【資料⑫その1】私が知る最古の和風キリスト教である如来教(1802年成立)の元ネタはグノーシス主義。世界連邦系の和風キリスト教である黒住教(1814年成立)の元ネタは聖書とグノーシス主義【和風キリスト教史】
Posted on 2023.03.18 Sat 19:24:28 edit
ご支援用記事⑫が完成しました。
ご支援用⑫(無料公開は危険な『五レンジャ-』 『ジャッ力-電撃隊』『ドンブラザ-ズ[23~最終話]』 『ジュウレソジャ-[46~最終話]』『暴れンジャ-46話』 『キング王者[1~6話]』考察)
https://yomenainickname.booth.pm/items/4691242
資料⑫その2はこちらです。
【資料⑫その2】画像と埋め込み動画など
Posted on 2023.04.15 Sat 10:20:43
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-484.html
追加終わり]
ご支援用⑫では
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/1631648406954446851
”戦隊ドンブラザ‐ズ(23~最終話)を中心に考察し、ジュウレソジャ-と暴れんジャ-とキング王者ーと仮面ラ亻ダ-ギ-ツとオ-ズと、『仮面の忍 赤い影』を少し入れる予定。”
だけでなく黒住教も少し扱う予定。
初代と2代目だ。46代目のドンブラザ-ズではできないネタだ(笑)
— 子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子) (@kitsuchitsuchi) March 3, 2023
満州旗は黄赤青白黒色。
竹内文書の五色人も黄赤青白黒。
峨骨
「国連、戦勝国の作った秘密組織が正義のヒーローでテロリストとの戦い。よく見る光景だ。」
「国連でレインボー柄、ポーズもわざとか?」https://t.co/MU4UCvFVpm
X姿勢
了
※要約の個所の「」は基本的に、参考資料の個所からの引用である。
要約したのは参考資料の個所を要約したという意味。
更に分析を加えたので要約の割には長いと感じるかもしれない。
如来教の要約
和風キリスト教の作成実験は意外と古くから行なわれている。
私が知る最古の和風キリスト教は
1802年成立の如来教。
元ネタはミロク派マニ教(グノーシス主義)。つまり白蓮教の子孫。
しかも教義作成に関わった側近が一神教と相性が良い日蓮宗。
どう見ても教義の作成に関わった人に切支丹がいる。
如来教なんて平田篤胤(1776 - 1843年。和風クリスチャン)より前だぞ。
平田篤胤(1776 - 1843年。和風クリスチャン)の
『本教外編』は
1806年(文化3)成立で
「未だ他見を許さず」と記され公刊されなかった。
『神字日文伝』は
文政2年(1819年)成立。
1802年成立の如来教と
1814年成立の黒住教には
少なくとも成立時に篤胤系の影響はないだろう。
でも後の教義の体系化には影響してそう。
1838年成立の天理教と
1859年成立の金光教には成立時から影響しているだろう。
釈迦が二番手の偉さなのに
教祖にたわけと呼ばれる。
教祖は受肉した至高神ミロクだから。
あ、ミロクが仏より上って
ああそうか大本のプロトタイプっぽいな。
でも大ブレイクはしなかったと。
如来宗はグノーシスが元(邪悪な存在による人類創造)なのに
研究者の見解を読んでもグノーシスという単語が出てこない。
黒住教もキリスト教異端がモデルというのも出てこない。
原罪と言う単語は出ても
グノーシスという本質を表す単語が出ない辺りに学者の限界を感じる。
まあ、宣教師が日本でキリスト教を流行させようとしたら無理なので
現地化した耶蘇思想を流行らせようと暗躍していただろうということを考えてないと
判らないのかもしれない。
如来教は正統多数派の宣教師ではなく、異端側の宣教師だろうけど。
「如来を全知全能の創造主、慈悲の神とする」
キリスト教系すぎる。
「如来教の宗教思想は,「確立期」〔文化9年(1812)~同13年頃〕には,その骨格をほぼ形成し終えている。
そうした宗教思想の骨格(基幹部分)のなかには,
この世は「魔道」(デーモン)が支配しているとする説を含む固有の創造神話も含まれる」
「原初には神々自らが「七十五人」の人間を作ったが,その「七十五人」は神々とともに天上へ昇ってしまい,その後の人間は「魔道」というデーモンによって作られている」
「現在の人間はその後に「魔道」が創造した五人の人間の末裔である。
現世とは魔道の支配する「悪沙婆」であり、人間は受胎以来、魔道の世話を受けている。
現世は修行場、すなわち仮の生存の場である。至高神如来に帰依し、善心を起こすことによって、
死後に至福の「後世」に至ることが救いである。」
如来教の骨格はグノーシス派キリスト教(物質世界であるこの世は悪に満ちている)であり、仏教要素は表面を覆っているに過ぎない。
如来教の如来の元ネタはグノーシス主義における、真なる善の至高神(ゴッド)だろう。
グノーシス的原罪説(邪神による悪なる創造というグノーシス思想)なのだが、正統多数派の原罪説も影響してそうだ。
「喜之は「如来の受肉者(具体的には如来の代理者としての金毘羅大権現の受肉者)」」
三位一体(ゴッド=キリスト)が元ネタ?
以下の原罪説と合わせると耶蘇教の正統多数派の影響もあるだろう。
「あらゆる人間を悪の種とする独自の原罪説」
「その後へ伊勢神宮の屋守(留守居)である魔道がきて、元になる人間5人を創造し、女性の胎から人間が産まれるようになったと云う。
これは、地上に住むあらゆる人間は、例外無く悪の種であるとする原罪説である。」
「人間は罪を負って生まれている」
「末法観に立つ他力の来世主義であり、徹底した原罪説を特徴としている。
最高神として如来を崇め、その如来は天にある全知全能の慈悲(愛)の神であり、
世界を創造し、全てを神業として支配している。
如来に次ぐ神は釈迦であり、日天子(太陽神)であり、これまで法華経を始めとする教えを説いてきた神とされる。
次に上行菩薩は、月天子(月神)であり、法華経を広めた日蓮を神格化した神である。
この両神は日月であり、如来の両目にたとえられている。」
全知全能の愛の創造神=如来
>日天子=太陽神=釈迦
>月天子=月神=日蓮。
釈迦と日蓮が日月=如来の両目。
伊勢神宮の留守居である魔道により女性の胎から人間が産まれるようになったので
地上の全ての人間は罪を負って生まれている
=悪の種とする原罪思想。グノーシスの邪神による悪なる創造。
アンチ伊勢。
教祖きのが「釈迦の大たわけめ」と言って仏教を否定。
大本教の大先輩!
教祖は慈尊(中国では弥勒)と呼ばれていた。
明(マニ)教系の白蓮教がモデルのミロクの世。
白蓮教が中国大陸から日本へ来たのは宣教師の役割が大きいのでは?
「教義の展開と体系化には、法華信者の覚善院日行(1749~1826)が、常に側近にあって貢献した」のだが、
白蓮教(弥勒信仰。マニ教と混合)などキリスト教異端(グノーシス系)の信者も入れ知恵しないとこんな思想出てこないでしょ。
この頃から既に、和風キリスト教と日蓮系の者の関係が登場(笑)
「3000年前、如来は人の救いを釈迦に託したが、釈迦の死後3000年幾人の人が救われたか、釈迦の大たわけめ、と熱弁をふるった」
骨格が仏教ではないので、伝統的な仏教を格下に扱う。
「きのは、信者から、はじめ「慈尊」と尊称されていた。慈尊は中国では弥勒をさす」
大本教系(ミロク大好き)の大先輩みたいな宗教の教祖の名前の意味の1つがミロク。
釈迦はあくまで二番手。きのは釈迦より上。
教祖は至高神が受肉したという女版イエス=ミロクだからね。
金光教や大本教みたいに「鬼(悪魔)は実は善」だとして善悪逆転サタニズムにしたのと異なり、
単純に釈迦より上の至高神を据える形での和風キリスト教化。
善悪逆転サタニズム(悪鬼崇拝)は多数派に不満を抱いている少数派を味方につけるのに有効。
要は非常に革命工作に都合が良い思想。
多数派が崇めているのは実は悪で
あなたたちが崇めているのが実は善ってやつね。
きのは女版キリスト。
教祖は至高神の受肉者にしてミロク。
「悪魔が支配」陰謀論を最初に教義にした、日本列島で生まれた宗教は如来教かもな。
如来教の如来ってグノーシスの至高神ゴッドに近い意味で使っている。
愛=執着の神が仏なわけないじゃん。執着を肯定するから仏が格下なのかもね。
(金毘羅様が出てきて)あれれ 金毘羅様なのか ミロクはどうなったと思った。
喜之は「如来の受肉者(具体的には如来の代理者としての金毘羅大権現の受肉者)」
黒住教の要約その1
黒住教は
教祖の宗忠が1780年の
冬至の日(冬至以降日が長くなる=太陽の復活)生まれで
数え33歳のときに肺結核で死にかけたが
文化11年(1814年)の1月(満33歳)の日拝後のわずか2カ月で不治の病が完治。
33歳で死と復活の儀式。
同年文化11年11月11日(足すと33。冬至の日。西暦1814年)に
全ての命の親神である太陽神アマテラスと一体化し立教。
聖書とグノーシス主義がモデルであろう。
教祖の伝記は教団に都合よく設定される。
全ての人が神になれるという教えで明ではなく日のみだが
教祖と一体化したアマテラスは全ての命の親神という教義。
五摂家が入信。
皇道宣布の国民教化運動に積極的に参加。
六代目教主(1973年-2017年9月17日)の黒住宗晴は
日本会議の代表委員にして
世界連邦日本宗教委員会の代表委員。
宗際活動は万教帰一の言い換え。
伊勢神宮の式年遷宮のさいに
伊勢神宮奉賛活動をしており
古殿となった内宮の建築材を黒住教が大量にもらえるほど伊勢神宮と仲良し。
黒住教の要約その2
1814年成立の黒住教は
教祖の宗忠が1780年の
冬至の日(冬至以降日が長くなる=太陽の復活。
安永9年11月26日=西暦1780年12月21日)生まれ。
(本当に冬至の日に生まれたのか疑問)
33歳のときに肺結核で死にかけたが
文化11年(1814年)の1月(33歳)の日拝後のわずか2カ月で不治の病が完治。
33歳で瀕死と復活の儀式。
※年齢は西洋式の満年齢
満年齢とは、誕生日に年を取る西洋式。生まれたときが0歳。誕生日を迎えるごとに1歳増える。明治政府(mage政腐)は満年齢を浸透させようとした。暦も太陰暦から西洋(キリスト教)式の太陽暦に変えた。これにより文化が破壊され、生活も西洋の時間の影響下となる。
とはいえ、従来の数え年も使い続けられた。1950年(昭和25年)に公的機関などはすべて満年齢を使用することになる。
黒住教の教祖の年齢計算
(日時、満年齢、数えの順)
※数えは1月1日(2月4日)で加算。生まれた時を1歳とする。
※※満は生まれたときは0歳。誕生日を迎えるごとに1歳加算。
誕生日
=安永9年11月26日
=西暦1780年12月21日 満0 数え1
安永10=1781年1月(誕生日前) 0 2
安永10=1781年11月26日(誕生日後) 1 2
(33歳のときに肺結核で死にかけたが
文化11年(1814年)の1月(33歳)の日拝後のわずか2カ月で不治の病が完治)
文化10年(1813年)の1月(誕生日前) 満32 数え34
文化10年(1813年)の11月26日(誕生日後) 33 34
(文化[元号]は1804-1818年)
文化11年(1814年)の1月(数えだと加算) 33 35
文化11年(1814年)の11月26日 34 35
[文化11年(1814年)の1月(33歳)は満33歳。
1月時点での日拝後のわずか2カ月で不治の病が完治だから、3月でも年齢は満33のまま。
満33歳で復活]
「数えて33歳の時、かけがえのない両親が流行病によりわずか1週間の内に相次いで亡くなりました。その悲しみがもとで宗忠自身も不治の病といわれた肺結核に侵され、2年後には明日をも知れない状態に陥りました。」
より、(疑似的な)死は数え33歳。
「2年後には明日をも知れない状態」について。満33歳の時は数え35歳だからその通りである。
(33歳時点から)「2年後には明日をも知れない状態に陥りました」だから35歳だと思ったのだが、数え年と満年齢の差が2歳なので問題なし。
数え33歳で死にかけた教祖。これは数え年なので、満年齢だと33歳ではない。
公式が数えと満年齢で書いたのは33を強調するためなのだろうな。
数え年は生まれた時点で1歳。元日に1つ加算。なので、
文化11年(1814年)の1月(復活の月)時点では、満年齢で33歳、数え年で35歳。
数え33歳で死(にかけ)、満年齢33歳で復活(笑) 徹底している(笑)
わざわざ数えでなく西洋式の満年齢計算で33歳だから意図的すぎるw
教祖・黒住宗忠が朝日を拝んだ際に
日光を飲み込み神人合一の宗教的神秘体験を得た文化11年(1814年)11月11日が立教の日。
グノーシス派キリスト教w
そりゃあ正統多数派だと現地に合わせて改造しにくいもんな!
異端派だと善と悪の実質多神教だもんな!
尻が好きな数字11が多すぎw
11(ヤキン(冶金と掛詞可能)とボアズの二柱、33=11×3など)。
(「尻」はケツ社のこと。このあたりを書いたのはケツ社ではなく尻社と書いていた頃だな。
「w」も今[2023年3月18日時点]はあまり使わないな。
なお、上記[要約2]も加筆箇所があるので昔書いた記述そのままではない)
ちなみに、
ワンピースで黒住教モデルであろうキャラが悪役で登場。
悪
=黒炭オロチ(ワノ国の将軍。復讐者。元・被差別層)(秀吉)
=黒住教(太陽系)+レプティリアン教(宇宙人教)
善
=光月おでん(石工)
(織田(おでん)信長+石川五右衛門)
=光+月系
天竜人が宇宙服みたいな恰好など
宇宙人教は敵側。
おでんは主人公側なので月系。
光月の家系が石工の一族で歴史の本文(ポーネグリフ)を作った。
信長はアンチ天台宗だから優遇。
秀吉は切支丹弾圧したので不遇。
被差別層=復讐者を植民地統治の現地の実務担当ボスにするのは
植民地支配の基本。
現地人を恨んでいるから悪行を命じても実行してくれる。
ワノ国=日本がモデルだから
まさに現実を表現している漫画。
作者が自力で学んだのではないだろう要素満載だなこの作品。
以下は参考資料(と解説など)であり、上記の2つの要約よりも先に完成した。
上記の2つの要約に入れる要素は、参考資料の個所の完成よりも前に決めていた(軽く考察しておいた)が、内容を追加したりするなどして完成させたのは一番最後。
要約は以上で終わり。
参考資料
如来教の参考資料
如来教 ”魔道”
現代救済宗教論
https://books.google.co.jp/books?id=WDlxDgAAQBAJ&pg=PA96&lpg=PA96&dq=%E5%A6%82%E6%9D%A5%E6%95%99%E3%80%80%E2%80%9D%E9%AD%94%E9%81%93%E2%80%9D&source=bl&ots=Uw7frbG8s1&sig=ACfU3U0QR264dXyzu967jrUxjnliVrFZnA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwi2yr3dyrLqAhUF62EKHfk4BRMQ6AEwBXoECAoQAQ#v=onepage&q=%E5%A6%82%E6%9D%A5%E6%95%99%E3%80%80%E2%80%9D%E9%AD%94%E9%81%93%E2%80%9D&f=false
”きのの説教を記録した『お経様』に見える創造神話によれば、
最初に神が創造した七十五人の人間は神とともに天上に去ってしまったという。
現在の人間はその後に「魔道」が創造した五人の人間の末裔である。
現世とは魔道の支配する「悪沙婆」であり、人間は受胎以来、魔道の世話を受けている。
現世は修行場、すなわち仮の生存の場である。至高神如来に帰依し、善心を起こすことによって、
死後に至福の「後世」に至ることが救いである。”
日本の近世社会と如来教の歴史的特質 - 天理大学
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3741/JNK001604.pdf
”如来教の宗教思想は,「確立期」〔文化9年(1812)~同13年頃〕には,その骨格をほぼ形成し終えている。
そうした宗教思想の骨格(基幹部分)のなかには,
この世は「魔道」(デーモン)が支配しているとする説を含む固有の創造神話も含まれるが,
信者との応答を通じて形成された経緯が明確でもっとも重要な位置を占めるのは,固有の救済思想である(7)。
…
如来教固有の創造神話に関しては,実はすでに,文化10年(1813)の『お経様』(M95)のなかに,原初には神々自らが「七十五人」の人間を作ったが,その「七十五人」は神々とともに天上へ昇ってしまい,その後の人間は「魔道」というデーモンによって作られている,という趣旨が記録されている。
…
喜之を如来の受肉者だとする主張は,「確立期」以降の喜之の説教のなかで,つねに表立って主張されていったとはかならずしも言えない。しかし,M72の篇に予言されてもいるように,終末意識の表明が顕著になる「成熟期」(文化13年後半~文政3年4月)には,教祖=「如来の受肉者」説があらためて明言されてゆくことになる。
…
喜之は「如来の受肉者(具体的には如来の代理者としての金毘羅大権現の受肉者)」であり,
そうしたかたちでの諸人済度は希有なもので,人々が二度と遭うことのできないものだ,とする主張が現れていよう。
…
人間はこの世に「修行」に出ているのだから,それぞれの「家職」や生まれついた境涯を捨ててはならない,という趣旨を語ったことも記録されている。
…
如来教固有の創造神話に関しては,
実はすでに,文化10年(1813)の『お経様』(M95)のなかに,
原初には神々自らが「七十五人」の人間を作ったが,その「七十五人」は神々とともに天上へ昇ってしまい,
その後の人間は「魔道(まどう)」というデーモンによって作られている,という趣旨が記録されている。
そこで,そのような文脈を前提として上記の引用を読むならば,
そこにはおよそ次のような主張が含まれていることが明らかだろう。
すなわち,神々の手で作られた原初の「七十五人」はどこまでも素直な人間で,
まったく従順に神々の言葉(如来の意思)に従った,
しかし,「魔道」によって作られ,汚れたこの世に生きているいまの人間(「お主達(ぬしたち)」)には,
もはや原初の「七十五人」のような素直さで如来の意思(言い換えれば神憑り状態にある喜之の言葉)に従うことはできなくなっている,というのである。
…
如来の意を受けて原初の人間を作った一の宮は,
そもそも食べ物を知らない人間を育てるために一の宮自身の肌を嘗めさせて食糧に代えさせた,という趣旨が記されている。
しかも,創造神話に言及した篇としては前回の篇に当たる文化14年(1817)の『お経様』(M178)には,
如来の意を受けて「七十五人」を原初に創造した神々の「辛労苦労(しんろう くろう)」が並大抵なものでなかったことが,
およそ次のように強調されてもいる。つまり,神々の代表である一の宮は,肌を嘗めさせて原初の人間をある育てたがために,すっかり痩せ衰えて「有やなつらないやら知れぬやうに成て」,やがて他の神々や「七十五人」とともに如来のもと(天上界)へ帰ったのだが,帰るとすぐさま,如来から,その労を多として「隠居」を申し渡されたというのである。このように見てくると,まず,一連の人間創造神話を通じて主張されているのは,およそ次の二つのことがらだと理解できよう。その一つは,如来はどこまでも人間に恵みを与える根源的な創造者だということである。ちなみにその如来の意を体して人間創造にあた
ったかぎり,一の宮以下の神々も如来の慈愛を完全に体現した存在と見なされている。
…
人間は如来からこの世へ修行に出されており,この世での「家職(かしょく)」や「役儀(やくぎ)」の勤め方いかんによって
「後世(ごせ)」における処遇が決定される,
すべての人間は,人間を創造した如来の意思に従うことによってのみはじめて救われるのであり,
それは徳川家康といえども同様だ,というメッセージにほかならない。
つまり,家康の未成仏を敢えて言挙げする教祖喜之の発言は,コスモスには如来という至高の存在があり,
人間を創造したその如来の力によらなければどのような人間も救われることはないという趣旨を,
藩士たちをはじめとする信者一般に伝えることに,その主眼があったと解せるのである。
したがって教祖喜之の教説は,家康は阿弥陀仏がこの世に生まれ出た姿だとする説や,
歴代将軍は「転輪聖王(てんりんじょうおう)」であるという説とは異質なものであるばかりか,
如来を至高の存在だと主張する点で,将軍権力の始祖神話や正当性神話とは競合関係にあることが明らかであろう。
換言すれば喜之の教説は,将軍権力の神話の異端に相当するのである。
ただし『お経様』には,「天子」や「将軍」という職掌自体を否定するような発言は見られない。また,この世の人間である喜之の立場を考慮して政治的な次元への言及を憚っている旨の神の発言も記録されている。
…
いずれ終末にいたれば,この教えは人々から結構な教えとして尊重されるようになり,
…
(さてこのような尊い教えがあったのか,如来はその時にこの世へ済度にお出になったのだなあ,の意)」
…
大いに人々が喜ぶようになるのだから,記憶しているかぎり神の言葉は書き付けておけ。
…
M72の篇に予言されてもいるように,終末意識の表明が顕著になる「成熟期」(文化13年後半~文政3年4月)には,
教祖=「如来の受肉者」説があらためて明言されてゆくことになる。その代表的な例として,次に文政元年(1818)の『お経様』(M194)の一節を紹介しておこう。ここでもやはり,現代語訳を基本に,引用と註釈を交えながら紹介する。
この世は人間救済のための便法として作られているので,
もはや長くは続かないにもかかわらず,喜之がこの世を去ってもまた何らかの済度が行なわれるように「お主達(人間)」は考えているようだ。しかし,実はこの世ではこれ(喜之に受肉するかたちでの金毘羅大権現の出現)が最後の済度であり,
これで「お暇(いとま)乞(こひ)(訣別)」である。
「開山(諸宗祖)方」のなかから誰かを(各宗派の開創として知られる歴史上の諸宗祖の出世とは別に)この世へ派遣する方法もあったのだが,(金毘羅大権現が天降って如来の人間救済の趣意を喜之の口から語り聞かせるという)今回の方法は究極的な済度の方法なので,もうこれ以降はどの宗祖も
この世に受肉して済度にお出になることはない。
ここには明らかに,喜之は「如来の受肉者(具体的には如来の代理者としての金毘羅大権現の受肉者)」であり,そうしたかたちでの諸人済度は希有なもので,人々が二度と遭うことのできないものだ,とする主張が現れていよう。この後,文政9年(1826)5月2いとま日の入滅の前夜にも,喜之の口からは,「暇乞(こひ)」という言葉が同様に語られるのだが,
それは喜之の生涯が「如来の受肉者」であることを自覚しつつ閉じられたことをよく物語っていると言えよう。
…
「儀礼」とは「現実において非現実を実現するための一つの儀式」と定義できるが,
安政大地震の際に特に重要な意味をもったのは施行という「儀礼」であった。
…
明治中期以降,如来教の教勢を再興させた指導者小寺大拙(こでらだいせつ)(1838~1913)は,
日露戦争期以降には,むしろ熱烈なナショナリズムを唱道したことが知られている(33)。
”
出牢 - 天理大学
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/1743/GKH016212.pdf
”きのは…信者たちからは、「御一尊様」「慈尊」「如来様」などと呼ばれて慕われた。”
如来教
にょらいきょう
https://kotobank.jp/word/%E5%A6%82%E6%9D%A5%E6%95%99-110689
” 新宗教。本部名古屋市熱田区旗屋町。
教祖きの (1756~1826) 。もと如来宗といったが,長い間固有の教団名がなく幕末までその教えの内容から「このたび」と称されていた。享和2 (02) 年,宇宙の創造主如来が金毘羅大権現をつかわし,
きのに乗移ったとして神がかりしたのを立教の日としている。
教祖の無学,病直し,現世中心主義といった点に新興宗教の特徴的な性格をそなえており,黒住教,天理教などの先駆といえる。本尊は釈迦牟尼仏,教典はきのの説教集『御経様』,修行は曹洞禅の形式を取入れている。信者数約3万 3000。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
大辞林 第三版の解説
にょらいきょう【如来教】
尾張国熱田(現名古屋市)の農民出身の教祖一尊如来きの(1756~1826)が、1802年開教した民間宗教の一派。
原罪意識、来世主義を中心とする。
修行として座禅を重視することから明治以降曹洞宗に属したが、
1946年(昭和21)独立。教祖の説教を集めた「お経様」を根本教典とする。
出典 三省堂大辞林 第三版について 情報
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
如来教
にょらいきょう
尾張(おわり)国(愛知県)熱田(あつた)の農村女性、一尊如来(いっそんにょらい)きの(1756―1826)が開いた宗教。
如来を全知全能の創造主、慈悲の神とする。
すでに釈迦(しゃか)が説いた教えは全真理の六分で、残りの四分の教えを説くとし、如来は末法のすべての人間を救済するために金毘羅(こんぴら)を使者として、きのに遣わしたという。
あらゆる人間を悪の種とする独自の原罪説にたち、
人間は如来の慈悲にすがってのみ救われるとし、
如来の前では人間はすべて平等であると説いて、下積みの民衆の救済を求め続けた。如来教は幕末に尾張藩の禁圧を受け、国家神道(しんとう)体制下では曹洞(そうとう)宗に属して、
仏教化した。この1世紀半近い受難のもとで、如来教は閉鎖的な小教団となり、教典「お経様」は教内ですら厳重に秘匿され、近年まで幻の教典となっていた。本部は愛知県名古屋市熱田区旗屋にあり、青大悲寺を本山とする。寺院数34、布教所数1、教師数11、信者数2982(『宗教年鑑』平成26年版)。[村上重良]
『村上重良校注『お経様――民衆宗教の聖典・如来教』(平凡社・東洋文庫)』”
もう一つの幕末維新としての教派神道の発祥、経世済民の動き
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_11.htm
"【「如来教」】
まず「教派神道」に先立つ民間宗教として、「如来教」についても注目しておきたい。既に寛政時代において生まれていた「如来教」は、一尊如来きの(1756~1826年)が創始したものである。同女は尾張の国熱田の貧しい農民の子として生まれている。同女は江戸時代中期の宝暦6(1756).2.2日、尾張国愛知郡旗屋の里(現、名古屋市熱田区旗屋町)の農民長四郎の第二子として生まれ、兄と弟がいた。長四郎は周囲の信望を集めていた農民で、珍しいほど信仰心が厚く、禰宜、社家、修験(山伏)とも交流を為し、日頃「長四郎」様と呼ばれて周囲から尊敬されていた。生家は古い家柄で、念仏が宗旨であったが、先祖には神職がいたとも云う。同女は8才で相次いで父母と死別し、近在の叔父のもとで育てられた。兄弟の消息は不明で、幼少から孤児同然の身の上であったようである。叔父の家は貧しく、13歳の頃の明和5(1768)年より奉公に出向くこととなった。安永7(1778)年頃、23才で嫁いだ。この結婚は夫の身持ちの悪さからうまくいかなかったようで、子もできぬまま離縁し、再び奉公の身となった。寛政7年(1765)年、40才の頃、奉公先の当主が亡くなったのを機に旗屋の郷里に戻った。こうして同女は細々とした農民生活に入った。この頃は天明の大飢饉から寛政の改革の治世の頃である。
亨和2(1802).8.11日、47才の時、同女は突然神懸かりに陥った。
天地を創造し主宰する神「如来」が、金比羅大権現を使者として地上に遣わし、
自分の体に金比羅大権現が天降ったとする「如来」の教えを説き始めた。神懸かり前のきのの様子については、ほとんど伝えられていないが、既に自宅に神を祀り、祈祷を頼みに人が訪れるようになっていたらしい。きのの神懸かりの事情については、不明な点が多い。
19世紀初頭に、神懸かりして如来教を開教したきのは、こののち四半世紀にわたって、如来の慈悲による、あらゆる人間の来世での救済を説き続けることとなった。
きのが、自宅を「御本元」として、ひたすら如来に仕える生活に入ると、病気直しをはじめ様々な現世利益をもとめて、「御本元」に足を運ぶ人々がにわかに増えた。信者が集まると、束帯を身につけたきのは、金比羅の言葉を、時には、秋葉大権現、入海大明神、熊野大権現等の神々や日蓮、親鸞ら祖師の言葉を、神懸かりして延々と説くようになった。きのの説教は、開教翌翌年の文化元(1804)年頃から次第に形式が定まったらしく、没年の文政9(1826)年に至る22年余の間、毎月、時には月に数回もの説教が行われた。説教は、「御本元」のほかに、有力信者の舎やどり(居宅)でも行われた。
きのの教えは、のちのちまで、キツネつき、タヌキつき、飯綱いづな使いの類として、その教えを嘲笑し、悪罵する者が絶えなかった。一方で、時とともに、その教えに心服し、きのを生き神として仰ぐ信者が、尾張一円はもとより、かなり遠方からも次々に現われるようになった。信者の多くは、地元の農民、職人、商人で、それぞれ講をつくっていたが、尾張藩士の中にも熱心な信者ができて士さむらい講中が生まれた。きのの説教は、次第に遠国にも伝わり、尾張に加えて、美濃、伊勢、三河、信州馬籠、武蔵国上尾、江戸等の各地で講がつくられた。
教義の展開と体系化には、法華信者の覚善院日行(1749~1826)が、常に側近にあって貢献した。
この間、教勢の発展とともに、文政3(1820).4月、きのは尾張藩から呼び出されて取調べを受けた。この事件の前後、文政初年には、金木市之正は、きのの宗教が尾張藩から公認されるように、神道家元の吉田家、白川家へ願い出る計画を進めていた。きのの説教が多数の聴聞者を集めるようになると、信者の間から堂宇の建立や土地の寄進の申し出がなされたが、きのは、教団を形成したり、本格的な堂宇を建立する意志はなかったようである。
きのは、信者から、はじめ「慈尊」と尊称されていた。慈尊は中国では弥勒をさすが、きのの場合は、如来の慈悲を体現している人の意味であろう。
文化9(1812)年頃からは「一尊」とよばれるようになり、翌文化10(1813)年閏11月には、神命として「りゅうぜん」と改名した。「一尊」の名は、その教えが唯一至高のものとされたことからきている。きのの晩年には、信者の間では、如来ときのを一体とみる傾向が強まり、教祖を「一尊如来」、「りゅうぜん如来」と尊称するようになった。きのは、文政9(1826).5.2日、隠居所で波瀾にみちた70年の生涯を閉じた。
その教義は次のようであった。きのが説いた教義は、
末法観に立つ他力の来世主義であり、徹底した原罪説を特徴としている。
最高神として如来を崇め、その如来は天にある全知全能の慈悲(愛)の神であり、
世界を創造し、全てを神業として支配している。
如来に次ぐ神は釈迦であり、日天子(太陽神)であり、これまで法華経を始めとする教えを説いてきた神とされる。
次に上行菩薩は、月天子(月神)であり、法華経を広めた日蓮を神格化した神である。
この両神は日月であり、如来の両目にたとえられている。
金比羅は、仏法の守護神として大功のあった神で、天子の神々の中でも、ひときわ位が高い。如来はあまりに卓絶した神である為、自ら地上へ降ることはないが、末法の人間を救うために、
特に金比羅を使者として地上に遣わし、きのの体にかからせたとする。
さらに、天照皇太神(伊勢の神)、八幡、春日、熊野、熱田、秋葉、貴船、入海、一の宮、二の宮、金神、荒神等の神々をはじめ、聖徳太子、各宗の祖師等が登場する。きのの説教の中心命題は、
如来による来世での人間の救済である。
きのによれば、これまで釈迦によって説かれてきた教えは、全真理の六分に過ぎず、残りの四分が説かれていなかったが、末法の世になり、このたび、金比羅がきのに天降って、はじめて四分の教えが解き明かされ、あらゆる人間が救済されると云う。
更に、独自の創造神話があり、それによると、
その始めの世界は泥の海で、神が人間を75人だけ創造したが、これらの人間は、神仏とともに天に上り、
その後へ伊勢神宮の屋守(留守居)である魔道がきて、元になる人間5人を創造し、女性の胎から人間が産まれるようになったと云う。
これは、地上に住むあらゆる人間は、例外無く悪の種であるとする原罪説である。
愛の神である如来は、末法の世の救われない人間を憐れに思って、後世(来世)での救済を願い続けており、ひたすら如来にすがる者は、如来の救いにあずかって、来世は天に上り、如来の膝元である「能所」よいところに行くことができるという。人間は罪を負って生まれている為、
現世での苦難は避けられないが、死後に地獄に堕ちる苦しみに比べれば、
現世の苦はわずかであり、来世での救済が定まっていれば、既に現世において救われていることになる。
きのは、魔道が支配するこの世を、如来がつくっておいた仏道修業の場であるとし、
「心悩」をとり如来の懷に抱かれる為の修業「座禅」を教えた。
人間は、すべて如来の子として平等であり、他人をそしらず、他人を愛しいたわって、如来の心を心を心として「善心」を保ち、如来にすがり、如来に感謝することによつて、現世で利益を受け、来世では救われて幸せになるというのである。
きのが息を引き取る間際の言葉は次の通り。
「ああじゅつない(ああ苦しい)。ころい(し)ておくれの(いっそのこと殺して欲しい)。どうせるでやよ(どうすればいいというのか)。---みんなの苦しみをおれ一人して引き請けるのでや。さうでやさうでや。---我が身一分(いちぶん)なら(自分一人なら)、こんな苦しみはないが、みんなの苦をおれ一人で苦しむのでや。そうでやそうでや。---娘(人のこと)が多ふござりますで、罪が多ふござります。こちらにも居ります居ります。お越し下されましょ(以下繰り返し)数知れず」(御金言)
「壮絶な代受苦である。代受苦とは、悩める本人になり代わりその苦悩を引き受けることを指して言うが、きのはまさにその代受苦を一身に引き受ける生き神だったのである」(小滝透「おやさま」)。"
井上寛司『「神道」の虚像と実像』(講談社現代新書) のメモより
p.161から
民衆宗教の「病気直し」
十九世紀における多様なかたちでの民衆宗教の成立。
享和二年(1802)に
尾張国(愛知県)の女性 一尊如来(いっそんにょらい)
(りゅうぜん。漢字表記は「女留」「女全」)
喜之(きの)が如来教を創唱したのを皮切りに
文化十一年(1814)に
備前国の神官 黒住宗忠が黒住教を
天保九年(1838)に
大和国の農婦 中山みきが天理教を
安政六年(1859)に
備中国の農民 赤沢文治が金光教を
それぞれ開いた。
これらは近世になって盛んとなった生き神信仰
(生きた人を神と崇め加護を得ようとする
現世中心主義的な視点に立った信仰)として成立したもので
貴族や武士などではなく民衆自身が神として崇められ
また日常生活の体験を踏まえ
民衆自身の手で教義や宗教組織が創出されたところに
その歴史的意義と重要性とを指摘することができる。
これらの宗教がともに「病気直し」という共通の特徴をもっていたのも注目される。
それは現世の「難儀」の中心と考えられた「病気」(生理的な意味での病気にかぎらない)が
神仏(生き神)や布教者への信心を軸に
各宗教特有の禁忌・祈祷・呪術的行為などを交えることによって
「治癒」されるというもので
心身を一元的なものと捉え
神仏との関係の「回復」によって現世の「病気」からの解放を説くところに
共通の特徴があった。
如来教が金毘羅信仰の全国的な流行のなかで
地蔵信仰や浄土宗・日蓮宗など多様な宗教教義とかかわりながら成立したとされる。
十八世紀末の石田梅岩による石門心学や
十九世紀初めの二宮尊徳による報徳社などで
提唱された、
勤勉・節約・孝行・和合・正直・謙譲・忍従などの当為の諸徳目が
家や村を没落の危機から救うために実践すべき生活規範として
広範な民衆の地上生活に浸透していった。
黒住宗忠が
「生死も富も貧苦も何もかも心一つの用ひやうなり」と
述べているように、
心の無限の可能性を自覚化することが可能となり
それが新宗教の成立へとつながったのであった。
一方、幕末期の国学は主教的傾斜を強めていった。[注:「主教」は「宗教」の間違いだろう]
黒住教(主神は天照大神)はもちろん、
金光教(主神は天地金乃神(てんちかねのかみ))や
天理教
(主神は別名 月日様〈月日親神〉とも呼ばれた天理王命(てんりおうのみこと))もともに
太陽信仰を共通の基盤として成立したもので
それらが一個の自立した宗教として成立するためには
主神となる神々の普遍的神性の獲得が決定的に重要となる。
それが篤胤以下の幕末期国学によって提起された宇宙創造神・主宰神論によって
その理論的基礎を与えられたと考えられるのである。
重要なのは篤胤らがもっぱらアマテラス・天皇による日本の国家統治と
その特殊性を論じたのにたいし
ここではそうした特殊性ではなく
普遍的な救済神という世界宗教形成の方向で理論化がすすめられたことで
そこに民衆宗教としての独自の性格と特徴とを読み取ることができる。
(和風キリスト教初代四大人。
これら全てキリスト教が教義の設計図なのに驚く。
入れ知恵して回っていた宣教師がいたのだろう。
教義を体系化するのに関わった人は名前すら出なくてもおかしくない。
如来教の教義が全知全能の創造主や原罪など
元ネタがキリスト教。
しかも教義作成に関わった側近が一神教と相性が良い日蓮宗。
現地の生き神思想がグノーシス派と相性が良いので異端寄りになっている。
黒住、天理、金光も同様。
病気直しで世界一有名なのがイエス。
「民衆自身の手で教義や宗教組織が創出」の民衆って切支丹だろ。
この著者、ここまでキリスト教の特徴が出ているのにキリスト教の影響を指摘しないのね。
文章読むに如来、黒住、天理、金光教の教義も学んでいるのにね。
天理教は明確に一神教なのに。
でも
「篤胤以下の幕末期国学によって提起された宇宙創造神・主宰神論によって
その理論的基礎を与えられた」とあるから
これらに理論的基礎を与えたのは篤胤系の和風キリスト教だと著者は分かっているだろうね。
篤胤(1776 - 1843年)の
『本教外編』は
1806年(文化3)成立で
「未だ他見を許さず」と記され公刊されなかった。
『神字日文伝』は
文政2年(1819年)成立。
1802年成立の如来教と
1814年成立の黒住教には
少なくとも成立時に篤胤系の影響はないだろう。
でも後の教義の体系化には影響してそう。
1838年成立の天理教と
1859年成立の金光教には成立時から影響しているだろう。
如来宗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%9D%A5%E5%AE%97
"如来宗(にょらいしゅう)は、江戸時代、享和2年(1802年)に愛知県名古屋熱田の農夫長四郎の三女きの(喜之。きの女。宝暦6年(1756年) - 文政9年(1826年)。一尊如来きの)が神懸かりを受けて開いた宗教である。如来教とも。石橋智信によれば、この宗教そのものに呼び名は無く、教祖の自称から石橋は「一尊教」と呼んだ。日本の宗教には珍しく「原罪」という概念を持つ。
船乗りの間で信仰される「金毘羅」が如来の使いであるとし、これを中心とした信仰がなされる。
如来宗の本山となっている青大悲寺
教祖きのが道を説き始めてから9年目に「御綴り連」なる5人の速記役がつき、教祖の説法を記録した「御経様」という速記録が作られ、経典となっている。「御経様」はきのの説法の速記という性格上、名古屋弁そのままで記された特異な形式を持っており、266巻にのぼる。速記役の筆頭は尾張侯の右筆速水三郎氏芳であった。
創設当初は尾張藩士の入信が相次ぎ、関東まで教勢を伸ばした。しかし、文政3年(1820年)にきのが尾張藩より取調べを受けた。
教義は神観においては、自己の神である「如来」について、
「諸仏といふと如来といふは段のちがつたものでござる」、
「神々といふは皆、如来様に仕はれさつせる様なもの」というように、神道の諸神、仏教の諸仏の上にあるものとし、またこの世の創造神、摂理神であるとした。 「如来」が全能であることについて、
「如来様は皆知つてをらせる。御主達の腹の中の筋、灸所まで皆御存知じでや」、「それ御主達の身分のことはどふでもかうでもなされて下される如来様でやぞや」といい、全能の如来にいっさいを任せ安心を得るべきであると説く。 また経典の随所で、
愛の神を説いてやむことを知らない。 人間観においてこの身このままでは救いが無いことを、「義人あるなし一人もあるなし」、「えいやつ等といふは一人もをりはせぬ」といい、、救いは自力の工夫勘考利口才覚では間に合わないという。救わねばならないのが愛の神であると説き、神は直接出てこの世の人を救うことはできず、ここで教祖が神の付託を受けてこの世の人を救うべく現われた。 3000年前、如来は人の救いを釈迦に託したが、釈迦の死後3000年幾人の人が救われたか、釈迦の大たわけめ、と熱弁をふるった。 そこでこのたびは貴人でもなく男性でもない女性を選んで道を説かせ、救いをあまねくしようと如来が試みられたとする。 教祖は死に臨んで、神経痛のための苦痛のなかで「さうでやさうでや、みんなの苦しみをおれ一人して引請るのでや」、「我身一分ならこんなくるしみはないがみんなの苦しみを己一人して苦しむのでや」と言葉しながら世を去った。
その後、きのは文政9年(1826年)に没し、跡を武蔵国川越から来た菊という女性が継いだ。
彼女は明治7年(1874年)まで庵主を務めたが、その最中の安政5年(1858年)には尾張藩より布教差し止めが出て、建造物は破壊、土地などは尾張藩御預かりとなった。その理由は、神道、仏教、何れでもない教義を説き、「お水」を治病行為に使用していたことから、キリシタンとの嫌疑が掛けられたからである。
その後、明治6年(1873年)に廃寺届けを出すが、明治9年(1876年)に曹洞宗の僧侶であった小寺大拙が39歳で入信し、これを中興。その際、禅宗の儀式が移入され、曹洞宗を上部団体とした。明治17年(1884年)に名称を曹洞宗法持寺説教所鉄地蔵堂とした。1929年(昭和4年)には「一尊教団」が分離し、金沢に拠点を置いた。戦後宗教法人法による単立宗教法人となり、宗教法人如来宗(昭和27年)、宗教法人如来教(昭和37年~)と改称した。
所在地
現在の本部は愛知県名古屋市熱田区旗屋町1-10-39。登和山青大悲寺(せいだいひじ、尼寺)。
文化財
鋳鉄地蔵菩薩立像(青大悲寺蔵。愛知県指定文化財)[1]。
…
石橋智信『隠れたる日本のメシア教』 宗教研究
井上順孝ほか『新宗教事典』(弘文堂)"
ゆきよる ユキヨルム
@yukkiyfly
2018年1月21日
如来教、教典が名古屋弁であるという他に仏教各派、神道、キリスト教の影響が見られるようでインパクトがすごい。
0件の返信 1件のリツイート 2 いいね
ゆきよる ユキヨルム
@yukkiyfly
2018年1月21日
現存最古の和訳聖書は名古屋弁を交えて書かれているそうな。
あと幕末に成立した如来教の教典は教祖が尾張出身なので名古屋弁で記録されているとのこと。こちらも気になる。
岸本元
@bowwowolf
2015年5月17日
返信先: @teikichi20さん
@teikichi20 如来宗の一尊如来きのの別名「りゅうぜん」ではないでしょうか 参照→http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1101729954/ …
女教祖の誕生 「如来教」の祖・【リュウ】【ゼン】如来喜之
浅野美和子/著
出版社名
藤原書店
てい吉
@teikichi20
2015年5月17日
@bowwowolf ありがとうございます。そんな別名があったのですね。彼女自身が礼拝の対象になっていたのならかなりキリスト教的な教団ですね
1件の返信 2件のリツイート 1 いいね
岸本元
@bowwowolf
返信先: @teikichi20さん
@teikichi20 鋭いですね。村上重良先生も『日本宗教事典』(講談社学術文庫)で《如来の神格、キリスト教やイスラム教等の天使に対応する金毘羅の位置、人間の原罪、天国をさす「能い所」等の所観念には、キリシタン(カトリック神学)の影響がみられるようである》と指摘しています。
2:34 - 2015年5月17日
国学bot@kokugakubot
世の蘭学する徒、その学びの正意を非心得して、
その窮理家など名告る輩、
すべて理を以ておし考へ、知られざることなしと云ふなるは、
西洋人の事物の理を窮極めて、その知れざるところは、
ゴツドの所為なりと云ひて、
厚くその天神を尊む学意に背へり。
霊能真柱/平田篤胤
(ゴッドという呼び名を知っているのか)
[
2022年11月19日に追加:
一尊如来きの(1756-1826)
http://www.ffortune.net/social/people/nihon-edo/isson-nyorai-kino.htm
”きの はいわば中山みき(天理教,1798-1887)の先駆者です。
きの(幼名とわ)は宝暦6年2月2日、尾張名古屋の旗屋町で生まれました。家は古い家柄で先祖には神官もいたといいます。8歳の時に両親と死別して叔父に引き取られ、13歳の時から漢方医・橋本大進の家で奉公、ついで橋本家の知り合いの尾張藩士石河家の隠居に仕えました。この隠居が亡くなった後結婚をしますが夫の身持ちが悪かったため離婚して、再び石河家に身を寄せました。
その後石河家を辞して、少しずつ貯めていたお金で生家を買い戻して再興。一人で田畑を耕して暮らすようになりました。享和2年(1802)47歳の時突然神懸かりして、神の言葉を話すようになります。そのきのの祈祷を受けるために少しずつ人々が集まるようになり、尾張藩士の中にもかなりの信者が出ました。
きのの思想はその尾張藩士たちにより書き留められています。それによれば宇宙を創造した如来様が前世で罪を犯した人たちを救うために金比羅大権現を使者として、きのの許に遣わしたとし、神仏の存在と愛を認め神仏に帰依することにより彼岸に到達するとしました。
・我らは唯一絶対、慈悲の根源たる如来の存在を信じる・この世を創り給いし如来が、その子供たるこの世の全てを良き所へ向かわせようとする、如来の無限の愛と救いを信じる
この教理は浄土宗的でもありますが、見ようによってはキリスト教のようにも見えます。そのため、きの自身文政3年(1820)に尾張藩から呼び出しを受けて取り調べを受けています。しかし特におとがめはなく、文政9年(1826)5月2日、71歳で亡くなるまで、多くの信者のために祈祷を続けました。
なお、教団はその後きのの養女の菊、日行、小寺一夢と継承されましたが、一夢の代に弾圧を受け、布教禁止処分を受けます。しかしその後一夢の子の小寺大拙が再興し、明治17年、曹洞宗に所属する地蔵堂として政府から布教の許可を得ました。
戦後は曹洞宗から独立して如来宗(のち如来教)となりましたが、それに先行して曹洞宗からの独立運動をしたグループは結局一尊教団を形成するに至ります。きのが遺した「お経様」は実は如来教では非公開にしていたのですが、一尊教団が全てを公開したため信者以外にもその内容が明らかになりました。”
※着色は引用者
元祖ZENだな。ZEN=グノーシス派キリスト教的に改造した禅。
ZEN=ニューエイジ的に改悪した禅(こちらの意味だと如来教ができた頃はまだニューエイジが存在しないので上記のように書いた)。
研究・教育・社会活動 - 一橋大学大学院社会学研究科・社会学部
論文題目:如来教の思想と信仰 ―教祖在世時代から幕末期における ―
著者:神田 秀雄 (KANDA, Hideo)
博士号取得年月日:1997年10月8日
https://www.soc.hit-u.ac.jp/research/archives/doctor/?choice=summary&thesisID=6
”1802(享和2)年、尾張国愛知郡熱田新旗屋町(現、名古屋市熱田区旗屋)に住む元武家奉公人の女性きの(=喜之。1756~1826。開教当時47歳)によって創唱された如来教は、近世後期から明治期のわが国に開教した一連の宗教(いわゆる「幕末維新期の民衆宗教」)の1つである。黒住教、天理教、金光教などに比べて開教時期の早さが注目されているその如来教を修士論文のテーマとして以来、筆者は同教に関わるいくつかの論考を発表してきたが、1990年に上梓した本書では、その時点までに披見しえた関係史料をほぼ網羅的に使用しながら、教祖在世時代から幕末期までを対象として、如来教の成立過程、宗教思想、信仰活動の実態とそれらの歴史的特質を、総合的に解明することをめざした。なおその際、文化文政期前後の名古屋一帯における庶民信仰の展開状況と如来教成立の関係、ことに金毘羅信仰の流行と如来教成立の関係に新たな焦点をおいた。本書の全体は、「序章 如来教研究の意義と本書の視点」「第一章 如来教の開教」「第二章 如来教の宗教思想」「第三章 如来教の信仰活動」「史料編」からなっており、「史料編」には、筆者が独自に公開を得た史料のうち主な5点の全文を翻刻し、校註を加えて収載している。以下、史料編を除く各章ごとに要旨を記す。
序 章 如来教研究の意義と本書の視点
如来教(分派の一尊教団を含む)は、教団の規模や布教状況からすれば、現代日本の宗教界ではかなりマイナーな位置にある。しかし同教には、・教義内容が現世中心主義的だといわれる他宗派と異なり、「後世」を問題とする教義を掲げている、・伊勢信仰(「おかげまいり」に現れた神威)や富士信仰の社会的流行を背景として成立している他の宗派とは異なり、これまでその内容があまり注目されてきていない金毘羅信仰の流行を背景として成立している、という2つのきわだった特徴がある。したがって、如来教がそれらの特徴を持つにいたった歴史的な事情を分析することには、「幕末維新期の民衆宗教」一般の歴史的意義を再考する大きな手がかりが含まれている可能性がある。如来教・一尊教団には、教祖きのの25年間にわたる説教、および教祖に天降った神仏と信者たちとの応答を筆録した膨大な宗教文献(教典)として、『お経様』が伝存するが、『お経様』は神仏分離以前の近世における創唱宗教成立の様相とその信仰活動の実態を伝えるきわめて稀な文献であり、その分析には、近世後期から明治期にかけての日本宗教史の小さくはない書き換えを促す可能性が含まれている。今日、如来教を研究対象とする意義は、およそそれらの点にあるといえよう。(以上「第一節 如来教研究の意義」)
『お経様』がきわめて貴重な宗教文献であることについては、石橋智信による戦前の如来教研究の段階で、すでに概括的な指摘がなされている。しかし、石橋の『お経様』披見は例外的なもので、以後、宗教法人如来教では教団史料を一切公開していない。そうした状況のもと、1971年に分派の一尊教団から教団史料が公開されたことは、如来教研究に新たな展開の可能性をもたらした。また筆者は、一尊教団所蔵の史料群とは別に、一信者から、如来教本部旧蔵史料を含むいくつかの関係史料の公開を得た。「第二節 如来教の研究史と本書の視点」では、大略右のような如来教研究史を辿った上で、近年の村上重良、浅野美和子両氏の如来教研究、ことに筆者の如来教分析の方法を批判し、宗教思想の中世的性格に特に注目しようとする浅野氏の研究に反批判を加え、筆者の研究視点を具体的に説明している。その際、本書は・かつて安丸良夫、ひろたまさき両氏が提起した、各宗派の宗教思想が信者にどのように働きかけ、彼らの主体構造をどのように変革していったか、という視点を意識的に継承する立場に立っている、・神観念や宗教思想は、教義面からのみならず、信者集団の意識面からも解明する必要がある、とする桂島宣弘、しらが康義両氏の提起をも摂取しようと試みている、などの事情を併せて説明した。
第一章 如来教の開教
この章では、如来教の開教に関わる具体的な経過とその歴史的特質について、教祖の生い立ちや前半生の特徴を含めて解明することを期している。まず「第一節 『御由緒』をはじめとするきのの伝記史料について」で、『御由緒』と呼ばれる教祖伝(本章の基本的な典拠)について、その著者や成立年代に考証を加え、つづく「第二節 奉公人きのの前半生」では、主に、幼少時における肉親との死別、短く不幸な結婚をはさんだ長い奉公生活、熱田への帰郷と独り暮らし、法華行者覚善父子との同居と新たな苦難などをめぐって、きのの前半生の特徴を分析した。またその際、きのの最初の神憑りは、信心深かった父に関する幼時の記憶をも背景としながら、直接には、同居人の祈祷師覚善の活動に触発されておこったとみられることを併せて論じた。
「第三節 如来教の開教」では、1802(享和2)年8月と9月の2度にわたる神憑りの後、金毘羅大権現が憑依していることを、きのが約一年を要して、覚善をはじめとする周囲の人間に承認させていった過程を分析している。その際、『御由緒』に伝えられている覚善その他の宗教者による審神のエピソードや、神憑りの真正性を主張するためにきの自身が行ったいくつかの象徴的行動を取り上げ、それらが含む宗教史的な意味を中心に考察を展開した。また『御由緒』に記されている複数の神憑りについて、各神憑りでは、それぞれの目的に関係が深く周囲の人間を納得させやすい神仏が天降っており、そうした金毘羅以外の神仏の登場は、かえって金毘羅大権現の権威を高める結果をもたらしていること、さらに、そのような傾向は教典『お経様』に記された説教にも受け継がれてゆくこと、などの諸事実を明らかにしている。
第二章 如来教の宗教思想
この章では、全体像の概観、神格論(神学の成り立ち)、現世と来世についての捉え方、救済に関する思想という順で、如来教の宗教思想の内容と特質を構造的に明らかにすることにつとめた。そのうち、まず「第一節 概観」では、宗教思想分析に際して基本的な史料となる『お経様』をめぐって、その原本の成立事情、諸編の構成、教祖きのの説教の内容、宗教思想の基本的性格などについて全般的な概観を行っている。
「第二節 金毘羅大権現 ― 威力と済度の神」では、主に、近世における金毘羅信仰の一般的な流行と如来教神学の形成の関係を論じている。『お経様』には、早い段階から、金毘羅大権現は、諸人救済という釈迦ないし如来の意思にもとづく事業を現実に執行する上で重要な端緒を作った神であり、如来と釈迦を除くあらゆる神仏との比較において優れた神だ、とする主張が広く認められ、そこには、威力ある神・果断な神という、教祖きのの原初的な金毘羅イメージを窺うことができる。一方、一般的な金毘羅信仰では、18世紀半ばから幕末期にかけて、金毘羅とは、かつて保元の乱に敗れて讃岐に流された崇徳上皇の御霊のことだ、とする説が流布していったとされており、その背後には、御霊ないし祟る神の威力に期待する民衆意識があったと推測される。『お経様』のいく篇かに『保元物語』以来の特定のモティーフを継承した展開が含まれていることは、きのの金毘羅イメージがそうした民衆意識の動向の中に位置することを示唆しているといえよう。なお、きのの金毘羅イメージは、御霊・祟り神のイメージと天狗・修験のそれを一体視する方向に発展していったと理解されるが、それらのイメージの源泉は、住居の近くに所在した延命院やどこかの尾張藩士の家に祭られていた金毘羅神像であった可能性がたかい。
宗教思想の深化とともに、金毘羅大権現は、釈迦・諸宗祖・その他の神仏が持つ済度の力をすべて兼ね備えた神として描かれてゆく。如来教神学の最大の特徴は、本地垂迹的な神仏の世界という既成の観念を前提としつつ、威力ある神としての金毘羅大権現という観念の社会的流布を背景に、その世界には如来の意思にもとづく統一的な神仏の秩序が実在し、実際に機能している、という主張を展開しているところにあるといえよう。
「第三節 『悪娑婆』と『後世』」では、救済思想成立の前提となったはずの、世界の成り立ちに関する教義上の捉え方を扱っている。開教当初から、『お経様』には、現世を否定的な世界(「悪娑婆」)だと捉える一方で、来世(「後世」=「能所〔よいところ〕」)は如来のいるこの上もない良い世界だとする観念が広く展開されている。また「神代」の人間創造と「神代」終了後における人間の出生過程を対比的に描いた、固有の神話と「魔道」に関する教説も、早い時期から現れている。ただ「魔道」というデーモンには、如来の使者という側面が次第に強調されてゆき、やがて金毘羅や如来には「魔道」をも統率する力量があると主張されてゆくことになる。
他方、『お経様』には、現世は人間にとって、来世で救済をうけるための修行場であり、捨て去ることは許されないものだ、とするもう1つの現世観が展開されており、同時に、「家職」を大切に勤めつつ「後世」での救済を願うという信仰上の課題が提起されている。そうした「家職」論には、政治権力者批判と有機体的社会理論の両側面が含まれているが、「後世」の観念の一貫した強調は、現世には如来から衆生済度の使命を与えられてさまざまな人間に受肉している者がいる、という主張を含んでいるものと解釈できる。その意味で「後世」は、《世俗の背後にある王国》(M.ウェーバー)であるとともに、現世を批判する根拠としての他界、という性格が濃厚な観念だと考えられる。
なお、当時の如来教信者たちは、さまざまな不幸の背後に未成仏の霊の働きがあることを恐れ、その霊の慰撫にきわめて熱心だった。当時の社会には、死者の霊は死後ただちに安定を得ず、その成仏いかんは子孫がその霊の供養を丁重に営むか否かに大きく関わっている、とする観念が定着し、同時に祖霊の成仏に障害をもたらす無縁仏の供養(施餓鬼会)が従属的に行われていたのだが、如来教信者たちの右のような意識状況は、死者儀礼に関するそうした観念構造の中で、施餓鬼会執行の要素を肥大化させたものだといえる。換言すれば、彼らは、死後を祀ってくれる子孫があるという事実そのものに《人の生涯の意味》を見出す当時の社会通念から、疎外されつつある人々だったのである。
「第四節 『三界万霊』の救済」では、筆者がかねて「三界万霊」救済の教義と呼んでいる、救済思想の成立過程とその構造を扱った。『お経様』における「三界万霊」または「万霊」の語は、初期には無縁仏とほぼ同義に使われているが、次第に固有の意味を込めて使われるようになる。特に如来教の確立期に属する1812(文化9)年には、信者が日常的につとめるべき所行として「三界万霊」の救済祈願が定められ、以来『お経様』には、「三界万霊」の救済に関する話題が多くなってゆく。そして2年後には、「万霊」の救済こそが如来教開教の目的だとする主張が示されて、さらにこの教義は深化を遂げてゆくのだが、その深化過程は、「万霊」の語義変化とともに、無縁仏、有縁仏、現世の人間は本来、区別する意味がないものだ、という文脈が濃厚化する筋道を辿っている。特に文政初年の『お経様』諸篇では、「万霊」と現世の人間との不可分性に関わる主張や、子孫に弔われている有縁仏も「万霊」であるとする主張が顕在化するとともに、多くの人間が「後世」の(如来の)秩序を根拠としてこの世を生きるようになる日が迫っているとする終末意識の昂揚が顕著になり、「後世」への期待は最高潮に達してゆくのである。
「第五節 宗教思想の歴史的意義」では、「幕末維新期の民衆宗教」の宗教思想一般に対する如来教の宗教思想の固有性と共通性を具体的に挙げながら、特に「三界万霊」救済の教義の歴史的意義について、大意次のような趣旨を論じている。
霊の救済ということがらは、霊友会や立正佼成会など、近代日本に生まれたいくつかの宗教において中心的な位置を占める問題であるが、如来教が提起している霊の救済と霊友会などが提起しているそれとの間には、個々の霊の救済を問題にするか否かという点で、大きな次元の相違がある。如来教の「三界万霊」救済の教義は、人間の存在はその死後における子孫による追善供養が保証されてはじめて意味を持つ、という当時の社会通念を断ち切ろうとしている教義なのであり、そうした意味における救済を提起している如来教には、霊の救済という外面的な共通性に関わる視点を越えて、むしろ天理教や金光教に接近する性格を認めるべきだと考えられる。如来教と天理教に共通する救済の論理に注目するとき、如来教は、「幕末維新期の民衆宗教」における救済の論理の有力な型を、初発的に提起した宗教として位置づけうるといえよう。
第三章 如来教の信仰活動
この章では、できるかぎり信者たちの動向の側から、如来教の信仰活動の実態と特質を解明することを期した。その際、如来教の開教期(1802=享和2年~1826=文政9年)を4つの時期に区分し、第四節まではその時期ごとに信者たちの動向を追った。また第五節では、金毘羅信仰一般と如来教との関係について、さらに第六節では、教祖きの没後の幕末期における信仰活動の特質について、それぞれ考察を加えた。
「第一節 開教初年の動向」では、如来教がまだ成立過程にあった1804(文化元)年から1811(同8)年までについて、主に、・この時期の『お経様』には、金毘羅が諸人済度のために、出自の貧しい女であるきのに天降った由来など、未信者を強く意識した自己主張が顕著に認められ、すでに百人を越える人数を集めた説教も行われている、・在来仏教諸宗に対して教祖信仰(如来教)の優越性を主張する発言も次第に目立ちはじめるが、その主張の重点は、信者たちが具体的に関わっている近世仏教への批判にあったとみられる、・この時期の宗教思想展開の主契機は、きのとその側近である覚善との確執や、篤信者の死亡という不幸の体験にあった、などのことがらを明らかにしている。
「第二節 宗派の確立と講活動の活発化」では、創唱宗教としての如来教が確立した時期にあたる1812(文化9)年から1816(同13)年4月までについて、主に、・きのに対する信者たちの意識に大きな変化が生まれ、きの自身も、神による命名だとする自称を定めたり、開教12周年の一連の説教を実施するなど、教祖としての立場をさらに鮮明に主張しはじめる、・尾張藩士、町人、農民などによる如来教の講組織がいくつも成立し、活発な講活動が展開されはじめる、・教勢の定着・拡大が既成寺院や町役人などを刺激した結果、一方では、信者間に、信仰活動を自主規制する動きや、在来の行儀を如来教に導入する動きが顕在化し、教祖きのが説教活動の中止を宣言するにいたる、などのことがらを明らかにしている。
「第三節 江戸の講中の参入と諸願の増加」では、1816(文化13)年閏8月から1820(文政3)年の尾張藩による弾圧の直前までについて、主に、・信者批判の目的で約5カ月間中断されていたきのの説教活動は、讃岐の象頭山を信仰する江戸の金毘羅講中が如来教へ参入したことを契機に再度活発化すると同時に、如来教の宗教思想はこの時期に最も深化を遂げている、・この時期には、右のような事態を背景に諸願の件数が急増し、その内容も多様化の傾向を示すが、『お経様』には、個別の病気治し願いや縁者の追善願いなどを、説教の場に集った人々一同が願っている様子がしばしば描かれており、そこには、信者たちの意識状況の変化が窺える、などのことがらを明らかにしている。
「第四節 文政3年の弾圧ときのの晩年」では、1820(文政3)年4月から1826(文政9)年5月のきのの死までの6年間について、主に、・文政3年の尾張藩による弾圧(きのの側近であった法華行者覚善の喚問)は、既成寺院の訴えによるものだった可能性がたかい、・江戸の金毘羅講中の指導者(金毘羅社の神官)だった金木市正は、その弾圧の際、吉田・白川家への入門をきのに薦めたが、神職資格出願は結局果たされずに終わっており、その事実には布教の合法化に対する教祖きのの姿勢が窺われる、・金木は、江戸で大名家にもおよぶ布教を展開し、その活動は流行神的な活況を呈したが、教祖きのは、そうした金木の活動に次第に批判的な立場を明確にする、・この時期の教団史料『文政年中おはなし』には、説教の実施が困難化する中で行われた、地元の信者たちと教祖との対話の様子が記されている、・江戸の講中に向けてきのが口述筆記を送らせた手紙の写『文政年中御手紙』は、江戸の布教活動の様子を伝えているほか、教祖きのの思想形成が、奉公人にとっての道徳的当為を重要な素材として行われたことを示唆する記述を含んでいる、・『お経様』に伝えられているきのの臨終の様子には、キリスト教的な贖罪者観念よりも、むしろ地蔵菩薩信仰の影響を認めることができる、などの分析を行っている。
「第五節 金毘羅信仰と如来教 ― 碩道・金木市正・講中」では、近世の一般的な金毘羅信仰と如来教との関係について、本書の執筆にあたって行った、関係文献の分析およびフィールド調査の結果を紹介している。開教当初にきのが接触した知多郡緒川村の金毘羅道者碩道や、1817(文化14)年に如来教に入信した江戸の金毘羅社の神官金木市正の活動は、修験道や密教の要素をも含む、習合的な性格が相当に濃厚なものだったこと、文化文政期から幕末期にかけての名古屋は、江戸などとならんで金毘羅信仰の流行が顕著だった地域の1つで、当時の如来教はその金毘羅信仰の講活動ともかなり重なり合う部分を持っていたこと、などがその主な内容である。
「第六節 幕末期における信仰活動とその矛盾」では、教祖きの没後の信仰活動について、小寺一夢(1797~1862)を中心とする名古屋における活動と、きのの最晩年に後継を指名された武州出身の女性きくが、金木市正の講社を受け継いで江戸で行った布教活動の、双方に考察を加えた。その際、彼らの主な活動は、既成の寺院・講組織や上層の武家奉公人(奥女中ら)などへの接近に向けられ、当時の如来教では、固有の教義を持つ宗派としての自覚は深化を遂げえなかったこと、また教祖在世時代から、信者中に占める名古屋の町人と尾張藩士の割合が高かった同教では、幕末期には、有力町人に対する経済的な依存度がさらに深まり、そこには、現世の秩序に対して否定的・批判的な内容を持つ同教の宗教思想と整合しない状況が生まれていたこと、などがその主な内容である。”
※着色は引用者
]
黒住教の参考資料
ROCKY
@rocky_miracle
2017年1月30日
日本発!岡山にある神道家・黒住宗忠を祀る宗忠神社を参拝する。彼は33歳の時、肺結核で死を覚悟して太陽に手を合わせると、”神人合一”の境地に到達して回復する。その後、多くの病人を癒す奇跡を起こす。境内には東郷平八郎の直筆の石碑がある。近くにある神職を勤めていた今村宮は歴史を感じる。
桃園穂鳥
@cawaU
2015年1月21日
教派神道13派の一つ。1814年備前岡山の黒住宗忠により開教。宗忠の家は備前今村の今村宮の祠職で、彼もこれを継いで禰宜となったが、33歳の時両親が相次いで病死。自らも肺を病み3年ほど臥床した。その苦悩の中で、一日天命を授かり、神人合一を体験し大悟して信仰を得たといわれる。天照大御
感想つぶやき男B
@B77812773
2月19日
黒炭オロチ様が「国を滅ぼす復讐者」と判明したおかげで、
・世界最高の戦争をしたいカイドウと長年やっていけている理由
・使い潰しの労働やスマイル配布等の国を繁栄させる気のない行動
・おでんが5年間うかつにオロチに戦いを挑めなかった理由
ここら辺が一気につながるの、よくできてるよなあ~
1つで複数の問題を解決できるのものこそがアイディアだとは言うけれど、それに似たものを感じる
ONE PIECEネタ。
— 釣リップラーちぱ (@chipachipa11164) 2019年11月5日
3人のモデル
光月おでん→織田(おでん)信長
黒炭オロチ→豊臣秀吉の幼名・藤吉郎
トウキチロオ→逆から読めばオロチ
霜月康イエ→徳川家康
織田信長といえば長篠合戦屏風に描かれた六芒星の白装束。
そして光月家はポーネグリフを刻んだ石工の一族。
気になる気になる♪(^-^) pic.twitter.com/nA20X2rkYe
タイツマン@TAICHUMAN
2019年11月9日
おでんが信長、オロチが秀吉、康イエがそのまんま家康なんだろうけど、
信長が父の葬式で抹香を投げつけたエピソードが友人を火葬する火でおでんを作って食べる気グルエピソードになるの、強すぎる
―――
この記事っていつ作ったんだろうな上記見るに2019年代っぽい。
「※着色は引用者」がない。
引用で、注意書きなしで読みやすく改行している。
[
2022年12月15日に追加:
青い左目の代表である海賊王漫画ワンピースにおいて超優遇されている人物の名前が光月おでん(笑) 名前に「光」と「月」(青い左目)であり、石工(いしく)の一族(笑) 石工ってモロにメイソン。
https://twitter.com/onepiecebignews/status/1188602390389256192
”世経アルバイト
@onepiecebignews
そういや今週、光月おでんが石工の棟梁になったことに対し「さすが光月の血筋!!」と言われてますが、それは光月の家系が石工の一族であることから来ています
歴史の本文(ポーネグリフ)を作ったのも光月一族
地味に重要な設定ですよねこれ
#wj48
画像
午前8:44 · 2019年10月28日
·Twitter for Android”
画像のセリフは「ワノ国 光月の家系ゆうがは実は代々 石を切り出し加工する"石工”の一族」
この海賊王漫画の作者は言葉遊びが大好き。
オーディンって北欧神話だから青い左目が好む。北欧神話といえば『進撃の巨人』。青い左目側である『仮面ライダー鎧武』も北欧神話が主体。
おでんがオーディンなら、おでん屋で、赤化ソノイが青に戻ったのは当然といえる。
オーディンで北欧つまり青い左目(金髪碧眼が多い)。ただし、北欧は赤い右目の利権(ノーベル賞)にもからんでいるのでややこしい。
北欧勢力と、北欧神話勢力は分けるべきかもしれない。完全には分けられないけど。
北欧のヴァイキング系海賊と、WASP系(完全に青)の海賊とは派閥が違うだろうな。
光月おでんの話に戻る。元ネタはオーディン、織田信長、石川五右衛門の3つの説がある(3つ全てが元ネタだろう)。作者の名前も「尾(お)田(でん)」と読める(笑)
https://twitter.com/twinsnotti/status/1536369253980729345
”まむも
@twinsnotti
ワンピースの光月おでんって帽子かぶってるような頭してるのと名前からオーディンが由来かと思ってた
午前0:25 · 2022年6月14日
·Twitter for iPhone”
https://twitter.com/Isuzu_T/status/1357221977467940864
”垂木いすゞ
@Isuzu_T
ちなみにワンピースの光月おでんもおでんの由来であるオーディンをモチーフにしており、貪欲に知識を求めるもの、死んだ勇者を集め最終戦争のために鍛えるもの、というオーディンの設定が、好奇心のために国を捨てて冒険したエピソードや、部下が死を装って反抗を企てた展開に使われてるんですね
午後3:58 · 2021年2月4日
·Twitter Web App”
https://twitter.com/Isuzu_T/status/1357222808347025408
”垂木いすゞ
@Isuzu_T
光月おでんの宿敵であるカイドウはオーディンが殺した巨人ユミルの設定を引き継いでおり、ユミルの体から巨人が生まれたというエピソードが百獣海賊団につながっています。
面白いのはオーディンの首縊りのエピソードを反転させた、「失敗する自殺」=「新たな知識を得られない者」という設定ですね
午後4:01 · 2021年2月4日
·Twitter Web App”
https://twitter.com/Isuzu_T/status/1357223166913826821
”垂木いすゞ
@Isuzu_T
また髭面で雷を操るというところもあり、カイドウはユミル的なものと反オーディン性を足したキャラ付けになっていることがうかがえます。
こんなところにおでんとオーディンのつながりがあるんですね。
午後4:03 · 2021年2月4日
·Twitter Web App”
https://twitter.com/achroma_colress/status/1541079703607726080
”ヴィンscryption🍳💚
@achroma_colress
光月おでん、古代文字の解読とか煮えてなんぼ(ぐんぐ煮る)とかヤマトが大神の能力者なことを思うとやはりオーディンを連想する?
午前0:23 · 2022年6月27日
·Janetter”
ワンピース光月おでんのモデルは石川五右衛門で最期は釜茹での刑!他にもオーディンや織田信長なのではとの声も
https://beginner-husband.com/oden-model
https://twitter.com/kazubasis/status/1190925161593065473
”🤓KaƵbasis【べーちゃん】🧦🦉
@kazubasis
光月おでん
どうもモデルは織田信長と聞いて
さらに
織田って
おでんとも読めません?
#ONEPIECE
#ワンピース
#おでん
#光月おでん
#ワノ国
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午後6:34 · 2019年11月3日
場所: 奈良 田原本町·Twitter for iPhone
”
https://twitter.com/manganouA/status/1229171129463529472
”.Log【ワンピース考察】
@manganouA
おでんが家臣達の命を守った方法は当初より予想されていた「石川五右衛門」スタイル!まずおでんが先に釜に入り、橋板に乗っていた家臣9人全員を板ごと担ぎ上げた。まさにこの絵と一緒だ!だけど明らかに重みも温度も段違い過ぎておでんの状況が絶望的すぎる…😭
https://onepiece-log.com/blog-entry-2132.html
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午前7:30 · 2020年2月17日
·Hootsuite Inc.”
https://twitter.com/niyaniya_d_kid/status/1351734017142386690
”ニヤニヤ王子⁑ɱᵉ
@niyaniya_d_kid
おでん様の何がいいって、見た目の元になってるの石川五右衛門なとこなんだよなぁ🤤
どのゲームの石川五右衛門もかっこいいよね😏
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午後0:31 · 2021年1月20日
·Twitter for iPhone”
https://twitter.com/lockzanger/status/1420290005243633664
”Kenny
@lockzanger
ワンピースに出てくる光月おでんというキャラクターの名前、ずっと変だなぁと引っかかったけどオーディンが元になってるのね、それなら納得。カイドウの技でラグナラク(Ragnarok)とか出てくるし、普通に北欧神話(Norse)から影響めっちゃ受けてそう
午後4:48 · 2021年7月28日
·Twitter for iPhone”
【ONEPIECE第1010話以降考察】カイドウの降三世引奈落の強さと意味|ルフィを生死不明に追い込んだ技
https://gorilife.com/onepiece-1630/2/
カイドウがモロに龍人(レプティリアン)で、巨人で、北欧神話モデルの技を使う。
"引(ラグ)奈落(ならく)”ってモロにラグナロク。終末の強調。
なたねさんがリツイートしました
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/536524982927384577
”子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子)
@kitsuchitsuchi
返信先:
@kitsuchitsuchiさん
オーディン:北欧神話の最高神。海賊・嵐・戦争・死・詩・魔術の神。ローマ神話のメルクリウスと同一視。つまりヘルメス=錬金術(科学)の神。
自身を生贄に捧げルーン文字を発明。
つばの広い三角帽子を被った隻眼の魔法使い。△+一つ目。
終末論は北欧神話にもある。ラグナロク=ハルマゲドン。
午後11:21 · 2014年11月23日
·Twitter Web Client”
おでん=信長+五右衛門、オロチ=秀吉+光秀?それぞれのモデル考察
2019/11/04 12:00
https://onepiece-log.com/blog-entry-2028.html
https://twitter.com/kikuchi_8/status/1102591536041156608
”菊池
@kikuchi_8
返信先:
@sakurakouyouhenさん
ご指摘をありがとうございますm(_ _)m信長と秀吉の評価に関し私も同感です。信長はイエズス会贔屓でした。秀吉が千利休に切腹を申し付けたのが仮に事実とすると大徳寺の人形云々ではなく利休が堺の武器商人で南蛮人と交易があったり弟子にキリシタンが多かった事と関係があるかもと想像しています。
午前0:28 · 2019年3月5日
·Twitter Web Client”
(茶人人脈と切支丹人脈が被っていたからって可能性があるのね)
https://twitter.com/kikuchi_8/status/761946900526346240
”菊池
@kikuchi_8
返信先:
@kikuchi_8さん
豊臣秀吉は九州攻めのおりに九州のキリシタン大名領で神社仏閣が破壊され、奴隷貿易が行われているのを知り即刻伴天連追放令を出した。当時の南蛮、イエズス会の世界侵略という国際情勢を把握しつつ、そのまま放置すればどのような事態になるかを瞬時に見抜くあたり、秀吉のセンスは天才的だと思う。
午前0:27 · 2016年8月7日
·Twitter Web Client”
https://twitter.com/kikuchi_8/status/993154505771368448
”菊池
@kikuchi_8
豊臣秀吉も当初はキリスト教の信仰を許容していた。しかしキリシタン大名が神社仏閣を破壊し僧侶を迫害し日本人を奴隷として売り飛ばしている事を知り方針を転換した。「何故このような理不尽な事をするのか?」と宣教師に詰問状を送り付けている。これまで遭遇した事が無い異質な『文化』だったのだ。
午前0:44 · 2018年5月7日
·Twitter Web Client”
信長はキリスト教の布教を禁じなかったから優遇。
黒炭オロチは黒住教(太陽崇拝)+蛇(レプティリアン)で悪役だからモデルは秀吉(秀吉は伴天連追放令などキリシタンにとっては敵)だろう。太陽側なので赤い右目は敵ということだな。
https://twitter.com/yellowwhale1234/status/1406951413331095555
”greatest show-yan.
@yellowwhale1234
名前が気になって立ち寄った宗忠神社
黒住教の教祖という黒住宗忠を祀る神社で
宗忠は両親を相次いで亡くし
自身も肺の病に侵され死の淵を彷徨うが、ある冬至の朝、太陽を浴びると
悟りを開いて病気が消えたという←スゴ!
この神社は青天を衝けにも出ている孝明天皇唯一の勅願所にもなったそうです
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午後9:25 · 2021年6月21日
·Twitter for iPhone” ※着色は引用者
https://twitter.com/kurozumikyoshu/status/1211403584773820416
”黒住教主
@kurozumikyoshu
「陽気になれ」
「黒住教=お日様教」だから…。
「いつも心に太陽を!」というCMコピーの記憶がありますが、誰もが心に太陽(天照大御神のご分心=心の神)をいただいていると信じて生きるのが黒住教信仰。
だから、心の雲霧の「祓い」が教えの中心で、教主が「元気を喚起」を呼び掛けているのです。
午前6:48 · 2019年12月30日
·Twitter for Android” ※着色は引用者
冬至=最も昼が短い=最も太陽が弱っている(象徴的には死)。この後、日照時間が増える=太陽の復活。太陽の死と復活。太陽神の死と復活の元ネタの一つ。イエス・キリストも太陽神がモデルの1つだから当てはまる。
黒住教はグノーシス主義的キリスト教を和風にした教え。キリスト教の異端派が元ネタ。
グノーシス主義では人間の本質は至高神の一部であり、その本質を絶対的に超える存在はない。人間の本質(内なる神性)と至高神が本来同一であるという「グノーシス(知識、認識)」を得ることで真の神と合一できる(真の善なる神と合体して自身が神となる)
という思想。
和風キリスト教をいろいろなところで作っていく工作をキリスト教勢力がしてきて、生き残ったものの一つが黒住教なのだろうな。黒住教も金光教も岡山県の宗教。岡山が怪しすぎる。黒住教の創始者の経歴のモデルが正統多数派キリスト教とグノーシス主義(異端少数派)を合わせたもので草不可避w↓
教祖神 | 黒住教
http://kurozumikyo.com/about/originator
” 教祖神・黒住宗忠は、安永9年(1780年)11月26日の冬至の日の朝、代々今村宮(岡山市北区今)の神職をつとめる家に生まれました。幼少時より孝心があつく、20歳の頃には「生きながら神になる」という志を立てました。宗忠は「心に悪いと思うことを決して行わず、善きことのみを実行する」との厳しい目標を自らに課して“神になる”道を歩みました。しかし数えて33歳の時、かけがえのない両親が流行病によりわずか1週間の内に相次いで亡くなりました。その悲しみがもとで宗忠自身も不治の病といわれた肺結核に侵され、2年後には明日をも知れない状態に陥りました。
死を覚悟した宗忠は、文化11年(1814年)1月の厳寒の朝、幼いころから両親とともに毎朝手を合わせてきた日の出を拝みました。この“最期の日拝”の祈りの最中に、宗忠は知らず知らずのうちに大変な親不孝をしていたことに気づき、せめて心だけでも両親が安心する人間に立ち戻らねばならないと大きく心を入れかえました。この世との別れの日拝だったものが、新たな“生”への祈りに転回しました。この心の大転換により、宗忠の暗く閉ざされた心のなかに陽気な感謝の気持ちがよみがえり、その結果わずか2カ月で不治の病を完全に克服しました。
その年の11月11日。この日は昔から「一陽来復」と称され、物事が新たに始まる時とされてきた冬至の日でした。安永9年(1780年)の冬至の朝に誕生した宗忠が、死の淵を乗り越えて34回目の誕生日をこの日迎えたのです。昇る朝日に格別の思いで祈りを捧げていると、宗忠は全ての命の親神である天照大御神と神人一体になり、悟りの境地に立ちました。黒住教では、このことを「天命直授」と称して、黒住教立教の時としています。
以来、宗忠は世の中の苦しむ人や助けを求める人のために昼夜を問わず祈り、教え導き、多くの人々から生き神と称えられ、すでに神仕えの身であったこともあって自然な姿で教祖神と仰がれました。宗忠がその肉体を離れて天に昇ったのは、嘉永3年(1850年)2月25日のことでした。
宗忠の在世中に、現在の黒住教の基礎が築かれ、当時すでに数万の道づれ(信者)を擁していました。宗忠の昇天後、その生誕地であり住居があった現在の岡山市北区上中野を中心に、日本各地で黒住教の布教が広まっていきました。宗忠の教えが「神道の教えの大元」と称えられたことにより、この地は「大元」と呼ばれてきました。
皇室や公家のなかに宗忠に帰依する人が多く、孝明天皇(明治天皇の父君)の信心も得ていました。神位を非常に重んじた江戸時代において、安政3年(1856年)3月8日に「宗忠大明神」の神号が授けられ、文久2年(1862年)2月25日に京都・神楽岡に宗忠を祀った宗忠神社が建立されました。この宗忠神社は、建立からわずか3年後の慶応元年(1865年)4月に、孝明天皇の勅命による唯一の勅願所(天皇が国家国民の平安を祈るために指定した神社・仏閣)に定められ、その翌年の慶応2年(1866年)2月には、従四位下の神階を宣下されました。
” ※着色は引用者
江戸時代に和風キリスト教(黒住教)が皇室に侵入することに成功。国家神道(和風キリスト教)より前。
(和風キリスト教=黒住教が)「「神道の教えの大元」と称えられたことにより、この地は「大元」と呼ばれてきました。」。大本教の元ネタの1つだろうな。大本教は金光教の派生であり、金光教は岡山の宗教。
33(笑) 11多すぎ(笑) 「天照大御神と神人一体」「生き神」がグノーシス主義要素。
正統多数派だと、被造物(にんげん)が神(ゴッド)になるなんてありえない。至高神(ゴッド)と合一して自身がゴッドになることもありえない。実際は、ゴッドではなく神々(てんし)レベルまでにしかなれないだろうけどね(肉体など人間の枠だと制限があるので。ゴッドは制限なき存在)。
「数えて33歳の時、かけがえのない両親が流行病によりわずか1週間の内に相次いで亡くなりました。その悲しみがもとで宗忠自身も不治の病といわれた肺結核に侵され、2年後には明日をも知れない状態に陥りました。」
33(笑) 33歳の時に精神的に死に、肉体も死にどんどん近づいている。
「死を覚悟した宗忠は、文化11年(1814年)1月の厳寒の朝、幼いころから両親とともに毎朝手を合わせてきた日の出を拝みました。[略]この心の大転換により、宗忠の暗く閉ざされた心のなかに陽気な感謝の気持ちがよみがえり、その結果わずか2カ月で不治の病を完全に克服しました。
その年の11月11日。この日は昔から「一陽来復」と称され、物事が新たに始まる時とされてきた冬至の日でした。安永9年(1780年)の冬至の朝に誕生した宗忠が、死の淵を乗り越えて34回目の誕生日をこの日迎えた」
(33歳時点から)「2年後には明日をも知れない状態に陥りました」だから35歳だと思ったのだが、数え年と満年齢を書いていないせいでおかしなことになっている。
数え33歳で死にかけた教祖。これは数え年なので、満年齢だと33歳ではない。
公式が数えで書いたのは33を強調するためなのだろうな。
数え年は生まれた時点で1歳。元日に1つ加算。なので、
文化11年(1814年)の1月(復活の月)時点では、満年齢で33歳、数え年で35歳。
数え33歳で死(にかけ)、満年齢33歳で復活(笑) 徹底している(笑)
キリスト教をモデルに創ったのがバレバレ(笑)
黒炭オロチってのがあの海賊王マンガに悪役ででている。黒住教のことだろう。黒住経の教祖の経歴は聖書やグノーシス派を参考しているだろう(教祖の人生において重要イベントの年月日や年齢が意図的すぎ)。表面的には天照系太陽崇拝。
教祖が生まれたのは冬至の日(冬至以降日が長くなる=太陽の復活)(笑)
意図的だなあ(笑)
海賊王マンガで悪役の名前の元ネタだろうっていうことの根拠は、太陽つまり赤い右目が象徴だからだ。
え、主人公が太陽神系じゃんっていいたくなるかもしれないが、白い姿だから、白いキリスト(太陽)だ。白いキリストは太陽属性があろうが青い左目側。
イエス・キリスト自体は太陽神がモデルなので、キリストが太陽属性なのは陣営を問わない。
黒住教オロチと対立するのが光月オーディン(月。青属性。善)だから露骨。悪役のカイドウは龍人でありオロチより格上だし、おでんの息子は龍に変身可能(笑)
それとオロチ=蛇。つまり龍より格下なので負ける。
白い太陽神(キリスト)がドラゴン(カイドウ)を倒す。
(新)キリストの龍退治。(新)キリスト教の龍退治。
ギャグマンガはシリアスマンガより強い(ギャグマンガだと死んでも次のコマで復活したりするのからね笑)。
追加終わり]
[
2023年3月13日に追加:
更なる補足資料
白蓮教 - 世界史の窓
https://www.y-history.net/appendix/wh0801-002.html
”民間の浄土教系の仏教教団。元末に反乱を起こした。
白蓮教は仏教の一派で、起源は東晋の僧慧遠が402年に廬山の東林寺で門弟たちと結成した白蓮社にさかのぼる。唐代に善導によって大成され浄土宗として宗派となり、禅宗とともに盛んになった。宋代には読書人(士大夫などの知識人層)のなかの念仏結社が白蓮社と言われるようになった。南宋の頃から民衆に広がって有力な宗教結社となり、元のモンゴル人支配への不満のなかでさらに大きな勢力となった。元朝の末期にはその勢力は黄河と淮河の流域を中心に、各地に拡大し、1351年に紅巾の乱に発展した。清朝の1796年には白蓮教徒の乱を起こしている。その後、たびたび弾圧を受けながらも、中華民国時代の近年まで続いた。
白蓮教の教え
本来、念仏を唱えて阿弥陀仏の浄土へ往生を願うのがその信仰であったが、やがて弥勒仏による救済を求める弥勒信仰を加え、唐代にはイランから伝わったマニ教(イランで起こり、中国に伝わり摩尼教、または明教と言われた)と混合して、世界は明と暗の二宗(根源)あって、明は善、暗は悪であり、弥勒仏が下生(現世に現れること)して明王が支配するようになれば明宗が暗宗にうち勝って極楽浄土が出現すると説くようになった。このような現世否定、来世願望の考え方は、現状に不満な民衆を引きつけ、大きな勢力となったので、南宋も元も危険な邪宗として取り締まりの対象となった。
” ※着色は引用者
追加ここまで]
[
2023年3月17日に追加:
数え年と満年齢どちらでお祝い?
https://narita-hanamura.com/kazoedoshi-mannenrei/
”日本で満年齢がメインで使われるようになったのは、ここ半世紀ぐらいのことで、それまでは日本古来の数え方として「数え年」が主流でした。
[中略]
その「満年齢」が入ってきたのは、今から約150年前の明治維新の頃。つまり、文明開化によって西洋の文明や慣習がどんどん入ってきた時代です。その頃に重要となるのは、諸外国と「同じ日時を共有」すること。日時が違えば当然、さまざまな不都合が生じるからでしょう。
そこで暦も太陰暦から西洋式の太陽暦に変わり、年齢の数え方も誕生日に年を取る西洋式に合わせようとしました。つまり、生まれたときを0歳とし、誕生日を迎えるごとに1歳増えていくという、お馴染みの「満年齢」の考え方です。
ところが、民間では数え年の慣習が続いたことで、両方の数え方が併用して使われることとなりました。その後、第二次世界大戦の終戦から5年ほど経った1950年にようやく『年齢計算ニ関スル法律』が施行され、数え年が公的には姿を消しました。この頃から、長く続いた数え年の慣習が徐々に無くなりましたが、伝統行事は数え年で行われていたものが多かったため未だに名残があります。
法律上の満年齢について
数え年では、正月に一斉に歳を取り、除夜(大晦日の夜)のことを「年取り」とも言います。
正月(年齢が加わる日)の前の日に年を取っていたのです。
そこで、関連することとして知っておくと面白いのが「法律上の年齢の加え方」です。
私たちは、誕生日当日に年齢が加わるものと思っていますが、法律上は誕生日の前日に年齢が加わると定められていて驚きます。
「なぜ4月1日生まれが早生まれに入るのか」と疑問に思ったことのある方も多いと思いますが、法律上は前日の3月31日に1歳加わるのだから3月度生まれと同じ扱い、という考え方になります。
数え年とは
なぜ数え年が理解しにくいのか、端的に示すと「1歳の長さ=365日とは限らない」からです。
数え年の場合は生まれた段階で1歳となります(0歳は無し)。そして、その後は正月が来るたびに年が増えていくというものです。
つまり、生まれた日から初めて迎える正月までが1歳というカウントをするので、生まれてから初めてお正月を迎えるまでの1年の長さが人によって異なるのです。
まず、「0歳」がないという時点で考え方につまずいてしまう方も多いかと思うので、簡単な例を挙げてご説明します。
数え年 1歳の長さの例
4月1日生まれの1歳の長さ =275日
12月31日生まれの1歳の長さ =1日
それ以降は正月ごとに年を取るので皆同じ365日(うるう年には366日)ごとに年齢を重ねます。極端な大晦日生まれの例を挙げましたが、12月生まれは1年目(1歳)の長さがひと月満たずに2歳になる、というのが数え年の考え方なのです。
[中略]
数え年 = 今年の誕生日時点での年齢 + 1歳
” ※着色は引用者
黒炭オロチ(ONE PIECE) - アニヲタWiki(仮) - atwiki(アットウィキ)
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/43320.html#id_f5b94f33
"登録日:2019/11/23 Sat 18:36:00
更新日:2023/03/03 Fri 18:20:01
所要時間:約 13 分で読めます
[中略]
悪魔の実:動物系幻獣種・ヘビヘビの実 モデル“八岐大蛇”
年齢:享年54歳
身長:350cm
誕生日:9月23日
肩書:ワノ国霜月家小間使い→光月家家臣→ワノ国将軍代理(約26年前)→ワノ国将軍(約20年前より)
血液型:XF型
好物:ヤシオリの酒・秋刀魚
笑い方:ムハハハ、ぐふふふ
[中略]
ワノ国を統治する現「将軍」。
イワンコフ程ではないが顔が大きな中年の醜男で紫色の丁髷頭に王冠を被った如何にもバカ殿っぽいビジュアル。
元は当時の白舞大名・霜月康イエに拾われたコマ使いで、光月おでんにも大恩ある身でありながら、20年ほど前に将軍の家系であった光月家を引きずり降ろし、各地に部下を拡散させて支配体制を一変。
その後四皇の一人である百獣のカイドウと共謀しておでんを殺害しカイドウと百獣海賊団による支配を認め、カイドウへの協力の過程で自然豊かだったワノ国を嬉々として地獄の国に変えた張本人。
普段は花の都にあるオロチ城に座し、豪華絢爛な贅沢三昧の暮らしを送りながら、
ワノ国に圧政を敷いて弱者を踏み躙り20年もの長きに渡りワノ国の人々を苦しめ続けている。
【人物像】
良く言えば警戒心が強く狡猾、悪く言えば小心者な独裁者。
豪華絢爛で贅沢三昧な生活と美女、金をこよなく愛する派手好きで傲慢な俗物。
自身の統治に絶対の自信を持ち、自身が統治するワノ国を「幸せ」「天国」と称するが、自身を不愉快にさせた者や統治に対して目障りと感じた相手への仕打ちは苛烈の一言*1。
敗者を嘲笑い弱者を苦しめる事を心から愉しむ陰湿な加虐性癖の持ち主でもあり、子供に笑われただけで激昂し笑った子供の殺害に執着するなど器は非常に小さく、空気を読まない発言はあれど滅多なことでは暴言を吐かないルフィにすらゴミクズ呼ばわりされた最低の暴君*2。
その弱者に対する苛烈な仕打ちと悪辣さは同盟者のカイドウからも笑いながらとは言え「趣味が悪ィな」と称される程。
[中略]
◆悪魔の実
動物系幻獣種の悪魔の実「ヘビヘビの実:モデル“八岐大蛇”」の能力者で、巨大な八岐大蛇に変身できる能力を持つ。
アニメでの描写を見ると、八岐大蛇となってもしっかり四肢や胴体は存在する。
戦闘力は不明だが、蛇の頭は成人女性1人ならば噛み殺せるだけのパワーはある。
人獣型かは不明だが、人間の身体から個別に八岐大蛇の首を生やすことは可能。
幻獣種としての「超人系」に似た能力の有無は不明だが、首を斬られてもあっさり蘇生して活動出来たことから特性は「首の数だけ死亡しても蘇生できる能力」と考えられていたが、103巻のSBSにて作者から蘇生能力と明言された。
事実、蘇生後のオロチの変形形態は首の数が減少しており、最終的には一本だけになっていた。
◆謀略技術
純粋な戦闘力や異常な警戒心以上にオロチの最も厄介な能力。
それこそがずば抜けて優れる狡猾な頭脳と謀略の腕前の持ち主という点にある。
[中略]
◆黒炭一族
過去篇に登場したオロチの血縁者達。
おでんの祖父の頃までは光月家に仕える大名の一族だったが、
オロチの祖父が将軍となるために進めてきた謀略が明るみに出たことで城や領土など全てを失い取り潰しとなった。
ひぐらしはそのことを根に持って逆恨みしており、光月家への憎悪を募らせていた。
少なくともあの男を配下にした時点では「黒炭家」自体が謀反人の一族として迫害されていたらしいが、
オロチが将軍の座に就き権力を握った今でも迫害されているのかは不明。
(最も、将軍と同じ一族をボロカスに叩こうものなら造反の意ありと思われ粛清されてもおかしくは無いのだが)
名前の明かされた人物のうち「バリバリの実」の能力者の黒炭せみ丸と「マネマネの実」の能力者である黒炭ひぐらしに関しては既に両者と同じ実の能力者が登場しているため間違いなく死亡しているが、あの男以外にも生き残りがいるかどうかは明かされていない。
[中略]
元々黒炭家は先々代将軍(おでんの祖父)の時代に光月家に仕えていた5つの大名家の一つで、祖父は当時の大名だった。
しかし当時の将軍には跡取りが生まれなかったため、大名達は我こそはと次期将軍の座を狙うようになるが、その中でも特に野心の強かったオロチの祖父は内乱を装い大名達を次々と毒殺していった。
相次ぐ大名達の不審死を受け、将軍は心労で病床に伏し、あと一歩のところで祖父が将軍になれるところまで来たが、その矢先に光月家に跡取りであるスキヤキが生まれたのである。
これにより祖父の野望は潰え、更には大名達を暗殺したこともバレてしまい、祖父は切腹した上に黒炭家は断絶し、地位も領土も城も失い、一族は路頭に迷うことになってしまう。
見えるよ…!!未来が見える…!!お前は…!!
将軍になるよ!!!
そんな貧乏暮らしを送っていた(当時光月家への恨みはなかった)中で出会った「黒炭家の関係者」を名乗る老婆・黒炭ひぐらしに過去を知らされた上に今まで積り積もった恨みや野心を焚き付けられたことで光月家とワノ国の人々を憎むようになり、ひぐらしから「ヘビヘビの実モデル“八岐大蛇“」を与えられ奮起。
自分が将軍となるべく資金を集め、その金を元手にワノ国の高い職人技術による武器密造&その武器を元に海外の“後ろ盾”を手に入れるべく様々な謀略を開始する。
[中略]
元ネタは底辺ともいうべき小間使いから国の頂点にのし上がった事から豊臣秀吉と考えられる。
アニメ版では彼の過去を描いた回想はオリジナルシーンを追加した状態で放送され、オロチがひぐらし達と出会う直前まで迫害を受けていた場面やヘビヘビの実を食べるシーンが追加されている。
" ※着色は引用者
追加ここまで]
[
2023年3月18日に追加:
黒炭家 (くろずみけ)とは【ピクシブ百科事典】
https://dic.pixiv.net/a/%E9%BB%92%E7%82%AD%E5%AE%B6
”ワノ国の元将軍黒炭オロチの血縁者。
かつては将軍家光月家に仕え、霜月家と肩を並べるほどの大きな力を持つ大名であった。だが、零落した今となってはその面影を探すことさえ難しい。このような姿になってしまったのは、当時の光月家において跡継ぎが中々産まれなかったことが始まりであった。
各地の大名たちは次々と後継者とならんとしていたが、オロチの祖父は孫のオロチを将軍とすべく対抗馬となる大名達を事故や病気に見せかけて密かに暗殺していった。光月家に後継ぎが生まれなかったのもオロチの祖父の謀略の一つである。
こうして目論見が成就するかと思われた矢先、光月家に待望の世継ぎ、光月スキヤキが産まれたことで陰謀は頓挫。
更に暗殺の謀略が明るみに出たことでオロチの祖父は切腹に処され、黒炭家は城や領土など全てを失いお家取り潰しとなる。その結果として、一族関係者は軒並み露頭に迷う羽目になってしまう。
しかしこれは終わりではなく、本当の地獄はここからであった。
生き残りたちは「大罪を犯した黒炭家の人間」と言うだけの理由で民衆たち(オロチ曰く「見ず知らずの正義の味方」)の迫害を受けることとなり、たとえ無実の人間であろうともある者は殴られ、ある者は川へ投げ落とされ、またある者に至っては舞台上で凶刃に伏し、1人また1人と命を奪われていった。
実はこれらの迫害は将軍家や他の大名が意図したものではなく、水面下で行われた一種の集団ヒステリーやヘイトクライムにも近い、ある種の私刑行為と呼べるものであった。もっとも、度が過ぎていたには違いないにせよ、迫害した民衆からすれば黒炭家の生き残りは「再びワノ国を乗っ取るかもしれない恐怖の象徴」であり、ましてそれが下野したとあっては怒りや憎しみを爆発させるものが出たとしても不思議ではないと言える(実際、似た経緯で苛烈な迫害を受けた存在は以前にも登場している)。
しかし、将軍家や大名達はこうした民衆の行いを全く把握していなかった。あるいは当時の大名たちは隠蔽に動き、子や孫に事の詳細を伝えなかったようでもある。
いずれにせよ把握していなかった理由は不明だが、黒炭家の者達には「自分達の当主が私欲のために他の大名を謀殺した」という負い目があり、お上に訴えようにもできなかったのかもしれない(あるいは訴えようにも「『黒炭の者』の言うこと」といった理由からその訴えが捻り潰された可能性も有り得る)。
事実オロチですら謀略を罪として認識していた当時は「お家は転落、そこまではいい」と認めていた。
一方で将軍家や大名家でも黒炭家生き残りへの迫害をよく思わなかった良識者もおり、光月おでんは黒炭家迫害に関しては思い悩む表情を見せ、霜月康イエは黒炭家であることを隠して自身の小間使いとなった経緯のあるオロチに対して「何故隠した」と言うほど、迫害から保護しようと考えていたくらいだった。
” ※着色は引用者
(最終編集履歴は「023/03/03 18:06
tftf
余談の一部表記を統合・改訂しました。
」)
世界連邦日本宗教委員会 定例総会開催 - 冨士道 神道扶桑教
https://www.fusokyo.org/news/%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%80%A3%E9%82%A6%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%AE%97%E6%95%99%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A-%E5%AE%9A%E4%BE%8B%E7%B7%8F%E4%BC%9A%E9%96%8B%E5%82%AC/
”世界連邦日本宗教委員会 定例総会開催
2017年3月30日
3月30日神社本庁会議室において世界連邦日本宗教委員会の定例総会が開かれ29年度の事業計画及び予算が審議されました。
総会において長年にわたり議長を勤められた桶屋良祐/念法真教次代燈主の退任にあたり、管長台下は議長の推挙を受け就任されました。
世界連邦日本宗教委員会はローマ教皇パウロ六世の主導する第二バチカン公会議で公布された「信教の自由に関する宣言」に応え昭和42年に円覚寺の朝比奈宗源老師を中心に神道、仏教、キリスト教、教派神道、新宗教の代表者により発足し現在はイスラム教も含め超宗教による平和運動を真摯に展開しています。会長を田中恆清/石清水八幡宮宮司、副会長 黒住宗道/黒住教副教主が勤め管長台下は議長に副議長を田中安比呂/賀茂別雷神社宮司、徳増公明/日本ムスリム協会会長 が勤めています。
” ※着色は引用者
宗際活動 | 黒住教
https://kurozumikyo.com/activity
” 黒住教の宗際活動(宗教間対話・協力活動)について紹介します。黒住教は、神道のみにとらわれず、また、国内外をも分け隔てなく、「宗教」を軸とした活動しています。国際的な会議やネットワークへも積極的に参加し、宗派・教団を超えた相互理解と信頼の涵養につとめています。
[中略]
岡山はもともと宗教間同士の交流がある土地で、昭和10年代から先代の5代教主・黒住宗和は他教団の幹部の方たちとの親交を深めていました。特に戦後は5代教主を中心とした宗教間交流が盛んで、今日の世界連邦日本宗教委員会岡山宗教者の会は、全国的にみてもユニークな活動を行っています。
岡山には平成8年(1996年)以来、7代教主・黒住宗道が事務局長をつとめる12教団からなる青年宗教者の共同、共働グループRNN(人道援助宗教NGOネットワーク)があり、大災害のときなどに緊急援助活動を国際的にも実施しています。また、平成13年(2001年)の9・11テロ直後の10月5日には、日本ムスリム協会会長(当時)の樋口美作氏を招き、RNN主催「イスラム教についてのシンポジウム」を黒住教武道館にて開催しました。
[中略]
RNNは、平成17年(2005年)6月29日の岡山大空襲60年の日、「ヒーリングコンサート」の名のもとに平和を願い祈る音楽会を岡山カトリック教会で開催しました。ここでは、天台宗、真言宗の声明、イスラム教のコーラン朗誦、キリスト教プロテスタントの讃美歌、カトリックの聖歌、そして金光教と本教の吉備楽が披露されました。さらに、事前に公募して最優秀に選ばれていた詩「PEACE」に曲づけされた歌を、参加者全員で合唱して平和を祈りました。
[中略]
昭和50年(1975年)、今日WCRPと呼ばれる世界宗教者平和会議の創設に尽力した立正佼成会の庭野日敬会長(当時)が神道山に参拝し、6代教主にWCRPへの参加を呼びかけました。翌年の昭和51年(1976年)11月、シンガポールにおいて開催された第1回のACRP(アジア宗教者平和会議)に出席した6代教主は、開会式の壇上に立ち開会の祈りを捧げました。これが機縁となり、昭和54年(1979年)8月、アメリカ・プリンストン大学にて開催された第3回世界宗教者平和会議に出席した6代教主は、その開会の式典が催されたニューヨークのセントパトリック大聖堂において「大調和への祈り」と題した講演を行い、開会の祈りをつとめました。また、WCRPの青年部会結成30年の記念大会が、平成15年(2003年)6月に開かれ、7代教主・黒住宗道(当時副教主)が招かれ、その記念講演をつとめました。
昭和56年(1981年)2月23日、ローマ法王ヨハネ・パウロⅡ世が来日しました。ローマ法王の訪日は初めてのことでありました。法王はまず皇居において天皇陛下に謁見し、翌日、ローマ法王庁大使館(東京都)に日本の各宗教の代表20数名を招いて会談しました。6代教主・黒住宗晴(現名誉教主)も神道の一人として招かれて出席しましたが、それぞれ何かおみやげをというなかで、教主は、法王が青年期に著わした「THE ACTIVE PERSON(行為的人格)」を持参し、そのなかの一節「人間は自己をおしみなく他者に与え尽くすことによって、もっとも完全に自己となり、人格としての在り方を実現する」の一条に感服したことを告げるとともに、法王の皇居訪問に敬意と謝意を表しました。
[中略]
平成2年(1990年)、「グローバルフォーラム」の執行委員を中心に、シリアのイスラム教最高指導者アフマド・クフタロ師をはじめ各国の宗教者、そして政治家、ジャーナリストたちが来日して、神道山で「神道ワークショップ(神道国際研究会)」を開催しました。講師は後に國學院大学学長になった上田賢治氏、同阿部美哉氏、皇學館大学理事長・櫻井勝之進氏、同学長谷省吾氏、そして仏教界からは薬師寺管主・高田好胤師が参加しました。
また、海外における神道や黒住教の研究者で後にアメリカ・ハーバード大学ライシャワー日本研究所所長となったヘレン・ハーデカ女史、ライト大学宗教学教授ウィリス・ステイツ氏、タイ・カセサート大学教授ペンシー・カンチャノマイ女史が参加して講演しました。
[中略]
平成7年(1995年)3月、チベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ14世法王を、本教が責任教団となって招聘しました。これは、複雑な国際関係から11年間も日本への入国ができていなかったため、法王招致委員会の要請を受けてのものでした。法王一行は来日後、広島市に直行し、終戦と被爆から50年が経過した原爆記念碑前での法要をつとめた後、岡山市に到着しました。神道山大教殿における講演や、青年たちとの交流などが続き、さらに林原生物化学研究所や障害者福祉施設などを見学された4泊5日間の岡山訪問でした。
[中略]
平成12年、西暦2000年を迎えたこの年の8月、コフィ・アナン国連事務総長の呼びかけにより「ミレニアム世界平和サミット(国連宗教サミット)」が開かれ、ニューヨークの国連本部総会議場を各国の宗教者が埋めました。7代教主・黒住宗道(当時副教主)が日本使節団の幹事長役に指名され、伊勢神宮・久邇邦昭大宮司、天台座主・渡邊惠進師をはじめ立正佼成会・庭野日鑛会長、新日本宗教連合会・深田充啓会長、大本・広瀬静水総長ら27名が参加しました。4日間のこの会議は、本教教主の閉会の挨拶と祈りでもって閉じました。
このサミットでは本教の提案で、「世界の火薬庫」と呼ばれるバルカン半島の各地から11名の様々な宗教代表を招いて会議が持たれ、その費用の大半は岡山財界有志からの浄財によるものでありました。
[中略]
9 ・11同時多発テロ発生の翌日、7代教主・黒住宗道(当時副教主)は国連宗教サミットをはじめ、それまで知遇を得てきた各国の宗教者に電子メールでもって、これが、イスラム対西洋のいわゆる文明の衝突になることのないように宗教者として共働してつとめようと訴えました。そして前記のごとく、10月5日RNN主催のイスラムについてのシンポジウム開催と続きました。翌平成14年(2002年)1月、イタリア・アッシジにおいて、ローマ法王ヨハネ・パウロⅡ世の呼びかけによる平和への祈りの集会が大々的に開かれ、7代教主・黒住宗道が参加しました。
[中略]
明治26年(1893年)、アメリカ・シカゴで開かれた万国博覧会において、「万国宗教会議」という名のもとに、世界で初めて各国の宗教者が集まり、日本からも数名の宗教者が出席しました。その後、長らくこの会議は途絶えていましたが、100年後の平成5年(1993年)に同じくアメリカ・シカゴにて再度開かれることとなりました。この会議に出席した7代教主・黒住宗道(当時副教主)は、続く平成11年(1999年)の南アフリカ・ケープタウンにおける復活第2回会議に出席し、平成16年(2004年)7月スペイン・バルセロナで開かれた復活第3回万国宗教会議にも出席しました。
このバルセロナ会議に際して、7代教主・黒住宗道は開会式の5,000人もの参加者を前に、州の大統領や地元代表の挨拶に続いて宗教者としてただ一人「平和への祈り」を捧げました。なお、開期中は「『誠』の教え─神道による平和への道─ 」と題して一時間半の講演も行いました。また、7代教主・黒住宗道は、平成21年(2009年)12月オーストラリア・メルボルンでの復活4回目の会議にも招かれて出席し、講演をつとめました。
[中略]
かつてイタリア・アッシジでローマ法王ヨハネ・パウロⅡ世が主催して開催した「世界平和の祈り」を受けて、当時の天台座主山田恵諦師は「比叡山宗教サミット」を創設し、その第1回の集いが昭和63年(1988年)8月に京都で開催されました。6代教主・黒住宗晴(現名誉教主)は神道教団の代表として講演し、同サミット10年を記念した平成9年(1997年)の集いでは、7代教主・黒住宗道(当時副教主)が講演を行いました。なお、毎年8月初めには比叡山にて祈りの集いが持たれており、7代教主・黒住宗道が出席しており、平成12年(2000年)のこの集いでは、国連宗教サミットに出席する日本使節団の結団式も執り行われました。
[中略]
オーストラリア・シドニー市の西350キロほどのカウラという町に、かつて日本人捕虜収容所があり、現在も日本軍人の墓が丁重に祀られています。収容されていた1,000名を超える日本軍人は、ひそかに議論を重ねた結果、衆議一決して終戦一年前の昭和19年(1944年)8月5日未明に蜂起して突撃し、その日だけ230余名が戦死しました。オーストラリア側は戦死者を手厚く埋葬しました。
昭和52年(1977年)、前述の日豪親善少年少女柔道チームの交流(リンクつける)がきっかけとなり、日本からの柔道チームが渡豪するたびに本教教師が慰霊祭をつとめ、選手たちが神道山の“御神水”を一基ずつに注いでの参拝を重ねてきました。平成16年(2004年)8月5日、“カウラの突撃”から60年目のこの日、カウラ市当局の要請を受けた本教が各宗教教団に呼びかけ、前記RNNの天台宗、金光教そして浄土宗、浄土真宗、真言宗の宗教者と当地のキリスト教聖公会の聖職者、7代教主・黒住宗道(当時副教主)がそれぞれの祈りをもって慰霊祭をつとめました。平成26年(2014年)8月5日、70年目の慰霊祭が宗忠神社宮司・黒住忠親斎主により行われました。
” ※着色は引用者
日本会議 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0
(「最終更新 2023年2月21日 (火) 04:40 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。」)
の「代表委員」に「黒住宗晴(黒住教教主)」とある。
各界より - 日本会議
https://www.nipponkaigi.org/voice/10years/kakkai
”黒住宗晴 黒住教教主
深根の大事
今日の世の中、わが国はこのままでよいのだろうか、将来どのような国になるのだろうかと、不安とともに反省の思いを抱く人が多いのではないでしょうか。それは、太古の昔から地下水のごとく滔々と流れ来たいのちの流れと絶縁しているような人が、余りに多い故ではないかと思われます。
私どもはここ二十年近く、微々たるものではありますが、植樹につとめています。モチとかタブやカシなどの、深根あるいは直根ともいわれる樹木の生命線の切られていない実生のポット苗を植えているのですが、これらの若木の年ごとに伸びていく逞しさその瑞々しさに驚嘆しています。こういう樹木を目の当たりにしますと、人間にも深根に当たるものがあるのではないかとの思いにかられます。とりわけ、根無し草的なさらには根腐れしたような人、その言動を見るにつけてもこの思いは募ります。
過ぎたともいえる個人尊重は自己中心的な考えを増長させ、併せて同時進行のように発達した文明の利器は、人間生活の”生の実体感を希薄にしてしまいました。平均寿命は長くなりましたが、個々人の持ついのちの厚みは薄くなり続けているように思えてなりません。はるかなる先祖から培ってきた「親への孝行の心、先祖への尊崇の念」は、急速に衰えてきました。それは同時に、民族としての深根を弱めることでした。
民族としての生命力を弱体化された国の行く末は歴史が物語っていますし、いわゆる国際社会でもその生命力の弱い人物は真に国際人たりえていません。
日本会議が積み重ねられてきた十年の歩み、その果たされた役割の大きさに感服するとき、私ども一人ひとりが問題をしっかりと見据えて今後とも努めていくことの大事を改めて思います。(九月三日)
” ※着色は引用者
道ごころ - 黒住教
http://www.kurozumikyo.com/cgi-bin/michi/index.cgi?c=zoom&pk=1131608615
”道ごころ 平成14年11月号掲載
挨拶(あいさつ)二題 教主 黒住宗晴
本誌別掲の通り、十月四日には東京の帝国ホテルにおいて、副教主様の東京支庁長・大教会所所長ご就任の“黒住宗道ご挨拶のつどい”が催され、教主様は各界の有識者をはじめ、その場に集った方々に御礼の挨拶を述べられました。
また、来る十一月二十一日には第二十四回世界連邦平和促進全国宗教者東京大会が、増上寺において開催されますが、世界連邦日本宗教委員会の代表委員のお役を担われている教主様はこのほど挨拶文を寄せられました。同大会では、前国連大使の佐藤行雄氏が記念講演をされ、副教主様にはパネルディスカッションの司会をおつとめになります。(編集部)
《その一》
先ほど本人が申し上げましたように、御ひと方ひとかたにご挨拶に上がるべきところを、公私ともご多端の皆様にお運びお集まりいただきまして、この集いの開くことのできましたこと、まことに有難うございます。私ども、本来、宗教は地下水のごとくあるべしと思っている者にとりまして、まことに晴れがましい所での会になりまして恐縮していることですが、前にも話がありましたように、この帝国ホテルのある内幸町一・一番地は、かつて本教の東京出張所があった所でございます。それゆえ、ここの場をお借りしての集いを開かせいただいたわけです。
実は百四十年前の文久二年、明治維新の五年前ですが、教祖をまつるその名も宗忠神社が京都の吉田山神楽岡の地に鎮座いたしました。これは時の帝(みかど)、孝明天皇から宗忠大明神という神号を賜って創建され、しかも孝明様の仰せ出された唯一の勅願所にもなった神社でありました。今年六月、ご鎮座百四十年の祝祭を斎行したことですが、維新前夜の江戸時代最末期、蛤御門(はまぐりごもん)の変をはじめ公武合体に至るまで、まさに地下水のごとき働きがなされたようであります。
ご維新なって都が東京に移ってから、明治新政府の執った宗教政策はきびしくもまた猫の目のようにくるくる変わるもので、教祖の孫三代宗篤は、本教の公認と布教の自由を得るべくここ東京にあって前後六年にわたって運動を続けました。それは孝明天皇のご信仰をかたじけなくしたこと、さらには後に維新の元勲と称えられる三條實美(さんじょうさねとみ)公などの信仰があったからできたことでしょうが、明治九年十月、他の神道教団に先がけていわゆる別派独立を果たすことができました。宗篤は、直ちに黒住教東京出張所をこの内幸町一・一・五の地に開設したのでした。
ところで、これは私事にわたって恐縮ですが、昭和十八年五月、私は、先ほどご披露申し上げました吉備舞のひとつ「桜井の里」の正行(まさつら)役を、当時の宮家北白川家、今日のご当主は伊勢神宮の大宮司であられます、その御殿で演じさせていただきました。ご年輩の方はご存知の「青葉茂れる桜井の里のわたりの夕まぐれ……」の歌で有名な、後醍醐天皇に忠節を尽くして果てた楠木正成(まさしげ)正行父子の別れの場を舞踊化したものです。満六歳を前にした正行役の私は、なんとか無事に舞い終えたものの、子供ごころに緊張で疲れていたのでしょう、その晩泊まったこのホテルで、もちろん昔のライト設計の古い建物です、ここでオネショをしてしまいまして……。夢の中で気がついた時は、池の中でした。(笑い)今ではそんなことはないと思いますが、ベッドのクリーニング代金は五円だったようです。今の価格でいくらか分かりませんが、なかなかの大金だったらしく、父、先代の教主から“オネショする子供は多いが、一番高価なオネショをしたのはお前だろう”と冗談半分によく言われたものでした。
そういう意味でも、きょうのこの集いがこの場所で持たれたことは、私には格別の思いがあるのです。さらには、きょう十月四日は、教祖宗忠の長男、二代宗信の祥月命日の日で、今朝その年祭をつとめてここに参じたことでありました。
いたりませんが、教祖以来の精神、とりわけ二代三代の志を、時も変わり、人も変わった今日の世の中ですが、なんとか貫いてゆきたいと思っています。どうぞよろしくお力添え下さいますようお願い申し上げて御礼の挨拶といたします。
《その二》
第二十四回の世界連邦平和促進全国宗教者東京大会が、芝の増上寺において開催されるに当たり、ひとことご挨拶申し上げます。
わが国の歴史を振り返ってみても言えると思うのですが、ひとつの国が危機的な状況になった時には、よきにつけ悪しきにつけ民族意識、国家意識が強まり、急速に自国中心、閉鎖的な国風となり、しかもそれを支えるのが宗教であることは、洋の東西、古今を問わないのではないかと思われます。それどころか、国によっては、為政者(いせいしゃ)が人々のこの意識を利用して、民族、国家の統一をはかってきたのも歴史の物語るところです。
新しい世紀を迎え世界的に宗教が期待されながら、反面、危険視あるいは疎(うと)ましく思われているのも、陥(おちい)りがちなこの自己中心性、閉鎖性(へいさせい)にあるのではないでしょうか。9・11テロは、世界中の人々に甚大な衝撃を与えましたが、就中(なかんずく)、二〇〇〇年八月、“ミレニアム宗教サミット”でニューヨークに集った世界の宗教者方は、一瞬、絶望にも似たショックで言葉を失われたのではないかと拝察します。しかし、心ある宗教者は直ちに立ち上がって世界の各地で様々な集いを開催され、祈り合い語り合ってきました。一宗教者の立場から申し上げるのはおこがましいかもしれませんが、今のところ、いわゆる“文明の衝突”を避けるのに多少なりとも寄与しているのではないかと思います。
ところで、昔から「根をしめて風に従う柳かな」という警句が伝えられてきました。
今日のわが国にあっては、根をしめるどころか、根なし草的で風に流されっぱなしの生き方が蔓延(まんえん)している一方、民族、宗教に閉じこもってしまって、風に従うべき柳の枝葉を持たぬ人々のこれまた世界になんと多いことでしょうか。一見、相反するかのような根と枝葉ですが、“ナショナル”という根がしっかり根づいていて、初めて国際社会という風に順応してゆける枝葉を持つ一本の木として“インターナショナル”たりうると信じます。
「共に生きる」ために、今日の日本人宗教者に課せられた使命は実に重いものがあると認識しています。根なし草的な人々に根づいてもらうべく努めると同時に、それが「共に生きる」という、風に従う柳に育ってもらうよう努めなくてはならないのですから、責任は重大です。
不敏、微力ではありますが、私どもも不断の努力を重ねてまいりたく存じております。
” ※着色は引用者
立正佼成会ニュースサイト
2011年11月29日
「世界連邦平和促進全国宗教者岡山大会」に渡邊理事長が出席
https://www.kosei-kai.or.jp/rkknews/2011/post11780/
”世界連邦日本宗教委員会(会長=田中恆清・石清水八幡宮宮司)主催の「第33回世界連邦平和促進全国宗教者岡山大会」が11月29日、『世界連邦運動の原点に立ち返って~世界の恒久平和への祈り~』をテーマに、岡山市の黒住教本部で開催されました。同委員会関係者ら約520人が参加、立正佼成会から渡邊恭位理事長、赤川惠一外務グループ次長が出席しました。
はじめに、大教殿で「世界平和の祈り」が捧(ささ)げられました。この中で、各宗教の代表者による玉串奉てんが行われ、新宗教を代表して渡邊理事長が玉串を捧げました。このあと、大会長の黒住宗晴・黒住教教主があいさつしました。
開会式では石井正弘・岡山県知事らが祝辞。引き続き、『世界連邦なくして未来なし--昨日の夢を明日の現実にしよう』と題し、世界連邦運動協会副会長で前綾部市長の四方八洲男氏が講演しました。四方氏は国際社会の平和構築に向けた世界連邦運動の基本理念、意義について語りました。
次いで、RNN(人道援助宗教NGOネットワーク)によるヒーリングコンサートが行われ、イスラームのクルアーン(コーラン)朗誦(ろうしょう)、天台宗の声明(しょうみょう)、カトリックのグレゴリア聖歌、黒住教の吉備楽など、癒やしと祈りの音色が披露されました。
閉会式では「大会宣言文」が採択された。この中で、東日本大震災の物故者追悼、被災地復興を祈るとともに、人類共生の未来へ向けた世界連邦の実現に力を尽くしていくことが宣言された。最後に、渡邊理事長が同委員会副会長として閉会のあいさつを述べた。
(2011.12.09記載)
”
追加ここまで]
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