日ユ同祖論、景教渡来説、スピリチュアル、神智学は仏教破壊用の兵器! 【落語風解説】 『真釈 般若心経 』
Posted on 2016.01.14 Thu 03:24:23 edit
えー、本日は本ブログにお越しくださり、まことにありがたく存じやす。
早速でございやすが、まずはご報告をば。
あっし、子子子子子(ねここねこ)のツイッター
https://twitter.com/kitsuchitsuchi
のプロフィール文を、
“お遊び陰謀論がやりたい方は大本教系と紅卍字会とSAGEグループと大日本皇道立教会と選帝侯と、ユダヤ陰謀論を捏造したバチカンと、仏教徒の天皇から神道カルト偽天皇へのすり替えと、神道・神器・天皇が道教用語だと言っちゃダメ! 読めないニックネーム(再開版)http://yomenainickname.blog.fc2.com”
から
“キリスト教の伝統
①ユダヤ陰謀論(が流行=ユダヤは囮)
②日ユ同祖論(聖書のユダヤ人は架空)
③ユダヤのマークとしてのダビデの星
(17世紀にイエズス会が作成)
④秘密結社の陰謀論(キリスト教=悪魔
が銀行=真の秘密結社を支配)
陰謀論者はクリスチャンと神道カルト=大本教系の和風✝儲だらけ。
あなたの私に対するイメージの中
yomenainickname.blog.fc2.com
誕生日 1894年1月1日”
に変更しやした。
余計なお世話かも知んねぇですが 、ツイッターで設定できる誕生日は1894年1月1日が最古でございやすから、あっしはいってえ何歳なんですかィ?
え、なんで落語家みてえなしゃべりをしてんだって?
そりゃあ、あれだ、あっしのツイッターアカウントの@の後ろの部分の由来が落語だっから
……ってのは冗談ではなくマジなんだけどよ、今、アニメ界にとっちゃ落語が旬だっからよって理由もあるんでございやすよ。
『昭和元禄落語心中』ってえ漫画があるんでやすが、アニメ化されやして、ここんとこ一話が放映されやした。
とにかく、できが良くてびっくらこきやした。
落語を真剣に学んだ声優ばかりを起用しておりやす。
落語監修は林家しん平が担当しておりやす。
是非(ぜ「し」)、ご覧くだせェ。
あっしは、明治以降に(特に商売目的で)急造された、いかにも江戸より前(めぇ)からあるかのようにホラ吹いてやがる偽伝統について何度も語ってきやした。
ご安心くだせえ。落語の祖とされる安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)は浄土宗の坊さんでございやす。
その策伝さんが元和九年(1623年)に完成させた笑い話を集めた本が『醒睡笑』(せいすいしょう)でさぁ。この『醒睡笑』が後の咄本(はなしぼん)や落語に影響を与えたンでございやす。
落語ってのは単に笑わせるだけの話だけじゃねえ、、怖い話もありやすし、智慧がつくものもありやす。
智慧といやあ、仏教では「般若」が智慧つう意味なんだが、 この「般若」ってのは今回の記事の『般若心経』だけでなく、酒の呼び名にも使われておりやす。
昔の坊主は、酒が戒律で飲めねえから、酒を飲んだと表立って言えねえ。
そいで般若湯、 ゴチャゴチャゆうねぇ、要は智慧の湯てえ呼び名でごまかしたそうで。
酒の名前に智慧を意味する般若をぶちこむたあ、洒落てるじゃありやせんか。
今回とりあげる『般若心経』も、『酒心経』になっちまえば権威もかたなしでさァ。
まあ、西日本産の般若湯でもかっくれぇながら、小めんどくせぇ噺を聞いてくだせェ。
一応言っときやすが、兵庫産の米は偽装率がたけえらしいですぜ。あっしは兵庫産の米の酒は飲みやせん。
【本題】
過去記事で「真言宗はキリスト教ネストリウス派だよ詐欺」について多少、言いやしたが、今回は詳しめに補足しときやす。
一神教では、絶対に人間は神の領域に至れねえし、神との一体化もダメですぜ。 人を神格化したら神が複数になっちまって一神教じゃなくなっちめぇから、これを破ったら一神教ではありえねえし、仮にあるとしても完全に異端になっちまうんでさァ。
国家神道や大本教やなんかの和風キリスト教はよお、一神教を完全に維持してやがる正当なキリスト教からすりゃ、完全に異端なんでございやすが、支配されるこちとらにとっちゃ、なんちゃら組に支配されるか、かんちゃら組に支配されるかのに違いでしかねぇんで迷惑な話でさァ。
ヤハウェっていう、セトとバアルとアトンを足して三で割ったような唯一神を信仰するなら、十戒を守らなきゃなんねえ。
特に一つ目は絶対守らなきゃ一神教じゃねえですぜ。
十戒
①俺のほかに神があってはならねぇ 。
②おめぇの神、主の名をみだりに唱えてはならねぇ 。
③主の日を心にとどめ、これを聖としな。
④おめぇの父母を敬え。
⑤殺してはならねぇ 。
⑥姦淫してはならねぇ 。
⑦盗んではならねぇ 。
⑧ 隣人に関して偽証してはならねぇ 。
⑨隣人の妻を欲してはならねぇ 。
⑩隣人の財産を欲してはならねぇ 。
秦氏も空海も
①一神教の大前提、
③安息日
を守ってねえから一神教なわけねーよな。
道徳にかんする戒なんざ、ほかの宗教でも言ってやがるこっだっからよ 守っていても一神教信者だと特定できねえ。
核心部分が一神教違反なんだっからよ 、絶対に秦氏も空海も一神教信者じゃねーよ。
核心部分を完全にシカトして、本筋の論題や質問には一切答えねえで、細かな矛盾点をべらべら並べ立てやがり、意図的に些末な部分にこだわって威圧しやがるのが、カルト工作員の手口でさァ。
キリスト教神学が得意な詭弁術を使いまくるのが工作員の特徴なんですぜ。
外見や、表面的な、言語や儀式の共通点なんざ探そうと思えばいくらでも探せるんで、詐欺師がよく強調しやす。
単語数はどの言語でも膨大なんで 、どの二つの言語を選んでも似てやがる部分は必ずあるんで、多少似ていてもおかしくねーし。
みなさんは以下のカッコつきのセリフ を肝に銘じてくだせェ。
「同祖論者や秦氏・空海景教徒説の詐欺師は教義の致命的な違いは無視!
一神教では人を神格化して神としてまつることも、神と一体化することも禁止!
表面的一致を大量に(みせかけて)取り上げて数でごり押しするのが工作員の特徴!」
高野山に大秦景教流行中国碑のレプリカを建立したのが、ヴィクトリア女王の元側近(侍女)のE.A.ゴルドン夫人ですぜ。
仏教もキリスト教も元は一つであるっつう 「仏基一元」の考えが夫人の研究テーマだったんですが、仏教のは一神教の中核を完全否定してやがっからよ 、根っこが完全に違いやす。
西洋思想すべて「ゴッドや不滅の霊魂など、永遠の不変の超越的なものが実在する」
仏教「全部、妄想だね」
ってんだっからよ 、同じなわけありやせん。
仏教は空、縁起、無常ですら実体はねぇとしやすからね。
西洋思想の核には「唯一絶対の実体」(それ自体で存在し永遠不変な実在)つう大前提がありやす。
キリスト教では造物主ゴッド、
西洋神秘主義、特に新プラトン主義では「一者」。
実体思想が中核である万教帰一用宗教に仏教の中核をぶちこむなんて不可能なんだぜ。
多様性やなんか とほざきながら、取り入れるふりをしつつ、仏教の中核だけは削除するって腹づもりでさあ。
お上が仏教の中で特にぶっこわ してぇのは、
①嘘を見破るのに有効な、論理と論理的思考を重視する姿勢と、
②一神教と新プラトン主義を否定する無記と空と無常と縁起の思想
でございやす。
仏教系カルトは見事にこの側面を消去してやがるんですぜ。
仏教系カルトのモデルはキリスト教でございやすからね。
東洋思想を取り入れた西洋思想ですら、キリスト教と、
プラトン哲学(馬鹿は人間じゃねぇ 、肉体労働は下等、動物蔑視、優生思想)臭さが抜けてやがるものは稀でございやす。
景教渡来説は、(無自覚と隠れ含め)宣教師が布教のために唱えてやがることが多いですぜ。
「日本は仏教国ではなく、聖書の国だ」ってほざいてキリスト教を受け入れやすい素地を作ろうとしてやがるんでさァ。
景教は、人性(人の要素)と神性(ゴッドの要素)を区別しやすから、人間と神が対等になるなんてありえねえ。
一方、真言密教は「即身成仏=人と仏はゼロ距離」だとする教義でございやすから、一神教を否定する思想でございやす。
ゴルドンは英国王室の手先なんで、仏教をぶっこわす工作としてネストリウスデマを流してやがるのでございやす。
日ユ同祖論、景教渡来説、スピリチュアル、神智学は仏教ぶっこわしのための兵器の四天王ですぜ。
景教の専門家だった佐伯好郎は日油同祖論者でございやして、「秦氏=ユダヤ人景教徒」説つう 語呂合わせと詭弁にまみれたことをほざいてやがりやす。
旧約聖書に登場する失われた10支族なんて実在しねえんだっからよ 、末裔なんていやがるわけねーだろってんだぜ。
逆にいやあ、聖書の人物が実在することが大前提の日ユ同祖論(日本人・ユダヤ人同祖論)を主張するのはクリスチャンと神道カルト信者ってこった。
しかもよ、佐伯って景教博士ってか詐欺師は、晩年、弟子の服部之総に同祖論がユダヤ人の大資本を得るための単なる功利的な「企画」であることを語ってやがるぜ。 ゴチャゴチャゆうねぇ、要は 日油同祖論は金目的だったってこった。
景教について学びてぇってなら、お前さん、過去記事にいいのがあるぜ。
「利休キリシタン説」と「茶道の元ネタはキリスト教の儀式」説は仏教破壊用のデマ!
『神学の思考』で一神教のタブーを学べば騙されない!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-111.html
の下のほうをどうぞ読みなせえ。
ネット検索で学びてえなら、
「景教 ペルシア ネストリウス派 Nestorianism」やなんか と入れて検索すると、同祖論デマ情報がいっぺぇヒットするんで、マイナス検索を活用しやしょう。
「景教 -ユダヤ -空海 -秦氏」などと検索したり、英語版ウィキなどの英語文献にもできればあたってくだせェ。
アンド検索、
OR検索、
完全一致検索・フレーズ検索、
除外検索・特定のキーワードを除いた検索、
ワイルドカード検索、サイト内検索・ホームページ内検索など検索方法についてはきっちり学んで実践しやしょう。
検索エンジンを変えるとさらさら違う検索結果になりやがったりしやすから、検索履歴を残さない検索エンジンDuckDuckGo (ダックダックゴー)なども活用しやしょう。
あっしは、ブラウザはFirefoxなんでございやすが、ファイアーフォックスのプライベートブラウジング機能は重宝な道具でございやす。
【サゲ】
酒飲むと
智慧が問われる
般若問う
おあとがよろしいようで。
※これより、江戸弁はおひらきにし、元に戻します。
幕間のあとは、「マクラもオチもなく、本題しかない『般若心経』の読書メモをどうぞ。
【幕間】
人間国宝の桂米朝 (3代目) の『はてなの茶碗 』の動画が視聴できる、はてなブログ(笑)↓
僕がおすすめする、ビジネスに役立ちそうな気がする落語ベスト5
http://terakappa.hateblo.jp/entry/2016/01/07/115238
桂枝雀が上岡龍太郎と語る笑いの分類
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16688264
菊池 @kikuchi_8 1月3日
誠にその通り(笑)引用:統一教会系ネトウヨの反駁の仕方ってすごく耶蘇教神学的でなんかアウグスティヌスっぽい。ネトウヨが話の核心部分ではなくて、細かな矛盾点を指摘して全論をひっくり返そうとする話の持って行き方とかほんとそっくり。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-112.html
「話の核心部分ではなくて、細かな矛盾点を指摘して全論をひっくり返そうとする話の持って行き方」はまさにカルト工作員が使っている手口。本筋の論題や質問には一切答えず、意図的に些末な部分に拘泥する。耶蘇神学に由来する手口のようだ。云百年の不毛な神学論争が生んだワザということか。
ちなみに。恐らく耶蘇神学は「不変の神が何故創造という変化を起こせるのか」といった根本的質問には答えられないと思う。「創造する」という事は無から有への変化の過程という事であり、全く変化しない実体からは出てこようがない。不変から変化を説明するのが一神教や神秘主義の根本的な誤謬と思う。
菊池 @kikuchi_8 1月3日
同感です。日猶同祖論者は致命的かつ根本的差異を無視。引用:修験道含め、日本の伝統宗教には自然崇拝思想が根付いています。一神教では、自然はゴッドの創造物なので拝んではいけません。根本思想が違っていたら、いくら表面的な共通点があっても別物http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-112.html
王王大栄 @ououdaiei 1月6日
@kikuchi_8 @kitsuchitsuchi 耶蘇の「ゴッド」を神と訳したのは、ある意味ですごい皮肉かも。神は滅びる。それが日本の考え方。唯一の実在・創造主の「ゴッド」は、神という妄想。ってのが仏教とかの考え方とみると然り。
菊池 @kikuchi_8 1月6日
@ououdaiei @kitsuchitsuchi おお、なるほど、面白い解釈だと思います。日本神話を見ても日本の神様は「無常かつ持続する」自然の象徴だったりして生まれたり死んだりと生成変化する「無常」な存在ですからね。「不変・唯一・絶対」というゴッドという観念は「滅びる」と。
フェイド大帝 @FeydoTaitei 2015年5月19日
ねここねこさんの日ユ同祖論の
英語版Wikiの記事に触発されて
原文読んでみた
下の方でチョロっと出てる
ヴィクトリア女王の侍女だった
エリザベス ゴードンの日ユ論が
興味深い
英ユ同祖論と日ユ同祖論から、
イギリス王室と日本の皇室を
縁組させてスーパーユダヤ人を
造る計画だ
”①一神教最大のタブーは、人間が神になること。
一神教では、唯一神と人間との間には絶対的な隔たりがあり、絶対に人間は神になれない(唯一神と一体化できない)。
人間が神になれるなら多神教。
景教=ネストリウス派キリスト教は、人と神を特に厳格に区別するので、人と神として祀るなら景教徒ではない。
神社に秦氏の人間が神格化されて祀られているので、秦氏は景教徒ではありえない。
真言宗は神仏と人間が一体化する「即身成仏」思想なので、景教ではありえない。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-110.html
ヤハウェ(エジプト系の雷神)が奈良の大仏(アーリア系の太陽神仏)なわけねーだろ! 真言宗が景教(人の神格化禁止)なわけねーだろ! ヨガ、呼吸法、瞑想法でリラックス! 『呼吸法の極意 ゆっくり吐くこと』・『ヨガ呼吸・瞑想百科』・ 『ハタヨガの真髄』・『禅の本』・『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』
”「クリスチャン・シオニズム
エリザベス・ゴルドンはヴィクトリア女王の元側近(侍女)だった。
ゴルドンは有名なクリスチャン・シオニストでもある。
ゴルドンは英ユ同祖論と日本人を結びつけようとした。
特に、英国王室の祖先がイスラエルの民の子孫だとした。
ゴルドンは日本では真言宗の研究で知られる。
真言宗の起源はキリスト教だと主張した。
ゴルドンは日本でいくらかの影響力を持った。」
”British Israelism (a similar hypothesis that holds the British people to be a Lost Tribe of Israel)”
「英ユ同祖論。日ユ同祖論と似た仮説。」
ゴルドン夫人が主張したのが仏基一元。
生長の家と同じく万教帰一と似たことを主張!
開化派=独立党のリチャード(洗礼名)大歓喜!
仏教は絶対的な唯一の創造神を否定するので、
キリスト教視点では無神論=悪魔崇拝(本来の仏教は偶像崇拝しない)ですよ。
RAPTがいい例です。
仏教とキリスト教はどう見ても根本から違います。
仏教とキリスト教を比べると、どう見てもキリスト教のほうが悪魔崇拝なんですけど。
英国女王の側近のゴルドン夫人は、ワン・ワールド準備の為のワン・リリージョン(宗教)を推進するための工作員でもあったのです。
英国王室側の人が宗教統一に都合がいいことを言ったのです。
宗教統一とは、新キリスト教で世界を塗り潰すという意味であって、思想の多様性をなくすということです。
みんなが一緒に共存するのではなく、
一つを残して皆殺しという意味です。
キリスト教が布教熱心で、侵略とセットである理由が分かるでしょ?”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-83.html
日ユ同祖論と中ユ同祖論の発明者は17世紀のイエズス会士ロドリゲス。
同祖論はキリスト教の布教とセット。
日ユ同祖論を布教する陰謀論者=宣教師。
日ユ同祖論の英語版Wikiの一部を翻訳し解説。
Misaki-わんわん @bonchan1 2015年9月8日
故山本健造氏が高山市丹生川町旗鉾の分校で教職に着かれ、そこで地元の上方様の家系の老翁から「飛騨の口碑」を託されたのが昭和35(1950)年の事。それから五十数年を経てこの世に初めて発表されたのが鞍ヶ根風土記としてまとめられた「飛騨の口碑」だ。まだまだ世間の認知度は低い。
knznymmmy @knznymmmy 2014年12月21日
どこまで本当なのかねえ
いきなり飛騨にポッと出るのもおかしいじゃん
そいつらどこから来たの?っていうね
ミトコンドリアイブちゃんよりも
飛騨の方が古いとかんなわきゃねーんでしょ?
knznymmmy @knznymmmy 2015年1月6日
日本書紀も古事記もウソが多いだろうけどさ
飛騨の口碑だってウソはあるんじゃないのかなあ?
それだけが0.01%のウソも間違いも含まないとか
そんな訳はなかろうと思うけど
例えばさ飛騨に発生したというその原アホンジンとやらは
どこからきたよ?ウジ虫じゃあるまいし突然発生はしねえよ
knznymmmy @knznymmmy 2015年12月25日
そもそも単一民族だの日本人だのいう
概念があやふやでしかない
犬のぼんちゃんが
飛騨ガーとかわんわん吠えてるけどさ
どう考えてもウリナラファンタジーw
knznymmmy @knznymmmy 1月5日
飛騨の口碑ってのもさ
ちゃんと調べりゃ
明治ぐらいに作られたんじゃねえの?
すーーーーっと口伝ですとかいうのはさ
要するに証拠なし、天皇家の万世一系みたいなもんでしょ
証拠がねえのをさもありがたいかのように言うとかどうなのよ?
Misaki-わんわん @bonchan1 1月14日
大陸・半島人とはそのDNAが全く異なると遺伝子学的に判明しているのに、未だに渡来人が主だと言う人が多いのには驚きます。何故、日本人は単一の日本固有の民族だと胸を張らないのでしょう?プライドがないのかしら?
(日本人は混血民族。単一の固有の民族なんて実在しねーよ。
ナチスのアーリア信仰を日本人に変えただけ。
思考が神道カルトまんまの、聖典が飛騨の口碑のみさきワンちゃん。
「ヤハウェヤハウェが秦氏秦氏が景教景教が以下略」って、うるさい。
大避神社の御祭神は秦河勝。
一神教では人間を神として祀るのは絶対に禁止なので、秦氏は景教ともユダヤ教とも無関係。
致命的な矛盾をひたすら無視する時点で相手にする価値無し)
knznymmmy @knznymmmy 1:12 - 2016年1月16日
君と違って信仰が無いからだよ
(「純血」を信仰するのはカルトの証)
P・グラレム @pinkglalem 2015年12月3日
移民についてかい...?もともと日本人と言うのは、多人種の混血なんですけど...
P・グラレム @pinkglalem
ユダヤ人なんて民族はいねェーョ。架空の、でっち上げられた幻想。日本人にしたって、その遺伝子構成は、多人種の混血。大昔に混血化がすでに進んでいたんだョ。
古代から何世代過ぎてるの?その間中、近親婚を繰り返すワケ...?そーでなかったら、民族の純血なんて守れないョ。純血主義は幻想なんだョ。
人種としての「~人」というのは、すでに存在していない。
どーしてだろう?カルトの信者というのは、宗教のことをスルーするために、民族に拘るね。
民族や言語の分類というのは、18世紀に聖書をもとにして作られたンだョね(シュレーツァー)。だから、コレをもとにあたしに民族について質問されても。答えられません。...予め言っておきます。
だいたい日本人なんて、多民族の混血だし...
knznymmmy @knznymmmy
セム語族とかまさにソレだな…
「神戸とかいう魔境って何なのさ?」
皇族や桜に潜む日本のイカサマ擬似伝統の番外編
http://codetripleseven.blogspot.jp/2015/11/3.html
”神戸製鋼といえばオウムの村井も元神戸製鋼社員。
衆人環視の中殺された、あのオウム幹部の村井だ。
テレビで「阪神大震災は人工地震だ」と全国放送しちゃったあの村井だ。
村井は大阪大学大学院で宇宙物理学専攻
→1983年神戸製鋼入社→1986年オウム入信。
アベシのブレーンの伊藤哲夫は生長の家→ソース1 ソース2
そしてその生長の家を作った谷口雅春も神戸出身。
生長の家=宗教右翼=戦争賛美=日本会議=稲田朋美でもある。
そう言えば、84年・85年にはグリコ森永事件が起きた。
アベシが神戸製鋼を辞めて父親の晋太郎の秘書官をしていた頃だ。
グリコ・森永事件の舞台は神戸を含む関西。
例えばグリコは社長の実家襲撃・脅迫状・放火その他散々な目に遭った。
そのグリコの社長宅は芦屋=神戸市の東隣。
そして87年にはアベシは昭恵と結婚。
昭恵は電通社員=ほぼ確実にヤツらの犬。
昭恵は森永社長の娘でもある。グリコ・森永事件の、あの森永だ。
森永といえばキリスト教。例えば創業者の森永太一郎がキリスト教→wiki
エンゼルのロゴとか「いかにも」なデザインを採用するではないか。
森永の製品に「マンナ」というビスケットがある。
商品名の由来は旧約聖書の出エジプト記の「マナ」だ。→参考
昭恵がキリスト教徒なのかは不明。
とりあえず小学校からの全学歴が聖心女子=ミッション系ではある。
昭恵と言えばデービッド=ロックフェラーJr.と「食べて応援」を推進。
この辺を更に追求していくと兵庫からは離れるが深刻な話題が出る。
例えば福島第一原発四号機爆発の謎。
或いはアベシとオウムの、単なる神戸製鋼OBでは済まないコネ。
オウム真理教事件の闇はまだまだ残っている。→参考
江崎グリコ社長宅のある芦屋以外にも、関西系の社長宅は
兵庫に家を構える事が多い→ソース
2012年9月14日時点で上場企業の社長・会長に就任している
4878人のうち、判明した2920人の社長・会長の自宅住所から作成した。
役員報酬が1億円を超える企業トップは、どの街に住んでいるのか。
関西では、大阪や京都よりも、兵庫の西宮市や芦屋市を好む傾向が
明らかになった。
大阪も京都も差し押さえて1位か。関西のドンは兵庫という事か?
尚、兵庫県内のランキングでは
1位が西宮市で2位が芦屋市となった。
・・・との事だ。両方共、神戸市の東隣。
そのせいだろうか?
神戸は不自然にケムトレイルが散布されなさすぎと主張する人もいる。
リンク1 リンク2 リンク3
本州を1800キロ走ってみて、わかったことがある。
本来であれば空気が清浄な地方ほど、
盛大にケム雲が広がっている傾向があるということ。
長野の安曇野のあたりは、これ見よがしにケムっていて哀しくなった。
では日本に、ケムっていない地域は存在するのか?
あるんだね、これが。
見事なまでにケム雲ひとつなく、わたがしのような雲が
たなびく地域が。西宮から神戸にかけてが、そうだった。
芦屋の高級住宅街あたりに、日本の真の支配層は
住んでいる……ってことかな?
やはり神戸はひと筋縄ではいかない。
ケムが撒かれないのなら体にいいのか?と思うと意外とそうでもない。
妙な病気が日本で「発見」されるのは神戸が多い。
例えば「生物兵器説」が流れるような病気。例えばエイズ。
誰が日本のエイズ感染者第1号なのか?というのは微妙である。
例えば「アメリカ在住の日本人」は「日本のエイズ第1号」として
カウントしていいのか?微妙だ。
「長野在住のフィリピン人」 というのもある。
しかし「日本在住の日本人」という条件でならエイズ初感染者は神戸
→参考
1987年1月17日 神戸で日本初の女性のエイズ患者報告、
エイズ・パニック広がる
おっと・・・1月17日と言えば阪神大震災の日ではないか。
これは偶然なのか?
ちなみに1月17日と言えば2006年ライブドアショック。
1979年イラン革命の日でもある。
鳥インフルもそうだ。
2009年5月16日 新型インフルエンザ、神戸で国内初の感染確認。
渡航歴ない高3→ソース
この5月16日はオウム真理教の麻原が逮捕された日でもある。
体に悪いと言えば、福島産の米の流通量が全国2位なのは兵庫→参考
東京は人口密集地帯だ。
だから福島に限らず近県から大量に食料が流入するのは当然。
しかし、なぜ2位が兵庫なのか?
人口密集地帯や農地が少なそうな都市部なら他にもあるではないか。
神奈川、愛知、大阪等を5倍以上もぶっちぎって、
兵庫が2位というのは異常事態ではないのか?
距離的にも神奈川、愛知、大阪・・・
すべて兵庫よりも福島に近いではないか。
兵庫は米の生産量ランキング全国14位だ。→ソース
米所と言うほどではないが、それでも上位の部類だ。
なぜこんなに福島の米が流入する?
しかもサクッと米所の新潟が福島米流通量6位。怪しい。
新潟は北海道を抑えて米の生産量は堂々日本一。→ソース
その新潟が米を輸入か?これは産地偽装目的ではないのか?
若しくは福島米を使った煎餅か餅か何か加工品があるのか?
実にクッサイ数字だ。
・・・というか・・・。この際だから書いておくけど・・・。
食品偽装の本丸ってコメな件。
ハッキリ言っておくが人間の味覚なんてバカだ。
その意味でグルメだ何だと言ってるのはバカばかりと決まっている。
アナタの食べてるそのコメ・・・。フクシマ産のプルトニウム入りかもよ?
以前だったら偽装米の正体は中国米だったりしたようだが
フクイチのせいでちょっと事情が複雑化しているようにも思う。
ニュースでも何年か前に色んな食品の偽装が出たけど
コメは今の所スルーだ。 しかし将来的にはコメ関係も騒動になると思う。
勿論、フクシマ米の問題が堂々と語られるような時代には
とっくに手遅れになっていると思うけど。
スイス系の製薬会社のノバルティスファーマは2015年2月に
日本初の業務停止処分を受けた。
これは抗癌剤の副作用を隠蔽したせい。
この悪徳企業が日本国内唯一の工場を持つのが兵庫の篠山→ソース
スイス・・・製薬会社・・・抗癌剤・・・。ヤツらの中心部だ。
そしてその中心部が日本に来たと思ったらサラッと兵庫!
兵庫は在日の教師の数が大阪に次いで多く全国2位とも言われる。
そのせいで学校でハングルを強制的に教える所すらあるらしいw
例えばこれ参照。在日の先生様自らPDFをつくっていらっしゃる。”
※動画と画像は省略
プライベートブラウジング - 履歴を残さずに Firefox を使用する
https://support.mozilla.org/ja/kb/private-browsing-use-firefox-without-history
検索履歴を残さない検索エンジンDuckDuckGo (ダックダックゴー)
https://duckduckgo.com/?q=
メルセゲル @Meretseger2 14:49 - 2016年1月17日
http://search.chromic.org gnusocalの人に教えてもらったフリーソフト検索エンジンが良い感じだ
狼たちは知っている @wolvesknow 2015年11月7日
炎狐の新装備、プライベートブラウジングで、ユーザのオンライン行動を追跡するコンテンツをブロックとのこと。Twitterが快速で動くようになった。対抗プログラムが出来るまで暫くは快適だな。
プライベートブラウジング - 履歴を残さずに Firefox を使用する
https://support.mozilla.org/ja/kb/private-browsing-use-firefox-without-history
検索履歴を残さない検索エンジンDuckDuckGo (ダックダックゴー)
https://duckduckgo.com/?q=
検索方法の種類まとめ!除外や完全一致・ホームページ内検索も!
http://affikatsu.com/research-method-891/
Googleの検索方法と検索オプション、テクニックまとめ
http://liginc.co.jp/web/service/google/86222
【マクラもオチもなく、本題しかない読書メモ】
宮坂宥洪『真釈 般若心経 』(角川ソフィア文庫)
著者の宮坂 宥洪(みやさか ゆうこう、1950年11月11日 - )は、真言宗の僧ですから真言宗流の解釈です。
(チベット仏教流の解釈は、過去記事の
斎藤保高『チベット密教 修行の設計図』・『チベットの般若心経』で本物のチベット思想を学び、スピリチュアル(インド風キリスト教系カルト)儲を撃退しましょう!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html
をどうぞ)
・『般若心経』の冒頭は観自在菩薩の「観」。
サンスクリット原典では「アーリア(「高貴なる」。貴人に対する尊称)で始まるので、原点に忠実に訳すなら、「聖」観自在菩薩となっていたはず。
この経典の開幕のシーンは瞑想する釈尊のお姿。釈尊の瞑想に感応して観自在菩薩が修行を完成した、というところからドラマが展開する。
・インド仏教の伝統的な瞑想の仕方には、シャマタ(止)とヴィパシュヤナー(観)という二つがある。
シャマタ・ビパシュヤナー(止観)は、インド仏教における最もオーソドックスな瞑想実践の方法だった。今でもタイやミャンマーなどの南方仏教ではきわめて重視されている修行法。
シャマタとは心を静めること。背筋を伸ばして、肩の力を抜き、深い呼吸をこころがける、これ以外に何の特別な努力もしない。
それが次のヴィパシュヤナーの実践の不可欠な前提となる。
ヴィパシュヤナーの原義は観察。仏法を観察する。観法ともいう。
観自在菩薩は「観ること自在」、すなわち観法の達人。
・インドの哲学という場合、「哲学」はサンスクリットで「ダルシャナ」といい、その原意は「観ること」。インド哲学は、すべて瞑想実践の中から生み出された体系。
・マントラを数えるための道具が数珠。仏教が興る以前から、バラモン教で用いられていた。
サンスクリットでは「ジャパ・マーラー」といい、「念誦の輪」という意味。
キリスト教で用いられているロザリオは仏教の数珠に由来。
釈尊の時代にはまだ数珠を手にする習慣はなかったようだ。
いつから仏教徒が数珠を持つようになったかは不明だが、著者の知る範囲では、アジャンター石窟群の最古に属する壁画の中に、数珠を手にした菩薩が描かれている。
(“起源についての説
ドイツのインド学者アルブレヒト・ヴェーバーは、インド仏教で用いられていた数珠(サンスクリット語: japa-mālā、字義は「低い声で念じ唱える+(花)輪」)が西洋に伝えられた際に「バラの花輪 (japā-mālā)」と解釈され、それがラテン語の rosarium として直訳され、他の西洋諸語に取り入れられたのだとしている[10][11]。
しかしこのロザリオのインド起源説に対し、
サンスクリット話者が、キリスト教のラテン語話者との間に、母音の長短を聞き間違えるほどの言語的接触の必要性および蓋然性が存在したとは考えにくいこと
ヴェーバーの仮説では東方教会に対するインドからの数珠状の祈祷用具の浸透が説明できないこと
ロザリオの「先祖」である「主の祈り」を数える道具であった Paternoster は、数珠のような環状のものではなく一本の「直線状」のものだったこと
すでに一部地域では8世紀頃から Thong-and-ring という動物の皮と骨を材料にした計算具で祈りの回数を唱えていたこと
ローマ・カトリックと東方教会の両者は共に、エジプトの修道士たちが小石を使い祈祷を数えていたというパッラディウス(Palladius, 363年頃 - 431年頃)の証言に自分たちの祈祷の回数を数える道具の起源を求めていること
などの理由から、キリスト教のロザリオはインドから借用されたものではなく、キリスト教の浸透した各地において独自に工夫がされた結果として、現在の数珠に似たロザリオの形状に発展し定着したと主張する者もいる[12]。”文芸
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA
https://twitter.com/FeydoTaitei/status/683576644280258560
フェイド大帝 @FeydoTaitei 1月3日
あちゃ〜‼︎
で、出たよ〜
アレキサンドリア図書館w
#FateGO
#FGO pic.twitter.com/nhdmtz16td
フェイド大帝さんがまた優しく 説明してやる! 耳の穴かっぽじってよく聞くがよろし! この連中はね、アレキサンドリア (エジプト)に人類の真の歴史書や 神学書が蔵されてたと信じ込んでてね、
で、特にキリスト教の興りに ついてバチカンにとって都合の 悪い事が書かれていたと 思い込んでてね、この図書館に 放火したのはカソリックだ! と断罪してるわけ。
この主張をしてる連中は グノーシス主義の一派である 中世のカタリ派(異端として バチカンに潰された)の子孫を 自称してて、「ウリ達のご先祖様に 賠償を要求するニダ!」と 憤ってカソリックを脅迫してるの。
で、このカタリ派と何の関係も無い 日本や韓国、イソラエルの キリスト教系カルトも群がって 一緒にカソリックを叩いてるわけ。 当然得をするのはアングロサクソン系 のプロテスタント陣営とおフレンチ の無宗教(新左翼)主義者ね。
で、アレキサンドリアと 原始キリスト教の関係なんだけど、 新約聖書のパウロの宣教録を 読むと、パウロってのは アンティオキア(現シリア辺り) とか、コリントス、ローマの 話はよくするけど、
当時の大都市のアレキサンドリアの 話には余り触れたがらないのよ。 「アポロ」という同じキリスト教の 宣教師のライバルが先行で布教してて これに勝てなかったんだねぇ。
今のバチカンのカソリックってのは 基本的にパウロのキリスト教の事を 指すのよね。 聖書が1巻本になったのもずっと 後で、マルキオン聖書に対抗して エイレナイオスの時代に纏められた のが原型だと言われている。
だから、キリスト教ってのは 最初の頃は沢山宗派があったの! で、特に人気があったのが グノーシス主義だった事が 過去の資料(エウセビオスの教会史とか) から分かってるわけ。
第2章のネロ編でネロに仕えてた 宮廷魔術師が速攻で殺された話 あったろ?w グノーシス派の有力な教祖の 一人であった魔術師シモンだと 言われてる。
グノーシス派で特に有名なのが ヴァレンチノス派ね。 fategoスレでこの名前出た時は 流石工作員共と笑ったけどねw
でローマでの布教編を読めば 分かるけど、パウロがやってくる 前からどーもプリスカ夫婦という 怪しい二人がすでにローマで キリスト教を布教しててローマから 追放処分を受けてた事がわかる。
ローマやアンティオキアに伝わってた キリスト教が、「アレキサンドリアに だけは伝わってなかった」って 不自然だろ?w 仏教学の見地からだとカソリックの ロザリオが仏教の数珠由来で ある事が分かってるので、
アレキサンドリアはインドとも 貿易をしていた事が考古学から 明らかになってるから、 初期キリスト教はインドの方の アーリア系宗教からの影響が 強かったのではないかと 言われている。
当然、キリスト教の元ネタが インドやイランのパクリの 可能性が高い事は、西洋白人様 やパウロ派(つまりカソリック) に取って都合が悪いから、 アレキサンドリアを焼いたの ではないかとこの連中は 疑ってる。
まぁ、日本の場合は戦後アメリカの 影響が強いから(実際は明治時代から) プロテスタントや、カソリック以外 に有利な言論をデ○ズニーとか 使って、子供から刷り込んでく 政策を取ってるので、
こう言った事情に疎いと 速攻でカモられる。 ゲームやアニメ、受験用の 日本史だけじゃなく、世界史も ちゃんと勉強しろってこった。 以上!)
・マントラの念誦とは、念ずる内容を観想しながらマントラを繰り返して誦する。自分の好きなように行ってよいというものではなく、インドでは必ず師から伝授を受けて、しかるべき場所で、しかるべき手順を踏んで行うべきものとされてきた。
マントラの念誦に必要なのが本尊であり、『般若心経』では般若波羅蜜多そのものが本尊。
・寺院に仏像が安置されていることはごく当たり前ではなく、これは世界の宗教の中で異例のこと。
ユダヤ教、イスラム教、キリスト教、あるいは日本の神道でも、神を人間の姿に造形化してはいけないことになっていて、いわゆる偶像崇拝を禁止している。
仏教でも、仏滅後五百年間は、ブッダを人の姿に表すことは憚られてきた。
紀元前三世紀のアショーカ王の時代の仏塔の欄楯(らんじゅん。聖域を俗界と区別するための垣根、柵)の仏伝レリーフには、普通の人々の姿はあってもブッダの姿だけはなく、仏陀の代わりに法輪や菩提樹が刻されていて、それは見る者にとても不思議な印象を与える。
紀元前一世紀頃から北インドのガンダーラ地方で始まった仏像彫刻は、ギリシャ美術の影響が濃厚。
ギリシャ美術の影響なしに、同じ頃、北インドのマトゥラーでも仏像の政策が始まっている。
これは仏陀を″偶像″として″崇拝″するようになったというよりも、仏陀が眼前にいるかのごとくに、「観じる」、すなわち「観仏」という瞑想が行われるようになったことと深く関係しているのではないかと筆者は考えている。
ひとたび仏像彫刻が始まると、仏像は仏教が伝播するすべての地域に広まった。
仏像が人々の崇拝の対象となっていったことは否めないが、人間精神の至高の造形表現としての仏像は、世界の芸術史上において類がなく(なぜなら偶像を禁止している宗教ではそのようなものは生まれようもないので)、その後の仏教史を通じて、まさに類なき傑作が次々と生み出されてきた。
(釈迦は「法を説く人間(釈迦)を崇めるのではなく、法“を実践”せよ」と説きました。
え、神道が偶像崇拝禁止なの?
神社に思いっきり置かれているあの像は何なの?
仏教が国教で、神仏習合で神々を仏教化してきたから、仏教化されていない神々の像は作られなかったってこと?
偶像崇拝禁止って、「明治以降の神道=和風キリスト教」限定なんじゃないの?
でも、国家神道の現人神の写真を崇めるのって偶像崇拝ですよね?
世界の仏像紹介BOT(仮) @worldbutsubot 2013年11月28日
【仏像以前】釈迦は自身を根本的な崇拝対象としなかったため、仏教では釈迦入滅後暫くの間は法輪・菩提樹・仏足石などによってその世界観や思想を表現していた。だが、インドのガンダーラやパキスタンのマトゥーラに仏教が伝播すると、次第に偶像崇拝対象としての仏像制作が盛んとなっていった。
大窪一志 @neuemittelalter 4月29日
仏教も、ユダヤ=キリスト教やイスラームの偶像崇拝禁止のように、仏陀を人の形で造形することを禁じていた。キリスト教やイスラームでは未だに偶像崇拝を排する動きが強いが、現代仏教では全く失われてしまったかに見える。↓法輪と仏足の旧き形象。 pic.twitter.com/4F68W7FjcN
たけちゃん @take_chan_bot_ 12月22日
ガンダーラ美術はクシャーナ朝で流行ったんだったね。もともと仏教はブッダの偶像崇拝を禁止してたんだけど、ヘレニズム文化と出会って仏像が作られるようになったんだよ。
フェイド大帝 @FeydoTaitei 4月26日
RAPTの野郎が仏教について間違い ばかり書いてるなw キリスト教原理主義者っぽいけど カトリックとモルモン教を貶めてる から、エホバ辺りかね? リベラル系では無いから、福音主義 系かもしれないが。 コメント表示されてる連中も 仏教というかインド文化をよく 分かってないぽいな
まさか知ってるとは思うが、仏教も
偶像禁止だぞ。
仏像作り出したり、ストゥーパ建て始めた
のは大乗仏教になってからだぞ?
教えを文字に残さなかったのは、
まぁ、あっちの文化がそういう
文化だということもあるけど、
初期仏教は基本シンプルで実践重視
だったから必要なかったからかな
安保 多稼士 @AmboTakashi 5月14日
紐付きは半分の真実と半分の嘘によって、洗脳に気づいた人を再び洗脳するのが仕事。陰謀論者ラプトの元ネタはラプチャー=携挙。隠れ含めキリスト教系と大本教系陰謀論者は仏教嫌いの法則!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-82.html
安保 多稼士 @AmboTakashi 5月20日
もしキリスト教系(の時点で支配層側の)陰謀論者のRAPTさんに出会ったらまずは、元ネタはRAPTure(ラプチャー。携挙)ですよね? と聞こうと考えております。患難前携挙説を正しいと考えていますか? とも聞こうかな。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-83.html
吹田/大\賞典の傾向と対策bot @suitaQ_bot 11月25日
Q. 万葉集に一首のみ収められている、「弥彦 神の麓に 今日らもか 鹿の伏すらむ 皮衣着て 角つきながら」という歌のように、5・7・5・7・7・7の音からなる和歌のことを、釈迦の足跡を刻んだ石になぞらえて何と呼ぶでしょう?……A. 仏足石歌(ぶっそくせきか))
・マントラを静かに、あるいは心の中で何度も繰り返して誦える修行を、念誦法(サンスクリット語で「ジャパ」)という。
咒はマントラの訳語。
さなかったのは、玄奘の時代にはマントラの訳語がまだ定まっておらず、玄奘のみならずマントラを真言と訳す人はだれもいなかった。
・般若心経の「心」はマントラのこと。
最後の「羯諦……」の直後に尾題が添えられている。
玄奘訳では「般若波羅蜜多心経」となっているが、
原典では「以上で、プラジュニャー・パーラミター・フリダヤ(般若波羅蜜多のマントラ)、提示し終わる」となっていて、「経」にあたる語はない。
この「心」には「真言」という意味がある。
原語の「フリダヤ」を直訳すれば「心」以外にありえない。
「フリダヤ」にマントラの意味があるということは一般のサンスクリットの辞書には載っていない。
しかし、インドの文献では、フリダヤ・マントラという言い方は珍しくない。フリダヤがマントラの別称として用いられるのはよくある。
ことに密教の漢訳文献に頻繁に出てくる「心咒(しんしゅ)」という言葉は「フリダヤ・マントラ」の訳語で真言と同じ意味。
著者は、「フリダヤ」を「心臓」や「精要・精髄」と解釈するのは誤りだとしている。
・サンスクリットの合成語を解釈する厳密な方法によると、
プラジュニャー・パーラミター=「智慧という完成」。
そもそも智慧自体が完成されたものなので、それを完成させるということは意味をなさない。
智慧の彼岸に到る道程ではなく、智慧の彼岸に到「っている状態」。
・諸仏がさとりを得るのは般若(智慧)の力に依るのであるということから、般若波羅蜜多そのものが神格化されるようになった。
大乗仏教とは、般若波羅蜜多を、諸仏を生む母、すなわち「仏母(ぶつも)」として尊び崇め、その絶大な功徳を宣揚した。
般若波羅蜜多が仏母という女尊だというと奇異に感じられるかもしれないが、インドでは古い時代から、風雨や雷などの自然現象のみならず言葉や時間や法則といった抽象的なものに至るまで、何であれ尊ぶべきものを容易に神格化する傾向があった。
例えば阿弥陀如来は光を神格化した仏であり、
文殊菩薩は智慧を、
弥勒菩薩は友情を神格化した菩薩だといっても差し支えなく、これと同じこと。
般若波羅蜜多の原語「プラジュニャー・パーラミター」が女性名詞だから女尊とされた。
真言宗や天台宗や禅宗などの寺院で行われる大般若法要の本尊は、仏母と言われる般若波羅蜜多菩薩、略して般若菩薩という女尊である。
なお、釈迦三尊を本尊する場合もある。
チベット版の『般若心経』では、「バガヴァティー(女尊=仏母)たるプラジュニャー・パーラミターのフリダヤ」とサンスクリットの経題が明記されている。
・バラモン教最古の聖典『リグ・ヴェーダ』の賛歌がマントラと呼ばれていた。
対して、仏教独自のマントラとして大乗仏教とが掲げたのが般若波羅蜜多であったと思われる。
初めは、バラモン教を意識してか、マントラではなく、ヴィディヤー(明、明呪〔みょうじゅ〕)とか、ダーラニー(陀羅尼)と呼ばれていた。
・五蘊の
「蘊」=たくわえ、あつまり。
サンスクリット語でスカンダといい、本来の意味は「木の幹」だが、書物の章節とか部門を意味することもある。全体を構成する主要素という意味。
1. 色 =体がある
2. 受=感覚がある
3. 想=イメージを持つ
4. 行=深層意識がある
5. 識=判断をする
五蘊そのものは自性空であり、自分ではない。
五蘊は五取蘊ともいい、煩悩や執着(「取」)を生み出す条件。
・『般若心経』は、徹頭徹尾、瞑想の指南書。
自分は存在しない、存在するのは五蘊だけである、と見極めるのが最初の段階。
次に、自分が存在するのではないように、五蘊も存在しない、と見極めるのが第二の段階。
(著者はかなり斬新なことを述べていることに注意)
・苦(ドゥッカ)=不如意(思いのままにならないこと)。
・「度一切苦厄」という挿入文に仏教の実践的目標と究極の救いが端的に示されている。
この一文は漢訳者が勝手に挿入したようなものではなく、経典の趣旨をくみ取ったうえで考え抜かれて置いたもの。
「五蘊皆空」の個所は、サンスクリット原典によると「五蘊あり。しかも、それらは自性空である」と二段階に分けて読まねばならない。
観自在菩薩は、まず「五蘊あり」と観察し、「それらは自性空である」と観察した。
空観の洞察に先立って、五蘊の観察が必要不可欠。
・漢訳本文と原典を比較すると、漢訳のほうが一文少ない。
「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」は、
原点では、
「色は空性であり、空性は色である」
「色とは別に空性はなく、空性とは別に色はない」
「色なるものこそが空性であり、空性なるものこそが色である」
律蔵大品(りつぞうだいぼん)という初期の仏典には、釈尊が法を説く場合、「私は三度この義を説く」という表現がよく出てくる。
また、成道後の釈尊に梵天が説法を三度懇請し、それで釈尊は説法を決意したという話も伝わっている。
仏法僧の三宝に帰依するという「三帰依文」は今でも三度誦えることになっている。インドでは古くから三度繰り返して言う習慣があった。
インド人でない玄奘は二度繰り返せば十分だと思ったのだろう。
・自性(スヴァバーヴァ)=それ自体。
自性空=それ自体がからっぽ。
○○シューニャ=○○空=○○を欠いている。
原語のシューニャターは抽象名詞「空なること」(空性)。
空なる「もの」を意味するシューニャではない。
色は空性(空なること)だと和訳しても文法的に成立しないとまでは思わないかもしれない。
でも、これは、この本は重要「性」です、というようなもの。
なぜ破格の構文が用いられているのか。
本という語と、重要性という語の表示対象は一致すると考え、
(ここに)本がある、かつ、
(ここに)重要性がある、
といえば、問題はなくなる。
ここに色があるといい、かつ、
そこに空性があるといえば問題ない。
・色(ルーパ)=姿かたちのあるもの。
ルーパは動詞語根「ループ」(かたちづくる)から生まれた名詞。
ルーパはしばしば物質的現象と訳されるが、
『般若心経』では、自己を問う瞑想において「自己を構成する主要素」(蘊)
の一つとして観察される「姿かたちあるもの」なので、それは自分の体にほかならない。
受=ヴェーダナー
=(ある種の刺激を自分の感覚として)知らしめる作用=感受作用。
動詞語根「ヴィド」(知る)の使役形名詞。
想=サンジュニャー=全体的に知る
=ある事柄を全体的なイメージとして了解する
=表象。
動詞語根「ジュニャー」(知る。※)
+接頭辞「サン」(集合)。
※受想識は原語ではどれも微妙なニュアンスの違いで「知る」を意味する)
識=ヴィジュニャーナ=分けて知る
=分別、分かる、識別・判断。
(AをA以外のものから区別して知る)
動詞語根「ジュニャー」(知る)
+接頭辞「ヴィ」(二つの分ける)。
識=ヴィジュニャーナだけが、「言葉を介して」知ることを意味する。
受=ヴェーダナーは感覚的に知ること、
想=サンジュニャーはイメージとして知ること。
行=サンスカーラ=(何らかのものをまとめて)つくり出すこと。
いろいろなイメージを総合して集めて意識を生み出す作用。
潜在意識。
知を主体とした形成作用が五蘊の総体であり自己の正体だと結論づけてもよいかと思われる。
自己は形成するもの、形成されてきたものであって、はじめからこれといったものとして存在するのではない。
・ダルマ(原意は「保持されるもの」)
=法則・規範、正義・善、宗教・教え、存在するもの
現代のインドでは英語のレリジョンの訳語としてダルマが採用されている。
仏教のインド名は、バウッダ・ダルマ(ブッダの法)。
日本に仏教が伝来した当初、仏教は「仏法」と呼ばれていた。
仏「法」興隆の詔。
江戸時代には「仏道」の呼称が一般的。
仏教という言い方が定着したのは明治時代以降。
インド人は宗教について語る場合でも、「ダルマを信じる」という言い方をせず、あなたはどういうダルマを持っているかをたえず問題にする。
この場合のダルマは何らかの信仰というより、むしろ自分を律するもの、みずからの行いの根拠、といった意味に近いだろう。それなくして人は人でなくなってしまうと思われているほどのもの。
インドの哲学用語としてのダルマの意味は「場所に存在するもの」。
山に煙がある場合、煙は山のダルマであるといえる。
場所としての山は、煙の「保持者」(ダルミン)と呼ばれる。
インド人は、壺が青いことを、壺に青がある、と表現する。壺という場所に青が存在していると考える。
青色は壺のダルマである。青は壺に保持されるもの。壺は青色というダルマの保持者(ダルミン)。
インド人はダルマという言葉を聞くと、それが文脈によって、規律とか善とか正義とか教えとか、どのような意味で用いられていようと、それはどこに存在するか、保持するものは何か、その場所はどこか、ということを反射的に考える。とにかくダルマはどこかに存在するもの。
・諸法(もろもろのダルマ)
=存在するものすべて。
・空相=空という特徴。
相(すがた)ではない。相には、手相や家相や真相のように、外に現れた形(によって知られる内面の姿)という意味があるが、原語「ラクシャナ」は「AをA以外から区別するための目印」といったほどの意味で、つまり単純に「特徴」という意味。
相=ラクシャナ=XをX以外から区別するための目印=特徴。
・イハ(ここにおいて。ここ。この場所)は漢訳では省略されている。
イハ、シャーリプトラよ。
・十二処の
処=アーヤタナ=場所、休息所、自己を自己たらしめている根拠。
十八界の
界=ダートゥ=基盤、基礎、自己を自己たらしめている根拠。
感覚(六根)で感知(六境)して認識(六識)する。
根=インドリア=感受する作用、能力、機能、感覚の装置(センサー)。
センサーは感知するだけで判断はしない。
六つの感覚の装置がとらえる対象が六境。
境=ヴィシャヤ=対象となる領域または対象範囲。
法境(心的対象)の法(ダルマ)は単に心のはたらきが向かうところという意味。
・十二縁起
①無明=アヴィディヤー。
(明知=ヴィディヤー)
②行=サンスカーラ。
③識=ヴィジュニャーナ
④名色=ナーマ・ルーパ
=個体的存在の精神的ならびに物質的な諸要素(五蘊とほぼ同じ)。
⑤六処(シャド・アーヤタナ)
=種々の感覚能力(装置、センサー)。
六入と漢訳されることがある。
⑥触=スパルシャ
=対象との接触。
⑦受=ヴェーダナー
⑧愛=トゥリシュナー=渇愛。
さまざまな感覚にもとづいて欲望が生まれる。
感受したればこそ、それを我が物としたいという欲望が起きる。
これが愛。原義は「渇き」で、のどが渇いて水を飲まずにはいられないということに喩えられるような根源的な衝動を意味する。いわゆる煩悩。
⑨取=ウパーダーナ=執着。
これのみが正しいとか、我が物を離すまいという頑強な気持ち。これも煩悩。
⑩有=バーヴァ=存在すること、起きること。
ゆるぎない(いい意味でも悪い意味でも)個人的自我がついに確立されてしまう、その確立。
⑪生=ジャーティ=誕生、生まれること。
著者は、誕生ではなく、生存状態(生活)と解釈すべきだと考えている。
⑫老死=ジャラー・マラナ=老いること・死ぬこと。
・四諦の諦(サトヤ。パーリ語「サッチャ」)を真理と訳す誤り。
苦集滅道(四諦)なく、という一文は、四つの真理はない、という意味に解すると、真理はないということになる。真理はない、という経典があるだろうか。
苦諦は苦聖諦の略。
聖諦のパーリ語はアーリ・サッチャ。
これを現代の学者は、聖なる真理、と訳すのは誤訳だと筆者は考える。
苦聖諦は、迷いの生存は苦であるという真理ではなく、端的に「苦というダルマ」のことで、「確実なもの」と訳すのが妥当。
(いやいや、真理に「も実体は」「ない」って意味でしょ。
自性があるという意味で「確実なもの」がないってことでしょ。
『般若心経』は瞑想に「も使える」だけなんじゃないの?)
・智もなく得もなし、の「智」(ジュニャーナ)は、原語が違うので、般若の智慧(プラジュニャー)ではないことはたしか。智は知全般。
プラジュニャー
=プラ(「前に。前方に進める」を意味する接頭辞)
+ジュニャー(「知る」を意味する動詞語根)
・ダルマの結合(得)と分離(非得)。
もろもろのダルマを結合させるはたらき、すなわちダルマの獲得作用のことを、得(プラープティ)といい、
分離させるはたらきを「非得」(アプラープティ)という。
「無所得」は損得の打算を超えた心境ではない。得に対する非得、すなわちダルマを分離させるはたらきのこと。著者は、「以無所得故」を、「この故に、ここにはいかなるものもないから」と訳している。
・「菩提薩埵 依般若波羅蜜多故」
三人称単数の語尾を持つ動詞「ヴィハラティ(安住している)」に対する主語は彼、菩薩。
依般若波羅蜜多の
「依」=アーシュリトャ=~を拠り所として、~に立脚して、~を基盤として。
・「心無罣礙 無罣礙故」
の心=チッタ。
経題の心=フリダヤではない。
罣礙は、
罣=引っかけるもの、
礙=妨げるもの、
を意味し、
アーヴァラナを翻訳するためにつくった述語だと思われる。
アーヴァラナ=妨げとなるもの、閉ざすもの、覆うもの、取り囲むもの。
・「無有恐怖 遠離一切 顛倒夢想」
の「一切」はもとの玄奘訳にはない。サンスクリット原典にもない。
「一切」があるのは羅什の訳であり、おそらく、読誦する際に語調を整えるために挿入されたのではないかと著者は思う。
『般若心経』は読誦経典として、できるだけ四文字でリズムをとれるように工夫されている。
「無有恐怖」の「有」はなくても文意に影響しない。
顛倒=ヴィパルヤーサ=逆さま。
「夢想」は漢訳の段階で補われたもので、対応するサンスクリットはない。
顛倒を強調するためだと思われるが、要するに、ないものをあると考えることが「顛倒夢想」。
遠離=アティクラーンタ=階段を昇りきっている=超越する。
・サンスクリットの「ニシュタ・ニルヴァーナ」は「涅槃に安住している」または「涅槃を達成している」というほどの意味。
「究竟涅槃」では「究竟の涅槃に入る」と解すべきだという人もいるが、究竟は余計で、「涅槃に入る」で十分。
・ニルヴァーナ。
〔=「ニル」(接頭辞)
+「ヴァ―」(動詞語根「(風などが)」吹く)
=(風などが)吹いて、なくす〕
=吹き消すこと、吹き消した状態。
燃え盛る煩悩の火という意味はない。
諸仏典には煩悩や苦蘊が燃え盛る火に喩えられ、火を消す、火を厭うといった表現がみられるが、火を消すには水をかけるとか、燃えるもの自体をなくすのが一般的であり、吹いて消す、という用例はまずみあたらない。
涅槃とは妨げない自由の境地。
語根「ヴァ―」に接頭辞「ニル」がついた動詞の使役形は、「香りを放たない」という意味しかない。
語根ヴァ―には香りを放つ、という意味もあるが涅槃とは関係がない。
外国のパーリ語研究者の間では、ニルヴァーナの語根はヴァ―ではなくヴリ(動詞語根「覆う」)であろうと考えられている。つまり、覆いのない状態。
空海は、妨げのない自由な境地が涅槃に入ることだと解説している。
(たしかに、煩悩の火は吹いて消える程度の火ではありませんよね)
・「阿耨多羅三藐三菩提」
=この上ない、完全な、さとり
=アヌッタラ・サンミャク・サンボーディ。
・「能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪」
真実と不虚は同じ意味を言い換えているだけのように見えるし、不虚が真実の理由になるとは考えにくいので、「故に般若波羅蜜多」と読んでしまうのだと思われる。
が、原典では「偽りがない“から”、真実である」文構成となっている。
不虚=アミティヤー=矛盾していない、嘘偽りでない。
・マントラ
=マン(「考える」を意味する動詞語根)
+トラ(「手段」を意味する接尾辞)
=思考の道具。
日本語ではわけのわからない言葉を指して呪文のようだと言ったりするが、
インドでマントラのようだといえばそれは最高の褒め言葉。
インド人がなんのことわりもなくマントについて語るときは、いつでもそれはヴェーダの一節を指す。
仏教はヴェーダの権威を認めなかったので、初期仏教の時代にはマントラという言葉を用いることはなかった。
ただ、マントラに類する祈りの言葉は多少あったようだ。上座部と袂を分かった大衆部という部派は、経律論の三蔵以外に、陀羅尼蔵または持明蔵と呼ばれる多くの祈りの言葉を所蔵していたことが知られている。
パーリ聖典の中にもパリッタと呼ばれる守護句〔例えば、病気を防ぎ、あるいは治し、蛇の毒とか悪霊から身を守るために祈る言葉〕を誦えることが釈尊によって認められていたことが記されている。
インド仏教徒がヴェーダの権威を認めなかったとしても、マントラこそ真に尊ぶべき祈りの言葉であるというインド一般の通念まで否定できたかというと、それは疑問。
・釈尊ご生誕の聖地ルンビニーの守護神は、生母マーヤー(摩耶)夫人。
釈尊を産んでわずか七日で没したマーヤーは幻影を意味する。
今はネパール領のその現地名ルンミンデーイの原意は、失われた女神。
・釈尊より数百年も隔てて作られた経典でも「仏説」とされる。
ほとんどの経典は「如是我聞(このように私は聞いている)」という言葉で始まるのが普通。
必ずしも釈尊から直接聞いたという意味ではなく、むしろ伝承されてきた教えの正統性を示す言葉だと考えられる。
・玄奘より後の時代に訳出された『般若心経』は、すべて「大本」からのもの。
大本=完全な形の経典。
完全な形とは経典としての一定の形式を踏まえていること。
如是我聞に始まり、だれが(導師)、いつ、どこで、だれに向って(会衆)説いたかということが明記されていて、そのあとで、「何を(教え)」が示されている経典のこと。
そして最後に「賛嘆の言葉」が述べられる。
要するに、序文、本文、結びの文がそろっているのが大本であり、普通の経典の形式。
ところが、玄奘訳の『般若心経』はこうした体裁が整っていない、本文だけの小本。
略された経典なら最初に大本が存在していなければならないはずだが、訳経史から判断すると、最初に小本が生まれ、そのあとに大本が生まれたようである。
・小本にはないが、大本では、舎利子(しゃりし)と観自在菩薩の対話に先立って、釈尊が瞑想に入る場面がある。また、釈尊の前に大勢の聴衆がいた。最後に釈尊が口を開き、観自在菩薩を褒め称え、それを聞いて皆が喜んだ。以上が、大本『般若心経』にある。
【参考にしたもの】
【東方MMD】ひじりんが般若心経をサンスクリット語で歌いました
http://www.nicovideo.jp/watch/sm25260864
のコメント抜粋
“※「gate」は印欧祖語において「get」ど同根。意味は「向かう、行く」
※「samgate」の「Sam-」は強調の意味。「samgate」で「最後までやり遂げる、極める」の意味
※「Bodhi」は「仏陀」や「菩提」と同じく「budh(目覚める、さとる)」の活用形。
※「Svaha」は、古代インドのバラモン教の儀式において天上の全ての神々に捧げられた供物の事を指していた。転じて、願いが神々に届く事を祈る聖句とされ……供物を祭火に投じる時の掛け声としてこの言葉が唱えられた。“
中村元訳「般若心経」の『小本』と『大本』の比較
http://emuzu-2.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_40a7.html
般若心経(大本)_現代語訳
http://www.inner-wish.com/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%A4%89%E5%AE%B9%E3%81%AE%E9%81%93/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C-%E5%A4%A7%E6%9C%AC-%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3/
般若心経の周辺知識
http://hagiland.hatenablog.com/entry/20130429/1367220099
般若心経は真言を説いたお経 -エンサイクロメディア空海-
http://www.mikkyo21f.gr.jp/academy/cat48/
はぎ @hagi_ojy 2013年3月23日
般若心経メモ114
周辺知識
1. 色:物質的現象として存在するもの。外界にある物質全般。また特に人間の身体。
2. 受:外界からの刺激を感じ取る感受の働き。感覚。
3. 想:いろいろな考えを組み上げたり壊したりする働き。表象。
般若心経メモ115 周辺知識
4. 行:何かを行おうと考える意思の働き。意志、意志的形成力。 5. 識:あらゆる心的作用の基本となる、認識の働き。六識。六識については後述。 2~5の受想行識は精神作用、心の要素である。外界(物質界)のことはすべて「色」に含まれる。
はぎ @hagi_ojy 2013年3月23日
般若心経メモ116
周辺知識
☆十二処十八界
六根と六境を合わせて十二処と言う。十二処に六識を加えて十八界と言う。
六根とは、眼、耳、鼻、舌、身、意。
六境とは、色、声、香、味、触、法。
六識とは、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識。
般若心経メモ117 周辺知識 それぞれ対応している。六根の最初の5つ(五根と言う)は五感と同じ。身は触覚のこと。眼で色(ここでの色は五蘊の色とは違うのだろう)、耳で声、鼻で香、舌で味、身で触を認識する。これらで物質界つまり五蘊の「色」を捉える。
般若心経メモ118 周辺知識 六つ目の意は心のこと。心も認識器官と考える。意で認識するのが法。意をさらに五根と対応させたのが六識である。 五蘊十二処十八界を三科(さんか)と呼ぶが、これは後世の人が付けた名前で、ブッダ自身がそう名付けたわけではない。
般若心経メモ119 周辺知識 ☆四諦 ブッダが悟りを得た後に初めて弟子たちに説いた法のうちのひとつとされる(初転法輪)。この世の苦を滅して悟りを得るまでの四つの真理である。
般若心経メモ120 周辺知識 1. 苦諦(くたい):この世・人生は苦であるという真理。一切皆苦。 2. 集諦(じったい):その苦を生み出す原因は煩悩であるという真理。
般若心経メモ121 周辺知識 3. 滅諦(めったい):その煩悩を滅すると苦が滅し涅槃が実現するという真理。 4. 道諦(どうたい):その煩悩を滅するための具体的な道という真理。八正道。
はぎ @hagi_ojy 2013年3月23日
般若心経メモ122
周辺知識
☆四苦
1. 生:(輪廻によって)生まれる苦しみ。
2. 病
3. 老
4. 死
般若心経メモ123 周辺知識 ☆八苦 四苦に加え、 5. 愛別離苦(あいべつりく):愛する対象と別れなければならない苦しみ。 6. 怨憎会苦(おんぞうえく):憎む対象に出会わなければならない苦しみ。
般若心経メモ124 周辺知識 7. 求不得苦(ぐふとっく):求めても得られない苦しみ。 8. 五陰盛苦(ごおんじょうく):人間生存自身の苦しみ。
はぎ @hagi_ojy 2013年3月23日
般若心経メモ125
周辺知識
☆十二縁起
旧訳では十二因縁。また十二支因縁、十二支縁起とも。苦の原因は無明から始まり老死で終わるとされる、十二の因果の理法。これらは直線的な因果の連鎖であり、順序があるので注意。
はぎ @hagi_ojy 2013年3月24日
般若心経メモ126
周辺知識
十二縁起続き
中村元氏によると、
1. 無明(むみょう):過去世に無限に続いてきている迷いの根本である無知。
2. 行(ぎょう):過去世の無明によって作る善悪の行業。
3. 識(しき):過去世の業によってうけた現世の受胎の一念。
般若心経メモ127 周辺知識
4. 名色(みょうしき):胎中における心と体。 5. 六入(六処(ろくしょ)):胎内で整う眼などの五根と意根。
6. 触(そく):出胎してしばらくは苦楽を識別するには至らず、物に触れる働きのみがある。
般若心経メモ128 周辺知識
7. 受(じゅ):苦・楽・不苦不楽、好悪を感受する感覚。
8. 愛(あい):苦を避け常に楽を追求する根本欲望。
9. 取(しゅ):自己の欲するものに執着する働き。
10. 有(う):愛取によって種々の業を作り未来の結果を引きおこす働き。
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 2014年7月6日
@lanekota @wayofthewind @hogege55 @virusyana 反仏教の儒教とキリスト教が大好きbushido!
仏教伝来以前と明治以降=偽伝統。仏教国教時代=真伝統。仏教説話はあるが神道説話はなし。愛は仏教では迷妄と執着を齎す悪。仏教嫌いは愛の歌大好き。
ヒロチャ @hogege55 2014年7月6日
仏頂面ありて神頂面なしとはこれ如何に!?…うーん "@kitsuchitsuchi: @lanekota @wayofthewind @hogege55 @virusyana …仏教説話はあるが神道説話はなし。…"
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 2014年7月5日
@lanekota @wayofthewind 武士道
初出は江戸初期編纂の『甲陽軍鑑』。意味は個人的生存術。
山鹿素行(朱子学批判で赤穂に配流。門弟に大石良雄)の士道論など儒教道徳が影響。
耶蘇だらけの佐賀藩の山本常朝『葉隠』は生きる為のマナー本で禁書。
新渡戸の耶蘇流武士道。
はぎ @hagi_ojy 2013年3月24日
般若心経メモ129
周辺知識
11. 生(しょう):生まれること。
12. 老死(ろうし):老と死。
はぎ @hagi_ojy 2013年3月24日
般若心経メモ137
周辺知識
☆五趣輪廻・六道輪廻
1. 天道
2. 人間道
(3. 修羅道:五趣ではこれが無い。後から加わって六道輪廻となった。)
4. 畜生道
5. 餓鬼道
6. 地獄道
般若心経メモ138 周辺知識 五趣も六道もブッダが考えたのではない。後世になってまとめられた概念である。ダンマパダでは、「善趣」(良き境遇)と「悪趣」(悪しき境遇)として説かれているだけである。スッタニパーダでは、具体的に、ブッダのことばとして、「地獄」の様子が語られている。
般若心経メモ139 周辺知識 ☆輪廻 ブッダの仏教においては、輪廻は心の状態である。空間的事象あるいは世界ではない。また、必ずしも「善趣」つまり後の「天道」を肯定しない。天においても生病老死の四苦から逃れることはできないし、煩悩から解放されることもないからである。
般若心経メモ140 周辺知識 ブッダにとっては、輪廻の先がどこであるかは大した問題ではないのである。輪廻そのものが苦なのである。なぜならばそれは「生病老死」の四苦の繰り返しに過ぎないからである。
般若心経メモ141 周辺知識 であるから、輪廻から脱し、涅槃に至ること、すなわち解脱することがブッダの仏教の究極の目標なのである。ブッダは善業も悪業も否定した。出家してひたすら煩悩を消すことだけに打ち込むべし。これがブッダの教えである。
はぎ @hagi_ojy 2013年3月1日
般若心経メモ10
「空」とは。
中村元氏(岩波文庫)によると「なにもない状態」というのが原意だそうだ。インド数学ではゼロを意味するとも。ゼロの発見がインドであったことに留意。「空」を「ゼロ」と考えた場合、五蘊皆空はどういう風に捉えられるだろうか。これは考える余地がある。
般若心経メモ11 「空」とは。 中村元氏の著書(岩波文庫)からの引用続き
> 物質的存在は互いに関係し合いつつ
> 変化しているのであるから、現象と
> してはあっても、実体として、主体
> として、自性(じしょう)としては
> 捉えるべきものがない。これを空と
> いう。
はぎ @hagi_ojy 2013年3月3日
般若心経メモ28
度一切苦厄。
どいっさいくやく
=一切の苦厄を度したまえり
==一切の苦悩(苦しみ)や災厄(わざわい)を取り除いた(超えた)。
この一文は元の梵本には無い。玄奘が挿入したと見られる。実際、他の訳には無いが、羅什訳にはある。これは奇妙である。
般若心経メモ29 玄奘が羅什を写したかという疑惑の根拠の一つであろうか。片方が片方を写したとすれば、時代的には羅什が先であるから、玄奘が羅什を写したことになる。しかし羅什訳も本当は羅什ではなく、玄奘より後の誰かが訳したのではないかとの疑いもあり、断定はできないらしい。
はぎ @hagi_ojy 2013年3月3日
般若心経メモ32
菩薩は大乗仏教特有の存在で、ブッダの時代にはなかった。ブッダの時代にはいなかった菩薩が、ブッダの弟子で実際にいた舎利子に説いている。あり得ない構図である。
佐々木閑氏によると、ここに、大乗仏教がブッダの仏教より上だと言いたい作者の意図が読み取れると言う。
はぎ @hagi_ojy 2013年3月5日
般若心経メモ42
第1段:色性是空 空性是色
中村元訳
この世においては、色は空であり、空だからこそ、色であり得るのである。
解釈
この世のあらゆる物質的存在・現象すなわち「色」は常に変化している。また、常に変化しているからこそ、「色」として認識されるのである。
般若心経メモ43 第二段:色不異空 空不異色 個人的訳案 色といっても、それは空と別ものではなく、空を離れてあるのではない。また、空といっても、それは色と別ものではなく、色を離れてあるのではない。
般若心経メモ44 つまり、色と空は不可分同一のものであるということである。 また、中村氏によると、第二段は第一段の思想的表現であると言う。
般若心経メモ45 僕は以下のように解釈した。 これはつまり、一切のものは、実体がないという状態つまり「空」において、あらゆるものと関係し合うことによって、物質・現象として、つまり「色」として、初めて成立しているのである。
般若心経メモ53 佐々木氏は、五蘊皆空を「五蘊とは実在の要素ではなく、『実体を持たないという状態』に与えられた仮の名称だ」とも述べている。ここに釈迦の時代の仏教を否定する明確な主張が現れているのだ、と。
はぎ @hagi_ojy 2013年3月6日
般若心経メモ57
なお、ブッダの言う「空」と般若心経の「空」を混同してはならない。これは佐々木閑氏もはっきり、違うと言っている。
ブッダの時代にも「空」の概念はあった。「ブッダのことば」1119段には、ブッダ自身の言葉として、翻訳を2つ挙げる。
般若心経メモ58
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空と観ぜよ。(中村元氏訳、ブッダのことば、岩波文庫)
「ここに自分というものがある」という思いを取り除き、この世のものは空であると見よ。(佐々木閑氏訳、100分de名著テキスト、NHK出版)
般若心経メモ59 ブッダの「空」観とはどういうものだったのか。佐々木氏によると、それは、ブッダの世界観、すなわち「五蘊十二処十八界」と「法」から来るものである。 以前言及したように、十二処とは六根と六境を足したもの。それに六識を足したのが十八界であった(般若心経メモ7)。
般若心経メモ60 法とは、「世間の実相」「世界の真理」を言う。この真理を具体的に言えば、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」である。また、法には十二縁起の法もある。さらに、四諦の法もある。
般若心経メモ66 ブッダの世界観は、我々が「そこに存在する」と思っている対象は、実体のない虚像に過ぎないということになる。 実体のない虚像であるということ、これが、ブッダの言う「空」の意味であると佐々木氏は言う。 かなり唯心論的な見方であると言ってよかろう。
般若心経メモ67 これは般若心経の「空」とは全く異なる。般若心経では、十八界も諸法も無いのである。何も無い状態が「空」なのである。
はぎ @hagi_ojy 2013年3月7日
般若心経メモ68
般若心経の「『色』は常に変化している」とブッダの説く法の一つである「諸行無常」あるいは「無常」を混同してはならない。両者は異なる思想に基づく、別の概念である。般若心経では、法もまた、常に変化しているのである。
般若心経メモ69 こうなるともう般若心経はとにかくブッダの教えの完全否定である。そして実際、そうらしいのだ。その理由について、佐々木氏は、大乗仏教が興った当初は、新興勢力であったため、古い教えを刷新しようとしたのではないかと述べている。
はぎ @hagi_ojy 2013年3月11日
般若心経メモ99
阿耨多羅三藐三菩提は原語アヌッタラー・サムヤックサンボーディanuttarā samyak-saṃbodhi の音写。無上正等正覚と意訳する。「この上もない、正しく平等な目ざめ」「完全なさとり」の意。仏の覚りを指す。
般若心経メモ101 是大神咒。 ぜだいじんしゅ =これ大神咒なり。 ==大いなる真言、 大神咒は原語マハー・マントラ mahā-mantra の訳。「神」の字は漢訳者の挿入らしい(中村元氏の推測)。マントラは通常、咒、明咒、真言と訳される。原語直訳ではおそらく、大咒。
般若心経メモ102 是大明咒。 ぜだいみょうしゅ =これ大明咒なり。 ==大いなるさとりの真言、 原語はおそらく、マハー・ヴィデヤー・マントラ mahā-vidyā-mantra で vidyā はさとり(無明に対する明)の意。
般若心経メモ103 是無上咒。 ぜむじょうしゅ =これ無上咒なり。 ==無上の真言、 原語はおそらく、アヌッタラー・マントラ anuttarā-mantra で anuttara はこの上もないの意。
般若心経メモ104 是無等等咒。 ぜむとうどうしゅ =これ無等等咒なり。 ==無比の真言は、 原語はおそらく、アサマサマ・マントラ asamasama-mantra で asamasama は比類の無いの意。
般若心経メモ107 掲帝掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎訶 ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか ==(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。)
般若心経メモ108 原語は gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā である。gate 以下の4語はおそらく女性形単数の呼格。
般若心経メモ109 完全な智慧 - 般若波羅蜜多(prajñāpāramitā)を女性的原理とみなして呼びかけたのであろうと中村氏は解釈・推測する。bodhi も呼格である。svāhā は、中村氏によると、咒の最後に唱える秘語。
般若心経メモ110 gate を於格(場所を示す)と解すると、以下のようにも訳し得る。 往けるときに、往けるときに、彼岸に往けるときに、彼岸に完全に往けるときに、さとりあり、スヴァーハー。
般若心経メモ111 この呪文が、五蘊皆空と並ぶ般若心経のもう一つの真髄である。実際、心経の「心」には「呪」の意もあることから、まさにこの呪文こそが「般若波羅蜜多心」とも言える。
はぎ @hagi_ojy 2013年2月20日
般若心経メモ
般若経は紀元前後、つまりブッダの時代より5〜600年後にインドにて起こった大乗仏教の経典。作者不明。般若心経はその中のひとつ。
ブッダの教えではない。むしろブッダの教えを否定することによってブッダを超えようとしたとも考えられる。
般若心経メモ ちなみに、ブッダの呼び名は、釈迦、釈尊、釈迦牟尼、釈迦尊、世尊、仏陀、如来、ゴータマ・シッタッダ、ガウタマ・シッダールタ、多陀阿伽度、阿羅訶、三藐三仏陀など多数。
はぎ @hagi_ojy 2013年2月21日
般若心経メモ
波羅蜜多(新訳)、波羅蜜(旧訳)とは、梵語パラミータの音写。
此岸から彼岸に渡る(つまり悟ること)、あるいはそれによる究極最高・完成態。大乗仏教において菩薩が修めなければならない実践徳目。
般若心経メモ 般若経では、波羅蜜多(波羅蜜)には六波羅蜜多があるという。
1. 布施波羅蜜 - 檀那(だんな、Dāna ダーナ)
2. 持戒波羅蜜 - 尸羅(しら、Śīla シーラ)
3. 忍辱波羅蜜 - 羼提(せんだい、Kṣānti' クシャーンティ)
4. 精進波羅蜜 - 毘梨耶(びりや、Vīrya ヴィーリヤ)
5. 禅定波羅蜜 - 禅那(ぜんな、Dhyāna ディヤーナ)
6. 智慧波羅蜜 - 般若(はんにゃ、prajñā プラジュニャー)
はぎ @hagi_ojy 2013年2月24日
般若心経メモ2
菩薩は原語ボーディサットヴァの音写。さとりを求める者、求道者。元来はブッダの前世の呼び名だったが、大乗仏教興起時代の革新派以降、求道者一般を指す。
王王大栄 @ououdaiei 12月21日
他宗旨や違った意見の集団と殺しあった欧米で「信仰の自由」が生まれるのは、まあそれだけ宗教=耶蘇教の支配・洗脳が深刻だからだろうか。仏教は当然として儒教でも他の宗旨は「実力行使」されない限りに他宗旨を実力排除しなかった。それだけ耶蘇教・一神教は面倒な思想に思う。
王王大栄 @ououdaiei 12月22日
信仰を第一義とする耶蘇教は、信仰が違うことは、致命的な衝撃を受ける。ので簡単に殺しあえる。それが欧米。東洋は「信」も究極的には「行」の範疇に入れてしまえるので、話し合いができると思える。信の果ての「悟り・救い」が目的なので、方法の変えが効く。
(仏教では、信仰や教義に執着するのも「苦=悪」なので、信仰や教義はあくまで悟るための手段です)
菊池 @kikuchi_8 12月20日
個人の信仰を批判する事と、利権・権力団体としての「宗教」を批判する事は全く異なる。社会の不正に目をつぶり黙っている事は「幸福」ではなく、麻薬中毒と変わりがない。薄っぺらい「幸福論」はカルトが批判を封殺する手段たりうる。これではマルクスの「宗教は阿片」の言辞に抗しえないではないか。
この点キリスト教と仏教では全く異なる。仏教は対機説法という対話による説得や、のちに哲学として整備されてからは他学派との論理を極めた熾烈な喧々諤々の論争(龍樹は帰謬法を多用)を繰り広げた。論理的思考と対話による説得を主とし、「宗教を批判するな」という耶蘇的な権威主義的態度とは真逆。
そもそも「個人の信仰」だろうと批判していいのだ。むしろ、東洋ではそれが当たり前。一神教の西洋と違い宗教批判はタブーではない。仏教が出現した時代は様々な自由思想家が論争を繰り広げていた。支那の諸子百家の時代に幾つもの優れた思想が出現した。自由な批判・闘論から優れた思想は生まれる。
王王大栄 @ououdaiei 12月21日
@kikuchi_8 内心の自由を尊重していても、それで他宗旨への攻撃や政治行動となると、当然規制をかける。信長以降の日本{明治までは特に}と中華圏とかインドはそういうのが了解事項に思えます。他宗旨を「邪教」よばわりする耶蘇やカルトが「個人の信仰を犯すな」など烏滸がましいと思う。
菊池 @kikuchi_8 12月21日
@ououdaiei 同感です。日本も最初はキリシタンの信仰の自由を認めて、儒学や仏教と同じように受け入れていました。ですが先方が神社仏閣の破壊などの具体的な攻撃行動を始めたのでやむを得ず排除する事になりました。己の行状を反省する事も無く本当におこがましい物言いだと思います。
櫻薫をる戀ひ淚燈るる @sakurakouyouhen 12月21日
@kikuchi_8 @ououdaiei
オメガオメガさんが以前ツヰートなさってました事ですが…
切支丹全盛期に宣教師と共謀し、大勢の日本人女性を海外に売り飛ばす商売をしてゐたのが、切支丹だったそうですね。學校の歷史の授業では、切支丹排除した豊臣秀吉公が惡者であると習います。
菊池 @kikuchi_8 12月21日
@sakurakouyouhen @ououdaiei その通りです。秀吉が理由なく切支丹弾圧したかのように書きますね。奴隷貿易は徳富蘇峰の「近世日本国民史」に書かれていたそうですが、官憲の命令で削除されたそうです。戦前からキリスト教の暗部への言及は禁圧されていたのが分かります。
菊池 @kikuchi_8 12月20日
自由に相互の思想を批判し合えるからこそ、平和なのである。一切の宗教批判を抑圧する歪な状況の方が、反動で武力による殺し合いに発展する可能性が高い。仏教と「六師外道」の時代や諸子百家の時代は言論の自由が保障されていた。我が江戸時代も同じである。国学、儒学、仏教、蘭学が入り乱れていた。
諸子百家の時代は平和ではなかったが、思想が自由だったからそうなったのではなく、むしろ平和でないからこそ、それを収めるにはどうすればよいか?という課題を背負って多様な思想が出現した。平和ではなかったが、思想は自由であり、古典の中の孔子も孟子も老子も荘子も墨子も其々活き活きしている。
マルクスは「宗教は阿片」と言ったが、共産主義イデオロギーも「阿片」である。硬直化して、更新を許さず、自由な思考を妨げる体系である点で、キリスト教と変わることはない。キリスト教会も共産党独裁政府も対話や討論ではなく、異端審問や粛清という暴力によって異論を抑圧してきた歴史がある。
結論。「異論を暴力的手段で排除するのは自信の無さの表れである」。批判的検討に耐えられないからこそ、対話を忌避するのである。そうでないなら、堂々と反論して返り討ちにすればよい。それをしないという事は非常に脆い思想・信仰という事である。横文字左翼が異論者をブロックするのも同じである。
日本酒まめちしき @Sake_Mame 12月20日
【日本酒の呼称】日本の酒税法上では清酒(せいしゅ)、一般的には酒(さけ)またはお酒(おさけ)、日本古語では酒々(ささ)、僧侶の隠語で般若湯(はんにゃとう)、江戸時代にはきちがい水、現代ではポン酒(ぽんしゅ)と呼ばれることもある。 #sake
王王大栄 @ououdaiei 12月22日
水子供養は、一つは「堕胎後の母親の心的トラウマ」のケアが、為されなかったことで燎原の火のように広まったと思う。多少は合理的で不要でもないと思う。けど、なにか煽りすぎている気も十分する。則「水子が恨んでいる」となると江戸までの日本では頻繁に行われた間引きで日本は呪殺されているだろう
かあこ @0nigiri_3_ 10月14日
「しんぶん赤旗」「現代こころ模様・葬儀考」
第4部「『墓』と人生」
http://www.jcp.or.jp/akahata/html/senden/200511_sogikou.html#24-29 …
水子とたたりはいつ結合したのか。弘文堂『新宗教事典』によると、寺などが水子供養を始めたのは昭和五十年(一九七五年)ごろから。だから、「水子供養への関心の高まりは一九七〇年代に入ってから」と述べています。 http://www.jcp.or.jp/akahata/html/senden/200511_sogikou.html#24-29 …
岩波『仏教辞典』も、 「一九七〇年代から」と書いています。一九七一年、埼玉県秩父山中に「紫雲山地蔵寺」が完成。落慶式には佐藤栄作首相(当時)らも参列しました。 http://www.jcp.or.jp/akahata/html/senden/200511_sogikou.html#24-29 …
建立者は反共右翼・紫雲荘の橋本徹馬山主。若き日の美智子皇后の不眠症治療に協力したとされる人物です。寺の別名が“水子地蔵”。水子の供養を売りものに、またたくまに一万体の水子地蔵を売りつくしました。http://www.jcp.or.jp/akahata/html/senden/200511_sogikou.html#24-29 …
これも神社の初詣とかと同じかあ。マスコミとお寺が結託して作り出した人心掌握術を使ったお金儲けの技だね。
王王大栄 @ououdaiei 12月20日
誠天調書さんが「水子供養」に妙な医療利権と仏教利権があると指摘していた。大きな石の墓と長すぎる年期供養は、一種の利権もあると思う。母の話では昔の墓は、リサイクルして使っていたのでそこそこ墓場に人骨が転がっていたとか。
かあこ @0nigiri_3_ 12月20日
水子とたたりはいつ結合したのか。弘文堂『新宗教事典』によると、寺などが水子供養を始めたのは昭和五十年(一九七五年)ごろから。だから、「水子供養への関心の高まりは一九七〇年代に入ってから」と述べています。http://www.jcp.or.jp/akahata/html/senden/200511_sogikou.html#24-29 …
建立者は反共右翼・紫雲荘の橋本徹馬山主。若き日の美智子皇后の不眠症治療に協力したとされる人物です。寺の別名が“水子地蔵”。水子の供養を売りものに、またたくまに一万体の水子地蔵を売りつくしました。 http://www.jcp.or.jp/akahata/html/senden/200511_sogikou.html#24-29 …
ゼッキオ @planbsk8rsgun 4月7日
@pimemepi @karimarimari 例えば、水子供養なんていうのは、比較的最近に、近代医療で堕胎が簡単になったのと、オカルトブームで、赤ちゃんの霊を怖がる人達が増えてきたのに、悪徳神社が乗っかって出来た商売で、昔はそんな事する神社は無かったそうです。
完全閉店 @lakudagoya 11月21日
仏法と兵法を使って陰謀論をやってはいけない法則 #陰謀論あるある
狼たちは知っている @wolvesknow 2015年12月26日
三略も六韜も孫子の兵法も、曹操が注釈をつけた分の兵法も、全部読んだけど、たしかに、この視点から陰謀論を語る人はいないんだよね。皆、耶蘇教の匂いばかり。耶蘇教的なんだよ。リチャコシ、カレイド、フルフォードetc。で、仏法にお詳しい菊池氏は、よく絡まれるしね。わかりやすい奴らだな。笑
私のブログをご覧くださる方ならお分かりでしょうが、俯瞰する立場というのを固守しようとしてるわけで。 これは、兵法なんだよね。クラウゼヴィッツの戦争論じゃない。ましてや耶蘇教の連中にはできない事。なのに、工作員とか言われる時があって、世界は広いなーって思う。
狼たちは知っている @wolvesknow 2015年12月12日
六韜や孫子の兵法なんてのは、明治初期までは日本人の基礎的な知識だったよね。文明開化で西欧史上主義に誘導されるまで、中国の歴史や思想を学ぶのは基本だった。兵法を学ばれるのはそんなに都合が悪いのかな? それよりマキアヴェッリの君主論を知られる方がまずい気がするが。
完全閉店 @lakudagoya 11月21日
サタンを叩く陰謀論者はいても、マーラに打ち勝とうと頑張る陰謀論者はいない法則 #陰謀論あるある
王王大栄 @ououdaiei 12月15日
仏教っていうけど、日本はもともとは「仏道」「仏法」といっていた。生きための作法・方法ってこと。宗教も英語を日本語訳にした時に老子からもってきたことば「それを私の教えの宗にしよう」生きる作法であって「信仰・信じる」とかでもともとなかったようだ。
そういえば、インドでも「宗教」は「ダルマ」という「法・生きる作法」みたいなもの。仏法も「ブッダ・ダルマ」仏陀の法ってこと。この方が大過ない見方に思えるけど。
王王大栄 @ououdaiei 12月16日
訂正・仏教っていうけど、日本はもともとは「仏道」「仏法」といっていた。生きるための作法・方法ってこと。宗教も英語を日本語訳にした時に老子からもってきたことば「それを私の教えの宗にしよう」生きる作法であって「信仰・信じる」とかでもともとなかったようだ。
STB @RC_StB 6月24日
日本会議が如何に低能か 薩摩長州の芋侍が出てきて、廃仏毀釈をやらかし、そいつらの生き残りが「日本は保守の国」と嘘を付き続けている して、これを見よ
「天皇、仏法を信じ、神道を尊ぶ」(用命紀)
「仏法を尊び、神道を軽んず」(孝徳紀)
大日本帝国は日本史上稀な伝統破壊者だぞ(笑)
完全閉店 @lakudagoya 10月17日
陰謀論コミュには、聖書の引用をベタベタ貼ってやつらを叩く陰謀論者はいても、般若心経やスッタニパータやダンマタなどの仏典を引用してやつらを批判する陰謀論者っていないよね?なんで?
安保 多稼士 @AmboTakashi 2015年11月5日
支配層が仏教の中で特に破壊したいのは、論理的思考を重視する姿勢と、一神教と新プラトン主義を完全否定する無記と空と無常と縁起の思想。 工作員はキリスト教か神道カルト(大本教系)信者だらけ。工作員でない人の思想は仏教寄りの人が多いです。http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-108.html
松島 潤平 matsushima-JP @matsushimaJP 2010年7月1日
この機会に改めて六曜について調べてみたんだが、仏教との関連はゼロ、というかむしろ仏教は六曜に否定的なんだな。あくまでも中国起源の占いにすぎんと。そもそも釈迦は占いを禁じていて、親鸞様なんかは「日の吉凶を選ぶことはよくない」と和讃で説いたため、浄土真宗ではほぼタブー。
獅子十六 @lion_sixteen 6月19日
そもそも仏教とは一切関係無いし、親鸞は六曜の類を否定してるからな。なお門徒でもジジババは気にしてる模様。 RT @simasyodes: 先輩の結婚式仏滅やったが普通に暮らしてるな RT 赤口で結婚式なんてざらにあるからね。仏滅と赤口の土曜日を避けてたら6週間で4日しか無くなる。
イクヰロン @iqr191
「仏滅 「仏も滅するような大凶日」の意味。元は「空亡」「虚亡」と言っていたが、これを全てが虚しいと解釈して「物滅」と呼ぶようになり、これに近年になって「佛(仏)」の字が当てられたものである。」 仏関係ねーのかよ!!!!!!!
直野隆一郎 @naono 2014年6月5日
元々はそれほど縁起の悪い日ではなかったそうで。なお、仏事と六曜は関係ないので、「釈迦の死んだ日とされる2月15日が旧暦では必ず仏滅になるのは偶然」、これが一番びびったw ◆ 意外と知らない「仏滅」の歴史と基礎知識|NAVER まとめ http://pyn.jp/1kyB3XH
陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 @Keiya_Takahashi 2015年12月26日
県が「大安や仏滅の記載は不適切とカレンダー回収」 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151226-00050002-yom-soci … 大安や仏滅などの六曜が暦に載ったのは明治時代からで陰陽道が関わった江戸時代までの暦はその月の十二支と同じ十二支の日を「建」とし「除、満・・・」と続く中段(十二直)を中心にしていた。
でもね、市販されるカレンダーや暦などには大安や仏滅などの六曜が載っていないとあまり売れないのだそうだ。ところで、陰陽道が関わった江戸時代までの暦でその日の吉凶などを見るのに参考にした中段(十二直)は、香港や台湾などの風水でも吉日を選ぶ時に今でもよく参考にされるようだ。
…
「人生というクソゲーを攻略する方法」。原始仏教は宗教=執着=苦しみの原因を否定。つまり原始仏教は苦を克服する為の現実的なカウンセリング術
『バウッダ―仏教』。 キリストきょうはユダヤガワルイをとなえた! キリストきょうをたたけなくなった! ✝が黒幕。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-65.html
“・「仏教」という言葉の使用例は存外に新しく、明治期の日本が欧米「近代」の移入を図った時に軌を一にする。「仏教」の語は「仏の教え」を意味する少数の場合を除くと、江戸時代末期まで知られていない。
江戸時代までの文献では「仏教」という語はほぼ絶無。教えないし理論については「仏法」といい、
実践に関しては「仏道」(この原語は「さとり」そのものをいう)の語が用いられており、仏法と仏道という語に日本人は(中国人なども)千数百年間なじんできて、今日でも一部は維持されている。
五世紀以前の中国では「道教」とも呼ばれた。
また、多種多彩な漢訳仏典中から特定の教えをみずから選びとって「宗(むね・主・本・長)」とすることが六世紀の中国に生まれ、その宗の教えとして「宗教」の語がここに発明された。
宗教は仏教の下位概念に属し、仏教徒のあいだでのみ用いられて、日本でも明治初期まで仏教諸宗は「わが宗教」と称し、かつ仏教は仏法や仏道(単に「道」だけでも仏教を意味する)などの語で表現されていた。
江戸末期の開国で外国語の翻訳としての今日の用法が定着する。仏「教」としたところにすでに西洋思想による変容がなされている。
同時期に哲学という造語が誕生し、仏教・宗教の後も本来的意味を改変されて、すでに日常語化して現在に至る。
宗教とは「宗」派の「教」えであるから、仏教の下位概念であり、仏教者のあいだでのみ宗教という語は用いられた。”
完全閉店 @lakudagoya 5月31日
ぬこたさんは、最近アーリアン思想のアニメやラノベを解析するためにインドの宗教について調べてるけど、まさか検索するまでアートマン=息って知らなかったよ。アートマン=息だとすると、天人と混血しないと魔術使えない「魔術士オーフェン」というのが、アーリア思想だってよくわかるわ。
だって、ポピュラーな「音声魔術」ってアートマン=息という観念そのままでしょう?インド・イランの宗教には(仏教も含め)お経を声に出して唱えるってのがあるし(般若心経やヨーガにすらマントラってあるでそ?)そこがわかれば、本質がわかるのかも?
ほれ、魔術士オーフェンのWikiだhttp://mjk.ac/2LX9Es フォルテ・バッキンガムってロスチャイルドを連想したぞ?wwwドラゴン種族と混血しないと魔術使えないって、バイキングの竜座のα星の北極星信仰だろうな。まあ北欧神話だし、アーリア思想マンセーなのかも?
…
ヤハウェ(エジプト系の雷神)が奈良の大仏(アーリア系の太陽神仏)なわけねーだろ!
真言宗が景教(人の神格化禁止)なわけねーだろ!
ヨガ、呼吸法、瞑想法でリラックス! 『呼吸法の極意 ゆっくり吐くこと』・『ヨガ呼吸・瞑想百科』・ 『ハタヨガの真髄』・『禅の本』・『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-110.html
” マントラ(呪文を繰り返し唱える)の目的は、乱れた心を一点に集中し、考えを一つにまとめること。マントラは、ヴェーダ(聖典)の讃美歌の部分であり、音楽を帯びた詩である。その詩を繰り返すことがマントラであり、愛と自己を捧げるまじめな心で行うと、自己を神に近づけることができる。
・プラーナーヤーマの実践中にマントラを繰り返し、舌や口を動かさないでそのマントラに意識を集中する。そうすると集中力を身につけると同時に、吸気、クムバカ、呼気の長さを伸ばすことができ、呼吸がスムーズになり意識も高まる。
・マントラは早く繰り返してはならない。吸気、呼気とクムバカをそれぞれ同じ長さで平均したリズムで行い、それに合わせるべきである。
・マントラは「アー・オ・ム」”
日猶同祖論や景教渡来説のおかしさ
http://kokuhiken.exblog.jp/24803627/
”〇兵庫県に大避神社という神社がある。御祭神は秦河勝である。この時点で「秦氏=猶太人説」「秦氏=景教徒」という説は崩れるのではないか。猶太教や景教を含む耶蘇教では人を神として祭るのはご法度のはずである。こういう基本的な事柄を無視することからして日猶同祖論や景教渡来説はうさん臭い。
〇日猶同祖論者は日本人と猶太人の宗教観の違いという根本的なところを無視する。どこそこにダビデの星があるとか、この日本語はヘブライ語と響きが似ているとか、その手の後付とかどうとでも解釈できる枝葉の部分ばかり強調する。猶太教徒にとって最も重要な宗教観の部分で日本人と猶太人は相容れない。
〇日本はアニミズムの国であり猶太人が重視する「天地の創造主」という信仰は無い。「猶太教が一神教化する前の多神教徒としてのヘブライ民族が渡来したのだ」と言う者もいるが、それならば道教やヒンドゥー教の神々も仏教の護法神として渡来しているから「猶太」だけ取り立てて言う意味がない。
〇「多神教徒としてのヘブライ民族が渡来した」とまで言って、あくまでも日本と猶太を結び付けようとするのは、何らかの政治的意図があるとしか思えない。道教の神もヒンドゥー教の神も日本に渡来している。例えば金刀比羅宮の御祭神はガンジス川のワニの神である。かと言って日印同祖論は言われない。
〇修験道も日猶同祖論において定番である。小箱の頭巾やほら貝が猶太教で使われる物と似ているといった類である。しかし、修験道と猶太教は根本的に世界観が異なる。修験道は原始アニミズムを色濃く継承し、木石など自然物を崇敬する。超越神を崇拝する猶太教でそれはあり得ないだろう。根幹が違う。
〇とはいえ一神教的な傾向を持つ修験一派が存在するのも事実である。それが丹波や鞍馬山の人脈である。インサイダー筋が大本教の母体として示す大江山の霊媒集団や神智学の影響を受けている鞍馬寺の鞍馬弘教等である。大本一派は一神教的だが元々かかる傾向性を持つサンカの修験一派が母体の可能性。
〇古代のラビと修験者の頭巾やほら貝、服装が似ていたとしても「だから何」という程度の話に過ぎない。そんな事より、明らかに意図的に「天地の創造主」というキリシタン神学由来の概念を導入した平田篤胤の方が問題である。出口王仁三郎もその神観を継承している。同祖論もこの周辺が主に唱える。
〇ネストリウス派=景教は人性と神性を明確に区別する。マリアも「神の母」ではなく「人性としてのキリストの母」という扱い。カトリックより人格と神格が厳格に区別されている。人と神の距離が近く、同一視し、場合によって人が神に命じる関係(例:役小角と一言主神)すらある日本の宗教観と隔絶する。
〇神智学徒のゴルドン夫人が高野山に大秦景教流行中国碑のレプリカを建立した。人性と神性はあくまで区別されるべきだとするのが景教である。一方、真言密教は「即身成仏」つまり、人も仏も構成要素は同じ「六大」だから人と仏はゼロ距離だとする教義である。似ても似つかないどころか真反対である。
〇宗教観を見ると、景教渡来説がいかに胡散臭く、ありえそうにないかが見えてきた。正倉院の宝物と同じで西方の外面的な文物は多数渡来したであろう。法隆寺のエンタシス方式もそうである。しかし、日本人の宗教観は同じ汎神論文化の印度や支那とは親和性があるが、中東以西のそれとは隔絶が大きすぎる。
〇●●渡来説、●●同祖論の類は、枝葉の文物をいくら眺めても「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」という程度の「結論」しか得られない。要するに信じたいものを信じるという結果にしかならない。比較的明確な結論を得るには世界観や宗教観など思想の枠組みを比較するのがより確実と思う。
〇日猶同祖論の初期の論者の一人佐伯好郎は同時に景教渡来説の権威。日猶同祖論と景教渡来説は初期からセット。佐伯は英国聖公会のキリスト教徒。聖公会は英国諜報員とメーソンの巣窟と渡部悌治先生述。猶太資本導入推進のために日猶同祖論を唱えたことを服部之総に告白。河豚計画の犬塚惟重の団体顧問。
〇景教渡来説を唱えている人士はキリスト教徒ばかりである。宗教的立場からの願望が投影されている「説」と言える。「いろは歌」まで耶蘇教の思想を歌ったものという者までいて驚いた。仏教の基本的教義を抑えておけば「いろは歌」は「有為=縁起したものの無常と、無明の克服」という趣旨と分かる。
〇猶太人のシンボルと言えばダビデの星=六芒星というイメージだが、六芒星が猶太のシンボルになったのは17世紀からである。六芒星はネパールでもよく使われるシンボルだそうだ。六芒星が伊勢神宮や松尾大社にあっても日猶同祖論の根拠にならない。猶太の古代からの象徴は七枝の燭台=メノラだろう。
〇石上神宮に安置されている七支刀がメノラだ!とかこじつける者もいる(笑)メノラは燭台であって刀ではないであろう。そもそもアニミズムの日本と一神教の猶太という根本的な相違がある。日猶同祖論者はわずかでも共通点があれば針小棒大に取り上げ、違いはどんなに大きいものでも無視する。”
和訳聖書の「神」は漢訳聖書によって生まれた。
和風クリスチャン平田篤胤の弟子が国家神道政府の立役者。
鰐淵寺が出雲大社を管理していた。
真言、浅間大社、オウム、創価(法華神道系)、白光真宏会(大本教系の生長の家信者が教祖)は全て富士関連。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-23.html
”・聖書の中国語訳はネストリウス派(景教)が最初でGODは「天尊」(仏教用語)。
中国に最初に伝えられたキリスト教は、431年の公会議で異端として追放された「ネストリウス派のキリスト教=景教」であり、伝来は635年とされています。
638年には唐の都である長安に波斯(ペルシア)寺(のちの大秦寺つまりローマ寺)が建てられるほど、一時は流行したらしいです(ペルシャってミトラとゾロアスター=キリスト教の元ネタを連想するのですが……)。
641年ころの景教の典籍とみなされるものの一部が敦煌から発見されていて、わずかながら新約聖書やキリスト伝らしき文章が含まれています。
音訳と意訳中心です。
パン→餅
イエス→世尊
律法はそのまま
天国→天堂
十誡→十願
メシア→弥師訶
マリア→末艶
・GODを「神」と訳した現存最古の史料が18世紀のバッセ『四史攸編』(ししゆうへん)。”
菊池 @kikuchi_8
新プラトン主義は通常の人間には「究極真理=一者」は把握できないとする点で密儀宗教と結びつきやすい。「真理」を把握したと称する一部の神官団と奴隷信者衆というカルトの典型的な形態に非常に都合がよい構成である。秘密結社が教義の中核として新プラトン主義を採用したのには理由がありそうだ。
J・ナナミ @pinkglalem 9月6日
ゾロアスター教にミトラ教という救世主思想が生まれた。このミトラ教の教義をパクってカルト化したのがキリスト教。キリスト教は中東、オリエントに残る旧勢力(ゾロアスター、ミトラ)を一掃するために古代ローマの月信仰をもとにしたイスラム教を造った。ムハンマドの親類はクリスチャン。
J・ナナミ @pinkglalem 9月6日
@pinkglalem アラーの起源はイシュタルが、イーノー(月の女神)やイシスになったのと同じ流れ。バビロニアでセミラミスと同一視されたけど、コレがギリシャのアルテミスになった。イスラム以前にはアラビア半島にはアルウッザやアラットという女神信仰があって、コレがアラーになった。
フェイド大帝 @FeydoTaitei 8月20日
@Vanswer 基本的に日蓮というのは、天台宗 復古主義で、念仏系(つまり法然) を嫌っていました。 法華経のお題目を唱えるのは晩年の ブレブレ日蓮になってからです。
ですので、日蓮の思想は 元の天台教をやらないとサッパリ 理解出来ない。天台教の欠点は やたらと難解で法華経だけ読んでも 全く分かりません。 教祖の天台智ギの解釈書の理解が 必須になります。
問題は天台バイブル三兄弟 はやたらと難しくて、かつての天台宗 でも最澄レベルの変人しか読む人が いませんでした。 興味があれば、法華玄義、摩訶止観、 もう一つは名前忘れましたが… s価系出版社のレグルスから出てるやつ だと思います、トライして見てください。
フェイド大帝 @FeydoTaitei 11月25日
神道カルトも、日蓮カルトも、 密教カルトも時代遅れかな。 卑弥呼カルトが今隆盛だが、 真のダークホースは上座仏教カルト かな? イルミちゃん達は今大事に育てるよ。 ただこれも橋渡しだな。 最終的にはプレ インドイラニアン系 のインダス/ ケルトアーリアン カルト に持ってく。
フェイド大帝 @FeydoTaitei 2015年8月4日
ねここねこさんの仏教の記事読んだ。 日蓮宗の箇所なんだが…… アレは元々は天台宗原理主義。 だから天台智顗の教えを知ってないと よく分からない。 法華玄義、法華文句、摩訶止観を読破 してほしいw 天台宗はガチ高度だから、パリサイ派の 悪口集であるキリスト教は足元にも 及ばない
仏教哲学の高度さは、一般人には 掴みにくいと思う。 西洋哲学でも「心の哲学」という 20世紀以降の哲学でようやく 同レベル。(サールとかデネットね) アウグスティヌスやアクィナスと 同じ水準だと考えたらいかんよ?
まぁ、それはさておき、 天台宗で重要なのは「悪は何処から来るか?」 という問題。 この時代の仏教ってのは黎明期の 仏教と違って、この世界は仏が 創造したみたいな教えになってる。 すると善の存在である仏が何故悪を 創ったのかという疑問が当然起こる。
元々の仏教は創造神がいないので こういう疑問は起こり得なかった。 まぁ、天台智顗は初期仏教の 阿含経(いわゆる今日で言う原始仏教) を低脳と一蹴してたので、創造神の いる法華経をベースに教義を 組み立てているから、当然この 難問にぶつかる。
そこで出たのが「天台性悪説」。 続きは添付論文読んどいて。 http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/36075/1/rel027010.pdf …
(天台性悪説の考察 : 仏教における悪の問題
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/36075/1/rel027010.pdf)
カルトでも何でもいいけど、 これぐらいは知識としてあった方がいい。
J・ナナミ @pinkglalem 2014年5月7日
私のブログのコメ欄は承認制。公開してないモノには凄いのもある。ユダヤや聖書を否定すると、必ず反発がある。元来聖書に歴史的価値や科学的根拠を望むのは耶蘇原理主義の傾向。「あんなものは全部インチキ」と言って何の問題があるの?日本人はいつから、こんなに宗教的になった...?www
J・ナナミ @pinkglalem 2014年2月20日
「陰謀論」と言うステレオタイプは、情報の流失を防げなくなった当局の予防線のよーなモノ(私には断末魔の悲鳴にも聞こえる)。彼らがその言葉を使い否定したい情報、その中に含まれる打消し難い真実が含まれている。その証拠に、本当にヤバい情報は、陰謀論者ですらスルーするwww。
J・ナナミ @pinkglalem 2014年1月1日
@YouTube ユダヤ教は初期の段階で、魔術や生贄を否定した。アブラハムはイサクを殺さなかった。コレに対しキリスト教は魔術を行い。生贄になった者(キリスト)を崇めた。ダビデの星をシナゴーグで見ることは出来ない。ラビが嫌っている為。ところが教会では至る所で見る事が出来る。
J・ナナミ @pinkglalem 2013年8月21日
天台宗とかで、「南無妙法蓮華経」って、実は論理矛盾。「法華経に帰依する」という意味。ところが、その法華経の内容は、「帰依」自体を否定している。「この世のすべてのモノは移ろうから、何を信じても無駄だから諦めなさい。」と説いている。そしてその「法華経」も仏陀の没後千年に書かれたモノ
J・ナナミ @pinkglalem 2013年8月1日
「色即是空、空即是色」⇒(物{色}はやがて移ろい。すべては執着するほどの意味を持たない。現世の否定の意味。) 「如是我聞」⇒(ブッタはそのとき~こう言った)
J・ナナミ @pinkglalem 2013年8月1日
@alicetelos1 「色即是空、空即是色」という文言があるのでイスラム教徒は佛教徒を無神論者として軽蔑しています。ブッダの死後1千年も後に書かれた言葉ですが、ブッダなら言うだろうという事で仏典の(如是我聞の)主要テーマ。この価値観からすると、佛教徒は宗教を否定しています。
J・ナナミ @pinkglalem 2013年7月2日
@JunjiHattori @suzukijyakusui 現世を否定し、信仰を否定している仏教徒は、イスラムでは「無心論者」として軽蔑の対象になります。仏教は実は宗教ではありません。無機質な哲学である仏教の本質について、仏教徒自身よりイスラム教徒の方が詳しいです。
J・ナナミ @pinkglalem 2013年6月25日
@lanekota なんか、 笹川良一と牧口常三郎は出口王仁三郎の腹違いの息子だと言う話。佛教は執着と言って、現世を否定するんですけど...(だから出家する)。牧口常三郎が信仰したのはこの執着。それで、ヨーロッパの教会みたいな権力構造をめざしたみたい。
@lanekota 出口王仁三郎や笹川良一と血が繋がっていたと言われる牧口常三郎は明確に佛教の戒律を否定しています。だから、在家団体が誕生した。
J・ナナミ @pinkglalem 2013年2月25日
聖書の内容はまさに殺戮の書。福音書は愛を説く。ココがキリスト教の詐欺的手法で、キリストは聖書を否定しない。結果クリスチャンの行った悪事を全部ユダヤの責任に転嫁。だから、この世で最も人を殺したのは、クリスチャン。彼らに罪の意識はありません。ユダヤと言う便利なアイテムがあるから...
J・ナナミ @pinkglalem 8月16日
@koudaiin 色即是空。空即是色...この世のあらゆる物や事象は、何の意味も持たない...実は、佛教の真髄は「否定」にある。。「あなたの信仰は報われない」と教える宗教はない。...コレこそが、佛教が宗教でない所以
J・ナナミ @pinkglalem
あたしは、神はいない。宗教は詐欺。って言ってンだから...あたしのタグを付けて、精神世界とかほざくな!馬鹿ルトども...!「神」ってのは、お前らが感染してる病気だ。
あたしの考え方はすごく単純で、この世には3種類の人間しかいない。嘘つきとバカと無神論者。無神論者以外は、ウソをついて誰かを搾取している捕食者(宗教)か、搾取されてもただ甘んじてるバカだけ。
メンヘラにとって「神」というのが一つの障壁になっている。もう人格の一部になっていて、コレを否定することは、それまでのその人の人生の全否定になってしまう。詐欺師たちはこの弱みにつけ込む。#カルト支配 #ReligionIsFraud
宗教は危険な生物兵器だョ。感染したら、思考のパターンが一定になって、家畜以下になってしまう。
最も危険な感染ルートは、母子感染。カルトに感染した家庭は必ず崩壊する。
私のツイートにかってにメンショって、絡んでくる馬カルトは、たぶんこのパターン。
世界的に流行し、最も感染力の強い精神病のことを、私たちは「神さま」と呼んでいる。
秘密結社なんてないョ。やってるのはヴァチカンと銀行だけ...。
つーか、通貨そのものに疑問も持たないで、陰謀論とかほざいてンじゃァーねーョ。
魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう @lakudagoya 7月6日
一時期流行った「セカイ系アニメ」にあるような、極端なセカイと私というものは、実はインドの梵我一如思想なんだよね。この構造がクリアにわかれば子供向けアニメに見えてくるものがあると思うよ?この記事面白いよね http://d.hatena.ne.jp/licheng/touch/20130120/p1 …
(仏教とヒンドゥー教の哲学上の相違についてまとめ
http://d.hatena.ne.jp/licheng/touch/20130120/p1
“仏法
目の前にある何か(人でも物でもなんでもいい)について、それがどういうものであるか列挙してみよう。例えば「御坂美琴」は「ツンデレ」であり「女子中学生」であり「科学サイド」であり「レベル5」であり「エレクトロマスター」であり「常盤台のエース」であり「短髪」であり… この場合、「ツンデレ」や「女子中学生」といった属性をインド哲学ではダルマ(dharma,法)と呼び、それらのダルマを有する「御坂美琴」という個体をダルミン(dharmin,有法)と呼ぶ。
では、「御坂美琴」から「ツンデレ」や「女子中学生」や「科学サイド」といった属性をすべて剥ぎ取って素っ裸にしたら(*´Д`)ハァハァ 、そこに何が残るだろうか?
「御坂美琴」の存在の核たる何かが残る。無色透明な「たましい」のような何かが有る、と考えるのがヒンドゥー教である。ヒンドゥー教ではそれをアートマン(ātman,真我)と呼ぶ。アートマンはなにものでもない。「~である」という説明はすべてダルマであって、ダルマをまとう核たるアートマンではありえない。なにものでもなく、なにものにもなりうるのがアートマンである。GHOST IN THE SHELL でいう「ゴースト」である。そして、アートマンはなにものであるかを超えて不滅であり、宇宙の根本原理であるブラフマン(brahman,梵)と一体であると説く。これを梵我一如(ayam ātmā brahma)という。自分の内にある自分の本体は世界そのものの本体に通じていると。まあ、今風に言えば「セカイ系」な思想である。
いっぽう、何も残らないと説くのが仏教である。「御坂美琴」とは「ツンデレ」や「女子中学生」や「科学サイド」といった無数の属性の集合体にすぎず、それらを離れたところに「御坂美琴」の本体など無い。これを諸法無我(sarva dharma anātman)という。諸法無我は三法印(trilakṣaṇa)のひとつであり、仏教の基本中の基本である。たとえばブドウ糖C6H12O6が炭素と水素と酸素の化合物であって、ブドウ糖という不滅の実体など無いように、「御坂美琴」も「ツンデレ」や「女子中学生」や「科学サイド」といったダルマの化合物であって、「御坂美琴」という不滅の実体など無い。有ると考えるのは妄想にすぎない。ヒンドゥー教の悟りがアートマンの実在を悟る「自分さがし」であるとするなら、仏教の悟りはアートマンの不在を悟る「自分なくし」である。
そのため、仏教はヒンドゥー教正統派からはしばしば虚無主義(ナースティカ,nāstika)呼ばわりされてきた。ブラフマンとアートマンの不滅を説くヴェーダ(veda)の教えを否定する異端のニヒリストめ、と。しかし、仏教はけっしてニヒリズムではない。そもそも「あるある!」とか「ないない!」とかいう極論をしりぞけるのが仏教のスタンス、中道(madhyamā- pratipad)である。永遠不滅の「御坂美琴」が実在するというのも極論。「御坂美琴」なんてどこにも存在しないというのも極論。さまざまな偶然と必 然からダルマが寄り集まって、「御坂美琴」は一時的な存在として、しかしたしかに存在している。ブドウ糖が炭素と水素と酸素の化合物であって、燃焼したら 水と二酸化炭素になるからといって、いまブドウ糖が存在しないということにはならない。この世の全ては夢まぼろしのように儚いものかもしれないが、われわれにとってその儚い夢まぼろしこそ全てである。
この一見すると否定にみえるけどじつは肯定しているツンデレ論理こそが仏教の真髄だと思う。諸法無我とは「すべての存在に実体は無い」というよりは、
「か、かんちがいしないでよねっ。すべての存在に実体なんて無いんだからっ!」
というニュアンスである。
ところで、このダルマ/ダルミンの議論を見て、西洋哲学かじった人なら気づくと思うけど、古代ギリシアのプラトン、アリストテレスから中世の実念論VS唯名論に続く議論とそっくりである。まったくインド人とヨーロッパ人は親戚。同じ穴のムジナというか、同じユーラシアのインド・ヨーロッパ語族である。しょうじき、日本人の自分にはこんな議論はまったくどうでもいいと思う。(^^;)
”)
魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう @lakudagoya 7月5日
本当に狡猾なやつは、罪を全部悪くない人に押し付けて自分は善人ヅラするからなー。あっ、西洋の根本思想のスケープゴートってこれの真髄か。おいらはいつ か、こういう狡猾なやつの思想を間近で観察したいから色々探求してるんだよね。企業が宗教をでっち上げる現場とか見てみたいよ。
仏教国に住んでるヌッポン人には理解できないだろうけどさ、ヌッポンが当たり前に思ってる仏教的な叡智とか、これは欧米では秘儀参入者しか知られてない知 識だったんだよ?今では学術的な研究で知られるようになったけど、19世紀半ばより前は秘密結社が独占する秘教的な叡智そのものだった。
お釈迦さんってのはとんでもない人で、インドの秘儀参入者だけにしか知られてない知識と技術を一般公開した上に、一部の人だけでなく、女性もアウトカース トの人も修行すれば悟れると言ったわけ。ヌッポンを初めとした仏教国というのはな、西洋の感覚ではイルミの教義を国教にしてるという国なんだよ。
だからなぜ、神道カルトの手羽先どもは仏教が嫌いもしくは無視しようとするのか?それはヌッポンに根付いてる仏教的な叡智を心底恐れてるからだよ。スピリチュアル見ればわかるけど、キリスト教支配ってのは反知性主義だから、キリスト教では悪とされる智慧を大事にする仏教は悪魔そのものだとね。
Keeta @MissyKeeta001 11月26日
日本語には仏教由来の言葉が多い。挨拶、根性、馬鹿、自由、迷惑、退屈、我慢、愚痴、安心、金輪際、油断、覚悟、旦那、玄関、決定、有頂天、因縁、不思議、工夫、出世、世間、意地などは全部仏教用語らしい。日本人は無宗教なんてのは嘘なんだよね。
坊主バー(四谷) @vowzbar_yotsuya 11月27日
天才バカボンの「バカボン」は仏教用語で「薄伽梵」と書きお釈迦様という意味。口癖のこれでいいのだは悟りの境地。レレレのおじさんはお釈迦様の弟子のチューラパンタカがモデル。子供のハジメちゃんは東大イン哲卒仏教学者中村元博士からとった。これから仏教を学ぶ方には天才バカボンをお勧めします
mimitchy @mi_mitchy 11月28日
バカボンの名前の由来は釈尊を表す薄伽梵(ばがぼん)なのは有名な話だけど、仏教の到達点としての「起こる出来事をそのままに受け入れる」という境地は、まさに「これでいいのだ」なんだよね。赤塚先生は一体どこまでわかってやってるんだろう。すごいな。
陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 @Keiya_Takahashi 11月29日
古い陰陽道の文献には五芒星がない。また土御門安倍家の菩提寺だった真如堂は「晴明判☆」初見の「真如堂縁起」を伝え、現在も晴明判☆を授与する。さらに室町時代頃から真言宗僧や修験者が晴明判☆を初めて記した「ホキ内伝」を全国に広めたという論文があるので、五芒星は仏教から来たと考えられる。
「五角形と五芒星は古くから五行の相生と相剋を表す図」とよく説明されるが、いろいろと調べてみたら、これは昭和時代初期頃から使われ始めたようだ。その証拠に安倍晴明の六壬式占書「占事略決」の他、大正時代頃までの暦や占い本に「木生火、火生土・・・、金剋木、木剋土・・・」と書かれている。
旅にゃんころ仙人2中級霊能者ハイジア @goldencat222 12月
遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)というのは、あるものについて「こういうものだと判断し、そうと信じ込んでしまうこと」だ。人はこれを無意識に、たくさんしているので、そのガッチリ掴んでいるたくさんの手を緩めれば、これまでと違うパターンの連鎖ができる。
遍計所執性をひとつ除くというのは、心理系でよく言う「プログラムを書き換える」に相当する。余分を除いて、新しい連鎖パターンを作る。
陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 @Keiya_Takahashi 12月4日
陰陽道は国家占い官庁、陰陽師は国家公務員占い師という公的なもの。また占いをすればよいから霊能力は必要ない。さらに特別な修行法もなく、占い知識の方が重要になる。そして祓いや祈祷の時に密教や魔法のような複雑かつ特別な意識的操作を必要としない形式的作法だから、密教や魔術・魔法でもない。
陰陽道は、国家的事件を占う官庁・役所であり、また六壬式占で占いをし、祓いを行う陰陽之術を使う国家公務員占い師の陰陽師の活動形態を指す言葉でもあるから、信仰する対象にはならなかった。だから、平安時代に安倍家は寺院で一族の平安と繁栄を願い、土御門安倍家は浄土宗寺院の檀家になったわけ。
安倍晴明や他の陰陽師が霊能力で怨霊や悪霊を祓った歴史的記録はなく、講談や物語で作られた虚構話。当時の慣例では怨霊や悪霊には密教僧や修験者が対処したが、将門の首塚は遊行念仏・時宗の他阿真教上人が、江戸時代には浄土宗の祐天上人が累の怨霊を済度している(怪談累ヶ淵、目黒の祐天寺開基)。
陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 @Keiya_Takahashi 12月2日
今は占いや信仰は個人的と考えるが、昔は国家的なものと考えていた。だから災異や怪異の事件は将来に国家的規模で起こるであろう事件の予兆と考え、神祇官の亀卜や陰陽道の六壬式占で占い、主に護国(国を守る)の役割を担う仏教の儀式で祓っていた(陰陽道の祓いは補助なので行わないこともあった)。
陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 @Keiya_Takahashi 2015年9月28日
陰陽道が行う祓いの際、まず怪異や病気などを六壬式占で占って原因が死んだ人の霊による霊障(怨霊や悪霊など)の場合、当時の慣例として密教僧や修験者などに任せた。だが、竈神や土公神、または鬼(疫病を流行らせる疫鬼や人を食べる鬼の求食鬼など)によると判明した時は陰陽師の祓いが出番となる。
陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 @Keiya_Takahashi 2015年9月27日
昔、怨霊や悪霊などを祈祷によって祓ったのは密教僧や修験者だったが、僧侶や修験者であれば誰でもよいわけではなかった。つまり荒行を行い、加持祈祷によって災いを祓い、病気を治す特殊な力を持つ「験者(げんじゃ、げんざ)」と呼ばれる霊験を現す僧侶や修験者でなければ、その任を果たせなかった。
陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 @Keiya_Takahashi 12月18日
江戸時代以前までの陰陽道の文献には五芒星はなく、ほとんど使った形跡もない。実は四縦五横印(ドーマン印)の方が多く、密教や修験道のように空間に切らずに反閇を踏む時に呪符と一緒に地面に描く。どちらかといえば五芒星は修験者や密教僧が多く用いており、「陰陽師=五芒星」説は時代的に新しい。
陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 @Keiya_Takahashi 12月2日
前にある人が「僧侶の祈祷でダメなら陰陽師を呼ぶのが昔の決まりだった」と述べていたが、そんな決まりは全然なかった。また「神職にも不可能な時」ともしていたが、江戸時代までは一部を除き、神社の祭りは主に僧侶が行い、神職は補佐なので僧侶や陰陽師が関わるような問題にはノータッチだったはず。
(祭りを坊さんが担当し、仏教化された神々を祀る施設って神社じゃなくて寺)
陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 @Keiya_Takahashi 12月18日
「安倍晴明の五芒星は『五角形と五芒星が古くから五行の相生と相剋を表す図』が由来」と説明されるが、調べてみるとこの図は昭和時代初期頃から使い始めたようだ。なぜなら晴明の六壬書「占事略決」や他の大正時代頃までの暦や占い本に「木生火、火生土・・・、金剋木、木剋土・・・」と書かれている。
王王大栄 @ououdaiei 12月1日
老子や荘子と韓非子と孫子が仲がいいのは、せいぜい人間の作れる秩序は「仮初めのもの」という見切りなり諦観があるからだろう。それが事態を動かせる重要なカギ。善用する悪用するかの違いがあるけど。
陰陽師の作品、気付くと多く指導☆高橋圭也 @Keiya_Takahashi 12月8日
陰陽道は哲学思想と無関係の現世利益優先の占い専門官庁だから、宗教のように来世や極楽で死後の魂を救う方法論はなく、全て坊さん任せ。また昔の貴族は死ぬ前に頭を剃り出家の姿となって指に結んだ紐を阿弥陀如来の画につないで死後に極楽浄土への往生を望んだが、陰陽師も貴族だから全く同じだった。
ヒラ:// @punanny_chang 12月8日
言った事が現実になる、これを言霊と言うわけです。寺の坊主はお経をモゴモゴ唱える。これは言霊が逃げないように、という理由。よく韻踏むためだけに簡単に言霊とか吐く薄っぺらいMCいるけどその意味わかってんのかよ?と。
王王大栄 @ououdaiei 12月9日
荘子と禅仏教はかなり深刻な関係があると思う。荘子を読んでいてなんとなくそう思った。
スピ系が一瞬好きそうな荘子だけど。荘子はオカルトを無視もしないし重視もしない。「放置」に思える。それに執着するとそれにとらわれて痛い目に会う、と主張する。「神秘!」と騒ぐ暇があれば、ボーとしている方が良い。というスタンスの荘子。
「神秘」を有りがたがったり、崇めたりして時点で、その意味が消える。荘子的にはそうだよね。
孔子は、「神秘」は「敬して遠ざける」てスタンス。軽視もしないが無視もしない。それに取らわれて地道な日常を怠るのは断固ダメという立ち位置。
荘子から言うと、構えて瞑想するのも「無用な作為」とするところもある。が「包丁の例え」もあるが、修練も軽視しない。が瞑想や求道のための格別な修練には疑問符を付ける。日常こそ神秘の求道の実践の場。てスタンスも荘子にある。
狼たちは知っている @wolvesknow 12月11日
六韜や孫子の兵法なんてのは、明治初期までは日本人の基礎的な知識だったよね。文明開化で西欧史上主義に誘導されるまで、中国の歴史や思想を学ぶのは基本だった。兵法を学ばれるのはそんなに都合が悪いのかな? それよりマキアヴェッリの君主論を知られる方がまずい気がするが。
高山龍智 @nagabodhi 12月10日
ちなみに「のんのん」は観音の幼児語。広義のホトケサマ。他に「のんの」「のの様」など。地域によっては南無阿弥陀仏(なんまんだぶ)の幼児語「まんまんちゃん」も使われる。 https://twitter.com/yash_san/status/674810493161181184 …
Yash_san(´・ω・`)و @yash_san 12月10日
水木先生の世界観に大きな影響を与えたのんのんばあは「拝み屋」の家のお婆さんだったが、昭和初期は病気は拝んで治すという考えが普通だったそうだ。昭和9年生まれの方に話を聞いたら、小学生くらいの頃に足が痛くて歩けなくなった時、近所の祈祷師みたいな人に拝んでもらったとか。
腎臓の病気を疑われた時は日蓮宗のお坊さんが家に来ておがんでくれたそうで、病気になったら取りあえず拝むということだったらしい。
「拝み屋」という職業はいつ頃まで成り立っていたんだろうね。
ららら らー @LaLaLanLanLan 2012年7月27日
にチベット仏教を信じるチベットやブータンの人は、墓を持たない。墓に入れられ“執着”されると輪廻転生できなくなるからだとか。天国を信じるイスラム教徒も、“仮住まい”に過ぎない墓に執着することは戒められる。墓を持つくせ輪廻転生も天国地獄も信じちゃう日本人をどう思うか聞けば良かったな。
knznymmmy @knznymmmy 2015年12月20日
私は輪廻転生お断りだな
こんなクソまみれの世界に生まれて何が楽しい?
二度と生まれたくなんかないね
イルミナティ@ @RisingSun_kiri 9月26日
カルトを見破る方法。
①釈迦は涅槃して、二度とこの世に戻ることはない=生まれ変わりなど絶対ない
②キリストは、再降臨の時に本人が戻ってくるので、キリストの生まれ変わり・俺がキリスト とか絶対ない
カルトを見破る方法②
③釈迦は預言者ではない(神というものがない
④教祖が神の言葉を伝える預言者であるならば、楽で豪華で金持ちな暮らしなどできない。イスラム教のムハンマド、旧約聖書のモーセ以外の預言者、キリスト=預言者は、大衆からいじめられ暴力をふるわれ最後に悲惨な状態で死ぬ
buvery @buvery 1月30日
@hitoribbq 例えば、ヒンズー教徒はガンガーの河岸で焼いて、遺体を川に捨てます。だから、石の墓はない。親鸞が、死んだら鴨川に捨てれば良いと言ったのは仏教的には正しくて、輪廻転生しているから屍体や骨には意味がありません。骨に意味があるのは、儒教です。
Arbre De Soie @ArbreDeSoie 2013年8月14日
なんで日本人はお盆に墓へ参り、家にお迎えするの?これは儒教の考えで、仏教ではない。儒教は孔子が中国で、仏教は釈迦がインドで開いたもの。輪廻転生の考えがある仏教は、先祖がこの世に帰る、盆や彼岸なんて考えはないはず。49日過ぎた魂は、またこの世に生まれるのだから。
王王大栄 @ououdaiei 12月15日
仏教っていうけど、日本はもともとは「仏道」「仏法」といっていた。生きための作法・方法ってこと。宗教も英語を日本語訳にした時に老子からもってきたことば「それを私の教えの宗にしよう」生きる作法であって「信仰・信じる」とかでもともとなかったようだ。
宗教を信じるって決めつけたのは「信じる」から始める「パクティーヨガ系」宗教の耶蘇教の思想ってことだろう。そういうことで、信仰を第一にする現代の「宗教観」は少しゆがんでいると思う。
そういえば、インドでも「宗教」は「ダルマ」という「法・生きる作法」みたいなもの。仏法も「ブッダ・ダルマ」仏陀の法ってこと。この方が大過ない見方に思えるけど。
王王大栄 @ououdaiei 12月16日
訂正・仏教っていうけど、日本はもともとは「仏道」「仏法」といっていた。生きるための作法・方法ってこと。宗教も英語を日本語訳にした時に老子からもってきたことば「それを私の教えの宗にしよう」生きる作法であって「信仰・信じる」とかでもともとなかったようだ。
ちきん@迷走中 @hibakukihi 12月16日
考えなさいという宗教と、考えるなという宗教。
同じ「宗教」という括りでいいのか問題。
なんか別の物じゃない?
(「考えなさい」と説き、「論理的思考が大事であるとする姿勢」なら宗教ではなく哲学。
つまり、「無記」の原始仏教や、初期大乗仏教である「空」の中観派などは哲学)
P・グラレム @pinkglalem 12月15日
宗教は社会を不安にさせます。人々が不安になればなるほど、信仰心は加速します。在りもしないしない来世と救済のために自らの人生を浪費する根気を宗教は与えてくれます。死のその瞬間まで人々はその幻想を信じるのです。信心深い人はとても根気強い人です。
あなたの根気強さが、あなた自身を苦しめているのです。
(×根気 ○執着=苦しみの原因)
「いやあ、落語って本当にいいもんですね」
<了>
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