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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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イスラーム基礎知識集。 最多殺人鬼である法人(宗教法神など)を禁じるイスラームの知恵。 クルアーンを捏造するカレイドスコープ。 「二本角=悪魔」はヤソの特徴! 『日亜対訳 クルアーン』 

※長いからイスラーム基礎知識集だけでもお読みくだされ。
そして他のブログにはない貴重情報を見逃してくだされ。
(心理学ってすごい)


今までの記事(漏れがあるかも)

スピ、宗教法人、新自由主義、労働教、拝金主義、
自己実現教(=エリート主義)を否定するイスラームの弱者救済策!
『となりのイスラム』『私はなぜイスラーム教徒になったのか』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-223.html


万教帰一の道会(儒教的キリスト教)の大川周明も、
スウェーデンボルグ礼賛で初期スピリチュアル推進のブッシュ教授(ブッシュ家)もイスラム研究!
『イスラーム入門 文明の共存を考えるための99の扉』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-213.html

イスラームの偽救世主ダジャルは右目が見えずイランから来るが、
偶像崇拝の部族に似ているだけでユダヤ教徒ではない!
『イスラーム神学』とカレイドスコープのデマへの反論
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-218.html

逃散=集団引越こそが有効。
西洋がやろうとしているワンワールドは、
イスラームがある限り達成不可能。
カワ(^◇^)ユイ『イスラーム 生と死と聖戦』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-222.html














イスラームの偽救世主ダジャルは右目が見えずイランから来るが、
偶像崇拝の部族に似ているだけでユダヤ教徒ではない!
『イスラーム神学』とカレイドスコープのデマへの反論
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-218.html

で約束した通り
クルアーン(の翻訳)を読んだのでダジャルについて言及があるか報告する。
カレイドがクルアーンの内容を捏造してデマを流していることが確定した。
ダジャルについての詳細はクルアーンには一切言及されない。
ダジャルを殺すイーサー再臨の根拠は主にハディースであり詳細はクルアーンに登場しない。



”✞煉獄のカレイドスコープ✟ブログより

”クルアーン(コーラン)には、イスラム圏で「ダジャルと呼んでいる反キリストはユダヤ人で一つ目である」と、はっきり書かれています。「一つ目」というのは、何かの象徴でしょう。”
http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-202.html
反キリストは「一つ目」のユダヤ人

は?
調べたらクルアーンじゃなくてハディースからばかりなんだけど?
カトリックのカレイドスコープ(と部下の一人の笑い男)は
ユダヤ教徒だとわざと嘘をついているか、
無知及び解釈能力不足でそうなったか、
そもそも資料が間違っていた、と私は結論。
クルアーンの全訳読んだら報告予定。
ハディースは全文は無理。

”1) The Holy Prophet (SAWS) has informed that Dajjal will be a Jew.”
http://hamditabligh.web44.net/LastTTimes/Zaki/English/dajjal_is_coming.htm

を一部、カレイドが誤訳している。

”まず、CHAPTER 1の「TRADITIONS ABOUT DAJJAL」(ダジャルの言い伝え)を翻訳してみましょう。

1)聖なる予言者は、「ダジャルはユダヤ人である」と伝えている。”

willの意味知ってる?
「~である」(断言)と
「~だろう」(推論含む)だと全然違うだろうが!
ムハンマドだから未来形も確定だって?
でもムハンマドは「人間」だからね?
しかもダジャルがクザア部族の人(ユダヤ教徒ではない)に似ていると言ったのも預言者だからね?

カトリックだからユダヤ陰謀論のために捻じ曲げたのだろう。
偶像崇拝する部族の人に似ているといわれるダジャルが偶像崇拝否定のユダヤ教徒ではないだろう。
あと、仮にクルアーンに明確にユダヤ教徒ってあったら、
ハディースにそれを否定する箇所は出てこないのでは?

あと、カトリックは明確に反キリストだからね?
だって聖書のイエスの言葉を守ってないもんね!
同人誌、二次創作が教義になり、それを否定する聖書の文言は無視だもんね!
イスラームだとハディースがクルアーンより上に来るなんて絶対にないからね!

カレイドがwillを訳し忘れる時点で英語力が低すぎる。
反論したいなら、ダジャルがユダヤ教徒だと明言している記述がクルアーンの何章何節にあるかはっきりと引用して(アラビア語でなくていいです)書いてください。
元の英文がwillなのは、ユダヤ教徒を引き連れている記述から推測されるという意味なのでは?


http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-257.html
”イーサー再臨の根拠は主にハディースに求められる。
イスラームでは審判の前に
現在のこの世界は終末を迎えると信じられる。
しかしそれがいつかはアッラー以外はわからないと
7章187節にある。
イーサーは空から降臨する。

イーサーが空から降り立つとき
大規模な争いが発生している。
この争いはダッジャール(偽救世主)の軍とムスリム軍のあいだで戦われるものである。
イーサーはダマスカスの東側にあるモスクの白い尖塔に
ふたりの天使の羽に肩を置きながら日の出前に降り立つ。
エルサレム近郊に夕刻に降り立つともいわれる。
そしてムスリム軍に加わり
パレスチナのルッド門にダッジャールを追い詰め殺害する。
ムスリム軍はダッジャールに従っていたユダヤ教徒たちの残党を滅ぼす。

(イスラームでは露骨に
キリスト教>ユダヤ教)

ダッジャール軍が消滅したあとに
地中からヤアジュージュ(ゴグ)と
マアジュージュ(マゴグ)が出現する出来事も生じる。
彼らは凶悪で数が多く地を荒廃させる。
しかしイーサーとムスリムたちの祈りに応え
アッラーは彼らを死滅させる。

ヤアジュージュ(ゴグ)と
マアジュージュ(マゴグ)は
現在地中に生息している野蛮な二つの部族である。
かつて
ズル=カルナインが彼らを地球に閉じ込め封印した。


以上の記述はクルアーンにはない。


ダジャルは右目が見えない=左目側
でダジャルの部下がユダヤ教徒(笑)
ダジャル=左目陣営=キリスト教原理主義(聖書維持)
=英米系WASP海賊

イスラーム視点では英米系石油屋陣営がダジャル

カレイドがダジャルを叩いているのは
カレイドが右目系だからかもしれない。
カトリック系だというだけでは右目寄りか左目寄りか判断できない。
エキュメニカル賛成なら右目、
反対なら左目。


おまけ♡








カレイドみたいにならないために皆さんはきちんと書籍で勉強しましょう。
漫画ではダメ。
まんがで読破シリーズのコーランの感想を見たらやばい。
原罪は西方耶蘇概念なのであるわけない。
ハディースとクルアーンを分けていないのか?
混ぜているならデマ本確定。
参考文献にウラマーが書いた本があるの?










アラブの特定の民族には女児を生き埋めにする文化があったことが紹介され、ムハンマドがこうした文化を廃そうとしたことがやんわりと紹介されている。
女性が強力に抑圧されるのは、アラブの一部の文化ってことみたい。
イスラム教自体は寡婦保護などかなり女性を保護する感覚が強いなぁと思う。

ムハンマドが15歳年上の商家の雇い主たる女性から求婚を受けて結婚し、瞑想時に受けた啓示を「アッラーの預言である」と確信させたのがその嫁さんという背景を考えると、女性を女性であるからという理由で抑圧する思想にはならないのは当然かなぁとは思うけどね。

コーラン (まんがで読破 MD133) を読了。とても面白かった。
他の宗教の違いとして、イスラム教は「国家に保護される宗教」ではなく「国家を作り上げた宗教」とされていた。
規範だけでなく、共同体の形成や生活者としての実践に必要なあれこれがとても充実しているのだと。

つまり、イスラム教徒が集団でやってくると、その場所に「新しい国が開かれる」ということになる。イスラム法は独自の法理をもち、他の法理とは交わらない。
このことはよく考えるべきことじゃないかなぁと思った。
……どうしてもダジャレを言いたくて…言ってもいい?
法理はホーリー(holy:聖)。



ここで休憩入りまーす。









峨骨@Chimaera925
最も人を殺す生き物に法人が含まれないのがミソだね。

人が人を喰うとニュースになるが、法人が人を喰って生き残ってもニュースにはならない。

隠れユダヤガーとか言うのに、
隠れキリシタンガーとか、
偽和風キリシタンガーなどとは言わない不思議な人達。

隠れてすらいないって?間違いない


蟹ぢから溢れる
🦀
💪
‏ @onesyotasekai
この世界で一番人を殺した観念は法人・資本主義ですよ
共産主義だの、ファシズムだの、帝国主義だの喚く連中多いが今尚現在進行形で人を殺しているのは法人と資本主義以外にないのです
よくよく考えてみなさいよ…現代の奴隷制度や児童労働等は全部資本国の労働の外部化によって起きているのでしょうに

つーか、やたら頭がおかしい中年増えているけど…
被曝もさること乍ら、会社や社会を親として甘えている人間が妙に多いのではないかと思う
ツイッターで見る、頭のおかしいフェミとかなんかが良い例で社会や会社を我儘言える親と勘違いしているように見える
だから、イスラームは法人を禁止するんよね


核汚染人を見てて思うのは大人になるというのは戸籍・納税的自立を大人・自立すると言っているが
それは会社等を親に再度し直すだけであってそれは一切自立でもないし、大人でもないんよ
大人になるというのは己の中で物格・善悪の基準を持って生きている・生きていけている事を大人になるというんよ

なので核汚染人の殆ど…体感的には8割は子供社会なのではないかと
子供というのは精神的軸を他者の判断下に置いている人達という事であって、生物的なものではない
コレってすげえなぁ、そりゃーまともな感性持っていれば気が狂うわ

あー絶滅しねえかなぁ、虫けら共
えーとねぇ…神棚を拝もうがそこにأيمن 崇拝・崇敬または信心が無ければ良いだけで別に拝む行為自体は問題はない
結局、アッラーに帰依して・ムハンマド(ص) のおっさんを預言者と信じていれば良いのでシルクにならなきゃいいんよ
実際、おいさんは南無を絶対言わんしね


9月29日
人間そのものが危険なモノでしかないから、
人間根絶やし・管理するという発想か一定の思想で統制する発想に至らない時点で
障害者でもないし、思想家でもない
つーか、近代・現代の西欧思想や歴史というのは人類の管理と統制を実験してきた歴史なんだよ
啓蒙主義も工業主義とかも全部その思想が発端

それに…えぐい事を言えば、成人年齢や案件に達していない子達に無理矢理勝手なクソラームを押し付けるのは罪でしかない
だから、おいさんの個人意見としては別に成人に至ってないのだから…好きにさせたらどう?というのがおいさんの考え
故にオナニーを外に撒き散らす事を信仰ではないというのよ

でね、図画工作の時間に似顔絵書こうがそれは偶像ではないし、そこに信仰を発生させるに十分なものではない
ただ、仏像を木で掘ろうとかになると不味いけど…特定の動物以外…
例えば、やらかし牛君とかなら不味いだろうけどそれ以外ならば偶像の案件を満たすものにはなり得るとは考えられない



9月30日
えげつない言い方をすれば村手さんの仰る通り…
へーゲルの弁証法で帰結してしまう世界構造にされてしまった事が失敗の全てでしかないとおいさんは思っている
そして、その世界構造は馬鹿らしい程に単純な暴力に形成されていて、
その暴力は人の描く虚像・偶像によって暴力が維持されているのである

今、おいさんが言える事は
「知らない事・知り得ない事・わかり得ない事について臆病な連中はそれらを消滅させたがる」
で、この現代世界の最大の罪悪・不幸の根源は
啓蒙主義と反啓蒙主義の二分的対立で帰結されてしまうように設計されてしまった事でしかない
コレが全ての元凶そのものでしかない

この発想…厳密には囚われというべきなのであって、別に宗教でもないし、思想と言えるものでもなく、ただの囚われ・虚像と言っても良い
イスラームでは何で口酸っぱく虚像・偶像崇拝をしてはならないと言い続けるのかというと
精神的な虚像・偶像がこの世界を火獄よりも苛烈な火獄にするからである


9月29日

先に行っておくけど
これから先…日本でも「イスラーム研究者」や「イスラーム宗教学者」というのが何れは出てくると思う
但し…その肩書きを持っている人達が「〜が本来のイスラームで…」とか言い始めたり、言ったらあくまでも「彼・彼女が習ったイスラーム上では…」でしかない事を忘れないように


ぐだトマト
@pteras14
ま、元凶はイスラーム先生の言う通り、
組織や法人に人間と同じ人格と人権を
与えたが為に、本物の人間の価値が
チープな存在に成り下がったんだな。

法人はアダムみたいな形状してない
からね。いずれ人類の方を迫害するさ。



中田氏の「神」の定義が中々面白くて、
「神=人間の意志に対して何らかの
強制力を強いる物、命令を下す物」

で、現代の欧米型先進国は
「神=金、
国家、領土、企業」。

つまり、日本語の「法人」は本来
法神」という綴りの方が正確。

「企業の偶像神化」w
こいつぁ良く考えたもんだぜ!
傑作だ! 個人的にノーベルぐだトマト文学賞を授与したいぐらいw




















イスラーム基礎知識とか前置きが長いって?
他の記事読まない人が多そうだから前置きが長くなる。
クルアーンの翻訳の引用だけ書いたら誤読されること間違いないし、
私も誤読している箇所がある。

休憩終わりでーす。


イスラーム基礎知識

・ラーイラーハイッラッラー
(アッラーの他に神はいない)
=唯一の崇拝の対象である創造主
でないものはすべて崇拝や服従するに値しないと信じること
が最重要教義。

・ムハンマドゥン・ラスールッラー
(ムハンマドはアッラーの使徒である)

(ムハンマドは最高にして最後の預言者
(以降の「俺が新たな預言者だ!」詐欺の防止)

以上は信仰告白文でありこの二つの教義は他の教義の大前提

・法人の禁止。
(宗教法人非課税の禁止)

・利子の禁止。
(ヤソ流中央銀行支配の防止)

・キリスト教会のような
教義を決定する教会組織(モスクは単なる礼拝所)も
聖職者(学者は存在する)も
聖職者階級も存在しない
唯一の正統教義を決定する公会議もない。
正しい教義を決定する正当な手続きや資格は存在しない。
よってキリスト教のような正統と異端の二分法的発想はない。
(内心に踏み込み異端審問をすると地獄行き)

・戦闘員(成人男性)以外の人に物理的攻撃を加えることの禁止。
女性と子供を攻撃することの禁止。
コラテラル・ダメージ(やむを得ないまきぞえの犠牲)
については場合による。
剣の節(多神教徒は殺せ)の適用はかなり限定的。

(廃棄された個所かどうか確かめずに
コーランのあれこれが悪だと叩いている者に注意。
いきなりクルアーンを読んでもダメな理由。
クルアーンを原文で読み、
かつ多数派解釈と少数派解釈を学んだ人を情報源にしないと
デマをつかまされる可能性が高い)

・聖典範囲

クルアーン(最上位の唯一神の言葉)、律法、詩編、福音書。
クルアーン以外はオリジナルと異なる(改竄あり)とする(聖書の矛盾を解決)。

翻訳されたクルアーンは聖典ではなく単なる注釈・解釈書。

ムハンマドの言行録であるハディースも重視するがこれは人の言葉。
(ハディースの内容とクルアーンの内容を混同する者を情報源にしてはいけない)

・イエス(イーサー、ヤスーウ)は実在するが、磔になっていない。
・イエスは十字架上で死んでいないので3日後の復活もない。
・イーサーは被造物たる人間であり預言者の一人。
・アッラーは子を産まないので神の子なんてありえない。
・マルヤム(マリア)の処女懐胎で誕生。
・受肉もありえない。
・人間なので神性もない。
・三位一体もありえない。
・原罪もない。

・イエスは生きたまま、肉体を伴い(グノーシス派の否定)、
天に上げられたので今も生きている。

(キリスト教正統多数派の根幹を否定)

・マスィーフ(メシア)たるイーサー(イエス)は
終末(日時不明)が近づくと再臨し偽救世主ダジャルを殺す。
ダジャルはハディースでは右目が潰れているので左目系。
ダジャルがユダヤ教徒とは限らず
ユダヤ教徒ではない部族に似ているというハディースあり。
部下にユダヤ教徒がいる
(イエスの扱いよりイスラームでは
キリスト教>ユダヤ教)

・性の罪悪視はない。

・「偶像崇拝の禁止=像を作るな、偶像を破壊しろ」ではない。

”・偶像=自己の欲望の投影。
クルアーンは多神崇拝の禁止を繰り返し説いているが、
彫像の禁止は明記されていない。
34章13節には、ソロモン王がジン(幽精)に彫像を作らせた、とあり、
古典注釈書はソロモンのシャリーア(聖法)では彫像は許されていた、と述べている。
またハディースのレベルでは
預言者ムハンマドが幼妻アーイシャが人形で遊ぶのを黙認したという真正な伝承の明文が残されており、
イスラーム法は子供の玩具であれば人形を合法化している。
彫像だけでなく動物の絵も禁じるハディースも数多くあり、
預言者ムハンマドがマッカを征服したときに行ったのがカアバ神殿にあった360体の偶像の破壊であったことはよく知られている。
具象的偶像が原則的に禁じられており、キリスト教や、仏教、ヒンドゥー教のような宗教美術がほとんど存在しないのも事実だが、
ユダヤ教の偶像崇拝の執拗な具象化の拒否、造形、彫像の禁止はイスラームでは緩和されている。
むしろクルアーンは具象的な偶像崇拝の禁止を超えて、多神崇拝が虚偽意識の問題であることに目を向けさせている。

「自己の欲望を自分の神とする者を汝らは知っているか」
クルアーン25章43節

「アッラーの他に汝らが崇めているものは、
汝らと汝らの父祖たちが命名したただの名前に過ぎない」
クルアーン12章40節

イスラームでは偶像とは自己の欲望の投影であり、
偶像崇拝者とは自らの欲望を神に祭りあげて仕える我執の虜にほかならず、
唯物論、無神論、無宗教、
法人概念、実体経済を逸脱した拝金主義等も
人間の我執の幻影への隷属、
形を変えた偶像崇拝。

中田考『イスラーム入門 文明の共存を考えるための99の扉』メモより
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-213.html

幻想の自由と偶像破壊の神話 - 預言者風刺画問題報道をめぐって
中田考(同志社大学神学部教授、一神教学際研究センター幹事)
http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8220708/www1.doshisha.ac.jp/~knakata/ronbun62.html
”偶像崇拝の禁止は、ユダヤ教、キリスト教、イスラームのセム系一神教全てに共通しており、イスラームだけの教えではない。偶像崇拝が禁止されているとしても、全ての「像」が偶像として崇拝されるとはかぎらない。偶像崇拝の禁止は、「像」を描くこと、彫ることの禁止に必ずしも直結しない。
ユダヤ教とキリスト教が共に聖典とするヘブライ語聖書は、有名な十戒の冒頭で、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も作ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形を造ってはならない。」(出エジプト記20:3-4)と述べ、偶像崇拝に限らず、そもそもいかなるものであれ、像を作ること自体を厳格に禁じている。にもかかわらずキリスト教の歴史においては、イエス像、マリア像などの聖像が「偶像」として排斥されることは、歴史的に例外で、むしろ信仰の強化のために積極的に利用されてきたことは広く知られている。

一方、イスラームについては、すでに若林啓史が既に「イスラームに対する通俗的理解によれば、人物などの画像は偶像として厳しく禁止されており、キリスト教の聖像画も例外でなく破壊の対象となる。その結果イスラーム芸術においては植物や幾何学文様、あるいは書による表現が発達を遂げたと説明されている。」(若林啓史『聖像画論争とイスラーム』知泉書館2003、85頁)と指摘している通り、人物の像が全て禁止されているかのような俗説が蔓延している。

聖書において作像の禁止が、戒律の要諦である十戒の冒頭におかれているのに対して、
クルアーンにはそもそも作像の禁止を示す章句は存在しない。
作像の禁止は、ハディースのレベル
になり、ハディースのレベルでは、「絵を描いた者はすべて火に投ぜられ、自分の描いたすべての絵に命を吹き込まれ、地獄で罰を受ける」などの伝承群が存在し、人物を含む動物の像を描く、彫ることは禁じられている、との法判断が演繹される。

但し、作画を禁ずるとのこのハディースの解釈は通説
ではあるが、
イスラームの行為規範体系であるフィクフ(≒イスラーム法学)の標準的な教科書の中では、作画の禁止が主題的に論じられることはなく、「礼拝の条件」などの章の中で、絵を描いた服の着用の禁止のような形で簡単に触れられるのみに過ぎない。
また15世紀に書かれた古典クルアーン注解『タフスィール アル=ジャラーライン』は、クルアーン34章13節「彼らは彼のために高殿や、彫像、湖のような大皿、不動となった大鍋など彼の望むものを製作する。『ダーウードの一族、感謝をなせ』。だが、わがしもべのうち深謝する者はわずかである。」の『彫像』(tam±thµlはtimth±lの複数形)の語を注釈して「それは、あるものを真似て作ったものすべてである。つまり、銅、ガラス、大理石などの像である。彼(ダヴィデ)の聖法においては像を作ることは禁じられていなかったのである。」と述べており、
18世紀の脚注は更に「アッラーの御使いは『それらの者は、彼らの間で義人が亡くなると、その墓の上に礼拝堂を建て、そこにその姿の像を作った』と言われている。つまり、それは、彼ら(義人)の崇拝行為を思い出し、崇拝に精を出すためであった。」と述べており(al-Jamal, al-Futūh±t al-Il±hµyah bi-Taw½µÆ Tafsµr al-Jal±lain, Beirut, 1994, vol.6, p.220)、以前の預言者たちの聖法では作像は禁じられていなかったとしている[2]。

イスラームの自己理解によると、イスラームとは預言者ムハンマドの教えではなく、アダム以来の預言者たちの教えあり、アブラハム、モーゼ、ダヴィデ、ソロモン、イエスらは皆、アッラーの預言者であり、彼らの教えは全てイスラームなのである。但し、イスラームの教えの中でも、「信条」が永遠不変であり、すべての預言者の教えに共通する教えの中核を成すのに対し、
行為規範は時代と場所により異なり、それぞれの預言者のもたらした「法」の間には差異が存在する。
それゆえイスラームの教義学においてはキリスト教とは異なり、信条を扱う神学と行為規範を扱う法学が別個の学問として存在するのであるが、作像の禁止が預言者ムハンマド以前の法においては許されていた、ということは、作像の禁止が、神学の主題、つまりイスラームの永遠普遍の中核的メッセージである偶像崇拝に係わる問題ではなく、身体的な行為の決疑論、即ち法学の主題であることを示しているのである。また法学においても像の禁止は決して厳格なものではない。像の作成、所有などに罰則規定がないだけでなく、預言者ムハンマドが幼な妻のアーイシャが人形で遊ぶのを黙認したとの、人形の存在を容認するハディースの明文が存在するからである。(『日訳 サヒーフ ムスリム』日本サウディアラビア協会、1989年、3巻、421頁参照)

かつて日本でも、漫画の世界の偉人伝のシリーズの預言者ムハンマドの巻が、あるムスリム団体による抗議によって発売取りやめになり、絶版にされたケースもある。預言者ムハンマドの肖像を描くことがイスラームでは禁じられている、という俗説が流布しているのも故無しとはしないが、実はそのような規定はクルアーン、ハディース、イスラーム法のどこにも存在しないのである。

クルアーンには作像の禁止の規定がなく、作像の禁止の根拠はハディースにあることは既に述べた。しかしハディースには預言者ムハンマドであれ、他の諸預言者であれ、特定の人物についての肖像を描くことの禁止はない。それどころか人物像の禁止すらなく、禁止されているのは動物一般の像なのであり、イスラーム法学においても同様である。

つまりイスラームにおいては動物一般の像が禁じられているのであれば、預言者ムハンマドの肖像も禁じられていることになるし、もし動物一般の像が許されているなら預言者ムハンマドの肖像もまた許されているのである。預言者ムハンマドの肖像だけが禁じられる、などという議論はナンセンスでしかない。

筆者はかつてこの問題について、インドネシア・イスラーム学者協会の事務局長と議論したことがある。預言者の肖像画の禁止には、クルアーンにもハディースにも根拠がない、との筆者の指摘に同意しつつ、彼が挙げたのは、「私について嘘をついた者は火獄に住処を得る」とのアル=ブハーリーが伝えるハディースであった。つまり、預言者の肖像を書くこと自体に問題がないにしても、その肖像が預言者の実像と違うなら、預言者について嘘を述べたことに準じる、との立論である。つまり禁じられるのは預言者の肖像を描くことではなく、預言者について間違ったイメージを与えることなのである。この論点については後にまた立ち返ることになる。

イスラームにおける像の禁止が必ずしも厳格なものではなかったことしても、イスラームが、動物の絵や彫刻を嫌う傾向があったのは歴史的事実であり、前近代において、西欧だけでなく、中国、インド、日本などの諸文明に比しても、絵画や彫刻などが少なかった、と述べることはできよう。特に礼拝の場であるモスクにおいては、他の宗教の礼拝施設と比べて、肖像の不在は、特徴的でもある。

しかしそれは前近代のイスラーム世界においても宗教画がなかったことを意味しない。そしてそうした宗教画の中には預言者ムハンマドの肖像も含まれている。なかでも有名なものとして、預言者ムハンマドの昇天に題材をとった「預言者昇天物語」として知られる絵物語がある。ちなみにこの絵物語を収録した研究書はエジプトで出版されて市販されている

また現代イランにおいても、預言者がシリアとのキャラバン貿易に参加した若年時に出会ったキリスト教徒の修道士によって描かれたとされる肖像のコピーが市販されている。

預言者の肖像画は珍しいものではあるが、現代のイスラーム世界でも見ることが出来る。


今回の預言者風刺画「事件」が、預言者ムハンマドの肖像が描かれたこと自体に起因するのではないことはこの事からも明らかであろう。

既述の通り法学的には動物一般の像の禁止が通説であるが、現代イスラーム世界の現状は、

預言者ムハンマドの肖像画ですら存在し、動物や人物の絵が巷に溢れていることにおいて西欧や日本と全く異なることはない。紙幣を例にとっても、最もイスラーム法の適用が厳格であると言われるワッハーブ派のイスラームを国是とするサウジアラビアですら歴代の国王の肖像画が描かれているの。また文字通りの「偶像」も日常的な光景であり、エジプトでは古代エジプトの様々な神像が観光の目玉になっているし、マレーシアにはヒンドゥー寺院にムルガン神の神像としては世界最大の黄金の像が聳え立っている。

偶像崇拝の禁止のために、イスラーム世界では絵画や彫像が存在しない、といった言説は他者の想像力の産物であり現代の「神話」に他ならない。


預言者ムハンマドの肖像画を描いたことでないとすれば、風刺画がムスリムたちの怒りをかった原因は何であったのか。それは預言者の誹謗である。

イスラーム法は来世での報償と罰によって定義される行為規範の体系であるため、その行為主体は、自然人に限られる。イスラーム法には国家や会社などの法人概念が成立する余地はない。法人が来世で報償あるいは罰を受ける、という事態は想像もできないからである。

またイスラーム法の行為主体はムスリムに限られる。イスラーム法は、イスラーム教徒が来世での救済に与るための行為規範のマニュアルであり、来世での楽園の報償はイスラームの信仰を条件とする。それゆえ異教徒はイスラーム法の主体となることはできない。この意味で、イスラーム法は属人法であり、イスラーム教徒にのみ妥当する。

西欧法が、国家の暴力による刑罰と強制執行によってその実効性を担保されているのに対して、イスラーム法の妥当は、来世でのアッラーによる応報の信仰にのみよっている。イスラームによって禁じられている行為の殆どには現世での罰則規定は存在しない。たとえばイスラームでは豚を食べること、利子をとることが禁じられていることは有名であるが、それらには特に現世での罰則規定はない。
例外的に現世での罰則が定められているのが、ハッド(法定刑)と呼ばれる禁止事項で、
通説では窃盗の手首切断、強盗の手足切断、磔刑、
所払い、飲酒の鞭打ち、既婚者の婚外交渉の石打刑、未婚者の婚外交渉の鞭打ち、所払い、

姦通誣告の鞭打ち、背教の死刑である。しかしこれらの現世での罰則規定のある禁止事項も、イスラーム法の概念構成により忠実に正確に述べるなら、上記の犯罪者に対して上記のそれぞれの罰があるのではなく、上記の犯罪が裁判官により確定された時には犯人に対してその罰を課す義務が為政者に課されるのであり、その義務を怠れば、その為政者が義務の不履行により来世での罰を受けることになるのである。

既述の通りイスラーム法は属人法であり、イスラーム教徒であれば、居住地がどこであれ妥当するのが、基本である。しかし例外的に、イスラーム教徒の為政者が治める領域でしか妥当しない規定が存在する。このイスラーム教徒の為政者が治める領域を「ダールルイスラーム(イスラームの家)」と呼び、その外の領域を「ダールルハルブ(戦争の家)」と呼ぶ。
ダールルイスラームでしか妥当しない規定の代表的なものが、上述のハッドである。窃盗、強盗、飲酒、婚外交渉、姦通誣告、背教はどれも罪であり、通説ではたとえダールルハルブで犯されようとも、来世の懲罰には値するが、ダールルハルブ内ではイスラーム教徒が罰則規定を執行する政治的権力を有さないため、犯人がダールルハルブ内に居住する限りハッド執行の義務は、イスラーム教徒から免除される。前述のようにイスラーム法は属人法であり、異教徒はイスラーム法の行為主体となることはできない。
しかしイスラームの公秩序を守るとの誓約を交わして税を納めることによって異教徒はズィンマ(庇護)を与えられ、ダールルイスラームに居住することができる。この誓約を交わした異教徒はズィンミー(庇護民)と呼ばれるが、ズィンミーはイスラーム教徒に課される喜捨やジハード参戦の義務は免じられる一方、この誓約を守る限りイスラーム教徒と同じくその生命、財産、名誉の安全、及び宗教的自治を保証される。この庇護民が子々孫々にわたってダールルイスラームの永住権を持つのに対し、アマーン(安全保障)を得て1年以内の短期滞在者をムスタゥミン(安全保障保有者)と呼ぶ。なお、ズィンミーの認定はカリフの大権であるのに対して、ムスタゥミンについては、ダールルイスラームに住むムスリムであれば誰でも受け入れ保証人としてアマーンを与えて招聘することが出来る。

ジハードによってこのダールルイスラームを防衛、拡大し、ハッドを執行しその治安を維持し、イスラーム教徒の納める喜捨と異教徒の治める税、ジハードによる戦利品などを分配し、イスラーム教徒と異教徒の住民の福利厚生を掌る職務を負うのが、カリフ(法学用語としては「イマーム」)である。

「ダールルイスラーム」とはカリフの下にイスラーム教徒が主体となりイスラーム法を実践することにより、イスラーム教徒と異教徒が共に生命、財産、名誉の安全、宗教的自治を享有しつつ共存する法的空間ということになる。ただしそこではあくまでも法の行為主体はイスラーム教徒のみであり、異教徒も「権利」、「義務」を有するが、それはイスラーム教徒の義務と「権利」の反射に過ぎない。


預言者の誹謗は背教罪で死罪となる。…

既述のようにイスラーム法は来世の応報によって定義されており、現世での罰則規定を伴うものは少ないが、背教はそのような例外的な現世の罰則規定の中でも最も重い極刑が課される大罪である。そして背教は大罪であるがゆえに3日間の改悛のための猶予が認められているのであるが、預言者の誹謗にはこの改悛の余地が認められていない。つまり預言者の誹謗はイスラーム教徒にとって最悪の罪である背教の中でも最も悪質な大罪なのである。

既述の通り、ズィンミーはイスラーム法の行為主体ではなく、イスラームの信仰を強制されることがないのは勿論、イスラーム法を課されることはない。ズィンミーはムハンマドを預言者だと信ずる必要もなく尊敬する必要もない。イスラームは異教徒の宗教の自治を認めており、内心の信仰には一切興味を有さないからでる。しかし内心の信仰が一旦口外され、イスラーム教徒の耳に入るようであれば、それはもはや内心の信仰の問題ではなく、治安の問題となる。それが公秩序を乱すと判断されれば、ズィンマ(庇護)取得のための契約に違反したとみなされ、ズィンマを取り消される。

以上は、いずれもダールルイスラーム内部の場合の規定である。次にダールルハルブにおける預言者ムハンマドの誹謗について論じよう。3章で述べたとおり、ダールルイスラームの外ではイスラーム法の罰則は執行されず、罰則規定は効力を停止するため、イスラーム教徒が預言者を誹謗してもダールルハルブに留まる限り、処刑はされないのが原則である。またダールルハルブの異教徒に関しては、法的には交戦状態にあるとみなされるため、そもそも誰であれ生命、財産、名誉の安全が保証されていない。但しイスラームの戦争法は、婦女子、子供、老人、修道士などの非戦闘員の殺害を禁じているため、それらの者は積極的に戦争に加担したのでない限り生命の安全だけは保証される。但しダールルハルブとの間に講和が成立している場合には、イスラーム教徒には講和の条件の遵守が課されるため、講和条約がある国の住民を襲撃することは許されない。

中東で今も行われる「名誉殺人」を例に挙げよう。「名誉殺人」とは、結婚前の娘が処女を失った場合、家の恥として父親か兄弟がその娘を殺害することである。この名誉殺人がイスラームに関係付けて説明されることがあるが、前の例と同じ意味で、それは誤りである。確かにイスラームは婚外交渉を禁じているが、未婚者と既婚者では刑罰が違い、既婚者が男女を問わず石打による死刑なのに対して、未婚者は男女を問わず鞭打ちの上で所払いのみであり死刑にはならない。また刑の執行はカリフあるいはその代理人のみの大権であり、家族に処分権はない。従って中東における「名誉殺人」はイスラームの教えによってではなく、イスラームの教えが守られていない例として、説明されねばならないのである。

勿論、あらゆる社会にとって、社会規範からの逸脱の一定の存在は常態であり、デュルケームが指摘した通り、むしろ社会の健全さの証左ですらある。イスラームにおいても同様であり、理想の時代とされる預言者ムハンマドの時代も例外ではなく、偽信者や殺人、姦通などの大罪を犯す信者も存在して、それを認めた上で、預言者ムハンマドの時代が最善の時代である、というのがイスラームの考える理想の時代である。イスラームの考える理想国家は、犯罪者が存在しえない聖徒の集団が相互に監視しあう全体主義的警察国家のようなものでは決してない。


現在の世界は、欧米の植民地支配の直接の産物である。
工場製品のような「モノ」に限らず、
領域国民国家、常備軍、官僚制度、
大使館、徴税制度、不換紙幣通貨制度、
24時間の時刻、グレゴリオ暦、メートル・グラムの度量衡、
学校教育制度、国旗、国歌等々、
政治、経済、文化の全ての領域に欧米の植民化支配は貫徹されており、イスラーム世界もその例外ではなく、制度、生活様式、世界観の全てにおいて、欧米の影響が圧倒的に大きい、という事実を我々は再確認しておく必要がある。


言論に対して刑事罰を課すことをもって言論の自由の抑圧と呼ぶなら、預言者風刺画に対して刑事罰を課すイスラームも、ホロコースト否定に刑事罰を課すヨーロッパ諸国、イスラエルも同じであり、どちらにも言論の自由など初めから存在しないのである。そもそも欧米に言論の自由が無い以上、欧米の言論の自由とイスラームの宗教の尊重という対立の構図も成立しない。

欧米とイスラームでは、禁じられていることの範囲が違い、言論についても同様で、それぞれが別の禁止のコードを持っているのである。対立があるとすれば、その対立は言論の自由とその抑圧の間にあるのではなく、異なった種類の自由、異なった種類の抑圧の間にあるのである。

以上の議論を整理しよう。預言者風刺画事件は偶像崇拝の禁止と言論の自由の対立ではない。イスラームはユダヤ教、キリスト教と同じく偶像崇拝を禁じているが、偶像崇拝の禁止は、ユダヤ教、キリスト教の場合と同じくかならずしも、肖像画の禁止を帰結しない。現実の現代のイスラーム世界は、肖像画に溢れており、預言者ムハンマドの肖像画すら散見される。”



以上よりイスラームは↓のようなキリスト教の矛盾の大部分を克服していることがわかる。




「ゴッドが悪魔、地獄、異教徒を創造したのはなぜ?」

「貴方にとって異教は全て悪魔崇拝?」

「悪魔崇拝の定義は?」

「悪魔崇拝をゴッドが創造したのはなぜ?」

「全知全能なら心も読めて未来も既知だから、試す必要がないのにヨブを虐めて信仰を試したのは本当はゴッドは無知無能極悪非道だから?」

「ヨブ記でサタンが殺人する許可を出したのはゴッドなのでサタンはゴッドの部下。なぜ野放し?」

「聖書の言葉は真実なのに新約の四福音書が互いに矛盾があるのはなぜ?」

「イエスが実在する聖書以外の物証(歴史的記述など)は?」

「どの翻訳聖書が良い?」
(翻訳聖書のいずれかを勧められたら)

「誤訳ありの翻訳聖書のどこが神の言葉?」
(翻訳聖書は本当はダメだがまずは翻訳聖書などと言われたら)

「新約にイエスの言葉の個所は殆どなく大半は新約聖書記者の言葉。
イエスが話す場面だけ読めばいい?」

「イエスの言葉はアラム語説が有力なのに新約は古代ギリシャ語。
どこがイエスの言葉?」

「イエスの死後かなり経過してからできた聖書よりも
より古い聖伝(聖伝の一部が聖書)を保持する正教が良い?」

「グノーシス派が本来の真のキリスト教説もあるのでマニ教(真のキリスト教を自称)などが良い?」

「キリスト教は教祖が生贄になったことに感謝する教義なのに、なぜ異教の生贄を批判?」

「葡萄酒とパンをイエスの血肉として食うのはカニバリズムが元ネタなのでキリスト教は悪魔教?」

(教会が悪魔、ルシファー、ユダヤ、イルミなどに乗っ取られイエスの教えは改悪された云々に対し)
「いつどのような事件で乗っ取られた? 」

「イエスの思想が乗っ取られる前から邪悪でない根拠は?」

「 乗っ取られたなら聖書も改竄済み。どこが改竄された?イエス本来の教えを知る方法は?」
「貴方の信仰は本当にイエスの教え? 」
「なぜ改竄者が異教徒(ユダヤ教、悪魔教信者など)限定?」
「改竄前の聖書とはキリスト教の元ネタの宗教の聖典?」

↑の矛盾をなくすため新キリスト教を作った支配層



(ユダヤ教のタナハ=キリスト教視点では旧約
は当然ヘブライ語原文を翻訳せずに読む。
翻訳には積極的ではない。コーランも。
しかしヤソ教はやたらと翻訳に積極的。
翻訳こそが魔法の場を作る=陣地作製から。

ヤソが侵略用に本来のキリスト教(正教とか古代グノーシスとか)を改悪しまくった証拠の一つが
やたらと翻訳に熱心でしかも原典にない誤訳をもとに教義にしたり
それを聖書にありますとかほざくのが許されているところ。
本来きちんとした一神教なら翻訳はあくまで便宜的で仕方ないものであり
しないといけないとしても
それはやがて原語を布教協力者も読めるようにしていかないといけない。
翻訳に熱心、翻訳聖書を思想定着後も使い続けてOKなら侵略用以外の何物でもない。
耶蘇は支配に都合がよい、聖書に根拠のない教義を創りすぎ。

イエスがアラム語で新約を書いておらず
翻訳語である古代ギリシャ語でイエスではなく人間が原本を書き
原本は散逸し写本しかないのに
どうやって正確なイエスの教えを知ることができるのかヤソ信者に教えてほしい。)





クルアーンのこの翻訳を選んだ理由は
まずは多数派のスンナ派に沿った翻訳を読むべきだと考えたのと
井筒訳は最初に読むのはまずいと判断したから。

中田考先生の井筒訳の評価は以下の通り。
井筒先生を高く評価しているが井筒訳は高く評価していない。


中田考@HASSANKONAKATA
クルアーンの原文は、アラブ人読者にも複数の解釈を許す非常に多義的で曖昧な文体だが、
井筒訳は彼自身の解釈で断定しており歯切れがよく分り易い代わりに曖昧さが伝わらない→
@JERRYKISARAGI:井筒俊彦のコーランですが、偏りが有ると言う話を聞いた事がありますが、どの様な感じ…?

井筒訳の問題は、
クルアーン注釈者たちの間でも解釈が別れている曖昧で多義的な表現を
無理矢理一つの意味に切り詰めてしまうことですね。
我々の訳はできるだけ原語の曖昧性、多義性が伝わるように工夫してあります。 https://twitter.com/suou_racoon/status/904267285203791875 …

いえ、糾弾しているわけではありません。
クルアーンは大釈義学者の間でも解釈の対立が数多くあるのであり、
唯一の正しい翻訳は原理上ありえません。
ただ井筒訳に独断が多いのは事実なので、求道者には多様な読み方を許す拙訳の方がお勧めです。 https://twitter.com/masaogpgpjad/status/683254212562522112 …


"@t2abdl: @HASSANKONAKATA @KahvaltiTurkmen 読んだことないんですが井筒訳版ってそんなにひどいんですか?"
ひどい、というより文体が古すぎるし、不正確です



私も井筒先生のような碩学に教わりたかったなぁ。
そうすればもうちょっとマシな研究者になれたのかしら… 私が習ったのは中村コージローだからなぁ
(T_T)/~~~ → 『井筒俊彦とイスラーム』を読みながら東京へ♪ http://via.me/-6cl58ki



比較文明・比較宗教学者としては20世紀世界最高の知性でしたが、イスラーム学者としてはあの時代にしては驚異的な学識だった、というだけで、今のじぶんにとって特に学ぶべきものがあるとは思ってはいません。 →@shuhsann: また先生の井筒俊彦観をうかがえれば幸甚です。


仏、独語は自分の専門分野の研究論文ならば辞書を引き引き大意が取れる、ヘブライ語は文字が読めて辞書が引ける、ギリシャ語は文字が読めるかどうか、という程度。オリエンタリストなら、私程度には誰でも複数の語学を齧ってますが、私の知る限り井筒先生のような本物のポリグリットは今はいません。


あまり知られていませんが(というより知っているのは私と加藤先生御自身だけですが)井筒俊彦、中村元亡き後、加藤先生は世界最高の比較文明学者です。 RT @Saxifraga_S: 加藤隆『新約聖書の誕生』読書中。。やっぱりこの先生は分かりやすいし面白いなー。



シーア派12イマーム派神学生の兄貴の評価
(クルアーンの一部を訳したある人に対してのエアリプ)
蟹ぢから溢れる @onesyotasekai

7月24日
うーんとね…第33 章40節に書いてあるخاتَم ハータム khatam という単語は封印とも出てくるけど、同時に証明印となるものという意味もある
で、ここでは形而上が封印という意味と同時に証明印を押した存在という意味や他にも全ての行為の最も最後という意味もあるなので複数の意味を知らんと使えない

で、وَ خَاتَمَ النَّبِيِّين とあり…ここは「また預言者『達』の封印」であって、当然のことながら複数であるからにこれ以上は出てこないというのは複数形であるが故に担保されている
なので、封印としか書かれていないではなく、そのخاتم というのはただ単に封印だけを意味していない

で、王者というとملك و مالك となり
確かに形而上の意味をもって使われる事もあるがそうすると何故にبِسمِ اللهِ なのかが説明つかない
だから、独立して考えるべきでそもそも直訳すれば「アッラーの名は赦し、優しい」なので意訳するにも当の連中がこの言葉をどう扱っているか知らないと論外

では、この言葉…どんな時に使うか?
先ず、仕事を始める瞬間・講話を始める瞬間・飯を食べ始めるその瞬間・ガタついた窓を開ける瞬間・緩い家の鍵を開ける瞬間・寝る瞬間・大小便する瞬間等々…何をするにも最初に言うのがこの言葉である
そこでやっとこの言葉の一側面が理解する事が出来る

要は「自分の行いが形而上の御加護にあります様に…形而上が望んでいないとしても赦されますように」以外にも「ションベンやうんこが変な病気として出ませんように若し出てしまっても助けて下さいますように」という意味もある…他にもうんすん…だから、この言葉は厳密には翻訳出来ない

なので、実際に聞いて・学んで・現場を見て・真剣に考えて翻訳した井筒訳を無視できないのは
井筒自身がアラビア・ペルシャ・フランス・確か英語等の文章と翻訳を読んで渾身の翻訳であり、批判はあれど基本的にはこの翻訳で動かないのは様々な翻訳書・原文・スンナ・シーア派の解釈の総意だからである

最低でも井筒はعلوم قرآن و تفسیر و ترجمه و تاریخ を 網羅した上での翻訳である
もし、コレを超えるクルアーンがあるとすれば中田考氏監修のクルアーンか澤田達一氏のクルアーンくらいだろう
なので、最低でもこの二つを持った上で原文理解が出来ないと話しにならない
それに古典フスハー知らんでしょ

例えば、アラビア接語論で古典フスハーと現代フスハーの違いの一例としてمفعول مع が ある
これは単純に言うと「~と共に」みたいに接語する単語で一緒にとなるがコレは現代フスハーではしない
他にも双数系は本当に限定したい時以外は使われない等…細かい違いがある

まーそれ以前にマディーナ啓示とマッカ啓示の違いがわからないのに解釈なんて出来ると思っている時点で論外
だから、核汚染語でاسلام の話をしたくはないんだ
こーいった、初歩の話しもできないのに確信・コア・中心となる部分の話等出来ないのでおねショタするね




クルアーンへの必須の基本姿勢。

蟹ぢから溢れる@onesyotasekai
2月20日

人間如きが正しくクルアーンを理解できるわけねえだろアホ
クルアーンには直喩と暗喩がある、そして何が直喩で何が暗喩なのかははっきり言うとわからない
それはその本拠となる伝承集が嘘塗れで
仏典がお釈迦様がおっしゃった事になっているように
ハディース集も同じ事になっているだからわかる訳がない

「ぼくらのかんがえたただしいくるあーん」でしかないイスラーム世界において正しいイスラームを知る事は不能
もし、できるとなれば
「このスーレのこのアーヤのこの部分はスンニ派のハナフィー派…シーア派12イマーム派では…スーフィーの何何は…」という事以上はできない、先ず大前提が大間違い

https://twitter.com/onesyotasekai/status/966073795021811713
そもそも、えげつない事を言えば預言者(?)の真正伝承は二代目カリフの時に集められて燃やされているので今残っているのは初代カリフから三代目カリフにとって都合の悪くない伝承でしかなく、とっくのとうに改竄されている物だけが残っている代物でしかないのでスンニ派の伝承は全部偽物とも言える

だからといって、シーア派が正しいのかと言うとそういうわけでもない
シーアといっても色々いるし、今のところ12イマーム派ウスール学派が強いのはイランという国自体もだし、様々なシーア派が12イマーム派化しているという事実もあり
ただの国勢と宗派伸長が等しく伸びているだけだとも言える

じゃースーフィーや神秘主義とかはといってもここら辺は普遍思想や万教帰一とかに流れやすく、万教帰一を選択すると「別にイスラームじゃなくていいじゃん、それだと何故に形而上は預言者を特定するんじゃ」という不毛な議論に陥るので意味のない事になる
なので、本当のイスラームはないが大正解

本当のイスラームはないのに何で勉強しているんだ、という事になるけど
本当のイスラームがないというのを確認するべく勉強しているわけでその確信を得るためにしているのよ
真実は探すものではないが真実ではないものは探さないと見つからない、何故なら真実ではないものは真実と偽装されているからだ

https://twitter.com/onesyotasekai/status/966079649339060227
しかも、恐ろしい事にその真実でないものが大多数によって賛同され、さも当然・既成事実・進歩発展等と色付けられてこの世に大量にあることだ
例えば、おいさんは預言者(?)が啓示を受けた存在だとは信じていると同時にただのキチガイの予迷い事である事も頭の隅に置いてある、コレがないと惑わされる

疑う為には先ず組立られている前提を知らねばならない、習う事
そして、習う事でその基礎を立てられなければ疑う事もままならない
だから、おいさんは信じろなんて馬鹿な事は死んでも言えん、おいさんは信じるに値すると思って信じているがそれは当然、疑いが完全に晴れた信じるではないということだ

(兄貴が「神」や「アッラー」やゴッドという言葉を使わない理由)

3月1日
何だかわからない存在というよりは
人類はその何だかわからない存在を何だかわかるように努力してきたのが全体的な学問の歴史なのと
おいさんが形而上と言わざるおえないのは
形がないのと理性だけとは限らないので形而上と取り敢えず置いている
本来はこれも僑居なので何か良い言葉がないものかねと

なので、大いなる存在というのも完全な間違いなのよ
何でかというと、小さくもあれる誠に自由自在な何かであるからね
華厳教のように一切即一・一即一切・多即一・一即多の世界なので
大いなるという言葉を使っている時点でやっぱりよくわかっていない
だから、やそ程度の有神論では仏典に対抗できない

あーやっぱり仏教と中国思想やらないとダーメだー
印度哲学はここにいっぱいインパキいるので習う気にもならないけど、
真面目に仏教哲学と中国思想哲学は触らないと宣教も対抗も出来ん
宣教するつもりはないけど、敵を作らない為には知らないと対処できないのでやらないとダーメだこりゃ

そりゃーねー、中村元先生よんどけばいいみたいなのあるけど
おいさんが知りたいのは細かい表現と考え方なわけでそれは実際の学者や博士・修士過程まで行った僧侶の意見を聞きたいのよ
で、その細かい所が全部であったりするの特に宗教という世界は全部ソレなので探すしかないんだろうなぁ


2月21日
前も言った通り、この世界は細かいところが全て
細かいところを知らない連中がする、比較や批判は全部詭弁・妄想・願望だから叩き捨てろ、見るだけ無駄だ
そもそも、フォロワーが多いアカウントは特殊・特性を持っているアカウント以外は全部詭弁がうまい連中と見ている
で、それで外れた事はない


2月5日
議論というのは細かい事が全てなのですが、一般人というのはこの細かい事を全く理解できない
または扇動・冷笑行為をする連中はそれを混ぜる事で自分の都合の良い方に言葉を組み立てるので扇動・冷笑するものを駆除したい時は細かいところまで問い詰め続ける事です
いつの時代も細部が全てです

2月1日
じゃー若い内はどうすればいいのか?と聞かれたら
先ずは「〜全史・〜入門」と書かれている本を手に入れてよくよく読み込みなさい
何でかというとそこにはお約束・如何なる立場でも共有されている知識または如何にして分派化したのも必ず書かれている筈だから、先ず前提を身につける必要がある

ただねー…その書いている人がどういう立場かによって細かい表現が違ったりする事があるので
それは警戒して読んだほうがいい
ただ、前提知識がないのに喚くよりは遥かにマシなので
お約束を身につけてから立場の差を知るのが一番良いと思う
人間全部おいらも含めアホなのでアホさを知るのはちょー重要




中田考監修、中田香織、下村佳州紀訳/作品社・
『日亜対訳 クルアーン 「付」訳解と正統十読誦注解』


(以下の指摘を受けて本記事を修正。

蟹ぢから溢れる🦀
💪
‏ @onesyotasekai
10月2日
比喩に関しては単純で
シーア派的には本来の「集められたモノ」に比喩表現の解釈も使徒(ص) とアリー(ع) が啓示があるたびに集め・書き残されていたのでその説を取ると今「ただ残っている」ウスマーン版の「読むべきモノ」は案の定、読まれては誤読されて今の分派形成があるので確かに読むべきモノである

そもそも、最初のクルアーンの解釈者…啓示物に対して解釈を入れたのは使徒であって
そう考えれば、使徒がその解釈を入れていない訳がないわけ
ただ、それもウスマーンが燃やしちゃったのと
伝承ではアリーがウスマーンが恐る恐る完成したものを読ませてアリーからの一応の承諾を貰ったこととなっている

ここからも言えるように「ただちぃいしゅらーむ」何てものはその当時からもう消滅しているわけであくまでも「イスラームらしきモノ」でしかないわけ
だから、おいさんは「イスラームらしきものの残滓」を拾うくらいなら、
先ず道徳的である事を最優先するべきであると言っているわけなんよ、簡単っしょ

10月2日
使徒(ص) は厳密には孤児ではない
どこに書いてあるんだよ、そんな戯言…あーもー、えーとねぇっ
先ずね、使徒(ص) のお父様は産まれる前に行商している時に亡くなったのは事実でその時はおじさんのところに引き取られている
で、五歳の時にマッカで疫病が流行ったので郊外へ行ってそこで育っている
んで、確か7歳か8歳の時に母親がなくなって、後見人だった祖父もなくなる
その後はアリー(ع) の父であるアブー・ターレブが後見人となっている
で成人までというのが正式的な歴史の流れで
狭義的には両親を亡くしているので孤児という表現が出来るがそれは日本語として正しいと言う事はできないだろう

日本語的な意味合いで孤児というと本当に一人だけ、親戚にも迫害されて完全な一人もの見たいな意味合いを取られかねなく
基本、アラブでは子供は一族が育てるものなので孤児と表現するよりは両親を幼くして亡くしたと表現した方が不要な誤解釈を避ける事が出来る
こーいう細かいのが全てなんよ


部分集合を集めても全体集合にはならない
推論は立てられるがそれは答えではない
後、43 章49 節は前後文読め
その時言った彼らは46 節に書いてあるようにフィルアウン(悪政者)とその長老達であって、ムーサー(ع) ではない
クルアーンは前後文が続いている場合とない場合がある

10月2日
ハディース・伝承というものは確かに様々な厳密な経由や聞き語りによって成り立っているものではあるが
所詮は伝承でしかないので本来はクルアーンの諸々…
即ち歴史や変遷、如何に啓示を受けてきたかや読み方・暗記等をしてから習うもので事実、要らんの大学の教養課程ではعلوم حدیث は やらない

で、よく出てくるصحيح البخاري とかは その伝承集の成立を知らないと使えないし、それを理解せずに引用しているクソリム共が殆ど…本当に根絶して貰いたい
この伝承集は12イマーム派としては11 代目のイマームで一応、存在していたイマームでこの人はアッバース朝によってずっと監獄に入っていた

んで、このブハーリィというおっさんは
30000 ある伝承から正しいとされる伝承を意図して2000抜き出して来たのがこの伝承集でこの伝承集は勿論、公正なモノではなく三匹のヒラーファとメス豚の戯言が確か…全体の15% 以上であるが、
4代目のヒラーファであるアリー(ع) を経由したものは10個位しかない

もっと言えば、5代目ヒラーファのハサン(ع) や愛娘ファーテメ(س) だと 1個あるかないかである
この様に意図的に編纂されているのを理解した上で使うのが伝承集であり、
核汚染の虫けらクソリム・クソリマはこーいう経緯や歴史を知らずして用いているのが多く、だから核汚染ではイスラームは出来ない


10月3日

おいさんは改宗した立場ではあるが未だに己を仏教徒だと思っている節があるし、
その観点を忘れてしまうとただの傲慢不遜でしかないのでコレまた火獄への道なってしまう
だから、ここでは一つの罪が70 年間の敬虔や謙虚を消してしまうと言うのでそこを忘れている改宗者が実に核汚染では多い
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蟹ぢから溢れる
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‏ @onesyotasekai
10月3日
核汚染でイスラームするには
クソリムとクソリマと関わらずに学者や一定以上の知識を修めた人以外とは関わってはならない
一般的にここまでわかっていないし、己の部族でやっていた事をクソラームと信じているので関わるだけ無意味で時間の無駄
また、改宗核汚染人は気違い塗れなのでロクなのがいない

どう気違いかというと大概は社会・家庭から疎外されて来たのが改宗するので
女性のムスリマの場合は結婚改宗という形でマトモな人が多いが
男の場合は大抵は上記の当て付けで改宗するような終わっているのが多いので
核汚染では男の気違い度が段違いに高い
なので、特にクソリムとは関わらないが大吉


10月3日

まー、ただ基本はダメっぽいね
後、肉食獣に関してはうちらは既定上の屠殺をしても食べてはならないがその皮を身につけるのは可能だったと思う
しかし、礼拝時は身につけて礼拝しても礼拝が無効になるとか、色々と細かい規定がある
例えば、猫吸った後に猫の毛が付いている状態では礼拝は成立しない
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🦀
💪
‏ @onesyotasekai
10月3日

ああ、そうそう死肉の規定ね
おいさんが習ったこととしては宗教上の規定を守って屠殺していないもの
野獣やおぬこ様、ワンコがとってきたものやそういった獣が食い残した肉
なので狩猟でとってきた肉は色々と細かく異なる事がある、
例えばまだ生きているのであるならば則って屠殺すればいいとかね


・序
下村

礼拝で邦訳クルアーンが読まれることはない。

仏教には無数の経典があるが
歴史上のシッダッタにさかのぼれるものは少ない。

新約の原典はイエスの用いたアラム語ではなくギリシャ語であり
イエスの肉声をほとんど保存してない。
カトリックでは公式の正典はギリシャ語原典ではなく
標準ラテン語訳ヴルガータである。


仏教やキリスト教においては
開祖ゴータマ、イエスの肉声を伝えることに重きが置かれておらず
その開祖の言葉を記録した原典のみが絶対の真理を伝える正典
とはみなされず原典と翻訳の間に絶対的な区別がなされることもない。

ところがクルアーンではムハンマドの肉声のアラビア語の読誦が現在に至るまで
口伝えで伝承されている。
書物としても第三代カリフ・ウスマーンが結集したウスマーン版と呼ばれる
欽定クルアーンがスンナとシーア派の宗派の別を問わず世界中で共通して用いられており
他の言語のヴァージョンは存在しない。

(釈尊は人々がわかるように説きなさいと教えたので翻訳OK。

イスラームはムハンマドが文盲(つまり啓示を受けた本人が文章化できない)
でも問題なかったのはクルアーンは文字ではなく音声にて下されたから。
クルアーンは読誦されるもの。
しかしマニみたいに自分で啓示を文章に記していたらより完全な一神教になっていただろう。
当時は音声記録媒体がないので、読み方やリズムが失伝や変化してしまうのはユダヤ教をみればわかる。
大衆支配に都合よく意図的に誤訳する手口はクルアーンでは使いにくい)


ヘブライ語聖書と新約は書物であるが
クルアーンが書物だと考えるのは誤り。
アラビア語では書物としての聖書にあたるものは
ムスハフ(字義は「紙に記入されたもの」)
と呼ばれ、
書かれた内容であるクルアーンとは概念的に異なるばかりでなく
名称からして全く別物。
ただしクルアーンはムスハフの内容であると同時にタイトルでもある。
そもそもクルアーンは読誦されるものを意味し
書かれたものではない。
書かれた文書としてのクルアーンのムスハフの正典性は
クルアーンにとって副次的なものでしかないと言うことが出来る。

クルアーンは声としてムハンマドに啓示されたものであり
方言の違いなどによる、幾通りかの読み方、発音があることは
ムハンマドの生前から周知であり
書かれたテキストとしてのクルアーン(ムスハフ)はクルアーンを読む補助記憶でしかない。
クルアーン学は古来からクルアーンの多くの異読を保存し
それらの真偽を判定した結果、
ムハンマドにさかのぼる正統な読みを確定する作業を続けてきた。


現行のムスハフは結集命令者第三代カリフ・ウスマーンの名に因んで
ムスハフ・ウスマーニー(ウスマーン版テキスト)
と呼ばれる。
信者の心の中に暗記され、
読み上げられるものとして存在していたクルアーンが
一冊の本の形を取ったのは彼の結集の結果である。
この結集は
西暦645年(ヒジュラ暦25年)頃、
つまり預言者ムハンマドの没後15年ほどが経ってから行なわれたが
現行のクルアーンはこのムスハフ・ウスマーニーを忠実に継承している。

クルアーン結集の時点で
イスラーム・カリフ国は
既にササン朝ペルシャを滅ぼし
ローマ帝国の経済文化的にもっとも豊かな領土であったエジプト、
北アフリカとシリアを支配下におさめた世界最大の帝国であった。
そしてウスマーンはムハンマドのイスラーム宣教開始の初年(西暦610年)に入信し
その後彼の死に至るまで20年以上にわたりずっと身近に使えた最古参の直弟子の一人であり
ムハンマドの娘婿でもあった。
つまりクルアーンの結集は
ムハンマドの高弟であったウスマーンが世界最大の帝国の元首として自ら指揮し
ムハンマド在世時のクルアーンの記録者であった
ザイド・ビン・サービトらに編集を命じて行ったムスリム共同体の総力を結集した
国家事業だった。

預言者の生前から、啓示されたクルアーンは
書板、ラクダの肩甲骨、木片など
に書き留められており
初代カリフ・アブー・バクル、
第二代カリフ・ウマルも書き留められたクルアーンの断片を書き物としてまとめる作業は行っていた。
ウスマーンの結集の意義は
組織的なクルアーン全巻の公式な完全版の作成、異本の焼却による正典化にある。

ウスマーン時代は初期イスラームにおける二大分派である
シーア派とハワーリジュ派はまだ発生していなかったため
クルアーンの結集に党派的対立はなかった。
よってユダヤ教やキリスト教におけるような
ユダヤとサマリア、
初期キリスト教における諸分派間の対立により
それぞれの党派が各個に独自の正典を制定するといった事態も生じず
後のイスラームのすべての分派がウスマーン版のみを正典として認めている。


アラビア語は原則的に三つの子音を語根とし
その活用と変化によって品詞や意味の違いが生成する言語。
文化・学問の蓄積・発展と共に
専門用語としての新造語を作るよりも、
できるだけ古来より日常的に使われていた言葉に専門用語としての意味を
重層的に付け加えていく傾向がある。
イスラーム学の用語については一つの単語が
クルアーンの啓示の以前の語源的意味
クルアーンの啓示によって新たにもたらされた聖法的意味、
後のイスラーム学の専門分化によって特定された専門用語的意味
を重層的に有することが往々にして見られる。


クルアーンと聖書(ヘブライ語聖書と新約聖書)
の主要な相違は以下の三点にまとめることが出来よう。


聖書は多様な文書群を一冊の聖書にまとめたのが聖書の編集者である。
対して
クルアーンはムハンマドの授かった啓示のみをまとめたものであり
ムハンマドの生前から「一冊の本」だと呼ばれていた。


聖書の正典化がそれらの文書群の成立より何世紀か遅れて
政治的な権威の裏付けなく行われたの。
対して
クルアーンの正典化はムハンマドの没後15年経っただけの時点で
自分自身も20年以上に分かり預言者に身近に仕えた
最古参の直弟子であった第三代カリフ・ウスマーンが
クルアーンに通じた預言者の高弟たちを結集して
当時の最大の世界帝国の元首として国家事業として行った。

(政治的権威の裏付けは内容の真実さの裏付けにはならない。
が、権力者なら聖典確定のために莫大な
人モノ金=研究費
を投入できる点では
政治的権威の後ろ盾があることは重要)


聖書の正典化はユダヤ教徒、キリスト教徒が政治的統一を失い、
多くの分派が政治的・思想的に対立する中で進められ
正典文書の選択にもそうした対立が反映された。
聖書の正典化は正統派の成立、異端の排除と並行して進行したのであり
正典となった文書群も当時のすべての信徒によって認められたものではなかった。
一方、
ウスマーン版欽定クルアーンの成立は、
預言者の弟子たちがハワーリジュ派、シーア派、スンナ派などの宗派に分裂する前
のことであり、正典化が宗派的対立の影響をこうむることもなく、
ウスマーン版欽定クルアーンは成立当初から現在に至るまで、
全ての信徒によって正典として認められている。



ユダヤ教徒のヘブライ語聖書は
1世紀の終わりごろにヤムニア(ヤブネ)会議で確認され
トーラー(律法)、
ネヴィイーム(預言者)、
ケトゥビーム(諸文書)の頭文字をとって
タナハと呼ばれる。
このヘブライ語本文を
マソラー学者が5世紀から10世紀までに編集した
(8世紀以降に母音記号等を加えた)
ものがマソラー本文で全24書である。
ラビ・ユダヤ教ではトーラーから申命記の最後までのすべてが
モーセによって書かれたとされる。
他方
西欧聖書学はトーラーをモーセが書いたとも、
ヨシュアがモーセの言葉を書き留めたとも考えず、
ヤハウィスト、エロヒスト、祭司記者、申命記史家などの
匿名グループの資料を匿名の編集者が編集したものと考える。

新約正典27文書は4世紀末から5世紀にかけて確定され
福音書、使徒的文書、ヨハネの黙示録からなる。

新約に含まれる神(イエス)の言葉はごくわずかでしかなく
大半は新約聖書記者たちの言葉。


近代聖書学はQ資料と呼ばれるイエスの言葉を集めた語録の存在を仮定しているが
20世紀半ばに発見されたナグ・ハマディ文書の一つ「トマス福音書」はイエス語録である。

(タナハ教も新約教も聖典が確定された歴史的にみれば
聖典根本原理主義が成り立つとみなすことがおかしい)

新約が神の言葉とみなされるためには
聖書霊感説の立場をとる必要がある。
聖書霊感説は
聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ
(新共同訳 テモテへの手紙二 3:16)
を典拠とする。
ただしこのテモテへの手紙二にある
聖書
はヘブライ語聖書であり
その時点では後の新約聖書は存在しない。
原始キリスト教団の残した文書群のうちで
どの文書が神の霊の下に書かれているのかを示す言葉は、
それらの文書群の中には残されていないため、
新約の結集は遥か後代の4世紀末から6世紀にかけての
教会の選択に委ねられることになる。


渡辺善太いわく
「正統主義神学の聖書聖典観は、
普通逐語霊感説と呼ばれている。
…聖書正典の著者霊感観に立つとは、
聖書正典中の六六冊の諸書が、
それぞれそのしるされた時において、
聖霊の直接的霊感によってしるされたものであり、
その意味においてそれぞれの著者は、
聖霊またはキリストの『書記』であり、
『手』であり、
『筆』であるとせられ、
それぞれの著作における
いっさいの人間的なるものの参与を否定する立場に立つことをいう」


対して、
クルアーンはムハンマドただ一人が授かった神の啓示の書であり、
彼からクルアーンを聞いた直弟子たちの手によって
彼の死後15年ほど経ってから書物化される。
それが既に述べた
ウスマーン版欽定クルアーンである。
ヘブライ語聖書が
1 神の言葉
2 預言者の言葉
3 預言者に関する聖書記者の編集句
という三層構造を有したのと異なり
クルアーンでは書記たちの編集句も
ムハンマド自身の言葉も完全に排除され
ムハンマドが授かった神の言葉のみから成り立っている。

ジブリールがムハンマドにクルアーンを「誦め」と命じたことや
「預言者ムハンマドがそう語った」とアーイシャが語った
というような編集句はハディースのレベルで見いだされるのであって
クルアーンには一切混入していないことが重要。

ムハンマドが伝えたアッラーの言葉の中でも
クルアーン以外のアッラーの言葉と、クルアーンは明確に区別されている。
クルアーン以外のアッラーの言葉を預言者が伝えるハディースは
神聖ハディースと呼ばれる。
(アブー・フライラ(直弟子の名前)(ヒジュラ暦54年没)経由
~経由
で~アブー・フライラ(直弟子の名前)が伝える神聖ハディースに曰く。
~。
~は以下のように言った。
アッラーの使徒は以下のように言われた。
~(ここが神の言葉)
という構造が本書にあるが詳細は割愛。
没年も記されるので
ムハンマド存命のときの人か、
彼の没後あまり経ていないかなどがわかるようになっている)

このハディースでは集成者ブハーリーが
神の言葉がムハンマドによって語られたことを
その直弟子のアブー・フライラが「アッラーの使徒は言われた」
と述べて伝えたハディースを
自分から彼にさかのぼる伝承経路と共に記録している。
このハディースにおいては
ブハーリーの編集句、
伝承者、
ムハンマドの言葉からはっきりと区別された
純粋な神の言葉であるにもかかわらず
一冊の神の書クルアーンの一部を指すものではないことが
ムスリムたちの間では自明とされている。

(ハディースは内容が誤りである可能性がゼロではないことが重要)

クルアーン18章109節にあるように
アッラーの言葉は無限に存在することが前提とされている。
人間に対して語りかけられた言葉はその一部に過ぎない。
神聖ハディースが示すように、
預言者に対して語りかけられた言葉はその一部に過ぎない。
そして神聖ハディースの存在が示すように、
預言者に対して語られたアッラーの言葉ですら
全てが啓典であるわけではない。
一冊の独立の書物をなす啓典は
預言者が授かったアッラーの言葉の中でも特殊なカテゴリーであり
そうした啓典が
モーセの律法の書(亜 タウラー)
イエスの福音書(亜 インジール)
ムハンマドのクルアーンなどとなる。
クルアーンは
アッラーの言葉の中でも
人間に対して語りかけられた言葉の一部の
預言者たちに臨んだ言葉の一部の
預言者ムハンマドに臨んだ言葉の一部の
預言者ムハンマドに下された啓典となる。

個々のハディースは信憑性の程度により
真正から偽作までさまざまな評価がなされたが
それは純粋に個々の学者の批判に任されていたのであり
正典化が公会議のような権威によって機関決定されることもなかった。

イスラームは預言者に神性を認めない。

アッラーは
世界を最初に創造した後には世界と関わり合いを持たない
第一原因、法則、あるいは理神論者の神ではなく
この世界の個物のすべてに通暁し、
そのすべてを差配する生きた神である。

人間を他の被造物から分かつものは理性や言語ではない。
自らの意思で善を行い、悪を避ける義務を負うことによって
他の被造物になり特別な存在論的地位を有する。

クルアーンには聖書にあるような家系図がないどころか
ムハンマドの家系についてすら言及がない。

クルアーンは同害報復の正義を追認する一方
自らの罪の贖罪になることを教えてむしろ相手を赦すことを勧めている。
立法の妥協を許さない峻厳さを緩和し、
新約の非現実的な赦しの理想主義も否定する
現実主義的な中庸の立場。

クルアーンも殺人禁止だが
正統な理由なしに
との除外詞がついている。




クルアーン2:30~2:36日本語訳
” そして彼はアーダムに諸々の名前をそっくり教え(21)、
それからそれらを天使たちに示し、
言い給うた。
「これらの名前をわれに告げよ、
もしおまえたちが正しければ」。
 彼らは言った。
「称えあれ、あなたこそ超越者。
あなたがわれらに教え給うたこと以外に
われらに知識はありません。
まことにあなた、あなたこそはよく知り給う英明なる御方」。
 彼は仰せられた。
「アーダムよ、彼らにそれらの名を告げてやるがよい」。
彼が彼らにそれらの名を告げると、仰せられた。
「われは諸天と地の見えないことを知っており、
おまえたちが明かすものも隠したものも知っているとおまえたちに言ったではないか」。
 また、われらが天使たちに、「アーダムに跪拝せよ」(22)と言った時のこと、
彼らは跪拝したが、イブリース(23)は別であった。
彼は拒み、思い上がった。
そして彼は不信仰者たち(のうちの一人)であった。
 また、われらは言った。
「アーダムよ、おまえは、そしておまえの妻も、楽園に住め。
そして、どこでも望むところで(望みのままに)存分に食べよ。
だが、この木には近づいてはならない。
そうすればおまえたちは不正な者たち(のうちの二人となる)であろう(24)」。
 それで悪魔が(25)二人をそこから躓き出でさせ、
二人のいたところから彼らを追い出した。
そしてわれらは言った。
「落ちて行け(26)。おまえたちは(27)互いに敵である。
そして、おまえたちには、地上に一時の住処と食糧がある」。”p.35

註釈
”21 「創世記」の記述ではアーダムが動物や鳥の名前をつける。「創世記」2章19節参照。
22 崇拝の跪拝ではなく、表敬の跪拝。
23 彼は幽精(ジン)の太祖であり、天使の間に居た。7章11-12節参照。
24 20章115-123節、「創世記」2章16-25節、3章参照。
25 イブリースが。
26 地上に。
27 アーダムの子孫とイブリースの子孫は。”p.35

※注釈の数字は原文では小さな数字だが
表現できないので()でくくった。
2:30など章節を示す個所は省略し、
引用前に範囲を提示した。
他の個所の引用も同様。

(クルアーンでは名づけを行うのはアッラーであり
人間アダムではないのが重要
)

クルアーン7:11~7:25日本語訳
” そしてわれらは確かにおまえたちを創り、
それから形作り、それから天使たちに、
「アーダムに跪拝せよ」と言った。
すると、彼らは跪拝したが、
イブリース(736)だけは跪拝する者たち(の一人)とならなかった。
(アッラーは)仰せられた。
「われがおまえに命じた時、
おまえが跪拝しないとは、なにが妨げたのか」。
彼は言った。
「私は彼より優れています。
あなたは私を火から創り、
彼を泥土から創り給いました」。
 仰せられた。
「では、ここから落ちていけ。
そしてここでは高慢であることはおまえに許されていない。
それゆえ出て行け。
まことにおまえは卑しい者の一人である」。
 彼は言った。
「彼らが蘇らされる日まで私を猶予し給え」。
 仰せられた。
「おまえは猶予された者たち(の一人)である」。
 彼は言った。
「あなたが私を惑わし給うたことに誓って(737)、
必ずや私はあなたのまっすぐな道で彼らを待ち伏せしましょう」。
「それから必ず彼らを彼らの前から、
彼らの後ろから、
そして右からも左からも襲いましょう。
そして彼らのほとんどが感謝する者でないことをあなたは見出すでしょう」。
 仰せられた。
「非難され、追い払われた者としてここから出ていけ。
彼らのうちおまえに従う者があれば、
必ずわれはおまえたち一同で火獄(ジャハンナム)を満たすであろう」。
 そして「アーダムよ、おまえとおまえの妻は楽園に住め。
そして、どこでも望むところで食べよ。
ただ、この木に近づいてはならない。
さもなければ、おまえたちは不正な者たち(の仲間)となるであろう」。
 それから悪魔は二人にささやき、
彼らに彼らから隠されていた陰部を顕にしようとし、言った。
「おまえたち二人の主がおまえたちにこの木を禁じ給うたのは、
おまえたちが天使となるか、
永遠に生きる者となるからにほかならない(738)」。
 そして彼は二人に誓った。
「まことに私はおまえたちに対する忠告者たち(の一人)である」。
 そうして彼は欺きによって二人を引き降ろした。
それで二人が木(の実)を味わうと、
陰部が顕となり、楽園の葉で身を被い始めた。
二人の主は彼らに呼びかけ給うた。
「われはおまえたちにその木を禁じ、
悪魔はおまえたちの明白な敵であると言わなかったか」。
 二人は言った。
「われらが主よ、われらは己に不正をなしました。
もしあなたがわれらを赦し、
慈悲をかけ給わなければ、
われらは損失者たち(の仲間)となります」。
 仰せられた。
「おまえたちは(739)互いに敵として落ちてゆけ。
そしておまえたちには地上に定住地と一定の時までの楽しみがある。
 仰せられた。
「そこでおまえたちは生き、
そこでおまえたちは死に、
そこからおまえたちは引き出される」。”pp.181-182

註釈
”736 2章34節、20章116節参照。
737 「惑わし給うたために」との解釈もある。
738 20章120節参照。
739 アーダムと妻のハウワーゥとイブリース。”
pp.181-182

(聖書よりもクルアーンの方が女性を大切にしている。
旧約ではイブがアダムに食べてはいけない実を渡したことが女性蔑視の原因の一つなのだが
クルアーンでは二人が食べたとあるだけだから女性蔑視ではない内容。
イスラームでは聖書は改竄ありと考えるので
旧約の上記の内容は改悪されたものではなく
クルアーンの内容が真に正しい改竄なき聖書の記述ということになる。)


・p.40
スンナ派の信条では
動物にも無機物にもアッラーへの認識と知識があるが
いかに認識しているかの具体的な様態はアッラーだけがご存じ。
動物や無機物にも礼拝がありアッラーに賛美を捧げ
アッラーを畏怖している。

・p.45
そして彼らは、スライマーン王の治世に、
悪魔たちが読むことに従った。
スライマーンは不信仰に陥らなかった。
ただ、悪魔たちが信仰を拒絶し、
人々に魔術を教え、
バービル(バビロン)の二人の天使ハールートとマールートに
下されたものをもまた(教えた)(91)。
しかし、両者は
「われらは『試練』にほかならない。
不信仰に陥ってはいけない」
と二人が言ってからでなければ誰にも教えなかった。
彼らは両者から妻と夫の間を引き裂くことを習ったのであるが、
彼らはアッラーの御許可なしにはそれで誰をも害することはできなかった。
彼らは自分たちを害し、益しないものを習ったのである。
そして彼らは、まさにそれを買った者、
その者には来世には何の分け前もないことを確かに知っていた。
そして彼らが自分自身をそれと引き換えに売ったもの(魔術)のなんと悪いことよ。
もし彼らが知っていたならば。(2:102)”

91 ハールートとソールートは魔術師であったとも言われる。


(バビロンの天使にして魔術師の二人の天使は
ロクアカのアルカーンの武器の元ネタだろう。
しかもクルアーンのソロモン登場箇所に出てくるし)


雌牛
p.71
2章256節
”宗教に強制はない。
既に正導は迷誤から明らかにされた。
それゆえ、邪神たちを拒絶しアッラーを信じる者は
切れない最も堅い握りを摑んだのである。
アッラーはよく聞きよく知り給う御方。”



註釈
預言者ムハンマドの弟子のフサインには二人の息子があったが、
預言者の召命以前にキリスト教徒になっていた。
その後、二人がマディーナにやってきた時に、
フサインは二人に
「おまえたちがムスリムとなるまで
私はおまえたちを行かせない」
と言った。
そこで彼らが預言者ムハンマドに訴えた。
父親が
「アッラーの使徒よ、私の肉親が獄火に入るというのに、
それを私は座視できましょうか」と言うと、
この節が下され、彼は二人を行かせた。

(「ムスリムにならないと、~することを認めない」と言って信仰を強制することの禁止。

クルアーンは註釈で啓示が下ったときの状況を知らないと間違いなく誤解するな。

イランの教科書では

”「宗教には無理強いということが禁もつ」
(第二章牝牛256節)”
が紹介されているが実質、イスラーム以外の選択肢はない



・p.86
アッラーがイーサーを生きたまま掴み(召し)天に上げたというのが最有力説。
他に、眠らせたの意、死なせたの意、語順が逆の説がある。
最後の説は
われの許に上げ、(その後終末の前に地上に下ろし)
その後召す(死なせる)の意。


・p,101
殉教者の魂は肉体を離れるとすぐに楽園に入るが
一般の信仰者の魂は復活の日に肉体と共によみがえり
最後の審判を経て楽園に入る。


・p.113
4章34節(例の「打て」のところ)
イスラーム学者は
打つことは許されるが避けたほうがよいことで合意している。
虐待する方法、口実を探してはならない。


・p.134
イーサーは父親なしに
アッラーの「あれ」との御言葉によって創造されたために
アッラーの御言葉
と呼ばれる。
また、ジブリールがマルヤムの子宮に吹き込んだ息によって
アッラーの霊を吹き込まれて生じたので
アッラーの霊
とも呼ばれる。

(イエスはイスラムで優遇されている)



・p.136-137
5章3節の食事規定に
空腹で禁じられたものを食べることを余儀なくされた場合は許されるとある。
(そうしないと悪用されまくるからな)

・p.138
不信仰の民に対する憎悪、敵意から
彼らとの約束を破ったり、
子弟を殺傷したり
財産を奪うなどの不正を行ってはならない。
ムスリム同胞だけでなく
異教徒の敵にも公正にふるまわなければならない。


・p.142
5章33節は強盗に対する刑罰。
手足を互い違いに切断されるとは
右手と左足の切断であり
財産を奪ったが殺人は犯さなかった者への刑罰。

・p.164から165
註釈
人間は生前には善行と悪行を帳簿につける天使が同行し、
死に臨んでは魂を召し上げる天使が遣わされる。

最後の日、死の天使イスラフィールが角笛を吹くと
全ての生きものが死に絶えるが、
二度目に角笛を吹くと全ての霊魂が身体に還り甦る。

・p.179
6章158節註釈
終末の予兆には、
ダッジャール
(偽メシア:「ヨハネの手紙上」2章18節参照)
の出現、

イーサーの再臨、

それからヤアジュージュとマアジュージュ
(ゴグとマゴグ:「エゼキエル書」38章、
「ヨハネ黙示録」20章7-9節参照)の出現、

獣(ヨハネ黙示録13章参照)の出現があり、
太陽が西から昇ることなどがあると言われる。

(巻末索引の
ダッジャールの項目にあるページは179ページのみ)

・p.203
7章187節より
最後の審判がいつかは預言者ムハンマドも知らず、
アッラーのみが知り給う
という教え。
註釈にマルコ福音書13章32節とある。

(マルコ福音書13章32節は
終末の日時は父なるゴッドのみが知っていることであり
天子も神の子イエスすら知らないという個所。

”13:31

天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。
13:32
その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。 ”
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)

イエスも知らないのが意外。
三位一体論では知識を共有しないらしい。
終末の日時を特定している宗派は聖典を否定していることが確定。

マタイ福音書24章36節も同主旨。

”24:36
その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。 ”
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)


結城浩@hyuki
1月4日

聖書的には「日付を指定したこの世の終わりの予言」はすべて嘘です。

(マタイ24:35-36)
天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。)



p.213
8章61節の註釈824:
(敵が和平に傾いたらの文脈で)
庇護契約、休戦協定、寄留者安全保障契約などを交わせ。
多神教とに関する庇護契約については
「剣の節」(9章5節)で廃棄されたとも言われる。



・第9章 悔悟
冒頭に
慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御名において
が書かれない唯一の章。
冒頭に因み
絶縁

とも呼ばれる。

「剣の節」(9章5節)
”それで諸聖月が過ぎたら、多神教徒たちを見出し次第殺し、
捕らえ、包囲し、あらゆる道で彼らを待ちうけよ。
だが、もし彼らが悔いて戻り、礼拝を遵守し、
浄財を払うなら、彼らの道を空けよ。
まことにアッラーはよく赦し給う慈悲深い御方。”
p.217

(言っておくが、この個所の適用はかなり限定的なので
適用範囲も知らずに叩く発言は無価値。
『クルアーン入門』に適用範囲について詳細に書いており、
詳しく私が過去記事にしたのでどうぞ。
シーア派12イマーム派でも適用はかなり限定的。)



・※当たり前だが、””でくくっていない個所は本文の引用ではないから、
引用するときよりも確認回数が少ない。

p.221
9章34節
信仰する者たちよ、
まことに律法学者と修道士の多くは人々の財産を虚偽によって貪り、
アッラーの道を妨げる。
また金と銀を貯め込み、
それをアッラーの道に費やさない者たち、
彼らには痛苦の懲罰という吉報を伝えよ。

35節
火獄(ジャハンナム)の火の中、
(金銀が)熱せられ、
彼らの額と脇腹と背中がそれで焼きごてを押される日に。
これがおまえたちが自分たちのために貯め込んだものである。
それゆえ、おまえたちが貯め込んだものを味わえ。

(ユダヤ教学者とキリスト教の修道士批判。
全ての~ではなく、「の多くは」としているのが良い。
イスラームではケチは悪。
罰としての烙印は額、脇腹、背中の三カ所らしい。
詳細な位置は不明。

そういえば、手足を交差するように切り落とす刑罰は、
右手左足らしいが、二回目はどうするのか?
どの程度落とすのだろうか?
しかしなぜ左右互い違いなのだろうか?)


・p.283
13章37節
そしてこのように、われらは、
それをアラビア語の規範として下した。
それでおまえが、
おまえに知識がもたらされた後で、
彼らの妄執に従ったなら、
おまえにはアッラーに対して後見も防ぎ手もいない。

38節
またわれらはかつておまえ以前にも使徒たちを送り、
彼らに妻と子孫を授けた。
そして、使徒にとって、
アッラーの御許可なしに徴をもたらすことは出来なかった。
あらゆる時代には書がある。

註釈
どの時代にも、その時代に応じた律法を定めた啓典がある。
あるいは、万物には寿命があり、
それは「護持された書板」(85章22節)に書き記されている、との意とも言われる。

39節
アッラーは御望みのものを消し、
また確定し給う。
そして、彼の御許には「書物の母」がある。

註釈
森羅万象が予め書き記された普遍の書。
護持された書板と書物の母は同一物とも、
両者は別の物で、
護持された書板に書かれたことはアッラーが御望みのままに書き換え給うが、
書物の母は永久不変であり、
アッラーの知そのものであるとも言われる。


(やはりクルアーンがアラビア語の規範。
護持された書板と書物の母って神智学のいうアカシックレコードの元ネタ?
神智学はイスラーム神秘主義なども取り入れているっぽいし。

そういえば、唯一神が「父」であり「母」でない理由を
聖典以外の根拠で神学者はどう説明しているのだろうか?)



・p.284
14章4節
アッラーが使途を派遣するなら、
必ずその民族の言語を話す者が使徒に選ばれる。

教えを明示するためである)

・p.291
15章8節の注釈
天使が降臨するのは天罰が下されるときでしかない。
あるいは、叡智に基づく何らかの理由がなければ天使は降臨しない。

(天使を善良なる存在という意味で使う人が日本語話者に多いのはヤソの影響だろうな。
黙示録読むと天使が来ることは不吉なのにな)


・p.292
15章26節
また確かにわれらは、人間を変質した黒土のからからの粘土から創った。

註釈
あるいは「乾いた泥土、変質した黒土」

15章27節
そして、ジャーンヌを、われらは以前に灼熱の火から創った。

註釈
ジャーンヌとは幽精(ジン)のことであるとも、
幽精の太祖(イブリース)ことであるとも言われる。

(ジャンヌじゃないよな?


もしかして、惑わせる者イブリースの材料である火って火獄の火?
彼(クルアーンに「彼」とある)以外の天使たちはアダムに跪いて拝礼したので
人間(ただしアーダームなのでほとんどの人間より地位が上)>天使。
実際、
預言者(人間)>天使>預言者でない一般人)


・p.309
16章115節
彼はおまえたちに死肉、、豚肉、
そしてアッラー以外の名を唱えられ(屠殺され)たものだけを禁じ給うた。
但し、反逆者ではなく、無法者でもなく余儀なくされた者であれば(罪はない)。
まことにアッラーはよく赦し給う慈悲深い御方。

(死肉の定義が気になる。
たいていの場合、生きたまま食べることはないからね。
血もダメだから、何かの儀式で血を飲むのもダメ。
キリスト教の儀式でワインをイエスの血として飲むのもダメだろうね。
そもそもワインは酒なので二重にダメ。

シーア兄貴による
死肉の規定の解説の要約。
シーア派十二イマーム派では
宗教上の規定を守って屠殺していないもの
野獣や猫や犬がとってきたものやそういった獣が食い残した肉。
なので狩猟でとってきた肉は色々と細かく異なる事あり。
例えば
まだ生きているのであるならば規則則って屠殺すればいい。
しかし死肉は基本はダメっぽい。
肉食獣に関しては既定上の屠殺をしても食べてはならないが、
その皮を身につけるのは可能だったと思う。
しかし、礼拝時は身につけて礼拝しても礼拝が無効になるとか、色々と細かい規定がある。
例えば、猫を吸った(おそらく顔をうずめてモフモフした)後に猫の毛が付いている状態では礼拝は成立しない。




・pp.312-313
17章15節
「導かれる者、彼は己自身のために導かれ、
迷う者、彼は己自身に仇して迷うのである。
荷を負う者は、他人の荷を負うことはない。
そしてわれらは、使徒を遣わすまで懲罰を下す者ではない」。

註釈
この説はイスラームの宣教の到達が懲罰の条件であり、
使徒が遣わされず宣教が届いていない民は全て、
不信仰であってもアッラーの恩寵により救われるとの学説の典拠とされる。


(日本列島に使徒は来たのだろうか?
使徒は日本語で宣教しているはず。記録はないのか?)

・p.314
17章29節から17章34節の注釈

財産を握り締めて放さず吝嗇になってもならず、
逆に手放しに散財してもならない。

預言者の言葉によると、
殺害が合法化されるのは、
背教、姦通、
無辜のムスリムの故意の殺害の三つの事由である。

後見(殺害された者の遺族)は、同害報復法によって復仇が制度的に保障されている。

孤児の後見は、自分の管理下の孤児の財産には、
有益に運用する以外は手をつけてはならない。



・p.318
17章70節
註釈
天使に関しては預言者たちは天使よりも高貴であるが、
一般の人間よりは天使の方が高貴である。



・p.331
18章83節
註釈
ズー・アル=カルナイン(二つの角を持つ者)は
通説ではアレキサンダー大王。

・p.332
ズー・アル=カルナイン(二つの角を持つ者)が、
ある部族に貢租と引き換えにヤアジュージュとマアジュージュを防ぐ為の防壁を作るよう頼まれ、
承諾し作らせた話。
障壁は鉄と銅でできている。
ズー・アル=カルナイン(二つの角を持つ者)が作らせた壁を
ヤアジュージュとマアジュージュ(聖書のゴグとマゴグと同定される)は
越えることも掘削することもできなかった。
しかしこの壁も最後の審判の時には壊れる。
以上の趣旨の話がある。


18章84節から18章99節まで
”まことに、われらは彼を地上において勢威を授け、
あらゆるものから彼に方途を与えた。

そこで彼は方途を辿った。

やがて、ついに太陽の沈むところに達すると、
彼はそれが泥の泉に沈むのを見出した。
そして、彼はそこにある部族を見出した。
われらは言った。
「『二つの角を持つ者』よ、
懲らしめるなり、
彼らに善を施すなりせよ」。

彼は言った。
「不正をなした者については、
いずれわれらが懲らしめよう。
それから彼は彼の主に戻され、
彼は酷い懲罰で彼を凝らしめ給うであろう」。

「一方、信仰し、善行をなした者については、
彼には応報として至善がある。
そして、われらは彼に、
われらの命令から安易なものを言いつけよう」。

それから彼は方途を辿った。

やがてついに太陽の昇るところに達すると、
彼はそれがある部族の上に登るのを見出したが、
われらは彼らにそれに対して覆いを設けていなかった。

このようであった。
そしてわれらは、
彼(「二つの角を持つ者」)の許にあるものを
確かに知識として包摂した(知り尽くしていた)。

それから彼は方途を辿った。

やがてついに二つの障壁(山)の間に達すると、
その手前にある部族を見出したが、
彼らは言葉をほとんど解さなかった。

彼らは言った。
「『二つの角を持つ者』よ、
まことにヤアジュージュとマアジュージュはこの地で悪をなす者たちです。
あなたがわれらと彼らの間に障壁をなす条件で、
われらはあなたに貢租を払いましょうか」。

彼は言った。
「わが主がそれにおいて私に権限を授け給うたものは一層良い。
それゆえ私を力で助けよ(労力を提供せよ)。
私はおまえたちと彼らの間に防壁をなそう」。


「私の許に鉄の塊を持ってくるがよい」。
やがてついに二つの(山)際の間を平らかにした時、
彼は、「吹け」と言った。
やがてついにそれを火にする(灼熱させる)と、
彼は言った。
「私に持って来い、溶けた銅、私がその(灼熱の鉄の塊)の上に注ぎ込もう」。

すると、彼ら(ヤアジュージュとマアジュージュ)はそれ(防壁)を越えることができず、
掘削もできなかった。

彼は言った。
「これはわが主からの御慈悲である。
だが、わが主の約束が到来した時、
彼はそれ(防壁)を(破壊し)平坦になし給う。
そしてわが主の約束は真実であった」。

そしてその日、
われらは彼らが互いに打ち寄せる(入り乱れる)ままに任せた。
そして、角笛が吹かれ、われらは彼らを一斉に集める。”

※(18:99)などの章節番号や、註釈番号は省略。


註釈
方途=望みの物を得る手段、道を。

覆い
=日陰をなす建物や陽射しを遮る衣類。

言葉をほとんど解さなかった
=特殊な言語で話し、
他の民族と意志疎通がほとんどできなかった。

通説ではヤアジュージュとマアジュージュは
聖書のゴグとマゴグと同定される。
「創世記」10章2節、
「歴代誌上」1章5節、
「エゼキエル書」38章、
「ヨハネ黙示録」20章7-9節参照。
トルコ人、モンゴル人を指すとも言われる。


彼らが互いに打ち寄せる
彼ら=ヤアジュージュとマアジュージュ。あるいは全ての建造物。


(当然だが、二本角の東征者もムスリム。
アレクサンダー大王のことだという説が最有力だが、
あくまでモデル。なぜならアレクサンダー大王はムスリムではないから。

誤愚と魔誤愚とか
夜(奴、闇、病、厄、邪)獣呪とか
魔呪呪という音写が思い浮かんだ。





イスラム世界では特にアレクサンドロスを神に服従する、
全世界に教えを広める使徒としたキャラ付けが独特で、
それが彼の帝国を広げる戦いを拡大していたイスラムの聖戦に重ね合わせていたことが要因に挙げられていたところが面白い。

っていうか突然天使にさらわれて天空から世界をみおろしたり、
謎の異民族(というかほぼ怪物)ヤージュージュとマージュージュを封じるため鉄と銅ででっかい壁作ったり大変だなこの人。


この動画
山中由里子「二本角が表すもの」
https://www.youtube.com/watch?v=6yst70I2KCs&t=2s
すごすぎる。

もしかして最初に出ている司会進行役って中田考先生?

31分あたり
ズー・アル=カルナイン(二つの角を持つ者)の正体については
おおまかに三つの説があり
①アレキサンダー大王(最有力)
②古代イエメンの王サアブ
③ペルシャの王ファリードゥーン(アブラハムと同世代)

※聞き間違いの可能性あり。
動画の文字が読みづらいというか見えない。


35分あたり

なぜ二本角なのかについても多くの説がある。

①(最も広く受け入れられていただろう説)
太陽の二つの角(太陽の昇る場所と沈む場所)に辿り着いたから。
アラビア語のカルンQarnが角だけでなく
(特に明け方に現れるその日最初の)太陽光も意味することによる掛詞。


(二本角モーセが顔が光っているモーセに恐らく意図的に誤訳されたのと関連)

②アレキサンダー大王がペルシャ人とギリシャ人のハーフだから。
イランの伝承に基づく。

⑦王冠に角がついていたから。
⑪勇気が敵に角を突く雄羊のようだったから

雄羊の角つき冠を被ったアレクサンドロスのヘレニズム時代の貨幣がある。

角はゼウス-アモン神を象徴しているとされる。
アレキサンダー大王は遠征の途中にわざわざエジプトのゼウス-アモン神殿に立ち寄り、
彼がゼウス-アモン神の子であるという神託が下され、
彼が自称し、
アモンのコスプレをしたり
角をつけた肖像を彫らせたりした。

インド象の角、牧神パンの角(ヤギの角)バージョンもある。


ダニエル書8章にて
ダニエルが
2本の角を持つ雄羊を
1本角の雄ヤギが倒す幻視して、
ガブリエルが雄羊はメデアとペルシャの王であり、
雄ヤギはギリシヤの王だと解説。

ユダヤ教では
1本角の雄ヤギがアレクサンダー大王=ギリシヤの王
だと考えている。
つまり二本角ではない。


46分あたり
アレクサンドロスにまつわる
シリア語キリスト教伝承にて
アレクサンドロスは神から二本角を授かる。
神から授かった力が二本角に象徴されている。
これがクルアーンの二本角を持つ者の話の元ネタかも
(諸説あり)。

(モーセの二本角との関連では?
ズー・アル=カルナインは預言者っぽさがある。
でも預言者ではないはず。

イスラームでは二本角は悪い意味ではない。)


ヘレニズム時代にアレクサンドロス神格化の萌芽があり、
ローマの皇帝崇拝につながる。
ローマ皇帝の中にはアレクサンドロス模倣をする者がいた。

(「二本角=悪魔」はヤソ教特有の思想!
二本角=悪魔としている時点で耶蘇教思想。
黙示録の竜も角が沢山生えているから新約では角は悪いイメージ。

ヘブライ語聖書ではモーセに二本角が生えたという記述がある。
耶蘇が翻訳でモーセの二本角の個所を別の訳語にして隠したのは
「二本角=異教の悪魔」という教義を維持するためだろう。
ヤソが消し去りたい宗教が皆が皆
「角=強い=善=崇めよう」
だったから
悪にしたんだろ。

メソポタミアの神は角冠を被っている。
ユダヤ教でもイスラームでも二本角は善なる強者の象徴であり悪魔の象徴ではない。
クルアーンのズー・アル=カルナイン(二つの角を持つ者)は肯定的に描かれている。)















アラビア語カルンQarn
①角
②太陽光
の掛詞。
(二本角モーセから顔が光っているモーセへの誤訳を想起)
雄羊の角つき冠を被ったアレクサンドロスのヘレニズム時代の貨幣がある。
彼はエジプトのゼウス-アモン神殿でゼウス-アモン神の子だと神託が下されたので
角はゼウス-アモンの象徴。
@mryensrh11

アモン鍵mryensrh11
” 9月18日
ケルヌンノス - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%8C%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%82%B9 …


語源の所な
>ガリア語の carnon, cernon は「枝角」「角」を意味している
>同様に、古アイルランド語では cern は「角」を意味し、
>これらは原インド・ヨーロッパ語の *krno- からきたものである。
>ラテン語の cornu 、ゲルマン語の *hurnaz (英語の "horn" の元)も同じ語源である

これなあ 牛くんにもつながるんだよ
>ケルヌンノスはほとんど常に動物、特に牡鹿と共に描かれる。
>第一の眷属と考えられる牡羊の角をもった蛇と共に描かれるが、
>蛇自体も神であったかもしれない。
>また、これらほど頻繁ではないものの牡牛、犬やドブネズミなどの獣

で、そこへ 颯爽と子x5降臨、とつながる訳ですよ

アモン・プリンセスキャンディ・ウキウキモンキー・ホモランドセルさんが追加
祝福されし未完成ブラスト/ダームGoblin Tactician
@kitsuchitsuchi
アラビア語カルンQarn
①角
②太陽光
の掛詞。…
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hornと言えばさ
モーセがシナイ山に登った時角笛の音がしたって書いてるんだよね
出エジプトの19章とかそのへん

勿論これは英語版ではhornである


9月19日
けるぬんのすが歯科なのか牛なのか
けるぬんのすが歯科なのか牛なのか
羊なのか考えつつ
ぶっちゃけツノがあれば何でもいいのかねえ?
なんて考えつつ

なんでツノが日の出日の入りなんだろうねえ?
と考えつつ
(この前子x5に紹介してもらった動画見てねーんだ
なげーんだもんw)

これってもしかして白夜?
とか思うわけさ

太陽が沈みそうな所からぐぐぐっと昇り直す

これなら確かに牡牛座のマークにも見える

地平線にぐぐぐっと迫った太陽が
ぐぐぐっと登り直すみたいだろ?

だからこれはdeath and rebirth

ただ、、、
足臭いんだー大王

白夜見れたのか???


白夜

地面が真ん丸なら

牡牛座マークそのものだ

地平線(水平線じゃないよ)が見えるのは
日本じゃ北海道の一部だけど
360度全部が地平線なら
きっと真ん丸に見えるだろう

けど、欧米でも360度は無理じゃね?
山もなーんにも無い場所だよね?
無理じゃねと思ったら、、、、

あるよ ある


航海中の海原だ
航海するぐらいだから
凪を狙うだろうよ
じゃー、沖に出りゃ360度
真っ平らだよね

これならギリシャじゃ
白夜見えねえぞ?
って問題もクリアする
航海だから
そもそもギリシャじゃねえよ

と、まあ、ここまで仮説な


参考
(夏至と白夜
http://bb79a.blog.fc2.com/blog-entry-1625.html
にある白夜の画像だが
”ウェブ上にあった連続写真。太陽の一番低い所が真北。これは南極の画像のようだが、ノルウェーやスウェーデン北部では町で見られる。オスロは白夜にならないが、陽が沈んでも太陽が地平線の近くにいるので夜が青い。もう20年前の話だ。”とあるので元は別サイト)”


ぐだトマト@pteras14
9月11日

ケルヌンノスさん……


ねとらぼ認証済みアカウント @itm_nlab
9月11日

ごく普通のシカ(二足歩行)

一切普通じゃない「ごく普通のシカのゲーム DeeeerSimulator」のTwitterアカウントが誕生! 狂気、カオス、理解不能
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1809/10/news113.html … pic.twitter.com/SqFXnh7FBZ





アラビア語の双数形について
https://suikageiju.exblog.jp/19586649/

マゴグ(Magog)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B4%E3%82%B0

Magog (Bible)
https://en.wikipedia.org/wiki/Magog_

(Bible) Dhul-Qarnayn "Yajooj" and "Majooj" (Gog and Magog)
https://en.wikipedia.org/wiki/Dhul-Qarnayn

Yajuj and Majuj Gog and Magog
https://en.wikipedia.org/wiki/Gog_and_Magog#Gog_and_Magog_in_Islamic_tradition

イスカンダル イスカンダル・ズルカルナイン
https://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/7c85495b9d84e426eb8913836de43491

アレクサンドロス・ロマンス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B9)





・p.340
19章92節
”そして慈悲あまねき御方が子を持つことなどありえない。”

(イエスを含む、すべての神の子の否定。
このように比喩無しで明言されているのならいいのだが、
比喩的表現について言いたいことがあるので書いておく。

「当時あるもので喩えるのは、
当時の人にとってはわかりやすいけど、
何百年、何千年も経つと間違いなく誤解を招くから
聖典にあるとまずくない?」

「年月を経た人々のその喩えに使われたものに対するイメージの変遷も
絶対唯一形而上実在御方は当然考慮されておられるはずなので問題ない」

「人間の狭い認識範囲と、短い寿命での観測範囲では悪でも
終末までの期間としてみれば結局全体的には善
となるようになっていると言えば何言われても言い返せて都合いいな。
都合の悪いことは全部、
悪魔の幻惑だとか、悪意ある人間の仕業とか、唯一神の試練というのと同じだな。
これらの論法使った時点で説明を放棄しているよな。

物語も比喩も多様に解釈できるゆえに
時代が変わっても問題ないから
各宗教の神話や聖典が採用しているのだし、
物語と比喩は人間の潜在意識レベルまで強く変化させるから採用するに決まっているよね。
論説文で何百年何千年と生き残っている聖典なんて見たことないぞ」)


・20章ター・ハー
本翻訳書ではクルアーン原文と日本語訳と章が始まるごとに日本語で概要が書いてある。
本章の概要より:アーダムが食べて楽園を追放されることになる木は悪魔によって
「永遠の生命の木」と呼ばれている(聖書では知恵の木)。

(キリスト教のエデン追放エピソードは一部誤っているとして否定。
知恵の実を食べたから善悪を知ったり羞恥を知ったりしたということの否定。
永遠の生命の木を食べても寿命は永遠にならないらしい。
霊魂不滅になる?
でも最初から霊魂不滅だよね?

あとこの悪魔は文脈よりイブリース。
アダムへ跪いて拝することを拒否する話がまた繰り返されているからね)

20章120節から121節
だが、彼に悪魔が囁いて言った。
「アーダムよ、おまえに永遠(の生命)の木と衰えることのない王権について教えようか」。
そこで二人はそこから食べ、すると彼らには己の陰部が顕わとなり、
彼らは楽園の葉でそれら二つ(陰部)を覆い始めた。
こうしてアーダムは彼の主に背き、道を誤った。


・p.359
21章96節
ヤアジュージュとマアジュージュが解き放たれ、
彼らがあらゆる丘から走り来るまでは。


・p.361
22章5節
人々よ、もしおまえたちが甦りについて疑念のうちにあるなら、
まことにわれらがおまえたちを土くれから、
それから精液から、
それから凝血から、
それから創造されたものと
創造されたものでない肉塊から創ったのである。
おまえたちに(われらの威力の完全性を)明示するために。
そしてわれらは子宮の中にわれらが望むものを定められた時期まで留め置き、
それからおまえたちを乳児として出でさせ、
それからおまえたちは壮年(三十-四十歳)に達するのである。
おまえたちの中には召し上げられる者もあれば、
おまえたちの中には最も低劣な(耄碌の)年まで戻され、
知識の後に何も知らないようになるものもいる。
またお前は大地が枯れ果てているのを見よう。
ところがわれらがそこに水(雨)を下すや、
それは身震いし、盛り上がり、あらゆる麗しい種類の植物をも生じさせた。

註釈
創造されたもの
とは
人間の形をとったもの、

創造されたものでない
とは人間の形をとらなかったもの、未熟児
を指すと言われる。

召し上げられる
のは壮年になる前にである。

(人間の肉体は土と血と精液でできている)

・p.363
22章17節
まことに信仰した者、「戻った者たち」(ユダヤ教徒)、
サービア教徒、キリスト教徒、
マギ教徒、
そして多神を崇拝する者たち、
まことにアッラーは彼らの間を復活(審判)の日に分別し給う。
まことにアッラーはあらゆるものの証人となり給う御方。

註釈
マギ教徒
光と闇の二元論を信じ、火を崇拝するゾロアスター教徒を指すとも言われる。

(やはりイスラームは明確にゾロアスターをピンポイントで否定している教義がある。




。火葬も水葬も悪)
⑥飲酒ok

露骨にゾロアスター教破壊用でしょ?
教義のうち、日常生活に直結するものを真逆にしているのが重要。
イスラム教の場合は敵対するとはっきり表明する実例。
敵対するとはっきり表明せずに対象を乗っ取り破壊する実例であるマニ教の設計図”





兄貴のエアリプを要約すると

・シーア派12イマーム派ウスール学派の基礎解釈での犬は
「愛玩犬以外は条件があるけど飼っても良い」であって犬自体を全く禁止にしている訳ではない
猫が推奨されているのでもない。
預言者が猫を飼っていた伝承をシーア派12イマーム派ウスール学派は選択しない。

(イスラームの教義がゾロアスターと真逆のものが多いことについては言及せず)




・p.370
22章75節
アッラーは天使たちから使徒を選び給い、
人間からもまた。
まことにアッラーはよく知り、よく見通し給う御方。

註釈
天使とはジブリール、ミーカーイールなど。

・p.371
23章12節から15節
そして確かにわれらは人間を泥土の精髄から創った。
それから、われらは彼らを精液として丈夫な定着地に置いた。
それから、われらはその精液を凝血に創り、
その凝血を肉塊に創り、
その肉塊を骨に創り、
その骨に肉を着せ、
それからわれらはそれを別の創造に作りだした。
それゆえ、祝福多きかな、アッラー、創造者たちのうち最良の御方。
それから、まことにおまえたちはその後、必ずや使者となる。

註釈
別の創造
魂を注入することで別の存在となした。

(われらってことはアッラーと天使で創ったのだろうか?
主語は複数形、動詞は男性単数とか?
人間の不死の否定。でないと復活できないからね)


・p.392から
25章43節
己の欲望(妄執)を神とした者をおまえは見たか、
おまえは彼に対する代理人になるのか。

註釈
代理人
彼が己の欲望(妄執)に従うのを、
おまえが彼に代わってやめさせるのか。

論敵との論戦は、
敵との武力による戦いに優るので、
「大いなる奮闘(ジハード・カービル)」と呼ばれている。


・p.407
第27章 蟻
動物の言葉を解読する能力を授かったスライマーン王が
蟻の言葉を聞く逸話に因む。
終末に出現すると言われる獣について言及される。


(蟻は動物らしい)

・p.410
悪鬼(イフリート)登場。
姿は不明。
イフリートはジンの一人。

・p.414

”そして、彼らの上に(懲罰の)言葉が実現する時、
われらは彼らに大地から獣(1413)を出でさせ、
それは彼らに、
「まことに人々はわれらの諸々の徴を確信していなかった」
と語るであろう(27:82)”

獣の出現は終末の予兆の一つ。
獣とは人々を偵察する忍獣(ジャッサーサ)であるとも、
人語を話す動物であるとも、
獣のような人であるともいわれる。

(獣は海からではなく地面から登場するらしい)



・p.434
29章64節
そしてこの現世は戯れ、遊びにほかならない。
そしてまことに、来世の館、それこそ(真の)生である。
もし、彼らが知っていたならば。

註釈
消え去る現世を永続する来世よりも大切にすることはなかったであろう。





今の私如きに全てが理解でき納得できて
喜んで従えるようなことを命ずる程度の存在ならそもそも神ではない。
どの命令にも重層的な意味があり、
各々の時点で新たな意味が開示されるとしても、
やはり全てが頷けるわけではない。
といって、殆ど全てが理解できず不満な教えに従うのも、どう考えても不合理。

納得できることとできないことの最適なバランスの一般解はおそらく存在しない。
それが信仰というもの。)


・p.437
30章30節
それゆえ、おまえの顔を、
ひたむきにこの宗教に直面せしめよ。
彼(アッラー)が人々に造り給うたアッラーの本性を(遵守せよ)。
アッラーの創造に変更はない。
それこそ正しい宗教である。
だが、人々の大半は知らない。

註釈
イスラームは人間の本性に適った宗教である。
それゆえ
「全ての新生児は本性の上に生まれる。
ただその両親が彼をユダヤ教徒やキリスト教徒にするのである」
とのハディースにあるように、
人間はイスラームの本性を持って生まれるが、
親の教育により、異教に染まっていくのである。

(一切衆生悉有仏性かな?)

・p.459
34章14節
註釈
スライマーンは死後も、
死体が彼の杖にもたれかかって立った姿勢のままであった。
それで幽精(ジン)たちは、木食い虫が彼の杖を食み、
死体が倒れ伏すまで、
彼の死に気づかず、
生前にスライマーンが命じた苦役を続けていた。

(立死にするソロモン。
クルアーンではソロモンは立ち往生する)


p.480から
37章77節
註釈
一説によると、
人類は全てヌーフ(ノア)の子孫であり、
ヌーフの子サーム(セム)の子孫がアラブ人、ペルシャ人、ギリシャ・ローマ人、
ハーム(ハム)の子孫が黒人、
ヤーファス(ヤペテ)の子孫がトルコ人、モンゴル人となった。

(これイスラーム側の情報?
黒人ってアフリカ大陸の人って意味。
アラブ人も肌が(浅)黒いじゃん)

37章102節
註釈
創世記ではイブラーヒーム(アブラハム)が犠牲に捧げようとしたのは
イサク(イスハーク)であるが、
イスラームのクルアーン注釈者の間では、
イスハークが113節に後述されることから、
イスマーイール(イシュマエル)だったとするのが多数説。


・p.497
39章49節
そして人間を、災厄が襲うと、
彼はわれらに祈った。
恩寵を授けると、言った。
「私がそれを授けられたのは知識に基づくに過ぎない」。
いや、それは試練である。
だが彼らの大半は知らない。

註釈
試練
自らの成功が自分の能力によるものと自惚れず、
アッラーに感謝するかという試練。

(成功するかどうかは大半が運で決まるからね。
成功体験が参考にならない理由。
失敗体験は参考になることが多い気がする)


・p.501
40章11節註釈
二度死なせ、二度生かし給い

生まれる前の精子の状態が第一の死、
現世での生が第一の生、
現世での死が第二の死、
来世での復活が第二の生とされる。


・p.513
41章37節
また、彼の諸々の徴のうちに、
夜と昼、太陽と月がある。
太陽にも月にも跪拝してはならない。
それらを創り給うたアッラーに跪拝せよ。
もし、おまえたちが彼にこそ仕えるのであれば、

(自然=被造物崇拝の否定)



・p.526
43章48節
註釈

姉妹
徴(アーヤ)は文法上女性なので姉妹と呼ばれる。

(アヤちゃん)

49節註釈
当時、エジプトでは魔術師は学識者として尊重されていた、とされる。

(魔術を悪として叩く箇所が複数個所あるが
やっている内容を見ると
魔術師でない側=イスラーム側も魔術使っているんだけど。
信仰対象で魔術か否かが決まるのか?
これユダヤとキリスト教から受け継いだ、ダメな二枚舌じゃん。



シーア兄貴の指摘
”43 章49 節は前後文読め
その時言った彼らは46 節に書いてあるようにフィルアウン(悪政者)とその長老達であって、ムーサー(ع) ではない”)
について。
註釈だけ書いたのはまずかった。

ネット上の翻訳の引用(だって長すぎて手打ちは大変以下略)

43. 金の装飾 (アッ・ズフルフ)
http://www.way-to-allah.com/jp/quran/43.htm
”45. あなた以前にわれが遣わした,使徒たちに問いなさい。われは,慈悲深き御方以外に仕えるべき神々を置いたのか。

46. 本当にわれは,ムーサーに様々な印を持たせて,フィルアウンとその長老たちに遺わした。かれは言った。「わたしは,本当に万有の主の使徒です。」

47. ところが,わが種々の印を現わしたのに,見よ。かれらはそれを嘲り笑った。

48. それでわれが次々にかれらに示した印は,どれもその仲間のものより,偉大なものであった。そして懲罰をもってかれらを懲らしめた。必ずかれらは(われの許に)帰るであろう(ことを思って)。

49. その時かれらは言った。「魔術師よ,主があなたと結ばれた約束によって,わたしたちのために祈ってください。わたしたちは本当に導きを受け入れるでしょう。」

50. だが,われがかれらから懲罰を取り除くと,同時にかれらはその約束を破ってしまった。

51. そしてフィルアウンはその民に宣告して言った。「わが民よ,エジプト国土,そしてこれら足もとを流れる川は,わたしのものではないのですか。あなたがたは(そんなことが)分らないのですか。

52. わたしは,この卑しい,明瞭に言い表わすこともできない者よりも,優れているのです。

53. 何故黄金の腕環がかれに授けられないのですか。また何故天使たちが,付添ってかれと一緒に遣わされないのですか。」

54. このようにかれはその民を扇動し,民はかれに従った。本当にかれらは,アッラーの掟に背く者たちであった。

55. こうしてかれらはわれを怒らせたので,われはかれらに報復し,凡てを溺れさせ,

56. かれらを過去(の民)とし,後世の者のために(戒めの)例とした。”


より、
モーセが魔術師だと言われていて、
それをうけて、
エジプトでは魔術師は賢者扱いと註釈されている。
賢者=善ということだからだろう。
イスラームでも魔術師叩きの個所がここ以外にもあった記憶があるので
イスラームもヤソとかと同じく
行為は同じでも
崇めている唯一絶対存在のおかげなら魔術ではなく
異教徒が使うなら全部魔術=悪扱いという二枚舌をやっているのでは?
と考えて書いたはず。
イスラームにおける魔術概念の扱いについて日本語か英語でいい記事ないかなあ。

・p.552
50章16節
そしてわれらは人間を確かに創り、
われらは彼の魂が己にささやくということを知っている。
そしてわれらは彼に頸動脈の血管よりも近い。
17節
二人の受け手が右と左に座って受け取る時。

註釈
人間の言動を記録する二人の天使。
右の天使は善行を記録し、
左の天使は悪行を記録すると言われる。

(イスラームでは人はみな二人は天使がすぐそばにいる。
この二人の天使も頸動脈よりも近いところにいるのだろうか、
それならもう体が触れあっているじゃん。
だって頸動脈って体表面に近いけど体内じゃん。


右を優遇ってインド由来かもね。

右手が所有するもの
=女奴隷。
なぜ右手か不明。)


・p.560
53:14
最果てのスィドラ
スィドラはナツメの一種。
最果てのスィドラは楽園の第六天から第七天に位置し
この木より先には被造物の知識は及ばない。
諸天と地の上限であり
アッラーから垂示されるすべてのもの(預言者等)はここに降される。

(名作タイトルになりそうだな、最果てのスィドラ)

p.561
アッラートはターイフのサキーフ族の白い岩の偶像
アル=ウッザーはクライシュ族が崇めた木の偶像
マナートはフザイル族、マディーナのアウス族とハズラジュ族の岩の偶像であったともいわれる。


・p.573

56章77節
まことに、それは尊いクルアーンである。

78節
隠された書の中にある。


79節
それに触れるのは清められた者たちのほかいない。

註釈
儀礼的な浄化(ウドゥーゥ)で身を清めた者以外は触れてはならない。
前節の「隠された書」を護持された書板ととる解釈に従うと
この清められた者とは天使を意味する。

(本書はアラビア語原典も載っているからクルアーン扱いすべき。
異教徒は触れるなって説が確かある。
それだとどのような宗教か異教徒は調べるなってことだから
納得できるように説明して宣教せよという姿勢と矛盾しないか?
聖典読まれると困るのか?
まさか聖典に矛盾することを教義として騙っているのか?
とか勘ぐられちゃうぞ?
まあ翻訳なら註釈扱いだけどさ、
本書のように原文とセットにしてるのって……勘ぐられても仕方ないな!)


p.578
57章27節
修道院制度はキリスト教の創作でありアッラーの教えではない
という記述。
(イスラームに修道院制度はない)

・p.582から
戦闘が行われることなく降伏した敵から獲得した賠償金の配分規定がある。

59章7節
アッラーが町々の住民から彼の使徒に返し給うたものがあれば、
それはアッラーのものであり、
使徒と
(使徒の)近親、
孤児たち、
貧困者たち、
そして旅路にある者のものである。
おまえたちのうち金持ちたちの間での持ち回りとならないためである。
そして使徒がおまえたちに与えたものがあれば、
それは受け取り、
彼がおまえたちに禁じたものがあれば、
避けよ。
そして、アッラーを畏れ身を守れ。
まことにアッラーは応報に厳しい御方。

59章9節
また、彼ら以前から住居(マディーナ)と信仰を手にしていた者たちは、
自分たちの許に移住して来た者を愛し、
彼ら(移住者)に与えられたものに対して
己の心に必要(物欲・嫉妬)を見出さず、
またたとえ、自分自身に欠乏があっても自分自身よりも(他の同胞を)優先する。
また、己の強欲から護られた者、
それらの者、彼らこそ成功者である。

(イスラームの成功の定義。
アッラー崇拝が大前提。

ムハンマドが孤児だったので弱者にやさしい教えになっている。
金持ちに独占されないようにせよって聖典に書いてあるのがすごい。




シーア兄貴の指摘について。
確か、辞書引いて
孤児=両親のいない子なので両親以外が保護者になっても孤児だと判断して
孤児という言葉を私は使った気がする(記憶曖昧)。
しかし、
他の定義では親戚等の保護者がいるなら孤児ではないとするものもある。
となると、
「両親を幼くして亡くした」にすべきという兄貴の指摘は正しい。
イスラーム系の人がムハンマドは孤児って言っているのはまずくない?
注意深く避けている人もいるだろうけど。
アラビア語の孤児に当たる表現のニュアンスがわからない。

以上より、
孤児というより保護者がいなくて立場の弱い子供に優しいのほうが適切。)


・p.586
60章1節から9節で
敵対行為
(イスラームと戦ったり、
ムスリムをムスリムの家から追い出すなど)
をなしていない不信仰者に親切、公正に振る舞うことは禁じられていないことを明記。

(積極的に異教徒を探して迫害せよという教えはない。
剣の節は適用条件が厳しい)


・p.623
76章2節
まことに、われらは人間を
--われらは彼を試す--
混ぜ合わされた精滴から創り、
そして彼に聴覚と視覚を成した。

註釈
試す
われらは人間を試すべく、人間を創った。
あるいは、
われらは、われらに試される存在である人間を創った。
試すとは、
人間に対する義務負荷とそれへの対応を見ることを指す。

混ぜ合わされた
男女の性液が混合した。

(イスラームでの人間の誕生理由聞かされて嫌がる人多そうなんだけど)



・p.624

楽園の様子
76章21節
彼ら(敬虔な者たち)の上には緑の錦と緞子の服があり、
銀の腕輪で飾られ、
彼らには彼らの主が清らかな飲み物を飲ませ給う。
(イスラームは緑が善なるシンボルカラー。
オシリスの色も緑。
世界連邦ヤソ陣営が緑がシンボルなのはヤソ以前の宗教由来だろうな)

・p.647から
第89章 暁
冒頭の
暁にかけて
に因む。
アード族、イラムの町、サムード族、
フィルアウンの滅亡に注意を喚起した後、
審判の警告がなされる。

89章17節途中から21節途中まで
おまえたちは孤児を厚遇しない。
そして、貧しい者の食事(の施し)を奨励しない。
そして、遺産を貪欲にむさぼり食らう。
そして、財産を溺愛で愛する。
断じて(このようにあるべきでない)。

註釈
遺産を貪欲に~
善悪の区別なく、遺産における他人の権利まで貪る。

(孤児を厚遇せよ、
貧しい者に食べ物を施せ、
遺産(他人の権利)を貪るな、
財産を崇拝するな(拝金主義の否定)という教え。

ロクアカの
魔将星《魔煌刃将》アール=カーン
(イスラームの五行はアラビア語でアルカーン)
が学園地下迷宮地下89階で門番を務める理由がわかる。
この章の内容はこのラノベのアルカーンの話には反映されていない。
魔人側はイスラーム(おそらくイスラーム神秘主義)傾向がある側だからね。
彼は邪神(おそらくクトゥルフ)の試練を乗り越えて手にした13(!)の命と、

左手に持つ魔術を打ち消せる赤き魔刀
「魔術師殺し(ウィ・ザイヤ)」(こっちの元ネタはいまだ不明)、

右手に持つ霊体そのものを傷つけられる黒き魔刀
「魂喰らい(ソ・ルート)」(本記事で元ネタがわかる)
が武器。
時間停止能力者の女性に最後の命を殺されて消滅(影にすぎず本体ではないらしい)。
時間操作=ズルワーンの力
には勝てない。
ロクアカの詳しい考察は別記事でやっているのでご覧ください。
最新刊が出たら更新していきます。)


・p.655
96章18節
われらも
火獄の番人たち(ザバーニヤ)
を呼び集めよう。

(ザバーニヤかザバーニャかルビだとわからない。

イスラームの地獄は火獄と訳されるように熱いのだが、
仏教のように冷たい氷の地獄もあるのは少数派なのだろうか?

・p.666から
111章 棕櫚
預言者ムハンマドに激しく敵対したアブー・ラハブとその妻への呪詛。

111章1節から5節(本章全文)

慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御名において

アブー・ラハブの両手は滅び、また彼も滅びた。
彼の財産も、彼が稼いだものも彼には役立たなかった。
いずれ彼は、炎(ラハブ)を伴った火に焼(く)べられる。
彼の妻もまた(火に焼け)、薪を運んで、
彼女の頸(首)には棕櫚の縄が(つけられて)ある。


註釈
両手に対する呪詛は全身に対する呪詛を表現する。

アブー・ラハブの妻は、預言者ムハンマドを傷つけるために、
夜中に棘のある木の薪を運んで、
預言者の通り道においていた、と言われる。
また薪を運ぶとは、
人々の間に敵意と憎悪の火をつける中傷や、
陰口を言いふらすことの比喩ともいわれる。

(呪詛が聖典にあるのか……
なぜ棕櫚の縄を首に巻くのだろうか。
火獄だと燃える、そうか、それが目的か)



・クルアーン正統十読誦注解

松山洋平 筆

現代のスンナ派イスラーム世界では
クルアーンの十通りの読誦法「十読誦」が正統として認められている。
正統な十読誦のそれぞれの読誦法は
師(イマーム)あるいは読誦者と呼ばれる一名の読誦者に帰される。
これらの師の読誦法を普及させた人物を伝承者と呼ぶが
十読誦の師にはそれぞれ有力な二人の伝承者が存在する。
ただし、すべての伝承者が師に直接師事しているわけではない。
また、伝承者の読誦を伝える諸々の下位伝承は経路と呼ばれ
伝承とは区別される。
なお、各伝承者はそれぞれ有力な二種の経路を持っている。

(一人の師
二人の伝承者
四人以上の経路)


死亡年に付されたhはヒジュラ歴を意味する。

シーア派十二イマーム派では正統性が認められているのは
現代においても
七読誦のみ。

預言者ムハンマドと天使ジブリールは、
毎年のラマダーン月に
クルアーンの読み合わせを行い、
その章句の順序などを確認していた。


読誦法の分類
1 アラビア語の正しさ
2 ウスマーン版ムスハフの書体(rasm)への一致の如何
3 伝承経路の信憑性

アラビア語がクルアーンを守護するのではなく
クルアーンがアラビア語を守護する。
クルアーンの文言が正則アラビア文法の根拠。

以上

参考資料


【FGO】なぜイスカンダルはブケファラスに乗るのか?
http://tenfingers.hatenablog.com/entry/2018/03/29/015826


聖書の「正義」は「ジャスティス」ではない
http://tenfingers.hatenablog.com/entry/2017/03/27/082523

正義はゆるし、偽善はゆるさない
http://tenfingers.hatenablog.com/entry/2017/04/08/225816

一者
http://tenfingers.hatenablog.com/entry/2017/04/11/114547


【Fate】なぜ歴代ハサンは十九人なのか?【Grand Order】
http://tenfingers.hatenablog.com/entry/2017/02/26/015403

(日ユ同祖論カルト信者が好きな景教渡来説を採用している
ムスリムのサイト。
かなり勉強になるが注意。
正月はさすがに一神教由来ではないでしょ。
明治になって中身が改造されてキリスト教化した可能性はあるが。

日本人が必ず好きになるジャスティス
http://tenfingers.hatenablog.com/entry/2018/03/03/215158
”Authority should derive from the consent of the governed, not from the threat of force!"

「権力とは脅しではなく、統治されるものの同意から生まれるべきよ!」”

俺はイスラーム教徒なのでユダヤ教のティフリンに萌えたりしない
http://tenfingers.hatenablog.com/entry/2017/03/05/223859
'Let there be light.' And there was light.
イェヒー・オール・ヴァイエヒー・オール。
ヘブライ語で光はオールなのか(ヘブライ語勉強したこと忘れてる))



神も模するものとして、日本では天皇陛下などが挙げられますが、
やはりステーキを食べてる=新陳代謝の象徴たる画はあまり見当たらないわけですね。
象徴たる神は代謝をしないほうが望ましい。
あながち、もっともアイドルらしいアイドルはバーチャルユーチューバーかも。

「わたしはイスラム教徒として、女性から握手を求められると不快で、
セクシャルハラスメントだと思うが、
西洋人のように野蛮ではないので特に騒ぎ立てることはしない」という中田先生、偉い。
自分の崇高な義務を他人に課してはならない。


若者起業支援みたいなのまったくダメだ。
その理由、起業したい若者なんて「上からの圧力」みたいなの大嫌いな連中しかいないから。
税金で支援したら、当然進捗報告が義務になる。その業務報告が嫌。
甘ちゃんの中からイノベーションが生まれることもある。いまの起業支援からは絶対に生まれない


お読みくださり感謝!
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イスラームと中東情報はアラビアと現地語ができる人から得よう!原語無視のクルアーン解釈は粗デマ!『イスラム飲酒紀行』『イスラーム思想を読みとく』『クルアーン入門』 

イスラームと中東の情報源はアラビア語と現地の言語ができる人からでないとデマ度が高い!
英語は不正確。


前記事にシーア兄貴のツイート追加。
シーア派神学をイラン現地で学んでいる人なので大変な価値があるし
本人が言う通り銭を取れるレベル。











酒などについて誤解している人が多そうなのでとまとさんツイートを載せておく。



例えば豚肉。

自販機で売ってるソーセージとか
あるだろ?魚類の。
アレの成分表をチェックして豚の脂
を使用してないか確認する程の
徹底ぶりだぞ?

wikiの言う「緩〜いトルコ人」
の話だぜ?w


#FateGO
#FGO



本来は「酒は人の理性を狂わせるから」
というのが理由ですが、アレは
神の言葉で書かれた本という前提
なので、そこに人間の都合が入り込む
余地が無いんですよ。
「書いてある以上どうしようもない」
ってのが理解出来てない。


要は司法試験を首席で合格した
東大卒の裁判官が法解釈するのとは
次元の違う問題なんですよ。

実際はイスラームの法学者達が
色々解釈をしてはいますけどw

少なくとも何の理由も無く
キャラが酒を簡単に飲むのはマズイ。


文化の違いがある以上、異教徒の
日本人がイスラームについて無知
なのは仕方ないと思いますし、
アラブ人もそこは責めてこないと
思うんですよ。



ただ、きのこみたいなベテランの
プロ作家が入門本に書かれてある
初歩的な知識のリサーチを怠って
いたと言うのは、客観的に見ても
問題ありだと思いますね。

すんごい難しい事を勉強しろ!
ってわけじゃないですから。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2016年8月6日
なんか東方見聞録にアサシン教団が
飲酒してたと書かれてる?
(多分、間違いだと思いますが)
と指摘する人達もいますが、
そもそも人間であるマルコポーロと
神であるアッラーを比較する事自体が
おかしいと気付かなきゃいけない。

#FateGO
#FGO


イスラーム教徒に取ってマルコポーロの
著作なんざどうだっていい。

人間の書いた戯言がなぜ神の言葉を
上回るんだ?ってのが信者のスタンス
でしょう。



返信先: @pteras14さん

面白い事に円卓騎士のしまじロット
は一滴も呑んでない。
戦略会議中だとか言って。

きのこの中では西欧騎士様は超真面目
人間で美化されてるんだろうなー

ヨーロッパでは中世騎士なんざ野蛮で
低脳だったって事が常識なんだけどね。

#FGO
#FateGO



返信先: @pteras14さん

だから、ムハンマドの時代に無かった
酒はカウントされるのか?とか、
日本酒はアラブに無かったからおkって
事にはならないの!

「理性」を失わせる物はジュースでも
駄目なの!

#FateGO
#FGO

これは「神の言葉でも鵜呑みにしない
で自分の頭でちゃんと理解する事が
大切」って説いてる所がミソ。

じゃあ、なんで自爆テロとか起こす
んだよ?ってのは尤もな話で、
実際に実践出来てるムスリムは少数
って事。

理想と現実のギャップって奴さ。

簡単には実現出来ないから「神の法」
であって、「人の限界」ってわけ。
でも努力は続けなさいよ、って事。

一夫多妻制も続きがあって、
「一夫多妻おk。但し全ての妻を平等
に扱う事。それが出来なければ一人で
我慢しとけ」
って書いてある。

これは、絶対に実践不可能だと言われ
てる。全ての嫁を平等に扱うなんて
出来ないから。

でも、これも現実は一夫多妻の家庭も
あるし、徹底して実践するのは困難
だわな。これも「人の限界」ってヤツ。

コーランでは侵略して来た異教徒を
殺しても良いと書かれてる。
但し条件付きなんだ。

まず、相手がやった以上の報復を
してはならない事。
相手を許す事が出来ればこれが最上の徳。そして、
戦闘意思の無い者を攻撃しては
ならない。

これも実際に実践出来てるかと言うと
出来てないわけ。
これも「人の限界」ってヤツ。

つまり「人間は愚か者」ってわけさ。
だから死後、地獄に落とされる奴が
絶えないわけなのさ。






ぐだトマト
‏ @pteras14
2016年8月13日
イスラームもそうだけど、儒教も
四書五経やコーランの「文言」だけ
勉強しても意味無いんだよ‼︎

なぜ?その戒律が重要なのか?
なぜ?孔子はこの徳目を重視したのか?

その背景が重要なんだ。

適当に「親父に孝行しとく?w」って
選んだわけじゃない。

#FGO
#FateGO


後、孔子の引用の「親が三度諫言しても
聞き入れない場合は泣いて従え!」
の文言も解説足らずで間違ってるから
注意な!

これは中国というか、孔子の時代
(つまり春秋時代)の"孝"が何を指してた
のか考えないとダメだ!

この"孝"ってのは"父親"の事。
2件の返信 19件のリツイート 6 いいね
ぐだトマト
‏ @pteras14
2016年8月13日

なぜ"親父"なのか?
ここが重要なんだよ‼︎

つまり"母親"と"父親"の違いは
何か?って事。

2016年8月13日

儒教の世界、というより昔の中国では
"父親"ってのは生理的に"赤の他人"
と捉えれていた。何故か?

赤ちゃんはお母さんのお腹から
出てくるだろ?で、本能的にも
"母親"に対する愛着ってのは勝手に
発生する"自然現象"だと捉えられて
いた。
1件の返信 18件のリツイート 6 いいね
ぐだトマト
‏ @pt

何でか?というと昔の中国人は
「他の動物を良く観察した」んだよ。
で、人間以外の動物の世界でも
"父親"の地位が低かった。
狼は例外的だけど猫とか熊とか
子猫や子熊は母親と暮らすけど、
父親は生殖行為だけしてお別れだろ?
1件の返信 18件のリツイート 6 いいね
ぐだトマト
‏ @pteras14
2016年8月13日

そこで昔の中国人は"赤の他人"で
ある"父親"を大事にする子供に
なればきっと"心の優しい大人"に
育つはずだ!と、考えたの!

これが"孝"のなぜ"父親"を大切に
しないといけないのかの倫理的意義
なんだよ‼︎
1件の返信 21件のリツイート 6 いいね

ぐだトマト
‏ @pteras14

その背景には孔子の生きていた
春秋時代という戦争ばかりやって
人の命の価値がゴミみたいな
時代だったから、ともかく「心の
優しい思いやりのある人間」への
憧れと拘りが強かったのではないかと
言われている。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2016年8月29日

イスラームはシャリーアがあって
ユダヤはタルムードがあって
信者が何をすべきか分かるんだけど、
キリスト教って新訳だけじゃ何したら
良いのかよく分からん。

マタイの山上の垂訓ぐらいじゃないか?
律法っぽいの?

後はパリサイ派の悪口とパウロの
自慢話しか書いてないよな?
1件の返信 5件のリツイート 3 いいね
ぐだトマト
‏ @pteras14

この教会法典って奴が律法に相当
するのかね?

http://d.hatena.ne.jp/ronnor/touch/20110224/1298507486 …

その割には絶版だし、カトリック系の
専門書店にも置いてないんだが……


ぐだトマト
‏ @pteras14
2016年9月3日

何か、キリスト教の律法って何?
のツイートが結構RTされるんだけど、
何でそうツイートしたかって言うと
一番ベースの律法が憲法の役割を
してるから。(イスラームの場合は
厳密に言うとコーランね)

だから、全部元の律法が立法の際の
根拠になってるわけ。

神が作成した前提になって
返信先: @pteras14さん

前提になってるから、不可侵なんだ。
ところが日本もヨーロッパもそういう
前提がないから、憲法を改正出来たり
基本的人権や刑法(慣習法の禁止とか)
を商法や民法で相殺したりとおかしな
事になってる。

「法の下に全国民が平等」とか
嘘っぱちじゃん。
1件の返信 3件のリツイート 4 いいね
ぐだトマト
‏ @pteras14
2016年9月3日

だから、キリスト教の神様は
そういう法律をなんで明確に
示さなかったの?って話。

それがマタイなのか、ユダヤ教の
タルムードの事を言っているのか
新約では不明だから、ヨーロッパ諸国
はそれぞれ妙竹林な憲法をそれぞれ
制定しちゃってる。
0件の返信 3件のリツイート 2 いいね


ぐだトマト
‏ @pteras14
2016年9月2日
大学時代の時、たまたまイスラーム法
の講義も受講出来る変な大学だったん
だけどw(現代じゃ結構普通で東大の
院でも教えてるみたいだけど)、
講義中にお菓子を食ってる学生がいた
んだ。当然、教授に見つかって教授が
激怒したんだ。

なんで怒ったかと言うと、
「公共の場でお菓子を食べた事」
に激怒したんじゃないんだよ。

「全員分のお菓子を用意しなかった事」

が責められたんだ。


その教授が言うには、
お菓子を講義中に食べるのはOK
なんだそうだ。

イスラーム的に間違ってるのは
「お菓子を独り占めした事」なんだ。

「自分だけ」お菓子を食べて「他人」
はお菓子を食べちゃいけないのが
ダメなんだ。

全員がお菓子を食べればそれが一番
「公正」だっていうんだ


ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年2月26日
大学時代にたまたまイスラーム法の
講義を受けた(中東方面とのビジネスを
考慮した経営学的な観点から)から、
色々型月のイスラーム解釈にツッコミ
を入れただけで、別にぐだトマトさん
はイスラームが絶対だとは思ってないよ。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年5月13日
中田考の集英社新書のイスラーム本
立ち読みで全部読んだ。
分かりやすいね。

2017年5月14日
イスラームの本読んでて感じるのは、
あの聖書って書物は西洋人の観念で
読んじゃダメだって事かな。

やっぱり中東人の感覚を持って読まない
とダメだな。

2017年5月14日
ただ、イスラームの専門用語見てる
限りアレ絶対にバラモン教の影響
入ってる。

どーも、大洪水の時代かどうかは
分からないけど、現代のイラン〜インド
の間でとてつもない邪悪が誕生した事
だけは分かる。

それが型月の教義上のアンリ・マンユって
奴なのか分からないけども。

ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年7月7日
イスラームは取り敢えず中田考氏の
入門本から入ってけば良いと思うよ。

ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年8月15日
紅林せんせー、今度はイスラーム
にハマってるのか……
イスラ"ー"ムと真ん中を伸ばして
ないし"クルアーン"ともまだ呼んで
ないから、初めたばっかかな……

まぁ、イスラーム関係は和本自体が
少ないから社会学者が書いたハズレ本
を引かなきゃ大丈夫だろう。

ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年9月10日
イスラーム圏でもキャバクラとか
行きたがるの本当に勘弁してほしい……

そういう店自体が無いから、結局
オロシャン・マーフィー・フィアー
さんを頼らざるを得なくなる……

ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年8月15日
神を沢山作ってる時点でやはり
イスラーム神学の理解は厳しいな……
人も"漫神"とかいうのになっちゃって
るし。アッラーから見たらそれは
ただの"慢心"だよ。

ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年10月22日
イスラームってパズル要素が高くて
ムズイのよね……

例えば「その赤ちゃんが将来悪人に
なると確定してるならば、その
赤ちゃんを殺すべし!」という文言
があるのだけど、これだけ読んで
「ああ、赤ん坊を殺して良いんだ」
って早とちりするのは落第ね!

問題はその赤ちゃんが悪人に育つ
のをどう判断するのか?という所で
親が悪人だったら、その子供も必ず
悪人になるのか?とか諸々考慮すると
「誰も分かんねーよ!」=「赤ん坊を殺してはならない」になる。

だから神にしか分からないし、
その神も裁きを下すのはそいつが死んでからだ。

ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年12月12日
いや、外資系だからだよ。
エ口とか口リに厳しい。
文化の違いって奴だと思う。

イスラーム圏に出張で行って、
それでもキャバクラを必死で探すのが
日本文化。

ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年10月22日
つっても日本人の出張者って、
イスラーム圏でも酒と女を求めるん
だよなぁ……

だから、あっちの駐在員は大変なん
だよ、そういうの手配しないといけ
なくて。では?どうするかと言うと、
ブラック・ラグーンのバラライカ姐
さんに頼む。

2017年10月22日
後、コーランに書いてあるけど、
外国とかでやむを得ない事情の場合
イスラームの規則を不本意で破っても
ペナルティーにならないよ。

理由は「アッラーは誠に慈悲深い」
かららしい。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年7月8日
イスラームに有名な格言があってね。

・相手が間違ってる場合は止めなさい
・それが出来ないなら言葉で説得し
なさい
・それもダメなら少なくとも自分の
の心の中では間違ってると思い
なさい

悪党が絶大な力を持ってても
決して長い物に巻かれるなよって戒め。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年7月6日
返信先: @pteras14さん、@gakky88NSRさん
一つだけ私の経験談で恐縮で
すが、実例を挙げさせて頂き
ますと、日本企業の出張者は
風◯が大好きなのですが…

彼等を接待するのにそういう
お店やお酒を調達、リサーチする
必要がありますがイスラームの
影響が比較的緩いトルコでも
至難の技です。

つまりロシアマフィ◯を頼りますw

ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年12月30日
メガネや微軟社員の方が明らかに
ルソー教に洗脳された産物なのにね。

ルソー教は基本キリスト教文化圏出身
のルソーさんが始めた宗教だから、
コダヤやイスラームと違って原罪は
イエスが磔にされた時点でチャラに
なってる前提。

だから自然の野の獣に戻っても悪に
ならないって考え方。

ぐだトマト
‏ @pteras14
1月29日
しかし、霊肉二元論前提で皆んな
話を進めていて実に興味深い。

厳密に言うとキリスト教とイスラーム
教は三元論、
道教は三元+先天と後天があるから五つで、
バラモン教も基本三元だけど、人間の話で行くと二元論
に限りなく近い。

ぐだトマト
‏ @pteras14
2月8日
一応ね、イスラーム神学では
何で優先席を年寄りに譲らないと
いけないのか?という論争には
「紙に書いて貼ってあるから」という
結論が出ている。

別にこれが正しいとか間違ってるって
訳じゃなくて、飽くまでイスラーム
だとこう考える人も居るみたいよ
ぐらいのご参考情報。

ぐだトマト
‏ @pteras14
2月8日
逆に言うとイスラームでは一々細かく
道徳とは何なのか?とシツコク
書かれてるって事だね。
挨拶のやり方とか、TVを観てて
ムカついたらどういう態度を取るのか
とか。

これが良い悪いかは人に拠るけど、
向こうの世界ではこれが採用されてる
よって話。


ははっ!w
フォロワーさんが一人減った
けどひょっとしてイスラーム系の
テ口工作員だと思われちゃった?

まぁ、ぐだトマトさんのイスラーム法
の解釈はシリア系っちゃシリア系
かなぁ。教えてくれた人がシリアに
住んでた人だったので。

ぐだトマトさん自体はムスリム
じゃないよ。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年8月31日
究極的には中国人の言う
命(宿命)>
運>
風水(環境や場所)>
積隠徳(他人に見せないでやるボランティア)>
学問(所謂努力の事)
>……が正解だと思う。

ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年8月25日
古代中国で言う絶対に覆せない
「命(宿命)」を力技でひっくり返す
物語なんて唆るだろう?

例え敗れ去って果てたとしても。
どうせ人間いずれ最期は皆んな灰になるんだ。
"結果"が同じで最初から
定められてるなら、結局は"過程"が
一番重要だったってだけの話だ。

ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年8月18日
日本の年齢差別って本っ当嫌らしい
よね。漫画家に限らずほぼ全部の
職業にあるのだけど。

年齢は中国で言う「命(宿命)」の
部分に入るからね。いくら努力しても
人間、戸籍上若返る事は出来ない
からね。


Desty
‏ @exa_desty
2017年8月18日
返信先: @pteras14さん
自分は年齢差別は反吐が出るぐらいに嫌いですね
なぜ、こんなに年齢差別が蔓延してるんでしょう?
明らかに苦しみが増える原因なのに辞めようとしないのが謎です。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2016年10月23日
中国の占いってその人物が生まれた
時間と場所を重視するのよね。
要するにその人の一生の本当の始まり
の地点だけど、それによって何をやって
も絶対変えれない運命、「宿命」が
存在すると説いてるわけだけど、
それを数学的に西洋人が小難しく
説明した様な感じだな。


ぐだトマト
‏ @pteras14
4月13日
努力で到達出来ない場所を認識した
時、人間にやれる事って基本二つしか
なくて、

⑴結局、努力を続ける
⑵別の道を探す

現代社会だと⑵の事を“適性探し”
と呼ぶ。

ぐだトマトさんは⑴の方が個人的には
好き。理由はコズミックLVで
観たらHomo sapiens sapiens同士
の差なんて誤差の範囲だから。

それともう一つ、生まれた時点で
定められた自分の力ではどうにも
ならない要因の事を、前もツイート
したけど、中国では「宿命」と呼ぶ。
「運命」は中国では後天的に変更が効く要素の事。

「宿命」ってのは国籍とか、
人種とか身体障害の有無、
親が誰か、性別
とかそうゆうの。これは人間の力では
絶対覆らないと中国では言われてる。

ヘラクレスの神話とかもこんなノリ
だよね。

ぐだトマトさんはこの「宿命論」
が嫌いで、じゃあ神様がアンタ
ダメ人間だから自殺しろ!って
言ったら、お前さん大人しくてるてる
坊主するのかぁ?って話。

まぁ、これはどちらかと言うとインド、
中国等のアジア圏特有の価値観なん
だけどね<宿命論

輪廻転生で人生リセット出来る世界観
だから。

哲学理論はインド以東のアジア圏の
方が高度で洗練されてるけど、
宿命論に関してはイスラーム神学の
終末論の考え方の方が好きだ。

イスラームでは「神でさえその人の
一生が終わるまで何のジャッジも
しない」という価値観。

イスラームの方が希望に溢れてる
でしょ?

これは別の捉え方をすれば「貴方の
行動次第で如何様にも将来は変わる
から、神様はちゃんと見てるから、
貴方は努力を続けるべきなんだよ」
と同義。

歴史的にもインドでイスラームに
後期仏教(密教)&ヒンズー教が駆逐
された
(現代ではヒンズー教の方は
復活したけど。イギリス人に都合
いいので)
のにはこういった背景も
あると思うよ?
軍事的な側面だけではなくてね。

密教の方が正しければそりゃあ
お前さん、密教の方がイスラーム
を駆逐したさ。

じゃあ、何でイスラームが日本では
イマイチ普及しなかったかと言うと、
イスラームがやって来てたら天皇と
藤原ファミリー達が全員てるてる坊主
のロールプレイをしないといけないから
都合が悪かったんだろう。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年5月13日
中田氏が件の新書で大高忍のマギと
ハルヒに触れている箇所があるんだけど、
マギは世界観がインド/ペルシャ型だって
言ってたよ。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年5月14日
しかし、中田氏が言う様に「人間の
移動を制限しない」事が中東文化だと
言うならば、ますます新約聖書の
「ヨハネの黙示録」の異質さが際立つ。

あれはハッキリとネオエルサレムに
入れる奴と壁の外で歯を食い縛ってる
人間とを明確に隔ててるからね。


中田氏の「神」の定義が中々面白くて、
「神=人間の意志に対して何らかの
強制力を強いる物、命令を下す物」

で、現代の欧米型先進国は「神=金、
国家、領土、企業」。


つまり、日本語の「法人」は本来
「法神」という綴りの方が正確。


「企業の偶像神化」w
こいつぁ良く考えたもんだぜ!
傑作だ!

個人的にノーベルぐだトマト文学賞を
授与したいぐらいw

ぐだトマト
‏ @pteras14
7月10日
ま、元凶はイスラーム先生の言う通り、
組織や法人に人間と同じ人格と人権を
与えたが為に、本物の人間の価値が
チープな存在に成り下がったんだな。

法人はアダムみたいな形状してない
からね。いずれ人類の方を迫害するさ。



ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年10月22日
この前、中田氏が紹介してた松山氏の新書が
“飲酒したとしてもムスリムである事は変わらない”というスタンスだったよ。
飲酒という禁忌の“儀礼的行為”ではなくその“意義”が重要。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2月1日
昔、ハンムラビ法典というのがあってね。
これが所謂「目には目を、歯には歯を」
の語源だと言われている。コダヤ教の
律法も基本はこれと同じ思想という風
に言われている。

で、キリスト教の隣人愛(全て許す)→
イスラーム法はハンムラビの原則は
残すけど、全部許せたら理想、
へと進化。

と言われている。

ハンムラビ法典はある罪に対して
それより同等以下の刑罰しか課せられ
ないとのブレーキの機能も持っていた
と考えられている。



だからイスラーム教って全く関係
ないって。
実際に現地に行って向こうのアラブ系
移民のクソガキ共と話してみろよ。
ただのチンピラだ。半グレとかと
変わらん。







『イスラム飲酒紀行』高野秀行/講談社文庫

題名草不可避w
大砂漠回避ww

本書最大の教訓
イスラーム圏で酒を飲もうとするな!
秘密警察に捕まってもおかしくないぞ!


・カタール ドーハ
(この章は本書のための書き下ろし。
本書(文庫版ではないほう)の発売年は2011年6月。)

イスラムは公共という概念をひじょうに大切にする。
いったん家を出ると
男たちはどんな場合でも女性に気を配らなければならない。
イエメンでは乗り合いバスが混んでくると、
目的地でもなく男子は車を降りて、
女性のために場所を空けていた。
ドバイでも、
エレベータに女性が乗ってくると
それまで乗っていた男性が全員降りなければならないそうだ。
買い物も基本的に男の仕事。
バンコクでは
アラブ人の若い青年が五人とか八人とか女性を引き連れ
ショッピングモールを汗だくで回っているのをよく見かける。
女性だけでは旅行も買い物もできないので
親戚の若い男子が添乗員役で借り出されているのだ。
公共の場ではそれがルールなのだ。
注文をつけまくる女子だちのリクエストを全部聞き、
サイズや色の具合から値段交渉まで汗だくになってやっている男の子の姿を見ると、
イスラムでは女性の地位が低いという説はウソとしか思えなくなる。
だから、ムスリムの男性は女性がいなくなると露骨にほっとする。
以前、焼き肉を食べるときに男女別々に分かれたのだが
これじゃ楽しくないと思うのは異教徒の証拠。
先程まで背筋を伸ばしてベンチに座っていた人たちが
男だけになると
突然寝そべって
ギャハギャハはしゃぎながら飯を食い始めた。
まさに男子校のノリだ、
女性は女性で男がいなくなるとくつろぐという。


(他の本でもイスラーム圏の日常生活の記述を見るに
女性が強い。
私的空間では女性が強く
公共空間では男性が強い
ように社会設計されているのでは?)


・パキスタン
(初出は2008年)
一般にパキスタンでは飲酒は禁じられているが、
闇で売っているところもあるし、
許可証を得れば合法的に飲めるという。
「医者の診断書があれば飲めるんだ。
『この病気の治療にはアルコールが必要だ』ってね。
医者に金を払ってそれを出してもらう人もいる」
日本では医者が患者に飲酒を禁じる
「ドクターストップ」がふつうだが、
こちらでは医者が患者に飲酒を勧める
「ドクターゴー」とでも呼ぶべきものがあるらしい。


・イラン
(初出は2009年)
多くのイスラム諸国では
高級ホテルやレストランで酒が入手可なのだが
イランの法律では完璧に禁止だ。
日本の麻薬と同じ扱いなのだ。

出発前、
日本人のイラン研究者Aさんに話を訊きに行ったとき
「けっこう、みんな隠れて飲んでいるみたい」
と言っていた。
在日イラン人情報でも
「密造ドブロクがある」とか
「トルコからビールを密輸している」
などというのがあった。
研究者Aさんにテヘラン駐在員の人を紹介してもらい、
東京から電話したときである。
彼はこういったのだ。
「酒はあります。
この電話は盗聴されているから詳しくは言えませんが……」
Aさんによれば
外国人の電話は基本的に当局から盗聴されているという。
盗聴だけでない。
街角でカメラを構えて写真を撮っていたら、
私服警官の尾行がつく可能性がある。
スパイもあちこちにいる。
外国人は常に監視下にあると考えたほうがいい。

(イランに限らず、どこの国も盗聴もスパイもやっているのでは?)


イランは昔から酒がふつうに飲まれてきたのだ。
イランを代表する詩人のひとり、
オマル・ハイヤームは中国の李白と並べるほどの
酒仙で
「酒はよきかな」なんて詩を山のように詠んでいる。
そしてイランで彼を否定する人は当局を含めて誰もいない。

会話は簡単ではない。
彼らは英語をまったく話さず、
著者はペルシア語の単語は何ひとつ知らない。
『旅の指さし会話帳 イラン』を取り出して、
酒(マシュルーブ)
という言葉を黙って指さした。
人に聞かれたくない場合、
言葉を発せずに済むというのは素晴らしい利点だ。
酒の項目のとなりには
酔っ払い
という単語もこの本にある。
どうしてイラン篇なのに
酔っ払い
なんて単語が載っているのか不思議だったが
現実に使えるわけである。

酒の密売人たちはスーフィー(ダルヴィーシュ)だった。
ホセインのタクシーに四人で寄り込んだ。
森がいつものように助手席に座り、
バス車内の女性たちにカメラを向けるのを見て、
ホセインとアリーが口々に「危ない」と言った。
たしかに今ここで警察沙汰になったら、
全員が一巻の終わりだ。

彼らは
「イスラムなんかダメだ。
ボクらは信じてない!
ホメイニからイランはダメになった」
とまで言う。

アリーは電子工学を専攻する現役の大学生。
半地下の部屋に招き入れられた。
この家は彼の同級生であるムスタファ君の家で、
ムスタファ君の部屋に一緒に暮らしている。
そしてそのムスタファ君の叔父がホセイン……
とまあそういう関係なのだった。
ちなみにアリーのお父さんはアメリカ留学経験のある元教師・現ビジネスマン、
ムスタファ君のお父さんは電子工学エンジニアだという。

(ホメイニの革命以降イランは反米。
おそらく彼ら密売人は親米)

棚の上に人物写真が二枚ある。
「これはヌルヴァッシュ師というロンドンに亡命中のスーフィー詩人、
もう一枚はゾロアシティ師という百年前のスーフィーの聖者だ」
とアリーは得意げに説明する。

(ゾロアスターを元ネタとしたとしか思えない名前)

イスラムでなくスーフィーという主張は意外だった。

(単に彼らがスンニ派支持なだけかも)

スーフィーは明らかにイスラムの一派。
だが革命以降、イラン政府当局が原理化し、
スーフィーを異端視するようになったと聞く。
当局が
スーフィーは本来のイスラムではないと弾圧するので
スーフィーの信者は
イスラムじゃなくてけっこうと開き直ってしまったらしい。


「パズの中で私服のポリスに捕まって、
写真を消されちゃったんです」
彼はイスラム圏でいつもやっているように
(というのもすごいが)
車内で隠し撮りをしていたら、
急に後ろから背の高い私服の男に肩を叩かれた。
そいつは有無を言わさずカメラを見せろと言う。
森が「ヤバイ」と直感し、
わざと窓の外の景色の画像などを見せたが、そいつは納得しない。
ひったくるようにカメラを取り上げ、
データを最初からチェックし、
女性が写っている画像を全て削除させられたのだという。
森はショックを受けつつも
メモリーカードの中に酒を飲んでる写真がなくてよかった
と安堵もしていた。
エスファハーンでのアリーの家で彼はたんまり
飲酒の写真を撮っていたが
ちょうどメモリーがいっぱいなり交換したあとだったそうだ。
たしかに飲酒の写真が見つかったらただでは済まなかっただろう。
私たちが逮捕されるのはもちろん、
アリーたちの身が危険だ。
外国人に酒を飲ませていたのだから。
やはりイランは怖い。
まったく予想がつかない。
バスに乗る前に酒を買わなかったことも幸いだった。
もし尾行されていたのならその場でアウトだし、
バスの中でも酒の微細な匂いが
あの敏感な秘密警察の男に嗅ぎつけられていたかもしれない。
どっちにしても酒の所持が露見したら、即逮捕、監獄行きだった。

(自業自得すぎるが、運はいいな。
森はしょっちゅう隠し撮りをしている。
犯罪の証拠を写す愚者を連れて行く著者。
法律違反行動を当然のごとくするなよ、
ってそれが目的。
日本だからこそ出せた本だな。
イスラーム圏なら「私の犯罪記録」だもんな。
本書の著者一行以外の人名はすべて偽名かもしれないな)



・トルコ
(初出は2011年3月)
初代大統領ケマル=アタテュルクがなぜ
隠れレストランに毎日通っていたか。
それは昼から酒を飲むのにあの店がいちばん好都合だったからじゃないのか。
彼が大酒飲みだったのは有名。
毎日ラクをボトル一本空けてたっていうし、
死因も肝硬変。
トルコにはいまだに
アタテュルク侮辱禁止法があるので
彼がこれほどのん兵衛だったことがあまり知られていない。


(メイソン≒プロテスタント系反カトリック組織
のメンバーになった理由の一つがアタテュルクが酒飲みだからだろうな。
トルコの欧米化担当結社員。
イスラームは徹底的にヤソ流世俗主義+政教分離を否定するので
日本ほど徹底的に思想侵略がされてないっぽいけど。
いっとくけどトルコで以上のことは言っちゃだめだよ、
侮辱にあたるだろうからね。
下戸だからムスリムになる人がいるのだろう)

・あとがき
なぜイスラム圏に酒があるのか。


現在はイスラム圏になっているが
いまだにイスラムがやってくる前の
土着の習慣を残している土地が少なからずある。
例えば
著者の、スーダン出身の友人によれば
今は厳格なイスラム国家のスーダンも
いま60代の人が若いころは
結婚式などのめでたい場では
酒を飲むのが当たり前どころか飲まないと怒られるほどだったという。
著者が体験した中では
チュニジアのオアシス・バーがそれだろう。
またシリアのドルーズ派も
イスラムの教えと土着の信仰が混交したものだと思う。


異教徒(少数民族)
国民が100%ムスリムである国は存在しない。
仏教徒も酒を飲んではいけないはずだが飲酒が大好き。
キリスト教ではミサにワインが欠かせない。
だからキリスト教徒は絶対にワインを造る。
飲酒現金を建前とするイランでも
アルメニア正教徒だけはワインの製造と飲酒を認められている。


(あれ、飲酒禁止のキリスト教宗派って儀式をどうやっているんだろう?)


イスラムでは酒と賭博と同様に
利子も禁止なので
金貸しや両替という金融業は
歴史的にユダヤ教徒やキリスト教徒の仕事だった。
キリスト教徒は地中海貿易の担い手でもあったから、
イスラム世界が科学や経済の先進地域であった中世も
立場が逆転したルネサンス以降でも
彼らが文明や新しい発明を発信地域に伝えるのに
大きな役割を果たしてきたのは間違いない。
イスラム圏は異教徒も込みで成立していたのではないか。
イスラム圏のムスリムは今でも異教徒に驚くほど寛容で気遣いがある。

(このイスラーム圏のキリスト教徒は正教率が高いだろう。
逆転はルネサンス以降ではなく産業革命以降では?)


ホメイニ師も酒の詩を書いている。
彼が酒飲みなのではない。
酒は
神との合一
信仰の至福
といった宗教的陶酔の象徴らしい。
ハイヤームの言う酒は酒ではないと解釈し自陣に取り込んでしまう、
恐るべし。




神田大介
?認証済みアカウント @kanda_daisuke
2016年2月29日

まめ情報。イランでは国会290議席のうち5議席が宗教少数派に与えられています。そのうち、アルメニア正教の南部選挙区で当選したアブラミアン氏、100%の得票で当選だそうです。ちなみに2290票。テヘラン選挙区の場合、およそ75万票が当選ラインです。





P・グラレム@pinkglalem
2013年12月21日
20世紀の初頭、クロウリーとグルジェフは薬物で人間の思考をコントロールする実験をしていた。
(因みに二人ともクリスチャン)カルトと麻薬は切っても切れない関係にある。
新しい麻薬が開発される度に、神秘思想ブームが起きてる。
アレはカルトを隠れ蓑にした実験なんです。#MKウルトラ

@lanekota @rideigan グルジェフは元々アルメニア正教でしょう?ペルシャの近くの...
イランにはアルメニア人がいっぱい住んでる。彼の弟子ウーペンスキーの著作の中にこの実験の模様が書かれています。別の弟子が(確か)アヘンを用いていたと証言しています。

クロウリーとグルジェフ、731部隊、特攻隊、ゾディアック事件、人民寺院...
関連性の無いよーに見えるこれらの事象や事柄は、実は時系列で縦の線で繋がる。その線は #MKウルトラ

P・グラレム
‏ @pinkglalem
2012年9月23日

「人間は、成長しない。人間は何もする事が出来ない。人間に関するすべての事は、起こる。それらはまさに、生ずるのだ。ただ単に起こっている現象に過ぎない。」....G・I・グルジェフ(神秘思想家、ボルシェビキのスパイ)..



グルジェフの言葉を信じるなら、人間に自由意志は存在しないことになりますね。私達の生活に、希望など存在しないというワケですかね...?
グルジェフの言ってる事は、正しいでしょう。人間に自由意志は存在しません。でも、私達の社会を取り巻いている環境というのは、恣意的なモノではありません。一部の“自分を神だと妄想している”人達が、造り出したモノなのです。神が作り出したモノでも、自然の摂理でもありません。






『イスラーム思想を読みとく』松山洋平



・日本の読者の多くは豚肉を食べないことや礼拝とか
外面的な行為ばかりに関心を寄せる傾向がある。

どうも多くの人によって
イスラームは「戒律の宗教」、
心で信仰するのではなく、何かしらの宗教儀礼をおこなうことで何かを達成・獲得することができる、
「術の体系」のようなものと表現することもできるだろう。

それに対し、信条重視の宗教というのは、
宗教儀礼よりも、
心のなかで対照が真実・事実であることを信じることがより重要視させる、「信条の体系」のような宗教。


・イスラームの教義では、「ムスリムであること」はイスラームの行為規範を守ること、
イスラームのさまざまな宗教行為を実践することを意味するのではない。
人は、心のなかに「信仰」を持つことでムスリムとなる。

「イスラームでは飲酒が禁じられている」はまったく間違いではないが、
「酒を飲んだらムスリムではないはまったくの誤り。
イスラームの基本原則として、「罪を犯してもその人の信仰は消えない」という考え方がある。
ムスリムが酒を飲んだとしても、「そのムスリムが飲酒という罪を犯した」という事実があるだけ。
酒を飲んだその人がムスリムであることが否定されるわけではない。

神によって禁止された行為を犯してもその者の信仰が失われるわけではないのがイスラームで
この立場はスンナ派の神学では定説で
この点でスンナ派の間に見解の相違は存在しない。

単に「神の目から見てムスリムでなくなるわけではない」というだけではなく、
社会的にも、酒を飲んだ人に向かって
「そんなことをするなんておまえはムスリムではない」と言ったり、考えたりすることも禁じられている。

禁酒についていえば
ムスリムの条件は
酒を飲むことを神が禁じていることを心の中で信じ
飲酒を合法な行為とみなさないこと。
心の中で神によって禁止された行為だと信じることのほうが
実際にその行為を慎むことよりも重要視される。

反対に、
たとえ、イスラームが命じているすべての義務行為を果たして、
イスラームが禁じるすべての禁止行為を避けたとしても、
それが神の命であると心の中で信じず、
ただの慣習だと考えれば、その人はムスリムではない。


「またもし、信仰者たちのうちの二派が互いに戦闘をおこなったならば、
おまえたちは両者のあいだを正せ」(クルアーン49:9)

では戦いあう両方の集団が「信仰者」と呼ばれている
戦闘をおこなっているということは、
どちらか一方、あるいは両方共が、誤った根拠によって、
同胞であるムスリムに物理的な攻撃をしかけていることになる。
場合によってはその攻撃の結果同胞を殺害するわけだが
この節では信仰者と呼ばれている。


・イスラームで信仰とは何か、
ムスリムであることはどのようにして成立するかは
神学で
「信仰の構成要素(アルカーン・イマーン)」
も問題として論じられる。

(ロクアカの魔人アルカーンの元ネタ?)

構成要素とは原材料のこと。

この信仰とは宗教とまったく同じ意味ではない。
この場合信仰とはその宗教が提示する信条や信仰行為全体を指している。

本書のここでの信仰はそれと異なる。
神学的に大雑把な言い方になるが
信仰とは
個々の人間が何かを真実を認め、それを受け入れること。

信仰という言葉を宗教や信仰対象ではなく
本書では信じる気持ちと考えてほしい。

本書のテーマであるスンナ派に限定するが

信仰


=心における真実であるとの承認

②=心における真実であるとの承認
 +言葉による告白

②=心における真実であるとの承認
 +言葉による告白
 +体による行為(礼拝や断食など)

上記の共通了解は
行為の有無は
信仰の有無とイコールで結ばれないこと。
信仰があるかどうか、
ムスリムであるかどうかはその人の行為にもとづいて決まるものではない。

クルアーンでは崇拝行為や善行を行う前から信仰者だとされる。


「テロリストもムスリムなのか?」という質問をして
「彼らもまたムスリムです」と答えたとすると
少なからぬ日本人が
テロを正当化したと感じるのは
ある宗教の信者とは
その宗教の規範を実践している者をいう
という感覚が前提にあるから。

「信仰の有無」と「行為の正当性」を分けて考えられないため、
「或る行為をする者がムスリムである」
=「その行為はイスラームで正当化された行為である」と考えてしまう。

一部の日本人から見れば、「テロリストもムスリムなのか?」という質問は、
「テロ行為はイスラーム的に見て正当性を持つのか?」という質問と寸分違わぬ同じ質問に感じられるかもしれない。

しかし、ムスリムにとっては、
だれがムスリムか否かをということと、
その人のおこなった或る行為がイスラーム的に正当化されるか否かということは
まったくもって別問題であり、分けて考えなければならない
行為は正当化されないがムスリムであるという答えもありうる選択肢のひとつ。


・イスラームの根本教義

根本的な教えは
全世界を創造した神こそが真に崇拝に値する存在であり
被造物は創造主以外のいかなる存在をも崇拝するべきではない
という唯一神崇拝のメッセージ。

この創造主は何かに創られた存在ではなく無始なる存在。
永遠の過去から生きており、
すべての存在の根拠となる存在。
永遠の過去とは比喩であり
創造主は過去や未来といった時間の中に位置づけられる者とは考えられない。
神は時間の流れの外にいる。

創造主はまた
ここにいるとか、
あそこにいると指し示すことができる存在ではない。
つまり創造主は世界のなかのいかなる場所にも存在しない。
時間だけでなく空間の制限の中に存在するのでもない。

(つまり人間の探索範囲がいくら広がってもイスラームの否定にはならない)

人間を含む、世界のありとあらゆるものは
この創造主が無から創造したものと信じられる。
したがって創造主は世界のあらゆるものに対して
非限定的な権能を持っている。
被造物は、一瞬たりとも創造主の恩恵なしに存在することはできない。

教義で最重要なのは
創造主こそが唯一の崇拝の対象、
唯一の神であり、
創造主でないものは何であれ、
崇拝し、服従するに値するものではないと信じること。

これがアーダム(アダム)創造以降、
地上のあらゆる民に遣わされた使徒
(人々に創造主の使信を伝えることを命じられた預言者)
が信じた
タウヒード(唯一なる者とみなすこと)
の教え。
使徒たちがもたらしたこの教えを受け入れ
創造主のみを崇拝する者を
アラビア語で
ムスリム
=帰依(イスラーム)する者という。

ラーイラーハイッラッラー
(アッラーの他に神はいない)
は最重要な以上の信条を一言で表したもの。


・信仰が成立する本源的な場は心であり
身体ではない。
「アッラーが彼らの心に、信仰を書き記した」(クルアーン58章22節)
とあるとおり。
よって身体が罪を犯したとしても、それによって心に成立している信仰の存在が否定されるわけではない。

・赦しへの希望を失うことは大罪

クルアーンでは
神が、悔い改める者の罪を帳消しにする慈悲深い存在であることが繰り返し強調されている。
罪を犯した人について、
「彼は地獄に行く」と確信すること、
つまり、悔い改めと赦しへの希望を失うことは、
イスラームでは単なる誤りに留まるものではなく、
禁止される「大罪」に数えられ、場合によっては不信仰に値する罪であるとまで言われる。

(~したら地獄に行くと断言はダメで
行く可能性が高いとかだろうね(個人的印象)と言うならOK?)

「まことに、アッラーの慈悲心に絶望するのは不信仰の民のみである」
(クルアーン12章87節)とある。

ムスリムがどのような罪を犯そうとも、その罪が許される可能性があると信じることが義務となる。
それは、人間の罪がどれほど深くなろうとも、神の慈悲はそれよりも深いのだと認めることでもある。


・ムスリムはムスリムを呪わない。

イスラームで悪を目にしたときは
可能な限りでそれを除去することが求められる。
手(実行権力)によって阻止できるなら手で
手が無理なら口(助言や諫言)によって
口が無理なら心でそれを嫌うことで
その悪に対処すること。


しかしその悪行を行う特定の個人であるムスリムを呪ったり
害があるように祈ったりすることは
大多数の学者の見解では禁止行為とされる。

ムハンマドの言葉としても
「信仰者は、呪詛者ではない」
「あなたがたは、
アッラーの呪いによって、
または彼の怒りによって、
または火獄によって、
たがいに呪いあってはならない」と伝えられている。

酒をやめられないムスリムに対し
他のムスリムが
「アッラーよ、彼を呪い給え」と口走ると
ムハンマドは
「彼を呪ってはならない。
彼はアッラーとその使徒を愛しているのだから」
と言って諫めた話もある。

少数派説では場合によっては特定個人を呪うことも許されると言われるが
いずれにしても
イスラームの教説ではどのようなムスリムに対してであれ良いことを祈願するほうが好ましい。
罪を犯すムスリムがいたら
「彼が呪われるように」
「彼に罰が下るように」と祈るのではなく、
「彼が悔い改め、罪から立ち返るように」
「彼の罪が許されるように」
「彼が導かれるように」
と祈るべきとされる。

自分に害を与える者のためにそのように祈るのはたしかに難しいことだが
そういった場合は
「彼の害が私に及ばないように」
「彼が私から遠ざかるように」
と祈ることが良いと伝えられている。

(シーア兄貴も中田考も呪っているが相手をムスリム・ムスリマとみなしていないからだろう。


中田考
‏ @HASSANKONAKATA
2011年10月18日
統治者の務めとして課されたイスラーム刑法を執行せず、
イスラーム法の支配とムスリムの生命、財産、名誉を守るためのジハードも行わず、使徒صلعمもそのカリフたちも法学祖たちも行わなかったユダヤ教徒の猿真似のハラール認証などで金儲けを図りアッラーの徴を安価で売買する者どもに呪いあれ。


中田考bot
‏ @NakataKo_bot
2016年11月19日
使徒もそのカリフたちも法学祖たちも行わなかったユダヤ教徒の猿真似のハラール認証などで金儲けを図りアッラーの徴を安価で売買する者どもに呪いあれ。「我が徴を安価で買い取るな。アッラーの啓示に基づき統治せぬ者共こそ不信仰者。」(クルアーン5章44節) <2011.10.18>




・「もっとも規範とすべき信者同士であっても、
政治的に対立すれば殺しあうこともあるし、
誤った解釈に陥り、ころしあうこともある」という事実を、
人間の性として受け入れるのがスンナ派の態度です。

イスラームの統治法では
絶対善の正義の官軍が存在し
それに対抗する勢力はすべて悪だという考えはしない。

官軍とはイスラームのスンナ派ではカリフの軍。
カリフに反旗を翻す武装勢力は叛徒(ブガート)と呼ばれる。
叛徒(ブガート)もムスリムであり異教徒とはみなされない。
法的にはムスリムと扱われる。

「戦っているからどちらかが善でどちらかが悪である」という考え方は、
イスラーム的な思考ではない。
戦いあう軍勢のどちらもが善(”正しい”解釈をしているとは限らないが)
ということもあるし、どちらもが罪を犯している場合もある、と考えるのがイスラーム法的な見方。

いずれにしても、ムスリム同士で戦っているからといっても、どちらかの信仰が否定されたりはしない。



返信先: @kitsuchitsuchiさん、@kikuchi_8さん、他

これはイスラームというのがキチガイとか、狂っているじゃなくて、そいつ自身が完全に狂った事を意味しているので
日本で言えば、何処でも全裸で自慰しながら、うんこ塗りたくってそこらじゅうをうろつき回るようなもので
それが正しくて、社会的常識何て言ったら精神病院行きでしょ?

だから、
そう思ってもそれだけは口に出さないわけ
日本語って、全く言葉に重みがない言語だからそれでいいだろうけど、アラビア語や英語となると意味合いがまたガラッと変わるからその延長を海外に持って行ったらかなり危険というか、普通にリンチ受ける

自由というのも勘違いしているなぁ…自由というのは
物質的なものではなく、何かを規定した上で成立する自由が本来の自由であって
所謂、形而下の自由というのは本能的な自由でしかないのね
そういうと何故に「何か」が悪を作ったのかというけど、これも頭の程度が知れる質問なのね

「何か」というものは至善なわけで悪は行わないし、悪を用意することはないの
悪を用意しない存在は完全なる善であり、
またその存在は
「何をも必要としない、絶対単性」なわけで
悪と善でわかれていればそれは必要としている存在であり、それは「何か」ではないわけ、まずここで破綻しているの

では、その「何か」は何を人に与えたのかというと
全ての力・知・生の土台を与えたのよ
例えば、包丁の持つ力・知識というのは何かを切ったり、安全に調理したりする為のものだけど、
時には人を殺すわけ
で、「何か」は人を殺す事を命令したのだろうか?
するわけがない、殺す事は悪だからだ

と、すると強制されている・予定という概念は成立しない
なんで?
何で悪という事を「何か」が強制して、
しかも地獄に堕ちる事を確定させるんだよ?
そんなの善なる存在ではまったくないでしょ?
そんなのは単純な論理でわかるわけ、
そんな事もわからないのが現代のやそ
とスンニ派の大部分です

だから、人間にはその「何か」の力と知識を使う能力があり、その能力をどう使うか「だけが」問題なの
これが「何か」の絶対公正性なわけ、
これが神学で哲学・ハシタメのご主人様の正体なわけだ

御主人様は古いようで常に新しいのでショタジジイみたいなものだね、やっぱりおねショタに帰結するんや”






・過激派を破門しない理由

異端と不信仰は違う

スンナ派にも異端者(ムブタディウ)とい概念がある。
異端者は身体において罪を犯す人について言うのではなく
スンナ派に包摂しえない、
誤った信条を報じるイスラームの宗派や神学的立場にあてがわれる名。

シーア、ハワーリジュ、ムウタズィラ派など
スンナ派に対立する信条をもつ宗派はすべてスンナ派から異端とみなされる。

異端者とみなすことは不信仰とみなすことはおなじではない。
異端者でもおなじムスリムとして扱われる。
異端であるからといって中央から軍が派遣されて攻撃されたり
殲滅させられたりすることはない。
たとえその宗派がイスラームで禁じられる行為をおこなうことが想定されていても
実際に不法行為が顕されるまでは基本的に放置される。
異端審問で拷問したり処刑したりというものは
イスラームではない。

異端者というカテゴリーをさらに超えて
誰かを不信仰者と判断することをタクフィールという。
タクフィール
=不信仰者とみなすこと、不信仰を帰すること。

スンナ派では特定の個人に対するタクフィールはできうる限り避けるべきものとされている。
背教を宣言したわけでもないムスリムについてタクフィールがなされることはめったにない。

ハディースでムハンマドは
「人が他の人を不信仰者と呼べば、
両者のどちらかが不信仰者となる」
と言ったと伝えられる。

不信仰者とみなせば誤った判断をした自分こそが不信仰者になってしまう。


ムスリムの行為は良い方向に解釈する

フスヌッザンヌ(善い方向に解釈する)はムスリムが同胞に接するさいに持つべきとされる指針のひとつ。
例えば
知り合いのムスリムがビール缶の入ったコンビニ袋を手に家に帰っていくのを見てしまったとする。
悪く解釈すれば「この人はビールを飲むんだな」。
しかし
間違ってビールを買ってしまった、
捨てられていた空き缶を拾っただけ(これは善行)、
ノンアルコールビール、
いたずらで入れられた、
ムスリムでない知人の頼みだっただけかも。
このように悪い方向には解釈しないことが
フスヌッザンヌ(善い方向に解釈する)。

限度を越えれば不信仰の宗教と判断することはある。

極端派(グラート)と呼ばれるシーア派の諸派があるが
自分たちの指導者を神、
あるいは神性が宿った存在と考えるため、
スンナ派からはもはやムスリムとはみなされない。

(そりゃあ人が神というのは一神教正統派の最大級のタブーだからね)

八世紀のジャフムを学祖とするジャフム派という宗派があったが
スンナ派の多くの学者は不信仰の宗派と判断した。
が、この派に帰属する人たちを非ムスリムとみなし背教者としては扱わなかった。
ムスリムとして接した。

特性の宗派や思想の不信仰性の判断と、
奉じる個々人の不信仰性の判断はおなじではない。
特定の神学的立場が不信仰であることを種の不信仰といい、
特定個人が不信仰者であることを個の不信仰といって
明確に区別。

神学の学問的な見地から特定の信条の誤りや不信性について議論しつつも
日常生活においてはそうした信条を抱くムスリムとも共存することができる。

特定個人に対するタクフィール回避の仕組みの一つに
無知による免責がある。



・スンナ派神学は大きく二つの陣営に分けることができる。

①思弁神学
(アシュアリー学派とマートゥリィーディー学派)

神学的な論争を行うさいに、
「クルアーンやハディースの引用」のみならず
「理性にもとづく論理的な立論」を神学の典拠として尊重。

(理性と論理重視なのが重要)


②ハディースの徒

伝承主義(アサリーヤ)と呼ばれることもある。
思弁神学と異なり、
「理性にもとづく論理的な立論」を神学の一次的典拠とすることに反対。
クルアーンやハディースといったテクストの文言と、
理性にもとづく論理的な立論を併用するのではなく、
あくまでテクストの文言のみを第一の典拠にするべきだと考える。


両者は対立関係にあるが
時代によって
学者個々人の考え方によってその程度は変化してきた。
非常に激しく衝突することもあれば
互いをおなじスンナ派を構成する潮流の一つ程度に見る場合もある。


本書の図でハディースの徒に含まれる
サラフ主義とは
宗教実践や学派の解釈の中に
初期イスラームにはなかったまがいもの、
あるいは異端的な要素が混入していると考える。
イスラームを純化するためには
クルアーンやハディースのテクストを直接参照し
初期イスラームに帰るべきだと主張。
伝統的な学派システムを否定する
復古主義的な志向性を持つ潮流と形容できる。

サラフ主義の一部はジハード主義(サラフ・ジハード主義)として分類される。
ジハード主義とはシャリーア(イスラーム法)を正しく施行しない現代の為政者は
ジハードの対象
であるとし武力攻撃の対象と考える立場。

宗教色のある主張を物理的な暴力の行使と結びつける
いわゆる過激派と呼ばれる人々はジハード主義に位置づけられる。

ばくぜんと穏健派と呼ばれる人たちは、
本書の思想地図のなかでは
①思弁神学の二学派
②古典的なハディース徒
③サラフ主義のなかのジハード主義ではない人たち

しかし対立構造は複雑で
ジハード主義者とその他が単純に二手に分かれて対立しているわけではまったくない。

思想地図より

思弁神学は伝統的なハディースの徒を時代・論客によって様々な捉え方。

思弁神学とサラフ主義とは基本的に相互に批判、ときに異端視。

伝統的なハディースの徒のうち
比喩的解釈を許容する潮流はサラフ主義を部分的批判。

伝統的なハディースの徒のうち
イブン・タイミーヤなど比喩的解釈を批判する潮流から
サラフ主義が派生。


思弁神学はジハード主義を基本的に異端視。
ジハード主義は思弁神学を異端視。ただし一部共闘を呼びかけ。


・アシュアリー学派が生まれた大きなきっかけのひとつに
ムウタズィラ派と呼ばれる潮流の拡大があった。
ムウタズィラ派は八世紀後半から九世紀に生まれ
一般大衆のみならず為政者にまで支持層を拡大し
スンナ派の強力な敵対勢力となった。

ムウタズィラ派の特徴は理性に基づく論理的な立論を神学の主たる拠点とする。
クルアーンやハディースの表面的な意味よりも
理性を優先させる。
ムウタズィラ派では
神は義なる存在であるから
人間に不信仰や悪行を創造することはありえない」
「神が人間のために創造するのは
行為するための能力であり
おのおのの人間は
この能力を自由に用いて
自分の行為を自分自身で創造する」
と主張。

これ
「アッラーは、すべてのものの創造者である」
(クルアーン39章62節)
などを根拠に
悪行や不信仰を含めた人間がおこなうすべての行為が神の創造の対象とするスンナ派の立場と
まっこうから対立。

極端な理性主義のムウタズィラ派の学者として40歳まで研鑽を積んでいたアシュアリーが
スンナ派に転向しスンナ派を擁護。
アシュアリー学派の誕生。


アシュアリー学派とマートゥリィーディー学派は
神の言葉は神とともに永遠であり生じたり消えたりするものではない、
したがって文字でも音声でもないという立場。

対してハディースの徒は
反対に
アッラーが啓示によって語るとき、
天の民はその声を聞く
とのハディースの文言などを根拠に
神の言葉は文字と音声からなると言う。

(『イスラーム神学』の書評より引用。

”本著のねらいは、イスラーム教・スンナ派の神学を日本の読書人に紹介することにある――同派は日本では「スンニ派」と呼ばれることが多いが、松山さんは本著にて一貫して「スンナ派」と呼んでいる。『イスラーム思想~』でも同様。

スンナ派の神学は、アシュアリー学派とマートゥリィーディー学派、
そして「ハディースの徒」の三つの学派に分けられる。
このうち、前者二学派は抽象的ないし哲学的な思考を重視し、
後者はコーランを文字通りの意味で解釈する、という違いがある。

たとえば、コーランには「神の手」という表現が出てくるが、
前者二学派はこれを比喩だと捉える。
一方後者は、文字通りアッラーには手がある、と考えるのである――ただし松山さんによれば、「ハディースの徒」はさらに細かいグループに分かれており、そのなかには必ずしも文字通りの意味では解釈しないグループもあるというから、注意が必要である。

つづいて法学へ。スンナ派の法学は、以下の四つの学派に分けられる。
すなわち、マーリキー学派、シャーフィイー学派、ハナフィー学派、そしてハンバリー学派である。

これら法学の学派は、かつては上述の三つの神学の学派とは別個の概念であった。が、今日では前者二学派がアシュアリー派、ハナフィー派がマートゥリィーディー学派、そしてハンバリー派が「ハディースの徒」というぐあいに、綺麗な対応関係にあるのだという。”http://j-furusawa.hatenablog.com/entry/2018/05/04/210000



・サラフ
=先達たち、先だった者たち
=イスラーム初期の正しいムスリムたち。
サラフ主義者が言うサラフは第三世代までを指すことがほとんど。

サラフ主義は団体でも教団でもない。


・ジハードが正しい行為であることはイスラームの合意事項。
穏健派と呼ばれる人たちの中でもジハードは徳高い行為とみなされている。

ジハード主義の特徴は
ムスリムに攻撃を加える異教徒だけでなく
ムスリムである不正な為政者や、
その為政者の陣営に与するムスリム、
さらにはときにそういった為政者に対する武装闘争に与しないムスリム全般をも
ジハードの対象とみなすこと。

ジハード主義者ではないサラフ主義者は
為政者への武装闘争はおこなわず、
改革はあくまで教育や啓蒙、
あるいは選挙などの合法的手続きをとおして政治的実権を握ることによっておこなうべきであると考えている。


①ムハンマドの時代を理想の社会とみなす

②イスラーム法を現代によみがえらせようとしている

はサラフ主義者の特徴ではない。

①はサラフ主義者であろうとなかろうと
ムハンマドの時代がイスラームの理想形だと考えており
イスラームの合意事項。
ムハンマドは単に神の言葉を伝えた媒体とみなされているだけでなく
彼の生きざまはムスリムが模範とすべき理想像とされる。
ムハンマドとともに生きた第一世代のムスリムは
もっともすぐれた世代だと信じられている。

②についていえば
シャリーア(イスラーム法)は神によって定められた法規範であり
特定地域でのみ通用する慣習法でも
もはや実地に用いられない中世の法律でもない。


・非ジハード主義の論客は
以下のハディースを好んで引用し
統治者が人々に礼拝を許容している限り、
その統治者に従うことが義務である
と説く。
ハディースにはこうある。
「あなたたちの指導者のうち最善の者たちは
あなたたちが慕い
あなたたちが祝福を祈り、
あなたたちに祝福を祈る者たちである。
あなたたちの指導者のうち最悪な者たちは
あなたたちが憎み
あなたたちを憎み、
あなたたちが呪い、
あなたたちを呪う者たちである」。
こう述べたムハンマドに

「アッラーの使徒よ、
われわれは剣によって彼を退けてはならないのですか」
と尋ねる者があった。

ムハンマドは以下のように答えたと伝えられる。
「否。
彼らがあなたがたの内に礼拝を挙行させている限りは。
あなたたちがあなたたちの権威者に何か嫌うことをみとめたのであれば、
彼の行為を嫌いなさい。
しかし、
手を忠義から離してはならない」。

(礼拝さえ認めておけば反抗されないからと考える圧政者に対してはどう対応するのだろうか)

どのような圧政を敷き、
ムスリムを迫害しようとも
礼拝が許容されている限りはその統治者に反逆してはならない
というのが反ジハード主義者のムスリムの立場。
統治者を罷免する可能性は認められているが
内軍が発生する危険がない限りにおいておこなわれうることだと言われる。

・カリフの擁立は多数派であるスンナ派ではすべての学派の一致した見解。


・イスラームでは戦闘で
相手方の戦闘員以外の人間に物理的攻撃を加えることは許されない。
イスラーム法では敵の戦闘員は成人男性のみと規定される。
女性と子供を攻撃することは禁止で、
これは法学者の一致した見解。
成人男性であっても
老人、身体虚弱者、
精神薄弱者、狂人、
盲者、下半身不随者、
麻痺者、手足の切断されたもの、
右手を切断された者、
(これ利き手という意味?)

雇われ労働者、隠遁した修道者、
商人、職人、
両性具有者、農民などは
細かい議論はいろいろあるが
多数派の見解では攻撃対象とすることは許されない。
それ以外の成人男性は戦闘員として包摂される。

コラテラル・ダメージ(やむを得ないまきぞえの犠牲)
については古典的なイスラーム法学でも詳しく議論がなされてきた。
結論としては
火攻め、
石などの重厚な武器による攻撃
飛び道具による攻撃、
夜襲、
水攻め
などが有効だと考えられる場合は、
女性や子供が被害にある公算が高くとも攻撃をおこなうことが許容される。


・中田考氏『イスラーム 死と聖戦』での
中田氏は
「ダール・イスラーム(イスラーム圏)を拡大する戦いもジハードの一種であるが、
その発動にはカリフの命令が必要であり、
カリフ不在の現時点では、
ジハードは自衛戦争に限定される」
と主張。
また同書で
「『ハディース』においては、
敵を焼き殺すことは禁じられています。
ところが、現代の戦争で用いられる兵器は、
(中略)
人を焼き殺すものばかりです。
(中略)
つまり、大量破壊兵器を用いる現代の戦争は、
あからさまにイスラームの倫理に反するのです」と書いている。

しかしここで中田氏は
個人を火刑で処刑することの禁止の議論

ジハードにおける火攻めの是非の議論
とを混同しているのではないかと
著者は考える。
もっとも、
前者から後者を類推し
火攻めは可能であれば避けたほうが好ましい
という議論はあるが、
禁止・忌避されるとまでは言われない。
ただ、中田氏に似たスタンスで
人道的な理由から
核兵器、化学兵器、
細菌兵器の使用がイスラームにおいては禁じられるという議論は存在する。


・イスラームは唯一の正統教義を決定する公会議のようなものをもたない。


・ジハード
=敵に対する抵抗において努力すること。

敵は
①ムスリムと交戦する異教徒
②悪魔
③自我。

悪魔の誘惑や事故の悪い欲望と戦うことも
ジハードに含まれる。

一部の学者は
大ジハード
=自我との闘い

小ジハード
=異教徒との戦争。


異教徒との戦闘という意味でのジハードでは
戦闘開始の手続き、
戦闘での規律、
戦後処理などが法学で詳細に決められている。

ジハードは殲滅戦ではなく限定戦争。
敵の支配地域の住民をムスリムに強制的に改宗させることもおこなわれない。

ジハードの目的は
一般的には
イスラームとムスリムの防衛、
およびイスラームの宣教が人々に行き届く空間の確保。
近現代では防衛のみがジハードの目的だとする見解も広まっている。

ジハードは聖戦と訳されることがあるが
正戦の訳語が適切かもしれない。
努力、奮闘努力などの訳語を用いる人も増えている。


・イジュティハードの意味は大きく分けて二つ。
①法規定を演繹すること
②法規定を適切に適用すること

本書は①の意味に絞る。


聖職者階級や教会制度をもたないイスラームには
正しい教義を決定する正当な手続きや資格は存在しない。


法学と神学の違い。

法学
=ムスリムが身体でおこなう行為、
あるいは口によって発する言葉を対象とする。
礼拝などを論じる。

神学
=ムスリムが頭のなかで何を信じるべきかを論じる。
創造主が無始なる存在であることや
ムハンマドが預言者であることなど。

(法学
=第三者が認識できる外面的行為について。

神学
=第三者が認識できるとは限らない内心の信仰について)


イジュティハードとは、
j-h-dを語根とする動詞“jitahada”の動名詞で、
「法学者が、個別的な典拠(を精査すること)をつうじて、法規定を演繹することに最善の努力を尽くすこと」。

簡単に言えば、特定の問題についての適切な典拠を見つけ出し、特定の法解釈を独自に/自力で導き出すこと。

一方のタクリードは、
q-l-dを語根とする動詞“qallada”の動名詞で、「証拠や典拠を知ることなく、他人の見解に従うこと」。


タクリードが説かれた背景の一つは
時が進むにつれて、
知識は廃れていく
というイスラームの下降史観がある。

(だんだん良くなるという進歩史観と真逆)






松山洋平編『クルアーン入門』(作品社、2018年)




・松山

ムハンマド逝去後、
クルアーンは第一代カリフのアブー・バクルの指揮のもと
一冊の本の形にまとめられた。
ムスハフ
=クルアーンが物理的な本の形にまとめられたもの。

その後、第三代カリフのウスマーンによってその写本が作られ、
彼はその写本を正本とするようムスリム共同体全体に通達した。
以降現在まですべてこのウスマーン版から複製されたムスハフによって
クルアーンを読んでいる。
クルアーンには単一のクルアーンしか存在せず、
使用言語や宗派によって異なるヴァージョンは存在しない。

(既存の一神教の欠点を克服している)


クルアーンの専門的定義(の一つ)
=ムハンマドの上に下された
奇蹟たる言葉であり
ムスハフの中に書かれ、
タワートゥルによって伝えられ
それを唱えることが崇拝行為
となるもの。

タワートゥル
=なんらかの伝承や情報を伝える代々の世代が
理性的に考えて
虚偽を捏造することを申し合わせることが
想定できないほどの人数に達する状態
を意味する。
イスラームでは
そのように伝えられた伝聞情報は真実として認められる。


上記の定義をみたときに
日本の読者が見落としがちなきわめて重要な点がある。
それは
クルアーンが
ムハンマドが霊感によって発した言葉でも
ムハンマドに啓示をもたらした天使ジブリールの言葉でもなく
そのすべてが創造主アッラーの言葉
だという点である。

イスラームでは
アッラーの言葉というのは
永遠であり
単一であり
スンナ派などの多数派の考えかたでは
アッラーによって創られたもの
つまり被造物ではない。
したがって
アッラーの言葉と聞いたとき
それに人間が言葉を発するときのようなイメージをかぶせるのは誤り。

アッラーの言葉が永遠であるということの意味はこうだ。
アッラーは永遠の存在であり
時間のなかに存在するものではなく
変化を受けつける存在ではない。
彼は、
永遠の昔からそうあったように常にあり続ける。
アッラーは不変である。
そのため、彼は
話し始めたり
話し終えたりということはない。
彼が永遠であれば
必然的に彼の言葉も永遠のものである。

彼の言葉は単一であることの意味もこれと似ている。
彼はあることを発言したのちに
周囲の状況に応じて発される偶発的なものではない。
そのようなことが仮に想定されれば
彼は永遠の存在ではなく
変化する被造物のような存在になってしまう。
したがって
彼の言葉は単一であり
あることを発言したのちに
別のことを発言したりすることはない。
アッラーの言葉は
人間のように周囲の状況に応じて発される偶発的なものではない。
アッラーの言葉が被造物でないことは、
仮に被造物だとすると
アッラーの言葉はアッラーと別の存在となり
被造物でありながら永遠の存在であるアッラーの言葉
が並立して存在することになる矛盾よりわかる。

人間側の解釈が間違うことはありうるし
複数の解釈が生まれることは認められている。


・日本語で通常
啓典と訳される単語は
アラビア語のキターブ(複数形クトゥブ)
であり、書物、本という一般的意味を持つ単語であり
全体としてまとまりで書かれたものなどの意味を持つ。


預言者の正確な数は不明だが
あるハディースでは
預言者は十二万四千人で
そのうち使途は330人と言われる。
ただし預言者や使徒の数を示すハディースは
それほど強い信憑性を持つものではないため
預言者の数は断定しないことが好ましいとされる。

預言者
ナビー
=アッラーから啓示を受けた者全般。

使徒
ラスール
=預言者のうち
人々への使信の伝達
--宣教といってよい--
を特に命じられた者。

啓典はすべての預言者に与えられたのではなく
預言者のうちの使徒にのみ与えられたもの。

使徒の数と同様、啓典の数も明らかではない。

・クルアーンは三段階を経てムハンマドに届けられた


アッラーは第一に
護持された書板
=世界に生じるあらゆる出来事が記された
アッラーによって創造された天の書板
に記した。


護持された書板に記されたクルアーンが
現世の天に位置する
威力の家
という場所に下された。
この
下し
はラマダーン月の
決定(カドル)の夜
に行われた。


現世の天に下されたクルアーンが、
二十数年間をかけて
少しずつムハンマドに啓示された。


・下村

アラビア語の奇蹟を厳密に訳せば
模倣不可能性
となる。

イスラーム教学の
奇蹟の定義

①慣行(=自然法則)を逸脱(超越、破壊)する事柄で


②「挑戦」
(クルアーンが偽作だと言うなら
それを言う彼らに
クルアーンと同じようなものを持って来させよ)
を伴い

③「対抗」
(挑戦への抵抗
=クルアーン同様の一章を持ってくること)
から免れているもの。

イスラームでは
聖書つまり
ユダヤ教の律法の書(タウラー)と
キリスト教の福音書(インジール)は
アッラーから下された啓典とされる。
しかし奇蹟ではない。
聖書は言葉の美しさの点ではクルアーンに及ばず
挑戦も含まれていないために
奇蹟とはみなされない。
クルアーンでは言語表現の美しさ自体が
本質的に重要であるため
奇蹟たりえない翻訳は宗教儀礼に用いられない。

クルアーンの多言語への翻訳はクルアーンそのものとはみなされず
解釈の一種とされるのは
奇蹟性や言語表現の入り組んだ複雑性が翻訳されえないから。

(一神教なのに宗教者が翻訳聖典しか読めないっておかしいもんね)


・松山

ムスハフを構成する紙や、
文言が書かれているインクなどは
アッラーの言葉ではない。
それらは被造物。

多数派の見解では
ムスハフに触れるさい、
ムスリムはイスラーム法に基づく
タハーラ(清浄)状態になければならない。


クルアーンの章句に加え
註釈がかかれた
タフスィール(クルアーン注釈書)
に触れる前にタハーラが必要か否かについては
ある学派では不要である
ある学派では必要であるといった
見解の相違がある。


不信仰者にムスハフを触らせてもよいか

一説では不信仰者にムスハフを触らせることは禁じられる。
タハーラには意志を伴っていなければならず
不信仰者には持てないからだ。
別の説では
不信仰者でもタハーラをその者が行い
入信可能性があるなら触らせることが許容される。
さらに別の説によれば
触らせることが許容されるが
タハーラは不要。
それを義務付ける明白な典拠は存在しないからだ。


ムスハフを地面・床に置くことなど
侮って地面に置くことは学者間の一致した見解として禁じられる。
それをした者がムスリムなら一説では不信仰者となる。

必要があってなら
一説では許容され
一説では忌避され
一説では禁止される。

ムスハフの上に他のものを乗せることは許容されないが
ムスハフの上にムスハフを置くことは構わない。

ムスハフを侮る意図なくムスハフに足を伸ばすことは
一説では避けることが最善であるが禁止も忌避もされないとし
一説では忌避され
一説では禁止される。

便所に持って入ることは
避けられない事情がない限り禁じられる。
一部の学者はムスハフが顕わになっていれば禁じられるが
入れ物にしまわれていれば構わないともいう。

不要となったムスハフの処分方法
焼却処分は多数派が許容。
水に浸してとかすこと
地面に埋めることは
学者間の一致した見解として許容。
ただし浸す水や埋める場所は清浄でなければならない。
細かく引き裂いて処分することが許容されるか否かは見解が分かれる。

非アラビア語に翻訳されたものはもはやクルアーンではないため
上記のムスハフの規定は当てはまらない。

作品社の『日亜対訳 クルアーン』のような
翻訳に加え原文も載っている本の場合
ムスハフと捉えるか
タフスィールと捉えるかには見解の相違がある。

筆者が個人的にやや不安に感じるのは
日本で一般的に見られる本の取り扱い方が
アラブ人などの目には
まるでその本を軽視し
侮辱していると映ることがありそうだという点である。
現代の日本では
本を床に乱雑に置く
その結果、無意識に本を踏む
本を台にしてその上に何か(コップや肘など)を置く
本をぽんと放り投げるなどの行為は
個人差もあるだろうが起こり得ないことではない。
しかし、
イスラーム教圏一般の人がこれらの行為を目にすれば
本を非常に乱暴に扱い
知識全般を軽視し侮っているように感じるだろう。
場合によって何かしら意図的な悪意を感じる人がいてもおかしくない。
あらゆる誤解を生まないためには
ムスハフ、および翻訳書はなるべく丁重に扱うことが好ましいと言える。

(本を乱暴に扱う=知を軽視なので
知を重視するイスラームに反する。

翻訳版クルアーンは解釈書扱いですが
クルアーンと同様に丁寧に扱いましょう)


・松山

クルアーンの各々の章は
複数の節(アーヤ)から構成される。
クルアーンのすべての節の数は
6200といくつかである。
下二桁については学者間に見解の相違があり
4、5、14、15、
19、20、26、36ともいわれる。

この見解の相違は
どこまでがひとつの節であるかについて見解が異なる部分があるからである。


クルアーンには
確固たる節と
曖昧な節があると言われる。

前者
後者の順でいくつかの定義を並べる。

意味が明らか
意味が明らかにされていない

単一の意味にしか解せない
複数の意味に解することができる

廃棄されなかった
廃棄された可能性のある

曖昧な節の効能
より精緻で深遠な解釈がなされる
真意を知るためにさまざまな学問が発展
信徒のさまざまなレベルに合わせて多層的な意味を提供できる



・後藤

最初の日本語訳クルアーンが刊行されたのは
坂本健一『コーラン経』1920年、大正九年。
アラビア語の原文と
当時定番だった複数の英語訳を参照している。
この最初の日本語訳においてアラビア語のアッラーは

主人を意味するRabbは
上帝
と訳された。

(漢訳聖書の影響だろう)


二番目は
高橋五郎・有賀阿馬土共訳『聖香蘭経』1938年、昭和一三年。
1930年代
日本では大東亜共栄圏構想をはじめ
帝国主義によるアジア地域への進出の期待が高まっていた。
回教圏研究所や大日本回教協会、東亜研究所の回教班など
関係の研究機関や組織が次々と設立された。
高橋五郎は聖書和訳の分野で活躍した。
有賀阿馬土は最初期の日本人ムスリム有賀文八郎。
阿馬土はアフマドの当て字だとされる。
アッラーは大神
Rabbは天主となっている。


三番目は
大久保幸次・小林元による部分訳
(1938年から1944年まで月間機関紙『回教圏』に連載)、
大久保幸次「邦訳コーラン」
大久保幸次・鏡島寛之『コーラン研究』刀江書院、1950年に採録。

イスラームに関する十分な専門知識を持ち
アラビア語の原典翻訳を試みたのが
回教圏研究所所長で
トルコ学とイスラーム研究の先駆者的存在であった
大久保幸次である。
回教圏研究所はアジア主義という国策による資金面での後押しを得て成立した。
アッラーは
アルラーフ
(「ル」と「フ」は小文字)
あるいは
神、

Rabbは
主宰
と訳されている。


四番目の日本語訳は大川周明訳注『古蘭』岩波書店、1950年。
東京帝国大学の哲学科で東洋思想と宗教学を修めた大川は
在学中から道会(儒教的キリスト教を掲げた団体)に関係し、
その雑誌『道』に寄稿したり
編集の中心的役割を行ったりした。


(道会は儒教的キリスト教だと明言しているのが素晴らしい。
道会は万教帰一系。
日本のイスラーム人脈には万教帰一人脈が混じっているので注意)


大川はアラビア語の独習を進めつつ
インドから「アハマディヤ協会」発行のアラビア語・英語両文併記のクルアーンを取り寄せたり
ハディースを翻訳し
その抄訳を雑誌『道』に掲載したり
マホメット伝を執筆したりした大川は
熱心なイスラーム研究者であった。
その後大川は
東亜経済調査局に勤め
その理事長となり
1931年の満州事変や翌年の五・一五事件に関与したとして逮捕されるなど

波乱万丈な人生を送りながらもイスラームについて学び続けた。
大川は
アッラーは
アルラーハ
(「ル」と「ハ」は小文字)、


Rabbは

と訳されている。

大川は信徒になることはなかったようである。


(アフマディーヤ発行のものなんて参考しちゃいかんでしょ。
この教団についての説明も本書にある。
大川はA級戦犯を逃れた特権階級)


アハマディア・ムスリム協会とは
1899年にインドで興ったスンナ派イスラームの分派で
イスラーム内のいわば新宗教(新興宗教)で
特徴は
極端な平和主義と
カリフ(宗教指導者)を頂点とした行動に体系化された組織。
現在の本拠地はイギリスにあるが
欧米や西アフリカに多くの信徒をもち
日本にも1930年代以来
パキスタン系の人々を中心に増え始め
現在では日本人配偶者や日本人からの改宗者も含めて200名程度の信徒がいるといわれている。

(インドでできて、本拠地がイギリスの時点で怪しさ満点。
インドと英国って神智学系がらみ?)



2017年6月現在までに刊行されたクルアーン日本語訳の中で
最新なのが
『聖クルアーン日本語訳』で
訳者の澤田達一は
イラン最大の宗教都市ゴムのイスラーム法学院でイスラーム諸学を修めた人物で
日本人初のシーア派聖職者として知られている。
日本語で初のシーア派の解釈をもとにした翻訳。







→敢えて仏教用語を援用することもあった。適応主義的な宣教政策の由縁。
文脈は大きく異なるが、クルアーン日本語訳でも初期は仏教・神道の名称が用いられたこととも呼応して興味深い。宗教概念の翻訳は非常に難しい行為の1つと言えそうだ(宗教の説明に他の宗教・哲学の用語を援用せざるを得ない)


777(ななさん)
‏ @koi_72hiki
2017年12月1日

私はムスリムであり、一時期イスラーム教徒向けの「アルウンマ新聞」を読んでいた。そこには、日本人唯一のシーア派聖職者澤田達一さん、その父親が大本教について肯定的な記事を連載していた。

私自身、出口汪先生のおかげで現代文の全国偏差値は79まで上昇し、「本が読める」ようになった。
それに、私はアート面(茶器や書画)や建築面で大本を高く評価している。


777(ななさん)
‏ @koi_72hiki
2016年2月8日
今さらながら日本人唯一のシーア派の聖職者・澤田達一さんが言っていたことがじわじわ効いてくる。
井筒さんの訳は学者的だと…。
井筒さんの預言者ムハンマドの「三位一体」批判は当てならないと…。



・下村

個人的見解(イジュティハード)

一般的に
イスラーム教学では
知識に到達するための方途を
理性と伝承に分類する。
理性
=考える力、判断能力、推論能力などの
実際的な力であって
能動知性のように高度に思弁的なものではない。

伝承
=従われるべき権威ある存在から
後代に伝えられた内容であり
アッラーのコトバであるクルアーン、
預言者ムハンマドの言行録であるハディース、
教友の言行など。

伝承者A→伝承者B→教友の次世代→教友
のように教友に確実に遡ることができれば
教友の権威に接続しているため啓示の契機として
受け入れられるが
教友の次世代で途切れているものは
教友の次世代が独立した権威となりえないためさらなる精査が必要とされる。

伝承の集成と精査を扱うのがハディース学。
その分野の一つに伝承者批評学がある。
伝承者の資格として重要なのは
信頼性と
厳正性である。

信頼性を有さない者は
1 不信仰者
2 幼児
3 狂人
4 不義者(≒犯罪者)
5 ハディースを捏造していたが悔悟した者
6 不信仰には至らないような教義上の逸脱者
7 ハディースの伝達によって報酬を得ていた者
であるとされ
端的に言えば
利害を離れて正直に真実を語っているかどうかが審査される。

厳正性を有さない者は
1 誘導に引っかかる者
2 孤立した伝承の多い者
3 不注意な伝承の多い者
4 伝承における間違いを指摘されても自説を曲げない頑固者
5 口承との校合(きょうごう)がされていない不十分な写本に基づいて伝承する者

とされる。


(情報の真偽判断にさっそく活用しよう)

教友たちについては全員が例外なく信頼性を有するとされる。
教友の信頼性を担保するのはクルアーン、ハディース、
これらを元にした学者たちの合意であって
合理性では捉えきれない側面がある。




・下村

古い規定が新しい規定によって更新されながらも
古い規定を定めた章句がそのまま残される現象が見られる。
これを規定の廃棄と呼ぶ。
どの章句が廃棄と被廃棄の関係に該当するのか統一見解はない。
「剣の節」による廃棄はより本質的な問題であり
現代の学者は次のようにこれをまとめる。
一般的には
「剣の節」とは

クルアーン9章5節
「それで諸聖月が過ぎたら、
多神教徒たちを見出し次第殺し、捕らえ、包囲し、
あらゆる道で彼らを待ちうけよ。
だが、もし彼らが悔いて戻り、
礼拝を遵守し、
浄財を払うなら、
彼らの道を空けよ。
まことにアッラーはよく赦し給う慈悲深い御方」
(預言者に敵対し、策謀し、
盟約を反故にし、
信仰者たちに無慈悲にふるまうアラブの多神教徒に関する規定)

であるとされるが

同書9章6節
「そしてこぞって多神教徒と戦え、
彼らがこぞっておまえたちと戦うように」
とも言われ一定しない。
6節のほうは相互主義である。

(相互主義
=外交や通商関係で、相手国の自国に対する待遇と同等の待遇を与える主義)

クルアーンは五月雨式に下されたため
中には新しい節の啓示によって古い節の規定が上書きされた
にもかかわらず、古い節がそのまま残るという現象が見られる。
これをナスフ(naskh)つまり既定の廃棄ないし解消と呼び
訳語として廃棄を使われることが多い。
n-s-khを語根とする単語はクルアーンの中に次の四回現れる。

「われらが取り消す(nansakh)か
または忘れさせる節があれば、
それに優るか、
同様のものを持ってくる」
(クルアーン2章106節)
にある取り消す。

他の三カ所は
写し
廃棄し
書き写させていた

n-s-khには言語的には
解消と
移転(書写、転記)
の両義があることがわかる。
専門用語として
ナスフ
=聖法(シャリーア)によって
聖法上の規定を取り上げること

あるいは
=シャリーア制定者が先行する規定を
後行する規定によって取り上げること

と定義される。


現代でも一部の学者は
剣の節が寛容を説く数多くの章句を廃棄したと主張する、
実に嘆かわしいことである、と。
古典期にも剣の節による廃棄が濫用されていると批判する学者はいたが、
彼ですら剣の節による廃棄自体は認めていた。
対し、
イスラーム圏が劣勢に置かれた近現代ではこれを認めていないのは
時代の空気が反映されているのであろう。

マッカ期には弱小であったイスラーム勢力は
強者に忍従し弾圧を受けても放免するようクルアーンに定められていたが
後のマディーナ期の勧善懲悪やジハードの義務によって
廃棄されたとの理解が中世にはあった。

中世で規定は廃棄されるのではなく「忘却」されるのに過ぎないとの見解が出された。
つまりイスラーム勢力が強ければ勧善懲悪などが課され、
弱体化すれば忍従が義務となるとの説である。
現代の学者は忘却理論がご都合主義との批判を受けかねないと注意喚起している。


現代の学者カラダーウィーの議論を見てみよう。
①現代の中道的ウラマーは廃棄の認定に慎重

②イスラームの寛容性を説く論者は廃棄認定を避けるのに対し、
イスラームの絶対的優位性と峻厳さを強調する論者は
剣の節による廃棄を主張。

③どれが剣の節であるか合意はない

④剣の節は無限定な原則論として解釈されるべきではない

⑤啓典は全体が有機的に理解されるべきである。


イスラーム法源学では
酒がクルアーンで段階的に禁止され
これを既定の廃棄の典型例として紹介する。
他方、中世学者でもこれらの節を廃棄の例に含めていない者もいる。
現代の学者は廃棄の条件を詳細にまとめ、
似非廃棄という
忘却、限定、解説などを廃棄と誤認した例を挙げる。

「剣の節」として知られる
クルアーン9章5節
を原因とした廃棄に関し
古典期
(ヒジュラ暦1176年、
西暦1762年没の
シャー・ワリーウッラーまで)
の学者がこれを認めるのに対し、
近現代期はまったく認めていないのは対照的。


ザルカシーの議論いわく:
軽減処置を命じる数多くの節が
剣の節
によって廃棄されたとする多くのクルアーン註釈家たちの主張は脆弱。
これらは忘却対象であり、
つまりすべての命令はその規定を義務とする理由に従って
ある期間に遵守されなければならない。
理由の遷移に伴って
別の規定に遷移するのであって、
廃棄ではない。
廃棄とは解消に他ならず、
決して遵守することが許されないからである。


忘却
=一時停止ないし休眠
(状況に応じて復活可能)。

(預言者に敵対し、策謀し、盟約を反故にし、
信仰者たちに無慈悲にふるまうアラブの多神教徒を殺せというのが剣の節。
異教徒を殺せの異教徒はイスラーム側とかわした約束を破った残酷な異教徒なのが重要。
異教徒を殺せはイスラームの共通見解ではないことも重要。
歴史的に見て、ヤソに比べてイスラームは異教との共存が上手くいっているし、
異教徒を殺せをひたすら実行なんてしていないから、
剣の節を理由とするイスラーム叩きのほとんどは無知に基づく不当だ。
剣の節は条件が限定されていると解釈し
異教徒を積極的に殺さなかったからこそイスラームは生き残ってきたのでは?)



古典期と近現代では廃棄の認定に大きな差異がある。


ザルカーニーいわく
例外や期限の設定による
限定
を廃棄・被廃棄と誤解してはいけない。
解説も同様。


比喩的解釈(タアウィール)


限定は廃棄よりも基準が緩やかであり
矛盾の解消に用いられやすい。

クルアーン2章191節
「しかし禁裏モスクでは
彼らがそこでおまえたちに戦いをしかけるまでは
彼らと戦ってはならない」

クルアーン9章29節
「税(ジズヤ)を収めるまで戦え」



・下村
(基本的に書かれた順にメモしているが
内容が剣の節の解釈なので、
本当はもっと後ろの方の記述だがここに持ってきた)


防衛線の縛りを解くのが
9章5・36・41節。
古典期の議論をまとめると


9章5節は剣の節として知られ
忍耐などを命じる節を廃棄し


戦闘一般を無限定に命じているが


女子供と修道者は除外され
ここで言われる
多神教徒には


背教者が含まれ


啓典の民が除外される可能性があり
クルアーン9章29節によって


啓典の民は人頭税の貢納による停戦が許されるが


偶像崇拝者は庇護民となり得ない可能性がある。
殺せとの表現は無限定であるため


正統カリフ時代に背教者が禁殺された故事も伝えられるが


遺体損壊は禁じられている。
包囲し
とは
10
封鎖を意味し
捕らえよ
とあるとおり
11
敵を捕虜とすることが許され
12
その処遇は
殺害、身代金、恩情の中からカリフが選ぶ。

13
多神教徒が入信すれば戦闘は停止され
14
その後に礼拝や法定喜捨拠出を拒否すれば背教者として討伐対象になる可能性があるが
15
義務を施行すれば停戦される。

他方
近現代の論客である
ムハンマド・アブドゥは9章5節が仮借などを命じる諸章句を廃棄したことはなく
それらは単に忘却されただけであり、
9章5節にある
多神教徒はかつて存在したアラブの多神教徒であったとする。

現代の代表的法学者ズハイリーは

剣の節であると述べながら廃棄・被廃棄の関係について一切言及しない。
多神教徒を殺せ
とは実質的にはすでに存在しなくなった

アラブの多神教徒を対象としており


女子供と修道者は除外され

遺体損壊も

苦痛を長引かせるような殺害方法も許されないとし

当然

焚殺についての故事も伝えない。
アラブの多神教徒は

改宗か殺害かを選ばなければならないが
すでに存在しないため空文化している。

アブー・バクルの背教戦争も

アラビア半島で背教した諸部族を対象としていた。
このように剣の節の対象がアラブの多神教徒であると限定的に解釈することで
全体をすっきりさせている。

ズハイリー(現代の代表的法学者 西暦2015年没)
いわく
多神教徒を殺せ
とは無限定な表現だが
預言者の慣行によって
女子供と修道者、また遺体損壊、
拘束下の者を矢で殺すことが除外され
最も殺害が許されない人々とは宗教者である

殺すのであれば、殺害に最善を期せ
とのハディースが伝えられる。

この節は、
おまえたちに戦いを挑む多神教徒たちを殺せ
の意味であり
アラブの多神教徒は殺されるか
改宗するかである。
啓典の民は9章29節によって本節の規定から除外される。
またハディースには

「おまえたちが多神教徒に遭遇した際には、
彼らをイスラームに呼び招け。
もし彼らが拒絶すれば、ジズヤ(人頭税)の貢納に呼び招け。
もし彼らがそうすれば、彼らから受け取り、
彼らに手出しするな」

とありすべて多神教とを指す一般的表現が用いられているが、
9章5節によってアラブの多神教徒が除外されるのである。


(剣の節という「多神教徒を殺せ」という記述の適用については
学者で意見が分かれており、
「イスラームは積極的に多神教徒を殺せという教え」
というのはデマだとわかる。
どの宗教も自分らの宗教が一番だと言うのは当然であり、
それについては咎められるべきではない。
異教徒への態度(例えば積極的に異教徒を虐殺するなど)
次第では咎められるべきである。

廃棄された個所かどうか確かめずに
コーランのこの個所は悪だと叩いている者に注意。
いきなりクルアーンを読んでもダメな理由。
クルアーンを原文で読み、
かつ多数派解釈と少数派解釈を学んだ人を情報源にしないと
デマをつかまされる可能性が高い。


剣の節についてシーア兄貴が解説してくれることを期待して
それについてRTしたら解説してくれた。
ありがとうございます!
ノスヘとあるが『クルアーン入門』ではナスフ。
母音のつけ方と日本語では完全に表現できないことから来る違いだろう。

蟹ぢから溢れる
🦀
💪
‏ @onesyotasekai
6月16日
あーもう…だから、核汚染ではイスラームの議論何てできるわけねえのになんでするかな虫けら共め
えーとねぇ、第9章悔い改め・更正というのは最後の最期に啓示を受けたもので
この章の重要性は聖地であるマッカに多神教徒が入る事は出来ないという事とその退去時間が4ヶ月ですよという事なのよ

でね、これは前にفتح مکه に ついて知らないと話にならないのだけど…
まー案の定、この悔い改め章とこの話を結びつけて話さない核汚染民(片目を潰された奴隷)ばかりでやんの
あのさぁ…解釈本じゃなくて歴史の流れを理解した上で解釈があるんだよ?
歴史の流れを知らずに解釈本読んでどうするのよ?


(上記のアラビア語は検索すると
Conquest of Mecca
イベント
日付: 西暦630年1月11日 – 西暦632年6月8日
場所: サウジアラビア メッカ
Muslim victory

End of Muslim–Quraysh Wars)

このفتح مکه の 重要性はグライッシュ族が預言者(ص) と約束して
イスラームに帰依しますと行いますと約束したにも関わらず、
破るは戦争ふっかけてくるは未だに過去の陰習をするわで…
アッラーも預言者(ص)もわかってはいたけど嫌になって
最後の最期にこの啓示が降りてきたわけ…で、それがこの啓示なの

で、おいさんが持っている歴史書だとこー箇条書きされている
1、アッラーも預言者(ص) も多神教徒のアホさには嫌気がさした
2、多神教徒はバッジできない
3、カァバ巡礼も不可
4、 4ヶ月やるから聖地から出ていけ、用意出来ないなら助けてやるのと二度と約束はせん
5、多神教徒は天国行けへんで

なので、この章の第1節から129 節も続くこの啓示は
根本的には敵対してくるクライッシュ族や偽改宗
・または偽の教えを説き、
啓示者を唯一なる存在と一緒くたにユダヤ・キリスト教なんかがここに入ってくるわけ
そもそも、25節のフナインの戦争を説明できない奴が騒いでいる時点でお察し


でね、نسخ は廃棄じゃねぇ
「過去の命令をより良いものに変更される」
であって一般的に使われる場合と専門用語として使われる場合は意味が変わる
だから、廃棄として使う場合は
前のアーヤが完全無効化
→じゃー完全に無効化するものを何故啓示で与えたのか?という瑕疵が発生するので
そー表現はしない

おいさんの教科書には条件のひとつに
「ノスヘされる主題は変化しない
(過去啓示の目的や主題ではなくて、その行為等をより良く改良・改善する)」
のであって廃棄と訳すと行われる行為が間違っていたので
捨てるような印象がつけられかねない典型的なクソ翻訳となる
だから、仕事が多いんじゃアホンダラ


で、話戻すけど
よーはこの最期の啓示の前半の目的はアホな同族と
啓示を歪めて拡散しているアホな連中についてと
聖地等の扱いであって
無条件や無理由で虐殺・略奪しろという事ではないの
でね、核汚染ではこーいった背景等を学習できないので
イスラームについては核汚染語の環境では出来る訳がないの



平和はصُلحでسلم は 服従で このسلم が باب أفعال の 形になったものاسلم يسلم اسلام でこのハーブの意味は9つあるのだけど、ここで使われる意味は表明・証言する事
要は形而上に服従・従いますというのがイスラームでفَعال はصفت مشبهه で物人の性質を確定させる事なので従属者がسلام サラーム

こんな初歩の初歩の初歩の初歩何てね…
すこーし調べればホイホイ出てくるものであって、そのホイホイ出てくるものが未だに核汚染語化していないわけ
だーかーら、核汚染語ではイスラームの議論何てできるわけねえというのは
その核汚染語になっていない資料が多すぎて話にならないからなんよ

で、ハッキリ言うけど中東情報を英語で追っている奴はフォローする価値ないです
中東情報は絶対にアラビア語・トルコ語・ペルシャ語・ヘブライ語・ウルドゥー語に現地の言語以外では使えると思わないで下さい
じゃねえとペルシャ民族主義者の妄言を一般的だと誤解したりするので本当に迷惑極まりない


6月17日
あークッソ重要だけど、ナジェスアラビアでの注釈が全てじゃないからね
アレはあくまでもワッハーブ派というスンナ派でも異端な連中の内輪でのنسخ 論であって他の宗派ではまた別の改善論があるのでそれが全てと思わない事
禅宗と浄土真宗は一緒です何て言ったらただのアホでしかないだろ?
正にソレ

だから、中田先生が監修された10大宗派の注釈を入れたクルアーンが重要になってくるわけ
例えばね、宗派によってはおちんちんの皮カットしない
何で?というと、家畜に焼き印等をつけるのを禁じたわけだから、
それと同様におちんちんの皮カットしない(形而上に従う者達の印は不要)のよ

で、核汚染では注釈できた→解釈を原文で当たって知っている→宗派ごとの議論が出来る→その議論の細かいところまで知っている人がいるとなってやーっと形而上に服従する者達の議論が出来るわけ
そもそも、イスラームを宣う連中がアラビア語語形論の知識がねえのに出来るわけねえだろぉ、ドアホ!

前も話したけど、アラビア語は基本3文字で構成されていて読み方や足されたり、引いたりすることで言葉が変化するので
それを理解していないとお話にならないのと
弱動詞や活用変化、語形変化それに語尾変化等を理解していない連中がイスラームの議論を出来るわけがないのよ
だから、出来ないと言っとるの

例えば、أمن و وطن و قوم و حتى و مدد و وفي و حيي と 見た時にどれだけの人がピンとくる?わけわからないでしょ?
ね、その時点でお話しにならないの
で、核汚染に居るクソリマ・クソリム共の殆どですらコレについてわかっていないので議論何てできるわけねえの!
基本がないのに議論が出来るか!

(グーグル翻訳だと
Security and homeland and people and even and extended and in and living))


WATABE Ryoko@khargush1969
2015年8月26日
クルアーンのnaskh(廃棄)の根拠となる節、第2章「雌牛章」106節「われは(啓示の)どの節を取り消しても、また忘れさせても、それに優るか、またはそれと同様のものを授ける」







・下村

クルアーンの章句は
ムフカム(明瞭文)
ムタシャービフ(曖昧文)
に分かれ、
前者が
ナッス
(明文
一義的)、

ザーヒル
(優勢文
多義的だが字義に照らして妥当な文意が有力)、

後者が
ムジュマル
(概括文
多義的で複数の意味に優越がつけられない)、

ムアウワル
(タアウィールされる文
∵通常妥当とされる意味では通用せず不明瞭)
とする四分類説がある。

あるいは
前者がナッス(ナッス以外はすべて多義的)
とザーヒルに、
後者が
ムアウワル
(字義からずらす文
字義から離れている))、

ムシュタラク
(共有文
複数ある文意の間に優劣がつけがたい場合に
共通性を有する)、

ムジュマル
(複数ある文意の間に優劣がつけがたい場合に
個別的)
に分かれるとする五分類説がある。

クルアーン解釈を示す用語には
タフスィール(解明、発見、明示)と
タアウィール(原義「原初へと戻すこと」)
がある。
初期では両者は区別がなかった。
が、区別すべきだとの立場も古くからあり、
中世では

タアウィールが特に
ムタシャービフ(曖昧文)の解釈、
内面的解釈
演繹(見解)による解釈を指すとまとめられ、
時代が下ると特に
暗示的解釈を指すことが慣例となる。

時代にもよるが
タフスィールとタアウィールに
一般 神秘
顕教 秘教
外的 内的
字義 比喩
伝承 見解
といった対称的意味を与えている可能性がある。


クルアーンの中には擬人的な描写がある。
この矛盾については
古典期は大まかに
本義否定・判断停止説
=アッラーが座る、アッラーの顔や目や手などを
日常的な意味ではないことを最低限了解した上で
それ以上は一切不明であり
クルアーンにはそうあるので詮索せず信じるべきだ
というスンナ派の多数説



転義解釈説
=アッラーの顔が本体や
人間が向き合うべき方向を、
目が視力や知覚を
手が権能などを意味する転義であるとする。

に分けられる。


さらに
イブン・タイミーヤに代表される本義と転義の区別を認めない立場からの
本義肯定・判断停止説
が存在し、
現代において支持者を増やしているとの指摘があるが
伝統派の学者から批判を受けてもいる。

本義肯定・判断停止説の
本義肯定
=本義と転義の区別を認めず
 コトバはすべからく本義であるとする立場。
同じ家でも
人間の家と
クモの家では指示される実体が違う。
これは言語の本質的属性によるものであり
本義と転義との区分は恣意的であり無効であるとして
イブン・タイミーヤに代表されるサラフィー主義はこの区別を認めない。


スーフィズム的解釈は暗示による解釈と呼ばれ
例えば
おまえたちに近い不信仰者と戦え
9章123節

おまえたちに近い不信仰者
を自我と解釈する。
内面的・秘義的解釈は
外面的意味を全否定も可能であり
激しく警戒された。
スンナ派伝統主義の通説では
スーフィズム的解釈が外面的意味と共存するなら受容可能だとされる。

(本書では内容が複雑である場合
冒頭に要旨がついていて親切)


・松山

スンナ派は、
教友の捉え方においてシーア派と大きく対立。
スンナ派が
模範的な信仰者
として尊敬の対象とする教友の一部が
シーア派(イマーム派)においては
醜悪な背教者
であると信じられている。

スンナではムハンマドの後の初代カリフはアブー・バクルであり
次がウマル
次がウスマーン
次がアリーとされる。
スンナでは彼らのカリフ位はすべて正統で
四名のいずれもがムスリムが規範とすべき信仰者とされる。
しかしシーアでは
アブー・バクルからウスマーンの三名は
アリーのカリフ位を簒奪した背教者とみなされる。
なおスンナではシーアと異なり
カリフは無謬とみなされず
カリフとなる人間が同時代において最善の人間である必要性も認められません。

シーアではムハンマドの妻アーイシャは背教者とされ
呪詛の対象とされる。
しかしスンナでは
アーイシャは
信仰者たちの母
と呼ばれ
預言者が愛した女性として尊敬と模倣の対象とされる。


・松山

スンナ派は一時婚は禁止
シーア派では一時婚が許容されている

一時婚
=期間を定めた婚姻契約で性交渉が合法となる


スンナ派の理解では
一時婚はムハンマドが生きていた時代に特別な状況下で例外的に許容されたことがあるが
後に恒久的に禁止。
スンナの多くの学者が
一時婚が禁止されたことにムスリムの合意(イジュマーウ)が成立したと主張。

クルアーンでは伴侶と奴隷以外との性交渉が禁止。
一時婚の相手は伴侶でも奴隷でもない。
一時婚を結ぶ女性が妻とみなされない根拠の一つは
彼女と男性のあいだに遺産相続権がないから。

(一時婚が分単位でみなされるとすればムスリムが合法的に風俗に行けるのが
禁止の理由の一つなのだろう)


・平野
(おそらくイスマーイール平野先生とシーア兄貴が言っている人。
平野先生のツイッターアカウントが非常にわかりにくい。
@の後ろにアルファベットでイスマーイールとある)

シーア派(以下これは十二イマーム派を意味する)とスンナ派の
最も大きく異なる教義は
イマーム論。

スンナのイマーム
=共同体の政治指導者カリフ

シーアのイマーム
=啓示を受け取ること以外のすべての権能を
預言者ムハンマドから引き継いだ無謬の指導者。

シーアでは
ムハンマドが彼のいとこで娘婿のアリー(661年没)をイマームとして指名し
アリー以降はムハンマドの娘ファーティマとアリーの間の子孫が
代々イマームとなっていったとされる。


スンナの理解では
クルアーンの編纂はアリー以前の正統カリフたちの功績。
対して
アリー以前の三人のカリフ
(初代アブー・バクル
2 ウマル
3 ウスマーン)
の権威を認めていないシーア派では
クルアーンの書物としての編纂はムハンマドの在世時にすでに完了していたと言われる。
アリーはムハンマドの生前、
もしくは彼の死の直後には完全なムスハフを完成させていたとする。
現代シーア派の解釈では
アリーのムスハフはウスマーン版ムスハフよりも大著であり
クルアーンの章句の意味の説明や注釈も含んでいたとされる。

一方
ウスマーンがクルアーンを一つにまとめたことは
シーア派も認めるイスラーム教徒全体の合意事項。
ウスマーンはウスマーン版以外のすべてのムスハフを焼却させた。
シーアの教義では
使い古したムスハフを処分する場合には
水で洗って文字を消してから処分しないといけない。
しかしウスマーンは水で洗うことなく焼却処分させたため
シーア派は糾弾し
ウスマーンを
諸ムスハフの焚書者
と呼び非難することがある。



表のイマーム図より

初代イマーム アリー
2 ハサン
3 フサイン
4 サッジャード
5 バーキル
6 サーディク
7 カーズィム
8 リダー
9 ジャワード
10 ハーディー
11 アスカリー
12 マフディー


クルアーン改竄説
シーア派はクルアーンの収集にウスマーンが関わったことは認めていた。
しかしその内容がムハンマドに啓示された通りのムスハフかどうかについては
疑念を抱く学者も初期には多くいた。
ウスマーン版が本来の啓示の一部を故意に削除していると主張し、
クルアーン改ざん説
を唱える者たちがいた。
アリーらイマームの名前がクルアーンで一切言及されていないことについては
初期からシーア内に議論されてきた。
10世紀中葉までのクルアーン改竄論者たちは
もともとの啓示にはアリーらのイマーム位を明示する章句が多く含まれていたものの
それらの章句はことごとくウスマーンまでのカリフや教友たちによってクルアーンから削除された
と主張した。

ここで注意すべきは
クルアーン改竄論者たちもウスマーン版ムスハフには人間の言葉が追加されたとは
主張しなかったことである。
すなわち、ウスマーン版ムスハフはそのすべての文言がアッラーから下った
クルアーンの一部ではあるが、
イマームらに言及する章句が意図的に削除された不完全なムスハフであると理解されていた。

クルアーン改竄論者たちは
ムハンマドに啓示された通りのクルアーンが完全に消失した
とは考えなかった。
彼らによれば、
最初にアリーがクルアーンを収集して作ったムスハフには
ウスマーン版が故意に削除した章句も含まれており
アリーはそれを二代イマームとなる息子のハサンに渡し、
そのムスハフは代々イマームたちに継承されていったとされる。
改竄を受けていない真のクルアーンは
イマームたちがそばで守り続けてきたと考えられた。

ウスマーン版ムスハフの完全性の教義の確立
ウスマーン版ムスハフに改竄が疑われたのは
10世紀中葉までであり、
10世紀終わりからはウスマーン版ムスハフに改竄があったという主張が
シーア派内で非難されるようになった。

9世紀後半から10世紀中葉にかけてのシーア派内では
理性的推論を行わずイマームの伝承にのみ依拠して
教義を説明しようとする伝承主義者たちが大きな勢力を持っていたが
11世紀に彼らは徹底的に批判され
理性と伝承の調和を図る潮流がシーア派の圧倒的多数派となったと言われる。
11世紀以降の理性を重視したシーア派学者たちは
10世紀中葉までの伝承主義者たちの主張したいくつかの教義や方法論を批判し
その批判はクルアーン改竄説にまで及んだ。
そもそも伝承主義者の重鎮シャイフ・サドゥーク(991年没)がクルアーン改竄説を批判したように、
10世紀の後半には伝承主義者の中でもウスマーン版ムスハフの内容の完全性が認められるようになっていた。
理性を重視した11世紀の学者たちは、
イマームに帰される伝承を無批判に受け入れたとして10世紀の伝承主義者たちを批判し
クルアーン改竄説を完全に否定した。
このようにして10世紀後半からウスマーン版ムスハフの完全性を信じることが
シーア派の圧倒的主流派の教義に組み込まれることになったのである。

一説では、10世紀の終わり以降、
シーア派の中でクルアーン改竄説を唱えたことが知られている学者は7人しかいないと言われており
全員が伝承主義的傾向を持っているとされる。
一部のスンナ派学者はシーア派が信仰隠し(タキーヤ)を実践することで
クルアーン改竄説を表向きに隠しているだけであると主張してきたが
シーア派はクルアーン改竄説に関する信仰隠しを否定してきた。
シーア派によれば、信仰隠しとは、
生命、財産、名誉に危険が及ぶことが想定されるときに
自らの信仰を隠すことをいう。
シーア派では個人の判断で危険時に信仰隠しを行うことが認められているが
逸脱した教義を信仰隠しによってシーア派の教義として紹介、解説することは禁じられており
クルアーン改竄説を巡っての信仰隠しはないとされる。
そのため10世紀終わりから現在までシーア派の圧倒的多数派は
ウスマーン版ムスハフに一言一句たりとも追加も削除もないと信じてきたと言えるだろう。


現在のシーア派による過去のクルアーン改竄説についての評価
10世紀までのシーア派伝承集の中に
ウスマーン版ムスハフの改竄を指摘する伝承が多く含まれているのは確かである。
9世紀末から10世紀中葉までの多くのシーア派学者がウスマーン版ムスハフの改竄説を支持していた
ことも文献上明らかである。
そのため11世紀以降のシーア派は大きな矛盾を抱えることになった。

ウスマーン版ムスハフの改竄を唱えるイマーム伝承については
イラン革命の指導者でありシーア派の法学権威(マルジャア・アッタクリード)でもあった
ホメイニーはその伝承経路を精査することで
1 薄弱な伝承
2 捏造された伝承
3 真正な伝承
に分けたと伝えられる。
ホメイニーは3だけを考慮すべきだとする。
ホメイニーは
ウスマーン版ムスハフの改竄を伝える伝承の真意は追加や削除のような物理的な改竄ではなく
意味的な改竄であると主張。
クルアーンの改竄を伝えているようにも思える伝承はクルアーンの意味の曲解を指摘し
正しいクルアーンの意味を教示するものであると考えた。
しかしホメイニーはウスマーン版ムスハフにおける章の配列の改竄は認めていた。

彼によれば
朝章(93章)と
広げること章(94章)はもともと同じ一つの章であり、
象章(105章)と
クライシュ章(106章)も一つの章であったという。

現在のイランの最高指導者であるハーメネイーも同様の見解をとっている。

10世紀中葉まで多くの学者がウスマーン版ムスハフの改竄を支持したことは
11世紀以降のシーア派も認めている。
しかしながら、後のシーア派はウスマーン版の改竄を最初に唱えたのはスンニ派だと主張するようになった。
例えば、
ウマルはクルアーンに姦通の石打ち刑を命じるクルアーンの章句があった主張したが
彼を支持する教友が他にいなかったため、
ウマルの伝えた石打ち刑の章句はクルアーンに含まれなかったと伝えられている。
他のスンナ派の伝承では
ウマルはクルアーンが102万7000単語からなると伝えたが
ウスマーン本はその3分の1にも満たないと言われる。
また、ムハンマドの妻アーイシャは部族連合章(33章)が
ムハンマドの生前はウスマーン版より長かったと語ったとされる。
このように正統カリフであるウマルを筆頭に教友たちがウスマーン版の改竄を最初に疑い始めたと
シーア派は考えるようになった。
スンナ派由来の改竄説がイマームたちに帰される伝承の形でシーア派内に持ち込まれたと考えられるようになった。


イマームはクルアーンを知悉していると考えられていて、
無謬なイマームのクルアーンについての知識は
ムハンマドが持つ知識と同等だと考えられている。
イマームは罪からも誤りからも免れた無謬者であるとみなされている。

無謬の根拠は
「アッラーはただ、
家の者たちよ、
おまえたちから汚れを取り除き、
そしておまえたちを完全に清めたいと欲し給うのである」
(33章33節)


上記の
家の者たち
=(シーア派では)ムハンマドの家族
=ムハンマドの血縁のイマームたち。

シーアではクルアーンの中には重層的意味を持つ節が複数存在している。
字義どおりの意味は外面的意味(ザーヒル)と呼ばれ、
その裏側には重層的に隠された、
内面的意味(バーティン)が存在する。
イマームは両方とも、
アッラーがムハンマドに開示したものはすべて知悉しているとされる。

(本書ではアルファベット表記の個所をカタカナになおしたりしているが
私のカタカナ化が誤っている可能性があるので注意。
イマームが無謬である根拠が33・33)


シーアのクルアーン解釈

1 スンナと共通する解釈

一部のシーア派イマームたちはシーア派以外の信徒からもクルアーン解釈の権威と見なされてきた。

預言者たちの物語については
シーアのタフスィールで言及される内容の大半はスンナ派のものと一致。
預言者イーサー(イエス)については
シーア派のタフスィールでは彼が処刑されず天に昇ったこと
イーサーの代わりの人物が磔刑になったことなどが記述されている。
イーサーについてのこのような解釈は
本書第15章でみるようにスンナ派も同様の解釈を行っている。


シーアに特徴的な解釈

シーア派ではムハンマドが生前に一時婚を全面的に合法としており
彼は死ぬまで撤回しなかった。
一時婚はアッラーがクルアーンで合法と認めた制度。
4章24節の
おまえたちが楽しんだ
の語根と
一時婚の語根が同じなので
単に楽しむではなく一時婚という意味であると解釈される。
アラビア語では三つの語根が同じであれば
それらの単語が同系統の意味を持つことが少なからずある。

外面的意味と内面的意味は両立し
一方が他方を破棄することはないことに注意すべき。

シーア派では
14章26節の
悪い木
がイマームたちの敵を指していると解釈する。
悪い木に譬えられたウマイヤ家はクルアーンの中で呪われているとする。
ウマイヤ家とは
アリーと戦い
アリーの死後に二代イマーム、ハサンからカリフ位を簒奪したとみなす
ムアーウィヤ(680年没)や、
三代イマーム、フサイン(680年没)をカルバラーで惨殺した、
ムアーウィヤの息子ヤズィードらウマイヤ朝カリフの血統である。

シーア派の圧倒的多数派である十二イマーム派は
法規定の内面的意味を強調したり
外面的意味を破棄したりすることはなく
法学規定の外面的意味を重視してきた。
そのため十二イマーム派内では
外面的意味の解釈に基づいた法学が発展。


・後藤

旧約の創世記とクルアーンの違い。
クルアーンには肋骨のくだりはなく
男女の区別が強調されない形で
一つの魂
あるいは
男性と女性から
人類が始まったと表現される。
旧約では蛇にそそのかれば女がまず木の実を食べ
それを男に与えたとある。
が、クルアーンでは
二人が(あるいはアーダムが)悪魔の言葉を真に受けた後に二人で木の実を食べたという言葉がある。

(イスラームでは明らかに旧約の創世記の男尊女卑の個所を修正し
どちらが悪いとか優位とかと取られる表現を避けている。
旧約だとまっさきに騙されるのは男ではなく女だという解釈も可能。
もしかしてワンピースの悪魔の実の元ネタってエデンの園の禁断の果実?)


24章30・31節
より
男女の信仰者に
目を伏せ(見ることを禁じられたものを見ず)
陰部を守るように(不倫な関係に使わないように)
とあるが
女性に対してのみ
飾り(美しい部分)を人に見せないように
胸元には覆いを

飾りのうちみずからが隠したものが知られないよう
彼女らの足で打ち鳴らしてはならない
とある。

(胸は性的な部位だととらえているのだろう。
装飾品=財産
なので見せびらかしてはいけない)



4章34節
が男女問題の議論で注目されてきた。
アラビア語の原語を用いつつ直訳すると
以下のようになる。

”男たちは女たちのカウワームである。
アッラーが一方を他方よりもファッダラしたからであり、
彼らが彼らの財産から費やすからである。
良き女性とはカーニタで、、
神が護り給うたがゆえに留守中に護る者たちである。
おまえたちがヌシューズを恐れる女たちは、
よく諭し、寝床で彼女たちを避け、そして打ちなさい。
もし彼女たちがおまえたちに従うなら、
それ以上の方法を探してはならない。
アッラーは崇高にして、
大いなる御方であらせられた。”

カウワームは
指導者や監督者、
管理者、扶養者、保護者など
さまざまに理解しうる単語。

ファッダラも
他より好む
優先する、
上に位置づけるなど
さまざまな意味がある。

カーニタは
従順な(女性)という意味で、

ヌシューズは
敵意や反感、不和という意味で理解されている。
どれをどう組み合わせるかによって男女の関係の理解は大きく異なる。

男性優位の考え方を廃し、
男女同等の思想にもとづきながら解釈したのが
20世紀の有名な思想家サイイド・クトゥブ(1966年没)である。
ムスリム同胞団のイデオローグとして知られた彼が
エジプト政府に思想犯として逮捕された後
獄中で著したといわれるクルアーン注釈書『クルアーンの陰で』には
以下のような記述がある。
アッラーは男女がそれぞれ自らの責務をまっとうできるように必要な能力をお与えになった。
彼は上記の章節を次のように解釈する。
男性が女性のカウワームとされたのは
男性の特性や経験がそれに適しているからであり
男性が女性を扶養する責務を負っているからである。
彼によると
カウワーム=家族の保護者、扶養者。
神はカウワームとなるために特性や経験を
男性にファッダラした(男性優位の含意はない)という。
正しい信仰を持つ女性は当然のこととしてカーニタである。
正しい信仰を持たない女性が起こすのがヌシューズ=不従順や反抗的行為。


クトゥブの議論をさらに広い視野でとらえ直すことで
新しい男女同等論を展開したのが
アメリカでイスラーム学の教鞭をとるアミーナ・ワドゥードである。
アフリカン・アメリカンとしてメソジスト教会の牧師の家に生まれた彼女は
大学在学中の1970年代初頭、
社会での完全な正義の実現を求めてイスラーム教に入信。
ところが彼女が目の当たりにしたのは
家父長的で男性中心的なイスラーム教であった。
ワドゥードは神の真意に由来する本来のイスラーム教があることを信じ、
それを示そうと『クルアーンと女性』を1992年に執筆。
彼女はカーニタもヌシューズも男女双方にもとは用いられてきたことを強調。
カーニタ
=神に対して従順な者。

ヌシューズ
=夫への不従順ではなく夫婦間に不和の種を持ち込むこと。

クルアーンには女性に対して夫に従順であれと命じる言葉はない。
ただし、実際の結婚生活の中で
妻たちは物質的な供給者である夫に従うべきだと考え、
従っていたとも述べている。

以上のワドゥードの読み方に従い
4章34節を訳出すると、次のようになる。

”男たちは(子を産み育てる役割をもつ)女たちの
(物質的・精神的・道徳的・知的・心理的)支援者である。
そのために神は(相続規定の中で)一方の取り分を他方よりも多くし、
男性が財産を費やすようにした。
良き女たちとは神に対して従順で、、
神が守り給うたがゆえに留守中に守る者たちである。
夫婦のあいだに不和を持ち込む心配のある女たちには、
(まずは)よく諭し、(次に)寝床で避け、(それでも駄目なら、軽く)打ちなさい。
もし彼女たちがあなたたちに従うなら、
それ以上の手段に訴えてはならない。
まことにアッラーは崇高にして、
大いなる御方であらせられる。”



「打ちなさい」の解釈
クルアーン注釈書で男性の絶対的優位を強調したイブン・カスィールは
この章の終わりの部分ではこれまでの姿勢を少し軟化させるかのように

忠告しても、あるいは寝床を分けてもきかないのであれば、
力をこめずに彼女たちを打つことが許されていると述べている。
イスラーム初期時代の複数の伝承を引きつつ、
力をこめないことや
怪我を負わせないこと
が求められていると述べている。

クトゥブは打つのは家族を危機的状況に追い込む懸念がある場合にのみ
最後の手段として許されると述べられていた。
ただしそれが妻への精神的・肉体的虐待であってはならないし
怒りに任せて打ってもならないし、
愛情をこめて
しつけのために打つのである。

ワドゥードは
女性を打つという行為の許容とは考えない。
預言者の教友の伝記などに見られるように
当時夫たちは妻たちに暴力をふるっていた。
この啓示の中で
繰り返し打つ
わざと打つ
という意味のダッラバではなく
ダラバ(打つ)という動詞の形を用いたことで
神は男性による女性への無制限の暴力を制限したのである。
彼女はまた、同節が
現代のムスリム男性によるドメスティック・バイオレンスを許容する口実にはなりえないとも指摘。
なぜなら彼らは
諭し、寝床で避け、打つという手順を踏んでいないからだ。

翻訳は翻訳者の解釈が必ず入るから
クルアーンの訳文だけを読んで男尊女卑の邪教だと断じる発言は無価値。
上記のように最低でも中核となる単語はアラビア語の意味を書いている人の解説
を踏まえて判断しないといけない




・松山

マルヤム(マリア)の子イーサー
マルヤムの子、マスィーフ(メシア)たるイーサー(イエス)

自分の子をイーサーと名づけるムスリムも決して少なくない。

マルヤムのもとに天使ジブリール(ガブリエル)が現れ
イーサー誕生の吉報を告げたいわゆる
受胎告知
はムスリムによっても信じられている。
イーサーを処女のまま身ごもり
ひとびとから離れた場所で出産する。
生まれたばかりのイーサーを抱える彼女が
未婚でありながら子供を産んだことに驚いた。

(要は姦通を疑われた)

ゆりかごのなかの幼子が母マルヤムの潔白を人々に証明した。
言葉を話す奇蹟。

(生まれてすぐに大人なみに話せるイエス)

イスラームでは
イーサーは神自身でもなく、
神の位格でもなく、
神の息子でもない。
ムスリムにとって
イーサーは被造物たる人間であり預言者の一人。
受肉の教義はない。
有始なる世界を、
無始なる神と峻別することは
神を唯一永遠の創造主とみなすことの必然的な条件である。
イーサーの神性と三位一体を否定し、
被造物=人間とする点が
イスラームとキリスト教の根本的違い。


イーサーは
土で鳥を形づくり生きた鳥に変え
ハンセン病患者や生来の盲者を治癒し
死者を蘇生させ
人々が食べるものや家に蓄えてある物を言い当てる
奇蹟がクルアーンにある。

クルアーンでは
キリスト教のほとんどの宗派の根本教義である
イエスの十字架上の死が根本から否定される。
よって三日目の復活も否定。
イスラームでは
イーサーは死んでおらず、今現在も生きている
と信じられている。
イーサーは死せずして、生きたまま、
身体をともなって天に上げられた
ことはムスリムの学者間のほぼ一致した見解とされる。


十字架にかけられたのはいったい誰なのか
という点では定説なし。
一説では
身代わりとなりイーサーの顔に変えられたイーサーの側近の一人だと言われ、
別の説では
イーサーを殺そうとしたユダヤ教徒のうち一人の顔が
イーサーの顔に変わりその者が殺されたともいわれる。
あるいは
イーサーが天に上げられてしまい殺害できなかったため
実際には誰も殺していないが
虚偽を言って彼を殺したことを主張したのだともいわれる。

天に生きるイーサーは終末が近づくと再び地上に降り立つ。

(肉体とともに昇天したことが重要。
グノーシスの肉体=悪を脱ぎ捨てよ
という教義の否定。
だがキリストは十字架上で死んでいないとするのは
グノーシスなどキリスト教少数異端派が元ネタだろう。

イスラームはキリスト教の正統多数派要素も
少数異端派要素も取り入れることで
彼らがイスラームに改宗しやすくしつつ、
キリスト教正統多数派の根本教義である
十字架上の死を完全否定している。)


イーサー再臨の根拠は主にハディースに求められる。
イスラームでは審判の前に
現在のこの世界は終末を迎えると信じられる。
しかしそれがいつかはアッラー以外はわからないと
7章187節にある。
イーサーは空から降臨する。

イーサーが空から降り立つとき
大規模な争いが発生している。
この争いはダッジャール(偽救世主)の軍とムスリム軍のあいだで戦われるものである。
イーサーはダマスカスの東側にあるモスクの白い尖塔に
ふたりの天使の羽に肩を置きながら日の出前に降り立つ。
エルサレム近郊に夕刻に降り立つともいわれる。
そしてムスリム軍に加わり
パレスチナのルッド門にダッジャールを追い詰め殺害する。
ムスリム軍はダッジャールに従っていたユダヤ教徒たちの残党を滅ぼす。

(イスラームでは露骨に
キリスト教>ユダヤ教)

ダッジャール軍が消滅したあとに
地中からヤアジュージュ(ゴグ)と
マアジュージュ(マゴグ)が出現する出来事も生じる。
彼らは凶悪で数が多く地を荒廃させる。
しかしイーサーとムスリムたちの祈りに応え
アッラーは彼らを死滅させる。

ヤアジュージュ(ゴグ)と
マアジュージュ(マゴグ)は
現在地中に生息している野蛮な二つの部族である。
かつて
ズル=カルナインが彼らを地球に閉じ込め封印した。

(地底から悪魔が出現する思想の元ネタ?
厄呪呪と魔呪呪という当て字を思いついた。
誤愚と魔誤愚。

ダッジャールを創造したのもアッラーなので自作自演だな。
ムハンマドではなくイエスがダッジャールを殺すのはなぜだろうか)


イーサーの統治のもと
地に平和が満ちる。
イーサーを目撃したことにより
地上に残った啓典の民はユダヤ教徒であれキリスト教徒であれ
全員イスラームに帰依し、諸宗派は統一される。
彼はまた十字架を破壊し
豚を殺す。
啓典の民は存在しなくなるため人頭税が支払われることもなくなる。

(この世はイスラーム教徒だけになるらしい。
十字架なんて普通は崇めないわな。処刑器具だし。
豚がピンポイントで殺されるのか)

その後イーサーは死去しマディーナに埋葬される。
(不死ではない)

イーサーは神性はないが無謬。

イーサーはムスリムによって使われる名であり
アラビア語圏のキリスト教徒はイエスを
ヤスーウと呼ぶ。



・ムスリムからみたブッダ

クルアーンにおけるブッダへの言及の可能性

仏教とその開祖のブッダはクルアーンでは直接言及されていない。

啓典の民の信仰はクルアーンにおいて基本的に認められており
ムスリム支配下の土地においても
特定の税を納めることを条件に自分たちの宗教を実践することを許されていた。
ムスリム統治者のもとで保護される異教徒は
ズィンミー
と呼ばれた。
また実際にムスリム軍の支配下に入った地域では
クルアーンで言及されている三つの宗教以外の宗教に属する人々も同様に
保護されていたといわれている。
たとえば、ペルシアのゾロアスター教徒は啓典の民に加えられていたとされるし
インド亜大陸のヒンドゥー教徒および仏教徒も事実上、
啓典(キターブ)の民として扱われたと考えられている。
シンド(現在のパキスタン南部)は仏教の盛んな地域であったが
八世紀初めにイスラーム帝国の支配下に入った後も
仏教徒は自由に仏像を作ったりしていたようである。


中世のムスリムの仏教観の共通する特徴は
釈迦をイスラームの預言者(ナビー)としてとらえていること。

預言者はそれぞれ神から啓示を受け
自分たちの共同体に教えを説いていたとされる。
教えの内容はタウヒード(神の唯一性)つまり一神教だったが
時がたつにつれて教えに改変が加えられ
もともとの教えから遠いものとなってしまった。
改変や逸脱を正し教えを最も完全に伝える最後の預言者がムハンマド。

すべての使徒は預言者でもある。

地上のすべての人間の共同体には神の心理を伝える使徒が遣わされていて
それぞれ啓典を持ってきた。

ブッダをイスラームの預言者とみなすことは
仏教はもともと一神教であったが
変化により完全な一神教ではなくなったということである。
ちなみにこれは他の預言者の場合と同じく
ブッダの教え自体が間違っていたということにはならない。

中世のムスリムによる仏像の扱い
イスラームでは神に具体的な形を与えて可視化することは厳しく禁じられている。
厳密に言えば禁じられているのはただ像を作ることではなく
被造物である像(いわゆるモノ)を創造主である神として崇拝すること。
クルアーンでは人物や動物などを可視化することは禁じられていない。

ブッダを神と定義できるか難しいところだが
崇敬対象になっているなら偶像の一種だと考えられるであろう。
実際、現代では仏像はイスラームの観点からは許容できないとみなされることが多い。

中世の例を見ると
ムスリムは必ずしも仏像を禁忌したわけではなかったようである。
インド亜大陸に進軍したムスリムは
現地で見つけた仏像を取り立てて破壊することもなかったという。
たとえば現在のアフガニスタンにあたる地域では
ムスリム軍が現地で手に入れた仏像を戦利品として
バグダットに送り返したとされる。

11・12世紀になると
ガズナ朝(977-1186年)やゴール朝(1000-1215年)の軍が
インド亜大陸に攻め込んできた。
このときナーランダー僧院など主要な仏教施設が攻撃されたが
これは主に政治・経済的動機によるものであったといわれている。

中世のインド亜大陸におけるムスリムによる他宗教施設の扱いは
仏教であれヒンドゥー教であれ
かなりあっさりしていた。
像は大抵の場合完全に破壊されることはなく
顔のみが削られた。
攻撃した宗教施設をモスクに転用したり
略奪した像を市場で売ったりすることもあったようである。

ムスリム軍の活動による実質的脅威の感覚を伝えている
最も典型的な例が時輪タントラ。


ムスリムと仏教徒の共存の歴史が長い
スリランカや東南アジア諸国では
本章で紹介してきたブッダに関する見解が
現地のムスリムコミュニティと仏教徒コミュニティの関係を改善する目的で
言及されることがある。

すべての宗教はひとつの真理がさまざまな預言者(仏教ではブッダ)によって
説かれたものであり、
さまざまな宗教の教えは基本的に同一であるというスタンスがとられている。

スーフィーはすべての宗教の目指すものは究極的には同一だという立場をとる傾向にある。


アフマディーヤの指導者たちは
ブッダが神の啓示を受け、
タウヒードを説いたことを示す試みに力を入れた。

(仏典で否定されていることを
否定されていないと示す試みって捏造じゃねーか。
アフマディーヤは万教帰一系だろうね。
仏教は本来一神教だとか、
宗教は多数あるがすべて同じ真理を説くとかは
明らかな詭弁にして
典型的な万教帰一論法。
本当にこいつらは仏教を正確に解釈したためしがないな。

「根本ではない個所つまり倫理道徳では共通点があるが
根本思想は真逆。
多様性を認め、すみわけよう」でいいでしょ。
ブッダは預言者ではなくシャイターンと解釈する方が自然だと思うのだが
なぜしないのだろう?
あれほど根本が真逆なのに
倫理道徳がかなり被っているのが人類の普遍性を感じさせてくれて興味深い。
殺すな盗むな姦淫するな酒を飲むなギャンブルをするな。

神学なら当然、根本思想を否定する側もゴッドが創造したからその意味も考えないといけないからな
仏教に対抗したいなら仏教思想を正確に深く把握しないといけない。
藁人形なんてダメだぞ。


註釈
大乗仏教の三身説では
法身としてのブッダはもともと姿形を持たないが
衆生救済のためにさまざまな形(報身、応身)をとって現れるとされる。
浄土真宗ではこのように具体的な姿形をとったブッダを
方便法身
とも呼んでそれが仮の姿であることを強調しており
仏像も人間の仏法理解のため
あるいは具体的な崇拝対象として便宜的に作られるものであるとしている。
一方
禅などでは執着を断ち切るために仏像などに否定的な姿勢が強調されることもある。

アフマディーヤはイスラーム中では異端視されている。


「我々の外観および認識の創造主」
であるアディブッダはインドネシアの大乗仏教徒が自分たちの神として提示した概念。
インドネシアではイスラームをはじめとして複数の宗教が公認されているが
公認を受ける宗教は唯一神、預言者、および聖典を持っていなければならない。
このため大乗仏教徒はすべてのものの源である「本初仏」アディブッダ
を自分たちの神としている。
一方
上座仏教徒はアディブッダではなく三法(仏法僧)を自分たちの神として提示。

(インドネシアは一神教優遇国家だとわかる。
三つの神聖存在が神って三位一体かな?

夢の回転ユキダマ@8_snowball
1000年以上コーランに従って存続してきた集団が、
現代ヨーロッパでも同じ生活様式を主張すると、「怠惰だ」「社会に寄生している」と激怒されます。

現代人が言う「働く社会人」のいびつ性がよく出ていると思う。

ピザノザウルス@ガリィちゃんはかわいい@pizano1215

「しかし、ホメイニーはウスマーン版ムスハフにおける章の配列の改ざんは認めていた。
彼によれば、「朝章」と「広げること章」はもともと同じ一つの章であり、
「象章」と「クライシュ章」も一つの章であったという。
現在のイランの最高指導者であるハーメネイーも同様の見解をとっている」
松山洋平編『クルアーン入門』p329より



峨骨@Chimaera925
サウジでは民営化と女性の解放と称して労働力の拡大に走るかな。
テレワークの推進だけでなく。車を運転できるようになれば移動できる活動圏内も拡大する訳で。


アジェンダ2030、SDGsの一貫。内政や宗教にまで干渉できちまうとんでもねぇやつ。


パウロ教に改宗させなくても、生活様式や文化、常識をパウロ教にしてしまえば同じこと。


小森健太朗@相撲ミステリの人@komorikentarou
9月17日

私の個人史でいえば、インドから実体験として持ち帰った、マザーテレサに苦しめられているインド民衆の声の数々、それをキリスト教の研究会で発表しても、決してそんなものが存在するとは認めようとしなかった酷薄非道なキリスト教徒の姿と、今のおたく差別を認めない連中の姿がダブってみえます。)


お読みくださり感謝!

【読書メモ】『イランのシーア派イスラーム学教科書』2冊。原語を確かめないルシファー系陰謀論は言葉の定義と成立の経緯を無視した嘘 

非常にレベルの高いイランのシーア派イスラーム神学の教科書2冊のメモの前に
教典の言語で教義を学んでいないなら宗教家失格、
原語を確かめない宗教研究、陰謀論は言葉の定義と成立の経緯を無視した空理空論、
教典の原文が読めないうえに誤訳に基づく教義を平然と説くなら宗教家失格、
中核となる概念は必ず原語を確かめないと根本的に誤解してしまうので注意
だと言っておく。
いくつか実例を挙げる。

仏教の苦(ドゥッカ)=不満足。

一切皆苦だと
人生は全て苦と勘違いされかねない。
原文に忠実に訳すと
一切行苦=無明に基づく心の働きは苦
(無明に基づく心の働きが不満足を産む)。

五蘊盛苦だと
心身それ自体が苦しみと勘違いされかねない。
原文に忠実に訳すと
五蘊取苦=心身への囚われが苦
(心身への囚われが不満足の原因)。

苦しみ(不満足)の原因は執着であり
執着を滅することは可能なので
苦しみ(不満足)は滅することができる
=囚われなければ不満足は消える、
というのが仏教の教えであり救いであり希望である。


原語を確かめることの大切さがらみで他に思い浮かぶのが
西方キリスト教=ヤソ教。
ギリシア語ではなく誤訳ありのラテン語訳をスタンダードにしたり、
五大総主教はすべてゴッドの下に平等でないといけないのに教皇制度を創作したりするなど
一神教基本的規則(聖典は原語で読まないとダメ、聖典に根拠がない法制度を作るな)を否定しまくっている。
ローマのカトリックが病んだ原罪教義を創った主な原因の一つは
五大総主教区の重要度ランキングの一位がローマだったがそこから転落したことによる劣等感だろう。
原罪による堕落説、
ピラミッド型支配構造の教会、
政教分離も西方ヤソ思想であり、
正教(ヤソではなく私がキリスト教と定義しているほう)は否定している。
カトリックから分かれたプロテスタントも
聖書第一主義のくせに聖書原典を牧師が読めなくても構わないうえに
歪んだ原罪思想を継承する宗派(カルヴァン派は悪化させた)があるからどうしようもない。

※全てのプロテスタントが原罪肯定だとは断言していない


耶蘇は聖職者が翻訳聖書に基づく説教しても構わないうえに、
原典に書いてない、誤訳を根拠に聖書の教えだと騙る
=教義のでっち上げ
するんだぞ。
何が唯一神の言葉重視だよ。
クルアーンの翻訳書は註釈扱いであり聖典ではないとするイスラームを見習え。
原典を読めない奴が教会で宣教するな、神学者も名乗るな。ゴッドのロゴスを冒涜するな。

例えば
「心の貧しい人は幸いであるとマタイ福音書にあります」と嘘を吐くな。

マタイの福音書5章3節を
心の貧しい人は幸いだと訳すのは完全な間違い。
間違いなく心の問題だと誤解される。
原文に忠実ならと心ではなく、スピリット、プネウマだから霊でないとおかしい。

より近い意味で訳すなら
「(ゴッドの祝福を受けるので)恵まれている、
霊(プネウマ、スピリット)において貧しい人々は。
天の王国は彼らのものだから。」

KJV訳では
Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.
スピリットにちゃんとなっている。
英訳も翻訳だがこの個所の翻訳は正確なので引用した。


信者でも神学者でもない私に指摘されて恥ずかしくないのか?

延々と語りかねないので読書メモに移る。












イランのシーア派イスラーム学教科書 (世界の教科書シリーズ)
2008/10/27
富田 健次 (翻訳)

本書は十二イマーム・シーア派と道徳に関するイラン政府国定の高校教科書の翻訳であり
高校第一、第二学年度分にあたる。
イスラームで道徳の教科書とは
神学の教科書でもある。
宗教と道徳の授業は一体。
生活=信仰なので当然。
生活と切り離そうとするヤソと一緒にしてはいけない。
一神教なら
生活=信仰
で政教分離なんてありえない
のが基本。

感想は
レベルが高すぎる!
の一言。

道徳に関する授業で論理的思考は大事と書いており
植民地である日本ではひたすら感情論なのと真逆。
神学で重要な認識論も扱う。
形而上のものについて議論するには
人間の認識と経験の限界を定めないと空理空論になるからだ。

暦と教科書の記述を見れば植民地度と独立度を測れる。
イランは独立度が高い。
イランの暦は西暦=キリスト教暦ではない。
CIA王国時代を革命で倒して共和制にした歴史があるから植民支配対策を子供への教育でも実行。
今のイランの統治体制は政教一致の
ヴェラーヤテ・ファギー(フ)
(イスラーム法学者による監督指導)という
お隠れ中の十二代イマームの代理を
イスラーム法学者が務める体制。

メモ
・訳者あとがき

1991年に改訂されたイランの教育制度は
5歳を就学初年度として
9年間の普通課程と
3年間の高等学校
1年間の大学予備課程を基本とする。
義務教育は中学卒業までだがイラン政府は高校進学を強く呼びかけている。
男子校と女子高に分かれており
大学を例外として
男女共学ではない。

この高等学校課程3年間ならびに
大学進学準備コースの1年間、
あわせて4年間を通して
十二イマーム・シーア派のイスラーム学の基礎を学ぶのが
この「イスラームの慧眼」の科目。
このイスラーム学の科目はイラン全国高校共通の必修科目であり
かつ教科書は全国でこの一種類だけ。
訳出した教科書はイランのヒジュラ太陽暦1376年(西暦1997年)発行となっているが
その執筆編纂は本文中に当教科書の執筆時点で1370年(西暦1991年)と記した一文があることにより
1991年になされていたことがわかる。
このシーア派イスラーム学はイラン現体制の公式教義と位置づけることができる。

この書を読まれるとわかるように、
今日のイランの人々が知識として共有する価値観であり
行動規範でもあるが、同時に現代文明、もしくは近代西欧に対する厳しい批判でもある。
こうした近代西欧や現代文明の価値観との相違と反目のなかで
より根源的と思われるのは
西洋中世の知性を代表するスコラ学のトマス・アクィナスにも共通する目的論的自然観を
彼らが基底にもつことであると思われる。
宇宙は神が定めた秩序と目的に向かって動くとする
西洋の中世において支配的であったこの目的論的自然観は
西洋が中世から近代へと転回するとともに機械論的自然観にとって代わられた。

十二イマーム派の宗教の根幹(基本的信仰信条)は
スンナ派とは一部が異なり
①神の唯一性
②預言
③来世・復活
までは両派共通だが
スンナでは
④啓典
⑤天使
⑥定命
からなる六信なのに対して
シーア
④イマーム
⑤神の正義
の五信である。

この差違はギリシャ哲学の影響を受けて理性を重視した
アッバース朝期のムータズィラ神学をアシュアリー神学が駆逐して
このアシュアリー神学がスンナ派の神学となったのに対して
シーア派ではムータズィラ神学の影響を残しているためである。



・教科書本文

イスラームは基本的に強調点として思考の必要性を説いている。
クルアーン(コルアーン)は知識を持たぬことを人間が追い求めないように命じている。
イスラームは知的生活を重視し理性の育成を強調し
思慮と判別の人こそが熟成した人間と見る。
イスラームでは信仰上の諸根幹(神、預言者、最後の審判など基本的信仰箇条)を
思慮することによるのではなく
「模倣や習従」(タグリード)によって受け入れることを認めないほど重要視されている。
イスラームを受け入れるにしても
自らの思考と判別によらず
他人の追随の結果であればその人の入信を許さないほど思慮を重視。
信仰の基礎を受け入れることは強制ではない。

「宗教には無理強いということが禁もつ」
(第二章牝牛256節)

(盲信を否定、論理的思考の重視と反知性主義の否定が12イマーム派。
なら幼少期に正式な入信をさせるな。
棄教したら迫害するんだろ?
成人した元異教徒しか実質守れないな。
惰性と慣習と同調圧力で幼少期に入信しても信仰=善行していると言えるのか?)



・ある民の人々が論理的で正しい思考になれることは、
彼らを害しようともくろむ人に対する最大の防壁である。

・世界観とイデオロギーの集合体をマクタブ(理念)と呼ぶ。


・事実の認識のためにはさまざまな方法がある。
例えば

1 感覚と経験による方法

①直接的な知覚


②間接的な知覚
電流、引力、磁石、原子や電子など。
間接的な知覚は理性による論証のひとつであり
その下地は諸感覚によって用意される。
経験科学の知識の多くはこの方法による。


見えないことは非存在の論拠ではない。


2 理性的な方法
さまざまな事実の一部を知る上で助けとなるもう一つの方法は理性による方法。

間接的な知覚は直接的な諸感覚によって知ったことを基礎に確立される。
(論証の基礎には感覚と経験の側面がある)

しかし理性的な方法では諸感覚はさしたる役割をもたない。

数学は思考と理性的分析によるのみで経験や実験が必要とされない。


3 内面的認識

自分の内部の悲しみや喜び、恐れや疑い、慈しみや憎しみ。
この認識は直接的な認識。
喜びを感じるとき、それを五感や理性の助けによって理解するのではなく
そのような状態を自らの内に直接見いだす。
内面的認識を心の認識とも呼ぶ。


・神を知る方法

神は物質的、肉体的な存在ではないから他の方法で知らなければならない。

①神は間接的な知覚の方法、
感覚と経験で世界の秩序を確認することで知ることができる。
そのあとで理性を利用して、
世界に秩序を与えるもの、
監督者の存在を確定することができる。
ここでは秩序が「徴」であり
これが我々を神の存在〔認識〕へと導く。

②理性的方法も
神の存在を知らせてくれる。
この方法は神を知る方法の中でもっとも完全な方法。
神の存在確認において理性の論拠のひとつは因果証明である。

③内面的な認識でも神を知ることができ、心の認識とも呼ぶ。


・秩序の証明

秩序集合体の出現には最初からひとつの目的があり
その目的に到達するための計画と案を持っている。
特定の状態を選択し、この選択も入念な計算によりなされる。

読み書きができない無知な子供が
タイプライターで数時間遊び、
そのキーを適切に動かして宇宙に関する深遠な問題を論じた
数ページの文章を作ることができるだろうか?
あらゆる秩序は意識を持った監督者をさし示す。

(目的論が正しいことをまず証明してくれ。
こんな秩序だったものが偶然でなされるなどありえず、
意志ある創造主がいるという論法。
しかし、確率ゼロではないので
できるまでずっと放っておいたらできたという反論を否定できない。
あと慈悲深いなどの属性を持つ保証もない。




聖書は一言一句文字通りの意味で真実だとするヤソ福音派は、
ゴッドが時代ごとの価値観の変化すら予想できないと認めているに等しい。
つまりゴッドを過小評価し、被造物の能力を過大評価している。
時代ごとに神学者を配置した意図も無視。
ゴッドは言葉の意味の変遷も当然盛り込んでおっしゃったはず。

万物の根源に人格と意志があるのか疑問。
人格と意志が誕生するための前提=変化が根源。
最初からゴッドが神(じん)格などを具えている状態で存在し、
そこからすべてが始まったという仮説もあるが、
それも時間と因果関係が前提されている。
前述のとおり思考不可で語りえぬので沈黙=無記のほかない。

菊池@kikuchi_8
2月10日
ゴッドの如き人格的統一体が世界を創造し維持していると言うなら、
その人格的統一体を維持しているものは何なのか?となります。
「ゴッドはそれ自体で維持されている」と言うなら、
何故世界にも同じ事が言えないのか?となります。
「時間を創造した」は「創造」自体が時間的過程なので論理矛盾ですね。


祝福されし未完成ブラスト/ダームGoblin Tactician
‏ @kitsuchitsuchi2月10日
有(ゴッド)による有の創造。
無からの創造の無とは何?
空の容器を想定するしかなく
容器=有
すらない完全な無を考えるのは不可能では?
同様に有しかない状態を考えることも不可能では?
無のみも有のみ環境もないのでは?
竜樹の縁起説なら有無は相互依存でしか実在できず
有だけや無だけはない。

空間=被造物としての世界
を空間の外から創ることも想定不可。
空間が創られる前の状態も想像不可。
基準=物差し
が世界に一本しかないのにその物差しの長さは計れない。
同様に
或る時点で時間の外から時間が創造されることも想定不可。
時間的性質=状態変化を意味する言葉は時間に適用できない。

菊池 @kikuchi_82月10日
仰る通りだと思います。
「創造」という概念そのものに
「創造の開始・創造の持続・創造の終了」という時間的過程が内包されてるので
「超時間的な創造」とはそれ自体が論理矛盾だと思います。
無時間的であるなら一連の時間的変化である「創造」という作用(作用一般=時間的変化)を為す事ができません。


祝福されし未完成ブラスト/ダームGoblin Tactician
@kitsuchitsuchi2月10日
全知全能Xの実在の典型的根拠
「世界があまりに精巧だから創造主がいないのは確率的にありえない」
は根拠になっていない。
誕生確率を100%にする神(じん)為的干渉がなくても
諸行無常の変化で成立まで放置と考えれば低確率という根拠は無効。
できたからできた。偶然とも必然とも言える。因果が逆。

既にできてしまった後から理由を考えるからゴッドの意志を想定してしまうだけ。
発生確率=0%
ではなく「>0%(0%より大きい)」なので
『できるまで現象が継続=試行回数が「できるまでずっと」』
なら実質100%。
これを奇跡的な確率だとしてゴッドの実在に結びつけるのは論点先取の詭弁、因果逆転。



・ここでは進化論の正誤を論じるつもりはない。
秩序の論証・論拠は生物が進化論に基づき次第に出現したことが確定されれば
問題になるようなものではない。

存在するものが段階的に創造されたことを受け入れることは
意識をもった監督者の介在をより明白にする。

(進化論は秩序の論証に問題を生じさせない。
つまり、進化論は創造主の存在を否定しないので正しくても誤りでも問題ないということ。
十二イマーム派の公式見解では進化論を否定も肯定もしていない。
キリスト教の一部の派閥が進化論を否定する理由も調べると面白い。
進化論が正しくても別にゴッドによる世界創造は否定されないはずなのだが。
進化の定義によるが。
進化=環境適応による変化なら生物としては当たり前だし)


・ヘジャーブの思想

イスラームの服装を二つの基本的な型である
隠すこと
質素であること
を守ることは重要な結果をもたらす。
一部を次に示す。

①道徳的堕落の阻止
女性の側が遵守することは
男性たちにとって願望や欲望の制御をたやすくし堕落させない原因となる。
男たちが堕落に引き込まれる社会では
女性たちも堕落から遠ざかることができない。


②女性たちの安全

③女性低劣化の阻止

女性がおめかしと見栄を他人である男性たちに見せびらかすとき
彼女たちは低劣で価値のない存在に変わる。

もし女性たちが隠すこと、尊厳を守ること、質素であることを守りながら
その言動やその他の行いにおいて
自らを男性たちの願望の手から遠くに置くならば
女性たちの価値と尊厳は男性の観点において増大する。

ホメイニー師はファトヴァーで
女性たちは近親者以外の男性の気をひく服を着るのを控えるべきであり
チャドルをかぶることが望ましいと説明している。
同様に彼は顔と手は、必要のない限りおめかししないことを強調している。

④浴情に駆られることの代わりとしての活動と建設
職場環境を情欲問題から守る効果的な要因のひとつである。

⑤女性に対する人間的な見方
女性の人間的な地位の代わりに
女性の表面的な見せかけを価値指標としない
(女性の人間としての地位が表面的な魅力の影響を受けない)ことが、
女性が身体を隠すことがもたらすもっとも大事なことである。



はたしてヘジャーブは女性の自由に反するのか?

個人の自由は個人の権利を脅かさず、また
社会という体に害をもたらさない限りにおいて、尊重される。
したがって、社会的公益のほんの一部を遵守することが女性や男性に制約をもたらすとしても
また、社会的道徳と精神的均衡を消滅させないために、
特定の作法様式を守って付き合わねばならないとしても
これを自由の原則に反するとみなすことはできない。
ヘジャーブの境界を無視することは
恐ろしき社会的結果をもたらす。
逆に身体を隠す原則を守ることは
社会における腐敗との闘いの基本の一つである。
今日、先進国の多くを滅亡と罪の淵に立たせている腐敗である。
個人の自由を口実にして服装の境界を踏みにじり
家族の礎の破壊に向けて歩を進めることはできない。


(西欧諸国が植民地化するために現地の女性をファッション、化粧のための消費をさせまくる
というものがあるのでそれを非常に警戒している。
まず女性を狙うのが支配の鉄則。
ヘジャーブを脱ぎたくない理由の一つが
ヘジャーブで隠しているところが恥ずかしい隠すべきところだというものがある。
セクハラや女性の権利や自由や
価値観の押し付けはダメだといことについてやたら言い立てる西欧諸国が
イスラーム圏の恥部観を完全に無視し、
キリスト教的価値観を押し付けていることから、
単に思想で侵略したいだけだとわかる。)



・友愛と友人選び

まず試してから信を置く
事前の試しがない友人関係は通常は長く続かず些細なことで別れる。
イスラームの教えでは
道を共にする者を誰でもたやすくは信頼せず
まず試し、友情に値することが確認されれば、
友人として選ぶできであると勧める。
もちろん、これは他人への不信を勧めているわけではない。
しかし、人を疑わないことがその人を信頼することではない。
イマーム・アリーは次のように言う
「正しい試験のあとに友人を選ぶ人の
友情は永く続き、その絆は確固としている」と。

他の多くの伝承にも次のようにある。
「もし、誰かがあなたに3回怒ったとしても
あなたを悪く言わなければ、その人は友人にふさわしい」と。

友人を選ぶ基準

①賢明さ
②清廉潔白
③称賛される道徳


友情の諸義務

①友人たちの諸権利を守る

②援助
真の友人たちは困難で厳しい状況にあるときに相互に助け合う。

③期待しない
④誠実さ


(日本の道徳の授業がいかにカスかわかる。
そもそも道徳じゃなくて答えの押し付けだし。
信頼できるか疑い、試して確認してから友人にするか決めよという素晴らしいイスラームの教え。
日本の道徳の教科書は子供が触れるゲーム漫画アニメ音楽とかだからな)



・礼拝が終わったあと次のことが勧められる。
34回、神は偉大なり(アッラーホ・アクバル)を唱え
33回、ありがたきかな(アルハムドレッラー)を唱え
33回、神に讃えあれ(ソブハーノッラー)を唱えることである
(ザフラーの神の讃え)。

(足すと100。33意識)


・金曜礼拝
金曜日はイスラームで特別な日であり
聖なるその前夜(シャベ・ジョムエ)が特別な夜であるのは誰にとっても同じ。

・クルアーンでは
地をラクダにたとえる。
地動説。

クルアーンで
神は「二つの東
(井筒訳では夏と冬の日の出の場所と訳注がある)」
と「二つの西」
を用いるとあり
これは地が球形である以外に説明が不可能である。
クルアーンには
「日の出るところ、日の沈むところ
(複数形の諸東、諸西)」
とあり、複数の東西は地が球形であることの結果である。

(天動説も地球平面説も否定。
イスラームは地動説かつ地球球形説)

クルアーンはいくつかの個所で
諸天空は目に見えない諸柱によって支えられているとしている。
イマームは「諸柱があるが、あなたたちには見えない」と言う。
ここで言えることは
今日の諸科学が引力と呼び、
また天球を軌道に保ち
秩序を守る要因とみなしているものは
この節とイマームの解釈から示唆を得ることができる。

(イスラームは科学を敵視しない)

・イマームお隠れの時代にあって
信仰共同体(ウンマ)の手綱取りは
守護法学者(ヴァリーイェ・ファギー)の任務であり
こういった人のヴェラーヤト(守護監督)は
無謬なるイマームたちのヴェラーヤトの枠内。

・イジュテハード
=イスラーム諸法を、その法源の上で
特定の考察基準に基づき努力すること。

法学の諸法源
=聖典、
スンナ(慣行)、
イジュマー(合意、一致した見解)、
理性(アグル)。

イジュマーはときとしてクルアーンやスンナの傍らで
イスラーム法(シャリーア)の指示(ホクム)を確定する証書とみなされる。


・バルザフ(死去と復活審判の間)
義務行為(ヴァージェブ)
推奨行為(モスタハッブ)
忌避行為(マクルーフ)
禁止行為(ハラーム)


(本書ではラマザーン月の規定の翻訳も載っている。
シーア兄貴が訳してツイッターで公開しているやつとおそらく原文が同じ。

本記事へのシーア兄貴のツイート追加。

蟹ぢから溢れる
🦀
💪
‏ @onesyotasekai
いやーね
久しぶりにドブネズミ世界に行ってきたけど、
オリエンタルランドというのはどでかい資金洗浄の場だなと言うのが感想
よーは無いものに信用創造と空想を与えて暴利をとって
その暴利を洗う場所というのが著作権・やりがい商法なのだと痛烈に感じた

で、それに集まる連中は簡単に宣伝に喰われてしまう人達なんだろうと思う
よーは宣伝の賜物であって、
情報商材の先駆けとその蓄積は此処まで動員する事が出来るのかと驚愕もした
別にクソでしかない原価信仰者ではなくて素直な感想として空想なる価値を上げるとこうなるという一結果でありゅね

うーんとね
富田先生は聖知学者ではないから
そういった部分は補填出来ないのでこういうところはおいさんみたいなおねショタおいさんが補填する事になるんだろうね
先ずعقاید 信条論としては 一部ではなくかなりの違いがある
それはأمام イマーム「 正統で正当な現世統治者の存在」である

で、スンナとシーアの伝承並びにدعا ドアー というもの…
日本語で言えばお祈りになるのだけど…場合によっては呪詛となる
例えば、دعا زیارت عاشورا (現世統治者である、フセイン(預言者の孫)の殉教)となるとسلام و لعن を共に百回言う
で、لعن は 呪詛で سلام は 祝詞である
まー内容がすごい


あーちと間違えた、殺し尽くすではなく
イマーム・フセインを殺した全ての人々を呪い続けると言った方が正しかった、済まない

また、イマームを経由した言葉は伝承・ハディースとなるので
シーア派の場合はイマームが存在した、隠れていない分が伝承として扱われるのでスンナ派よりも遙な数の伝承がある
なので、その分信条論が整備され、精微となるので前も言ったように信条論として七割は異なるというのが体感である

で、前に言った通り成人規定があるので宗教的成人規定により信仰が確立される
ここで注意して欲しいのは「信仰は生活である」という事
棄教するというのは「生活をやめる」という事であって、
それは壁にうんこ塗りたくるような段階で発狂したという事と同意義である、
または制限能力者かである

またبقرة 章はマディーナ啓示であり、この無理は禁物であるというのは誰に対してかである
で、256節には続きがある
「真に至福の道は迷誤とは区別されている。
それで邪神を拒み、アッラーを信仰する人は、決して壊れる事のないとってを握ったのである。
アッラーはよく聞き、よくご存知でおられる」

つまり、宗教に強制はない(イブラヒーム澤田訳)と否定されながら、
その後にقَدَ 実に・真にが続いているのは宗教内(イスラーム内)での至福と迷誤の道がないという議論であり、
その外であるبالطاغوت 邪神崇拝については最初から誤りであるというところから始まっているのである事を見落としてはならない

でね…コレはマディーナ啓示であるという事は
根本的に信心深い人達المؤمنين を前提しているわけでその人達やその子孫が一つの概念として棄教するのはありえない
なぜなら、彼らはشهادت した わけで
その 人達は道徳的であり、末裔にもそうあるであろうという性善説的に解釈するとそーいう判断になる

で、じゃー現実問題として棄教した人間がいるではないか?という話になるけど
考えてみ…世界は終わる時が来るという前提ではムスリム・マはそうであったか、居なかったかで裁量されるわけなんよ
だから、彼ら・彼女らはキチガイとして免罪されるのか、棄教として扱われるかは人間が知るよしがないのよ

ただ、目的論に関してはわからないがそうと仮定されている以上はわからない
形而上を前提にすると目的・帰結的世界論へとならざるおえないのでコレばかりはそういう前提下の世界観でしかないとしか言いようがない
言い方を変えれば日本の聖知学徒が苦悩している部分の全てといっても過言ではない

あーコレは中田先生とも話したのだけど、حجاب というのは本来男がするものであって女性がするものではないの
だから、今回オリエンタルランドへ行ったけど…
ホーンとうに目のやり場がなくて困った…
もうね、アッチコッチ見てもあーنگاه گناه があるので焦点を合わせないようにしたり、苦痛だった

んでね、فاطمه زهرا سلام الله については ابو بكر لعنت الله が 焼き殺して、
啓示者の遺産の土地を盗んだせいで
焼き殺し派はクルアーンの解釈を歪めて伝承を無理矢理選択せねばならなかったというご都合主義がある
まーシーア派からすれば、預言者の聖家族を虐げる時点で論外・邪教徒なんだけどね

これでわかるけど、
イスラームは棄教した連中でも必ず帰って来る・こざるおえないという観点があるので
ここらへんは口に出さなきゃいいやという部分があるが
背教や間違ったとされる宗教思想については厳しい
まーでも、焼き殺し派に関しては一切弁解しようがないとおいさん達は考えている

まーこー、一時間徒然と書いたけど、本来はコレで銭こ取れる話なんよ
でも、おいさんはしないよー
だって、食い扶持くらいは働いて稼ぐものだし、そーいう事をするのは嫌だしね
それよりも世界が1毛でも早くおねしょたで満たされる事を祈ってもらいたいね

おねショタはتوحید و عدل و نبوت و امامت و قیامت なので
千の 形而上が持つ良い性質の一つであることは確定しているので
おねしょたでせかいが満ちる事は人類のواخبوات なので仕方が無いのです


黒 点
‏ @kokuten_
2014年10月17日
「イスラームにおける放縦の阻止」
イスラームは諸々の欲望に対し境界を定める。性欲についても境界を定める。性的欲望を満たすことは、ただ結婚によってのみ許される。結婚できる可能性がない場合は、信仰に依拠して自己を制御すべきであり、自己の純潔は一時の興奮・逸脱で失うべきものではない。

『イランのシーア派イスラーム学教科書』富田健次訳 第10講より)




イランのシーア派イスラーム学教科書 II―イラン高校国定宗教教科書【3,4年次版】
― (世界の教科書シリーズ 36)
2012/7/27
富田 健次 (著, 翻訳)


高校3~4相当らしい。

・訳者あとがき

今日の教科書は模様替えをしている。
一説では2001年に版替え。
但し2003年時点はなお当該教科書を使用。

本教科書は神の慣行や運命などの考えにおいて
宿命ではなく自由意志の重要性を強調する。
原子論的宇宙観ではなく新プラトン主義的な流出論的宇宙観や因果律の容認など
スンナ派の古典的神学(アシュアリー神学)との対比を促す
シーア派イスラーム思想の特徴を見ることができ興味深い。

(流出
って言っているし)

・ホメイニー師の思想における10の論題
(の一部を抜粋。)

9.女性の人格と役割

指導者(エマーム)ホメイニーは社会の救済と向上は唯一、
女性たちと男性たちが生活のあらゆる場面でともに参画し
効果的に関わることによってのみ、
可能であると強調した。

気高きクルアーンは人間を作るが女性たちもまた人間を作る。
女性たちの義務は人間作りである。
もしも諸民から人間作りの女性たちを奪えば、
その民は敗北と衰退にさらされ敗北しよう。堕落しよう。

イスラームが定めているヘジャーブは
あなたたちの価値を守るためであることに注意を払われよ。


・バルザフ界(現世と来世の間)における生活

狭間(バルザフ)の世界
=死去するとき魂(ルーフ)が入る、
 現世と来世の間を分かつ境界。

人間は死の瞬間から復活の日(最後の審判の日)までをここで過ごし、
ここでの楽しみを享受、あるいは
不運な人の場合は辛酸を舐める。
復活(ギヤーマト)以前の死後の生活がある。

バルザフは物質的側面を持たない。

忘れてはならぬのは人間の帳簿が死去時に完全に閉じられるのではなく
書き換え可能なこと。
人間の行動には二種類ある。

影響が良きしろ悪しきにしろ一定の制限の内にあり
一定時間と空間の域を越えることはない


なしたときだけでなく将来にも影響が残る
つまり結果は良悪問わず制限ある時空の域を越えて広がる。
影響はきわめて長い時間、時には世の終わりまで続く。

(真に公平に最後の審判を行うには
最後の審判がなされるまでの影響全ても考慮しないといけないから
実に合理的)


・「復活・最後の審判」(ギヤーマト)が近づくと
太陽はぐるぐる巻きにされ星々は落ち、
山々は羊毛のように毟られ粉々となり、塵芥となってまき散らされる。

神の命令により
すべての人々は土塊の粒子のうちから出て
最後の審判の日に集合する場においてあまりに大きく恐怖に満ちた出来事を見る。

魂のみでなく肉体も復活する。
来世は肉体的である。

・性的本能に関するイスラームの見解と対策

1 結婚

2 貞節
イ)視線制御
特に男性にとっては目を警護する。

ロ)有益で建設的な諸活動を行う
学術、芸術、技術、体育、勉学など有益な活動を行う。

3 逸脱への素地を減らす
身を覆う必要性。


ヘジャーブはなぜ婦人だけなのか?
神は男女を同一同様に創造してはおらず
二つの被造物に精神や心理の点から差異が生じている。

男女の禁制遵守による効果

女性の価値を高める


安全さと平穏さの創出


社会の堅固さ
女性たちがその能力をおしゃれと流行〔を追いかけること〕に費やす代わりに、
質素な服を着て、
イスラーム的服装で学校や大学や職場に赴くならばよりたやすくその能力を
活動に振り向けることができ、
進歩の度を勧めることができる。

化粧品や高価な衣服への支出は
とくに流行の期間的変動とともに
耐えがたき経済負担を家計に課して
ときとして家族の不和の原因となる。
それに加えて
こうした破壊的競争に参加する気がなく
あるいは参加できない女性たちは軽蔑される。
実際には、自分の利益だけしか考えていない流行の作り手や
従事者たちに自分と自らの運命や人格を委ねている者たちに
この軽蔑は属するものであるにもかかわらず、である。

(すごいな。
流行を作る側こそ軽蔑されるべきだと言っている)


家族の絆の堅固さ


植民地化の影響との闘い

西洋の植民地主義は
男女関係に禁制(とくにヘジャーブ)があることが
恥ずべき彼らの目的の前途に横たわる障害であるとみなし、これと戦った。

〔パフラヴィー朝第一代国王レザー・シャーとなる〕
レザー・ハーンが英国を介してイランを支配したとき、
改革(!)という語彙のもとで最初にとった施策は
自分を英国植民地主義の代理人として、
ヘジャーブの廃止を宣言し
植民地主義の利益に立ち向かうもっとも堅固な防塞としての
ヘジャーブを取り除いたことである。

(シーア派概説書に国王時代はCIA傀儡政権だとあるので、
英米の植民地だったとわかる。
最初にヘジャーブ廃止を植民地支配のとっかかりにしていることが重要。
女性の服装からまず都合よく変えて支配せよ!
だからヘジャーブ廃止に対してイスラーム系支配層は強く反対する)

トルコでは
アタチュルクが異邦人の手先であり同じ政策を進めた。

(アタチュルクはメイソンだし、
トルコの文字はアルファベットにしたし
EUに入るか否か問題があるし
欧米によるイスラーム侵略の拠点なのがトルコ。
イランにとってはトルコ建国の父は異邦人の手先)


アルジェリアでもフランスが同じ方法をとった。

(ヘジャーブ廃止せよ運動
=欧米の植民地化の第一段階達成のための運動)




・イスラーム諸法令(アフカーム)

戦争捕虜に対する罵りは許されず
彼らに対するイスラーム的道徳を守らねばならない。

イスラームはキサース(同害報復)論で固有の法規をもつ。
不当に生命的被害をこうむった人かその相続人に
同じ被害の刑を犯人に対して下す許可が与えられうる。
こうした刑罰は多くの西洋人たちからすれば驚きで多くは粗野とみなす。
しかし、
イスラームは人間をいとおしみ敬うべきものとみなすために、
犯人が他人たちに害を加える意向を持ったとき、
彼自身にも同じことがなされるとするように法規は作られている。
こうした刑法は犯人が罪業を念頭からぬぐい去る因となり
人間の寛容さと特性に関する最良にして最強の保護であるのは明らか。

驚くべきことは西洋人たちが窃盗の手を切断することや
キヤースの諸令(アフカーム)を粗野で残虐とみなしているが
彼らがもっとも残虐な犯罪を世界の非抑圧者たちや虐げられし者たちの権利に
対して行っていることである。
彼らが一日にて行う無辜の民の殺戮は、
数十年のあいだイスラームの地全体で必要となるキサースよりも多い。
にもかかわらず彼らは自らを人権の擁護者であるとし
イスラーム諸法規は非人間的であるとみなしている。

(NATOによるイスラーム圏への爆撃とかね)


・諸刑罰


ハッド刑〔固定刑〕
刑罰の量が明確に定まった法。
飲酒に対する刑罰は男女ともに70回の鞭打ち


タアズィール刑
量と形が定まっていない刑罰。


キサース


ディヤート(近親者を殺害された慰謝料)

胎児を意図的に流産させるのは
魂が生じた胎児は全額賠償金(殺害)を
それ以前の段階もそれぞれ段階固有の賠償金がある。

(魂が生じる段階っていつごろだろうか)


・幸福を手にする諸々の道は
人間がどこから来て、どこに行き、
いかなる基本的特性を持つかということを知ることにほかならない。
このために人間を知ることはあらゆる問題に優先される。


・人間のルーフ(魂)は生来特別な才能を持つのか
それとも白板のように特別な要求は持たず
その上に描かれるいかなる図絵も人間の要求無く描かれるのか
という問題がある。

(白板はおそらくロックが元ネタだろうね)

人間と動物の差異は
1 意識と選択
2 価値に立脚する


人には二つの傾向性がある。
1 動物と共通の本能もしくは動物的諸傾向

2 人間に固有な優れた傾向
で「天性(フェトラト)」として説明される。
この傾向は誕生当初、潜在的な状態にある(本能的諸願望とは逆)。
人間の天性(フェトラト)は当初、種子であって、
人間存在の土の中に蒔かれていて、
正しい訓育でもって開花し優れた属性と人間性を結実させる。
誤った訓育で、
潜在態が有していることに至らなければ
変形させられた存在物となる。

能力や才能をもつが具現されていない段階にある物事は
潜在態(ビル・クーワ)と呼ばれ
上記の才能が具現されるならば
現実態(ビル・フィウル)と呼ばれる。
リンゴの種はリンゴの木の潜在態(ビル・クーワ)であり
木となったあとはリンゴの木の現実態(ビル・フィウル)である。


さてここで、この講義の最初に提示した問いに答えることができる。
すなわち、人間は何も描かれていない白板のように、
いかなる絵図であろうと受け入れるのではなく
人間の魂(ルーフ)と命は、
生まれた当初から要求をもつこと、
つまり潜在的な傾向と牽引力をもっていて
人間を特定の活動に向けて駆り、
またこの活動のみが人間の魂的(ルーヒー)構造に釣りあう、ということである。


(目的論的人間観。
潜在態とか現実態とかアリストテレス哲学の影響がある)



天性の諸側面

1 真実の追及

2 善への傾向
ここでの善=道徳的卓越性。

(アレテーじゃん)


3 美の愛好
4 崇める傾向性
人間の魂は「神の国」(マルクート)の炎であり
それからの光はみな、人間存在を暖め明るくする。

(魔術カバラのマルクト(王国)を思い出した)


理性(アグル)と自己(ナフス)との闘い
高い傾き(天性)と卑しい傾き(諸本能)の戦い。

「感覚的欲望」(ハヴァーイェ・ナフス)

なおナフスには霊魂という意味と
自己、エゴという意味があるが今回は後者の意味にとった。


創造(タクヴィーン)と立法(タシュリー)の間に完全なる調和と一致がある。


・自由意志(イフティヤール)
人の魂の特徴の一つに自由意志があること明白で自明。


・並列関係の諸原因
=一群の諸要素が互いに傍らにあって
相互の連携で現象をもたらす。

花を育てる場合は庭番、土、水、光や温度といった複数要素の集合が連携しているので
並列関係。

(要は縁起的ネットワークによる成立)


直列関係の諸原因
=第一要素が他の要素に作用し
この第二要素の媒介で第一要素の作用を結果に至らせる。

兵士と司令官の関係は直列関係。

筆を手にして手紙を書く場合も
諸要素が
1 その動きで紙面に文章を書く筆
2 筆を動かす手
3 手を動かす身体の神経系
4 この三つの原因の前提となるあなたの意志
5 意志をもたらすあなたの魂もしくは欲求(ナフス)
なので直列関係。

直列といっても一列ではなくお互いに多様な段階にて存在する。

(こういった議論が続くが要は以下を導くため)

神の天命を信じることはけっして人間の自由意志を否定しない。
神の天命につながりそれを示すものの一つが人間の自由意志である。
人間が自由意志をもつ存在であり自由であることは神の天命に責任がある。
自由意志による行為では意志しないなら、なされない。
いわば原因が完全とならない。
しかし同時に我々と我らの意志、
また我らから生じる行いはすべて神の意志に従属している。
その関係は自然の諸関係のように並列関係ではない。
人間の意志は神の意志と直列関係にあって
人間の自由意志的行為は、
一方において人間自身に帰属するが、
他方においては、より高い水準において
神の意志と関わる。


・存在物の諸階梯

被造物のうちには
哲学用語で
「抽象観念(モジャッラド)
あるいは
非物質的実体
〔天使、質量なき形相である離在知性〕」
と呼ぶ存在がある。
この存在は物質的諸条件をもたず変化変容をしない。

存在の間には階梯があり上下がある。
それぞれは創造されたその階梯の位置に留まり、変化変容はしない。
神は尽きることなき慈愛により創造しており
一つ一つはより低い存在へと向かう存在の恵み流出の媒介となる。

(新プラトン主義の影響だろう)


抽象観念界の次は物質界に至る。
神が物質界で創ったもっとも完全なる存在が人間。
一部の人間は獣よりもさらに卑しく、
一部は天使よりも上位の階梯に達して
天使たちが跪くに価するふさわしさを見いだす。


(一神教は人間は特別すごいというのが基本。
多神教も人間すごいだが他の全動物よりはるかに勝るとまでは言わない)

・クルアーンよりわかるのは
ジンも人間のように自由意志をもち責任をもつ。
ジン創造の根元は火であり
人間のように肉体と魂を持つ。
ジンたちも信者と不信仰者、従順な者と罪を犯す者がいる。
イブリースもジンであったが神に背いている。
人間は総じてジンより高貴であるため
ジンたちからは預言者が選ばれておらず
ジンたちが人間の預言者たちに従う責務を持つ。



神は人間に自由意志を与え
人間をして岐路に立たせ
己の選択でもって神を崇める道を
つまり人間の幸福の道を選び
そのおかげで聖なる慈愛を手にして幸福にいたる。
いかなる種類の慈愛も神への近しさにあるため
クルアーンに基づけば
人間を創った最終的な目的ならびに究極の完成は
神へのちかしさ
もしくは
神への近接である。

(これ正教の人間神化(テオーシス)
=人は神に近づいていくが神にはなれない
の影響がある?)


神が何ゆえ最初から人間に完全さを授けないのかと問うかもしれない。
真実(ハギーガト)は次の通り。
この問いは
いかなる存在物にも最初からいかようにでも完全さを与えることができる
という皮相な考えから出る。
この考えでは人間を虚ろな器とみなしており
漸次その器を水で満たすこともできれば
一挙にあふれさせることもできると見ている。

神の全き慈愛を得るには特別な器量あるいは能力が必要。
この能力あるは器量は自由意志と意識的かつ絶え間なき選択のもとでのみ獲得しうる類のものである。

(なんの努力も実績もなしに完全さは与えないということ)


・道徳諸原則は相対的ではなく絶対的である。

ある行いがある人に対して有徳であり完全さであるならば
すべての人たちにも有徳で完全さとみなされる
人間の完全さとは神に近づく方向において
天性的諸才能が開花することを言うからである。

(一神教系思想は絶対善を認めないと教義が成立しない。
道徳に関しては一神教は本当に根拠が楽。

神定法の一つが現代の過半数の人間が悪と判断するものだとする。
これが絶対善法でありうるか?
最後の審判では個人がなしたことの、最後の審判開始時までの影響まで考慮することを
踏まえると、その法の善悪はその法が適用されなくなった時点で判断すべきとなる。
しかしそのような判断は人間には不可能。
結局、人間には
「絶対善法であるが、今の時代は悪だと人間が愚かにも判断しているにすぎない」
かどうかは判断できない。
人間には絶対善かも絶対悪かも判断することが寿命と認識の限界がある以上できない。
結局、現代の価値基準で判断するしかない。
後世への影響も考えることはできるが正確な予測はできないだろう。
短期的には悪「と現代の価値観で判断されるが」、
長期的には善「なる結果をもたらすだろう」
から全体としては善「だろう」
が限界かな)


・男性と女性は平等だが同類ではない。
イスラームのクルアーンでは
アダムに言及するが
悪魔がイブを騙し、イブがアダムを騙すとは一切述べていない。
クルアーンでは当時普及し、
今日も残っている見解のひとつと厳しく戦い、
女性を誘惑と罪の元凶として難じることから無罪放免した。

(明らかに新約を根拠とする女性蔑視思想批判)

聖なるつながりをもつ偉大な男性の近辺には
常に神と聖なるつながりを持つ一人の偉大な女性がいたと
クルアーンにある。

※メモ自体はここまで


(イスラームの女性蔑視(に見える)要素はヤソ(パウロ教)に比べるとそこまで目立たない印象。
イスラーム圏は
外面=公共空間では男尊女卑に見えるが
内面=家庭空間では女尊男卑に見えるので蔑視といえるか断定できない。
役割を分けただけとも解釈できる。

ヤソの女性蔑視は酷い。
新ヤソの女神教の一派であろうフェミはその反動(人工芝、両建)。
耶蘇の女性蔑視は女神教の否定。
特に敵視していた女神はアルテミス。
新約の使徒行伝19章で
アルテミス教のエフェソス(現トルコ西部)で
「大いなるかな、エフェソス人のアルテミス」と叫ぶ群衆に
パウロが布教を妨害されたとある。

新ヤソが女神重視である理由の一つが
アルテミス=ディアナ崇拝は旧ヤソを否定することになるから。

丸い誕生日ケーキの普及で
現在世界最強の女神はアルテミス。
白い丸い満月ケーキにローソクを刺し
火を灯し
お祝いの歌を詠唱し
火を吹き消す魔術の儀式。
元ネタでは直接生贄に火をつけていたのだろう。
本人が無自覚でも儀式の効果は多少はある。
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/737359555198222336



ビッチ=雌犬はアルテミス=ディアナを意味する褒め言葉だった。
新約教はアルテミスが大嫌いなので悪い意味に変えられた。

ルシファーの元ネタが
ルキフェラ=ディアナ=アルテミス
というねこた説。
太陽と契約と友愛の神ミトラ=太陽の男神崇拝のヤソが
月の女神ルキフェラを敵視するのは当然。

ルシファー=金星は囮。
ルシファーは4世紀のヒエロニムスのラテン語訳聖書で誕生したキリスト教製。
新約の原語は古代ギリシャ語で黙示録の成立は1世紀なので
イエスが明けの明星と名乗っても
4世紀生まれの訳語ルシファーと無関係。
ルシファー=イエス説は同祖論流の成立年代無視の嘘。

ルシファーは新約の原語である古代ギリシャ語に一切登場しない。
言葉の定義と成立の経緯を無視する陰謀論者=無自覚含め工作員がよくやる徒労(デマ)の一つ。
原語を確かめない陰謀論は嘘の塊。
ヘブライ語原典でルシファーとラテン語訳された個所は
ヘレル・ベン・サハル(シャハル)
Helel ben Shaḥar, "day-star, son of the morning"。
英語版ウィキLucifer
https://en.wikipedia.org/wiki/Lucifer
では
天体かは原文で断定できない
ユダヤ・キリスト教の注釈ではバビロンの王ネブカドネザル2世と解釈されているとある。
つまりユダヤ教では悪人であり金星でも天使でも悪魔でもない。

イザヤ書第14章
”…バビロンの王をののしって言う、「あの、しえたげる者は全く絶えてしまった。あの、おごる者は全く絶えてしまった。
…黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。
あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、
雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。
しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。”
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%A4%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#%E7%AC%AC14%E7%AB%A0

でバビロンの王が
”わたしの王座を高く神の星の上におき”
と言うので自身を天体とみなしていないのは明白。

♰ルシファー=金星説は
「ルシファー=金星=金星系女神は悪」の旧ヤソ

「ゴッドは善なる宇宙人」の新ヤソ
の双方に都合がいい。







地中海オリエントに於いては金星神は大体「女神」である。イナンナ、イシュタル、アフロディーテなどである。
エジプトのイシスの元にあるのがシュメールのイナンナだそうなので、イシスを含めてもよいだろう。
地母神である。一方のキリストはホルスやミトラなどの男性の太陽神に原型があると思われる。

キリストのイメージの原型は金星を象徴する中東の女神というより明らかにホルスやミトラなどの中東の男性の太陽神である。前者はマリアのイメージの原型であろう。その辺の歴史的過程を飛ばして、
いきなり「キリスト=ルシファー=金星神」が「イルミナティの教義の根幹」とするのは論として雑すぎる。

一方で黙示録でイエスが「明けの明星」を名乗っている事もまた事実である。この事から基督教では金星を「イエスの星」とするそうである。神智学系では「イエスは金星人」と言っている。
つまりイエスと金星の結びつきを隠すどころか公然とアピールしている。
「イエス=金星」は基督教側の主張という事。

「キリスト=金星」は基督教や神智学の主張である。
実際に「イエス 金星」「キリスト 金星」で検索すると基督教やオカルト界隈のページばかり出てくる。神智学信者でUFOで有名なアダムスキーはイエスは金星人と言った由。「キリスト=金星」は裏権力が隠したい「教義の根幹」どころか彼ら側の主張。

新約聖書の黙示録のみを根拠に「キリスト=ルシファー=金星神」と断定するのは、むしろ基督教に近い立場なのではないだろうか。新約聖書という文献に信頼を置き過ぎているからである。
金星神だけ強調するとホルスやミトラなど中東の太陽神との関係がぼかされていまう。それが狙いなのかもしれない。





某ネコ 休止中
‏ @nekotayasan
1月26日

なえなつさん、ルシファーはディアナだよ。元ネタは。

金星でなくて月の女神。

なえなつさんの考察おもしろいけど、中世すっ飛ばして古代にこだわるのは結社の思想なんで気をつけて欲しい。

だから私は中世にこだわる。





She was seen as free, vigorous, cold, impetuous, unsympathetic, beautiful. 日本語wikiにはないけど、ビッチの事調べたらアルテミス出てきたよ。。




参考資料






ブッダの教えは、苦の認識に始まり、その理由を見極め、解決に取り組む。
その結果、誰でもが苦しみを滅することができる!です。
ですから、今ここにある苦を受け入れるのは確かにスタート地点に着くという意味で大事なのですが、それはブッダの説いた「悟り」ではありません。苦しみの滅尽=悟りです。





松本紹圭 Shoukei Matsumoto
‏ @shoukeim
9月2日

坐禅に通うアメリカ人いわく「キリスト教では人間は一生償えない罪を背負い続けるけど、
仏教では苦を滅することができるのが良い」とか。
なるほど、「人生は苦」という仏教はネガティブ過ぎと言われがちだけど、キリスト教と比べる人にはポジティブにも見えるのか。


秋田犬祭り
‏ @akitakenhachi
9月2日
返信先: @shoukeimさん、@finalventさん

キリスト教は陰謀論と終末論が本質ですから


”・コンスタンチノープル公会議は
信経を決定すると同時に
ローマ帝国内の各都市の重要度によるランキングの問題を討議している。
古いローマを筆頭に
コンスタンチノープル(新ローマ)
アレキサンドリア
アンティオケ
エルサレムという順位が定められる。

しかし古いローマとアレキサンドリアは
新しい都となってまもないコンスタンチノープル(新ローマ)
を二番目に置くのを嫌う。
古いローマはコンスタンチノープル(新ローマ)に競争心を
アレキサンドリアは嫉妬心を燃やしていたからだ。

この順位は都市の重要性からつけられたもので
教義的な理由からでない。
五大総主教はすべて平等であり
各総主教区の父(パパ)的存在である。

この順位づけのあと、
ローマ帝国西側は蛮族の手中にあるようになり
古いローマは自分の道を歩まなければならなくなる。
蛮族の中にあり
他の四総主教区と連帯制が薄れてくると
当然首位の座から去らねばならない。
帝国内の重要な都市のひとつと数えられないからだ。
ローマは首位の座を保持しようとやっきになった。
ここから教義的理由を創作して法皇権というものが考えだされ
東西の違いがすこしずつあらわれてくるようになる。

(教皇自体がローマが他の総主教地区より上位だと権威づけるための
イエスの教えと何の関係もない新設定だから
正教はローマ法皇を認めない。

西のキリスト教は初代教会の伝統を保持する正教から見れば
野蛮な田舎の勝手な教えを捏造する劣化品なのだろう)”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-252.html
【読書メモ】『ギリシャ正教』『正教会の祭と暦』『東方正教会』 。
原罪による堕落説、 ピラミッド型支配構造の教会、
政教分離も西方ヤソ思想であり 正教にはなし!
311年にローマがキリスト教の迫害を停止したのでキリスト教にとって311は特別!


×『リトルウィッチアカデミア』Little Witch Academia  『リトルビッチアカデミア』
○Little Bitch Academia
ビッチは本来は処女・月女神アルテミスの聖なる名。耶蘇が改悪
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-166.html
”メス犬の息子を意味するson of a bitchは元はキリスト教用語。
このサノバビッチは現代は罵倒語だが、
本来は異教の女神の霊的な息子という意味。
異教徒叩きが日常語になった一例。


「ウィッチはビッチ」は耶蘇教が改悪する前は文字通り聖なる呼び名でほめ言葉だった。
リトルビッチアカデミアな件
ダイアナは処女ビッチ!(聖なる称号←耶蘇教が意味を真逆に改悪)
ビッチは本来は処女にして月の女神アルテミスの聖なる添え名。
意味を真逆に改悪したのが耶蘇教。
魔術とお産と吸血鬼の女神ヘカテーはアルテミス=ディアナと同一視された。
ちなみにルパエ(雌狼)は狼神ルパに仕えていた神殿娼婦のことだが、意味を売女=悪名に改悪したのも耶蘇教。
詳しく知りたい方は、ゆっくりと学ぶ吸血鬼シリーズ動画の六話と八話をどうぞ。
つまり、
アルテミス=ディアナ
=ダイアナは処女ビッチ(強調)!
ヘカテーと同一視されたのだから最高の魔女で当然。

メス犬の息子を意味するson of a bitchは元はキリスト教用語。
このサノバビッチは現代は罵倒語だが、
本来は異教の女神の霊的な息子という意味。
異教徒叩きが日常語になった一例。

ゆっくりと学ぶ吸血鬼 第8話後編その1『女神ヘカテとリリスと吸血鬼』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm28804107

ゆっくりと学ぶ吸血鬼 第8話後編その2『女神ヘカテと魔女と吸血鬼』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm28804173
(学術寄りの動画。プロより詳しいっぽい作者。この動画の作者も正教会の情報が少なくて困っている)”

Lucifer
https://en.wikipedia.org/wiki/Lucifer
”According to both Christian [20] and Jewish exegesis, in the Book of Isaiah, chapter 14, the King of Babylon, Nebuchadnezzar II, conqueror of Jerusalem, is condemned in a prophetic vision by the prophet Isaiah and is called the "Morning Star" (planet Venus).[21][22] In this chapter the Hebrew text says הֵילֵל בֶּן-שָׁחַר (Helel ben Shachar, "shining one, son of the morning").[23] "Helel ben Shahar" may refer to the Morning Star, but the text in Isaiah 14 gives no indication that Helel was a star or planet.[24][25]

Later Christian tradition came to use the Latin word for "morning star", lucifer, as the proper name ("Lucifer") of the Devil as he was before his fall.[26] As a result, "Lucifer has become a byword for Satan or the Devil in the church and in popular literature",[4] as in Dante Alighieri's Inferno, Joost van den Vondel's Lucifer, and John Milton's Paradise Lost.[18] However, unlike the English word, the Latin word was not used exclusively in this way and was applied to others also, including Jesus.[27] The image of a morning star fallen from the sky is generally believed among scholars to have a parallel in Canaanite mythology.[28]”

イザヤ書(口語訳)
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%A4%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#%E7%AC%AC14%E7%AB%A0
”第14章

1 主はヤコブをあわれみ、イスラエルを再び選んで、これをおのれの地に置かれる。異邦人はこれに加わって、ヤコブの家に結びつらなり、

2 もろもろの民は彼らを連れてその所に導いて来る。そしてイスラエルの家は、主の地で彼らを男女の奴隷とし、さきに自分たちを捕虜にした者を捕虜にし、自分たちをしいたげた者を治める。

3 主があなたの苦労と不安とを除き、またあなたが服した苦役を除いて、安息をお与えになるとき、

4 あなたはこのあざけりの歌をとなえ、バビロンの王をののしって言う、「あの、しえたげる者は全く絶えてしまった。あの、おごる者は全く絶えてしまった。

5 主は悪い者のつえと、つかさびとの笏を折られた。

6 彼らは憤りをもってもろもろの民を絶えず撃っては打ち、怒りをもってもろもろの国を治めても、そのしえたげをとどめる者がなかった。

7 全地はやすみを得、穏やかになり、ことごとく声をあげて歌う。

8 いとすぎおよびレバノンの香柏でさえもあなたのゆえに喜んで言う、『あなたはすでに倒れたので、もはや、きこりが上ってきて、われわれを攻めることはない』。

9 下の陰府はあなたのために動いて、あなたの来るのを迎え、地のもろもろの指導者たちの亡霊をあなたのために起し、国々のもろもろの王をその王座から立ちあがらせる。

10 彼らは皆あなたに告げて言う、『あなたもまたわれわれのように弱くなった、あなたもわれわれと同じようになった』。

11 あなたの栄華とあなたの琴の音は陰府に落ちてしまった。うじはあなたの下に敷かれ、みみずはあなたをおおっている。

12 黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。

13 あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、


14 雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。

15 しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。

16 あなたを見る者はつくづくあなたを見、あなたに目をとめて言う、『この人は地を震わせ、国々を動かし、

17 世界を荒野のようにし、その都市をこわし、捕えた者をその家に解き帰さなかった者であるのか』。

18 もろもろの国の王たちは皆尊いさまで、自分の墓に眠る。

19 しかしあなたは忌みきらわれる月足らぬ子のように墓のそとに捨てられ、つるぎで刺し殺された者でおおわれ、踏みつけられる死体のように穴の石に下る。

20 あなたは自分の国を滅ぼし、自分の民を殺したために、彼らと共に葬られることはない。どうか、悪を行う者の子孫はとこしえに名を呼ばれることのないように。

21 先祖のよこしまのゆえに、その子孫のためにほふり場を備えよ。これは彼らが起って地を取り、世界のおもてに町々を満たすことのないためである」。

22 万軍の主は言われる、「わたしは立って彼らを攻め、バビロンからその名と、残れる者、その子と孫とを断ち滅ぼす、と主は言う。

23 わたしはこれをはりねずみのすみかとし、水の池とし、滅びのほうきをもって、これを払い除く、と万軍の主は言う」。 ”

マタイの福音書5章3節の和訳について
心の貧しい人は幸いか
http://kanai.hatenablog.jp/entry/2015/07/29/%E5%BF%83%E3%81%AE%E8%B2%A7%E3%81%97%E3%81%84%E4%BA%BA%E3%81%AF%E5%B9%B8%E3%81%84%E3%81%8B
”【比較研究】

<金井試訳> 
恵まれている、霊において貧しい人たちは。
天の王国は彼らのものだから。

<Greek>
Μακάριοι οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι, ὅτι αὐτῶν ἐστιν ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν.

<KJV, RSV, ASV, NIV, ESV> 
Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.

<明治訳>
心の貧しき者は福(さいはひ)なり 天國は即ち其(その)人の有(もの)なれば也

<大正改訳>
幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者。
天國はその人のものなり。

<口語訳>
こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

<新改訳>
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

<新共同訳>
心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

<前田訳>
さいわいなのは霊に貧しい人々、天国は彼らのものだから。

<塚本訳>
ああ幸いだ、神に寄りすがる「貧しい人たち」
天の国はその人たちのものとなるのだから。

<岩波訳>
幸いだ、心の貧しい者たち、天の王国は、その彼らのものである。

<フランシスコ会訳>
自分の貧しさを知る人は幸いである。
天の国はその人たちのものである。



(1) 主要な英訳、大正改訳、金井試訳は、ギリシャ語テクストの始めにある「Μακάριοι」の訳語を始めに置いている。詩文の始めに倒置法で「Μακάριος」を置く用法は、70人訳聖書の詩篇でたびたび見られる(詩篇1:1, 32:1, 112:1, 119:1, 128:1)。大正改訳がせっかく詩文調にして語順を工夫したのに、口語訳は散文調に戻してしまった。前田訳や塚本訳、岩波訳は「幸い」を文頭に置く工夫を凝らしている。


(2) 「Μακάριοι」はここでは、神の「祝福を受ける」という意味である。「幸い」では読者に誤解を与えるかもしれない。主要な英訳はみな「Blessed」と訳している。


(3) 和訳聖書では明治訳から新改訳、新共同訳まで「心が貧しい」という訳が続いている。原文で問題とされているのは「霊」、すなわち神との関係である。これを「心」と訳すのは、読者に誤解を与える。そもそもこれを「心」と訳したのは、モリソンの漢訳聖書であり、それを日本では現代までひきずってしまった。前田訳や塚本訳、フランシスコ会訳は「心」としない工夫を凝らしている。

(4) 福音書記者マタイは「天 τῶν οὐρανῶν」(トーン ウーラノーン)を「神」の代名詞として用いている。「ἡ βασιλεία」(へー バシレイア)は「王国」が正確な訳であり、その原意は「国家」や「国土」ではなくて「王権」や「王の支配」である。これは、一般的な日本人が持つ「天国」の概念とは異なるのではないか。岩波訳はこれに配慮している。



 「ἡ βασιλεία」は「王国」が正確な訳であり、
その原意は「国家」や「国土」ではなくて「王権」や「王の支配」である。これは、一般的な日本人が持つ「天国」の概念とは異なるのではないか。

…イエスは、ガリラヤ湖畔の町カペナウムを拠点として、宣教を開始された(4:12-17)。その使信は次のものであった。
「悔い改めなさい。天の王国が近づいたから」(4:17)。
福音書記者マタイは「天 τῶν οὐρανῶν」(トーン ウーラノーン)を「神」の代名詞として用いている。

  …
  3.霊において貧しい人たち

 イエスは、この「山上の説教」の冒頭で、八つの<幸い>について語っている
 その第一(5:3)。
<心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから>(新改訳)。
<恵まれている、霊において貧しい人たちは。
天の王国は彼らのものだから>(金井試訳) 

 和訳聖書では明治訳から新改訳、新共同訳まで「心が貧しい」という訳が続いている。
原文で問題とされているのは、「霊において τῷ πνεύματι」(トー プニューマティ)、すなわち神との関係である。これを「心」と訳すのは、読者に誤解を与える。「あなたは心が貧しいわね」と言われて、喜ぶ人がいるだろうか。日本語では「心が貧しい」と言う場合、十中八九、悪い意味ではないか。逆説的な教えだとしても、それが「幸いです」となるだろうか。

 「幸いです」と訳された「Μακάριοι」は、ここでは、神から「恵みを受ける」「祝福される」という宗教的な意味を持っている(参照 6:26,32-33, 7:11)。「幸い」では読者に誤解を与えるかもしれない。主要な英訳はみな「Blessed」と訳している。「恵まれている」が適切な訳ではないか、と筆者は考える。


 当時、ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)で指導していたパリサイ派の人たちは、②の「穢れ」を避けることに執心していた。「パリサイ」には「分離する」という意味がある。
そのためユダヤ人でも、
病人、障がい者、売春婦、取税人、
行商人、羊飼い、牧畜人、皮革業者、
ホームレス、女性、子どもなどは、ユダヤ教の礼拝に参加できなかった。それはエルサレムの神殿でも同様である。”


逆境無頼エイジ@M_LH0728
2015年5月13日
「表面的には信仰の人であるが、実践面でその影響が見られない者たちは、
まったく信仰がない者たちであって、他の人たちを欺くために表向き信仰する者たちか、
または、彼らの信仰が弱く、心の奥底まで行き渡っていない者たちである。」
『イランのシーア派イスラーム学教科書』 より。

良い言葉。





微力Power(無気力改め微力)
? @mukiryokupower
6月9日

パキスタン在住中に参加したクルアーン勉強会で教えてもらった話。

施しをする時は相手の負担にならないようにする。精神的かつ物理的に。

相手に負い目を感じさせないように行う。また食べ物は調理し、そのまま食べられる状態が良い。その家には調理器具や調味料が無いかも知れないから...との事。
1件の返信 14件のリツイート 36 いいね

微力Power(無気力改め微力) @mukiryokupower

イスラーム勉強会の続きです。

施しをする者はアッラー(唯一神という意味)から頂いたものを「私自身」が施しをするのではなく、
アッラーからお預かりしているものを、『アッラーが直接相手の方に施す』という気持ちで行う。
とのこと。

ですから相手への優越感等の感情は発生しないはずです。










日本語書籍ですと、慶應義塾大学出版、ムハンマド・ホセイン・タバータバーイー著「シーア派の自画像」がシーア派視点で勉強になるとおもいます。桜井氏のは宗教学、松山氏のはスンナ派護教学の視点からみたシーアですから。





the_mathnawi
‏ @the_mathnawi
5月16日
ムスリム女性の服装についてこれほどかしましく云々されているのだから、
まずその前に「視線を下げなさい」という命令がある、ということももっと知られていてもおかしくないはず。
でもそうはなっていないというのは、多くの人が故意にその部分をオミットしてると思われてもしょうがない。

ハディースのひとつに、道の向こうからやってくる美女にみとれていた連れの若者のあごを、
預言者が「くい」と無言でつまんで反対に向かせた、というのがある。つまり問答無用で「見るな」ということ。
「誘惑された」だの「挑発された」だのと言い訳を並べる余地もないということ。

このハディースには続きがある。この美女が、預言者に宗教上の助言を求めて曰く
「巡礼は義務だと聞きましたが、うちの父はもう老いておりラクダに乗るのもおぼつかないので私が父の代わりに行ってもいいですか」。預言者は「ナアム(はい)」と答えた、というもの。




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