読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

05 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 07

私が有効だと判断した外国語勉強法まとめ。 ウィキの英語記事と日本語記事を比較して読むと何を隠したいかがよくわかります。 FC2が不具合にみせかけて突然全ての記事を消すかもしれないからこのブログも保存推奨。 

FC2また不具合があったよね。
不具合にみせかけて突然全ての記事を消去されるかもしれないからこのブログも保存推奨。
本ブログの超簡単な保存方法 (3)
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-category-24.html
に保存方法を書いておきましたが、引用しておきます。

”告知 FC2ブログ自体が消滅しそうなので、私のブログとツイッター記事の保存をお願いします。転載、ミラーサイト、コピーブログ、各自ワードなどに保存、紙に印刷など、ぜひとも、あなたのお力添えをお願いします。
「記事を 右クリック→ すべて選択→青くなった文字の上でまた右クリック→wordなどに貼りつけ→(名前を着けてあるいは上書き)保存(→できればUSBメモリなどにも分散して保存)」
本ブログタイトル「読めないニックネーム(再開版)」
の上の「All archives」をクリックすると、全記事一覧が出ますのでご活用宜しくお願いします。
手順①②プー閣下による私のブログ記事保存法
手順③プー閣下による私のブログ記事保存法

htmlファイルとして保存ができる方法(文字以外の要素も保存可能)
①読めないニックネーム(再開版)にアクセス
②上段のall archivesをクリック
③一覧が出たら「記事を読む」を右クリック
④IE「対象をファイルに保存」
Firefox「名前を付けてリンク先を保存」
を押す
⑤htmlファイルとして保存ができる
手順①②プー閣下による私のブログ記事保存法
手順③プー閣下による私のブログ記事保存法
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-80.html
【緊急】本ブログ含め、FC2ブログ自体が消滅しそうなので、本ブログの保存をお願いします!
「記事を 右クリック→ すべて選択→青くなった文字の上でまた右クリック→wordなどに貼りつけ→(名前を着けてあるいは上書き)保存(→できればUSBメモリなどにも分散して保存)」。
htmlファイルとして保存ができる方法も画像付きで解説【拡散希望】
livedoor Blog(=Line→KCIA→CIA+共和党+自民党=WASP至上主義の戦争・石油屋)
はFC2潰し運動側


本ブログタイトル「読めないニックネーム(再開版)」
の上の「All archives」をクリックすると、全記事一覧が出るのですが、
100記事のタイトルまでしか出ませんので、
| h o m e | n e x t » の「 n e x t 」をクリックして出る記事もお忘れなく。
104記事しかないので保存をお願いします。

バルカズ ‏@barukan3 9月14日
FC2ブログは定期的にナゾの不具合を発生させなければ気がすまないのか

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 9月14日
あれ? FC2サーバーが
無いんだけど
ねここねこさんのブログは 表示される様になったけど、 他はまだ駄目みたい。


前回の記事
で英語学習に言及したので今回は外国語学習法について。
まずは学習法全般、というか頭がよくなる秘訣について。

和泉屋@タイ留学 ‏@i_z_u_m_i_n
あと、化け者かってくらい勉強ができる子について 塾の社員「小さい頃にやたら「なんで?」って聞いてくる時期がある。その時期に面倒がらずに親が答えてあげること。これが出来ないと、子どもが勉強に興味をもたなくなってしまう。興味のない事は誰だって考えたくないから、頭を使わなくなる」 納得

(ねここねこは今も昔も疑問をもちまくりで「なんで?」って質問しまくる人。
授業中も普通に質問しました


Copy writing ‏@Copy__writing
授業中「わからないところある?」と聞かれ「はい」と答えるのは難しい。他の人はわかってるのに自分だけわかってないと言ってるようなものだから。かわりに「気になるところある?」と聞く。これだと抵抗がないから反応がぐんと増える by goukou

これって、「勉強できる人しか質問するな!」
「高度な質問をしろ!」
って強制しているようなものだよね。
この質問の仕方って「なんで?」を殺すから、子供の思考力と想像力を失わせたい支配層が大喜びするだろうね


Copy writing ‏@Copy__writing
明日初めてプレゼンする子が「この部分ちゃんとした根拠ないんですよね」って悩んでたから「“ご存知の通り”ってつければ、突っ込んでくる人ほぼいなくなるから大丈夫!」って、詐欺師のような指導をして帰宅。アタイ、すっかり薄汚れちまったよ by たまを

「わからないところある?」や「みんな知ってると思うけど」って疑問を殺す言葉を学校で聞いたことがありませんか?
「ご存じの通り」や「周知の通り」って言葉はその大人、否、因囚版
です)



STB ‏@RC_StBさんのツイートは読んでおくべき。

STB ‏@RC_StB 6月2日
日本国内はメディアが作って流したイメージ戦略が多々あるから、取り合えず英語版のwikipediaと日本語版wikipediaを読み比べるといい 日本が絡む項目なのに日本語版に記事がなかったり(何を隠したいのか)

STB ‏@RC_StB 3月27日
ウィキペディアも官公庁や自民党からの編集が相次いでいる。 日本にとって重要な項目でも、英語版はあるのに日本語版はないこともある。 検索結果は地域ごとにブロックされている

STB ‏@RC_StB 7月29日
日本語版wikipediaだと、リチャード・E・バードの南極探検のパトロンがロックフェラーだったことが書いてないな 南極には、ロックフェラー高原という地名があるのだが、命名はジョン・D・ロックフェラー・ジュニアから 南極条約で軍事基地禁止だが 本当に守っているのかね連中

STB ‏@RC_StB 6月21日
@lakudagoya 印欧語なら語順は慣れながら覚えて、前置詞とコピュラと重要動詞(haveとかavoirとか)とその活用と、一般的な活用と時勢と、英語なら余り出てこないけど仏語等なら冠詞だけ叩き込めば構文は把握できるのでインチキでも読めるようになりますよ 後は単語増やしていく

(ウィキの記事もなんらかの方法でイ呆存しておくことをすすめます。
改竄されたら、イ呆存しておいた改竄前のものと比べましょう。


日本のことなのに日本語版に書かれていないが、英語版には書かれている箇所
=支配層が隠したいこと
=「日ユ同祖論者=宣教師」

そもそも日本語版記事がない項目が多いです


”ウィキの英語記事と日本語記事を比較して読むと何を隠したいかがよくわかります。
私が日ユ同祖論のウィキの記事を英和で比較して、日ユ同祖論者がクリスチャンだらけで、日ユ同祖論の歴史に登場するのがクリスチャンだらけで、源流がイエズス会士であることを過去に暴露しました。

なお、英文だから信用できるという錯覚に注意。何語で書かれているかと信頼性の高さに因果関係も相関関係もありません

単語を覚える秘訣
①単語を画像検索してイメージをつかむ
②例文を音読する
③英英辞典の英語での定義と英和辞典の訳語を比較する
英英辞典の定義の方がはるかに覚えやすいことがある」

外国語勉強の秘訣
その外国語でしか読めない、自分が読みたいものを読む
音声も同様
。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-103.html
【日ユ同祖論「教」=神道カルト=和風キリスト教✝】
稲生平太郎『定本 何かが空を飛んでいる』④。
日本の実在しないゴッドである民主主義
を守護する四天王がデモ教、拝金教、選挙教、過労死教。
自由でないのに、自由であると洗脳されている人間=奴隷



和文英訳、自由英作文、英文和訳に使える技術

人を主語にすると非常に書き易い。

②長い文は短く切る。短ければ書き易い。三人称単数sと時制の一致などは長くて複雑な文章だと間違いに気付きにくい

品詞変え。日本語の名詞表現を英語では動詞表現にするなど。形容詞→動詞や、二つ以上の単語を一語で訳すなど。

④a(any的)「不特定の~“が”一つ」
→それでなくてもいい、限定されていない代替可能なもの。

the(some的)「特定の~“は”」
→それでないと駄目な、限定されていて代替不可能なもの。

⑤副詞の順番は、「場所→様子→時」。
が、長い副詞は短い副詞より後ろにすべきなので入れ替えるほうがよいことはある。

⑥形容詞の順番は「how→what→where」

※語順にこだわりすぎてはいけない



シュリーマンの外国語習得法の記事は沢山ありますが、直接引用したり、他では取り上げていない有用な箇所も載せている、

シュリーマンはどうして聞く・話す・読む・書くを短期間で習得できたのか?
http://love-english.hatenadiary.com/entry/2015/02/14/023000

が一番良いです。



私が有効だと判断した外国語勉強法まとめ(先人に感謝)

・大きな声でたくさん音読。
黙読は駄目。大声の方が効果大。一人で音読してもよいが、人に聞かせることで効果倍増。
シュリーマンは自分の音読を聞いてくれる人を雇ったことあり。人に聞かせることで集中力と緊張感を高める。

・基本的に翻訳しない。
意味をつかんだあとは、母語に訳すのではなく直接イメージで捉え、直接理解できるようにしていく。

・短時間でいいから毎日真剣に勉強(最重要)。
1日15分でいいから毎日やる。週に1日ぐらいなら休んでもいい。
入浴・移動・食事中など、細切れ時間を活用すれば合計1時間は楽。

・単語は文章で覚える。
新たに覚えたい単語を既に覚えた文章に組み込んで覚える。
単語記憶には英英辞典と類語辞典も使う(例文検索もできる電子辞書が便利)。
言い換える力もつく。
覚える単語の優先順位は、基本語→自分の生活で使用頻度が高い語の順。
自分の興味のあるものから覚える。
貿易商人なら、商品や貿易、契約の用語から覚える。
機械的反復を防ぐために、一部を変形しながら、色々言い換えながら覚える。
文全体の時制を変更したり、主語を変えたりする。動詞や熟語は特に。

・興味のある対象について常に作文を書く。
貿易業を営んでいたシュリーマンは、「あの国にあれを輸出したい」といった作文をすることで、国名・地名、商品名、輸入・輸出など商業用語を覚えた。英文で英単語を覚えることの応用。
一度日本語で書いてから英訳するのは駄目。最初から英語で書かないと駄目。類語辞典と英英辞典が便利。
語学学習の大原則として、「書く」から入るのは邪道。まして「訳す」という勉強法は邪道以下。正道はまず「聞く」次に「話す」。
なお、死語は別。

・自分の作文を先生の指導で訂正してもらい、次回の授業で暗唱。
赤ペンなどで修正し自分が間違った箇所の記録を残す。 消しゴムで消せないペンで作文すればいい。

・語形変化と動詞だけを学習し、他の文法は無視。
覚える活用は最小限。記憶作業を効率化するもの以外は無視。

・優れた本を暗記。
どんなに短い時間でも活用し時間を盗んで記憶。
学習は座ってとかテキストを持ってとかという固定観念は捨てる。少しでも多く暗記。歩きながら暗誦。
一冊覚えると後が楽。既に覚えた本があるならその翻訳本を辞書代わりに使える。英語を習得した人がドイツ語を習得したいなら英語とドイツ語の対訳本あるいは、それぞれ一冊ずつ用意して覚える。
夜は暗唱するなどして復習。
記憶には潜伏期間が必要。翌日に前日の学習内容全然覚えてなくても気にすることはない。もう若くないから記憶力が弱いだとか頭が悪いとか悲観したらマイナス思考で本当に記憶力が悪くなり学習効率が下がってしまう。
そもそもすぐには思い出せないだけで情報は脳に入っているから問題ない。

・ネイティブが喋る発音を絶対に聞き、完全にコピーして発音できるようにする。
そのネイティブの発音を聞くのと同時に自分自身で口真似する。シャドーイング
ネイティブと同時に喋り完全にシンクロし、間のとり方、息遣いまで完全にコピーする。
できれば音声とテキストのみの教材が良い。テレビなどだと視覚に意識が行ってしまうので画面を見えないようにするなど工夫が必要。
〔youtubeは動画再生速度が変えられるので便利。
シャドーイングに便利なソフトがVLC。特にホットキー割り当てで3秒巻戻しや3秒先送とか再生速度を10%刻みで上下できたり非常に便利〕

・書き取り(ディクテーション)はリスニングやシャドーイングほどではないが有効。ただ、そんなに必死にやるものでもない。




プー閣下(knznymmmy ‏@knznymmmy )の勉強についてのアドバイス集

(最近アイコンが緑と白なのは、ザクセン=コーブルク=ゴータ公国の国旗の色が緑と白だからです。
緑=世界連邦などワンワールドカラー。
ザクセン=コーブルク=ゴータ家は名前が表に出ているファミリーでは最強クラス
です)

knznymmmy ‏@knznymmmy
RT> そう。記憶には潜伏期間が必要。これお勉強する上で重要ポイントな。 社会人になってから英語なりおフェランス語なり勉強して その翌日に、前日の学習内容全然覚えてなくても全然気にする事はない。 そこで「あー、もう若くないから記憶力が弱いんだ」とか悲観したら

(続き)マイナス思考で本当に記憶力が悪くなっちゃう
。 おめーらもう忘れたかしれないけど小学校2年ですら 算数の九九の暗唱めっちゃ時間かけたじゃねえか ガキはバカだから毎日毎日九九を唱えさせられても疑問に感じない だけどオトナは余計な知恵がついてるから猜疑心が生まれる

(続き)で、しかも、年とってるのは事実だし、ちょっとぐらいなら 記憶力が落ちてるのも事実。だけどそこで「もうダメだ」は禁句 「あれ、昨日のレッスン内容全然覚えてねえや」って場合でも 「ま、コンピューターじゃあるめえし一発じゃ暗記できねえさ」と 復習をサラっとやったら次のレッスンに

(続き)進んじゃう、これ重要。 そこで「は?もし本当に記憶力が弱っててサラっと復習したぐらいじゃ 足りない時はどうすんだよ?」ってのはバカの発想 どうもしねえよ。一回の復習で足りないなら二回でも三回でもやりゃいいじゃん。 私は昔から同じ本を5回ぐらい読む事はよくある

1回読んだだけで内容が完璧に把握できるような本ってのは クッソくだらねえ本って事だ。

人から教えられた物ってのは どこかしら100%身につかない部分が残るんだよ。 だから、どうしても、自得させるように仕向ける という側面が必要になる。 こういうのを澤井健一先生は啐啄(そったく)と言った。

「啐啄」って言葉があってねヒナが卵から生れるとき 親鳥が殻を割る手伝いをするんだよ。

鳥の雛が卵からかえる時、 最後の最後に親鳥がつついて手伝ってやるんだよね。 それが啐啄。 あくまでも雛ががんばってくれないと話にならない。 だけど最後、ここぞという瞬間に 適切な助言、指導ができる事、 それこそが指導の極意
って事らしい。


英語の勉強も少しでいいから毎日やるってことが 大きな影響力を持つ。 、、、、ほら、アレと同じだよ、被曝www 少しのベクレルでも毎日食ってりゃガンになるwwww

おまは好きな科目ねえの? 学校なんざつまんなくて当たり前じゃん ヌッポンがさ、そのうち沈没すると思うから 国外退去する可能性すら想定しておくべきと 思うんだよね 別に外国語っつーのは英語だけじゃないけど まー、やらされてる言語でもあるから とりあえずは英語真面目にやれ

現代文古文は大事ですね。ニャンゲンとしての基本 日本人としての常識です。文法は割とどうでもいいww 数学は高校の微分積分や三角関数あたりまで できるだけ頑張った方がいいです。 ぱちょこんとかマニアックにいじくり回すには そういうのも「あらまほしきものかな」とw

だって、将来日本沈没まで考えるのなら 単に「語学ができるだけ」じゃダメですよね。 現地の人と勝負して「コイツの方が仕事ができる」って 認めてもらえないといけないのですから とんでもないハンディキャップマッチを勝つ事を想定するなら 理系科目とか強いといいかも

ついでに英語勉強の極意書いておきます。(あれ?書いたっけ?) 「短時間でいいから毎日勉強すること」 これが外国語学習の最重要事項。 1日15分でいいから毎日勉強してください。 週に1日ぐらいなら休んでもいいですけど 「毎日やる」ここが超重要です。

週に1日8時間の勉強をするよりも 週に6日15分ずつの勉強をする方が 絶対に効果が出ます。 それからネイティブの発音を聞きまくる事 AKBオタクが毎日AKBの曲ばっか聞くみたいに ネイティブの発音毎日聞くこと んで、それを口真似する事 絶対に声に出す事。

黙読は意味がありません。音読する事。 それも大声であるほど効果が大きくなります。 日本語にない発音、リズムに慣れる事 最終的にはネイティブの発音と同時に喋ると 完全にハモってる事。 シンクロ率400%を目指す事 リツコがニャンゲンに戻れなくなると叫ぶまでやる事

あのね、できれば音声とテキストのみの教材がいいんです テレビとかだと視覚に意識が行っちゃう。 昔のアニメで聖闘士星矢ってあるんですけどね あの中に出てくる乙女座ヴァルゴのシャカが 目を閉じるのと同じ・・・って おまには分かんないかw

ミミズクって英語でhorned owlらしい件

だから英語で正常位って ミッショナリーポジションって言うんだぜ

これは本当 日本人は揚げ足取りが大好きなせいで 悪い意味で完璧主義になって 結果、元も子もなくする事が結構ある 例えば英語のテキスト勉強してても 完璧、100点、にならないと次の課に進まないみたいな感じ そうじゃなくて0点は論外だけど 大体おkになったら進んでいい

私が勧めるのは一旦DLしてVLCで聞く事ですね。 再生速度の調整ができますし 3秒巻戻、10秒巻戻等のキーボード設定があって まるで語学講座を聞くためのソフト じゃないかと驚きます。 ネイティブの発音をスローで聞いたり 自分の発音を録音して聴き比べたり 色々できますよ

RT> そう。例えば英語の発音練習でも リスニングできない音は発音できない 発音できない音はリスニングできない 自分の手持ちの駒でしか人間は対応できない


だってさ、毎日決まった時刻に決まった行動を取るってのは 魔法修行の初歩の初歩だぜ? それともうひとつ 後でも聞けるから、今聞かなくてもいいや ってのは結局後でも聞かないパターンだろ? 本気で英語(には限らないけど)をどうにかしたい と思ってるのなら おめーの本気を見せてみろ

犬HKの基礎英語2の2月9日分の放送を聞いたった 人に勧める以上一回ぐらいは自分自身で チェックすべきかなと思ってw "人"ってのは分かるよな? 今日も創価信者がイチャモン付けてきたりとか 私の周りが騒がしいから名前は出さない。 とりあえず変なチョコやめろw

基礎英語2はそれなりにうまく教えている。 (来年度も同じ講師なんだがガイジンは交代らしい) ちょっとよかったのは 3分過ぎに 「音楽に乗せた発音練習」ってものがあったこと 英語の発音練習として 個別のLとかRとかの練習も大事なんだけど それらをぶちぬいて流れるリズムの勉強も大事

これ守らないとお経みたいな英語になっちゃう 定期的に強弱を繰り返すパターンが基本なので このリズムに乗るのが大事
例えば手拍子のリズムにのって発音する
例えば弱が二回続いたら ◯☓◯☓◯☓・・・って
テンポよく来てたのが ◯☓◯☓◯☓☓ ← なんかつまづいちゃう

だからそこは弱い単語2つを ササッとまとめて素早く発音して
◯☓◯☓◯☓のリズムを守るの
ひとつの「弱」の中に押しこんじゃう
逆に短いのにひとつの「強」を専有させないと いけない単語が出てきたらそこは ゆっくり発音したりする
だから強弱であると同時に緩急でもある

こういう緩急強弱を意識するのが大事。 勿論現実の会話ではこのリズムが崩れてる事も多いんだけど
原型としての◯☓◯☓◯☓のリズムが チラチラ顔を見せるのが大事

で、それを意識する練習として 基礎英語2みたいに音楽に乗るとか 或いは自分自身で机の角をデコピンしながらとか 発音練習するのがコツ

私は昔マザーグースを手拍子打ちながら暗唱した。 私自身が昔暗唱した例でやると (大文字が手拍子打つところ)

LADY bird LADY bird FLY away HOME your HOUSE is on FIRE and your CHILDREN all GONE ALL except ONE and THAT'S little ANN

例えばね、"is on"とか"and your"単語が2つじゃん 2つなんだけど「弱」ひとつしか 割り当てないんだよ だからここササッと素早く読む。「急」で「弱」。 じゃないと◯☓◯☓が崩れる。


あとは口か。シュリーマン的に 音読しまくって暗唱が大事ってことかな?

彼が「古代への情熱」って本の中で語学学習について 熱弁をふるっている箇所がある。
で、ギリシア語の活用について私同様 「活用の丸暗記なんかするな」ってスタンスなんだ。 んじゃ、丸暗記しねえでどうやって語学マスターするのかって話だが おーっとここでカレンダーを見るんだ!

RT> ちげーよ、ボケナス 寝る前は語学の勉強すんだよ ハインリッヒ=シュリーマン目指すんだよ

RT>私はラテン語やった事がないので ひょっとしたらトンチンカンかもしれないけど そもそも論として語形を必死に丸暗記する事自体が間違いなような気がする ぬこた先生はハインリッヒ=シュリーマンは知ってるかな? 天才でもあり天災でもあり変態でもある、偉人若しくは変人だがw

↓ ちょっと抜けてるな
動詞、助動詞の活用は暗記するな
暗記するんならよい例文を暗記する
事だ とか、まだ色々書いてるんだぜ? 多分ね、このまとめ「古代への情熱」の前半しか読んでいない。 前半で語学学習ネタが終わったフリして 実は後半にも出てくるのさ!

しなざわ ‏@shinazawa 8月24日
1 非常に多く音読すること
2 決して翻訳しないこと
3 毎日一時間をあてること
4 つねに興味ある対象について作文を書くこと
5 これを教師の指導によって訂正すること
6 前日直されたものを暗記して、次の時間に暗誦すること

シュリーマン

トロイヤ遺跡発見。10ヶ国語以上習得。

knznymmmy ‏@knznymmmy 2月13日
一度日本語で書いたらダメ
最初から英語で書かないとダメ


深緑のオアゾーさん ‏@aguridog 5月16日
『啐啄同時』(そくたくどうじ) という禅語は師匠と弟子、親と子の関係に当てはまる。その意味は、鳥の雛が卵の中から殻を割るタイミングと親鳥が卵の殻を外からついばんで割るタイミングを合わせること。深いね。 https://twitter.com/pre_online/status/599385554363490304 …

らいおん ‏@funa2741 7月14日
@shige8948 啐啄同時 読み方:そったくどうじ 禅において、悟りを開こうとしている弟子に、師匠が、うまく教示を与えて悟りの境地に導くことを指す表現。「啐啄」は、何かをするのに絶妙なタイミングを指す表現。

knznymmmy ‏@knznymmmy 6月2日
RDレインだったかな
「好き?好き?大好き?」って本がある
名前をつける事で
さも何かが分かったような気分になる
って側面はあると思う
例えばむかーし、参考書読んでたら
予備校の先生が◯◯の法則とか
やたらと名前を付けたがるのは
名前を理解しただけでしかないのに

承前)中身を理解したような 錯覚を起こす=予備校で、さも沢山勉強できたような 錯覚を起こすって説明をしていた
本体じゃなくてダミーを用意するってのは バテレンどもがニダヤを用意したのとも共通するな ユダヤ陰謀論を語れば さも、世界の真実を悟ったかのような 錯覚を起こす




大帝の指摘通り、英語資格は完全に利権化しております。
欲しいのは語学力ではなくて特権!


フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 3月30日
最近みんなジョブズの真似して 禅仏教とかやってるからな。 マインドフルネスなんて今迄 上座仏教コーナーの隅に置いて あったマイナーな物まで心理学コーナー の一番いい棚に置かれるように なってるし。
MITの怪しい学者の裏付けは ともかくとして、マインドフルネス に関しては裏にカルト産業の 思惑も深く関わってそうだが


フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 3月16日
元リクナビの人が起業した ルーセントドアっていう 中高年専門転職エージェント の仕組みが賢いんじゃないかな
匿名で履歴書送ってマッチング するらしい
欠点はフェファー教授の 酷評する面接、SPIを排斥出来て ない所だな
面接、SPIとTOEICは個人的に 害悪でしかないと思う


この国がTOEICゴリ推しなのは TOEIC自体が経団連がアメリカに 頼み込んで無理矢理作らせた 試験だからという説がある。

一応言っておくと英語系資格の 最高峰は「ケンブリッジ英検」ってやつ。 こいつはTOEFLよりも格上で 更新のいらない永久資格。 ただ半端なくムズイ。 英語と言うよりラテン語と ギリシャ語の試験。

日本では無名だけど、ヨーロッパで 英語資格と言ったらこのケンブリッジ英検 ってぐらい向こうでは有名
っす。


フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 6月21日
な、なぬ〜!? 会社で受けたTOEIC IP スコアは無効だってぇ〜!!? 一般公開向けより採点厳しいのに 何でだよ‼︎ 詐欺じゃねーか‼︎‼︎

学生の時に受けた公開テストの スコアあったから良かったけど、 これ、やっぱり転職防止のために ワザと分けてるのか? ったく、経団連は本当に癌だな!

これ、学生や新社会人は気をつけろよ。 団体で受けるTOEICは公務員試験や 国家資格の免除申請に一切使えないから。 つーか、こんな国からも認定されない 試験を毎回受けさせる日本企業は 馬鹿なんじゃねーか?

しかも国にすら認定されないクソ試験の スコアで給料や賞与の査定に平気で 使われてる。 これって労働法的に犯罪じゃねーのか?

つうかフランス文科相認定の DALFが、ジャップの天下り団体が 作った仏検より価値が低い不思議。

つまりフランス人のフランス語は 日本ではフランス語として認定されて ないって事だなw

お前らフランス語だから事の重大さ がよく分かってないと思うが、 これかなり異常だぞ。 要はフランスで認定した日本語の 資格の方が、日本本土の日本語資格 より格が高いってのと同義
なんだからな。

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 3月30日
TOEIC860点用アプリの 難易度バロッシュw
Procrastinateなんてネイティブでも 使ってねーだろw

(procrastinate:(やるべきことを)するのをぐずぐずと遅らせる。
先延ばし:procrastination)




英単語は英英辞典と類語辞典を使って覚えましょう(英語学習全般において重要)。
ダビデの星がユダヤだけのシンボルになったのは十七世紀から

シャーロックホームズとメーソン員のコナン・ドイル
・シャーロキアンとメーソン
・民主主義は無責任体制等を意味する英文紹介。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-11.html
”※英文や英単語は本ブログ来場者が好みそうなものを選びました。英語学習にあまり関係ないが重要なことは「かなりの部分を」(全部ではない)「おまけ(本ブログの趣旨的には本編)」として載せました。

単語や熟語の覚え方。
①英語と類語辞典も使う
②例文とセットで。
機械的反復を防ぐために、一部を変形しながら、色々言い換えながら覚える。文全体の時制を変更したり、主語を変えたりする。動詞や熟語は特に。
(④どうしても読みたいものを読むと一番覚えられます)
(…)
“あえて言おう。英語回路とかどうでもいいから、まず英単語覚えろ。
答え:英語で覚えていないから
1000語とか2000語とか10,000語とかよく言うけど、大事なのは数じゃない。そもそもこういうのを数える時って、派生語はどうしているのだろう。go/went/goneは1語?それとも3語?
より大事なのは、一つの文を英語で作れること。そのためには、「均等に」1000語知っていることよりも、「よく使われる」単語を、「より多彩」に使えるようになるのが先決。
例えば、"prepare"という言葉を、「準備する」と覚えちゃ駄目。"get ready"と覚えないと。そのためには、getを「深く」知らなければならない。このgetにsetを加えると、8割ぐらいの動詞は、動詞そのものではなく (get|set) + 名詞で言い換えられる。native usersもよく使うけど、名詞指向な日本語の話者には特にありがたい。
というわけで、最もおすすめなのがこれ。
Longman Dictionary of Contemporary English
一番の特徴は、単語の説明に使うための2000語程度からなるThe Longman Defining Vocabularyという、「単語を定義するための単語リスト」が用意されていて、辞書内の説明が(固有名詞などを除けば)すべてそれでなされているという点。要はこれだけの単語の意味をしっかり把握していれば、あとはこれらのDefining Wordsで言い換えてしまえばいい。"obtain"がわからなくても"get"できるというわけです。私も塾の講師をしていた時にさんざんお世話になったし、生徒たちにも英和辞典を封じてこれを使うように薦めてました
現時点で、その数2,185。覚えるなら、このdefinining wordsを徹底的に使えるようにするのがいい。その過程で1万語ぐらいは覚えてしまう。そしてこのdefinining wordsを英語で説明できるようになったら充分、というか英語で飯が食えるレベルといっていいだろう。
あと、英単語を覚えるのにその単語ばっかり読み書きするのは愚の骨頂。必ず文(whole sentence)を作るようにすること。そもそも人間は「無意味なデータの羅列」を記憶できるようにはなっていないし、文を作る過程、頻度的によく現れる単語を繰り返し覚えることも出来る。“
英単語が覚えられないたった一つの決定的な理由

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51133522.html
(…)
以下の記憶術も活用すると良いです。

“魔術っぽいのは、ひとつは、自分用の「魔物」を「捕獲・飼育・調教」して、この「魔物」をとおして英語をおぼえるってとこだ。それから、単語をおぼえるのに魔術の象徴体系をつかう。ここにでてくるのはカバラーの「生命の樹」で、まずはこの「生命の樹」に対応してる7惑星とタロット・カードの大アルカナをつかって、名詞は7惑星に、動詞はタロットに分類しておぼえる。それから、形容詞と副詞は黄道十二宮に分類しておぼえる。まあ、よくある記憶術みたいな感じだけど、この手の記憶術っていうのは、もともとオカルティズムの象徴体系と関係あって、こういう記憶術をつかったひとは、むかしは異端として罪にとわれたこともあった。”
『「魔術」は英語の家庭教師』

http://toxa.cocolog-nifty.com/phonetika/2005/08/post_66cc.html

キリスト教の本当の教義の一つに、反知性主義=馬鹿なのはいいことだ(その癖に支配者は知性がない人を人間扱いしない)、というものがありまして、科学=悪魔、理性=悪魔、頭が良くて嘘を見ぬける人=悪魔、だということを補足しておきます。

あと、魔物は頭や手や足などが多いものがお勧めです魔物の体に対応させて更に記憶の幅が広がりますから。
黙示録の竜は七つの頭と十本の角があり、その頭には七つの冠がありますからお勧めです。
黙示録はミトラ教(ミトラ信仰)とゾロアスター教の終末思想のパクリ(盗作)だから嫌だ!
という方には、黙示録の竜の元ネタにして、悪の中の悪アンラ・マンユの支配する竜アジ・ダハーカ(3頭3口6目)を勧めておきます。アジ・ダハーカを斬り裂くと虫や爬虫類などが出てきますからますます記憶の糸が増えますね(嫌ですね)

(興味ある方は、竹原威滋・丸山顕徳 『世界の龍の話』 三弥井書店 2002 などの本があります)
(…)
Solomon’s seal  ソロモンの封印(二つの三角形を組み合わせた星形)

Star of David
http://en.wikipedia.org/wiki/Star_of_David#Early_use_as_an_ornament
(2014年四月三日 木曜日 引用保存)
“The Star of David, known in Hebrew as the Shield of David or Magen David”
“The hexagram has been in use as a symbol of Judaism since the 17th century, with precedents in the 14th to 16th centuries in Central Europe, where a Shield of David was partly used in conjunction with the Seal of Solomon (the hexagram) on Jewish flags. Its use probably derives from medieval (11th to 13th century) Jewish protective amulets (segulot). The identification of the term with the hexagram shape dates to the 17th century. The term "Shield of David" is also used in the Siddur (Jewish prayer book) as a title of the God of Israel.”
“Medieval Kabbalistic grimoires show hexagrams among the tables of segulot, but without identifying them as "Shield of David".”
“Jewish flags
In 1354, King of Bohemia Charles IV prescribed for the Jews of Prague a red flag with both David's shield and Solomon's seal, while the red flag with which the Jews met King Matthias of Hungary in the 15th century showed two pentagrams with two golden stars.[17]
In 1460, the Jews of Ofen (Budapest, Hungary) received King Matthias Corvinus with a red flag on which were two Shields of David and two stars. In the first Hebrew prayer book, printed in Prague in 1512, a large hexagram appears on the cover. In the colophon is written: "Each man beneath his flag according to the house of their fathers…and he will merit to bestow a bountiful gift on anyone who grasps the Shield of David." In 1592, Mordechai Maizel was allowed to affix "a flag of King David, similar to that located on the Main Synagogue" on his synagogue in Prague. Following the Battle of Prague (1648), the Jews of Prague were again granted a flag, in recognition in their contribution to the city's defense. That flag showed a yellow hexagram on a red background, with a star placed in the center of the hexagram.[18]“
※The Battle of Prague(プラハ。チェコの首都) between 25 July and 1 November 1648 was the last action of the Thirty Years' War.

In the 17th century, the Shield of David as the hexagram began to represent the Jewish community generally, when the Jewish quarter of Vienna was formally distinguished from the rest of the city by a boundary stone having the hexagram on one side and the Christian cross on the other.[citation needed] By the 18th century, the Shield appeared to represent the Jewish people in both secular (politics) and religious (synagogue) contexts. The Star of David can be found on the tombstones of religious Jews in Europe since the 18th century.[citation needed]“


ダビデの星
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%93%E3%83%87%E3%81%AE%E6%98%9F
”このしるしは、古代イスラエルのダビデ王に由来するとされるが、歴史的に実在した実際のダビデ王とは関係がない。三十年戦争末期の1648年、神聖ローマ帝国の側に立ってプラハを防衛していた民兵軍がスウェーデン軍を撃退したので、ハプスブルク朝のフェルディナント3世は、民兵軍の武勲を嘉して各部隊のそれぞれに旗印を下賜した。民兵の中にはユダヤ人部隊もあったが、ドイツの宮廷には、ユダヤ人の印としてどんな図柄を使えば良いか知る者がなかったどころか、宮廷ユダヤ人のオッペンハイマー家ですら何のアイディアも出せなかった。そこで、ウィーンの政府はイエズス会に何か良い知恵はないか相談したところ「ダビデ王は楯の紋所にみずからの名前の最初と最後の文字『D』を使ったに違いなく、古いヘブライ文字でDの字はギリシャ文字『Δ』に似た三角形だから、Davidのスペルの最初と最後の『D』の字二つを表す三角形を、互いに組み合わせた形にしてはどうだろうか」というアイディアを得た。こうして、ユダヤ民兵部隊に「ダビデの楯」をあしらった旗が下賜されることになった。この印は欧州のユダヤ人社会に野火のように広がり、19世紀はじめにはロスチャイルド家の家紋にも取り入れられた。つまり17世紀に起源するものであって古代に遡るものではないため、例えば日ユ同祖論等の根拠に使うことはできない。”

ダヴィデの星がユダヤ人のしるしになってまだ数百年 http://matome.naver.jp/odai/2139907666773204601

元々、ユダヤ教では「ダヴィデの星」ではなく、7枝の燭台「メノラー」がシンボルとして使われていました。ユダヤ教においては数字の7が神に関わる数字として神聖視されていました。そのため六芒星の「ダヴィデの星」がユダヤ人のシンボルとなったのは非常に遅く、17世紀のことです。プラハのユダヤ人が30年戦争に協力したことへの感謝の印として、神聖ローマ皇帝フェルディナント三世がユダヤ人のために名誉ある旗印をつくりたいという意向を示し、その時に採用された紋章が六芒星、いわゆる「ダヴィデの星」だったのです。これがヨーロッパの他のユダヤ人共同体にも広まっていったのですが、ユダヤ教のラビたちは、この紋章が異教起源であることを理由に採用に強固に反対したくらいでした。しかし、ロスチャイルド家がこの紋章を採用したことでユダヤ人の間でこの紋章が人気となったのです。しかし、ロスチャイルド家はユダヤ教を信奉していませんでした。そして、ロスチャイルド家がシオニスト運動を後援していたことから、1897年にシオニストたちがこのマークを採用し、シオニズム運動のシンボルマークとなったのです。
出典ユダヤ人の象徴ダビデの星はなぜあの形になったのですか?... - Yahoo!知恵袋”

”シャハクという教授が書いた「ダビデの星はどこから来るのか?」という文章を紹介します。この中に、六芒星形がヘブライ語やイディッシュ語では「ダビデの楯」と呼ばれているが、いつから「ダビデの星」になったのかは知らない、書かれてます。
そこには「ダビデの楯」の由来が書かれています。
出典イスラエル国旗のぉダビデの紋章の由来をおしえてくださぁい。 - Yahoo!知恵袋”


イスラエル・シャハク教授の書いた「ダビデの星はどこから来るのか?」(“Where Does the Star of David Come from?”) という文章があります。そこに書いてある「ダビデの楯」の由来を紹介しましょう。三十年戦争末期の1648年…民兵の中にユダヤ人部隊もありました。ウィーンの宮廷では、ユダヤ人の印としてどんな図柄を使えば良いか知る者がありません。宮廷ユダヤ人のオッペンハイマー家にもわかりません。そこで、イエズス会に良い知恵はないか訊ねます。イエズス会の坊主輩ひねり出した結論は、
ダビデの楯 「ダビデ王、楯の紋所にみずからの名前の最初と最後の文字『D』を使うたこと必定ならん。古いヘブライ文字でDの字はギリシャ文字『Δ』に似たる三角形なれば、Davidの首尾の『D』の字二つを表したる三角形をば互いに組み合わせたる形にしては如何」かくして、ユダヤ民兵隊に「ダビデの楯」をあしらった旗が下賜されることになりました。というお話です。シャハク教授は、この印は欧州のユダヤ人社会に「野火のように広がり」、十九世紀はじめにはロスチャイルド家の家紋にも取り入れられた、と続けます。
出典「ダビデの星」はなかった”

"魔法使いハンターねこた@lanekota
BOT 六芒星はユダヤでのシンボルではない。
knznymmmyさんの記事より。http://www.twitlonger.com/show/n_1ru710e
★六芒星をユダヤのシンボルにしたのはイエズス会(当時のラビたちは猛反対)中世以前にユダヤ=六芒星のシンボルはない"
https://twitter.com/lanekota/status/469836189260709890

knznymmmy · @knznymmmy
ダビデの星=六芒星はユダヤのシンボルではありません
http://www.twitlonger.com/show/n_1ru710e
"昔昔、1648年のことじゃ、ヨーロッパでは30年戦争というモンが終盤を迎えておった。
え?ヨーロッパのどこかって?「最初の国際戦争」とも言われるらしいんで
結構、広範囲なんじゃよ。詳しくはwikiでも見てくれ。
ちなみに始まったのは1618年で終わったのが1648年じゃからな、キッチリ30年じゃ。
で、この臭い戦争、もとい、国際戦争の末期に
プラハを防衛した民兵軍がスウェーデン軍を撃退したんじゃ。
王様のフェルディナント3世はたいそう喜んでなあ、
各部隊に旗印を下賜しようと思い立ったそうな。

王:「よし、次の部隊。お前らは何者じゃ」
ユ:「イルボンニダ! アイヤ! ウリヌン、ユダヤ!ユダヤオエヨ!」
王:「??ユダヤ? ユダヤか。そうか。今日お前らを呼んだのは他でもない、
  この前の戦いの礼をしとうてな。お前らにも旗をくれてやるぞ。そこで旗に入れる印は何か申せ。」
ユ:「何それうまいの?」
王:「たわけ。エンブレムじゃ。シルシじゃ。何かあろう?ん?」
ユ:「ねえよ、クソボケ、キムチよこすニダ!」
王:「は? 何コイツ? おい、側近! 今、コイツはなんと申したのじゃ?」
側:「我ら下衆どもにはそのような立派なものはございませぬ。申し訳ありません、と申しております」
王:「無い?無いのか? ふーむ。困ったのう。 そうじゃ、オッペンハイマー、ここへ参れ」
オ:「ニダ!」
王:「オッペンハイマー、お主もユダヤじゃろう? 何かユダヤの旗印か家紋か
  そういうものをお主は存ぜぬか?」
オ:「ニダ!」
王:「おい、側近! 通訳!」
側:「我ら下衆どもにはそのような立派なものはございませぬ。申し訳ありません、と申しております」
王:「え〜、マジでぇ〜? 童貞が許されるのは小学生までだよねぇ〜 キャハハハ」
側:「王様、お気を確かに!」
王:「お、おう! そうじゃ、そうじゃ、困った時の神頼みじゃ、イエズス会にでも聞こうぞ。
  おい、イエズス会の神父、何かユダヤのエンブレムは無いのかのう?」
神:「は、はぁ〜。また王様の無茶ぶりが始まったよ。大体ユダヤ人なんてものは
  俺達がデッチあげた
・・・あ、いえいえ、何でもありません。」
王:「何をゴチャゴチャ言うとるんじゃ、早う調べい!」
神:「え、えーっとですね、では、ユダ公どもの英雄であるダビデ王にちなみまして
  DavidはDが二つあるから、Dを二つ重ねて、ガンダムダブルDはどうでしょう?」
王:「お前、アホか、著作権問題でワシが訴えられたらどうする気じゃ!」
神:「あばばばば・・・い、いまのはジョークですよ。古代のヘブライ文字のDは三角形っぽいんで
  三角を二つ重ねて六芒星はどうでしょう」
王:「お前なぁ、人のエンブレムだからって、やる気なさすぎじ・・・」
ユ:「マンセー! マンセー! チョッパリ! キムチ! パチンコ! アベシンゾー!」
王:「おい、側近! 通訳!」
側:「さすが、王様、実に素晴らしい妙案にございます、と喜んでおります」
王:「ええ?マジで? ま、お前らが喜んでくれるなら、ワシもなによりじゃ」

そして、この六芒星はユダ公のシンボルとしてバカ受けして
成金帝王のロスチャイルドの家紋に採用されるわ、イスラエルの国旗に採用されるわ、
ついには、1000年以上も時空を遡って、失われた十部族が伊勢神宮の灯籠にまで刻印
するわ、
エライ騒ぎになったとさ。"

イエズス会は裏社会で黒幕的役割をよく担います(ユダヤばっかり攻撃させることでキリスト教への攻撃を防ぐためのユダヤ陰謀論=キリスト教製品。だからキリスト教陰謀論がない。病院の✝や、キリスト教暦使っているから一週間七日で、安息日の日曜日が休みで、多くが教会で結婚する国ってキリスト教が支配する国なのですが、正に日本ですよね。明治維新で乗っ取られて以来、明治・昭和・今上天皇はガーター騎士団に入っていますからキリスト教に逆らいません(過去も今もキリスト教の神が最上位の神。中身はアフラ・マズダまたはミトラ)。

7枝燭台=メノーラー、メノラーは伝統あるユダヤのシンボル。
一方、六芒星=ダビデの星=ユダヤのシンボルになったのは17世紀から。14~16世紀にはすでに中央ヨーロッパで(当然キリスト教徒も)使われていた。そもそもダビデが出て来るのは旧約聖書でありキリスト教とイスラム教の聖典でもある。そもそもダビデの星と六芒星を同一視したのが17世紀からである。マークを根拠にしている癖にそのマークの成立年代を言わない日ユ同祖論詐欺師


子子子子子(ねここねこ)‏@kitsuchitsuchi•3月30日
@knznymmmy @lanekota 単語の数は大変多いのでどの二つの言語を選んでも必ず似たものはある。ニクダー(母音記号)なしだといくらでも都合よく読める子音表記のヘブライ語だとどんな言語でも同祖論を作れる。邪馬台国の当時の読みは?神道は道教の一派だから日中同祖論はいかが?

日ユ同祖論という、「実はあなたは高貴な血筋だったんです(キリスト教製品の)神話」に騙されている人が多すぎますのであえて多めに字数を費やしました。
ユダヤは煙幕であり派遣であり実行部隊であり壁でありスケープゴートなのは古代も今も同じで黒幕はキリスト教です。
ユダヤ自体がキリスト教が作った捏造の称号ですからね。えた・ひにんと同じですよ。


knznymmmy ‏@knznymmmy 2月15日
そうだ。英語勉強するする詐欺のおめーらさんに
エロエロ動画のぷれぜんつ
http://news.stanford.edu/news/2005/june15/jobs-061505.html …

ジョブズが2005年のスタンフォード大学卒業式に
来賓として登場した時の
伝説のスピーチ全文

つべ動画のリンクもある

というかね、これめっちゃ有名なスピーチなんで つべで「jobs stanford」とか入れて検索すれば 日本語字幕付きとか色々出てくる。 プレゼン名人と言われたジョブズらしく 発音明瞭、早口にもならない、そして中身もわかりやすい

http://slashdot.org/comments.pl?sid=152625&cid=12810404
を修正↓
Thank you.
I'm
honored to be with you today for your commencement from one of the finest universities in the world.
Truth be told,
I never graduated from college
and
this is the closest
I've ever gotten to a college graduation.
Today
I want to tell you three stories from my life.
That's it.
No big deal.
Just three stories.
The first story
is about connecting the dots.

I dropped out of Reed College
after the first six months
but then stayed around as a drop-in
for another eighteen months or so
before I really quit.
So why did I drop out?
It started before I was born.
My biological mother
was a young,
unwed graduate student,
and she decided to put me up for adoption.
She felt very strongly that I should be adopted by college graduates,
so everything was all set
for me to be adopted at birth by a lawyer
and his wife,
except that when I popped out,
they decided at the last minute
that they really wanted a girl.
So my parents,
who were on a waiting list,
got a call in the middle of the night
asking,
"We've got an unexpected baby boy.
Do you want him?"
They said,
"Of course."
My biological mother found out later
that my mother had never graduated from college
and that my father had never graduated from high school.
She refused to sign
the final adoption papers.
She only relented a few months later
when my parents
promised
that I would go to college.
This was the start
in my life.
And seventeen years later,
I did go to college,
but I naively chose a college
that was almost as expensive as Stanford,
and all of my working-class parents' savings were being spent on my college tuition.
After six months,
I couldn't see the value in it.
I had no idea what I wanted to do with my life,
and no idea of how college was going to help me figure it out,
and here I was,
spending all the money my parents had saved their entire life.
So I decided to drop out
and trust that it would all work out OK.
It was pretty scary at the time,
but looking back,
it was one of the best decisions I ever made.
The minute I dropped out,
I could stop taking the required classes that didn't interest me
and begin
dropping in on the ones
that looked far more interesting.
It wasn't all romantic.
I didn't have a dorm room,
so I slept on the floor in friends' rooms.
I returned Coke bottles for the five-cent deposits to buy food with,
and I would walk the seven miles across town every Sunday night
to get one good meal a week
at the Hare Krishna temple.
I loved it.
And much of what I stumbled into
by following my curiosity and intuition
turned out to be priceless later on.
Let me give you one example.
Reed College at that time offered perhaps the best calligraphy instruction
in the country.
Throughout the campus
every poster,
every label
on every drawer
was beautifully hand-calligraphed.
Because I had dropped out
and didn't have to take the normal classes,
I decided to take a calligraphy class
to learn how to do this.
I learned about serif and sans-serif typefaces,
about varying the amount of space between different letter combinations,
about what makes great typography great.
It was beautiful,
historical,
artistically subtle
in a way that science can't capture,
and I found it fascinating.
None of this
had even a hope of any practical application
in my life.
But ten years later
when we were designing the first Macintosh computer,
it all came back to me,
and we designed it all
into the Mac.
It was the first computer with beautiful typography.
If I had never dropped in
on that single course in college,
the Mac would have never had multiple typefaces or proportionally spaced fonts,
and since Windows just copied the Mac,
it's likely that no personal computer would have them.
If I had never dropped out,
I would have never dropped in on that calligraphy class
and personal computers might not have the wonderful typography that they do.
Of course
it was impossible to connect the dots looking forward when I was in college,
but it was very,
very clear looking backwards
10 years later.
Again,
you can't connect the dots looking forward.
You can only connect them looking backwards,
so you have to trust
that the dots will somehow connect in your future.
You have to trust in something—
your gut,
destiny,
life,
karma,
whatever—
because believing that the dots will connect down the road
will give you the confidence to follow your heart,
even when it leads you
off the well-worn path,
and that will make
all the difference.
My second story
is about love
and loss.
I was lucky.
I found what I loved to do
early in life.
Woz and I started Apple in my parents' garage
when I was twenty.
We worked hard
and in ten years,
Apple had grown from just the two of us in a garage
into a $2 billion company with over 4,000 employees.
We'd just released our finest creation,
the Macintosh,
a year earlier,
and I'd just turned thirty,
and then I got fired.
How can you get fired from a company you started?
Well,
as Apple grew,
we hired someone
who I thought
was very talented
to run the company with me,
and for the first year or so,
things went well.
But then our visions of the future began to diverge,
and eventually we had a falling out.
When we did,
our board of directors sided with him,
and so at thirty,
I was out,
and very publicly out.
What had been the focus of my entire adult life
was gone,
and it was devastating.
I really didn't know what to do for a few months.
I felt that I had let the previous generation of entrepreneurs down,
that I had dropped the baton
as it was being passed to me.
I met with David Packard
and Bob Noyce
and tried to apologize
for screwing up so badly.
I was a very public failure and I
even thought about running away from the Valley.
But something slowly began to dawn on me.
I still loved
what I did.
The turn of events at Apple had not changed that one bit.
I'd been rejected
but I was still in love.
And so I decided to start over.
I didn't see it then,
but it turned out that getting fired from Apple was the best thing that could have ever
happened to me.
The heaviness of being successful
was replaced by the lightness
of being a beginner again,
less sure about everything.
It freed me to enter one of the most creative periods in my life.
During the next five years I started a company named NeXT,
another company named Pixar
and fell in love with an amazing woman who would become my wife.
Pixar went on to create the world's first computer-animated feature film,
"Toy Story,"
and is now the most successful
animation studio
in the world.
In a remarkable turn of events,
Apple
bought
NeXT
and I returned to Apple
and the technology we developed at NeXT
is at the heart
of Apple's current renaissance,
and Lorene and I
have a wonderful family together.
I'm pretty sure
none of this would have happened if I hadn't been fired from Apple.
It was awful-tasting medicine
but I guess the patient needed it.
Sometimes life's going to hit you in the head with a brick.
Don't lose faith.
I'm convinced that the only thing that kept me going
was that I loved what I did.
You've got to find what you love,
and that is as true for work
as it is for your lovers.
Your work is going to fill a large part of your life,
and the only way to be truly satisfied
is to do what you believe is great work,
and the only way to do great work
is to love
what you do.
If you haven't found it yet,
keep looking,
and
don't
settle.
As with all matters of the heart,
you'll know when you find it,
and like any great relationship
it just gets better and better
as the years roll on.
So keep looking.
Don't
settle.
My third story
is about death.
When I was 17
I read a quote that went something
like
"If you live each day
as if it was your last,
someday you'll most certainly
be right."
It made an impression on me,
and since then,
for the past 33 years,
I have looked in the mirror
every morning and asked myself,
"If today were the last day of my life,
would I want to do
what I am about to do
today?"
And whenever the answer has been "no"
for too many days in a row,
I know I need to change something.
Remembering that I'll be dead soon
is the most important tool I've ever encountered
to help me make the big choices in life,
because almost everything
--all external expectations,
all pride,
all fear of embarrassment or failure
--these things just fall away
in the face of death,
leaving only what is truly important.
Remembering that you are going to die
is the best way I know
to avoid the trap of thinking
you have something to lose.
You are already naked.
There is no reason
not to follow your heart.
About a year ago,
I was diagnosed with cancer.
I had a scan at 7:30 in the morning
and it clearly showed a tumor
on my pancreas.
I didn't even know what a pancreas was.
The doctors told me
this was almost certainly a type of cancer
that is incurable,
and that I should expect to live no longer
than three to six months.
My doctor advised me to go home
and get my affairs
in order,
which is doctors' code
for "prepare to die."
It means to try and tell your kids everything
you thought you'd have the next ten years to tell them,
in just a few months.
It means to make sure that everything is buttoned up
so that it will be as easy as possible
for your family.
It means to say your goodbyes.
I lived with that diagnosis all day.
Later that evening
I had a biopsy
where they stuck an endoscope down my throat,
through my stomach into my intestines,
put a needle into my pancreas and got a few cells
from the tumor.
I was sedated
but my wife,
who was there,
told me
that when they viewed the cells under a microscope,
the doctor started crying,
because it turned out to be a very rare form of pancreatic cancer
that is curable with surgery.
I had the surgery
and, thankfully,
I am fine now.
This was the closest I've been to facing death,
and I hope it's the closest I get
for a few more decades.
Having lived through it,
I can now say this to you
with a bit more certainty than when death was
a useful but
purely intellectual concept.
No one
wants to die,
even people who want to go to Heaven
don't want to die
to get there,
and yet,
death is the destination we all share.
No one has ever escaped it.
And that is
as it should be,
because death
is very likely the single best invention of life.
It's life's change agent;
it clears out the old
to make way for the new.
right now,
the new is you.
But someday, not too long from now,
you will gradually become the old
and be cleared away.
Sorry to be so dramatic,
but it's quite true.
Your time is limited,
so don't waste it
living someone else's life.
Don't be trapped by dogma,
which is living with the results
of other people's thinking.
Don't let the noise of others' opinions
drown out your own inner voice.
And most important,
have the courage to follow your heart
and intuition.
They somehow already know
what you truly want to become.
Everything else
is secondary.
When I was young,
there was an amazing publication
called The Whole Earth Catalogue,
which was one of the bibles
of my generation.
It was created by a fellow named Stuart Brand
not far from here in Menlo Park,
and he brought it to life
with his poetic touch.
This was in the late Sixties,
before personal computers and desktop publishing,
so it was all made with typewriters,
scissors, and Polaroid cameras.
it was sort of like Google in paperback form
thirty-five years
before Google came along.
It was idealistic,
overflowing with neat tools
and great notions.
Stuart and his team
put out several issues of the The Whole Earth Catalogue,
and then
when it had run its course,
they put out a final issue.
It was the mid-1970s,
and I was your age.
On the back cover of their final issue
was a photograph
of an early morning country road,
the kind you might find yourself hitchhiking on
if you were so adventurous.
Beneath it
were the words,
"Stay hungry,
stay foolish."
It was their farewell message
as they signed off.
"Stay hungry, stay foolish."
And I have always wished that
for myself,
and now,
as you graduate to begin anew,
I wish that for you.
Stay hungry, stay foolish.
Thank you all, very much.”

長い記事を最後までお読み下さりありがとうございました!

おわり。













純丘曜彰 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%94%E4%B8%98%E6%9B%9C%E5%BD%B0
”純丘 曜彰
86px 115px  
誕生 1962年
東京都
職業 大学教授、小説家、クリエーター
主題 哲学、映画学、創作論、ミステリ
文学活動 分析哲学、日常言語学派
代表作 『論理・行動・生活そして経営』
「エンターテイメント映画の文法』
『人気テレビ番組の文法』
『死体は血を流さない』
『夢見る幽霊』
影響を受けたもの
[隠す]

ウンベルト・エーコ
ダシール・ハメット
エドガー・アラン・ポー

公式サイト [1] 映像文化研究室

純丘 曜彰(すみおか てるあき、Teruaki Georges Sumioka 1962年 - )は、日本の哲学者、表象文化論研究者(映像文法、映像ビジネス)、小説家、クリエーター。大阪芸術大学芸術学部教授。

東京生まれ。博士(美術)(東京芸術大学)、文学修士(東京大学)。東海大学准教授、ヨハネス・グーテンベルク大学マインツ(マインツ大学)客員教授を経て、大阪芸術大学芸術学部教授。

水府森家の末裔、版画家稲田年行の息子。憲法学者小林直樹の親族(甥の子)。母方は手品師松田昇太郎の孫、江戸銅座勤方松田甚兵衛の末裔。

思想

長尾龍一、渡邊二郎に師事し、法哲学を起点に、1980年代はヘーゲルやウェーバーを基礎として、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームの概念、日常言語学派の言語行為論を踏まえ、デカルトを嚆矢とする近代主観主義の認識論に対し、行為と行為の主体についての存在論を論理学の観点から研究。ハーバーマスとルーマンの社会システムとコミュニケーションに関する論争の延長線上において、ハイデガーの存在論ですら主観的認識論であるとし、サルトルの間主観的な実存主義を発展させて新たに自証・対証・衆証という論理学的存在概念を立て、他者によって補証された行為が主体の存在を逆措定する、とした。

その後、純丘はディルタイやガダマーの解釈学における脈絡依存性(解釈学的循環)の考察を経て、1990年代には、経済活動におけるサービスや法人格の存在性を実証的に問う。

しかし、2000年代になると、一転して映画作品を題材とするようになり、行為と行為の主体を人為的に構成する、脈絡としての物語の分析、および、その創作論を美学・芸術学として探求。バウムガルテンに倣い、美とは真についての感性的論証である、と論じる。このために、純丘は対話(ディアローグ)に代えて対為(ディアゴーグ)と言い、プラトン以来の弁証法(ディアレクティーク)に対して行証法(ディアクティーク)を考えた。この行証法は、映画の中の人物相互のミュトス(元物語)においてだけでなく、映画の作り手と観客の間のエロキューション(語り口)としても存在し、この2つの行証法によって映画の物語はT型グランド・ストラクチャーをなす、とした。また、映像に関しても、脚本の要素を言語的に分節化して人為的に部分カットを組み上げていくエイゼンシュテイン・モンタージュよりも、複数のカメラで実際の演技を同時多面的に撮影したマルチ・カヴァレッジを再構成するグリフィス・モンタージュの手法を重視している。そして、映画のエピソードもまた、同一のテーマを多面的に描き出すものでなければならないとし、しだいにテーマに近づく物語のスパイラルアップ構造を論じた。

近年は、ポスト・モダニズム論に傾倒し、記号的な表象表現形式であるアニメや脈絡を転用して物語を再生産するお笑いにも関心を広げている。インターネット上での発言も多く、自らの政治的・学術的意見を、言論プラットフォーム『アゴラ』等にて度々寄稿・発信している。
学歴

1980年 成城学園高等学校卒業
1981年 ドイツハイデルベルク大学留学
1987年 東京大学文学部卒業
1990年 東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了

職歴

1985年 ナムコ社長室付ブレーン
1987年 テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレーン
1988年 玉川大学非常勤講師
1998年 九州東海大学専任講師
2003年 九州東海大学准教授
2005年 大阪芸術大学客員教授
2008年 東海大学准教授
2008年 ヨハンネス・グーテンベルク大学客員教授
2010年 大阪芸術大学教授

受賞

1987年 産経新聞社第2回論文募集文部大臣賞
2001年 松前重義生誕百年記念賞

作品
小説

『夢見る幽霊』(瓦塔院出版、2014年)
『死体は血を流さない:聖堂騎士団 vs 救院騎士団 サンタクロースの錬金術とスペードの女王に関する科学研究費B海外学術調査報告書』(三交社、2009年、ISBN 9784879195968)

ミュージカル

『火の城』(2003年)公式サイト

専門書・一般書

『人気テレビ番組の文法』(フィルムアート社、2006年、ISBN 9784845906970)
『ハイジに会いたい!』(三修社、2006年、ISBN 9784384040845)
『エンターテイメント映画の文法』(フィルムアート社、2005年、ISBN 9784845905744)
『きらめく映像ビジネス!』(集英社、2004年、ISBN 9784087202595)
『論理・行動・生活そして経営』(東海大学出版会、2001年、ISBN 9784486015390)

主要論文

「Dogmas of Modern Philosophy」(1985年)
「近代哲学の三つのドグマ」 九州東海大学一般教育紀要 Vol.11 (1998年)※1985年の邦訳
「正義の概念」 九州東海大学一般教育紀要 Vol.12 (1999年) PDF
「社会的構成原理としてのサービス」 経済社会学会年報 Vol.21, pp.117-123 (1999年)
「Movie Grammer & Image Technique」 九州東海大学応用情報学部紀要 Vol.6, pp.1-14 (2004年) PDF
「Isagogics for Cinema-Aesthetics」 九州東海大学応用情報学部紀要 Vol.5, pp.1-8 (2005年) PDF
「お笑いのレトリック」(2006年)
「アクション映画とは何か」(2007年)
「Critique of art Interpretation: The Possibility of Art-science」東海大学総合経営学部紀要 (2), 21-28, 2009
「The Invisible Beauty of Cinema」大阪芸術大学紀要 (34), 27-36, 2011
「Bricolage: Coco Chanel vs. Lévi-Strauss」大阪芸術大学紀要 (35), 2012

翻訳

ウリクト『規範と行動の論理学』(東海大学出版会、2000年、ISBN 9784486015109)

外部リンク

純丘曜彰映像文化研究室 - 純丘のホームページ
純丘曜彰アネックス哲学研究室 - 玉川大学にある純丘のページ
純丘曜彰のドイツ大学講義日誌 - 純丘の個人ブログ(旧)
純丘曜彰教授博士の哲学手帖 - 純丘の個人ブログ(新)

出典

『論理・行動・生活そして経営』あとがき
純丘曜彰の略歴”
最終更新 2015年9月20日 (日) 12:16 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

純丘曜彰 哲学・メディア文化論 - Hi-HO 
http://www.hi-ho.ne.jp/sumioka-info/01profile.html
”純丘曜彰の略歴
大阪芸術大学芸術学部芸術計画学科哲学教授
 美術博士(東京藝術大学、美学)
 文学修士(東京大学、哲学)

東京(成城)生まれ。ゆかり幼稚園、成城学園高校、東京大学文学部卒。テレビ朝日報道局報道制作部ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、玉川大学文学部講師、東海大学総合経営学部准教授、ドイツ・グーテンベルク(マインツ)大学メディア学部客員教授を経て、現職に至る。専門分野は、哲学、メディア文化論。みずからも小説、作曲、デザインなどの創作を数多く手がけている。
「純丘曜彰、哲学を語る」
ラジオ大阪
『大阪芸大メディアキャンパス』
 (2013年1月18日放送)から
純丘曜彰の主な著作・作品
学術教養書等 『ヘッラスの栄光』(office SUMIOKA publishing、2014年、全9巻)
『近世ヨーロッパの思想と社会』 (office SUMIOKA publishing、2013年)
『人気テレビ番組の文法』(フィルムアート社、2006年)
『ハイジに会いたい!』(三修社、2006年)
『エンターテイメント映画の文法』(フィルムアート社、2005年)
『きらめく映像ビジネス!』(集英社、2004年)
『論理・行動・生活そして経営』(東海大学出版会、2001年)
 ウリクト『規範と行動の論理学』(東海大学出版会、2000年)
小 説 『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィア vs フリーメイソン』(瓦塔院出版、2014年、上下巻)
『夢見る幽霊』(瓦塔院出版、2014年)
『死体は血を流さない:聖堂騎士団 vs 救院騎士団』(三交社、2009年)
ミュージカル 『火の城』
純丘曜彰の主な担当講義
一般教養 『 哲 学 』(通年x3)
『 思考の原理 』(通年)
専門課程 『プロデュース論』(夏学期)
『ジャーナリズム論』(冬学期)
『表象文化論』(冬学期)
専門ゼミ 『卒業計画』
『卒業研究』

Teruaki G SUMIOKA's CV
http://www.hi-ho.ne.jp/sumioka-info/04englishcv.html
”Teruaki Georges SUMIOKA, Ph.D.
Full Professor, OSAKA UNIVERSITY of ARTS
 Ph.D. (TOKYO UNIVERSITY of the ARTS, in Aesthetics)
 MA(The UNIVERSITY of TOKYO, in Philosophy)

   Art Planning Department, Faculty of Arts
   OSAKA UNIVERSITY of ARTS
   469 Higashiyama Kanan-cho, Minamikawachi-gun
   Osaka 585-8555 JAPAN

   email: sumioka(at)osaka-geidai.ac.jp


 ACADEMIC FIELD: Philosophy, Mediaology
 ACTIVITY: Writer, Designer, TV Planner

Born in Tokyo, 1962. Gradueted in The UNIVERSITY of TOKYO, 1987. TV Planner in the brandnew news program ASAMADE NAMA TEREBI!(LIVE TV TILL DAWN!), TV ASAHI, 1987-1995. Lecturer in TAMAGAWA UNIVERSITY, 1991-2000. Assistant and Associate Professor in TOKAI UNIVERSITY, 1998-2010. Guest Professor in GUTENBERG UNIVERSITY MAINZ, Germany, 2008-2009. Full Professor in OSAKA UNIVERSITY of ARTS, 2010-.
"Prof.Dr. SUMIOKA talks on Philosophy"
from "Media Campus
 of OSAKA UNIVERSITY of ARTS"
RADIO OSAKA
(January 18, 2013)
SUMIOKA's ACADEMIC PAPERS
Essays in English

■ 2013 "Japanese Western Movies"
■ 2012 "Bricolage: Coco Chanel vs. Levi-strauss"
■ 2011 "The Invisible Beauty of Cinema"
■ 2009 "Critique of Art Interpretation"
■ 2005 "Isagogics for Cinema-Aesthetics"
■ 2004 "Movie Grammar and Image Technique"
■ 1999 "The Concept of Justice"
■ 1985 "Dogmas of Modern Philosophy"

Lecture Copies in German
■ 2008-9 "FILM als BUSINESS"
■ 2008 "JAPANISCHE ANIME"

SUMIOKA's BOOKS
titles traslated, original in Japanese

MEDIAOLOGY

■ 2005 GRAMMAR OF FEATURED MOVIE
■ 2006 GRAMMAR OF POP TV PROGRAM
■ 2004,2014 SPARKLING MOVIE&TV BUSINESS!


PHILOSOPHY

■ 2002 THE THOUGHT AND SOCIETY IN THE EUROPIAN PREMODERN
■ 1998 GLORY OF HELLAS: THE HISTORY OF THE ANCIENT GREECE
■ 1987-95 LOGIC, ACTION, LIFE and MANAGEMENT


NOVELS

■ 2009 DEAD BODY NEVER BLEED
■ 2014 DEVEL HAS NO TEAR
■ 2013 DREAMING GHOSTS


TRAVELS

■ 2006 WE WANT TO SEE HEIDI!


MUSICALS

■ 2001 CASTLE ON FIRE: THE LAST SAMURAI WAR


水府森家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%BA%9C%E6%A3%AE%E5%AE%B6
”水府森家(すいふもりけ)は、徳川光圀に採り立てられた森尚謙に始まる、水戸藩の儒学者の家系である。その屋敷から厳塾とも呼ばれ、代々藩主の顧問として、医師、史官、侍講、秘書懸などを勤めた。家禄200石15人扶持中士(同じ200石ながら、家格として、後に水戸史館に入る立原家、藤田家に先んじる)。同藩における『大日本史』の編纂事業にその当初から携わり、その天皇一系の紀伝体の基調を形作り、公武合体を持論としつつも、藩内外の尊皇攘夷派と交流して、明治維新の起点を作った。

幕末において、保守的な立原家と革命的な藤田家が激しく対立する中、藩主側近の江戸秘書懸として藩内両派の仲裁に努め、天狗党の乱およびその後の事態を収拾し、戊辰戦争においても尊皇攘夷派との連携を図り、かろうじて水戸藩の命脈を保った。維新後も愛書家、史学者、芸術家として、その家風を引き継いでいる。
水府森家(厳塾)

宇多源氏:人皇(5代)宇多天皇
佐々木氏:敦賓親王(佐々木秀義)― 高綱(四郎) 〈墓所:高野山〉
松本宗佐 〈墓所:松本正行寺(信濃国)〉
松本助持 〈墓所:覚應寺(大阪)〉
森性壽(森壽庵) 〈墓所:紫野大徳寺(京都)〉
森尚謙(森厳塾):初代(1653年 - 1721年 享年69) 〈墓所:神崎寺(水戸)〉
森尚生:第2代(1676年 - 1730年 享年54) 〈墓所:神崎寺(水戸)〉
森尚賢(森杏庵):第3代(1644年 - 1721年 享年77) 〈墓所:神崎寺(水戸)〉
森尚克(森貞庵):第4代(1730年 - 1802年 享年72) 〈墓所:神崎寺(水戸)〉
森尚徳(森海庵、森勇庵):第5代(1758年 - 1814年 享年56) 〈墓所:鎌倉浄光明寺(鎌倉)〉
森尚源(森性、森庸軒、森一好、森万蔵):第6代(1785年 - 1827年 享年43) 〈墓所:神崎寺(水戸)〉
森蔚:(森太郎衛門)第7代(1814年 - 1868年 享年55) 〈墓所:神崎寺(水戸)〉
森鴻次郎:第8代(1861年 - 1928年 享年67) 〈墓所:養源寺(東京都文京区千駄木)〉
森威男:第9代(1897年 - 1961年 享年63) 〈墓所:養源寺(東京都文京区千駄木)〉
森日出人:第10代(1942年 - ) 東京都町田市真光寺

資料

水戸彰考館『水府系纂』第四八巻「貞享年中奉仕輩累系」
柴田光彦『翻刻博画堂漫録』序文「昭和53年3月刊 早稲田大学図書館紀要第19号抜刷」
”最終更新 2015年5月24日 (日) 10:49 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


森尚謙
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%B0%9A%E8%AC%99
”森 尚謙(もり しょうけん、承応2年閏6月19日(1653年8月12日) - 享保6年3月13日(1721年4月9日))は、江戸中期の儒学者、水戸藩士。摂津天満の医師森壽庵の息子。大坂で福住道祐に医術を、京都で松永昌易に儒学を学び、貞享元年(1684年)、徳川光圀の招きを受け、後の『大日本史』の根幹を成した。字は利渉。復庵、不染居士、儼塾と号す。

経緯

徳川家光の命により、林羅山が宇多天皇(931年)までの『本朝編年録』を1640年に上梓したが、1657年の明暦の大火で原本を焼失。代わって水戸藩世子の徳川光圀が、江戸駒込別邸を拠点に修史事業をもくろむ。そして、1661年に水戸藩主となると、満州人の清から長崎に亡命してきていた明の実学者(陽明学者)朱舜水を1665年に招き、小石川藩邸に彰考館を置いて、事業を本格化する。一方徳川家綱も、羅山の子の林鵞峯に命じて『本朝編年録』を補わせ、後陽成天皇(1617年)までの『本朝通鑑』310巻を1670年に作らせた。彰考館も、1676年に後醍醐天皇(1339年)までの『新撰紀伝』104巻が完成させるが、水戸光圀は北畠親房や朱舜水の影響を受け、その後の南北朝における南朝の正当性を論証する必要性を強く感じ、事業の続行を指示する。しかし、1682年にこの事業の精神的な支柱である朱舜水が死去してしまう。

水戸光圀は、とりあえず舜水の弟子の人見懋斎(藤田懋斎)と安積澹泊とを彰考館の初代総裁・編修としつつ、舜水に代わるに足る逸材を求めたところ、光圀側近の佐々宗淳(助さんのモデル)が、寛容な朱子学者の藤原惺窩の流れをくむ32歳の俊才、森尚謙を推挙した。貞享元年(1684年)、光圀はこれを250人扶持で彰考館の編修に抜擢し、本紀列伝の作成を命じた。尚謙は、この列伝で採り上げるべき日本史を代表する人物を選出し、その後の200年に及ぶ水戸藩修史事業の根幹をなした。

ところが、5代将軍徳川綱吉とともにその側用人の柳沢吉保が権勢をふるうようになり、1690年、光圀は実子の頼常ではなく、兄の子の綱條に家督を譲らされ[要出典]、翌1691年には水戸の西山荘に隠居させられる。これとともに、藩内でも光圀派に対する追い落としが始まり、彰考館においても、朱子学者の尚謙ではなく、実学者(陽明学者)の澹泊が1693年に総裁(複名制)の座に上がり、本紀(歴代天皇)以外の修史事業を停止してしまう。1695年には、家老の藤井徳昭までもが柳沢吉保と謀って光圀失脚を企てたとして、光圀は江戸屋敷での能会にて徳昭を暗殺した。1696年に側近の佐々宗淳を彰考館総裁に挙げて反撃を試みるが、1年足らずで降ろされた。このため光圀派は1697年、光圀のいる水戸に移り、新たに水戸彰考館(水館)を開いて、江戸彰考館(江館)が放棄した列伝の作成を続ける。

また、尚謙は藩主の侍医侍講となり、元禄10年(1697年)、光圀の命により、水戸本町の自宅屋敷内に講堂を建てて儼塾(私塾ではなく、最初期の公的藩校のひとつ)を開き、歴史と正名を思想の根本とする水戸学を切り開いて、その教育普及に当たる。また、彼は、朱子の知先行後を重んじ、医術や兵学、剣術にも長けており、文武両道を誇った。くわえて、儒学仏道の学識も高く、その両立を主張した。江館総裁の澹泊は、陽明の知行合一の立場から水館の尚謙を激しく論難し続け、その著作すべてを藩内から焼き払うことを命じたが、水館で澹泊に従う者はいなかった。

尚謙は、国内各地の知識人たちと交流していた。なかでも、同じ侍医でもあった赤穂藩の寺井玄渓とは親しかった。1701年春に起きた赤穂事件において、玄渓はただちに江戸藩邸から赤穂城に戻り、筆頭家老大石良雄の腹心として、善後策の立案実行に奔走した。尚謙もまた、この間の事情を熟知し、1702年末の討ち入りの報に接しては、玄渓の安否を気遣った。実際は、玄渓の労と才を惜しむ大石の命により、玄渓は討ち入りへの参加を禁じられており、事件後、玄渓は、尚謙とともに林鳳岡に働きかけ、赤穂浪士の助命嘆願を行う。これに対し、尚謙を嫌う江館の澹泊は、林家を去らされ柳沢吉保に取り立てられた独学の荻生徂徠らとともに、法は法であるとして、浪士切腹を主張した。結局、浪士が末節を汚すことを恐れる公弁法親王の意見により、1703年春、吉良家改易処分とともに、切腹に決まった。

1715年、両彰考館によって、ようやく紀伝が揃うが、書名として、尚謙らの水館は『皇朝新史』を、澹泊らの江館は『大日本史』を主張して争い、最終的には、江館寄りの藩主の綱條の裁定によって後者に決まった。

享保6年3月13日、没69歳。男子はなく、小田倉家から医師森尚生を婿養子に迎え、跡取りとした。水府森家はその後も代々、水戸において藩主の侍医侍講を務め、尚謙が開いた儼塾は5代目の森海庵を経て、その水戸学と文理融合、文武両道の精神とともに、1841年創設の水戸藩校、弘道館に引き継がれることになる。しかし、融和的で穏健な尚謙の思想と排他的で過激な澹泊の思想は、同じ水戸学内での深い亀裂として、永らく水館と江館の対立の基調となり、幕末の立原翠軒と藤田幽谷の師弟決別から、弘道館の諸生党と筑波山の天狗党の抗争へ発展し、安政の大獄、桜田門外の変、天狗党の乱、弘道館戦争へと、血で血を洗う内戦を引き起こすことになる。
墓所

神崎寺(茨城県水戸市天王町8-17)

著書

『儼塾集』全10巻(1698年)
『護法資治論』全10巻(1707年)

資料

原念斎『先哲叢談』巻五(1817年)
水戸彰考館『水府系纂』第四八巻「貞享年中奉仕輩累系」
柴田光彦『翻刻博画堂漫録』序文「昭和53年3月刊 早稲田大学図書館紀要第19号抜刷」
”最終更新 2015年7月27日 (月) 05:25 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


おまけもおわり。




















※句読点や鍵括弧や註を示す数字の位置がおかしくなっている箇所があるので、正しいと思われる箇所に戻しました。もしかしたら正確な箇所ではないかもしれないのであしからず。もっとも、文の意味自体にはほとんど影響しないので問題はありません。

純丘皦綺(曜彰) 近代の結社活動 フリーメイソンリーを中心に (2001)
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:y2F6kjYc1BQJ:www.edp.eng.tamagawa.ac.jp/~sumioka/paper/hpaper/2001masonry.pdf+&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
“近 代 の 結 社 活 動
−フリーメイソンリーを中心に−
純 丘 皦 綺
Companism in Modern Age
− Masonry and others−
by
Kohki SUMIOKA
2001
はじめに
「フリーメイソン」と言うと、それだけでいかがわし
い話と気嫌いする向きもあるだろう。しかしながら、そ
れは、十八世紀ヨーロッパにおいては無視できない役割
を果たしたものであり、たとえ仮説的であるにせよ、そ
の構造と機能と変遷を踏まえることなしには、その時代
の理解を根本から誤ることにもなりかねない。
だが、言うまでもなく、「フリーメイソンリー」は秘
密結社であり、その実体に関して公式の記録はきわめて
少ない。それどころか、公式の記録とされているものも
礼賛や誹謗を目的としておりあまり当てにはならない。
そもそも「メイソンリー」は、正体不明の伝承を共有す
る組織であり、虚像そのものが実体とさえ言うことがで
きる。それゆえ、『聖書』のような基本文献からの解釈
学すら成り立たない。このような状況では、我々は、割
れた壷を再現するように、断片的な歴史上の事実をパズ
ルのように継ぎ合わせていくしかないだろう。幸い、目
新しい史料を用いるまでもなく、コンピュータによって
百科事典などの既存のデータの全文検索が可能となり、
これを縦横に駆使することで、多くの登場人物の動向か
ら、その片鱗を伺うことができるようになった。
これまでの「メイソンリー」に関する研究等を概観す
るに、その混乱は著しい。それらは、現代の出版事情に
おいて、通俗的におもしろくするためにか、「メイソン
リー」を誇張しずぎてしまっているのではないか。すな
わち、第一には、その内部の礼賛や外部の誹謗を目的と
する文献に依拠して、過大な存在としてしまっている。
第二に、事実や形態と伝承や信仰の領域が入り組み、錯
誤を増長している。第三に、事実や形態についても、中
世から現代まで、地域や組織をでたらめにつぎはぎにし
てしまっている。それゆえ、我々は、これらに対し、ス
トイックに問題を十八世紀に限り、その十八世紀につい
ても、歴史的な順序で地域や組織を整理しつつ、その把
握できる最大のところを批判的に検証してみよう。それ
は、つまり、「メイソンリー」を確立された巨大組織と
してではなく、百年に渡る大きな潮流的事件として、産
業経済史および国際政治史の面から動的に理解しようと
試みる。
1 居酒屋ロッジの成立
「フリーメイソンリー」は、英語で、独立石工会、と
いうような意味であり、その個々の成員は「フリーメイ
ソン」と呼ばれる。すなわち、それは、教会や城塞など
の大型工事を、複数の独立石工(メイソン)の親方が共
同で請け負い、現場の「飯場(ロッジ)」で工事の分担
や職人の賃金について話し合うものであり、とくに城塞
建築に関しては、秘密の保持が協同連帯責任で課せられ
た。そこには、各地の現場を渡り歩く遍歴の石工小集団
の他、工事に関係する錬金術師や機械技師や建築家、さ
らには、工事支援貴族や工事斡旋政治家なども参加した。
つまり、それは、広義のギルドのような同業者相互扶助
団体の一つだった。このようなものならば、イングラン
ドはもちろん、スコットランドにも、オランダにも、フ
ランスにも、ドイツにも、イタリアにもあった。かつて
の古代ローマにもあったであろうし、また、おそらくレ
オナルド=ダヴィンチ(1452∼1519)なども、このよう
な組織に深く関わっていたことであろう。現代において
も、大型土木工事においては、複数の建設企業が工事ご
とに事業組合を作って共同で請け負い、下請をまとめる
という形態が採られている。
だが、「近代メイソンリー」の起源は、あくまで十八
世紀イングランドである。というのも、他の国では、教
会や城塞などの大型工事は、すでに十六世紀までに終わ
ってしまっており、ヴェルサイュ宮など、その後の大型
建物についても、その依頼者は王侯貴族に限られていた。
一般の住居は、あいかわらず基本的に木造のままであり、
一般の住居以外の需要など存在しえなかった。それゆえ、
普通の小屋大工とは異なり、大型工事を専門とする土木
大工の「中世メイソンリー」の組織が、通常、一般の市
民個人と直接の接点を持つことはありえなかったのであ
る。1)
しかし、ロンドンだけは事情が違った。一六六六年の
「ロンドン大火」の後、国王チャールズ二世(1630∼即
位60∼85、三六歳)は、「ロイヤルソサェティ」のレン
(1632∼1723、三四歳)とフック(1637∼1703、二九歳)
を復興指導者に指名し、火災に強い壮大な近代的都市計
画を立案させた。ここにおいて、彼らは、公共の街路や
下水を整備しただけでなく、一般市民に対しても木造家
屋を禁止する条例を課した。政府はもちろん市民も、当
時、隆盛となりつつあったインドや新大陸の貿易で得た
富を、ロンドン復興に注ぎ込んだ。こうして、教会や城
塞の建築の減少ですでに各地で供給過剰になっていた膨
大な石工小集団がロンドンに集められ、公共土木工事だ
けでなく、民間集合住居の建設に当たった。
当時のイングランドは、宗教戦争によって大陸から多
くの新教徒の大商人や熟練工が亡命し、とくにロンドン
は、アムステルダムと並び、ローマやパリ旧教都市に対
して、新教都市としての発展の期待を集めていた。そし
て、一六八八年の「名誉革命」によって国王まで輸入し
て、ライヴァルのオランダとの協調が成立すると、イン
グランドの貿易や商売は、さらにいっそう繁栄した。こ
のころ、ロンドンなどの都市では、禁欲的で新教徒的な
コーヒーハゥスが全盛であり、ここに「プロジェクター」
と呼ばれる連中も集まってきた。彼らは、いかがわしい
一発事業を名目に、投資家から資金を募った。そして、
貿易や保険から始まった「プロジェクト熱」は、蒸気や
石炭や製鉄の「発明ブーム」と相まって、プロジェクト
そのものが発明されるようになった。コーヒーハゥスや
ロンドン株式取引所で集められたさまざまな株式会社の
資金は、実際の事業に投資されることなく、ただちに創
業者や便乗者に配当されてしまった。つまり、それは、
事実上のネズミ講だった。しかし、投資家たちは、こう
して得た配当をさらにまた別の株式会社に再投資してい
ったのであり、こうして、しだいに数字上だけのバブル
が膨れあがっていった。
ところが、このころになると、地方に領地を保有し、
都市でプロジェクトに投資するだけの貴族紳士とは別
に、みずから工場を経営する実業家が登場してきた。彼
らの仕事は、水力や石炭を必要とし、現地から離れるこ
とができない。また、いまさら都市のコーヒーハゥスに
行って、平民だ田舎者だとバカにされるのは嫌だった。
そもそも、コーヒーハゥスは、禁欲的で酒が飲めない。
とはいえ、彼らは、いま、新しい技術や情報を必要とし
ていた。そこで、彼らは、やがて、後の「ルーナーソサ
ェティ(月狂協会)」2)などのように、会を作り、日を決
め、それぞれの地方の居酒屋(タヴァン)の二階に集ま
って、定例宴会を開くようになった。そして、ここに、
すでにロンドン復興を終えて再び供給過剰になってしま
った独立石工たちが、地方の民間工場新設の受注営業活
動として入り込んだ。そして、やがてこの定例宴会は、
多くの技術者などとも連携を持つ独立石工側が主導権を
持つようになり、「飯場(ロッジ)」と呼ばれ、言わばそ
れぞれの地方の建設斡旋所、人材紹介所として機能し始
める。しかし、それは、冷めたビジネス中心のコーヒー
ハゥスと違い、あくまでブレインストーミング的な酒の
席であり、希有壮大なホラ話や空虚煩雑な乾杯礼に彩ら
れていた。
2 ニュートンによるロッジ統一
居酒屋ロッジそのものは、それぞれ、地方の親睦会に
すぎない。しかし、その主導権を独立石工が握り、かつ、
そこに談合的な仕事の調整が必要となってくると、これ
らのロッジは統一組織へと発展する。ここにおいて、中
心的な役割を果たしたのが、ロンドン復興の中心となっ
た「ロイヤルソサェティ」であり、当時、それを支配し
ていたオカルトマニアのニュートンである。
「ロイヤルソサエティ」は、一六六〇年の「王政復古」
の後、爆弾を作っているなどと疑われないように、ボイ
ル、レン、フックなど、若手科学者たちが国王の認可を
受けて創設した研究団体である。しかし、もとより国家
的な財政支援などはない。その会員、ケンブリッジ大学
教授ニュートン(1642∼1727、四五歳)は、八七年、天
体もリンゴも同じ物理法則で理解しようとする『プリン
キピア』によって、一躍、有名人となっていた。また、
八八年の「名誉革命」において功績を認められ、国会議
員に選ばれた。しかし、守衛に「窓を閉めてくれ」と言
ったのが、彼の国会での唯一の発言であり、翌年には早
くも議員から外されてしまっている。彼はプライドを捨
て、知人に官職の斡旋を頼んだが、むだだった。すると、
彼は、彼らを逆恨みして罵った。ニュートン(四八歳)
は、もはや錯乱していた。彼の研究も、もはや才能は枯
れ、オカルト的な妄想や思弁が加わり、わけのわからな
い疑似神学へと変質しつつあった。彼は、二百年後に地
球が滅びる、と本気で信じていた。そして、このころ彼
が熱心に作っていたのは、幻想の「ソロモン聖堂」の詳
細な図面だった。3)
九五年、「ロイヤルソサェティ」会長に大蔵大臣モン
ダギュー卿が就任、翌九六年、名声を渇望するニュート
ン(五三歳)を閑職の造幣局監事に任命した。ところが、
これは、錬金術に長けた彼にとって、まさに天職だった。
彼は、偽造師たちを次々と検挙し、九九年には、高給の
造幣局長官となり、一七〇一年には、大学などもう辞職
してしまう。さらに、ニュートン(六一歳)は、〇三年
に「ロイヤルソサェティ」会長となり、〇五年には王室
からナイトの爵位も授与された。また、ニュートン(六
五歳)は、〇七年、手下のオックスフォード大学教授エ
ドモンド=ハリー(三九歳)を使って、長年のライヴァ
ルのグリニッジ天文台のフラムスティード(1646∼1719、
六二歳)から三〇年に渡る観測デイタを奪取して、かっ
てに「ロイヤルソサェティ」のものとして出版してしま
い、〇九年には彼を「ロイヤルソサェティ」から除名し
てしまう。
このように強引なやり方によって「ロイヤルソサェ
ティ」の百人あまりの会員のうち、科学者は、もはやわ
ずか数十人、そのほとんどがニュートンの一門となった。
残りは、会員としての名誉がほしいだけの紳士、それも、
ニュートンが政界に力を及ぼすための重要な戦力だっ
た。そして、ニュートンは、強引な政治工作によって、
イングランドとスコットランドのすべての大学の数学と
天文学のポストを、一門で独占していった。「ロイヤル
ソサェティ」の会合も、彼によって薔薇十字風のオカル
ト儀式に変えられていった。4)入口では、銀の紋章つき
の儀仗を持つ衛兵まがいが出迎え、会員は長テイブルの
両側の指定席に着き、その上座に会長ニュートンが神々
しく現れるや、会場は静まり返り、彼の開会の宣言が厳
粛に響きわたった。
そして、彼は、その魔手を大陸にまで伸ばした。すな
わち、一〇年、彼は、手下キール(1671∼1721、三九歳)
に、ライプニッツはニュートンの微積分法を盗んだ、と、
批判させた。ベルリンアカデミー会長の哲学者ライプニ
ッツ(1646∼1716)の微積分法は、まったくニュートン
とは独立に発明されたものであり、そのわかりやすい体
系的な記号法ゆえに、各地で大いに普及していた。この
突然の批判に驚いたライプニッツ(六四歳)は、グレイ
トブリテンの科学事情も知らず、よりによって老ニュー
トンが支配する「ロイヤルソサェティ」に調査を依頼し
た。一三年、当然のごとく、
「ロイヤルソサェティ」は、
さまざまな記録を改竄歪曲し、そのいんちき資料ととも
に、ニュートンの正統性を宣言した。そればかりか、老
ニュートン(七三歳)は、みずから匿名でこの宣言の論
評を書き、一五年には自分の『哲学交流』に、一六年に
はフランスの『文芸新報(ジュルナール=リテレール)』
に送った。ライプニッツ(七〇歳)は手紙で反論するも、
一六年に死去。すると、老ニュートン(七四歳)は、徹
底して論難する返事をこの死者に書き、『往復書簡』な
どと称して出版、こうして彼は亡きライプニッツに完全
に勝利した。
老ニュートンは、すでに巨万の富を築き、部屋中を薔
薇色のビロードで飾り立てた豪奢な生活を享受してい
た。彼の造幣局長官としての基本給は、官僚最高の一五
〇〇ポンド、そのうえ、金貨一ポンドを造るごとに一シ
リングの歩合給があり、バブルでインフレになればなる
ほど、彼の収入は増大するしくみになっていた。くわえ
て、一四年、投資家や貿易商人や海運業者は、政府議会
に経度問題請願書を提出した。
「プロジェクト熱」の中、
それらの多くの成否は、グレイトブリテンの世界貿易の
発展にかかっていたからである。政府議会は、老ニュー
トン(七二歳)を中心とする「経度評議員会」を創り、
経度測定法に二万ポンドもの法外な賞金を出すことにし
た。これによって、彼は多くのプロジェクトの成否の鍵
となる発明を最初に知ることができるようになり、その
莫大な財産を、さまざまなプロジェクトに投資したので
ある。
老ニュートン(七五歳)は、さらに自分のプロジェク
ト投資をより確実に成功させるために、技術と情報が集
まるメイソンリーロッジも、すべてまとめて乗っ取るこ
とにした。すなわち、彼は、「ロイヤルソサェティ」の
技術員デザギュリエ(1683∼1744、三四歳)を使って、
一七年、魔術的な六月二四日の「洗礼者ヨハネの日(夏
至祭)」に、ロンドン四ロッジの会員約七〇〇名を、居
酒屋「ガチョウに焼網(グース&グリッドアイアン)」
に集め、「ロンドン大ロッジ」を創った。その名誉議長
は、「ロイヤルソサェティ」の長老で、ロンドン復興の
中心人物であった王室建築家レン卿(八五歳)であった
が、老ニュートンこそ、その実質的な支配者だった。そ
して、ニュートン一門の「ロイヤルソサェティ」会員も、
束になって入会、こうして、ただの飲み仲間の定例宴会
は、全国組織として統一され、「ロイヤルソサェティ」
と同じく、薔薇十字の秘法で染められていってしまった。
もちろん、これに抵抗するロッジも数多くあった。しか
し、一九年には、デザギュリエ(三六歳)本人が大ロッ
ジ総長(グランドマスター)に就任し、次々と地方ロッ
ジを吸収していった。
3 市民産業主義
一七二〇年の「南海バブル」の崩壊によって、「東イ
ンド会社」を除くほとんどの株式会社は壊滅し、投資家
は没落した。老ニュートンも、手痛い損失を被った。し
かし、実業家を中心とする彼のメイソンロッジは、生き
残った。それどころか、その後、仕事で関わるにも、た
がいの身元が重要になり、ロッジがその保証機関となっ
た。また、新興の地方の実業家は、政府の重商主義政策
において、伝統と格式の箔付と、中央の政界の縁故を求
めていた。それゆえ、彼らは各地でロッジを組んで、
「ロンドン大ロッジ」の傘下に入った。
「ロンドン大ロッジ」を支配する老ニュートン(七九歳)
とその番頭デザギュリエ(三八歳)は、二一年、モンタ
ギュー卿(先の大蔵大臣の息子)を総長に迎え、また、
牧師アンダーソン(1684∼1739、三七歳)他十四名に教
義としての憲章を作らせ、メイソンリーの格式を高めた。
こうして、メイソンリーは、わずか五年にして、「天地創
造以来の悠久の伝統と神聖な格式を持つ驚異的な」社交
クラブとなった。
彼らによれば、神は宇宙の建築者、イェスは教会の建
築者、メイソンは理想の建築者である。それゆえ、メイ
ソンリーは、最初の人間アダムに始まり、ペルシアの神
官もエジプトの神官も、フランシス=ベイコンもロック
も、過去の立派な人物は、みんなメイソンだったとされ
る。彼らは、中世同様に「自由・平等・博愛」をたてま
えとしたが、実際は、「ロイヤルソサェティ」と同様に、
貴族をかたっぱしから入会させ、権威の向上を図った。
しかし、この「近代メイソンリー」が、実際、無神論者
を除き、民族や政治や宗教を問わなかったのは、画期的
だった。彼らは、有力な人材なら、旧教徒でも新教徒で
も国教徒でも、さらには、ユダヤ教徒やイスラム教徒で
も歓迎した。とくに、スペインから亡命してきた「セフ
ァルディム」と呼ばれるユダヤ人は、ヨーロッパ∼イス
ラム圏に巨大な金融ネットワークを持っており、辺境の
小国の実業家たちにとって、とても魅力的だった。
「ロンドン大ロッジ」の傘下に入るということは、「ロ
イヤルソサェティ」と同様に、ニュートン好みの薔薇十
字の秘法に彩られた「ロンドン大ロッジ」と同じ奇妙な
象徴儀式を行う、ということである。すなわち、定例会
では、会員は、石工(メイソン)の象徴として、かわい
い二重エプロンを付け、連絡や講義を聞き、入会者や昇
進者に受入儀式を行い、最後は、無礼講の酒盛となった。
ただし、ここでも、自由に情報や意見を交換するために、
もめごとの種になる政治や宗教の話は禁止、また、ここ
での話を他言することも禁止された。その秘密の中心は、
部屋の床に描いた絵(やがて「トレイシングボード」と
呼ばれる敷物になる)に従って行われる受入儀式である。
それは、ソロモン神殿建築師ヒラムの暗殺と復活と復讐
の伝説を象徴するとされるが、細かな意味は、それぞれ
の会員がロッジでの活動(「仕事」)を通じて悟り深めて
いくべきである、とされた。それゆえ、そこにかってに
正統信仰以上のものを見いだす者も、正統信仰以外のも
のを見いだす者もいた。しかし、実際は、有力者であれ
ば、試験もなく入会や昇進ができた。それでも、儀式は
充分に役に立った。というのも、それを知っているだけ
で、彼が地元で信用を得ていたことの証明となり、知り
合いのいない地方や外国でも、彼は「兄弟」から地元と
同様の便宜を与えられたからである。つまり、それは、
無意味で複雑な秘密であるからこそ、カードの暗証番号
のように、身元保証の機能を持ったのである。
一方、フランスは、一六八五年の「ナントの勅令」の
廃止で新教徒が逃亡し、一七二〇年のバブル崩壊で経済
が破綻し、商業も工業も、ひどく沈滞してしまっていた。
ところが、幼いルイ十五世とその取り巻きの官僚貴族た
ちは、あいかわらずの豪奢な宮廷生活を続けていた。と
いうのも、官僚貴族は、国王が決める気まぐれな流行に
従うことで、地位を保っていたからである。農民や職人
もまた、流行を追う官僚貴族の発注した仕事によって生
活していた。そして、政府は、農民や職人から高額の税
金を徴収し、ふたたび官僚貴族に高給を支給する、とい
うしくみになっていた。つまり、流行の浪費こそ、フラ
ンス経済のエンジンであり、けっして止めるわけにはい
かなかったのである。このようなもたれあいの社会経済
構造は、グレイトブリテンとの対比において、「旧弊体
制(アンシャンレジーム)」と呼ばれた。ここにおいて、
「ロンドン大ロッジ」は、まさにグレイトブリテン風の
市民産業主義の布教啓蒙団体として活躍した。それは、
二五年にパリに最初の外国傘下ロッジを作り、老ニュー
トン(八四歳)の『プリンキピア第三版』(決定版)を
刊行、二八年には、最初の近代的百科事典『チェンバー
ズ百科事典』を企画、こうしてグレイトブリテンの英知
をヨーロッパ全域に広めていった。とくに、ヴォルテー
ル(1694∼1778、三九歳)は、ロンドン滞在経験に基づ
き、三三年、英語版『哲学書簡』において、グレイトブ
リテンのシェイクスピアやロックやニュートンを礼賛
し、フランスのアンシヤンレジーム(旧体制)の政治や
宗教や哲学を大胆に批判した。そして、翌三四年、彼は、
同書の仏語版を出そうとしたが、むしろ逮捕状が出され
てしまったため、シャンパーニュのシャトレ侯爵夫人
(1706∼49、二八歳)の城に転がり込み、ともに『プリ
ンキピア』を翻訳するなど、科学技術の普及に努めた。
また、新大陸アメリカにおいても、ペンシルヴェイニア
の新聞屋フランクリン(1706∼90、二八歳)が、三二年、
グレイトブリテンのロングベストセラーのチャップブッ
ク『貧しきロビンの暦』(1662)を元ネタに、『貧しきリ
チャードの暦』(1732)をでっち上げた。この本は、移
民の実用的百科年鑑として初年度から一万部も売れ、そ
の後も毎年、改訂を重ねていった。また、彼は、メイソ
ンリーに傾倒しており、みずから地元に「セントジョン
ズ(聖ヨハネ)ロッジ」を創設した。
啓蒙主義と産業革命という新時代の気風の広まりとと
もに、ヨーロッパ各地にも「ロンドン大ロッジ」の傘下
ロッジができていった。そして、それぞれの地域ロッジ
を統括するために、三二年には「アイルランド大ロッジ」
が、三六年には「スコットランド大ロッジ」と「フラン
ス大ロッジ」が創設された。ここにおいて、ヴォルテー
ルとフランクリンこそ、メイソンリー界の大物の見なさ
れた。しかし、メイソンリーのように、ユダヤ教徒など
の異教徒と同席すること自体がもう異端である。そのう
え、えたいの知れない儀式をかってに行っているとなれ
ば、これはもう、悪魔の徒党にほかならない。それゆえ、
三八年、法王クレメンス十二世(1652∼即位1730∼40、
八六歳)は、「フリーメイソン破門回勅」を発布した。
けれども、ヨーロッパの半分は、もとより旧教教会に破
門されている新教徒である。そのうえ、旧教のフランス
やオーストリアですら、すでに高位高官にメイソンが多
かったために、この破門回勅は無視されてしまった。
ドイツは、南部のオーストリア=ハプスブルク家が中
心であったが、一四年にグレイトブリテン王を兼任した
ハノーヴァー家が北部で勢力を拡大していた。5)そして、
北東部ブランデンブルク=プロシア=ホーエンツォレル
ン家のフリードリッヒ二世(「大王」、1712∼即位40∼86、
二八歳)もまた、義弟ブラウンシュヴァイク公フェルデ
ィナント(1721∼即位35∼92)の下でメイソンリーに入
会し、四〇年、即位と同時にベルリン宮廷にロッジ「三
つの地球」を創設した。これに対し、同じ四〇年にオー
ストリアを相続したハプスブルク家の女帝マリア=テレ
ジア(1717∼80、二三歳)は、メイソンリーを激しく嫌
悪したが、その包囲網は着々と築かれつつあった。また、
ロシアも、ハノーヴァー家から婿養子を取ったが、四一
年、女帝エリザヴェータ(1709∼62、三二歳)がクーデ
タによって権力を奪い、この婿養子を幽閉してしまう。
だが、付き人だったミュンヒハゥゼン男爵(1720∼97、
二一歳、「ほらふき男爵」)は、むしろエリザヴェータに
気に入られ、ロシアでのメイソンリーの勢力を拡大して
いく。

4 メイソンリーの四散分裂
建築術や錬金術を中核とするメイソンリーとはまった
く独立に、奇妙な妄想が人々に流行し始めた。すなわち、
一六四四年、春の大風の夜、スウェーデン鉱山局の技師
スウェーデンボーリ(1688∼1772、五六歳)は、イェス
の声を聞いた。イェスは彼に問うた、「出航健康証明証」
は持っているか。彼は答えた、「はい、持っています」。
「ならば、よろしい」。これが彼の転機となった。以来、
彼は、彼のいう霊界に入ることが許されるようになった。
そして、四七年、鉱山局を退職すると、彼は、霊界とい
う新趣向の神学の著述に没頭し始めた。こうして、四九
年、彼(六一歳)は、この新たな霊界神学で創世記を解
き明かす本を出すが、四冊しか売れなかった。しかし、
彼が自信に満ちて語る亡霊たちの話は、しだいに人々の
関心を引くようになった。スウェーデン女王も、彼を呼
んで霊界について尋ねた。このとき、彼は、プロシア王
子からの伝言として、手紙の返事を出していないことの
詫びを述べた。手紙のことは、誰も知らないはずであっ
たので、女王は大いに驚いた。以来、多くの貴族たちが
彼の家を訪ねるようになった。そして、彼は、遠くの火
事を当てたり、死者の伝言を伝えたりして、大いに評判
となっていった。スウェーデンボーリの話は、きわめて
明瞭であった。しかしながら、彼の霊界の亡霊たちは、
彼自身の偏見を支持することしか言わなかった。そのう
え、彼らは、惑星人たちについて、あまりに具体的に語
り述べた。また、彼は、神は寛大であり、イェスの贖罪
を必要としていなかった、などという独自の異端教義を
伝えた。それでも、彼は、王室の保護の下に、膨大な量
の霊界の話を著述し続けた。そして、多くのメイソンが
このような霊媒術に惹かれていった。
この事態を危惧して、クレメンス十二世の後を継いだ
法王ベネディクトゥス十四世(1675∼即位40∼58、七六
歳)は、五一年、メイソンリーに対し、さらに激しい破
門回勅を発令した。しかし、すでに大国のほとんどの高
位高官がメイソンリーに関係しており、旧教の先兵であ
るはずのイェズス会士ですら、その多くが入会していた。
そこで、旧教教会は、世俗語のパンフレットなどによっ
て直接に民衆を煽動することにした。ここでは、かつて
ルター派が捏造した『ファゥスト博士』の物語が借用さ
れた。すなわち、メイソンリーの首領は、じつは悪魔メ
フィストフェレスであり、契約によって会員の財産と地
位を与えるが、最後には会員の生命を奪う、と。しかし、
もとより民衆には、メイソンリーなど関係のない話だっ
た。
しかし、メイソンリーも拡大しすぎた結果、政治的な
分裂が起こっていた。ロシアにメイソンリーを普及した
ハノーヴァーのミュンヒハゥゼン男爵(三〇歳)は、ロ
シア宮廷で女帝エリザヴェータ(四一歳)の寵臣となっ
ていたが、ロシアとプロシアの関係が悪化してしまった
ため、五〇年に一時帰国した後、もはやロシアに戻るこ
とはなかった。また、本家グレイトブリテンでも、五一
年、アイルランド人に対する入会拒否をきっかけに、「ア
イルランド大ロッジ」と「スコットランド大ロッジ」は、
「イングランド(ロンドン)大ロッジ」の傘下から離脱
し、独立の「古式(アンシェント)大ロッジ」を創設し
た。6)彼らは、イングランド人などより純粋に古代ケル
ト∼ゲルマン文化を継承しているという自負があった。
それゆえ、「古式大ロッジ」は、オカルト色を強め、「薔
薇十字友愛団」のために、一般の三階層の「ロッジ(ブ
ルーロッジ)」の上に、特別の三三階層の「チャプター
(レッドロッジ)」を創設した。
だが、ありもしない「薔薇十字友愛団」が現れるわけ
もない。それゆえ、そのうち一般会員にこれらの特別階
層への昇進を認めるようになった。すると、より上位に
昇進できるということで、「古式大ロッジ」は、「イング
ランド大ロッジ」より人気を得て、ヨーロッパ各地に独
自の傘下ロッジを持つようになっていった。このことは、
メイソンリーを大きく変質させた。これまでのロッジは
基本的に水平的ネットワークの構造であったのに、古式
のチャプターは、本質的に垂直的ヒエラルキーの構造で
ある。そして、上位者は、新規昇進者から大金を得るよ
うになった。つまり、「霊的錬金術によって人間を黄金
に変える」というメイソンリーの最高秘密は、じつは、
このネズミ講的儀式商法にほかならない。実際、バブル
崩壊で経済的に困窮した古い地主貴族にとって、メイソ
ンリーは、かけがえのない収入源となっていった。
五三年頃、イカサマ師ローザが、プロシア宮廷ロッジ
「三つの地球」に入会した。しかし、その大統領フリー
ドリッヒ二世(四一歳)は、すでにメイソンリーに関心
を失っていた。そこで、この隙にローザは、「古式大ロ
ッジ」を模倣して、ロッジの上にチャプターをでっちあ
げた。だが、それは、「薔薇十字団」ではなく、さらに7)
古い「聖堂(テンプル)騎士団」に基づくものであった。
こうして、ローザは「三つの地球」からその上前をはね
ることに成功した。この「聖堂騎士団」のチャプターは、
まさに「信仰・服従・忠誠」を重んじる垂直的ヒエラル
キーのイェズス会的軍隊組織であり、もはや「自由・平
等・博愛」を重んじる水平的ネットワークのフリーメイ
ソンリー的ロッジではない。けれども、新興実業家の紳
士たちは、もともと箔付けのために加入しているだけで
あり、どうせ加入するなら石工より騎士のほうが体裁が
よい。そのうえ、「聖堂騎士団」は、魅力的な秘密の財
宝の伝説もあった。だが、ドイツ中東部のザクセンのフ
ント男爵(1722∼1776、三三歳)もまた、ローザの乗っ
取りの話を聞くと、自分で本物の「聖堂騎士団」につい
て調べ、多分の妄想を加えて、五五年、別の「聖堂騎士
団」、すなわち、「厳格戒律会」を創った。彼は、「聖堂
騎士団」の真実の継承者から「聖堂騎士団」の再建を命
じられた、と言う。フント男爵の「ザクセン聖堂騎士団」
は、秘密の財宝を運用するので会費は安価、それどころ
か、上位者には終身の年金を支給する、というので、ロ
ーザの「プロシア聖堂騎士団」よりさらに人気を集めた。

5 ナショナリズム
バブル後の経済復興で最も成功したのは、バッキンガ
ム州の商人貴族ダッシュウッド家であった。そして、そ
の息子フランシス=ダッシュウッド(1704∼81、四九歳)
は、ヴェネチアにあこがれ、五三年、テームズ河畔のメ
ドメナム修道院跡地に娯楽の殿堂を建てることにした。
ここにおいて、ダッシュウッドは、みずから芸術の司祭
を任じ、また、第四代サンドウィッチ伯(1718∼92、三
五歳)、酒造実業家次男ウィルクス(1727∼97、二六歳)
をはじめとして、王侯貴族や文化人など、錚々たるメン
バーが集まった。彼らは、ルッソー同様、偽善的な人工
の文化を否定するとともに、かつてのルネッサンスのよ
うに、女性の肉体美や人間の欲情感など、自然のエロテ
ィシズムをも大胆に肯定した。しかし、ふつうの人々は、
やはり彼らの美的活動を理解できなかった。それゆえ、
伝え聞く独特な装飾などから、屈折した淫靡な妄想を膨
らませ、そこで悪魔の黒ミサが繰り広げられていると決
め付け、これを「ヘルファイア(地獄の業火)クラブ」
と呼んだ。しかし、実際は、いろいろ恋愛沙汰もあった
にせよ、ダンディズムの先駆者たちが、才知ある理想的
な美女たちを集め、夜どおし飲んで美学や政治を語り、
トランプなどのゲームを楽しんでいたにすぎない。
このころ、新大陸では、グレイトブリテンの支配する
東海岸と、フランスの支配する内陸(大ルイジアナ)と
がアパラチア山脈を挟んで対峙、そして、五五年、ヴァ
ージニアの若き実業家士官ワシントン(1732∼99、二三
歳)の指揮する民兵隊が、待ち伏せするフランス軍と交
戦、ここに「新大陸英仏戦争(フレンチインディアン戦
争)」(1755∼59)が始まった。それは、新大陸の新時代
の覇権を賭けての決戦だった。人の下につくより、自分
が上に立つほうが、昇進も早く、カネも儲かる。そのう
え、国家的利害対立があるとなれば、他国のロッジの傘
下に入ることは、屈辱的かつ売国的である。こうして、
宗教や国家を越える友愛を訴えたはずのフリーメイソン
リーは、次々とばらばらに分裂していってしまった。す
なわち、本家の「イングランド大ロッジ」に対して、す
でに、五一年に、アイルランドやスコットランドの「古
式大ロッジ」が独立し、五三年にはプロシアに、五五年
にはザクセンに、別々の「聖堂騎士団」が登場した。ま
た、五五年の戦争以来、新大陸さえも、ワシントンらが
「アメリカンユニオン」などの古式(反イングランド)
の軍隊(移動)ロッジを結成し、早くも反イングランド
的な傾向を強めつつあった。つまり、この戦争は、グレ
イトブリテンのためのものではなく、アメリカの独立の
ためであるというのだ。同様に、フランスにも、五六年
には、国粋的な「国民大ロッジ」を創設している。さら
に、五七年のドイツ中西部の自由都市フランクフルトに
創設されたものをはじめとして、各地にスウェーデンボ
ーリ風の降霊術を取り入れた「黄金薔薇十字団」8)が登
場し、インチキの亡霊でメイソンたちを騙した。
メイソンリーを攻撃してきたイェズス会も、様子がお
かしくなっていた。スペイン継承戦争(1700∼13)で、
スペインをフランス=ブルボン家が継承して以来、イェ
ズス会二万四〇〇〇人もまたフランスの支配下に移って
いた。それは、実質的には新教国の「東インド会社」と
並ぶ旧教国の貿易商社である。ところが、その宗教的頑
迷さのために、中国宮廷やペルシア宮廷から追放され、
貿易業務が停止してしまった。残るは、西インド諸島で
の黒人奴隷による砂糖製造の事業だが、これも、使い込
みによって破産してしまった。ポルトガルは、もともと
そのスペイン寄りの性格を嫌っており、五九年、とうと
うイェズス会を国外に追放してしまった。グレイトブリ
テンに大臣ピット(1708∼78、四八歳)が登場し、英仏
新大陸戦争に全力を注いだ。ここにおいて、彼は、ヘッ
セン=カッセル方伯から大量のドイツ傭兵を買い付け、
フランスをついに新大陸から一掃してしまった。このま
まではヨーロッパでの戦争も危うい。フランスは終戦工
作を急いだ。
しかし、この秘密の終戦工作は、逓信大臣のダッシュ
ウッド卿(五八歳)には筒抜けになっていた。それゆえ、
彼は、「ヘルファイアクラブ」に属する下院議員ウィル
クス(三六歳)に、雑誌を使って首相や国王の弱腰外交
を批判させた。政府は、被疑者不詳の「包括逮捕状(ゼ
ネラルウォラント)」で、関係者の一斉検挙に出たが、
ウィルクスは法廷で不当逮捕を訴えて釈放を勝ち取り、
一気に民衆の人気を得た。
こうして、六三年、「七年戦争」は終わった。しかし、
これですべてが終わったわけではなかった。グレイトブ
リテンでは、下院議員ウィルクスが、趣味のエロ戯詩を
理由に国会から除名されてしまい、パリに亡命せざるを
えなくなった。また、フランスでも、貿易に期待してい
た富裕市民たちは、敗北して新大陸を失ったルイ十五世
とその取り巻きのイェズス会士たちに怒った。このため、
ルイ十五世は、イェズス会をフランスからも追放しなけ
ればならなかった。
六三年、ジョンソンという素性不明の男が、ベルリン
にやって来て、ローザの「プロシア聖堂騎士団」乗り込
み、自分こそ「聖堂騎士団」の真実の継承者である、と
言い立て、このチャプターと配下ロッジ「三つの地球」
を乗っ取ってしまった。これを聞いた「ザクセン聖堂騎
士団」のフント男爵は激怒し、ジョンソンに決闘を迫っ
た。ジョンソンは逃げたが、やがて無銭飲食で捕まり、
「ザクセン聖堂騎士団」の地下牢獄に死ぬまでつながれ
ることになった。こうして、翌六四年、プロシアとザク
センの二つの「聖堂騎士団」は、ザクセン側のフント男
爵(四二歳)のもとに統一された。もとより「聖堂騎士
団」は、反旧教的な色彩が強い。それゆえ、これととも
に、反旧教的なドイツ各地のロッジは、「聖堂騎士団」
を上位チャプターとするプロシア宮廷ロッジ「三つの地
球」の下に「ドイツ国民大ロッジ」として統合され、旧
教国のフランスやオーストリアとの対立を強化していっ
た。
だが、以前からメイソンリーをグレイトブリテン=ハ
ノーヴァーの手先として嫌っているオーストリアの女帝
マリア=テレジア(四七歳)は、イェズス会士シュター
ク(1741∼1816)に旧教的な「聖堂司祭団」をでっちあ
げさせた。それによれば、十字軍時代の聖堂団では、騎
士団より上位に司祭団があったのであり、聖堂団の財宝
も秘法も司祭団こそが継承している、と言う。それゆえ、
「聖堂騎士団・三つの地球」とその傘下の「ドイツ国民
大ロッジ」は、オーストリアの上位チャプター「聖堂司
祭団」に従属せよ、と言うのである。一方、パリでも、
マルチネス(c1710∼1774、約四四歳)が、五四年来、
ユダヤ教的な「選良司祭団(エリュコーエン)」を創始
し、メイソンリーを利用しつつ独自に活動してきた。そ
の教義は、霊と体の対立を強調する新プラトン主義風の
異端神学であったが、その儀式で出現する「パス」と呼
ばれる超常現象が人気を呼び、六七年には、リヨン商人
ウィレルモ(1730∼1824、三七歳)や法曹軍人サンマル
タン(1743∼1803、二四歳)が入会した。

6 印刷とイェズス会と無神論
グレイトブリテンもまた、ヨーロッパと新大陸での対
仏戦争で、財政的に困窮していた。それゆえ、六五年、
新大陸の防衛費は新大陸で捻出するように、新大陸に対
して印刷税が制定された。これは、新聞雑誌はもちろん、
法典でもトランプでも、新大陸における印刷物すべてに
政府発行の高額な印紙を貼れ、というものである。しか
し、自然も厳しく変化も激しい新大陸でばらばらに暮ら
している人々にとって、新聞や雑誌などの印刷情報は、
たんなる娯楽ではなく、生死にかかわるほど重要なもの
だった。出版業者であり郵便業者であるアメリカ=メイ
ソンリーの重鎮フランクリン(五九歳)は、ただちにグ
レイトブリテンの本国政府の逓信大臣ダッシュウッド卿
(六一歳)にかけあって、翌六六年、これを撤廃させた。
これとともに、ピット(五八歳)が首相に返り咲き、
パリに亡命していたウィルクス(三九歳)が帰国して逓
信大臣の地位を継いだ。ところが、翌六七年、大蔵大臣
タウンゼントが、姑息にも、印刷の代わりに鉛や紙など
に高額の関税をかけることを決定した。これでは印紙税
と同じことである。こうなると、もはや密貿易しかない。
その中心は青年ハンコック(1737∼93、三一歳)だった。
しかし、彼もまた、翌六八年、肝心の商売道具の高速帆
船「リバティ(自由)号」を押収されてしまった。それ
どころか、この「リバティ号」は、皮肉にも、以後、税
関警察船として他の密貿易船を追跡し拿捕するために利
用され、その押収物資は、税関職員が勝手に転売してし
まった。これでは、税関は、もう政府直営の海賊のよう
なものだった。首相ピット(五九歳)もまた、健康を理
由に再び辞任に追い込まれてしまった。ここにおいて、
ハンコックは、ボストンの反英論者アダムズ(1722∼
1803、四六歳)を焚きつけた。そして、彼の下、ロッジ
「自由の息子たち」が反英運動の中心になった。また、
初の女性ロッジ「自由の娘たち」もできて、「バイ=ア
メリカン(アメリカ製品購入)運動」を展開した。
百科全書を引き受けたディデュロー(1713∼84)は、
機械でも人体でも、なんでも切り開いて見せる数々の断
面図を前に、無神論に傾いていった。保守派文化人は、
ディデュローと百科全書計画に激しい拒絶反応を示し始
めた。そして、ダランベールも手を引き、ついには、政
府による出版禁止にまで追い込まれてしまった。それで
も、ディデュロー(五九歳)は、非合法のまま、ほとん
ど一人でこの大事業を継続した。そして、彼は、この百
科全書を六九年に創設された「九姉妹神(ヌフスール)」
などのメイソンロッジを通じてひそかに販売し、七二年、
五九歳で本文十七巻・図表十一巻のすべてを完成させ
た。この驚異的な大事典は、その後の七六∼七年にさら
に六巻の補遺が加えられ、全三四巻となった。このころ
のドイツメイソンリーの中心人物は、ヴァイマールの出
版屋ボーデ(1730∼93、三九歳)だった。劇作家レッシ
ンク(1729∼1781、四〇歳)は、ボーデの紹介で六九年
ハノーヴァー領内の国立図書館長に就任する。説教師ヘ
ルダー(1744∼1803、二六歳)もまた、七〇年、新しい
就職先を斡旋してもらうおうと、ボーデ(四〇歳)を訪
れた。ちょうどここにゲーテ(1749∼1832、二一歳)も
やってきた。そして、彼ら三人がやがて新たな時代の思
想を開くことになる。
一方、「ドイツ国民大ロッジ」を統括する「三つの地
球」の大統領でもあるプロシアのフリードリッヒ二世(六
〇歳)は、メイソンリーにはもはや関心がなく、イェズ
ス会を背景とするオーストリアの「聖堂司祭団」による
ドイツの「聖堂騎士団」の奪取計画によって、組織は大
いに混乱していた。このため、七二年、「聖堂騎士団」団
長のザクセンのフント男爵(五〇歳)は責任を取って引
退し、新たにドイツメイソンリーの大物、ブラウンシュ
ヴァイク公フェルディナント(1721∼92、五一歳)を団
長に選び、「聖堂司祭団」の介入を排し、あらためて
従うべき「知られざる上官」を探し直すことにした。
イェズス会も、最後の牙城スペインにおいてブルボン
家の国王がみずから「スペイン大ロッジ(グランロジア
=スパニョル)」を創設してしまったために、六七年、
国外追放されてしまい、もはや行き場を失った。おりし
も六九年、法王が死去、もはや国内の啓蒙主義勢力を無
視できない各国政府は、イェズス会を廃止しないかぎり
新法王を認証しない、とまで主張し続けた。このため、
新法王クレメンス十四世(1705∼即位69∼74)は、七三
年七月、やむなくついにイェズス会の解散命令を発布し
た。これに呼応して、フランスでも、同七三年十月、国
王翼賛の「フランス国民大ロッジ(グランロージェ=ナ
ショナル)」から、啓蒙主義者シャルトル公(後のオル
レアン「平等(エガリテ)」公、1747∼93、二六歳)を
中心とする、より過激な反政府・無神論の「フランス=
グランドリアン(大東社)」が分離した。とはいえ、二
万四〇〇〇人もいるイェズス会士が翌日に消えてなくな
るわけではない。その残党の多くは、あいかわらずフラ
ンスなどの国々の政府中枢の利権に巣くっており、その
追放がこの新組織の次の課題となった。
バイエルン(バヴァリア)に唯一のインゴールシュタ
ット大学もまた、これまでイェズス会の支配下にあった
が、その解散命令とともに啓蒙主義者の学長が会士追放
を行った。このため、学長の甥の法学教授ヴァイスハゥ
プト(1748∼1830、二五歳)が攻撃にさらされた。そこ
で、彼は、翌七四年、自分の学生五人と秘密結社「イル
ミナティ(啓蒙会、完全者同盟、幻想教団)」というイ
ンチキ団体を創設し、教会以上の歴史と組織を匂わせ、
自分たちの身を守ろうとした。とはいえ、この団体は、
実際はせいぜいバイエルンの首都ミュンヘン周辺しか仲
間がいなかった。
ザクセン=ライプツィッヒのコーヒーハゥス店主シュ
レプファー(1733∼74、四一歳)は、店の裏でスウェー
デンボーリ風の霊媒術を行っていた。これは、鏡や幻灯
や腹話術を用いたインチキだったが、多くの「聖堂騎士
団」の仲間たちが騙され、興味を持った。七四年、彼は、
亡霊の預言によって中世の「聖堂騎士団」の秘密の財宝
を手に入れた、と言って、ある箱を担保に金貨千枚を集
めた。だが、その箱の中身は石ころだった。「聖堂騎士
団」の団長としてドイツメイソンリーを統括するブラウ
ンシュヴァイク公フェルディナント(五三歳)は、団員
の傭兵将軍ビショップヴェルダー(1714∼1803、六〇歳)
らをこの事件の調査に派遣した。シュレプファーはピス
トルで自殺した。しかし、ビショップヴェルダーは、す
でに充分にシュレプファーのインチキ霊媒術の方法を学
んでおり、みずから「古式黄金薔薇十字団」を創った。
また、西インド諸島に引きこもってしまっていたフラン
スの「選良司祭団」マルチネス(約六四歳)が、七四年
に死んだ。だが、超常現象の「パス」の能力を持つ幹部
サンマルタン(三二歳)は、もとより教団には関心がな
かった。それゆえ、もう一人の幹部ウィレルモ(四四歳)
は、自分で「パス」を出現させることができないにもか
かわらず、組織を乗っ取って、ユダヤ教色を薄め、キリ
スト教色を補い、ドイツの「聖堂騎士団」のフランス支
部として、その下に新たに「聖地善行騎士団」を創って
しまった。
メスマー(1734∼1815、四〇歳)は、ウィーンの裕福
な開業医であり、ザルツブルクのモーツァルト親子の音
楽活動を支援したりもしていた。七四年、彼は、自分が
患者に近づくと放血の量が増えることをに気づき、「動
物磁気」を発見した。彼が自信を持って治療に当たった
結果、この「動物磁気」の効果は絶大であり、多くの患
者が彼のところに詰めかけた。そこで、彼は磁石や鉄屑
の入った水桶を使い、患者相互の「動物磁気」によって
まとめて治した。とはいえ、彼は若く美しい女性の患者
にしか興味がなく、「動物磁気」を高めるために、患者
の胸や腰を丹念にマッサージした。それゆえ、彼の病気
の妻は、治療の対象とはならなかった。やがて彼の病院
は背徳の館と見なされるようになっていっててしまっ
た。

7 アメリカ独立戦争
それは、破産寸前のイングランドの特殊法人「東イン
ド会社」の無理な救済策から始まった。東インド会社は、
グレイトブリテンの貿易政策のかなめだったが、一〇〇
%以上という極端な国内輸入関税のために、かえって外
国からの密貿易を誘発し、七年分の紅茶の在庫をかかえ
るほど、経営は悪化してしまっていた。そこで、七三年、
ついに政府は、植民地アメリカで、低関税の低価格での
紅茶の在庫処分を認めた。だが、これでは密輸が成り立
たない。そこで、密輸屋ハンコック(三六歳)らの属す
るボストンのメイソンロッジ「聖アンドリュース(アン
ドレ)」は、十一月三〇日の「聖アンドリュースの日」
の定例会を一二月一六日の「茶会(ティーパーティ)」
に変更、そして、その日の夕刻、ボストン港で、インデ
ィアンに扮装した男たち五〇人が歌い踊りながら停泊中
のグレイトブリテンの紅茶船に上がり込み、あっという
間に紅茶三四二箱、一万ポンド相当を海に投げ入れてし
まった。「さあ、ボストン湾で紅茶を入れよう!」、これ
がボストン「茶会」事件である。同様の事件が各地の港
であいついだ。グレイトブリテンは、報復措置としてボ
ストン港強制閉鎖を決定した。アメリカ=メイソンリー
の長老フランクリンは、ただちにダッシュウッド卿(六
九歳)らと善後策を協議した。そして、「東インド会社」
に弁償して和解し、閉鎖はすぐに解除された。しかし、
ハンコックやアダムズなどの強硬派は、ワシントンなど
の良識派を抑えて「大陸会議」を開き、かってにグレイ
トブリテンとの貿易中止を決め、戦争物資の蓄積を始め
てしまった。
七五年三月、パトリック=ヘンリーがヴァージニア下
院の演説で「我らに自由を、しからずんば死を!」と叫
び、大いに民衆を煽った。しかし、アメリカの大半の冷
静な良識派は、ただグレイトブリテン議会にアメリカ代
表を参加させることのみを望んでいたのであり、独立だ
の戦争だのということまで考えてはいなかった。本国政
府もまた、このような独立運動が、「聖アンドリュース」
の密輸屋ハンコック(三八歳)と「自由の息子たち」の
政治家アダムズ(五三歳)の画策にすぎないことを的確
に見抜き、七五年四月、両者の逮捕に向かった。ところ
が、反英的な「アメリカ古式大ロッジ」総長(グランド
マスター)の医師ジョゼフ=ウォレンは、かってに民兵
隊の一部を動かして、レキシントンとコンコードでグレ
イトブリテンの新大陸正規軍を迎え討ち、戦闘を始めて
しまった。とはいえ、「バンカーヒルの戦い」において
反乱軍は敗退、将軍ジョゼフ=ウォレンは戦死。アメリ
カの反グレイトブリテンのメイソンたちは、二重エプロ
ンをつけた正装で、その遺体をボストンに搬送し、民衆
の反英感情を扇動した。そして、亡きウォレンに代わっ
て、良識派のワシントン(四三歳)が独立軍総司令官に
担ぎ出されてしまった。そして、「アメリカ古式大ロッ
ジ」の中核である諸軍隊ロッジが、一斉に反グレイトブ
リテンのメイソンリー軍として動き出すことになった。
ドイツ中部のヘッセン=カッセル方伯家は、昔から屈
強なドイツ人を集め、訓練して傭兵に仕立てて各国に貸
し出し、大金を稼いでいた。9)それも、傭兵が死ねば死
ぬほど、彼の儲けになった。グレイトブリテン=ハノー
ヴァー王ジョージ三世(1738∼即位60∼1820)の義兄で
もある当主フリードリッヒ二世方伯(1720∼即位60∼85)
は、「七年戦争」(1756∼63)で新大陸がまた戦争だとい
うので、これまでの十万名に加え、さらに三万名の傭兵
を掻き集め、新大陸正規軍に貸し出し、大いに利益を得
た。ここにおいて、ハノーヴァー出身の俊才クニッゲ男
爵(1752∼1796)が、その腹心として事業拡大に活躍し
た。また、方伯家は、代々、古銭収集が趣味であり、そ
の整理をカッセル工学学校のハノーヴァー人錬金術師ラ
スペ(1737∼94、三八歳)に手伝わせていた。ところが、
この男は、仕事のかたわら、古文書をいろいろ調べてい
る。そこで、七五年、フリードリッヒ二世方伯(五五歳)
は、ラスペを古銭横領の容疑でとりあえず逮捕しようと
した。すると、ラスペはロンドンへ逃げてしまった。10)
代わって、フランクフルトのユダヤ人商人マイヤーアム
シェル=ロートシルト(ロスチャイルド、1744∼1812、
三一歳)がフリードリッヒ方伯に近づいてきた。彼もま
たたいへん古銭に詳しく、方伯家のコレクションにおお
いに貢献した。とはいえ、フリードリッヒ方伯を支える
多くの銀行家の中では、彼はまだ、その末席に加わった
という程度にすぎない。
新大陸正規軍は、さらに三万人ものヘッセン=カッセ
ル方伯のドイツ人傭兵を投入してメイソンリー軍を掃
討、そして、翌年三月には、早くもボストンから撤収し
てしまった。これで、事件は落着したはずであった。と
ころが、反グレイトブリテンのメイソンたちは、密輸屋
ハンコック(三九歳)を議長として「大陸会議」を開き、
グレイトブリテン本国に対する宣戦布告の「独立宣言」
を作った。これは、ヴァージニアの大農園主ジェファー
ソン(1743∼1826、三三歳)が草案を書いたものであり、
ロックの自然法思想やメイソン憲章を踏まえて、「すべ
ての人間は平等に創られ、生命・自由・幸福を追求する
権利を与えられている」と主張している。アメリカ=メ
イソンリーの重鎮、老フランクリン(七〇歳)は、「イ
ングランド大ロッジ」傘下の親英的な近代ロッジに属し
ていたが、「この場に及んでは、もはや団結しなければ
ならない、さもなければ、ばらばらに絞首刑になるだけ
だ」と言って、古式(反イングランド)の諸ロッジとも
合流、アダムズ(五三歳)らとともに「独立宣言」を仕
上げた。そして、一七七六年七月四日(後の「独立記念
日」)、フィラデルフィアにおいて「独立宣言」が発表さ
れた。
こうして、「アメリカ独立戦争」が本格的に開戦して
しまった。しかし、これは、グレイトブリテン対アメリ
カの全面戦争ではなく、あくまで新大陸内における新大
陸正規軍とメイソンリー軍の内戦である。独立に賛成な
のは、ボストンを中心とするニューイングランド(東北
六州)とヴァージニアくらいであり、ニューヨークやジ
ョージアはグレイトブリテン忠誠派、クェーカー教徒の
多い大ペンシルヴァニアも平和主義非戦派だった。この
ため、ワシントンのメイソンリー軍に参加したのはわず
がに三万、一方、新大陸正規軍には五万ものアメリカ人
が集まった。老フランクリン(七〇歳)は、高齢にもか
かわらず、「アメリカ」大使としてただちにフランスに
赴き、百科全書派ロッジ「九姉妹神(ヌフスール)」な
どを通じて、ヨーロッパ中のメイソンに新国家「アメリ
カ」への支援を求めた。このため、ヨーロッパの諸王は、
早急にメイソンリーを切り崩す必要が生じた。
もともとヘッセン=カッセル方伯フリードリッヒ二世
(五五歳)は、国教グレイトブリテンのジョージ三世(三
七歳)や旧教オーストリアの女帝マリア=テレジア(五
七歳)と協調し、ルター派とカルヴァン派を繋ぐ新教君
主として、ハノーヴァーやプロシア、ザクセン=ヴァイ
マール、ヴュルテンブルク、バイエルンなどを統一し、
ドイツに反動的な絶対王政の「千年王国」を建設するこ
とを妄想していた。それゆえ、この事態に、彼は、新大
陸へ反メイソンリーのグレイトブリテン正規軍傭兵を送
り込むだけでなく、ヨーロッパの反メイソンリー工作を
引き受けた。そして、「古式黄金薔薇十字団」の傭兵将
軍ビショップヴェルダー(六二歳)や「選良司祭団・聖
地善行騎士団」のリヨン商人ウィレルモ(四五歳)もま
た、この指示の下に動いた。彼らは、七三年の法王の解
散命令で行き場を失っていたイェズス会残党会士を大い
に利用し、鏡や幻灯や腹話術を用いたインチキ魔術によ
ってきちんと亡霊を見せて急速にメイソン会員を増大さ
せ、各地のばらばらの「黄金薔薇十字団」を傘下に吸収
していった。そして、七六年には、オーストリアの首都
ウィーンに、既存の聖堂騎士団系のロッジ「三匹の鷲」
とは別に、黄金薔薇十字団系のロッジ「戴冠した希望」
を創り、ここをライプツィッヒ・リヨンと並ぶ第三の拠
点として利用した。そして、七七年には、黄金薔薇十字
団系ロッジの合同総会を開き、これらを「古式黄金薔薇
十字団」が統括することを認めさせ、野望の足場を固め
た。
新大陸において、もともと劣勢のメイソンリー軍は、
新たにイングランドから派遣されてきたハゥ兄将軍の陸
軍とハゥ弟提督の海軍のニューヨーク猛攻に苦戦し、撤
退を余技なくされた。そして、七七年、新大陸正規軍は、
さらにフィラデルフィアへ進撃していった。だが、メイ
ソンリー軍総司令官ワシントン(四五歳)は、早々にフ
ィラデルフィアを放棄して、戦力をふたたびニューヨー
クに集中、ここにフランスの百科全書ロッジ「九姉妹神」
のラファイエット(1757∼1834、二〇歳)らによるメイ
ソン義勇軍が次々と参戦した。かくして、ニューヨーク
市に残留するわずか五千の新大陸正規軍をハドソン河上
流のサラトガに追撃、一〇月、ついにこれを降伏させた。
この知らせは、一二月にフランスの大使老フランクリン
(七一歳)の下に届き、フランス政府本体もまた、よう
やく独立支援で参戦を決めた。

8 ドイツ統一の陰謀
「聖堂騎士団」の団長ブラウンシュヴァイク公フェル
ディナント(五六歳)らは、あいかわらず「知られざる
上官」の探索を行っていた。そこで、ヘッセン=カッセ
ル方伯フリードリッヒ二世(五七歳)らは、七七年、イ
タリアで団員のヴュルテンベルク王国顧問官ヴェヒター
にいつものインチキ霊媒術を披露し、聖堂騎士団の「知
られざる上官」は薔薇十字団にほかならない、と預言し
た。探索員はもちろん、その報告を聞いた団長フェルデ
ィナント公もこれを本気で信じた。ここへ彼らが乗り込
み、とうとう「聖堂騎士団」を乗っ取ってしまった。フ
リードリッヒ方伯の次なる野望は、ヨーロッパメイソン
の統一支配だった。すでにオカルト色の強いメイソンは
「古式黄金薔薇十字団」として組織されてしまったとは
いえ、その他の啓蒙主義者たちは、むしろ反国王、反オ
カルト、反イェズス会、親アメリカに傾いていた。くわ
えて、ドイツメイソンリーは、一応は、「聖堂騎士団」
を上位チャプターとするプロシア宮廷ロッジ「三つの地
球」の下に「ドイツ国民大ロッジ」としてまとまっては
いるものの、実体は、国家や都市と同じく、各地にばら
ばらだった。ましてフランスメイソンリーは、各地のロ
ッジを統括する大ロッジそのものが、親グレイトブリテ
ンの「フランス大ロッジ」(1736∼)、国王翼賛の「フラ
ンス国民大ロッジ(グランロージェ=ナショナル)」(1756∼)、
反政府の「フランス=グランドリアン(大東社)」(1773∼)
の三つに分裂していた。フリードリッヒ方伯は、「聖堂騎
士団」団長フェルデイナント公を通じて各地のロッジに
「国際メイソン大会」の開催を呼びかけたが、その実現
は容易ではなかった。
七八年、スイス国境の寒村から時事的な提言を発し続
けてきた啓蒙主義の長老ヴォルテール(八四歳)が、自
作の悲劇『イレーヌ』の上演のためにパリに戻った。市
民は、彼を絶大な声援で迎えた。そして、彼は、アメリ
カ=メイソンリーの重鎮、老フランクリン(七二歳)の
仲介で百科全書派ロッジ「九姉妹神」に入会した。とこ
ろが、旅の疲れか、長老ヴォルテールはその翌月に死ん
でしまった。この機に、「選良司祭団・聖地善行騎士団」
のウィレルモ(四八歳)は、ヘッセン=カッセル方伯フ
リードリッヒ(五八歳)の支援の下、七八年、出身地リ
ヨンで「ガリアメイソン大会」を開き、フランスメイソ
ンにおける「聖地善行騎士団・選良司祭団」の優位を打
ち立て、老ヴォルテール亡き後のフランスメイソンリー
の中心人物に成り上がった。一方、ドイツにおいても、
「古式黄金薔薇十字団」にすっかり洗脳されてしまった
「聖堂騎士団・三つの地球」のフェルディナント公(五
七歳)を通じ、「ドイツ国民大ロッジ」傘下の各地のロ
ッジもまた急速にオカルト色を強め、再びオカルトメイ
ソンと啓蒙主義メイソンの間で対立と混乱を増していっ
た。だが、ヘッセン=カッセル方伯フリードリッヒ二世
(五九歳)は、「千年王国」の野望の実現に向け、七九
年、行き場を失っていたサンジェルマン男爵(約六九歳)
を拾い、メイソンのオカルト化を強力に進めていった。
反政府「グランドリアン」や百科全書派ロッジ「九姉
妹神」の啓蒙主義メイソンたちは、オカルト色の強いウ
ィレルモの支配に頑強に抵抗した。ところが、同七八年、
インゴールシュタット大学出身の医師メスマー(1734∼
1815、四四歳)が、彼独自の奇妙な治療法のためにウィ
ーンから追われて逃げてきた。ウィレルモ(四八歳)は、
メスマーの奇妙な治療法をあちこちに売り込んだ。それ
は、すなわち、メスマー自身が磁性ピアノを奏でる部屋
で、多くの男女が薄物のガウンで「動物磁気」を高めあ
うという治療法であり、磁気にしびれて最後にはみな痙
攣するほど感動的に効いた。実際、潔癖な啓蒙主義の性
的抑圧によるヒポコンドリア(心因性病状)は、これで
ほんとうに完治してしまった。メスマーも患者たちも、
本気で「動物磁気」を信じていた。そして、本気で信じ
ていたからこそ、「動物磁気」は、治療に効いた。メス
マーは、「動物磁気」を、霊的に優れた者のエーテル(気)
の力と考えた。彼は、この人間的な霊力を人々に満たす
べく、メイソンリー風の科学組織「宇宙の調和」を創り、
各地の大都市に治療センターを置いていった。そして、
各地から患者が次々とここを訪れ、彼の治療を受け、こ
の組織に入った。おりしも、八〇年、イタリアのボロー
ニャ大学において、電気が筋肉を動かすことを解剖学者
ガルバーニ(1737∼98、四三歳)が発見した。これで、
啓蒙主義メイソンたちも、メスマーの「動物磁気」の理
論にすっかりだまされてしまった。八〇年、国王ルイ十
六世(1754∼即位74∼93、二六歳)もまた、終身年金を
出すから治療法を教えろ、とメスマー(四六歳)に迫っ
た。メスマーはこれを拒絶し、パリを去ろうとした。彼
を信奉する金持ちの患者たち数千人は、百ルイずつ出し
て三五万ルイを集め、メスマーを呼び戻し、株式会社と
して彼の治療法をヨーロッパ中に広めていった。

9 啓蒙主義の反撃
ハノーヴァー領内の国立図書館長レッシング(四九歳)
は、メイソンの一員ながら、そのばかげたオカルト趣味
にはうんざりしていた。そこで、彼は、数々の妨害の中、
ユダヤ人思想家メンデルスゾーン(1729∼86、四九歳)
との親交を元に、七八年に『エルンストとファルクの対
話』(1778)、七九年に『賢者ナータン』(1779)を発表
し、「聖堂騎士団」団長フェルディナント公およびメイ
ソンたちの目を覚まさせようと試みた。ここにおいて、
彼は、ばらばらのロッジではなく、世界市民メイソンと
して一つの法治国家を打ち立てることを掲げ、隣人愛に
基づく普遍宗教を訴えた。そして、彼は、八〇年、論文
『人類の教育』において、ブルーノ・ニュートン・ディ
デュローのような虚無的な合理主義を退け、理性は人類
の歴史を通じてこそ発展する、と述べた。
七四年に創設されたヴァイスハゥプト(三二歳)の啓
蒙主義結社「イルミナティ」は、バイエルンの地方組織
にすぎず、イェズス会残党の激しい攻撃にさらされ、メ
イソンリーに援助を求めていた。おりしも、八〇年、黄
金薔薇十字団の黒幕のヘッセン=カッセル方伯の腹心ク
ニッゲ男爵(二八歳)は、嫉妬による陰謀に巻き込まれ、
宮廷から追放されてしまう。そして、彼は、「イルミナ
ティ」に乗り込み、たちまち啓蒙主義メイソン五百名以
上を参加させ、これを反黄金薔薇十字団運動の拠点とし
てしまった。ポーランド=ザクセンの枢密顧問官エック
ホーフェン(1750∼90、三〇歳)もまた、八〇年、ウィ
ーンで「アジア盟友団」を創ってユダヤ人との連携を図
り、パンフレットを出して「古式黄金薔薇十字団」がイ
ェズス会残党の陰謀であることを暴いた。おりしも八〇
年、オーストリアの女帝マリア=テレジア(六三歳)が
死んで、啓蒙専制君主ヨーゼフ二世(1741∼即位65∼90、
三九歳)がようやくみずからの改革を始めた。すなわち、
彼はただちに宗教寛容令、農奴解放令、修道院解散、農
業税制改革、貴族特権廃止、商工業育助成などの諸政策
を断行した。これに応じて、ウィーン大学法学教授ゾン
ネンフェルス(1732∼1817、四八歳)やウィーン皇帝博
物館員ボルン(1742∼91、三八歳)らは、黄金薔薇十字
団系の「戴冠した希望」から独立して「真の調和」を創
設し、国王の改革を背後から支援した。
ウィレルモに支援されたパリの医師メスマーが各地に
金持のための株式会社の磁気治療センターを置き始めた
八〇年の秋、国境近くのアルザス地方のストラスブール
に医師カリオストロ伯(1743∼95、三七歳)夫妻がやっ
てきて、貧しい人々の治療を無料で始めた。彼は、高価
な薬品と多額の現金を与え、次々と患者を治した。よう
するに、貧乏を治せば、病気も容易に治ってしまったの
である。しかし、人々は、同業の医師たちを除いて、貧
しき者はもちろん富める者もまた、彼を奇跡の医師とし
て賛嘆し崇拝した。カリオストロ伯は、小柄で色黒で、
訛りもひどく、およそ品格や教養があるようには見えな
かった。だが、話によれば、彼は、シチリア貴族の末裔
で、ギリシアで賢者から錬金術を学び、エジプトで神官
から古代儀式を授けられた、という。そして、彼は、「古
式黄金薔薇十字団」と同様のインチキ魔術と、「メスマ
ー磁気治療センター」と同様の薄物ガウンを使って、魅
惑的な「エジプト式」メイソンリーを起こした。小物の
放浪詐欺師バルサモが大物の霊能医師カリオストロ伯に
なった背景には、じつは「イルミナティ」の莫大な資金
支援があった。ウィレルモとメスマーがフランスの啓蒙
主義者たちを取り込んでいったのに対し、カリオストロ
伯は、逆にフランスのオカルティストたちを切り崩して
いった。
すでに国王ルイ十六世(二六歳)は、すっかりメスマ
ーに心酔してしまっていたが、ここにもっとカモに最適
な馬鹿者がいた。アルザス大司祭のロァン枢機卿(1734
∼1803、四六歳)は、名家出身の聖職者ながら、かつて
フランス全権大使としてヨーロッパ各地で派手な乱行を
働き、旧教オーストリアの女帝マリアテレジアにその後
も激しく嫌われていた。それでいて、フランスに嫁いで
きたその娘の王妃マリーアントワネット(1755∼結婚70
∼93、二五歳)にずっと恋焦がれていたのである。だが、
同八〇年に女帝マリアテレジアも亡くなった。国王ルイ
十六世(二六歳)は、七〇年に結婚して以来十年、趣味
の錠前作りに熱中してばかりで夜はまったくの役立た
ず、王妃の手もにぎっておらず、若き王妃マリーアント
ワネットは日々もだえ苦しんでいるという。おりしも、
同地方のストラスブールに霊能医師が現れたというの
で、ロァン枢機卿の方からカリオストロ伯(三七歳)の
ところに押しかけていった。カリオストロ伯は、ロァン
枢機卿に、王妃マリーアントワネットが男の子を産む、
と予言した。ロァン枢機卿は、それが自分と王女との関
係の結果であろうと、かってに信じ込んだ。ロァン枢機
卿は、カリオストロ伯のためにストラスブール郊外に異
国風の邸館を建てた。そして、ここにおいて、彼はカリ
オストロ伯夫人によって怪しげな恋の手ほどきを受け
た。ストラスブールのカリオストロ伯は、こうしてパリ
のメスマーと人気を二分し、ロァン枢機卿を通じてフラ
ンスの教会と王室の人脈の中枢に食い込んでいった。し
かし、それも彼が貧しい人々を治療すればこそであり、
彼の活動には「イルミナティ」の資金支援が不可欠だっ
た。

10 薔薇十字とイルミナティの決戦
八一年二月、メイソンリーのオカルト化を激しく批判
するレッシンク(五一歳)は、レストランで食事をして
帰宅するや、突然に激しく嘔吐して死んだ。しかし、彼
の歴史的啓蒙主義は、「イルミナティ」の中心思想へと
着実に受け継がれ、大きな影響力を持つことになった。
すなわち、ヴァイスハゥプトによれば、人類の歴史は、
自由の幸福を楽しむ幼年期の後に、僧侶の圧制と君主の
独裁の下、物質的欲求に縛られた少年期となっているが、
これらの抑圧的後見を打ち破って、真に神に救済される
成人期に類として達しなければならない、とされる。
オーストリア=ハプスブルク家のヨーゼフ二世(四〇
歳)は、ただの善良な啓蒙専制君主ではなかった。彼は、
ヘッセン=カッセル方伯フリードリッヒ二世によるドイ
ツ統一の支援ではなく、オーストリアを含む大ドイツ統
一を考え、フランス=ブルボン家やロシア=ロマノフ家
と組み、ヨーロッパを分割支配することを考えていた。
その第一歩として、妹マリーアントワネットの嫁いだフ
ランスと、南ネーデルラント(現ベルギー)とバイエル
ンの交換を計画していた。彼にとっては、国内の「真の
調和」も、ドイツの「イルミナティ」も、そのための手
段にすぎない。このようなヨーゼフ二世の裏切を察した
ヘッセン=カッセル方伯フリードリッヒ二世(六一歳)
は、アメリカのためではなく、みずからのために、イェ
ズス会残党を使って「黄金薔薇十字団」の下にメイソン
支配を急いだ。
だが、フリードリッピ二世方伯やヨーゼフ二世の策謀
に気づいたプロシアの「大王」フリードリッヒ二世(六
八歳)は、ただちに諸侯同盟を結成し、彼らに対抗した。
くわえて、彼は、「聖堂騎士団」団長フェルディナント
公に任せきりだったプロシア宮廷ロッジ「三つの地球」
を再び掌握し直し、配下の「ドイツ国民大ロッジ」のメ
イソンが、ヘッセン=カッセル方伯フリードリッヒ二世
の「黄金薔薇十字団」にもオーストリア国王ヨーゼフ二
世の「イルミナティ」にも関与しないようにさせた。ま
た、プロシアのケーニヒスベルク大学では、かつて黄金
薔薇十字団風のオカルト的宇宙観にとりつかれていた哲
学教授カント(1724∼1804、五七歳)が、その虚妄を明
らかにする『純粋理性批判』(1781)を出版した。
このプロシアの離脱は、ヘッセン=カッセル方伯フリ
ードリッヒ二世の計画を大きく狂わすことになった。「聖
堂騎士団」を奪取しても、「ドイツ国民大ロッジ」傘下
のメイソンを支配できないのであれば意味がない。おり
しも、プロシアの大王の甥のフリードリッヒヴィルヘル
ム(1744∼97、三七歳)が病気になった。そこで、フリ
ードリッヒ二世方伯は、傭兵将軍ビショップヴェルダー
(六七歳)を送り、王子の愛人の家でいつものインチキ
霊媒術を見せ、八一年、彼を「古式黄金薔薇十字団」に
入会させる。しかし、大王フリードリッヒ二世(六九歳)
の威光は強固で、ヘッセン=カッセル方伯フリードリッ
ヒ二世は、「三つの地球」および「ドイツ国民大ロッジ」
の支配を奪うことはできなかった。そこで、八二年夏、
ヘッセン=カッセル方伯フリードリッヒ二世(六二歳)
は、プロシア宮廷ロッジ「三つの地球」を介さずに「ド
イツ国民大ロッジ」を支配すべく、傀儡となった「聖堂
騎士団」団長のブラウンシュヴァイク公フェルディナン
ト(六一歳)に、ハーナウ郊外の自分の壮麗なヴィルヘ
ルムスバート宮で「国際メイソン大会」を開催させ、よ
うやくドイツメイソンらを集結させた。そして、ここに
おいて彼は、フェルディナント公に「黄金薔薇十字団」
によるメイソンリー統一を提起させた。
ところが、フランスのウィレルモ(五二歳)の「選良
司祭団・聖地善行騎士団」についてはかろうじて承認さ
れたものの、ドイツのビショップヴェルダー(六八歳)
の「古式黄金薔薇十字団」に関しては、あっさりと否決
されてしまった。というのも、この大会に対して、「イ
ルミナティ」のクニッゲ男爵(三〇歳)は、ドイツメイ
ソンリーの中心人物の印刷屋ボーデ(五二歳)、ザクセ
ン=ヴィマールのカールアゥグスト公(1757∼1828、二
五歳)とその宮廷啓蒙主義者のヘルダー(三八歳)やゲ
ーテ(三三歳)、チューリッヒの社会教育家ペスタロッ
チィ(1746∼1827、三六歳)、さらには、オーストリア
のロッジ「真の調和」のゾンネンフェルス(五〇歳)や
ボルン(四〇歳)、そして、フランスの急進派「レザミ
レユニ」のミラボー伯(三三歳)などを味方につけ、す
でに「イルミナティ」を一気に千人ちかい巨大実力組織
に発展させていたのである。かくしてヘッセン=カッセ
ル方伯フリードリッヒ二世の「ドイツ国民大ロッジ」乗
っ取りの野望は挫折してしまった。傀儡フェルディナン
ト公は、ただちに「聖堂騎士団」からイルミナートたち
を破門したが、もはやむだであった。一方、この会議で
実質的な勝利を得たオーストリアのヨーゼフ二世(四一
歳)は、イルミナートのゲーテらを男爵に列し、大ドイ
ツの野望に向けて組織を強化していった。11)

11 組織の崩壊
アメリカでは、その後も乱戦が繰り広げられ、いちお
うは八一年一〇月一九日の新大陸正規軍の「ヨークタウ
ンの降伏」でいちおう終戦ということになったが、完全
撤収まで小競り合いは各地で続いていた。そして、八三
年四月一九日、ハンコック(四六歳)を議長とする独立
派の「大陸会議」は、ようやく勝利を宣言した。そして、
これとともに、メイソンリー軍は、解散させられてしま
った。衣食住を軍隊に頼りきっていた無給ボランティア
の民兵たちは、生活のつてを失ってしまった。くわえて、
「大陸会議」が発行していた紙幣は、まったくの紙クズ
になってしまった。くわえて、グレイトブリテンとの国
交回復とともに、産業革命後の安価な製品が大量に流入、
その一方、タバコなどの従来の輸出品は、戦争の間に中
南米にヨーロッパ市場を奪われてしまっていた。経済混
乱の続く中、窮乏農民の暴動や退役兵士の反乱が起こり、
さらに事態は悪化していった。こうして、ハンコックの
「大陸会議」は急速に権威を失い、十二月二三日、ワシ
ントン(五一歳)も司令官を辞めてしまう。このように
アメリカは、独立と同時に、ばらばらの州へと戻ってい
ってしまった。
「国際メイソン大会」で「イルミナティ」に敗退し、
新大陸メイソンリーと対抗するという存在理由もなくな
ったため、以後、オカルト色の強い黄金薔薇十字団系ロ
ッジは、急速に衰退していく。オーストリアにおいても、
八三年、ドイツ黄金薔薇十字団系の「戴冠した希望」か
らフランス選良司祭団系の「善行」が分離した。また、
フランスのメスマー(四九歳)の疑似科学組織「宇宙の
調和」も、化学者ラヴォワジエらによる調査委員会によ
ってその理論を否定され、またたく間に会員を失ってい
く。「古式黄金薔薇十字団」団長の傭兵将軍ビショップ
ヴェルダー(六九歳)は、配下のロッジを見捨て、大王
の甥のフリードリッヒヴィルヘルム(三九歳)のつてで
プロシア宮廷にもぐり込み、以後、傀儡ブランシュヴァ
イク公家フェルディナンドと「聖堂騎士団」をプロシア
のために利用するようになる。
だが、勝利した「イルミナティ」もおかしくなってい
た。用済みになったストラスブールの霊能医師カリオス
トロ伯(四〇歳)夫妻は、資金支援を断ち切られ、あら
ぬ中傷を受け、再び放浪を強いられることになった。啓
蒙専制君主ヨーゼフ二世(四三歳)は、八四年四月、イ
ルミナートのボルン(四二歳)にオーストリア内のロッ
ジを統一する「オーストリア国民大ロッジ」を創設させ、
いよいよ大ドイツ実現へ始動したが、黄金薔薇十字団系
ロッジで失敗したイェズス会残党は、「イルミナティ」
がバイエルンをオーストリアに売り渡そうとしている、
と、プファルツ=バイエルン選帝侯テォドール(24∼プ42
∼+バ77∼99、六〇歳)に告発したため、バイエルン領
内での活動ができなくなってしまった。「イルミナティ」
内部においても、バイエルンのヴァイスハゥプト(三六
歳)は、ハノーヴァーのクニッゲ男爵(三二歳)の真意
を疑い始めた。プロシアのケーニヒスベルクの哲学教授
カント(六〇歳)もまた、八四年、論文「啓蒙主義とは
何か」を発表して、他人の指導がなくては自分の理解力
を用いえない未成年状態を人間が脱することこそ「啓蒙
主義」である、と定義し、レッシンク・ヴァイスハゥプ
トの根幹思想を援護した。こうして、同八四年、「イル
ミナティ」からクニッゲ派が一掃され、メンバーは激減
した。12)
八三年にカリオストロ伯夫妻が去った後、騙されやす
いロァン枢機卿(四九歳)にラモット伯爵夫人(1757∼91、
二六歳)が愛人として取り付いた。この女は、孤児なが
らヴァロア朝の末裔として認められ、いつの間にかフラ
ンス社交界に、そして、さらには王室にもぐり込んでい
たのである。ドイツ人宝石商ベーマーが作ったダイヤほ
か五四〇粒、総額一八〇万リーヴルの首飾は、愛人に贈
ろうとしていた依頼主のルイ十五世が七四年に死んでし
まったために、行き場を失ってしまっていた。そして、
その後、買い手が付かないまま、もはや十年になろうと
していた。そこで、ベーマーは、八四年、王室に出入り
するラモット伯爵夫人(二七歳)に千リーヴルで王妃マ
リーアントワネット(二九歳)への斡旋を依頼した。ロ
ァン枢機卿(五〇歳)は、いまだに王妃マリーアントワ
ネットのことが忘れられなかった。そこで、ラモット伯
爵夫人は、ロァン枢機卿に王妃への手紙を書かせ、書状
詐欺師に返事を偽造させた。このイカサマの文通の末、
偽の王妃は、枢機卿に、問題の首飾の分割払いでの購入
を密かに仲介するよう求めた。八五年二月、枢機卿(五
一歳)は、この手紙を示し、ベーマーから首飾を受け取
った。そして、枢機卿のところに偽の王妃の使いがやっ
てきて、首飾を持っていった。同じころ、イルミナート
のカリオストロ伯(四二歳)夫妻は、「選良司祭団・聖
地善行騎士団」によってフランスメイソンリーを統括す
るリヨンのウィレルモ(五五歳)との和解にも失敗し、
やむなくパリにやってきた。
ウィーンでは、通俗的な『ハーレムからの誘拐』(1782)
で成功した若き天才音楽家モーツァルト(1756∼91、二
八歳)は、何度かの引っ越しの後、八四年、出版屋マン
ション「トラットナーホーフ」に入居した。この店頭で
は、毎週水曜にコンサートが行われており、彼もこれに
出演した。オゥナーの出版屋トラットナーは、啓蒙主義
の書籍を多く販売していた。もともとモーツァルト自身
もまた医師メスマーを通じてメイソンリーと強い繋がり
をもっていたが、八四年末、フランス選良司祭団系ロッ
ジ「善行」および、イルミナティ系ロッジ「真の調和」
に入った。アイゼンシュタット=エステルハージ侯家の
楽長ハイドン(1732∼1809、五三歳)は、とてつもない
速筆で膨大な量の作品を仕上げ、交響曲というオーケス
トラの音楽スタイルを完成させ、名声をはせていた。そ
の彼もまた、八五年初め、ウィーンのイルミナティ系ロ
ッジ「真の調和」に入会した。
同八五年四月、黄金薔薇十字団系ロッジ「戴冠した希
望」において、イルミナートで「オーストリア国民大ロ
ッジ」の中心人物であるウィーン皇帝博物館員ボルン(四
三歳)の栄誉式典が行われた。これは、国王ヨーゼフ二
世(四四歳)がボルンの発明した合金生成法を賞賛した
ことによるもので、この式典は、黄金薔薇十字団のオカ
ルト錬金術に対する最終的な勝利宣言を意味した。この
式典において、モーツアルト(二九歳)もまた、新作の
カンタータ「フリーメイソンの喜び」を演奏した。アメ
リカとフランスのロッジを代表する老フランクリン(七
九歳)もまた、この式典に祝辞を寄せた。同じころ、作
家シラー(二六歳)もまた、ドレスデンのロッジ「三人
姉妹」の委嘱に応じ、メイソンリーの理想を讃える頌詩
「歓喜によせて」を作った。
八五年夏、宝石商ベーマーは、王妃マリーアントワネ
ット(三〇歳)に第一回の支払を求めた。ところが、王
妃側は首飾など受け取っていないと言う。ロァン枢機卿
(五一歳)とラモット伯爵夫人(二八歳)はただちに逮
捕された。ラモット伯爵夫人は、共犯者としてカリオス
トロ伯夫妻(四二歳)の名を挙げた。国王ルイ十六世(三
一歳)は、王妃との関係を疑い、ロァン枢機卿を激しく
憎んだ。こうして、彼らはみなバスティーユ監獄に送ら
れた。政府内の旧教イェズス会残党勢力を嫌う者も、「イ
ルミナティ」を使ったオーストリアのヨーゼフ二世の大
ドイツ計画を好まない者も、この機に乗じてさまざまな
画策に動いた。プファルツ=バイエルン選帝侯テォドー
ル(六一歳)は、ヴァイスハゥプト(三七歳)を含め、
すべてのイルミナートを国外追放にしてしまった。同八
五年一〇月、オカルティストの元締のヘッセン=カッセ
ル方伯フリードリッヒ二世(六五歳)も死に、黄金薔薇
十字団系ロッジも最終的に壊滅した。同八五年十二月、
オーストリア皇帝ヨーゼフ二世(四四歳)は、「フリー
メイソン勅令」を発し、今後は国内メイソンリーをみず
からきちんと直轄する、とうそぶいた。そして、彼は、
ただちにロッジを統合再編した。ウィーンのロッジは、
オカルト的な「戴冠した希望」と、啓蒙主義的な「真実」
の二つだけになった。翌八六年五月末、首飾事件の関係
者に判決が下った。ロァン枢機卿とカリオストロ伯夫妻
は無罪、ラモット伯爵夫人のみが終身刑となった。解放
されたカリオストロ伯夫妻の家に反政府主義者が大挙し
て集結した。だが、カリオストロ伯夫妻は、興奮する人
々を鎮め、静かにロンドンへと旅立った。

12 革命の胎動
八六年夏、プロシアの老大王フリードリッヒ二世(七
四歳)が死んだ。これを継いだ甥のフリードリッヒヴィ
ルヘルム二世(四二歳)は、騙されやすく、きわめて凡
庸だった。その実権は、以前から国王に取り入っていた
元「黄金薔薇十字団」団長の老傭兵将軍ビショップヴェ
ルダー(七二歳)が握った。大王が死んで、啓蒙主義の
イルミナティや大ドイツ主義のオーストリアの重石が取
り除かれ、ヨーロッパの政治と勢力の均衡は大きく崩れ
た。フランス国王ルイ十六世(三二歳)が義兄のオース
トリア国王ヨーゼフ二世(四五歳)の野望にほんとうに
荷担すれば、官僚貴族の高等法院派の反乱が起こる危険
性があった。大蔵大臣カロンヌは、「名誉革命」(1688)
ように立憲君主制へ穏便に移行することを願い、ただち
にミラボー伯(1749∼91、三八歳)をドイツに送って、
「黄金薔薇十字団」や「イルミナティ」に、「聖堂騎士
団」団長ブラウンシュヴァイク公フェルディナント(六
五歳)へのフランス王位移譲を打診した。
八七年二月、大蔵大臣カロンヌ(五三歳)は、国王が
指名した者を集めた「名士会」を開き、身分特権なき一
律土地課税を諮問した。ところが、「名士会」は、逆に
カロンヌを罷免してしまった。穏健な改革の道はもはや
断たれた。同八七年、ドイツメイソンリーの中心人物で
あるヴァイマール公国の出版屋ボーデ(五七歳)は、み
ずからパリに赴き、反王権的な「イルミナティ」の啓蒙
思想を広めた。その一方、ゲーテ男爵(三八歳)は、イ
タリアを訪れ、カリオストロ伯=詐欺師バルサモの調査
に当たっていた。また、ボーデは、才人シラー(二八歳)
をヴァイマール公国に呼び寄せ、同地のイェーナ大学歴
史学教授に就けた。
一方、「古式黄金薔薇十字団」の黒幕だったヘッセン
=カッセル方伯の息子ヴィルヘルム九世(43∼即位85∼
1821、四四歳)もまた動き出した。フランクフルトに事
務所を持つ「帝国郵便総監」トゥルン=タクシス公家が
財政危機に陥っているのを聞きつけると、彼は、宮廷に
出入りしていた同地出身の弱小銀行家マイヤーアムシェ
ル=ロートシルト(四三歳)を送り込んで交渉に当たら
せ、トゥルン=タクシス公に大金を貸し付け、自分の配
下に取り込んでしまった。これによって、オーストリア
=神聖ローマ帝国の外交通信は、すべてヘッセン=カッ
セル方伯ヴィルヘルム九世に筒抜けとなった。
同八七年秋、ヴァージニア州のマディソン(1751∼
1836、三六歳)が草案を書いた「合衆国憲法」が、アメ
リカ古式ロッジおよび軍部の中心人物である議長ワシン
トン(五七歳)の努力によりフィラデルフィアで発表さ
れ、アメリカ近代ロッジおよび産業の中心人物であるペ
ンシルヴェイニア州知事老フランクリン(八一歳)の努
力により、順次、各州の承認を得ていった。これは、こ
の州ごとのロッジの大連合という「合衆国」の理念によ
って、集権制と分権制とを微妙なバランスで折衷したも
のである。こうして、アメリカは、公然たるメイソンリ
ーの自由国家として、確かな一歩を踏み出した。そして、
それは、もはや国家に国王はかならずしも必要ではない
ことを実証するものでもあった。
旱魃によってフランス経済はさらに悪化し、ついに恐
慌状態に陥った。ここに、さまざまな政治議論が沸騰、
かつては一〇〇あまりだったメイソンロッジが、このこ
ろになると六〇〇以上にも分裂、そして、同じロッジで
も支部ごとに、また、同じ支部でも個人ごとに意見は大
きく異なっていた。なかでも、親英「フランス大ロッジ」
と反英「グランドリアン(大東社)」が激しく対立、く
わえて、王侯貴族の「グランセニョール(大貴族)」、学
者知識人の「ヌフスール(九姉妹神)」、理想活動家の「
レザミレユニ(同一の友)」なども大いに活動、これらの
ロッジは、横の情報伝達機能は持っているものの、縦の
意見集約機能は持っていない。
国王政府は、財政再建のために、とくに反政府的な官
僚貴族への免税特権を廃止したい。各地の高等法院(裁
判所)を拠点とする官僚貴族は、もともと地元の商工業
の富裕市民であり、自分自身のカネで貴族の身分と法務
の職権を買い取ったのであって、中央の国王や政府には
恩義も忠誠もない。それゆえ、彼らは、政府の課税強化
方針に対して、一六一四年以来、百七十年以上も停止し
ている「総身分会(エタジェネロー、三部会)」を開催
して審議することを要求した。これを開催すれば、免税
特権を持つ「僧侶会」や「貴族会」はもちろん、これら
の身分の人々の浪費に依存して生活する「平民会」も、
課税強化には反対することは明らかだったからである。
八八年六月、南東部ドフィネ州グルノーブル高等法院が
政府の司法改革を拒否、軍隊が投入された。青年弁護士
バルナーヴ(1761∼93、二七歳)らは、一般民衆を煽動
し、これに抵抗、独自の「地方三身分会」を開いた。こ
こにおいて、一般民衆は、特権身分の僧侶と貴族を足し
たものと同数とし、合同で採決するとされた。もはやフ
ランスは、分裂の危機に瀕していた。
八八年八月、銀行家ネッケル(1732∼1804、五六歳)
が再び大蔵大臣に指名されたが、彼は、自分が国王政府
と官僚貴族の間の板挟みにならないように、「総身分会」
開催を条件にした。ところが、政府は、「僧侶会」や「平
民会」、そして、領主貴族による官僚貴族=高等法院派
の切り崩しに自信を持ち、この条件をあっさりと受け入
れた。かくして、八九年一月、「総身分会」が召集され
た。春、各地方、各身分において選挙人が選出され、そ
の選挙人たちによって代表議員が選出され、「僧侶議員」
には、シャルトル司祭シエース(1748∼1836、四一歳)、
オータン司教タレイラン(1754∼1838、三五歳)などが、
「平民議員」には、アラス市青年弁護士ロベスピエール
(1758∼94、三一歳)、グルノーブル市青年弁護士バル
ナーヴ(1761∼93、二八歳)などが選ばれ、また、自由
主義貴族ミラボー伯(1749∼91、四〇歳)などもいた。
しかし、こうして選出された議員の多くは、貴族はもち
ろん僧侶も平民も、みずから商工業を経営しており、官
僚貴族の同類だった。くわえて、この議会の背後には、
複雑なメイソンリーの関係がうごめいていた。すなわち、
「グランドリアン」総長のオルレアン「平等(エガリテ)」
公(四二歳)は、王位簒奪を狙っており、同会員の医師
マラー(1743∼93、四六歳)も、自前の新聞『人民の友』
を発行して、在野から民衆を扇動した。これに対し、ア
メリカ独立戦争にも参戦したラファイエット侯(三二歳)
は、「ヌフスール」の中心人物であり、アメリカ的な大
統領になろうと狙っている。はたまた、「レザミレユニ」
の青年弁護士ロベスピエール(三一歳)は、ルッソーに
かぶれ、国王も大統領もいない全体主義政府を夢見てい
た。あえて平民議員となったイルミナートの貴族ミラボ
ー伯(四〇歳)は、方向のまったく異なる「レザミレユ
ニ」「グランセニョール」の両方に属し、民衆と貴族の
両方を味方にして権力を掌握しようと考えていた。シャ
ルトル司祭シエース(四一歳)もまた、「ヌフスール」
と「グランドリアン」の両方に入り、保身を図っていた。
このように、彼らはそれぞれまったく異なる目標をめざ
していたが、この旧弊体制(アンシャンレジーム)を倒
すことでは一致していた。

おわりに
革命が始まってから後は、もはやラファイエット侯や
ミラボー伯は、国王を利用しつつ、個人的に活動する。
これに対して、ロベスピエールやバルナーヴは、一一月、
宮殿北隣のドミニコ会系「聖ヤコブ(ジャコバン)修道
会」跡地に、かつてのイルミナートを集め、「憲法友の
会」、通称「ジャコバンクラブ」を創設して、これを阻
止しようとした。また、九一年になると、ロッジ「グラ
ンドリアン」の急進的ジャーナリストの医師マラー(四
八歳)も、「コルドリエ(幅帯)派修道院」跡地に、「人
権友の会」、通称「コルドリエクラブ」を結成して、在
野から「国民集会」を攻撃した。逃亡を試みた王族の処
分問題で揺れていた九一年の夏には、主流派は、王位を
狙うオルレアン「平等」公(四四歳)を中心に、ルイ十
六世の廃位を要求する。これに対し、「ジャコバンクラ
ブ」において、ロペスピエールは国王の裁判を主張し、
バルナーブは国王の免責を主張し、両派の意見が対立し
てしまった。このため、バルナーヴらは、分離して、ラ
ファイエット侯らとともに、「フーイヤン修道院」跡地
に「フーイヤンクラブ」を結成し、ルイ十六世を擁護す
るようになった。しかし、いずれにせよ、これらの政治
クラブは、古い独立ロッジ的なものであり、もはやメイ
ソンリー的な、国際的な連携の拡がりは認められない。
むしろ重要になるのは、その後のヘッセン=カッセル
方伯とロートシルト家のネットワークの役割である。と
いうのも、反革命∼反ナポレオン戦争において、各国に
その兵員と資金を供給し続けたのは、グレイトブリテン
でもプロシアでもオーストリアでもなく、このネットワ
ークにほかならないからである。それゆえ、ナポレオン
は、一八〇六年のプロシア遠征においてまずカッセルを
奪い、そのヴィルヘルムスヘーエ宮にヴェストファーレ
ン王として末弟ジェロームを置いた。しかし、このころ
すでに反ナポレオン戦争は、軍隊の戦争から経済の戦争
にシフトしており、ロートシルト家は、ロンドンのネイ
サン(1777∼1836)を中心に貿易と金融を国際的に操作
して、反ナポレオン諸国を支援し、ウィーン体制の確立
にまで至らしめる。しかし、このネットワークも、もは
や多くの人々が参加する「メイソンリー」とはまったく
異なるものである。
さらに、その後、現代に至るまで、さまざまな場面に
おいて「メイソンリー」の名が登場するが、それは、お
そらく大革命前の「メイソンリー」とは根本的に異なる。
すなわち、それがたとえ友愛団体であろうと陰謀組織で
あろうと、すでに劇的な産業革命や国家再編という背景
が失われてしまっているからである。ある意味では、む
しろ中小企業の経営者の親睦を図るロータリークラブ
や、海外でも信用を付与してくれるダイナースクラブの
方がまだ「メイソンリー」の機能に近いかもしれないが、
これらがいまさら建築術や錬金術や霊媒術の信仰を強要
することはあるまい。このように、「メイソンリー」を
考えるにあたっては、その時代背景が不可欠なのであり、
その時代背景とともに、本来的な意味での「メイソンリ
ー」も消滅したと考えるべきであろう。

1) 「大工」は、一般に、「家具大工[wood worker]」「小屋大工[carpenter]」「土木大工[builder]」の三つに大別される。

2) 「ルーナーソサェティ」は、製鉄業者ボールトン(1728∼1809)が主催するバーミンガムの実業家クラブであり、ウォット(1736∼1819)の蒸気機関の開発を支援している。

3) 「ソロモン聖堂」は、それは、『エゼキエル書』などにも見られるように、たんなる礼拝用の建造物のことではなく、ピラミッドなどと同様に、その存在形態によって神の叡智を記した「石の聖書」として、象徴的な意味を持っていた。そして、メイソンリーにおいては、ソロモン王がその建造を依頼したヒラムの伝説こそが、その信仰の中核となっている。
次節を参照せよ。

4) 十六世紀、ドイツでは、さんざんの宗教戦争の後、領主・都市ごとに新旧両教が住み分けていた。その中で、ヴュルテンベルク市は、教会も大学も、ルター派のアンドレーエ家が監督してきた。ところが、十七世紀になると、ヴュルテンブルク公は、外国人弁護士を用いて直接支配を強めた。不満を募らせた若きアンドレーエ(1586∼1654、二〇歳)は、〇六年、この外国人弁護士をからかうポスターを掲示し、しばらく亡命しなければならなくなった。彼は、暇を持てあまし、宗教革命家ルターの再来を切望した。そして、彼は、科学者ローゼンクロイツという新たなヒーローを夢想し、そのヒーローが活躍する小説『友愛団の名声』を仲間に回覧した。それによれば、ローゼンクロイツ(1378∼1485)は、イェルサレム巡礼で『Mの書』を手に入れて帰国、仲間とともに友愛団を結成し、宇宙の数学的真理と精神の霊的錬金術を解明、『世界の車輪(ロータエ=ムンディ)』などを執筆し、一〇七歳で死去、膨大な資料ともに埋葬されるも、その場所は久しく秘密にされていたとされる。そして、〇五年、彼の予言どおり、彼の墓所が一二〇年目にして明らかになり、いま、彼の創った友愛団の後継者たちが再び集った、という。こうして、彼の解明した数々の真理も、近々明らかにされるだろう、と予言されていた。
ヘッセン=カッセル方伯モーリッツ(1572∼即位92∼退位27∼32)は、ルター派とカルヴァン派をつなぐドイツプロテスタントの中心
人物であり、また、オカルトマニアだった。彼は、ローゼンクロイツのうわさを聞くや、熱心にその情報を集めた。そして、一六一四年、ようやくアンドレーエの小説『友愛団の名声』を手に入れると、彼は、自分もまた友愛団に協力しようと、ただちにお抱えの印刷屋でこれを大量に印刷してヨーロッパ中に頒布した。しかし、これを見て誰より驚いたのは、牧師アンドレーエ(二八歳)だった。彼は、事件の元凶として、激しい非難にさらされることになった。そこで、彼は、弁明のために、明らかなパロディ小説を書いた。これが、『クリスチャン=ローゼンクロイツの化学的結婚式』(1615)である。これは、八一歳の隠者ローゼンクロイツが七日間に渡る不思議な王の結婚式に臨席するという幻想文学であり、彼はここに当時の錬金術・数秘学・象徴法をでたらめに盛り込んだ。ところが、オカルトマニアたちは、これもまた本物として受け入れてしまった。デカルト(1596∼1650、一八歳)からフランシス=ベイコン(1561∼1626、五三歳)まで、当時の知識人たちが本気で「薔薇十字友愛団」の起源を論争した。そして、類書は、さらに増大した。そればかりか、「薔薇十字友愛団」の到来を宣言するビラが張られ、自分こそ「薔薇十字友愛団」の団員だ、という詐欺師や妄想家が各地で現れた。そして、ロンドンの医師フラッド(1574∼1637)らオカルトマニアたちは、ヨーロッパ中に交友を広げ、ついに「薔薇十字友愛団」を受け入れるための支部をほんとうに創ってしまった。

5) ヴェルフェン家のハインリッヒ「獅子」公(1129∼95)は、シュタゥフェン家のフリードリッヒ「赤髭」王(1122∼皇帝55∼90)との協調により、ブラウンシュヴァイク市を事実上の首都として、世襲のザクセン=バイエルンから勢力を拡大したが、やがて同王と対立してイングランド亡命を強いられ、わずかにブラウンシュヴァイク公とリューネブルク公の地位を残すのみとなった。だが、エルンスト一世(1497∼1546)の後、両地位は二子に分割相続されてしまう。一六三六年以降、ヴェルフェン=リューネブルク公家が、ハノーヴァー公を兼任するようになり、一六九二年には、同家のエルンストアウグスト公(1629∼98)がハノーヴァー選帝侯に昇格する。かつ、グレイトブリテンは、スチュアート家のアン女王(1665∼1714)に継嗣がなく、また、ジェイムズ二世(1633∼革命廃位88∼1701)の系統の復活を阻止するため、アンの祖父のジェイムズ一世(1566∼1625)にまで遡って、その曾孫に当たる第二代ハノーヴァー選帝侯ゲオルクルートヴィッヒ=ジョージ一世(1660∼ハ98∼+グ14∼27)を国王に据えた。一方、ヴェルフェン=ブラウンシュヴァイク公家の本家は、一七三五年に絶えてしまい、祖父の曾孫に当たる分家のベーヴァン公家の三男フェルディナント(1721∼即位35∼92)が継ぐことになった。彼は、いち早くメイソンリーに入会し、ドイツにおける中心人物の一人となっていく。

6) つまり、「古式」の方が成立は新しい。メイソンリーにおいて、伝統の古い方が偉いのであり、新しいものほど、信仰上の「起源」を、遡って設定することになる。

7) 「聖堂騎士団」は、十字軍時代に巡礼者保護のため、イェルサレムのソロモン聖堂跡を本部として実在したものだが、東西貿易の為替金融によって莫大な財宝を得たために、一三〇四年、これをねらったローマ=カトリック教会によって、異端としてむりやり滅亡させられてしまっていた。

8) アンドレーエの錬金術的な「薔薇十字(友愛)団」に対して、スウェーデンボーリの霊界の存在の信仰を含むものを「黄金薔薇十字団」と言う。

9) ヘッセンは、ヘッセン=カッセルとヘッセン=ダルムシュタットの二邦からなる。また、注(3)のように、ヘッセンは、宗教戦争の時代から旧教と対抗するドイツプロテスタントの中心であり、また、ルター派とカルヴァン派を仲介する立場にあった。

10) ラスペは、亡命先のロンドンでレッシングの『賢者ナータン』の英訳などを行い、「イルミナティ」思想の普及に努めた。また、
その後、同郷人ミュンヒハゥゼン男爵のほら話をまとめ、八三年、匿名でベルリンの出版社から『M−h−s−の話』(1783)を出した。

11) 一七八二年の「国際メイソン大会」については、
Ludwig Hammermayer,
Der Wilhelmsbader Freimaurer-Konvent von 1782: ein Hohe-
und Wendepunkt in der Geschichte der deutschen
und europaischen Geheimgesellschaften,
Heidelberg: Schneider, 1980 などを参照せよ。

12) クニッゲ男爵は、もともと当時の流行作家として成功しており、その後、一七八八年に『人々との交際について』を出版する。

11)の箇所は
本文の註における参考文献の記し方
http://www.tufs.ac.jp/st/club/historia/citation.htm
を参考にして復元しましたが完全に復元できているかはわかりません。
スポンサーサイト
外国語  :  trackback 0   :  comment 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yomenainickname.blog.fc2.com/tb.php/104-33f6ef29
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)