読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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陶弘景が道教の一派としての神道を作った(神道はmade in china)~福永光司『道教思想史研究』 (岩波書店 1987年)~ 

※本書の記述だけなく、記事主自身の補足や見解なども混ざっていますのであしからず。そうでないと記事にする意味がないからです。本だけ紹介してハイ終わりにしたくないからです。

要約(私のツイッター+道教=『鬼道→神道→真道→聖道』の流れ図)

5~6世紀の道教家の陶弘景が道教の一派「神道」の起源。紫宮に住む天皇を仙の世界の長とし真人を高級官僚として「神道の道教」世界を構想。道教の剣と鏡=天皇大帝の象徴を重視。梁の武帝のブレーンで別名「山中宰相」。道教家の天武天皇や記紀に強く影響した日本思想の起源なのに無視される陶弘景。


「鬼道=シャーマニズムの道教」に、老子の道(タオ)と易経の神(シン)の思想が混ざり2世紀、後漢の時代の中頃から「神道の道教」となる。真俗を対比させる『荘子』の哲学の盛行で3世紀頃から「真道の道教」となる。聖道を名乗る仏教に対抗し6世紀に道教側も「聖道の道教」となる。「聖」が最高。


道教の宗教認識:鬼道(シャーマニズム。卑弥呼)<神道(墓道の意味もある。格下扱いする『日本書紀』)<真道(真人=最高の人。天武天皇は真人を八色の姓での最高位とし諡にも入れさせた)<聖道(道教と仏教)。本地垂迹説に基づく寺(道教混合)による異教支配の根拠。明治以前の神=道教の神仙。


和風耶蘇教=神道に経典も教義もないのは他の宗教と混ぜて宗教統一するため。八百万の神々=何でも神様説で単なる自然崇拝まで神道にして耶蘇教化させる。伊勢神道では食べ物の神の外宮が天照の内宮より格上で、神道五部書は偽書。よって南朝偽天皇に都合が悪く、明治以降に神道経典=和風聖書を捏造。


神道は二つの意味で中国製。①道教の一派。陶弘景の神道=道教②キリスト教の一派。中国語訳聖書のGODの訳語としての神が日本に入り、国学者(アンチ仏教)でクリスチャンの平田篤胤が神道=和風耶蘇教(本教)を作る。道教書と和風聖書が経典であることを隠すために神道に経典も教義もないとした。“

「道教=『鬼道→神道→真道→聖道』の流れ図
鬼道  2世紀、後漢(25 - 220年)時代頃まで。最高神・天皇(北極星の神。天皇大帝)。
↓(『老子』の道(タオ)の哲学と『易経』の神(シン)の哲学の影響)
神道  2世紀、後漢の時代の中頃から。太上老君が出現。最高神・天皇(大帝)。
↓(3~4世紀、「真」と「俗」を対比させる『荘子』の哲学の盛行)
真道  3世紀頃から。太上道君が出現。最高神・天皇(天皇大帝)。
↓(聖道を名乗る仏教が、道教を利己的だと攻撃)
聖道 6世紀 元始天尊(仏教の影響)が新たな最高神として出現(当時は新参)。

日本に多大な影響を及ぼすので、当然古事記と日本書紀にも大きく影響する。『日本書紀』では日本土着の信仰を「神道」と表現し、最高位の「聖道」とは表現していない。編纂に大きくかかわった舎人親王は道教家の天武天皇(初代「天皇」)の息子であり、次の天皇の持統天皇は即位の際に(天皇大帝の象徴たる)剣と鏡の2種の神器を受取っている。3種の神器は後になってからである。」




陶弘景は日本の思想において最重要レベルの人です。
陶弘景 神道 で検索してみればわかります。
5~6世紀の人で、中国皇帝と太いパイプがあり(つまり日本政府に思想が間違いなく伝わる)、道教を神道だと主張した人です。
陶弘景
の思想は「江戸末期以前の日本神道=道教の一派」の源流の一つです。
大多数が植え付けられているあの神道は実在しません。
実在するのは、①道教の一派(江戸末期以前)
②キリスト教の一派(江戸末期以降。別名「大本教」=新興宗教製造工場。キリスト教臭いものばかりでしょ? 「国家神道=天皇一神教」など)
強いて言うなら
③単なる自然崇拝でしかないです。
本記事のタイトルに入れた「神道 made in china」はダブルミーニングです。
①道教の一派であり道教家の陶弘景の「神道=道教」という意味。
②聖書を漢文に訳す際に「神」=GODと訳され日本に入り、国学者(=アンチ仏教集団)でクリスチャンの平田篤胤が神道=和風キリスト教を作ったという意味。
教義も経典もないとされているのは、宗教統一のためです。日本は世界一宗教が混ざりまくっている国ですから。なにせ、坊さんは武器を持たないと思っているほどですから。普通、宗教団体は武装しますからね。

 では、まずは著者を紹介(になっているのかな、これ)。著者の立ち位置を知ることで、内容の偏りを正すための基準を得るのです。
 著者の福永光司(ふくなが みつじ、1918-2001年)は、老荘思想・道教研究の第一人者。
ある中国の大物学者から「道教のようなくだらないものを国立大学教授が研究するとは何事か、あんなものは迷信に過ぎない」と言われたことがあるそうです。記紀には道教が影響していると言うと、神道研究者から怒られたことがあるそうです。
 日本書紀は道教家の天武天皇の息子が関わっているし、記紀作成の企画は天武なので当然、道教の影響があって当たり前であり、「神道」は道教より格下扱いの道教用語です。思想に独創的なものなんてありえないのが思想や宗教研究の常識なのに何を研究しているのでしょうか。渡来人は政府がある所以外にも普通に来ているのにね。
 権力者の太鼓持ちは研究者ではなく、嘘を守る者で、日ユ同祖論者なんて典型的な似非学者ですね。ダビデの星=ユダヤとなったのは十七世紀以降だとということや、天皇=天皇大帝(北極星)の略称で道教の最高神であることすら知らないですし、知って隠していたら単なる嘘つき(本当のことだけを言っても騙せる)です。
 困ったらいつもユダヤのせいにしてきて、ナチスを支援したキリスト教(※)が作った日ユ同祖論がおかしいことは道教研究者にとってはあたりまえなのです。だって道教の方が日本神道と似てるし、「神道」は道教用語(『易経』にも「神道」が出て来ます(意味は違いますが)。日中同祖論だと単に渡来人がいっぱい渡って来たってだけだから言っても仕方ないですしね。
 そう考えると福永光司って凄い。国家神道=日本版キリスト教=天皇一神教に反抗しているのですから。

※バチカンがナチスを支援し、ナチスはバチカンのいつもユダヤのせいにする手口を真似ただけだとマスコミどころか陰謀論の本でも言及しません。


では、福永光司『道教思想史研究』 (岩波書店 1987年)に入ります。

p.123 十二世紀、南宋の朱熹(1130-1200.朱子学創始者)は、当時の道教の宗教儀礼で、
儒教の最高神「昊天上帝(こうてんじょうてい。単に上帝とも。昊=天空。天=最高神。)」が、
道教の最高神「元始天尊(本来の道教の最高神「天皇大帝」にとってかわった最高神。「天尊」は仏教用語を取り入れたものなので割と後の方から生まれたことがわかる)」

より格下扱いされていることを非難している。道教で道教の最高神を一番にするのは当たり前なので不当な避難である。
天皇大帝の初出は紀元前3世紀頃(p.134)である。

p.127-130 天尊の語は六世紀以前においては、道教よりは仏教の文献で多く登場する。
三世紀の漢訳仏典での天尊の語を使っているように本来は仏教用語だった。
七世紀、661年の上奏文で、六世紀前半ごろ、梁や北魏の時代以前には、まだ老子の「道」が神格化された像が作られていない(偶像崇拝していない)、六世紀後半ごろ、北斉北周の時代以後になって、世俗の民衆を教化するために像を造ること(偶像崇拝)が普及した、とある。
道教における最高神「元始天尊」の称号が成立したのは六世紀の頃であろう。


北魏(ほくぎ、拼音:Bĕiwèi、386年 - 534年)4~6世紀
梁(りょう、502年 - 557年) 6世紀

北斉(ほくせい、550年 - 577年)
北周(ほくしゅう、拼音:Bĕizhōu、556年 - 581年)

p.145-147 唐の王朝といえども、歴代王朝と同様に儒教を無視できない。「天皇」の称号を使った三代目皇帝・高宗も。
唐王朝は(618年 - 907年)は老子を王朝の遠祖としたが、国家が公認する最高神は二つだった。儒教の昊天上帝と、道教の元始天尊である。「神」ではなく「天」である。神(しん)にGODの意味が持ち込まれたのは聖書翻訳を通じてだからだ。


※p.486  高宗が皇帝を「天皇」、皇后を「天后」と呼び始めたのが674年(上元元年)と、天武「天皇」(初代天皇。それ以前は大王)の時期と重なる。ちなみに、高宗の諡号は「天皇大聖大弘孝皇帝」。※※6世紀には元始天尊が道教の最高神になり、天皇大帝の格が下がったのだが、天尊はもとは仏教用語なので、熱心な道教家は嫌うはずで(しかも当時は新参者だし)、それゆえに天武天皇も高宗も「天皇大帝」の略語たる「天皇」を称号にしたのだろう。天皇大帝の初出は紀元前3世紀頃(p.134)なので、天武の時代で既に天皇大帝は約1,000年もの伝統があるのである
p.363-364
儒学を基本とする中国古代の学術思想が高い水準で一応の完結を見せたのは、紀元前3世紀の終わりから1世紀の初めに至る前漢王朝(紀元前206年 - 8年)の時代だった。前漢王朝末期の時代に一応の完結を見せた中国固有文化は、その直後、西隣に大きく開花したインド西域の仏教とはじめて交流する。
一方、この仏教伝来と併行し、仏教伝来に刺激されて、道の哲学の始祖にして偉大な哲人とされてきた老子が、2世紀後半、後漢(25 - 220年)の(宦官の協力を得た)第11代桓帝(かんてい。在位146- 167年※)の時代には神格化されて帝王の祭祀の対象とされ、ついで老子の説く「道(タオ)」(どこにでも存在する)の真理そのものの神格化とともに「太上道君(たいじょうどうくん。だじょうろうくん)」「太上老君」の出現となり、その太上道君は更に6世紀ころに元始天尊(仏教由来)を生む。
唐の王朝の出現とともに老子の姓とされる「李」が王室の姓「李」と一体化される。王家の祖先を「天」=最高神、として権威付けする(どの地域でも王族は最高神と結びついた神話を作る)。「神」だと神仙にして神秘であり「天」より格下なので「天」でないと不敬である。「蚕」(カイコ。ミミズ)という字から、いかに絹と土を耕すことが大事とされたかがわかる。ミミズは漢方薬にも食材にもなる。

※延熹9年(166年)に大秦(ローマ帝国)国王安敦(マルクス・アウレリウス・アントニヌス)の使節が入朝している。

p.365-366
いかなる思想であれ、翻訳や説明には既存の思想や宗教の用語を使わざるをえない。使わなくても既存の考えがどうしても混ざってしまう。翻訳すると習合してしまうのだ。だから経典の翻訳を禁じたり、積極的でない宗教がある。仏教もまた、漢文に翻訳される際に、道教思想の無為自然(諸行無常に似ている)や儒教の男尊女卑思想(原始仏教は男だろうが女だろうが出家していても出家していなくてもブッダになれる。カースト制度完全否定していて、王様=泥棒扱いだから当然)が混ざった。ブッダ(複数存在することが重要。釈迦は自分が最初に悟った者ではなく、自分以前にも悟った者はいたという姿勢)は中国では聖人――インドの聖人――として理解され、
ブッダの教説を記録したスートラが儒教の聖人の教説を記録した「経」と同じ名で呼ばれ、「経」と訳されたスートラ(パーリ語ではスッタsutta)にも、伝統的な儒教経典の解釈学の手法がそのまま用いられることになる。必然、日本でもそうなる。
「仏陀」や、「羅漢」(最高の聖者。釈迦の直弟子のうち高位のものはみな阿羅漢)の語が、『荘子』の哲学における悟達者を呼ぶ言葉「大覚」「真人」(道教家の天武天皇は八色の姓で最高位を「真人」としている)をその意訳語とし、
仏教の根本的な真理を表す「菩提」(煩悩を断ち切った最高の境地)の語が老荘道家の哲学における「道」「タオ」を意訳語とし、
仏教の究極的な境地を表す「涅槃」(煩悩を吹き消して智慧が完成した最高の境地)の語が「無為」を意訳語とし、
仏教や仏法そのものが「道教」、「沙門」(出家者の総称)が「道人」、
仏教教理が「道法」と呼ばれていた。漢訳仏典では「道」や「無為」などの老荘哲学の概念が訳語として用いられていたりして、その部分だけ読むと仏教か道教かわからないことがある(日本の神道の経典もね)。
なお、「真人」は仙人よりも格が上である。仙人が格が上なら天武天皇は真人ではなく仙人をつかっているはずだからね。

※p.397 真人(タオの実践的な体得者)の初出は『荘子』。

p.390-392
道教では、を至高の色としているが、儒教では朱が最上で紫は卑しい色である。
中国古代において紫色を宗教的に神秘化し、占星術的な天文学と結びつけ、更にそれを神仙思想によって神聖化したのは戦国末期以来の黄老道家の学者たちだった。そして前漢の時代に最高級官僚が印綬の色にいずれも紫を用いた(金印紫綬を「倭」に送るなんておかしいでしょうが。「卑」弥呼や「邪」馬台国と悪い意味の漢字をあてて馬鹿にしているのに)。
天皇大帝は北辰の星の(神格化したものの)ことである。天皇とは星信仰で生まれたのである。
天皇は「紫微垣(しびえん)」という、天の北極あたりの天空に住む。。「紫微」「紫微宮(しびきゅう)」「紫宮(しきゅう)」「紫垣(しえん)」ともいい、天帝の在所とされたたがゆえに、中国の皇帝や倭国の大王(日本の天皇)が住む所、皇宮、朝廷の異称ともなった。いかに道教の紫を重視する思想の影響が強いかがわかる。
日本では道観(道教のお寺)の知名度はかなり低い(日本にもある)が、日本版道教である陰陽道と陰陽寮は存在していた。それに紫は高貴な色とされ特別な地位の者にしか許されなかった。

紫微垣
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E5%BE%AE%E5%9E%A3
(2014年三月八日土曜日 引用保存)
“紫微垣(しびえん)とは、古代中国天文学において天球上を3区画に分けた三垣の中垣。天の北極を中心とした広い天区。あるいはその主体となった星官(星座)のことを指す場合もある。「紫微」「紫微宮(しびきゅう)」「紫宮(しきゅう)」「紫垣(しえん)」ともいい、天帝の在所とされたため、転じて皇宮、朝廷の異称ともなった。「紫禁城」の「紫」もこれに基づく。”
“星官[編集]

星官としての紫微垣は、天における中央の宮殿を囲う藩垣(城壁)の形に象っており、その中枢には天の北極が位置する。
北極5星(太子・帝・庶子・后・天枢) - こぐま座γ・β・4番・5番星、きりん座の HD 112028(なお太子・帝・庶子以外の名称は時代や史料により異なる)。”


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB
(2014年三月八日土曜日 引用保存)
“「紫」はもともとムラサキ(紫草)という植物の名前であり、この植物の根(紫根)を染料にしたことから、これにより染色された色も「紫」と呼ぶようになった。この名称自体は、ムラサキが群生する植物であるため、『群(むら)』+『咲き』と呼ばれるようになったとされる[1]。古来この色は気品の高く神秘的な色と見られた。また紫草の栽培が当時の技術では困難だったために珍重され、古代中国(漢代以降 - 時代が下ると黄色に変った)、律令時代の日本などでは、紫は高位を表す色とされ、主に皇族やそれに連なる者にしか使用を許されなかった。
『枕草子』の冒頭、「少し明りてむらさきだちたる雲の細くたなびきたる」という箇所は『紫色の雲』という意味と、『群がって咲く(ムラサキの)花のような』という両方の意味があるともされる。なお、ムラサキの花は白色である。
パープル (purple)[編集]
「紫色」の英語に相当する語句が"purple"である。もともとこの単語は、巻貝の一種"purpura"(ラテン語、プールプラ)に由来する。この巻貝の出す分泌液が染色の原料とされ、結果としてできた色もpurpuraと呼ばれた。この染色法を発明したのは現代のイスラエルやレバノンの地域に住んでいた古代のカナーン人であるといわれる。巻貝1個から出る分泌液はわずかであったため、この染色布が貴重なものであり、ローマ帝国の頃より西洋では高貴な身分の者が身に着けていた。この染色によって彩られた紫は若干赤みがかっていたようである。詳しくは貝紫色を参照。
また、英語の"purple"は、紅みがかった紫を指す語で、日本で言う所の京紫である。また、"purple"は、紫と紅の両義を含める場合がある。例えば、怒って顔を紅くする様相を、英語では"turn purple with rage"と表現する。細菌学においても、 "purple" は「紫」ではなく "red"(紅)を指す。紅色細菌 (purple bacteria) などの例がある。
バイオレット (violet)[編集]
「紫色」を指すことがあり、しばしばパープル (purple) に代わって、基本色としての紫を指す単語として使われる。なお、アイザック・ニュートンの定義による虹の7色のうち、最も短波長側の色である紫は英語では"violet"であり、"purple"ではない。この"violet"は本来スミレを意味する単語であり、菫色(すみれいろ)と訳すのが正確である。パープルは赤味の強い紫(マゼンタ)なのに対し、バイオレットは青味の強い紫であり、日本語の江戸紫に似ている。”
“古代中国の五行思想では正色(青、赤、黄、白、黒)を最上とし、中間色である紫はそれより下位の五間色に位置づけた。『論語』にある儒教の開祖孔子の言葉に「紫の朱を奪うを悪(にく)む」というものがある[2]。
紫を尊んだのは道教で、天にあって天帝の住まうところを紫宮・紫微垣などと呼んだ。南北朝時代に紫の地位は上昇し、五色の上に立つ高貴な色とされた。隋は大業元年(605年)に服色に身分差を設けたとき、五品以上の高官に朱か紫の服を着せ[3]、6年(610年)には五品以上を紫だけにした[4]。高官だけでなく、道教の道士、仏教の僧侶の中の高徳者にも紫衣を許し、これが唐代にも継承された。
日本では推古天皇16年(608年)に隋使裴世清を朝庭に迎えたとき、皇子・諸王・諸臣の衣服が「錦・紫・繍・織と五色の綾羅」であった、とするのが紫の初見である[5]。これより先、推古天皇11年(604年)制定の冠位十二階の最上位(大徳・小徳)の冠が紫だったとする学説があるが、史料には記されず、確証はない[6]。皇極天皇2年(643年)に蘇我蝦夷が私的に紫冠を子の入鹿に授けたことから、大臣の冠が紫であったことが知られる[7]。大化3年(647年)の七色十三階冠以降の服色規定では、紫を深紫(または黒紫)と浅紫(または赤紫)の2色に分け、深紫(黒紫)をより高貴な色とした[8]。道教が正式に受容されなかった日本では、高徳の僧侶に対して紫衣が許された。
その他文化に関する事柄[編集]
古代では繊維を紫色に染色する事は困難で、貴重な色とされてきた。紫が王や最上位を表すようになったのは、ローマ帝国皇帝が、ティルス紫で染めた礼服を使ったことに始まる。以来、ほとんどの国で、王位や最上位を表す色に紫を使うようになり、ローマ皇帝はその着衣に紫をまとった。なお、貴族や第2位を表す色には青が使われた。
こうした歴史の経緯により、紫は「王位」、「高級」の連想色となった。(⇔緑、藍色)
「ユダヤの王」といわれたイエス・キリストはその死に際して、紫の衣をまとわされたと伝えられる。これに準じてカトリック教会では四旬節に司祭が紫の帯をまとい、受難の日にはイエス像を紫の布で覆い隠す。
江戸時代には江戸紫といわれる色が流行した。歌舞伎『助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』で花川戸の助六が鉢巻にしているのがこの江戸紫である。それまでは、紫を染める草(紫根)が薬草であったため、武家などが病気の時に締るものとされていた。直情径行、頭に血が上り易い助六の熱さましとして巻かれた紫の鉢巻を、この芝居が大当りして以降、真似をして巻く者が現れたという。
イタリアでは不吉な色とされ、オペラ鑑賞にはあまり好ましくないとされた。
西洋の紋章学において、紫色はパーピュアと呼ばれる。古フランス語。ペトラ・サンクタの方法では向かって右上から左下方向の45度の斜線で表現する。
熨斗袋を包む袱紗の色のうち、紫色は慶弔を問わず使用可能である。
「ゆかりの色」とも言う。これは、『古今和歌集』の「紫の 一本ゆゑに 武蔵野の 草は皆がら あはれとぞ見る」という歌に由来している。
俗に「紫」の字を分解すると「此」と「糸」になるところから、「此(こ)の糸」と呼ばれることがある。また、これは紫式部を指す語でもある。
東京の地下鉄半蔵門線のラインカラーである。
人物・キャラクターに関する紫[編集]
嵐の松本潤のイメージカラー。
日本テレビの番組『笑点』出演時の三遊亭円楽(旧:三遊亭楽太郎)の衣装カラー。
ももいろクローバーZの高城れにのイメージカラー。”

p.398 福永光司は、日本固有の思想のルーツを研究するのなら、道教家の陶弘景(とうこうけい)を探究するのが近道と述べた。陶弘景(とう こうけい)は道教を神道と理解していた。
※p.402 陶弘景は道教を「真道」と表現することもある。

※※ウィキを要約しようと思ったが、あまりに天才過ぎてあまり削れなかった。
陶弘景(孝建3年(456年) - 大同2年(536年))は、万学を極めた超人。中国六朝時代の「道教家・科学者・医学者(=錬丹術師)」、道教の茅山派の開祖。眉目秀麗、博学多才で詩や琴棋書画、医薬・卜占・暦算・経学・地理学・博物学・文芸に精通。山林に隠棲しフィールドワークを中心に本草学を研究し今日の漢方医学の骨子を築く。また、書の名手で、後世の書家に影響を与えた。
20歳頃、諸王の侍講(教育係)となり武帝のときまで仕えた。30歳頃に道術を学び、36歳で職を辞し永明10年(492年)、茅山(南京付近の山・当時は句曲山といった)に弟子ととも隠遁した。
永元元年(499年)に三層の楼閣を建て、弟子の指導をするほか、天文・暦算・医薬・地理・博物など多様な研究に打ち込んだ。また仏教に深く傾倒している(まさに道教混じりの仏教と仏教混じりの道教という日本の思想の源流に影響したはずである。支配者ともパイプがあるし)。王朝が交替すると梁の武帝は陶弘景の才知を頼り、元号の選定をはじめ吉凶や軍事などの重大な国政に彼の意見を取り入れた。このため武帝と頻繁に書簡を交わしたので「山中宰相」と人々に呼ばれるようになる。すなわち、古代中国の王家にも深く関わった人物であり、間違いなく日本にも彼の思想が最先端として伝わっているはずである。年を負う毎に名声が高まり王侯・貴族らの多くの名士が門弟となった。『文選』の編者として知られる昭明太子も教えを受けたひとりである。
陶弘景は前漢の頃に著された中国最古のバイブル的な薬学書『神農本草経』を整理し、500年頃に『本草経集注』を著した。この中で薬物の数を730種類と従来の2倍とした。また薬物の性質などをもとに新たな分類法を考案した。この分類法はいまなお使われている。
道教の一派である上清派を継承し茅山派を開いた。著書『真誥』は上清派の歴史や教義を記述した重要な文献となっている。仙道の聖地である茅山に入り、弟子とともに道館「華陽館」を建て多くの門弟を育て優れた道士を輩出した。
陶弘景は仏典の『法華経(妙法蓮華経)』を絶賛していて偉大な宗教哲学書だと言っている(p.426)ので、仏教思想を入れて道教教理を作ったはずである。道経の『上清上品』と仙書の『荘子』内篇もまた同じく偉大だとしている。

p.400-402 中国古代の思想史において「神道」が最初に見える文献は『易』(『易経』の本来の書名は『易』または『周易』)においてであり、老荘道家のいわゆる「天地の道」もしくは「自然」と重なりあうものである。祭祀ないしは宗教と関わりを持つ概念である『易』(易経)の「神道」の語は、紀元前2世紀、漢の武帝の頃から急速に宗教的な要素を持つようになる。また、死者を埋葬した陵墓に通じる道、いわゆる墓道を呼ぶ言葉として「神道」が使われるようにもなる。つまりは、「神道」には「死」というマイナスイメージも含むようになったのである。しかもその神道は宗教名ではなく場所の名前である。
「神道」の古代中国での初出が『易経』であり、『易経』は道教思想の基礎の一つ。
また、神祠に通じる道が神道とも呼ばれており、漢代以降、いわゆる「神明の道」が即物的に理解されて、神明(かみ)に通じ道路、死者の神霊に通じる道を神道と呼ぶことが広く行われるようになった。
『太平経』(初期の道教教典)の中に宗教的な世界の真理を意味する「神道」の語が多く見え、また天皇の天上世界の宮殿である「北極紫宮」が説かれている(p.406)。
『太平経』において呪術宗教的ないしは仙道・真道的な性格を顕著に持つにいたった「神道」の語は、4世紀の初め、晋の葛洪『抱朴子』(※)に至って、更に仙道的な性格を強め、もっぱら神秘な道術、神仙術を呼ぶ言葉ともなる


※葛洪(かつ こう。283年(太康4年) - 343年(建元元年))は、西晋・東晋時代の道教家で、4世紀、317年頃、郷里に帰り神仙思想と煉丹術の理論書である『抱朴子』を著した。なお、著作名だけでなく、葛洪の号も抱朴子である。
4世紀後半、東晋の末期の頃になると、「神道」は、神祠や死者の陵墓に通じる道路としての意味を含めて、神秘的超越的な宗教の世界一般を呼ぶ言葉として用いられるようになる。

p.403
前述の陶弘景は、「天皇」を「仙」の世界の元首とし、「紫宮」をその天皇の居所とし、更に「真人」をその紫宮に仕える高級官僚として、宗教的な「神道」の世界を天上に構想した。陶弘景は、このような神道の世界における恒久絶対的な平和を更に「太和」として説明し、太和はしばしば「大和」とも書かれ、その「大和(太和)」の語が中国古代の思想文献で最初に見えるのは、「神道」と同様に『易経』である。『易(経)』における「大和」は、天地陰陽の和気もしくは万物生成の根源をなす宇宙の元気を呼ぶ言葉と解される(元気が良いとかいう元気も恐らくは道教由来)(ヤマト朝廷ってもしかしてこの「大和」から来ているんじゃないのか)。
p.407-409
「神道」としての道教の世界における恒久絶対的な平和を「大和(太和。太和はしばしば大和と書かれるので表記は一定しない)」と表現する陶弘景の『真誥』はまた、「太和(大和)」と併行して「太平」を説く。5~6世紀の人である、陶弘景の道教において「太平」が恒久的絶対平和を意味することは「大和(太和)」と共通する。ただし、「太平」は社会的・政治的な環境の安定を主として意味する言葉である。
内なる正を顕わす方向に力点をおくのが「太和」(大和)、
外なる邪を破る方向に力点をおくのが「太平」である。太平の世はここから来ているだろう。
「神道」としての「道教」の理想を「太和」(大和)と「太平」において強調する陶弘景は、「凡そ道術を学ぶ者は、皆須(すべか)らく好(よ)き剣と鏡との身に随(したが)うことあるべし」と言っている。道教最高神の天皇大帝は二種の神器「鏡」と「剣」を象徴として持つ。実際、日本の朝廷でももともとは二種の神器だった。天武天皇の次に天皇となった持統天皇即位時では剣と鏡が献上された。タマはなかった。
陶弘景が集大成した、中国古代の「神道」=茅山道教が古代日本に多大な影響を与えたことは間違いないことからわかるように、陶弘景は日本においても極めて重要な人物なのだが、日本史と世界史を切り離して、道教の影響をちゃんと書かないようにしていかにも日本神道が純粋だと思わせようとしている限り、陶弘景が正当に扱われることはないだろう


p.413-434
4~5世紀、仏教学者あるいは仏僧が仏教を道教として理解したりしているように、道教と仏教もまた多大に影響し合っている。純粋な思想なんてありえないことを意識しないといけない。
「急急如律令」は道教の呪文として多く載せられている(陰陽道は日本版道教)が、その律令もまた漢代以降の儒学者たちがしばしば用いている言葉である。
道教における最高神は、6世紀半ば以降は元始天尊となるが、それ以前は天皇大帝あるいは天皇と呼ばれていた。天皇大帝は、『詩経』などに見える儒教の最高神「昊天上帝(こうてんじょうてい。単に上帝とも。昊=天空。天=最高神。)」、もしくは『書経』などに見える皇天上帝と同一の神格だと後漢の儒学者が主張したりしている。
なお、『書経』も『詩経』も儒家の経典であり、単に最高神を「上帝」と略して呼ぶ場合がある。

道教=「鬼道→神道→真道→聖道」。

2世紀、後漢の時代に成立した初期の道教いわゆる三張道教(※)は鬼道としての性格が強い。


※三張とは五斗米道の張陵・張衡・張魯のこと。張陵(ちょうりょう。張道陵)は五斗米道(天師道)の開祖である。張陵の子が張衡、孫が張魯である。
三張道教とは五斗米道のことである。後に張魯が張陵を『天師』として崇めたことから、後には『天師道』という呼称に変わり、さらに正一教と名を変えて現代まで残る。
もともと鬼道という言葉は「人道」と対立するものとして用いられていて、鬼神の世界の道理・理法を意味する。そして
紀元前2世紀、前漢の時代になると『史記』や『漢書』に見られるように、鬼神を駆使する道術が「鬼道」となり、シャーマニズムとほとんど同じ内容のものとなる。しかし、
2世紀、後漢の時代の中ごろにおいて鬼道(≒シャーマニズム)としての道教は、『老子』の道(タオ)の哲学と『易経』の「神」(シン)の哲学を上乗せし、自らの道教を「神道」と呼ぶようになる。
140年代(2世紀)に出現した『太平清領書』(現行の『道蔵』太平部に収める『太平経』がこれに相当する)の中には“神道は不死にして鬼道は終(し)す”のように「道教としての神道」が多く登場する。
こうした『太平清領書』(『太平経』)の神道の思想は、それに半世紀遅れる張角(ちょう かく、? - 184年※)の太平道や、
張魯らの天師道(三張道教。五斗米道→天師道→正一教と呼称が変わっていく)にも引き継がれた。

※張角(ちょう かく、? - 184年)は、太平道の教祖。太平道(たいへいどう)は、後漢末の華北一帯で民衆に信仰された宗教。『太平清領書』を教典とし、教団組織は張角が創始した。教団そのものは後漢末期の184年(中平1年)に黄巾の乱(Yellow Turban Rebellion)を起こしたのち、張角らの死を以て消滅した。

魏・晋の時代に成立して張魯の天師道教団の幹部教育用の講義録であろうと推定されている『老子想爾(そうじ)注』(正確には『老子道経想爾註』)に見られる初期道教の教義は、中国古来の鬼道をその底部の基盤として置き、その上部構造として『太平経』と共通する「神道」の思想を新しく導入しているのは上述の通りである。が、この教義書においては、儒教を俗道として排斥し、自らの道教を「真道」として強調し、
“仙士は(真)道を味わい、俗事を知らず、純純として痴のごときなり”
とし、儒教に対しては“真道は蔵(かく)れて邪文出づ”と避難している。
俗道としての儒教に対しての対抗心から「真道」としての道教が生まれたのだろう。
後漢の時代の『太平清領書』(『太平経』)でも「真道」の語は既に多く見られるが、この「真道」を俗道と対比させてしかも儒教を俗道と厳しく決めつけ、それに対して「真道」たる道教の優位性を何度も主張するようになるのは『老子想爾注』が書かれた時代、すなわち3世紀、三国魏・晋初の頃からである。
「真」と「俗」を対比させる思考は『荘子』に始まり、3~4世紀、魏・両晋の時代の『荘子』の哲学の盛行と対応して、真道の道教が強調されている。
魏晋の頃までは中国仏教もまた、布教の便宜もあって(聞きなれた言葉の方が信者獲得し易いから)自らの仏教を時には神道の教と呼び、真道の教と呼ぶこともあったが、
5世紀、宋・斉の時代以後、道教が真道としての教理・儀礼・教団組織などを確立するようになると、中国仏教は対応して自らを道教の真道よりも上の宗教として仏教は「聖道(聖教)」だと強調するようになる。仏教が自らを聖道(聖教)だと強調する動きが活発になるのは、
六朝(222- 589年。3~6世紀 ※)の後半期、斉梁の時代(479- 557年)以後である。道教の強調する真道は単に自分だけが助かろうとする独善的なものであるから駄目だ、我々の仏教は広く衆生を救うものであり儒教の聖人の道と共通すると主張した。
いやいや我々道教も仏教と同じく自分だけでなく他人も救う宗教だと主張するための『度人経』や『救苦経』など衆生救済を説く道教経典が、
6世紀、南北朝時代の後半期から積極的に作られることになり道教は真道から聖道へ展開していく。
仏教の影響によって、この6世紀に道教の新たな最高神・元始天尊が出現する。本来の道教の最高神「天皇大帝」にとってかわった最高神である。「天尊」は仏教用語を取り入れたものである。
ここまで鬼(き)→神(しん)→真→聖、の道教の思想展開を整理してきたが、ここで注意しないといけないのは、聖道としての道教を強調するようになっても、それまでの鬼・神・真を排除したりは決してしておらず、自己の教えを神道や真道として強調することをすべて停止してはいないことである。
怪力乱神を語るシャーマニズムとしての鬼道=道教は、
『易経』と『老子』の高度な形而上学をその上部構造としてもつ神道の底部でおいても依然として温存され、
死生も己れを変ずることのない『荘子』の逍遥遊の哲学を教義として導入する真道の底部においても、
鬼道は根付いている。しかし、
道教の教理学に一貫して重要な地位を占める神仙世界の官僚組織、いわゆる仙界二十七品説は、六朝時代の中期において、「聖」を最高位に置き、「聖」九品、「真」九品、「仙」九品として位階が確定されて以後、それ以前のように「仙」を「聖」の上位に置く思想は復活することなく、「仙→真→聖」の枠組みが固定的に定着し保持されている。つまりは聖道が一番格が上だとみなしているということである。


※六朝(りくちょう)は、中国史上で建康(建業)に都をおいた、三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳の総称。呉(222年 - 280年)→東晋(317年 - 420年)→宋(420年 - 479年)→斉(479年 - 502年)→梁(502年 - 557年)→陳(558年 - 589年)

道教=「鬼道→神道→真道→聖道」の流れ図。

鬼道  2世紀、後漢(25 - 220年)時代頃まで。最高神・天皇(北極星の神。天皇大帝)。
↓(『老子』の道(タオ)の哲学と『易経』の神(シン)の哲学の影響)
神道  2世紀、後漢の時代の中頃から。太上老君が出現。最高神・天皇(大帝)。
↓(3~4世紀、「真」と「俗」を対比させる『荘子』の哲学の盛行)
真道  3世紀頃から。太上道君が出現。最高神・天皇(天皇大帝)。
↓(聖道を名乗る仏教が、道教を利己的だと攻撃)
聖道 6世紀 元始天尊(仏教の影響)が新たな最高神として出現(当時は新参)。

日本に多大な影響を及ぼすので、当然古事記と日本書紀にも大きく影響する。『日本書紀』では日本土着の信仰を「神道」と表現し、最高位の「聖道」とは表現していない。編纂に大きくかかわった舎人親王は道教家の天武天皇(初代「天皇」)の息子であり、次の天皇の持統天皇は即位の際に(天皇大帝の象徴たる)剣と鏡の2種の神器を受取っている。3種の神器は後になってからである。

邪馬壹国の卑弥呼は鬼道をしていたと、いわゆる魏志倭人伝、正確には中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条にある。「卑」「邪」「倭」という悪い意味の言葉を当てたので当然、「鬼道」も、道教の最初の段階という馬鹿にした表現である。
著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年(呉の滅亡)-297年(陳寿の没年)の間)に書かれたので、既に「真道」まで展開している。
邪馬台国論争は馬鹿げている。「やまたいこく」という読みであるが、これは二種の異なった体系の漢音と呉音を混用している(呉音ではヤマダイ又はヤメダイ、漢音ではヤバタイ)ので、「やまたいこく」という間違った読みから出発しては永遠に解決しない。
発言を音で聞いてそれに漢字をあてたので、当時の発音を知らないとどうしようもない。漢字の読みの変遷を研究している学者と研究しないと話にならない。日ユ同祖論も当時の発音を検討しないので駄目。そもそもヘブライ語は子音表記であり、アルファベットで喩えるならDKYは道教とも読経とも読めてしまうからいくらでも勝手に読めてしまうのだ。


p.473からの年表を一部抜粋。
・紀元前350年頃、戦国の世、荘子が「道」の哲学を説き、「道」の体得者としての「真人」「神人」の哲学を確立し、以後、道教では「真人」「神人」が「仙人」より上位に置く思想の源流となる。また、真人の徳を「鏡」に喩え、道教の鏡を神器とする思想の源流。
・135年頃、張衡 (科学者、文学者。78‐139※)が 『思玄賦』を作り、天皇(天皇大帝)を最高神とする天上の神仙世界の構図を描く。

・142年、後漢末に張陵(張道陵とも)が、蜀(四川省)の成都近郊の鶴鳴山(鵠鳴山。現在の大邑県)で、五斗米道(ごとべいどう)を創始する。
・184年、張角が太平道という道教団体を作り黄巾の乱を起こす。

・252年(嘉平4年)頃、康 僧鎧(こう そうがい)らによる『仏説無量寿経』の漢訳成る。道教的色調が色濃い漢訳。
“仏と作(な)りて道教を宣布す”
“諸仏の国に遊びて普(あまね)く道教を現ず”などとあるように、仏教もたびたび「道教」と漢訳されている。
『仏説無量寿経』2巻 曹魏の康僧鎧訳…「魏訳」は、日本の浄土教の根本聖典の一つで、『仏説観無量寿経』(畺良耶舎訳)、『仏説阿弥陀経』(鳩摩羅什訳)とともに「浄土三部経」と総称される。
浄土真宗の宗祖とされる親鸞(鸞は道教では聖鳥とされている)は、『仏説無量寿経』を特に重んじ、浄土真宗の最重要経典となっている。
「魏訳」版の『仏説無量寿経』は、「自然」「無為」「清浄」など、曹魏・西晋時代の老荘ないし道教と共通する用語を訳語に使っているので必然道教色が濃くなり、必然、日本での仏教も道教要素を持っていることになる。紫の袈裟は高僧の象徴であることとかね。
なお、日本の古文では「道」は特に仏の教え(仏道)を意味する。


・536年(斉梁 時代)、茅山道教(上清派道教)の教学理論の定礎者である陶弘景が死去。『真誥』の編集者。
陶弘景は、道経の『上清上品』、仙書の『荘子』内篇、仏典の『法華経(妙法蓮華経)』の「三道」の書を偉大な宗教哲学書だと絶賛。

・542年(東魏・北周 時代)、中国浄土教の開祖とされる曇鸞(どんらん)が死去。曇鸞(どんらん)は茅山の陶弘景からも学んでいて、浄土教には老荘思想が大きく影響している。日本の浄土真宗の開祖・親鸞の「鸞」は曇鸞(どんらん)から取ったと思われ、しかも「鸞」は道教の聖鳥である。

・建徳3年(574年)、北周(556 -581年)の武帝(560- 578年)が道教と仏教をともに廃止したが、仏教・道教の研究機関として通道観を設置し、120名の通道観学士を選任した。寺院の破壊と財産の没収、僧侶の還俗を行って財産を没収し、税賦を逃れる目的で僧籍に入る者を還俗させて税を取ることで財政改善を狙った(三武一宗の廃仏)。


※〔張衡 (道教)という後漢末期の五斗米道の2代目教主とは別人なので注意。道教の張衡(ちょう こう、陶弘景の『真誥』第四巻によると、? - 熹平7年1月7日(177年2月27日)[1])は、後漢末期の人物で、後漢(25年 - 220年)なので、別人だとわかる〕
張衡 (科学者、文学者。78‐139)は、中国の後漢時代の科学者・文学者・政治家・天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家・詩人。安帝・順帝に仕え,天文暦法や史料編纂の長官に当たる太史令になり、後漢では最高の官の尚書になった。『思玄賦』などの作者。
天文・陰陽・暦算に通じ、世界最初の水力渾天儀(117年)、水時計、候風と名付けられた世界初の地動儀(132年)、つまり地震感知器など素晴らしい発明をしている。地動儀は500キロメートル離れた地点の地震を感知することができたほどである。
円周率も計算し、2500個の星々を記録し、月と太陽の関係も研究した。著書の『霊憲』において月を球形と論じ、月の輝きは太陽の反射光だとし、月食の原理を理解していた。
月の直径も計算したとされ、太陽の1年を、365日と1/4と算出した。小惑星(1802 張衡)には、彼の名がつけられている。なお、彼の天文の研究や地震計の発明には、2世紀に入り、後漢に天災が多発しだした時代背景がある。この科学者の方の張衡の知名度もまた低い。本当の支配者がいる西洋優先だもんね。
中国での大発明の一つがGODの訳語としての「神」。これにより神道が日本版キリスト教に変質していく。
古代中国の4大発明が①羅針盤②火薬③紙④印刷、がヨーロッパに伝わったのは中世も終わりごろ。特に唐朝(618年-906年)がすごいらしい。

中国の科学技術史- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%A7%91%E5%AD%A6%E6%8A%80%E8%A1%93%E5%8F%B2
(2014年三月九日 日曜日 引用保存)
“古代中国の4大発明は、羅針盤、火薬、紙、印刷である。ニーダムがこれを最初にとなえた。紙と印刷の発明がこの中で早かった。印刷は唐の時代の中国の記録があるが、布地のプリント染色は220年以前のものが残存している[14]。羅針盤の発達を正確に追跡するのは困難だが、針と磁石の引き合いは20年-100年頃に編纂された『論衡』で検証されている[15]、中国文学に磁針が初めて登場するのは1086年である[16]。

晋(265年-420年)の時代の300年までには錬金術師の葛洪が硝石・松脂・木炭を一緒に加熱したときに生じる化学反応を自著『抱朴子』に記録している[17]。その他の火薬の記録では、850年頃の中国のある書籍には、道教徒が不老不死の霊薬を作ろうとしてできた副産物が火薬であるという記述がある[18]。
硫黄・鶏冠石・硝石・蜂蜜を混ぜて加熱すると煙と炎が上がり、作業者の顔と腕は焼け、家屋は全焼した[19]。この4大発明は中国文明の発展にのみならず、地球規模で巨大な衝撃を与えた。たとえば火薬は13世紀にアラブ世界に広がり、その後ヨーロッパへ伝わった[20]。イギリス人哲学者フランシス・ベーコンは『ノヴム・オルガヌム』 (新機関)en:Novum Organumのなかで次のように記している:”

※道教家が、錬丹術師=科学(化学)者である場合がある。
錬丹術(れんたんじゅつ)は、道教の一分野(中国の道士の術の一つ)。服用すると不老不死の仙人になれる霊薬(仙丹)をつくるのが目的。中国の医薬学・本草学の発展に寄与し、火薬の発明は煉丹術の副産物とされるなど、完全に科学研究である(当時はトンデモ研究と呼ばれても、後世で最先端の素晴らしい研究だと評価されるのはよくあること)。

錬金術=科学(化学)=悪魔の儀式(キリスト教視点)
実験器具=悪魔の道具(キリスト教視点)
錬金術師=科学者=悪魔(悪魔崇拝者)(キリスト教視点)。
※金自体は作れなかったけど、金メッキならできました。
※卑金属を貴金属に変える力を持つ不老不死の霊薬「エリクサー(賢者の石)」(ハリーポッターはスコットランド系フリーメーソン本部の作品)の製造などを目的とする西洋の錬金術とは、科学研究なので共通する部分も多い。なお、西洋の錬金術がどちらかというと金を作ることが主な目的で、煉丹術は昇仙と不老不死を主な目的とする点で異なる。

フリーメーソン(自由石工)は建築に科学が必要なこともあって、錬金術師(科学者)を吸収し科学研究団体の側面を持っていたので、必然的に反カトリック要素を持つ。実際にカトリックに弾圧され、キリスト教お得意の「悪魔」呼ばわりされたりした。フランス革命(メーソン革命)でできたメーソンフランス政府は法律でカトリックを縛ろうとしたりするなど、科学理性とキリスト教の対立は今も尾を引いている。
でも今や完全にグルだけどな! 対立したとしても相手を潰さない程度ですよ。
今や白人至上主義派閥という、フリーメーソン本来の思想とは異なる異端派(ナチスの残党など)がイングランドとアメリカあたりで生物兵器実験などをやっている。イギリスや英国の言葉でメーソンを語るのはできるだけ避けるべき。スコットランド・アイルランドとイングランド・アメリカの対立(カトリック対プロテスタント)を考え派閥が違うことを意識しないといけない。スコットランド・フランスあたりがメーソン本来の思想を継いでいる。EUってカトリックが強い、世界政府第X形態。
白人至上主義が主流派なら、メーソンのマークにピラミッドという黒人イスラム国家の建物なんてとっくに廃止しているって!

色々脱線(でも重要)しましたがこれにてお開きにします。
道教系陰謀論=道教を絡めた歴史検証作業、いかがでしたか。私が知るなかで、道教系陰謀論者はねここねこだけでしょう。別に道教信者ではありませんけどね。
私が知る陰謀論者の中で、道教と明治以前の天皇の関係と明治以降の現人神=イエスキリストの訳語(明治以前の天皇=神はGODではなく「神秘的で凄い」という意味)と絡めて論じた人はいませんでしたので、私がすることにしました。キリスト教の変形に過ぎない天皇崇拝や日ユ同祖論などの日本支配の根幹をなす嘘に対抗する最良の手段の一つが、道教です。
なのでこれからも盛んに発言していこうと考えております。
ではまた。
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