読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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ヤハウェ(エジプト系の雷神)が奈良の大仏(アーリア系の太陽神仏)なわけねーだろ!  真言宗が景教(人の神格化禁止)なわけねーだろ!                     ヨガ、呼吸法、瞑想法でリラックス! 『呼吸法の極意 ゆっくり吐くこと』・『ヨガ呼吸・瞑想百科』・ 『ハタヨガの真髄』・『禅の本』・『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』 

 ヨガ、呼吸法、ヴィパッサナー瞑想の本の読書メモだけど悪質な仏教破壊工作を発見したので先にフルボッコにします。

【ヤハウェが奈良の大仏ではない理由の要約】

一神教最大のタブーは、人間が神になること。

一神教では、唯一神と人間との間には絶対的な隔たりがあり、絶対に人間は神になれない(唯一神と一体化できない)。
人間が神になれるなら多神教。


景教=ネストリウス派キリスト教は、人と神を特に厳格に区別するので、人を神として祀るなら景教徒ではない。
神社に秦氏の人間が神格化されて祀られているので、秦氏は景教徒ではありえない。

真言宗は神仏と人間が一体化する「即身成仏」思想なので、景教ではありえない。



ヤハウェと奈良の大仏は属性が真逆なので対立する神仏。

ヤハウェ=エジプト系の雷と嵐の唯一神
エジプトの唯一神アトン+雷と嵐の神バアル≒セト。牛+豚

奈良の大仏=アーリア系の太陽神仏
太陽神または光系のイラン系のアフラ神族。
華厳宗大本山の東大寺の奈良の仏
=毘盧遮那仏。

毘盧遮那〔ビルシャナ〕
=ヴァイローチャナ
=インド神話のアスラ〔アフラ〕の王。

ビルシャナ=広く照らす=太陽あるいは光



これよりしばらく、
knznymmmy code777
http://codetripleseven.blogspot.jp/
https://twitter.com/knznymmmy/with_replies

でおなじみのプー閣下風のノリで、景教詐欺をフルボッコにしていく。
まずはフルボッコされる対象を見てくれ。こいつをどう思う?

Misaki-1192 ‏@bonchan1 11月7日
東大寺大仏の正体は、秦氏の神・大日如来=ヤハウェである。

Misaki-1192 ‏@bonchan1 11月21日
奈良東大寺の大仏の正体はヤハウェ。
秦氏が最も信仰する神。

Misaki-1192 ‏@bonchan1 11月25日
秦氏は景教ネストリウス派の信者。最澄、空海が新旧聖書をお持ち帰り。秦氏が建てた東大寺の大仏は大日如来様=ヤハウェなんですねえ。御宮参りされる方は新羅韓神と共にヤハウェにも詣でている事になりますねえ。お遍路さんも怪しくなって来ました。http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/japan/index4.html …

Misaki-1192 ‏@bonchan1 12月3日
東大寺の大仏は大日如来。秦氏の神のヤハウェが大仏さん。
修学旅行に行ったっけな。くそう。

Misaki-1192 ‏@bonchan1 12月4日
最澄は新約聖書、空海は旧約聖書を持ち帰った。唐の原初キリスト教ネストリウス派景教の洗礼を受けた二人。東大寺の大仏の正体は大日如来=秦氏の神・ヤハウェだったのです。日本人には何ら関係ないですね。http://www.ne.jp/asahi/davinci/


( ゚д゚)ポカーン
すごく……一神教について無知じゃねーか!
この手のデマを流す奴らは教義の決定的な違いを無視だからな。
宗教で一番大事なのは教義だろーが!
信者かどうかは教義を守っているかどうかで判断しねーとダメだろーが!!
例えばさ、十戒を破る奴らがユダヤ教徒なわけねーじゃん?
だから神道がユダヤ教であるわけねーじゃん?

日ユ同祖論デマって聖書が根拠だから、流している奴は無自覚含め宣教師。
景教ガー、ネストリウス派ガーってうるさい奴も、無自覚含め宣教師であることが多い


まず、おめーらさんに一神教で一番知っておかないといけないタブーは、人間がヤハウェやゴッドやアッラーになることだ。
人間は絶対に絶対にぜーーーっったいに神になれないし、
絶対に絶対にぜーーーっったいに神として祀るなんてありえない。
ネストリウス派は、ただでさえ人間の神格化が禁忌である一神教の中でも、特に人と神を区別する。
つまり、秦氏が人間を神様として祀っている時点でアウト中のアウトなんだよ!

え?
秦氏が、ネストリウス派を国家神道みたいな和風キリスト教に改造して信仰していたかもしれないって?
それもはや景教じゃねーじゃねーか!

この際だから言っておくけど、国家神道のモデルは平田篤胤な。
平田篤胤は、神道を名乗るくせに、キリスト教神学を取り入れるのはOKだという和風クリスチャン
だ。
当然だが、正統派のキリスト教神学からみたら平田神学は異端だ。
現人神OKの国家神道なんて完全に異端。
まあ、キリスト教をそのまま布教するのに失敗したので、植民地用にカスタマイズしたのが、
「現人神=偽天皇=キリスト」にした国家神道
=一神教的多神教(新キリスト教)


一神教のタブーをおめーらさんは今この時点で知っているはずだよな?
でも、ちゃんと理解したとは限らねーよな?
ちゃんと理解したなら応用できるよな?

おめーらさんが勝手に応用して、
「真言宗はキリスト教ネストリウス派だよ詐欺」を打破しやがれ!
説明は省略!

では不親切なので、答えとして菊りん(国際秘密力研究)の以下のツイートをよーく読んで学ぶんだ!

菊池 ‏@kikuchi_8
ネストリウス派=景教は人性と神性を明確に区別する。マリアも「神の母」ではなく「人性としてのキリストの母」という扱い。カトリックより人格と神格が厳格に区別されている。人と神の距離が近く、同一視し、場合によって人が神に命じる関係(例:役小角と一言主神)すらある日本の宗教観と隔絶する。

兵庫県に大避神社という神社がある。御祭神は秦河勝である。この時点で「秦氏=猶太人説」「秦氏=景教徒」という説は崩れるのではないか。猶太教や景教を含む耶蘇教では人を神として祭るのはご法度のはずである。こういう基本的な事柄を無視することからして日猶同祖論や景教渡来説はうさん臭い。

景教渡来説は米国のプロテスタントの宣教師が布教の為に唱えている場合がある。「日本は仏教国ではなく、聖書の国だ」と言ってキリスト教を受け入れやすい素地を作ろうとしていると思われる。そのために景教=ネストリウス派キリスト教が古代から日本に根付いているという説を流布する。

景教渡来説を唱えている人士はキリスト教徒ばかりである。宗教的立場からの願望が投影されている「説」と言える。「いろは歌」まで耶蘇教の思想を歌ったも のという者までいて驚いた。仏教の基本的教義を抑えておけば「いろは歌」は「有為=縁起したものの無常と、無明の克服」という趣旨と分かる。

日猶同祖論の初期の論者の一人佐伯好郎は同時に景教渡来説の権威。日猶同祖論と景教渡来説は初期からセット。佐伯は英国聖公会のキリスト教徒
。聖公会は英 国諜報員とメーソンの巣窟と渡部悌治先生述。猶太資本導入推進のために日猶同祖論を唱えたことを服部之総に告白。河豚計画の犬塚惟重の団体顧問。

神智学徒のゴルドン夫人が高野山に大秦景教流行中国碑のレプリカを建立した。人性と神性はあくまで区別されるべきだとするのが景教である。一方、真言密教は「即身成仏」つまり、人も仏も構成要素は同じ「六大」だから人と仏はゼロ距離だとする教義である。似ても似つかないどころか真反対である。

思うにですが、この手の説を唱える方というのは仏教の教義内容まで立ち入って分析していない場合が多いと思います。「仏」が構成要素に分解できるとする空海の六大縁起思想は耶蘇教ではありえないと思います。

いろは歌にキリスト教の教義を詠み込んでいるという説は、プロテスタント系のキリスト教原理主義者のHPで得々と語られていました。要するにキリスト教関係者による宣伝としか思えないです。日猶同祖論と同じ性質ですね。

馬小屋で生まれた等のエピソードは景教の影響として入ってきていた可能性がありますが、景教の宗教としての教義そのものは公には入ってきていないと思います。日本の色々な伝統宗教を調べても人性と神性を厳格に分ける景教の痕跡がありません。

秦氏すら秦河勝を御祭神として祭っています。人を神として祭る。これは人と神を厳格に区別する景教ではタブーです。宗教としての景教渡来説は佐伯好郎が猶太資本を北海道開発に導入するために日猶同祖論を唱えたのとセットだと思います。服部之総が明かしていますね




さあ次は、ユダヤ教のヤハウェの属性だ。
世界初の一神教はエジプトのアトン一神教だ。
ヤハウェの唯一神という属性はエジプト由来だ。

また、ヤハウェは雷と嵐の神だ。
牛にして嵐と雷の神バアルと共通点が多い。
また、バアルはエジプトに入ってセト(暴風と雷鳴の神)と同一視された。
つまり、バアル≒セト。
でも、バアルは牛だけどセトのシンボルは牛ではない。
セトのシンボルの一つが豚。
ユダヤ教は豚を食べてはいけない。
え、不浄だからだって?
神聖だから、表向きは不浄だということにしたのかもよ?
ヤハウェにブタ神であるセトの要素があるから、という理由もあるかもよ?

さあ、ここで、ねこた先生(完全閉店 ‏@lakudagoya)の以下のツイートを読むんだ!
ユダヤ教の教義がエジプトの貴族由来だとよくわかるだろう。

(いんちき陰謀論調査隊を消したぬこた先生。だからあれほど保存しておけと以下略。
実は一部が本ブログにあるからそれを保存以下略)

完全閉店 ‏@lakudagoya 11月23日
ローマの宗教史を扱った「神々のあふるる世界」さ。エジプトの神官の生活について史料をベースに色々語ってるけどさ、蹄の割れた獣は食べませんとか、割礼もそうだけど、色々な意味でユダヤ教ってエジプトの貴族の宗教臭いんだぜ?これモグラ君が言い出した事だけど、大当たりだったと思うんだ

ユダヤ教のウリジナル in 古代エジプト
1 十戒(死者の書に書いてある42の戒律が元ネタw)
2 レビ記の食物規定(エジプトの神官の戒律が元ネタw)
3 割礼(神官の通過儀礼w)
4 経典の宗教(読み書きできるのは神官と貴族だけw)
おおっ!こんなにも香ばしいネタがざくざくと


完全閉店 ‏@lakudagoya 11月23日
おっと、古代エジプトでは神官は1日2回は沐浴してたっぽい。で、風呂桶みたいなもんが神殿に常設されてたらしい。ああエジプトでは流水使わないっぽいんだよね。やっぱユダ公のミクベはエジプト起源の可能性あるな。つつけばつつくほどユダ公の習慣は古代エジプトの貴族のそれじゃないかw

(モグラ君=虚空と君のあいだにで有名な、もぐら師匠) 



次は、華厳宗の東大寺の奈良の大仏の属性について。

フェイド大帝(過去の最低帝国)のツイートと、
猫2号(読めないニックネームの子子子子子=ねここねこ)の記事を引用する。

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 2014年10月6日
知らない人が多いのか分らないけど、
密教の大日如来、奈良の大仏は
インド名が毘盧遮那。
ヴァイローチャナね。
こいつは太陽神でウパニシャッド
ではアスラ王と書かれている。
つまりイラン系のアフラ神族


大日如来は遍照如来とも称し、またビルシャナ仏とも言われる。ビルシャナ=太陽。
ビルシャナに関係するインド神話のヴァイローチャナはアスラ(アフラ)の王とされる

アフラ・マズダー(知恵王)の関連が云々されることになる。
太陽神に思えるが、ゾロアスター教の太陽神はフワル・クシャエータであって、アフラ・マズダーではない。

太陽神ミトラと同一視されたりするアフラ・マズダは太陽神の性格も持つはずですが、本来は太陽をも超越した光自体か、金星なように思えます

密教でも大日如来をただちに太陽と同一視しているわけではない。
日天(にってん。アーディティヤ)は十二天の一つとして、曼荼羅の最外院に別に存在する。世間の太陽と大日如来は区別される。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-52.html
キリスト教(太陽+来世に期待)と
ユダヤ教(嵐+現世利益)は根本思想が違いすぎる

ラクダが家畜化されるのは紀元前10世紀以降なので旧約にラクダが登場するのはおかしい。
岡田明憲『ゾロアスターの神秘思想』 講談社現代新書 。
岡田明子・小林登志子『シュメル神話の世界 』中公新書



で、どこが、セト(暴風と雷鳴の神)かつバアル(牛君)系の唯一神ヤハウェと同じなの?

あと言っとくけど、ユダヤ教のヤハウェとキリスト教のゴッドは別の神だから。

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi
キリスト教がユダヤ教派生は嘘。
ユダヤ教とキリスト教の救世主観は全然違う。
ユダヤ教のメシアは現世利益を齎す政治的指導者。
キリスト教のキリストは超越的存在(ミトラと拝火教)。
ユダヤ教は中国と同じく子孫繁栄などの現世利益用。

猫太”そうですね。大きな聖書神話というストーリーの中に閉じ込めさせて行動させる技術ですね。だから彼らは神話を操る。日油同祖論とユダヤ陰謀論という一見アンビバレントなものも、ひっくり返せば磐石な聖書神話を日本人に吹き込むためのツール。そして聖書を洗脳する。”

猫太”エッセネ派ってなんかーユダヤ人っぽくないよ。お金が嫌いで独身主義とか、子孫繁栄と現世利益が強いのがユダヤ教やん?” ”聖霊って不思議な観念ですよね。お金と現世利益が大好きで欲しかったのは現実世界の約束の地というユダヤ人の感性じゃないようにみえる”

ミトラ教(太陽派)+黙示録(拝火教)=キリスト教 嵐派+メシア(人間の指導者)による現世利益=ユダヤ教 根本思想が違い過ぎ。 猫太”オリジナルのユダヤ教は、中国人と全く同じの現世利益的宗教ですから。この基本がわかれば陰謀論の嘘もわかる。” ユダヤは✝の囮




私は‏@bonchan1のツイートをフルボッコにしたのだが、多少擁護しておく。
大本教がキリスト教だと指摘し、平田篤胤と日月神示を批判しているからだ。

Misaki-1192 ‏@bonchan1 1月8日
岡本天明は「飛騨の口碑」は全く知らない。国之常立神とは位山命(丹生川から宮村に遷都した命)であることなど全く知らない。岡本は大本の出口の弟子だというではないか。大本教=キリスト教であり、何故キリスト教信者が位山命のお告げが解るのだ?http://yomenainickname.blog.fc2.com/?mode=m&no=59

Misaki-1192 ‏@bonchan1 1月9日
@ceezneverdiffer そのこともこちらから→http://yomenainickname.blog.fc2.com/?mode=m&no=59 この方や多くの方が日ユ同祖論はデタラメと言っています。第一飛騨の口碑にも♨堕屋など一言も出て来ません。明治維新以降のソーメンつゆみたいなものです。大本教は日本版キリスト教でしょう。

Misaki-1192 ‏@bonchan1 1月7日
平田篤胤が神代文字であると主張したものの題名が神字日文伝。さすがにこの平田(1776~1843)の理論では破綻していたので、昭和19年になって作り治したのが岡本天明の自動書記(笑い)による「日月神示」で、岡本は大本の出口の弟子だ。http://yomenainickname.blog.fc2.com/?mode=m&no=59

変な工作員のデマに引っかかっただけかもしれないけど、悪質なのでフルボッコにした。

では、これから記す読書メモにある呼吸法や瞑想法でリラックスしてくだされ。


…読書メモ…

※アーサナは画像と動画で正しいやりかたを視覚的にも理解してから実践してください。
特に注意点を調べてから実践してください。無理は禁物です。

成瀬雅春『呼吸法の極意 ゆっくり吐くこと』、BABジャパン、2005年


“ いつでもできる日常的な訓練
完全呼吸法のような呼吸法のテクニックを練習する以前に、呼吸法を身に付けるための根本的な原則がある。それは「呼吸に意識を向ける」ということと、「ゆっくりと息を吐く」という二つである。
呼吸は生まれて以来休むことなく続けられているので、ふだんは意識していない。その自分の呼吸に意識を向けることが第一の原則である。意識を向けた瞬間から、呼吸はゆっくりし出す。一日のうち、呼吸に意識を向けることが多くなるほど、ゆっくりした呼吸をしている時間が多くなる。それがすでに呼吸法の重要な基本を身に付けたことになる。
そして第二の原則の「ゆっくりと息を吐く」ということを心がければ、ヨーガ呼吸法の「深い呼吸をする」という重要な基礎訓練をしていることになる。一般的な深呼吸では息を吸ってから吐いているが、それでは本当に深い呼吸にはならない。
まず肺の中に入っている中途半端な空気を吐き出さなければならない。汚れた空気をいったん吐き出してから、ゆっくりと新鮮な空気を肺の中に取り入れることで深い呼吸になる。その息を吸うときに、胸を広げるようにして、少し顔を上に向ければもっとよい。
この「呼吸に意識を向ける」「ゆっくりと息を吐く」という二つは、いつでもできる日常的な訓練なので、習慣として身に付けてほしい。“
p.83-84

“最近は「解脱」という言葉が流行のように使われるようになった。新興宗教の教祖で「私は解脱した」という人もいるようだ。解脱した人には何の執着もないので、自分から「解脱した」ということはありえない。
しかしヨーガの話の中にはジーヴァンムクタ(生前解脱)という、生きていて解脱した人の例が出てくる。その話があるので「私は解脱した」というのだろうが、これは勘違いなのである。
ジーヴァンムクタというのは、本人がいうことではなくて、周囲の人たちが「あの人は解脱している」と感じるものなのである。周囲の人たちといっても教祖の周囲にいる信者のことではない。利害関係のない第三者のことだ
「あの人は解脱している」ということはあっても、「私は解脱している」ということは絶対にないのである。なぜなら少なくとも「私は解脱している」という意識が消え去らなければ、解脱できないからである。”
p.247
(釈迦は輪廻を外れたので、「私は仏陀の生まれ変わり」と言うやつは全員詐欺師です。
「私は解脱した」と、真に解脱した完全な客観視ができている人が自分で言うことはありうるのでは?
ほとんどは偽物だろうけど。
「私は解脱した」って自分で言うことは、「独我論は正しい」と私が「他人に」言うようなものかな)



外的完全呼吸法
①ゆっくりと息を吐いていき自然に腹部が引っ込み、そのままさらに腹を引っこませながら吐いていく。
②吐き終わったら、瞬間的に腹の力を緩めてから、ゆっくりと息を吸っていき、少し腹が膨らむくらいまで吸いこむ。
③そのままさらに胸を前に突き出す感じで胸郭を広げながら、吸いこんでいく。
④胸郭が広がったら、続けて肩を上げながらもう少し吸いこむ。
⑤吸い込み終わったら自然に二~三秒くらい止める。
⑥腹をもとに戻しながら息を吐いていく。
⑦次に胸をもとに戻しながら吐いていき、続けて肩を下げながら吐く。
⑧腹、胸、型が普通の状態に戻ったら、①につなげてくりかえす。
要点
①下部→中部→上部の一つひとつがきちんと分離されて、しかも連絡を滑らかに行えるようにする。
②吸息の中部のときに一緒に肩が上がってしまう場合が多いが、胸を上げようとするとそうなるので、胸は前に出し広げるという気持ちで行うとよい。
③吸息の最後の部分で、少し顔が上向きになってもよい。
④吸息から吐息に移るときに、二~三秒くらい自然に息が止まる状態になってもよいが、喉は開けたままにしておく。
⑤腹、胸、肩の動きはなるべく大きな方がよい。
⑥五呼吸を1セットとして行う。

半内的完全呼吸法
(外的完全呼吸法の表面的な動きを少なくするが、「腹が膨らんでいく」「胸が広がっていく」「肩が上がっていく」という意識はしっかり働かせる呼吸法。
以下のように外的完全呼吸法を改変する)
・胸が広がりかかったあたりからは、胸は動かさない。吐くときは胸をもとに戻しながら吐く。
・肩を動かさずに意識面だけ肩を上げながら吸い、吐くときも意識面だけ下げる。
・吸うときの胸は、ほんの少し広がりかかるくらいで、吐くときは、そのほんの少し広がりかかった分が戻る程度の動きで、意識だけはしっかりと働かせる。
・吸うときに胸の動きが止まったあたりで、意識だけが「スルッ」と内部に入り込む感覚をつかむようにするとよい。

(引用が多くて素敵な読書メモをどうぞ。私が引用した個所以外の引用があります。
【本】呼吸法の極意 ゆっくり吐くこと
http://blog.goo.ne.jp/picarin2005/e/b9556fd602c4af1893b819d988a7f50d)


『ハタヨガの真髄_600の写真による実技事典』
B.K.S.アイアンガー (著), 沖 正弘 (翻訳)


ターダアサナ(サマスティティ)
ターダ=山
サマ=直立、まっすぐ、不動
スティティ=不動の姿勢、堅固
①足を揃えてまっすぐ立つ。両足の親指、および踵をつける。足の指はすべて床にぴったりとつける。
②ももの内筋肉を伸ばしあげるようにすると、膝をリラックスしたままで引き上げることができる。このとき、尻はそっと締めるようにする。
③胃が自然に引っ込むように、肋骨を広げ、背骨を上に伸ばし、首をまっすぐにする。
④体重は踵と指先の一方だけにかけずに、等分にかけること。
⑤理想的にはターダアサナでは頭上に両手を伸ばしておくのであるが、便宜上、両ももの横に下げていてもよい。

パッドゥマアサナ
パッドゥマ=蓮。
この蓮のポーズは最も大切で最も有益なポーズの一つ。
これは瞑想のためのポーズで釈迦像の中にはこのポーズをしたものが多い。
①両足をまっすぐ伸ばして座る。
②両ひざを曲げ、両手で右足を左もものつけ根に乗せる。このとき右かかとはへその近くに来る。
③左ひざを曲げ、両手で左足をもち、右足のできるだけつけ根に近く置く。このときも、かかとがへその近くに来る。足の裏は両足とも上向きのこと。
④背骨の下から首まで肋骨部を四方に広げながら伸ばす。右手は右ひざに、左手は左ひざに置いてもよい。それぞれの手は親指と人差指で印を作る。あるいは、両足の交差するほぼ中央に、一方の掌をおき、その上に他方を乗せて置いてもよい。
⑤今度は逆に、左足を右ももの上に置き行なう。両方行なうことにより、足を均等に発達させる。

マツヤアサナ
①パッドゥマアサナの姿勢で座る
②膝を床につけたまま仰向けに寝る
③息を吐きながら首と胸部を持ち上げ、背中をそらせる。頭をそらせ、頭頂部を床につける。両手で両足をつかみ、上体をさらに反らせる。
④手を離し、両手で互いに両ひじをつかみ、前腕部を頭上の床の上に置く。
⑤深呼吸しながら、30秒~1分間この状態を保つ。
⑥後頭部、背中を床の上におろす。息を吸いながら、パッドゥマアサナに戻る。足をほどいて休む。
⑦組み方を逆にして足を組み、同時間だけ行う。
⑧もし③と④が難しければ、両手を上に伸ばし、胸をそらせないで横たわる。

(もう少し簡単なヴァージョン。
①仰向けに寝て、両足を揃えて伸ばす。
②両脇を締め、掌を下に向けて尻の下に敷く。手の甲と尻が当たる。
前腕と肘を体側に寄せる。
③鼻から息を吸いながら、肘と前腕で床を押しつつ、背中を床から浮かせ、胸を広げつつ、胸を天井方向に持ち上げる。
同時に頭を後ろにそらし、後頭部か頭頂部を軽く床につける。首への負担を軽くするために、できるだけ頭に体重がかからないようにする。
④リラックスして深呼吸する。約15~30秒深呼吸をしながらポーズをキープ。
⑤息を吸いながら頭をスライドさせながら顎を引いて、頭を床にゆっくり下ろし、腕をほどき、ゆっくりと元の姿勢に戻る。肘で床を押して、首と頭に負担をかけないように戻す)


魚=マツヤ。
この魚はヴィシュヌの化身であり、宇宙と万物の初源であり、保護者である。昔々、世界全体が堕落して大洪水にみまわれようとしていたとき、ヴィシュヌが魚の姿となり、マヌ(ヒンズーのアダム)にさし迫る危機を警告した。この魚はマヌとその家族と、七人の聖人を船にのせ、自らの頭の角につないで運び去った。この魚はまたヴェーダ経典を洪水から救った。

(聖書の元ネタの一つ。教会は元ネタ潰しをやっているので、参考にしたのではなく盗作
です。
ヴィシュヌの化身にブッダがいるのですが、バラモン・ヒンドゥー教を否定した釈迦を取り込むなど、元祖仏教破壊工作をやっております。

Ayano Kurosawa ‏@ab_kuro 2014年12月23日
て言うか、クリシュナの最期がギリシャ神話的(何たって、左の踵が弱点!)、クリシュナもといヴィシュヌのアバター(化身)であるマツヤの話が、もろノアの箱舟の元ネタだったり、なんやかんやと神話って国や時代を越えてリンクするのよね。


インド神話bot ‏@hindimyths
ヒンドゥー教の三大神の一柱であるヴィシュヌは10の化身で知られるが、化身の数が10しかないのではなく、特に重要なのがマツヤ(魚)、クールマ(亀)、ヴァラーハ(猪)、ナラシンハ(人獅子)、ヴァーマナ(矮人)、パラシュラーマ、ラーマ、クリシュナ、ブッダ、カルキの10の化身ということ。

マヌという男が川で水を飲もうとした際、手に魚が入った。魚はマヌに船を造るように命じた。マヌが船を完成させると大洪水が起き、大きくなった魚に導かれ たマヌの家族だけが助かった。この魚がヴィシュヌの化身マツヤである。酷似した洪水神話は世界中にある。「manu」は男、manを意味する。)

ヒンドゥー教の三大神の一柱であるヴィシュヌの10の化身の一つにブッダ(釈尊)がある。仏教をヒンドゥー教の一派と取り入れるとも、わざと誤った教えを広めて敵を罰するとも言われる。仏教側もまた、ジャータカ(ブッダの前世譚)の中でヒンドゥー教の神話を取り入れている、など、なかなかカオス。

高山龍智 ‏@nagabodhi 12月6日
天魔(破壊神シヴァ)に妨害されたあと成道したゴータマに説法を勧請したのが梵天(創造神ブラフマー)。んで、ブッダは維持神ヴィシュヌの「反則技」の化身にしちまえ、と…なんかヒンドゥー教内部で人事のいざこざがあったとしか思えんな。

現場監督の波旬(シヴァ)「ナメてんじゃねえぞ若造があ」。でもゴータマは屈せず新ソフト開発。気弱な社長の梵天(ブラフマー)「ここは一つブッダ氏の出番ということで」。結局仏教大流行。「アレはね、私の黒歴史でしてね」と営業部のヴィシュヌが調整。…こんな感じだなヒンドゥーの仏教対策。)

シャヴァアーサナ
シャヴァ=死体。
アーサナ=姿勢。
①正中線を正して仰向けになる。
まず尻の中心と両足の合うところを一直線上にして、床の十字状の線に膝を立てて座る。それからゆっくりと脊椎を一つずつ線の上におろしていく。背骨の中心が線の上に正確に来るようにする。
②頭は額から両側に伸ばすようにする。頭の位置を前面から正していく。
③体が傾かないようにまっすぐに、また左右の均衡を保つ。
額の中心、両眉の中心、鼻の下のみぞ、唇の中心、顎、喉、胸骨、横隔膜の中心、へそ、恥骨の中心、両ももの間の空間、両膝、ふくらはぎ、両かかとの間の空間が一直線をなすようにする。
頭部から両耳、両眼の外角、唇、顎骨の底辺が左右同じ高さになるようにする。
最後に首を伸ばしてその中心が床の線の上にくるようにする。
④両肩甲骨の内縁を床にぴったりとつける。鎖骨のところから上胸部の皮膚を肩の方へ、肩から後ろへ、肩甲骨に向けて伸ばすことで背中がぴったりと床につくようになる。
肋骨は統一をもって広がらなくてはならない。
⑤両足をそろえてかかとの外側を伸ばしてから、両足先を等しくリラックスさせて開く。
⑥手は体側の15~20度のところにおく。
⑦横たわっているときの感覚は、母なる大地に沈み込むような感じ。
⑧掌、指、足の裏、足の指にある緊張に気付かない人が多い。緊張のある部分をよく観察し、リラックスさせて、正しい位置に戻す。
⑨腹部に「空」と「無」を感ずること。体は投げ捨てられた棒のような状態。
⑩眼の奥を見るようにして、自分自身の内面に眼を向ける。
⑪呼吸は、左右の鼻孔を息が等しく流れていることを確かめる。普通に吸い、やわらかく深く長く吐く。深く吸おうとすると頭と上半身が動き、脚と腕に緊張が起こるからである。


B.K.S. アイアンガー『 ヨガ呼吸・瞑想百科―200の写真で見るプラーナーヤーマの極意』


アーサナ
(ヨガでは「内なる神」、「神と一体になる」という表現が多用される。梵我一如)
・プラーナ=息、生命、活力、エネルギー、力。
アーヤーマ=伸ばす、拡張、長さ、幅、規則的、コントロール。
プラーナーヤーマ=呼吸を長くし、コントロールする。
・ムッドラー=封印、鍵。
体の開いている部分を閉じる姿勢で、指を特別な形に組む。
・バンダ=束縛、結びつける、つかまえる。
特定の内臓や体の特定の部分をつかむ、収縮させる、コントロールする姿勢。

ジャーランダラ・バンダ
ジャーラ=クモの巣、網目。
胸骨が顎に押しつけられている状態で、サルワーンガアーサナとその変形ポーズを行っているとき習得できる。
①シッダアーサナ、スワスティカアーサナ、バッドゥラアーサナ、ウィラアーサナ、バッダコナアーサナ、あるいはパッドゥマアーサナの形で座る。
②背中をまっすぐ伸ばし、胸骨と、胸郭前面を持ち上げる。
③無理のないように首の両脇を伸ばし、肩甲骨を体の中に引き入れるようにする。胸椎を前に押し、首をしっかり伸ばしてから、頭を首の後ろのつけ根から前屈させる。
④喉を圧縮したり、首の筋肉を緊張させてはいけない。首と喉の筋肉をリラックスさせておく。喉や首を前方、下方、あるいは後ろに押しつけてはいけない。上背部を後方に押しつけてもいけない。
⑤顎の両側が、両鎖骨間のくぼみに左右等しくふれるように頭を前屈させる。
⑥片側の顎を他方よりも伸ばしたり、首を片方に傾けてはいけない。
⑦顎を胸に押しつけてはいけない。胸を持ち上げておりてくる顎に合うようにする。
⑧頭の中心、顎の中心、胸骨の中心、へそおよび股の中心が一直線上に来るようにする。
⑨顎を胸にもってくるとき肋骨を下げないようにする。
⑩こめかみをリラックスさせ目と耳は受動的にしておく。

ウッディーヤーナ・バンダ
ウッディーヤーナ=飛び上がっていく。
プラーナーヤーマでは腹をつかみ上げること。
プラーナーヤーマではプラーナは下腹部から頭のほうに流れて上がり、横隔膜は下腹部から内臓を後ろ上方、脊柱の方へと引っ張り上げながら上っていく。
まず立った姿勢でのウッディーヤーナをよく修得してから、バーヒャ・クムバカ(呼気のあとで息を止める)中に、ウッディーヤーナは導入すること。アンタラ・クムバカ(吸気後のクムバカ)にウッディーヤーナは取り入れないこと。心臓に負担をかけすぎるのでよくない。
空腹時に行うこと。
①ターダアーサナで立つ。
②両足の幅は約30センチぐらいに開いておく。
③膝を少し曲げ、両手の指を広げてももの中ほどをつかむ。
④肘を少し曲げ、顎をできるだけ下げ、ジャーランダラ・バンダの姿勢をとる。
⑤息を深く吸いこんでから、肺の空気を一息で吐き出せるように急速に吐き出す。
息を完全に吐ききるまで、腹をひっこめてはいけない。
⑥吸気の前に息を止める。腹全体を背骨の方向に持ち上げる。ウッディーヤーナ実践中は胸を落としてはいけない。
⑦腰椎、胸椎を前上方に持ち上げる。内臓を背骨のほうに向かって圧迫する。
⑧内臓を圧迫したまま手をももから骨盤のふちに向かって移動させながら、さらに内臓を収縮させる。
⑨内臓をゆるめないようにして、また顎を上げないようにして背筋を伸ばす。
⑩10~15秒間できるだけ長く内臓を圧迫したままにしておく。自分の限界以上続けてはならないが、無理をしない程度に練習を重ねていくと、実践時間もだんだん長くなる。
⑪顎と頭はそのままで、まず腹の筋肉をリラックスさせる。
⑫腹が完全にリラックスし、内臓がもとのリラックスした状態に戻るまで息を吸ってはいけない。腹の筋肉がもとの位置に戻るのを待って息を吸う。
内臓を圧迫している間、肺を圧迫してはいけない。
⑥~⑫までの過程の間中は息を吸ってはならない。
・2~3回普通に呼吸をしてから、再び①~⑫を6~8回繰り返す。進歩するにつれて、1回の長さと繰り返しの回数を増やしていく。体験の深い指導者のもとで行うのが望ましい。
・ただしこの一連の繰り返しの過程は一日一回だけおこうなうこと。
・ウッディーヤーナが修得できたら各種プラーナーヤーマに取り入れる。ただし呼気の後のクムバカ(バーヒャ・クムバカ)を行うときだけに行う。
・こめかみのまわりに緊張を感じたり、次の吸気の初めに緊張がかかったりしたら、自分の能力以上にウッディーヤーナを行ったということなので気をつけること。
・ウッディーヤーナ・バンダを一人で行うのは極めて危険。間違ったやり方で行うと精液が不要にもれ、活力を失う。

ムーラ・バンダ
ムーラ=根、源、原因、基礎。肛門と生殖器の間の中心部。
ムーラ・バンダでは肛門と生殖器の間の中心部の筋肉を収縮させ、垂直にへその方に向けて引き上げる。同時に下腹部前面およびへその下は、背骨に向かって後ろ上方に押しつける。
ムーラ・バンダは、吸気後のアンタラ・クムバカ中に行わなければならない。
ウッディーヤーナでは肛門から横隔膜まで全部を背中に向かって押し上げるが、
ムーラでは肛門とへその間の、生殖器部と下腹部のみを収縮させ、背骨と横隔膜の方に向かってひき上げる。
ムーラ・バンダを一人で行うのは極めて危険。間違ったやり方で行うと激しい体力減退をもよおし生殖力も失う。正しく行ったとしても、ムーラ・バンダにはそれなりの危険がある。性欲を増加するので濫用する危険がある。

・吸気のとき腹をふくらませてはならない。腹をふくらませると肺が完全に広がらないからである。吸気も呼気も無理があってはならないし、早くてもいけない。プラーナーヤーマの無理は心臓に負担をかけ、それがもとで脳障害を起こすからである。
・意識的に上胸部を持ち上げ、出ていく息をゆっくり、スムーズに導く。
・呼吸のリズムに深く注意を払うこと。

吸気の方法
①自分に合った方法で座る。
②胸と浮肋骨、へそを上げ、背骨をまっすぐ上に伸ばす。
③できるだけ頭を下げる。首の後ろが柔軟になったら、ジャーランダ・バンダを行う。
④感情の源である心は、へそと心臓の間にあるといわれ、背中はこの感情の中心と常に接触を保っていなければならない。体の前面は、この意識の中心との接触を失わないようにしながら持ち上げ、横に広げる。
⑤吸気中、胸を前や後、左右に傾けないように注意しながら、上方と横に胸を広げる。
⑥横隔膜を異常緊張させてはならない。横隔膜の底の方から空気を入れ始めること。深く吸い込む秘訣は、浮肋骨の下、腰のあたりから始めるような気持で行うとよい。
⑦肺に底から徐々に空気を入れる。鎖骨上端から、脇の下前部まで入れること。注意深く、神経繊維を少しずつ今まで以上に伸ばすようにして、肺が完全に空気を吸い込むようにする。
⑧肩が上がったらすぐ下ろすこと。吸気中に肩が上がると、上肺部が完全に広がらず、首の後ろが緊張してくる。肩を上げないで胸を上げておく。
⑨喉をリラックスさせる。舌は下顎の上に寝かせるようにするが、歯にあててはならない。
⑩目は閉じているが、リラックスしており、内面を見る目を敏感にしておく。吸気のときどうしても目は上向きになりがちなので注意。
⑪耳、顔の筋肉、額の皮膚はリラックスさせておく。

呼気の方法
①吸気の①~④の指示に従い姿勢を整える。
②吸気においては、体は息という形をしたエネルギーを受け取る道具の働きをする。呼気はゆっくり静かに行う。そのためには、肋間筋肉や浮肋骨を持ち上げたままにしておく。そうしないと、安定したスムーズな呼気は無理である。
③呼気の始発点は上胸部であるので、上胸部を下ろさないようにしてゆっくり、へそのところまで完全に空になるまで息を吐く。このとき体は神と溶け合う。
④息を吐いているとき、脊柱の中心をもち上げておくだけでなく、その左右両側も持ち上げておく。全身を樹木のようにしっかりさせておく。
⑤体をゆすってはいけない。
⑥胸を持ち上げたまま、ゆっくりスムーズに吐く。息が荒いということは、胸や背中が下がっていることと、息の流れを観察していないことから起こる。
⑦吸気中においては、上半身の皮膚は緊張するが、呼気においてはリラックスしている。ただし胸や背中の内側は下げないようにする。
⑧腕と胸の皮膚は、脇の下のところで触れ合ってはいけない。腕をわざと広げることなく、脇の下のところで、空間と自由がなければいけない。

・クムバ=いっぱいにも、空にもできる壺。
クムバカ(止息)=息を止める(保息)。

アンタラ・クムバカ(吸気後のクムバカ)
はまずは、胸、横隔膜の内側、内臓を上げたままで数秒間止めることだけまず習得する。クムバカの間に肋間筋と横隔膜の内側と腹部内臓を上げておくのは難しい。
・アンタラ・クムバカを立っているときにしない方がよい。バランスを失って倒れるかもしれない。
・アンタラ・クムバカを寝た姿勢で行う場合、頭の下に枕を置き、頭が体より高い位置に来るようにして、緊張を防ぐ。
・アンタラ・クムバカの間、鼻梁を上げてはならない。
・プラーナーヤーマの間中、頭と頸椎を前傾させ、背骨と胸骨を持ち上げる。脳と頸椎を胸骨の方に向ける。
・吸気後のクムバカ中、内臓をひっこめ持ち上げると同時に、背骨下部を前に押し、胴体はたるませず、頭と腕と足をリラックスさせ、仙・腸骨から背骨を持ち上げ、肝臓下部と胃の下部を持ち上げる。
・背骨の内側と外側両方を上方前方に規則正しくそして等しく持ち上げる。
・上胸部の皮膚がゆるんで、肋骨の方におりてきたときは、息が不注意のうちに漏れたということである。
・胸は張りすぎても落としてもいけない。前面、側面、後面に等しく上げる。肋骨の内側を持ち上げる。

 バーヒャ・クムバカ(呼気後のクムバカ。完全に息を吐ききった後で息を止める)
は静的に行うときはウッディーヤーナなしで行うが、これは自分自身を静めるもので、食後でもいつでも行ってよい。
動的に行うときはウッディーヤーナ・バンダを併用するので、腹部内臓と心臓をマッサージし、エネルギーの分散を防ぐ。
・背骨の内側と外側両方を上方前方に規則正しくそして等しく持ち上げる。
・上胸部の皮膚がゆるんで、肋骨の方におりてきたときは、息が不注意のうちに漏れたということである。
・胸は張りすぎても落としてもいけない。前面、側面、後面に等しく上げる。肋骨の内側を持ち上げる。

・マントラ(呪文を繰り返し唱える)の目的は、乱れた心を一点に集中し、考えを一つにまとめること。マントラは、ヴェーダ(聖典)の讃美歌の部分であり、音楽を帯びた詩である。その詩を繰り返すことがマントラであり、愛と自己を捧げるまじめな心で行うと、自己を神に近づけることができる。
・プラーナーヤーマの実践中にマントラを繰り返し、舌や口を動かさないでそのマントラに意識を集中する。そうすると集中力を身につけると同時に、吸気、クムバカ、呼気の長さを伸ばすことができ、呼吸がスムーズになり意識も高まる。
・マントラは早く繰り返してはならない。吸気、呼気とクムバカをそれぞれ同じ長さで平均したリズムで行い、それに合わせるべきである。
・マントラは「アー・オ・ム」

・ウッジャーイー
ウド=上昇、広がり、卓越、力。
ジャヤ=征服、成功、コントロール。

※あらゆるプラーナーヤーマの全段階が、呼気(レチャカ。「フー」と吐く)で始まり吸気(プーラカ。「スー」と吸う)で終わる。まず肺の中にある空気を全部吐き出してから始める。心臓に負担をかけるから、呼気で終わってはならない。普通に息を吸ってから終わること。決して無理をしてはならない。

A
①毛布を床に敷く。その上にもう一枚の毛布を三つ折りか四つ折りにして、片側にそろえて敷き、その上に後頭部と背部をぴったりつけ、仰向けに寝る。
②体をまっすぐする。目を閉じて1~2分静かにしている。胸をへこませない。
③普通に呼吸する。呼吸に意識を集中し、呼吸の流れを感ずる。
④両肺を等しく空気で満たすようにしながら、胸が上にそして外に広がるのを感ずるようにする。吸気音が聞こえなくなるまで完全に肺に息を入れる。
横隔膜をリラックスさせ、腹をふくらませないで息を吸い、横隔膜を横に伸ばす。
腹をふくらませないためには横隔膜を浮肋骨より上方に上げないようにする。
深く息を吸うと眼球が上がりやすいので、意識的に眼球を鼻の方におろし、肺の内部を見るようにする。
⑤ゆっくり、深く、一定の速度で、静かに息を吐き、両肺を等しく空にする。もし両肺が均等に機能しなければそれを正すこと。
呼気の始めに、横隔膜を脚の方向に下げないように固定し、それからゆっくりと息を吐くが、深く吐いてはならない。このときには呼気は普通の呼気よりも少し長めになる。
⑥10分ぐらい続ける。この間目は閉じ目の奥を見るようにする。

B
A+横隔膜を動かさないようにし、肺が空になるまで、ゆっくり深く一定の速度で息を吐きながら徐々に横隔膜をゆるめる。

C
①好きな座法で座る。
②顎をまっすぐ下げ、胸郭を内側から持ち上げる。顎を胸骨上方の両鎖骨間のくぼみにおく。ジャーランダラ・バンダである。
③腕を下げ、掌を上向きにして手首を膝の上に乗せる。あるいは人差し指と親指で印を結ぶ。ギアーナ・ムッドゥラーである。
④吸気時には腹をふくらませない。終始、横隔膜は肋骨より下にしておく。すべてのプラーナーヤーマを行うときにこのことを守らなければならない。
横隔膜が浮肋骨よりも上になると、胸がふくらまず中腹部がふくらんでしまう。
恥骨から胸骨までの腹部全体を背骨に引き寄せてから次に頭の方へ上げる。これは内臓にマッサージになる。
⑤横隔膜とともに内肋間筋も持ち上げ、その状態で呼気を、ゆっくり深く一定の速度で行う。
呼吸の流れを観察しながら、Aの要素を入れて、10~15分間行い、シャヴァアーサナで数分間休息する。


バストゥリカー・プラーナーヤーマ
バストゥリカー=ふいご。
空気をふいごのように力強く吸い入れたり、吹き出したりするプラーナーヤーマである。
※バストゥリカーは全身を活発にするプラーナを作り出す。しかし、あまり長く練習しすぎると、呼吸が強いので組織が摩滅して肺が危険な状態になるので注意する。
※ふいごの音がしなくなったらすぐやめて、普通呼吸を始めるか、繰り返すサイクルの回数を減らす。
※いらだちや緊張が感じられたり、鼻血、耳鳴り、耳痛が起こったらすぐやめること。呼吸の音が正しくなかったり、強い呼吸ができなくなったらやめること。少しの無理でも鼻血が出たり肺に障害を起こす。
※眼か耳に疾患があったり、高血圧または低血圧の人は行ってはならない。
※きゃしゃな体格の人や、肺活量のあまりない人は、バストゥリカーやカパーラバーティを行ってはならない。血管や脳に障害を起こす恐れがある。
※女性は行ってはならない。力強い呼吸によって腹部臓器と子宮の位置異常を起こし、乳房がたるむ恐れがあるからである。
※バストゥリカーによってクンダリーニの力が覚醒されるというまちがった考えをしている人が多い。権威ある書物にも同じようなことが書かれてあるが、真実とはほど遠い。

①鼻孔は終始開いておく(右手の親指、薬指、小指でつまむ必要はない)。
②自分に合った座り方で座る。肺の中の空気をすべて吐き出す。
③短く、強く息を吸い、早く強く一気に息を吐く。これを繰り返すと、次の吸気は最初の吸気よりも速く、力強いことがわかる。これは吸気の前の呼気が強いからである。
④すばやく吸ってすばやく吐く。4~8回続けて行い1サイクルが完成する。呼気で(吐いて)終わること。
⑤普通は、ウッジャーイーのときのように数回ゆっくりと呼吸するが、吸気のあと、ムーラ・バンダで5~8秒のクムバカを入れてもよい。勿論、それからウッジャーイーのときのようにゆっくり深く息を吐く。こうすると横隔膜と肺が休まり、また新しいバストゥリカーの強い呼吸に備えることができる。
⑥クムバカを入れても入れなくてもよいが、ウッジャーイーを混じえてこのバストゥリカーのサイクルを何回か繰り返す。それから深呼吸してシャヴァアーサナで休息する。
⑦スタミナが増すにつれてバストゥリカーの回数も増えるが、呼吸の調子が変わったらすぐに中止すること。

カパーラバーティ・プラーナヤーマ
カパーラ=頭蓋骨。
バーティ=光、光沢。
バストゥリカーとほぼ同じであるが、それに比べて穏やか。吸気はゆっくり、呼気は力強く行い、呼気を終えるたびにほんの少しのクムバカを加える。バストゥリカーがきつすぎると感じたら、このカパーラバーティを行う。

・ディヤーナ(瞑想)=吸収。
自学自習、自己反省、鋭い洞察、自分の内にある無限のものを捜す方法。深い内省で体の中の動きを観察することであり、心の状態を見つめる。自分の中にある最も奥のもの、つまり自己の内にある神を見ることである。
①ジャーランダ・バンダをしないで、正しく座る。
②体の前後を等しく持ち上げ、背骨を伸ばし、胸を上げる。
③頭を左右前後のどちらにも傾けず、頭頂部を床と平行にする。
④目を閉じて目の奥を見る。
⑤胸の前で合掌し、親指が胸骨をさすようにする。この手の形はアートマンジャリ・ムッドラーとかフリダヤーンジャリ・ムッドラーという。
(写真を見ると親指が胸の中央にあたっている)
⑥意識が脳と心のあいだを揺れ動いていると、考えが次から次へと浮かんでくる。そういうときには掌をさらに合わせ、注意を自己の内なる神に集中する。掌がゆるんできたら心がさまよっているという警告であるから、一層しっかり合わせ、内なる自己に意識を集中する。

『禅の本』


坐禅の仕方
・結跏趺坐(足の裏を天に向けて両足を組んで坐る。結跏=足を組む。趺=足の裏)で座る。
①座蒲(ざふ。なければ座蒲団の上にさらに二つ折りした座蒲団)を置き、その上に浅く腰を下ろす。
②右足を左のものの上に乗せ、かかとが下腹につくくらいまで、なるべくつけ根のほうまで引き寄せる。
③左足も同じように右のももの上に乗せる。
両膝と尾骶骨で、床の上に三角形ができる。このとき膝が床から離れてはいけない。
足が痛くて結跏趺坐ができない人は、左足だけをももの上に乗せる半跏趺坐を用いてもよい。
それも辛い人は普通に正坐して行ってもよい。
・目は自然におとす。閉じると眠気を催したり、妄想に陥りやすくなる。
・手は法界定印(ほっかいじょういん)を組む。
右の掌を上向きにして、組んだ足の上に置く。
その上に左の掌を同じように上向きにして重ね、親指の先を合わせて卵形の輪を作り、その手はへその下あたりに置く。
両方の親指をかすかに合わせる。離れても押しつけてもいけない。
・体の位置は真中心におく。時計の振子のように上体をまず大きく左右にふって自然に止まった位置、次に前後にふって上体がまっすぐ安定した位置。
・頭は顎を引き、左右に傾かないようにする。視線は1m先くらいに自然におとす。
・口は軽くむすび、舌先を上あごの歯のつけ根に軽く当てる。
・肩は力を抜き、水平にする。
・背中はまっすぐ伸ばす。腰は後ろにぐっと引く。腹は少し前につきだし、鼻と一直線になるようにする。
・呼吸は自然と鼻からの呼吸にまかせ、息は長すぎも短すぎもしないようにする。息はまず吐き出してから吸う。下腹の底から吐く心地で息をすると、下腹はへこむというよりも充実感がある。すると自然に鼻から吸うことができる。


『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法』
William Hart ウィリアム・ハート (著),
日本ヴィパッサナー協会 (監修), 太田 陽太郎 (訳)
春秋社 1999-11


・ブッダの教えは仏教用語を解説するような形で説明されることが多いようです。しかし、本書では意図的に仏教用語を少なくし、原文の簡潔な英語を尊重して、できるだけ平易な日本語にするようつとめました。
たとえば、八正道を「聖なる八つの道」、
戒定慧を「道徳、精神集中、知恵」、
受想行識を「感覚、知覚、反応、意識」といったぐあいにです。
ヴィパッサナーはブッダの瞑想法をそのままの形で伝えるもので、宗教的な色彩をいっさい持たない
からです。(訳者あとがき)

・ヴィパッサナー瞑想法は長年ミャンマーの仏教徒のあいだで伝承されてきたが、それ自体はまったく宗教的な色彩がなく、どのような背景を持った人でも受け入れ、実践できるものである。
S・N・ゴエンカはヴィパッサナー瞑想法の指導者でり、口癖は「ビー・ハッピー!」。
瞑想の純粋さを維持するためには瞑想をビジネスにしてはならない、とゴエンカ氏は主張する。氏の指導する瞑想コースや瞑想センターは、すべて、まったく営利を目的としないで運営されている。ゴエンカ氏はいっさい報酬を受け取らない。氏の代理としてコースの指導を許可されたアシスタント指導者たちも無報酬

本書で引用したブッダの言葉は、もっともポピュラーな最古の記録書『経蔵』(スッタピタカ)からのものである。『経蔵』は古代パーリ語で書かれており、テーラヴァーダ派の仏教(上座部、南伝仏教)が普及している国々に保存されている。筆者は現代翻訳家の訳文を参考にしつつあらためて翻訳しなおした。
本文の仏教用語はパーリ語のものを使用した。サンスクリット語のダルマの代わりにパーリ語のダンマを、
カルマの代わりにカルマを、
ニルバーナの代わりにニッバーナを、
サンスカーラの代わりにサンカーラ
を、
といったぐあいである。

・ニッバーナ=火が消えること、苦からの自由、究極の現実、束縛のないこと。
サンスクリット語ではニルバーナ。

・サムサーラ=輪廻転生、条件づけられた世界、苦の世界。

・サンカーラ=(心の)形成、意思活動、心の反応、心の条件づけ。
サンスクリット語ではサンスカーラ。

・ブッダの教えは、自己改革の手段として自己洞察を強めてゆくシステムである。
『サティパッターナ・スッタ』すなわち『気づきの確立の教え』(大念住経)という経典のなかで、ブッダは自己観察によって自己洞察を深めてゆくという実践的な方法、すなわちヴィパッサナー瞑想法を示している。

・サティ(気づき)。アーナーパーナ・サティ(呼吸の気づき)。
ヴェーダナー(感覚。心とからだの両面を持つ)に反応することが苦の原因だとブッダは説いた。
ブッダは因果の連鎖において、タンハー、すなわち苦の原因は、ヴェーダナーに反応することによって生まれると説いた。
ヴェーダナーを冷静に観察できれば、新たな渇望や嫌悪の反応がなくなり、自分のなかで無常(アニッチャ)の真理を直接体験できる。執着を取って心を解放するためには、この体験が不可欠である。

・タンハー(原義は「渇き」)=渇望、(渇望の裏返しである)嫌悪。
タンハーが苦の原因。因果の連鎖においてタンハーが感覚への反応として起こる。

・ドゥッカ=苦、不満


・ブッダは対象物と反応とのあいだに第三の要因があり、それがヴェーダナー(感覚。心とからだの両面を持つ)であることを発見した。外の現実に対してではなく、内なる感覚に反応しているというのである。渇望や嫌悪の反応をせずに感覚を見つめることができれば、苦の原因がなくなる。だから苦は消滅する。
ブッダの教えを修行するためには、ヴェーダナーの観察が欠かせないのである。ヴェーダナーの気づきを完璧なものにするには、からだの感覚を観察しなければならない。
からだの感覚に気づくことによって、問題の根っこを深く掘り下げ、それを取り除くことができる。自分自身の奥底に横たわる真実を見きわめ、自分自身を苦から解放することができる。ブッダの教えのなかでは、感覚を観察するということが中心的な役割
を果たしている。

経典『気づきの確立の教え』の「気づき」は、「わたし」という現象の無常性を直接理解しなければ確立しない。その真理を自分自身で直接さとったとき、気づきは確立する。これが正しい気づきである。これによって心が解き放たれる。気づきが確立すると、外の世界ばかりか内なる世界への渇望と嫌悪もおのずと消えてしまう。とくに内なる渇望と嫌悪の根は深く、だれもが無意識に、本能的に自分のからだと心に執着し、しかもそのことに気づかない。
『気づきの確立の教え』はまず、からだの観察について説いている。呼吸を観察する。からだの動きを観察する。からだのなかにからだの内部を、または外部(体表)を、あるいは内部と外部を同時に観察する。からだのなかに生まれる現象を観察する。感覚を観察する。心を観察する。心の中身を観察する。
はじめは、固くて変化のない「かたまり」のような、からだと心のうわべの現実を体験するが、修行をつづけてゆくと、やがてその固さが自然に溶けてゆく段階に入り、心とからだの真の姿、一瞬一瞬生まれては消える波動の集まりを体験することになる。この体験によって、からだ、感覚、心、心の中身、これら四つの側面の実体をすべて理解する。それはおよそ非人間的であくまでも無常な現象の終わりなきうねり
である。

“では、瞑想者はどのようにして、からだのなかにからだを観察するのだろう? この場合、瞑想者は森の中や、木の下や、だれもいない小屋に行く。そこで足を組んですわり、背すじを伸ばし、口のまわりに意識を固定する。彼は呼吸を意識しながら、息を吸い、息を吐く。深い息を吸っているとき「いま自分は深い息を吸っている」と正しく理解する。深い息を吐いているとき「いま自分は深い息を吐いている」と正しく理解する。浅い息を吸っているとき「いま自分は浅い息を吸っている」と正しく理解する。浅い息を吐いているとき「いま自分は浅い息を吐いている」と正しく理解する。「からだ全体を感じながら、息を吸う」そのように自分を訓練する。「からだ全体を感じながら、息を吐く」。そのように自分を訓練する。「からだの動きを静めて、息を吸う」そのように自分を訓練する。「からだ全体を静めて、息を吐く」そのように自分を訓練する。
(『サティパッターナ・スッタ』『アーナーパーナ・パッバム』)“p.221-222


“ 瞑想者がからだのなかの心地よい感覚の無常性を観察しつづけていると、その感覚は衰え、うすれ、消滅する。また、自分が心地よい感覚に対する執着を捨てるのを観察しつづけていると、からだのなかの心地よい感覚への渇望という隠れた条件づけが取り除かれる。瞑想者がからだのなかの心地わるい感覚の無常性を観察しつづけていると、からだのなかの心地わるい感覚への嫌悪という隠れた条件づけが取り除かれる。からだのなかの中立の感覚の無常性を観察しつづけていると、からだのなかの中立の感覚への無知という隠れた条件づけが取り除かれる。
(『パタマ・ゲーランニャ・スッタ』)“p.223


ブッダ(さとりを開いた人)はあくまでも人間でありつづけ、けっして自分が神のような存在であるなどとは言わなかった。なにか特殊な力を持っていたといわれることはあるが、それはあくまで人間として抜きんでていたのであり、人間の持つ力を最大限に発揮させたにすぎない。だからブッダが成し遂げたことは同じようにやればだれにもできる範囲のことなのである。

・ブッダはいかなる宗教も哲学も体系的な理念も説かなかった。その教えをダンマと呼んだが、ダンマとは法、すなわち自然法則にほかならない。ブッダは特定の教義や無意味な施策には関心をもたなかった。そのかわり、万人が抱える共通の問題を解決するための普遍的、実践的な方法を提供してくれた。
ブッダは「むかしもいまも、わたしは苦と苦の消滅について説いている」という。苦からの解放につながる話でなければ議論することもひかえたという。
この教えは自分が発明したものでもなければ、神がかりになってひらめいたものでもない、とブッダは言う。自分が努力して発見した単純明快な真理であり、自分より前に多くの人が同じことを発見しており、自分より後にも多くの人が同じことを発見するだろう、と言っている。真理を独り占めにする気などまったくなかったのである。
ブッダは自分の教えが絶対であると断言することもなかった。それは人々が彼を信頼しきっていたからでもないし、彼の教えが理路整然としていたからというわけでもない。むしろブッダは、自分が体験していないものは疑い、検証すべきである、と述べている。


“人から聞いたこと、古い言い伝え、世間の常識、あるいは文字になっているもの、そういうものを鵜呑みにしてはいけない。想像、推測、外見、部分、可能性、あるいは師の意見、そういうもので教えが真理であると決めつけてはいけない。自分が直接「この教えは正しくない、間違っている、賢者も批判している。この教えを実行すると弊害があり、人々が苦しむ」とさとったとき、それを捨てればいい。自分が直接「この教えは正しい、間違いがない、賢者も称賛している。この教えを実行すると人々が豊かで幸福になる」とさとったとき、それを受け入れ、実践すればいい。”p.15

・ブッダは「わたしの教えには裏も表もない。掌中にかくした秘密はない」と言う。
実際、選ばれた弟子だけに授ける奥義など持たなかった。逆に、多くの人がその恩恵にあずかることを望んだのである。
派閥や個人崇拝の集団をつくって自分がその中心にすわる、などという考えはこれっぽっちもなかった。ダンマの教えに比べたら、教えを説く人はそれほど重要でない。教えを説く人の役目は人々に自己解放への道を示すことであり、盲目の信者をつくることではない、とブッダは言う。極端にブッダをまつりあげようとする者がいると、その人をこうさとした。

「このからだを見てなんになろう、やがては朽ち果てるものを。ダンマを見てわたしを見よ、わたしを見てダンマを見よ」

真理こそが第一であって、真理を説く人ではない。真理を説く人を尊敬するのはいい。
だが最高の尊敬の表わしかたは自分もその人と同じように真理を追究することである。
ブッダは、最期が近づいたころ、自分をひどく崇めたてまつる人々を見てもこうもらしている。

「これはさとりを開いた人をたたえ、敬い、尊ぶ、正しい姿ではない。むしろ、ダンマの道を最初の一歩から最終ゴールにむかってこつこつ歩き、きちんとダンマを修行している僧や尼僧、在家の男女の信者たちこそが、さとりを開いた人を心からたたえ、敬い、尊んでる」


(仏陀 ブッダ ことば 仏教 ‏@Buddha_Words 2011年3月22日
841 マーガンディヤよ、あなたは自分の教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執着した事柄について迷妄に陥ったのです。あなたはこの内心の平安について微かな想いさえも抱いていない。だからあなたは「ばかばかしい」と見なすのです(スッタニパータ)

“第四章(アッタカ・ヴァッガ)
p.186 八三六
“(マーガンディヤがいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」”

 p.186 八三七“師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

宗教否定。~という説を説くときいた相手がそれに執著してしまうことを危惧しているのかもしれない。どのような生存状態に生まれかわるかについて答えていない。わかりっこないからだろうか
。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-9.html
原始仏教はカウンセリング術。
現世利益を言わない宗教が多いのは、現世利益で幸せになると儲からないから。
『仏教、本当の教え - インド、中国、日本の理解と誤解 』・
『原始仏典』・
『ブッダの真理のことば・感興のことば』。
あと、生き残るために他の宗教に偽装した宗教や、キリスト教が作った「ユダヤという身代わりの生贄」やズルワーンについてなど
。)

わたしたちは外側ばかり見るくせがついている。自分を知らないことがどれほど危険なことかもわかっていない。自分の中に未知の力がひそんでいて、自分がその力の奴隷になっていることに気づいていない。ブッダが示した道は自己洞察、自己観察の道であり、自己浄化の道でもある。自分自身を観察していると、はじめて自分が反射的に反応していることに気がつくだろう。
この道は歩くのは、貯金をして将来その利息を楽しむとか、死んだあと、あるかないかもわからない天国に行くためではない。利益ははっきりと、あざやかに、その人その人にふさわいい形であらわれ、まさに「いま、ここで」体験できる。

(はっきりいって、未来や「いつか必ず」を強調する宗教は詐欺
です)

ブッダの教えを修行するためには、かならずしも仏教徒になる必要はない

・ブッダは物質世界がすべて、パーリ語でカラーパという「分解できない極小単位」から構成されていることを発見した。
ものはみなカラーパという微粒子から構成されており、そのカラーパはたえず生まれては消えるという。つまり、連続的な波動の流れ、絶え間ない微粒子の流れ、これが「もの」の究極の真相なのである。わたしたちがそれぞれ「自分」と呼んでいる「からだ」の実態なのである。

・ブッダはからだを観察しながら、心も観察した。そして、心が意識(ヴィンニャーナ)、知覚(サンニャー)、感覚(ヴェーダナー)、反応(サンカーラ)という、大きくわけて四つのプロセスから成り立っていることを発見した。
第一のプロセスは意識である。
意識は心のアンテナのようなもので、なにかが起こったことを無差別に感じ取り、それに気づく。からだや心になにかが起こったということだけを察知し、その入力信号をとらえる。内容を識別したり価値判断を加えたりせず、ただなにかが起こったという生のデータを受信する。

第二のプロセスは知覚である。知覚は、認識をする。知覚は意識がとらえたものを読み取る作業をおこなう。未処分のデータをすべてチェックし、分類する。そして好悪の判断をくだす。

第三のプロセスは感覚である。実際には、なんらかの入力があった瞬間に感覚が生じている。なにかが起こったという感覚が生じているはずである。ただ、その入力信号が識別されるまでは感覚がはっきりしない。データが識別されて価値判断がくだされたとき、それに応じて快、不快の感覚が生まれる。

心が何らかの対象物に接触すると、その瞬間、電光石火のごとく四つのプロセスが走る。これをつぎつぎにくりかえしていくのである。
人間をこのように説明してゆくと、その実体というよりも、その虚体とでもいうべき事実におどろかされる。わたしたちは、「わたし」という一貫したアイデンティティー(主体)を持ち、それを生来信じて疑わない。過去の自分、いまの自分、将来の自分、というものを中心にすえて生きている。
ブッダはこのアイデンティティーという直観的な概念に挑戦した。だからといってあらたに独自の概念をつくり、理論に理論をぶつけたわけではない。ブッダは何度もこう念を押している。自分は意見を述べているのではない。実際に体験した事実、だれもが体験できる道、それを述べているにすぎない、と。
人間は完成品でも不変の存在でもなく、一瞬一瞬、休みなく流れつづけるプロセスにすぎない、とブッダはさとった。
ほんとうに「存在している」ものなどなにもない。ただ現象のにが起こりつづけ、ひたすら何かに「なる」
というプロセスが起こっているにすぎない。

(心は脳の働きではなく)全身に心があります。からだ全体にです

・Q――先生は「わたし」という意識について、いつもマイナスなとらえ方をされます。でもプラスのものもあるのではないでしょうか?
喜びや安らぎ、至福感、そういう「わたし」の体験もあるのではないでしょうか?

A――瞑想していると、そういう官能的な喜びが長続きしないことに気がつきます。喜びの感情が浮かんでも、じきに消えてしまう。「わたし」が本当に喜び、その喜びが本当に「わたしのもの」なら、その喜びの感情を「わたし」は自由にできるはずですね。でも、そういう感情は勝手に生まれ、勝手に消えてしまう。そんな「わたし」とはなんでしょう?
深いレベルでは「わたし」というものは意味を持たなくなります。自我は溶解され、そこにはただ「喜び」だけがあります。「わたし」はもう問題にはなりません。瞑想を続けていくと、やがて自我の溶解を体験する
ときがきます。

Q――わたしがこの(ヴィパッサナー瞑想)コースに来たのは、「わたし」がここに来たいと感じたからなのです。

A――もちろん、そうでしょう。便宜上、わたしたちは「わたし」や「わたしのもの」から逃れることはできません。でもそれに執着し、究極的な意味での真実、と錯覚することは苦しみを生むだけです。

・カンマ(サンスクリット語ではカルマ。業)という言葉は一般的には「運命」という意味に解釈されるが、カンマを運命とするとブッダがこの言葉で意味しようとしたものとは正反対になってしまう。
運命というと人間の力ではどうにもならないもの、あらかじめ各自に課せられた天命、というような意味になる。
しかし、カンマの原義は「行為」であり、自分の行為が自分の体験の原因になるというのである。自分の行為を支配できれば自分の運命を支配できる。自分の行為、行動のなかに苦を止める鍵があるのだ、とブッダは言う。
真のカンマ、ほんとうの苦の原因、それは心の反応である。ほんの一瞬の好き嫌いの反応ならそれほど強くないから、ほとんど影響はない。しかし、累積効果というものがある。一瞬一瞬、つぎからつぎへと反応をくりかえしていると、そのつど反応が強くなり、やがて渇望や嫌悪に成長する。いちばん最初の説教をおこなったとき、ブッダはこれをタンハー(渇き)と呼んだ。ないものをどこまでもほしがるという心のくせは、あるものにけっして満足しない、ということと同じである。
苦から抜け出すための第一歩は、苦の現実を受け入れることである。それも頭のなかの概念や信条としてではなく、自分の人生を左右する厳然たる事実として受け入れる
ことである。

・Q――苦しみを体験することによって人はたくましくなり、人間として成長するのではないでしょうか?

A――そうですね。実際、この瞑想法も苦しみを使って心のきれいな人間を作ろうとしています。しかし、それも自分の苦しみを客観的に観察できるようにならなければうまくゆきません。苦しみに執着しているうちは心の清らかな人にはなれないし、苦しみから解放されることもないのです。

Q――自分の行動をコントロールすると言われますが、それは抑圧ではないでしょうか?

A――それは違います。どんなことが起きても、それをそのまま客観的に観察する訓練をしているのです。たとえば腹が立ったとき、その腹立ちを隠したり、こらえたりすれば、たしかにそれは抑圧になるでしょう。そうではなく、その腹立ちをじっと観察していると、それはやがて自然に消えてゆきます。怒りという感情を客観的に観察することができるようになれば、怒りから解放されてゆくのです

・「五つの集合体への執着が苦である」
苦は自分のからだと自分の心に対する並々ならぬ執着である。
からだというプロセス、それに意識、知覚、感覚、反応という四つの心のプロセス、
つまりこの五つのプロセス(過程、現象)への執着、五つの集合体への執着が苦なのである。
人々は自分の心とからだというアイデンティティーにしがみついている。
自分という虚像への執着、実際にはたえず変化しつづける現象にすぎないものへの執着、
これはまさに苦以外のなにものでもない


・執着にはいくつか種類がある。
①官能的な満足を求めるくせへの執着。
麻薬中毒者が中毒がひどくなることを知りながら快感を求めてつい手を出してしまう。
わたしたちはなにかを渇望することに執着している。
欲求の対象はあまり重要ではなく、ただ渇望している状態を維持したくなる。
渇望中毒


②「わたし」という大きな対象の執着。
自分、自我、自分のイメージに対する執着。
わたし「のもの」にも執着する。
自分に付随するものすべてへの執着。
自分に帰属するものに執着するのは、それが自己の延長であり、「わたし」のイメージを支えているから。
わたし「のもの」との別れは必ずくる。
執着が強いほどに苦しみも強くなる


③宗教の形態や儀式への執着。
外形にとらわれて、その根底にある意味を忘れやすい。

(釈尊の思想だと、
宗教の形而上学的な、確かめようがない教義は不毛だから悪。
当然、教義への執着も悪


輪廻転生(サムサーラ)は、一般にいわれているような、魂や自我の移行とは少しちがう。

ふつう、生まれ変わりというと、何度生まれ変わっても魂や自我の主体は変わらないと考えるだろう。
ブッダは、そういうことは絶対にありえない、と言う。
なにか不変の主体(アイデンティティー)があって、それが輪廻転生するのではない、と言う。
「ちょうど、牛から牛乳を取り、牛乳から凝縮乳をつくり、凝縮乳からバターをつくり、天然バターから加工バターをつくり、加工バターからクリーム状の脱脂乳をつくるようなものだ。牛乳は、凝縮乳や天然バター、加工バター、クリーム状の脱脂乳などとはべつのものと考えられる。それと同じで、どの時点においても、過去や未来ではなく、いまこの瞬間に存在している姿のみを真実と考えるべきである」


ブッダは、不変の自我本体が輪廻転生を繰り返すとか、前世も来世もないと言っているのではない。
ある存在からつぎの存在へ、さらにまたつぎの存在へと、ただ生成のプロセスが起こり、わたしたちの行為がそのプロセスに推進力を与えるかぎりその流れがつづく、と言っているのだ。
盲目的な反応をやめたなら、いまここで深い心のやすらぎを得ることができるだろう。
天国も地獄も、いまここに存在する。天国も地獄も、この世で、自分のなかで体験できる


執着をもたない、ということは、無関心や無頓着とは違います

・五戒
1 生き物を殺さない。
2 盗みをしない。
3 性的なあやまちを犯さない。
4 嘘をつかない。
5 酒類をとらない。

・シーラ=道徳。
他人を傷つけ自分も傷つくような、からだと言葉の行為をつつしむこと。

Q――正しい性と間違った性があるということですが、その違いは何ですか? 意思が問題なのですか?

A――そうではありません。生活の中で、性というのは正しい位置付けをされるべきです。それを抑圧してはなりません。むりに抑えれば緊張が高まり、むしろ問題を引き起こします。
しかし一方で、衝動のおもむくまま、誰かれかまわず交渉をもつことは、欲望を野放しにすることです。
抑圧でも放縦でもない中道をダンマは教えます

Q――麻薬の力を借りて、超意識や超現実を体験することについてどう思われますか?

A――麻薬の力で何かを体験することはそれに依存することです。
一方ダンマは自分が自分の主となることを教えます。いつでも望むときに自分の意思で真理を体験することができるのです。
麻薬を使うと心の平静さが失われ、自分を害します。ダンマの修行によって真理を体験するとき、心は平静になり、だれも害されることなどありません


Q――肉食はシーラを破ることになりますか?

A――いいえ、自分で生き物を殺して食べるのでなければ。たまたま肉料理が出され、ほかの料理同様に食べるなら、それだけではシーラを破ることにはなりません。でも避けるのが望ましいです。

呼吸に気づく訓練をする。呼吸に意識を固定する。
心がさまよっても、にっこり笑って、あせらず、根気よく、力まず、落ち込まず、何度も何度も心を呼吸に引き戻す。

・アーナーパーナ=呼吸。
アーナーパーナ・サティ=呼吸の気づき。

・アーナーパーナで呼吸に意識を置くとき、おなかでなく鼻孔の下に意識を置くのは、おなかでは意識を置く範囲が広すぎるから。
意識を置く範囲を狭くすれば、それだけ集中力は高まるので、鼻孔が最適。

・ヴィパッサナー=総合的に心を浄化する自己凝視、自己洞察。
とくに心とからだの無常という性質を見抜く洞察。

ヴィパッサナー・バーヴァナー
=からだの感覚を観察して真理を見抜く瞑想法を修行し、段階的に自己観察の力を高めていくこと。

ヴィパッサナー瞑想では自然なからだの感覚を観察する。順序良くからだに意識をめぐらせてゆく。
とくべつな感覚を追いかけたり、避けたりしてはいけない。
ただひたすらからだの感覚を冷静に観察し、どのような感覚があらわれようとそれに意識を置く。
変わった感覚を探し求めるのではなく、ふつうのからだの感覚を淡々と観察していく。
感覚の原因をさぐる必要はない。
重要なのは意識の焦点を合わせたところにある感覚に気づくこと。
何度も全身に意識をめぐらせ、かすかな弱い感覚も感じ取る。
感覚のにぶいところを飛び越してはいけない。
ある感覚を避けようとしてはいけない。

・ヴィパッサナー瞑想の最大の目標は、いかにして反応しないでいるか、いかにして新しいサンカーラ(盲目的な心の反応)をつくらないか、を学ぶことである。
盲目的な心の反応の結果もサンカーラと呼ぶ。


Q――自分がつくり出した感覚ではないということはどうしてわかるのですか?

A――それはテストをすればわかります。
ほんとうの感覚かどうかあやしいと思ったら、二つ三つ命令を出して、自分に暗示をかけてみるのです。
命令にしたがって感覚が変化するようならば、その感覚はほんものとはいえません。
けれども自分で感覚をコントロールできない、感覚が自分の命令にしたがわないときは、その感覚はほんものです。
疑いを捨てて、受け入れてください。


・人生のパターンを、後ろ向きの「反動」から、前向きな「行動」に変えてい
くのです。

たとえば、ある人がなにかをしようとしたとき、べつの人が邪魔をしたとしよう。
邪魔された人は、邪魔した人をひどい奴だと思い、嫌悪する。
その思いは邪魔した人の性格を考慮したものではない。
たまたま自分の邪魔をしたというだけで、いやな奴だと思い込んでしまうのである。
それが無意識の奥底にしっかり刷り込まれる。
そして邪魔された人に会うたび、潜在意識にその思いが浮かびあがり、不快な感覚を抱く。
すると、また新たに嫌悪感が生じ、それが邪魔した人のいやなイメージをいっそう強めていく。
二人が二十年ぶりに再会したとしよう。
はるかむかしのことなのに、邪魔された人は邪魔した人に会ったとたん、ひどい奴だ、いやな奴だと思う。
かつて自分の邪魔をした人の性格は二十年のあいだに一変しているかもしれない。
だが、邪魔された人は過去のいやな体験を思い出して相手を見てしまう。
それも邪魔した当人に対して反応するのではなく、最初の盲目的な反応によってつくられたイメージに対して反応してしまうのだ。
それは偏見の塊である。
これは、自分に協力してくれた人をいい人だと思うことにもあてはまる。
その思いは協力した人の性格を考慮したものではなく、たまたま協力してくれただけ。
良い印象は無意識の領域に記録され、協力してくれた人に会うたびにイメージが強化される。
何年もたってから再会してもやはり同じパターンが繰り返される。
協力してくれた当人に反応せずに、最初の盲目的な反応によってつくられたイメージに対して反応してしまう。
ヴィパッサナー瞑想によって、反応のくせ、つまり古い条件づけを取り除く。
感覚器官のいずれかに接触があるとき、いかなる評価も偏見もあってはならない。
偏見をもって価値判断をはじめると、前につくった盲目的な反応の影響をうけ、ものごとを歪めて見てしまう。
心を条件付けから解き放つためには、過去の反応でもって評価することをやめ、ただただ気づいていることである。

(人はX自体に対してではなく、X「に対するイメージ」に対して反応する、ということはきわめて重要です。
Xの今の状態を観察し、潜在意識と記憶が形成する誤ったイメージという苦しみの原因を克服しましょう!
過去の嫌悪を再現する潜在意識を改善しないと、対症療法にしかなりません


・Q――精神分析とヴィパッサナー瞑想を比較するとどうですか?
A――精神分析では、強いショックとなって心の条件づけをしたような過去の出来事を思い出させるのですね。
ヴィパッサナーでは瞑想者がみずから自分の心の深層、 心の条件づけが実際に生じるところにまで至るのです。
精神分析によって思い出すような過去の出来事はからだの中になんらかの感覚を刻みこんでいます。
全身の感覚を平静な心で観察してゆけば、何層にも積み重なった無数の条件づけが一枚一枚はがされては浮かび上がり、つぎつぎに消えてゆきます。
ヴィパッサナーは心の条件づけの根元にはたらきかけるので、はやく容易に自己を解放することができる
のです。

ヨガにヴィパッサナーを取り入れても構いません。
たとえばポーズを取って、同時に全身の感覚を感じるのです。
ヨガだけをやるよりもずっと効果が上がります。
ただし、マントラやイメージを使ったヨガの瞑想法はヴィパッサナーと相いれないものです。
そういうものとヴィパッサナーを一緒にしてしまってはなりません


“ 実際に瞑想をしてみると、呼吸に意識を置くことがいかにむずかしいかわかる。できるだけ長いあいだ呼吸に意識を置こうと思っても、どういうわけか知らないうちに心はどこかに行ってしまう。ちょうど、酔っぱらいがまっすぐ歩こうとしても千鳥足になってしまうのと同じである。じつのところ、わたしたちは無知と幻想の酔っぱらいなのである。過去や未来をさまよい、渇望や嫌悪に振りまわされ、いつも千鳥足で歩いている。しゃきっと目をさまして一直線の道を歩くことができない。
 瞑想をして困難にぶつかっても、落ち込んだり、弱気になってはいけない。長年かかってしみついた心のくせだ。それを取るには時間がかかる。そう考えたらいい。くりかえし、休みなく、根気よく、ひたすら瞑想するしかないのである。心がさまよっているのに気づいたらすぐ呼吸に意識を引きもどす、ただそれだけでいい。それができれば、心の放浪癖をなおす貴重な一歩を踏み出したことになる。何度も何度も瞑想をしているうちに、雑念がわいてもすばやく呼吸に意識をもどすことができるようになる。呼吸を忘れている時間が少しずつ短くなり、呼吸に気づいている時間、サマーディが長くなる。
 精神集中が深まると、力みがなくなり、幸せな気分になり、エネルギーが満ちあふれる感じがする。呼吸は徐々にやわらかく規則的になり、軽く、浅くなる。ときには、呼吸がほとんど止まったような状態になる。事実、心が静まるとからだも落ち着き、代謝作用が低下し、酸素もあまり必要でなくなる。
 この段階に入ると、瞑想中、奇妙な体験をすることがある。たとえば、目をつぶっているのに光や幻覚が見えたり、妙な音が聞こえたりする。このような、いわゆるESP(超常感覚)の体験は、精神集中がかなり深いレベルに到達したことを示しているにすぎない。そういう体験はあまり重要でない。とりたてて騒ぐことではない。依然として気づきの対象は呼吸であり、それ以外のものはすべて雑念である。けっして超常感覚が起こることを期待してはならない。それは起こることもあるし、起こらないこともある。超常感覚というのは瞑想のすすみぐあいを示す一里塚のようなもので、一種の標識にすぎない。旅をしていれば標識がかくれていて見えないこともある。夢中で歩いていて気がつかないこともある。その標識を最終ゴールだと思い込んでしまったら、それ以上前進できない。とにかく超常感覚の体験などは掃いて捨てるほどある。ダンマの修行者はそんなものを求めているのではない。自己の本質を見きわめ、苦からの自由を勝ち取ろうというのである。
 そんなわけで、ただひたすら呼吸に注意を向けてゆく。精神集中が深まるにつれ、呼吸は弱くなり、観察しにくくなる。かすかな呼吸に気づくには、そうとう努力しなければならない。いっそう心をとぎすまして集中力を高め、表層の現実をつらぬいて深層の微細な現実を観察してゆくのである。
 精神集中を深める方法はたくさんある。一つの言葉をくりかえし唱えて精神を集中するとか、なにかのイメージを凝視するとか、あるいは、同じ動作を何度も何度もくりかえすとか、いろいろだ。そういうことをやって注意を向けた対象にのめり込むと、やがて一種のトランス状態に入り、至福を味わうことができる。しかし、トランス状態のあいだは快感が持続しても、ふつうの生活にもどると、あいもかわらず同じ問題に悩まされる。そうした精神集中の技法を使っても、いちおう心の表面にやすらぎと喜びのうすい膜のようなものができる。ただし、深層の心の条件づけにまで影響をおよぼすことはできない。精神集中の対象として選ばれるものも、本人が体験しているはずの一瞬一瞬の現実とは関係ないものばかりである。だから、それによって得られる快感もちょうど壁の上塗りのようなもので、いかにも作為的な感じがする。心が浄化されたときに奥底から自然にわき上がる至福とはずいぶん隔たりがあるようだ。正しいサマーディは、心の陶酔ではない。つくりものでもないし、幻想でもない。
 ブッダの教えのなかにも、トランス状態(ジャーナ)を体験する話がある。ブッダ自身、究極のさとりを開くまえに八つの没我の境地を学んでおり、生涯その修行をつづけたという。しかし、トランス状態を体験すれば解脱できるというわけではない。没我の体験は洞察の修行への足がかりにすぎない、とブッダは強調する。瞑想によって集中力をつけるのは、至福と快感を体験するためではない。心を鍛え、それを道具にして自己の現実を見抜き、苦の原因である心のくせを取り除くためなのだ。それが正しい精神集中である。”
p.106-108

(深く集中して瞑想できれば誰にでも起こる自然現象なので、調子に乗ったり、選民思想に囚われて執着してはいけません。それを防ぐ装置の一つが、「戒律を誓わせること」です。
そもそも瞑想の目的は「心を制御できるようにして平静なままでいられるようにする」ことなので、このような神秘体験は邪魔=禅仏教における魔境です。あくまで、「ここまで深く自分は集中して瞑想できた」というサインだととらえましょう。

誰にでも起こることをわざと隠して、「あなたは選ばれた」とか「教祖の神通力のおかげ」とか
言って依存体質の信者を量産するのがカルトの手口ですので注意してください。
オウムはモロにこの手口を使っていました。


『禅の本』。禅はスピリチュアルの中核を否定。
神秘体験は魔境=執着してはならない悪。
スピリチュアルは野狐禅を量産する危険物なので取り扱い注意!

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-109.html
“…神秘体験による凶悪な洗脳の実例…

↓で紹介されている動画では、神秘体験によって洗脳する手法が暴露されているので自分の意見を交えつつ要約します。

条件を整えると誰でも起きる神秘体験を、グルの力によると錯覚させて洗脳。
通常とは異なる体験をしている人に対しては強烈な洗脳をかけることができる。
強烈な神秘体験をするのは、教祖の超能力でも何でもなく、誰でも起きる、人間なら誰でも起きる「変性意識現象」である、という視点が大切。
一見不思議だが脳にとっては当たり前の現象。
信者たちのなかには、リトリートと呼ばれる独房の中にいるときに神秘体験を得た者が多い。
暗い部屋に、それもできれば体温と差のない静かな所に、長い間閉じ込めておくとそれだけで変性意識になる。
上手にヨガをやれば光を見たりする。
そのときに「それはグルのおかげです」だとか「グルの超能力です」と言われて引っかかってしまう。

企業もカルトと同じ手口を使って、軍隊を作る為の訓練=洗脳を行う。
社畜=信者=兵隊。
企業研修=カルト宗教の入信儀式(入隊式)。

大勢の店長の前で(=監視下で)絶叫アピール。
人前で宣言すると宣言したことを撤回することが難しくなる、一貫性の法則の悪用。
絶叫した後で、訓練担当官が絶叫した人を抱きしめることで、洗脳をより強烈にする。
調教されたことに怒るどころか、感謝する奴隷の完成。
×店長が育てば会社が育つ。
○奴隷隊長が増えれば社畜から搾取出来るので会社がより肥え太る

いったん精神を動揺させてから洗脳。
紐付き陰謀論者が衝撃的な(黒幕の核心を外した)ネタで価値観を破壊して、洗脳されやすい状態にしてから、偽の黒幕(ユダヤや在日)を本物だと信じさせる手口と同じ。
紐付き陰謀論者自体がカルトの手先だから当然か。

だから、私は洗脳手法、詐欺の手口、人間心理の傾向、プロパガンダのやり口などをまず学び、紐付き陰謀論者の本やブログや講演を無視しなさいよ、っと言っているんですけどね


prometheus ‏@prometheus2054
【必見】オウム信者を脱洗脳した苫米地博士が、オウムの修行で変性意識状態を作りだし洗脳される過程を解説☞http://youtu.be/_VU7qOPBhJg?t=13m7s … 開始13分~これを見た後、日本の就活や企業研修がこれと似たことを行っていることが分かる→http://bit.ly/b23q0i

(国会議事堂占拠計画-国家権力掌握へ、白い愛の戦士 オウム総括6/10
https://www.youtube.com/watch?v=_VU7qOPBhJg&feature=youtu.be&t=13m7s

餃子のなんちゃら
https://www.youtube.com/watch?v=jpC_kJbS3RQ&feature=youtu.be

ようつべだと、動画再生速度を変えられるので、まとめるのが楽ですね)

以上の洗脳って、禅の修行を意図的に失敗させているとも言えるのですよ。
野狐禅の量産による狂人の量産です。
過労死するまで働く=会社の為に死ねるって十分狂人でしょ?
安息日なしのカルヴァン派プロテスタント的労働思想
=過労死教の狂信者は日本には特に多いです。

禅を学びたいなら、禅を曲解して反知性主義に改造するニューエイジャーやヒッピー系の本ではだめですよ。
スピ系が大好きなインド思想はキリスト教=反知性主義に都合よく改悪されているので、インド思想の論理的思考重視の姿勢をなかったことにしております



禅は神秘体験を否定しているのでスピったらダメ…

 上記で理解していただけたと存じますが、
一定の状況で神秘体験は意図的に作り出せるのですごくもなんともないです。
自分の意思で自在に神秘体験をコントロールできるならすごいです。
つまり、神秘のヴェールをはぎとって「自分の技術」にできるならすごいです。
神秘体験を神秘体験でないようにするのです。
神秘体験や神秘主義は仏教の方向性とは真逆です。
釈迦は神秘主義者ではまったくなく、透徹した合理主義者です。

目の前に神や仏や宇宙人が現れて、自分だけが選ばれたと救世主気分におぼれたり、宇宙霊と合体して天にも昇る素晴らしい心地がしたと感激する、などは魔境であり、悟りの邪魔であるから、囚われたりこだわってはならないと、禅ではいましめています。
つまり神や仏や宇宙人や宇宙霊や選民思想が現れても、相手にせず受け流し、軽くかわさないといけません。
禅はスピリチュアル=インド風キリスト教を否定しているのです。
心の平安と執着からの解放が仏教の目的なのだから、超越的な存在や愛という執着を主張する時点で偽物です。

禅宗の修行では、一般の人々(特にカルト信者)が喜びそうな奇跡的現象は、大悟の妨げとして厳しく排除されます。
そもそも禅の目的は超能力、いわゆる神通力を得ることではありません


(陀羅尼縁学 ‏@daranijizai 11月5日
仏教の宗派には、過剰にスピリチュアルや、霊感、霊能を禁忌として捉える所もあるが、それは一種の禅病を防止する為もある。
瞑想中にそういう不思議な感覚に囚われ行き過ぎた追求をすると、禅病になる。
禅で和尚にパチンと叩かれるのも、禅病予防。禅は追求するとヨガに行き着く
。)

前回の記事などで真の伝統である仏教を学びましょう!

斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

(菊池 ‏@kikuchi_8 11月13日
チベット仏教は密教のイメージだが、実は顕教はインド中観派が正統に継承さる
【斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう! 】
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 11月5日
ねここねこさん、フェイド大帝 が紹介したチベット仏教本 読んだのかw
偉いな……
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

今回の記事の内容、仏教を理解 するには凄く重要なのに、 ブログ拍手がいつもより少ないのが 笑えるw
やっぱ、専門的な話になると みんな読みたがらないのかなー この二冊、仏教書の中では 易しいほうなんだけどなぁ。

仏女・仏教をたたえる天才・偉人bot ‏@genius_200
自分は昔からこれまで、このような素晴らしい教えを聞いたことがなかった。
(仏教を日本に受け入れた 欽明天皇)
(われ昔よりこのかた未だかつてかくの如き微妙(くわ)しき法を聞くことをえず)
それから1500年間日本は仏教国!


STB ‏@RC_StB 6月24日
日本会議が如何に低能か 薩摩長州の芋侍が出てきて、廃仏毀釈をやらかし、そいつらの生き残りが「日本は保守の国」と嘘を付き続けている して、これを見よ
「天皇、仏法を信じ、神道を尊ぶ」(用命紀)
「仏法を尊び、神道を軽んず」(孝徳紀)
大日本帝国は日本史上稀な伝統破壊者だぞ(笑)

(神道家にとって道教と平田篤胤はアキレス腱。神道・惟神・天皇・神器は道教用語であり、神道用語ではないので本居宣長がやろうとした漢意を排除する試み(神仏分離!)は最初から破綻していますな

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-84.html


…今回の最重要な引用…

“ 坐禅がもっと進むと、今度はいよいよ魔力に支配された境地に入っていく。それを「魔境」という。魔境にはいろいろあり、『楞厳経』(りょうごんきょう)という経典によると、実に50種の魔境があるといわれている。また釈迦仏陀でさえも成道の直前に魔境に悩まされたことは、よく知られている。
これは釈迦が悪魔マーラを呼びだして、本当の悟り、(菩提)を得るための最後の戦いをする、というものである。マーラは世にも恐ろしい兵器で攻撃をしかけてくるが、釈迦はそれを花に変えてしまう。マーラは次に自分の娘たちに命じて、釈迦を誘惑させるが、釈迦は受け流す。
マーラは最終兵器で最後の攻撃をしかけてくる。しかし釈迦は、ついにそれらすべてが水面に映る月影のように、幻覚・妄想にすぎない、と知る。このマーラ物語が、魔境の原型であり、魔境の本質を示しているようである。
魔境という文字の形からは、なにか恐ろしい感じを受けることだろう。確かに、『源氏物語』の生霊とか『今昔物語』や『雨月物語』に出てくるようなすさまじい魔境もある。しかし多くはそうではない。かえって、これぞ悟りの境地ではないか、というようなものが少なくないのである。
たとえば、心の中にとんでもない妄想や屁理屈が出てきて、自分は天才だと密かにうぬぼれる。目の前に神や仏や宇宙人が現れて、自分だけが選ばれたと救世主気分におぼれる。宇宙霊と合体して天にも昇る素晴らしい心地がしたと感激する、などさまざまだ。
だがくれぐれも、そんなものにとらわれたりこだわってはならないと、禅ではいましめている。前章で書いた澤木興道のように「その内容は受け流すだけ」、つまり相手にせず軽くかわすだけのことなのである。
もっとも、どんな境地が魔境でないかは、なかなかわかりにくいようである。たとえば禅の心理学で世界的に知られる、ある高名な学者の例がある。
「なにもかもが新鮮にみえる。道端に何気なく生えている雑草さえ、この世のものでない美しさに輝いて目に映る。見性体験を得たとき、私はこれこそ禅の心だ、と思った。」
と彼は専門誌に発表した。やがてLSDという、ライ麦の麦角(ばっかく)から製造した強力な幻覚剤の服用体験の論文を読み、彼は、これぞ禅の悟りそのものであると説いたのである。
このためアメリカの西海岸では「LSD、5ドルで天国」とばかりにインスタント禅というものがはやり、ヒッピーたちは先をあらそって服用した。しかしその結果は無残にも、つかの間の悟りの後はぐったりとしたボケ症状におちこむばかりであった。つまりこれは魔境でしかないことが、事実をもって証明されてしまったのである。“『禅の本』p.147-148


自分は多少マシになっただけで大して目覚めていない覚醒していない、まだまだ洗脳されているからそれに気づく為に気をつけて検証しないといけない、と自覚して自戒する方がよっぽど「覚醒」しています。
信者=酔っ払いの言う「覚醒した!」って「俺は前よりも更に酷く洗脳された!」ってことなんじゃないの?
白昼夢(一応起きているけど夢心地)から目覚めてほしい。
せめて明晰夢(これは夢だと自覚)の状態になってほしい。
スピ系陰謀論者は、「真実は隠されてる!」というくせに、嘘を見抜く技術として重要な論理的思考や、歪められた思想の毒抜きなどを学ぼうとしない、布教活動が主体の人がほとんどです。
スピ系の大半は真実を求めていません。スピ系の大多数の人々が求めているのは選民思想的な優しい嘘。”


斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html
“禅の詳しい記事は次回にして、今回は、「キリスト教思想で都合よく改悪されていない本物の」チベット密教についてです。
論理と言葉を軽視あるいは否定する、チベットチベットうるさいスピリチュアル(=インド風の新キリスト教)信者に、チベット密教は論理的思考重視でありスピリチュアルを否定していることを示す以下の証拠↓を食らわせたら、迷惑な酔っぱらい(スピ信者)のごく一部はしらふに戻るでしょう。
信者が「自分」だと思っているものは実は欲とカルトの教義であり、それを自我と信じ込んでいるだけ
です。

“仏教論理学(因明[いんみょう])と認識論に関しても、チベット仏教の伝統は、実に高度な論議を蓄積してきました。「比丘や諸々の賢者たちよ。金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊 敬のゆえに受け入れてはならない」。これは、チベットのラマたちがよく引用する聖句です。お釈迦様は弟子たちに――あたかも金の純度を確かめるがごとく ――自らよく考えて教えの中身を吟味し、その後で初めて教えを信奉するように強く戒めています。チベット仏教では、こうしたお釈迦様の精神を受け継ぎ、盲信や実践至上主義を排し、明快な論理による思考を重視しています。”
p.20、斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社

“「視覚ではなく意識で、しかも次第に直感的に……」というのが、第一のポイントです。
第二のポイントは、「向こうから現われるのではなく、こちらから向こうへ置く」ということです。瞑想の中で、「自分の意思とは関係なく、本尊などが向こうから突然出現した」というような神秘体験は――何らかの印や徴候と認められるケースも稀にあるでしょうが――多くの場合、修行者の妄執が生み出した幻覚にすぎません。それゆえ、実践の正しい拠りどころとして、ほとんど信頼できません。また、実際にそうした幻覚が現われなくても、あたかもそうであるかのごとく瞑想することは、間違った方向へ心を慣らすばかりなので、いくら実践しても望ましい成果を期待できません。そうした突然の神秘体験に執着せず、あらかじめ自分の意思で「こういうふうに瞑想しよう」と計画を立て、それに従って意識の力で本尊の姿を認識対象として確立し、それを繰り返し瞑想して習熟することが肝要です。
では、信頼できない神秘体験と正しい瞑想の成果を区別する基準は何かといえば、「その瞑想に十分習熟したとき、いつでも意のままに同じ内容を再現できるか否か」という点です。もちろん最初からは無理ですが、本当に瞑想に熟達した密教行者なら、複雑な曼荼羅を――どんな大きさにでも――瞬時に再現できるといいます。「こちらから向こうへ置く」という感覚で瞑想するからこそ、習熟すれば自在に再現可能となるのです。”
p.92-93、斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社

“仏教の修行というものはすべて、お釈迦様を信じて拠りどころとしなければ成立しえません。この点で、仏教は、決して単なる人生訓や思想哲学や瞑想テクニックではないのです。
  しかし、「理屈抜きにただ信じる」というわけではない点で、他の多くの宗教とは趣を異にしているといえるでしょう。第二章で引用したお釈迦様の言葉を思い 出してください。「比丘や諸々の賢者たちよ、金を焼いて切って磨いて確かめるごとく、私の教えも観察し尽くしてから受け入れるべきであり、尊敬のゆえに受 け入れてはならない……」。“p.192斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』春秋社

“知恵者らよ、自性が空という空性の意味は、縁起の意味である。しかし、功用が空(効果的作用がない)という非存在の意味ではない”
p.54、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ/クンチョック・シタル/齋藤保高 共著『チベットの般若心経』春秋社



神秘主義と光は強固に結びついている
ミルチャ・エリアーデの論考「神秘的な光の体験(『悪魔と両性具有』所収)」に従うならば、ヨーガの修行では星の像、満月の円盤、真昼の太陽、火の輪などを見る体験が悟りの到来を告げる徴候とされる。
イランでは古来、光の顕現を救世主の誕生を告げる徴と考え、これがマタイ伝の霊の記述にも影響を与えたらしい。
また、エスキモーのシャーマンは千里眼能力を得る際に、「天啓の光」というものを経験するという。この光を体験したときに空高く上昇する感覚に襲われるのだが、これはエスキモーに限らない。
円盤が発射した光線に引き上げられて円盤内部に運び込まれる体験と類似。

UFO目撃者の中には、目撃後に一種の人格変換が観察される人々が存在するという報告は、示唆的。光が彼らを変えたのか、変わろうとした彼らが光を必要としていたのかは視点の相違に過ぎない。
僕は何もUFO体験が実は宗教的体験であったと主張しているわけではない。
人間はどういうわけか光を見る生き物なのであり、その体験は長い年月をかけて練り上げられた宗教システムにあっては整合的に組み込まれたというにすぎない。
仮に宗教なんか存在してなくとも光が飛ぶのは見えちゃうんだから。
事実と虚構、現実と非現実の境界に絶対的なものがあると思っちゃいけない。

(宇宙人による遭遇や誘拐が結社への勧誘とイニシエーションを意味している場合があるでしょうね。

超常の存在
=人格に相当するものがあるかは不明のエイリアン

と定義すれば、

――憑依されたか憑依させたかは問わず――
エイリアンと同化した存在
=結社員は「宇宙人」と呼ばれてもおかしくないのではないか?

支配層は「最初から人格がある人型宇宙人」という実際とは異なる、支配層に都合がよい姿に捻じ曲げて発表させているのでは?
エイリアンXには人格がなく、それが人間に憑くと、憑かれた人によって、Xの要素がどのていど反映されるかが決まるのでは?
人によっては爬虫類っぽい顔になるのでは?

で、憑依されやすいあるいは召喚しやすい血液の種類があって、それがRHマイナスでしょうね。大けがしたら真っ先に死ぬ血液を持っているなんて普通は嫌だろうけど、それを補って余りあるメリットがあるからでは?

支配層なら、大怪我をしにくいようにできるし、すぐに処置できるように備えることもたやすい。
血は命。血は魂。あるいは血は命と魂の通貨。
物質と非物質の境目。

血液は400ccあたり1万8千円。
献血といえば赤十字、赤十字といえば天皇家。
支配層の血統重視は異常。
献血で血を抜かれる側はボッタクられていますね。

強制的に狐憑きにして、廃人にならなかったら合格とかやってそう。

結社員
=宇宙人と人の融合体

ってまんまウルトラマンですね。

産みの親の円谷はカトリック。一家全員がカトリック。
腕を十字に組んで放つ必殺技。
初代ウルトラマンにはノアの神も登場します。

「世界シンボル事典」の聖書の「ノア」の項目にフリーメイソンの結社員のことを「ノアの息子たち」と呼ぶと書いてあるそうです
。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-101.html
空飛ぶレイシズム】 稲生平太郎『定本 何かが空を飛んでいる』②。 
支配層が用意する娯楽=デモ=麻薬=宗教行為。 
工作員の仕事=良心を麻痺させる宗教行為。 デモやるなら皇居や銀行や軍需企業の前でやったら?



…主な参考資料…

完全閉店 ‏@lakudagoya 8月20日
「イメージ・シンボル事典」が欲しいけど手が出ないから図書館で「世界シンボル事典」を借りて読んでたんだ。そしたら聖書の「ノア」の項目にフリーメイソンの結社員のことを「ノアの息子たち」と呼ぶと書いてあった。FF3の魔王の師匠がノアなのもこのシンボリズムを感じるよね。



エジプト神名リスト:セト Seth
http://www.moonover.jp/bekkan/god/seth.htm
"荒ぶる砂漠の神。暴風と雷鳴を象徴とする。

甥のホルスと壮絶な王位争奪戦を繰り広げた神話で知られ、時々卑怯な手も使ってはいたが、その文句なしの強さゆえに、敵を撃退するときには必要とされる戦の神でもあった。エジプト王国の歴史を通じて、混乱期にはセトの力強さが求められた時代も何度かある。単純に善悪では割り切れない神であり、この神を「邪神」や「悪魔」と呼ぶ人は、まず根本的にエジプト神話の特性を理解していないので、その時点であまり信用しないほうがいい
(…)
甥ホルスとの王位継承戦争に敗れたあと、セトは国外を領土とする「異境の神」となった。ナイル河畔の「神々の土地」に対する外の世界=砂漠、または国境の外の世界=異国、である。
外国人の人気も集めた神で、のちにヒクソス人がエジプトに侵入してくるようになると、嵐の神、雷鳴の神としておなじ性格を持つヒクソスの神ステクや、シリア系の神バアルと同一視されるようになった。その影響で異国風の衣装をつけたり、戦車に載る姿で描かれることもあった。

また、新王国時代(第19王朝)のラメセス2世は、ヒッタイトとの戦争後、講和してヒッタイトの王ハットゥシリシュの娘を妃として迎えるとき、山を越えてくる婚礼の一行の道中の安全をセトに祈願している。ヒッタイトの首都は現在のトルコ(カッパドキアの北)。そこからの遠路はるばるの旅路の無事を祈るのは、国内専門の神ではなく国外もサポート対象になっている神。けっこう手広い神様である。もちろん、セトが単なる邪神や悪魔と考えられていたなら、こんなことは在り得ない。
(…)
新王国時代の儀式の中では、セトの身代わりを打ち倒すことにより、王権を確固たるものとすることが行われた。
その儀式でセトの身代わりとされた動物は、以下のような実に多彩な種類である。

・ヘビ⇒アポピスの項を参考に。
・カメ⇒アペシュの項を参考に。
・ロバ⇒なんでだか不明、頭の部分がロバに似てたから?
・雄カバ⇒ホルスと戦うとき、セトが化けたからとされる。とばっちりでセベクがセトの仲間にされた。
・ブタ⇒これもセトが化けたからとされる。"

完全閉店 ‏@lakudagoya 5月22日
イルミちゃんゆるキャラ解説 その1
・緑のピラミッド(ワンワールドカラー。グラントリアンとアングロサクソン系メーソンの統合)
・蛇くん(レプティリアン。竜座のα星。天帝信仰)
・片眼の赤ちゃん(ホルス君)
・フクロウ君(イルミの象徴) pic.twitter.com/DUXsvYKSlU

イルミちゃんゆるキャラ解説 その2
太陽さん(ミトラス、ソル・インヴィクトス、ドルイド教の太陽崇拝など全て)
・バフォメットちゃん(智慧の頭という意味。レヴィのバフォメットは両性具有のシンボル)
豚ちゃん(セト神のシンボル) pic.twitter.com/Y6oq7WRebV

イルミちゃんのゆるキャラ解説 その3
豚ちゃん(おなじみユダヤやイスラームで禁忌とされる豚肉。でも、豚肉はある神において重要。それはエジプトのセト神(後にバアル神と習合)のものとされる)

イルミちゃんのゆるキャラ解説 その4
・蛇くん(メドゥーサなどの古代の蛇信仰。主に蛇信仰は女神信仰でもある)
・レプティリアン君(目隠ししてるのはふりーそーめんの儀式か!?)
・牛君?(古代の雄牛信仰。セラピスやバアル、ゼウスなど) pic.twitter.com/OBj9Mk9Zo7

完全閉店 ‏@lakudagoya 5月23日
@Jd805 @knznymmmy あはっ!たしかにエースコックのパクリかも知れませんが、豚がアカンということは逆に神聖でもあるということで。古代エジプトでは豚肉は、セト神のシンボル(主神のホルス君の敵)ということで避けられました

エジプト神名リスト:バアル Baal
http://www.moonover.jp/bekkan/god/baal.htm
”もとは、西セム系の神。アナト、アスタルテなどとともに、シリアから渡ってきた神。バアル、という名は「主人」を表し、地方によって「バアル・何々」と後に地名などが続く。

シリア人が大量にエジプトに移住した時代に、シリア人とともに信仰も移り、エジプト風になったものが、エジプトにおけるバアル
神だ。新王国時代には、フツーに昔からエジプトにいましたよってな顔をして登場する。
砂漠、嵐の神であったことから、エジプト神話における似た属性の神、セトと同一化され、妻までセトにとられてしまう(笑) 右図のバアルが元々のカナアン系の姿だが、エジプトでは基本的にセト神と同一視され、セト神の姿で表現されることが多い。(名前だけ"バアル"と記載される)

もともと属する神話はウガリット神話で、そこでの彼は「主神」となっている。また豊穣の神であり、死の神モートと戦って、エジプト神話のオシリス同様に死と再生を繰り返す神でもある。
(…)
エジプト神話側からすると意外かもしれないが、本来のバアルは豊穣神だったらしい。
エジプトでのバアルは、もちろん「戦いの神」。荒ぶる神、セト神と同一視され、眷属か、または同一人物とさえ見なされていた。

その原因のひとつは、どうやらエジプトの砂漠気候にあるようだ。
カナアンでの豊穣神は「雨を降らせる」ことになっている。雨は雷とともに来る。ゆえにカナアンでのバアルは雨・雷・雲、または嵐で象徴された。
だが悲しいかな、エジプトは、雨が降らない国だった…。
水をナイル河に頼っているエジプトでは、豊穣の神は、オシリスやハピといった「河の神」である。雨の神はいないし、雨が豊穣の象徴となることもない。そんなわけで、バアルは雨を降らす神ではなくなり、雷や嵐の力強さに付随した戦いの神という属性だけが残ってしまったのだ。


ところで、本国のバアルには、雨の神らしく「きんと雲」ならぬ、お出かけ用の雲があったらしい。
(…)
バアル、という言葉はセム語で「主人」を意味する。もう少し意味を広げると「神」ともなるようなので、信仰される神という存在の一般名詞でもあったと考えられる。(ちなみに女主人は”バアラト”)
特定の神を指定するには「バアル=○○」と、いう名前がついたらしく、そのようなお名前の神様をたくさん見かけたが正直何が違うんだか全然分からなかった^^;

エジプトに登場する”バアル”は、主に下エジプトに定住した人々の崇めた神で、バアル=サパン、または、バアル=ゼフォンという名前だったそうだ。
サパンは信仰の中心地であった山の名前、ゼフォンは「北の」
を意味するという。

#ちなみにSFアニメ「ラーゼフォン」のゼフォンはここから来ているんだとか?

エジプトでの呼び名はセム語の発音に近い「バアル」(バール)で、発音的にはあまり変わっていないようだ。
名前をヒエログリフで書くと、セトの神聖動物が決定詞として、ついてくる。セトの一人格として見なされたがゆえだろうか。


キリスト教(太陽+来世に期待)とユダヤ教(嵐+現世利益)は根本思想が違いすぎる。
ラクダが家畜化されるのは紀元前10世紀以降なので旧約にラクダが登場するのはおかしい

岡田明憲『ゾロアスターの神秘思想』 講談社現代新書 。
岡田明子・小林登志子『シュメル神話の世界 』中公新書
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-52.html
ミトラ教(太陽派)+黙示録(拝火教)=キリスト教
嵐派+メシア(人間の指導者)による現世利益=ユダヤ教
根本思想が違い過ぎ。
猫太”オリジナルのユダヤ教は、中国人と全く同じの現世利益的宗教ですから。この基本がわかれば陰謀論の嘘もわかる。”
ユダヤは✝の囮

(…)
・メシアとは本来、ヘブライ語の油を注がれた者を意味する。これは一般に王を意味するもので、必ずしも終末論的救世主に特定されていたわけではない。
それがギリシア語でメシアにあたるキリストになると、もっぱら救世主に限定されて使用される。
単なる王としてのメシアから救世主への、メシアの終末論的解釈への変化は、バビロン捕囚以降に属す。ゆえにペルシア文化の影響があるのは否定できない

このメシアの原型と考えられるのが、ゾロアスター教のサオシュヤント。
ゾロアスター教の誕生から三千年の後、世界の終末が来るとする。
三千年は三等分され、千年ごとにゾロアスターの子孫が出現し、世を利益するサオシュヤントになるのである。三人のサオシュヤントは、霊的に保存されたゾロアスターの精子を、聖なる処女が受胎することによって、この世に降臨するとされる。
三人目の最後のサオヤシュントが終末の総審判を行う者である。
この最後のサオヤシュントは、ダハーカ竜を殺す槍を持っている。竜退治の槍。

(バビロン捕囚は嘘なので拝火教的救世主に概念が変わるきっかけがないですね。
ユダヤ教からキリスト教が生まれたのは嘘であることの根拠の一つです。
ユダヤ教は現世利益的で現実的指導者がメシアなんです。
なのにありもしないバビロン捕囚をきっかけに、拝火教的キリストっぽいメシアになるのです。
キリスト教のキリスト概念に上手く繋がるように捏造したのです。
バビロン捕囚がなかったら、キリスト教と救世主の概念があまりにも違うとばれますからね。
キリスト教の救世主概念はミトラと拝火教の救世主そのまんまですから。超常の存在。
旧約聖書ってあまりにもキリスト教に都合が良すぎるんですよね。
存在しないイエスを殺した悪のありもしない民族の教典=異教徒の教典を採用している時点で怪しい。
ゾロアスターの精子バンクで処女のまま妊娠ってキリスト教より論理的ですな。
バビロン捕囚じゃなくて、
紀元前3世紀中頃から前1世紀間に、徐々にヘブライ語の旧約をギリシア語に訳した七十人訳が救世主概念が変わったきっかけだろうね。
ファラオの命でヘブライ人の経典(旧約聖書)をギリシア語に翻訳したもので、ルシファーをラテン語訳で召喚したヒエロニムスも旧約の翻訳の際に参照しています。
また、ルネサンス以前の西欧では、ヘブライ語の識者が殆どいなかったためもあって、重宝されたようです。
七十人訳は最初期のキリスト教=ほとんどミトラ教が採用したものだそうです。アレクサンドリアでの翻訳にミトラ教やゾロアスター教徒あるいはペルシャ出身者が絡んでいたのでは?
新約聖書に引用されている旧約聖書の個所はこの70人訳からの引用

紀元前4、5世紀のヘブライ語原典を、ある程度想像できるから重視されます。しかし、古代ギリシア語の共通語=コイネーによる七十人訳(あるいはラテン語で septuaginta セプトゥアギンタ。「70」の意。LXXと略す)が原典の忠実な翻訳であるとも限らないため、問題は多いです。
意図的な誤訳がありますね。

1. 歯が一本減った人‏@boronology10月28日
1,イザヤ書の「みよ乙女は身ごもりて」が「処女」と訳されたのはギリシャ語の七十人訳聖書
2,非嫡出子という意味はない
3,だいいち当時ディアスポラのユダヤ人の間は「処女」の意味で広まっていたはずである
もちろん福音書記者もヘブライ語はちんぷんかんぷんなので七十人訳聖書でしか知らない。
そうなれば新約の時代においては「処女」こそが正しい解釈になってしまう。

3のところの「処女」って「乙女=若い女」の間違いでしょう。

1. 真央‏@mao49492012年1月18日
本来の原典は『西暦前1世紀』のギリシャ語セプトウアギンタ訳です。現在のキリスト教が主張するセプトウアギンタ訳は西暦前1世紀『以降』翻訳されたもの。それが現在のキリスト教聖典七十人訳聖書 です。
七十人訳聖書(しちじゅうにんやくせいしょ、羅:Septuaginta, 「70」の意。LXXと略す)は、ヘブライ語のユダヤ教聖典(旧約聖書)のギリシア語訳であり、紀元前3世紀中頃から前1世紀間に、徐々に翻訳・改訂された集成の総称を言う。ラテン語読みである。これ改竄でしょう改竄翻

(…)
ガザーリーなど、イスラムの思想家にはイラン出身者が多い。イスラム哲学はペルシア文化の影響下で育まれたのであり、素朴なアラブ人だけでは不可能であった。
特にイスラム神秘主義はイラン人の心性に根ざす。ゾロアスター教の影響がある。
天使論に限っても、イスラム神秘主義のそれは直接ゾロアスター教に連続している


・大乗仏教と小乗仏教の大きな違いは、大乗仏教には菩薩思想があること。菩薩思想とは自己だけの悟りに満足することなく、広く衆生を救わんとする思想である。
大乗仏教の成立地はクシャーン朝下の西北インド。イラン文化の影響がある。
大乗仏教の起源として考えられるのが、ゾロアスター教のサオシュヤント(=利益する者)
弥勒はミスラである。
仏像発祥地のガンダーラから弥勒菩薩像が発見されている。
ガンダーラの仏像で確実に菩薩と断定できるのは、成道以前の釈迦菩薩の他は、この弥勒と観音菩薩だけ
である。

・観音信仰は地母神の信仰と同様の基盤を持つ。観音の起源に西アジアの女神を考える説は十分説得力がある。
特にゾロアスター教のアナーヒター女神は多くの点で観音と共通点がある
ササン朝銀器に刻まれた、観音菩薩と同様に蓮華を手にしたアナーヒターがある(恐らく)壺(花瓶みたい)の写真が本書にあり。
・大乗と密教の違いは呪術を重視するか否か。思想的に大乗と密教に本質的な違いはない。
密教における火の考え方は、仏教に本来的なものではない。
釈尊の仏教では、煩悩の火に焼かれると言うように、否定的。この火を吹き消したのが、仏教で理想とする涅槃である。

(ゾロアスター教にとっては火を消すことは最悪の行為。実際の火ではありませんが、比喩的でも嫌がったでしょう。火事の火はさすがに拝火教でも消すよね?)

が密教では護摩の火で本尊を供養し、護摩の火で煩悩を焼きつくすと考える。
一方では煩悩と見られた火が、他方では仏の智火とみなされる。
密教では、特にこの煩悩を焼く知恵の火を重視し、この点でバラモン教の護摩に対する優越性を主張する。
しかしバラモン教にも薪を煩悩とみてそれを焼く火を智慧とする見解はある。

(執着の塊=宗教

バラモン教否定の原始仏教が、バラモン教や拝火教的になっています。
マギとバラモン僧侶の復讐です。
起源仏教は呪いをかけちゃいかんと言っているのに。
呪いをかけたい=執着

詐欺も横行していたし)

密教の護摩の起源に、バラモン教の護摩、すなわち火天供養があるとは広く言われた説。ヴェーダの時代からインドでは神を祭るのに祭火(アグニ)を用いた。祭火に供物を投入し、火神がそれを天上の神々に運ぶと信じた。
一方イランでも、ゾロアスター教が、火(アータル)をアフラ・マズダーの息子として崇めた。
火は正義(アシャ)を象徴
したものとされ、悪を駆逐し、万物を浄化する神聖なものとみなされた。
ゆえに火を崇拝する拝火教。
形式的な面では、密教の護摩は、はるかにバラモン教と共通点が多い。
密教の護摩は息災(円形の炉)、
増益(方形の炉)、
調伏(三角形の炉。△一つ目の△は恐らくこれ)がある。
バラモン教のヴェーダ祭式でも、
一家の平安を守って燃える「家長の火」は円形の炉で供養され、
神々に供物を捧げ願い事をする「供犠の火」は方形である。
また、死霊、悪霊をまつる火は、半円形の炉で、三角形に近い。しかもこの火は「南の火」と呼ばれるから、密教の調伏法が南面して行なわれるのに通じる。
・息災、増益、調伏の3種護摩が密教で確立するのは7世紀
になってから。
それ以前にすでに、中央アジアの仏教で護摩が使用されていた形跡がある。当時この地方を支配していたのは、イラン系のクシャーン朝である。この王朝の貨幣に描かれた神像にはゾロアスター教起源のものが多く、また、火炎に荘厳(しょうごん。仏像や仏堂を厳かに飾りつけること)された国王像も見出せる。

・ボン教(ラマ教)には拝火教の善悪二元論や救世主サオシュヤント思想が入っている。
チベット密教には、乗(じりんじょう。カーラチャクラ・ヤーナ)という教義がある。
カーラ=時間。時間を根本原理とするゾロアスター教のズルワニズム(ズルワーン主義。時間主義。拝時教)の影響がある。
ズルワニズムは時間と空間を同一視する。
アフラ・マズダーとアンラ・マンユは時間神ズルワーンより生じた双子の兄弟とされる。
そして、一万二千年を三千年ずつ四期に分け、善悪両方の神の戦闘を説く。

(一万二千を強調するのは、アトランティスと、それに言及したプラトンと、拝火教の反映。ニューエイジ、スピリチュアル、神智学あたりね。
エヴァの監督がよく一万二千が出てきたり。ナディアとかね。
あと、一万年と二千年前から~のアクエリオンはみずがめ座の新時代=ニューエイジ=ニューイオン)

阿弥陀仏の原名アミターバは、「無量光(むりょうこう)」を意味し、拝火教の光明神と結びつく。
また別名のアミターユスは「無量寿」と訳され、無限時間を指すズルワーン・アカラナと同じ意味になる。阿弥陀仏は救世主的性格を持つ。
阿弥陀仏を説く経典そのものがクシャーン朝時代に西北インドで成立したと考えられる。
浄土の概念もゾロアスター教的。フラショー・クルティ=拝火教における終末の立て直しにおける世界の浄化の影響を見ることができる。
大日如来は遍照如来とも称し、またビルシャナ仏とも言われる。ビルシャナ=太陽。
ビルシャナに関係するインド神話のヴァイローチャナはアスラ(アフラ)の王とされる。
アフラ・マズダー(知恵王)の関連が云々されることになる。
太陽神に思えるが、ゾロアスター教の太陽神はフワル・クシャエータであって、アフラ・マズダーではない。

(太陽神ミトラと同一視されたりするアフラ・マズダは太陽神の性格も持つはずですが、本来は太陽をも超越した光自体か、金星なように思えます)

密教でも大日如来をただちに太陽と同一視しているわけではない。
日天(にってん。アーディティヤ)は十二天の一つとして、曼荼羅の最外院に別に存在する。世間の太陽と大日如来は区別される。
大乗仏教運動の成立地は中央アジアや西北インドであり、この地のイラン文化の歴史的位置が明らかである



今週のジャンプの『BLEACH』(ブリーチ)でファーティマの手が登場。
ギリシア哲学(特にプラトン)とキリスト教「思想」(人は単なる部下)が真の黒幕であり、黒幕の中核(源流。本体)はインド=イラン「思想」。
思想は領土がなくても生き残る霊魂

馬と馬車と金属加工の技術を持った秘教集団。
トラキアの「死は善。生は悪」が悲劇の起源?
良ツイート集。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-66.html
”なぜ角なんか生えるのかというと、そりゃ、 牛君=バアルに面会してきたって事でしょw で、自分は牛の角なんか生やしてるくせに モーゼは民が牛の像を作った事に ブチ切れる。折角貰った十戒の石板 ブチ壊すほどブチ切れる これは、神様=牛君っていう図星を つかれたのが痛かったからだろう


自分がバアルだっていう黒歴史を 消そうとしてる目の前で 「バアル、バアル」言われたら そりゃファビョるよwww しかし、こいつが黒歴史を隠蔽する意図は 何だったんだろうな?


という事でやっぱヤハウェ=バアル=牛君 で、牛君と対面してたせいで、ウシが感染っちゃった?せいで モーセには角が生えた・・・?

...私のよく使う表現では牛君だから。 で、ヤハウェはその牛を見てパニクってしまう。 これって図星突かれたからじゃないの?って事。 なにしろ、ヤハウェは自分の正体を隠すのに熱心だから。 あとヤハウェ=バアルと私は考えていて バアルって牛の神じゃなかったっけ?
(…)
私は、ヤハウェが必死に名前を隠すのはなぜだろう?と 不思議に思って、そのへんを調べてたら、 どうも、ヤハウェは半獣半人の神様でバアルじゃね?って事になった。 しかも、その「バアル」すら偽名で、 マルドゥックとも名乗るみたいだけどこれも偽名で...

ヤハウェ=バアルがなぜ執拗に名前を名乗るのを拒否するか? エクソシストとか見ていると分かるのだが 相手に名前を知られて、名前で命じられると 拒否ができないルールがあるっぽい

例えば、モーセに角が生えたのも 牛の神と対峙したから。 また、シナイ山にモーセが篭っている間、 イスラエルの民は牛の像を作りました。 それはヤハウェ=バアル=牛だからです。 それを見たヤハウェは怒り狂い 今すぐ山を降りろとモーセに命じました。 なぜ怒り狂う必要があるか?

ヤハウェにしろバアルにしろ偽名です。 ヨッド・へー・ヴァヴ・ヘーにしろ アドナイにしろエロヒムにしろ 全部「コイツの本名」ではありません。 そして、両者とも中東の神で、牛の神で 雲を乗り物とし、雷を投げ・・・ 要するに同一人物です。 あ、いや、人間じゃないんですけど。

キリスト教会でこんな発言をすれば 冗談抜きでブン殴られかねないです。 なぜならばバアルは悪魔の代表格で 旧約聖書にも何度も登場するからです。 しかし、ヤハウェにしろ、バアルにしろ あまりにも共通点が多過ぎます。 例えば名前を隠すことに必死な事。

一般のキリスト教ではヤハウェ=牛なんて 教えません。むしろヤハウェは自分自身の 正体を必死になって隠そうとするので それに同調しておくのがキリスト教です。 が、私はあえてもうひとつ言っておきます。 ヤハウェは牛の神であり、 同時にバアルでもある。

少なくともヨブには神が悪魔でもあるという 事は理解ができていました。 だからこそ、彼は 「神から幸いを受けるのだから 災いをも受けるべきだ」と 言ったのです。 「あなたを祝福する」だの何だの 調子の良い事ばかり言う神様から 災いを受ける・・・ これは矛盾してはいません

ふざけるな! ユングの名著「ヨブへの答え」にも 書いていますが、明らかにこれは ヤハウェの失態です。 ここから分かるのはヤハウェは 全知全能でも何でもないという事。 都合が悪くなったらヒステリーを起こす事。 そして悪魔とも普通に お友達付き合いをしている事です。

聖ヒエロニムスの像。 ヘブル語の聖書をラテン語に翻訳。 助手となったのがパウラだが、先だたれ、パウラの頭蓋骨を机に置いて翻訳作業を成し遂げた。 しかし、大きな誤訳をしてしまった。
◎モーセが光輝いていた。
×モーセに角が生えた。)

誤訳じゃないよ ヒエロニムス訳が正解だ カラーだったかな?何か聖書の中に 2回しか出てこない珍しい単語が出てくるんだよね んで1回はモーセの顔の所 これは光と訳しても角と訳しても文章が破綻しない でもう一箇所はどう考えても角にしかならないそうなw


(美輪様の名言 ‏@miwasamameigen 2013年10月5日
黒があるから白さが分かる。悲しみや苦労を経験した人ほど、幸せのありがたみが分かる。


黒も白も悲しみも苦労も幸せすらも 知らない人こそが幸せな人。 つまり、この世に生まれた時点で 完全に失敗。 生まれない人こそが勝ち組 聖書のヨブ記や伝導の書を読んでみよう!

バアル、ヤハウェ、若しくは牛君の 特徴として本名を晒すのを異常に恐れている。 だから出エジプトでモーセに名前を聞かれても "I am who I am"ってごまかしちゃう。 バアルもそう。 「高き所にお住まいのお方」とか たしかそんな意味じゃなかったっけ?”


ハタヨガの真髄 (1)
http://thanksjico.exblog.jp/8619277/
“ヨガという言葉は、「縛る」「結ぶ」「結びつける」「~をつなぐ」「本人の注意を導き、集中し、使い、かつ応用する」というような意味のサンスクリット 語、「ユジュ」に由来している。また、「結合」とか「交わり」をも意味する。この語の深い意味は、われわれの心と神の心の結合すなわち、神の心を自分の心 にすることである。(p16)

インド思想では、すべての物には絶対の宇宙の精神(パラマートゥマー神)が存在していると考えており、個人の心(ジーワトゥマー)は、その一部であるとみなしている。(p16)

ヨガの段階
1.ヤマ 全人類に共通している、誰にとっても必要な道徳律
2.ニヤマ 修練による心の浄整化法
3.アサナ 正姿勢と動作の訓練(体位法)
4.プラーナーヤーマ 気(食・息・知識)のコントロール法
5.プラティヤーハーラ 欲望、感情および外的対象による支配からの解放行法と自立訓練法
6.ダラーナ 集中統一法
7.ディヤーナ 安定(無心行法)
8.サマーディ サマーディとは、深い冥想によってもたらされる、意識を超えた自他一如の状態のことである。この状態では、冥想の対象物つまり宇宙霊(パラマートゥマー)と一体になることができる。

ヨギとは、自分の本質を知っており、自分自身(アートマン)の中に至上の神の一部が存在するのを自覚している者である。(p21)

ヨガに関するすべての本は、サーダナーあるいはアビヤーサ(たえまない実践)を強調している。(p33)

た とえばアイアンガー師は、「背骨を伸ばせと言うと、皆さんは、まん中の神経路の通る所を伸ばしてしまうがそれは間違いだ。正しくは両脇を伸ばして、まん中 をリラックスさせて置かねばならないのだ」と延べておられます。「伸ばす」といってもけっして外側の筋肉を伸ばすのではなく、あくまで内から自然に伸びて くるようにするのです。つまり、アサナを行っている自分と身体と動作が一体になるように、あくまで辛抱強く、繊細に追求した行い方をしなければならないの です。(p495訳者あとがきより)

「体が心に影響し、体を通じて心を清め、高めることができるのだ」(p496)”

ハタヨガの真髄 (2)
http://thanksjico.exblog.jp/8619355/
“「ハタヨガの真髄 600の写真による実技事典」より

ターダアサナ =サマスティティともよばれる

ターダとは「山」。サマとは「直立」「まっすぐ」「不動」を意味する。スティティとは、「不動の姿勢」「堅固」を意味する。したがって、ターダアサナは、しっかりと山のように立つポーズである。これが立ちポーズの基本となる。

(1)足をそろえてまっすぐ立つ。両足の親指、およびかかとをつける。また足の指はすべて床にぴったりとつける。

(2)ももの内筋肉を伸ばしあげるようにすると、ひざをリラックスしたままでひきあげることができる。このとき、尻はそっと締めるようにする。

(3)胃が自然にひっこむように、肋骨をひろげ、背骨を上に伸ばし、首をまっすぐにする。

(4)体重はかかとと指先の一方だけにかけずに、当分にかけること。

(5)理想的には、ターダアサナでは頭上に両手を伸ばしておくのであるが、便宜上、両ももの横に下げていてもよい。立ちポーズは、各々この、てのひらをももの側面に下げたターダアサナの形で始まる。”

ハタヨガの真髄 (3)
http://thanksjico.exblog.jp/8646069/
“武将のポーズ
ウィーラバッドゥラアサナ


ダクシャが、あるとき戦死者の追悼式を催したが、他の神々を招いていたのに、自分の娘のサティーもその夫で神々の首領であるシヴァも招かなかった。それでもサティーは儀式に参加したが、ひどいはずかしめを受けたので、火の中にとびこみ自ら命を絶った。シヴァはこれを知ってたいへん怒り、自らのもつれた髪の毛を一本ぬいて地上に投げつけた。そこから豪傑のウィーラバッドゥラが生まれ、シヴァの命令を待った。シヴァは彼に向かって、シヴァの軍隊をひきいて、ダクシャの儀式を破壊するように命じた。ウィーラバッドゥラは、軍隊とともに、ダクシャの儀式の場に疾風のごとくあらわれ、儀式を破壊し、他の神々、僧侶を追い払い、ダクシャの首をとった。シヴァはサティーの死を悲しみ、カイラーサにこもり、瞑想にはいった。サティーは、ヒマーラヤの家に、ウマーの名で生まれ変わり、再びシヴァの愛を求めて努力し、ついにシヴァの心を射止めた。
このアサナは、シヴァが自らもつれた髪から創造した豪傑に捧げるポーズである。

(p80)”

ハタヨガの真髄 (4)
http://thanksjico.exblog.jp/8646178/
“亀のポーズ
クールマアサナ

クールマは亀という意味。このアサナは、ヴィシュヌの化身の亀に献呈されたものである。
神々の若さを維持するアムルタ(蜜)のみならず、多くの神の宝が大宇宙の洪水で失われた。なくなった宝をとりもどすために、神々は悪魔と連合して、宇宙の海に波をわきおこすことにした。ヴィシュヌは大きな亀になり、海の底に潜っていった。背中には、波をかきたてるためにマンダラ山をかつぎ、ロープとして、神聖な蛇ワースキをまきつけた。神々と悪魔たちは協力してその蛇をひっぱり、山をくるくるまわし、海に波をかきたてた。その海の波からアムルタと、神々の宝が出てきた。

(p304)”

ハタヨガの真髄 (5)
http://thanksjico.exblog.jp/8664450/
“得と損、勝利と敗北、名声と恥、体と心、精神と魂といった二元性は、アサナの修得によって自然に消えてしまい、求道者は次のプラーナーヤーマの第四段階に入ることができる。(p49)

プラーナーヤーマ(p50-51)

プラーナとは、呼吸・息・生命力・風・エネルギー・栄養力等を意味している。
アヤーマは長さ、広がり、伸ばす、制止等を意味する。
プラーナーヤーマは、呼吸の延長と呼吸のコントロールを意味してもいる。
すなわち、
(1)吸う息=プーラカ(満たす)
(2)吐く息=レーチャカ(空にする)
(3)息を止める=クムバカ。

ハタ・ヨガでは、クムバカという言葉は、吸う息・吐く息・息を止めるの三つの過程を含んだ一般的な意味で使われている。
クムバカには二つの違った状態がある。一つは空気を一杯に吸い込んで息を止める状態と、完全に吐ききって息を止める状態とである。

プラーナーヤーマは、気の科学であり、それは生命という車輪が回転するために必要な中心軸のようなものである。
プラーナーヤーマ行法は一人ひとりの呼吸と、大宇宙の呼吸との調和をはかることであるといえるのである。


(P460-463)
プラーナーヤーマの技術を実習するためには、バンダ、ナーディ、チャクラについての知識が必要である。

バンダとは「束縛」「一緒につなぎ合わせること」「足かせ」「つかむこと」などを意味する。
それはまた、体のある器官、あるいは体のある部分を収縮し、コントロールする姿勢のことも意味する。
プラーナーヤーマに重要なバンダは次の三つ、
(1) ジャーランダラ・バンダ:最初にマスターするもの。首およびのどを収縮し、あごの両鎖骨中央部、胸骨の上のくぼみにつける。心臓、首の腺、脳も含めた頭部 への血液とプラーナの流れを調整する。ジャーランダラ・バンダを行う場合、プーラカ(吸気)レーチャカ(呼気)とクムバカ(保息)の三つのプラーナーヤー マを必ず行うこと。

(2)ウッディーヤーナ・バンダ:「飛び上がる」ということで、横隔膜を引き上げることによって、腹部臓器を背骨の方 に向けて引き込む。ウッディヤーナ・バンダは、レーチャカの後のバーヒャクムバカ中、つまり完全な呼気の後、新たに息を吸う前の息を止めている間にのみ 行ってよい。これは横隔膜・腹部臓器に刺激を与える。

(3)ムーラ・バンダ:ムーラは「根」「源」「根本」「基礎」という意味で、ムー ラ・バンダは肛門とへその間の部分を収縮させて引き上げ、背骨の方に近づける過程である。ムーラ・バンダはまず吸気のあとの保息中に試みること。肛門周辺 の筋肉を収縮させることを練習すると、ムーラ・バンダがやりやすくなる。


人間の体は小宇宙である。ハタは、ハとタの二音節からなり、それぞれが太陽と月を意味する。
太陽と月のエネルギーは、ピンガラーとイダーという二つの主なナーディを流れるといわれている。
ピンガラーは太陽のナーディで、右鼻腔から始まり脊椎最下部に至る。
イダーは月のナーディで、左鼻腔に始まり、脊椎最下部に至る。
この二つのナーディの間に、火のナーディであるスシュムナーがある。
スシュムナー・ナーディは神経エネルギーの流れの中心的経路であり、脊柱の中を通っている。
ピンガラー、イダー、スシュムナーもいろいろなところで互いに交差している。
これらの交差点がチャクラ(輪)といわれ、はずみ車がエンジンを制御するように、チャクラは体の機構を制御する。
主なチャクラは、
ムーラダーラ・チャクラ:肛門の上、骨盤近くにある
スワディシュターナ・チャクラ:生殖器の上にある
マニプーラカ・チャクラ:へそにある
マナス・チャクラおよびスーリャ・チャクラ:へそと心臓の間にある
アナーハタ・チャクラ:心臓にある
ウイシュダ・チャクラ:咽頭部にある
アーンニャー・チャクラ:眉の間にある
サハスラーラ・チャクラ:胸腔にあり、千枚の花びらをもつ蓮とよばれている
ララータ・チャクラ:額の上にある”

背骨を解き放つ
http://thanksjico.exblog.jp/8744406/
“ねじった三角のポーズ(パリヴルッタ・トリコナーサナ)

「YOGA Journal」(Vol.6)を初めて購入。
その中でヨガの基本ポーズを細かく丁寧に解説しているシリーズがあった。
今回は、「ねじった三角のポーズ」「弓のポーズ」「椅子のポーズ」の3つ。

「ね じりのポーズで重要なのは、力の均等な配分である。ほとんどの人は、ねじりやすいところをねじって、ねじりにくいところを避ける傾向がある。つまり、動き やすい首はねじりすぎ、伸展性や反応性が鈍い背骨の中上部はねじり不足になる。しかし、パリヴルッタ・トリコナーサナは、動きにくい胸椎を広げ、その意識 を高める手助けをしてくれる。ふだん意識の及ばない部位を動かすことは、練習の中で心と体を観察する絶好の機会である。」(p102)”


長い記事をお読みいただきありがとうございました!
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