読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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サドカイ派が一番ユダヤ教らしい現世利益志向。ユダヤ教のメシアは現世利益を齎す政治的指導者。ユダヤ教は中国と同じく子孫繁栄などの現世利益用。エッセネ派とパリサイ派はユダヤ教ではなくゾロアスター教の変形。聖書アラビア起源説の資料。 

魔法使いハンターねこた@lanekota
”エッセネ派ってなんかーユダヤ人っぽくないよ。お金が嫌いで独身主義とか、子孫繁栄と現世利益が強いのがユダヤ教やん?それだけしゃないけど、タルムードから引用される寓話とかユダヤジョークとか極めて現世的なのにね。不思議だわ


日ユ同祖論が旧約なら日本にヘブライ語のトーラーでもあるのですかね?日ユ同祖論で取り出される資料は嘘ばかりです。大体、多神教の古代イスラエルとかパレスチナの周囲の民族と何が違うのか?と。書物の宗教だからこそユダヤ教は特異なのに”


キリスト教がユダヤ教派生は嘘。
ユダヤ教とキリスト教の救世主観は全然違う。
ユダヤ教のメシアは現世利益を齎す政治的指導者
キリスト教のキリストは超越的存在(ミトラと拝火教)。
ユダヤ教は中国と同じく子孫繁栄などの現世利益用。”

ユダヤ教の宗派(紀元30年ごろらしいけど、全て捏造かも)
①サドカイ派
貴族祭司など富裕層。「モーセ五書」のみが律法であり正典。
ローマ帝国と協調的。
現世の富と快楽を至上とする。
死者の復活・天使を認めない
神の人事への介入を否定
運命予定論を否定
霊魂不滅を否定
保守的。
現実的で現世利益ですね。
パリサイ派と対照的。サドカイ派と別の宗教じゃん)

②パリサイ(ファリサイ)派
学者や手工業者など中産階級。
メシア待望、復活信仰、最後の審判などの教義を持ち、急進的改革派の側面も持つ。
(ゾロアスター教じゃないか)
律法を厳格に守る。「律法の遵守より信仰」を説き、論的となったのがイエス
イエスは捏造。モデルはいただろうけど。ヨセフをモデルにミトラと拝火教の救世主概念を足したもの。ホルスは囮くさい)。

ユダヤ教でひとくくりにするのが間違いですね。
「総称」で騙すトリック
かな。

③熱心党(ゼロテ派)
ローマから独立する闘争をした。

④エッセネ派
俗世間を離れ、禁欲的閉鎖的な共同体を形成。。
一切の財産を共有し、厳格な律法と遵守の生活を営み、終末を待望
白衣を着用
奴隷制に反対。
農業や手工業に従事。貿易をしない。
聖書に記述なし。
エッセネ派ってゾロアスター教じゃないの?
死海写本を記述したとされるクムラン教団がエッセネ派とされている。
クムラン教団はこの世を光と闇の闘いの場とし、光の勝利とメシアの到来を信じたそうです、
ってゾロアスター教じゃないか!

マニ教はまだ生まれていないし、教義も違うし。
ジャイナ教も違うよなあ。
なお、全て後世のキリスト教による捏造だと仮定した場合、ゾロアスター教をモデルにして創作した可能性が高いです

ゾロアスター教の聖なる紐(クスティー)と衣服(スドラ)は白い

”・ゾロアスター教では、農耕はアフラ・マズダーの世界を豊かにし、アンラ・マンユに敵対する最も素晴らしい徳行の一つと考える。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-56.html
クリスマスプレゼント「カワウソは犬。ゾロアスター教ではね。
ゾロアスター教は犬派(猫は悪)。イスラム教は猫派(犬は悪)。



エッセネ派
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%8D%E6%B4%BE
”エッセネ派(ヘブライ語: האיסיים‎)は、紀元前2世紀から紀元1世紀にかけて存在したユダヤ教の一グループの呼称。現代では複数の関連のある集団がまとめてエッセネ派という名で言及されていたと考えられている。呼称の語源は不詳。ファリサイ派から発生したと考えられるが、俗世間から離れて自分たちだけの集団を作ることにより自らの宗教的清浄さを徹底しようとした点で、民衆の中で活動したファリサイ派とも一線を画している。
(…)
長きにわたって死海文書の作成者と思われるクムラン教団はエッセネ派に属するグループあるいはエッセネ派そのものであると考えられてきたが、ノーマン・ゴルブ(Norman Golb)のように異議を呈する学者たちも存在している。
(…)
新約聖書には、ファリサイ派とサドカイ派はあらわれるが、それらとならんで当時の主要なグループであったエッセネ派が一切登場しないため、洗礼者ヨハネやイエス・キリストが、エッセネ派に属していた、あるいは関係グループに属していたという説もある。”

エッセネ派ユダヤ人
http://inri.client.jp/hexagon/floorA5F/_floorA5F_hEE.html
”●クムラン教団は、ユダヤ教の一派「エッセネ派」に属する教団である。エッセネ派は他のパリサイ派、サドカイ派に比べ、熱烈にメシア(救世主)を待望しており、中でもクムラン教団は、メシアの啓示を強く受けていた

エッセネという名は、「医師」を意味する古代シリア語に由来している。彼らはその名が示すように、人々の肉体・魂・精神を治療することが、自分たちの存在の目的であると考えていた。

●彼らは「義の教師」と呼ばれる人物に率いられ、12人の信徒と3人の祭司からなる議決機関を持ち、10人ごとのグループに分かれて律法を学び、厳格な戒律を守り、生活の細部にわたり清浄さを保ちながら修行に明け暮れていたのである。

●彼らエッセネ派ユダヤ人たちは、紀元前100年頃にパリサイ派ユダヤ人から迫害を受けた際、人里離れた地キルベト・クムランへ移住したが、紀元66年の第1次ユダヤ戦争以後、歴史の表舞台から姿を消してしまった。

 
(左)死海周辺の地図 (中央)死海のほとりにあるクムランの洞窟。大量の『死海文書』が発見された。
(右)死海の近くにあるクムランの僧院跡。ここで「クムラン教団」の人々は厳しい修行を積み、写本を著した。

1947年に死海のほとりのクムランの洞窟から発見され、
センセーションを巻き起こした『死海文書』(死海写本)

 ●今から半世紀ほど前、この僧院跡の近くから、20世紀最大の考古学的発見といわれる『死海文書』(死海写本)が発見されたが、この『死海文書』はクムラン教団の人々によって紀元前300年~70年の間に書かれた書物と言われ、そこには古代ヘブライ文字で、「光」と「闇」の闘いである終末戦争が記されているという。

今日では、洗礼者ヨハネはクムラン教団の出身と言われているが、イエス・キリストもクムラン教団に属していたのではないかと推測されている。”

え、それってイエス(架空)がゾロアスター教徒ってこと
?

Essenes
http://en.wikipedia.org/wiki/Essenes#Rules.2C_customs.2C_theology_and_beliefs
”The Essenes have gained fame in modern times as a result of the discovery of an extensive group of religious documents known as the Dead Sea Scrolls, which are commonly believed to be Essenes' library—although there is no proof that the Essenes wrote them. These documents include preserved multiple copies of parts of the Hebrew Bible untouched from possibly as early as 300 BCE until their discovery in 1946. Some scholars, however, dispute the notion that the Essenes wrote the Dead Sea Scrolls.[2] Rachel Elior questions even the existence of the Essenes.
(…)
The first reference is by the Roman writer Pliny the Elder (died c. 79 CE) in his Natural History.[6] Pliny relates in a few lines that the Essenes do not marry, possess no money, and had existed for thousands of generations. ”

エッセネ派が死海写本を書いたと断定できる証拠がない。
エッセネ派は独身主義で、お金を持たないとある

英語版ウィキと日本語版と比較して読むのが重要。
特に、日本のことなのに日本語記事にはなくて英語記事にはある個所ね。

マニ教はゾロアスター教とは相いれない教義です。
農耕は善で、子作りも善のゾロアスター教
農耕は悪で、子作りも悪のマニ教
なのでマニ教の神話では、光=善側は「生まれない」。「流出」します。

キリスト教が性に厳しく、二元論なのは、アウグスティヌスが元マニ教信者だったからでしょう。

マニ教概説・序説
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/sophia7/mani-ri.html#top
”「マニ教」の項目でも述べているように、マニ教は何よりも「グノーシスの宗教」であり、その「基本的な教え」は、グノーシス的現存在姿勢から導かれていたためであるとも言える。様々な宗教の神の名や神話要素を、適合する形でマニ教神話に取り込み、「マニ教グノーシス主義神話」を構成するのがその特徴であるためである。

  マニ教は、グノーシス主義の反宇宙的二元論を前提にし、「光・霊・善」と「闇・物質=肉・悪」の二元論より成る。イラン型グノーシス主義の特徴として、これら二つの原理が、世界には原初のときより、並列して存在していたと教える。

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  ステージ1) 「原初の対立」 原初、「光の王国」と「闇の王国」があり、光の王国には「光明の父」または「偉大な父(ズルワーン=時)」が存在し、闇の王国には、「闇の王子=アフリマン(アングラ・マインユの中世ペルシア語形)」が存在した。闇の王子アフリマンは光の王国を垣間見て、光を我がものとしたいという欲望を抱いた。しかし、光明の父はかねてこのことあるを予見しており、予めに、「生命の母」を流出し、生命の母から「原人オフルミズド(アフラ・マズダーの中世ペルシア語形)」が流出する。

  オフルミズドは息子でもある五つの「光の元素」を武器に伴い、闇の王国にくだり、戦いを挑むが敗北する。彼は光の元素ともども闇に飲み込まれ沈む。オフルミズドは光明の父に救いを求め、光明の父はオフルミズドを救うため、「生ける霊ミフルヤズド(ミスラの中世ペルシア語形・太陽神)」を流出し、ミフルヤズドによってオフルミズドは闇から救い出される。しかし、彼と共に闇に飲み込まれた夥しい「光の元素」は、依然として闇に沈んでおり救われない。

  ステージ2) 「世界の起源」 この光の元素は小さく砕け散って、闇の神々=アルコーンたちに飲み込まれているため、生ける霊ミフルヤズドとその五人の息子は、闇の勢力と大戦争を起こし、多数のアルコーンたちを倒すと共に、光の元素を救済する。このとき倒された悪魔=アルコーンたちの遺骸から、地面や山々、天が造られ、「この世」が創造される。救い出された「光の元素」から、太陽と月が造られ、また十分に浄化されていなかった光の元素からは星が造られた。

  しかしなお、多くの光の元素の粒子が闇に飲み込まれているため、光明の父は更に「第三の使者」を流出する。第三の使者は燦然とした美に満ちあふれ、男の悪魔=アルコーンの前には素晴らしく美しい娘として姿を現し、女の悪魔=アルコーンの前には輝く手足の美青年として現れた。そのため、闇のアルコーンたちは誘惑され、欲情し、男のアルコーンは光の元素を含む精液を射精し、その一部は地上に落ちて、五種類の植物となった。他方、女のアルコーンは流産して光の元素を放出し、地上に五種類の動物を生み出した。

  ステージ3) 「人間の起源」 闇の勢力は、光の元素を取り戻されないように、光の元素を閉じこめた「物質の肉体」より、最初の人間、つまりアダムとヘーヴァを造った。二人は、自分たちの内部に「光の元素」が含まれていることに気づかないまま眠っていた。しかし、アダムたちに「グンーシス(叡智)」を教えて覚醒させるため、「第三の使者」の化身である「真実開示者イエズス」が地上に訪れた。開示者イエズスは、アダムに智慧を教えて彼を覚醒させる。

  グノーシスを得て覚醒したアダムは、物質の生殖の連鎖を断ち切るため、ヘーヴァとの性的行為を避けるが、ヘーヴァはグノーシスを与えられなかったので、アダムが禁欲する理由が理解できず、アルコーンと交わり、カインとアベルを生む。アダムは嫉妬に駆られてヘーヴァと交わってしまい、こうしてセトが生まれ、セトを先祖として、多数の人類が、この世に誕生した。

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  このようにして存在する我々人間は、闇の物質で造られた世界に生き、我々自身の肉体もまた闇の物質である。しかしアダムとヘーヴァを通じて、またセトを通じて、我々の内部には「光の元素の破片」がひそんでいる。この闇の世界から救済されるためには、我々は、「グノーシス」すなわちマニ教の啓示を知り、真実に覚醒し、内部の光の元素をまず月に、それから太陽へと帰還させ、最終的に「光の王国」へと戻さねばならない

  マニ教徒は、グノーシス(智慧)を知り、闇のアルコーンの策略である「生殖行為」を避けねばならない。また光の元素を少量とは云え内に含む、人間以外の動物や植物を無用に害したり殺すことを止め、人間や生物の内部に隠されている「光の元素」を純粋に抽出して、光の王国への帰還を促進させねばならない。やがて、光と闇のあいだで「最終戦争」が起こり、物質の世界は滅び、光と闇の二つの原理は、完全に分離され、再び混じり合うことはない。これがマニ教の神話であり宇宙論であり、救済論、そして教義である。
(…)
  西方グノーシス主義(シリア・エジプト型グノーシス主義)は、生殖行為を絶対的に禁止したため、世俗的一般大衆への布教という観点から見れば、理念的で、永続しない教えであり、また知的選良だけに開かれた宗教だとも言える。これに対し、イラン型グノーシス主義の最高形態であるマニ教の信徒論は、おそらく仏教の出家信徒集団と在家信徒集団の二分構造から着想を得たのか、信徒を、厳格なマニ教の戒律に従い修行する「選良者」集団と、緩やかな戒律のもと世俗生活を送りつつ、選良者たちの生活を支える「聴講者」集団の二重構造とすることで、「世代に渡り持続するグノーシス主義宗教」を実現した。

  宗祖マニは、預言者であり使徒であったが、同時に巧みな教団組織者であり、彼はマニ教の教義と神話を「福音書・教典」を著すことで明らかにしつつ、同時に、増大する信徒の数に応じて、その共同体を律する組織編成原理をもみずから構築した。「選良者」と「聴講者」の関係は、キリスト教の「修道士」と「平信徒」の関係に似ているとも言えるが、根本的に異なるのは、キリスト教の修道士は、みずからの修道共同体のなかで、生産活動を行い自給自足したという点である。マニ教の「選良者=修道士」は、その宗教の本来の教えの通り、生殖行為を行なわず、かつ物質的生産活動を一切行わないという原則で律せられていた

  マニ教の選良者(完全者)=修道士は、仏教の出家僧と同様、物質的生産活動には従事せず、従って彼らが生存を続けるに必要な一切の物資は、在家信徒である聴講者からの「布施」によってまかなわれていた。マニ教の修道院は、キリスト教のそれと似て、様々な精神活動・信仰生活のための施設を備えていたが、農業・畜産を含め、生産のための施設、また例えば食料貯蔵庫の役割をする倉庫などは備えなかった。衣食住のための物資的基盤は、在家信者である聴講者が、日毎に修道士に布施を通じて提供したのである。

  マニ教の選良者と聴講者は、一方は霊的な修行に励み霊的慰めを聴講者やその他この世の人々・生命にもたらすことを使命として他方と区別された。選良者は男女共に、「白い衣服」をまとい、それ故、マニ教徒は「白装束」とも呼称された。マニ教の聖職者階級は、選良者のなかから選ばれ、マニの後継者と見做される「教長」を頂点に、その下に、三段階の聖職者組織があった。最上位には、キリストの十二使徒に倣った十二人の「教師」がおり、更にその下に、七十二人の「司教」、その下に三百六十人の「管理者」がいて、マニ教教団の組織運営や布教に当たった。これ以下の一般修道士は男女共になれたが、上級聖職者であり定員の定まっている以上の三段階の聖職者職は、教長も含めて男性だけがなれた

  マニ教信徒には当然のことながら「戒律」が定められていたが、それは目的とするものは同じでも、選良者と聴講者ではおのずから異なるものであった。無論、前者の戒律はきわめて厳しかった。しかし、選良者たちは、この厳格な戒律を喜びを持って遵守したのだということも重要である。修道士に課された五つの戒律は:

      マニ教選良者(修道士)の五つの戒律

  「真実の戒律」 偽りを述べ実践してはならない。真理とは開祖マニの福音であり、マニ教の教えに敬虔に真摯に従順であらねばならない。

  「非殺生・非暴力の戒律」 動物や植物を傷つけ殺してはならない。この戒律の故に、マニ教修道士は生産活動に一切従事できなくなる。麦を収穫すれば、それは麦を傷つけることになるからである。(この戒律の神学的根拠は、物質の微妙な混合体の内部に閉じこめられた「光の破片」が、収穫の際に必要となる作業が齎す「暴力」によって傷つけられるためである。光の元素は適切な方法で回収されねばならなかった)。

  「貞潔の戒律」 マニ教の教えからして性的行為は禁じられる。マニ教の選良者は、男女共に独身である。また物質である肉体の快楽は、光の霊の解放を妨害するためのアルコーンの策略であるので、肉体的快楽の回避、節制、断食等を守らねばならない。

  「食物の戒律」 肉・醸造物(ワイン・ビール)・乳製品を食してはならない。これらの食品を製造するには、原料に含まれる光の破片を損なう過程が含まれるからである。選良者は(また聴講者も)「菜食」を基本とする。

  「清貧の戒律」 修道士は「無所有」を原則としなければならない。これはイエズスの説いた清貧の理想であり、「所有物」とは物質の「この世」のものであるので、それは不要である。


  修道士つまり選良者の義務は、宗祖マニに倣って、世界中を放浪し真理の福音を伝道して行くことにあった。従って、修道士は定住者ではなく、仮に一箇所に長く住んでいたとしても、神または上長の命令があれば、ただちにどこへでも伝道の旅に赴く必要があった。それに対し一般信徒つまり「聴講者」は、通常は定住者であり、結婚し、家族と共に生産活動に従事して暮らすのが普通であった。しかしこの二つの信徒の区別は、相互補完的であり、一方が他方に対し絶対的に優越するというような関係ではなかった。それぞれは、光の救済というマニ教の使命において、異なる役割を果たしたのである。

  一般信徒つまり聴講者の守るべき信徒義務行為は五つに分かれていた。これはイスラーム教の「五柱」つまり「信仰告白・祈祷・喜捨(ザカート)・断食・巡礼」と極めて類似しているが、マニの称号「預言者の印璽」を、ムハンマドもまた名乗ったように、本来、マニ教の宗教体系よりイスラーム教が模倣し受け継いだものである。マニ教聴講者の五つの義務は:

      マニ教一般信徒(聴講者)の五つの義務

  「戒律(十戒)」 第一戒の「偶像崇拝の禁止」から「選良者への尊敬」等、選良者=修道士の「五戒律」に当然ながら前提されていた戒律を含め、選良者の五戒とほぼ同等の内容。ただし生産活動や生殖行為が可能なように、緩やかさを持った戒律。例えば、妻は一人で、心より愛さねばならず、断食のとき等、重要な場合には、性的行為は避けること、等。

  「祈祷」 在家の信徒である聴講者は、一日に四度の祈祷が厳密な手順で定められていた。日中は「太陽」に向かい、夜間は「月」に向かい平伏して祈った。また太陽も月も見えない場合は、光の王国のある北の方向、あるいは北極星に向かい祈祷した。

  「布施」 在家信徒の布施は、修道士の「清貧」戒律に対応するものだと言える。聴講者は家族と生活する以上、無所有では生活が成り立たない代わり、収入の十分の一または七分の一を、選良者やその共同体に贈与することで、この世でのマニ教徒としての義務を全うした。この布施によって、清貧かつ生産活動を一切行えない修道士は生活することができた。またマニ教の教会組織も、これによって成立した。カトリックの十分の一税と類似するが、中世カトリックのこの制度は宗教的搾取の税であり、世俗領主の課す税と内実的に何ら変わるところがない。それに対し、マニ教の「布施」は、教会やその選良者信徒にとって真に必要な世俗的物資であった。無所有・清貧が理想であったので、喜捨は信徒にとっても望ましいことであった。

  「断食」 物質から離れることを宗旨とするマニ教においては、断食は極めて妥当な宗教義務であった。週ごとの断食は太陽の日、つまり日曜に行われ、この日は、聴講者も修道士と同等の生活を送ることとなった。また年間の断食があり、「ベーマ祭」に際しての断食がもっとも重要であった。(イスラームの断食月ラマダーンは、マニ教のベーマ祭断食月の模倣と云うべきである)。

  「懺悔」 聴講者も選良者も、週ごとの懺悔と年間の懺悔を義務としていた。聴講者は週ごとに、選良者の元で、戒律を守らなかったこと、罪などを誠実に告白した。マニのこの地上での最後の日を記念するベーマ祭前の三十日間の断食の終わりの懺悔は集団で行われ、この儀礼によって、過ぎ去る一年間の罪が赦された。


  マニ教の祭礼や祭日は、キリスト教より導入されたものを含め、複数があったが、なかでも、もっとも重要なのは、「ベーマ祭」の典礼であった。ベーマとはギリシア語で「座」を意味し、ベーマ祭礼のときには、誰も座ることのない椅子の座が準備された。ベーマ祭礼は、春分とマニの殉教を記念し、祭礼の最後の日は、マニの魂がこの世界から離れ、光の国へと昇天して行った日に当たっていた。準備された空のベーマ(座)には、この日、マニの霊が宿ると信じられた。


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 マニ教の終焉と位置付け 

  マニ教はすでに述べたように、グノーシス主義宗教であり、東方型(イラン型)グノーシス主義の典型的世界宗教であった(「イラン型」「シリア・エジプト型」という区別や、「グノーシス主義」の概念については、本サイトの「グノーシス主義基本用語集」の「ヘレニク・グノーシス主義」の項目を参照)。マニ教グノーシス主義は、世俗的生活を行い、生産活動や生殖行為も行う「聴講者」信徒のクラスと、専らマニ教の宇宙観・救済論に従い、霊的生活に専念した「選良者」信徒のクラスの二つの集団で教団を構成することにより、互いに補完的な構造を造ることで、永続する宗教共同体を構築することに成功した。

  とはいえ、マニ教はあくまで「グノーシス主義宗教」であり、その基本的な救済のヴィジョンは、グノーシス主義研究者ハンス・ヨナスが提唱した「現存在の姿勢( Daseinshaltung )」にあった。非グノーシス主義宗教一般では、その「信仰神話」は、具象的な神の名称や、登場者の固有名などが、その宗教に特定して、固有の意味と形式を備えるのが普通である。「共通の信仰神話」とその「解釈コード」を共有することが、「同じ宗教の信徒」であることの確認であり、特定宗教の信徒の「アイデンティティ」の保証となっている。

  しかしグノーシス主義宗教の場合は、「信仰神話」に基づいて、共有の「共通信仰」が保証されるのではなく、共有するのは、その「固有のときと状況の現存在姿勢」であり、この共通性において、「同じ宗教の信徒」であるという自己の本来的保証が確信されるのであり、マニが自己の著した複数の福音書を多数の異国の言葉に翻訳するとき、相当に自由な意訳を認めたこと、または、積極的に「意訳」「翻案」を推奨したことは、マニにとっても、その信徒にとっても、重要であったのは「現存在姿勢の了解」であって、「表層的教義」や「宗教神話」は二次的に援用する対象だったからである。

  マニ教の神話や教義には、ゾロアスター教の神々の名も出てくれば、ユダヤ教の神や神話的人物、キリスト教の天使・使徒なども登場し、更にギリシア神話の神々や英雄、ペルシア神話、インド神話の神々、中国に入って後は、道教の神々やその宗教用語等も援用されている。近年、トゥルファンや敦煌、高昌などで発見されている西域の言語や中国語で記されたマニ教教典が、聖アウグスティヌスの反駁書に引用されているマニ教の教典や、あるいはイスラームの記録者(例えば、イブン・アル・ナディーム)の伝えていることと比較すると、著しく内容が異なるということからも、時代と共に、マニ教の教義が変化して行ったのか、または先に述べたように、グノーシス主義宗教の固有の特徴として、「教えの神髄」は、外的な構成神話の内容にではなく、「反世界的な二元論」と「救済されるべき光の霊」そして「救済者の啓示」という、グノーシスの構成要素こそが本質だということかも知れない。

  マニ教は、どの宗教と出逢っても、相手の宗教が神聖なものとして崇敬・保留する神の名や、信仰神話を勝手に内部に取り入れて、独自の解釈と意味付けを与えるというグノーシス主義宗教の特徴を遺憾なく発揮している。そのため、成立の故地イランにおいては、民族宗教ゾロアスター教の「異端」として迫害され、地中海世界では、キリスト教の「異端」として、これも迫害された。七世紀にイスラーム教が成立して後は、マニ教が教化した広大な地域に、マニ教の伝統を逆に利用してイスラームの布教が行われたというのが、より事実に近いにも拘わらず、イスラーム教側からも「異端」の誹りを受ける。ヒンドゥー教からも仏教からも「異端」とされた。これらは、マニ教が他のグノーシス主義宗教と同様に、既存の宗教や哲学の用語・固有名・概念を援用して、その「創作神話」を構成するという処からおそらく来ている。


ここから資料集。

J・ナナミ@pinkglalem
ヒトラーがロスチャイルドの孫だと言うのはデマ。モーゼスバウワーがどの時点から「“紅い盾”ロートシュルト」と改名したか?は不明。なんか十字軍を思わせる名前。彼がユダヤ人だという証拠もない。#紅卍字会 の卍とハーケンクロイツは同じ意味。プロメテウスの火のこと。

ダビデの星はユダヤの象徴ではない。...ロスチャイルドとイエズス会が捏造した「ユダヤ」...: http://youtu.be/LwZW2X54aw0 @youtube;HEXAGRAM - The Truth Behind the "Star of David"
ラビたちが反発したのに、当時これを強硬に推し進めた人が居ました。モーゼル・ハウザー男爵。後のロスチャイルドです。陰謀論者の刷り込みで、勘違いされていますが、ロスチャイルドは、実はユダヤ教徒でもなければ、ユダヤのルーツすら持っていません。


J・ナナミ@pinkglalem
アブラハムは、なぜイサクを殺さなかったのか?人身御供と言うのはバアルの慣習で、この話は、ヘブライ人のバアルへの決別宣言ではないか?彼らはオリエントの超多数派とは違う信仰を持ったために、メインストリームから追われた少数派になった。アシールに聖書の記述と同じ地名が残るのは、そのため.

しかし、恐ろしいと思うのは...聖書の信憑性について、誰も云々しないこと...。アレって、ただのおとぎ話だし、しかもシュメール神話の盗作だョ。それなのに、コレを根拠に、現在、大虐殺が行われている。...Sフロイドは、宗教を倒錯と呼んだ。神経症。病気

バチカンはコレをもとに、大規模な詐欺を働いている。ユダヤやナチスやホロコーストを学術的に研究することは禁止されている。聖書の記述を疑ったり、ムハンマドを描くことも禁止。すべては、この詐欺の発覚を恐れてのこと...。すべての宗教は、詐欺だョ。
旧約聖書はキリスト教が書いた。その信憑性を高める為に「死海文書」という偽装工作を行ったンですけど...バチカンはすぐに公開を禁止した。理由は放射性炭素年代測定法。ウィラード・リビーが1947年に特定の炭素量を測ることでその年代が分かることを発見したから..
つまり「死海文書」の存在は、聖書の信憑性どころか、聖書がキリスト教の捏造であることの確たる証拠となってしまうワケ。バチカンは墓穴を掘ったのwww。

ローレライ‏@rolelei7月19日
『バチカンが、トルコで、イエス・キリストが十字架に磔にされたことを否定する、1500年前の聖書のページが見つかったことに激しい懸念を表しました。http://japanese.irib.ir/news/latest-news/item/46821- …イランラジオ』@pinkglalem聖書がキリスト教の捏造である

J・ナナミ‏@pinkglalem7月21日
@rolelei ヴァチカンがなぜ懸念するか?が面白い。理由は、イスラム側の捏造だから...。こー言うことはよく行われている。ムハンマドは、イサクではなくて、イシュマエルが生贄に選ばれたと主張しているし...


『聖書アラビア起源説』カマール・サリービー 広河隆一訳 旧約聖書とクルアーン
http://arabic.kharuuf.net/archives/272
本書の内容が真実である確率は、かなり高いのではないかと思います。
 ヘブライ語聖書の解釈は、既に古典ヘブライ後が使用されなくなり、アラム語の時代になってからのもの。その為、地名のみならず多くの箇所で誤読があり、しかもかなり早い段階でこの解釈が定着し、揺ぎ無くなってしまった可能性があるからです。
 近代以降、考古学的考証に基づく歴史学が盛んになったわけですが、聖書の史的解釈という仕事は、対象が対象だけに、他の問題と比較し既成概念に意を唱える際の障壁が大きいです。元より、現在の「世界史」自体が、聖書的世界観に根ざしたヨーロッパ的視点を元に形成されていったものです。旧約の舞台をパレスチナとする考証・考古学的証拠は極めて乏しく(モーセが脱出したというエジプトにも痕跡がない)、あってもこじつけのようなものばかりですが
、強い思いが「パレスチナこそが約束の地」というファンタジーを支えてきたのでしょう。それゆえ、他の分野よりむしろ、びっくりするような基本的なところで間違えていた(気づいても指摘できない)、という結末である確率は高いはずです。
(…)
 クルアーンは聖書に比べて物語的要素が圧倒的に少ないですが、その物語的部分には、聖書とクロスオーバーする記述がかなりあります。その内容には、聖書と食い違う部分もあるのですが、もしかするとクルアーンの方が「正しい」のかもしれません。
 クルアーンは聖書と異なり、イスラーム創始後、比較的早い段階でテクストとしてまとめられています1。しかも記述言
語であるフォスハーは、現在でもアラブ世界で共通の言語です。もちろんダイグロシアという問題はあり、同じフォスハーでもクルアーンの時代と現代標準アラビア語とでは、結構違いがあります。それでも、ニュースや子供向け番組は普通にフォスハーで放送されていて、読み書きのできる人間なら、最低でも理解はできます。それも「クルアーンは翻訳禁止」という括りがあったからこそ成り立ったのでしょうが、とにかく聖書解釈などより圧倒的に近い距離に原テクストがあるのです
 本書中でも、クルアーンがトーラー再解釈の一ガイドとなり、旧約エピソードの単なる焼き直しではないことが指摘されています。

 たとえば、聖書にアラビア半島西部の山の名をあげた箇所があるとする。するとコーランでは、その山についての言及はないものの、かわりに同じ地域の渓谷や町、その他の場所のことが述べられている。聖書によれば(出エジプト記3章1節~)、モーセはホレブ山(ḥrb)の炎の柴から出てきたヤハウェの天使によって呼びかけられた、とある。一方、コーランによれば(20章12節、79章16節)、その神のモーセへの呼びかけは、トゥワー(ṭw)の「聖谷」で起こったとされている。これまで聖書のホレブ山は、シナイにあるものとされてきた。しかし、そこにはそれに相当する致命は見当たらない。学者たちは、柴は火に「燃えているのに、その柴はなくならなかった」とあることから、これは火山のことだと解釈している。しかし、シナイ地方には、火山活動の跡はどこにもない。そのため、研究者のなかには、ホレブ山の位置をシナイから一転して、北ヒジャーズの火山地帯に求めた者もいたが、これも結果としては徒労に終わっている。
 しかし、コーランは正確にホレブ山の位置を告げている。それは、今日ジャバル・ハーディと呼ばれている場所で、アシールの沿岸地帯に孤峰としてそびえる山である。このジャバル・ハーディーには、今なおティワーという名の村が残っている。またその近くのワーディ・バカラ渓谷―これは、コーラン中のモーセに関する箇所では、「聖谷」としてあらわれている―の近くを流れる一支流も、かつてはティワーと呼ばれていた。さらにこの同じ流域には、ハーリブという名の村が今も残っている。このためこの村のはずれにあるジャバル・ハーディが、ホレブ山という名をつけられることになったにちがいない。また、問題のこの地方の全域が溶岩層からなっており、かつて火山活動があったことがうかがえるのである。
 コーランにみられる聖書の内容に対応した話は、聖書の素材をたんに、さまざまな形で繰り返し表しているだけだというのが、今日の学者たちの通説となっている。しかし私の考えでは、ヘブライ語聖書に対応するコーランの内容は、アラビア半島西部の歴史的過去についての独自の記述であり、またそのように取り扱わねばならないものである。

 クルアーンに登場する地名はどうでしょうか。
 例えばエジプト。「エジプトمصر」という単語は、クルアーンに四箇所登場しています(五箇所とも言えるが、これについては後述)。

Yunus, Chapter #10, Verse #87
وأوحينا إلى موسى وأخيه أن تبوءا لقومكما بمصر بيوتا واجعلوا بيوتكم قبلة وأقيموا الصلوة وبشر المؤمنين
われはムーサーとその兄弟に啓示して言った。「あなたがたの民のためエジプトに住まいを定め,あなたがたの家を礼拝の場となし,礼拝の務めを守れ。また信者たちに吉報を伝えなさい。」
Yusuf, Chapter #12, Verse #21
وقال الذي اشتريه من مصر لامرأته أكرمي مثويه عسى أن ينفعنا أو نتخذه ولدا وكذلك مكنا ليوسف في الأرض ولنعلمه من تأويل الأحاديث والله غالب على أمره ولكن أكثر الناس لا يعلمون
かれを買ったエジプトの者は,その妻に言った。「優しくかれを待遇しなさい。多分かれはわたしたちを益することになろう。それとも養子に取り立ててもよい。」こうしてわれはユースフをこの国に落ち着かせ,出来事(事象)の意味のとり方をかれに教えることにした。凡そアッラーは御自分の思うところに十分な力を御持ちになられる。だが人びとの多くは知らない。
Yusuf, Chapter #12, Verse #99
فلما دخلوا على يوسف ءاوى إليه أبويه وقال ادخلوا مصر إن شاء الله ءامنين
やがてかれらがユースフの許に来た時,かれは両親を親しく迎えて言った。「もしアッラーが御望みなら,安らかにエジプトに御入りなさい。」
Az-Zukhruf, Chapter #43, Verse #51
ونادى فرعون في قومه قال يقوم أليس لي ملك مصر وهذه الأنهر تجري من تحتي أفلا تبصرون
そしてフィルアウンはその民に宣告して言った。「わが民よ,エジプト国土,そしてこれら足もとを流れる川は,わたしのものではないのですか。あなたがたは(そんなことが)分らないのですか。
(訳文は三田了一訳より引用)

 訳文中の「ムーサー」「ユースフ」は、それぞれ聖書におけるモーセとヨセフです。
 これらの「エジプト」も、わたしたちの知っているエジプトではなく、アラビア半島西部のどこかなのでしょうか。
 『聖書アラビア起源説』には、「エジプト」とされている地について、多くの解説があります。

mṣrymという地名に関していうと、通常それはエジプトを指すと考えられているが、それがエジプトを意味する語としてヘブライ語聖書にあらわれるのはごく限られた場合だけだということを、ここで強調しておかなければならない。その語がアブハーの近くのミスラーマを指すのでなければ、ワーディ・ビーシャ流域のマスル、またはガーミド高地のマドルーム(mḍrm)。またこれも後述することであるが、聖書中の「パロ」(pr’h)というのも、エジプトの支配者を指すのではなく、アラビア半島西部のミスラーマやマスルといった土地にまつわる神を特に指す語だといえる。また同時にそれは、その地域に住む部族の首長の称号でもあったようである

 mṣrymは明らかにمصر(mṣr,Misr,ミスル)と同根です2。この語が「エジプト」以外を指していた可能性は、かなり高いです(後述するようにむしろそう考える方が自然)。なぜならمصرとは元々「都市」とか「交易の中心地」のような意味で、エジプトの現在の名称であるمصرは、日本語で言えば「京都」のような地名なのです。カマール・サリービー氏は、同根で他の地名との相対的位置関係から、上のような可能性を挙げていますが、これらのどれでもなく、今は忘れ去られた「都市」であった可能性すらあります
 実際、クルアーンに登場するもう一つのمصرは、こういう文脈でのものです。

Al-Baqarah ch 2 verse: 61
あなたがたがこう言ったのを思い起せ。「ムーサーよ,わたしたちは,一色の食物だけでは耐えられないから,地上に産するものをわたしたちに与えられるよう,あなたの主に祈って下さい。それは野莱,胡瓜,穀物,れんず豆と玉葱である。」かれは言った。「あなたがたは,良いものの代りにつまらないものを求めるのか。(それなら)あなたがたの望むものが求められるような,どの町にでも降りて行くがよい。」こうしてかれらは,屈辱と貧困にうちひしがれ,またアッラーの激怒を被むった。それはかれらが,アッラーの印を拒否して信じないで,不当にも預言者たちを殺害したためである。これもかれらがアッラーの掟に背いて,罪を犯していたためである。

 「エジプト」はどこにも出てきません。「どの町にでも降りて行くがよい」がاهبطوا مصراで、つまり不特定の町を指す語として用いられています。
 こんな疑問を、『聖書アラビア起源説』読者のムスリムが抱かないわけがないので、調べてみると素晴らしいテクストがありました。
“Al- Hijaz, Homeland of Abraham and the Israeli prophets” T. Ahmed, Ammar Rajab
 こんな面白い文章を久し振りに読みました。イスラームに関心のある方にとっては、こちらの方が『聖書アラビア起源説』よりも更に面白いはずです。
 関連のある個所をいくつか訳出してみます。

 エジプトが第十九王朝時代にMisrと呼ばれていなかったことについては、積み重なる証左がある。上下エジプトが「Misr」もしくは似た発音の名前で呼ばれていたことを示唆するエジプトの記録は、一つもない。実際、第十九王朝に限らず、記録のあるすべての時代で、Misrという名前がエジプトを特定するのに用いられていたという証拠はまったくない
一方、エジプト古代史において用いられているのは、オシリスとイシスで語られているように、KoptosまたはCoptoaだ。これがしだいにGebt(قبط)、そしてEl-Gibt(ال قبط)に変化し、最終的に西洋で発音されるようなE-gyptになった。古代西洋文明においては、すべての神話文学と地図が、この地をただEgyptまたはEgiptの名で呼んでいる。ギリシャのダナオスの娘たちの神話が好例だが、「Egypt」の名は非常に古く、いかなる変更にも抗ってきた、ということだ。古代東洋の国々では、エジプトをGebtという同じ名前で呼んできた。ただ初期ムスリムたちだけが例外で、何らかの理由で、この名前を使うのをやめることにしたのだ。ここから、いつムスリムたちがEl-GibtをMisrと呼ぶようになったか、そしてなぜ変更したのか、探求する必要がある。アラブの歴史によれば、預言者ムハンマド(pbuh) (570-632 A.D)の時代、アラビアの人々の間では、エジプトはAl-Giptの名で知られていた。このことは、預言者がエジプトの支配者アル=ムカウカスにイスラームへいざなうために送った書簡からも明らかだ。(訳注:原文には手書きスクリプトの写真がある)
 この手紙で興味深いのは、次の部分だ。「慈悲深く慈愛あまねき神の御名において、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフよりギプトAl-Giptの長アル=ムカウカスへ(・・・)もし何時がギプト人Giptiesの罪の重荷を担うというなら(・・・)」。この貴重な手紙が明白に示しているのは、Al-Giptが預言者ムハンマド(pbuh)の時代に至るまで、エジプトの正式な名称であった、ということだ。アル=ムカウカスからの手紙は、この時代のエジプト人もまた、自らをギプト人としてアラビアに示していることを、確証してくれる。「(・・・)ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフへ、ギプトAl-Giptの長アル=ムカウカスより(・・・)我は汝の使いを誇りとし、感謝としてギプトで大変価値ある女奴隷を二人贈る(・・・)」。
 返信にあるようにエジプト人が自身の地をMisrとは認識していなかったにも関わらず、預言者の時代のアラビアの人々は、彼らの間ではエジプトを「Misr」と呼んだのだ。このことは、この時代の多くの記録と書簡がはっきりと示している。例えば、第二代正統カリフ、ウマル・イブン=ハッターブは、その軍司令官アムル・イブン=アルアースに、ギプト人を厚遇するよう書簡を送っている。面白いことに、一つの手紙の中で、同じ場所が両方の名前で呼ばれている。「ミスルMisrの地がハムスのものだということを汝に知らせよう(・・・)預言者ムハンマドはギプト人を祝福した」。初期ムスリムたちの間で「ミスルMisr」の名が用いられ、エジプト人自身との書簡の中では使われなかったことは、アラビアの初期ムスリムたちが、このナイルの地を表すのに、二つの名前を用いていたことを示している。他の文献では、この両方の名前が、イスラーム以前の時代ですら、日々の会話で使われていたことが明らかにされている。二つの名前の違いは明白だ。「ミスルMisr」はアラビアのみで用いられ、聖書に起源を持つ。一方、「ギプトGipt」は、エジプト人と、エジプトをミスルMisrとは認識していないその他すべての世界との間で使われた。「アル=ギプトAl-Gipt」を音韻的に分析すれば、それが「エジプト」に等しいことは明らかだ。換言すれば、アラビアの人々は、イスラームの黎明に至るまで、その他すべての世界と同じ名前を使ってきたのだ。アラブ人ムスリムのギプトへの侵攻後のある時点で、この国際的に知られた名前が、しだいにミスルMisrに取って代わられ、今に至っているのである。ゆえに、ミスルはエジプトの元々の名前ではなく、ファラオがその時代の民に、彼がミスルの主であると言っている場面に適用するにも、十分に古くない。よって、ファラオとムーサ(訳注:クルアーンにおけるモーセ)をエジプトで探すということは、ムスリムが間違った場所を見ている、ということだ。クルアーンでは、彼らがミスルと呼ばれる地にいると明言されているのである。今や、問いは次のようになる。もしムスリムが間違った場所を見ているなら、古代および現代のユダヤ人とキリスト教徒は、なぜエジプトをムーサとファラオの故郷だと考え続けたのだろうか?

 この問いに対する答えは、七十人訳聖書(ヘブライ語聖書のギリシャ語への翻訳)において、誤訳が生じたことです。ここから生じ広まった誤認が、ムスリムたちのクルアーン解釈にもつながっている、というわけです。聖書でもクルアーンでも、神様は最初からمصرとしか言っていないのですが、人間たちがエジプトをمصرだと思いこんでしまったのです。
 だとすると、上の『聖書アラビア起源説』からの引用にもあるように、「ファラオ」もピラミッドの奥から見つかるあの人たちとは関係ないことになります。クルアーンからの引用に登場する「フィルアウン」は「ファラオ」のことです。両者が同一なのは語根・文脈から明白ですが、これらとエジプトのあの人たちは関係がないわけです。

 ザーヒー・ハワース博士は、その多くの講義で、トーラーにおける「ファラオ」という語を、彼の国における古代の偉大な王を指すのに用いてきている。同時に、国家的および国際的な膨大な考古学的調査にも関わらず、ラムセス二世やその息子マルナブタがトーラーの述べているモーセの時代のエジプトの王であることを示す客観的な科学的証拠が、現在に至るまでないことを確言している。普通はここで行き止まりになり、迂回路を辿るより他になくなる。この手詰まりに対する答えが、アル=マスーディ(-946)という高名なイスラーム歴史家によって示されている。アル=アッタバキの伝えるところでは、アル=マスーディはその個人的考察について、こう記している。「(…)わたしは上エジプトにいるとき、あるギプトの学者グループにフィルアウン(ファラオ)という名の意味について尋ねた。彼らはその意味を知らず、ギプト語にそんな言葉はなかったのだ!」。ギプト語に「フィルアウン」という語が意味を成さないことは、イブン・ハルドゥーンも記している。この手詰まりへの解答は、ほとんどの現代および古代の学者が、受け入れがたいと感じてきたものだ。「ファラオ」と発音される語がギプト語になく、ギプトの人々によって書かれたり用いられることがなく、まして王家の称号になどないことは、言語学的に確かめられている。ほとんどの学者たちが示すファラオに最も近い発音の語は「ペル・アア」だ。マリー・パーソンズはこの語を次のように説明している。「(…)『ファラオ』というエジプトの王に対する最も一般的な『称号』は、まったくエジプト語ではないことを指摘しなければならない。つまり、エジプト人たちは、その歴史の極めて最近になるまで、彼らの王を『ファラオ』とは呼んでおらず、ただ非エジプト人だけがこの語を採用していたのだ。『ファラオ』はエジプト語のペル・アアのヘブライ語読みで、『偉大な家』を意味する。これは紀元前1450年ごろに初めて王自身に対して用いられた(…)」。この大変議論の余地のある解決法は、M・S・M・サイフラー、アブドゥッラー・デイヴィッド、エリアス・カリムといった多くの学者や研究者によって否定され続けている。ミッシェル・S・サンダースはこの問題を次のようにまとめている。「(…)ペル・アアをファラオと訳すのは、そういう予めの思い込みがなければ、不可能である(…)」。

 本書の内容は、依然考古学的考証を得ているわけではありませんし、内容からしても、サウジアラビア領ということからしても、簡単にはいかないでしょう。しかし、もし確証が得られれば世界史的な大発見と言えますし、何とか本論を根拠付けるエヴィデンスを見つけ出して頂きたいものです。
 旧約の舞台がアラビア半島西部だとするなら、イスラエルという国家はその存在根拠の一つを決定的に奪われることになります。シオニストはこんな指摘を絶対に認めないでしょう。
 仮に本当にパレスチナが旧約の舞台だとしても、占領が正当化されるわけはありませんし、一方、サウジアラビアにイスラエルを建国されてもたまりませんけれど。

1. クルアーンの言葉は、聖書のように後の記者がまとめたものではなく、ムハンマド様(pbuh)の受けた神の言葉を直接記述したもの、と信じられており、わたしも個人的には信じていますが、そう書いてもほとんどの日本人は付いてきてくれないので、とりあえず普通のテクストとして扱います [↩]

2. ヘブライ語とアラビア語は姉妹語のようなもので、両者とも語根という概念が非常に重要な役割を果たしている。語根が同一なら、少なくとも深いつながりを持つ語である可能性がかなり高い


検証: 聖書アラビア起源説 その1
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30381907.html

紀元前5世紀、ギリシアの歴史家ヘロドトスは次のように書いている。
「このフェニキア人は自らが伝えるところによれば、
古くは「紅海」辺に住んでいたが、その地からシリアに移り、
シリアの海岸地帯に住むようになったという」

今回からは、1980年後半頃、カマール・サリービーによって著された本「聖書アラビア起源説」を取り上げようと思う。本書では、ヘブライ語聖書の地名を詳細分析し、聖書で語られている世界そのものが、シリアやカナンといった地域の出来事ではなく、西アラビア半島のアシール地方やその南のヒジャーズであったという説を唱え、世界中に衝撃を与えた本だ(タブン)。
この本でも上記のヘロドトスの引用が載っているのだが、「紅海」をアラビア湾やインド洋も含めた広範囲として解釈するする方法や、この部分に関しては彼の勘違い・・・というような都合のよい見方をしている研究者に対して疑問を呈している。
その本の内容を紹介する前に、これまでの流れから、イエメンをはじめとするアラビア半島南部地域について少し調べることから始めようと思う。
さて、前回の記事で1949年から1950年にかけて、イエメンのユダヤ人を救出するために行われた作戦『マジック・カーペット』を紹介したのだが、ここで少し、
なぜ、イエメンのユダヤ人なのか・・・について考えてみよう。
イエメンに居住するユダヤ人は、古来よりのユダヤ教の教えを伝統的に保持していると言われ、ヘブライ語聖書を朗読する際にも、伝統的なヘブライ語の発音方式を用いているという。ウィキペディアによれば、マジック・カーペット作戦後イスラエルに移住したイエメン系ユダヤ人は、彼らの伝統的な発音方式を守り続けているという。

どのくらいの伝統があるかというと、一般的には紀元6世紀から11世紀頃のバビロニアのユダヤ人のヘブライ語から派生したと言われているが、彼らがこの地にディアスポラを築いたのはもっと以前の話になる。
彼らはいったいどこから来たのだろうか ?
1.
旧約聖書によるとソロモンの時代にユダヤ人がアラビア半島地域に移住したとされ、今日のアラビアの地名であるWadi Jauf やWadi Sirhanと同一視される。
2.
“シバの女王の求めに応じてユダヤ人の職人がイエメンに赴いた”という説もあれば、そもそもシバの女王がソロモンを訪れたのは、彼の叡智についてユダヤ人商人を通じて知ったからだとも言われている。乳香などの交易関係がイスラエルの地と南アラビア半島地域に確立されていたのは、聖書の記述からもうかがうことができる。
3.
口伝によれば、ヘロデ王の神殿が破壊される42年前、紀元前722年頃にイスラエル王国の衰亡がはじまった頃にアラビア半島南部への移民がはじまったとされている。伝承によれば大予言者エレミヤに従って、7万5千人のユダヤ人がエルサレムからイエメンに移住したとされている(ウィキペディア参照)。
こうした様々な伝承は大変興味深い。問題はその伝承の信憑性というよりも、ユダヤ人のディアスポラがそこにあった事実だ。そして、オリジナルに近いヘブライ語を継承しているイエメン系ユダヤ人の起源をめぐっては、聖書の記述以外にそれを説明するものはほとんどない。
より科学的な検証によれば、アラビア半島南部に移住したユダヤ人は同一の故郷を持っていたというわけではない。先住民としてそこに住んでいたイエメン系のユダヤ人に加え、古代イスラエル王国、バビロニア、ペルシア、エジプト、シリア、そしてスペインや北アフリカなどからも入植があったようだ。
考古学的に証明できるのは、西暦4世紀のものと思われるユダヤ人の碑文とアラビア半島の各地で発見されたシナゴーグが最古のものとなっている。4世紀半に栄えた後期ヒムヤル王国の時代には、国家として一神教を崇めた時代があったというが、それがユダヤ教であったのかは定かではない
ヒムヤル王国最後の王(滅びたのは西暦525年)であるDhu Nuwas(Yūsuf ʾAsʾar Yaṯʾar)は、確実にユダヤ教徒であったことが分かっている(他の説ではその前任者であるMa'adikarib II. Ya'furも)。彼が率いた帝国は、最終的にビザンチン帝国を後ろ盾としたキリスト教国家であるエチオピアのアスクム王国によって滅ぼされることになるのだが、それ以前の歴史となると立証できる資料などの数は非常に少ない。
ただ、この辺りの事情を調べてみると、自分が見ている方角が逆なのではないかと感じる事もある。
つまり、イエメンのユダヤ人は・・・
すでに文明を築いていたメソポタミア周辺やシリア・カナン地方などから入植してきたのではなく、
元々 そこ にいたのでは?・・・と。
つまり、上記ヘロドトスのフェニキア人に対する記述のように・・・
南アラビア半島こそ、
ユダヤ人の発祥の地ではなかったのかと・
・・?“


検証: 聖書アラビア起源説 その2
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30408045.html
エルサレム、エリコ、ベツレヘム、ヨルダン


これら聖なる地すべて・・・



レバノン在住の学者カマール・サリービーによれば・・・、


2000キロも南、サウジアラビアの西・・・



アシール地方に存在する地名であるという。

旧約聖書が語る神に選ばれし民族の物語は、

今日のイスラエルではなく・・・


モーセの後継者ヨシュアが占領した約束の地も、

パレスチナではなくアシールであり、
ダビデとソロモンはアラブの王であり・・・


彼らの聖なる地エルサレムは


メッカとイエメン北部の間にある紅海沿岸地域、


アッシール地方であったというのだ




--------------------------------------------------------------------------------


本シリーズはカマール サリービー著の「聖書アラビア起源説」を検証するものなのだが、彼の著書の内容について少し触れておく必要があるかもしれない。


彼の主張のバックボーンは、「地名」だ。


旧約聖書に記載されてある800以上もの地名のうち、ほぼ大部分がアラビア半島南西部で発見することができるという。それもただ、同じ名前・由来の名前があるのではなく、物語の関連、旅の行程などを照合した時の関連性もある。その半面、パレスチナに確認できる地名はごくわずかで、物語の中での説明と現実の地理との照合には困難を有するものばかりだという。


これまで数多くの聖書学者が古代イスラエル王国の痕跡や旧約聖書の軌跡をパレスチナに探してきた。


しかし、これまで何一つ決定的となる証拠を見つけることは出来なかった。


なぜか?

サリービーはこう言うだろう。

間違った場所を探しているのだよ・
・・  と。

では、間違ってしまった原因は何か?


それはヘブライ語が間違って翻訳されたからだ。


議論を進める前に、「翻訳の問題」が登場するので、少し「聖書アラビア起源説」から引用しよう。問題の発端は、そもそも子音文字で書かれたヘブライ語の聖書に対し、後世の人間が間違った形で母音付加を行ったために
起きたことにあるという。


私の論旨は、ヘブライ語聖書が、今まで一貫して誤って解釈され続けてきたのではないかという考えのうえに成り立っている。

(中略)・・・ヘブライ語は、紀元前5、ないし6世紀頃に、日常語として使われなくなった。そのため、ヘブライ語聖書を理解するためには、伝統的なユダヤ教の聖書解釈を受け入れるか、あるいは、ヘブライ語に密接な関係をもつ現存のセム語から手引きを得るか、のいずれかしかない。現存のセム語には、アラビア語とシリア語(現代シリア語)があるが、後者は古代アラム語の名残である。P21

(中略)

前述したように、初期の形態のヘブライ語聖書は、子音文字で綴られたものであった。それは西暦6世紀頃から9世紀もしくは10世紀にかけて、当時パレスチナやバビロニアのマソラ学者が考案した独特の母音記号によって音読できるものとなった。これはいいかえると、この母音付加を行ったマソラ学者たちが、1000年以上にわたり話されていなかった言語を再建した、ということである。彼らは自らの母国語がアラム語かアラビア語かにかかわらず、知識のおよぶ限りにおいてその母音付加を行った。P60-61

しかし、この問題は聖書だけにとどまらない。楔形文字で記録されたバビロニアやアッシリアといったオリエント世界の記録も、聖書に記述に適合させるように解釈され、都合の悪い記述に関しては無視されてきた。”


検証: 聖書アラビア起源説 その4 サムソンの謎
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30431810.html
“『聖書アラビア起源説』の著者サリービーがとった方法はシンプルだ。1985年に彼の説がドイツの雑誌『シュピーゲル』に紹介されたのだが、その記事をもとにすると下記の5ステップとなる。
ステップ1
子音で書かれたヘブライ語聖書、もしくはアラム語聖書のどちらかと一致するアラビア半島西部(アシュール地方)の土地名を探す。
ステップ2
聖書に言及のある数多くのヘブライ語由来の地名がアシール地方に集中して発見する。他方、パレスチナ地方では僅かしか見られない。
ステップ3
他のアラビア半島地域やメソポタミア地域でも、聖書由来の地名がそれほど多く発見されないことを確認する
ステップ4
アラビア半島西部のアシュール地方で確認された聖書ゆかりの土地や民族の名が、聖書の物語の関連性、経路、位置関係においても少なくともパレスチナよりも整合性のあるものであることを証明する。
ステップ5
聖書以外の情報源、エジプトやメソポタミアの碑文で言及されている地名とも関連し、整合性のあることを証明する
。“

検証: 聖書アラビア起源説 その7 乳香と有翼の蛇
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30459210.html
紀元前5世紀頃のギリシアの歴史家ヘロドトスの言う、乳香を産する樹に群がる「有翼の蛇」はバッタかイナゴ。
イナゴやバッタによる大々的な被害というのは乳香の産地であるイエメン、オマーンや東アフリカ地域で起きる。
この地域であれば「サバクトビバッタ」。
没薬の生産国やアシール地方で起こるバッタの被害は、シリアやエジプトに比べ甚大。

検証: 聖書アラビア起源説 その9 フェニキアの赤(紫)
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30494692.html
“紀元前10世紀・・・
かつて古代エジプトの威光は見る影もなく、地中海沿岸地域には海上貿易を生業とする都市国家が乱立していたと考えられる。そこに住む民族は、青銅器時代の「カナン人」から鉄器時代の「フェニキア人」へと見事な変貌を遂げる。『聖書アラビア起源説』のサリービー説によれば、アラビア半島西部のカナン人が、早い時期から現在のレバノン地方に入植し始めフェニキア人となったそうだ。
彼らは、ギリシア人がフェニキアと呼んだパレスチナ北部のシリア海岸沿いの土地に、自分たちの名カナンを与えた。フェニキアをそこの住民自身が「カナン」と呼んでいたことは、ベイルートで発掘されたヘレニズム時代のコインに示されている


そこにはフェニキア文字で、この町が「カナンの」町であると書かれ、またギリシア語では「フェニキアの」町だと記されているのである。また、青銅器時代に話されていたセム語族派のカナン語は、後のフェニキア語の起源であり、ヘブライ語はカナン語の異形であるとされている。「聖書アラビア起源説」より
フェニキアやカナンについて調べ見ると不思議と一つのキーワードが浮かび上がる。
) だ。
フェニキア と 赤(紫)
カナン人現在のシリア、レバノン地域に数多くの都市国家を築いて暮らしていたが、紀元前2000年から紀元前1200年頃まではエジプトの支配下におかれる。エジプト人からは「カナンの反逆者」だとか「泥棒とカナン人」だとかネガティブナ表現で呼ばれていたが、裏を返せばそれだけ力のある勢力であったに違いない。

カナン人の名前の由来は、あまりよく分かっていない。ヘブライ語のqanaは「商業を営む」、あるいは「商人」とも訳せる。おそらく山岳地帯で遊牧生活を送っていたヘブライ人にとってカナン人は大事な商いを行う相手であったのかもしれない。日本語ウィキペディアには次の様な記述がある。
カナン人は近東の広範な地域において、商人としての評判を獲得していた。メソポタミアの都市ヌジで発見された銘板では、赤あるいは紫の染料の同義語として "キナッフ(Kinahnu)" の用語(アッカド語)が使われ、どうやら有名なカナン人の輸出商品を指すらしい。
カナン人が海上貿易に乗り出した時点で「フェニキア」と呼ばれる・・・とされているが、ギリシア語で彼らの伝統的工芸品である「赤い(紫)衣の商人」という意味の「フェニケス」から来たという説が有力だ。そうすると、カナン人も同じような赤い布を着用していた民族として捉える事もできる。
これは古くからカナン人、フェニキア人のいた地域が貝紫(かいむらさき)で名高い染色産業で盛んであったことからも、おそらく本当であろう。日本語版ウィキペディアによれば貝紫色は澄んだ赤みの紫で、ロイヤルパープル(Royal purple)、あるいはテュロスをもじってティリアンパープル(Tyrian purple)とも呼ばれる。
(…)
近は便利になったもので、聖書もキーワードで検索できる。それにしても、紫、赤、緋などの色は聖書でかなり神聖視されていたようだ。
赤(紫) = フェニキア = カナン

何かがありそうな関係だ。
フェニキア人は地中海を支配し、カルタゴやスペイン、果ては大西洋まで航海したとも言われている


検証: 聖書アラビア起源説 その10 古代の染料と聖書の色
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30506929.html
“エドムとアラムの間違い
サリービーのように地名学に基づいた旧約聖書の再解釈を行った学者もいたが、ヘブライ語聖書の再翻訳の必要性を感じている学者たちは他にも多くいるようだ。エドムの地に関して現在フランスとドイツの考古学チームが研究を進めているのだが、その過程でヘブライ語子音表記の「Dalet」と「Resh」が似通っていることで、エドム(エドム人)とアラム(アラム人)が取り違えて翻訳されていることが判明している。

                       「Dalet」



「Resh」



確かに良く似ている。

これら研究者によると、列王記上第11章14節にある「エドムびと」、「エドム」は本来であれば「アラムびと」、「アラム」となるべきである。また、創世記第36章31節から39節までのエドム王名表は、本来アラムの王名表であったと主張している研究者もいる。(なお、ドイツ語ウィキペディアではサムエル記下第8章13節は「アラム」ではなく、「エドム」であるべきだと書かれてあるが確認したところ実際にはエドムと書かれてあった。)”

検証: 聖書アラビア起源説 その15 ヤキンとボアズ そしてザクロ
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30605891.html
“ウィキペディアによれば科名のPunicaceae、属名のPunica は「フェニキアの」を意味する Poeni に由来するそうだ。これは古代ローマの博物学者プリニウスが『博物誌』を著した当時、ザクロは「カルタゴのマルス」としてカルタゴ周辺が原産地と考えていたためである。
                   イスラエルのザクロ

思わぬところで「ざくろ」とフェニキアの関係が出てきたが、面白い。
ざくろ = 赤 = フェニキア
という関係が見事につながる。フェニキアと赤、あるいは聖書に登場する色については、以前ブログ記事に書いた。

検証: 聖書アラビア起源説 その9 フェニキアの赤(紫)
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30494692.html 
検証: 聖書アラビア起源説 その10 古代の染料と聖書の色
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30506929.html  

ちなみに、旧約聖書に記されている戒律(ミツワー)を数えると全部で613あり、これはちょうどザクロの実の数と一致するのだという。ザクロの実の数を実際に数えたことはないのだが、613の戒律すべてはウィキペディアに掲載されている
http://en.wikipedia.org/wiki/613_commandments (日本語もあるよ)
「ざくろ」はオリエント世界ではその実の多さから豊穣を象徴するとも言われ、エジプト神話ではセクメトが血と間違え、ギリシア神話ではペルセポネがそれを食べたために冥界から出られなくなったなどの逸話をもたらした。それに加えて、ザクロの花や未熟の果皮からは赤い染料がとれるそうで、ひょっとしたら・・・
フェニキアにまつわる「赤」は、貝紫ではなく・・・
ザクロの赤ではなかったのだろうか?
また、ザクロはイスラーム教の聖典コーラン(クルアーン)でも登場し、エデンの園で育っている。また、神が創造した良きモノの例として三度も述べられている


検証: 聖書アラビア起源説 その16 ソロモンの柱、メルカルトの柱、そしてヘラクレスの柱
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30620557.html
“ユダヤ・フェニキア・コネクション
なぜ 「聖書アラビア起源説」の話をしているのに、フェニキアの話が中心となってしまうのか?
それは、このシリーズの最初にヘロドトスが言ったように次の仮定が根底にあるからだ。
つまり、
フェニキア人はもともと紅海沿岸(アラビア半島西部アシール地方)に住んでいて、現在のパレスチナ地方に移住するとたちまち航海に乗り出し、地中海を席巻した。。。
よく、ヘロドトスの「紅海」は現在の「ペルシア湾」と取り違えて書かれていると言われることが多い。
本当にそうだろうか?

アラビア半島のアシール地方を中心に展開される聖書の物語は、
やがて・・・地中海東岸のフェニキア人と結ぶつき、
西方へと展開していく。
一神教の下地はそうして出来上がっていったのではないだろうか?
それは、『聖書アラビア起源説』著者のサリービーが行った地名学的なアプローチも面白いが、場合によっては言語学的なアプローチをしても良いかもしれないし・・・・

現代科学的なアプローチをするのであれば、ユダヤ人典型のY染色体ハプログループJ1の拡大を辿って見てもいいかもしれない。

宗教学的にはユダヤ教とフェニキアの宗教にはある種の連続性が認められるとも言われておりと言われている。
参考→ http://www.asahi-net.or.jp/~ZM8h-TKD/crt/crt05.htm
フェニキア人の築いた都市カルタゴや隣国のヌミディア王国などの北アフリカ地域が、
キリスト教初期の神学者テルトゥリアヌス(2世紀頃)、
ローマ帝国の一神教転換の立役者ラクタンティウス(250年~320年)
古代キリスト教最高の教父アウグスティヌス(354年~430年)らの
出身地であるというのは偶然だろうか?
もちろんハンニバルの名が『バアルは我が主』を意味するように、カルタゴではテュロスのメルカルト神と同一視されたバアル崇拝が盛んであったことが分かっている。
キリスト教であれほど敵視されるバアルだが、旧約聖書の中ではほとんどローカル神の代名詞としても述べられており、ヤハウェ自身が時としてバアル(“マスター”という意味において)と呼ばれることもある。旧約聖書の記述にもあるようにイスラエルの民はバアル崇拝に強く影響されており、北イスラエル王国では100年以上バアルが信仰されていた。
結局・・・ヤハウェと、どれほど違うのだろうか?
どうも、
ヤハウェ、バアル、エル、あるいはバビロニアのマルドゥクにしても、
それらの信仰は、
一神教萌芽期における、ひとつの姿 のように思える



カルタゴ
http://www.asahi-net.or.jp/~ZM8h-TKD/crt/crt05.htm
“フェニキアの神々の中でひときわ目に付くのはエル(El)とバ-ル(Baal)である。両者ともに元来は普通名詞で、それぞれ、「神」、「主(人)」を意味していた。バ-ルの方がより目立つ存在で、例えば、フェニキア系の人物に多く見られる名前、ハンニバル、ハスドルバル、ハミルカルは、それぞれ「バールの恵み」、「バールは我が助け」、「メルカルトのしもべ」という意味であって、彼らの信仰心の篤さを象徴していると言われている。
 ビブロスにあっては、主要な神はエル(El)、バーラット(Baalat)、そしてアドニス(Adonis)であった。バーラットはバ-ルの女性形である。エルは記録によるとギリシャ神話のクロノスに同一視され主神として描かれているが、記録としては、バーラットの方がより多く登場している。先にビブロス王、Yehimilkの碑文を紹介したが、これは他の諸王のそれと同様にバーラットに捧げられたものであり、バーラットがかなり特殊な力を持っていたことを想像させる。バーラットは豊饒をシンボル化した大地の母に基本的に対応しているが、バビロニアとアッシリアのイシュタール、エジプトのイシスなどにあたり、オリエント一般によく見られることである。エル、バーラットに続く、ビブロス第三の神はアドニス(adonis)である。セム語で「adon」は「支配者」という意味で、代名詞語尾「i」がついて「私の支配者」という意味であろう。ギリシャの情報源は、死んで蘇った若い神の姿を今に伝えている。彼は毎年地上に植物として再生するため、信仰や神話の中では母なる女神の姿と結びついている。そのギリシャ版の中では神話は以下のようになっている。アドニスは若い狩人であった。女神アフロディーテーは彼を愛し、それで何とかして彼が危ないスポーツを止めるようにするのである。しかし、アドニスはある時失敗しイノシシに殺されてしまう。彼は黄泉の国に落ちてしまうが、女神ペルセポネーは彼がアフロディーテーの下に戻ることを拒否する。ペルセポネーとアフロディーテーの二人の女神の間で競争が行われて、アドニスは地上に舞い戻ることが出来た。このギリシャ神話は、明らかに古代オリエントの神話(*3)の二番煎じである。アフロディーテーはオリエントの母なる女神に置き換えることができる。
 シドンにおいては主神はバールであり、バーラットに対応するのはアシュタルテである。アシュタルテはシドンの神殿にあって明らかに支配的であって、そのことは彼女に敬意を表して碑文や神殿が繰り返し奉納されたということ、また王家が自分たちのことを彼女に仕える僧であると自称していたという事実によって証明される。ヘブライの預言者たちはこうした擬人化された神を嫌い、聖書の中に出てくるアシュタルテは「不名誉」を意味する語と組み合わされて登場し、非難を浴びている
 テュロスで最も高い地位にある神は、メルカルト(Melqart)である。この語は「街の神」を意味するもので、ビブロスのエル、シドンのバールに対応する神である。正確には、メルカルトは一種の称号で、テュロスの「バール」に捧げられた称号だと捉えるのが正しいと考えられる。メルカルトの重要性は、テュロスにある彼の神殿にアレクサンドロス大王も犠牲を捧げようとしたこと(アレクサンドロス大王はこれを断られてテュロスに攻め入ったとされる)、また、テュロスによって建設された植民都市(ことにカルタゴ)においても数多くの奉献を受けた、ということによって証明される。さらに、ギリシャでは彼はヘラクレスと同一視されその信仰は広がりを見せたし、後にキリスト教時代においては、ヘラクレス-メルカルトは、他の多くのオリエントの神々と同様に、太陽の特性をますます帯びるようになっていったのである
 フェニキア人の宗教は、基本的にはセム人の宗教と連続している。しかし他の分派したセム人のそれと比較して、シリアパレスチナ地域の政治的あるいは文化的な情勢を反映して、独自のかたちを形成していることは確かである。当地における不安定な政治情勢が、言い換えれば、大国に挟まれた地域にあって強大な一つの権力が確立されず小国乱立の状況、そして帝国によって容易に支配されてしまうという状況が、宗教的な側面にも影響を及ぼしているのである。その結果の一例として、神々の性格が移ろいやすく決定的でない、ということが指摘されている。
 また一方で、セムの文化や宗教に対抗しうる高度な文明が確認されないという事実は、フェニキアの宗教がセム古来の性格をより多く保持している可能性を予期させる。メソポタミアに進出したセム人、アッシリア人、バビロニア人などは、古来よりその地に存在した高度な文明、シュメールの文明による強い影響を受け(*4)、セム本来の性格をかなり変容させているのが見て取れることと比較すると興味深い。このように、フェニキアに残る宗教はセム的要素を色濃く残しながらも、政治的文化的融合の地にあったために、複雑な形態を持つに至ったと考えることが出来よう。

3.カルタゴの宗教

 カルタゴにおいても宗教的要素はかなり重要視されていたことは間違いがない。テュロス本国がまだ健在であった頃、カルタゴはテュロスで毎年行われるメルカルトの祭儀に、献納を欠かさなかったことは既に述べた。近年カルタゴの港の近くで発見された供犠所、「トフェット」は彼らがかなり多くの犠牲を捧げていたことを物語っている。供犠所は、バールに捧げた犠牲を埋葬する場所である。
 カルタゴで最も信頼されていた神は「バール・ハンモン」という神であった。女神としては「タニト」がいた。ポエニ期に出土する約4000の碑文のうち、ほとんどが今あげた神々に捧げられたものであることを見れば、いかにこの二神が信仰されていたかが分かる。しかし、既にカルタゴの時代ともなると、フェニキア起源の神々やアフリカ起源の神々がパンテオンを構成するようになり、登場する神の名前はかなり多くなる。アシュタルテ、メルカルト、エシュムーン
といった神々の名前を至る所で見ることが出来る。神々を祀る神殿も多く作られたようで、例えば、第三次ポエニ戦争でカルタゴ軍が最後まで抵抗を続けたのは高台にあるエシュムーンの神殿であった。最後の砦をスキピオに攻められ、夫が降伏する中で、ハスドルバルの妻が子供を連れて夫を罵りながら自殺を遂げるのはシーンは印象的である。

 カルタゴの宗教に関連して最も人々の記憶に残りやすいのは、やはり幼児供犠の話しであろう。幼児供犠とは文字通り、幼児を犠牲として神々に捧げたことを意味しているが、これは、フロベールの『サランボオ』の中でその光景が描かれたことで多くの人が知るところとなった。
「青銅の腕はいよいよ敏捷に動いていた。もう休むことはなかった。一人の少年がそこに置かれる度に、モロックの僧侶達は彼の上に手を差しのべ、人民の罪を彼に負わせて叫ぶのだった。「彼らは人間ではない。牡牛共だ!」と、周囲の群衆は繰り返した。「牡牛だ!牡牛だ!」信者達は叫んだ。「主よ!食らえ!」(中略)犠牲者達は、穴の口まで来たかと思うと、赤く熟した板金の上の一滴の水のように消え失せ、紅蓮の焔の中に白い煙が立ち登るのだった。けれども、神の食欲は満たされなかった。」(*5)」
 この描写に関しては、学術的にまだカルタゴで幼児供犠が行われたかどうか決着がついていないことなどから、議論を呼んだ。カルタゴにおける幼児供犠が完全に妄想の産物であるという立場から、カルタゴでも行われていたとする立場(*6)、さらにはそれが宗教儀式の名を借りた一種の人口抑制政策であったする説まで幅広い解釈が存在する
 この問題にこれ以上の結論を出すことは出来ないが、仮にそれが行われていたとして、そのカルタゴ人のその慣習をより公平な立場から見ることは出来る。単に残酷だとか、冷酷だとか糾弾することは偏った見方というものであろう。
 彼らが行っていたことは、生きている幼児を生け贄にして殺すわけであるから、我々から見れば確かに残酷である。先に引用した『サランボオ』の中での描写が過度に残酷さを増していたとは思えない。しかし、カルタゴを滅ぼしたローマでは、人口抑制として嬰児遺棄が現実に行われていたらしく、さらに「ローマ帝国期になると、奴隷の約半数が拾われた捨て子によって構成されたいう指摘さえあるほどである。」(*7)それは古代においては堕胎などの手段よりもずっと安全であったからであり、人口を抑制するための手段として捉えればやっていること自体何ら変わりはない。日本にしても「間引き」という言葉があるように、人口と食料供給量とのバランスによって、人為的な人口の調整は歴史的に行なわれていたのであり、現在でも妊娠中絶が平然と(ではないかも知れないが、全体として)行なわれている。中絶を禁止しているカトリック系の諸国にしたって例外ではないはずである。このように、カルタゴの幼児供犠に対する感情的な非難は、自分たちの行ないを棚にあげた一方的な言い分であり、まずその点を認識する必要があろう。幼児供犠の実践に関しては、その、我々の心情に訴えかける要素は別にして、むしろ、彼らの宗教的敬虔さを象徴していると素直に認めるべきであろう。”

幻のシリアゾウを追え! Part2 戦象と万軍の主
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30684201.html
目玉が描かれた船


検証: 聖書アラビア起源説 その23 売られる美しいサラとリベカ
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30839704.html
“旧約聖書とエジプトの関わりは深い。
聖書に登場する偉大な人物達はエジプトに行き、ファラオとも面識のある人物達ばかりだ。アブラハムは彼の妻サラの美しさによってファラオと謁見し、ヨセフはファラオの夢を解いた功績で重要な役職に就く、そしてモーセはヘブライ人を解放するためにファラオと対決するのだ。
しかし、以前ブログにも書いていいるのだが、この旧約聖書の3人の時代・・・エジプトにファラオというタイトルは存在していない。「ファラオ」という言葉はトトメス3世の時代にはじめてその使用が確認されるが、王の称号として用いられるようになったのは第三中間期の第21王朝6代目のシアムン(紀元前978年~紀元前959年)からである。旧約聖書でも一番古いと言われるJ資料の成立期と重なるので、それほど目くじらをたてて批判するべきものでもないだろう
まぁ、「ファラオ」というタイトルは後世の編集者がつけたとしても、アブラハムやイスラエルの民が行った「ミツライム(エジプト)」は果たして我々の知っている『エジプト』であったのであろうか?旧約聖書にせめてピラミッドやスフィンクスでも登場してくれれば分かりやすいのだが、残念ながらそうした記述はない
考えてもみれば、ヨセフの時代からモーセの時代まで400年以上の時があるわけだから、イスラエル人も10世代以上も経過すれば本来はエジプト化してしかるべきである。ヘブライ語なんて忘れて、せっせとヒエログリフを書いていたに違いない。
エジプトへ移住してから400年後・・・
モーセは対決したファラオと同じエジプトの言葉を話したのだろうか?
ふむ・・・
ではまず・・・
前後少し長くなるが、エジプトに行った1人であるアブラハムの旅をおってみよう。
紀元前1900年頃にアブラハムがハランから約束の地(カナンの地)にやってくる。しかし、そこで飢饉が起こったため、エジプトに寄留することになる。なぜ、エジプトか?この点については聖書は沈黙している。
(…)
人類史上最大のベストセラーとも言える聖書なのに、物語の展開にはクリエイティブな感性に欠ける。この創世記第12章から26章の間に似たようなストーリーを3回も繰り返しているのだ。これは以下の表にまとめることが出来る。

(アブラハムの時とイサクの時のアビメレクは違う人物とする説もある)
この繰り返しには何か理由があるのだろうか?
意図があって繰り返されたのか?
それとも一つのオリジナルに対する3つの口伝バリエーションをうっかりして挿入してしまったのだろうか?
アブラハムがハランから約束の地カナンへ向かったのは75歳の時、サラは65歳だった。第二の物語の時にはサラは90歳になっていたので、エジプトでパロの側女になった時サラは75歳ぐらいだろうか?とてもファラオをはじめとするエジプト人が興奮するほどの「美女」とするのはおかしいのではないだろうか。
旧約聖書の創世記にはもともとJ資料、E資料、P資料、そしてわずかだがD資料が混在している。ヤハウェ資料とエロヒム資料は神をどのように呼んだかによって書かれた時代を区分するもので、聖書の物語の順序には関係がない。
ヤハウェ資料(J資料): 紀元前950年頃
エロヒム資料(E資料): 紀元前800年頃
申命資料(D資料): 紀元前550年頃 「申命記」
祭司資料(P資料): 紀元前700年頃 定形化した文体が特徴で「創造神話」や「レビ記

上の表にもあるが、アブラハムのエジプト滞在はJ資料で、E史料であるアビメレクとの物語よりも古い。しかしながら、その後のイサクの物語の方がさらに古いと言われオリジナルはイサクとリベカの物語であったと言われている。
では、「妻を妹と偽る話」が3つも創世記に入り込んだのだろうか。
その意味についはいろいろな捉え方があるのだが、1つ言えることは、アブラハムの方が後世の作り話(コピー)であるというならば、エジプトへ寄留した話もまったくの創作ということになる

つまり・・・
アブラハムはエジプトへなどは行かなかったのだ
おそらくカナン地方に飢饉が起きた時にヤコブの息子達がエジプト(ミスラム)にいるヨセフを訪ねた物語にインスピレーションを受けて挿入されたのかもしれない。


検証: 聖書アラビア起源説 その24  恐るべきヨセフ
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30862673.html
“前回、アブラハムが寄留したエジプト(ミツライム)は、ピラミッドのあるエジプトではなく、パロもファラオの事ではない・・・と書こうとしたのだが、どうもアブラハムがエジプトに寄留したエピソード自体が後世に付け加えられたものらしいことが判明した。では、
ヤコブの息子ヨセフが兄弟達によって売り飛ばされて国エジプト(ミツライム)は、どうなのか?
もし・・・、ヨセフ も エジプト へ行ってないとすると・・・
モーセの『出エジプト記』という旧約聖書の一大イベントさえも否定しなくてはならない。
旧約聖書創世記にあるヨセフ物語について述べておこう。以下、ウィキより要約
ヨセフは父ヤコブと母ラケルとの間に長男として生まれた。ヤコブはヨセフを誰より愛し、そのため10人の異母兄たちはヨセフを憎むようになった。ある日ヨセフは夢を見、それを語ったので、兄弟たちのねたみを買い、井戸に落とされ、やがて彼らによってミデヤン人の隊商に売られてしまう。

その直後、ヨセフの服に羊の血を付け、父ヤコブにヨセフは獣に襲われて死んだと偽った。
ミデヤン人はアブラハムの三番目の妻ケトラとの間に生まれた6人の息子の一人ミデヤンの末裔である。すでにアブラハムとサラの息子イサクが後継として決まっていたので、早々に“東の方、東の国”に移住させる。この部族からはモーセの妻チッポラを輩出しており、彼女の父イテロは砂漠遊牧民の祭司としてモーセの師匠的存在である。しかしながら、この民族は後にイスラエルと敵対することになる。
このミデヤン人の研究はおそらくヤハウェ信仰、一神教の由来などの要となってくることは間違いない。イシュマエルやヨクタンの系図と混同されるが、このミデヤン人もアラブ人の祖、特にアラビア半島西南部の民族の祖として説明されている。

そして、ケトラの意味が「乳香」であり、ミデヤンの子孫とされるエパ、エペル、ヘノク、アビダ、エルダアの内、アビダはイエメンの地名としても残っている。
参考 → http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30221247.html
さて、ヨセフの話を続けよう。
隊商の手によってエジプトに渡ったヨセフは、エジプト王宮の侍従長ポティファルの下僕となるが、そこで成功を収め、ついにはその家の全財産を管理するまでとなる。ところが、ポティファルの妻の性的誘惑を拒んで、その妻にかえってぬれぎぬを着せられて監獄に入れられてしまう。

このエジプト王宮の侍従長である『ポティファル(Potifar)』という名は、おそらくPadipareと書き、意味は『ラーより与えられしもの』であると聖書学者の間では考えられてきた。しかしながら、これまで第20王朝時代にpadiに神の名を加えた名前は確認されていない。それが確認されるのは紀元前7世紀頃からで、ヨセフの物語が展開してから1000年以上たってのことである
これに類似した話というのは、エジプト新王朝時代のセティ2世(紀元前1200年~紀元前1194年)の頃に書かれた話「Tale of Two Brothers」がある。日本語では「インプ(アヌビス)とバタの物語」として紹介され内容は下記リンク先に面白おかしく紹介されているが、ストーリーはドイツ語版のウィキでも確認済みなので正確と思われる。
参照→ http://www.moonover.jp/bekkan/story/12.htm
実際、かなりの長編小説なのだが、ヨセフの物語と重なるのはその最初の方の部分だ。
その昔・・・インプとバタという兄弟がいた。屈強な弟バタは既婚者である兄の家で働いており、家事や畑仕事、そして牛の世話などをして暮らしていた。ナイル川の増水時には兄も畑仕事を手伝うのだが、そんなある日のこと、兄が弟に家から追加の種を取って来るように頼む。家に帰った弟は、そこで化粧をしている兄の妻を見る。地下室から種の入った袋を担いで出てきたバタを見ると、兄妻はバタの肉体と瞳を称賛し、一緒に寝るよう誘惑する。

しかし、バタはこれを断り仕事に戻るのだが、プライドを傷つけられた兄妻は仕返しとばかりに、帰って来た兄に向って「弟が強姦したのだ」と訴える。妻の訴えに激怒した兄は・・・
・・・という話だ。何だか最古の「昼ドラ」という感じもするが、ここで再びヨセフの話に戻ろう。
その監獄にファラオに罪を犯した献酌官長と調理官長が拘留され、ある時、ヨセフはその二人の夢をそれぞれ解き明かす。

この能力が後にファラオに知られ、ファラオが見た夢も解き明かすことになった。その彼の解き明かしがファラオに認められて出世し、エジプトの宰相となる。その後、ヨセフはファラオから「ツァフェナト・パネア」という名と、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトを妻として与えられた。

「オン」とは太陽神ラーが祀られていたヘリオポリスの古代の名前だとされているが、根拠については旧約聖書の記述以外に今一つ確証できる資料がない。ヘリオポリスはカイロ北東部にある街で、アトム・ラー神殿やベンヌの家などがある太陽神の宗教センターがある。聖書の記述通りであれば・・・
ヨセフの妻はエジプト太陽神ラーの巫女 となる・・・、いいのか?
もちろん いいわけがない。このあたりの疑惑を払拭するべく、西暦1世紀頃に偽典「ヨセフとアセナト」が編集されている。アセナトも素晴らしい女性で、この偽典の比喩によれば
サラのようにしなやかで・・・
リベカのように華やかで・・・
ラケルのように美しい・・・
この物語はアセナトがいかにしてイスラエルの神に改宗したかを、愛と陰謀の渦巻くサスペンス・ストーリーとして描き出している。あまり適当なことを書くと怒られるので、以下ドイツ語に翻訳されたストーリーもご参照ください。
http://de.wikisource.org/wiki/Joseph_und_Asenath
ちなみに、新約聖書でヘロデ王からイエスを守るためにマリアと夫ヨセフはエジプトに逃亡する。この時に潜伏した街がやはりこのヘリオポリスと言われている。
この「ツァフェナト・パネア」という名は旧約聖書に一度しか出てこない。意味については・・・例えば「“彼は生きている”と神が言った」とか「秘密を啓示する者」などいくつかある。
そういえば・・・
王の夢を解き明かして王の宰相となったヨセフ・・・という話のオマージュなのだろうか、バビロン捕囚時のダニエルも「ベルテシャツァル」という名を与えられてネブカドネザル王に仕えると、その後日、王の夢を解き明かし一気にバビロン全州の長官にまで出世するという話があった。
ふむ。
では ヨセフ物語に戻ろう。
宰相の地位に就いたヨセフは七年間の大飢饉に備えるために食料を保存するなど、国政に腕を揮った。七年間の大飢饉はエジプトだけでなく、父ヤコブや兄弟たちのいるカナンの地にも及んだ。そこで、10人の異母兄弟たちは末の弟でヨセフとは同母弟となるベニヤミンをカナンに残し、エジプトに穀物を買いに行く。
そこでヨセフと出会うが、兄弟たちは宰相ツァフェナト・パネアがヨセフであることには気付かなかった。だが、ヨセフは兄弟たちのことが分かっていた。そこで、ヨセフは兄弟たちを間者と決めつけ、末の弟ベニヤミンを連れてくるように要求、彼らの誠意を試そうとした。

兄弟たちはシメオンを人質としてエジプトに残し、穀物を持って帰ったが、エジプトで起きたことを父ヤコブに話すと、ヤコブはベニヤミンをエジプトに連れて行くことに強く反対する。しかし、穀物が尽きてしまったため、仕方なくヤコブはベニヤミンをエジプトに連れて行くことを決心、兄弟たちはベニヤミンを連れてエジプトに戻った。

ヨセフはベニヤミンを見ると感激し、兄弟たちにご馳走をした。その後、兄弟たちがカナンの地に帰る前にヨセフはベニヤミンの持つ穀物の袋に、自らの使う銀の杯を入れた。そして兄弟たちが出発してすぐに、ヨセフは彼らを追い、彼らが銀の杯を奪ったと指摘、兄弟たちは自信を持って盗んでいないと主張するが、調べるとベニヤミンの袋から銀の杯が見つかった。
罰としてヨセフはベニヤミンを自分の奴隷とすると言ったが、兄弟たちは自らが奴隷になってでも、ベニヤミンを帰らせるよう頼んだ。

ヨセフはその誠意にとても感激し、自らのことを明かした。兄弟たちは驚くも、その後ヨセフと抱き合い、和解を果たした。また、兄弟たちはそのことを父ヤコブにも告げた。ヤコブは最初信じなかったものの、最終的にはヨセフに会って、劇的な再会を果たした。

ヨセフは父と兄弟たちをゴジェンに移住させ、ヤコブの死後、110歳まで生き続けた。古来、エジプト人は人間の最長寿命は110歳であると考えており、ヨセフが110歳で死んだという聖書の記述はヨセフが神の愛を深く受けていたということを示している。
ふむ。
かなり完成されたストーリーだが・・・
実際の旧約聖書の創世記はもっと面白い。
旧約聖書の中では救世主的な存在として取り扱われているが、現代の人間が読むとそうでもないのだ。
オリエント世界を襲った大飢饉からエジプトを救ったヨセフだが・・・
ボランティア精神に基づいて行動したわけではない。
彼の行動はユダヤの精神に基づいていた。
創世記47章を要約すると次のようになる。
カナンとエジプトを襲った飢饉がますます猛威をふるい、国々が衰える。

人々はヨセフに穀物を売ってくれと頼む。

ヨセフは穀物の代金としてエジプトの国とカナンの国にあった銀をみな集め、その銀をパロの家に納める。

エジプトの国とカナンの国の銀が尽きる。

飢饉は続き、人々はまたヨセフに穀物を売ってくれと頼む。
しかし、銀はすでに尽きている

紀元前15~16世紀にオリエント世界から銀が通貨として使われなくなったのはヨセフのせいか?

ヨセフは言った
「銀がないなら、あなた達の家畜をよこしなさい」

人々はしぶしぶヨセフの所へ家畜をひいてき、馬、羊、牛、ロバなどと取引する

実際すべての家畜が倉庫に納められたのではなく、所有権が移行したにすぎないのだろう。
つまり、労働のための手段が国有化されたのだ。

飢饉は更に続き、人々はまたヨセフに穀物を売ってくれと頼む。
しかし、銀も家畜も尽きている。

ヨセフは言った
「それでは・・・あなたたちの土地と労働力で払ってもらいましょう」
そして人々は穀物と引き換えにヨセフに土地を売り、彼はそれをパロの所有とした。
また、エジプトの民はすべて奴隷となった。
土地が国有化され、労働の自由が失われたのだ。
ただ祭司にはパロの給与があったので、彼の土地は売られることがなかった。
今やソ連時代のソホーズ(国営農場)が古代エジプトに誕生したのだ。何と示唆に富んだ物語だろうか。
その後、ヨセフは人々に種を与え、収穫物の5分の1をパロに納め、5分の4を自分のものにするように指示する。人々は主の前に喜んで奴隷となったという・・・

・・・おいおい。
モーセ時代、ファラオが交代し、イスラエルの民が奴隷になったとあるが・・・
まぁ、ヨセフ(ヘブライ人)がエジプト人を奴隷にしていたのだから、
因果応報ってやつなのかもしれない。
それにしても
恐るべし ヨセフ


検証: 聖書アラビア起源説 その25  ゴセンはどこにある?
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30870362.html
“「旧約聖書とエジプトとの関わりは深い」・・・というのは幻想である。
いや・・・ホントか?
「エジプト」という言葉はモーセの5書だけで372回登場する。
創世記     97回・・・
出エジプト記 178回・・・
レビ記      12回・・・
民数記  33回・・・
申命記  52回・・・
これだけ登場しといて、関係がないということはないだろう。
だが・・・、もし、ミツライム=>エジプトが誤訳だったら?
そうなると大変なことになる。
しかし、誤訳問題の前に、聖書の編纂に関わる問題もある。例えば、旧約聖書の創世記で三度も繰り返される「妻が美しすぎて妹と偽る話」の中で、「アブラハムのエジプト(ミツライム)寄留バージョン」は後世になって付け加えられた話だろう。そうなると、この時点でアブラハムとエジプトという関連は、本来の歴史の問題、実在性の問題とは関係なくなる

では、ヨセフが滞在したパロのいる国はエジプトだったのだろうか?
頼むぞヨセフ!
ゴセンを探せ!
ヨセフが父ヤコブと兄弟をカナンの地からエジプト(ミツライム)に呼び寄せ、ゴセン(ゴシェン)に住まわせたと言う。ユダヤ人の居住区などというとユダヤ・ゲットーの先駆的なものを想像するが、おそらく・・・そうだったのだろう。しかしながら、ユダヤ史において重要な土地とされるこのゴセンは、考古学的にはまだ解明されていないが、およそナイルデルタ地域の東からスエズ川のどこかであろうとされていた。
このゴセンの名の由来にはいくつかの説がある。
第一の説
紀元前7世紀頃、第26王朝の時代にエジプトの20番目の行政区(ノモス)に「Gesem」、もしくは「Kesem」という名のノモスがあった。西はトゥミラト・ワジ(Wadi_Tumilat)、東はピトムのある行政区スコテ、北はペル・ラムセスであり、穀倉地帯でありながら、放牧地も含まれる地域であったと考えている。

この説は、旧約聖書出エジプト記に登場する地名に基づいている。
出エジプト記 第1章11節
そこでエジプトびとは彼らの上に監督をおき、重い労役をもって彼らを苦しめた。彼らはパロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。
出エジプト記 第12章37節
さて、イスラエルの人々はラメセスを出立してスコテに向かった。女と子供を除いて徒歩の男子は約六十万人であった。
第二の説
ゴセムの名の由来としてはもう1つある。紀元前7世紀頃からQedarite(ケダリテ(ゲタール))と呼ばれる有力なベドウィンが、ペルシア湾からシナイ半島にかけて一大帝国ともいうべき遊牧民国家を形成していた。オリエントの時代区分で言えば、新アッシリア時代にあたるが、紀元前6世紀頃には最盛期を迎えていた。そのGasmuと呼ばれる有力な首長の時代にはシナイ半島も西部、つまりナイル・デルタ東部までも支配下においていたと考えられるのだが、ゴセムの名は彼Gasmuの名に由来するというのだ。このベドウィンの族名は旧約聖書の中にもイシュマエルの第二の子ケダルとして登場する。
               ベドウィン ゲタール族の最大勢力範囲

                     ↑ちょっと 大袈裟か?
第二の説は現在(必死に)否定されているようだが、非常に興味深い説だ。このケダリテ(ゲタール)族からはザビベ(Zabibe:紀元前738年~紀元前733年)というベドウィンの女王も登場する。ティグラト・ピレセル3世に従属していたが、本拠をデュマト アル ジャンダル(Dumat al-Jandal)に置くこのアラブ系遊牧民族国家はザビベを含めて4人もの女王を輩出している。
女王ザビベ (Queen Zabibe) ティグラト・ピレセル3世に従属
女王サミシ (Queen Samisi) ティグラト・ピレセル3世に対抗
女王ヤティ’エ (Queen Yati'e) センナケリブに対抗
女王テ’エルクヌ (Queen Te'elkhunu) センナケリブに対抗
  および 王女タブ’ア (Princess Tabu'a) エサルハドンに対抗
このアラビア半島の歴史については改めて焦点を当てることにするが、ソロモンに会いに来たシバの女王のモデルが上記の4人の女王のどれかであっても、決して不思議ではないだろう。
さて、ゴセンは聖書のいくつかの箇所で述べられているが、少しピックアップすると・・・
創世記 第47章3節~6節
パロはヨセフの兄弟たちに言った、「あなたがたの職業は何か」。彼らはパロに言った、「しもべらは羊を飼う者です。われわれも、われわれの先祖もそうです」。

彼らはまたパロに言った、「この国に寄留しようとしてきました。カナンの地はききんが激しく、しもべらの群れのための牧草がないのです。どうかしもべらをゴセンの地に住ませてください」。

パロはヨセフに言った、「あなたの父と兄弟たちとがあなたのところにきた。エジプトの地はあなたの前にある。地の最も良い所にあなたの父と兄弟たちとを住ませなさい。ゴセンの地に彼らを住ませなさい。もしあなたが彼らのうちに有能な者があるのを知っているなら、その者にわたしの家畜をつかさどらせなさい」。
興味深いのは、創世記第47章11節でラムセス2世が建設した幻の都「ペル・ラムセス」と思われる「ラムセスの土地」について述べられている。モーセの出エジプトの出発地点もこの「ラムセス」であったとされているが・・・。
創世記 第47章11節
ヨセフはパロの命じたように、父と兄弟たちとのすまいを定め、彼らにエジプトの国で最も良い地、ラメセスの地を所有として与えた。
でも、ラムセス2世の在位は紀元前1290~紀元前1224年頃・・・。よくモーセの出エジプト時のファラオが誰だったと議論になる時、ラムセス2世の名が真っ先に上がる。なぜなら、出エジプト記第1章11節には、イスラエル人が奴隷となってペル・ラムセス(Pi-Ramesse)を建てる描写があり、このペ・ラムセスの建設を命令したのは通説ではラムセス2世となっている。ヒクソスの街に建てたのだ。
しかし・・・
ヨセフが生きていた時代が紀元前1700年から紀元前1600年ぐらいだとすると・・・
ラムセスと呼ばれた地は、エジプトにはまだ存在していない・・・。
翻訳の間違いか?
あるいは・・・
聖書が編纂されたのはいずれにせよ後世だから仕方がないのだろうか?
面白いのは・・・
キング・ジェームズ訳聖書(オックスフォード・スタンダード:1769年)の創世記第47章11節には、「ラムセスの土地(the land of Rameses」と書かれている。フランスの偉大なエジプト学者シャンポリオンがヒエログリフを解読する以前のことだ。
王名表で有名な紀元前3世紀のエジプト神官マネトは、ギリシア語で「Ramesses Miamun」、もしくは「Rapsakes」と呼び、ヘロドトスは「Rhampsinitus」、シチリア生まれギリシア歴史家ディオドロスは「Ozymandias」と呼んだ。Ozymandiasはラムセスの即位名Usermaatreの意味を間違って伝えてしまったのだ。ローマの博物学者プリニウスとタキトゥスは「Rhamsesis」もしくは「Rhamses」として書いている。
時は移り18世紀になると「Ozymandias」はイギリス詩人パーシー・ビッシュ・シェリーによって有名になる。当時まだヒエログリフが解読されていない時代では、Ozymandiasは必ずしもラムセスと同一視されておらず、無名の前任のファラオか、後任のファラオぐらいにしか思われていなかった。「Ozymandias(オジマンディアス)」と題された詩は次のような内容だ。
古代の国エジプトから来た旅人はいう
胴体のない巨大な石の足が二本
砂漠の中に立っている その近くには
半ば砂にうずもれた首がころがり

顔をしかめ 唇をゆがめ 高慢に嘲笑している
これを彫った彫師たちにはよく見えていたのだ
それらの表情は命のない石に刻み込まれ
本人が滅びた後も生き続けているのだ

台座には記されている
「我が名はオジマンディアス 王の中の王
全能の神よ我が業をみよ そして絶望せよ」

ほかには何も残っていない 
この巨大な遺跡のまわりには
果てしない砂漠が広がっているだけだ
聖書に書かれてある「ラムセス」も、古代エジプト史が解明される以前から「そこ」にあるだが、偉大な「ラムセス2世」を指すとは思われなかっただろう。
・・・ちょっと待った。
「ラムセス」 が ラムセス2世を指すとはまだ決まったわけではない。
「ラムセス」という名がかなり以前から使われており、ファラオの名前だけではない。また、ヒクソスの時代から「その地」を「ラムセス」と呼んでいたという説もある。
ラムセスの第19王朝の前の18王朝最後のファラオであるホルエムヘブが、アバリスにある(アバリスはヒクソス時代の首都)セト神殿の400年祭が開催され、所謂「400年碑」が作成された。ラムセス2世はこの400年碑をアバリスにヒクソス侵入の記憶として建てたという。
しかし、苦々しい「ヒクソス侵入の記憶として」と言ってみるものの、実はラムセスの家系自体がヒクソス(アジア系)の出自であるという噂も絶えない。19王朝はどちらにせよ、王家の出自ではなく軍人の出自であり、ラムセス2世の父はセトを名乗るファラオだ。セトはホルスの永遠のライバルとして神話に登場するが、ヒクソスが最も崇めた神でもある。なぜなら、セトは彼らが本来崇めていた砂漠と天候の神バアル神と同一視されるからだ
ただし、実践的な立場から・・・つまり、権威を高めるために数名のヒクソスの支配者達は(下)エジプトの王として即位名に太陽神ラーを用いた。こうした事実から考えると、すでに問題の土地が紀元前17世紀頃には「ラムセス(ラーによって生まれた家)」と呼ばれていた可能性は十分にある。
・・・まぁ これ以上深入りするのはやめよう。
後世で付け加えたとしても、それほど大騒ぎするほどのことではないのだが、もし、「ラムセス」が誤訳とかではなく、古代エジプトの偉大な王「ラムセス」からとっているのであれば、ゴセンもエジプトにあり、ヨセフの物語もエジプトが舞台になっていたことが言える・・・。
ふぅ・・・
ん?
だだし、ゴセンという地名はヨシュア記にも、ユダの地にある土地の1つとして登場する。エジプトの地としてではない。
ヨシュア記第15章51節
ゴセン、ホロン、ギロ。すなわち十一の町々と、それに属する村々。
ヨシュア記第10章41節
ヨシュアはカデシ・バルネアからガザまでの国々、およびゴセンの全地を撃ち滅ぼして、ギベオンにまで及んだ。
ヨシュア記第11章16~17節
こうしてヨシュアはその全地、すなわち、山地、ネゲブの全地、ゴセンの全地、平地、アラバならびにイスラエルの山地と平地を取り、セイルへ上って行く道のハラク山から、ヘルモン山のふもとのレバノンの谷にあるバアルガデまでを獲た。そしてそれらの王たちを、ことごとく捕えて、撃ち殺した。
・・・このゴセンはきっと違うゴセン・・・とか?
モーセの時代、エジプト(ミツライム)のパロが海に飲み込まれて死んだために、エジプト(ミツライム)の勢力が交代し、もともとヒクソスの地であったゴセンがエジプトの勢力圏の外になった・・・。
あるいはもともとゴセンはパレスチナの地にあり、エジプトの勢力が後退したために、ヨシュアの手に落ちた・・・とか・・・。
そう考えると・・・ヤコブがゴセンで亡くなった時、亡骸をヘブロンまで運ぶ距離ももう少し短くなるのだが・・・
サリービーであったら違う説を提唱するのだろうが・・・


検証: 聖書アラビア起源説 その26 モーセが拾われた川はナイル川か?
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30889009.html
“前回はヨセフをはじめイスラエルの支族がエジプトに移住した時の地ゴセンについて書いた。
前回→ http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30870362.html
それに付随してくる「ラムセスの土地」という言葉を頼りに、それがどうやらエジプトのナイル・デルタの東側にある地域であるとしても良いのだが、古代エジプトにラムセスが登場したのはヨセフの時代の何百年か後であり、また、ヨシュア記にはパレスチナ地域にも「ゴセン」と呼ばれる地域が存在したと書かれてある。
『聖書アラビア起源説』のサリービーは、この事に関しては言葉少なめだが、注釈にて次のように解説している。

創世記と出エジプト記の中で、msrymの地にイスラエル人が滞在したこととの関連で言及されているゴセン(gsn)、ピトム(ptm)、ラメセス(r'mss)がエジプトに位置していたかどうか、まだ納得のいく説明はされていない。

ゴセン(ガダーン=gtnおよびクァシャーニー=qsnn=qsnの複数形)、ピトム(アール・フタイマ=ptym=母音付加しないとptm)、そしてラメセス(マサース=mass)は、今なおアラビア半島西部のmsrym地方、アシール内陸部に残っている。r'mss(ラメセス)の語頭のr'は、おそらく神の名にあたる。それが母音付加された語Ra'またはRaiはアラビア半島西部の多くの地名の語頭を特徴づけている。
『聖書アラビア起源説』 P57

イスラエル人は果たしてエジプトにいたのであろうか?
いや、エジプトでなければならない。
そうでないと、
その話に続く『出エジプト記』が“出エジプト”にならない・・・。
・・・とは言っても、エジプト(ミツライム)を二番目のモーセ5書(律法書、トーラ)のタイトルとして用いているのは、世界中でもざっと見て日本語と中国語ぐらいであろうか・・・。他の言語であれば、もっと先入観をもたずに聖書と向き合えたのかもしれない。
今更だが、英語(Book of Exodus)、ドイツ語(2. Buch Mose)、スペイン語(Éxodo)、フランス語(Livre de l'Exode)、ラテン語(exŏdus)、ギリシャ語(ἔξοδος)・・・、これらはどれも「脱出」を意味する言葉を使用している。おそらくヘブライ語からギリシア語に翻訳される際に、書の内容を示すような言葉として選択されたのだろう。
本家のヘブライ語は「Sefer Schemot(ספר שמות)と言い、意味は「名前(シュモース)の書」である。この“名前”はこの書の冒頭部で最初に登場する言葉、つまり「名前(Schemot:שמות)から派生した。
テキストの最初の言葉(もしくは最初の文章中の言葉)を題名として使用するのはモーセの5書全部に共通
していることである。ちなみに『出エジプト記』の書き出しは以下の通りである。

出エジプト記 第1章1節
さて、ヤコブと共に、おのおのその家族を伴って、エジプトへ行ったイスラエルの子らの名は次のとおりである。

まぁ、第二書の題名がどうであれ、モーセがエジプトを脱出したことにはかわりはないでしょ?

モーセはナイル川に捨てられたって書いてあるし・・・。

この物語に関しては、「ノアの方舟」がシュメール神話から借用したのと同様に、モーセの出自に関しても、アッカド王サルゴン(紀元前2334年頃~2279年)の出生伝説から借用したものであるという説がある。この伝説はオリエント世界にはかなり知れ渡っていたようでニネベのアッシュールバニパルの図書館や、バビロンから物語が書かれた粘土板が発見されている。内容はというと・・・
「私はシャル・キン(=サルゴン)、強い王、アッカドの王である。私の母は高位の祭司であった。私は父親を知らないが、父親の兄弟達は山の中に住んでいた。私の生まれた街はユーフラテス川のほとりにあるAzupiranu(Safran)。高位の祭司である私の母は、秘密裏の内に私を産み、葦とアスファルトで作られた篭にいれられると、蓋を閉めた。そして、私を川に流したので、私は自分から揚がることはできなかった。
川の流れは私を”王の酌を務める役人”アキの下に連れて行き、すくいあげられた。アキによって私は彼の息子達と同様に育てられた。彼は私を庭師にした。庭師としての私は女神イシュタルに愛され・
・・
以前のブログにも書いたが、その時の内容(ウィキ)は多分別な粘土板からの訳だろう。
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/25540200.html
モーセの誕生の伝説は、このサルゴンの伝説にあるユーフラテス川をナイル川に置き換えたに過ぎない・・・との見方も出来る。
実際に上記のアッカドのサルゴン伝説が造られたのはずっと後世になってからであり、サルゴン2世(紀元前722年~紀元前705年)がアッカド王サルゴンの大ファンであり、また、彼が父ティグラト・ピレセル3世の息子でありながらも、正当な王位継承者ではなかったようで、王位の正統性をつけるために、こうした神話を流布させたとも言われている。
では モーセの出生伝説はそうした伝説のナイル・バージョンなのか?

ファラオの娘につけられたモーセという名は、いかにもエジプト的だ。
しかし・・・
実は・・・そうとも言い切れない。
最近の翻訳、特に日本語訳では確かに「ナイル川」と書いてある箇所がいくつかある。それはおそらく近年の聖書考古学の成果とやらで、「ナイル川」と解釈できる「川」がそのように翻訳されているにすぎない。
しかし、少し古い英文訳の聖書をみると・・・
「ナイル川」と書かれている箇所は・・・
どこにもない・・・。
ヘブライ語の聖書にもナイル川と書かれている箇所はない。
(…)
出エジプト記の物語で登場する川に「ナイル川」という固有名詞でついているのは・・・、
(A)口語旧約聖書(日本聖書協会)   13回
(B)英文訳(2007年以降)     22回
(C)アメリカン・スタンダード(1906年) 0回
確認はしていないのだが、20世紀初頭以前に編集された聖書で、「ナイル川」が登場する聖書は皆無であろう。古い聖書ではヘブライ語の「川」という言葉を直接「川」として翻訳していて、現代の地理解釈は加えていないのである。
ヘブライ語の聖書に一度も「ナイル川」が言及されていないのに、
どのようにして、
「川」が「ナイル川」になったのだろうか



検証: 聖書アラビア起源説 その27 聖書のナイル川はどこか?
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30895354.html
“旧約聖書に登場する 「川」 を 「ナイル川」 と翻訳してしまうのが正しいのか?
ナイル川にはもちろん固有の名前があったのだが・・・、すべては元をだどれば「川(大河)」という意味だった。。
アラビア語では「an-Nīl(アン・ニル)」
古ギリシア語では「Neilos(ネイロス)」 ラテン語ではNilus
古エジプト語では「Iteru」、もしくは「Ḥ'pī」
コプト語では「Piaro」もしくは、「Phiaro」
ウィキペディアをみると
古ギリシア語のナイル川、つまりネイロス(Neilos)という名は、セム語で「川」を意味する「nahal」に由来しており、ヘブライ語の「nachal」も同根であるとしている。
そもそも、世界中の大河の名前には「川」という意味の言葉があてられるようで、それはナイル川だけでなく、ガンジス川の「ガンジス」も川と言うサンスクリット語からきている。更にインダス川の「インダス」、メナム川の「メナム」、メコン川の「メコン」、アムール川の「アムール」・・・これらすべての名前の由来は「川」
である。
旧約聖書においてナイル川(本流)を指すヘブライ語は「ye'or(イェオール)」であるとされ、エジプト語では「aur」(古くは「atur」)である・・・とされている。「ye'or」は、やはり「川」という意味である(ウィキ)。また、「川」という意味においては「nahal」が、頻繁にエジプト(ミツライム)との関連で使用されている。その他、かつて「ナイル川」と考えられていた語句を整理すると次のようになる。
(1) ye'or = ナイル川(?)
(2) Nachal Mitzrayim = エジプトの川
(3) Shichor = シホル川(=エジプトの川?ナイル川?)
(4) Nahare kush = クシ(エチオピア)の川(=ナイル川)
一つずつ見ていこう。
(1) ye'or (イェオール)
『Ye'or がナイル川を指すことに異論はなく』とウィキに書かれてある。おそらくこの記事の原文である英文ウィキも、あるいは他のソースをみても“異論はない”と書かれてあるようなのだが、そもそも「ミツライム」を「エジプト」とみなすことさえ怪しいと感じている本ブログとしては、そう簡単に「ye'or=ナイル川」という解釈を受け入れるわけにはいかない。
(2) Nachal Mitzrayim (ナハル・ミツライム)=エジプトの川
微妙なのは「エジプトの川(Nachal Mitzrayim)」の扱いだ。
エジプトの川という表現はイスラエルとの境界を指す時にのみに用いられる表現である。
七十人訳聖書では、民数記第34章5節、ヨシュア記第15章47節、列王紀下第24章7節に現れる Nachal Mitzrayim を、「エジプトの流れ (Cheimarros Aigyptou)」と訳した。この翻訳では、季節的に反乱するナイル川のこととも、季節的に水流が現われるワジ(涸れ谷)のこととも読み取れる。季節後のヨシュア記第15章4節に見えるPharangos Aigyptou もどちらともとれる表現である。(ウィキペディア)
「エジプトの川」の候補として、これまでワジ・エルアーリシュ、ベソルのワジという説もあったか、ウィキの解説を見る限り、ペルシウム河口部であるというのが定説らしい。
サリービーは次のように書いている。
この(ヤハウェの)約束の言葉にある「エジプトの川」(hhr msrym)とは、明らかにナイル川のことではなく、アシール高地にある現在のミスラーマ村近くに源流をもち、ジーザーン地方とリジャール・アルマアの境界線をなすワーディ・イトゥワドのことである。あるいはそれは、ジーザーン地方とイエメンとの境界線をなすワーディ・リヤであったとも考えられる。そこには今日もマスラム(msrm)という村が残っているのである。
(3) Shichor (シホル)
シホルがそもそも「川」なのか「土地」なのかはっきりしない。地理的にはエジプト(ミツライム)の東にあり
ヨシュア記 13章1節~3節
さてヨシュアは年が進んで老いたが、主は彼に言われた、「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている。その残っている地は、次のとおりである。ペリシテびとの全地域、ゲシュルびとの全土、エジプトの東のシホルから北にのびて、カナンびとに属するといわれるエクロンの境までの地、ペリシテびとの五人の君たちの地、すなわち、ガザ、アシドド、アシケロン、ガテ、およびエクロン。
これを見る限り、シホルは所謂「エジプトの川」、つまりエジプトの国境を示す川の周辺であったことがうかがえる。中世ユダヤ教のラビはシホル=ナイル川と考えていたのだが、ヨシュア記第13章3節のshichor は、「泥の(川)」を意味する asikēton と訳され、「暗色の(川)」(つまり「泥の(川)」)というヘブライ語の原義を踏まえている。
ウィキによれば、
エレミヤ書第2章18節では、shichor は "geon" 「土の(川)」と訳されている。これらの語句は、泥、シルトを意味するギリシア語 pelos から作られた、ベルシウムを意味するギリシア語 Pelousion と同義である。これ以外の箇所では、shichor は逐語的に訳出されていない。歴代誌上第13章5節では、シホルが「エジプトの境 (orion Aigyptou)」の代わりに用いられており、shichorが、エジプトとの境を意味するNachal MitzrayimやNahar Miztrayimと同義と理解されていたことを示している。
ちなみに、前回の記事で「20世紀初頭以前に編集された聖書で、「ナイル川」が登場する聖書は皆無であろう。」と書いたのだが、予言書のイザヤ書には6カ所、エレミヤ書に2カ所あった。ヘブライ語の聖書には、「Ye'or」と書いてあったと思われるのだが、この箇所だけはナイル川と訳されている・・・。
イザヤ書第23章3節
ツロの収入はシホルの穀物、ナイル川の収穫であった。ツロはもろもろの国びとの商人であった。
And on great waters the seed of the Shihor, the harvest of the Nile, was her revenue; and she was the mart of nations
(5) Nahare kush (ナハレ・クシュ)=エチオピアの川
旧約聖書においては、クシ(クシュ)と呼ばれる地域や国、そして民族についてはエチオピアと呼ばれている。エジプトを意味するミツライムとも並列して述べられることが多く、一般的には、ミツライムはエジプトであり、クシュはエチオピアとして解釈されている。そして、当然クシュを流れる川と言うのは、他でもないナイル川である。
イザヤ書 第18章1~2節
Ah, the land of the rustling of wings, which is beyond the rivers of Ethiopia; that sendeth ambassadors by the sea, even in vessels of papyrus upon the waters, [saying], Go, ye swift messengers, to a nation tall and smooth, to a people terrible from their beginning onward, a nation that meteth out and treadeth down, whose land
the rivers divide!
ああ、エチオピヤの川々のかなたなるぶんぶんと羽音のする国、この国は葦の船を水にうかべ、ナイル川によって使者をつかわす。とく走る使者よ、行け。川々の分れる国の、たけ高く、膚のなめらかな民、遠近に恐れられる民、力強く、戦いに勝つ民へ行け。
クシュに関する問題も単純ではない。
民数記 第12章1節にはモーセが(側女として?)クシュの女をもらいうけたことが書いてある。
モーセはクシの女をめとっていたが、そのクシの女をめとったゆえをもって、ミリアムとアロンはモーセを非難した。
「クシ」と「ケニ」の書き間違えで、もし、この「クシの女」がモーセの妻チッポラであるとすれば、ミリアムとアロンがモーセを非難することはしなかっただろう。
また、歴代志下第14章8節からユダの王アサが100万の軍勢と300の戦車を有するエチオピア(クシュ)のゼラと対決した事が記されている。記述には『マレシャ』、『マレシャのゼパタの谷』、『ゲラルの周囲の町々』などの地名が見受けられ、クシ人がユダ王国の比較的周辺部にいた部族であることをうかがわせる。
また、歴代志下第21章16節には、「その時、主はヨラムに対してエチオピヤびとの近くに住んでいるペリシテびととアラビヤびとの霊を振り起されたので」との記述がありペリシテ人とアラブ人の隣人であったことが明示されている。
ただ、エチオピア人の肌については次のような言及もある
エレミヤ書第13章23節
エチオピヤびとはその皮膚を変えることができようか。ひょうはその斑点を変えることができようか。もしそれができるならば、悪に慣れたあなたがたも、善を行うことができる。
また 偽典の「アダムとエバの生涯(モーセの黙示録)」にも次のようなやりとりがある。
「アダムとエバの生涯(モーセの黙示録)」
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/28726376.html 
お側に立って、あなたの父上のために祈っている2人のアイティオピア人は、いったい誰々なんですか?
(中略)
いったい、あの方たちの光はどこにあるのですか、いったい、どうしてあの方たちは黒っぽいのですか?
そして・・・
ソロモンの雅歌でも次のような一節がある。
エルサレムの娘たちよ、わたしは黒いけれども美しい
こう言ったのはシバの女王・・・であるという。
シバの王国はエチオピアにあるのか・・・
それとも  アラビア半島南部のイエメンにあったのか・・・。
いずれにせよ、両地域に古くから文化交流、人々の往来があったのはほぼ確実だ。
結局、
聖書のナイル川をエジプトに見つけ出すのは難しい


検証: 聖書アラビア起源説 その28 エジプトはどこだ?
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30911321.html
“ヘブライ語聖書にナイル川と書かれてある箇所はない。
川という単語にすぎない。
それがエジプト(ミツライム)との関連で述べられる時、躊躇せずに「ナイル川」がイメージさせ、現代の聖書訳ではそのように書かれてきた。
では、もし・・・
旧約聖書のミツライムがエジプトでない とするならば・・・
もはや、ナイル川であることの理由は消え去ってしまう。
エジプトの正式名称はアラビア語でMiṣr(ミスル)、エジプト方言でmɑsˤɾ(マスル)と呼ばれる。アラビア語の名称ミスルは、古代からセム語でこの地を指した名称であるそうなのだが、本源的にはアッシリア語の書式であるMiṣir/Muṣurと似通っている。アラビア語と同じくセム語族であるヘブライ語では、双数形のミスライム(מצרים(ミツライム))と呼ばれている。(日独ウィキ参照)
双数形とは、あまり聞きなれないが「2つの~」を意味する。日本語で言う「両方」とか「両手」とかもともと対になっているものに対応するのではなく、「2つの町」、「2人の労働者」とか、単純に数を表す場合、それがたまたま2つの場合に用いられるのだ。映画「ロード・オブ・ザ・リング」の「2つの塔」とかいう場合もそうだろう。
では、
どうして ミツライム が エジプト なのだろうか?
ミスルは単純に『国(都)』や『土地』を意味するものであるが、歴史的には下エジプト(ナイル川下流域)を指していたとされ、その後統一エジプト王朝(上エジプトと下エジプト)を指す語句として伝承されてきた。エジプトが2つの土地としてミツライムという双数形で表現されているのはおそらくそうした事情があったからだと推測されている。
この上下エジプトの事情については以下を参照してください。
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/25084829.html
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/24625340.html
ちなみに、他の言語でもエジプトはMusuru、Musru、Misir、あるいは Masriと表記されており、ヘブライ語のミツライムは単純に音声から派生したものと考えられている。このミスルのエジプト訛りである「マスル」は「エジプトの」ということになり、頻繁に添え名として登場する「al-Masri」は「エジプト人」という意味であるそうだ。
http://www.abarim-publications.com/Meaning/Mizraim.html
次の異なる3つの箇所では、エジプトを表す言葉としてMasorが使用されている。
イザヤ書第19章6節
またその運河は臭いにおいを放ち、エジプトのナイルの支流はややに減ってかわき、葦とよしとは枯れはてる。
列王記下第19章24節 (内容的にはイザヤ書第37章25節と同じ)
わたしは井戸を掘って外国の水を飲んだ。わたしは足の裏で、エジプトのすべての川を踏みからした。
ミカ書第7章12節
その日にはアッスリヤからエジプトまで、エジプトからユフラテ川まで、海から海まで、山から山まで、人々はあなたに来る。
名詞「Masor」は「包囲」、「塹壕」をも意味し、「束ねる」や「包囲する」という動詞のsurから派生した。これと同じ動詞から派生した名詞には「砦」、「要塞(城壁にかもまれた都市)」がある。したがってミスルの双数形ミツライムは、二重の要塞という意味にもなる。
では・・・公式エジプト名はアラビア語でミスル(ミツライム)と言うのに、どうしてエジプトなのか?
それに関しては以下のホームページに解説がある
http://arabic.kharuuf.net/archives/272 
エジプトが第十九王朝時代にMisrと呼ばれていなかったことについては、積み重なる証左がある。上下エジプトが「Misr」もしくは似た発音の名前で呼ばれていたことを示唆するエジプトの記録は、一つもない。実際、第十九王朝に限らず、記録のあるすべての時代で、Misrという名前がエジプトを特定するのに用いられていたという証拠はまったくない。

一方、エジプト古代史において用いられているのは、オシリスとイシスで語られているように、KoptosまたはCoptoaだ。これがしだいにGebt(قبط)、そしてEl-Gibt(ال قبط)に変化し、最終的に西洋で発音されるようなE-gyptになった。古代西洋文明においては、すべての神話文学と地図が、この地をただEgyptまたはEgiptの名で呼んでいる


ギリシャのダナオスの娘たちの神話が好例だが、「Egypt」の名は非常に古く、いかなる変更にも抗ってきた、ということだ。古代東洋の国々では、エジプトをGebtという同じ名前で呼んできた。

ただ初期ムスリムたちだけが例外で、何らかの理由で、この名前を使うのをやめることにしたのだ。ここから、いつムスリムたちがEl-GibtをMisrと呼ぶようになったか、そしてなぜ変更したのか、探求する必要がある。アラブの歴史によれば、預言者ムハンマド(pbuh) (570-632 A.D)の時代、アラビアの人々の間では、エジプトはAl-Giptの名で知られていた。このことは、預言者がエジプトの支配者アル=ムカウカスにイスラームへいざなうために送った書簡からも明らかだ

(中略:書間については上記ホームページを参照ください。)
ミスルMisr」はアラビアのみで用いられ、聖書に起源を持つ。

一方、「ギプトGipt」は、エジプト人と、エジプトをミスルMisrとは認識していないその他すべての世界との間で使われた。

「アル=ギプトAl-Gipt」を音韻的に分析すれば、それが「エジプト」に等しいことは明らかだ。換言すれば、アラビアの人々は、イスラームの黎明に至るまで、その他すべての世界と同じ名前を使ってきたのだ


アラブ人ムスリムのギプトへの侵攻後のある時点で、この国際的に知られた名前が、しだいにミスルMisrに取って代わられ、今に至っているのである。

ゆえに、ミスルはエジプトの元々の名前ではなく、ファラオがその時代の民に、彼がミスルの主であると言っている場面に適用するにも、十分に古くない。
(中略)
この問いに対する答えは、七十人訳聖書(ヘブライ語聖書のギリシャ語への翻訳)において、誤訳が生じたことです。ここから生じ広まった誤認が、ムスリムたちのクルアーン解釈にもつながっている、というわけです。聖書でもクルアーンでも、神様は最初からمصرとしか言っていないのですが、人間たちがエジプトをمصرだと思いこんでしまったのです

ふむ。
『聖書アラビア起源説』のサリービーは以下のように説明している
以下、『聖書アラビア起源説』より引用
Msrymという地名に関していうと、通常それはエジプトを指すと考えられているが、それがエジプトを意味する語としてヘブライ語聖書にあらわれるのはごく限られた場合だけだということを、ここで強調しておかねばならない。その語がアブハーの近くのミスラーマを指すのでなければ、ワーディ・ビーシャ流域のマスル、またはガーミド高地のマドルーム(msrm)を指すことになる。

また・・・聖書中の「パロ」(pr`h)というのも、エジプトの支配者を指すのではなく、アラビア半島西部のミスラーマやマスルといった土地にまつわる神をさらに聖書中のmṣrとは、アラビア半島西部の一部族、アラビア名でムダル(mḏr=「酸味のあるミルク」の意)と呼ばれる部族のことであったとも考えられる。たしかに、ワーディ・ビーシャ流域にファルアー(pr`)と呼ばれる「パロ」の一部族が住んでいるが、その名ももちろん古代の神もしくはその地方の族長の名に由来している

アブハってどこだろうか
サリービーの説に基づくと次のような位置関係になる。

僕はアラビア語が出来るわけでもないので、このアブハー(アブハ)の近くのミスラーマという場所は特定できなかったが、アブハーは、今日のアスィール州の州都である。標高2200mの高地にあって、現在20万人が居住していると言う。ウィキペディアによれば、「夏の暑さは穏やかで、サウジの代表的な避暑地であり、サウジのみならず中東各地から避暑客が訪れる。降雨にも恵まれ、農業が盛んである。」そうだ。



以前の記事で、ソロモン野時代に「エジプトから馬を輸入する」という記述が奇妙だと書いた。では、アラビア半島のアブハー周辺であればこの問題は解決すのであろうか?
以前の記事 → http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30817217.html
我々は「馬」というと「草原」を思い浮かべやすいが、砂漠地帯を起源とする馬もいる。アラブ種は遊牧民ベドウィンが手を加えて改良発展させた世界最古の馬であると言われ、紀元前2500年頃と思われる岩絵や碑文にも登場する。そう言えば競走馬でいうところのサラブレット三大始祖はアラブ種を掛け合わせてつくったものだという。この「サラブレット」という言葉自体、アラビア語の「純血」に由来するとも言われている

定説ではアラブ種の祖は現在のトルコやシリアから肥沃な三日月地帯をと通ってアラビア半島に来たとしているが、別な説によると氷河期の時代から、アラビア半島南西部、現在のイエメンの一家にある3つのワジ(涸れ谷)から、以前ここが馬の生息に適した牧草地であることが分かっていることから、アラビア種はもともとアラビア半島南西部に由来するとしている。
実は、この説を裏付けるような発見が昨年されている。
ウマの家畜化9000年前か、サウジアラビアで遺跡発見
2011年08月29日 18:40 発信地:ジッダ/サウジアラビア
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2822900/7671976 
【8月29日 AFP】およそ9000年前に人類がウマを家畜化していたことを示す痕跡が、サウジアラビアで発見された。

定説を4000年さかのぼる新発見は24日夜、サウジアラビアの博物館・古文化局のアリ・ガッバン(Ali al-Ghabban)副局長が会見で発表した。「これまでの研究では、人類がウマを家畜化したのは5000年前の中央アジアだとされてきたが、今回の発見は、9000年以上前にアラビア半島(Arabian Peninsula)で最初に家畜化されていたことを示している」

家畜化の証拠が見つかったのは、同国南西部アシール(Asir)州の州都アブハ(Abha)近くの遺跡。この地方は、古文科学では「幸福のアラビア(Arabia Felix)」として知られる古代文明が栄えていた。ガッバン副局長によると、この文明では「これまで知られている手法とは全く異なる死体防腐処理方法
」が用いられていたという。

かつてアラビア半島が湿潤で肥よくだった頃に河床だった谷間で発見された遺跡からは、ヤギやイヌ、タカなどの像に加え、高さ1メートルのウマの半身像があった。「これほどの寸法の動物像は、この時代としては世界のどこでも発見されていない」とガッバン副局長。矢じりや石器、織物道具、穀類をすり潰すためのすり鉢なども見つかっており、文明の発達ぶりが示唆されている。


何とアブハだ。
ソロモンがエジプトから高値で買った馬というのは、アシール南部で飼育されていたアラブ種の祖、アブハの馬に違いない。
そして、
僕たちが聖書においてエジプトと信じて疑わない国というのは・・・
このアブハの近くの都市だったのだ



検証: 聖書アラビア起源説 その29 シシャク王の遠征
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30926506.html
“アブラハムがエジプトに寄留した話が、どうも後世のつくり話のようであり、ヨセフが奴隷として連れて行かれ、後に兄弟達を移住させ、そしてモーセの時代に脱出したという舞台がエジプトであるというのも、確証をもって述べることは難しいことが分かった。旧約聖書成立以前に「ミツライム=エジプト」、「パロ=ファラオ」であったとはどうも怪しいのである。アラブ語でエジプトをミツライムと呼ぶのは『旧約聖書をそのように解釈した』からであって、もともとそう呼ばれていた訳ではない
旧約聖書でヨセフやモーセが活躍した舞台がピラミッドのあるエジプトではなく、サリービーの主張するようにミツライムがアラビア半島西南部にあるミスラーマであったとするならば、世界の歴史観は大きく変わってしまうだろう。


検証: 聖書アラビア起源説 その32  2つのエチオピア 
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31040192.html
ヘロドトス以前の古代オリエント史(紀元前10世紀頃~紀元前5世紀頃)については、碑文の解読による考古学的成果に頼るほか、実際は旧約聖書に記述に依存しているケースが大きい。
これまでカマール・サリービー著の『聖書アラビア起源説』を見てきたが、確かにアラビア半島にもユダヤ教が信仰された跡が多く残されている。考古学的に証明できるのは、西暦4世紀のものと思われるユダヤ人の碑文とアラビア半島の各地で発見されたシナゴーグが最古のものとなっている

更に、4世紀半アラビア半島西部に栄えたヒムヤル王国最後の王は、確実にユダヤ教徒であったことが分かっており、一説では彼の前任者もユダヤ教であったとされている。
第二次世界大戦後に行われたイエメン・ユダヤ人をイスラエルに移住させると言う「マジックカーペット作戦」を見ても分かるように、古代より(一説ではソロモン時代より)この地域にはユダヤ人が暮らしていたとされている。少なくとも一神教の伝統がアラビア半島南西部に古くから存在していたのは間違いない

一方、同じような文化をもつ紅海を挟んだ対岸のアスクム王国(エチオピア)は、キリスト教に改宗した後、ヒムヤル王国を滅ぼすことになる。
一方、紀元前4世紀頃からエチオピアに存在していたとされるアスクム王国もキリスト教に改宗する以前はユダヤ教であったと言われている。アクスム王国の前身であるダモト王国は、紀元前8世紀頃アラビア半島南西部(イエメン)に興ったサバ王国と密接な関係があった。
イエメン・ユダヤ人と同様に、エチオピアにも『ベタ・イスラエル』と呼ばれるエチオピア・ユダヤ人が大勢いた。この事実を世界的に有名にしたのは、イスラエル政府が1984年に行ったモーゼ作戦と1991年に行ったソロモン作戦だ。これは、内戦や飢餓で苦しむベタ・イスラエルを救出することが名目だが、迫害に苦しむイエメン・ユダヤ人をイスラエルに移住させるために行った「マジック・カーペット作戦」の復活と言ってもいいだろう。
この紅海を挟んだ地域間の歴史は必見だ。
紀元前10世紀から5世紀頃までのアラビア半島南西部とアフリカ東岸地域では、海上交易だけでなく、僕達が考える以上に人的交流なども盛んだったに違いない。ギリシア神話世界がアナトリア半島西部も包括しているように、ひょっとしたら、イスラエル人やミツラムの隣人とされたクシびとの文化圏もアフリカに限定するものではなく、紅海をはさみアラビア半島南西部をも包括した概念であったかもしれない・・・。
(…)
ヘロドトスは東と西に住むエチオピア人がいると考えていた
ホメーロスもエチオピア人が世界に二手(東西)に分かれて住んでいたと考えていた
シバ女王の国にはエチオピア説とイエメン説がある
乳香や没薬といった宗教的儀式に欠かせないものがエチオピアとイエメン紅海沿岸にある
エチオピア語と南アラビア語は同じ南方セム語でとても近い関係がある
Y染色体ハプログループJ1の特徴がエチオピアでも南アラビアでも見られる
人類の移動もシナイ半島ではなくエチオピアからイエメンへ渡った有力な説がある
紀元前からユダヤ人がエチオピアにもイエメンにもいた。”
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