読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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古代史(近江王朝・九州王朝説など)勉強メモ。ヤタガラス=ニワトリ(太陽)+三足鳥(太陽)で苗族が重要。金光教と大本教は鬼結社+和風キリスト教。ヤタガラスって単なる和風キリスト教じゃないの?キリスト教系工作員の特徴である日ユ同祖論を布教している奴らが超古代を強調するのは、仏教国教時代を無視したいからだよ 

長いよ!勉強用メモ要素が強いからね。まあ私が徹底的に学ぶタイプだと示せたかな。

ネットで出回っているものは警戒すべき。
紐付き陰謀論者(キリスト教の手先)が流す、無自覚工作員育成用のキリスト教に見えないキリスト教思想が
ユダヤ陰謀論(バチカンの伝統)
日ユ同祖論(聖書が根拠)
宇宙人・秘密結社の悪魔崇拝非難
(悪魔を具体化しないキリスト教のデマパンフが元)
。”

金光教と大本教は鬼結社+和風キリスト教

”八咫烏や裏天皇論者には、寺に管理されていた神社の土着信仰(和風道教)をキリスト教が乗っ取り神道を捏造したことや、
天皇・神道・神器が道教用語で仏教徒の天皇+高僧の側近が真の伝統なのと、
日ユ同祖論やユダヤ陰謀論を捏造したキリスト教の手先が明治以降のガーター騎士団員の偽天皇だと言おう。”

”道(タオ)→伝道(暴力=武道で脅す)。
八咫烏好きは記紀が道教書で、
企画者の初代「天皇」天武が道教家で、
神道も陰陽道も中国原産の道教の一派で、
明治以前の国教が道教混じりの仏教なのを隠す。
JFAの八咫烏マークに影響した内野台嶺は曹洞宗で儒学者=アンチ道教。”

”「鬼道=シャーマニズムの道教」に、
老子の道(タオ)と易経の神(シン)の思想が混ざり2世紀、後漢の時代の中頃から「神道の道教」となる。
真俗を対比させる『荘子』の哲学の盛行で3世紀頃から「真道の道教」となる。
聖道を名乗る仏教に対抗し6世紀に道教側も「聖道の道教」となる。「聖」が最高。”

”道教の宗教認識:
鬼道(シャーマニズム。卑弥呼)
<神道(墓道の意味もある。格下扱いする『日本書紀』)
<真道(真人=最高の人。天武天皇は真人を八色の姓での最高位とし諡にも入れさせた)
<聖道(道教と仏教)。
本地垂迹説に基づく寺(道教混合)による異教支配の根拠。
明治以前の神=道教の神仙。”

”「邪」馬台国論争は当時の発音を無視した茶番。鬼道(道教用語)の「卑」弥呼や倭のように隣国を馬鹿にする国が金印を贈るコメディが古代史(笑)。
神道(道教用語)を神道カルト(和風耶蘇教)にすり替えた偽天皇+大本+紅卍勢力が卑弥呼は凄い神道家(笑)だぞデマを喧伝。”

”魔法=潜在意識操作。
三刀流のゾロ=鬼・阿修羅の奥義は三千世界。仏教でなく鬼と三千世界なら大本教。ハルヒも大本教。ナルトは阿修羅。
黒幕の魔導士↓
http://www.nicovideo.jp/watch/sm22755002


”大本教は陰陽道における悪鬼を崇め、拝火教はインド神話における悪神を崇める善悪逆転。
ナルトは実は隠れ拝火教。
主人公(稲荷。兄弟子が長門=長州)=アシュラ=善。
ライバル(輪廻)=インドラ=悪。”

”インド神話のガルダ(カルラ)は蛇(龍)を食う(鳥>蛇・龍)。ガルダはインドラより100倍強いのでインドラは勝てない。
ナルト:デイダラのC4カルラ(超小型ナノサイズ爆弾)をサスケ(インドラ。雷)が破るのは、インド神話の否定。拝火教はインド神話の善神を悪神にする。芸術は呪術で忍術。”

”鬼結社。吸血鬼。修羅の門。鬼太郎。一つ目玉おやじ。
地獄先生ぬ〜べ〜(バキという鬼の手)。範馬バキは背中が鬼。
ヤンジャンは鬼塚(教師モノは啓明会の宣伝)、フランス、大陸系のグラントリアン路線。”

”創作物は予め嘘だと言うので真実が最も多い。嘘吐きが真実を言うと逆効果になることを利用。
東京喰種:✝孤児院を営んでいた神父がグール=食人鬼で、子供を食っていたが、アモン(悪魔)は食われなかった。”

”東京喰種:旧主人公は上井大学(上智大学=イエズス会)の学生で眼帯。右目を隠すヒロイン。
新主人公は33木(22才)。11の倍数。
梟は智慧の女神の象徴なので隻眼の梟は知的な職業(小説家)の女性。”


「~について言っていないから工作員だ」という論法は頻繁に使用されます。
しかし、これはいくらでも難癖をつけることが可能なので気をつけないといけません。
私は、「キリスト教について言っていないから工作員だ」、とはせずに、
「秘密結社の陰謀論を悪魔だと言っている人は、キリスト教が秘密結社叩きに使ったデマパンフと同じことを言っていて、しかも、キリスト教という世界最強の宗教だけが陰謀論の黒幕にならない」
というように、
「『~について言っていない』という実例があまりにも多すぎる。しかもその言っていない個所が見事に陰謀の黒幕になれる最有力候補=キリスト教」
という事例の積み重ねを根拠
として使っているのです。

例えば、「ねここねこは日本の古代史について言っていないから工作員」だと言う人がいたとしても、それは単なる言いがかりでしょう。
まあ、今回の記事で、古代史についても語りますのでこの言いがかりも無効になります。

私が古代史を扱わなかった理由は、古代史の資料ほど改竄されているものはないからで、しかも改竄した勢力が多数だからです。
明確に言えるのは、今の天皇家や教科書は百済を強調し、高句麗を意図的に無視していることですね。百済は高句麗勢力に冷や飯を食わされてきたんでしょうね。

例えば、明治維新以降に改竄されたなら、その改竄個所はキリスト教に都合が悪い個所だと予想できるのですが、古代史の資料だと、改竄個所候補があまりにもおおくなります。
よって今まで扱わなかったのです。

というわけで、今回は私も初学者の項目を勉強する為の記事でもあります。
きっかけはこのツイート。

子子子子子(ねここねこ)@kitsuchitsuchi
”神道のお札の元ネタは道教のお札。
茅山道教を創始した陶弘景(5・6世紀。皇帝の相談役)は「道教は神道」と主張。
天皇崇拝は星崇拝であり太陽崇拝ではない(天照は誤り)。天皇は天皇大帝の略称。天皇大帝は北極星の神格化であり剣と鏡の二種を象徴として持つ。日本の皇室でも元来は二種の神器。”

Aran Meclaren‏@WorldWildWow·10月30日
”大和と倭国(九州王朝)、近江王朝)を一緒にしたらアカン。それぞれ陰陽=太陽と月の関係であり、それに北辰信仰が合わさったもんや。
つまり三鳥居系の奴らは後にやってきて、毒殺&縁組みで朝廷を乗っ取って歴史を書き換えた奴らやで。”

ご助言ありがとうございます!

Aran Meclaren@WorldWildWow さんは私をフォローして下さっているのですが、私をブロックしていますので返答できません。よってこの記事を書きました。今見たら、私へのフォローはまた外しておりました。
まあいいや。仕方ない。
ちなみに、J・ナナミ‏@pinkglalemさんにもブロックされております。
フランス革命について解説してほしいなあ。メーソン抜きで説明できるかな。
あと、カルト信者の相手をすると力を吸われますよ

二人とも私が大変尊敬している方々です。

J・ナナミ‏@pinkglalem
”イルミナティがどーのこーのとか、ビルダーバーグがどーのこーのとか、ユダヤがどーのこーのとか言ってる陰謀論がインチキ臭いのは、その指揮系統と被統治民から搾取した資金の行き着く先を洗い出さないから...コイツ等、結局、ソコを突かれるのが、嫌なワケ。”
”911の黒幕はCFR...?でも、CFRを仕切っているのは、ニューヨーク枢機卿。イスラエルを統治してるのはユダヤじゃァない。#ヴァチカン。”


では古代史のお勉強。
初学者なので引用ばっかりですのであしからず。知らない分野は最初は論理的におかしいもの以外は、正しいものとしてまずは受け入れるしかありませんから。

神道のお札の元ネタが道教であることについては以下の引用から、そして神道が道教用語だからです。

神社のお札やお守りが1年しか持たない理由
http://feidempire.blog71.fc2.com/blog-entry-559.html
”神道のお札の文化がそもそも中国道教由来なのか?という疑問が
まずありますが、

かなり高い確率で中国道教が元ネタだと
思われます。
(中略)
お札に思いっきり”急々如律令”と書いてある。(笑)
(中略)
この”急々如律令”という文言は道教特有(陰陽道も使うけど)の
文言
で”天帝のお墨付きですよ。ちゃっちゃっと取り掛かって下さい”
という意味で、元々中国の皇帝の出す勅令の文章の末文から
コピーして来た文句です。
だから仏教系のサンスクリットで書いてあるお札にはこの文言は
つきません。
逆に道教の霊符には佛という仏教の”仏”という文字を入れる場合が
あります。これは仏教から仏様を道教側がパクったわけですね。
元々、仏教が中国に伝わったばかりの中国では道教自体が原始的
な宗教から抜け出しきれておらず、仏教の方がずっと教義が
高度だったのです。
つまり現代の台湾や中国の道教教義というのはかなり後世に
なってできた物なのです。最初から高度な老荘思想とかを
含んでいたわけではありません。

というわけで神道の教科書のお札の例に”急々如律令”と
書かれているということはほぼ100%中国道教由来

考えて良いわけです。


茅山道教を創始した陶弘景(5・6世紀。皇帝の相談役)は「道教は神道」と主張や、
二種の神器に関しては記紀などからですね。
天皇は仏教徒だから即位の際に神器って不必要なのでは?
まあ、道教カテゴリーの記事に資料がありますのでよかったらどうぞ。

天皇崇拝は星崇拝であり太陽崇拝ではない(天照は誤り)。
天皇は天皇大帝の略称。天皇大帝は北極星の神格化であり剣と鏡の二種を象徴として持つ。
日本の皇室でも元来は二種の神器

の箇所に対して、
・大和と倭国(九州王朝)、近江王朝)を一緒にしたらダメ。
・それぞれ陰陽=太陽と月の関係であり、それに北辰信仰が合わさったもの。
・つまり三鳥居系の奴らは後にやってきて、毒殺&縁組みで朝廷を乗っ取って歴史を書き換えた奴ら。

意図を探るためにほかのツイートを見ます。ねこたさんのツイートが会話から消えていることに注意。


ネズミさん‏@Nezmi_san
”そもそも日本では仏教が哲学なのかもしれませんね。”

Aran Meclaren‏@WorldWildWow
”間違いなくソレでしょ!

今の仏教は、完全に拝火教やマニ教、密教に乗っ取られてる。
信長か高野山を焼き払う気持ちがよく分かる。”
”ホントそう思う。
天蓮華信仰って西太后からきてる。アマテラスもそう。それが弥勒にもなってる。
弁才天は本当は違う古代の大地母神(蛇)だけど、今は一緒くたにされてる。”
”老子、荘子が実在したかは定かではないけど、三教のやつらも臭う。
パチンコ屋もサンキョー。 日本に仇なすマルハン。

もともと華僑、華人の言うことは信用できんっ!
司馬遷も怪しい…”
”道教は日本人は関わっていないでしょ。思想体系が違いすぎる。”
”あいつら日本人じゃないです。

そもそも道教は神懸かりした人=神(絶対者)ですから。”
”だから日本人じゃないって。奴らは日本人の振りをしているだけです。

そいつらが権威を独り占めしただけ。仏道派は見向きもしないですよ。”
”いやいや、あやまる必要はないっす(・ω・)ノ

道端で「あなた道教ですか?」と聞いて「はい」と答える人はいないでしょう。
ま、そーゆーことです。”

・今の仏教は、完全に拝火教やマニ教、密教に乗っ取られている。
・天蓮華信仰は西太后からきている。アマテラスもそう。それが弥勒にもなっている。
弁才天は本当は違う古代の大地母神(蛇)だけど、今は一緒くた。
(この個所は本記事では検証しません。とんでもなく長くなりそうなので)
・道教は日本人は関わっていない。思想体系が違いすぎる。
あいつら日本人じゃない。 そもそも道教は神懸かりした人=神(絶対者)。
日本人の振りをしているだけ。 そいつらが権威を独り占めしただけ。仏道派は見向きもしない。
道端で「あなた道教ですか?」と聞いて「はい」と答える人はいないでしょうから、道教はマイナー。

道教勢力が日本の王朝を乗っ取ったってことね。
となると、三鳥居は道教施設か?
サントリーってそういうことか?

とにかく引用で勉強だ。

鳥居コレクション
http://www.h4.dion.ne.jp/~amahara/cg/torii_index.html
”● 明神鳥居系 ●
--------------------------------------------------------------------------------
●明神鳥居
 (写真:京都・八坂神社)
--------------------------------------------------------------------------------
 もっとも一般的で一番良く見かける鳥居様式。
 後述の「台輪鳥居」の台輪部分が無いもの。
(中略)
三輪鳥居  
(写真:埼玉・三峯神社)
--------------------------------------------------------------------------------
 両側に副柱「袖鳥居」を持つ様式。
(中略)
● その他 ●

--------------------------------------------------------------------------------
三柱鳥居
 (写真:京都・木嶋坐天照御魂神社(蚕ノ社))
--------------------------------------------------------------------------------
 三本の柱が正三角形の頂点上に立っている
 珍しい形の鳥居。
 京都の木嶋坐天照御魂神社の鳥居が有名。

 東京の三囲神社にもあるが
 本家は木嶋坐天照御魂神社
です。 ”

三ツ鳥居と三柱鳥居は違うのね。

三ツ鳥居(みつとりい)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%84%E9%B3%A5%E5%B1%85
”三ツ鳥居(みつとりい)は、鳥居の様式の1つである。三輪鳥居(みわとりい)ともいう。

1つの明神鳥居の両脇に、小規模な2つの鳥居を組み合わせたものである[1]。

おもな三ツ鳥居[編集]
三峯神社 (埼玉県秩父市)
美和神社 (長野県長野市)
三輪神社 (愛知県名古屋市)
大神神社 (奈良県桜井市)

三ツ鳥居の形式ができた年代や由来については不明である[2]。なお、三輪山山中の禁足地にある三ツ鳥居は重要文化財に指定されている。
檜原神社 (奈良県桜井市) - 大神神社摂社
坐摩神社 (大阪府大阪市)
白峰宮 (香川県坂出市)”

三柱鳥居(みはしらとりい)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9F%B1%E9%B3%A5%E5%B1%85
”三柱鳥居(みはしらとりい)は、鳥居を3基組み合わせたものをいう。

正三角形平面に組み合わされ、隣り合う鳥居同士が柱を共有するため柱は3本である。笠木は井桁状に組まれ、貫は柱を貫かない。神明鳥居を組み合わせたものや、木島神社の例のように、笠木に曲線を施したものを組み合わせたものが見られる。

おもな例[編集]
木嶋神社
木嶋神社(蚕の社・京都市右京区太秦)には、石造りの三柱鳥居が境内の「元糺の池(もとただすのいけ)」の中に建てられている。現在のものは1831年に再建されたものだが[1]、「北斎漫画」十一集「三才鳥居」に描かれているものは木造となっている。
三囲神社
三囲神社(東京都墨田区向島)には、石造りの三柱鳥居があり、鳥居に囲まれるように井戸が設けられている。三井家の守護神として崇められていることもあり、鳥居には「三角石鳥居。三井邸より移す。原形は京都・太秦 木島神社にある」と書かれている。
岐阜県大和町
大和町 (岐阜県)にある三柱鳥居は、標高1000メートルほどの場所にあるが、鳥居がある場所に神社はない。車が通れる道からは2キロメートルぐらいであるが、登山道は不明瞭である。ちなみに、林道まで戻れば白山神社 (郡上市)がある。


木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E5%B6%8B%E5%9D%90%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%BE%A1%E9%AD%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE
”木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)は京都市右京区太秦にある神社である。式内社で、旧社格は郷社。祈雨の神として信仰を集めている。

通称木嶋神社(このしまじんじゃ)。また、本殿東側に織物の始祖を祀る蚕養(こかい)神社があることから蚕の社(かいこのやしろ)の通称が広く知られている

祭神[編集]

現在では祭神を天御中主命・大国魂神・穂々出見命・鵜茅葺不合命としている。

木嶋坐天照御魂神社は「木嶋に鎮座する天照御魂神の社」という意味で、本来は「天照御魂神」を祀る神社ということになる。この「天照御魂神」がどの神を指すのかについては諸説ある。『葛野郡神社明細帳』では上述の神々の他に爾々芸命の名を挙げている。『神社志料』では天火明命のこととしている。関西には、ほかにも「天照(アマテル)」のつく神社がいくつかあり、元々はそれぞれ当地の太陽神を祀っていた神社と考えられている。

続日本紀などの国史には「木嶋神」の名前で登場する。「木嶋」という名前は、原野に茂る木々の様が「木の島」のようであったからとされる。
歴史[編集]

起源は定かではないが続日本紀の大宝元年(701年)4月3日の条にこの神社の名があることからそれ以前から祭祀されていたとされる。『延喜式』では名神大社に列し、月次・相甞・新甞の官祭を受ける社として記載されている。

この神社がある嵯峨野一帯はかって朝鮮半島を経由して渡来した秦氏が製陶、養蚕、織物などの技術を持ち込んだ。蚕が祀られているのもそれゆえである


ここ10年の間に、境内の池の湧き水が枯渇してしまった。近隣の宅地開発が原因とも言われている。

社殿[編集]

社殿は本殿、東本殿(前述の蚕養神社)、拝殿などからなり明治以降の再建である。

社殿の西にかつては湧水が豊富であった「元糺の池」(もとただすのいけ)という池の中に三柱鳥居がある。柱が三本で三正面、上からの形は三角形となっている鳥居は珍しい存在であり京都三鳥居の一つとされている。これも起源不明ながら現存するものは天保2年(1831年)に再興されたものである。”

ウィキは改竄されまくりだからあくまで参考にすべきなのですが、初学者には判定出来ません。
なので他のところも必ず読むようにしています。


以下の引用に、”飛鳥昭雄氏が、その著書の中で、裏の神道組織「八咫烏」の頭領に、
「古代の日本は、全ての神社の鳥居が3本足だった」”とあるのですが、
キリスト教の手先で、キリスト教系工作員の特徴である日ユ同祖論を布教しております。
うわ~全然信用できない。
彼の言うヤタガラスって単なる和風キリスト教じゃないの?
超古代を強調するのは、仏教国教時代を無視したいからだよ。


多分違う。

古来の鳥居は3本足だった
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_187.html
”今では、一般化している、下記のような鳥居。
2本足の鳥居です。

▼下記は籠神社の鳥居(京都府宮津市字大垣)

▼下記は元伊勢内宮皇大神社の鳥居(京都府福知山市大江町内宮)

しかしながら、、、日本の始祖の時代。

御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と呼ばれた、
実質、日本の初めての天皇とも言える第10代の祟神天皇の時代は、、、

こうした2本足の鳥居では無かった可能性があると言うのを、ご存知でしょうか?
そして、もう一つ大事な事ですが、、、そもそも鳥居とは何なのでしょうか?

まぁ、鳥居は、機能的には、俗世界と神域を隔てる境界のような機能を持っていますが、
「鳥居」という言葉からは、鳥が居る場所、、、と考えるのが自然です。
では、鳥居には、どんな鳥が住んで居るのでしょうか?

八幡宮とかなら、鳩とか似合いそうなもんですけど、、、
実際は鳥居に住む鳥は、鳩ではありません。

▼石清水八幡宮の鳥居の扁額(へんがく)の「八」は、鳩になっている

これを解くには、古代の中国を考えてみることが必要です。
例えば、湖南省長沙の馬王堆の「帛」には、月の中のヒキガエルと対をなすように、
太陽の中に、烏(カラス)が描かれているのが分かります


▼馬王堆漢墓(まおうたいかんぼ)1号墓の帛画
また、中国の「大荒東経」には

「湯谷の上に扶木あり、太陽がひとつ至るやひとつ出てゆく。皆カラスに背負われている

・・・と言う記述も見えます。

したがって、"カラスは太陽神の使い"である事が分かります。

一方、日本の神社を見て見ましょう。
日本の神社は、ご神体が鏡です。

「この鏡が何を意味するか?」と言えば、、、
古事記の中で、下記のように書かれているのが、鏡を信仰する由来になっています。

天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、
この鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下された。

鏡に映ったのは太陽神です。
したがって、天照大神を祀る日本の神社は、基本的に太陽神を祀る神社なのです。

それで、古代中国においては、"カラスは太陽神の使い"でした。
したがって、太陽神である天照大神の使役する鳥も、またカラスなのです。

だからこそ、鳥居は、カラスの住む場所と言えるのです。

カラスは三本足であるならば、鳥居は?

そして、大事な事ですが、太陽に住む烏(カラス)は、
古代中国の時代から"3本足のカラス金烏(きんう)である"と信じられてきました。

3本足のカラスには、熊野の八咫烏がありますが、
元々は、金烏だったのが、日本において八咫烏
となっています。

さぁ、、、こういうところから考えると、、、
3本足のカラスの住む鳥居の足が、なぜ2本なのでしょうか?

鳥居は2本足であるよりも、3本足である方が、信仰的には自然だと思いませんか?

そのような考えに基づいて考えて見ると、
日本にも幾つか、3本足の鳥居が残されている神社が見られます。

▼木島坐天照御魂神社の三柱鳥居

写真は、「三囲神社と蚕の社の三柱鳥居」より引用

▼伊香具神社の伊香式鳥居

▼大神神社摂社の檜原神社の三柱鳥居

他にも、あちこち見られますが、
実は、これらのような3つの足のある鳥居が、、、本来の鳥居の形なのです。

この事は、飛鳥昭雄氏が、その著書の中で、裏の神道組織「八咫烏」の頭領に、
「古代の日本は、全ての神社の鳥居が3本足だった」と言う事を確認しています。

なので、今、現代で見られる2本足の鳥居は、本来は誤りだと言えます。


このことは、現在行われている「塩津港遺跡(滋賀県長浜市)」発掘調査における
神社の遺構にも見られます。

http://www.city.nagahama.shiga.jp/section/rekihaku/news/info128/s.html

上記サイトには、神社の遺構を元に、
復元した想定イメージが描かれているんですが・・・

やっぱり鳥居の真ん中に、一本木が立っているのです。


◆古代の塩津港の神社イメージ


このように3本足の鳥居は、古代では、当たり前だったのかもしれません。


・・・まぁ、その3本足が2本足に変わったのは、

その昔、藤原不比等の治世の時、唐の高宗の皇后であった武則天が、
景教(ネストリウス派キリスト教)弾圧を始めたからだ、、、とも言われています。

そのため、唐の弾圧を恐れた日本は、国家ぐるみで、仏教に転身することになり、
3本足だった鳥居も、消されていったと考えられます。

しかし、逆に言えば、現在、3本足の鳥居が残されている大きな神社は、
相当、元の原始信仰に拘っている神社だと言えますし、
八咫烏が関わった神社であった可能性も大きいのではないかと思います。

とまぁ、日本の神社の鳥居一つにも、こうした思想が込められている訳です。

ちなみに・・・

屋外の神域を守る門の役割を果たしているのが、鳥居であり、
屋内の神域を守る門の役割を果たしているのが、鴨居です。

鳥居も鴨居に共通する「居」には、「くぐる」という意味があり、
鳥居も鴨居も、その中を人が通行するものです。

参考:家の達人:鴨居【かもい】


このようにして見ると、「鳥居の烏」と「鴨居の鴨」は、それぞれ対応しており、
烏(=八咫烏)と鴨(=賀茂氏)は表裏一体の関係にある事が暗示されています。

なお、賀茂氏は、後に述べる秦氏とは古代に婚姻関係で結ばれた氏族です。
秦氏本系帳には、「鴨氏人を秦氏の聟(むこ)とし、秦氏、愛聟(あいむこ)に鴨祭を譲り与う。故に今鴨氏禰宜として祭り奉るのはこの縁なり」と書かれています。

三井家のルーツ

ところで、少し話は変わりますが、日本の財閥で三井グループというのがあります。

オカルト好きな方なら、ご存知でしょうけど・・・
実は、木島坐天照御魂神社の三柱鳥居や、三囲神社(みめぐりじんじゃ)の三柱鳥居など、
これら三柱鳥居の幾つかは、三井グループの三井氏と関係があります。

▼三囲神社の三柱鳥居(東京都墨田区向島)”

写真が見たいなら引用元にて。

アランさんの言っている、三鳥居系は恐らく渡来系侵略者のことでしょう。蚕を伝えた秦氏は渡来人だし(ユダヤじゃないよ。日ユ同祖論はキリスト教の聖書が根拠なので)。

鳥居って文字通り鳥がらみだろうと思い、カラスも鳥なので、さっき出てきたヤタガラスと同じく三本足の鳥について調べました。

ken‏@kenkatap
”三足烏=太陽の象徴
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B6%B3%E7%83%8F …
▼足が3本=陰陽で偶数を陰、奇数を陽、3は奇数で太陽と同じ陽
▼中国=三足烏(サンズゥウー)日烏や火烏
▼北朝鮮=三足烏(サムジョゴ)は高句麗の建国神話
▼日本=八咫烏(ヤタガラス)

▼エジプト=太陽神ホルスは隼頭

「ウサギ」で宇宙権益狙う中国
【サンビズ http://www.sankeibiz.jp/express/news/131216/exh1312160009000-n2.htm …
▼嫦娥とは、中国の伝説で月に住む仙女の名前
▼玉兎とは、嫦娥が飼っていたとされるウサギの名前
▼中国では毛沢東時代から、宇宙開発は軍が主導
《陰・偶数・月・月の兎》《陽・奇数・太陽・三足烏》”


フェイド大帝@FeydoTaitei
” 面白い事に日本人のY染色体
ハプログループの分布を調べると
弥生系、つまり中国やモンゴル
などの血がほとんど混じっていない
事実が分かる。

では大陸から天下ってきた
天津神とは一体何か?
日本の皇族は何故大陸由来の
八咫烏をシンボルとして
採用しているのか?”


皇族が渡来人系の侵略者だからですね。
その侵略者も今はキリスト教侵略者に変わったけどね。

フェイド大帝@FeydoTaitei
八咫烏ってただのニワトリだぞ?

太陽の塔に似てるだろう?
苗族のトーテムポール。
天辺に乗っかってるのが八咫烏さんだ。

巻きついているのは龍
です。”

なお、蛇=龍とされたりします。

上記のツイートの画像は
邪馬台国と卑弥呼-163  苗族 と タカミムスヒ 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1540.html
”苗族の芦笙柱(ろしょうばしら=トン・カー) 高木・太陽・鳥・水牛・蛇信仰


この写真は、苗族のトーテンポールである芦笙柱で、高い木に神が宿ると信じられ、そのてっぺんにとまっているのが太陽の方向を向いている鳥、またこの鳥は稲の穂を運んでくれる精霊とも考えられ、そして祭祀用と農業のために飼育している水牛の角があり、柱には苗族が信仰する蛇が巻きついています。  実は、この芦笙柱は鳥居の原型とも言われています。
苗族は、稲作・漁労をなりわいとし、稲作・漁労・味噌・醤油・納豆・餅・すし・鵜飼などを日本に伝えてくれました。

この芦笙柱を見る限り、高い木はタカミムスヒ信仰、太陽はアマテラス信仰、鳥はヤタガラスや白鳥信仰、牛の角は牛頭天皇(=スサノオ信仰)、蛇は出雲・大和の三輪山の蛇信仰を思い出させます。

ちなみに、ヘブライ語でアシラは神を表し、柱(=高木)信仰とつながるものがあり、記紀神話でも神を柱といい、3人の神様の事を三柱といいます。”

あんたも聖書が根拠の説を広めるのかよ


ニワトリは朝を告げる鳥の鳴き声の代表格
カラスがカアで夜が明ける。
ニワトリは朝、太陽に向かって鳴くけど夕方は鳴かない。
逆に烏は夕方も日が暮れると鳴く。

三足烏は北アフリカやトルコにもあるけど、インド・イランがルーツかも。

ミャオ族のトーテムポールは、トリが一番上で、龍が巻きついている(頂点ではない)。
鳥って龍より強いやつがいるんですよね。
インドのカルラなんて龍が食べ物で、インドらの攻撃が効かないほどに最強
クラス。
鳥結社、鬼結社、牛結社、龍結社、蛇結社って実際にあるんだろうな。
鬼結社は金光教や大本教とかね。

” 鳥と龍との戦い
 約4.200年前に気候の寒冷化・乾燥化が起こり、黄河流域の民が南下して長江流域に押し寄せた。司馬遷の「史記」には、漢民族の最古の王朝・夏の堯(ぎょう)・瞬(しゅん)・菟(う)という三代の王が、中原(黄河流域)から江漢平野(長江と漢水が合流する巨大な湿地帯)に進出し、そこで三苗(さんびょう)と戦い、これを攻略したという記述がある。三苗とは今日の苗族の祖先で、長江文明を担った民であると見られている。
 一方、苗族の伝説にも祖先が黄帝の子孫と戦ったという話がある。黄帝とは漢民族の伝説上の帝王である。苗族の祖先は黄帝の子孫と戦って、敗れ、首をはねられたという。

 長江文明の民が逃げ込んだ雲南省では龍を食べる鳥を守護神とする伝説がある。龍は畑作牧畜の漢民族のシンボルであり、鳥と龍との戦いとは、長江文明と漢民族の戦いを暗示していると考えられる。
”日本人のルーツ?・苗族
http://bunarinn.lolipop.jp/bunarinn.lolipop/bunarintokodaisi/tiyokoubunmei/nihonjinruutu/nihonjinnruutu.html


苗(ミャオ)族 ミャオ族の「招日神話」
http://www.mekong.ne.jp/directory/culture/legend05.htm
”●「射日神話」と「招日神話」との関係

 山の洞窟に隠れた太陽を呼び出す「招日神話」の前には、きまって多数の太陽の話があり、太陽を射る射日神話がある。ミャオ族をはじめ、ワ族、ラフ族、ハニ族、プーラン族、リー族、ヤオ族、イ族、チベット族、チワン族、トン族など中国南部の各少数民族の射日・招日神話は必ずセットにあっていて、まれに射日神話が単独にあっても、招日神話に前段としての射日神話を欠く例はない。 (『稲と鳥と太陽の道』頁53”

ニワトリは、インド東北部から、ビルマ、タイ、マライ、中国の雲南にかけての一帯が原産地で、闘鶏用として飼養がはじめられ、朝を告げる鳥として分布が広まっていった。朝を告げることと、朝日との関連から、ニワトリを太陽の使徒として神聖視する観念も生じた。

 わが『古事記』では、ニワトリは常世の長鳴鳥と記され、アマテラスオオミカミが、天の岩戸にかくれたとき、これをあつめて鳴かしたとある
。・・・・(『苗族民話集』 頁89”

” 複数の太陽の出現とそれを射る話(「射日神話」)と、隠れた太陽の呼び出し(「招日神話」)を語る説話は、アジア東南部に広く分布するが、貴州省に流伝する苗(ミャオ)族の昔話は以下の通り。

『苗(ミャオ)族民話集 -中国の口承文芸2』 (村松一弥 編訳、平凡社、東洋文庫260、1974年刊)によれば、以下の話の前半の、複数の太陽を射る話は、ミャオ族のほか、台湾の高山族、雲南のラフ族、ハニ族、四川省涼山のイ族などにも現在語り伝えられている。後半の、かくれた太陽をニワトリが呼びもどす話もアジア東南部にひろく分布するもので、ミャオ族のほか、四川涼山のイ族、雲南のハニ族、そして、アッサムのナガ族にも、現在語り伝えられている。

  昔、天には「天じいさま」と呼ばれるじいさまがいて、10人の息子がいた。人間たちは

  この息子たちを「オテントサン」とよんでいた。じいさまのいいつけで、息子たちは毎日

  一人ずつ交替で空を見まわっていた。

  ところが、日がたつうちにきちんと空の見まわりをするのが面倒くさくなった。そこで、

  あしたはみんなで一度に出て思いきりハネを伸ばそうということになったが、末っ子だけ

  は尻込みしたので留守番とし、大空にゾロゾロ繰り出した。昼も夜もなしに9人は遊び

  ほうけ、家に帰ることも忘れてしまった。

  地上の人間こそいいつらの皮で、9つのオテントサンがジリジリ照りつけ、地面もカラ

  カラ、作物もみな枯れてしまった。アカウシやシシに頼んで「テントウよ、とっとと帰れ」

  と大声をあげてもらったがうまくゆかず、人々の苦しみはつのるばかり。

   せっぱつまった人間の長がひとりの勇士にテントウどもを射落とせと命じた。勇士が

  続けざまに放った9本の矢は、9つのテントウどもを射落とした。兄貴たちがつぎつぎに

  射殺されるのを見ていた末っ子は肝をつぶして、矢も届かぬ山のむこうに逃げ込み、

  2度と顔を見せようとしない。どこもかしこも真っ暗になり、畑を耕すにも機織りするにも

  たいまつがいる。みんなほとほと困ってしまった。

   人間の長は知恵者たちを集めて相談すると、「あの9つのテントウどもは聞き分けも

  なく、人間をひどいめにあわせたから射殺しても当然でしょう。しかし末っ子だけはよび

  出して毎日の仕事をさせてみようではないか」ということで、やはりシシやアカウシに

  「テントウよ、とっとと出てこい」と声をあげさせた。ウォーとかモーッという声に、オテント

  サンはつぶやいた。「なんて野暮ったい声なんだ。出ていくもんか」と。

   続いて頼まれたのがオンドリで、はじめはうまくいかなかったが発声の練習を重ねた

  あげく再びオテントサンに呼びかけた。

   オテントサンはあまりの美声に、東の山のてっぺんから大地をのぞいて見た。すると、

  世のなかの人たちが手をたたきニコニコしながら歓迎してくれるので、いい気分になって、

  それからというもの、毎日の仕事を昔のようにきちんとやることに決めた。

   オテントサンは、オンドリがスッカリ気に入って、自分のまっ赤な服のはしを切りとり、

  赤いきれいな帽子を作ってやった。だから今でもオンドリはまっ赤なトサカをつけている。

  オンドリが「オテントサーン、出ておくれー」というたびに、オテントサンは山のうしろから

  毎朝顔を出す
、というわけだ。

引用文献:
 『苗(ミャオ)族民話集 -中国の口承文芸2』

      (村松一弥 編訳、平凡社、東洋文庫260、1974年刊)

   『稲と鳥と太陽の道 日本文化の原点を追う』

      (萩原秀三郎 著、 大修館書店、1996年7月刊)”


いつものことですが、画像は引用元をどうぞ。
萩原秀三郎 稲と鳥と太陽の道 大修館書店 1996
http://1000ya.isis.ne.jp/1141.html
”日本のコメは中国南部のミャオ族(苗族)によってもたらされたのではないかというものだ。
ミャオ族がコメ文化をもたらしたと考えると、いろいろの謎も解けてくる。東アジアの文化と日本の文化との比較も深いところでつながっていることが見える。
(中略)
 日本の神社には鳥居が立っている。なぜ鳥居というのか。組んだ木のてっぺんに鳥が居るからだ。この鳥は他界から鳥の姿をした祖霊が幸福や豊饒をもたらすためにやってきたシンボルである。日本神話では「天の鳥船」といって、そうした祖霊や幸福や豊饒を天空で運ぶ船さえ想定されていた。
 一方、竪穴式住居を脱した古代の家々は、それでも吉野ケ里遺跡や三内円山遺跡に見るごとく掘っ建て柱に屋根をかぶせたようなもので、つねに柱が目立っている。そうした家々のある集落では、その入口に1本あるいは2本の柱をゲート状に立てて、その上に木彫りの鳥を止まらせる風習をもっていた。いや、最初から鳥を置いたのではなくて、そんな高い柱や組み柱にはたいていどこかから鳥がやってきて止まった。その鳥の来し方行く末は、古代集落にとっては祖先や未来の国である。そこで木に鳥を彫って、それを柱のてっぺんにつけた。
 このような柱と鳥の関係を総称して「鳥竿」(とりざお)
とよぶとして、この鳥竿をつかった祭は日本にも韓国にもいっぱいある韓国ではソッテとかチントベキといって、やはり鳥を止まらせている。ソッテは蘇塗とも綴るのだが、そのテはシンテ(神竿)やナッカリテ(禾竿)のテのことをさした。その鳥竿のルーツをさらに追っていくと、中国に行きつく。萩原さんはさらに追いかけて、それがミャオ族の習俗に出所していたことをつきとめた。ここまでが第1段の前段になる。

 ところで、関西ではオコナイ、関東ではオビシャとよばれる行事が広まっている。
 オコナイとは祈年行事のことで、神社でやるときはミヤオコナイ、寺院でやるときはテラオコナイといった。リーダーとなるのはその年の頭屋(とうや)で、鏡餅づくりをするか、茅の輪を編んでみんなでこれをくぐるか、丸い的をつくってこれに矢を射るかした。関東のオビシャは御奉射のことで、三本足の烏や三つ目の兎を描いた的を弓で射ることが多い。これでわかるように、関西のオコナイ・関東のオビシャのどちらにも弓神事なるものが絡んでいる。
 これらに共通するのは、鏡餅にしても茅の輪にしても丸い的にしても円形の標的があることで、そこに矢を射ることやそこに烏や兎が描かれることが加わっている。いったいこれらは何を示しているのか。オコナイやオビシャより古いかたちを見る必要がある。たとえば神楽だ。

 日本の神楽はおおむね天地創成神話を背景としている。舞庭(まいにわ)あるいは神庭(こうにわ)を一つの異界として創出するのが演目になる。このとき野外なら柱や竿から、室内なら天井から綱や紐や糸を垂らして、そこに三本足の烏を描いた日輪と三つ目の兎を描いた月輪を吊るした。のちにはそれが左右の幡(旗)になった。
 この舞庭・神庭で新しくは「岩戸」「五行」が、古くは「将軍」という神楽曲が舞われた。鹿児島県薩摩の大宮神社の「将軍」を例にすると、将軍は弓に矢をつがえて五方を射る所作をする。なぜ、こんなことをするかといえば、この所作には物語がある。太古、太陽が7つ、月が7つあったのだが、スイという鬼が太陽を6つ、月を6つ呑みこんだ。さらにもう1つ呑みこんだらこの国は真っ暗になるので、選ばれた将軍が五方に弓矢を射て鬼を退治して、その片方の目を日輪に、もう片方の目を月輪とあらわして、未来永劫の万象を祈願したというのだ。
 これはイザナギの左の目からアマテラスが、右の目からツクヨミが生まれたことと対応する。が、それとともにこの物語は、中国の天地創成神話にある弓の名人のゲイが9つの太陽を射落とした話や、太陽に住んでいた烏を9羽射落とした話に似ている。済州島にも太陽を落とした神話がある。朱蒙(ジゥモング)という弓の名人もいる。
 つまりここにはいわゆる招日神話・射日神話があったのだ。そこで、その分布を調べてみると、アムール川流域からインドネシアまで広まっている。ミャオ族にもまったく同じ伝説がある
 以上のことから類推できるのは、鳥と太陽の話はどこかでつながっているということである。そこに弓矢神事が出入りしていた。これが第2段の前提になる。そこで、これらの話のすべてをもっているミャオ族のことを知っておく必要があるということになる。

三本足の烏を描いた的(沼南町高柳)

 ミャオ族は中国江南に居住する民族で、中国では古くから三苗とよばれた。3
つの言語集団がいた。その後はタイ北部にまで広がった。移動した連中はまとめて「百越」とよばれた集団である。
 民族上は少数山岳民族グループに分類されているが、いまでも150万人か200万人くらいがいる。しかし古代中世のミャオ族は文字をもっていなかった。移動の記録や歴史の記録は古歌や伝説や習俗にしか残っていない。
 そのミャオ族では、新年になるとジーユイニャオという鳳凰に似た木彫の鳥をとまらせる柱あるいは竿を立てる。芦笙柱(ろしょうばしら=トン・カー)という。楓香樹であることが多い。その上のほうに牛の角のような横木をつけた(写真を見るとすぐわかるが、鳥居の原形に近い)。新年、その芦笙柱を左まわりで踊る。
 なぜそのようになったかという伝説が「跋山渉水」という古歌にあって、カササギあるいはツバメの先導でこの地にやってきたことをあらわしているのだという。この到着地はのちのちまで神聖な場所になり、カー・ニンとよばれる。カーは芦笙のこと、ニンは場所である。村の“へそ”にあたる。
 この神聖な場所は東西軸を重視する。そもそも中国では純潔チャイニーズの漢民族は天空の中心の北極星(太極)を信仰して、そのため南北軸を重視する。風水も、天子や宮殿が北を背に南面することを基本とする。一方、江南のノン・チャイニーズの少数民族は繁茂する植物の象徴である太陽を信仰して、太陽の昇降する東西軸を重視する。

 これでわかるように、ノン・チャイニーズのミャオ族の村の“へそ”に立つ芦笙柱は、太陽が依り坐す柱なのである。太陽のトーテム・ポールなのだ。
 太陽は季節や時間とともにコースを動くので、その季節や時間を感じることが大切になる。そこで暦のようなものが生まれるのだが、文字をもたないミャオ族は、この季節と時間の“しるし”を鳥の去来で学習していった。また、それを教える者を鳥官といった。
 さらに、このような太陽信仰を支える鳥の存在と去来を忘れないように、芦笙柱を寿ぐ数々の祭では、男はニワトリの羽根や茅萱(ちがや)の輪を差し、女は鳥の羽根の衣裳で身を飾った。これが鳥装である。いいかえれば、村のシャーマンたちは鳥装によって鳥霊になり、太陽の行方と合体するわけである。たちまち日本の鷺舞や鶴の舞といった各地の祭りがおもいあわされよう。
 ここまでが第3段で、話の前提があらかた出揃ってきた。太陽と鳥と弓はひとつのものなのだ。では、これらの前提の話がどうして日本のコメ文化と結びつくかということである。ここからが本題になる。その前にちょっとおさらいをしておく。

 コメはムギにくらべて一本当たりの収穫量が格段に多い作物である。ヨーロッパの麦作の播種量が5倍~6倍であるのに対して、日本の米作はざっと30倍~40倍になる。何千年でも連作もできる。
(中略)
この「苗」と「田植え」が日本の社会や文化に大きな影響を与えたのである。これは、湿度の高い日本では直播きの陸稲では稲とともにすぐに雑草が繁茂して、どうにもならない。そこでいったん苗をつくり、それを移植する。そうすればすでに一尺ほどの貯金があるのだから、稲はなんとか雑草と対抗できる。つまり「株立ち」をしておくことが日本の稲作の基本であって、それが春に種蒔きをし、5~6月に田植えをし、秋に収穫するという、日本の稲作生活の大きなリズムと特色をつくることになったわけである。
 この稲作とほぼそっくりの原型をもっていたのが、実はミャオ族だったのである。

ミャオ族は稲刈りした稲を高倉に収める。梯子は丸太を刻んだもので日本の弥生時代のものに酷似している。

 ミャオ族にはイネ文化もモチ文化もトウモロコシ文化も雑穀文化もある。しかし、そのうちのいくつかは日本の社会文化によく似たものをもっている。稲を保存する高倉、高床式の住居、チガヤを稲に見立てる田植え行事、正月のモチ月、羽根つき、竹馬、おこわ、チマキ(粽)、なれズシ、糯稲の麹でつくる酒、鯉や鮒の水田飼育、鵜飼いなどである。
 そのほか、正月料理を男主人がつくり、最初の3日間は女性は家事をしない風習、その料理を家の者たちが10日ほど食べつづけること、新年の辰の日(元旦)に2個の丸餅を台状の脚の低い椅子にのせて大地に酒をそそぐ儀礼なども、どこか日本の正月に通じるものがある。
 萩原さんはこうしたミャオ族の儀礼や生活をつぶさに観察して、しだいに中国原産のジャポニカを日本に運んだのはミャオ族ではないかと考えるようになった。おそらく中国江南地方の稲作の技能をもったミャオ族の一部が、なんらかの事情で長江から山東半島と朝鮮半島をへて日本に来たのではないか。
 (中略)
結論をいえば、萩原さんは中国南部からタイ北部の少数民族(チベット族・リス族・リー族・タイ族・シャン族・ワ族・カレン族・イ族など)をほぼすべて調査した結果、ミャオ族だけが入れ墨の習慣をもっていないことをつきとめたのである。
 そうであれば、文身をもたないミャオ族が春秋戦国期の内乱に押し出されるようにして、山東半島や朝鮮半島をへて日本にやってきて稲作技術を伝えたとしてもおかしくないことになる。少なくともそう考えれば、日本の正月儀礼や食物文化に似るミャオ族の儀礼や習慣との関連も説明がつく。しかし、ほんとうにそんなふうに言えるのか。萩原さんは傍証をあげていく。
 (中略)
秋分の朝、真東の太陽を迎える芦笙柱上の鳥”


三足烏(さんそくう、さんぞくう)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B6%B3%E7%83%8F
を整理すると、

・三足烏(さんそくう、さんぞくう)は神話や絵画などに見られる三本の足を持ったカラス。
アジア、アナトリア半島(トルコあたり。イラン、イラク、シリアと接する。小アジア )、北アフリカなどに見られる
・烏を太陽の象徴とする神話は、マヤ文明でも見られる。黒い烏は太陽の黒点を表しているという説もある。
・漢代の壁画に火烏(三足烏)。
・古代中国の文化圏では三足烏の足が3本なのは、陰陽では偶数を陰、奇数を陽とするが、3は奇数であり太陽と同じ陽となるからだといわれている。

・3本足の鳥の神話は、世界に広がっており、太陽と関連付けられていることが多い。

・中国:三足烏(さんそくう、さんぞくう、拼音: sānzúwū サンズゥウー)は、中国神話に登場する烏で、太陽に住むとされ(ただし他の神話もある)、太陽を象徴する。
日烏(にちう、拼音: rìwū リーウー)や火烏ともいい、月の兎の月兎と対比される。しばしば3本の足をもつとされ、三足烏とも呼ばれる。また、金色という説もあり、金烏(きんう、拼音: jīnwū ジンウー)とも呼ばれる。
なお三足烏の「金烏」の絵は、日本の1712年(正徳2年)刊の「和漢三才図絵」の天の部の「日」の項にも認められる。

太陽に住んでいるとされ、太陽黒点を元にした神話であるとする説もある(中国では漢代までには黒点が発見されていた)。ただし太陽にいるのは金鶏(きんけい)であるとの神話もある。
また別の神話では、太陽は火烏の背に乗って天空を移動する。ただしこれに対し、竜が駆る車に乗っているという神話もある。

『淮南子』に「昔、広々とした東海のほとりに扶桑の神樹があり、10羽の三足烏が住んでいた……」と見える。この10羽の3本足の烏が順番に空に上がり、口から火を吐き出すと太陽になるという。 また「日中有烏 而月中有蟾蜍」との記述もあり中国の3本足烏は太陽そのものの象徴であった。『芸文類聚』にも記述されている。

このような物語もある。大昔には10の太陽が存在し、入れ替わり昇っていた。しかし尭帝の御世に、10の太陽が全て同時に現れるという珍事が起こり、地上が灼熱となり草木が枯れ始めたため、尭帝は弓の名手羿に命じて、9つの太陽に住む9羽の烏を射落とさせた。これ以降、太陽は現在のように1つになった(『楚辞』天問王逸注など)。

北朝鮮:太陽の中に描かれた三足烏の高句麗の壁画があり、左は竜、右は鳳凰。
三足烏(삼족오 Samjokgo サムジョゴ)は高句麗の建国神話などに見られる。また、火烏ともする。天孫の象徴であるとされ、古墳壁画にも3本足の烏三足烏が描かれている。

日本: 日本では三足烏が八咫烏(ヤタガラス)と呼ばれ同一視される。神武東征において神武天皇を導く役割を与えられている。

・三足烏はエジプト神話の壁画に見られる。これはリュキアやパンフィリアの三足巴から考え出されたとされる。
・ギリシャ神話のアポロンの烏である烏座を描いたものでは時にカラスが3本足の姿で描き表される。

・カラスに限定しなければ、トリを太陽の象徴とする神話が世界各地にあることがジェームズ・フレイザーにより指摘されている。たとえば、エジプト神話の太陽神ホルスは隼頭。


金烏(きんう)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E7%83%8F
金烏(きんう)は、太陽に三本足の烏がいるという伝説であり、すなわちその烏(火烏)、ないし太陽の異称である。対称に玉兎。

八咫烏は金烏伝説と少なからず関連しており、太陽にトリ(主にカラス)のモチーフは世界中で散見される伝説である。太陽信仰の象徴とされることもある。

日本では出雲に関連する神社に多く伝承が遺っている。下鴨神社の祭神賀茂建角身命は八咫烏の化身であり、神武東征に際し太陽神天照大神と高木神の令をうけ、金鵄(金色のトビ。八咫烏とも)に化身して神武天皇を先導したという。神代よりあるという有馬温泉は、日本書紀に大巳貴命と少彦名命が傷ついた3鳥が水に浸かり傷が治る姿をみて温泉を発見したとあり、3羽とあるがこれは足の数と類似し、本来は八咫烏であった可能性がある。

中国長江文明では、三星堆遺跡から出土した青銅器(青銅神樹と呼ばれる)には木に止まる太陽を模した9羽の鳥があり、上古神話では鳥は8羽が既に死んでおり現在の太陽は最後の1羽だが既に瀕死であるという(故に供物を捧げた)。『山海経』には鳥の止まるこずえは「扶桑」と、木は「神樹」として登場するが、下の枝は9の太陽が留まるところとされ上の枝は1つの太陽が今まさに出んとするものであるとあり、若干のズレがある。出土した青銅器には復元できなかった幹があるので、そこにもう一羽の鳥があるのかもしれないという。

”情報科 (陸上自衛隊):職種徽章のシンボルとして起用。”

八咫烏(やたがらす、やたのからす)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%92%AB%E7%83%8F
を要約すると、
・八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、日本神話において神武東征の際、高皇産霊尊によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされるカラス。

・熊野本宮大社の鳥居の横に掲げられた八咫烏の旗。

・八咫烏は、日本神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内したとされており、導きの神として信仰されている。また、太陽の化身ともされる。なお、「八咫烏」(3本足のカラス)は古代中国から日本に伝わったとされる。

・熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏は熊野大神(素盞鳴尊)に仕える存在として信仰されており、熊野のシンボルともされる。近世以前によく起請文として使われていた熊野の牛玉宝印(ごおうほういん)にはカラスが描かれている。

・咫(あた)は長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約18センチメートル)のことであり、八咫は144cmとなるが、ここでいう八咫は単に「大きい」という意味。

八咫烏は『日本書紀』や『古事記』に登場するが、『日本書紀』では、同じ神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が長髄彦との戦いで神武天皇を助けたともされるため、八咫烏と金鵄がしばしば同一視ないし混同される。
しかし、『古事記』や『日本書紀』には三本足であるとは記述されておらず、後世に中国や朝鮮の伝承の鳥「三足烏(さんそくう)」と同一視され、三本足になったともいわれる

・日中戦争の従軍記章たる支那事変従軍記章は、その章(メダル)の意匠に八咫烏を用いるが、これは三本足ではなく二本足。

中国では古代より道教と関連して奇数は陽を表すと考えられており、中国神話では太陽に棲むといわれる。陰陽五行説に基づき、二は陰で、三が陽であり、二本足より三本足の方が太陽を象徴するのに適しているとも、また、朝日、昼の光、夕日を表す足であるともいわれる。

三足烏の伝承は古代中国の文化圏地域で見られる。中国では前漢時代から三足烏が書物に登場し、王の墓からの出土品にも描かれている。三脚の特色を持つ三脚巴やその派生の三つ巴は非常に広範に見られる意匠である。

三本足のカラスの伝承については、中国から朝鮮半島を経て日本に伝わったとされる。朝鮮半島では、かつて高句麗があった地域(現在の北朝鮮)で、三本足のカラスを描いた国旗が使用されたこともあった
一方、三本足のカラスの伝承は朝鮮半島南部(現在の韓国)にまでは広がっていなかったという

・八咫烏の記録は『古事記』『日本書紀』『延喜式』のほか、キトラ塚古墳の壁画や珍敷塚古墳(福岡県)の横穴石室壁画、千葉県木更津市の高部三〇号噴出土鏡、玉虫厨子(法隆寺)の台座などにみられる。

・『新撰姓氏録』では、八咫烏は高皇産霊尊の曾孫である賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)の化身であり、その後鴨県主(かものあがたぬし)の祖となったとする。奈良県宇陀市榛原の八咫烏神社は建角身命を祭神としている。

・戦国時代には、紀伊国の雑賀衆を治めた鈴木家の家紋・旗ともなっている。

また、江戸時代の末には、高杉晋作が「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」という内容の都々逸を作成している。これは、熊野の牛玉宝印の札の裏に書いた約束事を破ると熊野のカラスが一羽(または三羽)死に、約束を破った本人も罰を受けるとされていたことから「ほかの男たちとの約束を全て破り、熊野のカラスをことごとく死なせてしまうとしても、あなたと朝寝をしていたい」と、自らの生命を賭けて朝寝を選ぶ、遊女の想いを表現したものである。


・支那事変従軍記章。「二本足の八咫烏」に菊花紋章・軍旗(旭日旗)等を図案に用いる
・八咫烏は主に日本サッカー協会のシンボルマークおよび日本代表エンブレムの意匠として用いられている。
マークは、大日本蹴球協会(日本サッカー協会の前身)創設に尽力した漢文学者・内野台嶺らの発案を基に、彫刻家・日名子実三のデザインにより、1931年(昭和6年)に採用されたもの(天武天皇が熊野に通って蹴鞠をよくしたことにちなみ、よくボールをゴールに導くようにとの願いが込められているともいう。
なお、蹴鞠の名人とされる藤原成道は、五十回以上も熊野詣でをして蹴鞠上達を祈願し、熊野大神に「うしろまり」を披露して奉納したとされ、現在でも、日本サッカー協会はワールドカップ等の出場前に熊野三山で必勝祈願を行っている。
また、このシンボルマークを基に日本代表エンブレムとしても八咫烏は採用されており、サッカー日本代表のユニフォーム等に使用されている。
この他、それらの理由から関西サッカーリーグに属するアルテリーヴォ和歌山のエンブレムにも使用されている。

・軍事方面においても、大日本帝国時代の戦前より八咫烏は金鵄や鷲等と共に広く意匠が用いられていた。
陸海軍の支那事変従軍記章(デザインは大日本蹴球協会のシンボルマーク考案者と同じ日名子実三)、
帝国軍人後援会の会章(会員徽章)など。

・帝国陸軍の航空部隊では、一〇〇式司令部偵察機「新司偵」を装備する独立飛行第17中隊が、一時期「赤丸を背景に片翼を広げる黒の八咫烏」を垂直尾翼に描いていた。

・戦後は陸上自衛隊中央情報隊以下の情報部隊の部隊マークに採用されている。

・熊野周辺を運行しているバス会社、熊野交通の社紋には八咫烏が採用されている。

・陸上自衛隊中央情報隊
・陸上自衛隊中部方面情報隊

・群馬県大泉町の天文家・小林隆男は、1997年(平成9年)に発見した小惑星(仮符号1997 AY1)に「八咫烏」と命名、2004年(平成16年)8月9日に(9106)八咫烏として登録。

韓国のソッテ、チントベキ、鳥竿を調べよう。

高麗博物館「企画展」 日本の鳥居、しめ繩の源流を探る
http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=6&newsid=12886
鳥居は韓国のソッテ
しめ縄も禁縄と類似

 神社の象徴ともいうべき鳥居としめ縄は、「稲作の伝播とともに中国から韓半島を経て日本にもたらされた」
との学説を独自に検証した企画展が、東京・新宿のミニ・ミュージアム「高麗博物館」で開かれている。鳥居やしめ縄を日本独自のものと思っていた人たちにこそ見ていただきたいと担当者は話している。

3年かけ現地調査

 鳥居もしめ縄も、今日の神社神道では現世と神域を隔てる結界の役割を意味する。起源については諸説あるが、渡来人が稲作文化とともにもたらしたとする説は、大阪教育大学名誉教授の鳥越憲三郎さん(故人)が唱えたもの。

 鳥越さんが着目したのは、新石器時代の初めごろ、長江の中下流地域で稲作を始めた「倭族」。「倭族」は長い稲作中心の生活の中から太陽、樹木、鳥、蛇をあがめる独自の民間信仰を生み出した。こうした民間信仰が稲作文化を伴って韓半島、日本へと伝わったという。

 この説を裏付けるものが、雲南省とビルマの国境地帯に住むアカ族の村落の入り口に立つ「村の門(ロコーン)」。上には鳥を模した造形物を見ることができる。神の乗り移った鳥が止まるところ、すなわち鳥居だ。

 韓国では悪鬼や病魔から村を守り、豊作をもたらすことを願い、村の入り口や道の両側に「ソッテ(鳥竿)」を立てた。ここでも木でつくった長い竿や石柱の上に鳥が止まっている。醤の甕に巻いたクムチュル(禁縄)は日本のしめ縄
を思い起こさせる。クムチュルは白くて細い紙でトウガラシ、木炭、松葉などを取り付けている。


次は九州王朝と近江王朝の話。
倭つながりでこんなのがあります。

日本列島には王朝が複数あったことがあり、万世一系も嘘なのは確実ですから、以下の説を引用します。
天皇家にとっては都合が悪いので学会の扱いは気にしないでください。

九州王朝説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC
”九州王朝説(きゅうしゅうおうちょうせつ)は、古田武彦によって提唱された、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府(だざいふ)がその首都であったとする説である。

本説は古田の「多元的古代史観」の主要な部分を占める所論である。古田は、「倭」とは九州のことであり「邪馬壹國(邪馬臺國)」は倭国の前身であるとし、その後、九州に倭国が成立したが、663年(天智3年)「白村江の戦い」の敗北により滅亡にむかったとしている。

邪馬台国から5世紀の「倭の五王」までを九州に比定
する論者は、古くは鶴峰戊申から戦後では長沼賢海らがいるが、古田は7世紀まで九州王朝を敷衍した点に特徴がある。当初古田は九州倭国は白村江の敗戦により滅亡したと考えていたが、近年の九州王朝説では7世紀末まで存在したとする見方をとっている。近年、古田以外の多くの研究者から多くの発表がなされ、古田の同説に対する影響力は低下してきている。
(中略)
紀元前から7世紀末まで日本を代表した政権は一貫して九州にあり、倭(ゐ)、大倭(たゐ)、俀(たゐ)と呼ばれていた[4]。
1世紀には倭奴国が北部九州を中心とした地域に成立し、倭奴国王は博多湾近くに首都をおいて漢に朝貢し「漢委奴國王」の金印を授与されていた。
卑彌呼(ひみか)は伊都国に都し、「邪馬壹国」は福岡平野の奴国(当時としては大都市の2万戸)を中心としていた。[5]。
卑弥呼は、筑紫君の祖、甕依姫(みかよりひめ)のことである。また、壹與(ゐよ)は、漢風の名(倭與)を名乗った最初の倭王である。
倭の五王(讃、珍、済、興、武)も九州倭国の王であり、それぞれ倭讃、倭珍、倭済、倭興、倭武と名乗っていた。
筑紫君磐井(倭わい)は倭(九州)の王(武烈天皇)であり、継体は九州南部の豪族である。磐井の乱は継体による九州内の九州倭国に対する反乱であり、継体が武烈朝を武力討伐した記事である。[6]。
九州倭国の継体朝において日本で初めて独自の元号(九州年号)が建てられた


隋王朝との対等外交を行った「俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌」[7]は、九州倭国の倭国王であった。
太宰府は倭京元年(618年)から九州倭国の滅亡まで倭京と呼ばれる九州倭国の都であり、日本最古の風水の四神相応を考慮した計画都市であった。
「白村江の戦い」では、総司令官である九州倭国の天皇「筑紫君薩夜麻(さちやま・倭薩)」が唐軍の捕虜となったことで九州倭国は敗北した。

「壬申の乱」は畿内ではなく九州を舞台としており、乱の前年に唐軍の捕虜から解放され倭(九州)に帰国した薩夜麻(実は天皇の高市皇子のこと)と 薩夜麻が不在中に政務を代行していた中宮天皇(十市皇女)-大友皇子(弘文天皇)との対立に畿内の豪族大海人皇子(天武)が介入し日本列島の覇権を得た事件で、勝敗を決したとされる美濃からの援軍とは畿内日本軍である。

壬申の乱」で九州倭国の天皇(高市皇子=薩夜麻)は大海人皇子(天武)の力を借り大友皇子らに勝利を得たが、協力を得る為に吉野の盟約で大海人皇子(天武)と九州倭国系の鸕野讚良皇女(持統天皇)の間の息子(草壁皇子)を皇太子に指名した。戦乱により九州の有力豪族の多くが滅亡したことにより天皇(高市皇子=薩夜麻)の基盤は弱体化し、戦乱とそれに続く天災[8]で荒廃した九州から天武の勢力圏畿内へ天皇(高市皇子=薩夜麻)は移った。

「大化の改新(乙巳の変)」は皇太子であった草壁皇子が即位せずに逝去した為に草壁皇子の息子の軽皇子(文武天皇)と中臣鎌足(藤原不比等と同一人物)が九州年号の大和(大化)元年(695年)に藤原京で皇太子と天皇(高市皇子=薩夜麻)を暗殺して、翌年の大化2年(696年)に軽皇子(文武天皇)が即位した事件である。

畿内のヤマト王権は、九州倭国内の豪族の一派が東征したもので、通説で飛鳥時代と呼ばれている時代までは、ヤマト王権(日本・日下)はまだ日本を代表する政権ではなく畿内の地方政権にすぎなかったが、天武の時代に九州倭国から政権を奪い日本全体が「日本」と呼ばれるようになった。

古事記・日本書紀は九州王朝の歴史書であり、続日本紀は天武朝の歴史書である
。 記紀に記された天皇の内初代神武天皇と第9代までの欠史八代の天皇および第40代天武天皇と第41代持統天皇、続日本紀に記された第42代天武天皇から第48代孝謙天皇までの7代、計18代だけが天武朝に連なる系譜である。記紀に記されている天武系の天皇は天皇ではなく畿内の地方豪族に過ぎなかった。記紀に記されたその他の天皇は九州倭国の天皇である。

神亀6年(729年)藤原氏は、九州倭国系である長屋親王を長屋王の変で抹殺

第3回神宮式年遷宮(729年-732年)により伊勢神宮が八代市から伊勢市に移された。

神護景雲4年(770年)称徳天皇暗殺により天武朝が断絶、藤原氏は滅亡した九州倭国の末裔(光仁天皇)を天皇に擁立した。根拠[編集]

九州[編集]

「九州」の呼称は9国(豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩)からなっていたことに由来すると俗に言われるが、「九州」という用語は本来古代では天子の直轄統治領域を意味するもので、9つの国の意味ではなく天下のことである(周代以前、全土を9つの州に分けて治める習慣から九州=天下(参考:九州 (中国)))。また新羅の九州の実例もある。

山島(九州倭国の継続性)[編集]

古代において津軽海峡は蝦夷国(『新唐書』における、「都加留(つがる)」、「麁蝦夷(あらえみし)」、「熟蝦夷(にきえみし)」)にあり、倭人および漢人にとって本州が島であるか半島であるかは長い間不明であった。津軽海峡が現われる正史は、元の脱脱(トクト)の著わした『宋史』からで、紀元前から島と認識されていたのは九州や四国だけである。漢代から隋代までの正史によれば、倭・俀は「山島」と明記されているので、倭・俀とは、明確に島であると認識されていた九州の他にはない[9]。(参考:Harris, 1748 本州が大陸と地続きの18世紀の地図)
(中略)
金印[編集]

『漢委奴国王印』印影
以下のことから博多湾の志賀島で発見された「漢委奴國王の金印」は、「漢」の「倭奴国」の「王」と読み、漢の家臣の倭国王(倭奴国王)の印綬であり、金印が発見された場所から遠くない場所に金印の所有者である「倭国王」の居城「倭奴国」があった。つまり博多湾の近くに倭国の首都があったと考えられる。
皇帝が冊封国の王に与えた金印に「漢の○の○の国王」のような三重にも修飾した例が無い[
11]
(金印は陪臣に与えるものでない)こと及び、高位の印であることから、この金印は「委奴国王」=「倭国王」に与えられたものである。漢の印制度および金印の役割から通説のように金印を博多湾程度の領域しか有しない小国が授かることはない。卑弥呼が賜ったとされる金印も「親魏倭王」であり倭王に対して下賜されたものである。「漢委奴國王」印も「親魏倭王」印も倭国の国璽として扱われ、漢王朝が続いている間は「漢委奴國王」印が、魏王朝が続いている間は「親魏倭王」印が使われ続けたと考えられる。
『旧唐書』倭国条の冒頭等、それ以後のいくつかの書物に「倭国者古倭奴国也」等との記事がある(今の倭国は昔の(漢書の)倭奴国のことだという意味)。倭奴国とは倭の中の小国「奴国」ではなく、倭国そのものであり[12]、倭国を代表すると漢が認めた国であり、漢によって王[13]と認められた者の住む国である [14]。
「倭」の字が減筆され「委」の字が使用されていることから「倭」は「委」と同じ発音であったと考えられる[15]。金印は「かん ゐど こく おう」又は「かん ゐな こく おう」と読むべきである。
現在でも韓国・朝鮮では日本を「倭奴(ウェノム)」と呼ぶことがあることがある[16]。
「奴国王」の存在を記した文献資料は一つも無い。『後漢書』に記載されているのは「倭奴國」と「倭國王」だけである。3世紀の『魏志倭人伝』でも王が居る国は「女王国(邪馬壹国,伊都国)」」および敵国の「狗奴国」だけである
。[17]
(中略)
倭の五王は九州の大王[編集]

以下のことから、「倭の五王」は畿内ではなく九州の大王であったと考えられる。
畿内地方には多くの巨大古墳が造営されたが、同一の王権が大規模な対外戦争を継続しながら[52]同時にこのような大規模な巨大古墳の造営を多数行うということは考えられないので、畿内地方に多くの巨大古墳を造っていたのは、朝鮮半島で活発に軍事活動を行っていた「倭」からはある程度独立した勢力だったとみられる。また、古墳文化の広がりをもってヤマト王権勢力の拡大と見なす意見があるが、宗教文化の広がりと権力の広がりとは必ずしも一致するものではない。古墳文化の広がりは宗教儀礼の広がりでもあり、これとヤマト王権が結びつくとの意見もあるが[53]根拠は明確にされておらず古墳文化の広がりを以てヤマト王権勢力の拡大とするには証拠として無理がある。古墳は豪族の墓であり、これが各地で造られたことは中央からは独立した地方勢力の存在を示すものであり、ヤマト王権勢力の支配力が拡大したとする説とも矛盾する。また、この時代は古墳の形態も地域によって特色があり、出雲や吉備等にも独立した勢力が存在したことを示している。
都城の出現が国家確立の要件の一つであるが、古代博多(奴国)では、日本最古の計画都市の存在が確認されている。
『宋書』478年の倭王武の上表文で、「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」とあるが、倭王武は自らを東夷であると認識しており、通説のように倭を畿内とすると「東の毛人」=中部・関東、「西の衆夷」=畿内・中国・四国・九州、「渡りて海北」=???、となり、比定地を特定することができない。しかし倭を九州とすると、「東の毛人」=畿内、「西の衆夷」=九州、「渡りて海北」=朝鮮半島南部となり、比定地の特定が可能である[54][55]。

九州倭国の大陸との交流[編集]

以下のことから、漢代から代々に朝貢していたのは九州の大王であり、日本列島を代表して大陸と交流・交戦していたのも九州倭国だったと考えられる。
広開土王碑、『三国史記』等の倭・倭人関連の朝鮮文献、『日本書紀』によれば、倭は百済と同盟した366年から「白村江の戦い(663年)」までの約300年間、ほぼ4年に1回の割合で頻繁に朝鮮半島に出兵している[52]。ヤマト王権にはこれらの軍事活動に対応する記録は存在せず、ヤマト王権の王が畿内を動いた形跡もない。通信手段が未発達な古代にあって朝鮮半島で戦うには、司令部は前線近くの北部九州に置かなければ戦闘に間に合う適切な判断や指示は下せない[56]。政治、祭事、軍事が未分化の時代、必然的に王は司令部のある北部九州に常駐することとなる。つまりヤマト王権とは別の倭王が北部九州に常駐し、そこに倭の首都があったことになる。

漢-唐の正史によると、漢代から倭とは代々使者を送ったり迎えたりしているのに、『日本書紀』『古事記』には遣唐使以前に使節を送った記録も、迎えた記録も無い。また、倭は長い交流を通じて隋・唐の社会制度・文化や外交儀礼に詳しいはずなのに、初期の遣隋使派遣では、畿内日本は外交儀礼に疎く、国書も持たず遣使したとされる(第1回遣隋使派遣は『日本書紀』に記載がなく『隋書』にあるのみ、また『日本書紀』では遣隋使のことが「遣唐使」となっている)。
更に遣隋使・遣唐使とこれに随伴した留学生達によって、畿内地方に唐の社会制度・文化の多くが初めて直接伝えられたとされていることから、遣隋使・遣唐使以前は畿内地方には隋・唐の社会制度・文化は殆ど伝わっておらず、九州倭と畿内日本とは明らかに別物である。遣隋使・遣唐使が畿内日本と隋・唐の初の直接交流である。[57]

倭は朝鮮半島で数世紀に渡って継続的な戦闘を続け、「白村江の戦い」では約1千隻の軍船・数万の軍勢を派遣し唐の水軍と大海戦を行うなど、高い航海術・渡海能力を有していたと考えられるが、この倭国軍に比べ、ヤマト王権の派遣した遣唐使船の航海の成功率は50%程度しかなく、航海技術が極めて稚拙である。これも王朝が交代し航海技術が断絶した為
である。

磐井の乱[編集]

以下のことから磐井の乱とは継体が武烈天皇を武力討伐して政権を奪った九州内の王朝交代の記事であると考えられる。

継体は地方豪族[編集]
『日本書紀』継体記末尾に『百済本記』(百済三書の一つ、三国史記の『百済本紀』とは異なる逸失書)から531年に「日本天皇及太子皇子、倶崩薨。」〔日本の天皇、太子、皇子ともに死す〕」という記述が引用されている。しかし、継体の子の安閑・宣化は、継体の死後も生きていたので、この記述は継体のことではない。
継体21年(547年)、天皇は「社稷の存亡ここにあり」という詔を発しているが、一地方豪族の討伐としては大げさである。
継体が物部麁鹿火に磐井征伐を命じたとき、「長門より東を朕とらむ。筑紫より西を汝とれ」と言っている。磐井を討伐しないと継体は日本の支配権を得られなかったということであり、継体には政権は無かったということである。
継体は、応神朝の最後の大王・武烈から10親等も離れた応神の5代の孫とされており、大王の継承資格がない

磐井は九州倭国の天皇[編集]
『日本書紀』に『百済本紀』から〔日本の天皇、太子、皇子ともに死す〕という記述が引用されている。「磐井の乱」について百済では日本の天皇である磐井一族が滅ぼされたと認識していた。[58]
福岡県八女郡、筑紫国磐井の墳墓とされる岩戸山古墳(前方後円墳)には、衙頭(がとう)と呼ばれる祭政を行う場所や解部(ときべ)と呼ばれる裁判官の石像がある。これは九州に律令があったことを示すもので、九州に王朝があった証拠である。
古代わが国では「曲水の宴」は宮廷行事であり主催者は天皇であった。畿内地方で「曲水の宴」が開催されはたのは8世紀以降であるが、福岡県久留米市には、8世紀以前の「曲水の宴」の遺構があり、九州に王権があったことを窺わせる。
福岡県久留米市の高良山にある高良大社は、以下のことからここに王朝があったことを窺がわせる。 高良大社が三種の神器、「干珠・満珠」の宝珠や七支刀を所蔵している。
高良大社の神職は丹波・物部・安曇部・草壁・百済の五姓である。
中世末期に成立した高良大社に伝わる高良記によると高良大神の孫の子孫に「皇」(すめろぎ)や「連」(つら)などと言った称号を持った者がいる[59]。
高良大社の祭神高良玉垂命は、武内宿禰と言われている。武内宿禰の子供達の名前の地名がこの一帯に散らばっている。羽田(波多)、肥前基肄郡基肄(紀)、肥前佐嘉郡巨勢(巨勢)、肥前三根郡葛木(葛城)、曾我(蘇我)、平群(平群)。 また、高良山近くの武雄は武内宿禰の父の名である。 

「筑紫の君・葛子は父の罪で命をとられることを恐れて、糟屋の屯倉を献上した。」とあるが、屯倉は、朝廷の直轄地であり、葛子が屯倉を譲ったということは、葛子が朝廷の人物であったということである。

磐井の乱は九州内の反乱・王朝交代[編集]
久留米市内、佐賀県との境に長門石という地名がある。「長門より東を朕とらむ。筑紫より西を汝とれ」とは「筑後川で九州を東西に分割する(肥前国を与える)」という意味と考えられる。

継体は南九州の豪族
乱が起きたのが、継体が都に入った直後であり、継体軍の九州上陸等の記事が無い。
日本書紀に「継体22年(528年)11月筑紫の御井郡で戦い、磐井は斬られた。筑紫の君・葛子は父の罪で命をとられることを恐れて、糟屋の屯倉を献上した。」とあるが、継体軍が北から攻めてきて御井郡で戦闘が起きたのなら、糟屋は既に継体軍に制圧されているはずであり、葛子が糟屋を献上しても意味は無い。つまり継体軍は南(肥後方面)から攻めてきたと考えられる。また「筑後国風土記」によると磐井は、単身豊前に逃げたことになっているが、この場合も継体が北から攻めてきたとは考え辛い。
継体の出身地の一つとされる淡海は、八代市付近と考えられる(参考→#伊勢神宮)
近江毛野臣の渡海を阻止した時、磐井は、筑紫、火の国と豊の国の勢力を集めたとされている。鹿児島や宮崎等は入っておらず、南九州は磐井の勢力ではなかったと考えられる。
磐井は継体が派遣した近江毛野に対して、「昔は吾が伴として、肩摩り肘触りつつ、共器にして同食ひき」(かつて同じ飯を食った仲間)と言っている。また、近江は南九州と考えられる(→#伊勢神宮)ので、近江毛野も南九州の豪族であったと考えられる。
福井県や滋賀県等は人口も少なく天皇を輩出するような強力な勢力があったとは考えられないが、継体が南九州の豪族だとするとその配下には、熊襲や隼人等の軍団を擁する勢力があったと考えられる。
この時期巨大な古墳の造営が続いた畿内地方にはまだ九州倭国に対抗する力は無かったと考えられる。

継体は新王朝の祖 継体とは「体制を引継ぎ維持する」を意味する諡号である。[60]。
「二中歴」によれば、九州年号はこの時期「継体」から始まっている。続日本紀によれば、漢風諡号「継体」は天平宝字6-8年(764)に天智天皇の玄孫、淡海三船が撰進したとあるが、ヤマト王権が滅亡させた九州倭国が制定した『九州年号にある「継体」』を淡海三船が参考にした可能性がある。
磐井の墓が破壊されたままになっている。磐井が敗北し王朝が交代したためと考えられる。

磐井とは武烈天皇のことである[編集]

「磐井の乱」は継体が、武烈朝を武力討伐した記事と考えられる。
継体は、武烈朝を倒して即位したと考えられるが、武力討伐の記事が無い。
上記のように磐井が天皇であったとするなら、磐井も武烈天皇も継体に倒された天皇ということになる。
「日本書紀」には、「大化の改新」のように万世一系の思想に都合の悪い記事を時代を変えて2度記し、事実を隠匿・改ざんした箇所がある。



壬申の乱[編集]

以下のことから壬申の乱とは、白村江の戦いで捕虜になり8年間の唐の捕虜から解放され帰国した九州倭国の天皇の薩夜麻こと高市皇子と、留守政権で実権を握っていた大友皇子と十市皇女(中宮天皇)の争いに、畿内地方の豪族・大海人皇子(天武)が介入し日本列島の覇権を得た事件であり、主な戦場は九州であったと考えられる。

壬申の乱の舞台は、九州[編集]

以下のことから壬申の乱の戦闘があった地域は、九州であったと考えられる。
この記事に「倭京」の名がみえるが、この時期に畿内日本には未だ「京」と呼べるような都市は無く[67]「倭京」とは当時日本に存在していた唯一の都市である太宰府
のことと考えられる。
(中略)
大分県には竹田市・ 三重町・大野町・犬飼町・佐伯市など壬申の乱に関係する地名が多数存在する。 不破の道とは竹田市付近の街道のことと考えられる。 関ヶ原付近が不破関と呼ばれた記録は無い。
竹田市には西から道が集まっており、日本書紀の記述どおりに攻めてくる敵の各個撃破が可能である。戦国時代の岡城等は難攻不落であり不破に相応しい天然の要害である。


ふなんこぐい等のような壬申の乱に因む風習が残るのは、佐賀県鹿島である。
源氏が八幡神を氏神とし祀ったことから、八幡神が軍神とされるようになったといわれるが、源氏が八幡神を軍神として氏神に祀ったのは、壬申の乱の時の宇佐神宮の係わりに由来すると考えられる。[69]
勝敗を決したとされる美濃から来た援軍は畿内日本軍のことだったと考えられる。 奈良時代になっても、濃尾平野の農民には、勲位を持つ者が多かった。これは壬申の乱の恩賞が残ったためと考えられる。
江戸時代になっても、奈良県の十津川村は年貢を免除され、農民は名字帯刀を許されていた。これらの特権は壬申の乱の恩賞といわれている。


壬申の乱は、易姓革命[編集]

以下のことから壬申の乱により、王朝交代(易姓革命)があったと考えられる。
『古事記』や『日本書紀』には、同父同母の天智が「兄」で天武が「弟」と書かれているが、天智は671年に46歳で没し、天武は686年に65歳で逝去しているので天武のほうが4歳天智よりも年上である。また天武は天智の娘を4人も妃にしているので、天武と天智が兄弟であることはない
天武は壬申の乱のおりに、自分を百姓(侠客)上がりの漢の高祖劉邦になぞらえて劉邦と同じ赤い旗を使用しているが、身内同士の争では例えとして合っていない。
「天智」は、(殷)最後の暴君とされる(紂王)の愛した「天智玉」に由来し、「天武」は、「天は武王を立てて悪しき王紂王を滅ぼした」に由来する。「天智」「天武」の諡号は、殷王朝から周王朝への易姓革命を意識して付けられたものである(森鴎外『帝謚考』)。
(中略)
『旧唐書』には、倭ないし日本について『倭国伝』と『日本国伝』の二つの記事が立てられている。これは九州倭国と畿内日本とは別の国であり、九州が畿内により征服され、ヤマト王権が日本の名前を使い始めたからである[70]。[71]つまり、倭(九州)と日本(畿内)とは別の国であり、九州倭国が畿内日本により征服され、ヤマト王権が日本の名前を使い始めたと考えられる[72]。
天皇家の最も重要な祭祀である大嘗祭は、673年まで行われていない。それまで大和朝廷に政権がなかったからである

天武2年(673年)8月条に、「詔耽羅使人曰。天皇新平天下、初之即位。由是唯除賀使、以外不召。」とあり「詔で耽羅国の使人に曰く。天皇が新たに天下を平定し、初めて即位する。ゆえに祝賀使は受け入れるが、それ以外は受け入れない。」と宣言している。
漢文明圏では、新しく興った王朝が滅んだ前王朝の歴史を編纂するのが通例であるが、天武が歴史編纂を命じたのは天武10年(681年)である。
日本書紀によると天武は、三種の神器の一つである草薙剣に祟られているので、天武は、本来正当な後継者ではなかったと考えられる


(中略)
次のことから高市皇子が天皇であったと考えられる。
壬申の乱では大伴吹負が「高市が来た」と偽の情報を流しただけで近江軍は戦わないで引き上げている。高市皇子は近江軍から大変畏怖されていた。
『懐風藻』の「葛野王伝」には、「高市皇子薨りて後に、皇太后王公卿士を禁中に引きて、日嗣を立てむことを謀らす。時に群臣各私好を挟みて、衆議粉紜なり」とあるが、 高市皇子が亡くなって後の皇位を立てる衆議は、高市皇子が天皇でなかったなら不要
である。
高市皇子の長男・長屋王の邸宅跡から「長屋親王」「長屋皇宮」「長屋皇子」と記した木簡が多数発見されている上に、『日本霊異記』で「長屋親王」と称されていることなどから、長屋王は王ではなく親王であったと考えられる。律令制では天皇の子及び兄弟姉妹が親王であるから、親王の父である高市皇子は天皇である。[74]
高市皇子は、壬申の乱において、不破から全軍を指揮して戦っており、また乱後の処罰や論功行賞も行っている。
天武・持統期において実質的に最高責任者として政治を行っていたのは高市皇子である。
万葉集の高市皇子への挽歌で、柿本人麻呂は、高市皇子を天皇のみに使われる「わが大王」という言葉で表現している。
『懐風藻』では、後皇子尊(高市皇子)が薨去の時の持統を「皇太后」と記しているので、持統も天皇ではない。
『日本書紀』では後皇子尊(高市皇子)が亡くなったのは持統10年(696年)7月10日、持統が譲位したのは持統11年8月1日。『日本書紀』には軽皇子(文武天皇)の立太子の記事がなく『続日本紀』持統11年に立太子記事がある。高市皇子の薨去によって、立太子できる状況になった。

次のことから天武は天皇ではなく畿内地方の一豪族に過ぎなかったと考えられる。
氏姓は天皇が臣下へ賜与するものであり、古代日本において天皇は氏姓を持たなかった。しかし天武の倭風諡号は天淳中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)であり八色の姓「真人」を持っていた。
天皇が交代すれば元号は必ず改元されるが、
九州年号の白鳳は661年から684年まで続いているので、少なくともこの間は天皇は交代しておらず、同じ天皇の在位が続いていたと考えられる。従って中大兄皇子(天智)の即位(668年)・大海人皇子(天武)の即位(673年)は史実ではない。
天皇家の菩提寺である泉涌寺に天武系天皇の位牌が無い。 天武が天皇であればその息子が天皇を継ぐのは当然である。ところが天武は吉野の盟約において皇族達に、自分と鸕野讚良皇女(持統天皇)の間の息子「草壁王子」を天皇にすることを誓わせている。[75]

次のことから天武と高市皇子は実の親子ではない。[76]
壬申の乱のとき大海人皇子(天武)は、「自分には幼い子供しかいない」と嘆いている[77]が、高市皇子は当時既に19歳前後[78]とされ、また全軍を指揮していたので幼くはない

高市皇子と十市皇女(天武の娘)は恋愛関係または夫婦であったとされている[79]。実の姉弟や兄妹で恋愛関係にあったとは考えられないので高市皇子と十市皇女は、姉弟や兄妹ではない。

666年ヤマト王権の正史にはない「中宮天皇」という天皇がいたと考えられる。
青龍山野中寺の弥勒像台座の下框(かまち)部分には「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也」という陰刻があり、これが丙寅年(666年)の四月に「中宮天皇」が病気になったとき栢寺の僧侶たちが平癒を請願して奉った弥勒菩薩像であることが分かる。しかし、666年には、既に斉明天皇は亡くなっており、穴穂部間人皇女が即位したこともなく、天智天皇が「中宮天皇」と呼ばれた文献資料も残されていない。

大化の改新[編集]
(中略)

以下のことから「大化の改新」は、695年に藤原京で軽皇子と中臣鎌足こと藤原不比等が中大兄皇子を鉄砲玉として使って九州倭国の天皇(高市皇子)を暗殺し皇権を簒奪した下克上のクーデターであり、一方では藤原氏の政権掌握の功績は記述したいが、他方では皇権簒奪の事実は隠匿したいという欲求から生まれた年代・背景を改竄した記事であると考えられる。[要出典](古田武彦の乙巳の変解釈はこの項目とはあまり関係ないため省略)

大化の改新の矛盾[編集]

『日本書紀』の「大化の改新」に関する記事からは、新興勢力の豪族を誅した程度で、何故、政権を改新したり、改革したりすることができたのか全く不明である。もし既存の権力を倒して政治の大改革を行ったのであれば、倒された権力は、それ以前長期に亘り権力を掌握し、政治体制を維持してきた者であり、倒した側はそれまでの権力者とは全く違わなければならない。しかし『日本書紀』の記述では、倒された蘇我氏の歴史は100年にも満たない新興勢力であり、倒した側は代々の天皇であり最高権力者である。『日本書紀』の記述には明らかにこのような矛盾がある。

大化の改新は7世紀末[編集]

下記のように「大化の改新」は7世紀末の出来事であると考えられる。
『日本書紀』は「大化の改新」の時に「郡」が成立したと記すが、「郡」と言う用語が用いられるのは、大宝律令制定(701年)以降であり、それ以前は「評」を使っていた文書(木簡類)が見つかっている[64]。
大化の改新の詔は文体が奈良時代のものと酷似し、日本書紀の乙巳の変・大化の改新に関する記事には和習が頻出しており、大幅に「加筆」された可能性がある。
646年正月の改新の詔の第一条で公地公民、(私地私民の廃止)をうたっていながら646年から後も伴造、国造が所有する部曲や田荘の領有権が認められていた。
改新の詔において「初めて戸籍・計帳・班田収授法をつくれ」とあるが、戸籍・計帳・班田収授は大宝律令で初めて見られる用語であり、それ以前の文書には出てこない。
改新の詔に「初めて京師を修む」とあるが、ヤマト王権で初めて都城制が導入された都は、694年の藤原京が最初である。
ヤマト王権最初の年号は大宝である。『続日本紀』で「対馬嶋、金を貢る。建元して大寶元年と為す」とあり大宝と改元(年号を変えた)したのではなく建元(年号を開始した)したとしている。
大宝律令が発布されたのは701年である。律令制度が定着したのは、大宝律令からである。
『日本書紀』大化元年七月の条に高句麗や百済の使者に「明神御宇日本天皇」と示したという記事があり、日本における「日本」という国号の最初の使用例となっている。しかし、唐の正史(『旧唐書』『新唐書』など)で日本の国号が「倭」から「日本」に変わっているのは7世紀末である。
以下のことから大化元年は『日本書紀』に記された645年ではなく、50年後の695年であると考えられる。 『二中歴』など九州年号では、大化(大和)元年は695年である[80] 。
元号は連続するものであるが、『日本書紀』では、大化から大宝の間の年号が飛んだり無かったりしている。

藤原京条坊
畿内地方初の本格的都城である藤原京が建設されたのは694年であるので、ヤマト王権の成立はこの頃である。

中臣鎌足は藤原不比等である[編集]

以下のことから「乙巳の変」の功績で中臣鎌足が藤原の姓と不比等(他に比べることができる者がいないくらい優れている)の名を賜り、自分の功績と姓を賜った時期を50年前の父の代のこととしたと考えられる。[要出典]
「乙巳の変」の主役の中臣鎌足が藤原不比等自身だから多くいる中臣鎌足の息子とされる中で不比等だけが藤原姓を名乗ることが許されたのである。
藤原氏という一族がいるのに藤原宮という家臣の名の付く宮を朝廷が建設するとは考えられない。藤原宮が先に有って藤原の姓が贈られたと考えられる。
不比等が鎌足自身だから、11歳の時に父の鎌足が死去し政治的な後ろ盾が無い筈の不比等が、軽皇子(文武天皇)を擁立し、その後見人になることができたのである。
「乙巳の変」があったのが695年だから、不比等が権力を握るまで645年から50年間も藤原氏が権力を得ることがなかったのである。
鎌足が不比等自身だから、「乙巳の変(645年)」以降の鎌足の業績がないのである。
鎌足が不比等自身だから、藤氏家伝に不比等の条が無いのである

(中略)
蘇我氏は九州倭国の皇室[編集]

以下のことから蘇我氏とは九州倭国の天皇家のことであったと考えられる。[要出典]
蘇我稲目以前の蘇我氏の先祖が分からない。
蘇我氏が何故、短期間で権力を掌握できたか分からない。
蘇我氏は、渡来人の集団を支配し進んだ知識や技術を持っていたとされている。
当時、畿内地方で唯一蘇我氏だけが仏教を崇拝していたとされている。
蘇我氏の名は、馬子と入鹿の二人の名を合わせると馬鹿になる[81]ことや蝦夷[82]など、実名ではないと
考えられる点がある。
蘇我蝦夷の邸宅が「上の宮門」(かみのみかど)、子の入鹿の邸宅が「谷の宮門」(はざまのみかど)と呼ばれていた。
蘇我入鹿の子らが親王の扱いを受けていた。
『国記』・『天皇記』といった皇室が代々受け継ぐべき史書を蘇我氏が所持し邸宅で保管
していた。

皇権の継承[編集]

以下のことから畿内日本が皇権を九州倭国から継承した方法は、倭の姫(女帝)との婚姻と宇佐神宮の神託を利用したと考えられる。[要出典]
道鏡事件で称徳天皇(孝謙天皇)は、宇佐神宮の神託をもって愛人の道鏡に皇位を継がせようとした。これには先例があったからだと考えられる。
乙巳の変の中心であった中臣氏は、古代の日本において、神事・祭祀を掌っており、神託の捏造は容易であったと考えられる。道鏡事件のとき「道鏡が皇位に就くべし」との信託を受けたとされる大宰府の主神(かんづかさ)も中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげの あそまろ)であり、中臣氏である。
645年に皇位にあった皇極天皇も695年に皇位にあった持統天皇も女帝であったとされる。九州倭国から畿内日本への皇位の異動は、女帝→軽皇子であると考えられる。
九州倭国と畿内日本は、政略結婚により姻戚関係にあって当然と考えられる(天武は天智の娘を四人も妃にしている。)。
血統の異なる皇位の継承には、正統性を保証する演出が必要である。
藤原京(新益京藤原宮)は、大化の改新(695年)の前、690年(持統4)に着工され、694年(持統8)には完成している。皇権や皇位もないのに京や宮が建設されたとは考えられない。この時期既に畿内に天皇がいて、その天皇のために藤原京(新益京藤原宮)が建設されたと考えられる。
「持統」とは、「正当な血統を維持した」という意味の諡号である[60]。つまり持統天皇とは九州倭国の血を引く女帝であると考えられる。

藤原宮の名称は衣通姫の故事に由来する。「日本書紀」では天皇が姫を寵妃にして住まわせたところが藤原宮である。ところが「古事記」ではこの姫は、軽皇子と情を通じた天皇の皇女とされている。

704年に文武天皇が、藤原宮に住んでいた九州倭国の天子を故郷九州へ戻らせて、自ら藤原宮の主人となったと考えられる。
鹿児島県『開聞古事縁起』には、「長らく外朝に暮らした天皇が、天智天皇10年(671年)または大長元年(704年)に九州に戻った」という大宮姫伝説がある。
続日本紀では「慶雲元年(704年)、11月20日、始定藤原宮地。宅入宮中百姓一千五百煙、賜布有差。(704年11月20日に始めて藤原宮の地を定む。(藤原の)宮中の住人1,505世帯に布を賜う。)」とある。

九州倭国滅亡後も九州倭国の皇族の一部は、引き続き太宰府や中央の官僚の地位を維持しており、天武朝断絶の後は九州倭国の末裔から天皇が擁立されたと考えられる。[83]
光仁天皇は天智天皇の末裔とされており、九州倭国の皇統であると考えられる

天平9年(737年)になっても高市皇子の次男の鈴鹿王が知太政官事に任ぜられている。
左大臣を務めた橘諸兄も九州倭国の王族の子孫であると考えられる[84]。
9世紀半ばになっても九州倭国の皇族の末裔とみられる大宰少典従八位上筑紫公文公貞直・筑紫公文公貞雄など「筑紫公(君)」が太宰府の官僚として実在していた[85]。

九州倭国からヤマト王権[編集]

記録が語る王朝交代[編集]

以下のことから九州から王権が移動しヤマト王権が確立したのは7世紀末であると考えられる。
古代国家成立の要件は、常設の政府(官僚機構)、常設の軍隊、首都(都城)等である。これらが畿内地方で揃うのは694年以降であるが、九州には奴国や太宰府などの都城が古代から存在した。
『魏志倭人伝』の邪馬壹國が北部九州に在ったとする説をとると当然ながらその後、九州倭国から畿内日本への権力の移動がなければならないが、漢から唐の歴代の正史では倭についての記述は一貫しており同一の国家についてのことと理解される。唐の正史『旧唐書』、『新唐書』の中で7世紀末に国号が「倭」から「日本」に国号が変わっているので、この時期に王朝が交代したと推定される
[70]。
漢文明圏では新たに成立した王朝は自らの権力の正当性を示すため前王朝の歴史書「正史」を編纂するものであるが、『日本書紀』、『古事記』は8世紀初頭頃に編纂されているので、ヤマト王権が確立したのは7世紀末であると推定される。
日本各地の寺社の縁起や地方の地誌・歴史書等にヤマト王権以前に九州倭国が定めたとも考えられる「九州年号
」(継体元年(517年)-大長九年(712年)下記参照)が多数散見される。「九州年号」も8世紀初頭で終わっており、この時期に王朝の交代があったと推定される
日本書紀によると敏達13年(584年)に畿内へ仏教を伝えたのは播磨にいた高句麗の還俗僧の恵便である。584年以前に既に播磨へは仏教が伝来していたということであり、6世紀末播磨は畿内にとって別の文化圏(=外国)だったということである[86]
天武以降の古代天皇陵は所在が比較的に明確に分かっているのに天武より前の天皇陵の所在が全く不明である(現在、天武より前の天皇陵とされている古墳は全て江戸時代に国学者らが参考地にある古墳の中から『記紀』の記事や伝承・規模を基に適当に治定したもので、それが本当の天皇の墓である確証は何も無い。[87])
前述のように発掘された木簡では700年と701年を境に評から郡に変わっている

(中略)

次のことから、記紀の編纂時にヤマト王権以前の都合の悪い記録を意図的に消しさった(徹底した焚書があった)と考えられる。
漢委奴国王印や親魏倭王印等の金印は倭が文字を理解したから皇帝から賜ったのであり、また倭も手ぶらで漢や魏に朝貢したのではなく上表文を携えて行っていることからも、倭では既に1世紀には文字の使用が一部では始まっていたことが推定できる。従って記紀の編纂時には古墳時代や飛鳥時代の多くの外交文書や歴史書等の資料が存在していたはずであるが、現在そのような物は一つも存在しない[91]。「正倉院文書」の日付の最も古いものは、大宝2年(702年)のものである。
『日本書紀』冒頭の神代紀には「一書に曰く」という表現が数多くあり、参考にした書物の存在を示している。
『続日本紀』和銅元年正月(708年) の詔に「亡命山澤。挾藏禁書。百日不首。復罪如初。(禁書を隠し持って山野に逃亡している者は、100日以内に自首しなければ恩赦を与えない。)」とありこの時期にはヤマト王権の「正規のイデオロギー(日本紀)」と相反する書物が残っていたことを示している

持統天皇5年(691年)8月13日条に、「十八氏に詔して其の祖等の墓記を上進らしむ」とある(「墓記」とは氏族の発祥・由来・顕彰事項を記した氏族の史書)。日本紀の記述に合わせて各墓記を改竄したと考えられる。
『隋書』に「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」「邪靡堆(ヤマたゐ)に首都をおく、(この邪靡堆は)すなわち『魏志』の言う所の邪馬臺である。」とあり、7世紀までは邪馬壹国の流れを汲む王朝が続いていたと考えられるが、8世紀初めに編纂された「日本書紀」や「古事記」には邪馬壹国や卑弥呼について記述が無い。
古事記が4か月で書かれたのに比べて、日本紀[92]は企画から完成まで数十年と異常に時間が掛かっている。また、九州と近畿・東海には、同じ地名や同じ名前の神社等が多数存在する。数十年掛けて日本紀に合うように近畿・東海へ遺跡・遺物・伝承・住民等を移植したと推測される
[93]

8世紀のヤマト王権[編集]

8世紀は異常に多くの反乱やクーデターが発生しておりヤマト王権は、政権が安定していない
神亀6年(729年)長屋王の変(九州倭国系である長屋親王を藤原氏が暗殺した事件)
天平12年(740年)藤原広嗣の乱(藤原四兄弟が天然痘の流行によって死去、橘諸兄が台頭し、失脚した藤原広嗣は九州倭国の旧都である大宰府において反乱を起し討伐された。)
天平勝宝9年(757年)橘奈良麻呂の乱(孝謙天皇に取入った藤原仲麻呂が橘諸兄の子奈良麻呂等を粛清)
天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱(孝謙上皇・道鏡と対立した藤原仲麻呂が軍事力をもって政権を奪取しようとしたが、失敗)
神護景雲3年(769年)宇佐八幡宮神託事件(称徳天皇(孝謙天皇)は宇佐八幡宮の託宣により道鏡に皇位を継がせようとした)
天応元年(781年)氷上川継の乱(天武天皇の曾孫が計画した、クーデタ未遂事件)

九州倭国の抵抗[編集]

以下のことから、九州倭国の抵抗は723年頃まで続いていたと推測される。
九州年号は大長(704年-712年)まで続いている。
続日本紀に下記のような記述がある。 養老元年(717年)11月17日 亡命山沢。挟蔵兵器。百日不首。復罪如初(武器を持って山野に逃亡している者は100日以内に自首しないと恩赦を与えない)。
養老7年(723年)4月8日 大宰府言。日向。大隅。薩摩三国士卒。征討隼賊。頻遭軍役(大宰府の報告によれば、日向・大隅・薩摩の3カ国の士卒は、隼人の反乱軍征討に頻繁に軍役に狩りだされている)
養老7年(723年)5月17日 大隅・薩摩二国隼人等六百廿四人朝貢(大隅・薩摩の2カ国の隼人ら624人が朝貢してきた)


防人[編集]

防人の配置は、九州倭国制圧のために東国の蝦夷を利用したヤマト王権による「夷を持って夷を制する」政策であったと考えられる。
『日本書紀』では、664年以降に防人が置かれたとされているが、防人が置かれたのは九州倭国が滅亡した7世紀末頃と考えられる。 『萬葉集』には8世紀以前の防人の歌が無い


防人の当初の目的は外敵に対する防衛ではなく九州制圧にあった為と考えられる。 当初、防人は東国から徴発されたが、(ヤマト王権の体制が固まった)757年以降は九州からのみの徴用となっている。

太宰府(倭京)[編集]

国指定特別史跡、大宰府政庁跡
以下のことから太宰府は、九州倭国の首都(倭京)であったと考えられる。

名称[編集]
「太宰」の本来の意味は宰相(総理大臣)であり、「太宰府」とは「政治を行う所」つまり「首都」という意味に取れる。宋に朝貢していた倭王武は皇帝の最高位の臣(太宰)を自称していた[94]。
太宰府は「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれていたが、「遠の朝廷」とは「遠くにある首都」という意味であり、遠くとは距離的に遠いだけでなく時間的に遠い、昔の首都という意味である。[95][96]
太宰府には「紫宸殿」「内裏」「朱雀門」といった地名字(あざ)が遺存し、太宰府に「天子の居処」のあったことをうかがわせる。[97]
太宰府政庁跡は現在、都府楼跡と呼ばれているが石碑には「都督府楼跡」とあり本来は都督府と呼ばれていた。[98]都督府とは中国の官職である都督に任ぜられた者が居る場所である。7世紀までは全国各地に評督が置かれていたことが判明しているが、評督とは都督の支配管理下にいる者である。

記録の空白[編集]
『日本書紀』などのヤマト王権の史書に太宰府を何時設置したか記録がない。また都城本体の建設の記録もない。
古代防衛施設遺跡の配置は、北九州に集中しており、守るべき中心が畿内特に大和ではなく、太宰府であった事は明らかである(水城や所在の明瞭な古代山城は、北九州に多い。またヤマト王権に建設の記録が無い古代山城「神籠石(こうごいし)式山城」が北九州から瀬戸内沿岸に存在するが、神籠石式山城の大半も北九州に集中
している)。

都城[編集]

日本最古の都市[編集]
下記のことから大宰府は、ヤマト王権最古の条坊制都城である藤原京(694年)より古い、本格的な計画都市である。 条坊の建設は単なる区画化した都市計画事業に過ぎず、城砦や城壁を建設するより遥かに簡単である。また何も無い所は攻撃の対象とならず防衛する必要もない。そこに重要な施設が存在していたからこそ、そこを防衛する設備が必要だったのである。『日本書紀』の記述が正しいとして、常識的に考えれば、多くの資材を投入して防衛のための付属施設である大野城・水城等が建設されたとされる664年には、既に本体である都城は存在し、資材を投入するに足りる発展を遂げていたことになる。
7世紀中頃に創建された観世音寺の遺構が太宰府の条坊と正確に一致している。寺社に合わせて条坊が建設されることはない、寺社が条坊に合わせて建設されたと考えられることから、太宰府の条坊は観世音寺が創建された7世紀中頃には存在していたことになる

竈門神社の社伝では、天智天皇の代に大宰府が現在地に遷された際、鬼門(東北)に位置する宝満山に大宰府鎮護のため八百万の神々を祀ったのが竈門神社の始まりとされる。つまり大宰府は天智天皇の代(668年-672年)にはあったことになる。
新羅が西暦250-300年頃には金城を整備し、高句麗も427年に都を平壌に遷している。更に百済は538年に 泗沘都城を建設している。宋の皇帝から安東大将軍に任命され、隋・唐朝時代には天子を自称した倭王が、7世紀末まで都城を建設しなかったとは考えられない。また博多では日本最古の計画都市(奴国)が発掘されている。
九州年号に倭京元年(618年)とあることから、この年に建設されたと考えられる


太宰府条坊復元図
唐の首都(長安)をモデルとした都市[編集]
都市の区画割が明らかに唐の長安を模した条坊制である(政庁の位置が創建当時から移動していないことから「都市プランは政庁創建当初からあった」と考えられる)。
ヤマト王権でこのように北に政庁を配置した条坊制の都は、平城京(710年)以降であり、これより46年-92年早い。
ヤマト王権の都にはない都城周辺の城壁があったと考えられている。

日本最古の風水都市[編集]
竈門神社の縁起にあるように「四神相応の地」といわれ、首都としての立地条件を備えており、また、これは水城等の建設された664年や太宰府が建設された618年には確定していたから、ヤマト王権唯一の日本式風水(陰陽道)都市である平安京(794年)よりも130年-176年以上も早い。
『日本書紀』『続日本紀』『魏志倭人伝』『万葉集』の記録[編集]
711年-800年の蓄銭叙位令などが示すように畿内地方は8世紀まで通貨経済は皆無であったが、『続日本紀』769年(神護景雲3年)10月の記事で太宰府の役人が都に「此府人物殷繁。天下之一都會也。」「この府は人の行き来や交易が盛んで、日本で一番の都会である。」と報告しているように太宰府は国際交易都市であり、役人程度しか住まなかったという藤原京や平城京などのヤマト王権の首都を凌ぎ、古代日本で最も繁栄していた都市であった。
『魏志倭人伝』によると3世紀の奴国(博多)でさえ2万戸(10万人以上)の人口があり藤原京や平城京より遥かに人口が多かった。

また畿内地方は8世紀まで通貨経済は皆無であったが「國國有市、交易有無、使大倭監之。」「国々には市場があり、交易の有無を大倭(倭人で位の高い者)に監視させている。」とあり倭では交易が盛んであったことが窺える。
『日本書紀』「壬申の乱(672年)」の記事に「倭京」の名がみえるが、この時期に畿内地方には未だ京と呼べるような都市は無く(飛鳥宮等は宮殿のみで市街地は持たない)。これは当時日本に存在していた唯一の都市である太宰府のことと考えられる。
『万葉集』に小野老が大宰府に着任した時の宴席で「奈良の都」を偲んで詠ったとされる次の歌があるが、この歌は大宰府の繁栄を詠ったものであり、大宰府の繁栄を示すものである「青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有(青丹よし 寧楽の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり)」万3-238 歓迎の宴席で前任地(平城京)を称える歌を詠うのは無礼で非常識である。小野老は新任地(大宰府)を称える歌を詠って歓迎に答えたと考えられる。
歌からは左遷された者の悲哀も都を思う切なさも感じられない。明らかに目の前の雅な風景を詠ったものである。
「寧樂」は、「なら」とは読めない。平城京は他の歌では「平城」と表記されている。寧楽の都は単に「安らかで楽しい都」という意味である。
「あおによし」という枕詞は平城京建設(710年)以前に使用された例があり、「奈良の都」とは無関係にそれ以前に成立したと考えられる。
(中略)

伊勢神宮[編集]

伊勢神宮の興りは福岡県糟屋郡久山町猪野の天照皇大神宮である。倭姫命の定めた伊勢とは熊本県八代地方のことで、現在の伊勢に移る前の伊勢神宮は全て九州内だった。[99]。万葉集などの淡海とは八代海であり、後世に、淡海と近江が混同されたのである。

伊勢神宮の起源は福岡県久山町[編集]

日本書紀には、第10代崇神天皇の6年、宮中にあった天照大神を皇女・豊鍬入姫命に託して笠縫邑に移したとある。一方、第14代仲哀天皇は筑紫で神のお告げを受けたが、これを信じず非難したので神の怒りに触れ亡くなったとある。以下の事からこれらの記事は順序を入れ替えられたもので、仲哀天皇の話が先で伊勢神宮の始まりの物語であり、神功皇后が初代の斎宮である。崇神天皇の宮も福岡の近くにあったと考えられる。
福岡県糟屋郡久山町猪野には神功皇后が仲哀天皇に祟った神を祀ったとされる天照皇大神宮[100]が現存するが、この神社は天照大神を祀っており「九州の伊勢」と呼ばれている。近くには、神功皇后が建てたとされる斎宮もある。
天照皇大神宮で祀られている神は天照大神なので、仲哀天皇を祟った神は天照大神である。既に笠縫邑で皇室から手厚く祀られている天照大神が筑紫にも現れ、筑紫の天照大神が天皇を祟り殺しているのは奇怪である。
伊勢神宮は神の祟りを怖れて祀った神社であると推測される。 元々宮中にあったものを遠く伊勢で祀っている。
20年毎に遷宮を行わなければならない。
未婚の皇女あるいは女王を斎宮として送らなければならない。
明治天皇まで天皇が誰も伊勢神宮に参拝していない。
分霊されることがない。

仲哀天皇の話以外に、記紀には伊勢神宮の起源らしき記事が無い。
日本書紀には、事実を隠すため大化改新など記事の入替とみられる箇所が他にも多数ある。
(中略)

遣隋使・遣唐使[編集]

「遣隋使」はもちろん、「遣唐使」も7回目(669年)までは九州倭国が派遣したものであり、小野妹子らの畿内日本の者は九州倭国の遣隋使に同伴させてもらったのである[104]。

正倉院[編集]

奈良正倉院の宝物の殆どは天平10年(738年)に九州筑後の正倉院から献上されたものであり、元は九州倭国の宝物である。
「正倉院文書」中の正税帳によると、当時の税は、稲・塩・酒・粟などを納めるのが普通だが、「筑後国」の貢納物は鷹狩のための養鷹人と猟犬。白玉・青玉・縹玉などの玉類などである。鷹狩・曲水の宴などの貴族趣味は畿内地方にはなく、筑後にはあった。
玄界灘の真っ只中、九州本土から約60kmに浮かぶ沖ノ島は、宗像大社の神領であり、日本で最も多くの国宝が出土しており、「海の正倉院」と称されている


法隆寺[編集]

法隆寺西院伽藍は筑紫の寺院(太宰府都城の観世音寺又は福岡市難波池の難波天王寺又は筑後国放光寺)が移築されたものである。

宇佐神宮[編集]

道鏡事件で和気清麻呂が宇佐神宮の神託を訊きに行く等、古代において国家の大事や天皇の即位時には宇佐神宮へ勅使が必ず遣わされ、古代日本では伊勢神宮より九州の宇佐神宮が重要視されていた。つまり、古代日本では九州に権威があった。
(中略)

官僚機構[編集]

ヤマト王権は694年に行政が常駐する都(藤原京)を建設し、701年に大宝律令を制定して官僚組織を整備しているが、これに必要とされた多くの人材は、滅亡した九州倭国の官僚を再雇用したものである。7世紀末に突如として畿内地方に出現した官僚集団は、九州の太宰府(倭京)から連れて来られたものである。ヤマト王権は九州倭国の官僚機構を引き継ぐことにより、政権に必要な人材を確保することができたのである。また、知識階級でありエリートであるはずの下級官僚に対するヤマト王権の奴隷的な扱いはこの為である

(中略)
万葉集[編集]

『萬葉集』に、九州・山陰山陽・四国の人の歌が無いのは、皇権簒奪の事実を隠すためであり、また解釈が皇国史観で歪曲されているからである。
万葉集の古い歌の殆どは九州で詠まれたものである。 太宰府(九州倭国)の花は梅、畿内日本の花は桜や菊であるが、梅118首、桜40首、菊は1首も詠まれていない。

北朝で使われた「紅葉」ではなく九州倭国が朝貢した南朝で使われた「黄葉」が多く使われている。
代表的歌人でありながら正体不明な「柿本人麻呂」や「額田王」等は九州倭国縁の人物である。山上憶良等も元は九州倭国の役人であったものがヤマト王権に仕えたものである。

「倭国万葉集」の「大和篇」が「雑歌」として残され、それを出発点(巻一・二)として、巻三以降が増補され、現存の『万葉集』に至った。 九州王朝時代の5~8世紀にかけて詠まれた主に口誦歌を集めた歌集である。
「白村江の戦」に関する歌が無い。
巻末に置くべき雑歌(その他、雑)から始まっている。
奥書がなく、誰が何時編纂したのか不明である。続日本紀・日本書紀にも編纂の記事がない。


(中略)

神社[編集]

住吉神社、八幡宮など九州を始原とする神社が日本全国に多く分布するのは、九州倭国の信仰をヤマト王権が引き継ぎ広まったものである[106]。

(中略)

『日本書紀』の神代巻に「筑紫」は14回出現するが「大和」は1回も出現しないことなどから、神代の舞台は九州であるとする意見は九州王朝説に限らず多いが、九州王朝説では上記のように「壬申の乱」の舞台までも九州であるとして、記紀の殆どは「九州倭国」の史書からの盗用であり、「古代ヤマト王権」の文献資料など存在しないとする見方もある。”

邪馬壹国説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%A3%B9%E5%9B%BD%E8%AA%AC
“『魏志』(魏志倭人伝)の原本はどれも例外なく邪馬壹国か邪馬一国となっている。これを邪馬台国とするのは根拠に乏しい。『後漢書』などには邪馬台国とあるものの、『梁書』の例もある通り「魏志倭人伝」以外の全てが邪馬台国というわけではなく、邪馬台国が正しいとする根拠にはならない。
邪馬台国は邪馬壹国よりも狭義の意味での国家と考えられる。(後漢書を見る限り、邪馬台国は倭王のいるところを指す地名のようなものと思われる)邪馬壹国は九州にある国である。


古田 武彦(ふるた たけひこ、1926年(大正15年)8月8日 - )
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E7%94%B0%E6%AD%A6%E5%BD%A6
“『魏志倭人伝』にある国の名を邪馬台国とせず、現在伝わる「魏志倭人伝」の原文通りに「邪馬壹国」の表記[19]が正しいとする。所在地を博多湾岸とする。
『魏志倭人伝』のみならず魏晋朝では1里75m~90mの短里が公式に用いられたとする。
『魏志倭人伝』にある裸国、黒歯国は南米大陸北半(エクアドル)にあるとする。エクアドルの歴史参照
金印を賜った倭奴国から一貫して、倭国は、九州王朝であるとする。白村江の戦いによって急激に衰退し、分家である近畿天皇家(日本国)に吸収されたとみる。
須久岡本遺跡(福岡県春日市)の弥生王墓の年代は3世紀まで下るとする(通説では後1世紀頃)。
三角縁神獣鏡について通説だった魏鏡説を批判、国産説を唱える。
九州王朝説をはじめ、列島各地に王権が存在したとする「多元的古代史観」を提唱。稲荷山古墳金錯銘鉄剣銘文の分析などから、関東にも大王がいたとする。
広開土王碑は改竄されていなかったとする(古田武彦の説で唯一定説になったもの)。”

古田史学を簡潔に紹介します
http://www.geocities.jp/pujo106blue/index.html

2014年古田武彦九州講演
http://www.youtube.com/watch?v=Q_dRgfrJMG4

§…九州王朝「倭国」…§
http://www.geocities.jp/waikoku/index.html

次は近江朝。

王朝交替説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E4%BA%A4%E6%9B%BF%E8%AA%AC
”継体王朝(近江王朝)[編集]

継体天皇は応神天皇5代の末裔とされているが、これが事実かどうかは判断がわかれている。水野祐は継体天皇は近江か越前の豪族であり皇位を簒奪したとした。
また、即位後もすぐには大和の地にはいらず、北河内や南山城などの地域を転々とし、即位20年目に大和にはいったことから、大和には継体天皇の即位を認めない勢力があって戦闘状態にあったと考える説(直木孝次郎説)や、継体天皇はその当時認められていた女系の天皇、すなわち近江の息長氏は大王家に妃を何度となく入れており継体天皇も息長氏系統の王位継承資格者であって、皇位簒奪のような王朝交替はなかったと考える説(平野邦雄説)がある。

なお、継体天皇が事実応神天皇の5代の末裔であったとしても、これは血縁が非常に薄いため、王朝交替説とは関わりなく継体天皇をもって皇統に変更があったとみなす学者は多い[1]。 ただし、継体天皇の即位に当たっては前政権の支配機構をそっくりそのまま受け継いでいること、また血統の点でも前の大王家の皇女(手白香皇女)を妻として入り婿の形で皇位を継承していることなどから、これを新王朝として区別できるかどうかは疑問とする考え方もある。


ネズミさん‏@Nezmi_san·1月2日
@kenkatap 絵馬⇒神馬=馬の奉納は河内馬飼首荒籠
(安羅=伽耶地域=任那日本府の出身で河内にいた運送業)が記録上の始まりでは?
http://www.kudaranokai.org/speech/speech9.pdf …
つまりは軍事用の運送業者が力を持ち、継体天皇を作った。百済の難民を摂津や長野に・・・”
”「継体天皇は、前王朝が武烈天皇に子が無かったために途絶えて、大和の豪族たちが協議して越前の豪族であった男大迹王(おおどのおう)を迎え入れたものであります。」らしいですね。その後見人が河内馬飼首荒籠=任那。馬を扱うのは大陸系でしょう。”
http://www.kudaranokai.org/speech/speech9.pdf

あいかわらずネズミさんは凄いな。

武烈天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%83%88%E5%A4%A9%E7%9A%87
”『日本書紀』には「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」とあるように、非常に悪劣なる天皇として描かれている。その一方で、厳格な裁判を行ったとするなど相矛盾する記事が併存する。この相違の背景には、血縁関係が薄い次代の継体天皇の即位を正当化する意図が『書紀』側にあり、武烈天皇を暴君に仕立てたとする説が一般的である。事実『古事記』には、暴君としての記述はなく、太子がいなかったことと天皇の崩後に袁本杼命(おおどのみこと、後の継体天皇)が皇位継承者として招かれたことしか記述されていない。また、天皇の御名小泊瀬稚鷦鷯尊は、仁徳天皇の御名(大鷦鷯尊)と雄略天皇の御名(大泊瀬幼武尊)の一部を接合したもので、ここには、聖帝仁徳によって開かれた王朝が、雄略の時代を経て悪逆非道の武烈で断絶し、次の継体によって新王朝が開かれるとする王朝交替の歴史観が現れているとの説もある。

『日本書紀』には、物部麁鹿火の娘の影媛(かげひめ)をめぐって、平群臣鮪(へぐりのおみしび)と歌垣で争ったことが記され、それに敗れた太子は大伴金村に命じて鮪を討ち取らせたという。ところが、この歌垣の場面は『古事記』に、袁祁王(をけのみこ、後の顕宗天皇)が菟田首(うだのおびと)の娘の大魚(おうお)をめぐって、志毘臣(しびのおみ、『日本書紀』の平群臣鮪に相当)と争ったこととして記されている。つまり、歌垣に出てくる皇子も女も、全く別の設定になっているのである。何れが原伝承かの判断は分かれるが、少なくとも『古事記』と『日本書紀』とでは、武烈天皇の伝承にかなりの食い違いが見られており、武烈天皇自身が実在したかどうかについても疑問が残る。


継体天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%99%E4%BD%93%E5%A4%A9%E7%9A%87
”『記紀』によると、先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前(近江とも)から「応神天皇5世の孫」である継体が迎えられ、群臣の要請に従って即位したとされる。しかし、『日本書紀』の系図一巻が失われたために正確な系譜が書けず、『上宮記』逸文によって辛うじて状況を知ることが出来る。しかし、この特殊な即位事情を巡っては種々の議論や推測がある。

『記紀』の記述を尊重すれば、継体天皇を大王家の「5代前に遡る遠い傍系に連なる有力王族」とする説が正しい。しかし戦後に、歴史とりわけ天皇に関する自由な研究が認められることになり、継体は従来の大王家とは血縁のない「新王朝の始祖(初代大王)」とする説(水野祐「三王朝交替説」)などが提唱された。

たとえば前述の水野説によれば、いわゆる万世一系は否定され、出自不明の第26代・継体天皇からヤマト王権の新たな大王家が始まる。さらに論を進め、近江の皇別氏族(皇族が臣籍降下して誕生した氏族)息長氏の出身と見なし、ヤマト王権を武力制圧して王位を簒奪したとする説なども
出された。

近年では、5世紀のヤマト王権大王の地位は特定の血に固定されなかった(即ち王朝ではなかった)とする説もある。継体天皇前のヤマト王権は各地域国家の連合であり、大王はその時々の地域国家の王から選ばれ、祖先が誰かは分からないという意味である。武光誠は、継体以前の大王は複数の有力豪族から出たとしている(以下の文献参照)。また武光によれば、武烈天皇などは実在した天皇ではなく、応神天皇の実在に関しても諸説ある、としている。




・今の仏教は、完全に拝火教やマニ教、密教に乗っ取られている。
・天蓮華信仰は西太后からきている。アマテラスもそう。それが弥勒にもなっている。
弁才天は本当は違う古代の大地母神(蛇)だけど、今は一緒くた。
・道教は日本人は関わっていない。思想体系が違いすぎる。
あいつら日本人じゃない。 そもそも道教は神懸かりした人=神(絶対者)。
日本人の振りをしているだけ。 そいつらが権威を独り占めしただけ。仏道派は見向きもしない。
道端で「あなた道教ですか?」と聞いて「はい」と答える人はいないでしょうから、道教はマイナー。

大和と倭国(九州王朝)、近江王朝)を一緒にしたらアカン。それぞれ陰陽=太陽と月の関係であり、それに北辰信仰が合わさったもんや。つまり三鳥居系の奴らは後にやってきて、毒殺&縁組みで朝廷を乗っ取って歴史を書き換えた奴らやで。
神道のお札の元ネタは道教のお札。 茅山道教を創始した陶弘景(5・6世紀。皇帝の相談役)は「道教は神道」と主張。 天皇崇拝は星崇拝であり太陽崇拝ではない(天照は誤り)。天皇は天皇大帝の略称。天皇大帝は北極星の神格化であり剣と鏡の二種を象徴として持つ。日本の皇室でも元来は二種の神器。


少なくとも七世紀の後半、斉明・天智・天武(初代天皇)・持統の時代は道教の時代。皇統は斉明→天智→天武→持統→文武と続いていてこの五代の天皇が八角形の墳墓に葬られている。七世紀後半から八世紀初頭の天皇陵墓に八角形が採用されたのは、道教では宇宙の形を八角形で表現するから。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-25.html
吉田神社にある道教施設。道教式の天皇陵。「大王は神」・「現人神」は「神道」由来ではない。「アイドルは処女」はマリア崇拝。性を管理する耶蘇教。契約神ミトラ=豊聡耳皇子(厩戸皇子)。神道のお札の元ネタは道教のお札。『混沌からの出発―道教に学ぶ人間学』五木寛之・福永光司 共著

斉明→天智→天武→持統→文武(道教の時代)
→元明→元正→聖武(仏教の時代へ)
→孝謙→淳仁→称徳(孝謙)
(天武系から天智天皇へ)→光仁天皇→桓武(百済系)

(天武天皇の謎を解く
http://manoryosuirigaku2.web.fc2.com/chapter2-11.html
などを参考)

聖武天皇は文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。
聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出している。
天平勝宝4年4月9日(752年5月30日)には東大寺大仏の開眼法要を行う。
つまり、完全に仏教側であり、道教側じゃないですね。
藤原氏が仏教側(道教否定)だったのかな。
道教勢力駆逐の歴史があったのだろうね。

いやー面白いぜ。
終わり。

おまけ
狛ねずみ、狛狐、 狛龍、狛鳶、狛猿、狛猪などがある
 狛犬コレクション
http://www.h4.dion.ne.jp/~amahara/cg/koma_00.html

J・ナナミ‏@pinkglalem·5月27日
私は以前そーいう仕事をしていたけど...ホルモン剤なしでは、あんなモノ(牛肉)は、食べられたモノではない。 ...RT;【食の安全】アエラ誌「日本向けの豪州産牛肉には“ホルモン剤”が使用されていることが多い」
肉用の若いオス牛を去勢しても副腎皮質から男性ホルモンが出続けるから、ペレットとインジェクションで、ホルモン剤を打って脂肪をつきを良くしないと、肉が硬くて食べられない。
牛なんて食べるモノではないnじゃァないかな
?コレってミトラ教の影響なのかな?ミトラスが牛を殺す像が残ってますけど、アレってお祭りの時の生贄で特別なご馳走だったんじゃぁないの?常食するモノではない。

牛殺しといえば、大山倍達。写真があるけど、かなり牛が小さい。たぶん仔牛。私は800~1500㌔の雄牛を扱ってたから...それに種牛はかなり大人しい。
へぇー大山倍達(崔 永宜)って戦前に石原莞爾のもとで政治活動してたの?戦後極真会館の初代会長は佐藤栄作なんだって。 現在極真会館の会長の松井章圭(文章圭)は許永中のボディーガードだった人。格闘技は何かと裏社会と繋がってる。

U‏@wayofthewind·5月27日
昔の極真の大会パンフレットには、協賛としてズバリ統一協会の名が出ていたそうです(笑) マス大山は韓国籍でしたが、現館長は朝鮮籍のはず。後継問題の背後で、南北朝鮮の争いがあったのではないかと見ています。
日本の武道団体は、明治以降の富国強兵に合わせて急拵えされたものばかり。空手道は笹川マネー、合気道は大本教、柔道と剣道は警察利権。『道』とつくのは神道と一緒で、バックにキリスト教社会が憑いているから


道(タオ)→伝道(暴力=武道で脅す)。八咫烏好きは記紀が道教書で、企画者の初代「天皇」天武が道教家で、神道も陰陽道も中国原産の道教の一派で、明治以前の国教が道教混じりの仏教なのを隠す。JFAの八咫烏マークに影響した内野台嶺は曹洞宗で儒学者=アンチ道教。

八紘一宇と仏前結婚式を作ったのが国柱会=和風キリスト教
教祖の田中智学の名は神智学と人智学=キリスト教の変形が元ネタ。
国柱会は日蓮聖人700年遠忌記念事業でオラトリオ=カトリック製音楽を流すキリスト教仏教部です。

宗教統一が目標の国柱会は満州国建国の思想的支柱で、満州国に皇軍慰安隊を派遣し、関東軍を支援。
信者:
金子彌平(初代京都局長)、
近衛篤麿(近衛文麿の父)、
宮沢賢治、
石原莞爾、
北原白秋夫人菊子、
高山樗牛、
武見太郎、
藤牧義夫、
神崎武雄。


フェイド大帝@FeydoTaitei
福島産の食材には消費税が 掛かりません」 という政策があったらイルミさんも 賢いのだが……

黒幕を倒せるだけの武力が あればだけどね。 「愛」なんか説いても通用せんぞ? マザーのギーグじゃあるまいし。

イルミというのは思想が問題で
あって、特定の人物や組織が
焦点ではないぞ?

要は犬やライオンのアルファ
権勢症候群の人間版みたいなもん。
本能的に人間という生物種に
備わっていると思った方がいい。

つまり、イルミ思想というのは
自然発生する。

いくら遺伝子交配で改良しても
おバカ犬っているだろう?

処分するのも一つの手だが、
大半は「しつけ」で矯正を
試みる。

「しつけ」と言うのはぶっちゃけ
人間で言う「教育」と思えばいい。

ところがヨーロッパの王族とか
貴族とかの子供は庶民が通う様な
学校には行かないし、普通は勉強
しない「帝王学」を親から
まなばされる。
「帝王学」や「拝金主義」というの
「道徳」、「倫理」と相反する。

困った事に、「道徳」というのは
宗教みたいなもんなんだよな。
絶対的で不可侵な常住する
「善」が存在しないと成り立たない


で、ヨーロッパ庶民の「道徳」の
教育担当がキリスト教だったわけ。
ところが教会もローマ帝国も
意図的なのか、失敗したのか
結果論だけ言うと「道徳」の
先生を上手くやれなかった。

哲学というのは「道徳」を
究める学問ではないからね。
ルネッサンス時代にルソーの
ヨタ噺を間に受けたフリーメイソン
も結局は「道徳」は教えられない


そもそもキリスト教を改修して
正しい方向に向かわせれば済んだ
話を、革命によって排除する
方向に走ってしまった。
あらゆる主権を倒した後、
メイソンは何を教える?
ルソーにプラトンをトッピング
したジャンクしか残ってないだろう?


(Aran Meclaren@WorldWildWow
道徳が広まったのは近代やで。哲学には関係ない。あと弁証法は洗脳法や。)

フェイド大帝‏@FeydoTaitei
東洋はまた別問題。

仏教が間違えたのは
「常住善」を否定したこと。
だから、天台宗や華厳宗が
勘違いして「悪も仏性なんだ」
という曲った解釈をしてしまった


(Aran Meclaren@WorldWildWow
「悪法も法ではある。しかし、法だからといって従うべきではない」の話に通ずるなぁ~ 秘密主義は悪の根源やで。)

フェイド大帝‏@FeydoTaitei
もちろん釈迦はバカじゃないから、
一応の対策を考えることはした。

それが「戒」。

これはユダヤやイスラームの
律法と同系の考え方なんだけどね。

(Aran Meclaren@WorldWildWow
ちゃう。それは大乗仏教を広めた奴らや。釈迦は「するのは無意味」と説いただけで禁じたりはしてない。戒律は基本、王族と密着しとるバラモンやマニとかやから。それに反発して論破したのが釈迦。)

この世に善も悪もないなら
人間は何でも自由にやってしまう。
さてどうする?
(フリーメイソンの「自由」追求の
思想的欠陥もここにある)

取り敢えず明らかにコレを
やったらマズイだろうと
釈迦が判断する行為を
リスト化して、ルール化しよう。

これが仏教のタブーのルール集
「戒」。

不殺生、不邪淫は「戒」と
捉えるのが一般的なのだが


(Aran Meclaren@WorldWildWow
そんな一般論を信じとるのかえ? 大乗仏教は何でも解釈でねじ曲げたことは有名やん。)

NARUTO 暁 バトルシーン集㊃
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20678581

蛇の断章:あるいはユダヤ・キリスト教が蛇を悪魔にする理由について
http://bloom.at.webry.info/200712/article_1.html
“造物主に2人の娘がいた。
2人はそろって聖仙の妻となった。
夫は2人の妻の願いを叶えると約束し、妹は1000匹のナーガ(蛇あるいは竜)を息子とすることを望み、姉は妹の子より優れた2人の息子を望んだ。

その後長い時間を経て妹は1000個の卵を、姉は2個の卵を産んだ。
2人は卵を500年間あたため続け、やがて妹の卵からはナーガたちが産まれたが、姉の卵は孵らなかった。
姉は恥ずかしさのあまり卵の1つを割ると、上半身しかない子供が出てきた。
卵を早く割ったために下半身がまだ作られていなかったのである。

この息子は、卵を割ってしまった母親に対して怒り、500年の間、競った相手の奴隷になるという呪いをかけた。

ある日、姉は乳海攪拌から生まれ太陽を牽引する馬の色について、妹と口論となり、負けた方が奴隷になるという条件で賭けることにした。

姉は全身が全て白い馬と主張したのに対し、妹は体は白だが尻尾だけは黒いと主張した。

実際には姉のいうとおりであったが、妹は密かに息子のナーガたちに太陽の馬の尻尾に取り付くように命じ、黒く見えるようにした。

翌日、2人は海を越えて確認に行くと、太陽の馬の尾の色は黒かったため、姉は負けて奴隷になってしまった。

やがて時期がたち、姉のもう一個の卵から、ガルダが生まれた。

ガルダは産まれるとすぐに成長し、炎の様に光り輝いて神々を震え上がらせた。
ガルダが母の元に行くと、ガルダも母と共に妹とナーガ達に支配されることになった。

妹はガルダにも様々な難題を振りかけ、やがてガルダは嫌気がさし、母に対してなぜこの様になったのかを尋ねた。

母が妹とナーガの陰謀によって奴隷となったことを聴くと、ナーガたちに対して母を解放するよう頼んだ。
ナーガたちは、天界にある不死の聖水アムリタを力ずくで奪ってくれば解放すると約束した。

ガルダは、天上に向かった。
天上ではガルダの襲撃を予兆して今までになかったようなさまざまな異常現象が起きた。
しかし、ガルダは天上に乗り込むと、守備を固めて待ち受けていた神々を次々に払いのけた。戦神である多くの神々が打ち倒された。
ガルダはすべての神をすり抜けてアムリタを奪い飛び去った。

ガルダが飛んでいると創造主と出会った。
創造主はガルダの勇気と力に感動しガルダの願いを叶えることとした。

ガルダの望みは、アムリタを用いない不死であった。
そこへ神々の王インドラが最強の武器ヴァジュラを使って襲いかかってきた。
しかしそれでもガルダには敵わなかった。ガルダはインドラより100倍強くなるようにという願いが込められて産まれてきたからである。
インドラはガルラの力に感動すると、ガルダに永遠の友情の誓いを申し込んだ。

その代わりにガルダはナーガたち蛇族を食料とするという約束を交わした


そして、約束を守るためにガルダはアムリタをナーガたちの元へ持ち帰った。
母が解放されると、アムリタをクシャの葉の上におき、沐浴してから飲まねばならないと告げた。
それを聞いてナーガたちが沐浴をしている隙に、インドラがアムリタを取り返してしまった。
ナーガたちはだまされたことに気づいたが、もはやどうしようもなかった。ナーガたちはどうにかしてアムリタをなめようと、アムリタが置かれていたクシャのあたりをなめ回したため、舌が切れ二股となってしまった。
(『マハーバーラタ』第1巻14~30章)。”

神話って神が多すぎてよくわかんないが誰が最強なの? : まとめ ...
http://totalmatomedia.blog.fc2.com/blog-entry-614.html
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