読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

03 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 05

和訳聖書の「神」は漢訳聖書によって生まれた。和風クリスチャン平田篤胤の弟子が国家神道政府の立役者。 鰐淵寺が出雲大社を管理していた。真言、浅間大社、オウム、創価(法華神道系)、白光真宏会(大本教系の生長の家信者が教祖)は全て富士関連。 

 子子子子子(ねここねこ)‏@kitsuchitsuchi
”明治以前の「神道」
①単なる土着神崇拝。神社は地域土着の祭壇。政治に影響力なし。
②道教用語としての神道(天皇と神器も道教用語)。天武・持統天皇合葬陵は八角形(道教思想)。
本地垂迹説なので神仏習合は仏教が上。 日ユ同祖論者は道教と仏教を無視。”

” 仏教徒の天皇は伊勢神宮を参っておらず、家康も仏教徒なので宮中と幕府に「神道」の影響力はないです。「神仏習合」とは「仏教圧倒的優位」を隠し神と仏が対等だと思わせる嘘。クリスチャンが土着の信仰に「神道」と名付けました。”

”和風耶蘇教=神道に経典も教義もないのは他の宗教と混ぜて宗教統一するため。八百万の神々=何でも神様説で単なる自然崇拝まで神道にして耶蘇教化させる。伊勢神道では食べ物の神の外宮が天照の内宮より格上で、神道五部書は偽書。よって南朝偽天皇に都合が悪く、明治以降に神道経典=和風聖書を捏造。”

平田篤胤という「神道」に貢献した国学者がいます。平田篤胤はクリスチャンでした。「神道」に貢献した「国学者」がキリスト教徒なのです。実際、平田篤胤が「神道」や「国学」(アンチ仏教学)の本を数多く出すのは、『本教外篇』というキリスト教の禁書読書ノート+キリスト教の和風化の試みの本を書いてからです。
そして、平田篤胤門下が廃仏毀釈や明治新政府に関わり、岩倉具視も平田神道系=和風キリスト教系です。
かくして(隠して)、「神道」という和風に偽装したキリスト教の一派が日本の頂点にたったのです。
日本を侵略するために少数派(アンチ仏教)に近づき、和風クリスチャンを増やし、少数派(マイノリティ)に間接統治させる、欧米のいつもの支配戦略にまんまとはまり、そして今なお「神道というでっちあげ伝統」を信じ込まされているのが日本の現状なのです。
そう、日本の単なる土着神信仰を「神道」と名付けまくったのがクリスチャンです。
そしてなぜか、日本人っぽくない人ほどに、「武士道」やら「日本刀」やら「和服」を強調するのです。
無論、普通の日本人はそんなことはしませんし、実際半島人やクリスチャンが好きなのが「日本の伝統」であり、中身はキリスト教による偽伝統です。
本当の伝統である仏教文化と仏教徒の天皇や皇族や門跡寺院は、廃仏毀釈と神仏分離により破壊しました。
その江戸末期にクリスチャンにでっちあげられた「伝統の神道」が、本来は単なる土着の、政治的影響なんてなかった素朴な信仰までもが、「神道」という名前をつけて取りこまれたことに気づかれないように、「神道」には教義や教典がないことにしました。本当は、そもそもそんなものがないからであり、なぜか超古代や明治以降に「神道書」が急増します。GOD臭い神(一応多神教ですが)が登場したりします。「神道」自体がでっちあげなので、でっちあげ教典だらけなのです。
そして、「神仏習合」という、神と仏が対等であったかのようなデマを流しています。主流だった本地垂迹説とは仏優位の思想であり、仏が土着の自然神信仰を取りこんで管理支配する為の思想でした。
単なる外交政策である「鎖国」と同様、「神仏習合」とは「仏教圧倒的優位」を隠す為の用語です。天皇は本来、仏教徒です。「神道」が宮中の仏教要素をなかったことにしました。
平田派の神官が今に至るまでのキリスト教とメーソンによる支配の尖兵を担ったのです。

”島根の津和野=山陰の小京都。
森鴎外、西周、大国隆正(平田篤胤門下)、福羽美静(大国隆正門下。明治天皇の侍講)の出身地。
玉松操(元・真言宗醍醐寺僧。岩倉具視の腹心)も大国隆正門下。
”私のツイッターより。

森鴎外のどこがすごいねん、という突っ込みをしたことがあるあなた、鋭いですね。

神道捏造の歴史を知り偽書を見抜くためには、「神と訳されたGOD」の歴史=中国語訳聖書翻訳の歴史が重要ですから、本記事を執筆しました。
百科全書的に網羅的に記述しているのは資料用に使えるようにするためです。「悪質でない方法で」、なんなりとお使いください。
……

・現存最古のGODの日本語訳は16世紀の「大日」
※正確にはデウス(Deus:ラテン語=ヘブライ語のエロヒム)なのですが便宜的にGODとします。

聖書の日本語訳の記録が残っている限りでは、イエズス会(またかよ)のザビエルの弟子のヤジロウ(弥次郎、1511年?-1550年?)の訳がはじめだそうです。ヤジロー、または当時の音韻からアンジロウ(アンジローとも)は、史料上確かな最初の日本人キリスト教徒とされています。
アンジローは鹿児島で罪を犯し、ポルトガル船で逃れていて、ザビエルがマラッカで伝道中(洗脳中)の1547年に出会ったそうです。ゴアのサン・パウロ学院にアンジロウを送って勉強させたうえで、アンジロウは1548年5月の聖霊降臨日(ペンテコステ)に受洗されたそうです。
ヤジロウが、聖書の『聖マテオ福音書』を日本語に訳したのですが、原本も写本も残っていません。
が、ザビエルがさかんに「大日を拝みなさい」と説いたことから、ゴッドを大日と訳したことが窺えます。
他の訳語も同様に仏教用語を使ったと思われます。
聖書翻訳は、真言宗とキリスト教(イエズス会)の明確な接点なのです。
ヤジロウの出身地の鹿児島の民衆の間には比較的真言宗が信仰されていたらしいです。真言宗用語が多かったでしょう。
大日は性的な隠語だったらしく、「大日を拝んではいけません」になったそうな。
大日如来の「如来」や「如来様」にはそうした用法があるらしいです。
で、ザビエルはラテン語のデウスに変更。
今度は発音から、「だいうそ=大嘘」と罵られたりしたそうな。
本質を捉えてますな、当時の日本人。

このような弊害(とうか仏教の一派だと思われて終わりだし)のせいで、仏教用語を使用せずラテン語やポルトガル語をそのまま使う方針に変更しました。
当然、GODを「神」と訳していません。

ちなみに、真言密教では大日如来=華厳経の教主の毘盧遮那仏(ヴァイローチャナ。奈良の東大寺のあの大仏)です。
真言宗は、北朝の天台宗に対抗し、南朝の後醍醐天皇が異端とはいえ真言宗を採用したように、今の南朝支配下で重視されます。天照大神(大日孁貴)と同一視もされたり都合が良いですね。
平安末期の久安年間には駿河国の末代が富士登山を行い、大日如来を富士の本尊とする信仰が創始されたそうです(『本朝世紀』)。富士における大日信仰はその後、大日如来を富士の神である浅間大神の本地仏である浅間大菩薩とする信仰として発展し、富士信仰において祀られているそうです。もろに古来からある単なる山岳信仰=富士信仰にクリスチャンが「神道」と名付けて今に至ります。
富士周辺はカルトの魔窟ですよ。
真言、浅間大社、オウム、創価(法華神道系)、白光真宏会(大本教系の生長の家信者が教祖)全部繋がっております。魔の山すぎる……

あと、全ての宇宙は大日如来たる阿字に集約され、阿字の一字から全てが流出しているそうで、大日如来は全一者でもあります。もろに新プラトン主義の一者からの流出説を取り入れたとしか思えないのですが……


・現存最古のまとまった日本語訳聖書を含む書写本『バレト写本』
(GODは「デウス」とそのまま使用)

『バレト写本』の作者はイエズス会のバレト(1564-1620年)で、1591年に成立したとされています。
訳語ではなく重要語をそのまま使っております。
以下の括弧内は今日の訳語ですので間違えないでくださいね。
デウス(GOD)
スキリツウラ(聖書)
エワンゼリヨ(福音)
アニマ(霊魂、心、生命)
スピリト(霊)
テスタメント(契約)
アンジョ(天使)
アポストロ(使徒)
バウチズモ(洗礼)
ベアト(幸いなり、福者)
セザル(皇帝)
クルス(十字架)
ヒイデス(信仰)
ゼンチョ(異邦人)
ゴラウリヤ(栄光)
ガラサ(恩寵)
イゲレイジヤ(教会)
インヘルノ(地獄)
ジュスチイサ(義)
マンダメント(戒律)
オラシヨ(祈り)
パン(パン。麺麭)
パライゾ(天国)
ペニテンシヤ(悔改、贖罪)
ポロヘエタ(預言者)
ポロシモ(隣人)
サバド(安息日)
サタナス(悪魔)
テンタサン(誘惑、試練)

16世紀の『どちりな きりしたん』でもやはり原語主義です。
「御主ぜす」などとGODを訳しております。
loveにあたる言葉は「愛」とは翻訳しておりません。
loveにあたるcharidade(かりだあで)は『どちりな きりしたん』では「御大切」
『羅葡日辞書』のAmorは「Taixet」つまりは「大切」
「仁愛」という訳語もあったらしいです。
(『天主実義』などでは、「仁」の一つのはたらきとして「愛」が語られているので、儒教的素養があればなんとか通じたらしいです)
当時、愛は、仏教では迷いの根源=悪であり、感情的、肉体的な愛情であり、不潔な快楽と受け取られていました。良い意味ではないので訳語に使わなかったのです。
「憂国」はあっても「愛国」はありえなかったし(国家概念自体がないですけど)、「愛」ではなく「情」でした。

詳しくは過去記事
「どちりいな-きりしたん」16世紀にGODを神と訳していないし、loveを愛と訳していない。偽書を見抜こう。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-21.htmlをご参照ください。お願いします。

『キリシタン研究』第七輯の「洋語対照表」によると、
皇帝…セザル  cesar
福音…エワンゼリヨ evangelho
などと必ずしも原語だけだったとは限らず、
イチジク(無花果)…柿
パン…餅
悪魔……天狗
など身近なもので代用したりもしています。

・新井白石『西洋記聞』でもGODはデウス又は天主(天主教=耶蘇教)。

1709(宝永6)年に新井白石がイエズス会のイタリア人シドッチを尋問。
尋問内容をもとに『西洋記聞』を著します。成立は1715年(正徳五年[しょうとく])と考えられているのですが。『西洋記聞』が公式に出版されるのは1882年(明治十五年)。なお、写本のかたちで耶蘇教禁制下でも出回っていました。
洗礼を、仏教の灌頂(かんじょう)と同じだと解釈したりしています。灌頂とは、主に密教で行う、頭頂に水を灌いで緒仏や曼荼羅と縁を結び、戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式のことです。水を儀式に使う共通点。
多くの教会用語はカタカナ音写でそのまま使われおり、GODは「でうす」ですが、「天主」と訳している箇所もあります。

以上から分かるように、カトリック(イエズス会)はGODを「神」と訳していません。「天主」です。


・聖書の中国語訳はネストリウス派(景教)が最初でGODは「天尊」(仏教用語)。

中国に最初に伝えられたキリスト教は、431年の公会議で異端として追放された「ネストリウス派のキリスト教=景教」であり、伝来は635年とされています。
638年には唐の都である長安に波斯(ペルシア)寺(のちの大秦寺つまりローマ寺)が建てられるほど、一時は流行したらしいです(ペルシャってミトラとゾロアスター=キリスト教の元ネタを連想するのですが……)。
 641年ころの景教の典籍とみなされるものの一部が敦煌から発見されていて、わずかながら新約聖書やキリスト伝らしき文章が含まれています。
音訳と意訳中心です。

パン→餅
イエス→世尊
律法はそのまま
天国→天堂
十誡→十願
メシア→弥師訶
マリア→末艶

GODを「神」と訳した現存最古の史料が18世紀のバッセ『四史攸編』(ししゆうへん)。

GODとしての神が初登場するバッセ『四史攸編』(全訳ではない)の正式名称は、『四史攸編耶蘇基利斯督福音之会編』。
 リヨン出身のバッセ(Jean Basset,1662-1707)(パリ外国宣教会所属)による最初の漢訳=中国語訳聖書(全部ではありませんが)です。バッセは1689年、パリ外国宣教会宣教師として広東に派遣されました。中国各地で布教ののち、バッセは1702年から四川省で活動します。このころ以降に翻訳はなされたと思われます。(矢沢利彦「最初の漢訳聖書について」)。大英博物館所蔵の写本は、このバッセの訳本をもとにして1737年ないしは38年にかけて作成されたものです。文字の筆記からみて、写本したのは中国人らしいです。
バッセは1707年、広東で死去します。

『四史攸編』の訳語(右に訳語)
GOD…神
アニマ→命、魂
アンジョ(天使)→神使
アポストロ→使徒
バウチズモ→洗
ベアト→福
セイザル→責撒
クルス(十字架)→十字架
エワンゼリヨ→福音
ヒイデス→信
ゼンチョ→異民、異教者
ゴラウリヤ→栄光
ガラサ→寵
イゲレイジヤ→教会
インヘルノ→永獄
ジュスチイサ→義
マンダメント→律
オラシヨ→祈禱
パン→餅
パライゾ(天国、楽園、パラダイス)→天国、楽域
ペニテンシヤ→痛悔
ポロヘエタ→先知
ポロシモ→邇人
サバド→撒罷日
サタン→魔、魔鬼、撒探
スキリツウラ→経
スピリト(聖霊。スピリット)…聖神、聖風
テンタサン→誘
テスタメント→遺詔

音訳はセイザル、サバド、サタンぐらいのもので、できる限り中国語で訳す姿勢がみられますね。


・GODの訳語を「上帝」か「神」かでもめる(統一訳語まだなし)。

マテオ・リッチ(1552- 1610年。イエズス会員。利瑪竇。り まとう)『天主実義』(1595年)でわかるように、カトリックが採用したGODの訳語として「天主」が中国で使用されたことは確かです。そしてリッチは、天主=上帝(儒教)、であると主張(『天主実義』)しました。
加えてリッチは、中国人の信徒が儒教などの儀式への参加を認めました。
中国の都には、天の「上帝」を祭るための天壇(「神」ではなく「天」なのに注目)といわれる祭壇があり、冬至の日には皇帝がここで儀式を営みました(冬至=これから太陽が強くなる=日照時間が長くなる、より太陽崇拝の儀式)。
これには当然役人の参加が要求されるので、中国人クリスチャンの参加を認めなければその役人は職を失いますから、出席禁止にすると布教を阻害してしまうのです。祖先崇拝や、孔子廟での儀式など現地の儀礼参加を認めるか否かは、カトリック内でも大変な問題だったのです。何せ、位牌(元もは儒教由来で仏教関係無し)を前にして、位牌の中に両親がいると思ってはいけないのですから。
で、「典礼問題」(祖先を祭る儀式に参加するなどの中国伝統宗教に妥協するか否か)が起こるのですが、最終的には、1715年の教皇クレメンス11世の「典礼問題」に対する最終教皇令「エクス=イルラ=ディエ(その日から)」を要約すると、ゴッドの訳語は
「天も上帝もダメ! 天主を使え!」
「天主堂=教会内に『敬天』=天を敬え、の扁額を飾るな!」
(『中国とキリスト教』)
カトリックは明確に、GODの訳語を「天主」としたのです。「神」ではありません。上帝は皇帝崇拝に繋がり、天は自然崇拝に繋がるからでしょう。
それを受けたのか、リッチ『天主実義』の後の版では「天」や「上帝」が「天主」に変わっているものがあります。

・プロテスタントの英国人モリソンは『四史攸編』を参考にしてGODを「神」と訳した『新遺詔書』を19世紀に中国で出版し、後に旧約も含めた『神天聖書』も出版

中国最初の旧約と新約聖書の全訳で、今日代表的なものとされているのがモリソンの『神天聖書』です。モリソンは中国に向かう前、大英博物館に存在するバッセ訳『四史攸編』 (Evangelia quatuor Sinié)のことを知り、その全文を書写(中国人と協力か)し、それを携えて1807年に中国に到着します。
ここで重要なのは、宣教師の間でも『四史攸編』は出回っていなかったことです。GODの訳は「天主」が教皇お墨付きの主流派であり、「神」とするものは『四史攸編』ぐらいしかありませんし、大英博物館に保存するほどに希少だったからでしょうから。それに海外布教を担う宣教師は優秀な者が選ばれるはずですし、出回っていたら真っ先に教会が渡すはずです。

モリソンはGODを「神」と訳している(「天主」ではない)『四史攸編』を参考にして(旧教と新教の共同訳聖書の先駆け)、
1813年『新遺詔書』(しんいしょうしょ)を広東で出版
します。
遺詔=テスタメント(契約)。
バッセ訳と共通する訳語は
「神使、使徒、洗(または洗礼)、十字架、、福音、異民、栄光、義、祈禱、天国、先知、聖風(または聖神風、神風←クリスチャンと半島人だらけで日本人のふりをするために和服や日本刀を利用する右翼が大喜びしそうな訳語)」。
この他、後の日本語訳に影響した他の表現については、
「地之塩」「世之光」「律法」「日用糧(にちようのかて)」「負債(おいめ)」「天空之鳥(そらのとり)」「隈之首石(すみのおやいし)」「一杯冷水」など、後に日本で普通に使われる表現があります。メシアは「弥賽亜」と音訳されています。まだ「救世主」は登場していません。

モリソンの聖書翻訳に、同じくロンドン伝道会のミルンが協力し、
1823年に、(『旧遺詔書』+改訂した『新遺詔書』=)『神天聖書』をマラッカで刊行。
モリソン・ミルン漢訳『神天聖書』(1823年)の原本の表紙の写真にちゃんと“載旧遺詔書”・“兼新遺詔書”(新字体に引用者が直した)と書いてあります。

・GODを上帝とするか神とするかで論争

モリソンとミルンのGODの訳語一覧。
ミルンは晩年には「上帝」を使用。
モリソンは以下のように多数の訳語を使用。
神、真神、神主、神天、天、
上帝、神天上帝、神天大帝、天帝、天皇、天皇神主、天皇上帝、天帝主神、
天上上帝、真神上帝、天上之上帝、天皇神父、上帝神帝。
(日本で現人神=イエスキリスト=天皇にする土台かも)


「神」派(アメリカ系宣教師)(ブーンやブリッジマンら)
VS
「上帝」「帝」派(イギリス系宣教師)(メドハーストら)
メドハーストが「神」は駄目だとする理由↓

、「神」は中国では「すぐれたもの」としてのGODを示す語として使われたことがない。
(それ以前に神にGOD的意味が含まれる神道書は偽書ってこと。当時の日本語の「神」も同様

宣教師のお墨付き!

2、「神」=見えない存在(invisible being)であり、spiritであり、しかも必ずしも礼拝の対象にならない。
3、「神」はいい悪い(悪にも使えるから駄目)、高い低い、尊敬される軽蔑される、天にいる、地にいる、など「複数いる」ので、「唯一」神は誤り。しかも「先祖の霊」を含む(キリスト教では拝まない)。
4、「神」は人の所有するスピリットであり、礼拝対象としてのGODではないので、「神」だとmy Godという表現はおかしくなる。
5、「神」はスピリットの訳語として最適であるから、GODの訳語にとられるのは損失。
6、ローマ・カトリックによって以前から「神」はspiritの訳語である。

米国聖書教会から出された「中国語訳聖書に関する報告」(1850年)では「神」がもっとも妥当だとしていて、「上帝」は駄目だとしている。理由↓。
1、上帝=天の支配者、至上の支配者、であり政治的な役職であり、実際、中国の皇帝が「上帝」と呼ばれている。
2、知識階級はともかく、一般大衆にとっては物質的偶像である。

で同じく米国聖書教会のブリッジマンとカルバートソンが改訳した聖書(1859年に新約聖書、1862あるいは63年に旧約聖書)では、
GOD…「上帝」ではなく「神」
spirit…「神」ではなく「霊」
love…「仁」ではなく「愛」。
正に今の日本語聖書訳で使用されているものであり、聖書日本語訳に恐らく一番影響を与えたGODを「神=創造主」とした19世紀のプロテスタント訳
です。

で、これからまた日本語訳の話に戻ります。

日本語訳聖書のGODの訳語は「天主」が主流だったのであり、国学者の平田篤胤はクリスチャンでキリスト教の本を書いた後で、国学や神道の本を出した

GODの訳語としての
「天主」は、
エヴォラ屛風下張文書(びょうぶしたばりもんじょ)の解読により、1580年の末から翌春ごろには既に使用されていたと推定されています。
エヴォラ屛風下張文書の主な部分は、カトリックであるヴァリニャーニの『日本のカテキズモ』(1586年リスボアから刊行)の和文の稿本に近いことから、
「天主」はカトリックによるGODの訳語としてが初出でしょう。
ヴァリニャーニ(ヴァリニャーノ。1539-1606年)は安土桃山時代に来日したイタリアのカトリック宣教師で、(鉄砲や大砲撃つための火薬が欲しい大名と)人身売買取引したりしていたイエズス会所属です(またかよ)。後に明治以降の日本の学校制度のモデルとなるセミナリヨ・コレジヨを設立したり、天正遣欧少年使節派遣を計画・実施したり、活字印刷機を日本に伝えてキリシタン版を刊行したりしました。

日本の近代教育=啓明会(理性と科学)+イエズス会(バチカン)製。フィクションで人気の織田信長がセミナリヨ(神学校。音楽と体育を重視。遠足。文化祭で歌と劇。)設立の為にイエズス会に協力。”
私のツイッターより。


「創造主」
という訳語が1801年 山村昌永(山村才助。蘭学者)『西洋雑記』にあるらしいです。

朝日日本歴史人物事典 山村才助 【やまむら・さいすけ】
“生年: 明和7 (1770)
没年: 文化4.9.19 (1807.10.20)
江戸後期の蘭学者,世界地理学者。才助は通称,名は昌永。字を子明,号を夢遊道人という。常陸国(茨城県)土浦城主土屋氏家臣昌茂の長男。母まきは市河寛斎の妹。江戸藩邸に生まれた。伯父市河寛斎に漢学を,大槻玄沢に蘭学を学ぶ。玄沢門弟百余名中の四天王のひとりに数えられ,寛政10(1798)年の蘭学者相撲番付に西関脇で載る。達者な語学力でオランダ語の地理・歴史書を読み,『東西紀游』『印度志』『百児西亜志』『亜細亜諸島誌』『大西要録』などを訳述した。幕命により訳した『魯西亜国志』もある。明末期から清初期の中国で活躍した西洋人宣教師の著した漢籍地理書も蘭学の知識と併せて再吟味し,『明儒翻訳万国図説考証』『訂正四十二国人物図説』などを著した。後者は西川如見著の『四十二国人物図』の批判であり,同輩橋本宗吉の世界図に対しても『六費弁誤』で厳しく批判したが,師玄沢には『環海異聞』への協力など,才助だからこその尽力がみえる。最大の業績は新井白石の世界地理書を訂正し,蘭書から新情報を挿入して原著の10倍の大著にした『訂正増訳采覧異言』の完成で,同書は文化1(1804)年幕府に献上された。38歳で病没。著作が生前公刊されなかったことから,訳稿の抜粋で綴った『西洋雑記』が死後に無断出版されたり,剽窃本が刊行された。日本の西洋史学の創始者とすることもでき,訳業は伝写されて平田篤胤,渡辺崋山,吉田松陰 など幕末知識人に海外への認識を改めさせる糧となった。<参考文献>鮎沢信太郎『山村才助』”
http://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E6%9D%91%E6%89%8D%E5%8A%A9

「神道」の教祖的存在のクリスチャン平田篤胤が登場しますね。蘭学者経由だとは考えていましたけど。
平田篤胤の脳内師匠(一度も会っていないから)が本居宣長です。
(本居宣長にしたら「お前の神の概念はおかしい」と言いそうですが、会ったことないのに勝手に弟子になった奴には言えません)

本居宣長の的確な「神」の定義
“何(ナニ)になれ、尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて、可畏(カシコ)き物を迦微(カミ)とは云なり”
(「古事記伝三之巻」『本居宣長全集』第九巻、筑摩書房、1968年)

邪神もOKな定義。すごかったらなんでもカミだという、実に日本人的な定義です。GODの概念なんて全く混じっていませんね。

平田篤胤の「神」は以下の特徴があります。

篤胤は、神=善神に一元化
(完全にキリスト教概念。本居宣長は悪神を認めています)

・篤胤は「善悪を知る心」を人間精神の本性とする(知恵の実を食って善悪を知る)。
(本居宣長は人間の心を「うまれつきたるまゝ」に留め、そのことを重くみている)

・篤胤は来世死後の審判があって善者に福、悪者に禍のある世界だと明言。
(本居宣長は来世を不可思議な世界と見るのに留まる)

・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を唯一神とはしていないが、中心神としている。(宗教学では一神教は二種類あって①他の神を認めない唯一神教②他の神を認めるが中心的神を崇める拝一神教)

どう見ても和風クリスチャンです。本当にありがたくないです。

平田篤胤の親類に原胤昭(はら たねあき)というキリスト教徒がいます。
出版業者である十字屋(後の銀座十字屋。十字はキリスト教由来)をやっていたり、和漢対訳『新約聖書』を自分で作って1878(明治11)年に出版したり、出版および新聞紙条例違反で処罰されたり、平田篤胤の子孫の家にキリスト教関係書物をもらいに行ったりした人物です。というか、平田家にキリスト教関係書物が秘蔵されていたとばらしちゃった人です。

篤胤(1776~1843)(明治維新が1867年)
が31歳の1806年(文化3年)成稿の『本教外篇』(平田篤胤が「未許他見」=見るな、と書いています)には中国のキリスト教書『七克』(しちこく。1614年)から書写した部分が少なからずみられます。
『七克』では「聖経有言」と名づけられている聖書からの引用部分を「聖経」の語を省略して、篤胤がそのまま写している部分が随所にあります。GODによる天地創造とアダムとイブの話も既に登場しています。
 パントーハ(龐廸我)『七克』だけでなく、同じくキリスト教の禁書である、アレニ(艾儒略)『三山論学紀』、利瑪竇(マテオ・リッチ)『畸人十編』など、を自分の思想と合わせて翻案したものです。直訳ではなく、自らの思想に合わせるように多少改変している。第5部が、パントーハの『七克』のほとんど全部に訓点を付けたもので「山上の垂訓」など、多くの聖書の句がおさめられています。篤胤は公表しませんでした。

平田篤胤『本教外篇』におけるGODの訳語は、
「造物主、真主、上帝万物之大父母、天帝、大神、産霊大神、我人の本生の大父母」
天でも天主でも上帝でもない訳語があるのが大変重要です。「神道」に繋がります。
大神と、「大」がついているのは、この大神が神を生むからです。
『本教外篇』では、人間は「天帝」より「霊性」が与えられているという表現が八か所出てきます。
『三山論学記』の「賦我霊性」が元ネタ。
『本教外篇』に登場する他のキリスト教用語。
全智全能、降世、天国、原罪、十誡、審判、復生、罪人、贖罪、讃美、一夫一婦。

“産霊大神[天地万物に一大霊明の大父母ありて天上に坐て万有を主宰し給ふ御名を産霊大神と申す]は。天地万有の真主なり。天を生じ。地を生じ。人を生じ。神を生じ。物を生じて其を主宰し。其を安養し。我人の本生の大父母にて。心身性命すべて此の大神の賦賜物なり。”
(『平田篤胤全集』七、名著出版、1977。[ ]内は頭註)

上記の文の元ネタは『三山論学記』で次のようになっています。

“天主也者。天地万有之真主也。造天。造地。造人。造神。造物。而主宰之。安養之。為我等一大父母。心身性命。非天主孰賦畀。”
(中国史学叢書『天主教東伝文献続編』(一)収録の1847年重刊本)

「天主」を使わず「産霊大神」という「神」を含む語に変えただけで、残りはほぼ日本語に置き換えただけですね。神にキリスト教要素を移植しようとしています。
また、
GODを父なる神とすることが性差別とされ、父なる神を改めた聖書があります。『三山論学記』と『本教外篇』の父母神思想は、父つまりは男だけだと不完全だから、完全なる神は両性具有のはずだとする欧州支配者の思想ど真ん中です(だから同性愛OK)。
(『三山論学“紀”って表記しているものもあったけどどっちが正しいのやら)

平田篤胤『本教外篇』
“義の為にして。窘難(きんなん)を被るものは。すなはち真福(にて)その已に天国を得て処死せざると為るなり。これ(我も)神道の奥妙。豈(あに)人意を以て測度すべけんや。“

アレニ『三山論学記』
“為義而被窘難者。乃真福。為其已得。天国不虚死也。此於穆奥妙。豈可以人意測度。”

(海老沢有道『日本の聖書―聖書和訳の歴史』講談社学術文庫 p.83-84)

窘…苦しむ
穆…ほんのり暗い。おだやか。
穆然(ぼくぜん)
…沈黙して深く思うさま。音のかすかなさま。和らぎ慎むさま。

マタイによる福音書
『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年
5:10
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、 天国は彼らのものである。

此於穆奥妙→これ(我も)神道の奥妙

「穆」をもっと詳しく漢字辞典で調べると、
①ほんのりと暗く、見えにくくて、静まりかえったさま
②ほんのりとやわらぐ。ふんわりと一体をなしているさま
③穏やかで、慎み深い
④昭穆(しょうぼく)とは中国代の祖先をまつる御霊や順位をあらわす言葉。
昭=はっきり。穆=あいまい。
「穆」をどう翻訳しても「神」にはならないので、これは意図的に変えた箇所
「神道」という語を使っていますね。

意訳して見ると
「キリスト教を信仰しているという理由で苦難に遭う者は、真に幸福であり天国に行けて永遠の生命を得る。『これ(我も)神道の奥妙。』どうして人(という神より劣る存在)に分かるだろうか」
此於穆奥妙=曖昧でよくわからないがとにかく奥深い素晴らしいもの。
これ(我も)神道の奥妙。=(私も恩恵を受ける)神の御業(みわざ),
「道」には「やり方、専門技術」という意味があります。

「神道」という①土着の信仰(政治的影響力なし)
②道教用語
③墓場
などを意味する言葉に新たにGOD的概念(完全にGODではない)が持ち込んだのが平田篤胤だということです。
この出版年から考えるとカトリック系の天主教(キリスト教)の本教外篇。
そして平田篤胤が「神道」あるいは「国学」(欧米だろこの「国」って。今もだけど)の本を出すのは和風キリスト教の『本教外篇』の後から。 

このような功績があったので、国学者(アンチ仏教)の四大人、4人の凄い学者、という称号を与えられましたとさ。
日本の伝統は仏教です。

で、平田派神官の玉松操(元・真言宗醍醐寺僧)らが岩倉具視のブレーンになり、同じく平田派が神道国教化(仏教破壊)運動をするなど、和風キリスト教完全支配の為に奔走します。
玉松操は王政復古の大号令の発布に参画し、「諸事神武創業ノ始ニ原(もとづ)キ……」は玉松の提案です。醍醐寺は今でも嘘の中核で、真言宗(天台宗ではないことが大事)です。
玉松操は大国隆正の弟子。大国隆正は平田篤胤の弟子。ちゃんと繋がっております。
大国隆正は長崎で蘭学も学んでおり、王政復古の理論的指導者であり、神道国教化に大きな影響を与えます。大国隆正は自分の学問を「本教本学」と唱え、京都に報本学舎という塾を開いたり、復古神道を唱え、廃仏毀釈の口火を切るなど、仏敵の権化ですね。
(私は原始仏教徒「的」な思想ですが、別に「信仰」=思考停止、まではしておりません)

島根の津和野は、山陰の小京都と呼ばれております。
森鴎外、西周(「哲学」の訳語を創ったメーソン)、大国隆正(平田篤胤門下)、福羽美静(大国隆正門下。明治天皇の侍講)の出身地。

「国学者(アンチ仏教)の師弟の系譜
平田篤胤(和風クリスチャン)
→大国隆正(蘭学=メーソン学者)
→玉松操(元・真言宗醍醐寺僧。岩倉具視の腹心)」

島根の出雲市にあるのが出雲大社。出雲大社を管理していた寺が天台宗の鰐淵寺(がくえんじ)
鰐淵寺(がくえんじ)は、出雲大社(杵築大社)の
別当寺(べっとうじ)=神社を管理する寺でした(神宮寺、神護寺、宮寺なども同義)。
鰐淵寺の僧侶が経所で大般若経転読を行い、社殿では読経もしました。また、江戸時代初期には社僧が寺社奉行と杵築大社(出雲大社)の運営管理に関する交渉を実施していました。
が、17世紀の寛文年間の遷宮時に出雲国造家が神仏分離・廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められ、寛文4年から寛文5年にかけて仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却され、併せて祭神は素戔嗚尊から、古事記や日本書紀などの記述に沿って大国主大神に復しました。
でも寺に明確に支配されていた歴史は消えないよ!
寺は神社よりも権力があるから、神宮「寺」や別当「寺」なんですよ。
出雲人脈の神道家は鰐淵寺などの神宮寺について言われると嫌がるでしょうね。

”岩谷建造『津和野の誇る人々』
島根県津和野町は、人口数千という山間の小邑であるが、日本近代史・思想史・文学史上忘れられない町である。たまたま講演という名の雑談のため山口県庁にお招き戴いた機会に、夫婦で訪れた。美術館・博物館などが10ほどもあり、ここでゴヤの闘牛版画や北斎の動植物スケッチのコレクションに出会おうとは思わなかった。町民の支える文化の町である。

そこで入手したのが本書で、26人の著名人が紹介されている。最も有名なのはもちろん森鴎外、続いて西周で、森家は藩の内科医、西家は外科医。二人の生家は川を隔てて5分程度の距離で、何れも当時のままに保存されている。二人は遠縁に当り、鴎外は西にいろいろ世話になって、恩返しに『西周伝』を書いている。

かつて「西周の法思想」という小文を書いたところ、中国史の大家衛藤瀋吉先生から「お前は知りもせんことにすぐ口を出す男だが、こんなことまでやり始めたか」と叱られたことを想い出した。中国古代王朝「せいしゅう」との、先生の勘違いである(同先生には、「娘の部屋にテンチシンリ(天地真理)というすごい名のものがあって驚いた」とかいう話もある)。

芥川龍之介の学友としても知られる法哲学者恒藤恭先生の祖先井川家は津和野藩士。鳥取警察署長などを勤めた父君もこの町の生れで、鴎外と血縁がある。「檀上にこもごもさけぶわかうどら論理のあやに酔えるがごとし」など先生の詩人・歌人としての側面も紹介されている。

藩主亀井茲監は教育に尽力し、(建物が現存する)藩校は、高水準の教育を行ない、地質学の小藤文次郎、初代札幌市長高岡直吉、農業経済の高岡熊雄(直吉の弟)、紡績業の山辺丈夫、鉱山業の堀藤十郎、劇作家・演出家中村吉蔵、童話作家の天野雉彦など、多方面の人材を輩出させた。私の本棚に、昔挑戦して挫折したロシア語学習の「遺跡」、表紙にЯСУГИと記された八杉貞利先生の辞書があるが、その父君は藩から派遣されて東京で医学を学んだ。

『伯父ワーニャ』のアンドレヴィナ、『桜の園』のラネフスカヤなどを演じ、若くして急死した大正期の女優伊沢蘭奢の生涯を劇化した『津和野の女』は、先年佐久間良子が演じて、その劇的生涯が回顧された。彼女は津和野の紙問屋の娘。佐久間さんは、上演に際して津和野を訪れ、「離婚のつらさや女優の苦しさは、実感としてわかる」と語ったという。

津和野は国家神道と深く結びついた町である。「天皇は全世界の正統的支配者だ」と説いた大国隆正は平田篤胤の弟子、脱藩後藩主亀井茲監に招かれ藩校教授となる。その弟子玉松操が岩倉具視に入説し、明治維新を「神武創業への復帰」と性格づけさせたことは有名。東京遷都に反対して京都に留まった玉松に代り、明治初期の神道国教化政策を推進したのが、藩主の懐刀といわれた福羽美静である。幼い彼が曲芸師の綱渡りの真似をして落下し、生涯身長が伸びなかったとは初耳である。(『法学セミナー』1997年11月号)

(本website「森鴎外と津和野」参照。西と森の関係は「恩返し」などというきれいごとでは済まない面をもっていた)”
http://book.geocities.jp/ruichi_nagao/tsuwano.html

ちなみに、国学者(アンチ仏教)にして元真言宗の坊さん玉松操の本名は山本真弘。「まひろ」という名前のフィクションで売れているものを探してみると面白いかもしれませんね。
大本教トップの出口ハルヒが涼宮ハルヒであるように。
吉田松陰の通称は寅次郎。男でなくても、現実は辛いよ。
吉田松陰は陽明学に傾倒していましたね。またしても仏教以外。

・最初のまとまった和訳聖書ではGODはカシコイモノ、又はゴクラク、テンノツカサ

最初のまとまった日本語訳聖書(最初のちゃんとした和訳聖書)であるギュツラフ訳『約翰福音之伝』(無刊年だが1837年=天保8年、シンガポールで発刊と推定)。
中国語訳ではGODとしての「神」は登場していますが、和訳ではまだなのです。

(ヨハネ福音書)
冒頭は
“ハジマリニ カシコイモノゴザル、コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル、コノカシコイモノワゴクラク。ハジマリニ コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。”

冒頭を漢字に直せば、「始まりに 畏いもの御座る」でしょう。 

はじめにロゴスがあった。ロゴスはゴッドと共にあった。このロゴスはゴッドそのものであった。ロゴスははじめからゴッドと共にあった。
(記事主訳)

※最初の英和・和英辞典である、メドハースト『英和和英字彙』(1830年バタビアで出版)をギュツラフが参考にしました。
メドハーストが主張したように、ゴッドを「上帝」とは訳していませんが。
なお、モリソンとミルンの『神天聖書』も参考にしています。

しかし
『約翰上中下書』(同じく1837年シンガポールで発刊)
では、
ゴッドを「テンノツカサ」という、天主や上帝に近い主宰者的訳に変えています。

『約翰福音之伝』と『約翰上中下書』の言葉を併記します。


テオス Theos(≒God)を「カシコイモノ」「ゴクラク」、「テンノツカサ」

プネウマ Pneuma(聖霊)を「カミ」
(本来の「神」=鬼神・精霊・精神≒spiritだから)
※人の霊(精神)の場合には「シン」と区別。
明治訳では霊「みたま」と霊「れい」を区別。
ロゴス(言霊、御言葉)Logosを「カシコイモノ」
ゴクラクノクニ…ゴッドの国
love…メグミ(恵み)、カワイガル(可愛がる)
devil(Satan)…ヲニ

sabbath…モンピ(安息日。物日)
glory…クライ
Messias…メシヤス
Saviour…スクウヒト
church…ヨリヤイヤド
priest…シントシヤドモ、クゲ
scripture…キヨモンノホン
Holy Ghost…アリガタイカミサマ
baptize…コリヲトル
angel…アマツカミ
prophet…マエカラシイテオルヒト
neighbor…トナリノヒト
聖書…キヨモン(経文)
※「聖書」という言葉自体は『史記』にもあります。
来世…コシヨウ(後生)
洗礼…コリ(垢離)

音吉ら日本人の協力ありなのでわかりやすいかもしれません。

『約翰福音之伝』は海外に九部、国内に七部現存。
『約翰上中下書』イギリスとパリに二部現存するのみ。


・ヘボン訳ではGODは「神」、愛」はなく「いつくしみ」、「救世主」ではなく「メツシヤ」

ヘボンは1841年にギュツラフ『約翰福音之伝』を入手。
中国語のできるヘボンは中国語訳聖書も参考にしている。

…上記のギュツラフ訳『約翰福音之伝』を入手した
ヘボンの(ブラウンと共訳)『新約聖書馬可伝』(マルコ伝)、『新約聖書約翰伝』(1872年。明治五年)
1873年に『新約聖書馬太伝』(マタイ伝)
の訳語。
love…いつくしみ
devil…あくま
sabbath…安息日(あんそくにち)
heathen…異邦人
glory…威光
God…神
Messias…メツシヤ
church…集会
repentance…悔いあらたむる
priest…祭司
apostle…使者
scripture…聖書
saint…信者(聖人じゃないよ)
Holy Ghost…聖霊
baptism…せんれい
elect…えらまるゝもの
kingdom of heaven…天国(てんこく)
angel…つかひ
gospel…福音
resurrection…よみがへること
prophet…預言者
neighbour…隣

疑問。安息国(パルティア)と安息香酸などは関係があるのだろうか?
詳しい人教えて下さい。

ヘボンは、アメリカ公使デロングを通じ、公使は副島種臣外務卿に天皇に聖書(ヘボン・ブラウン訳聖書)を献上してもらっています。
明治天皇は自署で嘉納の旨、返書されたらしいです。
神道に偽装されたキリスト教が日本の実質的な国教となりました。

「愛」は仏教では悪なのでヘボンは「愛」をためらった

宗教辞典で「愛」の項目を執筆するには、必ず仏教とキリスト教と対比して説明が必要です。悪と善が真逆だからです。
仏教では愛(渇愛)とは人間の欲望の根源であり、この(渇)愛を滅ぼすことこそが仏教の目的です(だから世を棄てるんですよ)。
対して、キリスト教では愛は(虐殺しまくる)GODが与えられる全面的に善なるものです。
とはいえ、キリスト教概念流入以前でも「愛」は全面的に仏教的に使用されたということではなく、親の子供に対する「いつくしみ」という意味で使われることがありました(「愛情」。でも「情」寄りでしょう)。とちらかと言えば、本能的な愛情の意味です。本能性が強まると「愛欲」というどろどろした自己中心的欲情表現となります。実に人間的であり、超越的な畏怖すべき存在から受けとるものだという感じはまったく感じられないのです(仏教国家なのだから当然)。
これは聖書翻訳にも勿論影響しています。
ブリッジマン-カルバートソンの中国語訳では「愛」(中国は仏教国家ではないから)ですが、ヘボンの日本語訳では「いつくしみ」。
ヘボンは『和英語林集成』では「愛」を次のように説明しています。
“To love, to regard with affection, as a parent or friend.”
親や友の愛情であると捉えていました。

loveにあたるcharidade(かりだあで)は『どちりな きりしたん』では「御大切」
『羅葡日辞書』のAmorは「Taixet」つまりは「大切」
概して、感情的で肉体的で時には不潔な快楽として「愛」が受取られることがあったのです。
それもあって精神的(キリスト教的)愛には「御大切」が使われました。
また「デウス」の無償の(有償だろ)「愛」には適当な言葉なしとして「カリダアデ」が用いられたりしたのです。

感情的肉体的な愛情……愛、恋
精神的な相互愛…(御)大切
超自然的(GOD的)愛…カリダアデ

なんとか仏教的ネガティヴ要素を消そうとして、儒教では善の「仁」を加えた「仁愛」という訳語もあったらしいです。
(『天主実義』などでは、「仁」の一つのはたらきとして「愛」が語られているので、儒教的素養があればなんとか通じたらしいです)
当時、愛は、仏教では迷いの根源=悪であり、感情的、肉体的な愛情であり、不潔な快楽と受け取られていましたことは極めて重要で、「愛」を良い意味で使っている神道書(笑)は偽書だということです。
仏教国家の歴史が大変長かったので、明治維新後ですらしばらくは「憂国」はあっても「愛国」はありえなかったし(国家概念自体がないですけど。国と言えば、今の藩)、
「愛」ではなく「情」でした。
実際、新渡戸稲造は憂国は説いても愛国は叫ばなかったそうです。
クリスチャンが武士道好きなのは新渡戸稲造が原因です。

・佐賀藩はクリスチャン軍団

天皇に聖書を渡した副島種臣はクリスチャンが多い佐賀藩士。
彼は白人傀儡政権=明治新政府の政体書の草案を作成しました。
征韓論を主張して下野。国学者(アンチ仏教)である枝吉南濠(えだよしなんごう)の子が副島種臣。

佐賀藩は、肥前国佐賀郡にあった外様藩なので、朝廷と幕府の監視が届きにくいです。肥前藩(ひぜんはん)とも言います(当時は「藩」なんてありませんけど。国です)。鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)という俗称もあります。
メーソンとクリスチャンの手先代表である薩長土肥の一つ。
江戸末期、カトリックの聖地である長崎の警備を管轄していたのが佐賀藩。
フルベッキの宣教の本拠地が、平戸(キリスト教密輸所)のある長崎。
蘭学経由でクリスチャンが増えまくります。

佐賀藩の家老である村田若狭守政矩(わかさのかみまさのり)、弟である三左衛門綾部(あやべ)、本野周蔵(もとのしゅうぞう)らはメーソン員のフルベッキから聖書の教えを受け、江戸末期の禁教化の中で、洗礼を受けています。
家老がキリスト教徒なのだから、それが幕府にばれても、佐賀藩主の鍋島直正、鍋島直大の歴代藩主は、キリスト者を守り隠蔽にも荷担しています。
事実、洗礼した彼らは処罰されず、隠居しただけですから。

“On 3月 20th, 2012, 魔法使いハンターねこた さんのコメント:
佐賀藩の話興味深く読ませて頂きました。ちなみにおいらは佐賀県民です。(佐賀中心部とは遠いので県民性はぜんぜん違うのですが)

高校の時に佐賀市内に通っていました。

今振り返って思うのは、佐賀市というのはかなり雰囲気的にアチラ臭い匂いが充満しております。きっとモグラさんが行ったら匂いにやられてむせてしまうことでしょう。

佐賀の出身者にキリスト教や聖書などの橋渡しをした人が多いのはご存知の通りです。そのせいか知りませんが、田舎の田んぼしかない何もない街のクセに雰囲気がどことなく西洋かぶれくさい。更には田舎なのに、やたらと教育熱心なんです。また市民運動が盛んでもありますね。市立図書館の横にあるプロ市民の牙城であるでかい建物が鎮座してます。

具体的な事例を挙げれずに申し訳ないのですが、佐賀市民の行動原理を観察しているとかなりメーソン臭いというか左翼臭いんです。文化関連施設が豪華で、文化で一般人を啓蒙するんだぁ~というよーな雰囲気漂ってるし、プロ市民の活動も盛んでやたらと男女共同参画のどうの、市民による××のどうのといった集まりもよくあってます。その市民運動の盛んなところとかまるで欧米を思い起こす程です。まるで住民が「市民社会」なるものを本気で信じているような有様ですね。

さすが幕末よりユダヤ様のポチをやってたのはガセじゃないという感じです。

そういえば幕末のキリスト教布教関連で前に調べたネタを思い出したのですが、オカルト研究家の江口之隆氏の先祖は、まさにソエジーと同じポジションにいました。幕末に聖書を持ち込んだ人たちでした。先祖は佐賀藩出身だけど、子孫は福岡県出身というところまでまったく同じです。詳しくは以下をどうぞ。

http://www7.ocn.ne.jp/~elfindog/egbaitei.htm

佐賀県民どこまでアチラ臭いねん。頭がクラクラしますな。更に、中学時代の同級生が行ってた某高校のシンボルがペンタグラムだったり、市内路線バスに多布施町(たふせちょう)というバス停があったり、もうねどんだけアチラ臭いんですかとツッコミを入れたくなりますよw“
http://www.mkmogura.com/blog/2012/03/20/1087#comments

“Eguchi, Baitei
江口梅亭
(1838-1905)

 幕末から明治にかけて佐賀県で活動した医師。本名保定。
 幕末のプロテスタント布教史に若干の足跡が残るためここに収録される。
 
 鍋島の支藩村田家に仕える侍医の家に生まれる。佐賀藩の医学校である好生館に学び、その後長崎医学校にてボードウィン、マンスフェルトの両医師に師事。医学校の塾監に抜擢される。
 明治2年、主家に帰り、以後村田家の侍医となる。
 明治4年、佐賀医学教諭に任ぜられる。
 明治11年、佐賀病院長に就任。
 明治35年、引退。
明治38年2月8日病没。

 梅亭が登場するプロテスタント挿話は以下の如し。

 1855年、英国軍艦が長崎に寄港した際、長崎警備役の佐賀藩士が波間に漂う一冊の西洋の書物を発見し、これを佐賀藩の家老村田若狭守政矩(1815-74)に提出。もともと蘭癖で鳴らしていた村田若狭守は、この書物にいたく興味を抱き、それをオランダの通詞に見せたところ、英語の聖書であることがわかった。
 村田若狭守は佐賀に帰ると、若き侍医見習の江口梅亭を長崎に派遣し、問題の書物を調べさせた。梅亭は1859年に長崎にやってきた宣教師フルベッキ(1830-98)に会い、英語聖書がすでに漢訳されていることを知ると、すぐに漢訳聖書を入手して村田若狭守に届けている。
 漢訳聖書を読んでもなかなか内容が理解できなかった村田若狭守は、1862年に江口梅亭、村田藩士本野周蔵、そして弟である村田綾部をフルベッキのもとに派遣。この三名は日本最初の英語バイブルクラスの生徒としてフルベッキから新約聖書を学ぶこととなった。
 村田若狭守は上記三名から間接的に聖書を学び、結果として弟綾部とともに1866年5月20日にフルベッキから先礼を受けている。村田若狭守は洗礼の件を鍋島本藩に正直に報告しており、隠居という比較的穏便な沙汰となっている。村田若狭守はその後久保田村の屋敷にて漢訳聖書の和訳に勤しみ、1874年に他界している。

 梅亭自身は洗礼を受けることなく、医師として生涯を全うしている。ただし、かなりの変人、ひねくれ者であったらしく、後世まで「いひゅう梅亭」という別称が伝えられている。「いひゅう」は肥前肥後の方言で「気難しい人間、変わり者、ひねくれ者」を表す形容詞。漢字としては「異風」が当てられる。”
http://www7.ocn.ne.jp/~elfindog/egbaitei.htm

O∴H∴西洋魔術博物館
http://www7.ocn.ne.jp/~elfindog/index.html


主な参考文献
海老澤有道 『日本の聖書 聖書和訳の歴史』 講談社〈講談社学術文庫〉、1989年。
鈴木範久 『聖書の日本語 翻訳の歴史』 岩波書店、2006年
日本語訳聖書
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E8%A8%B3%E8%81%96%E6%9B%B8
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