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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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ニー仏(魚川祐司)さんの動画と著作と言及された本のメモ。『悟らなくたって、いいじゃないか』、『感じて、ゆるす仏教』、『宗教的経験の諸相』、『そういうふうにできている』。 さくらももこが『そういうふうにできている』で局部麻酔キメて神秘体験しバラモン教そっくりのスピ思想を主張! 

さくらももこに釣られた人へ。
『そういうふうにできている』のメモと矛盾点の指摘などはずっと下の方にあるよ。
「ctrl+f」で出る検索窓に「さくらももこ」と入れて飛ぶなどしてください。
本記事はニー仏さんの動画と著作と言及された本のメモなのをお忘れなく。
彼が紹介していたから
さくらももこが局部麻酔キメて神秘体験してバラモン教そっくりのスピ思想を主張している箇所を主にメモした。


ニー仏さんの代表作、
ブッダ「女性と目も合わせないニートになれ!」で有名な
『だから仏教は面白い!』と『仏教思想のゼロポイント』のメモはこちら




宗教的経験の諸相と読書会(完結)メモ


『宗教的経験の諸相』桝田啓三郎訳、岩波文庫(上下)、1969年

原著の刊行は1902年。
The Varieties of Religious Experience: A Study in Human Nature(1902年)は
通年のギフォード講義を元にしたもの。

この本には変態信者が沢山出て来て面白いぞ。
こんな感じ↓

クエーカー教祖
「禍いなるかな、血ぬられたるリチフィールドの市(まち)よ」


ユグノー女性
「私はキリストの名において鞭打たれてりゅうぅ♡
キリストのお慈悲と慰めを感じちゃうぅ♡」
「私が感じたことは言葉にできないから理解したいならあなたも鞭打たれてみて♡」


聖心派の始祖
「苦痛がないと生きられないでしゅうぅ♡」


イスラーム修行者
「アリー!」(しか言葉を発しない)



一番すさまじい変態である
神秘主義者ゾイゼの
「釘つきパンツをはく」
「針と釘つきの十字架を背負う」個所だけは読んでほしい。


著者の立場と根本思想について先に述べる。
生い立ちと立場は誤読を防ぐために非常に大事。

読書会第一回目でさむさんが指摘されているが
ジェイムズの父親はスウェーデンボルグ系神学者なので立場がキリスト教の中で変わり種。
ジェイムズの思想がスウェーデンボルグ系かどうかは私にはわからない。

・下巻の訳者解説
ジェイムズが妻に
「私は父の子として(それ以外にいかなる理由がなくとも)、
宗教の権利を彼らに認めさせてやらねばなりません。」と書いている。

『プラグマティズム』で
「私自身は、神の証しは第一義的には内的な個人的経験のうちにある、と信じている」
(拙訳、岩波文庫版、八四ページ)も
本書の個人的体験を重んずる根本的態度も
父の影響を示す。

(当たり前だが、親がX思想だからといって子もX思想とは限らないので注意。
子が強烈なアンチXになることもある。
ジェイムズは父の思想アンチではない。

Henry James Sr.
https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_James_Sr.
”an American theologian and adherent of Swedenborgianism,
also known for being the father of the philosopher William James,
novelist Henry James,
and diarist Alice James. ”)


事項索引が非常に便利。
索引に一度生まれ型Once-bornと
二度生まれ型Twice-bornと
プラグマティズムについて書いてあるページが載っている。
しかし、全ての個所を網羅してはいない。
索引は実に便利なのでみなさん活用しましょう。


第一講 宗教と神経学

・p.21から
クェーカー派を開基したジョージ・フォックスは
精神の聡明さと能力の点で、
フォックスの心が不健全であったなどとは、けっして誰にも言えはしない。
神経組織という点から見ると
フォックスは精神病患者、あるいはもっとも悪質の狂人であった。
彼の日記には次のような種類の記事がたくさんある。

「数人の友だちと歩いていたとき、
私が頭をあげると、三つの教会の尖塔が目にとまったが、
それに私は生命の核心まで打たれた。
あれはどこか、と私は友だちにたずねた。
リチフィールドだ、と彼らは答えた。
たちまち主のみ言葉が降って、
そこへ行くことを私に命じ給うた。
私たちの目的の家につくと、
私は友だちにその家のなかへ入ってゆくように頼んだが
自分がこれからどこへ行こうとしているかは告げなかった。
友だちが行ってしまうとすぐに私は歩き出した。
そして一目散に垣根や溝を飛び越えていって、
ついにリチフィールドに一マイル足らずのところに着いた。
そこには広い野原があって、羊飼いたちが羊を飼っていた。
そのとき私は、靴を脱げ、という主の命令を受けた。
私はじっと立っていた。
冬ではあったが、主のみ言葉が私の体内で火のように燃え盛っていたからであった。
そこで私は靴を脱いで、それを羊飼いたちに預けた。
すると、あわれな羊飼いたちはふるえ驚いた。
それから、私は一マイルほど歩いて町に入ったが、
するとすぐ、主のみ言葉がふたたび私に臨み、
『禍いなるかな、血ぬられたるリチフィールドの市(まち)よ』と叫べと言われた。
そこで、私は街を行きつ戻りつして、
禍いなるかな、血ぬられたるリチフィールドの市(まち)よ、と声かたく呼ばわった。
市(いち)の立つ日であったので、私は市場に入り、市場のあちらこちらを歩きまわり、
たびたび立ちどまっては、
また前のごとく、
禍いなるかな、血ぬられたるリチフィールドの市(まち)よ、と叫んだ。
それだのに誰も私を捕らえようとはしなかった。
こうして叫びながら街々を走りぬけていると、
私には、血の河が街のなかを流れているように思われ、
市場は血の海と化したように見えた。
私に降った命令を宣(の)べ終えて、
心がはればれとしたとき、
私は心おだやかに町を出ていった。
羊飼いたちのところへ帰り、
彼らに金をいくらか与えて、
靴をもどしてもらった。
しかし、主の炎が私の足で燃え、
そして私の全身に燃えひろがったので、
私は靴を履く気にならないで、
履いたものかどうか決しかねていた。
すると、靴を履いてもよいという主のお許しがあったのがわかったので、
私は足を洗ってから、ふたたび靴を履いた。
その後で、私は深い瞑想におちいった。
それは、どういう理由(わけ)で、私があの町に遣わされて、
あの町に向かって叫び、あの町を血ぬられたる市(まち)と呼ばわらなかったのか、
ということについてであった。
(中略)
後になってディオクレティアヌス帝の時代に、
千人のキリスト教信者がリチフィールドで殉教したということを、私は知った。
(後略)」

(ヤバイ。
羊飼いは怖かっただろうな。)


第四・五講 健全な心の宗教

”「神はこの地上に、二家系の子供を、」とフランシス・W・ニューマン(一)はいっている、
「すなわち『一度生まれ』の子と『二度生まれ』の子をもっておられる。」
そして、一度生まれの子について、彼は次のように述べている。
「彼らは、神を、厳格な審判者とは見ない、崇高な主権者とは見ない。
むしろ、美しい調和ある世界に生命を与える霊、
慈悲ぶかく親切な、清純であるとともに恵みぶかいお方として見るのである。
こういう性格の者は、一般に形而上学的傾向をもたない。
つまり、彼らは自己自身を省みることがない。
それだから、彼らは彼ら自身の不完全さに思い悩むことがない。

けれども、彼らを独善的と呼ぶのは、不条理であろう。
というのは、彼らは自分自身のことなど『少しも』考えないのだからである。
彼らの天性にある、こういう子供っぽい性質のために、
宗教に入ることは、彼らにとってたいへん幸福なことになる。
なぜなら、皇帝の前に出ると、親は慄(ふる)えるけれども、
子供はひるまないが、そういう子供以上に、
彼らは神を恐れてたじろぐことがないからである。
事実、彼らは、神の厳しい尊厳を成しているような『いかなる』性質についても、
いきいきとした観念をもってはいない(二)。
彼らにとっては、神は慈愛と美との権化である。
彼らは混沌たる人間界ではなく、ロマンティックで調和のある自然界のうちに、神の性格を読むのである。
おそらく彼らは彼ら自身の心のなかに人間の罪があるなどとはほとんど知らないし、
また、世界に人間の罪があることについても大して知っていない。
人間の苦難もただ彼らの心に感動を呼び起こすだけのことである。
かくて、彼らが神に近づく時にも、内心の動揺は起こらない。
そして、まだ霊的な存在となっているわけではないから、
彼らは、彼らの単純な崇拝のうちに、ある安らかな満足感と、
おそらくはロマンティックな興奮を感じるのである。」”
pp124-125、第四・五講 健全な心の宗教
『宗教的経験の諸相(上)』桝田啓三郎訳・岩波新書

※『』は傍点の代役。


・「一度生まれ」型の意識で、
それがすなおに自然に発達して、
病的な悔恨とか危機感とかいうような要素をまったく伴わぬ実例……(実例は割愛)。

・(「宗教は私にはなんの意味もない」と語る
「よく知られた現代人の典型」の例に対するジェイムズの評が)

このような輩は、まるでざりがにが殻を被っているみたいに、
有限なものに満足しきって、そのために、
無限者から遠く離れていることを少しも嘆いたり気に病んだりしないのである。
こういう輩こそ、通俗科学によって助長されやすい楽観主義の適例なのである

上巻p.144

(私は完全に二度生まれ。本ブログに来る人の大半は二度生まれだろう。
このロブスター・シェルに閉じこもっている人は一度生まれに該当するので
ジェイムズは一度生まれが嫌いだとわかる。
この記述のすぐ後にニューソートに言及している。
ジェイムズは
ニューソートの中核が新約の福音書で
科学、楽観主義、インド思想等を混ぜたものだと分析。
要は中核はキリスト教で表面に流行りの思想を張りつけ
外観だけ新しく見せているだけの新キリスト教。
ジェイムズの時代にニューソートが猛威を振るっていたことがわかる。
輸入された日本でも今も猛威を振るっていて
ポジティブ教と聞けば読者も思い当たる実例を経験されていることだろうが
本書のくよくよ無用運動という名前が秀逸


精神治療運動(著者が命名)はいろいろの名を自称しているが
その一つを用いるとして、
その「新思想(ニュー・ソート)」(※)なるものには、さまざまな分派がある。
この運動は意識的な楽観的人生観に基づくものであって、
理論的な面と実際的な面とを具えている。
教義の源泉は四福音書。
ほかに、エマソン主義ないしニュー・イングランドの超絶論、
バークリー流の唯心論、
「法則」と「進歩」と「発展」というスローガンをかかげる降神術、
通俗科学の楽観主義的進化論があり、
ヒンズー教も一助となっている。
もっとも著しい特徴は、はるかに直接的な霊感。
この信仰の実践者たちは、
健全な心そのものが一切を救う力をもっていることを、
勇気と希望と信頼には無敵に実力があることを、
直感的に信じており、
したがって、当然、
疑惑、恐怖、心配など、くよくよと取り越し苦労をするような一切の精神状態を軽蔑している。
今日では、この精神治療の原理はその二番せんじの精神をほとんどいたるところに認めることができるほど、
ゆきわたっているのである。
「骨休めの福音」とか、「くよくよ無用運動」とかいう声がよく聞こえるし、。
朝、着物を着ながら、一日のモットーとして、
「若さ、健康、元気!」と自分に復誦する人々のことも耳にする。

※(p.391の訳注)
New Thought
人間の精神を強調し、
精神のもち方で病気が抑制されるという、一種の精神治療法。


(超絶主義=トランセンデンタリズム
https://kotobank.jp/word/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0-856503#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2
”19世紀後半,米国のニューイングランドに興った思想運動。
〈超越主義〉〈超絶主義〉とも(原語はカントの先験哲学をさす場合もあり,
これには〈先験主義〉との訳語をあてて区別する)。
エマソンを中心に,T.パーカー,W.E.チャニングらのユニテリアン派牧師,H.D.ソローらがつどい,
超経験的な直観による世界把握,自然と精神の調和,小共同体による社会改革などをめざした。
ドイツ観念論とのつながりよりも,
英国のロマン主義(コールリジ,カーライル)やJ.エドワーズ以来の信仰復興運動の影響が強い。総じて〈ピューリタニズムの世俗化〉というアメリカ思想史の基本動向を反映するものだが,ホーソーンらアメリカ象徴主義文学への影響も大きい。


トランセンデンタリズム【Transcendentalism】
アメリカの思想家R.W.エマソンとその周囲の文人,宗教家たちのロマン主義思想をいう。超越主義,超絶主義と訳す。
エマソンの《自然》(1836)出版後,
彼の周囲に集まったユニテリアン派の牧師たち

(ヘッジFrederic H.Hedge,T.パーカー,リプリーGeorge Ripley,W.E.チャニングら),
随筆家H.D.ソロー,教育家A.B.オールコット,
批評家S.M.フラー,詩人チャニングWilliam E.Channing,ベリーJones Veryなどがその代表者である。


ニューソートにはユニテリアン系思想も混ざっている。
つまり、三位一体説を否定し神の人格の単一性を主張し
キリストの神性、人間の原罪、十字架による贖罪などを認めず、
意志の自由とキリストの模範および
人間の道徳的行為による救いを主張するのであるが
特に原罪否定と人間の地位が高い(神中心ではなく人間中心)のが重要そう。
ニューソートは神智学系妄想グノーシスもどき(グノーシス文書で否定されたのでパチモン)そっくり




新プラトン主義の最終目標は人間の神化におかれている。
ポルピュリオスは『プロティノス伝』において、
師であったプロティノスが最終的に目指していたものについて次のように語っている。

「彼(プロティノス)は、つねに神的なものを目指して努力し、
心魂を傾けてそれを愛した。
……彼にとって目的つまり目標は、
すべてのものの上にある神に近づき合一することであった」。
プロティノスの「美について」(『エネアデス』に収録)は、
プラトンの『饗宴』で示された絶対的な美への上昇という主題を背景にして執筆された著作であり、
プロティノスの精神の神髄を最も明確に表現するものである。
美と善はともに神的な領域に属するものであることを前提として、
プロティノスは次のように述べる。
「ここに至るには、われわれが感性界に降下してみにまとったものを脱ぎ捨て、
上の世界に方向を転じて昇っていかなければならない。
このことは、神殿の秘儀に参加する者たちに、
いままで来ていた衣服を脱ぎ捨てて身を浄め、
裸のままで聖域に上ることが要請されるのと似ている。

そしてこのように昇りながら、
神に縁のないすべてのものを通過し、純粋な自分にもどるならば、
純粋単一で清浄な善をありのままに観ることができる」。

グノーシス主義の目標は、
霊肉二元論を前提として、
霊的な自己が内部に存在する神性に目覚めることにある。
人間の神化という点では新プラトン主義と同一の歩調をとっているが、
グノーシス主義を際立たせているのは、
その徹底した現世拒否の姿勢。
現世あるいは物質界は永遠界に本来の根拠を持つ魂を閉じ込める牢獄であるととらえられ、
霊知(グノーシス)によってその牢獄を脱出していくことが人間の使命とされる。


パチモンでないグノーシス)の必須要素が
「物質=偽の神が創造した悪」なので
肉体=悪。
よって肉体=牢獄に囚われた現世拒否。
エロ全面肯定なら物質的肉体牢獄大好きなのでグノーシスではありえない



第六・七講 病める魂

・古代のギリシア人は、文学作品の上で、
自然宗教から生まれる健全な心の喜びの模範として、
たえず私たちに示されている。
しかしホメロスにおいてさえ反省的な詩句は陰気である。
そしてギリシア人は体系的な思索にふけって究極的なものに思いをはせると、
その瞬間に、純然たる厭世家(ペシミスト)になったのである。

『ギリシア詞華集』は厭世的な詩句にみちている。
いたずらに屠殺される豚の群れのように、
死ぬために、われわれはみな養われ肥やされるのだ。


ストアの不動心とエピクロス派の諦念とが、
この方角に向かったギリシア精神が歩んだ最前線であった。

エピクロス学派はいった、
幸福になろうとつとめず、
むしろ不幸を避けようとつとめよ。

大きい幸福はつねに苦痛とつながっている。
それゆえ、安全な岸辺に沿って航行し、
もっと深いところにある歓喜を味わおうとするな。
僅かを期待し、低きを目ざして、失望を避けよ。
そして、とりわけ、くよくよと思い悩むな。」

ストア派はいった、
「人生が人間に与えることのできる唯一の真の善は、
自己自身の魂を自由に支配することである。
それ以外の善はすべて虚偽である。」

これらの哲学はいずれも、それぞれの度合いにおいて、
自然の恩恵に絶望した哲学である。
自由に提供される喜びに無邪気に身をまかせきるという態度は、まったく消え失せている。
両派がとなえるのはいずれは塵と灰に帰るべき身の慰めなき精神状態から脱出する方法なのである。

・p.242から
もっとも悪質の憂鬱は、圧倒的な恐怖という形をとるものである。
次にかかげるのはその優れた実例で、それをここに載せるのを許して下さったことを、
私は憂鬱病者に感謝しなければならない。
原文はフランス文である。
それを書いたときの筆者は神経過敏な悪い状態にあったことは明らかであるけれども、
この文章はそのほかに、極端に単純だという長所をもっている。
「こうして、哲学的な厭世主義の状態におちいり、

(以下要約。
私自身の存在に対する身の毛もよだつような恐怖心が私を襲った。
かつて保養所で見たことがある
緑がかった皮膚の髪の黒い癲癇患者の白痴の青年が心に浮かんできた。
膝を立てて顎をのせ一枚きりの着物である粗末な灰色のシャツを
全身をくるむようにして膝の上にかぶせて
一日中坐っていた。
彫刻のエジプト猫かペルー人のミイラのようにそこに坐っていて、
黒い眼だけしか動かさず、まったく人間とは見えなかった。
その姿(イメージ)と私の恐怖とが、
一種独特なふうにお互いに結びついた。
もしかすると、『あの姿が私なのだ』、と私は感じた。
あの青年と同じように、
私にもああいう姿になり果てる時がきたら、
私のもっているどんな物も、
その運命から私を守ることはできないのだ。
以来、宇宙は私にはまったく一変してしまった。
私は他人の病的な感情に共感できるようになった。

要約終わり。
『』は傍点の代役)」

「私の母が、たいへん陽気な人で、危険を意識しないのは、
私にはまったくの謎のように思われた。
しかし、私自身の精神状態の秘密をもらして母の気持を乱さないようにと、
私がたいへん用心したこてゃ、
あなたにも十分信じていただけるだろう。
私のこの憂鬱症(メランコリア)の経験には宗教的意味がある、と私はいつも思っている。」

この最後の言葉はどういうことを言おうとしたものなのか、
もっと詳しく説明してほしいと、この手紙の筆者に頼んだところ、
次のような答えを書いてよこしてくれた。

「もし私が、
『永久(とこしえ)にいます神は、わが避難所(かくれどころ)なり……』
『すべて労する者、重荷を負う者、われに来(きた)れ……』
『われは復活(よみがえり)なり、生命(いのち)なり……』
などという聖書の言葉にすがらなかったならば、
私はほんとうに気が狂ったに違いない、と思われるほど、
それほど強くその恐怖が私を襲ったことを言うとしたものである(一)。」

(一)
同じように突然襲ってくる恐怖の例として
Henry James:Society the Redeemed Form of Man, Boston, 1879, pp.43 ff.を参照

(原文はフランス文であるなどとさも他人の証言であるかのように装っているが
ジェイムズ自身の体験の自作自演だと下巻の解説で翻訳者がバラしている(笑)。
つまり上記の体験記はジェイムズが二度生まれ経験。
本人の注釈(一)にある
英米心理主義小説の先駆者としても知られるヘンリー・ジェイムズはジェイムズの弟(笑)

よって、メモは基本的にページ順だが、順番を入れ替え、
これより解説のメモを載せる)

・下巻解説のp.408から
この書の成立にもっとも大きい動機を与えたものは、
ジェイムズ自身の個人的経験、
すなわち一八六九年から七〇年にわたる精神的不安の体験であったのではないか、
と訳者は思う。ジェイムズみずから「宗教的憂鬱」と呼んでいる、
この時の深刻な体験が、生来ゆたかな彼の宗教的情操をいっそう深め、
この体験が根本となって、
「個人の経験」にもとづく宗教観が実を結んだのに違いない。
当時のジェイムズの精神状態については、詳しいことはわからない。
しかし、不眠、消化不良、眼疾、背中の痛みなど、
肉体的な不健康のほかに、あるいはそれに伴って、
当時のジェイムズが恐ろしい精神的不安のうちにあったことは確かである。
本書第六・七講「病める魂」のなかで、
「圧倒的な恐怖という形」をとった「もっとも悪質の憂鬱」の例として、
フランスの一憂鬱病患者の手記があげられている(本訳書、上巻二四二ページ以下を参照)が、
その記述がジェイムズ自身の当時の精神状態を述べたものであることは、
のちにジェイムズみずから、本書のフランス訳を計画していたフルールノアに語ったところである。
そこには、
「この憂鬱症の経験には宗教的な意味がある、と私はいつも思っている。……
『永久(とこしえ)にいます神は、わが避難所(かくれどころ)なり……』
『すべて労する者、重荷を負う者、われに来(きた)れ……』
『われは復活(よみがえり)なり、生命(いのち)なり……』などという聖書の言葉にすがらなかったならば、
私はほんとうに気が狂ったに違いない」と説明されている。
この体験によってジェイムズが宗教的神秘主義と病的心理状態の理解を助けられたことは確かである。

(ウィリアム・ジェームズ(William James、1842 - 1910年)が
27から28歳ころの精神的不安が本書成立の条件の一つだった。
フランス語訳でフランス語原文見せてと言われたときに「あれは自作自演」と言わざるをえなくなった疑惑)


第八講 分裂した自己とその統合の過程

・p.251
二つの人生観
①健全な心の人生観
幸福になるためにただ一回の生誕だけで足りる人間に特有なもの

②病める魂の人生観
幸福になるために二回の生誕を必要とする人間に特有なもの

一度生まれの人の宗教
=世界は一種の直線的なもの、あるいは一階建てのものであって、
その勘定は一つの単位でおこなわれ、
その部分部分はきっかりそれらが自然にもっているように見えるだけの価値をもっており、
単に代数的にプラスとマイナスとを合計するだけで価値の総和が出てくるといったようなものである。
幸福と宗教的平安とはその差引勘定のプラスの側で生活するところにある。

二度生まれの人の宗教
世界は二階建ての神秘。
平安はただプラスを加え、マイナスを生活から消去するだけでは達せられず
自然的な善はただ量的に不十分でうつろいやすいというばかりではなく、
その存在自体のなかに、ある虚偽がひそんでいるとする。
自然的な善はすべて、
たとい死の前にあらわれるいろいろな敵によって誅殺されることがなくても、
結局は死によって抹殺されてしまうのであるから、
最後の差引で残高ができることなどないし、
私たちの永久的ない崇拝をうけるべきものでは決してありえない。
むしろ、それは私たちを私たちの真の善から遠ざけるもので
そのような自然的な善を放棄し、
それに絶望することこそ、私たちが真理の方向へ向かって踏み出すべき第一歩なのである。
要するに、自然的な生命と霊的な生命との二つの生命があるのであって、
私たちはその一つに与かりうるためには、まず他方を失わなければならない。


これら二つの型は、それらの極端な形、
すなわち、純粋な自然主義と純粋な救世主義という二つの形において
いちじるしい対照をなしている。


第十講 回心――結び

・p.378から
幻覚的あるいは似而非(えせ)幻覚的な光明現象は
心理学者の専門語で
幻視photismと呼ばれる。
聖パウロが天から目をくらますような光明の降るのを見たのは、
この種の現象の一つであったように思われる。
コンスタンティン大帝が天空に十字架を見たのも同様にこの種の現象である。

光明現象(フォーティズム)

(特殊な状態になると光が見えるのは誰にでも起こる普通の現象で体験自体は否定できない。
しかしその解釈は体験者の言語、知識、文化などのフィルターを通る。
よって上座部のヴィパッサナー瞑想では
勝手な解釈で執着が強化されてしまうなどの理由で解釈を禁止する


・上巻訳註
ユニテリアン
=キリスト教における三位一体説を否定して
 神の人格の単一性を主張する教派。
 したがって、キリストの神性、人間の原罪、十字架による贖罪などを認めず、
 意志の自由とキリストの模範および
 人間の道徳的行為による救いを主張する。
 エマソン、シアドーア・パーカーなどはこの派に属している。



下巻

第十一・十二・十三講 聖徳

・p.54から
殉教の年代記が宗教的沈着の勝利を示すめざましい古戦場であることはいうまでもない。
その一例として、
ルイ十四世の時代にユグノー教徒として迫害された一人の謙虚な受難者の文章を引用しよう。

「彼らはすべての扉を閉めた、」とブランシュ・ガモンは書いている、
「そこには六人の女がいて、それぞれ手にやっと握れるほどの大きさで、
一ヤードほどの長さの柳の枝の束をもっていた。
彼は私に『着物を脱げ』と命令した、
私は命令どおり着物を脱いだ。
『お前はまだ肌着を着ているな、それもとってしまえ』と彼がいった。
彼女たちは待つ間も苛立たしいとみえて、
自分たちで私の肌着をはぎとった。
それで私は腰から上がはだかになった。
彼らは網をもってきて、それで私を炊事場の梁に縛りつけた。
彼女たちは綱を力一杯ひき締めて、
『痛いか』と私にたずねた。
それから彼女たちは激しい怒りを私にぶちまけ、
私を打ちながら叫んだ、
『さあ、お前の神に祈るがいい。』
こういったのはあるルーレットという賤しい女であった。
しかしこの瞬間、私は私の全生涯で受けることのできる最大の慰めを感じた。
というのは、私は光栄にもキリストの名において鞭うたれていたばかりでなく、
キリストの慈悲と慰めを授けられていたからである。
私がそのとき内心に感じた想像もできないほどの力と慰めと平安をここに書きしるすことは、
私にはとてもできない。
それを理解するためには、自分でも同じ試練をうけてもらうしかない。
その慰めと平安がたいへん大きかったので、
私は有頂天になってしまった。
苦痛にみちていたときに、ありあまるほどの恩寵が与えられたからである。
女どもは、『もっとうんと叩いてやらなければ駄目だ、
この女は、喋りも泣きもしないところをみると、
ちっともこたえていないのだ』と叫んだが、無駄であった。
私の心は気も遠くなるほど幸福にみちていたのだから、
泣くはずもなかった。

(上半身裸にされて鞭打たれると
「私はキリストの名において鞭打たれてりゅうぅ♡
キリストのお慈悲と慰めを感じちゃうぅ♡」と気持ちよくなるど変態ユグノー女性(笑)
「私が感じたことは言葉にできないから理解したいならあなたも鞭打たれてみて♡」
と勧める(笑)

カルヴァン派が日本の労働教の元ネタ。
労働教では安息日がないなどより凶悪になっている。






宗教改革。 カルヴァン派。
フランス=ユグノー
オランダ=ゴイセン
イギリス=ピューリタン(清教徒)
スコットランド=長老派

神の救済は、予定説。
救われるもの=当然、規律正しく禁欲的に暮らす
→結果蓄財
→神に選ばれた証
→商工業者に広まる
これって金持ちが偉いってことじゃ。え(驚)


これってさ、突き詰めたら

救われる良い魂
→良いお金持ちのおうちに生まれる。ないしはお金稼ぎの才能がある。
→お金持ち程良い魂

てことにならないのか?
カースト制度みたいだなあ。

漫画『懲役339年』を思い出す。


峨骨
‏ @Chimaera925
政商納言は「もっと儲けさせろ。儲かりすぎていとをかし」。
一方で子供の貧困。子供を引き合いに出して親の貧困を覆い隠し問題を矮小化。
子供食堂だったか、要は炊き出しだ。
経済などとほざきながら大戦景気の成金と大して変わらない。
いや、それよりも悪質か。その状況に誘導しているのだから。

資本主義の根幹にあるのはプロテスタンティズム、カルヴァン派。

終末思想を植え付ける創作物もゴロゴロしているな。
ジャンプだって勝利友情努力だったのがいつの間にやらあんな状態だ。
勝利、血統、才能。完全にカルヴァン思想の優生学が入っているじゃねぇか。才能があったから。才能は血筋に遺伝する。そして勝利するってな。それが無い奴は引き立て役になっている

カルヴァン派の予定説では、神の救済に預かる者は最初から定められている。
禁欲的に天職に勤める事で成功する者が選ばれるのではないか、と。
ここで言う禁欲とは、目標(利潤の追求)の為に全精力を傾ける禁欲さ。
己の才覚や努力で富を為したと考える中産階級や成金から支持を受けた。
エリート選民思想


これに嵌まった者は自分が特別だと思うだろうな。
天職に禁欲的に励み(利潤の追求をした)己の才覚や努力で富を築いた、俺は特別だ。
神に選ばれているに違いない、と。
ここから宗教色を脱色すると政商の説くありがたい労道教の教えやビジネス自己啓発になる。
神が出せないから成長や感謝、自己実現等と

フランスのナントの勅令からフォンテーヌブローの勅令。
貴族階級のプロテスタントは、信仰よりも王から貰った地位や特権を選びカトリックへ改宗している。
フランス革命までの道のりを中産階級の目線で見ていくと面白い。
革命を主導したのは不労所得を得るブルジョワ。官職は金で買え、世襲もできた。

カルヴァンは宗教改革の際に「働かざる者食うべからず」と聖職者を批判した。
カルヴァン主義を支持したのは己の才覚や努力で富を為したと考えるエリート選民思想を持った中産階級や成金。資本主義下では資本家、投資家、銀行家はこの聖職者と大して変わらない。カルヴァン資本主義か。

aprspt
‏ @ayanuhito
2011年12月9日
「スコットランド紀行」(邦訳は岩波文庫)のエドウィン・ミュア。
1930年代グラスゴーに対しては、カルヴァン主義から派生した勤勉と拝金主義に毒された都市、と手厳しい。

ミュア著作には「ジョン・ノックス(スコットランド長老派教会の設立者)、あるカルヴァン主義者の肖像」1925年。

自由主義のオランダでさえ、日曜日には店を閉じる。自由と対極の「規律」がある。カルヴァン思想に基づく拝金主義が問題の根源だ、というのも無理がある。

SBに帰った鶏肉
‏ @toriconbu
2014年4月8日
そもそも年収で張り合うのは資本主義特有のアレであり
資本主義はカルヴァン派から生まれたと言われているわけで、
宗教世界の序列化と拝金主義を嫌ったプロテスタンティズムが新たな拝金主義を産むとは、
世界の因縁を感じますねねね)


・p.59から
初期クェーカー教徒は
当時の教会キリスト教の世俗性および偽善性と烈しく戦わねばならなかったが、
とりわけ彼らにとってもっとも苦しい戦いは、
おそらく、すべての人に対して「なんじ」(※)と呼びかけ、
帽子を脱いで会釈をしたり相手の尊称を呼んだりしないで、
社会的誠実と誠意に対する彼ら自身の権利を擁護するために戦った戦闘であった。
ジョージ・フォックスはそのような因習的な習慣は偽りであり、
まやかしであるという啓示を受けたといわれ、
そこで彼の信者たちはみなこの種の習慣を放棄したが、
それはいわば真実をあらわすための犠牲であり、
彼らの行動と彼らの信奉する精神とをよりいっそう一致させんがためであった。

フォックスは日記で
「神は、私が、身分の上下を問わず、
誰に対しても帽子を脱ぐことを禁じ給うた。
また私は、富者たると貧者たるとを問わず、
身分が高いか低いかにかかわりなく、
すべての男女に対して『なんじと呼びかける』ことを要求されたのである。
おはようや今晩はとか挨拶してはいけないと言われた。
どんな人に対しても頭を下げてお辞儀をしたり片足をうしろにひいて敬礼したりしてはいけなかった。
このことが核種の宗派や聖職者たちをひどく憤慨させた。

初期のクエーカー教徒で一時
ジョン・ミルトンの秘書をしたこともあるトマス・エルウッドについて。
「私は私の衣服からレースとかリボンとかの不必要な装飾品や無用なボタンを
取り外してしまった。指輪をはめるのもやめた。
敬称をつけることを要求する間柄でもないのに敬称をつける悪徳をやめた。
Sir, Master, My Lord, Madam, My Dameという敬称を使わないようにした。
一度も下僕としての関係をもたなかった人々にYour Servantも使わないことにした。

帽子をぬいだり膝や腰をかがめたりして挨拶することで
他人に敬意を表することも私の身についた習慣であった。
この習慣は世俗的精神によって導入された空虚な世俗的習慣の一つであり
真の尊敬心に出ずるものではなくて真の尊敬心の偽りの表現であり
ほんとうに尊敬しあってしない人々によって
お互いの尊敬のしるしとして欺瞞的に使用される。
この習慣はすべての人間が全能の神に対して払うべき神聖なる敬意のしるし、
ふさわしい象徴であり
また神々より洗礼名を受けたすべての人々が神に祈るときにとるべき形式であって、
人間に対して用いられるべきではない。」

※訳注
thee-ing and thou-ing
クェーカー教徒は人々に呼びかけるのにthouを用い
あるいは本来その目的格theeを用いた。

(要はyouあなたではなく汝を使えということで
旧字旧かな勢みたいだ。
今のクエーカーはどうなんだろうか。

Quakerは別名がフレンド会。
きりすとがすきなフレンズなんだね!
けものフレンズの作者ってもしかしてクエーカー?
『20世紀少年』の”ともだち”は
フレンド会ではなく
友愛の友だけどね。ワールドメイトのメイトの意味も込めてそう。

クエーカー全体では少数だろうが
一部のクエーカーは宗教マイノリティ枠の工作員として起用される。


村手 さとし
‏ @mkmogura
2015年10月22日
ねれないアル。
シールズをクエーカー教徒と予想したの覚えているアルか?その後、キリ教愛真高校と裏付けられたアル。西野カナの震えるという単語だけの予想ではなく、過去のクエーカーの立ち位置、いまのシールズの位置を理解すれば重なると。
一瞬で背景をすっぱ抜く、これが情報の卓越者アル。

一番に忘れてほしくはないのは、すべての仕込みには看板があるアル。
キリスト教愛真高等学校とは
内村鑑三の弟子、高橋三郎創立の『無教会主義』の学校。
これ、内村と五千円の新戸部が輸入したクエーカーそのものである。

見る人が見たら、私たちクエーカーなのよ、協力して。隠すつもりないアル


nocovertwar
‏ @nocovertwar
11月4日
nocovertwarさんが村手 さとしをリツイートしました

ご返信ありがとうございます。ベトナム反戦運動の中にも“○ールズ”的な仕込みが
あったというわけではないのですね?

nocovertwarさんが追加
村手 さとし
@mkmogura
返信先: @nocovertwarさん
いや、ネタです。
現代語訳にしてみました
3件の返信 1件のリツイート 2 いいね

村手 さとし
‏ @mkmogura
返信先: @nocovertwarさん

もちろんあったでしょう。
アメリカのクウェーカー教徒、全米の電気事業組合だっけかな?
そこらへん調べてけば、出てくるでしょう。
まあ、ヒッピー自体が左だからね。
「大衆教育放棄」で、酷い有様を導いたわけだけど。

ほい。焼身自殺抗議した人
アリスハーズはユダヤ系ドイツ人のクエーカー教徒、
夫を亡くし1933年にドイツを脱出した。
当初フランスに逃れたが、1942年に娘ヘルガとともにアメリカ合衆国に亡命。
デトロイトに居を定め、
ヘルガは市立図書館で働きアリスがウェイン州立大学でドイツ語講師として働いた。

図書館、ユダヤ系ドイツで、クエーカー。
フランス経由でアメリカへ。
で、ベトナム戦争の抗議に焼身自殺。
単語だけで、俺のロスロック分析で、簡単にわかるっしょ。

仕事は早いです。一流ですから(どや

nocovertwar
‏ @nocovertwar
11月4日

nocovertwarさんが村手 さとしをリツイートしました

ブログが消されたのがほんとうに残念です!3割ぐらいしかわかりません。
おととい出直します~

nocovertwarさんが追加
村手 さとし
@mkmogura
返信先: @nocovertwarさん
図書館、ユダヤ系ドイツで、クエーカー。フランス経由でアメリカへ。で、ベトナム戦争の抗議に焼身自殺。
単語だけで、俺のロスロック分析で、簡単にわかるっしょ。…

村手 さとし
‏ @mkmogura
返信先: @nocovertwarさん

説明しよう。
アメリカと言うロックに支配された国で
俺がロスチャ側、左側の鍵と考えたのが
帰一教、ヒッピー的左翼、カリフォルニア環境問題左翼、
でも西海岸多し、政治的な東側だとなんか本で電気自由化かなんかの組織が左と知る。
ベト反戦のヒッピーは有名だから帰一教=クエーカーをピックアップ。




井戸 まさえ
‏認証済みアカウント @idomasae
12月24日
NHK「天皇運命の物語」。
皇太子時代の英語の家庭教師ヴァイニングのエピソードは出てくるが、後任のエスター・B・ローズについて全く言及がないのは不自然な気も。GHQのクエーカー人脈すごい。
ヴァイニングはその後、クエーカー行動委員会のベトナム反戦デモに参加し、逮捕。さすがフレンズですな!


小張 学
‏ @manauwf
12月23日
昨日のNHK「天皇 運命の物語」にE.G.ヴァイニング女史が取り上げられていた。
皇太子の英語教師として来日した先生は敬虔なクエーカー教徒。
先生の属するクエーカー教の奉仕団「フレンド」はララ(アジア救済団体)に属しており、
先生来日時の受け入れもララが支援した。

ララ(LARA)の日本での活動は詳しく知らなかったけど、「給食の歴史」に詳しく掲載されていた。
永田町国民学校における戦後初学校給食はララ救援物資によるもので、その救援物資が到着したのは、
今、ハマ弁で揺れる横浜港であったことは、歴史の皮肉としか言い様が無い。

給食共同調理所が鶴川に開設された背景について、
町田市教育史には「豊作で寄付が良く集まった」と簡単な記載しかないけれど、鶴川周辺には農村伝道神学校など信仰拠点が点在していて、鶴川北教会の沿革には家庭集会の記載もあり、
ララの活動の様に、基督教関連団体の寄与があった可能性を感じている。

fareast
‏ @psk337
2016年11月14日
そもそもフィラデルフィア・フレンド婦人外国伝道教会の日本伝道には
米国留学時代の新渡戸や内村鑑三の意見が取り入れられて開始されている。
従って、新 渡戸と内村が日本とクエーカーを接木したのである。

いろいろ英単語Z
‏ @eitango_z
2014年7月1日
earthquake「地震」のquakeは「震え(る)」という意味ですね。
五千円札の新渡戸稲造が信者だったキリスト教フレンド派(三田に普連土学園という学校が存在)は、
別名クエーカー(Quaker)と呼ばれますが、信者たちが体を震わせて神に祈りを捧げたことが命名の由来だそうです。

天皇人脈にもクエーカー。
新渡戸稲造もクエーカー。
帰一協会に新渡戸がいる。
なんと渋沢栄一もいる。

帰一協会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E4%B8%80%E5%8D%94%E4%BC%9A
”協会の標語は「階級、国民、人種、宗教の帰一」


参考文献

『日本キリスト教歴史大辞典』教文館、1988年
高橋昌郎『明治のキリスト教』吉川弘文館、2003年”

菊池
‏ @kikuchi_8
2017年1月19日
キリシタン被害者史観を最初に作ったのは宗教学者の姉崎正治である。
姉崎正治はその「功績」で博士号を与えられたという。
何故か仏蘭西政府からも勲章を与えられている。
姉崎は「帰一協会」という露骨な名前のNWO団体に関係し「三教会同」を推進した。
「帰一」という言葉で姉崎の立ち位置が分かる。

帰一協会が推進した「三教会同」とは
神道・仏教・キリスト教の融和一致を図るという憑依型戦術の典型である。
後のエキュメニズム、宗教統一構想の走りのような運動である。
帰一協会にはクェーカー教徒でメーソンの新渡戸稲造などが所属。
日本でもかなり早い段階(明治時代)から宗教統一運動があった。


))

・p.67から
禁欲主義の心理的諸要因の識別

1 安逸を嫌う頑健な体力のあらわれ

2 飲食の節制、簡素な衣服など、
 感覚的なにおいのするものに対する反発からくる清浄さへの愛

3 愛から発する場合。即ち禁欲が自分の信ずる神に喜んで捧げる犠牲として
 当事者に迎えられる場合もある

4 禁欲的な難行苦行が、
 自己に対する悲観的(ペシミスティック)な感情と罪の贖いという神学的信仰とが結びついて生じる場合。
 罪滅ぼしの苦行で罪を帳消しにしたりするなど。

5 精神病質の人々において非合理的な動機から、
 一種の強迫観念にかられて苦行が始められる場合

6 禁欲的な訓練が肉体的感受性の真の倒錯によって促進される場合。
 苦痛が快感として感じられる。比較的まれ。

 

(項目2について。
ニー仏さんがセンシュアルの訳語は「官能的」より「感覚的」ほうが適切と指摘していて
私もそう思うので訳を修正。
確かにピュリティを純潔と訳すのは現代の感覚では性的意味合いが出てしまう。
ペシミスティックも厭世的よりは悲観的にほうが良いので悲観的にした。
項目六の例が完全に変態)

・p.81から

第四項と第五項の例。
精神病質の人だと
理屈ではわからぬほどの極端な肉体的苦行に走る場合があるということを示す具体例であるが、
誠実なゾイゼの難行苦行に関する彼自身の説明を引用しようと思う。
諸君も記憶しておられるように、
ゾイゼは十四世紀におけるドイツ神秘家の一人であった。
第三人称で書かれた彼の自叙伝は、古典的な宗教書の一つである。

(ゾイゼの変態行動を要約。
情火と精力にみちみちた気性を嘆かわしく思い、
肉体を圧制しようとつとめた。
長いあいだ馬巣織(ばすお)りシャツと鉄の鎖を身に着けていた
が血が流れだしたのでやむをえず着ることをやめた。

特別製の下着のなかに皮紐を縫いつけその皮紐に
やすりがけで尖らした150本の真鍮の釘をつけ体の方に
尖頭(さき)が向かうようにした。
下着が体に密着できるようにして釘が肉体に食い込むようにした。
これを着けたまま寝る習慣をつけた。
苦痛に虐げられ、害虫に悩まされたあげく、
大声をはりあげて、かんしゃく玉を破裂させ、
まるで尖った針で突きさされた蛆虫のように、
苦痛でのたうちまわることもしばしばあった。
虫どもに苦しめられるので、
まるで蟻塚の上に横たわっているような感じがすることもしばしばあった。
彼が眠ろうとすると、あるいはすでに眠りにおちていたときに、
虫どもが互いに腕を競い合ったからであった(一)。
『おお神様これは何という死に方でしょう!』などと叫びかけることもあった。」


(一)
「虫ども」つまりシラミは中世においては聖人であることの間違いのない証拠であった。

「二つの革製の輪に両手をいれ、
その輪を一つずつ自分の首の両側にしっかりと縛りつけ、
締め金をがっちりと締めてしまって、
かりに自分の部屋が火事になってまわりに火がついても、
自分で自分を救い出すことができないようにした。
この方法を続けていると、
ついに彼の手と腕とが緊張でぶるぶる震えるようになった。

そこで別の方法を案出した。
真鍮細工師に頼んで二つの革製の手袋一面に鋭い真鍮の鋲をうちつけてもらい、
夜寝るときにそれを手にはめることにした。
寝ているあいだに馬巣織りの下着を脱ごうとしたり、
害虫にさされる苦痛から免れようとした場合に、
鋲が刺さるようにした。
実際に、眠っているときに鋲が体を引き裂き
肉体がただれてしまった。

上記の苦行を十六年間も続けた。
血気も静まり、激しい気性も消え失せ、
聖霊降臨祭の日には、天の使者が幻のように彼にあらわれ、
彼に向って、神はもはや彼に苦行を要求し給わぬ旨を告げた。
そこで苦行をやめ、苦行の道具をことごとく河の中に投げすてた。」

続いて十字架にかけられたまいし主の悲しみにならうために彼は、
三十本の鉄製の針と釘を刺した十字架を自分でつくり、
日夜それをはだかの背中に背負った。
十字架を叩いて釘がますます深く肉体に食い込むようにして懺悔をつづけた。


自己を鞭打った。

棄ててあった古い扉を寝台にした。
硬いえんどうの茎を丸めて枕代わりにし
背中には十字架の釘が食いこみ
両腕はくびきで縛りつけられ
腰まわりには馬の毛で作った下着がまとわれ
外套(寝る時に靴を脱ぎ厚い外套をまとった)も重く
扉も硬い。

冬は凍てつくような寒さに悩まされた。
足先は傷だらけとなり水腫(みずぶくれ)になり
膝は出血し麻痺し
腰は馬の毛による傷跡で蔽われ
体は衰え
口は激しい渇きのために干からび
両手は弱くなってふるえていた。
苦痛に耐え抜いたのも
彼が心の中で神聖にして永遠の知恵たる神、
われわれの主イエス・キリストに対して大いなる愛を抱き、
キリストの受苦をみずから真似ようとしたからである。

やがて扉をベッド代わりにするのをやめ
ごく小さな部屋に住んで
十分に体を伸ばせないほど非常に狭くて短い寝台を使った。
例のくびきをつけて寝る生活が八年間つづいた。

二十五年間、修道院にいるときに、
冬の夜の祈禱のあとどんな寒い夜でも
やむをえないときのほかは、
暖かい室にはいったり、
修道院のストーブにあたって体を温めたりしようとはしなかった。
長い年月のあいだ、水浴も発汗欲も、入浴も一度もしなかった。
快適さを求める肉体を克服するためであった。

頑として貧乏生活を押し通した。
許しがあろうとなかろうと一銭の金も受け取ろうともしなければ
またそれに触れようともしなかった。
高度の純潔を保つために、
両手と両足を除いたほか、
自分の肉体のどの部分をも掻いたり触ったりしなかった。(一)」

(一)
The Life of the Blessed Henry Suso

四十歳を過ぎてから、自然のままの人間を十分に克服してしまったので
もう苦行をやめてよい旨を、
神が一連の幻を通じて、彼に告げられた。

肉体的苦痛を一種の倒錯的歓びに実際に転ずるという緩和策を講ずることは
ゾイゼにはできなかった。


要約終わり。

本書中で私が最も狂人だと判断したので詳しめにメモした。よく死ななかったな。
なんと71歳ぐらいまで生きている。よく長生きできたな。
40過ぎてから苦行は止めたが長生きだな。
苦痛を倒錯的快感に変える緩和策をしなかったのがすごい。

ハインリヒ・ゾイゼ(Heinrich Seuse)(1295頃~1366)は
英語版ウィキだと
Henry Suso
https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Suso

【ブックガイド】 神秘文学への誘い1
http://isidora.sakura.ne.jp/mizu/water3-1.html
”中世で最も高名な女性神秘家、ビンゲンのヒルデガルトの幻視体験から見てみよう。
まったく意識が明晰なままに見られるヴィジョンは、
同時に、神と信仰に関する認識をも瞬間的に与えるものであるという。
そこでは言語があっても言語ではなく、それをヒルデガルトは辛うじて人間の言語に翻訳するのである。

 ビンゲンのヒルデガルト「スキヴィアス 道を知れ」(1141-51)
 《……私は見た。輝きの極まりのない火炎のようなものを。
 それは、把握されず、消滅しえず、全面的に生気に満ち、
 また全面的な生命として現存し、そのうちに青白い焔を有している。
 焔は微風を得て燃え盛り、まるで人間の臓腑のように、分かちがたくその輝ける火炎のうちにあった。
 さらに私は見た。焔を光り輝きつつ白熱するのを。
 そして、見よ。突如として圧倒的な大きさの鈍い色の大気の球が出現した。
 それを超えてかの焔が吹き上げて一撃を加え、そのたびに球からは火花が散っていた。
 大気の球ができあがるまでに、天も地も十分に配置をされて、光彩を放っていた。》
 (佐藤直子訳・平凡社『中世思想原典集成15女性の神秘家』より)

 ユダヤ-キリスト教における最初の神秘体験は、燃える柴を見たモーセの体験であるとされる。
 光り輝くもの、燃え盛るものとしての神は、キリスト教に限らず、
 神のヴィジョンとしては、むしろ一般的なものであると言って良いだろう。
 中世の女性神秘家を代表するヒルデガルトのヴィジョンは、ある意味ではこのモーセ体験の延長上にあるものだが、
 そのヴィジョンの具体性と衝撃性は、並ぶものがないように思われる。
 このような圧倒的な描写は、後世の神秘表現に影響を与えずにはいなかったろう。
 しかし、それをつまびらかにするほどの力が私には残念ながらない。
 ヒルデガルトの幻視には、象徴的なものが多い。
 そして常に光に満ちている。女性神秘家の幻視には、
 キリストの姿を直接見たとするものは多く、ヒルデガルトの幻視にも神の子は出現するが、
 それは多くの類型とは異なる象徴性を有している。
 ヒルデガルトの幻視はある面ではやはり主知的なのであろうが、
 とにかく読んでいて、異様な印象を受けるのである。

 ルールマン・メルスヴィン「新たなる人生の始まりの四年」(1347年)
 《(神にこの身を捧げたいと思いながら庭を歩いていると)
 突然、一条の鮮やかな光がさっと降り注ぎ、私を取り囲んだ。
 そして、光は私を捕らえたかと思うと地面から引き離し、私を連れて縦横無尽に庭を飛び回った。
 こうして光に捕われ連れ回されていたとき、何だか知らないが非常に甘美な言葉が私に語りかけてくるように感じた。
 しかし、この光は何なのか、この〔私を〕導くものは何なのか、この甘美な言葉は何なのか、
 私にはわからなかった。神はすっかりご存じなのだろうが、すべては私の感覚的な理解を超えるものであった。
 こうした喜びに満ちた一時が過ぎ去り、再びわれに返ってみると、
 私はたった一人で庭に立っていた。あたりを見回したが、
 もはや誰も、何も見えなかった。
 ただ一つはっきりとわかったのは、目からとめどなく涙が溢れ出てきてどうしようもないということだった。》
 (岡裕人訳『中世思想原典集成16ドイツ神秘思想』より)

 メルスヴィンはもともと商人であったが、四十歳の時に回心して、
 〈神の友〉の指導者の一人として活躍した。最初の神秘体験を綴ったもので、これは典型的な神秘体験の形を示してはいないだろうか。〈神の友〉は後代のオカルティストなどにも、神秘家として、かなりよく知られている存在であると思う。

ハインリヒ・ゾイゼ『ドイツ語著作集』(1363頃)より
 《だれもいないところで、絶望的になっていたとき、
 彼の魂は、身体の内なのか外なのかわからなかったが、忘我の状態に入っていた。
 そこで見たり聞いたりしたものは言葉では言い表しえないものだった。
 それには、形もなく、特定の様式もなかったが、
 それ自体には、いっさいの形、いっさいの様式を備えた、喜びに満ちた歓喜があった。
 しもべ(自身のこと)の心は渇望した歓喜に満ち足りていた。彼の気持は喜びにたかぶっていた。
 が、切望は静まり、欲求は消えていた。
 ただ、光り輝く反射を凝視し、自己自身といっさいのものを忘れてしまった。
 昼であったか夜であったかも分からなくなってしまった。
 それは、静かな、安らかな現在の感情のうちへ永遠の命から発出する甘美さであった。》
 (植田兼義訳『キリスト教神秘主義著作集』9)

 ゾイゼはドイツ神秘主義を代表するドミニコ会の修道士で、神的合一を語る神学者として知られる。
 日本でもよく知られており、著作集も翻訳されている。
 上に見るように、初めての神秘体験を綴った部分はオーソドックスで、典型的な描写の一つと言える。
 だが同じ自伝的著作の中には、人間関係で悩んだくだりなど、こうした神秘主義とは相容れぬ印象を与えるところもある。例えば、死者の霊が出現して、「あなたを苦しめる悪女(彼との肉体関係を言い立てている)に神が罰を下される」だろうと告げ、
 その通りになる。
 さらに離反したまま死んでいた友の霊も出現し、彼と和解して天国に上っていく、などというエピソードは、あまりにも政治的。
 キリスト教的神秘主義関係の著作の中には、神秘体験がこのように政治的に利用されているものもあるということだ。
 というよりも、神秘体験などは、どこからどこまでが真正のものか余人には判断が難しいため、
 あまりにも政治的に利用されやすいということだろう。
 女性の神秘家の系譜には、幻視体験者が多く含まれているけれども、
 そこには、当然のことのように、政治的な問題が起きてくるだろう。”)

・上記のゾイゼの記述に続いて

聖心派の始祖について

苦痛と受苦に対する彼女の愛には飽くことを知らぬものがあった。
いつも神のために苦しむことができさえすれば、
最後の審判の日まで喜んで生きてゆけるであろうが、
苦しみがなければ、たった一日を生きることも耐えられないという。
『苦痛以外のものは、わたしの生活をがまんさせることができないのです』と彼女は手紙に書いている。

(聖心派の始祖
「苦痛がないと生きられないでしゅうぅ♡」

ど変態じゃん。
ジェイムズはゾイゼは苦痛は苦痛のままだったと評価しているが
彼女は第六項、つまり苦痛が快感という場合にあたる)

※訳注
聖心派
the Sacred Heart Order
1800年にマグラレナ・ソフィア・バラBaratが
フランスに創立したカトリックの女子修道会で
女子教育に力を注いでいることで知られている。
聖心
=十字架上で槍に貫かれたキリストの心臓
であり中世からキリストの愛の象徴として崇敬されていたが
神秘的修道女アラコック(1647-90)がイエスの聖心の啓示を得て
(このことについて本訳書本巻135ページに記述がある)
聖心の信心を広めるべきことを命じられたのに端を発して
聖心に対する崇敬が広まった。
聖心会はこれに基づいて設立されたもので、
したがって、ここで始祖といわれているのはアラコックを指している。


第十四・十五講 聖徳の価値

・訳注
1170年ごろ南フランスに起こったキリスト教の一派で
カトリック教会の慣行に反対し
初期教徒のような清純な生活を主張して
十六、七世紀のころ猛烈に迫害された。
フランスの証人Peter Waldoが創唱したことからヴァルド派と呼ばれる。

(ワルドー派のシンボル↓








世界史マイナー人物bot@whoswho_bot
11月21日
【ピーター・ワルドー】
12C-13C初フランスの宗教家。リヨンの商人から巡回説教者となりワルドー派を形成した。
清貧を旨とし、聖書を重視。原始教会への回帰を目指した。
1184年教皇により異端宣告される。
彼の死後ワルドー派はカトリックに迫害されるが後にプロテスタントの先駆とされる。


・p.131から
(途中から今の通称に変えて記す)

回教徒(ムスリム、ムスリマ)のシーア派は預言者の義弟アブ-ベクル(アブー・バクル)を崇敬せず
代わりに預言者の婿アーリ(アリー)を崇敬する。
ヴァームベーリはペルシアで出会ったある回教修道僧のことを、
次のように述べている。
「彼は三十年前に、
自分は自分の愛するアーリ(アリー)という名前をつねに口にする以外には、
自分の言語器官を決して使用しない、と厳粛に誓っていた。
彼は、こうすることによって、
自分が一千年前に死んだこのアリーのもっとも献身的な一味であることを世間に示そうと望んだのであった。
彼自身の家庭において、
自分の妻や子や友人たちと話をするときも、
『アーリ!』という言葉以外の言葉が彼の口から出たことはなかった。
食物か飲み物かそのほかなにかが欲しいときにも、
『アリー!』という言葉を繰り返して自分の欲求を表現した。
施しを乞うときも、市場で買物をするときにも、
いつも『アリー!』というだけであった。
ひどい扱いを受けようと、親切に扱われようと、
いつでも彼はその単調な『アリー!』を繰り返して口にするだけであった。
最後には、彼の熱心の度はすさまじくなり、
まるで狂人のように、彼は一日中、
町の通りをあちらこちらとかけめぐり、
自分の杖を空中に高く投げ上げ、
投げながらも声をふりしぼって『アリー!』と叫んだ。
この修道僧は、だれからも聖徒として尊崇され、
どこへ行っても最大のてあつい待遇(もてなし)を受けた。」



・p.134から
英語には過度の信心をあらわす言葉がないので
著者はtheopathic(神がかりの)状態と呼ぶことにしようと思う。
祝福されたマルグリット・マリ・アラコックがその一例として役立つだろう。

キリストの聖心の啓示の記述の要約。
キリストの心臓のまわりには茨の冠があり、
心臓の上には一つの十字架があった。
キリストはマルグリットの死すべき心臓を取り出し、
それを彼自身の心臓の中に入れてそれに火をつけ
再び彼女の胸に入れて
「これまでは、あなたは私の奴隷という名前を使ってきましたが、
しかしこれからは私の聖心の愛弟子と呼ばれることにしましょう。」と言った。


・p.160
カトリックの教師たちは健康は効果的に神に仕えるために必要であるから
健康を苦行の犠牲にしてはならないという規則をつねに公示している。
概して楽観主義的で健全な心も持ち主である今日の自由主義的なプロテスタントの人々は、
苦行のための苦行などは私たちの厭うべきものだとしている。

禁欲主義はその霊的な意義において、
二度生まれの哲学の本質を象徴するものにほかならないからである。
この世には真に悪の要素があって、
それは無視されることも回避されることもできないで、
むしろ魂の英雄的な資性によって正々堂々と取り組んで克服され、
苦難によって和らげ浄められなければならないものであるという信念を、
禁欲主義は、もちろん不十分にではあるが、
しかし真剣に象徴している。
この見方とは反対に、
一度生まれの超楽観主義的形式の哲学は、
私たちは無視するという方法で悪を扱えばよい、と考える。

・第十八講 哲学
優れて独創的なアメリカの哲学者チャールズ・サンダース・パース氏の
プラグマティズムの原理を次のようにこの原理を弁護している。
信念とは行動のための規則である。
至高の全機能は行動的な習慣を作り出すための第一歩にすぎない。

或る思想の意味を明らかにするためには、
私たちは、それがどんな行動を生み出すのに適しているかを決定しさえすればよい。
この行動こそ私たちにとってはその思想の唯一の意義である。

これがパースの原理でありプラグマティズムの原理である。

(思想の善し悪しはその思想でその人がどう行動するようになったかで判断せよ)


第十九講 その他の特徴

・p.331から
預言者の著しい特徴の一つは、
彼がエホバ自身の権威をもって語っているということである。
それだから、預言者たちは誰でも確信をもって
『主の言葉』とか『主かく言い給う』とかいう言葉を自分の発言に冠している。
彼らはあたかもエホバ御自身が語っておられるかのように
一人称で語る大胆さをさえもっている。
例えば、イザヤ所のなかの
『ヤコブよ、わが召したるイスラエルよ、
われに聴け。
われはエホバなり。
われは始めなり、また終わりなり。』

――などがそれである。
預言者はその人はまったく背景に隠れてしまう。
彼はそのあいだ全能者の代弁者であると感じているのである。

私たちは預言が職業であったことを、
そして預言者たちは一つの職業階級を形成していたことを、
忘れてはならない。
預言者たちの学校があって、
そこで預言の才能が正規に養成されていたのである。
一団の青年たちが誰か権威のある人物――
サムエルとか、エリシヤとか――の周りに集まって、
その言行に関する知識を記録したり
広めたりしようとしたばかりでなく
自分たちもその人物の霊感から何かを掴もうとした。

イザヤ書 48:12
ヤコブよ、わたしの召したイスラエルよ、 わたしに聞け。
わたしはそれだ、わたしは初めであり、 わたしはまた終りである。

ユダヤ教もゾロアスター教などイラン系思想の影響も受けている。
タナハあるいは旧約にも
ゾロアスター教の『アヴェスター』の
アフラ・マズダを始めにして終わりとする表現が元ネタであろう表現がある。
新約ではαにしてω。





もう一つユダヤ人の場合を例にとると、
アレキサンドリアのフィロンは彼の霊感を次のように述べている。
「空虚な心で仕事についたとき、
ときどき私は不意に心がいっぱいになった。
いろいろな観念が目に見えない仕方で私の上に降り注ぎ、
上から私の心に吹き込まれた。
そのために、神的霊感の影響によって、私は非常に興奮させられ、
私がどこにいるかわからず、
そこに誰がいるかも、私自身も、私が何を言っていたかも、
私が何を書いていたかもわからなかった。
なぜなら、そのとき私は解釈の豊かさと、光の教授と、深く鋭い洞察と、
しなければならない万事に対する実に顕著なエネルギーを意識したからである。
視覚に訴えるきわめて明晰な証明が肉眼に与えるのと同じような効果を、
それらは私の心に与えたのである(一)。」

(一)Augustus Clissold:The Prophetic Spirit in Genius and Madness, 1870, p.67.
によって引用。
クリソルド氏はスエーデンボルグ説の信奉者である。
スエーデンボルグの場合は、
もちろん、
「聞こえたものと見えたもの」audita et visaが宗教的啓示の基礎となっている優れた例である。

(ジェイムズはスウェーデンボルグについての評価は肯定的だろう。




第二十講 結論
・二度生まれ型の人は、
一度生まれ型の人の直線的な生活意識をさげすんで「単なる道徳」にすぎないとし
本来の宗教でないとする。
二度生まれ型の人のほうが人生の問題の解決に対して
悪の要素をより多く重要視しているので
一度生まれ型の人の人生観よりもいっそう広く、
いっそう完全であることは、事実である。

・下巻訳註

ここから読書会

『宗教的経験の諸相』読書会・part15(最終回)
https://www.youtube.com/watch?v=vYHTZzoyWFw


(2:24:49あたりから
三人が言ったことを総合し自分なりに要約。

信仰や祈りの状態でエネルギーが流れ込んでくることは事実と断言するジェイムズ。
宗教経験の根本はより高いものとつながってエネルギーを受けること。
ジェイムズが教理とか教学とかシステムとか儀礼とかに割と冷淡。
より高いものとつながりが持てるかどうかが宗教経験の根本でそれ以外は余計だと思いがちかもしれない。
しかし長いこと普通の信徒を見てきた(聖)人の視点では
ジェイムズは基本的にすごい人だから一般の人にはそこまでいけないし、
そういう人のために儀式や集団や組織、伝統がある。
生来の素質がものすごくでかいので、自分が欲しい欲しいと思っても与えられるわけではない。
ジェイムズのいう宗教的経験ができるかどうかは割と運次第で
宗教がそれだけならすごく残念な感じがする。
儀式とか伝統の蓄積がある。
ビビッと電波が受けやすい人は受けられない人が到達できる地点が見えない可能性がある。

ジェームズみたいな人や彼が参照してきた例は極端でわかりやすい。
ジェイムズはあえて極端な例をもってきた。
ごく見えない微小な動きでも宗教性が成立することがきっとある。
大震災を経験した人は震度1をなんとも思わなくなってしまうが
地震のない土地で育った人は震度1でもいろいろ感じるし経験する。
より小さなものを増幅したり支えたりするものとして
儀式とか伝統とかの蓄積がある。
その蓄積を参照して接続してアンプリファイ(増幅、拡大、増大)するもの。

極端な例の人にとっては安定用のスタビライザーとして働いている儀礼が足枷だと思う人がいる。
儀礼とかは震度3ぐらいをみんなに経験させようというもの。
地震がない国の人からしたらありがたいと思うが
普段から震度6で生きている人からしたらぬるいと思ってしまう。

みんなが神秘主義者になったら社会が成り立たない。
そうなることはないという事実上の前提がある。

超越にぶつかると合一感とともに自己否定、圧倒的な無力な感じが出てくる。
人間の存在や能力差も相対化される。

謙遜が起こると思う。
「俺ってえらい」っていう気持ちがくじかれるのは確かにある。
くじかれたときに、ビビッと来ることを得てしまった自分が偉いという気持ちが
得たことでくじかれないといけない。
得ていない者が劣っているとか
「まだまだ俺より見えてないな」と思うのはくじかれ方が足りない。

キリスト教は両方とも必要。
徹底的な自己肯定と同時に、絶望的な自己否定が同居する。

(くじかれないと選民思想と差別主義者と霊的カーストに囚われてしまう))

『宗教的経験の諸相』読書会・Part14(いつもの三人とその他の人が集まって開催。オフ会みたいなもの)
http://twitcasting.tv/neetbuddhist/movie/510714993
(19分少し前ごろ
さむさん
「(カトリックの告解で)罪を告白すると罪が消える」
(マフィアの抗争で人を殺しても
少なくとも宗教的な罪は消えるらしい)



『宗教的経験の諸相』読書会・part13
https://www.youtube.com/watch?v=C9k6nAgVWiw&index=13&list=PLf11ZK88ZWS4nL9VwrkLeuhHDrWej_5qW
(11分14あたりから
私たちは考える存在者である、
だから私たちは私たちのどんな活動にでも
知性が関与することを拒むことはできない。
私たちは自分自身と独語するときでさえ、
私たちの感情を知的に翻訳しているのである。

(上記についてのニー仏さんの発言の要約
「ほんとにその通り。
いわゆるスピリチュアルおばさんのような
”感じること原理主義”みたいな人は沢山いるが
そういう人は、感じていることについて
非常に饒舌にしゃべる。
しゃべっている時点で知性の介在が確実にある。
そこで感じていることはfeelingにすぎないので
それを人に伝えるかたちで、
あるいは自分の中で整理するときにでも
必ず言語化されるかたちで知性の介在を伴っている。
結局、知性の介在というものを私たちの活動のうえで
拒否することはできない。」)

その上、私たちは私たちの感情をお互いに交換しなければならず、
そしてそのためには、
私たちは一般的、抽象的な言語形式を使って話さなければならない。
それゆえに、概念と構成とは私たちの宗教の欠くことのできない部分なのである。
そしてさまざまな仮説の衝突の調停者として、
また、教説の体系と体系との相互批判の間に立つ仲介者として、
哲学はつねに重要な課題をもつものであろう。

(言葉と論理と知性を否定するスピの矛盾。
「だったら黙ってろ!」と言いたくなる)




『宗教的経験の諸相』読書会・Part12
http://twitcasting.tv/neetbuddhist/movie/499554327
https://www.youtube.com/watch?v=k1CVN-su7DU&feature=player_embedded
(18分あたりから。
麻酔剤による啓示。

24分あたりから。
全身麻酔でそうなる人はちょいちょいいるみたいですよ。
例えば、さくらももこさんが『そういうふうにできている』で書いている。
彼女は帝王切開の為の全身麻酔の時に
全体性と自分とのつながりを感じる経験をしたと。

(全身麻酔ではなく局部麻酔だった)


神秘主義は音楽。

ジェイムズはスピリチュアルおばさんが嫌いなんだろうな。

エックハルトの神は無であるについて。
この無は存在する非存在の無ではない。
実在する実在しないは被造物の属性。

(でもゴッドの属性に「実在する」を入れるのは誤り。
紙幣にゼロを勝手に一つ足しても価値は10倍にならないように)


神秘主義 (文庫クセジュ 252) 1975/2/1
アンリ・セルーヤ (著), 深谷 哲 (翻訳) のアマゾンリンクを貼るニー仏さん。





『宗教的経験の諸相』読書会・part11
ウィリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』(岩波文庫、桝田啓三郎訳)を、
哲学者・キリスト教学者とともに読んでいきます。
今回は下巻の第十四、十五講について読解・議論を進めます。
https://www.youtube.com/watch?v=dHI3urn67SI

1時間44分あたりから。
霊的な興奮だけがやたら強くて
知性が追いついていないのはダメ。

カントは戦争はダメと言いつつ
『判断力批判』の後半あたりで良い面もあると言っているらしい。
戦争は良いとヘーゲルははっきり言ってる。



ニー仏@neetbuddhist
「自身が当たり前に価値判断の前提としている基準を可能なかぎり相対化する能力」と
「書いてあることを可能なかぎり書いてあるとおりに読む能力」の間には、
わりと深い相関があって、
この二つの能力は訓練不可能とまでは言えないが、
できない人は訓練を経てもわりとできないままである印象があります。

何度も書いてますが、
「自分と周囲にとって当たり前な価値判断を相対化する能力」や
「書いてあることを書いてあるとおりに読む能力」は、
言い換えれば「空気」をオートで読んでしまわない能力ということでもあるので、
そんな能力はないほうが、一般社会を生きる上では適応的だったりもするんですよね。






(修道士は純潔、服従、貧困という三つの苦行を遵守することを誓わされる。


(服従は、自分の所有を完全になくすための手段だろうね。
傾向性に対抗する手段としての服従。
権力と無縁の場所でないと悪用されること間違いなし。

修道院の偉い人に従うのは
ゴッドに従うのと違う。

教祖自身が聖典を書かない宗教のうち、
特に一神教で聖典が、ただの人間による写本でしか存在していないという
困った事実にどう対処しているか気になる。
イスラームだって無謬のムハンマドが直接書いてはいない。)


・三人の会話の発言のまとめであり
誰がしゃべった個所かは書かず、
しかも冗長な部分をカットした↓

1時間46分あたりから
上座部の方法論ぐらいとの普遍性と同じくらい
カトリックにおける霊操だとか
東の伝統における祈りの技法だとかに
普遍性があると思っている。
とことんプロテスタントの問題なのだが
プロテスタントはそういう伝統を自分たちでやる。
しかし、人間は千年も生きないし、そんなに賢くない。
個人がたった1年や、3年の間の経験ですべてを語る。
そこに普遍性とか神の言葉の権威を持ってきて、
数十人を縛るようなことをやる。
それは往々にしてだいたいフェイクしかできないし、
借り物の言葉のまま、人を結び付けて
事故が多発、死人が出るようなことになる。

カトリックが作っているような、礼拝式書に書いてあるような方法論は
時間のテストを受けてきているから、
そこまで危険でないし、再現性もあると思われる。
フェイクをフェイクだと判断して弾ける力が残っている。
仕組みもちゃんとある。
様式の方が大事。
ジェイムズは様式に則るようになると、
生のままの宗教的情熱が発散してしまうと考えている。
が、生のままの宗教的情熱というものは、
見ている限り、カルトやフェイクに陥りがちになる。
何がカルトかカルトかじゃないかは、社会との距離で判断される。
伝統宗教、長い間共同体と一緒になってきた宗教は社会に溶け込んでいるので
カルトだと判断されることは少ない。

(多人数の経験と知見の集積である伝統を無視して
一個人の見解を重視すると
小規模カルト化しやすいということ)





(ブッダが戒律を制定したのは
ただでさえバラモン教を否定したカルトとみなされているのに
殺すな盗むななどを明確に禁じないと
完全に潰されていただろうから、
自衛のためなのだろう。
戒律は悟りの手段であり最終的には戒律自体が従っている「物語」からも
脱却しないといけない。
要は社会的に「いい人」になることは単なる副産物であり目的ではないのだが
勘違いしている人々(なんと坊さんですら誤解していることあり)
が多い。
戒律すら守れない奴があらゆる欲望を滅することなんてできないもんな
)


ニー仏@neetbuddhist
「坊主バー」の存在自体を知らない方もいらっしゃるのか。検索すると、全国の「坊主バー」がいくつか出てきますよ。


以前に「坊主バー」に行った時に、そこの僧侶の方が
「山にこもって修行するのが本当の仏教かどうかは疑問ですね。このように(バーなどをやって)人々の生活に寄り添うことが、ゴータマ・ブッダの本当の仏教だったと思います」と言われていたのですが、日本の感覚はそういうものなのだろうと思います。

ところで、「ぼう」と打っただけで「坊主バー」がサジェストされる俺のグーグル日本語入力なんなの(´・ω・`)

帰国中に行った坊主バーで、そこの僧侶の方が「山にこもって修行しているような人たちが本当に仏教をやっているのか疑問ですね。このように(バーなどをやって)人々の生活に寄り添うことが、ゴータマ・ブッダの本当の仏教だったと思います」と言われていて、日本は大乗の国だなあと改めて思いました。

ニー仏 @neetbuddhist
2013年4月12日
その意味でも、とりあえず敷居を低くして一般の人たちに僧侶とふれあう機会をつくる、という彼らの試みは貴重なものですね。私も帰国したら、「坊主バー」に行ってみたいと思います。




当然のことながら、各項目と分野に関する入門書、概説書、論文と専門書という初期段階があり、その向こうに本番として、一次資料の検証と研究史との取っ組み合いがある。
そういう意味では、入門書の項目は自分で概略できて当然といえる。
そして、その概略の文字と印象を十二分に操作できる能力が重要。)




『宗教的経験の諸相』読書会・part8
https://www.youtube.com/watch?v=aWS9m5OyCEk
ニー仏
「経験することと経験を評価することとは結構違うこと。

光明現象について。
光を見る現象は
仏教ではヴィパッサナー瞑想の中に
ヴィパッサナーに基づいて現れてくる煩悩、
あるいは
ヴィパッサナーの穢れと訳されるものがある。
ヴィパッサナーに伴って現れてくる煩悩というのが
十個ぐらいある。
その中に
光明
というのがある。
瞑想していると光が見えるのは普通。
ものすごくよくあること。
この光が強烈だと
「俺これ悟っただろ」って思うことがあるわけ。
「これだけガツンと来てるんやで
見えへんで普通の人には。
これは俺は悟ったな」。

「クンダリニーが上がる」
という現象が瞑想しているとある。
ヴィパッサナーの現象ではないんですけど。
クンダリニーが上がるのは
「本当に太陽が千個降ってきたぐらいの光明が体じゅうに降り注ぐ」
って凄い経験。
グリーンヒル瞑想研究所の
地橋秀雄〈ちはし・ひでお〉所長がそれを経験して
「あれは悟ったと思わざるをえないよ」
と本に書いている。
本当にその通りだと思います。
だけど仏教の枠組みではそこで悟ったと思うのは間違い。
ウ・ジョーティカのサイドも言っているが
それ自体は悪くない。
なぜならちゃんと集中ができてきたサインだから。
だがそれは光が見えたことに過ぎず、悟りではない。
光が見えていることを確認したうえで
乗り越えて行かないといけない。
光に囚われてはいけない。」

さむ
「僕が好きな本である『何かが空を飛んでいる』
での結論が凄くて
みんな光を見る。見たあとは
人生が一変して光を見た経験の伝道者になる、と。
パウロみたいな」



『宗教的経験の諸相』読書会・part7
https://www.youtube.com/watch?v=xH0Ag4q8x9A
(人間の意識的な知力と意志とは、
理想に向かって努力している限り、
ただぼんやりと不正確にしか想像されないなにものかを目ざしているのである。
けれども、そうして努力している間に、
人間の内部で全く有機的に成熟してゆく力が、
意識的な知力と意志とによって
あらかじめ描かれた結果へ向かって進みつつあるのであって、
人間の意識的な努力は、
潜在意識的な盟友たちを背後に置き去りにするが、
置き去りにされた盟友たちは、彼らなりに再編成に向かってはたらいているのである。
そしてこれらいっそう深いすべての力が志向している再編成は、
かなりはっきりした確かなもので、
意識的に考えられたり決められたりするものとははっきり異なっている。
それだからその再編成は、真の方向からそれてゆく有意的な努力によって、
(ちょうど忘れた単語を一所懸命に想い出そうと努めすぎると、
かえってそれが押し込まれてしまうように)、
事実上、阻止されてしまうのである。


修行するとはどういうことかというと、
「自分の意志でどうこうやるのではないモード」、
つまり「感じて、ゆるす」モードでないといけない。
「命令してコントロールする、
自分の意志でやる、やるぞ!」モードでは
全然反対方向に行ってしまっている。
反対方向に行く努力をしているうちは、
浮かび上がりたいのに水の底に向かって手足を動かしているようなもの。
浮かび上がりたいなら手足を動かすのやめて、体の力を抜かないといけない。
自分の意志で何とかしようとしている限り逆方向に行っちゃうのでダメ。

怒りや悩みや恐れや絶望や、
そのほかの願わしくないいろいろの感情を免れることのできる方法は、
二つしかない。
一つは、それらと正反対の感情が私たちをおそって圧倒してしまう方法であり、
もう一つは、私たちがその戦いに疲れ切ってしまって、
戦うことをやめなければならなくなり、
--力つきて私たちが倒れ、
戦いを放棄し、
もはや頓着しなくなってしまう方法である。


(自己放棄モードでないといけないことがある。
自己放棄する方がかえって意識的にやると成功しなかったことが
成功することがある。
それどころか自己放棄モードでないと成功しえないこともある。

Aをやめたいなら
①圧倒的に強力な反Aをぶつける
②徹底的にAをやる)実質的に反Aに転化させる)

②はもぐら流ヘーゲル弁証法術)








こらぴよまる@Koratta4545
6月7日
藤田一照&魚川祐司の『感じて、ゆるす仏教』読了。
ぼくは正直全然仏教自体に興味はないし坊さんフーンくらいだったんですけど、俗世にしっかり足つけてその中で仏教を実践していく姿勢や、タイトルの「感じて、ゆるす仏教」ってワードによっていい意味で仏教のイメージ変わりましたね。

まだ咀嚼できていない部分があるのでそのうち読み直しますが、
「修行して南無南無いうてたのにいざ家庭抱えたらフツーにキレやすい自分に気がついた」とかそういうリアルなエピソード面白かったな。

特に面白かった(そして咀嚼しきれていない)部分は第2章の方法論。藤田さんが「昔ストイックな仏教してたけど感じてゆるす仏教が大事やな」って主張するのに対して
魚川さんが「ストイックな経験踏まえた発言であって、いきなり感じて許しても納得感ないやろ」って噛みつきまくってるところですね。
ぼく個人的には魚川さんの意見に同意してしまうんだがw ぼくは「人間はスペックじゃねえよ」っていうときに、そもそもスペックを過去追い求めた経験を踏まえてこその発言なのか、そもそも最初からその主張に納得してるのかって置き直してしまったな。

ある価値観が正しいのかどうかはもちろん大切なんだが、
それよりも大切なのは「その価値観を納得感を持って引き受けることができるか?」って点だと思うし、魚川さんの指摘はすげー真っ当だと思いますね。最後は藤田さんの見解にある程度納得されていたけど、ぼくまだ納得できていないので読み直す。

あとアレだな、
「仏教においても言葉を尽くして語る態度が重要なんだ、そこ悟りだなんだので誤魔化してる坊主多いねん」って主張は頷くところありましたね。そこで引用するのがヴィトゲンシュタインなのがまたよい。


ニー仏 @neetbuddhist
「他者の身体を性的対象にすること」自体が野蛮であるという立場をとるのであれば、それは「そもそも生殖が野蛮である」という価値判断に行き着かざるを得ないと思うし、そういう方々はやはり、渇愛を滅尽して解脱するしかないのではないか。

「非支配」とか「反差別」とか「多様性」とかいう言葉を使って、自分とは異なるあり方をする他者を差別し、己が好む一様な生き方を社会に押し付けて、そうすることで共同体を支配することが大好きな人たちは多いので、やはりゴータマ・ブッダの言うとおり渇愛を滅尽して解脱するのが正解なのでは。

「弱者ポジションの争奪戦で勝者になった人が次の強者になるというか、そうなれる人はたいていがそもそも強者である」という構図自体がたいへんにバカバカしいし、そういう世の中の様相を見ていると、やっぱり渇愛を滅尽して解脱するしかないという気分になってきますね。

ブッダ「生老病死の苦を避けることは誰にもできないのに、それでも生に執着し続けるのは生産性がないことではないか。やはり渇愛を滅尽して解脱するべき」

ブッダ「生に執著するのは合理的に考えれば無益なこと(苦)なのだから、いちばんよいのは渇愛を滅尽して解脱することだとあれほど」

まあ「輪廻的な生存状態は苦だから、その原因である渇愛を滅尽して解脱しましょう」というのもシンプルと言えばシンプルなのだが、これはシンプル過ぎてわかりにくいという例のアレ。

ところで拙著『仏教思想のゼロポイント』では、労働(production)と生殖(reproduction)を放棄した修行生活を送り、渇愛を滅尽して解脱することを説いたゴータマ・ブッダの仏教を、大変わかりやすく解説していますので皆さん買いましょう(華麗なダイレクトマーケティング)。

ニー仏
‏ @neetbuddhist
1月28日

私もこういうのを笑い話にするのは「過去の話」になっていてほしいと思うけど、当該ツイートの likeと RT数を見るかぎり全くそんなことはないわけで、やはり渇愛を滅尽して解脱しないと苦は終わらないと言ったゴータマ・ブッダは正しいですね。

「SNSで何かを言いたいという衝動がある限り、彼は不満で不幸なのだ!」というのは、仏教の最根源的なヴィジョンからすれば正しい言説なのだけど、それをやめるには渇愛を滅尽して解脱し、「人間であることを乗り越える」しかないわけで、そういう無茶を言ってることには自覚がほしいところですな。

「低カーストの男が高カーストの女に声をかけるのは身の程知らず」みたいなツイートが拡散されているのを見て、カーストにとらわれずに人をサンガに招き入れ、渇愛を滅尽して解脱することを説いたブッダは偉大だなあと思いました。

「その発言には権力志向が潜んでいる!」という発言にだって、普通に権力志向は潜んでいるわけで、そのこと自体に耐えられないというのであれば、異性とは目も合わせないニートになって、渇愛を滅尽して解脱するしかないんじゃないでしょうか。

渇愛を滅尽して輪廻から解脱することを目指している青年が、最近は渇愛ルートに再び舞い戻りそうな気配を見せているのだが、彼が「大丈夫です! まだ女は糞袋に見えます!」と言っていたのを思い出した。

ニー仏
‏ @neetbuddhist
2017年3月14日
こういうのを見ると、渇愛を滅尽して解脱するために異性とは目も合わせないニートとして修行するおじさんたちの集団を、おばさんたちが崇めて生活の面倒を見るというシステムを作ってしまったブッダは天才だと思う(周知のように、海外のお坊さんたちは一般に独身ですが、長生きされる方が多いです)。





伊藤絵美
‏ @emiemi14
2017年7月28日
『仏教思想のゼロポイント』より引用---渇愛を滅尽して執着から離れた解脱者にとっては、生を愛好する必要はないけれども、それを嫌悪する必要もない(略)。渇愛を滅尽し解脱に至った者たちは、存在することを「ただ楽しむ」。※引用終り。解脱者の慈悲は「楽しむ」「遊び」の一環であるとのこと。

Notintelli_Inc.@not_intelli
2017年7月13日
返信先: @adachibさん
「過半数の幸福」を基準にするならそもそも「表現の自由」はいらないラジ。何故なら常に過半数の賛成する規制をしていけば過半数は幸福になるからラジね。「自由」という日本語にだまされるけど、本来は「自由」とは「自由奔放」な、「秩序がない」状況を指すものなのですラジ。


牧師・沼田和也 @numatakazuya
6月5日

牧師・沼田和也さんが浅山太一@発売中『内側から見る 創価学会と公明党』をリツイートしました
キリスト教でも、それぞれの信仰者が「イエスとはこういうお方だったはずだ」と、おのが信仰的実存に拠った解釈をする傾向が強い。いわゆる「史的な」イエスおよび初期のキリスト教会がどうであったかではなくて。その意味でも『感じて、ゆるす仏教』の「はずだ」論にまつわる議論は刺激的だった。

牧師・沼田和也さんが追加
浅山太一@発売中『内側から見る 創価学会と公明党』
@girugamera
本書のなかでニー仏さんが何度も言及される「はずだ」論の弊害(自分の考えた最良の仏教解釈のとおりにゴータマ・ブッダも考えたはずだ、というタイプの主張)はいまの自分にとってもわりと切実な問題なのだけど、藤田さんのこだわる「はずだ」論の救済効果にも否定できなさを感じてる。





(1時間20分からが特に面白い。ニーチェ。

アドホック
=「特定の目的のための」「その場限りの」

仏教修行を実践することで認知の変化が起こる)



『宗教的経験の諸相』読書会・part5
https://www.youtube.com/watch?v=v5zLZ261bbY
(ニー仏
「一照さんも最初から
『無我は事実。
だから、最初から無我の立場で行をやったら、
変な努力とか一切しないで、
つまり無我の立場に身を任せればいい、
要は我々はひたすら登ろう登ろうとしている、
手をパタパタパタパタして
上に上に浮かび上がろう上がろうとしているような
ことをやめさえすればいんだ
余計なことをやめて、無我の事実に身を任せればいいんじゃないか』
という立場ではなかった。

普通の人はそれをその身に対して納得できない。
だから我の世界に生きて苦しんでいる。
それをブッダは指摘した。
事実は無我なのはいいとしても
それを聞いてもできないのが根本問題。


一照さんの上記の考えも
ごりごりごりごり超つらい修行した結果至ったこと。
彼が尊敬している盤珪禅師(1622~1693)も同じ立場。

盤珪禅師
『不生(※)の仏心は生まれつきすべての人に備わっている。
それを忘れて余計なことをするから人は迷うんだ。
親が産みつけたのは不生の仏心一つなのだから、
ただそれに任せて生きればいい』
という立場。
彼の説法は非常に人気があった。
が弟子はろくに育たなかった。

盤珪禅師の上記の考えも
一照さんみたいに非常に厳しい修行の果てで得たもの。


苦しみを経ている二度生まれの人が、
一度生まれの人みたいなことを言っちゃうのはよくあること。

二度生まれの過程を経た人でも、スイッチが入ると、
一度生まれの人みたいなことをつい言ってしまう仕組みが
宗教の世界にはあるのかもしれない。

二度生まれての人の皆が
一度生まれトークに行ってしまうのではない。

例えば白隠禅師は盤珪禅師のやり方にものすごく批判的。
実際、盤珪禅師のやり方では弟子が育っていない。

白隠さんは
『漆つけねばはげ色もなし、
はげ色という味のある色になるためには
まず漆をつけなきゃダメじゃないか』
という立場。

盤珪禅師は公案禅を余計だからとやらなかった。

白隠禅師はちゃんとシステムを作って
弟子に順を追って階段を上がらしていくことを教えないと、
仏教の目的なんて達成できないだろ、という立場。
白隠禅師から優秀な弟子が沢山でている、現実問題として。


一照さんは
『そんな余計なことを弟子に教えるほうが不親切だ』
と返す。
実際、盤珪禅師は弟子が育ってないじゃないですか。

この話題は平行線で終わった」


※不生
=生まれることのないもの
=死ぬことのないもの
=生まれも死にもせず、ただあるがままにあるもの。



一照さんは盤珪側、
ニー仏さんは白隠側。
さむさんが一照さんをけものフレンズって言っていて笑った。

弟子が育っているか否かでもうニー仏さんのほうが現実の対応としては正しいのでは?
でも一照と盤珪みたいな、「こういうすごい境地がある」と痛感させてくれる人も必要。
一照と盤珪みたいなの言う「~さえしなければorありのままに」式ができる人はごく一部の奇跡的存在だけだろう。
最初から無我の立場でいられるならそもそも修行する必要がない。
「ありのまま」や「自然」だと「単に我執に囚われた悟れない状態」だから修行するのにね。
「~さえしなければ」も「どうしても~してしまう」傾向性があるから修行する。
実際、「~さえしなければorありのままに」式で弟子が育ってないし。
「~さえしなければ」ができないから修行段階が存在する。
言っている本人は「~さえしなければ」式をしていないのが致命的。
成功例がないから説得力がない。
私も白隠側。
そもそもブッダの修行も白隠側。
一照も盤珪も激しい修行に成功して体と精神構造が一新され
ニー仏、白隠、私みたいな立場だったときの思考形態などに戻れないのだろう。
この高い境地に至ると体と精神構造が一新され、
至れない人の立場に戻れないから、
至れない人にはできないことを要求してしまうことこそが
「二度生まれの過程を経た人でも、スイッチが入ると、
一度生まれの人みたいなことをつい言ってしまう仕組み」
なのだろう。

白隠は珍しい例なのかもしれない。
Aが目的でもAにそのままじゃ行けないから
徹底的に反Aを行う。
ブッダは苦行した結果、苦行では悟れないと確信した。
老荘の無為自然も一般人がいきなりやれば単に我欲まみれなだけ)
)

『宗教的経験の諸相』読書会・part4
https://www.youtube.com/watch?v=3qdASUcG4Nk
(ロブスターおじさん↓
(「宗教は私にはなんの意味もない」と語る
「よく知られた現代人の典型」の例に対するジェイムズの評が)
「このような輩は、まるでザリガニが殻を被っているみたいに、
有限なものに満足しきって、そのために、
無限者から遠く離れていることを少しも嘆いたり
気に病んだりしないのである。
こういう輩こそ、
通俗科学によって助長されやすい楽観主義の適例なのである」


いかにジェイムズがこのような輩が嫌いかわかる。


暗示(suggestion)とは
観念が信仰と行為とに対して
ほんとうに効力をあらわすかぎりにおいて、
そういう観念のもつ力を呼ぶ別名にほかならない。

エイカンドウ
「日本は世間的な暗示がめちゃくちゃ強い。
世俗的な宗教、山本七平のいう日本教がめちゃくちゃ強い。
だからこそ、自分たちの持っている観念が信仰とか行為、
現実感覚に対して、どんな力を及ぼしているかってことに自覚的になれない」

ニー仏
「自分だけは暗示から自由だと思っている人が
実はもっとも暗示にかかっている」

エイカンドウ
「カルトと世間はきっちりと分かれない」


(以下は私の感想。
ポジティヴ教は恐ろしいな。
悪に対処せずに隠ぺいだけすることになりかねないのが問題。
ポジティブ教
=悪なるものは実はなく善ばかりだという教え
あるいは良い面ばかりひたすら見てポジティブに行こう!という教え。
スピ、ニューソート、引き寄せなどポジティブ教の一種はいろいろあるが
これらが批判する旧来のキリスト教の祈りを「強くポジティブに思えば」に変えただけにすぎないものを持ち上げる。
典型的な新キリスト教の作り方だな。
ポジティブ教の根本はおそらく
キリスト教正統多数派の
創造主は全知全能で完全な善であるから
被造物は善にきまっている!
という教え。

なお、一神教では創造主が悪だとするわけにはいかないので
悪の原因は自由意志ある人間のせいだとするのが普通。
予定説って悪の原因を人間にできないのでゴッドは完全な善と矛盾するはずなのだが
カルヴァン派はどう考えているのだろうか。
新約は素直にそのまま受け取ると予定説。
解釈の仕方により正教は予定説を否定している。
正教では神は予知はするが予定はしない。

予定
=人間の自由意志を無視し、
神が独断ですべてのことを予め決定すること
と正教は定義している。)
)




"「無我」というのは、「道徳的に人間はそう生きるべきだ」という規範ではなくて、世界の現象のありのままを知り見ること(如実知見)をすれば、端的に知られる事実であるということ(少なくとも、仏教的にはそうだ)なのだけど、たとえば日本語で「我を立てるな」とか「我を出すな」とかいった表現が、他者に対する道徳的な命令として使われることからもわかるように、この事情はまだ人口に膾炙しているとはとても言えない。

 たとえばパーリなどのいわゆる初期経典に収載されるエピソードを見ると、ゴータマ・ブッダが論敵や弟子をしばしば「このバカ者!(bāla)」と言って罵倒し、挑戦的な議論を仕掛けてくる者に対しては強烈な(時に「脅迫的」と言いたくなるほどの)反撃を加えていることは容易に知られるので、ここからしても、「無我」を知った人間というのが、通俗的なイメージにあるような、ただただ他者に対して「ニヤニヤペコペコ」しているだけの存在では全くないことは、直ちにわかるわけである。

 ただ、たいへん残念なことではあるが、とくに日本では「とにかくニヤニヤペコペコしているのが無我だ」という誤ったイメージが巷間に流布しているので、そのことを利用して、自分の気に食わない振る舞いをする他者に対して「我を出すな」などと言い立てることで、その他者を自身の思い通りにコントールするために、この概念が使用されることも多い。


 要するに、藤田師との対談でも指摘したとおり、「無我」という「我」に関して仏教が示した事実認識が、いつの間にか道徳規範だと誤認されることで、たとえばブラック企業などで人々をある特定の観念体系/行動体系に盲従させるために、それが使われるようなことも起こり得るわけである。

 まさにそういう事態を将来しないためにこそ、規範や観念としてではなく、「端的な事実認識」としての「無我」を人に知らせる瞑想の実践は重要だと思うのだが、まあこういうことはわかる人には言わなくてもわかるし、「わかりたくない」人には何を言ってもわかってもらうことはできないので、私にできることはこうして細々と「とりあえず言っておく」ことだけなのである。"




(ニー仏
「自分があんま覚悟したことがないのは
ソウルの底に支えてくれている手を感じるからというのがたぶんある」)





(ジェイムズの宗教の定義
=個々の人間が孤独の状態にあって
いかなるものであれ神的な存在と考えられるものと
自分が関係していることを悟る場合にだけに生ずる
感情、行為、経験。
この神的な存在は必ずしも啓示宗教における
創造神や絶対神である必要はない。
無神論的信条をもつ者が
事物に内在している神性や
宇宙の本質的に霊的な構造に対して有する敬虔な心情も
宗教と呼ばれうる。

個人的なものとして宗教を扱う。
個人的ではあるが道徳や良心とは区別される宗教はありうる。
宗教は開祖にとっては確実に個人的なもの。

文献の読み方。
現代の立場から突っ込んだらそりゃ2000回だって突っ込める。
まずは内在的に読む。
文献学でよく言われるんだけど
著者の言っていることは100%正しいと思ってまず読め。
それで筋通してみて、
でもそこで終わっちゃだめだから、
そのうえで、
彼は内在的にこういう話をしてたよね、
では私たちは何が言えるか。
著者の立場、著者が生きていた時代の価値観などの観点で読むことと、
読み手の立場、読み手が生きている現代の価値観の観点で読む
二通りの読み方をやるべき
)




(ジェイムズの判断基準は
直接の明白性
哲学的合理性
道徳的有用性。

ゴータマさんの立場は
来たれ見よ Come and see.
これは正しいんだ、とりあえず信じろ
ではない。
初期経典によく出てくる例だが
目が見えない人が私は知覚できないから色は存在しない
と言うがそれは正しいのか。
それは見えてないだけじゃないか(色は実在する)。
ゴータマさんの立場は
見えるための方法を教えます。
ア・プリオリなある原理を絶対に受け入れろ、
信じるか信じないかではなく
やってみたらそれがわかるようになるから
色が知覚できなかった目が開いて目に見えるようになります。
そのための方法を教えますよ、という立場。
だから議論をしない。無記。
形而上学的なことに一切答えない。そういう議論はしない。
四諦と縁起の説を説くだけ。
普遍妥当性のあることを言うがそれはあなたが検証可能という姿勢。
そういう意味ではプラグマティズムに近い。



書籍(共著含む)

『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門』
(幻冬舎新書) 2016/10/28
魚川 祐司 (著), プラユキ・ナラテボー (著)


・テーラワーダでも
阿羅漢(煩悩を滅尽した修行完成者)の悟りと
ブッダの悟りは同じものではない。

プラユキ・チャート

智慧       慈悲     自由
真        善      美
目        ハート     手
it      we    I
慧         定      戒
法         僧       仏
(ベクトル)なし  あり     マスター
たかが(言葉)   されど    マスター
(よき縁)にふれ   となり    となす

※英単語は
(現象が)it(として見えるパースペクティブ) という意味。


・魚川
智慧というのはベクトルのない現象の如実(ありのまま)を知ることだし、
慈悲というのはそのようなベクトルのない世界の風光を知りながら
「それでもあえて」
ベクトルのある物語の世界に関わること。
この一見かい離しているようにも感じられる智慧と慈悲を
それでも統合したビジョンを示すからこそ
仏教はスゴイ。
この両者を単純にシームレスな性質のものと捉えてしまうと
仏教の根源的な価値を十全に評価することが難しくなるのではないかと。


・プラユキ
あらゆる欲望による条件付け
=物語。

行為の方向付け
=ベクトル。

・魚川
瞑想などの仏教の実践を行うさいにはマッピングが大切。

偉い先生方の言うことが互いに食い違っているときに
その現実を直視したうえで
複数並立する
正しいこと
の中から
自己の判断と責任において
私にとって有用で
正しいと考えられるもの
を選択する。
これが苦手な人が特に日本には多いように思う。

唯一の正しいことを常に教えてくれる誰か
を想定することで
価値判断の責任を他者に預けてしまう仕方ではなく
自分が立っている現在地と向かっている目的地とを
正確に把握しておくことで
歩いている己の判断と責任に常に自覚的であるような仕方で
実践に関わるのが望ましい。


・プラユキ
『カーラーマ経』で
ブッダが
「師が言うからとて信じ込むことなかれ」
「経典に書かれているからとて信じ込むことなかれ」と、
鵜呑みにすることを戒め
咎がないか
不利益や苦しみを招かないかどうかなど
自らよく吟味し、理性的に判断することを促している。

・タイやミャンマーで瞑想指導を受けるなら
Buddhanetから英文の仏教書PDFをダウンロードできるので
そういうのを一冊読んでおくと
仏教の英語表現が理解できて便利。
煩悩はdefilementと訳される。

・手動瞑想(チャルーン・サティ)
(やり方が写真付きで掲載されているが
動画
プラユキ・ナラテボー師 瞑想実践
https://www.youtube.com/watch?v=gcBeC6Qdg9k
をすすめる)

チャルーン・サティの注意点は三点。


心に構えを作らない。方向をあらかじめ定めない。
雑念を起してはいけないとか
無にならなければと考えず、
オープンハートでやる。


意識の目で手の位置確認。
手は14カ所を移動していく。
手を挙げるや降ろすといった
言葉によるラベリングは不要で、
皮膚の接触など細かい身体感覚に注意を研ぎ澄ます必要もない。


雑念を否定しない。
こんなことを考えてはいけないではなく
何が起こってきてもオッケーという態度で受け止める。


座り方はリラックスできるならよく、
決まっていない。ただ背筋は伸ばす。
刻々と変化する現実に追いついていくために
過度に集中させない。


・ミャンマーやタイなど、輪廻転生は上座部圏では事実。

・プラユキ
瞑想難民の方にも
集中の境地にとって邪魔になる思考や想念を悪者に見立てて
そこから離れようとしてしまい
結果として感情が乏しくなってしまったり
人間関係もうまく結べなくなってしまったりする方が何人もいらっしゃいました。
ほとんど病的な解離症状。

魚川
過度の集中で日常的現実の否認につながってしまう。

プラユキ
感覚に言葉でラベルを貼る
ラベリング技法の問題点。
怒りに囚われたくないからラベリング瞑想をしているのに
怒り、怒りと心の中で繰り返せば繰り返すほど、
憎悪や立腹の記憶などが心に満ちてくることもありえる。

魚川
シニフィアン(音の連鎖や文字の集まり)(たかが言葉)

シニフィエ(音声や文字から浮かぶイメージや概念)(されど言葉)
は不可分ですからね。

・プラユキ
相談相手の夢について語り合う。
その人が腑に落ちる解釈を一緒に探していく。
夢と仲良くなる。
夢は自分の心そのものなので
自己嫌悪と自己否定がなくなる。


・魚川
一般的・世間的な意味での自由の理解

外的な束縛、拘束、妨害、支配がない


自分の意(思い、心)のままに振る舞える。


わがまま、勝手気まま。


仏教では

内的な思考パターン、感情や記憶、
心のクセ等に支配されていないこと=無執着が重要


意のままに振る舞うことは必ずしも自由であるとはみなされていない


勝手気ままは煩悩(我)に支配されている
放逸状態。


空気を読むことが無我ではない。
空気を読む
=普通の人々が生きている現実の物語に囚われる。

瞑想するとうまくいくのではなく
うまくいかなくても気にならなくなるのだ。


・仏教の一部だけを取り出したマインドフルネスへの懸念

プラユキ
「有機的体系としての仏教全体を学ぶことの重要性を強調したい。
まず不殺生などの戒律を守り、
そのうえで定によって心を整え
そうしたら智慧が出てくるという順序がある。
段階的に修行しているなら
マインドフルネスによって銃を撃つようなことは起こり得ない。

(悪事も平然とできるように仏教要素を抜いた瞑想だからグーグルや軍に都合が良い。
瞑想に失敗しても大丈夫なように最初に戒律を誓い、戒律を守る生活をするのだが
そのような安全弁を意図的に抜いている。
宗教要素を抜いたのは不殺生戒が特に都合が悪いから。
上座部の坊さんはお金に触ることを禁止するほどに拝金主義を警戒しているのも都合が悪い。
新ヤソお得意の「仏教に偽装した悪化版バラモン教」の布教のためのマインドフルネス推進。

大帝発言要約
「上座部の仏教勉強会に参加していたとき
創価からの脱会者が多く乗っ取り目的だと確信した。
支配層の目的は歪んだカースト制度があるバラモン教の普及だが、
怪しまれないために、まずは仏教要素を抜いたマインドフルネスを布教」”

要約でない大帝ツイートは↓
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/919126962295078912






仏教を本気で乗っ取るぞ。
(『グーグルのマインドフルネス革命…の画像)
サンガジャパンってのはスマナサーラ の本を出しまくってる出版社な。
元々は純粋な上座仏教の普及組織 だったはずなんだが…… このグーグルの宣伝本は要注意の箇所が一箇所ある。

「マインドフルネスは宗教要素を抜いた瞑想メソッドです」 って所な。
知らん人に説明しとくとマインドフルネス ってのは上座仏教のヴィパッサナー瞑想という瞑想法の事。
釈迦が菩提樹の下で実践してたって言われてるやつな。

この瞑想法自体は危険でも何でもない。
問題はグーグルが「宗教要素を抜いた」 事にある
「宗教要素」というのは要は 「仏教の教義」の事なんだが、
簡単に言うと「道徳/倫理」の事で 本来はこれが重要な箇所でどんな修行も道徳とセットじゃなければ意味がない
いいか?今から大事な事言うぞ?

仏教の教義を抜いた修行法=ただのバラモン教
グーグルのやり方の汚い所は禅仏教に嵌ってたスティーブジョブズを出汁にして
ジョブズ ワナビーのビジネスマンやサラリーマンを取り込もうとしてる所だ。
そもそも仏教の教えを厳密に守ってたら企業活動なんて出来ない。
金に執着してはいけないから。

更に問題なのは、
そもそも企業と関係無いはずの上座仏教普及団体にすぎなかったサンガジャパンがグーグルを担ぎ上げてる所だ。

(ねこた
”大帝の慧眼に感動したのでRT。神智学というバラモン教が仏教を破壊。”)



実はテーラワーダの瞑想会とかには良く通ってた経験がある。
グーグルがマインドフルネスとか持ち上げる前だ。
別にカルトでも何でもなかったし、 お布施とかも自由意志だったから
お金を出したくない人は出さなくても 何も言われないし、勧誘も してこない。

パーリ語や倶舎論の勉強会とか もあったので、普通に仏教好きの サークルみたいな感じ。
ただ、気になったのが来てる連中にS学会の脱会組が多かった事だ。
中には本当にS学会に嫌気が刺して 脱会した人もいるのだろうけど、 フェイド大帝は思ったね。
「こりゃ、乗っ取りに来てるな」、と。

まぁ、グーグルがバックに付いてる事から分かると思うが、イルミちゃんの戦略の一環だ。
究極的な目的はバラモン教の普及だ。
マヌ法典の歪んだカースト制度をバリバリ盛り込んだやつをな!


ただ、いきなり素のバラモン教を持ってきたら、マトモな人間は 怪しむだろ?
だから同じインド系の仏教から 徐々にインド思想に染めてこようと してるわけだ。

当然バラモン教を否定した仏教思想を 「抜いてる」わけだから、
本命のバラモン教を注入するなんてわけない。

聖書にも書いてあるだろ? 「後から来る者が一番多くを得る」って。
キリスト教とイスラーム教の 後にやって来る宗教は何か?って 話だ。

奴らニューエイジ時代にチベット仏教で一回失敗してるから、次に 持って来るのはまさか上座仏教では? と恐れていたが…… この有り様だ……??

イエス風に言わせて貰えば、「前もって言っておく。騙されるなよ」

もう二つ重要な事を付け加えておく
一つはグーグルの陰に隠れてよく見えないが、マインドフルネスというのは ハーバードとMITがバックアップしてる
つまり奴らは本気って事だ
笑うなよ?お前ら東大の御用学者ごときにコロッと騙されてたのを忘れたか?
セシウムまみれの安売りされた福島産の桃を美味しそうに 頬張ってたそこの貴方だ!
東大レベルでこの有り様なのだから天下のハーバードやMITが本腰 入れたら、お前らはコロッといく。 嘘じゃない。

二つ目は上座仏教の欠陥についてだ。
仏教ってのは出家僧はぶっちゃけ ニートだ。
在家信者が養い続けなければ成り立たない。
仏教では他人から貰った物以外は飲み食いしてはいけないという決まりがあるからだ。


つまり、全員が出家したら仏教団体は自滅する様に構造上出来てる。
(まぁ、これが本来の狙いなのかも しれないが。世は無常ってわけか?)
グーグルにとって全従業員が出家したら会社が潰れるだろ?w

ところが日本で上座仏教の団体と言うと複数あるが、出家制度を導入してるのは一つしかない。 (フェイド大帝が知る限り)
昔の天台宗の歴史とか見れば 分かるが、宗教団体の黎明期と言うのはまず坊主を増やさない事にはどうにもならない。

そりゃ布教もそうだが、教えを説明する奴も必要だし、教えを実際に実践してるモデルがいるからだ。在家信者の憧れとなる人物が。そうでなければ信者なんか増えやしない。だが、イルミが必要としてるのは仏教の坊主やバラモンの仙人ではない。最下層で奴隷で搾取の対象のシュードラが奴らは欲しいんだ!

だからマインドフルネスをやってグーグルのマネージャーに
私は出家してプロの坊さんになるんで会社辞めますわ〜という事にはならない。
そういう風にアレはハナから作られてる。"


うさぎもち
‏ @usagi_mochi22
2017年10月13日
さっき、以前よく読んでいたファッションについて書いている人のブログを見に行った
。いかに自分らしくおしゃれになるかの精神論を述べる人で、上っ面でないサイト。
でも違和感を感じ始めてとんとご無沙汰してた。違和感の理由がよくわかった。
書いてる人がもろにキリスト教の観念だからだ。

それをさも酔っていいことであるかのように書いてる。
当人は仏教、西洋哲学ニューエイジなど、いろんな哲学文学を学んだ、と書いてるけれど。基本はもろキリスト教の偽善。しかも上から目線。だからだんだんうんざりしてきたんだな。

ねこたさんとかを読んでからキリスト教の欺瞞、
そしてそれが日本に変な風に侵入してること、には敏感になったと思う。
以前は自分もそれがいいことだと思ってたから気づかなかった。
でもとんでもない。
善意の名を借りた侵入、侵略。
そしてその内文化の根源を乗っ取られる。恐ろしいやり方だ。

マインドフルネス瞑想だって、結局お釈迦様の作ったヴィパッサナー瞑想でしょ。
上澄みだけを抽出してさも自分達が発見しました、みたいにするのがお上手だことで。
初心者にはとっつきやすくっていいとは思うけれど。

そういう私はお釈迦様の教えを勉強中。まだ全然だけどさ。
一切皆苦というのは、私が思っているようなペシミスティックな意味ではない、と昨日知った。
正しい意味は…忘れてしまった(爆)

2017年10月15日
あー、やっぱりマインドフルネスは色々あるか。>RT
私は瞑想方自体に詳しくないので、参考までにNHKの紹介番組(キラーストレス)見たし、それはそれで役に立ったけれど。
あれを見ていて思ったのは、心を鎮めた後のことがないな、と。
己を見つめるのはそこからだし。

何はともあれ、己を律するのは難しい。
時間をかけて、少しでもとやっていくしかない。)


タイ語で一番
遊戯三昧(ゆげざんまい)
に違いのが
タム・レンレン。
タム=する。
レン=遊ぶ。
遊ぶように行いましょう。

解脱はルッポン。

魚川
ビルマ語でも自由になることを
ルッラッテーと言います。

正しくて完璧な瞑想法がただ一つあるはずだ。
それを実践すれば何もかもが完璧に上手くいくはずで、
そうならないとすれば、方法が間違っているか、
あるいは私のやり方が悪いのだ」と考えてしまうと、
瞑想の実践が、どんどん苦しくなってしまうと思うんです。

プラユキ
瞑想法ごとの性質や「目的地」の相違を吟味して、
「実践する仏教のパースぺクティブ」をつくることができなくなる。
「正しくて完璧な唯一の瞑想法」を求めて苦しむのではなく、
それぞれの瞑想法・指導法の性質と、己の「目的地」についてよく考えた上で、
「自分がいまどこにいて、どういう経路を通って、どこに辿り着きたいのか」という
「マッピング」の作業をきちんとしなければならない、ということだね。(P216より)


・(こんな感じの図はプラユキさんのツイート画像に割と登場する)
対象←(①)私
①に伸びる矢印②が気づきの目。

「私ー対象」関係のフレームワークをいったん外すのが
プラユキ先生の言葉を借りれば
z軸を立てる。

・あとがき
プラユキ

スマナサーラ長老の日本テーラワーダ仏教協会

ゴエンカ系の日本ヴィパッサナー協会

マハーカルナー禅師のパオ森林僧院日本道場

ティクナットハン師系の
Wind of smile~微笑みの風~

藤田一照師の仏教的人生学科

小池龍之介氏の月読寺

超宗派の伝統仏教の僧侶たちが集い
ユニークな活動を展開するインターネット寺院
彼岸寺

などいろいろ紹介。




『感じて、ゆるす仏教』


藤田
「命令して、コントロールする
order&control
修行ガンバリズム
(苦痛や困難に耐えながら
がむしゃらに頑張って乗り越えようとする
ことが修行だというメンタリティ)

感じて、ゆるす
sense&allow

”ただ、わが身をも心をもはなちわすれて、
仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、
これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、
こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。”
『正法眼蔵 生死』春秋社版『道元禅師全集』第二巻P.529

力も入れないし、
心も費やさないあり方でこそ、
はじめて生死をはなれ、
仏となれる。」

魚川
考えるモードと感じるモードは両立できない。(という藤田の指摘は重要)

労働(プロダクション)と生殖(リプロダクション)を放棄することで
取引(バーゲニング)の関係から自分を抜け出させる。
愛欲の縛りに巻き込まれない。
愛着は喜びの源泉とされるが同時に束縛として機能する、
苦の源泉でもある。
仏教の愛は基本的には悪い意味。」

藤田
愛といってもそれは愛欲。
タンハー(渇愛)
みたいな言い方しますよね。
砂漠でのどが渇いているイメージ。

ソロの修行は独りよがりになりがち。
自分は人のできない特別なことをやっている、
だから偉いんだっていう、
鼻もちならない優越感みたいなものが
知らず知らずのうちに芽生えてくることが多い。
まじないが効かない人がそばにいるのは安全弁ですね。

魚川
「宋代の禅僧に青原惟信という人がおりまして、
たいへん有名な言葉ですが、以下のようなことを言っています。

”上堂して曰く、
老僧(われ)三十年前、
未だ参禅せざりし時、
山を見ては是れ山、
水を見ては是れ水。
後来(のち)親しく知識に見(まみ)え
箇の入処(にっしょ)有るに及至(およ)びては、
山を見ては山に不是(あら)ず、
水を見ては水に不是(あら)ざりき。
而今(いま)、箇の休歇の処を得ては、
依前(あいかわ)らず山を見て只だ是れ山、
水を見ては只だ是れ水なるのみ。
(小川隆『語録の思想史』岩波書店、p.259)

自分は禅の修行を三十年間やってきたが
参禅する前は山は山に、水は水に見えていた。
そうして修行をはじめて、
歩いて井戸の境地ができてくると、
山を見てもそれは山ではなく、
水を見てもそれは水ではなくなった。
いま、生死の問題にけりがついたところから眺めてみると
以前と同様に山を見ればただ山であり
水を見ればただ水である、という趣旨。

(休歇(きゅうけつ)=休むこと。

調べると
指月錄/卷28
”吉州青原惟信禪師

上堂。老僧三十年前。未參禪時。
見山是山。見水是水。及至後來親見知識。
有個入處。見山不是山。見水不是水。而今得個休歇處。依前見山祇是山。見水祇是水。大眾。這三般見解。是同是別。有人緇素得出。許汝親見老僧(更參三十年迥無入處在)。 ”
https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%8C%87%E6%9C%88%E9%8C%84/%E5%8D%B728
が出る)」

藤田
「魚川さんがよく言う「言い張っている系仏教」
=言っていることと実際とが一致していない。」


魚川
「唐代の禅僧である臨済義玄に
無事是貴人(ぶじこれきにん)
という有名な言葉があり
これはいっさいの造作(はからい)をせずにただ平常であることが素晴らしいのだ
という趣旨で、これを誤解して
何も修行せずにいればそれでよいのだと思いなすような禅のありかたを
無事禅(ぶじぜん)という。
つまり、
世人の日常的な気遣いの体系から一歩も抜け出たことがなく
ゆえにそれを相対化することもできてないのに
そういう過程をいっさい経ていない己の現状こそが究極の境地なのだと
「言い張って」、
自ら青原のような、先人たちが歩んだプロセスを踏み直そうとする修行者のことを
むしろ嘲笑してみせる。
そのような無事是貴人を体認(たいにん)してもいないのに、
単なる誰かの口真似として
悟りを求めること自体が迷い
などと放言し、
それをもって自らよしとしているような一部の仏教のありかたのことを
私は
言い張ってる系仏教
と呼んでいます。

ちゃんと相手が何を言おうとしているのか汲み取ったうえで
「でもこれはこうではありませんか」と、
さらに互いの認識を深めるために質問をしていく人って、
ちょっと少ないですよね。」

藤田
「日本では少ないかもしれないですね。」

魚川
「一照さん、
以前に「アメリカで本当によかったのは、
ゴシップとかそういうどうでもいい、
余計な話をすることなく、
いきなり本質の話をしても大丈夫だったことだ」
って言われてましたね。

(日本だと)
ゴシップとか時候の挨拶とか距離感を測るコミュニケーションの
手続きが必要。」

藤田
「日本で本質的な話をしようとすると
ちょっと間違うと人格攻撃みたいに受け取られることが多いからね。
考えの違い、不一致の問題なのに、
人格全体の問題みたいなヘビーなものになってしまう。」

魚川
「英語に比べると日本語というのは
話しているときに互いの社会的な位置や
相手との関係性を常に意識せざるをえない言語。
敬語、人称の選択、文末の締め方などに
相手との上下というか位置関係が表れてしまう。

英語にももちろん敬意を示す表現はあります。
日本語で議論すると感情的負荷がかかりやすい傾向はあると思います。

ミャンマーのビルマ語は見方によってはもっと厳しい。
互いの社会的な役割が非常にはっきり言語表現される。
俗人の立場で僧侶の方と対等な議論はなかなか難しい。
あなたは目上の僧侶ですというのが常にはっきり示され続ける。
僧侶と俗人では一人称も二人称も明確に異なるし
語尾も違うし、男言葉と女言葉にも明らかな差異がある。」



『盤珪禅師語録』
(盤珪禅師と白隠禅師の話はすでにこの記事の動画のメモにあるので渇愛じゃなくて割愛)

魚川
「鈴木正三の仁王禅
(彼の語録ロアンキョウの一節を要約して)
仏道修行は仏像を手本にして行うべきであるが
初心の人は如来像に目をつけて、
かの像のように柔和な如来坐禅をやろうとしても
実際にとてもできるものではない。
だから仁王や不動明王の像に目をつけて
仁王坐禅をするべきだ。
仁王は寺の山門に立ち
不動明王は十三仏のはじめに置かれるが
そこからもわかるように
両者の像に表現されているような
強い心をもって、
煩悩に負けぬよう励むことこそが
仏道の入り口なのである。
仏道というのは生きた機(はたらき)を用いるものだが
いまどきの修行者にはそれがなくて死に体ばかりだ。
何か殊勝な様子を示して柔和になり、
沈み入っていることが仏法だと思いこんでいる」

仁王禅を経ないでいきなり如来坐禅をしても形だけの真似事になって
多くの人がその「ぬけがら」を仏法だと思い込んでしまう問題。
「一周回る」プロセスを経ることなく
「山を見ては只だ是れ山」という結果だけを口真似して
それで自らよしとしているような
言い張っている系仏教。」

藤田
「図1
Bガンバリズム → A感じて、ゆるす

図2
大きなA感じて、ゆるすの丸の中に
小さなBガンバリズムの丸が含まれている。

禅の古典『信心銘』」


魚川
「もし「ヴィジョンの提示」が
「話を聞いて頭で考えるだけ」に留まってしまうならば、
たとえば一照さんの話を聞いて、
「命令して、コントロールする」ことが瞑想や坐禅ではないということが、
それこそ意識のレベルで納得できても、
多くの人はそれまでの人生を過ごしてきた基本的なモードであるところの、
「命令して、コントロール」する
「ガンバリズム」の
習気(じっけ)
(習慣的な行為の反復によって形成された癖のようなもの)
が残っているから、
そこで修をやったとしても、
無自覚なままにそのモードを反復してしまう可能性が高い。
つまり、一照さんの話を聞いて、
「無我の修」をやっているつもりに本人はなっていても、
実際のところは、言わば
「我で無我しぐさをやっている」だけ
になってしまうのではないかという懸念があるわけですね。」


藤田
「武術の型は筋肉の力では絶対にできない。
意識で筋肉を使ってやろうとしたら絶対できないような形に
なってるらしいですよ。
型の修練で自分のエゴなりエゴ的な体の使い方なりを
削ぎ落していくような仕組みが含まれている。
正確にはエゴを落とすだけでなく変容させてしまう仕組み。
日常的な雑な動きではできないようにデザインされている。」



藤田
「悟りは言語表現することが難しいが
だからといって何も語れないわけではない。
語れることはぎりぎりまで語ることで
語れない部分をはっきりさせる
という戦略が、
いちばんいいのではないかと思います」

魚川
「そうですね。
あくまで一部の傾向ですが
日本の仏教関係者の方々の中には
「私は仏教についてあまり明晰に語れない。
しかし、だからこそ、
その境地は深淵なのである」
というような意識でいらっしゃる方が散見されるように思います。
つまり、
「自分は言語表現することのできないような
微妙な境地を知っているからこそ、
明晰に語ることなんてできないのだ」
ということなのでしょうが、
私は、
まったくそんなふうには思わないですね。
語り得ない領域の存在を知っていることと、
語り得ることを明晰に語ることは
完全に両立可能であるというか、
むしろ究極的に両者は一体のことであろうと、
私としては思います」

(スピ信者みたいなことを言う仏教関係者がいるのか。
わからないからありがたいって信仰かな。
真に素晴らしい=ありがたいなら
内容が明白でもありがたいはずだ。
自分の仏教思想を明確に把握できないということは
自己客観視ができていないことであり
つまり仏教思想を実践できていない)


藤田
「その通りだと思います。
どこまでも語りつくそうとした、
その彼方にはじめて語り得ないものが現れるんで
その語りつくす行為をさぼっているのに
単に口先だけで
語り得ないものがあるんです
みたいなことだけを言うのは問題だよね。
道元さんも
「道得(道い得る)」という言葉で、
言語表現への努力の意義を強調していますしね。」


魚川
「老子の
知者不言、言者不知
のような思想も背景にはあるのかもしれませんが
知る者は言わないのだ
ということを
言わないから私は知っているのだ
という話にしているあたりは
言い張ってる系仏教
と共通の問題がありますね」

(大半は単に知らないから言えないのだ)

藤田
「その点、僕の師匠の師匠にあたる内山興正老師は
一鍬でも掘り下げる
ことを言っていますからね。
いままでの人が一生懸命に自分なりの言葉で表現をしてきたけれども、
まだ言い切れないところがあるはずだから、
そこで自分は一鍬でも掘り下げたいという熱意。
亡くなるまでその努力を続けられた姿を僕は直に見ていますからね。

これも内山老師が書いていたことだけど
「神秘というものは、
靄がかかってぼや~っとよく見えないようなものをイメージ
するかもしれないけど、
青空のようにどこまでもはっきりしているけど、
どこまで行っても果てがないような神秘もある。
明るくてはっきりしているのに、
決してとらえきれないような神秘。
仏教の神秘というのはそちらのほうの神秘だと自分は思う」
ということを言われているんですよ。
「いままでの人は、
仏教をモヤモヤした神秘のようにとらえていたが
それは思考力が足りないせいだ」という感じでおっしゃいます。
要するに、お坊さんの怠慢。
思惟を否定するのではなく、
思惟を徹底するというのが本当じゃないかと思うんです」

(本来の仏教は論理と言葉も重視。
そして渇愛を滅尽し、
論理や言葉がもたらす執着=物語=世界(世間)
から脱することで
論理も言葉も超えた境地に至ることを目指す)


魚川
「モヤモヤだから深くてありがたいんだ
というような通俗的なイメージは
少なくとも行の実践者として仏教にかかわる上では
あまりよい影響を及ぼさないと私も思いますね。


図3
A 点がたくさん並んでいる
B 点が線でつながっている
C 何もない

Aに示されているバラバラの点が
岡潔の言う無明の世界。
つまり、木についている葉が、
それぞれ一枚の葉としての小我のみを自分だと思い込んで
各々が個として分離・独立しているというヴィジョンのもと、
自他対立の世界を生きている状態。

Bは
岡潔のいう
宗教の世界、
一照さんの言い方なら
無我のヴィジョン
に基づき生きられている世界。
一枚の葉としての個が
一本の木という全体とのつながりを知っている。
Aでは分離・独立した個に見えた点は
実際は何かしらの形で他のすべての点と関係を持っており
ゆえにその一つでも除いてしまえば
相対としてのバランスが崩れてしまうような形で
全体が形成されている。
そのネットワークに中心はないがそれゆえ周縁もない。

さて、一照さんが指摘されるとおり、
少なくとも仏教の世界観においては、
この無我のビジョンに映じる世界こそが
事実
であり、だからその事実をありのままに知ることを
如実知見
といって修道上の当為としている。
この如実知見は、
縁起によって条件付けられた現象が継起し続けることそのものである、
輪廻を知ることであると言い換えても構いません。
ブッダは
Bの認知は当然として
さらにその先へ、
すなわち、縁起の法則によって互いに関係づけられた形で
生成消滅する
世界
の全体(有為)を乗り越えて、
無為、Cに示される境地へと歩を進めなければならない。
Bの縁起と無我の世界(有為)
を如実知見するだけでは道半ば。
初期経典から知られるゴータマの説に沿うならそうなる」

藤田
「Bは有為法=条件付けられた現象
の範囲内。」


魚川
「動物化するいのち系仏教。
いのち
=個別の生命体を越えてそれらを成り立たせている関係性、
あるいは自然や宇宙を総体として指す抽象的な言葉。
この用語を使って影響力のある仏教系教団の多くが
自派の教理を述べている。

この「いのち」はBのヴィジョンを示すような用語。
いのち系仏教それ自体は悪いとはまったく思わない。
ここで指摘したいのは
いのちという言葉が瞑想や坐禅のような仏教の実践の文脈で乱用され
そのことによって実践者たちに動物化を促す作用が
無意識的にであれ生じてしまうことが懸念されるようなケースについてです。

いのち系仏教の本義は
実践者がセンス(感覚)とマインド(知性、インテリジェンス)の
はたらきをともに大切にすることによって
さらにハート(こころ、情緒)のところまで深まっていくこと。
しかし実践の場ではセンスばかりが強調されてマインドが軽視され
結果としてハートまで深まらなければならないはずの実践が
単にセンスのレベルに退行するだけで終わってしまう事例が散見されるように思われる。
動物化
=ハートを目指したつもりが
実際にはセンスに退行しただけで終わってしまう
哀しい事態。

カントの言う
傾向性
(欲求能力が感覚に依存していること)

の奴隷に堕ちてしまうこと。

無分別ばかりが強調されて
分別が軽視される実践の現場では
ただその時の感覚に従って行為することを
自由
だと思いなしていたり、
単にその場で是とされている言葉や認識を
無自覚に取り込んで自分のものにし
ただその口真似を互いに語り合うことを称賛してしまうような傾向が散見される。
何かしらの意味で
スピリチュアルな
実戦にかかわろうとする人は
多くの場合自信をより自由にしたいと
願っているものと私は思うのですが
過度に無分別の方に流れて分別を忘れてしまうと
むしろ無自覚のままに傾向性の奴隷に堕してしまう悲劇的な構造がここにあるわけです。

無分別に感動するだけ(センスに留まる)
で終わってしまうのは端的にもったいない。」

マインド(知性、インテリジェンス)軽視
=反知性主義
=本来の仏教の否定。

いのち系仏教ってスピの影響で生まれたんじゃないの?

スピ信者が言葉と論理を捨てた結果、
大きな赤ちゃんに退行する現象だな。
単に積極的に馬鹿になっているだけなのだが
詭弁は上手く、粘着質で攻撃的。
天然で藁人形論法=読解力はなく曲解力がある状態
なので私は藁人(形)と名づけた


魚川
「ハラリの『サピエンス全史』は全体的に面白い本だが
とくに興味深いのは
日本語訳の上巻の第一章と第二章
に認知革命についてのところ。
現生人類が現在いちおう覇権を握っているのはなぜか。
ハラリによれば
私たちがネアンデルタール人に勝ったのは
およそ7万年ほど前あたりから起こった認知革命により
言語を通じて虚構を共有する能力を得たがゆえである。
言語がホモ・サピエンスの特徴であり優越性だと言わないのが面白い。
他の動物種も意思疎通の言語を持っていると考えられる。
しかしホモサピエンスは言語を通じて
宗教や貨幣や法律や正義といった虚構を共有することが出来るし
まさにそのことが
他の動物種には不可能な、
場合によっては億人単位の大規模な共同を可能とした。
国民国家などは分りやすい例かもしれない。
国境線は虚構だが現実に力を持っている
国民国家は想像上のものではあるが
日常生活ではまさに現実そのもの。

ハラリ
「想像上の現実は嘘とは違う」

ハラリの主張の眼目は
客観的には正しくない想像上の
特定の秩序を信じることで
効果的に協力して
よりより社会を作り出すことができるのが
ホモサピエンスの特長だということ。」

(ホモサピエンスのみが魔法を使えるということ)






ニー仏@neetbuddhist
「私は今どこにいるのか」という己の現状から目をそらして、単に観念の中で自分を自由にしたつもりでいても、実際にそこに辿り着けることは決してないんですよね。修道のはじまりは、「私は既に自由なはずだ」と、とにかく言い張ることではなくて、「私は不自由だ」と知ることからでなくてはならない。

私が『感じて、ゆるす仏教』でずっと言っているのは、「眼前の事実や己の現状から目をそらして、ただ自分は自由だと観念しさえすればいいと考えるならば、それはむしろ人を不自由へと導く道ですよ」ということなのですが、まあできれば伝わってほしいと思いますね。

とくに日本では、スピリチュアルな実践に関して(実際には存在している)プロセスを無視し、いきなり結果について語ることが、「自由でとらわれのない態度」として称賛されがちな傾向がありますが、その主流の風潮に抵抗する意図はありました。それは実は、「不自由なこだわりの態度」なのではないか。

ニー仏
‏ @neetbuddhist
5月29日
共著者だけど、これはワイもわろてもた🐼

ニー仏さんがリツイート
千野 帽子『人はなぜ物語を求めるのか』@chinoboshka
5月29日

藤田一照さん〈仏教の言っていることを真に受けなくてよかった〉
(魚川祐司さんとの対談『感じて、ゆるす仏教』角川書店103-104頁)

おい!(笑)


note

(釈迦は師の握り拳=秘密の教えなるものはないと公言しているので
密教という名前からして釈迦の言葉を否定していることになる。
渇愛=執着を滅することで歪んだフィルターを正して現実をありのままに見て
=如実知見して解脱せよという教え。
釈迦が説くのは
真実や真理というよりも
事実や現実や真相という表現のほうが適切。)

”「道楽」という周知の言葉が、元々は「仏道を明らかにしていくことを楽しむ」という意味の仏教用語であることを指摘し、そこに禅の教えの本質もあることを述べるくだりなどは、著者本人が自身の行道を「楽しんで」いなければ、なかなか書けるものではなかろうと思う。

 細川師は、この「道楽」のくだりと同じ箇所で、

 このお坊さんと話していると、何かわからないけど、心が軽くなる。何の理由もないけれど、一日頑張ってみようと思うことができる。そんなお坊さんが増えてきたら、これからの仏教は前途洋々と思うのです。

と記されているが、まさに本書自身がそのような効果をもつ文章の集積であって、読んでいると自然に背筋が伸びるが、かといってそれは責めるようなプレッシャーではなく、連なる文字列を最後まで追ってゆくことで、仏教に限らずとも、己にとっての本務であることを、ちょっと頑張ってみようかなと思えるような、そんな爽やかな読後感があった。


 ただ、本書の内容について一つ、私の不満というよりは、一般読者にとって、おそらく隔靴掻痒の感があるだろうと思われたことは、本書の記述には「肝心かなめのところが書かれていない」ように見えることである。いや、より正確に言えば、肝心かなめのところはこれ以上ないほどはっきり書いてあるのだが、そこに至るまでのプロセスとしてあるべきピースの記述がばっさりと欠けているので、ひょっとしたら(とくに仏教の実践にあまり親しみのない)一部の読者にとっては、その「肝心かなめ」の部分が、そうは感じられないままに終わってしまう可能性がある、ということだ。

 本書で紹介されているように、いわゆる「公案」の問いを一問一問、はしごを登るようにクリアしていって悟りへと到達しようとする臨済禅の禅風のことを「はしご禅」と言うが、その「はしご」を自身が登っていった先に開け風光に関しては、細川師は何らのごまかしもてらいもなく、はっきりと書かれている。たとえば、こんなふうに。

 本当に当たり前のことなのです。(中略)
 夏にはトマト、秋にはナスが美味しくなって、冬になると大根が太くなる。夏の井戸水は気持ちいいくらい冷たくて、冬の米とぎの時には、温かく感じる――。
 これが、私の九年にわたる禅修行の成果であったのです。
 当たり前と思われるこの世に起こる全ての事象ですが、実はそれらは宝くじが何回も当たるくらいの奇蹟の連続で成り立っていること――そのことを体感し、それに心から「有り難い」と感謝できる自分に気づくことができる。これこそ、仏教の真理であり、禅の悟りが目指すところであると気づかせてもらったのです。

 ここにはご本人の言うとおり、きわめて「当たり前」のことしか書いておらず、それゆえに、これは何ひとつのごまかしもてらいもない、「肝心かなめ」の記述そのものだ。だが、そのように書かれている言葉の意味の理解には全く困難を感じないような文章であるからこそ、ここで細川師が述べようとしていることに心身を挙げて頷くのは、とくに仏教の文脈に馴染みのない一般の読者にとっては、かなり難しいことなのではないかと思う。

『大パリニッバーナ経』でゴータマ・ブッダは、
弟子のアーナンダに対して、
自分の教えには「師の握り拳(ācariyamuṭṭhi)」はないと言っている。
「師の握り拳」というのは、異教の教師が握り拳で隠しておいて、
死の床についた時にはじめて気に入った弟子に明かすような、
秘密の中で伝授される教えのこと。
死期の迫ったゴータマ・ブッダは、
「自分は弟子たちに教えられることは全て教えたし、
既に語ったこと以外に、別に握り拳で隠してあるような教えはない」と言ったわけである。


 他方、臨済禅においては、公案について老師と問答を交わすという修行の中核部分の内容に関しては門外不出とされているし、また細川師も、この点に関しては明確にそうあるべきだと考えられており、ゆえに本書のサブタイトルである「考える禅」の本質の一つとなる、公案問答の内容については、ほとんど具体的な記述がない。ゆえに、本書を読んだ一般読者の視点からすると、「はしご」を登る前のエピソードと登った先の景色については書かれているものの、そのあいだを埋める「はしごを登っていくこと」のイメージが具体的につかみにくいので、上に引用したような、「はしご」を登った先の風光をズバリと書いた「肝心かなめ」の記述にも、なかなかリアリティを感じにくいのではないかと思われるわけである。

 本書の中では、夏目漱石が円覚寺の名僧・釈宗演の下で公案修行に参じた際の感想を述べたものとして、小説『門』から、

「(腹痛で苦しんでいる者に対して)むずかしい数学の問題を出して、まあこれでも考えたら可かろうと云われたと一般であった。考えろと云われれば、考えないでもないが、それは一応腹痛が治まってからの事でなくては無理であった」

という一節を引いているが、先ほどの細川師の記述に対しても、「夏にはトマト、秋にはナスが美味しくなって、冬になると大根が太くなる」というような話が、現在の自分の具体的な悩みや苦しみ(「腹痛」)と、何か関係があるものかどうかわからない、と感じる読者はいるであろう。

 この点に関して私の考えを述べておくと、もちろんこの両者のあいだに関係はあるし、細川師も、わかる者にはわかるようにそのことを書いている。ただ、それこそ「はしごを登るように」、その間隙を言葉と論理で埋めるような記述を、本書ではしていない。そして、これは実際のところ、細川師の「老婆親切」そのものなのである。

 上の細川師の言葉にあるように、「当たり前のこと」を「奇蹟」であると感ずることは、実際には、全く「当たり前」のことではない。「奇蹟」というのは、「当たり前」ではないことが起こっていることを言うからである。ならば、「当たり前」を「奇蹟」であると知るということは、「当たり前のことを当たり前だと思っていた、それまでの己のあり方が変化したこと」を意味するはずだ。

 そして、このような認知の前提それ自体が転換してしまうような変化は、残念ながら他者から言葉と論理によって、どれだけ多くの「説明」を受けたところで、人間に生じるようなものではない。それは本書の例にもあるように、料理の味についてどれほど上手い表現で説明を受けようと、自分で一口食べてみるほうが、ずっと明らかにその味を知ることができるのと同じことである。

 認知の前提が変わらない状態で他者から受ける「説明」は、本人の現在の認知の範囲内でしか理解されない。それは、グルメガイドを読むだけで、実際に料理を食べた気になってしまうようなものである。ゆえに、細川師は「はしごを登った先」に見える「答え」については、いっさい「師の握り拳」で隠すことなく、読者に対して端的にそれを提示するが、「はしごを登るプロセス」の核心部分については語らない。それは、「はしごの先を見ようとする本人が登ること」そのものに、意味があるプロセスだからである。”
https://note.mu/neetbuddhist/n/nfba316849005
【書評】細川晋輔『人生に信念はいらない』

※ツイッターの項目はなし。


ニー仏
‏ @neetbuddhist
2013年8月29日
「ありのままを見る」ということは、「ありのままの私でいる」こととは違います。仏教では「如実知見」を言いますけど、同時に「無我」も語りますし、戒律なんか見ていただければわかるとおり、その実践は、自身を「あるべき自分」に近づけようとする作為だらけです。
(…まあもうちょっと正確に言うと、部分的な「作為」を継続していくことによって「如実知見」が可能となり、またそのことによって、「あるべき自分」で居続けるために、「作為」が必要とされることがなくなる、という筋だろうけど。)


ニー仏
‏ @neetbuddhist
2013年2月12日
「如実知見(ありのままを知り見ること)」というのは、「ありのままの自分」を、単に肯定して終わることではないんですよね。
1件の返信 5件のリツイート 5
さっとー!
‏ @satto2013
2013年2月12日
@neetbuddhist 初めまして、「禅の思想辞典(東京書籍)」によると「(智慧によって)ありのままに見ること」、加えて「如実知見は如来の説示した真実性を確証する修行である」とありました。つまりありのままの自分を悟った上で修行することなのかと個人的に思った次第です。
1件の返信 0件のリツイー

ニー仏
‏ @neetbuddhist
返信先: @satto2013さん

@satto2013 禅ですと、「即心是仏」が基本ですのでそうなると思います。ただ、馬祖系と石頭系、また唐代禅と宋代禅でもこの点に関する微妙な認識の相違がありますし、そもそも「ありのままの自己」というのが難物かと。


ニー仏
‏ @neetbuddhist
2013年2月8日
仏教の場合、「如実知見」と言ったりするから、「万人共通」の「根源的・基礎的(=如実)認知」を想定していると思われがちだけど、そこは必ずしもそうではなくて、
人それぞれのありのままの認知を省察すれば、そこには「苦・無常・無我」という「共通の性質」が見いだせる、という筋だと思う。

ニー仏
‏ @neetbuddhist
2012年12月29日
誰が言ったかは覚えていませんが、「君は二度同じ川に入ることはできない」という言葉があります。しかし私としては、「君は同じ川に入ることは一度もできない」と言いたいですね。その川はどこにあるのでしょう? 君というのは、何を意味しているのでしょう? -Sayadaw U Jotika

大きなイメージとして川を捉えた時に、あなたは川の観念を獲得します。人のイメージを持続する何ものかとして捉えた時に、はじめてあなたは、「この人があの川に入って、また戻ってくる。彼は同じ川に再び入ることはできない。なぜなら水は動いているから」と、言うことができる。 -U Jotika

しかし川の観念もあなたが心の中で組み上げたものですし、人の観念もまたあなたが組み上げたものです。そしてそれは、常に変化し続けているのです。 -Sayadaw U Jotika

そう、私たちは概念に囚われている。 あなたを幸せにするのも不幸にするのも観念です。 もしあなたが本当にパラマッタ(ありのままの現実)に触れていれば、 あなたを幸せにするものも不幸にするものも存在しません。 -Sayadaw U Jotika

そこで私が知ったのは、全ての観念論、また共産主義や民主主義、宗教のドグマといった全ての "-ism" は、実際には牢獄だということです。どのようなイズムであれ、それは同じです。私たちは、観念に執着しているわけですから。私たちは囚えられている。自由ではないのです。-U Jotika

私たちはこの現実をとても真摯に受けとめていて、だからそれは私たちを傷つけるのです。痛みにもかかわらず、私たちはそれを手放すことができない。それが私たちの知っている唯一のものだからです。 -Sayadaw U Jotika

以前にも一部引用したことのある話だけど、これはもう本当にそうで、観念だろうがなんだろうが、「それが私たちの知っている唯一のものだから」、私たちは「現実」を真摯に受けとめて苦しむわけです。瞑想の目的は、私たちが本来そこだけに拘束される必要のない、自由な存在であることを思い出すこと。

この「思い出す」ということは、古今の聖賢が語ったとおり実に本質的なことで、だから瞑想者の為すべきことは、実際のところは「何もしないこと」。つまり、何も付け加えることはせずに、「あなたが本来そうであるところのもの」を、「ありのままに知り見ること(如実知見)」であると語られる。

「私たちの知っている唯一のもの」であるところの「この現実」から、毎日ちょっとの時間でいいから距離をとって、自由であるということが、本来どういうことであったか「思い出すこと」。瞑想というのは、そのためにやるんですよ。

ニー仏
‏ @neetbuddhist
2012年12月29日
「テキストの主張内容」と、
「それを読んだ時の自分の感情」を区別する能力に欠けた人は、文系研究者の中にもあんがい存在したりするから厄介。


ニー仏
‏ @neetbuddhist
2012年12月29日
翻訳の校正に、思ったより時間をとられている。
訳文を読んで意味の通りにくいところを訂正していくのだが、
「うーん、ここの前後関係がおかしいなあ」→原文見る
→「訳は間違ってないんだが…」→別の版を参照してみる→「誤植じゃねえか!!」、みたいなこともあった(^_^;)

個人的に、「翻訳で意味の通らないところはだいたい誤訳だ」というのは、三分の一くらい正しいと思う。
もう三分の一は、原文自体が意味の通りにくい表現の場合、
そして残りの三分の一は、自分がバカで理解できていない場合だ。





『感じて、ゆるす仏教』(https://amzn.to/2IX6Qm6 )では藤田師の「感じて、ゆるす」禅風に色々と文句をつけた(笑)わけだけど、実は同書にも明示的にそう述べてあるとおり、この態度自体は、むしろ「当然の前提」だろうと私は思っていて、今回の記事ではその意義を改めて丁寧に解説したということ。
0件の返信 1件のリツイート
ニー仏
? @neetbuddhist
17時間17時間前

しょうじき今回の note記事は、ニー仏には珍しく(本当に)わりと「女性向け」のエントリだと思う。




どうも現代日本社会のそれなりに多くの人々は、気持ちこそが「自分」というもののリアルな本質そのものだと考えていて、ゆえにそれを周囲の他者や社会に承認もしくは肯定させることができないと、「自分」そのものを否定されたように感じてしまい、それで不幸になってしまうらしい、ということである。

少し時間をとって内観してみればわかるように、感情や気持ちというのは、私たちが自分の意志によって心に「浮かばせる」ようなものではなく、様々な条件づけの結果として、心に「勝手に浮かんでくる」ものである。

 そんな感情や気持ちを「私そのもの」であると考えて、それに対する所有の感覚や責任感から、「この感情は正しい」とか、「あの気持ちは間違っている」とか、いちいち裁定を下してゆく行為というのは、比喩的に言えば、雨が降ったり風が吹いたりする毎日の天気(自然現象)について、いちいち「批判」を行うようなものなのだから、そんなことをしょっちゅうやっていたら、それは人生がしんどくなるのも道理だろうと私は思う。

 ただし、起こってくる感情や気持ち自体に「正しい」も「間違っている」もないとはいっても、その感情に動機づけられて本人がする行為には、正や不正が問われ得るし、社会的な責任も発生することになる。たとえば、目の前にいる人に対して、「怒り」という気持ちが生ずること自体は止めようがないが、その結果として「相手を殴る」という選択をすることは止められる(ということに、ほとんどの人間の社会は合意している)ので、心の中のいわば「自然現象」として「怒り」が発生すること自体は罪に問われないが、それによって実際に他者を殴ってしまえば、それは多くの場合において、「有罪」だということになるわけである。

 こういう事情に関して、ハードコアな宗教者の方々などは、「そんなわけで怒りは『あなた自身』ではないのだから、身体や言葉の行為として怒りを表現するのはやめましょう」と言われたりもするのだが、私自身は、そのようには思わない。これも以前の別の記事に書いたように、世俗の社会で生活する一般人にとって、時には怒りを(適法な範囲内で)表現することが、本人の生活や人間関係を改善することに繋がるケースは、(誰でもが実際には知っているとおり)しばしばあるからである。

 こういうことは、もちろんいわゆる「程度問題」で、「怒り」以外の感情であっても、どの程度それに従い、どの程度それを他者に対して表現するかということは、状況に応じてその都度適切に判断する必要がある。

 ただ、判断の結果として、その感情の要求することには従わないと決めた際に、そうした気持ちを「ただの心内の自然現象」だと捉えているか、それとも「私自身そのもの」だと捉えているかでは、その後に生じてくる感情や気持ちに与える条件づけが大きく変わってくるだろう。もちろん、後者の枠組みを選んでいる場合には、「自己が否定された」というネガティブな不幸の感覚が、次の心の状態を、条件づけてしまうということである。

 私が最初に引用したツイートで、"「感じた気持ち自体に『正しい』も『間違い』もないが、それに私が対処する仕方には正誤があり得る」と考えておく態度"を、「おすすめ」
だとしたのはそういうわけだが、そのように感情や気持ちから距離をとる態度というのは、「それ以外のもの」を知らなければなかなか難しいだろうとも思うので、ここは最近また重版になった『仏教思想のゼロポイント』を、未読の方にはぜひ読んでいただきたいと思う夜なのであった。”


ヤギの人(ゐうさい)
‏ @yusai00
ヤギの人(ゐうさい)さんが東畑 開人をリツイートしました

https://twitter.com/ktowhata/status/1052148506977132546 …
浮かんできた感情が唯一の自分の本心だと考えて、それに対して正誤の判断をしてしまう勘違いについてはニー仏さんも書いてた。

心の中の「自然現象」|ニー仏 note(ノート) https://note.mu/neetbuddhist/n/n94a4ab8723e3 …

ヤギの人(ゐうさい)さんが追加
東畑 開人
@ktowhata
日常で心が見過ごされがちなのは、「心はひとつである」というのが社会の前提だからですね。そうじゃないと責任も問いづらいし、ややこしいので。でも、心理士は人には複数の心や気持ちがあって、それが摩擦を起こしたり起こさなかったりするのを前提とすることで、滲み出る心をキャッチしようとする。
このスレッドを表示
0件の返信 8件のリツイート
ニー仏
‏ @neetbuddhist
いつも言うように、「書いてあることを書いてあるとおりに読む能力」なんてのは、人間がつくる社会の多くの領域においてむしろ不適応をもたらしやすいわけだけど、その能力の持ち主が受け容れられて、何だったら評価までされてしまう珍しい社会の一つが、我らがツイッターランドですね。


たられば
‏ @tarareba722
中学生くらいの頃は、「この文章から作者の言いたいことは次の中から選びなさい」系の問題は意味がない、受け手によってどれもありうるだろとバカにしてたんだけど、いま大いに反省しています。あれは放っておくと無軌道になる相手と最低限のコミュニケーションを成立させるための訓練だったんだなぁ。
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たられば
‏ @tarareba722
ある種の文脈を共有しない相手とのコミュニケーションにとって重要なのは、「正解を選ぶ」というより「明らかな間違いの選択肢を排除して大意を受け取る」ということであって、そこで「受け取り方は多様だろ」と言い出しても意味がない。結果的に、発信者の受信者も目的が達成できないということだな。
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会社で同僚から「昨日のサッカーの試合、面白かったね」と話しかけられて、「こいつ野球のことバカにしてるのかな」と受け取ったら、それはお互いにとってマイナスだ(ツイッターのリプ欄を見ていると、これがあり得ないとはいえない)。義務教育なんだから最低限をターゲットにした教育方針は正しい。

なお、この一連のツイートは、現行の国語教育についての個人的な感想を募集しているわけでも、
あなたのコミュニケーション論を聴きたいわけでも、野球をdisっているわけでもないことを付記しておきます。独り言のメモ帳のようなものです。為念。
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たられば
‏ @tarareba7

ある出張イベントが深夜に及び、次の日も早いから、と消灯した出演タレントの寝室に担当ディレクターがやってきて、「腹を割って話そう」と言い出し、タレントがもう一人のディレクターに「迷惑だからこいつを連れ帰ってくれ」と連絡したら、「よしわかった」とその別ディレクターがカメラを回し出し、
3件の返信 132件のリツイート 287 い

タレントが「何も話すことはありません、問題なしです」と言えば、ディレクターが「それはきみ寂しいじゃないか」だとか「じゃあ以前は問題があったのかい?」と返すやり取りに、当人たちもそれを見る観客も腹を抱えてげらげら笑えるのは、そこにお互いが尊重している、共有する「文脈」があるからだ。
1件の返信 129件のリツイート 310 いいね

たられば
‏ @tarareba722

そして互いがネットを通して繋がり、誰もが誰とも交流できるようになってコミュニケーション量が爆発的に増加した現代において、そうした「しあわせな文脈の共有」は、僥倖といえるほど貴重なものだったと実感している。ディスコミュニケーションが増えたからこそ、幸福な交流の価値の重さを実感する。

たられば
‏ @tarareba722
4 時間4 時間前

やや誤解されるかもしれない書き方をしてしまったので補足しておくと、ある種の「文章が読めない(読まない)人」の特徴は、「文脈や行間を読まない」のではなく、「文脈や行間しか読もうとしない」ところだと思っています。書いてある文章ではなく、書いてない書き手の感情や論旨だけを読もうとする。
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たられば
‏ @tarareba722


順番として「書いてあること」から書き手の意図や感情を読み取ろうとするのではなく、まず(書き手の印象や書かれた状況、読み手である自分の信念から)文脈や行間を読もうとする。だからたまたま当たることはあるし、大きく間違うことも多々ある。例文を読まずに選択肢と自分を照らし合わせている。
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たられば

この文章と文脈の切り離しは技術的な話なので訓練で解決できると思うのだけど(法曹はこれのプロ)、非常に厄介なのは、コミュニケーションとして優遇される能力として、「文脈優位型」と「文章先行型」とでコミュニティが別々に存在することなんですよね。一概にどっちが正しい、有利だとは言えない。
4件の返信 160件のリツイート 353 いいね

たられば
‏ @tarareba722

理想的にはどっちも出来て、切り替え自在なことなのだろうけど、こういう技術は「慣れ」とか「引き摺り」があるものだし、なによりアイデンティティに染み込む話なので、複雑だし厄介だよなあ、、、と思うのでした。はい。


Melville
‏ @V_Melville
「食事してる最中にうんこの話をするな!食事がまずくなる」
「うんこの話をして食べ物の分子構造が変わるなどという科学的証拠はない」
「そういう問題じゃない!気持ちの問題だ!うんこの話をやめろ!」
「だめだ…話が通じない…科学教育の敗北だ…」



”問題の記述は、このウェブページにあり、そこで「大慈」と名乗られている僧侶の方は、拙著『仏教思想のゼロポイント』に関して、以下のように述べられている。

あと、ご質問から逸脱しますが…
『仏教思想のゼロポイント』で魚川氏は上座部の純粋な部分と、日本仏教の民間向けの部分を比較して「日本仏教は上座部の和尚さんがたに失笑されるレベル」みたいに書いています。アンフェアです。

 端的に言って、そんなことは『仏教思想のゼロポイント』のどこを探しても書いていないし、またそのように読解されるだけの相当の理由がある記述もない。実際、ご本人も同書のどの部分を読んでそのように解釈されたのかを、少なくとも当該ウェブページの記述の中においては、全く示しておられない。

 そこで、この方がなぜこのような愚にもつかない誤読をされたのか、私なりに推測してみたのだが、思い当たる記述が一つだけあった。

 実は、『仏教思想のゼロポイント』には、「失笑」という言葉の用例が一つだけある。正確を期すために、前後を含めて引用しておこう。

例えばミャンマーやスリランカといった上座部圏の学僧たちに、「日本にはゴータマ・ブッダは輪廻を説かなかったと主張する人たちがいるのですよ」と言ったら、はじめは驚愕され、さらに説明を続けると失笑される。これは彼らが輪廻を「盲信」しているからではない。経典のテクストに対して誠実に、普通の読解を進めれば、そんな結論は出しようがないからである。(『仏教思想のゼロポイント』新潮社、2015年、p.99)

 見られるとおり、ここで「上座部圏の学僧たち」からの「失笑」の対象になると書かれているのは、「ゴータマ・ブッダは輪廻を説かなかった」という主張であって、引用した誤読コメントにあるような、「日本仏教」そのものでは全くない。そして、この前後の部分を読んでもらえればわかるように、そうした輪廻に関するナイーヴな主張をした人の例として同書で名前が挙げられるのは、和辻哲郎というかつての第一級の知識人なのであって、「上座部の純粋な部分と、日本仏教の民間向けの部分を比較して」という誤読コメント氏の記述には、そうした点でも全く根拠がないのである。

 要するに、この誤読コメント氏は、『仏教思想のゼロポイント』の中に一度だけ登場する「失笑」という一語に反応して、あとはご自分の脳内で勝手な妄想を膨らませた上で、それと格闘した結果を、当該のウェブサイトに書き込まれているに過ぎない。引用した部分の後に書かれているその「シャドーボクシング」の結果などは、もう完全に同書の内容とはかけ離れたもので、私としては、日本仏教全体の価値は十分に認める者であるにせよ、同氏の所見に対しては、まさに「失笑」を返すしかないわけである。

 個人的には、こういう明らかに根拠のない誤読に基づいた批判に対してまで、「いろいろな読み方があるのだから」と、そうした誤読に著者として正当性のお墨付きを与えることは、私には「大人の態度」であるとは思われない。まあ、現実的には数ある誤読にいちいちこのように訂正の記述を公開するわけにもいかないので、実際にはその多くをスルーするしかないのだが、たまたま今回は冒頭に引用したようなツイートをしたことでもあるし、当該の誤読コメント氏に対しては、「失笑」だけでは済ませずに、丁寧にその読みの誤りを指摘して、「読み手の問題で誤読している場合」の例としたわけである。
(※もちろん、誤読に基づいた批判を、好きな場所で公開する自由が読者の側にあるのは言うまでもない。ただ、それを見た著者が「これは愚かな誤読ですよ」と反批判する自由もあるという、これは当然の話である。為念)

 そもそも『仏教思想のゼロポイント』は、大乗仏教(や、その流れの中にある日本仏教)を否定的に扱っている著作では全くなくて、むしろそれらが「多様であっても、それぞれが『仏教』であり得る」根拠となる構造について、思想的な解明を行った著作である。この点に関しては、『悟らなくたって、いいじゃないか』の序章でも再説しているが、とくにそちらに当たらなくても、『仏教思想のゼロポイント』自体の第七章と第八章を誤読せずに読めば、そのことは明らかに理解できるように書いてある。

 そんなわけで、私自身は日本の仏教に対する悪意は全くなく、むしろ(以降の著作や発言からもはっきりわかるように)その意義を高く評価する者である。ただ、それでも一つだけ日本の仏教について残念に思うところがあるとすれば、それは今回紹介した誤読コメント氏のように、「自分の影に他者の名前をつけて殴りつけ、勝手に勝利宣言をする」タイプの方が、この界隈に、少なからずいらっしゃることである。もちろん、これ自体は仏教の業界にかぎった事情ではないけれども、私としては、仏教の実践の大きな意義の一つは、「自分の思いにとらわれることが少なくなる」ことであると考えているので、そうした実践を行われているはずの方々が、「自分の思い」だけを暴走させて、その妄想の中で他人のテクストを慰みものにするようなことをされるというのは、とくに悲しいことであると感じている。”

(藁人形という名前がつくほど頻繁になされる)


ブロマガ



”「もし日本人が『自分の気持ち至上主義』をとっているなら、いわゆる同調圧力には負けたりせずに、みんな『自分らしく』生きられているはずではないのか」という指摘を受けたのだが、これはたぶん違うと思う。

そのエントリの中でも書いたことだが、
「気持ち」というのは、基本的にフロイトの言う「快感原則(Lustprinzip)」にしたがって盲目的に流動しているだけのものであって、そこには偶然に基づく差異であれば見られても、いわゆる「人格(personality)」を構成するような、個別性(individuality)は見られない。

要するに、「自分の気持ち」にしたがって生きるということは、ある意味では「動物的」な生き方なのであって、それによって「自分らしさ」が得られると考えるのは、基本的に誤りである。むしろそのようなエートスによってもたらされるのは、似たような衝動を盲目的に追い求め続ける、人型をしたレミングの群れだけだ。


いわゆる「個性」や「人格」といったものは、そのような誰でも似通ったものにならざるを得ない「気持ち」の流動から自分自身を引き離して、何かしらの「信念」にしたがって己の振る舞いを意識的に方向づけていった時にこそ生じてくる。

つまり、放っておいたら誰でも「自然」にしたがってしまうような「気持ち」の要求に、敢えて逆らうことによってしか「人間性」は現れないし、その逆らい方の如何にこそ、「自分らしさ」が表れる。以前にも書いたように、カントが尊敬の念に値すると考えたのも、道徳法則にしたがって傾向性(カントの「傾向性」の定義は、「欲求能力が感覚に依存していること」) に逆らうことによって、「自由」に生きている人間であった。



前回の記事にも書いたように、「気持ち」というのは自分自身にとっては明証的(self-evident)なものだから、そこから離れた、ある意味で「形而上学的」な原理原則をもたない限り、私たちはその「自明性」の中に安住してしまう。「空気」や「同調圧力」がいつのまにかできあがるのも、そうした各人にとっては「自明」な「気持ち」の流動が、マクロで見れば互いに似通ってもいるものだから、それにしたがって行動することが、「説明抜きの自明性」を、社会的にも獲得してしまうからである。


しかしながら、そうした「なんとなく」の「空気」や「同調圧力」に抗するために、ある特定の原理原則を保持する立場から、それを批判しようとしたりすると、「個性の抑圧」とか「人格への冒涜」とか言われてしまうことがしばしばなので、日本はどうにも難しいなあと思う朝なのであった。”




”ただ、私個人の考え方を言えば、少なくともゴータマ・ブッダの仏教に関して言えば、それは人格の向上「のために」説かれたものではなかった、あるいは換言すれば、人格の向上を第一義的な目的とする教説では必ずしもなかったと、現時点では考えています。


さて、この問題を考える際、第一に指摘しなければならないことは、やはり何よりも、ゴータマ・ブッダが「苦からの解脱」という自分自身の問題を解決するために、妻子を捨てて出家しているということです。
これを「一切衆生を利益するために必要なことだったのだから仕方ない」と 強弁するような人も中にはいますが、そんなゴマカシを言ってはいけない。
成道直後に、彼は「為されるべきことは為された」と言って、最初は説法するつもりもなかったのだから、
彼にとっての「修行の目的」が、まず第一義的には「自分自身の苦からの解脱」であったことは、とりあえず明らかなこととして、認めておかねばなりません。

そして自分自身の問題を解決するために、妻と生まれたばかりの子供を捨てて出家したことは、世俗的な善悪の基準から考えれば、やはりどう考えても「済まぬこと」です。
「素晴らしい人格」というのは、少なくとも一般的には、世俗的な「善」の基準によく合致し、他者を悲しませたりはしない人格に対して使われる言葉だと思うのですが、ゴータマ・ブッダは、そのような基準で自己の行動を決定してはいなかった。彼はあくまで、「自分の利益」のために動いている。


では、ここで言う「自分の利益」とは何か。仏教の基本教理から言えば、それは当然のことながら、涅槃に到達して苦からの解脱を達成することです。
そして涅槃というのは「生滅滅已、寂滅為楽(uppajjitvā nirujjhanti, tesaṃ vūpasamo sukho)」ということですから、生成消滅する現象の世界を離れたものである。ゆえに、そこには当然のことながら、世俗的な意味での「善悪」はない。生成消滅する現象も、それに対する judgement も、ともに離れているからこそ、苦からの解脱も、達成されるわけですから。

要するに、涅槃というのはその本性上、「無善無悪」のものでしかあり得ない
(もちろん、それに「至善」とか「上善」といった名前をつけることは、お好みであれば可能です)。そして ゴータマ・ブッダの仏教というのは、そのような涅槃に到達することを至上の価値とする教説ですから、その教えの基本線から、世俗的な善悪の基準を「直接的に」導こうとすることは、原理上できません。

もちろん、「諸悪莫作、衆善奉行」と説く七仏通戒偈をはじめとして、
「善悪」について説く教説は初期経典にも枚挙に暇がありませんし、そもそも「善因楽果、悪因苦果」というのは、仏説の基本中の基本と言える教理です。とはいえ、その場合の「善」や「悪」は、あくまで涅槃に到達することを至上の価値として設定した上で、それに繋がることが「善」であり、
そこから離れることが「悪」であると、究極的には定められている。「善因楽果」というのも、裏返しに言えば、「自分にとって楽の結果をもたらすものが善である」ということですから、それは世俗的な意味における社会的・一般的な「善」というものとは、必ずしもぴったり重ならない。
例えば、その基準で言った場合、ゴータマ・ブッダが妻子を捨てて出家したことは、普通に「善」であるという判定を、受けることになるわけですから。

仏教学者の中にも、おそらくはこうした事情を勘案してのことでしょうが、「仏教から世俗的な善悪の倫理を直接的に導くことはできない」
という立場をとる人たちは存在します。私も基本的には、その考え方に賛成ですね。「倫理」というのが、和辻哲郎が規定したように、「人の間としての人間」のものであるのだとすれば、仏教には明らかに、それを踏み越えてしまうところがある。「佛」という字が端的に示してくれているように、悟って仏になるということは、ある意味では「人間」であるということを、やめてしまうということですから。


ただし、誤解のないよう付け加えておきますが、仏教には上述のように、世俗的な意味での善悪を超えてしまうところがあるのですが、それはあくまで「脱善悪」ということであって、
「反善悪」ではありません。律蔵(僧侶の生活規範を定めた法規集のようなもの)などを見てみれば一目瞭然のことですが、「自分の利益」のために「脱善悪」の道を追求する集団が、社会において存続していこうとするならば、むしろ世俗的な善悪の基準には、人一倍敏感であらねばならない。
そのあたりの事情については、例えば佐々木閑先生の著作において、詳述されているとおりです。

仏教には、世俗的な善悪の基準に超然としたところがありますが、「超然」としているということは、
逆に言えば、そのほうが穏当なのであれば、世俗的な善悪の基準にしたがっておいて構わない、ということでもあります。仏教の戒律はその観点から、当時の社会常識に即しており、そして僧侶に対しては俗人の尊敬を受けるに値する振る舞いの規範を定めていますが、そのようにすることで、仏教は「脱社会・脱善悪」の集団を、二千五百年にわたって存続させることに成功したわけですね。


とはいえ、そうはいってもゴータマ・ブッダの仏教の究極的な目標であり価値であるものが、上述したように「無善無悪」の涅槃への到達であり、もって自分自身の「苦からの解脱」を達成することであるのは変わりがありません。もちろん、ブッダの示した規範にしたがって生活することで、一般的に言われる意味での「人格の向上」が起こることはあるかもしれない。しかし、それはあくまで彼の教説の副次的な効果であって、その目的の第一義ではありません。 ゴータマ・ブッダの教説は、人格の向上「のために」説かれたものではなかった
と、本エントリの冒頭に記しましたが、私がそのように考えるのは、以上のような理由によるわけです。”



”『老子』の第五章に、「天地は不仁、万物をもって芻狗と為す」という言葉があります。私は『老子』の哲学にちょうど半分だけ同意するのですが、これは本書の世界認識の凄みが出ていて、なかなか好きな言葉です。

「芻狗」というのは祭礼に使う、藁で作った犬のこと。用が済んだら、当然のごとく打ち捨てられます。「不仁」というのは、孔子学派の言う「仁(=仁愛)」を意識した言葉遣いで、つまりは冷徹非情のこと。
ですからこの文章は、 「天地自然というのは無慈悲で非情なものであって、万物を藁人形のように使い捨てにする」という意味になる。こういうことをスパッと言うのは、『老子』の好きなところですね。


とはいえ、もちろんこれだけの主張であれば、
「いや、そもそも自然法則は人情とは無関係に進行するものであって、だから存在に意味なんてない。そんなことはわかりきってる」と、いまどきは小学生でも言うかもしれません。上記の『老子』の言葉の「破壊力」を、正しく理解するためには、たぶんもう一本、補助線を引く必要がある。


そこで私が思い出すのは、仏教における「慈悲」の概念です。「慈悲」というのは、一般に言う「優しさ」と、しばしば混同されるのですが、両者には明白な違いがある。その違いとは、 行為者の内面において、「慈悲」のほうには常に「捨(equanimity)」の心が伴っているのに対して、「優しさ」にはそれが伴っていないことです。

慈悲というのは「慈・悲・喜・捨」とセットになって、「四無量心」と呼ばれるものの一部です。四無量心とは現象の世界における仏教徒の基本的な徳目であって、四つの「無量に育ててよい」心のこと。
このうち、慈(衆生に楽を与えたいと願う心)、
悲(衆生の苦を抜きたいと願う心)、
喜(衆生の喜びをともに喜ぶ心)は、いわゆる「優しさ」と重なるところも大きいのですが、
「捨」だけはちょっと毛色が違う。「優しさ」というのは、他者の喜怒哀楽を感じとって同調し、それに働きかけようとする心ですが、「捨」というのはそうした心の動きを全て平等に観察して、それに左右されない平静さのことを言うからです。

よく知られているとおり、仏教というのは縁起説をとる。縁起説というのは、全ての物事を関係性の中における一時的な現象として観察し、因果の連鎖における一つの出来事として捉える世界観のことですが、このようなものの見方からすれば、「天地」はまさに「不仁」であって、そこに「人情」の入る余地はない。
私の喜びもあなたの悲しみも、単に因果関係によって生じた現象にすぎないのであって、それもまた縁起の法則の支配下である。

私たちは気がついたらいつのまにかこの世界に「投げ出されて」いて、
意味や物語を主観的には切実に求めながら生きるうちに、またいつのまにか死んでしまうのですが、それもこれも、俯瞰的に眺めれば自然の流れに浮かぶ泡のようなものなのであって、条件によってたまたま作られ、刹那の後には、また条件に従って消えるものでしかない。その意味では、私たちはたまたま作られ、用が済んだらためらいもなく投げ捨てられる、「芻狗」と選ぶところがありません。

「捨(upekkhā)」というのは、そのような「天地」のありようを徹底的に「如実知見(ありのままに観る)」した上で、
衆生の喜怒哀楽を含めたこの世界の現象全てを平等に、囚われることなく観る態度のことですが、これだけでは、「慈・悲・喜」の来歴のほうがよくわからないことになる。現象の世界における衆生の悲喜こもごもが、単に縁起の法則にしたがって起きる中立的な出来事にすぎないのであれば、そこにいちいち関与して、「抜苦与楽」の実践を行う意義も必要性も、存在しないことになるからです。



ここは実に重要なところであって、仏教の「教」たる所以、その成立を理解するための急所であります。”



”ニコ生で放送などをしていると、ときどき「僕は宗教なんて必要ないと思うんだけど」といった趣旨のコメントをもらうことがあります。そして、それに対する私の返答は昔からずっと決まっていて、
もちろん、あなたにとっては必要ないんだと思いますよ。
ただ、世界の現状を見れば、それを必要だと考えている人が一定数存在するのは自明のことです。その人たちにはその人たちの人生と価値体系があるわけだし、あなたにはあなたの人生と価値体系がある。
日本においては幸運なことに、宗教に関わらなくても生きていけるし、そのほうが『健全』であるとも考えられているのだから、あなたが宗教を不要だと考えるなら、あなたは関わらなければいいんですよ
」と言うことにしています。

私としては、これで十分な返答だと思っているのですが、それに納得できない人たちも一定数はいて、かなり攻撃的なコメントを連投しはじめたり、中には「お前は仏教徒のくせに、俺に真面目に仏教を押しつけないとは何事だ!」みたいな、ものすごい怒りだし方をする人もいました。

正直なところ、私は自分がいわゆる「仏教徒」であるかどうかについては懐疑的です。
私にとっていちばん大切なことは、
自分が信じて実行するに足る「生き方の筋」を、可能な限り予断を排しつつ探求するということであって、
仏教はそのための有力な手段の一つ、インド思想の術語で言えば、プラマーナ(真理の認識手段)の一つにすぎない。したがって、「仏教」という名の下に語られることであれば、全てを無前提に受け入れるということは全く論外ですし、いつも言っているように、私が俗人として生きるにあたって、自分の行為の準則として実際に採用しているのは、仏教よりもむしろ陽明学です。


ただ、そうは言っても「ニー仏」などという名前で活動をしている以上、私のことを「仏教徒」であると考えて、ひいては「宗教側」の人間として応答を求める人が出てくるのも、ある程度は仕方のないことなのかもしれません。

そう思うので、「宗教側」として穏当であると思われる、上述のような答えをいつも返すようにしているのですが、まあ納得できない・したくない人たちは、どうしても一定数いるようです。


そういった人たちに対して、私が(余計に話がこじれるのはわかっているので)直接には言わないけれど、いつも心に思うことが一つあって、それは、「そのように対立をつくりだした上で、なんとしてでも他者を自分の考え方に同調させないと気が済まないという、あなた自身のナラティブに表現されてしまっている根本的な傾向そのものを、もう少し省察してみたほうがいいんじゃないか」ということです。

おそらく彼らの言い分としては、「宗教は人々が対立する原因になるし、その結果として、はなはだしくはテロを起こすようなこともある。したがって、それを批判することは正当だ」ということなのだろうと思います。そしてそれはたぶん一定程度、「正しい」批判でもあるのでしょう。

ただ、私が気になるのは、それを言う人たちの中に、「そうした対立は『宗教が』その原因になっているのであって、宗教をもたない自分たちはそうした動因から自由である。したがって、みんなが自分と同じように考えるようになれば宗教はなくなるし、余計な対立もなくなるはずだ」という発想が、見受けられがちなところです。こうした発想は、私の見方からすれば、全くナイーブなものであると言わざるを得ません。

何度も繰り返し述べているように、「何も信じていない人」というのは、この世にはいない。意識的か無意識的かの差はあるけれども、誰だって究極的には「無根拠」な何らかの価値を「信じて」いて、そこに一瞬一瞬、自分を賭けながら生きている。

「事実」として客観的に確認できるわけではない価値を、敢えて自分の意志で選び取るわけですから、そこには当然、責任が発生する。そして責任を取るからには、そこには同時に「プライド」もかかってきます。ツイッターなどを眺めていればすぐにわかることですが、自分の価値判断を表明して、それを他者に否定されると、ほとんどの人は怒りを感じる。価値判断には責任と同時に、プライドがかかっているからです。「意見と人格は分けるべき」などと、無茶を言う人も中にはいますが、そういう人がいざ自分の「意見」を否定されると、怒りを隠せずにいることがしばしばなのは、私たちが日常よく観察する出来事ですね。

要するに、誰でもが(「宗教」という名がそこにつくかどうかには関わりなく)自分の「信仰」をもっており、意識の度合いの濃淡はあれ、そこに責任とプライドをかけながら生きている。誰でもが、自分の「信仰」をできれば他者に承認して欲しいと願っているし、それを正面から否定されると怒りを感じる。そして、その怒りから生じた対立は、時に暴力にまで、発展することもある。

既におわかりのように、この事情自体は、「宗教」という名分がそこに冠されるかどうかには関わりなく、人類のコミュニケーション全体について普遍的なことです。もちろん、宗教が自分たちにとっての「絶対的なもの」を、この世において実現しようとした場合、その対立にドライブがかかるということはあるでしょう。ただ、それもまた「宗教」に限った事情では必ずしもありません。例えば「正義」という名分の下に、同じことが行われることがままあるのは、私たちが十分に知っているところですから。


いつも繰り返し述べていることですが、ここでも私が言いたいのは、「宗教や信仰をもて」ということではなくて、「何も信じていない人などいないのだから、せめて私たちは、自分の信仰に可能な限り自覚的であるべきだ」
ということです。

最初の問題に戻りますと、「宗教不要論」をどうしても他者に承認させたいという欲望がある人たちには、あなたの根底にあって、あなたを衝き動かしているその欲望自体が、実はあなた自身が問題視している現象の、根源的な原因になっている可能性を、少し考えてみてほしいのですね。

自分は愚かな信仰から自由な立場からものを言っているのだから、迷妄に毒されている人々を批判するのは全く「正しい」。そのように考えてしまうならば、それは実のところ、「宗教はいらない教」の信者が、他宗教の信者を「気に入らないから」という理由で罵っているという構図と、たいして変わるところがありません。

誤解してほしくはないのですが、このように言うことで、私は「宗教や信仰を批判するな」と主張しているわけではありません。ただ、批判するのであれば、それを自分自身もそこから免れてはいないところの、人類にとっての普遍的な問題とリンクさせつつ考えないと、結局のところ自分自身も批判対象と同じ行為を無自覚のまま行なってしまうことになる。ゆえに、批判を生産的なものにしたいのであれば、自分が「何」を問題にしていて、また「なぜ」それを批判したいと思うのかを、よくよく省察してみてほしい、ということですね。”


永觀堂雁琳(えいかんどうがんりん)
‏ @ganrim_
2015年3月9日

「宗教不要論」に関する若干の感想 http://ch.nicovideo.jp/neetbuddhist/blomaga/ar256907 … #blomaga 「自分は価値判断せず客観的にものを見れる」とか言う人は無根拠な信念を「客観的事実」と考えているからとっても面倒なんですよね。完全に神話の内部にいるのか、無意識に責任を回避しているか。




『ダンマパダ』の第97偈では、信じない人(assaddho naro)が最上の人(uttamaporiso)として讃えられています。大乗の影響が強い日本の仏教界ではあまり語られないことなので、意外に感じられるかもしれませんが、そもそも「信を捨てよ」というのはゴータマ・ブッダの開教宣言の一節でもありましたので、これは彼の教説の基本的な態度に、全く沿った主張でもあります。

とはいえ、ここで「なるほど、では俺は何も信じていないので、最上の人というわけだな」と単純に考えてしまったら、それはもちろん誤りになる。そんなに簡単に「最上の人」になれるのなら、誰も苦労して修行なんてしませんからね。

いつも言うように、「何も信じない」で生きるということは、少なくとも俗世で普通に生活する限りにおいては、ほぼ不可能です。誰であれ、究極的には無根拠な価値を「信仰」しながら生きているというのが現実である以上、「自分は何も信じていない」と単純に考えてしまうことは、むしろ「盲信(blind faith)」への入り口となる。


こうした無自覚な盲信状態から抜け出すことこそが、「信じない人」であろうとするならば、まず第一に必要なことだろうと私は思うのですが、そのためにブッダが勧めたことの一つは、 「常に自覚的であり続けること(sati, mindfulness)」でした。

既に述べたように、私たちは日常生活を送る上で、どうしたって何かを「信じ」ざるを得ないわけですが、その「信仰」に全く無自覚のままでいると、いつの間にやらそれは固定的な意見 (diṭṭhi)となり、更にはそれを自分自身(atta)と同一視して、容易に手放すことができなくなる。中には「信じていない」という観念自体を、自分自身の意見・人格として固定化し、その執着がもたらす衝動に無自覚のまま、まさに「宗教的」に他者を攻撃してしまう人もいるというのは、以前のエントリでも述べたとおりです。


こうした事態を一つには防ぐために、自分自身に現れてくる欲求・衝動・感覚、そしてひいては「信仰(意見)」に、常に自覚的であれと教えたのがブッダであって、この点に関しては、私は彼の教説に全く賛成です。「信を捨てる」ためには、単に「俺は信じてないぞと考える」だけでは駄目で、無自覚のままに「信」をつくりだそうとする私たちの自然な心の傾向性を、常にモニタリングしていなければならないということですね。


もちろん、これをやっても「信」から100%離れることは、(仏典に語られる)「涅槃」にでも入らない限り無理なのですけど、少なくとも事態は多少ましになる。



ツイキャス、対談動画









(奥野 克巳@berayungの著作
『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』で
研究結果が述べられている
インドネシアとマレーシア、ブルネイにまたがるボルネオ島に住む狩猟採集民「プナン」の話が面白い。
群体みたいだ。
個人がものをねだるのではなく
触手が必要としたものを取り込むみたいにとらえるべき?
(本書には
”よりよき未来を目指して向上するために、常に反省やフィードバックを重ね、
自己と社会を改善し高めていく。
そういった観念を、プナンの人々は持っていないというのである。
よりよき未来のためではなく、彼らは常に「今」を生きている。”
とあるそうな。


ヌマタ カズヤ牧師
? @ngkn1972
10月10日

奥野先生の『ありごめ』とは『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』のことで、そこで紹介される先住民プナンには歴史概念がなく、感謝や負い目の感覚もなく、うつ病になる人もいない。「普遍的」と思っていることがそうではないと分かる一冊。RT


ヌマタ カズヤ牧師
? @ngkn1972
アメリカでうつ病治療にマインドフルネスが用いられることがあるという。あらゆるこだわりを手放し、「今、ここ」に気づいているというのは、複雑化した社会で、いわば人為的にプナン社会を体感する療法なのかもしれない。

プナンの人々は先天的にピュアだから個人所有をしないのではない。幼児はお菓子を独占しようとするという。そのとき大人たちが子どもをたしなめて教育し、人に気前よくあげることがよい心がけであると身につけさせるらしい。だから彼らは決して能天気な「原始人」などではない。
ヌマタ カズヤ牧師
? @ngkn1972
7月20日

奥野克巳先生@berayungによれば、ボルネオ島のプナンの人々には、うつ病などの精神疾患がみられないという。他の先住民にはみられるらしい。プナンが時間概念に疎く「今、ここ」を生きていること、感謝や謝罪の概念がないこと、個人所有をしないこと等と、なにか深い関係があるのかもしれないという。







(蝉川夏哉先生ってニー仏さんのキャスでコメントを多く残す人だと判明。
マカロンに詳しいニー仏。

蝉川夏哉@アニメ4月13日配信開始@osaka_seventeen
マカ仏
2018/12/31 1:38:37

蝉川夏哉@アニメ4月13日配信開始@osaka_seventeen
プロマヤ暦インストラクターとかも凄い
2018/12/31 2:27:46

蝉川夏哉@アニメ4月13日配信開始@osaka_seventeen
「救われるために金を出す」んじゃなくて「金を出したら救われる」に変わる瞬間が在ると思う
2018/12/31 2:28:29

蝉川夏哉@アニメ4月13日配信開始@osaka_seventeen
やはり悪い奴は豚に憑依させて飛び降りさせないと……
2018/12/31 2:32:01



浦崎雅代さん(タイ仏教翻訳家)と対談!
https://www.youtube.com/watch?v=w3dz_-m8CG4

若林王子と対談!
https://www.youtube.com/watch?v=YCTNPi4ib6E


サイトを公開した放送1/3
https://www.nicovideo.jp/watch/sm21846566








ニー仏@neetbuddhist
10月14日

『心が疲れたらお粥を食べなさい』(https://amzn.to/2Om9DLz )は、
タイトルで(残念ながら)誤解されやすいけれども、当代一流の禅僧である吉村昇洋師が、
自身の人生そのものである仏道修行の成果をフルフラットで語りきった素晴らしい書籍ですので、本当におすすめですよ。


曹洞宗では「威儀即仏法、作法是宗旨」と言われて、
通俗的な永平寺の「厳しい修行」のイメージにもあるように、
形を強く重視する禅風で有名ですが、
そのように「日常の一挙手一投足を、仏作仏行であるかのように行ずる」ことの内実を、
平易でありつつ経験の裏打ちを伴った言葉で教えてくれる名著です



(8分あたりから
プラユキさんの手動瞑想について。
手の動きに集中するのではない。
聞こえてくる雀の声への注意を断ち切るのではなく
雀の声も自分の雑念も浮き上がって来るし後ろのヤカンの音も聞こえてくる
みたいな拡散的集中と言われる、
等分に注意を払う、
全体がきれいに見えている集中力を保つのが曹洞宗の集中であり
手動瞑想も同様の集中を達成するためのもの。
プラユキ先生のいう
「今ここ空間をひらきましょう」とは
拡散的集中が保たれている状態でいましょう。


カニカ・サマーディ(瞬間定)
カニカ=瞬間。
テーラーワーダーでは人の心は一つのことしか一度にできず
同時にやっているように見えても実際は高速で切り替えているだけだと考える。
カニカ・サマーディ(瞬間定)は上記の拡散的集中とは異なる。
テーラーワーダーのいう瞑想の集中状態は上記の拡散的集中ではまだだめで
もっと細かく見たいといけないらしい。
上記みたいに鳴き声が鳴き声として聞こえずただの音に聞こえるなどの状態にならないといけない。
コマ送りの一つ一つに集中しましょう、
そのコマ送りの状態に至るために集中力を鍛えましょう。

20分あたりから
夢日記をつけると日記の言葉に引きずられて夢の内容が変わる。
瞑想では浮かんできた内容ではなく
浮かんできた事実を受け止める。
浮かんできた内容だと言語の領域になっちゃう。


32分あたり
松葉杖の喩えがわかりやすい。
なくていける(常にマインドフルであれる)ならいらないが
なれないなら(作為的なもの=まずマインドフルになれるためのものが)必要。
なれるようになったら不要。
松葉杖なしに歩けない人に
「松葉杖なしで君は歩ける」と言ってもダメ。

103分あたりから
インド的な考えでは植物は有情ではないから生きものではない。
日本語でも植物は「ある」(命がないもの)であり
「いる」(命がある)ではない。



ニー仏@neetbuddhist
2016年3月2日

ゴキブリは「いる」だけど樹木は「ある」になるあたり、やはり日本人にとっても植物は無情という感覚はあるのだろうなあ。


ニー仏@neetbuddhist
2013年3月5日

まあインドの思想や仏教の文脈だと、植物は多く「有情(衆生)」に分類されていなくて、だから菜食主義は「不殺生」であるという理屈が成立するわけですけどね。「山川草木悉皆成仏」と言われる東アジアの場合そこは微妙で、それは日本において菜食主義が定着しにくいことにも影響しているのかもです。



)








(仏教は取引禁止なのでお金に触ってはいけない。
農業で自給自足もダメ。
人々の慈悲、好意にすがって生きていく。

輪廻は信じるものではなく知るものである。

解脱
=物語からの解放
=目的観念からの解放

解放された後にそれでも生きているというのは
遊び
と表現するほかない。)

ニー仏@neetbuddhist
6月17日

この前のキャスでも話題になったけど、結局のところ日本の「現実教徒」さんたちの問題点は、「ナイーヴな物語に踊らされているのは自分以外の他者である(だから自分には現実が見えている)」と思い込むことによって、自身を駆動している物語もまた別にあることから目を背けてしまうことなんですよね。
0件の返信 43件のリツイート
ニー仏さんがリツイート
テポドン東京
? @pannacottaso_v2
6月14日

テポドン東京さんが松浦晋也をリツイートしました

国というシステムについて粗雑な言葉を歌に乗せてディスってるのは左っかわの反政府反国家ソングににこそ多いわけですから、気に食わないのは雑さではなくて体制的であることそのものということに自覚的になられたほうが良いと思う()

テポドン東京さんが追加
松浦晋也
@ShinyaMatsuura
誰も「自分の生まれた国が好き」ということで彼を責めていないよ。彼が責められるべきはあきれるほど無知のまま、国というシステムについて粗雑な言葉を歌に乗せたことだ。困るのは、彼を擁護する側が「擁護することで自分の付くサイドが得をするから擁護する」という算盤勘定で擁護してい…
0件の返信 99件のリツイート 141 いいね






ニー仏@neetbuddhist
6月18日
これも「日本の人たちは『私はすごい』ではなくて、『あいつなんて大したことない』で自己主張する」という、いつもの事態のヴァリエーションではありますね。他者を裁くという傲慢の極致のようなことをしておきながら、それをする己の責任は謙虚を装って回避するのだから、これほど卑劣なことはない。






(無我は無私ではない。
無我とは、それ自体で存在するものはない
という事実、事実認識、ドキュメント。
怒らなくなるのではない。
藤田さんいわく
無我を知ったことで怒りの文脈が変わったという。
怒りっぽいのは変わらないが
それへの関わりかたが変わった。
別に怒ってもいいじゃないかと怒る自分を許せるようになり
それができるようになると怒りにくくなった。


「自分の瞑想が悟りに向かわない瞑想をしていると、
どう判断して修正すればよいですか?」という質問に対して。
瞑想できただけで満足すること。
ウジョーティカ系の人も言っている。
瞑想はバーゲンではない。
瞑想の出来不出来をジャッジするのがダメ。



型の意味について。
素人の人でもある型に沿ってある形を作ると
上から押されたときにしっかり耐えられる。
ある動作を型を通さずに最終的な形だけをしてもダメだった。
ある手順と回数と方向で体を動かすと
体にケイが通る。

(術の発動に必要な儀式や呪文みたいだ




ニー仏 @neetbuddhist
6月5日

この問題には『悟らなくたって、いいじゃないか』(https://amzn.to/2LZfhhL )でも言及しているけど、確かに宗教には(それがいわゆる「宗教」らしい宗教であればあるほど)「私がそれを選ぶ」のではなくて、「それに私が選ばれる」という側面が厳然とあるんですよね。ただ、そのことの評価は難しい。
0件の返信 17件のリツイート 58 いいね
プラユキ・ナラテボー(公式) @phrayuki
6月7日
このsense & allowは、私の言う「念定慧対応」と非常に近い。
また、「命令して、コントロールする」は、私思うに「サマタ系」コンセプト。
それに対して「感じて、ゆるす」や念定慧対応は「ヴィパッサナー系」コンセプト。一照さんがそのどちらのモードにも一定の評価を与えているのは私も賛同。
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プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
6月7日

一照さんと魚川さんの本、のっけから大変面白い!
書籍タイトルにも含まれる「感じで、ゆるす」は英語のsense & allow。自我意識主導で、快/不快衝動に基づいてのorder & control(命令して、コントロールする)モードと対照させた言い回し。トップダウン式ではなくボトムアップ式であると解説される。



大事なのは、そうした依存傾向から解放されて「自尊心」を獲得できた後、それに同一化して「自我肥大」を起こしてしまわずに、他に影響されなくなったことで確立された心の安定性を基盤として法の観察に移行し、「法を拠り所」にできるかどうかが次の課題。これは三学でいえば定から慧の課題転換となる

「戒律」を盾に人を頭ごなしに裁いたり、「禅定」にハマり込んで自身の任務を怠ったり、
「無常」が取り決めを反故した際の言い訳に使われたり、『我を張るな!』と「無我」にかこつけて相手の正当な自己主張を拒否したり、こうした歪んだ仏教概念の理解や運用が仏教に対する誤解を生んでいるように思う

ニー仏 @neetbuddhist
とりあえずかわいい魔法少女に
「実は私の本体はもうソウルジェムに移ってしまって、この肉体は遠隔操作の人形的なもので云々」と言われたとしても、「へーそうなんだ、だから何?」ってなもんですよね。

ニー仏さんがリツイート
Yoshinari Yoshida@YoshinariYsd
6月17日
まどマギで魔法少女の本体はソウルジェムであり肉体はもはや遠隔操作の人形に過ぎないと明かされる場面、あれ残酷な事実として扱われてたけどいまいち登場人物に共感できなかったというか、むしろQBに同意で「合理的でいいな」と思ってしまったんだけど、どれくらいの視聴者があそこで共感したんだろう
23件の返信 1,604件のリツイート 2,453 いいね
このスレッドを表示
ニー仏さんがリツイート
非線形
? @_mod_p
6月18日

研究者に社会性がないのが悪いのではなく社会に社会性があるのが悪い
0件の返信 180件のリツイート 589 いいね
ニー仏
? @neetbuddhist
11時間11時間前

「日本人であることに意味も価値も存在しないし、そんな境界にこだわっているのは自閉的でダサいんだぞ!」という話を日本で暮らす人たちに日本語でやって内輪のマウントを取ろうとするわけだから、これほど自閉的でダサいことはないですね。
2件の返信 262件のリツイート 407 いいね
ニー仏さんがリツイート
しわすみ
? @s_w_s_m
6月18日

国民国家においてはその国の国民と言うだけで守られる権利がある、という話すら認めないのかグローバリストって。世界に羽ばたく能力の無い人間にそこまで冷淡だとはさすがにびっくりだわ。
5件の返信 608件のリツイート 737 いいね
このスレッドを表示
ニー仏さんがリツイート
宇野常寛
? @wakusei2nd
6月18日
ほんとう、Twitterには「自分は半匿名で他人のことをクソミソに書きたいけれど、相手はそれに反論したり、晒したりしないでほしい」みたいなこと言う人多いよね。

みっともないなー






”対談で個人的によかったことは二つあって、一つは「『仏教思想のゼロポイント』に対する誤読のオンパレードから知られる、日本仏教に独特の観念重力空間」について話ができたこと。これについては、自分のキャスなどでは何度か言及していたが、藤田師にこの話題をぶつけてみて、その反応を見ることができたのは貴重な機会だった。

 たとえば対談の中で例に挙げている「『大乗の奇妙さ』という小見出しがあるから、『仏教思想のゼロポイント』は大乗批判をしている」などという解釈は、英語の "even though……, ~" とか、"yes (of course)……, but~" とかいった表現で、いわゆる従属節の "……" の部分だけの内容を読んで、主節の "~" を読まずに「解釈」をするようなもの。いや、より実際に即して言えば、従属節の "……" だけでさえもその全体を読むことすらせず、その中の一単語だけを抜き出して、そこから受けた印象だけで文章全体を理解したつもりになるようなもので、全く「読解」と呼ぶには値しない、「児戯」と評するのも児童に失礼なレベルの行為である。

 こんなレベルの稚拙な誤読に対してまで、「それは読み手が間違っている」とはっきり言わずにいるとすれば、そちらのほうが酷いおためごかしだと私には感じられるが、同時に、そのレベルの稚拙な誤読を、なぜか一部の日本仏教の関係者の方々(それも、知的には必ずしも劣っていないはずの人たち)が次々と繰り出してくるので、少々戸惑っていたのも事実ではある。

 「業界」外の人で、かつ一定の知的な訓練を受けている人は書いてあることを普通に理解してくれるので、やはりこれは日本の仏教に関わって展開されている「観念重力空間」みたいなものがあるのだろうと思わざるを得ないのだが、それは「是正」されるべきものなのかどうかと言えば、僧侶でもない私にはよくわからないし、自分にできることは、書いてあることを普通に読んでくれる人たちがマジョリティになるまで、とりあえず「そっと距離をとる」ことかなあと、思ったりもするわけである。
(※いちおう言っておくと、全ての「日本仏教の関係者の方々」が、この「観念重力空間」に縛られているわけではもちろんない。それが猛威をふるっている範囲は、日本仏教関係者の中でも、あくまで一部の人々と一部の領域に限られる。ただ、その「一部の猛威」によって、私がずいぶん迷惑したのも事実である。)

 もう一つ個人的によかったことは、対談の冒頭で藤田師によって紹介されているが、大ファンの某哲学者の方に『感じて、ゆるす仏教』をお読みいただき、基本的には好意的に受け止めていただいて、長文の感想も書いていただいたらしいことである。”





”昨夜の藤田師との放送でもコメントに言及があったし、私のTLにも何度か回ってきていたので、以下の記事を読んでみた。
瞑想やヨガの後にはエゴが著しく増大するという調査結果
by ivanovgood自我(エゴ)を手放すことに役立つとされる瞑想やヨガを実践した結果、逆に「自分は平均よりも上だ」と
gigazine.net
People’s egos get bigger after meditation and yoga, says a new study
So much for quieting your inner narcissist.
qz.com

 感想としては、藤田師との対談でも述べたとおりの、仏教の「無我」や瞑想一般に関する典型的な誤解が、そのまま表現されているような調査と解釈だと思った。

 たとえば、調査では被験者に自尊心(self-esteem)の程度について訊き、それがヨーガや瞑想によって高まっているなら、自我を鎮めること(Ego-quieting)に失敗している、と評価しているようだけれども、この基準に従うならば、ヨーガや瞑想によって自尊心が低くなったと回答しなければ、「無我」を実現するという瞑想の「目的」は達成できなかったのだということになる。

 だが、少なくとも私の知っている瞑想というのは、そんなバカバカしいものではない。

 実際、とくに英語版の記事を読むとよくわかるが、多くの人が瞑想によって得る幸福(well-being)は、記事中に言われる self-enhancementの感覚とリンクして増大すると、同じ調査によって指摘されている。これは考えてみれば当たり前のことで、瞑想やヨーガをやればやるほど「私は他の人に比べて駄目だ」と思うようになったり、自尊心が低くなったりするのであれば、多くの人にとっては、それは幸福とは言えない結果に繋がるだろう。

 そして現実問題としても、瞑想やヨーガというものは、実践者にそういう方向へ変わることを求めはしない。「私は素晴らしい」と感じることは、たしかに我への執著かもしれないが、その文脈で考えるならば、「私は駄目だ」と感じることも、同様に我への執著の(逆方向の)表現にほかならないからである。

 要するに、「他と比べて自分は上か下か」とか、「自尊心は高いか低いか」とか、そういう質問をしている時点で、どう答えても回答は「我への執著」の表現にならざるを得ないということだ。こういう「表が出れば私の勝ち、裏が出ればあなたの負け」式の質問がデザインされてしまうあたりに、私としては「無我」という概念に対する根深い誤解を感じてしまう。

 別の言い方をすれば、こういう正負のどちらの回答を選んでも、いずれにせよ我との関わりを避けられないような質問しかないのであれば、それは瞑想によって幸福を感じている被験者であれば、正の方向の回答を選ぶのは自然なことだろうし、それをもって Ego-quietingに失敗していると言われても、それは調査をデザインした人間の無理解がすぎると、当方としては評するほかないわけである。

 とはいえ、こういうことに関して熟慮するつもりがなく、かつ私がいつも言っているように、「私はすごい、ではなくて、あいつなんて大したことない、で自己主張する」傾向のある一部の方々にとっては、この調査結果はたいへん都合のよいものだろうとは思う。

 そう思いながらTLのツイートを眺めてみたら、だいたい予想どおりの話が展開されていたので、ため息をつきつつ、また無駄と知りながらこんな記事をちょっと書いてみたりする夜なのであった。”


ニー仏
? @neetbuddhist
6月20日

『仏教思想のゼロポイント』ですと、主に第四章で輪廻と関連付けつつ「無我」について解説してますね。「空気を読んで世間と波風を立てずにペコペコしながら生きるのが無我」という噴飯ものの(しかしよくある)解釈に対する批判は、『悟らなくたって、いいじゃないか』にもあります(p.179f)。


ニー仏@neetbuddhist5月28日
どれほど明晰でわかりやすい文章を書いたところで、
そもそも書いてあることを書いてあるとおりに読む習慣のない人は、
必ず自分が読みたいように文章を読んでしまうので、
最近はアクセスすべきでない人がアクセスしてこないように、
適度に文章を複雑にすることがむしろ肝要じゃないかと思うようになった


ニー仏
? @neetbuddhist
2017年10月6日
私の指導教授は、ゼミ中でもちょっとわからないことがあると、学生の前で資料を取り出して、うんうん言いながら調べる人だったけど、先生のそういうところを見ていたおかげで、ツイッターでも発言する前にひとググりする習慣がついたのかもしれぬ。
0件の返信 31件のリツイー
ニー仏
? @neetbuddhist
2017年6月6日

私自身は、「ツイートを見て何かを言いたくなった時に、その『私がこのツイートを見て何かを言いたくなる』ということ自体が、既に当該ツイートの内容が示す事態に含まれていた」といった性質のツイートが好みですが、こういうのはメタ認知をしない習慣の人たちに対しては、全く効果がありません。
0件の返信 22件のリツイート 59 いいね
ニー仏
? @neetbuddhist
2017年6月6日

メタ認知というのは、それをするのが習慣になっている人にとってはあまりにも自然なことなので、メタ認知をしない(できない)でベタに反応してくる人たちのことを、時に想定し忘れることがあるんだよな。
0件の返信 16件のリツイート 56
ニー仏
? @neetbuddhist
2016年10月30日

パジャマというものを着る習慣を失って久しい(外出から帰ったら部屋着に着替えて、それがそのまま寝間着にもなる)ので、寝る前にパジャマに着替える人を見ると、「おおっ、ハイソだ!」と思ってしまう。
1件の返信 4件のリツイート 12 いいね
ニー仏
? @neetbuddhist
2016年9月19日

「人から愛されたり、大切にされたりしたくてたまらないのに、実際に愛されたり大切にされたりすると逃げ出したくなる」人というのは一定数いて、こういうのは身体に染みついた習慣だから、「意識改革」で改善するのは難しいのよ。「わー嬉しい」と言葉で喜んで見せながら、身体が半分逃げてたりする。
3件の返信 4,845件のリツイート
ニー仏
? @neetbuddhist
2016年9月18日

独身でも健康で長生きする僧侶というのは多いので、結局は生活習慣(と、彼らの場合は独身でいることがむしろ社会的に賞賛の対象になること)が大きいのではないかと。
1件の返信 9件のリツイート 18 いいね
ニー仏
? @neetbuddhist
2016年8月14日

ミャンマーで電化製品を買うと、必ず「お試ししますか?」と言われて、「はい」と言うと買うものの箱を開け、電源に繋いでスイッチを入れて起動を確認する、という手順があるんだけど、こういう習慣はさらに経済発展するとなくなったりするのかしらん。
0件の返信 7件のリツイート 13 いいね
ニー仏
? @neetbuddhist
2016年2月6日

最近のママたちは子供の友達に「○○ちゃんのおばさん」とは呼ばせないと聞くが、その習慣はどのくらい一般的になってるのだろうか。
2件の返信 5件のリツイート 4 いいね
ニー仏
? @neetbuddhist
2016年1月27日

やる気ってのは、やりはじめてから出てくるもんで、その最初の行為を始動させるのは気持ちじゃなくて習慣だわな。その習慣を人生の早いうちに身につけさせてもらっている人は強いですよ。
2件の返信 69件のリツイート
ニー仏
? @neetbuddhist
2015年12月20日

年賀状、もともと書く習慣がありませんし、最近は日本におりませんので、いただいてもお返事できませんからご遠慮しております。悪しからずご了承くださいませ(`・ω・´)ゞ





(
上善は水の若し
https://blog.goo.ne.jp/usmle1789/e/047a42cbc46947058a2e37b3810be723
"深層意識はそれ自体多層構造を持っている。
現代の言語学は、表層世界の下に潜む「無意識的下部構造」の強力な働きを認める点でユングの分析心理学と一致しており、「深層意識は象徴を構造化する器官なのであって、粗大な物質的世界がここで神話と詩の象徴的世界に変成する」とする。

A:表層意識  
M:「想像的」イマージュの場所。B領域で成立した元型はこのM領域で様々なイマージュとして生起し、経験的事物に象徴的意義を賦与したり、存在世界を一つの象徴的世界として体験させるといった独特の機能を発揮する。
B:言語アラヤ識領域。意味的「種子」(ビージャ)が「種子」特有の潜勢性において隠在する場所であり、ユングのいわゆる集団的無意識あるいは文化的無意識の領域に当たる。元型成立の場所。
C:B領域に近づくにつれて次第に意識化への胎動を見せる無意識領域。Bに近接する部分は宋代中国の「易」哲学的に言えば「無極にして太極」の「太極」的側面 
Z:「意識のゼロ・ポイント」  


*樫尾直樹さんの「文化と霊性」では、以下のように少し平易に説明されていた。
A領域:<表層意識>、心
M1領域:<実存的意味・マナ識>、魂、生きがい
M2領域:<イマージュ・マナ識>、魂、夢
M3領域:<神霊的存在の顕現・マナ識>、魂、シャーマニズム、密教
B領域:<言語アラヤ識>、魂、集合的無意識、元型成立の場
C領域:<無・意識>、霊、流動状態のカオス
Z領域:<真如> 意識と存在のゼロポイント、絶対的無分節、悟り")



ニコニコ動画、ニコ生の録画

「ありがたい法話」系仏教の問題点と実存について2/3
https://www.nicovideo.jp/watch/sm22080401



ゴータマ・ブッダは悟った後、なぜ死ななかったのか?1/4
https://www.nicovideo.jp/watch/sm21928275



悟りとか瞑想センターの話とか 1/2 自分に合う瞑想センターの探し方
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23891342

悟りとか瞑想センターの話とか 2/2
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23892018


ニー仏放送 09年11月06日 教養(1)
https://www.nicovideo.jp/watch/sm8918520


教養について(6)
教養が必要なのは「みんなが自由をめざせる条件を整えるため」(#12:30)
・人が本当に自由になるためには「いろんな文脈をみるための目」を養わなければダメ(#14:20)
https://www.nicovideo.jp/watch/sm21620453



ニート仏教を語るコミュの放送で「禅籍で学ぶ『そのブラ』」
「難解」とされる禅問答を、わかりやすく読み解いていきます。話柄は『趙州録』から。

※今回の話は、小川隆・駒澤大学教授の御講義を、主が劣化コピーしたものに
 過ぎません。中国禅および語録の性質についてより詳しくは、
 以下の小川先生の御著書を御参照いただくことをお勧め申し上げます。

 『臨済録』(岩波書店)
 『神会』(臨川書店)
 『語録のことば』(禅文化研究所)
 (上から順に初心者向けになっています)
 https://www.nicovideo.jp/watch/sm8156922
 
 
【仏教】臨済録(行録)読み下し解説SP【ニー仏】
コミュ開設1ヶ月記念で4/12に放送された臨済録(行録)読み下し解説SP放送です。

~ニー仏(生主)コメ~
唐代禅の入門として、『臨済録』の「行録」を読んでいきます。
臨済宗の開祖、臨済義玄が師匠の黄檗のもとで悟りを開いた機縁をしるした一段です。

なお、ここでの主の話は以下に示す参考資料の劣化コピーに過ぎません。
資料を直接お読みいただく前のちょっとした入門、参考程度の講義としてお聞きいただければ幸いです。

柳田聖山『臨済録』(大蔵出版、中公クラシックス)
入矢義高『臨済録』(岩波文庫)
小川隆『臨済録』(岩波書店)
https://www.nicovideo.jp/watch/sm6745147




彼が紹介したものの一部

さくらももこ『そういうふうにできている』

さくらももこ『そういうふうにできている』




・手術

局部麻酔だと聞いた著者は内心ニヤリとし瞼を閉じた。
手術の感覚を体験したいので局部麻酔が望ましい。
全身麻酔なら一気に意識が遠のいて手術の感覚を体験できずに終わってしまうだろう。
局部麻酔で腹も足も他人となった。
今、自分はどこまでが自分なのだろうか。

p.104から(ページ数は文庫じゃない方)
私は意識が実に生々しくクリアになってゆくのを感じていた。
自分自身が明らかになってゆく奇妙な感覚である。
それと同時に、心のほうはどんどん静かになっていった。
この世における未練が遠ざかってゆき、
仕事のことも、大切な人々のことも、
何もかもが本来の自分とは無関係であり、
地球で生活していた全ての出来事は地球にいた時のみ関わっていた雑事であることを感じていた。
この感覚は、私にとって重大な意味を持つ体験となった。
これまで自分の中でいくら考えてもわからなかった問題に解決の糸口を与えてくれたのである。
それは、心と脳と魂の関係である。
以前から「本当の自分とは結局何だろう。
脳が思考を司る機能ならば、つまり心は脳なのか、
人間とは単なる脳という『機能』に操られて愛も優しさも体現しているのか、
それとも霊的な魂というものが存在してそちらが本当の自分だというのなら、
思考や感覚などもそれが素となっているのだろうから、
それなら脳の役割とは一体何か?
そして心とは?
心と魂は同一のもので、
愛とか優しさはそちら側で、
理性や知性など表面的な部分を脳が司っているのであろうか。
なんかそんな気がするが、では心は愛や優しさだけだろうかといえばそんな事もなく、
打算や憎しみなども含まれているはずだ。
結局、心だって思考から成り立っているのだ。
やはり脳こそが心であり、
脳と心が同一となると魂も脳だという事でいいのだろうか。
とすると存在とは死ねばそれで全て終了という事になるが、
それでは何のために生まれてくるのであろうか。
ただいたずらに発生して死んでおわりなら意味が無いではないか。
輪廻というのもよく聞くが、生まれ変わるとすれば、
残って続いてゆく魂らしきものがある事になるわけで、
だからそれがあるなら脳の役目って何? ってことになるわけで、
魂は心なのかしらって事もまた問題になってくるでしょ、
ねっ、あーもーいや。
ワタシってつまり脳?
オーノーッ!!
あら、実は外人!?」というように、
脳・心・魂についてはいくら考えても堂々めぐりで何度もパンクしていた問題であった。
この大問題に今回私なりに決着がついたというのだからめでたいではないか。
今からそれを記してみるが、表現しにくい内容であるため、
うまく書けたらおなぐさみとだけは前もって言わせていただく。

脳と心と魂とは、全部別々のものであるというが私なりの結論である。
三つとも別々なのだが、非常に密接につながっているので混同してしまったり、
何が何だかわからなくなってしまいがちだったのだ。
まず、魂と呼ぶものだが、これは"意識"と言い換えた方がこの場での説明がしやすい。
魂でも意識でも或いはエネルギーでも気(傍点)でも、
本質的には同じだという事もわかったのだが、
"魂"という言葉は何となく宗教的なイメージがあったり、
『大和魂』等のように根性や変な熱が入ってしまう恐れがあるし、
エネルギーや気(傍点)という言葉もやや使いにくいので
一応"意識"という言葉を選んで話を進めてゆくことにする。
この"意識"こそ、私は本来の自分そのものだと思う。
ここで言う"意識"とは、
日常よく使われる
「○○クンのことを"意識"したとたんこれが恋だと感じました」等という
"意識"とは全く違い、
自分が自分であるという"感覚"なのである。
"意識"とは自分の根本のピュアなエネルギーの波動
なのだ。
私は手術開始からほどなく、
自分自身が肉体とは別のエネルギーの波動である事を実感としてとらえていた。
それはただただゆるやかで静かで心地よく、
宇宙空間を漂っているようであった。
この"意識"エネルギーが、
地球に降りてきて他の者と交流する時に必要なのが肉体である。
肉体全体が"意識"の乗り物としてうまくシステム化されて作られている機械であり、
その中でも"脳"という部品は、
「感情表現」
「情報を交換する際の言語駆使」
「肉体の様々な器官への命令」等をとり行うコンピューターシステムなのだ。
肉体と"意識"は別々だが密接につながっている
――
この事は昔からよく言い伝えられている事だが、
実感したのは初めてであった。

(p.107の作者の挿絵が
宇宙空間を漂う意識の流れ

では"心"とは何か。
"脳"は単なる肉体の一部のコンピューターシステムにすぎず、
"心"と呼ばれるものに付随する愛や温かさのような曖昧なものを生産しない。
一方、"意識"は感覚のみのエネルギーの波動であり、
"心"のように言語を駆使するシステムを持たない。

"心"は"脳"でも"意識"でもないとすると、何なのか?
今回の発見で一番面白いところがここである。
"心"に実体はなかったのだ。
"脳"は肉体の一部であり、
"意識"はエネルギーだ。
だが、"心"は実存するものではない。
"心"とは状態(二文字傍点)のことだったのである。
"意識"が、肉体の一部品である"脳"を使い言語で思考したり
感情や情報を伝達したりしてこの世で生活してゆくという、
その"意識が脳を使用している状態(二文字傍点)"が"心"なのである。
だから、この手術で麻酔が効いて
"脳"のコンピューターシステムが休止した際に言語が止み、
"意識"だけがあからさまになったのだ。
局部麻酔ですら私の場合は"脳"の機能も少しは止まったが、
全身麻酔でなかったからこそ"意識"のみになった状態を把握できる位には半覚醒していられたのだ。


私の意識が肉体からほんのわずかの距離に心地良く漂っている最中、
遠い宇宙の彼方から「オギャーオギャー」という声が響いてきた。
私は静かに自分の仲間が宇宙を越えて地球にやってきた事を感じていた。
生命は宇宙から来るのだとエネルギー全体で感じていた。

「あ、おぼっちゃんだ、おぼっちゃんだ」という医師達の声が私の意識を肉体に戻し、
私の脳の思考回路は
"ああ、男の子か"と判断する働きをした。
うれしいと思う方向にも働いていた。
特に大感動はなかった。
それはまだこれからなのかな、という事も考えた。
全く、意識が肉体に再び乗り込むと脳は物凄いスピードで色々と動くもので、
生きている人間に無心になれというのはどうやっても無理である。
哲学だか宗教だか知らないが、
「無心になれ」などという教えを私は今後一切信用しない。
なぜなら肉体とはそういうシステムになっているから仕方がないのだ。
私は、そういうシステムであるという事さえ知っていれば、
無心になる時が来れば潔くそうなれる気がする。
「甘いぞ」などと何かの宗教の人が言おうとも、
自分で体験した事が一番説得力があるのだから
「そうだよ。わたしゃ甘いよ」とでも言い返すしかない。


(予想通り言っていることが矛盾している。


="意識"
=本来の自分そのもの
=自分が自分であるという"感覚"
=自分の根本のピュアなエネルギーの波動。
=感覚のみのエネルギーの波動
要は、自我意識というエネルギーの波動あるいは
自我があるという感覚。

肉体と別(霊肉二元論=それぞれ独立の実体)だと言っているのに肉体が必須な感覚という言葉を使う矛盾。
「"意識"エネルギーが、地球に降りてきて」と
「宇宙空間を漂う意識の流れ」の挿絵より
意識(魂)は地球外から地球に来て肉体に入り
肉体の一部である脳を操り他者と交流すると主張。

肉体から離れても存在できるのに感覚のみって意味不明だ。
肉体と魂(意識)は別の存在だと言っているから
霊肉一致論
(共通のXの一側面が霊で他の側面が肉だとか、
単純に霊と肉は同じだという思想)
でもない。
本来の自分そのものとだけ言っておけば矛盾はなかったのになあ。
もしかしたら意識も肉体要素を持つから感覚もあるし、肉体を操れると考えているのかも。
肉体と"意識"は別々だが密接につながっていると明言しているし。
意識には肉体に由来しないが感覚としか表現しようのない何かがあると考えているのかもしれない。
本人も厳密に考えていないみたいだからあまり考え込んでも無駄かも。

心=意識が脳を使用している状態と定義するなら
無心になることはできないとおかしい。
寝たら簡単に無心になれる。

局部麻酔で神秘体験するさくらももこの思想が
肉体は機械であり意識(魂、自分の本体)の乗り物であり、
生命は宇宙から来るという典型的なスピ思想。
ブラフマン(宇宙)から来るアートマン("意識")が地球上の
直立二足歩行用ホモサピエンスの肉体に宿るってバラモン教思想そっくり。
さくらももこの本はよく読まれるから支配層にとって実に都合がいいな!
彼女が最初から結社員なのか、
たまたま都合が良いこと言っているから宣伝されただけか不明。

"魂"は宗教的だから"意識"と換言するなど科学のフリをする彼女だが主張が完全に宗教。
スピ系が好きな「疑似科学で覆って宗教ではないアピール」。
無自覚なら宗教に無知だと暴露しているのだが
自覚的なら世俗主義=宗教と思わせずに宗教で洗脳
なのでどちらにせよ悪質。


私が見つけた矛盾点
(意識=魂は肉体と別と言っているのに
意識=魂の定義に感覚という肉体必須の要素が含まれる)
を発見できない人が大半だろうから信じちゃう人が多いだろう。

さくらももこの定義する

=意識が脳を使用している状態(実体はない)。

テーラーワーダー仏教のスマナサーラ派の定義では

=目耳鼻舌、身体、心で思うこと、
これら六種類の認識するはたらき・認識機能。
なので
心は認識する機能だけ。
魂とか自我などと言われるような実体はない。
認識する場所が心の場所なので心は全身にあるともいえる。



子子子子子猫子猫はいます @黒住も金光も天理も世界連邦側 @kitsuchitsuchi
2月16日
」。
何に穢されているかというとカルマ(行為)に穢されてるという事になります。
カルマの事を仏教では「業」と言いますが、
元のサンスクリット語だと、
正確には人間の 行う「行為」の事を指します。
「行為」と言うのは、普段は余り意識しないで行うものなんですね。

例えばお腹が空いた時にチョコを食べる。
特に深く考えないでそこにチョコがあれば食べてしまうのではないでしょうか?
ところがインド人は変態なので こう考えるんですね。

「チョコを食べる事は正義か?」
「オレは本当にチョコが食べたかったのだろうか?」
「本当は食べたくないけど、 無理矢理食べさせられてるんじゃないか?」





この「何か」が輪廻なのです。
で、この輪廻は単純に言ってしまえば
「創造神」が「創造した物=即ち肉体」の事です。

逆に「霊魂=自分」はブラフマン由来なので、
創造神とは無縁の物と考えられていました。
そこでヨガの修行で、本能を、
つまり肉体を「自由にコントロール」出来るようになろう!と考えた事が、
体を不自然な方向に曲げるあの体操みたいな物が出来たのです。

だからバラモン教では「自然=悪」なのです。
自然は創造神が創ったからです。
故に「自然」の神はバラモン教では「アスラ」と呼ばれたわけです。
逆に「アスラ=自然」をやっつけるのが「デーヴァ」。
ゾロアスター教では逆転しますね?


↓原始仏教と真逆の思想だと気づけないってヤバくね?
さくらももこはどう見てもアートマン実在思想。

RhinocerosHorn
‏ @_RhinocerosHorn
8月31日

RhinocerosHornさんがプラユキ・ナラテボー(公式)をリツイートしました

プラユキさんの紹介を見て今読んでいるのですが、これはすごい本です。
さくらももこさんが帝王切開の手術のときに経験した体験を元に、意識と脳と心についての独自の考察を記載しているのですが、これまで誰も言語化しなかった原始仏教の一番深い部分を語っているような気がして、おののいています。

RhinocerosHornさんが追加
プラユキ・ナラテボー(公式)
@phrayuki
さくらももこさんのご逝去に際し、ご冥福を心よりお祈り致します。
妊娠から出産にいたる過程で起こるドタバタをあるがままの視点で飄々と綴った「そういうふうにできている」https://amzn.to/2Lzm2p3 はこれからママになる人に超お勧め。瞑想的視点でマタニティライフを存分に楽しむコツが…



(無痛分娩では子供への愛情が生じないとほざく奴には
「父親は子供への愛情が生じないということですね?」と返してやればいい。
特にほざいた奴が子持ちの父親なら非常に有効。
アステカ式で父親にも苦痛を与えると本当に子供への愛情が生じる率が上がるのだろうか?
夫を苦痛を味わうべき存在だと認識するならそもそも結婚するな。
配偶者の苦痛はできる限り少なくすべきだというのがまとも。
よって、アステカ式の実行にも反対だし
無痛分娩至上主義にも反対。




(柊 蜜柑デスマーチ @wvQnLjJ01xv85iw
8月27日
私、帝王切開が全然怖くなかったの、
さくらももこさんの「そういうふうにできている」を読んでたせいもあるんだよな。
「痛けりゃ痛いでネタになるし、
死んだところで夫に死なれるより断然まし」みたいな開き直りがかっこよかった。
でも「麻酔中に宇宙の波動を感じる」ことは私にはできなかった残念。

うづ吉@udukichi_04117月29日
私も麻酔あるから痛くないんじゃないの?と思っていた時期があるけど、
さくらももこさんの「そういうふうにできている」の
、手術後の傷と子宮が元に戻ろうとする痛みで動けなかったという文章を見て今までの自分を恥じました

なゆたん @nayuta7838月27日
確か『そういうふうにできている』の中に、
腰つい麻酔で帝王切開の手術を受けたとき、
人の魂(と呼ぶべきもの)は宇宙からやってきて宇宙に帰っていくと確信したという話があったなあ。
コジコジbot
? @cojicojibot
8月27日
体が死んでもたましいは生きてるよ
ブヒブヒもスージーも またいつか会えるのに 次郎君そんな事も知らなかったの?)


参考資料


プラユキ・ナラテボー(公式)@phrayuki
7月16日

罵詈雑言を浴びたブッダが、
「出した食事に客が手を付けなければ、それは食事を出した主人のものになるように、
怒りや悪口を相手が受け取らなければ、その怒りや悪口はそれを浴びせた者が受け取ることになる」と言ったが、この言葉は今日のツイッターランドの住民に広まってこそ真価を発揮するだろう。

それからこの話には続きがあって、そう言われたバラモンが
「あなたは怒らぬのか!」と問い返すとブッダは、
「怒る者に怒り返すのは悪しきこと。怒る者に怒り返さぬ者は二つの勝利を得る。
己に勝つとともに、また他人に勝てるのである」。
この話もまた、枢軸時代にあるツイッタランド住民に知られたい。
2件の返信 1,831件のリツイート 3,798 いいね

Stonecircle@Stonecircle123
7月17日

出典を教えて頂けますか?
2件の返信 8件のリツイート 15 いいね

プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
返信先: @Stonecircle123さん

こちらです→「相応部経典、七、二、「讒謗(ざんぼう)」
22:37 - 2018年7月17日





プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
7月18日

「ライフ八苦」とは仏教でいう人生の八種の苦悩
生・老・病・死の4つと
愛する者と別れる苦しみ (愛別離苦)
怨み憎しむ者に会う苦しみ (怨憎会苦)
求めるものを得ることができない苦しみ (求不得苦)
人間の身心を形成する物質的,精神的現象へとらわれる苦しみ(五取蘊苦) の4つを合わせて八苦となる
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プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
7月18日
ツイッターは他のSNSに比べ心のだだ漏れ率が高い。これは心と言葉の境界が融解して心≒言葉になっていることを意味する。ところでテレパシーとは、心の内容が、直接に他の人の心に伝達されることを言うので、ツイッタランドではテレパス達により日常的にニアリーテレパシーで交信されていると言えよう


言葉については「たかが言葉、されど言葉」の両面を理解しておくといい。言葉によって喉の渇きは癒されることなく、「赤信号変われ」と言っても青にはならない。しかし、思いやりある温かい言葉が、人の心の渇きを潤し、頑なな心をほぐして、前向きに一歩を進めるきっかけになったりもするのである。
1件の返信 132件のリツイート 479 いいね
プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
7月18日

ツイッター見てて、あるいは職場のできの悪い部下の言動に遭遇したとき、愚痴や悪口のひとつも言ってみたくなる気持ちもわかる。そこでちょっと立ち止まり、「この人にどんな表現で伝えたらわかってもらえるかな」と頭を転換するのが智慧の養成ライフハック。これにより「ライフ八苦」は減少していく。
3件の返信 50件のリツイート 197 いいね
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プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
7月18日

「Aに悪口言われて傷ついた?」と、誰かの言動によって苦しめられているかのように思われがちだが、実際そう考えているのは「私=I」で、冒頭の「I think」部分が省略されている。そのことに気づけば、苦しみの原因は 「Aの悪口」から「私の思い」に移り、自分自身で苦しみを解決する力を取り戻せる。
2件の返信 79件のリツイート 230 いいね
プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
7月17日

ブッダの説かれた「口(言葉)の四善業」は以下の通り
1.不妄語:嘘を言わず、正直に語る
2.不両舌:人の仲を裂いてしまう言葉は言わず、仲違いしている人たちを仲直りさせる言葉を語る
3.不悪口:粗野で汚い言葉を使わず、上品で優しい言葉を語る
4.不綺語:無駄話はせず、理にかなった実のある話を語る


プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
7月18日
返信先: @ponkohainudaさん
そうした機能、ツイッターに確かにあると思います。何で読んだか忘れましたが、誰にも読まれない日記よりもツイッターで愚痴など呟いた方が「誰かに聞いてもらってる」という心理が働き、心の負担が減る度合いが高いとか。だだ漏れでも、特定の人への攻撃はあれですが、こうした呟きは役にも立つかと。


「言葉がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。言葉について慎んでおれ。言葉による悪い行ないを捨てて言葉によって善行を行え」
(中村元訳「ブッダの真理の言葉」)

原文は「節度のない(intemperate)」くらいの意味だけど、「言葉がむらむらする」と、谷川俊太郎ばりのエモい訳文が自分的にツボ。


善き言葉には、1「真実である」、2「相手を心地よくさせる」、3「相手にとって有益である(役立つ)」という三つの特質があるが、仏教でプライオリティが高いのは3番である。尚、ここでいう「有益」とは「苦の滅尽に至らしむ」や「真理に導く」といった仏教的価値の達成(結果を出すこと)をいう。
0件の返信 13件のリツイート 78 いいね
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プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
7月18日

プラユキ・ナラテボー(公式)さんが檍をリツイートしました

罵詈雑言を浴びたブッダが言い放った言葉に対し、様々なコメント頂きましたが、ブッダの場合、相手の機根に合わせた対機説法で、最大限の望ましい結果を出すことが大先決。後のツイートで説明した通り、相手はそのブッダの毅然たる言葉に感銘を受け、出家、悟りに至るという結果が出た。そういう話です

プラユキ・ナラテボー(公式)さんが追加

@The_BlueWings
返信先: @phrayukiさん
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-671.htm
テックナットハンの方が誰も傷つかない回答してるぞ
1件の返信 8件のリツイート








プラユキ・ナラテボー(公式)@phrayuki
7月20日

プラユキ・ナラテボー(公式)さんが永井均をリツイートしました

お、永井さん、私と同じ体質。私も、師匠の故ルアンポー・カムキアン師もタバコの煙は言わずもがな、線香の煙もダメで、台湾へ一緒に瞑想指導に赴いた際、台湾の方たちが瞑想中も線香を絶やさずにされようとするので、やめていただいた。もちろんスカトー寺では瞑想中も読経の際も一切線香は焚かない。

プラユキ・ナラテボー(公式)さんが追加
永井均
@hitoshinagai1
これが本当かどうかは知らないが、少なくとも私は、禅道場のような場所で線香を焚かれるとかなり苦痛だ。ここでも強く「嫌煙権」を主張したい。 https://twitter.com/Taroupho/status/1019958332277252096 …
0件の返信 3件のリツイート 25 いいね





PsycheRadio
@marxindo
心理学者的には「認知の歪み」にも「歪むことによる適応」があるということは強調したい。認知行動療法との関係で不適応につながる「歪み」ばかりが注目されるが,「健常」とされるほとんどの人だって「適応的な歪み」を通して世界を見ているはずラジよ。

ニー仏
? @neetbuddhist
2017年4月7日

ニー仏さんがにゃんちょこをリツイートしました

仏教でも他人と自分を比べる煩悩(慢)は、最上位の覚者(阿羅漢)にならないと除去できませんし、
人間は社会的な動物ですから、解脱でもしないかぎり、他者の承認によって幸福を感じることはやめられないと思うのですけど、できることなら、そこでついでに他者を傷つけることは少なくしたいですね。

ニー仏さんが追加
にゃんちょこ
@nyan_choko
返信先: @neetbuddhistさん
横から失礼します。このキャッチコピー、衝撃的でした。マウンティングやらママカーストやら、奥に透けて見えるものが恐ろしい…。幸せすらも外から決めてあげたり他者の承認がないとわからなくなってしまってるのでしょうか。
0件の返信 371件のリツイート 399 いいね

幣束さんがいいねしました
ニー仏
? @neetbuddhist
2016年10月7日

欲望のために修行したのに、その結果として欲望を失ってしまった先駆者としてはナンダさん(ブッダの異母弟)という人がおり、彼はブッダに「修行したら超美人の天女とウハウハだぜ!」などと煽られて修行に邁進した結果、ついに阿羅漢となって煩悩を滅尽してしまったというコメントに困る感じの人です

ニー仏
? @neetbuddhist
2016年9月23日

『僕の彼女が 阿羅漢になっちゃうはずがない』という仏教ラノベ電波を受信した。
0件の返信 21件のリツイート 33 いいね
ニー仏
? @neetbuddhist
2016年8月25日

彼らは「仏教以外の宗教団体にも阿羅漢(煩悩を滅尽した人)は存在しますか?」と訊いたのです。ブッダは肯定も否定もしませんでした。彼の回答は、「誰であれ、八正道を完全に実践する者は悟ることができ、阿羅漢になることができますよ」というもの。判断基準は、八正道なのです。-ウ・ジョーティカ
0件の返信 10件のリツイート 18 いいね
ニー仏
? @neetbuddhist
2016年7月28日

「私は以前に存在しただろうか?」と問うならば、それは誤った質問です。「私は再び存在するだろうか?」。これも誤った質問。阿羅漢には死後、何が起こるのかと訊く人たちもいます。一人の人格の観念を伴ってこうした質問をしているのであれば、この質問は誤ったものです。-ウ・ジョーティカ


ニー仏
? @neetbuddhist
2017年10月2日

何度も言いますが、仏教では他者と自分を比べる慢という煩悩は、阿羅漢という悟りの最終段階まで消えないもので、人間は怒りも性欲も失っても、他人と自分を比べることだけはやめられない、と理解されているんですよね。「比べるな」というのは、本当に「人間をやめろ」というくらいの要求なんですよ。
60件の返信 35,089件のリツイート 55,418 いいね
ニー仏
? @neetbuddhist
2017年10月2日

とはいえ、比べることを全くやめることはできなくても、他人と自分を比べるたびに、いちいち自分を傷つける程度を軽減させることは十分に可能ですから、「気にしない生き方」を説く人たちが、一概に間違っているとも思いませんけどね。
1件の返信 2,346件のリツイート 2,859 いいね

大切なことは、「気にしない生き方」を説く人たちが、そのように生きるための具体的な方法と訓練を併せて説いているかどうかということで、それなしで単に他人に「比べなければ楽になるよ」などと言って見せるのは、ただ発言者本人を気持ちよくするためだけの、くだらないマウンティングに過ぎません。


ウ・ジョーティカbot
? @U_Jotika_bot
52分52分前

こうした光の体験をする時に、あなたは非常に軽快な感覚もまたもちます。
「私が悟りを経験しているから、こうした光が現れているのだ」と、あなたは考える。これは誤解です。



ニー仏
? @neetbuddhist
2月3日

「本当の顔とか本当の仏教とか本当のおっぱいとか、そういう不毛な議論とは距離をとって、いま・ここで認知している現象が自分と周囲を幸福へと導くものなのかどうかを考えましょう」と言い続けているのがこちらのアカウントになります。

ニー仏
? @neetbuddhist
1月22日

TLでは何やら泥仕合が行われているが、そんなことより俺もおっぱいDMがほしい?
0件の返信 10件のリツイート 19 いいね
ニー仏
? @neetbuddhist
1月14日

雁琳さんをRTした時のフォロワーの減り具合が、おっぱいをRTした時とだいたい同じくらいになりつつある。つまり雁琳さん=おっぱい?
0件の返信 10件のリツイート 34 いいね

コウ(SAN値0)さんと他2人さんがいいねしました
ニー仏
? @neetbuddhist
2017年11月2日

ちなみにニー仏は、何度も申し上げておりますが、「本当の顔」とか「本当のおっぱい」とか「本当の仏教」とか、そういう議論は不毛なのであまりやっても仕方ないんじゃないかという立場です。結果として本人と周囲の幸福度が上がっているのであれば、それが真実ということでいいんじゃないでしょうか。


ニー仏
‏ @neetbuddhist
2015年12月11日

何度でも言いますけど、化粧して可愛ければそれでいいんですよ。「本当の顔」とか「本当のおっぱい」とか「本当の仏教」とか、そんなものはどうでもいいんです。


ニー仏
‏ @neetbuddhist
2014年8月11日

いつも申し上げてますが、「本当の顔」とか「本当のおっぱい」とか「本当の仏教」とかいった議論は、基本的に誰のことも幸せにしません。



プラユキ・ナラテボー(公式)
@phrayuki
カルトやマルチ商法の洗脳手段については、私の場合、実際に引っかかってしまった人たちの脱洗脳カウンセリングに取り組んでいるうちにわかってきた。「いい教えを、いい商品を少しでもみんなに」という志を持つ人たちが、いつの間にか信者獲得、商品販促ロボット化されていく仕組みは本当にエグい。
0件の返信 57件のリツイート 110 いいね
プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
19時間19時間前

プラユキ・ナラテボー(公式)さんが白川密成(ミッセイ)をリツイートしました

オウム問題を考えるにあたり、この密成さんの指摘は大事に思う。最近の各種マルチ商法でも、「自己中心ではいけない」「頭で考えているから幸せになれない」と、考えることを否定して洗脳する戦略をとる。ブッダは健全な我を確立すること(我具足)、理に基づいて考察すること(正思)を推奨していた。

プラユキ・ナラテボー(公式)さんが追加
白川密成(ミッセイ)
@missei57
「俺が俺が、の自己中心的ではいけない」という人が、確かに自分では強い主張をしないのだけど、「誰か」の自己中心性に、ついて行っているだけ、という様子を時々見かける。それは、自己中心の容れ物が変わっただけのような気がよくする。
0件の返信 103件のリツイート 207 いいね
プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
また瞑想観点で言うと、知人のオウム元出家者たちが口を揃えて言っていたように「オウムの修行には観察がなかった」ということ。藤田一照師の言葉を借りれば「order & control」系の修行のみ強調されていたということ。また、ego-inflationやspiritual addictionなど瞑想病理にもナイーブであったかと

また、世俗的なモノの見方(世俗諦)と瞑想体験による微細な観方(勝義諦)が同時包摂され、どちらか一方だけを真実とみなし、もう一方を「捏造されたもの」などとしない(「諦」とは真実の意味である)。それゆえ世間的道徳ともバッティングすることなく、既存の社会通念や家族と敵対することがない。

私の体験してきた出家サンガとオウムの違いとして、
光体験などの精神的な変容意識体験が重要視されない点(縁起によって生ずる無常なる一現象に過ぎないとみなされる)。
またオウムではそうした精神体験の有無によるヒエラルキーが導入されていたが、こちらでは便宜のための出家歴による序列があるだけ

0件の返信 21件のリツイート 52 いいね
プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki

プラユキ・ナラテボー(公式)さんが慶應公認団体仏教青年会をリツイートしました

私自身、禅の教えとか昔から親しみはあったが、ときに修行の文脈で、暴力が罷り通り、暴言が飛び交い、上長者への絶対服従名目でイジメが容認されていることについては全く受け入れられなかった。最近になってこうした指導や、「感じて許す」ことの大事さが禅宗筋から発信されているのは何だか嬉しい。

プラユキ・ナラテボー(公式)さんが追加
慶應公認団体仏教青年会
@keiobussei
指導してくださった円覚寺の方曰く、現代の人はもう坐禅の時に棒で叩かずとも十分追い込まれているので、最近はリラックスすることを中心に指導しているとのこと。坐禅は厳しいもの、と思っていた中の人にはとても新鮮な考えでした(? ? ω? ?)
0件の返信 22件のリツイート 66 いいね
プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki

ブッダは「師が言ったからとて鵜呑みにするな」や「中道」を説いていたが、オウム暴走の要因に「師の言うことは何でも無批判に従うべし」「上位の者より与えられた理不尽な試練に耐え抜くことによって修行が進む」という教えがあった。日本の寺院でもそうした封建主義的慣行はないかチェックは必要かと





プラユキ・ナラテボー(公式)
‏ @phrayuki
7月17日

朝方に紹介した古のブッダの言葉がバズっているようなので、ツイッタランドは2600年前のインドと似た文化を有するという理解に達しましたので、この機会にもうひとつブッダの呟きをどうぞ。
「人が生まれたときには、口の中に斧が生じている。人は悪口を語り、その斧によって自分自身を斬るのである」

仏陀 ブッダ ことば 仏教
‏ @Buddha_Words
9月21日
657 人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである(スッタニパータ)

よきことのはbot
‏ @stamprint
2015年5月7日
人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。
ひとは悪口を語って、その斧によって自分自身を斬るのである。
毀(そし)るべき人々を褒(ほ)め、また褒むべき人々を毀る者-かれは口によって悪運をかさね、その悪運ゆえに幸せを受けることができない。(『ブッダの真理のことば感興のことば』)



プラユキ・ナラテボー(公式)
‏ @phrayuki
6月8日

ツイッターで自分の気にいらない発言に汚い言葉でリプライしているとき、気に障る言葉をわざわざ拾い集めて、自アカの「ツイートと返信」のタイムラインにコレクションしているのだということを覚えておくといい。


「人が生まれたときには、口の中に斧が生じている。人は悪口を語り、その斧によって自分自身を切るのである」
byブッダ


「嫌な奴!」と思ってブツブツ言っている時は、その嫌な人のスナップ写真が集められた画像ファイルを開いて、その人との思い出に浸っている自分がいるのだということを覚えておくといい。

プラユキ・ナラテボー(公式)@phrayuki
Q.不快感を少なくするのに瞑想は効果ありますか?

A. Yes!瞑想により
念(覚醒力)が培われれば、不快感覚を無駄に増幅させずに、早めに手放せる
定(受容力)が培われれば、心の器が大きくなり、不快感覚を小さくできる
慧(洞察力)が培われれば、明晰に理が観えて、理不尽な不快は感じなくなる。


Q.たまにネットで預流果に悟ったという声を目にするが、そういった者が安心して暮らせる受け皿が日本にはないのでは。タイやミャンマーに行くしかないのか?

A.一般人でさえ普通に暮らせてる日本が、悟ると益々生きづらくなるなんてことはない。どんな環境でも心は自由で安心していられるのが悟りの証
0件の返信 2件のリツイート 33 いいね
プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
16時間16時間前
返信先: @theory_nirvanaさん

とてもいいイメージですね!ぜひその感じ?でご精進を!
1件の返信 0件のリツイート 0 いいね
プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
16時間16時間前
返信先: @theory_nirvanaさん

ナイスな例え! せおりさんのおっしゃる通りかと思います。
なお、体の筋肉は歳をとるにつけ衰えることになりましょうが、心の筋肉は、トレーニンフ次第で、肉体的に老いてもますます鍛えることが可能でしょうね。
1件の返信 0件のリツイート 2 いいね
プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
17時間17時間前

プラユキ・ナラテボー(公式)さんがニー仏をリツイートしました

同感>RT
「人生は苦しみと悟るのが仏教だ」とする苦諦をゴールと見なす言説は正しくないが、「あなたはすでに救われている(仏だ)」という苦・集・道すっ飛ばして滅諦のみ語られる言説に実効力があるのかも疑問。ブッダの教えは「私の苦しみ」を起点に滅苦へとプロセスを辿る「四聖諦」が基本である

プラユキ・ナラテボー(公式)さんが追加
ニー仏
@neetbuddhist
「私は今どこにいるのか」という己の現状から目をそらして、単に観念の中で自分を自由にしたつもりでいても、実際にそこに辿り着けることは決してないんですよね。修道のはじまりは、「私は既に自由なはずだ」と、とにかく言い張ることではなくて、「私は不自由だ」と知ることからでなくて…
このスレッドを表示
0件の返信 13件のリツイート 40 いいね
プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki

自我と無我は互いに逆位置にあるものでもなく、対立概念でもありません。それらは人間に可能な異なる認知のレイヤーであり、異なる体験のフェーズです。無我は、自我の生成機序の看破により了解され、自我は乗り超えられて包含されます。無我は瞑想によって獲得される特定の状態の達成ではありません。

思考については「思」と「考」の二つに分けておくとよい。「思」は湧き出てくる思い。
「考」はそこからの考えごとの展開。
「思」は「今」で明晰に観察。
「考」は「今から」で選択して行動。
「思」はあるがままに受容。
「考」は後悔、不安、転嫁や自責の物語(妄想)にせず、教訓物語(創造)にする。
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プラユキ・ナラテボー(公式)

鳥井さんのこの記事→http://inkyodanshi21.com/lifestyle/10289/ …では「重し」としてのパートナーや住む場所を選んだ上で「半分諦め混じりで受け入れながら、愛していく過程に、いとおしさだったり、やりがいなんかを感じるのでは」と考察。恋愛結婚の夫婦の離婚率40%、お見合結婚10%といった事実にも現れているかも。
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プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
22時間22時間前

最近読んでなるほど?と思った隠居系男子、鳥井さんの「ちょうどいい重し」の話。昨日読み始めた『感じて、許す仏教』でも一照さんがまさにそれを実感する件が。師匠にも「お前にみたいな風船のような奴は彼女のようなどっしりとした重しがあったほうがいい」と言われたそうだ
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プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
6月7日

カイロプラクティック業界紙「CHIRO-JOURNAL」主催の鼎談がアップされました!
オリンピックなどへの帯同経験もお持ちながら、東北の被災地やミャンマーの孤児院等でボランティア活動に励まれるお二人のカイロプラクターと「ボランティア」をテーマにお話しを交わしました。
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プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
6月7日

『感じて、ゆるす仏教』。「現代日本において葬送儀礼や学問でなく、生き方を考える指針としての仏教に興味を持つ人たちの関心事は、職場や家庭において、仏教をいかに活かすことができるかということ。家庭を持つ日本の僧侶だからこそ有益なアドバイスもできることもあるのでは」と魚川さん。同感です
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プラユキ・ナラテボー(公式)さんがリツイート
ニー仏
? @neetbuddhist
6月5日

この問題には『悟らなくたって、いいじゃないか』(https://amzn.to/2LZfhhL )でも言及しているけど、確かに宗教には(それがいわゆる「宗教」らしい宗教であればあるほど)「私がそれを選ぶ」のではなくて、「それに私が選ばれる」という側面が厳然とあるんですよね。ただ、そのことの評価は難しい。
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プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
6月7日

このsense & allowは、私の言う「念定慧対応」と非常に近い。
また、「命令して、コントロールする」は、私思うに「サマタ系」コンセプト。それに対して「感じて、ゆるす」や念定慧対応は「ヴィパッサナー系」コンセプト。一照さんがそのどちらのモードにも一定の評価を与えているのは私も賛同。
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プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
6月7日

一照さんと魚川さんの本、のっけから大変面白い!
書籍タイトルにも含まれる「感じで、ゆるす」は英語のsense & allow。自我意識主導で、快/不快衝動に基づいてのorder & control(命令して、コントロールする)モードと対照させた言い回し。トップダウン式ではなくボトムアップ式であると解説される。
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プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
6月7日

届きました!「悟らなくたって、いいじゃないか」(https://amzn.to/2LZfhhL )で対談した魚川祐司氏と藤田一照師との対談本。これから読ませていただきます!超楽しみ??

『感じて、ゆるす仏教』角川書店刊→https://amzn.to/2sEuX1c

youtubeでもお二人の対談が聞けます→https://www.youtube.com/watch?v=8TZHwp04DT8 …

プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
6月6日

もし今実際に辛い思いをしているなら、ちゃんと吟味して苦の生起の因果を観る。で、パッと手放し、どのようにその辛い思いが消えたかの苦の消滅の因果を観る。すると智慧と慈悲が生じてくるというのがブッダの方法論。ゆえに辛いのもよし。「幸せは捏造だ」と辛くないのに辛がらなくてもいいでしょうね
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プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
6月6日

過ぎ去れるを追うことなかれ
いまだ来ざるを思うことなかれ
過去はすでに過ぎ去り
未来はいまだ到らざるなり。
さればただ現在するところのものを
そのところにおいてよく観察すべし
揺らぐことなく、動ずることなく
そを見きわめ、そを実践すべし
ただ今日なすべきことを熱心になせ
(一夜賢者の偈)
1件の返信 31件のリツイート 113 いいね
プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
6月6日

「ゲシュタルト崩壊」=全体性を持ったまとまりのある構造から全体性が失われ、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象。

イライラ…ときたら「イライライライ(4:08~)」歌って、怒りの物語解体。
ブツブツ…とグチ始まったらすかさず念仏。仏仏仏…


プラユキ・ナラテボー(公式)@phrayuki
6月6日

嫉妬というのは、羨ましく思って相手に悪意を抱いたり、自分に劣等感を抱いたりする感情だけど、心の奥には「私だってやればできる」という気持ち、あるよね。されば、他人の粗探しや自己卑下といった消耗的な思考に時間とエネルギー費すのやめて、その時間とエネルギーを自己成長の具体的作業に使おう
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プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
6月6日
返信先: @nikainotensorさん

たしかに。

「師が言うからとて信じ込んではならない」

とブッダも言ってましたね。

プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
6月5日

プラユキ・ナラテボー(公式)さんがテンソルをリツイートしました

たしかに。

「師が言うからとて信じ込んではならない」

とブッダも言ってましたね。

プラユキ・ナラテボー(公式)さんが追加
テンソル
@nikainotensor
「 教養がない人は、何を言ったかではなく、誰が言ったかで判断する 」という 話を聞いた。

東大の教授が言ってたことだから、その通りだと思う。


プラユキ・ナラテボー(公式)
‏ @phrayuki
6月4日
仏教では「己の心のままに生きる」は自由であるとはみなされておらず「心の虜」になっているとみなされる。
かといって、「他者に言われるがまま」や「常に場の空気に従う」ももちろん自由ではない。
気づき(sati=自ら)、智慧(paññā=法)を拠り所として、抜苦与楽に生きられることを自由とみなす。


手動瞑想と育まれる心の資質(パワー)との関係

「何が起こってもOKよー」と瞑想スタート=信(信頼力)
手を動かす=精進(努力)
気づく=念(覚醒力)
ブツブツブツ…あるがままに受け止める=定(受容力)
(思考を手放し)手に戻る=捨
「あ、考えごとが消えた。な?るほどー」=慧(洞察力)


プラユキ・ナラテボー(公式)さんが宇樹義子(そらき・よしこ)@たのしいをリツイートしました

パートナーとの関係で苦しむ人は多い。仏教系の人はすべて自分の心の転換で解決を図ろうとしがちだが、ときには「共同研究化」するのもいいかも。それによって同士感も出るし、苦の縁起を観る立ち位置になるので、お互いに心の働きを客観化しやすい。「課題、テーマ」とワーディングするのもいいですね

プラユキ・ナラテボー(公式)さんが追加
宇樹義子(そらき・よしこ)@たのしい
@decinormal1
当事者研究の文脈で出てくる「問題を『解決』しようとするのではなく、ホワイトボードの前に並ぶようにして、問題を共に積極的に『研究』するような立ち位置をとることが結果的に一番の支援になりうる」という世界観のことを思い出しました。共に、ありのままに観る。 …
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0件の返信 9件のリツイート 34 いいね
プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
6月4日
返信先: @moritohoさん

ひと動作、ひと動作、丁寧に気づくを心がけてくださいね。応援しています!?
(p.s pixiv見ました。イラストお上手ですね?)
0件の返信 1件のリツイート 4 いいね
プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
6月4日

プラユキ・ナラテボー(公式)さんがエックハルト・トールの言葉たちをリツイートしました

ブッダの有名な言葉に「自らを拠り所(灯明)とせよ。他を拠り所とするなかれ」があるが、「自ら」とは何かということが知られていないために「己の心のままに生きよ」などと誤解されている。実際この「自ら」とは、心身現象に気づく意識
satiのことだ。心身からsatiへの移行により、智慧が湧き始める

プラユキ・ナラテボー(公式)さんが追加
エックハルト・トールの言葉たち
@POWEROFNOWTolle
思考から気づきへの変化が起こると、エゴの小難しさよりもはるかに偉大な知性があなたの人生に働き始める。
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プラユキ・ナラテボー(公式)さんがリツイート
プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
6月4日
返信先: @moritohoさん

手動瞑想の特徴の一つは、考えごとが起こってきても否定しないこと。無になることを目的にしてはいません。考えごとが生じてきたら、ただあるがままに受け止めてあげて、手に戻っていけばOKです。
また「考えごとが多い」と気づいたということは心が観えてきたという証拠なので、悪いことではないのです

「〇〇のせいで私は〜」と言ってるとき、自分がつらい思いをしているのも、何かしたいことができないのも〇〇次第ということになっている。でも実際、あなた自身でそのつらい思いは今ここで手放すことができるし、あなた自身でしたいことを今ここから始めることもできるということ、覚えておくといい。

プラユキ・ナラテボー(公式)
? @phrayuki
6月3日

「人は見たいものしか見ない。見たいようにしか見ない」。
十二因縁の無明→触の過程を一言で表すとこれ。
人それぞれ心の癖や傾向性によって見たいものを見たいように見て、更にそれに反応して苦しむ。
瞑想とはそうした認知と行動の過程に明晰に気づいて、癖を変えたり、自由になっていったりする技術。


プラユキ・ナラテボー(公式)
‏ @phrayuki
11月13日

今この瞬間、心にふっと湧き上がってきた過去の失敗シーン(記憶表象)を起点にして、そこから後悔物語を紡ぐか、
不安物語を語りだすか、
犯人探しのストーリへと展開させるか、
それとも、そこから教訓物語を創作し始めるかは、
いつでもあなたが今ここで、選択可能であるということを覚えておくといい。
1件の返信 50件のリツイート 193 いいね
プラユキ・ナラテボー(公式)
‏ @phrayuki
11月12日

今日あなたに起こってくることはすべて『今までの行為の結果(異熟)』だ。その果実はあるがままに受け入れるがいい。
そして今日なした行動(業)があなたの未来を生み出す種子となる。今までの文脈や習慣にこだわる必要はない。今日ここから、自分が納得する一歩を自由に選択し、踏み出していこう。
2件の返信 91件のリツイート 394 いいね
プラユキ・ナラテボー(公式)
‏ @phrayuki
11月11日

一般にブッダは「あらゆる欲を捨てよ!」と説いたとされているが、実際は、「欲を持たずに、意欲を持て」と説かれた。感情に溺れたり、他者への願望、未来の果にとらわれるのが「欲」であり、向上心や思いやりを伴って今ここでの精進を促す意思作用が「意欲」であり、「意欲」はブッダ推奨の欲である。

儒教 @neetbuddhist
https://twitter.com/search?f=tweets&vertical=default&q=%E5%84%92%E6%95%99%E3%80%80%40neetbuddhist%20&src=typd
ニー仏
‏ @neetbuddhist
2015年3月19日

「普遍でありながら特殊であるとはどういうことか」というのは、東洋思想においても常に問われ続けてきた大問題ですね。これの中国思想史における表現を、「本来性」と「現実性」という独特の術語を用いながら、唐宋の儒仏交渉史に即して解き明かした荒木見悟先生の『仏教と儒教』は、大変な名著です。
0件の返信 10件のリツイート 29 いいね
ニー仏
‏ @neetbuddhist
2015年2月25日

おっぱいの話をしていたはずなのに、なぜわしはいつの間にか儒教の擁護をしているのか。
1件の返信 2件のリツイート 6 いいね
ニー仏
‏ @neetbuddhist
2015年2月25日

仏教はクラスタの中にそこそこ大きくて影響力のあるアカウントがいくつかあるし、何より日本人一般が常識として知っていることのレベルが(なんだかんだ言って)高いから、まあ儒教ほどつらいことにはなってないな。もちろん、ひどい不勉強に基づいた発言はたくさんあるけど。
0件の返信 5件のリツイート 7 いいね
ニー仏
‏ @neetbuddhist
2015年2月25日

まあそういうことよ。自然科学とかフランス現代思想とかについていい加減なことを言おうものなら、ツイッターでも四方八方からボコられるけど、儒教については言ってくる人がいないもんね。とりあえず、「儒教のせい」にしておけば安全なのさ(。-_-。)
0件の返信 11件のリツイート 17 いいね
ニー仏
‏ @neetbuddhist
2015年2月25日

まあ私自身は、思想史的な穿鑿には(その重要性は認識しているものの)あまり興味がもてないので、瞑想したりミャンマーやタイの仏教書を読んだり、ときどき儒教の典籍を勉強したりしているうちに、人生が終わってしまいそうですがw
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永觀堂雁琳(えいかんどうがんりん)
‏ @ganrim_
2015年2月25日
返信先: @neetbuddhistさん

@neetbuddhist 近代仏教やそれに基づいた哲学は本当に良くも悪くも「近代的」ですよね。そういう意味で儒教はどうだったのかと考えたら、ぱっと思い付くのは例えば「国民道徳」としての教育勅語、それから僕の知っている限りで言えば井上哲次郎、安岡正篤とかでしょうかねぇ。
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ニー仏
‏ @neetbuddhist
2015年2月25日
返信先: @ganrim_さん

@ganrim_ 朱子学などは右翼思想と相性がいいのはわかるんですけどね。近代仏教学でも研究者たちが「前近代的」と判断した要素は極力切り落として仏教を解釈しようとする傾向はありましたが、儒教はそういうものの象徴として仔細な検討を経ずに攻撃されたところもあったのかなと推測してます。
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永觀堂雁琳(えいかんどうがんりん)
‏ @ganrim_
2015年2月25日
返信先: @neetbuddhistさん

@neetbuddhist 日本の場合、水戸学崎門学がそうですが、特に近代以後右翼思想と密接に関連してきたという歴史的経緯も大きいのでは、と思ったりします。しかし、戦後右派が朝鮮文化をdisる時に儒教に囚われて云々とか言い始めたのはホント謎ですよね。
1件の返信 1件のリツイート 4 いいね
ニー仏
‏ @neetbuddhist
2015年2月25日

私は「日本の儒学」の話をしていたわけではないですね。「儒教」という主語での発言を受ける場合、それが第一義的には中国の元々のそれを指すのだと(とりあえず)理解するのは、とくに不自然なことでもないと思いますし、私にはそれを「日本の儒学」を指す前提で理解するほうが不自然に感じられます。
0件の返信 3件のリツイート 9 いいね
ニー仏
‏ @neetbuddhist
2015年2月25日

仏教が現代日本人にそこそこ受けているのであれば、宋明理学だってもうちょっと評価されてもいいと思う。少なくとも、知識人と目されるような人までが、四書もまともに読んだことのなさそうな知識レベルで、「儒教的な硬直した思惟が~」みたいなことをしばしば口にする現状はひどすぎる(´・_・`)
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ニー仏
‏ @neetbuddhist
2015年1月23日

「万物一体の仁」を説きはするけど、現実問題としては愛情には厚薄の差異があるので、まずは近いところからそれを及ぼしていきましょう、という儒教の考え方は、陳腐で当たり前すぎることを言っているようですが、それだけに私自身はかなり共感できますけどね。
0件の返信 8件のリツイート 11 いいね
ニー仏
‏ @neetbuddhist
2015年1月8日

そういえば、「陽明学について」ではありませんが、儒教にいわゆる「郷原」について解説した、この togetter まとめは気に入ってますね。TLで行われている「政治的な正しさ」に関する議論とも、多少は関わるところがあるかもしれません。

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(もっと)名もなき端役
‏ @glitter_be_gay
2014年10月18日
返信先: @neetbuddhistさん

@neetbuddhist 名家ほど霊格が高まるというのは儒教っぽいですね。お寺に行くと「おでん串」みたいなものを墓地で見かけることがありますが、あれは先祖代々の霊の依り代なんだそうで。
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ニー仏
‏ @neetbuddhist
2014年10月18日
返信先: @glitter_be_gayさん

@glitter_be_gay 祖先信仰は基本的に儒教の影響が強いでしょうね。
1件の返信 1件のリツイート 1 いいね
放蕩息子
‏ @cgsa794
2014年8月9日

呉さんが儒教を戦後民主主義の逆はりとして使ったから悪いんでないか ( @neetbuddhist キャス http://moi.st/5414f8d )
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冬馬:茂林寺ティータイム
‏ @kazukitohma1
2013年11月4日
返信先: @neetbuddhistさん

@neetbuddhist なんか小説で儒教の国ってフレーズ見た事あったんでもっと儒教の比率多いと思ってました。
まぁ、精神とか文化への浸透具合なんてこういう数字じゃ分からないかも知れませんが…
0件の返信 0件のリツイート 0 いいね
ニー仏
‏ @neetbuddhist
2013年11月4日

「(韓国では)総人口のうち、仏教が22.8%、プロテスタントが18.3%、カトリックが10.9%、儒教0.2%となっている。プロテスタントとカトリックを合わせたキリスト教全体では29.2%となっていて仏教より信者の数が多い。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99 …
1件の返信 6件のリツイート 7 いいね
ニー仏
‏ @neetbuddhist
2013年10月6日

かわいそうな儒教たんのために、むかし私が書いたまとめ。「郷原」という言葉の解説から、儒家の目指した生き方について述べています。

http://togetter.com/li/397738
0件の返信 7件のリツイート 19 いいね
ニー仏
‏ @neetbuddhist
2013年10月6日

いつも言うけど、儒教に関しては四書もまともに読んでなさそうな人が、「諸悪の根源」として気軽にディスっていい空気があって、たまに大学教授までそういうこと言ってたりするから儒教たんは可哀想だと思う。これがフランス現代思想や法学だったら、えらい人たちからフルボッコなのにね(´・ω・`)
0件の返信 5件のリツイート 5 いいね
ニー仏
‏ @neetbuddhist
2013年10月6日

「生活保護受給者を非難する人がいるのは儒教のせい」というツイートが流れてきたんだが、もう儒教を悪者にしとけばなんでもありの観を呈してるな。儒教たんかわいそう(´・ω・`)
0件の返信 8件のリツイート 8 いいね
ニー仏
‏ @neetbuddhist
2013年9月24日

「克己復礼」やら「独慎」やらという言葉が大量に出てくる儒教の典籍を読みまくっていたというのに、これは実に迂闊であった。孔子様にお詫びせねばならぬ。
0件の返信 1件のリツイート 2 いいね
ニー仏
‏ @neetbuddhist
2013年9月12日

現代日本で「儒教的」というのは基本的に悪口なのに、「身体髪膚これを父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」(『孝経』)という思想だけは、多くの人が素直に受け入れてるよね。
2件の返信 19件のリツイート 15 いいね
ニー仏
‏ @neetbuddhist
2013年7月25日
返信先: @pspang_zapraさん

@toruoga0916 なるほど。「徳と才は不可分である」ということを儒教的な考え方であるとして、近代市民社会は「徳と才を分離して才だけを評価の対象とするもの」であると考えれば、そのようにも言えるかもしれませんね。
1件の返信 1件のリツイート 1 いいね
ニー仏
‏ @neetbuddhist
2013年7月25日
返信先: @pspang_zapraさん

@toruoga0916 なるほど…。仁義礼智信の五常は、幕末にかぎらず儒家にとっては基本的な徳目ですが、その定義はけっこう厳密にされていますし、儒教が「治国平天下」を目指すものである以上、非常にプラクティカルな部分もあるので、そのあたりが曖昧な「人間力」とは違うかな、と。
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ニー仏
‏ @neetbuddhist
2013年6月8日

まあ中国の伝統思想(儒教)的な枠組みで言えば、「学」というのは「修身斉家治国平天下」を目指すものですから、「人格の涵養」に他ならないのだけど、「学=Wissenschaft」だと考えれば、そういうふうにはまいりませんな。
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ニー仏
‏ @neetbuddhist
2013年3月29日
返信先: @yultukuさん

論語の「非礼勿視」云々が元になってるかどうかは確言できませんが、「見ざる」から猿に繋がるのは、日本特有の事情ということに当然なるでしょう。
”@yultuku あれって儒教の「見ざる、言わざる、聞かざる、動かざる」の4つの教えではなかったでしたっけ?
1件の返信 0件のリツイート 2 いいね
ユック/シン
‏ @yultuku
2013年3月29日
返信先: @neetbuddhistさん

@neetbuddhist あれって儒教の「見ざる、言わざる、聞かざる、動かざる」の4つの教えではなかったでしたっけ?勘違いだったらすみません^^;
1件の返信 0件のリツイート 1 いいね
ニー仏
‏ @neetbuddhist
2013年1月5日

このあたりの話は、現代日本人が社会生活を送る上で、普通に面白いと感じられたり、役に立ったりするものだと思うのだけど、現代日本の言説空間では、「儒教たん」はいつも(吟味不足のまま)悪役にされてしまうのが通例なので、これは実にもったいない話だなあと、ひそかに思っておる次第であります。
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ニー仏
‏ @neetbuddhist
2013年1月4日

いつも言うけれども、このあたりの儒仏論争や、宋明の儒教史はすごく面白い。朱子の仏教批判というのは、まさにその肺腑をつくものだし、同じ問題が王学の興隆により、また儒教内部で蒸し返される。そしてその問題の焦点が、現代の私たちにとってのそれと、実に近いところで通じ合っていたりもする。
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ニー仏
‏ @neetbuddhist
2012年12月24日

荒木見悟『仏教と儒教』(研文出版) @paradentana #1RTごとに部屋にある本のタイトル晒す
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珍念玲奈一郎
‏ @Ibrahim_Ibaraki
2012年12月23日

とりあえず「悪弊」という語と完全に同義として使っちゃうのは雑かなとは(^_^;)“@neetbuddhist: 儒教たんは、学級崩壊のクラスで「静かにしてください、静かにしてください」と言い続けて、評価されるどころか叩かれまくってる、かわいそうな萌え眼鏡っ娘です。”
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ニー仏
‏ @neetbuddhist
2012年12月23日
返信先: @Ibrahim_Ibarakiさん

@Ibrahim_Ibaraki 儒教たんは、学級崩壊のクラスで「静かにしてください、静かにしてください」と言い続けて、評価されるどころか叩かれまくってる、かわいそうな萌え眼鏡っ娘です。
0件の返信 5件のリツイート 4 いいね
ニー仏
‏ @neetbuddhist
2012年12月22日

儒教たん「ふええ・・・なんでいつもみんな私のこと悪い意味で使うの・・・。まいにち治国平天下のためにがんばってるのに・・・(>_<)」
1件の返信 4件のリツイート 3 いいね
ニー仏
‏ @neetbuddhist
2012年12月18日

だから、世の人々が「天理」から乖離した生き方をしているのであれば、「則天去私」の人がそれにしたがわず、むしろ世に対して批判的になり、それを糾正しようと試みることは、十分にあり得るわけだ。儒教においても、仁人とは真に人を愛すると同時に、真に人を悪む存在であるともされている。(続)
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珍念玲奈一郎
‏ @Ibrahim_Ibaraki
2012年12月1日
返信先: @neetbuddhistさん

@neetbuddhist 遺体処理をどうしていたか、というのと、先祖祭司をどうしていたかというのはまた別の問題なんですが、もともと日本にあった他界観と儒教がいい感じにくっついて形成されたのは間違いないようです。
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ニー仏
‏ @neetbuddhist
2012年12月1日
返信先: @Ibrahim_Ibarakiさん

@Ibrahim_Ibaraki @Japane_Sudhamma やはり「先祖を祀る」というのは儒教が本格的に入ってきてからの話なんでしょうかね。それと、葬送儀礼ができる生活レベルも関連してそう。このあたりはさんざん研究があると思いますが、私はあまり詳しくないです(^_^;)
1件の返信 1件のリツイート 2 いいね
ニー仏
‏ @neetbuddhist
2012年12月1日

東南アジアにはそういう国がわりと多い。「家」とか「先祖」とかいったことを考えるのは、基本的には中国・日本・朝鮮といった、東アジアの儒教文化圏の話なのでしょうなあ。
1件の返信 6件のリツイート 9 いいね
ニー仏
‏ @neetbuddhist
2012年10月28日

儒教の根本的な典籍を「経書」といい、仏教でも「スートラ」の訳語として「経」を用いますが、これはもともと織物の「縦糸」を意味する。地球をタテに(南北に)輪切りにした線のことを「経度」というのも、そういうこと。そこから転じて、この語は物事の基本、根本義という意味をもつようになった。
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ニー仏
‏ @neetbuddhist
2012年10月26日

これに対して、「修身斉家治国平天下」が君子の道であるという筋を外せない儒教の徒は、上述したような仏教の主張を承知しながら、それでも士大夫(≒為政者)として生きる道を模索しようとする。その格闘の軌跡が表れているのが宋学以降の儒教であって、私がそこに興味をもつのは、それゆえです。
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ニー仏
‏ @neetbuddhist
2012年10月26日

「中行」は儒家の理想だけど、それはたいへん得難いものなので、過不及のところは認めつつも、孔子が次善の存在として「狂狷」を評価しているところに注意。儒教において徹底的に批判されるのは、孔子が「徳之賊也」と罵倒した「郷原」である。
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ニー仏
‏ @neetbuddhist
2012年10月17日

さいきん勉強の休憩時間にずっと宋明の儒教関係の本を読んでいて、まさに手の舞い足の踏むところを知らずといった状態であるのだが、これがなぜ面白いのかということを説明するには、モノスゲ面倒で長い説明が必要なので色々とアレ。
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ニー仏
‏ @neetbuddhist
2012年10月17日

それにしてもグーグル日本語入力で、「程伊川」はさすがに候補に出るものの、「程明道」は出てこないあたり、日本語のネット界ではあまり儒教の話がされていないのだなあと感じる。
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ニー仏
‏ @neetbuddhist
2012年10月17日

昨日ちょっと儒教の話をしたので、それ関係の本を少し読み返していたのだが、明道先生の「脈搏をおさえてみるとき、仁の何たるかは最もよく知られる」という言葉はいいなあ。
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ニー仏
‏ @neetbuddhist
2012年10月15日

「儒教的」という言葉が、「硬直化した上意下達主義」みたいなナイーヴな認識で使われるのもあんまり気に喰わないんだよなあ。四書も朱子も王陽明も読んでない奴らがなに言ってやがる、って思うよ。
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ニー仏
‏ @neetbuddhist
2012年10月1日

@masa3aki それは伝統的な儒教側の仏教批判ですね。ツイッターで語りきれるような話ではありませんので、荒木見悟先生の『仏教と儒教』、手軽なところでは、『仏教と陽明学』あたりをお読みになると、大筋はわかるかと思います。
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ニー仏
‏ @neetbuddhist
2012年9月25日

@ooo157 URL、いま開けないので後でゆっくり見てみますね。あと、繰り返し申し上げていますが、私はとくに自分の立場を「テーラワーダ」に限定しておりませんし、西洋哲学や儒教等の仏教外の思想に共感的であることも多いです。全ての思想について、是々非々でありたいと思っていますね。
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ニー仏
‏ @neetbuddhist
2012年9月10日

まあこれは儒教と仏教の典籍に関する「呉音・漢音」の選択問題のようなもので、究極的には慣用にしたがうしかない問題ではある。「五経正義」を「ごけいせいぎ」とは(多くの場合)読まないからにゃー。
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ニー仏
‏ @neetbuddhist
2012年9月3日

ちなみに私は、和辻哲郎以来の伝統にのっとって、儒教の「人倫」の読み変えとしての「倫理」を、主に使用することが多いです。「道徳(性)」と言うと、どうしてもカントのそれが思い浮かぶけど、日本人の行動様式について語る場合、それはどうにもそぐわないような気がするので。
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ニー仏
‏ @neetbuddhist
2012年8月18日
返信先: @onebodhisattvaさん

本当の本当の「元々」に戻すとすれば、墓場から死人の衣を剥ぎとって縫い合わせなければいけないわけですが、これは無理ですからねえ(^_^;) RT @onebodhisattva 元々は五正色(青黄赤白黒)を避けて…ってこれも儒教的だし元々ってどこなのか。
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しいたけ
‏ @onebodhisattva
2012年8月18日
返信先: @neetbuddhistさん

@neetbuddhist 元々は五正色(青黄赤白黒)を避けて…ってこれも儒教的だし元々ってどこなのか。 汗牛充棟という言葉をニー仏さんは良くお使いですが本当に源をたどりにくくて困る;;
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ニー仏
‏ @neetbuddhist
2012年7月26日
返信先: @marimoteiZさん

たしかにある意味で萌えの表白かもですw 仏教だけじゃなくて西洋哲学や儒教に対しても同じだけど。 RT @marimoteiZ 「上座部たん」とかの出てくる萌え擬人化本でもグッドトリップできます。僕は。


去犬
? @sati_wars
12月14日

今年は仏教・瞑想関連の本が豊作だった。発売順に挙げると、
①『慈悲の瞑想』スマナサーラ
②『感じて、ゆるす仏教』
③『なぜ今、仏教なのか』
④『慈悲の瞑想』グナラタナ
⑤『初期仏教』
⑥『あなたの脳は変えられる』
⑦『〈目覚め〉への3つのステップ』
などが特に良かった
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去犬
? @sati_wars
12月14日

特に実践者としては、②は仏教的ビジョンを持っていれば意識主導の修行から始めてもよいことを、⑥は脳科学を用いて瞑想で脳に何が起き・なぜ効果があるのかの理由を、それぞれ詳細な議論で説明していて、修行は長丁場ではあるがシンプルな実践をやっていけばいいのだと、改めて納得できたのがよかった
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去犬
? @sati_wars
12月14日

去犬さんが去犬をリツイートしました

瞑想限定の本ではなく、②は広がりがあるし↓、③⑥等を読むとアメリカ仏教の社会的インパクトを考えてしまう。マインドフルネスの担い手は多くが士大夫だろうし、道教の代わりにそれが入った修身(心の観察)の実践として、斉家治国平天下に繋がる米儒教になったりするのかな

去犬さんが追加
去犬
@sati_wars
『感じて、ゆるす仏教』第三章、“中動態”というワードが思い浮かぶ。瞑想は、限定された自由意志で自己自身に働きかけて“自由”を目指す、究極の再帰動詞的行為。数学や芭蕉の句のように、世界が世界自体を詠むような行為を“無分別の分別”と呼び、そこに現れるのが岡潔の言う“情緒”。なのか…
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去犬
? @sati_wars
12月14日

去犬さんが去犬をリツイートしました

アメリカ仏教、マインドフルネスは宗教色を排除していて、渇愛の滅尽までを目指しているわけではないだろうし、現世肯定的・利益的でそれは労務管理にも役立ってしまうものだから、仏教というよりはGoogleに代表されるエリートが士大夫となる新しい儒教になるのではないのかな

去犬さんが追加
去犬
@sati_wars
ネオリベ・ビジネス的マインドフルネスが嫌いとはいえ私が人に最初の一冊を薦めるとしたらグーグル出身/発のチャディー・メン・タン『サーチ・インサイド・ユアセルフ』なんだよな。本当にいい本で要は理解・使い方次第なのだけど。日本だと滅私奉公的な労務管理に悪用されやすい気がするか…
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ニー仏
? @neetbuddhist
2時間2時間前

たしかにマインドフルネスは、長期的には士大夫層向けの実践になってくるだろうと思う。仏教を現代において理解・再評価するということ自体がそもそも高度に知的なことだし、実践も基本はシンプルであるとはいえ、すぐ「結果」の出るようなものでもないので、恒心がないと続けていけないんだよね。
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プラユキ・ナラテボー(公式)@phrayuki
12月29日

ブッダと弟子による重要な問答
弟子「苦しみを生じさせるのは他者でしょうか?」
ブッダ「いいえ」
弟「では、私でしょうか?」
ブ「いいえ」
弟「では、偶然に?」
ブ「いいえ」
弟「では、苦しみなるものは無いのですか?」
ブ「いいえ、生じます。無明によって。そして滅します。無明の滅によって」


プラユキ・ナラテボー(公式)@phrayuki
12月30日
仏教の「苦」の定義は「思うようにならないこと」だ。
この事態を受け止められないと、抜本的解決のタスクは始まらないまま、咄嗟にその不快感を何かで紛らわそうとする意図が作動し、やけ食いやお酒、恋愛、ネットなどの報酬系行動が促され、やがてそれは嗜癖や依存症となって定着していくはめになる。

仏教瞑想の目的は「非二元」や「無」など特定の意識状態の達成ではない。
それらも特定の条件下において体験される現象のバリエーションの一つに過ぎない。そうした体験は有益ではあるが目的ではない。それらも含むあらゆる現象の縁起の洞察を通じて智慧を得、全ての苦悩から自由になることが目的である

プラユキ・ナラテボー(公式)
‏ @phrayuki
やる気が出ないのは、
『あれもしなければこれもしなければ』という思考アクション、
やるべきことの全貌を描くイメージアクション、
『やらないよ』という意志のアクションのせいだったりする。
とりあえずそうした行動を休ませて、
いま目の前のことを一つずつ行なう体のアクションを起こすといいかと思う


お読みくださり感謝(合掌)
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