読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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ブッダ「女性と目も合わせないニートになれ!」『だから仏教は面白い!』『仏教思想のゼロポイント』『阿頼耶識の発見』 

カルヴァン派派生の日本の労働教(安息日なし)は仏教が大嫌い。
釈迦「女と目も合わせないニートになれ!」
仏教はニートを否定しない。
流布している無量寿経はキリスト教に都合がよい改竄箇所あり。


∸――
狼たちは知っている‏ @wolvesknow 2015年12月26日
三略も六韜も孫子の兵法も、曹操が注釈をつけた分の兵法も、全部読んだけど、たしかに、この視点から陰謀論を語る人はいないんだよね。皆、耶蘇教の匂いばかり。耶蘇教的なんだよ。リチャコシ、カレイド、フルフォードetc。で、仏法にお詳しい菊池氏は、よく絡まれるしね。わかりやすい奴らだな。笑




ymmr‏ @kh_yama 2011年7月15日

講談社現代新書 「『神道』の虚像と実像」(井上寛司)、読了。神道はもともと中国の「ジンドウ」で、仏教下の神々を指す仏教語、それが14世紀に日本で「シントウ」へ転換した。神社、国家神道の成立プロセスを明快に解説しており、非常に面白い。良書です。


この「神道」が室町期、十四世紀ごろの日本で、清音表記の「シントウ」へと転換したのであって、それは「神」の語の集合名詞から抽象名詞への転換にともなうものであったと考えられる。(マーク・テーウンの指摘)
室町時代、天台宗の僧良遍が著した『日本書紀巻第一聞書』の冒頭で、当時「神道」は「ジンドウ」と濁音で読むのが一般的であったが、良遍はこれを「シントウ」と清音に改めるべきだと強調していると。

ねこた‏ @lakudagoya 2016年2月16日
違いのわかる陰謀論ってコーヒーの宣伝かよって。で、耶蘇教信者は仏教と耶蘇教は同じなんて、またまたマニさんみたいな事言っちゃってるけどさ
引用《西洋思想すべて「ゴッドや不滅の霊魂など、永遠の不変の超越的なものが実在する」
仏教「全部、妄想だね」》

これのどこが同じなんだよ教えてくれ

ーーー

理性は神秘的だという思想をスピ系は嫌う。
スピ系を否定する啓蒙主義派閥が崇めているのが理性だから。
啓蒙主義の百科全書派は、
「百科事典=言葉で定義が書いてある」でわかるように言葉を重視。
スピ系は言葉を軽視するわりに、スピの言葉で書かれた教義から全く自由でないのが泣けてくる。

仏教は理性「も」非理性「も」重視で両者の中道が目標。


仏教は偽物対策に、
これがなければ仏教ではない三要素(または四要素)を定めており、
三法印(四法印)という。
仏教カルトが抜いたり、弱めたりしているのが三法印(四法印)。

“三法印とは
①「諸行無常」=万物は常に変化し一定の物は無い。
②「諸法無我」=存在するすべてのものは実体がない。
③「涅槃寂静」=輪廻の苦を抜け出せば煩悩に迷うことのない境地に至る。
この三法印に、「④一切皆苦(すべては思い通りにはならないという人生の実態)」を加えて四法印とする場合があります。
四法印とは「物事は常に変化しており、それ自体で存在し続けるものはないのに、ずっとあり続けると錯覚し、執着して苦を招くことになる」ことを戒めるものです。”
(14)仏教の本質とは
http://shukyo-kataru.com/archives/31

∸――

(大乗)仏教の定義=三法印or四法印を中核とする思想。
仏教三(四)大中核
=三法印or四法印を否定する思想は仏教ではないです。

仏教四大中核
⓵変わらないものは何もない
(不変のゴッドや一者なんて妄想)

②あなたも私もそれ以外もそれぞれが「構成要素の関係によって成立(=縁起=空)」している。
あなた以外の存在抜きの「独立している、絶対に変わらない『あなた』の実体(本体)」なんてない。
(あらゆる存在に「不変の本体」なんて存在しない
=西洋思想の中核の否定)

③欲望を消して安らかになることが最高の幸せ
(愛は欲望なので悪。つまり愛の神✝は悪魔)

④苦しみではないものはない。
欲望を満たした直後の満足感ですら、永続せず新たな苦しみの原因となるから結局は苦しみである。
(絶対善は妄想。よって悪の要素ゼロのゴッドなんて妄想)

絶対に同じではない、仏教を十字と新十字と同じだと叫んで統合する「ふりをして四法印の要素だけを抜いて仏教を殺す」ことをやっているのが今の支配層。

“四法印(しほういん)(…)に反するものは仏教ではないとされ、昔から仏の真説かどうかを判断する基準とされてきた。

諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)、一切皆苦(いっさいかいく)、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)、の四つを四法印といい、一切皆苦を除いた残りの三つを三法印(さんぼういん)という。これらはもちろん仏法を流布するときの旗印でもある。

     諸行無常

第一の法印の諸行無常は、あらゆる現象は絶えず変化しており、一瞬たりとも同一ではない、ということである。

諸行は、認識できるすべてのもの、縁によって生起したあらゆる現象を意味しており、もしも諸行が一瞬であっても変化せず同一であれば、永遠に変化は起きないことになる。なぜなら前の一瞬に変化せず同一であれば、次の一瞬も変化せず同一でなければならない。それでなければ同一とはいえないからで、するとどこまで行っても変化は起きないという理屈が成り立つのである。
(…)
諸行無常は特別の証明を必要としない、日常経験している目前の事実でもある。
(…)
諸行無常から老病死の苦しみも生じてくるが、無常は悪いことばかりではない。子供が誕生して成長するのも、作物が成長して実りの秋を迎えるのも、願いごとが一歩一歩成就していくのも諸行無常だからで、良いとか悪いとかの価値判断は諸行無常に含まれていない。
(…)
    諸法無我

第二の法印である諸法無我は、「認識できるすべての存在は我ではない」ということで、諸法は諸行と同じことを意味しており、我は「不滅の我」を意味する。

諸法が無我であるのは、諸行が無常だからで、変化する世界の中に、変化しない自分など存在しないということである。
(…)

     一切皆苦

諸行は無常だから、諸法は無我であり、そして一切皆苦である、と第三の法印へ続く。

自分というものが、常住なる存在であれば老病死の苦しみは起こらないはずだが、無常なる存在であるため変化にともなう苦に付きまとわれるのである。そして苦の代表として四苦と八苦が説かれる。

人生には楽しいこともたくさんあると思いたくなるが、迷いの生活は一切が苦であると仏教は説く。煩悩のためにあらゆることが、悩み、もめ事の原因になるからである。

無常によって生ずる苦はすべての生き物に与えられており、自分だけが苦しんでいるのでも、人間だけが苦しんでいるのでもない。だから苦を見つめることから、すべての生き物に対する思いやりの心が生まれてくる。したがって苦は慈悲のタネといえるが、修行によって滅すべき対象でもある。

     涅槃寂静

第四の法印は、「涅槃は寂静にして無苦安穏(むくあんのん)なる理想の境地である」という涅槃寂静である。

涅槃は「吹き消すこと」あるいは「吹き消された状態」を意味し、吹き消すべきものは苦の原因となる煩悩の炎である。

「むさぼりの炎、いかりの炎、愚痴の炎が、とこしなえに消えた状態」、それが涅槃寂静の境地であり、そこに真の楽があるということから寂滅為楽ともいう。ここが仏教の最終目的地なのである。

煩悩の炎は我に執着することから燃え上がる。我に執着する心を、我執(がしゅう)とか自我の迷執(めいしゅう)といい、これが迷いと苦しみの根っこである。自分の車の中はきれいにするがゴミは外に放り出す、というのも自我の迷執のなせるわざである。

無常であり、無我であるのに、その道理を知らず一時の借り物でしかない体を、これが自分だと執着することから老病死の苦が生じる。

その執着の対象となる我というものは、どこにも存在しないのだから、我執を捨てて煩悩の炎を消しなさい、そこに本当の安らぎがある、というのである。

悟りを開いても老病死を避けることはできないが、そこから生じる心の苦しみは解決できる。苦も楽も心が作り出しているからで、迷いをはなれた人にとってこの世は苦に満ちた世界ではない。”
http://www7b.biglobe.ne.jp/~zuiun/45houin.htm

∸――

両建て。弁証法といえば、
実在論(本当は~、真の~。絶対形而上)
VS
反実在論(形而上絶対否定or無記)

もそうかもね。
反実在論が仏教系。
でも仏教も涅槃は諸行無常の法則から外れている(有為法と無為法)ので、絶対形而上完全否定ではない気がする。
絶対形而上の定義が、人間が至れない、不変常住なら完全否定。
涅槃は人間がいたれる。涅槃も空。
実在論いっちゃうと間違いなく執着になるから無記だったのでしょうね。
そもそも仏教も輪廻(生とは個人の一生のことではなく永続する!)という実在論が大前提だし。
大乗が絶対形而上要素
(戒律とか涅槃とか、諸行無常でも変化しない善と悪行がある点)
を入れているのは、個人的救済から大衆統治用に改造した結果でしょうね。
だって原始仏教通り「いかなる意味でも生産するな」だと亡国まっしぐらだし。
だから儒教と道教を入れた。

実体思想も否定し、仏すら絶対的存在ではないとする仏教こそが真の啓蒙主義で理性主義でしょう。
かなと宗教の世俗主義って要は本人に意識させずに潜在意識に宗教思想を刷り込むってことだから害悪。
だって「無宗教です」と平然と言えるレベルに無知ならそりゃあ騙されるよね。
宗教の世俗主義って「本人の自覚なしに潜在意識に刷り込んで操れ!」ってこと

無宗教ですって平然といいつつ異教を迫害する労働教を見ると自覚無いのはまずい。
世俗主義って幼児洗礼とか生まれたときからカルト教団に登録みたいな害悪なのでは?

スピって戒律を誓うことがない
=信者が暴走することを防ぐ装置がない、
よって悪意で作られた欠陥品。これもステルス化の害。

仏教、密教、バラモン、ヨガ(大衆化でない方)などでやる、
人前で自分で声に出して戒律を誓うことで強固な縛りをかける技術を抜いている時点で悪。
せめて本の冒頭に悪用禁止、健全な道徳を持って活用しましょうぐらい書いとけ。
儒教取り入れた時に易姓革命=徳がない道徳失った君主は殺してOKを消したかどうか気になる。
現在の儒教カルトは易姓革命を抜いてあるからね。
これ戒律抜いた仏教カルトと同じだからね。
権力者に道徳を守らせる防御装置抜いたらカルト確定。
カルトの作り方マニュアル。
道徳を抑える要素を抜け。



∸――

多くの嘘を見抜ける一つの知識を与えられるようにしないといけません。
勉強時間は限られていますから。
たとえば、仏教は縁起さえわかれば他もわかります。
無常・苦・無我は、縁起を三つの仕方で表現しているだけ。
だから縁起説の勉強をます重点的にすべきなのです。
縁起説はスピのような盲目的信仰を否定します。
縁起説はなにごとにも原因があるという教え。
だから法則があるという発想につながります。
そして、原因(成立条件)があるのだからそれはそのうち失われるから永続しないということがポイント。
つまり空と諸行無常。



∸――



魚川祐司『だから仏教は面白い!』(講談社α文庫)

・仏教は「ヤバい」。
釈迦の仏教にとって人間が正しく生きる道が目的ではない
ことを仏教史全体の理解を歪ませないために、絶対にごまかしてはいけない。
が、別に優しくて健全な人になるなと教えているのでもない。
これらは副次的なものであり、本来の目的ではない。
なぜなら、ゴータマ・仏陀の教説の最終目的は、社会の中でうまく振る舞うとか役に立つとかいったことを「すべて乗り越える」ことだから。

だから釈迦は最初は説法するのを躊躇した。「世の流れに逆らうもの」だから。
が、梵天が説法してくれるようにお願いした。
なお、神といっても輪廻転生の枠内にあるのでブッダよりは格下。

世の流れに逆らうもの
=「女性と目も合わせないニート」になれ!
=ブッダは生産と生殖を禁じた、
という点で現代社会における常識的な価値観を真っ向から否定する「脱社会」志向。
しかも、セックスだけでなく、女性と会話したことを思い出すことも禁止。
そのうえ、修行の結果、来世において感覚的快楽にあふれた天界に生まれようと望むことも禁止(今生ではあきらめても来世に感覚的快楽の希望を抱いてはいけない)

(労働禁止+生殖どころか異性のことを考えること自体禁止
=できる限り何も生み出すな!)


・釈迦は輪廻を説かなかった「はずだ」のような「はずだ論」に注意。
最も古いとされる経典にも輪廻思想は普通に出てくる。

・釈迦の教えは非常にシンプルで非人間的。
「私たちは欲望の対象を追い続ける傾向にある。
欲の流れに乗らずに減少をありのままに観察しなさい。
そうすれば現象の無常・苦・無我を悟ることができ、
それらを厭離(おんり。厭い離れる)し、
離貪(りとん。貪りから離れる)して解脱に至る」

(神が登場しませんね。神との合一というバラモン教やグノーシス主義や新プラトン主義と全く違う方向性)

釈迦の非人間的でシンプルな教えが与えてくれる価値とは、
「ただ在るだけでfulfilled」というエートス、ただ存在するだけ、いま・ここに在って呼吸しているだけで十分に満たされているという居住まい方。

・瞑想はバーゲン(取引)ではない。
~時間も瞑想したのだからこれだけの成果が得られなくてはならないとか、
これだけのことをしてきたのだからそろそろ悟らなくてはおかしいとか、
何時間座ればいいんですか~時間でどういう結果になるのか聞くなど、
成果を買うために投資するというのはおかしい。
瞑想は投資の手段ではない。

「有為
=為すが有る
=形成されている、つくられている、造作されている、
条件が合ってそうなっているもの
条件づけられている=conditioned」
(有為の現象世界=世間=世界)

の状態から、

無為
=形成されていたない、つくられていない、造作されていない、
条件付けられていない=uncondisoned」
状態=涅槃に至るのが目的。
(有為を超出した境域=出世間)

いろは歌の「有為の奥山 今日越えて」とは、
条件づけられていて、ゆえに無常である有為の現象を乗り越えて、無為の涅槃に至りましょう、という意味。

(とが云々で無理やりキリスト教の歌にしようと工作している詐欺師がいますよね)

仏教の最重要概念である
苦(ドゥッカ)
=不満足
=unsatisfactoriness

インド文化圏では輪廻転生は「事実」なので、苦は現世だけでは終わらない。

・仏教の根本は、
縁起=原因によって結果が生ずる
Aという条件があればBがあるなら、AがなくなればBもなくなる、という因果関係。
縁起とは「縁」りて「起」こる
=ものごとは原因・条件によって生じる

というそれだけの意味。あくまで基本的にはそれだけの意味。

仏教の迷い
=悪い癖がついてしまって、わかっちゃいるけどやめられない状態。

原因と先行する条件があるから迷いがある。
だから先行する条件(原因)をなくせば、のちに来る結果も生じなくなる。
苦には原因があるからなくすことができる。

(原因と成立条件があるから不変のものはない。だからゴッドを否定。
縁起は希望でもあります。原因を消せば苦しみを消せるのですから。
不変の絶対存在=苦だったら絶対に消せませんからね。
不変の絶対存在が苦の原因でも苦は絶対に消せないことになります。
原因が永遠にあるのだから。
縁起は良いものもいつかは消えるが悪いものも消せるということです。
原罪って絶対に消えない設定だから悪質。
原罪を創った張本人に「ゆるされる」だけだし)

・無我
=ずっと死ぬまで変わらない私というものはない。
なお。個体性のレベルでの私という概念は存在する。
が、「変わらない本当の」私は存在しない。
伝統的用語で言い換えると、
常一主宰の実体我。
常=常住(無常の逆)
一=単一。
主宰=コントロールする能力がある
∴常に存在し続けている単一のもので、
実体として他から規定されることがないゆえに自分に関してはすべてコントロールできる存在
=アートマン。

ずっと変わることがなく、自身をコントロールできる実体=アートマンを否定。

苦行したり瞑想したりして
「常一主宰の本当の私、実体的な私、アートマンというものがあるはずだから探そう」
とがんばってもアートマンは少なくとも現象の世界の中にはないよ、と説いたのがシャカ。

(あなたの「不変の本体」なんてないってことです。
実体=絶対に変わらない本体。
変わらないものなんて存在しないから実体なんて嘘。
あなたの本体なんて存在しない
といったのが仏教。
実体
=存在するのに他の存在を必要としない存在、
それ自体で存在している存在。
キリスト教のゴッドみたいなもの。

自分探しカルトの教義の「自分」ってアートマンでしょ?
仏教では自分探しは絶対に失敗すると説くのです。
自分「なくし」が目的ですからね。
便宜上の「私」は、いま・ここにいます


・苦なるものは無常である。
苦=不満足=思い通りにならない。

色(身体)が我であるなら、自分でコントロールできるはずだから病気になるはずがない。だから無我。
「私」を含めた現象は思い通りにならない。
が、
経験我
=変化し続け流動し続ける認知のまとまりという現象(諸行)として存在しているものをとりあえず「自己」
と呼んでいるもの

「己こそ己の主人」「自らをよりどころに」の「自己」は経験我のこと。


無記
=回答を与えないこと、説明されないこと。
釈迦が形而上学的な(抽象的で哲学的な)質問をされたときに基本的には沈黙して答えなかったこと、あるいはその回答されなかった問いのこと。
そういった問いは無益で涅槃へと導かないからと釈迦は言う。
そういう問いを受けた時は釈迦はいつも答えずに代わりに悟りにつながる縁起や四諦の話をする。

「そういう形而上学的な話をしたって、それを一生懸命考えても解脱に至ることはできません。
だから私はそうしう話はしない。あなたはまず縁起の理法を理解して、それで涅槃に到達しなさい」
という感じ。
霊魂と身体は同一であるか、異なるかなどの質問には絶対に答えない。
我はあるか、と聞かれても沈黙、
我はないのか、と聞いても沈黙。
釈迦「もし我があるといったとしたら、常住論者になってしまう。
もし、ないといったとしたら、断滅論者になってしまう。だから私は応えなかったのだ」

常住=常見(世界と自分がずっと存在し続ける。実体我はある)

断滅論=断見
(世界と自分の断滅=無になる、死んだら終わり、自己というものは一切なくなり無になる)

常見も断見も邪見=誤った見解。
死んだら無になる、は仏教では明白に誤り。

釈迦は現象の世界の諸要素については常一主宰の実体我は存在しないとはきっきり主張するが、
現象世界を乗り越えたところに我は「ある」とも「ない」とも絶対に言い切らない。


(仏教はニヒリズムではない)


・カルマ(業)
=(ある種の潜在的な余力、ポテンシャルを持つので必ず結果をもたらす)行為
後に結果をもたらす働き。

やったら終わりではなく残されたポテンシャルが後に必ず結果をもたらす
のが業。
輪廻思想と合わさり、蓄積された潜勢力に縛られているのが衆生。
生まれ変わるので別の個体性(前世が幼虫なら今回はさなぎで来世はガのように)をもつが、カルマは前世から引き継がれる。しかし全体を俯瞰すると同じ虫だともみなせる。
無我なのに輪廻するのではなく、無我=実体我がないからこそ輪廻する。

輪廻に主体はない。何が輪廻するのかという質問はおかしい。カテゴリーエラー。
個体存在の固定的な核、実体的な魂を想定し、その魂が次々と器としての進退を乗り換えながら存在を保っていくというイメージは間違い。
後に結果をもたらす業が現象を引き起こし、それが更なる業の条件となり次に新しい結果を生むことをひたすら続いているプロセスを輪廻
といういう。


(バラモン教もバラモン教がモデルのスピも「本体」がある輪廻)

「世界」(世間=ローカ)は
我執が焦点となって形成された欲を伴い貪りに染まったイメージによってできた物語。
目の前のイメージがありのままの事実だとみなしてしまう。つまり世界とは仮象=脳内世界。
凡夫が勝手に作り上げた仮象の「絶対的全体」が「世界」なので、
釈迦の立場ならそれが「有限か無限か」という質問はカテゴリーエラー、的外れ。
仮象にすぎない世界を現実存在すると勝手に思い込んだ上の質問だから答えようがない。
だから
「君は絶対的全体としての世界が現実存在するという前提で、
それが無限か有限化質問しているけど、
そもそもその問いが成り立つ、意味をもつのは君たちが五蘊のような認知の構成要素を「我」だとみなしてしまい、
その我執ゆえに「世界」という仮象を形成していまっているからである。
だから君はそのような問いを問うのだし、そして外道の遊行者たちはそのような仮象の世界について自分が何かを確定的に言えるかのうように思いなして、それで世界は無限だとか有限だとか回答してしまう。
が悟った如来は我執をもたずにありのままに見るのからそのような質問に答えたりはしない。
いつまでたっても世界にたどり着けず解脱もできない、勘違いだよ」


釈迦は認知を転換するための実践的方法を教えた。
説明して理解をもたらすのを目指すのではなく、目の見えない人が目を開いて見えるようにする方法を教えた。
見えない人に色とはこういうものだと説明を続ける教えではない。本人が視覚能力を得て目を開き自ら色を確認できる方法を説く。
だから形而上のことには無記。
目をぎゅっと閉じている人が「私は絶対に目置空けない。その私に色の存在を証明してみろ」
と言われて、そんな人に教えるのは無理。
釈迦は「そういう話も議論もしない。私が教えるのは目を開くための方法であり、やりたいならちゃんとやりかたをおしえるのやりなさい。やる気がないならほかに行きなさい」


群盲象をなでるであるように、見えない人が象とは太い柱だ、ほかの人はホースのようなものだ、ほかの人はペラペラの団扇だと考えるとする。
彼らが象とはなにかを議論しても決着はつかない。それぞれしっかり経験した、その事実にもとづいて言っていると主張するから。
三つの中に正しい答えはない。どれも間違っている。事実であり現実である象に固執していたとしたらその認識を否定したうえで正しい象について言葉で教えるのは難しい。
だからそのような質問には決して答えずに、代わりに目を開くための方法を教える。
視覚能力を獲得して象を観察すれば説明による余計な混乱や誤解を目なくことなく一目瞭然に真相がわかる。

己の欲望を伴った認知=顛倒し歪められた認知に基づき、如実(ありのまま)
ではない仮象の世界を形成し、それを実体視したうえで世界は有限だとか無限だとか無益な議論を続けている。
欲望によって形成されたもろもろのイメージが世界という絶対的全体を構成していることを無意識の前提としたうえで、
世界は有限か、
無限か、
有限かつ無限か、
有限でも無限でもないか、
これら四つの論理的可能の中に答えがあるに違いない、と陥ってしまう。
この欲望を伴ったイメージで作り出される物語は事実的世界そのものなのでそこを説得してなんとかしようと釈迦はしない。
だから無記=答えない。
代わりに縁起や四諦を説いて彼らを如実知見(ありのままに知り見る)
の認知
へ導こうとする。



(象のいろいろな場所を触らせたら解決するのでは? 釈迦は他の部位も撫でなさいっていうのかな。

ニー仏 ‏@neetbuddhist 2月6日
「ゴータマ・ブッダと言っていることが異なる」ならば、その仏教は直ちに「間違っている/無価値だ」と考える人は多いのだろうな。「その種の言説は不毛だ」ということを、私は『仏教思想のゼロポイント』や『だから仏教は面白い!』で、繰り返し述べてきたわけだけれども。

水遊 ‏@mizu_asobi欲望の対象も、欲望する気持ちそれ自体も、縁起の法則に従った無常のものとして、常に流動・変化を続けている。…苦を生じさせないためには…欲望の対象を歓喜して迎え入れ、執着し、喜悦を生ずることをやめればよろしい。『だから仏教は面白い』
私たちは基本的には「物語の世界」の中に生きている…「物語」というのは、言い換えれば「欲望によって形成されたイメージ」です…私たちはそのような「物語」のイメージを織り合わせた「世界」の中に生きていて、そこで「苦」を経験している。『だから仏教は面白い』



∸――

名著『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』(新潮社)

・釈迦の推奨する理想の生活は現代日本では健全とはいいがたい。
慈悲思想も私たちの想定する「やさしさ」とは似て非なるもの。
そもそも科学性や合理性がお好みなら仏教の本ではなく自然科学の本を読めばよいし、仏教を学ばなくよい。
仏教に現代思想としての価値があるとすれば世の流れに沿った言説とは真逆にこそ存するはず。
釈迦の教えは人間が放っておけば自然に向かっていく流れの方向に真正面から逆流することを説く、非人間的な教えである。

・盲目的な癖を止める=悟り。

・原因によって生じたものごとは全て滅すると如実知見(ありのままに知る)するのが仏教理解のはじめである。
仏教では凡夫が経験するものごと、現象はすべて原因(条件)によって形成された一時的なものであり、実体を有さない。すべての現象は原因(条件)が寄り集まって起こるものであり、ゆえにその原因(条件)がなくなれば消滅してしまうものである。
全ての現象は原因(条件)によって形成されたものであり、したがっていつか必ず消滅するということ説くのが縁起説。

縁起とは縁りて起こるという字義通りの原因(条件)があって生起することを述べたシンプルなもの。
釈迦の仏教について考える際には、常に縁起をこの原義から把握するのがおそらくいちばんあやまりがすくない。

無常・苦・無我は三相と呼ばれるが、縁起を三つの仕方で表現しているだけ。
色(物質)は無常。無常なるものは苦。苦なるものは無我。
同じ事態の異なった表現。
縁起によって形成された現象は無常。
原因や条件で生じたものは実体なき一時的現象にすぎず、因縁が消えれば滅する。
よって常なるものでは無い=無常。

苦(ドゥッカ)は苦しみというよりは終わりなき不満足。
輪廻思想が前提なので、苦は一生の問題どころではない。

無我
=自分の所有物ではなく、自分自身ではなく、自分の本体ではない
=自分の支配下になく、コントロールできない。
色(身体)が我ならば病気になるはずはないし、私の体はこうであれと命じることもできるはず。だが実際はできない。ゆえに私ではないし、私の我ではない。
苦であるものは無我である。
不満足(苦)=思い通りにならない(無我)のであなたの本体でも所有物でもない。

・私たちは心にふと俯瞰で来る欲望に対して思い通りに従うことを思いなしがちである。
しかしカントによれば、そのように感覚に依存した欲求にそのまま従って行為することは単に人間の「傾向性」に引きずられているだけの他律的な状態に過ぎず、自由とは呼べないものである。
心にふと浮かんだ欲望に抵抗できず隷属してしまうことが恣意の他律なのだから自由とは別物だとカントは考えていた。
仏教でも同様に考える。心に浮かんでくる欲望は私がコントロールして浮かばせているのではない。勝手にやってきてどこか勝手に去っていく。支配下にないという意味で無我である。
内観してみればすぐわかることである。
思い通りに振る舞っていると感じているが、実際は思いそのものが私たちのものではなくて単に様々な条件に従って心中にふと浮かんできたものである。
ふと浮かんできたもの、すなわち無我であるところの欲求や衝動に、それ以外のものを知らないから、ただしたがって行為するしかないのが凡夫にとっての思い通りというものであって、カントに沿って言えば自由ではなく、恣意の他律、仮面をかぶった隷属にすぎない。


・カルマ=のちに結果をもたらす働き。単なる行為ではない。結果をもたらす潜在的な余力を持つ。
衆生が煩悩(惑)と業のはたらきによって苦なる輪廻的な生存状態に陥ることを
惑業苦(わくごっく)と呼ぶ。

・しばしば誤解されていることであるが、釈迦の教説の特徴は
輪廻的生存は苦だから解脱しよう、といったことのみではないことだ。
当時のインドの宗教者、修行者にとって輪廻的生存状態は望ましいことでなく抜き出したいと望む問題意識は多く共有されていた。
釈迦の教説が新しくて魅力的だったのは、苦は原因による必然的結果だが、そこからの解脱は不可能ではない結論したこと、
「私(釈迦)はその原因を見出し、それを根絶できた。私はその方法を君たちに教えてあげることができるし、その通りにやれば君たちも必ず私と同じことができる」
とはっきり語り、真実だと彼の全人格をもって対面する人々に納得させたことである。


瞑想で人格はよくならない。
そもそもどのような人格がよいとか悪いとかされるのはその場の文脈、共有されている物語に左右される。そのような無常の物語に自己を最適化しようとし続けて終わりなき不満足のサイクルにからめとられることから決定的に解脱することがシャカの仏教の目標なのだから、修行者は、世俗的な意味での「物語の中で上手に機能する、役に立つ、人格がよくなる」といった「善悪」からは距離をとっていくことになる。
善悪の基準は物語の世界に属するものであり、解脱とはそうした愛執のつくりだすすべての物語からの解放なのだからその境地には通常の意識の善悪は存在しえない。

日本では大乗仏教の影響で、悟りといえば円満な人格完成者としての仏の悟りのイメージが強いが、釈迦の指示する目業に向って修行する、あるいはした人たちについてはいえば必ずしも当たっていない。
もちろん、仏教でも世俗的な意味での善行は積極的に推奨しているし、日常のふるまいでも戒律に従うので社会的な悪になることはない。
仏教の教理学では
善=行為者に楽の結果をもたらすもの
悪=行為者に苦(不満足)の結果をもたらすもの

と定義する。

善をなしたから直ちに楽(幸福)を得るわけではないし、悪をなしたから直ちに苦(不幸)になるわけではないことは、みな知っていることである。
が、仏教では業と輪廻を基本とするので善悪の行為は業として後に結果をもたらす潜勢力を残すことになり、いつか必ず発現するから行為者は自分の行いがもたらす結果を輪廻転生の過程の中で苦楽の感受として最終的に引き受けざるをえない。自業自得という仏教用語はこの事情を示す。

・釈迦の言う涅槃や解脱は善も悪も捨て去った
=善とも悪ともかかわりのない、そのような物語から離れた境地、
「苦=終わりなき不満足」から解放された境地であるがゆえに最上の楽であるとされる。
彼が第一に目指していたことは機根(才能)ある個人を苦なる生存状態から解脱させることであって、世界や人々を倫理的に善くすることではない。
別に修行者が善を志向してもよい。脱善悪ではあるが、反善悪ではない。
涅槃の障害にならないなら自他に楽をもたらす善の行為は積極的に推奨してかまわない。
仏教の本質が脱善悪であり反善悪ではないことはその倫理観を理解するうえでとても大切なポイントだ。
善悪を否定するのは一種の囚われであり、それを超克した境地を目指す以上、修行者が日常の世間で善行することを否定しない。他方、自業自得なので悪なる行為は苦の結果をもたらすので苦からの解脱を求める仏教者が避ける理由はある。
仏教は素朴な功利主義にもとづいて、
悪行為はあなたに不幸をもたらすし、善行為はあなたに幸福をもたらすから、悪をなさずに善を行いなさい
と勧めるのが仏教倫理の基本。

社会と対立しないための律は
無産者=僧侶の集団が社会の人たちから「この人にはお布施してもよい」と経緯を受けつつ活動を続けるために必要な「僧侶としての格好良さ」を維持するための行動マニュアル。
出家者は労働と生殖をおこなわない無産者の集団=サンガが残っているのは、俗世間との対立を極力起こさぬように配慮しつつ定められた律の賜である。


・釈迦が無我という場合、世界内の現象の一つ一つを挙げて、内面的なものでも外面的なものも我ではないと言っているが、ならば我は絶対的な意味で非存在だと主張するかというと、彼自身は沈黙を守っている。
ゴータマ・ブッダの無我の説き方は常に私たちに認知できる世界内の現象の一つ一つを取りあげてそれらをanattan(無我の原語)だと指摘していくやり方である。
このanattanは無我(我がない)とも非我(我に非ず)とも解釈可能。
非我だとしたのが有名な中村元の非我説であり、彼曰く、釈迦は同時代の他の宗教者・修行者たちが求めたウパニシャッド的な我は否定したが、真実の自己としての我の存在は認めていたということになる。
中村の説は厳格な無我説(我はあらゆる意味で存在しないとする説)を奉ずる仏教者・研究者からは評判の悪いものだが、釈迦の無我の説き方にはそう解釈する余地があることは認めねばならない。
本書の著者は非我説を支持しない。
経典によるかぎり、釈迦は我はないと言い切ることに否定的だが、同時に我があると言い切ることにも明確に否定的だからである。
基本的なことだが、仏教では
常見
=世界は常住不滅で人が真でも実体的な我が永久に存在し続ける

断見
=世界や自己の断滅を主張し死んだら無になる

明確に否定
している。
絶対的な実体的な無我も有我もともに否定される。
釈迦の我の存在・非存在に対する態度は、ほかの形而上学的な問題に対するのと同様に無記=回答や明記されないこと
であったと解釈するのが妥当。

・無我だからこそ輪廻する。
仏教の輪廻は蚕の変化のようなもの。幼虫から蛹になり、蛹より蛾になる。外見はまったく違っているが、同一の虫の変化である。幼虫と蛾は同じとも異なるともいえず、変化したとしかいえない、という比喩がわかりやすい。
輪廻とは原因や条件によって引き起こさ続けている縁生の認知のまとまり、継起する作用の連続が、衆生の死後にはその作用の結果を受け継いでまた新しい認知のまとまりを創る。転生とはそれだけのこと。そこに固定的な実体我が介在する必要はまったくない。

仏教の輪廻は魂のような実体が様々な存在に生まれ変わっていくといった物語ではない。意識や思いが輪廻するのでもない。
識が輪廻の主体だという主張を釈迦は激しく叱責している。
何が輪廻し続けているのか、という問い自体がカテゴリーエラー、的外れ。
仏教では行為の作用とその結果、すなわち業による現象の継起である。つまり行為による作用が結果を残し、その潜勢力が次の業(行為)を引き起こすプロセスがひたすら続くのが輪廻。
存在しているのは現象の継起だけ。その過程、プロセスが輪廻=めぐり流れるであり、そこに主体という固定的な実体は含まれていない。輪廻とは人が真でそれが別の存在として生まれ変わるという転生の物語ばかりを考えがちだが、転生の瞬間だけに起こるものではなく、いま・この瞬間のあなたにも現象の継起のプロセスとして生起し続けているものである。転生とはわかりやすい表れにすぎない。

・マハーコッタはサーリプッタに
「六触処(六根六境が触れる場所)が残りなく離貪・滅尽したとき、何か他のものは存在しますか?」
と尋ねるが否定される。
「何もほかのものは存在しないのですか?」
「存在しかつ存在しないのですか?」
「存在するのでもなく存在しないのでもないですか?」
とすべての論理的可能性を列挙して、無記の問いの形式を踏襲するのだが、すべての選択肢は否定される。
マハーコッティッタに対しサーリプッタは
どれを肯定しても「分別の相にないものを分別の相にもたらすことになる」と言う。
分別の相と訳されたのはpapanca(パパンチャ)。
オーソドックスな訳語は戯論(けろん)。
パパンチャの原義は拡大・拡散すること。
そこから分化や多様化も示す。
本来は分別されていないものを分別して境界づけ、多様性を持ち込んで拡散・複雑化させる働きをパパンチャ
と呼ぶととりあえず考えておけばよい。
本来は分別されていないものを分別して複雑化するのだから、妄想、幻想、迷執といった含みも持つ。
パパンチャは戯論(けろん)という訳語にもあらわれているように基本的に悪い意味。
六触処が消滅したときに何か他のものがあるとかないとか言ってしまうと、
「戯論でないもの」を「戯論にもたらしてしまう」結果になる、ということ。
戯論(けろん)が機能しているときにのみ、あるとかないとかの判断が成立するのであり、六触処が消え、パパンチャも消えているならそのような判断は成立しない。
仏教における「世界の終わり」で起こるのは認知の消失ではなく戯論寂滅である。

著者はミャンマーの瞑想センターでウィパッサナーの実践を行っていたときに、指導する僧侶からしつこく言われたのは「一つ一つの現象をありのままに見よ、イメージを作るな」
だった。
渇愛、煩悩、我執にもとづきイメージを形成し、それにより現象を分別して多様化・複雑化して物語を形成し、苦なる世界に縛り付ける作用をパパンチャといってよいだろう。

パパンチャの終わりが世界の終わりであり現法涅槃の境地である。

我執が形而上学的な認識につながるのかという疑問には答えが出たも同然。
欲望にもとづき織り上げられたイメージが我という仮象を焦点に全体という像を結んだのが世界という物語。
それはパパンチャが機能している限り存在するが、作用が寂滅すれば存在しない。世界とは仮象にすぎないので、欲望する私の認知とは独立に事実として有限か無限かなんていうのは見当違いの問いなので答えようがない。
だがこのことがわからない人は、認知の諸要素に我執を起こし、それを焦点に世界というイメージを形成したうえで、その像を実体視してしまう。
我執による誤った実体視には気づかないまま、如実の風光からすれば仮象である絶対的全体としての世界について常住だとか有限だとかと判定しているのが外道の遊行者たちであり、だからゴータマ・ブッダは「彼等は五蘊を我であると考えるからそのような問いに答えるのだ」と言ったのである。
我があるとかないとかの質問が無意味なので、そのような質問を受けたときは直接的には答えずに、代わりに苦の滅尽と涅槃に導く、四諦の教えを説く。縁起の理法を知って現象を如実知見し、そうすることで苦と世界を滅せばそのような存在や非存在に関する問いの無意味であることは自然に知られることになるからだ。


『スッタニパータ』に
「世界(loka)における諸々の煩悩の流れを堰き止めるものは気づき(sati)である。この煩悩の流れの防御は私は説く。その流れは智慧(panna)によって塞がれるであろう」と説かれている。
気づき=現状に気づき、自覚的であること。


解脱すると「私は解脱した」との智が生じるというのは経典で何度も繰り返されている仏説の基本である。
決定的な実存の転換に智慧によるが、智慧は思考の結果ではない。
定(サマーディ)の集中力が必要。
戒・定・慧(戒律と禅定と智慧)の三学が宗派を問わない仏教の基本教理。
禅定
=特定の対象に意識を集中(サマーディ)する実践
であり注意力の散漫を防ぐ。

悟りは推論や思考の結果で徐々に到達される概念的分別知ではなく、瞬時に興る決定的な実存のありかたの転換すなわち直覚知である。
多門第一のアーナンダは釈迦の存命中には阿羅漢になれなかったことで有名。
が彼は第一結集の直前に、前夜に有学のままで参加するのはふさわしくないと気づきの実践を行って過ごしたが、解脱できず、横になろうと体を傾けた瞬間に頭が地に達せず足が地を離れない間にアーナンダの心は煩悩を離れ解脱した。
高度な緊張と絶望を経て、それが緩んだ瞬間に決定的な体験をするのは禅の実践などを行った人にはおなじみ。
アーナンダが解脱する瞬間に彼に起こったことは理性や意志の範囲外の出来事だった。だからこそ心に現実に付随していて何をやってもそこから離れることのなかった煩悩から気が付いたら心が解脱しているという、不可思議(元来は漢訳仏典の用語。仏教用語)なことが起こるわけだ。
理性も意志も長年動員して必死に手に入れようとしてきたものがその努力を手放した瞬間に得られてしまう。


・ミャンマーの瞑想センターでは「釈迦は全てが無常だと言ったが~」
という質問に対して、
「釈迦はすべてが無常だと言ったわけではない」
と注意されるやりとりがされることがある。
縁生の現象である所行は無常だが、それを超えた涅槃は無常ではないということだ。涅槃は縁生のものではないので、原因や条件によって形成されたものではないという意味で無為と言われ、したがって無常ではなく常である。
ただしテーラーワーダーは厳格な無我説をとるので常であり楽であるとは言うけれども、涅槃は我であるとは決して言わない。

テーラワーダにおける常であり楽であり無為であり不生不滅である涅槃の把握は、現代日本では「涅槃の実体視」という決まり文句でさしたる根拠もなく否定され、例えば『中論』の引用一つで葬り去られるのが常である。
そもそも涅槃というのは出世間の領域にある無為のものである以上、実体か否かを論じるのはカテゴリーエラー。
涅槃というのは分別の相が存在しないのであるとかないとかという判断の前提となるパパンチャが寂滅していまっているのだからそれが実体であるか否かなどと論じることももちろん無意味。なおかつ、現に証せられるものであり、来て見よと示されるものである。


・慈悲と一般的なやさしさは違う。
慈悲には常に「捨」(平静さ)の態度が伴っているが、優しさには伴っていない。
優しさとは他社の喜怒哀楽を感じ取って同調し、それに働きかけようとする心であるが、捨というのはそうした心の働きをすべて平等に観察して、それに左右されない平静さのこと。
捨の態度は悟っていないとできない。本当の慈悲は悟ってからでないとできない。
我執と欲望で織り上げられた物語の世界の中で現実を如実知見しないまま盲目的に利他(だと感じられる)行為をするならばそれは単なるやさしさである。
欲望の物語への執着を離れたところから、我執も他執もない平等なはたらきかけを行わなければ仏教の慈悲にならない。

・釈迦は機根(才能)ある者すなわち語れば理解することのできる一部の者たちをを対象としており、一切衆生を対象とするものではなかった。


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『阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門』(幻冬舎新書、2011年(平成23年))
横山 紘一(よこやま こういつ、1940年 - )

・心の中に(=心を離れず)脳がある。
この「中」は空間的意味ではない。
すべては心を離れたものではない
=一切不離識(いっさいふりしき)。


・唯だ識(し)るというはたらきがあるのみ。
名詞ではなく動詞で語れ。
諸行無常。
無常なものを名詞によってその一部を切り取り、それが固体的、実体的なる常なるものがあると思い違いをしている。
ここに川があると言っても実際にそこにあるのは水が流れているという現象のみ。
が川という名詞で言うと水が流れているだけでなく、川というものが存在すると思い込んでしまう。
常に変化してやまないものばかり。
名詞よりも動詞で表現するほうが事実に近づく。
心という名詞を使うことで何か変化しない固定された実体ある心があるように思い込んでしまうのではないか。
不変の心は存在しない。
心の代わりに識を用い、しかも識ると動詞で表現したほうが事実に近づく。

唯識はただしきがあるのではなく
ただしるというはたらきがあるのみ。

・目の前の憎い人は実は憎くもないし、憎くもないこともない。
八つの識で色づけられた加工物=こいつは憎い。
この人は本来はただの存在=中性的存在。

相手ではなく相手「に対するイメージ」を見ている。
私のツイッタープロフィールの私の住所は
“あなたの私に対するイメージの中”


戒体(かいたい)
=戒を受ける儀式を通じて深層心に植えつけられる「非情を防ぎ悪を止める力」。
不殺生戒を誓う時、
「汝、生き物を殺さないか」と問うと、
受戒者は「はい」と答える。
この問答を三度繰り返す。
はいと言うだけでなく合掌する。
そして心の底からそうするという強い意志を働かせて請願する。
つまり、身口意の三業によって全身全霊で誓う。
(選民思想、欲望の暴走などを防ぐ安全装置。カルトはこれを抜く)


・唯識無境
=境すなわち外境は存在しない。
厳密な意味では、いかなる意味においても外界にものの存在を認めない。

(自身が一切認識しない要因で死ぬ場合についてはどう主張しているのか気になる)


・自我執着心=末那識。
自分は、自分のという思いが生じる原因。
末那識も阿頼耶識から生じる。
常に阿頼耶識を対象として自分に執着。

「自分」とは言葉の響きがあるだけで無我。

・言葉は対象そのものをぴったりと一致せず、あくまで対象を抽象的に比喩的に言い表すことしかできない。
名詞こそが、実体があると思い違いをさせる原因。
名詞ではなく動詞で語る努力を。


・一切は阿頼耶識=潜在層にはたらく根本心
から作られたものである。

唯識の定義する因縁
=阿頼耶識(=蔵識)の中にある種子。
アーラヤ=貯蔵庫・蔵
阿頼耶識は記憶を貯蔵し、業のを保存する。


唯識の定義する意識
=独自のはたらきを持った心。
五識とともにはたらいて感覚を鮮明にし、
五識の後に言葉を用いて思考するのが意識。

コンシャスネスやベブストザインの訳語に、この仏教の意識という語をあてた。
現代の意識とは一般には心の経験内容の総体。


光明想(こうみょうそう)というヨーガがある。一人一宇宙の中が光に満ち溢れた世界だと思い続けるヨーガ。
阿頼耶識を浄化する技術。
光り輝く世界を消すことなくずっと想いつづけるのは難しい。念(=明記不忘 みょうきふもう あるイメージを心に明瞭に記憶して続けて忘れないこと)の力が必要。
住んだ満月を心の中に描き出してください。その満月を思い続けてください。

(光明思想=ニューソート=ポジティブシンキングカルトの元ネタ疑惑。
ひきよせの法則は阿頼耶識縁起の劣化。
というか仏教の修行法の劣化。
執着をひきよせてどうするのか)


・遍計所執性(へんげしょしゅうしょう, parikalpita) 
=言葉であまねく考えて、しかも執着されたありようを持つもの。身体など。

構想された存在 凡夫の日常の認識。

・依他起性(えたきしょう, paratantra)
=他に依存(縁起により成立)するもの。

・円成実性(えんじょうじっしょう, pariniṣpanna)
=修行により完全に清浄になった心のありよう、完成された心、真如。  絶対的存在、完成された存在

唯識を発展させた三大論師は弥勒、無着、世親。
(弥勒=ミトラ。
スピ系が唯識の劣化コピーである理由の一つ。
本書の後半から人生論になる。唯識思想をどう応用するかについて書いてあるが、神智学=仏教破壊用のバラモン教風キリスト教の言っていることとかぶっているなあと。
唯識や阿頼耶識縁起を盗んで劣化さえたのがスピ思想だから既視感があるのは当然か。
スピ信者がこの世はホログラムだって偉そうに言ったりするが、
遅いし長い。
般若心経では「五蘊皆空」の四文字で終わるし古代から言っている。
最先端思想のふりをするなよ反知性主義者。)









∸――
遍計所執性(へんげしょしゅうしょう, parikalpita) 構想された存在 凡夫の日常の認識。
依他起性(えたきしょう, paratantra)  相対的存在、他に依存する存在
円成実性(えんじょうじっしょう, pariniṣpanna)  絶対的存在、完成された存在
修行の結果悟りを開き仏になると、8つの「識」は「智」に転ずる。これを転識得智(てんじきとくち)という。
1. 前五識は成所作智(じょうしょさち)に
2. 意識は妙観察智(みょうかんざつち)に
3. 末那識は平等性智(びょうどうしょうち)に
4. 阿頼耶識は大円鏡智(だいえんきょうち)に転ずるとされている。
転識得智の考え方は天台宗や真言宗、チベット密教のニンマ派にも受け継がれている。
修行の結果悟りを開き仏になると、8つの「識」は「智」に転ずる。これを転識得智(てんじきとくち)という。
1. 前五識は成所作智(じょうしょさち)に
2. 意識は妙観察智(みょうかんざつち)に
3. 末那識は平等性智(びょうどうしょうち)に
4. 阿頼耶識は大円鏡智(だいえんきょうち)に転ずるとされている。
転識得智の考え方は天台宗や真言宗、チベット密教のニンマ派にも受け継がれている。

『成唯識論』(じょうゆいしきろん、梵: Vijñapti-mātratā-siddhi, ヴィジュナプティ・マートラター・シッディ)は、法相宗(唯識宗)が所依とする論典の一つ。10巻からなる。
「ヴィジュナプティ・マートラター」(vijñapti-mātratā)とは「唯識」、「シッディ」(悉地, siddhi)とは「成就」、総じて「唯識による(悟りの)成就(についての論)」の意。
世親が著した『唯識三十頌』を護法が注釈したもので、中国の唐代に玄奘が漢訳した唯識の論典。
日本へも早くに伝わり、長く唯識の教学として研究された。近年新しい訳解説が刊行されている。
文献[編集]
• 太田久紀 『成唯識論要講 (全5巻)』 仏教書林中山書房 2000年
• 城福雅伸 『成唯識論 現代語訳・講義 (全10巻予定)』、春秋社 2005年~刊行中-巻第4.巻第5.巻第6のみ
• 竹村牧男 『「成唯識論」を読む (新興福寺仏教文化講座.7)』 春秋社、2009年
• 服部正明、上山春平 『認識と超越<唯識> 仏教の思想.4』 角川文庫ソフィア、1997年
• 三枝充悳 『世親』 講談社学術文庫、2004年
訓読文
https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98%E4%B8%89%E5%8D%81%E9%A0%8C


唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ、梵: Triṃśikā-vijñapti-mātratā, トリンシカー・ビジュニャプティ・マートラター)は、大乗仏教唯識派の世親が著した唯識の思想を要約した30の偈頌で、玄奘が訳したもの。
原題は「トリンシカー」(triṃśikā)が「三十頌」、「ビジュニャプティ・マートラター」(vijñapti-mātratā)が「唯識」、総じて「唯識についての三十頌」の意。
なお、このほかに漢訳されたものに、真諦が訳した「転識論」がある。
その後、護法がこの唯識三十頌を注釈して玄奘が訳した『成唯識論』は、法相宗(唯識宗)の重要な論典のひとつとなった。
ウィキソースに唯識三十頌の原文があります。
三略も六韜も孫子の兵法も、曹操が注釈をつけた分の兵法
• 安田理深 著、安田理深選集編纂委員会 編 『安田理深選集』第2巻 唯識三十頌聴記1、1985年。

• 宇多田ヒカル - 三島由紀夫の「豊饒の海」により「唯識三十頌」を知り、「写経のお気に入りは唯識三十頌」とコメントしている(ブログ「Message from Utada Hikaru」) 。

エピクロスとストア

ストア哲学 (文庫クセジュ 273)1959/11
ジャン・ブラン、 有田 潤 
と『哲学の歴史 02 帝国と賢者』 内田勝利編 (中央公論新社)




ヘレニズム哲学
ストア派、エピクロス派、懐疑派
A・A・ロング 金山弥平 訳


昔の名著好きの書評
ttp://tazipie.blog135.fc2.com/
にあったよさような本。

古代ギリシャ哲学者の伝記集ギリシャ哲学者列伝 上・中・下
ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、岩波文庫
初版:1994年
原書出版年:2~3世紀

最後のローマ人が牢獄の中で書きました。
哲学の慰め
ボエティウス著、畠中尚志訳、岩波文庫
初版:1938年
原書成立年:6世紀初め頃


エピクロス派の唯物論哲学入門です。
物の本質について
ルクレーティウス著、樋口勝彦訳、岩波文庫
初版:1961年
原書成立年:1世紀頃

人生の短さについて 他二篇
セネカ著、茂手木元蔵訳、岩波文庫
初版:1980年
原書出版年:50~60年

ギリシア宗教発展の五段階
マレー著、藤田健治訳、岩波文庫
初版:1943年
原書出版年:1925年

古代西洋における二つの自由論 ~ストア派とエピクロス派~
ttps://www.rei-yumesaki.net/%E5%93%B2%E5%AD%A6/%E5%93%B2%E5%AD%A6-%E5%80%AB%E7%90%86%E5%AD%A6/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2%E6%B4%BE%E3%81%A8%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%B9%E6%B4%BE%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1%E8%AB%96/
“キケロによれば、ストア派はこの世には有徳な者と不徳な者の2種類しかおらず、有徳な者が不徳な行いをする自由も、不徳な者が有徳な行いをする自由もないと考えていた。
有徳なものが運命に従って有徳な行いをすることこそが自由なのである。
しかし、不徳な者が得をし、有徳な者が損をすることも多い。それでも心を乱さず運命に従い続け、自由であり続けるために、「諦念」が必要とされた。 “
“エピクロス派がストア派と違って、自然法則の強制力は絶対ではないと考えていた”
“エピクロス派のように強制力(運命)から逃れようとする「~からの自由」と、ストア派のように運命に自ら積極的に従う「~への自由」が対立”
他には書いてなさそうなことが書いてあるな。


密教神秘学僧 ‏@mystic_buddhi 2月9日
止観についての書を読むと、信仰や宗教性の云々ばかりではなく、坐禅に関しての実践的・具体的なやり方が述べられている。身体の整え方、呼吸の整え方、心の整え方等々。マインドフルネスって看板でも別にいいんだけど、仏教が元々持っていた部分はちゃんとアピールした方がね。天台の止観をよろしく!





唯識 こころの哲学―唯識三十頌を読む
易経は「占いの書」と「義理の書」(哲学の書)という二つの側面がある。義理の書として易経が説く人生哲学は「謙虚」に集約されると思う。驕るとろくなことがないという「真理」は古代も今も変わらないのだろう。慎みを宝とした老子や我執を戒める仏教など年月に耐えてきた思想は大体同じことを言う。

がんばらないぶんめいのはなし/スメート・ジュムサイ『水の神ナーガ―アジアの水辺空間と文化』
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/?no=137



未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん
http://rongo.roudokus.com/rongo11_12.html

until:2013-7-2 @Ripple1975

インド思想史略説
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm#ch2.2
無記
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/muki.htm#top

無記
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E8%A8%98

The unanswered questions
http://en.wikipedia.org/wiki/The_unanswered_questions

ラスボスがシステムそのものなんですよ個人はあくまでもシステムの手先。お賽銭(戦争屋の集金装置)やユダヤ陰謀論(戦争屋=キリスト教の隠れ蓑)は善意を悪行に変えるシステム。 奴隷に奴隷じゃ無いと信じさせる儀式が選挙。嘘がお金になることを変えるには、真実がお金になるように、真実の改善者にお金が集まるようにしないといけません。それが本ブログの目標です 。カイジの名言。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-42.html

「『人は信じたいものを信じてしまう』という強制力を数の力で強化して価値観に閉じ込めて支配。「事実と事実に抱く感情を分ける」ことで個人の好みに依存することを排除して対抗可能。願望で事実を捏造してはいけない。.陰謀論は他人と共有できるもので行う検証作業なので、完全に主観依存のスピリチュアルや宇宙人等の反証不可能なものを持ちこんではいけない」とレプティリアンの土偶は言わない。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-8.html


神道について知る前に【20120211】
http://www.mkmogura.com/blog/2012/02/11/1062


プラトンの『国家』の中核の要約版(原初に比べて蝶短くまとめました)
プラトンは優生学と職人軽視(肉体労働しない者が一番偉い)と理性崇拝と知性主義(馬鹿は人間ではない)と偽りの公平感を与える儀式(選挙など)の基盤。マギの弟子のプラトンの『国家』は『マギ』の一つ目フリギア帽子モガメット学長の演説の元ネタ。プラトン『国家』 藤沢令夫訳、岩波書店〈岩波文庫〉
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-43.html

「運」を「選択」にかえてみよう。
偶然や奴隷の自由意志(笑)を装った詐欺

共通の敵を作って大衆操作~キリスト教は支配の為に悪魔もスピリチュアルもレプティリアンも作った。小林泰三『ΑΩ(アルファ・オメガ)―超空想科学怪奇譚』~
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-6.html

村手 さとし‏ @mkmogura 2014年2月24日
飯を作らず、ほーけています。
神道を作った時、仏教界が神道に準じるため、仏教のなかをキリスト教化するための聖典として扱ったのが法華経です。
そして法華経原理主義は仲裁役、ヤクザになりました。日蓮主義者、国柱会とかです。創価学会も元はそこです。
愛語など仏教もキリ教化してます。

村手 さとし‏ @mkmogura 2012年7月8日
@lanekota 今さら、やばいとか気にしないよ。つまり、すごい数なわけよ。例えば寺も、すでにキリスト傘下であって、愛語という言葉を全国の寺で使う。うちの寺もよく出てくる禅宗なのにね。これは無量寿経というなかの和顔軟語というのを、愛にむりやりすり替えたわけ。

浄土三部経 講義 無量寿経
http://www.geocities.jp/tubamedou/Joudo/JoudoKaisetu/Muryouju01/JoudoKaisetu00.htm
” 『和顔軟語先意承問』:和やかな顔、軟らかい言葉、先に相手の意を承けて問いかけること。

仏教における「愛」について
http://www2s.biglobe.ne.jp/~posteios/PROJ_C023.htm
” 愛という言葉が仏教において否定的な概念ならば、『無量寿経』の「和顔愛語」という仏典の言葉の「愛」は、一体どう解釈したらいいのだろうかということです。ちなみに、高楠順次郎博士編集の『大正新修大蔵経』(全百巻)に当たってみると、「和顔語」となっています。欄外の注には、「軟=愛」と表記されています。しかし、現在流布している比較的入手しやすい『無量寿経』のテキストや資料には、「和顔愛語」となっています。いったいいつから「軟」が「愛」に変わったのでしょう?そして、そのような経緯は、西洋文化の交流と関わりがあるのでしょうか。

 そこで、手近にあった仏教思想研究会編の「仏教思想1愛」平楽寺書店(1975年初出・1992年第4刷)を参照してみようと思います。

 同書の目次を見てみますと、参考となったり、興味を引かれる論文に次のようなものがありました。

  はしがき
  第一章 「愛」の理想と現実  中村元
  第三章 初期大乗経典にあらわれた愛 藤田宏達

 これらの章を抄出しながら、簡単なコメントを整理するということで、「仏教における『愛』」についてまとめてみたいと思います。

 「はしがき」には、中村元氏が、次のような提言をされています。

 まず、西洋の近代思想が、抑圧的な中世の教権に対する反抗として人間の愛を正面きって押し出してきたことがあげられます。また、アジアでも、例えばインドでは、六派哲学に対する反抗として愛(preman)が強調されガンディーに至るまで、愛は人 間の最も尊ぶべきものと考えられています。日本でも、儒学の「仁」「礼」を中心にして考えていたのに対して伊藤仁斎が愛がより根源的なものであると主張しています。

 さらに、現代は日本もそうですが、世界の精神的状況は愛を重要な価値基準としています。

 これに対して仏教学者は、仏教は愛に対して抑圧的・禁止的であると考えてきました。すると仏教は世間の風潮に敢然と抗争すべきものとなってしまいます。

 しかし、最近、日本の仏教系の学園には愛の字を用いたところが出てきています。(思いつくだけでも、相愛、仁愛などの真宗系の学校名があげられます)もし、そういう傾向が何の根拠もないままに進められたというのなら、世の風潮におもねったと いうことになります。また、もし仏典に根拠のあることならば、はっきりとした自覚をもって積極的に推進すべきでありましょう。

 このような氏の指摘には、私たちも大変興味をそそられます。しばらく、仏教学者の意見に耳を傾けてみましょう。


  「第一章 「愛」の理想と現実」の内容

 東洋の諸国においては、仏教の中心の徳として慈悲が説かれています。愛は、それと通じる時もあれば、異なることもあります。ここでは、全般的に仏教においてどのように愛が説かれていたのかが論じられます。

 愛という言葉には様々な使いかたがあるようです。愛 piya、priya、親愛 pema、preman、欲楽 rati、愛欲 kama、渇愛 tanha、trstna などです。私は、前三つは、その対象によって分類され(自己、他者、特定の個人)、後二つは、その内容によって分類され(性的愛、盲目的衝動的執着の愛)ているように思われました。

 仏教では、この渇愛が人間の愛の本体であり、苦悩の源泉であると考えられます。そして、この苦悩から慈悲の心が生まれるのです。自分の苦悩を本当に知る者が、他者の苦悩にも共感できるからです。そして、この慈悲が他者に対する無条件の究極の愛の姿として「無縁の慈悲」、つまり私が誰かに何かをしてやるという三つの条件を全く意識しないで他者を幸せにするものと説かれました。

 仏教の慈悲には人間的な愛の純粋性と共通するものがあります。それで漢訳仏典では、慈悲を愛と訳すことがあるというのです。これで、先の疑問も少しは晴れるというものです。しかし、慈悲は愛と全く同じという訳ではありません。愛が宗教的な自 覚で深められて慈悲となるからです。慈悲は、愛憎という対立を超えた、見返りを求めることのない絶対の愛の姿であり、しかも一切の生きとし生けるものにまで及ぶことを理想としています。

 ところで漢訳仏典の中にある愛には、様々な意味が与えられており、全く反対する概念がこの愛の一語で使われています。愛によって憂いが生じ、苦悩が生じることもあれば、心の喜ぶことであるとされ修めるべき徳とも見られているのです。

 特に人間関係において、やさしいことばをかけること、愛語が尊ばれます。それはやさしく言うこと、愛情こもったことば、やさしいことば、親愛のことば、親しみのある言葉で話すこと、あたたかい心のこもった言葉をかけることです。そこから、人びとに対してはやさしいことばをかけよ、という教えとなります。この場合、もちろん、愛欲の愛 kamaや渇愛の愛 tanhaというような自己中心的な愛と異なり、慈悲による利他の愛につながるものです。

 こういう慈悲の愛から出た言葉が愛語です。ある場合には、互いに愛し合うことという趣意で、愛語を相愛と訳されることもあります。

 こうして学んでみると、仏教の中で使われた愛の言葉は、そのまま慈悲になるのではなく、異なる性格をもつものです。愛は、一、恋愛・性愛ともに欲をともなうもの、二、独占しようとするもの、三、限界性があるもの、ということです。  しかし、愛は慈悲に通じるものであり、やがて慈悲へと深まっていくきっかけになるものといえるでしょう。


  「第三章 初期大乗経典にあらわれた愛」の内容

   初期大乗経典の中で代表的な経典とされるものについての論究がこの章です。原典の文献を読み込んでいるので、少し漢字が多くて難しく感じるかもしれませんが、ここではその中からいくつかを取捨選択して紹介いたします。するとそこに初期大乗の 特徴が見えてくるようです。

 まず、初期大乗経典では、愛のつく言葉は否定されるべき執着としての意味で用いられています。「愛着・愛欲・愛垢・愛縛・愛染・渇愛・貪欲・欲愛・染愛」などです。『無量寿経』の五悪段には、愛欲が六回現れます。

 こうした愛に対して初期仏教では、愛憎を捨てて離れることが説かれますが、大乗仏教ではこうした愛憎を超越するのが大乗菩薩の実践だと説かれます。つまり、無くすのではなく、それにとらわれない生き方を求めるということです。大乗では、愛憎にとらわれるのは分別に振り回されているからだと説くようになるのです。

   例えば『無量寿経』では、極楽世界に生まれた菩薩の姿を「等しく憎愛なし」と示しています。『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』(異なる時代の翻訳)では、「憎愛を遠離す」と訳されています。また、異訳『無量寿荘厳経』では、「愛なく著なし」と訳されています。

 しかし、初期大乗経典には、愛を肯定的に見る視点も色々と見いだされます。それは、人間関係を説く場面では愛は積極的に認められています。先に述べたように、愛の深まった姿が慈悲ですが、仏の衆生に対する慈悲を親の子に対する愛という比喩で表現される経典が『法華経』『維摩経』などに見られます。『無量寿経』には、菩薩が衆生のために不請の友(頼まれなくとも相談を解決してあげるよき友)となり、御法(おみのり)を説き聞かせることは「純孝の子の父母を愛敬するが如し」と、先の比喩とは逆に子の親に対する「愛敬」という表現がとられています。

 また、五悪段には父子・兄弟・夫婦が「恩愛」をもって思慕し、お互いに「相い敬愛」すべきことが説かれます。さらに、「聖を尊び、善を敬い、仁慈もて博愛」すべきことが説かれます。別の場所では、世間の帝王が、「慈恵ありて博く施し、仁愛ありて兼ね済う」ことが説かれております。

 ここでも、仁愛学園の名前が仏典に出ていたことが知られますね。

 さらに愛という言葉が肯定的に使われている例として、仏、善知識、菩薩、法、菩提などに対する積極的な使用例があります。『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』には、「若し彼の仏の名を聞くこと有りて、能く一念喜愛の心を生ぜば」という言葉があり、これは親鸞様の『お正信偈』の中にもあるので聞き覚えがあると思います。

 すこし漢字が異なりますが、同じ意味の使い方として、仏・菩薩が衆生に慈悲をかける姿を『無量寿経』では、「如来は、無蓋の大悲を以て、三界を矜哀す」という言葉があります。これは、法事の時の表白の中でよく聞くのではないでしょうか。

 最後になりますが、親鸞聖人における愛ということに興味をお持ちの方もおられると思います。実は、同書では、早島鏡正博士が「親鸞における愛」という章において、親鸞聖人における愛を幅広く論じておられます。ここでは、紙数がないので、私の視点で書かせてもらいます。

 『親鸞聖人著作用語索引(二巻)』によると、「愛」は執着という否定的な意味で使われる「恩愛」「愛憎」(『ご和讃』)という表現と同時に、「信楽といふは、・・・・楽は即ち是れ・・・愛なり」(『教行信証』「信巻」)、「世を救ひ人を度す慈を極す愛を極む」(同「化身土巻」)などの肯定的な表現の双方が見られます。しかし、「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑し」(『教行信証』「信巻」)のようなお言葉が比較的耳にする機会が多いせいか、親鸞聖人においては愛は否定的に用いられているかのような印象をお持ちの方も少なからずおられるのではないかと思います。

 以上、見てきたように、仏典においては「愛」という言葉は、様々な意味に用いられているようです。


例外的に愛を善い意味で使っている実例をとりあげているのであって、
基本的に愛が仏教では執着だから悪なのは変わらない。
軟を愛に変えるのは完全に経典の改竄、改悪。
無量寿経というなかの和顔軟語というのを、愛にむりやりすり替え
和顔愛語と改竄した経典を広めたグループの一員が高楠順次郎。
高楠順次郎はエスペランティストで、
1906年に黒板勝美らと共に日本エスペラント協会の結成に参加し、東京支部長。
1919年に日本エスペラント学会が設立された際は、当初は評議員として参加。
要は世界連邦派の仏教を耶蘇化させるための憑依戦術系の工作員。
神戸の裕福な高楠家の婿養子となり、その援助で英国に留学、オックスフォード大学でM.ミュラーに師事し、その後、ドイツやフランスにも留学しているあいだにスカウトされたのだろう。

親鸞の浄土真宗に耶蘇教が混ざっている説を想起。

仏典もできる限り昔に出たものを読まないとダメだね



ニー仏‏ @neetbuddhist 2016年11月25日
というわけで、私の知る限り世界最高の仏教・瞑想解説書、ウ・ジョーティカ『自由への旅』(https://www.amazon.co.jp/dp/4105068725 )は、本日発売です。全国の書店さんでも入手可能かと思いますので、ご関心の方は是非!



P.147~8に、『ウダーナ(自説経)』の有名な個所だとして、次のような引用文が載っています。

 比丘たちよ、生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないものが存在する。比丘たちよ、この生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないものが存在しなかったならば、この世において、生じ、成り、形成され、条件づけられたものを出離することが知られることはないであろう。比丘たちよ、生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないものが存在するからこそ、生じ、成り、形成され、条件づけられたものを出離することが知られるのである。





ニー仏‏ @neetbuddhist 2016年11月25日

というわけで、私の知る限り世界最高の仏教・瞑想解説書、ウ・ジョーティカ『自由への旅』(https://www.amazon.co.jp/dp/4105068725 )は、本日発売です。全国の書店さんでも入手可能かと思いますので、ご関心の方は是非!

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お読みくださり感謝
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