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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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大勇者の教えである『ジャイナ教聖典選』 

目次
『ジャイナ教聖典選』備忘録(メモ)
参考資料




『ジャイナ教聖典選』備忘録(メモ)

https://twitter.com/KokushoKankokai/status/1570600262082895872
“国書刊行会
@KokushoKankokai
【新刊】『ジャイナ教聖典選』http://ow.ly/oovz50KL6Tq 超難解言語アルダマーガディー語原典から直接訳出された本書により、祖師マハーヴィーラ在世時の姿がここに蘇る。同一詩句が仏典中にも多く見られ、仏教の教えとして伝わっていることがまざまざとわかります。翻訳という作業の尊さを知る1冊。
画像
午前11:27 · 2022年9月16日
·Hootsuite Inc.”
(画像は本書と帯。帯より
「付着した業を振り払い、
霊魂を解き放つため、苦行せよ!
[業は付着するというのが面白い。仏典では聞かない表現だ])


https://twitter.com/suhamma/status/1563321681036582912
”ಯುತಕಕವಸಕಿ
@suhamma
とそのようなわけで国書刊行会さんから9月に『ジャイナ教聖典選』が出版予定です。編・訳(『アーヤーランガ』第1篇と『ウヴァーサガダサーオー』第1章)・解説を担当しております。皆様よしなに・・・
kokusho.co.jp
ジャイナ教聖典選|国書刊行会
ジャイナ教聖典選  古代インドで仏教と同時期に同地域で誕生し、いまなおインドで続くジャイナ教。初期仏典にも多くの記録が残り、祖師マハーヴィーラは六師外道のひとりニガンタ・ナータプッタとされ、主な教義と死亡記事も伝わる。
午前9:25 · 2022年8月27日
·Twitter Web App”

(この人は私がたまに見るアカウントであり、ジャイナ教研究者。この人の名前はわからないが、本書を読んだら担当箇所と担当者の名前が載っているはずなので名前がわかるはず)


(やっとこの人の名前がわかった。
『アーヤーランガ』第1篇は第1章、
『ウヴァーサガダサーオー』第1章は第5章、
解説。

本書の最後の訳者紹介で上記の担当は、
河﨑 豊[かわさき ゆたか])

メモ開始。

解説
河﨑豊 (カワサキユタカ)

p.4から
ジャイナ教の発生基盤

紀元前1500年頃から、アーリヤを自称する諸部族が、カイバル峠を越えインド亜大陸の北西部に漸次移入してきた。定期的な定住による農耕と放牧による移動生活を繰り返して東漸し、前1000年までにその一部はガンジス河中流域まで進出する。彼らが伝えた宗教文献群が、『リグヴェーダ』を筆頭とするヴェーダ文献であり、いわゆるバラモン教と呼ばれる宗教を基礎づける。それは祭火を用いた祭式の執行を基本とし、それにより世界の維持から個人の死後のあり方まで、様々な願望を達成する。
 ジャイナ教の発生と特に関わる点は、個人の死後をめぐる思弁の発展である。祭式の挙行依頼者(祭主)が挙行した祭式と支払った報酬に基づく功徳は、祭火を通じて天界へ行き、そこで貯蓄される。祭主が死ぬと遺体は祭火で火葬され、煙となって天界に達する。祭主はそこで、生前の祭式による功徳という貯金で暮らす。ところで貯金は使えばいつかはなくなるものである。この文脈でいえば、功徳の貯金が尽きれば天界で再び死ぬことを意味し、死後も繰り返し死ぬことへの恐れが表明されはじめる。このような死への反復への恐怖が、輪廻(skt. サンサーラ)とそこからの解放——二度と死を経験しないという意味での不死の希求へつながる。バラモン教は、祭式による貯金が不滅であり、天界で不死を得るという理論を打ち立てることになる。
(メモ者注:アルファベット表記を勝手にカタカナに直した箇所あり)

 人の死後は、個人の業(skt. karman)つまり行為に左右されると考えられるようになる。善業は良い結果を、悪業は悪い結果をもたらす。しかもその結果は現世のみならず来世以降にも影響し、必ず自らがその結果を負う。
 輪廻を克服するにはどうすればいいのか。村落で祭式執行を中心とした社会生活を行なうことで天界再生を目指すあり方を否定し、荒野で苦行的な修行生活をすることで輪廻から脱しうると考える者たちが登場する。仏典やジャイナ教文献がサマナ(サマナ。skt. シュラマナ)つまり沙門と呼ぶ存在は、社会生活への参与を拒否し、旧来の教えにとらわれない思想と実践とを説いた出家主義者たちであり、釈尊もマハーヴィーラもサマナであった。またこのような出家主義は、世俗活動に関与しない者を維持できる社会の経済的余力と、新たな思想を許容する社会の多様性を前提とすることにも注意したい。
 「輪廻」「業」「出家主義」は、ジャイナ教が発生するまでにバラモン教内部でなされた思想展開の所産と考えるのが主流である。一方、輪廻や業という観念は、もともとガンジス河中流域一帯に土着の考えで、バラモン教もジャイナ教もそれを摂取したという、ヨハネス・ブロンクホーストの説がある。パーサがマハーヴィーラよりも三世紀ほど前に実在し(後述)、バラモン教で輪廻と業の思弁が十分に発達するよりも前か同時期に、輪廻と業を前提に教団を率いていたことを承認するなら、この説は魅力的である。アーリヤ人は東漸の過程で土着の文化、思想と接触したはずである。そこで土着思想の影響を何ら被らなかったという前提には無理がある。しかし、その影響関係を証明することも容易ではない。
 以上、「輪廻」「業」「出家主義」の三つ組を前提としてジャイナ教は発生した。その故地は仏教と同じくガンジス河中流域、今のビハール、ジャールカンド、そしてウッタルプラデーシュ東部にわたる地帯であった。

p.6から
ジャイナ教の開祖

 ジャイナ教では、世界は実体としては恒常的で生滅と無縁である。世界を支配する唯一の普遍原理や創造・破壊を司る神の存在を承認しない。ただし状態という点でみると、世界は周期的に繫栄の期間と衰退の期間とを無限に繰り返す。衰退の期間に繰り返し救済者(ティッタガラ titthagara. skt. ティールタンカラ「渡し場を作る者」)が現れてはジャイナ教を宣説する。この観念からすれば、ジャイナの教えは永遠の存在である。正教が滅している時期ならば、救済者はそれを回復させる存在として機能する。つまり、まったく新規に無からジャイナ教を興す意味での開祖ではない。
 史実の点でマハーヴィーラが開祖かどうかについては、難しい問題が横たわる。ジャイナ教は今を衰退の期間の最中とし、この期間にマハーヴィーラを含め24名の救済者が現れたとする。初代から22代までは想像の産物と思しいが、23代のパーサは多くの研究者が原ジャイナ教の創始者として実在視し、24代のマハーヴィーラを原ジャイナ教の教義の若干を改革し現ジャイナ教の基礎をつくった事実上の開祖とみてきた。
 (ジャイナ教でも23は重要なのか? いやそれならマハーヴィーラを23代目にする気がする)
 パーサを実在視する根拠のひとつは、パーサの寿命が100歳で、マハーヴィーラの250年前に出現したという、『ジナチャリヤ』が記す数字が比較的現実的だという消極的なものである。


 マハーヴィーラ(「大勇者」)は修行完成後の敬称であり、俗名はヴァッダマーナ(「増益」)とされる。カーサヴァ(「カーサヴァ姓の者」)、ナーヤプッタ(「ナーヤ一族の者」)は血筋に由来する。ニッガンタ(「束縛を離れた者」)や、ジャイナという表現の由来であるジナ(Jina「勝者」)は、彼が達した宗教的境地を示す。彼岸への渡し場(ティッタ)を作る(ガラ)という点、ティッタガラはその救済者性を意識した呼称といえよう。サマナは彼の反バラモン教的な宗教的立場を示している。マハーヴィーラを一貫してジャイナ教がクシャトリヤの出としてきたにもかかわらずバラモンと呼ぶのは、『ウッタラッジャーヤー』25章で示されるような、真のバラモン性の体現者はマハーヴィーラに他ならないという主張のあらわれであろう——マハーヴィーラが実はバラモンの出だったからこそバラモンと呼ばれた、と素直に読む可能性も否定はできないが。
 ほとんどの白衣派はマハーヴィーラの生没年を前599年~527年とし、空衣派は前582年~510年とする。

 本書が訳していないマハーヴィーラ伝で重要なものに『ヴィヤーハパンナッティ』15章があり、そこではマハーヴィーラが6年間。ゴーサーラ・マンカリプッタと修行生活を共にし、袂を分かつに至るまでが詳説される。ゴーサーラ・マンカリプッタとは仏典のマッカリ・ゴーサーラのことで、アージーヴィカ教の教主となる者である。ゴ―サーラは宿命論を説いたと一般にいわれるが、全く人為を認めないという意味のそれではなく、過去に行なった行為の報いは必ず受けねばならないが、新たに行なう行為は修行で抑制しうるという、いわば半・宿命論のごときものだったと近年では考えられている。

 白衣派、空衣派とは、ジャイナ教の二大分派を指す語である。サンスクリットではそれぞれシュヴェーターンバラ「白い衣をまとう者」
ディガンバラdigambara「空間を衣とする者(つまり裸形)」といい、出家者の装いの相違に基づく。


p.10から
白衣派が僧の着衣を認めるのに対し、空衣派は解脱に裸形を必須とするなど、相違点は多い場合に80余項目を列挙するが、本書にとっては白衣派聖典の権威に関わる点に触れれば足る。空衣派は、飢饉の間に古伝承はほぼ途絶えたという前提のもと、白衣派が編纂した聖典の権威を認めず独自に聖典を編成する。白衣派は古伝の一部の喪失を認めつつ、自派の聖典がマハーヴィーラの説法をはじめとする古伝を保存するという点は譲らない。

(本書がジャイナ教の二大分派である白衣派の聖典なのは空衣派の聖典は手に入らなかったか、研究が進んでいないからかもしれない。
本書はアルダマーガディー語原典から訳出したそうだ)

アンガ。マハーヴィーラの直説を伝え、すべて筆頭弟子だちが作成したとされ、聖典の中核をなす。

p.14から
ジャイナ教の教義

 最初に述べた通り、ジャイナ教は輪廻と業の理論を前提とし、そこからの解放を目指す宗教である。では、具体的に我々が輪廻する世界とはどのようなものか。なぜ私たちは輪廻しなければならず、どうすれば輪廻から解放されるのか。


 世界の形状
 我々が住み、また輪廻する世界(loka)は上中下の三層構造であり、上下が広がり中は引き締まるという、いわば8あるいは小鼓のような形状である。

上界の上、いわば屋上に成就した存在の世界がある。これは解脱した霊魂(ジーヴァ、後述)のみが到達しうる。世界の外側は非世界(aloka)と呼ばれる領域が広がっているとされる。

 存在論
 世界とそこにいる存在物は、ダッヴァ(davva. skt. dravya「もの」)または
アッティカーヤ(「実在集合物」)と呼ばれる実体からなる。実体はジーヴァとアジーヴァ(「ジーヴァではないもの」)に二分される。
 本書で「霊魂」と訳されているジーヴァは恒常不滅の輪廻主体・生命原理であり、行為主体かつ行為の果報を経験する主体でもある。
(バラモン型輪廻つまり本体あり輪廻だな。仏教は他の宗教と比べても変わり種。本体無し輪廻だからだ。ジャイナ教も仏教もヴェーダに従わないけど、実体を認めるか否かで異なる。ジャイナ教は認める。仏教は認めない)

(ジーヴァについて)
また重要な特徴として、プッガラ(後述)に付着されない限りは上昇する性質をもつ。ジーヴァは解脱したジーヴァと、輪廻する存在であるジーヴァに分かれる。後者は可動の存在と不動の存在からなる。可動の存在は二~五の感官をもつ生命体である。不動の存在は、植物と地・水・火・風であり、触覚のみを持つ。

『アーヤーランガ』第一章にあるとおり、植物はもちろん地水火風をも生命体とすることは最初期からの前提である。

次にアジーヴァは、ダンマ(dhamma. skt. dharma)、アダンマ(adhamma. skt. adharma)、プッガラ(puggala. skt. pudgala)、アーガーサ(āgāsa. skt. ākāśa)からなる。ダンマはジーヴァとプッガラの進行を、アダンマは停止を補助する要因である。プッガラは単一の原子あるいは原子の集団で構成される物質を指す。アーガーサは、実体に場所を提供する空間である。非一切知者が認識しえない対象を列挙する『ラーヤパセーニヤ経』三〇節における最初の五つは、これら五つの実体のことである。なお、空衣派では時(カーラ)もアジーヴァとみなすが、白衣派では文献により相違する。

 ジーヴァと行為
 ジャイナ教の行為(業)論の特徴は、行為が物質化してジーヴァを縛るという点にある。行為の物質視がいつ確立したかについては諸説あるが、『アーヤーランガ』第一篇の「行為の身体を振り払う」(五四頁)という難解な表現は、最初期から行為を物質的に理解していた可能性も示す。行為を塵に譬える『ダサヴェーヤーリヤ』、行為の付着をいう『ウッタラッジャーヤー』三・六、過去に犯した邪悪な行為が水のように流出するという八・九なども同様である。
 後の標準的な教理によれば、身体・言語・思考による行為をすると、その行為はジーヴァの振動を促し、行為の結果生まれた微細な物質が、ジーヴァの振動でひきつけられる。ジャイナ教ではしばしば、「穴の空いた舟に水が漏れ込む」というイメージを用いて説明する。行為によるジーヴァの束縛は愛憎いずれかの感情で起こる。愛憎は怒り・慢心・たぶらかし・貪りの形をとって現れる。物質化した行為は一定期間ジーヴァに付着した後、いずれかの時点でその果報を生む。良い行為をすれば良い果報、悪ければ悪い果報というように、個々のジーヴァに影響を与えるかたちで消費された後に消滅する。輪廻の問題でいえば、ジーヴァは、付着物がなければ上昇して成就した存在の世界へ到達する。しかし行為が付着すると上昇性を妨げられて「重く」なり、世界のどこかの階層に落ち着くのである。注意すべきは、善悪を問わず行為をすれば必ずその物質がジーヴァに付着することにある。つまり、何であれ行為をする限り、ジーヴァは神であれ植物であれ、何らかの生命体として輪廻し続けるのである。輪廻から脱するには行為を停止するしかない。これは、すでに『アーヤーランガ』第一篇が繰り返し強調する点である。そしてジャイナ教は、行為を停止させるという事態を、二つの側面から考えるに至る。ひとつは、新たに行為物質が蓄積しないよう、行為物質の流入からジーヴァを防護することである。加えて彼らは、既に蓄積した過去の行為も、それが自然に消費されることを待たずとも修行によって人為的に消化できると考えた。このことは、過去の行為の結果は甘受するしかないという思考にジャイナ教を陥らせない、大きな特徴である。

p19から

最初期以来、常に強調されることは非暴力の徹底と無所有である。『アーヤーランガ』第一篇は、自己を取り巻く環境は地水火風含め生命体に満ちており、「殺害されるべきだとお前が思っているもの、それこそがお前というものだ」(七五頁)という箴言が示唆するように、自己と他者の同一視を根拠としながら、暴力を放棄することを徹底的に説く。

無所有については、『アーヤーランガ』第一篇は物心両面での無一物、つまり実際に所有をせず、かつ精神的にも執着をしない状態を無所有とみなす傾向が支配的と思われる。しかしこのような考えは、物理的にものを所有していても、それに対し精神的に固執しなければ所有とはみなさない、という解釈にとって代わる。その発想はすでに『アーヤーランガ』一・二・六・二に現れ、『ダサヴェーヤーリヤ』六・二一の著名な定義「所有とは執着である」(255頁)に結実する。
 このように、暴力と所有からの離脱を強調するジャイナ教が、理想の死として断食死を選択することは、自然な帰結であると思われる。肉体はジーヴァの容れ物、しょせんは輪廻から脱するための修行に必要な、単なる道具にすぎない。そしてその道具もいつかは役にたたなくなる。たとえば老いて体も頭もいうことをきかず、不注意に地面を踏みしめ、あるいは糞尿を漏らし、そこにいる生き物を殺す状況を考えればよい。もしくは飢饉や迫害などで、正教を遵守できない状況を想定してもよい。

現代まで続く断食死の伝統は、『アーヤーランガ』一・八が説き、古くから実践されていたと思しい。
 一方で、このようなジャイナ教の断食死は、古代から現代にいたるまで様々な論争と批判の的である。ここではその詳細に立ち入らないが、ジャイナ教が断食死を自殺suicideとしない点だけは強調したい。自殺は煩悩に基づく愚者の死だが、断食死は煩悩のない者だけに許された、賢者の死である。

p.22から
認識論と相対主義
本書では、哲学的な側面を主題とする経典を訳出していない。
(「経典」って仏教用語っぽいのだが、じゃあどう訳すんだよってなる。
聖典かなあ。本書の題名も聖典だし。教典ならどうだろう)

ジャイナ教の哲学的特徴は、しばしば相対主義にあるとされる。ここでいう相対主義とは、マハーヴィーラが世界とジーヴァの恒常性を説く箇所が端的に示す。つまりあらゆる存在は複数の性質からなる。ゆえに「世界は永遠である」とは断定しえず、「○○という点では永遠である」と多面的にとらえる必要がある。この主張は、アネーカーンタヴァーダとのちに自称される。またこの立場に基づいてある対象の存在性を表現する場合、「○○は、ある点では(スヤート)存在する」「○○は、ある点では存在しない」云々と七通りの言明が可能とされる。これをスヤードヴァーダという。
 対象が必ず複数の側面をもつ以上、複数の観点をもとに対象を把握しなければ、真に対象を理解したとはいえない。「城」という語の指示対象は、城という苗字の人、城の絵、あるいは建設中で未完成の城かもしれない。ジャイナ教は、ニクシェーパという、ある対象を複数の観点から把握する手法を用いる。何種類の観点を導入するかは文献によって相違するが、束縛の内容を実体・場所・時・状態の点で分析する『ジナチャリヤ』一節は、この観念を前提とする。同節の言及が註解的であることが示唆するように、本来は聖典の文言を正確に解釈するための手法だったと思しい。


ジャイナ教と仏教
ジャイナ教と仏教はほぼ同時期、同地域に、ともにヴェーダ祭儀文化に対する革新的な勢力として登場した。ともに輪廻と業の理論を前提として、そこからの脱出をはかった。ジーヴァの存在を前提とするジャイナ教は無我説を認めることはできず、菩薩道のようなありかたもないというように、相違点は多々存在するが、インド学の黎明期にジャイナ教が仏教の分派と誤解されたように、いわば姉妹宗教として多くの共通点を持つことも事実である。無常、涅槃、解脱、如来、佛陀、比丘、慚、優婆塞、慈悲などの原語は白衣派聖典でもしばしば用いられる。
(仏教との共通点と相互影響の研究のためには同じ訳語の方がいいんだな)

もちろん、個々の術語あるいは伝承に両教がこめた意味までもが一致するわけではない。

両教が、同じ語、似た話に何を託したかを逐一検討することが、両教のより深い理解にとって必要な作業である。

読書案内

和書の入門には上田と渡辺を推す。金倉は、白衣派と空衣派双方から権威とされる『タットヴァ・アルタ・アディガマ・スートラ』の和訳を含み、今でも重要である。
(和書が超少ないと思ったら、洋書も少ないな)


第I篇 最古の様相
(【第Ⅰ篇】は古層文献)
 第1章『アーヤーランガ』第一篇

(【第1章】『アーヤーランガ』第一篇は、出家修行者が解脱を達成するために遵守すべき禁欲的な修行生活全般を主題とする。なかでも第九章は、マハーヴィーラ出家後の厳しい苦行生活を古風な韻文で描いた、最古の祖師伝である)

担当は河﨑豊 (カワサキユタカ)。

(冒頭)
一・一・一
寿命長き者よ、かの幸いなる方がこのように説いたのを、私は聞いた(1)。この世のある者たちは〔以下のような〕想いを抱かない。


p.449
訳注
(1)
伝統的に、「私」はスハンマ、「幸いなる方」はマハーヴィーラ、聞き手はジャンブーとされる。スハンマは、11名いるマハーヴィーラの筆頭弟子(ガナダラ)の五番目に位置する人。

ジャンブーはスハンマの直弟子であり、マハーヴィーラ涅槃の64年後に一切知を得て解脱したとされる。

「幸いなる方」は、仏典で世尊と漢訳されるbhagavatのアルダマーガディー語形である。このような冒頭は、仏典の「如是我聞」を想起させる。


p.83から
六・五・五
このように彼は決起し、自己を確立し、この世に拘泥せず、精神不動にして活動するべきであり、〔自制の〕外に霊魂の彩(119)を示さずに出家遊行するべきである。よき見識をもつ者は、美しく作り上げられた教え(ダルマ)を分析した後、火がすっかり消えたように鎮まっている。ゆえに、お前たちは執着なるものを見よ。人々は諸々の束縛に縛られ、へたりこみ、欲望の対象に囚われている。ゆえに〔出家生活の〕荒さに震えあがるべきではない。〔出家生活を〕傷つける者たちが震えあがることのないこれら暴力行為は、そういう〔荒さ〕においてはあらゆる面で完全に知りぬいたうえで、放棄されているのである。彼が怒りと慢心とたぶらかすことと貪りを吐き出していれば、この者は超越者である、と解き明かされている。
——以上のように私は語る。

訳注
p.459
(119)
霊魂の彩(lesā)とは、霊魂(ジーヴァ)の純化度を六種の色で段階づける術語。黒、暗色、灰、赤、黄、白の順で純化される。ただし底本のGlossarがいうように、ここでのlesāはほとんど思考作用(manas)と同義、つまり「外部にlesāを示さない」とは、思考作用を自制以外には向けない、という程と考えられる。

(だから「白」衣派なんだな。白が一番良い色なのだろう。一番悪い色が黒。赤は第3位。欧米ケツ社とはまったく異なる基準なのでなんか、安心する)

p.95
八・六・三
「さて、この教義のもとで、この身体を運び回ることに、だんだんと私は疲れてしまった」と、ある托鉢僧が考えるとする。そういう彼は段階的に摂食を減らすべきである。段階的に摂食を減らした後、諸々の精神的な汚れ(137)をやせ細らせ、身体を統一させて板のような〔やせ細った〕体軀をした者として決起した後、身体の火がしっかりと消えたかのような托鉢僧は、

八・六・四
村落、都城、土塁のある村、囲いのある村、離村、大都市、水路と陸路に通じる町、鉱山町、隠棲処、宿場町、市場町、あるいは王都(138)に入った後、諸々の草を乞い求めるべきである。諸々の草を乞い求めた後、彼はそれを受領して一隅に退くべきである。一隅に退いた後、卵・生き物・種・草・露・水・蟻の巣・黴・泥・蜘蛛の巣が僅かな(139)ところで、繰り返しよく調べ、繰り返し拭ってから、諸々の草を敷き広げるべきである。諸々の草を敷き広げた後、こういう教義のもとでイッティリヤ断食死(140)を実行するべきである。


訳注
p.461
(140)
あるいは「イッタリヤ」。iṅginiあるいはiṅgitaと呼ばれる断食死作法を指し、限定的な空間で排泄などの限定的な動作のみが許される断食死をいう。

訳注
p.462
(160)
出家者が生涯にわたり冷水、つまり生命体を含む危険性のある生水を飲まないことは戒律上必須であり、出家後の事績として特記する必然性はない。

p.463
(167)
原則として、ジャイナ教の僧尼は日没後に外出してはならない。


 第2章『スーヤガダンガ』第一篇(抄)
(【第Ⅰ篇】は古層文献)
(【第2章】は、『スーヤガダンガ』第一篇第四章と第五章第一節。前者は男性出家者が女性との接触を避けるべきことを教示しており、最初期ジャイナ教のジェンダー観に有意な資料を提供する。後者は最初期ジャイナ教の地獄観を表す資料であり、『スッタニパータ』などの初期仏典、ヒンドゥー教の大叙事詩『マハーバーラタ』や法典『マヌ法典』にも類似した観念が見出され、当時の地獄観の共通認識を知るうえで欠かすことができない)


p.117
四・二・二一
〔霊魂の〕レーサー(Skt. レーシュヤー(7))がよく清らかにされ、知性があり、賢い人は、他人に対する行為を避けるべきである。出家者は思考、言葉、行為において、すべての艱難辛苦を耐えるべきである(8)。

訳注
p465
(7)
レーサー(Skt.レーシュヤー)とは、霊魂(jīva)の道徳的次元を六つの色彩によってあらわすジャイナ教特有の術語である。霊魂はこの六色のうち、どれかの色を持っている。それぞれの色は特性を持っているが、白色のレーサーがもっとも勝れており、以下順に萌黄、赤、灰、青、黒となる。

(欧米の支配層が大好きな紫はないんだな。

萌黄色(もえぎいろ)とは?|Moegi-iro|#86B81B
https://irocore.com/moegi-iro/
”萌黄色(もえぎいろ)とは、春先に萌え出る若葉のようなさえた黄緑色のことです。平安時代から用いられた伝統ある色名で、別に『萌木』とも表記します。

『萌黄色』は新緑の若木の色ということから若さを象徴する色であり、平安時代では若者向けの色として愛好されました。


いかにも黄色って色ではないな。黄色というより緑系だ)



 第3章『ウッタラッジャーヤー』(抄)
(【第Ⅰ篇】は古層文献)
(【第3章】は『ウッタラッジャーヤー』から古層に属する第一章から第二〇章、そして第二五章。出家者の生活への心構え、説話、伝説、対話篇、修行論、解脱論や業論といった教学的議論など、さまざまな内容で構成され、仏典にも並行する詩句が見出される)


(以前のジャイナ教関係の記事の紹介かつ、仏典との共通個所を紹介しておく。

ヌード写真つき薄い本『ジャイナ教とは何か』
六師外道、特にジャイナとアージーヴィカ教に詳しい『ジャイナ教入門』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-267.html
"偉人が殺されると狂った神格化につながるのでよくない。
人は人として死なせ、死後もずっと人のままでないといけない。
神格化された死者は生者の思想兵器
となる。
神格化された死者も凶悪だが
生者が創造した法人(法神)が人間を牛耳っているのが現状

『アーヤーランガ』(最古層のジャイナ教聖典)
「感官の対象(外の事物)なるものは、
〔罪悪のおこる〕根の場所である。
〔罪悪のおこる〕根の場所なるものは、
感官の対象(外の事物)
である。
それゆえに感官の対象(外の事物)を求める放逸なる人は、
大なる苦悩(パリターパ)をもって暮らすであろう」
「快・不快に悩まされてはならぬ。
不快とはなにであるか?
また歓喜とはなにであるか?
これにも執われることなく行ずべきである。
一切の戯笑を捨てて、
心を没せしめることなく、
守って遍歴せよ」
「感覚した事柄に関して無関心となれ」

『イシバーシヤーイム(聖仙の語録』…
「あらゆるところから、業の流れ(ソータ)は侵入してくる。
業の流れをせき止めることはできないのか、と問われたならば
聖仙は答えるべきである。
いかなる方法をとれば、業の流れはせき止めることが
できるのか?」
これに対して、尊敬さるべき・聖仙ヴァッダマーナは答えていった。
「目覚めた(気をつけた)人(聖者)にとっては、五つの感覚器官が眠り、眠っている人(聖者でない人)にとっては五〔つの感覚器官〕は目覚めて(活発化して)いる。人は五〔つの器官〕を通じて汚れ(=業)を受け取る。
五〔つの器官〕のところで汚れ(業)は留まるであろう。
快い音あるいは悪しき音を耳から受け取っても、快い音に愛着してはならない。
また悪しき音について怒るべきではない。
快い音において、愛着をおこさず、また他の(悪い音)において怒らず、
業の流れをせき止めていない者たちのなかにあっても
…眠らずに(気をつけて)いるならば、かくして業の流れはせき止められる。」

『スッタニパータ』1034;1035
「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。
その流れをせきとめるものはなにですか?
その流れを防ぎまもるものはなにですか?
その流れはなにによって塞がれるのでしょうか?
それを語ってください。」
…ブッダが答えた。
「世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせきとめるものは、めざめて気をつけることである。〔気をつけることが〕煩悩の流れを防ぎまもるものである。その流れは知慧によって塞がれるであろう。」

『法句経』(『ダンマパダ』)183
「すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、
――これが諸の仏の教えである」
(…諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教)
に代表される詩句は…七仏通戒偈(しちぶつ つうかいげ…で
この一句で仏教の教えのすべてを示すとされるほど。

ジャイナ教固有の伝承として
「『わたし(マハーヴィーラ)は、すべての悪しきことをなさないようにしよう』と考えて、
サーマーイカ行(=平静の行)を受け入れる〔行う〕」
(『アーヤーランガ・スッタ』…誓いのことば」として伝えられる
…七仏戒偈…として有名な法句経の「諸悪莫作…もろもろの悪をなすなかれ)がマハーヴィーラの出家時の「誓の言葉」に一致



第3章『ウッタラッジャーヤー』(抄)
の訳注
p.466から
(2)
妻子や財産をすべて放棄した修行者は、見知らぬ人々から乞食しつつ遊行することが生活の基本である。彼らには托鉢に歩く「正しい時」が決められており、正午以前、すなわち午前中である。「正しからぬ時」とは正午以降、すなわち午後のことである。仏典Sn 386にも、托鉢僧が正しい時に托鉢に歩き、正しくない時に歩かないことが説かれている。

(3)
五誓戒には大小の二種があり、大誓戒は出家修行者に対し、また小誓戒は在家信徒に対する生活規定である。ジャイナ教の五大誓戒とは不殺生、不妄語、不偸盗、不淫、無所有をいい、ジャイナ教の出家修行者は無条件かつ完全に遵守することを義務づけられている。これらはいずれもジャイナ教のオリジナルではなく、すでに古代インドにおいてバラモン教の遍歴修行者に規定され、実践されていたものを適用したとみられている。五大誓戒は最古経典の一つといわれる第4章『ダサヴェーヤーリヤ』第四章にも詳しく説かれている。一方、仏教の五戒は、不殺生、不妄語、不偸盗、不邪淫、不飲酒である。

(ジャイナ教から見たら仏教って戒律がゆるいって思われてそうだな)

(18)
ジャイナ教では、バター油が注がれた火のように燃えるのを最高の涅槃(ニルヴァーナ)であるという。それに対して、仏教ではDhp 184に、火を消した状況を最高の悟り(涅槃)の境地と譬えている。

(21)
ジャイナ教においては、業身のために霊魂(ジーヴァ)は、無垢・清浄という本来の性質を発揮できず、非世界(aloga)に行くことができないで、輪廻転生を繰り返す、と説かれる。
(alokaの間違い?)
[2023年6月1日に追加:
「”aloga” ”非世界”」で検索したら、ジャイナ教では世界(loga)と非世界(aloga)であり、
lokaとalokaではない。
追加ここまで]

(43)
托鉢で得る食べ物は、その托鉢者のために準備された食べ物ではなく、あくまでも捨てられる寸前の残飯である。このことは沙門の托鉢規定の重要な点である。これに対して、バラモンはバラモンのために用意された食べ物を食べるのである。
(50)
「クサ草」とは吉祥草ともいい、葉は針のように細く尖っている。「クサ草の先端」とは、極めて僅かな分量を譬えていう。
(「くさそう」「くさくさ」。読み方がわからない。ネットスラングが想起されて草)


第八章 カヴィラの詩
p.151
八・一三
体相占い、夢占い、そして体の震え〔による吉凶占い(52)〕をする者たちは実際に「沙門」とは呼ばれないと、阿闍梨(53)によってこのように言われた。


訳注p.472
(52)
占いの禁止は仏典Sn 360, 927でも説かれる。


p.168
感官を制御したハリエーサ・バラという名の托鉢僧がいた。

p.172
(バラ)
「苦行は〔聖〕火であり、命我(ジーヴァ)は火炉である。精進はひしゃくであり、身体はふいごである。業(カルマン)は燃料である。自制、精進、寂静を聖仙によって賞賛された献供として、私は与えよう」
(「命我」という訳語もあるんだ)


第一五章 真の托鉢僧(137)
pp.185~186
一五・八
真言、さまざまな医者の処方、吐剤、下剤、〔煙で〕燻すこと、目に油を塗ること、入浴、庇護〔して欲しい〕病人、医学的治療、これら〔すべてを〕捨てて遊行する人は、〔真の〕托鉢僧である。

訳注p.478
(138)
七—八節。呪法や医療はジャイナ教、仏教ともに嫌っていた。医薬品の使用は仏教徒にも禁じられていたことが知られる。
(当時の医療技術や医薬品は現代と比べて「これはまずい」ものが多いだろうことを考慮すること)

p.481
(179)
修行僧が乞食のあいだに目を落として、種々の物から目を反らすことは、仏教徒とジャイナ教徒に共通の規則である。

p.209
右周りの礼(198)をして

訳注
p.483
(198)
自分の肩を礼拝すべき人の側に向けて、時計回りにその人のまわりを回る礼。当時のバラモンたちのあいだに行なわれていたものを、仏教もジャイナ教も取り入れたようである。


訳注
p.484
(222)
人間の価値は生まれによってではなく、行為によって決定されることを説いている。類似した内容が仏典Sn 650; Sn 136 = 142 に見られる。


第II篇 出家者の生活規定と在家者の宗教生活
(【第Ⅱ篇】は出家者と在家者との戒律文献)


 第4章『ダサヴェーヤーリヤ』
(【第Ⅱ篇】は出家者と在家者との戒律文献)
(【第4章】『ダサヴェーヤーリヤ』(十夜経)は、基本的な教義や出家生活上の規定をまとめた白衣派の古層をなす聖典であり、現在でも出家の儀式を終えた者が最初に学習する派もある)


p.226から
第三章 低劣な行ない(14)

三・一
自己が自制においてよく確立し、〔諸々の結びつきから〕解き離れた聖人のニッガンタたちや大仙たちにとって、以下は禁止行為である。

三・二(15)
①〔特定の修行者のために〕指定された食事、②〔修行者のためにあらかじめ〕買ってきて作られた食事、③〔特定の在家者からの〕常態化した食事(16)、④持って来られた食事〔を受け取ること〕、⑤夜食、⑥沐浴、⑦香、⑧花輪、⑨扇子(17)、

三・三(18)
蓄えること(19)、在家者の食器〔を用いること(20)〕、王が〔望みを〕尋ねて与える食事(21)、マッサージ(22)、歯をすすぐこと、〔身体の埃を〕払うこと(23)、鏡、

三・四
八ますの〔目のある〕板(24)、筒状の薬入れ(25)、傘を〔病気等の〕理由なく保持すること、治療、足にサンダル〔を履くこと〕、火を点けること、
(訳注p.487
(24)ます目のある板でゲームや賭け事に用いられた。
(25)後にでてくる「治療」とともに、ジャイナ教の出家者に薬の所持と使用は原則として禁止されている)


三・五
寝台(=寝場所)〔を与えること〕により〔輪廻を〕渡る人からの施食(26)、小さなソファーと立派なソファー(27)、家の中にある長椅子(28)、身体の摩擦(29)、

三・六
在家者に対する奉仕、そして生業を行うこと、未加熱処理のもの(=水)を享受すること、そして病人の拠り所〔となること(30)〕、

三・七
大根、生姜、未加工の砂糖黍、そして生きている根〔菜〕や根、生の果実と種子〔を食べること〕。

三・八
スバルチャラ産の塩、シンドゥ産(31)の塩、そしてローマ産の生の塩、海の塩、そして生の黒い塩(32)、

三・九
煙を吸う〔医療具としての〕パイプ(33)と吐瀉剤、浣腸、下痢、軟膏、楊枝、肢体に塗油すること(34)、装飾、

三・一〇
これらすべては、大仙ニッガンタたちにとって禁止行為である。だから〔彼らは〕自制に専心し、身軽なものとして過ごす。

三・一一
ニッガンタたちは、五漏〔が何を原因とするか〕をよく知って〔それを〕離れ(35)、〔意・口・身の〕三つを防護し、六〔種の生類〕に対して自制し、五つ〔の感官〕を制御し、堅固で真直ぐに見るものである。
(訳注p.488
(35)業(カルマン)の漏入(āsava, Skt. āsrava)の五つの原因とは、不殺生戒を初めとする五大誓戒(第四章)を犯すこと、あるいは、五つの感官が働くことという二つの解釈がある。)

三・一二
〔彼らは〕夏には酷暑に身をさらし、冬には〔衣などで身を〕覆わず、雨期には〔滞在所に〕引き退いて、自制し、よく集中している。

三・一三
危難という敵を調伏し、迷妄を振り落とし、感官を抑制し、すべての苦の放棄のために、大仙たちは前進する。

三・一四
諸々のなし難いことをなし、耐え難いことを耐えた後、あるものは神々の世界に、あるものは〔業(カルマン)の〕塵を欠くものとして成就する。

三・一五(36)
以前の業(カルマン)を苦行と自制により滅して、最勝の成就(37)に到達した聖人は、完全に静まったものとなる(38)。
——以上のように私は語る。

訳注p.488
(38)対応するPāli parinibbutaは周知の通り「般涅槃」と訳される。

(ギャンブル禁止。
大根も駄目。根っこが駄目だから当然だな。
塩が駄目なのって生物が混ざっている可能性があるから?
それか塩が通貨みたいなものだと考えているってこと?

それとジャイナ教の場合は聖典の文字化に対して、「植物を殺さないといけないから反対」って言っている人がいるだろうな。過去にも、今にも。


ヌード写真つき薄い本『ジャイナ教とは何か』、六師外道全員、特にジャイナ教とアージーヴィカ教に詳しい薄くない本『ジャイナ教入門』 
Posted on 2019.01.25 Fri 12:02:29
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-267.html
”上田真啓『ジャイナ教とは何か 菜食・托鉢・断食の生命観』風響社

冒頭で言った通り、かなり薄いので入門にオススメ。
[中略]
マハーヴィーラの実在は間違いないとされる。
正確な生没年の統一的見解がない。
ブッダが活躍したのと同時期の紀元前6~5世紀であることはほぼ確実。

厳密にはジャイナ教団の創始者ではない。
両親はパールシュヴァという、マハーヴィーラからさらに遡ること250年ほど前に活躍した人物が率いた集団、ニガンタ宗の信奉者であり
彼はこの改革者だっただろうと考えられている。
伝統的な説ではパールシュヴァの前にさらに22人のティールタンカラ(救済者)が存在していたとされている。
つまりパールシュヴァは23番目のティールタンカラであって
マハーヴィーラは24番目にして最後のティールタンカラであるとされている。
ティールタンカラ
=渡し場を作るもの
という意味の尊称で23と24番目以外は非常に長い寿命だったり
人間的ではない身長だったりするので歴史上の人物とは考えにくい。
[中略]
大きく分けて空衣(くうえ)派=空を衣とする=何も身にまとわない
(別名が裸形派)

と白衣(びゃくえ)派=白い衣を身につける
の二つの宗派がある。
空衣(くうえ)派はマハーヴィーラが出家したと同時に裸形を実践したとして
裸形は解脱に必須の条件であるとしているが
一方白衣派はマハーヴィーラは出家時には衣を身につけていたとして
裸形は必ずしも解脱に必要な条件ではないとしている。

空衣(くうえ)派は
マハーヴィーラ誕生前に起こったとされる母胎の霊魂の交換や
マハーヴィーラの結婚と娘の誕生といった出来事を認めていない。
またマハーヴィーラ以前のティールタンカラに関しても、
白衣派は19番目のティールタンカラであるマッリナータは女性であるとするが
空衣派はこれを認めず男性であるとしている。
これは空衣派が女性の解脱を認めていないことと関連している。

ジャイナ教の聖典群は白衣派において伝承されてきたものであり
空衣派はもともとの聖典は早い段階で全て失ってしまったとして
白衣派の伝承する聖典の正統性を認めていない。

二宗派の中でも尊像崇拝肯定派と否定派に分かれる。

白衣(びゃくえ)派で尊像を崇拝する一派は
ムールティ・プージャカ
(ムールティ=尊像
プージャカ=崇拝する者)
と呼ばれ白衣(びゃくえ)派で最も大きな集団を形成している。
彼らは尊像を安置する寺院の存在も認めるため、
マンディル・マールギー
(マールギー=道を意味する語の派生形)
とも言われている。
対して尊像崇拝しない者たちは
サードゥ・マールギー
(サードゥ=出家修行者)
と言われ、寺院を持たない。
空衣派にも尊像崇拝派と
尊像ではなく聖典を崇拝する派が存在している。
[中略]
出家修行者は
火を用いての調理や
野菜や果実の収穫が禁止なので
飲食物を得るために施しを受けなければならない。
托鉢で得られるべき食は
生命としての価値ができる限り排除された物に限られる。
在家には植物の類を調理することが認められている。

空衣派も白衣派も托鉢は必須。
特に白衣(派は以後省略)の出家修行者が托鉢に出て
食を受けることをゴーチャリーという。
文字通りの意味は
牛のように歩き回ること。
これは食べ物を集めるときに予想や計画なしにランダムに歩きまわり
それぞれの場所で器にほんの少量ずつ集めるように求められることに由来。

在家と食の場を共にすることはない。

托鉢の注意点
生き物が多く存在する道は避けられるべき。
踏みつぶさないように前方をよく確認して歩くべき。
豪雨・強風のときや空中に虫が多数飛んでいるような時は避ける。

間接的に殺生に関わるのも禁止。
施しを行う直前に殺生に関わる行為を行った者から食を受けるべきではないということで
殺生に関与した穢れた手によって施しがなされるのを嫌うものである。
また、何度か器に移し替えられた食べ物も受けるべきではないとされる。
移し替えのさいに不用意に生き物やその他食べるべきではない物が混入するかもしれないから。
水に濡れた手や柄杓、あるいはほこりなどが付着した状態のそれらによって
施しを受けるべきではないのもおそらく同様の理由だろう。
水もまた在家の手で完全に煮沸され
生命が全く含まれていないものを飲むべき。

托鉢の偶発性を重視。
提供される飲食物はあくまでも余り物であることが求められていた。
たまたま余った食べ物が、
たまたま通りがかった修行者に托鉢として供されるのが理想。
よって、在家が托鉢の出家のためにわざわざ調理して提供しようとしても
出家者は受け取ることができない。
つまり招待食は禁止。
特定の在家との依存関係が確立してしまったり
一つの家庭に負担が集中することを避ける側面もあると考えられる。

出家者が在家に命じて離れた場所にあるものを取って来るように命じたり
わざわざ買いに行かせたりすることは禁止。
偶発性を重視するために
間違いなく施しを受けることができるような場所、
例えば親族の家々や食事を振る舞っている宴会場などに行って、
施しを受けることは勧められない。
施しを受けられるかどうかは偶発的なので結果に一喜一憂すべきではないとされる。
ランダムに訪れるためにジグザグに家々を回ったり渦を巻くように回ったりするルートまでもが
細かく規定されている。
適した時も定められており
家庭の食事がちょうど終わるような時刻に家々を回るべきであり、
在家(たいていは女性)が家族のために料理を準備している時などには
訪れるべきではないとされている。

※空衣では托鉢で得た食を持って帰ることはせず
手のひらで食を受け取り
その場で衆人環視のもと
それに小さな生物が混入していないか指で子細に確認しつつ立ったまま食べる。
(立ったままなのって手がふさがっているから座る前にやわらかい箒で地面を掃けないから?)

・施主との関係
出家は在家と親密に接するべきではなく
一定の距離を保つべきであるとされていることから
寝床を提供してくれた在家から飲食物の施しを受けることも禁止。
多くのものを一人の施主に依存することは在家との距離を縮めてしまうと考えたのであろう。
一人の施主に負担が集中するのを避けるためとも考えられる。
出家者は政治的な権力者とも一定距離を保つべきであるとされているため
王などの住居にみだりに立ち入って施しを受けることは禁止。

生命維持のための最低限必要な分だけを食することが求められる。
美味しいものを味わって食べてはならず
味に溺れて執着することがないように心がけられているという。
執着してはならない。
したがって、托鉢によって得た食べ物を長時間にわたって保管するような行為も禁止。
もっともこれは衛生面に対する考慮、
つまり腐った食べ物を食さないようにするためで
多くを貯えない不所有の誓いの観点からも勧められるものではないであろう。

断食は頻繁に行われる。
祝祭日に行ったり
指導者などの命日や
重大な過失を犯してしまった際の罪滅ぼしのために行うこともある。
断食はジーヴァに付着した業を滅するのに有効。
やりかたはさまざま。

サッレーカナー=死に至る断食。
過剰な断食で意図しない死を迎えるのではない。
自殺はジャイナ教で固く禁じられている。
サッレーカナーは長期間にわたって徐々に飲食物を制限することで
計画的に死と向き合いながら、
心の平静を保ったまま自発的に死に至る行為。
非常に神聖な儀式であり理想的な死。
在家の中にも実践する者がいる。

※自殺とは異なる。
サッレーカナーは
①将来的に実践することの決意表明として、
早い段階で略式の誓戒を受けるのが通例
また実践開始にあたって師の許可が必要で
この時点においても本人の意思が確認される

②認められる条件は
災難、
飢饉、
老齢、
不治の病などで
何らかの形で死期が迫っている

③宗教的な理由により自らの意思で死をコントロールする行為であり
死に至るまでの時間は、
聖典の学習・瞑想・マントラの低唱などといった宗教的実践にあてられる

④欲望・憎悪・迷妄などによって自らを滅ぼそうとしているのではない。
また、いわゆる自殺のように毒や武器を用いることもない。


グナ・ヴラタ(徳戒)三つと
シクシャー・ヴラタ(学習戒)四つという
七つの補助的な誓いがある。
グナ・ヴラタ(徳戒)は
方位に関する誓戒
無用な毀損に関する誓戒
消耗品と耐久品に関する誓戒。
方位とは移動範囲の制限。
無用な毀損とは
他人を傷つけることを画策したり
賭け事をしたり
むやみに木を切ったり土を掘ったりすることを戒める。
毒物や武器などの有害な物品を拡散させたり、
他人同士を争いに導いたりすることも禁止。
空衣では煽情的な物語や残忍な物語を耳にするのも禁止。
消耗品~とは特定の物品使用制限で
特定の食物の制限、夜食禁止、特定の職業に就くことの制限など。

学習戒とは
場所に関する誓戒
反省的瞑想に関する誓戒
布薩に関する誓戒
布施に関する誓戒。
場所~は先述の方位~よりも厳しい制限で
一定期間家から出ずに外部との接触を断ったり
近くの寺院よりも遠くに行かないといった制限。
反省~はサーマーイカという日課の瞑想を欠かさないこと。
布薩~は特定の日に普段より厳格に生活し
不殺生を徹底し断食。
時に出家者と同じ空間で一定期間生活することもある
布施~は施しを行うことであるが
対象は出家者だけでなく教団維持のための支援でもある。

(ジャイナ教の理想が実現された社会ってディストピアだろうな。
ジャイナ教の武術家っているのかな?
練習準備だけでも大変そう)

出家者に施すのは宗教的行為であり
物乞いに物を与えることとは明確に区別される。
布施でもジーヴァの状態をよりよい方向へ導けると考えられている。

多くのジャイナ教徒にとってもっとも重要な聖地である
ラジャスターン州のアーブー山や、
グジャラート州のパリタナになるシャトルンジャヤ山にある寺院は
11世紀以降に在家の当時の王国の宰相たちの支援による。


プージャー(礼拝)には
心的、内的なプージャー(礼拝)と
物理的、外的なプージャー(礼拝)がある。


一部の生物を害することは回避できない。
不可避なのが不動の生命体。
植物を食すのも殺生だがより高次の生命体を害するよりマシ。
ジャイナ教の菜食主義の観点は
そこに生命が存在する可能性
そこから生命体が発生する可能性である。
在家の根本的美徳という食の規定では
自然死した動物を含めて肉類
蜂蜜
イチジク類の果物、
酒類、
濾過されていない水などを摂るのが禁止。
なぜなら殺生によって得られるだけでなく
そこに無数の微生物がいるから。
葉の物、
湿った食べ物、
発酵食品、
腐敗した食べ物などが
無数の微生物がいるので規制。
無数の身体(アナンタ・カーヤ)と呼ばれるカテゴリーに属する植物も規制対象で
玉ねぎなどの球根や
大根などの根菜類、イモ類などの地下茎などの植物も含まれている。
共通する特徴も新たな生命が生じるからだろう。
同様の観点から
多くの種を持つもの(バフ・ビージャ)も禁止で
ザクロ、ナス、トマトなどが該当。
根のものを避ける理由の一つで
収穫する際に地中の生物を害してしまうからというものもよく聞かれる。


(マニ教がジャイナ教からかなり影響を受けてそう。
マニ教は植物の根っこを引き抜くことが禁止。
ジャイナ教は
グノーシスの元ネタの梵我一如を説くバラモン教を否定しているから
グノーシス思想ではない。

インド国内で必要な栄養素(のほとんど)が菜食で賄えるのか気になる。

ジャガイモやタマネギは禁止。
根菜禁止はきつい。

シュラヴァナベラゴラのジャイナ教食堂でミールスを食べた
https://www.youtube.com/watch?v=KiuVyjYVOV0

Why Jainism Is The World's Most Peaceful Religion
https://www.youtube.com/watch?v=KAc33hNc7ak)

在家も日没後の食事は勧められない。
家庭での作り置きも推奨されない。
著者が目撃したのが
ターリー(プレート)で食べた後に
コップの水をそこに注いで細かい食べ残しをきれいに洗い
その水を飲み干す作法。
残りかすがついたまま放置されると小さな生物が集まるから。

食べられるべきではないものリストがあり
雪、氷、
(それらに微細な生物が潜んでいる可能性)
毒(腹の中の生命体を害する)、
土、
(微細な生命体を含み、
蛙のような五つの感覚器官を有する高次の生物を産み出す源
だと考えられていた。
口にした者の腸に深刻なダメージを与える病の原因とも考えられていた)

味がなく中身のない空洞上の植物、
(空腹を満たせないので不必要に生命体を害してしまう)

正体不明の植物などが禁止。

(何が食べられるか列挙した方がわかりやすそうなほど厳しい)




p.239
そして、〔修行者が近づくことで〕王や長者、〔その場所を〕秘密裏に守っている者たちが面倒を引き起こす場所を、遠くから避けるべきである(78)。

訳注
p.492
(78)
カウティリヤの『実利論』からは、古代インドでは出家者、あるいは出家者に扮した者がスパイとして活動していたことがうかがえる。このような状況を背景とした詩節と理解できようか。
(宣教師がスパイなのと同じだろう)

p.493
(90)
ジャイナ教では、一般に「水」は生の冷水を指し「命あるもの、生きているもの」とみなされるので、出家者が水を摂取するには、水が「命なきもの、変化したもの」になる必要がある。水を「命なきもの、変化したもの」とするには、太陽光に熱せられるとか、在家者が加熱処理する方法が一般的である。


本書冒頭の解説より
「『ダサヴェーヤーリヤ』六・二一の著名な定義「所有とは執着である」(255頁)」

p.255
 〔五 無所有〕
六・一八
岩塩・海塩・油・清乳・未加工の砂糖を蓄えることを、ナーヤプッタ(102)の言葉に満足する彼らは望まない。

六・一九
思うに、〔いずれか〕一つであっても、〔蓄え〕は貪欲との接触である。蓄えを望むのであれば、彼は在家者であり出家者ではない。

六・二〇
衣・鉢・毛布・足を払うものさえも、自制と羞恥心のために保持し、利用する。

六・二一
聖人ナーヤプッタによって、それは所有と言われない。「所有とは執着であると言われた(103)」と大仙(104)により述べられた。

六・二二
すべて〔の場所と時〕において、資具(105)を伴った悟った(ブッダ)人々は、〔六生類を〕保護するための所有物についてはもちろん、みずからの身体に対してさえも、わが物〔という思い〕を持たない。

訳注p.494 
(105)六・二〇にあげられた衣などの出家者に使用が認められている生活必需品をさす。


第4章『ダサヴェーヤーリヤ』
p.275
八・五〇
星〔占い〕・夢〔占い〕・〔星宿との〕結合・前兆〔占い〕・呪文・薬草の調合を、そのような生類に〔混乱や〕論争をもたらす語を、在家者に語るべきでない。


 第5章『ウヴァーサガダサーオー』第一章
(【第Ⅱ篇】は出家者と在家者との戒律文献)
 (【第5章】『ウヴァーサガダサーオー』第一章は、白衣派聖典中、もっともまとまって在家信者の宗教生活を説く章であるとともに、後に数多く著された在家信者向けの行動規範マニュアルの祖型ともなり、ジャイナ教の在家信者観をうかがう上で欠かすことのできない資料)

p.299
沙門マハーヴィーラに近づき、三度右回りの礼(11)をなし

訳注p.501
(11)
いわゆる右遶三匝(うにょうさんそう)。


右遶三匝とは – コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%B3%E9%81%B6%E4%B8%89%E5%8C%9D-1274511
”右遶三匝(読み)うにょうさんそう
世界大百科事典内の右遶三匝の言及
【行道】より

…遶仏(にようぶつ),施遶(せによう)ともいう。インドでは右手を浄,左手を不浄とする思想があり,比丘たちは仏に対して右遶三匝(うにようさんそう)する(右回りに3回回る)のが例法となった。中国では左を上位とする考えがあって戒壇を巡るときに左回りすることもあり,日本でも座禅のときに眠けを覚ますための香版(警策)をもって回る役の巡香(じゆんこう)は左回りであるが,そのほかはすべて右回りである。…

※「右遶三匝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報



第5章
p.311
光熱という霊魂の彩(65)を豊かに蓄え蓄積している者

訳注p.508
(65)
光熱という霊魂の彩(teulessā)とは、苦行によって身体に蓄積される光熱のエネルギー体である。これによって人を焼き殺すことも可能である。『ヴィヤーハパンナッティ』には、後にアージーヴィカ教の教主となるゴーサーラ・マンカリプッタ(パーリ仏典におけるマッカリ・ゴーサーラ)が、ある苦行者にこの力を発せられて殺害されかかったところ、マハーヴィーラに救出されるという逸話が残されている。

(67)
口を覆う布はマスク様の布であり、これで口を覆うことで空中の微細な生物を吸い込み殺害することを防ぐ。


第III篇 仏典との類似経典
(【第Ⅲ篇】は初期仏典と共通する伝承から作られたパエーシ王の物語)
 第6章『ラーヤパセーニヤ経』(抄)――パエーシ王物語
(【第6章】には、来世を信じず霊魂と身体が同一であると主張するパエーシ王と、ジャイナ教僧ケーシの対話である「パエーシ王物語」(『ラーヤパセーニヤ経』後半部)を収めた。訳注には、これに並行するパーリ仏典と3本の漢訳仏典との対応箇所を記した)

特になし。


第IV篇 祖師マハーヴィーラの生涯
(【第Ⅳ篇】はジャイナ教の祖師マハーヴィーラの伝記)
 第7章『ジナチャリヤ』(抄)――誕生から入滅まで
 (【第7章】には、白衣派ジャイナ教在家者にもっともよく知られる『ジナチャリヤ』(ジナたちの伝記)からマハーヴィーラ伝を収録した)

p.399から
尊い沙門マハーヴィーラは、有能で、規範にきちんと従い、容姿端麗で、感官を制御し、幸福であり、慎み深く、ナーヤの者であり、ナーヤ一族の息子であり、ナーヤ家の月〔のごとく〕であり、ヴィデーハの者であり、ヴィデーハディンナーの息子であり、ヴィデーハ生まれであり、ヴィデーハの王子であり、三〇年間ヴィデーハで暮らし、母と父が鬼籍に入った後、長兄と王国の権力者たちから許可を得て、誓いを完遂した。そのとき、慣習に従ってローヤンティヤ神(54)たちが、それらうれしく気分が良くて好ましい、心地よくて心にかなう、華々しくも美しい、幸福で恵まれた、吉祥な、適度な長さの、甘く幸運な、心に届いて心を喜ばせる、誠実で繰り返しではない言葉で、絶え間なく喜び賞讃しながら、次のように述べた。

「勝利せよ、喜ばしいお方よ。勝利せよ、よき方よ。君に幸いあれ、優れたクシャトリヤの雄牛〔のごとき者〕よ。
(メモ者:長いので省略。「勝利」と言っている。「クシャトリヤ」とも言っている)

訳注
p.516
(54)
バンバローヤ(ブラフマローカ)天に住む神格であり、救済者たちが世俗の生活を放棄する場面で彼らを祝福する神格として文献に現れる。


p.401から
そして尊い沙門マハーヴィーラは、次々と、連なった千の眼に見られながら、連なった千の口に称えられながら、連なった千の心によって賛美されながら、連なった千の希望の的とされながら、
〔メモ者中略。1000を強調〕
素晴らしい笛と同時に大いに鳴らされたほら貝・シンバル・太鼓〔後略〕。
(ほら貝はインド圏では普通だな。日ユ同祖論者が無視する場所の1つがインド。イスラエルと日本の間にある場所。
ラビのほら貝←インドのほら貝→山伏のほら貝 の可能性を考えよう。
修験道のほら貝の起源はインド。
ユダヤ教のラビのほら貝も、おそらくインド起源。
インド神話で極めて重要なヴィシュヌ神の象徴がほら貝で、ヴィシュヌはほら貝を吹く。
法螺(ほら)(貝)は、仏教の一派である密教の儀式で使用される法具の1つ。仏教の伝来によって日本にもたらされたとされる。日本に密教が伝来してから、修験道でも使われるようになったらしい。

三重修験道会 - 法螺貝とは
http://www.shugendojapan.com/horagai.html
”ユーラシア大陸の文明文化の道を通り、インド伝来のバラモン教、ヒンズー教の法具である「シャンク」は、チベット、中国を経て文明文化の終着点である日本に到着しましたが、それを否定するどころか、飲み込み自分達の都合の良いように改良、改善して今日の法具、「法螺貝」としてみごとに変化融合させてきました。全ての物質存在は波動から成り立ちますが、音の波動は、音霊としての波動を持ち、次元を超えて、浄化作用や共鳴反応を起こし、行者のみならず、祈りの対象を清らかな本来の存在への変換する法具であります。

法螺貝の起源

修験道と言えば法螺貝、法螺貝と言えば修験道と言えわれる。 起源はインドのバラモン教、ヒンズー教の司祭が使う法具として「シャンク」と呼ばれる貝を、ホーマの儀式(護摩)などで吹き鳴らすことから、古代インドやチベットの大乗仏教においても同様に貝を法具として使用している。 「あ・うん=オーム」の「あ」は宇宙創造の音で、「うん」は地球創造の音として、その聖なる原初音を法螺貝は再現すると言われる。 密教ご真言で「おん~~~」の「おん」はこの宇宙創造の原初音で、ご真言=マントラを法具の貝で吹奏するころからの起源。

〔画像省略。画像は2枚。
1枚目の名前は「法螺貝の起源1」であり、ほら貝を持っているヴィシュヌの絵。
2枚目の名前は「 法螺貝の起源2」であり、1柱の神と、人間がそれぞれ法螺貝を吹いている画像。何の神かはわからないが青白い肌だから神なのは確実〕

法螺貝の教相

「法螺を吹く」と言うと、一般に「大げさに言う」「でたらめを言う」ことを指すが、本来の意味は仏典中、「法華経」には「大法螺を吹いて、大法鼓を撃つ」とあり、また 「鼓音経」には「大戦鼓を撃つ」とあり、法螺はあくまでも大日如来法身説法の内証を示すものであり、過去、現在、未来の三世における諸仏が出世さられて説法される時に、必ず、大法螺を吹かれて、如来説法を一切衆生にいきわたらせ、迷界の衆生の妄心を覚醒されたと伝えられる。

法螺貝吹奏

法螺貝吹奏の目的

謹んで吹奏し奉る金剛三昧の法螺と云者、金剛界バン字の智体にして法身説法の内証なり。 又、天界の音楽なれば、一度之を吹き奉れば、其の響き十方世界に周偏して、諸々の不浄を清め、邪気を除き、悪気魔障立ち所に降伏せしめ奉る。恭しく法楽荘厳の御為に丹誠を致して吹奏し奉らんとす。願わくば本尊聖者哀愍納受を垂れ給はんことを。 三昧法螺聲 一乗妙法説 経耳滅煩悩 当入阿字門 (訳=法螺貝の音は瞑想であり(三昧) 一乗妙法説(法華経そのものである)耳にふれれば煩悩を滅すまさに、阿字本不生の境地に入らん)すわなち、*祈祷においては「諸々の不浄を清め、邪気を除き、悪気魔障立ち所に降伏せしめ奉る。」 *ご法楽や大護摩供においては「法楽荘厳の御為に。」すなはち、「信は荘厳より生ず。」*修行においては、「大日如来説法の内証」「三昧瞑想」「即身成仏」への法具である。(「法螺表白文」より)
” ※着色は引用者

修験道がコダヤ教って言う法螺吹きに注意!
修験道含め、日本の伝統宗教には自然崇拝思想が根付いている。
一神教では自然はゴッドの創造物なので拝むの禁止。
根本思想が違うので表面的な共通点があっても別物。
日ユ同祖論信者のタブーは日本とイスラエルの中間にあるインド・イラン。
AとBが似ている場合
①AがBの元ネタ(A→B)
②BがAの元ネタ(B→A)
③AもBもCが元ネタ(A←C→B)
④偶然の一致など

中間と他の選択肢を与えない典型的な二元論を悪用した詭弁。
右翼と左翼の対立茶番の応用。
両端を極端な目立つ囮にして、真ん中(真の元ネタ)=本体を隠す術。

日ユ同祖論(ユダヤが起源)も、
日本起源説(平田篤胤系の神道カルトに多い)も、
イスラエルと日本の中間にある真の起源(である可能性が極めて高いもの)であるインド・イランを意図的に無視するのが特徴だ



p.402から
自身の装身具・花環・衣服を外した後、自身の〔頭髪を〕五摑み分抜いた。抜いてから、二日半のあいだ飲食物を断ち、ハットゥッタラ月宿との結合に入ったときに、天の衣一つを持って、一人で連れ立つ者なく、禿頭となって、家から家なき状態へと出ていった。

尊い沙門マハーヴィーラは、一年一箇月のあいだ、衣をまとっていた。それを過ぎてから、衣を持たず、手を器とした。尊い沙門マハーヴィーラは一二年以上、常に身体を放棄し、肉体を顧みず、天・人・畜生に関わる快・不快などのなんらかの困難が生じれば、それら一切をこらえて我慢し、耐え忍んだ。

そして、家なき者である尊い沙門マハーヴィーラは、(中略)言葉の用心、(中略)意識の用心、口の用心、身体の用心を行い、意識を防護(60)し、言葉を防護し、身体を防護し、感官を防護し、(中略)亀のように感官を防護し、サイの角のように独りで(62)、鳥のように自在に、(中略)象のように賢く、雄牛のように踏ん張り強く、獅子のように近寄りがたく、(中略)月のように魅惑的で、太陽のように光り煌めき、金のように美しく、大地のように触れるものすべてを耐え、よく供物の投ぜられた祭火のように光り輝いた。

(この中略はメモ者が記した。この翻訳書では原典でも「中略」と書いてある箇所があるとわかるように訳されている)


訳注
p.517
(62)
仏典のSn Ⅰ, 3:「犀角経」では、「一本角のサイの角のように一人歩め」という句が繰り返し用いられる。
(「独り」の誤字?)


p.403から
最上の守り、最上の満足、最上の思考、最上の真実・節制・苦行・善行とその結果である完全な涅槃への道を通じて自己を修養しながら、一二年が経過して一三〔年〕目に入った夏季第二月の第四半月であるヴァイサーハ月白分に、(メモ者による中略)ジャンビヤガーマという都市の外にあるウジュヴァーリー川の岸で、霊域から遠すぎず近すぎないところで、家長サーマーガの耕地にある沙羅の木のもとで、踵を合わせて蹲踞の座で日光を受け続ける苦行をしながら、二日半のあいだ飲食物を断ち、〔月が〕ハットゥッタラ宿との結合に入ったときに、瞑想の最中、無辺、無上、無障、無覆、完全、円満な、優れた一切の知識と見解が生じた。

 そして尊い沙門マハーヴィーラは、価値ある方となった。勝者、一切者、全知者、全見者は、天・人・アスラの世界の転変を、理解した、見た。全世界のすべての生き物の、来たところ・行くところ・存在・死・生・推理・思考・思惟・食物・行為・楽しみ・明らかな行為・隠れた行為を、価値ある方は、秘密として取り分けることはなく〔すべて理解して〕、それぞれの時間を身・口・意の活動に従事しつづけ、全世界の全生き物の全状態を理解しつづけ、見つづけ、過ごした。

(メモ者による中略)

尊い沙門マハーヴィーラは死亡・逝去・他界し、生老死の縛りを断ち切って成就し、悟って解脱し、最後を作り、完全に涅槃し、すべての苦しみはなくなった。

(王子だし、釈尊っぽさがある伝記だな。途中から全裸だったり、修行が苦行なのが仏教との明確な違い。瞑想中に悟った)


 第8章『ヴィヤーハパンナッティ』第九篇第三三章
      ――最初の母との邂逅と教団の分裂
(【第Ⅳ篇】はジャイナ教の祖師マハーヴィーラの伝記)
(【第8章】『ヴィヤーハパンナッティ』第九篇第三三章「クンダッガーマ」を収めた。前章においてマハーヴィーラは最初にバラモン族の夫人の胎に宿り、胎児のままクシャトリア族の夫人の胎に移った。本章前半では、最初の母であるバラモン族の夫人と夫がマハーヴィーラと再会し、出家して解脱するまでが描かれる。後半部では、最初の教団分裂を引き起こしたジャマーリの出家から死までが記され、仏典におけるデーヴァダッタの破僧事件を彷彿とさせる)

第8章担当は上田真啓(うえだ まさひろ) オススメされている人だ。
上田真啓(うえだ まさひろ)だけでなく堀田和義の名前もある。2人で担当。


訳注
p.518から
(2)
ジャイナ教では、世の中が良くなっていく上昇期と悪くなっていく下降期が、途切れることなく繰り返されると考える。両者ともに六つの段階に分けられており、解脱が可能となるのは、どちらも、良すぎも悪すぎもしない三番目と四番目の時代とされる。伝統的には、経典冒頭の「その時代」という表現は、下降期の第四期を、「その時に」という表現は、その中の特定の時期を指すと解釈される。

(7)
白衣派ジャイナ教聖典では、人物描写などに際し、既出の表現については「中略(jāva)」とのみ記して省略する技法が発達している。ただし、どこまでを省略するかという点に関しては確たる基準がなく、写本や刊本によって異なることも多い。

(8)
ヴェーダは、バラモン教の聖典であり、神々に対する讃歌の集成である『リグ・ヴェーダ』、祭式の準備から終了までの作法をまとめた『ヤジュル・ヴェーダ』、歌詠のための旋律と歌詞を内容とする『サーマ・ヴェーダ』、呪術的、魔術的な呪文の集成である『アタルヴァ・ヴェーダ』の四種類から成り、いずれも神々に対する祭式に深く関わるものである。これらはさらに、マントラの集成であるサンヒター、神話や伝説を交えて、祭式の規定や神学的説明をするブラーフマナ、アーラニヤカ、哲学的な問題を論じるウパニシャッドから構成される。


訳注p.520
(11)霊魂というのは、行為の主体であり、かつ行為の結果である苦楽を引き受け、輪廻転生する実体的な自我のことである。非霊魂は、それ以外のものを指す。沙門の伝統に連なるジャイナ教と仏教は、ともにヴェーダの権威を否定したが、実体的な自我の存在に関しては、見解を異にする。すなわち、ジャイナ教は実体的な自我の存在を認め、無我説を奉じる仏教は、その存在を認めない。実体的な自我の存在を認めない他の立場としては、インドの宗教界で忌み嫌われた唯物論者がいる。


p.414
 続けた後、一箇月のサンレーハナー(38)によって自らを擦り減らした。一箇月のサンレーハナーによって自らを擦り減らした後、断食によって六〇食を断った。

p.524
(38)
しばしば、断食死などと訳され、自らの意志により、死に至るまで続ける断食行を指す。ジャイナ教において、断食死は理想的な死に方とされており、出家修行者だけでなく、在家信者にも推奨されてきた。一方、世俗的な立場からは、自己に対する殺生に相当するなどといった理由で非難されることが多い。これに対して、ジャイナ教では、断食死を実践することのできる条件が厳密に定まっていることや、殺生を行う者と断食死の実践者の心理的な側面の違いなどを強調して反論してきたが、現代においても議論は平行線を辿っている。


p.416
ナーガ(50)の祭り

訳注p.525
(50)
蛇、とりわけコブラを意味し、神話的には、人間の顔と蛇の体を持ち、パーターラと呼ばれる地底界に住む半神的存在とされる。ナーガに対する信仰は古く、非アーリヤ系の土着的な信仰に由来すると言われる。仏教においては、ブッダの教化によって仏法の守護神に組み込まれ、漢訳仏典で、竜、那伽(なが)などと訳された。
(この蛇人〔爬虫類人〕がスピ系の地底人の元ネタの一つだろう)


p.427
黄金でできた百八(83)の水瓶、——『ラーヤッパセーナイッジャ』におけるのと同様である——〈中略〉土でできた百八の水瓶によって、あらゆる富〈中略〉非常に大きな〔楽器などの〕音とともに、出家の灌頂を行った。
(※この「〈中略〉」はメモ者である私による省略ではなく、この本に書いてるのをそのままメモした)

訳注p.529から
(83)
インドにおいては、古来より、10、20……100などといったラウンド・ナンバー(端数を処理したきりのよい数)に八を加えることによって、多数や無限などといった意味を表すことがあり、百八もそのような数字の一つと考えられる。百八という数は、仏教ではとりわけ煩悩の数として知られている。

備忘録(メモ)は終わり。



参考資料


https://twitter.com/komorikentarou/status/1133705715439136768 と続き
”小森健太朗@相撲ミステリの人
@komorikentarou
ジャイナ教の戒律でも、肉食完全禁止、動物性たんぱく質もダメなので、卵も牛乳も乳製品もダメ。赤い色の野菜もダメ、根菜類もダメと禁止食物は多いのがヴィーガンに似てはいるが、ジャイナ教は別にヴィーガンを応援したり共闘したりしていないなー。
午後9:04 · 2019年5月29日


ಯುತಕಕವಸಕಿ
@suhamma
2019年5月30日
返信先:
@komorikentarou
さん
はじめまして.個人的体験ですが,数年前にロンドン大学のジャイナ教ワークショップに参加した時,イギリス在住ジャイナ教徒(インド人)がランチ時にヴィーガニズムのプロモーションを熱心にしていました.少なくともインド外ジャイナ教徒は,共闘していないという訳でもなさそうです.

小森健太朗@相撲ミステリの人
@komorikentarou
2019年5月30日
返信先:
@suhammaさん
コメントありがとうございます。ジャイナ教の方でしょうか??

ಯುತಕಕವಸಕಿ
@suhamma
2019年5月30日
返信先:
@komorikentarou
さん
私自身はジャイナ教徒ではなく,ジャイナ教を専門に研究している者です.


小森健太朗@相撲ミステリの人
@komorikentarou
2019年5月30日
返信先:
@suhammaさん
そうでしたか。ジャイナ教にも戒律を厳格に守る派と、ゆるめの派があると思いますが、戒律を厳格に守る派にとっては、移動手段としての飛行機などは使えないのではないですか?そうなると、ジャイナ教徒が英国に留学するのは無理になるのでは……?

ಯುತಕಕವಸಕಿ
@suhamma
2019年5月30日
返信先:
@komorikentarouさん
ヴィーガン活動をしていたのは在家信者です(在家信者は移動OKなので).伝統的に僧・尼は渡航できませんが,白衣派の改革派であるテーラパンタ(テーラパンティー)派は,通常よりランクが下の出家者を設定しており,サマニーと呼ばれる彼女ら(専ら尼さんです)は渡航可能で海外に留学もします.

ಯುತಕಕವಸಕಿ
@suhamma
2019年5月30日
返信先:
@suhamma
さん,
@komorikentarouさん
ロンドン大学にはイギリス在住ジャイナ教徒の出資でジャイナ教研究センターなるものがありまして,修士号や博士号が取得可能ということで,そこにテーラパンタ派のサマニーが実際に留学し,インド外の学会で積極的に発表してらっしゃるサマニーもおられます(私も昨年ヴァンクーバーで遭遇しました)

[枝:

ಯುತಕಕವಸಕಿ
@suhamma
返信先:
@komorikentarouさん
ヴィーガン活動をしていたのは在家信者です(在家信者は移動OKなので).伝統的に僧・尼は渡航できませんが,白衣派の改革派であるテーラパンタ(テーラパンティー)派は,通常よりランクが下の出家者を設定しており,サマニーと呼ばれる彼女ら(専ら尼さんです)は渡航可能で海外に留学もします.
午後4:17 · 2019年5月30日

小森健太朗@相撲ミステリの人
@komorikentarou
·
2019年5月30日
返信先:
@suhamma
さん
なるほど、ロンドン大学に留学しておられるのはテーラパンタの在家信者の方なのですね。

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ಯುತಕಕವಸಕಿ
@suhamma
返信先:
@komorikentarou
さん
あ,留学しておられるのは在家信者ではなく,出家者です.サマニーはあくまでも「まだ修行(霊的レベル)がそこまで進展していないお坊さん(尼さん)」という位置づけです.
午後4:22 · 2019年5月30日



田蛙澄
@taatooru
2019年6月2日
返信先:
@komorikentarouさん
よろしければお聞きしたいのですが、ジャイナ教で赤い野菜が駄目というのは初めて聞いたのですが、どのような理由なのでしょうか。もし典拠をご記憶ならばお教えいただきたいのですが。

小森健太朗@相撲ミステリの人
@komorikentarou
·
2019年6月2日
返信先:
@taatooruさん
トマトなどの野菜が避けられるのは「血の色」に似ているためか、そういう理由だったと思います。典拠はさがせばありますが、インド暮らしでの実聞から知らされたことがらです。


ジャイナ教聖典選
https://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336073914/
”ジャイナキョウセイテンセン
ジャイナ教聖典選

河﨑豊/藤永伸 編・訳
上田真啓/藤本有美/堀田和義/八木綾子/山崎守一 訳

発売日 2022/09/16

判型 A5判 ISBN 978-4-336-07391-4

ページ数 572 頁 Cコード 3014

定価 7,700円 (本体価格7,000円)
[中略]
 古代インドで仏教と同時期に同地域で誕生し、いまなおインドで続くジャイナ教。初期仏典にも多くの記録が残り、祖師マハーヴィーラは六師外道のひとりニガンタ・ナータプッタとされ、主な教義と死亡記事も伝わる。しかも、ジャイナ教聖典と同一の詩句が仏典中に多く見られ、仏教の教えとして伝わっている。
 ジャイナ教徒はインド総人口のわずか0.4%ではあるが、19世紀にはインド民族資本の大部分を占めていたといわれ、マハートマ・ガーンディーの非暴力・菜食主義に影響を与え、南方熊楠はその徹底した不殺生を仏教よりも高く評価した。
 本書には、ジャイナ教の二大分派である白衣派の聖典から、【第Ⅰ篇】には古層文献を、【第Ⅱ篇】には出家者と在家者との戒律文献を、【第Ⅲ篇】には初期仏典と共通する伝承から作られたパエーシ王の物語を、【第Ⅳ篇】にはジャイナ教の祖師マハーヴィーラの伝記を収めた。
 【第1章】『アーヤーランガ』第一篇は、出家修行者が解脱を達成するために遵守すべき禁欲的な修行生活全般を主題とする。なかでも第九章は、マハーヴィーラ出家後の厳しい苦行生活を古風な韻文で描いた、最古の祖師伝である。
 【第2章】には、『スーヤガダンガ』第一篇第四章と第五章第一節を収めた。前者は男性出家者が女性との接触を避けるべきことを教示しており、最初期ジャイナ教のジェンダー観に有意な資料を提供する。後者は最初期ジャイナ教の地獄観を表す資料であり、『スッタニパータ』などの初期仏典、ヒンドゥー教の大叙事詩『マハーバーラタ』や法典『マヌ法典』にも類似した観念が見出され、当時の地獄観の共通認識を知るうえで欠かすことができない。
 【第3章】には『ウッタラッジャーヤー』から古層に属する第一章から第二〇章、そして第二五章を収めた。出家者の生活への心構え、説話、伝説、対話篇、修行論、解脱論や業論といった教学的議論など、さまざまな内容で構成され、仏典にも並行する詩句が見出される。
 【第4章】『ダサヴェーヤーリヤ』(十夜経)は、基本的な教義や出家生活上の規定をまとめた白衣派の古層をなす聖典であり、現在でも出家の儀式を終えた者が最初に学習する派もある。
 【第5章】『ウヴァーサガダサーオー』第一章は、白衣派聖典中、もっともまとまって在家信者の宗教生活を説く章であるとともに、後に数多く著された在家信者向けの行動規範マニュアルの祖型ともなり、ジャイナ教の在家信者観をうかがう上で欠かすことのできない資料である。
 【第6章】には、来世を信じず霊魂と身体が同一であると主張するパエーシ王と、ジャイナ教僧ケーシの対話である「パエーシ王物語」(『ラーヤパセーニヤ経』後半部)を収めた。訳注には、これに並行するパーリ仏典と3本の漢訳仏典との対応箇所を記した。
 【第7章】には、白衣派ジャイナ教在家者にもっともよく知られる『ジナチャリヤ』(ジナたちの伝記)からマハーヴィーラ伝を収録した。
 【第8章】『ヴィヤーハパンナッティ』第九篇第三三章「クンダッガーマ」を収めた。前章においてマハーヴィーラは最初にバラモン族の夫人の胎に宿り、胎児のままクシャトリア族の夫人の胎に移った。本章前半では、最初の母であるバラモン族の夫人と夫がマハーヴィーラと再会し、出家して解脱するまでが描かれる。後半部では、最初の教団分裂を引き起こしたジャマーリの出家から死までが記され、仏典におけるデーヴァダッタの破僧事件を彷彿とさせる。
 アルダマーガディー語原典から訳出された本書により、マハーヴィーラ在世時の姿が、ここに蘇る。
著者紹介
河﨑豊 (カワサキユタカ)

1975年生。東京大学附属図書館アジア研究図書館研究開発部門助教。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。
主な業績:『ブッダゴーサの著作に至るパーリ文献の五位七十五法対応語』(共著、山喜房佛書林、2014)、『原始仏典Ⅲ 増支部経典第六巻』(共訳、春秋社、2019)、“New and Rare Words” Collected by Helen M. Johnson from Hemacandra’s Triṣaṣṭiśalākāpuruṣacaritra (共編著、東京大学附属図書館アジア研究図書館上廣倫理財団寄付研究部門、2022) ほか。
藤永伸 (フジナガシン)

1956年生。京都光華女子大学特別研究員。広島大学大学院文学研究科博士課程後期満期退学。博士(文学)。
主な業績:『ジャイナ教の一切知者論』(平楽寺書店、2001)、“Six Dravyas,” in Brill’s Encyclopedia of Jainism. Leiden/ Boston, 2020. “New and Rare Words” Collected by Helen M. Johnson from Hemacandra’s Triṣaṣṭiśalākāpuruṣacaritra (共編著、東京大学附属図書館アジア研究図書館上廣倫理財団寄付研究部門、2022)ほか.
上田真啓 (ウエダマサヒロ)

1980年生。立命館大学非常勤講師。京都大学大学院文学研究科博士後期課程指導認定退学。修士(文学)。
主な業績:『ジャイナ教とは何か 菜食・托鉢・断食の生命観』(風響社、2017)、「ゴーサーラ伝——Vyāhapaṇṇatti第15章和訳(1)」(共訳、『仏教文化研究論集』第20号、東京大学仏教青年会、2020)、「Vyavahārasūtraの注釈文献研究」(『ジャイナ教研究』第27号、ジャイナ教研究会、2021)ほか。
藤本有美 (フジモトユミ)

1977年生。宮城県公立高等学校社会科教諭。東北大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。プネー大学大学院修了(Ph.D. in Prākrit)。
主な業績:「Vyavahārabhāṣya第一章に見られる住処での生活規定について」(『論集』第44号、印度学宗教学会、2017)、「Bhāṣya文献における追放(pāraṃciya)の規定について」(『ジャイナ教研究』第24号、ジャイナ教研究会、2018)ほか。

堀田和義 (ホッタカズヨシ)
1977年生。岡山理科大学教育推進機構基盤教育センター准教授。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。
主な業績:『よくわかる宗教学』(共著、ミネルヴァ書房、2015)、「ゴーサーラ伝——Viyāhapaṇṇatti第15章和訳(1)」(共訳、『仏教文化研究論集』第20号、東京大学仏教青年会、2020)、“New and Rare Words” Collected by Helen M. Johnson from Hemacandra’s Triṣaṣṭiśalākāpuruṣacaritra (共編著、東京大学附属図書館アジア研究図書館上廣倫理財団寄付研究部門、2022) ほか。
八木綾子 (ヤギアヤコ)

1978年生。京都大学非常勤講師。京都大学文学研究科博士後期課程指導認定退学。博士(文学)。
主な業績:「AMg Apaḍinnaの意味について」(『ジャイナ教研究』第14号、ジャイナ教研究会、2008)、‘A Sketch of the Life of Terāpanthi Nuns: A Jain Śvetāmbara Sect in Lāḍnūn.’ (『ジャイナ教研究』第19号、ジャイナ教研究会、2013), ‘Meaning of AMg. allīṇa and pallīṇa.’ in Jaina Studies: Select Papers presented in the ‘Jaina Studies’ Section at the 16th World Sanskrit Conference, Bangkok, Thailand & the 14th World Sanskrit Conference, Kyoto Japan. Ed. by Nalini Balbir and Peter Flügel. New Delhi: DK Publishers Distributors, 2018ほか.
山崎守一 (ヤマザキモリイチ)

1948年生。中央学術研究所顧問。東北大学大学院文学研究科博士後期課程修了。文学博士。
主な業績:A Pāda Index and Reverse Pāda Index to Early Jain Canons: Āyāraṅga, Sūyagaḍa, Uttarajjhāyā, Dasaveyāliya and Isibhāsiyāiṃ, Tokyo: Kosei Publishing Company, 1995(共編), 『沙門ブッダの成立——原始仏教とジャイナ教の間』(大蔵出版、2010)、『古代インド沙門の研究——最古層韻文文献の読解』(大蔵出版、2018)ほか。


[2023年5月27日に追加:

https://twitter.com/suhamma/status/1574945454118535168
”યુતકકવસકિ
@suhamma
あと出家前の女性が悪い霊にとりつかれてしまって、このままではまともにジャイナ教徒としての生活ができないので、正気に戻っているうちに断食死を決行するという例などもあります(現代の実話)
引用ツイート
頁(おおがい)
@Notpoteo
·
2022年9月27日
仏教における自死の問題は最近大谷先生の研究でかなりホットだけど、ジャイナ教での自死については「災難、飢饉、老齢、不治の病など…すでに何らかの形で死期が迫っている」時のみ認められるという。初期仏典に見えるチャンナの自死についてはジャイナ教で認める「不治の病」との関連が伺えるかも。
午前11:13 · 2022年9月28日”

યુતકકવસકિ
@suhamma
ジャイナ教の断食死、死期が迫っている時に認められるのは確かにそうですが、なぜ死期が迫っている時に認めるかというと、人間死にかけてるとまともにジャイナ教の戒律が守れなくなるでしょう。戒律を守れるかどうかが最大の基準であり、死期は要因の一つに過ぎないのですわ。
午前11:19 · 2022年9月28日


યુતકકવસકિ
@suhamma
ものすごく簡単に(というか仏教風に)言えば,「なんらかの煩悩に突き動かされて自ら命を絶つ」と「自殺」になり,「煩悩なく断食して死ぬ」と「自殺」にはならない,というのが基本線だと思います.細かい議論のヴァリエーションは色々とあるでしょうが.
午後4:31 · 2018年1月19日

યુતકકવસકિ
@suhamma
ああそうだ,日本語で,堀田さんの優れた論文がありました:堀田和義「死に至る断食 : 聖なる儀礼か自殺か?」『死生学研究』10, 2008, 223-243. 無料でPDFが公開されています → http://jairo.nii.ac.jp/0021/00016250
午後4:35 · 2018年1月19日

યુતકકવસકિ
@suhamma
その一方で,例えば,憑き物にとりつかれてしまった出家前の女性が,これではジャイナ教の教えを損じてしまうというので,正気に戻っている間に断食死を決行し見事死んだ事例がありますが(現代の話です),これは「自殺」とは考えない.
午後4:40 · 2018年1月19日


યુતકકવસકિ
@suhamma
飛び降りに限らず,ジャイナ教は自殺に対して極めて否定的ですね.なお断食死は自殺ではありません.念のため.
午前11:06 · 2021年7月21日


યુતકકવસકિ
@suhamma
馬鹿が酷い悪業を犯しても断食でその全てを焼き払えるぞい,という断食最強説を説くジャイナ僧の記述にぶちあたっている(yad ajñānena jīvena kr̥taṃ pāpaṃ sudāruṇam / upavāsena tat sarvaṃ dahaty agnir ivendhanam // Br̥hatkathākośa 57.516//)
午前10:18 · 2022年12月4日

https://twitter.com/suhamma/status/1599223434571304962 と続き
”યુતકકવસકિ
@suhamma
早くも二詩節後に「誓戒と断食という水によって悪という垢を放棄することができる」などと日和りだした(dhmāyamānaṃ yathā lohaṃ malaṃ tyajati sarvataḥ / vratopavāsatoyena tathā pāpamalaṃ tyajet //57.518//).断食だけでええんとちゃうんかい
引用ツイート
યુતકકવસકિ
@suhamma
·
2022年12月4日
馬鹿が酷い悪業を犯しても断食でその全てを焼き払えるぞい,という断食最強説を説くジャイナ僧の記述にぶちあたっている(yad ajñānena jīvena kr̥taṃ pāpaṃ sudāruṇam / upavāsena tat sarvaṃ dahaty agnir ivendhanam // Br̥hatkathākośa 57.516//)
午前11:05 · 2022年12月4日

યુતકકવસકિ
@suhamma
うーん「vrata たる upavāsa」と読むほうがいいのか.
午前11:23 · 2022年12月4日


https://twitter.com/suhamma/status/1009640004715335680



યુતકકવસકિ
@suhamma
ジャイナ教では一般に断食死のことをサッレーカナーと言いますが,それが自殺ではないという議論については,たぶん英語版ウィキペディアが簡潔にまとまっている
en.wikipedia.org
Sallekhana - Wikipedia
午後4:22 · 2018年1月19日


યુતકકવસકિ
@suhamma
つい最近出たジャイナ教の断食死の現状(裁判で違憲とかされたりしてますのでジャイナ教徒的には割と問題は深刻)をめぐる論文集,少しずつ読もうとしているがなかなか重要で,今後の基本参考書のひとつになるような

https://bibliaimpex.com/index.php?p=sr&format=fullpage&Field=bookcode&String=9788124610480&Book=Sallekhana:%20the%20Jain%20approach%20to%20dignified%20death
,
画像
午後11:07 · 2021年1月3日

યુતકકવસકિ
@suhamma
बृहत्कथाकोश 124話,ジャイナ教徒の国王が敵王と戦争して勝利し,その後断食して天界に行くのだけど,まあそれでいいんでしょうね…
午前10:12 · 2022年12月31日
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યુતકકવસકિ
@suhamma
starve は私どもジャイナ学徒には馴染みの言葉ですけどね(断食死を表現するのに、この動詞を使う学者がいる)。子供服ブランドの名前が「飢餓」なんて、悪い冗談にもならない。
午前10:51 · 2012年8月21日


યુતકકવસકિ
@suhamma
とにかくここ数ヶ月でジャイナ教説話から私が学んだことといえば、なんか現実世界でややこしいことに巻き込まれたら、断食するか、断食できなければ pañcanamaskāramantra を唱える・念じれば打開されるということですね・・・
午前10:33 · 2023年1月29日
·
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યુતકકવસકિ
@suhamma
なおジャイナ的には、自殺とは煩悩ゆえに文字通り自らを殺すこと、つまり殺生に他ならないが故にアウトです。いや君ら断食死するやんというツッコミは今も昔もありますが断食死は自殺に非ずのロジック(の変遷)はそれだけで研究の対象でしょう。
午後1:58 · 2017年7月21日


યુતકકવસકિ
@suhamma
1/10発売予定.皆さん買いましょう

ジャイナ教とは何か──菜食・托鉢・断食の生命観 (ブックレット《アジアを学ぼう》) 上田 真啓 https://amazon.co.jp/dp/4894897989/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_bgAuAbT1CMXF6
@amazonJP
さんから
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ジャイナ教とは何か―菜食・托鉢・断食の生命観 (ブックレット《アジアを学ぼう》)
ヒンドゥー教・仏教と並ぶインドの伝統的宗教。知られざる教義と歴史、出家と在家の実践、その独自の生命観を食生活から紹介。
午後1:27 · 2018年1月7日


યુતકકવસકિ
@suhamma
電化製品使わないか、と言われてみると、断食死決行中のお坊さんの傍でヒーター入れてたのを見たけど、あれは電気ヒーターだったような。
午前9:04 · 2015年3月31日


યુતકકવસકિ
@suhamma
なお、根本的な問題 ― 断食死は自殺ではないの?は、ジャイナ教徒は断食死を自殺とは考えない。だから訳語は割と困って(suicideという訳語は我々は使いません)、Zydenbos教授は `self-determined ritual euthanasia' を提案してます。
午後8:17 · 2011年9月11日


યુતકકવસકિ
@suhamma
ということで聞いています.最初はジャイナ教の医学文献 Kalyāṇakālaka についてのキーノートレクチャー.alchemy に関する話題が中心ですね

Illness, Medicine, and Healing in the Jain Tradition - UC Riverside
events.ucr.edu
Illness, Medicine, and Healing in the Jain Tradition
UC Riverside Jain Studies Symposium 2020, December 12-13, 2020, 9:00am-4:00pm (PST)
午前2:49 · 2020年12月13日


યુતકકવસકિ
@suhamma
某ジャイナ教文献にある、「断食死(サッレーカナー)は自殺(アートマ・ヴァダ ātmavadha) だろう」、という仏教徒からの論難に、「いやお前らアートマン認めてへんのにアートマ・ヴァダとか何言うてますのん」と批判し返す箇所を読んでいる…
午前8:43 · 2016年4月22日

髙山龍智🇮🇳जयभीम वाला
@nagabodhi
@suhamma
その時の仏教の坊さん、आत्मा वध(アートマ・ヴァダ)をSpirit Slaughterの意味から「殺生だ!」と云ったんでしょうが、無我=アナートマーは否定冠詞アン+アートマーですから、その意味ではアートマー概念ありきの考え方ですからね。
午前8:58 · 2016年4月22日

યુતકકવસકિ
@suhamma
@nagabodhi
そうなんですよね。まあジャイナ教徒が書き残していることなので、どこまで真実を伝えているかは定かではないのですが…仏教徒の残した文献でジャイナ教の断食死を批判している箇所などが見つかると、いいのですけれど。
午前9:01 · 2016年4月22日

યુતકકવસકિ
@suhamma
にしても、断食死マニュアルをやってるの、本当に世界中で僕と Soni 先生だけですな…。で僕も流石にそろそろ断食死マニュアルからちょっと離れたいような。
午後10:29 · 2015年4月24日


યુતકકવસકિ
@suhamma
まあそんな事を言い出したら、ジャイナ教の断食死文献の研究者も、今のところ世界に儂しか居ないわけですが。強制的に世界の最先端。
午後1:53 · 2013年5月4日


યુતકકવસકિ
@suhamma
しかし、これはどうするのかな。今の世界期は「下降・減退」期で、人間の質も劣化するから、愚かしい世俗の法律によって断食死すら許されない…というような解釈をしていくのだろうか、ジャイナ教徒は。
午前8:25 · 2015年8月11日


યુતકકવસકિ
@suhamma
ちなみに昨年末はカルナータカ某所でまさしく断食死決行中の裸形派のお坊様にもお会いすることができました。
午後11:01 · 2015年9月5日


યુતકકવસકિ
@suhamma
にしても、毎日毎日、死ぬことばかり考えてるな。いや、小さいときから死ぬことを考えない日なんて殆どなかったけど、ここんとこはそれがちょっと酷い。しかも今は断食死文献の精読に没頭してるし(笑)。
午後6:42 · 2012年11月12日

યુતકકવસકિ
@suhamma
2011年10月22日
で、夕食を食べに行った積りがつい書店に寄ってしまい、つい書籍を買ってしまい、つい夕食代を使ってしまったので、今日は絶食。そういえば今日は、6日間の断食なるものを勧められたのだった。でも年末年始だなー、試すとすれば。キツいのは最初の二日だけらしい。

追加ここまで]

[2023年6月5日に追加:

2023年6月5日に『ジャイナ教聖典選』の著者の1人に発見されRTされた笑 読書メモ記事へのリンクがある私の呟きが著者にRTされたのは恐らく初。記事の内容への発言(つぶやき)は無し。

2023年6月5日の通知欄の一部:


યુતકકવસકિ
さんがあなたの返信をリツイートしました
大勇者の教えである『ジャイナ教聖典選』http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-506.html

マハーヴィーラ(「大勇者」)は修行完成後の敬称であり、俗名はヴァッダマーナ(「増益」)とされる。…ニッガンタ(「束縛を離れた者」)や、ジャイナという表現の由来であるジナ(Jina「勝者」)は、彼が達した宗教的境地を示す。…


このアカウントに行って確認した:

https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/1664938144691634176
”યુતકકવસકિさんがリツイートしました
子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子)
@kitsuchitsuchi
大勇者の教えである『ジャイナ教聖典選』http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-506.html

マハーヴィーラ(「大勇者」)は修行完成後の敬称であり、俗名はヴァッダマーナ(「増益」)とされる。…ニッガンタ(「束縛を離れた者」)や、ジャイナという表現の由来であるジナ(Jina「勝者」)は、彼が達した宗教的境地を示す。…
yomenainickname.blog.fc2.com
大勇者の教えである『ジャイナ教聖典選』
目次『ジャイナ教聖典選』備忘録(メモ)参考資料『ジャイナ教聖典選』備忘録(メモ)https://twitter.com/KokushoKankokai/status/1570600262082895872“国書刊行会@KokushoKankokai【新刊】『ジャイナ教聖典選』http://ow.ly/oovz50KL6Tq 超難解言語アルダマーガディー語原典から直接訳出された本書により、祖師...
午後7:12 · 2023年6月3日
·
1,455
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追加ここまで]




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