【ご支援用⑤の資料かつ魔除け】『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』
Posted on 2021.10.31 Sun 21:03:41 edit
タイトルに「ご支援用⑤」とあるけど⑤はまだ完成していない。もうすぐ完成。完成したら告知します。
『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』のメモは本記事の後半にあるよ。前半部は大半が魔除けだよ。
10月31日だから魔除けを重視した記事だよ!
勃起!(魔除けの呪文)
魔除け記事をどうぞ。
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/1059940767270084610 と続き
”新ヤソがハロウィン推しの理由↓
トマトさん
”ドルイド教って言ってもアーリア系ケルトですからね。
イラン辺りの連中が東に行ったのがインド、
西に行ったのがケルトって線が強いかと。
アイルランド神話もトゥアハ・デ・ダナンは
海からやって来たと言ってるので元から島に居た連中じゃないですね。
ケルト神話のトゥアハ デ ダナーン自体が女神ダヌの息子達って意味ですし、ヴェーダにも女神ダヌいますよ。仙人の娘。”
〔中略〕
”Y染色体ハプログループの分布図…DNA分析によって、人間の
移動経路を特定しましょうという理論…
この分布図を見て欲しい。
〔中略〕
西ヨーロッパはイラン辺りからのアーリア系
遺伝子の流入が大半である事だ。
逆にロシア等のスラブ系や北欧は違う遺伝子
分布…。
これはアイルランド神話のトゥアハ・デ・ダナン神族
の入植を裏付ける事実となる。
何故ならダナン神族は”女神ダナの息子”という
意味で女神ダナ=ドナウ川の擬人化だ
と伝えられているからだ。
逆にユダヤ系列のセム系はアフリカ、中東の
外に出ていないことが分かる。
つまりセム人的影響よりもアーリア人的影響力の
方が西ヨーロッパでは強かったのではないかと
思われる。”
”古神道の世界観で有名な日ユ同祖論だが、
個人的には…あり得ないと思っている。”
以上
”今の支配層の本体である思想・システムの核は
バラモン・ゾロアスター教思想を
その子孫である耶蘇と新ヤソ神学で悪化させたもの。
悪化と書いたのは
本体に憑依されている運営役の人間は戒律を一切守っていないから。
奴隷は人じゃないから非殺生戒は破られないって?
でもあいつら肉食も性交もする等
禁欲しないし我欲とご都合主義が行動原理。
我執を滅するのは無理でも弱める修行すらしない。
ハロウィン等のたびに支配層の生贄思想と儀式殺人の話題が盛り上がるが生贄思想と儀式殺人の最大の原因が
教祖が生贄になったことに感謝するキリスト教正統多数派の教義と
バラモン教(ドルイド教の元ネタ)
なのは見事に
ユダヤ(なぜかユダヤ教徒ですらなく耶蘇か新ヤソ信者)、
悪魔崇拝、イルミナティ、
ケルト(アイルランド神話がケルトでなくなる等学会で大問題)等の異常な定義の言葉で覆い隠されているから工作は大成功。
…
支配層が18が好きな理由の一つがウパニシャッドにも登場するからだろう。
バガヴァッド・ギーターもマハーバーラタも18章から成る。
マハーバーラタ戦争は18日間続き
招集された軍隊の数の単位は18アクシャウヒニー。
マハーバーラタの別名ジャヤのジャは8、ヤは1を表す。
666と18は旧約のソロモン、新約の黙示録だけでなく
バラモン教とインド神話の意味も込められる数字。”
遺伝子分布、思想、言語等から
アイルランド神話(最新学説では非ケルト)のダーナ神族
=インド神話のダーナヴァ(アスラ神族)。
トゥアハ・デ・ダナン
=ダーナヴァ
=ダヌの子供達。
アスラ派は自然崇拝=文明否定=反デーヴァ。
ドルイド教もアスラ派も自然崇拝、バラモン教型輪廻、生贄肯定。
オルフェウス教(菜食主義などの禁欲で原罪を克服し輪廻から解脱)
と
グノーシス
(創造神は悪←ウパニシャッドの創造神は死=悪
神との合一←梵我一如
本体あり輪廻)
の元ネタも
プラトン(西洋哲学の根本)の輪廻思想もバラモン教。
『メノン』 ”魂は不死であり、すでに何度も生まれてきており…”
”
”禁欲しないし我欲とご都合主義が行動原理。
我執を滅するのは無理でも弱める修行すらしない。
ハロウィン等のたびに支配層の生贄思想と儀式殺人の話題が盛り上がるが生贄思想と儀式殺人の最大の原因が
教祖が生贄になったことに感謝するキリスト教正統多数派の教義と
バラモン教(ドルイド教の元ネタ)”
への返信が
https://twitter.com/kikuchi_8/status/1060552830757433347 と続き
”菊池
@kikuchi_8
返信先:
@kitsuchitsuchi
さん
スッタニパータに、仏陀がバラモンの生贄儀式を非難したり、そんな儀式は効果がないと否定する話が出てきます。ドルイド教には輪廻転生の考えもありますね。生贄儀式と輪廻転生で確かに酷似しています。あと、神官階級(バラモン、ドルイド)が社会の最上層に位置するという社会制度も似ています。
午前0:21 · 2018年11月9日·Twitter Web Client
イエスを犠牲にする事で人類が救済されたとする基督教の教義は生贄の論理そのものだと思います。新井白石が一笑に付した教義です。個々の宗教から論理を抽出してみるとその異同が明確になりますね。キリスト教はドルイド教と同様生贄の論理を持っています。バラモン教も。というか源流かもしれません。”
邪気を払うためにこれより魔除けを行う。
https://twitter.com/wolvesknow/status/1454431531238236167 とリプライ
”狼たちは知っている
@wolvesknow
神戸のこの辺りではね、地蔵盆というのがあってね。お地蔵さんにお参りに来た子にお菓子を配るんよ。なので子ども達はお地蔵さんをハシゴしてお菓子を集めるねん。
ハロウィンより、こっちが全国区になればええなと思ってる。お地蔵さんは子どもが大好きなんよ。ハロウィンの起源よりええやん。地蔵盆
午後9:54 · 2021年10月30日·Twitter for iPhone
tk
@tk_311_
返信先:
@wolvesknowさん
甲信越ですが、似たような風習があります。地蔵の周りに集まって鐘を打ち鳴らし、大人がお供物をする。お供え物をみんなで山分け。忘れていた記憶が蘇って嬉しい。
午後11:23 · 2021年10月30日·Twitter for iPhone”
(支配層が大好きな「邪視の象徴=目」は生殖器で対策できる)
ローマ神話の神プリアーポスは、牛飼の守護神であり、男性の生殖力の神ともされ、生殖と豊穣を司る神として、果物と巨大な陰茎を持つ姿で描かれている。古代ローマの人々は、邪視(イビルアイ)に対するお守りとしてファルス的な宝石を着けていた。 pic.twitter.com/fAE65R0RTs
— てすら (@Teslamk2t) August 3, 2016
少なくとも帝政初期頃のローマの子供や女性(性的に不完全と考えられていた者)は魔除けとして男根を象った首飾りをかけていたので、サンローランのネックレスはローマ文化を現代の欧州人が受け継いでいることの小差であり、ローマが滅びていないことを示しているな pic.twitter.com/mpiyebdywg
— 瑪爾斯可寒(マールス・カガン) (@kimovoticus) October 28, 2018
@amatlier
— 錆寝(さびね)@喘息&花粉症等メッセージマスク用スタンプ販売中 (@sabineko69) March 20, 2015
ティンティナブラムとか金精様とかも駄目なんでしょうね(´;ω;`)
そう言う人は一度くらい田県神社の豊年祭で耐性をつけた方が…
本当は興味津々だから過剰に卑猥に感じるだけだから( ̄▽ ̄;)
人類の半分はついとるわ pic.twitter.com/yNXnqL5q7h
飯坂温泉 八幡神社 「リンガ(陽根像)」ご立派ですね! pic.twitter.com/nNBtOT7teO
— 甚平さん【ゆるアナキスト】 (@tomomo_h) October 27, 2015
図像的に追うかぎり、道化帽は道化棒(フランス語marotte、英語bauble)より後で、初出は1212年、パリ公会議は司牧がマロットを持つ道化を副助祭として用いることを禁じているという(異貌の中世)。道化棒とは何か?「王杖のアレゴリーとみたい」(p.56)。 pic.twitter.com/yjbTRpIBgz
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) June 10, 2017
道化棒が陽根に淵源することは、諸家ほぼ一致して認めている。
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) June 10, 2017
球形の形状をしたものはギリシア語ὄρχις(睾丸)に由来する。orchis morio(阿呆の睾丸)という欄は、その根が似ているところからの命名という(ビリントン)。 pic.twitter.com/aT03lCRZ21
「伝統的に道化役者は殺された王の寓意である。……メダルの裏側のように王位の表すものの反対となる。すなわち〈生きたパロディ〉である」(世界シンボル大事典)。したがって、道化棒は王笏のパロディに他ならない。 pic.twitter.com/PnRk1Qm0kv
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) June 10, 2017
彼ら「野人」に共通しているのは、先の膨らんだ杖ないしは棍棒をアトリビュートとしたことである。
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) June 21, 2017
デューラーの描いた野人(1499年)。道化棒とよく似ていることに注意。しかし、本来は生木ないし根こそぎにした樹であった(右図)。 pic.twitter.com/Lp7kFs47tY
道化棒が生殖器に淵源することは既述したが、ῥόπαλονにもまた勃起した男根membrum virileの意がある。
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) June 22, 2017
ケンタウロスとヘーラクレース。前6世紀壺絵。 pic.twitter.com/y90O4CvT1t
そして道化棒が生杖であるかぎり、緑の葉が芽吹いているのは当然。しかし、このわずかな徴表が忘れられている版が多いように思う。 pic.twitter.com/LaHs56msDY
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) July 7, 2017
「愚者」札が2本の杖を持っているのはまことに意義深い。1つはῥάβδοςに淵源し、1つはῥόπαλονに淵源すると考えてよい。この交錯が、後の「道化棒」の発想を生んだであろう。 pic.twitter.com/7oJtW3nSqJ
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) October 1, 2018
ゴールデンカムイは学術書ではなく漫画なので、漫画的な改変がなされている可能性がある。
なので、この漫画のアイヌ語監修者にしてアイヌ文化研究の第一人者の解説書が読みたかったので読んだ。
特にトゥレンペについて正確なことが知りたかったからね。
ゴールデンカムイは面白いよ。尻臭さを感じなかった(単に私が当時のことをあまり知らないせいかも)。
アイヌではフクロウは善ぐらいかな。尻に都合が良い箇所は。
フクロウが非常に優遇されている『東京喰種』で主人公が北原白秋の詩『老いしアイヌの歌』を詠(うた)った理由だろう。
でも、ゴールデンカムイ(金カム、ゴルカム)では、主人公やヒロインの相棒がフクロウではないからな。ヒロインの相棒は狼と主人公。フクロウはほとんど登場しない。
「勃起の継承」で泣きそうになるとは思わなかった。
「勃起」には複数の意味があるがその内の1つが以下だ。
谷垣「そうだ… チカパシ 自分を奮い立たせて戦う…
それこそが勃起なのだ チカパシ!!」
(第96話より引用)
(この漫画はやたらとパロディが多い)
https://twitter.com/kemonofriends1/status/1258401502013480960
映画とは違いますが鶴見が部下に演説しているシーンはヒトラーが演説しているシーンと同じです pic.twitter.com/lamn6fAwR1
— くまナイ⛓ (@kemonofriends1) May 7, 2020
『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』(集英社)
中川 裕, 野田 サトル(描きおろしオリジナル漫画)『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』 (集英社新書)
p16から
(カムイは)よく「神」と訳される。
しかし、アイヌの伝統的な考え方では、表を歩いている犬や猫、庭にやってくるスズメやカラスはみなカムイ。
神様のお使いなどということではなくて、その一匹一匹がみんなカムイなのです。そればかりではない。
道端に立っている木も、その下に生えている草も、その間を飛び回っている虫たちも、基本的にはみんなカムイ。
家や舟や、鍋や茶碗などの食器類――つまり人間の作ったものもカムイですし、ガスコンロの火もカムイ。
火がカムイというのは、火を司る神様がいて、それが人間に火をもたらしたという意味ではない。
そこで燃えている火自体がカムイ。
カムイは人間をとりまいているほぼすべてのものを指している。
ただ、もう少し限定すると、なんでもかんでもカムイというわけでもなくて、この世の中で何らかの活動をしていると考えられ、
人間にできないようなことをするもの、人間のために何らかの役に立ってくれているものを、
特にカムイと認めているということなのです。
ですから、さすがに道端に落ちている石ころまでもカムイだと言いませんし、
カエルのようにカムイ扱いされず、積極的に嫌われているものもあります。
ただし、そういうカムイでも人間でもないものも含めて、すべてのものに魂があるというのが、アイヌ文化の基本的な考え方です。
「自然」と訳してもよさそうな気もするが、先ほど言ったように、家や舟、臼や杵、鍋や小刀といった人工物もまたカムイであり、
人間のまわりにあって、人間が生きるために何らかの関わりを持っているすべてのものを指しますので、「自然」ではやはりぴったりきません。
むしろ「環境」と言ってしまったほうがよさそうです。
アイヌとは「人間」を指す言葉ですが、アイヌの伝統的な考え方の根幹にあるのは、アイヌとカムイが良い関係を結ぶことによって、お互いに幸福な生活が保たれるということです。
カムイを「環境」に置き換えると、「人間」が自分をとりまく「環境」と良い関係を保てれば世界がうまくいくということで、私たちにとっても大変納得のいく考え方ですね。
動物たちは神の国では人間の姿をしていて
私たちの世界へは動物の皮と肉を持って遊びに来ている(2巻12話より)
p24から
あるいはシマフクロウという鳥は羽を広げると全長2メートルにもなる、日本最大のフクロウですが、コタンコロカムイ「村を守るカムイ」と呼ばれ、村に厄災が及ばないように監視する役目を負って、天界から村の近くの森に降り、その大きな目で夜中じゅう村を見守っているのだとされる。
(コタンコ「ロ」カムイの「ロ」は小さいロなのだがそう入力できない。
アイヌではフクロウが善なる存在)
シマフクロウをはじめいろいろなカムイたちが、人間の世界に禍が及ばないように気を配り、他のカムイとの仲立ちをして問題を解決してくれたり、あるいは危険が迫っていることを人間に知らせて避難させたりという物語が、数多く伝わっている。
p39から
悪いことをするカムイは人間に罰を与えられる
人間をおびやかすようなものもカムイではあるが、特別にウェン「悪い」という言葉をつけて、ウェンカムイ「悪神、魔物」と呼ばれる。
カムイが「神」とちょっと違うのは、人間とカムイは対等の存在であり、カムイが悪いことをしたら人間がバチをあてることもできるということです。
アイヌの思想では霊魂は不滅であり、霊魂の世界と肉体の世界(つまりこの世)を循環しているので、殺しただけでは退治したことにはなりません。この地下の冥府(テイネポクナモシリ「じめじめした下方の世界」)に落とすことによって、永遠に霊魂を封じ込めることができる。
(アイヌ語の表記で小さい「ク」や「リ」は本ブログでは表現できないので再現していない)
その地下の冥府に落とすのはカムイたちに祈ることで可能になるのだが、その祈りの力は、特別な能力者や司祭といった人たちではなく、男性なら(場合によっては女性も)誰でも発揮することができる。カムイは人間に言われたことには従わなくてはならないということもよく言われる。言葉というのはそれほどの重みを持つので、人間は言葉の力によってカムイと対等の立場に立ち、平安を得ることができる。だから男たちはみんな祈りの力――つまり言葉を駆使する力を磨いてきた。
p.44から
トゥレンペはあなたにも憑いている
2巻13話で、アシリパたちが捕ってきたカジカを、フチ(アシリパの祖母)が手に取って首の後ろに回す場面がある。
これは首の後ろの「ぼんのくぼ」にいる、あるいはそこから出入りしていると言われるトゥレンペ「憑き神」というものに見せているのだと、アシリパが説明している。
(うなじではないんだ
)
「憑き神」などというと、なにか迷信めいた、おどろおどろしいものを想像してしまうが、アイヌの伝統的な考え方では、これはアイヌだけではなく、人間だったら誰にでも憑いているものであり、人間の運命や行動をある程度制御している存在です。
アイヌは人間が自分の意志だけで行動しているのではないことをよく知っている。頭の中ではしてはいけないと思っていることをついしてしまったり、言うつもりでなかったことをつい言ってしまったり、あるいは危ない目にあっている人を見て思わず助けに行ったり。こうしたことをアイヌは、自分とは別の意志を持った存在が自分の中にいて、それが自分にそういう行動をとらせるのだと考えている。それは現代の言葉で言えば「無意識」とか「意識下」と呼ばれるもので、アイヌはおそらくずっと前から、そういうものを自分たちの世界観の中に位置づけてきた。
私(著者)にもちゃんと憑き神がついているそうだ。それはあるおばあちゃんのところにアイヌ語を学びに行っていた時に言われた。そのおばあちゃんによると、私に憑いているのは悪いカムイではないので安心しろということでした。そして「お前が私のところにアイヌ語を覚えに来たのは、お前が来たくて来たんじゃない。お前の憑き神が習いたくてお前を来させたんだ。だから、私はお前ではなくお前の憑き神にアイヌ語を教えているんだ」と言われた(註5)。
p.252
”註
〔中略〕
5 中村裕『アイヌ語をフィールドワークする』大修館書店(一九九五年)”
ちなみに、コミックスではよくわかりませんが、アニメ第4話のこの場面のフチの動作は、そのおばあちゃんが実際に私の目の前で見せてくれた仕草に基づいている。私がアイヌ語を教わった謝礼として出したわずか3枚の千円札を、最初のうちおばあちゃんは固辞していたのですが、しまいに首の後ろで左から右へと手を回し、一枚一枚丁寧に襟首のあたりにかざして受け取ってくれました。その仕草を、こうして映像として再現できたことを、私はうれしく思っている。
(
『ゴールデンカムイ』2巻13話でのトゥレンペの説明は以下の主旨である。
(ヒロインの祖母〔フチ〕が首の後ろの)自分の守り神にお供えしてる。
人に何か貰ったら憑(つ)き神におすそ分けするんだ。
憑き神は首の後ろから出たり入ったりしてる。
『トゥレンペ』といって人間は誰でも産まれた瞬間に守り神が憑くと考えられている。
トゥレンペは火や水や雷 狼や熊などの神様で
人によって違うものが憑く。
人の能力や性格が違うのもそのせいだといわれている。運命も左右する。
アイヌの中にはそれが見える人もいてフチはちょっと見える。
杉元(主人公)はとても強いトゥレンペが憑いているって。
杉元「へぇ… 俺が不死身と言われるのも守り神のおかげかもな」
)
(うなじではなくぼんのくぼなのね。後頭部と書くとどのあたりかわからないな)
夢は現実
アイヌの伝統的な考え方では夢は「現実の一部」であり、夢を見たからこそ、これは本当のことなのだということなのだ。
夢はカムイが人間と交信するために送ってくるメッセージだと考えられているわけで、だから夢に見たことは現実の一部なのだ。
p50から
カムイは汚いものが大嫌い
ところで、すべてのカムイに共通する最大の弱点を教えましょう。カムイは、いいカムイでも悪いカムイでも、汚いものや臭いものが大嫌いということです。ただ嫌いというようなことではなく、ひどい時には臭い匂いをかいだだけで死んでしまう。ということで、アイヌはウェンカムイを退けるためにいろいろ臭いものや汚いものを利用した。
トイレにもまたカムイがいるのだが、このような強烈な匂い(原文ママ)のするところにいつもいるのですから、かなり強力な力を持ったカムイであり、幸いなことに人間の味方です。
p73から
言葉は力
「名前」が持つ特別な力
アイヌの子供への名前の付け方にも、いくつかのルールがあった。その一番強い制約が「同じ名前をつけてはいけない」ということ。誰と同じ名前をつけてはいけないのかというと、自分たちが知っている人たちということですが、その中には亡くなった人も含まれる。亡くなったおじいさんの名前を自分の子供につけるというような例は、いろいろな民族に見られるが、アイヌではそれはやってはいけないことのほうに入る。何とかジュニアなどというのは論外ですね。
同じ名前をつけてはいけない理由は、恩恵も災いも、郵便や宅配便のように名前によって届けられるからで、悪いカムイが同名の人と間違えて、自分に災いを送ってくる可能性があるからだ。
(
恩恵も災いも、郵便や宅配便のように名前によって届けられるというのは魔術的に重要。本名を魔術師に知られてはならない。だから魔術師は自分で本名を作ったりして対策する)
言葉を重んじるアイヌが、同じ名前は災いのもとと考えたのには、深くうなずかざるをえない。
先祖供養の儀式でお供物が供えられるが、その時にかならず送り先の先祖の名前と送り主の自分の名前を口に出して唱える。そうしてないと、あて先不明で相手のもとに届かないことになってしまう。したがって、亡くなった人の名前を覚えておくというのは非常に重要なことであり、名前を忘れられてしまうとどこからもお供物が届かなくて、あの世でひもじい思いをすることになります。もっともちゃんとそれに対するケアもあって、「今、名前を呼ばれなかった人」と呼びかけて送るということもできるので、アイヌのルールはけっこうフレキシブルで人間的なものです。
名前は大きくなってから
アイヌの名前の付け方で、もうひとつの大きな特徴は、生まれてすぐにはつけなかったということだ。
生まれてすぐどころか、六つか七つぐらいになるまでつけなかったという話もある。
そのぐらいになって、性格とか能力とかがはっきりしてきた時に、その子の性格や、その子に関係した出来事などに基づいて名前がつけられたと言われている。
(
やはり「生まれてすぐに軽々しく名前をつけない+改名が普通」方式がいいよね)
ワッカ「水」
(子供に汚い名前をつける実例が紹介される)
なぜこんな汚い名前で呼ぶのかというと、カムイは汚いものが大嫌いなので、子供たちがカムイに気に入られて魂を取っていかれないように、わざと汚い呼び方で呼ぶ。
小さい時に体が弱かったり、あるいは兄弟が幼くして亡くなったような家では、正式の名前としてわざと汚い名前をつけたりすることがある。むしろ、あまり良すぎる名前――たとえばえらいカムイの名前をつけたりすると、「名前負け」して名前のほうに命を取られて早死にしてしまうということも言われる。
p81から
ついでにチカパシも野田先生が見つけてきた実在の人物の名前です。
チカプ(小さい「プ」)は「鳥」 アシは「立てる」で、「鳥を立てる」というのが直訳だが、
これではなんのことだかさっぱりわかりません。
実は野田先生が参照した文献には「陰茎の怒張」という訳がついています。
その文献にはそれ以上のことが書いていないので、その人物がどうしてそのような名前をつけられるに至ったかのかという状況はわかりません。
(
調べたら「怒張」ではなく「怒発」だった。
野田サトルのブログ
チカパシについて
7/7/2016
https://723000451898910026.weebly.com/125021252512464/4643160
"
チカパシという名前は本編で「陰茎を立てる」という和訳を採用したが
本来は チカプ=鳥 という意味で、陰茎というのは暗喩だ。
吉田巌氏「アイヌ史資料集」の中に
「珍奇な名前」としてチカパシは取り上げられており
その本での和訳は
[中略。画像省略。画像では
「チカパシ 陰茎の怒発」
]
見た瞬間「いい名前だ」とつぶやいた。
まさに勃起じゃないか。ぜひ谷垣と引きあわせたいと思った。
”
)
p91
立ったままクマに向かって話しかけるというのはかなり有効な対処法のようです。逃げたところで、クマの方が速いのは明白ですし、死んだふりも木に登るのも意味はないそうだ。
動物は目の高さで相手の大きさをはかるのだろうで、四足で歩いているクマからすると、二本足で立って歩いている人間の目はかなり高い位置にあり、クマにとって人間はすごく大きな動物に見えるらしいのだ。それでクマのほうも人間が怖いので、立ち上がって相手より自分のほうを大きく見せようとしている。そこで人間が逃げ出すと、「あ、なーんだ、こいつ弱いんじゃん」と思って、追いかけてくるわけです。
ところが立ったまま逃げもせずに何か言葉を発していると、クマにとってはとても不気味な存在に映るので、すきがあれば逃げようとする。このように、言葉は本当に武器にもなる。もっとも、子連れの母グマは子供を守るために必死なので、そんなことは通用しないから、山の中で子グマを見かけたら、母親に見つからないうちにさっさと逃げたほうがいいと思います。
地名は土地の歴史を伝える
p112から
物語は知恵と歴史の宝箱
困った時の参考書ウエペケレ(レは小さい)
ウエペケレは日本語でいえばまあ「昔話」というのにあたりそうだが、「昔話」という言葉にはどうも語り手も聞き手も本当のことだとは信じていない作り話だというニュアンスがある。しかし、ウエペケレは本当にあったことだと考えられていたというのが重要なポイントなので、ちょっと昔話とは訳しづらいところがある。そこで私は「散文説話」と呼ぶことにしている。
つまり、ウエペケレというのは、当時のアイヌの人たちにとっては、他の地域の、あるいは昔あった実際のニュースを伝えたものだという意味だったようだ。
p143
すべてのものには魂がある
伝統的なアイヌ民族の考え方は「自然との共生」というようなものではない。自然だけではなく、自分たちをとりまくありとあらゆるものとの共生です。その中核にあるのは、カムイでも人間でも、それ以外のものでも、みんなラマッ「魂、霊魂」があり、人間と同じ人格を持った存在だということだ。そして私たちが暮らしているこの世界では、すべての魂は基本的に肉体の中に入っている。それだから私たちの目に見える。
カムイは本来魂だけの姿でカムイの世界にいて、そこから人間の世界にやってくるわけですが、そこに戻るときにも肉体を離れて魂の姿になって戻らなければなりません。それも自分の力で肉体から抜け出すことはできず、人間の手で開放してもらわなければならないことになっています。それが狩猟であり、木を切ることであり、山菜を採取することであるのです。
参考資料
『ゴールデンカムイ』監修者がおすすめ アイヌ文化を知る厳選12冊
https://book.asahi.com/jinbun/article/13324324
勃起!(魔除け)
お読みくださり感謝!
『妻を帽子と間違えた男』は創作ネタの宝庫。「左」という概念を失った人はジョジョのウェカピポの元ネタ。レーガン大統領の演説が嘘だと見抜いた失語症患者と音感失認症患者
Posted on 2021.10.01 Fri 19:52:38 edit
『妻を帽子と間違えた男』
”彼は手をのばし、彼の妻の頭をつかまえ、持ちあげてかぶろうとした。妻を帽子とまちがえていたのだ! 妻のほうでも、こんなことには慣れっこになっている、というふうだった。”
p.33
忘れにくいし見逃しにくいタイトルが完璧。
妻を帽子と間違えた男を最初に載せているから掴みは完璧。
「あれが私の足かな、そうでしょうか?」あたりで傑作だと確信できる。
自分の足に「あれ」だからね。「これ」ではなく。
足は取り外せる義足でもないし、本人はロボットでもない。
自分の足と靴を間違える男でもある。
文庫版の表紙のイラストが面白い。
左側の人の頭に帽子があるのだが
その帽子が小さな人。
妻を帽子とまちがえた男の頭に妻が帽子となってかぶさっている。
本ブログ読者の多くが興味を持ちそうな個所↓
動画の音声を消して口や手の動きだけを見るのはオススメの観察法。訓練を受けた工乍員かどうか多少は判定可能。
”「大統領の演説」は左側頭葉の障害によって起きる失語症患者が、当時のレーガン大統領の演説を聞いてどっと笑ったというエピソードである。失語症患者は言葉を理解できないから、言葉によって欺かれることはない。そのかわり声のあらゆる表情によって嘘をついているかどうかわかるということだ。つまりこのときの大統領の演説は偽りだらけだったというわけだ。
また右側頭葉の障害によっておこる音感失認症という患者は、単語は理解できるが、声の表情や調子を理解できないそうだ。その患者に同様に大統領の演説を聞いてもらったら
「説得力がないわね。文章がダメだわ。言葉づかいも不適当だし、頭がおかしくなったか、なにか隠しごとがわるんだわ。」
と言ったそうだ。健康な人がだまされて、脳に障害を持った人が騙されないとは、なんとも逆説的なことだ。これを利用して日本でも毎回選挙前に候補者の演説を失語症と音感失認症の患者に聞いてもらえば、彼らが嘘を言っているのかどうかわかり、常に正しい判断ができるのではないか。”
妻を帽子とまちがえた男 みんなのレビュー
https://honto.jp/netstore/pd-review_0600834736.html
https://twitter.com/alucaje/status/858260936783667200 とその続きより
”雅
@alucaje
『妻を帽子と間違えた男』を読んでる。サイバーパンク感が凄い。左足だけ自分の体へだと思えなくなった人とか、全身の感覚が消えて百鬼丸状態になった人とか、19歳以降の記憶が3分しか保たない人とか、盲目の人が還暦を過ぎ初めて手の知覚を獲得する話とか…。
午後7:05 · 2017年4月29日
タイトルは昔から知ってたけど、こんなSF的な読み物だとは思わなかった。人間の認知が神経を少し損ねただけでグチャグチャになるものなら、自分が見てる世界も他の人と全然違うんじゃないかと思えてくるなぁ。
『妻を帽子と間違えた男』より。義肢をつけて上手く歩くために、毎朝無くなった脚の幻肢を“起こす”って、なんかゾクゾクする。 pic.twitter.com/VUfYAtXVYv
— 雅 (@alucaje) 2017年4月29日
『妻を帽子と間違えた男』にウェカピポのスタンドが出てきた。元ネタかもしれない。 pic.twitter.com/5PmsbjBSr3
— 雅 (@alucaje) April 29, 2017
”
有名な本っぽいので調べるといろいろ書評がヒットする↓
妻を帽子と間違えた男 - 日々の読書を糧にして-備忘録と駄文感想
http://d.hatena.ne.jp/deku_dec/20150228/1425073027
オリヴァー・サックス - 妻を帽子とまちがえた男 - Close to the Wall
http://d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/20091215/p1
オリバー・サックス著『妻を帽子とまちがえた男』
なぜ妻を帽子とまちがえるのか、オリバー・サックスの症例P
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n307/n307013.html
・p.30から 妻を帽子とまちがえた男
Pはすぐれた音楽家だった。
長年声楽家としてよく知られ、それからあと、
地方の音楽学校で先生となった。
生徒の顔を見ても誰だかわからないが声で誰だかわかる。
相手もいないのに誰かそこにいるかのようにふるまいはじめた。
消火栓やパーキングメーターを見ると、
子供たちの頭であるかのようにそれをぽんとたたく。
家具の彫り物にむかって愛想よく話しかけ、
応答がないのでびっくりしているふうだった。
彼の音楽的才能は、依然としてすばらしかった。
糖尿病になって、糖尿病だと眼をやられるから
眼科医へ行った。
眼はまったくなんともないが
脳の視覚系の部分に異常があるので脳神経の専門医のもとにいくよう言われた。
Pは私(著者)のところへくるようになった。
彼は通常いわれる精神異常はなんら認められなかった。
たいへん教養があり、魅力的で、話すことはまとも、
会話もよどみなく、想像力もユーモアも十分ある。
だが、彼の顔はたしかにこちらを向いているが、
私に注意をはらっているのは耳であって、眼ではない。
ふつう相手を見るような眼つきではない。
視線はつぎつぎ移って、私の鼻、
右の耳、顎、右眼にいったりする。
顔を全体として把握することもなく
表情をくみとろうとする様子もない。
神経学的検査のうち腱反射で彼の左の靴をぬがせて、
足の裏を鍵でちょっと掻いた。
これは腱反射を調べるためにかならずやることだった。
それがすむと靴をはくようにと言ったが
一分たっても彼は靴をはきおわらない。
彼は下を見つづけていたが靴を見ていなかった。
熱心に見つめているけれど、ちがうところを見ていた。
視線が足に定まった。
「あれが私の足かな、そうでしょうか?」
足を手で触って
「これ、私の靴ですよね、違いますか?」
著者(サックス)
「ちがいます、それは足です。靴はあっちです」
「あっそう、あれは足だと思ってた」
私は手を貸して靴をはかせた。
彼の視力はよかった。
床の上の針でも難なく見つけた。
ただしときどき、彼の左側に置いてあると見逃すことがあったけれど。
著者は『ナショナル・ジオグラフィック』誌をひらいてどんな写真があるか言ってもらった。
彼の眼は写真から写真へとつぎつぎに移ってゆく。
著者の顔を見ていたときと同じように
ちょっとした特徴や固有の特徴はちゃんと見ている。
とりわけ明るく輝いているものや色彩やかたちには敏感。
だがけっして場面全体をとらえてはいない。
全体として見ることはできない。
ひとつの写真を見ても全体とどう関連するかはわからない。
顔の表情までは読み取れない。
風景や情景として理解できない。
見渡すかぎりサハラ砂漠がひろがっている写真を見せると
「川が見えます。
川のほとりにはテラスのあるゲストハウス。
テラスの上で人々が食事をしています。
いろんな色の日傘(パラソル)があちこちに見えます」と答えたが
彼の視線は表紙の上になかった。
空中を向いていて、
見えもしない川やテラスや日傘などを勝手に想像しているかのようだった。
彼は立派な答をした気になっていて微笑がうかんでいた。
テストは終了したと思ったのだろう、
帽子をさがしはじめていた。
”彼は手をのばし、彼の妻の頭をつかまえ、持ちあげてかぶろうとした。妻を帽子とまちがえていたのだ! 妻のほうでも、こんなことには慣れっこになっている、というふうだった。”
p.33
P夫妻の自宅にて。
Pは握手のために手をさしだしながら、壁の掛時計のほうに向かって歩きかけたが
著者の声を聞くと向きを変え著者のところへ来て握手をした。
Pに歌ってもらった。
完璧な耳と声。するどい音楽的知性。
音楽学校が慈善から彼を雇っているのではないことは明らかだった。
彼の側頭葉にはなんら異常はなかった。
音楽にかんする皮質はきわめてすぐれていた。
頭頂部と後頭部がつぎに問題になる。
とくに視覚に関する部分。
立方体、十二面体といった抽象的なかたちだったら問題ないのだ。
トランプのジャック、クイーン、キング、ジョーカーをちゃんと見分けたが
きまりきった図案みたいなものだ。
ひとつひとつを顔としてとらえているのか、
それともたんに型として認識しているのか、それは判断がつかなかった。
似顔絵の本を見せたが特徴を見つけると誰だかわかった。
しかし似顔絵も形式的・図式的といえる。
音が聞こえないようにテレビをつけると映画のラブシーンのところだったが
彼は女優と相手の顔の表情を見てもそれが何をあらわしているか
まったく理解できなかった。
それは激しい場面(シーン)で情熱、驚き、嫌悪、怒りが交錯して
最後におだやかな和解にいたるのだったが彼にはそれらがぜんぜんわからない。
男なのか女なのかもはっきりしない。
われわれがいた部屋のどの壁写真を見ても誰だか彼はわからなかった。
彼自身の写真でさえだめ。
アインシュタインの写真はわかった。例の特徴ある髪と口ひげで見わけがついた。
ほかに一人か二人おなじような理由からわかるのがあった。
角ばった顎、大きな歯は認識できる。
あきらかな特徴がない場合には彼はまったくお手あげ。
知覚能力の欠陥ばかりではなく
態度が根本的におかしい。
抽象的な判じ物かテストをやらされるときのような態度。
自分とのかかわりをなんにも感じていない様子。
じっと見ていない。
見おぼえのあると感じている様子がぜんぜん見られないし、
顔の特徴からわかろうとする努力も見られない。
どの顔を見ても、「あなたは」ではなくて、「それは」でしかないのである。
すべては形式的・外面的で、人間らしいところがまったく見えないのである。
さらに、顔にはなんの表情もあらわれず、
およそ感情の表出などゼロだった。
普通われわれだったら、顔は人だと思って見ている。
顔のむこうには人間があって、
それがこっちを見ているのだと考える。
しかしPの場合は、写真の中に人間は存在していないかのようなのである。
彼にバラの花をさしだすと
とても花をもらった人間とは思えぬ態度で
標本を見せられたときの生物学者か形態学者のような感じだった。
「約三センチありますね。
ぐるぐると丸く巻いている赤いもので、
緑の綿状のものがついている」
匂いをかぐよう著者が言い、かぐとバラだと気づいた。
片方の手袋をとりあげて「これは何ですか」とたずねると
「表面は切れ目なく一様につづいていて、
全体がすっぽりと袋のようになっていますね。
先が五つにわかれていて、
そのひとつひとつがまた小さな袋ですね。
袋と言っていいかどうか自信はないけれど」
著者「体の一部をこのなかへ入れるでしょ、どうです?」
わかったぞ、という表情の兆しはぜんぜん見られなかった(1)。
彼は何を見ても卑近な物として受け入れることができなかった。
目のまえに物を見ながら、彼は生命のない抽象の世界に没しきっていた。
実のところ彼には、視覚の世界はなかったのである。
彼が住んでいるマンションに北側からやってきた場合を
想像するなり思い出してもらい、
途中にどんな建物があるか言ってもらうと、
右側はすべて列挙してみせたが
左側はひとつも答えられなかった。
今度は南側から歩いていく場合を想定しておなじことをやらせてみても
右側の建物しか答えなかった。
前回口にしなかった建物が今度は列挙するなかにちゃんとはいっている。
そして前回見えていたはずの建物のことはひとことも言わない。
左側のものは見えないこと、
左方向の視野に欠陥があることは明らかとなった。
それは記憶や想像力の世界にもおよんでいた。
『アンナ・カレーニナ』について質問すると
物語の筋もみな思いだせた。
だが視覚にうったえる特徴や視覚的な挿話や情景は完全にぬけ落ちていた。
口にすることばはおぼえているが顔は思い出せなかった。
おどろくべき記憶力の持ち主で、ある一節を逐一暗唱することさえできたけれど
そのなかに視覚的な表現があっても彼はなにも感じておらず
感覚的・情緒的にもリアリティは認識できないのだった。
かくしてこれもまた一種の失語症ということになるのだった(2)。
顔とか情景、具体的イメージをともなう話やドラマの場合にかぎり、
視覚化能力の欠陥を見せる。
図式能力はある。
頭のなかでチェスをやらせてみたところ
チェス盤や駒の動きは難なく思いうかべることができ、
ゲームはおそろしく強くて、
私など打ち負かされてしまうのだった。
Pはふんふんと鼻歌(ハミング)をうたいながらケーキをむしゃむしゃ食べ
そのあいだもひっきりなしに歌は続いていたが、
はたと止んだ。
ドアがどんどんとたたかれたのだ。
Pは凍りついたように動かなくなった。
どうしていいかわからないといったようすで
まったくうつろな表情と化した。
奥さんがコーヒーをつぎ、香りが彼の鼻に達したとたん、
彼は現実にたち返り、ふたたびハミングとむしゃむしゃがはじまった。
著者は奥さんに日常生活についてきくと
「さっきの食べるときとまったく同じです。
着るものはわたしがいつもきまった場所に置いておきます。
主人は自分でちゃんと着ます、歌をうたいながら。
何をするときもひとりで歌をうたいながらやるんです。
でも、もし途中で何か邪魔がはいって中断させられ、
糸を見失ってしまうと、完全に止まってしまう。
着るものがどれだかわからなくなってしまう。
自分のからださえわからなくなってしまうんです。
年がら年中うたっています。
食べるときも歌、着るときも歌、
お風呂にはいっても歌。すべて歌です。
うたいながらでなければなにもできません」
彼は絵も描く。
はじめのころは自然主義的リアリズムで
だんだん具体性が欠けてきて写実的でなくなってきているが
抽象画ではない。幾何学的でもキュビスムでもない。
ごく最近になるとナンセンスになっていた。
線は混沌で絵具がぽたぽたついているにすぎなかった。
リアリズムから非写実へ抽象主義へと変わってきていた。
そこに見られたのは芸術家の成長ではなく病気の進行だった。
Pは生涯の最後まで生徒に音楽を教えつづけることができたのである。
Pと似た症例の人も自分の妻がわからず、
わかるためには妻のほうがなにか目じるしをつける必要があったという。
「身につけるものではっきり目立つもの、がよかった。
たとえば大きな帽子、といったように」
この人は鏡にうつった自分が自分だとわからなかった。
しかめつらをしてみたり、舌をつきだしたりして、
子細に観察してはじめて彼はそれが自分であることに気がつきはじめるのだった。
瞬時ではなく徐々に理解していくありさまだった。
(1)彼は後にこれは手袋だとわかった。
ここで思い出されるのは
クルト・ゴールドスタインの間者ラヌーティである。
彼は、品物を目の前に置かれてもなんだかわからず
それを実際に使ってみようとしてはじめて認識できた、という。
(2)Pは画像をつくる上で重要不可欠な視覚皮質にまさしく欠損があった。
彼は夢を視覚的に見ることができなかった。
夢が告げるものはすべて非視覚的なかたちで伝えられた。
Pは生徒がじっとすわっていると誰だかわからなかったそうだ。
イメージとしては把握できないからだ。
しかし生徒がからだを動かすと動きですぐにあてたそうだ。
視覚的失認症の症例はかなりたくさんある。
(Pさんは目が超悪いと言っておけばかなり誤魔化せそうだと思ったが
靴と自分の足を間違えるほどだから誤魔化せそうにないな。
もしかしてPさんも左側にわずかな失認がある?
著者は録音したりしているのだろうか?
これだけ発言を詳細に覚えておけるものだろうか?)
p.139から
よみがえるファントム
義肢の使用にあたっては、幻影肢の有無はひじょうに重要である。
下肢が義足の場合、安心して歩けるためには、そこにファントムがあることが必要であろう。
いわゆる身体イメージというものがその義足の部分にぴたりとおさまって、
一体化したように感じられなければ、満足に歩くことはできないのであろう。
ミッチェルが記すところによると、
腕神経叢に感応電流療法を試みたところ、二十五年間消えてなくなっていたファントムの手がとつぜん「復活」したという。
私の経験でもつぎのような例がある。その患者は毎朝ファントムを「起こす」のである。
朝起きるとまず、切断したあと残っている大腿基部を手前にむかって屈曲させ、
次にそこをはげしくたたく。赤ん坊のお尻をたたくように、数回ピシャピシャとやる。
五回か六回たたいたところで、とつぜん幻影肢が、この末梢性刺激によってにゅっと生えてくる。
生える速さといったら電光石火、一瞬のうちである。そうなってはじめて彼は義足をつけ、
歩くことができるようになる。
・p.154から 右向け、右!
S夫人は六十代の教養ある婦人である。
重い脳卒中のため右脳の深奥部がおかされたが、
知能はまったく損なわれず、あいかわらずユーモアもあった。
コーヒーやデザートが自分のお盆にくばられていないと文句を言う。
「でも左側にある」と言われても腑に落ちないようすで
左を見ようとしない。
看護師が彼女の頭をそっと動かしデザートが右半分の視野に入ってくると
「あら、そこにあるわね。前はなかったのに」と言う。
自分のからだについてもまわりのことについても「左」という概念をまったく失ってしまっているのだ。
口紅をつけたり化粧をするとなると、顔の左半分をまったく忘れている。
左のほうには注意がむかないから、これはどうしようもないのである。
自分がおかしなことをしている認識がない。
そのような行為はおかしいことだと頭ではわかるし、笑うこともできる。
しかし自分自身については人に言われるまではまったく気がつかない。
多分おかしなことをしているのではないかと考えて、彼女は自分の無感覚に対処する方法を考えだした。
直接左を見ることはできないし、左へむくこともできないから、できることといえば、まず右をむいて、
それをくり返してくるりと一周することである。
そこで彼女は回転する車椅子を用意してもらった。
そこにあるはずの物が見つけられないと、彼女は右まわりに一周する。するとそれが視野に入ってくる。
コーヒーやデザートが見つからないときには、この方法が大変よいことがわかった。
自分の分が少なすぎると思ったら、右に目をこらしながら右に回っていくと、前には見えなかったものが見えてくる。
そこでそれを(正確にはその半分を)食べる。だがまだ食べたりない気がしたり、食べのこしの半分しか食べてないことに思いあたると、彼女は残りの四分の一が視野に入るまでもう一度回転する。そしてまたその半分をたべる。普通はこれで十分である。
結局、彼女は八分の七の分量を食べたことになる。
だがとくに空腹だったり、気になって仕方がないときは三回目をまわって、あと十六分の一を手に入れる。
もちろん、皿の左側にある十六分の一は残ることになるが。
「ばかばかしいわ」「ゼノンの矢になったみたい。けっして目的地にはつかないんだから。滑稽にみえるだろうけれど、他にはどうしようもないんですものね」
彼女自身がまわるより皿をまわす方がずっと簡単に思われるだろう。
彼女も試してみた、少なくとも試そうとした。
おかしなことだが、それはむずかしいのである。
自然というわけにはいかない。
椅子ごとまわった方が自然である。
いまの彼女は本能的に右を見てしまうし、
右に注意がむいてしまう。
自然な動きにしろ衝動的動作にしろ、
本能的に右向きになってしまうのだ。
彼女のために顔の左半分が右側にうつる「鏡」がつくれないものかと考えた。
つまり、向かい合っている人が彼女を見るようにうつる鏡である。
カメラとモニターをすえてビデオで試してみた。
彼女は画面の右側に顔の左半分を見ることになった。
ビデオ画面を見て髭を剃ったことのある人ならわかるが、
それは正常な人にとってもまぎらわしいことである。
彼女にとっては二倍もぞっとする経験で、
不気味なことこの上なかった。
彼女が見ている顔やからだの左半分は脳卒中のため
無感覚、無表情で、存在しないも同然だったからだ。
鏡を見ても左側が見えないため、ビデオカメラを経由して左右反転した映像を当人に見せたところ、
「これを片づけて!」と、悲しそうに当惑したようすで彼女は叫んだ。
この試みもそれまでとなった。
物理的にも心理的にもたいへんな問題をはらんでいることがわかったのである。
(ゼノンの矢右だけおばあさん。
病識がない人にその人の病を見せつけることは危うい。
片側失認の人は化粧も片側しかできない。
片側失認の人は失認の場所あるいは方向が異次元だとか思わないのかと思ったが
存在自体を意識しないからそれについて考察自体もできないのだろう。
異次元からのエイリアンと戦っているなどとは思わないだろう。
そういえばエイリアンハンド症候群(Alien hand syndrome 他人の手症候群)という
自分の意思とは関係なく手や腕が動いたり、動かなくなったりする症状がある。
エイリアンハンドシンドローム
http://akademeia.info/index.php?%A5%A8%A5%A4%A5%EA%A5%A2%A5%F3%A5%CF%A5%F3%A5%C9%A5%B7%A5%F3%A5%C9%A5%ED%A1%BC%A5%E0
” エイリアンハンドシンドローム(alien-hand syndrome)とは訳すると「他人の手症候群」とも呼ばれている。
古典的には、半側身体失認などの認知面を強調した、次の3徴候が挙げられる。
感覚障害が無いのに一方の手が他方の手を自己に所属すると認識できない(見ないと自分の手だということがわからない)
一方の手の動きが自己の制御下にないという感覚を言葉で訴える
手の人格化
だが現在では一方の手が自分の意志とは無関係に、あたかも他人の手のように、あるまとまった運動をするという点が重視され、定義も次のようになった。
一方の手が意志による統制から離れて動き、もう一方の(意思に従う方の)手や言葉で表現された患者の意思との間に乖離が生じた状態
↑
道具の脅迫的使用現象と他人の手症候群 †
『縮刷版 精神医学辞典』(弘文堂)H13.11.30初版1刷にエイリアンハンドシンドロームがなかったので、関連すると思われる事柄を調べてみた。
↑
道具の脅迫的使用現象 †
道具の脅迫的使用現象(compulsive manipulation of tools)は、右手が目の前に置かれたものを意志に反して脅迫的に使用してしまい、左手が意志を反映してこの運動を押さえるという現象のことである。
例えば、患者の前に櫛を置いた場合、右手は意志に逆らってこれを持って髪をといてしまう。道具を使用しないでいるためには、左手が櫛を取り上げるか、左手が右手を押さえつける必要がある。
右手には必ず強い把握反射や強制把握を伴っている。このため、右手は道具を使用しようとするわけだ。左手に見られる目的不明の不随意運動である他人の手徴候とは区別される。
左前大脳動脈領域の脳梁で、左前東葉内側面(前部帯状回、補足運動野)と脳梁膝部の病巣に伴って観察されている。
道具の脅迫的使用現象は、病的把握現象の延長線上に位置付けられ、運動の抑制機構の障害によって、視覚刺激あるいは接触刺激に伴って、左半球内にある道具使用に関する運動のシークエンス(エングラム)が触発されて、右手に運動が表れたと考えられている。
運動の抑制機構が保たれている右半球、即ち左手は右手の動きを抑制するように働く。
↑
他人の手徴候 †
他人の手徴候(alien hand sign)の記載は、Brionら(1972年)の仏語論文に始まる。しかし、この原著における他人の手徴候(le signe de la main etrangere)の症候内容は、後に英語圏で使われる他人の手徴候(alien hand sign)とは異なっている。原著における他人の手徴候は、背中に手を回し、左手を右手で掴んだ時に、左手が自分のものではないと感じる減少とされ、脳梁病変による体性感覚に関する半球間離断症状(interhemispheric disconnection syndrome)と考えられている。英語圏あるいは日本における他人の手徴候は、左手が他人の手のように、不随意で無目的な動作を行う現象を指し、後遺障害(behavior disorder)の中で捉えるべき症状であり、この点で原著と大きく異なる。
この他人の手徴候の病巣、機序には他説があり、右側(劣位側)前頭葉内側面病変による半球症状として考えられる場合と、脳梁病変による半球間離断症状として考えられる場合とがある。
↑
参考文献 †
『縮刷版 精神医学辞典』(弘文堂)H13.11.30初版1刷”)
半側空間無視
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E5%81%B4%E7%A9%BA%E9%96%93%E7%84%A1%E8%A6%96
↓の元ネタは半側空間無視。
ウェカピポ
https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%AB%E3%83%94%E3%83%9D
”漫画「ジョジョの奇妙な冒険」第7部「スティール・ボール・ラン」の登場人物である。
〔略〕
レッキング・ボール(壊れゆく鉄球)
ウェカピポが使用する、王族を護衛するために開発・発展してきた戦闘術。
基本的にはジャイロが操る鉄球の技術と同種のものだが、ジャイロの鉄球との一番の違いは「衛星」と呼ばれる14個の小さなパーツが鉄球の表面に付いており、鉄球を投げた時にこれらのパーツも飛ぶ。この衛星が直撃すればダメージは当然だが、少し身体にかすっただけでもその衝撃波により相手を「左半身失調」に陥らせる。これを受けた者は十数秒間、自分から見て左半分のあらゆるものが認識できなくなり、左側からは何も見えないばかりか音も聞こえず光も見えず、手触りも感じない(脳が触った事を認識していない)状態となってしまう。
そのため、失調中は目に映るものや光景も全て、左側半分が消失しているように見える。 ”
ジョジョのウェカピポの元ネタは本書の半側空間無視だと思ったが本書以外の本でも載っている↓
脳の探検
https://waman.hatenablog.com/entry/20081216/1229453931
”2008-12
フロイド・E・ブルーム著『脳の探検』なかなかの分厚さで何度も挫折しかけましたが、なんとか読了。 最初の方はほとんど忘れてます・・・
第11章に出てきた『無視症候群』(半側空間無視)は、「スティール・ボール・ラン」で出てくるウェカピポの『左半身失調』そのものですね。 こういった症状の病気が実際にあるとは。 右大脳半球を損傷すると、こういった症状が出るそうで。 でも無意識の認識はあるらしいので、ジャイロやジョニィなら、敵に攻撃されたら反射的に反撃が出来そう。
脳と行動障害、精神障害の関連が書かれた第12章はなかなか興味深く読めました。”
しかし、左側失調へ対して、右回転するという対策が登場するので、ウェカピポの鉄球能力の元ネタは、『妻と帽子~』の「右向け、右!」だろう。新版の2009/7/5 ではなく旧版の1992/1/30の方ね。上記の本にも右回転という対策が載っているかもね。
‘07 08月号
#28 氷の世界
http://www5b.biglobe.ne.jp/~h-scarem/story2/07-08.htm
”「これはいったい…。な…何だ!?ジャイロッ!」
「君の体半分がッ!」「ぼくの『左半身』がぁああああああ」
「落ち着けジョニィ。あわてるんじゃあねッ!」
不可思議な現象に襲われるJ&J、そして鉄球はウェカピポに帰っていく。
「やつの名は――『オレの祖国の護衛官だった男』……『ウェカピポ』」「これは『左半身失調』ッ!」
「今、やつの『鉄球』をまともにくらっていたら死んでいたが…『鉄球』の衝撃波でもこうなる!!」
「ツェペリ一族のとは違う…!王族護衛の戦闘のための鉄球の能力なんだッ!『WRECKING BALL』『砕けゆく鉄球』と―名付けられているッ!」
ジャイロの鉄球とは違う鉄球術!!
「左?」「何?」「『左半身』が何だって?」
まだ事態がのみこめないジョニィ。それほど不可思議で衝撃的な現象なのであろう。
「自分から見て『左』!『左』が見えていないッ!衝撃波のせいで全ての『左側』半分が無くなっているように見えるッ!『そういう能力』!」
この場面ではジャイロの右半身が無くなっている。つまりこの画はジョニィの主観である。
「だが左腕も左脚も実はある!」ジャイロの説明は続く。「目で見ていても自分の脳が失くなっている認識しているだけなんだッ!そうさせられている!」
「そ…それはお…おかしいッ!みっ、見ろ触れないッ!」「右手で左腕を探してもどこかに行っちまってるッ!ゼンゼン無いぞッ!」
「だからそう思い込んでるだけだ!仮に触れても触ってもいないと脳が思ってしまっているッ!」「いいかあわてるな!『衝撃波』は十数秒で消えるッ!まもなく元に戻るッ!!」
「それよりも問題はソリに乗って『左側』に回り込んだもうひとりの敵だッ!」そうマジェント・マジェント(以後、「マ・マ」と表記)の姿を失調している。「もうひとりのヤツがここへ近づいて来てるはずだッ!それがオレの国の『護衛官が使う戦闘方法』だッ!!」
「や…『山』まで半分になっている!!山斜面の左側が!ない」左側の視界が欠落している、徐々に理解してくるジョニィ。「本当に近づいて来てるのかァッ!?馬のヒヅメもソリをひきずる音もまったく聞こえないぞー――ッ!!」
「いいかジョニィ、今!『左側』は絶対に見えない……あきらめろ!だからおまえは『右』を探せ!」「『右』なら見える!」
「『右』へ『右』へ!視界の方向を一周するんだッ!『右』へ『右』へと見てもうひとりのやつを探せッ!」「首をまわして一周したらどうなる?」
コロンブス的発想で―つまりインドへ行くのに大西洋を横断すればと言う逆転の発想を行えというジャイロ。
「右へッ!右へッ!」”
)
・p.158から 大統領の演説
失語症病棟からどっと笑い声がした。ちょうど、患者たちがとても聞きたがっていた大統領の演説がおこなわれているところだった。
テレビでは、例の魅力的な元俳優の大統領が、たくみな言いまわしと芝居がかった調子で、思い入れたっぷりに演説していた。
そして患者たちはといえば、みな大笑いしていた。
もっとも、全員というわけではなかった。当惑の表情をうかべている者もいたし、むっとしている者もいた。
けげんそうな顔をしている者も一人二人いたが、ほとんどの患者は面白がっているようだった。
大統領はいつものように感動的な話していた。そう、患者たちにとってはふきだすほど感動的だったのだ。
知能は高いが、ひどい感覚失語または全失語で言葉を理解できなくなっている患者については、よく次のように言われる。
失語症にもかかわらず、彼らは話しかけられることをほとんど理解している、と。
したがって失語症と見きわめるために、神経科医はきわめて不自然に話したりふるまったりしなければならない。
とりわけ感受性のすぐれた患者の場合は、人工的機械音を用いて、はじめて失語症が確認できるのである。
すくなくとも感情のこもった発話については、すべての単語が理解できないときでさえ十分意味がつうじるのだ。
私をふくめ失語症患者に接している者がしばしば感じることは、彼等には嘘をついても見やぶられてしまうことだ。
失語症患者は言葉を理解できないから、言葉によって欺かれることもない。しかし理解できることは確実に把握する。
彼らは言葉のもつ表情をつかむのであろう。総合的な表情、言葉におのずからそなわる表情を感じとるのだ。
言葉だけならば見せかけやごまかしがきくが、表情となると簡単にそうはいかない。その表情を彼らは感じとるのである。
同じことは犬についても言える。そこでわれわれは、言葉に気をとられて直感による判断がおぼつかないときには、しばしば犬をつかう。
犬にできることは失語症患者にもできる。しかもはるかに高度なことができるのだ。
表情、しぐさ、態度にあらわれる嘘や不自然さにたいして、失語症患者はとても敏感である。たとえ相手が見えなくても――盲目の失語症患者の場合まぎれもない事実なのだが――彼らは人間の声のあらゆる表情すなわち調子、リズム、拍子、音楽性、微妙な抑揚、音調の変化、イントネーションなどを聞きわけることができる。本当らしく聞こえるか否かを左右するのが声の表情なのである。
失語症の患者はそれを聞きわける。言葉がわからなくても本物か否かを理解する力をもっている。
言葉を失ってはいるが感受性がきわめてすぐれた患者には、しかめ面、芝居がかった仕草、オーバーなジェスチャー、
とりわけ、調子や拍子の不自然さから、その話が偽りであることがわかる。
だから私の患者たちは、言葉に欺かれることなく、けばけばしくグロテスクな――と彼らには映った――饒舌やいかさまや不誠実にちゃんと反応していたのだ。
だから大統領の演説を笑っていたのである。
声の表情や調子にたいして特別な感受性をもっている失語症患者には嘘がつけないとすると、次の場合はどうだろう。
単語を理解する力はあるが、声の表情や調子にたいする感覚がなくなってしまった者の場合だ。
これまで述べてきた患者とはまったく逆の場合である。われわれの病棟にもそのような患者が数人いる。
専門的にいえば、彼らは失語症ではなく一種の失認症、いわゆる音感失認症である。
語の意味は(さらに文法構造も)完全に理解できるのに、声の表情――調子、音色、感じ、声全体の性質――が把握できないのだ。失語症が左側頭葉の障害によっておきるのにたいし、このような音感失認症は右側頭葉の障害によっておこる。
失語症病棟にいる音感失認症患者たちも大統領の演説を聞いていた。そのなかに右側頭葉に神経膠腫のあるエミリー・Dがいた。以前英語教師をしていた彼女は、すこしは名の知れた詩人でもあった。言葉にたいする感覚はなみはずれていて、すぐれた分析力、表現力をもっていた。失語症の患者とは反対の状態にある音感失認症患者にとって大統領の演説はどう映ったのか、彼女はそれを表現することができる立場にあった。エミリーは、もはや声の喜怒哀楽を判別できなくなっていた。声の表情が読みとれないので、話を聞くときには、話し手の顔や態度や動きを見なければならなかった。それで、以前にもまして熱心に注意深くそうしていたのだが、これにも限界がきた。悪性の緑内障で急速に視力が落ちてきたのである。
そんなわけで、いまや言葉とその使いかたに極度の注意を払わなければならないことになったので、彼女は、まわりの人にも厳密であることを要求するようになった。くだけた言葉づかいの会話や俗語、それとない言いまわしや感情的な話がだんだん理解できなくなっていった。そこで彼女はきちんと整った文を話すこと、正確な言葉づかいで話すことを要求するようになった。
文法的に整った文ならば、調子や情感がわからなくてもある程度まで理解できると気づいたからである。
このようにして彼女は、叙述的な話をする能力は失うことなく、それを高めることすらできたのである。叙述的な話なら、適切な語をえらべば意味がとおるからだ。しかし感情のこもった話となると、調子のつけかたで意味がきまってくるので、ますます理解できなくなっていた。
エミリー・Dもまた、石のように固い表情で大統領の演説を聞いていた。よくわかっているようでもあり、わからないようでもあった。だが厳密にいえば、それは失語症患者の困惑した様子とは反対の状態だったのである。彼女は演説に感動していなかった。どんな演説にも心が動かされることはない。感情に訴えることをねらったものは、それが真正のものであろうと偽りのものであろうと、彼女にはまったく無縁だった。感情的な反応を見せることはできないけれど、彼女もわれわれとおなじく、内心では聞きほれ、それに魅せられていたということはなかったのだろうか? なかった。彼女はこう言った。 「説得力がないわね。文章がだめだわ。
言葉づかいも不適当だし、頭がおかしくなったか、なにか隠しごとがあるんだわ」 と。こうして大統領の演説は、失語症患者ばかりでなく、音感失認症の彼女も感動させることができなかったのだ。彼女の場合は、正式な文章や語法の妥当性についてすぐれた感覚をもっていたせいであり、失語症患者のほうは、話の調子(トーン)は聞きわけられても単語が理解できなかったせいである。
これこそ大統領演説のパラドックスであった。われわれ健康な者は、心のなかのどこかにだまされたい気持があるために、
みごとにだまされてしまったのである。(「人間は、だまそうと欲するがゆえにだまされる」)。巧妙な言葉づかいにも調子にもだまされなかったのは、脳に障害をもった人たちだけだったのである。
(
レーガン大統領の演説が嘘だらけだと暴露(笑)
ポーカーやダウトに強そう。失語症や音感失認症の人々を嘘発見官として雇うべきだな。なお失語症や音感失認症の人々も利権と思想などで操られるがやらないよりはいいだろう。嘘発見官対策で文字だけとか機械音声で演説する人が登場しそう。
あなたが失語症でなくても、動画の音声をミュートして、口や手の動きだけを見てみることはオススメの観察法で、訓練を受けた工作員かどうかを多少は判定可能。
https://twitter.com/niigatamama/status/647535527143473152
”Susanna Yukari Oseki
@niigatamama
③サックス先生は失語症とは逆に論理的な言葉は理解できるが、声に込められた喜怒哀楽はつかめぬ音感失認症の女性が演説をどう聞いたかも確かめた。感情に訴える表現を受け付けなくなっていた彼女はこう評したそうだ。「説得力がないわね…なにか隠しごとがあるんだわ」(『妻を帽子とまちがえた男』)
午前7:17 · 2015年9月26日”
https://twitter.com/chronotopos/status/404235261535481856
”異時空-夢想家
@chronotopos
猪瀬都知事の記者会見を見て、人は真偽の程をどう感じていただろうか?
オリバー・サックスは『妻を帽子とまちがえた男』の中で、失語症患者たちがテレビでレーガンの演説を見たときの様子を、噴出すように面白がっていたと報告している。つまり彼の「感動的」な演説には嘘があると見抜いていたと。→
午後10:09 · 2013年11月23日”
https://twitter.com/0086smart/status/294775075595485184
”第四干瓢期
@0086smart
失語症の人は語句の意味や単語同士の関係性は理解できないが、話者の口調や表情などで“空気”は読める(場合によっては常人より上手に)。なのでTVでレーガン大統領の演説を見た患者は、その学芸会まがいの白々しい芝居っぷりに爆笑したらしい。
午後8:53 · 2013年1月25日
”
https://twitter.com/harimarin/status/1227377588827348992 と続き
”ハリハリ
@harimarin
2020年2月12日
失語症の人、ノンバーバルコミュニケーション能力は失われてない(下手すると向上してる)から言葉に騙されづらくなって嘘発見機レベルになる人もいるのか。
レーガン大統領の演説(嘘まみれ)をテレビで見て爆笑する失語症患者たちのシーンが出てくる。
逆に声のトーンとかから感情を読み取る能力が欠損した患者は同じレーガンの演説聞いて「説得力がない。言葉の選び方が不適当。頭がおかしくなったか、隠し事があるかのどちらか」ってバッサリいくの笑う。
医学分野の狭間に入っちゃって、一度発見されたのに忘れ去られた「トゥレット症候群」、今日にも似たようなこと起きそうでドキドキするな。
チックが症状に出るタイプの人たち、もしかしたらネットのおかげでかなり収入口は広くなったかもしれないな。
2020年2月13日
スーパートゥレット症のパントマイム老婆、凄まじいな。筆者の描写力にも拍手。
発作で記憶が強制的に追想されることがあるのか。
脳血栓で側頭葉が刺激されたのがきっかけで、昔に聞いた音楽が延々聞こえ続けるとかほぼ忘れてた記憶がまざまざと思い出される事例。
ある種の記憶を想起させるトリガーになる脳の部分をナノマシンとかで破壊したら、たとえばPTSD治療とかになるのか?(倫理的問題はとりあえず置いておくとして)
嗅覚が増大(というか抑制が解除)された感覚は味わってみたいなあ。
IQ60くらいの知的障害者が、単純作業は出来ないけど音楽に合わせたダンスや演劇はできるのか。面白いな。
サヴァンの知的障害者が自分のやるべきことを見つけて取り組み始めると情緒にも落ち着きや威厳が出るってのは面白い。というか、いわゆる健常者も同じなんじゃないか?
数に対して異様な感覚を持った双子の話、味わい深いな。数に親しんだ人たちにとって特別な数(平方数や素数)は友人みたいに「知ってる」感があるってのはちょっとわかる。
コンピュータかじった人間で、256や1024に親しみ覚えない奴いないでしょ。
双子はお互いに6桁とかの素数を提示しあって「うーん…素数だあ…」みたいに味わうゲームをしていたらしい。解釈の合うオタクのやりとりだ。
2020年2月14日
読了!
原書が1985年初版だし、掲載されてる症例はもっと古い(60年代とかある)から医学知識を得るには不適当だけど、精神疾患や障害に対する認識を良い方向に変えるパワーがある本。親しみを生む。”
)
p.284
18 皮をかぶった犬
薬物常用者だったDは
ある夜、鮮明な夢を見た。
犬になっていて想像できないくらい豊かな臭いの世界にいた。
人には臭相があり顔を見なくても識別できるほどの嗅覚を獲得。
臭いで感情もかぎとれる。
恐怖、満足の度合、性的な状態までかぎとることができる。
三週間後、この奇妙な変身はとつぜん終った。
嗅覚過敏は発作性のこともあるが
ドーパミン過剰状態でも起こりうるし
Lドーパを使用している脳炎後の患者にもおこり、
またトゥレット病患者にもおこる。
(人間でもここまで嗅覚を鋭敏にできるのか。
感情は体臭に反映されるのが重要。
ワンちゃんは飼い主の感情をかぎとっている)
辺縁系が感情の調子をすべて決定し規制する重要なところであるという認識が
近年ますます強くなっている。
辺縁系が興奮すると感情が高揚し感覚が鋭くなる。
別の症例について。
嗅覚神経系をやられた男性。
嗅覚神経系は眼窩のところに横に長くあるので非常に傷つきやすい。
まったく嗅覚を失った結果
世界がひどく味気なくなった。
数か月後、においがわかるようになったが、
彼は完全な無嗅覚症のまま。
傷ついたのが大脳皮質ではなく
嗅覚神経系だけなのが重要なのだが
嗅覚イメージが非常に強く発達してきて、
制御された幻覚症といってもいいような状態が生じてきた。
以前は伴っていた香りを思い出した。
このような代償作用は目や耳の不自由な人たちにも起こる。
(幻香。
においで感情がわかる人間は実在するのね。鬼滅の主人公の能力の元ネタがこの本かもしれない)
ヒルデガルドの幻視
天上の街のヴィジョン
ヒルデガルドの『汝知るべし』Scivias
(ビンゲンにおいて1180年頃書かれた写本より。
この絵からは偏頭痛性のいくつかの幻視が読みとれる。
(これ
The holy city of God in the 'Scivias' of Hildegard of Bingen Rupertsberger Kodex at Wiesbaden (Germany), 12th century pic.twitter.com/aGVUhg5vRr
— Bibliophilia (@Libroantiguo) 2015年3月5日
)
図A
ぎざぎざの同心円に
ちらちら光る複数の星がちりばめられているのが遠景にみられる。
(以下の三番目の図。
◎
○ ○
○ ○
○ ○
The Visions of Hildegard of Bingen (1098-1179). A Benedictine abbess, composer & mystic, at age 43, she received "divine communications" to record the visions she'd been having since age 3. She wrote & illustrated 3 books of visions: The 1st, Scivias, was lost in Dresden in WW2. pic.twitter.com/F9GFLIbMoB
— ewan morrison (@MrEwanMorrison) 2018年12月26日
)
図B
輝く星(眼内閃光)が落ちてきて消えている
(実性及び虚性暗点がつづく)。
(Hildegard of Bingen star で画像検索すると出る、
The Illuminations of
Hildegard von Bingen
(1098-1179)
https://www.healingchants.com/hildegardilluminations.html
の最初の画像が図Bと同じもの。
星のとんがりの数が5、6、7だったり均一でない。
上方にある星は黄色。
下方にある星は黒色で星の中心に○で○の色は黄色っぽい
これ芥川の歯車と同じ症状だ。
ヒルデガルドの星はこの形
きのう閃輝暗点になった。閃輝暗点って知らなかったから失明するのかとびっくりしてググったからその後猛烈な片頭痛には至らなくて済んだけど。画像に書いて表してみた。あとこの動画のような感じだった。http://t.co/C83sYKIv pic.twitter.com/8w6EGhrZ
— まどか (@peppermint_meow) 2012年5月26日
(Visual Migraine Animation
https://www.youtube.com/watch?v=fo139jYAFzA&feature=youtube_gdata_player
”A first attempt to try to visualise the effect many people experience when having a visual migraine. These are not usually accompanied by pain, but sometimes are, and you may feel nauseous through the visual stimulation. They seem to be very common. Nothing can be done to avoid them ”)
であり
こちらではない。
これが片頭痛の前兆としてみられる閃輝暗点(せんきあんてん)。 pic.twitter.com/aGQgqpaY8p
— 青い薔薇 (@Trans_Blue0630) 2013年9月18日
閃輝暗点について。加藤マユミ先生のお話読んで、私も体験描いてみました。症状とかは割愛してるので、加藤先生のとセットで読んでもらえるとわかりやすいかもです~(^^) pic.twitter.com/s1eJWfxv44
— 武浦すぐる『溺恋オフィス~』発売! (@sugurutakeura) 2018年4月16日
”閃輝暗点(せんきあんてん)もしくは閃輝性暗点(せんきせいあんてん)とは、片頭痛の前兆現象として現れることが多い視覚の異常で、定期的に起こる場合が多い。英語名は「偏頭痛オーラ」を意味する「Migraine aura」(マイグレイン・オーラ)。Scintillating scotomaとも言う。芥川龍之介の小説『歯車』のなかで、龍之介が激しい頭痛と共に目にしたと記述している「歯車」はこの閃輝暗点だと言われている。 ”
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%83%E8%BC%9D%E6%9A%97%E7%82%B9
芥川龍之介の遺稿の1つとなった作品『歯車』。そのなかで、龍之介が激しい頭痛と共に目にしたと記述している「歯車」は偏頭痛の前兆としてよく見られる”閃輝暗点”だと言われている。写真参照。 pic.twitter.com/vDhcc0VHJl
— 手術室のウラ側 (@hugehospital) 2013年3月11日
)
図C・D
ヒルデガルドは、
偏頭痛性の幻視に典型的な、
中心からひろがってのびる砦を描いている。
原画では、中心部は彩色され、
燦然と輝いている。
(Dは見つからなかった。
イエス(おそらく)が左手に聖書(おそらく)を持ち、
右手は人差し指と中指を伸ばし、他の指は曲げるよくある手の形。
何かに座っている。
Cは以下の四番目の画像。
左向きの頭部に羽が三つ。おそらく天使。
The Visions of Hildegard of Bingen (1098-1179). A Benedictine abbess, composer & mystic, at age 43, she received "divine communications" to record the visions she'd been having since age 3. She wrote & illustrated 3 books of visions: The 1st, Scivias, was lost in Dresden in WW2. pic.twitter.com/F9GFLIbMoB
— ewan morrison (@MrEwanMorrison) 2018年12月26日
@Libroantiguo See the vision of Hildegard von Bingen in St.Gerlachchapel made by Irene van Vlijmen pic.twitter.com/Q11issLmUl
— Camille Oostwegel sr (@COostwegel) March 5, 2015
)
(これは載っていなかった。
目だらけだ。
“Love abounds in all things, excels from the depths to beyond the stars, is lovingly disposed to all things. She has given "the king on high" the kiss of peace.” Hildegard Von Bingenhttps://t.co/I5R3k0o2sB
— ? BeoWulf ?? ? (@Waasland_Wolf) 2019年1月6日
Sun in summersolstice (?) pic.twitter.com/cykORf1kV9
(アーモンドの形は一つ目に見える)
“Cerevisiam Bibat! (drink beer for health)” Head over to our blog and get up to speed with our 10 best facts about Hildegard Von Bingen - 12th c eco warrior, doctor and Ibiza classic influencer - ahead of #Viriditas our festival dedicated to her work. https://t.co/Yb82LFe2YP pic.twitter.com/H7AoCyGa8J
— Attenborough Centre (@AttenboroughCtr) 2019年1月28日
)
参考資料
(
別に盲目でなく相貌失認でも文字通り見た目というか顔を気にしない存在になるな。相貌失認は顔自体は見えるけどね
)
鰐屋雛菊@waniya_hinagiku
2013年1月30日
人の顔が覚えられない、表情が識別できない。50人に1人いると言われている「相貌失認」とは? http://karapaia.com/archives/52116467.html @karapaiaさんから この症状について初めて知ったのは、たぶん筒井康隆の家族八景。詳しく知ったのはオリバーの「妻を帽子と間違えた男」
南野コミチ@通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃の童貞は好きですか?@sushi6343
12月22日
マジで相貌失認の悲しいとこでさ、もうちょっと時間経つとさ、今講義受けた先生の顔も、昼間下心持って会った女の子の顔もすっかり思い出せないのんな。どんな話してたかは覚えてるのに、顔だけがすっぽり抜けるのんな
浜栗之助@あきらめたから試合終了
@maybe_moonlight
2018年12月22日
返信先:
@sushi6343
さん
結婚後しばらくの間は、目を閉じて妻の顔を思い出すことができませんでした。本当に顔のイメージがすっぽり抜けるんですよね
相貌失認#HURT pic.twitter.com/I7JwwkUqnh
— Yuta (@yuwuta_ryebrook) 2018年12月24日
u10@09y
2018年12月24日
返信先: @yuwuta_ryebrookさん
この女の子は人の顔が認識できない人なんですかね?
有名人でも結構いらっしゃいますよね
Yuta @yuwuta_ryebrook
2018年12月25日
そです!
ゾンビなどが蔓延ってる中、普通の人との見分けがつかない人がいたらどんな話になるだろうと妄想しながら描いてます。
Yuta @yuwuta_ryebrook
2018年12月25日
今まである程度冷静なのも人の顔がわからないが故だったり…
ゴリライモ@kusosabcal
1月2日
うちの父は一卵性の家族すら見分けがつかないそっくり双子なのですが、母と付き合ってる時双子ということを隠したまま車で待たせて双子の兄が戻るという入れ替わりマジックをしたら母親が「なになに誰誰?!?!」と車をとび出たらしく、桜蘭高校ホスト部で勝ち抜く素質があるヒロインであると判明
二人揃って190cmあるので全くあざと可愛いキャラではないのですが間違えて兄の免許を父が持って出てしまった時に警察に確認されたけど通り抜けた逸話もあります。
私は相貌失認って言う、人の顔が病的に覚えられない人(親しい人でも別の場所で会うと気付かずガン無視したり、二人の人をずっと同一人物だと認識していた事もあります)ですが、親でも間違う双子の友人を一瞬で見分けられてました。
— なおん (@UlIfCsUxm1TwBeB) 2019年1月2日
だから、その人と分かるポイントは外見だけじゃないんだよ。
野弧禅がっきー 原チャリレースで魔境へGO! の巻(笑)
— U (@wayofthewind) July 28, 2018
これは「二十年以上も前の個人的な錯覚を、記憶を何度も塗り替えて、どんどん大袈裟にして語っていく」というパターンでもありそうですね。
神秘体験を大袈裟に語る人間って「そんな体験しても人って微塵も成長できないんだな~」と思わせる人ばかりだったりします(笑)
— U (@wayofthewind) 2018年7月28日
悟ったはずなのにキレやすかったり、何年もやってるプロなのに仕事がヘタだったり(笑)
こつこつデッサンでもしていた方が有意義だなって思います(笑)
菊池@kikuchi_8
7月28日
返信先: @wayofthewindさん、@kitsuchitsuchiさん
全くそれです。
神秘体験に執着する者に限って「貪瞋癡」が人より強かったりしますね。
例えば貪=他人をマウンティングしたがる、
瞋=自分の思想を批判されると激怒して粘着する、
癡=基本的な歴史的事実や思想史をすっ飛ばしている、等々。
グノーシス主義というより新プラトン主義みたいですね。「合一」体験の典型という感じがします。先日ねここねこさんが指摘されていたように、ナグハマディ文書の公刊前に拵えた自称「グノーシス主義」で、ただの「精神世界」を「グノーシス主義」と名付けているだけというのが実態なのでしょうね。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2018年7月28日
タイの上座部仏教の僧侶も神秘体験は勿論、所謂「サマタ」(日本で言う座禅)と呼ばれる瞑想で作られる精神集中の状態にすら執着するなと言っていますね。一時的な精神状態に執着すると、それが消えた時に苦しみが生じるからなのだと思います。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2018年7月28日
『宗教的経験の諸相』読書会・part8https://t.co/ikLoxiRfgp
— 子×5(ねここねこという読み方が代表的です、よろしくおねがいします。未整理図書館「読めニク」長です) (@kitsuchitsuchi) 2018年7月28日
(ニー仏さん
「経験することと経験を評価することとは結構違うこと。
光明現象について。
光を見る現象は
仏教ではヴィパッサナー瞑想の中に
ヴィパッサナーに基づいて現れてくる煩悩、
またはヴィパッサナーの穢れと訳されるものがある。
7月28日
「神秘体験したら一刻も早く
詳細に記録=文字で固定して
記憶の捏造を許さないようにして
後日に冷静に慎重に検証と解釈せよ。
批判的な他者の評価を必ず聴け」と
西洋魔術の達人から学びました。
制御できない神秘体験とそれが増幅させる貪瞋癡は
イメージで潜在意識を操作する技術=魔法には邪魔。
菊池@kikuchi_8
7月29日
ニューソートは欲望の妄想で執着心を増幅させて心を落ち着かなくさせる思想ツールだと思います。
何かを認識してから欲や怒りが生じますが、
単なる「未来の想像」のような妄想も認識作用の一つなので、
欲への執着が増大する結果になると思います。
自己啓発詐欺などはこの機制を利用するのでしょうね。
「縁起」と言うように物事は幾つもの原因・条件が合わさる事で生起・成立するものであり、
人間の「意思」「行動」もその一つに過ぎませんからね。
人間の意思や行動以外の原因や条件も揃わないと結果は出ません。
全てを人間の意思に還元するのは「意思→結果」という非常に単純な因果論だと思います。
子×5(ねここねこという読み方が代表的です、よろしくおねがいします。未整理図書館「読めニク」長です) @kitsuchitsuchi
8月4日
返信先: @kitsuchitsuchiさん、@kikuchi_8さん
何かが降りてきたら
目的達成後に帰宅を願う。
帰らないなら偶像の焼却をイメージして強制退去。
呼吸法とリラックス法も併用し、
意識を通常状態に戻す。
以上が退去。
(以前引用したねこたとの会話で抜けていたところ)
峨骨さん
”使われない知識ほど意味の無いものは無いですから。役立てば幸い。
…
主観100%の神秘なんて、本当に毒にしかならんよ。
自分が体験したから正しい、真実なんてな。
確かにお薬やって生じた妄想をそれを体験した真実だと脳が嘘吐くことはあるだろうよ。
脳って結構バカだからな。薬なんぞ無くても条件整えれば誰でも再現できる。
記憶も改竄し放題だしな。神秘は先ず殺せ。"
神秘体験中毒と、
神秘を真理や真実(かもしれないもの)の一部を示すものとして慎重に扱うことは全く違う。
神秘体験を崇め、至上とすることは
脳に爆弾を埋め込んだまま
その起爆スイッチで遊ぶこと。
爆発しても肉体は死なないどころか
脳が吹っ飛んだ(比喩)ことをありがたがることが最高に厄介。
https://twitter.com/Chimaera925/status/896785316559831040 と続き
”峨骨
@Chimaera925
返信先:
@Chimaera925
さん
言葉を尽くして、それより先へ進めなくなるまでは自身や他者に問い、仮説を立て、検証し、僅かながらでも確信を積み重ねていく必要がある。言語化できなくなるまで。非言語の神秘やスピリチュアルから入ると魔境だからな。妄想と確信の区別が付かなくなって、「よつあしいい、ふたつあしだめ」になる。
午前2:27 · 2017年8月14日
主観からどれだけ離れようとして客観視しても、
客観視しているのは自身だから自身の物差しを離れられない。
物差しなんぞ、世の中にいくらでもあるし、その平均値が真実でもない。
真実など誰にもわからない、
だがそれに近づこうとする事は出来る。
人の数だけあるってのは嘘っぱちだからな。
解釈は別だが
主観100%の神秘なんて、本当に毒にしかならんよ。
自分が体験したから正しい、真実なんてな。
確かにお薬やって生じた妄想をそれを体験した真実だと脳が嘘吐くことはあるだろうよ。
脳って結構バカだからな。薬なんぞ無くても条件整えれば誰でも再現できる。
記憶も改竄し放題だしな。神秘は先ず殺せ。
”
日本語俗語辞書 ≫ エで始まる俗語一覧 ≫ 『画を描く(えをかく)』の意味
http://zokugo-dict.com/04e/e-wokaku.htm
”画を描く
E Wo Kaku
画を描くとは、陰謀・策略を練ること。
【年代】 昭和時代 【種類】 不良・ヤクザ用語
『画を描く』の解説
画を描くとはヤクザ用語で敵をハメたり、自分や所属する組に都合の良い状況になるよう、陰謀や策略を練ることをいう。例えば、多額の資金を要す抗争をしなくて済むよう、相手(敵)と思っている人(組)同士がモメ事を起こすような策略を練ったり、目障りな若頭と組長を不仲にする陰謀を画策することをいう。絵図を描くともいう。”
(Gの言う通りマジである(笑) ヤ○ザ用語が学べる場所出身(笑)
DINER ダイナーって漫画の130話で、裏社会の者の陰謀的な文脈で”絵図を描いて”って出てきたので
調べたら普通に上記の記事が出た。
偽グノなどの新キリスト教は、キリスト教と同じ金型で作ってパッケージと味を変えただけの支配層製品)
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/1264931654046375938
”子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子)
@kitsuchitsuchi
返信先:
@kitsuchitsuchi
さん,
@kikuchi_8
さん
ヤ○ザ用語で、計画を立てる事、シナリオを描く事を「絵を描く」と言う。
利益を上げるためや成り上がるために誰かを騙す、はめる時によく使われる。
ヤ○ザが「テメー絵を描いたな!?」というのは「テメー騙したな!?」という意味だ。
今回の社長は頭がキレるという意味で使ったのだと思う。
午後11:49 ・ 2020年5月25日”
「ことば」の不思議さについて既述したが、謎の「ことば」を前にして、哲学者はこれを寓意と解釈し、理性が納得できる「意味」の言い換えを発見するまで諦めない。しかしカバリストは、「ことば」は、最初から言葉にできないものの象徴として、合理的説明を求めない、という。 pic.twitter.com/tkYAVCCPs0
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) June 8, 2018
「カバリストは、テキストを前に”why is it?”とは問わない。ただ、"what is it?"と尋ねる。そして、その問いに答え得る人は、その「存在」に出会った者か、またはそれについての伝承を持つ者だけである。……」
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) June 8, 2018
図はヒルデガルト・フォン・ビンゲン『聖なる作業の書』(12世紀) pic.twitter.com/6ltOoAUuBY
https://twitter.com/Prokoptas/status/1005185707650891776
”TOMITA_Akio
@Prokoptas
「22の文字がある。これを使ってIAM(יאמ)「番軍の主」「全能にして永遠」なる君は3つの「セラフィム(数・文字・音)によって、その宇宙を設計し創造した。そして、それによってあらゆる被造物と将来生成するべき万物を形成した」(『形成の書』第6章9)。
午前5:32 · 2018年6月9日”
西洋では道化師の帽子に鈴がついていた。こちらは何なのか?
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) 2018年4月27日
人間の頭の中には「狂気の石」があり、これが大きくなると狂人になるという。そのため、中世には開頭してこの石を切除するインチキ手術が行われたという。
ボス「石の切除手術」1475年-85年頃 pic.twitter.com/q11csHQ9Ma
「レプラ患者が手にしたカタカタでその接近を健常者に知らせたように、狂人の接近を告げる道化帽の鈴とは、おそらくそんな狂気の石の祝祭的な装置に他ならなかった」(蔵持不三也『異貌の中世』
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) 2018年4月27日
A fool and falcon, (British Library Royal 19 D III, fol. 266), c. 1411 pic.twitter.com/CHuMeH5z6K
音や音楽と色の共感覚はオリバー・サックスが興味ある事例を紹介していた。この研究者は絶対音感研究で有名な新潟大心理の宮崎謙一さんの後継者だろうか。彼とこの話をしたことがある。
— こなみひでお (@konamih) 2017年12月20日
脳が感じる、音と光の不思議なつながり - | 日本の研究.com https://t.co/YIqfxFoQ6c
お読みくださり感謝!
| h o m e |