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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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「人生というクソゲーを攻略する方法」。原始仏教は宗教=執着=苦しみの原因を否定。つまり原始仏教は苦を克服する為の現実的なカウンセリング術『バウッダ―仏教』。 キリストきょうはユダヤガワルイをとなえた! キリストきょうをたたけなくなった! ✝が黒幕。 

 原始仏教は宗教=執着=苦しみの原因を否定。つまり原始仏教は苦を克服する為の現実的なカウンセリング術

人生というクソゲーを攻略する方法
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20699310


上記の動画作成者は、人生攻略の手段としての執着を取り除くことを重視しています。
この動画の紹介も兼ねて、今回は、道(道一語で仏教を意味する。神道の意味はない)と仏道と仏法と仏教の話。

日本の伝統が神道ではなく仏教なのは日本語が仏教用語だらけなのと、神道・天皇・神器・惟神が道教用語(神道用語って何ですか?)であることから明白です。
金輪際、仏教用語を使わずに日本語を使おうとするとほぼ無理です。
日本語を学ぶ=仏教の概念を学ぶと言っても大袈裟ではありません。
ご飯をシャリというのは、舎利(しゃり。釈迦の骨)という仏教用語が元ネタであるように、明治以前の本物の天皇は仏教徒であり伊勢神宮に参らなかったように、日本の真の伝統は仏教=神と仏の実体を否定する思想です。
(さあ、ここまでで仏教用語はいくつ出てきたでしょう?)
神道家(笑)の息の根が止まりかけそうなことを言っておりますが、神道って「墓場への道」って意味があるんですよね。なのに、死体のことは「仏」とは呼びますが「神」とは呼びません。仏頂面はありますが、神頂面はありません。

神道=和風キリスト教という偽伝統を捏造したキリスト教の得意な呪文が
「ユダヤガワルイ」

キリストきょうはユダヤガワルイをとなえた!
キリストきょうをたたけなくなった!
全部ユダヤ(と在日)のせいにしている✝(と大本教系カルト)が黒幕です。


彼らの根本思想を理解したくないなら、支配層代表のプラトンの演説をどうか見ないで下さい。

【マギ】マギ特殊ED集【モガメット演説】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm22755002



ニコニコ市場に商品を貼ったのは私です。

初期仏教では呪文は禁止。
つまり「ユダヤガワルイ」も「ザイニチガワルイ」の呪文も禁止
(冗談)。

この呪文禁止ということは今の一般的な仏教ではまったく守られておりません。
般若心経の終わりのぎゃーてー以下略なんて完全に呪文ですし。
仏教の経典は難しいと思われているのは漢語のままのせいです。聞いても意味が分からないのだから、お経全てが意味不明な呪文みたいなものですよね?
漢文の書き下しを読んでも意味が分からないのだから、やはり意味不明な呪文です。
内容を理解するには、どうしても現在の我々の言葉に直す=口語訳が必要です。
が、多くの仏教学者が、口語訳とは経典の内容を卑属化するから駄目だと主張したせいで口語訳は今でも普及していません。
あの難解な古い訳語を墨守していたら学問自体の発展を邪魔することを判らないのが自称頭のいい学者たちです。
この人たちは仏教学者のくせに、人々に判るように言いなさい(口語訳しなさい)という釈迦の教えを守っていません
釈迦は、理解力のある人には相応に、一般の人にはとても解りやすく説きました。当然、現地の言葉で、聞く人々が分かるように語ります。少なくともそう心がけるでしょう(通訳を介することはあったでしょうが)。
つまり、経典の口語訳が卑属化であるなどという仏教学者の主張は、釈迦の教えに反する者であり、釈迦が聞けばさぞ残念がるでしょうね。
本記事で登場する般若心経にしたって、意味が分からないのに読んでも悟れるわけないじゃないですか。般若波羅蜜って漢語で言われて(今辞書を引くのちょっと待って)意味が分かりますか?
般若=(悟りの)智慧。
ハラミツ=波羅蜜=修行で完遂・獲得・達成されるべきもの。
釈迦の教え通りに伝えるなら般若波羅蜜多と言わずに、
「悟りの智慧の完成(完全に悟ること)」と今の人が分かる言葉で言わないといけないのです。

私が以下の仏教系ツイートを取り上げるのは、神と愛で侵略するキリスト教に対抗できる思想として、仏教(執着=愛は悪。愛憎を越えた慈悲が良い。神に実体なし)が良いと考えたからです。
私の思想は原始仏教(宗教=執着=悪)に近いですが、別に仏教徒ではありません。
仏教の慈悲は、キリスト教などのいう「人々への」憐憫の思いではありません。仏教においては「一切の生命」は平等で、全生物に等しく与えられるのが慈悲であり、愛憎の対立を超えたものなのです。
キリスト教では創世記で動物を支配させる為に神が人間を創った、とあります。キリスト教では人間は特別で霊魂があり、人間以外の動物にはない、と考えます。だから魚である人魚姫には魂がないのです。
キリスト教がいかに仏教を憎んでいるかが分かりますね?
仏教では愛は悪。愛は執着であり憎悪に繋がる。愛と憎しみを越えた慈悲こそが素晴らしいと説く。
しかも、ミトラ(弥勒)でわかるように日本の仏教にはキリスト教の真の元ネタであるミトラ教が混じっている。
だからこそ神道家(和風キリシタン)が主張する歴史(笑)は、仏教を完全に無視したりするのです。あと、仏教国教時代をなかったことにするために、超古代と明治以降の偽伝統が好きですね。伝統が無いからこそ伝統をでっちあげるのです。

仏教国教時代の多数派の思想である本地垂迹説では、神の正体は仏としています。つまり、神に実体なしとしているのです。神とは仏が被る仮面なのです。仏教では神は仏より格下です。
当然、仏教徒の本物の天皇は現人神ではありません。神に実体はなく、仏より格下なのだから、天皇を現人神と呼んだら反逆者ともみなされたでしょうね。だから現人神は伝統ではありません。
なお、仏教は仏すら実体はないとします(空の思想=絶対的存在の否定
)。
朝廷の思想が本地垂迹説=仏>神なのだから、神仏習合は八百万の神々を仏教化して仏教に取り込んで、国教=仏教勢力逆らえないようにする為に行われたものです。
だから神と仏は対等ではありませんでした。神仏習合は神と仏は対等だとする思想だというのは神道(和風耶蘇教)が流しているデマです
仏が神より上です。
仏教圧倒的優位の証明が、八幡大菩薩です。今の八幡宮(八幡神を祭神とする神社の総称)は、八幡は神だとして仏教化(仏教支配)をなかったことにしています。
しかし、昔は寺でした。八幡大「菩薩」を祀っている宗教施設はいくら神社と名乗ろうが「寺」ですから。
石清水八幡宮も昔は石清水八幡宮護国寺でした。「護国寺」=仏教の施設だったんですよ、石清水も。

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi
祇園は祇樹給孤独園という仏教用語の略称なのでシオンを意味することはない。精舎=寺。 ユダヤ教の行事カレンダーの7月は空白でシオン祭りは実在しない。 #日ユ同祖論 はスコットランド人製で #大本教 系の特徴

「天皇が信仰した思想体系がある伝統宗教」=神道は明治期のキリスト教による捏造
明治以の神道
単なる土着神崇拝。神社は地域土着の祭壇。政治に影響力なし
道教の一派としての神道(天皇と神器も道教用語)。
本地垂迹説=仏教優位で神仏習合。
#日ユ同祖論 は道教と仏教を無視


聖書が根拠の偽伝統
神道の現人神、神前結婚式、完全に良い意味での愛、 働かざる者食うべからず(勤勉な日本人)

仏教国教時代の本地垂迹説では、神の正体は仏=現人神に実体なしだから伝統ではない

おきむさん ‏@kimrising 2013年3月12日
祇園とは祇樹給孤独園の略。コーサラ国の首都シュラーバスティー(舎衛城)に住み、日頃から孤独な貧者に衣食を給与していて「給孤独」と呼ばれていた長者スダッタ(須達)が、釈迦の住居(精舎)として、コーサラの王子ジェータ(祇陀)所有の林(祇樹)を譲り受けそこに寺院を建て釈迦に寄進したもの

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 8月23日

@lanekota カテゴリーは分析に使うと便利。カテゴリーが通用しないものを人間は存在を認識できない。 支配者の思想の中核となるものの翻訳は特に中核となる箇所では信用できない。大学の研究で翻訳は参考程度なのが普通。特に古代語。シンプルな原文の用語を難解な専門語にするのはわざと。

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2月10日

猫太”あの難しい翻訳わざとなんですか。ラテン語の教科書といい、どんだけ陰謀にまみれてるんだかwわかりやすい言葉で書かれた古典シリーズを作りたいですう”
言語で分割統治。例えばウィキでは日本のことなのに、日ユ同祖論の起源がイエズス会で布教意図もあったことは英語版にしか書いていない


たうべ@畜20年 ‏@taubeeeeee 8月29日
愛って漢字あるじゃん あれって訓読みないんだよね ってか基本的にアイしか読み方ない 漢字はもともと大陸由来だからアイって言葉も外来語なはずなわけで 訓読みがない以上はその概念すらなかったんじゃないかと

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 11月9日
@taubeeeeee 「愛」は仏教では執着=悪。 キリスト教では創造神が与える善。 なのでアガペーは16世紀(仏教が国教)の『どちりな きりしたん』では「御大切」と訳されました。 明治維新でキリスト教の植民地になって以降、愛=善というキリスト教思想に染まったのが今の日本人です

ぴいぷう妖怪 ‏@pirorinpipipi 11月10日
@kitsuchitsuchi @taubeeeeee 「愛」=執着 自分は相手をこんなに愛してるという自己陶酔。もっと愛されたい。もっと○○をしてあげたい。浮気しないで!私だけを愛して!という押し付けがましさ。愛は嫉妬、憎悪、ストーカー、DV、暴力、戦争などトラブルを生む

@kitsuchitsuchi @taubeeeeee 愛ってウザイし妄想激しいし執着心強いしひとりよがり。激しく愛し合ったカップルほど別れ際は激しい憎悪キリスト教の「愛」よりも、、、仏教の「慈悲」が大事!! はんにゃ~は~ら~みった~♪


菊池@kikuchi_8 • 12月5日
6)王仁三郎は「わしは先ず仏教を滅ぼす型をやるのや、それが色々な宗教を滅ぼす型になるのや」と日本の伝統宗教を破壊することを明白に意図していた。これはワンワールドの露払いであろう。文鮮明も宗教統一を標榜。日本会議に世界連邦主義者多し。最近の「宗教国連」。意味は同じ。皆同じ穴の貉。

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 9月25日

西洋人の神は常住善と常住悪の
肯定から来ている。プラトンの
言うイデアと一緒ね。
仏教は無常を説くので、
そもそもイデアなんか存在しません というスタンス。

ちなみに常住というのは実存する
という意味ね。反対語が無常


J・ナナミ @pinkglalem
以前、学会員の方に言ったんですが、「仏教は宗教ではありません。“空の概念”が存在する限り、アレは哲学です。仏教に信仰を持ち込んだら、ソレは既にカルトです
...相手は、絶対に納得しませんでしたね。

昔、学会員の人と話してて、佛教とは仏を否定する哲学と言ったら、信じてもらえなかった。創価は佛教を偽装した大本教だから...彼らには理解出来ない。ネズミ講のよーな収奪システムの中で来る筈のない未来の幸福を待ってる。佛教はその“未来”ってヤツを否定してる

フロイドの精神分析は佛教に似ている。「時間」と「空間」と、それらを造った「神」の否定。これら3つは、人間の作り出した妄想に過ぎない。そう論破したのが、佛教。それゆえに政治的には宗教の目的(人心掌握)をなさなかった。だから本場インドでは佛教は死滅した。

佛教では「愛」を執着とし、否定しました。キリストは執着しました。私も何も信じていない。ところが、どこかで何かを無意識に信じているのです。何かに執着しているnです。私も...カルマですかね?私たちが見る物、信じている物はすべて幻想です。


時間は空間が存在しない限り、存在しない。空間は私たちがイメージの中で造り出しているモノで、現実には存在していない。このイメージに執着する事を、佛 教は「愛」と呼んだ。キリストは愛を説くが、佛教は否定している。故に、佛教は時間を否定するが、キリスト教は肯定している。

人類最大の病はキリスト教。なんで、アラビア半島の局地的な信仰が、世界的に蔓延するのか?誰も疑問に思わない。いや、怖くて口に出さない。あれはただの精神病。#カルト #強迫神経症 #戦争 #ユダヤ陰謀論 #偽情報工作員

出口王仁三郎や笹川良一と血が繋がっていたと言われる牧口常三郎は明確に佛教の戒律を否定しています。だから、在家団体が誕生した。

明治維新の際に、この隠れミトラの佛教を駆逐する為に作られたのが、金光教、天理教、大本教。創価学会は大本の分派。出口王仁三郎と牧口常三郎は異母兄弟。牧口の甥が戸田城聖。牧口が大石寺に通って、在家信者団体創設の許可を取り付ける。佛教に偽装した大本教

バラモンというのは、あーだ、こーだと、へ理屈をゴネて原住民の存在を全否定して、自分達の支配の正当性を説いたんですが...このへ理屈に特化した邪教(佛教)は、バラモンの存在理由まで否定し始めちゃった。さー大変。インド社会は立ち行かなくなります。
この邪教(佛教)の台頭で、インドの支配階層のヒエラルキーが否定され、危機感を感じたバラモンは理論武装して対抗しました。理論武装で生まれ変わったバラモン教が、ヒンディー教です。

菊池 @kikuchi_8
スッタニパータ1035【 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるもの でのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」】←洗脳防止の指針にもなりうる名句かと。

3)逆に洗脳を防止する為には五感を通して入ってくる感覚や情報に気を付けることが肝要となる。仏陀は最古の原始仏典スッタニパータの中で「煩悩の流れを せき止めるものはなんですか?」という学生アジタの質問に答えて「気をつけること」と答えている。極めてシンプルだが、確かにその通りである。

11)最古の仏典であるスッタニパータに「世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである」と極めて簡潔な煩悩克服法の記述 がある。あまりにも簡潔だがよく考えてみると確かに合理的である。仏教自体が本来極めて理にかなった精神鍛錬法の体系とも言える。



仏陀 ブッダ ことば 仏教 @Buddha_Words
837 マーガンディヤよ、「私はこのことを説く」ということが私にはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における過誤を見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎを私は見た(スッタニパータ)

841 マーガンディヤよ、あなたは自分の教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執着した事柄について迷妄に陥ったのです。あなたはこの内心の平安について微かな想いさえも抱いていない。だからあなたは「ばかばかしい」と見なすのです(スッタニパータ)

1070 よく気をつけて、無所有をめざしつつ「何も存在しない」と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ(スッタニパータ)

855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において他人を自分と等しいとは思わない。また自分が優れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。彼には煩悩の燃え盛ることがない(スッタニパータ)

1119 つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は見ることがない(スッタニパータ)


839 「教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる」とは私は説かない。「教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも清らかになることができる」とも説かない(スッタニパータ)

846 ヴェーダの達人は、見解についても思想についても慢心に至ることがない。彼は宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。彼は執着の巣窟に導き入れられることがない(スッタニパータ)

399 禍いの起るもとを回避せよ(スッタニパータ)

436 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる(スッタニパータ)
437,438 汝の第五の軍隊は物憂さ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊は見せかけと強情と誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己を褒めたたえて他人を軽蔑することである(スッタニパータ)

450 最上の善いことばを語れ。これが第一である。正しい理を語れ。理に反することを語るな。これが第二である。好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。真実を語れ。偽りを語るな。これが第四である(スッタニパータ)

1078 世の中で真理に達した人たちは、哲学的見解によっても、伝承の学問によっても、知識によっても聖者だとは言わない。煩悩の魔軍を撃破して、苦悩なく、望むことなく行う人々、彼らこそ聖者である(スッタニパータ)



中村元/三枝充悳『バウッダ―仏教』 (小学館ライブラリー (80))

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「愛」の語は、阿含経には「渇愛」としてあり、愛は欲望の一種で、最も激しく、自己中心的であることから、厳しく排斥される。愛ないし大愛の語が仏教に迎えられるのは、ずっと後代の、密教に入って以後のことである。

慈悲
=慈(他に楽を与える。与楽)+悲(他の苦を抜き取る。抜苦)。

・仏教の最初期から慈悲、慈と悲に加えて、喜(き。ムディター)と捨(しゃ。ウペッカー、ウペークシャー)とが一括して説かれることが多い。
喜とは自らの喜びと同時に他を喜ばすこと。
捨とは平静を指し、心に動揺も偏向もまったくない在り方を表現する。それは、いわば完全な無差別から、更に無性に通ずる場に、いわゆる「無縁の慈悲」を招き寄せて、なんらのかかわりをもたぬものに対しても、大いなる慈悲をもって接しつつ、しかも慈悲ということそのものを空(くう)じているという。このような慈悲喜捨は、どこまでも限りなく広げられて、これを四無量(心)(しむりょう。しん)という述語の成立を見る。

紀元前に釈迦の姿が彫刻されることはまったくありえず、空白のままにするか、あるいは数種のシンボル(仏足跡、菩提樹、法輪など)で表現される。仏像がインド北西部のガンダーラに、また中インドのマトゥラーに最初に出現するのは紀元後一世紀末~二世紀以降というのが定説である。

・古くから仏教教団はサンガと呼ばれ、これが漢訳では「僧伽(そうぎゃ)」と音写されて、日本語の「僧」となる。したがって、僧とは、元来は教団全体を意味し、個人を意味する語ではない

・インドで仏教が衰退し、滅亡したというのは、正確には、イスラーム軍によって、1203年にヴィクラマシラーの大寺院が徹底的に破壊され、比丘はすべて殺され、仏教サンガがインドから消滅した。

業(カルマ)と輪廻(サンサーラ)は、すでに仏教創始以前の古ウパニシャッドに説かれており、全インド人に不可避の強固な人生観を形づくって、インド史全体を貫き、現在に及ぶ。現世における業、すなわち行為によって来世に生まれる場が決定される、とインド人は信じて疑わず、来世の場には、地獄・餓鬼・畜生・人間・天の五つを立て、のちのは、畜生と人とのあいだに阿修羅を挿入して、これを六道と称する。
つまり、来世に六道のいずれに生まれ変わるかは、すべて現世の業が決定し、この生まれ変わりであり輪廻は転生とも呼ばれる。これは生あるものは決して逃れられないという考えがインド人すべてを支配している。

・仏塔(ストゥーパ。卒都婆。卒塔婆)崇拝
もともとインドでは、古代から格別に由緒ある人、特に聖者に対して、滅後その故人を記念する墳墓をつくり、それには土饅頭型に土を盛り上げて祀った。通常インドでは、一般の人々は元来(現在もなお)各個人が死後も長く留まる墓に相当するものを設けない
輪廻転生思想が広く行き渡り、普通の人々は死後最大四十九日までには、再び新たに「生あるもの」に生まれ変わると固く信じていて、墓そのものの必要性も、その意義もないことになる。おおむね死後は遺体が河畔に運ばれて火葬にされ、そこに残る骨も、灰も、ことごとく河に投ぜられる。それがガンジス川であることを強く望み、とりわけその中流のベナレス(ヴァーラナーシー)は最大の霊場として、今日に至る。釈尊は入滅後、インドの古風に従った。つまり、ニルヴァーナ(涅槃)に達して輪廻することのない釈尊の遺体は、クシナーラー村の住人たちによって荼毘(=火葬)に付されたあと、その遺骨と遺灰とを多くの在家信者たちが入手を争い、結局は有力な信徒に八分割され、彼らはそれを持ち帰って、記念碑であるストゥーパ(仏塔)を建設し、その遺骨などを丁重に土の下に祀った。
中国と日本に伝わると文字通りの塔になる。中国では土と木、日本ではもっぱら木(卒塔婆)でできている。
また、スリランカ、ビルマ、タイ、カンボジアなど南方に伝わって「パゴダ」となり、石造のものが多い。
仏塔はインド全体に広がっているが、南部のデカン高原には、数多くの窟院(くついん。レーナ)が開削された。現存するものだけでの千二百以上あるといわれ、その約七五パーセントは仏教に属していた。その古いものは、紀元前二世紀ないし紀元前一世紀にはじめられており、特にアジャンターとエローラとの窟院群が名高い。なお、窟院には、仏塔を祀る礼拝堂と、比丘たちが住む僧院との二種があった。
(え、仏教って墓石を作らないの? じゃあ日本のあのバカみたいに高価な墓石はなんだよ、言いたくなりますが、墓石は儒教の思想です。位牌も儒教ですよ)

「仏教」という言葉の使用例は存外に新しく、明治期の日本が欧米「近代」の移入を図った時に軌を一にする。「仏教」の語は「仏の教え」を意味する少数の場合を除くと、江戸時代末期まで知られていない。
江戸時代までの文献では「仏教」という語はほぼ絶無。教えないし理論については「仏法」といい、
実践に関しては「仏道」(この原語は「さとり」そのものをいう)の語が用いられており
、仏法と仏道という語に日本人は(中国人なども)千数百年間なじんできて、今日でも一部は維持されている。
五世紀以前の中国では「道教」とも呼ばれた
また、多種多彩な漢訳仏典中から特定の教えをみずから選びとって「宗(むね・主・本・長)」とすることが六世紀の中国に生まれ、その宗の教えとして「宗教」の語がここに発明された
宗教は仏教の下位概念に属し、仏教徒のあいだでのみ用いられて、日本でも明治初期まで仏教諸宗は「わが宗教」と称し、かつ仏教は仏法や仏道(単に「道」だけでも仏教を意味する)などの語で表現されていた
江戸末期の開国で外国語の翻訳としての今日の用法が定着する。仏「教」としたところにすでに西洋思想による変容がなされている。
同時期に哲学という造語が誕生し、仏教・宗教の後も本来的意味を改変されて、すでに日常語化して現在に至る。
宗教とは「宗」派の「教」えであるから、仏教の下位概念であり、仏教者のあいだでのみ宗教という語は用いられた

・バウッダはサンスクリット語でブッダを信奉する人。
古代インドの哲学書などでは、仏教の教説のことをバウッダ・ダルシャナといい、バウッダというときはどこまでも、仏の教えを信奉する人のこと。
インドでは宗教や哲学は各個人のもの。社会的権威によって束縛されるものではない。だから、西洋でいう「クリスチャニティ」や「イスラーム」に相当する造語法が古代インドにはない

現代インドでは、佛教(仏教)を意味してバウッダ・ダルマといい、スリランカではブッダ・ダンマあるいはブッダ・サーサナという呼称を用いるが、外来宗教に対立する宗教だという自覚が強くはたらいている。

・ブッダ=真理を悟った人。ジャイナ教でも最高の聖者をブッダと呼ぶ。仏教は当時から使われていたブッダを採用した。ジャイナ教徒のあいだでは『聖仙のことば』(イシブハーシヤーイム)という書を伝えている。この書は聖人、賢者とみなされていた哲人のことばを集めたもの、あるいはその哲人たちについて歌った詩を集めたものである。この書ではいかなる宗教の人であろうとも、聖人、聖者をブッダと呼んでいる。
(ブッダは複数いることが重要で
すね)

・仏教は「法」を説くのであって、「教義を説くのではない」。諸宗教や哲学の説く教義なるものは偏見として仏教では排斥する
仏教の説く教えも「方便」である。それは筏のようなもの。目的を達したら捨てられねばならない。筏を大切なものだとして大事にしがみついているのは単に「執著」にすぎない。
原始仏教では法の権威が最高のものであり仏より上位だった。
ブッダは永遠の理法を説いたのであって、新しい宗教を創始したのではない。ブッダは普通名詞であって、幾人いてもかまわない。
(仏教は教祖とされる釈迦が実在しなくてもまったく問題ない
教え。
キリスト教は十字架にかけたれたことにされている生贄=教祖が実在していないと教義が崩壊する教え。
そもそも冤罪なのに罪を購ってくれた自分が生まれるはるか前の神の子に感謝って凄い教義ですな。罪=悪を創ったのも神=善のふりをする大悪魔ですよね。
自由意志で悪を選択したって?
じゃあなぜその悪を滅ぼさないんですか?
なぜ悪を野放しなのですか?
そもそも悪という選択肢をなくせばいいのでは?
信仰を試す? 意地「悪」ですね!
悪ではなく「善の欠如」だという言い訳をする人がいますけど、悪という概念は善という概念がないと成立しませんよね? 善に相当するという言葉だけがあって悪に相当する言葉がない言語を教えてくれませんか?
聖書の神を「極悪人」と置き換えて読むと非常に納得できますよ


・阿含経に満ちているあまたの問いは、すべてみずから現に体験している苦しみ、悩みから発せられ、そのそれぞれに対して釈尊はその質問者の現実に即して答える。ただし、苦悩そのものを即座に解消するような、いわば直接的な手段や方策というよりは、むしろ苦悩に対処してゆくべきその在り方をとりあげて、それを熟慮しつつ答えがなされる。いわば外部の状況その他は不変のままでありながら、みずから苦悩としているところが、実は苦悩ではなくなり、いつしかその苦悩がその内部において消え、安らかな境地にもたらされる、そのような図式を描いて展開する。
釈尊はその答えにおいて、人間の力を絶した創造主としての神も、また祈禱や呪術もことごとく退けており、超自然的なものは排除している。そうではなく、あくまでもこの現実に徹し、この現実に即し、終始この現実において解決しようとする。この意味において、釈尊は、総じて仏教は、常のこの現実を直視し、凝視するという立場に基づく現実主義、と表現され得よう。
仏教では哲学的アポリア(難問)、つまり形而上学を意図的に斥ける。
(釈尊が形而上的な=確かめようがないことを語ると、それが教義になってしまいますからね。
形而上学的なことは現実的思考から離れてしまうので答えなかったのです


阿含経は十種にまとめ十難と術語化した。
①世界は常住(世界は時間的に無限)
②世界は無常(世界は時間的に有限)
③世界は有辺(世界は空間的に有限)
④世界は無辺(世界は空間的に無限)
⑤身体と霊魂は同一
⑥身体と霊魂は別異
⑦真理達成者(如来)は死後に生存する
⑧真理達成者(如来)は死後に生存しない
⑨真理達成者(如来)は死後に生存し、かつ生存しない
⑩真理達成者(如来)は死後に生存するのでもなく、かつ生存しないのでもない
これらの質問は何回も反復されて釈迦に回答を求める。
釈尊は常に「無記」を通した。すなわち、どのような誘導があり、あるいは誹謗があっても、あくまでも沈黙を守り続けたまま、何の答えもしていない


苦=自己の欲するままにならぬこと、思い通りにならぬこと

・仏教の「生」(しょう)は全て「生ずる」「生まれる」意であり、「生きる」意ではない。

・刹那(クシャナ)=75分の1秒=0.0133……秒

・仏教では「無時間的な実体」のような考えはことごとく排除されている。

・ほとんどの仏教解説書に「実体の否定としての無我」が無我の説明としてあるが、これは阿含経(初期仏教の教典)かならかなり離反している。
阿含経に説かれる無我は、特にその原初形は、「執着の否定としての無我」あるいは「無我とはとらわれないこと」と解さないといけない。
初期の大乗仏教の「空」を理論づけた龍樹も、実体否定論と同時に、一貫して「空とはとらわれないこと」と説いている。

・初期仏教の経典のスッタニパータに
自己を洲(す)とし、自己を依りどころとして、他を依りどころとせず、法を洲とし、法を依りどころとして、他を依りどころとせずに、住せよ

「洲」のパーリ語は、ディーパであり、それはパーリ語が、大河の中に浮かぶ島あるいは庇護所を意味するサンスクリット語のドゥヴィーパに相当するこの解釈に基づく(現在の学会では、この解釈が正当とされる)。
しかしサンスクリット語には、上記のパーリ語と同じディーパという語があり、それに結びつけるならば、「あかり、燈明」となる。
先程引用したスッタニパータの箇所を漢訳した阿含経の該当箇所では
自燈明、自帰依、法燈明、法帰依(自らを燈明とし、自らを帰依とす、法を燈明とし、法を帰依とす)

・マントラ=マン(考える)+トラ(用具などを表す接尾辞)
=思考の道具。

般若心経の概要(梗概)。
観自在菩薩(観世音、観音菩薩)がまず登場し、般若ハラミツの実践において、ありとあらゆるすべて(五蘊)は空(無執著)であると明らかに観じ取り、一切の苦を離脱した。
そこで舎利子(舎利弗=しゃりほつ。シャーリプトラ)に呼びかけて、この空を五蘊のひとつひとつについていう。
すなわち、まず
色(いろ・かたちあるもの、物質として現象しているもの)に関して説く「色即是空、空即是色」。その大意は、ものと空との完全な一致にあり、ものがそのまま空であり、同時に、空であることがものをそのものたらしめて、そのものとしてあることを示す。
ただちに、五蘊のうちの他の四つ、
受(感受、感覚)、
想(表象、イメージ)、
行(形成力、意志)、
識(認識)について、空を反復し、生と滅、垢と浄、増と減のおのおのの否定がある。
同様に、
六入(眼・耳・鼻・舌・身・意)と
六境(色・声・香・味・触・法)と
六界(眼界~識界)、
十二因縁(無明~老死)、
四諦(諦=真理。苦・集・滅・道)という、
阿含経(初期仏教の経典)から部派を経て大乗仏教までの全仏教に通ずる基本的述語に「無」を付して否定し去って空を裏付け、ここではすでに智も得も所得も同様に無であり、こうして菩薩は般若ハラミツによって、一切の障害は消滅し、恐れもなくなり、転倒(てんどう。ひっくり返る)した思いから遠く離れて、仏教の理想の極致であるニルヴァーナに至り完成する。三世(過去・未来・現在)の仏たちもこの般若ハラミツによってはじめて、至上最高の「さとり」を得たと説く。そのあとに、当時すでに重要な役割を果たしたマントラ(真言。呪)の語を引き、般若ハラミツを無比で最高のマントラとしたうえで、呪を唱えて経を結ぶ。その呪の大要は、
「到達したものよ、到達したものよ、彼岸に到達したものよ、彼岸に完全に到達したものよ、さとったもの(あるいは、さとり)よ、幸あれ」という。

般若心経の空を従来の般若経の説明に引きつけて無執著と訳したが、この経の成立時にはすでにナーガールジュナ(龍樹)の空の理論づけが果たされているので「固定された実体を立てない」、さらには「それだけで存在すると見て固有の本体を有する、という考えから離れる」、と解釈したほうがふさわしかろう。
「絶対」の否定

般若+波羅蜜多=智慧の完成
六波羅蜜=六種の波羅蜜。
波羅蜜はパーラミター(=最上・完全・極致)の音写。
般若ハラミツ=智慧の完成(到彼岸)。
般若とは空
の思想。空の思想は大乗経典の般若経に終始一貫して説かれ、「こころにとどめつつも、とらわれるということがない」「とらわれない」「無執著」と解される。

・空のサンスクリット語のシューンヤは、インド人(人名も年代も不明)が人類史上はじめて発見した数のゼロの原語でもあって、そのゼロ(空)は単なる無でもなく、単なる有でもなく、同時に有でも無でもあり、また有でも無でもないという(例えば、102の0)、一見矛盾に満ちた多面性を発揮する。
ゼロが発見されなかったならばすべての自然科学の根底にある数学(近代数学)はその根拠を失ってしまう。ゼロの発見によって、例えばマイナス(負)の概念が明らかにあり、更に重要なことは十進法(じっしんほう)が成立し(言うまでもなくインドが最も古く、アラビアを経てヨーロッパに伝わるのは千数百年後)、また数学の基本である加減乗除が容易になった。その際、ゼロは加えても減じても、元の数に何の変化もないが、ゼロを乗ずればあらゆる数をゼロに変え、ゼロで割ることは一般には考えられない。
ゼロは日常のいたるところに溢れ、「空」も同じ。「空」によって私たちが現に生きている相対の世界はいちおう成立している。しかしその底には、その相対の世界そのものの否定が厳としてあり、その否定のゆえに、私たちのこの世界すべてはあくまで相対的である。


般若心経の訳例+解説
http://dic.nicovideo.jp/a/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C
“(これは、人智を超えた般若波羅蜜多についての心経である)

全てを識り、全てを見る聖者アヴァローキテーシュヴァラ(観音菩薩=観自在菩薩)は、深遠なる悟りを得る修行の中でこの世の五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊、後述)には実体がないことを明らかにした。この発見により、苦しみは全て解かれよう。

シャーリプトラ(舎利子、仏陀のもっとも古い弟子の一人)よ。この世の形あるもの全てに実体というものはない。実体がないままに形を作っている。形あるものには実体がなく、実体がない故に(あらゆる)形を得る。感じること・気づくこと・思うこと、そして知ること(これら心で作用すること全て)もまた同じだ。

シャーリプトラよ。全てのことに実体はないのだから、全ては生まれもせず、滅することもなく、汚れているということもなく、清らかであるということもなく、増えることもなく、減ることもない。

つまり、実体が無いこの世の真実の世界においては、全て存在しない。真実の世界においては、形作っているもの・感じること・気づくこと・思うことを知ることもなく、目・耳・鼻・舌・感触・意識(肉体で感じること全て)もなく、景色・声・匂い・味覚・ぬくもりも、その相手も、全て存在しない。眼に見えるものと、それによって心のなかで生じたことも、全て存在しない。これら存在しないものへの無知からくる悩みもない。けれどもその悩み自体は尽き果てることもない。この世では老いるということも死ぬということもないままに、老いも死も尽き果てない。苦しみなどない。故にこの世では苦しみを滅する道も、それを知ることも、得ることもない。得ることもないから、苦しみを知る者(菩提薩埵)は、この発見(般若)によって、こだわりをもたず、こだわりがないから、恐れもいだかず、全ての夢想からはなれて、静かなる心の世界(涅槃、ニルヴァーナ)へと至るであろう。

こうした過去・現在・未来(三世)の諸仏は、この深遠なる発見(般若波羅蜜多)によって、悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得る。

故に知れ。この発見(般若波羅蜜多)を述べるこの大いなるマントラ(まじないの言葉)は、明らかに、この上もなく、並ぶこともない呪(言葉)であると。全ての苦しみはこれにより解かれ、そこには真実のみがあり、偽りはない。
故にこの般若波羅蜜多の真言は、

羯諦 羯諦 (ガテー ガテー:往ける者よ)
波羅羯諦  (パーラガテー:悟りの境地に往ける者よ)
波羅僧羯諦(パーラサンガテー:悟りの境地を往った者が)
菩提     (ボーディ:"菩提"である。)
薩婆訶   (スヴァーハー:幸いあれ。)


これが真実の悟りの教えである(般若心経)。

(…)

※「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」は『大般若経』以外の経典から引用された陀羅尼(だらに、仏教的呪文)。陀羅尼は暗誦されるのが常だったため、翻訳当時でも正確な原意が失われていた。そのため、ここは音写に頼らざるを得なかった(日本語における「ちちんぷいぷい」みたいなもの)。世に散見される該当部分の解釈は梵語等からの類推であり、あくまで参考の域を出ない。
そもそも陀羅尼は何度も復唱することで無念無想の境地に至ることを旨とするため、その意味をあまり深く考えなくてもよいものなのだ


※五蘊とは仏陀死後100年の間に分裂した仏教(部派仏教)における世界観を認識する手法の一つで、人間の意識を構成する要素を5つに分けたもの。色蘊(人間の肉体や、それを構成する物質)・受蘊(人間が感覚すること、いわゆる五感)・想蘊(「受」で感覚したことで、出てきたイメージ)・行蘊(「想」のうえで、出た何らかの意志。「~したい」など)・識蘊(「受」「想」「行」を総合して出した判断)の5つである。般若心経ではこれすらも空としている。

(…)

般若心経が描いているのは、釈迦の目の前で、上座部仏教で最も尊い修行者である阿羅漢(あらかん、アルハン。「(崇敬と布施を受けるに相応しい)聖者」の意)の筆頭であるシャリープトラに対して、観自在菩薩が大乗仏教の「空(実体は存在せず、他との関係の中で現れて見えるということ)」の思想を説いている場面である。

その説では、上座部が悟りを得る上で重要視する十二因縁や四聖諦をも含む万物が「空」であり、したがってそれらに依らず、陀羅尼(掲諦掲諦…)を唱え全てが「空」であるという真実(般若)を感得する事(波羅密多)こそが最高の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)に至る道である、とされる。

そして最後に最高の覚者である釈迦が説法の全てを追認し観自在菩薩を褒め称える――つまり上座部を貶めて大乗を賞揚する内容となっている、というのが一般的な解釈である。
「空」とは何か? 悟りとは何か?

さて、般若心経の本質であり、有名な格言「色即是空 空即是色」。ここに説かれている「空」というものは一体なんであろうか。ちなみによく勘違いされるが、「空」は「無」と同義ではない。むしろ「無」ですら「空」によって成り立つ現象のひとつ(色)に過ぎないとされている。

長らく仏教界ではこの「空」を説明するのには多大な労苦が費やされてきており(折空観)、その最も良いテキストが『弥蘭王問経(ミリンダ王の問い)』の仏典だと言われている。ここではその考えを借用して、「空」をごく簡単に説明するのに、パソコンのたとえ話(方便)を用いるとしよう。

パソコンを例にとれば、デスクトップ型パソコンをバラバラに分解してしまえば、それはもはやパソコンとは呼ばれず、それぞれの部品にしても、最早「かつてはパソコンであった」パーツに過ぎなくなり、「パソコンという存在」は消えてしまう。また、パソコンのキーボードからキーを幾つか抜いてもパソコンと認識されるように、部品そのものにもその総体にもパソコンという一個のアイデンティティを示す実体があるわけではない。

だがしかし、一度バラバラにした部品をもう一度組み立て直せば、先程まで消えていた「パソコンという存在」は再び我々の目の前に戻ってくるのである。

ならば「パソコン」という概念は、一体全体どこの何を表現した言葉なのだろうか。ディスプレイだろうか? マウスだろうか? キーボードだろうか? HDDだろうか? あるいはもっと小さなICチップなどであろうか? 答えはいずれも否である。先に挙げたうちの、そのどれもが「パソコン」そのものではない。しかし、いくら否定したところで、パソコンというものがこの世に存在しているのもまた厳然とした事実なのである。では、パソコンとは一体何なのだろうか? パソコンとはこの世に「ある」のだろうか、それとも「ない」のだろうか。答えは簡単、「ある」とも言えるし「ない」
とも言えるのである。

つまり、"パソコン"と呼ばれるものは様々な部品がしかるべき因縁で組み合わさった中に垣間見える『現象(概念)』なのである。当然、部品やその集合体にパソコンという実体が存在するわけではない。したがって「無」というものも、パソコンを分解した途端に発生する「空」という本質の一側面に過ぎず(「空」⊃「無」)、パソコンは最初から「ある」とも言えるし「ない」とも言えるのである。「色」とは「現象」のことであり、「空」とはこの現象を引き起こす仕組みそのものを指しているのである

この考えを応用すれば、基本的にはこの世の森羅万象すべての実在を否定することが出来る(「空」≒「非実在」≠「無」 であることは、これでもうお分かりだろう)。

あらゆる事物の本質は、それそのものの実体とは別に存在し、そしてその本質は人が理解できない次元に存在する。これが般若心経の本質、「色(現象)即是(すなわちこれは)空 空即是(すなわちこれは)色(現象)」である。この世の本質も実体も、実は概念上の物でしかないのである。

その上、ブッダはこの「空」の考えを流用し、最終的には当時信じられていた魂の存在さえも否定するに至った。詳しい説明は省くが、ブッダは瞑想の末に、この世において輪廻転生を繰り返しているのは魂や霊ではなく、「自分」という潜在意識・記憶そのものにしがみつこうとする人の意志そのものであると看破した(法相宗の考え方がこれに近い)。この「自分という存在そのものへの執着」を捨てることが出来れば、転生するはずの「自意識」そのものが消失するため、人間は二度と生まれ変わることはなくなり、輪廻転生の輪から解脱し、何度も生まれ変わって苦しみ、傷つくことはなくなる……というわけである。つまり仏陀が夢想した原始仏教は、「二度と生まれ変わらないこと」を目的として生まれたのである


「悟り」とはつまりこのことである。ブッダは、人間が転生する仕組みと転生を信じる理由、そしてその転生の仕組みを生み出している人間の深層心理の構造そのものを「悟った」のである。

……と、このような考え方を会得する過程までが『悟りを得る修行』なのであって、悟った後はこの悟りを具象・抽象ひっくるめた万物に適用し、それを単なる知識を超えて感得しなくてはならないのであるから、大乗仏教とはいえ無上の正しい境涯に至る道は決してなだらかな訳ではない。つまり、「悟り」はすごろくの『上がり』ではなく、悟っただけではどうにもならないのである。そういうわけで、人は悟った後、今度はどのようにその理論に即して煩悩や執着を捨てていくか、という問題にぶち当たることになる。

そういうわけで、以後この「悟り」を得るための方法論は枝分かれし、その方法論の違いは本邦に多数の仏教宗派を生んだ。「個人の中に大宇宙を再現し、その中に涅槃寂静の境地を発見する」とする真言宗、「悟りは人間の誰しもの中に最初から備わっているのだから、それを修業によって引き出す」ことを目的とした曹洞宗、臨済宗などの禅宗などがその好例である。

ここまで熟読された方はもうお分かりであろうが、本来仏教は厳密な哲学的・論理的思考の下に成り立っている宗教であり、般若心経はそのための最上のテキストに位置づけられている。肉体的・精神的修行を重視する日本仏教の影響を受け続ける日本人は、この経文自体に霊的な力が内在しているとされていると誤解しがちである。しかし、般若心経は唱えれば何かが起こったり悪霊が裸足で逃げ出すといったまじないではなく、これ自体を意識することなく読唱したり写経したりすること自体にはあまり意味がない。禅宗などの言語を否定する宗派を除けば、あくまで論理的思考によってこの文章を理解し、釈迦の教えをよりよく実践することが悟りのための第一歩になるわけである。

この記事を熟読された皆様は今、まさに悟りの入り口に立ったことになるのだ。求道者たちよ、悟りと共にあれ。”

説話風の訳例
http://dic.nicovideo.jp/r/a/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C/233400
”《一切を知る方(釈迦)に帰命(きみょう。御仏の教えに身命を投げ出して帰依すること)する。》

<わたしはこのように聞いた。世尊(釈迦の尊称)が王舎城(おうしゃじょう。ラージャグリハ。古代インドのマガダ国の首都)にいらっしゃった頃、霊鷲山(りょうじゅせん。グリドラクータ山)を数多の比丘(びく。托鉢行者)と諸々の菩薩(菩提薩埵。求道者)を伴って遊行していらっしゃった。まさに世尊が深い悟りという名の深い瞑想に入られたその時、>

全てを知り全てを見るといわれる菩薩アヴァローキテーシュヴァラ(観自在)は、深遠な悟りの智慧を完全に成就する(般若波羅密多)修行の中で、この世の生き物を構成する五つの要素(五蘊。ごうん)には実体が無く(空)、各々との関係の中であたかも実体があるかように見えるに過ぎない、ということを明らかになさった。
【この悟りの智慧の極めにより、衆生の苦しみは全て解かれよう。(度一切苦厄)】

<すると、長老シャーリプトラ(舎利子。舎利弗(しゃりほつ)とも。「智慧第一」と称される、釈迦の十大弟子の筆頭)は、その御仏のお力を以てして、菩薩アヴァローキテーシュヴァラにこうおっしゃった。
「善男子(ぜんなんし。仏徳の有る男)ならば誰でも、深遠な悟りの智慧を極める修行を望むもの。そうした者には、どのように教えてやったらよいと想いますか?」
そのように訪ねられた菩薩は、長老へこのようにお答えになった。
「善男善女(ぜんなんぜんにょ)ならば誰でも、深遠な悟りの智慧を極める修行を望むものです。そうした者は、次のように明らかにしたらよいと想います。まず彼は、生き物を構成する五つの要素には実体がない、と見なしました。>

「シャーリプトラよ。この世の形あるもの全てに実体というものはありません。実体がないままに形を作っています(色)。形あるものには実体がなく。実体がない故に(あらゆる)形を得ます。感じること(受)、想うこと(想)、気づくこと(行)、そして知ること(識)、これら心に作用すること全てもまた同じです。

「シャーリプトラよ。全ての物事の本質に実体はないのですから。全ては生まれもせず、滅することもなく。けがれているということもなく、清らかであるということもなく。増えることもなく、減ることもありません。つまり、実体が無いこの世の真実の世界においては。形も、感じることも、想うことも、気づくことも、知ることも、五蘊(=色受想行識)は全て無いのです。

「目、耳、鼻、舌、感触、意識の六根(=眼耳鼻舌身意)全ても無く、景色、声、におい、味覚、触覚、想念の六境(=色声香味触法)も全て存在しません。目が有るということ(眼界)から、心が想うということ(意識界)にいたる十八界(=六根×(部位、対象、作用))も全て、有りはしないのです。

「十二因縁(苦しみの根源を説く12の因果の連なり)の最初である無知(無明)すら無く、しかるに無知がなくなることもありません。つまり十二因縁の最後である老いて死ぬ(老死)ということも無いままに、老死がなくなることも無いのです。四聖諦(ししょうたい。四諦とも。悟りの道を示す4つの真理。=苦集滅道)に至っては、あり続けることによる苦しみ(苦。八苦)などありませんから、苦しみを集める原因(集)である生への執着(渇愛)も無く、苦しみを消すために執着を捨てる事(滅)も、その為に行う修行(道。八正道を含めた七科三十七道品)もありません。

「つまり(十二因縁や四聖諦によっては、悟りの智慧を)知ることがありません。得ることもありません。得ることもないですから、菩薩はこの悟りの智慧の極みによっても、何のわだかまりも持ちません。わだかまりがないのですから、恐れもいだかず、全ての災難を乗り越えて、究極の安らぎの世界(涅槃、ニルヴァーナ)へと至ります。過去、現在、未来において菩薩は、悟りの智慧を極める事で、最も優れた正しい悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得るのです。

「故に知るべきなのです。この悟りの智慧の極みである大いなる聖句(マントラ。まじないの言葉)は、霊験あらたかな、この上なく、並ぶものなき聖句であると。全ての苦しみはこれにより解かれるのです。何故ならそこには真実があり、偽りなどありませんから。悟りの智恵を極める聖句とはこの通りです。

『羯諦(ガテー、着きしものよ)羯諦(ガテー、着きしものよ)波羅羯諦(パーラ=ガテー、彼岸に着きしものよ)
 波羅僧羯諦(パーラ=サン=ガテー、彼岸に辿り着きし者よ)菩提薩婆訶(ボーディ・スヴァーハー、悟りよ、共にあれ)』

<「シャーリプトラよ、深い悟りの智慧の修行では、菩薩はこのように教わればよいと想います。」
(菩薩アヴァローキテーシュヴァラがこう締めくくった)まさにその時、世尊は深い瞑想から立ち上がりつつ、菩薩へ讃辞を送った。
「いや見事、お見事です、善男子よ。深い悟りの智慧の成就に於いては、まさしくそのように修行を行ったらよいのです。あなたが示した事は、諸々の如来(仏陀(悟りを開いた者)の尊称)や阿羅漢(あらかん。聖者)も認めるところなのですよ。」
世尊は心からお喜びになり、そうおっしゃった。長老シャーリプトラと菩薩アヴァローキテーシュヴァラ、そして諸天(仏教に帰依したインドの善神族)、人間、阿修羅(仏教に帰依したインドの鬼神族)、乾闥婆(けんだつば。仏教に帰依したインドの精霊神族)をはじめとした全世界が、世尊のその言葉に喜んだのだった。>

これが、悟りの智慧の完全なる成就を説く、その心臓となる教えの書(般若心経)の完成である。”


摩訶般若波羅蜜多心経
http://www.nicovideo.jp/watch/sm304046



般若心経のサンスクリット版の歌
Imee Ooi - Mantras Of The Sanskrit
https://www.youtube.com/watch?v=OO1YbUUDBms



第七回現代仏教塾 「死後・輪廻はあるか」Ⅱ近代仏教学の「無記」の誤解・東洋大学名誉教授 森章司
https://www.youtube.com/watch?v=KnAKezi7pNo&feature=youtu.be
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コメント

考え方が仏教のほうが上に感じる。 それにキリスト教の神話は生け贄とか罰とか罪とか、たった一人の救世主で神様。そして、みんなのために死んだ。(吊るされちゃって、肉体亡くしただけ)みたいな感じで狂ってる。 (嫌いではない)

私が無知なだけかもしれないけど、アダムとイブ、カインとアベル、イエス man、最初からで「原初のカップル、不倫あり」、次に「初めての兄弟?(アダムたちの孫の孫の・・・らしい)」、そして、「神様、神の子、師匠」である。

何より不可解なのが、カップルがリンゴ食ったから追放、兄弟の兄に嫌がらせして悲劇からの追放、生け贄が亡くなって罪の肩代わり、改心させて終わり。だったはず。
一神教なのに創造主とキリスト、果物食べたから追放したのは分かる。けど、兄弟に食いもよこせからの、穀物要らねー、血肉じゃないならいらない、側のい生き物仕留めて、渡したら、激怒。
キリスト教か忘れたけど、バベルの塔からの試練。
本当全部同じ神様なのか、キリストなんの罪を背負ったけど、現実と物語では・・・
キリスト教の病みは深い

#- | URL | 2015.09.26 01:15  edit

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