読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

05 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 07

画廊。展示物は不壊ていく。 

これモグラツイートだね なんか残骸見つけた 
これ一つで多くの嘘を見破れる知識を増やす  
論理的思考が大事なのは知識がなくても嘘を見抜けるから
性善説をやめよ
信じる事からやめませんか?
好奇心のためじゃないよ。答えというものには疑問という葛藤のプロセスが必要で、その順番は絶対にかえられないから、相手に好奇心をあたえることで、疑問という暗闇のステップを無意識に踏ませるの。世の中は「疑問」自体を芽生えさせてない人のほうが多いんだよ。

何も考えず。受け入れるから、情報の受け手は奴隷になるの。だから、あえて情報の発信者は何が必要かというと、答えではなく疑問や暗中模索などの暗闇をまず、受け手に伝えなきゃならないわけ。。
すり替え天皇やら大本教=キリスト教、つまりすべてのカルトはキリスト教機関の出先であることとか、神道とキリスト教の連携

スピリチュアルのように、ただ単に情緒に訴えるだけを行い、事象を形作るそれぞれの要素、科学という経験論の実証性という「責任」や情報伝達に感受性を排 除することなど、「するべきプロセス=枝分かれという細分化」での説明を、行わなかった場合、それは間違いなく欺瞞、宗教である。
その情報が記憶として「蓄えられるか」の命題は、受け手の「情緒的有用性」が関係している。情報の発信者(書き手)は、事象を細分化して、枝分かれさせてでしか説明する術がなく、情報の受け手(読み手)は、その枝を束ねて収束することで記憶するしかない。

真実が世界をかえられないのなら、あとは嘘しかないでしょう。……。何も知らない人に、「統一教会に祝電」とかだけのぬるい説明じゃなく、「信者と合同結婚式で乱交してた」ぐらい言えばいいんだよ。(俺はできんけど)、…。何かを変えさせないブレーキがなんなのかを、人は意識せず所持している

毎日のぞくことができる15分。でも、それじゃ説明ができないから、自動販売機のジュースの情報番版+通販(週末でゆっくり読む長文)とか?今、水分補給に1日数百円、月に2千円とかでも高くはない。本当に染み渡る情報なら。

なんか難しいこと言ってる。というか、1から10まで全部説明すると長すぎるのは、いつも言ってるじゃん。 省略しなきゃ読んでもらえないよ。
ユダヤ人の定義も論理矛盾
 『タイトルの魔力』は名前魔術の教科書だな。
ねこたさん、ミュージアムの思想についての本が気に入ったならこの本も読むべきだよ。主にタイトルを扱う美学の本でもあり美術史の本でもある。ブランドのロゴ見せびらかし文化を悪趣味(金を着ている!)って著者が言っていて面白い。やはり美学者だけあって美に敏感だ。職人差別と実用品軽視が美学の大前提だとも書いてある。
美学者が悪趣味だと言うと説得力あるなあ。


このブログ面白いわ本当に
🍞🍞‏ @KiKiKi_KiKi 2016年10月24日
萌え絵が迫害されるのは歴史が足りていないから - 本しゃぶり
http://honeshabri.hatenablog.com/entry/ekino-michika
素晴らしい考察!駅乃みちかの一件はミケランジェロ『最後の審判』がローマ教皇からの批判を受け修正されてしまったのと同じ。 個人的には仏像とかは昔の萌フィギュアだと思ってます


信者二世の団体まで維持できたらアニメキャラ崇拝も立派な教団。
昔はSF小説も低俗扱いされたいたんだよね。
低俗扱いされなくなるのはそれを読み面白いと思った子供が成長して権力ある地位に就くようになってから。
漫画もアニメもラノベもそうでしょ?
あれ、これまんま支配の手法だ。
子供向けに真実を隠している(だから魅力的)理由の一つ。
リギョール神父いわくメイソンは子供向け出版物をまず抑えるらしい。
カトリックも同じことしてるだろ!



気に入った絵
気に入った絵とはいえ、他の記事にもあるよ。
名前魔術の記事とか地獄教記事とか。
お気に入りの有名画家のも書こうか迷っている。
マグリットとかダリとか言っても何にも面白くないじゃん
あーねここねこさんってシュールレアリズム好きそうですもんね!って言われそう。
シュールな絵を見る儀式により固定観念がガンガン殴られるからアイデア欲しい時に眺めるといいよ。
これはパイプではない



白紙委任状







ベーコン




スウェーデンボルグ大好きなブレイク
ルシファー


美しい名言bot‏ @yammyquote 6月4日
A truth that's told with bad intent beats all the lies you can invent.
悪意から語られる真実は、どんなでっちあげの嘘も顔負けだ。
William Blake ウィリアム・ブレイク









――


絵まとめ
高田ウィリアム @tamagokake_09 2017年5月27日
https://twitter.com/i/moments/868454521361448961























































































” レエン・コオトを着た男は僕のT君と別れる時にはいつかそこにゐなくなつてゐた。僕は省線電車の或停車場からやはり鞄をぶら下げたまま、或ホテルへ歩いて行つた。往来の両側に立つてゐるのは大抵大きいビルデイングだつた。僕はそこを歩いてゐるうちにふと松林を思ひ出した。のみならず僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを?――と云ふのは絶えずまはつてゐる半透明の歯車だつた。僕はかう云ふ経験を前にも何度か持ち合せてゐた。歯車は次第に数を殖(ふ)やし、半ば僕の視野を塞(ふさ)いでしまふ、が、それも長いことではない、暫らくの後には消え失(う)せる代りに今度は頭痛を感じはじめる、――それはいつも同じことだつた。眼科の医者はこの錯覚(?)の為に度々僕に節煙を命じた。しかしかう云ふ歯車は僕の煙草に親まない二十(はたち)前にも見えないことはなかつた。僕は又はじまつたなと思ひ、左の目の視力をためす為に片手に右の目を塞いで見た。左の目は果して何ともなかつた。しかし右の目の瞼(まぶた)の裏には歯車が幾つもまはつてゐた。僕は右側のビルデイングの次第に消えてしまふのを見ながら、せつせと往来を歩いて行つた。
 ホテルの玄関へはひつた時には歯車ももう消え失せてゐた。が、頭痛はまだ残つてゐた。

僕は「伝説」を書棚へ戻し、今度は殆ど手当り次第に厚い本を一冊引きずり出した。しかしこの本も挿し画の一枚に僕等人間と変りのない、目鼻のある歯車ばかり並べてゐた。(それは或独逸(ドイツ)人の集めた精神病者の画集だつた。)僕はいつか憂欝の中に反抗的精神の起るのを感じ、やぶれかぶれになつた賭博狂のやうにいろいろの本を開いて行つた。が、なぜかどの本も必ず文章か挿し画かの中に多少の針を隠してゐた。

僕の右の目はもう一度半透明の歯車を感じ出した。歯車はやはりまはりながら、次第に数を殖(ふ)やして行つた。僕は頭痛のはじまることを恐れ、枕もとに本を置いたまま、○・八グラムのヴエロナアルを嚥(の)み、兎に角ぐつすりと眠ることにした。

 何ものかの僕を狙つてゐることは一足毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つづつ僕の視野を遮(さへぎ)り出した。僕は愈(いよいよ)最後の時の近づいたことを恐れながら、頸すぢをまつ直(すぐ)にして歩いて行つた。歯車は数の殖えるのにつれ、だんだん急にまはりはじめた。同時に又右の松林はひつそりと枝をかはしたまま、丁度細かい切子(きりこ)硝子を透(す)かして見るやうになりはじめた。僕は動悸の高まるのを感じ、何度も道ばたに立ち止まらうとした。けれども誰かに押されるやうに立ち止まることさへ容易ではなかつた。……
 三十分ばかりたつた後、僕は僕の二階に仰向けになり、ぢつと目をつぶつたまま、烈しい頭痛をこらへてゐた。すると僕のの裏に銀色の羽根を鱗(うろこ)のやうに畳んだ翼が一つ見えはじめた。それは実際網膜の上にはつきりと映つてゐるものだつた。僕は目をあいて天井を見上げ、勿論何も天井にはそんなもののないことを確めた上、もう一度目をつぶることにした。しかしやはり銀色の翼はちやんと暗い中に映つてゐた。僕はふとこの間乗つた自動車のラデイエエタア・キヤツプにも翼のついてゐたことを思ひ出した。……

「どうもした訣(わけ)ではないのですけれどもね、唯何だかお父さんが死んでしまひさうな気がしたものですから。……」
 それは僕の一生の中でも最も恐しい経験だつた。――僕はもうこの先を書きつづける力を持つてゐない。かう云ふ気もちの中に生きてゐるのは何とも言はれない苦痛である。誰か僕の眠つてゐるうちにそつと絞め殺してくれるものはないか?”
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/40_15151.html
歯車
レインコート=河童。妖怪の河童も遺作。

”  彼はペンを執(と)る手も震へ出した。のみならず涎(よだれ)さへ流れ出した。彼の頭は〇・八のヴエロナアルを用ひて覚めた後の外は一度もはつきりしたことはなかつた。しかもはつきりしてゐるのはやつと半時間か一時間だつた。彼は唯薄暗い中にその日暮らしの生活をしてゐた。言はば刃のこぼれてしまつた、細い剣を杖にしながら。”
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/19_14618.html
或阿呆の一生




名前の記事にここら辺追加したのwコピペ
・文学を除いて、およそ芸術鑑賞が教養とみなされることは西洋近代以外はかつてなかったように思われる。
芸術の生産的な活動が教養とみなされることは決して珍しいことではない。中国の影響下に形成された日本の伝統のなかに顕著に認められる。詩歌、書物、楽器、文人画、茶、活花などいずれも貴人、知性人の重要な印だった。
この傾向は西洋ではさほど強くないもののルイ14世期の貴族たちは舞踏をたしなんだし、近代社会の市民たちはクラヴサン(clavecin。チェンバロCembalo)やピアノなどの楽器を演奏することを好んだ。
これにひきかえ、芸術の干渉に人間形成の上での重要な役割を認めたのは西洋近代の独創であり、それを理論化したのが美学。

(ミュージアムの思想。博物館思想。見るだけで実践しない)

・美術品につくプレートは近代になって生み出された教養のための補助手段だった。
高階氏は、19世紀中ごろにおける美術の下層市民層への浸透を説明する中で、彼らが訪れるようになった当時の美術館には作者名やタイトルを記したプレートが備えられていなかったことを指摘。


・プレッサー『書物の本』の論述を要約。
石碑や粘土板を除くなら、西洋文化圏における書籍の最初の形はパピルスの巻物。
最古のものは紀元前2900年頃のもので、
パピルスが羊皮紙に変わるのは1世紀。
パピルスはそれでも11世紀まで使われ続けた。
羊皮紙になって 本は冊子(ラテン語でcodex)の形をとりうるようになり、
4世紀以後は完全に書物の形。
古代のパピルスの一巻は平均して6~7m。
 伝説に名高いアレクサンドリア図書館は、紀元前47年の火災で大被害を受けたがそのころ70万巻の書籍を所蔵していた。巻物にはそれぞれ小さなカードがつけられていた。内容を見分けるための
手立てで、「ティトゥルスtitulus」と呼ばれ、タイトルの語源となった。
このティトゥルスに何が書かれていたのかプレッサーは明記していないが、別の個所で次のような指摘をしている。
すなわち、古代のパピルスの巻物にはタイトルが書かれていなかったが、そのかわり、カタログには著者の名前とテクストの最初の言葉が記載されていた。この2つが著作を同定する基本的な情報だった。
ティトゥルスにも同じ2つの情報が書かれていたのだろうか。
冒頭の言葉を以って著作を同定するやり方は珍しいものでは無い。その典型がオペラのアリアの呼び名。タイトルを持っていないので便宜上とられた呼称。個々のアリアにタイトルがない。タイトルのない短い詩や民謡などの呼称としても普通に使われている。書き出しをタイトルにするのをインチピットという。
(ヤソ異端派はアレクサンドリア図書館を耶蘇正統派が燃やして襲撃したことが本当に許せないらしい。十字軍、魔女狩り、カタリ派虐殺などグノーシス狩り、異端審問も許せないらしい。
仏教寄りの私でも許せないけど。悪逆非道すぎる)

・タイトルがあるべき場所に画像を置いてもタイトルとは知覚されない。
タイトルの場所はタイトルが言語で与えられるという条件と一つになって機能している。
言語であることが制度としてのタイトルの一部分となっている。画像でタイトルを与えようとするならば何らかの形での断り書きが不可欠。画像タイトルをもつ小説が出たとしよう。出版社は広告を打てない。タイトルを画像で示しても誰もタイトルだと思わない。断り書きが必要。
次に読者も小売店も注文を伝えることができない。例外的な一点ならあの絵をタイトルにしている小説という記述で同定できる。しかし、数が増えれば手に負えない。
そもそもタイトルは他から区別する必要から生まれた。
この第一条件においてタイトルは言語によることが含意されていた。
オペラのアリアのインチピットに冒頭の音符ではなく歌詞が使われるのは当然。
画像タイトルの不便さはまだまだ続く。上手く入手できても語れない。感想を記せないし議論もできない。
たしかにだれだれの新作やこの作品というような代用表現は可能だがそれも最初に作品を特定するのに成功した上での話である。

(ヴィトゲンシュタインの、
言語は語る(スピーチ)で、
像≒絵は示す(ショウ)という対比を思い出す)

・芸術批評の最も重要な役割は作品の見所、意味のありかを教えることである。知覚するのは観賞者だが批評家は知覚を導く。
『イカロスの墜落』(タイトルを言われなければ主題がわからないほどにイカロスが目立たない)というタイトルは
《この画面を「イカロスの墜落」として見よ》
と命令する。
命令がきつすぎるなら推奨でも勧告でも示唆でもよい。
タイトルとは「として見る」ことの命令。

・デュシャンは既製の小便器を逆さまに置き、『泉』というタイトルを名付けた。展覧会への出品を拒絶されたとき彼が書いた抗議文がある。その趣旨はたといそれが物体としては既製品であってもタイトルをつけ、見るべきものとして呈示されるとき、芸術品の資格をうるということである。タイトルとは既製品(レディ・メイド)を藝術に変える錬金術の呪文のようなものだ。

・名づけは言語でなされる。画像ではない。極めて重要。
名づけは命令文。「文」。文章。名前とは「~として見よ、知覚せよ、反応せよ、解釈せよ」という命令。
ありふれた便器ですらタイトルをつけるという錬金術の呪文により芸術に変えることができる。
名前は解釈を明示、命じ、mage、価値ある唯一存在だと認識させる。

詭弁術のレッテル張りはこの名づけの性質を悪用している。
そういえば名前を画像でもらった人っていないな。

名前についての記事が歴代最高レベルの重要になりつつある。
『タイトルの魔力』は名前魔術の教科書だな。
ねこたさん、ミュージアムの思想についての本が気に入ったならこの本も読むべきだよ。主にタイトルを扱う美学の本でもあり美術史の本でもある。ブランドのロゴ見せびらかし文化を悪趣味(金を着ている!)って著者が言っていて面白い。やはり美学者だけあって美に敏感だ。職人差別と実用品軽視が美学の大前提だとも書いてある。
美学者が悪趣味だと言うと説得力あるなあ。

名前、名づけの性質をまず列挙。
・あなたの真の名前を呼ばれれば、あなたは呼ぶ存在が気になり、呼び声が気になり、その声がするところに行ってみたくなる。これが召喚術の原理。名前を呼ばれれば返事したくなり、呼んだ存在のもとに行きたくなる。

・実在しないものでも名前さえあれば実在しているかのように錯覚させることができる。名づけは召喚術であり幻術である。召喚される場はあなたの心。その蒔苗をもつもの「そのものではなく」、あなたがその斜めに抱いているイメージを召喚する。

・名前は名づけられたものそのものではないのに、それそのものであるかのように振る舞う。実体視してしまう。ゆえに、名前は呪術の格好の的。


・Xの名前はXとX以外を区別する。名づければ他と区別できる。

・名づけは世界を切り開く。漠然とした何かを名前という容器に入れて固定して、世界と一体化していた状態から切り離し、明確に認識できるようにする。
名づけで聖別する。
名づけで聖化する。
名前はその名を持つものへの感情を結晶させる核となる。

・名無しとは人払いの術であり透明化である。
匿名は透明。
名前がわかれば検索できる。調べられる。だから真の支配層は名前を出さない。出しても偽名。複数の名前、あまりにありふれていて特定できない名前などを駆使。



・“名は体を要求する”p.29

なまえを知りたいという欲求は、花の名の場合、その花の正体を突き止めたいという欲求として買いすることができるかもしれにあ。
しかしその正体とは実はなまえなのである。
花の名なら名称がわかれば分布や開花時期、文化史などを調べられる。
しかし少なくともわたくしの場合はそのように勤勉な知識欲であることはまれでひたすら名を知りたい、ということが多い。
見染めた隣のクラスの異性や、魅了された芸術作品の場合ならその正体のなかでも最も重要な特徴は既に知っていて、だからこそその名を知りたいと思っている。
アイデンティティはこの上なく明らかにとらえられている。
その上になぜなまえが求められるのだろうか。
わたくしが可能な説明は一つしかない。
なまえがこのあふれるばかりのアイデンティティの知にかたちを与え、いわば聖化する、ということである。
恋人の名前は恋愛感情を結晶させる核となる。
どれほどありふれた名前でもよい。その名がこの結晶作用に著しくそぐわないならふさわしい愛称が作りだされるだろう。
愛称は恋人のすべての美質と結びつき、彼もしくは彼女だけの特殊ななまえとなる。
特殊性あるいは個別性は実在性の証。
なまえは記号というよりも一つの独特な「もの」である。

・あやかりの縁
(あやかる
=好ましい状態にある人の影響が及び自分も同じような状態になる)

あやかりの典型はパトロン、すなわち守護聖人とか保護聖人とか呼ばれるもののなかに見られる。

個人の洗礼名の習慣は初期キリスト教時代から存在したものの、一般化したのは16世紀以後のことらしい。

両親や代父母の名が与えられるケースには、日本でも見られる、親の一字を与える慣習と同じ考え方がうかがわれる。
同じ名前を持つことで特別のきずなが作られる。
違うのは、洗礼名なら両親や代父母のなまえが子供に与えられるといっても、その両親や代父母自信の名が、既にある聖人のなまえからとられていることである。
そこでなまえの作りだす絆は比較にならないほどの奥行きと広がりを持つ。
我が国の慣行ではせいぜい父と子、一家のなかでの絆。勝手にある有名人にあやかる場合にも二人の個人間の一方的な思いなしの絆であるにすぎな。
ところが洗礼名なら、聖人を中心にして同じ名を持つ多くの人々の間に絆が広がっているように思われる。その聖人は保護の聖人と呼ばれその名を持つ信者たちのために神様にとりなしてくれる(これを代願intercessionと言う)。ただなまあえを同じくするという縁によってそこに産み出される、あるいはそうみなされている絆である。
この場合の聖人はひたすら敬虔と敬神のひととして考えられていて特別な個性のようなものは考えられていないらしい。

ギルドなどの団体も保護聖人にあやかった名前にすることがある。

・なまえが絆を創りだす。
霊名の聖人のある意味で脱個性的なキリスト教的絆にせよ、
あるいは偉人にちなんだ名の個人的な絆にせよ、
そこにはなまえが絆を創りだすという考えがうかがわれる。
それはなまえの魔力の一端である。
それは論理的な思考ではない。むしろほとんど呪術である。
フレイザーは呪術の原理として類似と接触に二つをあげた。
類似は類似を生み、結果はその原因に似る。
かつて多大に接触していたものは物理的な接触がやんだ後までもなお、空間を隔てて相互的作用を継続する。
第一の原理に依るのはホメオパシーの呪術もしくは模倣の呪術と呼ばれ、
例えば人形をつくりその心臓部に釘を打ち込んで敵を殺そうとする。
第二の接触原理に依るのは感染呪術と呼ばれ、へその緒をきちんと保存しておかないとその子に不幸が起こると信じたり毛髪の一部を持っていることでその相手に意志を通じさせることができると信じたりする例がある。
なまえは類似を作りだすと考えてもよい。
あるいはなまえはへその緒や毛髪のようなものと考える方が正確かもしれない。
いずれにせよそれは関係を確認するだけの記号ではなく、ものの性質を変化させる
(それをキリスト教では実体変化transubstantiationと呼ぶ)
力なのである。

・本名と別号
本当のなまえで呼ぶことを避けようとする風習がある。
中国人の名前には幼名、本名、あざな(字)、おくりな(諡)、別号の五つがあった。
幼名は家族が用いる呼び名、
おくりなは生前の功績に応じて死後朝廷から贈られる名誉の称号、
別号は雅号であり文人が自ら名乗る名、
本名はいみな(諱)すなわち忌み名と呼ばれ本人が用いるほかは家のなかでも父母や尊属の家族だけが、社会的には君主のみが呼称となしうるもので、そのために一般的な呼称としてあざなが用いられた。
あざなは本名を呼ぶことを避けるための方便であり、
あくまで本名と意味的に関係のある名が用意されていた。

・本名は当人の人格ペルソンヌを表わす名なのに対して、
別号(ペンネームや芸名、社長など社会的地位の名、商家の屋号など)は社会的役割ペルソナージュ
と結びつけられている。
実体か役割かの違い。

(名前が一つだけなのはまずい。
変えていい役割と変えてはならない自分が混ざってしまう)

・忌み名の慣習は中国のみならず、世界中に相当広く見られる現象らしい。
アメリカ・インディアン(原文ママ。ネイティブアメリカンという呼称も失礼だと思うけど)
の一部族であるホピ族も同じ風習。
彼らの中で新生児の名はその子の魂とともにその子の目に見えない守護霊を表わす。
真の名は秘密の名であり、ひとに教えることはもとより、尋ねても尋ねられてもならない名である。かつては日常的に仇名が使われていた。
タブーとしてのなまえで最も有名なのはヤハウェ、あらんとしてあるもの。
十戒の三番目でみだりに名を唱えることを禁じているのは、
人が自分のために神を用いることを禁じるため、
つまり名を勝手に唱えることは神自身を意のままにすることとみられるほどに、
なまえは実体と一つ。
名前は対象に実体性を与える。
タイトルは作品を聖化する。

(本当の名前を隠す文化
https://matome.naver.jp/odai/2146336941949006601

イシスもラーにラーの真名を要求した。
イシスはラーに毒を盛り、解毒と引き換えにラーを支配できる彼自身の本当の名前を教えてもらう)

・事物に語彙を与えることは一種の名づけ。
語彙は名づけの結果であり、われわれの経験範囲のことではない。



したがって真の
名前はものの性質を変化させる。
名前は毛髪やへその緒のように魔法の的である。
魂の住所である。

名づけの術者は誰か。レッテルを錯視絵師張り付けるきっかけはどこからか。術の目的が搾取と支配なら術者を特定したうえで自分で解呪しないといけない。自分で再び名づけることが有効。再定義。

名前が一つだけなのはまずい。
変えていい役割と変えてはならない自分が混ざってしまう。
役割名を張り付けた者に都合が良い性質の存在こそが自分の中核だと錯覚してしまう。
それは単なる欲や「~には~と反応せよ」
というプログラムであり、自分ではない。
真の名前を自分で作ってしまうのが手っ取り早い。
魔術で魔法名を決めるのは入門時点で行う。が、この魔法名も身内には共有されているので、まだ不十分。
誰にも教えない名をもう一つ決めておこう。

・イシスもラーにラーの真名を要求した。
イシスはラーに毒を盛り、解毒と引き換えにラーを支配できる彼自身の本当の名前を教えてもらう
ヤハウェが十戒でわざわざ神の名を言うことを咎める理由の元ネタだろう。


・『DEATH NOTE』で相手を殺すには本名と顔の情報が必要。死の呪いの的。

・『新世界より』では呪力=超能力を使うには与えられたマントラを唱えないといけないが、そのマントラは他人に教えてはならないし、文字で記録するのも禁止。これは真名でないように思われるが、真言が特定の如来などを意味するので実質真名。慣れると圧縮して一瞬でマントラを唱えられるようになる。イメージを起こす鍵であり、あくまで手段だから。しかし同時に真名を示す真言である。マントラを忘れると呪力は使えない(本当は使えるが制御できるようにマントラで首輪をつけている)。ちなみにこの作品も真言宗+神道。

“個人差があるが、おおよそ12歳前後で呪力が使えるようになる。最初はポルターガイスト(勝手に身の回りの物が動く)という現象によって現れる。
この時代の人々にとって呪力というのは人間が持つべき当然の力であるので、この呪力の萌芽は「祝霊」と呼ばれ、大人への仲間入りをしたことの証でもある。
呪力を迎えた子どもはすぐ町の外の清浄寺に連れていかれる。そこで護摩を焚き、迎えたばかりの呪力を一端放擲する。そして新たに真言(マントラ)を授けられ、真言によって呪力を操るようにリセットする[ 3 ]。この真言は一人ひとり異なったものであり、他人に教えてはならない。勿論、忘れてしまったら呪力は使うことが出来なくなる。
呪力を学校で鍛えるうちに、小さな呪力であるならば誰でも真言をいちいち口にせずとも瞬時に圧縮した形で心の中で唱えることができるようになったと早季は言っている。時間をかけて真言を唱える場合はイメージの難しい余程大きな呪力を扱うときの模様(不浄猫を倒す時、微粒子で真っ黒に染まった川の水を透明にする時などは唱えている)。
祝霊を迎えた子どもは小学校を卒業し、上級学校である全人学級へと進む。つまりこの時代において小学校の卒業のタイミングは一人ひとり異なる。“
http://si.jpn.org/archives/date/2013/0724-234156.php
「新世界より」 基礎講座


・今の慣行では生まれた子供に名前を付けるのは普通は親であり親の独占的な権利とみられている。
他の人に命名してもらうにしても親の権利の範囲内。
これは作品にタイトルを与える権利は作者にだけあるというのと同じ関係で、一種絶対的な支配関係と見ることができる。
何をしてもよいような関係という意味ではない。
これは自然な関係とみてよいが、
文化的な慣習に基づくものがある。
そこでは支配関係が明瞭。
上から下へ、低異形的なのは、君主と家臣、師匠と弟子。

(偏諱(へんき)=上の立場の存在の名前から一字をいただくこと、
の例に、上杉謙信が将軍義輝(よしてる)の名の一字をいただいて輝虎(てるとら)と名乗ったことがあげられる。)

徳川秀忠は秀の字を豊臣秀吉より受けている。これが徳川からの支配関係の確認であることは秀に忠の字をあわせたところにはっきりと示されている。
秀忠とは秀吉に対して忠誠を誓ったという意味。
子供の名づけをコピーライターに依頼することはまずない。
親が、尊敬している人に依頼することはある。
親の名前の一部を子供に与えることがある。
字を貰うことがなくとも名付けることそのものが保護と庇護の関係を作りだす。
親の心のうちには、キリスト教の洗礼における代父母(洗礼を受ける人に付き添い信仰生活に導く信者)
と同様、その子の人生のさまざまな機会に、名づけ親が後ろ盾になってくれることを期待する気持ちがあって当然。

雅号は自称ではなく師匠から与えられる。
師匠から与えられた号が気に入らないから別の名を名乗るなら破門につかなるような反逆行為だとみられるだろう。
逆に言えば支障がどれくらい号の命名権を握っているかはその組織の固さを計る目安ともなりうる。
臣下が主君に、弟子が師匠に名を献上することはありえない。
人に与えられるのが号ならば、
道具や品に与えらえるのは銘。
作者や茶器における窯元の名が、作物に書き込まれ刻み込まれていればそれも銘。
サインに似ている。

とくにその道具や品に対して与えられた名も銘。
タイトルに似ている。

サインにも一定の資格が要求される。
利休のような並ぶ者のいない達人ならば彼が銘をつけただけでその道具は格別に価値を増す。
それどころか、彼の手を経ただけで、道具は高値で取引された。(この「道具ころがし」はかれに死罪が下される歳の理由の一つとされた)


(聖遺物現象。

鑑定も呪術であり錬金術。
超安値で仕入れて、高額に鑑定させて売れば大儲けできるな。

アイボリー‏ @mrunsmily 2014年6月13日
お宝鑑定団は、鑑定家達の魔術を披露する番組という様にもとれる

子子子子子@黒住も金光も天理も世界連邦側‏ @kitsuchitsuchi 2014年8月27日
返信先: @mrunsmilyさん
価値を与えるマジック(魔術+呪術)
①鑑定。支配者が持つ資産=芸術品の価値を上げる。
②信用創造。持っていないお金(無)を貸し付け、返せと要求する、原罪と同じ原理の錬金術。
葉っぱをお金に変える狐(稲荷大社=和風キリスト教の神道詐欺師)に化鹿される話は真実。 @mrunsmily

アイボリー‏ @mrunsmily 2014年8月27日
返信先: @kitsuchitsuchiさん
@kitsuchitsuchi どうもこんばんわ。鑑定家の魔術の内容、そちらの記述で合ってると思います。鑑定士は皆錬金術師でしょうね~。

子子子子子@黒住も金光も天理も世界連邦側‏ @kitsuchitsuchi 2014年8月28日
返信先: @mrunsmilyさん
@mrunsmily 蓄銭叙位令の目的は流通を促す為という説明は一面的。真の目的は財源=現物確保。物々交換=等価交換が嫌で一方的に財産が欲しい朝廷は、金属片を貯めれば位が得られるようにする。等価交換ではないと理解していた人々にはあまり効果なし。朝廷も金融詐欺で財産を奪おうと画策。

kS‏ @Jd805 2014年8月27日
返信先: @kitsuchitsuchiさん
@kitsuchitsuchi @mrunsmily 神道詐欺というと、戦前からあったとされる稲荷系神社は全て嘘なんでしょうか?

子子子子子@黒住も金光も天理も世界連邦側‏ @kitsuchitsuchi 2014年8月28日
返信先: @Jd805さん
@Jd805 @mrunsmily 神社が天皇を動かしたのは嘘。愛染寺が伏見稲荷大社の社殿造営や修復、勧進、出開帳を管理した。仏教徒の天皇と本地垂迹説=仏教圧倒的優位、門跡寺院はあるが門跡神社はないことを隠す為に、神道=和風耶蘇教の儲のガーター勲章持ち偽天皇をクリスチャンが捏造。)

・作品に残された名はすぐれた質の証でもあれば、そのような自負のあかしともなる。
狂言の『膏薬煉り』(こうやくねり)には
「かほどの膏薬に銘がなうては成るまい、銘をとらせう」
の一句がある。
傑作は名を要求する。
なぜなら名が傑作に対して真に傑作であるという公然たる資格を付与するから。
作品の価値と名のいずれが先であるか、にわかに断定できないような相関関係がそこにある。それほどに、名は名づけられたものと実体を一にしている。

・doctor in name は名目だけの、名ばかりの医者。
in the name of だと名を特定していて、 ~の名において という権威ある名前。

・なまえが商品化するのは資本主義の産み出す歪みに相違ない。
商品名に求められる効果は、商品の性質を正確に説明し表現する(実に従う)よりも、
むしろ消費者が求めるイメージを与える(実を作る)。

・銘はパッケージに書き込まれなくてはならない。しかも消えないように。消えないことは固い結びつきの条件。名前を消そうとすればパッケージが壊れてしまうほどでなくてはならない。簡単に切り離せるなら名前の軽さを辛勝づけるだけでなく商品がそのような名前にしか値しないものだとつまりさほどのものではないことを告白してしまうことになる。
紙に商品名を印刷して缶に巻き付けると、商品名を缶詰に直接印刷したものよりも安っぽい印象を与える。

・商標は固有のパッケージに一体化する形で書き込まれる。
スカーフやネクタイ、バックルやハンドバッグの留め金などにロゴマークが直接デザインされていることはよく知られている。
女性たちはこのようなスカーフを身に着けるときロゴが人目につくように工夫しているらしい。このような着こなしは、わたくしなどにはお金を着ているようで悪趣味に見えるのだが、そんな感じ方は古い、
それは相当に一般化した消費形態で洒落て見えるほどに市民権を得たものらしい。
(著者である佐々木健一 (美学者)の感覚のほうがまとも。見せびらかし文化は西洋の悪しき風習。お金を着ているって表現がうまい。
悪趣味だよね)

・アクセサリーもガラス器(花瓶、電気スタンドなど)も実用品とみなされ、芸術品とは厳格に区別されてきた。18世紀中葉に確立した近代的な芸術概念が、精神性の主張に立脚するもので、実用品の生産に関わる職人仕事(クラフト)との差別を大前提としていたことは、美学史のイロハに属する。
作者のなまえがその精神的個性と結びついている以上、サインは芸術品にこそふさわしい。
対して、精神性と無縁の実用品にサインすることは考えられもしなかったことだった。
芸術と職人仕事との区別は、美学的という以上に社会学的なイデオロギーによる区別。
だがそれとは別に生活者が実践する区別もある。
陶器のような実用品であってもそこには美的な面があり、ときには美的な契機が実用性を圧倒するくりあに強いこともある。
そのような美的要求を抱いた職人もいたし、使用者もいた。
そのとき、それほどに高度の品質を保証する銘として、故人としての作者のサインではないにしてもその産地(マイセンやデルフトなど)や工房のマークが、製品に記された。これはロゴマークの原型とみることができよう。

(西洋芸術の歴史で、実用品は芸術ではなく、職人が差別されていたのは超基礎知識らしい。壺や刀とかも芸術品ではなかったのだろう)


・利休の手を経ただけで道具は価値を増した。名を与えることは上が下に与える名誉。
勝を付与できるのは名づけが呪術的な性質を帯びた行為であることを証している。
古い箱書が尊重されるのは名づけの呪術的な性格とそれに結びついた権威、呪術師的な力を持つものとして認められた上の者の認知に基づいてのこと。
鑑定の科学性を重んずるとき、名づけの呪術性は否定される。
その科学的な風土の中で箱のすり替えのようなことが考えらえるはずのないことは理の当然と言うべきであろう。
(呼び名が変わっただけじゃん。鑑定だと新たに名付けただけ。手法が変わっただけ。

より数値と数字と論理と整合性と再現性と反証可能性を重んずる科学という新たな派閥が宗教から分かれただけ)


自分の名前を呼んだ者の居場所がわかったり、呼んだ者を強制的にある場所に召喚したり、殺したりする技術が登場する作品がある。これにも名前は住所であり的だという事実が反映されている。
特定ワードを入れたり口にすると自動的にブラックリスト入りになる社会システムがどんどん強まっているから上記の魔法は完成間近だろうね。

















なので、言語学をやる意味というのは
何が足されて・
何が引かれているか?
何を言い変えているか、
何の嘘が混じっているのか
が見えるわけで言語をやる意味というのは
原本が見れて・
また何がどこまで正しいのかが逆引出来るわけでなので
目に見える象徴より、見えない象徴をやるほうが早いのよ










となると、先ず漢字と中国語、普通語で古典を読めるわけではないが学者が多い分、古典を普通語に要約されている本がかなりある
アラビア語 アラビア語も古代アラビア語は変わらない部分が多いので良い
ペルシャ語 パフラビ・オスマン語が近いので古典には有利 ラテン語・英語 言わずもがな










社会の最大の存在意義というのは教育者を作る事であり、一人の教育者は様々な指導者・知識人・技能士を生産するわけで社会は常に一定的に教育者を作る事で継続しているわけなのです 教育者というのは言葉の真意と意味・解釈を知る者を言い、それが自由自在で矩を越える事無いものをいうのです
言い方を変えればひとつの社会で孔子や老子のような存在がいれば、彼の元から様々な人間が出てくるわけで教育者は多いければ多いほど、その社会が文化的に強くなるので侵略者は権力上力を握れても文化を侵略する事は敵いません また、そういった文化は破壊されづらいので必ず残るのです
知識を積んだ大知識人というのは本を持ちません、というかそこまで積んだ人は本が必要ありませんが人に説明する為の一冊だけが必要となります イスラームならクルアーン・
儒学なら論語・中国思想なら道徳経と必要な一冊だけで後は不要です 何故なら、その人の頭に万冊もの本が詰まっているからです








(33は避けるはず)


(6は良い数字)
魔法おっさん(30代住所不定無職童貞)‏ @douteimaturi
何で古事記を偽典とバッサリ言うのかというと、基本伝承学・ハディース学の援用で
誰が・
どこで・
いつ・
どういった時に・
何があって・
どの様に・
何故その言葉で・
どのように伝えられて来て・
それを誰が言い伝え・
誰が証言しているのか・
編纂者は誰で・
どのような立場で・
いつの時代に編纂され
当時の現状で・
どういった理由でこの伝承が編纂されたのか
まで明白にわかっていないと伝承は使えません
なので古事記をこの視点から見るとお話にならない位に欠格事由しかなく、
これらの内の一つでもあやふやであるならば信頼できる伝承ではありません
それは完全なる預言者の言葉だからなのです

完全なる預言者の言葉は完全な言葉であるが故に如何なるものでも完璧な理由があって、言葉にされているのでそれが成立しているという前提から俯瞰します
神学・聖典の見分け方というのは希望や期待・権力者達の意志で歪めることは地獄を近くするので非常に慎重をきすものとなります

例えば、サヒィーヒ・ブハリーが残した共通伝承集もそうで彼自身が知っていた伝承は300000といわれ、そこから確信がある2700がそこにある訳ですが
この伝承集はアハレベイト派からの視点からはかなり恣意的な伝承集で信用に足りません
例えば、アイーシャの伝承は270程あるのに対し…
承前)預言者(ص )の愛娘であるファーテメ・ザハラーの伝承は一つしかありません
また、この世界で二番目か三番目にムスリムとなったアリー(ع)に関しては29、しかし二代目カリフであるウマルに関しては300ー400と残されていてかなり恣意性が高いものです
当然、背景もあります

この伝承集が編纂されたのかアハレベイト派の11番目の指導者であるハサン・アスカリー(ع)の時代で彼は常に悪政者に監視されていて自由が効かない立場でした
なので、推論としては基本的に二つが考えられ
一つは当時の権力者に阿った
二つ目はそういった状況であるのでワザと隠したです


(情報の真偽判断にお使いください。少なくともイランのシーア派では史料批判の分野がある。)

妖怪退治の仕事してるけど、何か質問ある? | 不思議.net
http://world-fusigi.net/archives/6972808.html

なんか天皇持ち上げているような。古代から本物の天皇なんていないんじゃないの?乗っ取りと断絶だらけで。
神無月に神々が一斉移動ってのはおかしい。この神は雷。そもそも一か月も神が不在になったらヤバイ。
半分本島半分嘘だとみなして読んだ。
呪術についてはかなり核心を突いている。
アモンさんが取り上げるほどだからね。


なぜVLOOKUPを使えるとExcel中級者なのか
http://honeshabri.hatenablog.com/entry/vlookup

🍞🍞‏ @KiKiKi_KiKi 2016年10月24日
萌え絵が迫害されるのは歴史が足りていないから - 本しゃぶり
http://honeshabri.hatenablog.com/entry/ekino-michika
素晴らしい考察!駅乃みちかの一件はミケランジェロ『最後の審判』がローマ教皇からの批判を受け修正されてしまったのと同じ。 個人的には仏像とかは昔の萌フィギュアだと思ってます

“”豆腐メンタルな子豚たちが不安で切る前に、早々にヒロインを確定させて安心させてやる必要がある。その制限時間が3分なのだ。この「3分」という制限時間は動画に関わるものならば経験から知っているものであるらしい。例えば小池一夫はその著書でこう語っている。
漫画だと、冒頭の7ページ。キャラクターを好きになってもらう。映像なら3分が限界ですが、YouTubeやニコニコ動画なら20~30秒でしょう。そこまでにキャラクターを絶対に起ててしまわなければなりません。
小池一夫のキャラクター新論 ソーシャルメディアが動かすキャラクターの力
これは一般的なテレビ番組でも同様の制限時間であるらしい。
テストみたいな、試金石みたいなことですが、結論的に3分はちょうど人間の心理にぴったり合うというのがだんだんわかってきたのです。これが第1点です。なにしろ視聴率20%、2000万人のデータですから、これは圧倒的です。
________________________________________
私はうまくいったと思っていましたが、3分30秒ぐらいからチャンネルを変えられている。
映像を取り入れたプロモーション|株式会社イズ・アソシエイツ”
http://honeshabri.hatenablog.com/entry/soap_anime
なぜラノベ原作ヒロインは3分以内に脱ぐのか

何がヒロインを決闘へと駆り立てるのか
” 学園都市と中世ヨーロッパ

まず最初にこれら石鹸枠*1の舞台設定から説明しておく。現代の日本においては非常識なことでも、時代や地域が異なれば常識となる場合もある。そのため、まずは石鹸枠の世界観がどのようなものか知る必要があるのだ。

基本的にこのような作品の舞台は学校である。だが現代日本の学校とは異なる特徴を持つ。

学園都市と呼ばれる程に大規模
自治権を持ち、教師や学生の権限が強い

このような学園都市のモデルが中世ヨーロッパの《ウニベルシタス / universitas》であるということは、以前「深夜アニメの性はなぜ奇妙に進化したのか」で説明したとおりである。この “university” の語源にもなった組織は、教師と学生によって構成されたギルドから始まっている。講義の場が形成されると、各地から教育を求めて人が都市に集まり、ついには自治特権を獲得するに至った。これが学園都市である。

石鹸枠の舞台が中世ヨーロッパをモデルとしているならば、文化もその影響を受けないはずがない。中世ヨーロッパには「決闘裁判」があった。石鹸枠ヒロインはこの文化の継承者である。

Gerichtlicher Zweikampf.jpg
By unbekannter mittelalterlicher Künstler - Dresdener Bilderhandschrift des Sachselspiegels, hrsg. v. Karl v. Amira, Leipzig 1902, Neudruck hrsg. v. Heinrich Lück, Graz 2002, Public Domain, Link
決闘裁判

中世ヨーロッパで行われていた決闘裁判、それはゲルマン文化とキリスト教が合わさることで産まれたものである。

決闘裁判はまずゲルマン人の中で誕生した。1対1で戦いその勝敗で自らの意思を通す「決闘」は洋の東西を問わず存在するが、それを裁判の一つとして制度化したのはゲルマン人である*2。元々ゲルマン人の間では決闘の勝敗によって神の真意を探るという慣習があり、それが裁判と結びついて決闘裁判となった*3。

キリスト教と結びついたのは、キリスト教化していたフランク王国がブルグント王国を併合した時とされる。フランク王国は土地と人民だけでなく文化をも取り込むことになったのだ。

異教徒の風習である決闘裁判がキリスト教圏内に広まっていったのは、決闘裁判の特質が中世ヨーロッパ世界とうまく合致したから他ならない。もちろん石鹸枠においてもだ。
信仰

先にゲルマン人の間では「決闘の勝敗によって神の真意を探る」という慣習があると書いた。これは神は正しき者の味方をする、という思想が根底にある。決闘に限らなければこの思想による裁判方法 = 神明裁判は世界各地で行われていたことが確認でき、我が国でも熱湯を用いた盟神探湯があった。神が認めたならば水で溺れず、火で焼けることも無いのである。
f:id:honeshabri:20170416183631j:plain
『落第騎士の英雄譚』3話より

神の判断を仰ぐということは、前提として神の存在を信じなくてはならない。すなわち決闘裁判をするならば信仰心を持っている必要があるのだ。中世ヨーロッパではキリスト教を中心とした文化であるため、この問題はクリアされる。では石鹸枠においてはどうだろうか。実は魔術こそがその代わりとなる。あの世界は魔術を信仰しているのだ。

『ロクアカ』2話において、主人公が「魔術が何の役に立つのか」と訊いた時、本作のヒロインであるシスティーナはこう答えた。「人がより高次元への存在へと至る道を探す手段である」と。
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主人公が魔術を否定したくなる気持ちもよく分かる。だが命懸けの勝負の行方に判断を委ねようというのだ。これくらい狂信的でなくては申し込むことも受けることも出来まい。”
http://honeshabri.hatenablog.com/entry/duel_standby






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