読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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iroiroほうこく『虚人たち』筒井康隆『着想の技術』『残像に口紅を 』 


どれを選んでも #キリスト教 と #大本教(神道=#和風キリスト教)系支配。
自民党(共和党)=ワールドメイト+生長の家+神道政治連盟。
民主党(EU)=ワールドメイト+生長の家+スピリチュアル。
小沢=ワールドメイト
公明党=創価学会
共産党=EU別働隊
社民党=EU別働隊

これに、

菊池@kikuchi_8
日本近代カルトは平田派、日蓮思想、キリスト教、神智学。大体この四つの源泉あり。
平田派→大本教、
日蓮思想→創価、
キリスト教→統一協会、
神智学→幸福の科学。
現代日本で幅を利かせている四大カルトはいずれも上記の源泉を持つ。
前一つが反米派、後ろ三つが親米派に影響力大。
この両建構造。

日蓮思想とキリスト教の類似点
①末法思想という終末思想が前提
②法華経の教え以外の全面禁止の要求(排他性)
③久遠本仏という実体的な超越者の崇拝
④上行菩薩というメシア待望論
➄宗派によっては日蓮が本仏とされ、ゴッド=イエス思想と類似。
●平田派の系譜の神道系カルトと並び日蓮系カルト多し。


平田派=和風キリスト教
日蓮思想=和風キリスト教
より、
上記の政党の構成要素はキリスト教と新キリスト教のみだとわかります。


記名投票にしない選挙は無意味。
記名投票にするには憲法の秘密選挙の箇所を変えないといけないが、その改正選挙は秘密投票なのでダメですね。
少数決です。民主主義だと偽天皇の親戚が首相になって格差が拡大するのですか?
秘密投票制でどうやって票の改竄を防ぐのですか?
支配層が自分の支配を覆しうる制度を作るとお考え?
支配層が自分の支配を覆しうる制度を推奨するとお考え?

風の子 @makeanovel
「人間というものはまるでそれを自分で選択してると思いこませておけばその世界を受け入れる」ってことに気がついたコンピューターがマトリックスにこのシステムを組み込んだ。という設定。

子子子子子(ねここねこ)@kitsuchitsuchi
奴隷に偽りの公正感を与えるのが選挙。
”何か巧妙な籤(くじ)が作られなければならないだろう。そうすれば、それぞれの組合せが成立するときに、先述の劣ったほうの者は自分の運を責めて、支配者たちを責めないことになるだろうからね”
プラトン『国家』=支配層の教科書。


風の子 @makeanovel
”なああるほどおお、すごい納得のヒトコトですわ。。!
RT @kitsuchitsuchi 奴隷に偽りの公正感を与えるのが選挙。

真の支配者層は自分たちが責められないように巧妙にいろいろ仕組みを作ってるもんですね。たいがい庶民は的はずれなとこに怒りの矛先を向けて疲弊>< RT @kitsuchitsuchi 先述の劣ったほうの者は自分の運を責めて、支配者たちを責めないことになるだろうからね
それに選挙はイベント的な要素もはらみ、なにかショーを見てる気分で昂揚させられ、
クライマックスで自分も投票するとき、立派な参加者の一人だという気分を味わわせられます。で、中身は不正だという。。 
政治好きなかわいいタレント(ハーフ?)による、「投票しないのに文句を言うのはおかしい」とかいうキャンペーンもすごいですね。やっぱり今回は選挙を肯定っていう猛烈な誘導を仕掛けてる存在がいますよね。
この「投票しないのに文句を言うのはおかしい」理論でいくと、選挙が終われば、「投票した人たちは自分が選んだんだから、その結果に文句言うのもおかしい」になっちゃうんですよね。うわ怖。

つっても投票率ごと操作されてますしね。。でもまあ今の選挙がいかに胡散臭いかってとこをガン無視して、選挙いこうぜキャンペーンが無邪気過ぎる感じですねえ。


記名投票にするには憲法の秘密選挙の箇所を変えないといけないのですが、その改正選挙は秘密投票なのでダメ。
カワイイは作れる!画面の向こうの儲の言うカワイイが何のかわからない。
痩せ型が良いことにしたいキリスト教が、痩せている人に似合う洋服ばかり作らせている。


ダビデの星がユダヤの象徴になったのは17世紀からで、ユダヤ教徒ではなくイエズス会が勝手に決めました。
伊勢神宮のダビデの星がある石灯籠の設置は戦後です。
生命の木中心のクリスチャン・カバラは15世紀にできました。

漢字辞典で「京」を調べました?
祇園は祇樹給孤独園という仏教用語の略称なのでシオンを意味しません。
精舎=寺。
ユダヤ教の行事カレンダーにシオン祭りは実在しません。
#日ユ同祖論 = #和風キリスト教 思想 は嘘↓
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-44.html …

仮想敵は全部、キリスト教財閥の手下。
放射能だって、電磁波の一部。


私は本ブログでやる内容をツイッターで或る程度先にやったりします。
ツイログだと私のついートだけが見られます。
プラトンのメノンとかね

この記事は後に別の、単なる趣味の本の感想などになったりするよ。




 アクセス解析したらベルギーからアクセスが! EUの根拠地じゃないか!
大帝はバッキンガムだったな。 どうしようかなこのブログ。 告知 あの平成の治安維持法みたいな法律が間もなく施行されますので
私のブログとツイッター記事の保存をお願いします。転載、ミラーサイト、コピーブログ、各自ワードなどに保存、紙に印刷など、ぜひとも、あなたのお力添えをお願いします。
特に以下の四大最重要記事=四天王は最低限、保存お願いします。


多くの陰謀論者が無視する点を盛り込んで陰謀論者チェックリストを作りました~はじめにお読みください①
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-1.html

聖書が根拠の日ユ同祖論の矛盾と対策。日ユ同祖論を広めているのはキリスト教と和風キリスト教(神道、大本教系)。ユダヤ・在日押しつけ陰謀論者はイエズス会の手先。東電は上智大学=イエズス会支配。電通神社支配のマスコミはキリスト教に逆らえない。ねこたさんの陰謀論者の宗派リスト 。派閥別工作員の特徴リスト(ねこた製)。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-44.html


「ユダヤ」なんてキリスト教の盾に過ぎません!陰謀論者のデスノート 陰謀業界人の宗派リスト 。派閥別工作員の特徴リスト(ねこた+まっこうもぐら製)。 
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-50.html


食べて応援悪魔的な企業リスト+飲食物など
私が放射性物質に関して食べ物で気をつけていることを紹介します。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-5.html




『虚人たち』筒井康隆『着想の技術』

今人間Xが出産されたこと“はじめにロゴスありき”のごとしである、と冒頭のこの一文の前半で表現しているのは、文字通り文字の世界では文字こそがはじまりであることを主張するためであり、出産はまさにこの一文によってなされているのであるが、誕生それ自体は創造主の脳内において出産より前に起こっているので、真の誕生日は受精卵ができた時であるから誕生日など無意味なのではないか、という意見を今主張しておこうと創造主が考えたのでこの一文の後半部ははっきり言って余分である。
Xには今は顔が無いのっぺらぼうである。「へのへのもへじ」すらない。見た目なんぞは挿し絵を見ればいいことであるが挿し絵はつけない。顔がないことをXは自覚しているが、それに対する反応はない。性格がまだないので当然である。
突然Xのすぐ近くに――上下左右やどれぐらい離れているかの数値表現などは必要な時に記述して確定させるので気にしてはいけない――何者かが登場する。気が狂ってい「狂ってい」るのかは分からないちゃんと「狂ってい」の発言者の要望通り否定しておいたそして同時に「狂ってい」という語尾を確定させないように中断させたことで「狂っていませんわ」「狂っていねえよ」「狂っていないのじゃ」などといった先ほど出現した者に関する情報をできるだけ出ないようにすることで今後の展開に自由度を与えてみる。しかしこの人物はいかなる必然性をもって登場したのだろうか。性別はまだ確定していないこれからもどちらの性別でもいける表現にする予定だ「この人」「子ども」「大人」「現存在」「へのへのもへ寺」「名有りの権兵衛」などだ。
〔以下しばらく仮定の話なので何者かの設定を確定させるものではありません〕
この何者かはどう見てもとてつもない雰囲気を醸し出しているから自分にとって最後の試練となって立ちはだかる宿敵なのだろうか
それともたまに姿をくらますが気がついたら側にいて物語の最後当たりで主人公が「自分を離れて何をしていたのか。一体何のためにいるのか」という恐らくこの謎の人物の登場時からずっと質問したくて仕方がなかったことを漸く質問すると「吾輩がお主の傍を離れた後でな、吾輩は人類存亡を左右するほどの脅威と戦い完全勝利していたのでな、そんで終ったのでな、お主のもとに戻って来たのじゃよ。そんでそもそも吾輩がお主の傍に何のためにいたのかというとな、世界を救うという吾輩の役柄は実にありふれておるがの、ただお主という主人公の傍にいるだけでな、しかもたまに離れて人類滅亡を防いだ後に再び主人公の傍ただいるだけという役柄は最高に稀有で面白いからなのじゃ。吾輩がたびたび笑いをこらえきれずにおったからお主は戦慄したりしたじゃろうがそれはお主の傍にいるだけでありしかもずっとは傍にいないという珍妙な役柄が余りにも楽しかったからじゃよ。吾輩は余りにも強すぎて人類の脅威も吾輩にとっては一撃で終ってしまう程度じゃったからな」
「自分と瓜二つの姿なのはなぜですか」「それは自分がお主のほんの少し先の未来からきたお主自身、あるいは平行世界から来たお主自身だからじゃよどっちかはよくわからんがとにかく双子であると周囲に思わせることでいろいろ助かったじゃろう」「口調や強さが自分と全然違うのですが」「口調や強さが激変しているのはそうした激変がこれから起こるからじゃよあるいは平行世界存在が吾輩だということが確定されれば吾輩はお主のありえた最強の自分だということになるな」
「この話が終ったら別の世界に行ってそこの自分の人生が完璧に上手くいくようにその自分の人生の半ばまでサポートしてその上手くいきすぎる人生に飽きてきたその自分と共に他の世界の自分をサポートする新たな楽しみを提示して参加させるのも面白そうですね。仮定の話が長くなったので終らせますね」「てなわけで終わりじゃよ」
〔仮定修了〕
ゲストキャラクターであるのにもかかわらず、何故か「あたかも最初から主人公チームの一員として扱われている」キャラが加わった状態の主人公チーム(3+1名)

小説のお約束(を意図的に破りまくるのが本書であり、自由を求めて生まれたのが小説だということを体現している)
①時間(描写)の省略(均質的・直線的で恒常的なクロノス的時間=外的客観時刻の無視。
⇔カイロス的時間=内的主観的時間)。
例えば、「ある店に行った」とだけ記述してその過程を記述しなかったり、「一年が経過した」とだけ記述してその一年間を記述しないというように、ストーリーに関係のないことは全て省略される(不定時法)のが普通ですが、本書では、原稿用紙一枚分=作中の一分(本書は四時間半ほどの分量を省略なしに描いたことになる)、なのでその間のことが省略されない定時法によって執筆されています。この小説では時間の流れが描写される時間、主人公の意識の流れと完全に等質化されていますから、主人公が気絶している間はページが真っ白となってしまいます。当然、普通の小説なら冗長過ぎて省かれる記述も多数あります。例えば、「主人公は~である」や「天気はよくわからない」とストレートに記述するのが普通の小説ですが、本書ではこうなってません。
なお、時間の流れと描写が一致していますので、文体は過去形ではなく現在形です(後述しますが、主人公は三人称視点を持ち、しかも回想に登場するのは「昔の自分」ではなく「今の自分」です)。また、時間が一定に流れていることを表現するため、「セリフ」が入る部分以外は改行も読点もありません。
また本書では、「どこにもない時間であり過去のどこにも挿入できない時間」という、フィクションでしか実現できない時空間を出現させたりしまう。主人公とその息子がレストランで食事している場面(父たる主人公は描写するように食べ、息子たる木村伴男は食べる描写なしに食べます)から突然、時間が分からぬ掛け時計やうろたえているテレビ番組と八畳の座敷と誘拐されているはずの妻と娘が出現し家族四人の団欒が始まったりします。




スサマジイ冒頭
“今のところまだ何でもない彼は何もしていない。何もしていないことをしているという言いまわしを除いて何もしていない。窓の外は晴れている。いや。曇っているかもしれないがその保証はない。なにしろ雨が降っているかもしれないくらいだから。それでもやっぱり晴れているのかもしれない。窓ガラスが時おり光るのは太陽の光なのかもしれないが横なぐりに吹きつけてくる雨滴が何かの灯火に照らされているのかもしれず雪明かりなのかもしれない。それどころか晴天と曇天と雨天がそんなことはあり得ないとする日常的思考を否定したり嘲笑したりするために数秒置きのくり返しを演じているのかもしれないではないか。そう考えてこそもしそれが雪明かりだとすれば雪明かりがちらつくなどという非日常性も納得できようというものだが彼はあいにくそんなことを納得する気すらない。確かなことは屋外の天気が不明であると彼が判断するための窓ガラスがそこにあるということだけだ。“p.7

“女の同居人がいてそれは妻だと彼は思う。妻の名前は現実には絶対にあり得ぬ運子珍子万子その他をひっくるめたすべての女性用固有名詞のどれであっても不思議ではない。寝室の電燈をつけ三面鏡を開くと彼の顔が映った。眼鏡も髭も白髪もない中年男の顔だ。肥ってもいず痩せてもいず傷痕も吹出物もない。あるのは眼鼻立ちだけだ。彼が自分の顔を見るのはこれが最初だがこの鏡に自分の顔を映して眺めたことは数知れぬほどである。ただ単に顔立ちだけしかないその顔を見て彼は自分を知ろうと努め鏡の中の自分にその成果が反映することによって彼はますます彼になっていく。”p.10

“思わず周囲の様子を見まわすとあたりはさりげなく存在する。さりげなくここに在るぞと言うかの如くさりげない。”p.12

“批評を拒否し若い娘の部屋として典型でありすぎることを指摘されることさえ拒んでいるような部屋である。”p.13

“屋内にいた時の彼へ義理立てでもするかのように天気は執念深くまだ明らかではない。晴れてもいず雨でもない。天気そのものが存在しない。強いていえば虚空に天気無用の巨大な判をべったり捺(お)したような天気といえる。”p.14

“投げやりな背景のそれら便宜的な点景人物の不明瞭さは彼の妻の姿をくっきりときわ立たせている。”p.28

“あとのふたりの顔立ちはぼやけていてわからなかった。かすかに凹凸が認められただけだ。背の高さも体格もわからない。伸びたり縮んだり肥ったり痩せたりしているように見えた。それでもまあ心配することはないさ。どうしても詳細が必要になってきたらそのたびに明確化していく。”p.22


“描写するに価いしない時間などというものは人間が意識を持つ限りあり得ないしある時間的間隔を持った意識の空白さえその時間的間隔ゆえに意味を持つ筈ではないか。むしろ無意味なのは本人がすべてを眺めわたしたというわけでもない風景の細密描写による現像焼付引伸しでありその為に時間までがおそるべき長さに引きのばされてしまうことであろうと彼には思える。そのように入念な観察が風景に対して終始一貫なされ得るものではないし極端な場合の如く会話と会話の間隙ほんの数秒の間に周囲の山川草木を一挙にあげつらうなど甚だしい暴挙と言わねばらならんのではあるまいか。”p.155


②回想では作中人物は現在のその人とは別人(過去の自分は今の自分とは厳密には別人)。
回想でも時間旅行でもないのに作中人物が過去に逆行します。その過去における彼は実際に過去の彼でありながらも現在の彼の意識を併有しています。肉体だけが過去なのです。時間移動と言うよりは意識のみの空間移動ですな。時間逆行とは言え、人間には理解不可能であるのは、「たし行遡を間時は彼」と記述しても「彼は時間を遡行した」と翻訳されるだけだと少し考えればわかることであって、結局逆行って何なのかよくわかりませんな。だから時間ではなく空間移動としたのです。
主人公が一人称であると同時に三人称の視点(作者=神、の視点)を持っているとも言えます(とはいえ主人公はこの能力をフル活用して事件をさっさと終らせることはしません)から過去の回想も現在視点で記述できます。相手の顔を見なくても表情を見ることができます。まるで見えない自分が無数に存在するかのように。視点に関しては何でもありです。
視点の限界がないのです。
主人公が現在の意識のまま時間を移動することができるので、現在の時間と回想シーンの時間における主人公は完全に同一人物です。偏在とも言えますね。
現在の主人公と、過去の回想の主人公は厳密にはAとA'という違う人物です。過去の自分A'は今の自分Aよりは人生経験の記憶が少ないなどさまざまな違いがあります。しかし筒井康隆は本作で、A=A'としました。
しかも三人称視点を持っていますから、誘拐されて離れているはずの妻や娘に普通に話しかけて情報を得ています。加えて、意識が無い娘とも会話できます
(“わたしには今意識がありませんのよお父さま。”p.36
と話す娘が奇妙です)。

主人公は事件が終了した後の会社での出来事を知ることができたり、事件の結末を知ることができるのですが知ってしまわないようにしているようです。


“そもそも悲しみや苦しみを頒ちあうことはわれわれにはできないことなのだろうと彼は思う。だがそういう言葉が不自然でなく使用される以上現実の人間にはどうやらそういうことができるらしいと思い彼は現実の人間たちの虚構的な思いこみの強さやほとんど幻想的ともいえる想像力を羨む。”

③「主人公」が物語の中心であり「脇役」は中心になりえない、というお約束
(登場人物は自分たちが小説中の人物だと自覚していてもなお、脇役を拒否する所が面白い)
名も無き脇役たちから見たら主人公たちはどんなに異様なのかということを痛感させてくれます。例えば、ドラえもんが隣の家から出てきたら私はおそらく警察への通報を考えますし、そのドラえもんが何か巨大生物を闘っているとしても第三者から見たら「なんじゃろな」ですし、政府は兵力を向けることを検討するかもしれません。
要は、背景として描かれる無名のモブキャラの視点が再現されているとも言えます。
現実に主人公という人物は存在しません。現実的とも言えます。現実には自分は自分という人生(ものがたり)の主人公であり、誰かの人生の脇役だと思っている人は少数ですから(滅私奉公する執事とかでもそうですよ)、と確かに言えますが、それは現実を虚構化、いわば擬人化ならぬ擬虚構化した表現なのです。

筒井康隆『着想の技術』内に収録された『「虚人たち」について』p.97“現実には、主人公であるとか、脇役であるとかいった人物は存在しません。ある場所では主役である人物も、他の場所では脇役にまわるわけで、のべつ主人公であるという人物は、小説の中にしか登場しない。しかし現実にも、考えてみればすべての人が自分こそ人生の主人公だと確信しているといえます。では、現実以上に虚構の独自性を主張しなければならない小説では、いっそのこと、自分こそ小説の主人公だと自覚している人物ばかりを登場させたらどうか。現実と同じく、登場人物すべてが自分のそれぞれの物語の主人公であるという小説、当然その場合は、作中人物すべてが、自分は小説の中の登場人物であると自覚していることになりますが、そういう人物ばかりを登場させたらどうかと、そう考えました。ですから、この本のタイトルの「虚人たち」というのは、自分が虚構の中の存在であることを自覚している人物たち、ということになります。“

“現実に端役などという人物が存在するかい君。全員が主人公なんだ。”p.227

物語の末尾の箇所。
“彼は何もしていない。何もしていないことをしているという言いまわしを除いて何もしていない。事件が終れば彼にはもうするべきことが何もない。するべきことのない彼はすでに何でもない彼である。窓が消えると窓の外の天気も消える。晴れてもいず曇ってもいず雨でもなかった天気は今度こそ本格的に消滅した。家の中と外の区別がなくなった以上は家もなくなっているのと同じである。今家が消滅する。荒廃した家が消えればそこには荒廃もない。テレビ・スクリーンの白っぽい残像によってのみ存在していたテレビが消えてしまうと同時に彼も消える。”p.280


本書では主人公は明確に確定しているのですが、いわゆる脇役が素直に協力するとは限りません。例えば、ゲームでよく登場する、主人公(プレイヤー)にゲームの情報を伝えるだけの毎回同じことしか喋らない村人Aといった存在と似たような役柄を拒否する(が一応消極的に情報は与えてくれる)人物が登場します。その人物は他の物語の主人公だということがその人の電話での会話からわかります。
他にも、主人公以外の物語が展開されているであろう箇所の描写があります。

・誘拐の目撃証言を拒否する隣人。
“おれは他人の質問に答える為にだけここでこうして金網を加工していたのではないという男の全身の主張がすでに男の目撃したある事件の存在を証明しているのだ。”p.14

“「ここで今わたしがあなたに話しかけることがあなたの側の一件が落着から遠ざかりその緊張度を攪乱させる夾雑物になるということはよく承知しています。しかしこちらはあなたにあなたが目撃されたことを伺わない限り次の局面に移れないのです。なにしろ現在こちら側はまだ劈頭(へきとう)とか濫觴(らんしょう)とかいってもいい地点におりますので」
「しかしあんたがおれに要求していることはおれをその劈頭とか濫觴とかにちょいと出てきてちょいと目撃談を語るだけの傍観主義者になってほしいということなんだぜ」男はなるべく唇を動かさないように気をつけながらあいかわらず彼の顔を見ようとせずにそう言った。”p.20
濫觴:
孔子「揚子江のような大河も源は觴(さかずき)を濫(うか)
べるほどの細流にすぎない」(「荀子」子道)→始まり、起源。
(言葉の註釈まで会話文に入れるこころみはすでに誰かがやっているでしょう)
あんまり詳しく証言したり異様に詳しい知識を喋るとご都合主義だと読者に非難されるからあえてあまり喋らないと釘を刺します。だんだんですます調が崩れて自我出ている。地が出ている。
p.26“「何を質問なさっても無駄です。たとえばあなたの奥さんが三人の男によって無理やり連れこまれ連れ去られたあの乗用車がいかなるタイプかをわたしに訊ねられたとしてもわたしはお答えできないのです。それはわたしが車のタイプを全然知らないタイプの人間だからではないんですよ。わたしは車の型をよく知っています。そういった種類の知識がなければわたしはわたし自身のかかえこんでいる問題を知的に展開させ予定調和的な結末に導くことができないからです。ところが今あんたがさっきわしが喋った以上の詳細を求めている人間はただの金属製品の職人だ。そんな人間が車の型に関する正確な知識を持っていたらご都合主義の批難を免れることができない。そうだろう。そりゃまあ最近は確かに趣味の多様化で妙なことを詳しく知っている変な人物がとりたてて何の説明もなく突然あらわれたりするがそれはもともと類型たるべき人物を小手先芸で印象づけようとする一種の技巧に過ぎない。ところがわしは技巧としてではなく必然性としてそういう知識を先天的に持っているにかかわらずそれによって喋りもしない事柄の中でペダントリイを駆使する気はまったくないんだ。これは車の型のことに限らず車のナンバー逃走方向その他どんな質問に対してもそうなんだよ」”


・主人公の息子は通っている大学生活における学園青春ドラマの主人公(なので父親の物語に食い込まれるのを非常に嫌がる、が没個性的に従うことになります)。類型的な正義派らしい。
・店主と女店員との不倫ものあるいは猥雑なる恋愛劇。
・蘭をテーマとする、数人の女たちによる花屋が舞台の物語。
・最下級の従業員によって支配されているらしい銀行(最下層の悲哀を描くのか、はたまた出世し成りあがっていく過程のプロローグなのかもしれないし、お家騒動の副次的進展に過ぎないのかもしれない)。
・主人公と息子が食事しに行ったレストランにおいて、注文を聞きに来た中年のウェイターが突然目の前で壮絶な死を遂げるのですが、「部外者」たる主人たちと読者にとっては突発的過ぎて面くらいます。もしかしたら、そのウエイターはハリウッド映画の主人公でありその観客にとっては感動的ラストだったのかもしれません。しかし、
全然無関係な、たまたまその場に居合わせただけの人々にとっては意味不明です。
その“自らの過去すべてを容認して今死んで行こうとしている人間の表情”(p.63)で死ぬウエイターの死体を見た主人公の息子の発言が印象的です。
“「かかわりあうことが厭なんだ。今死んだあの中年の給仕はながいながい苦難に満ちた人生の幕をそこでおろしたわけだけど彼がわざわざおれたちのテーブルに倒れこんできて死んだのはおれたちの中に観客の姿を認めたからじゃなくて否応なしにおれたちに助演させようとしたんだぜ。もしかかわりあっていればあの男の厖大な数の出来事を含んだながい旅路の果てに立ちあい臨終を見届けた二人の親子連れというのでそこに重要なあるいは象徴的な意味を持たされ兼ねなかったんだ。また本当はおれたちにしたってあんなに意味ありげにおれたちの眼の前で死なれたのでは彼の死をこっちの主題に関係づけなければしかたがないところだったんだ。突然赤の他人が自分のすぐ眼の前で死ぬなんてことは現実にだってざらにあることじゃないからね」”p.66

海外の映画の主人公だったんだろうな。
“「この男が心臓麻痺でいずれ死ぬであろうことはわしにはわかっておった」給仕長らしい髭のある男が死体のまわりへ集ってきたウエイターやウエイトレスに外国映画の吹き替えじみた口調で説明している。「しかもこの男が今までさんざしてきた苦労に相応しい場面及び状況でひと眼を惹くような死にかたをするだろうとな。つまり単に『彼は死んだ』ではおさまりきらぬ人騒がせな。おっと。これは禁句だったな。まあ誰も騒いではおらんわけだがお客さま皆びっくりしておられることはあきらかなのでそう言ったのだ。しかしまあこの程度の死にかたでよかった。わしが想像していたほど大がかりな規模の死にかたでなくてな。さあ。早く死体を片づけてしまおう」
かげろうのように存在感の稀薄な数人のウエイターとウエイトレスがただ死体を運び去るためにのみ死体を運び去る。”p.64-65

・主人公は車の前に立ちはだかるのですが展開的に車が避けて止まり、その車に主人公は乗せてもらいます。その運転手もまた、他の物語の主人公です。運転手はトラブルに巻き込まれやすい、未知との遭遇もののSFかファンタジーの主人公でしょう。
この運転手は主人公に対し、拳銃を持っているか持っているならあんたの命じるままに運転しないといけないし持っていないのなら普通に次の仕事場へ行くだけだ、と言います。この運転手は便宜的に結婚したようでそれすなわち彼の嫁の主体性は夫たる運転主によってしか意味づけられません。誘拐の被害者かつ主人公の家族というかたちでしか主体性が意味づけられていない主人公の母と娘を思わせます。
そんなこんなで珍妙で解説的な会話の中で印象的なのが、
主人公の発言
“「おれにその奥さんの面倒を見ろと言うんじゃないだろうなおい。冗談じゃないよ。それはおれを利用することじゃなくあんたが自分の環境をおれに強要することになる。反則だぜ」”(p.144)
という他の物語の主人公を利用するのはよいが自分の物語の環境を強要するのは反則、だという主人公の主張ですね。つまりは主人公を取り巻く環境の強制すること=脇役化、はするな。ってことです。
そんなこんなでクラゲ的寒天的イソギンチャク的ポリプ的SF的存在が車にひっつきます。
※ポリプ:刺胞動物の体の構造の一つ。イソギンチャクのように固着して触手を広げるもの。
※刺胞動物:桜の花やヒトデなどのように放射相称で、かつ出口のない袋状の消化管を持つことが特徴。

別れの言葉が
“「ここで降ろしてもらおう。おれたちはお互いにとって待合室だった。これ以上一緒にいると停滞する」”p.171

・照明担当的な存在や、音響担当的名存在がいるのか、光や音が仕事したりする。ドラマの演出みたいに。


④伏線は作者と読者のためのものであり、登場人物のためではない
「あの時それに気づいてさえいたら」などのような表現は割と通常の小説に見られるものですが本書ではありえません。後になって悔むことがないように、そしてこれからどうすべきかを見出すために、ありとあらゆる事象から伏線を見出そうとします。そもそもこの小説の本来の主人公(記述量からして完全に主人公序列一位)である「木村」は筒井康隆ではありませんので、自分の設定をまったく知らされていません。鏡をのぞいて自分が中年の男性であることを知り、玄関の表札を見て自分の名前を知るのです。
主人公は、こういう場面であれば登場人物はどのように行動すべきか、相手の出方によって小説的にはどのように反応すべきか、作者が張った伏線ではないのか、などと常に考えながら行動していきます。無論、無関係な描写も省略せずに描く本書の方針上、他の登場人物にとっては重要な伏線かもしれないが主人公にとっては無関係なものも含まれております。
その伏線探しの過程で、作者が詳細設定必要なしとして手を抜いている部分を発見したりします。
p.55-56“大きな文字で書かれているのに何と書かれているかがよくわからず読もうとすればどのようにでも読めるしローマ字のようにも片仮名のようにも見えるのはこの店が常連の客によってさまざまな名で呼ばれているせいだろう。店そのものは附近の人物が共同で使用するため便宜的に設定された場所であることが明瞭だ。”
作者が描写に手を抜いている箇所を発見(手抜きは意図的でしょう)したのではなく、個人の認識が反映されやすい世界なのかもしれません。現実には人々があまり記憶していない物体でも存在自体は曖昧にはなりません。地球の核と表面の間のどっかとかです。個人が認識しているものしか存在しないという独我論あるいは知覚主義的存在論はこの際は置いておきます。
共同使用のための便宜的な理由で店が作られることは通常ありませんので、登場人物の紹介用施設なのかもしれませんね。

また、登場人物それぞれが全員主人公であるのと同様、風景もそれぞれのドラマを抱えている。たとえば街中を自動車で走るシーンでは、窓から見える家や店が、ファミリードラマや不倫物などの舞台となっていることがわかるような描写がなされる。


⑤同一主人公の身に大事件が二つ以上、同時に起こり、その二つ以上の事件がそれぞれ互いに無関係であることはない。
一つの大事件を扱う異なる小説二冊を無理矢理一つにまとめたような違和感。主人公の妻の誘拐事件。娘の誘拐事件。泥棒に入られる。息子にとっては息子自身の物語を加えて四つも事件が起こる。以上箇条書きを棒読むように記述した。


人物は統一された人格を持っているというのもお話の前提らしいよ。

虚人たち/筒井康隆
http://d.hatena.ne.jp/huyukiitoichi/20080829/1219987534
8.読点  筒井康隆氏の「虚人たち」は泉鏡花賞を受賞
http://homepage1.nifty.com/CommA/ETC/ETC008.HTM


残像に口紅を / 筒井康隆
使われる文字をどんどん減らすという発想は普通にありそうだがそれを長編でしかも素晴らしい内容で執筆できる人はかなり限定されるだろうから筒井康隆は適任だと言えるのであって今では全文をひらがなで打ってエクセルとかで文字置換を使ってチェックできるから比較的楽だけど(それでも大変だが)やりきった筒井康隆はスサマジイ(「りがとう、いました」ありがとうございましたの略、のような描写を会話体で続けまくることを彼は自ら禁じたのだ)というやたらに長い改行なしのこの文章は昔は常識であり神が貴重だった(紙が貴重だったの間違い)ことも影響しているのだろうが読みやすさを考えるあまりに読解力が減少しているのかもしれない(なお、この文章では別に文字をだんだん減らそうとはしていないのであしからず)。


・間違いなく言えるのは、「い」が日本語では最多であり、英語におけるeに相当すること。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q114388591
“↓のページの下の方にひらがなの頻度表があります。
これによると「い」が一番多いようですね。
ちなみに第2位は「う」、第3位は「ん」でした。
サンプリング対象によっては変わる可能性もありますね。
http://www7.plala.or.jp/dvorakjp/hinshutu.htm”

「あいうえおかきくけこ……」一番使われているひらがなはどれ?
http://www.excite.co.jp/News/bit/00091179941794.html
“ある土曜日の新聞から10の記事を選び、全てひらがなでワープロ入力。一文字ずつに切り分けて、表計算ソフトで数える。調査総数10,811字。何だかキーボードの調子が悪くなった気がする。それでは結果発表!

第1位…「い」833字(8%)  第2位…「ん」660字(6%)
第3位…「か」650字(6%)  第4位…「し」641字(6%)

この4文字だけで全体の26%。日本語の4分の1は、「い、ん、か、し」の4文字だけで表せるのである。単語を考えてみよう。歯間、インカ、簡易、紳士、印鑑、感化、過信、印画紙、深海……たくさん思いつく。確かに多いのだ。以下5〜10位まで「う、た、と、つ、て、の」の順。1〜10位の10文字だけで日本語の半分は表現できるので、携帯電話の0〜9にこの10文字を一文字ずつ割り当て、ワンプッシュで打てるようにしたら、もっと効率的にメールが打てるのでは? 携帯電話で小説を書く作家がいる現代、そんな「プロ仕様」の携帯電話があってもよいように思う。

続いて、少ない方を発表。

第44位…「ー」(長音)61字(0.6%) 第45位…「む」50字(0.5%)
第46位…「へ」49字(0.5%)     第47位…「ぬ」12字(0.1%)”
“最後に、使用頻度順に並べた47文字で歌を作ってみた。冒険小説風「新いろは歌」をどうぞ。
「インカ周、辿っての苦期は世に粉(こ)なる、気(け)を白湯せすり、あれら魔持ち追ふ絵や碑、祖母輪目『ねみろー』夢(む)経ぬ」(意味:インカの周りを辿った苦しい時期は、世の中に粉となり忘れられつつあると、白湯をすすりながら感じた。あれら魔持ちを追った様子を描く絵や碑は、祖母の輪のような目にも眠いとしか映らず、夢にもでてこない)お粗末さまでした。
(R&S)

※濁点、半濁点は無視、「ゃ」など小さな文字は大きな文字として、長音は別文字として集計“

この世界の法則
・時間を省略する(小説の常識)。「えんえんと時間が経過した」と表現すればなんと一行足らずですむので読者にとってはえんえんと時間が経過しない(小説の常識)。よって「なぜか三つか四つの過程をすっとばして」何かをしていることができる。短時間の行為はカットしないとどうしようもないのだ。少し動くだけで原子レベルから描写するわけにはいかないのだ(面白そうだけど)。
ぐだぐだに長引きそうな展開になったら省略されたりする。丁寧な言葉遣いとは文章を長くすることなので、使える言葉が少なくなると必然的に粗雑な言葉になる。「ね」が使えなくなると、和らげたりやさしくする喋りが簡単にできなくなる。文字通り言葉足らずなのでどうしても露骨になる。
・「ふ」と「ぷ」とが使えなくなると「分」が使えないので、文字盤がないので定刻は示されず定刻に出発し到着する電車が登場する。到着地が途中で消失したらどうなるんだろう。
・文体が変わっていく。その過程で無意識的に好んでいた表現が顕在化し、かつ新たな記述形式を見出す楽しみが得られる。例えば、「動作の目的を指す格助詞」(「へ」と「え」)がなくなっても動作によって目的を達成させなくてはならないとなると今までにない表現が生まれ得る。使える文字を制限して濡れ場を描いたのは筒井康隆が初かもしれない。
・だいじな名前つきの人物は確実に消えていくが、やがてはどうでもよい人物ばかりが残る。例えば、大勢が集まっている会場内の喧騒を画一的に笑ったりして表現することのみ役割として持つ、最初から虚構内存在として決定づけられた虚構内存在が登場する。真の意味で現実に存在しない。何せ完全な背景であり無生物であり単なるサウンドエフェクトだからだ。
・主人公以外の人物はその固有名詞に含まれる音がなくなれば消える。
・「心臓」という言葉が消えても別に心臓がないと死んでしまう存在が死ぬわけではない。「心臓」と記述しそれがないと表出され意識されてはじめて消えるので、他の表現で代用すれば問題ない。言葉にしようとさえしなければこの世界の事象はすべてそのままの姿で存在する。建物は建物としてなんのかわりなく建っているがこの建物を個として特定しようとしたら消失してしまう。

永井均『私・今・そして神』
“文(命題)は否定できるが、絵(像)は否定できない。否定文(命題)は作れるが、否定絵(像)描けない。これが言語の本質に属することは、『論理哲学論考』の根本洞察だった。だがそれなら、文は時制変換可能だが、絵はそれが不可能だ、も同じだろう。肯定絵を否定絵に変換する操作と同様、現在絵を過去絵に変換する操作もない。が、肯定文を否定文に変換する操作と同様、現在文を過去文に変換する操作は必ず存在する。言語をもつ存在であるわれわれは、端的な現在を可能な現在の一例として把握できるからだ。そしてそれは、まさにカント的な超越論的構成作用に基づいている。”p.140



日本語の一人称代名詞
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E4%B8%80%E4%BA%BA%E7%A7%B0%E4%BB%A3%E5%90%8D%E8%A9%9E
日本語の二人称代名詞
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E4%BA%8C%E4%BA%BA%E7%A7%B0%E4%BB%A3%E5%90%8D%E8%A9%9E

“そしてこの小説は言葉狩りへのアンチテーゼでもあります。「差別用語」というのがあります。その言葉を使うのが差別的だとされ、使用を禁じられる言葉です。しかし「めくら」を「目の不自由な人」や「視覚障害者」へ機械的に言い換えても問題は無くならないでしょう。そもそも「めくら」という言葉に差別を感じることこそ失礼です。言葉自体は「明るさを見ることができない、だから目が暗い」、それだけの意味です。その単なる言葉に侮蔑のニュアンスを込める心・差別意識こそが糾弾されるべきであって、使う言葉をマニュアルに沿って言い直してもその差別意識は無くなりません。むしろ安易な解決策は免罪符としてしか機能せず、差別用語さえ使わなければ何をしてもいいという風潮を生むでしょう。

さてそんな世の中に向けて筒井康隆はこう言います。言葉狩りは表現の自由を弾圧するものじゃないのか。なんでもかんでも差別用語にして禁止するけど、言葉はそれ自体美しくて価値のあるものじゃないか、と。*1

この小説では後半に進むにつれてどんどん使える言葉が少なくなってゆき、前半で使えた言葉の多様さ・豊かさにたいしてノスタルジーを感じます。使える文字が数個になった終盤では、まるで韻を踏んだ詩文のようになり、ほとんど意味不明の雑言によって世界は記述されます。それは言葉狩りの果てに行き着く荒廃した世界です。普段何気なく使っている言葉のなんと素晴らしいことか、その言葉とともにモノも概念も次々と失われていく世界でやっと読者は気づくのです。
*1:例えば「朝のガスパール」では新聞連載のためか「狂」の文字が使えなかったそうです。筒井康隆の作風を一言で言い表しているといっても言い過ぎではないこの一文字。はっきり言って恋愛小説で「愛」が使えないのと同じくらい致命的ですよ。どんだけ作品から味が損なわれることか、わかったもんじゃありません。
”残像に口紅を / 筒井康隆
http://d.hatena.ne.jp/daen0_0/20080705/1215220267
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