の映像に等しいその幻影的な肉体を徒に増殖させ続けるのである。こうして地に満ちた者たちは、カインとアベルの種族と呼ばれる。これに対し、バルベーローによって最初に産み出されたアイオーンである「第一の認識」の模像をアダムがを知解することによって、セツが誕生する。セツの子孫たちは、プレーローマ界に存在する原型の忠実な模倣によって誕生した、祝福されるべき種族である。

終末

 人間に求められるのは、「模倣の霊」による支配と影響から離れ、「生命の霊」による教導に従って生きることである。世界の終極においては、プレーローマ界の創造者であるプロノイア=バルベーローが到来し、可視的世界の闇を照明することによって、ヤルダバオートたちが作り上げた宿命の鎖を粉砕するとされている。

[出典]『ナグ・ハマディ文書Ⅰ 救済神話』
荒井献・大貫隆・小林稔・筒井賢治訳、岩波書店、1997年“)


・『三部の教え』 3~4世紀、ヴァレンティノス派

(神話4 『三部の教え』
http://gnosticthinking.nobody.jp/gnosismyth004.html
” 『ナグ・ハマディ文書』より
■1.唯一なる父について

 万物の根源である父は、彼自身の他にはまだ何も存在しないときから、すでに存在した。他の誰かによって生み出されたものではない彼こそが、本来の意味で父であり、神なのである。この神は、「知りえざる者、いかなる思考によっても知解しえざる者、いかなる物によっても見られえざる者、いかなる言葉によっても語りえざる者、いかなる手によっても触りえざる者」であり、自分自身を思考する者とされる。ただ一人唯一なる者である父は、「幹と枝と実をそなえた根のような仕方で存在する」のである。

■2.御子と教会

 「父」なる至高神と共に始源的存在者に数えられるのは、「御子」と「教会」である。御子は父によって最初に生み出された者であり、彼に先立つものが誰もいない「独り子」であって、神と共に永遠に共存する。また教会は、これ以降の無数のアイオーンたちを生み出し、それによって形成されるものである。

■3.アイオーンたち

 父は、自らは減少することなく、その思考によって次々にアイオーンたちを生み出す。また、父はアイオーンたちについて知悉していたが、アイオーンたちは父を知らなかった。「父はアイオーンたちを思考として生み出し、種子の状態に置いた」のであって、彼らは「胎児」として必要なものを十分備えていたが、自分自身が何に由来するか、永遠に存在する者とは何か、を知らなかった。そして御子は、アイオーンたちに対して父の存在を啓示した。なぜなら、「アイオーンたちには御子を見ることが可能であり、彼らが御子について知ることも語ることも可能」だったからである。

■4.ロゴスの過失

 アイオーンたちは、把握不可能な父について沈黙を守っていたが、アイオーンの最後の一人であるロゴスは、父の知解不可能性を敢えて把握し、これを賛美したいと考えた。ロゴスは思い上がりと過剰な愛によって、父に向かって突き進んだ。しかし、父は彼から離れ、境界を固くした。そしてロゴスは、「確固たるものとして手に入れようと欲したものを、かえって影と映像と模写として生み出してしまった。なぜなら、彼は光の輝きに耐えることができず、下にある深淵の方を眺めてしまい、心を二つに分けてしまったからである」。こうしてロゴスは二つに分裂したのだった。とはいえ、これらの出来事は、完全に否定的なものとして評価されてはいない。何よりもそれはロゴスの「善き意図」によって行なわれたものであり、しかもその出来事は父の経綸によって予め定められていたことが強調される。

 分裂したロゴスのうち、完全である部分は、プレーローマ界に帰昇して行った。他方、思い上がった考えから生じた欠乏を抱えたロゴスは、プレーローマ界の外に留まった。そして、このロゴスの考えによって、不従順で覇権を好む多くの者が現れてきた。彼らはプレーローマと似ているが、その模写、映像、影、幻想に他ならず、理性と光を欠いている。しかし彼らは自分たち自身について、自分たち自身によって存在しており、始源を持たない者たちなのだと考えた。

■5.ロゴスの回心

 ロゴスは、これらの不従順な者たちのが発生する原因となったが、自分自身は一層の錯乱の中にあり続けていた。彼が見たのは、完全ではなく欠乏、一致の代わりに分裂、安定の代わりに混乱、安息の代わりに争乱であった。また、ロゴスは無力な者となっていたので、これらの者たちを滅ぼすこともできなかった。

 しかしロゴスは、別の意見と別の考えに立ち帰った。これがロゴスの「悔い改め」(回心)であり、それは不従順な者たちを裁いて破滅させ、破滅に抵抗して戦う者たちには、怒りが彼らの後を追いかけたのだった。ロゴスは回心した後に、真に存在する者たちを想起し、上なるロゴスのための祈りを続けた。彼の祈りと想起は無為のままではなく、数多くの力(=心魂的な者たち)となった。そしてそれらの力は、模写に属する者たち(=物質的な者たち)よりははるかに善く、大きかったが、プレーローマ界に住まう先在の者たちと同等ではなかった。ロゴスは祈った後に自分を善き者に向け、心魂的な者たちに、栄光に満ちた先在者を探し、これを祈る性向を植えつけたのだった。

 物質的な者たちは、自分たちは初めなき者たちであると考え、思い上がって行動し、覇権を好んだ。このようにして、物質的な者たちと心魂的な者たちの二つの秩序は、互いに争ったのだった。

■6.救い主の流出

 プレーローマ界に帰昇した上なるロゴスは、欠乏の中にいる下なるロゴスのことを思い出し、彼のために執り成しをしたいと考えた。ロゴスがアイオーンたちに祈ると、彼らは下なるロゴスを助けることに同意した。アイオーンたちの申し出に父も同意し、彼らはそれによって一つの「実」を生み出した。この者は、「救い主」、「キリスト」、「定められた者たちの光」と呼ばれた。また、アイオーンたちも自分たち自身の力を生み出し、それらは救い主にとって、王に従う軍勢のようになった。

 救い主は、下なるロゴスの前に現れた。彼は完全なる光を輝かせ、上なる世界について教えて、言葉に尽くし難い喜びの中で彼を完全な者とした。そしてロゴスに、自分に対して不従順な者たちを分離して、投げ捨てる権威を与えたのだった。救い主は、稲妻のような光の姿で出現したが、心魂的な者たちは救い主の啓示を歓迎し、彼を拝んだ。それに対して模写に属する者たち(=物質的な者たち)は、この光をひどく恐れた。そして彼らは、「外の闇」、「カオス」、「深淵」と呼ばれる無知の穴の中に落ち込んでしまい、闇の上を支配する者となった。

■7.ロゴスのプレーローマと経綸

 救い主によって完全な者とされたロゴスは、上なるプレーローマの模像を創造する。ロゴスは自分の堅固さを取り戻し、「アイオーン」、「場所」、「救いの会堂」、「花嫁」、「王国」等と呼ばれるようになった。また、彼が創造したプレーローマにも、御子と教会が備えられた。ロゴスのプレーローマは心魂的な者の秩序と物質的な者の秩序の上に位置し、存在する事物のすべてに対する経綸を委ねられた。

 ロゴスは自らのプレーローマを純粋に保つと、その下にある二つの秩序を整えた。すなわち、心魂的な者たちを右に、物質的な者たちを左に配した。またロゴスは、経綸にしたがって、すべての天使たちやアルコーンたちに、それぞれの種族や役割、位階を与えたのだった。

■8.デミウルゴスの創造

 ロゴスは、すべてのアルコーンたちの上に一人のアルコーンを置いた。彼は、「父」、「神」、「造物主」、「王」、「裁き人」等と呼ばれた。ロゴスは彼を手のように用いて、下の領域に働きかけ、これを整えた。デミウルゴスが口にした言葉は直ちに実現されたが、彼はそれがロゴスに導かれていることを知らず、自分一人で成し遂げたと考えて喜んだ。デミウルゴスは、自分に従う者には安息を、自分を信じない者には刑罰を定め、楽園や王国、また彼を助ける働き手たちを創造した。それらは、プレーローマ界の形に倣ったものであった。またデミウルゴスは、物質世界を「霊的な秩序」、「心魂的な秩序」「奴隷の秩序」の三層構造に整えた。

■9.人間の創造

 デミウルゴスは物質世界を創造した後、最後に人間を創造した。そして人間についても、ロゴスが目には見えない仕方で造物神と天使たちを動かし、人間を完成させたのだった。ロゴスは、自らの形(=霊的本質)を人間に与えた。しかし、それはデミウルゴスの口を通して与えられたために、デミウルゴスは自らが与えたものだと考えたのだった。また、デミウルゴスは人間に魂を、「左の者たち(=物質的な者たち)」は物質を与えた。

 このような人間の三区分から、楽園に生えている三種類の木々が区別される。すなわち、「生命の木」は霊的要素、「善悪を知る木」は心魂的要素、「その他の木」は物質的要素である。人間は最初、悪しき「その他の木」から取って食べていたが、邪悪で狡猾な蛇にそそのかされて「善悪を知る木」から取って食べ、デミウルゴスの定めた禁忌を破ることによって楽園から追放された。しかし、この悲劇的出来事もまた神の摂理によるものであって、人間があらゆる無知と動揺を経験した後に、永遠の生命と善なるものの贈与に与るためであった。

■10.哲学・神学の多様性

 世界に存在する二つの秩序(心魂的秩序と物質的秩序)が互いに競い合ったために、さまざまな哲学が説かれることになった。その中でも特に、「被造物の運動の恒常性とその調和に目を凝らす者たち」(=ストア派)や、現に存在する事物は「それ自体で在るものなのだ」と言う者たち(=エピクロス派)は、現に存在する事物の原因を知ることが出来ずにきた、として批判されている。ヘブライ人の中で義人や預言者たちは、幻想や模写によって覆われた思考によってではなく、彼の内側で働いている力に従って語った。しかし、彼らが語った言葉は多くの宗派によって改変して受け入れられ、解釈されることによって、多くの異端を生み出したのだった。しかし預言者たちは、救い主の宣教を受けることによって、救い主が受肉してこの世に到来すること、彼がロゴスに由来する生まれざる者であること、苦難を受ける者ではないことを教えた。

■11.救い主の到来

 救い主は霊的なロゴスに由来する者であったが、からだと心魂をもった幼子として孕まれ、この世に到来した。また、救い主と共に、霊的本質に由来する同伴者たちが到来した。彼らは別の経綸を委ねられており、使徒や福音宣教者となった。救い主であるイエス・キリストは、「約束の種子」を有している人々に対して、その種子が由来する場所へ再び帰っていくという教えを啓示したのだった。

■12.三種類の人類とそれぞれの運命

 救い主の到来は、人間に存在する三種類の種族を明らかにした。まず霊的な種族は、救い主が出現したとき、直ちに彼のもとに走り寄り、認識を授けられた。心魂的な種族は認識を授けられることをためらい、むしろ声によって教えを受け、やがて来るべきことへの保証を受けたのだった。物質的な種族にとって、光である救い主の到来は自らの滅びを意味し、これから身を隠そうとした。霊的な種族は完全な救いに、物質的な種族は完全な滅びに定められているが、心魂的種族はそれらの中央にあって二重の定めを受けており、見捨てられる方か、善なるものの方へかに、定められた脱出をすることになっている。

■13.洗礼と救いの道

 霊的な者たちが物質世界へ生まれ出たのは、無知と苦しみを彼らに経験させ、その中で彼らを訓練するためであったとされる。また、救いを必要とするのは人間たちだけではなく、天使たちや模像たち、プレーローマ、そしてそれらを救うキリスト自身も救いを必要としているのである。救いとは「終わりが始めと同じようになる」ことを意味し、救いに与るためには、父、御子、聖霊に対する信仰告白である洗礼を受ける必要がある。それらの洗礼はまた、「沈黙」、「新婦の部屋」、「永遠の生命」等と呼ばれている。こうして、キリストの中にある御国を告白するならば、不同性と変転の世界から脱出し、「男も女もなく、奴隷も自由人もなく、割礼も無割礼もなく、天使も人間もなく、キリストがすべてにおけるすべてとなる」のである。

[出典]『ナグ・ハマディ文書Ⅱ 福音書』
荒井献・大貫隆・小林稔・筒井賢治訳、岩波書店、1998年 ”)


バシリデース派の「存在しない神」はアリストテレスの「思惟の思惟」を神話的に翻案したものだとヒッポリュトスが指摘。
否定神学はグノーシスの専売特許ではなく、まとまった形で読める最も早いものは、アリストテレスの学院(ペリパトス学派)ではなく、むしろプラトンの学統(中期プラトン主義)に属する。
グノーシスと中期プラトン主義の際立った違いは、グノーシスでは多くの場合男性神と女性神の「対」関係で擬人化された神的存在が生成していくこと。


プトレマイオス派曰く、不可視で名付けられぬ高みには完全なアイオーンが先住した、これをプロアルケ―(原初)とも、プロパトール(原父)とも、ビュトス(深淵)とも呼ぶ。それは把握不可能で不可視、永続的で生まれざるもので、無限の世で大いなる静寂と静穏のうちにあり、彼ビュトスとともにエンノイア(思考)もあってこれをカリス(恩寵)ともシゲー(沈黙)とも名付ける。
ピュトス(深淵。=原初=原父)は万物の初めを自分から流出しようと考えた。
そして流出を、自身と共に存在するシゲー(沈黙。=思考=恩寵)に種子を胎(たい)の中に置くようにして置いた。
シゲーはその種子を受けて妊娠し、ヌース(叡知)を産んだ。彼は自分を流出したものと似ており、等しく彼だけが父の偉大さを捉えるのであった。
このヌースはモノゲネース(独り子)ともパテール(父)とも万物のアルケ―(初め)とも呼ぶ。
この彼ヌースとともにアレーテイア(真理)が流出された。
以上が第一の最初に生まれた、ピタゴラスのいうテトラクテュス(四個組)であり彼等は万物の根と呼ぶ。
モノゲネース(独り子。=叡知=父=初め)は自分が流出された目的を知覚して、自分でもロゴスとゾーエー(生命)を、すなわちこの後にくるもの全ての父であり全プレーローマの初めであり、形成でもあるものを流出したという。
ロゴスとゾーエーから対の形で、
アントローポス(人間)とエクレーシア(教会)が流出される。
これが最初に生まれたオグドアス(八個組)、万物の根と実体であるが、これらは彼の間では、ビュトスとヌースとロゴスとアントローポスという四つの男性名詞の名称で呼ばれるが、それらの各々はそれぞれの対の女性名詞が示すように「男女(おめ)」(アンドロギュノス=両性具有)である。

プトレマイオス派は神々の名前はギリシア語の男性名詞と女性名詞であり、男女の名刺を対として述べられる。

本書の図では例外なく左の項が男性名詞、右の項が女性名詞。

四個組
ピュトス=エンノイア
ヌース=アレーテイア

ロゴス=ゾーエー
アントローポス=エクレーシア
を加えて八個組。

上位の四組(オグドアス=八個組)については「対」といってもそれぞれ同一の両性具有の神的存在の二つの側面である点で、それ以下の対を構成するアイオーンが性差で分かれているのとは区別される。両性具有は神が神である度合いが高いこと、反対に男性か女性かで限られているなら神の度合いが低いことを意味している。



(両性具有が最上位だから同性愛肯定。
気になるのですが、女性名詞と男性名詞の概念って古代からあったのでしょうか?)


・『ヨハネのアポクリュフォン』では、至高神とバルべーロー(プロノイア、思考)は両性具有、それ以外の神々には性差がある

・『古事記』冒頭の神々の系譜において、神世七代の内の下位の十神は男性神と女性神(妹に注意)の対を構成する。合計七柱の神は独り神であり身を隠した神である。さらにそのうちの上位五柱の神は別天つ神。
グノーシス神話との決定的な違いは、『古事記』の神々の生成は、「天地がはじめて天地となっ」た後、その天地の間に生成する。しかしグノーシスでは世界の創造のはるか以前。
(『古事記』を和風聖書に改ざんする神道カルトに注意)



・生成し終わった神々の世界より下の世界はどう生じるか。
ナグ・ハマディ文書の多くで神々の世界の最下位に位置するソフィア(知恵)と彼女が犯す過失が存在する。
ソフィアの過失は分を超えて知られざる父(至高神)を知りたいと欲したことに起因する。彼女は知りたいは知的な意味に限られず、濃厚に性的なニュアンスを含めて物語られる。ソフィアは明確に女性原理であり、描かれる過失は女性神が男性的伴侶の同意なしに抱いた欲求に他ならない。
『ヨハネのアポクリュフォン』
ではソフィアは彼女の内にある情欲のゆえに流出する。
しかし、プトレマイオスを含むヴァレンティノス派の周辺で著わされたと思われる『三部の教え』では過失はプレーローマ界に存在する神々の中で最下位・最小のアイオーンである男性神ロゴスに帰されている。

(ロゴスが下位なんて正統派キリスト教には許せない教え)

中期プラトン主義では下方の可視的世界は神の独り子、最良の制作物であって老いることがない。
がグノーシスでは可視的世界は、ソフィアまたはロゴスの過失の結果生じるので、必然的に神的領域から断絶された悪の領域として描かれる。
過失から無知蒙昧な、流産による異形の子として描かれる造物神が生まれ可視的世界を創造する。


・造物神ヤルダバオート(異形の獣の姿)が創造する世界は光の世界を除外し、その下に位置する領域。天文学的には恒星天(第八天)から七層の惑星天を経て地上までの宇宙空間。恒星天の円周は黄道十二宮(獣帯)に分割され、その十二が惑星の七と組み合わされて言及される。擬人化されて、造物主に仕えるアルコーンあるいは天使と考えられている。
超越的な光の世界、その下に造物主が創造し支配する世界、さらにその下に地上世界あるいは混沌の領域という大きな三層構造で表象されることが多い。

・造物神は現実の人間の創造に着手する。きっかけは超越的な光の世界の側から与えられる。自分独りが神だと思いあがっている造物主(人間の姿ではなく獣の姿)の目の前に光の世界から人間の姿が啓示される。その人間が光の世界のどの神かは一律でない。至高神だったり光の世界の原型アダム(光のアダマス)だったりする。
人間という名の神が自分の姿すなわち人間の姿を造物主の前に現し、それを見た造物主が配下の諸力(アルコーンたち)を集めてその形にならって人間を創造し、彼らに現れた人間をその中に閉じ込めようと試みる。
バルべーロー
バルべーロー(Barbelo)バルべーロー(Barbelo)


・どのグノーシス神話も光の世界の中に「人間」と呼ばれる神的存在が布置される。
「人間」という名の神が自分の姿、つまり人間の姿を造物神の目の前に現す。造物主はこれを見て配下の諸力(アルコーンたち)を集めて、その形にならって人間を創造し、「人間」をその中に閉じ込めようとする。
これは旧約の「われらの像(かたち)」に似せて人間が創造された記述のパロディ。

愚かな造物主と配下により造られるのが肉体的な人間ではなく、その一歩手前の「心魂的人間」(心魂は魂と実質同じ)である。造物主と配下が力の限りを出してもその心魂的人間は動かない。
造物主らの知らぬ間に、心魂的人間に霊的な力が吹き込まれる。その瞬間に心魂的人間は立ち上がり、造物主とその配下をしのぐ存在となる。
創世記の「命の息」は「魂」とも訳せる。
人間が造物主をしのぐ存在となったことに気づいた造物主は、その人間アダムをとらえ、闇の領域にある「楽園」に監禁し、「毛皮の衣」=肉体を着せる。

「光の世界から吹き込まれた霊>(心)魂>肉体」

・悪なる造物主は人間を最初の男女に分割し、生殖行為を教える。人間の個体数を増やすことで霊的本質を拡散させ、その回収を困難にするため。
対抗して光の世界は啓示者をアダムとエバに派遣する。
好んで創世記のいわゆる堕罪物語の蛇と関連させて物語られることが多い。
旧約のヤハウェは妬み深い嘘つきに貶められる
キリスト教グノーシスでは重要な啓示者の一人としてイエス・キリストが登場する。

・仮現論(ドケディズム)
=イエスの十字架上の苦難の刑死は、ただ人間の目に苦難と見えただけで、神的存在としてのキリストの本質を損なう出来事ではないとする思想。
すべてのグノーシスが仮現論を採用しているわけではない。

肉体=悪がないのに肉体的に苦しむわけないって解釈)

・ナグ・ハマディ文書を含むグノーシス主義神話を初めて語りだし、その後さまざまな変容を加えながら伝承していったグノーシス主義グループの大半は、
後2世紀前半から4世紀前半の間に生きている。

悪なる造物主とその配下の目をかいくぐって「霊的種子」が最初の人間から現在まで絶えることなく続いているというのである。この種子あるいは種族に対する呼び方が実はそのまま当該グループの自己呼称だと考えてよい。それは「王なき世代」「王なき完全なる種族」「揺らぐことのない種族」「セツの種族」「シェームの種族」などである。

・ストア派のいわゆる世界周期説。世界が一定の周期(世界周年、一説によれば6000年)で更新(アポカタスタシス)されるという考えがある。

グノーシス主義神話では周期の考えは破棄され、一度限りの終末とされる。

・真っ先に求められるのは啓示に応答しながら真の自分自身を認識することである。
キリスト教的グノーシスではこの認識がそのまま「霊的復活」であり、
正統主義信仰がいう「肉体の
復活」、
あるいはギリシア的信仰のいう「魂の父子」説と対置される。

・古代の反異端論者たちはグノーシス主義を好んで性的アナーキストとして描いた。
がどこまで事実を伝えているか疑わしい。
少なくともナグ・ハマディ文書についてみる限り、性交はもちろん性欲そのものを悪魔視する禁欲主義が圧倒的に目立っている。

・グノーシス主義者たちも共同集会の場では説教と並んで様々な礼典(サクラメント)を行った。例えばヴァレンティノス派については、詳しい実態は不詳とはいえ、洗礼、塗油、聖餐、
「解放(アポリュトローシス)」、「新婦の部屋」の五つが知られている(最後の二つは臨終儀礼の一種とする説が有力)。
特に水による洗礼はヴァレンティノス派の枠を超えてかなり広範囲の文書に確認される。
「五つの封印」という表現がある。
封印は洗礼を受ける人間を保存用の大きな甕に喩え、洗礼によって与えられる聖霊が揮発して逃げ出さないようにフタをして封印する、それが洗礼であるという比喩表現であり、正統主義教会の側でも定型表現となっていたものである。

・グノーシスの個人的終末論。
グノーシスの個々人の運命は、可視的宇宙の終末が訪れる以前に、個々人の肉体の死後に分かれ始まると考えられているのだと思われる。
まだ地上の生にあっても真の自己認識に達すればその瞬間が霊的復活である。

・マンダ教徒は都市部では金銀細工を生業にしている者が多い。
マンダとはセム語系言語であるマンダ語で「知識」「認識」。
マンダ教徒は「マンダ―ヤー」と自称する。
周辺のイスラム教徒はマンダ教徒を「洗礼者たち」や「洗礼者ヨハネの弟子」と呼ぶ。マンダ教徒も日常的にはアラビア語を使っているが、宗教的文書はすべてマンダ語である。

マンダ教の中心教義。
魂は光の世界に起源をもつ。
肉体は闇の世界に由来する。
天界の光の水は地上では「活ける水」=水となって流れているので、その流水による洗礼を何度も行う。受洗者は三度、流水に身を浸す。
儀礼を遵守し教えを守って生きれば、死後魂は光の世界に変えることが出来る。
洗礼は、キリスト教のような一回限りの入信儀礼ではなく、いわば、生きているうちから行われる葬送儀礼なのである。
平和的な宗教だが、迫害されてきた少数派なので、ユダヤ教やキリスト教を激しく敵視する。
流水を使わないキリスト教の洗礼(滴礼)は「切り取られた水」で行われる「恥の洗礼」
とみなす。

・教典『ギンザー(財宝)』に登場する光の使者の一人が、アノシュ(エノシュ)。
マンダ教徒間の口頭伝承では、洗礼者ヨハネにアルファベットを教えている。

やがて、闇の世界の女性の悪霊ルーハ―(ヘブル語のルーアッハ「「息」あるいは
風」)が建てる地上のエルサレムでユダヤ人が自分の弟子を迫害し、殺すのを見て憤激する(『ギンザ―』右の部)

闇の世界のボスは「闇の王」のほか、「ウル」Urとも呼ばれる。ウルはおそらく「光」を意味するヘブル語「オール」の転用と思われる。旧約聖書では積極的な意味で神に関係づけられている単語が、マンダ教では悪の原理とされる。
同じことは、闇の世界で最も影響力の強い女性的存在「ルーハ―」についてもいえる。
旧約でのその等価語ルーアッハは息、風と並んで神の霊をも意味している。

聖書の聖霊は悪霊だから、鳩は悪鳥
×ルーハ ×ルーフ
○ルーアフ 「ル」-アフ。「ア」が必要。
(ルアハ=霊=風。
spirit or wind。
「霊 or 風」の「ルアハ」は
ルーハとは読まない)


・マニ教では、マニ教徒が「敬虔なる業」によって地上世界で回収した光は、彼らの礼拝の場で捧げられる賛美の歌にのせて、月に送られる。月はそれを受けて次第に満ちてゆき、満月(満杯)になるたと太陽に手渡して、自らは欠けていく

・マニ教の終末論では、光の回収、原人の再臨、楽園と奈落、世界大火、が訪れる。

・太陽は炎熱の悪魔とまじりあってしまっている光を、
月は寒冷の悪魔と混じりあってしまっている光を、
讃美の柱に沿って純粋に抽出しする。
そのようにして抽出された光が、高らかに飛翔する賛美の歌、賛歌、清らかな言葉、敬虔なる業と共に高みへと昇ってゆく。
月が光を太陽に手渡し、太陽は自分の上なる賛美の世界の光に手渡す。
渡された光の部分は、その賛美の世界の中を昇って、ついに至高の純粋なる光に到達する。
太陽と月はこのようにすることを止めない。
闇とあまりにも深く結合してしまったためにもはや分離することが出来ないような部分しか残らなくなる時までは。
分離不能のものだけが残されたとき、八つの大地を担う天使が立ち上がり、もう一人の天使ももろもろの天を引きずる業から手を引く。
結果、至高のものが最下位のものとまじりあい、火が激しく吹きだして、混乱した事物の中で燃え盛り、それらの中になお残っている光が解き放たれるときまで、燃え尽きることはない。
この火災は1468年続くが、この定めの期間が終わり、
フマーマ(闇の霊が、光が解放されたこと、天使、軍勢、衛士たちが帰昇してゆくこと)に気づくとき、彼女(闇の霊)はその戦いのさまを見て意気阻喪し、軍勢たちが彼女を取り囲むので、彼女のために用意された墓の中へ逃げ込んでゆく。
それから彼(光の世界の王)はこの墓をこの世界と同じほどの大きさの石で封鎖して、彼女をその中に閉じ込める。そうして光は再び元のように、闇とそれによってもたらされる害悪の危険を免れる。

・オウム真理教の思想系譜は、精神世界、ニューエイジ運動と密接に関連するものとされる。

宗教学者の島薗進による、

ニューエイジの信念体系まとめ
①自己変容あるいは霊性的覚醒の体験による自己実現
②宇宙や自然の聖性の認識、またその聖性と自分の本来的自己が一体であることの認識
③合理的・分析的意識を抑制し、神秘体験や超常的意識に開かれた感性
④自己変容は癒しと環境の変化をもたらす

⑤人間の魂は死後に輪廻転生し、カルマを受け継ぎながらこの世に再生する
⑥霊性と科学は全体論的な知に統合できる
⑦思考が現実を変える
⑧ある程度の数の個人の自己変容や霊性の覚醒が達成されると、人類全体の意識が新しいレベルに進化する


⑨現代こそそのような意識進化が新時代(ニューエイジ)--占星術用語ではうお座の時代から水瓶座の時代――へ移行しようとしている時代である。

ニューエジはこれらに基づきチャネリングという、何らかの超常的存在が人間を媒介項(チャネル=経路)としてメッセージを受け取ることを行う。
超越存在には様々な名がつけられているが、
1963のジェーン・ロバーツの例(後のニューエイジのチャネリングのモデルケースとなった)では、
「セス」という名前だった。語録集が何冊も出版された。
ニューエイジとグノーシスが最も接近するのはこのあたり。
セスは、旧約の創世記でアダムとエバの第三子として生まれて来る「セツ
」(セト)のことに違いないと思われる。
このセツがナグ・ハマディ文書で重要な役割を果たしている。
『ギンザ―』の「シティル」はセツであり、
マニ教神話の「シャーティール」の名のもとにその由来はこの世の支配者には隠された「よそからのもの」言われている。
すなわち、地上での異種族(アロゲネース=いわゆるエイリアン)であるマニ教徒の祖先とされているわけである。
セツにこのような重要な役割を与える思想運動は著者が知る限りグノーシス主義以外には存在しない。

(超越存在なら、超越存在から本当に来たのか、脳が勝手に想定した超越存在から来たのか、区別できないので、勝手な妄想じゃねーのwwっていうとめちゃくちゃ嫌がられるよ。

真の超越存在については絶対に考えることができない。言語とイメージと認識の限界が思考の限界。考えられるように錯覚しているだけ。
言語で表現された時点でもはや人間レベルの存在。人間がつながれた時点で人間に認識されるまで落とされたレベルの存在。
脳内超越世界の想定=超越世界であり小宇宙と大宇宙は一致するのだくらいは反論してほしいよね。
反論になっていないけど)

・チャネラーを媒介するメッセージにも著しくグノーシス主義的文言が頻出。
以下の六点が含まれる
①人間は神である。人間は自分自身のリアリティーを創造する。
神は遍在し、人そのものが神の性格を分有するという汎神論的世界観

②人それぞれが神なのであるから、キリストのような外部の救いの力に頼る必要はない。
自らを探求し自らを知自らを助けることによってのみ、神的なもの霊的なものを知り、そうしたものへ近づいていくことができる

③自らを愛し、他者を愛し、すべてを受け容れる愛がなければならにあ

④死は存在しない。死は幻想。死と呼ばれるものは、より高いレベルへの移行であり、将来はたぶんまた地上に生まれ変わる

⑤人間の最も霊的かつ知的な部分である「大いなる自己」は日常的な自我を超えている。
それは
「上位自己」  「オーバーソウル(上霊)」
「超意識」 「アートマン」 
「キリスト意識」
「内なる神」  「神性自己」とも呼ばれる。

⑥人が生まれる前から、それぞれの「大いなる自己」を補佐し、より高次の目標に向かって歩むのを助ける指導霊が選ばれいる

この六点の殆どが「人間即神也」を本質とするグノーシス主義の教説と大きく重なり合う。
「大いなる自己」を霊として、肉体および心から区別する三分法的な人間観も多くのグノーシス主義派の人間論と共通する。

(「高次への移行」とか「進化」「進歩」とかは洗脳ワード。できないやつはダメだとレッテルを張るための選民思想に都合が良すぎる。上昇大好きなくせに実際は下降し続けて地獄行きの奴ならたくさんいる)


・著者いわく、チャネリングにあらわれるニューエイジ的世界観はグノーシス主義ではない。
グノーシスは世界を巨悪とみて、それを拒否あるいは逃避して生きようとする。
他方、新霊性運動あるいはニューエイジでは、すべてを受け容れる愛にみられるように、世界は調和的とみる。。
ニューエイジ運動の世界観では、目に見える宇宙的世界(コスモス)の中ではすべてが調和的に完結しうるのであり、その外部でしか解決できないような悪は不在。
その点では、ニューエイジはストア哲学の世界観のほうに本質的に似ている。

ストア派は古代グノーシスの対極。
ニューエイジのいう人間がそれぞれ分有する神性の観念はストアの言うロゴスに対応し、
カルマの法則もストアのいう宇宙の理法(摂理)に含まれるといえよう。ストアもまた宗教と倫理と科学(自然学、心理学)を統合した「科学=宗教複合的な世界観」である。
巨悪を不在とし、個人的な悪も調和的に解釈するイデオロギー。
個々人の災いも、万物を貫く理法=ロゴスあるいは自然と一致して生きるための訓練であり、やがては全体の善に仕えるものとなるはずである。
ストアも調和的思想体系である点でニューエイジと同じ。
ニューエイジはストイックで内向的。
ニューエイジではグノーシスは擬態的に見出されるに過ぎない。
(ニューエイジ
=グノーシス+ストア派。
弁神論=善の唯一神が悪を創った矛盾に対する言い訳 
の都合から、悪については調和的にした。矛盾を少なくするため。
あとグノーシスの悪観念だと広まりにくい)

・グノーシス主義は究極的には絶対的人間中心主義。

人間の本来の自己は神話のいう至高神からの流出としてそのまま神である。
その意味で人間の本来の自己を超越するものは何もない。
他方で可視的な宇宙万物は、その中に拡散され監禁されている光の部分が一定のところまで回収され終れば、その時点で終末を迎える。
プトレマイオス(ヴァレンティノス)派の神話はこれを「世界焼尽」として描く。
マニ教神話では千四百六十八年続く「世界大火」の後、闇は「用意された墓の中へ逃げ込んでゆく」が、その墓は「この世界と同じほどの大きさの石で封鎖」される。
シェームの釈義でも世界は「暗黒の塊と化するだろう」
と言われる。
これらすべては人間の本来の自己が現実の世界を無限に超越する価値であり、現実の世界に最後まで居場所を持たないのだ、とういグノーシス主義者の自己理解を神話に投影したものに他ならない。
この意味でグノーシスは世界も超越もない独我論の体系なのである。
ブルーメンベルクは神を「自己自身を思惟する思惟」あるいは「不動の動者」とみなした 中世スコラ学を「神学的絶対主義」と呼んだ。
この言い方に倣うなら、
至高神を「自分自身を通して自分を観る」者
あるいは「不変不動の者」とみなすグノーシス主義は、至高神が実は人間の本来の自己の別目にすぎないのであるから「絶対的人間中心主義」と呼ばれてしかるべきもの。
グノーシスが絶対人間中心主義で独我論で行く限り、現実世界は課題であることを止めてしまう。世界は本来の自己の仮の宿りであり、本来の自己という光の断片が回収されるべき舞台ではあっても救済対象にはならない。

∸――
補足資料

フリーメーソンとカトリック
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/mason/antimason.htm
”「フリーメーソン悪魔崇拝結社説」のもとともなったカトリックとの対立について述べてみたい。

 フリーメーソンとカトリック教会の関係は非常に良くない。いや、対立関係、戦争状態にあると言っても良い。なにしろ、17回にもおよぶ破門宣告、200回以上にわたる警告や干渉を受けて来た。こうした攻撃は、書類の手続き上は主に「フランス大東社」を対象にしたものだったが、間接的には全てのフリーメーソンを意識して出されたものである。
 それでいて、フリーメーソンには多くのカトリック信徒が参入していたし、中にはバチカンの高位聖職者が参入していることすらあった。さらに、多くの平の聖職者は、教皇庁の反フリーメーソン活動には無関心で、両者間に対立があることすら知らない者も多い。一方、フリーメーソンの平の会員は、バチカンや教皇と対立することは望んでいない。
 この問題は、複雑でややこしい。

 教皇庁が最初に行った反フリーメーソンの行動は、教皇クレメンス12世によって1738年に出された破門令である。
 
 なぜ、破門か? 一つはその「秘密性」にあるという。これは、懺悔などの時に、神の前では全てを打ち明け、秘密は一切持たない、という重要な教義と矛盾する、という。すなわち神に対して全てを告白するという「告白の秘蹟」を、事実上無効にしてしまうからだという。
 この「秘密性」に対する批判が、カトリックの反フリーメーソンの最大の論拠とされることになる。
 「もし、悪事を企んでいるので無かったのなら、どうして会を秘密にする必要があろうか?」と言うわけである。
 さらに、あらゆる宗教に対して寛容な態度も問題にされた。プロテスタントも、異教徒も、(フランス大東社に至っては)無神論さえ受け入れるその態度は、カトリックの純潔を汚すという。すなわち、「アンダーソン憲章」にある理神論の思想が、異端とされたわけである。
 その他にも、イニシエーションで行われる、シンボリックな舞台設定が、異教的、黒魔術的に見えたというのも大きい。

 このクレメンス12世の最初の破門令は、かなり厳しいものである。
 フリーメーソンの会員は、聖体拝領などの秘蹟は、一切受けることは出来ない。さらに、異端審問所に、世俗の警察権力と強力して、彼らを逮捕し、追放・処刑を行え!! というものだ。
 しかし、時代は18世紀である。これが中世だったら、恐ろしい結果を引き起こしただろう。だがこの当時は、啓蒙思想が広まり、インテリを自称する者達は堂々と無神論者を気取っていた。ルターやカルヴァンの登場によってカトリックの堕落ぶりが暴露され、教皇庁は対抗宗教改革で、やっと威厳と信頼を取り戻したばかり……という状況である。
 プロテスタント諸国は、もちろんこの破門令を無視した。
 カトリック諸国では、フランス、ポーランド、フィレンツェ、ウィーン、リスボンなどが禁止令を出し、スェーデンに至っては「メーソンは死刑」と言う法令まで出した。
 しかし、これらの禁止令は、バチカンへの外交辞令的な代物で、これらの国の警察機構は、やる気は殆ど無かった。
 だいたい、メーソンの会員は政財界のお偉方ばかりである。どうして、厳しい取締りなんぞ出来よう。
 もっとも、教皇領では、厳しい取締りが行われはしたが。


 次の教皇ベネディクト14世は、前教皇が出した破門令が全然効き目が無かったことに苛立ち、あらたな教書を出す。1751年のことである。この破門令は、さらに厳しさが増し、各国の世俗権力にフリーメーソン弾圧を行うよう、強く要求している。
 さらに、彼は「教会法」の中に、メーソンを禁止する条項を書き加えた。これにより、反フリーメーソンの態度は、正式なカトリックの教義となった(こうした条項は現代もなお残っている)。
 いわゆる「第2335条」である。「教会、または合法的な国家機関に対抗して活動するメーソン派または他の結社の名を使う者は、破門の罰に処せられる」


 これを受けて悪名高きスペインの異端審問所が動き出す。
 そして、民間にフリーメーソンは「悪魔のシナゴーク」である、と主張するパンフや本が出回り出すのも、ちょうどこの時期である。
 内容は、魔女裁判やユダヤ人迫害と大同小異の代物で、「メーソン会員は、この世の快楽と引き換えに悪魔に魂を売る儀式を行ってる」というようなものだ。これは、教養の無い者によって書かれたものらしく、文章も稚拙で中身も支離滅裂、矛盾とデマに満ちている。しかし、これは一般の民衆には、それなりの影響力を与えた。
 今もなお生きている、フリーメーソンを悪魔と結びつける考えは、カトリックの教書ではなく、こうした作者不詳の無責任な中傷パンフに端を発している。

 とは言うものの、この破門令も、メーソンのイメージダウンにはそこそこの効力を発揮したものの、さほど大きなダメージにはならなかった。
 それどころか、フランスではナポレオンの援助もあって、フリーメーソンの勢いは増すばかりであった。
 そこで、ピオ7世は、またもや破門令を1814年に出す。文面も威厳に満ちた厳しいものから、単なる口汚い罵詈罵倒に変わって行く。……いわく「地獄の集会の殺人的発展と陰謀」。

 この破門宣告の教書では、フリーメーソンをイルミナティやカルボナリ党と混同し、カリオストロによって始められたエジプト儀礼なども引き合いに出して、非難している。
 しかし、スペインやイタリアの一部を除いて効き目は殆ど無かった。いらつくピオ7世は1821年にも同様な命令を出すが、事態は変わらなかった。
 それに続く教皇たちも、次々にフリーメーソンを破門する教書を出す。特にピオ9世はことさら熱心で、実に7回も反メーソンの教書を出している。当時、政教分離を唱える啓蒙思想が凄まじい速度でヨーロッパを席捲していたわけだが、ピオ9世はこれと激しく戦っていた。当時のメーソンは、この啓蒙思想と強く結びついていた。それゆえの必然的結果といえよう。
 なお、ピオ9世が、教皇に即位する前はメーソン会員だったという説があるが、歴史家の多くは、彼の政敵による中傷だというのが、定説である。
 このピオ9世の活動も、やはり大きな効果は無かった。
 もう、破門の脅しで政治を左右できるような時代は終わっていたのである。

 さて、こうした反メーソン活動は、大局においては功を奏さなかった。
 しかし、散発的、一時的には大きな盛り上がりを見せることもあった。

 さすがに20世紀に入ると、メーソンとバチカンとの間に、対話が持たれるようになった。
 メーソンからもカトリックからも、和解を探る動きが出始める。
 ピオ13世は、対話に対しては冷淡であった。
 だが、ヨハネス23世による第二回バチカン公会議は、大きな希望であった。これはカトリックの教義を近代化させた大事件である。他宗教との共存を謡い、異端審問を否定し、民主主義を支持し、人種差別に反対し、有色人種の枢機卿を多く生み出すきっかけとなったこの会議は、実は親フリーメーソン派の聖職者たちの働きによる所が大きい。
 こうしてメーソンとカトリックの和解は、可能だろうと思われた。
 しかし、ここで悪い偶然が重なる。
 イタリアでかのP2事件が発覚(後に詳述する)。
 さらに、カトリックの近代化を推し進めてきた革新派のヨハネス23世が、在位わずか30日で謎の急死を遂げる。
 そして、現教皇ヨハネ・パウロ2世が就任する。彼は革新的な部分と保守的な部分が同居した複雑な思想を持った教皇である。バチカン公会議を尊重し、他宗教の指導者達と親しく交流し、禁書制度を廃止し、ダーウィンの進化論に一定の理解を示す一方で、同性愛者の権利を認めず、共産主義を敵視し、メーソンに対しても頑なな態度を示している。
 1983年、ベネディクト14世によって定められた反メーソンの教会法2335条を廃止したが、同趣旨の教会法1328条を作った。そして、同年「これまでのメイソン破門に変更はない」との声明も出している。
 その後も、親メーソン派の大司教が破門されたり、極端な反メーソン派の聖職者も左遷されるなど、トラブルは今も続いている

 現代、多数派の神学者達はフリーメーソンの「相対主義的な思想」は、カトリックの教義と対立する、という意見を持っているようである。その一方で、反フリーメーソンは時代遅れも甚だしいと考える勢力もある。
 思うに、和解への努力は、これからも続けられるだろう。

 そして、それとは全く無関係なところで、「フリーメーソン悪魔結社説」の本も出続けることであろう。


「ローマ教皇とフリーメーソン」 ダットレイ・ライト 三交社
「フリーメーソンリー」 湯浅慎一 中公新書
「秘密結社の手帳」 澁澤龍彦 河出文庫



グノーシスの神話
http://www.ne.jp/asahi/village/good/gnosis.htm



ボゴミール派
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/gnousisu/bogomiiru.htm
”ボゴミール派もまたグノーシスの神話を含んでいる。
 そして、それはカタリ派がカソリックを悩ませたように、このボゴミール派は東方正教会を悩ませた巨大な異端派であった。
 それは実に500年以上も続き、一時期にはブルガリアを中心に東ヨーロッパのみならず、イタリアやフランスにまでも影響を及ぼす大勢力となった。

 ボゴミール派の成立には、まずパウロ派と呼ばれる異端派がある。これはキリストの神性を否定した派であり、彼らはイエスは30歳のときにパプテスマを受けたときに神の養子となったという「キリスト養子説」を取っていた。当然の如く三位一体説は否定しており、その代わりマニ教やマルキオン派からの強い影響が見られ、いわゆる善悪二元論を取っていた。
 しかし、彼らのこの「養子説」は、グノーシス派のキリストを純粋な霊的存在と見なす考えとは対立する思想であった。
 彼らはキリストがマリヤの受胎を通じて、敢て肉体を持って生まれたとし、むしろマニ教の影響が強い。
 そのため、この派は、当時マニ教と混同された。東方正教会の記録に「マニ教」とあるのは、実はこのパウロ派を指していることも多い。
 パウロ派もグノーシスの教義を断片的に含んではいたが、これはマニ教を経由してのことのようである。
 パウロ派の成立は未だにはっきりしていない。おそらくその起源は7世紀頃まで遡る。そして、東ヨーロッパの様々な教派の思想を取り込んで発展し、8~9世紀頃には国家を造るまでになったが、この国も結局ビザンチン帝国によって滅ぼされた。
 そして、彼らはその後も熱心に布教を続け、存続する。
 パウロ派の一部は8世紀の初頭にビザンチン皇帝によってトラキア地方の辺境守備隊として移住させられた集団がおり、これがボゴミール派の祖であるというのが有力な説である。


 彼らは、マニ教やマルキオン派の影響だけではなく、さらに東方正教会で起こった聖像破壊運動を取り込み発展した。聖像破壊運動は偶像崇拝を否定する動きから生じた運動で、8~9世紀の約100年間続く運動である。これは東ローマ皇帝の聖像破壊の勅令によって行われ、レオン3世の治世とテオフィロス帝の治世の2回のピークがある。
 レオン3世は724年頃に聖像崇拝への批判を始め、730年に全ての聖像の破壊を命ずる勅令を出している。いわゆる第1次聖像破壊運動の始まりである。

 彼の息子のコンスタンティノス5世もこの運動を継続したが、孫のレオン4世の頃から運動は下火になり、コンスタンティノス6世と摂政のイレーネ皇后の時代になると運動は中断される。実権を握ったイレーネが聖像擁護派だったためである。780年年代のことである。
 しかし、814年にレオン5世が即位すると、聖像破壊運動は再開される。ここからが第2次聖像破壊運動の開始である。レオン5世が暗殺されミイカエル2世が即位すると一時期下火になるものの、829年にテオフィロス帝が即位すると、再び聖像破壊運動がピークとなる。
 だが結局、この運動は、聖職者達の強い抵抗と聖像擁護派の巻き返しによって、842年のテオフィロス帝の死をもって終焉した。
 文字通り、偶像崇拝は「聖書」の禁ずる行為であるとして、十字架や聖画、聖像が破壊された
 しかし、この運動は極めて暴力的になり、修道院を破壊し、反対する聖職者達を大勢殺戮した。当然の如くローマ教皇との深刻な対立をも引き起こした。
(この運動が起こった原因については、歴史学者たちの間でも議論があり、はっきりとした結論は出ていない。一つはイスラム圏と接していたがゆえに、イスラムの偶像否定の影響を受けたという説。破壊派に政治家や軍人が多く、聖像擁護派に聖職者が多かったことから、政治権力と宗教権力の抗争といった説もある。)
 ともあれ、この運動はボゴミール派にも強い影響を与えた。
 ボゴミール派は、聖像を認めず、十字架に至ってはキリストを殺害した処刑具であり、こんな物を崇拝するのはもっての他と断じたのである。


 ボゴミール派の開祖は、その名の通りボゴミールという村の司祭であったといわれる。930年頃のことである。ただ、これはボゴミールの0からの発明ではなく、もともとあった運動を発展させた有力な指導者と見られている。
 ボゴミール派の大きな特徴は、その創世神話にある。
 彼らによると、神には二人の息子がおり、一人はキリスト、もう一人はサタナエルという天使である。 このサタナエルは「旧約聖書」の神と同一であり、もちろん真の神ではない。サタナエルは、真の神の同意を得た上で、物質世界を創造したという。サタナエルは暴君であり、邪悪な存在である。
 真の神は天界と天使たちを創造した。サタナエルもこのときに創造された。しかし、思い上がったサタナエルは神に反逆し、堕天する。
 堕天したサタナエルは、混沌とした大地を整備して、地(物質世界)を創造した。これは真の神の許可を得たうえでのことだったという。
 サタナエルは土から人間を創造しようとしたが失敗した。そこで、サタナエルは真の神に協力を仰ぐ。
 真の神は、いずれ人間を自分に返還することを条件に、これに協力する。真の神は魂を創造し、サタナエルの土人形(肉体)に、これを吹き込むことによって人間を創造した。
 サタナエルは暴君となって、過酷な支配を行い、この真の神の子でもある人間たちを苛め抜く。「旧約聖書」にある流血沙汰、ノアの洪水などがそうであるという。

 そこで、真の神はキリストを派遣して、人間を救済する。
 イエスは神的な存在であったが、マリヤを通じて仮の肉体をまとった。しかし、本来イエスは非物質的な存在であり、あくまで「肉体のようなもの」をまとっていただけだったという。
 イエスは福音を説き、「言葉」である「聖霊」を人々に浸透させた。
 サタナエルはこれを妨害する。十字架にかけられたのも、サタナエルの計略だったが、もともと本当の肉体を持たないイエスにとっては、意味のないことであった。
 イエスは仮に
死ぬと、すぐに復活し、サタナエルを鎖で縛り、地獄に投げ込んだ。この時点で、サタナエルは「エル」を失いサタナ(悪魔)に堕す。
 任務を終えたイエスは天界に戻ると、自分の内に入った「聖霊」と共に、「父」と一体化する。これで、「三位一体」という一時的にバラバラになっていた状態を終え、一つの神に戻った。
 しかし、サタナは地獄から逃亡することに成功し、再び地上を支配するようになった……という。

 だが人間は、このサタナの手から逃れることは充分可能である。それはボゴミール派の説くイエスの教えを受け入れることであるという。

 したがって、物質たるこの世はサタナエルによって支配されている邪悪な世界である。この世に貧困や戦乱や病気といった災厄に満ちているのも、邪悪なサタナエルによって造られ、支配を受けているからに他ならない。
 東方正教会や皇帝などは、サタナエルの手先であり、邪悪な存在である。
 これは重要だ。ボゴミール派は、とかく皇帝や教会などの権力をサタナエルに属するものとして嫌悪した。
当時、封建社会において搾取の対象にされ、悲惨な生活を強いられた農奴たちが、重税を取って贅沢三昧に遊び暮らす皇帝や貴族、聖職者たちへの一種の階級闘争として、このボゴミール派を奉じたのだ、という説を、ブルガリアの歴史学者たちは支持しているからだ。
(実際、ディミータル・アンゲロフ等の研究者はエンゲルスを引用しながら、この説を主張する。旧共産圏のブルガリアの学者だからなのであろうか?)

 ボゴミール派は、とにかく正統派(?)の東方正教会派の教義を否定した。
 まず、彼らはサタナエルの作品である「旧約聖書」を聖典とは認めなかった。モーセなどはサタナエルの手先であるという。
 さらに彼らは、十字架も聖像も偶像崇拝であるとして、これを認めなかった。
 ミサなどの東方正教会の宗教儀式は全く無意味であり、唯一正統な祈りは「主の祈り」だけである。
 聖餐式のパンとワインは、もちろんキリストの肉でも血でもなくただの食品であるという。
 洗礼についても、堕落した正教会の聖職者が自由意志のまだ無い幼児に洗礼をほどこすのは無意味であるとし、成人してから自分の自由意志で受ける、いわゆる「再洗礼」を行った。
 懺悔に関しても堕落した正教会の聖職者に行っても意味はなく、彼らはお互いの仲間どうしで懺悔した。
 金や富はサタナエルのものであり、したがって金持ちは救われない。信徒は貧しくあるべきと考え、粗末な衣服のみを着るべしとされた。さらに肉食や酒は禁止であり、婚姻も避けるべきこととされた。
 だが、こうした厳しい戒律を全て守るのは、普通の農奴には難しく、「完全者」と呼ばれる一部のコアな信徒がこれを行った。「完全者」には、元正教会の下級聖職者出身者が多く、彼らがボゴミール派の聖職、宣教師となった。


 ボゴミール派は、大きく2派に大別される。
 一つはサタナエルは真の神の被造物であり天使に過ぎず、最後の審判の日に地獄に投げ込まれる悪魔であるとする穏健二元論派である。彼らは、サタナエルは神の罰を受けて堕天し、「エル」を失いサタナ(悪魔)になったと考える。
 この穏健二元論派は、初期のボゴミール派の主流派であり、ブルガリアを中心に広まっていた。
 もう一つは、サタナエルは真の神と同等の力を持ち、両者の対立は未来永劫続くと考える絶対二元論者である。これは時代が下がると徐々に力を増してゆく。マケドニア地方に置かれたボゴミール派のドラゴヴィツァ教会が、その中心であった。
 この絶対二元論派は、東方正教会や権力者たちを激しく批判し、対立した。
 両派は、同じ境遇にあり、二元論以外の教義では一致が多かったので、互いに容認しあう関係にあったらしい。
 ただ、宣教活動は絶対二元論者のほうが熱心であり、彼らはイタリアやフランスにまで遠征した。
 それによって、ボゴミール派は、かのカタリ派に大きな影響を与えることになるのである。

 当然の如く、ボゴミール派は、東方正教会からもブルガリア帝国やビザンチン帝国からも激しい迫害
を受けた。
 12世紀に起こったボゴミール派説教師バシレイオスの壮絶な殉教事件も、そうした最中に起こっている。
(逮捕されたボゴミール派信徒達の前に、火刑台と十字架が置かれた。ボゴミール派の教えを捨てて東方正教会に戻る者は十字架へ、あくまでボゴミールの教えに固執するなら火刑台へ行くべしと言われる。数人の信徒は火炙りの恐怖に耐え切れず十字架に駆け寄る。彼らは戒めを解かれ、その場で釈放された。しかし、バシレイオスはそれを見ても己の信念を曲げず火刑台に進み、そのまま火炙りにされて殉教した)

 ブルガリアがビザンチン帝国の侵略を受け、帝国に併合されると、彼らはレジスタンス運動とも結びついたらしい。
 そのため、ビザンチン帝国の支配下でも激しい迫害を受けたが、彼らは衰えることはなく、かえって活動を活発化させた。彼らは逆にビザンチンの帝国領の各地で宣教を行い、その勢力はコンスタンチノープルにまでおよぶことになる。
 やがてブルガリアがビザンチンの支配を脱した後も、彼らは活動を活発に行っていた。

 しかし、14世紀頃から衰退が始まる。そして、オスマン・トルコの侵略を受け、イスラムの支配下に入ると、ボゴミール派は事実上消滅してしまった。
 彼らの大半はイスラム教に改宗してしまったという。

 あれほどの迫害を生き延びた彼らが、なぜあっさりとイスラムの前に敗北してしまったのか。その理由はよくは分からない。
 ある学者は、ボゴミール派の教義そのものが階級闘争の目的から離れて、抑圧されていた庶民の人気を失い、さらにイスラム教は、彼らがこれまで戦って来た相手(東方正教会など)とあまりに異なった相手だったので、それと戦う理論武装がなかたったためではないかと推測している。

 ボゴミール派は、こうして消滅したが、彼らの教義はブルガイリアの民間伝承の中で行き続ける。
 そして、その教義の一部は西ヨーロッパのカタリ派にバトン・タッチされ、グノーシスの教義の残滓は、さらにしばらく継承されてゆくことになるのである。


「異端の宗派ボゴミール」 ディミータル・アンゲロフ著 寺島憲冶訳 恒文社
「異端事典」 C・S・クリフトン著 田中雅志訳 三交社
「聖像画論争とイスラーム」 若林啓史著 知泉書館”



HUMANUM GENUS
ENCYCLICAL OF POPE LEO XIII
ON FREEMASONRY
http://w2.vatican.va/content/leo-xiii/en/encyclicals/documents/hf_l-xiii_enc_18840420_humanum-genus.html
"9. There are several organized bodies which, though differing in name, in ceremonial, in form and origin, are nevertheless so bound together by community of purpose and by the similarity of their main opinions, as to make in fact one thing with the sect of the Freemasons, which is a kind of center whence they all go forth, and whither they all return. Now, these no longer show a desire to remain concealed; for they hold their meetings in the daylight and before the public eye, and publish their own newspaper organs; and yet, when thoroughly understood, they are found still to retain the nature and the habits of secret societies. There are many things like mysteries which it is the fixed rule to hide with extreme care, not only from strangers, but from very many members, also; such as their secret and final designs, the names of the chief leaders, and certain secret and inner meetings, as well as their decisions, and the ways and means of carrying them out. This is, no doubt, the object of the manifold difference among the members as to right, office, and privilege, of the received distinction of orders and grades, and of that severe discipline which is maintained.

Candidates are generally commanded to promise - nay, with a special oath, to swear - that they will never, to any person, at any time or in any way, make known the members, the passes, or the subjects discussed. Thus, with a fraudulent external appearance, and with a style of simulation which is always the same, the Freemasons, like the Manichees of old, strive, as far as possible, to conceal themselves, and to admit no witnesses but their own members. As a convenient manner of concealment, they assume the character of literary men and scholars associated for purposes of learning. They speak of their zeal for a more cultured refinement, and of their love for the poor; and they declare their one wish to be the amelioration of the condition of the masses, and to share with the largest possible number all the benefits of civil life. Were these purposes aimed at in real truth, they are by no means the whole of their object. Moreover, to be enrolled, it is necessary that the candidates promise and undertake to be thenceforward strictly obedient to their leaders and masters with the utmost submission and fidelity, and to be in readiness to do their bidding upon the slightest expression of their will; or, if disobedient, to submit to the direst penalties and death itself. As a fact, if any are judged to have betrayed the doings of the sect or to have resisted commands given, punishment is inflicted on them not infrequently, and with so much audacity and dexterity that the assassin very often escapes the detection and penalty of his crime.")

"Iraqi Baathist anti-Masonry

In 1980, the Iraqi legal and penal code was changed by Saddam Hussein and the ruling Ba'ath Party, thereby making it a felony to "promote or acclaim Zionist principles, including freemasonry, or who associate [themselves] with Zionist organizations."[18]

Muslim anti-Masonry
Further information: Iraqi Baathist Anti-Masonry and The Covenant of Hamas

Many Islamic anti-Masonic arguments are closely tied to both Anti-Semitism and Anti-Zionism, though other criticisms are made such as linking Freemasonry to Dajjal.[39] Some Muslim anti-Masons argue that Freemasonry promotes the interests of the Jews around the world and that one of its aims is to rebuild the Temple of Solomon in Jerusalem after destroying the Al-Aqsa Mosque.[40] In article 28 of its Covenant, Hamas states that Freemasonry, Rotary, and other similar groups "work in the interest of Zionism and according to its instructions...."[41] Many countries with a significant Muslim population do not allow Masonic establishments within their jurisdictions. However, countries such as Turkey and Morocco have established Grand Lodges[42] while in countries such as Malaysia[43] and Lebanon,[44] there are District Grand Lodges operating under a warrant from an established Grand Lodge.

https://en.wikipedia.org/wiki/Anti-Masonry

” Islamic world
After the condemnation of Freemasonry by Clement XII in 1738, Sultan Mahmud I followed suit outlawing the organization and since that time Freemasonry was equated with atheism in the Ottoman Empire and the broader Islamic world.[36] The opposition in the Islamic world has been reinforced by the anticlerical and atheistic slant of the Grand Orient of France.[36]
On July 15, 1978, the Islamic Jurisdictional College—one of the most influential entities that interpret Sharia, or Islamic law—issued an opinion that deemed Freemasonry to be "dangerous" and "clandestine".[36]
After World War I, while under the British Mandate, Iraq used to have several lodges. This all changed with the 14 July Revolution in 1958, however, with the abolition of the Hashemite Monarchy and Iraq's declaration as a republic. The licences permitting lodges to meet were rescinded, and later, laws were introduced banning any further meetings. This position was later reinforced under Saddam Hussein the death penalty was "prescribed" for those who "promote or acclaim Zionist principles, including freemasonry, or who associate [themselves] with Zionist organizations".[37]
Freemasonry is illegal in all Arab countries except Lebanon and Morocco.[36]

https://en.wikipedia.org/wiki/Suppression_of_Freemasonry#Islamic_world
This page was last modified on 8 April 2017, at 01:24.

”Islam and Freemasonry

Many Islamic anti-Masonic arguments are closely tied to both antisemitism and Anti-Zionism, though other criticisms are made such as linking Freemasonry to al-Masih ad-Dajjal (the false Messiah).[100][101] Some Muslim anti-Masons argue that Freemasonry promotes the interests of the Jews around the world and that one of its aims is to destroy the Al-Aqsa Mosque in order to rebuild the Temple of Solomon in Jerusalem.[102] In article 28 of its Covenant, Hamas states that Freemasonry, Rotary, and other similar groups "work in the interest of Zionism and according to its instructions ..."[103]

Many countries with a significant Muslim population do not allow Masonic establishments within their jurisdictions. However, countries such as Turkey and Morocco have established Grand Lodges,[104] while in countries such as Malaysia[105][106] and Lebanon[107] there are District Grand Lodges operating under a warrant from an established Grand Lodge.

In Pakistan in 1972, Zulfiqar Ali Bhutto, then Prime Minister of Pakistan, placed a ban on Freemasonry. Lodge buildings were confiscated by the government.[108]

Masonic lodges existed in Iraq as early as 1917, when the first lodge under the United Grand Lodge of England (UGLE) was opened. Nine lodges under UGLE existed by the 1950s, and a Scottish lodge was formed in 1923. However, the position changed following the revolution, and all lodges were forced to close in 1965.[109] This position was later reinforced under Saddam Hussein; the death penalty was "prescribed" for those who "promote or acclaim Zionist principles, including freemasonry, or who associate [themselves] with Zionist organisations."[100]

https://en.wikipedia.org/wiki/Freemasonry#Islam_and_Freemasonry

ken‏ @kenkatap
トルコ革命・建国の父=ムスタファ・ケマル http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%86%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%82%AF … ▼出身=オスマン帝国領マケドニア(現ギリシャ領テッサロニキ) https://twitter.com/kenkatap/status/423670925075021824 …
▼ナポリロッジでフリーメーソン入会 https://twitter.com/kenkatap/status/265476797423030272 …
ケマル大統領時代=欧化政策を断行 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%86%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%82%AF#.E5.A4.A7.E7.B5.B1.E9.A0.98.E6.99.82.E4.BB.A3 …
▼脱イスラム国家化 ▼1928年、憲法からイスラムを国教と定める条文を削除
▼アラビア文字を廃止、ラテン文字に改める文字改革を断行
▼1932年、スターリンが巨額の融資
▼ターバンやトルコ帽着用を禁止

ソ連の後ろにフリーメーソン 【http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=fZabmJyqRMM#t=411s … ▼現在もロシアマフィアはアメリカと深いつながりがある▼孫文=サンフランシスコのロッジで入会
▼トルコ建国の父ムスタファ・ケマル=ナポリのロッジで入会
▼このロッジはマケドニアに真実が再び与えられたという名を持つ

アラブ人=レバノンのキリスト教マロン派は古代フェニキアの子孫としての民族意識が強い https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E4%BA%BA …
▼レバノンのキリスト教マロン派 https://twitter.com/kenkatap/status/640754282417909760 …
▼アラブと欧米の言語や商慣行を知るため、有力商人輩出
▼ゴーンが有名

相原たくや‏ @aiharatakuya 2015年1月16日
エジプトのコプト教徒、レバノンのマロン派キリスト教徒にはアラブ民族としての民族感情は存在しない。
コプト教徒は自らを古代エジプト人の末裔と見なし、
レバノンのマロン派キリスト教徒は自らを古代フェニキア人の末裔であると誇る。

chiaki‏ @snieg 2011年2月10日
2月9日は,レバノンでは聖マロンの日で祝日でした.聖マロンというのは,4世紀頃の修道士でマロン派(東方典礼カトリック教会の一派)の始祖とのことです.レバノンはマロン派のキリスト教徒が人口の1/3くらいを占めているようです.カルロス・ゴーン氏は,レバノン系でマロン派なんだそうです.


閉店です ‏@lakudagoya 2015年11月23日
そもそもユダヤとは何か?という事をやらないと日ユ同祖論やる意味ないかと。イスラエルの10支族?カナン人と同じ多神教を信じててユダヤの選民でござる?ヤハウェ様を裏切ったのに?カナン人と同じ信仰をしてたイスラエルの10支族とやらは、周囲の現地人とどう区別をつければいいのでしょう?

ローマの宗教史を扱った「神々のあふるる世界」さ。エジプトの神官の生活について史料をベースに色々語ってるけどさ、蹄の割れた獣は食べませんとか、割礼もそうだけど、色々な意味でユダヤ教ってエジプトの貴族の宗教臭いんだぜ?これモグラ君が言い出した事だけど、大当たりだったと思うんだ。

ユダヤ教のウリジナル in 古代エジプト
1 十戒(死者の書に書いてある42の戒律が元ネタw)
2 レビ記の食物規定(エジプトの神官の戒律が元ネタw)
3 割礼(神官の通過儀礼w)
4 経典の宗教(読み書きできるのは神官と貴族だけw) おおっ!こんなにも香ばしいネタがざくざくとw


子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2014年7月22日
@wayofthewind 「読売の黒子役」竹井博友が徳間書店(陰謀モノ)と致知出版社を事実上創業。(格物)致知出版社は「昭和最大の黒幕」安岡正篤、五木寛之、稲盛和夫の本がベストセラー(笑)。道教学者の福永光司と五木の共著等道教資料更新http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-25.html

飯田泰之 ‏@iida_yasuyuki 2011年3月24日
ほぉ徳間氏ってそういうこともやってたんだ.というよりも「アサヒ芸能」が徳間書店の母体であることにびっくり http://ja.wikipedia.org/wiki/竹井博友 @pokopen_pokopen 徳間康快氏


https://twitter.com/lakudagoya/status/770087111412310018
ねこた(ニート勇者Lv.1 実は遊び人) ‏@lakudagoya 11 時間11 時間前
リシャール・コシミズさ、中東では異端審問やらないってわかんないのか? 隠れナントカだろうがイスラム法を守って礼拝や断食や喜捨をやってたらその人らはムスリムとしてカウントされるんだよ? 税金さえ払えば放題プレイが理解できんの? http://s.webry.info/sp/richardkoshimizu.at.webry.info/201511/article_227.html …

ボゴミール派などのキリスト教異端がオスマン・トルコが攻めてきたらイスラームに集団改宗したのは、気にしない遊牧民&異端審問やらないのが元耶蘇異端派にとっては居心地が良すぎたんでないかな? このように、いつだって耶蘇異端の一部はムスリムやユダヤと仲良しなんでそれがユダヤ陰謀論だよ!

恐らくユダヤ陰謀論の正体は 「ローマ・カソリックの体制を脅かす異端とイスラム資本」の事だよ。 マリの王様がメッカ巡礼で気前よく金をばらまいたおかげで、カイロの金相場が10年戻らなかったという逸話があるんだけど、よーく考えてみてよ、これをヨーロッパに投資したらどうなるかな?w

ちなみにアシュケナージはゲルマン人(イデッシュ語はゲルマン系言語=印欧語)かスラヴ人でサウジアラビアの王族はイラクのドンメーというユダヤ教徒なんですが。 本当のユダヤ人(笑)ってイスラム教徒のパレスチナ人の事ですか?w

なるほど!ビザンツ帝国時代の下級聖職者や貧しい農民が異端にかぶれてオスマン・トルコが来たらイスラームに集団改宗したのも、キリスト教徒であっても出世のチャンスが開かせてたイスラム社会などにシンパシーがあったからですか。 RT
ねこた(ニート勇者Lv.1 実は遊び人)さんが追加
よーすけ @yoshimichi0409
かつてイスラム世界に多くの異端キリスト教徒やユダヤ教徒が身を寄せたのは、カトリックが行う異端審問から逃れる為だった。ムスリムは快く受け入れ差別もせず才能ある者は要職にも就かせた。そういう中でムスリムに集団改宗するのも無理はない。 https://twitter.com/lakudagoya/status/770088931039805440 …

∸――

お読みくださり感謝と書かなかった場合は読者が減るのだろうか?

フェニキアの一部がエトルリアとユダヤ疑惑『ラテン語の世界』。 イマの目は太陽!東からくる救世主 =太陽 ! 『原典訳 アヴェスター』 

イスラムは原則メーソン入会禁止!∵耶蘇(詳細は次)。

最上位天使セラフィムの画像↓が気色悪すぎ!気色悪くないほうはこの後すぐ!

偽ディオニュシオスの天上位階論によれば、セラフィムという名前は火を発するもの、熱するものなのだそう。神に対する不変で永遠の運動の熱、あふれる沸騰、下位のものを沸騰させ再び燃え立たせ、また完全に焼却し浄化するものなんだそうです(@_@;) 真っ赤で熱そう!


↓プロフィールが真言密教僧!
北川 宥智 ‏@OshoUFO 2010年11月25日
空海の持ち帰った書物に景教関連の物は一冊。しかも大乗経典の共同翻訳のみ。空海の著作には景教の影響は全く見当たりません。なぜでしょうね。むしろ彼は善悪の景教的発想を否定していますよRT @sinjidai: 博覧強記で手当たりしだい勉強していた空海がこ学ばなかったはずはありません。

∸――

『ラテン語の世界』


・古代ローマ人の個人名は数が乏しく、せいぜい20ほどしかなかった。
イニシャルさえ記しておけば名前が判断できるほど。
女性専用に用意された個人名は存在していなかった。女性には自分の生家の氏族名の語尾を女性用に-aと変えただけの単純な名前が与えられるばかりだった。ローマの歴史で女性が登場するときは誰のことを指しているのかをきちんと把握することがとても難しい。

女性が黒幕だと完全に陰に隠れられる制度。

おねショタおじさん ‏@douteimaturi
あー言っとくけど、金貸しや政商、役人、政治家等名前が世の中に出てくる連中は周辺だからな 本当の中心にいるやつは名前が何個も持っていたり、
名前を調べられてもそいつが何者なのか全くわからない奴や
表上重要視されない存在や
固有名詞を持たない存在が世界の軸にいて、何かしているのを忘れるな

情報は単独で存在しない
人は過去に縛られて生きている
過去にあって消滅されたとされる集団や知識は条件さえあえば再興する
定義が曖昧、定義を決めないで物事を言うやつは絶対に信用も信頼もしない
全ての意見や思想は主観でしかなく、客観性というのは数と暴力で出来ている これが陰謀論の基本



アルファベットを世界中に広めたのはローマ人だが、
縁の下の力持ち的な役割を果たした別民族がエトルリア人。
イタリアの首都ローマ市を流れるテベレ河を境として、
その北側からアルノー河(フィレンツェ市を流れる河)にいたる広い地域に紀元前9世紀ころその存在を示しはじめ、
紀元前7世紀ころから紀元前4世紀ころまで繁栄していたのがエトルリア人。
エトルリア人は統一王国を形成していたのではなく、文化的共通性を通じ連合を形成していた都市国家。
エトルリア人はローマ人よりも早くギリシア文化と接触し、
自身も高度な文化生活を営み、交易を盛んにして地中海一帯に勢力範囲を広げていたことは考古学資料とギリシア人の文献からよく見て取れる。
ローマ人の伝承ではローマ人は紀元前7世紀終わりから紀元前6世紀終わりまではエトルリア人の王の支配下にあった。
そしてついに最後の王を追放し共和制を樹立したことになっている。
ローマ人はエトルリア文化から多くのものを摂取したことは確かで文字も貴重な遺産の一つ。


ローマという地名がエトルリア語の「川」rumonからきているらしい。
ローマ伝承では初代王ロムルスからきているとしているが。
エトルリアは彼らの勢力範囲全体を表す名称で、エトルリア民族についてはローマ人はトゥスキーとも読んでいた。
現在フィレンツェ市を含む一帯をトスカナ地方と呼ぶのは、「エトルリア人の土地」という名称
が残ったもの。

エトルリアは高度な文明を誇っていたが、遺跡、遺物の数が限られており言語と文明がラテン語に及ぼした影響を考えると不自然なほどにわずかしか資料が残っていない。資料から判断されるエトルリア語が周囲のどの言語とも完全に異なっている。
明らかにエトルリア人は周囲のどの民族とも異なった出自。エトルリアの独自性は紀元前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスによって言及されているようにすでに古代でも関心を呼ぶ事柄。
民族系統は現在も明らかになっていない。
エトルリア語の解読作業は進んでいるが資料が乏しい。
エトルリア語文字資料はラテン語のそれよりも早く紀元前7世紀には表れているのに少しでも長い文が書かれたあるいは彫刻された資料、詩、戯曲のごとき文化学類が断片一つ残されていない。
エトルリアが文書を作らなかたっとは考えられない。
遺物から見て文字がエトルリアにとって非常に重要な意味を持っていたことがわかるから、ある学者は「文字の民」と呼んでいるほどである。
そしてそのエトルリア文字をローマ人は伝えた。
ローマ人はエトルリア人に一時支配され文化的に多く影響を蒙りながらもラテン語を捨てることなく、エトルリアの支配者を追放して独立を勝ち取ったのみならず、エトルリア文化に属するものを必ずや意識的に破壊しつくしたのである。
エトルリア人は自身の文化を捨て言語を忘れはて紀元前1世紀にはローマ人に吸収された。
ただエトルリア人の家系だと自覚する人はいた。

現在、文化事業へ企業がする後援活動を日本でもフランス語「メセナ」【mécénat】と言うが、
由来はホラティウスをはじめとする詩人たちのパトロンであったことで後世にまで名を残した紀元前1世紀の大富豪マエケナスの名前からきておりそのマエケナスはエトルリア人である。

現在知られているエトルリア語の単語数は250程度。解読も完全ではない。
現在の資料でのエトルリア語とラテン語の類似はギリシア語がラテン語に入る際のエトルリア語の仲介者的役割を示しているというのが真実らしい。

・ローマにギリシア演劇をもたらしたのはエトルリア人。

(見つかっても隠蔽されそうなんだけど。
フェニキア人の一部がエトルリア人なのでは?


魔王アモン ‏@mryensrh11 8月7日
違法な業者とかがよくやる古典的な手口でさ 名前だけ変えて別会社のフリして 営業続けるってよくある話だよね 「ええ、アテクシたちはAですけど? は?B?なんですかそれは?」っていうの さーて、これはフェニキアがユダヤを名乗った時の手口でもあるんだが それ「だけ」か?

閉店です ‏@lakudagoya 8月7日
@mryensrh11 それ何万社もある派遣屋みたいやね。 で、ラテン人がアルファベットを使うようになったのはエトルリアの影響なんだとか。出典「ラテン語のしくみ」 エトルリアあんま資料ないですけど、部族社会のローマくらいから古くいるけど、ローマと混血して消えました。


対馬譲治 ‏@TongetsuP 3月29日
エトルリア語の新たな史料が見つかったぽい。 Text in lost language may reveal god or goddess worshipped by Etruscans at ancient temple
http://phys.org/news/2016-03-text-lost-language-reveal-god.html

ういちゃん ‏@884uichi 10月3日
メセナ〖mécénat〗〔文芸を庇護した古代ローマの政治家マエケナス(Maecenas)の名にちなむ〕 企業が行う文化・芸術活動に対する資金支援。 #daijirin

ガイウス・キルニウス・マエケナス(ラテン語: Gaius Cilnius Maecenas
“クィントゥス・ホラティウス・フラックスは自らが最初に制作したオード(頌歌)の巻頭に、マエケナスに対する宛名の欄に「王族の子孫」(ラテン語: atavis edite regibus)と記した。”
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%A8%E3%82%B1%E3%83%8A%E3%82%B9


紀元前1世紀中頃にはカエサルの討伐によってガリア、現在のフランスの地がほぼすべて平定され、シリア、エジプトもローマ領となる。
キリスト紀元後の帝政時代になると領土拡大はさらに進む。
ローマ帝国の版図が最大だったのは紀元100年頃、トラヤヌス帝の治世下。 
ローマ市民や退役軍人が各地に入植を開始し、海外領土の植民地化も進んだ。
各地には学校が作られ教育はラテン語でなされたので、イタリア半島以外の土地の人々にもラテン語が母語となる現象が徐々に起こった。
ガリアではイベリア半島(バスク地方を除いて完全にラテン語化)と並んで特に多くの学校が創られた。ガリア上流層は好んでその子弟にラテン語を学ばせた。多くのガリア人がローマ軍へ編入されたので、母語のラテン語への転換が都市部から起こって言った模様である。
ただしガリア人が本来のケルト系の言語を捨て去るには数世紀かかり、話されなくなったのは6世紀頃らしい。

(バスク人脈怪しすぎ)

・ローマ人は地中海を、我らの海mare nostrumと呼んだが、西部の状況とは反対に、地中海東半分においてはラテン語は遅々として進まなかった。
ギリシア語の文化的威信のせいである。
ギリシア本土においてはラテン語は民衆の第一言語として広まるどころかギリシア語に押されて、行政の為の言語にもならなかった。
ローマ人にとってギリシア語の習得は必須の教養であり、よく言われるように、軍事的、政治的にギリシアを征服したローマは、文化的にギリシアに征服された。

・北アフリカでラテン語が出会った主要言語はコプト語とカルタゴ語である。ともにセム語族。
コプト語は古代エジプト語の末裔で基本的にはギリシア文字で書かれている。
ローマと接触した時のエジプトはプトレマイオス王朝の支配下にあった。
始祖プトレマイオスはアレクサンドロス王の武将で、アレクサンドロスの築いた大帝国が彼の死後瓦解した後、エジプトを受け継いで支配することとなった。
であるから、子孫であるクレオパトラ女王は人種としてはマケドニア人
であるが、文化的にはエジプトに同化していた。
多くの言語に通じていた彼女の使える言語の一つは当然臣民の言語であるコプト語であったはず。
エジプトはクレオパトラの前30年の死の後ローマ領となったのでラテン語化が始まるもコプト語は死に絶えなかった。
コプト語はキリスト教信者の為の言語となりエジプトがイスラム教徒に占領されたはつか後、10世紀になってもエジプトのキリスト教信者により細々と使われていた。

カルタゴはかなりラテン語化された。帝政期には何人かの文人を出しているし、キリスト教期になってラテン語で著作した初期の教父たちの多くはアフリカ出身。
カルタゴ語も死に絶えなかった。アウグスティヌス(354~430)の時代になってもカルタゴ語が十分に残って機能していたことがわかっている。
アウグスティヌスはヌミディア、現在のアルジェリアの生まれであるが生まれついてのラテン語話者。しかし彼はカルタゴ語の多少の知識も持っていた様子で、またそれがキリスト教信者の間で使われていることに著作で言及している。のみならず同じセム語族に属するヘブライ語とカルタゴ語との類似性にも気づいており、カルタゴ語を軽視する様子はうかがえない。
アウグスティヌスは異教徒時代に私生児を設けているのだが、その母はカルタゴ話者であったらしいと考えられている。
というのも、息子である少年の名前がAdeodatus。ラテン語らしくないラテン語。
a-deo-datus神から授けられた男 としか解釈できないが、ラテン語にはこのような複合語の伝統はなく、別言語から影響を受けたcalque(借用翻訳)でしかありえない。それはカルタゴ語の名称の構造から容易に説明できる。


北アフリカのカルタゴはフェニキア・バアル系だから怪しいな。
アウグスティヌスなんて元マニ教儲かつフェニキア系だぞ


ストアは哲学とはヘレニズム時代に生じた新しい思潮の一つ。ヘレニズム時代のギリシア哲学諸派はプラトンの時代とは異なり、目的を真理の発見というよりは幸福の獲得、正しい生き方の模索としていた。
同時代に生じたもう思潮の一つであるエピクロス主義が、魂に苦悩がなく肉体に苦痛がないことが浄福なる生の初めであるとした。
対して、ストア派ではむしろ魂に緊張を敷いて厳格なる倫理的生活を追及することに重きを置いていた。ストイックはストア派派生の言葉。
ギリシア哲学は紀元前2世紀にはローマに流入してきたが主に歓迎されたのはストア派とエピクロス派である。もう一つのヘレニズム思潮であった懐疑主義はローマ人には大きな影響は与えなかった。

ストア派はエピクロス派と異なり、現実生活への積極的参加を拒まない。
ストア派は恐怖、欲望、快楽、苦の4種のパトス(人を揺り動かす強烈な感情)
から脱することを賢者の徳とする。

しかし、セネカの悲劇に見られるものは、ギリシア悲劇にあった恐怖、苦といった要素のことさらな誇張である。
また、死者の霊を好んで舞台上に登場させることも自然学を重んじたストア的態度に反すると言わざるをえない

(セネカはストアの正統派ではない疑惑。

ラテン語系の本を読んでいるとギリシア思想の説明が入ったりするのが面白い)

・アイデンティティーは筆者流に訳すなら「自己認識像」。
identityの意味は動詞identifyとセットにすると理解しやすい。
この動詞は「ある未知のものがあったとき、それが既知の何と同一であるかを規定すること」という意味。規定された結果、つまり認識された真の正体がidentity。

・『日葡辞書』はキリスト教宣教師によって編まれ1603年に刊行された日本語―ポルトガル語が辞書でありローマ字辞表なので発音が正確にわかる。当時の蝶はチョゥChôで、今日はケゥQeôとQiôとキョゥの二通りの発音があったことがわかる。

(『日葡辞書』(にっぽじしょ、葡: Vocabulário da Língua do Japão)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%91%A1%E8%BE%9E%E6%9B%B8

・詩集『カルミナ・ブラーナ』写本1ページ目にある挿絵が、大きな輪rotaの中心にいてそれを操っている運の女神Fortunaを描くもの。
大きな輪は時計回りに回るらしく、輪の真上には今現在ときめくもの、右下(輪の右)には運から転落したもの、真下には運に縁なき者、左下(輪の左)にはこれから運に登らんとするものが描かれている。

・古代ローマの料理
当時の料理本でも牛を扱ったものは2つしかない。牛は農耕のための貴重な戦力だったため、食べられることはあまりなかった。
豚は子宮、乳房、皮、フィレ、尾、肝臓、肺、足などありとあらゆる部位が食べられた。


(ローマでは豚は普通に食べられていたことが重要。
ローマの敵が豚を食べないユダヤ教徒。
キリスト教徒は豚を食べてOK。
耶蘇はユダヤ教の後継者に偽装したユダヤ教破壊部隊。
耶蘇でも豚は善なるものではないことに注意。
他にも解釈できる。
レギオン(=ローマ軍=悪霊)を豚に憑依させて溺死
より、
イエス(羊飼い)>ローマ軍(羊の群れ=レギオン)
を意味してもいる。
プレ耶蘇のミトラス教信者にローマの軍人が多かったことから、
思想>軍人(個人)
という意味も引き出せる。後述の補足資料もどうぞ)

・アルファベットと呼ばれるラテン文字はイタリア半島の先住民族エトルリア人が使っていた文字が元。
エトルリア文字はギリシア文字が元。
ギリシア文字はフェニキア文字が元。
フェニキア人は現在のシリアあたりに定住していた。フェニキア語を話す彼らは地中海一帯を海上貿易を行いながら様々な民族と接触し、フェニキア文字はギリシア文字やヘブライ文字、さらにはアラビア文字の起源となっていた。
フェニキア文字は中国の漢字のようにもともと象形文字だったと推測されていて筆頭の文字は牛の顔と考えられている。


(フェニキア文字→ギリシア文字→エトルリア文字→ラテン文字。

おねしょた兄貴
“矢張り、全ての芸術には隠された秘術が入っているし。
全ての祝祭日に行われる行為は全て呪術な要素が入っている。
どうあがいても人は呪術から逃れられないし、
自覚的に離れたとしてもそれ自体がまた呪術としての行為なのである。”


恐らく↑の『ラテン語のしくみ』p.31に対して。

フェニキア文字に丸に十字の文字があり、ギリシア語のθってものすごく重要だぞ。
Θ, θ(古: テータ、現: シータ、希: θῆτα, 英: theta)は、ギリシア文字の第 8 字母。数価は 9。
Theta (uppercase Θ or ϴ, lowercase θor ϑis the eighth letter of the Greek alphabet, derived from the Phoenician letter Teth . In the system of Greek numerals it has a value of 9.
https://en.wikipedia.org/wiki/Theta

In its archaic form, θ was written as a cross within a circle (as in the Etruscan or ), and later, as a line or point within a circle ( or ). Archaic crossed forms of theta are seen in the wheel letters of Linear A and Linear B.

θ (θάνατος, death) in a mosaic
In ancient times, Tau was used as a symbol for life or resurrection, whereas the eighth letter of the Greek alphabet, theta, was considered the symbol of death.
According to Porphyry of Tyros, the Egyptians used an X within a circle as a symbol of the soul; having a value of nine, it was used as a symbol for Ennead.

※ennead: 9人組, 9つからなるセット, 9番, 9番の
※The Ennead (Ancient Greek: ἐννεάς, meaning "group of nine") was a group of nine deities in Egyptian mythology.
=エジプト九柱の神々
Ennead(ギリシア語で9の意味))
エネアド:
• アトゥム(Atum)
• シュー(Shu)
• テフヌト(Tefnut)
• ゲブ(Geb)
• ヌト(Nuit)
• オシリス(Osiris)
• イシス(Isis)
• セト(Set)
• ネフティス(Nephthys)
一部、ラー、トト、大ホルス、アメン=ラー、ホルスなどが入れ替わることあり。

Johannes Lydus says that the Egyptians used a symbol for Kosmos in the form of theta, with a fiery circle representing the world, and a snake spanning the middle representing Agathos Daimon (literally: good spirit).
The Egyptians also used the symbol of a point within a circle ( , the sun disc) to represent the sun, which might be a possible origin of its use as the Sun's astrological glyph. It is worthwhile to note that θῆτα (theta) has the same numerical value in isopsephy as Ηλιος (Helios): 318.

Teth
https://en.wikipedia.org/wiki/Teth
Teth, also written as Ṭēth or Tet, is the ninth letter of the Semitic abjads, including Phoenician Ṭēt , Hebrew Ṭēt ט‎, Aramaic Ṭēth , Syriac Ṭēṯ ܛ, and Arabic Ṭāʾ ط. It is 16th in modern Arabic order. The Persian Ța is pronounced as a hard "t" sound and is the 19th letter in the modern Persian alphabet. The Phoenician letter also gave rise to the Greek theta (Θ), originally an aspirated voiceless alveolar stop but now used for the voiceless dental fricative.
The sound value of Teth is /tˤ/, one of the Semitic emphatic consonants.
Position in alphabet 9
Numerical value 9
Origins
The Phoenician letter name ṭēth means "wheel", but the letter possibly (according to Brian Colless) continues a Middle Bronze Age glyph named ṭab "good", Tav in Aramaic and Tov טוב‎ in Hebrew, ṭayyib طَيّب in modern Arabic, based on the nfr "good" hieroglyph
Jewish scripture books about the "holy letters" from the 10th century and on discuss the connection or origin of the letter Teth with the word Tov,[1] and the Bible uses the word 'Tov' in alphabetic chapters to depict the letter.

In Modern Hebrew, Tet represents a voiceless alveolar plosive /t/, although this can be pharyngealized to produce [tˤ] in traditional Temani and Sephardi pronunciation.
In gematria, Tet represents the number nine. When followed by an apostrophe, it means 9,000. The most common example of this usage is in the numbers of the Hebrew years (e.g., ט'תשנד‎ in numbers would be the date 9754).
As well, in gematria, the number 15 is written with Tet and Vav, (9+6) to avoid the normal construction Yud and Hei (10+5) which spells a name of God. Similarly, 16 is written with Tet and Zayin (9+7) instead of Yud and Vav (10+6) to avoid spelling part of the Tetragrammaton.
Tet is also one of the seven letters which receive special crowns (called tagin) when written in a Sefer Torah. See Shin, Ayin, Gimmel, Nun, Zayin, and Tzadi.
Similar symbols
A symbol similar to the Phoenician teth is used for the tensor product, as , but this is presumably an independent development, by modification of the multiplication sign ×. The Hebrew ט is also visually similar to the letter Ʋ.)

これ凄いね。例えば、この対照表を使うとクルアーンの第二章の雌牛章の始まりが何故الم と唱えるかがわかる。
要は「雌牛 杖 水」の三つを指すわけで「雌牛」というのは大体、地母や大地などの繁殖や繁栄を指しまた犠牲として捧げられるものとしては人間の子供に次ぐ犠牲であった。

ラームは杖。これは大体、導く者や宗教指導者、知恵あるものや老人などを表す。
また、ミームは水。水は色々あるけど、全ての生物にとって必要なものであり。世界の生産者という見方もできる。
多分、この三つの単語はモーセを指ししめていて、つまり預言者とその契約を指しているのではないかと思う。

まあ、色々な解釈はできるよ。
雌牛を生贄に捧げう宗教指導者とも見れるし、金で作られた雌牛の破壊と浄化を命令するモーセとそれを川に流すとか、ただ確実に言えるのは預言者の章であるということ。預言者を犠牲の最たるである、雌牛と見る視点もあると思う。)

∸――
伊藤 義教『原典訳 アヴェスター』

・p.19
”さて、御身を、マズダーよ、わたくしが、始元(はじめ)にして終末(おわり)にましますと、〔わが〕心をもってみとめ奉り、”
(アルファにしてオメガの元ネタ)

・天が石でできているという思想はインド・イラン的なもの。

・p.43
“天則が象(かたち)をそなえ、寿命をもって力あるものとなりますように。”
あたりの行は、現世に人が天則に従って活動するように、との希望を述べたもの。
“天則が象(かたち)をそなえ”
とはゾロアストラ教にとく第三サオシュヤントの本名「アストワス・ウルタ」「象(かたち)をそなえた天則」と同じであることも興味深い。

・フラワシ:それぞれの守護霊として各自の持つ一種の精霊。
義者の魂は義者の逝世後、そのフラワシと合体するともいわれている。
その点においてフラワシは義者の在天のダエーナーとも言いうる。

・p.79
“聖マズダー・アフラがアシャを通して意思をもって創成し給うた天眼”
天眼(てんげん)
=アフラ・マズダーの創造した観見的霊能。
ハオマを牛乳と混ぜて摂取すると神力と天眼に優れたものとなる。


(天の目。あの△目玉の元ネタはインド・イランの拝火壇だろうから重要。
目そのものではなく見る能力だけど。
ハオマを摂取すると「酔力」が得られる。ハオマは麻薬や酒っぽい。
酔拳?
イスラム教は酒を禁止。イスラム教はゾロアスター教では善のものを悪としていることが割とあるからやはりゾロアスター教駆逐用だね。
拝火教では断食も猫も悪。イスラムでは断食は義務で猫は善。
拝火教では犬は善で飲酒OK。イスラームでは犬は悪で飲酒NG)

・p.91
“ついで、このようにわれらは崇める、善き男〔神〕たちと善き女〔神〕たち、すなわち
永遠に生き永遠に栄え給うスプンタ・アムシャたちを。その男〔神〕たちはウォフ・マナフとともに住してましまし、またその女〔神〕たちもそのとおりにましますもの。”

について。アムシャ・スプンタたちを男女に分けると、女性に入るのはアールマティ、ハルワタート、アムルタートの三座であるが、ここではウォフ・マナフはこの三座とも合して一団をなしていることになる。

・p.96
“ウォルカシャ海の中にいる義者たる驢馬をわれらは崇める。ウォルカシャ海をわれらは崇める。“
の、
ウォルカシャ海:世界を取り巻くと考えられていたオケアノス。
「義者たる驢馬」とは海央にすむ三脚六眼双耳九鼻一角の巨獣、義者的奇蹟を現ずる。

・p.102
“北の方処から
北のもろもろの方処から
魔(ダエーワ)中の魔にして多殺の
アンラ・マンユは弄(はし)り来たった。“

(ユダヤ・カバラでは悪は北からくるらしい。
ユダヤ・カバラが取り入れたのかも。
北によく攻めてくる民族がいたんでしょう。
インドでは北枕は縁起がいい。
だから釈迦は北枕。縁起が悪いのは日本の勝手な解釈。
インドイランで北の善悪が逆転。またか。)

・p.110
わたくしは呼びおろします、広い牧地をもち、よく武装せるミスラ〔神〕--
武装者のなかで栄光をもつこと第一、
武装者のなかで勝利を博すること第一なるその方を。



・アサルワン、アースラワン:祭司聖職者。

・最近親婚=父娘、母子、兄弟姉妹間の通婚。
(恐らく血統維持のため。
わざと奇形的存在を作ってその中に有用な天才が含まれやすくしたシステムかも。

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi
頭蓋骨を変形させることで中身の脳も変形させる脳改造手術かも。天才を人工的に増やす秘術。
秘教集団は間違いなく、天才を生む手法探しの為に多様な人体実験をしているはず。
物理的変形実験は当然しているでしょう。


魔術師は肌の露出が少ないし室内にいますよね。近親婚を繰り返すと異常が出易いことを利用して、
異常=天才や、
道徳が理解できない者=暗殺担当を作ったりする。
虚弱者を生贄にすることで、天才と暗殺者を召喚する儀式が近親婚。身内だと操り易いし。


猫太”奇形や虚弱を切り捨てる事で、サイコパスや天才を作るのですね。エリザベート・バートリみたいな地に飢えたキチガイを作ると。ある意味クローンよりえげつない”
”アーリア人にありがちな最近親婚を調べてました。ゾロアスター教には不思議な習慣があるなと思いましたよ。”
人間を品種改良。

猫太”ウクライナとか美人ありえないほど多いのは人為的にペットの純血種を作るようにした形跡を感じますよ。特にアーリア人について気になります。架空の観念やけど、家畜文化があるとこは人間ブリーダーも盛ん”
”それは臓器移植の抵抗のなさにも繋がる”
肉体軽視の思想は殺人の正当化に繋がる。


・悪意で謎をかけ、答えられなければ加害するのは、イランで古くから行われた。

・p.105“
カンス海から
東の方処から
東のもろもろの方処から
勝利者サオシュヤントが生まれ出る
ために。」“

カンス海:東イランの神話的な海の名。ハムン湖に比定される。
「カンス海から、東の方処から」とは「東の方処なるカンス海から」の謂。
ゾロアストラ教伝承によると、ゾロアストラの精液は九万九千九百九十九柱のフラワシによってこの海中に守護され、終末の三つの千年紀のそれぞれにひとりずつのサオシュヤントが生まれてくるといわれている。ここのサオシュヤントは最後に出現するものを指す。
(精子バンク。処女懐胎の理由。
救世主は東からくるってことは救世主=太陽神的存在。
どこまで盗作するのかキリスト教は。


・バルスマン:神をまつるのに用いる祭具の一で、聖枝の束であるが、神に供犠する際にはそれが「拡げられた」ことに注目したい。サンスクリット語barhisもこの点は同様。

・p.121-122
“わたくしは呼びおろします、アフラ所造のウルスラグナを――
そは栄光を帯び、マズダーの所造にかかるもの。
わたくしは呼びおろします、ティシュトルヤ星を――
そは財宝を有し、栄光を有し、
黄金の角ある牛の体
をそなえているもの。”

・ウルスラグナ:イランではヴェーダの軍神インドラは魔とされ(“魔インドラ”と本書で訳されている)、
代わってこの神がインドラとヴァ―ユ神との性格を吸収して信仰された。
このウルスラグナ神の十化身は有名で、正倉院のローケツ屏風にはそれが(一部は隠し絵風に)描かれている。
ティシュトルヤ:シリウス星。雨を起こし雨を降らす神格としての彼は高名。
(シリウスが黄金の角ある牛の体で、雨を降らすってバアル属性)


・栄光は正統な権威を表示するシンボルで、図像学的には光輪(光背)、その他で表現される。

・p.143
“そこでザラスシュトラは〔こう〕言った「ハオマに頂礼あれ。
人間としてだれが、御身を、ハオマよ、最初に
有象世界のために搾ったのですか。
どんな恩典が、彼のもとに、来たのですか。」
すると、わたし(ザラスシュトラ)に、彼は〔こう〕答えた――
義者にしてドゥーラオシャなるハオマがです
「人間としてウィーワフワントがわたしを最初に
有象世界のために搾ったのです。
この報応が彼にゆるされたのです。
この恩典が彼のもとに来たのです。
すなわち、彼に息子が生まれたのです。
それは群畜の主・王イマ
生を享(う)けたものどものうちで栄光第一のもの、
人間のうちにあって、太陽を眼とするものです。“
(その後、イマの治世には
寒さも暑さも老衰も死も妬みもなく父も子も十五歳の姿だったという記述が続く)

・ウィーワフワントVīvahvantの子イマYimaは
ヴェーダのVivasvantの子Yama。

理想の群畜の主・王イマの目は太陽!
イマ=ヤマ=閻魔。


閉店です ‏@lakudagoya
クロノスは確か黄金時代を支配した王でペルシアではイマもしくはズルワーンと言いました。
大本教はそのイマ=閻魔こそ国之常立神だと主張してますが、それは簒奪ですか?
ゼウスはポセイドニアというアトランティスの都市を滅ぼすために神々と話し合う所でクリティアスは終わってます。

グラハム・ハンコックネタで一番ウケたのは、ユダヤのノアの箱舟のお話がペルシャのイマ(閻魔)さんの話のパクリだったってこと。 おっとこれは、ユダヤなどのセム系とアーリアの二重構造がよくわかる話。 実際タルムード見ても、ペルシャのパクリ露骨に多いような気がするのは気のせいですか?w

大本教では、国常立尊が閻魔だったんだって~ そして三千世界の立替をするんだって~ おや?ゾロアスター教の神話でイマ(閻魔)というと、黄金時代を支配してた王様で、アフラ・マズダーから地下世界にノアの箱舟つーかノルウェーの種子保管庫みたいなの作れと命令された人じゃまいか。

で、ノアの箱舟の話はバビロニアのウトナピシュティムのパクリなのは有名だけど、イマ(閻魔)の話のパクリなのは隠すよね。 それがさ、このイマの話がやばいの箱舟の代わりに地下施設作れと命令されるんだけど、その条件が「人間や家畜の中で優れた健康的な種」を選べってあら優生学な事言ってるの

国常立尊が閻魔(イマ)で三全世界の立替をするって事は、またクロノスが支配する黄金時代作りたいんでしょう?(笑)
イマも黄金時代を支配した王様だもの。
あれぇー?出口王仁三郎っていつからペルシャ神話に詳しくなったのぉ? しかも閻魔との関係まで調べてるし。不思議だなぁー

もしかしたら、インドのヴェーダ神話と根を同じくするゾロアスター教の神話って古いネタがあるかも知れない。 ノアの箱舟の中に消して消えない明かりがあるのは(これがゾーハルだよ!)ペルシャ神話もあるんだよね。
で、イエスは良き羊飼いと言われたけどイマも「良き羊飼い」ってさ。あれぇ?


閻魔(イマ)の話ならこれが一番詳しかったと思う ジョン・R. ヒネルズ の ペルシア神話 を Amazon でチェック! http://amzn.to/2dTByf2 @さんから)

p.145
“勇武の家門の出・スラエータオナです。
その彼はダハーカ竜を討ったが、
これは三口あり、三頭あり、
六眼あり、千術あり、
いとも強く、魔性のドゥルジにして
庶類には邪悪な不義者

――このいとも強きこと第一なるドゥルジ“
スラエータオナの竜ダハーカ討伐はインドの ヴリトラ討伐のイラン版の一つ。
イランのヴリトラともいうべきダハーカ竜はクリンタ城にいた暴君とされるが、ダハーカと、アレクサンドロス大王と、トゥラン(ツラン)のフランラスヤンとの三人はゾロアストラ伝承では三大暴君として怨憎の的となっている。
紀元前330年にアレクサンダー大王はペルセポリス王宮を焼いた。

・p.167
“真に義者たる三者
牛と馬とハオマ”
(牛と馬とハオマは善。
アヴェスター では牛は何度も崇め奉る個所が登場する。インドでもイランでも牛は神聖)

ヤシュト(頌神攘災招福書)に登場する軍神ワユVayuは軍神として死神であり、
その反面に豊穣の神でもある。死と生を授ける運命神として善悪二面を有す

自然現象面から見ると、虚空における大気の流動、つまり風がワユであり、その意味は風神であるが、宇宙神の気息とみなされ、その意味で世界を活動させる衝動的原理と考えられた。

・ゾ教=拝火教の略称では
ミスラ神を中心にスラオシャとアシの二神が脇侍して三神を形成。
インドのミトラ――アルヤマン――バガの神に対応。

・ゾロアストラの教義を伝える一等資料がガーサー。
ガーサーによれば、アシャ「天則」は主神によって創造された理法、法則であり、正しい秩序であるが、
逆に主神はこの法則によって自身を律するから、彼は、この天則に従う民と同じく義者なのである。
この法は此界ならびに他界における、すべての法世界を律し、最終かつ永遠なる法をも包摂する。この法に従って生活するものは真理に従って生活するものとされる。
アシャは天則であり真であり義であり法であって、ゾロアストラの教義の中核をなす概念としてガーサーには一六二回以上も登場する。
「よき天則」「最勝のよき天則」とも表現されるアシャ天則の
対極はドゥルジと呼ばれしばしば擬人化される。
なおアシャはほとんど擬人化されない。
ドゥルジは虚偽であり不義であり非法でありそれに従うものは不義者であり、
「破壊霊」アンラ・マンユの下す法や命令である。
因みに、アシャとドゥルジは
ヴェーダのリタとドゥルフと対応。

・アムシャ・スプンタは不死者にして聖なるもの。
スプンタ・アムシャは聖なる不死者。
※アフラ・マズダーも聖なる不死者に含まれる

・信者のうける苦楽の果であるが、これを感受する主体は各自の持つダエーナー(我)であり、ルワン(魂)である。
両者は同一でないとしても、その関係は不離らしい。
ダエーナーは人間から可見的要素を捨象してもなお個性として残存する不可見の要素、人の別身として存在しうる要素である。
人間の霊質として神はまずこれを創造したとあるとおり、人間が教化をうけたり誘惑をうけたりする主体はこれであるから、ゾロアストラは、しばしばダエーナーに言い聞かせるというような言葉を用いている。
これに対し神々にダエーナーはそのまま「教法」として展開する。

ダエーナー、デーンは宗教一般の意味でも用いられるようになった。
本書では我という意味でのダーエナーはカタカナのダエーナーと書き、
教法ならダエーナーのルビ付きである。
ダエーナーは不滅と考えられていた。
対して、気息とともに滅するものはウシュターナ(命数、寿命)といわれる。
苦果を受けるか楽果を受けるかは各人の自由な「選取、えらび」によって決定される。
人間は善か悪かの二者択一の前に立たされ善悪等混はゾロアストラの教義ではありえない。
人間のウシュターナ(命数、寿命)が尽きて肉体と、我・魂の分離が起こる。
(魂ルワンはルフ、ルアハだな)

・ゾ教ではゾロアストラの千年紀の後、三つの千年紀が続き、各千年紀にサオシュヤントが一人ずつ出現するとされ、その最後のサオシュヤントの千年紀に復活・総審判・世の建直し
が行われるとする。

・唐の徳宗の時代、九世紀初頭、空海が長安の青龍寺で学んでいたころ、この都のあちこちに祆教(ゾロアスター教の寺)があり、喇嘛廟あり、摩尼寺があった。

(天則など、本書の翻訳は本当に独特の訳語を使っているので、独自の文体を獲得したい方はとりいれてはいかが?
独特すぎて元ネタが特定されるけどね!
ペルシャ系なら結社が優遇してくれるぞ!

ラノベで兄妹の近親相姦的恋愛が描かれることが割とあるけど、これってゾロアスター教の教義だと兄と妹の近親婚は絶対善だからね。
奴らペルシャ大好きでしょ?
上位結社は密教やシーア派内スーフィズム肯定派を新キリスト教より優遇するし。)

∸――

補足資料

マルコによる福音書(口語訳) - Wikisource 5:1~5:20
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)
“こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスを迎えた。
この人は墓場をすみかとしており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けなかった。
彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。
そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。
ところが、この人がイエスを遠くから見て、走り寄って拝し、
大声で叫んで言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。
それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。
また彼に、「なんという名前か」と尋ねられると、「レギオンと言います。大ぜいなのですから」と答えた。
そして、自分たちをこの土地から追い出さないようにと、しきりに願いつづけた。
さて、そこの山の中腹に、豚の大群が飼ってあった。
霊はイエスに願って言った、「わたしどもを、豚にはいらせてください。その中へ送ってください」。
イエスがお許しになったので、けがれた霊どもは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れは二千匹ばかりであったが、がけから海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった。
豚を飼う者たちが逃げ出して、町や村にふれまわったので、人々は何事が起ったのかと見にきた。
そして、イエスのところにきて、悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギオンを宿していた者であるのを見て、恐れた。
また、それを見た人たちは、悪霊につかれた人の身に起った事と豚のこととを、彼らに話して聞かせた。
そこで、人々はイエスに、この地方から出て行っていただきたいと、頼みはじめた。
イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供をしたいと願い出た。
しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。

そこで、彼は立ち去り、そして自分にイエスがしてくださったことを、ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ出したので、人々はみな驚き怪しんだ。”

悪魔全書‏ @DDS_complete 2015年4月18日
【レギオン】 新約聖書に登場する悪霊。 軍団という意味であり、古代ローマ帝国の最大編成単位の呼称であった。 レギオンは一人の男に憑りつき、昼夜問わず墓場や山で叫び、石で自分を傷つけた。イエスに名を問われると「俺はレギオン」と答え近くの二千頭あまりの豚に憑りつき崖から飛び降りた。


フェイド大帝 @FeydoTaitei
15年5月2日
あの豚を飼ってる村の話は、そもそも
豚肉を食べちゃいけないユダヤ教で、
なぜ豚を飼っていたのかという所なんだと。

ぐだトマト‏ @pteras14 2016年6月16日
猪八戒の八戒って仏教の八戒を 1日で全て破ったって意味だからね ……と言おうと思ったら、wikiから この項目削除された様な気が… 昔は載ってた気がするんだが。 「ダビデは十戒を1日で全部破る」 という危険な暗喩として 型月が使ったんだと思うが… #FateGO #FGO

しかも豚ってキリスト教でも、 イスラームでもユダヤ教でも 良いイメージではないからね。
元はローマ人が豚肉を好んで食べた 事から、豚を飼ってローマ人に高く 売り付けたのが不道徳というのが 新約でイエスが豚に悪霊を封じて、 崖から飛び降りさせて在庫処分させた エピソードの意義ね。 レギオンの話の事ね。



神様紹介bot(神ボ)‏ @myth_god_bot 2月4日
《ヴァジュラヴァラーヒー/仏教神話》チベットとネパールの仏教で重要な神格とされている。「金剛の雌豚」を意味する名称からも分かるように、豚の頭をしている。稲妻の矢と頭蓋骨と棍棒を持っているとされている。

ドイツ語メール例文集&格言集‏ @dt_reibunshu 2016年6月1日
聖なるものを犬に与えてはいけません。豚の前に真珠を投げてはなりません。(新約聖書・マタイ伝) Gebt nicht das Heilige den Hunden; werft auch nicht eure Perlen vor die Schweine.

Microsoft Wordでウムラウト(ä,ü,ö)とエスツェット(ß)を入力する方法:[Ctrl]と[*]同時入力後に[a,o,u]→ä,ü,ö(大文字の場合 [Shift]+[a,u,o]), [Ctrl][Shift][&(6)]同時入力後に[S]→ß

映画やドラマの陰陽師、指導多し☆高橋圭也‏ @Keiya_Takahashi 2015年11月28日
東洋大学の中国哲学科在学中、台湾の知合いの道士から「キョンシーは地方で死んだ人の遺体を生まれ故郷まで帰すため、道士が術を施して死後硬直した死者の身体に豚の魂を入れ、術の力で遺体を歩かせて帰したもの」と聞いたことがあった。その後、キョンシーがブームの頃にそれと同じ話が本に出ていた。


ネズミさん ‏@Nezmi_san
(続)古代ローマの戦術は敵ガリアとは違ってフォーメーションで攻め、戦術で勝つことを徹底的に行っていた。当然サラリーや年金もキッチリ決まっていた。脳の中でもそう動くように訓練し、恐怖に打ち勝つ洗脳が必要なのだ。自衛官はまず洗脳し肉体を鍛える。サムライが頭を剃ったのもその流れだ。

年金とは古代ローマより市民への戦役等への報酬である。20年近く戦い生き残れば奴隷でも市民になれ、年金の生活保証の為命をなげうちガリアと戦った。今は仕事で国に尽くした20年で貰える話となった。国の根幹をなすシステムとしてイルミナティは復活させた。それを潰すんだから意図がある。

その根っこは全て「仕事=金」、その仕組みをコントロールされると、故郷を捨て、都会暮らしで、用済み後に「なけなしの年金(65からw、15年で計算してみw)」ポイ捨て。古代ローマの兵役と年金も家族を都市に住まわせる代わりに払われた。

その領土拡大を図ったローマは没落した。地方が潤ったからだ(金持ちは移動)。没落と同時に老兵の年金はパァ、計画的倒産。

ねこた‏@lakudagoya 2015年4月8日
@Nezmi_san 敵の本体は「誰でも作れるローマ帝国」ですからな。大日本帝国やらイスラーム帝国やら手を変え品を替え何回でも

ネズミさん ‏@Nezmi_san
年金は古代ローマからあって、戦争に行く代わりに都市に住めた。大航海時代から今の年金はエリザベス女王軍の年金だった訳。「命と引き換え」だった。これ、実は味方含めて「死人の金」が回っただけだね?「誰かが死ぬ事を前提とした賞金ゲーム」だった訳。

今の年金も一緒なわけだ。早く死ぬやつから金を回す、戦場で死人の金品を漁った○○○がそのまま銀行となる。古代から「全く同じ構造」なんだよ。

その仕組みは脈々と有り、人口ピラミッドが問題じゃない、仕組みが問題で、これがまた「死人」を求めて「戦争を繰り返す」訳。だから、戦場で死んで欲しいのは若者なわけだ。

「人の不幸は蜜の味」これは動物の縄張りと同じで他が居なくなれば嬉しい訳。だが、この仕組みは「中間搾取」するやつらだけが潤うわけね?

{野蛮人は野蛮人}である。そもそも古代ローマで市民権(権利)を得るのは{長期兵役}についたものだ。奴隷への永遠の報酬である。仮に敵のガリア人(当時野蛮人、蛮族)であっても協力すれば市民になれた。{生まれながらの権利}とは{生まれながらに奴隷}と同じである。

支配階級は昔からそのスキームを実行している。{年金}も古代ローマでも{長期兵役=生き残ったもの}へ支払われた(死んだ者からはぎ取っているわけだが。)同様に米国の年金もエリザベス女王の管理下のものだった。

今の{年金制度}は25年働くと貰えるものだ。古代ローマと「全く同じ」である。奴隷解放が市民権である。ところが、その額をGPIFだのにつぎ込む事態(それも支配層の金融へ)が、詐欺である。

市民は権利が与えられている「だけ」であって、基本は支配層からして「敵」なんである。なぜ全部大文字なのか?キャピタル=頭=資本なんである。 「頭に付属する賜物(恵み=労役)」これが「個人:パーソン」の正体。 (この英語読めばわかる) http://humansarefree.com/2015/07/heres-why-your-legal-name-is-written-in.html …

人間は{家畜を買い、犬を飼い、飼いならし}て自分の為に使った。支配層もパーソン(個人)についてやることは「一緒」である。{野生の動物}は平気で敵として殺す。これが{人}なら一緒である。戦争では敵国の人は「パーソン」じゃないから撃ち殺す。実に単純なロジックである。
古代ローマでも、戦国時代でも、その当時は「財産」を戦役に着けて行った。兵士が死ぬとその装飾品を分配し、整理する「人間」が大昔から存在する。この人間たちは「兵役で死ぬことはない」この人間たちがローマに富をもたらした。

古代ローマにおいて「兵役の義務」に対して「ローマ市民権と年金」が与えられていた。共和制といいながら、もともとの有力者、金持ちは「別格」だ。「25年の兵役」を終えたら奴隷でも「ローマ市民となり年金がもらえる」訳だが、「大抵の兵士は死ぬ」のである。実は「死人の金」で戦争が回っていた。

「25年」も生きていられる「老兵」はほとんどいない。古代ローマも「詐欺システム」であった。しかも「戦争に次ぐ戦争」で領地拡大するが、その金は「占領した地域への投資」に消えるのだ。今の年金制度も同じである。「領地拡大が止まったと同時に」、ローマはこのシステムが崩壊した。


実は米国の年金制度は未だに「エリザベス女王」が管理している。年金制度は「軍隊の年金」という構図は変わっていない。「戦争」とは領地拡大と同時に、兵士が「戦争で死ぬ」ことで「その金を奪い」、領地拡大の肥やしにするシステムである。「年金制度と死」は表裏一体の詐欺システムである。

古代ローマにおいて奴隷解放、「ローマ市民権」ただし「25年の戦役・労役」において、軍隊は「占領地の復興・再構築」もあった。ローマのシステムに蛮族を従わせるのだ。蛮族も奴隷となり、その地域のローマ市民になるため領地拡大に励む。25年という年月は今の年金制度とほぼ同じである。
発展途上国も次々に年金制度は導入される。ローマ奴隷のモチベーションである、「25年の労役を経たらローマ市民になれる」である。ローマ市民とは「都市部に住み、年金生活」という「パラダイス」である。「アリーナ・見せ物」夢を見させる理由は、奴隷の効果的な労役を促す為だ。

その「モチベーション」は先進国が発展途上国を全て支配下に置いたとき「崩壊」する。これは「映画マトリックス」同様に「何度も何度も繰り返す」のである。そのギャップが埋まる(先進国=途上国)のは2025年とされる。アフリカが最後の楽園である。先進国は早々に「崩壊させたい」のが奴らの意図

古代中国の「漢民族」と言うのは「民族」ではなく「都市部の人間」である。モンゴルの蛮族が農奴(麦作)を作る事で「都市部に住む人々」を実現させた。古代ローマと「何ら変わっていないシステム」である。蛮族がローマを度々侵略、結果的にローマ人になった。この構図は中国でも一緒だ。

中国でローマ人とは漢民族である。漢民族は度重なる「蛮族侵略」で体制は変わり、混血しても「都市部システム」は変わっていないのである。ローマが崩壊したのは「北の勢力」によるものだった。今では「ロシア」であろう。ともかく、発展途上国が無くなった時、世界は再び崩壊する。(バカボン野郎!)




この本、旧約聖書の書かれた感覚がよくわかるというか、日ユ同祖論の聖書解釈が全然ユダヤ的じゃないかよくわかる本。 おいらが読んだ聖書の解説書の中ではピカイチの内容だと思う。 流石「新共同訳」の訳者の書いた本だわと納得の内容。 これマジでいいよ。図書館で探してみてね。

ねこた‏ @lakudagoya
陰謀論の本を買うならその金で新共同訳聖書買ったほうが有益よねー

「ボクたちが聖書について知りたかったこと」で新共同訳の訳者が書いてるのだけど、全能なる神が世界を作ったっていうのは、その辺に生えてる木までも意図をもって植えられてるもので、自然と言ってもありのままの放置される「自然」なんて日本人の感覚はないって言ってたのが印象的だった。


一般の日本人はこの「コスモス」という宇宙論が皮膚感覚でわからないから女の世界で衝突するのじゃまいか。 カソリックなどでは、このコスモス論を拡大解釈して偽ディオニュシオス天使の階級論に結びつけて、自然状態で階級社会があるのが真理!みたいな発想だと聞いたことあるけど本当?

(『聖書』の正典を読む限り、天使に位階の記述はない。
つまり天使の階級は二次創作。
天界に階級があるから人間界も階級があって当然という御用神学。

位階(ヒエラルキア)の根拠が偽ディオニュシオス(5-6世紀ごろのおそらくシリアの神学者)の『教会位階論』。
ネオプラトニズムの強い影響があるので、当然、一者からの流出論=階級制に非常に都合がいい。
教会の位階も定めている。
彼の天使階級の最上位の名前を使った終わりのセラフって漫画がアニメにもなっている。セラフ=セラフィムが燃えているのが重要っぽい。
なお、13世紀に『神学大全』のトマス・アクィナスが『天上位階論』を改悪した。同人本と聖典をきちんと区別しないのも耶蘇の特徴の一つ。

神様紹介bot(神ボ)‏ @myth_god_bot 2016年10月28日
《セラフ/ユダヤ・キリスト教神話》熾天使。偽ディオニュシオスによる天使の九階級で最高位の階級の天使達。神に最も近い位置にいて、神とその創造物に対し完全な理解をしており、それゆえに神に対する愛で体が燃えているため、「燃えるもの」と呼ばれる。)

原始仏教はカウンセリング術。現世利益を言わない宗教が多いのは、現世利益で幸せになると儲からないから。
『仏教、本当の教え - インド、中国、日本の理解と誤解 』・『原始仏典』・『ブッダの真理のことば・感興のことば』。あと、生き残るために他の宗教に偽装した宗教や、キリスト教が作った「ユダヤという身代わりの生贄」やズルワーンについてなど。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-9.html
” ・北枕=頭を北に向ける
はインドでは最も良い寝方。
員では北に理想国があり、南には死に関する国があると考えられている。
『涅槃経』に釈尊が亡くなられるシーンがあり、北に頭を向けている。
北に頭を向けて死んだ釈尊の場面を読んだ日本人が、北は縁起が悪いと勘違いして生まれたのが北枕。
ちなみに、中国に北枕という言葉自体がない。
「肩こり」は夏目漱石が作り出した病気。造語病。
そういえば、新たな病名を公表すると、その病気の人が「発生」「出現」するから、製薬会社や病院とかが結託してるんだってね。


・日本では蓮の花を持参すると怒られるが、インドでは最もめでたい華なので多くの人が持参する。


・祇園という地名はサンスクリットから来ている。
祗園は祇園精舎の略。
ZION、ジオン、ユダヤなんて関係ないからね。日ユ同祖論って詐欺だからね。
ちなみに、
祗園って、花街(かがい、はなまち)=芸妓屋、遊女屋が集まっている区域を指す名称だからね。(…)本来の仏教では、国王を泥棒と同列に見ていて、あまり尊敬していない。泥棒は非合法に人の物を持って行ってしまう。国王は税金という形で合法的に人の物を持って行ってしまう。人の物を取り上げるという意味で、両者は共通しているからである。
国王だから統治するのではなく、たまたま統治者を選んだら国王だったという発想である。”


高居 ‏@m_m_expensive 2016年12月30日
、浄土真宗では親鸞が「日の吉凶を選ぶことはよくない」と和讃で説いたため、迷信、俗信一般を否定しており、特にタブーとされている。仏教においては本質的に因果関係によって物事が決まり、六曜が直接原因として物事を左右することはない。


illustrator いとう良一 ‏@ryo_town 2016年11月11日
あ、そうなんだ^^; 仏滅や大安等の六曜は、中国の陰陽道の暦占いが伝わったもので、古代から戦争や賭事を占うために使われた俗信。仏教はもちろん神道とも全く無関係。 と。 仏教に関係あるのかと思ってた。

糞袋 ‏@kusobukuro01 1月3日
>ブッダは<穢れ>なんて迷信だ、と教えているはずです! ⇧本当これ。日本の仏教がこの教えをきちんと受け継いでいれば、被差別部落問題はもう少し違った展開になっていただろうに。 https://twitter.com/nagabodhi/status/816074546830684160 …
高山龍智 ‏@nagabodhi 1月3日
在日インド仏教徒を某名刹へ連れて行ったとき、お清めの手水場で一悶着あった。「ブッダは<穢れ>なんて迷信だ、と教えているはずです!僕らはヒンドゥー教で穢れた生き物と呼ばれてきた。だから仏教に改宗したんですよ!」。彼らは祖父の代まで「人類」と見なされていなかったのだ。

gryphonjapan ‏@gryphonjapan 1月3日
既に指摘あるけそ、まあ穢れを水で清めるなぞ迷信…つか仏教とは別の宗教概念だろうけど、手や体をこまめに洗うと穢れが落ちる、という”迷信”が、たぶんどこの宗教よりも(医学的な意味で)命を救ったのだろうから皮肉だ。 https://twitter.com/nagabodhi/status/816074546830684160 … @nagabodhi

閉店です ‏@lakudagoya 2015年10月1日
フェイド大帝おすすめの「インド宇宙論大全」は凄くいい本だ。この人インドのみならずアーリア系の言語や神話に詳しい。ギリシャ語のアンゲロス(天使)の語源がインドの火の神アンギラスなのはやられた!コーランには天使は火から作られたとあるのよね。アーリアの陰謀やべぇ!
閉店です ‏@lakudagoya 2015年5月6日
一説にはパラダイスの語源は、パリダイサ(壁に囲まれた庭)だと言われてる。このパリダイサってのがペルシア語由来なんですわ。ペルシア庭園がルーツかどうか不明だが、このイラン的なこの世のものでない天国を求める感性が後の耶蘇教に取り入れられたならば面白いと思うぞ。

インド・イランはアラブやユダヤと違って現実的な感覚よりも、形而上的な感覚が強いんだよね。だから哲学や宗教が発展してる。ある意味妄想力が強いとも言う。ペルシア絨毯の繊細さとか、ペルシア庭園とか、イスファハンのモスクとか見たら如何にイランが現実離れした美的感覚を持ってるかわかるだろう


閉店です ‏@lakudagoya 2015年4月28日
こーさくいんの言動すら思考の材料に使い、こーさくいんすら仲間にする、誰も敵を作らない事こそ、賢者の条件と言える。ツイッターはその思考実験の場としてはこの上ないパラダイス(パリダイサ。壁に囲まれた庭園で、小宇宙の事)だよ。



閉店です ‏@lakudagoya 2015年5月3日
@kikuchi_8 @bakkajyane_www 神道系の人たちの仏教に対する憎しみは凄いですね。天皇家が仏教にすがってたのにそれを完全に無視した歴史を捏造してます。八咫烏も本当は仏教徒でないといけないですね(笑)空海の話さえなかったことにされますね。


閉店です ‏@lakudagoya 2016年8月8日
日本の文化を作ってきたのは一貫して仏教界だもの。 だから仏教界は中世の歴史も豊富に持ってるから超古代文明のウリナラファンタジーに走る理由もない。 自前の学問も倫理観も美術も何もかも持ってるから西洋の学芸に依存してウリナラマンセーする必要がない。 強者の余裕がそこにある。
閉店です ‏@lakudagoya 2016年8月8日
日本で比叡山などの仏教界に比べてちょー冷遇されてた神道勢力が権力を求めるのって、あれだ、映画アレクサンドリアで貧民を扇動して図書館を焼き討ちにするのに凄くそっくり。それが日本では廃仏毀釈と言うのだけどな。 元から貴族じゃないから超古代を持ち出さないといけないようになる。


閉店です ‏@lakudagoya 2015年6月10日
だって天皇家は仏教にハマちゃったんだよね。空海に超能力で病気を直してもらった事をきっかけに、仏教を優遇しまくる。で、天武天皇が肉食禁止したり、本地垂迹説で仏は神より偉いとか言い出した。そこで困ったのが景教徒だと思うんだよ。だって西域出身の渡来人は肉食禁止されたら困るじゃん。
ダイレクトにアチラ側紐付き金玉親父だってたまにはいい事言うんだけど、正統派は少数の異端派に真実を持たせてコントロールしたと言ってた。それ大当たりだろうな。正統派が隠したい事実を異端派に持たせて表では迫害するフリをして知識を独占させる。日本に来た侵略者たちはそいつらだったって事だ。

↓プロフィールが真言密教僧!
北川 宥智 ‏@OshoUFO 2010年11月25日
空海の持ち帰った書物に景教関連の物は一冊。しかも大乗経典の共同翻訳のみ。空海の著作には景教の影響は全く見当たりません。なぜでしょうね。むしろ彼は善悪の景教的発想を否定していますよRT @sinjidai: 博覧強記で手当たりしだい勉強していた空海がこ学ばなかったはずはありません。

ぐだトマト ‏@pteras14 1月4日
アガルタぐらいマニアックでも 何でもないだろ。 ナチスの密教結社の緑龍会が本当は 青龍会の誤訳で空海が中国で修行 した寺の名前から来てるとかなら まだしも。 #FGO #FateGO

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 9月17日
フェイド大帝が調べたところ、 旧ナチスのハウスホーファーの 「緑龍会」はどーも誤訳らしい。 実は正しくは「青龍会」くさい。 青と緑を間違えたんだね。

これの何が重要かと言うと、 旧ナチスとチベットの関係。 チベットのオカルトと言えば チベット密教。 日本で密教と言えば空海の 真言密教。天台宗の台密。

で、この空海が密教を習った 唐(中国)の寺の名前が、 「青龍寺」

(緑龍会=真言密教の一派ならあって当然ですね。「龍」からして東洋系)


フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 7月29日
奈良の大仏時代の菩提僊那という バラモン僧が重要そう。 コイツが華厳経とインド呪術を 日本に齎したらしい。

聖武の娘の孝謙天皇という 女の天皇がかなり怪しい。 こいつは重祚して称徳天皇、所謂 道鏡事件の時の天皇。 この女の怪しい所は、自分に反抗した 連中に呪いのあだ名を付けたり、 百万塔陀羅尼みたいな密教系の呪術が 大好き
な所。

陀羅尼ってのはいわゆる「真言」って やつなんだ。 マントラってやつね。 だけど密教系は空海の遣唐使帰還後に 入ってくるはずなんだ。 孝謙の寵愛してた道鏡は法相宗。 西遊記の三蔵法師の玄奘が興した やつで、これはガチ哲学系なんだ。 呪術とかやらない。

となると孝謙がどこでタントラ仏教呪術 を学んだかが肝になって来るんだが、 そこで怪しいのが菩提僊那
という事に なってくる。 菩提僊那の持って来た華厳経ってのは 一番カバラ思想に近くて、ネオプラトニズム に近い教義なんだ。 成立時期もカバラと重なる。

しかも孝謙は法華寺という寺と 関係あるし、母親は藤原家の光明子。 名前もイルミちっくだろう?w 法華経の天台宗と華厳経の華厳宗ってのは セットの仏教だから(本場の中国でって 意味
だぞ?)、最澄の遣唐使からってのは また怪しい話になる。

呪術家の卑弥呼に、呪術好きの 聖徳太子。称徳天皇(孝謙ね)は 読み方も一緒
だw この天皇娘にはもっと秘密が ありそうだw

summer ‏@kuchitarow 4月26日
和気清麻呂を和気穢麻呂(キタナマロ)に改名させた孝謙天皇の家庭教師は吉備真備


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熊田陽一郎 「ディオニュシオス・アレオパギテース」『新プラトン主義を学ぶ人のために』 水地宗明・山口義久・堀江聡編、世界思想社、2014年。
イエズス会 『邦訳日葡辞書』 土井忠生・森田武・長南実 編訳、岩波書店、1980年(原著1603年)。
ジョン・R. ヒネルズ の ペルシア神話

「インド宇宙論大全」は


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お読みくださり心底感謝

工事中 陰謀r追及者の基礎教養としてのカントに必要な量を確保した必要なことはほぼ書いたよ。過去のカント読書メモで見つかったやつ乗せ説く『視霊者の夢』『永遠平和』『純粋理性批判』『実践理性批判』「心が折れそうな時は大体寝不足」「機嫌が悪い時は大体空腹」 

”本書のうち、「啓蒙とは何か」は20ページにも満たないが、じっくりと味わう価値がある。冒頭部分をあげておこう。

中山元訳「啓蒙とは何か」冒頭部分
 啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができ ないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなの だ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうべきものがあるとすれば、それは「知る 勇気をもて」だ。すなわち、「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。(中山元訳、光文社古典新訳文庫、10ページ)

 カントは18世紀の哲学者であり、「啓蒙とは何か」が書かれたのは1784年というから、220年以上前である。だが、この冒頭部分を読んだだけで、い まの時代にいまの人にまさに必要なことが書かれていると感じられるのではないだろうか。このすぐ後でカントは、「ほとんどの人間は、……死ぬまで他人の指 示を仰ぎたいと思っているのである。……というのも、未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ」(中山訳、11ページ)とも指摘して いる。ずしりと心に響く言葉ではないだろうか。そして、「自分の理性を使う勇気をもて」という呼びかけは、まさにいまの人に向けられたものだと感じる。”
http://www.honyaku-tsushin.net/koten/bn/Kant.html
翻訳批評 山岡洋一 古典新訳文庫の出発にふわさしい名著名訳
中山元訳『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』



カントは『実践理性批判』(1788年。64歳)では、キリスト教という宗教ではなく、人間に普遍的な理性と道徳的な原理に基づく「理性宗教」だけを容認していたが、
『たんなる理性の限界内における宗教』(1793年。69歳)ではキリスト教(非理性宗教)のうちにも理性宗教と一致する部分があることを説いている。

だからゴッドの代替物を崇めさせていて骨格がキリスト教のままだから単なる新キリスト教。科学容認、啓蒙主義、理性主義なのに反知性主義が混ざるのが耶蘇。
そんなに理性主義でうまくいく一神教がいいならイスラームっていう成功例があるじゃん。
“他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができ ない”
ことを脱しないといけないんだから、何かの指示を受けないとダメってのはたださねばならない状態じゃん。
この他人が人ではなく神ならOKってか?
結局自律じゃないじゃん。
カントは上記の引用に続いて、他人の指示を受ける楽から抜けられない人がほとんどって言っているので、結局は大半の人々は指示を与えるもの=神が必要って認めてる。
不滅の霊魂も神の存在とセットで要請している。
カントは統治のために何が必要かを書いているともいえる。要請。


実践理性批判のこの箇所が重要。ここだけ二回ぐらい読んだらこの記事はもういいよ。これがカントの道徳と統治の基盤。
永遠平和のためにもこれが前提と言っていい。
結局世界共和国もこの思想が浸透していることが前提だよ。
カントの理想って「神が命じる義務の地獄」なんじゃねーの?

“道徳法則はそれだけでは、〔その法則を遵守する者に〕幸福を『約束しない』。自然の秩序一般の概念から考えるかぎり、道徳法則を遵守することと幸福になることのあいだには、必然的な結びつきは存在しないからである。
そのためキリスト教の道徳論は、最高善の第二の不可欠な構成要素である幸福〔との結びつき〕の欠如を埋めるために、『神の国』の概念を提示している。神の国とは理性的な存在者が道徳法則に全身全霊をもって身を捧げる世界である。この神の国では派生的な最高善を可能にする神聖な創造主の力によって、自然と道徳が、それぞれ単独では無縁なものである調和を獲得するのである

このようにして道徳法則は、純粋実践理性の客体であり究極目的でもある最高善の概念を通じて、『宗教』へと到達するのである。これは『あらゆる義務を制裁としてではなく、神の命令として認識する』ようになること、すなわち『ある他者の恣意的で、それ自体が偶然的な指示』として認識するのではなく、みずからの自由な意志それ自体の本質的な『法則』として認識するようになることである。

このようにして道徳法則は、純粋実践理性の客体であり究極目的でもある最高善の概念を通じて、『宗教』へと到達するのである。これは『あらゆる義務を制裁としてではなく、神の命令として認識する』ようになること、すなわち『ある他者の恣意的で、それ自体が偶然的な指示』として認識するのではなく、みずからの自由な意志それ自体の本質的な『法則』として認識するようになることである。“

だから道徳とはそもそも、いかにしてわたしたちがみずからを幸福に『するか』という教えではなく、いかにしてわたしたちが幸福に『値する』ようになるべきかという教えである。これに宗教が加わると、その場合は、わたしたちが幸福になるに値しなくならないように留意すればするほど、徳に応じた幸福にいつか与るのではないかという希望が生まれるのである。

霊魂の不滅の要請
 しかしこの無限の進歩が可能となるのは、同一の理性的な存在者の『現存』と人格性が『無限に』つづくと想定する場合にかぎられるのであり、これが霊魂の不滅と呼ばれるのである。だから実践的には霊魂が不滅であるという想定のもとでしか、最高善は可能ではない。したがって霊魂の不滅は、道徳法則と分かちがたく結びついたものとして、純粋実践理性が『要請』するものである。“


ここらへんのまとめはまた書き直すけど、今の段階でも統治形態考えるうえで超重要だと思う。
プラトンの国家とアリストテレスの政治学は重要だけどちゃんと登用と中東の統治論も大事だからね。シーア派のホメイニ、スンニ派のア名前忘れた、孔子も牛孫子君主論完全教祖マニュアル。中国史はいろいろな支配体制の宝庫だかr長寿用。弱った理由倒れた理由ももちろん重要。それこそが祖sの統治形態脆弱性だから。

「心が折れそうな時は大体寝不足」「機嫌が悪い時は大体空腹」 散逸した読書メモ見つかったやつ乗せ説く カント哲学を応用していろいろ考えたのって陰謀追及h差ってモグラさんしか見つからないんだけど  
非報 純粋理性批判と永遠平和のためのメモが見つからない インy9うお見つかったやつあるけどその翻訳から甕持ってないからダメじゃねえか

教訓
メモには書名をきちんと書くこと!
著者名もできれば核こと!

批判書のメモが発掘されたぞーなんか適当なファイル飛来的^ワード検索したら出たぞー
店名ならぬ天命だなーーーー
そういやフランス系結社はカント好きらしいねえ
だってカントはスウェーデンボルグ(スピリチュアル結社の教祖)に対して
“霊界は空想家がでっちあげた楽園である。”
って批判しているからね。
啓蒙主義(理性崇拝の新✝)vsスピリチュアル(反知性主義の新✝)

私?
カントも批判するよ。カントの道徳も世界共和国もキリスト教が究極の担保だもんね。
結局耶蘇かよ。


∸―
哲学書を読むコツ

・作者が何を目的に書いたか知る
・基本用語をわかりやすく言い換えている解説を探す
・哲学書は翻訳が複数あるなら比較している人の意見を読む。

翻訳どころか改悪のやつもある。
カントは光文社が新しいから読みやすい(日本語になっているという意味)。
が一番素晴らしいのは世界の古典つまみ食い訳(後述)。

『永遠平和のために』ならいきなり読んでも大丈夫だろうし読者が最も興味があるだろうから、二番目にのせておく。

メモが見つからないけどな!
一番目は一番笑える『視霊者の夢』。

∸―
カントのいう人間が守るべきルール(善い意志へ向かわせる道徳律)は個人の欲求(欲望)が絡んではダメで、
全ての構成員にとって普遍的なルールでないといけない。
論理思考で普遍的な道徳ルールを作ろうとしているが、人間にできるのだろうか。      人間はどうしても主観(欲求)が絡まざるを得ないからこの利己主義が結果的に利他主義に変換されるシステムしないとうまくいかないと私は考える。
啓蒙主義系の哲学者カントはは「大衆は馬鹿。でも改善できる!導き手が必要!」という結論なので、一番強力な導き=強制力=キリスト教を究極の道徳の源泉にした。
カントら一神教的発想の人からしたら東洋の絶対的超越者を前提としない道徳は考えられないのだろう。
儒教、道教、仏教、神道(天皇崇拝がない、単なる自然崇拝)は人間が神になれる思想。
神だけでなく霊魂の不滅も「要請」したカントからすれば、不滅の霊魂を完全否定する仏教は特に理解できない対象だろう。


カントの道徳の究極の担保は善なる絶対存在であると、という啓蒙主義系キリスト教思想を明言しているので、カントの永遠平和って全員が少なくとも一神教信者でないと実現しないと考えていた疑惑が出る。


“自分の好き嫌いを抑えて実行しなければならない義務があるということを明確に意識するとき、人々は自由というものを意識するようになる”
(『純粋理性批判』世界の古典つまみ食い訳)
カントの自由は義務ありきだから不自由。確かに不自由だと自由を意識できる。
自由の定義って、自由な状態にあるときは自分が自由だと自覚できないってことなんじゃないかな。でもAの定義にA入れたら定義にならないしなあ。


カントのいう時間と空間は現象が起こる出現条件・環境で「人間の主観側」。
時間と空間は人間の中だけに存在する。
時間と空間は現象をとらえる人間の主観の中にある。
時間と空間は直感の形式=現象を感覚するため大前提条件。
インド哲学の影響かもね。
啓蒙主義系結社経由?

―――


∸―

こう言い換えるだけでだいぶマシになる用語集

純粋=経験によらない。
先天的=経験によらない。
表象する
=心にイメージを描く、心の中に思い描く、心の中にとらえる。

表象
=心の中にとらえたもの。心に思い浮かべる外界の像(イメージ)。


直観(Intuition)
=推論や論理的思考なしでなされる直接的な認識
=「いちいち考えなくても感覚的にいきなりすぐ判る」
=推論(inference, reasoning)や理性の使用などの、意識的な論理的プロセスなしで即座に知り、認識する能力。

感覚とは関係のないもの(超越的な意味で)
=「純粋~」

「純粋直観」
=純粋     +直観
=感覚より上位の+論理的思考なしでなされる直接的な認識
=感覚より上位で思考なしに即座に得られる直接的認識

ラテン語a priori(アプリオリ)
=先天的、経験によらずに、経験に基づかずに、経験なしで、先験的

=心の中に思い描くこと
=表象
=心の中にとらえる、心の中にとらえたもの。

純粋理性
=経験によらない理性、後天的要素を除いた認識能力の全体。

理論理性
=(道徳的能力たる実践理性に対し理論的能力すなわち)認識能力

実践理性
=経験によらない道徳原理によって意志を規定する理性。

格率
=個人が主観的に行為するときの規則。
普遍的道徳法則とは異なる。


英知界:理性による思考・観念によって捉えられるもの
現象界:感覚的に経験、物理的に認識できるもの
人間はこの二つの世界にまたがって存在している。

『悟性』=understanding

∸――

∸――
『視霊者の夢』


カントがスウェーデンボルグに対して書いた『視霊者の夢』をぜひ。
別の世界についての以上の見解は論証することはできないが、理性の必然的な仮説である。
スウェーデンボルクの考え方はこの点において非常に崇高なものである。byカント
要は、カント「スウェーデンボルグのスピ思想は論証できない。仮説としてはあり」。
啓蒙主義系結社とスピ系結社の対立というか水と油。

発掘されたメモ
スヴェーデンボリ(スウェーデンボルグ)は偉大な発明家であり科学者であった。
1688年スウェーデンのストックホルムで、ルター派の牧師の息子として生まれ、幼少時からすでにかなり神秘的傾向を持っていたらしい。
数学や鉱物学を学び、ウプサラ大学を卒業したあとは長い間スウェーデンの鉱山局の技師をつとめた後で(1719年)貴族に叙せられ貴族院議員となった。製塩機・潜水艇・飛行機まで発案したといわれる。
スヴェーデンボリを世界的に有名にしたのは霊界との交流の記録
であった。
1740年頃から神秘的著作を公にした。
死去した場所は1772年滞留中のロンドンにおいてであり、死後も評判が高まるばかりであった。死後136年を経た1908年になってから母国スウェーデンの学士院が、国王に依頼して軍艦を仕立て、ロンドン郊外に葬られていたスウェーデンボルグの遺体を引き取りにいったほどである。
スウェーデンボルグ信奉者は特にスウェーデン、北アメリカ、イギリスに多く、
1893年にはイギリスだけでも80を超すスヴェーデンボリ信奉者団体があった。
また1910年ロンドンで開かれた国際スヴェーデンボリ会議には、世界中の学者、宗教家など400人が出席し、それぞれ20の専門部会に分かれて、スヴェーデンボリの学殖を20世紀の学問水準に立って討議、検討した。
アメリカの哲人エマーソンや、ヘレン・ケラーがスウェーデンボルグ思想の信奉者だった。

(小物の霊能者ではないことに注意。だから私が重視しているのです。欧州貴族のエキュメニズム側、特に北欧系の中核思想ですから)


・スヴェーデンボリいわく、霊界には太陽があり、これから発する霊流を受けて霊たちは生きている。
したがって、霊流が受けられなくなるように、人(霊)の背後に立つことは霊界ではもっとも非礼の行為とされている。

霊界には三つの世界があり、霊の人格の高さごとに上中下に別れている。
上世界に住む霊は、霊の心の窓が最も広く開け、
中世界はこれに次ぎ、下世界は中より劣る。

(なんか表現が物質的すぎないか?)

また霊界の西の地平線の上に一人の巨人が姿を現すことがある。巨人はやがて大きな腕を霊界全体に渡って振り回し、また額から強烈な光のようなものを全霊界に向けて放つ。そうすると、霊界を侵略し崩壊させようとする凶霊たちは物凄い叫び声をあげて地の中へ落下していく。

霊的な事柄は我々の経験をはるかにこえている。したがって超越的な認識不可能の事柄については、もっぱら「わたしは知らない」と答えなければならない、とカントは言う。
だがカントは霊的事物が経験的概念ではないからといって、その可能性までも全否定していはいない。性急な断定は避けた。
もっともカントの言う霊界は、叡知界とも呼ばれるプラトン的なイデアの世界である。道徳的な原動力もこれに準拠している。人間は時には利己的な傾向の為に圧倒されることがあっても、その本性のどこかに公共的な道徳的原動力が支配
している。こうして人間は極めてひそかな動機のなかでも、普遍的意志の規則に依存している。
これが霊的な法則であり、それにしたがってあらゆる思考者の間に、道徳的統一と組織体制が成立する。そして普遍的意志と合致するように、人間の意志を強制する心情がいわゆる「道徳的感情」にほかならないとカントは説く。
カントの霊界は抽象的な観念の世界である。

・負傷して頭脳の大部分が失われても、生きていて、思考能力も失われていない事例がある。魂の所在地を頭脳内だけではなく他の所在地にするなどいろいろある。

・冒頭p.21“霊界は空想家がでっちあげた楽園である。
(いきなり結論を述べたぞ)

・カントの結論。
人間の理性ではあの世(霊界)のことは判らない(対応できない。扱えない)。
あの世(霊界)に行きたい人が実際にあの世に行くまで(死ぬまで)じっくり待つのが一番(だからあれこれ考えても仕方がない)。
死後にあの世(霊界)でいかなる扱いを受けるか(天国や地獄など)は、今生きているこの世での言動にかかっている。
だから自分のこの世の幸福の心配をしよう。この世の現実の生活に取り組もう(霊について考えるのはもうやめよう)。


(記事主が勝手に内心を推測。
霊とか霊界なんて認識【フィルター】の前提となる鋳型・形式=カテゴリーにちゃんと従ってくれないし、非理性の権化だから哲学で扱うなんて無理なんだよ!)

“人間の理性もわれわれにあの世の秘密をかくしているあの高い雲を、眼前から取り払うことができるほど高揚することはない。さらに熱烈にあの世を渇望する好奇心旺盛な人々に対しては【彼らがあの世に行くまで、じっくり待つことに甘んじるならば】、それがいちばん得策だという、単純だけれども、きわめて自然な回答を与えることができよう。そうはいうもののあの世におけるわれわれの運命は、おそらくわれわれがこの世におけるおのれの立場をいかに保ってゆくかということにかかっているらしく思われることからしても、私は本論文をかのヴォルテールがあの誠実なカンディードに、多くの無駄な学問論争のあと最後に言わせた 『われわれはおのれの幸福の心配をしよう。庭に行って働こうではないか』という言葉をもって閉じることにする。”p.128
※【】は原文の傍点の代役。
※※ヴォルテールの原書では“しかしとにかくわが畑を耕す必要がある”。


・カントの道徳論(引用はこのあとすぐ!)。
利己心(欲。本能)に逆らう、犠牲を要求する道徳的強制力が義務と善意。
義務は善意よりも強い強制力を持つ(つまりより不自由になる)。
道徳(的強制力。義務と善意)は心からなくなることはない。
道徳的強制力は【一般意志】(多数の人間の共通意志)に拘束されていることを示す。
この【一般意志】の法則に拘束されていることを源泉として、すべての思考する存在のなかに【道徳的統一】と、ひたすら霊的な法則に従う組織的な状態が生まれる。
自分の意志を一般意志と一致させる強制力=道徳的な感情。
(ここでニュートンの、全ての物質に働く重力と引力に言及。物質相互の一般的活動の真の結果=引力。)

道徳的な感情を発生させる原因は、霊的存在をたがいに交流させあう真に活動的な力ではないか?
そうなると道徳的感情とは、個人の意志が一般意志に【まさにその通りだと感じられるように拘束】されていること。
かつ、道徳的感情=非物質的世界に道徳的統一を獲得させる上で必要なもの。
また、道徳的感情は自然かつ一般的な相互作用で生まれる。

(突拍子もなくニュートンの重力と引力の話が挿入されていることに着目。
重力や引力は人間の自覚なしに働く。
一般意志も同様に、本人の自覚なしに影響を及ぼす。

錯覚 自分で決めた
実際 一般意志が決めた

道徳的感情は、個人の心から生じる力ではなくて別の真の力により生じることを言いたいのではないのだろうか。
真の力が何なのか読み直してもよく分かりません。
カント自身も突き止められていないのかもしれません。
カント哲学完成前の著作ですし。
カントは道徳的な感情=義務と善意が生まれる原因、どこから来るのかまだ断定していない。
道徳法則を神秘的なもの=経験を超えたものだと考えていたのでしょう。
カントは義務感は生まれつきであり、経験ではじめて生じるのではないと考えたそうです。
経験は人によって違うから「私は義務感が生じるような経験をしたことがありません」と言われかねない。
義務を普遍化、万人に当てはまるとするなら生まれつき備わっているにするしかありませんからね。

私の考えだと、霊的存在を動かせるのだから、「真に活動的な力」とは霊的な力のはず。霊的なら非理性に属する。非理性といえば感情。でもその感情は生まれつきか生まれた後の経験で生まれるのか。両者の混合でしょうね。二元論の罠に注意。
どちらでもないから選択しない・
どちらでもないから新たな選択肢を見つけてそれを選択
・両方という選択肢をお忘れなく。生まれつき器の原形があって、それを経験で改良していくんじゃないの?

道徳的感情
=個人意志を一般意志と一致させる強制力
=個人の意志が一般意志に【まさにその通りだと感じられるように拘束】されていること。

=非物質的世界(霊界。霊)に道徳的統一を獲得させる上で必要な自然にしてかつ一般的な相互作用の所産。
(霊界にも義務と善意による拘束を及ぼそうということね。

殺人は悪だと自分で考えて結論したと思い込まされているだけ。
実際は一般意志に自分は拘束されていて、自分では殺人は悪だと決めてはおらず、一般意志の決定を吹き込まれただけ。自分で決めたと錯覚しているだけ。
あれ、カントにとって道徳的感情=善だよね?
自分で決めたと錯覚させる=善、になるよね?

なるほど、これが支配層が採用する思想か。
秘密投票である限り不正そのものでしかない選挙とかね。
秘密投票である限り不正でない選挙はありえない。
不正=秘密選挙。不正をする為に秘密選挙制度を作った。
記名投票にして票を移動できなくしつつ、投票に責任を持たせるようにしないと駄目。
圧力云々で反論したそうな人がいそうなので、
「その圧力がかかる異常過ぎる世界を変えるのにあなたは何のリスクをも負わないのですか?」と言っておく。
あるいは投票率0%=全員落選にするか。
支持者なし、全員落選という選択肢がない時点で茶番だと気づけよな)

  “われわれの外にいる他人の意志のなかにあって、われわれを動かしてゆく力がある。そのことから、利己心にさからって、われわれを駆り立てる道徳的な推進力が発生する。そのうちより強い法則が義務の法則、より弱い法則が善意の法則である。その
いずれもがわれわれに多くの犠牲を要求する。時にはこの両者は、利己的な傾向によって圧倒されることはあっても、これらが現にあることを示す心の動きは人間の性質のなかでけっしてなくなったりしない。これを通じてわれわれは、もっとも深奥な動機のなかで、【一般意志】の法則に拘束されていることがわかる。そしてこれを源泉として、すべての思考する存在のなかに【道徳的統一】と、ひたすら霊的な法則に従う組織的な状態が生まれる。このようにわれわれの意志を一般意志と一致させるようなわれわれのなかに感じられた強制を【道徳的な感情】と名づけようとするならば、これについては、われわれはおのれのなかに現に起こっている現象を、その原因をつまびらかにすることなしに語っているにすぎない。ところで、ニュートン〔イギリスの物理学者。一六四二-一七二七・訳註〕は、たがいに近よろうとするすべての物質の力に関する確実な法則を重力の法則と名づけた。だが彼はおのれの数学的証明を重力の原因をめぐって起こるかもしれない哲学的論争に妙な具合に関与させたくなかった。それにもかかわらず、彼は重力を物質的相互の一般的活動の真の結果として取扱うことをためらわず、したがってこれに【引力】という名を与えた。
ところで思考する存在のなかの道徳的衝動という現象は、霊的存在をたがいに交流させあう真に活動的な力の結果と考えることはできないであろうか? そうなると道徳的感情とは個人の意志が一般意志に【まさにその通りだと感じられるように拘束】されていることであり、非物質的世界に道徳的統一を獲得させる上で必要な自然にしてかつ一般的な相互作用の所産ということになるだろう。”p.55-56
※【】は原文の傍点の代役。

“そうはいうものの死んでしまえばすべてが終わりだとの考えに耐えられず、持ち前のけだかい人情に基づいて未来に希望をつないでいないようなすぐれた魂の持ち主はけっしていなかった。したがってあの世への期待はすぐれた性質を持つ魂の感覚によるものだとする方が、逆に良い行為は、実はあの世への期待があるからだとするよりも、人間の性質と、道徳の純粋さにずっと適しているように思われる。”p.127

※一般意志(仏語:Volonté générale、英語:General will)
=社会の全ての人に共有される意志。
最低にして最低の人間クズ野郎ルソーの概念。
(発言者がクズなのと内容の正しさは一致するとは限らないけど言わせておくれ)

カントは規則正しい生活習慣で知られ、決まった道筋を決まった時間に散歩した。あまりに時間が正確なので、散歩の通り道にある家では、カントの姿を見て時計の狂いを直したらしい。ある日いつもの時間にカントが散歩に出てこないので、周囲の人々はなにかあったのかと騒ぎになった。実はその日、カントは鬼畜ルソーの「エミール」を読みふけりいつもの散歩を忘れてしまったのであった。



永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』を再読したのでメモ。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-64.html
“・バークリー「何かが存在するとは知覚されているってことにほかならない」
ヒューム「因果の概念は習慣によって作られた我々の信念でしかない」
因果関係そのものは想定されるだけで見えない。

・夢=心の中にあって外界に存在しないもの

カントは、
“ぼくらのものごとのとらえ方にはね、習慣によって作られた信念なんかじゃなくて、それ以外ではありえないような型みたいなものがあるって考えたんだ。そういう、ものごとのとらえ方の基本的な枠組みみたいなのをカテゴリーって言う
んだけどね。日本語で言えば範疇だな。
因果性のほか、まえから使っている『ものとその性質』なんていうとらえ方もカテゴリーなんだ。
ぼくらは、ものごとをとらえるとき、すでに必ずカテゴリーを使ってるんだ。
カテゴリーのくわしい話はまたにするとして、とにかく、さまざまな感覚的経験にカテゴリーが適用されることによって、はじめて、それが【客観的な現実】として認められることになるんだよ。
カントは『視霊者の夢』って変な本を書いてるんだけど、これはね、スウェーデンボルグっていう当時流行の視霊者、つまり霊を見たと称するやつなんだけど、まあ霊媒みたいなもんだな、そいつの言ってることがほんとうかってことを考えた本なんだけどね。結論を言うとね、どんなにありありと見えたとしても、それはありえないこと、つまり『夢』にすぎないんだ。つまり、客観的な実在と対応してないんだよ。なぜかっていえば、要するに因果性のようなカテゴリーが適用されないからなんだな。まあ、カントに言わせれば、猫と話をするなんてことも、ありえないことだ、だからやっぱり『夢』でしかないってことになるかもね。

カテゴリーが適用されることによって、対象は客観的なものになるって言ったけど、そこには統覚っていうはたらきが必要なんだ。統覚っていうのはね、自分が知覚したり経験したりするさまざまなものごとを、カテゴリーに従って秩序づけるはたらきだ〔原文ママ〕なんだけど、それをするのが自我のはたらきなんだ。カントはね、デカルトの『私は考える』っていうあの原理を統覚作用として読み変えたんだ。カントによれば、『考える』っていうことはカテゴリーを適用するってことだからね。
カテゴリーがぼくらがものごとを理解する枠組み
だとすると、
時間空間はぼくらがものごとを感覚する枠組みなんだけど、その話はまたにしよう。
とにかく、カントのこういう考え方はね、バークリーたちみたいに、現実を夢だって言って心の中で起こる夢にしちゃうんじゃなくてね、逆に、時間空間とカテゴリーで、まず心の中で起こる夢みたいなものを考えておいて、客観的な現実全体が実はその中にあら【ねばならない】んだって言う、ってやり方なんだよ。”p.105-107
※〔原文ママ〕も【】も原文にはなく、【】内一文字一文字に傍点。

国家神道=新キリスト教
=平田篤胤思想+現人神思想+ #スウェーデンボルグ 思想。
スウェーデンの貴族スウェーデンボルグの思想が神智学、スピリチュアル、ニューエイジ、宇宙人説、出口王仁三郎の霊界物語、大本教系(主要政党を支配)、大本教系の日月神示の元ネタです。

平塚らいてう(姉が #大本教 信者)が寄稿記事で『霊界物語』と #スウェーデンボルグ の関係を指摘しています。
大本教系の日月神示は和風スウェーデンボルグ。
丸に十字を掲げる大本教の出口王仁三郎の #日ユ同祖論デマ


1766年 - 『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』
Träume eines Geistersehers, erläutert durch Träume der Metaphysik

“1766年、『視霊者の夢』を出版[注釈 3][6]。カントはエマヌエル・スヴェーデンボリについてこう述べている[7]。
「別の世界とは別の場所ではなく、別種の直感にすぎないのである。-(中略)-別の世界についての以上の見解は論証することはできないが、理性の必然的な仮説である。スウェーデンボルクの考え方はこの点において非常に崇高なものである。-(中略)-スウェーデンボルクが主張したように、私は、〔身体から〕分離した心と、私の心の共同体を、すでにこの世界で、ある程度は直感することはできるのであろうか。-(中略)-。私はこの世界と別の世界を同時に往することはできない。-(中略)-。来世についての予見はわれわれに鎖されている。」

イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88#.E7.94.9F.E6.B6.AF

“スヴェーデンボリへの反応は当時の知識人の中にも散見され、例えば哲学者イマヌエル・カントは『視霊者の夢』中で彼について多数の批判を試みている。一方で、限定的に「スヴェーデンボリの考え方はこの点において崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である」(K・ ペーリツ編『カントの形而上学講義』から)と評価も下している。”
エマーヌエル・スヴェーデンボーリ(Emanuel Swedenborg, 1688年1月29日 - 1772年3月29日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AA

∸―
 
『永遠平和のために』

どの翻訳かわからない

・カントは『実践理性批判』(1788年。64歳)では、キリスト教という宗教ではなく、人間に普遍的な理性と道徳的な原理に基づく「理性宗教」だけを容認していたが、
『たんなる理性の限界内における宗教』(1793年。69歳)ではキリスト教(非理性宗教)のうちにも理性宗教と一致する部分があることを説いている。



“ところで他国との関係のもとにある国家が、法の定められていない状態、戦争だけが支配する状態から抜けだすには、理性的に考えるかぎり、次の方法しか残されていないのである。すなわち国家も個々の人間と同じように、法の定めにしたがわない未開な状態における自由を放棄して、公的な強制法に服し、つねに大きくなりながら、ついには地上のすべての民族を含むようになる『国際国家』を設立するほかに道はないのである。
しかしこうした国家は、彼らなりに国際法の理念に基づいて、このことを決して望まず、それを一般的には(イン・テシ)正しいと認めながらも、個々の場合には(イン・ヒュポテシ)否認するのである。だからすべてのものが失われてしまわないためには、『一つの世界共和国』という積極的な理念の代用として、『消極的な』理念が必要となるのである。この消極的な理念が、たえず拡大しつづける持続的な『連合』という理念なのであり、この連合が戦争を防ぎ、法を嫌う好戦的な傾向の流れを抑制するのである。”p.183
『』は原文の傍点の代役。()はルビの代役。以下の引用も同様。

“中国(ヒナ)と日本(ニポン)は、外国からの客を一度はうけいれてみた。しかし後に中国は来航は認めても入国は認めなくなった。日本は来航すら、ヨーロッパのオランダに認めるだけで、来航したオランダ人をまるで捕虜のように扱って、自国の民の共同体から切り離したのだが、これは賢明なことだったのである。”p.187

“秘密条項が適切なものと判断されるのは、次のような場合だけである。すなわち「『戦争にそなえて武装している諸国は、公の平和をもたらすことのできる条件について哲学者が示す原則を、忠告としてうけいれるべきである』」。”p.211

“だからといって国家は、国家の権力の代表者である法律家の言葉よりも、哲学者の示す原則を優先すべきだというわけではない。ただ哲学者の言葉に『耳を傾けよ』というだけのことである。”p.212

“国王が哲学者となったり、哲学者が王となったりするのは、期待すべきことでも、望ましいことでもない。権力を所有すると、理性の自由な判断の行使が損なわれるのは避けられないことだからだ。しかし王者が、またはみずから平等な原則のもとにしたがう王者的な民族が、哲学者という階級を消滅させず、また沈黙させずに、公に議論するのを許すことは、それぞれの職務を明確にするためにも不可欠のことなのである。哲学者という階級は、徒党を組んだり、秘密結社を設立したりすることができない性格をそなえているので、『プロパガンダ』による誹謗の疑いをかける必要はないのである。”p.213

平等な原則にしたがわないから王者的なのですよ。




国際政治学たん @Morgenthau0217 · 2013年12月22日
戦争の勃発を阻止し、国際平和を達成しようという構想は古くから度々提起されてきて、それは以下の6つのタイプに分類されるわ。
①世界政府の実現による平和
②国際法を通じての平和
③民主主義の普及による平和
④自由貿易を通じての平和
⑤紛争の平和的解決による平和
⑥力の均衡による平和
カントが『永遠平和のために』で着目したのは、③と④、そして諸国家からなる自由な連合(⑤が近いかな)。
①の世界政府の実現を夢想したのは、サンピエールが有名。
また、アクィナスやダンテも、その著作の中で全人類を包摂する世界帝国について語っているわ。

自殺を考えてしまう存在@8th day ‏@feelsosuicidal 2013年11月7日
カントの言う国際連盟は唯一つの巨大な国家とは違うのでしょうか?諸国家によって分割されているのが望ましいのは「歴史の途中」に思えますが @Morgenthau0217: (…)世界が諸国家によって分割されている状態の方が、唯一つの巨大な国家によって統合されてしまうより望ましい(…)

国際政治学たん ‏@Morgenthau0217 2013年11月7日
@feelsosuicidal 良い質問だと思うわ。カントは、個々の国家は内部に法秩序を有しているが、個々の国家からなる国際関係は非法律的無秩序な状態だと見なしており、ホッブズに近かったの。
その状態は現実に戦争が起きてなくても「戦争状態」と呼ばれ、これを脱却するために「国際連盟」の設立を唱えたのね。
しかも、その連盟は主権的権力を含まない、つまり連邦ではなく連合的な組織にすべきだと考えたの。
どうして連邦ではなく連合にすべきなのか。連合とは、そこに加盟する国々が、それぞれの国家主権を保持したままの国際組織ね。
それに対して連邦とは、各国の主権を統合した、国家よりも上位の権力機構。確かにこのような連邦(いわば、世界共和国のようなもの)という理念は連合よりはるかに進んだ理念だけど、やはり現実性を欠くわ。さらにカントは、帝国的統治というものが、版図が拡がれば拡がるほど法の及ぶ力が弱くなるということも言及しているわ。そういうわけで、彼は「一つの世界共和国という積極的理念の代わりに、戦争を防止し、持続しながら絶えず拡大する連合という消極的な代替物のみが、法を嫌う好戦的な傾向の流れを阻止できる」と主張したのよ。


中尾 綾 ‏@ayajet128 2月24日
@kikuchi_8 @wayofthewind トム・ヨークのパートナーがダンテのアートを研究してたvia naoshiy: 自衛はロック、ルソー、カント、ヘーゲルがそれぞれ論じた公共哲学の伝統的なテーマであり、世界政府をつくって軍隊の一元化を唱えたのはダンテであった。"

菊池 ‏@kikuchi_8 2月24日
@ayajet128 @wayofthewind なるほど、ダンテは世界政府主義者だったのですね。社会契約論は大東社の啓蒙主義者・革命家の重要な教義の一つですね。カントは「永遠平和のために」という著書で世界連邦みたいなアイデアを出しています。ヘーゲル弁証法は秘密力の得意技ですね。



ねこた‏ @lakudagoya
例えば、本来の意味のNWOを考えるならば(ストア学派による理想を追求するならば)結局的にはイスラーム主義に行き着くわけ。

少なくとも、中世の時点でその理想達成してる。

じゃ、今やってるNWOって何なの?と考えたら、あれは単なるカントなどの思想を悪用した悪政に過ぎないと。
確かにやつらの考えるNWOのさ、SF映画のような世界中の人を狭いところに閉じ込めて徹底的なカースト制度を引くというやつらの目標なんざ、ストア学派やカントの理想の欠片すらねーもん。

あれをNWOとか言ってビビってちゃダメなんだ。

あれは単なる悪政であって、理念無視だから。

カルトの教義にまみれてても、アニメやゲームは教養主義ってスタンスは捨ててはいけないみたいだなw

Fate GOは相当にイギリス系の思想のやつ出るね。

フランス系はやたらとカントが好き。

で、英米系メイソンはフリードリヒ大王などのドイツ系啓蒙主義が嫌いだという法則w

カントの本は少しだけ読んだけど、これストア学派のパクリではなくてオマージュ認定してもいいのでね?

ちゃんと消化してるからオマージュだよ。

二次創作としては完成度高い同人。

単なるコピペではないから。

で、今の世界連邦はみんなカントのコピペだね。陰謀の中核。
世界連邦だってストア学派やカントなどのコピペだしな。

カントの本借りてきたよ。

世界連邦にカントが抜けてたのは痛恨の極みであった。

驚くほど大本教がカントのコピペでワロス

神道カルトの思想の多くはカントが元ネタかよ。西欧かぶれの馬鹿はさっさと死んでほしいわ。



ーーー
応用例

カント哲学と事務のおばちゃんの哲学【20101004】
http://www.mkmogura.com/blog/2010/10/04/962
“たぶん、この話をそのまま哲学のレポートにしたら赤点を食らうだろう。
自分の頭と要素で組み立てられない文系教授には、理解できない話。
 
 
カントの自由とは何か?
 
まず、基本的にヒューム哲学、懐疑的経験論をカントは継承してる。
何度も言うが、「懐疑的経験論=大衆は馬鹿」である。
だから、理性(理念)として(社会構築に必要な要素)として、カントは「神・魂の不滅・自由」を提唱した。
 
まあ、形而上学的な「神」という概念で「大衆は馬鹿」→だから「大衆を騙そう=正しい規律へ誘導しよう」
という話である。
 
 
この全体図が見えてれば以下のこと、全てが説明つく。
 
・人間は生まれながらに自由である(神を必要としてるのになんで?)
・自律(自由)と外律(不自由) 何で分けなきゃならないの?
・義務論という帰結。
 
 
カントの自由の定義を砕いて言うとどういうことか。
 
世の中に欲望がいっぱいある、欲望から切り離し、どんな他人も「手段=人間扱いしない」なんてことをしちゃダメだよ。
で、全部、自分で考えて(他人に影響されちゃダメだよ)
欲望という本能ではなく人間的理性(ここは道徳という意味が入る)で律した中、理性(社会構築の要素)に普遍的な道徳的法則を追いかける時にかぎって、人は自由である。
 
 
つまり、
自分だけで出した考えと方法で(自律)
他人を物扱いしない(道徳的)
 
そういう要素を組み立てると、「カントは自由なんてない」
と言っているのだ。
 
 
今日も、おじいちゃん入れ歯が吹っ飛ぶほどの衝撃的な帰結だ。
 
 
人間は周囲に影響される=自律はない、
本能も捨てられない=絶滅か?、
普遍的な道徳的法則を追いかける=なんで、そんなめんどくさい事しなきゃならないの?=利己主義の原則。
 
どこに自律があって、自由があるのか。
なら、自由なんてないじゃないか?ってこと。
 
 
どこの哲学の教科書にも書いてないコトを教えてあげよう。
 
カントの自由とは、「人間は生まれながらにして、理性(社会構築の要素)に道徳的で普遍な法則を探さなきゃならない使命がある」ということ。
 
全体図を考えれば思想はわかる。
「他律=周りから影響される事、欲望」これらに左右される人は、ヒューム的懐疑的経験論の「大衆は馬鹿」の、馬鹿なわけよ。
つまり、馬鹿は「神とか不死」で操ってるから、「言う事をきいてなさい=不自由でなきゃダメ」という帰結。
 
 
人間はもとから理性に道徳的規律を持っていなきゃダメ。
=人間は生まれながらにして自由である。
※つまり、神で規定される戒律より、自由(理性を追う義務)が優先。
カントにとっての「神」は馬鹿を操るツールなんだから当然である。
 
そして「生まれながら自由である=義務を背負っている」は、カントの自由が、道徳的普遍な法則を探さなきゃならない使命という意味なら、「自由などない」というのは、当然の事である。
 
 
彼の自由は義務なのだ。
だから厳密に言えば、カントの思想に自由などない。
よってカントは「義務論
という帰結につながった」わけね。
 
つまり、批判哲学。そこから義務という答え=生まれながら自由(義務という使命)があると答えを出した。自由と義務をカントはすり替えた。
だから神の規律よりも、自由が優先なわけ。
 
カントは懐疑的経験論から「大衆は馬鹿であること」を意識していた。
「外律=馬鹿な大衆=不自由」
「自律=(理性=自由という義務を背負う者)=欲望を捨てられる道徳的な者=そのものは自由(本来の自由の意味=制限がない行動)である」
 
・自由という権利を持たない馬鹿=神に騙されてろ!!
・自由の使命を知ってる者=理性(社会的構築の要素)に道徳的法則を探し求めろ。自由、何も束縛されずに追いかけろという意味もある。
 
 
 
だれかが社会に規律を持たさなきゃならない。
 
過去の哲学は、そういう現実に沿って存在してる。
哲学も「必要だから」生まれたわけであって。
 
文系の大学教授なんかは、そういう「実務」であることを忘れている。
言い換えるなら、もし「大学運営に必要な理性」という質問に答えられるのは実務を意識した者ばかりだろう。
つまり本当の意味で哲学を教わるなら、文型の教授よりも事務のおばちゃんにでも聞いたほうがいいだろう。その大学に、何が必要で、何が不必要か答えられる=よっぽど有能だ。

 
変な理屈こねたり、馬鹿なサイト見てる前に、「おまんまの分を稼ぎなさい」、これが哲学である(号泣)。
 
 
カントはあたりまえだが、神が形而上的なもの=何もしてくれないを知っている。あくまでも、それをどう使うか?である。それも実務の話だ。
 
だから、自由の使命を知ってる者を、ヒューム的な「馬鹿な大衆」と切り分けて、「規律を作る人」として、その人間だけは本来の自由に近い権利を与えるべき、そして、他の欲望に振り回される愚民どもには自由はないと提唱したわけ。
 
世界で一番干渉的な「神を必要」としたのに、自由には「自律が必要=他者に全く影響されない事」
 
最大の干渉の要素と、究極の不干渉を同時に求める。

カントのこの部分に、間違いはないわけである。
 
この二律背反ともいえるので構成されてるカントの思想は、彼が2枚舌であるわけでも、嘘つきでもなく「実務的に」、「どう必要だったか?」を考えれば簡単なことである。
それなのに文系の教授で、このことに答えられる人間はたぶん少ない・・・だからレポートにこんな事を書いたら、赤点を食らうわけだが。
 
 
今に当てはめてもわかる。
 
神はあくまでも馬鹿を騙すツールである。
これは、今も続く。キリスト教、スピリチュアル、地球温暖化詐欺、アイアンマウンテンレポート、全てに共通する話だ。
「大衆=外律」欲望や周りに振り回される者でしょ?
馬鹿を騙す仕掛け人、ビルダーバーグの上の人だけ「自由=なんでもよし」ということ。これもイルミナティが支持するヒューム、同じくカントの思想だ。
イルミナティ、ビルダーバーグと中央銀行の支配の上の人達がカントを否定した部分は、あくまでもキリスト教での神学を理念として継承してしまった部分だけである。
 
懐疑的経験論からの選民思想を知ってれば、誰でもカントの自由の意味がわかる。
カントのはまだマシなほうだけど。
 
カントの哲学の話では、選民思想=「規律を作る特別な人」に切り分けられた部分でない限り、カントの自由=義務と置き換えられる。



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作者の目的と、基本用語のわかりやすい言い換え


知性には限界があると言ったカント
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/intro_kant_intro.html
”形而上学とはどういう学問か。それは哲学の中で、神の存在とか、死後の世界とか、宇宙の始まりとか、非常に難しい問題を扱う分野である。古来、こ れらの問題に様々な天才たちが挑んできた。例えば古代ギリシャの有名なプラトンもこの問題に答えを出したと信じた一人である。

 しかし、カントは、序論の中で、こうした天才哲学者たちのやり方を手厳しく批判している。それは簡単に言うと、彼らは理性には何が出来るか何が出来ない かをよく確認もせずに、理性を使って闇雲にこうした問題を解こうとした。だから、独りよがりの独断論ばかりにになってしまった、とカントは言うのである。

 そして、カントは、理性にも知性にもそんなことをする能力はないと結論づける。これまでの哲学者は、何でも分析していけば、つまり、理屈をこねていれば、説明ができるという迷信に囚われていたのである。

 実は、人間の能力は理屈だけではない。人間にはもう一つ、感性という重要な能力がある。人間は、この感性の直観というものを使って、新たな概念を見つけ 出してくる。そして、既成概念に新たな概念を付け加えるのである。そうやって、人間は知識の範囲を広げてきたのである。それを彼は総合と呼んだ。

 ところが、プラトンは知性の拠り所が感性であることに気付かなかった。彼は、むしろ感性が知性を邪魔だてしていると考えて、感性の世界を捨て去って、イデアの世界に旅立っていった。しかし、感性という足場を失った知性はどこにも到達できるはずがなかったのだ。


 しかし、そんな難しい問題でなくても、分析の力の限界を教える例はごく身近にある。数学の分野は一見すべてが分析によって出来ているように思われるが実 はそうではない。幾何学は明らかに感性の産物だが、ごく単純な足し算でさえも、分析によって答えを導き出すことはできないのだ。

 カントは7+5=12という足し算を例にあげて説明してみせる。7+5の答えが12であることは、どう理屈をこね回しても出てこない。七と五の和という概念は、あくまで七と五の和でしかなく、そのなかに十二という数字は含まれてはいない。

 分析するということは既存の概念のなかに含まれているものを引き出すことに他ならない。だから、含まれてはいないものを分析によって取り出すことはできないのだ。

 では、十二という答えを人はどうやって手に入れるか。それは感性による直観によって手に入れる。

 感性による直観とは何か。たとえば物の形を見てそれが丸いとか四角いとかを人は一瞬にして理解する。そこにはどんな推論も判断も理屈も入り込む余地がない。それが直観であって、足し算の答えも人は直観よって手に入れるのである。

 人が日常何かの問題を抱えていて、それに答えを出さねばならない場合、大抵は、問題の中にすでに答えがあるものだ。だから、問題が何かを分析して明確化した段階で、答えが得られることがよくある。

 しかし、問題の中に答えが隠れていない場合がある。足し算がこの例であって、そういう場合には分析だけではだめで、感性の助けを借りるしかない
とカントは言うのである。

 こうして、カントは感性の重要さを主張する。しかし、感性といえば人間が直接五感で体験したことだけを意味しそうだが、そうではない。経験に頼らない直観があるとカントはいう。

 経験は多くのことを教えてくれるが、経験による知識には確実性がない。「だいたいそうなる」ということは経験によって分かっても、「必ずそうなる」ということは経験だけによっては分からないからである。

 とくに経験に頼らずに答えを導き出す必要がある数学では「だいたいそうなる」という程度のことではだめなのだ。

 しかし、ヒュームという哲学者は経験に頼らずに総合的判断を導き出すことはできないと言って、形而上学を否定してしまった。しかし、数学にはそれが出来ることを幾何学の存在がすでに証明している。

 どうして形而上学には数学に出来ることが出来ないだろうか。そこでカントは形而上学でも数学と同じことができるかどうかを検証しようとしたのだ。(この『純粋理性批判』という本はそのことをやって見せた本であって、形而上学そのものではない)

 カントは問題を一つの文章に要約している。それは「経験によらない総合的な判断はどのようにして可能か」という問いである。

 それを彼は個別の学問ごとに考えていく。つまり、「純粋数学はどのようにして可能か」「純粋な自然科学はどのようにして可能か」(ここで純粋とは「経験によらない」という意味である)

 そして、数学と自然科学は可能だが、これまでの考え方では形而上学は不可能だと結論づける。つまり、神とか霊魂とかは、感性に基づく知性の働きでは解明できないのだ。

 では、どうして数学には経験に頼らない総合的判断が出来てきたのかといえば、それは経験に頼らない直観がもともと人間の感性に備わっているからだと、カントはいう。それがカントが「感性論」の中で扱っている空間と時間である。

 人には知性と感性がある。そして、情報を受け取るのが感性であり、感性が受け取ったものを処理するのが知性である。また、この感性によって受け取るものが現象である。そして、現象によって人間の世界は組み立てられる。

 では、この現象というものを人間の感性は何を基準にして受け取るのか。その受け取り方をきめるものは何か。それが空間と時間だとカントはいうのである。 そして、人間が情報を受け取るために必要なものは、この二つだけで、この二つのものを人間は生まれながらにして持っているという。

 逆に言えば、空間と時間はどこか別の所にあるものではなく、人間自身の中にあるものなのである。だから、例えば時計は時間を視覚化したものにすぎず、時計が時を作っているわけではない。

 普通なら、時間とか空間とかいうものは、人間の外に人間とは独立してあるものだと考えるものだろう。しかし、そうではなくて時間と空間の原因は人間の側にある
というのがカントの新しさである。

 そして、これがカントが自ら名付けた有名なコペルニクス的転回である。

 「コペルニクスは、天体の運行を説明するのに、天体が観察者の周りを回っていると考えるとうまく行かないので、天体は動かないものと考えて観察者にその周りを回らせたらうまく行かないか試した」(第二版への序文より)

 そして、「もし我々の直観が対象の特性に一致せねばならないとすると、どうすれば経験によらずに対象について何かを知ることができるか、私には分からな い。しかし、もし(感覚の対象としての)対象の方が我々の直観能力の特性に一致せねばならないとするなら、経験によらずに対象を認識できるかもしれないと わたしは思う」(同上)

 対象の本当の姿を知りたければ、対象に直接出会うこと以外には対象を本当に知る方法はない。それには、どうしても経験が必要になる。しかし、自分が知り たいように知るだけなら、つまり、基準が最初から人間の側にあるなら、直接対象に出会う必要はなく、経験に頼る必要もなくなる。

 その基準が数学の場合は空間と時間だというのである。そして、このように自分の側に基準を置いて知ったものは、どこまでも自分が見たいように見て、知りたいように知ったことに過ぎないのだ。

 言い方を変えれば、人間が見ているものは、見たいように見ているだけのもので、単なる一つの現われ、すなわち現象にすぎない。対象の本当の姿つまり「物それ自体」は人間には見えないし、知ることは出来ないのである。

 実際、空間と時間についての我々の日常的な考え方は、ユークリッド幾何学を含めて、地球や宇宙の規模になると途端に当てはまらなくなってしまう。これは誰でも知っていることである。

 しかし、「神」という概念とこの「現象」という概念ほど激しく矛盾するものはない。何と言っても「神」はすべての原因でなければならない。ところが「現 象」の原因は人間にあるのだ。もし、「神」が人間の知ることが出来る「現象」なら、それはもはや「神」ではなくなってしまうだろう。

 ごく簡単に言えば、こうしてカントは、「神のことは考えることはできても知ることはできない」と結論づけた。そこから彼は「神の存在を否定した哲学者」として、一般に知られるようになったのである。

 そして、神の存在を合理的に証明することは出来ない
ということを示したこの本は、子供の頃から神の存在に疑いを抱いていた上記のモームにとっては大きな救いとなったというわけである。

 この本が一読に値する本であることに間違いはない。

 しかし、この本が読みにくい本であることは間違いない。カントは自分でも認めているようにかなりの悪文家である。同じことをくどくどと何度も何度も繰り 返して述べ立てる。こう言えばどうだ、ああ言えばどうだ、これでもか、これならどうだ、これでも分からないのか、もう分かるだろうといった調子である。そ うやっているうちに自分で何を言っているか分からなくなってしまっている所もあるという人もいるくらいである。

 カントは哲学者だから、さぞ用語の選択にも厳密だろうと思うかもしれないが、そうではない(注)。言葉足らずの表現もたくさんあって、読者の方で文脈か ら内容を忖度(そんたく)して読んでやる必要がある。だから、これを直訳などしたら訳の分からないものになることは必定だ。

(注)例えば、Grundsatz と Prinzipは厳密に区別されていないようである。それは、「感性論」で空間の原理にはPrinzip、時間の原理にはGrundsatzが使われていることから も分 かる。これを従来のように区別して訳すと、空間については原理だけが、時間については原則だけが語られていることになってしまう。なお参考のために、原理 あるいは原則と訳した個所には、もとのドイツ語を()内に入れて示した。従来道理に訳した方が意味が通り易いかどうか、確認されたい。

 カントは一度書いた文章を何度も書き直すのだが、分かりやすくするために挿入したところが、前後の文章とぴったり適合していなくて、よけいに分かりにくくなっているところもある。だから、コンマでつないだ長い文章は、挿入部分を無視して読む方が分かりやすかったりする。

 第一版では「総合(Synthesis)」といっていたくせに、第二版で 書き換えた部分ではそれを「結合(Verbindung)」と言ったりもしている。こういうのはしょっちゅうで慣れるしかない。ところが硬い翻訳書になる と、いやそれはカントが意図してやったことに違いないと、別々の物を指してるかのように訳してしまう。だから、よけいに意味が分からなくなる。

 同じ名詞に、中性形と女性形のものがあるのはドイツ語ではよくあるが、それを区別なく使ったりもする。また、ある名詞を中性形で使っておいて、それを女性形の代名詞で受けたりもする。

 同じ事を同じ言葉で何度も表現しないという古代から続く美文の原則はカントにもあてはまるのである。


 それでも、日本語で読みたい人は、河出書房新社から出ている高峯一愚の訳を試すとよい。これはかなり普通の日本語になっている。関係代名詞の処理もス ムーズに行っている。その次によいのが、天野貞祐の訳であろう。しかし、いずれも絶版になっているから図書館で借りるか古本屋で探すしかない。

 いっぽう、岩波書店の新しい「カント全集」の中の「純粋理性批判」の訳は、原文のわかりにくさ曖昧さをそのまま日本語に反映した訳となっている。この本は、本文の校訂と注釈が詳しい。その面での利用に限るのが賢明だろう。

 ところで、この本の中には純粋であるとか先天的であるとかいう言葉がしきりに繰り返して登場する。これは原文では、ラテン語でa priori(アプリオリ)と言い表されている。しかしこれは、先天的な才能などという言い方にでてくるのとは違って、「経験に依らずに」と言う意味で、極めて科学的な意味を持っている。

 経験に依らないと言うことは、現代科学においても重要な考え方である。何かの研究をコンピュータを使って「経験に依らずに」数学的に行うというようなことは、日常茶飯事である。

 この考え方を、哲学の分野に持ち込んだという意味で『純粋理性批判』は画期的な書物なのである。

注: この本の中に頻繁に登場する「Vorstellung(表象)」 「vorstellen(表象する)」という言葉は、心の中に思い描くことである。ただし、「表象」という言葉は一般には使われない意味不明の言葉なの で、わたしの訳の中では、「心の中にとらえる」「心の中にとらえたもの」という感じで訳されている。”


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『純粋理性批判』

カント「純粋理性批判」第二版のまえがき
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/pure-critique-preface2.html
“ 「空間と時間は感性による直観の形式にすぎない。つまり、空間と時間は対象となるものが現象として存在するための条件にすぎない。さらに、我々が持って いる様々なカテゴリー、つまり対象の認識に必要な要素には、必ずそれらに対応する直観が存在する。したがって、我々は何であれ『感性による直観の対象』つ まり『現象』として認識できるだけであって、対象を物それ自体として認識することはできない」これらは全て「批判」の「分析論」の部分で証明されている。

 したがって、理論理性によって認識できるのは経験の対象だけに限られているということになる。しかし、ここで忘れてはならないのは、我々は対象を物それ 自体として認識できないけれども、物それ自体としての対象を考えることはできるということである(原注)。さもなければ、「現象として現れる本体となるも のが無いのに現象が存在する」という不合理なことになってしまうだろう。
原注 対象を認識するには、対象が存在する可能性を証明できなければならない。それが現実に存在することを経験するか、経験によらずに理性の力で証明するかのいずれかが必要である。

 それに対して、我々は自分が自己矛盾に陥らない限り、つまり、その概念を心の中に描けさえすれば、自分の好きなものの存在を考えることは出来る。自分が考えたものに対応するものが現実に存在するかどうかは、その可能性さえも一切気にする必要はない。

 しかし、もしその概念に客観的な有効性を与えたければ、我々が自己矛盾に陥らないというだけでは足りない。それだけでは、論理的可能性は得られても、現 実的な可能性は得られないからである。しかしながら、これを補うものは、理論的な認識の源泉に求める必要はない。それは実践的な認識の源泉に求めることも できるからである。
(…)
さて、わたしは自分の精神を物それ自体の観点から見た場合には、経験を通じた観察によってであろうと理論理性によってであろうと、それを認識できない。 したがって、わたしは、経験の世界の出来事の究極の原因と見なされるような絶対的存在の特性としての自由を認識することはできない。なぜなら、そもそも時 間の制約のもとになく独立して存在するそのような存在をわたしは認識できないからである。というのは、そのようなものを認識するにも、そのようなものは直 観できないために概念として把握できないからである。

 しかしながら、わたしは自由を考えることはできる。つまり、自由を思い浮かべることはそれ自体何の矛盾も含んでいない
のである。ただしそのためには、我 々が「批判」で述べる二つの把握方法、つまり感性による把握(現象の把握)と知性による把握(物それ自体の把握)をしっかり区別して、純粋なカテゴリーも そこから導かれる諸々の原則(Grundsätze)も感性の対象にしか適用できないことを忘れてはならない。

 ところで、道徳は、我々の意志の特徴として、(厳密な意味での)意志の自由の存在を前提としていると仮定してみよう、つまり、自由を前提としなければ不 可能であるような実践的な原則(Grundsätze)が先天的に理性の中に存在すると仮定するのである。しかし、それなのに、もし自由を考えることはで きないと理論理性によってすでに証明されているとするなら矛盾が発生する。つまり、この仮定はくずれて、道徳は自由意志を前提にできなくなる。

 すると、自由と、それと同時に 道徳(自由の前提条件がくずれた以上、道徳を否定しても矛盾には陥らないから)は、因果の連鎖という自然のメカニズムの支配を認めて退場することになるだろう。

 しかし、実際には、道徳が成立するためには、自由は認識される必要はない。自由が自己矛盾に陥ることなく、思考の対象となりうるだけでよいのである。自由意志に基ずく行為は、別の観点から見ると因果の連鎖という自然のメカニズムに従うだけのことである。

 こうして、道徳の教えと自然に関する学問は両立するのである。ただしそのためには、物それ自体を我々は知ることはできないということ、我々が理論的に知ることができるのは物の現象だけであるということを「批判」を通じて学んでおく必要がある。

 純粋理性に対する「批判」の原則(Grundsätze)が積極的な価値を持つことをここまで説明してきたが、それは霊魂の単一性の議論や神の概念についても当てはまる。ここではそれらについての議論はスペースの都合で省略する。

 要するに、わたしが純粋理性を実践的に使用するために「神」と「意志の自由」と「霊魂の不滅」を想定できるのは、理論理性から分不相応な認識能力を取り去った場合だけなのである。

 なぜなら、理論理性が経験を越えたものを認識するには、実際には経験の対象にしか適用できない原則(Grundsätze)を使わざるを得ないが、この 原則はもし経験の対象となり得ないものに適用されると、それを経験の対象つまり現象(超常現象)に変えてしまうのが常だからである。そして、純粋理性を実 践的に使用することを不可能にしてしまうのである。

 そこで、わたしは信仰の余地を残すためには認識を否定しなければならなかった。実際には、純粋理性の限界を見極めることなしに形而上学を研究することが 可能だという独断的(独善的)傾向こそが、道徳を否定する一切の不信仰の真の原因である。そして、この不信仰は常に非常に独断的(独善的)なものである。
(…)
わたしは頑固な独断論者たちに一度聞いてみたいと思っている。霊魂は死後も存在し続けることを霊魂の単一性から証明したと言い、自然のメカニズムに対す る意志の自由の可能性を、主観的必然と客観的実際的必然という無意味でややこしい区別を設ければ証明できると言い、神の存在は最も実在的なものの概念(変 化するものは偶然存在するものであるが、動きの始まりをなすものは必然の存在であるという考え方)から推測できると言われているが、そのような主張が学者 たちのもとを離れて、大衆の心に到達して、少しでも彼らの考えに影響したことがあるだろうかと。

 そのようなことは一度も起こったことはないし、起こるはずがないのである。なぜなら、彼らの主張は大衆が理解するにはあまりにもややこしすぎるからである。


 例えば、一番目について言うなら、限りある人生に満足できない(例えば自分の全才能を開花するには人生は短すぎる)という誰にでも共通して見られる自然な傾向のために、人々はあの世を思い描くのであり、

 二番目について言うなら、自分の好き嫌いを抑えて実行しなければならない義務があるということを明確に意識するとき、人々は自由というものを意識するようになるのであり、

 三番目について言うなら、自然の至るところに現れているすばらしい美と摂理を見るとき、人々はこの世界の偉大な創始者の存在を信じるようになるのである。
 このように合理的な考え方に基ずくものだけが、大衆のあいだに影響力を持つのであって、このような考え方はこれからも決して失われることはないし、それどころか、ますます大きな信頼を得ることだろう。

 なぜなら、これからの学者は、人類全体に関わる問題に関して、もはや大衆(最も尊重すべき存在である)が容易に到達できるレベルよりも高尚でややこしい 議論で相手を煙に巻くべきではなく、誰にでも理解し安く、道徳的な観点から見てもふさわしい根拠を研究すべきであることを、この「批判」を通じて学ぶから
である。

 つまり、純粋理性の領域の変化によって影響をこうむるのは、人類全体に関わる真理を自分たちだけが発見して管理していると思い上がっている学者たちだけ なのである。彼らは、大衆にはそれを使うことを許しても、肝腎のことは誰にも理解できないようにしているが、実のところは「自分たちも分からないものを自 分だけが知っているような顔をしている(ホラティウス『書簡詩』2.1.87)」だけなのだ。




カント『純粋理性批判』序論
(第二版)
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/pure-critique-introduction.html
判断だけでなく、概念そのものの中にも先天的な起源を持つものがあることは示しておこう。たとえば、諸君が経験を通じてもっている「物体」の概 念から、色や硬さや柔らかさ、重み、不可侵性など、あらゆる経験的な要素を一つ一つ取り除いてみたまえ。しかし、物体が占めていた「空間」は物体そのもの が消え去ったあとでも残る。諸君はそれを取り除くことはできないのである。

 このように、形のあるなしにかかわらず、諸君が何かの対象について経験を通じて持っている概念から、経験によって学んだあらゆる性質を取り除いても、 (実体の概念の方が一般的な対象の概念よりも多くの性質を含んでいるにもかかわらず)諸君がその対象を実体であると見なせるような性質、あるいはその対象 がなんらかの実体に属していると考えさせるような性質を取り除くことはできない。
(…)
数学は、我々が経験から離れて先天的な認識の世界でどれほどうまくやれるかを示す輝かしい先例である。数学は直観でとらえられる限りはどんな対象でもど んな知識でも相手にすることができる。ところが、「直観でとらえられる限り」という条件を我々は忘れがちである。なぜなら、数学における直観は経験によら なくても与えられることから、直観が単なる純粋な概念と混同されてしまい、概念だけが扱われているように思われるからである。

 こうして数学によって理性の力の大きさが証明されてしまうと、認識の拡大への欲求はとどまるところを知らない。まるで軽やかな鳩が空気の中を抵抗なく自由に飛び回れるようになると、真空の中ならもっと楽に飛べるのではと想像するようなものである。

 このようにして、プラトンは、知性の活動範囲を制限している感覚の世界を捨てて、理念(イデア)の翼に乗って、純粋な知性という真空の中に飛び出して いったのである。彼には、自分の拠り所とし、自分の支えとし、知性を働かせるための足場とすべきものがなかったから、いくらがんばっても前へ進むことはで きなかった。しかし、自分ではそれには気づかなかったのである。“


『純粋理性批判』 感性論
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/transcendential-element.html
“人がものを知るやり方は判断や推理などいろいろあるが、直接的にものを知るときには直観を使う。ものを考えるときは人はいつも直観に頼るものだ。しか し、直観するためにはその前にその対象を手に入れなければいけない。しかし、神様でもない限り、人が対象を手に入れるには、対象のほうが人の心を触発しな いといけない。

 この対象の触発に応じて、そのイメージを受け取る能力を感性という。つまり、感性によって人は対象を手に入れるのである。ということは、感性のおかげで人は物を直観できるということになる。

 いっぽう、手に入れた対象について考えるのは知性の仕事である。知性が理解するのである。しかし、物を考えるということは、直接にしろ、あるいは何かの 目印を介して間接的にしろ、結局は直観、そして人間の場合は感性のお世話になるしかない。ほかの手段では対象は手に入らないからである。

 そして、その対象が外から感性を触発した結果が感覚である。直観のうちでこの感覚を通して対象とつながっているものを、経験による直観という。この経験による直観の対象で、まだわけの分からないものを現象という。

 しかし、現象を分析してみると、その中には感覚だけでは説明できない要素も含まれている。だから、現象のうちで感覚とつながりがあるものを、わたしは現象の素材と呼び、この乱雑ににあらわれる現象に整理をつけるものを現象の形式と呼ぶことにする。

 様々に受け取った感覚に何らかの形式を与えて整理をつけるものは、感覚自身ではあり得ない。だから、現象の素材は経験によってしか与えられないのに対し て、現象の形式は心の中にその全部が先天的に用意されていないといけない。だから、現象の形式は感覚とは区別して考えることができる。

 わたしは、あらゆる概念のうちで感覚とは関係のないものを(超越的な意味で)「純粋な何々」と呼ぶことにする。すると、感性による直観の純粋な形式が、 さまざまな現象に整理をつけるものとして、先天的に心の中に見いだされることになるだろう。この感性の純粋な形式はまた純粋な直観と呼ばれることもある。

 例えば、物体の概念から、それについて知性が考えること、物質とか、引力とか、分割可能とか、そういうものを取り除いてみよう。次に、感覚で捕らえられ るようなこと、中身が詰まっているとか、表面が硬いとか、何かの色をしているとか、そういうものを取り除いてみよう。こういった経験によって直観的に知る ことのできる要素を取り去っても、なおも残るものがある。それは、物体の持っている大きさと形である。これが純粋な直観なのである。この純粋な直観が働く には、感覚の対象が外部に現実に存在する必要はない。純粋な直観は感性の形式として心の中に先天的に存在するものである。
(…)
人の心には外向きと内向きの二つの感覚があって、我々は外向きの感覚によって対象を外側の空間の中に把握する。対象の形や大きさ、対象の相互の関係は空間の中で決定されるのである。

 それに対して、内向きの感覚は、心が自分自身の存在と内面の状態を直観するものである。この感覚は確かに魂それ自体を一個の対象として直観できないが、 この感覚は一種の形式であって、これによって人は内面の状態を直観することができる。その結果、心の内側で決定されることはすべて時間との関係で把握され る。

 我々は時間を自分の外側にあるものとして直観することはできない。同様に、空間を我々の内側にあるものとして直観することはできない。

 では、空間と時間とは一体なんだろう。それは現実に存在するものだろうか。それとも、単に物が存在するための条件、つまり物と物との関係を意味するだけのもので、物それ自体が直観されることはないが、物それ自体に属しているものだろうか。

 それとも、空間と時間は単なる直観の形式にすぎないのだろうか。つまり、それらは我々の心の主観的な特性にすぎず、我々の心がなくなればそれらによっては何も決定できなくなるようなものだろうか。

 このような問いに答えるために、まず最初に、空間の概念についてよく考えてみよう(expositio)。よく考えると言っても、空間概念をはっきりさ せておこうというだけで、網羅的に説明しようというわけではない。また、「形而上学的に」と言うのは、空間概念を経験によらずに与えられた概念としてに考 えていくという意味である。

(1) 空間とは、経験によって外部から得た概念ではない。なぜなら、空間というものがまずないことには、感覚でとらえたものを自分の外にある何かのも の、つまり、自分がいる場所とはちがう場所にある何かのものと関連づけたり、この感じたものがバラバラであるとかいっしょにあるとか、別々の場所の別々の ものとしてとらえることができないからである。

 したがって、空間というものは、経験を通じて外部の現象同士の関係から借りてくることはできない。それどころか、この外部の経験は空間というものが先にあって始めて可能になるのである。

(2) 空間とは、経験によらないものであって、外部の物を直観するためには欠かせないものである。我々は空間が存在しない状態を想像することはできな い。ただ、空間の中に物が何もない状態を考えることはできる。そうすると、空間とは、様々な現象に依存したものではなく、様々な現象が存在するための条件 ということになる。つまり、空間とは経験によらないものであって、外部の現象にとって無くてはならないものなのである。

(3) 空間とは、物と物との関係を理解して手に入れるいわゆる一般的な概念ではない。空間とは純粋な直観である。なぜなら、第一に、我々はただ一つの空 間しか思い浮かべることができないし、複数の空間について言及するときも、それは一つの空間の部分について言っているだけだからである。

 第二に、この部分的な空間も、全てを包み込む一つの空間に先立って存在するものではなく、また、部分的な空間が寄り集まって全体の空間ができているのでもない。その逆に、部分的な空間は全体の空間の中にあるものと考えられる。

 空間とは、本質的に一個のものなのである。その中にある複数の空間も、複数の空間についての一般的な概念も、全体の空間をいわば柵で区切っただけのもの なのである。ということは、空間に関するあらゆる概念は、経験によらない一つの先天的な直観に基づいているということになる。

 したがって、あらゆる幾何の定理、例えば、三角形の二辺の和は他の一辺より長いという幾何の定理は、直線とか三角とかいう一般的な概念から導き出すことはできない。それは、経験によらない直観によって導き出すしかなく、その結果に疑いをはさむ余地は全くないのである。

(4) 空間は無限の大きさがあると考えられる。ところで、一般に概念というものを考えてみると、それは無限に存在する多様なものの共通の特徴としてそれらに含まれているとともに、その無限のものを自分自身の下に含んでいる。しかし、自分自身の中に無 限のものを含んでいるような概念を考えることは出来ない。ところが、空間とはまさにそのようなものだと考えられる。空間をどれほど小さく分割していって も、分割されたものは必ずその内側に存在するからである。したがって、空間はもともと概念ではなく、経験によらない直観だということになる
(…)
(1) 時間は、経験から引き出される概念ではない。なぜなら、物が同時に起こるとか続いて起こるとかいうことを理解するためには、その前に時間の概念が 経験に先立って我々の心の中になければならないからである。時間というものがまずあると考えてはじめて、我々はいくつかのものが同時に現れたとか、時間を 変えて現れたとか言うことができる。

(2) 時間は必然的なものであって、あらゆる直観の基礎となるものである。我々は現象抜きに時間だけを考えることはできても、どのような現象も時間抜きに考えることはできない。したがって、時間は経験に先立って我々の心に備わっているものである。

 どのような現象も時間の中でのみ実在性を持つことができる。現象は消えて無くなることはあるが、時間が消えて無くなることはない。現象が現れるためには時間は無くてはならないものである。

(3) このように時間が経験に先立つ必然的なものであることに基づいて、時間に関する公理も自明の原理(Grundsätze)も成り立っている。例え ば、時間には一つの次元しかないという原理がそうである。つまり、別々の時間は同時にではなく相前後して存在している(それに対して、別々の空間は時間的 に相前後してではなく同時に存在している) というこの原理(Grundsätze)は、決して経験から引き出すことはできない。

 なぜなら、経験は厳密な普遍性も例外のない確実さも与えることがないからである。普通の経験からはことの真否を知ることはできても、ことの必然を知るこ とはできない。だから、時間に関するこのような原理(Grundsätze)は我々にとってはいわば規則(Regeln)のようなもので、この規則のもと で我々は様々な経験をすることができる。だから、我々は何かを経験する前にこの規則を学ぶのであって、経験を通じてこの規則を学ぶのではない。

(4) 時間とは人が理解して手に入れる一般的概念ではなく、感性による直観の純粋な形式である。様々な時間はたった一つの時間の部分でしかない。そして、たった一つの対象を通じて得ることのできるものは概念ではなく直観である。

 また「別々の時間は同時に存在することはできない」という命題は、一般的な概念から引き出すことはできない。これは総合的な命題であって、概念だけから生まれるものではない。それは時間の直観によって直接手に入れるものである。

(5) 時間が無限であるということは、言い換えれば、我々にとって意味のある長さの時間は、根底に存在する一つの時間を区切ることによってのみ可能になるということである。したがって、元々の時間は区切られていないものでなければならない。

 しかし、ある対象の個々の部分はその全体を区切ることによってしかとらえることができないということは、その対象の全体像は概念によって表されることはなく(なぜなら概念は部分を表すだけだから)直接的な直観に基づかねばならない。
§5
時間概念を超越的な観点から考える

 ここでは、変化の概念と(位置の変化から生まれる)運動の概念も時間というものがあってはじめて可能であることを付け加えることができる。そして、もし この時間というものが先天的な直観(この場合は内向き)でない場合には、どのような概念によっても変化の可能性を理解することは不可能である。

 なぜなら、変化するということは、例えば、同じものがある場所に存在していて次に同じ場所にはもう存在していないということで、同じ対象について矛盾す る正反対の記述を組み合わせることだからである。同じものに対して、二つの矛盾する正反対の記述が相前後して現れるということは時間の中でだけ可能であ る。

 こうして、広い意味での力学──これは我々にとって大きな収穫である──が教える経験によらない多くの総合的な認識は、我々の時間概念によってはじめて可能となるのである。
§6
これまで分かったことから導かれる結論

(a) 時間は単独に存在するものではないし、物の客観的な性質として物に属しているものでもない。したがって、物に対する直観から主観的条件を取り除くなら、時間は消えてしまう。

 もし時間が単独で存在するものなら、時間は現実に対象物がなくても現実に存在するものになってしまう。また、もし時間が物に属している性質であり順序で あるなら、対象となるものの条件として対象より先行するものではあり得ず、総合的な命題を通じて経験によらずに時間を認識したり直観したりすることはでき なくなる。

 その反対に、時間が総合的命題を通じて経験によらずに直観できるのは、時間が主観的な条件にほかならず、我々のあらゆる直観がこの条件のもとで可能とな る場合である。なぜなら、その場合、この内向きの直観の形式(時間)は対象が存在する前に経験によらずに存在すると思われるからである。

(b) 時間とは内向きの感覚の形式である。つまり、時間とは自分自身と自分の内面に対する直観の形式である。というのは、時間は外側の現象の性質とはな り得ないからである。つまり、時間は物の形とか位置とかには関係がない。むしろ、時間は我々が心の内側でとらえた物同士の関係を決めるのである。

 この内向きの直観は形がないために、我々はこの欠点を補うために時間を線にたとえようとする。つまり、時間の経過を永遠に続く一本の線と考えるのであ る。そして、その線の上に様々な物が一列に並ぶ。したがって時間は一次元だということになる。我々は時間のあらゆる特徴を直線の特徴から類推して考える。 ただ一つその例外は、直線の各部分は同時に存在するのに対して、時間の各部分は同時ではなく相前後していることである。

 時間が直線との類似でとらえられるということは、時間の各部分の関係は外向きの直観(つまり空間)を使って表現されるということである。ここからも、時間とはそれ自身が直観であることが分かる。

(c) 時間は全ての現象の形式であり、あらゆる現象の先天的な条件である。空間は全ての外向きの直観の純粋な形式であって、外側の現象だけの先天的な条件である。

 それに対して、我々が受け取るイメージは、それが外側のものを対象にしようと内側のものを対象にしようと、それ自体としてはそれらは我々の心の 中を明らかにするものだから、我々の心の中の状態と結び付いている。しかし、この心の中の状態は内向きの直観の形式という条件の下にある。ということはつ まり、それは時間と結び付いている。したがって、時間はあらゆる現象の先天的な条件だということになる。だから、時間は心の中に現れるあらゆる現象の直接 の条件であるとともに、外側に現れる現象の間接的な条件だと言える。

 もしもわたしが、「外側の全ての現象は空間の中にあり、空間との関係にしたがって経験によらずに把握できる」と、経験によらずに言うことができるのな ら、わたしはこれまで明らかになった内向きの感覚の本質から、「全ての現象、すなわち感覚の全ての対象は時間の中にあり、必然的に時間との関係の中にあ る」と完全に普遍的に言うことができる。

 ものを思い描く我々の能力の中の外向きの直観は、内向きに自己を直観するやり方を使って行われるが、もしこのやり方を捨てて、対象をそれ自体としてとらえるなら、時間は無くなってしまうだろう。

 時間は現象に関してだけ客観的な有効性を持つ。なぜなら、現象とはすでに我々が感覚の対象としてとらえているものだからである。だから、もし我々が我々 に特有の認識形態である直観という感性の要素を放棄して、物それ自体について語り始めるやいなや、時間はもはや客観的なものではなくなってしまう。

 したがって、時間とは我々(人間の側)の直観の主観的な条件であって(だから直観は常に感性によって機能する、つまり対象に触発されたときだけ機能する)、主観の外側で単独に存在するものではない。

 時間はこのように主観的なものであるが、それにもかかわらず、全ての現象に関する限り、つまり我々が経験する対象に関する限り、時間は必然的に客観的なものである。


 我々は全てのものが時間の中に存在すると言うことはできない。なぜなら、このように物それ自体について理解しようとするとき、我々は物に対するあらゆる直観を放棄しているからである。ところが、直観こそは時間が対象と関わりを持つための本質的な条件なのである。

 だからもし、物についての理解にこの条件を付け加えて、全てのものは現象として(すなわち感性による直観の対象として)時間の中に存在すると言うならば、この基本命題はまさしく客観的な有効性および経験によらない普遍性を持っている。

 したがって、我々が言おうとしていることは、時間は経験の世界で実在性を持つということである。つまり、時間は我々の感覚に与えられる全ての対象に関し て客観的な有効性を持っているのである。そして我々の直観はつねに感性によるものであるから、時間という条件に合わないような対象は決して経験することは できない。

   逆に、時間は決して絶対的な実在性を持ってはいないと我々は主張する。もしそんな実在性があるなら、時間は、我々の感性による直観の形式とは無関係に、絶対的に物の存在条件や性質になってしまうだろう。

 このような特性は物それ自体に属するものであって、我々の感覚によっては決してとらえることはできない。そして、これこそが超越的な観点から見た時間の観念性である。つまり、我々が感性による直観という主観的な条件を放棄すれば、時間は無に帰するのである。

 そして、時間は直接(我々の直観とは無関係に)対象の実質や属性となることはできない。しかしながら、時間のこの観念性と空間の観念性を、感覚からの類 推によって説明する過ちを犯してはならない。そういうことをする人たちは、感覚によってとらえられる現象には対象についての実在性があると当然のことのよ うに考えているからである。

 しかし、時間の場合には、そのような対象についての実在性は存在しない。もしあるとすれば、それは対象が単なる現象と見なされる場合だけであり、結局そ の実在性は経験的なものでしかないということになる。この点については、読者は前節(空間について)の最後に(バラについて)述べたことを参照されたい。
§7
解説

 時間は経験の世界では実在性を持つが、絶対的な実在性や超越的な観点から見た実在性は持たないとするわたしの説に対して、学者たちからいっせいに反論が 上がっていると聞いた。だから、このような考え方に不慣れな一般の読者が同様の反論を抱くことは充分考えられる。この反論とは、次のようなものである。

 変化というものは現実的なものである。たとえ我々の外側の現象とその変化を否定しても、我々自身が変化することからこれは明白である。ところで変化は時間の中でのみ起こることができる。したがって、時間もまた現実的なものである。

 この反論に答えるのは難しいことではない。この議論自体は何も間違ってはいない。確かに時間は現実的なものである。つまり、時間は内向きの直観の現実的 な形式である。確かに、わたしは現実に時間を思い描くことが出来るし、自分が時間のなかで規定された存在であることを理解している。ということは、時間は 内面的な経験に関して主観的な実在性をもっているということである。だから、時間は対象として現実的なものではなく、わたし自身という対象を把握する方法 として、現実的なのである。

 もし感性のこの前提条件なしにわたしが自分自身を直観したり、他の存在がわたしを直観したりできるなら、いま我々が自分自身の変化と考えている特徴を見ても、決してそこに時間やそれにともなう変化が認識されることはないだろう。

 このように、時間に対して認められるのは、経験の世界における実在性だけなのである。しかも、時間は我々のあらゆる経験の条件でしかない。しかし、これ まで述べたように、時間には絶対的な実在性はない。時間とは我々の内向きの直観の形式以外の何ものでもないのである(原注)。

 だから、もし時間から感性という特殊な条件を取り去るなら、時間の概念もまた消え去るのである。時間は対象そのものの中にあるものではなく、それを直観する我々の主観の中にあるものにすぎないのである。
原注 「わたしは時間の中に存在し続けていると思う」と言うことはできる。しかし、それは、わたしが自分自身を時間の連続の中にあるものとして、つまり、 自分自身を内向きの感覚の形式に合致するものとして意識しているということに過ぎないのである。したがって、時間とはそれ自体で存在する何かではないし、 物の中にある客観的な性質でもない。

 ところで、中でも空間の観念性に対する明確な反論さえ出せない人たちからこのような反論がいっせいにわき上がったのは、次のような理由からである。

 彼らも、空間の絶対的な実在性を明確に証明できるとは思っていない。なぜなら、彼らの頭には観念論があって、内向きの感覚がとらえる対象(自分自身と自 分の状態)の実在性は我々の意識によって明白だが、外側の対象の実在性は厳密には証明できないと考えているからである。彼らは、内側の対象は明確に現実的 だと思っていても、外側の対象は幻に過ぎないかもしれないと思っているのである。

 ところが、人間がとらえる空間も時間もその実在性は否定されないにも関わらず、空間と時間が単なる現象でしかない、とは彼らには思いもよらないことだっ た。しかも、この現象については常に二つの面があって、一方では、対象が直接観察される(=直観)が(ここではそれをどのようにして直観するかは問わな い。そのために、それがどんなものであるかは不明である)、他方では、この対象に対する直観の形式が問題となる。この直観の形式は、この対象の現れに現実 的かつ必然的に合致するものではあるが、対象自身の中にではなく、現象をとらえる人間の主観の中に求められなければならない。

 以上のようなわけで、空間と時間は、経験によらずに様々な総合的認識を引き出す、認識の二つの源なのである。純粋数学、特に空間に関する知識は、この輝 かしい実例である。空間と時間の二つは両者あわせて、感性によるあらゆる直観の純粋な形式であり、経験によらない総合的な定理を可能にするものである。

 しかし、この経験によらない認識の源泉つまり空間と時間は、単に我々の感性が働くための条件に過ぎないものであり、まさにこの事実によって制限されてい る。なぜなら、空間と時間は、現象として観察されない対象には適用できず、物をそれ自体として示すことができないからである。空間と時間が有効なのはこの 範囲だけである。もし我々がこの範囲を逸脱したりすれば、もはや時間も空間も客観的に利用することは出来なくなるだろう。

 しかしながら、空間と時間の実在性をこのようなものであるからといっても、それによって経験に基づく認識の正確さはいささかも損なわれることはない。経 験に基づく認識の正確さに対する確信は、この二つの形式が物それ自体に関わるものであろうと、それらの物に対する我々の直観に必然的に関わるものあろうと 揺らぐことはないのである。

 一方、空間と時間に絶対的な実在性があると主張する人たちは、それらを独立したものと見るか、物に属するものと見るかの違いはあるが、我々の一般的な経験の原則(Prinzipien)と矛盾せざるを得ない。

 なぜなら、もし第一の立場(これは主に自然を数学的に研究する人たちの意見である)に従うなら、空間と時間という二つの永遠で果てしなく、しかも独立し ていながら、現実には何もないのに、現実に存在するあらゆるものを内に含むためだけに存在する、そんな不合理なものがあると認めなければならなくなる。

 もし第二の立場(自然を形而上的に研究する一部の人たちの意見である)に立って、空間と時間とは現象相互の関係(空間の場合は並存であり、時間の場合は 継起である)であって、経験から引き出され、それ自体としては混乱したものであると考えるならば、彼らは、先天的な数学上の定理が現実のもの(例えば空 間)に実際にあてはまることを否定しなければならなくなる。あるいは少なくとも、それらの定理が例外なく正確なものだということを否定せざるを得ないだろ う。

 なぜなら、このような正確さは決して経験から後天的に得られるものではないからである。実際、このような見方によれば、空間と時間という先天的な概念 は、想像の産物でしかない。しかし、想像といっても現実にはその材料は経験に求めるしかない。しかも、経験から引き出された現象の相互関係から想像力が作 り出すものは、この関係の一般的な要素を含みはするが、想像力は元々この関係が持っている経験という制約を離れては存在できないものである。

 第一の立場に立つ学者たちは、次の点で有利な立場にある。彼らの理論では現象の領域で数学の定理が生まれる可能性があるからである。しかし、彼らがこの領域を越えて認識の幅を広げようとするときには、この空間と時間が制約となって彼らの前に立ちはだかる。

 この点では、第二の立場が有利である。この立場に立てば、対象を現象としてではなく単に知性によって判断しようとするので、空間も時間も障害とはならな いのである。しかし、彼らには真の直観、客観的に有効性を持つ先天的直観という手段がないから、経験によらない数学的認識の可能性を説明できないし、経験 から得た命題を数学の知識と厳密に一致させることもできない。

 空間と時間というこの二つの根本的な感性の形式がもつ真の特徴について我々がうち立てた理論に従えば、このような困難に直面する心配はない。

 最後に言っておくべきことは、この「超越的な感性論」が扱う要素は、空間と時間の二つだけで、それ以外にはないということである。このことは、感性に属 する他の概念、例えば空間と時間の両方を合わせた運動の概念さえも、経験の世界に属するものであることから明らかである。

 というのは、運動という以上は、何か動くものが知覚されねばならない。空間それ自体は動くものではないからである。つまり、動くものとは経験を通じて空間の中に見出されるもの、つまり経験的なものでなければならない。

 これと同じ意味で、「超越的な感性論」では変化の概念は先天的要素の中には含まれない。時間それ自体は変化するものではない。時間の中にあるものが変化 するのである。したがって、変化の概念が生まれるためには、まず存在するものが知覚され、次にそれが相前後して明確化される様子が知覚されなければならな い。つまり、それは経験されなければなければならないのである。
§8
超越的な感性論について全体的な注

I まず最初に読者の誤解を防ぐために、できるだけ分かりやすく感性による認識についての我々の考えを説明しようと思う。

 我々が言おうとしたことは、我々の全ての直観は現象に対するものだと言うことである。我々が直観するものは物それ自体としては我々が直観する対象と同じ ではない。我々が直観するものの相互関係も、それ自体としては、我々の前に現象として現れているのと同じではないのである。

 したがって、もし我々の主観がなくなったら、いや単に我々の感覚から主観的な性格がなくなっただけでも、空間と時間の中の対象の性格も対象の相互関係 も、いや空間と時間それ自体も、すべて消えてなくなるのである。それらは現象としては単独で存在することはできない。それらは我々の中だけに存在すること ができる。

 対象は、物それ自体としては、つまり我々の感性が対象に触発される能力を抜きにしては、我々には全く分からないものなのである。我々に分かるのは、我々 に固有の認識方法だけである。この認識方法は、人間なら全員が持っているものであるが、他の全ての存在が持っているとは限らない。

 我々に関係があるのはこの認識方法だけである。空間と時間はこの認識方法の純粋な形式であって、感覚はその素材なのである。

 我々は、先天的につまり実際のあらゆる知覚より前に、前者(形式)だけは認識できる。そのためを我々はこれを純粋直観と呼ぶ。一方、後者(素材)は我々の認識の内で後天的認識あるいは経験による直観と呼ばれるものをもたらすものである。

 前者は、我々が受け取る感覚がどんなものかに関わらず、例外なく我々の感性に依存する。一方、後者は非常に様々なものであり得る。

 たとえ我々の持つこの直観を最高に明晰なものに高めたとしても、我々はそれによって対象それ自体の特性に近づくことはできない。というのは、我々はせい ぜい我々に固有の直観の方法、つまり感性をよく知ることができるだけである。しかも、この感性が空間と時間という我々の主観に根本的に依存している条件の 下にあることに変わりはない。

 我々に与えられるのは現象だけであり、対象が物それ自体として何であるかは、現象に対する最も洗練された認識能力をもってしても、我々は決してそれを知ることはできないのである。

 したがって、「我々の感性がとらえるのは対象となる物の混乱したイメージにすぎないが、そこには物それ自体に属しているものだけが含まれており、我々に ははっきりと見分けることのできない目印や中途半端なイメージで覆われている」という考え方は、感性と現象の概念を歪曲するものである。そのような考え方 は、感性と現象に関するこれまでの研究を無に帰してしまうだろう。

 そもそも、イメージが明瞭であるか明瞭でないかは単に論理的なことでしかなく、その内容とは関係がない。例えば、「正義」に対する常識的な概念の中に は、緻密な思索によってこの概念から引き出されるものはすでに全て含まれている。ただ、日常的な用法にはこの概念に含まれる様々なイメージははっきりと意 識されてはいない。

 しかし、だからといって「正義」についての常識的な概念には、感性がとらえた単なる現象しか含まれていないと言うことはできない。なぜなら、「正義」は 決して現象とはなりえないからである。それは頭の中にある一つの概念であって、人の行動の道徳的な特徴を表している。しかも、この特徴は行動の外見的な現 象ではなく行動それ自体に属している。

 一方、例えば、直観がとらえる「物体」のイメージは、物それ自体に属するようなものは何も含んでいない。それは何かのものの現象であり、同時にそれは、 我々がその何かによって触発されるされ方を表わしている。そして、この我々の認識能力の中の感受性の部分を我々は感性と呼んでいるのである。たとえその現 象が我々にとって完璧に明瞭なものであったとしても、そのようにして得た知識は物それ自体の知識とは全く違うものであることに変わりはない。

 ライプニッツとヴォルフの哲学は、感性と知性の違いは単なる論理的なものとして扱っている。そのために、我々がもっている認識の特性と起源に対する研究に全く間違った方向付けをしてしまった。

 しかし、感性と知性の違いが超越的なものであることは明白である。それは認識が明瞭であるか明瞭でないかという単なる形式的な違いではない。それは、感 性と知性の両者の起源と内容の違いである。したがって、感性は物それ自体の本質を混乱した状態で認識するどころか、全く認識することができないのである。

 もし我々の主観的な特性を放棄すれば、我々はイメージとしてとらえた対象にも、感性による直観がその対象に与えた特性にも、もはやまったく出会うことはできなくなる。なぜなら、我々のこの主観的な特性こそが、現象としての対象の形式を決定するからである。

 そのほかにも、我々はよく現象に区別を設けて、直観の中に元々含まれていて全ての人間に同じように現れる現象(例えば形)と、たまたま直観にとらえられ はするが感性一般に当てはまるものではなく、単に特定の見方や様々な感覚に特有の構造にとってだけ有効な現象(例えば色)は異なるものであると言ったりす る。そして、前者のタイプの認識は物それ自体を表わす認識であるのに対して、後者は単なる現象であると言ったりする。

 しかしながら、この区別は単に経験的な観点から見た区別であるに過ぎない。我々がもし(一般によく見られるように)この経験的な区別の段階にとどまっ て、経験を通じて直観したものを(それにふさわしく)単なる現象(そこからは物それ自体に属するものは何も見いだされない)としてもう一度扱おうとしない かぎり、我々は現象を超越的な観点から区別することは永遠にできないだろう。

 そうなると、我々は感覚の世界ではどれほど深く対象を調べても、現象しか相手にすることがないにも関わらず、物それ自体を認識できると思ってしまうだろう。


 そこで、空間と時間はそれ自体として客観的なものであって、様々な物がそれ自体として存在するための条件であると仮定してみよう。まず、この両者に関し て経験によらずに例外のない必然性をもつ総合的命題がたくさん存在することは明らかである。特に空間についてはそうであろう。したがって、ここでは空間を 例にとって考察を進めよう。

 幾何学の様々な定理は経験によらない総合的命題であって例外のない必然性を備えているから、そこでわたしは諸君に問いたい。「諸君はそのような命題をど のようにして手に入れるのか、つまり、そのような完全な必然性を備え、例外なく有効な真理に到達するには、我々の知性は何を拠り所にしているのか」と。そ れは概念かさもなければ直観以外にはないだろう。

 ところで概念も直観も経験によらないものか経験によるものかの二種類である。しかし、後者、つまり経験による概念にしろそのもとになる経験による直観に しろ、そのような概念も直観も経験によらない総合的な定理を生み出すことはできない。それらが生み出せるのは単なる経験による総合的命題だけである。それ は経験に基づくものであるために、どの幾何学の定理も持っているような必然性も絶対的な普遍性も備えていない。

 したがって、そのような認識に到達するのは、経験によらない概念か直観のいずれかによることになるが、そのどちらをとるべきかは明らかである。なぜなら、概念だけから得られるのは分析的命題であって総合的命題ではないからである。

 例えば「二本の直線は空間を囲むことはできず、それだけでは図形を描くことはできない」という命題を取り上げてみたまえ。そして、直線という概念と数字 の二という概念からこの命題を導けるかどうかやってみればよい。また、例えば「三本の直線があるときはじめて図形を描くことが可能となる」という命題を、 同様にしてそこに含まれる概念だけから導けるかどうかやってみればよい。そのような努力は全て無駄であろう。

 そして、そのためには直観に頼るしかないことが分かるだろう。それは幾何学がいつもしていることなのである。したがって、諸君は直観によって対象を手に 入れるということになる。ではそれはどのような直観であろうか。経験によらない純粋な直観であろうか、それとも、経験による直観であろうか。もし後者であ るとすれば、普遍的な有効性を持つ定理も、例外のない必然性を持つ定理も、決してそこから生まれることはないだろう。なぜなら、経験によってはそのような ものは決して生まれないからである。

 したがって、諸君は経験によらずに直観によって対象を手に入れなければならない。そして、直観に基づいて総合的な命題を引き出さなければならないのである。

 ではもし、この経験によらずに直観する能力が諸君の中になく、また、形式の面から見ればこの主観的条件が、同時にこの(外向きの)直観の対象が存在する ためには欠かせない普遍的で先天的な条件ではなく、さらに、この対象(三角形)が諸君の主観とは別個にそれ自体で存在するものだとすれば、諸君の側で三角 形を形作るために必然的な主観的条件が、三角形本体にとっても必然的に当てはまると、どうして諸君は言えるだろうか。

 というのは、経験によらずに直観する能力がなければ、諸君がすでに持っている三本の線という概念に、図形という新しい概念を付け加えることは出来ないか らである。ところが、この新しい概念は対象(三角形)の中に必然的に(経験によらない直観によって)見出さねばならないものなのである。なぜなら、その対 象(三角形)は諸君の認識以前に(経験する前に)与えられているものであって、諸君の認識によって与えられるものではないからである。

 さらに、空間(時間も同様である)は諸君の直観の単なる形式であり、諸君が経験によらずに外側のものを対象として把握するための唯一の条件であって、こ の主観的な条件を欠いては外側のものは無に帰してしまう。だから、もし空間がそういうものでないとするなら、諸君は外側のものについて経験によらない総合 的認識を得ることは全くできないだろう。

 したがって、空間と時間とは、我々の内外のあらゆる経験の必然的な条件であり、我々の全ての直観の主観的な条件でしかない。そして、これらの条件のもと では、全ての対象は現象でしかなく、諸君の主観とは別個に与えられる物ではない。これらのことは単に可能なことやありそうなことではなく疑いもなく確かな ことなのである。

 またそれゆえに、現象の形式については経験によらずに多くのことを言えるけれども、この現象の下にあるかもしれない「物それ自体」については何も言うことができないのである。

II 内向きと外向きの両方の感覚の観念性、つまり感覚の対象は単なる現象でしかないという意味で観念的なものであるというこの理論の正しさに確証が欲し ければ、次のことに注目すればよい。すなわち、我々の知識の中で直観に属するもの──喜びや苦しみなどの感情や意志などはそもそも知識ではないからここに は含まない──は単なる関係しか含んでいないということである。それは、直観のなかの様々な位置(広がり)であり、位置の間の変化(運動)であり、その変 化を規定する様々な法則(動力)である。

 その位置に現に存在するものは直観できないし、位置の変化以外に物そのものに起こっていることも直観ではとらえられない。つまり、物それ自体は単なる関 係からは知ることはできない。つまり、外向きの感覚は関係以外のものは何も教えないから、この感覚は対象と主観との関係をとらえることができるだけで、対 象それ自体の内側までとらえることはできないと考えるべきである。

 これは内向きの直観についても同様にあてはまる。それは、もともと内向きの感覚の材料を作っているのは外向きの感覚がとらえたものであり、それで我々は 自分の心を満たしているからだけではない。我々はこの外向きの感覚がとらえたものを時間の中に置き、このとらえたものを経験の中で意識するのに時間を前提 とし、このとらえたものを心に抱く方法の形式的条件として時間を基礎としている。そして、まさにその時間の中身は、相前後して存在する関係と、同時に存在 する関係と、相前後しながら同時に存在する(永遠に存在する)関係だけなのである。

 さて、我々が何かを考えるという行為の前に何かをとらえることができるのは直観である。その直観がもし関係しか含んでいないとすれば、それは直観の形式だということになる。

 この形式は心の内側に何も置かれない限りは何も含んでいない。ということは、この形式は、心が内側に何かをとらえる自らの行為によって自分自身が触発さ れるされ方に他ならない。つまり、直観の形式とは心が自分自身によって触発されるされ方であり、形式の面から見れば内向きの感覚である。

 これまでのところでは、感覚によって把握されるものは、すべてが常に単なる現象である。そして、我々が内向きの感覚の存在を認める以上は、内向きの感覚の対象である主観もまた、単なる現象としてこの感覚によって把握されることになる。

 これは、仮に我々の直観が(感覚を介さない)主観による自発的な行為であって知的なものであるとすれば、我々の主観が自分自身について判断するものとは大違いであろう。

 この理論で一番難しいところは、主観はいかにして内向きに自分自身を直観するかということである。しかし、これはどの理論でも簡単ではない。

 自己意識(統覚)は「わたし」という単なるイメージである。そして、様々なものがこの自己意識によって自発的に(感覚を介さないで)主観の中に与えられるのなら、内向きの直観は知的な(知性の働きによる)ものということになるだろう。

 しかし、人間の場合、自己意識が生まれるには、主観の中にあらかじめ与えられている多様なものが心の中で知覚される必要がある。そして、この多様なものが自発的でなく心の中に与えられる方法こそ、知的直観と区別して、感性と呼ばれなければならない。

 もし自己意識の能力とは心の中にあるものを把握することなら、心の中にあるものがこの能力を触発しなければならない。自己意識の能力はそうすることによってのみ自分自身を直観できるだろう。

 しかし、この直観の形式は心の中にあらかじめ存在するものであって、それが、心の中で多様なものが共存する仕方を、時間のイメージによって(相前後や同 時にあると)決定するのである。というのは、心は自分自身を自発的に直接把握するのではなく、心が内側から触発されるのに応じて自分自身を直観するからで ある。したがって、それは、心のありようを表わしているのではなく、心が自分自身にどう見えるかを表わしているのである。

III 我々が空間と時間の中で直観するという場合、それが外側の対象に対する直観であろうと、我々の心による自分自身の直観であろうと、我々は対象が我 々の感覚を触発する仕方で、すなわち、それらが現象として現れる仕方で、把握するのである。しかし、だからといって、これらの対象が単なる幻想にすぎない という意味ではない。

 というのは、人は常に、現象の中に対象もそれに属する特性も現実に存在していると考えるからである。しかし、与えられた対象と我々の主観との間の関係で は、対象の特性は我々の主観によって直観されるその仕方に依存しているため、現象として我々に現れたものと、物それ自体としての対象とは、はっきり区別し なければならない。

 わたしは空間と時間が物体の存在の条件であり、わたしの魂の存在の条件となっていると考えており、空間と時間の性質は対象それ自体ではなく、わたしの直 観の仕方に依存していると考えている。しかし、わたしがこう言ったからといって、物体は単にわたしの外側に存在するように見えるだけであるとか、わたしの 魂はわたしの自意識の中に存在するように思えるだけだと言っているわけではない。

 現象と見なすべきものからわたしがもし単なる幻想を作り出しているのなら、それはわたしが間違っていることになるだろう(原注)。しかし、我々の感性に よる直観は全て観念的なものであるという我々の理論からはそんなことは起こらない。しかし、もし我々が感性による直観の形式には対象についての実在性があ るなどと言い出したら、その時こそ全てが単なる幻想に転じるのを我々は防ぐことができないだろう。

 というのは、もし空間と時間は物それ自体の特性であるに違いないと考え、それ自体にも実体がなく、実体のあるものの中に現実に属するわけでもないこの二 つの無限のものが存在しなければならないだけでなく、これらは全てのものが存在するための条件でもあり、さらには、存在するものを全て取り除いてもそのあ とに存在し続けなければならない、という不合理なことを我々が考えているとするなら、物体を単なる幻想におとしめたあの善良なバークレーを我々は非難でき ないだろう。



 現象とは、対象と密接に結び付いているが、対象それ自体の中ではなく、常に我々の主観との関係の中に見いだすべきものである。したがって、空間と時間のなかでとらえたことを、そのままの形で感覚の対象に当てはめてもそれは間違いではない。

 それに対して、もしわたしが、対象と主観とのある種の関係を忘れて、自分の判断をその関係の中に限定することをやめて、物それ自体としてのバラが赤いと 言ったり、土星に取っ手があると言ったり、物それ自体としての外部の物体に大きさがあると言ったりしたなら、その途端に幻想が生み出されているのである。

IV 自然神学においては我々は、我々の直観によっては決してとらえることができないばかりか、感覚による直観によっては神自身にとってもとらえることが できないような対象(神)を考えている。そして、我々は神自身が持っているあらゆる直観から注意深く空間と時間の条件を取り去っている。知性には常に限界 がある以上、神が持っている認識能力は全て直観でなければならないからである。

 しかしながら、もし我々があらかじめ、空間と時間は物それ自体の形式であり、様々なものが存在するための条件であって、そこに含まれるものを取り除いて も無くならないようなものと考えているとしたら、我々は神の直観から空間と時間の条件を取り除くようなことをしてどうして正しいと言えるだろうか。なぜな ら、もし空間と時間が全ての存在の条件なら、この二つは神が存在するための条件でもあるはずだからである。

 ということは、もし空間と時間をあらゆるものの客観的な形式としないとすれば、空間と時間を我々の内向きと外向きの直観が持っている主観的な形式と考えるしかないということである。

 そして、この直観は本来の直観つまり対象の存在をもたらすような直観ではなく(そのような直観は、我々の知る限りでは、原存在(神)しか持っていな い)、対象の存在に依存したものであり、イメージを受け取る主観の能力が対象に触発されてはじめて可能となるものである。したがって、この直観は感性によ る直観と呼ばれるのである。

 空間と時間の中におけるこの直観の仕方は、人間の感性だけが持っているものであるとは限らない。思考力のある生き物ならどれでもきっと人間と同じ能力を持っているに違いない。しかし、これが実際にそうであるかどうかを我々は断定することができない。

 しかし、感性のこの直観の仕方は、たとえ人間以外にも当てはまるものだとしても、だからといって感性による直観でなくなるわけではない。なぜなら、この直観は他に起源を持つ(intuitus derivativus)ものであって、決して本来の直観(intuitus originarius)ではない、つまり、この直観は知的な直観ではないからである。

 そのような知的直観を持っているのは、上に述べた理由から、原存在(神)だけだと思われる。それに対して、与えられた対象との関係のなかで直観によって 自分の存在を明らかにし、自分の直観だけでなく自分の存在さえも他のものに依存しているような者が、知的直観を持っているとは思えないのである。ただし、 この説明の(§8)は我々の『感性論』の解説であって、証明と取るべきではない。



• 『純粋理性批判』 概念の分析論

http://www.geocities.jp/hgonzaemon/transcendential-logic.html
“我々の心の感受性つまり心が触発されてイメージを受け取る能力を感性と呼ぶなら、それに対して、イメージを自らもたらす能力つまり自発的な認識能力こそが知性である。

 我々の本性からして、直観は感性によるものでしかありえない。ということは、直観には我々が対象によって触発される仕方だけが含まれているのである。それに対して、感性による直観の対象について考える能力が知性なのである。

 これらの特性は互いにどちらがどちらよりすぐれているということはない。感性なしには対象は与えられないし、知性なしに対象について考えることはできない。中身のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である。

 だから、概念は感性によるものでなくてはならない。つまり、直観による対象を概念に付け加えねばならないし、直観を知性的にしなくてはならない。つまり、直観を概念に従わせねばならないのである。

 この二つの能力はその役割を交換することはできない。知性は何も直観できないし、感性は何も考えることはできない。この二つが一つに結び付くことによっ てはじめて認識が生まれるのである。しかし、だからといってこの二つの役割を混同してはならない。この両者を注意深く分離し区別することには、大きな理由 がある。そのために、我々は、普遍的な感性の法則の研究つまり「感性論」と知性の法則の研究つまり「論理学」を別々に扱うのである
(…)
われわれはこの純粋な知性の概念を、アリストテレスにならってカテゴリーと名付けることにする。なぜなら、われわれの目的は元来アリストテレスの目的と同じものだからである。もっとも、彼の作ったカテゴリーは、われわれのものとは全く違っているが。

カテゴリー表
I 量の概念
単一
多数
総数

II 質の概念
現実
否定
制限

III 関係の概念
従属と自立(実体と付随)
因果と依存(原因と結果)
共同(能動と受動の相互作用)

IV 様態の概念
可能性と不可能性
存在と非存在
必然と偶然

これが全ての総合の基本的な純粋概念の一覧である。これらの概念は知性が先天的に持っているものである。そして、このような純粋な概念をもっている知性 だけが純粋な知性なのである。というのは、知性はこれらの概念だけによって直観のなかの多様なものを介して何かを理解できるからである。つまり、知性はた だこれらの概念によって直観の対象について考えることが出来るのである。


 これらの分類は、判断する能力(思考する能力と同じである)という共通の原理(Prinzip)から体系的に生まれたものである。このような分類は、いきあたりばったりの 運任せに純粋概念を探索しても生まれるものではない。そんなやり方では、全部集まったかどうか決して確信が持てない。なぜなら、それは帰納法だけで分類す ることだからである。それに、このやり方では、純粋な知性にどうしてこの概念は属するがあの概念は属さないのかが決して分からないのである。

 このような基本概念の探索は、まさにアリストテレスのような才知の優れた人間にふさわしいことであった。しかしながら、彼は何の原理(Prinzipium)もなしに思いつくま まに集めていき、まず10個見つけて、それをカテゴリー(範疇[はんちゅう])と名付けたのである。のちに彼はもう五つ見つけたと思って、それを第二範疇 と名付けて、最初のものに付け加えた。

 それでも彼の表は完全ではなかった。その上、その中には純粋な感性の要素がいくつか(時、所、位置、先、同時)と、運動のように知性の基本概念には決し て属さない経験的な概念も含まれている。さらに、派生的な概念(能動、受動)もこの基本概念の中に数えられている。一方、基本概念のいくつかがまったく欠 落しているのである。

 派生概念についてさらに言うなら、それは純粋な知性の持つ真の基礎的概念であるカテゴリーから同じく純粋な派生概念が生まれるものであり、超越的な哲学 の完全な体系においては決して無視されてはならないものである。しかし、それらについては批判的な試みに過ぎないこの本の中では一言言及するだけで充分で ある。

 この純粋な知性の派生概念には(Pradikamente つまりカテゴリーと対比して)純粋知性の属性(Pradikabilien)と呼ぶことにする。基本的で本質的な概念があるなら、派生的で従属的な概念をそれに付け加えるのはたやすいことであり、そうすれば純粋概念の完全な系統図を描くことが出来る。

 第一に、知性がもつ概念を四つに分類したこの表は、二つのグループに分けることが出来る。一つ目は直観(純粋な直観と経験的直観の両方)の対象に向けられたものであり、二つ目はこの対象の存在(対象の相互関係か、対象と知性との関係)に向けられたものである。

 この一つ目のグループを数学的カテゴリーのグループ、二つ目のグループを動的カテゴリーのグループと名付けよう。二つ目のグループでは概念が対になっているのに対して、一つ目のグループではそうなっていない。この違いの原因は知性の本質にあるはずである。

 この表について言えることの第二は、それぞれの分類にはどれも同じく三つのカテゴリーが含まれていることである。これは概念によって先天的に分類する場合には必ず二つに分かれることを考えれば、興味深い事実である。

 その他に、どの分類でも三つ目のカテゴリーは一つ目のカテゴリーと二つ目のカテゴリーを組み合わせて出来ているということも注目に値する。たとえば、総 数(全体)とは多数のものを一つのものと見ることに他ならない。また、制限とは現実と否定とを結び付けたものに他ならない。さらに、共同とは、ある実体と 別の実体の間の相互の因果関係のことである。そして最後に、必然性とは可能性によって与えられた実存のことに他ならない。

 しかし、だからといって、三つ目のカテゴリーが純粋な知性の単なる派生概念であって、基本概念ではないと考えてはならない。というのは、第三の概念を産 み出すために第一と第二を結び付けることは、知性の特別な活動を必要とするからであり、その活動は第一の概念と第二の概念を産み出すための活動とは別物だ からである。

 したがって、例えば、ある数の概念(総数のカテゴリーに属する)は、単一の概念と多数の概念からだけで生まれてくるわけではない(たとえば無限は単一と 多数では説明できない)。あるいはまた、原因の概念と実体の概念を結び付けても、必ずしもそこから影響の概念が生まれて、ある実体が別の実体の何かの原因 となれることが理解できるとは限らない。だから、影響の概念が生まれるためには、特別な知性の活動が必要なことは明らかである。これはほかの場合でも同様 である。

 上記の表について言える第三のことは、唯一、三つ目の分類の「共同」のカテゴリーだけは、知性の論理的活動の一覧表の中の対応する「選択的な判断」と一致している度合いが、他の場合よりも少ないように見えることである。

 「共同」のカテゴリーが「選択的判断」と一致していることを確かめるには、次のことに注目すればよい。つまり、あらゆる選択的判断においては、その判断 に含まれるすべての選択肢を全部合わせた領域が一つの全体であり、選択的判断とはこの全体が部分(従属的概念)に分かれたものと見なされるということであ る。

 そしてある判断が他の判断に含まれることはないから、それらは互いに並列関係になることはあっても従属関係にはなることはない。その結果、それらは序列 の場合のように一方向に影響を与えることはなく、集合体の場合のように相互に影響し合う(選択肢の一つが選ばれた場合には、他の選択肢は排除される)と考 えられる。

 様々な物が集まって出来る一つの全体についても、同様の結びつきを考えることが出来る。というのは、「結果」としてのある物が、その存在の「原因」とし ての別の物に従属するのではなく、両者は並列関係にあって、相互にそして同時に、それぞれが原因として他の物に影響を与えるのである。(例えば、物体の各 部分は相互に引きあっており、反発しあっている)

 この結びつきは、単なる原因と結果(根拠と結論)の関係に見られる結びつきとは全く異なっている。後者の場合には、結果の方が反対に原因に対して影響を 与えることはないから、結果が原因と一緒になって一つの全体を形づくることはない(例えば、世界の創造者が世界と一緒になって全体を形作ることはない)。

 知性は、部分的な概念を一つに合わせた領域を思い描くときには、ある物が分割可能であると考えるのと同じ振舞いをする。そして、前者の場合に、部分的な 概念のそれぞれが互いに排除しあいながらも一つの領域に結ばれているように、後者の場合も、分割された部分のそれぞれが他の部分から独立して存在している が、しかもなお一つの全体の中で結ばれているのである。”




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カント『実践理性批判』中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2013


義務=強制力=道徳法則への服従
=嫌々でもやれと命じる=不自由。
義務=神の命令=法則。
掟の哲学。

”最高善の第一の、そしてもっとも主要な部分である『道徳性』を必然的に完成するという課題である。この課題は永遠のうちにおいてしか十分に実現されないものであるから、〔人間の霊魂の〕『不死』が要請されるようになったのである。この法則はさらに、これまでと同じようにまったく偏向のない理性に基づいた公平な形で、最高善の第二の要素、すなわち道徳性にふさわしい『幸福』を実現することを可能にするものでなければならない。そのためには、この〔幸福という〕結果をもたらすにふさわしい十全な原因が現実存在することを前提にしなければならない。そこで純粋理性の道徳的な法則を定めることと必然的に結びついたわたしたちの意志の客体である最高善が可能となるための必然的な条件として、『神の現実存在』を要請しなければならない。わたしたちはこのつながりについて納得のできるように説明しなければならない。
p.151 第二巻
カント『実践理性批判』中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2013
※『』は原文にはなく、傍点の代役

道徳法則はそれだけでは、〔その法則を遵守する者に〕幸福を『約束しない』。自然の秩序一般の概念から考えるかぎり、道徳法則を遵守することと幸福になることのあいだには、必然的な結びつきは存在しないからである。
そのためキリスト教の道徳論は、最高善の第二の不可欠な構成要素である幸福〔との結びつき〕の欠如を埋めるために、『神の国』の概念を提示している。神の国とは理性的