読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう! 

 禅ではスピリチュアル(=インド風キリスト教)思想は魔境かつ執着なので悪だとしています!
目の前に神や仏や宇宙人が現れて、自分だけが選ばれたと救世主気分におぼれたり、宇宙霊と合体して天にも昇る素晴らしい心地がしたと感激する、などは魔境であり、悟りの邪魔であるから、とらわれたりこだわってはならないと、禅ではいましめています。つまり神や仏や宇宙人や宇宙霊や選民思想が現れても、相手にせず受け流し、軽くかわさないといけません。
瞑想だけじゃ悟れないし、ひたすら座禅だけ組んでも駄目だし、いきなり言葉を否定しても駄目だし、考えることも大事だとしている
のが禅です。
禅宗含め、仏教は虚無論ではありません。このような誤解や曲解を予想して、先回りしてちゃんと否定しているのが仏教哲学です。
禅に限らず、心の平安と執着からの解放が仏教の目的なのだから、愛などの執着を善だと主張する時点で偽物です。

愛(=執着)は善なのがキリスト教で、
愛(=執着)は悪なのが仏教
です。

禅で禁欲と自省と道徳を養うことが修行で必須とされるのは、魔境により生じる選民思想を防ぐためです。
野狐禅(=危険な邪禅)をすすめるスピ詐欺師が多いので注意!
スピリチュアル、神智学、ニューエイジなどのインド風キリスト教は、本来のインド思想、特に仏教思想を破壊するために支配層が盛んに布教活動をしている思想です。
支配層が仏教思想の中で特に破壊したいのは、論理的思考を重視する姿勢と、一神教と新プラトン主義を完全否定する無記と空と無常と縁起の思想です。
だから、紐付き陰謀論者がキリスト教と神道カルト(大本教系)だらけで、工作員でない(可能性が高い)陰謀論者の思想が仏教寄りであることが多いのです。
天皇家が欧米に留学し、ミッション系の学校へ通い、ティアラを正装とするくせに「神道」なのは彼らにとっての「神道」が和風に偽装したキリスト教だからです。
「陰謀論」や「陰謀論者」を「狂人」という意味でレッテル張りしてくる工作員がいるのですが、調べれば出る情報をもとに考えているのだから、「比較陰謀学者」や、「比較陰謀論学者」や、「”陽”謀論者」や、「真相追及者」と呼んでほしいですね。

禅の詳しい記事は次回にして、今回は、「キリスト教思想で都合よく改悪されていない本物の」チベット密教についてです。
論理と言葉を軽視あるいは否定する、チベットチベットうるさいスピリチュアル(=インド風の新キリスト教)信者に、チベット密教は論理的思考重視でありスピリチュアルを否定していることを示す以下の証拠↓を食らわせたら、迷惑な酔っぱらい(スピ信者)のごく一部はしらふに戻るでしょう。
信者が「自分」だと思っているものは実は欲とカルトの教義であり、それを自我と信じ込んでいるだけです。


“仏教論理学(因明[いんみょう])と認識論に関しても、チベット仏教の伝統は、実に高度な論議を蓄積してきました。「比丘や諸々の賢者たちよ。金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊 敬のゆえに受け入れてはならない」。これは、チベットのラマたちがよく引用する聖句です。お釈迦様は弟子たちに――あたかも金の純度を確かめるがごとく ――自らよく考えて教えの中身を吟味し、その後で初めて教えを信奉するように強く戒めています。チベット仏教では、こうしたお釈迦様の精神を受け継ぎ、盲信や実践至上主義を排し、明快な論理による思考を重視しています。”
p.20、斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社

“「視覚ではなく意識で、しかも次第に直感的に……」というのが、第一のポイントです。
第二のポイントは、「向こうから現われるのではなく、こちらから向こうへ置く」ということです。瞑想の中で、「自分の意思とは関係なく、本尊などが向こうから突然出現した」というような神秘体験は――何らかの印や徴候と認められるケースも稀にあるでしょうが――多くの場合、修行者の妄執が生み出した幻覚にすぎません。それゆえ、実践の正しい拠りどころとして、ほとんど信頼できません。また、実際にそうした幻覚が現われなくても、あたかもそうであるかのごとく瞑想することは、間違った方向へ心を慣らすばかりなので、いくら実践しても望ましい成果を期待できません。そうした突然の神秘体験に執着せず、あらかじめ自分の意思で「こういうふうに瞑想しよう」と計画を立て、それに従って意識の力で本尊の姿を認識対象として確立し、それを繰り返し瞑想して習熟することが肝要です。
では、信頼できない神秘体験と正しい瞑想の成果を区別する基準は何かといえば、「その瞑想に十分習熟したとき、いつでも意のままに同じ内容を再現できるか否か」という点です。もちろん最初からは無理ですが、本当に瞑想に熟達した密教行者なら、複雑な曼荼羅を――どんな大きさにでも――瞬時に再現できるといいます。「こちらから向こうへ置く」という感覚で瞑想するからこそ、習熟すれば自在に再現可能となるのです。”
p.92-93、斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社

“仏教の修行というものはすべて、お釈迦様を信じて拠りどころとしなければ成立しえません。この点で、仏教は、決して単なる人生訓や思想哲学や瞑想テクニックではないのです。
  しかし、「理屈抜きにただ信じる」というわけではない点で、他の多くの宗教とは趣を異にしているといえるでしょう。第二章で引用したお釈迦様の言葉を思い 出してください。「比丘や諸々の賢者たちよ、金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊敬のゆえに受 け入れてはならない……」。“p.192斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社

“知恵者らよ、自性が空という空性の意味は、縁起の意味である。しかし、功用が空(効果的作用がない)という非存在の意味ではない
p.54、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/クンチョック・シタル/齋藤保高 共著『チベットの般若心経』春秋社

“植物は、有情の中に含まれない。仏教では、植物は生命体であると認めるが、心を有しているとは考えない。したがって、植物が輪廻転生することはあり得ない。植物は、色の範疇に属し、無生物とともに宇宙全体を構成する環境的な要素(器世間 [きせけん])と位置づけられる。”
p.73、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/クンチョック・シタル/齋藤保高 共著『チベットの般若心経』春秋社

勝義諦すなわち空性を体得するためには、まず言葉によって概念的に理解するしかない。 我々は、この点を肝に銘じておく必要がある。具体的には、最初に教えをよく聴聞し、次にその論拠を徹底的に考察し、それらを通じて概念的に確立された空性理解をもとに、止と観の修習を重ねることが肝要だ。もし、「勝義諦は言説を超越した次元なので、概念的に理解しようとしても無駄だ」などと誤解し、聞・ 思・修の過程を軽んじてひたすら禅定を重ねたとしても、有暇具足の貴重な人生を無駄にするばかりで、一向に空性を体得することはできない。そうした実践至上主義を厳しく戒めるため、あえて「邪な妄分別によって悪道(三悪趣)へ赴く」という強い表現を用いた、そのチャンドラキールティの密意をよく汲み取るべ きだろう。”
p.57、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/クンチョック・シタル/齋藤保高 共著『チベットの般若心経』春秋社




斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社
※本書はチベット仏教の内、ツォンカパ大師が開いたゲルク派(新カダム派)の教えに基づいています。

・チベット仏教の伝統では、あらゆる不幸の根源を、自己愛着という唯一つのことに集約して考える。
自己愛着の正体とは、自分自身や自分の所有物、自分の側に属するものごとに対し、執着、欲望、過度の期待を抱くこと。

・自己嫌悪の根底にも自己愛着がある。自分に対する過度の期待と現実の自分とのギャップが広がって自力では手が負えないと感じるようになったとき、自己嫌悪に陥ってしまう。

・「幸せを実現すること」と「自己愛着を満足させること」を混同してしまうのが問題。幸せを求めて努力しているつもりなのに、実はあらゆる不幸の根源にほかならない自己愛着を増長させるためひたすらエネルギーを注ぎ続けている……。
自己愛着を満足させるために貪りや怒りなどの煩悩を起こし、それによって自己中心的な行動を積み重ねていくパターンになりがち。
自己愛着を断ち切る最も強力・確実な方法とは、他者に対する大きな慈悲の心を育むこと。

(「幸せにならないといけない教」に注意。幸せは義務ではありません。幸福論は面白くないんですよね。実は不幸論のほうが面白いし、幸福論よりも役立つ幸福を得るヒントを教えてくれたりします


・チベット仏教は、インド仏教の本流を直接に受け継いでいる。チベットはヒマラヤ山脈をはさんでインドと隣接しているので、師僧を招いたり留学僧を送ることが頻繁に行われていた。
チベット仏教が規範として仰いできたインド仏教は、残念ながら十三世紀の初頭に滅びてしまった。当時の総本山、東インドのヴィクラマシーラ寺がイスラム教徒の襲撃で破壊されたとき、最後の大座主シャーキャシュリーバドラは、難を逃れてチベットの地へ赴き、インド仏教が守り抜いてきた法灯を残らず伝え、チベットの僧侶たちに後事をすべて託した。

“仏教論理学(因明[いんみょう])と認識論に関しても、チベット仏教の伝統は、実に高度な論議を蓄積してきました。「比丘や諸々の賢者たちよ。金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊敬のゆえに受け入れてはならない」。これは、チベットのラマたちがよく引用する聖句です。お釈迦様は弟子たちに――あたかも金の純度を確かめるがごとく――自らよく考えて教えの中身を吟味し、その後で初めて教えを信奉するように強く戒めています。チベット仏教では、こうしたお釈迦様の精神を受け継ぎ、盲信や実践至上主義を排し、明快な論理による思考を重視しています。”p.20
スピ信者って偽物が大好きだから、本物のチベット仏教の勉強をしないんだろうね

・中観帰謬論証(ちゅうがんきびゅうろんしょう)派では、実体性を欠如しつつ単に存在する「私」を「単なる私」と表現する。
「単なる私」とは堅固な実体性を欠如した状態で輪廻転生する主体


・諸煩悩をすべて根こそぎ断ち切り、
その後に残った負の影響=所知障(しょちしょう)
も滅し尽くしたとき、悪い要素のひとかけらもない仏陀の境地が実現する。

我執=実体視の習慣。
空性=実体性の否定。
煩悩の根源にあるのは空性に対する無知であり、あらゆるものを実体視する習慣。
空性は仏教の究極的な真理であり、あらゆる存在に関して「それをそれたらしめている本質的なもの」を徹底的に追及していったとき、そのような実体性は何一つ得られない

チベット仏教の伝統教学における最終結論、つまり中観帰謬論証派の立場では、
空性とはあらゆる存在(一切法)に実体性が全くない、ということ。
実体はないが存在はしている。
実体性を欠如した状態で存在していることを、「単なる存在」とか「単なる私」
という。
中観帰謬論証派の特色は、実体性の否定と、単なる存在の肯定とを明確に区別し、両方とも徹底させる点。実体性であればどんな微細なものも見逃さず、すべて完全に否定します。もし、わずかでも否定しきれず残ってしまえば、空性理解は不完全なものとなり、覚りを得ることはできない。
逆に、単なる存在を少しでも否定してしまえば、虚無論に陥り、覚りを得られないどことか、大変な悪業を積む結果になりかねません。なぜなら、哲学的な虚無論を発展させれば、事物の効果的作用を否定し、因果関係を否定し、善悪の区別も否定するところまで行きつくからです。
否定すべきものと肯定すべきものを明確に分け、否定すべきものを否定しきれない実体視の誤りと、
肯定すべきものを
否定してしまう虚無論の誤りという、
この二つの誤りを完全に排除した後に残るのが「中道」というありかた。
つまり、本当の中道とは、決して中途半端で曖昧な状態ではありません。例えば、「この本に、実体はほとんどないけれど、多少はある」とか、
「この本は、あるともいえないし、ないともいえない」というふうに、否定すべきものと肯定すべきものを区別せず、安易に中途半端な存在感を設定してしまうことを指して、ツォンカパ大師は「矛盾ばかり述べて、中観の意味など少しも説いていない」と厳しく批判しています。
空であり実体がないからそれらに対して慈悲を起こすのは無意味だ、というのは重大な間違い

仏教以外の多くの宗教で主張している創造神とか、バラモン教やヒンドゥー教の哲学で個々の人格の上に設定している真我(アートマン)などは、最も粗い実体性の例。
そうした粗い実体性は、仏教哲学の全学派が、揃って否定している。
宇宙を創造した神の存在、あるいは創造された人間に宿っている永遠不滅の本質など、そうした粗い実体性を一切認めないのが、仏教の思想哲学の大きな特徴。
逆にいうと、もしそれらを承認してしまえば、もはや仏教思想とはいえなくなる。
密教の根本的な本尊である持金剛仏や大日如来などを、そうした創造神であるかのように位置づける見方もありますが、少なくともチベット仏教の伝統教学からすれば、それは完全に間違っている。
粗大な実体性の否定に関しては、このように、仏教哲学の全学派が一致
している。

・仏教用語で「自性」とか「自相」(それ自体の側にある、それをそれたらしめている本質的なもの)と表現されている微細な実体性。
人間は生まれつきの習慣として自然に実体視してしまう。本当は全く存在しない自性や自相を「存在する」と誤って把握している。
その実体する意識のことを「我執」
という。
自性や自相はまったく存在しない、という真理が空性であり、それを無自性や無我とも表現されます。そのとき、「Xの実体がない」という、そのXが人間や生き物であれば「人無我」、それ以外のあらゆる存在であれば、「法無我」という。

単なる存在が他の何かに依存する形で成立する形で成立していることを「縁起」という。
実体性を欠如した単なる存在は縁起という形でしか成立しえない。
他の何かに依存するという場合、三つの意味を想定できる。
①原因や条件に依存
②部分に依存
③概念と結びつけて仮に設定
これら三つの意味を通じて、縁起として成立しているがゆえに実体性が否定されること、逆に実体性がないからこそ縁起というあり方になるという、その両者の相互関係。縁起によって空性を理解し、空性によって縁起を理解する
というのが、中観帰謬論証派の哲学の最も絶妙な部分。
本尊にも実体はない。
空性という究極真理も実体視してはいけない。
「この本の空性」をテーマに実体性の追求を行なった場合、結論は「“この本の空性”の空性」という結論になる。
空性の空であることをいつも忘れないようにしなければならない。

(いいですか、「実体」は否定しても「存在」は否定していませんからね。仏教を無神論や虚無主義だとわざと曲解して叩く工作員の「藁人形論法=わざと相手の主張を叩き易いように加工してから叩く」に注意ですよ。
支配層は仏教の「空」と「縁起」が支配に向かず、カルト化を防ぐ思想なので大嫌い。
ツイッターを見てると、「空=神」と主張して布教している悪質な輩がいます。


 子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 33 分33 分前
新キリスト教陣営の工作員用のクソリプ用画像。
ババリアのイルミナティの象徴はミネルバ(アテナ)のフクロウ。
右目=太陽派(特にフランス)

緑=世界連邦カラー
フランスの女神は右目=太陽を見せるマリアンヌ
@wolvesknow
右目側でNWO色=緑髪の『隻眼の梟』=一つ目フクロウ
『不殺の梟』(『隻眼の梟』の父)も右目を強調
右目=太陽派(特にフランス)、緑=世界連邦カラー
フランスの女神は右目=太陽を見せるマリアンヌ

私をブロックしている女神アテナ @gathena1が
“「空」=「神」=「全宇宙」=「1個の光子」”を布教。
アテナ=ミネルバが「一者への帰一」思想(典型的な新キリスト教=メーソン教)で空の神格化というタブーを犯し、支配層が嫌う空の思想=仏教の中核を破壊
。 @wolvesknow

支配層が仏教の中で特に破壊したいのは、論理的思考を重視する姿勢と、一神教と新プラトン主義を完全否定する無記と空と無常と縁起の思想。 工作員はキリスト教か神道カルト(大本教系)信者だらけ。工作員でない人の思想は仏教寄りの人が多いです
@wolvesknow @lakudagoya

画像の意味は上から、
右目側でNWO色=緑髪の『隻眼の梟』=一つ目フクロウ
『不殺の梟』(『隻眼の梟』の父)も右目を強調
右目=太陽派(特にフランス)、緑=世界連邦カラー
フランスの女神は右目=太陽を見せるマリアンヌ


詳しくは前回の記事
支配層の最重要レベルのシンボルがフクロウ、アテナ、ミネルヴァ、一つ目! 最多は十字架!
『東京喰種』では、右目側でNWO色=緑髪の『隻眼の梟』=一つ目フクロウ が最強!    
「空」を神格化するなどして仏教を破壊する工作に注意!

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-107.html
をどうぞ。

菊池 ‏@kikuchi_8 5月11日
工作員連中がよく使う詭弁の一種。→ストローマン「議論において対抗する者の意見を正しく引用しなかったり、歪められた内容に基づいて反論するという誤った論法、あるいはその歪められた架空の意見そのものを指す。藁人形論法ともいう。」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3 …

菊池 ‏@kikuchi_8 8月24日
工作員業界の「工作現場」の主力「中級工作員」の手口。①レトリックを使いひたすら対象の貶め②詭弁の多用。特に対象の主張を歪めた上で攻撃する「藁人形論法=ストローマン」がよく使われる。③議論や対話ではなく相手を論に詰まらせることのみを目的にひたすら質問を繰り返す。詭弁と修辞が武器。)

六道輪廻の枠組みに植物は含まれない。植物は意識を持たず、輪廻転生しない。
植物にも生命組織はあるが中有の意識が来世に再生する拠りどころとはならない。
生きとし生けるものすべて(一切衆生)とは、意識のよりどころとなっている生き物全部(一切有情)ということであり、植物はその中に含まれない


・風(ルン)
=気体エネルギー。風は心を乗せて動くことができるが対象を認識する機能はない
心には対象を明らかにして認識する機能があるが、自分で動くことはできない。
心は、五感に依存した心(根識)と、心自身に依存した心(意識)にわけられる。いずれにしてもその拠りどころとなる風を必ずともなう。
仏教哲学でいう「意識」とは、心そのものに依存した識であり、外側の対象は必ずしも必要ない。

・倶生の大楽(くしょうのたいらく)
=空性を直感的に理解している意識の状態。きわめて微細な幸福感であり、私たちが日常に体験するさまざまな「心地よい」感覚の根底にある潜在意識。

・仏陀という理想の境地を実現できたら、私たちは、大まかに整理すると、
法身(ほっしん。仏陀の心)と色身(仏陀の身体)に分かれる。

法身
=すべての存在を知りつくす完璧な智慧であると同時に、全宇宙に遍満する究極的な真理でもある。

色身は報身(ほうじん)と応身(おうじん)に分けられる。
報身は仏陀の智慧の力で集められた微細な風によって構成され、宇宙の頂点というべき場所から生きとし行けるものすべてを大慈悲のまなざしでご覧になっている。
そして、実際に救済の手を差し伸べる必要性に応じて、あらゆる場所へあらゆるときにあらゆる姿で化身を現わす能力を持っている。そのような化身を応身という。

・仏性(如来蔵)
=生きとし生けるものすべてに具わっている、仏陀の境地を得られる可能性。
仏性の正体は、「心の空性」。
普通の人間の心は、業と煩悩で非常に汚れているが、心自体には、業と煩悩で汚染されたものたらしめている本質は存在しない。
つまり、業と煩悩で汚染された状況は絶対不変のありかたではない


・「六座グルヨーガ」では、まず眼前の虚空に自分のラマをツォンカパ大師、またはお釈迦様の姿で顕現させ、その周囲にさまざまな聖者や本尊や菩薩などが集まっている様子をイメージし、それらを対象に帰依の祈りなどを捧げる。
そして、生きとし生けるものすべての幸せを願い、そのために自分自身が仏陀の境地を得よう……と誓願を立てる。そのうえで、自分の前に顕現したラマや聖者たちから「菩薩戒」を授かった……と自覚する。これは実際に灌頂などでラマから菩薩戒を授かったことの、いわば追体験。
続いて、仏性を想起する。
自分はすでに志も立てたし、それに基づいて菩薩戒も受け、その結果これまで眠っていた仏性が今こそ目覚めたのだ……と強く思念し、「将来必ず仏陀になる」という決意を新たにする。
心の空性を瞑想しながら、眼前に展開していたラマたちの集まりを自分自身へ修練し、それによって自分の諸々の煩悩が浄化された……と思念する。
ここまでが「六座グルヨーガ」の準備段階の瞑想。
こうして空性を瞑想している状態から、眼前の虚空に蓮華・月・太陽を重ねた宝座をイメージし、その上に自分のラマを持金剛仏父母尊の姿で顕現させる。
本尊の姿などを、視覚の識で見ようとしてはいけない。
意識で思い描いて把握しないといけない。
目の前の仏像を見るのと同じように、瞑想すべきものを目で見ようとしたのでは、正しい瞑想にならない。
瞑想のときに目を完全に閉じてはならない。
瞑想すべき本尊の姿を目で見ようとしていると、実際に目の前に見えている別の風景が気になり、つい目を閉じてしまう。
しかし、意識で思い描いて把握することに集中できれば、実際に目の前に広がっている風景などは全然気にならなくなる。
意識とは五感に頼らず、心そのものに依存して認識する
ことである。
意識にも概念的思考と直感的認識の二種類がある。
瞑想の最初の段階では、概念的思考を交えながら、「身体の色は青で、手に金剛杵と鈴を持って、胸の前で交差し……」という具合に思い描いていきます。
しかし、瞑想を何度も反復して習熟度が増せば次第に概念的思考を減らしても、直感的に認識できるようになります。
最終的には一瞬で本尊の姿を明確に顕現させ、全体像も細かい部分も直感的に把握できるようになる


“「視覚ではなく意識で、しかも次第に直感的に……」というのが、第一のポイントです。
第二のポイントは、「向こうから現われるのではなく、こちらから向こうへ置く」ということです。瞑想の中で、「自分の意思とは関係なく、本尊などが向こうから突然出現した」というような神秘体験は――何らかの印や徴候と認められるケースも稀にあるでしょうが――多くの場合、修行者の妄執が生み出した幻覚にすぎません。それゆえ、実践の正しい拠りどころとして、ほとんど信頼できません。また、実際にそうした幻覚が現われなくても、あたかもそうであるかのごとく瞑想することは、間違った方向へ心を慣らすばかりなので、いくら実践しても望ましい成果を期待できません。そうした突然の神秘体験に執着せず、あらかじめ自分の意思で「こういうふうに瞑想しよう」と計画を立て、それに従って意識の力で本尊の姿を認識対象として確立し、それを繰り返し瞑想して習熟することが肝要です。
では、信頼できない神秘体験と正しい瞑想の成果を区別する基準は何かといえば、「その瞑想に十分習熟したとき、いつでも意のままに同じ内容を再現できるか否か」という点です。もちろん最初からは無理ですが、本当に瞑想に熟達した密教行者なら、複雑な曼荼羅を――どんな大きさにでも――瞬時に再現できるといいます。「こちらから向こうへ置く」という感覚で瞑想するからこそ、習熟すれば自在に再現可能となるのです。”
p.92-93

野狐禅も野狐瞑想も駄目ってことです。スピ信者が薬物でヒャッハーでハイな状態になる瞑想や禅をしたり賛美したりするけど、彼らが歩んでいるのは邪道で危険な道です。単なる狂人になってしまいかねませんからね。単に気がヘンになっただけです。
そもそも仏教は心の平安を目指しているのに、ヤクでハイになったら駄目でしょ。
やっぱりスピ信者は、キリスト教によって改悪されてしまう前の真のインド思想なんて勉強しないんでしょうね。
偽物を崇めて「覚醒した!」って笑えませんな。
「別の価値観に洗脳された! 勘違いして選民思想を持った!」の間違いでしょ。
『魔法入門』でも別人格を出現させたりするときは絶対に意識的に自覚的に行なわないといけない、と何度も注意しております。でないと廃人になってしまったり、別人格に乗っ取られてしまいますからね。
修行方法が書かれていても、ちゃんと危険性と注意点を明記しないものは避けましょう。精神病院で精神病が治らないことは本ブログ読者ならよくご存じでしょう。
ちなみに、『魔法入門』に書かれていることの元ネタの多くはインドのヨガと密教でしょうね


第三のポイントは、本尊の身体の質感。
仏像や仏画を見て参考にしながら本尊の身体を意識で思い描いていくが、鍍金の立体や紙の平面のごとくイメージしてしまいがち。しかし、実際の本尊の身体は、微細な風(ルン)を集めて成立したものであり、そのエネルギーが光となって顕現している。
それゆえ、瞑想の対象の本尊も、光でできた身体として思い描くことが大切。
けれどもぼんやりした不明瞭なものではいけない。目の前に本当に座っているように、手を伸ばせば触れられるように、きわめてリアルに、明確に顕現させる必要がある。しかもそれを認識しているのは視覚や触覚ではなく、あくまで意識である。

眼前の虚空に、自分のラマを持金剛仏父母尊の姿で顕現させた。
そのように瞑想した本尊などのことを密教用語で「三昧耶尊」という。
この三昧耶尊と同じ姿の「智尊」というものをお招きし、手に印を結んで真言をとなえながら、三昧耶尊と一体化させる。
ラマと本尊を完全に一心同体として瞑想することが最も重要な秘訣。
眼前にラマを持金剛仏父母尊の姿で瞑想し、智尊と一体化させたら、祈願や供養を捧げる。それを繰り返して善なる意思の力が十分に蓄積されたとき、ラマである持金剛仏が自分の頭頂へ降りてきて、自分と完全に一体化する……と観想する。このとき必ず空性を瞑想しなければならない。
まず頭頂へ降りてきた持金剛仏を対象とし、その実体性を追求することに心を集中させる。そうすると実体性を何一つ見出せないので、ついには虚空のごとき感覚になる。
同様に自分自身の実体性を追求すれば、やはり何一つ見出せないので、これも虚空のごとき感覚になる。そのとき、虚空と虚空は無差別であると強く念じ、虚空のごとき空性というあり方において、持金剛仏と自分の一体のものとして瞑想する。
また、そのように瞑想している心自体も、やはり空であるゆえに一体となり、そうした体験がこれこそが「倶生の大楽」(くしょうのたいらく)にほかならず、これこそ本尊の法身である……と強く思う

この状態から、ラマの導きの力、そして前もって蓄積された善なる意思の力により、自分の法身から色身の状態へ立ちあげる。
このときの自分の色身の姿は、前にラマを持金剛仏父母尊として瞑想したのとまったく同じ。
こうしてラマの助けを借りながら、私が持金剛仏であるという自覚を得られるようにしていくのが、六座グルヨーガの特色といえる。
現実の自分のあり方を顧みて、菩薩戒と三昧耶戒を守った生活ができているかどうかチェックする必要があります。戒律に反する行ないは、なるべく早めにそれを自覚し、懺悔の瞑想で浄化することが肝要

本尊と一体化する修行は選民思想を生むので、それを防ぐ為に禁欲と自省と道徳を養うことが修行で必須とされます。
欧米の支配層はインド思想を取り入れる癖に、我欲を抑えないからあんな滅茶苦茶をやるわけです。支配層が禁欲しない✝カースト制度✝なんて最悪です。


本尊を理想の自分におきかえたらまんまイメージトレーニング。
理想の自分を召喚して自分に憑依させる密教的魔術を現代ではイメージトレーニングといいます。「降りてきた」ではなく、意志の力で「降ろす」術



“仏教の修行というものはすべて、お釈迦様を信じて拠りどころとしなければ成立しえません。この点で、仏教は、決して単なる人生訓や思想哲学や瞑想テクニックではないのです。
 しかし、「理屈抜きにただ信じる」というわけではない点で、他の多くの宗教とは趣を異にしているといえるでしょう。第二章で引用したお釈迦様の言葉を思い出してください。「比丘や諸々の賢者たちよ、金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊敬のゆえに受け入れてはならない……」。“
p.192



ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/クンチョック・シタル/齋藤保高 共著『チベットの般若心経』春秋社

・法(ダルマ)という用語には、
①真理、教え
だけでなく、
「存在」という意味もある。
三宝は①真理、教え、

一切法、諸法は②存在
に該当する。
あらゆる存在すべてを含めて一切法あるいは諸法という。
存在するといえるものごと(有[う])のすべてが、一切法(諸法)である。

昨今の一般的な傾向として、仏教の内容を説明するとき、専門用語の使用を極力避けるようになってきている。著者も基本的には賛成であるが、ある程度本格的に学んで実践しようという場合、仏教用語の使用を避けていると、かえって混乱を招いてしまうケースも多い
例えば、五蘊を「五つの集まり」と表現したとする。
「五つの集まりの範囲は、あらゆる存在の範囲よりも狭い」
(仏教用語なし)

「五蘊の範囲は、一切法の範囲よりも狭い」
(仏教用語あり)
と表現すれば無用な誤解を避けられる。
五蘊を五つの集まりと表現したら知らない言葉はなくなるが、五蘊の中身を知らなければ結局何のことだかさっぱりわからない。
五蘊の、意味、実例、分類などを知ったうえで、ある任意の存在についてそれが五蘊の範囲に入るか否かを正しく判断できるようになったとき、五蘊を本当に理解したといえる。
知らない言葉が出てこないように置き換えたからといって、内容を正しく理解しているとは限らない
仏教用語を使わないことが、強い関心のある読者にとって、本当に親切なやり方なのだろうか。

・有は、「正しい認識(量)の対象(所縁)となるもの」と定義される。
一切法の範囲は、仏陀の智慧として知られるべきもの(一切智智の所知)の範囲と完全に広さが一致する。この一切法の中に含まれなければ、それは全く存在しないもの(畢竟無)である。
仏教論理学の伝統的な表現では、畢竟無の喩例として、「虚空の蓮華」とか「兎の角」などをあげている。これらは幻覚や誤った認識によって知覚されるかもしれないが、正しい認識の対象とはなりえない。
また、「宇宙の創造神」といった概念も、仏教の立場からすれば、誤った見解の産物にほかならず、いかなる意味でも存在するとは認められないので、一切法の範囲外に位置づけられる。

・①境(きょう)
=対象
=慧(え。知性)によって知るべきもの。

②所知
=知るべきもの
=慧の境(知性の対象)と認められるもの。

③所量
=量るべきもの(量る=認識して理解する)
=量(正しい認識)によって了解(りょうげ)すべきもの。

④有
=存在するもの
=量(正しい認識)によって縁じるべきもの。
(縁じる=心を対象へ向けて認識する)

⑤成実(じょうじつ)
=基体として成り立つもの
=量(正しい認識)によって成就(成立)しているもの。


=存在
=自らの体(存在性)を具えるもの


⑦所縁
=縁じるべきもの(縁じる=心を対象へ向けて認識する)
=量によって増益(ぞうやく。付加)を断つべき基体。

これら七つの用語はすべて同義であり、範囲の広さは一致する。
⑦所縁を補足説明。
例えば、ある人がリンゴというものをよく知らなければ、ナシを見た時にリンゴだと思うかもしれない。そのように誤った知識によって把握される要素が、「リンゴに増益(ぞうやく。付加)された部分」である。リンゴをよく知っている人は、この増益(ぞうやく。付加)さえた部分を全部排除して、本物のリンゴだけを選ぶことができる。つまり、リンゴ理解している量の所縁とは、その量が、増益された部分を全部排除する形で、これがリンゴだと把握する対象である

・一切法は有為法と無為法にわけられる。有為法とは成立・維持・消滅(成・住・滅)という三つの性質(三相)を有する存在で、原因と条件(因・縁)に依存して成立する。このように因と縁によって作られたことを「所作性(しょさしょう)」という。所作性ならば、あり方として無常である。
死や破壊は無常のわかりやすいあらわれである。さまざまな因果関係の中で一刹那ごとに変化していくあり方そのものが、無常という意味にほかならない。それゆえ、脆く儚いものも、堅固なものもあらゆる有為法は無常だということになる。
また、有為法であれば、それ自身が因や縁となることにより、他の有為法へ何らかの効果的作用(功用[くゆう])を及ぼしうる
。このような存在を「事物(じもつ)」という。
つまり、有為法と所作性と無常と事物とは同一の存在を別々な側面から見た表現であり、範囲の広さはいずれも一致する。
範囲の広さが一致するとは、有為法なら必ず無常であり、無常であれば必ず有為法である、という二つの主張命題が両方とも成立することだ。
五蘊とは、あらゆる事物を色・受・想・行・識という五つの集まりに分けたもの
であり、五蘊の全体と有為法とは範囲の広さが一致する。

読み方を通常と違うものとすることで、意味を区別できるし、口頭で話しても混同されないようにできます

自性(じしょう)
=ものごとの本質
であるが、経文の中での自性は、ものごとの本質という意味に加えて、
「他の存在から独立した基体」、
「そのとおりに真実として存在すること」
という非常に強い概念を含んでいる。
もしあるものがそのような自性として成立しているならば、そのものは他に依存することなく独立して存在し、恒常不変で絶対的な性質を有することになるだろう。
これは、仏教哲学で「無我」というときの「我」と同じ意味だ。もちろん仏教でも、普通に我というときは、単に「私」や「自分」という意味で用いられる。
一般的な我なら無我という言葉で否定すべき理由もない。
私という人間は単純に存在するが、そうした私という概念にはしばしば普遍的な実体性が付与される。
「他から独立した実体として、自分が存在している」とか、
「私の概念のとおりに、真実として自分が成立している」との思いは、日ごろから「私」や「自分」という言葉を口にするときにさえ、その裏付けとして潜在的に心の中で芽生えているはずだ

ものごとが存在しているというとき、その存在の確からしさは一様でない。
それを大別すれば、
相対的な存在の次元である「世俗」、及び
絶対的な存在の次元である「勝義」(しょうぎ)という二つの段階を設定できる。
世俗の次元の存在は、それ自体の力で成立しているかのように顕現していても、実際には他のもの――因や縁など――に依存することで初めて成立し得る。独立した実体ではないので、存在の確固たる根拠を、それ自身の中に何一つ見出せない。
本当は他に依存しなければ成立しえないものなのに、独立した実体であると何の疑いなく自然に誤認してしまう。これはあらゆる凡夫の衆生に共通する、本能的な思い込み
である。
一方、勝義の次元の存在は、顕現と実際のあり方との間に、そうしたズレがまったくない。勝義の次元において、もし、それ自体の力で成立しているように顕現している何かを見いだせるならば、それは実際に他のものからまったく独立し、堅固な実体として成立しているはずだ。
私が単に存在することは、世俗の次元においてである。
実体性を虚構する根源的な無知を「無明」という。我(私)という思いを「我見」、私のもの(我所)という思いを我所見という。
両者を合わせて、有身見(うしんけん)といい、衆生が輪廻転生を繰り返す第一の原因と位置付けられている。
有身見を中心とする無明をもとにして凡夫の衆生はさまざまな煩悩を生じる。

「自相」(じそう)
=対象それ自身の側で成立しているとされる固有の性質や作用で、無明によって対象の上に虚構されたもの。
つまり自性の一種なので本当は成立していない。
煩悩は、虚構された事物の自性のみに対して働く


世俗と勝義は、瓶を例に挙げると、両者とも瓶という同じ一つの存在の上で吟味すべきであり、眼前の瓶は世俗、そこから遠く離れた世界が勝義だなどと誤解してはいけない

一方が偽物で一方が本物だとか、イデア界だとか、西洋的二元論でとらえてはいけません

自性の否定のされかたで注目しないといけないのは、基体である瓶(あくまで一例)と否定対象である自性が、別個のものとして設定されえないという点だ。
瓶に自性がないというのは、瓶と自性の関係は、瓶の中に水がない、というようなものではない。そうではなく、瓶そのものが――いかなる部分も――自性として存在することはない、という意味で理解しないといけない。
無自性は絶対的な存在の次元の真理、すなわち勝義諦(諦=真理)であり、この真理を指して空性(くうしょう)という。
究極の真理のことを真如(しんにょ)や真実義(しんじつぎ)といい、あるいは法性(ほっしょう)や法界(ほっかい)ともいう。
無自性、勝義諦、空性、真如、真実義、法性、法界などの用語はすべて同義であり、無為法に属する。無為法であるならば、因や縁によって生じたのではなく、無常でもない。つまり、このような真理は誰かに創りだされたものではないし、時とともに変化するものでもない。一切法は本来から無自性、すなわち空なのである。仏陀が出現しようとしまいと、それを説こうと説くまいと、一切が空である点に何の変わりもない


無為法とは一切法のうち有為法に該当しない存在であり、成・住・滅の三相から離れている。因と縁によって作られたものではないから、「非所作性」であり、いつも変化することがないから「常」であり、それ自身が他の因や縁となって効果的作用を及ぼすこともないから「非事物」である。
無為法の例としては、空性や真如という言葉によって表現される究極の真理そのもの、輪廻から解脱して因果の束縛を離れた境地である涅槃、そして虚空をはじめとする概念的存在などがあげられる


諸法の無自性以外に実体としての勝義を設定してはいけない。
空性や法性・法界そのものを実体視してはいけない。
勝義において自性を何も見出せないなら勝義諦も得られない、と主張し、勝義諦や空性を所知(知るべきもの)として認めない立場は誤り。

「空」自体を神格化して崇めてはいけません

・分別
=名称や概念を交えながら対象を努力して把握する知
であり、このような対象把握のやり方を執着性という。

縁起
=他に依存して成立するというありかた。
一切法が自性として存在するかを追求すれば、虚空の如き空性にいきあたり、一切法が単に存在することを吟味すれば、すべて縁起と言うあり方で存在している点を見いだせる。
縁起
①因と縁に依存して成立すること
②部分に依存して成立すること
③分別による名称の付与に依存して仮に設定(仮説[けせつ])されたものとして成立
すること

部品の集まりが車であることも認められない。もしそのようであれば、分解された部品の集まりも車だということになってしまうからだ。
部品の集まりの上に設定された形状が車だということも認められない。車「の形」であり、形状は車「の属性」
であるからだ。

空によって否定すべきものは、他から独立した実体性であり、諸法が諦として成立することであり、諸法が自相によって成立することだ。否定すべきものの範囲が狭すぎるとき、諸法に何らかの実体性が認められ、諦として成立する何ものかが残ることになる。そのようであれば、常辺(じょうへん)という極端論へ陥り、輪廻への執着を完全には断ち切れず、したがって輪廻から解脱することは不可能になる。

名称の付与に依存して仮説されたものすら、その存在をまったく否定してしまう極端論を「断辺」(だんへん)という。断辺の見解は縁起の虚無的な方向での全面否定である。それにより、世俗において因果関係の成立も否定され、善悪の区別も否定され、三宝の存在も否定される。結果、三悪趣(地獄・餓鬼・畜生道)へ堕ちる因を作ることになるので、これは常辺より更に悪い見解と位置づけられる。
一切法は空である、という空の意味を、世俗においても絶対的な無と捉え、何も全く存在しないことと解釈するのは断辺に陥った理解である。
常辺と断辺の二辺から離れ、空によって否定すべきものの範囲を適切に設定できれば、空性と縁起の関係も正しく理解し得る


“知恵者らよ、自性が空という空性の意味は、縁起の意味である。しかし、功用が空(効果的作用がない)という非存在の意味ではない”(本書p.54)
とツォンカパは『菩提道次第広論』(ラムリム・チェンモ)観の章にて、聖教(しょうきょう)を引用して、強調している。

(※ツォンカパ[1357-1419年]はチベット仏教最大の学僧。
代々のダライ・ラマの所属する宗派ゲルク派[黄帽派]の開祖。
ツォンカパ=葱の地の人=「葱畑の人」。
守護尊[イダム]は文殊菩薩と
ヴァジュラバイラヴァ=『金剛の畏るべき者』=大威徳明王。
大威徳明王=『死神ヤマをも殺す者』=降閻魔尊)

四法印(しほういん)に、
①一切の有為は無常である(諸行無常)
②一切の有漏は苦である(一切皆苦)
③一切の法は無我である(諸法無我)
④涅槃は寂静である(涅槃寂静)

と説かれている。
無常なる有為法と無我なる一切法の範囲の広さが異なる点に留意。
仏教徒か否かを判断する基準が三宝への帰依であるのと同様、仏教思想か否かを判別する基準が四法印である。
ただし、無我の意味は仏教哲学の浅深によって解釈が異なる。最も広義には、「常住・単一・自在なる我」を否定することを指す。自在とは他に頼ることなく、全く自律的に存在することをいう。
有漏法(うろほう)とは有為法の中から道諦に属する法を除いたもの、
無漏法は無為法と道諦に属する法である。
涅槃は滅諦であり、無為法に属する。

同一の存在に別々な側面があることを「同体異面」という。

・補特伽羅(ふとがら)
=心を有するものとしての存在。
身体は色(物質的な存在として現われるもの)に、
心は知(精神的領域。心。対象を明らかにして把握して理解するもの)に属する。
補特伽羅(ふとがら)を分類すれば仏陀と有情(うじょう)になる。
有情とは心を有する生き物のうち、仏陀の境地を得ていないものの総称。

“植物は、有情の中に含まれない。仏教では、植物は生命体であると認めるが、心を有しているとは考えない。したがって、植物が輪廻転生することはあり得ない。植物は、色の範疇に属し、無生物とともに宇宙全体を構成する環境的な要素(器世間[きせけん])と位置づけられる。”p.73
(植物は輪廻転生しないから食べてOKなのでしょうね。植物も食べたら駄目なら修行完成前に死ぬしかありませんからね。六道に植物道はありません


知を分類すると、心王(しんのう)と心所(しんじょ)の二つになる。
心王は精神的な分野において主たる役割を果たしている中枢部分。
阿毘達磨(アビダルマ。仏教の教説の解釈・注釈書)では、その状態を、
①善心
②不善心
③無記心(善でも悪でもない中立の心)
などに細かく分類している。

③が二元論の罠を打破するために重要な概念です)

・心所は心王の働きにともなって派生する精神作用で五十一に分類される。

・心不相応行
=色と知のいずれにも該当しない有為法であり、補特伽羅、及びそれ以外の存在(時間、瓶の無常など)に分けられる。

・根=知覚機能。

勝義諦と世俗諦の二諦。
諦=真実。
勝義=絶対的な存在の次元。
世俗=相対的な存在の次元。
何らかの存在、例えば瓶が「諦として成立している」場合、世俗の次元で我々が見てきたとおりのものが、勝義の次元においても真実して成立していることを指す。
しかし、実際に諦として成立するものは何一つ存在しない。
一切法が諦として成立しないという、そのこと自体が勝義の次元における真実であり、それを勝義諦という。
したがって、瓶という存在について考えたとき、勝義諦とはすなわち瓶の空性である。
一方、世俗の次元において、瓶は瓶として存在するので、この場合の世俗諦とはすなわち瓶である。しかしこれは、瓶の真実のありかたである瓶の無自性とは別の現われ方で顕現したものなので、真実として認められない。しかし、瓶の真実のあり方を追求するというようなことをせず、世間の正しい認識によってのみ判断した場合、一応真実と認められるだろう。
そのように、あくまで、「世間の側からみて諦であるところの、世俗の次元の存在」という意味において、世俗諦と呼ばれるのだ。
聖者にとって、瓶は、諦ではなく「単なる世俗」として認識される。
この単なる世俗という意味こそ、空である瓶が縁起として幻の如く存在すること――換言すれば名称の付与に依存して仮説されたものとして存在すること――にほかならない。
世俗諦は、それを諦成就と思い込む世間の迷乱した認識によって諦とされるのであり、決して実際に世俗の次元で諦として成立しているわけではない。もしそのように誤解すれば、中観帰謬論証派の立場――世俗においても、諸法や諦や自相として成立する余地を完全に否定する見解――と著しく矛盾することになる。

“勝義諦すなわち空性を体得するためには、まず言葉によって概念的に理解するしかない。我々は、この点を肝に銘じておく必要がある。具体的には、最初に教えをよく聴聞し、次にその論拠を徹底的に考察し、それらを通じて概念的に確立された空性理解をもとに、止と観の修習を重ねることが肝要だ。もし、「勝義諦は言説を超越した次元なので、概念的に理解しようとしても無駄だ」などと誤解し、聞・ 思・修の過程を軽んじてひたすら禅定を重ねたとしても、有暇具足の貴重な人生を無駄にするばかりで、一向に空性を体得することはできない。そうした実践至上主義を厳しく戒めるため、あえて「邪な妄分別によって悪道(三悪趣)へ赴く」という強い表現を用いた、そのチャンドラキールティの密意をよく汲み取るべきだろう。”
p.57

瞑想だけじゃ悟れないってことです。ひたすら座禅組んでも駄目ってこと。いきなり言葉を否定しても駄目。考えることも大事

チャンドラキールティ[梵: Candrakīrti]
=月称[げっしょう]。
7世紀なかばのインド仏教の中観派に属する。
空の思想と対立する考えには帰謬論証[きびゅうろんしょう]で対応すればよいとした。

チベットの般若心経/聞・思・修の過程
http://mitsubachi-bros.seesaa.net/article/154958416.html
“※有暇具足(うかぐそく)第四章の註(12)P221~
八つの有暇と十の具足を合わせたもの。仏教を修行するのに適した条件。
「八有暇」とは、次に示す八つの悪い条件(八無暇、八難)から離れた境涯。すなわち、(1)地獄に生まれる、(2)餓鬼に生まれる、(3)畜生に生まれる、(4)長寿の天に生まれる(長寿と享楽や禅定に甘んじて、仏道修行に努力しがたい)、(5)仏教の実践者である四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)が活動せぬ辺境に生まれる、(6)仏陀が出生せずその教えを知らぬ時代に生まれる、(7)知覚能力が働かない、(8)邪険を抱く。
「十具足」は、(1)人間に生まれる、(2)四衆が活動する場所に生まれる、(3)教えを理解して修行する能力が具わっている、(4)五逆(父母の殺害・阿羅漢の殺害・仏身を傷つけること・僧伽の和を破ること)を犯していない、(5)律をはじめとする三蔵への信心を抱いている、(6)仏陀が降誕した、(7)仏陀が正法を説いた、(8)説かれた法が現在まで存続している、(9)上師や修行者たちがその法を実践している、(10)周囲に人々の助けも得られるという十の条件で、(1)(1)~(5)を「自身の五具足」、(6)~(10)を「他の五具足」という。”

六波羅蜜/チベットの般若心経
http://mitsubachi-bros.seesaa.net/article/183458328.html)
「禅定」とは、心を対象に集中すること。
 禅定の実践では、対象を把握して保持する「臆念(おくねん)」、及びそれが正しくなされているかを調べ る「正知(しょうち)」という、二つの心の働きが重要である。カマラシーラ(蓮華戒)の『修習次第』中編では、「いかに所縁をよくつかんでいるか、それと も沈み込んでいるか、それとも外境に高揚のせいで散乱しているかと[心を]観察すべきである。<中略>臆念と正知の策によって、意の象を、その所縁の幹へ 縛りつけるようにせよ。いつか昏沈(こんじん=沈み込み)と掉挙(じょうこ=昂ぶり)がなくなり、その所縁へ心が正しく向かうように見えたときこそ、努力 を緩めて平等になし、その時点から欲するまで[そうした状態に]留まるのだ。そのように止(心の集中)に習熟した者の身と心が軽安になり、望むまま所縁に おいて心が自在になったとき、止は成就したのだと知るべきである」と説かれている(この中で「意の象」とは、未熟な心を野生の象に喩えた表現。また「軽安 (きょうあん)」とは、止の実践を通じて心身を制御し、その結果として、働きが鈍重で意のままにならぬ状態から脱すること。まず心軽安を達成し、それから 身軽安を実現するという
)。”)

空は五蘊を我のものとする見方の否定。
無我は五蘊を我とする見方の否定。
空は「五蘊を自分の家の如く考えても、その中に持ち主たる我を見いだせない」ということ。
常住・単一・自在なる我の否定。

・有身見(うしんけん)とは「我と我が物」に執着する誤った見解。「私だ」と思う対象を自相として把握する「我見」、
及び身体などを「私のもの」と考えて自相として把握する「我所見」に分けられる。
有身見こそが、自分が来世に輪廻世界へ生まれる実際の根本原因である。これを無明という。

・辺執見(へんしゅうけん)とは極端な考えに執着する誤った見解。極端な考えとは、諸法が諦として成立すると考える「常辺」、
諸法が単なる言説としても存在しないと考える「断辺」、
諸法が諦として成立するここと言説においてないことの両方があると考える「有辺」、
諸法が諦としてないことと言説においてあることの両方ともないと考える「無辺
」など。

甚深四句の法門(じんじんしく の ほうもん)
とは、「色は空である。空性は色である。色より別の空性ではない。空性より別の色でもない」のことである。
「色は空である(色即是空)」という経文は、その中に「自性が」という言葉が省略されていると考えるべきだ。それゆえ、色は自性が空である、あるいは、色は無自性である、と言い換えたほうがわかりやすい。したがって、色即是空は勝義諦を示す言葉として解釈できる。
「空性は色である(空即是色)」という経文で、空性とは、色の空性のことである。
色の空性そのものが、世俗の次元では色として幻の如く存在する。
換言すれば、色は自性がないゆえに、勝義の次元では虚空の如き空性として認識されるしかないけれど、そうでありながら世俗の次元では色として顕現し、色であると認識されるのだ。
したがって、この「空即是色」という経文の全体は、世俗諦を示す言葉として解釈できる。

「色より別の空性ではない。空性より別の色でもない(色不異空。空不異色)」
とは、色とは別のものとして、色の空性があるわけではないし、また色の空性とは別のものとして、色の存在が成立しているわけでもない。もし、色には自性がないという、そのこととは別に色の空性があるならば、それは諦成就(他に依存せず自らの力でそのとおり成立していること)の空性なってしまう。
それゆえ、色や空性が諦として成立することを否定するのが「色不異空。空不異色」の意図である。
色と空性は全く同一のものではない。
勝義・世俗の二諦は、本質として同一の存在を別々な側面から見たものにすぎない(同体異面)。いま説明してきた経文では、空が勝義諦、色が世俗諦に該当する。
色は空であると説いて常辺を排除し、
空性は色であると説いて断辺を排除し、
二辺の極端論から離れた中道を提示している。
(勝義と世俗を厳密に分けないので、プラトン流のイデア界とこの世界というような二元論を排除しているのが重要
です)

世俗の次元で因果関係の効果的作用は確かにある。
常辺と断辺を排除することにより、
①因果関係を絶対不変のものと誤解する運命論と、
②空によって世俗の因果関係も否定されると誤解する虚無論という、
両極端へ陥る危険性を摘み取る
ことができる。

無為法の実例は、虚空・涅槃・空性など。これらは因果関係を超越し、恒常的に存在する。しかし、こうした無為法もまた、独立した実体として成立しているわけではなく、縁起として存在するにすぎない。
無為法は部分に依存し、及び分別による名称の付与に依存して仮説されるからである。それゆえ、無為法は縁起である。縁起として存在するならば必ず空である。空性も空である(空空性)


「不生不滅。不垢不浄。不増不減」
不生とは、一切法が実体として成立しないゆえに本来から実体性をもって生じない、という意味。
因や縁によって単に生じることと、実体性をもって生じることとの区別をよく認識しておかなければならない。
実体としての生起を排除し、常辺を排除。
因や縁による生起まで否定したら、有為法は全く生じないことになり、断辺に陥ってしまう。
不滅とは、実体性をもって生じないのだから、実体性をもって滅することもない、という意味。因や縁によって滅するが実体としての滅ではない。
不生不滅とは、そのものが縁起として存在している
、ということである。
(不垢不浄と不増不減は以下同様なので省略します)

・「五蘊がない」という箇所は、そもそも「世俗の次元で五蘊がどのように存在するか」ということなど論議の対象としていない。
つまり、「五蘊がない」という経文は、そのような高い境地の三昧における観じ方を表現したものであり、世俗の次元での有無の論議とは区別しないといけない。世俗の次元でも五蘊がないことになると、非常に危険な虚無論へ陥ってしまう。「得るということもなく、得ないということもない」という箇所まですべて、この世俗次元の有無を扱っていないことをよく踏まえて解釈すべきである。般若心経において最も誤解しやすい部分であろう

・法境(境=認識対象)は、意根(精神的な領域を知覚する機能。根=感)のみによって把握される。

四摂事(ししょうじ)
①布施(他者へ惜しみなく施すこと)
②愛語(心のこもった優しい言葉で語りかけること)
③利行(りぎょう。相手のためになるように行じること)
④同事(どうじ。相手と同じ立場で修行すること)


村手 さとし ‏@mkmogura 2012年7月8日
@lanekota 今さら、やばいとか気にしないよ。つまり、すごい数なわけよ。例えば寺も、すでにキリスト傘下であって、愛語という言葉を全国の寺で使う。うちの寺もよく出てくる禅宗なのにね。これは無量寿経というなかの和顔軟語というのを、愛にむりやりすり替えたわけ

村手 さとし ‏@mkmogura 2011年10月28日
まあ、ブログでも最後の方に書いたんだけど、高野山って真言宗の全てを焼き討ちした秀吉のお母さんの寺なんだよ。時代も何も、宗派も真言宗とは関係ないよ。空海=弘法大使ってことだが、そもそも弘法=仏教をつたえるえらい坊さんって形容詞でしょ?神や、アーリアと一緒同じ手法

木村 仁 ‏@mucunren 7月17日
命を攻撃する事は悪いことです。愛は何かを好んで可愛がるので、一見攻撃とは無関係で悪とは無縁に見えます。 しかし、普通の人が言う「愛」は大体執着による「渇愛」です。 渇愛ならば愛する者を失えば悲しみ、傷つけられれば怒り、恨みます。 つまり渇愛は攻撃などの苦と表裏一体なのです

菊池 ‏@kikuchi_8 12月1日
1)仏教への西洋的神秘思想の混入を破すために仏教とグノーシス主義の違いを指摘する。グノーシスでは物質と精神の二元論で、物質は悪とされそこから文字通り脱却して純粋な霊の世界に至ることを目標とする。仏教では、渇愛とともに嫌悪も執着とされるので、物質を嫌悪し憎み悪と断じることはしない

y_hotta(桑名市) ‏@JR2ENQ 2011年2月11日
・・・この愛が仏教用語です。仏教では「一切苦悩を説くに愛を根本と為す」とあるように、愛は迷いや貪りの根源となる悪の心の働きをいいます。のどが渇いたときに水を欲しがるような本能的な欲望で、貪り執着する根本的な煩悩を指します。愛欲、愛着、渇愛などの熟語は、そのような意味を持っています

仏教ちょっと教えて - 仏教の「愛」について - Biglobe
http://www2s.biglobe.ne.jp/~posteios/PROJ_C023.htm
“この題だけを読むと、例えば「近代文学における愛」とか、「異文化交流における愛」といった「愛」の姿を思いおこされる方もおられることでしょう。しかし、少しでも仏教に関心を持ったり、あるいは知識を得た人ならば、次のような疑問を抱いたことがあろうかと思います。

 たとえばキリスト教では「愛」という言葉を重視します。しかし、仏教では「愛」という漢字を使う場合、渇愛という熟字に代表されるように、煩悩を意味する言葉として使われ、あまりいい言葉として扱われていないということがあります。

 さらに、もう少し突っ込んで考える人は、このような矛盾も感じるでしょう。

 愛という言葉が仏教において否定的な概念ならば、『無量寿経』の「和顔愛語」という仏典の言葉の「愛」は、一体どう解釈したらいいのだろうかということです。ちなみに、高楠順次郎博士編集の『大正新修大蔵経』(全百巻)に当たってみると、「和顔軟語」となっています。欄外の注には、「軟=愛」と表記されています。しかし、現在流布している比較的入手しやすい『無量寿経』のテキストや資料には、「和顔愛語」となっています。いったいいつから「軟」が「愛」に変わったのでしょう?そして、そのような経緯は、西洋文化の交流と関わりがあるのでしょうか

 そこで、手近にあった仏教思想研究会編の「仏教思想1愛」平楽寺書店(1975年初出・1992年第4刷)を参照してみようと思います。

 同書の目次を見てみますと、参考となったり、興味を引かれる論文に次のようなものがありました。

  はしがき
  第一章 「愛」の理想と現実  中村元
  第三章 初期大乗経典にあらわれた愛 藤田宏達

 これらの章を抄出しながら、簡単なコメントを整理するということで、「仏教における『愛』」についてまとめてみたいと思います。

 「はしがき」には、中村元氏が、次のような提言をされています。

 まず、西洋の近代思想が、抑圧的な中世の教権に対する反抗として人間の愛を正面きって押し出してきたことがあげられます。また、アジアでも、例えばインドでは、六派哲学に対する反抗として愛(preman)が強調されガンディーに至るまで、愛は人 間の最も尊ぶべきものと考えられています。日本でも、儒学の「仁」「礼」を中心にして考えていたのに対して伊藤仁斎が愛がより根源的なものであると主張しています。

 さらに、現代は日本もそうですが、世界の精神的状況は愛を重要な価値基準としています。

 これに対して仏教学者は、仏教は愛に対して抑圧的・禁止的であると考えてきました。すると仏教は世間の風潮に敢然と抗争すべきものとなってしまいます。

 しかし、最近、日本の仏教系の学園には愛の字を用いたところが出てきています。(思いつくだけでも、相愛、仁愛などの真宗系の学校名があげられます)もし、そういう傾向が何の根拠もないままに進められたというのなら、世の風潮におもねったと いうことになります。また、もし仏典に根拠のあることならば、はっきりとした自覚をもって積極的に推進すべきでありましょう。

 このような氏の指摘には、私たちも大変興味をそそられます。しばらく、仏教学者の意見に耳を傾けてみましょう。


  「第一章 「愛」の理想と現実」の内容

 東洋の諸国においては、仏教の中心の徳として慈悲が説かれています。愛は、それと通じる時もあれば、異なることもあります。ここでは、全般的に仏教においてどのように愛が説かれていたのかが論じられます。

 愛という言葉には様々な使いかたがあるようです。愛 piya、priya、親愛 pema、preman、欲楽 rati、愛欲 kama、渇愛 tanha、trstna などです。私は、前三つは、その対象によって分類され(自己、他者、特定の個人)、後二つは、その内容によって分類され(性的愛、盲目的衝動的執着の愛)ているように思われました。

 仏教では、この渇愛が人間の愛の本体であり、苦悩の源泉であると考えられます。そして、この苦悩から慈悲の心が生まれるのです。自分の苦悩を本当に知る者が、他者の苦悩にも共感できるからです。そして、この慈悲が他者に対する無条件の究極の愛の姿として「無縁の慈悲」、つまり私が誰かに何かをしてやるという三つの条件を全く意識しないで他者を幸せにするものと説かれました。

 仏教の慈悲には人間的な愛の純粋性と共通するものがあります。それで漢訳仏典では、慈悲を愛と訳すことがあるというのです。これで、先の疑問も少しは晴れるというものです。しかし、慈悲は愛と全く同じという訳ではありません。愛が宗教的な自 覚で深められて慈悲となるからです。慈悲は、愛憎という対立を超えた、見返りを求めることのない絶対の愛の姿であり、しかも一切の生きとし生けるものにまで及ぶことを理想としています。

 ところで漢訳仏典の中にある愛には、様々な意味が与えられており、全く反対する概念がこの愛の一語で使われています。愛によって憂いが生じ、苦悩が生じることもあれば、心の喜ぶことであるとされ修めるべき徳とも見られているのです。

 特に人間関係において、やさしいことばをかけること、愛語が尊ばれます。それはやさしく言うこと、愛情こもったことば、やさしいことば、親愛のことば、親しみのある言葉で話すこと、あたたかい心のこもった言葉をかけることです。そこから、人びとに対してはやさしいことばをかけよ、という教えとなります。この場合、もちろん、愛欲の愛 kamaや渇愛の愛 tanhaというような自己中心的な愛と異なり、慈悲による利他の愛につながるものです。

 こういう慈悲の愛から出た言葉が愛語です。ある場合には、互いに愛し合うことという趣意で、愛語を相愛と訳されることもあります。

 こうして学んでみると、仏教の中で使われた愛の言葉は、そのまま慈悲になるのではなく、異なる性格をもつものです。愛は、一、恋愛・性愛ともに欲をともなうもの、二、独占しようとするもの、三、限界性があるもの、ということです。  しかし、愛は慈悲に通じるものであり、やがて慈悲へと深まっていくきっかけになるものといえるでしょう。


  「第三章 初期大乗経典にあらわれた愛」の内容

   初期大乗経典の中で代表的な経典とされるものについての論究がこの章です。原典の文献を読み込んでいるので、少し漢字が多くて難しく感じるかもしれませんが、ここではその中からいくつかを取捨選択して紹介いたします。するとそこに初期大乗の 特徴が見えてくるようです。

 まず、初期大乗経典では、愛のつく言葉は否定されるべき執着としての意味で用いられています。「愛着・愛欲・愛垢・愛縛・愛染・渇愛・貪欲・欲愛・染愛」などです。『無量寿経』の五悪段には、愛欲が六回現れます。

 こうした愛に対して初期仏教では、愛憎を捨てて離れることが説かれますが、大乗仏教ではこうした愛憎を超越するのが大乗菩薩の実践だと説かれます。つまり、無くすのではなく、それにとらわれない生き方を求めるということです。大乗では、愛憎にとらわれるのは分別に振り回されているからだと説くようになるのです。

   例えば『無量寿経』では、極楽世界に生まれた菩薩の姿を「等しく憎愛なし」と示しています。『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』(異なる時代の翻訳)では、「憎愛を遠離す」と訳されています。また、異訳『無量寿荘厳経』では、「愛なく著なし」と訳されています。

 しかし、初期大乗経典には、愛を肯定的に見る視点も色々と見いだされます。それは、人間関係を説く場面では愛は積極的に認められています。先に述べたように、愛の深まった姿が慈悲ですが、仏の衆生に対する慈悲を親の子に対する愛という比喩で表現される経典が『法華経』『維摩経』などに見られます。『無量寿経』には、菩薩が衆生のために不請の友(頼まれなくとも相談を解決してあげるよき友)となり、御法(おみのり)を説き聞かせることは「純孝の子の父母を愛敬するが如し」と、先の比喩とは逆に子の親に対する「愛敬」という表現がとられています。

 また、五悪段には父子・兄弟・夫婦が「恩愛」をもって思慕し、お互いに「相い敬愛」すべきことが説かれます。さらに、「聖を尊び、善を敬い、仁慈もて博愛」すべきことが説かれます。別の場所では、世間の帝王が、「慈恵ありて博く施し、仁愛
ありて兼ね済う」ことが説かれております。

 ここでも、仁愛学園の名前が仏典に出ていたことが知られますね。

 さらに愛という言葉が肯定的に使われている例として、仏、善知識、菩薩、法、菩提などに対する積極的な使用例があります。『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』には、「若し彼の仏の名を聞くこと有りて、能く一念喜愛の心を生ぜば」という言葉があり、これは親鸞様の『お正信偈』の中にもあるので聞き覚えがあると思います。

 すこし漢字が異なりますが、同じ意味の使い方として、仏・菩薩が衆生に慈悲をかける姿を『無量寿経』では、「如来は、無蓋の大悲を以て、三界を矜哀す」という言葉があります。これは、法事の時の表白の中でよく聞くのではないでしょうか。

 最後になりますが、親鸞聖人における愛ということに興味をお持ちの方もおられると思います。実は、同書では、早島鏡正博士が「親鸞における愛」という章において、親鸞聖人における愛を幅広く論じておられます。ここでは、紙数がないので、私の視点で書かせてもらいます。

 『親鸞聖人著作用語索引(二巻)』によると、「愛」は執着という否定的な意味で使われる「恩愛」「愛憎」(『ご和讃』)という表現と同時に、「信楽といふは、・・・・楽は即ち是れ・・・愛なり」(『教行信証』「信巻」)、「世を救ひ人を度す慈を極す愛を極む」(同「化身土巻」)などの肯定的な表現の双方が見られます。しかし、「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑し」(『教行信証』「信巻」)のようなお言葉が比較的耳にする機会が多いせいか、親鸞聖人においては愛は否定的に用いられているかのような印象をお持ちの方も少なからずおられるのではないかと思います。”

「和顔軟語」よりも「和顔愛語」のほうがキリスト教が喜びますからね。仏教では愛は悪寄りなのだから、愛語は不適切ですね。軟語にすべき



魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 10月15日
悪の魔道師に対抗するためには、アリストテレスより竜樹がスゲーと本質的なまでにわかることかな?西洋論理学から生まれる連鎖的な階層構造に反駁できたのは恐らく、空と縁起の思想を唱えた竜樹くらいしかいないんでね?おっと、ふりーそーめんが嫌いな東洋思想はきっと「空」と「縁起」だよね。

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 2015年11月3日
あのね、サマーディーは「三昧」ディヤーナは「禅」カルマは「業」ね。で、カタカナのサンスクリット語を使うのは何でか漢語の仏教用語が嫌いな法則。

これだけ日本語はサンスクリット語由来の漢語が日常に溶け込んでるので、わざといカタカナで言うのはよっぽど仏教が嫌いだったんだろうか?


魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 10月17日
陰謀論コミュには、聖書の引用をベタベタ貼ってやつらを叩く陰謀論者はいても、般若心経やスッタニパータやダンマタなどの仏典を引用してやつらを批判する陰謀論者っていないよね?なんで?

そもそも、東洋の教育って基本的に我欲や我執を拡大させるためにやるんでなくて、自然にそこから離れていく思想が組み込まれてる。確かに漢籍の知識が科挙 に合格するために必要なものだったのも知れないけど、漢籍の雰囲気はなんかこう、我欲と我執向きだしって感じがしないとゆーか。

メイソン教の洗脳教材の教養小説(ビルディングス・ロマン)ってのあるんだけど、これ子供に「教育的」だと賛美されてっけど、これこそがメイソン教の洗脳 の本丸でもあんだよね。教育で近代的自我を確立するってやつ。これは自我は妄想と切り捨てる仏教などの東洋思想の伝統破壊工作だよね。

西洋の教育の根本は近代的自我の確立。基本的に我欲や我執を拡大させるために勉強する。その本質を覆い隠すためと、それをバーターするために社会に対する 奉仕って観念で釣り合いを取ってる。でも、西洋の教育の根本は我欲と我執の拡大だからエリートほど贅沢や権力にうつつを抜かす


王王大栄 ‏@ououdaiei 10月17日
@lakudagoya 自我ってめんどうですよね。弱いと周りに潰されるか状況に流される。強いと我欲我執で自他を破壊する

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 10月16日
薔薇十字の陰謀論って流行んねーな。フクダルマン君でさえ、見えざる大学ネタつぶやいてたのにな。

薔薇十字の陰謀ってさ、数ある陰謀論の中でも断トツで性質が悪い陰謀論だぞ?世界中の宗教や文化をメイソン教的な西洋神秘主義に換骨奪胎して支配するつー ワンワールド思想さ。クリスチャン陰謀論者もそこ悪魔崇拝とボカさないでハッキリハッキリ言ってくださいね。プロレスかというほど歯切れ悪いしw

かつてUFOはプロレスであると言った人が言ったが、至言だと思った。メイソンを迷信臭い悪魔崇拝ネタで叩くクリスチャン陰謀論者ってきっと悪役レスラー みたいなもんなんだろーな。わざと怖い演出をするやつ。メイソンの本質を守るためにプロレスの悪役やってダメージコントロールしてます
みたいなw

薔薇十字団という架空の団体の思想が近代科学を作ってオカルトメイソンいわゆる魔術結社にも受け継がれてますね。
諸悪の根源というより、薔薇十字思想がいけないのは西洋と東洋を統合するふりをしつつ、世界中の宗教をメイソン教の西洋神秘主義に換骨奪胎するかなり悪質なワンワールド思想ですね。

菊池 ‏@kikuchi_8 7月6日
実証主義を「物質主義だ」とする非難があるそうだが、実は実証主義を徹底させると唯物論というより唯心論に近くなる。つまり、経験主義を徹底させると人間に直接立ち現われる知覚経験だけを事実確定の証拠とする事になる。実際にエルンスト・マッハが実証主義を徹底させそういう立場に近づいた。

唯物論と実証主義は実は方向性が逆。唯物論では意識経験から独立した「物質」という実在を想定するという前提があるが、実証主義はそういう前提を立てず知 覚的感覚的に経験された現象を基礎に事実を確定しようという方向性である。必然的に、経験を超える形而上学的実在については「無記」となる。

最古の原始仏典の「スッタニパータ」に「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知っ てよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」とあるが、仏教が経験主義的実証主義的な立場を取っている事が分かる。形而上学には無記

菊池 ‏@kikuchi_8 7月21日
工作員の皆様にはこの言葉を贈る。是非立ち直ってもらいたい。人生を組織に飼われて空費するなかれ。「自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。」(ダンマパダ 160)

菊池 ‏@kikuchi_8 10月19日
参考までに。仏教哲学では「迷い」を「煩悩障」と「所知障」に分類。前者は所謂「煩悩」のことで感覚的情動的な迷いであり受=感受作用による。後者は知性的概念的な迷い(物事を自存視=実体視する等)であり想=表象作用による。後者は言葉が大きく関係する。概念は言葉を離れてはありえないからだ。

「物事を捉える概念の枠組み」に関する迷いが「所知障」とされる。これは現実の観察によって得られた縁起・無自性(無実体)・空・無常・無我等々の見方に 反する形而上学的なものの見方を主に指していると思われる
。廣松渉哲学で言う主観や客観の自存視等を意味する「物象化的錯視」という概念に近い。

人間は物事を概念的に把握するので概念を操作されると認識を捻じ曲げられてしまう。これは単に呼び方を変えるだけでも十分効力を発揮する。オーウェルの小 説で、戦争遂行の役所が「平和省」、拷問を加える秘密警察が「愛情省」と呼ばれる「ニュースピーク」がまさにそれ。人為的「所知障」=認知操作

吾人が仏教哲学をよく援用するのは、それが西洋哲学より優れた論理的思考の用具・枠組みと考えるから。陰謀追及には論理的思考が必要だが、それを鍛えるに は哲学が有効と思うものの西洋哲学はキリスト教や形而上学と表裏一体でドグマや信仰がこびりついておりそのままでは思考用具には不向きと考える。

一方、仏教哲学は原始仏教と初期大乗である中観・唯識が世界的に見ても大変優れた哲学となっている。唯識が生きた学派(法相宗)として残っているのは恐ら く世界で日本だけである。日本人が論理的思考を鍛える場合、キリスト教圏の哲学より仏教圏の哲学を援用した方が本来馴染むのではないか?と思う。

仏教圏の哲学がキリスト教圏の哲学より論理的思考の枠組みとして優れていると思う点は二つ①人間の判断できる範囲を超えた形而上学については判断を敢えて 保留し言及しない「無記」の姿勢②「無記」と関係するが、逆に断定を下す事柄は基本的に経験的論理的に確かめられた事象に限定する実証的姿勢。

前述の①②の理由から仏教哲学を西洋哲学より優れた枠組みと判断し度々援用している。西洋人が論理的に思考する場合に西洋哲学の枠組みを使うのと基本的に 同じで、東洋哲学の枠組みを援用する訳である。仏教哲学と言ってもピンキリだが原始仏教と初期大乗(中観・唯識)が優れている。特に中観は凄い。

日本人は論理的思考が苦手と言われがちだが、自らの風土に合わない西洋哲学を無理に援用しようとするからではないだろうか?西洋の哲学的枠組みはキリスト 教文化圏で育まれたものであり、仏教文化圏に生きる日本人には基本的に馴染みにくい。だったら仏教文化圏の哲学を援用したらいい
と思うのである。

形式論理学の同一律・排中律・矛盾律は西洋の形而上学と存在論が前提になっている。「AはA、Aは非Aでない」と言える前提は「Aは自己同一的な実体である」という事。この存在論的な前提が無い限り西洋の形式論理学は成立しない。

これは常に変化する現象世界では必ずしも成り立つ法則ではない。つまり、現象は時間的存在だから昨日のAと今日のAは微妙に相違する。だが、形式論理学で は「時間」は捨象されているから、昨日のAと今日のAは区別されない。それは只の約束事だから問題は無いが、変化する現象と乖離する事は事実だ。

西洋の形式論理学が前提とする西洋独特の存在論を対象化・相対化する視点を得てこそ、形式論理学も有効に活用できるというもの。東洋伝統の哲学はその視点 を提供してくれると考える。日本人が論理的思考を鍛えるには元々伝統的に馴染んできた仏教文化から資源を活用すべき
というのが吾人の結論である。

ついにお坊さんと間違われてしまったので^^;仏教哲学を度々援用する意図・理由をご説明させていただきましたm(_ _)m個人的には、「入門 哲学としての仏教」竹村牧男著(講談社現代新書)がお勧めです。


仏教は「無常」を説くが「世界全体は常住か無常か」という命題には「無記」の態度を取った。では仏教は何について無常を説いたのか?五感と思考で捉える経 験世界(眼耳鼻舌身意・色声香味触法=十二処)について無常と説いたのである。断定は飽く迄経験的に確かめうる範囲に限定する徹底した経験主義

masao ‏@mini5945 28 分28 分前
@kikuchi_8 自然が根本であれば、信仰でねじ曲げられることはない…? アメリカ国民の一部は、未だに進化論を否定して、処女懐胎を信じているのか…?

菊池 ‏@kikuchi_8 23 分23 分前
@mini5945 東洋は基本的に自然崇拝が基本になっているので、進化論に対して抵抗はないと思います。ただ、個体間の闘争を強調する、突然変異・自然淘汰が基本の西洋の進化論に対し日本には独自の進化論があります。「棲み分け理論」で有名な今西錦司博士の進化論です。k

(風の子 ‏@makeanovel 9月4日
ある条件下でたまたま条件的に合致して生き残っただけであり、それが強かったとか優れてた訳じゃないのか
RT @kitsuchitsuchi
進化論=生き残ったものが生き残ったという結果論。優れた強いものが生き残るのではなく、生き残ったから優秀で強いということにされた。順番が逆

アニメアイコン ‏@the_drunken 2013年11月28日
「進化論は結果論」なのですよ。
進化はランダムな事象に左右され易く運の要素が強いから結果が予測できないという事ももっと広く知られるべきだと思う。

らると ‏@rarunyan15 2013年8月27日
進化論について。進化論は「進化」という言葉を使っていることが間違っている。

いかにも努力して勝ち上がってきたんだぜ!すごいだろ?と言わんばかりな言葉。

実際の所は、運の要素が強い
。結果論に過ぎない。

finalvent ‏@finalvent 2013年9月9日
適者生存は結果論だから結局運の良し悪しでは。“@AriettaAoi: ダーウィンの進化論
この世で生き残る生物は もっも頭の良い生き物でもなく もっとも強い生き物でもなく もっとも変化に対応できる生き物だ”

ヒラ:// ‏@punanny_chang 8月25日
弱い者から死ね
これが自然の摂理でしょ?問題は「弱い」の定義で肉体的に、頭脳的に、強いから生き残るわけじゃない。バカなハナタレでも資産家の子供であれば食っていける。屈強な男でも信号待ちに車で突っ込まれれば死ぬ。
「弱い」の定義とは実は「運がない」という事なんだろう。

そして最も強いとされる立場とは争い災いから物理的に一番遠い所にいる者のことなんだろう これって生まれによって全て決まる、って言い切ってるのと同じなんだよね ツバ吐いてやる


underpondof12shrine ‏@racist_banana 6 分6 分前
@kikuchi_8 これはデモクリトスの原子論にまで遡る 古い物質観と関係があります。 原子という物質の最小単位は、その内部に「空虚」を持たず 不可分(それ以上分割できず) 不変(永久に変わらない) というものです。 自らは自らに等しいので 運動(変化)の余地はありません。

菊池 ‏@kikuchi_8 4 分4 分前
@racist_banana ご指摘感謝です。おっしゃる通りだと思います。現象世界の背後に想定されるプラトンのイデア説も西洋の実体論の原型でしょうね。質料主義の実体論の代表が原子論で、形相主義の実体論の代表がイデア論だと思います。

隠者(人間) ‏@inja650rr 11月3日
@kikuchi_8 @sunamajiri 世界の在り方についての無記は
形而上学であるからだと思います。

これに関しては毒矢の喩えが非常に解りやすいと感じます。
毒矢に射られた人と、形而上学に拘り死を迎える人とを対比させた極めて秀逸な言い伝えであるように私は感じます。

(miwa ‏@n_miwa 12月28日
「この毒矢はどこから飛んできて、なぜ私に刺さったのだろう?そこにはどんな宇宙の意志が」とか言う前に、早く毒矢を抜けよ、というお釈迦様の言う毒矢の例えは、凄く現実的な教えだと思うし、宗教家がこれ言っちゃうのも実は凄いよね。

かわたろう ‏@kawataro84 2014年9月14日
NHKスペシャル「臨死体験」。最後、立花隆さんの「死はそれほど怖くない。あれこれ想念を巡らすから怖くなる」という話はとても仏教的だね。そのお釈迦様は「毒矢の例え」で、死後の世界がどうこうと時間を費やすのは無意味と説いていた。神秘体験の真偽に興味はあるが、こだわらずさらっと流そう

木村 仁 ‏@mucunren 2014年4月29日
毒矢が刺さっている人が、この矢を射ったのは誰で、出身は何処で身分は何か、矢尻の形と毒の作者が誰か全てわからない限りこの矢は抜かないと言っていれば、その間に毒が全身に回って大変な苦しみを味わいながら死んでしまいます。
この例え話の毒矢は煩悩と執着
です。

あブラだこす ‏@aburadakos 2013年10月24日
自分の名前を捨てると想定するとき、名前であったものは何か?名前そのもの、それは何であったか? 自分とは何か?と問いただしてみると良い。私であったもの。正に毒矢の例えのごとく、私と言う存在論が執着として、それが名前と言う象徴によって表現されている。名前と言う私と言う現象、幻想の欠片

慈永祐士 ‏@jiei_yushi 2013年5月18日
まあ、基本的にブッダの説法方法は、「お前さんが信じとるやり方はそういうやり方かもしらんが、それをやっているとこういう風になるよ」という説法の仕方がメインスタイルなわけである。そういえば毒矢の例えとか、ソーナという元・竪琴演奏者だった比丘に対しても、同様な方法でしたね。

メロウ*ライク ‏@mellowlike 2009年10月2日
@hasso_ 「「「「毒矢の例え」の例え」の例え」の…」ってなってるよね。哲学系の人って。「本を読むための本を読むための本を読むための本」とか。)

菊池 ‏@kikuchi_8 11月3日
@inja650rr 毒矢の例えは有名ですね。同感です。形而上学的に世界がどうあろうとも、人間の生老病死の「苦」の現実には変わりは無く、またその「苦」を克服する道も形而上学的世界観に関わりなく存在するから、人間が判断・決定できない事に関わるより現実に結果が出る実践を優先すべきと。

隠者(人間) ‏@inja650rr 20 時間20 時間前
@kikuchi_8
御釈迦様は入滅までの間死後の世界などの形而上の世界については一切語りませんでした。仰る通り無限ループに嵌り真理には絶対に到達せず一切皆苦の解決には無意味であるからでしょう

神通力の中でも畢竟漏神通とは、実は正に二律背反の回避であると私は読解しています。

(漏尽通(ろじんつう)=煩悩を打ち消し悟りの境地に至っていることを知る超人的能力
)

菊池 ‏@kikuchi_8 10 時間10 時間前
@inja650rr なるほど、「漏尽通=二律背反に陥って決して決着できない形而上学を回避すること」という解釈ですね。形而上学への執着も「煩悩」ですからね。素晴らしく合理的な解釈であられると思います。原始仏典に出てくる「悟りを開いた人間」としての釈尊のあり方と整合性があります。

隠者(人間) ‏@inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 有難うございます。
漏神通は形而上学に限った事ではないと考えます。
この世は如何に二律背反に陥る無益な議論が多い事か僕は憂います。

菊池 ‏@kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr そうですね。「対象化された事物への執着・煩悩を断つ」という趣旨だと思います。「法執」というものですね。形而上学も事物の一つですからね。そして、おっしゃるような、答えのでようもない、憎しみや争いだけを助長する無益な議論が本当に多いと思います。同感です。

隠者(人間) ‏@inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 御釈迦様の言う中道の精神は想像以上に困難でありつつも、
悟りという境地は存在すると僕は確信をしました。
決して現代仏教に言われるような空理空論のようなものではなく遍く公衆にとって非常に有益な思想であると思います。仏の道を僕は進みたいと思います。

菊池 ‏@kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr 素晴らしいお志だと思います。仏教の四諦の教えにしても、非常に論理的実証的で筋が通っている実践的な哲学だと思います。「悟りの境地」は分からなくても、執着を幾分か減らせばそれだけ苦しみが減る、という事は誰しもが確かめられるように思います。

(SHIVA ‏@francisco_bot
【四諦】は原始仏教の核となるもっとも根本的な考え方。

ザクッと言うと

①人生は苦である。※仏教における「苦(dukkha)」の意味は「思い通りにならないこと」
苦の原因は渇望(欲望)にある。
③渇望を滅すれば苦も滅する

④苦を滅する道は八正道である。

【八正道】 正見(正しい理解) 正思惟(正しい思考) 正語(正しい言葉)
正命(正しい生活) 正業(正しい仕事)
正精進(正しい努力) 正念(正しい気づき) 正定(正しい集中)
※ブッダが最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る(瞑想)修行の核となる8つの方針)

隠者(人間) ‏@inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 人間は、動物が群れで過ごすように、孤独を恐れる存在であると思います。執着とは正に孤独を恐れるが故の動物的本能なのかもしれません。
ならば理性を持った人間の本来的な在り方とは孤独である事なのかもしれません。

菊池 ‏@kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr 確かにそうかもしれません。私は人間が執着するのは「言葉を持つ動物」だからだと考えます。つまり、本来は一つながりの「縁起」の世界を言語によって分節化し対象化する。そうやって取り出された事物=法を縁起によらず独存していると見なすところから執着が始まる、、と。

隠者(人間) ‏@inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 なるほど、言語とは個体同士が意思疎通をする為の手段。だとするのならば、コウモリやイルカの超音波でのやり取りもまた言語とも言えましょう。
言語には意味と感情が含まれると考えます。
コード(暗号)に載った感情こそが人間同士の不調和を齎す原因なのかもしれませんね

菊池 ‏@kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr はい。そして人の言語はとりわけ発達しています。言語とはシンボルの一種で、シンボルとはある事物を置き換えた記号ですが、現実の事物が存在しなくても、記号なら数に限りが無く拡大されますので、それにつられて記号にともなう感情も拡大され不和を招く事もあると思います。

隠者(人間) ‏@inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 中道とは左右から非難を喰らいつつも真理を追究する精神、そして智慧なのかも知れないと僕は仮説を立てます。

仏教は智慧の教えであると言われるように、偏りの無い思考力を持ち、本質を探る事が出来れば世の中は御釈迦様の言うように世界は調和できるものと確信しています


菊池 ‏@kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr そうですね。両極端な立場からの非難に動じることなく泰然として、ゆるぎないバランス感覚をもって、偏らない思考をし、物事の本質を的確に見出していく。極端に偏らない中道(中る=あたる 中道=適正な道筋に適合する)は調和の道でもありますね。おっしゃる通りです。

隠者(人間) ‏@inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 常楽我浄の顛倒により一切皆苦が生じるのだとすれば、
四法印の内一切皆苦とは、
「生きる事は苦しい事だ。だから諦めなさい」なのではなく、
「生きる事は苦しい事だ。だからこそ一切皆苦を克服しなさい」と言っているように僕には感じられてならないのです。

( 隠者(人間) ‏@inja650rr 5 時間5 時間前
@sunamajiri
常楽我浄…

無常であるのに常と見て、
苦に満ちているのに楽と考え、
人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、
不浄なものを浄らかだ

…とみる事
。)

菊池 ‏@kikuchi_8 9 時間9 時間前
@inja650rr おっしゃる通りです。四諦の「諦」とは「あきらめる」ではなくて、「あきらかにする」という意味だと思います。そして、「生きる事は苦であるが、苦には執着という原因がある。その原因を克服する事で苦を乗り越える事が出来る」この道理を「あきらかにせよ」だと思います。

隠者(人間) ‏@inja650rr 9 時間9 時間前
@kikuchi_8 四諦の理を理解する為の八正道。
四諦の理を超える事で涅槃寂静。即ち≒0の精神に到達できるのでしょうね。

菊池 ‏@kikuchi_8 8 時間8 時間前
@inja650rr 四諦と八正道は相補的だと思います。八正道の最初「正見」とは四諦の理を認識することが含まれていると思います。四諦の理と申しましても、そこに到達する真理のようなものではなくて、あくまでも実践上の指針のようなものだと思われます。四諦を実践する事で「涅槃寂静」にと

隠者(人間) ‏@inja650rr 8 時間8 時間前
@kikuchi_8 八正道の正見は、御釈迦様のいう中道の精神に欠かせないものだと思います。
プラス側にもマイナス側にも思考が偏らない境地を目指す事。
それこそが、涅槃寂静
(≒0)なのかもしれません。

菊池 ‏@kikuchi_8 8 時間8 時間前
@inja650rr はい、まさに中道ですね。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月10日
キリスト教徒やカルト信者と並び西洋近代哲学信奉者も、「自己相対化」という事がとことん苦手らしい。彼らの依拠する絶対的前提が揺らぐことへの過度な恐怖心を持っている。例えば「空」を「虚無」と曲解し感情的に反発するのは、「実体」概念という自らの基盤を掘り起こされる事への恐怖心だろう。

西洋近代哲学信者は「空」や「無常」を虚無と曲解する。しかし不変の「実体」を想定する事が実は虚無なのだ。変化しないからどのような意志的努力も無意味 となってしまうからである。より良い自分になろうとしたり、良い環境を作ろうと努力することも変化しないなら全て徒労。これこそが「虚無」だ


菊池 ‏@kikuchi_8 6月10日
↓いつも的確なコメントをしてくださり感謝です。本当にその通り。哲学のふわふわした議論を数日も続けていると現実と接点のない空虚な遊戯をしている感覚になる。もっと実のある事を語るべきだ。西洋近代哲学信者が耶蘇やカルト・スピとあまり変わらない体質だと分かった事をせめてもの収穫としよう。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月11日
「善と悪の最終戦争」という危険思想は「善」と「悪」を実体視する所から生まれる。最初は何気ない言語化から始まるが、その度合いが進むと形而上学化し、さらには宗教化、最後には絶対的ドグマとなる。その妄想が本当に戦争を引き起こす。「実体視」というのは 事程左様に危険な思考習慣なのである。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月6日
@sunamajiri 心を認識作用と捉えるならば、心も時間という形式を持っているようにも思うのですが。つまり、「作用」という限りは、時間的幅があるはずです。対象は常に認識された対象なので、対象が時間性を持つならば、その認識自体も時間性を持つように思うのですが。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月9日
ドイツ観念論はほとんど無意味な事を語っていると思える。「こういう説明の仕方もできる」という事なら意味があるが、それが事実そのもののように語るとしたらもはや迷信のレベルではないだろうか。形而上学を語っているという事に無自覚な形而上学の徒はとても厄介。「高級版スピ信者」では。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月16日
明治以来よくいる西洋崇拝者=「洋学紳士」諸氏の有様①西洋の権威を取りあえず鵜呑み・脳内西洋人と化す②脳内西洋人の視点から日本を歪んだ視点で捉える③歪んだ視点で拵えた日本に関する偽問題を論う④最初の対象認識が歪んでいる以上無意味なから騒ぎ(基本的にストローマン)➄ご苦労様である。

明治の「洋学紳士」は基本的に左翼の自虐史観派の精神構造のプロトタイプである。西洋イズムを気付かれないように伝統に混入する手口よりは、ひねりが無く ストレートではある。手口の差異はあれど結局同根だが。洋学紳士の系譜からキリスト教社会主義者・マルキストの系譜が派生する。新人会が萃点だ。

親英米保守は脳内イギリス人と言える。彼ら「保守」を名乗るが、違和感を感じるのは、イギリス貴族的な差別意識と傲慢さが強い所。心の底では日本人を馬鹿 にしている。イギリス精神に憑依されている。イギリス貴族文化被れのくせに何が「保守」だと。一方、おフランス大東社精神に憑依されたのが左翼

菊池 ‏@kikuchi_8 6月10日
西洋近代哲学信者から「廣松主義か?」と、考察で取り上げただけで随分料簡の狭い質問を受けた。何度か申したが哲学は「参考までに」という捉え方である。哲学や思想は「活用」すべきものであり、ドグマとして信奉するようなものではないと考えている。現実解釈として理に適えば参考にするのみだ。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月5日
廣松哲学の、「世界が世界を認識する」総世界的連関体、という考え方が非常に華厳的だと思った。「無限の縁起的関係性」を説く華厳思想と、認識の「総世界 的連関体」を指摘する廣松哲学は、かなり酷似しているのではないか?と感じる。縁起・無自性・空が基本の華厳と実体概念の破棄を唱える廣松哲学。
@kikuchi_8 認識は縁起的に関係的に成立する、ということだろう。例えば、脳はそれだけで機能する自己完結的なシステムではなく、人体の他の部位や人体外の自然環境と連動するオープンシステムであり、そういう連関構造の中で初めて機能すると。実に仏教の縁起思想的だ。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月5日
直接倒せないなら、宮中周辺にキリスト教徒やメーソン員を送り込んで内側から乗っ取る、というのが国際秘密力の対御皇室戦略の骨子だと分析している。八切止夫が述べたサンカ人脈から得たと思われるインサイダー情報によってある程度裏付けられると思う。直接倒せないなら憑依する、が国際秘密力戦略

菊池 ‏@kikuchi_8 6月5日
「唯識」は「物に対して心だけ」とか「物質に対して精神だけ」という観念論というよりも、「人間にとって世界が展開する場は(深層心理を含む)意識」という哲学だと考え る。認識主体にとって「物質」は五感や思考の対象としてしか現前しないと。その上で近代哲学と違い「物自体」を否定する。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月5日
唯識を考える上で参考になりそうだ。量子力学のコペンハーゲン解釈:量子力学の状態は、いくつかの異なる状態の重ね合わせで表現される。このことを、どちらの状態であるとも言及できないと解釈し、観測すると観測値に対応する状態に変化すると解釈する。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E8%A7%A3%E9%87%88 …


菊池 ‏@kikuchi_8 6月5日
量子力学のコペンハーゲン解釈を聞くと、廣松渉の「四肢的構造連関」という認識論が思い浮かぶ。認識主体と認識対象は主客で二元的に分かれているのではなく、一体の構造であり、認識主体のあり方が認識対象のあり方を規定する側面を指摘する。廣松氏は能所の不二一体性という仏教的表現をしていた。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月5日
アインシュタインの相対性理論はエルンスト・マッハの認識論(マッハ主義)に依拠する部分が多いそうだ。マルクス・レーニン主義者はマッハ主義を「観念論」として嫌うそうで、だからソ連では相対性理論は禁圧されていた由。では何故核兵器開発ができたのか?西側からの援助だろう。冷戦捏造両建芝居

菊池 ‏@kikuchi_8 5月28日
エベールは理性を崇拝し、ロベスピエールはそれを批判し「最高存在」(「自由」の理念のことらしい)を崇拝する。これはあまり大差ないだろう。前者は認識主体の側を実体化して崇拝し、後者は認識対象の側を実体化して崇拝しているだけの違い。唯識で言う見分と相分を其々実体化した「無明」の立場。

@kikuchi_8 「空」(勝義)を踏まえない哲学的立場(なんらかの実体を想定する実在論の立場の事と思われる)は全て「道理世俗」と呼ぶらしい。「実体」は「不変」をそ の性質としているので、実体を想定すると変化する現象世界が説明できず、必然的に現象と実在の二元論二世界論に帰結する

@kikuchi_8 「我法二空」(「我」は主体、「法」は客体、主体以外の事物)というが、理性崇拝は主体である「我」を実体視して固執する「我執」の立場、「最高存在」の崇拝は客体である「法」を実体視て固執する「法執」の立場、と言えるかもしれない。いずれも実体論の範疇である。

菊池 ‏@kikuchi_8 5月28日
豊臣秀吉の伴天連追放令は天正15年(1587年)だが実はその20年以上前の永禄8年(1565年)に正親町天皇がキリシタン追放の綸旨「大うすはらい」を出されている。豊臣、徳川よりいち早くキリスト教の危険性を看破されていた朝廷。明治以後耶蘇勢力が宮中に狙いを定めた動機はこのあたりか。

イエズス会HPにキリシタン関連の年表があったが、1565年のところにしっかりキリシタン追放の綸旨「大うすはらい」(でうすはらい)が載っていた。連 中しっかり覚えている模様。日本への文化侵略の為に彼らがどこを狙っているのか。宮中御周辺にキリスト教徒が多いのは決して偶然ではないと思う


一神教では、偶像崇拝がいかんと言われるが、「造物主」崇拝というのも偶像崇拝ではないだろうか。物質的な偶像と言えども認識主体に認識されている限りで は知覚的な表象である。造物主概念は想像的な表象である。それぞれ知覚的か想像的かで違いがあるだけで、対象的事物であることに変わりはない

仏像を破壊するときのキリシタンの心像風景を想像するに、彼らの意識対象には強烈に「でうす」という想像的な表象が浮かんでいたと思われる。仏像という知 覚表象より「でうす」という想像表象が優越する合理的理由などは無い。仏教では「縁起・無自性・空」を説くから究極的には対象化は否定される。

@kikuchi_8 意識は意識作用(主体=見分)と意識対象(客体=相分)からなる。「造物主」という想像的な表象以外は全て無価値とするのがキリスト教である。唯識仏教で はあらゆる対象は意識作用の対象面だと考えるから「造物主」も形として浮かんだ仏も単なる意識対象=相分という事になる。

菊池 ‏@kikuchi_8 10月27日
「空」は「無」と混同されがちで、空思想=ニヒリズムと誤解される事が多い。しかし本当は「空」は「縁起」と同義なので「空」であるものは「存在する」という事。中村元先生の解説によれば「縁起だから無自性。無自性だから空」という論理的順序だそうだ。結局、縁起は空と同義とのことであった。

「自性=実体として存在しているのでない」となれば、「どのように存在しているか?」という疑問がわくが、その答えが「縁起として存在している」となる。 つまり、他の力を借りずにそれ自体で存在しているのではなく、常に原因条件に依存して縁起的=関係的に存在している=空である、という事。空≠無

宗教は人心支配の為の強力な武器になっているようです。「こういう風に大衆を誘導したい」という狙いから逆算して宗教構築


菊池 ‏@kikuchi_8 6月19日
耶蘇原理主義者が「善悪二元論は勧善懲悪という事だから普通の事」みたいに書いていたがさにあらず。善悪二元論は常識的な勧善懲悪論ではなく善と悪という概念を実体視した形而上学。この意味で「神と悪魔の闘争」という耶蘇教が「光と闇の闘争」というゾロアスター教の影響下にあるのは明らかだろう。

菊池 ‏@kikuchi_8 6月6日
@sunamajiri 無常論は常に変化しつつある現象の容態を観察して記述しただけのことだと思います。シンプルです。そもそも「時間」というからにはそこに「変化」のニュアンスが概念的に含まれているはずであり、もし不変であり恒常ならむしろ「無時間性」が帰結するようにも思います。

菊池 ‏@kikuchi_8 5月25日
高度なテクノロジーによる管理支配というのはまさに「イルミナティ」の思想。理性を軽視又は放棄するキリスト教への反動から理性を過信する理性崇拝教が生まれた。両極端だが、何かを実体視して妄信している点は共通している。キリスト教で崇拝する「造物主」を内面化したものとしての「理性」を崇拝

菊池 ‏@kikuchi_8 5月25日
理性とは推論する能力。推論には出発点が必要。最も確実と思われる出発点は知覚等により経験的に確かめられたもの。できるだけ不確定な要素が無い方が結論はより適切になる。だが自然が対象ならまだしも統治体制をデザインするにはあまりに不確定要素が多すぎる。これが「できる」とするのがイルミナ

yajima-mieko ‏@emieko 5月26日
自然や自然現象といわれるものこそ不確定要素が強いどころか、人間にとり不可知でないか、と思っておりますが、自己の外在物であるものとしてそれを対象化する働き=知性においては。なんであれ理性によって遍く支配できるとするのが顛倒想でNWO。 https://twitter.com/kikuchi_8/status/602863211193368576 …
菊池 ‏@kikuchi_8 5月25日
推論能力としての理性は比較的確実な知覚による経験が可能な自然現象に適用する分には割りと的確な結論が出る。だが理性でゼロから統治秩序が設計可能か?理性を機能させる前提はこの場合どこに置く?各国の歴史・文化の相違等の不確定要素が多いので理性を全世界に適用してNWOを構築など不可能

菊池 ‏@kikuchi_8 5月26日
@emieko 自然界ですらそうなのですから、複雑な人間の意志や感情が交錯して形成されている社会組織のデザインを理性の能力でゼロから構築するのは不可能事だと思われます。社会組織は歴史的慣習の叡智を重視しつつ、悪い部分は慎重に改良していく、という漸進的なあり方が無難と考えます。

@emieko それに、量子力学(これについては私は無知ですが)などで解明されたミクロの物質世界における「非決定性=一義必然性の否定」からすると、自然界そのものが不確定要素を含んでいる事が明らかになっておりますね。

@emieko はい。対象自体・意識内容・意識作用という近代哲学の三項図式からしますと、「自然界そのもの」(があると仮定して)は確かに不可知であると思います。人 間にとって現前する自然はどこまでも視覚や触覚、あるいは思考作用で概念的に把握された限りでの「自然」であると言えますね。

菊池 ‏@kikuchi_8 5月26日
自然現象こそ不確定で不可知なものではないか、というご指摘を受けた。確かに。認識主体としての人間に現前してくる「自然」とは常に視覚や触覚等の感覚作用、思考作用で把握された概念としての「自然」であり、意識作用を離れて「自然」を感知することはできない。その意味で確かに「唯識」である。

@kikuchi_8 認識主体に立ち現われてくる五感の作用(電子顕微鏡等の器具を使った拡大された知覚を含む)を概念的にまとめて、その規則性を記述する=科学といえるかも しれない。「理性」は感受された五感作用を概念的にまとめた上で、概念同士を操作して推論を遂行する能力と言えるかも。

@kikuchi_8 五感として現成する自然現象は一応規則的だから自然科学は比較的正確。このように自然科学の場合は理性を機能させる前提を広義の感覚や知覚に置く。だが 「理性で世界政府を構築」となると、何を基礎に「理性」を機能させるのか。NWOは理性を過信した者以外からは出てこない。

菊池 ‏@kikuchi_8 5月26日
理性崇拝とはキリスト教の「造物主」を「理性」に変えただけの実体的な絶対者崇拝。西洋における反キリスト教思想は発想の根底がキリスト教と共通。引用:(理性崇拝とは)神に代わり人間の「理性」を崇拝しようという非キリスト教化運動。【理性の崇拝】http://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-075.html …

iseakira ‏@iseakira 5月26日
@kikuchi_8 結局これってキリスト教(または旧約含む)世界の中の話でしかないわけす。理性崇拝の極端な形の、知性の実を食べさせた蛇を崇拝するだの、サタン崇拝だの見れば構図は分かりやすい。非キリスト教的自称のものも含めて、みなその世界観の中のおはなし。「しらんがな」なわけです

菊池 ‏@kikuchi_8 5月26日
@iseakira まさに「はげどう」というやつであります。理性崇拝にしろ、理性崇拝を人格神的に表現したと思われるルシファー崇拝にしろ、「神との合一」の西洋神秘思想にしろ、キリスト教世界のフレーム内での相互対立でしかないわけですね。非耶蘇圏からするとまさに「しらんがな」ですね。

(“理性の崇拝

フランス革命のジャコバン独裁期に、エベールらが推進した非キリスト教運動。
フランス革命が進行し、ジャコバン派独裁政権が成立した時期の1793年に、左派のエベールによって進められた神に代わり人間の「理性」を崇拝しようという非キリスト教化運動。アンシャンレジームのもとで王権と結びついていたカトリック教会に対しては、革命当初から批判が強められており、特にジャコバン派の中の急進派であるエベール派がキリスト教否定の立場をとっていた。
 1793年に国民公会でカトリック暦が廃止されて革命暦(共和暦)が採用されたことで非キリスト教運動は盛り上がり、教会の破壊や聖職者の妻帯を進め、その一方で「理性の祭典」が組織されていった。10月、パリのノートルダム大聖堂は革命派に占拠され、祭典が強行された。


ロベスピエールは理性の崇拝を批判
 しかし、ロベスピエールを中心とする公安委員会は、「理性の崇拝」の強要は無神論であり、またその強要は信仰の自由に反するとして、エベール派を批判、またダントンらの右派も反対した。その結果、94年3月にロベスピエールによってエベールが反革命として処刑され、理性の崇拝は廃止された。ロベスピエールはキリスト教の神に代わる「最高存在」を革命のシンボルとしてつくりあげて、それを祝う祭典を計画し、同年6月に「最高存在の祭典」を挙行する。”
http://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-075.html)

通常より短い記事をお読みくださり本当にありがとうございます!
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