読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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終末なにしてますか?神学ですか?哲学ってもらっていいですか?手加減なしで書く哲学記事と、プラトン『メノン』メモ翻訳比較 

使注追加中う メノン読むと哲学が止まらなくなったのでかき殴った生地。

プラトンは生まれる前の魂は全知だと考えていたらしい。
何でも知っている、輪廻転生を繰り返す不滅の魂は全知であり、刺激を受けてその記憶を想起することで、事物に対する知識を生み出すという想起(アムネーシス)説。
長所(アレテー)を身に付けているのは、知性とは無関係に(知性がなくてもアレテーがある)、神的なもののおかげらしい。

ナルトとプラトンを結びつけて論じたのは恐らく私が初だが今回は渇愛、じゃなくて割愛。私のツイートか過去記事をどうぞ。


フェイド大帝
「プラトンは「メノン」で”徳(アレテー)”は教育によって
教えれる物なのかどうかを問題に挙げている。
結論を言うと、プラトンに拠れば”徳”というのは
先天的にしか身に付かない
と唱えている。
プラトンがイラン系宗教の隠れ信者であったことは既知の
事実であるが、「メノン」ではプラトンが実は”輪廻転生”を
信じている
ことが分かる記載がある。

プラトンは”徳”と言うものは前世が記憶しているからこそ
現世においてそれが”徳”であると認識できるのだと
説いている。
つまりプラトン哲学だと”徳”は前世から「遺伝」
するのだ!

アスラ
=自然/本能の神格化=自然/本能のまま生きる「貪人」

デーヴァ
=自然/本能を制御する文明=本能を制御する「魂人」」

ーーー


プラトン
『メノン 徳(アレテー)について』渡辺邦夫/訳 光文社古典新訳文庫
と『メノン』 藤沢令夫訳 岩波文庫

・アレテー=ものの働きの卓越性、良い性能、優れたところ。
人のアレテーは徳と訳されることが多い。
(誤訳じゃねーか!長所って訳のほうがよくないか?)

『メノン』 藤沢令夫訳 岩波文庫 1994年
“こうして、魂は不死なるものであり、すでにいくたびとなく生まれかわってきたものであるから、そして、この世のものたるとハデスの国のものたるとを問わず、いっさいのありとあらゆるものを見てきているのであるから、魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何ひとつとしてないのである。だから、徳についても、その他いろいろの事柄についても、いやしくも以前にも知っていたところのものである以上、魂がそれらのものを想い起すことができるのは、何も不思議なことではない。なぜなら、事物の本性というものは、すべて互いに親近なつながりをもっていて、しかも魂はあらゆるものをすでに学んでしまっているのだから、もし人が勇気をもち、探求に倦むことがなければ、ある一つのことを想い起したこと――このことを人間たちは「学ぶ」と呼んでいるわけだが――その想起がきっかけとなって、おのずから他のすべてのものを発見するということも、充分にありうるのだ。それはつまり、探求するとか学ぶとかいうことは、じつは全体として、想起することにほかならないからだ。”p.47-48(81C、D)

”徳というものは、もし徳が誰かにそなわるとすれば、それは明らかに、神の恵みによってそなわるのだということになる。”p.118(100B)

『メノン 徳(アレテー)について』プラトン/著 渡辺邦夫/訳(光文社古典新訳文庫)
このように魂は不死であり、すでに何度も生まれてきており、この世のことでも冥府のことでもあらゆることがらをすでに見てきたので、魂が学び知っていないことは何もないのだ。したがって、徳(アレテー)についても他のさまざまなことについても、なにしろ魂が『以前にもう』知っていたことなので、魂がこれらを想起できることには何の不思議もない。
なぜなら事物の自然本性はすべて同族であり、魂はすべてのことを学び知っているので、人が或るたったひとつのことでも想起するなら――このことを人間どもは「学習」と呼んでいるが――、その人が勇敢であり、探究を厭わなければ、他のすべてをかれが発見することには何の妨げもないのである。というのも探究することと学習することは、けっきょく全体として、想起することに他ならないから。
”p.70(81C、D)
※『以前にもう』は、引用元では『』はなく、『』内にある文字に傍点。本ブログ形式ではルビはふれないので仕方なし。
※自然本性(フュシス)はネイチャーの起源であり、日本語の自然よりも意味が広い。
或る物事「の」自然本性、例えば、人間の・国家の・アレテーの自然本性(フュシス)のように様々な語に使える。

”徳(アレテー)は、それが人に備わる場合にはいつも、神的な運命によってわれわれに備わることは明らかである。”p.156(100B)


岩波文庫版
ソクラテス
“おまけに、どうやらぼくは、美しい人たちの前に出ると弱い男だということを、君に見ぬかれてしまったらしいね。……しかたがない、君の機嫌をとるために、答えることにしようか。”

光文社版
ソクラテス
“それに、きみは同時に、わたしが美少年にはからきし弱いということに、どうやら気づいたようだね。
そのようなわけで、わたしはきみの気を引くようにして、答えてあげよう。”p.46(76C)

(オルフェウス教とピタゴラス派は魂は不死だという思想を、プラトンは受け継いでいる。

まったく、「ホモ」・サピエンスの業は深いぜ!
欧州貴族が同性愛容認なのはプラトンの影響が大きいです。
そしてキリスト教では同性愛は(表向き)禁止。
つまり、タブー化による利権が生じるわけです。
禁酒法と同じ構造。
非差別層に特権を与えて間接統治させるのも、差別というタブーによる利権の強化をする目的もあります。
日本の江戸時代みたいに同性愛なんて当たり前だったら裏社会利権化はしないわけです。
同性愛容認か反対かどうかでどの陣営に属するかがわかります。
性に関しては妥協しにくいので分かりやすいです。
聖書絶対陣営(ネトウヨとか)は聖書絶対なので聖書の記述通り、
同性愛者は殺せ=同性愛反対です。
逆に、科学重視派、欧州貴族とバチカンの宗教統一賛成派は同性愛容認です。
これから、人口抑制の為に同性愛を推奨するでしょう。
そして同時にギリシャ文化やギリシャの哲学者を宣伝するでしょう。

すくすく。 @ScreamoTAI · 4月7日
面白いのは、江戸時代までの男色は「大人が美少年とやる」ものなわけです いわゆる「ボーイズラブ」ではない 少年同士の対等な性愛文学は明治後期まで待たないといけない 腐女子というジャンルを生み出した源流は明治時代でした)

プラトン全集読破ポータル
http://narimasu.wordpress.com/plato/
内の
プラトン『メノン』メモ
http://narimasu.wordpress.com/2013/12/11/%e3%83%97%e3%83%a9%e3%83%88%e3%83%b3%e3%80%8e%e3%83%a1%e3%83%8e%e3%83%b3%e3%80%8f%e3%83%a1%e3%83%a2/

徳は教えられうるか
想起説 (例として正方形の面積を求める過程)
「知識」と「思わく」の違い

なお副題は「徳について」。以下は読書時のメモです。

メノン「こういう問題に,あなたは答えられますか,ソクラテス。―人間の徳性というものは,はたしてひとに教えることができるものであるか。それとも,それは教えられることはできずに,訓練によって身につけられるものであるか。それともまた,訓練しても学んでも得られるものではなくて,人間に徳がそなわるのは,生まれつきの素質,ないしはほかの何らかの仕方によるものなのか…。」(70A)

ソクラテス「すくなくとも,君がこの土地のだれかをつかまえて,いまのような問をかけるつもりになってみれば,それがわかるだろう。きっと誰でもわらってこう答えるだろうから。
「客人,どうやら君には,ぼくが何か特別に恵まれた人間にみえるらしいね。徳が教えられうるものか,それともどんな仕方でそなわるものなのか,そんなことを知っていると思ってくれるとは!だがぼくは,教えられるか教えられないかを知っているどころか,徳それ自体がそもそも何であるかということさえ,知らないのだよ。」」(71A)

ここで,ソクラテスの本対話篇での一貫した立場を架空の人物に語らせています。つまり「徳とは何か」が分からないのだから,それがどういうものであるか,つまり教えられるのかどうか,というのも分からない,と。

ソクラテス「君があげたいろいろの徳についても同じことが言える。たとえその数が多く,いろいろの種類のものがあるとしても,それらの徳はすべて,ある一つの同じ相 (すがた) (本質的徳性) をもっているはずであって,それがあるからこそ,いずれも徳であるということになるのだ。この相 (本質的徳性) に注目することによって,「まさに徳であるところのもの」を質問者に対して明らかにするのが,答え手としての正しいやり方というべきだろう。ぼくの言おうとすることがわからないかね?」(72C)

この言葉の前には,「男の徳は~,女の徳は~,子供の徳は~」といったように色んな条件での徳があるとメノンが言い,それに対するソクラテスの言葉です。
所謂「イデア」を思わせる言葉です。…

メノン「正義は,ソクラテス,徳なのですから。」
ソクラテス「徳,だろうか,メノン,それとも,徳の一種だろうか?」
メノン「と言われる意味は?」
ソクラテス「ほかの何についても言えるようなことだ。たとえば,円形というものについて考えてみてもよいが,ぼくなら,それを形の一種であると言って,ただたんに形であるとは言わないだろうね。なぜそういうふうに言うかというと,ほかにもいろいろ形があるからだ。」(73D)

メノン「それでは,勇気が徳であると私には思われますし,それから節制,知恵,度量の大きさなど,ほかにもずいぶんたくさんあるでしょう。」
ソクラテス「再度われわれは,メノン,同じ目にあったわけだね。一つの徳を求めながら,またしてもわれわれはたくさんの徳を見つけ出してしまった。そうなるに至った手順は,さっきとは別だけれども。君のあげたすべての徳目をつらぬいているただ一つの徳を,どうしてもわれわれは見つけ出すことができないのだ。」(74A)


あとこれは知らない人には何の事だかサッパリだと思いますが,ソフトウェア開発の「オブジェクト指向」の考え方で,イデア論やもしくは哲学を説明しようとする試みが行なわれていたのをどこかで見たことを思い出しました。ここの部分は,いかにも is-a 関係 (つまり継承) の例になりそうなので。私自身は,真実を追求する姿勢に数学的・理系的なものを感じたり,対話のやり方にアジャイル的なものを感じることはあっても,ソフトウェア開発の方法論を当てはめる観点でプラトンを読もうと思ったことはありません。

ソクラテス「そして問答法においては,ただたんにまちがっていない答をあたえるだけでなく,質問者が知っていると前もって認めるような事柄を使って答えるのが,おそらくその結果によりかなったやり方というべきだろう。」(75D)

これはさらっと書かれていますが,案外プラトン対話篇をつらぬく重要なことかもしれません。というのは,プラトン対話篇というのは読者に何の前提知識も求めず,何から読んでもそれ単体で読めるものになっているからで,それを示しているようにも思えるからです。知らないことを知っていると思わせないために,「分かった気にさせない」ということでもあるのかなと思います。

メノン「ソクラテス,お会いする前から,うわさはかねがね耳にしていました―あなたという方は何がなんでも,みずから困難に行きづまっては,ほかの人々も行きづまらせずにはいない人だと。げんにそのとおり,どうやらあなたはいま,私に魔法をかけ,魔薬を用い,まさに呪文でもかけるようにして,あげくのはてにこの私を,すっかり途方にくれさせてしまったようです。もし冗談めいたことをしも言わせていただけるなら,あなたという人は,顔かたちその他,どこから見てもまったく,海にいるあの平べったいシビレエイにそっくりのような気がしますね。なぜなら,あのシビレエイも,近づいて触れる者を誰でもしびれさせるのですが,あなたがいま私に対してしたことも,何かそれと同じようなことであるように思われるからです。なにしろ私は,心も口も文字通りしびれてしまって,何をあなたに答えてよいのやら,さっぱりわからないのですから。」(80A)

ソクラテス「それから,このぼくのことだが,もしそのシビレエイが,自分自身がしびれているからこそ,他人もしびれさせるというものなら,いかにもぼくはシビレエイに似ているだろう。だがもしそうでなければ,似ていないということになる。なぜならぼくは,自分では疑問からの抜け道を知っていながら,他人を困難に行きづまらせるというのではないからだ。道を見うしなっているのは,まず誰よりもぼく自身であり,そのためにひいては,他人をも困難に行きづまらせる結果となるのだ。」(80C)

シビレエイのたとえが出てきました。ソクラテスの対話でよく出てくる,所謂アポリアーです。但し前半の言葉によると,実際にソクラテスの容姿はシビレエイそっくりらしいのですが。これは貴重な証言なのではないでしょうか。…

ソクラテス「こうして,魂は不死なるものであり,すでにいくたびとなく生まれかわってきたものであるから,…魂がすでに学んでしまっていないようなものは,何ひとつとしてないのである。だから,徳についても,その他いろいろの事柄についても,いやしくも以前にもまた知っていたところのものである以上,魂がそれらのものを思い起こすことができるのは,何も不思議なことではない。なぜなら,事物の本性というものは,すべて互いに親近なつながりをもっていて,しかも魂はあらゆるものをすでに学んでしまっているのだから。もし人が勇気をもち,探求に倦むことがなければ,ある一つのことを想い起したこと―このことを人間たちは「学ぶ」と呼んでいるわけだが―その想起がきっかけとなって,おのずから他のすべてのものを発見するということも,充分にありうるのだ。それはつまり,探求するとか学ぶとかいうことは,じつは全体として,想起することにほかならないからだ。」(81C)

これが「想起説」と呼ばれるもののようです。そもそもメノンが「知っている事柄については,既に知っているのだから探求する必要がない,しかし知らない事柄については,何を探求すればよいのか分からない」ということを指摘した (実際にはソクラテスに言わせた) のがきっかけで,ソクラテスが語ったことです。
科学的な知見がない時代なので,本能的なものがなぜ人間に備わっているのかを説明しようとしたとも思えます。しかしどちらかといえば,セレンディピティみたいな後天的な閃きに近いでしょうか。それにしても上手い説です。本当によく考察した結果なのだなと思います。

この後,メノンの召使に正方形の面積についての問題を「想起」によって解かせる場面があります。メモは全面的に省略しましたが,面白い場面です。ここは「いかにして問題をとくか」という古典的な本 (理系では有名?) で,生徒に先生がどう図形の問題を解かせるかを教える場面を思い出しました。非常に似ていると思います。つまり未知の問題を解くプロセスとして,この想起説の考え方は今にも生きているのではないかと思います。

ソクラテス「とすると,もし徳というものが,魂にそなわる資質のひとつに数えられるようなものであり,また,かならず有益なものでなければならないとするならば,徳とは知でなければならないことになる。なぜなら,いやしくもすべて魂の資質というものは,それ自体単独では有益なものでも有害なものでもなく,そこに知もしくは無知がはたらくことによってはじめて,有害なものとなったり有益なものとなったりするのだから。こうしてこの議論にしたがえば,徳が有益なものである以上,それはひとつの知でなければならないのだ。」(88C)

この少し前では,「例えば勇気は,正しい知識が伴わなければ害を受け,伴えば有益になる」というようなことを言われます。ということで,徳は善いものであれば知識であり,知識なのであれば教えられる,という論理的な帰結が導かれたことになります。しかしそもそも徳は知識なのか?という疑問が生じ,「思わく」というものを提示した結果,次のように言われます。

ソクラテス「してみると,行為の正しさということに観点をおくなら,正しい思わくは,導き手としての「知」に何ら劣るものではないことになる。そしてこの点こそ,われわれがさっき,徳とはいかなるものかを考察するにあたって,見のがしていたことなのだ。われわれは,正しい行為を導くのはただ「知」だけだと言っていたのだから。実際にはしかし,正しい思わくもまたそうだったのだ。」(97B)

「思わく」の例として,実際に目的地までの道を歩いたことがあり行き方を知っている (知識) のと,歩いたことはないが行き方の見当をつけて,それが結果的に正しい (正しい思わく),ということが直前に書かれています。目的地に到着できるかぎりでは,知識と正しい思わくは同じだと。

ソクラテス「つまり,正しい思わくというものも,やはり,われわれの中にとどまっているあいだは価値があり,あらゆるよいことを成就させてくれる。だがそれは,長い間じっとしていようとはせず,人間の魂の中から逃げ出してしまうものであるから,それほどたいした価値があるとはいえない―ひとがそうした思わくを原因 (根拠) の思考によって縛りつけてしまわないうちはね。しかるにこのことこそ,親愛なるメノン,先にわれわれが同意したように,想起にほかならないのだ。そして,こうして縛りつけられると,それまで思わくだったものは,まず第一に知識になり,さらには,永続的なものとなる。ここにこそ,知識が正しい思わくよりも高く評価されるゆえんであり,知識は,縛りつけられているという点において,正しい思わくとは異なるわけなのだ。」(97E)

ここで「想起」と「知識と思わくの違い」が結びつきます。
「思わくを縛り付けたものが知識」というのは結構実感できる部分です。同じことを訊かれても,その時々で自分の答えが変わるようなことは確固たる知識ではないのかもしれません。他方で確かに自分の中で何か順序だてて答えを導いたようなことは,頭の中でしっかりと定着したような感じになります。このプロセスが「想起」なのだと言われれば,すごく納得します。

ソクラテス「してみると,実際の行為に関するかぎり,正しい思わくは,知識とくらべて何ひとつ劣るところはなく,また有益であるという点でも,けっしてひけをとらないわけだね。同じことは,正しい思わくをもっている人と,知識をもっている人とをくらべた場合にも言えるだろう。」(98C)

ということで,ここから,過去の偉大な政治家等の人物が国を治めることができたのは,知識を持っていたのではなく,正しい思わくをもっていたにすぎない,ということが言われます。知識ではないから,子孫に伝えられなかったのだと言われます。そしてその思わくは,神によって授けられるものである,と言われます。…ただこの結論は,どちらかといえば時間切れという側面なのかなと思います。結局は,ソクラテスの最初からの姿勢である,「そもそも徳とは何であるか」をまず明らかにすべき,というところで終わります。”


ーーー
ここに注目すると思想を学ぶときにより面白いかもしれない論点

うにょうさんそう【右繞三匝/右遶三匝】とは。意味や解説、類語。仏語。礼式の一で、仏に対して右回りに3回まわること。また、その作法。
トリは霊魂の比喩。

このツイート見てエジプトの心臓とか調べてた。
でインドと比較した。

TOMITA_Akio‏ @Prokoptas 20時間20時間前
ところで地獄はどこにあるのか?
エチオピア語エノク書によれば、死者は地上、地下、地獄に分かれて住み、
スラヴ語エノク書では、地下の地獄、第3天北側の地獄、そのほかに第2天と第5天に懲罰の場が存在する。
ギリシア語ペテロ黙示録によれば、七層天のどこかにあるだろう……。(クリアーノ)
精緻を極めたエジプト死者の書によれば、死者の心臓が審判されるのは天でも地でもないツアトである。
仏教的に言えば中有であろうか。ツアトは地上と同じであるが、ただ次元が異なる。その意味で、ウェイト版で恋人/審判/悪魔札の男女の立ち位置がくるくる異なるのは納得のゆくことである。

「この世」の人間と「あの世の」人間と共通するのは心臓のみで、この心臓が秤にかけられる。義人の心臓は返還されるが、そうでない者はそのまま凶霊の国に落とされる。心臓を還された魂は、クウという身体をまとうカーになる。そこで修業すればバーに昇格すると(『死者の書』)。








凶霊の国の詳細はわからないが(とアニは言う)、「そこは水なく空気なく、霊たちは生命力を失ってあてどなく処々を彷徨う」と。これは、エチオピア語エノク書と同じであることが注目。「天蓋が上になく、下に地の基がなく、上に水がなく、鳥もいない、荒涼たる、ものすごい場所を見た」(18章)。
「港に入り、発芽し、クウは育つ、これによりてバーは生きるなり」……「港に入り」とは人間として死んで霊界に入ること……「発芽し」の意味はクウが生まれること……しかしそのクウは無から生まれるのではない。死者の遺体から”発芽”するのだ。……そこで遺体保存……という理路だ。『死者の書』

『死者の書』が腐敗を恐れる程度は半端でない。しかし腐敗はまた生命(体)を生むこともよく知っていた。「エジプトの牛をとある場所に埋め、角だけを地面から出しておき、しかる後に鋸で切り落とすと、蜜蜂たちが飛び出してくる……牛が腐ってその生物に分解するという」アンティゴノス断片19。


死者の書によると、この世界は「原始初生の一滴」の水から生じた、その精が男神ヌウと女神ヌウトだった。「一面水だらけの水面に大きな波が二つ起きた。二つの波は遠く離れた水面に起きたが、それが次第に寄り添ってやがて互いに砕け合った。そしてそこからぽっかりと一つの丸いものが生まれ出た。→

これが実は霊界の生命の根源、太陽神ラアの誕生であった。……二神は相談して、「ラアを浮かべる天の水面として空を生んでやった。「ラアは水から生まれたし、空もまた水から生まれた。そこで空には水面と同じように地上のものが映る。→
ラアは空の水鏡に映った地上……を見間違えて自分の航路を間違えることがしばしばあった」。 天界も地下界も、「この世」の鏡像にすぎない。 「霊の世界はあくまで心の世界だ」と、『死者の書』は驚きべきことを言ってのける(『世界最古の原典エジプト死者の書』p.129)。



無職童貞を無色透明にかえると単なる透明人間である。
透明人間は目が見えないのは当然である。

臓器記憶  輸血 若返る 若返り 
輸血で人格カエル 別人にするとか
呼吸法と輸血が若さの秘訣かもね。ジョジョの作者。
教皇を神と敵対させるカトリックへの嫌がらせのジョジョ。



これらの論点は学んでおくべき。
カルトのいんちき教義の矛盾を突くのに有効。
仏教は本体がある輪廻を否定する、本体なき輪廻。なぜ本体があるとまずいのかが重要。しかし日本人には人間の生は解脱しないかぎり永続するというインド人にとっての絶対的事実が肌でわからないからなあ。

色々浮かんだこと

・人間はどの程度まで考えられるのか。認識不可能なものを思考できるか。
ゴッドについて考えることはできるのか。それは単に人間レベルに落としたゴッドもどきではないのか。そもそも言語化できないなら言語で書かれた聖典とは何か。
非言語でも同様に結局は人間レベルではないのか。超次元だろうが何次元だろうが結局人間が聞けてしまうならその程度ではないか。すごいのはその異次元存在では無くてその人自身ではなかろうか。
デカルトが考えた悪霊がやばいのは、認識の根拠ごと幻影を見せられるからでそれだと結局ただの現実だからで悪霊こそまさにゴッドだから。
逆に言えば、言葉で言葉を創ったゴッドを否定しきるのは不可能ではないのか。
言葉で言葉を創ったゴッドを定義するのは不可能ではないのか。
否定神学というゴッドは~ではないでしか言えないとする手法があるがおそらく正しい。しかしそれすら言語である。結局言葉を超えたものは要請と筆要請(ひつようせい と読む私の造語。ロゴス的要請)ではないのか。
不可知論になるのか無記になるのか。反実在論か。

・ゴッドと絡むが世界の始まりを言葉で知ることはおろか思考も不可能。なぜなら思考も言語もイメージも順序というものが必要だから。順序すらない状態を仮にカオスと呼ぼう。しかし順序がないのでカオスは生まれることができない誕生ができない。ならはじめからあったのか。というかはじめという言葉も適用できない。
ただあったものが変化しないと何も生まれない。何かに干渉したり自分の一部を変化も同様。で結局一部は変化可能でなければならない。あと完全不変なままで他に干渉は不可能ではないのか。干渉すると干渉沙汰ものの影響を必ずうけるのではなかろうか。
突き詰めて考えると人格神が世界の始まりを起こした創造新であることは不可能ではないか。人格は明らかにかなり後に生まれるはず。
慈悲をもって世界を創造とはどういうことを意味しているのか。
善意とか慈悲をもってなんてそれこそわかりようがないのではないか。
そもそも言語表現不可能で言語を超えた、人間的感情に類する善意や慈悲とは何なのか。結局善意悪意うんぬんは後付けなのではないのか。

・理性や魂はみんなあるからみんな仲間思想はかなり有用。

・魂の定義。実在するか。不滅か。生まれ変わるときに必要か・。

・輪廻の定義。輪廻しないのはなぜか。輪廻するのはなぜか。輪廻から脱すると何がいいのか。脱してどうするのか。
輪廻する本体はあるか。輪廻に本体は不要か。記憶を完全に失うなら輪廻とは何なのか。記憶を断片的でも継承できるなら輪廻に本体があるのではないか。
何か共通点があるから輪廻的に前世は云々出きるのではなかろうか。
輪廻前と後になんの共通点もないならそれは輪廻なのか。
輪廻は単なる状態変化なのか。

・人間の本体はなにか。どこから来るのか。そもそもどこかなろといえる場所があるのか。
首の後ろ当たりと言ったがそれはなぜか。肉より電流流れる血液のほうが本体ではないか。むしろ骨ではないか。脳以外にも記憶が宿るのはなぜか。部位によって記憶しやすい事柄があるのか。
エジプトでは心臓が本体だったらしい、脳は鼻水。たしかに心臓がなかったら死ぬ。頭が欠けても生きている実例を見たからだろうか。
インドだと心臓あたりにチッタと呼ばれる記憶貯蔵庫があるらしいが、
唯識の阿頼耶識はどこにあると考えたのだろうか。心だろうか。
調べるとエジプトでは魂なる人間の本体は五つの要素からなるそうで、名前と魂と霊と心臓と影だっけ。心臓だけ物理じゃねーかと思ったが心臓は思考もするらしいから物理ではない。

∸――


宮川 孝幸‏ @M8839 2011年2月2日
血は性格を左右しないと言われるが、体の中を流れる半分以上の血を入れ替えるほどの輸血を経験すると、人間は別人に変わる。数例しかないので科学的根拠までは解っていませんが、副作用として…まぁ、身をもって経験してます。

ホロデッキでポンファー‏ @m5knt 2015年1月5日
そいや昔、親が血を全部入れ替えして性格変わって別人みたいなことになったって話を同僚からきいたっけなぁ

☆かおりのすけ☆‏ @kaorinosuke 2015年7月22日
ママ友さんの話。出産の時に大量に輸血を受ける事態になったのだが、その後物凄く毛深くなって男性のニオイ?が肌からするようになって、ギョッとしたそう。旦那さんにも体臭を指摘されたとか。一年位続いたらしい。


☆かおりのすけ☆‏ @kaorinosuke 2015年9月27日
前にも書いたかもだが、ママ友が出産時輸血した後、凄く毛深くなったり明らかに自分の物と違う男性の体臭がしたりが1年間位続いたらしい。自分の身体じゃないみたな感覚の変化が色々あったとか。
輸血で身体が変化する。

(輸血や臓器移植で別人になれるのなら、特定の人格や体質に改造するために人工輸血や人工臓器を移植しているんだろう。
思想教育だけでなくその思想を持つ人間の血と臓器を入れることでコピーはオリジナルに近くなる。
支配層の頂点レベルと結社員がやってそう。
輸血による若返りが一番の取引材料っぽいけど
ブレサリアンになる技術もありそう。

血液記憶?)

峨骨‏ @Chimaera925 13 時間13 時間前
輸血で性格が変わる、ねぇ?確かに、育毛剤を服用(内服薬)していると献血できない。血に含まれる成分んいよって体質が変化するということはあるだろう。それによって性格が変わるならば、まだ想像が付く。実際問題、俺は生まれてまもなく母親の血を輸血しているんだけど、性格は似てないなぁ。

だいたい、胎児の時に臍の緒を通じて繋がっている訳で。性格がそこで似るというならわかるが、それらの要素で性格が似通ってくるのは後天的なものが強いだろうな。
寧ろ、血を取り変えるような出来事があると、「変わらなくてはならない」という無意識の効果もあるんじゃあるまいか。プラシーボ効果ってのは侮れない。偽薬等は倫理的な問題があるから忌避されるけれども、実際問題そこそこ効果がある。瀉血みたいにロクでもないものでなく、毒にも薬にもならんもの
だったら無害と言えば無害だけれども、それを使う者が有害でないとは限らない。そこに宗教や思想、金銭が絡んでくるから問題があるという事にしておくのが無難だ。






☆かおりのすけ☆‏ @kaorinosuke 2012年5月27日
【科学的事実をいって差別になるなら民主主義国家を標榜するのはやめろ。輸血による被曝は食物接種なんかより心筋にダイレクトにくる。出産による輸血等で無用な事故がおこる。エビデンスを待ってる場合じゃない。一時期の英国滞在者が献血できなかったのと同じ。差別じゃなく区別だ 】




永井均‏ @hitoshinagai1 2016年6月21日
悪霊は「私は存在する」という考えを誰にでも何にでも持たせることができるが、持たされたその者(の一つ)がなぜか私であることは悪霊の感知不可能な事態。したがって、その「私」は悪霊を指すどころか彼の能力の外部にある。とデカルトは発見した。 https://twitter.com/shogoinu/status/744657257162383361 …
清水将吾‏ @shogoinu 2016年6月20日
「私は存在する」という考えを、仮に悪霊に無理矢理もたされているとしたら、その「私」は悪霊を指すことにならないだろうか。

永井均‏ @hitoshinagai1 2016年6月21日
返信先: @hitoshinagai1さん
悪霊は本質的に欺く者だがここでは欺けないのは、神は本質的に創造する者だがここでは創造できないことに基づく。神は「私は存在する」と考える者をいくらでも作り出せるが、作り出された者(の一つ)がなぜか私であることだけは神の力も及ばない。とデカルトは発見した

神が私を創造できないのは、彼が創造した「私は存在する」と考える多数の者たちの内から、私を識別する(という私には易々とできる)ことが彼にはできないからだ。彼は私の心の奥底まで知っているが、どれが私であるかは知らない。私は彼の力の外で存在を得ている。

神は「この時点が今である」といえるような無数の時点を創造できるが、それらのうちいつが今であるかを知る=識別する(という我々にはあまりにも容易できる)ことが(それだけは)できない。その一つの理由は、この「あまりにも容易に識別されるもの」が実は実在していないから、というもの。


しかし、この「神が識別できない」「実は実在していない」ものこそが、神の顕現の場なのだ、と拙著『存在と時間』第6章では言われている。つまり、ここで神の意味そのものが変わるわけだ

「神」(やそれに類する話)はこのように理解するのでなければ意味がない、と私は思っている。この議論にではなく、「神」そのものに関心のある方に、ご意見を聞きたいところ。(中田さんだけでなく。)

「「神」そのものに関心のある方はたいていこの議論が理解できないので「ご意見を聞く」こともできないのでは?」というご意見があり、まあ、事実としてその通りなのですが、私にはそのことが不思議であるわけです。
「……このように理解するのでなければ意味がない」と思っている理由は、超越性へのルートはこれ以外にはありえない、と思っているからです。

永井均‏ @hitoshinagai1 2時間2時間前
永井均さんが森岡正博をリツイートしました
まったくその通りですが、同時代のアカデミックパラダイムで評価される論文を書ける実力を養いつつ、同時にそれによってそのパラダイムそのものを転覆させる計画を虎視眈々と練ればよいので、大丈夫です。両立します!
森岡正博‏ @Sukuitohananika 3月6日
返信先: @Sukuitohananikaさん
現在の世界のアカデミック哲学界を席巻してる英語圏分析哲学がなぜつまらないかといえば、強固なジャーナル査読システムで論文をふるい分け、同時代のアカデミックパラダイムで評価されるもののみを残す仕組みを完成させたからだ。哲学は本来、同時代のパラダイムを転覆させる危険なものだったろうに。




「至神智教団」
ねこた‏ @lakudagoya
モデルは恐らくイスマーイール派かな?
「至神智教団」の学院は恐らくアズハル大学。これ、元々イスマーイール派の学院。
イスマーイール派と言えばブラバッキー夫人のパクリ元じゃん!
 この「至神智教団」ってのはシーア派系の団体だったんかよ!?

なぜイマーム・アリーは重要なの?
それはイマーム・アリーは神智を齎す存在だから。

まさかネットも満足な本もないのにシーア派の情報も入ってるとは恐れ入った!
主人公はフサインのように迫害される。


時間の神である「一の神」の神官である「至神智教団」の祖師様って、もしかして彼の使える神はあっらーさんの比喩かも知れないよ?

イスマーイール派の神話も関係あるかな?

月蝕の巫女を探してたのだから。

時間=お月さまだよ。

で、あっらーさんの娘さんは月の女神だよ。黒曜石だ。


月蝕紀列伝

で、北部は山岳地帯で南部は砂漠のある亜熱帯。

スペインにも似てるけど、アラビア半島で山岳地帯と言えばアシール!

その北部の山岳地帯に本拠地を持つ「至神智教団」ってクルディスタン?

それとも、アラムートの遺跡に本拠地を置いてたイスマーイール派かな?

月蝕紀烈伝に出てた「至神智教団」って教育カルトかな?

「ニャンゲンの可能性を追求」とか言うならば、教育カルト以外になりようがない。

で、神や精霊から離れてニャンゲンの可能性を探求ならば、ストア学派のような理神論を取らざるを得なくなるよー!

月蝕紀烈伝に出てくる理神カルトの至神智教団の教義

「 神々から離れて人間の内に神聖を見いだすこと。人間の持つ無限の可能性を引き出すことです。善と悪、取るべき二つの道があって、たとえ悪の方が魅力的で楽に見えたとしても、結局、人間は善を選ぶものだと、私は信じてるんです。」


LGBTとグノーシス。面白いねぇ。
この前紹介したラノベの「至神智教団」って、封建社会なのに身分にこだわらないんだよ。性別も。

このガチ系啓蒙主義のこだわらなさは世の中の不思議でもある。

この古代から男女平等思想を受け継いだ連中の暗躍が気になる所だが。

この「至神智教団(神智学協会の類似品ではありません!)」の構成員の事を兄弟とおフレンチ語で言っちゃうのってさ(とまーてさんにおフレンチ語が間違ってますぅ!とつっこまれたらいいのにw)、一瞬高須クリニックの人のついったーを思い出したでよ。

あの人素人目から見ても下っ端だとわかるw

大昔のラノベの「月蝕紀烈伝」に出てくる理神論カルトの至神智教団が陰謀まみれの真っ黒黒助でワロタ。

陰謀論者として陰謀を見るのは面白い。

よくここまで頭から腐った陰謀組織が出来上がるわ。

でも、こいつら敵キャラとしては交渉通じそうなのが他のラノベにはない特徴だね。

イスラームは理論的な宗教だけど、やはり一般の信者の中心は現世利益のあったスーフィズムだよ。

この至神智教団ってのも普及すればスーフィズム臭くなるんでね?


「至神智教団」
ニャンゲンの知性のみを信じて、神も精霊も信じない(何それサドカイ派?でもサドカイ派は神を信じてたぞ?)無神論カルトって、中世ヨーロッパみたいな社会で流行るんかい?

これ知識層でないと流行らないね。

普通の社会では現世利益の多神教だよー。

至神智教団の目的

「 神々から離れて人間の内に神聖を見いだすこと。人間の持つ無限の可能性を引き出すことです。善と悪、取るべき二つの道があって、たとえ悪の方が魅力的で楽に見えたとしても、結局、人間は善を入れるものだと、私は信じてるんです。」


「異端の魔道士セイル」というラノベには、理神論みたいな魔道士のカソリックみたいな宗教が存在するけどその名前が「至神智教団」だ。

自然法則を感じる力である理性というものは非常に神的なものであると思われてました。やつらの理性崇拝ってものは根底にはこの思想があります。 また、情動に流されずそれらの自然に従って生きた賢者は死後はお星様の世界で暮らせると信じられてました。
また人間には自然法則を感じる超能力である「理性」が備わってて、人間社会の中での自然法則である自然法を理解する力があるから、国籍や民族に囚われずに人類は皆平等であると言いました。 人類みな兄弟や世界政府みたいな考え方はどう考えてもこれらの思想が根底にあります。


おいら「でも神々を信じる人たちは、魔導師さんたちの事を神を信じぬ人間中心主義の徒と言うのよ?」

魔導師さん「それは間違いね。そもそも神々はニャンゲンに内在してるわけなんだから、外に偶像を作って拝むことが偶像崇拝の邪教の徒であって、それこそが神に対する冒涜じゃないかしら?」

ねこたさんが追加
ねこた @lakudagoya
ねーねー魔導師さん、何でこの魔導師の教団は、神や天使から離れてニャンゲンの理性のみを至上としてるの?

「だって、神は内在していてニャンゲンの内側にあるの。だからわざわ…
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ねこた‏ @lakudagoya 3月11日

ねーねー魔導師さん、何でこの魔導師の教団は、神や天使から離れてニャンゲンの理性のみを至上としてるの?

「だって、神は内在していてニャンゲンの内側にあるの。だからわざわざ外に偶像作って拝む必要ないでしょう?

だってニャンゲンの理性は神と同じ性質を与えられてるのよ?」

ねこたさんが追加
ねこた @lakudagoya
至神智教団の目的

「 神々から離れて人間の内に神聖を見いだすこと。人間の持つ無限の可能性を引き出すことです。善と悪、取るべき二つの道があって、たとえ悪の…

ねこた‏ @lakudagoya 3月11日

ねこたさんが菊池をリツイートしました

啓蒙主義陰謀論こそ実はイルミナティの中核ですよね(笑)

あと理性主義に関しては、近代的理性=頭の中の妄想ではなく、古代哲学で言うところの神々と同質な自然法則を感じれる超能力としての理性の崇拝だと思います。彼らは神が内在してるから外に偶像を作らないのでわからないかも? RT

ねこたさんが追加
菊池 @kikuchi_8
返信先: @kikuchi_8さん
俯瞰すると陰謀論の歴史は西洋の思想史をまるでなぞるように展開してきた事を発見した①キリスト教圏で発生した為にキリスト教系陰謀論が大勢→②神智学系やニューエイジ系つまり神秘主義派の陰謀論が登場しキリスト教を批判(アイクなど)→③啓蒙主義系の陰謀論が登場しキリスト教と神秘…
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ツワブキさんがいいねしました
ねこた‏ @lakudagoya 3月11日

ねこたさんがねこたをリツイートしました

この理神カルトは、外に神々を作って拝まないのはなぜか?

それは、この思想の元になった思想では、グノーシス派のように神は内在してるから。わざわざ外に偶像を作って偶像崇拝する必要がないの。 

だから、神的な存在であるニャンゲンの理性を大事にするよ。 RT

ねこたさんが追加
ねこた @lakudagoya
至神智教団の目的

「 神々から離れて人間の内に神聖を見いだすこと。人間の持つ無限の可能性を引き出すことです。善と悪、取るべき二つの道があって、たとえ悪の…
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ねこた‏ @lakudagoya 3月9日
返信先: @uhehoさん

でも、ユダヤ人はバアルなどの異教の神は悪魔ではなく、異教の偶像崇拝で神ではないと言ってますけどね、悪魔にされたのは耶蘇教のせいです。

ユダヤ教徒は異教と区別してました。
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逆喷射サンチーム驫麤1000番台さんがいいねしました
ねこた‏ @lakudagoya 3月6日

イスラム圏は、偶像崇拝が禁止されてるからシンボルは文字(特に詩など)やデザインで表すのね。

耶蘇教世界はそうでないから、イコンみたいな形で表すのね。

そういう表現の違いはあるけど、で、タロットカードは耶蘇教世界の秘教伝統も加えて完成したのではないかな?と思う。
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夏之さんと他1人さんがいいねしました
ねこた‏ @lakudagoya 2月28日

ユダヤ学やイスラーム学には、そういった大人たちの陰謀を無効化する知恵が詰まってる。

だから、ユダヤが悪いと煽ってタルムードには触れさせないのね。

中国の古典に触れさせないために反中やってるのと同じ。

特に偶像崇拝を無効化する思考は強い。強いよ。
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黄皇大栄さんがいいねしました
ねこた‏ @lakudagoya 2月28日

若者のリーダーや新星って若者にはこの偶像を拝めと押し売りされてるかのようだ。

若者にはおしゃれで権力に反抗するも本質を外すような偶像さえ与えておけば良いという、大人が透けて見える。

若者に希望をもたらすかのような偶像が出てくる度に違和感を感じてたな。

カノポス壷と守護精霊 - Biglobe
http://www5b.biglobe.ne.jp/~moonover/bekkan/sisya/sisya-canope.htm
”古代エジプト人が考えた、人格を構成する五大要素というものについて理解する必要があるかと思う。
 言ってみれば、中国の思想で言うとこの「三魂七魄」みたいなモノで、古代エジプトでの”人間という生命の存在”は、「肉体と魂」という二元管理ではないのである。

 五大要素の内訳は、以下のとおり。

1.カー 2.バー 3.肉体 4.名前 5.影

 以上、五つが結合して初めて完全なる人格が形成されるのだという。
 と、いうことは、一つくらい欠けていても(たとえば名前を持たない子供がいたとしても)人間としてはやってけそうだが、それは完全なる形態ではないのである。



「カー」

人が生まれる時、ともに生まれ、死後もともにあり続ける存在。
生きているものすべて体の中にあって、生きていく力を与える、ミトコンドリアのごとき別生命体というイメージである。
カーが元気をなくすと生きる力も減少するので、カーを元気にする儀式などもあったという。(それが、カーの神格化された由縁だろうか。)
しかも、本人が死ぬと失われるわけではなく、親から子へ受け継がれることがある。

カーは「ひじを曲げて差し挙げた両手」の形で表される。
右図の像(木製)の頭の上に載っているカタチが、まさしく、ヒエログリフの「カー」。

カーは、それが宿る人と同じ姿をしており、宿る人が老齢や病によって変貌すれば、同じように年老いて、弱ってゆくと思われる。なぜなら、カーの生命力は、それが宿る人の生命力でもあるからである。

右図の像は、ホル王のカーを表した像。カーが元気であるように、と、死者の健康で若々しく、最も状態の良かった姿がカーとして表現されている。

日本語の「魂」に近いニュアンスも含んでいるが、本人とは深いつながりに在りつつ、実際は別個のものであるという点において異なる。

「バー」

鳥の姿をとり、その生き物が死ぬと抜け出すが、死後の世界で復活するときは、何故かついて来てくれる”自分の分身”である。
日本語の「魂」に最も近い概念といえよう。

さきの「カー」は本人とは別の生命体のような雰囲気だが、こちらは、その人の一部ということで、欲望も欲求も共有する。また、鳥の姿になっているときも、本体の人の顔をしていることが多い。
もちろん女性のバーは女性の顔、男性のバーは男性の顔である。

肉体と密接な繋がりがあり、バーは定期的に、自分がもと住んでいた肉体へと戻ってくるという。


「サフ」または「アク」

高貴な魂、という意味も持ち、バーとは違った形の、神々しい鳥の姿で表される。右図のような壁画の描かれ具合からして、ホオアカトキというトキの一種だと考えられている。
高い位にクラスチェンジした魂を意味し、一説によると、「カー」と「バー」が一体化した、死後の世界での死者の姿を意味するという。

生きてる間は持っておらず、死後、復活を許された者だけが持つもの、「祝福された死者」の証、それが「サフ(またはアク)」なのである。

「肉体」

五大要素に入っていないがカノポス壷の守護リストに入っている「イブ」は、心臓のことである。ヒエログリフで書くと、まんま心臓の形で表される。
古代エジプト人が肉体の中で最も重要視したのが心臓であり、心も魂も、体に生命力を与えるものはすべて、そこに入っていると考えられていた。


心臓は、死者の審判で胸から取り出され、真実の羽根と天秤にかけられる。もし心臓が罪に穢れていたら、その場で廃棄処分にされてしまう。アメミットの口の中にポイ。罪に穢れていなかったら、返してくれて、胸に入れなおして、永遠の世界へ旅立ちと相成る。
審判の場まで持っていかなくてはならないので、ミイラにするときは取り出さない。

「名前」と「影」

日本にある「言霊」という概念と似て、古代エジプト人は名前を重視していたようだ。影
名前を忘れ去られるということは、その人の存在自体がこの世から消えてしまうのと同じことと考えられており、政権争いの相手が、ライバルの記念碑から名前の部分を削り取るといったことも頻繁に行われていた。また、罪人から名前を奪い、かわりに悪しき名前をつけたという記録も残されている。

影というのは、「影人(古代エジプト語では”カイビト”と書かれている。)」とも呼ばれ、悪しきものから肉体を守護する自分自身の分身で、場合によっては自ら高速移動することも可能とされる。自然光が基本の古代、影は太陽の光によって作られるものだったことと関係があるとされている。


右の図は、自らの影の上を飛ぶバーの図。影も、バー同様に肉体から抜けだす自由な身であったようだ。”

光と祝福 真我の探求 - FC2
http://holyoverflows.blog.fc2.com/blog-entry-22.html
真我は、5つの鞘(コーシャ)に被われ、3つの体をまとう。

真我は、チッタ(心)の中心に座している。
真我を最初に包んでいる最も精妙な体は、原因体、コーザル・ボディ(カーラナ・シャリーラ、またはリンガ・シャリーラ)と呼ばれる。
心臓にある小さな空間に位置するといわれている。


5つのコーシャの内、アーマンダ・マヤ・コーシャ(至福鞘)と重なる。

原因体から生命の光を受け取り、知識エネルギーと活動エネルギーの情報をやりとりしている次なる体は、微細体、サトル・ボディ(スークシュマ・シャリーラ)といわれる。
ブッディ(理知)、マナス(マインド)、5つの微細感覚器官、5つの微細行動器官、5つの微細元素または感覚対象(タンマートラ)、
以上の17の実在原理から構成されている体だ。
脳のブラフマランドラといわれる空間に位置するといわれている。

ヴィジュニャーナ・マヤ・コーシャ(理知鞘)、マノマヤ・コーシャ(マナス鞘)が重なる。
マナスとは、感覚器官や行動器官を制御している司令塔という言い方もできよう。
意思力と、呼んでもよいだろう。

3つ目の体は、物質でできた体だ。
微細体から送られてくる力や刺激によって、肉体の動きは引き起こされている。
微細な物質でできたプラーナ・マヤ・コーシャ(プラーナ鞘)と、粗雑な物質でできたアンナ・マヤ・コーシャ(食物鞘・肉体)から成り立っている。”

佐保田鶴治のヨーガ禅 マントラとお祈りの効用⑤
http://buen-vivir.seesaa.net/article/432755565.html
”近代心理学でも一度経験された印象はすべて潜在意識に残され消えずに機会ある毎に記憶として心の表面に浮かんでくることが知られている。インドでも同じことが考えられていた(4p57)。

 ヨーガの心理学では、前世の記憶を含めて、すべての経験の残存印象が貯蔵されている記憶の貯蔵場所を「チッタ」と呼ぶ。チッタは神経細胞ではなく、今日で言うエーテル体やアストラル体のように、眼に見えない精妙な物質からできているとされる(4p58)。すなわち、過去に経験された心の印象は「チッタ」と呼ばれる心の土の中にいわば種子として保存されている(4p159)。この集積された膨大な経験のトータルな残存印象のことを「行(サンスカーラ)」あるいは「薫習(くんじゅう)」と言う(4p59, 4p160)。

 普段の日常での心の働き、想念も、このチッタから「発現」している。『ヨーガ・スートラ』では、この発現を「転変」と表現する(4p58)。

過去の印象、業が現在の外部環境を作っている

 けれども、過去の経験からの残存物は、過去からの記憶「チッタ」だけではない(4p59)。個人が過去において行なった善や悪の行為の残存印象である(4p61)「業(ごう)」や「煩悩」もある(4p59)。

 記憶の残存印象である「行」の中には外部環境を作らない記憶もあるが、外部環境を作り上げる種子もある。これを「業」と呼ぶ(4p60,4p159)。「業」はチッタに貯蔵されている「行」の一種だが、心理的な内容に「転変」せず、外界を「転変」する原因となってしまう(4p60)。ただし、「業」は自然世界の設計図のようなもので、そのまま世界を創り出すわけではない。この設計図にしたがって、宇宙を作る根源的な力である、天地のエネルギー源、自性(プラクリティ)が流れ込むことによって、世界が作られていく。要するに、過去に行なった無数の残存印象が種子として植え付けられることで、世界を作る神的な力によって畑が作られていくのである(4p61)。そして、記憶に外界の力を作る力があるのは、無意識の世界が環境を作っているからである(4p161)。外界、すなわち、自分の周囲の環境世界は、個々の瞬間毎に各個人の心によって「発現」されているものだと考えれば、心の操作によって、外界も変わっていくことになる(4p61,4p64)。

 よく、ヨーガを正しく習得した人から「このごろ不思議にツキが良くなった」ということを耳にする。これは、守護神の恩加護のためだと考えることも間違ってはいないが、このように考えれば、その理由も理解できるし、ヨーガの神秘性を強調する必要もなくなる(4p64)。

運命とは自分が過去に行った行為の結果である”

パタンジャリのヨーガスートラ
http://www.ultraman.gr.jp/ueno/2-yo-ganew_page_3.htm
”□ヨーガの八支則(アシュタンガ・ヨーガ)

 それでは、これら総合的なラージャヨーガの代表的な教典、パタンジャリの「ヨーガ・スートラ」に添ってヨーガの構造や行法を見ていきましょう。

この教典はパタンジャリという聖人によって紀元前から綿々と受け継がれたヨーガを、紀元後4~6世紀頃に記述され完成されたといわれている教典です。

八段階の積み重ねによって構成されているので、アシュタンガ(8つの部分=八支則の)ヨーガと云われています。

この総合的なヨーガの行法は、その目的に到達するために、日常の生活においての行動の規範である禁戒や勧戒を山の裾野にして、段階的に体を整え、呼吸を整えながら、順次に山の高みに上っていく道のようです。そして、この実践の過程において、先回お話した五つの鞘からなる総合的な私達の存在の各層に働きかけ、人間が本来備えている肉体と精神とそして霊性の資質や能力が高められ、バランスあるものとなり、心身の健康度が飛躍的に高まり,その人自身の生き方(自己実現)に多大な実りをもたらすものとなります。

第一段階 「禁戒(きんかい)」= ヤマ

 心の平安を得るためには、他者とのエネルギーの交流の中に私達の存在が成立しているという事実にめざめ、自ら発する他者への行為を良好にする事が大切です。これは「出したエネルギーの質が、何らかの形で、同じ質のものが当人に帰ってくる」と云うカルマの法則を基盤にしています。

禁戒の後に勧戒という順序は、命に良い事をなす前に、まず命を害するものをとり除くという事が先決で、医学でいえば薬を飲む前に、毒を吐き出させるという事になります。これを「金剛律(ダイヤモンドの戒律)」の後に「黄金律(黄金の戒律)」という順序となります。

ヨーガ・スートラでは、次の最も基本的な五つの生活法則を示しています。

① 非暴力(アヒンサ)…仏教では不殺生戒

    生きとし生けるものに無用な暴力、殺生をくわえない。

すると、害されなくなる。

② 正直(サティア)…仏教では不妄語戒 

言葉と行動を一致させ誠実なものとする。                              すると、信頼を得る。                                                

 ③ 不盗(アステーヤ)…仏教では不盗戒

     他人の物、時間、喜びなどを不当に盗らない。 

     すると、豊かになる。

④ ④梵行(ブラフマチャリヤ)…仏教では不邪淫戒

 性的エネルギーを適切にコントロールする。

      すると、強健になる。

⑤ ⑤非所有(アパリグラハ)…仏教では不貪戒(または不飲酒戒) 

所有欲を克服し、ものに執着しない。 

       すると、生の目的を悟る。



第二段階 「勧戒(かんかい)」= ニヤマ

 この地上において、本来の自己を実現するためには、日々の暮らしの中での良い生活習慣の積み重ねが最も大切です。

この勧戒は、自分自身の生活態度を改善し、心身ともに霊性を高める五つの生活法則「黄金律」が説かれています。

① 清浄(シャウチャ)…ヨーガにおいての清浄とは、外面と内面双方にお ける清潔さが求められています。肉体的な浄化法と心的な浄化法(慈悲喜捨)がそれにあたります。

② 知足(サントーシャ)…与えられた環境・現状をまず受け入れ、感謝し

     肯定の姿勢から物事に対処していく態度です。 

③ 精進(タパス)… 日常において自らに課した「行」や仕事の積み重ね

  によって心身を強いものにして目標の実現力を高めます。

④ 読誦(スヴァーディヤーヤ)…常に聖典を読んだり、真言を唱え、「生命

     の智慧」の理解と学習を怠らない事です。

⑤ 自在神祈念(イーシュヴァラ・プラニダーナ)…各自を守っているハイヤ

    ーセルフともいうべき守護神に、人生における気高い目的の達成を常

    に祈り願う事です。

第三段階 「体位法(たいいほう)」= アーサナ 

いよいよヨーガの特徴である、いわゆるポーズの段階になります。アーサナという名詞は、「座る」という動詞のアースから転化したもので、元来、「瞑想」を主な行法とするヨーガは、座ることが基本でした。およそアーサナ(座法=体位法)は大別して ①瞑想の為のもの ②リラックスの為のもの ③身体を造る為のものとに分けられます。 一説ではシヴァ神は、8400万のアーサナを説いたと云われていますが、その中でも84のアーサナが優れていると云い、他のヨーガ教典では32種類のアーサナを説いています。現在でも、立位、座位、寝位のヴァリエーション(変形)を入れると、多くの種類になりますが、いずれにしても、ゆっくりとした呼吸と共に、身体のその一定の型を通して、動く瞑想、体を使った祈りと云った状態をめざし、身体的な健康を実現します。この領域はアンナマヤ・コーシャ(食物鞘)の調整になります。

 アーサナを日常生活の中で規則的に、一定の時間行じていくと、身体的には、血行を促し、筋肉、骨格、内臓器官、神経、ホルモン体などに良い影響を与え、ひいては、心の状態を安定させ、各人の性格や、生き方にも多大な影響を与えることとなります。

 ヨーガスートラにおいてはこのアーサナを以下のように定義しています。

  「座法(アーサナ)は安定していて、快適なものでなくてはならない」(Ⅱ-4)

  「緊張をゆるめ、心を無辺なものへ合一させなくてはならない。」(Ⅱ-47)  

  「そのとき行者はもはや、寒熱、苦楽、毀誉、褒貶等の対立状況に害されない。

                                 (Ⅱ-48)

※実際のアーサナの代表的な形と種類は後の「身心八統道」の項で説明いたしま      す。



第四段階 「調気法(ちょうきほう)」= プラーナーヤーマ

 調気法とは、宇宙のエネルギー=プラーナ(生命力)を呼吸法によって、コントロール(アーヤーマ)する行法です。様々に工夫された呼吸法によって、酸素を体内に取り入れ、血液を燃焼させ、生命エネルギーに転換する作用に加え、交感神経と副交感神経のバランスをとったり、感情とリンクして心の状態をコントロールのよすがともなるのです。そのことにより心肺機能を高め、病気を追放して、静かで落ち着いた心をはぐくみ、霊妙なる「宇宙の気」と交流します。この領域はプラーナヤマ・コーシャ(生気鞘)の調整になります。

 ヨーガスートラにおいては「プラーナヤーマを行ずる事によって、心の輝きを覆い隠している煩悩が消える」「その外、心が色々な凝念に堪えられるようになる」(Ⅱ-52・53)と述べられています。

※ 実際の種類と技法は「身心八統道」の項に譲ります。



第五段階 「制感(せいかん)」= プラティヤハーラ

プラティヤハーラとは「向けて集める」という意味です。ここから、今までの身体生理的な部門から、心理的な部門へと入る掛け橋となるのがこのプラティヤハーラの段階です。

座法や呼吸法の後、意志的な「動作を納めて」、瞑想の姿勢に入ります。その時、生じてくる静けさの中にて、外の世界に向かう心や、感覚を対象から離し、意思の働きを内部に向けて、冷静に自己をみつめる心理作業の準備となります。外界の対象をはからずも、つかみ、つかまれている自分の思考と五感はおのずから、その対象から離れ、内面へと集中していく行法は、絶えず心を悩ませ、不安を与える問題から一旦心を引き離し、「なにものにも囚われない自在な心」にリセットするきっかけを作ります。この領域は、マノーマヤ・コーシャ(意思鞘)の調整に入ってきます。

ヨーガスートラにおいては「諸感覚器官がそれぞれの対象に結びつかず、あたかも心素(チッタ)自体に似たものの如くになるのが、制感(プラティヤハーラ)である」(Ⅱ-54)と述べられている。

第六段階 「凝念(ぎょうねん)」= ダーラナー

凝念は、心をある一点にとどめて動かさないことです。この凝念と次の静慮、三昧の段階は実際には、はっきり分割できない一連の心理的流れとなり、一括して<統制(サンヤマ)>とよばれます。ここでは、主にロウソクの炎とか、特定の図形や、自分のみけんの一点に心を集中するとか、ひとつのテーマにイメージを集中する方法などを用います。この領域は、ヴィジナーナマヤ・コーシャ(理智鞘)の調整に入ってきます。

ヨーガスートラにおいては「凝念(ダラーナ)とは、心素(チッタ)を特定の対象物(場所)に縛り付けておくことである。」(Ⅲ-1)と述べられている。

第七段階 「静慮(じょうりょ)」= ディヤーナ

凝念で一点に集中していた心が、その対象と同化し始め、それを中心にして、日常の意識を超えてある種の「洞察」や「ひらめき」が起こり、広く深く、自由に展開されていく状態のことです。その直感的映像や思考は、やがて自我の認識領域を越えて、新たなる「生命の智」をもたらす領域へと導いていきます。この「ディヤーナ」を中国で音訳し「禅那」となり、日本に渡って「禅」となっています。この領域は、ヴィジナーナマヤ・コーシャ(理智鞘)の中心的調整作業に入ってきます。

ヨーガスートラにおいては「その対象に対する想念が、ひとつの不断の流れになっているのがディヤーナ(静慮)である。」(Ⅲ-2)と述べられている。

第八段階 「三昧(さんまい)」= サマーディ

自我の認識領域を越え、「生命の智」をもたらす領域の中に入ります。「梵我一如」の心境で対象も主体も、ともに合一した状態をいいます。仏教では、これを<空>といいあらわしていますが、この境地は「なにもない」という意味ではなく、直感的洞察や啓示の場であり、宇宙的意識の働く空間でもあります。そこでは、きわめて鮮明で充実した内容をもって、その味わいは、まさに新たな生命感と、宇宙的啓示と、感涙の時となります。ここは、アーナンダマヤ・コーシャ(歓喜鞘)の開示される領域になってきます。

ヨーガ・スートラにおいては、この体験を「真我がその周囲を取り巻いている自然的存在と自分とを混同していた過失に気づいて、その束縛から脱出することである」と説明しています。

これがヨーガ・スートラの八支則についての構造と行法の概要になります。

□ヨーガの流れ

 古代から伝承され、発達してきたヨーガの思想と行法は、紀元前後にヴェーダンタ哲学を基盤にし、「人生の苦しみからの解脱」を説く「空」なるものの悟りの教えである仏教を生み、その影響をうけながら、やがて、観照者たる純粋精神(プルシャ)と現象する根本原質(プラクリティ)の二元論を説くサ-ンキャ哲学を理論的支柱として、今、検討しました「ラージャ・ヨーガ」の体系であるヨーガスートラが6世紀の頃に成立しました。

ほぼ同時代に併行して、インド思想の原点といわれる叙事詩マハーバラータの成立(BC2世紀~AD4世紀)によって、神への愛と奉仕の道「バクティ・ヨーガ」、行為による悟りの道「カルマ・ヨーガ」、智恵と悟りの道「ジュニャーナ・ヨーガ」が説かれ、8世紀にはヴェーダンタの学匠シャンカラ(700~750頃)によって仏教やヒンズー教を統一する教え=この世はブラフマンという絶対の現われであるという「不二一元論」が生まれ、その後の、インド宗教哲学の中心思想となります。

やがて10世紀を過ぎますと、これまで顕教的、心理的な「私∞宇宙」に対するアプローチから、密教的、感性的「私=宇宙」の捉え方に移行してきました。これをタントリズムといいます。これは現世を苦の世界として否定し解脱を得るという思想から、この世界こそブラフマンの現われであり、陰・陽の原理によって成立しているという現世肯定的な思想の当然の帰結となります。そのことは、人体こそ宇宙(梵)の構造そのものであり、神はその中に宿る生命意識(真我)そのものであるという認識により、その体験を感得する様々な身体技法が考えられ、発達してきました。

13世紀頃になりますと、ヨーガにおいてはその密教的タントリズムの特徴をもった「ハタヨーガ」の教典が聖者ゴーラクシャ・ナータによって書かれ、その後15~16世紀頃には「ハタヨーガ・プラディーピカ」や「ゲーランダ・サンヒター」や「シヴァ・サンヒター」などが成立してきます。

ここでは、様々なヨーガの身体技法や呼吸法や瞑想によって、独自な人体宇宙観が形成され梵我一如の思想が顕現されていきます。その一端を図示し解説を加えていきましょう。

 □ヨーガの人体宇宙観

ヨーガにおいては生命の源は宇宙の気=プラーナであると考えられています。

この宇宙の気=プラーナが人体を満たし、宇宙の雛型である私達を生かし、宇宙もまた私達の雛型であると考えらているのです。

そのプラーナが人体を通る道 はナーディーと呼ばれそのルー トの数は7万2千本とも35万 本ともいわれています。これら は現代医学では血液の循環経路 や神経管の経路とも捉えること ができますが、比較的東洋医学 の鍼灸に用いられる「経絡」に近いものと考えられ、ヨーガで は微細体(プラーナヤマ・コー シャ)の次元の経路と考えられます。そしてそれらのナーディ ーなかでも大切なルートは14 本あり、その中でも特に重要な 幹線が次の3本となります。

・スシュムナー管 

このスシュムナー管が頭頂から脊髄の基底部へと通り、人体の中軸となり、天と地を貫くプラーナの通り道となります。宇宙の生命エネルギーであるプラーナは人体の中ではクンダリーニ・シャクティと呼ばれ、このスシュムナーの基底部で三巻き半のとぐろを巻いている蛇と隠喩されています。またこのスシュムナー管を通る生命エネルギー(クンダリーニ・シャクティ)は、そのの中に7つあるといわれる蓮華の花に喩えられるチャクラ(輪=センター)を経過し、次第にそれらを開花(活発化)させて行きます。

これらチャクラは、ヨーガに基づいた生活をしていると、徐々に活性化されて行くものですが、クンダリーニ・ヨーガとは、ムードラやバンダ等を用いた特殊な体位法や呼吸法、瞑想法等の修行によって、より効果的にその眠っている生命力の源、クンダリ-ニ・シャクティ(女神)を目覚めさせ、それぞれのチャクラを活性化させ、眉間の部位(アジナ・チャクラ)で待っているといわれるシヴァ神(男神)と合体し、体内の歓喜のエネルギー(プラーナ)を宇宙全体に解放し、梵我一如(ブラフマン・アートマン・アイキャ)の体験を実現しようと発達したヨーガの体系です。このクンダリーニ・ヨーガといわれる中には、タントラ・ヨーガやハタ・ヨーガ等が入ります。このスシュムナー管を中軸にして、イダーとピンガラーという二つの拮抗したエネルギーの流れる代表的なナーディ管がチャクラをはさんで左右交叉しながら通っていると考えられている。これらはあたかも現代の医学においての交感神経と副交換神経の働きを指しているようであり、また、そのチャクラ(輪)という微細体のセンターも、医学的には、各種のホルモン体の位置に対応しているとも考えられている。

・ イダー(月の気道)

イダーは月に象徴され、このイダーを通るプラーナの流れは「陰の性質」を受け持ち、冷やす・静的・女性・精神性等が優位になります。上部では左の鼻腔に通じています。ですから片鼻のアヌローマ・ヴィロマなどで、こちらを優位に呼吸をすると、副交感神経を刺激し、また、交叉して右脳(感性)を活発化いたします。

・ピンガラー(太陽の気道)

ピンガラーは太陽に象徴され、このイダーを通るプラーナの流れは「陽の性質」を受け持ち、暖める・活動的・男性・行動性等が優位になります。上部では右の鼻腔に通じています。ですから片鼻のアヌローマ・ヴィロマなどで、こちらを優位に呼吸をすると、交感神経を刺激し、また、交叉して左脳(理性)を活発化いたします。

[チャクラについて]

 これらはプラーナマヤ・コーシャ(微細体=イメージ体)上のものであるので、修行者やその状態によって、異なる場合がありますが、脊椎の基底部から上にスシュムナーに添って、順に説明していきましょう。

ムーラダーラ・チャクラ

 ムーラは「根」「土台」、アーダーラは「支え」「支柱」の意味です。人体においては最下部にあり生命力の源・クンダリーニ・シャクティの内蔵されている場所です。会陰部、または肛門と関わりがあります。瞑想によって、4枚の花弁があり、燃えるような金色をしていると捉えられている。

スヴァディシュターナ・チャクラ

スヴァは、「自身の」「私の」、アディシュターナは「状態」「立場」の意味です。人体において性器の辺りにあり、宇宙の気の出入りを司ります。瞑想によって、6枚の花弁があり、血のような赤色をしていると捉えられている。

マニプラ・チャクラ

マニは「宝石」、プーラは「町」の意味です。人体において臍の辺りにあり、内蔵の働きを調節する太陽神経叢にあたると云われている。瞑想によって、10枚の花弁があり、火をあらわすオレンジ色をしていると捉えられている。

アナーハタ・チャクラ

アナーハタとは「打たれざる」「触れざる」という意味です。人体において胸あるいは心臓の辺りにあり、打たれざる音・「ナーダ音」がします。血液の循環とともに感情のセンターでもあり真我のとどまっている所です。胸腺とも関わりがあります。瞑想によって、12枚の花弁があり、蕾のような内部は緑がかった輝く光で、外側はピンクのバラ色をしていると捉えられている。

ヴィシュダ・チャクラ 

ヴィシュダは、「清浄にされた」の意味です。人体において喉の辺りにあり、

言葉を司り、興奮ホルモンを分泌する甲状腺とも関わりがあります。瞑想によって、26枚の花弁があり、海のような色をしていると捉えられている。

アージニャ・チャクラ

 アージニャは「命令」「指揮」の意味。人体においては眉間の辺りにあり、第三(霊視)の目であり、命の統合・命令・調整を司ります。脳下垂体や視床下部とも関わりがあります。瞑想によって、2枚の花弁があり、白光色をしていると捉えられている。

サハスララ・チャクラ

サハスラは「千」の意味。千の花弁を持つ蓮華のチャクラと云われています。人体においては脳の中、そして頭頂から天に開いています。アージニャ・チャクラでシヴァ神(智恵)とシャクティ女神(生命力=クンダリーニ)が合体しブラフマ・ランドラ(結節)を突き抜けて頭頂へ至り梵我一如の境地を得て、サハスラを経て宇宙へ至ります。千枚の花弁があり、光の虹色をしていると捉えられている。 ”


”・ドルイドにも輪廻転生思想がありピタゴラス教団との類似性が指摘されるが細部が異なる。ドルイドは、人間の霊魂は滅びることなく、一定期間を経たのち、魂は別の肉体へと移り第二の生をおくるとする。
つまり、ピタゴラス派のような、罪にけがれた人間の魂は輪廻転生を繰返し地上をさまようとは考えていなかったのであり、ドルイドには原罪意識はない。

ドルイドは楽天的な永生への確信や彼岸への憧れがあったと思われる。ケルト神話の一特色である不老不死の楽土ティル・ナ・ノグ(常若の国。とこわかのくに)。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-31.html
”オルフェウス教徒は菜食を貫いた。ギリシア神話では、人間が神々に最初の供犠をおこなった際、プロメテウスの入れ知恵で屠った雄牛を二つに分け、骨を脂身で包み、肉と内臓は胃袋に隠した。脂身に誘われたゼウスは骨を選んでしまう。いら、供犠では神々に骨を捧げ、肉は人間が食べるようになった。肉食の起源神話。
菜食、肉食の拒否は、輪廻と魂の不滅が信じられていたからである。オルフェウス教徒たちは、人類が犯した原初の犯罪に対する罰として、魂は肉体に閉じ込められ、死が真実の生活の始まりとなる、と考えた。すなわち、魂は生前の過ちと徳が審判を受けた後、新たに転生するとみなされたのである。魂の不死性は輪廻思想を生み、人間の魂を持っているかもしれない動物を食する習慣をやめたのである。また、肉食の禁止はプロメテウスの教唆で神々を欺いた原罪に対する改悛の表れでもある。”
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永井均 存在と時間 書評 誤植リストを彼のツイートに暴投で置いているよね確か
『存在と時間』哲学探究1 永井均

永井均‏ @hitoshinagai1 2016年4月5日

拙著『存在と時間』の重要な誤記:176頁の後から5行目「一七三頁」→「一七四頁」。247頁「動く現在とこの現在」の2行後「一九三頁」→「一八七頁」。259頁8行目「現在の現在」→「現実の現在」(最重要!)。
さほど重要ではない誤記:24頁4行目「あるもかかわらず」→「あるにもかかわらず」。140頁3行目「繋がり原理」→「繋がりの原理」。
宮武徹雄‏ @miyataketetsuo 2016年4月6日

@hitoshinagai1 257頁11行目「線上ない」→「線上にはない」でしょうか。
1件の返信 1件のリツイート 1 いいね
永井均‏ @hitoshinagai1 2016年4月6日

@miyataketetsuo そのようなので、さほど重要ではない誤植に加えます。



読書多謝
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