読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

09 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 11

永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』を再読したのでメモ。 

私は、理詰めで前提を疑って粘り強く検証する、哲学を大変重視しています。嘘を見抜くには、論理的矛盾を見抜くのが早いですからね。

哲学は支配層が重視している分野です。
プラトン哲学は、キリスト教とともに西洋二大思想です。
なので、支配層の思想=プラトン思想
の知識を↓

プラトンは優生学と職人軽視(肉体労働しない者が一番偉い)と理性崇拝と知性主義(馬鹿は人間ではない)と
偽りの公平感を与える儀式(選挙など
)の基盤。
マギの弟子のプラトンの『国家』は『マギ』の一つ目フリギア帽子モガメット学長の演説の元ネタ。プラトン『国家』 藤沢令夫訳、岩波書店〈岩波文庫〉
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-43.html

で紹介しました。

しかしそれだと、思考訓練にはならないので、以下の記事を書きました。

永井均の著作三冊:『子どものための哲学対話』・『翔太と猫のインサイトの夏休み』・『私・今・そして神』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-61.html

永井均『マンガは哲学する』。藤子・F・不二雄『藤子・F・不二雄[異色短編集]1 ミノタウロスの皿』・〈異色短編集〉2『気楽に殺ろうよ』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-62.html

翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫)翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫)
(2007/08)
永井 均

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今回は、永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』についての読書メモです。

読み直して気づいたのですが、インサイトは黒猫ですよ。
この表紙だと白猫ですね。

“ここにいる生き物が人間じゃなくて猫で、毛の色が黒くて、言葉をしゃべって、哲学者だ……から、『それだから』そいつがぼくなんじゃなくて、そいつがぼくだから、ぼくは猫で黒くて言葉をしゃべる哲学者……なんだ。”p.77-78
『』は原文にはない。原文では『』内の文字一つ一つに傍点。

・「夢は見るたびに違う話。何回か続きものの夢を見るかもしれないけど、ずっと続いている夢なんて考えられない。」
「それなら、もしずっと続いている夢なら現実と同じということになるのか。きみが眠るたびに同じ続きものの夢を見ていて、その夢の世界では、きみは地球防衛軍司令官だったとしたら、平凡な学生のきみの生活なんかより、夢の中のそっちの人生の方がよっぽど強いリアリティ(現実性)を持ってくるんじゃないかな。地球防衛軍司令官が毎晩眠ると、きみが朝起きるところから始まる続きものの夢を見るのかもしれない。どっちがほんとうだか区別がつかないんじゃないかなあ。
つまり、現実とは続きものの夢ってことになるんじゃないかなあ
。」
「だとしたら、現実のぼくたちの記憶力がすごく弱くて、毎日、前日のことをほとんど忘れてしまうんだけど、続きものの夢の中のぼくは記憶力がよくて、子供の頃のことまで覚えているとしら、夢の方が現実になってしまうっていうことになるよ。」
「そうさ。だから、自分が死ぬまでずっと繋がっている連続ドラマのことをぼくらは『現実』と呼んでいるだけなんだよ。」

・“「もしね、もしもだよ、かりに立花由美が生まれてから一度も怒ったことがないとするよ、そしてね、急にいま死んじゃうとするんだ。」
「死んじゃうの!?」
「もしも、だよ。そういう場合、彼女がほんとうは怒りっぽかったっていうことがありうると思う?」
「それ、どういうこと?」
「別に立花由美じゃなくたっていいんだけどさ、ある人が一生怒ったことがなかったんだけど、それはたまたま不当な目にあうとか、そういう怒らなきゃならない状況に出くわさなかっただけで、ほんとうは生涯ずっと怒りっぽい人だったってことがありうるか、っていう問題なんだ。」”p.21

彼女はほんとうは怒りっぽいとか、この部屋は見られていないときは存在しないとか、ぼくたちが培養器の中の脳だとか、そういうことが主張できるためには、ぼくたちが実際に手に入れられるような根拠がなくちゃいけない。

・「生前には認められなかったけど、その人の死後で実はすごく重要な仕事をしていたってことが分かることがある(みなされる、そう評価される)。
そういうことがあるんなら、死んでからもずっと永遠に認められなくたって実はほんとうは凄く重要な仕事をしていたって人がいたっていいと思わない?」
「あまりにも天才的すぎて百年、千年たってもその人の仕事の意味が誰にもわからないってことはありうると思うよ。そのうち人類が死滅しちゃえば、その人は結局、なんでもなかったことになっちゃうけど……」
「結局何でもなかったってことに(原文だと「に」が抜けている。脱字)なるってことは、結局何でもなかったってことなのさ。その人は『ほんとうは』天才だったって主張に、意味を与えることはできないんだよ
。」

誰にも認められなくても確かめられなくてもほんとうは……」という立場は、
実在論といってとても由緒正しい立場。
英語だとリアリズム(realism)といい、「ほんとうは」(really)からきているから
「ほんとうは主義」と訳した方がいいかもしれない。
ぼくらが絶対に知ることができなくてもほんとうはそうだってことがある
、って考えるのが実在論。

誰にも認められなくても確かめられないなら結局何でもなかったってことなので、『ほんとうは』天才だったって主張に、意味を与えることはできない」
という立場が、
反実在論とか非実在論
とか呼ばれる立場。
哲学に関する様々な対立の根底にはたいていこの実在論と反実在論の対立がある。

・今見えているものが実在しているかどうかは疑えるが、見ていると「思っている」ことは疑えない。主観体験の見え=私は見えていると思っている、は疑えない。
触れている「と感じている」、ということも疑えない


・幻覚なんてものはめったにない。だから見えたらもうあるって思い込んでいい。もっと強く言えば、ものを見るってことは、見た通りにあるって思い込むこと。
だから、見えたのにそれがあるって思わないで、ないかもしれないなんて言う人がいたら、そんな人の方がそう言うための根拠を示す必要があるんだよ。特に根拠もないのに、見えたのにないかもしれないって言う人は、もうそれだけで懐疑論者だよ。
懐疑論者は用心深いように見えるけど、実はそうじゃなくて、けんかっぱやいんだよ
。おまえはそう決めてかかってるけど根拠がないじゃないかって、すぐに食ってかかってくるんだ。
そう言われてみると、こっちもよく考えたた(「た」が一つ多い。言っておきますが、“”でくくっていない箇所は原文とまったく同じではありません)うえで決めたわけでもないから、困っちゃうわけさ。でも実はものごとにはそれぞれものによって勝手に決め込んでいい方向、決めこまなくちゃいけない方向っていうのがあるのさ。それを疑うことに意味が出て来るのは、よほど特別の事情がある場合だけ。
いったん売られたけんかを買っちゃったら何か根拠づけが必要だから懐疑論者の勝ちははっきりしているんだけど、そもそも売られたけんかは買っちゃいけないんだよ。挑戦をうけつけない限りは、こっちの勝ちが決まってる。懐疑論者がけんかを売ってきたらね、おまえのその挑戦自体がまとはずれなんだ、と言い続ければいいのさ。そうすれば勝負はこちらの勝ち。

“「ぼくはね、十五歳以上の人間にはほんとうに哲学をすることは不可能だって思っているんだ。」p.53


・客観的物理的事実だけでは色も音も匂いも味も生み出せない。
色を光の波動と同一視できない。
音を空気の振動と同一視できない。
何かを食べて、脳に物理的変化が生じても味が生じなかったとする。しかし味が生じなくても物理化学的には問題ない。
物理的変化がなぜ味という主観的な現象を作り出すのか、それは永遠に解明されないだろう。ただそうであるっていう事実が認められるだけだろう。痛み、視覚、聴覚、記憶、思考、想像など、身体内の神経や脳の物理的プロセスによって引き起こされると考える限り、なんだってそうだ。
精神現象はまるで幽霊みたいなものだ。
物理的な観点から見れば奇跡みたいなもので、物理理的過程から全く独立したもの。
今そういう意識現象を生み出している物理的な過程が、ある日突然それをやめても、ある意味では何も変わらないのではないのか。
自然現象としての人間は物理的な因果に従って、生き続け、芸術などを生みだし続けるのではないか

条件等色(メタメリズム)という現象がある。
波長が580ナノメートルのスペクトル光は黄色に見える。
黄緑に見える540ナノメートルの光と、黄赤に見える670ナノメートルの光を合わせても黄色に見える。
それ以外の組み合わせでも黄色に見える組み合わせはいくらでもある。
客観的・物理的には違っていても、主観的・知覚的には同じ色に見える現象を条件等色(メタメリズム)という。

他人は自分と会っていない時は、本当にいて、本当に自分の生活をしているのだろうか。楽屋で休んでいるんじゃないか。これはなぜか哲学の伝統に登場したことが無い。

・ぼくたちがこころや意識のないロボットをぼくたちの仲間に入れてぼくたち扱いしさえすればそのとたんにロボットにも心や意識が生じる。人間もいくら解剖しても心も意識も見つからない。ぼくたちは人間と、それに似たものしか心あるものとみなさない


・性質がまったく同じものが二つありうるのは、時間と空間ってものがあるからなんだよ。時間と空間が無い可能世界ってものを想定するとね、そこでは性質がまったく同じものは個数としても同じもの、つまり一個のものになっちゃうんだよ。つまり全性質が同じであるってことと、個数が一個であるってことが、区別できなくなっちゃうんだ。
そもそも、そういう世界では、一個、二個って数えられるような物ってものが考えられなくなっちゃうからね。二つのボールの区別は、時空的な連続性が重要


・バークリー「何かが存在するとは知覚されているってことにほかならない」
ヒューム「因果の概念は習慣によって作られた我々の信念でしかない」
因果関係そのものは想定されるだけで見えない。

・夢=心の中にあって外界に存在しないもの


・カントは、
ぼくらのものごとのとらえ方にはね、習慣によって作られた信念なんかじゃなくて、それ以外ではありえないような型みたいなものがあるって考えたんだ。そういう、ものごとのとらえ方の基本的な枠組みみたいなのをカテゴリーって言うんだけどね。日本語で言えば範疇だな。因果性のほか、まえから使っている『ものとその性質』なんていうとらえ方もカテゴリーなんだ。ぼくらは、ものごとをとらえるとき、すでに必ずカテゴリーを使ってるんだ
カテゴリーのくわしい話はまたにするとして、とにかく、さまざまな感覚的経験にカテゴリーが適用されることによって、はじめて、それが【客観的な現実】として認められることになるんだよ。カントは『視霊者の夢』って変な本を書いてるんだけど、これはね、スウェーデンボルグっていう当時流行の視霊者、つまり霊を見たと称するやつなんだけど、まあ霊媒みたいなもんだな、そいつの言ってることがほんとうかってことを考えた本なんだけどね。結論を言うとね、どんなにありありと見えたとしても、それはありえないこと、つまり『夢』にすぎないんだ。つまり、客観的な実在と対応してないんだよ。なぜかっていえば、要するに因果性のようなカテゴリーが適用されないからなんだな。まあ、カントに言わせれば、猫と話をするなんてことも、ありえないことだ、だからやっぱり『夢』でしかないってことになるかもね。
カテゴリーが適用されることによって、対象は客観的なものになるって言ったけど、そこには統覚っていうはたらきが必要なんだ。統覚っていうのはね、自分が知覚したり経験したりするさまざまなものごとを、カテゴリーに従って秩序づけるはたらきだ〔原文ママ〕なんだけど、それをするのが自我のはたらきなんだ。カントはね、デカルトの『私は考える』っていうあの原理を統覚作用として読み変えたんだ。カントによれば、『考える』っていうことはカテゴリーを適用するってことだからね。
カテゴリーがぼくらがものごとを理解する枠組みだとすると、時間空間はぼくらがものごとを感覚する枠組
みなんだけど、その話はまたにしよう。とにかく、カントのこういう考え方はね、バークリーたちみたいに、現実を夢だって言って心の中で起こる夢にしちゃうんじゃなくてね、逆に、時間空間とカテゴリーで、まず心の中で起こる夢みたいなものを考えておいて、客観的な現実全体が実はその中にあら【ねばならない】んだって言う、ってやり方なんだよ。”p.105-107
※〔原文ママ〕も【】も原文にはなく、【】内一文字一文字に傍点。

国家神道=新キリスト教
=平田篤胤思想+現人神思想+ #スウェーデンボルグ 思想。
スウェーデンの貴族スウェーデンボルグの思想が神智学、スピリチュアル、ニューエイジ、宇宙人説、出口王仁三郎の霊界物語、大本教系(主要政党を支配)、大本教系の日月神示の元ネタです

平塚らいてう(姉が #大本教 信者)が寄稿記事で『霊界物語』と #スウェーデンボルグ の関係を指摘しています。
大本教系の日月神示は和風スウェーデンボルグ

丸に十字を掲げる大本教の出口王仁三郎の #日ユ同祖論デマ


1766年 - 『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』
Träume eines Geistersehers, erläutert durch Träume der Metaphysik

“1766年、『視霊者の夢』を出版[注釈 3][6]。カントはエマヌエル・スヴェーデンボリについてこう述べている[7]。
「別の世界とは別の場所ではなく、別種の直感にすぎないのである。-(中略)-別の世界についての以上の見解は論証することはできないが、理性の必然的な仮説である。スウェーデンボルクの考え方はこの点において非常に崇高なものである。-(中略)-スウェーデンボルクが主張したように、私は、〔身体から〕分離した心と、私の心の共同体を、すでにこの世界で、ある程度は直感することはできるのであろうか。-(中略)-。私はこの世界と別の世界を同時に往することはできない。-(中略)-。来世についての予見はわれわれに鎖されている。」

イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88#.E7.94.9F.E6.B6.AF

“スヴェーデンボリへの反応は当時の知識人の中にも散見され、例えば哲学者イマヌエル・カントは『視霊者の夢』中で彼について多数の批判を試みている。一方で、限定的に「スヴェーデンボリの考え方はこの点において崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である」(K・ ペーリツ編『カントの形而上学講義』から)と評価も下している。”
エマーヌエル・スヴェーデンボーリ(Emanuel Swedenborg, 1688年1月29日 - 1772年3月29日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AA

英知界:理性による思考・観念によって捉えられるもの
現象界:感覚的に経験、物理的に認識できるもの
人間はこの二つの世界にまたがって存在している。

森の中の詩人‏@morinosijin2011年5月31日
「また前者が感性の形式(空間・時間)によって成り立つ世界であることから、『感性界』と呼ばれるのに対して、後者は、それらの形式から解放されている、あるいは超えているという意味で、『英知界』とも呼ばれる。」(石川文康;カント入門)(補足:現象→現象体・感性界、物自体→可想体・英知界)

山田大輔‏@YA_DA1月4日
Wikipediaのカント「視霊者の夢」の解説が腑に落ちん。 「ウソかホントかわからんが、少なくてもこの世のことではないからどうでもいいんじゃねえの? 重要なのは、この世の中のことだろ?」って結論だと思うんだが。

11uk3w‏@11uk3w9月28日
カントもまた『視霊者の夢』のなかで私達の精神や魂が脳味噌にのみ宿る、というのはおおきな誤解である、現に頭部の一部を切除されても問題なく悟性を働かしている人間がいるのだから(逆に臓器の一部を切除して人格が変わった例も存在する)脳への信仰を改めるべきではないかということを書いていた。

京都大学哲学研究会‏@kyototekken7月14日
あれ、でも理性の限界を超えてることについてはわからないって純粋理性批判のオチと同じじゃね?この思想に哲学的な装いと無駄な文章力とを付け足すことで視霊者の夢ができたように、それをもっと大掛かりにしたらできたのが純理なんじゃね?みたいな話を例会後した


カントの言う『英知界』『現象界』の意味
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1385377388?fr=pc_tw_share_q

・カントは、
デカルトやバークリーの立場を経験的観念論(個々の知覚や経験に関する観念論)と呼び、
勘と自身の立場を超越論的観念論(経験一般の成り立ちと仕組みに関する観念論)と呼んだ。

超越的…我々が経験できる世界を超えてその外にある

超越論的…我々が経験できる世界を超えて、あたかもその外に立ったかのような立場から、我々が経験できる世界の成り立ちと仕組みを調べる

超越的が宗教的で

超越論的が哲学

観念論…現実は夢だ、心の中にあるという立場

カントによれば、この部屋や本棚は、知覚されるから存在するんじゃなくて、ぼくらが見ていないときにも、誰も見ていないときにも、ちゃんと時間空間の中でカテゴリーに従って「客観的に」実在しているんだよ。でもそれはなぜかっていえばそれはぼくらがそれれらをそのようにとらえているからなんだ。こういうのを超越論的構成って言うんだけどね。
カントの凄いところは、「ほんとうの意味で存在するといえるものは何か」っていう問題の立て方自体を否定したところだな。この問題の立て方はね、哲学が始まって以来、デカルト、バークリー、ヒュームも受け入れていたんだ。
カントは、問いそのものを置き換えて、「そもそも真理とは何か」っていうことを問題にしたんだ。つまりね、「ほんとうの意味で存在するといえるものは何か」
じゃなくて、
本当の意味で存在するといえるものが、そういえる根拠は何か」を問題にしたんだ

・相手がこっちの観点から見てたいていは真理を語っているって前提することが、相手の言っていることの意味が理解できる為の前提。そうやって意味の理解が成立した後で初めて考えの違いとか、始めの誤解とかがわかってくる。
全然違う言語を喋っている人達も、「ゴミは糞尿は綺麗だけど花や夕焼けは汚い」って意味のことを言うことは「ありえない」ってこと。
それが意味理解の前提だから、ひょっとしたらほんとうはそう思っているってことさえもない。相手が自分と同じ信念を持ち、自分が真実だとみなすものを真実だとみなす、と前提するんでなくちゃ、意味の理解は始まらない。
相手の間違いを指摘したり、相手の意見に反対したりできる為にも、それが前提になる。
相手の言っていることがほとんど正しくて理にかなっているって前提する態度は、チャリティ原則と呼ばれている。この原則はひょっとしたら間違っているかもしれないような原則ではなく。そうでしかありえない原理。
例えば、動物の言語の場合もそう。アリやハチが僕らの基準で合理的に行動しているって解釈する場合にしか、彼らが言語を持っているとか、何か考えているとか、みなすことはできない。
だから、言葉は持っていて、ぼくらにその意味もわかるけど、でもぼくらとはまったく違う考え方をしている者、なんて「いない」んだ!
いるかもしれないけどぼくらにはわからない、なんてことに意味が与えられない


古代人が地球は平らだと信じていた、とぼくらは言うね? でも、それはほんとうかな? 古代人とぼくらでは、むしろ言葉の意味の方が違うって考えられないかな? 彼らが平らだと信じていたとぼくらが言っている地球って、ほんとうにぼくらの言ってるこの地球なのかな? ぼくらは、地球は太陽系の一部で、太陽系は大きな恒星のまわりを回る惑星の集まりだと信じているね。もしある人がね、地球に関して、こういうことをひとつも信じていないとしたら、その人とぼくらの間では、地球というひとつの同じものについて、それが丸いとか平らだとかという点で信念が食い違っているってことすら言えないんじゃないかなあ?”p.139

英語で地球はアース=地面。自分の足元にあるのが地面で、どこが「下」かを教えてくれるもの

”8 地球は丸くない!

ぼく:地球が丸いってことも、太陽のまわりをまわっているってことも、『発明された』の? 
ペネトレ:そうさ。でも、地球は丸いのに、どうした下のほうにいる人が落ちちゃわないんだと思う?
ぼく:そりゃあ、引力があるからじゃん!
ペネトレ:でも、引力って引っぱる力だろ? そんなものがあるんなら、もっと地面に引っぱられているような感じがするはずじゃないかな? どうして引っぱられて、はりついているような感じがしないんだろうね?
ぼく:たしかに、そんな感じはしないけど……。
ペネトレ:だから、ほんとうは、ぼくらは引っぱられてなんかいないんじゃないかな? 『引っぱられるっていうのは、この地面の上にいて、ひとに腕を引っぱられたりするときの、あの感じについてだけ、言えることなんじゃないかな?』
ぼく:じゃあ、引力はないって言うの?
ペネトレ:引力がないだけじゃなくて、地球が丸いっていうのも、ちょっとあやしいな。
ぼく:どうしてさ!?
ペネトレ:丸いっていうのは、この地面の上にある、スイカとかボールとかについてだけ、言えることなんじゃないかな?この地面が球体であるって考えたとたんに、ぼくらは地球というものを、この地面のことじゃなくて、この地面の上のほうにある巨大なボールのようなものだと考えてしまっているんじゃないかな?その証拠に、地球は丸いのに下のほうにいる人が落ちないのは引力があるからだ、なんて考えてしまうだろう
ぼく:どこがいけないのさ?
ペネトレ:地球には「下のほう」なんてないはずだからだよ。でも、ぼくらは上下のある絵しか描けない。できるって言うんなら、上下のない地球の絵を描いてごらんよ。世界地図だって、地球儀だって、星座早見盤だって、必ず上下がある。それはつまり、地面の上に乗っているってことだよ。だから、ぼくらが住んでいるとされる地球という名前の惑星をふくめて、ほんとうは、すべてのものが、この地面の上にあるんじゃないかな?
ぼく:ペネトレ、それ本気で言ってるの?!!!”p.100‐102
※『』内は原典では太字

物理法則という客観的だとみなされている(この法則の観測は主観的になされる)のですが、結局のところ、人間の肉体的制約や生活様式の前提に縛られます
肉体的制約とは、左右対称、上下非対称などで、
生活様式の前提とは、重力下で生活(頭は上、足は下)などです。
地球上にいる時、われわれにとっての地球とは地面のことであり、そこから逃れられないのです。
仮に、人間の体が完全な球体だとすれば、文字は左から右へだとか、その逆だとか、縦書きだとか、横書きだとか、という概念が生まれるか?
などなどさまざまな思考実験ができますな。

森博嗣『笑わない数学者MATHEMATICAL GOODBYE』文庫版
にある鏡に映ると左右は入れ替わるが、上下や前後は逆にならない理由↓

「鏡に映った像は、左右が反対になりますね。どうして、上下や前後は逆にならないで、左右だけ入れ替わるのか、刑事さん、答えられますか?」(…)
定義の問題です。左右だけが、定義が絶対的でないからです。上下の定義は空と地面、あるいは、人間なら頭と足で定義されます。前後も、顔と背中で定義できます。では、左右はどうでしょう?左右の定義は、上下と前後が定まったときに初めて決まるのです。人間の体型が左右対称ですし、歩いたりするときも横には動きません。上下と前後の定義が独立していて、絶対的なものであるのに対して、左と右の定義は相対的です。この定義のために、鏡で左と右が入れ替わるんですよ
「待って下さい(…)鏡の映像に……、そんな、人間の考えた定義が関係するのですか?あれは物理現象であって、人間の言葉には関係がないと思いますが……」
「いいえ、我々は、ものを定義して、それを基準に観察するんですよ
(…)僕たちに、顔がなかったとしましょう。そのかわりに、片手だけが大きくて、バルタン星人のようにハサミがついているとします……。この場合……、ハサミのある大きな手が、右と定義される。顔がないから、前後の定義が相対的なものになります。つまり、上下と左右が定まって、初めて前後が決まることになります。この顔なしバルタン星人が、鏡を見たら、前後が逆になりますよ。良いですか?ハサミの方の片手を挙げて、鏡を見てみましょう。鏡の中の自分も、やっぱりハサミの手を挙げているでしょう?つまり、左右は入れ替わっていない」
(…)
「それでは……、こういう説明ではどうでしょう。右と前、左と後ろ、この言葉を入れ替えて使う国があったとしましょう。その国では、右という言葉は前のことです。左という言葉は後ろのことです。顔がある方が右、背中が左です。さて、この国では、鏡を見て、左右が入れ替わるでしょうか?」“p.433‐435”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-61.html)


・言葉にほんとうの意味ってものがあるとすれば、それは実際に言葉を使っていることの中に「示されている」だけ。そこに示されているものを自分が語るなんてできないのは当たり前。言葉の意味が分かるとはその言葉が実際にちゃんと使えるってことだ。知覚も行為もそう。何かが見えるとは、それが見えてる人じゃなきゃできない仕事が実際にできるってこと。そのことの内に示されること。自分には何が見えているかを自覚しているってことじゃないんだ。ましてそれが口で言えるってことじゃないんだよ。
行為、何かができるってことは、まさにそれがやれるってことで、自分が何をどうやってしているかが説明できるってことじゃないんだ

・人間は規則を自覚する可能性とともに規則を身につける。はっきりと自覚していなくても、人間はそのときひとつの空間を身につける。
何かを理解するってことは、それが何の否定なのか、何でないことなのか、を理解することを含むんだ。正直な人っていうのはね、嘘をつくと身ぶりで欺くってことがどういうことかを知ってなくちゃ駄目なんだよ。つまり、正直-不正直の空間を身につけたうえで、そのうえで、あえて正直の方を選ぶ人が正直な人なんだ。不正直を選ぼうと思えばできたからこそ正直者。
だから、犬は嘘をつかないし身ぶりで欺きもしないからといって、犬は正直者だなんていえない。自分がなにをしていないのかを知らないから。もちろん、何をしているのかも知らない。
(そう考えると素直で正直な幼児はほとんどいませんね


どんなことでも自覚したがるのが哲学の本質

・「人間は動物ではない。
犬は人間である。
それゆえ、犬は動物ではない。」

「魚は水中を泳ぐ。
マグロは水中を泳ぐ。
それゆえ、マグロは魚である。」

前者が論理的に正しい推論で、後者は非論理的な論理的に正しくない推論。

前者を形式化すると
すべてのBはCではない。
すべてのAはBである。
それゆえ、すべてのAはCではない。」
明らかに論理的に正しい推論。

後者は
「すべてのBはCである。
すべてのAはCである。
それゆえ、すべてのAはBである。」
二つの前提ではAとBの関係については何も言っていないんだから、そこからAとBとの関係について推論なんてできるわけがない。明らかに論理的に間違った推論。

論理的な正しさは、前提や結論の事実的な正しさとは関係ないんだ。二つの前提が「もし」正しい「としたら」、結論も「どうしても」正しく「なくちゃいけない」っていえるかどうか、これがポイント。最初の方の推論は前提も結論も事実的には間違っているけど、もし二つの前提が正しかったら、結論は「どうしたって」正しくなっちゃうから正しい推論。
内容的には間違っていてもいい。論理的な道筋の正しさは、個々の内容が現実と合っているかどうかとは関係ない。
ある議論が正しいかどうかを問われると前提や結論が現実と一致しているって意味で正しいかどうかをついつい考えたくなっちゃうね。でもそういうことは論理的推論そのものの正しさとは関係ない。今でも科学者や評論家の中にもこのことが良く分かってない人が結構いるから注意した方がいいよ


論理とは事実的な正しさとは無関係に、前提が正しければそうなってしまう構造、手続きであって示されるしかない規則なのでしょうね。論理的な文章とか論理的な思考が何を教えるには、実際にその文章や思考を示さないといけないから。)

・哲学者クリプキがウィトゲンシュタインのパラドックスを考えた。
四桁までの足し算ができるようになった子供に、ある日、先生が五桁の足し算をやらせたら、子供が答えは1だと言う。先生がなぜかときくと、その子供は「だって、これは五桁だもん。答えは1に決まっているよ」って答える。つまり、この生徒はこれまで教えられた足し算からそういう規則を自分で発見したってこと。
もう一つ例をあげると、主語が第三人称単数のときには動詞の語尾にsをつけるって規則を学んで、その規則を間違いなく適用できるようになった
学生が、主語に「Akira」って日本人の名前が出てきた途端に、動詞の語尾にssをつけた。理由を尋ねられると、主語がAkiraだからssに決まっていると答える。
問題は、生徒が間違っていると言える根拠は先生の側にはないってこと。生徒は、教えられた規則を、論理的な可能性としてはどんなふうにでも解釈することができる。そしてどんな風に解釈してもそれがその規則に従っていることなんだっていう規則解釈が成り立つというパラドックス。

その生徒は怪しい。だってさ、もしその生徒がほんとに規則をそう解釈したのなら、これは五桁だからとか主語がAkiraだからとか「言う」はずないじゃん。自分がなぜそういうふうに規則を把握しちゃったのか自分でもわからないはずだからね。理由を聞かれても「どうしてって、それ以外にどうしようもないじゃん」とでも言うほかないはずなんだ。理由が言えた時点で、その生徒はほんとうは自分が「特別」のことをしたってことを知っているんだよ。五桁のときもふつうに足し算をやる可能性や、主語がAkiraのときもふつうにsをつける可能性をちゃんと知ったうえで、その可能性の空間の中で、あえて別の可能性を選んだんだよ。つまりふつうの規則理解の仕方をちゃんと知っているんだよ。ぼく見るところではね、その生徒は悪質だよ。そいつはほんとうは先生をからかっているだけなんだよ

どうしてってそれ以外にどうしようもないじゃん、というほかないような言語や規則の捉え方のことをウィトゲンシュタインは言語ゲームと呼んだ。
すべての人が「赤」で同じ色を意味しているとは言えないとか、自分が痛いとよんでいるものは他の人ならくすぐったいと呼ぶ感覚と同じかもしれないとか、そういうことに深く心を動かされた後で、その後ではじめて言語ゲームっていう考え方から見て、そういう疑問には実は意味が無いんだってことを知って、もう一度、今度はそのあたりまえのことの方に深く感動しなくちゃ駄目なんだ。最初からそんなことはあたりまえだと思っている人には、言語ゲームっていう考え方がどんなに素晴らしい、すごいものなのか、結局のところは、わからないと思うな

"哲学ってみんなそうなんだよ。つまり、結論はそれだけ取り出せば誰でも知っているあたりまえのことを言っているだけなんだよ。でも、いったん問題を感じた人にとっては、そのあたりまえのことのとらえ直し方が、それこそが輝いて見えるんだよ。哲学はね、いつでもある新しい空間を描いて見せるだけなんだ。ある問題に関して、これまでとは違う空間を設定するんだ。その空間が設定されたことで、問題の意味がこれまでとは違う、新しい相貌を見せたなら、そこで哲学の仕事は終わるんだよ。結局、選択するのは個々人だからね。哲学が人々に受け入れられるっていうのはね、みんながその主張に賛成するようになることじゃないんだよ。むしろね、その主張に反対する人でさえも、その哲学が設定した空間の中でしか反対できないようになるってことなんだ。つまり、対立が起こる土俵自体を作り変えてしまうことだね。
翔太、もうきみには教えるまでもないと思うけど、哲学は思想じゃないよ。哲学のいちばん哲学的な部分は、主張じゃないからね。何かが主張されていても、そこで主張されていることではなくて、そういう主張が意味を持つとき前提されることになる空間こそが哲学なんだ。そこを混同したら、せっかく哲学をやっても、そこから何も学べないんだ。"p.167

自由って観念の源泉は「不自由がない」ってことにしかない

・オリンピック選手は、オリンピックに出たいって欲望に負けてついつい練習しちゃう意志の弱い人だともいえる。
人間は欲望のおもむくままに自然に行動していると、ついつい善いことをしちゃいがちだから、意志の力でその自然の傾向を抑えて、悪いことができるようにしないといけない。
意志と欲望に善と悪を割り振るのは根拠のない偏見


意志は意志したことの実現によってしか満たされないんだよ。だから、意志を持った人はそれを実現しようとせざるをえないんだ。それが意志を持つってことの意味だからね。それに対してね、意志と結びついていない欲望は、どんな形で満たされるか、当人にも予測できないんだ。~が食べたいって欲望は~を食べようって意志と結びつかないかぎり、たぶん~を食べることによって満たされるだろうっていえるだけなんだ。
それに対してね、~を食べようという意志、って表現される意志はね、~を食べる行為って記述される行為によってしか満たされないぞ!っていう、自分に対する宣言
みたいなもんだからね。そう宣言しちゃった以上は、もうそれ以外のものによって満たされちゃ「いけない」んだ。意志はね、だから、精神状態じゃないんだよ。それに対して、欲望は精神的・肉体的な一つの状態にすぎないから、欲望を持った人は、それを実現しようとする傾向性はあっても、必然性はないのさ。
意志は心の状態ではない。ぼくらは、自分の欲望を誤認することはあっても、意志を誤認することはない。


・“ある時点で時間が創られるって話は、ぼくらには理解不可能なんだよ。だって、ある時点で創られたんなら、それよりまえはどうなってたんだ、ってことになるからね。ぼくらの時間概念は、そういう時間の創造とか、時間の開始って問題が考えられるようにはできてない、って言ってもいいな。何かが創られたり始まったりするのは、すべて時間の中でのことなんだ。」
「時間が創られたとすると、それは時間内のある時点で、じゃなくて、なんて言ったらいいのか、時間の外からってことになるんじゃない?」
「なるかもしれないけど、そんなことイメージできる? 時間の外から時間を創るなんて。そもそも時間が始まるってこと自体が、ぼくらには理解しようがない観念じゃないか? ぼくらが理解してる『始まる』とか『創られる』って概念はそもそも時間的な性質を持った概念だからね。それを時間そのものに適用しちゃうことなんかできないのさ。」
「空間も同じかな? 空間を空間の外から創るっていうのはどうかな?」
「そもそもね、空間が創られるまえの状態なんて想像できるかい? 時間は流れているんだけど、空間は存在しない世界なんて、そもそも考えられないだろう
?」”p.185-186

空間が無い状態を、何かカラッポなイメージをしても、それは結局は空間を想定してしまっている。
空間はどこまで広がっているのかとか、時間はどこから始まってどこまで続いているのか、なんて問いには意味が無い。空間を空間現象だとみなしたり、時間を時間的現象だとみなしてしまうのは錯覚。ぼくらは時間と空間の外に出て対象として眺めることはできない。
だからカントは時間空間はカテゴリーと並ぶ主観の側の形式だと言った。

じゃあ、時間が急に止まっちゃうとか、逆流しちゃうとか、それからタイムトラベルなんてことも絶対不可能ってことになるね。
ぼくらが考えることもできないことは、起こることもありえないさ。要するにね、考えられるかぎりのどんなにへんてこなことが起こったって、ぼくらはそれが時間が止まったなんてみなさないんだからね。だから時間は止まらないのさ。
もうきみは「でもぼくらにはわからなくても、ひょっとしたら、いつか時間が止まったり終わったりすることがありうるかもしれない」なんてことは言わないだろうね。そういうことは最も根本的な意味で「ありえない」ことなんだよ。ぼくらはぼくらの知っているこの時間空間しか知ることはできないんだ。だから、そういう意味で、タイムマシンに乗って過去へ戻るなんてことはありえないさ。もしぼくらが「これから」タイムマシンに乗ってどこかへ行くなら、行きついた世界がどんなにむかしの世界であろうと、それは出発時から見て未来の出来事なんだから。どういうわけか未来の中身が過去と瓜二つだったってだけのことさ。「いまから」ぼくらが過去へ戻るなんてことは論理的にありえないことなんだ。
(百年前に自分が行ったのか、周囲が百年前と同じ状態に変化したのか、区別はつきません)

ある物差しの長さに疑問を持ってその正確な長さを知りたいと思ったら別の物差しが必要。もし物差しが世界に一本しかなかったら、その物差しの正確な長さを計ろうなんて無理な企て。他の全ての者がその物差しで測られるだけで満足しなくちゃならないんじゃないか。
(時間や空間も、たった一つの物差
し)

死は体験じゃないんだよ。痛みや悲しみや欲望のように、他人や自分が持つものじゃないんだ。だから死んだ人だって死を体験してはいないさ。臨死体験はありえても、死の体験はありえないんだ。体験する主体そのものが消滅するってことなんだから、まさにその体験がありえないってことこそが、死ってものの根底的な意味なんだよ。
自分が消滅した状態を自分が「思い描く」っていうことは本質的に不可能。
でも自分の消滅するってことの意味を自分が「考える」ことはできる

死ぬのが嫌なのは、死んでるって状態が嫌なんじゃなくて、もう生きられないってことが嫌なんだよ。だから長生きはいいことだと思うけど。長死に(大昔に死んで今まで長く死んでいること)は別に悪いことだって思わない。

愛ってのはね、どこまでいっても、結局は話なんだ。それに対してね、存在と無は、生と死は、究極的にはね、話じゃないんだよ。それは、現実なんだよ。ただ、受け入れるべき現実なんだよ。」
「存在って、ぼくが存在してるってこと?」
「そうさ。それはほんとうの奇跡なんだよ。どんな因果性からも説明できないし、どんな理由や根拠づけも、そこにはおよびえないんだ。『なぜか』そうだったってことから、すべては始まるんだよ。必然も偶然もそのあとの話
さ。“p.203
『』は原文にはなく、原文は『』内の一文字ずつに傍点。

“人生に意味を求める人が多いんだけど、あれはまちがいだよ。人生の内側には、もちろんたくさんの意味づけができるし、生きがいはあるさ。でも、人生の全体を、つまりそれが存在したってことを、まるごと外から意味づけるものなんて、ありえないさ。そんなものがありえないってことこそが、それをほんものの奇跡にしているんだからね。そこを誤解しないようにしないとね。人生の内部のさまざまな行為や出来事に意味を与えるのと同じように、自分の存在そのものにも意味を与えてしまったら、人生の深い味わいの大半は失われてしまうんだよ。そもそもね、ぼくらはね、みんな、意味づけの病に陥っているんだ。世の中で何か事件が起こると、新聞やテレビや、学者や評論家が、意味づけ合戦を始めるだろ? あれはもう病気だよ。世の中で起こったことに、意味なんかないのさ。ただ、たまたま起こっただけなんだ。そしてね、表舞台で演じられるああいう意味づけ合戦が、どうしても自分自身に向けられたものとは感じられない『まともな』人々が、かわいそうなことに、自分自身に直接向けられたメッセージを探しに向かうんだよ。でもね、翔太、そんなものはどこにもないんだよ。」
「でも、もしかしたら、ぼくの存在には神さまの計り知れない意志が働いているのかもしれないよ。」
「もしそうだとすれば、そんなことは絶対に考えられないと思うよ。ぼくらはね、自分を産み出している培養器の中の脳について考えられないのと同じ意味で、ほんとうに存在する神については決して考えることができないんだよ。ぼくやきみが生まれてきて、いまここにこうして存在していることには、ひょっとしたら、何か、ぼくらの知らない、ほんとうの意味があるかもしれないよ。でも、もしあるとしても、それがほんとうにほんとうの意味なら、ぼくやきみがそれを知ることはもちろん、それについて考えたり語ったりすることさえ、絶対にできないんだから、こんなふうに言うこともできないんだよ。だから、そういうことが分かるとか、知っているとか言う人は、絶対に信じちゃいけないんだ。」
「でも、もし媒介者がいたらどうなる? そういう超越的な世界とぼくたちが住んでるこの世界とをつなぐような。たとえばイエス・キリストみたいな。」
「もし、それを信じることでこの世界での人生が意味を持つのであれば、そういう話はぜんぶ嘘だって断言できるね
。でも、そうでないなら、ひょっとしたら、信じられるかもね。」
「そうでないって?」
「それを信じても、何の意味もないような話なら、ってことさ。たとえば、宇宙は巨人族の庭にあるバケツで、ぼくらは彼らの食料のための餌として備蓄されている虫だ、ってな話なら、信じてもいいさ。それを信じても、自分の人生全体が意味づけられるわけじゃないからね。そうでなくて、人生全体に意味や価値や物語を与えるような話は信じちゃいけないんだ。翔太、きみはニヒリズムって言葉を知っているかい?」
「知ってるよ。すべては無意味だっていう思想でしょ? だから、生きていることなんか意味がないって。」
「むしろ逆だな。ニヒリズムっていうの〔原文ママ。恐らく「は」抜け〕ね、すべてには意味しかないっていう考えのことなんだ。人生は何のためにあるのか、とか、自分は何のために生まれてきたのか、とか、そういう問いこそが虚無的(ニヒル)な問いなんだよ。そして、もし何かひとつの全体的な意味づけの中に一生涯没入して生きる人がいるとしたら、それこそがむなしい、ニヒリストそのものなんだ。」
「でも、宗教って人間を救うためにあるんでしょ? だから、それを信じることによって救われるなら、それでいいんじゃないの?」
「たしかにね、人生の内部での自分の欲望の現実化だけをそのつどの人生の目標として生きていくのもむなしいさ。どんな満足感も慣れれば薄れていって、すぐにまた不満足に変わってしまうからね。だから、そうした全体を意味づける何かが欲しくなる気持ちはわかるよ。特にね、不満足な人、不幸な人はね、まさにそのように不幸であることに、自分が生きているほんとうの意味を見いださざるをえないときがあるからね。それは、やむをえないことさ。
(…)
いま、きみ自身が持っているいろんな素質とか能力とかがあるだろう。若いころはそういうものが自分自身の人生を決めていくような感じを持っている。でも、それは錯覚なんだ。ほんとうは、思いもよらない偶然が君の人生を決定してしまう。幸福な偶然(グッド・ラック)もあれば不幸な偶然(バッド・ラック)もあるさ。幸福でも不幸でもない偶然もたくさんある。そういったことは文字どおりたまたまなのだから、何の根拠も意味もない。でも、そういう意味のないことがたまたま起こったってことには意味があるんだ。その意味のなさこそをよくよく味わわないと。そこでこそ、全宇宙の存在の奇跡と君の存在の奇跡が出会うんだ。そういう偶然を味わうためにこそ、君は一回かぎりこの世に生まれてきたとさえ言える
(…)
新聞やテレビや、学者や評論家を、絶対に信用しちゃだめだよ。世の中で通用するってことは、ほんとうに大事なことはぜんぶ『はしょって』あるってことの証拠だからね。哲学から学べるような一般論はね、そういう自分に固有の体験の場で鍛えられてはじめてほんものの知識になるんだ。“p.204-208
『』は原文にはなく、原文は『』内の一文字ずつに傍点。

宗教は人間を支配するためにあります。少なくとも布教熱心な宗教は侵略用。キリスト教が典型例。
その宗教が何人救ったかは数えにくいが、何人殺したかは数
えやすい。

私たちは私たちの言語と私たちの理解力、認識、知覚の外に出ることはできません。可能性というのはそのなかでしか考えられません。だから、あなたの人生全体の意味がわかる人はこの世に存在することができません。あなたの人生全体の意味がわかる存在がもしいるならば、その存在は私たちの言語、理解力、認識、知覚の外にいますので、私たちは考えることができません。できるって?
それは錯覚。その存在「の想定」をあなたの思考「の中に出現させているだけ」で、絶対にあなたの思考の外の存在には至れませんから。
だから宗教は、宗教の神はインチキなのです。特に唯一神は大ウソ



答えが用意されているような問いは、ほんとうの問いじゃないんだ。そういう問いは、答えがないほんとうの問いを問うための練習にすぎないんだよ。問いのまえで茫然とするしかないような問いこそがほんとうの問いなんだよ。”p.209


“哲学することが流行したことなどかつてなく、これからもない。しかし、人間が哲学することをやめたことはかつてなく、これからもない。ただそれだけのことだ。一般の理解に反して、哲学とは主義主張や思想信条のことではない。その正反対である。哲学とはむしろ、主義主張や思想信条を持つことをできるだけ延期するための、延期せざるをえない人のための、自己訓練の方法なのである。少なくとも、本書が思想書として読まれるようなことだけはないようにと、私は願っている。"p.216-217


おまけ

”“精神病院で自分はナポレオンだと信じてる患者がいた。
あるとき、医師が
「なぜキミは自分がナポレオンだと主張するんだ」
と訊くと、その患者は、
「神様がおまえはナポレオンだと言った」
と答えた。
すると、すぐそばにいたべつの患者が怒った顔でこう言った。
「おれはそんなことを言った覚えはない!」
” http://koee.net/1096

永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み――哲学的諸問題へのいざない』を参考にして、
主に言語を学べる条件について考える。

実は、『ロボット』とか『人間』とか『黒』とか『痛み』などの言葉の意味を習得しつつある子供には、人間がロボットに見えるとか、黒が白く見えるとか、痛みが眠気に感じられるとかを主張する権利はない。
意味が固定=基準が決定、された後にはじめて事実に関する極端な主張ができるようになるのであって、意味を学びつつある段階では、誰もが凡人。
なぜなら、
人間=ロボット、だと認識している人が、
人間がロボットに見える=人間とロボットは一般的には別物である、と言えるはずはないから。

子供のころから汚水をきれいだと感じて、浄水をきたないと感じる人がいたとすると、その人は『きれい』や『きたない』の言葉の意味を学べない。
なぜなら、私たちは言葉の意味を「実例を通じて学ぶので、最初から多数と判断が一致していないと、そもそも意味を学ぶことはできない」から。
つまり、感じていること、考えていることなどが同じ(あるいは「ほぼ」同じ)だという前提のもとで、はじめて意味を教えたり学んだりすることが可能になる。

例えば、日本語が母国語の人が、マレー語をまったく知らずにマレーシアに行ったとしても、その人は少しずつわかるようになっていくだろう。
なぜなら、なんとなくわかることがあるから。
自分を指差して何かを言ったら自己紹介をしているのだろう、
自分以外を指差して何かを言ったら指差されたものについて何か言っているのだろう、といったことなどだ。

ではなぜ、「何かを指差して何かを言ったら、その言った内容は指差したものに関係しているはずだ」って思うのか?
まさにそこがキモ。
要は、相手がこちらが予想できることをしてくれないと、相手の言葉は絶対に学べないということだ。
そうでないと、相手の話している内容を推測して、自分の言葉(おそらく母国語)にあてはめて理解し学んでいくことはできない。

他にも言語を学ぶ前提はある。
相手が言っていることの意味がわかるようになっていくためには、相手が、(こちら側の基準で)まともでありふれた存在でないといけない。
そうでないと予想すらつかない。
相手がほとんど正しいことを言っていると前提しないとどうしようもない。
皆が真理を語るとは限らないが、相手がこちらの観点から見てたいていは真理を語っている、理のあることを、整合性があることを言っていると前提することが、理解の前提。

つまりは、自分とぜんぜん違う言葉が喋っている人が、「汚水はきれいだけど、浄水はきたない」って意味のことを言うことは「ありえない」ってこと。
それが意味理解の前提なので、ひょっとしたらほんとうはそう思っているかもしれないってことすらない。

相手が自分と同じ信念を持ち、自分が真実とみなすものを真実だとみなす、といった言語以前の形式--人間は言語は違っても、重力下で生き、表皮は固体で、左右対称で、生存のためにはエネルギー摂取が必要で、挨拶し、自己紹介し、などなどといった共通項--
を少なく或る程度はもっていると前提しないと、意味の理解ははじまらないってこと。

いや、この「言語以前の形式」以前の形式、
つまり、カントのカテゴリーなどのものさえ共有できていればまだ理解は可能かもしれない。

感性(感覚みたいなもの)的に見出される経験における一般性を支えるのが「悟性」(知性と訳すことあり)である。
悟性的な理解とは、それが何であるかを把握する能力である。
五感で感覚される対象が一般的に何かであることは悟性によって規定される。
悟性固有の形式が、純粋悟性概念=カテゴリー↓

カントのカテゴリー
 ※悟性…感性が与えてくれた対象を、カテゴリー(質、量、関係、様態など)に基づいて判断。

①分量
(すべてのものか、
特殊なものか、
それともこのひとつか)

②性質
(これは~である、といえるものか、
これは~でない、といえるものか、
これは非~である、といえるものか)

③他のものとの関係
(いついかなる場合であってもこれは~である、といえるのか、
もし…なら、~である、という条件付きのものか、
これは~か…のどちらかである、といえるのか)

④様相(物事のありよう)
(~であるだろう、といえるのか、
~である、といえるのか、
かならず~でなければならないといえるのか)

別の表現だと
1. 量(単一性、多数性、全体性)
2. 質(実在性、否定性、限界性)
3. 関係(実体性、因果性、相互性)
4. 様態(可能性、現実存在、必然性)


[アリストテレスの10のカテゴリー(範疇)

1実体
主語が何であるか

2量
主語がどれほどの量であるか

3質
主語がどのような質であるか

4関係
主語が他のものとどのような関係にあるか

5場所
主語がどのような場所にあるか

6時
主語がいつあるか

7状況
主語がどのような状況にあるか

8状態(所有)
主語が(物との関係で)どのような状態にあるか

9能動
主語が他のものに対してなにをしているか

10受動
主語が他のものから何を被っているか]

カテゴリーは認識のフィルターのようなもので、カテゴリーに引っかからなければ認識されないので、カテゴリーを外れたものは存在しないとみなされる。

言語の話に戻す。
相手が人以外でも同様。
何やらよくわからない異世界あるいは宇宙空間からやって来たらしきものが、どうやら言葉を話しているようなのだが、何を言っているのか意味がさっぱりわからない存在がいたとする。
では、その存在が言語(らしきもの)を話していると仮定して、そいつの言っていることを推測していくにはどうしたらいいのか。
外国語学習とまったく同じく、私たち基準で合理的に行動していると解釈する場合にしか、彼らが言語を持っているとか、何か考えているとか、みなすことはできない。
人間以外の動物や植物なども同様。

よって
言葉は持っていて私たち人間にもその意味もわかるけど、私たち人間と(言語が成立する前提的な意味で)まったく違う考え方をしているものなんて「いない」。
いるかもしれないが私たち人間には決してわからない、なんてことに意味は与えられない。
そして、意味が理解できるようになってはじめて、相手の間違いやこちらの誤解がわかるようになる。
考えや理解の違いを確認するためには、相手がほとんど言葉の意味を間違えず、相手が今まで従ってきた意味体系と同じ体系に従っていると前提しないと成り立たないからだ。

話すたびにまったく違う意味体系に従って喋っていて、なおかつその場にまったく関係ないことしか喋らない存在の言語なんて学びようがないってことです。せいぜい、わめいている、と認識されるのがおちでしょう。

言葉の意味がわかるようになる場合
①相手がまともで言葉が違うだけのとき。
②相手の気が狂っているが、正しく日本語(一例)を使っているとき。

言葉の意味がわかるようにならない場合
(その人が何を信じているかもわからない)
①相手の気が狂っていて、しかも間違った日本語(一例)を使っているとき。
②相手の気が狂っていて、しかも私たちの知らない言葉を使っているとき。


冒頭の引用のような精神病的妄想を持っている人に対して、精神科医やカウンセラーは、普通、相手が言葉の意味自体は誤解していないって前提で接するらしい。
私はナポレオンだ。神がそう言った。
と言ったら、「その人はそういう妄想を持っている」と考える。
言葉自体は受け入れる。
ナポレオンが実は「敵前逃亡の一兵卒」だったり、神が実は「人間」だという可能性は、相手に質問して肯定しない限り、あの有名なナポレオンとみなす。
そうしないと、話が成り立たない。


今度は、「色」という概念が存在しない(必要としない)宇宙生命体(生命体の定義も実に曖昧だがここでは議論しない)を仮定する。
私たちがとらえる世界では、物の種類とその色とは対応していない。
しかしもし、物の種類と色が完全に対応している、例えばカラスは絶対に赤いといった風に、と彼らが認識していたら、彼らに「色」なんて概念は存在しない。
また、例えば三角形は絶対に青いと認識していれば、やはり「色」の概念は存在しない。
「形」と「色」が一体となっているとも言える。
つまり、「形」と「色」が一体となった概念が誕生しているはずだ。

我々から見れば、認識の一部が欠けているとみなされる。
が、先に行ったカテゴリーを少なくともある程度は共有していれば、宇宙生命体の言語も学べるのである。

カテゴリーのことを相手に伝えればいいのではないのか。
と言いたい人がいそうである。
カテゴリーは頭の中や心の中にあるものではなく、言葉を使って「実際に活動しているその活動の中に“示されている”形式」。
活動中に意識するなんてありえない。意識しようがない。

絵がどんなものかは言語で伝えられない。
「とにかく見て!」と言って見てもらわないといけない。
見ないとだめだから「示す」しかないように。言葉の限界を示す。
カテゴリー「について言葉で言う」のではなく、
カテゴリー「に従って『赤いリンゴ五つ!』と言う」。
そうすると、
果物屋は、
「まず」『リンゴ』という「実体」のある場所へ行って、
「次に」『赤い』(性質)のを、
「最後に」『五つ』(個数)選ぶ。
この順序は変えられない。
まず個数から初めて、次に性質、最後に実体(=個数や性質の前提)
なんてことは、カテゴリーの中で生きる人間には想像すらできない。
果物屋のこの「必然的な行動形式の中にカテゴリーが示されている」。

そしてこの「カテゴリーに背後はない」。
カテゴリーは動物の必要からできたってことはありえない。
なぜなら、動物とか生物といったとらえる枠組み自体がすでにカテゴリーに依存しているから。
因果関係が逆。
原因と結果を入れ替えてはいけない。
「まず」カテゴリー「によって」ものごとがとらえられ、「そこからすべてがはじまる」。

神や宇宙生命体の姿をイメージすると、思わず人型になってしまうのは当然だということ。人間の思考形態に当てはめないと思考すらできないから。
カテゴリーを外れた宇宙存在とは交流不可。
正確には、存在自体を認識しないから交流以前の問題である。

このような日常の大前提について徹底的に考えたウィトゲンシュタインが偉大なのは、
「意図的にするはずがないことを意図的にする」
という、いと面白き意図を持って哲学し、哲学史に
「無意識的に意識的になるような」不思議で奇跡な書物を残したからである。

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-61.html

永井均bot‏@N1951_bot

「じゃあ、よほどのことがないかぎり、約束を破ってはいけないんだね?」「約束を破ること自体が目的の場合は別だけどね。ぼくらはいろんなことについて自分から約束をするけど、約束を守るという約束なんて、自分からすすんでしたことがないからね」『対話』

他者はゾンビなのでしょうか。一つの意味では、まさにそうなのです。だって、そうでしょう。外的な振る舞いも内的な脳や神経の状態もまったくふつうの人間なのに、痛さも酸っぱさも不安も憂鬱も感じない人は、だあれ? と問われたら、この謎々の答えは「他人」しかありえないでしょう。『意識』

アインジヒト「そもそも、世の中には悪人もたくさんいるし、悪事はねんじゅう実行されているのに、そっちの側に立った倫理学説というものが存在しないのはどうしてなんだろうか。これはていねいに考えてみるに値する哲学的問題だと思う」『倫理』

意識とは、言語が初発に裏切るこのものの名であり、にもかかわらず同時に、別の意味では、まさにその裏切りによって作られる当のものの名でもあるのです。どうか、この言い回しを、気障なレトリックだと思わないでください。ここに問題のすべてがあるのです。『意識』


「もしね、もしもだよ、かりに立花由美が生まれてから一度も怒ったことがないとするよ、そしてね、急にいま死んじゃうとするんだ。」「死んじゃうの!?」「もしも、だよ。そういう場合、彼女がほんとうは怒りっぽかったっていうことがありうると思う?」『夏休み』

病気は自分に隠されていた自分の真理を教えてくれる。それは、いかなる理性的説得もおよばない、圧倒的な教育である。だが快癒は、そのパースペクティヴが病のなせるわざにすぎなかったことを教えることになるだろう。『これが』

いったん神が客観的に存在するものとされてしまえば、開闢と結びつかない神の業も当然ありうることになるだろう。宗教というものを信じている人は、基本的にこの形で神を表象することになるだろう。だが、それは神の死のもう一つの形態ではなかろうか。『私今神』


「なるほどね。翔太は神の概念を信じるが、神の存在を信じない。インサイトは神の存在を信じるが、神の概念を信じない」「そんなわけのわからないひとりごとなんか言ってないで、どうして神さまにできないのか教えてくれよ。」「神さまだって意味のないことはできないからさ」『夏休み』

「他人が独我論的世界観を持つことは独我論に反する」という考えもまた、他人が持てば独我論に反する。そして、この構造はどこまでも反復し、どの段階であれ自他に共通の地平で収束することができない。ゆえに、独我論的主張というものは存在しえないことになる。『誤診』

「善なる嘘」は「善なる嘘」だと知られてしまえば、もう有効には機能しなくなってしまう。それはあくまでも(それ自体は善でも悪でもない)真理として語られなくてはならないのだ。『ため哲』

千絵「そういえば、神の存在を信じるようになった人は、自分がなぜ神を信じるようになったのか、そのプロセスが思い出せなくなるらしいよ」 アインジヒト「入信行為の意味そのものが、入信以後の信念システムの中に新たに位置づけなおされる必要があるからね。
だから、入信以前の信念システムから見た、入信せざるをえなかった理由は、もう理解できないのでなければならない。それこそが、入信以前の問題がそこまで本当に解決したことの証拠なんだ」『倫理』



アインジヒト「その問題が恐ろしいのは、自分の自己欺瞞に気づいたとき、気づいたというその思い自体が自己欺瞞かもしれない、というところにあるな。自分を、自分の自己欺瞞に気づいてそれを率直に認めることができるほど誠実な人間だと思いたい、という欲求がそこにあるのかもしれないからだ」

ニーチェは「キリスト教は『大衆』向きのプラトン主義である」と言ったが、それならば、ニーチェ主義は俗人向きのキリスト教であると言えよう。『これが』

古代が驚くべきものとみなし、近代が疑いえないとみなしたものは、実は同じものだったことになろう。実際、究極の驚くべきものと、究極の疑いえぬものは、一致するだろう。『闘い』

「わすれたいのにわすれられないんじゃなくて、ほんとは、わすれたくないんじゃないかな? いやなことほど、心の中で何度も反復したくなるし、いやな感情ほど、それにひたりたくなるんだよ。わすれてしまうと、自分にとってなにか重大なものが失われしまうような気がするのさ」『対話』

「だから、言葉は持っていて、ぼくらにその意味もわかるけど、でもぼくらとはまったく違う考え方をしている者、なんていないんだ!」「そう。いないんだよ。いるかもしれないけどぼくらにはわからない、なんてことの意味が与えられないんだからね。」『夏休み』

子どもの哲学は、何もよきものを求めない。それはよりよきもの、より高きもの、より深きものを、めざしはしない。子どもの問いは、解かれたときに、何かよい結果や効果が得られるようなものではない。しいていうなら、ただふつうの大人になれるだけだ。『ため哲』

全宇宙においてかつて成立した、現に成立している、これから成立するあらゆる客観的事実をすべて記載した膨大な書物があったとしよう。その書物には、永井均に関して真であることは、記憶や現在の身体感覚のような彼にとっての主観的事実を含めて、すべて書かれている。『存在』
しかし、その本のどのページを開いてみても、〈私〉についての記述はない。だから、その本をどれほど詳しく読んでみても、〈私〉が誰であるかはわからないのだ。(同書)

現実の根底には、醒めることができない夢とは別に(だが決して非連続的にではなく)、醒めることを禁じられた夢が存在するように思われる。それに対して、誰もがときに不眠症になり、ときに別の夢を見ることが本当はできるはずの、いくつかの根底的な虚構が存在するように思われるのだ。『態度』

アインジヒト「内面の法廷は、被告人も被害者も目撃者も、弁護士も検事も裁判官も、みんな自分だからね。事実を認定するために必要とされる誠実さという唯一の手段が、それ自体道徳的価値を持っている以上、この法廷では、道徳的価値判断から独立した事実認定が不可能になるんだよ」『倫理』


こと哲学に関するかぎり、青年は子どもに、大人は青年に、そして老人は大人に、かなわない。だが逆に、子どもの哲学は、老人の哲学にだけは、かなわないだろう。そこに哲学というものの限界が示されている。『ため哲』

神には〈私〉の着脱能力があるか。これが問題だ。これは、感情や感覚のような心理状態や、記憶や知覚のような表象状態を着脱するような、なまやさしい話ではない。もし神にこの能力があるのだとしたら、それはロボットに心を与えたりする通常の神より高階の神でなければならない。『私今神』

「表面的な明るさや暗さじゃないよ。根だよ。根が明るいってことが大事なんだよ。根が明るい人っていうのはね、いつも自分の中では遊んでいる人ってことだよ。勉強しているときも、仕事しているときも、なにか目標のために努力しているときも、なぜかいつもそのこと自体が楽しい人だな」『対話』

ふどうに手の届かなかった狐が「あれは酸っぱいぶどうなのだ」と言ったとしても、それはまだ相手を引き下げているにすぎない。だが、その狐が「ふどうを食べる生き方は正しくない」と言ったしたら、彼はひとつの解釈を作り出したのである。このとき、狐の力への意志は解釈への意志に変換される。

「ぼくはね、十五歳以上の人間にはほんとうに哲学をすることは不可能だって思っているんだ」『夏休み』
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