読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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「奴隷制度は自然法則!」と数学的にほざいたアリストテレスの『政治学』『形而上学』。  日本の学校=和風の神学校。 

アリストテレスの主張を超要約
「奴隷は自然に生まれる!」
「完全な家は奴隷と自由人から出来ている!」
「男は女より上」
「魂と精神は肉体より上」
「考える職業は肉体労働者より上」
「自分たちの安全は支配層のおかげであり、また自分たちが不正をうけないのも支配層のおかげだ考えるように仕向けろ」
「体制にそぐわない生活をしている奴を監視しろ」
「(富裕層と貧困層の)中間層を増やして支配せよ」
「財産よりも、出産を制限しろ」
「財産の額を規定するなら、同時に子供の数も規定しろ」
「多くの者が金持から貧乏人になると革命家となるので善くない」


上記や過去記事で語ってきたプラトンやアリストテレスなどのギリシア哲学をベースに西洋哲学を教えてきたのが、キリスト教の神学校。
信者は死んでも蘇るという思想を持つクリスチャンが作った神学校が今の日本の学校教育のモデル。
ギリシャ哲学とキリスト教が基盤なのが日本の教育。
だから聖書に基づき日曜日が休みで、ギリシャ哲学者のアリストテレスが言っているように図画(工作)、音楽、体育(文化祭、体育祭なども)
があるわけです。

以上でわかるように、ひも付き陰謀論者はギリシャ哲学を批判しません。神学の中核なのでギリシア哲学を否定できるわけがないのです。
ギリシャ哲学を善とみなしている陰謀論者は全員アウト。
キリスト教を善だとみなしている陰謀者は全員アウト。
キリスト教をギリシャ哲学で覆ったキリスト教神学の詭弁を使いまくる陰謀論者は寸止めばかり。
「論理(=嘘を見抜ける強力な武器)」を否定するスピリチュアルが改造版キリスト教なのを見抜けない陰謀論者はアウト。
支配層を「悪魔崇拝者」「ルシファー」「悪魔」「ユダヤ」と呼ぶ陰謀論は「すべて」キリスト教思想の支配下。
「だから」本が出せる。「ゆえに」真実ではありえない。
無自覚含め害悪の程度の差はあるが「全員」が「宣教師」。
ギリシャ哲学とキリスト教が真の黒幕。
ギリシャ哲学+キリスト教
=キリスト教神学。
人間はしょせん思想の手先に過ぎない。
神学にもとづく思想とシステムこそが本体。
だから人間をひたすらたたかせて感情をあおって判断力を奪う。


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わかりやすくて面白い古典が読みたいあなたのために
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世界の古典つまみ食い
ttp://www.geocities.jp/hgonzaemon/index.html
という素晴らしいサイトはおすすめ翻訳文がたくさんあるのですが、特に重要な。

奴隷制度を肯定したアリストテレス
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/intro_aristetle_intro.html

アリストテレスの『政治学 』 第一巻
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/politics.html
第一章   国家は一種の団体である
第二章   国家は自然に生まれてくる
第三章   家庭と奴隷
第四章   奴隷は道具である
第五章   奴隷制度は自然なものである
第六章   生まれついての奴隷と戦争奴隷の違い
第七章   政治家と奴隷の主人の違い
第八章   自然の摂理に則った財産獲得術
第九章   二種類ある金儲けの技術━商売の誕生 (必読。ここに『資本論』の出発点がある)
第十章    家庭の経営と自然な金儲け
第十一章  金儲けの実践的知識  (タレスの金儲け術の話はここにある)
第十二章  夫婦関係と親子関係について
第十三章  家庭経営に必要な美徳について

をすすめておきます。
ですます調で奴隷制は自然だとか必要だとか、男は女より上だとかを数学の証明のように言われるものすごい恐怖と狂気を感じます。

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アリストテレスの著作の読書メモとコメント
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ひとは財産よりも、むしろ産児を制限して或る数より以上に生れないようにすべきであり、またこの人数を定めるにも、生れた者のうち或るものが死ぬこともあるので、そういう場合の災難に対しても、またその他の人々に子のないこともあるので、そういう場合に対しても注意を払うべきであると思うであろう。しかし大多数の国々においてのように、産児が放任されていると、それは国民にとって必然に貧乏の原因となるが、この貧乏はまた国に内乱と犯罪とを作り込むのである。”p.86 第二巻 第六章



“しかるに、プラトンは『ノモイ』を書いた時、或る程度までは不平等を許さねばならないが、しかし最小の財産の五倍以上を所有することは国民の誰にも許さるべきではないと思った。これはさきにも述べた通りである。
しかし、また、次のことは今日見過されていることだけれども、このような立法をする人々の見過してはならないことである、それは財産の額を規定するなら、同時に子供の数をも規定するのが適当なことだということである。というのは、もし子供の数が財産の額を超過するなら、その法律は必然に廃棄されることになる、そしてその廃棄は別としても、多くの者が金持から貧乏人になるのは善くないことである。というのはこのような者が革命家とならないのは難しいことであるから。”p.89-90 第二巻 第七章


“別に一つの支配がある、それにおいては自分と生れの同様な者、すなわち自由人を支配するのである(何故ならここにわれわれの言っている支配は政治家的支配のことであるから)、そして支配者はこの支配を、支配されることによって学ばなければならない、ちょうど騎兵を支配することは騎兵として支配されることによって、将軍として支配することは将軍に支配され、将軍の部下の部隊長として、またその部下の区体長として支配することによってであるのと同様である。それ故また、「支配された者でなければ善き支配者たることは出来ない」という言葉も実際真実である。そしてこの両者の徳は異ってはいるが、しかし善き国民は支配されることも支配することも知り、且つ出来なければならない。そうしてそれが国民の徳である、すなわち、自由人の支配をその両面において知ることが。
そこで、またこの二つが善き人間の徳であることになる、そうしてもし支配者にふさわしい節制と正義の種類が異ったものであるなら――異ったというのは、被支配者ではあるが自由人である者のそれから、の意だが――明らかに善き人間の徳、たとえば正義は一つでないことになろう、むしろ種類を含むものであって、その徳の違った種類に即して支配し支配されることになろう。その違いはちょうど男と女との節制と勇敢とが異っているようなものである(というのは男がもし勇敢な女と同じような程度で勇敢であるなら、卑怯者だと思われるだろうし、また女は善き男と同じような程度で慎しみ深いのであるなら、おしゃべりだと思われるだろうから。それは家政さえも男と女とのでは異っているからのことである、というのは男には獲得することが、女には守ることがその仕事であるから)。
しかしただ思慮だけは支配者に独得な徳である。というのはその他の徳は被支配者にも支配者にも共通でなくてはならぬようであるが、しかし思慮は被支配者の徳ではなくて、ただ真なる意見だけがそうなのである。というのは被支配者は笛作りのような者であり、支配者はそれを用いる笛吹きのような者であるからである。”p.132-133 第三巻 第四章

奴隷は支配される側であって、奴隷に支配されることで奴隷の支配を学べということではありません。自由人と奴隷との間には大きな断絶がありますから、あくまで自由人に限定した話です。
支配する為にはまず支配されよ、は逆AでAを学ぶ有用な技術。
思慮は支配者に独特ということは知性主義の反映です。ボスが馬鹿だと駄目なのはわかりますけどね。笛を作るのにも思慮は必要なのでは?



“ 人々が教育として教えるのを常としているものは大体四つである、すなわち読み書き、体操、音楽、第四に、或る人々によれば図画である”p.363 第八巻 第三章



デーミウルゴスという言葉はアテナイやその他の国で普通には職人という意味で用いられていた。従って、臼作りもデーミウルゴスの一種である。
しかしこの言葉は或る国々では国の重要な役の呼び名でもあった。

・海賊はアリストテレスのころ、いやその後までも東地中海では一種の職業として多目に見られていた


“さて先ず第一に、互に他なくしてはあり得ないものは、一対となるのが必然である、例えば男性と女性とが出産のために一対となるが如きである(そしてこのことは人の選択から起るものではなくて、他の動物や植物においてのように、自分のようなものを別に自分の後に遺そうと欲することが生来のものだからである)、また生来の支配者と被支配者とが両者の保全の為に一対になるが如きである。何故なれば心の働き(ヂアノイアー)によって予見することの出来る者は生来の支配者、生来の主人であるが、肉体の労力によって他の人が予見したことを為すことの出来る者は被支配者であり、生来の奴隷であるからである。だからして主人と奴隷とには同一のことが『為に』なるのである。”p.32-33
アリストテレス『政治学』 山本光雄訳 岩波文庫第一巻 第二章
※『』は原文にはなく『』内の傍点の代役。

完全な家は奴隷と自由人から出来ている”p.37第一巻 第三章


“先ず第一に生物において、主人が奴隷に対してなすような支配も、政治家が同国民に対してなすような支配も見ることが出来るのである。何故なら、魂が肉体を支配するのは主人的支配によってであり、理知(ヌース)が欲情を支配するのは政治家的『或は』王的支配によってであるから。そしてこれらにおいて明らかなことは、肉体にとっては魂によって支配されることが、また魂の受動的部分にとっては理知や有理的部分によって支配されることが自然に一致したことでもあり、また有益なことでもあるということ、しかるにそれらが平等になるか、逆さまになるかすると、凡てのものにとって害があるということである。さらにこの関係は人間とその他の動物との間においても同様である。何故なら家畜はその自然が野獣より優れたものだが、しかしこれら家畜の凡てにとっても、人間によって支配されることがより善いことだからである。そうされることによって彼らは救いを得るからである。そしてさらに、男性と女性との関係について見ると、前者は自然によって優れたもので、後者は劣ったものである。また前者は支配する者で、後者は支配される者である。そしてこのことは凡ての人間においても同様でなければならない。
だから、他の人々に比べて、肉体が魂に、また動物が人間に劣るのと同じほど劣る人々(このような状態にある人々というのは、その働きが肉体を使用することにあって、そして彼らの為し得る最善のことはこれより他にないといった人々のことである)は誰でも皆自然によって奴隷であって、その人々にとっては、もし先に挙げた劣れるものにも支配されることの方が善いことなら、そのような支配を受けることの方が善いことなのである。何故なら他人のものであることの出来る人間(それ故にまた他人のものでもある)、すなわち理(ことわり)をもってはいないが、それを解するくらいにはそれに関与している人間は自然によって奴隷であるからである。というのは他の動物どもは理を解してそれに従うということはなく、むしろ本能に仕えているからである。しかし実は奴隷と動物との間に、有用さという点では大した相違は存しない。何故なら生活必需品のために肉体を以て貢献するということが両者の能(はたら)きなのだから。
”p.41-42第一巻 第五章
※『』は原文にはなく『』内の傍点の代役。

動物蔑視。
家畜(動物)は人間に支配されることが善。
家畜(動物)は人間に支配されることで救われる。
家畜が野獣より優れていると言っているのは、家畜は人間の言うことを聞くからですよ。
動物と奴隷はどちらも道具(「有用」という言葉は普通は人間には使いません)。
男尊女卑。女<男。
魂が肉体を支配する。肉体<魂。
理性主義。欲情(感情)<理知(理性)
奴隷制度は必要=階級制度は必要=平等は有害、悪。
奴隷は理を解することはできる=ある程度は賢いが、理がないのでやはり馬鹿。
あるい程度賢い馬鹿が支配層に必要だから、学校=時間と規則に厳しい労働者育成施設があるのです。
優れた業績によって残ったよりも、支配層に都合がいいから残った側面が強い。
業績<支配者の都合。
支配層がアリストテレスの思想に従った結果アリストテレスが生き残ったのさ!



・アリストテレスの理想は、「財産は私有、だがその使用は共有」。
(奴隷も財産=物なので奴隷も共有
ということに)

国家という言葉で現代で思い浮かべるイメージはアリストテレスのイメージと異なっている。国家、国とはポリス=都市国家、市邦。
都市であって国家であるのが都市国家。この都市は市街地を中心にその周辺の田舎あるいは地方を含めたもの。市街地はスパルタのような特殊な国を除いて、ほとんどが城壁あるいは都壁で囲まれていた。実際、アリストテレスは城壁の有無の善し悪しについて論じている

ポリスの領土は市街地、田舎を合わせて、一般の平均は約70平方マイルくらいで、例外的な広さをもったアテナイが1000平方マイル(全盛期の紀元前5世紀での国民の全人口は15万ないし17万人。婦人と子供含む。国民なので恐らく奴隷は含まない)
、コリントスが350平方マイル
にすぎなかったという。
(70 mile2 = 181.3 km2
1000 mile2 = 2590 km2
350 mile2 = 906.5 km2
ルクセンブルク 2,586km2
香港 1,104km2
リヒテンシュタイン 160km2

アルバ 
180km2
オランダの海外領土で自治政府あり。


日本の面積約38万km2

林学たん ‏@ringaku_tan 16 時間16 時間前
私有林とは個人や会社が所有している森林で約1457万haあります。日本の面積の約38%、森林面積の約58%を占めています。 因みに日本の面積(平成25年)は約37万7961平方kmです。(国土地理院より)

度量衡換算
http://hp.vector.co.jp/authors/VA018451/javascript/jdoryoko.htm
を使用。

国の面積順リスト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E3%81%AE%E9%9D%A2%E7%A9%8D%E9%A0%86%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88

1国際マイル=1760ヤード = 正確に1609.344メートル
1平方マイル → 2589988 平方メートル
1平方マイル
=27,878,400平方フィート
=640エーカーに等しく
≒2.5平方キロメートル。

“1平方マイルは約2.5平方キロメートルです。従って

皇居の面積(1.4平方キロメートル)の2倍より少し小さい

または
ロンドンハイドパーク(2.5平方キロメートル)と同じ

または
東京デズニーランド(0.52平方キロメートル)の約5倍”
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1162774511
重要なのはかなり狭い範囲の国土での最善を考えているということです)

・アリストテレスは彼の考える理想国の人口をはっきりと限りはしなかったが、
生活の自足を目標に、一目でよく見渡し得る数の範囲内で出来るだけ膨張した人口”(p.321 第七巻 第四章)
がポリスの最善の限界であると言った。
またその人口は
「“いろいろの支配の役を値打に応じて分ち与えるためには、国民がお互にどのような性質のものであるかということを知り合っていなければならない。” (p.320 第七巻 第四章)」
を満たす程度でないといけない。
理想的ポリスの領土は
人間の数は人目でよく見渡せるものでなければならないと言ったが、国土もまたそういう風でなければならない、そして一目でよく見渡せるということはその国土が援軍を得易いということなのである。”(p.322 第七巻 第五章)



“人は、(公的な栄誉のためばかりでなく)私的な生活のためにも変革を起こすものであるから、体制にそぐわないような生活をしている人間、すなわち、民主制国家においては民主制にそぐわないような、寡頭制国家においては寡頭制にそぐわないような、そしてその他いずれの体制においてもその体制にそぐわないような生活をしている人間にたいしては、これを監視するなんらかの公的機関を設けなければならない。また、国家のある部分が他の部分に優ってとくに繁栄している場合も、右と同じ理由によって、(すなわち、かれらの私生活から変革がもたらされるおそれがあるので)この部分にたいしても警戒の目をゆるめてはならない。これ(国家の一部に偏した繁栄という状態)に対処するための方策は、その部分に対立するところの部分――一般大衆にたいしてはちゃんとした生活をしている人たちが、富裕な人たちにたいしては貧しい人たちが対立している――に、つねに政務と公職を委ね、こうして貧しい階層と富裕な階層との融合(均衡)をはかるか、そうでなければ、中間層の増大に力を入れることである。というのは、中間層が増大すれば、不均衡に起因する国内分裂を解消するからである。”p.247-248
アリストテレス『政治学』中公クラシックスで2009年11月再刊、田中美知太郎ら訳 今道友信解説 中央公論社

一億総中流の理由は支配のため!
極端(両端=貧乏人と金持ち)は不和を生み、中庸は和を生む。
完全な平等は無理でもかなりの程度平等にする。あるいは最低限は保障し(最低限の保障のレベルが住みやすさのレベル)て、あとは不平等OKにする。
スタートラインが余りに違うことを防ぐ……
ことができるのは宗主国だけだ!
宗主国でもそうはなってねえし!
植民地=日本では特に、中流「意識」を持たせつつ=そうなっていると思いこませつつ、実際はどんどん格差社会化させ、国内分裂させて、国内をまとめつつ格差を解消しよう!を口実(=嘘をつくこと)にして有色人種国家同士で戦争=有色人種の間引きですね。
中間層の増大のために一定の非差別層を作ることはよく行なわれてきました。その非差別層に特権を与えて間接統治
させることが重要です。

“国家は二つの部分から成り立っているのだから、すなわち貧しい人々の階層と富裕な人々の階層から成り立っているのだから、そのいずれもが、自分たちの安全はかれの支配のおかげであり、また自分たちが他方のものから不正をうけないのもそのおかげであると考えるように仕向けなければならない。これが一番大切なことである。だが、いずれの階層にせよ、そのほうが優勢である場合には、とくにその階層の人々を支配の味方につけなければならない。”p.284

生長の家の隠れ死ん者
「この国が平和なのは天皇のおかげ! 御家は正義!」
って
”自分たちの安全はかれの支配のおかげであり、また自分たちが他方のものから不正をうけないのもそのおかげであると考えるように仕向けなければならない”
を見語tに実行していますね。

富裕層がほぼ確実に優勢側だよね?
あとこれは自由人のあいだでの話しな。アリストテレスにとっては、奴隷=動物=道具=非人間ですので。





・アリストテレスは『自然学』にて、
「時間(クロノス)
=前と後とに関しての運動の数」
と定義している。

・アリストテレスの根本思想は、見ること(観照〔テオーリア〕・理論)が、おこうなうこと(実践〔プラクシス〕・行為)よりも優れているというもの。
技術(テクネー)は主として制作(ポイエーシス。生産)に関する技能であるとして、思慮(フロネーシス)や理論を主とする知恵(ソフィア)と区別され、見下げられている。
(よって、実務を行う奴隷は劣っているし、奴隷制度肯定という結論になります。
奴隷所有を是認し賛美するのがアリストテレス)


“経験家もただたんになんらかの感覚をもっているだけのものとくらべればいっそう多く知恵ある者であり、だがこの経験家よりも技術家の方が、また職人よりも棟梁の方が、そして制作的〔生産的〕な知よりも観照的〔理論的〕な知の方が、いっそう多く知恵がある、と考えられるのである。”
p.25『アリストテレス 形而上学(上)』出隆訳 岩波文庫

“いっそう多く王者的な学の方が、これに隷属する諸学よりもいっそう多く知恵であると解されている、けだし知者は、他から命令される者たるべきではなくて命令する者たるべきであり、かれが他の者に服従すべきではなくて逆にかれよりも知恵の劣った者がかれに服従すべきであるから。”p.26『アリストテレス 形而上学(上)』出隆訳 岩波文庫

“明らかにまた、すべては静止していると説く人々も、すべては運動していると説く人々も、ともに真実を説いてはいない。なぜなら、もしすべてが静止しているとすれば、同じ説が永遠に真でありまたは偽であるはずであるが、実際には明らかにそれは転化しているから(というのは、その説をなす者自らが、かつては存在していなかったであろうし、またふたたび存在しなくなるであろうからである)。しかしまた、もしすべてが運動しているとすれば、なんらの真も存在しないことになり、したがってすべては偽であるということになろう。しかし、このことの不可能であることはすでに証明された通りである。なおまた、存在するものは転化するのが必然である。なぜなら、転化は或るものから或るものにであるから。しかしまた、すべてのものが『或る時には』静止しまたは運動しているというのではなく、またすべてのものが『常に』〔永遠に〕そうしているというのでもない。というのは、動いているものには常にこれを動かす或る者があり、しかもその第一の動者それ自らは、不動であるから。”p.152『アリストテレス 形而上学(上)』出隆訳 岩波文庫

キリスト教の神のモデルの一つが不動の動者でしょうね
アリストテレスは仏教に対してはどう反論するのやら。
諸行無常=万物流転=全ては転化する。
しかし、諸行無常自体は例外的に転化しない=不変の法則にして万物の根源。諸行無常自体が不変なのは、諸行無常自体が変わるなら万物の静止状態にいつかなるが、もし万物が静止したならば何も変化しないのだから何も起こらないから

以上のように主張すれば反論されにくそう。
人格的存在ではないことが重要。宗教家の解釈による大衆操作ができない、あるいはしにくいから。人格なき非人間的法則なら、神の「意志」や「お告げ」が使えませんから

フィクションで「不動」という名字の人が出てきたりしますが、
不動明王ではなく不動の動者を意味していることがあるのでしょう
ね。
無論、大した意味はないこともあるでしょう。が主役級なら意味を大抵の場合は込めるものです。)

※角括弧〔 〕の中の文字または文句は、訳者によるものなので注意。

“さらにこの第一の天界を動かすところの或るものがある。動かされ且つ動かすものは中間位にあるものであるから、動かされないで動かすところの或るものがあり、これは永遠的なものであり、実体であり、現実態である。〔では、どのような仕方で動かすか?〕それは、あたかも欲求されるもの〔欲求対象〕や思惟的なもの〔思惟対象〕が、〔欲求者や思惟者を〕動かすような仕方で動かす、すなわち動かされ〔も動きもし〕ないで動かす。ところで、欲求の対象と思惟の対象とは、それぞれの第一のものおいては、同一である。けだし、たんに欲望されるもの〔非理性的欲求の対象〕は現象的にそうある善美なものであるが、願望されるもの〔理性的欲求の対象〕のうちの第一のものは真に存在する善美なものである。しかるに、我々がそれを欲求するのは、それが善美であると思われるがゆえにであって、我々がそれを欲求するがゆえに善美であると思われるのではない。そのわけは、思惟が始まり(アルケー)だからである。
(…)
ところで、なにかがそれのためにであるそれ〔そなわちそのなにかの目的〕が不動なものの部に属することは、それの意味を分割すれば明らかにされる、すなわち、なにかが『それのために』であると言われる『それ』〔目的〕には、(a)或ることが他の『なにものか』〔の利害・害悪〕『のために』なされるその『なにものか』を意味する場合と、(b)或ることが『なにものかを目ざして』なされるところのその『なにものか』を意味する場合とがあるが、これら両義のうち、後者は不動なものの部であるのに、前者はそうではない。だからして、後者は、愛されるものが動かすように、動かすのである、そして、他のものは、動かされて動かす
(…)
自らは不動でありながら動かす或る者が存在しており、現実態(エネルゲイア)において存在しておるから、この或る者は、決して他ではありえない。なぜなら、諸種の転化のうちで第一のものは移動であり、移動のうちでも第一なのは〔天体の〕円運動であるが、さらにこれを動かすのがこの或る者なのだから。そうだとすれば、この或る者は必然(アナンケー)によって存在するものである。そして、必然によって存在するものであるかぎり、善美に存在し、このように存在するものとしてのかぎり、この或る者は原理(アルケー)である。
(…)
そして、この或る者の暮らし(ディアゴーゲー)は、我々にとっても最善の、しかし我々にはほんのわずかの時しか楽しめないところの最善の生活である。“
p.151-153第12巻第7章
『アリストテレス 形而上学(下)』出隆訳 岩波文庫

あらゆる存在の第一のもの〔窮極的原理〕は、それ自体においても付帯性においても不動なものでありながら、しかもあの〔天界の〕第一の永遠的で唯一の運動を動かすもの〔第一の不動の動者〕である”
p.155-156第12巻第8章
『アリストテレス 形而上学(下)』出隆訳 岩波文庫


アリストテレスが不動の動者について述べているのは『自然学』 第8巻
『形而上学』第12巻第7~8章
「神」(希: θεός)
不動の動者(ふどうのどうしゃ、希: τὸ κινοῦν ἀκίνητον、英: unmoved mover)

“第七章 永遠的な運動を起こす第一永遠的な動者は全くの現実態であるからそれ自らは全く不変不動な実体であ り,あたかも思惟の対象や欲求の対象が思惟者や欲求者を(あるいは愛人が愛者を)動かすように,自らは動かないで他のすべてを動かす.この第一の不動の動 者に世界のすべては依存する.これは善であり,生命であり,不断に自らを思惟・観照している純粋理性であり,これが神である.その観照の生活は全く完全で あり,快である
第八章 諸天体の運行を司どる多くの天球の諸運動のためには,第一の天球を動かす第一の不動の動者(神) のほかに,それだけ多くの不動の動者が存在すべきである.エウドクソス,カリッポスの諸天球の設定.アリストテレス自らの設定.その数は,合計五十五また は四十七であろう.第一の不動の動者はただ一つであり,世界も一つである.
”http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/3360440/top.html

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参考資料
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子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 7月14日
@lanekota @WorldWildWow 王が獣に紐をつけているのか、獣が王に紐をつけているのか。 国際汎ヨーロッパ連合(太陽十字+メーソン+ハプスブルク+選帝侯の末裔)が元ネタのEUの本部はベルギー。地味故に本丸。黒幕が偽のボスの部下あるいは、民間人に偽装する創作物あり。

猫太”黒幕というのは目立たないとこにいるんですよ。そうやって人を動かすのが悪の魔道師のアリストテレス的な不動の動者。組織を回すエンジニアは目立ってはダメです。”
ユダヤも在日もキリスト教と大本教系の囮。出回っている情報は怪しむべき。目立つ=囮。黒幕は常に良いイメージを保っている。

”学院の例ですと、現場で生徒たちを伸ばす仕事がうまい現場主義の先生と、学院の仕組みをデザインしていかに美学を持った魔道師たる賢者を作る仕組みをうまく作るかの仕事に別れます。管理職と現場は役割違い、どっちが偉いとか間違ってる”
一番大事な食べ物を作る人の地位が低いのは支配層のせい。




いかなる技術、いかなる研究(メトドス)も、同じくまた、いかなる実践や選択も、ことごとく何らかの善(アガトン)を希求していると考えられる。

(アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』高田三郎訳 岩波文庫 第1巻第1章冒頭より引用)

善とか幸福とかは、快楽や名誉や富には存しない(第1巻第5章)


人間は本性上市民社会的(ポリティコン)なものにできているからである。

(アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』高田三郎訳 岩波文庫 第1巻第7章1097b10

魂をすぐれて活動させることが最も善きこと(第1巻第7章)」

「人間というものの善」とは、人間の卓越性(アレテー)に即しての、またもしその卓越性が幾つかあるときは最も善き最も究極的な卓越性に即しての魂の活動であることとなる。

(アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』高田三郎訳 岩波文庫 第1巻第7章1098a18より引用)

節制も勇敢も「過超」と「不足」によって失われ、「中庸(メソテース)」によって保たれるのである。

(アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』高田三郎訳 岩波文庫 第2巻第2章1104a25

生きていることは植物にとっても当てはまる。なので栄養摂取とか成長は人間に特有とは言えない。感覚的な生はあらゆる動物にとって共通のはずなので、これも人間に特有とは言えない。
人間に固有の機能は、魂の「ことわり」(ロゴス)を備えた活動としての生だ。一切の機能は、それ固有の卓越性(アレテー)に基づいて行われる際に、 もっとも最も「よく」達成される。なので人間にとっての善は、人間の卓越性に基づく、魂の活動にほかならない。牛や馬がこうした活動を行うことはできな い。なので私たちは「牛や馬は幸福である」とは決して言わないのだ。

「劇場でおやつを食べる人たちは、演技をする者たちが下手な場合、そのときにいちばんおやつを食べ出すのである。」 アリストテレス『ニコマコス倫理学』1175b

富が我々の求める善でないことは明らかである。富は何かのために役立つもの、それ以外のもののために存在するものでしか無い-アリストテレス「ニコマコス倫理学」

IdeasFromWords ‏@IdeasFromWords 3月31日
医療職に問わず、社会人として仕事をする上で『PDCAサイクル』は非常に重要である。 P: procrastinate (締切直前まで放置) D: delay (期限を延ばさせる) C: cheat (適当に誤魔化す) A: apologize (心を込めて謝罪する)

佐倉 りおね子 @Rio_7th · 5月28日
あ のさー。そろそろ誰か「人格と社会的成功は関係ない」って身も蓋もない事実を言ってあげなよ。カーネギーはナチスの優生学を支持してたしウォルト・ディズ ニーは東洋人を差別してた。心根が綺麗であれば幸せになれるなんて夢物語を語って誰かが不幸になる代わりにあんたの財布が膨らんで楽しいか?

ken @kenkatap · 7月19日
ハンセン病患者隔離=優生学的施策 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%AA%E7%94%9F%E5%AD%A6#.E6.A6.82.E8.A6.81 …
優生学の目的=知的に優秀な人間の創造
▼ナチス独に限らず、米や北欧も
▼米優生学協会は、カーネギー、ロックフェラーなど財閥が援助

▼人間を「尊厳」でなく、「価値」の優劣で理解する思想を、根底に有する

ジャムマン @pookoomoo555 · 2014年2月24日
米国にパイオニア基金と言う財団がある 「有色人種等、劣った人種を遺伝子工学を使い人種改良する」と言う財団 財団の活動資金は、ドレイパー一族が全額出資 ブッシュ元大統領一族と共に米国のアヘン専売企業ラッセル社を創立しキリスト教原理主義教会を創立したドレイパー一族 (オルタナティブ)

いまあつ @imaatsu1974 · 5月29日
カーネギーがナチスの優生学政策を支持してたとは初耳。もともと優生学はアメリカで流行し、(身の毛もよだつようなこともアメリカで行われて)それをナチスも取り入れたそうなので、カーネギーがナチスを支持しても不思議ではないが。

雪月花❀ @setugetuka7 · 2013年10月2日
優生学の手法https://www.facebook.com/satoru.utsumi/posts/457306084353150 … 1920年代からロックフェラー、カーネギー、ハリマンなど裕福なエリート家系の資金を受けてきた優生学勢力が公然と認める狙いは、彼らが「消極法的優生学」(望ましくない血統を計画的に絶やすこと)と呼んだものに具体化した。

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 10月4日
これ、神学をやっていないと 分らない人多いのだが、 キリスト教ってのは死んでも 最後の審判の日には生き返って しまう教え。 信者がいくらクタばった所で 教会は全く気にせん


天正遣欧少年使節の派遣(1582年2月20日~1590年7月28日)
セミナリオではどんなことを学んでいたのか?
http://herculessamurai.web.fc2.com/tenshokenoushisetsu13.htm
“(これは実際にセミナリオで使われていたテキストです。
解読すると、以下のとおり。

Nifon no cotoba to historia vo
(日本の言葉とヒストリア(歴史)を)
narai xiran to fossuru fito no tameni
(習い知らんと欲する人のために)
xeva ni yavaraguetaru Feiqe no Monogatari.
(世話にやわらげたる平家の物語。)

絵の下に書かれているのは、以下のとおり。

Iesus no Companhia no Collegio Amacusa ni voite
(イエズスのコンパニアのコレジオ天草において)
Superiores no go menqio to xite
(スペリオレスのご免許として)
core vo fan ni qizamu mono nari.
(これを版に刻むものなり。)
Go xuxxe yori M.D.L.XXXXII.
(ご出世より一五九二。)
<注>
・イエズスのコンパニア=イエズス会のこと
・コレジオ天草=天草にある大神学校のこと。コレジオは大神学校、セミナリオは小神学校。
・スペリオレス=スペリオール。コレジオの院長のことを「スペリオール」と呼んだ。
・ご出世より一五九二=キリスト誕生から1592年目。つまり西暦1592年発行。

セミナリオ生だけでなく外国人宣教師たちも
平家物語から日本語を勉強しました。
したがって「平家物語」は
初めてヨーロッパ人が触れた日本文学と
いえるかもしれません。
そのほか、形而上学的思考を習得するための、
倫理神学、哲学、神学などの哲学系学問。
プラトンやアリストテレスなどの
ギリシア哲学をベースに
西洋哲学を学びます。
そのほか聖歌、ヴィオラ、オルガンなどの
楽器や歌を学ぶ音楽の時間。

油絵などの西洋画法を学ぶ美術の時間。

地球の構造や天体を学ぶ、地理学、天文学。

体力づくりには欠かせない、体育。

文化祭、体育祭、遠足などの学校行事。
夏休みもありました。
いまの学校とあまり変わりがないと思いませんか?
現代日本の学校教育は、 西洋の学校教育を基礎に作られました。
セミナリオで行われていた授業は、現代日本の学校教育のさきがけ
ともいえます。
(…)
セミナリオの校則
・古典を学んでいるものは、作文または祈りを教師に審査してもらうこと。
・哲学と神学を学んでいるものは、教師の前で討論をすること。
・生徒の情熱を一層かきたてるために、最も優秀なものにはなんらかの褒美を与えること。
・そのために身分の高い人物や、またはその使者、または生徒の親をその場に招待してもよい。
・クラスの教師は、生徒が罪を犯したときには、罰することなく、まずは学長に報告すること。
・クラスの過失について、生徒を罰するときには、生徒自身がおこなうこと。だがそれは、しかるべき程度を超えてはならない。
・起床、祈り、ミサ、食事、学習、就寝時の決まった時刻には鐘を鳴らすこと。
・各生徒は、自分の椅子・机、および夜学習するための各自の蝋燭を所持すること。
・生徒たちはベッドと机を常に整頓し、配慮すること。
・蝋燭は、夜は必ず各部屋で灯をともしていること。
・他人の部屋に入ってはいけない。
・他人のベッドに横になったり、座ったりしてはいけない。
・愚弄されても、激昂してはならない。
・下品なあだ名をつけられたりしないこと。
・外部の人間から大量に贈呈品が送られてきたときは、共有のものとして配分すること。わずかの時は、送られてきた人にあたえ、それが調理されたものだったら、食堂で食べること。菓子かまたはそれに類するようなものだったら、箱にしまい、望み次第いつでもどこでも食べていい。
・生徒がセミナリオの外で泊まったり、食事するのは、稀にはよいが、それ以外は許可してはならない。
・またそれらは、彼らの両親や兄弟の家に限る。
・公の場に出るときは、慎みと静粛を守り、学長の命令に従うこと。
・祭りを見に行ってはならない。

参考…高瀬弘一郎著「キリシタン時代の文化と諸相」

土曜日の授業はお昼まで。日曜日はおやすみ。
旧約聖書の「創世記」の冒頭には
「神は六日間にわたって生命をつくりそして七日目に休息した。」と書かれてあります。
これがキリスト教文化における、一週間というこよみの始まり
です。
もちろん戦国時代の日本にはこのような習慣はありませんので、
一週間という概念をもっていたのはキリシタンだけでした。
キリシタン以外の人は日曜日はおやすみではないし、そもそも日曜日自体ありませんでした


セミナリオ卒業後の進路は?
セミナリオを卒業したあとは、本当に聖職を目指すか否か、自分の進路を決めなければなりません。
今までは学生の身分でしたが、これからは本格的にこの道に入っていかなければならないのですから、
しっかりとした意識を持たねばなりませんね。
セミナリオで学んだことにより、神父になる夢を再確認した者もいれば、
自分には向いていないと断念した者もいることでしょう。

聖職を希望する者は、まずは、修道会入会のための試験と面接を受けます。
特定の修道会に属さなければ神父にはなれません。会社に就職せねば正社員を名乗れないのと同じです。
試験に合格したら、その修道会の修練院(ノビシャド)に入り、修練期間に入ります。
修練期間を経て、適性があると認められれば、修道会への入会が認められます。
そこからさらに修練期間を経て、適性を認められれば修道士となり、
司祭になることを希望する者は、またまたさらなる修練期間に入り、
適性を認められれば、修道士から司祭に叙階されます。
カトリックにはたくさんの修道会があるので、どの修道会に属するかは個人の自由ですが、
戦国時代の日本はイエズス会が一番メジャーな修道会だったので、殆どがイエズス会を希望しました。

セミナリオはヴァリニャーノによる創設なので、イエズス会系の学校ということになりますが、
だからといって、卒業後はイエズス会に入会せねばならないという決まりはありません。
(学生は、在学時は、どの修道会にも属していないフリーの状態にあります。)
フランシスコ会でもドミニコ会でも、自分の希望する修道会に入れます。
しかし学校自体がイエズス会の土壌ですから、教師の殆どがイエズス会士であり、
学生もその影響を受けるので、イエズス会を希望するのが自然であり、てっとり早いといえます。

もちろん、卒業生すべての希望が叶ったわけではありません。
なかには、試験に落ちてしまう者もいます。そのような学生は、再び試験を受けねばなりません。
しかしセミナリオ自体は卒業するので、同宿(教会やセミナリオで働くアルバイト)となり、
司祭や修道士の付き人や雑用をこなし、独学で学びながら、聖職を目ざします。(フリーター…?)
また、セミナリオの上のコレジオに進学する者もいれば、
この道を断念し、家業を継ぐなど、他の人生を歩むか…ですね。

コレジオ(collegio)
コレジオ(collegio)とは、セミナリオの上にある、さらなる専門的な高等教育機関です。
かといって、セミナリオ卒業生はみなコレジオに進学せねばならないという決まりは、ありません。
セミナリオ=中学・高校、コレジオ=大学と考えたらわかりやすいかもしれません。
コレジオは英語にすると、カレッジ(collage)です。
セミナリオが年少者向けの学校であったのに対し、コレジオは大人向けの学校。
(セミナリオには、8~19歳くらいまでという、年齢制限があります。)
コレジオで学べるのは、基本的には、セミナリオ修了者、イエズス会入会希望者、修練期間を終えた者。
神父になりたいが、この歳ではセミナリオに入れない…といった、今でいう社会人入学もありました。
日本語を学びたい外国人神父、ラテン語を学びたい日本人修道士なども一緒に学び、立場は多種多様。
コレジオがあった場所は有馬と、大友宗麟のおひざもとの豊後の臼杵でした。
このように、少年使節が学んでいたセミナリオという西洋式の学校は、戦国時代にありながら、
現代の我々が受けているのと同じシステムの教育が行われていたことがわかります。
そのような画期的な教育機関が戦国時代の日本にあったこと、とても面白いと思いませんか?“

覚えておいて欲しい事は、人間を支配しようと欲する支配者はまず先に神話をいじる。たとえばギリシア神話のメドゥーサは、母系社会のギリシア先住民の神だったけど、魔物に貶められた。こんな感じで共認意識である神話をいじる事で民族を支配するんだ。
魔法使いハンターねこた

JAGD @JAGD_owner · 2月5日
プラトン読みながら、自然と儀式やカバラを連想して対照してる連中は、かなり重傷のオカルティスト。プラトンや新プラトン主義の影響下にカバラやヘルメス哲学が作られてるので、元ネタという意味では、歴史的にはありのはずですが…逆にそこまでくれば一端か?


奴隷制度を肯定したアリストテレス
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/intro_aristetle_intro.html
”「天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず」と言った人がいたが、そのような理想主義者の書いたものが「社会契約論」だった。その初めのほうでルソーはアリストテレス ( Aristoteles 前384-前322 ) の「生まれついての奴隷」という言葉を批判しているが、まさにその言葉がふんだんに出てくるのがアリストテレスの 「政治学」だ。

 ルソーと違ってアリストテレスは理想を語った人ではなかった。現実主義者の彼はまず何よりも人間関係の根本にある第一は男と女であり、もう一つは支配と非支配の上下関係
であると言った。

 種の保存のための男女関係は当然として、人間が自己保存を図っていくためには平等であってはならない、誰かが指導して誰かがそれに従うという関係に立たなければならない、そして知恵あるものが指導者に、知恵なきものは部下になって汗を出すという関係が欠かせないと彼は言う。上下関係のない社会つまり平等な社会は全員が奴隷になってしまう社会だとも言っている。民主主義社会でも同じことで、民主的とはもちろん全員が奴隷になることではないが、さりとて全員が指導者になることでもない。誰か一人が指導者となり他のものたちはその指示に従っていかなければならないのである。それが嫌ならその組織は滅びるほかないと彼は考える。

 そして、その被支配者の最下層にいるのが奴隷だ。アリストテレスは奴隷が奴隷である理由はその生まれの卑しさであるとする。逆に生まれのよい人間には奴隷を支配する権利があるとも言う。そして生まれのよい人間は生まれのよい人間から生まれてくると言うのだ。

 この奴隷肯定論の中には、家事や料理などは奴隷の仕事であって、自由な市民は政治だけやっていればいいのだというふうな文章もあって、現代人にはかなり面喰らうところがある。しかし、現代でも頭を使う人間やアイデアを出す人間の方が、汗を出して働くしか能のない人間より上に置かれているのは確かである。

 そのほかに、この本を読んで感心するのは、アリストテレスが何事も一つ一つ順番に明らかにしていこうとする態度である。彼は一つのことが明らかになるたびに、「~は以上で明らかである」といって、次に進む。だから、この「明らかである」「明らかに~である」が彼の文章には何度も何度も出てくる。「ここまでは明らかになった。では次へ進もう」という感じである。この彼のやり方は、考えようによっては、なかなかおもしろい。つまり、彼はどんな場合も数学的な証明のやり方を守っているのだ。このやり方で彼は何でもかんでも自分の信じることを「明らかに」してしまう。実にこつこつと「証明」を積み上げていくのだ。彼を「論理」にとり憑かれた人間と言うことさえできるかもしれない。彼は、明らかにする必要のあることが無くなるまでこれを続けるのである。

 アリストテレスはどんな事にも目的があると信じている人である
。たとえば、母親は子供を生むときに母乳が出るようになるという事実をとらえて、これは何のためかと考える。そして彼は、母乳は子供がある程度成長するまでの間、母親に子供の食料を手に入れる努力を免除するためだと言うのである。このように彼はこの世のあらゆる出来事に因果関係を見いだしていく。

 また、自然というものをアリストテレスは非常に重視する。世の中の仕組みは、最終的には「自然にできているもの」と「人間が後から作ったもの」の二つに分けられる。この考え方は古代ギリシャ人に共通のものである。そして「自然は全てをうまく作っている」という信仰がアリストテレスにはある。ルソーの「自然に帰れ」などもここから来ているのでないかと思われる。

 ところで、この「政治学」を読む際に注意すべきことは、アリストテレスの言う国、国家とは現代の町や市程度の大きさのものでしかないということである。アリストテレスにとっては村が集まればもう国家ができてしまうのである。

 この本の中身はすべて観察と理屈であるから、小説を読むような面白さはないけれども、それとは違うこの世の謎解きをする面白さがあるといえる。この分析の面白さは読まないと損だと言えるほどのものだから是非一読をお勧めしたい。


 アリストテレスの「政治学」 の日本語訳で現在入手しやすいのは二種類しかなく、そのうち読んで意味が分かるのは中央公論社の「世界の名著」の「アリストテレス」に収録された田中美知太郎氏他の訳しかない。これは非常に達意な日本語で書かれた名訳であるが、残念ながら全訳ではない。とくに、一巻途中から始まる奴隷制度肯定論は省略されている。

 しかし、アリストテレスの言葉を引用する人はたいていこの 「政治学」 の第一巻から引用する。なぜなら、たいていの人は第一巻しか読んでいないからである。最近の「天声人語」に「動物は人間のためにある」というアリストテレスの言葉が大学教授からの又聞きとして引用されていたが、これもこの第一巻から
である。逆に言うと天声人語氏は第一巻さえ読んでいないということであろうか。それぐらい読みにくい日本語訳しかないと言うわけだろう。だから、ここに第一巻だけでも訳出したことは意味があると信じている。(なお、この訳でも「ですます」調を採用したが、それは例によって古代の散文はすべて黙読されるためではなく人前で話すために書かれたものであるからに他ならない)

 もちろん、第二巻以降にもおもしろいことが書いてある。たとえば、第二巻には、財力を政治家を選ぶ基準の一つにしているカルタゴでは、事実上政治家の地位が売り買いの対象になってしまっている、と書いている。政治家はその人の人格だけで選ぶべきだと言うのである。選挙にいくら金を使っても罰せられないどこかの国で、同じことが起こっているのをここで思い出してもよいだろう。

 このようにアリストテレスは色々といいことを書き残している。だから、ヨーロッパ人は宗教の経典のように崇拝して有り難がってきた。しかし、日本ではそれほど有り難がられない。それは、内容の分かり難さだけではなく、そもそもその中身が知られていないからだとわたしは思う。そしてそれは、読んで意味の分かるに日本語の翻訳がないからであるとも思う。しかし、たとえば英語になら直訳しても意味がとれるものになるため、読み進んでいけるだけの英訳はたくさん存在すると思う。たとえば私が参考にしたペンギン文庫の訳なら適当な解説つきで読みやすいと思う。 ”

アリストテレスの『政治学 』 第一巻
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/politics.html
”  そしてもう一つの結びつきは、人間の生存を維持するために欠かせない、生まれついての支配者と非支配者の結びつきであります。つまり、先を見通す知性を持った人間が生まれついての支配者となり奴隷の主人となるのに対して、労働に適した肉体を持つ人間が非支配者となり生まれついての奴隷となるのです。その結果、主人と奴隷の双方に共通の利益が生まれてくるのです。

 このように人間の結びつきには主従関係が欠かせません
が、女と奴隷は本質的に区別せねばなりません。

 自然の摂理は決して人間が万能ナイフを作るような貧しい振るまい方はせず、それぞれに個別の目的を持つものを作ります。多くの用途を持つ道具ではなく、たった一つの用途をもつ道具こそ何にも増して役に立つからです。

 ところが、ギリシャ人以外の民族では、この奴隷と女との区別がないのです。それは彼らには、生まれつき主人となるような知性を持つ人間がいないからなのです。そして主人のいない結びつきでは、男も女も奴隷になるしかありません。ですから、詩人が「ギリシャ人こそは他の民族の支配者となるべきだ」と言ったとき、それはギリシャ人でないものはみな奴隷であると言っているにほかなりません。
(…)
人間が完成して国家を作り上げたときには、全ての動物の中で最も優れた存在になるのに対して、人間がばらばらになって正邪も善悪も知らない場合には、あらゆる動物の中でも最悪の存在になるからです。というのは、悪が武装した場合には最も手強いものになるからであり、人間が持って生まれた様々な武器は善を行なうために分別をもって使うべきものなのに、逆の目的のために使われることが非常に多いからです。そして善意がなければ、人間はこの上なく残忍なものとなり悪の限りを尽くすようになります。なかでも最悪なものは食欲と性欲に基づくものです。ところで、これに対する正義の裁きこそ国家の仕事なのです。というのは、何が正しいかを決定するのが正義の裁きであり、国家がもたらす秩序こそ正義だからです。
(…)
第四章 奴隷は道具である
 さて、財産は家庭を構成する一つの要素であり、また必要最低限の財産がなければ、よい暮らしをするどころか生きて行くことさえできない以上、財産を獲得する技術は家庭の経営に欠かせない要素です。一方、専門的な技術を使って仕事を成し遂げるには、その技術にふさわしい道具が必要です。そこで、家庭の経営にたずさわる人にも、それにふさわしい道具がなくてはならないということになります。

 ところで、道具には命のある道具と命のない道具の二つがあります。

 例えば、船のかじ取りにとって、かじは命のない道具であるにの対して、見張りの男は命のある道具だと言えるでしょう。というのは、使用人は親方の持っている技術を使うための一種の道具であると言えるからです。

 同じように考えていくと、家財道具は生活をするための道具であって、財産はそのような道具の集まりなのですから、一種の財産である奴隷は命のある道具であり、さらに全ての使用人と同じように、多くの道具に先立つ一つの道具なのです。

 奴隷が多くの道具に先立つ一つの道具だというのは、もし道具が命令された通りに、もしくは自分で頭を働かせて、ひとりでに仕事をするなら、つまりダイダロスが作った動く彫像や「神々の集いの場にひとりでに入っていく」と詩人が歌ったヘパイストスの三脚台のように、もし織機のシャトルが勝手に縦糸の間を行ったり来たりしてくれたならば、また、もし琴のばちが勝手に琴の音をかき鳴らしてくれたならば、親方は使用人を必要としなくなるし、主人は奴隷を必要としなくなるからです。
(…)
第五章 奴隷制度は自然なものである
 つぎに、生まれながらにしてこのような人間がはたして存在するのか、人の奴隷になることがはたして良いことなのか、また正しいことなのか、いやそもそも奴隷制度などというものは自然の法則に反しているのではないか、という問題を考えてみましょう。

 この問題は理屈で考えてみても事実から考えてみてもそう難しい問題ではありません。支配非支配の関係はなくてはならないことであるだけでなく有益なことでもあります。初めから支配する側と支配される側に分かれて生まれてくるものさえあるのです。
(…)
 さて、生き物は何よりもまず精神と肉体から成り立っていて、本質的に精神が支配し肉体が支配されるようになっています。

 この本質を論じる場合には、生まれつきの本質を失ったものではなくその本質に則ったものについて観察しなければなりません。ですから、精神が肉体を支配することを明らかにするには、精神も肉体も完全な状態にある人について観察しなければなりません。なぜなら、たとえ一時的にせよ堕落した人間の場合には、悪事に染まって生まれつきの本質を失っているために、しばしば肉体が精神を支配しているように見えるからです。

 それはともかくとして、いま言ったように、まず何よりも生き物に支配非支配の関係を見ることが出来ます。そして、そこには主人の奴隷に対する支配だけでなく、政治家の国民に対する支配をも見ることが出来ます。なぜなら、精神と肉体の間の支配関係は、主人と奴隷の支配関係に似ているのに対して、理性と欲望の間にも支配関係があって、それが政治家もしくは王と国民の間の支配関係に似ているからです。

 この場合、肉体が精神に支配されることが、また人間の衝動的な部分が理性や知的な部分によって支配されることが、自然なことであり有益なことであるのに対して、いずれの場合でも両者の立場が対等になったり逆転したりすることが有害なのは明らかです。

 これは人間と他の動物との間の関係についても言えます。人間に飼われている動物のほうが、野放しの動物よりも本質的に優れていますし、どんな動物にとっても人の支配を受けるほうが生存を維持していく上で良いことなのです。

 さらに男と女の関係でも、生まれつき男のほうが強く女のほうが弱いので、男が支配する側に女が支配される側になります。

 当然これらと同じことが人間全体についても当てはまります。つまり、精神と肉体の間や人間と動物の間にある大きな違い、それが人間同士の間にも存在するのです。

 そして、人間の内でもせいぜい体を使って仕事をするしか能のない人間こそ、これまで述べたものたちと同じように、支配されるほうが望ましい人間、つまり生まれながらの奴隷なのです。なぜなら、生まれながらの奴隷は他人の所有物となる能力を持ち、したがって現実に他人の所有物であって、知性のある者の言うことを理解する能力はあっても知性そのものは持っていないからです。

 もっとも、人間以外の動物は知性に従うことなくひたすら衝動にしたがって行動しますが、利用価値は奴隷とそれほど違いません。奴隷の場合も家畜動物の場合も、体を使って日常の生活に必要な仕事を助けるという点では同じだからです。

 ですから、奴隷と自由人の体が違った作りをしているのは自然の摂理によるものだと言える
でしょう。奴隷の体が日常生活に必要な仕事をするために頑強にできているのに対して、自由人はそのような仕事には向かない、背筋がまっすぐ伸びた体形をしているのです。自由人の体の作りはむしろ国家の一員としての生活、つまり市民生活に向いているのです。(ちなみに、国家の一員としての生活は平和な時の要請に応じるものと戦争の時の要請に応じたものの二つに分けることが出来ます)

 しかし、自然の摂理とは逆のこともしばしば起こります。つまり、自由人の中でも一方で精神ゆえの自由人もいれば、他方で肉体ゆえの自由人もいるのです。しかし、これは仕方の無いことです。というのは、もし単に肉体だけではあるけれども神の肖像のように美しい人がいるとすれば、彼に劣る人たちが彼の奴隷になるのは当然だと誰もが考えるのは明らかだからです。

 しかし、もし肉体を基準にしたこのような区別が実際にあるとしても、それより精神を基準にした区別のほうがはるかに正しいことには違いありません。しかし、精神の美しさは肉体の美しさほど容易に見分けることは出来ません。

 以上によって、生まれつきの自由人と生まれつきの奴隷が存在すること、奴隷にとっては奴隷となることが有益で正しいことは明らかです。

第六章 生まれついての奴隷と戦争奴隷の違い
 奴隷制度に反対する人たちの意見にも一理あることは容易に分かります。というのは、奴隷には二種類あって、生まれついての奴隷だけでなく法律に基づいた奴隷が存在するからです。

 もちろんこれは法律といっても、戦争に負けた者は勝った者の所有物になるという一種の約束事にすぎません。そして多くの法律家たちは、「自分の方が強くて戦いに勝つ力があるという理由だけで、負けた者を奴隷つまり自分の所有物として支配してよいというのではあまりに理不尽であるから、このような権利は違法である」と非難しています。そしてこの考えに賛成している人もいれば反対している人もいます。賢者と言われる人たちの間でも一つの答えに到達していません。

 このような戦争奴隷反対論が起こる原因は、「人格の点で優れている者が力を手にしたときに最もよく勝つことが出来る」ということと「勝つということは必ずやなんらかの点で優れているからである」ということから「力がある者は必ず人格の点で優れている」という力と人格の混同が生じたことにあります。この混同の結果、議論の焦点が「では力は正義なのか」ということに向けられるようになってしまったのです(そこで、一方は力が正義などとは馬鹿げていると言い、もう一方は力のある者に支配権があるのは当然だと言うに至ったのです)。しかしながら、人格の優位を力の優位に結びつけずに論じるなら、戦争奴隷反対論者の先程の議論も、「人格の点で優れている方が支配権を得て奴隷の主人となるべきだ」という説を否定するほどの説得力はないでしょう。

 しかし、戦争奴隷賛成論者のなかには、単純に合法的であるからという理由だけで戦争奴隷を肯定したつもりになっている人たちがいます。しかしそれでは否定しているのも同じことです。なぜなら、戦争が合法的に起こされない場合が多々あるからです。また、いくら合法的な戦争奴隷であっても奴隷になるにはふさわしくない人を奴隷だとは決して誰も言わないからです。さもなければ、非常に生まれがよいと思える人でも、捕虜となって売られた場合には、先祖代々続く奴隷になるということが起こってしまいます。

 したがって、戦争奴隷賛成論者も奴隷という言葉を生まれのよい人たちに対しては使おうとせず、もっぱらギリシャ人以外の民族に対して使っています。しかし彼らがこうするとき、それは取りも直さず、まさに彼らのいう奴隷とは我々が最初に言った「生まれつきの奴隷」であることを示しているにほかなりません。というのは、それは必然的に「どこへ行っても奴隷である者と、どこへ行っても奴隷でない者がいる」と言っているのと等しいからです。

 生まれのよい人間についても同じです。つまり、戦争奴隷賛成論者も、他の民族はその国にいる間だけ生まれがよいのに対して、自分たちはギリシャにいるときだけでなくどこへ行っても生まれのよい人間であると思っています。これは、テオデクトスの悲劇の中で、ヘレンが「神の血を引く両親から生まれたこの私を奴隷呼ばわりする権利が誰にあるでしょうか」と言うように、絶対的に生まれがよく自由である人間とそうでない人間がいると言っているのと同じです。

 そして彼らがこう言うとき、それは取りも直さず、まさに奴隷と自由人の区別、そして生まれの善し悪しの区別の根拠を、人格の優劣に置いていること を示しているにほかなりません。つまり、彼らは人間から人間が生まれ獣から獣が生まれるように、立派な人間から立派な人間が生まれてくると信じているのです。そして自然の神も、時々やり損なうことはあるものの、そうなることを望んでいます。

 以上から明らかなように、奴隷制度に反対する議論はある意味では正しいのです。そして、奴隷と自由人の違いは常に生まれつきらから来るわけではないけれども、生まれつきの違いから一方が奴隷となり他方が奴隷の主人となることが有益である人たちや、生まれたときから支配非支配つまり主人と奴隷の関係が決まっている人たちがいるのもまた明らかです。

 そして、不当な支配が行なわれたときには、それは支配者非支配者の双方にとって有害なこともまた明らかです。なぜなら、部分と全体、そして肉体と精神は利害を共有するものであり、一方、奴隷は命あるもので主人とは肉体的に切り離されてはいるものの、いわば主人の肉体の一部分であるからです。その結果、生まれついての奴隷と主人との間には共通の利益が発生して互いに好意を抱くようになるのに対して、生まれつきではなく法律と強制によってできた奴隷と主人の間には正反対のことが起こるのです。
(…)
 また、ある人が奴隷の主人であるかどうかは、彼が奴隷を使う特別な知識を持っているかどうかではなく、彼が優れた生まれや能力や人格を持っているかどうかにかかっています。それは、奴隷と自由人の違いがその持っている知識の違いではなく、生まれや能力や人格の違いであるのと同じです。

 もちろん奴隷の主人が持つべき知識や奴隷が持つべき知識があるかもしれません。しかし、奴隷の持つべき知識といっても、それは例えばシラクサの男が教えている程度のことに過ぎないでしょう。この男はシラクサで金をとって子供たちに召使のすべき日々の仕事を教えているのです。そのほかに料理の仕方など家事全般を含めることができるかもしれません。「奴隷の主人に序列があるように、奴隷にも序列がある」ということわざがあるように、奴隷の仕事にもいろいろあって、その必要度や重要性にも様々なレベルがあるのです。

 奴隷が知っておくべき知識は全てこのようなものであるのに対して、奴隷の主人が知っておくべき知識は奴隷の使い方の知識です。奴隷の主人であるかどうかは奴隷の入手方法を知っているかどうかではなく奴隷の使い方を知っているかどうかに掛っているからです。とはいっても、この知識の内容はそれほど多くはなく大したものではありません。奴隷は様々な仕事のやり方を知っていなければならないのに対して、主人は奴隷にその仕事を命じる方法を知っていればいいからです。ですから、金持ちならこのようなわずらわしい仕事は奴隷監視人にまかせて、自分はひたすら政治か哲学に打ち込むことでしょう。

 奴隷の入手方法について言うなら、それは奴隷が知っている必要がないのはもちろん奴隷の主人が知っている必要はありません。というのは、正しい奴隷の入手方法とは戦いの仕方や狩りの仕方であって、軍人や猟師が持つべき知識なのです。 奴隷とその主人については以上のような定義で充分でしょう。
(…)
交換という技術は、初めは、誰にも余っているものと不足しているものがあるということから自然な形で生まれたものです。この段階の商売は本質的に金儲けでないことは明らかです。なぜなら、必要の範囲内で物々交換を行なうだけだからです。

 もちろんこの交換という技術は、最初の共同体すなわち家庭の中では何の働きもせず、多くの家庭から成る共同体が生まれてはじめて機能し始めます。家庭の中にいる家族は、同じものをすべて分かち合って暮らしていますが、大きな共同体が発生すると、その中で別々の家庭に暮らす人たちが、自分の家の物を持ち寄って分け合うようになります。彼らは他所の家の持ち物が必要になると、必ず自分の家の持ち物の一部を差し出して物々交換するのです。この物々交換はギリシャ以外の国々でもまだ盛んに行なわれています。

 物々交換では、酒や麦など様々なものをやりとりする場合のように、便利なものをそのままの値打ちで互いに交換しあうだけで、それ以上のことはしないものです。このような交換という技術は、自然の摂理に反しないもので、金儲けの技術の内には全く入りません。なぜなら、それは自然の摂理に適った自給自足の生活ができない場合に、それを補うだけのものだからです。

 しかし、この交換という技術から金儲けの技術が生まれたのはごく自然なことだと言えるでしょう。というのは、不足しているものを他所から取り入れて余っているものを他所へ持ち出すことによる助け合いの関係がさらに外へ広がっていき、その必然の成り行きとして、コインの使用が考え出されたからです。なぜなら、人が自然に必要とするようなものは常に持ち運びが簡単とは限らないからです。そこで、物々交換に際しては、便利なものの中で生活に必要で同時に扱いやすいものを互いにやりとりするという取り決めをしたのです。それは例えば鉄や銀などで、はじめは単に大きさや重さによって区別していましたが、最後には刻印が押されるようになって、いちいち計量する手間が省かれるようになってきます。つまり、刻印によって価値が表示されるようになったのです。

 こうしてコインが考案されることによって、必要から生まれた物々交換は、二種類ある金儲けの技術の内の一つ、すなわち商売に発展したのです。

 商売も初めは単純なものでした。しかし、どこでどういうふうにコインを交換すれば最大の利益が出るかという経験の積み重ねによって、商売は次第に複雑化してきました。その結果、金儲けの技術とは、もっぱら、コインについての技術であり、しかも大量の財産を入手する方法を考える技術であると思われるようになったのです。つまり、この技術はお金による財産を作り出す技術なのです。そして、金儲けの技術と商売の技術がコインについての技術であることから、大半の人たちは財産とは沢山のコインのことだと考えるようになったのです。

 しかしそれとは逆に、コインなど無意味なものだ、単なる約束事であって本来は何の価値もないという人たちもいます。その理由は、使う人が変わればコインは何の価値もないものになってしまい、生活に必要なものを何も買えなくなるからです。そしてコインは山ほどあるのに日々の食料にも窮するという事態がしばしば発生します。実際、豊富な財産に恵まれながら飢え死にするとは、なんと奇妙な財産でしょうか。まるで、欲深いお祈りのせいで食卓に出されたものが全部金になってしまったあの伝説のミダス王そのものであります。ですから、彼らが財産や金儲けの技術を単なるコイン集めとは別のものであると考えているのは間違ってはおりません。


 以上から、まず、自然の摂理に適った財産や金儲けの技術があって、これは家庭を経営する技術に属していることがわかります。さらに、もう一つの金儲けの技術があって、それは商売の技術に属していることも明らかです。

 この後の方の技術は財産を作り出す技術ですが、真の意味で作り出すのではなく、財産の交換によって作り出す技術です。そして、この金儲けの技術がコインについての技術だと思われているのは、コインが売買の手段であるとともに目的でもあるからです。

 そしてこの金儲けの技術によって作られる財産には限度がありません。確かに、あらゆる技術にとって目的は終点でもあるため、一定の目的を目指す技術は無限を目指すことはありえません。しかし、例えば医術が無限の健康を追求するように、どの技術も出来るだけ良いものを求める以上は、無限の目的を持っていると言うこともできます。それと同じように、無限の財産を目的とする以上は、この金儲けの技術も無限の目的を持っていると言えます。

 それに対して家庭の経営に属する金儲けの技術は、無限を目指すことはありません。無限の金儲けは、家庭経営の技術がなすべき仕事ではないからです。したがって、家庭の経営においては、いかなる財産にも限度があるべきなのは明らかです。

 ところが、現実にはその逆のことが起こっています。誰もがコインを無限に増やそうと金儲けに励む
のです。その原因はこの二つの金儲けが非常によく似ていることにあります。二つの金儲けの技術が同じものを対象にしているために、両者の使い方の混同が起こるのです。

 しかし、両者は対象が財産であるという点では同じですが目的が違います。一方は財産を増やすことが目的ですが、もう一方はそうではありません。そしてこの混同が原因で、家庭を経営する技術の役割が、コインによる財産を無限に蓄え増すことだと信じてやまない人たちがいるのです。

 彼らがこんな考えに取り付かれている原因は、彼らが生きたいと願うばかりで、幸せに生きたいと願うことがないからです。そして、この生きたいという願いには限度がなく、彼らはこの願いを叶えるための手段を際限なく追い求めます。

 一方、幸せに生きたいと願う人たちの内でも、肉体面の楽しみを追い求める人たちは、全ての時間を費やして金儲けに励みます。肉体的な楽しみを得るためには、明らかに沢山の財産が必要だからです。

 こうして、二つ目の金儲けの技術が生まれたのです。つまり、楽しみを得るためには余分の財産が必要なために、彼らはこの楽しみの元となる余分の財産をもたらしてくれるような技術を追い求めるのです。

 そして、もし金儲けの技術をもってしても余分の財産を作り出すことができない場合には、他の面でこの分を捻出しようとして、彼らは自分の持つあらゆる能力を無理な形で動員してきます。勇敢さは財産をもたらすものではなく大胆さをもたらすものであり、また兵法も医術も財産をもたらすものではなく、それぞれ勝利と健康をもたらすものです。ところが、彼らは、これらの技術を金儲けの技術に変えてしまうのです。人生の目標は金儲けであり、この目標のためには手段を選ぶ必要はないと思うのです。
(…)
 ミレトスのタレスの話などもその一つでしょう。これは金儲けの一つの工夫を伝える話で、その方法の巧妙さゆえに彼の話として伝わっていますが、一般に適用できる内容です。それは次のような話です。

 タレスは、自分が貧しいことを理由に哲学を役に立たないものであるとけなさると、天体についての知識を使ってオリーブの豊作を見抜いて、冬のうちに無けなしの金で手付けをうってミレトスとキオスにある搾油機を全部借り出してしまったのです。競争相手がいなかったので非常に安く借りることができました。そして、収穫期が来て、突如として大勢の人が一斉に機械を必要とするようになると、彼は自分の言い値で機械を貸し出して大儲けをしたです。こうして、哲学者は金儲けには興味がないが、その気になれば簡単に金持ちになれるということを証明したのです。

 タレスはこのようにして自分の頭の良さを証明しましたが、この金儲けの方法は、すでに述べたとおり、独占状態を作り出すことさえできれば誰にでも可能なものです。ですから、多くの国では財政難になるとこの方法で増収を図ります。つまり商品の専売をするのです。

 ところで、昔シチリアで、ある男が、預かった金で鉱山の鉄を買い占めてしまったことがありました。その後各地の市場から商人がシチリアに到着すると、彼だけが一人鉄を売ることができました。そして値段を法外に吊り上げたわけでもないのに、彼は五十タレントの元手で百タレントを稼ぎ出しました。やがてこの事実をディオニュソス王が知ると、王はこの男が王の利益を損なう金儲けのやり方を編み出したと考えて、男に金を持ってとっとと島から出ていけと命じたのです。しかし、タレスの考え出した方法も結局はこの男のやったことと同じことだったのです。二人とも自分の元に独占状態を作り出したのです。

 このやり方を知っておくのは政治家たちにとっても有益なことでしょう。むしろ家庭にとってより、多くの国々にとってはこのような金儲けの方法が必要です。政治家の中にはこの専売ばかりやっている人がいるほどです。
(…)
全ての人間は美徳を持っているけれども同じようにではなく自分の役割にとって必要なだけの美徳を持っているのです。したがって、支配者は美徳を完全な形で持っていなければなりません。なぜなら、精神の中では理性的な部分が指導的役割をするのと同じく、支配者の仕事はひとえに指導的なものだからです。それに対して、他の人たちはそれぞれ自分にふさわしい程度の美徳を持たねばならないことになります。

 というわけで、上で述べた全ての人たちが美徳を持っていること、しかし、ソクラテスの意見に反して、例えば男と女では辛抱強さが違ったものであること、勇敢さや責任感についても違ったものであることは明らかです。ですから、男の勇敢さは支配者にふさわしい勇敢さであるのに対して、女の勇敢さは支配されるものにふさわしい勇敢さであり、他の美徳についても同様であると言えるでしょう。

 このことは個別のケースを見ればもっと明らかです。というのは、美徳とはすぐれた精神を持つことであるとか、正しい振舞いをすることであるとか、そういう一般的な言い方をするのは間違いなのです。このような考え方ではなく、ゴルギアスのように個別の美徳を列挙していく方が良いのです。ですから、例えば劇作家ソフォクレスが女について「女は黙っているのが美しい」と言いましたが、これは男には当てはまりません。しかし、他の全ての場合についてもこのように考えるべきなのです。子供は未熟なのですから、子供の美徳といってもそれは自分自身の美徳ではないし、自分自身に対する美徳でもない、それは成熟するための美徳であり、自分の指導者に対する美徳であるのは明らかです。

 同様にして、奴隷の美徳は自分自身の美徳ではなく主人に対する美徳なのです。先に第五章で奴隷は日常の生活に必要な仕事を助けると言いましたが、ここからも奴隷に必要な美徳はささいなもので、辛抱できず無責任に仕事を投げ出さない程度の美徳さえあれば良いのです。

 ここで一つ難しい問題が生ずるのは、もしいま言ったことが正しければ、職人はしばしば辛抱できずに仕事を投げ出すことがあるから、奴隷と同じく彼らにも美徳が必要なのではないかということです。それとも、彼らと奴隷とではまったく違うのでしょうか。実はその通りで、奴隷はわれわれ自由人の人生と一体のものなのに対して、職人はわれわれとは別に暮していて、奴隷である度合いが少ないので、それに応じた美徳しか要求されないのです。しかし、手先の熟練のいる職人の仕事にはある程度奴隷的な要素があるとはいえ、奴隷が生まれついての奴隷であるのに対して、靴職人などの技術者はけっしてそうではありません。

 以上から、奴隷が仕事をやり遂げられる程度の美徳は奴隷自身の美徳ではなく元々は主人の美徳であることは明らかです。ただし、それは奴隷に仕事を命ずるだけの美徳であってはなりません。したがって、奴隷の知性を全て否定して奴隷には命令だけをしていれば良いと言う人たちは間違っています。命令すべきなのは子供のほうで、むしろ奴隷には忠告を与えるようにすべきでしょう。”

政治学 (岩波文庫 青 604-5) ぼぼさんが書き込んだレビュー (日本)
http://www.amazon.co.jp/gp/cdp/member-reviews/A1IYC1BYD4Z15Q/ref=pdp_new_read_full_review_link?ie=UTF8&page=1&sort_by=MostRecentReview#RQEWGYV1UEUBW
“ 5つ星のうち 1.0 個人的にはこの翻訳は避けたほうが無難と思います。高いですが牛田さんの訳をお勧めします。また、先にプラトンの「国家」を読んでください。, 2011/7/10
レビュー対象商品: 政治学 (岩波文庫 青 604-5) (文庫)
「翻訳について」
星1つは、翻訳の評価です。
岩波版アリストテレス全集の中心的人物の一人である山本光雄氏の翻訳で、
一種の岩波版スタンダードと言って良い翻訳だが、LOEBのRackhamの対訳や、トマスのコメンタリア
付きのメールベケのラテン語訳、Firmin Didotの対訳などを中心に使ってて、本棚の飾りになりかけてたのを久しぶりに通読したのですがここまで酷いとは思わなかった。
日本語が支離滅裂な部分があり、肝心なロジックが通っていないことが多い。
特に4巻と5巻など真中あたりの巻の部分が酷いと思う。
学生さんにさせた訳を、自分の名前でまとめたのでしょうか?
私は岩波版の高田さんの「ニコマコス倫理学」の翻訳にパクさんの訳に比べてそれほど不自由を感じない人間ですが、
なのに、なぜ大看板の山本さんの訳にこれほど不快感を感じるのか自分自身で理解に苦しむほどです。
読んでて胸がムカムカする翻訳です。

実例を挙げないとフェアでないので、一つだけあげますが、(長くて多少専門的になるのでごめんなさい。
第5巻第4章1303b,30(文庫ではp.236)
「なぜなら過失は初めにおいて生ずるが、初めは「全体の半分」であると言われてるので
初め(アルケー)に於ける過失は、たとい些細なものでも、その他の部分での過失に比べて、それと同じ割合を持つことになるからである。」
は「その他の部分での過失に比べて」の部分がロジックが無茶苦茶で意味が通っていません。
原因論やデュナミス(可能態)の発生論、過失論に関して興味深い叙述なのですが。
要するに、発生の過程において過ち(ハマルテーマ)ができると後に成長して大きくなった
部分でもそれに比例して大きな過ちができるから、最初の小さな過ち・過失をポリスに於いても
政体解体のささやかに見える過失を見逃してはいけない
という意味です。
「その他の部分」というのは「端緒・始原・原因(アルケー)」以外の「成長した部分」という
意味なんですね。
そこに「過失」という言葉を足しその他の部分での過失に比べて」としてるので意味不明なわけです。
「原因・端緒(アルケー)に於ける過失・間違いは、たとい些細なものでも、「その他の部分で比例して」、同じ割合を持つことになるからである。」で初めて意味が通ります。
なぜかと不思議に思ったのですが元本のLOEBのラッカム訳(p.391)を見ますと、
「for error occurs at the beginning, and the beginning as the proverb says is half of the whole, so that even a small mistake at the beginning stands in the same ratio to mistakes
at the other stages.」となってますので、最後の「in the same ratio to mistakes
at the other stages」を英語力が幼稚で表現に引っ張られて「その他の部分での過失に比べて」
と直訳的に誤訳してるんですね。
「部分」と訳してある言葉をラッカムが「mistakes at the other stages他の段階において」
と「段階」とわざと訳している意味が取れてません。
「他の部分において過失が起こった」わけではなくて「端緒以外の他のステージ(段階)
において残された過失に比例してる」わけです。
元のラッカムの英訳の方は正確なわけで、英語の意味が読めてない完全なミスです。
中世に使われたWilliam Moerbekeの訳を見ますと、

「in principio enim fit peccatum, principium autem dicitur esse dimidium totius. Quare et
quod in principio parvum peccatum, propotionale est ad ea quae in aliis partibus.
(なぜなら、端緒において罪・過ちがあったからで、しかるに、端緒は全体の半分と
呼ばれるのである。というのも、端緒において微小な罪も、他の諸部分に対して比例的propotionale に
なるのであるからである。)」

ハマルテーマを、「culpa過失・過ち」で無く「peccatum罪」
と訳してる部分は
あまり納得できないにしても、短く言葉足らずで稚拙でも的確に全体の意味を抑えています。
この部分の山本訳は暗黒時代の理解より酷い訳です。

一般の人は些細なことと思われるかもしれませんが、
ちりも積もればで、あちこちで細かく誤訳で論理破綻してるので、日本語のロゴスの流れにならず、
読んでも頭に残らないし、矛盾にムカムカしながら読むはめになります。

社会科学では重要な文献なので、初めて接する人や真剣な学生さんは4400円と4倍ほどしても無理してでも
西洋古典叢書の牛田さんの訳を買われるのをお勧めします。
または元本になったLOEBのRackhamの対訳など英語で読んでください。(2500円弱で済みます。

「読書の順番」
山本氏の解題のとおり「政治学」という翻訳は漢語による慣習的な誤訳に近く、
「タ・カタ・ポリティコン」、「ポリスに関することども」ぐらいの意味で、
「都市国家としてのポリス論」で、「教育論」「法律論」など現代の政治学の枠外のものも
重要な要素とします。(訳文に比べ山本氏の解題は非常に標準的、模範的です。)
アリストテレス「政治学」を読むには、最低限、師匠のプラトンの
「ポリス論」である、「国家」(と出来れば「法律」)の対話篇を読んでおく必要があります。
アリストテレスの「ポリス論」を「政治学」と翻訳されると
プラトンのポリス論である「国家(ポリス)」との対応性が分からなくなるんですね。
ラテン文献のキケローの「国家」「法律」もこの流れに属します。
特に、プラトン「国家」の方は、アリストテレス「政治学」の中で
常に批判的に吟味、参照されますので、順番として絶対先に読んでください。
後、同じくアリストテレスの「ニコマコス倫理学」も徳性論の基礎になってますので、
先に読んでください。
この2冊を読んどくと読んどかないとでは読書の歩留まりが全く違います。

多少緻密に理解をしようとすると結局、「ボタンの掛け違いみたいなもの」で
順番を間違えるとまた読み直す羽目になります。
説教臭くてレビュー読者の方に失礼で申し訳ありません。
でも、この本に関しては、「読む順番」は非常に大事でそれは「買う順番」にも影響しますので。”


お読みくださり感謝の極みです。
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