『沙門果経』(六師外道の出典)や『聖なる網の教え(梵網経)』(サンジャヤ・ベーラッティプッタ思想を含む)、無記などが収録されている『原始仏典 長部経典1』。不可知論とウナギ論の違い
Posted on 2023.05.21 Sun 20:47:11 edit
ミロク信仰を咎める法華経。植木雅俊『梵漢和対照・現代語訳 法華経』
『サンスクリット原典現代語訳 法華経』。マグダラのマリア、ベヨネッタ、ハンター×2、ファイアパンチ
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-479.html
今回の記事は、大乗ではないよ。
『沙門果経』(しゃもんかきょう)や、『聖なる網の教え(梵網経)』(サンジャヤ・ベーラッティプッタ思想が登場)などが収録されている『原始仏典 長部経典1』についてのメモなどの記事。
※本書のメモより上に書いた、メモ記事ができるきっかけが長いので注意。
※メモした箇所や、引用箇所(誤りがないか何度も確認したメモの個所)の着色は引用者
目次
前置き(なぜ本記事ができたのか)
『原始仏典 長部経典1』(『沙門果経』『聖なる網の教え(梵網経)』含む)備忘録(メモ)
参考資料
前置き(なぜ本記事ができたのか)
本記事はサンジャヤ・ベーラッティプッタの記述が非常に気になったので作成された。
気になったきっかけは以下の引用のうち、サンジャヤや不可知論関連の箇所。
シーア兄貴(イラソのアレ来世触手)2022/5/3~5/30と良呟きや記事の保管庫。うなぎ教(サンジャヤ)や、不可知論とハクスリーなどについて
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-478.html
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
いや…単純に「断見と常見の判断が厳しい」だけかと
仏教に置いての常見・断見の判断は「想起する・されるもの」で、する・されるものの最たるものが「死後」なのよ
死後に対しては誰もわからないんだけど、それに対して様々な人達が「判断」してきたわけ
で、経験論でわからないから無記と置いたのよ
午前4:21 · 2022年5月19日·Twitter for Android
5月19日
ところが、サンジャヤの極端なところは「経験や認識自体を無記」としたところ
効果としては経験・認識を無記と落とせば「想起されるものを全て殺しきれる」そこで殺せば、それ以上語る必要がなくなる
言葉の後に言葉を繋げないために、最初から言葉と言葉の関係を断ち切るのが彼等の教義
5月19日
これも文法学やっていればわかるんだけど
言葉というのはある・ないつくものとつかないものがあり
「ちんぽだ」と言えば、ちんぽです・ではないが生じる
または疑問や命令にすれば、ある・ないは生じないけど、それがちんぽであることが想起や上書きされたりする
コレをサンジャヤは止めたかったのよ
5月19日
まず、ある・ないを「拒絶」する
否定ではなく、拒絶するこれが一つ
そこから疑問が発生するが「拒絶」するので相手の想起と自分の想起を「殺し・拒絶」する
そうすると命令や断定が生じる、そこで「想起された事を再度殺し・拒絶」するの
非常に明確で、説明する事で起こる利益・不利益を拒絶するんよ
5月19日
要は断定する・しない事・疑問を呈したり・命令で判断するという様々な言葉の動きが利益・不利益を形成し
不利益・利益を追求してしまう手段として言葉があるので、その最たる手段を潰す事で解脱・輪廻から逃れられるのではないか
と、考察した結果がこの論法・思想になったんだと推測する
5月19日
判断中止というよりは判断自体が貧富を形成し、不安定な状態・世界を作り上げているので
その判断の元たるものを絶てば、貧富や不安定な状態から、安定したものへと移り変わる「態度」がああなったんでしょう
アレだけ口伝大好き・アーリアな連中よ、懐疑ではなく
口伝で起こる、不安定が対象よコレ
これねー、うちらでも伝承があって
口達者は資産を築き、唖は貧しいというのがあってね
形而上やそういう議論は、口達者な連中が考え・物語を作ってきたのよ
で、その口達者な連中の寝言を根っこから潰すのがサンジャヤの教義
勿論、幸せ・不幸すら生じさせずに常に「不動」となるのよ
午前5:23 · 2022年5月19日·Twitter for Android
(
ありがとうございます! なるほど、仮にこういう教えだったのなら舎利弗(シャーリプトラ)と、目犍連(マウドガリヤーヤナ)がウナギの弟子になってもおかしくない。釈迦の教え〔当時は仏教と呼ぶべきではない〕は意外とウナギと似ていたのかもしれないな。
ウナギは
「もし、あなたがあの世はあるかとたずね、
自分があの世は、あると考えたなら、あの世は、あると答えるであろう。
しかし、私はそうしない。
そうとは考えない。
それとは異なるとも考えない。
そうではないとも考えない。
そうではないのではないとも考えない。」と言ったらしいが他には以下について述べたらしい。
サンジャヤ・ベーラッティプッタ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%97%E3%83%83%E3%82%BF#CITEREF%E6%97%A9%E5%B3%B61982
”真理をあるがままに認識し説明することは不可能であるとする不可知論である[4]。形而上学的な重要問題に対して確答せず、判断を中止する態度を採った。懐疑論とも言える立場であるが、彼の態度は、抜け出すことの困難な形而上学的な難問を議論することの意義を問う判断中止(エポケー)の表明であると言える[5]。
彼は「来世があるのか」という問いに対し、次のように答えた[4]。
もしもあなたが「あの世はあるか」と問うた場合、わたしが「あの世はある」と考えたならば、「あの世はある」とあなたに確答するでしょう。しかしながら、わたしはそうしない。わたしはその通りだとも考えないし、それとは異なるとも考えないし、そうでないとも考えないし、そうでないのではないとも考えない。(『沙門果経』ディーガ・ニカーヤ)[4]
続いて、「あの世はないのか」「あの世はあり、かつないのか」「あの世はあるのでもなく、かつないのでもないのか」の問いに同様に答え、善悪二業の報いは存在するか、如来(人格完成者)死後に存在するのかについても、同じように判断中止の態度を示し、明確な答えを避けた[4]。このような彼の議論は、「鰻のようにぬらぬらして捕らえがたい議論」とも言われる[4]。
仏教学者の早島鏡正は、「人間の行為についての業論や霊魂論を、実践の本質を探究する面から捉えなおそうとしている点で、ジャイナ教や仏教に与えた影響は看過できない」と評している[4]。ジャイナ教の開祖マハーヴィーラは、サンジャヤの懐疑論は実践の指針にならないとして退け、知識の問題に関して「ある点から見ると」と限定して述べる相対主義(不定主義)を唱えた[6]。釈迦の無記(人生の救いに役立たない形而上学的な問いに、沈黙して確答を与えない考え)に影響を与えたとも考えられている[4][5]。
〔中略〕
最終更新 2022年1月21日 (金) 22:40 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
”
沙門果経 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%99%E9%96%80%E6%9E%9C%E7%B5%8C
”日本語訳
『世界の名著 1 バラモン経典 原始仏典』 中央公論社
『南伝大蔵経・経蔵・長部経典1』(第6巻) 大蔵出版
『パーリ仏典 長部(ディーガニカーヤ)戒蘊篇I』 片山一良訳 大蔵出版
『原始仏典 長部経典1』 中村元監修 春秋社”
無記 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E8%A8%98
”無記(むき、巴: avyākata, アヴィヤーカタ、梵: avyākṛta, アヴィヤークリタ)とは、仏教において、釈迦がある問いに対して、回答・言及を避けたことを言う。仏説経典に回答内容を記せないので、漢語で「無記」と表現される。主として形而上学的な[1]、「世界の存続期間や有限性」「生命と身体の関係」「修行完成者(如来)の死後のあり方」といった仏道修行に直接関わらない・役に立たない関心についての問いに対して、このような態度が採られた。
その数から、「十無記」(じゅうむき)、「十四無記」(じゅうしむき)、「十六無記」(じゅうろくむき)等とも呼ばれる。無記答(むきとう)、捨置記(しゃちき)ともいう[2]。
また、仏教では、倫理的価値を (1) 善、(2) 悪、(3) 無記の3つに分けるが、このうち「無記」は、「善とも悪とも記別することができないもの」をいう[3]。
〔中略〕
アーナンダ経
パーリ仏典無記相応のアーナンダ経では、釈迦はヴァッチャゴッタ姓の遊行者の以下の問いかけに対し、どちらにも黙して答えなかったと記されている[1]。
1. 我(attā)はあるか?
2. 我はないのか?
この問いに答えなかった理由は、あると答えれば常住論者(sassatavādā)に同ずることになり、ないと答えれば断滅論者(ucchedavādā)に同ずることになるからと説いている[1]。
一切漏経
パーリ仏典一切漏経では、我への愛着につながる「無駄な探求」として、以下の16の問いかけを挙げている[4]。
1. 私は過去に存在したのか?
2. 私は過去に存在しなかたのか?
3. 過去の私は何物だったのか?
4. 過去の私はどのようにあったのか?
5. 過去の私は何物から何物となったのか?
6. 未来に私は存在するのか?
7. 未来に私は存在しないのか?
8. 未来の私は何物となっているか?
9. 未来の私はどうなるのか?
10. 未来の私は何物から何者となるのか?
11. 私は存在してるのか?
12. 私は存在していないのか?
13. 私は何物なのか?
14. 私はどのようであるか?
15. 私はどこから来たのか?
16. 私はどこへ行くのか?
釈迦はこれらの思考は、常見、断見といった悪見につながると述べている。
十無記
パーリ仏典中部63経『小マールンキャ経』では、有名な「毒矢のたとえ」と共に、「十無記」について記述されている[5]。
釈迦が舎衛城の祇園精舎に滞在している際に、マールキヤプッタ尊者の中に、
1. 世界は永遠であるのか
2. 世界は永遠でないのか
3. 世界は有限であるのか
4. 世界は無限であるのか
5. 生命と身体は同一か
6. 生命と身体は別個か
7. 修行完成者(如来)は死後存在するのか
8. 修行完成者(如来)は死後存在しないのか
9. 修行完成者(如来)は死後存在しながらしかも存在しないのか
10. 修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか
といった10の疑問が生じた(上記の通り、対になる選択肢を統一すれば、実際は4つの疑問である)。
〔中略〕
といったことを考えていたとしたら、その人はその答えを得る前に死んでしまうのと同じように」「それらの答えが与えられてはじめて、人は修行生活に留まるということはない」「それらがどうであろうと、生・老・死、悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い・悩みはあるし、現実にそれらを制圧する(すなわち、「毒矢の手当てをする」)ことを私は教えるのである」「故に、私は説かないことは説かないし、説くことは説く」「先の疑問の内容は、目的にかなわず、修行のための基礎にもならず、厭離・離欲・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃に役立たないので、説かない」「逆に四聖諦は、目的にかない、修行のための基礎にもなり、厭離・離欲・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃に役立つので、説く」「この説かないものと、説くものとの違いを、了解せよ」と諭される。
〔中略〕
最終更新 2021年11月13日 (土) 04:10 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
”
「生命と身体は同一か」「生命と身体は別個か」は現代的に表現するなら霊魂と物質(肉体)のことだろうから、無記により霊肉二元論ではないことがわかる。霊肉が同じかとか違うかなんて考えたり論争するのはやめなさいってこと。
)
[中略]
来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
5月16日
基本、怒っているんだけど
わしが何に怒っているかはわかっていて「どうしようもない理由・そうでしかないという根拠がないのに『言葉が増えていく』事に怒っている」
考え方の土台が今年固まったので概論書でも書き始めるとか、考え始めたのは「言葉を減らす・統合するため」もう飽き飽きなんだ
5月16日
この前、同期と話した時からずっとブチ切れているんだけど
何で、半可通ほど「神秘主義やりたがるのはなんで?」
神秘なんてもんは、その言葉の真意の広がりが「限定でも、一般でもない事を直視『してしまった』時」にカツーンと落ちてくるもの
そうやって「神秘を殺戮・虐殺していく」のが神秘者なの
5月16日
例えばね
クルアーンの別名って、ジクル・キターブ・フルカーンの4つでこれ全部、一般的に解釈やるときはクルアーンと見做すんよ
んでね、クルアーンというのは4つ意味あることは前にいった
で、キターブの語根自体の意味は動物の皮と皮とつなぎ合わせてつくった布の事をカツブいう
5月16日
ジクルは思い起こす・口で呟きながら、忘れないようにする事をいう
フルカーンに関してはまだ調べていない
で、なんでこの4つがクルアーン扱いなのかは「一つにする・外にでてしまったものを最初へ戻す」などを意味しているんよ
5月16日
クルアーンは原初への根拠である
クルアーンは原初への言葉である
クルアーンは原初を集めた物である
クルアーンは原初への蒸着である
クルアーンは原初から編まれた物である
クルアーンは原初から刻まれた物である
クルアーンは原初を忘れさせない為に繰り返すものである
だから、クルアーンなのよ
5月16日
それ故に、クルアーンはその様々な様態と言葉を一つにした「ジャーミド・固有名詞である」のでクルアーン以外の表現が「できない」の
恐ろしいでしょ?
クルアーンという単語注解上「何で5つも意味があって、異音同意義語が存在する」理由がこれ
辞書と注解を見れば、神秘何ぞ幾らでも虐殺出来る
5月16日
わしが、今年でまた一段階昇れた気がするのは自分の中で「神秘でしかなかったものを殺せた」から
神秘主義者というのは、神秘者が殺したものを「著述する仕事」に過ぎないのよ
だから、シンボルとかの話になると速攻殺しにいくでしょ?
で、現代で最もモノを貰っている商売はそれを「増幅する仕事」
5月16日
増幅する仕事は尻と耶蘇のお得意の「悪行」
また「無記」はこの増幅と再生産・言葉やシンボルを留めると止める為にするんよ
で、12イマーム派はコレら全てを形而上・預言者・13人の無謬な人達に必着させる事で止めるの
しかも、その一人は「生きている」「統治し続けている」のである
5月16日
12イマーム派が理性や知性を行使する際は、その背景に必ず「生きている統治者の支配下」にあり
その絶対支配者から「見える形で許認可を受けた人しか、法判断ができえない」の
その絶対支配者はガディールの末裔であり、形而上・預言者・アリーの正統な末裔であるが故に「統治できる」のよ
5月16日
シーアという単語は力・親友・援助者などの意味があるんだけど
一般的には追従者を意味する
で、この追従という意味なんだけど、暗君・愚君・暴君に追従する時には用いない、預言者や啓示者に追従するときに用いる
即ち「形而上・預言者・正統な統治者に追従する人達をシーア」という
5月16日
また、このシーアという単語は単数であろうが、複数であろうがシーアと変わらないのである
要はね、シーアというのは形而上・預言者のスンナに臣従・追従し、それがガディールの誓いによって「アリーとその子孫」が追加されたから、この世界の統治者であるその末裔に臣従しているだけなんよ
5月16日
因みにアル・ガディールの伝承はサヒィーヒどころか、ムタラートルといって一切の伝承系統に瑕疵がなく、その上で80以上系統があんの
ムタラートルの場合は何か弱い系統や否定する伝承があったとしても、一切否定されない最も強いハディースなの
スンナ・シーア・異端派で例外でない限り否定されない
5月16日
勿論、アスバーブ・ヌズールといって、啓示された理由という学問やると一つ一つのアーヤ・徴が預言者とその家族にかかっているのがわかるんだけど
コレは自分自身わかっていない議論が大量にあるので、勉強をもっと進めてから触っていこうとおもふ
ほんと、日本語ではイスラーム存在しないよ マジ
(
何で、半可通ほど「神秘主義やりたがるのはなんで?」ってそりゃあ、
わからないから好き放題言えて気持ちいいからでは?
スピ系とかそれが顕著。
スピ系の神道カルトが超古代と縄文が大好きなのと同じですな。仏教や儒教が無い時代なのも理由だけど。
縄文って普通に争いがあるし人が人を56しているってわかっているのにね。栄養状態も悪い。
そういや、縄文信者かつ玄米菜食主義者っているけどさ、縄文時代って玄米を食べてないんだよね(笑)
ごく一部では食べていた可能性はあるけど。
縄文人の男性平均身長は158cm、女性平均身長は149cmらしいのだが、これって栄養が足りてなかったんじゃないの?
健康的か? 遺伝子組み換えとかはないが、健康的かと言われると疑問だな。
縄文時代にも争いが普通にある証拠↓
https://twitter.com/wolvesknow/status/784339891161337856/photo/1
”狼たちは知っている
@wolvesknow
昔は人民の争いはなかったとのtweetが流れてったが。いつの時代の話だろう?縄文時代として中学歴史には矢が幾つも刺さった人骨とバリケードで防御する村の写真が載ってる。大和国家では鎧やカブトが古墳から出土。いつの時代の話なんだろう?
画像
午後7:29 · 2016年10月7日·erased1064506”
(
おそらく教科書の画像。同じ呟きの埋込版は本記事内にある)
わからないから好き放題言えるからこそ、それを防ぐために何が神秘でないかの確認作業とか、顕教をしっかりやるとかが必要なのだが、ああいうのは「気持ちよくなりたい」が神秘の探求より優先されるのでどうしようもないんだよな。
そんなに簡単なら、インドの行者が聖典と解釈を学び、山に籠って体を変な方向に曲げて特殊な呼吸したり瞑想したりなんてしないでしょ。
私はウナギ〔サンジャヤ以下略のことね〕はある程度は評価している。極端すぎる無記だけど無記〔無用な論争を避け、言葉を増やさない〕なので。まあ極端すぎて駄目なんだけどさ。あのウナギについてもっと教義のことを残してほしかったな。なぜウナギ教になったのかの理由が知りたいんだよな。あのウナギ自身にウナギ思想に至った根拠と過程を書いてほしかった。六師外道の記録ってなぜそのように考えるに至ったかまで仏典では残してくれない〔だって仏教じゃないもん〕し、当時は文字に残す文化じゃなかったからなあ〔ウナギの後継者がいたかもよくわからない〕。舎利弗(シャーリプトラ)と、目犍連(マウドガリヤーヤナ)はウナギの弟子だったのだから、記録に残っている教義以外で2人が惹かれるほどに優れた箇所があったと思うんだよな
)
[中略]
来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
でた、科学的手法
科学は暫時の判断はできるけど、経常なる判断は出来ない
周波数のふれは生きている・音が動いているから出来るもの
では、そのふれの基準はどこから発生したのかを答えられないのが科学
だから、形而上を「もの」にすんなとずっといってる
午前1:04 · 2022年5月14日·Twitter for Android
(
以下についてだろう〔本記事の一番下にある〕。もしかしたら以下ではなく科学的手法による宗教批判の何かを見たのかもしれない(そういうの多いからな)。
https://twitter.com/KoderaMito/status/1524047136949944325 と続き
”Mito Kondoria
@KoderaMito
「すばらしい新世界」で知られるオルダス・ハクスリーの兄、ジュリアン・ハクスリー。
FRS(王立協会フェロー)の一員。
進化生物学者、優生学者、英国優生学協会の代表、国際主義者、ユネスコ初代事務局長、WWF創始者の一人。初代英国ヒューマニズム協会会長。
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午前0:22 · 2022年5月11日·Twitter for iPhone
「神は多分いない」
ヒューマニズム協会は世俗的ヒューマニズム(secular humanism) の信条「盲目的な信仰のかわりに、科学的な手法による真実の追求」が奨励される。
世俗的ヒューマニストの中には、アシモフやアーサー・C・クラーク、バートランド・ラッセル、ノーム・チョムスキーなど。
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午前6:14 · 2022年5月11日·Twitter for iPhone
”
初代英国ヒューマニズム協会会長がオルダス・ハクスリーの兄ジュリアン(優生学者、英国優生学協会の代表)である時点で駄目じゃん。
”「盲目的な信仰のかわりに、科学的な手法による真実の追求」”ねえ。
ヒューマニズムって人間中心主義つまり、「俺たちがゴッド〔選別者〕になる」って意味ね。
科学的な手法ってつまり、「観測機器で感知できないものは扱わない」、
「ゴッドなど人を超えた存在を扱わない
(扱わないだけだよ。だから科学でゴッドの存在を否定できないし存在証明もできない)」ってことだぞ。
つまり、科学で宗教を分析するのは大変慎重でないといけないってこと。
上記のシーア兄貴の呟き通りだよ。
「科学的な手法でゴッドのように支配したい」が本音だろう。
agnosticism(不可知論と訳されるがゴッドの実在が前提。グノーシス否定なだけ)であるT.H.ハクスリーの方がマシじゃん。
マシといってもこういうヒュー魔ニズム誕生のきっかけの1人がこいつだけどな!
で、”ヒューマニズムって人間中心主義つまり、「俺たちがゴッド〔選別者〕になる」”の話に戻る。
この思想も神痴学が起源↓ 少なくとも強まったのは神痴学のせい。またかよ。
以下の、
「ダーウィンの進化論において「人間は動物から進化した」と唱えられたことにより、両者の違いは絶対的なものではなくなってしまった。また、その反面、「人間がもっと進化することができれば、神にもなれるのではないか」という発想が呼び込まれることになったのです。生身の人間が、進化して神になったり、退化して動物や悪魔になったりする。」
がヒューマニズム〔中身は選民思想による恣意的な選別〕ね。
ダーウィンの進化論って「どこかが強くなって、どこかが弱くなる」ってことだぞ? 全体が全て強くなることはないんだぞ?
人間が腰痛に悩まされるのって二本足で立つようになったからだぞ? で、二本足で立つのも進化(生物的には変化という意味でしかない)の結果だぞ? それを改悪して霊性進化論では「全てにおいて強くなる(段階が上がる)」という意味になっている
(根拠は、霊性が上がることで生じる弊害について書いた信者の記述を見かけたことがないから)。
ダーウィン思想ですらないわけよ。ぶっちゃけ霊的カーストを作るのに利用されただけだな。
まあダーウィン家も相当怪しいんだけどな!
なぜ人間はオカルトにハマってしまうのか? 『現代オカルトの根源』の著者、大田俊寛氏に聞く
https://toyokeizai.net/articles/-/18156
"「霊性進化論」は、本書の副題にも挙げられていますが、どのような思想を指すのでしょう?
その端緒と見なされるのは、19世紀後半、ロシアの霊媒ブラヴァツキー夫人が創始した「神智学」というオカルト思想です。彼女は『シークレット・ドクトリン』という著作において、ダーウィンの生物学的進化論に対抗し、「根幹人種論」という特異な進化論を提唱しました。それによれば、地球上で人類は、第1から第7まで、7つの根幹人種を経て段階的に進化する。そして人間は、ひとつの生物種として肉体的に進化するのみならず、その「霊性」もまた進化するのだと唱えたのです。
さらにブラヴァツキーは、人類の中には「神人」に進化しうる種子が含まれている一方、霊性の次元から目を背けて「動物化」する人間もいる、という二元論を立てたのですね。私はこうした考え方を「霊性進化論」と呼んでいます。
(中略)
神智学に代表される近現代のオカルティズムにおいて特徴的なのは、「進化」という概念が重要な役割を果たしていることです。キリスト教が支配的であった近代以前の世界観においては、人間は「神に似たもの」として創造された地上の支配者と位置づけられ、人間と動物との間には絶対的な違いがあると考えられていました。
ところが、ダーウィンの進化論において「人間は動物から進化した」と唱えられたことにより、両者の違いは絶対的なものではなくなってしまった。また、その反面、「人間がもっと進化することができれば、神にもなれるのではないか」という発想が呼び込まれることになったのです。生身の人間が、進化して神になったり、退化して動物や悪魔になったりする。「進化」という概念を媒介することによって、従来の二元論がより具体化・先鋭化されたところに、現代オカルティズムの特色があると考えています。
(中略)
――進化論の影響がオカルト思想にまで及んでいるとは、驚きです。日本では1970~80年代にオカルトブームがあり、現在もスピリチュアルがはやっています。日本にスピリチュアリズムが入ってきたのはいつ頃なのでしょうか?
本書でも触れたように、日本におけるスピリチュアリズムのパイオニアと見なされているのは、戦前に活躍した浅野和三郎という人物です。彼はもともと英文学者であり、その素養を生かして、世界のスピリチュアリズムの動向を積極的に日本に紹介したのですが、すでに彼の思想にも、神智学からの影響をうかがうことができます。
浅野は1923年に「心霊科学研究会」を設立し、その組織を中心として、日本社会にスピリチュアリズムの考え方が普及していきました。ちなみに、「スピリチュアリル・カウンセラー」として有名な江原啓之氏も、その系統に属する人物ですね。
1960年代から80年代にかけて急成長した宗教団体のひとつに、高橋信次という人物が設立した「GLA」があります。この団体の教義は、スピリチュアリズムと神智学を融合させることによって成り立っていました。オウム真理教を創始した麻原彰晃は、若い頃、高橋信次の著作を愛読していたことで知られています。
(中略)
麻原の世界観では、人類全体が2つの種類に大別されていました。ひとつは、自らの霊性のレベルを高め、超人類や神仙民族と呼ばれる存在に進化する「神的人間」であり、もうひとつが、物質的欲望におぼれ動物化していく「動物的人間」です。麻原の見解によれば、現在の世界は「動物的人間」がマジョリティを占めており、他方、「神的人間」はマイノリティとして虐げられている。この構図を転覆しようというのが、「種の入れ替え」という言葉が意味していたものです。
(中略)
オウムの世界観においても、「神への進化」と「動物への退化」という霊性進化論的な二元論が、極めて根幹的な役割を果たしていたのです。
”
擬神化(霊性進化(笑))の帰着は上記で書かれている通りだよ。優生学的選別によるオーム(創造・維持・破壊)だよ。
ヒュー魔ニズム狂怪がやろうとしているのは「科学的な真実(笑)=優生学」に基づく、オウムやったような選別だよ(優生学信者がいる時点でやることの方向性は決まっている)。
オーム教(既存の体制を「破壊」→都合の良い新秩序を「創造」→新秩序を「維持」のバラモン由来のサイクル狂)はマジで害悪だな。
ヒュー魔ニズム狂怪もオーム教なんかだから、「盲目的な信仰のかわりに、」とほざいているくせに、盲目的な信仰をしてんじゃん。信仰対象が優生学という科学じゃん。
浅野和三郎は大本教の幹部だった奴ね。また大本教かよ。和風スピリチュアル部隊が大本教系。
経常=「常」に一定して変わらないこと。平常。
)
[中略]
来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
管理や所得となる個人の資質を「個性」といい
管理できない・所得とならない個人の資質を「障害」いってきているんだけど、わかってる?
言葉にはね、善悪ないの天秤が0の状態なんだけど
でも、立場と見解で善悪の天秤が動き、その軸によって軽重が動くんよ
専らあんたらは動いた所しかみてないの
午後2:57 · 2022年5月13日·Twitter for Android
もう無理に「分類して、命名し、意味を与える」のをやめなよ
想像の創造が止まらないのはわかるんだけど、アンタらが何かを命名しようとすると、大体「ラテン語とかに取り憑かれる」でしょ
今ある、ギリシャ→西洋哲学とかの解説だって「誰の解説書が主」よ?
言葉は状況で意味が七色変化するんだよ?
午後3:23 · 2022年5月13日·Twitter for Android
5月13日
多分、耶蘇とイスラームの違いは不動の動者とヴァージェブ・ウジュード・必須存在という「言葉と判断の違い」
必須存在は「生存して、不動」でわしらのような「生存して、動態」ではないの
即ち、翻訳が間違っているか・解説者が間違っているか・その師匠が間違っているか・学派が間違っているかなの
5月13日
こういうのはね、わしみたいにスタータパック・ウムーム・教養過程からやっていると
諸派によって、見解違いがかなりあるのがわかるんよ
で、恐らくはその見解違いを無視して突っ走っているか、その分派の判断だけみているかでしかないのよ
それやめれ、言うているんだけどねぇ
5月13日
分類して、命名して、意味を与えると「個人や団体の学者や研究者の名前が残る」の
コレが地獄の創造ね
で、この欲求は「阿闍世」といった相当修業した僧侶でも贖えない欲求なの
とすれば、毎年辞書が厚くなる理由がわかるだろ
(
え、アジャセ? 阿闍梨(あじゃり。仏教の先生〔つまり基本的に高僧〕)の方だな。
アジャセは頻婆娑羅(びんばしゃら。Bimbisāra)王を殺して王様になって、後に歴史的な釈迦〔法華経的な意味ではない〕の教えに帰依した人。
阿闍梨(あじゃり)の意味 - goo国語辞書
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E9%98%BF%E9%97%8D%E6%A2%A8/
” あじゃり【×阿×闍▽梨】 の解説
《(梵)ācāryaの音写「阿闍梨耶 (あじゃりや) 」の略。教授・軌範・正行などと訳す》
1 弟子たちの模範となる高僧の敬称。あざり。
2 密教で、修行を完了し、伝法灌頂 (でんぽうかんじょう) を受けた僧。また、伝法灌頂の職位を受けた、天台宗・真言宗の僧。あざり。
3 勅旨によって修せられる法会を執行する僧。
”
阿闍世とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E9%97%8D%E4%B8%96-424688
”
あじゃせ【阿闍世】
(Ajātaśatru の音訳) 古代インドのマガダ国の王。父王ビンビサーラを殺し、母后を幽閉して王位につき、マガダ国をインド第一の強国にした。後年釈迦の教えによって仏教に帰依し、仏教の熱心な保護者となった。アジャータシャトル。〔観経疏‐序分義〕
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
デジタル大辞泉「阿闍世」の解説
あじゃせ【阿闍世】
《〈梵〉Ajātaśatruの音写》前5世紀ごろのインドのマガダ国王。父の頻婆娑羅王を殺して王位に就いたが、のち釈迦の教えに従い、仏教教団の保護者になった。アジャータシャトル。
出典 小学館デジタル大辞泉について”
)
来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
天皇から人性をきり離してこなかったから、ずっと古代やってる
もう飽き飽きなんだ、日本語表現下での苦しみの全てがここから始まっているのに無視している
結局、アンタら「偶像になりたいだけ」でしょ?
画面だったり、文字だったり、映像だったりでね
一元・二元・多元はイメージから生じてるんよ
午前2:46 · 2022年5月13日·Twitter for Android
(
2013-01-20
仏教とヒンドゥー教の哲学上の相違についてまとめ
仏法
https://lipoyang.hatenablog.com/entry/20130120/p1
”目の前にある何か(人でも物でもなんでもいい)について、それがどういうものであるか列挙してみよう。例えば「御坂美琴」は「ツンデレ」であり「女子中学生」であり「科学サイド」であり「レベル5」であり「エレクトロマスター」であり「常盤台のエース」であり「短髪」であり… この場合、「ツンデレ」や「女子中学生」といった属性をインド哲学ではダルマ(dharma,法)と呼び、それらのダルマを有する「御坂美琴」という個体をダルミン(dharmin,有法)と呼ぶ。
〔画像省略:
御坂美琴がダルミン。
ツンデレ、女子中学生、科学サイド、レベル5がダルマ〕
では、「御坂美琴」から「ツンデレ」や「女子中学生」や「科学サイド」といった属性をすべて剥ぎ取って素っ裸にしたら(*´Д`)ハァハァ 、そこに何が残るだろうか?
「御坂美琴」の存在の核たる何かが残る。無色透明な「たましい」のような何かが有る、と考えるのがヒンドゥー教である。ヒンドゥー教ではそれをアートマン(ātman,真我)と呼ぶ。アートマンはなにものでもない。「〜である」という説明はすべてダルマであって、ダルマをまとう核たるアートマンではありえない。なにものでもなく、なにものにもなりうるのがアートマンである。GHOST IN THE SHELL でいう「ゴースト」である。そして、アートマンはなにものであるかを超えて不滅であり、宇宙の根本原理であるブラフマン(brahman,梵)と一体であると説く。これを梵我一如(ayam ātmā brahma)という。自分の内にある自分の本体は世界そのものの本体に通じていると。まあ、今風に言えば「セカイ系」な思想である。
いっぽう、何も残らないと説くのが仏教である。「御坂美琴」とは「ツンデレ」や「女子中学生」や「科学サイド」といった無数の属性の集合体にすぎず、それらを離れたところに「御坂美琴」の本体など無い。これを諸法無我(sarva dharma anātman)という。諸法無我は三法印(trilakṣaṇa)のひとつであり、仏教の基本中の基本である。たとえばブドウ糖C6H12O6が炭素と水素と酸素の化合物であって、ブドウ糖という不滅の実体など無いように、「御坂美琴」も「ツンデレ」や「女子中学生」や「科学サイド」といったダルマの化合物であって、「御坂美琴」という不滅の実体など無い。有ると考えるのは妄想にすぎない。ヒンドゥー教の悟りがアートマンの実在を悟る「自分さがし」であるとするなら、仏教の悟りはアートマンの不在を悟る「自分なくし」である。
〔画像省略。とあるブッダの涅槃寂静(ニルヴァーナ) と書いてある〕
そのため、仏教はヒンドゥー教正統派からはしばしば虚無主義(ナースティカ,nāstika)呼ばわりされてきた。ブラフマンとアートマンの不滅を説くヴェーダ(veda)の教えを否定する異端のニヒリストめ、と。しかし、仏教はけっしてニヒリズムではない。そもそも「あるある!」とか「ないない!」とかいう極論をしりぞけるのが仏教のスタンス、中道(madhyamā-pratipad)である。永遠不滅の「御坂美琴」が実在するというのも極論。「御坂美琴」なんてどこにも存在しないというのも極論。さまざまな偶然と必然からダルマが寄り集まって、「御坂美琴」は一時的な存在として、しかしたしかに存在している。ブドウ糖が炭素と水素と酸素の化合物であって、燃焼したら水と二酸化炭素になるからといって、いまブドウ糖が存在しないということにはならない。この世の全ては夢まぼろしのように儚いものかもしれないが、われわれにとってその儚い夢まぼろしこそ全てである。
この一見すると否定にみえるけどじつは肯定しているツンデレ論理こそが仏教の真髄だと思う。諸法無我とは「すべての存在に実体は無い」というよりは、
「か、かんちがいしないでよねっ。すべての存在に実体なんて無いんだからっ!」
というニュアンスである。
〔画像省略。
プラトンの上にダルマ、アリストテレスの下にダルミン とある〕
ところで、このダルマ/ダルミンの議論を見て、西洋哲学かじった人なら気づくと思うけど、古代ギリシアのプラトン、アリストテレスから中世の実念論VS唯名論に続く議論とそっくりである。まったくインド人とヨーロッパ人は親戚。同じ穴のムジナというか、同じユーラシアのインド・ヨーロッパ語族である。しょうじき、日本人の自分にはこんな議論はまったくどうでもいいと思う。(^^;)
”
モロに存在と存在性の議論じゃん。さすがインド思想。
「~である」と言ったら、というか言えたらアートマンではない。
ギリシャ哲学にはインド哲学の影響があるんだから当たり前じゃん。
)
来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
5月12日
いや…意識は六識の一つに過ぎず、五識・色を統合したり、誤魔化したりするんだけど
その意識以前には七識・八識があり、八識のアーラヤ識となるとその種子そのものなので種子そのものを意識する事叶わず、それは物質ではないんよ
偽科学程「物質と認識を一体にしたがる」のは何なんだろうね
5月12日
イスラームでは、意識していないというよりは「忘れている」だったり、あるものがその有り様であるのに「見ないようにしている・隠している」という
ペルシャ語だと
حق می بیند اما کتمان کند
で、終わるんだけどね
後はシャイターンに「着せられている」という言い方もあり
だから、無意識ではないの
5月12日
全部意識しているんだけど、その意識の段階に差があるのよ
確実に六識しているもの・大体・半分半分・全くとわかれるだけで、無意識と判断しない
神学に置いてはひじょーにひじょーにひじょーに非常に重要な部分で
この世界の統治者の存在と関わってくるのよ、コレに気づいたのもマジ最近
5月12日
要は存在している、この世界の統治者をどっかでみているんだけど
わしらは「その存在だと、確信していない」なぜなら「その存在の存在『性』しか知らない」からだ
で、存在「性」を集めてもその「存在」自体とはならない
だから、七・八識の段階でイマーム・世界の統治者を見ないといけんのよ
5月12日
すがす、その段階で「見れる」には鍛錬と様々な存在「性」を深めていった上で「相手が現れて、許可を貰わない」といけず
で、そこで見たイマームは「確実にかの存在でしかない」のよ
そこまで至って、確信・確実をやっと獲得できるの
意識と無意識というよりは霧が晴れていくというべきなんだろう
5月12日
その段階までいくとタスリィーム・何をしても矩を超えない状態なので、何をしてもイスラームとなる
すべての行い・言動・考えから何から何まで、イスラームそのものとなり
何をしても義務と推奨行為・ヴァージェブとムシタハッブとなり、一切の罪・それに関係する事がその人にはないのよ
5月12日
で、この境地が神秘主義者・一般的な法学者として最高の境地となんの
前も言ったね、顕教やっていれば勝手に密教もついてくると
ところが何でもかんでも物質や表象・現象に繋げたり、その逆だとしても、迷妄の穴に嵌まりこむだけ
無学って、学もどきに騙されるから無学という事もあんだけどね
(
グーググ〔ジャソプ漫画のすごーいスマホが元ネタ〕翻訳だと
حق می بیند اما کتمان کند
は「彼は真実を見ますがそれを隠します」って出た。
以下をRTしたことについて。動画は面白かった。面白かったと同意は別なのに注意ね。
意識・無意識だとフロイトと電波ゆんゆんぐ思想の枠組みだもんな。
リツイート済み
日坂あいや
@aiya0710
·
5月9日
人間の意識には
行動を決定する能力は無い
って興味深い話だなあ
【ゆっくり解説】人間に「意識」が存在する本当の理由
youtube.com
【ゆっくり解説】人間に「意識」が存在する本当の理由
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ghksdajfalksvlajsdhgq
@ghksdajfalksvl1
5月9日
(霊魂を含めた)主体的意識を否定する受動意識仮説は知っていたけれど、
それではなぜ意識が存在するのかっていうのは
確かに考えたことなかったな
https://youtube.com/watch?v=09pUUstB_Rs
日常の出来事を
記憶可能な形に情報圧縮するため
という説があるのか...
youtube.com
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shog
@shogos99
·
5月8日
受動意識仮説に関する素晴らしい解説。
無意識とは脳の各所で発生した小規模な脳の働きであり、瞬間の判断は無意識が行っている。意識は遅れて体験しているだけ。
しかし意識があれば、クオリアを用いて効率的なエピソード記憶・意味記憶を行い、長期的な判断ができる。
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ネリス
@cott_age
·
5月9日
もし「意識」が無かったら、会話は一言一句完全に暗記し、食事は味だけじゃなく値段とか材料とかを全部記憶してしまう。脳があっという間に容量オーバーになるので、人間は意識でまとめるようになってるんだな。
【ゆっくり解説】人間に「意識」が存在する本当の理由
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〔
上記の動画で私はカントの統覚を想起したのでカントについてもRTした。
〕
リツイート済み
TAKEMULA_Hiloshi
@takemulahiloshi
1月29日
日本国語大辞典は「とう‐かく【統覚】」を二つにわけて説明している。カント(の日本語訳)に出てくるそうなので、熊野純彦訳『純粋理性批判』の事項索引を覗いた。ありがたや「とうかく(Apperzeption)」(831)がある。
「自己自身の意識(統覚)は『私』という単一な表象」(96)。
引用ツイート
TAKEMULA_Hiloshi
@takemulahiloshi
· 1月29日
日本国語大辞典「とう‐かく【統覚】」は「①心理学で、表象が意識にはいってはっきりした知覚になったもの。また、その働き。」と説明している。「無意識的な統覚的習慣」とは「表象が意識にはいってはっきりした知覚に」する過程が無意識になされる? https://twitter.com/takemulahilosh
リツイート済み
Kawakita Chikako / e-presence
@e_presence
·
2018年4月30日
初めて出会った言葉で感覚が広がった!
ーーーーーーー
【統覚】 〔ドイツ Apperzeption〕
カントの哲学で,多様な経験を総合して可能にする意識の統一性(超越論的統覚)。
リツイート済み
友田 幾大
@tmddy111
2011年8月3日
返信先:
@miyai15さん
@miyai15
空間、時間的直感能力(感性=Sinn)、それらの概念的把握つまりカテゴリーによる統合(悟性=Verstehen)、それら意識作用の統覚=Apperzeption これらの能力を純粋につまり先験的に前提とする
〔
統覚(とうかく、独: Apperzeption、英: apperception)は、近代ラテン語の
adpercipere(ad-「の方へ、に向かって」
+percipere「獲得する、知覚する、理解する」)に由来。
方向性がある。
〕
リツイート済み
子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子)
@kitsuchitsuchi
·
2017年12月27日
返信先:
@kitsuchitsuchi
さん、
@kikuchi_8
さん、他5人
『純粋理性批判』
認識には、習慣で作られた信念ではなく
それ以外ではありえないような型がある。
認識の前提となる鋳型・形式がカテゴリー。
この12種類のフィルターを通れないものは認識できない。
カテゴリー(範疇、純粋悟性概念)で感覚情報を統一して
はじめて「客観的な現実」として認められる
リツイート済み
友田 幾大
@tmddy111
·
2011年8月3日
返信先:
@miyai15さん
@miyai15
空間、時間的直感能力(感性=Sinn)、それらの概念的把握つまりカテゴリーによる統合(悟性=Verstehen)、それら意識作用の統覚=Apperzeption これらの能力を純粋につまり先験的に前提とする
[中略]
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%BF%92%E6%B0%97
”じっけ/習気
何らかの存在や行為により、その場に残される影響をいう。特に煩悩を断じたのちも残存する煩悩の余勢を意味する。Ⓢvāsanāの訳語。伝統によって、「じゅって」「じゅっき」「じゅっけ」などとも読む。単に習ともいう。『大智度論』二七(正蔵二五・二六〇下)では難陀尊者が淫欲の習気のために阿羅漢道にあっても女性を意識したことなどを挙げる。声聞や縁覚には完全に断ずることはできず、仏のみこれを滅するという。習気に対し煩悩そのものは正使という。法相宗では阿頼耶識に熏習された染浄法の種子のこと。『成唯識論』二には「種子とは既に是れ習気の異名なり。熏習するに由て有り。麻の香気の華を熏ずるが故に生ずるが如し」(正蔵三一・八中)という。また『成唯識論』八(正蔵三一・四三中)によれば名言習気・我執習気・有支習気の三種に分類される。
(略)
【執筆者:小澤憲雄】
このページの最終更新日時は 2018年3月30日 (金) 06:26 です。
プライバシー・ポリシー
新纂浄土宗大辞典について”
[中略]
来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
いや…科学って、上導集合なので次の瞬間「その集合が崩れる事がある」がないと科学にならんのですよ
しかも、それは不可知論とかではなくて、結果として今までの集合が崩れる「だけ」であって
不可知を「選択」している時点で、意志と決定があるわけです
不可知なのに決定しているなら、矛盾でしょ
午前1:30 · 2022年5月3日·Twitter for Android
5月3日
お釈迦様の反駁相手・6師外道に不可知論者いたけど、どう反駁している?
そんなの、手塚結社虫と法華系キリスト教のゴータマ像読めばわかるだろ
現代に残っている不可知論系の宗派だって、反駁に対抗するべく、極端な見解は切り捨てている筈よ
田舎ものの愛恥学振り回して、脳死で持ってくんな
5月3日
この世界の存在を見ることは叶わなくて、常に存在「性」
ある・ないは存在自体にかかるのではなく、存在「性」にかかるわけ
例えば、男はちんこあるけど、まんこはないね
で、そのちんこ「性」で再度ある・ない分けるよね
時には、ちんこ自体にまんこ「性」与えるよね
で、存在してのちんこは何処?
5月3日
不可知論というのは、ちんこかもしれないし・ちんこではないかもしれないという「ちんこ性を選択している」立場
無神論はちんこなんぞないという「ちんこ性を選択している」立場
信条論はこれらを「性質を『与えることでしか判断』出来ない愚か者」と断じるのよ
そんなゴミ持ってくんな言うわけ
5月3日
なーんでこういう事起こるかというと、単語述解・読解・成り立ちから勉強してないから
既存のある言葉「借用仕切れているか、判断せずに落とし込んでいる」ので生じているのよ
その上でその議論がどれだけしょうもないものか、判断する「全体知」がない
二百年ずーっとコレ、アホかアンタらは
5月3日
言葉とその定義を疑え・確立してから議論せよ
って、全ての基本・お約束よ?
できない人おおいけどさ
(
以下に対してだろうな。
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳さんがリツイート
Masahiro Hotta
@hottaqu
2019年12月21日
不可知論と、唯物論や無神論とは、全く別ものだということも世間の人々には伝わりにくいことらしい。物理屋の中にも「唯物論が当たり前」と哲学者に不用意に語ってしまって揚げ足を取られる人もいる。科学で言及できるのは不可知論であって、唯物論や無神論はその人自身の信念以上のものではない。
〔
科学では観測できず、数値化できないなら扱えないんだよなあ。なお、観測できないのと存在しないは同義ではない。
なので、ゴッドの実在も非実在も科学では証明するのは不可能。
上記の「不可知」が「観測装置にひっかからない」という意味ではなさそうだ。単に扱えないと言ったら正確だったな。
〕
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳さんがリツイート
脱原発.com @ 改憲阻止☭☭☭
@battlecom
2017年11月8日
返信先:
@ALIEN_M31NGC224さん
近代科学の一つの思想根底にある哲学的唯物論に至る思想の歴史が日本にはないため、唯物論を物質主義と勘違いしているバカが日本には多い。共産主義者までそうだから困る。日本の理系を中心に不可知論がまだ生息している点でその勉強不足は目も当てられない。彼らは思い込むだけでそうなるようだ。
(
「田舎ものの愛恥学」とも言っているし、これも含めているだろうな)
https://twitter.com/madaraiguana/status/1521086194494640129 と続き
”なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
神の存在証明
https://twitter.com/madaraiguana/status/1306008885501796352?t=2hGoBGO41daBhC-PTy7FDw&s=19
実相と仮相
https://twitter.com/madaraiguana/status/1363093374467641344?t=2hGoBGO41daBhC-PTy7FDw&s=19
実在論と観念論
引用ツイート
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
· 2020年9月8日
なぜならば、
(B)に答えるためには、「物理学とは?」の議論が必須で、これには実在論と観念論の完全な理解が要請される
最初の「(B)のボタンの掛け違え」は、
ギリシャ哲学(プラトン+アリストテレス)の次の二つの側面
このスレッドを表示
午後8:16 · 2022年5月2日·Twitter for Android
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
@EpisodeNeo
@Agito_Ryuki
無神論と不可知論ってどこがどう違うの?
btcmatters.hatenablog.com
無神論と不可知論ってどこがどう違うの? - E.N.R. クリプトモネダス
無神論と不可知論の違い。併せてグノーシス主義にも簡単に触れる。100%確信がある人はグノーシス、ない人は不可知論者だが必ずしも無神論者とはいえない。
午後10:46 · 2022年5月2日·Twitter for Android
〔
Deep Forest
@EpisodeNeo
·
5月3日
こういう事を自分の貴重な時間を使って教えてくれるの感謝しかない。
ありがとうございます。
引用ツイート
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
· 5月2日
@EpisodeNeo
@Agito_Ryuki
無神論と不可知論ってどこがどう違うの? https://btcmatters.hatenablog.com/entry/atheism-versus-agnosticism
このスレッドを表示〕
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
神様は居ると言うことにしないと理屈が通らないと考えるので私は有神論者と言うことになります。
感覚では分からないので不可知論者でも有ります。
引用ツイート
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
· 5月2日
@EpisodeNeo
@Agito_Ryuki
無神論と不可知論ってどこがどう違うの? https://btcmatters.hatenablog.com/entry/atheism-versus-agnosticism
このスレッドを表示
午前0:49 · 2022年5月3日·Twitter for Android
不可知論という言葉を発明したのはオルダスハクスリーのじいさんなのね。なんだ一気に信憑性無くなったわ。
引用ツイート
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
· 2019年11月15日
オーウェルもハクスリーもウェルズもフェビアン主義者。
フェビアン主義
https://kotobank.jp/word/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9-123200
抜粋
「フェビアンたちは、資本主義社会における階級分裂や搾取の事実を認めているが、国家を階級抑圧の機関とみる階級国家論をとることなく、国家の中立性を信ずるのである。
このスレッドを表示
午後6:48 · 2022年5月3日·Twitter for Android
〔
「不可知論という言葉を発明したのはオルダスハクスリーのじいさんなのね」は午前1:30 · 2022年5月3日より後だな〕
〔
来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
いや…科学って、上導集合なので次の瞬間「その集合が崩れる事がある」がないと科学にならんのですよ
しかも、それは不可知論とかではなくて、結果として今までの集合が崩れる「だけ」であって
不可知を「選択」している時点で、意志と決定があるわけです
不可知なのに決定しているなら、矛盾でしょ
午前1:30 · 2022年5月3日·Twitter for Android
)
(
ハクスリー家の者が英語での呼び名agnosticismを考えたことは私が書いて公開しようと思ったのだが、先に言われてしまったな。
後述する。
)
(上の前提というかきっかけになったのも引用しておく)
〔
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳さんがリツイート
Deep Forest
@EpisodeNeo
5月2日
ジャガイモが神だから
有神論かな~。
無神論
世界観の説明に神の存在、意思の介在、宗教のような精神的、超自然的、または超越的な概念などが存在しない、または不要と主張する考え方。
不可知論
ものごとの本質は我々には知り得ず、認識することが不可能であるとする立場。
引用ツイート
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
· 5月2日
@EpisodeNeo
@Agito_Ryuki
無神論と不可知論ってどこがどう違うの? https://btcmatters.hatenablog.com/entry/atheism-versus-agnosticism
このスレッドを表示〕
〔
上記の前提も載せておく。
https://twitter.com/madaraiguana/status/1520987819061411840 と続き
”なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
お稲荷さんはお米の神様。
ヒツシヒツジ馬鹿にするけどあれだって人類の糧になって下さったから奉られてるんだよ。
ヨーロッパは犠牲になって下さった命を供養しましょうって儀式を願いを叶えるために生贄を捧げましょうって魔術に変換してしまったんだよね。目的が手段になってしまったんだよね。
引用ツイート
Deep Forest
@EpisodeNeo
5月2日
ごめんごめん
神や救世主居たわ
畑に。
このスレッドを表示
画像
午後1:45 · 2022年5月2日·Twitter for Android
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
引用ツイート
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
· 2020年8月28日
このスレッドを表示
画像
〔引用者注:血まみれで十字架を持つイエス〕
午後1:47 · 2022年5月2日·Twitter for Android
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
引用ツイート
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
· 2021年2月22日
形而上が不可能な事をさせないは無価値や無意味をさせない、同時に個人や集団の意思・こういうは形而上の目的とは無関係じゃないと無毒化できん
で、形而上の意思や目的が個人や集団の意思と目的であるという無毒化した部分を逆転させる事で猛毒にしているわけなんよ
このスレッドを表示
午後2:20 · 2022年5月2日·Twitter for Android
”
〔
https://twitter.com/EpisodeNeo/status/1520978721506684928 と続き
”Deep Forest
@EpisodeNeo
ごめんごめん
神や救世主居たわ
畑に。
画像
午後1:09 · 2022年5月2日·Twitter for Android
うちの畑の神は御布施も要求しないし、余分なこと言わないし、要所でキッチリ仕事するし、これは神だわ(笑
午後1:12 · 2022年5月2日·Twitter for Android
”
〕
〔
上記の前提がこれ:
https://twitter.com/EpisodeNeo/status/1520558048200126464
”Deep Forest
@EpisodeNeo
神なんかいねぇよ。
午前9:17 · 2022年5月1日·Twitter for Android”
神(人を超えた存在)はモノじゃないでしょ。
〕
〕
https://twitter.com/madaraiguana/status/1521284852137738241 と続き
”なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
これペルシャの作った世界は悪い世界だって言ってるだけなんじゃないの?
ペルシャさんの作った高速道路網逆走することでペルシャ乗っ取ったくせに何言ってんのこいつって思ったこなみかん。
グノーシストって逆恨み人間なのかもね。
↓
午前9:25 · 2022年5月3日·Twitter for Android
twitter.com/madaraiguana/status/1521123951644405760?t=dc5vlMPzdogUMWhsxu2cbQ&s=19
>gnosticismといえばグノーシス主義とかグノーシス思想。これはヘレニズムといって、アレクサンダー大王がにっくきペルシャを滅ぼしてギリシャ帝国を建てた時代から連綿と成長してきた、キリスト教のネガのような宗教思想です。
引用ツイート
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
· 5月2日
@EpisodeNeo
@Agito_Ryuki
無神論と不可知論ってどこがどう違うの? https://btcmatters.hatenablog.com/entry/atheism-versus-agnosticism
このスレッドを表示
午前9:26 · 2022年5月3日·Twitter for Android
彼らは何を100%確信したのかといえば「世界の実相」についてです。少なくてもグノーシストの主観の中では、本来の崇高で善なる霊が悪に転落し造ったのが現実世界なのです。この世界は堕落しているのです。
午前9:26 · 2022年5月3日·Twitter for Android
”
https://twitter.com/madaraiguana/status/1521347665979936768 と続き
”なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
神様という単語の定義付けの時点で躓くんですがそれは。
無理もないし無理なんですけど。
画像
午後1:35 · 2022年5月3日·Twitter for Android
廃仏毀釈の先にあったのがゴリゴリの偶像崇拝だったからね。聖徳太子の頃からずっとこれ。
呪術廻戦はガス抜き。
https://twitter.com/madaraiguana/status/1520555131280171008?t=51b_3NYIJymLQTZgfVNnIw&s=19
日本にミントの根のように張り巡らされているの秦氏=八幡=マニ教=地下資源人脈だよ。
https://twitter.com/madaraiguana/status/1271849647514898433?t=51b_3NYIJymLQTZgfVNnIw&s=19
引用ツイート
なかだち🐇🌲攘夷志士🐢🌳
@madaraiguana
· 2021年5月14日
なぜか大工や鍛冶屋など手工業者の信仰なのである。しかしこれももう読者諸賢にはご明察であろう。そこに弘法大師(ダイシ)も流れ込み、太子・大師信仰となっていく。弥勒たる八幡神と秦氏がこれを裏打ちしていたのだった。天台宗と真言宗が、なぜ聖徳太子を問題にし、また山岳信仰に深く関わるのかも
このスレッドを表示
午後1:48 · 2022年5月3日·Twitter for Android
日本列島は資源採掘地であって人が生活する土地ではないんでしょう。
歴史的に農奴と資本家しかいませんでしたし、人が住む世界は京都市内だけでしたし、江戸時代ようやくスタートラインに立ったけど徳川の権威で持たしてたので有って裏付けとなる宗教はやっぱり無いわけで。
午後1:56 · 2022年5月3日·Twitter for Android
藤原王朝のバックボーンがマニ教だとしたら日本開始100年でもう詰んでたわけで。武家は実務者だから宗教は寺に丸投げだったし。その寺も寺でなんか知らんが仕事してないし。
神社が駄目駄目なのは前提として寺がやる気なさ過ぎるのもう、な。
4年前から言ってるけど。
午後2:02 · 2022年5月3日·Twitter for Android
鎖国中何があったのか知りてえな。
オランダと密約が有ったんだろうけどさ。
午後2:04 · 2022年5月3日·Twitter for Android
グノーシスめんどくさいなあほんとに。
画像
午後2:05 · 2022年5月3日·Twitter for Android
グノーシスというかルサンチマンというか劣等感というか逆恨みというか。
午後2:08 · 2022年5月3日·Twitter for Android
何を言っているか分からねえと思うが。
午後2:08 · 2022年5月3日·Twitter for Android
”
上記のグノーシスが不可知論と無関係かと一見思えるが関係しているんだよな。少なくとも西洋思想ではね。
少なくとも英語での呼び名を文字通り解釈すると「gnosticism」(グノーシス主義)の否定だからだ。
やっと本題に入れる。
ハクスリー家は代々尻社員の家系なんだろうな。『すばらしい新世界』という計画書も書いたもんな。
ハクスリーとは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC-113729
”
ハクスリー
Huxley, Thomas Henry
[生]1825.5.4. ミドルセックス,イーリング
[没]1895.6.29. イーストボーン
イギリスの生物学者,科学啓蒙家。 C.ダーウィンの進化論を擁護し,その普及に努めた。チャリング・クロス病院で医学を学び,ロンドン大学で医者の資格を得たのち,1846年海軍の外科医として『ラトルスネーク』号に乗込み,オーストラリア探検に加わる。航海中にクラゲの比較解剖学的研究を行い,ロイヤル・ソサエティの機関誌に論文を発表 (1849) し,生物学者として認められる。 50年帰国。 54年,海軍を退役して王立鉱山学校の教授となる (後年,同校は彼の尽力により王立科学大学となる) 。ダーウィンの『種の起原』を宗教界が攻撃したのに対し,ハクスリーは進化論を擁護し,神学者や聖職者と対決,60年のイギリス学術振興協会年会の席上で,主教 S.ウィルバーフォースと論争した。 63年,ハクスリーは『自然界における人間の位置』を著わして,ダーウィンもまだ触れていなかったヒトの起源について,ヒトは類人猿から進化したと唱えた。 R.オーウェンがヒトと類人猿とでは脳の構造が異なるとして批判を加えたが,彼は両者の脳の構造が同一であることを実証してそれにこたえた。また,人間の精神活動は脳の生理作用によると説き,ヒトと類人猿の間に連続性を考えるための根拠とした。このほか,頭蓋骨を脊椎の変形したものとみる L.オーケンらの説を否定するなど,比較解剖学,古生物学での研究もあり,鳥類の分類も行なっている。また,啓蒙書執筆や講演を通じて科学の普及をはかり,教育制度の改革や科学教育の充実化に尽力するなど,幅広い活動を行なった。『科学と文化』 Science and Culture (81) ,『進化と倫理』 Evolution and Ethics (93) など多数の著書がある。
ハクスリー
Huxley, Aldous Leonard
[生]1894.7.26. サリー,ゴドルミング
[没]1963.11.22. ロサンゼルス
イギリスの小説家,評論家。生物学者 T.H.ハクスリーを祖父に,J.ハクスリーを兄に,詩人 M.アーノルドを母方の親戚にもつ。イートン校を経てオックスフォード大学を卒業。医学を志したが,眼疾のため文学に転向。雑誌編集者となり,『火の車』 The Burning Wheel (1916) 以下3詩集を出すかたわら小説に筆を染め,短編集『がらくた』 Limbo (20) に続く長編『クローム・イエロー』 Crome Yellow (21) ,『道化踊り』 Antic Hay (23) で認められ,第1次世界大戦後の幻滅,不安,懐疑を濃厚に反映する,1920年代を代表する作家の一人となった。その他の主要作品には『対位法』 Point Counter Point (28) ,『すばらしい新世界』 Brave New World (32) ,『ガザに盲いて』 Eyeless in Gaza (36) ,評論集『目的と手段』 Ends and Means (37) など。
ハクスリー
Huxley, Sir Andrew Fielding
[生]1917.11.22. ロンドン
[没]2012.5.30.
イギリスの生理学者。生物学者のトマス・H.ハクスリーの孫。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで修士号を取得,1941~60年トリニティ・カレッジで講義と研究を続け,1960年にロンドンのユニバーシティ・カレッジの生理学教授となった。1953年同僚のアラン・L.ホジキンとともに神経線維に刺激が伝わる仕組みを物理・化学的に解明(→神経伝導)。この功績により1963年,ホジキン,オーストラリアのジョン・C.エクルズとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。ほかに,筋肉の収縮に関して重要な業績がある。1969年からロイヤル・ソサエティの生理学部門の研究教授となり,1974年にナイトに叙された。1980~85年ロイヤル・ソサエティ会長。
ハクスリー
Huxley, Sir Julian (Sorell)
[生]1887.6.22. ロンドン
[没]1975.2.14. ロンドン
イギリスの生物学者,科学行政家。 T.H.ハクスリーの孫。オックスフォード大学卒業後アメリカに遊学。ロンドン大学教授 (1925) 。ホルモン学,発生学,鳥類学,生態学にわたる広い分野で多くの業績を上げた。第2次世界大戦後ユネスコの事務局長 (46~48) 。 1958年ナイトの称号を贈られた。主著に『相対成長の問題』 Problems of Relative Growth (32) ,『進化。現代的総合』 Evolution ,the Modern Synthesis (42) ,『進化とはなにか』 Evolution in Action (53) がある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について
”
予想以上に尻だな。
T.H.ハクスリーはダーウィンの進化論の熱心な支持者であり、ダーウィンすらまだ触れていなかったヒトの起源について発言した(人間は類人猿から進化して誕生したと主張)。つまり、既存の西方キリスト教神学を完全に否定して、新たな神学を作る側の人物。しかも、agnosticism(不可知論)を造語した。上記を見るに尻社員だろうから、グノーシスの意味を込めた命名だろう。
「a」で否定しているので、グノーシス派も否定しているんだな。
後述の引用で「不可知論という語を初めて用いたといわれるトマス・ハクスリーやスペンサーといった実証論者は、知識を経験可能な事実だけに限り、形而上(けいじじょう)学的な諸問題に関しては、はっきり不可知論を主張した」とあるので、T.H.ハクスリーはagnosticism(不可知論)の立場。
不可知の「知」はグノーシス主義の真なるゴッド〔の本質〕についての知識とか、それについて知ることだな。
ハクスリーが造語したagnosticismが、「ゴッドは実在するが、それについて知りえない」なのか「ゴッドが実在するかしないかについてすら知りえない」なのかそれ以外なのか不明……と書いたのだが、
後述する引用で「原語の中の〈知られえぬagnostic〉という言葉は,T.H.ハクスリーが1869年,《使徒行伝》でパウロの伝えるアテナイの〈知られえぬ神にagnōstō theō〉と刻まれた祭壇に言及しつつ自己の立場を語った講演が起源である。訳語は明治40年代からのものである。」とあるので、T.H.ハクスリーの思想は、有ゴッド論の中での「グノーシスは不可能」論だろうな。不可知論というよりグノーシス不可能論だな。
トマス・ヘンリー・ハクスリー - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC
”ハクスリーの子孫には英国の学界において著名な人物が多数存在し、孫のオルダス・ハクスリー(文筆家)、ジュリアン・ハクスリー(ユネスコの初代事務局長、世界野生生物基金の創設者)、そしてアンドリュー・ハクスリー(生理学者でありノーベル賞受賞者)が含まれる。
〔中略〕
今日見られないもう1つのハクスリーの重要な提唱は、学校で聖書を教えることの普及促進であった。これは彼の進化論からすると調和していないように思われるかもしれないが、しかし彼は聖書が英国の倫理に非常に関係ある重要な文学的、道義的な教訓を持っていると信じた。彼は彼の著書『進化と倫理』での進化と倫理を和解させようとし、「生き残るための可能な限り多くの調整」の原則を提言した。
〔中略〕
最終更新 2022年3月2日 (水) 13:42 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
”
聖書を学校で教えるよう言っているから有ゴッド論だな。つまり、訳語としての不可知論は、有ゴッド論が前提つまり範囲内(少なくとも造語した時点ではそう)。
西洋の不可知論は西方の神学と哲学を多少は知らないときちんと理解できないな(当たり前だ)。
不可知論とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E7%9F%A5%E8%AB%96-123769
”不可知論
ふかちろん
agnosticism
不可知論の起源を古代ギリシアのソフィストや懐疑論者にまでさかのぼって考えることもできるが、しかし神の本体は人間によっては知られないとする中世の神学思想から始まるとみるのが妥当であろう。つまり、人間は一種の知的直観であるグノーシスgnosisによって神の本体を直接知ることができるとするグノーシス派や本体論者の主張に対し、そうしたグノーシスを否定するのがアグノスティシズム、すなわち不可知論である。
ローマ・カトリックは、神の存在は人間理性に生まれながらに備わる「自然の光」によって知られるが、しかし神の本体そのものは知られないとして、グノーシスを否定した。神は現世に生きる人間には鏡に映る姿のようにおぼろであり、神と直接に面をあわせることができるのは別の世においてであるという。
不可知論は、近世に入って、人間は有限な存在でその知力も限られており、世界それ自体が何であるかを知ることはできない、といった哲学説に再登場する。神すなわち自然の属性は無限であるが、そのうち人間が認識できるのは延長(物体)と思考(精神)だけであると説くスピノザ説や、人間の知識は印象と観念に限られていて、それらを超えた事柄は知識の対象にはならないとするヒュームの主張も、ある意味では不可知論であるし、物自体は認識できず、主観形式である時間、空間のうちに与えられる現象だけが認識できるとするカントの『純粋理性批判』での考えも、一種の不可知論といえる。また不可知論という語を初めて用いたといわれるトマス・ハクスリーやスペンサーといった実証論者は、知識を経験可能な事実だけに限り、形而上(けいじじょう)学的な諸問題に関しては、はっきり不可知論を主張したが、この傾向は現代の論理実証主義やその系統を引く分析哲学にも引き継がれている。
なお19世紀後半のドイツの自然科学者デュ・ボア・レイモンは、「世界の七つの謎(なぞ)」として、〔1〕物質と力の本質、〔2〕運動の原因、〔3〕感覚と意識の成立、〔4〕意志の自由、〔5〕生命の起源、〔6〕有機体の合目的性、〔7〕思考と言語の発達、をあげ、このうち〔5〕から〔7〕までの謎は解けるが、〔1〕から〔4〕までの謎は解くことができず、また将来においてもその解明は不可能であるとして、これらの謎について不可知論を主張した。
[宇都宮芳明]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「不可知論」の解説
不可知論
ふかちろん
(1) agnosticism 超経験的なものの存在や本質は認識不可能であるとする哲学上の立場。認識の可能領域は現象界に限られ,超越的なものは類比的認識すらも不可能であるが,神や死などの究極的問題について判断を中止することはかえってそれらの存在を認めることになり,信仰に根拠を与えると主張するのは I.カントで,認識可能領域を明示する点で懐疑論と異なる。この認識の限界づけの思想はあらゆる実証主義や現象論の根底にある考え方で,A.コント,H.スペンサー,W.ハミルトンなどはその系列にあり,論理実証主義はその最も極端な例とみることもできる。 (2) ajñānavāda インドでは六師外道の一人サンジャヤが唱えた。彼は,来世が存在するか,善・悪業の果報は存在するかというような形而上学的な問題に関して,ことさら曖昧な返答をして確定的な返答を与えなかった。ここに形而上学的問題に関する判断中止の思想が初めて表明された。原始仏教における無記の思想の起源とみられる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
百科事典マイペディア「不可知論」の解説
不可知論【ふかちろん】
英語agnosticismの訳。T.H.ハクスリーの造語。一般に究極的実在,絶対者,神といったものは人知をもってしては知りえないとする立場。宗教的敬虔の基本的態度として古くよりあるが,近年ではW.ハミルトン,H.スペンサーらが代表的論者。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
精選版 日本国語大辞典「不可知論」の解説
ふかち‐ろん【不可知論】
〘名〙 (agnosticism の訳語) 哲学で、ある種の主題の認識が人間には不可能であるとする認識説。また、神学で、人間には神を認識することはできないとする宗教的認識説。不可思議論。〔英独仏和哲学字彙(1912)〕
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
デジタル大辞泉「不可知論」の解説
ふかち‐ろん【不可知論】
《agnosticism》哲学で、経験や現象とその背後にある超経験的なものや本体的なものとを区別し、後者の存在は認めるが認識は不可能とする説。また、後者の存在そのものも不確実とする説。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
世界大百科事典 第2版「不可知論」の解説
ふかちろん【不可知論 agnosticism】
一般に,事物の究極の実在,絶対者,無限者,神は知られえぬと説く立場を指す。原語の中の〈知られえぬagnostic〉という言葉は,T.H.ハクスリーが1869年,《使徒行伝》でパウロの伝えるアテナイの〈知られえぬ神にagnōstō theō〉と刻まれた祭壇に言及しつつ自己の立場を語った講演が起源である。訳語は明治40年代からのものである。ハクスリー以外では,人間の認識を有限なものの経験に制限し,無限で絶対的な神については学的な認識はありえず,ただ信仰による道徳的確信をもちうるのみと説くW.ハミルトン,進化の法則で現象界を説明し認識しうるが,相対的な現象,事実の認識は科学的には思考されえぬ実在ないし力,すなわち〈知られえざるものthe Unknowable〉を前提するとし,現象や事実をその〈表明〉とみなすH.スペンサーなどが不可知論者に属する。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
世界大百科事典内の不可知論の言及
【現象】より
…一つは,時空間的に制約されることのない本体(noumenon)あるいは本質を想定し,それが時空界に現れた姿を現象と考える。カントの現象概念がその典型であり,彼は物のそれ自体における姿つまり物自体と,われわれの感性にとってのその現れつまり現象とを区別し,われわれ有限な人間には物自体は認識不可能であり(不可知論),認識可能なのは現象界だけだと考えた。 それに対して,現象の背後にそうした不可知な本体を想定することは無意味であり,本質とは現象そのもののうちに認められる可知的連関にほかならないとする考え方がある。…
※「不可知論」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
” (着色は引用者。他の引用も同様)
語源gni, gno (知る)の英単語の意味まとめ
https://eng-etymo.com/archives/354
”agnostic /ægnάstɪk/ : 不可知論者
agnosticは「不可知論者」を意味し、語源はa(否定)とgno(知る)に由来します。不可知論者(agnostic)とは人には神様や超次元的な存在を認識できないと主張する人たちのことです。神様の存在を認めているため、無神論者(atheist)の隠れ蓑に使われることもあります。”
やっと語源や誕生経緯などが終わったよ。
つぎは外道の1人について。外道ってのは仏教以外って意味であり、本来は悪人って意味じゃないよ。
サンジャヤ・ベーラッティプッタという名前は長いし、鰻のようなぬるぬる議論をするので、これより「ウナギ」と呼称する。
舎利弗(シャーリプトラ)と、目犍連(マウドガリヤーヤナ)はウナギの弟子だったが仏弟子になった。
2007-05-05
仏教と不可知論 - G RDIAS
https://gordias.hatenadiary.org/entry/20070505/1178315654
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当時、「来世はあるか」「来世に生まれ変わりはあるか」「善悪の果報は来世にうけるか」「ブッダは来世に生まれ変わるか」などの問題が、多くの哲学者や宗教家たちによって論議されていた。サンジャヤは、それらは来世の問題で、人の知識の及ばないところであるから、論じるに値しないと考えた。
たしかに死後の世界について誰でも教えてくれた人はいない。死後の世界についての文献もない。書かれていても経験の上で伝えたものではない。想像の域を出ない。そこでサンジャヤはそんな形而上の問題についての思考は停止することをよしとした。
だがマウドガリヤーヤナ、シャーリプトラたちは、来世のことは確かにわからないかもしれないが、わからぬというだけで、来世についての思考を停止することはおかしい、と考えた。この生存のなんらかの連続として死後があるとすれば、そこに何かの説明ができるはずであり、それを、ただ人知を超えたところといって思考を放棄するだけでは、一体いまの修行は何のために行っているのか、ということになる。
(中略)
釈尊も来世についての論議は好まなかった。なぜか。ただ来世があるといえば、その実態を説明しなければならない。経験がないのにそれを説明することは不可能である。といって、来世がないわけではない。今世における修行の意義と、その目的である解脱の意義とがかみ合わなくなるからである。ただ釈尊は来世に関する一切の問題について、解答を与えなかった。それは答える必要がなかったというより、因果の道理の上からすれば、おのずから解答が与えられるからである。(pp.51-52)
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ゴータマ・ブッダは、一口で言うと、実存主義的経験論者でした。つまり、ゴータマ・ブッダが関心を集中したのは、みずからの実存である輪廻的な生存(という苦)にまつわる経験的な事実と、それらが織りなす因果関係の鎖がどのようにあるかということでした。(p.60)
「死後は存在するか」などの形而上学的問いについて、ブッダは答えを与えない。しかし、それらは不可知だからといって、考える意味はないということはない。ただ、ブッダにしてみれば、実存的な経験からの因果関係における語りこそが重要であったのだと解することができるだろう。
「生を一回限りのものとするか」、「死後の生も存在するとするか」は、明らかに世界観の問題であり、その世界の上で成立する価値の問題である。さしずめ、これらの問いを――不可知ゆえ考えない、のではなく――考え抜こうとするならば、自らの実存を賭けなければならない、そのようにブッダは教えてくれているのかもしれない。
”
確かに、ウナギの教えだと「なぜ修行するの?」ってなるよね。私もウナギが目の前にいたらおそらく同じような反論をするだろうな。
問題はウナギの教えの詳細がわからないことなんだよな。もっと詳しく仏典に記してほしかった。
ハンド塚に出てくる場面はこれ↓
https://twitter.com/mt_sanage629/status/1356806054860836864
”
サンジャヤ・ベーラッティプッタという古代インドの不可知論者を思い出しました。 https://t.co/6qgb75HALn pic.twitter.com/AD4idtLdrP
— 原 誠 (@mt_sanage629) February 3, 2021
”
〔上記のセリフはハンド塚流のアレンジだな。
以下の記述がある『沙門果経』(ディーガ・ニカーヤ)を読んだのではなく、それに言及した本をもとにしたのだろう。
https://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/sanjaya.htm
”6. サンジャヤの不可知論
サンジャヤは、あらゆる問いに対して確答を避ける「不可知論」の立場をとった。次のように答えることを習わしとしていたという。
「もし、あなたがあの世はあるかとたずね、
自分があの世は、あると考えたなら、あの世は、あると答えるであろう。
しかし、私はそうしない。
そうとは考えない。
それとは異なるとも考えない。
そうではないとも考えない。
そうではないのではないとも考えない。」
このような彼の論法は、「うなぎ論法」といわれ、仏教の「無記」の考え方に影響を及ぼしたと考えられる。ブッダの二大弟子サーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目連)は、はじめサンジャヤの弟子であったと伝えられている。
また、この思想は、ジャイナ教のスヤード・ヴァーダと似ている。不可知論的な傾向は、ブッダ時代に濃厚にみられるが、このような思想風土が、自己と他者の思想の白黒をはっきりさせないで両立させる文化多元主義の基盤になっている。 ”
https://twitter.com/caracolcaracole/status/1042556622906638337 と続き
”くるくる
@caracolcaracole
最近話題の岩波新書『初期仏教 ブッダの思想をたどる』を読んでるんですが、ブッダ以前にガンジス川流域に現れた新思想のなかのサンジャヤ・ベーラッティプッタの「懐疑論」がすごい。「死後の世界は存在するか否か、天界や地獄の生類は存在するか否か、善行・悪行の報いは存在するか否か、→
如来は死後存在するか否かといった命題について、そうであるとも思わないし、そうではないとも思わないし、そうではないのではないとも思わない」ということだけど「そうではないのではないとも思わない」て全然意味がわからなくてとにかくすごい。
”
サンジャヤ・ベーラッティプッタ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%97%E3%83%83%E3%82%BF
”サンジャヤ・ベーラッティプッタ(パーリ語: Sañjaya Belaṭṭhiputta、音写:刪闍耶毘羅胝子、散若夷毘羅梨沸など)は、インドの思想家。不可知論者、懐疑論者である。正統バラモン教の伝統にとらわれず自由な思索を行い、当時サマナ(沙門)、または正統バラモン教側からはナースティカ(虚無論者)と呼ばれた在野の自由思想家の一人である[3]。釈迦に先行する思想家で、古い仏教文献では六師外道と記されている[3]。
〔中略〕
真理をあるがままに認識し説明することは不可能であるとする不可知論である[4]。形而上学的な重要問題に対して確答せず、判断を中止する態度を採った。懐疑論とも言える立場であるが、彼の態度は、抜け出すことの困難な形而上学的な難問を議論することの意義を問う判断中止(エポケー)の表明であると言える[5]。
彼は「来世があるのか」という問いに対し、次のように答えた[4]。
もしもあなたが「あの世はあるか」と問うた場合、わたしが「あの世はある」と考えたならば、「あの世はある」とあなたに確答するでしょう。しかしながら、わたしはそうしない。わたしはその通りだとも考えないし、それとは異なるとも考えないし、そうでないとも考えないし、そうでないのではないとも考えない。(『沙門果経』ディーガ・ニカーヤ)[4]
続いて、「あの世はないのか」「あの世はあり、かつないのか」「あの世はあるのでもなく、かつないのでもないのか」の問いに同様に答え、善悪二業の報いは存在するか、如来(人格完成者)死後に存在するのかについても、同じように判断中止の態度を示し、明確な答えを避けた[4]。このような彼の議論は、「鰻のようにぬらぬらして捕らえがたい議論」とも言われる[4]。
仏教学者の早島鏡正は、「人間の行為についての業論や霊魂論を、実践の本質を探究する面から捉えなおそうとしている点で、ジャイナ教や仏教に与えた影響は看過できない」と評している[4]。ジャイナ教の開祖マハーヴィーラは、サンジャヤの懐疑論は実践の指針にならないとして退け、知識の問題に関して「ある点から見ると」と限定して述べる相対主義(不定主義)を唱えた[6]。釈迦の無記(人生の救いに役立たない形而上学的な問いに、沈黙して確答を与えない考え)に影響を与えたとも考えられている[4][5]。
〔中略〕
最終更新 2022年1月21日 (金) 22:40 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
”
釈迦は「いや、確実に言えることもあるでしょ」ってことでウナギ教(極端な判断中止論、限定なしの不可断定論)を排して、一部の事柄について無記という教えを確立したのだろう。ウナギから「断定しない」という思想を学んだのだろう。
ハンド塚のあの漫画は新キリスト教みたいに曲解していること間違いなしなので、あれに反論が載っていても(読んだことがあるが覚えていない)仏教的に正しいかわからないんだよな。
『泥ろ』の真言立川アピールでわかるように、大乗仏教の多数派は間違いなく嫌いだろうしな。『泥ろ』の主人公の父の姓が醍醐で
息子と高僧を生贄にし、額に×(カインの刻印)を得る。
創価の解釈も一般的ではないだろう。
法華経の特徴は久遠実成(くおんじつじょう)や二乗作仏などがある。
久遠実成は「釈尊は遥か遠い昔にすでに悟っていた」という「永遠のブッダ」思想。
二乗作仏は、仏になることができないと言われていた者も仏になれるという思想。
https://twitter.com/10mokun3961/status/1519163622806921216
”岡野友治 No Cats No Life
@10mokun3961
『『法華経』の「最も勝れた」点とは、主なものを挙げれば、あらゆる衆生が平等に成仏できるとする「一仏乗の思想」、釈尊はすでに遥か昔に成道していたとする「久遠実成の思想」、その久遠実成の思想に裏づけられた「永遠の菩薩道」の三つだと言える。』(植木雅俊著『法華経とは何か』)
午後0:56 · 2022年4月27日·Twitter Web App”
久遠実成とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E4%B9%85%E9%81%A0%E5%AE%9F%E6%88%90-54994
”久遠実成【くおんじつじょう】
歴史上のブッダガヤーで悟った釈迦は仮の姿で,久しく遠い過去に実際に悟りを開き成仏し,以来人びとを教化し続けたのが真実の釈迦であるという法華経の説。久遠本仏,無始古仏とも称し,天台宗・日蓮宗の重要教義の一つ。浄土教では十劫(じっこう)の昔に成仏した阿弥陀仏を久遠実成の阿弥陀仏という。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「久遠実成」の解説
久遠実成
くおんじつじょう
仏教用語。仏教では種々の教えを説くが,それは,歴史上の人物で肉身をそなえた釈迦牟尼 (釈尊) が説いたものではなく,時間,空間を超越した絶対的真理の表われにほかならず,釈迦牟尼は,はるかの昔に悟りを開き,人々を教化し続けているのだとする思想。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
デジタル大辞泉「久遠実成」の解説
くおん‐じつじょう〔クヲンジツジヤウ〕【久遠実成】
仏語。法華経思想の一。釈迦仏がこの世に生まれたのは仮の姿にすぎず、永遠の昔に悟りを開き成仏して限りない時間を人々の教化に尽くしてきたと説くもの。久成正覚。
”
二乗作仏 - 新纂浄土宗大辞典
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%8C%E4%B9%97%E4%BD%9C%E4%BB%8F
"にじょうさぶつ/二乗作仏
声聞と縁覚の二乗が成仏すること。二乗成仏ともいう。一般的には二乗は仏になることができないとされるが、『法華経』では法華一乗の立場から、二乗と菩薩の差異は本質的なものではないとして、二乗もまた成仏すると主張する。また『涅槃経』には一切衆生悉有仏性説を説き、すべての衆生に仏と成り得る本性があるとして、二乗のみならず一闡提においても成仏する可能性を示唆している。自分のさとりだけを求める小乗の心をひるがえして大乗に向かうことを廻心向大といい、天台宗や華厳宗では一切皆成の立場からすべての二乗が廻心して成仏することを主張する。一方、法相宗では五姓各別の立場から、二乗に決定性と不定性の二種があり、決定性の二乗は廻心向大することがなく、不定性の二乗は無余涅槃に入る直前に廻心して大乗の菩薩になると理解する。 "
法華経といえば天台宗だな。天台宗ではどう考えているんだろうな。
天台宗について - 法話集
No.144釈尊の教えでないもの2
https://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=168
”「善知識」(ぜんちしき)という仏教の言葉があります。幸せになるために役立つ知識と思われるかもしれませんが、原語は、Kalyāṇamitraで、Kalyāṇa(カルヤーナ)は、美しい、善い、優れたという意味で、mitra(ミトラ)は、友達、仲間という意味です。ですから、善知識は、善き友、善き仲間という意味です。私達は友に支えられ、友の成功や失敗から多くのものを学んで成長して行くものです。今回は、お釈迦様にとって善知識であったかもしれない思想家達(六師外道)の中からアジタ・ケーサカンバラとサンジャヤ・ベーラッティプッタをご紹介します。
アジタ・ケーサカンバラは、世界は元素から構成され、人間も元素からなり、死ぬと元素に戻るだけで、死後には何も残らない。そこには、霊魂や来世、善業・悪業の果報も存在しないので、祭祀や布施など無意味であると考えました。そして、地水火風の4つの元素のみが実在であり、それらの活動領域として虚空があると考えました。元素については、仏教でも同じように考えておりました。今でも時折使われます「四大不調」とは、四大(地水火風)の調和が崩れて病気になることをいい、「四大空に帰す」とは、死ぬことを意味します。しかし、仏教では、善い行いや悪い行いの果報が有ると考え、それに基づいて輪廻を考えるところが異なります。
サンジャヤ・ベーラッティプッタは、お釈迦様とほぼ同時代の人で、仏教教団を支えた二大弟子の舎利弗・目連は、彼の弟子であったといわれています。彼は、形而上学的問題に関する判断中止の思想を明らかにしました。例えば、「死後の世界があるかどうか」の問いに対して、「私は、有ると考えたなら有ると答えるであろう。しかし、そうだとは考えない。そうらしいとも、そうでないとも、そうでないのではないとも、・・・とも考えない」と答えたといいます。彼のこうした考えは、後に、ことばと対象・認識に関する深く広大な思想に係わっていきます。お釈迦様は、形而上学的問題には、無言をもって答えられました。これを「無記」といいます。
お釈迦様は、当時の思想家達を「彼らは互いに論争をし、反対論者を愚者だという。彼らは、己の見解への執着によって汚されている」と評されました。意見を十分聞いて、幸せになるために役立つかどうかを考えて、諸々の論争を超越したのがお釈迦様の教えであるといわれています。
(文・北総教区 長福寺 鈴木 晃信)
掲載日:2016年03月01日”
ウナギに対して反論していないな。いや「幸せになるために役立つかどうか」は反論ともとれる。
ウナギ教だと幸せにはなれそうにないよなあ。
無ゴッド論についても書いておく。
無ゴッド論を徹底すると単なる仏教の空思想(実体論の否定)になるぞ。というかそこまで徹底しないと、ゴッド論の一派にしかならんぞ。ゴッド崇拝派生のサタン崇拝と同じくね。サタンの実在の前提がゴッドだから派生だよ。
私の思想は今のところ不言及〔限定的不可断定〕論(無記、不語怪力乱神でありagnosticismではない)側なので、有ゴッド論(実在すると断定)でも無ゴッド論(非実在だと断定)でもないよ。「限定的」と書いたのは限定的でないならウナギになるからだよ。
不可知論と書かなかったのはこの「知」はグノーシスだから、仏教や儒教の思想に使うの不適切だからだよ。
アグ「ナ」スティシズムについては以上。「ナ」にアクセント。
「上導」の意味は↓
シーア兄貴(イラソのアレ来世触手)2022/4/5~5/2と良呟きや記事の保管庫
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-475.html
"〔「不完全な下降と狭い上揚か乱らな上揚、それに遠く・関係がない類推の3つ」はやってはいけないこと。
”4月13日
奴隷仕様というのはある事柄に対しての「不完全な下降と狭い上揚か乱らな上揚、それに遠く・関係がない類推の3つ」で何か知らんけどアンタらはコレをする
わしらはずっと「コレするな!」と、叩き込まれる
この前アホな学生が神秘主義的なこといって「その根拠はどこにあるんだ?」と迫られていた”
〕
「不完全な下降と狭い上揚か乱らな上揚、それに遠く・関係がない類推の3つ」の、
「下降」は「ディダクション」、「上揚」は「インダクション」のことだろう。
帰納(インダクション)と演繹(ディダクション)は、ラテン語のinductio(インドゥクティオ)とdeductio(デドゥクティオ)が由来。
deductio(デドゥクティオ)を直訳すると下導。
inductio(インドゥクティオ)を直訳すると導入。
導入と対比させるために下導を「導出」にするのもありだな。
それか導入を「上導」にする。
ラテン語のdeductio(デドゥクティオ)
=接頭辞de(デ)(「下降」「起源」)
+名詞ductio(ドゥクティオ)。
ductio(ドゥクティオ)はduco(ドゥーコー)(「導く」「引き出す」)という動詞から派生。
下に導き出す(導出)なので、ディダクションは「下導」。
deductio(デドゥクティオ)は
より上位に位置する普遍的な概念から、その「下」位に位置づけられる個別的な概念や具体的な事物の存在を「導」き「出」すという推論の形式。
deductio(デドゥクティオ)は上から下に下る。
それに対して、inductio(インドゥクティオ)は下から上に上がる。
となると「上導」。上に導く。下導と対比になるし。
ラテン語のinductio(インドゥクティオ)
=接頭辞in(イン)(「中へ」)
+動詞duco(ドゥーコー)(「導く」)。
なので、そのまま訳すと「導きいれること」「導入」。
「導出」をデドゥクティオの訳語にするなら「導入」もあり。
(一般語の導入と混ざるから使いたくない、という思いもあるが定着したら問題はなくなるな)
ラテン語のinductio(インドゥクティオ)は、
具体的事物や個別的な事例を挙げることによって、そこから普遍的な結論を導き出すから、上へ導くまたは上を導く。
インダクションは、下位に位置する個別的な概念や具体的な事例を、「上」位の普遍的な概念へと「導」き「入」れ昇華するとという推論の形式。
「西洋を周くせん」による演繹(ディダクション)と帰納(インダクション)という意図的な誤訳疑惑がある訳語は使わない方が良い。
このオランダの目イソン野郎は、
①意味が推測できない漢字を使う
(漢字の意味がない。音写じゃねーんだぞ!)
②訳語に使う熟語の意味が、訳す対象の意味と違いすぎる
(致命的)
を平気でやるからな。しかも論理的な推論の訳語でだぞ? つまり思考に干渉しているってこと。
「観念」(イデー)なんて完全な誤訳だしな。
イデー(意出、意出絵)と言う方が害がはるかに少なかったな。
「意出(いで)」「意出絵(いでえ)」は私による音写なのだが意味的にも多少はあっているからな。
仏教用語だと観念は「心静かに智慧によって一切を観察すること。また一般に、物事を深く考えること。」という意味。
イデー(心に現れる表象、想念、意識内容)の訳語にあてるのは不適切だ。
なぜなら仏語の観念には「観察」や「熟考」の意味が必須だからだ。
誤訳による仏教破壊だろこれ。憑依戦術。
なぜ前回も言ったことを長々と書いているのかというと、思考関連の訳語だからだよ。
そういえば芥川は欧米語をカタカナどころかアルファベットで書くことがあるのだが、あれは上手く訳せない場合は、誠実な態度だな(こいつも尻社員だろうけど「西洋周し」よりは日本語を大事にしているということはわかる)。
)
)"
(
https://twitter.com/KoderaMito/status/1524047136949944325 と続き
”Mito Kondoria
@KoderaMito
「すばらしい新世界」で知られるオルダス・ハクスリーの兄、ジュリアン・ハクスリー。
FRS(王立協会フェロー)の一員。
進化生物学者、優生学者、英国優生学協会の代表、国際主義者、ユネスコ初代事務局長、WWF創始者の一人。初代英国ヒューマニズム協会会長。
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午前0:22 · 2022年5月11日·Twitter for iPhone
王立協会フェローのメンバーには、ニュートン、ダーウィン、チャーチル、アインシュタイン、イーロン・マスク、数学者のチューリング、インターネットの父ティム・バーナーズ・リーなど約8000人(うち現在生きている人1707人)
CRISPRのジェニファー・ドウDNAもフェローですね。
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午前1:14 · 2022年5月11日·Twitter for iPhone
ジュリアン・ハクスリーはビルダーバーグ・グループ創設メンバーの一人でもあるオランダ王配ベルンハルトやエジンバラ公フィリップ、ゴッドフリー・ロックフェラーと共にパンダのロゴでお馴染みのWWFも創設。
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午前2:44 · 2022年5月11日·Twitter for iPhone
いまや世界最大の環境保護団体となり、地球温暖化対策に関しては影響を与えている。
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午前2:50 · 2022年5月11日·Twitter for iPhone
「神は多分いない」
ヒューマニズム協会は世俗的ヒューマニズム(secular humanism) の信条「盲目的な信仰のかわりに、科学的な手法による真実の追求」が奨励される。
世俗的ヒューマニストの中には、アシモフやアーサー・C・クラーク、バートランド・ラッセル、ノーム・チョムスキーなど。
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午前6:14 · 2022年5月11日·Twitter for iPhone
現在のヒューマニズム協会の会長。
アリスさん。
Alice Roberts
王立協会フェロー。
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午前8:08 · 2022年5月11日·Twitter for iPhone
”
”
https://twitter.com/pizano1215/status/1558075632570863616
”ゴスロリ同胞団
@pizano1215
『梵網経』の情報が全然なくて困る……
午後9:59 · 2022年8月12日·Twitter Web App”
(これも本記事作成を後押しした)
『原始仏典 長部経典1』(『沙門果経』『聖なる網の教え(梵網経)』含む)備忘録(メモ)
『沙門果経』(しゃもんかきょう)が収録されている『原始仏典 長部経典1』 中村元監修 春秋社のメモに入る。
『沙門果経』(しゃもんかきょう)以外のも経典も面白かった。
『原始仏典 長部経典1』 中村元監修 春秋社
原始仏典〈第1巻〉長部経典1
中村 元【監修】/森 祖道/浪花 宣明【編訳】/橋本 哲夫/渡辺 研二【訳】
『聖なる網の教え(梵網経)』『修行の成果(沙門果経)』『真のバラモン(種徳経)』『説法の奇跡(堅固経)』など「長部経典」第1経から13経までを収録。
メモ開始。
凡例
一 読者の理解の一助とするため、底本にない訳文を〔 〕で補った。また、底本の省略部分(…pe…)は、省略せず訳出し、同様に〔 〕で囲み表記した。
一 訳文中、読者の理解の便宜をはかるため、適宜、原文にはない小見出しを付した。
一 訳文中、[ ]で囲み表記した数字は、底本の頁数を示したものである。
一 読者の理解に資するため、巻末に訳註を付した。末尾に(N)と付した註記は、編者(浪花)の補註である。
第一経 聖なる網の教え―梵網経
〔『梵網経』(ぼんもうきょう、Brahmajāla-sutta, ブラフマジャーラ・スッタ) 〕
浪花宣明[ナニワセンミョウ] 訳
(冒頭の解説より)
「小さな戒」 荒々しいののしりことばをいわない(不悪口)、つまらぬ饒舌をいわないこと(不綺語)
常住論に始まり現法涅槃論に終わる六二の見解が説かれる。ブッダによれば、これらの見解は、存在の本質についてのなんらの知的判断でもなく、渇愛に囚われた者の感覚器官と対象との接触(触)から生じてくる感受(受)にすぎない。この感受(見解)により愛着が起こり、愛着より固執(取)が起こり、固執から生存(有)が起こり、生まれること、老いること、死ぬこと、悲しみ、嘆き、苦しみ、悩みが起こる。如来はこれらの見解の生じてくる原因と消滅させる道とを知っているから、如来はこれらの見解を越えている、と説く。
(
植木訳『法華経』の、梵語と漢訳がない版の上巻の注より、
十二因縁
人の苦悩の成立原因を、
①無明(無知)
②行(潜在的形成力)
③識(識別作用)
④名色(名称と形態)
⑤六処(六つの感官)
⑥触(接触)
⑦受(感受作用)
⑧愛(妄執)
⑨取(執着)
⑩有(生存)
⑪生(生まれること)
⑫老死(老いて死ぬこと)――の十二段階に分けて説いたもの。
〔
愛は妄執、取は執着
〕
不悪口では、当然、罵倒としてのファックはダメである。出家したら性行為的な意味でのファックもダメである
)
第一経 註
p.589から
(40)世俗の哲学 lokāyata
語義は「世の習いにしたがった」。漢訳経典では、「順世論」「順世外道」と訳されている。インド思想のなかでは唯物論がlokāyataと呼ばれているが、ここではもっと軽蔑された呼称であろうと思われる。
(44)心の統一(定) samādhi
漢訳仏典では「定」とは心が対象に対して散乱せずに集中し統一されていることを原意とし、その集中には強弱の差がある。それゆえ、samādhiの語がつねに禅定(jhāna)をさすとはいえない。 samādhi(集中)の強弱の差はのちのアビダルマの思想家たちの注意を引き、 samādhiの対象に対する心の集中の作用は、日常、事物を認識するときは無論のこと、夢のような不安定な心理作用においてもはたらいているとされ、その作用が最強となるとき、 samādhiは禅定となると説明されるようになる。ここで説かれる samādhiは禅定ほど強い集中ではないであろう。
(46) 趣く先 gati
漢訳仏典では「趣」または「道」と訳される。自分の行なった行為(業)の結果として、再生して趣く境涯をいう。
六趣。六道。
(48)光音天 ābhassara
devaは漢訳仏典では「天」と訳されるが、現代では「神」と訳されることもある。「神」と訳されても、それは輪廻転生の世界に属する無常な存在である。仏教の救済論には天の存在は本来必要でないが、天の存在はインド思想に深く根づいており、仏教の教説のなかにも天が採り入れられたのである。仏教では瞑想によって獲得される境地を「天」ということばで表したが、やがてその境地に対応する空間的世界が外界に存在すると考えられるようになり、さまざまな階層の天の世界が考え出されている。善い行ない(善業)を行なうことにより、または瞑想を修行することにより、それぞれの天の世界に天人となって転生することができると説かれるようになる。天ということばは個々の神をさすと同時にその神が住む世界をもさす。光音天は色界(清らかな物質からなる領域)の第二の瞑想(第二禅)に対応すると考えられた天であり、雷雲から稲妻が発するように、全身から光を発しているから、この名前がある。
(p.582からの略号表より、
D Dīghanikāya
DA Dīghaṭṭhakathā(Sumaṇgalavilāsinī)
(アッタカター=説明・注釈)
※引用元ではnの上に点なのだが、検索してもnの下に点ばかりだったのでこちらで代用)
p.591から
(54)詭弁 amarā-vikkhepa
このうちでamarāの語義には二種の解釈が行なわれている。DA.i.115によれば、その一つはamarāを「不死」とするものであるが、不死と解釈したのでは意味が不明となることを註釈者自身が認めているようである。謂く「死なないから不死である(Na maratī ti amarā)。それはなにか。私はこのようにも考えない(evam pi me no)などの仕方で結論のない、悪見者の見解であり言葉である」。他の解釈ではamarāは「うなぎ」であり、うなぎのように捉えどころなく詭弁を弄することをamarā-vikkhepaという。謂く「amarāというのは魚の一種であり、それは浮き沈みしながら水中を動きまわり、捕まえることができない。このようにこの論も、ここからここへと動きまわり、把握することができないというので詭弁といわれる」。
原始仏典において詭弁論はこのような一方的な非難にさらされるのみであるが、この主張も一つの理論にほかならない。人の本質については、それを我(ātman)と見るか、身体と見るか、この二つしかない。死によって人は滅すると見れば、人間の本質は身体(物質)であり、唯物論になっていく。反対に、死によって人は滅しない、すなわち輪廻すると見るなら、その本質は我である。人の本質を我とみなせば、死後有我論になり、我と身体との結合した状態が輪廻であり、身体を離れた状態が解脱となる。また人の本質を身体とみなせば、人は身体が生まれるときに始まり、身体が死ぬときに終わる。輪廻も解脱も否定され、断滅論になる。しかしながら、人の本質は身体であるというのも、我であるというのも、ともに理論以前の不可証明の前提である。前提が異なれば、それによる理論も異なる。それゆえ、理論の妥当性には限界があり、絶対的真理があると考えるのは誤りである。この点を指摘するのが詭弁論である。
第一経 聖なる網の教え―梵網経 に戻る。
p.29からp.33まで
〔詭弁論〕
二三、「比丘たちよ、沙門・婆羅門たちのなかには、詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、四つの根拠により、ことばの錯乱した詭弁(54)に陥る。ではかれら尊敬すべき沙門・婆羅門たちはなにに由来して、なにに依存して、詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、四つの根拠により、ことばの錯乱した詭弁に陥るのか。
二四、比丘たちよ、ここに、ある沙門あるいは婆羅門は、これは善であると如実に知らず、これは不善であると如実に知らない。かれは次のように考える、『わたしはこれは善であると如実に知らず、これは[25]不善であると如実に知らない。しかしわたしはこれは善であると如実に知っておらず、これは不善であると如実に知っていないにもかかわらず、〈これは善である〉と答えるとすれば、あるいは〈これは不善である〉と答えるとすれば、それについてわたしは弱い欲望(55)を、あるいは強い欲望を、あるいは弱い怒り(56)を、あるいは強い怒りをもつ。わたしがそれについて弱い欲望を、あるいは強い欲望を、あるいは弱い怒りを、あるいは強い怒りをもてば、わたしはそれについて偽〔って語〕ることになる。わたしが偽〔って語〕れば、わたしは〔偽って語ったことを後悔して〕苦悩することになる。わたしが苦悩すれば、それはわたしには障害となる』と。このようにかれは偽って語ることを恐れ、偽って語ることをきらって、『これは善である』とも答えず、また『これは不善である』とも答えない。質問を尋ねられるごとに、ことばの錯乱した詭弁に陥る、『わたしはそのようには思わない。そのとおりであるともわたしは思わない。異なっているともわたしは思わない。そうでないのでないともわたしは思わない』と。
比丘たちよ、これが、それより由来し、それに依存して、一部の沙門・婆羅門たちが詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、ことばの錯乱した詭弁に陥るところの、第一の根拠である。
二五、また第二に、尊敬すべき沙門・婆羅門たちはなにに由来して、なにに依存して、詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、ことばの錯乱した詭弁に陥るのか。
比丘たちよ、ここに、ある沙門、あるいは婆羅門は、これは善であると如実に知らず、これは不善であると如実に知らない。かれは次のように考える、『わたしはこれは善であると如実に知らず、これは不善であると如実に知らない。しかしわたしはこれは善であると如実に知っておらず、これは不善であると如実に知っていないにもかかわらず、〈これは善である〉と答えるとすれば、あるいは〈これは不善である〉と答えるとすれば、それについてわたしは弱い欲望を、あるいは強い欲望を、あるいは弱い怒りを、あるいは強い怒りをもつ。わたしがそれについて弱い欲望を、あるいは強い欲望を、あるいは弱い怒りを、あるいは強い怒りをもてば、わたしはそれについて執着することになる。わたしが執着すれば、わたしは〔執着したことを後悔して〕苦悩することになる。わたしが苦悩すれば、それはわたしには障害となる』と。[26]このようにかれは執着することを恐れ、執着することをきらって、『これは善である』とも答えず、また『これは不善である』とも答えない。質問を尋ねられるごとに、ことばの錯乱した詭弁に陥る、『わたしはそのようには思わない。そのとおりであるともわたしは思わない。異なっているともわたしは思わない。そうでないのでないともわたしは思わない』と。
比丘たちよ、これが、それより由来し、それに依存して、一部の沙門・婆羅門たちが詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、ことばの錯乱した詭弁に陥るところの、第二の根拠である。
二六、また第三に、尊敬すべき沙門・婆羅門たちはなにに由来して、なにに依存して、詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、ことばの錯乱した詭弁に陥るのか。
比丘たちよ、ここに、ある沙門、あるいは婆羅門は、これは善であると如実に知らず、これは不善であると如実に知らない。かれは次のように考える、『わたしはこれは善であると如実に知らず、これは不善であると如実に知らない。しかしわたしはこれは善であると如実に知っておらず、これは不善であると如実に知っていないにもかかわらず、〈これは善である〉と答え、あるいは〈これは不善である〉と答えるとしよう。また、沙門・婆羅門の賢者であり、聡明で論争に長じ、毛の端を射抜く〔射手〕のように、みずからの智恵で他人の見解を論破しながら歩き回っている者がいる。かれらはわたしにそれについて意見を質し、理由を質し、過ちを質すであろう。かれらがわたしにそれについて意見を質し、理由を質し、過ちを質しても、わたしはかれらに答えることはできないであろう。答えることができなければ、それはわたしには苦悩となる。わたしが苦悩すれば、それはわたしには障害となる』と。このようにかれは詰問を恐れ、詰問をきらって、『これは善である』とも答えず、また『これは不善である』とも答えない。質問を尋ねられるごとに、ことばの錯乱した詭弁に陥る、『わたしはそのようには思わない。そのとおりであるともわたしは思わない。異なっているともわたしは思わない。そうでないのでないともわたしは思わない』と。
比丘たちよ、これが、それより由来し、それに依存して、[27]一部の沙門・婆羅門たちが詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、ことばの錯乱した詭弁に陥るところの、第三の根拠である。
二七、また第四に、尊敬すべき沙門・婆羅門たちはなにに由来して、なにに依存して、詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、ことばの錯乱した詭弁に陥るのか。
比丘たちよ、ここに、ある沙門、あるいは婆羅門は、愚鈍であり愚昧である。かれは愚鈍であるために、愚昧であるために、質問を尋ねられるごとに、ことばの錯乱した詭弁に陥る。『〈来世はあるか〉と、もしあなたがわたしにたずねて、もしわたしが〈来世はある〉と考えるなら、〈来世はある〉とあなたに答えるであろう。しかしわたしはそのようには思わない。そのとおりであるともわたしは思わない。異なっているともわたしは思わない。ないともわたしは思わない。ないのでないともわたしは思わない。
〔もしあなたがわたしに〕〈来世はないか〉とたずねて、〔もしわたしが〈来世はない〉と考えるなら、〈来世はない〉とあなたに答えるであろう。しかしわたしはそのようには思わない。そのとおりであるともわたしは思わない。異なっているともわたしは思わない。ないともわたしは思わない。ないのでないともわたしは思わない。
〈来世はあり、かつまた、ないのか〉〈来世はなく、かつまた、ないのでないか〉
〈化生(57)の生ける者はいるか〉〈化生の生ける者はいないか〉〈化生の生ける者はおり、かつまた、いないか〉〈化生の生ける者はおらず、かつまた、いないのでないか〉
〈善と悪の業の果・熟果はあるか〉〈善と悪の業の果・熟果はないか〉〈善と悪の業の果・熟果はあり、かつまた、ないか〉〈善と悪の業の果・熟果はなく、かつまた、ないのでないか〉
〈如来(58)(生ける者)は死後、存在するか〉〈如来は死後、存在しないか〉〈如来は死後、存在し、かつまた、存在しないか〉〈如来は死後、存在せず、かつまた、存在しないのでもないか〉と、もしあなたがわたしにたずねて、もしわたしが〈如来は死後、存在せず、かつまた、存在しないのでもない〉と考えるなら、〈如来は死後、存在せず、かつまた、存在しないのでもない〉とあなたに答えるであろう。しかしわたしはそのようには思わない。そのとおりであるともわたしは思わない。異なっているともわたしは思わない。ないともわたしは思わない。ないのでないともわたしは思わない』
比丘たちよ、これが、それより由来し、それに依存して、一部の沙門・婆羅門たちが詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、ことばの錯乱した詭弁に陥るところの、第三(原文ママ。四の間違いだろう)の根拠である。
二八、比丘たちよ、これら沙門・婆羅門たちのなかには、[28]詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、四つの根拠により、ことばの錯乱した詭弁に陥る。比丘たちよ、沙門、あるいは婆羅門で、詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、四つの根拠により、ことばの錯乱した詭弁に陥る人たちは、すべてこの四つの根拠によるが、あるいはそれらのうちのどれかにより、これよりほかにはない。
二九、比丘たちよ、これについて如来は次のように知る。『このように執着され固執された見解は、このような趣く先をもたらし、このような未来をもたらすであろう』と。如来はこれを知り、またこれよりも勝れたことを知る。比丘たちよ、しかしそれを知って如来は固執することがなく、また固執がないから、心の内に寂静があり、感受の〔生起する〕原因と消滅と過患と出離とを正しく知って、執着を離れている。
比丘たちよ、これらが、如来がみずから悟り体現して教示している、深遠で、見がたく、了知しがたく、寂静で、勝れており、思考と思惟とを越えており、微妙で、賢者だけが理解できる諸法であり、またそれら〔を賞賛すること〕によって、如来をあるがままに賞賛し、正しく語ることになる〔諸法〕である」
p.592から
註
(55)弱い欲望を、あるいは強い欲望を
「知らないのに、強いて、善を善であると、また不善を不善であると説いた後で、『私はこのことについてこのように答えたが、それは正しく答えられたのか』と他の賢者たちに尋ねる。かれらが『賢者の顔をした者よ、あなたは善を善であると正しく答え、不善を不善であると答えた』といわれたとき、『わたしのような賢者はいない』と、それについてわたしは弱い欲望を、あるいは強い欲望を起こす、という意味である」(DA.i.116)。
(56)弱い怒りを、あるいは強い怒りを
「反対に、善を不善であると、また不善を善であると説いた後で、賢者たちに尋ねて、かれらから『あなたは間違って答えた』といわれたとき、『私はこんなことすら知らないのか』と、それについて自分自身に弱い怒りを、あるいは強い怒りをもつ、という意味である」(DA.i.116)。
(57)化生の生ける者
化生は何もないところから忽然として生じるものであり、天界や地獄に生まれるとき、このようにして生まれるとされる。
(58)如来(生ける者) tathāgata
これらの問いは『中部』第六三経にも現れており、そこでは次のことが問われている。すなわち、仏教では、生ける者(satta)は死後、輪廻するとされる。ところが如来とは解脱した人であり、解脱した人は輪廻を離れており、もはや輪廻しない。輪廻を離れている如来が死んだら、その如来は死後、存在するのか、存在しないのか。『中部』第六三経では質問者は仏弟子マールンキャプッタであり、それゆえかれは「如来」に関して質問するのであろうが、この経典では疑問をもつ者は異教徒の詭弁論者であり、そのかれが「如来」について疑問をもつとは考えづらい。それゆえDA.i.118は、ここのtathāgataの語は生ける者(satta)の意味であると註釈している。ただし、「如来」と文字どおりに解釈すべきか、「生ける者」と解釈すべきかは、訳者のあいだでも見解は異なっている。「如来」の語は仏教以外でも、当時の諸宗教を通じて、「修行を完成した人」を指すから、如来についての無記・捨置記の論議も諸宗教を通じてのものであった、という説もある。中村元『ブッダ最後の旅』(岩波文庫、239頁)参照。
(
詭弁論ではなく非断定論と訳したらいいじゃん。
サンジャヤ・ベーラッティプッタの教説だろうな。別人の教説の可能性はあるけどね。
「絶対に嘘を言わない」つまり嘘をつかない戒律の徹底とも解釈できるな。
それと断言から生ずる業の遮断。
断言という結果を生じさせる過程〔=思考〕に伴う想起や感情など〔とそれによる業〕の遮断。これらは「ただ沈黙し続ける(喋らない)」だけでは達成されないので、思考自体を意図的に止めている。論理的な選択肢を並べるが選ばないという姿勢だ。
言わなくても人は行動しないといけない〔食事など〕ので、「どうするべきか」は行動で示してしまう。なので、完全に何も主張しないのは不可能。食事だと「何を食べないか」自体が教えだからね。言わなくても行動を見たらわかっちゃうからね。
シャーリプトラと目連が弟子だったんだからさ、もっと詳しく教えを残してほしかったよ。この2人に聞いた結果が上記なのかもしれないけどね。
この2人が惹かれた理由を残してほしかったよ。
この2人がいるので、サンジャヤ・ベーラッティプッタ教については正確な記述である可能性が高いな。
目連って目犍連(もくけんれん)だったり、梵語でMaudgalyāyana マウドガリヤーヤナ、巴語でMoggallāna モッガッラーナだし初見だと同一人物だとわからないな。
「犍」が変換で出ない。腱「呼んだ?」 鍵「俺のことだな?」 呼んでないし違うよ。
無記 - インド思想史略説
https://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/muki.htm
”第2節 原始仏教の教理
ブッダに帰依する人々が集まり、僧団が形成され、それが発展するとともにブッダの教えは、急速に整備され、体系化されていった。そして、三宝・三法印・縁起・四諦八正道などのまとまりのある説が成立してくる。
1. 無記
原始仏教が思想を構築していく上でとった基本的な立場は、無記である。
「無記」(avyākata, avyākṛta)とは、形而上学的な問題について判断を示さず沈黙を守ることである。無用な論争の弊害からのがれ、苦しみからの解放という本来の目的を見失わないためにとられた立場である。
『マッジマ・ニカーヤ』(中部経典)第63経「小マールンキャ経」は、世界が永遠であるか否か、有限であるか否か、生命と身体は同一のものであるか否か、人は死後存在するか否かという問題について、ブッダが何も語らなかったことを「毒矢のたとえ」によって巧みに表現している。1)
毒矢にいられ、苦しむ人を前にして、医者が、患者の身分、階級、弓の種類、矢の種類などについて知られない間は治療しないとしたら、その人は死ぬ。
世界が永遠であろうとなかろうと、有限であろうとなかろうと、生命と身体が同一であろうとなかろうと、人が死後存在しようとしまいと、人は生まれ、老い、死に、嘆き、悲しみ、苦しみ、憂い、悩む。
ブッダは、現実にそれらの苦しみを止滅することを第一義の目的とした。あくまでこの目的を見失うまいとするのが「無記」の立場である。ここには、心の病の医者としてのブッダの側面が如実に現れている。2)
【次へ】【目次へ】
1) 田中教照訳「毒矢の喩え」(『ブッダのことば III』講談社、1985年) 1頁以下。後代の『倶舎論』では十四無記が説かれる。高崎直道『仏教入門』東大出版会、1983年、77頁。【本文へ】
2) この「無記」の立場は、経験できないものについては語らないという点で、現代の実証主義に通ずるものがある。この思想的な態度は縁起・無我の教義と結びついて、大乗仏教の空の思想へと発展していく。【本文へ】”
)
p.41
〔断滅論(63)〕
p.593
註
(63)断滅 ucchedavāda 死後、我は消滅すると説く。
(65)
空間の無限を観ずる境地(空無辺処)から想があるのでもなく想がないものでもないという境地(非想非非想処)の四つは物質のない純粋に精神的な領域(無色界)の四段階である。
p.44から
大まかな考察(尋)ともない、細かな考察(伺)をともなっているが、〔五つの蓋いからの〕離脱によって生じた喜びと安楽とをそなえた、第一の瞑想(初禅)にはいり、そのなかにいる。
〔第二の瞑想の〕喜びを離脱することによって、中庸(捨)(68)となっており、注意力(念)(69)と明瞭な意識(正知)(70)とをもち、身体により安楽を感受し、聖なる人たちが〈中庸となり、注意力をそなえた者は安楽がある〉というところの、第三の瞑想(第三禅)にはいり、そのなかにいる。
p.594
註
(67)大まかな考察(尋)
大まかな考察(vitakka)は通例、「尋」と漢訳され、細かな考察(vicāra)は通例、「伺」と漢訳される。両者はしばしば一緒に出るが、そのときには、vitakka(尋)は考察を開始した初期の状態をさし、ものごとを大まかに考察することをいう。vicāra(伺)は考察を継続しつつある状態をさし、ものごとを精査し、細かく考察することをいう。
(68)中庸(捨) upekkhā(upekha)
漢訳仏典では「捨」と訳される。原始仏典の範囲ではpekkhā(原文ママuが抜けている)に二義がある。
(一)苦でもなく楽でもない対象に接して生じてくる、中庸な感受。
(二)対象の苦楽や好悪に心を動かされず、中庸に保たれた精神。
ここでは後者の意味である。
(69)注意力(念) sata
名詞形satiは漢訳仏典では通例、「念」と訳される。原始経典において、sati(念)は
(一)対象を記憶して忘れないこと、
(二)こころが放縦にならないように気をつけ注意力がそなわっていること、さらに
(三)無常・苦・無我などをつねに念頭に置き、忘れないこと、すわなち(原文ママ)四念住の意味に使用される。ここでは(二)の意味である。またこの意味では次項の正知(sampajañña)としばしば対となって原始仏典の随所に現われる。
(70)明瞭な意識(正知) sampajañña
漢訳仏典では通例、「正知」と訳される。自分が今なにを行なっているかを明瞭に自覚して識知していることをいう。
(
尋伺 - WikiDharma
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%98%E3%82%93%E3%81%97
五禅支 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%A6%85%E6%94%AF
Sampajañña - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Sampaja%C3%B1%C3%B1a
)
p48から
〔六十二種の見解の本性は感受されたものである〕
三五、比丘たちよ、これらのうちで、かれら沙門・婆羅門たちは、詭弁論をもち、質問を尋ねられるごとに、四つの根拠により、ことばの錯乱した詭弁に陥るが、それはかれら尊敬すべき沙門・婆羅門たちが〔真実を〕知っておらず、〔真実を〕見ていないために感受されたものであり、渇愛に陥っているためにおののき狂躁したものにすぎない。
(
他の見解でも同様に、真実を知らず見ないために感受されて渇愛に陥ったと結論されている)
p54から
〔六十二種の見解を超越する道〕
(前略)、またかれら沙門・婆羅門たちは、詭弁論をもち、またかれら(中略)沙門・婆羅門たちは、過去の限界について考察し、未来の限界について考察し、過去の限界と未来と限界とについて考察し、過去の限界と未来の限界とについて見解をもち、六十二の根拠により、過去の限界と未来の限界とに関して種々の浮説を主張するが、それらのすべては六つの接触(74)の場に触れて感受するのである。それらには感受を縁として渇愛が〔生じ
〕、渇愛を縁として固執が〔生じ〕、固執を縁として生存が〔生じ〕、生存を縁として生まれることが〔生じ〕、生まれることを縁として老いることと死ぬことと、悲しみと嘆きと苦しみと憂いと悩みとが生じる。比丘たちよ、比丘が、六つの触処の原因と消滅と楽しみと過患と離脱とを如実に知れば、かれはこれらすべてより一層すぐれていることを知る。
比丘たちよ、如来の身体は生存へ導くものを切断している。かれの身体が存続しているあいだは、天人も人もそれを見る。身体が滅んで命が終わったあと、天人も人も見ることはない。
p594から
註
(72)比丘たちよ…
以下では六二種の見解の本質が説かれる。それらの見解は「感受されたもの」(vedayita)といわれている。感受されたものとは感覚器官で対象を認識するときに、人に感受されることがらをいう。感受は認識作用にともなう生理的反応とでもいうべきものであり、理性的な判断の加わっていない心理作用である。六二種の見解を理性の伴わない低次元のものとして否定するブッダの姿勢が現れている。Da.i.123fには、「見解の魅力と見解の安楽と見解の〔縁となる〕感受されたものとによって喜悦したかれらは、四つの根拠により、自我と世界とは常住である、と主張するが、それもかれら尊敬すべき沙門・婆羅門が、如実のものごとの本質を知らず、また見ていないために、渇愛に陥って、感受されたものである。ただ単に渇愛に陥った者たちに感受されたことにすぎない。それはまたおののき狂躁したものであり、見解と称され、また渇愛と称されたおののきによって狂躁し、動転し、動揺しているにすぎない。あたかも籾殻の山に突き立てた杭のようである」と説明されている。
(73)接触を縁とする
人が対象物を認識するとき、仏教では感覚器官と対象とが接触すると考え、接触なしに認識作用は起こらないとされる。この接触はphassaと呼ばれ、漢訳経典では「触」と訳される。
(74)
接触の場 phassāyatana(触処)
āyatana(「処」と漢訳される)は認識作用が生じる場所という意味で、六つの感覚器官とそれに対応している六つの対象をいう。ここで「接触の場」とは、六つの感覚器官をさしている。
(
植木訳『法華経』の、梵語と漢訳がない版の上巻の注より、
十二因縁
人の苦悩の成立原因を、
①無明(無知)
②行(潜在的形成力)
③識(識別作用)
④名色(名称と形態)
⑤六処(六つの感官)
⑥触(接触)
⑦受(感受作用)
⑧愛(妄執)
⑨取(執着)
⑩有(生存)
⑪生(生まれること)
⑫老死(老いて死ぬこと)――の十二段階に分けて説いたもの。
〔
愛は妄執、取は執着
〕
)
第二経 修行の成果―沙門果経
〔『沙門果経』(しゃもんかきょう、Sāmaññaphala-sutta, サーマンニャパラ・スッタ)〕
森祖道[モリソドウ](訳)
(冒頭の解説より)
本経は、父王殺しの悪人として名高いアジャータサットゥ王(阿闍世王)の質問告白に対して釈尊が応答説示するという筋立ての、比較的長い経典である。
経典の前半は、アジャータサットゥ王が釈尊と初めて出会い、その時までに自分が当時の有力な六人の指導者より受けた教説について、一説ずつ説明する内容が中心である。当時、数多く輩出したサマナ(沙門)と呼ばれる反バラモン教的な新興宗教家自由思想家たち(釈尊もその中の一人であった)の中の六人であって、仏典では「六師外道(ろくしげどう)」と記されている人たちのことである。
p.60から
「陛下、かのサンジャヤ・ベーラッティプッタ(15)という者がおります。かれこそは出家教団の教主、信奉者の教主、集団の師として名高く、名声があり、教祖であり、大勢の人たちに善人として尊敬され、経験が豊富で、出家して久しく、長い人生の旅路を歩んで高齢に達した方です。陛下はそのサンジャヤ・ベーラッティプッタをお訪ねなさいませ。サンジャヤ・ベーラッティプッタをお訪ねになれば、おそらく陛下のお心は浄まることでしょう」
(
上位の名前の箇所を入れ替えただけの記述が他に5回登場する。つまり、上記はすべて六師外道の紹介文。当時は有名だったのだろう。
お経に共通部分や繰り返しが多い理由の1つは、覚えやすくするためだろうな。当時は口承であり口伝だからだ。文字で記録していない。お経は詩や歌の側面もあるので繰り返し箇所があってもおかしくない)
「陛下、修行完成者(17)であり、正真の覚者(18)であるかの世尊がおられ、わたくしどものマンゴー林に、千二百五十人の修行僧からなる大僧団と一緒に住んでおります。その世尊には、次のようなすばらしい称賛の声があがっています。『このように、かの世尊(19)は、修行完成者(20)であり、正真の覚者であり、明行足(21)であり、よく逝ける者(22)であり、世間を見抜いた者(23)であり、無上なる存在(24)であり、人間の調練者(25)であり、天と人の師(26)であり、仏(27)であり、世尊である』と。陛下はその世尊をお訪ねなさいませ。世尊をお訪ねになれば、おそらく陛下のお心は浄まることでしょう」
p.596から
註
(6)布薩日 uposatha
元来は月に四回ある休日・斎日のこと。仏教教団では同一地域内の比丘たちが、毎月の新月と満月の日に一堂に会して戒条を読誦(どくじゅ)し、この半月間の修行生活の過誤を告白懺悔して自己反省する。また在家の信者はこの日は八戒を守り、説法を聞き、出家者に食事を供する。
(7)古代インドの暦法では、満月の翌日から次の満月に至るまでを一カ月とする。
(太陰暦なんだ
)
(13)アジタ・ケーサカンバラ Ajita Kesakambara
いわゆる「六師外道」の一人で断滅論者・虚無論者といわれる。かれは人間の毛髪で作られた衣服を着していたとされ、その所説は本経二二節(本書六九頁)以下参照。
(15)サンジャヤ・ベーラッティプッタ Sañjaya Belaṭṭhiputta
所説は一種の詭弁論であって、捕らえどころがないので捕鰻論・不老憍乱論(amarā-vikkhepa)ともいわれた。
(17)修行完成者――阿羅漢のこと。
(18)正真の覚者 sammā-sambuddha
三藐三仏陀(さんみゃくさんぶっだ)と音写し、正遍知とも正等覚者とも訳す。「正しく真に覚った者」の意味で、この語の上にさらに無上(anuttara. 阿耨多羅(あのくたら))の語を加えることもある。仏の悟り(原文ママ)は声聞や縁覚などの低レベルの悟りとは違ってベストのものという意である。
(
般若心経の阿耨多羅 三藐三菩提
(あのくたら さんみゃくさんぼだい
anuttara-samyak- saṃbodhi)の
アノクタラとサンミャクサン
)
(20)修行完成者であり
以下、10の名称が列挙されるが、これは「仏の十号」といわれ、釈尊の卓越した特性をいろいろな角度より説明した敬称である。
(21)明行足 vijjācaraṇa-sampana
明(智慧)と行(修行の実践)を具足完備した者の意。仏は悟りの智慧とそれを獲得する実践体験を具備している者ということである。
(22)よく逝ける者 sugata
修伽陀と音訳し、善逝・好去と意訳する。完全に仏の悟りの世界に逝き、二度と衆生の迷いの世界には戻ることのない者という意である。
(23)世間を見抜いた者 lokavidu
世間(衆生凡夫の世界)のすべてを真に見抜き見透した者の意味で、漢訳では世間解と訳す。世間に対するこの知解、洞察力によって、仏は衆生を悟りへと教化救済できるわけである。
(24)無上 anuttara この上ない最高最上の人という意。
(25) 人間の調練者 purisadamma-sārathi
調御されるべき人の調御教育者をいう。漢訳では調御丈夫と訳す。仏性を具え教化教導可能なすべての人をよく訓練する御者のことである。
(26)天と人の師 satthā devamanussanaṃ
天神や人間などすべての生きとし生ける者の教導の師という意。
(27)仏 buddha
この天地人間の真理真実に目覚めた者すなわち覚者のことで、自ら悟り他を悟らせる者。
(
世尊はbhagavat。
世尊 - 新纂浄土宗大辞典
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%96%E5%B0%8A
”釈尊の呼称。原語はⓈⓅbhagavatであり、「幸運を有する者」の意。釈尊には様々な呼称があり、「如来の十号」と言われるように、仏、阿羅漢、正等覚者など一〇の異なった呼称があるが、この語もその中の一つ。婆伽婆や薄伽梵と音写されたり、世尊や有徳と意訳されたりする。これは古代インドのヴェーダ聖典や叙事詩においても、弟子が師匠に対して「先生」と呼びかける際の言葉であり、仏教もそれに倣ったとされる。通常、経典では釈尊を描写する際に最も一般的に用いられる。例えば単独で、あるいは「仏」という語と共に、「ある時、世尊は舎衛城郊外の竹林精舎で時を過ごしておられた」というように、経典の語り手が第三者としての釈尊を客観的に描写する際に使われたり、また仏弟子や在家信者が、「私は世尊のもとで梵行を修したいのです」というように、二人称として釈尊を呼ぶ場合にも使われる。 ”
)
(
Buddha Guṇā [帰依仏]-パーリ語 常用経典集 - 法楽寺
http://www.horakuji.com/BuddhaSasana/Theravada/paritta/Buddha_guna.htm
“Buddha Guṇā
仏陀の九徳(仏十号・如来十号)
パーリ語原文
Itipi so Bhagavā Arahaṃ Sammāsambuddho
Vijjācaraṇasampanno Sugato Lokavidū
Anuttaro purisadamma-sārathi
Satthā devamanussānaṃ Buddho Bhagavā.
カナ読み
イティピ ソー バガヴァー アラハン サンマーサムブッドー
ヴィッジャーチャラナサムパンノー スガトー ローカウィドゥー
アヌッタロー プリサダンマサーラティ
サッター デーワマヌッサーナム ブッドー バガヴァー
日本語訳
かの婆伽梵[ばがぼん]は、応供であり、正遍知であり、
明行足であり、善逝であり、世間解であり、
無上士であり、調御丈夫であり、
天人師であり、仏陀であり、世尊である。
日本語訳:沙門 覺應
帰依仏
パーリ語原文
Ye ca Buddhā atītā ca, ye ca Buddhā anāgatā,
Paccuppannā ca ye Buddhā, aham vandāmi sabbadā.
N'atthi me saraṇaṃ aññaṃ, Buddho me saraṇaṃ varaṃ.
Etena saccavajjena, hotu me jayamaṅgalaṃ.
Uttamaṅgena vande'haṃ, pādapaṃsuṃ var'uttamaṃ,
Buddhe yo khalito doso, Buddho khamatu taṃ mama.
カナ読み
イェー チャ ブッダー アティーター チャ,イェ- チャ ブッダー アナーガター,
パッチュッパンナー チャ イェー ブッダー,アハン ヴァンダーミ サッバダー.
ナッティ メー サラナン アンニャム,ブッドー メー サラナン ヴァラン.
エーテーナ サッチャヴァッジェーナ,ホートゥ メー ジャヤマンガラン.
ウッタマンゲーナ ヴァンデーハン,パーダパンスム ワルッタマム.
ブッデー ヨー カリトー ドーソー,ブッドー カマトゥ タム ママ.
日本語訳
かの過去世の仏陀達、かの未来世の仏陀達、
そして、かの現在世の仏陀達すべてを、私は敬礼いたします。
私には、他に帰依処などなく、仏陀こそが、私の尊い帰依処。
この真実の告白によって、私に勝利をもたらす吉祥あれ。
私は、(自分の額を仏陀の)御足の尊い塵につけ、最上の礼拝をいたします。
仏陀について、私になにか過失や罪があったならば、仏陀よ、どうか許したまえ。
日本語訳:沙門 覺應”
)
(34) 旗手 celaka
戦闘において勝利の旗を掲げて先頭に進む者のこと。
p.65から
〔プーラナ・カッサパの説〕
一六、「尊師よ、あるときわたしは、プーラナ・カッサパのところに訪ねて行きました。訪ねて行って、プーラナ・カッサパとたがいに挨拶をし、喜ばしく印象に残るようなことばを交わしてから、一方の場所に坐りました。一方の場所に坐ったわたしは、尊師よ、プーラナ・カッサパに次のようにいいました。
『君、カッサパよ、〔世間には〕さまざまな技能職業があります。たとえば、象に乗る者、馬に乗る者、車に乗るもの、弓の射手、旗手、〔中略〕またほかにもこれに類するさまざまな技能職種の者――かれらはこの世において、目に見える技能の報酬によって生活しています。かれらはそれによって、自分自身を安楽にし満足させ、母と父とを安楽にし満足させ、子供と妻とを安楽にし満足させ、友人知人を安楽にし満足させ、〔そしてまた〕沙門やバラモンに対しては、天界に生まれ天界の安楽なる果報をもたらす立派な布施をきちんと行ないます。そこで、君、カッサパよ、ちょうどそのように、この世において、目に見えるかたちで〈修行の成果〉を示すことがおできになりますか』と。
一七、尊師よ、このようにいわれて、プーラナ・カッサパはわたしに次のように答えました。
『大王よ、〔自らの手で〕傷つける者、〔命令して〕傷つけさせる者、〔他人の手足などを〕切断する者、切断させる者、苦痛を与える者、苦痛を与えさせる者、悲しみを与える者、疲れさせる者、恐れおののく者、恐れおののかせる者、生き物を殺す者、与えられない者を盗(と)る者、家に押し入る者(41)、強盗を働く者、一軒家を襲う者(42)、追剥を働く者、他人の妻と通ずる者、嘘をつく者――こういう者の行為は罪悪とはなりません。たとえ周囲が剃刀のように鋭利なチャッカ(43)によって、この地上の生き物を〔切り刻んで〕一つの肉の塊り、一つの肉の山にしたとしても、それによって罪悪はなく、罪悪の出現はありません。またたとえ〔凶暴な人々のいる〕ガンジス河の南岸(44)に行って、殺害しても、殺害させても、〔他人の手足をなどを〕切断しても、切断させても、苦痛を与えても、与えさせても、それによって罪悪はなく、罪悪の出現もありません。またたとえ、〔信心深い人々のいる〕ガンジス河の北岸(45)に行って、布施をしても、布施をさせても、大供養を行なっても、大供養を行なわせても、それによって功徳はなく、功徳の出現はありません。[53]布施によっても制御(46)によっても〔戒による〕自制によっても、真実のことばによっても、功徳はなく、功徳の出現もありません』
一八、尊師よ、このようにプーラナ・カッサパは、わたしに目に見える修行の成果について問われたのに、〔行為はなんの結果ももたらさないという〕『非作用』を説きました。尊師よ、それはちょうど、マンゴーについて問われたのに、ラブジャの木(48)のことを説明し、あるいはラブジャについて問われたのに、マンゴーのことを説明するようなものです。尊師よ、プーラナ・カッサパは、わたしに目に見える修行の成果について問われているのに、〔行為はなんの結果ももたらさないという〕『非作用』を説きました。尊師よ、〔しかし〕そこでわたしは、このように考えました。『どうしてわたしごとき者が、領内(49)に住んでいる沙門やバラモンを非難しようなどと考えてよいであろうか』と。尊師よ、そこでわたしは、プーラナ・カッサパの言説を称賛もせず非難もしませんでした。称賛もせず非難もせず、内心不満ではありましたが、不満のことばを出さず、かれのことばを聞き流すだけで、傾倒することはしないまま、座を立って退出しました」
p599から
註
(40)修行の成果 sāmañña-phala
ここでは修行(sāmañña)とは最上なる修行道、つまり、正見ないしは正定までの八聖道のことであり、修行の成果とは、聖なる成果、つまり、預流果ないしは阿羅漢果までの四つの果のことである。
(43)チャッカ cakka
相手にむかって投げつける円盤形の武器。
(
チャクラム?)
(44)ガンジス河の南岸の人々は残酷で凶暴であると考えられていた。
(45)ガンジス河の北岸の人々は信心深く浄信をもち、仏法僧を信奉していると考えられていた。
(46)制御 dama
これには感覚器官の制御(indriya-dama)と布薩の制御(uposatha-dama)がある。
(48)ラブジャ labuja
パンの木の一種。果実を焼くとパンの味がするからbread-fruit(パンの木)と呼ばれる。種類が多く、古くから食用とされ、品種の改良も行なわれてきた。古代インドでも重要な食料の一つであった。(N)
(49)領内 とは命令が行きわたる地域のこと。
p66から
〔マッカリ・ゴーサーラの説〕
一九、「ここにまた、尊師よ、あるときわたしは、マッカリ・ゴーサーラのところに訪ねて行きました。訪ねて行って、マッカリ・ゴーサーラとたがいに挨拶をし、喜ばしく印象に残るようなことばを交わしてから、一方の場所に坐りました。一方の場所に坐ったわたしは、尊師よ、マッカリ・ゴーサーラに次のようにいいました。
『君、ゴーサーラよ、〔世間には〕さまざまな技能職業があります。たとえば、象に乗る者、馬に乗る者、車に乗るもの、弓の射手、旗手、軍司令官〔中略〕またほかにもこれに類するさまざまな技能職種の者――かれらはこの世において、目に見える技能の報酬によって生活しています。かれらはそれによって、自分自身を安楽にし満足させ、母と父とを安楽にし満足させ、子供と妻とを安楽にし満足させ、友人知人を安楽にし満足させ、〔そしてまた〕沙門やバラモンに対しては、天界に生まれ天界の安楽なる果報をもたらす立派な布施をきちんと行ないます。そこで、君、ゴーサーラよ、ちょうどそのように、この世において、目に見えるかたちで『修行の成果』を示すことがおできになりますか』と。
二〇、尊師よ、このようにいわれて、マッカリ・ゴーサーラはわたしに次のように答えました。
『大王よ、生けるものには、汚れの直接原因も間接原因(縁)(50)もない。生けるものは、直接原因も間接原因もなく汚れるのである。生けるものには、直接原因も間接原因もない。生けるものは、清浄の直接原因も間接原因もなく清浄になるのである。自己による諸行為はなく、他者による諸行為もなく、人間による諸行為もなく、力もなく、精進もなく、人間の精力もなく、人間の努力もない。すべての生けるもの(51)、すべての呼吸する者(52)、すべての発生したもの(53)、すべての生命あるもの(54)は、自在力もなく、力もなく、精進もなく、決定と〔偶然の〕結合(55)と本来の性質(56)とに左右され、六種の生まれ(57)の階級〔のいずれか〕においてのみ、楽と苦とを実感するのです。[54]じつに主要なる胎(生まれ)には百四十万種があり、また六千種、また六百種がある。行為(業)には五百種があり、また〔五官に応じた』五種があり、また〔身体・言語・心による〕三種がある。〔そのうち身体と言語による行為は〕一つの行為であり、〔心による行為は〕半分の行為である。また六十二種の修行道があり、六十二種の中間劫(こう)があり、六種の生まれの階級があり、八種の人間(58)の〔修行の〕階位があり、四千九百種の職業、四千九百種の遊行者、四千九百種の蛇の住処、二千種の感覚器官、三千種の地獄、三十六種の塵の世界、七種の意識をもつ生物(59)、七種の意識をもたない生物(60)、七種の節のある生物(61)、七種の神々(62)の神々、七種の人間(63)、七種の鬼(64)、七種の湖(65)、七種の結び目、七百種の結び目(66)、七種の断崖(67)、七百種の断崖、七種の夢(68)、七百種の夢があります。そして八百四十万の大劫(69)があり、その間、愚者も賢者も流転し輪廻をくり返した後、〔ようやく〕苦の終滅を実現するでしょう。その場合、〈わたしはこの戒により、禁制により、苦行により、梵行によって、いまだ熟しきっていない業を完熟させ、あるいはすでに熟しきった業には〔その報いに〕くり返し触れて、消滅させてしまおう〉などということはありません。まったくそのようなことはないのです。楽と苦とは〔いわば〕桝(ます)で量られたようなもので、輪廻は期限が限定されていて、そこには増減もなければ、消長変動もないのです。ちょうど糸玉が投げ出されると、〔糸がなくなるまで〕解けながらころがって行くように、愚者も賢者も流転し輪廻した後で、〔ようやく〕苦の終滅を実現するでありましょう』と。
二一、尊師よ、このようにマッカリ・ゴーサーラは、わたしに目に見える修行の成果について問われているのに、輪廻による浄化のことを説明しました。尊師よ、それはちょうど、マンゴーについて問われたのに、ラブジャの木のことを説明し、あるいはラブジャについて問われたのに、マンゴーのことを説明するようなものです。尊師よ、マッカリ・ゴーサーラは、わたしに目に見える修行の成果について問われているのに、輪廻による浄化のことを説明しました。尊師よ、〔しかし〕そこでわたしは、このように考えました。『どうしてわたしごとき者が、領内に住んでいる沙門やバラモンを非難しようなどと考えてよいであろうか』と。尊師よ、そこでわたしは、[55]マッカリ・ゴーサーラの言説を称賛もせず非難もしませんでした。称賛もせず非難もせず、内心不満ではありましたが、不満のことばを出さず、かれのことばを聞き流すだけで、傾倒することはしないまま、座を立って退出しました」
ここまでp68
p.599から
註
(50)直接原因も間接原因(縁)も
「直接原因」の原語はhetu(「因」と漢訳される)、「間接原因」はpaccaya(「縁」と漢訳される)。仏典の中でhetuとpaccayaは区別なく同義に使われる場合と、直接原因(hetu)と間接原因(paccaya)に区別される場合とがある。マッカリ説では両語は同義であると註釈されている。
(55)結合 saṅgati. 六種の生まれの階級にそれぞれ赴くこと。
(56) 本来の性質 bhava. 自性 (sabhava)のこと。
(57)六種の生まれの階級
(メモ者注:表記方法をわかりやすく変更した。6が最上位)
6 純白の階級:ナンダ、ヴァッチャ、サンキッチャ、マッカリ・ゴーサーラ
5 白い階級:アージーヴィカ教徒(邪命外道(じゃみょうげどう))、
女アージーヴィカ教徒
4 鮮黄色の階級:白衣の在家者、裸形者の弟子
3 赤い階級:ジャイナ教徒、一衣者
2 青い階級:仏教の修行僧
1 黒い階級:
屠羊者、屠豚者、捕鳥者、猟師、漁師、盗賊、刑吏、獄吏、その他の残酷な職業人
(
マッカリ・ゴーサーラつまりアージーヴィカ教による
色の階級は、
純白>白>鮮黄>赤>青>黒。
教祖や信徒の階級は、
アージーヴィカの教祖>アージーヴィカ教徒>(おそらく)アージーヴィカの在家、裸形者の弟子(おそらくアージーヴィカ教徒とは限らない)>ジャイナ教徒>仏教の修行僧>(おそらく非殺生の壁)>残酷な職業人。
アージーヴィカ>ジャイナ>仏教。ジャイナ教が仏教より上なのは仏教の戒律がゆるいことが理由の1つだろうな。仏教はジャイナ教みたいに服を着るかどうかで宗派が分かれたりしないし、食べられるものもジャイナ教より多いからね。
ヌード写真つき薄い本『ジャイナ教とは何か』、六師外道全員、特にジャイナ教とアージーヴィカ教に詳しい薄くない本『ジャイナ教入門』
Posted on 2019.01.25 Fri 12:02:29
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-267.html
”自由思想家の特徴
1 ヴェーダの権威と祭祀の有効性の否定
2 ヴァルナ差別の否定
3 広範囲の人々を対象に平易な言葉で教えを説いた
4 個人としての自己主張をし、
信者が出身に関係なく個人として帰依するなど
生まれではなく個人の能力、意志、行為が評価された。
個が血縁の中に埋没していた前代の社会には見られなかった現象
自由思想家たちすべてが精神的肉体的に極めて厳しい修行を積んでいる。
唯物論者や快楽主義者ですら苦行を行い、生涯簡素な生活を送っていた。
釈迦が乗り越えた六人の自由思想家。
1 プーラナ・カッサパ 道徳否定論
祭祀を行なっても
施しなどの善行をなしても
自己にうち克ち感官の制御をし
真実を語ることによっても
善の生ずることもないし、
また善の報いも存在しないという。
反対に
生きものおよび人間の体を切断し苦しめ悲しませ戦わせ
生命を奪っても
さらに与えられざるものを奪い
家宅侵入、掠奪、強盗、
追いはぎ、姦通、虚言などをしても
少しも悪をなしたのではない。
悪業に対する報いも存在しないという。
因果応報を否定し
善悪の別は人間が定めたことであり
真の意味では存在しないと主張し
世間的な常識、社会通念を否定。
(プーラナ・カッサパの行為の善悪否定論
http://user.numazu-ct.ac.jp/%7Enozawa/b/purana.htm
”プーラナ・カッサパは、行為に善悪はなく、行為が善悪の果報をもたらすこともないと主張した。
傷害・脅迫・殺人・強盗・不倫・虚言などを行ったとしても、悪にはならない。
悪の報いはない。施し・祭式・節制・真実を語ることを行ったとしても、善にはならない。善の報いもないと説いた。
この教えは「道徳否定論」として紹介されることが多いが、決してそのような思想ではない。
すぐあとで扱うパクダ・カッチャーヤナの思想と同じく、あらゆるものごとを「平等」にみることによって、行為に附随する罪福へのこだわりとその結果生まれる苦しみから心を解き放とうとする教えであろう。
このような教えは、特に生きものを殺すことを職業とするため、業・輪廻説にしたがうかぎり、苦を果報として受けることが避けられないとされる人々に対して説かれたのではないかと考えられる。
これは、その本質において、
『バガヴァッド・ギーター』2.38の「苦楽、得失、勝敗を平等のものと見て、戦いに専心せよ。
そうすれば罪悪を得ることはない。」という「平等」の教えと同じであろう。1)
パーリ仏典『沙門果経』の第17節 (PTS, DN, I, p.52) において、プーラナの思想は次のように紹介されている。
「行為する者、させる者が、(人を)切ったり、切らせたり、
苦しめたり、苦しめさせたり、悲しませたり、疲れさせたり、
恐怖を与えたり、与えさせたり、生きものを殺したり、
与えられないものをとったり、家を壊して侵入したり、
掠奪したり、盗みを働いたり、路上で追いはぎをしたり、
不倫したり、嘘ついたりしたとしても、悪いことをするわけではない。
また、まわりが剃刀のような円盤で、(あらゆる)地上の生きものを、
一山の肉、一塊の肉にしてしまっても、それによって悪があるわけではなく、悪の報いはない。
ガンジス河の南岸に行き、人を殺したり、殺させたり、
切ったり、切らせたり、
責めたり、責めさせたりしても、それによって悪があるわけではなく、悪の報いはない。
ガンジス河の北岸へ行き、施しをしたり、施しをさせたり、
祭式を行ったり、祭式を行わせたりしても、それによって善があるわけではなく、善の報いはない。
布施、克己、節制、真実を語ることによって善があるわけではなく、善の報いはない。」”)
2 パクダ・カッチャーヤナ(七要素集合説、唯物論)
人間の各個体は七つの集合要素、
すなわち地・水・火・風の四元素と
苦・楽と霊魂から構成されている。
これらは作られたものでも、
他のものを産み出すこともない。
山頂のように不変で石柱のように不動。
これらは互いに他を害うこともない。
それゆえ世の中には殺す者も殺される者もなく
教えを聞く者も聞かせる者もなく
知る者も知らしめる者も存在しない。
たとえ鋭利な刃物で他の頭を切り落としても
これによって何人も誰かの生命を奪うことはない。
ただ剣の刃が七要素の間隔を通過するにすぎないという。
宇宙あるいは人間がいくつかの要素の集合から構成されているという主張は
インドでは積聚説(アーランバ・ヴァーダ)と呼ばれる。
仏教にもジャイナ教にも見られるし、
後代のインド六派哲学のヴァイシェーシカ哲学の原子論にも継承されていく。
このパクダの教説はまだ要素の集合を説くのみで
ここの要素の細分化の可能性つまり原子論的な展開は見られない。
パクダの教説はインドにおける唯物論の先駆といわれている。
(パクダ・カッチャーヤナの七要素説
http://user.numazu-ct.ac.jp/%7Enozawa/b/pakuda.htm
”パクダ・カッチャーヤナは七要素説を説いた。
人間は七つの要素、すなわち地水火風
楽苦と生命(あるいは霊魂)からなるもので、
これらは作られたものではなく、何かを作るものでもない。
不動、不変で互いに他を害することがない。殺すものも殺されるものもなく、学ぶものも教えるものもいない。
たとえ、鋭利な剣で頭を断っても、誰も誰かの命を奪うわけではない。剣による裂け目は、ただ七つの要素の間隙にできるだけである。行為に善悪の価値はないとする。
さきのプーラナ・カッサパの教えと同じく、これも道徳破壊の思想とされるが、そうではない。
人間の本質は霊魂にあると見て、霊魂は不動、不変なものなので、殺すことも害することもできないというのである。
『バガヴァッド・ギーター』2.24の
「彼は断たれず、焼かれず、濡らされず、乾かされない。
彼は常住であり、遍在し、堅固であり、不動であり、永遠である。」という思想と同じものである。”)
3 マッカリ・ゴーサーラ(運命決定論、無因無縁論)
※ゴーサーラは別の章で詳述されるほど重要。
ゴーサーラによると
一切の生きとし生けるものが輪廻の生存を続けているが
それは無因無縁である。
生きものたちが清らかになり解脱するのも無因無縁。
かれらには支配力もなく、意志の力もなく、
ただ運命と状況と本性に支配されて、
いずれかの状態において苦楽を享受するのである。
意志にもとづく行為は成立しない。
840万の大劫の間に、
愚者も賢者もただ流転し輪廻しつづけ、苦の終わりに至る。
その期間のなかで修行で中途に解脱することは不可能。
ちょうど毛糸の球を投げると、
ほぐれながら糸球は糸の終わるまで転がっていく
(糸がなくなると転がるのをやめる)ように、
人は愚者であれ賢者であれ
定められた期間は流転しつづける、と主張。
ゴーサーラの教説は
生き物によってすべてのことは無因無縁であって、
運命的に定まっているという運命決定論であるとされている。
(マッカリ・ゴーサーラの宿命論
http://user.numazu-ct.ac.jp/%7Enozawa/b/gosala.htm
”マッカリ・ゴーサーラは、アージーヴィカ教の代表者である。
彼は、ジャイナ伝説によれば、シュラーヴァスティーにおいて、ジャイナ教のマハーヴィーラと激しい論戦の後、没したという。その年、マガダのアジャータシャトル王が、ヴァッジ族に戦争をしかけたが、この戦争は、ブッダの最後を物語る『マハーパリニッバーナ・スッタンタ』に準備中として出てくる。1)
これによれば、ゴーサーラとブッダは、わずか数年の違いで没したことになる。2) ちなみに仏滅年代には二説あり、前486年、あるいは前383年とされる。
彼の思想の特徴は厳格な宿命論にある。
その説によれば、一切万物は細部にいたるまで宇宙を支配する原理であるニヤティ(宿命)によって定められている。輪廻するもののあり方は宿命的に定まっており、6種類の生涯を順にたどって浄められ、解脱にいたる。転がされた糸玉がすっかり解け終るまで転がっていくように、霊魂は転生する。それまで8,400,000劫(カルパ)もの長い間3) 、賢者も愚者もともに輪廻しつづけるという。
行為には、運命を変える力がない。行為に善悪はなく、その報いもないと考える。当時、支配的な思想であった「業」の思想を否定する。
運命がすべてを決定しているという主張を構成する論理は、およそ次のようなものである。
人が同じことをしても結果が異なることがある。行為以外の何かが結果を決定している。
神はそれではない。神では結果の多様さ、特に不幸が説明できない。
それは、(ローカーヤタ派が説く)自然の本性(スヴァバーヴァ)ではない。(仏教などが説く)行為の結果(カルマ)ではない。それは、宿命(ニヤティ)である。宿命と一致するとき、人は成功する。宿命のみが人の幸福と不幸を説明する。4)
「アージーヴィカ」とは、「命ある (jῑvika)限り(ā)( 誓いを守る)」という意味で、5)出家者には苦行と放浪が義務とされ、多くが宿命を読む占星術師や占い師として活躍したという。
宿命を説く一方で、苦行を義務づけるのは、一見したところ矛盾のようであるが、
アージーヴィカにとって、解脱は「転がされた糸玉がすっかり解け終る」ことに喩えられるように、こころとことばとからだによるすべての行為が消滅することであり、それは、6ヶ月にわたって飲食を減らしていき最後は何も飲食せず死(最終解脱)に至るスッダーパーナヤ(清浄なものを飲む)と呼ばれる苦行において実現されると考えていたからである。6)
アージーヴィカ教はマウリヤ朝のアショーカ王とその後継者ダシャラタ王の時代に保護され、大きな勢力を誇った。
アショーカ王の碑文(第7 Delhi-Topra碑文)に仏教(サンガ)、バラモン教、ジャイナ教(ニルグランタ)と並んで この派の名アージーヴィカが出る。7) 当時、栄えていたことを推定させる。その後、衰えながらも、南インドのマイソールなどには存続し、14世紀までは続いたといわれる。
…
注
1)DN No.16 PTS vol.2, p.72.中村元訳「偉大な死」『仏典I』世界古典文学全集、筑摩書房、1966年、p.43
2)Basham, A.L., History and Doctrines of THE ĀJĪVIKAS, p.74.
3)カルパ(劫)という時間の長さについては、定方晟『須弥山と極楽』講談社現代文庫、1973年、p.100.参照。1辺1ヨージャナの大きな岩を百年に一度、天女の衣でなでて、岩が擦り切れてなくなるまでの時間などとされる。
1ヨージャナは、古代インドの距離の単位で、牛車を引く牛が次の牛と交代するまでに進む距離とされる。1ヨージャナの換算については、2.5マイル、4ないし5マイル、9マイルなどさまざまな説がある。Monier williams, Sanskrit-English Dictionary, yojanaの項参照。
4)Basham, History and Doctrines of THE ĀJĪVIKAS, pp.230f. ちなみに、仏教のアビダルマでは、カルマが世界の多様性を生み出すとされる。Abhidharmakośa, ed. by P. Pradhan, Patna 1967, IV.1a, p.192: karmajaṃ loka-vaicitryam.”)
4 アジタ・ケーサカムバリン(唯物論、快楽主義)
アジタ・ケーサカムバリンによると
存在を構成するのは地水火風の四元素で四元素以外にはない。
人は死ねば構成していた四元素はそれぞれの本来の元素の場に戻っていくのであり
人間そのものは死と共に無に帰す。
屍が焼かれると後には鳩色の骨が残り
供物は灰となるのみ。
死後の霊魂は存在せず、したがって来世も前世も存在しない。
善業による善果も存在せず、
悪業による悪果も存在しない。
布施も祭祀も供犠も無意味、と説いた。
哲学的には唯物論。
道徳を否定し、現世の享楽を説くので快楽主義に分類される。
アジタ・ケーサカムバリンの主張はインドでは一般に
ローカーヤタ(順世派)と呼ばれ、
チャールヴァーカ派に同様の説が見られるが、
アジタ・ケーサカムバリンのは一番最初の先駆的なものだといえる。
(当然アートマンも否定。
アジタ・ケーサカンバリンの唯物論
http://user.numazu-ct.ac.jp/%7Enozawa/b/ajita.htm
”アジタ・ケーサカンバリンの「ケーサカンバリン」は「髪の毛で作った衣を着る者」の意味である。
アジタは、教団を開いたが、それは、古代ギリシアにおけるエピクロス派の教団のような、
素朴な人生の喜びをともに分かち合う共同体のようなものであったと推測される。この教団は後にチャールヴァーカとかローカーヤタと呼ばれるようになる。
彼は唯物論を説き、業・輪廻の思想を否定した。
善悪の行為の報いはなく、死後の生れ変りもない。
人間は地水火風の四要素からなるもので、
死ねば、四要素に帰り消滅する。死後存続することはない。
布施に功徳があるとは愚者の考えたことであるとする。
「人は(地水火風の)四要素からなる。
人が死ぬと、地は地、水は水、火は火、風は風に戻り
感覚は虚空の中に消える。
四人の男が棺を担いで死体を運び
死者の噂話をして火葬場にいたり
そこで焼かれて、骨は鳩の羽根の色になり
灰となって葬式は終わる。
乞食(こつじき)の行を説くものは愚か者。
(物質以外の)存在を信ずる人は空しい無意味なことをいう。
からだは、死ねば、愚者も賢者もおなじように消滅する。
死後、生きのびることはない。」(『沙門果経』§22-24.『バラモン教典・原始仏典』世界の名著1、p.512.)
だから、宗教的な行為は無意味で、
この世での生を最大限利用して楽しみ、そこから幸福を得るべきだという。
「生きているかぎり、人は幸せに生き、ギー(溶けたバター)を飲むべきだ。
たとえ借金をしてでも。
というのは、からだが灰になるとき、何がこの世に戻れよう。(何もないからだ)」1)
しかし、楽しみには悲しみがつきまとう。
それを恐れて喜びから退いてはいけない。時には訪れる悲しみも喜んで受け入れよと説く。
「人は、悲しみがともなうことを恐れて、喜びから退いてはいけない。
この世での喜びのためには、たまに訪れる悲しみも喜んで受け入れよ。
魚をもらうとき、骨がついてくるように。
米をもらうとき、籾殻がついてくるように。」2)
この思想は宗教や道徳の根本を破壊するものと恐れられ、他のインド思想諸派から激しく攻撃された。
それにもかかわらず、この派が栄えた時代もあったことは否定できない。
マウリヤ朝のチャンドラグプタの大臣カウティリヤの作と伝説される『実利論』第1巻第2章は
「哲学は、サーンキヤとヨーガと順世派(ローカーヤタ)とである」とする。3)
この書の成立年代は明確でなく、紀元前3世紀から紀元後4世紀までの間とされるが、
1世紀の後半から2世紀の前半に明確な形をとったと考えられるヴァイシェーシカ学派の名があげられていないことから推定すれば、ヴァイシェーシカ学派に先立つ紀元後1世紀までに、ローカーヤタ派が栄えていた時代があったのであろう。
この派の文献で、現在まで伝わるものは極めて少ないが、8世紀ころの成立とされるジャヤラーシの『タットヴァ・ウパプラバ・シンハ』(「真理」を破壊するライオン)は現存する。
『タットヴァ・ウパプラバ・シンハ』は、
自然の運行に「自然」(スヴァバーヴァ)そのもの以外の原因を認めず、
知覚(感覚)だけを唯一の知の源泉として、推論に基づく<確実な知>の存在を徹底的に疑う懐疑主義の立場をとって、
当時の主要な哲学・宗教諸派が立てる形而上学的な原理に対し、鋭い批判をあびせるものである。”)
5 サンジャヤ・ベーラッティプッタ(懐疑論、不可知論)
サンジャヤ・ベーラッティプッタは
「来世が存在するか?」と問われたとき次のように答える。
「もしもわたしが
『来世は存在する』と考えたのであるならば
『来世は存在する』とあなたに答えるであろう。
しかしわたしはそうだとは考えない。
そうらしいとも考えない。
それと異なるとも考えない。
そうではないとも考えない。
そうではないのではないとも考えない。」と。
同様にサンジャヤ・ベーラッティプッタは善悪の業の果報について
天や地獄の存在者の有無について
修行完成者の死後の有無について
質問されるとことさら意味の把握されない、
困難であいまいな返答しか与えなかったという。
サンジャヤ・ベーラッティプッタの立場は
「鰻のようにぬらぬらして捕らえどころのない議論」と呼ばれた。
確定的な知識を与えない点で
一種の不可知論(アジュニャーナ・ヴァーダ)とも呼ばれた。
詭弁論とも懐疑論とも呼ばれている。
懐疑論は単なる疑いに終始すると懐疑論に潜む本質的な矛盾から脱することは困難であるが
サンジャヤの場合
形而上学的な難問に踏み込むことの意義に疑問を投げかける判断中止(エポケー)の態度を
インド思想史上、最初に表明していると評価されている。
とくに、形而上学的な難問に踏み込むことの意義に疑問を投げかけるという点で
ゴータマ・ブッダはサンジャヤと同様に無記の態度を表明。
ブッダの二大弟子サーリプッタ(舎利弗)と
モッガラーナ(目連)は初めはこの懐疑論者サンジャヤの弟子だったと伝えられていることも
あわせて注目すべき。
(サンジャヤの不可知論
http://user.numazu-ct.ac.jp/%7Enozawa/b/sanjaya.htm
”サンジャヤは、あらゆる問いに対して確答を避ける「不可知論」の立場をとった。
次のように答えることを習わしとしていたという。
「もし、あなたがあの世はあるかとたずね、
自分があの世は、あると考えたなら、あの世は、あると答えるであろう。
しかし、私はそうしない。
そうとは考えない。
それとは異なるとも考えない。
そうではないとも考えない。
そうではないのではないとも考えない。」
このような彼の論法は、「うなぎ論法」といわれ、仏教の「無記」の考え方に影響を及ぼしたと考えられる。
ブッダの二大弟子サーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目連)は、はじめサンジャヤの弟子であったと伝えられている。
また、この思想は、ジャイナ教のスヤード・ヴァーダと似ている。
不可知論的な傾向は、ブッダ時代に濃厚にみられるが、
このような思想風土が、自己と他者の思想の白黒をはっきりさせないで両立させる文化多元主義の基盤になっている。 ”)
6 ニガンタ・ナータプッタ(マハーヴィーラのジャイナ教、霊魂論と苦行主義)
釈迦の活躍したのとほぼ同じ頃、
同じ地方に興起した。
動物を犠牲にするバラモン教の供犠や祭祀に反対。
当時絶対的と思われていたヴェーダの権威を否定。
宇宙は限りがあるかないか、
あの世は存在するかという形而上学的問題に
沈黙を守り無記の態度をとったブッダや、
懐疑論、不可知論の立場を主張したサンジャヤなどと同様に、
マハーヴィーラは
真理は多様に言い表すことができるとし、
あらゆる事柄について、
一方的に判断することを避け、
物事を相対的に考察せよと説いた。
相対主義はアネーカーンタ・ヴァーダ(多面的見解)と呼ばれる。
断定を避け、
常に『ある点からすると』(スヤート)こういえると言い、
全てのものは多数の見方ができると主張。
(賢者の思考法=多様な視点自体を教義にしている)
六師外道のうち
アージーヴィカ教の当時の代表的人物であった、
運命決定論、無因無縁論のマッカリ・ゴーサーラは
ジャイナ教とも関係が深い。
マッカリ・ゴーサーラの生涯の詳細は不明だが
仏教、ジャイナ教、アージーヴィカ教の三つが有力な宗教として
互いに勢力を競っていた紀元前五世紀ころと考えられる。
牛小屋=ゴーサーラ。
ジャイナ教の聖典『バガヴァイー』によると
ゴーサーラははじめジャイナ教のマハーヴィーラの弟子となって
六年間修業を共にしたが、
ゴーサーラがその時々に行った種々のできごとが伝えられている。
そのまま事実とはいえないが、ある真実に基づいた伝承が含まれていることは確実であろう。
ゴーサーラの所説は詳しく仏教の『沙門果経』に伝えられている。
「生ける者たちには煩悩の汚れがあるが、
それらには因(原因)もなく、
縁(二次的原因)もない。
生ける者たちは、因も縁もなくして煩悩に汚されている。
また生ける者たちが清められるのには、
因もなく、縁もない。
生ける者たちは、因も縁もなくして清まるのである。
自分が作りだすということもなく、
他の者が作りだすということもなく、
人が作りだすということもない。
力は存在しないし、
意志的行動は存在しないし、
人間の勢力は存在しないし、
人間の努力は存在しない。
すべての生ける者たち、
すべての生気ある者たち、
すべての存在する者たち、
すべての生命ある者たちは、
みずから支配することもなく、
力もなく、
活力もなく、
宿命(ニヤティ)と出会い(サンガティ)と
生来の資質(バーヴァ)に影響支配されて
生存の六種類の生まれ(アビジャーティ)のうちのいずれかにおいて、
苦楽を感受するのである。
八百四十万の大劫があり、この期間には、
愚者も賢者も流転し輪廻して、
ついに苦しみを終滅するにいたるであろう。
この期間には、
『わたしはこの戒行によって、
また誓戒によって、
あるいは苦行によって、
あるいは清浄行によって、
いまだ果報の熟していない業を完全に熟させよう。
あるいは、すでに果報の熟した業をくり返しその報いに触れながら、
順次にその果報を消滅することにしよう』ということはおこることはない。
こういうわけで、輪廻は苦楽が、
いわば桝によって量り定められたものとして終滅に達することはないのである。
またそれの盛衰もなく、増減もない。
あたかも、糸毬が投げられると、糸の終わりまで、
ついには解け終わるように、愚者も賢者も、
流転し輪廻して、ついに未来に苦しみを終滅するのである。
(『沙門果経』20-21.vol.Ⅰ,pp.53-55)
修行で中途に解脱することは不可能で
定められた期間は流転し続けるという無因無縁論にして運命決定論。
煩悩に汚れるのも清浄になるのも
原因があるのではなく
自然の定め(ニヤティ)によってそうなる。
物事に原因を認めないから、無因論者と呼ばれる。
すべては自然的に定まっているから人間の努力的行為は意味が無い。
どのような悪い行為、善い行為をしようともそれで運命が変わることはない。
苦から逃れようと努力しても無駄。
苦は定まった輪廻が終わったときにおのずと滅する。
運命を変えようとする人間の行為が無駄であることを主張するから
無行為論者でもある。
(もしかしてこの行為ってカルマ?)
これは人類の思想の中で特異な
万人平等解脱を認めていることとなっている。
解脱は賢者も愚者もなくやってくる。
論理的に考えるとすべてが自然の定めであるから、
苦行によって輪廻から脱しようとする人間の努力も無意味となるはずであるが
文献の伝えるところによれば
ゴーサーラの一派、アージーヴィカの徒たちは苦行をしていたという。
仏教の『マハーサッチャカ・スッタ』は
ゴーサーラの先駆者であるナンダ・ヴァッチャと
キサ・サンキッチャと
ゴーサーラたちが行う「行」について次のように伝えている。
「かれらはじつに裸形であり、
〔座して食することなど〕世間の習慣を捨てていて、
〔立ったままで食し〕、
食後には指を食べて清め、
〔行乞の際に施食を受けるために〕近づくことと、
暫時待つことを乞われても、それに従わず、
〔行乞に出る前に庵室に〕持ってこられた施食を受けず、
とくにかれみずからのために料理された食物を受けず、
食事に招かれても応じない。
かれらは〔食物を料理した〕鍋釜などから直接に食物を受けず、
敷居よりも内部・杖の間・棒の間に置かれた食物を受けず、
二人を食事をしているときにそのうちの一人の提供する食物を受けず、
妊娠している女・
授乳している女・
男と交わっている女からは食物を受けず、
旱魃時には信徒が集めてくれた食物を受けず、
犬が近くにいるところでは食物を受けず。
ハエが群がっているところでは食物を受けず、
魚・肉・種々なる酒を受けず、
粥を飲まない。
かれは一見の家で食物を得て〔すぐに托鉢から帰ってしまう〕
『一口食う者』である。
あるいは二軒の家で食物を得て、二口食う者である。
あるいは七軒の家で食物を得て、七口食う者である。
一つの小椀の食物のみによって暮らし
あるいは二つの小椀の食物によって暮らし、
あるいは七つの小椀の食物のみによって暮らす。
このようにして半月にいたるあいだでも〔中止期間をおいて〕
順次の規定に従って食物を得ることに専念している。
またあるときにはきわめて美味なる食物を食し
きわめて壮麗な臥床に臥し、
きわめて美味なる飲料を飲む。
かれらはこのようにして身体を力づけ、
力を増させ、肥らせる」
(『中部経典』vol.Ⅰ,pp.237-238)
最後の一文は修行としては奇妙であるが
中村元博士は、恐らく苦行のみには耐えられず、
時々楽な生活をしてまた苦行に戻るのであろうと、推測している。
驚くべきことに
ここに描写される修行内容は現在のジャイナ教空衣(派は略す)の文献に相当する個所を見つけることができる。
アージーヴィカ教とジャイナ教の関係は相当近いものと考えられる。
(ジャイナ教の、特に裸形派への影響が強い。
立ったまま食べるとか、
布施は偶然余ったものを偶然通りがかることで得られるべきとかは本記事にある)
アージーヴィカ教では苦行は無意味なのになぜ苦行をなしていたのか。
この点は不明であるがバシャム博士は
おそらくアージーヴィカたちが苦行者であるのも
自然の定めがそうさせているからであると考えたのであろう、と推察している。
(カルマ論を否定しているのがすごい。でも輪廻は否定しない。
インド圏では輪廻は思想ではなく事実だという認識だからね。
無因無縁論と運命決定論は
悪行に歯止めをかけるどころか加速させるので広まるとまずいのでは?
苦行したくなって実践するのも運命だと言っていた?
苦行しても無意味だということを苦行をして示した?
でも苦行しても解脱できないことをどうやって第三者が確認できる?
仮に「ほらこんなに苦行しても解脱できないでしょ?」って言っても
「あなたが修行に失敗しただけでしょ」と言われそう。
苦行が無意味だから解脱できないと、
苦行という修行に失敗したから解脱できないを区別できるの?
苦行で尊敬を集めて生活のための布施を得ていたのかも。
なにやりたいと思ってもそれがあらかじめ決まっているなら何やってもいいじゃん
→やりたいことをやろう→苦行がやりたい
なのかも。
教義の中核が一部抜けていて意味不明になっているのかも)
アージーヴィカ教を率いるゴーサーラは
ヴェーダの権威を否定する当時のサマナ(自由思想家)のなかでも
最も有力な人物の一人であり
恐らくはマハーヴィーラやブッダと同等以上の扱いを受けていたであろう。
現在アージーヴィカ教の聖典は隠滅して直接検討できない。
マハーヴィーラとゴーサーラが六年ともに修行したことからもわかるように
両者は密接。
ブッダとデーヴァダッタの関係にも比べられよう。
仏教の中に釈迦牟尼仏を供養しないデーヴァダッタの徒がいたというように、
両者は正統と異端の関係にあったとも考えられる。
白衣の第五アンガ『ヴィヤーハパンナッティ』第十五章などによれば
ゴーサーラは絵解きの遊行者であった。
キャンバスに描かれた絵を見せながら
その絵に描かれた物語を歌にして
人々に聞かせながら、
村から村へ遊行しながら生活の糧を得ていた。
教義を聞かせるために違いないが
語りが娯楽であり
新しい知識や外の世界の情報の源泉でもあったであろう。
(インド版吟遊詩人だ)
絵解き遊行は現代インドでも存在していることが報告されている。
日本にも古くから仏教の絵解き説法師がいて
民衆教化に大きな役割を演じた。
平等解脱思想はブッダやマハーヴィーラから激しく攻撃されたが
日本の浄土系絵解き説法師の極楽往生まちがいなしとの救済を請け負うがごとき
断言の口調に似て
アージーヴィカ教の信者の多かったと目される民衆、
カースト下層の人々にとっては大変な福音となり
救済思想となって受け入れられたであろう。
(たしかに浄土教に似ている。
アージーヴィカ教
「輪廻の期間は決まっているから修行で期間短縮できないよ。
修行できなくても全員解脱する運命だからみんな救われるよ」
を釈迦は否定したのに
修行できなくても救われるのが浄土教(一応釈迦系思想)と共通で
真宗視点の悪人も救われるとしたのが面白い)
マンカリプッタの言葉として、
(この章の名前がマッカリ・ゴーサーラなので
ゴーサーラ・マンカリプッタはジャイナ教での呼び名だろう)
ジャイナ教の伝える『聖仙の語録』に
「じつにターティ(模範となる人、仏教の如来に相当)は
四方にわたる輪廻の荒野から、
自分も他人も救い出す、というので救済者(トラーイン)と呼ばれる。」
とある。
” ※着色は引用者
オススメ動画シリーズを紹介する。
【ゆっくり解説】3分でわかるアージーヴィカ教
https://www.nicovideo.jp/watch/sm36242813
(コメント抜粋
”結果的に商工業や金融など、比較的蔑視されやすい人らに支持されそう”
”決まってるからこそ頑張って生きるんやで”
”当時の東洋哲学はほんと、20世紀に西洋で流行る哲学の先取り”
)
p69から
〔アジタ・ケーサカンバラの説〕
二二、「ここにまた、尊師よ、あるときわたしは、アジタ・ケーサカンバラのところに訪ねて行きました。訪ねて行って、アジタ・ケーサカンバラとたがいに挨拶をし、喜ばしい印象に残るようなことばを交わしてから、一方の場所に坐りました。一方の場所に坐ったわたしは、尊師よ、アジタ・ケーサカンバラに次のようにいいました。
『君、アジタよ、〔世間には〕さまざまな技能職業があります。たとえば、象に乗る者、馬に乗る者、車に乗るもの、弓の射手、旗手、軍司令官〔中略〕またこのほかにもこれに類するさまざまな技能職種の者――かれらはこの世において、目に見える技能の報酬によって生活しています。かれらはそれによって、自分自身を安楽にし満足させ、母と父とを安楽にし満足させ、子供と妻とを安楽にし満足させ、友人知人を安楽にし満足させ、〔そしてまた〕沙門やバラモンに対しては、天界に生まれ天界の安楽なる果報をもたらす立派な布施をきちんと行ないます。そこで、君、アジタよ、ちょうどそのように、この世において、目に見えるかたちで『修行の成果』を示すことがおできになりますか』と。
二三、尊師よ、このようにいわれて、アジタ・ケーサカンバラはわたしに次のように答えました。
『大王よ、布施(71)というものはありません、供犠というものはありません、供養というものはありません、善行・悪行の果報、報いはありません。この世はなく(72)、あの世もありません(73)。母はいないし、父もいません。化生の生き物たち(74)はいません。この世には、正しく〔最高の境地に〕到達し、正しく〔道を〕実践し、この世とあの世とを自ら覚知し、目の前に見えて解き明かすという沙門やバラモンたちはいません。〔ただ〕この人間とは、四大元素から成り、死んだときには、〔そのうちの〕地〔の元素〕は地の本体に帰元し、水〔の元素〕は水の本体に帰元し、火〔の元素〕は火の本体に帰元し、風〔の元素〕は風の本体に帰元します。もろもろの、感覚器官は虚空に転移します。棺を第五番目とする〔四人の〕人間は死者を運んで行き(75)、火葬場に着くまで、〔死者に関して〕いろいろなことをことば(76)で知らしめるが〔その後、焼かれた〕骨は鳩色になり、供物は灰となります。この布施〔の功徳〕というものは、愚者の考え出したものです。たとえ、誰かが〔四元素以外の〕実在論を唱えたとしても、それは虚偽虚妄の戯論(けろん)です。愚者も賢者も、〔自身の〕肉体の消滅によって、絶滅し滅亡し、死後には存在しません』と。
二四、尊師よ、このようにアジタ・ケーサカンバラは、わたしに目に見える修行の成果について問われているのに、『断滅論』(77)を説きました。尊師よ、それはちょうど、マンゴーについて問われたのに、ラブジャの木のことを[56] 説明し、あるいはラブジャについて問われたのに、マンゴーのことを説明するようなものです。尊師よ、アジタ・ケーサカンバラは、このように目に見える修行の成果について問われているのに、断滅論を説明したのです。尊師よ、〔しかし〕そこでわたしはこのように考えました。『どうしてわたしごとき者が、領内に住んでいる沙門やバラモンを非難しようなどと考えてよいであろうか』と。尊師よ、そこでわたしは、アジタ・ケーサカンバラの言説を称賛もせず非難もせず、内心不満ではありましたが、不満のことばを出さず、かれのことばを聞き流すだけで、傾倒することはしないまま、座を立って退出しました」
(70)アジタ・ケーサカンバラ
底本では、この箇所以降、Ajita Kesakambalinとなっているが、前出に従って、ケーサカンバラと改め統一する。
(71)布施というものはない 布施には果報はないという意味。供犠・供養についても同様である。
(72)この世はなく あの世にとどまる者にはこの世はないという意味。
(73)あの世もない この世にとどまる者にとってはあの世はないという意味。
(74)化生の生き物 両親が存在せず自然発生的に生まれるように見える生物。
(75)棺を第五番目とする〔四人の〕人間
棺と棺の台の四本の脚をもって立つ四人の人間という意味。
(76)ことば pada
かれはこのように持戒者であった、このように破戒者であったなどというやり方で始められる功徳・非功徳のことば。
(
アジタの唯物論
https://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/ajita.htm
”3. アジタ・ケーサカンバリンの唯物論
アジタ・ケーサカンバリンの「ケーサカンバリン」は「髪の毛で作った衣を着る者」の意味である。アジタは、教団を開いたが、それは、古代ギリシアにおけるエピクロス派の教団のような、素朴な人生の喜びをともに分かち合う共同体のようなものであったと推測される。この教団は後にチャールヴァーカとかローカーヤタと呼ばれるようになる。
彼は唯物論を説き、業・輪廻の思想を否定した。善悪の行為の報いはなく、死後の生れ変りもない。人間は地水火風の四要素からなるもので、死ねば、四要素に帰り消滅する。死後存続することはない。布施に功徳があるとは愚者の考えたことであるとする。
「人は(地水火風の)四要素からなる。
人が死ぬと、地は地、水は水、火は火、風は風に戻り
感覚は虚空の中に消える。
四人の男が棺を担いで死体を運び
死者の噂話をして火葬場にいたり
そこで焼かれて、骨は鳩の羽根の色になり
灰となって葬式は終わる。
乞食(こつじき)の行を説くものは愚か者。
(物質以外の)存在を信ずる人は空しい無意味なことをいう。
からだは、死ねば、愚者も賢者もおなじように消滅する。
死後、生きのびることはない。」(『沙門果経』§22-24.『バラモン教典・原始仏典』世界の名著1、p.512.)
だから、宗教的な行為は無意味で、この世での生を最大限利用して楽しみ、そこから幸福を得るべきだという。
「生きているかぎり、人は幸せに生き、ギー(溶けたバター)を飲むべきだ。
たとえ借金をしてでも。
というのは、からだが灰になるとき、何がこの世に戻れよう。(何もないからだ)」1)
しかし、楽しみには悲しみがつきまとう。それを恐れて喜びから退いてはいけない。時には訪れる悲しみも喜んで受け入れよと説く。
「人は、悲しみがともなうことを恐れて、喜びから退いてはいけない。
この世での喜びのためには、たまに訪れる悲しみも喜んで受け入れよ。
魚をもらうとき、骨がついてくるように。
米をもらうとき、籾殻がついてくるように。」2)
この思想は宗教や道徳の根本を破壊するものと恐れられ、他のインド思想諸派から激しく攻撃された。それにもかかわらず、この派が栄えた時代もあったことは否定できない。マウリヤ朝のチャンドラグプタの大臣カウティリヤの作と伝説される『実利論』第1巻第2章は「哲学は、サーンキヤとヨーガと順世派(ローカーヤタ)とである」とする。3)
この書の成立年代は明確でなく、紀元前3世紀から紀元後4世紀までの間とされるが、1世紀の後半から2世紀の前半に明確な形をとったと考えられるヴァイシェーシカ学派の名があげられていないことから推定すれば、ヴァイシェーシカ学派に先立つ紀元後1世紀までに、ローカーヤタ派が栄えていた時代があったのであろう。
この派の文献で、現在まで伝わるものは極めて少ないが、8世紀ころの成立とされるジャヤラーシの『タットヴァ・ウパプラバ・シンハ』(「真理」を破壊するライオン)は現存する。
『タットヴァ・ウパプラバ・シンハ』は、自然の運行に「自然」(スヴァバーヴァ)そのもの以外の原因を認めず、知覚(感覚)だけを唯一の知の源泉として、推論に基づく<確実な知>の存在を徹底的に疑う懐疑主義の立場をとって、当時の主要な哲学・宗教諸派が立てる形而上学的な原理に対し、鋭い批判をあびせるものである。
【次へ】【目次へ】
1) 中村元『インドの哲学体系 I』(マーダヴァ『全哲学綱要』)1994年、p.31
2) 中村元『インドの哲学体系 I』(マーダヴァ『全哲学綱要』)p.20.
3) 上村勝彦『実利論』岩波文庫、上、1984年、p.28.”
)
p.70から
〔パクダ・カッチャーヤナの説〕
二五、「ここにまた、尊師よ、あるときわたしは、パクダ・カッチャーヤナのところに訪ねて行きました。訪ねて行って、パクダ・カッチャーヤナとたがいに挨拶をし、喜ばしい印象に残るようなことばを交わしてから、一方の場所に坐りました。一方の場所に坐ったわたしは、尊師よ、パクダ・カッチャーヤナに次のようにいいました。
『君、カッチャーヤナよ、〔世間には〕さまざまな技能職業があります。たとえば、象に乗る者、馬に乗る者、車に乗るもの、弓の射手、旗手、軍司令官〔中略〕またほかにもこれに類するさまざまな技能職種の者――かれらはこの世において、目に見える技能の報酬によって生活しています。かれらはそれによって、自分自身を安楽にし満足させ、母と父とを安楽にし満足させ、子供と妻とを安楽にし満足させ、友人知人を安楽にし満足させ、〔そしてまた〕沙門やバラモンに対しては、天界に生まれ天界の安楽なる果報をもたらす立派な布施をきちんと行ないます。そこで、君、カッチャーヤナよ、ちょうどそのように、この世において、目に見えるかたちで〈修行の成果〉を示すことがおできになりますか』と。
二六、尊師よ、このようにいわれて、パクダ・カッチャーヤナはわたしに次のように答えました。
『大王よ、これら七種の要素は、作られたものではなく、作らせられたものではなく(78)、創造されたものではなく(79)、創造するものではなく、何物をも産み出さず、山頂のように不動で、石柱のように直立しています。それらは、動ぜず、変化せず、相互に他を害することなく、相互に他を楽とし苦とし、楽苦とすることはありません。その七種とはなんでしょうか。地の要素、水の要素、火の要素、風の要素、楽、苦、〔そして〕第七として霊魂です。これら七種の要素は、作られたものではなく、作らせられたものではなく、創造されたものではなく、創造するものではなく、何物も産み出さず、山頂のように不動で、石柱のように直立しています。それらは、動ぜず、変化せず、相互に他を害することなく、相互に他を楽とし苦とし楽苦とすることはありません。そこには、殺害する者も、殺害させる者も、聞く者も、聞かせる者も、知る者も、知らせる者もいません。たとえ鋭利な刀で頭を断ち切っても、誰かが誰かの生命を奪うことにはなりません。ただ七種の要素〔と要素〕の間隙を、刃による切れ目が落ちていくにすぎないのです』と。
[57] 二七、尊師よ、このようにパクダ・カッチャーヤナ、わたしに目に見える修行の成果について問われているのに、別の観点から違うことを説きました。尊師よ、それはちょうど、マンゴーについて問われたのに、ラブジャの木のことを説明したり、ラブジャについて問われたのに、マンゴーのことを説明するようなものです。尊師よ、パクダ・カッチャーヤナは、このようにわたしに目に見える修行の成果について問われているのに、別の観点から違うことを説明したのです。〔しかし〕そこでわたしは、このように考えました。『どうしてわたしごとき者が、領内に住んでいる沙門やバラモンを非難しようなどと考えてよいであろうか』と。尊師よ、そこでわたしは、パクダ・カッチャーヤナの言説を称賛もせず非難もせず、内心不満ではありましたが、不満のことばを出さず、かれのことばを聞き流すだけで、傾倒することはしないまま、座を立って退出しました」
p.601から
註
(78)作らせられたものではなく
「あなたはこのように作りなさい」と誰かの〔命令〕により〔それを〕作る者もいない、という意味である。
(
創造主の否定じゃん)
(79)創造されたものではなく
神通(iddhi)によっても創造されたものではない。
(
死体の首を斬るのと、生きている人の首を斬るのは違う(構成要素の状態や挙動が違うことで価値が生じる)とか、
粘土を斬るのと、粘土で作った人形を斬るのとは違う(構成要素と構成要素の集まりでできた何かは異なる)などと反論されたのだろうな。切断で生じる現象の意味は構成要素に注目した場合は確かにカッチャーヤナの言う通りだが、別の観点もあるからね。
それを認めない宗教なのだろうけど。
科学的な現象の説明からは倫理・道徳は出て来ないことがわかる教えだな〔原子論なのでここでは「科学」という単語を用いた〕。
「じゃあ今からお前の首を斬るけどいいよね?」って言われたらどう対応したのだろうな。
古代ギリシャ哲学の原子論に影響を与えたのだろうな。エピクロスは前342(341)-271(270)の哲学者。カッチャーヤナよりも後だ。
パクダ・カッチャーヤナとは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E3%83%91%E3%82%AF%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%A4%E3%83%8A-113750
”
パクダ・カッチャーヤナ
Pakudha Kaccāyana
前6~5世紀頃のインドの思想家。原始仏教経典のなかで紹介されている六師外道の一人。人間は7つの集合要素 (地,水,火,風,苦,楽,生命) から構成されており,これらの7要素は不変であり,生命を奪うということはありえないとした。だから彼は人を殺してもその人の生命を奪ったことにはならないと考えた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
百科事典マイペディア「パクダ・カッチャーヤナ」の解説
パクダ・カッチャーヤナ
前6―前5世紀のインドの自由思想家(六師外道)の一人。地水火風と苦・楽・生命の7要素のみの実在をいう唯物論を説いた。
→関連項目自由思想家
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて”
パクダ・カッチャーヤナの七要素説 – インド思想史略説
https://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/pakuda.htm
” パクダ・カッチャーヤナは七要素説を説いた。人間は七つの要素、すなわち地水火風楽苦と生命(あるいは霊魂)からなるもので、これらは作られたものではなく、何かを作るものでもない。不動、不変で互いに他を害することがない。殺すものも殺されるものもなく、学ぶものも教えるものもいない。たとえ、鋭利な剣で頭を断っても、誰も誰かの命を奪うわけではない。剣による裂け目は、ただ七つの要素の間隙にできるだけである。行為に善悪の価値はないとする。
さきのプーラナ・カッサパの教えと同じく、これも道徳破壊の思想とされるが、そうではない。人間の本質は霊魂にあると見て、霊魂は不動、不変なものなので、殺すことも害することもできないというのである。『バガヴァッド・ギーター』2.24の「彼は断たれず、焼かれず、濡らされず、乾かされない。彼は常住であり、遍在し、堅固であり、不動であり、永遠である。」という思想と同じものである。1)
【次へ】【目次へ】
注
1) 野沢正信「古代インドの宿命論アージーヴィカ教について」『印度哲学仏教学』第18号、2003年、pp.34-51.参照。”
https://twitter.com/kikuchi_8/status/1268584656070275073 と続き:
”
菊池
@kikuchi_8
裏権力の思想は大体「実体論」を基本とする。「常住不変の実体」という観念は「ワンワールド」とも相性がよい。思想工作員は「実体の否定」は「存在の否定」即ち「虚無」と決めつける。が、それは論理的におかしい。まずは「実体」とは「原因や条件によらず、それ自体で存在するもの」と定義出来る。
午前1:45 · 2020年6月5日·Twitter Web App
むしろ事物事象に「実体」を認める方が「虚無」になるというのが論理的帰結である。例えば、悪政に実体があるなら悪政を正す事は不可能である。悪政はそれなりの原因と条件によって成り立つ。悪政を正すとはそれらの原因と条件を変え、除く事である。悪政に実体がないからこそ悪政を正せるのである。
午前1:49 · 2020年6月5日·Twitter Web App
人間の心身に実体があるなら学んだり鍛えたりしても全く向上する事はない。実体は変化しないからである。また「善」に実体があるなら「それ自体」で存在するので人間の行為とは全く無関係なものとなる。努力も無意味。これこそ虚無でありニヒリズムである。このように実体論を突き詰めると虚無に陥る。
午前1:53 · 2020年6月5日·Twitter Web App
虚無論は実体論から出てきた。例えば、釈迦と同時代の「六師外道」と後に称された古代印度の非バラモン系哲学学派があった。その一人である「順世派」のアジタ・ケーサカンバリンは「地・水・火・風」という物質を実体視する唯物論を唱え、倫理道徳を否定し、ひたすら現世での快楽を追求せよと教えた。
午前2:12 · 2020年6月5日·Twitter Web App
パクダ・カッチャーヤナは「地・水・火・風」に「苦・楽・命」を加えた七要素を実体視する説を唱えた。七要素は独存する常住不変の実体で影響を与え合う事はなく人間の行為や努力は無意味とした。実在するのは七要素だけなので鋭利な剣で人を斬っても殺した事にならないというとんでもない主張をした。
午前2:19 · 2020年6月5日·Twitter Web App
七要素だけが常住不変に存在する実体なので人の行為や努力、倫理や道徳は無意味であり、例え鋭利な剣で人を斬っても七要素の間を通り抜けるだけであり人を殺す事にはならない、などというとんでもない主張である。虚無論とはこういう思想を言う。実体論からこそ虚無論が出てくる事が分かる事例である。
午前2:24 · 2020年6月5日·Twitter Web App
まだある。アージーヴィカ教のマッカリ・ゴーサーラは「霊魂・地・水・火・風・虚空・得・失・苦・楽・生・死」という12の実体を掲げ、「ニヤティ(宿命)」という実体論的な原理を設定した。全ては宿命なので人間の行為は無意味とする宿命論である。この思想も実体論が虚無論になる事を示す例である。
午前2:28 · 2020年6月5日·Twitter Web App
このように実体論を突き詰めると論理必然的に虚無に陥る。実体に執着する西洋の思想も然りである。もし虚無に陥ってないと思うのなら、それは思想の論理が不徹底だからである。実体論に立つ古代印度の思想家が虚無論に陥ったのは、彼らが西洋の思想家より論理的思考が優れていた証拠と言えるだろう。
午前2:34 · 2020年6月5日·Twitter Web App
実体論が虚無に繋がる事から見ても、プラトン以来の西洋哲学やその大衆版としての猶太教・基督教を「ニヒリズム」と断じたニーチェの洞察は妥当である。グノーシス主義も「霊魂」「物質」「光の神」等の実体を設定する実体論である以上虚無論である。虚無でないと思うなら論理の詰めが甘い証拠である。
午前2:39 · 2020年6月5日·Twitter Web App
西洋の実体論は印度の実体論に比べて論理が甘く不徹底である。例えば、常住不変の超越者が「創造」という変化を起こすとしたり、常住不変の一者が万物を「流出」又は光の如く放射したり、など。「不変なのに変化を起こす」が論理矛盾と気づいていない。その点、古代印度の哲学者の論理は一貫していた。
午前2:43 · 2020年6月5日·Twitter Web App
以前にやったグノーシス主義批判もこのような実体論の論理の分析を前提とする。霊魂(精神)と物質がそれぞれ実体ならパクダ・カッチャーヤナのように「相互に無関係」「不変なので修行や努力は無意味」としないとおかしい。自称グノ派にはそれが全く理解出来なかったようだ。
引用ツイート
菊池
@kikuchi_8
2018年6月30日
最近方々で「グノーシス」という言葉を目にする事が増えた気がするのでグノーシス主義について分析しておく。グノーシス主義は「認識論上の錯誤から生まれた形而上学」というのが吾人の分析である。人間の心の問題を物質の問題に転嫁したのである。物質に対する「欲」の問題を「物質が悪い」とした。
このスレッドを表示
午前2:50 · 2020年6月5日·Twitter Web App
実体論の論理を突き詰めると、アジタ・ケーサカンバリンのような快楽主義、パクダ・カッチャーヤナのような道徳否定論、マッカリ・ゴーサーラのような宿命論(決定論)になる。つまり実体論は虚無論に帰結する。逆に、事物事象に於ける実体の否定は道理・道義の意義を確立し、人の行為を成り立たせる。
午前2:55 · 2020年6月5日·Twitter Web App
「虚無」に執着する虚無論は「虚無」を実体視している。言い換えると「虚無」という「有」を立てて執着している訳である。人間の思考が持つ概念作用(対象化作用)によるもの。「虚無」という言葉がある以上は概念や表象としては「無」ではなく「有」である。「空」の概念も実体視すると同じ事になる。
午前3:00 · 2020年6月5日·Twitter Web App
自称グノは論理の詰めが甘すぎる。本家の古代グノ派ですら古代印度の哲学者に比べたら神話レベルの思考であり論理を突き詰めた哲学とは到底呼び難いと思う。実体論を徹底したらパクダ・カッチャーヤナのような恐ろしい結論になる。西洋の実体論は論ではなく現実に恐ろしい結果を招いた(異端審問等)。
午前3:06 · 2020年6月5日·Twitter Web App
パクダ・カッチャーヤナの道徳否定論と違い、西洋の実体論的思考は現実に厄災をもたらした。異端審問、魔女狩り、革命仏蘭西の暴虐等々。。「神」「理性」「物質」など何であれ実体観は執着の対象となり中正ならぬ行動を引き起こす傾向がある(唯識で「遍計所執性」、廣松哲学で「物象化的錯視」等々)
午前3:11 · 2020年6月5日·Twitter Web App
自称グノ一味が排他独善的なのは裏権力製の実体論の影響と言える。思想教義に異常に執着している。教会が教義に執着して異端審問や魔女狩りを行ったり、「理性」「最高存在」という実体観に執着するジャコバン派が反対派に血の粛清(666氏は「粛清」という言葉を使う)を敢行したのと同じ機制である。
午前3:20 · 2020年6月5日·Twitter Web App”
)
〔ニガンタ・ナータプッタの説〕
二八、「ここにまた、尊師よ、あるときわたしは、ニガンタ・ナータプッタのところに訪ねて行きました。訪ねて行って、ニガンタ・ナータプッタとたがいに挨拶をし、喜ばしい印象に残るようなことばを交わしてから、一方の場所に坐りました。一方の場所に坐ったわたしは、尊師よ、ニガンタ・ナータプッタに次のようにいいました。
『君、アッギ・ヴェッサナ(80)よ、〔世間には〕さまざまな技能職業があります。たとえば、象に乗る者、馬に乗る者、車に乗るもの、弓の射手、旗手、軍司令官〔中略〕またほかにもこれに類するさまざまな技能職種の者――かれらはこの世において、目に見える技能の報酬によって生活しています。かれらはそれによって、自分自身を安楽にし満足させ、母と父とを安楽にし満足させ、子供と妻とを安楽にし満足させ、友人知人を安楽にし満足させ、〔そしてまた〕沙門やバラモンに対しては、天界に生まれ天界の安楽なる果報をもたらす立派な布施をきちんと行ないます。そこで、君、アッギ・ヴェッサナよ、ちょうどそのように、この世において、目に見えるかたちで『修行の成果』を示すことがおできになりますか』と。
二九、尊師よ、このようにいわれて、ニガンタ・ナータプッタはわたしに次のように答えました。
『大王よ、この世において、ニガンタ(81)は四つ部分(原文ママ。「の」の脱字?)からなる防護によって守られているのです。大王よ、ニガンタはどのようにして四つの部分からなる防護について守られているのでしょうか。大王よ、この世において、ニガンタはすべての水を避け(82)、すべての水によって〔悪を〕制し、すべての水によって〔悪を〕除き、すべての水によって〔悪の制御を〕体得します。このように、大王よ、ニガンタは四つの部分からなる防護によって守られているのです。大王よ、このように、ニガンタは四つの部分からなる防護によって守られているので、大王よ、このニガンタは、自己の完成者、自己の制御者、自己の確立者と呼ばれるのです』と。
[58] 三〇、尊師よ、このようにニガンタ・ナータプッタは、わたしに目に見える修行の成果について問われているのに、四つの部分からなる防護のことを説きました。尊師よ、それはちょうど、マンゴーについて問われたのに、ラブジャの木のことを説明し、あるいはラブジャについて問われたのに、マンゴーのことを説明するようなものです。尊師よ、ニガンタ・ナータプッタは、わたしに目に見える修行の成果について問われているのに、四つの部分からなる防護のことを説明したのです。〔しかし〕そこでわたしはこのように考えました。『どうしてわたしごとき者が、領内に住んでいる沙門やバラモンを非難しようなどと考えてよいであろうか』と。尊師よ、そこでわたしは、ニガンタ・ナータプッタの言説を称賛もせず非難もせず、内心不満ではありましたが、不満のことばを出さず、かれのことばを聞き流すだけで、傾倒することはしないまま、座を立って退出しました」
p.601
註
(82)すべての水を避け
すべての冷水を拒絶しているという意。かれは冷水に対して生けるものと見る考えの持ち主であるから、これを用いないのである。
(
六師外道の列挙については、ほとんど共通の箇所があるのだが、「ほとんど」つまりわずかに違いがある箇所があるので結局確認しないといけない。なのでコピペしても時間短縮にあまりならないな。
この箇所はジャイナ教の中核思想ではないのだがこの教義だけで終わっていいのか?
中核って解脱の方法なのでは? 上記に、中核思想であるジーヴァも業も出てこない。
【2023年5月12日に追加:
『ジャイナ教聖典選』によると、
訳注
p.462
(160)
出家者が生涯にわたり冷水、つまり生命体を含む危険性のある生水を飲まないことは戒律上必須であり、出家後の事績として特記する必然性はない。
p.226から
第三章 低劣な行ない(14)
三・一
自己が自制においてよく確立し、〔諸々の結びつきから〕解き離れた聖人のニッガンタたちや大仙たちにとって、以下は禁止行為である。
三・二(15)
①〔特定の修行者のために〕指定された食事、②〔修行者のためにあらかじめ〕買ってきて作られた食事、③〔特定の在家者からの〕常態化した食事(16)、④持って来られた食事〔を受け取ること〕、⑤夜食、⑥沐浴、⑦香、⑧花輪、⑨扇子(17)、
三・三(18)
蓄えること(19)、在家者の食器〔を用いること(20)〕、王が〔望みを〕尋ねて与える食事(21)、マッサージ(22)、歯をすすぐこと、〔身体の埃を〕払うこと(23)、鏡、
三・四
八ますの〔目のある〕板(24)、筒状の薬入れ(25)、傘を〔病気等の〕理由なく保持すること、治療、足にサンダル〔を履くこと〕、火を点けること、
(訳注p.487
(24)ます目のある板でゲームや賭け事に用いられた。
(25)後にでてくる「治療」とともに、ジャイナ教の出家者に薬の所持と使用は原則として禁止されている)
三・五
寝台(=寝場所)〔を与えること〕により〔輪廻を〕渡る人からの施食(26)、小さなソファーと立派なソファー(27)、家の中にある長椅子(28)、身体の摩擦(29)、
三・六
在家者に対する奉仕、そして生業を行うこと、未加熱処理のもの(=水)を享受すること、そして病人の拠り所〔となること(30)〕、
三・七
大根、生姜、未加工の砂糖黍、そして生きている根〔菜〕や根、生の果実と種子〔を食べること〕。
三・八
スバルチャラ産の塩、シンドゥ産(31)の塩、そしてローマ産の生の塩、海の塩、そして生の黒い塩(32)、
三・九
煙を吸う〔医療具としての〕パイプ(33)と吐瀉剤、浣腸、下痢、軟膏、楊枝、肢体に塗油すること(34)、装飾、
三・一〇
これらすべては、大仙ニッガンタたちにとって禁止行為である。だから〔彼らは〕自制に専心し、身軽なものとして過ごす。
三・一一
ニッガンタたちは、五漏〔が何を原因とするか〕をよく知って〔それを〕離れ(35)、〔意・口・身の〕三つを防護し、六〔種の生類〕に対して自制し、五つ〔の感官〕を制御し、堅固で真直ぐに見るものである。
(訳注p.488
(35)業(カルマン)の漏入(āsava, Skt. āsrava)の五つの原因とは、不殺生戒を初めとする五大誓戒(第四章)を犯すこと、あるいは、五つの感官が働くことという二つの解釈がある。)
三・一二
〔彼らは〕夏には酷暑に身をさらし、冬には〔衣などで身を〕覆わず、雨期には〔滞在所に〕引き退いて、自制し、よく集中している。
三・一三
危難という敵を調伏し、迷妄を振り落とし、感官を抑制し、すべての苦の放棄のために、大仙たちは前進する。
三・一四
諸々のなし難いことをなし、耐え難いことを耐えた後、あるものは神々の世界に、あるものは〔業(カルマン)の〕塵を欠くものとして成就する。
三・一五(36)
以前の業(カルマン)を苦行と自制により滅して、最勝の成就(37)に到達した聖人は、完全に静まったものとなる(38)。
——以上のように私は語る。
訳注p.488
(38)対応するPāli parinibbutaは周知の通り「般涅槃」と訳される。
本書は読了済みであり、読書メモ記事は作成中だ。
追加終わり】
ヌード写真つき薄い本『ジャイナ教とは何か』、六師外道全員、特にジャイナ教とアージーヴィカ教に詳しい薄くない本『ジャイナ教入門』
Posted on 2019.01.25 Fri 12:02:29
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-267.html
”マハーヴィーラの生き方がジャイナ教でもっとも理想的な生き方であり
彼のような修行生活を送ることによって輪廻からの解脱を果たすのが出家の最終目的。
ジャイナ教では
業=非常に微細な物質。
日常的な活動を行うと
業が我々のジーヴァ(霊魂)の中に入り込み付着。
ジーヴァは一種の生命原理のようなもので
業の一切付着していない本来の状態では上昇する性質を持っている。
しかしこれに業が入り込むことでその性質が制限され、
上昇することなく輪廻の世界をさまようことになるという。
ジャイナ教の世界観ではこの世はいくつもの階層からなる巨大なビルのような代物で
人間が生活しているのはそれらの中のちょうど真ん中あたりの一階層にすぎない。
それよりも下が地獄であり
上方がいわゆる天界である。
我々は業の付着度合いによって生まれ変わるごとにこれらの階層を上下しつつ輪廻を重ねている。
この世の最も高い場所には特別な場所があり
ジーヴァが本来のまっさらな状態になることができれば
そこへ到達し二度とそこから下方へ落ちることはなく
それ以後は何者にも生まれ変わることはない。
これが輪廻からの解脱。
自らのジーヴァを業の一切付着してない状態へ戻すことがジャイナ教の究極目的。
そのためにはまず業がジーヴァに入り込むのを阻止し
ジーヴァの流入を遮断してから
ジーヴァの内に残存している業を滅し尽くさなければならない。
[中略]
托鉢の偶発性を重視。
提供される飲食物はあくまでも余り物であることが求められていた。
たまたま余った食べ物が、
またまた通りがかった修行者に托鉢として供されるのが理想。
よって、在家が托鉢の出家のためにわざわざ調理して提供しようとしても
出家者は受け取ることができない。
つまり招待食は禁止。
特定の在家との依存関係が確立してしまったり
一つの家庭に負担が集中することを避ける側面もあると考えられる。
出家者が在家に命じて離れた場所にあるものを取って来るように命じたり
わざわざ買いに行かせたりすることは禁止。
偶発性を重視するために
間違いなく施しを受けることができるような場所、
例えば親族の家々や食事を振る舞っている宴会場などに行って、
施しを受けることは勧められない。
施しを受けられるかどうかは偶発的なので結果に一喜一憂すべきではないとされる。
ランダムに訪れるためにジグザグに家々を回ったり渦を巻くように回ったりするルートまでもが
細かく規定されている。
適した時も定められており
家庭の食事がちょうど終わるような時刻に家々を回るべきであり、
在家(たいていは女性)が家族のために料理を準備している時などには
訪れるべきではないとされている。
※空衣では托鉢で得た食を持って帰ることはせず
手のひらで食を受け取り
その場で衆人環視のもと
それに小さな生物が混入していないか指で子細に確認しつつ立ったまま食べる。
(立ったままなのって手がふさがっているから座る前にやわらかい箒で地面を掃けないから?)
[中略]
一部の生物を害することは回避できない。
不可避なのが不動の生命体。
植物を食すのも殺生だがより高次の生命体を害するよりマシ。
ジャイナ教の菜食主義の観点は
そこに生命が存在する可能性
そこから生命体が発生する可能性である。
在家の根本的美徳という食の規定では
自然死した動物を含めて肉類
蜂蜜
イチジク類の果物、
酒類、
濾過されていない水などを摂るのが禁止。
なぜなら殺生によって得られるだけでなく
そこに無数の微生物がいるから。
葉の物、
湿った食べ物、
発酵食品、
腐敗した食べ物などが
無数の微生物がいるので規制。
無数の身体(アナンタ・カーヤ)と呼ばれるカテゴリーに属する植物も規制対象で
玉ねぎなどの球根や
大根などの根菜類、イモ類などの地下茎などの植物も含まれている。
共通する特徴も新たな生命が生じるからだろう。
同様の観点から
多くの種を持つもの(バフ・ビージャ)も禁止で
ザクロ、ナス、トマトなどが該当。
根のものを避ける理由の一つで
収穫する際に地中の生物を害してしまうからというものもよく聞かれる。
[中略]
在家も日没後の食事は勧められない。
家庭での作り置きも推奨されない。
著者が目撃したのが
ターリー(プレート)で食べた後に
コップの水をそこに注いで細かい食べ残しをきれいに洗い
その水を飲み干す作法。
残りかすがついたまま放置されると小さな生物が集まるから。
食べられるべきではないものリストがあり
雪、氷、
(それらに微細な生物が潜んでいる可能性)
毒(腹の中の生命体を害する)、
土、
(微細な生命体を含み、
蛙のような五つの感覚器官を有する高次の生物を産み出す源
だと考えられていた。
口にした者の腸に深刻なダメージを与える病の原因とも考えられていた)
味がなく中身のない空洞上の植物、
(空腹を満たせないので不必要に生命体を害してしまう)
正体不明の植物などが禁止。
(何が食べられるか列挙した方がわかりやすそうなほど厳しい)
”
サンジャヤ・ベーラッティプッタの個所↓)
『沙門果経』(『原始仏典 長部経典1』 中村元監修 春秋社 に収録)
pp.74-76
”
〔サンジャヤ・ベーラッティプッタの説〕
三一、「ここにまた、尊師よ、あるときわたしは、サンジャヤ・ベーラッティプッタのところに訪ねて行きました。訪ねて行って、サンジャヤ・ベーラッティプッタとたがいに挨拶をし、喜ばしい印象に残るようなことばを交わしてから、一方の場所に坐りました。一方の場所に坐ったわたしは、尊師よ、サンジャヤ・ベーラッティプッタに次のようにいいました。
『君、サンジャヤよ、〔世間には〕さまざまな技能職種があります。たとえば、象に乗る者、馬に乗る者、車に乗るもの、弓の射手、旗手、軍司令官〔中略〕また、ほかにもこれに類するさまざまな技能職種の者――かれらはこの世において、目に見える技能の報酬によって生活しています。かれらはそれによって、自分自身を安楽にし満足させ、母と父とを安楽にし満足させ、子供と妻とを安楽にし満足させ、友人知人を安楽にし満足させ、〔そしてまた〕沙門やバラモンに対しては、天界に生まれ天界の安楽なる果報をもたらす立派な布施をきちんと行ないます。そこで、君、サンジャヤよ、ちょうどそのように、この世において、目に見えるかたちで〈修行の成果〉を示すことがおできになりますか』と。
三二、尊師よ、このようにいわれて、サンジャヤ・ベーラッティプッタ(83)はわたしに次のように答えました。
『もしあなたがわたしに、〈ほかの世界は存在するか〉と質問したとすると、もしわたしがほかの世界は存在すると考えているなら、ほかの世界は存在する、と答えるでしょう。しかし〔実際には〕わたしはそうはしません。そのとおりだともわたしは考えないし、別であるとも考えません。そうではないとも、そうではないのではないとも考えません。もしあなたがわたしに〈ほかの世界は存在しないのか〉と、〔また〕〈ほかの世界は存在し、かつ存在しないのか〉と、〔またさらに〕〈ほかの世界は存在するのでもなく存在しないのでもないのか〉と質問するとしても、〔同じように答えるでしょう〕。
〔またもしあなたがわたしに〕〈化生の生き物たちは存在するのか〉〔と質問したとすると、もしわたしが化生の生き物たちは存在すると考えているなら、化生の生き物たちは存在すると答えるでしょう。しかし実際にはわたしはそうはしません。そのとおりだともわたしは考えないし、別であるとも考えません。そうではないとも、そうではないのではないとも考えません。もしあなたがわたしに〕〈化生の生き物たちは存在しないのか〉と、〔また〕〈化生の生き物たちは存在し、かつ存在しないのか〉と、〈化生の生き物たちは存在するのでもなく、存在しないのでもないのか〉〔と質問するとしても、わたしは同じように答えるでしょう〕。
〔またもしあなたがわたしに〕〈善悪の業に結果・報いはあるのか〉〔と質問したとすると、もしわたしが、善悪の業に結果・報いはあると考えているなら、善悪の業に結果・報いはあると答えるでしょう。しかし実際にはわたしはそうはしません。そのとおりだともわたしは考えないし、別であるとも考えません。そうではないとも、そうではないのではないとも考えません。もしあなたがわたしに〕〈善悪の業に結果・報いはないのか〉〔また〕〈善悪の業に結果・報いはありかつないのか〉〔またさらに〕〈善悪の業に結果・報いはあるのでもなく、ないのでもないのか〉〔と質問するとしても、わたしは同じように答えるでしょう〕。
[59]またもしあなたがわたしに〈如来(84)(悟った人)は死後存在するのか〉〈如来は死後存在しないのか〉〈如来は死後存在し、かつ存在しないのか〉〈如来は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか〉と質問したとすると、もしわたしが如来は死後存在するのでもなく存在しないのでもない、と考えているならば、如来は死後存在するのでもなく存在しないのでもない、とあなたに答えるでしょう。しかし〔実際には〕わたしはそうはしません。そのとおりだともわたしは考えないし、別であるとも考えません。そうではないとも考えないし、そうではないのではないとも考えないのです』と。
三三、尊師よ、このようにサンジャヤ・ベーラッティプッタは、わたしに目に見える修行の成果について問われているのに、錯乱したことを説きました。尊師よ、それはちょうど、マンゴーについて問われたのに、ラブジャの木のことを説明し、あるいはラブジャについて問われたのに、マンゴーのことを説明するようなものです。尊師よ、ちょうどそのようにサンジャヤ・ベーラッティプッタは、わたしに目に見える修行の成果について問われたのに、錯乱したことを説明しました。尊師よ、そこでわたしは、このように考えました。『かれはかれら沙門・バラモンのなかで、もっとも愚かでもっとも愚鈍である。いったいどうして目に見える修行の成果について問われたのに、錯乱したことを説明するのであろうか』と。尊師よ、〔しかし〕そこでわたしはこのように考えました。『どうしてわたしごとき者が、領内に住んでいる沙門やバラモンを非難しようなどと考えてよいであろうか』と。尊師よ、そこでわたしは、サンジャヤ・ベーラッティプッタの言説を称賛もせず非難もせず、内心不満ではありましたが、不満のことばも出さず、かれのことばを聞き流すだけで、傾倒することはしないまま、座を立って退出しました」
”
※ルビは再現していない。註釈の数字もルビとしてふられているのだが、再現していない。「如来」の「如」の横に「(84)」と書いてあるのだが再現できない。「如(84)来」ではなく、「如来(84)」と表記した。「サンジャヤ・ベーラッティプッタ(83)」も同様。実際は、「サ」の横に「(83)」がある。
(凡例
一 読者の理解の一助とするため、底本にない訳文を〔 〕で補った。また、底本の省略部分(…pe…)は、省略せず訳出し、同様に〔 〕で囲み表記した。
一 訳文中、読者の理解の便宜をはかるため、適宜、原文にはない小見出しを付した。
一 訳文中、[ ]で囲み表記した数字は、底本の頁数を示したものである。
一 読者の理解に資するため、巻末に訳註を付した。末尾に(N)と付した註記は、編者(浪花)の補註である。)
p.601
註
(83)サンジャヤ・ベーラッティプッタは…――サンジャヤ説は「うなぎのように捕らえどころがないぬらりくらりした錯乱論」(amarā-vikkhepa)と説明されているが(DA.i.168)、要するに一種の詭弁論であった。これを「不死憍乱論」と訳す場合があるが、これは amara-vikkhepaと取ったがためである。
(84)如来(悟った人) Tathāgata.
ここはサンジャヤの言説中のことばではあるが、仏教の通常の解釈訳語を採用しておく。
(
六師外道の中で、サンジャヤ・ベーラッティプッタに対してだけ、「もっとも愚かでもっとも愚鈍」って言っていることが重要だな。とはいえ、釈迦は無記の思想を彼から学んだのだろうな。極端な無記でもあるからね、ウナギ教は。
サンジャヤの和訳だけ「技能職”種”」となっていて他は「技能職”業”」なのはなぜなんだろうな。ここだけ原文が少し異なるのかもしれない。
光明寺経蔵
https://komyojikyozo.web.fc2.com/
”このサイトは、管理人:光明寺住職(真宗大谷派所属)による仏典翻訳のサイトです。現在はパーリ三蔵を訳しています。”
というすごいサイトがある。
原文を示し、品詞分解まで載せているのがすごいな。
サンジャヤ・ベーラッティプッタの説
https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnskv/dn02/dn02c09.files/sheet001.htm
”・以下、サンジャヤの所説は「梵網経」の詭弁論者のうち第四のものとほぼ同一である。”
のように翻訳だけでなく解説もあり、それ以外の六師外道の和訳もある。
サンジャヤ・ベーラッティプッタとは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%A4%EF%BD%A5%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%97%E3%83%83%E3%82%BF-1170002
”
サンジャヤ・ベーラッティプッタ(英語表記)Sañjaya‐Belaṭṭhiputta
世界大百科事典 第2版の解説
サンジャヤ・ベーラッティプッタ【Sañjaya‐Belaṭṭhiputta】
前6~前5世紀の古代インドの思想家。生没年不詳。不可知論者,懐疑論者とされる。釈迦と同時代の人で,伝統的バラモン文化の価値観を否定した自由思想家の一人。漢訳仏典では散若夷毘羅梨沸と音写される。マガダ国の首都王舎城に住したとされ,後に仏陀の弟子となった舎利弗と目連は彼の弟子であった。その思想は,《沙門果経》などの仏典の中で,否定されるべき異説(〈六十二見〉〈六師外道〉)として扱われている資料から推察できる。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
世界大百科事典内のサンジャヤ・ベーラッティプッタの言及
【不可知論】より
…また,宗教実践上の観点から,さまざまな世界のものごとについての判断は無用である,ないしそのような判断を停止したほうが心の平安が得られるとする考えも有力であった。例えば,〈鰻のようにぬらぬらとしてとらえがたい議論〉を用いたサンジャヤ・ベーラッティプッタ,来世の存在などの形而上学的な問題に答えなかった釈迦などはそうした考えの持主であった。【宮元 啓一】。…
【目連】より
…バラモンの出身。はじめ六師外道の一人サンジャヤ・ベーラッティプッタに学んだが,舎利弗(しやりほつ)の紹介で釈迦に帰依し,高弟となり,その教化活動を補佐した。六通(6種の超人的な能力)を得て神通第一と称された。…
※「サンジャヤ・ベーラッティプッタ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について
”
p603
註
(98)戒律を守ることによって守られ
律儀とは悪を防止し抑制するものの意味。
またpātimokkha(別解脱、波羅提木叉(はらだいもくしゃ)と音写される)とは、あらゆる悪を一挙に防御するのではなく、戒の条項の一つ一つによって、それに対応した悪から一つ一つ離れるという意味である。在家者の五戒と八斎戒、沙弥・沙弥尼の一〇戒、正学女の六法戒、比丘の二五〇戒、比丘尼の三四八戒が別解脱律儀である。(N)
波羅提木叉 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E7%BE%85%E6%8F%90%E6%9C%A8%E5%8F%89
)
(100)注意力 sati
漢訳仏典では通例「念」と訳される。原始経典のなかでsati(念)は
(1)記憶(師の教えを忘失しない)を意味することもあるが、それはむしろまれで、
(2)心が放縦になったり、散漫になったりしないように、注意力をそなえること、
(3)さらに、常に無常・苦・無我などを念頭に置き、忘れないこと、すなわち四念住
(satipaṭṭhāna)の意味で使用される。ここでは(2)の意味である。(N)
(
四念処 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%BF%B5%E5%87%A6
)
(101)明瞭な意識 sampajañña
自分がいま、なにを行なっているかを明瞭に自覚し識知していることをいう。(N)
p.90から
意によって法(事象)を知る場合、その全体相にも捉われず、その細部にも捉われません。この意の感覚器官を制御しないで生活する結果として、もろもろの貪欲と憂悩という悪不善の状態がはいり込むことになりますから、かれはその制御につとめ、意という感覚器官を保護し、意という感覚器官の制御を達成します。
〔注意力と明瞭な意識〕
六五、「また、大王よ、修行僧はどのようにして、注意力と明瞭な意識を身につけるのでしょうか? ここに、大王よ、修行僧は進むにも退くにも、明瞭な意識をもって行動します。前を見るときも、後を見るときも、明瞭な意識をもって行動します。〔腕を〕曲げるときも、伸ばすときも、明瞭な意識をもって行動します。サンガーティ(大衣)を着け、鉢をもち、チーヴァラ(通常衣)を着けるときも、明瞭な意識をもって行動します。食べ、飲み、嚙み、のみ込むときも、明瞭な意識をもって行動します。排便・排尿するときも、明瞭な意識をもって行動します。歩き、立ち止まり、坐わり、眠り、目ざめ、語り、黙するときも、明瞭な意識をもって行動します。このようにして、 [71] 大王よ、修行僧は注意力と明瞭な意識を身につけます。
(ヴィパッサナー瞑想または、その元ネタだろうな
)
〔満足〕
修行僧はどのようにして満足(106)しているのでしょうか?
身を包むだけの衣と腹を満たすだけの托鉢による食物で満足し、かれはどこへ行くにもそれだけで出かけます。
p.603
註
(106)すべての生活必需品(paccaya)について満足していること。すなわち衣食住と薬の四項について満足していること。
p.91から
〔障害の除去〕
六七、さて〔以上のように〕、かれ(修行僧)は、この高貴な一連の戒を身につけ、この高貴な感覚器官の制御を身につけ、この高貴な注意力と明瞭な意識を身につけ、この高貴な満足を身につけて、森(107)・木の根元・山・峡谷・洞窟・墓地・籔(やぶ)地・露地(110)・積んだ藁(111)といった人里離れた寝起きの場所に親しみます。〔そして〕かれは托鉢から戻り食事の後、両足を組み(結跏趺坐)身体をまっすぐにし、面前に注意力を集中して(112)坐ります。
六八、かれは、世間に関する貪欲を捨て、貪欲の消えた心をもって生活し、貪欲から心を浄めます。〔かれは〕悪いと怒りを捨て、悪意のない心をもって生活し、すべての生き物を益し、思いやりの気持ちをもって、悪意と怒りから心を浄めます。沈鬱と眠気を捨て、沈鬱と眠気から離れて生活し、光明を想起し、注意力と明瞭な意識を身につけ、沈鬱と眠気から心を浄めます。心の浮動と後悔を捨て、落ち着いて生活し、内に平静な心をもつ者は、心の浮動と後悔から心を浄めます。疑うことを捨て、疑いを脱して生活し、もろもろの正善なる教えに対する疑いのない者は、疑いから心を浄めます。
修行僧はいまだ捨てられていない五種の障害(煩悩)(113)を、ちょうど借金のように、病気のように、牢獄のように、奴隷の境遇のように、荒野の道のようなものとして、自己のなかに見るのです。
p604から
註
(110)露地
覆うもののないところ。望む者はそこに布で住房(テント)を作って住む。
(112)面前に注意力を集中して
業処(禅定を実習するとき、心を集中させる対象物)に向けて注意力を専注し、あるいは、顔前近くに注意力を専注して、という意味。
(113)五種の障害(煩悩)
pañca-nīvaraṇa
漢訳仏典では「五蓋」と訳される。善心を妨げ覆いかくすという意味で「蓋」と呼ばれ、五組あるから五蓋といわれる。その内容は本経六八節で説かれたところである。
(
「貪欲を捨て、貪欲の消えた心をもって生活し、貪欲から心を浄めます。〔かれは〕悪いと怒りを捨て以下略」について。
五蓋だ。pañca nīvaraṇāniだ。Five hindrancesだ。単数形だと nīvaraṇa。
五蓋 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%93%8B
”五蓋(ごがい、巴: pañca nīvaraṇāni, パンチャ・ニーヴァラナーニ)とは、仏教における瞑想修行を邪魔する、5つの障害、つまり5つの煩悩の総称。蓋(がい、巴: nīvaraṇa, ニーヴァラナ)とは文字通り、認識を覆う障害のこと。
解脱道論によれば、十結には五蓋すべてが含まれる[1]。
なお、これと似た概念として、生存者を欲界へと結び付ける5つの束縛としての五下分結(ごげぶんけつ、巴: pañca orambhāgiyāni saṃyojanāni[注釈 1])という概念もある。下分(げぶん)とは、下の領域すなわち欲界のこと。結(けつ、巴: saṃyojana, サンヨージャナ)とは「束縛」のこと。
〔中略〕
五蓋の内容は、以下の通り[2]。
• 貪欲(とんよく、巴: kāmacchanda) - 渇望・欲望
• 瞋恚(しんに、巴: byāpāda、梵: vyāpāda) - 怒り・憎しみ・敵意
• 惛沈・睡眠(こんじん すいめん、巴: thīna-middha、梵: styāna-middha) - 倦怠・眠気
• 掉挙・悪作(じょうこ おさ、巴: uddhacca-kukkucca、梵: auddhatya-kaukṛtya) - 心の浮動、心が落ち着かないこと・後悔
• 疑(ぎ、巴: vicikicchā、梵: vicikitsā) - 疑い。信頼の欠如。
経典での扱い
沙門果経では、出家者が戒律を収めた後、初禅に入る前の段階として、この五蓋の除去が言及される[3]。この五蓋が取り除かれることで、その人には歓喜・喜悦、身体の軽安(きょうあん)・安楽・三昧が生じ、初禅へと入っていく準備が整うと述べられる。
適切業品では、釈迦は慧の具足(paññāsampadā)との形で、在家信者に五蓋を説いている[4]。五蓋に心が打ち負かされると「行ってはならなことを行い、行うべきことを行わないので、彼の名誉と幸福は破滅する」と釈迦は述べている[5]。
〔中略〕
最終更新 2021年5月28日 (金) 11:47 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
”
)
(118)〔心に〕付随する煩悩 upakilesa
この語には次の二義がある。
(1)心に随って起り、心を染汚するという意味で、すべての煩悩を指す。
(2)根本的な煩悩(貪・瞋・癡・慢・疑・悪見の六煩悩)に付随して起る、付随的な煩悩という意味で、根本六煩悩以外の煩悩を指す。ここでのupakilesaは前者の意味であるとブッダゴーサは説明する。
(120)意から成る智
「さまざまな超能力(神変)」は神変の中の第一の「決意神変」に相当する。それは「一身多身神変」から「身自在神変」の10種からなる。また決意神変とは「このようになれ」と智によって決意することによって完成するから、この名前がある。
(この註釈で「神通=禅定を修習することによって得られる人の能力を超えた自在な能力」の後世の、分類・整理された、『清浄道論』にもとづく図が載っている。
フィクションで「魔法」をどう呼ぶかというのが作品の特徴を示す場合がある。
「神変」を魔法の意味で使っている作品は私は知らない)
第三経 青年バラモンのおごり―阿摩昼経
〔『阿摩昼経』(あまちゅうきょう、Ambaṭṭha-sutta, アンバッタ・スッタ) 〕
渡辺研二(訳)
第四経 真のバラモン―種徳経
〔『種徳経』(しゅとくきょう、Soṇadaṇḍa-sutta, ソーナダンダ・スッタ) 〕
渡辺研二(訳)
(本書は、戒蘊篇(かいうんへん、Sīlakkhandha-vagga, シーラッカンダ・ヴァッガ)のお経を集めているので内容が被っている箇所が多い。それだけ大切だということだ。
各地で作られた教科書〔書ではなく音声であろうが〕だったのだろう)
第五経 バラモンの祭りと真の祭り―究羅檀頭経
〔『究羅檀頭経』(くらだんずきょう、Kūṭadanta-sutta, クータダンタ・スッタ)〕
渡辺研二(訳)
p244
戒めの体系(戒蘊)をまもるとき、かれの心の内部になんら汚れのない幸福を体験するのです。
第六経 マハーリの問い―マハーリ経
〔『摩訶梨経』(まかりきょう、Mahāli-sutta, マハーリ・スッタ) 〕
渡辺研二(訳)
(本文前の概要)
「三つの束縛」(三結)を滅することによって、また、八正道を実践することによって、さらに、智慧を完成させることこそが仏教の目的であると述べる。また、経の後半に「霊魂と身体」が同一か否かについて、論じられるが、ブッダの時代に流行したこのような哲学議論は、仏教の修行のためにならず、解脱のためにならないことを説く。
経典メモ
p.268
三つの束縛を滅することによって、愛着(貪)・憎悪(瞋)・迷妄(痴)が希薄になり、一度だけ帰る人(一来者)となります。そして、ただ一度だけこの世界に戻ってきてから、苦の終わりをなすのです。
五つの下位の束縛(12)を滅することによって、自然発生の生き物(化生者)となり、そこで完全に束縛をときほぐされた者(14)、この世界に帰ってくることのない者となります。
第六経 マハーリ経の註
p.621から
(9)三つの束縛 ti-saṃyojana
「三結」ともいう。
(1)有身見(うしんけん、sakkāya-ditthi (調べて出た綴りはsakkāya-diṭṭhi):あらゆる存在を形成している五つの要素の集まり(五蘊)のなかに「自我」があると、また五つの要素の集まりは「自分のもの」であると誤って考えること。
(2) 疑(ぎ、vicikiccha)(調べて出た綴りはvicikicchā):仏法僧の三宝、あるいは四諦に対する疑念。
(3)
戒禁取(かいごんしゅ、sīlabbata-parāmāsa):誤った戒律や禁制などに執著すること、の三つをいう。(N)
(12)五つの下位の束縛
下位、すなわち欲界に人を結びつける煩悩の意味。
整理された教説によれば、三結は預流道において断じられ、欲貪(欲界に対する貪欲、kama-rāga)(調べた綴りだとkāma-rāga)、瞋(paṭigha、怒り)とは一来道によって弱められ、不還道において断じられる(すなわち五下分結は不還道で断じられる)。
阿羅漢道では五上分結(上位、すなわち色界と無色界とに人を結びつける煩悩)が断じられる。五上分結とは色貪、無色貪、慢(māna)、 掉挙(uddhacca. 心のうわさ)、無明を指す。この経典では、一来道において貪欲(rāga)と怒り(dosa)と愚痴(moha)が説かれており、通常の説とは異なっている。(N)
(13)化生者 ここでは不還者が意図されており、不還者は天界に化生者として生まれ、そこで涅槃に達する。(N)
(
五下分結 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%B8%8B%E5%88%86%E7%B5%90
”五下分結(ごげぶんけつ、梵: āvarabhāgīya saṃyojana, アーヴァラバーギーヤ・サンヨージョナ、巴: orambhāgiya-saṃyojana, オーランバーギヤ・サンヨージャナ)とは、仏教において衆生を「欲界」へと縛り付ける「5つの束縛」としての煩悩の総称。「下分」(げぶん)とは「下の領域」すなわち「欲界」のこと。「結」(けつ)(巴: saṃyojana, サンヨージャナ)とは「束縛」のこと。
〔中略〕
五下分結の内容は以下の通り[1]。
1. 有身見(うしんけん、梵: satkāya-dṛṣṭi、巴: sakkāya-diṭṭhi) - 五蘊を自己とみなす見解[1]
2. 疑(ぎ、梵: vicikitsā、巴: vicikicchā) - 疑い
3. 戒禁取(かいごんしゅ、梵: śīlavrata-parāmārśa、巴: sīlabbata-parāmāsa) - 誤った戒律・禁制への執着
4. 貪欲(とんよく、梵: 巴: kāma-rāga)- 五欲への執着[1]
5. 瞋恚(しんに、梵: pratigha、巴: paṭigha) - 怒り
五蓋とは2及び4-5が共通。三結とは1-3が共通しており包括した関係になっている。
四向四果との関係
四向四果における不還果に到達すると、欲界への執着が断ち切られ、この五下分結も消え去る[2][3]。
預流果に達した段階で、既に五下分結の3-5である「三結」は絶たれており、続く一来果で4-5が弱まり、不還果で4-5が絶たれ、欲界への再生と完全に断ち切られることになる。
〔中略〕
最終更新 2019年9月27日 (金) 12:41 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
”
上記の記事の表がわかりやすい。
上分結(6. 色貪、7. 無色貪、8. 慢, うぬぼれ、9. 掉挙、10. 無明)から解放されるのが阿羅漢。つまり、それ以外の3つでは解放されない。これらが一番解放されにくいグループ。
次に解放されにくいのが下分結のうちの2つ(4. 欲の貪り(カーマラーガ)、5. 憤怒(瞋恚, パティガ) )であり不還(欲界及び天界には再び還らない)(阿那含〔あなごん〕)でやっと解放される。
最も解放されやすい(最初に開放される。といっても容易ではないが)のが、1. 有身見 (無我)、2. 疑(教えに対しての疑い)、3. 戒禁取(誤った戒律・禁制への執着)。
悟りの第一段階の境地である預流果〔預流=悟りへの流れに到達する〕ですら難しい)
p269から
『友、ゴータマさん、霊魂と身体は同じものでしょうか。それとも、霊魂と身体は異なるものでしょうか』
(上記の質問に答えずに、戒の話や、感覚器官の門を外界から守ること、気を落ち着けること、正しく自覚すること、五つの蓋いを捨て去ることなどについて語った後で以下に続く)
p.285
「『友よ、そのように知り、そのように見る修行僧に、〈霊魂と身体は同じものである〉とか、〈霊魂と身体は異なるものである〉などのことばは、相応しいでしょうか』」
「『友よ(23)、このように知り、このように見る修行僧には、〈霊魂と身体とは同じものである〉とか、〈霊魂と身体とは異なるものである〉などのことばは相応しい』」
「『友よ、わたしもまた、このように知り、このように見ます。しかし、わたしは、〈霊魂と身体は同じものである〉とか、〈霊魂と身体は異なるものである〉などということをいいません。
一七、さらにまた、友よ、〔第一の精神集中の〕思慮と考察をやめることによって、心の内部で平静になり、心の一点への集中があり、思慮と考察とを離れた心の安定(三昧)から生ずる喜びと安楽をえて、〕第二の精神集中(第二禅)に〔はいっているのです。(以下略)』」
p.623
註
(23)友よ…
世尊は二人の出家者に「霊魂と身体との異同を問うことは適切か否か」とたずね、二人が「適切である」と答えても、それを否定しない。ただ「わたしはそのような問いを問わない」とだけ答えて、さらに教えを説き続ける。こうして次第に二人を高い段階に導き、最後に漏尽智を説く。二人は世尊の教えの真意を理解して、「霊魂と身体との異同を問うことは相応しくない」と答える。
(
「それは違う」とか「あなたは間違っている」とは言わないのが重要だな
釈迦の思想は、霊肉一致論でもないし、霊肉二元論でもない
)
(四禅、たとえ、超人的な能力(神通)、煩悩の汚れの消滅を知ることなどについてさらに説いた後で)
p.298
友よ、このように知り、このように見る修行僧に、〈霊魂と身体は同じものである〉とか、〈霊魂と身体は異なるものである〉などということばは、相応しいでしょうか』」
「『友よ、そのように知り、そのように見る修行僧に、〈霊魂と身体は同じものである〉とか、〈霊魂と身体とは異なるものである〉などということばは、相応しいものではありません』」
「『友よ、わたしもまた、このように知り、このように見ます。しかし、わたしは、〈霊魂と身体は同じものである〉とか、〈霊魂と身体は異なるものである〉などということをいいません』」
(
このページで本経は終わり)
第七経 遍歴行者ジャーリヤの問い(霊魂と身体)―ジャーリヤ経
〔『闍利経』(じゃりきょう、Jāliya-sutta, ジャーリヤ・スッタ) 〕
渡辺研二(訳)
第八経 さまざまな苦行 倮形梵志経
〔または『大師子吼経』(だいししくきょう、Mahāsīhanāda-sutta, マハーシーハナーダ・スッタ)
または『迦葉師子吼経』(かしょうししくきょう、Kassapa-sīhanāda-sutta, カッサパシーハナーダ・スッタ)) 〕
渡辺研二(訳)
(本文より前の解説)
本経は漢訳『長阿含』巻一六の「倮形梵志経」(らぎょうぼんじきょう)(大正蔵一、一〇二下以下)に相当する。
ブッダが裸形の修行者カッサパに説いたものである。ブッダ当時のさまざまな苦行が列挙されていて、詳しく苦行の様子をうかがうことができるが、経の主旨は、さまざまな苦行の実践によっては、真の出家者にはなれず、八正道を実践し、戒め・精神統一・智慧(戒定慧)の三学の完成こそが真の仏教修行であるということである。その後、ブッダは「わたしは大衆のなかで、自信をもって説法する」云々といい、みずからブッダの説法、すなわち「獅子吼」の特徴を説く。
p.381
すぐれた戒め(増上戒)
すぐれた智慧(増上慧)
p.627
註
(27)人間の毛髪よりなる衣 kesa-kambala
人間の髪の毛で作られた織物。寒いときは寒く、暑いときは暑い、色が悪く、悪い臭いがし、肌触りが不快な衣。いわゆる六師外道のひとりアジタはこの衣を用いていたために、かれはAjita Kesakambalinと呼ばれている。
(28)髭髪を抜く者
ジャイナ教の出家修行者の習慣である。
(34)冷水を飲まないことに徹する…
冷水を飲むのをやめている者。ジャイナ教の修行者の習慣として知られている。
第九経 心理作用の消滅
〔『布吒婆楼経』(ふたばろうきょう、Poṭṭhapāda-sutta, ポッタパーダ・スッタ) 〕
渡辺研二(訳)
(本文前の解説)
ポッタパーダは心理作用とアートマン(我)との異同について、また「世界は常住か否か」「世界は有限か否か」「生命と身体とは同一か否か」「修行の完成者(如来)は死後、存在するか否か」についてたずねる。ブッダはこれらの問題に直接答えずに、我への執着を捨てて、無我を体現すべきことを説く。
p.411から
〔「虚空は無限である」と観じる境地〕
修行僧は、すべてにわたり、物質的領域の心理作用を超え、物質的にさまたげるもののある心理作用が消滅して(11)、さまざまな心理作用を考えないことから、「虚空は無限である」と空間の無限を観じる境地(空無辺処)に達しているのです。かれには、以前の物質的領域の心理作用が消滅するのです。そのとき、『虚空は無限である』と観じる境地という微細な真実の心理作用が生じるのです。そのとき、かれは『虚空は無限である』と観じる境地という微細な真実の心理作用を有する者になるのです。
『識別作用は無限である』と観じる境地(識無辺処)に達しているのです。かれには、以前の『虚空は無限である』と観じる境地という微細な真実の心理作用が消滅するのです。
『なにものもない』ということを観じる境地(無所有処)に達しています。かれには、以前の『識別作用は無限である』と観じる境地という微細な真実の心理作用が消滅するのです。
p630
註
(8)心理作用(想) abhisaññā, saññā
この経典には両語が同義に使用されている。
(10)微妙で真実である心理作用
心理作用(表象する意識作用、想)
(
これって心の中に像を思い浮かべるとみなしていいのかな。心って何?ってならない?
上記だと心ではなく意識。心理作用とも訳しているから心でもいいのか?
イメージすること程度で考えておく方が良いかも。
英訳はconceptualization, distinguishing, perception, cognition)
p414から
心理作用は人のアートマン(個我)なのでしょうか。それとも心理作用とアートマンは異なるものなのでしょうか
三種のアートマンが語られる。
(1)粗大であり物質的なるもの、形態をもつもの、四つの元素(地水火風)からなり、通常の食物を食べるもの
(釈尊は心理作用は生じるし、消滅するという主旨の返し)
(2)意よりなるもの、大小の四肢がそなわっているもの、感覚器官を完全にそなえたもの
(同様の返し)
(3)無形態なるもの、心理作用からなるもの
(動揺の返し)
p631から
註
(16)もろもろの心理作用が別に生じ…
我(アートマン)が常住であるのに対して、心理作用(表象する意識作用)は無常であり、次々に生滅をくり返していることをこのように表現する。
(
想は常住ではない。アートマンは常住だ。よって両者は異なる存在)
(17)心理作用…別物となる
以上で三種の我(アートマン)があげられ、それぞれ心理作用と異なるとされるが、異なる理由は、我が常住であるのに対し、心理作用は無常であるという点にある。(N)
p416から
〔ゴータマ、形而上学的問題に黙して答えず〕
「ポッタパーダよ、あなたは、異教の見解によっているため、異教の忍耐によっているため、異教の目的によっているため、異教の実践によっているため、異教の師によっているため、『心理作用は人のアートマンである』とか、あるいは『心理作用とアートマンは異なる』ということを知り難いのです」
「(前略)知り難いというのであれば、お尋ねします、尊い方よ、世界は常住でありましょうか。これのみが真実であって、他は虚妄でしょうか」
「ポッタパーダよ、わたしは『世界を常住であるかどうか。これのみが真実であって、他は虚妄であるか』ということについて、黙して答えを与えません」
(これより、共通部分はわかりきっているので意味がわかる程度に略す)
「世界は常住ではないのでしょうか」
「黙して答えません」
「世界は有限でしょうか」
「黙して答えません」
「世界は無限でしょうか」
「黙して答えません」
「霊魂と身体は同じものでしょうか」
「黙して答えません」
「霊魂と身体は異なるものでしょうか」
「黙して答えません」
「修行完成者は死後存在するのでしょうか」
「黙して答えません」
「修行完成者は死後存在しないのでしょうか」
「黙して答えません」
「修行完成者は死後存在し、同時に存在しないのでしょうか」
「黙して答えません」
「修行完成者は死後存在するのでもなく、存在しないのでもないのでしょうか」
「黙して答えません」
「なぜ、この問題について黙して答えないのでしょうか」
「なぜならば、これは目的にかなったものではないからです。真理(法)に[189]かなうものではないからです。清らかな修行の基礎になるものではないからです。〔世俗的なものを〕厭い離れることのためにならないからです。〔欲情から〕離れることのためにならないからです。〔煩悩を〕制し滅することのためにならないからです。心の平安のためにならないからです。すぐれた英知のためにならないからです。正しい覚りのためにならないからです。やすらぎ(涅槃)のためにならないからです。それゆえ、わたしは、これについて黙して答えないのです」
「尊師が解答されるものはなんでしょうか」
「『これは苦しみである』と解答します。
『これは苦しみの起こる原因である』と解答します。
『これは苦しみの消滅である』と解答します。
『これは苦しみの消滅に導く道である』と解答します」
(
サンジャヤのうなぎ教と異なるのは断定することと、断定しないことをきっちりと分けていることだ。断定する理由としない理由は上記の通りだ)
第一〇経 仏陀の賞賛した法―スバ経
〔『須婆経』(すばきょう、Subha-sutta, スバ・スッタ) 〕
橋本哲夫(訳)
p.633
註
(14)戒律箇条の体系・自己規制
pātimokkha(音写「波羅提木叉(はらだいもくしゃ)」)の原意は、「それぞれの煩悩について解脱を得ること」(漢訳「別解脱」)。それより、「戒律箇条の体系」をも意味するようになった。
(42)
色界(ほとんど欲望を伴わない物質的世界)
(44)物質 ルーパ
漢訳は「色(しき)」。原始仏教経典中の比較的古いとされるガーター(韻文)の中では、「美しい姿」「様子・状態」「姿・形」「物質」「〔眼の対象としての〕色形」「パターン」などと訳し得るが、ここでは、「物質」の意味。
(46)意識 viññāna
漢訳は「識」。認識の主体。五つのまとまり(五蘊)のうちの「識」および十二因縁の「識」も同じ語であるが、内容が同じとは限らない。
(53) āsava
漢訳は「漏」。原義は、草木から抽出された覚醒剤の一種であったが、精神を酔わせるということから、正常心を失わせるもの、すなわち煩悩を意味するようになった。なお、別の原義は、「流出」と「流入」を同時に意味する「流れ」のこと。たとえば、水の入ったビンを傾けると、水が出るとともに空気が入っていく。この事態を一語で表現したもの。
第一一経 説法の奇跡―堅固経
〔11. 『堅固経』(けんごきょう、Kevaṭṭa-sutta, ケーヴァッタ・スッタ) 〕
橋本哲夫(訳)
(本文前の解説)
世尊は、「四種の〔世界の〕構成要素(四大)は、どこに跡形もなく消え去るのか」というある比丘の疑問は、四天王神を始め、大梵天にいたるまで誰も答えられないことを知らしめ、その質問自体が間違っており、「どこで、四種の〔世界の〕構成要素は足場をなくすのか」と問うべきだと教え、「涅槃において四種の〔世界の〕構成要素は足場をなくす」と答える。
p.510から
(マハー・ブラフマーつまり大梵天の発言)
わたしは、この四種の構成要素、すなわち地界・水界・火界・風界は、どのような場合に跡形もなく消滅するのかを知らないのである。だから、比丘よ、かの世尊を措いて、その質問の答えをほかに求めることは、あなたの失敗であり、罪である。比丘よ、世尊のおられるところまで行き、この質問をせよ。そして、世尊があなたに答えられたままを記憶しなさい』と。
(ゴータマ・ブッダの発言)
比丘よ、次のような質問をしてはならない〈世尊よ。この四種の構成要素、すなわち地界・水界・火界・風界は、どのような場合に跡形もなく消滅するのか〉と。比丘よ。次のように尋ねるべきである。
どこで、水、地、火、風は足場をなくすのか(存在しなくなるのか)。
どこで長・短、細かさ・粗さ、浄・不浄は〔足場をなくすのか〕。
どこで名称(名)と形態(色)は跡形もなく消滅するのか〉
ここにその解答がある。
定義づけられない、限定のない意識(識)(33)を完全に捨てる場合。
ここに水、地、火、風は足場をもつことはない。
ここに長・短、細かさ・粗さ、浄・不浄も〔足場をもつことはない〕。
ここに名称と形態は跡形もなく消滅する。
意識(34)の消滅によって、これ(名称と形態)が消滅する』」
このように仏陀はいった。
p.636から
註
(8)心の作用 cetasika
漢訳は「心所」。心に属するもの。心の働き。精神現象。
(9)大まかな思慮内容 vitakkita
探求的な粗大な心の働きによって得られた知識内容。
(10)細かな考察内容 vicārita
観察的な微細な心の働きによって得られた知識内容。
(尋と伺と似た綴りだから派生語?)
[2023年5月21日に追加:
格変化かもしれない。原文をそのまま載せたのだろう。
尋伺(じんし。Vitakka-vicāra)とは綴りが違うが、パーリ語には格変化があるし、原文の時点で誤字脱字があることもある。
追加終わり]
(11)意識 manas
manasとcitta(cetas. 心)は、意味が似ているが、最初期の韻文中では次の違いがある。(1)manasはvāca(言葉)と対でいわれることが多いのに対して、citta(cetas)はkāya(身体)と対でいわれることが多い。
(2)manasは能動的であるのに対して、cittaは受動的である。
(3)cittaは、「心よ」と呼びかけられるが、manasにはそのような用法がない。
(4)六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)の一つとしての「意」の原語は、常にmanasである。
(30)名称と形態
原語はナーマとルーパ。ナーマは「名称」を意味し、ルーパは最初期の韻文中では、「美しい姿」「様子・状態」「姿・形」「物質」「(眼の対象としての)色形」「パターン」などと訳し得るが、ナーマとルーパがセットでいわれた場合は、「個体」を意味する。その場合、ナーマを精神、ルーパを身体と説明されるが、そのように解するのは教義学者たちが無理にこじつけた解釈であろう。インド思想一般の用例としては、ナーマを精神と解することは無理である。また、ナーマルーパ(ハイフンなしで合体して綴っている)はウパニシャッドでは全ての存在を意味する。
(33)意識(識) viññāna
認識の主体。知覚したものを分節化する働き。たとえば、連続したスペクトラムの集まりである虹から数種の色を分離して、名付ける働き。
第一二経 非難されるべき教師のたとえ―露遮経
〔『露遮経』(ろしゃきょう、Lohicca-sutta, ローヒッチャ・スッタ) 〕
橋本哲夫(訳)
第一三経 正しい道とはなにか―三明経
〔『三明経』(さんみょうきょう、Tevijja-sutta, テーヴィッジャ・スッタ)(訳)〕
橋本哲夫(訳)
本文メモは以上。
参考資料
君子(くんし)は庖厨(ほうちゅう)を遠(とお)ざく
https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/kotowaza28
"出典
孟子(もうし)・梁恵王(りょうけいおう)・上
意味
男子たる者は台所に入り込んで、料理・家事のような女子のする仕事に口を出すべきではない、という意味で使われることが多い。「庖厨(ほうちゅう)」は、台所・炊事場のこと。現在、日本では右のような意味に用いられているが、本来の用法とはかなり異なっている。本来は、君子は生あるものを哀れむ気持ちが強いから、生き物を殺す料理場に近づくことは、とうてい忍び得ないという意味である。「君子は庖厨を遠ざかる」という読み方もある。ここでは一般に出典とされている『孟子(もうし)』による。
[略]
〔曰(いわ)く、傷むこと無(なか)れ。これ及(すなわ)ち仁術なり。牛を見るも未(いま)だ羊を見ざればなり。君子の禽獣(きんじゅう)に於(お)けるや、その生を見てはその死を見るに忍びず。その声を聞きては、その肉を食らうに忍びず。是(ここ)を以(もっ)て君子は庖厨(ほうちゅう)を遠ざくるなり、と。〕
訳文
(斉(せい)の宣王(せんおう)は、祭りの犠牲(いけにえ)にする牛が哀れで見ていられないので、代わりに羊を使うことにした。人民は、王がけちなので、小さな羊にするのだと悪口を言った。王はそのことを残念に思い、孟子(もうし)に尋ねた。孟子は、王が真に生き物を哀れむなら、牛も羊も哀れなことには区別がないはずだと言った。王がそれを肯定すると、孟子は次のように)言った。「王はご心配なさるに及びません。犠牲になる獣を哀れむ心こそ仁への道筋です。今までは牛の哀れなようすは目に留められましたが、羊には目を留められなかったからです。君子が禽獣(きんじゅう)に対するとき、生きているのを見ると、その死ぬのを見るのは堪えられないものです。その死ぬときの声を聞いては、とうていその肉を食べる気にはなれません。ですから、君子は生き物を殺す料理場には近寄らないものです。」
解説
「忍びざるの心」は、『孟子(もうし)』の仁という道徳の基本である。この「忍びざるの心(=哀れなものをじっと見ていられない心)」を拡大すれば仁になる。これを「惻隠(そくいん)の心(こころ)」といい、『孟子(もうし)』の性善説の基本となっている。
"
https://twitter.com/ms06r1a/status/787127291235008512
"中村甄ノ丞あるある早くいいたい
@ms06r1a
返信先:
@ms06r1a
さん
「男子厨房に入らず」のオリジナルは『孟子』の「君子庖厨を遠ざく也」なんだけども、これも君子が屠殺される牛や豚なんか見ると可哀想になってメシ食えなくなって働けなくなるから厨房に近寄るな、っていう意味。
午後0:05 · 2016年10月15日·Twitter Web Client"
https://twitter.com/nabe1975/status/1480090280363966466 と続き
”Watanabe
@nabe1975
「男子厨房に入らず」の出典は孟子の「君子は庖厨を遠ざく」だが、そもそも「君子たる者は仁徳を持つので禽獣が殺される厨房に立ち入るのは忍び得ない」という意味であった。それが本邦に入ると「男子たるもの厨房に入るべきではない」と妙に上から構えた言葉になってしまうのは妙なものである。
午後5:13 · 2022年1月9日·Twitter Web App
そもそも大膳職や内膳司は高位の官職であり、中世以前に男性の調理が忌避されたという記録もないので、男子厨房に入らず云々はむしろ近代化以後に曲解された結果ではないかと考える。
午後5:15 · 2022年1月9日·Twitter Web App
”
ノザキハコネ
@hakoiribox
6月27日
真面目に言うと不殺生戒はおのれの気持ちの問題の領域なので生活のためのやむを得ない殺生と理解するなら別に……。逆に面白半分とかふざけた感情があるならただ見ていた知っていただけでも随喜同業(殺生を喜ぶ気持ちがあったならばそれは実際に殺した者と全く同じ)にぶつかりますね。
引用ツイート
ぱーりんか │ Bar Pálinka
@BarPalinka
6月27日
友人のお坊さんに「家にGが出たらどうするの?やっぱり不殺生を貫き通すの…?」って聞いたら「そうですね…殺めはしませんがホウ酸団子を設置します。それを食べて◯ぬのはGが勝手に自分の欲望に負けただけになるので。」と笑顔で返ってきたの思い出して僕は今日も欲望に負けてビール飲んでます。
このスレッドを表示
ノザキハコネ
@hakoiribox
6月27日
上座部仏教だと僧侶は虫一匹殺すべきではないとして僧侶用の忌避効果のみで毒性のない虫除けスプレーがあったりするわね。
ノザキハコネ
@hakoiribox
6月27日
上座部仏教には僧侶は金銭という不浄な物に触れるべきではないという御立派な考えもあるんですけど、じゃあそういう国で買い物とかどうやってるかというと僧侶本人のかわりに弟子が財布を持って一緒に買い物してるからな。
ノザキハコネ
@hakoiribox
6月27日
初期仏典にも実は三種の浄肉という考えがあって僧侶も「殺されるところを見ていない・自分のために殺したと聞いていない・自分のために殺したと知らない」肉なら食べてもよいと書かれています。要するに殺生そのものではなくて「自分は生き物を殺したのでは?」という迷いが避けられているんやな。
6月27日
殺生を見て全く動揺しない人間はまずいない。頭の中に「俺は残酷なことに手を貸したんだ」という不安が浮かぶ人もいれば「動物を殺して何が悪いんだ」と強がったり理屈をこねたくなる気持ちが湧く人もいるでしょう。その心の乱れこそが妨げなのであって行為そのものが罪という解釈なのではない、と。
ノザキハコネ
@hakoiribox
6月27日
不殺生戒については上座部では行為自体をタブーとして受け取る方向に発展したし大乗では行為そのものに罪があると受け取るようになったのでじつは見解がまちまちなんですよに。
ノザキハコネ
@hakoiribox
6月27日
儒教も「君子庖厨遠ざく」だし大乗仏教の肉食忌避には中国の文化的影響もありそうな気がしている。
うなじさんがリツイート
ぱーりんか │ Bar Pálinka
@BarPalinka
6月27日
友人のお坊さんに「家にGが出たらどうするの?やっぱり不殺生を貫き通すの…?」って聞いたら「そうですね…殺めはしませんがホウ酸団子を設置します。それを食べて◯ぬのはGが勝手に自分の欲望に負けただけになるので。」と笑顔で返ってきたの思い出して僕は今日も欲望に負けてビール飲んでます。
うなじさんがリツイート
ノザキハコネ
@hakoiribox
6月27日
真面目に言うと不殺生戒はおのれの気持ちの問題の領域なので生活のためのやむを得ない殺生と理解するなら別に……。逆に面白半分とかふざけた感情があるならただ見ていた知っていただけでも随喜同業(殺生を喜ぶ気持ちがあったならばそれは実際に殺した者と全く同じ)にぶつかりますね。
引用ツイート
ぱーりんか │ Bar Pálinka
@BarPalinka
· 6月27日
友人のお坊さんに「家にGが出たらどうするの?やっぱり不殺生を貫き通すの…?」って聞いたら「そうですね…殺めはしませんがホウ酸団子を設置します。それを食べて◯ぬのはGが勝手に自分の欲望に負けただけになるので。」と笑顔で返ってきたの思い出して僕は今日も欲望に負けてビール飲んでます。
このスレッドを表示
うなじ
@unajiperopero
6月27日
在家の五戒ならお気持ちの問題で済むかもしれないけど、比丘の波羅提木叉は各罪の定義がカッチリ決まってるので、普通に奪畜生命戒で波逸提だと思う
うなじ
@unajiperopero
6月27日
もっとも、その友人のお坊さんとやらが何宗だか知らんけど、日本の場合は出家者でも具足戒を受けない場合が多いという世界的にも特殊な事情があるので、律の解釈をそのまま適用するのが果たして適当かどうかという話はある
うなじさんがリツイート
ノザキハコネ
@hakoiribox
6月27日
儒教も「君子庖厨遠ざく」だし大乗仏教の肉食忌避には中国の文化的影響もありそうな気がしている。
うなじさんがリツイート
遊牧民@候選
@Historian_nomad
6月27日
ジャイナ教どこいったよ
[
ふぎさやか
@fugisayaka
6月27日
返信先:
@Historian_nomadさん
ご指摘ありがとうございます。当該ツイートは削除致します。
(というリプがあるのでジャイナ教うんぬんの対象ツイートがあったことはわかるが、その呟き自体は私が確認した時点では消去済み)
]
うなじさんがリツイート
遊牧民@候選
@Historian_nomad
6月27日
ていうか多分この辺の話も扱ってるかどうか『インド宗教興亡史』を読んでないといけないんだけどまだ読めてねえんだよ(切れ気味(中国圏における肉食拒否に漢文文化圏の影響が絶無とは言わないけどインドでもジャイナ教徒の相互影響で確か忌避には向かってた気がするけどうろ覚え
うなじ
@unajiperopero
6月27日
下田先生の『涅槃経の研究』では、古い経典では肉食が美食の一種として扱われてるのに対して、インド社会が「ヒンドゥー化・バラモン化」するに従って肉食が下位カーストと結びついて不浄視されるようになったのが(大乗)仏教に取り入れられたとある
6月27日
けどこれ少し前の本だから、最近の研究でどう言われてるかはわからんな
うなじ
@unajiperopero
6月27日
肉とセットで香草類も禁止されるのは、チャンダーラが肉と香草類を食べてたのが背景にあるんだとか たしかに殺生とかそっちの理屈だけだと肉は説明できても香草類の禁止は説明できないんだよな
(以下の『梵網経』は大乗仏教の方ね。『梵網経』は2種類あるんだ。
梵網経 (大乗仏教) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E7%B6%B2%E7%B5%8C_(%E5%A4%A7%E4%B9%97%E4%BB%8F%E6%95%99)
”『梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十』とは、大乗仏教の経典であり、『梵網経』(ぼんもうきょう)と通称する[1]。鳩摩羅什訳とされる漢訳が伝わる。上下の二巻本で、下巻を特に「菩薩戒経」とよぶ。
僧肇[2]の序文によれば、原本『梵網経』120巻61品の1品を訳出したものであるという[3]。 漢伝仏教における菩薩戒はこの経典に説かれるものが用いられる。
原本は伝わっておらず、5世紀頃に宋 (南朝)で成立した偽経(中国撰述経典)とみる学者が多い。[4]
パーリ語で書かれた上座部仏教所伝の『梵網経』とは内容がまったく異なる。
〔略〕
最終更新 2022年5月13日 (金) 15:52 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。”
梵網経 (パーリ) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E7%B6%B2%E7%B5%8C_(%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AA)
)
頁(おおがい)さんがリツイート
頁(おおがい)
@Notpoteo
2020年12月4日
下田正弘「東アジア仏教の戒律の特色」を読んだ。東アジア仏教の戒律として広まった『梵網経』は『涅槃経』その他大乗仏典から編纂されているが、肉食や香菜摂取の禁止はインドにおいては仏性と慈悲というよりも、ヒンドゥー文化の「不浄」の観念を受け入れざるを得ない社会的要請によるものであった。
頁(おおがい)さんがリツイート
https://twitter.com/Notpoteo/status/1357551214909485058
”頁(おおがい)
@Notpoteo
佐々木閑先生が強調されるように、僧団は原則として布施に頼って生活しているため、僧団としてもそういったヒンドゥー教的な価値観の浸透という社会的要請を無視できず、僧侶の肉食禁止を標榜するようになったって感じかな。法顕の『仏国伝』には肉食者が街を追い出されるという記述があるらしい。
午後1:46 · 2021年2月5日·Twitter for iPhone
”
パーリ語入門-文字と発音
https://www.manduuka.net/pali/basic/moji.htm
(今回の収録内容がまんま以下の通りだな)
長部 (パーリ) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%83%A8_(%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AA)
”1. 戒蘊篇(かいうんへん、Sīlakkhandha-vagga, シーラッカンダ・ヴァッガ)
• 1. 『梵網経』(ぼんもうきょう、Brahmajāla-sutta, ブラフマジャーラ・スッタ)
• 2. 『沙門果経』(しゃもんがきょう、Sāmaññaphala-sutta, サーマンニャパラ・スッタ)
• 3. 『阿摩昼経』(あまちゅうきょう、Ambaṭṭha-sutta, アンバッタ・スッタ)
• 4. 『種徳経』(しゅとくきょう、Soṇadaṇḍa-sutta, ソーナダンダ・スッタ)
• 5. 『究羅檀頭経』(くらだんずきょう、Kūṭadanta-sutta, クータダンタ・スッタ)
• 6. 『摩訶梨経』(まかりきょう、Mahāli-sutta, マハーリ・スッタ)
• 7. 『闍利経』(じゃりきょう、Jāliya-sutta, ジャーリヤ・スッタ)
• 8. 『大師子吼経』(だいししくきょう、Mahāsīhanāda-sutta, マハーシーハナーダ・スッタ)
(or『迦葉師子吼経』(かしょうししくきょう、Kassapa-sīhanāda-sutta, カッサパシーハナーダ・スッタ))
• 9. 『布吒婆楼経』(ふたばろうきょう、Poṭṭhapāda-sutta, ポッタパーダ・スッタ)
• 10. 『須婆経』(すばきょう、Subha-sutta, スバ・スッタ)
• 11. 『堅固経』(けんごきょう、Kevaṭṭa-sutta, ケーヴァッタ・スッタ)
• 12. 『露遮経』(ろしゃきょう、Lohicca-sutta, ローヒッチャ・スッタ)
• 13. 『三明経』(さんみょうきょう、Tevijja-sutta, テーヴィッジャ・スッタ)
〔中略〕
日本語訳
全訳
• 『南伝大蔵経・経蔵・長部経典1-3』(6, 7, 8巻) 大蔵出版
• 『パーリ仏典 長部(ディーガニカーヤ)』(全6巻)片山一良訳 大蔵出版
• 『原始仏典 長部経典1-3』(第1-3巻)中村元監修 春秋社
部分訳
サーマンニャパラ経(沙門果経) [DN2]
• 『世界の名著1 バラモン教典, 原始仏典 』中央公論社
マハーパリニッバーナ経(大般涅槃経) [DN16]
• 『ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経』中村元訳 岩波文庫
〔中略〕
最終更新 2020年7月16日 (木) 06:48 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
”
原始仏典〈第1巻〉長部経典1
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784393112212
”中村 元【監修】/森 祖道/浪花 宣明【編訳】/橋本 哲夫/渡辺 研二【訳】
価格 ¥8,800(本体¥8,000)
春秋社(千代田区)(2003/02発売)
〔中略〕
サイズ A5判/ページ数 641p/高さ 23cm
商品コード 9784393112212
NDC分類 183.08
Cコード C0315
出版社内容情報
『聖なる網の教え(梵網経)』『修行の成果(沙門果経)』『真のバラモン(種徳経)』『説法の奇跡(堅固経)』など「長部経典」第1経から13経までを収録。
内容説明
500人の弟子との遊行、青年バラモンとの問答…。さまざまな比喩を用い、民衆を仏の道に導こうとしたブッダのこころが、今、よみがえる。最新の研究成果にもとづき、流麗なわかりやすい訳文で贈る現代語訳の決定版。
目次
聖なる網の教え―梵網経
修行の成果―沙門果経
青年バラモンのおごり―阿摩昼経
真のバラモン―種徳経
バラモンの祭りと真の祭り―究羅檀頭経
マハーリの問い―マハーリ経
遍歴行者ジャーリヤの問い(霊魂と身体)―ジャーリヤ経
さまざまな苦行
心理作用の消滅
仏陀の賞賛した法―スバ経
説法の奇跡―堅固経
非難されるべき教師のたとえ―露遮経
正しい道とはなにか―三明経
著者等紹介
森祖道[モリソドウ]
1934年東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程(印度哲学)修了。スリランカ・英国留学。文学博士。東方学術賞受賞。現在、愛知学院大学文学部客員教授、パーリ文献協会(英国)日本代表
浪花宣明[ナニワセンミョウ]
1948年石川県生まれ。プーナ大学(University of Poona)Ph.D.現在、東方研究会研究員
橋本哲夫[ハシモトテツオ]
1949年大阪府生まれ。1972年大阪大学印度哲学科卒業、1981年同博士課程修了。米国留学。現在、種智院大学助教授
渡辺研二[ワタナベケンジ]
1950年東京都生まれ。1974年大正大学梵文学科卒業。現在、大正大学講師、明治大学講師
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。”
https://twitter.com/Prokoptas/status/1388978909673189379
”TOMITA_Akio
@Prokoptas
古代人は本名をひとに知られることを極度に恐れた。本名を知られることは、自分の生魂を掴まれたのと同じく、相手の意のままにされると信じたからである。
月の本名はΜήνη。先に見た如く、魔術師の力能は、自分が勧請せんとするダイモーンの本名を知っていることに存した。
画像
午前7:09 · 2021年5月3日·TweetDeck
”
(輪廻思想の宗教だと、真名で操れるという思想はどう扱われるんだろう?
現世の本名が真名になるのかな? 前世が超有名人ならどうなるんだろうな)
https://twitter.com/Prokoptas/status/1008810984100782080
”
ソロモーンの知恵とは、魔術にも精通した知恵のことであった。神殿建造に使役したダイモーンのことを記した『ソロモーンの聖約(Testamentum Salomonis)』は西洋最古の魔術書とされる。
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) June 18, 2018
「ソロモーンの封印」とは、一筆書きの五芒星のことである。 pic.twitter.com/QoQxGqNEc4
”
https://twitter.com/Prokoptas/status/1271172443386728448
”TOMITA_Akio
@Prokoptas
ダイモーンを使い魔として使役するには、そのが服従せざるを得ない名号を知っていることが絶対条件。ソロモーンがダイモーンを使役して神殿を造り得たのは、その名号を知っていたからである。「ソロモーンの遺訓」https://bit.ly/2U1Jqjx
中世の魔導書の源流がこれである。
画像
午前5:08 · 2020年6月12日·TweetDeck”
https://twitter.com/Prokoptas/status/1388980758828617729
”TOMITA_Akio
@Prokoptas
されば、ソロモーンは神殿建造(前10世紀頃)にダイモーンを使役したと言われるが、彼の力能はダイモーンの本名を知っていることに存した。その数72柱!!!である。その次第は『ソロモーンの聖約』
https://bit.ly/2U1Jqjx
に詳しいが、この書が中世の魔道書の先駆けをなした。
画像
午前7:16 · 2021年5月3日·TweetDeck”
https://twitter.com/Prokoptas/status/1062414681531248641
”
楽園に生い出た生命の樹。
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) November 13, 2018
全体は象徴的な向日葵の花(光の流出の象徴)。その花弁に72の神名。
この72という数は、12の倍数(12×6)であると同時に、360度を10度ずつに分けた「デカン」の2倍(つまり5度ずつに分けた)数。また『ソロモーンの遺訓』に登場するダイモーンの数。 pic.twitter.com/QjVyrx8X3C
”
https://twitter.com/Prokoptas/status/869270541412163584
TOMITA_Akio
@Prokoptas
ギリシア語魔術テキストはἈγαθὸς Δαίμωνの名号を唱えよという。これは7つの母音から構成されると同時に、月の28相(7の4倍)と調和している。アガト・ダイモーンとは、エジプトの創造神のギリシア語名である。
午前4:13 · 2017年5月30日·TweetDeck
"
https://twitter.com/Prokoptas/status/905164018599337984
"TOMITA_Akio
@Prokoptas
新約聖書はディアボロスδιάβολοςとδαίμων(その縮小辞であるδαιμόνιον)とを区別することで、その差異を維持したが、この区別はしばしばぼやけ、多くの英訳がダイモニオンを「悪魔」と翻訳することで、区別をさらに混乱させている。
午前5:21 · 2017年9月6日·TweetDeck"
(綱要(こうよう)= 基本となる大事な所)
https://twitter.com/Notpoteo/status/1542058953969762304 と続き
”
根津美術館のチケットおしゃれな栞になるからすき pic.twitter.com/yv4hv1ndk6
— 頁(おおがい) (@Notpoteo) June 29, 2022
りょう
@PP29H9GixlN66UJ
返信先:
@Notpoteo
さん
旧字体ですか? 唯識関係の文献でしょうか。
午後8:26 · 2022年6月29日·Twitter Web App
頁(おおがい)
@Notpoteo
返信先:
@PP29H9GixlN66UJ
さん
深浦正文『唯識學研究』という本です。かなり古い本ですが、網羅性という点では唯識法相宗の綱要書としてはこの本が一番優れていると思います。
午後9:51 · 2022年6月29日·Twitter Web App
”
https://twitter.com/pizano1215/status/1558075632570863616
”ゴスロリ同胞団
@pizano1215
『梵網経』の情報が全然なくて困る……
午後9:59 · 2022年8月12日·Twitter Web App”
https://twitter.com/jiei_yushi/status/1355111367179522052 と続き
”慈永祐士
@jiei_yushi
いろいろ考え方はあろうが、パーリ仏典では長部の第一経すなわち三蔵経典の最初に梵網経を置いており、これは外道の六十ニ見を検討し仏教の立場を明確にする経典で、Bhikkhu Bodhiは「明らかにストラテジックな意図で置かれている」と述べている。仏教はこの意味で「他との比較検討」からはじまった。
午後8:11 · 2021年1月29日·Twitter for Android
仏教は真理を悟り輪廻からの解脱を目指す教えだが、それはインド諸宗教に共通する。他教他派における悟りとは、解脱とはについて、感覚的にいってもかなり開きがある。初期の仏教と大乗仏教でもそうである可能性は大いにある。自分のところしか知らなければ、自分の基準で他を断ずることも起きうる。
午後8:18 · 2021年1月29日·Twitter for Android
”
[2022年10月23日に追加:
https://twitter.com/jiei_yushi/status/1582963696791277568 と続き
”慈永祐士
@jiei_yushi
いろいろと基本中の基本において、佐々木先生と認識が違いすぎて、最後まで観るのをやめてしまった。認識が違うというより、先生の体調が優れておられず、基本的な認識違いをされているのではとも。
午後2:15 · 2022年10月20日
·Twitter Web App
大貫
@o_nuk_i
10月20日
返信先:
@jiei_yushiさん
そうなのですか?
可能な限りで結構なのですが、どのあたりの認識が慈永さんと異なるのでしょうか?
慈永祐士
@jiei_yushi
返信先:
@o_nuk_i
さん
まず最初は、「肉体と精神を分けてはいけない」「二元論で考えてはいけない」「かならず五つで考えなければいけない」(1:58 https://youtu.be/Fq0ML-lpI68?t=118
)といわれていますが、ロジックが不自然です。「二元論で考えてもいいが、そこに固執してはいけない」ということです。というのは、→
午後3:01 · 2022年10月20日
·Twitter Web App
→二元論を避けても、五蘊それぞれに固執し切り離して考えるのなら意味がないからです。
二元論でみた場合は「名色」(nāma-rūpa)五つで分けた場合は「五蘊」(pañca-kkhandha पञ्च स्कन्ध, pañca-skandha)で分けますよということです。言葉尻のようにみえますが、説明として形式化されています。
午後3:05 · 2022年10月20日
·Twitter Web App
大貫
@o_nuk_i
返信先:
@jiei_yushiさん
なるほどですね。
ご丁寧にご教示いただき有難うございます。振り返れば、あの辺りの説明は歯切れが悪かったように思います。
少し逸れるのですが、せっかくの機会なので、お伺いします。テーラワーダでは、五蘊の精神作用は外界の対象との接触により連続的に生じると考えられているのでしょうか?
午後3:22 · 2022年10月20日
·Twitter for iPhone
慈永祐士
@jiei_yushi
返信先:
@o_nuk_iさん
ご質問のお答えはイエスです。もっとも正確な表現をするならば、五蘊のうち外界が色で、それ以外が精神作用になるわけですが、それはともかく、唯識のような学説をとくに念頭においてそのように法話で反駁するのを時々見かけます。
午後9:27 · 2022年10月20日
·Twitter Web App
大貫
@o_nuk_i
返信先:
@jiei_yushi
さん
有難うございます。
私は「想」の作用がいまいち掴めないのですが、外界の対象を心内でイメージする作用ということで宜しいでしょうか?
午前6:53 · 2022年10月21日
·Twitter for iPhone
慈永祐士
@jiei_yushi
返信先:
@o_nuk_iさん
「想」というのは、簡単にいえばイメージのことです。しかしイメージというのも語弊があります。私たちはイメージというと視覚についてだけのことをいったり、過去の思い出や食べたい物など、想像したものすべてを「イメージ」といったりしますので、それも正確な表現にはなりません。→
午前10:08 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
→我々が「イメージ」というとき「受想行」そして時には「識」まで一体になって用いますが、→
午前10:13 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
「受」というのは、要するに「快不快」のことです。
仏教においては、「快不快」という分け方ではなく「苦/楽/不苦不楽」の3カテゴリーで分けます(これは佐々木先生も触れられていました)。のちに苦楽を肉体/精神の2つのパターンも含め、計5パターンに分類します。
午前10:14 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
「想」は、ですから、「快不快」が含まれないものをいいます。「イメージ」のことではあるのですが、それでは正確ではないので、訳語では認知作用とかperceptionとかいうより厳密な語が当てられています。
午前10:16 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
「行」が、その「受」と「想」によってさまざまに展開される心のエネルギーの流れの総体をいいます。心所はみなこの「行」です。しかし心所のうち「受」と「想」の作用は特に別個に扱いましたから、次のようになります。
「行」=「全心所」-(「受」+「想」)
午前10:25 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
佐々木先生は動画で、「行」はもともと意志作用であったと仰有っておられました。意志作用は、伝統的なアビダンマでは「思」の心所のことです。そしてこの「思」こそが「カルマ」であるとブッダは定義しました。カルマの正体とは、行とくにこの「思」の心所のことであるとブッダは言われたのです。
午前10:29 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
インド諸宗教に通底する「カルマ思想」について、ブッダがこのように具体的に定義した(あるいは「つきとめた」?)ところに仏教のオリジナリティがあります。カルマというのはもともとインドでは、人間の行動一般を示す、もっと広い意味の語だからです。ブッダはこの根源を、心理作用に求めました。
午前10:31 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
「識」とは、「受」「想」「行」のプロセスを経た生成物です。「業」(カルマ)とは「行」を流れるものでありますが、それが心所として「識」という生成物を形成するのです。したがって「識」というのは「果」のことです。
午前10:36 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
「識」というのは、こういったプロセスを経て得られる「認識作用」のことをいいます。我々は「意識を変えよう」ということがありますが、もう既に生成物となった「識」を変えることはできないのです。意識を変えるなら、少なくとも「行」の段階から変える必要があります。
午前10:39 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
「意」と「心」と「識」とは同義語であるともいわれますが、このように考えると、見方によって違いが出てくることがわかります。同義語として扱ってよいかどうかは、その文脈に注意しなければならないように思います。
午前10:42 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
大貫
@o_nuk_i
返信先:
@jiei_yushiさん
とても勉強になります。
順を追って、分からない点をお伺いしたいのです。
想の時点で、犬なら犬、カレーの匂いならカレーの匂いと外界の対象を把握し、判断しているということで宜しいでしょうか。その場合、過去の経験などによって、想の内容は変わりますか?
午後0:17 · 2022年10月21日
·Twitter for iPhone
犬に噛まれた経験があれば、犬が恐ろしく認知されるというような形で。
午後0:17 · 2022年10月21日
·Twitter for iPhone
慈永祐士
@jiei_yushi
返信先:
@o_nuk_iさん
>想の時点で、犬なら犬、カレーの匂いならカレーの匂いと外界の対象を把握し、判断しているということで宜しいでしょうか
「想」は外界の対象の把握はしますが、判断はしません。
が、現実として五蘊は同時発生(sahajāta)し、相互作用するので、時間軸でいえば「想の時点」ということはあります。
午後0:37 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
>犬に噛まれた経験があれば、犬が恐ろしく認知されるというような形で。
犬のイメージが「想」
不快に感じるのが「受」
そこで恐ろしく感じてさまざまな心理作用に展開するのが「行」
そうしてできた「犬の記憶や認識、イメージなど」が識別されるのが「識」
これらが絡み合って働いています。
午後0:40 · 2022年10月21日
·Twitter Web App
[
慈永祐士
@jiei_yushi
·
10月21日
返信先:
@jiei_yushi
さん,
@o_nuk_i
さん
>犬に噛まれた経験があれば、犬が恐ろしく認知されるというような形で。
犬のイメージが「想」
不快に感じるのが「受」
そこで恐ろしく感じてさまざまな心理作用に展開するのが「行」
そうしてできた「犬の記憶や認識、イメージなど」が識別されるのが「識」
これらが絡み合って働いています。
旭天坊
@kyokutenbo
返信先:
@jiei_yushi
さん,
@o_nuk_i
さん
済みません。教えていただきたいのですが、受想行は識を生成しますが、受想行もその時点の識の影響を受けているという理解でいいのでしょうか。
犬は噛むという識に基づいて不快という受が起こるというような。
午前10:05 · 2022年10月22日
·Twitter for iPhone
慈永祐士
@jiei_yushi
返信先:
@kyokutenbo
さん,
@o_nuk_i
さん
>受想行もその時点の識の影響を受けているという理解でいいのでしょうか。
>犬は噛むという識に基づいて不快という受が起こるというような。
仰有るとおりです。識がまた受を刺激し、想をもたらし行が形成され識が生成されるというプロセスが延々と繰り返されます。
午前10:08 · 2022年10月22日
·Twitter Web App
慈永祐士
@jiei_yushi
返信先:
@jiei_yushi
さん,
@kyokutenbo
さん,
@o_nuk_i
さん
ちなみにですが、佐々木先生が動画で「肉体と精神を切り離して考えてはいけない、仏教では五蘊なのだ」といわれましたが、これは西洋近代主義などの反省でそのようなことがいわれるようになったというのは理解できるのですが、
午前10:12 · 2022年10月22日
·Twitter Web App
昨日もふれましたが、仏教においては「名色」(nāma-rūpa)がそれに相当し、これはブッダの十二因縁の一つでもあり、ブッダはこれを「切り離す」(解きほぐす?)ことで一切の苦の滅尽を成し遂げました。そしてこの考えを忌避してかえって五蘊を実体視するなら同じ弊に陥ることになってしまうのです。
午前10:15 · 2022年10月22日
·Twitter Web App
]
大貫
@o_nuk_i
返信先:
@jiei_yushi
さん
一刹那ずつ起こっていくのではなくて、同時発生なのですね。合点がいきました。
午後0:43 · 2022年10月21日
·Twitter for iPhone
慈永祐士
@jiei_yushi
10月21日
返信先:
@o_nuk_i
さん
そういえば有部アビダルマでは「一刹那」ずつしか怒らないんでしたっけ?テーラワーダ・アビダンマでは詳細は忘れましたが、この同時発生(sahajāta)は、時宜適には「相互発生」ということですから、厳密には一刹那ずつかもしれません(そこはちょっと確認要です)。
10月21日
返信先:
@jiei_yushi
さん,
@o_nuk_i
さん
時宜適→字義的
大貫
@o_nuk_i
返信先:
@jiei_yushi
さん
私もうる覚えなので、はっきりしないのですが、そのような印象があります。
午後1:23 · 2022年10月21日
·Twitter for iPhone
有部は一刹那一法で、唯識は同時生起を認めるのではなかったかと。
午後1:25 · 2022年10月21日
·Twitter for iPhone
慈永祐士
@jiei_yushi
返信先:
@o_nuk_i
さん
ありがとうございます。そういえば私も昔そのように読んだことがあったように思います。
午後4:43 · 2022年10月21日
·Twitter for iPhone
大貫
@o_nuk_i
返信先:
@jiei_yushi
さん
ご丁寧にご教示いただき有難うございました。善い機会を賜り幸甚に存じます。
午後7:22 · 2022年10月21日
·Twitter for iPhone
”
「「意識を変えよう」ということがありますが、もう既に生成物となった「識」を変えることはできないのです。意識を変えるなら、少なくとも「行」の段階から変える必要があります。」
で自己啓発系が全滅してて草。仏教はマジで有効な方法を教えてくれるからな
]
[2023年5月3日に追加:
https://twitter.com/Notpoteo/status/1653275600457723905 と続き
”頁(おおがい)
@Notpoteo
『唯識 これだけは知りたい』、唯識についてこれだけは知りたいと思うことある?という疑問を捨象した熱量ある入門書。インド・中国・日本に至る瑜伽行派とそこから派生した唯識派、法相宗についての歴史と、外界非実在論・三性・八識・行位・五姓各別説の二本立て。仏教をモチーフにした芸術作品も。
画像
午後2:49 · 2023年5月2日
·
4,554
件の表示
第一部の唯識思想の流れについてはやや詳細、第二部の基本的な解説事項は簡潔に纏まっていて良かった。
午後2:52 · 2023年5月2日
·
432 件の表示
1,500円は安い!入門書としても読みやすいし、たいへんおすすめです。
午後2:58 · 2023年5月2日
·
289
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”
https://twitter.com/Notpoteo/status/1653284786528731136
”頁(おおがい)
@Notpoteo
興福寺の良遍について、天台宗の寺で出家して石清水八幡宮や鹿児島神社、熊野三山に参詣したって記述はどこが典拠なのか気になる。
引用ツイート
頁(おおがい)
@Notpoteo
·
5月2日
『唯識 これだけは知りたい』、唯識についてこれだけは知りたいと思うことある?という疑問を捨象した熱量ある入門書。インド・中国・日本に至る瑜伽行派とそこから派生した唯識派、法相宗についての歴史と、外界非実在論・三性・八識・行位・五姓各別説の二本立て。仏教をモチーフにした芸術作品も。
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午後3:26 · 2023年5月2日
·
429
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追加ここまで]
[2023年5月6日に追加:
https://twitter.com/kadoh108/status/1414207613454012416 と会話
”火童🔥多問第一 @kadoh108 · 17分
@kadoh108
仏教は漢文も他と違うんですよね。サンスクリットのせいなのか、どうなんでしょうね。
午後9:59 · 2021年7月11日
DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
主語と述語の間に「而」が挟まったり「与」と「倶」が対応したり「於何」という表現が出てきたり、いろいろ特殊な句型がありますね(疑問文に割と破格の語順が多い)。金岡照光『仏教漢文の読み方』によると、「問答体、質疑応答という、かなりヴィヴィッドなシチュエーションを、原典から翻訳するため、
午前10:23 · 2021年7月12日
自然、破格な漢文も生まれがちだという理由も考えられる」「特徴的な表現が使われるのは、一つには翻訳のせいもあろうが、さらに、こうした宗教書独自の機能と性格、また念誦するという口頭の働きも加味される文章であるための、リズムの配慮なども、あわせて考えていく必要があろう」とのこと。
午前10:24 · 2021年7月12日
”
https://twitter.com/prapanca_snares/status/1359109292993900549 と続き
”DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
前野直彰『漢文入門』読了。そもそも漢文とは一体何なのかということは考え始めると非常に厄介な問題だということから話を始め、現在の訓読法は昔からあるような顔をしてるけど、実は江戸末期の新訓読の流れを汲んだここ百年余りのものだというところまで話をもっていく。非常にいい本でした。
午後8:58 · 2021年2月9日
「漢文直読」論についても、訓読には便利な面はあるが様々な問題も含んだ方法であるため、現代中国語を用いて読むべきだという主張は原理的には正しいとしつつも、現代中国語を通じて中国の古典を読むことにも別種の危険があり、ときには訓読の方が正確に解釈できることもあるから問題は複雑だとする。
午後8:58 · 2021年2月9日
訓読に問題がある手法であっても、日本人が訓読で中国の古典を読み、訓読の頭で思考してきたのは事実だし、「屹度可被仰付事」みたいな中国語ではありえない奇怪な文章も日本語の一部である以上、それは日本文化の問題としては重要な一部だというバランス感覚ある見解で本書は結ばれる。いいですねぇ。
午後8:58 · 2021年2月9日
遊牧民@候選
@Historian_nomad
先生!!!そこから金文京先生の『漢文と東アジア』にいきましょう!!!
午後11:33 · 2021年2月9日
巻末の齋藤希史先生による解説でも取り上げられてたので、読んでみたくなりました。「訓読は問題を抱えた技術だ」で終わる単純な話ではなく、文化現象として捉えると面白いということがよくわかりました(こなみ)。
午前9:03 · 2021年2月10日
”
https://twitter.com/prapanca_snares/status/1377969759262633985 と続き
”DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
>RT
ここにあがってるやつだと、『全訳 漢辞海 第四版』は現在進行形で非常にお世話になってます。巻末の付録が素晴らしくて、なかでも「漢文読解の基礎」は中国語の文語文法がコンパクトにまとまってる。これを読むだけでも高校の漢文の授業とは全く違う世界が味わえるのでおすすめです。
午後10:02 · 2021年4月2日
漢文の文構造を把握するのに重要な助字についても解説が詳しいし、すべての漢字の語法を分析し、品詞名を与えてもいる。いわゆる訓読語法よりも、「漢文」を外国語として捉える視点で、中国語の視点から漢字を見つめて語法を解説しているのが素人目にもひしひしと伝わってきます。
午後10:03 · 2021年4月2日
”
https://twitter.com/prapanca_snares/status/1303171577723281409
”DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
小川環樹・西田太一郎『漢文入門』には現在進行形でお世話になっております。
午後0:21 · 2020年9月8日”
頁(おおがい)
@Notpoteo
仏教漢文あるある、「所有」を「あらゆる」としか読めなくなる
午後9:01 · 2023年4月14日
·
3,233 件の表示
うなじ
@unajiperopero
漢文のお勉強、最初に漢辞海の付録から入ったが、『漢文法ひとり学び』の方を最初にやった方がよかったかもしれない 薄さに惑わされた
午前8:59 · 2021年9月13日
うなじ
@unajiperopero
『漢文法ひとり学び』の最終章みたいな白文のリーダー(『漢文入門』の返り点付いてない版)があればいいと思って少し調べたんだが、よくよく考えたら、白文と書き下しと語釈と現代語訳が揃ってる古典の訳注はたくさんあるんだから、それを使えばいいだけだった
午前10:27 · 2021年10月17日
うなじ
@unajiperopero
仏教漢文あるある、「如是」で字数調整をする(それは仏教漢文あるあるじゃなくて曇林筆受あるあるだろ!)
午前0:34 · 2023年4月15日
·
1,736
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https://twitter.com/unajiperopero/status/1592504506457419776 と続き
"うなじ
@unajiperopero
荘子、福永訳は漢文(訓点付き)、現代語訳、解説で、池田訳は漢文(白文)、現代語訳、語釈か 福永訳の解説の中にも適宜語釈あるけど、詳しめの語釈欲しいから池田訳かなぁ
午後10:07 · 2022年11月15日
書き忘れてたけど、両方とも書き下しもある
午後10:14 · 2022年11月15日
池田訳、よく見たら後ろに解説もついてるじゃん 文庫なのにフルセットじゃねえか 俺は電子で読んでるけど、これマジで物理の文庫本にしたのか?
午後10:20 · 2022年11月15日
”
https://twitter.com/neko_skt/status/1654609325057343490 と続き
”ネコノ骨
@neko_skt
kāla という語は多義語で時間も黒も死も意味するけど、黒色は置いといて時間と死については連関している。寿命で死ぬことを時に適った死 kālamṛtyu というように時間は生き物の生の期限を定めてしまう。十王子物語で蛇に咬まれた男が kāladaṣṭa と言われるとき「死に咬まれた」と直訳できるけど、
午前7:09 · 2023年5月6日
·
108
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これは意味としては寧ろ寿命だった・死ぬ運命だったという感じ。閻魔さまヤマを殺すシヴァがカーラサンハーラ(カーラを滅ぼす者)と呼ばれるのはヤマの別名がカーラだからだけど、それもヤマが別に誰彼構わず殺してるからじゃなくて寿命を司る神さまだからそう呼ばれてる訳です。
午前7:10 · 2023年5月6日
·
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時間はどうやって観測するの?16世紀の文献で地球儀(たぶん)と四分儀を手にした人が、太陽が時間を生み出しているからこれで太陽を捕まえてコントロールするぜ!と言ってて捕まえるはともかく面白い思想だなと思った。天体観測で時間を支配するんだね。ジャイナ教徒なんだって。ほんまかな…😅
午前7:10 · 2023年5月6日
·
66
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もっと古く遡ってアウグスティヌスの時間論とまさに同じ頃、遠いインドの地でバルトリハリもまた時間を論じていた。彼は時間を存在様態を変化させて「順序」を創り出す二種類の力、或いは働きと論じていた。阻む力と、許す力😶
午前7:12 · 2023年5月6日
·
53
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”
追加ここまで]
[2023年5月12日に追加:
https://twitter.com/unajiperopero/status/1287246284999409665 と続き
”うなじ
@unajiperopero
高田眞治『詩経』
国風だけの訳とかも結構あるけど、これは全訳。白文、書き下し、和訳、語釈、解説と一通り揃っていて、古注新注各種触れられており、便利。解釈は詩序を尊重することが多い。「漢詩大系」版と「漢詩選」版があって、「漢詩大系」版には和訳が付いてないので注意
午後1:40 · 2020年7月26日
2020年7月26日
揃いで手に入らなかったから、上巻は漢詩選、下巻は漢詩大系で持ってるんだけど、下巻に入ってから、「あれ、和訳ねえ」ってなった
”
うなじ
@unajiperopero
高田眞治訳の『詩経』、揃いで手に入らなかったので、上巻は漢詩選、下巻は漢詩大系ので持ってるんだけど、漢詩大系の方のには和訳がないことに、下巻読み始めてから気付いてしまった 内容一緒だと思って、別にいいかと思って買ってしまってた
午後3:52 · 2020年6月4日
まあ、白文、書き下し、語釈、解説は揃ってるから、そこ読めば十分意味は取れるから、問題ないと言えば問題ないんだが、適当に語釈を読み飛ばしながら読んでると意味が取れないので、どうしても読むスピードは落ちるな
午後3:54 · 2020年6月4日
DJ プラパンチャ
@prapanca_snares
良い子のみんなは『漢文を読むための助字小辞典』(40ページ)をマウスパッドがわりにしてはいけません……! #しばらく乾かすことになりました
午後3:11 · 2022年3月1日
仏教漢文の読み方(金岡照光著) 本の紹介 日本漢文の世界 kambun.jp
https://kambun.jp/books/kanaoka-bukkyo.htm
”書名 仏教漢文の読み方(新装版)
副題
シリーズ名 旧版は「春秋選書」
著者 金岡 照光(かなおか しょうこう)
出版社 春秋社
出版年次 旧版は、昭和53年(1978年)
新装版は、平成12年(2000年)
ISBN 9784393101063(旧版)
9784393101520(新装版)
定価(税抜) 1,339円(旧版)
1,800円(新装版)
著者の紹介 著者(1930-1991)の専門は、唐代俗文学・中国宗教文学史です。旺文社の大学受験ラジオ講座の漢文を十年以上担当されていたことで知られています。『中国故事成語辞典』(三省堂)、『中国名言辞典』(東京堂出版)、『敦煌の文学』(大東出版社)、『敦煌の民衆』(評論社)などの著書があります。
国立国会図書館 仏教漢文の読み方 新装
Amazonへのリンク 仏教漢文の読み方 (春秋選書)
本の内容:
わが国の文化は、古代から仏教の大きな影響を受けてきました。しかし、わが国の漢学は儒学偏重で、仏典(仏教経典)を不当に軽んじています。そのため、漢学を相当に学んだ人でも仏典はまったく読めないということも珍しくなかったのです。たとえば、諸橋轍次博士は百歳にして『三聖対談』(講談社学術文庫)なる本を書いていますが、その序文に、仏典読解にはずいぶん難儀したと、正直に告白しています。そのような事情により、仏典は語学的検討を加えられることのないまま、伝統的・宗派的読解に委ねられていたため、かの『大正新修大蔵経』ですら、初歩的な句読を誤っている箇所があるというのです。
著者はこのような現状を憂え、仏典を語学的に正しく解釈できるようにと、本書においてその読み方を解説しています。執筆態度はきわめて誠実であり、また非常に分かりやすく、仏教漢文の参考書として現在でも最高の本です。
本書は二部に分かれ、第一篇では、漢訳仏典とはいかなるものかを概説し、第二篇で具体的な語彙や語法を解説しています。
第一篇で興味深いのは、吉川幸次郎博士が指摘したという、漢訳仏典の言語的特色です。漢訳仏典は、全部を四字句で構成しようという特徴があること、当時(六朝期)の俗語を交えた雅俗折衷体の文章であることです。四字句作成のために助字や動詞の複合使用が行われ、加えて俗語が使用されたことが、いまや逆に難解の原因となっているのです。梵語の音訳が多いことも難解な理由の一つです。
第二篇でとりあげられる語彙・語法は核心をついたものばかりで、実際の読解にずいぶんと役に立ちます。ひとつだけ例をあげておきます。仏典では、「を」という意味で「於」の字が使われています。一般の漢文では、「を」の意味で「於」の字を使うことはありません。「花ヲ愛ス」は「愛花」であって、「愛於花」とは書きません。しかし、仏典ではほとんどの場合、「愛於花」のようになるのです。ですから、「仏ヲ渇仰ス」は「渇仰於佛」となります。私は本書を読んでいて、何度も目から鱗が落ちる思いがしました。
この本は、一般の漢文から一歩をすすめて、仏典を読もうとする人にとって、最初の導きとなるものであります。
2001年9月9日公開。2002年10月13日一部修正。
”
漢文入門(小川・西田共著) 本の紹介 日本漢文の世界 kambun.jp
https://kambun.jp/books/ogawanishida-kanbun.htm
”書名 漢文入門
副題
シリーズ名 岩波全書233
著者 小川 環樹(おがわ たまき)
西田 太一郎(にしだ たいちろう)
出版社 岩波書店
出版年次 昭和32年(1957年)
ISBN 9784000201018
定価(税抜) 3,100円
著者の紹介 小川環樹氏(1910-1993)には著作集(筑摩書房・全5巻)があります。
西田太一郎氏(1910-1982)の著書には、『漢文の語法』(角川小事典23・絶版)等があります。
角川書店の小型漢和辞典『新字源』は、この両先生が編者になっています。また両先生とも、みすず書房の『荻生徂徠全集』編集に参加されていました。
国立国会図書館 漢文入門 (岩波全書)
Amazonへのリンク 漢文入門 (岩波全書 233)
本の内容:
漢文訓読法を本格的にマスターしたい人におすすめの学習書です。本書の訓読法は、現在用いられている最も標準的な読み方ですから、これから訓読法を学ぼうという方は、本書で基本をマスターされるのがよいと思います。ただし、字が小さく、やや難解な部分がありますので、とっつきにくいと感じられるかもしれません。しかし、途中で投げ出さずに読みきることができれば、ずいぶん力がつきます。少しずつ気長に学習を進めてください。
第一部序説の「語法概説」では、漢文の語法について、簡潔に説明されており、この部分を熟読するだけでも、漢文がかなり読めるようになります。
第二部短文篇では、戦国策、孟子等の先秦の書物から面白い話を選んで、読解を加え、語法についても詳説しています。ここで例文を先秦の書物から選んでいるのは、一つの見識だと思います。唐代以降の古文も、これら先秦の文を学んだものだからです。
第三部は、各体篇で、漢文のいろいろな文体(「論弁類」、「碑誌類」などの様式のこと)について解説し、文体ごとに例文を読解しています。この部分は主に唐宋以降の擬古文を例文に採用しています。漢文では文体ということを重んじますから、この部分もしっかり読んでおく必要があります。
本書の解説には非常に高度な部分もありますから、学習の進展にあわせ、何度も読むのがよいと思います。漢文訓読法は、われわれの祖先が苦労を重ねてあみ出してくれた、非常にすぐれた読解法です。日本文化の正しい理解のためには、訓読法を身につける必要があります。本書を熟読すれば、正確な訓読法が身につけられますので、がんばって取り組んでいただきたいと思います。
2002年2月24日公開。2019年10月19日一部修正。”
https://twitter.com/paotongzi/status/1235392562019495936 と続き
”ぱおとんず
@paotongzi
【漢文が専門外で国語教員となる方向けの必読書】
・西田太一郎『漢文法要説』(朋友書店)
・小川環樹 西田太一郎『漢文入門』(岩波全書)
・古田島洋介 湯城吉信『漢文訓読入門』(明治書院)
・加藤徹『白文攻略 漢文法ひとり学び』(白水社)
※以上は入手しやすいもの。
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午前11:31 · 2020年3月5日
【文庫化により入手しやすいもの】
・二畳庵主人(加地伸行)『漢文法基礎』(講談社学術文庫)
・前野直彬『精講 漢文』(ちくま学芸文庫)
【やや入手困難だが手元にあると便利なもの】
・西田太一郎『漢文の語法』(角川小辞典)
※復刊を望みます。
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午前11:38 · 2020年3月5日
【追加】
江連隆『漢文語法ハンドブック』大修館書店
濱口富士雄 編『改訂版 漢文語法の基礎』東豊書店
※連続ツリー冒頭の「必読」は語気が強かったので「おすすめ」に訂正します。
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午後2:02 · 2020年3月26日
”
こうく
@usedtobe_sth
『白文攻略 漢文法ひとり学び』は、高校生さんや学部の1年生さん、社会に出られてから改めて、まずは漢文法を学びたい人におすすめ
訓読をもといもせず、むしろ漢文の文法を項目ごとに紹介し、巻末には簡単な字引もついた面白い文法書
午前11:39 · 2021年5月22日
追加ここまで]
[2023年5月18日に追加:
うなじ
@unajiperopero
阿頼耶識、認識とかその対象とかを成立させる基盤そのものなので、心識とは別物として整理した方が絶対わかりやすいと思うけど、実際の唯識仏教では心識とされているので、良い感じに教理を改変してくれなかった世親が悪い
午後10:57 · 2022年12月12日
うなじ
@unajiperopero
唯識のすごさをザックリ説明しなきゃならんとしたら、俺ならアビダルマの体系を龍樹が一度破壊して、それを唯識派が再建したってストーリーにして、末那識とかの細かい話は全部カットかなぁ
午後8:53 · 2023年3月21日
·
4,186
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うなじ
@unajiperopero
梵我一如→(三科のそれぞれが無我であることを示す)仏教の無我説出現→三科の関係を整理して五位七十五法へ存在の究極の要素を整理するアビダルマ→法有我を攻撃する龍樹の中観思想→アビダルマ的思考への揺り戻しとしての唯識
という感じの整理かなぁ
午後8:58 · 2023年3月21日
·
5,914
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https://twitter.com/suhamma/status/1658996304264171520
"なたねさんがリツイートしました
યુતકકવસકિ
@suhamma
法蔵館から先日出た『唯識 これだけは知りたい』,早速かって読みましたけれど,いやこれは唯識の参考書の決定版ですよ.ダルマキールティにまで話がおよぶとは思っていませんでした.
pub.hozokan.co.jp
唯識 - 法藏館 おすすめ仏教書専門出版と書店(東本願寺前)-仏教の風410年
午前9:41 · 2023年5月18日
·
5,372
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追加ここまで]
お読み下さり感謝!
« 大勇者の教えである『ジャイナ教聖典選』 | シーア兄貴(来世触手)2023/5/18~6/2と良呟きや記事の保管庫。被爆対策。歌舞伎の儀式冊人。椿井文書。白い猿と海賊王。トークの極意。芥川の河童 »
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