読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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英語の勉強にどうぞお使いください。現代の陰謀論の父はイエズス会士のバリュエル神父!ベネディクト会修道士でスパイで外交官でタクシス家とつながりありのホーンが、ロビソンにメイソン・イルミナティ陰謀論のネタを提供)boが叩いたフェルプスはプロテスタント側の陰謀論者。  

工事中
左目見せるブルードラゴン!


ヴァイスハウプトのイルミナティのシンボルはミネルヴァのフクロウ!
一つ目ではない!







2016/04/19 【陰謀論のタブー集】
工事中 元祖イルミナティ(反オカルト)設立にロスチャイルド(ヘッセン=親オカルト)が関わっていたなんて大嘘! バチカン陰謀論言っている奴がプロテスタント原理主義で単なるキリスト教の派閥争いだったことに『またかよ』と言いたい。ねここねこのいうキリスト教はそれを中核とするシステムと思想すべて。というかゴッドなんて妄想。部ろっぐったーこの記事の準備 ユダヤ陰謀論者が超嫌がる質問集にする予定~文章技術について私が守っていること②(①の実践編)~
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-119.html
が完成していないのは以下の記事を消化できていないから。

もしかして、英語だと良質な陰謀論の歴史の解説書ってあるんじゃないの?
バリュエルあたりから今に至るまで。
英語ならアイクやフェルプスやリベラどころか、
ロビソンとホーンまで書いてそうだね。
ロビソンに入れ知恵したのがホーン。
ロビソンのメイソン・イルミナティ陰謀論の資料を提供したのがホーン。
ホーンがベネディクト会修道士でスパイで外交官でタクシス家とつながりありの
超重要工作員。
ベネディクト会でありイエズス会ではないことに注目。
要は、
ユダヤ・メイソン・イルミナティ陰謀論の背後には、
イエズス会、ベネディクト会、カトリックのタクシス家、マルタ騎士団がいるということだ。
タクシスが元祖イルミナティ陰謀論を広めている勢力だと考える理由はカトリックなのもあるが、
タクシスの根拠地がドイツのレーゲンスブルクで、
レーゲンスブルクはバイエルン州でありインゴルシュタットがある。
つまりバイエルン州には元祖イルミナティの根拠地があった。
そりゃあ領国内の反カトリック結社なのだから必死で叩かせるだろ。
レーゲンスブルクの紋章は交差する二本の鍵で、バチカンと同じ。


レーゲンスブルク
=バイエルン州東部、オーバープファルツの中心都市で、
ドナウ川とレーゲン川の合流近くにある。
南西約55キロにインゴルシュタット。


インゴルシュタット( Ingolstadt)
=ドイツのバイエルン州のドナウ川沿いにある郡独立市。
紋章は、火を噴く左向きの青い龍(ブルードラゴン)!


バイエルン州(ドイツの南部)の州都はミュンヘン
英語で「Bavaria」(バヴァリア)。
バイエルンは12世紀以降、ドイツ革命で王制が廃止されるまで、
超大ボスのヴィッテルスバッハ家によって治められた。

”ヴィッテルスバッハ家 (Haus Wittelsbach) は、
ドイツのバイエルン地方を発祥とするヨーロッパの有力な君主、諸侯の家系。
バイエルンの君主(バイエルン公(選帝侯)、バイエルン王)の家系として有名だが、
その他にもプファルツ選帝侯(ライン宮中伯)、
ブランデンブルク辺境伯(選帝侯)、スウェーデン王の家系として続いていた。
また神聖ローマ皇帝、ギリシャ王も一族から出ている。
プファルツ系その他の全ての家系を含めて「バイエルン家」(フランス語: Maison de Bavièreなど)とも呼ばれる。

長い歴史を有する家系であるが、三十年戦争におけるプファルツ選帝侯フリードリヒ5世と
バイエルン公マクシミリアン1世に顕著なように、同族内でしばしば内紛を繰り返し、
ハプスブルク家やホーエンツォレルン家に後れを取ることになった。”
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F%E5%AE%B6



現頭首のフランツ・フォン・バイエルンはカトリック。

陰謀論の歴史の解説書は日本でも一応あるけどあんまりよくないらしい。
英語版ウィキで昔の陰謀論者の記事を読むほうが有益。
日本語版のメイソンの記事は必ず英語版と比較すると!
思いっきり嘘あるいは否定された学説があるからね!
結局、陰謀論でも日本に来るのはお古だからね!

イエズス会士のオーギュスタン・バリュエル神父。
物理学者、数学者のジョン・ロビソン。
ロビソンがイルミナティ陰謀論を作ることに貢献した
ベネディクト会修道士のスパイ、工作員アレクサンダー・ホーン。

三人とも陰謀論の祖であり、
フランス革命の文脈で、
ヴァイスハウプト(反カトリック)のイルミナティを叩く側。
上記の二人は明確にカトリック。
バリュエル神父は英語版ウィキ(日本語記事無し)では
陰謀論の父
と書かれている。
陰謀論の父がイエズス会士で元祖イルミナティ陰謀論を発明。
バリュエルは反フランス革命側で、教会とフランス王を擁護。

陰謀論は、
フランス系メイソン+元祖イルミナティ
(ルソー教、理神論、無神論、理性狂、百科全書派、
プロテスタントと異端側。
反カトリック、反王政、反教会)

vs

フランス・ドイツ系カトリック正統派、
イエズス会、ベネディクト会、カトリックの王侯貴族

の対立から生まれ、出たのはカトリック擁護が先だった。
よほどカトリックは危機感を抱いたのだろう。
実際にカトリックは負けたし。
エキュメニカル側カトリックはもはやメイソン教だし。
日本初の陰謀論本を書いた(訳したのは前田)のがまたしてもフランスの神父のリニョール(リギョル)なんだが。
またフランス系カトリックかよ。
プロテスタントとカトリックが相互にプロパガンダ合戦をやってきたことは陰謀論とは呼ばないことにするが、
結局、陰謀論はプロパガンダ合戦の一分野である。


以上は「基本」(歴史の起源という意味で)のはずなのだが、
日本語で書いている人は数人です。
バリュエル神父の知名度は私がだいぶ広めた。


陰謀論においても日本に流れて来るのは古びたお下がりばかりの法則は覚えてほしいので、
改めて言っておく。

カトリックだけ叩く陰謀論のフェルプス。
フェルプス「カトリックがユダヤを囮、実行部隊として使っている。黒幕はイエズス会」
キリスト教思想と神学とシステムとその変形ではなく、
カトリック限定にしているのが重要。
そのフェルプスをピンポイントで否定したユダヤ陰謀論者boはカトリック系の可能性が高い。
boグループ
(p、wakeup、 町の猫@hitoshi44867230 ‏ ら)
=親ナチスのカトリック保守+日蓮系右翼。
boグループの一員のpがまんまバリュエル神父と同じ思想で大砂漠不可避mm(大草原不可避wwの反対語)。

子子子子子@黒住も金光も天理も世界連邦側‏ @kitsuchitsuchi 2014年12月16日
@knznymmmy フリードリヒ2世は啓蒙専制君主。ヴォルテールと親密。
1773年にイエズス会は禁止されたがフリードリヒ2世は自国へ亡命許可。
恩知らずイエズス会士バリュエルは
1797-98年にフランス革命の黒幕はフリードリヒ2世と百科全書派だと指摘。
当時はグルではない。






イルミナティ陰謀論を広めたイエズス会士バリュエルの著作の概要
仏語で1797-98年、英訳版を1799年に出版。翻訳で更に広まる。
フランス革命の黒幕はヴォルテールら啓蒙思想の百科全書派(科学と理性重視メーソン)、
フリードリヒ2世(プロイセン王)、ババリアのイルミナティだと指摘。




イエズス会士バリュエルは百科全書派・理性・科学・啓蒙思想という中核を具体的に言及していることから当時のバチカンは大東社とグルではない。
現在の紐付き陰謀論者は、グラントリアンの中核である百科全書・理性・科学という具体的名前を悪魔や悪魔崇拝と言い換えて隠しているので今やグルである。
1件の返信 21件のリツイート 6 いいね
子子子子子@黒住も金光も天理も世界連邦側‏ @kitsuchitsuchi 2014年11月16日

秘密結社の陰謀論で以下のことを一切言わないものに価値なし。
メーソン誕生の原因はバチカンの科学弾圧
イルミナティ陰謀論を広めたのはイエズス会士
ババリアのイルミナティは単なるドイツ系メーソン(大東社側)
構成員の大半がクリスチャン
悪魔崇拝=科学研究・理性崇拝・百科事典の所有
1件の返信 28件のリツイート 19 いいね
子子子子子@黒住も金光も天理も世界連邦側‏ @kitsuchitsuchi 2014年12月18日

ルターがボウリングに関わった。
英米系メーソンはプロテスタント海賊(聖書絶対)。
ボウリング陣営が主人公側の20世紀少年は教皇=善なので
主人公側(旧教と新教の宗教統一反対派)が
科学重視の百科全書派
(“ともだち”=ファーティマの手
+旧教と新教の宗教統一推進派)を悪と叩く話。
1件の返信 15件のリツイート 3 いいね
子子子子子@黒住も金光も天理も世界連邦側‏ @kitsuchitsuchi 2014年12月19日

ババリアのイルミナティは百科全書派側
(科学と百科事典を重視。
新キリスト教=スピリチュアル、ニューエイジ、宇宙人。
仏・独・スコット・北欧系メーソン)。
英米系メーソン(聖書重視)をイルミナティと呼んだり両陣営を分けないのがキリスト教と大本教系の特徴。
総称で中身を隠して騙す。

(フリードリヒ2世
第3代プロイセン王
ブランデンブルク選帝侯
ホーエンツォレルン家
カルヴァン主義者

Friedrich II.
1712年 - 1786年。
啓蒙専制君主の典型とされる。
芸術的才能の持ち主。
フランス文化、学問、芸術に明るい。
哲学者のヴォルテールと親密に交際し、自ら書を著し哲人王とも呼ばれる。
ドイツにジャガイモ栽培を広めた。
メイソンだが熱心ではなかったらしい。

とんでもない重要人物。



)

BavArianというように前から二番目のaにアクセント。
私はアクセントがある母音を大文字で書くことがある。


Freistaat Bayern
バイエルン州
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E5%B7%9E
”バイエルン州(標準ドイツ語・バイエルン語:Freistaat Bayern)は、ドイツ連邦共和国の連邦州のひとつで、ドイツの南部に位置する。州都はミュンヘンである。

BMWとアウディの本社がある。また、農業機械銀行の発祥地である。

正式名称は「バイエルン自由州」[1]。“Bayern”はドイツ現地での発音は、「バイエルン」より「バイエアン」[ba???n]または「バイアーン」[ba??n]に近い。ただ、堅い文などでは、「r」を母音化させない昔ながらの舞台ドイツ語発音で「バイエルン」[ba??rn]と読まれる事もある。

英語で「Bavaria」(バヴァリア)、ラテン語では「Bavaria」(バウァリア)、イタリア語では「Baviera」(バヴィエラ)、スペイン語では「Baviera」(バビエラ)と呼ばれる。なお、菓子の名称となっているバヴァロワ(bavarois)は「バイエルンの」という意味のフランス語の形容詞であり、「バイエルン」という地名そのもののフランス語形は「Baviere」〔バヴィエール〕である。

地理

ドイツでは最大の州であり、スイス、チェコおよびオーストリアとの国境に位置する。南部は山岳地帯となっており、夏は避暑、冬はスキーと多くの観光客が訪れる。

現在のバイエルン州の領域は、ヴュルツブルクなどを中心とするフランケン地方、アウクスブルクを中心とするシュヴァーベン地方東部(バイエリッシュ・シュヴァーベン (Bayerisch-Schwaben) を含む。州内の7行政地区のなかでオーバーバイエルン地区、ニーダーバイエルン地区、オーバープファルツ地区を合わせた南部地域が、アルトバイエルン(古バイエルン、Altbayern)と呼ばれる歴史的に見た狭義のバイエルン地方である。バイエルン王国の時代からの領土のうち飛び地だったプファルツ地方は、1946年に周辺地域と統合されてラインラント=プファルツ州の一部となった。
歴史
詳細は「バイエルン大公」、「バイエルン公国」、「バイエルン選帝侯領」、「バイエルン王国」、「ヴィッテルスバッハ家」、および「[[::en:History of Bavaria|:en:History of Bavaria]]」を参照
「ドイツ革命」および「バイエルン・レーテ共和国」も参照

10世紀に神聖ローマ帝国によってバイエルン大公国(公国)が設けられて以後、帝国の滅亡までバイエルンは南ドイツの主要な領邦、選帝侯として影響力を保持し、帝国の滅亡後に近隣の領邦を併合してバイエルン王国が成立した。1872年のドイツ帝国成立後も、バイエルン王国は帝国の傘下で存続し続けた。現在のドイツ連邦共和国の連邦州としてのバイエルン州も、ほぼ旧バイエルン王国の領域を継承している。

バイエルンは12世紀以降、ドイツ革命で王制が廃止されるまで、ヴィッテルスバッハ家によって治められた。リヒャルト・ワーグナーを庇護し「狂王」と呼ばれたルートヴィヒ2世や、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后で「バイエルンの薔薇」と呼ばれたエリーザベトはヴィッテルスバッハ家の一員である。

行政管区と本部所在地。

オーバーバイエルン行政管区 : ミュンヘン - 南部
ニーダーバイエルン行政管区 : ランツフート - 南東部
オーバープファルツ行政管区 : レーゲンスブルク - 中東部。トゥルン・ウント・タクシス家の居所がある。
オーバーフランケン行政管区 : バイロイト - 北部
ミッテルフランケン行政管区 : アンスバッハ - 中西部
ウンターフランケン行政管区 : ヴュルツブルク - 北西部
シュヴァーベン行政管区 : アウクスブルク - 南西部

バイエルン人は独自のアイデンティティを有していると州外の者から言われ、彼らも自認している(「我々は『バイエルン自由共和国』である」と意識している)。地理的にオーストリアと近く、バイエルン王国とハプスブルク帝国のころから、歴史的にも文化的にも所縁が深く、「ベルリンよりウィーンに対抗意識がある」といわれる。言語の上でも、バイエルンの大部分とオーストリアはともに上部ドイツ語のバイエルン・オーストリア語が用いられている。ドイツから独立するのではないかとしばしば言われており、第一次・第二次大戦後には実際にそうした動きもあった(第一次大戦後に成立し間もなく崩壊したバイエルン・レーテ共和国など。また、ミュンヘン一揆の背景もバイエルン総督フォン・カールによるヴィッテルスバッハ家復位とバイエルン独立の目論見にあった)。

2006年のFIFAワールドカップドイツ大会において6月24日にミュンヘンでドイツ代表がスウェーデン代表を破ったことを、同市民らが喜んだときに、アンゲラ・メルケル首相が「ミュンヘンの人が『ベルリン(決勝戦開催地)へ行こう!』と叫ぶのは、何か素晴らしいことだと思う」と発言したのも同州のドイツにおける独自のアイデンティティを踏まえてのことである。2014年、スコットランド独立に関する住民投票を契機にバイエルンでも住民投票を求める動きがあるが、憲法で憲法で認められていないとして却下されている[2]。

2017年、国内最大の日刊紙ビルトとイギリスの調査会社YouGov(英語版)がドイツ全土で行った「自分が住む州はドイツから独立するべきか」という世論調査に対し、バイエルン州民の3分の1が独立を支持している[2]。
宗教
キリスト教
2006年9月9日、ミュンヘンのマリエンプラッツで「バイエルン賛歌」を歌うベネディクト16世。950年ぶりのドイツ人のローマ教皇はバイエルン州出身者である。

バイエルン州はローマ・カトリック教会信徒の比率53,7 % ( 2011年現在)であり、ドイツにおいてカトリック教会信徒の多い地域の一つである。カトリック教会信徒の比率を比べると、ドイツにおいて最も比率が高いのは、同じカトリック圏のフランスおよびルクセンブルクとの国境地帯に位置するザールラント州の64,1 %であるが、バイエルン州はその次点である[3]。政治的にもキリスト教民主同盟(CDU)の事実上のバイエルン支部であり、より保守的なキリスト教社会同盟(CSU)の牙城である(ただし、州都ミュンヘン市では全国政党のドイツ社会民主党(SPD)の勢力が強く、第二次世界大戦後から2014年までの6人の市長のうち5人は社会民主党から出ている)。

バイエルン州住民の20,8%はバイエルン福音ルター派教会の信徒である[4]。 この二つの教派は一つの行政区域を越えて不均等な形態で分布している。アルトバイエルンとウンターフランケンはローマ・カトリックが支配的であり、ミッテルフランケンとオーバーフランケンは福音主義が優勢である。アンスバッハ侯領とバイロイト侯領 (ブランデンブルク=バイロイト辺境伯領)であった地域とバイエルン州内のかつての帝国自由都市の大部分(ニュルンベルク、ローテンブルク・オプ・デア・タウバー)はバイエルン福音ルター派教会が優勢な地域で、歴史的にも宗教改革の中心地であった。 ローマ・カトリック教会と福音主義教会への所属は最近減り続けている。信徒の減少傾向は他の州でも同様に起きている。バイエルン州政府はカトリック教会の年6500万ユーロ、福音主義教会に年2100万ユーロを補助金として一般会計から支出している[5]。
バイエルン州住民の宗教帰属
1840[6] * 1900[6] * 1933[6] * 1950[6] 1970[7] 2006 2007 2010 2011
ローマ・カトリック 71,1 % 70,5 % 70,0 % 71,9 % 70,4 % 57,2 %[8] 56,3 %[9] 54,4 %[10] 53,7 %[3]
福音主義 27,4 % 28,3 % 28,7 % 26,5 % 25,2 % 21,3 %[11] 21,0 %[12] 20,4 %[10]
イスラム教 ? ? ? ? 0,9 % 2,2 %
ユダヤ教 1,4 % 0,9 % 0,5 % 0,1 % 0,1 % 0,1 %
他の宗教
無宗教 0,1 % 0,3 % 0,8 % 1,5 % 3,4 % 19,2 %

* Inklusive der Region Pfalz

上図の通り、バイエルン州におけるローマ・カトリック教会の影響力はかなり弱くなって来ている。バイエルン州においてドイツ福音主義教会(EKD)に加盟している州教会はバイエルン福音ルター派教会と福音主義改革派教会の二つである。なお、福音主義改革派教会に属する改革派教会は州内の都市部に6ヶ所あるに過ぎない。
”最終更新 2017年8月17日 (木) 10:55 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

Augustin Barruel
https://en.wikipedia.org/wiki/Augustin_Barruel
”Abbé Augustin Barruel (October 2, 1741 – October 5, 1820) was a French publicist and Jesuit priest. He is now mostly known for setting forth the conspiracy theory involving the Bavarian Illuminati and the Jacobins in his book Memoirs Illustrating the History of Jacobinism (original title Mémoires pour servir à l'Histoire du Jacobinisme) published in 1797. In short, Barruel wrote that the French Revolution was planned and executed by the secret societies."

(オーギュスタン・バリュエル神父
Abbé(アベ)=神父、カトリック教会の聖職者。


フランス語ネット講座 フランス語の発音
http://www.france-jp.net/01cours/04-2hatsuon/)


Augustin Barruel
Augustin Barruel.png
Born October 2, 1741
Villeneuve-de-Berg, Ardèche, France
Died October 5, 1820 (aged 79)
Paris, France
Occupation priest, historian, theologian
Subject Counterrevolution, anti-masonry
Notable works Memoirs Illustrating the History of Jacobinism”

(フランス革命はジャコバン派、フリーメーソン、
バヴァリアのヴァイスハウプトの元祖イルミナティという秘密結社が起こしたと説明する、
陰謀論本の1797年に『ジャコバン主義の歴史を例証する研究報告』を出版。

反フランス革命、
反メーソン。
教会とカトリック系の王侯貴族側。
Jacobinsジャコバン派とルソーとモンテスキューも批判。

フランス系メイソン
=百科全書+啓蒙主義+無神論or理神論系の、異端派プロテスタント。

※アクセントがある位置を大文字にしてみた。
pUblicist
政治評論家、宣伝係、広報係。)

”Biography

Augustin Barruel was born at Villeneuve de Berg (Ardèche). He entered the Society of Jesus, commonly known as the Jesuits in 1756, and taught grammar at Toulouse in 1762. The storm against the Jesuits in France drove him from his country and he was occupied in college work in Moravia and Bohemia until the suppression of the order in 1773. He then returned to France and his first literary work appeared in 1774: Ode sur le glorieux avenement de Louis Auguste au trone. (Ode to the glorious advent to the throne of Louis Auguste).That same year he became a collaborator of the Année littéraire, edited by Fréron. His first important work was Les Helveiennes, ou Lettres Provinciales philosophiques, (The Helveiennes or philosophical Provincial Letters) published in 1781."

(最初の著作が1774年の
『ルイ・オーギュストが玉座へ栄えあるご降臨をなされたことへの頌歌』
ルイ・オーギュスト=ルイ16世で、即位年が1774年。

明確に王政側。つまり反革命。

Odeオード=讃える詩。

Louis-Auguste
ルイ=オーギュスト
=ルイ16世(Louis XVI、1754 - 1793年)。
ブルボン朝第5代のカトリックのフランス国王
(在位:1774 - 1792年)。

王妃はマリー・アントワネット。
在位中の1789年にフランス革命が起こり、1792年に王権が停止し、翌年処刑。

La Conduite du. S. Siège envers la France
The Conduct of. S. Headquarters to France
グーグル翻訳より。

フランス語単語のカタカナ表記、一覧リスト(発音、読み方、意味と翻訳も)
http://and-hello.com/french-word-list-2/
がカタカナ表記にするのに便利。
発音通りに表記しろよ!)

”In the meantime, national affairs in France were growing more and more turbulent, but Barruel continued his literary activity, which from now on occupied itself specially with public questions. In 1789 appeared Lettres sur le Divorce, a refutation of a book by Hennet. From 1788 to 1792 he edited the famous Journal Ecclesiastique founded by Joseph Dinouart in 1760. In this periodical was published Barruel's La Conduite du. S. Siège envers la France, a vigorous defense of Pope Pius VI. He likewise wrote a number of pamphlets against the civil oath demanded from ecclesiastics and against the new civil constitution during 1790 and 1791. He afterward gathered into one Collection Ecclésiastique all of the works relative to the clergy and civil constitution.
The French revolution and the conspiracy theory

The storm of the French Revolution had in the meantime forced Barruel to seek refuge in England, where he became almoner to the refugee Prince of Conti. Here he wrote in 1793 the Histoire du Clergé pendant la Revolution Française ("History of the Clergy during the French Revolution"). He dedicated the work to the English nation in recognition of the hospitality that it had showed toward the unfortunate French ecclesiastics. It has been translated into German, Italian, Spanish, Polish, and English. The English version went through several editions and did much to strengthen the British nation in its opposition to French revolutionary principles. While in London, Barruel published an English work, A Dissertation on Ecclesiastical Jurisdiction in the Catholic Church. But none of his works attracted so much attention as his Memoirs Illustrating the History of Jacobinism.”

(フランス革命の影響でバリュエルは英国に亡命したことがある。
1793年に、『フランス革命期の聖職者の歴史』を執筆。
この作品は、不幸なるフランスの教会を英国が厚遇の念を示してくれたお礼として、
英国にささげられた。ドイツ、イタリア、スペイン、ポーランド、英語に翻訳された。
英語版はいくつか版を重ね、英国において、フランス革命の諸原理への反感が強まることに大いに貢献した。
彼の著作で一番注目されたのは例の陰謀論本である。

do much
大きな働きをする、大いに役立つ[貢献、尽力する]

do much for
~に貢献する

have not much to do with
~とあまり関係がない


in recognition of

〔功績など〕を認めて

〔労働など〕のお礼、報酬として


in recognition of one's service
お世話になったお礼に、功労により



set forth 記述、説明[表明・明記]する
set forth a strategy and priorities regarding~
~に関する戦略および優先事項を発表する。


和製英語化しているものは調べないといけない。
本当に和製英語は勉強の邪魔。中途半端に似ているから記憶を邪魔する。

hospitality
親切にもてなすこと、もてなし、接待、歓待、厚遇。
give [show] a person hospitality 人を手厚くもてなす.


ジョゼフ・ディヌアートは女性の権利について主張したフェミニストの男性らしい。
Joseph Dinouart
https://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Dinouart
”Joseph Antoine Toussaint Dinouart (November 1, 1716 ? April 23, 1786) was a preacher, polemicist, compiler of sacred learning, and apologist for French feminism.

Born in Amiens, he was ordained as a priest in there in 1740. In his youth, he showed a talent for Latin poetry, but soon neglected this in favor of his religious studies. After writing a short essay on women's rights, he had a falling out with his bishop and moved to Paris, where he joined the Saint-Eustache parish. He soon left, however, to tutor the son of a police lieutenant. This position gave him a stable yearly income and allowed Dinouart to devote himself to the study of literature.

In 1760, he founded the Journal ecclesiastique, which he edited until his death. The collected work of this journal numbers more than 100 volumes. It contains extracts from sermons, treatises on morality and piety, and research on ecclesiastical law and councils.

Dinouart served as the editor or compiler of many books and journals. Among these was L'art de se taire, principalement en matiere de religion, a nearly perfection transcription of an earlier anonymous work entitled Conduite pour se taire et pour parler, principalement en matiere de religion. This was re-issued in Paris in 1987.”
)


”His basic idea was that of a conspiracy with the aim of overthrowing Christianity—or more to the point, any and all forms of political and social organization based on conformity to the moral teachings of the Roman Catholic Church.

It inspired John Robison, who had been working independently on his own conspiracy theory, to extend his book Proofs of a Conspiracy Against all the Religions and Governments of Europe and include several quotations from Barruel.[1]
Late years
On the fall of the Directory in 1802, Barruel was enabled to return to France. He fully accepted and persuaded many other clergymen to accept the new political order of things in his native country and he wrote several books to defend his opinions. When the Concordat was made in 1801 between Pius VII and Napoleon, Barruel wrote: Du Pape et de ses Droits Religieux. His last important controversy was his defense of the Holy See in its deposition of the French bishops, which he said had been necessitated by the new order of things in France established by the Concordat of 1801. His book appeared also in English: The Papal Power, or an historical essay on the temporal power of the Pope. Many attacked the work, but as usual, the author did not suffer an antagonist to go unanswered. His new work involved him in a very extended controversy, for his work was translated into all the principal European languages. His friends and foes alike became involved in a wordy war. Blanchard published in London no fewer than three refutations. He had promised to compose two works that never appeared: Historie des Sociétés Secrètes au Moyen-Age and Dissertation sur la Croisade contre les Albigeois. In regard to the latter work, Barruel stated his object would be to defend the Church against the reproach of having deposed kings and having freed their subjects from the oath of allegiance. He contended that objections on this score arose only from an ignorance of history. At the time of his death, Barruel was engaged on a refutation of the philosophical system of Immanuel Kant, but never completed his work. He died in Paris in 1820.”


Memoirs Illustrating the History of Jacobinism
https://en.wikipedia.org/wiki/Memoirs_Illustrating_the_History_of_Jacobinism
”Memoirs Illustrating the History of Jacobinism (French: Mémoires pour servir à l’histoire du Jacobinisme) is a book by Abbé Augustin Barruel, a French Jesuit priest. It was written and published in French in 1797-98, and translated into English in 1799.

In the book, Barruel claims that the French Revolution was the result of a deliberate conspiracy or plot to overthrow the throne, altar and aristocratic society in Europe. The plot was allegedly hatched by a coalition of philosophes, Freemasons. The conspirators created a system that was inherited by the Jacobins who operated it to its greatest potential. The Memoirs purports to expose the Revolution as the culmination of a long history of subversion. Barruel was not the first to make these charges but he was the first to present them in a fully developed historical context and his evidence was on a quite unprecedented scale. Barruel wrote each of the first three volumes of the book as separate discussions of those who contributed to the conspiracy. The fourth volume is an attempt to unite them all in a description of the Jacobins in the French Revolution. Memoirs Illustrating the History of Jacobinism is representative of the criticism of the Enlightenment that spread throughout Europe during the Revolutionary period.

Barruel’s Memoirs is considered one of the founding documents of the right-wing interpretation of the French Revolution.[1] It became popular immediately after it was published and was read and commented on by most of the important literary and political journals of the day.[2] The four volumes of the text were published in a number of languages and created a debate about the role of the philosophes, their ideas, and the Enlightenment in the French Revolution. They remained in print well into the 20th century and contributed to the historical interpretation of the late 18th century in France. The success of Barruel's work is testimony to the anti-philosophical discourse that spread in the aftermath of the revolution. Barruel left behind a construction of the Enlightenment that was destined to influence subsequent interpretations. He wound accusations tightly around his foes and tied them into positions from which they could not escape.[3] The text created a link between the Enlightenment and the Revolution and this connection remains a topic of historical debate.
(…)
Abbé Augustin Barruel (1741–1820) became a Jesuit in 1756 but by 1762 anti-Jesuit feeling in France had become so strong that he left and travelled for many years, returning only in 1773.[4] The events of the French Revolution in 1792 caused him to leave again and take refuge in England. His dislike and hostility towards the philosophes was well known and well developed before 1789 as he had been on the editorial staff of the popular anti-philosophe literary journal Année littéraire decades before the Revolution.[5] In 1797, when living in exile in London, he wrote the Memoirs. It was published in French by the French publishing company at 128 Wardour Street, Oxford Street, London.[6] An English edition was issued the same year, and the work quickly became a commercial success.[7] The multi-volume work went through four revised French editions by 1799 and was translated into English, German, Italian, Spanish, Swedish, and Russian as editions were issued in London, Hamburg, Augsburg, Luxembourg, St. Petersburg, Dublin, Naples and Rome before the fall of Napoleon.[8]
Synopsis
Outline of the work

In his "Preliminary Discourse", Barruel defines the three forms of conspiracy as the "conspiracy of impiety" against God and Christianity, the "conspiracy of rebellion" against kings and monarchs, and "the conspiracy of anarchy" against society in general.[9] He sees the end of the 18th century as "one continuous chain of cunning, art, and seduction"[10] intended to bring about the "overthrow of the altar, the ruin of the throne, and the dissolution of all civil society".[11]

The first volume examines the anti-Christian conspiracy that was begun by Voltaire in 1728 when Barruel claimed that Voltaire "consecrated his life to the annihilation of Christianity".[12] Barruel returned to the principal texts of the Enlightenment and found reasons to draw close links between the philosophism of the time and the anti-Christian campaigns of the Revolution.[13] Here he found that the philosophes had created an age of pretend philosophy which they used in their battle with Christianity. Their commitment to liberty and equality were really commitments of "pride and revolt".[14] Barruel claimed that the proponents of the Enlightenment led people into illusion and error and refers to the philosophes as "Writers of this species, so far from enlightening the people, only contribute to lead them into the path of error".[15] He alleged that Voltaire, Jean le Rond d’Alembert, Denis Diderot, and Frederick II, the King of Prussia, planned the course of events that lead to the French Revolution. They began with an attack on the Church where a "subterranean warfare of illusion, error, and darkness waged by the Sect"[16] attempted to destroy Christianity. The influence of the philosophes could not be underrated according to Barruel. They created the intellectual framework that put the conspiracy in motion and controlled the ideology of the secret societies. Barruel appears to have read the work of the philosophes and his direct and extensive quotes shows a deep knowledge of their beliefs. This is unusual among the enemies of the Enlightenment, who rarely distracted themselves by reading the works and authors they were attacking.[17] Barruel believed the philosophes were important as the original villains that seduced the population and made Enlightenment, and subsequently revolutionary, ideals favorable.

The second volume focuses on the anti-monarchical conspiracy that was led by Jean Jacques Rousseau and Baron de Montesquieu. These conspirators sought to destroy the established monarchies under the guise of "Independence and Liberty".[18] Barruel analyses and criticizes Montesquieu's The Spirit of Laws and Rousseau's Social Contract because the application of the ideas expressed in these books had "given birth to that disquieted spirit which fought to investigate the rights of sovereignty, the extent of their authority, the pretended rights of the free man, and without which every subject is branded for a slave - and every king a despot".[19] He believed that the influence of these two writers was a necessary factor in the enactment of the French Revolution. He agreed with the revolutionaries as they themselves placed the remains of Voltaire and Rousseau in the Pantheon to pay homage to the "fathers of the revolution". Barruel believed that the philosophes had created a lasting influence as their spirit survived through their writings and continued to promote anti-monarchical feelings within the Jacobins and the revolutionaries. The destruction of monarchies in Europe led to the triumph of the Jacobins as they trampled "underfoot the altars and the thrones in the name of that equality and that liberty which summon the peoples to the disasters of revolution and the horrors of anarchy".[20] Barruel equated the rejection on monarchy with a rejection of any type of order and government. As a result, the principles of equality and liberty and their attacks against the monarchy were attacks against all governments and civil society. He presented a choice to his readers between monarchy and the "reign of anarchy and absolute independence".[21]

Barruel's third volume addresses the antisocial conspiracy that was the objective of the Freemasons and the Order of the Illuminati. The philosophes and their attacks against the church and the throne paved the way for the conspiracy that was led by these secret societies. These groups were believed to have constituted a single sect that numbered over 300,000 members who were "all zealous for the Revolution, and all ready to rise at the first signal and to impart the shock to all others classes of the people".[22] Barruel surveyed the history of Masonry and maintained that its higher mysteries had always been of an atheist and republican cast.[23] He believed the Freemasons kept their words and aims secret for many years but on August 12, 1792, two days after the fall of the French monarchy, they ran though the streets openly announcing their secrets. The secret words were "Liberty, Equality, and Fraternity" and the secret aim was the overthrow of the French monarchy and the establishment of the republic.[24] Barruel claimed he heard them speak these words in France but that in other countries the Masons still kept their secrets. A division of the group into numerous lodges ensured that if the secrets of one lodge were discovered, the rest would remain hidden. "

(メーソンが派閥で分かれ、多くのロッジ(支部)があるのは、
一つのロッジの秘密が暴露されても、
残りの秘密は保たれるからと分析。
それ教会もでしょ)

"He believed that it was his job to warn all governments and people of the goals of the Freemasons. Barruel described in detail how this system worked in the case of the Illuminati. Even after Johann Adam Weishaupt, the leader of the sect, was discovered and tried in court, the proceedings could not uncover the universal influence of the Illuminati and no steps were taken against the group.[25] The majority of the secret societies could always survive and carry on their activities because of the organization of the group. The Illuminati, as a whole, functioned to radicalize the movement against the throne and altar and influenced more members of the population to subscribe to their hidden principles.[26] They refined the secret structure that had been provided by the Masons basic framework.

For Barruel, the final designs of the coalition of the philosophes, the Freemasons and the Illuminati were achieved by the Jacobins. These clubs were formed by "the adepts of impiety, the adepts of rebellion, and the adepts of anarchy"[27] working together to implement their radical agenda. Their guiding philosophy and actions were the culmination of the conspiracy as they directly wanted to end the monarchy and the church. Barruel believed that the only difference between the Jacobins and their precursors was that the Jacobins actually brought down the church and the throne and were able to institute their basic beliefs and goals while their precursors only desired to do these things without much success.[28]
The Memoirs and the French Revolution

According to Barruel, the first major assault on the Enlightenment came during the French Revolution. In the minds of many, the Enlightenment was inextricably connected to the Revolution that followed. This presumed link resulted in an explosion of literature that was hostile to the Enlightenment. When the leaders of the Revolution canonized Voltaire and Rousseau and made the Enlightenment themes of reason, progress, anti-clericalism and emancipation central to their own revolutionary vocabulary, it created a link that meant any backlash against the Revolution would increase opposition to the Enlightenment.[29] The advent of what Graeme Garrard has called the "continuity thesis" between the Enlightenment and the Revolution – the belief that they were connected in some intrinsic way, as cause and effect- proved damaging to the Enlightenment.[30]

For Barruel, the Revolution was not a spontaneous popular uprising expressing a long-suppressed general will. It was instead the consequence of a united minority group who used force, subterfuge and terror to impose their will on an innocent and unsuspecting population.[31] Barruel believed that the Revolution was caused by Voltaire, Rousseau and the other philosophes who conspired with secret societies to destroy Catholicism and the monarchy in France. He argued that the writings of the philosophes had a great influence on those who would lead the Revolution and that Voltaire and his followers were responsible for the training of revolutionaries. It was from the followers of the philosophes "that the revolutionary ministers Necker and Turgot started up; from this class arose those grand revolutionary agents, the Mirabeaux, Sieyes, Laclos, Condorcets; these revolutionary trumps, the Brissots, Champforts, Garats, Cheniers; those revolutionary butchers, the Carras, Frerons, Marats".[32]
The Encyclopédie
Main article: Encyclopédie
First page of Volume 1 of the Encyclopédie.

Within the Memoirs, Barruel alleged that Diderot's Encyclopédie was a Masonic project. He believed that the written works of the philosophes penetrated all aspects of society and that this massive collection was of particular significance. The Encyclopédie was only the first step in philosophizing mankind and was necessary to spread the impious and anti-monarchical writings.[33] This created a mass movement against the church and society. Barruel believed that the conspirators attempt to "imbue the minds of the people with the spirit of insurrection and revolt"[34] and to promote radicalism within all members of society. This was believed to be the main reason behind the Encyclopédie as it was "a vast emporium of all the sophisms, errors, or calumnies which had ever been invented against religion".[35] It contained "the most profligate and impious productions of Voltaire, Diderot, Boulanger, La Mettrie, and of other Deists or Atheists of the age, and this under the specious pretence of enlightening ignorance".[36] Barruel believed the volumes of the Encyclopédie were valuable in controlling the minds of intellectuals and in creating a public opinion against Christianity and monarchy.
Philosophism

Philosophism was a term used by Barruel within the Memoirs to refer to the pretend philosophy that the philosophes practiced. It was originally coined by Catholic opponents of the philosophes but was popularized by Barruel.[37] It referred to the principles that were shared by philosophes, Freemasons, and Illuminati. Barruel defined philosophism as "the error of every man who, judging of all things by the standard of his own reason, rejects in religious matters every authority that is not derived from the light of nature. It is the error of every man who denies the possibility of any mystery beyond the limits of reason if everyone who, discarding revelation in defence of the pretended rights of reason, Equality, and Liberty, seeks to subvert the whole fabric of the Christian religion".[38]

The term had a lasting influence as by the end of the 18th century it had become a popular term of abuse used by conservative journals to refer to supporters of the Revolution.[39] These journals accused those who practiced philosophism as having no principles or respect for authority. They were skeptics who failed to believe in the monarchy and the church and thus, had no principles. The use of the term became pervasive in the Anti-Jacobin Review and contributed to the belief in a connection between the Enlightenment and the Revolution and its supporters. Philosophism became a powerful tool of anti-revolutionary and anti-Jacobin rhetoric.
Members of the conspiracy

Barruel identified a number of individuals who he believed played direct roles in the Enlightenment and the conspiracy against Christianity and the state. He identified Voltaire as the "chief", d’Alembert as the "most subtle agent", Frederick II as the "protector and adviser", and Diderot as its "forlorn hope".[40] Voltaire was at the head of the conspiracy because he spent his time with the highest levels of European society. His attention and efforts were directed at kings and high ranking ministers. D'Alembert worked behind the scenes and inside the more common areas of French society. He employed his skill in the cafes and academies and attempted to bring more followers to the conspiracy. Barruel takes a close look at the correspondence between Voltaire and d'Alembert and uses this as evidence of their plot to overthrow society. He is deeply concerned with the fact that those he identifies as the leaders of the plot had secret names for one another in their private correspondence. Voltaire was "Raton", d'Alembert was "Protagoras", Frederick was "Luc", and Diderot was known as "Plato".[41] Barruel also argued that the conspiracy extended far beyond this small group of philosophes. He believed that the court of Louis XV was a "Voltairean ministry"[42] of powerful men. This group involved Marquis d'Argenson who "formed the plan for the destruction of all religious orders in France", the Duc de Choiseul who was "the most impious and most despotic of ministers", the "friend and confidant of d'Alembert", Archbishop de Briennes, and Malesherbes, "protector of the conspiracy".[43]

According to Barruel, this group of influential leaders worked together with a number of adepts who supported the conspiracy. The most important adept that Barruel identifies is Condorcet. Barruel claimed that Condorcet was a Freemason and leading member of the Society of 1789 who was elected to the Legislative Assembly and was "the most resolute atheist".[44] Condorcet was important because he embodied everything that Barruel claimed the conspiracy was. He was a Freemason that associated with the philosophes and who would become an influential member of the revolution process. Barruel also lists the Baron d'Holbach, Buffon, La Mettrie, Raynal, Abbé Yvon, Abbé de Prades, Abbé Morrelet, La Harpe, Marmontel, Bergier and Duclos among the members of the "synagogue of impiety".[45]
Barruel's techniques of argumentation

As a Catholic apologist of the religious and political status quo, Barruel downplayed his own Catholicism and presented himself as a neutral party within the radicalized debate surrounding the Revolution. His tactic was to cite document after document with a commentary that effectively showed it was the truth. The reader of the Memoirs could have been any individual who doubted some of Barruel's inferences, but who would eventually be overwhelmed by the sheer weight of evidence against the Enlightenment and liberation movements. His fanatical hatred for revolutionary and enlightenment ideas is hidden behind a faux neutrality and casuistic slight of pen. By isolating single passages and quoting them out of context, Barruel presented what seemed to be a convincing case.[46] He made up for quality with quantity and persuaded a number of contemporaries to adopt his view. The Memoirs is constructed according to reason and Barruel attempts to use the Enlightenment's own tool to bring about its demise.
Reception

Barruel's work was influential and impossible to ignore. The Freemasons of France, Germany, and England angrily contested his assertions and a voluminous literature was the consequence. Even his critics were forced to take him serious in their attempt to refute his arguments.[47] The Memoirs were written about and discussed at length by leading literary and philosophical figures.

Edmund Burke, an English political thinker, was impressed by the work of Barruel in uncovering a connection between the Enlightenment and the French Revolution. Burke wrote a letter to Barruel and expressed his admiration. He wrote, "I cannot easily express to you how much I am instructed and delighted by the first volume of your History of Jacobinism." He praised "the whole of the wonderful narrative" for being supported by documents and proofs with "the most judicial regularity and exactness." At the end of the letter Burke added: "I forgot to say, that I have known myself, personally, five of your principal conspirators; and I can undertake to say from my own certain knowledge, that as far back as the year 1773, they were busy in the plot you have so well described, and in the manner, and on the principle you have so truly represented. To this I can speak as a witness."[48] Burke's own works were also filled with references to the philosophe sect and a dislike for their fanaticism, atheism and perversion of public morals.

Others soon took up the arguments of Burke and Barruel. In England, the Scottish scientist John Robison, published Proofs of a Conspiracy against All the Religions and Governments of Europe, carried on in the Secret Meetings of the Free Masons, Illuminati, and Reading Societies.[49] The work, published in 1798, detailed a conspiracy that involved philosophes, Masons, and the Illuminati and their desire to "root out all the religious establishments an overturn all the existing governments of Europe".[50] Robinson's text has been characterized as being less detailed but more refined that Barruel's Memoirs. Even with these differences, Robinson's work supported the conspiracy that Barruel purported to have discovered. Barruel himself commented on the similarities, stating "Without knowing it, we have fought for the same cause with the same arms, and pursued the same course".[51] The two writers had many similarities in their arguments and conclusions and their books spawned an anti-Enlightenment and anti-revolution discussion that was constructed on the same theses.

Despite the initial popularity of the book, Barruel's contemporaries soon rejected his book. Jean Joseph Mounier,[52] a member of the National Assembly during the beginning of the French Revolution, insisted the Revolution broke out because of the failure of the established authorities to handle a number of crises that occurred.[53] He blamed the parlements of France for attempting to become rivals of the monarch and the spirit of intolerance in France. Mounier believed the Revolution was a result of social and political tensions and he did not believe there was a planned conspiracy. Joseph de Maistre, a well known counter-revolution theorists, also did not accept Barruel's conspiracy theory. He wrote a short rejection of the Memoirs in which he termed Barruel's accusations "foolish and "false".[54] Maistre rejected the idea of the Freemasons being partly responsible, perhaps because he was a member himself, and did not believe that the Illuminati were as powerful as Barruel made them out to be.
Contribution and legacy

Barruel's version of the revolution, which blamed specific men and pointed out a single cause, has been rejected by the majority of scholars, as the concept of a "master conspiracy" lies on the fringes of historical analysis. Still, his Memoirs do retain historical significance. Amos Hofman has argued that Barruel's work "appears to be the first systematic attempt to discuss the role of conspiracy in a revolution".[55] The theory of conspiracy is a tool for Barruel that is used in an attempt to discredit "public politics" or politics based on the support of public opinion. Hofman shows how Barruel sought to prove that public politics, demanded by both the philosophes and the revolutionaries, could not in fact exist as it was an illusion designed to create support for their private desire to control France.[56] Barruel's theory of conspiracy is important as a "reaction to a problem that was at the focus of the ideological struggle during the second half of the eighteenth century – the problem of the rise of public opinion as a political factor that had to be taken into account by the leaders of society".[57] According to this view, Memoirs Illustrating the History of Jacobinism can be read as an attempt to understand the public appeal of the ideas of the Enlightenment and mass politics. Barruel's text is also important for its entrenchment of an understanding of conspiracy within modern politics. Conspiracy was seen as a motivating cause of revolution because it suggested conflict within the society. It viewed politics as a clash between opposing ideas which could not be solved by a compromise because of substantial division.[58] The society that Barruel creates was not divided by legitimate beliefs and divergent interests. Instead, it was a binary divide between the united and wholly patriotic group that included Barruel and the unholy alliance of traitors and criminals.[59] Barruel's theory of a master conspiracy and his understanding of the causes of political change still influences society.

Memoirs Illustrating the History of Jacobinism has also been seen as a primary source that can be used to examine freemasonry in Europe. Even though Freemasonry became a target in the paranoid literature that blamed the revolution partly on the activities of Masons, the work still had some historical value in regards to the group. Margaret Jacob argues that Barruel's writings "offer a point of departure for understanding the relationship between the Continental Enlightenment, as it was lived in the clubs, societies, and lodges of the eighteenth century, and the outbreak of the democratic revolutions in the late 1780s in Amsterdam, Brussels, and most important, Paris."[60] She believes that if readers can look past the paranoia within the text, it can provide information about how Freemasons were treated during the revolution. Jacob also sees value in the text because Barruel argued for a distinction between English Freemasonry and its Continental counterpart.[61] Barruel believed that his allegations against the Continental Freemasons did not apply to the respectable English Freemasons. The activities of the English Freemasons were not the things that needed to be worried about. He distinguishes between the circumstances of the French and the English and shows that the language used in each situation was important. He believes that the Masonic language about equality, liberty, and fraternity bears relation to the radical and democratic phase of the French Revolution and to Jacobin language.[62] From the book, Margaret Jacob salvages the realization that language is important and that it can have a social force all of its own.”

(イエズス会士のバリュエル神父は英国系メーソンと、
ヨーロッパ大陸系のメイソンを分けている。
バリュエルは、
大陸系、要はフランス系メイスン叩きは、尊敬すべき英国系メイスンには適用されないと考えた。
英国系メーソンの行動は心配するほどのことではないと考えていた。
バリュエルは英国と仏国の状況を分けており、それぞれの状況で使われている専門用語が重要だと示した。
メイソン用語の自由、平等、友愛(博愛)は、
フランス革命の急進的で民主主義的な側面と関係してしており、
ジャコバン派用語とも関係していると考えた。

スポンサーに英国系メイソンがいた疑惑。
バリュエルはフランスの王権と教会権力維持のために活動していたから、英国のことまでかまっていられなかったのかも。
でも英国系のロンドンの大ロッジ作ったのがフランス系カルヴァン派のユグノーだから、英国系も結局はフランス系じゃん!)


Barruel's polemic is an important source for the understanding of the mentality of the opponents of the French Revolution and their understanding of the ideological origins of the Revolution. Furthermore,
Barruel is also seen as the father of a modern conspiracy theory. The Memoirs contain all of the elements that continue to characterize conspiracy narratives today including the argument that a hidden group is orchestrating world events behind the scenes and an attempt to construct a direct lineage from the past to the present.[63] Barruel presents a thorough application of conspiracy theory methodology. As a result, he has had a lasting influence on following generations."
(イエズス会士のバリュエル神父は現代の陰謀論の父とみられていて、
後世の陰謀論世代に影響)


See also

Counter-Enlightenment
Science in the Age of Enlightenment
Philosophe
Augustin Barruel
Encyclopédie
Frederick II of Prussia
Conspiracy theory
Freemasonry
Illuminati”
This page was last modified on 7 October 2015, at 23:36.


John Robison (physicist)
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Robison_(physicist)
”John Robison FRSE (4 February 1739 – 30 January 1805) was a Scottish physicist and mathematician. He was a professor of philosophy at the University of Edinburgh.

A member of the Edinburgh Philosophical Society when it received its royal warrant, he was appointed as the first general secretary to the Royal Society of Edinburgh (1783–98). Robison invented the siren and also worked with James Watt on an early steam car. Following the French Revolution, Robison became disenchanted with elements of the Enlightenment. He authored Proofs of a Conspiracy in 1797—a polemic accusing Freemasonry of being infiltrated by Weishaupt's Order of the Illuminati.

His son was the inventor Sir John Robison (1778–1843).
(…)
The conspiracy theorist
Towards the end of his life, he became an enthusiastic conspiracy theorist, publishing Proofs of a Conspiracy ... in 1797, alleging clandestine intrigue by the Illuminati and Freemasons (the work's full title was Proofs of a Conspiracy against all the Religions and Governments of Europe, carried on in the secret meetings of Freemasons, Illuminati and Reading Societies). The secret agent monk, Alexander Horn provided much of the material for Robison's allegations.[3] French priest Abbé Barruel independently developed similar views that the Illuminati had infiltrated Continental Freemasonry, leading to the excesses of the French Revolution.[4][5] ”
This page was last modified on 18 March 2016, at 14:35.

(ジョン・ロビソン。
物理学者、数学者。
エディンバラ大学の哲学教授。
エディンバラ哲学協会員。
1783年創立のエジンバラ王立協会の書記長
サイレンを発明。
ワットと初期の蒸気自動車関係で働いたことあり。
フランス革命に伴い、啓蒙思想に幻滅。
1797年に『陰謀の証拠』を著し、
ヴァイスハウプトのイルミナティに潜入されたフリーメーソンを叩く。

ロビソンに情報を与えたベネディクト会修道士のスパイ、工作員アレクサンダー・ホーンが重要。
イエズス会が目立ちすぎているので注意。
宗教家は知識人であり優れたスパイでもあるのは西洋だけに限らない。


Fellowship of the Royal Society of Edinburgh (FRSE) )

再読したら内容が充実していた。
This page was last edited on 27 June 2017, at 18:31.
”The conspiracy theorist

Towards the end of his life, he became an enthusiastic conspiracy theorist, publishing Proofs of a Conspiracy ... in 1797, alleging clandestine intrigue by the Illuminati and Freemasons (the work's full title was Proofs of a Conspiracy against all the Religions and Governments of Europe, carried on in the secret meetings of Freemasons, Illuminati and Reading Societies). The secret agent monk, Alexander Horn provided much of the material for Robison's allegations.[5] French priest Abbé Barruel independently developed similar views that the Illuminati had infiltrated Continental Freemasonry, leading to the excesses of the French Revolution.[6][7] In 1798, the Reverend G. W. Snyder sent Robison's book to George Washington for his thoughts on the subject in which he replied to him in a letter:[8]

It was not my intention to doubt that, the Doctrines of the Illuminati, and principles of Jacobinism had not spread in the United States. On the contrary, no one is more truly satisfied of this fact than I am. The idea that I meant to convey, was, that I did not believe that the Lodges of Free Masons in this Country had, as Societies, endeavoured to propagate the diabolical tenets of the first, or pernicious principles of the latter (if they are susceptible of separation). That Individuals of them may have done it, or that the founder, or instrument employed to found, the Democratic Societies in the United States, may have had these objects; and actually had a separation of the People from their Government in view, is too evident to be questioned.”

(the Reverend=牧師。
reverend 聖職者の、尊い、牧師の)

Modern conspiracy theorists, such as Nesta Webster and William Guy Carr, believe the methods of the Illuminati as described in Proofs of a Conspiracy were copied by radical groups throughout the 19th and 20th centuries in their subversion of benign organizations.
Spiritual Counterfeits Project editor Tal Brooke has compared the views of Proofs of a Conspiracy with those found in Carroll Quigley's Tragedy and Hope (Macmillan, 1966). Brooke suggests that the New World Order, which Robison believed Adam Weishaupt (founder of the Illuminati) had in part accomplished through the infiltration of Freemasonry, will now be completed by those holding sway over the international banking system (e.g., by means of the Rothschilds' banks, the U.S. Federal Reserve, the International Monetary Fund, and the World Bank).
[9]”
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Robison_(physicist)

(Nesta Helen Webster (1876 – 1960) は、
ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティ陰謀論者。
https://en.wikipedia.org/wiki/Nesta_Helen_Webster

William James Guy Carr (1895 – 1959)の著作は、
アメリカでのイルミナティ悪魔学が創られるうえで、
もっとも影響力のある情報源らしい。
彼は悪魔のシナゴーグ陰謀論を主張。
要はルシフェリアン(悪魔主義者)・ユダヤ陰謀論
Judeo-Masonic conspiracy theory。
https://en.wikipedia.org/wiki/William_Guy_Carr


Spiritual Counterfeits Project
=聖霊の偽物プロジェクト

Christian countercult movement系の運動。
福音派系。
ロビソンの説に賛同しているのが重要。

このプロジェクトは、
Christian countercult movement
 クリスチャン反カルト運動
=プロテスタントの福音派と原理主義による社会運動
系の運動。
クリスチャン反カルト運動は聖書原理主義以外の宗教をカルトみなす。
Raptureラプチャーを否定したらカルトとみなすとある。
なんでもかんでも悪魔にして本質から遠ざける陰謀論者ラプトの名前の由来。
こいつらがカルトじゃねーか!

反カトリックのプロテスタント福音と原理主義側が、
カトリックの反メイソン・元祖イルミナティ陰謀論に賛同していることに注目。
つまり、双方に利益がある。
陰謀論はカルトの商品であり宣教に利用するために必須な悪魔。
悪魔悪魔だけ言っても効果薄いから具体的組織を叩く。
でもメイソンも元祖イルミナティも異端だったりプロテスタントだったりするが、
すべてキリスト教思想の範囲内なのは無視して叩く。
そうしないと共倒れしちゃうからね。
そして的外れなメイソン叩きはメイソンにも利益があるから容認されている。
バリュエル神父の時代はグルではなかったらしくちゃんと正しいことを言っているのにね。
百科全書派の名前を出している。
それにバリュエルはユダヤ陰謀論者ではない)


Spiritual Counterfeits Project
"The Spiritual Counterfeits Project (also known as SCP) is a Christian evangelical parachurch organization located in Berkeley, California. Since its inception in the early 1970s, it has been involved in the fields of Christian apologetics and the Christian countercult movement. Its current president is Tal Brooke. In its role as a think tank, SCP has sought to publish evangelically-based analyses of new religious movements, New Age movements, and alternative spiritualities in light of broad cultural trends. SCP has also been at the center of two controversial US lawsuits, one involving church-state issues (Malnak v. Yogi) and the other being a religious defamation case (Lee v. Duddy)."
https://en.wikipedia.org/wiki/Spiritual_Counterfeits_Project
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Christian countercult movement
https://en.wikipedia.org/wiki/Christian_countercult_movement
”The Christian countercult movement or Christian anti-cult movement is a social movement of certain Protestant evangelical and fundamentalist[1] and other Christian ministries ("discernment ministries"[2]) and individual activists who oppose religious sects they consider "cults".[3]

Overview

Christian countercult activism stems mainly from evangelicalism or fundamentalism. The countercult movement asserts that particular Christian sects whose beliefs they deem to be partially or wholly not in accordance with the Bible are erroneous. It also states that a religious sect can be considered a cult if its beliefs involve a denial of what they view as any of the essential Christian teachings such as salvation, the Trinity,[citation needed] Jesus himself as a person, the ministry and miracles of Jesus, his crucifixion, his resurrection, the Second Coming and the Rapture.[4][5][6]

Countercult ministries often concern themselves with religious sects that consider themselves Christian but hold beliefs thought to contradict the Bible, including The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints, the Unification Church, Christian Science, and Jehovah's Witnesses. Anti-Catholic movements have led Protestants to classify Catholicism as a cult. John Highham described anti-Catholicism as "the most luxuriant, tenacious tradition of paranoiac agitation in American history".[7] Some also denounce non-Christian religions such as Islam, Wicca, Paganism, New Age groups, Buddhism, Hinduism and other religions.”
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"キャロル・キグリー(Carroll Quigley, 1910年11月9日 - 1977年1月3日)は、アメリカの歴史学者、文明進化の研究者。ジョージタウン大学の教授を務めた。多数の本を出版し、秘密結社なども研究していた[1][2]。
経歴

キグリーはボストンで生まれ、ハーバード大学で歴史を専攻。博士課程を修了した後、プリンストン大学で講師として働き、またハーバードに戻った。 1941年から1976年までジョージタウン大学国際関係学部の教授だった[1]。

1941年から1972年まで、文明の発展についての講義を担当した。『ワシントン・スター』に記載された死亡記事では、複数の卒業生が「最も影響を受けた授業」と評価していた[1]。

大学以外では国防総省、海軍、スミソニアン研究所、下院の科学宇宙開発技術委員会 (en) のコンサルタントも務めたことがある[1]。新聞『ワシントン・スター』では外部記者、専門誌 "Current History" では編集者だった。:94 彼は自分が自由主義伝統を守る保守派だと定義していた。早くからベトナム戦争を批判し、軍事産業も反対していた。

キグリーは1976年6月に定年退職し、翌年亡くなった[1]。
秘密結社の研究
様々な秘密結社が現代世界史で果たした重要な役割を指摘したのは、キグリーの著書の大きな特徴の一つである。この影響で、陰謀説を研究している者の間でキグリーの名は知られている:96, 98。しかし、有名な歴史学者の大半は陰謀説に懐疑的である[3]。"
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%AD%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC
最終更新 2016年10月16日 (日) 14:50 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


Alexander Horn
https://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Horn
”Alexander Horn (or Dom Maurus Horn, OSB) (1762–1820), was a Scottish Benedictine monk who became a British secret agent and diplomat. His work contributed to the birth of the conspiracy theory of the illuminati.[1]

Horn was born in the village of Oyne, County of Aberdeen, in the Kingdom of Great Britain. In 1772, at the age of ten, he was accepted as an oblate by the Scots Monastery in Regensburg, Germany, an imperial abbey in the capital which was then the seat of the Imperial Diet of the Holy Roman Empire. About 1782, when he had come of age, he was admitted to the monastic community as a monk and given the religious name of Maurus and was ordained a Catholic priest around 1785. He was an esteemed librarian at the monastery by 1790, while at the same time working as the Regensburg agent for the British ambassador in Munich. He cultivated close ties with the Thurn und Taxis family and other influential people in the region. Despite being a monk, his social life led to him being described as a "wild young fellow".[1]

Horn wrote anonymously, condemning France's activities in undermining the Holy Roman Empire. He supplied the material that formed the core of John Robison's 1797 allegation of an international conspiracy of freemasons, illuminati, and Jacobins. In 1799 he travelled to England, meeting with members of William Pitt's government including Earl Spencer. He subsequently used his bibliographical expertise to acquire rare books and manuscripts for Spencer's library.[1]

When in 1802 the Eternal Diet of Regensburg, under pressure from Napoleon Bonaparte, determined to secularize all property of the Catholic Church within the Empire, the Scots Monastery was uniquely successful in avoiding this fate. Horn and his abbot, Charles Arbuthnot, OSB, (the last abbot of the monastery) lobbied Jacques MacDonald and Jacques Lauriston, Scottish Catholic generals in the French army. He was by now the official British agent in Regensburg and further appealed to the British government. The Scots Monastery was exempt from German church authorities coming under the sole authority of Holy See and the two monks successfully obtained the support of the Cardinal Protector of Scotland in Rome. An express exemption was made in favour of the Scots Abbey, although it was not allowed to take any new novices.[1]

In 1804 Horn became the official Chargé d'affaires following the expulsion of the British ambassador in Munich at the instance of Napoleon.[1]

References[edit]
^ Jump up to: a b c d e Mark Dilworth, ‘Horn, Alexander (1762–1820)’, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004”
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(ホーン(1762–1820)は、
スコットランドのベネディクト会の修道士で、
英国のシークレット・エージェント=スパイ
にして外交官。
イルミナティ陰謀論の誕生に貢献。
1772年、10歳のときにドイツのバイエルン州のレーゲンスブルクにある
スコットランド修道院のカトリック修道生活の献身者になる。
1782年、成人すると、Maurusという宗教名をもらう。
1785年ごろ、カトリック神父になる。
1790年まで、修道院の尊敬すべき司書であり、
その間、同時に、バイエルン州にあるミュンヘンの英国大使のために
同じくバイエルン州にあるレーゲンスブルクでのエージェント活動を行った。
その地域でのトゥルン・タクシス家とその他の影響力ある人々と緊密な関係を形成する。

ホーンは匿名で、神聖ローマ帝国を弱めるフランスの活動を非難する文章を執筆。
ロビスンが1797年に出した、
フリーメイソンとイルミナティとジャコバン派の国際的陰謀についての主張の核を形成する資料を提供。
1799年にホーンはイングランドに旅行し、スペンサー伯爵を含むウィリアム・ピットの政府のメンバーと会う。
次いで彼は書誌学、ビブリオグラフィーの専門的知識を活かし、スペンサー図書館のために稀覯本や原稿を獲得した。
ナポレオンの圧力のもと、
1802年に、
神聖ローマ帝国はカトリック教会のすべての財産の世俗化=国有化を決定した。
しかし、先述のスコットランド修道院は例外として、
この(人知を超えた絶対不可避の特に悪い)運命を回避した。
フランス軍のスコットランド系カトリックのゼネラルらにロビー活動をしたのである。
このころにはホーンはレーゲンスブルクの正式な英国エージェントであり、
英国政府にさらなるアピールを行った。
スコットランド修道院はドイツの教会当局から世俗化を免除された。
このドイツの教会当局は、
聖座(せいざ、Sancta Sedes、 Holy See。要はローマ教皇庁)の独占的支配下にあった。
(このあたりの翻訳があっているのか自信がない。当時の教会事情に無知ゆえに)
スコットランド修道院の二人の修道士は、
ローマにおけるスコットランドのCardinal Protector(枢機保護官? 定訳不明)のサポートを受けることに成功。
スコットランド修道院に有利な特別な免除はなされたが、しかし新たな見習修道士を入れることは許可されなかった。
1804年にホーンはミュンヘンの英国大使を除籍した後に、正式な臨時代理大使となった。
(ここ、at the instance of Napoleon=ナポレオンのの依頼[要請]により
とあるけど、除籍するにかかるのか、臨時代理大使となるにかかるのかわからない。
近いほうを基本的に修飾すると考え、除籍がナポレオンの要請としておく。
ホーンがやったことはナポレオンへの反抗なので除籍するよう圧力をかけたのだろう)

ベネディクト会(Ordo Sancti Benedicti, Benedictine Order)は、
529年から続いているカトリック教会最古の修道会で、
会員の別名が黒い修道士。
宗教家が知識人であり参謀であり
王の操り手であり
スパイであり工作員であるのはどこでも一緒。

なお、イスラム教では修道院も修道士も存在しない。

完全なる工作員。堂々と間諜って書いてある(笑)
ホーンはスコットランド系カトリック。
活動地域が、皇帝がカトリックであり神聖ローマ。
ロビソンもスコットランド系だがカトリックか不明。
ホーンの活動が明らかに今の分類だとドイツ(便宜的名称)系カトリック勢力を助けている。
英国大使だからといって、英国国教会側とは限らない。

バリュエルのイルミナティ陰謀論本が出たのが1789年。
ホーンに入れ知恵されたロビソンのイルミナティ陰謀論本が出たのが1797年。
バリュエルのほうが早い。
ホーンが情報提供とあるので、
ホーンがケースオフィサーで、
ロビソンがエージェント=実務。


ホーンの人脈が見事なまでに、カトリック優遇と反フランス革命、
世俗化(=宗教権力を国家権力が吸収することなど)反対側だ。

出典は Oxford Dictionary of National Biographyとあるが、
この工作員の情報は少ないだろうな。できればメイソンが出てこない文献を読みたい。
フィクションでもこんなやばい経歴のやつあまりいないのでは?)


”レーゲンスブルク(ドイツ語: Regensburg、バイエルン語:Rengschburg)は、ユネスコの世界遺産に登録されているドイツ連邦共和国の都市。バイエルン州に位置する。人口は約12万人(2002年)。
ザンクト・エメラム修道院は、代々皇帝特別主席代理を務めた名残で、2013年2月現在もトゥルン・ウント・タクシス家の居所である。


国 ドイツの旗 ドイツ
州 バイエルン州
行政管区 オーバープファルツ行政管区
郡 郡独立市


バイエルン州東部、オーバープファルツの中心都市であり、ドナウ川とレーゲン川の合流近くに位置する。そのため、水上運輸の要所としての役割を果たしている。
歴史的景観と穏やかな気候から夏の保養地としても多くの旅行客を集める。近隣の都市としては、南西約55キロにインゴルシュタットが位置する。

1世紀、ローマ帝国軍の駐屯地、カストロ・レギーナがおかれた。これが現在の地名の由来ともなる。
6世紀頃、バイエルン族が居住するようになり、バイエルン大公の居城がおかれた。
その後、8世紀後半にタシロ3世がカール大帝に屈服し、フランク王国の統治下に入った。
その後も政治・経済の中心として重要な役割を果たしており、大司教座聖堂などを通じてその繁栄をうかがうことができる。
13世紀半ばに「帝国自由都市」としての特権を認められていた。
神聖ローマ帝国における帝国議会がこの地で幾度か開催され、
1654年にレーゲンスブルクでなされた「最終帝国議会決議」は、正規の帝国議会における決議としては最後のものであった。
1663年以降、それまで各地で開かれていた帝国会議は、レーゲンスブルクに常置された。
1803年に独立を失い、マインツの代わりとしてマインツ大司教で神聖ローマ帝国の宰相であったカール・フォン・ダールベルクに引き渡された。
カールは街を近代化させ、プロテスタントとカトリック教徒に同じ権利を与え慕われた。
1810年にバイエルン王国に引き渡され、カールはフルダへと移った。
1809年4月19日から4月23日までオーストリア軍とフランス軍が交戦し、街に大きな被害が出た。
第二次世界大戦中にはドイツ軍の第8軍管区本部が置かれたが、連合軍の空襲は小規模で、多くの歴史的建造物は破壊されずに残った。


1630年、この地で天文学者のケプラーが没している。
この街で「マクデブルクの半球」と呼ばれる真空実験が行われた(実験者ゲーリケがマクデブルクの市長だったため、この名で呼ばれる)。
2006年、市の中心部に当たる旧市街と対岸の地区が「レーゲンスブルクの旧市街とシュタットアムホーフ」としてユネスコの世界遺産に登録された。
小惑星(927)のラティスボナ (小惑星)は、レーゲンスブルクのラテン語名に因んで命名された。
ベネディクト16世の出身地である。”
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF
最終更新 2017年1月23日 (月) 03:13 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

Thurn und Taxis
https://en.wikipedia.org/wiki/Thurn_und_Taxis
”Capital Regensburg

The Tasso (from the Italian for "badger") were a Lombard family in the area of Bergamo.

Several members of the family have been Knights of Malta.

The current head of the house of Thurn and Taxis is HSH Albert II,
12th Prince of Thurn and Taxis, son of Johannes and his wife, Gloria.
The family is one of the wealthiest in Germany. The family has resided in St. Emmeram Castle in Regensburg
since 1748. The family's brewery was sold to the Paulaner Group (Munich) in 1996,
but still produces beer under the brand of Thurn und Taxis.”
https://en.wikipedia.org/wiki/Thurn_und_Taxis
This page was last edited on 1 July 2017, at 00:56.


(レーゲンスブルクが本拠地。
ロンバルディア系!
一部がマルタ騎士団員!
現党首はカトリックで、
エディンバラ大学で経済学と神学を勉強って、
今もスコットランド人脈があるのだろう。

イングランドの英国国教会
vs
スコットランドのカトリック教会)


”Albert Maria Lamoral Miguel Johannes Gabriel, 12th Prince of Thurn and Taxis (Albert Fürst von Thurn und Taxis;[1] born 24 June 1983), is a German aristocrat, businessman, and race car driver.[2][3]:540[4] He has been listed as the world's youngest billionaire many times since his father's death in 1990,[5] first appearing on the list when he was age eight.[2]

Religion Roman Catholic

Thurn und Taxis completed his high school education in Rome and then, after his military service,
he studied economics and theology at the University of Edinburgh. He is an enthusiastic racing driver, vice-champion (2007/2008) and champion (2010) of the German GT Championship ADAC GT Masters with the German Team Reiter Engineering.[citation needed]”
https://en.wikipedia.org/wiki/Albert,_12th_Prince_of_Thurn_and_Taxis



ウィリアム・ピット
William Pitt (the Younger)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%83%E3%83%88_(%E5%B0%8F%E3%83%94%E3%83%83%E3%83%88)
”1783年、わずか24歳でイギリス最年少の首相となり、1801年にいったん辞任したが、その後1804年に返り咲き、
1806年に没するまで首相の職にあり、首相と大蔵大臣とを兼任もしていた。ピットの首相としての在職期間中はジョージ3世の治世下であり、フランス革命やナポレオン戦争を始め、様々な事件がヨーロッパを支配していた。ピットはしばしばトーリー、または新トーリーと考えられているが、自分では「独立したホイッグ」と名乗っており、党派心の強い政治システムの拡大にはおおむね反対していた。
ピットは、イギリスをフランス及びナポレオンとの大戦争で導いたことでよく知られている。彼自身は効率と改革のために尽力した、傑出した行政官であり、優れた行政官が政治を行う新しい世代をもたらした。フランスとの大がかりな戦争のために税金を上げ、急進派を厳しく取り締まった。アイルランドがフランスを支援するのを脅威と感じ、1800年の連合法を根回しした。またこの連合法にカトリック解放を組み込もうとしたが、これは失敗した。
ピットはまた、トーリー党を再生させる新トーリー主義を作りだし、1800年から25年間、トーリー党に権力を持たせることを可能にした。歴史家のチャールズ・ペトリーは「もし、ピットが、暴動を起こすこともなしに、イギリスを古い秩序から新しい秩序へ変えたのが正にその理由であれば」偉大な首相の一人であると結論付けており、彼は新しいイギリスがどういうものであるかを理解しているとも述べている[1]。それ以外にも、奴隷貿易禁止のために尽力した。
1789年、フランス革命が勃発し、その流れが過激なものへと変容していくにつれて危機感を増し、1793年から3回にわたって対仏大同盟を組織して革命を潰そうとした。そのため、彼はフランスから「人民の敵」と呼ばれることになる。のちに対仏穏健派が支持を失うと、対仏強硬派で主戦派のピットは1804年に再び組閣した[要出典]。イギリスの保守勢力を糾合し、野党でホイッグの指導者フォックスとともに政党政治の確立に貢献して、イギリスの二大政党政治の土台を築いた。”



第2代スペンサー伯爵
ジョージ・スペンサー
George Spencer, 2nd Earl Spencer
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC_(%E7%AC%AC2%E4%BB%A3%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E4%BC%AF%E7%88%B5)
”フランス王ルイ16世が処刑されフランスとイギリスが開戦すると、スペンサーはエドマンド・バークが主張するフランス革命批判に同調し、首相ウィリアム・ピット(小ピット)の支持者となった[3]。”
最終更新 2017年5月6日 (土) 04:18 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

George Spencer, 2nd Earl Spencer
https://en.wikipedia.org/wiki/George_Spencer,_2nd_Earl_Spencer#Book_collecting
”Book collecting[edit]
Spencer was noted for his interest in literature and particularly in early examples of printing. He was the instigator and first President of the Roxburghe Club (an exclusive bibliophilic club), founded in 1812. When Napoleon instigated the secularization of religious houses in south Germany, Spencer used local British agent and Benedictine monk, Alexander Horn, to acquire many of their rare books and manuscripts.[5]

His collection of tens of thousands of volumes, which included the most nearly complete collection of Aldine editions ever brought together, was put up for sale in 1892 and acquired by Enriqueta Rylands for the John Rylands Library[6] and it was indexed by Alice Margaret Cooke.[7]”
https://en.wikipedia.org/wiki/George_Spencer,_2nd_Earl_Spencer#Book_collecting
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(Regensburgレーゲンスブルクはドイツの都市。バイエルン州。
ザンクト・エメラム修道院は、代々皇帝特別主席代理を務めた名残で現在もトゥルン・ウント・タクシス家の居所。
タクシス家はカトリック。
何人かがマルタ騎士団。

”世界大百科事典 第2版の解説
トゥルン・タクシス【Thurn und Taxis】
ドイツ・神聖ローマ帝国において郵便業務をつかさどった家系。ロンバルディアの出身であったが,ハプスブルク家と結び領域内に郵便制度をつくりあげ,これを掌握することによって経済的・社会的地位を築いた。まず1516年にF.vonタクシスがスペイン帝国内の郵便業務の独占を認められた。95年神聖ローマ帝国とネーデルラントの郵政長官を任じられ,1615年には,この職は同家の世襲職となった。これと並行して,帝国諸侯(貴族)にも列せられ,1650年に紋章の使用を許可され,トゥルン・タクシスと名のり,95年には侯Fürstの地位にのぼった。”
https://kotobank.jp/word/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%B3%EF%BD%A5%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%B9-1189410

THURN und TAXIS(トゥルン・ウント・タクシス家)
http://heibay.exblog.jp/24418920/
”欧州の大金持ち貴族タクシス家の館を観に Regensburg(レーゲンスブルク)へ

欧州の郵便はホルンのマークです、これはタクシス家の紋章からの由来です。
 
タクシス家は、12世紀ミラノの支配権の戦いのあとベルガモに住み、
1489年神聖ローマ帝国で郵便事業を始めました。
1748年 レーゲンスブルクの国会の永久代表に指名されました。

(引用)

オーストリア散策 「トゥルン・ウント・タクシス家のボロ儲け」

同家の郵便事業の始祖はドイツ名でフランツ・フォン・タクシスという人でした。その参入のきっかけは、1489年にハプスブルク家の皇帝マクシミリアン1世の郵便物を請け負ったことにあります。

フランツの前の時代にも、郵便物を運ぶ人がいることはいました。しかしそれは、学生、修道院、あるいは個々の商業組合の飛脚が単発的にあったというレベルにすぎません。一方、フランツの郵便システムは駅を作って馬車と馬車で手紙をリレーするという組織的なもので、配達のスピードもさることながら、その配達距離も従来の飛脚とは比べ物にならないほどの優れたものでした。

(引用終わり)


 ルネッサンスのフィレンチェのメジチ家頭首にロレンツォが1492年死にましたので、その後を引き継いだってことでしょうか? メジチ家も戦争での兵站で大もうけしたようですが、当然、襲撃されるので、運んでいたのはユダヤ人でしょう。 その頭がロス茶家とすれば、タキシス家の下請けロス茶家ですね。

タキシス家は、ウィーン体制の後押しによって、ヨーロッパ各地に路線網を広げ そして、郵便馬車には、ロス茶専用の隠し戸が備えられ、秘密の小箱は検閲なしにヨーロッパ中を駆け巡り、ロス茶が、各国政府と深くかかわるようになったのでした。(『秘密諜報員ベートーヴェン』 古山和男著)
f0044065_23185611.jpg
鉄道ができる前は郵便馬車が人も乗せるようになり、続く18世紀には旅行需要の拡大もあって利用者の層も広く増えていったのです。
f0044065_23195019.jpg
 現在のようなコンピューター社会でも、契約書類は紙で、信書で配達されます。 誰から誰へ、信書が送られているのかは、郵便の中身ではないのですが、重要な情報です。 タクシス家の遺言で、「再び郵便事業が売りに出されるなら買い戻すように」とどこかのブログにありました。 また陰謀論的には、情報を扱うのでNSAとも関係があるとか。。。”)

”When in 1802 the Eternal Diet of Regensburg, under pressure from Napoleon Bonaparte, determined to secularize all property of the Catholic Church within the Empire, the Scots Monastery was uniquely successful in avoiding this fate. Horn and his abbot, Charles Arbuthnot, OSB, (the last abbot of the monastery) lobbied Jacques MacDonald and Jacques Lauriston, Scottish Catholic generals in the French army. He was by now the official British agent in Regensburg and further appealed to the British government. The Scots Monastery was exempt from German church authorities coming under the sole authority of Holy See and the two monks successfully obtained the support of the Cardinal Protector of Scotland in Rome. An express exemption was made in favour of the Scots Abbey, although it was not allowed to take any new novices.[1]

In 1804 Horn became the official Chargé d'affaires following the expulsion of the British ambassador in Munich at the instance of Napoleon.[1]
References

Mark Dilworth, ‘Horn, Alexander (1762–1820)’, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004”
This page was last edited on 3 December 2016, at 04:45.




Eric Jon Phelps
” Eric Jon Phelps (born 1953) is an author and protagonist in the Truth Seeker movement from the United States,

(protagonist  〔主義思想や改革運動などの〕主唱・提唱者。

Truth movement
http://en.metapedia.org/wiki/Truth_Seeker_movement
のKey figures=重要人物は、
“Julian Assange
James Corbett
William Cooper
David Icke
Brian Gerrish
Anthony J. Hilder
Max Igan
Alex Jones
Max Keiser
Jüri Lina
Jordan Maxwell
Kenneth O'Keefe
Jeff Rense
Alan Watt“

創価学会の母胎は大日本皇道立教会=キリスト教製の偽天皇系組織。紐付き陰謀論者の巣窟の母胎も大日本皇道立教会。 創価の表層を叩かせるのは、偽皇室とキリスト教が陰謀論業界のボスであり、創価とsagegroupを作った黒幕なのを隠す為。)

presenting himself as part of a WASP fundamentalist disposition, deriving influence for his material from the likes of Jack Chick and Alberto Rivera, he is allegedly a WASP separatist.

(present oneself 自己紹介する
present oneself as  ~というイメージを打ち出す。

disposition 気質,.傾向,たち 。

material 資料、データ、題材、ネタ。
the likes of ~のような人あるいは物。

ジャック・チックはガチのプロテスタント系キリスト教原理主義者
=聖書絶対
=エキュメニカル反対派
=一神教的多神教である新キリスト教を完全否定。
エホバの証人、モルモン教、進化論に一定の理解を示しているローマ・カトリックに対しても徹底した批判を行っているらしい。
ジャック・チックは自らの信仰を広めるために、その信仰に基づいた物語を小冊子にして配布し、自ら出版社まで作っているほどの原理主義者。
フェルプスの言説の元ネタの一つが反カトリックのプロテスタント原理主義者。
このJack Thomas Chickは evangelical fundamentalist Christianであり、
Roman Catholics, Freemasons, Muslims, Jewsなどを批判しております。プロテスタントはきれいに無視(笑)。
福音主義プロテスタントEvangelical Protestantism 側ですからね。
チックは Independent Baptist なので、ロックフェラーと同じくバプティスト。
ユダヤ人=ユダヤ教徒じゃねーよ!
ユダヤ教徒ではなくバプティストのロックフェラーをユダヤ教徒だとして叩くRK。
Rは18番目、Kは11番目のアルファベットですね。

キリスト教 教派早わかり
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/058kirisuto.htm
“「プロテスタント」とは、"抗議する者"の意味で、ローマ・カトリックの腐敗に抗議することから始まった、一六世紀以来の新しいキリスト教の流れです。聖書学者ヘンリー・H・ハーレイは、プロテスタントについてこう言っています。
 「プロテスタントは、すべての異教主義から解放された原始キリスト教を回復しようとするものである」。
 それは、純粋なキリスト教を回復しようという努力であり、その一連の運動のことなのです。
 ですからプロテスタントは、一つの組織や、特定の機構によって成り立っているわけではありません。それは純粋なキリスト教の回復を目指す諸グループ、諸運動の、総称なのです。
(…)
バプテスト派

 「バプテスト」という言葉は、バプテスマ(洗礼)から来た言葉で、一般に「浸礼派」と訳されています。
 バプテスマには一般に、水を数滴たらす「滴礼」方式と、体を水の中に沈める「浸礼」方式の、二種類があります。バプテスト派では滴礼を認めず、浸礼だけを認めるのです。
 バプテストは最初、一六世紀のスイスに、アナバプテスト(再洗礼派)として誕生しました。彼らは、カトリックでなされている儀式的な幼児洗礼を否定し、信仰告白に基づいた成人の洗礼を実施したのです。
 バプテストには、ルーテルやカルヴァンのような、特定の有名な創始者がいません。それは不特定多数の改革者たちによって始められた運動なのです。
 バプテストの人々の主たる関心は、バプテスマ自体よりも、むしろ「真にキリストの弟子であること」にありました。
 キリスト者としての「生活」が重視されたのです。初期のあるバプテスト指導者は、こう語りました。
 「誰でも、生活においてキリストに従わなければ、キリストを知ることはできない」。
 またバプテストは、愛の倫理と、非戦主義を説きました。彼らは戦争へ行かず、迫害者から身を守ることもせず、国家による弾圧に参加することもしませんでした。
 バプテストは、初代教会の活力と信仰を再興しようと腐心しました。彼らは、教会は、富や権力による制度ではなく、信仰に基づく兄弟姉妹、また神の家族の集まりであると言いました。
 また教会は、人の作った組織に認められるものではなく、神が人々の中に働いておられるところに認められる、とも主張しました。
 バプテストはまた、教会と国家の分離を主張しました。彼らは、たとえ社会がキリスト者によって構成されている場合でも、教会は社会と分離しているべきである、と説きました。これは、カトリック教会への批判でもあります。
 バプテストはその後、何度かの分裂や統合を繰り返して今日に至っています。
 いわゆるメノナイト派(メノー派)も、バプテストの流れを汲んでいます(フレンド派の影響も受けている)。メノナイト派は、アメリカではとくに「良心的反戦論者」として知られています。
 一九世紀の有名な伝道者C・H・スポルジョンは、バプテスト派(ただしカルヴァン主義バプテスト)でした。また、インドに伝道した偉大なイギリス人宣教師ウィリアム・ケアリや、非暴力によって黒人の公民権運動を展開したアメリカのマーティン・ルーサー・キング牧師も、バプテスト派でした。”

「ユダヤに金融特権を与えたカトリックは大金持ち」だとばらしてもおかしくないのが反カトリック勢力。
プロテスタント側が世俗権力たる貴族と組んでバチカンの金融特権を奪うために画策していたところは隠すから注意ね!
チックは、反カトリックの活動家にしてもとイエズス会士=カトリックだったリベラの証言を紹介しています。
anti-Catholic activist Alberto Riveraはイスラム教をつくったのはバチカンだという説を述べております。
ねここねこは、カトリックに迫害された異端派側が創ったと考えております。
異端派はイスラムやユダヤ教徒と手を組んで反カトリックだったりします。
異端として排斥されたネストリウス派はササン朝ペルシア、イスラム世界で教勢を伸ばし、七世紀には中国にいたり景教と呼ばれました。
どうみてもユダヤじゃないですね。
ネストリウス派は特にアッバース朝にギリシア語文献の翻訳者や医師として活躍し、東西文化の交流に貢献しました。
はっきりいって迫害したカトリックも技術差で負けないように異端派から技術を手に入れていましたから、異端排斥すら表向きのものです。今も昔もね。
リベラはカトリック教会はホロコーストに責任があると言っているのは、ナチスのスポンサーがカトリックだから。人数は捏造でしょうが虐殺はあったと私は考えております。
でもリベラは明らかにプロテスタント側の仕業のものもカトリックのせいにするのでプロテスタント系工作員です。
チックChick も世界の諸問題の原因はカトリックだと信仰していたそうです。
プロテスタント原理主義が戦争屋と仲良しなのは無視かよ。
自分自身がサタン=カトリック限定キリスト教叩き工作員
のくせにサタンを叩く典型的なキリスト教原理主義者ですね。
ねここねこみたいに
「すべて」の一神教の根幹=実在論=イデア論の基盤
まで否定しないと別の支配勢力に利用されて終わりです。
具体的には原始仏教の無記と大乗仏教の空で否定しています。
支配層が一番嫌いな思想です。
原理主義なので当然チックは中絶反対、結婚前の性行為は禁止、同性愛は罪悪という信仰で、シオニストで、イスラエル最大の敵がカトリックだと主張。
チックが所属するIndependent Baptistインデペンデント・バプティストは保守的、要はファンダメンタリスト=聖書は文字通り正しい。

リベラはプロテスタント原理主義のアンチカトリックの活動家。
Alberto Rivera はヴァチカン押しつけ陰謀論者。
リベラ曰く、
共産主義、イスラム教、ナチス、
世界大戦、不況、
人民寺院の虐殺(ジョーンズタウン事件)、リンカーン暗殺、
ケネディ暗殺(初のカトリック系大統領)はすべてカトリックが原因だそうです(笑)
プロテスタントカルトがやったことをカトリックのせいにするのがリベラの役割です。
リベラは、カトリック教会が同性愛と中絶を広めようとしていると主張。
教皇は反キリストantichristsでありカトリック教会は大淫婦バビロンWhore of Babylonだと非難。
中世の宗教裁判(異端審問)Medieval Inquisitionの黒幕はイエズス会だと主張。
Medieval Inquisitionは12から13世紀ごろ。
イエズス会設立は1534年だから16世紀。
リベラは嘘つきですね。
イエズス会はカトリックの反宗教改革の先兵なので反プロテスタント組織で、上智大学を創ったことで有名。
上智出身の陰謀論者に注意な!

White separatism 白人分離主義。
差別ではなく区別とか、分離しているだけだという詭弁をほざくホワイトプライドな白人至上主義者supremacistsの思想)

He is perhaps best known for his book Vatican Assassins. It was revealed in the Truth Seeker community that Phelps is the Vice President and Chief of Sales for a company headquartered in Tel Aviv, called Lowvehm; this is part of the Jewish blood diamond industry.[1] Phelps has visited Israel several times, including meetings with the Zionist Barry Chamish.[2]
(フェルプスはシオニストでシオニストと会っている。イスラエルコネクション。ユダヤ教徒の血流ってなんだよ。
聖書の民は実在しないので遺伝的ユダヤ人は実在しない。ユダヤ教を信仰しているか否かでユダヤ人か否かが決まる。ユダヤ系プロテスタントって何?
親がユダヤ教徒ってこと?)

Claims
Part of the “Jesuits and the Vatican run it all” crowd, Phelps refers to all people in the anti-New World Order movement who criticise Jewish global power—such as
Texe Marrs, Jeff Rense[2] and others—as “Jesuit Temporal Coadjutors”.

(Texe W. Marrsはキリスト教原理主義系組織を2つ運営しています。プロテスタント支持で、カトリックとユダヤ教を批判。
明らかにプロテスタント原理主義なのですがフェルプスいわくイエズス会の手先だそうです。フェルプスの役割もリベラと同じく、プロテスタントの悪行をカトリックに責任転嫁すること。
refer to A as B AをBと呼ぶ、AについてBと言及する。
temporal [しばしば名詞の後] (聖職者・教会に対して)聖職でない.。
coadjutor 助手、アシスタント、司教補佐、、助任司祭、補助司教。

Jeff Rense という陰謀論者conspiracy theoristは
名誉毀損防止同盟(Anti-Defamation League 略称ADL)と南部貧困法律センター(Southern Poverty Law Center、略称SPLC)により、 反ユダヤ主義かつ親ナチスであるとみなしている。
またプロテスタント原理主義の宗教右派。どこがカトリックだよ)

Phelps describes the liberation of the German people by the NSDAP, the SS and other forces from the impending butchery of the Red Holocaust, disapprovingly, as the work of “Jesuit agents”.[3]

(ナチス親衛隊の別名が黒いイエズス会。イエズス会自体が真っ黒)

Phelps glorifies Oliver Cromwell[3] who allowed the Jews back into England after they had been expelled for centuries and was largely financed by Dutch Sephardim such as rabbi Menasseh ben Israel.[4]

(よーすけ ‏@yoshimichi0409 6月19日
因みに伝統的ユダヤ主義はシオニズムには反対している。シオニズム自体、英国の植民地主義から生まれたもので、あの清教徒革命のクロムウェルが先駆者とよく言われる代物。
米国で最もイスラエル擁護者であるのは、キリスト教原理主義者である。
彼らの多くは千年王国願望を抱いているのも事実だ。

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2014年12月1日
@noranekonote エドワード1世のユダヤ追放で13~17世紀まで英国にユダヤは殆どいない。
よってキリスト教が金融をやるしかない。1594年エリザベス女王のユダヤ系侍医ロペスの処刑で反ユダヤが強まり、数年後に初演されたベニスの商人は金融=ユダヤという嘘を布教する為の作品。

ユダヤ教徒追放で英国にキリスト教の金融街=ロンバード街(ロンバルディア人)が誕生。
D・ロックフェラーはWASP至上主義。ロスチャイルドはキリスト教改変派。
×ユダヤ教徒×偽ユダヤ×ユダ金
○【ユダヤ】仕事
ユダヤ教徒から白人キリスト教徒に乗っ取られた事例。
ユダヤ教徒追放(13〜17世紀まで)で英国にユダヤ教徒がいなくなりました。
キリスト教の金融街=ロンバード街
(ロンバルディア人=イタリアの白人)が誕生しました。

タクシスがロンバルディア人だと先述の英語版ウィキにあることに注目!
Lombardには、
「ランゴバルド人」(名詞)や、
「ロンバルディア(人)の」(形容詞)
だけでなく、
「(イタリアの)ロンバルディア人」と
「金貸し、銀行家、質屋」
という意味がある。
タクシスははじめから金融家人脈だ。


ホの字 ‏@souiumonodesu 2012年1月22日
『1215年のキリスト教の会議で、(中略)ユダヤ教徒を公職から追放し、あらゆる経済活動に制限を加えることが決められた。
その結果、ユダヤ教徒たちは金貸しくらいしかすることがなく、仕方なく金融業をはじめたという経緯があるのだ。』(p.165))


According to Phelps, Jewish supremacism in financial, media and political fields is just an illusion, the Jesuits “always put Jews in the forefront-so that they can blame all of what they do on the Jewish race”.[3] He also claims the Jesuits authored the Protocols of the Elders of Zion,[3] control all secret agencies including KGB, CIA, Mossad, BND and SIS.[3] He also attacks the Knights of Malta on a regular basis.[3] For Phelps, the Jesuits are even “the ones behind professional sports”.[3]

(フェルプスはユダヤ陰謀論を否定。あくまでカトリックはカトリックであり隠れユダヤではないとしている。
「カトリック=黒幕>ユダヤ=下っ端」

なるほどだからboが叩くのか。
カトリック黒幕説(+ユダヤは下っ端)を言っている人がユダヤだと指摘することで、カトリック黒幕説は正体がユダヤが黒幕なのを隠すためだと言いたいのでしょうね。
でもフェルプスはどう見てもプロテスタントの罪をカトリックにすべて押し付けるプロテスタント人脈なんですが。 なぜフェルプスがユダヤ教徒と断定できる根拠が知りたい 。
まあ結論ありきだからだろうが 人脈見たらプロテスタント原理主義者ばかりじゃん。

forefront 最前部、最前線、先頭.)

Phelps is also of the opinion, that the Superior General of the Society of Jesus (nicknamed the Black Pope) is the real leader of the Catholic Church, rather than the Bishop of Rome, the “White Pope”. He has stated that there are six different forms of Zionism and that "I am of the fifth category." Phelps states this category maintains that "the beloved Hebrew/Jewish/Israelitic people have a right to live in their promised land" and they "defend the Jewish people’s right to live in the promised land of Israel to the exclusion of all Arabs and non-racial Jews."[5]

(フェルプス「ヘブライ、ユダヤ、イスラエルの人々は約束の地に住む権利を持つ。アラブ人と非人種的ユダヤ人はイスラエルの約束の地に住む権利はない」

to the exclusion of ~ ~は除外(排除)して、~はのぞいて

nonracial非人種的 ユダヤ人
というのはおそらく、親がユダヤ教徒ではないユダヤ人=ユダヤ教徒のことでしょう。
アラブ人は排除+シオニストの時点でプロテスタント原理主義系ですね。バチカン押しつけ陰謀論を唱えながら聖書の文言は否定しないでしょ?
つまり、スピリチュアル、ニューエイジなどグノーシスの後継者系ではない可能性が高い)

1. ↑ Eric Jon Phelps: Smear Artist, Israeli Diamond Trader and "Jesuit" Expert. Conspiracy World (2 December 2009).
2. ↑ 2.0 2.1 Eric Jon Phelps: Zionist Promoter, Israeli Diamond Merchant, New Ager, White Separatist. Conspiracy World (2 December 2009).
3. ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 Eric Jon Phelps quotes. Whale.to (2 December 2009).
4. ↑ Oliver Cromwell and the Jews. OliverCromwell.org (2 December 2009).
5. ↑ Eric Phelps defines the Six Zionisms. Reality Research Resource (2 December 2009).”
http://en.metapedia.org/wiki/Eric_Jon_Phelps



(車系は意味不明な和製英語がはびこっている。
この名前決めたやつ絶対英語できないだろ。

バックミラー=rear-view mirror
サイドミラー=wing mirror(アメリカ英語 side mirror)

ボンネット=hood(イギリス英語 bonnet)

ハンドル=(steering) wheel

※handleは「取っ手」なのでドアにある。

フロントガラス=windshield、windscreen

サイドブレーキ=emergency brake

オープンカー=convertible

ナンバープレート=license plate

ヘッドライト=headlight

バンパー=bumper

ガソリンスタンド=gas station

ウィンカー
=blinker、winker、
direction indicator、
turn signal、turning signal


http://www.eigo21.com/etc/italia/car.htm
http://english-samurai.com/?p=3962など参考)


”Heinrich Schliemann (1822-1890)

Born as the son of a poor German preacher. In 1836 he had to leave school and work in a shop. One evening, a drunken miller staggered into the shop and, in front of the astonished boy, recited one hundred lines of ancient Greek. He was never the same. "Ich hörte nicht auf, Gott zu bitten, dass ich Griechisch lernen dürfe."

Schliemann’s method

(In Amsterdam) I applied myself with extraordinary diligence to the study of English. Necessity taught me a method which greatly facilitates the study of the language. This method consists in reading a great deal aloud, without making a translation, taking a lesson every day, constantly writing essays upon subjects of interest, correcting these under the supervision of a teacher, learning them by heart, and repeating in the next lesson what was corrected on the previous day. My memory was bad, since from my childhood it had not been exercised upon any object; but I made use of every moment, and even stole time for study. In order to acquire a good pronunciation quickly, I went twice every Sunday to the English church, and repeated to myself in a low voice every word of the clergyman's sermon. I never went on my errands, even in the rain, without having my book in my hand and learning something by heart; and I never waited at the post office without reading. By such methods I gradually strengthened my memory, and in three month's time found no difficulty in reciting from memory to my teacher, Mr. Taylor, in each day's lesson, word by word, twenty printed pages, after having read them over three times attentively. In this way I committed to memory the whole of Goldsmith's Vicar of Wakefield and Sir Walter Scott's Ivanhoe. From overexcitement I slept but little, and employed my sleepless hours at night in going over in my mind what I had read on the preceding evening. The memory being always much more concentrated at night than in the daytime, I found these repetitions at night of paramount use. Thus I succeeded in acquiring a thorough knowledge of the English language. I then applied the same method to the study of French, the difficulties of which I overcame likewise in another six months. Of French authors I learned by heart the whole of Fenelon's Aventures de Telemaque and Bernardin de Saint Pierre's Paul et Virginie. This unremitting study had in the course of a single year strengthened my memory to such a degree, that the study of Dutch, Spanish, Italian and Portuguese appeared very easy, and did not take me more than six weeks to write and speak each of these languages fluently.

My wish to learn Greek had always been great, but before the Crimean war I did not venture upon its study, for I was afraid that this language would exercise too great a fascination over me and estrange me from my commercial business; and during the war I was so overwhelmed with work, that I could not even read the newspapers, far less a book. When, however, in January 1856, the first tidings of peace reached St. Petersburg, I was no longer able to restrain my desire to learn Greek, and at once set vigorously to work, taking first as my teacher Mr. Nicolaos Pappadakes and then Mr. Theokletos Vimpos, both from Athens, where the latter is now archbishop. I again faithfully followed my old method; but in order to acquire quickly the Greek vocabulary, which seemed to me far more difficult even than the Russian, I procured a modern Greek translation of Paul et Virginie, and read it through, comparing every word with its equivalent in the French original. When I had finished this task, I knew at least one-half the Greek words the book contained, and after repeating the operation I knew them all, or nearly so, without having lost a single minute by being obliged to use a dictionary. In this manner it did not take me more than six weeks to master the difficulties of modern Greek, and I next applied myself to the ancient language, of which in three months I learned sufficient to understand some of the ancient authors, and especially Homer, whom I read and re-read with the most lively enthusiasm.

I then occupied myself for two years exclusively with the literature of ancient Greece; and during this time I read almost all the classical authors cursorily, and the Iliad and Odyssey several times. Of the Greek grammar, I learned only the declensions and the verbs, and never lost my precious time in studying its rules; for as I saw that boys, after being troubled and tormented for eight years and more in schools with the tedious rules of grammar, can nevertheless none of them write a letter in ancient Greek without making hundreds of atrocious blunders, I thought the method pursued by the schoolmasters must be altogether wrong, and that a thorough knowledge of the Greek grammar could only be obtained by practice,--that is to say, by the attentive reading of the prose classics, and by committing choice pieces of them to memory. Following this very simple method, I learnt ancient Greek as I would have learnt a living language. I can write in it with the greatest fluency on any subject I am acquainted with, and can never forget it. I am perfectly acquainted with all the grammatical rules without even knowing whether or not they are contained in the grammars; and whenever a man finds errors in my Greek, I can immediately prove that I am right, by merely reciting passages from the classics where the sentences employed by me occur.

Languages learned

1842 English, French (six months each)
1858 Arabic
1843 Dutch, Italian, Spanish, Portuguese (six weeks each)
1844 Russian (without a teacher)

He used an old grammar, a dictionary and a "bad translation" of Fenelon's “Aventures de Telemaque“ which he learned by heart. He wrote on his own and since he didn’t have anyone to correct his mistakes his writings were "without doubt very bad": "Da ich niemanden hatte, der meine Texte verbesserte, waren sie ohne Zweifel herzlich schlecht". He engaged "a poor Jew" for 4 Francs per week. The man's duty was to simply sit and listen to Schliemann's recitations even though he couldn’t understand a word of Russian. Schliemann was so loud that he had to change appartments twice because of the noise. „Mein lautes Rezitieren wurde bald den anderen Mietern lästig. In der Zeit meiner russischen Studien musste ich zweimal die Wohnung wechseln.“

1850-52 Chinese
1853 Swedish, Danish, Polish, „Slavonian“
1856-58 Greek, Old Greek
1861 Hebrew
1864-66 Hindustani
1866 Persian
1870 Turkish

He memorized even before fully understanding the text.

„Wie viele andere lernt er Englisch, aber er entdeckt an sich eine merkwürdige Begabung: Er kann sich englische Literatur auswendig merken, obwohl er den Sinn der einzelnen Sätze noch gar nicht versteht.“

Fenelon's “Aventures de Telemaque“ is some 600 pages long.
Bernardin de Saint-Pierre's "Paul et Virginie" is about 300 pages long.
Goldsmith's Vicar of Wakefield is around 220 pages.
Sir Walter Scott's "Ivanhoe" is around 540 pages.

Original:

Selbstbiographie
I. Kindheit und kaufmännische Laufbahn:
1822 bis 1866.

"So warf ich mich denn mit besonderem Fleisse auf das Studium des Englischen und hierbei liess mich die Noth eine Methode ausfindig machen, welche die Erlernung jeder Sprache bedeutend erleichtert. Diese einfache Methode besteht zunächst darin, dass man sehr viel laut liest, keine Uebersetzungen macht, täglich eine Stunde nimmt, immer Ausarbeitungen über uns interessirende Gegenstände niederschreibt, diese unter der Aufsicht des Lehrers verbessert, auswendig lernt und in der nächsten Stunde aufsagt, was man am Tage vorher corrigirt hat. Mein Gedächtniss war, da ich es seit der Kindheit gar nicht geübt hatte, schwach, doch benutzte ich jeden Augenblick und stahl sogar Zeit zum Lernen. Um mir sobald als möglich eine gute Aussprache anzueignen, besuchte ich Sonntags regelmässig zweimal den Gottesdienst in der englischen Kirche und sprach bei dem Anhören der Predigt jedes Wort derselben leise für mich nach. Bei allen meinen Botengängen trug ich, selbst wenn es regnete, ein Buch in der Hand, aus dem ich etwas auswendig lernte; auf dem Postamte wartete ich nie, ohne zu lesen. So stärkte ich allmählich mein Gedächtniss und konnte schon nach drei Monaten meinen Lehrern, Mr. Taylor und Mr. Thompson, mit Leichtigkeit alle Tage in jeder Unterrichtsstunde zwanzig gedruckte Seiten englischer Prosa wörtlich hersagen, wenn ich dieselben vorher dreimal aufmerksam durchgelesen hatte. Auf diese Weise lernte ich den ganzen »Vicar of Wakefield« von Goldsmith und Walter Scott's »Ivanhoe« auswendig. Vor übergrosser Aufregung schlief ich nur wenig und brachte alle meine wachen Stunden der Nacht damit zu, das am Abend Gelesene noch einmal in Gedanken zu wiederholen. Da das Gedächtniss bei Nacht viel concentrirter ist, als bei Tage, fand ich auch diese nächtlichen Wiederholungen von grösstem Nutzen; ich empfehle dies Verfahren Jedermann. So gelang es mir, in Zeit von einem halben Jahre mir eine gründliche Kenntniss der englischen Sprache anzueignen..."

"Dieselbe Methode wendete ich danach bei dem Studium der französischen Sprache an, die ich in den folgenden sechs Monaten bemeisterte. Von französischen Werken lernte ich Fénelon's »Aventures de Télémaque« und »Paul et Virginie« von Bernardin de Saint-Pierre auswendig. Durch diese anhaltenden übermässigen Studien stärkte sich mein Gedächtniss im Laufe eines Jahres dermassen, dass mir die Erlernung des Holländischen, Spanischen, Italienischen und Portugiesischen ausserordentlich leicht wurde, und ich nicht mehr als sechs Wochen gebrauchte, um jede dieser Sprachen fliessend sprechen und schreiben zu können.

Hatte ich es nun dem vielen Lesen mit lauter Stimme zu danken oder dem wohlthätigen Einflusse der feuchten Luft Hollands, ich weiss es nicht: genug, mein Brustleiden verlor sich schon im ersten Jahre meines Aufenthaltes in Amsterdam und ist auch später nicht wiedergekommen..."

"Endlich, am 1. März 1844, glückte es mir, durch die Verwendung meiner Freunde Louis Stoll23 in Mannheim und J.H. Ballauf24 in Bremen, eine Stellung als Correspondent und Buchhalter in dem Comptoir der Herren B.H. Schröder & Co.25 in Amsterdam zu erhalten; hier wurde ich zuerst mit einem Gehalt von 1200 Francs engagirt, als aber meine Principale meinen Eifer sahen, gewährten sie mir noch eine jährliche Zulage von 800 Francs als weitere Aufmunterung. Diese Freigebigkeit, für welche ich ihnen stets dankbar bleiben werde, sollte denn in der That auch mein Glück begründen; denn da ich glaubte durch die Kenntniss des Russischen mich noch nützlicher machen zu können, fing ich an, auch diese Sprache zu studieren. Die einzigen russischen Bücher, die ich mir verschaffen konnte, waren eine alte Grammatik, ein Lexikon und eine schlechte Uebersetzung der »Aventures de Télémaque«. Trotz aller meiner Bemühungen aber wollte es mir nicht gelingen, einen Lehrer des Russischen aufzufinden; denn ausser dem russischen Viceconsul, Herrn Tannenberg, der mir keinen Unterricht geben wollte, befand sich damals niemand in Amsterdam, der ein Wort von dieser Sprache verstanden hätte. So fing ich denn mein neues Studium ohne Lehrer an, und hatte auch in wenigen Tagen, mit Hülfe der Grammatik, mir schon die russischen Buchstaben und ihre Aussprache eingeprägt. Dann nahm ich meine alte Methode wieder auf, verfasste kurze Aufsätze und Geschichten und lernte dieselben auswendig. Da ich niemand hatte, der meine Arbeiten verbesserte, waren sie ohne Zweifel herzlich schlecht; doch bemühte ich mich, meine Fehler durch praktische Uebungen vermeiden zu lernen, indem ich die russische Uebersetzung der »Aventures de Télémaque« auswendig lernte. Es kam mir vor, als ob ich schnellere Fortschritte machen würde, wenn ich jemand bei mir hätte, dem ich die Abenteuer Telemachs erzählen könnte: so engagirte ich einen armen Juden, der für vier Francs pro Woche allabendlich zwei Stunden zu mir kommen und meine russischen Declamationen anhören musste, von denen er keine Silbe verstand.

Da die Zimmerdecken in den gewöhnlichen holländischen Häusern meist nur aus einfachen Bretern bestehen, so kann man im Erdgeschoss oft alles vernehmen, was im dritten Stock gesprochen wird. Mein lautes Recitiren wurde deshalb bald den andern Miethern lästig, sie beklagten sich bei dem Hauswirthe, und so kam es, dass ich in der Zeit meiner russischen Studien zweimal die Wohnung wechseln musste. Aber alle diese Unbequemlichkeiten vermochten meinen Eifer nicht zu vermindern, und nach sechs Wochen schon konnte ich meinen [14] ersten russischen Brief an Wassili Plotnikow schreiben, den Londoner Agenten der grossen Indigohändler Gebrüder M.P.N. Malutin26 in Moskau; auch war ich im Stande, mich mit ihm und den russischen Kaufleuten Matwejew und Frolow, die zu den Indigoauctionen nach Amsterdam kamen, fliessend in ihrer Muttersprache zu unterhalten.

Als ich mein Studium des Russischen vollendet hatte, begann ich mich ernstlich mit der Literatur der von mir erlernten Sprachen zu beschäftigen.

Im Januar 1846 schickten mich meine vortrefflichen Principale als ihren Agenten nach St. Petersburg, und hier sowol als auch in Moskau wurden schon in den ersten Monaten meine Bemühungen von einem Erfolge gekrönt, der meiner Chefs und meine eignen grössten Hoffnungen noch weit übertraf." ”
http://learnalanguageortwo.blogspot.jp/2009/07/heinrich-schliemann.html


"Ivanhoe
アイバンホー、『黒騎士』(くろきし、原題:Ivanhoe)は、
1952年に製作・公開されたアメリカ合衆国の映画である。
発音記号・読み方
/a?v?nho?(米国英語)/"
http://ejje.weblio.jp/content/Ivanhoe


”ジャック=アンリ・ベルナルダン・ド・サン=ピエール(Jacques-Henri Bernardin de Saint-Pierre、1737年1月19日 - 1814年1月21日)は、フランスの作家・植物学者。

ル・アーブル生まれ。12歳の時叔父とともに西インドへ旅行し、帰国後、技師としての教育を受ける。七年戦争に従軍し、1768年にモーリシャスへ旅して植物学を学ぶ。1771年にルソーの弟子となる。フランス革命後、1795年に政府の一員となり、植物園の館長となり、1803年にはアカデミー・フランセーズ会員に選ばれる。

1787年に発表したモーリシャス島を舞台に自然と純愛を描いた小説『ポールとヴィルジニー』(Paul et Virginie)で知られる。同作はロマン主義のさきがけとされる悲恋小説で、日本でも多数の翻訳があり、かつてよく読まれた。”
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB



フェヌロン
Fenelon, Francois de Salignac de la Mothe
[生]1651.8.6. ペリゴール
[没]1715.1.7. カンブレ
フランスの宗教家,神秘的神学者。パリのサン・シュルピス神学校で学び,1676年パリの女学校校長。異端とされたユグノー派に対する寛容を説き,信仰を強制することに反対した。 89年ルイ 14世の孫ブルゴーニュ公ルイの師傅。 93年アカデミー・フランセーズ会員。 95年カンブレ大司教。 88年ギュイヨン夫人の神秘主義に関心をいだき,静寂主義をめぐる論争に巻込まれ,97年『内的生活に関する諸聖人の箴言の解説』 Explication des maximes des saints sur la vie interieureを書き,ギュイヨン夫人を弁護して,J.ボシュエと対立。 99年ボシュエとルイ 14世の圧力で教皇インノケンチウス 12世は彼の 23の命題を断罪した。著作のなかではルイのために書いた『テレマックの冒険』 Aventures de Telemaque (1699) が著名。ほかに『女子教育論』 Traite de l'education des filles (87) ,『寓話集』 Fables (1789) ,『死者の対話』 Dialogues des morts (12) ,『アカデミーへの手紙』 Lettre a l'Academie (16) など。

https://kotobank.jp/word/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%8C%E3%83%AD%E3%83%B3-123184

”テレマックのぼうけん
Les Aventures de Telemaque
フランスの文人フランソア・ド・フェヌロンの小説。フェヌロンが傅育していたフランス王太子ブルゴーニュ公の教育のために書かれた古典風の教訓小説。著者の意に反して 1699年出版され,フランスでは発禁となり,オランダを中心に好評を博した。テレマック (テレマコス ) が父をたずねて旅をする物語で,行く先々での事件に託して教訓を述べる。特にイドメネ王宮滞在のくだりではその政治の過失を指摘,あるべき統治を説くが,これはルイ 14世の治世の間接的批判で,このため作者は王から宮廷への出入りを禁止された。完全なフランス語版は 1717年,甥のフェヌロン侯によって出版された。 ”
https://kotobank.jp/word/%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E5%86%92%E9%99%BA-101990#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8

シュリーマン、その虚言癖と外国語習得法
http://satotarokarinona.blog110.fc2.com/blog-entry-570.html
"結局シュリーマンは高等教育は受けられずに実科学校に通い、雑貨店の見習いからそのキャリアを始め、商人として成功を収めていくことになる。彼の成功を支えたのはなんといってもその語学力である。

「シュリーマンの一生とその功績を理解するための鍵の一つは、彼の驚異的な外国語習得能力にある。彼は母語のドイツ語の他に、オランダ語、英語、デンマーク語、スウェーデン語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ロシア語、ポーランド語、古代ギリシア語、現代ギリシア語、ラテン語、アラビア語を自在にこなし、完全ではないながらトルコ語とヘブライ語も操ることができた。晩年の一○年間には、まるで現代語であるかのように古代ギリシア語を使うようになり、手紙や日記も古代ギリシア語で書いたばかりか、古代ギリシア語を使ってみようとする学者とはこの言語で会話までしたほどだった」(p.428)。

シュリーマンは職を求めオランダに渡り、そこで商社の面接を受ける。ドイツ語の他に英仏語も使いこなせ、オランダ語の習得もすぐにできるとアピールしたが、実際には英仏語は仕事に使えるほどではなく、オランダ語も初歩レベルだった。ここだけを見ると虚言癖を発揮したようにも映る。しかし雑用係りとして採用されると、シュリーマンは英仏語のブラッシュアップにとりかかりこれを完全にマスターし、またオランダ語も間もなく身につける。ロシア語話者の需要があるとみるとこれも学習して身につけ、ギリシア語などもこのような実用的見地から習得していったのである。


ここで気になるのが、「この驚異的な能力を、彼はどうやって身につけたのだろうか」ということだ。
トレイルは「多くの読者にとっては、シュリーマンがおよそ十五の言語を流暢に使いこなすことのほうが、考古学における業績よりも関心の高いことかと思われる」として、シュリーマンの『イリオス』の記述に触れている。孫引きになるが引用しておこう。

「私は、英語を習得するために並々ならぬ努力をした。しかし必要に迫られていた私は、やすやすと言語を習得する方法を発見した。その方法とは、たくさんの本を翻訳しないでまずは音読する、毎日練習する、関心のある問題についてその言語で毎日作文する、こうして書いた文章を先生の指導のもとで直す、そしてそれらを暗記する、次のレッスンで前日直されたところを繰り返し覚える、ということである」(pp.43-44)。

え~と、これのどこが「やすやすと言語を習得する方法」なのでせうか……という感じで、辛抱強い努力を要する方法なのでありました。「努力ができるのも才能の一つ」というが、シュリーマンはこういう地道な努力を重ねることが苦ではなかったのだろう。

シュリーマンはさらにこう続けている。

「よい発音を早く身につけるために、私は毎週日曜日に英国教会の礼拝に二度ずつ行って、牧師の説教を一言一句小さい声で繰り返した。
私は雨の日に使いに行くときでも、本を片手に何かしら暗記しながら出かけた。また郵便局で待っているときには、本を読まずに待っていることはなかった。
この方法で記憶力を徐々に向上させることができたので、三か月も経った頃には、毎日の授業で二〇頁分の文章を一言一言三回注意深く読んだだけで、テイラー先生の前で暗誦することができるまでになった。この方法で、私はゴールドスミスの『ウェイクフィールドの牧師』とウォルター・スコットの『アイヴァンホー』の全文を暗記した。
興奮のために熟睡できずに夜中に目が冴えてしまったときには、心のなかでその晩に読んだ本の内容を繰り返し暗誦していた。昼間よりも夜のほうが集中できたので、このように夜に暗誦することには大きな効果がある。
こうして私は英語を完璧にマスターすることができた。
 次に、同じ方法を使ってフランス語も習得しようと考えて勉強に励み、マスターするのに同じく六か月かかった。フランス語の本では、フェヌロンの『テレマックの冒険』やベルナルダン・ド・サン・ピエールの『ポールとヴィルジニー』を全文暗記した。このように一年間みっちりと勉強して記憶力がかなり向上したので、その後に学びはじめたオランダ語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語はとても簡単に感じられ、これらの言語を流暢に書いたり読んだりするまでには、六週間もかからなかった」。

トレイルも「ここまですれば、どんな言語でもマスターできるに違いない。問題は、どうすればこのような方法を根気強く実行することができるかである」としているように、「全文暗記した」なんてことをさらっと書いているが、それをすることが大変なんだよ!という感じである。

あと「牧師の説教を一言一句小さい声で繰り返した」とあるが、これは現在では「シャドーイング」と呼ばれる学習方法と重なる。
さらに書店の外国語学習コーナーに行くと、「英語で日記を書いてみよう」といった類の本がよくあるが、これもシュリーマンが実践していたことでもある。
シュリーマンはエジプトに三か月ほど滞在していた時期があるが、「ここでアラビア語を学んだ彼は、エジプト滞在中の一〇〇頁ほどの日記を、ほとんどアラビア語で書いている」(p.52)。
イタリアを旅行した際には「一か月をかけて案内書で推奨されているローマのほとんどありとあらゆる教会や美術館、博物館そして記念碑や遺跡を訪ね歩いた」が、シュリーマンはこの模様についてイタリア語で日記をつけていた(p.64)。
またある年には妻への手紙で「目下のところトルコ語の勉強に取り組んでいる」とし、「それを裏づけるかのように、彼の日記の六二頁分はトルコ語で書かれ、そのあとはアラビア語で書かれている」(p.136)のだそうだ。"

シュリーマンの発掘記録と発見品にはどこまで嘘が含まれるのか。「黄金と偽りのトロイ」を読み返してみた
http://55096962.at.webry.info/201602/article_6.html

『古代への情熱』のシュリーマンは虚像だった・・・【山椒読書論(158)】
http://enokidoblog.net/sanshou/2013/03/8703

コツカ@C92東つー14b‏ @kotsuka1990 2010年12月4日
シュリーマンっていうのはトロイ遺跡を発掘した人なんだけど、実際はねつ造&盗掘しまくりの考古学者の風上にも置けないやつだったりする。

Source: Heinrich Schliemann [1822-1890], Ilios: the city and country of the Trojans (New York: B. Blom, 1968; reprint of the 1881 ed.), pp.14,15. ”

Methods for learning Greek
http://www.textkit.com/greek-latin-forum/viewtopic.php?t=11778
”There is a discussion of Heinrich Schliemann's method at:

http://how-to-learn-any-language.com/fo ... D=943&PN=2

Here are the key excerpts:

From his autobiography:

"I applied myself with extraordinary diligence to the study of English. Necessity taught me a method which greatly facilitates the study of the language.
This method consists in reading a great deal aloud,
without making a translation,
taking a lesson every day,
constantly writing essays upon subjects of interest,
correcting these under the supervision of a teacher, learning them by heart, and repeating in the next lesson what was corrected on the previous day.
My memory was bad, since from my childhood it had not been exercised upon any object;
but I made use of every moment, and even stole time for study.
In order to acquire a good pronounciation quickly, I went twice every Sunday to the English church, and repeated to myself in a low voice every word of the clergyman's sermon.
I never went on my errands, even in the rain, without having my book in my hand and learning something by heart; and I never waited at the post-office without reading.
By such methods I gradually strengthened my memory, and in three month's time found no difficulty in reciting from memory to my teacher, Mr. Taylor, in each day's lesson, word by word, twenty printed pages, after having read them over three times attentively. In this way I committed to memory the whole of Goldsmith's Vicar of Wakefield and Sir Walter Scott's Ivanhoe.
From over-excitement I slept but little, and employed my sleepless hours at night in going over in my mind what I had read on the preceding evening. The memory being always much more concentrated at night than in the day-time, I found these repetitions at night of paramount use. Thus I succeeded in acquiring a thorough knowledge of the English language.

"I then applied the same method to the study of French, the difficulties of which I overcame likewise in another six months.
Of French authors I learned by heart the whole of Fenelon's Aventures de Telemaque and Bernardin de Saint Pierre's Paul et Virginie. This unremitting study had in the course of a single year strengthened my memeory to such a degree, that the study of Dutch, Spanish, Italian and Portuguese appeared very easy, and did not take me more than six weeks to write and speak each of these languages fluently....

"My wish to learn Greek had always been great, but before the Crimean war I did not venture upon its study, for I was afraid that this language would exercise too great a fascination over me and estrange me from my commercial business; and during the war I was so overwhelmed with work, that I could not even read the newspapers, far less a book. When, however, in January 1856, the first tidings of peace reached St. Petersburg, I was no longer able to restrain my desire to learn Greek, and at once set vigorously to work, taking first as my teacher Mr. Nicolaos Pappadakes and then Mr. Theokletos Vimpos, both from Athens, where the latter is now archbishop.
I again faithfully followed my old method;
but in order to acquire quickly the Greek vocabulary, which seemed to me far more difficult even than the Russian, I procured a modern Greek translation of Paul et Virginie, and read it through,
comparing every word with its equivalent in the French original. When I had finished this task, I knew at least one-half the Greek words the book contained, and after repeating the operation I knew them all, or nearly so, without having lost a single minute by being obliged to use a dictionary.
In this manner it did not take me more than six weeks to master the difficulties of modern Greek, and I next applied myself to the ancient language, of which in three months I learned sufficient to understand some of the ancient authors, and especially Homer, whom I read and re-read with the most lively enthusiasm.
I then occupied myself for two years exclusively with the literature of ancient Greece; and during this time I read almost all the classical authors cursorily, and the Iliad and Odyssey several times.
Of the Greek grammar, I learned
only the declensions and the verbs,
and never lost my precious time in studying its rules; for as I saw that boys, after being troubled and tormented for eight years and more in schools with the tedious rules of grammar, can nevertheless none of them write a letter in ancient Greek without making hundreds of atrocious blunders, I thought the method pursued by the schoolmasters must be altogether wrong, and that a thorough knowledge of the Greek grammar could only be obtained by practice,--that is to say, by the attentive reading of the prose classics, and by committing choice pieces of them to memory. Following this very simple method, I learnt ancient Greek as I would have learnt a living language. I can write in it with the greatest fluency on any subject I am acquainted with, and can never forget it. I am perfectly acquainted with all the grammatical rules without even knowing whether or not they are contained in the grammars; and whenever a man finds errors in my Greek, I can immediately prove that I am right, by merely reciting passages from the classics where the sentences employed by me occur."”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-128.html

”プー閣下(knznymmmy ‏@knznymmmy )の勉強についてのアドバイス集

(最近アイコンが緑と白なのは、ザクセン=コーブルク=ゴータ公国の国旗の色が緑と白だからです。
緑=世界連邦などワンワールドカラー。
ザクセン=コーブルク=ゴータ家は名前が表に出ているファミリーでは最強クラスです)

knznymmmy ‏@knznymmmy
RT> そう。記憶には潜伏期間が必要。これお勉強する上で重要ポイントな。 社会人になってから英語なりおフェランス語なり勉強して その翌日に、前日の学習内容全然覚えてなくても全然気にする事はない。 そこで「あー、もう若くないから記憶力が弱いんだ」とか悲観したら

(続き)マイナス思考で本当に記憶力が悪くなっちゃう。 おめーらもう忘れたかしれないけど小学校2年ですら 算数の九九の暗唱めっちゃ時間かけたじゃねえか ガキはバカだから毎日毎日九九を唱えさせられても疑問に感じない だけどオトナは余計な知恵がついてるから猜疑心が生まれる

(続き)で、しかも、年とってるのは事実だし、ちょっとぐらいなら 記憶力が落ちてるのも事実。だけどそこで「もうダメだ」は禁句 「あれ、昨日のレッスン内容全然覚えてねえや」って場合でも 「ま、コンピューターじゃあるめえし一発じゃ暗記できねえさ」と 復習をサラっとやったら次のレッスンに

(続き)進んじゃう、これ重要。 そこで「は?もし本当に記憶力が弱っててサラっと復習したぐらいじゃ 足りない時はどうすんだよ?」ってのはバカの発想 どうもしねえよ。一回の復習で足りないなら二回でも三回でもやりゃいいじゃん。 私は昔から同じ本を5回ぐらい読む事はよくある

1回読んだだけで内容が完璧に把握できるような本ってのは クッソくだらねえ本って事だ。

人から教えられた物ってのは どこかしら100%身につかない部分が残るんだよ。 だから、どうしても、自得させるように仕向ける という側面が必要になる。 こういうのを澤井健一先生は啐啄(そったく)と言った。

「啐啄」って言葉があってねヒナが卵から生れるとき 親鳥が殻を割る手伝いをするんだよ。

鳥の雛が卵からかえる時、 最後の最後に親鳥がつついて手伝ってやるんだよね。 それが啐啄。 あくまでも雛ががんばってくれないと話にならない。 だけど最後、ここぞという瞬間に 適切な助言、指導ができる事、 それこそが指導の極意って事らしい。


英語の勉強も少しでいいから毎日やるってことが 大きな影響力を持つ。 、、、、ほら、アレと同じだよ、被曝www 少しのベクレルでも毎日食ってりゃガンになるwwww

おまは好きな科目ねえの? 学校なんざつまんなくて当たり前じゃん ヌッポンがさ、そのうち沈没すると思うから 国外退去する可能性すら想定しておくべきと 思うんだよね 別に外国語っつーのは英語だけじゃないけど まー、やらされてる言語でもあるから とりあえずは英語真面目にやれ

現代文古文は大事ですね。ニャンゲンとしての基本 日本人としての常識です。文法は割とどうでもいいww 数学は高校の微分積分や三角関数あたりまで できるだけ頑張った方がいいです。 ぱちょこんとかマニアックにいじくり回すには そういうのも「あらまほしきものかな」とw

だって、将来日本沈没まで考えるのなら 単に「語学ができるだけ」じゃダメですよね。 現地の人と勝負して「コイツの方が仕事ができる」って 認めてもらえないといけないのですから とんでもないハンディキャップマッチを勝つ事を想定するなら 理系科目とか強いといいかも

ついでに英語勉強の極意書いておきます。(あれ?書いたっけ?) 「短時間でいいから毎日勉強すること」 これが外国語学習の最重要事項。 1日15分でいいから毎日勉強してください。 週に1日ぐらいなら休んでもいいですけど 「毎日やる」ここが超重要です。

週に1日8時間の勉強をするよりも 週に6日15分ずつの勉強をする方が 絶対に効果が出ます。 それからネイティブの発音を聞きまくる事 AKBオタクが毎日AKBの曲ばっか聞くみたいに ネイティブの発音毎日聞くこと んで、それを口真似する事 絶対に声に出す事。

黙読は意味がありません。音読する事。 それも大声であるほど効果が大きくなります。 日本語にない発音、リズムに慣れる事 最終的にはネイティブの発音と同時に喋ると 完全にハモってる事。 シンクロ率400%を目指す事 リツコがニャンゲンに戻れなくなると叫ぶまでやる事

あのね、できれば音声とテキストのみの教材がいいんです テレビとかだと視覚に意識が行っちゃう。 昔のアニメで聖闘士星矢ってあるんですけどね あの中に出てくる乙女座ヴァルゴのシャカが 目を閉じるのと同じ・・・って おまには分かんないかw

ミミズクって英語でhorned owlらしい件

だから英語で正常位って ミッショナリーポジションって言うんだぜ

これは本当 日本人は揚げ足取りが大好きなせいで 悪い意味で完璧主義になって 結果、元も子もなくする事が結構ある 例えば英語のテキスト勉強してても 完璧、100点、にならないと次の課に進まないみたいな感じ そうじゃなくて0点は論外だけど 大体おkになったら進んでいい

私が勧めるのは一旦DLしてVLCで聞く事ですね。 再生速度の調整ができますし 3秒巻戻、10秒巻戻等のキーボード設定があって まるで語学講座を聞くためのソフト じゃないかと驚きます。 ネイティブの発音をスローで聞いたり 自分の発音を録音して聴き比べたり 色々できますよ

RT> そう。例えば英語の発音練習でも リスニングできない音は発音できない 発音できない音はリスニングできない 自分の手持ちの駒でしか人間は対応できない。


だってさ、毎日決まった時刻に決まった行動を取るってのは 魔法修行の初歩の初歩だぜ? それともうひとつ 後でも聞けるから、今聞かなくてもいいや ってのは結局後でも聞かないパターンだろ? 本気で英語(には限らないけど)をどうにかしたい と思ってるのなら おめーの本気を見せてみろ

犬HKの基礎英語2の2月9日分の放送を聞いたった 人に勧める以上一回ぐらいは自分自身で チェックすべきかなと思ってw "人"ってのは分かるよな? 今日も創価信者がイチャモン付けてきたりとか 私の周りが騒がしいから名前は出さない。 とりあえず変なチョコやめろw

基礎英語2はそれなりにうまく教えている。 (来年度も同じ講師なんだがガイジンは交代らしい) ちょっとよかったのは 3分過ぎに 「音楽に乗せた発音練習」ってものがあったこと 英語の発音練習として 個別のLとかRとかの練習も大事なんだけど それらをぶちぬいて流れるリズムの勉強も大事

これ守らないとお経みたいな英語になっちゃう 定期的に強弱を繰り返すパターンが基本なので このリズムに乗るのが大事 例えば手拍子のリズムにのって発音する
例えば弱が二回続いたら ◯☓◯☓◯☓・・・って
テンポよく来てたのが ◯☓◯☓◯☓☓ ← なんかつまづいちゃう

だからそこは弱い単語2つを ササッとまとめて素早く発音して
◯☓◯☓◯☓のリズムを守るの
ひとつの「弱」の中に押しこんじゃう
逆に短いのにひとつの「強」を専有させないと いけない単語が出てきたらそこは ゆっくり発音したりする
だから強弱であると同時に緩急でもある

こういう緩急強弱を意識するのが大事。 勿論現実の会話ではこのリズムが崩れてる事も多いんだけど
原型としての◯☓◯☓◯☓のリズムが チラチラ顔を見せるのが大事

で、それを意識する練習として 基礎英語2みたいに音楽に乗るとか 或いは自分自身で机の角をデコピンしながらとか 発音練習するのがコツ

私は昔マザーグースを手拍子打ちながら暗唱した。 私自身が昔暗唱した例でやると (大文字が手拍子打つところ)

LADY bird LADY bird FLY away HOME your HOUSE is on FIRE and your CHILDREN all GONE ALL except ONE and THAT'S little ANN

例えばね、"is on"とか"and your"単語が2つじゃん 2つなんだけど「弱」ひとつしか 割り当てないんだよ だからここササッと素早く読む。「急」で「弱」。 じゃないと◯☓◯☓が崩れる。


あとは口か。シュリーマン的に 音読しまくって暗唱が大事ってことかな?

彼が「古代への情熱」って本の中で語学学習について 熱弁をふるっている箇所がある。
で、ギリシア語の活用について私同様 「活用の丸暗記なんかするな」ってスタンスなんだ。 んじゃ、丸暗記しねえでどうやって語学マスターするのかって話だが おーっとここでカレンダーを見るんだ!

RT> ちげーよ、ボケナス 寝る前は語学の勉強すんだよ ハインリッヒ=シュリーマン目指すんだよ

RT>私はラテン語やった事がないので ひょっとしたらトンチンカンかもしれないけど そもそも論として語形を必死に丸暗記する事自体が間違いなような気がする ぬこた先生はハインリッヒ=シュリーマンは知ってるかな? 天才でもあり天災でもあり変態でもある、偉人若しくは変人だがw

↓ ちょっと抜けてるな
動詞、助動詞の活用は暗記するな
暗記するんならよい例文を暗記する事だ とか、まだ色々書いてるんだぜ? 多分ね、このまとめ「古代への情熱」の前半しか読んでいない。 前半で語学学習ネタが終わったフリして 実は後半にも出てくるのさ!

しなざわ ‏@shinazawa 8月24日
1 非常に多く音読すること
2 決して翻訳しないこと
3 毎日一時間をあてること
4 つねに興味ある対象について作文を書くこと
5 これを教師の指導によって訂正すること
6 前日直されたものを暗記して、次の時間に暗誦すること
シュリーマン

トロイヤ遺跡発見。10ヶ国語以上習得。

knznymmmy ‏@knznymmmy 2月13日
一度日本語で書いたらダメ
最初から英語で書かないとダメ

深緑のオアゾーさん ‏@aguridog 5月16日
『啐啄同時』(そくたくどうじ) という禅語は師匠と弟子、親と子の関係に当てはまる。その意味は、鳥の雛が卵の中から殻を割るタイミングと親鳥が卵の殻を外からついばんで割るタイミングを合わせること。深いね。 https://twitter.com/pre_online/status/599385554363490304 …

らいおん ‏@funa2741 7月14日
@shige8948 啐啄同時 読み方:そったくどうじ 禅において、悟りを開こうとしている弟子に、師匠が、うまく教示を与えて悟りの境地に導くことを指す表現。「啐啄」は、何かをするのに絶妙なタイミングを指す表現。

knznymmmy ‏@knznymmmy 6月2日
RDレインだったかな
「好き?好き?大好き?」って本がある
名前をつける事で
さも何かが分かったような気分になる
って側面はあると思う
例えばむかーし、参考書読んでたら
予備校の先生が◯◯の法則とか
やたらと名前を付けたがるのは
名前を理解しただけでしかないのに

承前)中身を理解したような 錯覚を起こす=予備校で、さも沢山勉強できたような 錯覚を起こすって説明をしていた
本体じゃなくてダミーを用意するってのは バテレンどもがニダヤを用意したのとも共通するな ユダヤ陰謀論を語れば さも、世界の真実を悟ったかのような 錯覚を起こす”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-104.html

マザーグースを知れば、英語も映画も物語もより深く理解できる!?
http://blog.iknow.jp/posts/3207



http://slashdot.org/comments.pl?sid=152625&cid=12810404
を修正↓
ThAnk you.
I'm
hOnored to be with you today for your commEncement from one of the fInest universities in the world.
Truth be told,
I never graduated from college
and
this is the closest
I've ever gotten to a college graduation.
TodAy
I want to tell you three stories from my life.
That's it.
No big deal.
Just three stories.
The first story
is about connecting the dots.

I dropped out of Reed College
after the first six months
but then stayed around as a drop-in
for another eighteen months or so
before I really quit.
So why did I drop out?
It started before I was born.
My biological mother
was a young,
unwed graduate student,
and she decided to put me up for adoption.
She felt very strongly that I should be adopted by college graduates,
so everything was all set
for me to be adopted at birth by a lawyer
and his wife,
except that when I popped out,
they decided at the last minute
that they really wanted a girl.
So my parents,
who were on a waiting list,
got a call in the middle of the night
asking,
"We've got an unexpected baby bOy.
Do you want him?"
They said,
"Of course."
My biological mother found out lAter
that my mother had never graduated from college
and that my father had never graduated from high school.
She refused to sign
the final adoption papers.
She only relEnted a few months later
when my parents
prOmised
that I would go to college.
This was the start
in my life.
And seventeen years later,
I did go to college,
but I naively chose a college
that was almost as expensive as Stanford,
and all of my working-class parents' savings were being spEnt on my college tuition.
After six months,
I couldn't see the value in it.
I had no idea what I wanted to do with my life,
and no idea of how college was going to help me figure it out,
and here I was,
spending all the money my parents had saved their entire life.
So I decided to drop out
and trust that it would all work out OK.
It was pretty scary at the time,
but looking bAck,
it was one of the best decisions I ever made.
The minute I dropped out,
I could stop taking the required classes that didn't interest me
and begin
dropping in on the ones
that looked far more interesting.
It wasn't all romantic.
I didn't have a dorm room,
so I slept on the floor in friends' rooms.
I returned Coke bottles for the five-cent deposits to buy food with,
and I would walk the seven miles across town every Sunday night
to get one good meal a week
at the Hare Krishna temple.
I loved it.
And much of what I stumbled into
by following my curiosity and intuition
turned out to be prIceless later on.
Let me give you one example.
Reed College at that time
offered perhaps the best calligraphy instruction
in the country.
Throughout the campus
every poster,
every label
on every drawer
was beautifully hand-calligraphed.
Because I had dropped out
and didn't have to take the normal classes,
I decided to take a calligraphy class
to learn how to do this.
I learned about serif and sans-serif typefaces,
about varying the amount of space between different letter combinations,
about what makes great typography great.
It was beautiful,
historical,
artistically subtle
in a way that science can't capture,
and I found it fascinating.
None of this
had even a hope of any practical application
in my life.
But ten years later
when we were designing the first Macintosh computer,
it all came back to me,
and we designed it all
into the Mac.
It was the first computer with beautiful typography.
If I had never dropped in
on that single course in college,
the Mac would have never had multiple typefaces or proportionally spaced fonts,
and since Windows just copied the Mac,
it's likely that no personal computer would have them.
If I had never dropped out,
I would have never dropped in on that calligraphy class
and personal computers might not have the wonderful typography that they do.
Of course
it was impossible to connect the dots looking forward when I was in college,
but it was very,
very clear looking bAckwards
10 years later.
Again,
you cAn't connect the dots looking forward.
You can only connect them
looking bAckwards,
so you have to trust
that the dots will somehow connect in your future.
You have to trust in something—
your gut,
destiny,
life,
karma,
whatever—
because believing that the dots will connect down the road
will give you the confidence to follow your hEart,
even when it leads you
off the well-worn path,
and that will make
all the dIfference.
My second story
is about love
and loss.
I was lucky.
I found what I loved to do
early in life.
Woz and I started Apple in my parents' garage
when I was twenty.
We worked hard
and in ten years,
Apple had grown from just the two of us in a garage
into a $2 billion company with over 4,000 employees.
We'd just released our finest creation,
the Macintosh,
a year earlier,
and I'd just turned thirty,
and then I got fired.
How can you get fIred from a company you started?
Well,
as Apple grew,
we hired someone
who I thought
was very talented
to run the company with me,
and for the first year or so,
things went well.
But then our visions of the future began to diverge,
and eventually we had a falling out.
When we did,
our board of directors sided with him,
and so at thirty,
I was out,
and very publicly out.
What had been the focus of my entire adult life
was gone,
and it was devastating.
I really didn't know what to do for a few months.
I felt that I had let the previous generation of entrepreneurs dOwn,
that I had dropped the batOn
as it was being pAssed to me.
I met with David PAckard
and Bob NOyce
and tried to apologize
for screwing up so badly.
I was a very public failure and I
even thought about running away from the Valley.
But something slowly began to dawn on me.
I still loved
what I did.
The turn of events at Apple had not changed that one bit.
I'd been rejected
but I was still in lOve.
And so I decided to start over.
I didn't see it then,
but it turned out that getting fired from Apple was the best thing that could have Ever
hAppened to me.
The hEaviness of being succEssful
was replaced by the lIghtness
of being a begInner again,
less sure about everything.
It freed me to enter one of the most creative periods in my life.
During the next five years I started a company named NeXT,
another company named Pixar
and fell in love with an amazing woman who would become my wife.
Pixar went on to create the world's first computer-animated feature film,
"Toy Story,"
and is now the most successful
animation studio
in the world.
In a remarkable turn of events,
Apple
bOught
NeXT
and I returned to Apple
and the technology we developed at NeXT
is at the hEart
of Apple's current renaissance,
and Lorene and I
have a wonderful family together.
I'm pretty sUre
none of this would have happened if I hadn't been fired from Apple.
It was awful-tasting medicine
but I guess the patient needed it.
Sometimes life's going to hit you in the head with a brIck.
Don't lose faith.
I'm convinced that the only thing that kept me going
was that I loved what I did.
You've got to find what you love,
and that is as true for work
as it is for your lovers.
Your work is going to fill a large part of your life,
and the only way to be truly satisfied
is to do what you believe is great work,
and the only way to do great work
is to love
what you do.
If you haven't found it yet,
keep looking,
and
don't
settle.
As with all matters of the heart,
you'll know when you find it,
and like any great relationship
it just gets better and better
as the years roll on.
So keep looking.
Don't
settle.
My third story
is about death.
When I was 17
I read a qUote that went sOmething
like
"If you live each dAy
as if it was your lAst,
someday you'll most cErtainly
be rIght."
It made an imprEssion on me,
and since then,
for the past 33 years,
I have looked in the mirror
every morning and asked myself,
"If today were the lAst day of my lIfe,
would I want to do
what I am About to do
today?"
And whenever the answer has been "nO"
for too many days in a rOw,
I know I need to change something.
Remembering that I'll be dEad soon
is the most important tool I've ever encOuntered
to help me make the big choices in lIfe,
because almost Everything
--all external expectAtions,
all pride,
all fear of embArrassment or failure
--these things just fAll away
in the face of death,
leaving only what is truly important.
Remembering that you are going to dIe
is the best way I knOw
to avoid the trap of thInking
you have something to lose.
You are already naked.
There is no reason
not to follow your heart.
About a year ago,
I was diagnosed with cancer.
I had a scan at 7:30 in the morning
and it clearly showed a tUmor
on my pancreas.
I didn't even know what a pancreas was.
The doctors told me
this was almost certainly a type of cancer
that is incurable,
and that I should expect to live no longer
than three to six months.
My doctor advised me to go home
and get my affairs
in order,
which is doctors' code
for "prepare to die."
It means to try and tell your kids everything
you thought you'd have the next ten years to tell them,
in just a few months.
It means to make sure that everything is buttoned Up
so that it will be as easy as possible
for your family.
It means to say your goodbyes.
I lived with that diagnosis all day.
Later that evening
I had a biopsy
where they stuck an endoscope down my throat,
through my stomach into my intestines,
put a needle into my pancreas and got a few cells
from the tumor.
I was sedated
but my wife,
who was there,
told me
that when they viewed the cells under a microscope,
the doctor started crying,
because it turned out to be a very rare form of pancreatic cancer
that is curable with surgery.
I had the surgery
and, thAnkfully,
I am fine now.
This was the clOsest I've been to facing death,
and I hope it's the closest I get
for a few more decades.
Having lived through it,
I can now say this to you
with a bit more certainty than when death was
a useful but
purely intellectual concept.
No One
wants to dIe,
even people who want to go to Heaven
don't want to dIe
to get there,
and yet,
death is the destination we all share.
No one has ever escaped it.
And that is
as it should be,
because dEath
is very likely the single best invention of life.
It's life's change agent;
it clears out the old
to make way for the new.
right now,
the new is yOu.
But someday, not too long from now,
you will gradually become the old
and be cleared away.
Sorry to be so dramAtic,
but it's quite trUe.
Your time is limited,
so don't waste it
living someone else's life.
Don't be trapped by dOgma,
which is living with the results
of other people's thinking.
Don't let the nOise of others' opinions
drown out your own inner voice.
And most important,
have the cOurage to follow your heart
and intuition.
They somehow already know
what you truly want to become.
Everything else
is secondary.
When I was young,
there was an amazing publication
called The Whole Earth Catalogue,
which was one of the bibles
of my generation.
It was created by a fellow named Stuart Brand
not far from here in Menlo Park,
and he brought it to life
with his poetic touch.
This was in the late Sixties,
before personal computers and desktop publishing,
so it was all made with typewriters,
scissors, and Polaroid cameras.
it was sort of like Google in paperback form
thirty-five years
before Google came along.
It was idealistic,
overflowing with neat tools
and great notions.
Stuart and his team
put out several issues of the The Whole Earth Catalogue,
and then
when it had run its course,
they put out a final issue.
It was the mid-1970s,
and I was your age.
On the back cover of their final issue
was a photograph
of an early morning country road,
the kind you might find yourself hitchhiking on
if you were so adventurous.
Beneath it
were the words,
"Stay hungry,
stay foolish."
It was their farewell message
as they signed off.
"StAy hungry, stAy foolish."
And I have always wished that
for myself,
and now,
as you graduate to begin anew,
I wish that for you.
Stay hungry, stay foolish.
ThAnk you all, very much.”

relent
(soften, give in = yield)
(厳しかった)態度を軟化させる、
(怒り・興奮などが)優しく、穏やかになる、同情的になる、
(厳しい悪天候などが)弱まる、和らぐ。

down the road
=later
将来、今後、そのうち、やがて、後で。

turn of events
事態(、出来事、情勢)の変化、展開、節目


start over
もう一度一からはじめる、やり直す


buttoned up, buttoned-up
黙る、完成する、仕上げる、
きちんとした、きちんと運営(管理)された、整った。


embArrassment
困惑、気おくれ、きまり悪さ、
金銭的困難、
心肺の機能障害
とてつもない[有り余るほどの、半端じゃない]量



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