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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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本居宣長のキリスト教と親和性が高い思想を改悪した平田篤胤の神道=和風キリスト教。 神道=和風に偽装する隠れキリシタンが名乗る宗教。                 神道・惟神・天皇・神器は道教用語であり、神道用語ではないので漢意の排除は不可能。  ∵一般的な日本人が考えるカミ≒仏。                       子安宣邦『本居宣長』の読書メモ。 

 【今回の総評】
神道家にとって道教と平田篤胤はアキレス腱。
神道・惟神・天皇・神器は道教用語であり、神道用語ではない
ので本居宣長がやろうとした漢意を排除する試み(神仏分離!)は最初から破綻
していますな。

「漢意はダメ! キリスト教神学と文字の捏造はOK!」の平田篤胤は学者失格だろ。

「日本の真の伝統である仏教」を排除した神道(道教用語)が日本の伝統って主張する、顔が日本人「に似ている」人達って、
仏教嫌いで真のキリスト教を主張するクリスチャンみたいだね!

伝統がないから偽伝統をでっちあげて、それにすがる矛盾した自称保守は、
聖書の登場人物は実在しないと批判するくせに、
聖書の登場人物が実在することが大前提の日ユ同祖論にすがる、
矛盾した(無自覚)工作員みたいですな。
日ユ同祖論者=宣教師。
日ユ同祖論とキリスト教の布教はセット。

【今回の登場人物と一言】(じゃない)
本居宣長
「日本最高!
一神教的多神教最高!
天照最高!
桜最高!」


平田篤胤
「日本以外はクソ!
中国思想と仏教は嫌いだけどキリスト教はOK!
だって聖書のアダムとエヴァの話は日本原産だから!
漢字は嫌いだけど、ハングルをモデルに神代文字を捏造するのはOK!
日本の疑似伝統を叫ぶ朝鮮半島人脈の和風キリスト教徒のお手本ニダ!
国家神道=天皇一神教の原案は私の神学!」 


……

クソはてめーだ平田篤胤!
国学をキリスト教の異端派の巣窟に変え、文字を捏造した似非学者め!

誰かこの二人の霊魂を憑依させて会話してくれないかなあ、
と思ったけど無理だろうから会話を予想。

本居宣長
「クリスチャン大喜びの思想だけど
俺は隠れキリシタンじゃねーよ!
おい平田篤胤、俺が死んだあとに勝手に弟子を名乗るんじゃねーよ!」

平田篤胤
本居宣長先生の思想はキリスト教に改造しやすかったです!」
会話以下省略というか強制中断。

【本日のビックリ情報】

神道関係者に対して神社本庁が1965年に行った調査で
「諸神の統一」という設問に答えたものは
86名。
86名の内、直接の回答を避けたのが34名。
残る52名中、
17名(なんと約32%強。大体3人に1人)が、
神道の多様性よりも一神性に強調点を置き、
そのニュアンスで多神の統一
という問題を理解している。
17名
の内
3名が汎神論的一神
14が一神即万神
と回答。
14名(一神即万神)
の内
6名は一神を天照大神
3名は一神を天御中主神
5名は一神の神名を特定しない。
(子安宣邦『本居宣長』、岩波現代文庫、2001年 より)

完全に本居宣長と平田篤胤の影響ですね。
明治以降、厳密には平田篤胤以降の神道=和風キリスト教
の資料を探していたらスサマジイものを見つけてしまいました。

↓と比べれば異常なのが明らか。
日本のキリスト教徒率は1% 首相経験者の13%はキリスト教徒
http://www.news-postseven.com/archives/20120604_113430.html

……
――子安宣邦『本居宣長』(岩波現代文庫、2001年)の
  読書メモ+コメント+補足情報のはじまりはじまり――

※本ブログの運営目的の一つが資料保存(オンライン・ストレージ)ですので、記事が長いのは当然と言えます。
 リンク元が突然消失しやすそう(強制削除されそう)なものはできるだけ載せております。
 特に、本ブログに来る人が興味を持ちそうなものを選んでおります。
「本ブログの超簡単な保存方法」カテゴリの記事をどうぞ参考にして下さい。

 「調べれば出る」と言うと「出ないじゃねーか! 嘘吐き工作員め!」ってうるさい奴が出て来るからね。
 出ないと文句言う人の多くは単に調査能力が低いせいである場合が多いような……


・「あめつちのはじめのとき、たかまのはらになりませるかみのみなは、あめのみなかぬしのかみ、つぎに……」
のような読みをなんともないように人は受取るかもしれないが、それは本居宣長による『古事記』の読み方にすっかり慣れてしまったから。
『古事記』のこのような読みは本居宣長が決めた。
『古事記』は全文漢字表記である。
現代の学者には、本居宣長と違う読み方をする人が実際にいる。

読み仮名がないので、本当にその読みが正しいかどうかは判らないのです。
母音記号であるニクダーなしのヘブライ語と同じです。
ヘブライ語は子音表記なので、都合よく読んで日ユ同祖論を捏造する宣教師
がいます。
詳しくは過去記事をどうぞ。

日ユ同祖論と中ユ同祖論の発明者は17世紀のイエズス会士ロドリゲス。          
同祖論はキリスト教の布教とセット。                        
日ユ同祖論を布教する陰謀論者=宣教師。                      
日ユ同祖論の英語版Wikiの一部を翻訳し解説

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-83.html


・「神典(かみのみふみ)」を解き明かす為には、まず
“からごゝろを清くはなれて”
=漢意(からごころ)を排除して、古のまことの意(こころ)をとらえようとしなければならない

(神典〔宣長にとっての聖書が古事記〕の真の意味を明らかにするため、
漢意=異国の思想を排除って要は、異教の排除。
お前はキリシタンか!

神道・惟神・天皇・神器は道教用語であり、神道用語ではないので、
「純粋な神道」なんて存在しません。
古神道って要は単なる自然崇拝なので日本列島特有ではありません。
真の意味を明らかにしたいなら道教文献と比較する方がいいんじゃないの?


平田篤胤は漢意は嫌いだけど、キリスト教意はOKって完全にバレテンの手先じゃないか。
平田篤胤の純粋な神道=キリスト教化された神道。
平田篤胤って本居宣長の思想がキリスト教化しやすい内容だったから弟子を名乗っただけなんじゃないの?


yagian ‏@yagian 2010年5月28日
子安宣邦「本居宣長」読了。子安先生によれば、本居宣長の「カミ」解釈には、天照大神を中心とした一神教的性格がある。キリスト教の影響も受けた一神教的な近代の国家神道に、本居宣長の「カミ」観が接続するとのこと。やっぱり本居宣長は日本近代の出発点の一つという思いが深くなる。

本居宣長は面白いですねぇ。いずれ、平田篤胤にも手を出そうと思っています。
RT @icchan0000 宣長の「一神教的性格」が近代天皇制を準備したという指摘。興味深い。ちなみに子安宣邦先生は宣長の『古事記』の読み方にキリスト教徒の聖書への姿勢を重ねている。

resurrection ‏@neomanichaeist 2011年5月25日
国学イデオロギーが明治時代だけでなく、今日の時代を毒していると思う。もっとも、封建制と一体となったそれである。 @neomanichaeist 国学について批判したら、ファロアーが減ったが、一言言うべきは、国学は本居宣長、平田篤胤においては一神教であったことである。

国学について批判したらファロアーが減ったが一言言うべきは、国学は本居宣長、平田篤胤においては一神教であったことである。私見では、これが尊王攘夷運動を生み、明治国家生んだのである。本来、多神教の天皇制が一神教となり、明治国家以降の日本を生んだ。国学一神教イデオロギーに注意すべきだ。

Sattimo ‏@sattimo 8月17日
知人の明治時代に廃仏毀釈で廃寺になった寺の住職の子孫の方が言っていた。「日本史は神道と仏教の相克の歴史。神道が強くなると戦闘的になり、対外膨張的になる」。小生は正しいと思わないが一理ある。ただ一神教的皇国史観の歴史はたった百数十年。本居宣長・平田篤胤・長州藩閥イデオロギーから。)


・本居宣長の「神典のままに」という言説、排他的で専断的な言説の臭気に、もっとも鋭敏に反応したのは上田秋成。

上田秋成はオランダの地球図を挙げて言う
“秋成)「文字以て(日本と)事理の通ふ国は少にして、其余は国号をさへ聞知らぬが多く、しかも地形広大なるが見えたり。此図(世界地図)中にいでや吾皇国 は何所のほどゝ見あらはすれは、たゝ心ひろき池の面にさゝやかなる一葉を散しかけたる如き小嶋なりけり。然るを異国の人に対して、此小嶋こそ万邦に先立て 開闢(かいびゃく。世界の始まり。天地の開け始め。)たれ、大世界を臨照まします日月は、こゝに現しましゝ本国也、因て万邦悉く吾国の恩光を被らぬはな し、故に貢を奉て朝し来れと教ふ共、一国も其言に服せぬのみならす、何を以て爾いふそと不審せん時、こゝの太古の伝説を以て示さむに、其如き伝説は吾国に も有て、あの日月は吾国の太古に現はれましゝにこそあれと云争んを、誰か截断して事は果すへき」”
(日の神論争(ひのかみろんそう)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%AB%96%E4%BA%89より引用。

上田秋成は本居宣長は
夜郎自大
=自分の力量を知らずに、いばっている、
だと言いたいのでしょう。
今風なら右翼乙。
私風ならキリスト教原理主義乙、生長の家乙。

持ち上げられている歴史上の人物って支配層✝に都合がいいことを言ったやつばかり

酔鏡仙@3/29八雲幻想祭 ‏@suikyosen 2012年10月27日
子安宣邦先生がどこかで書いてはった事だけど、本居宣長という人は明治以降の日本人から非常に愛された人物なのだとか。というのも、戦前の教科書には宣長とその師匠・賀茂真淵との出会いを描いた「松阪の一夜」が必ず載っていたから、だとか


朧 へむれん ‏@tenguramount 2013年3月2日
「雨月物語」の上田秋成は国学者として本居宣長と激しく論争、宣長の説を「いなか人のふところおやじの説」と揶揄した #文豪の逸話下さい下さい是非下さい 
結局『珂刈葭』だと日の神論争は「いなか人」が勝っちゃうんだけどね。でも『珂刈葭』編んだのも宣長だしなあ。

松井一郎 ‏@ichiromatsui 2012年2月21日
「本居宣長は神武紀の天孫降臨以来179万2470余歳という紀年について「いくら何でもそれは無い」という意見に対し、古代のことを今の人の尺度で測るべきでないと批判。上田秋成に「その批判は正しいが古代人なら八百万の神のようにもっとザクッとした数え方をするはず」と言われて一本まいる」

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 2015年5月28日
今、ケルトの本を読んでるけど、なんか嘘臭いぞ。この本を読んでてわかったのは、欧米ってたかだか個人の学説を可能性のひとつじゃなくて、絶対の真理って妄信するとこがあるよな?これは理性崇拝もそうなんだけどピラミッドがクフ王のやつだっていう主張もそういう耶蘇教的な何でも妄信のように見える

欧米の学会とかでもさ、あからさまに無理のある学説だって、学説なんて可能性のひとつにしか過ぎないのに、「これが真理!」とか言ってそれ以外を認めようとしないってあるじゃん。これって、耶蘇教世界のさ、耶蘇教以外は一切異端も認めないという姿勢と変わらないんだよ。学問の姿勢からはおかしいよ

世間に信じられてるピラミッドはクフ王の墓だったという説だって、よくよく調べてみたら随分と貧弱な論拠なのがわかるわけですよ。でも世間ではそれ以外認めないって姿勢じゃん。これを見てわかるのは、耶蘇教的社会システムって耶蘇教が滅びてもしっかり機能してるのが怖いっす!水のように染み渡って

この耶蘇教的な「○○は真理。○○以外は認めない」って姿勢はさ、西洋医学以外の治療法を迷信とみなしたり、学校以外の教育を教育と見なさない偏狭さとしてモリモリ機能してるじゃあるまいか?形を変えて耶蘇教システムはしっかりと世界中に水のように染み渡ってるのであります。

このあたりを突き詰めていくと、イエスが金貸しをdisってるのに資本主義を妄信してるプロテスタントのクリスチャン陰謀論者とか、そういうのとオーバーラップすんだよね、大ピラミッドはクフ王の墓だと妄信してる連中とさ。教祖よりも神学者の言葉が絶対って何なのさ?このあたりが謎だわ。

まあ、2ちゃんねるで暴れてる耶蘇教臭い在日右翼は、プロテスタントといっても韓国系だったり、異端だったりするんだろうね。まあ、おいらにとっては正統だろう異端だろうが同じ事だけどね。耶蘇教システムの社会での浸透具合まじでヤバイよ?ここを打ち破らないと支配され続けるよ?

まあこんなにも、耶蘇教的思考が隅々までに染み渡ってるヌッポンですが、普通の人はそれを認識することができない。それを手に取るように認識するにはどうすればいいだろう?おいらは同じ一神教の世界であるイスラーム世界に対する知見を得る事を推奨しております。比較する事で見えてくるものが多い

・本居宣長は『古事記』から一神教的な神格を読みだしていった。
それはまず「産霊(むすび)の神」であり、
そして「天照大御神」である。

・“さてすべて迦微(かみ)とは、古への御典等(みふみども)に見えたる天地のもろもろの神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其の余(ほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云ふなり。
【すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさを)しきことなどの、優れたるのみを云ふに非ず。悪きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云ふなり。さて人の中の神は、先づかけまくもかしこき天皇は、御世々々みな神に坐すこと、申すもさらなり】(『古事記伝』三之巻)。“p.212

(一神教的でも、まだ多神教要素が強い神の概念。
古文を勉強しておいて心底よかったと思いました。

knznymmmy ‏@knznymmmy
今の日本の自称「伝統」は明治以降に捏造されたものが多い
皇室行事も明治以降に新設されたものが多い


【定期】 皇族や桜に潜む日本のイカサマ疑似伝統 Read: http://tl.gd/n_1sli516
http://www.twitlonger.com/show/n_1sli516
http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/1668/1/kokusai_8_1-22.pdf
「日本の疑似伝統」


今回はこのPDFの内容をダイジェストで紹介しつつ
私がぐぐって見つけた内容も加味して、日本の自称「伝統」が明治以降に捏造されたものである
という事を説明したいと思う。

例えば皇室行事も明治以降に新設されたものが多い。
皇居の宮中三殿=賢所、皇霊殿、神殿。天皇の伊勢神宮参拝。
これらすべて明治以降
の話である。
天皇の親祭する13の祭典のうち11は明治以降に「新設」された。
皇族が儀式で着る服も江戸時代までは唐服だった。
今皇族どもがもっともらしいツラして着てる服は明治以降に着始めたもの。
それが平安時代のデザインを踏襲していようが何だろうが
明治になって大慌てでデッチ上げたイカサマ伝統文化って事には変わりない。
日本初の神前結婚式は1900年の皇太子の結婚式。
ちなみに元ネタはキリスト教


皇族みたいなウンコ野郎はどうだっていいんだが
桜の花の文化も明治以降に改竄されまくりんぐ。

「花は桜木 人は武士」は江戸時代からよく言われた言葉だった。
しかしこれは「桜ってキレイだね」程度の意味でしかなかった。
べつに桜が日本の心を象徴するとかトンチンカンな事は誰も言っていなかった。
その証拠のひとつとして「桜」は家紋としてはマイナー
である。
有名な大名で桜を家紋に採用したのはせいぜい細川氏ぐらい(細川護煕の先祖)
しかも「替え紋」=「細川桜」でしかない。細川の家紋と言えば「細川九曜」が基本。
(注:昔の大名は家紋を複数持っているのが常識)

http://kamon-db.net/portfolio/hosokawazakura

http://www.harimaya.com/kamon/column/sakura.html
>武家の中では珍しかったことから、細川管領家の「物好きの御紋」と伝えられている。
>武士は桜の散り際の潔さを愛でながらも敬遠したようで、武家で「桜紋」を使用する家は多くない

ほらね。悪趣味とまでは言わないまでも、微妙に変態扱いされてるのだ。
ところがそこからアサッテな方に発展して「桜が散るのは美しい」だの
「潔く散るのは日本人の美意識」だの言いだしたのは幕末の混乱期の話だ。
このへんは桜オタクの本居宣長の影響も大

例えば「敷島の大和心を人とはば朝日に匂ふ山桜花」

ちなみに本居宣長、平田篤胤と言えば、師匠も「こいつらバテレンだから要注意」と言ってる
https://twitter.com/mkmogura/status/549536431673061377

そもそも「桜=散る」というイメージは ソメイヨシノのせいで定着した。
(それまでの山桜より散りやすい)
そして全国各地にアホみたいにソメイヨシノ植えまくったのは明治以降の話。
明治と言えば帝国陸軍の記章が桜に決まり「桜のように散れ=死ね」
だの何だの言い出して
アホンジンがバカをこじらせた時代でもある。

ちなみに「花見」とは 元々田植えのシーズンを判断するために「花を見ていた」という意味。
つぼみを見て、「あー、そろそろ準備しなきゃなー」とか
花の咲き具合を見て「おっ、今年は豊作かもしれないぞ」とか
そういう意味で「花を見ていた」というだけの話。
今みたいな飲み会、宴会としての花見は伝統としては薄っぺらい

・・・ていうかぶっちゃけ 花見と聞けば騒がないと気がすまないメンタリティーって
・・・これ朝鮮人の発想だよね

尚、冒頭で紹介したPDFには「国家神道という言葉は1945年になって初めて使われた」と書いてあるが
wikiを見ると明治41年には既に国会答弁の中に「国家神道」云々という言葉が出てきていたとの事例が紹介されている。
PDFの作者がどういう意図で書いたのか、若しくは単に間違えただけなのかそのへんは不明。
まあ、明治あたりから日本文化がメチャクチャにされた点とか
そのメチャクチャの中には桜も含まれる点とか
重要部分には関係の無い話なのでとりあえずスルーしておく

おまけ。PDFの中にこういう一文が出てくる。

>明治天皇は国民を「赤子」と呼び
>自らを「慈父」にたとえた


これをバテレン的に解釈したらどうなるか分かるかな?

回答例。
神=父というのは聖書の基本的な比喩
「父御子御霊」とか「アバ父よ」とか。
「主の祈り」だって「天にまします我らの父よ」で始まる。

赤子ってのは例えば 「幼な子のようにならなければ、天国に入る事はできない」 マタイ18-3


knznymmmy ‏@knznymmmy 4月2日
ちなみに本居宣長、平田篤胤と言えば 師匠も「こいつらバテレンだから要注意」と 言ってる
https://twitter.com/mkmogura/status/549536431673061377 …
明治以降は帝国陸軍の記章が桜に決まり
「桜のように散れ=死ね」だの何だの言い出して
アホンジンは桜オタク病をこじらせる事になる

村手 さとし ‏@mkmogura 12月29日
キリスト教での創造神を、カトリックは主(しゅ)、プロテスタントは神(かみ)と呼ぶ。カトよりではなく、神というプロよりで日本は神道という嘘が作られたということ。国学の基礎、本居宣長、平田篤胤はキリ教徒である。 これは、今の日本、米系メーソンと欧州系メーソンの勢力図そのままである。

〔本居宣長はキリスト教徒とまで言えないと思いますが、
思想がキリスト教と親和性があり過ぎるのは確か。
平田篤胤はキリスト教徒ですけど〕)


・“ 神社本庁が一九六五年に神道関係者に対して神道教義をめぐってした調査がある(1)。この調査結果をめぐる上田賢治氏による論評にしたがえば(2)、調査対象三百名中、回答を寄せたものは約百二十名で、この数字は神社界における教義問題への関心の薄さを示していると氏は言う。さらに「諸神の統一」という設問に答えたものは八十六名であるが、直接の回答を避けた三十四名を引いた五十二名が何らかの形でその設問に答えたものである。その五十二名の回答の内容を、「神道が多神教であることを認めたのは三十五名、六十七%弱、その中、諸神に統一を求めることが不可能だとした者をも含めて、ただ多神であることだけを述べた者が八名、他の二十七名が多神に統一のあることに触れ、特に十二名は天照大神がその中心にあることを述べている」と上田氏はまとめている。設問の「諸神の統一」に肯定的に答えたものは回答者のわずか%であったという。しかし氏が神道界にとって深刻だとするのはその数ではない。「深刻さは、しかし、むしろ次のような事実の中にある。即ち、八十六名の回答者中、十七名が、神道の多神性よりも一神性に強調点に置き、そのニュアンスで多神の統一という問題を理解している事実である」と上田氏はいう。この数字はなぜ神道界にとって深刻な問題を提示するものなのか。なぜなら、「一神教的発想は神道に非ずとされなければならない」のに、直接回答者五十二名中十七名、三十二%強のものが「神道信仰の一神性を説いている」(3)からだと上田氏はいうのである。
(…)
上田氏はまた氏の務める大学での「神道概説」の講義にあたってその必要から新入生に対して実施した口頭質問による調査の結果をめぐって書いている(4)。「神とはどのやうなものだと思ふか」という質問に、「絶対的なもの・超越者・全能者・世界を支配するもの・創造主・救主etc」と回答したものが全回答者二百十九名の約二十二%四十八名もいたというのである。日本の神は西洋的神とは異なると答えた二十二名と対比して氏は、日本の学生は「神」を思うとき、「二対一で、キリスト教的な神を想つてゐる」と記している。
さらに「神などゐない」と答えた九十三名のほとんどが「西洋的無神論」の影響下にいるものと想定されるから、実に六十五%近くのものが「神」について「西洋型発想をしてゐる」と上田氏は書いている。「神道概説」の講義がなされる神道系の大学にしてこの数字であれば、他大学での数字はいっそう大きくなるであろう。
”p.206-208

“(1) 昭和四十年(一九六五)に神社本庁は代表的宮司・神道学者・神道人三百名を選び、神道教義を中心にアンケート調査を行った。その調査結果は『神社審議会アンケート』の表題で昭和四十四年に出版(非売品)されている。ここに引く調査結果は上田賢治氏が著書(次註参照)でまとめられているものによっている。
(2) 上田賢治『神道神学論考』(大明堂、一九九二)。第一章「組織神学構築のために」Ⅰ「神道信仰に見る唯一神的傾向」。
(3) 興味深いので上田氏によってまとめられたその内訳を示そう。十七名の回答者の中、三名は汎神論的一神十四名は一神即万神の立場を主張している。後者のうち一神を天照大神とするもの六名、天御中主神とするもの三名、他は神名を特定しない。
(4) 上田賢治『神道神学』(神社新報社、一九九〇)。”p.221

(神道の教義が本居宣長と平田篤胤思想であり、
神道=和風に偽装した隠れキリシタンが名乗る宗教
である証拠がまた一つ。
和風キリスト教製の神学校=神道学校
で学ぶからキリスト教っぽくなっています。
汎神論的“一神”だとか“一神”即万神
“一神”って発想自体が一般的な日本人にはありません。
一般的な日本人が考えるカミって殆ど仏ですよ。

本居宣長の神道=一神教的多神教。
平田篤胤の神道=和風キリスト教。
大本教=キリスト教


大本教の聖師である出口王仁三郎は、
誠の神はただ一つで、真なる唯一神以外の他の神々の正体はすべて天使だと主張。
だから大本教は一神教


神社本庁がどんな組織かは過去記事をどうぞ↓

”だいたい水戸黄門の水戸学と平田篤胤=ファシストの元凶のせい。           
大本教(聖書肯定のスウェーデンボルグ思想)や                   
国家神道など「神道」のほぼ全てが平田篤胤の和風キリスト教の強い影響下。                         
神道事務局                                    
(神道大教の前身。初代管長が稲葉正邦=平田鐵胤の弟子)               
⇒皇典講究所                                    
(國學院大學と神社本庁が継承。神職試験が平田篤胤説。大本教の出口王仁三郎が学ぶ)                                           
⇒神社本庁                                    
⇒神道政治連盟・日本会議・生長の家(大本教派生)
。                                                                                                  
日ユ同祖論もユダヤ陰謀論もイシヤ=フリーメーソン陰謀論も大本教が黒幕。      
RAPTはキリスト教系
なので注意。 ”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-74.html


habotan ‏@bunkazai 2010年8月4日
平田鐵胤は平田篤胤の養子(養子が先で後に娘婿)。篤胤といえば"天狗少年"仙童寅吉の不思議体験を記した『仙境異聞』。しかし、平田国学が篤胤や弟子達によって幕末の日本各地に広まり、土地の実力者兼富裕層の支持を得て倒幕運動の支えとなり、新政府にも影響を及ぼしたことはあまり出てきません。


・“桂島宣弘氏が詳しく論じているように、国学者における神道教義体系の、あるいは祭祀体系の中心的な主宰神をめぐる論争は、明治政府の神祇政策に力をもった大国隆正の主張にしたがって天照大神を中心的な神とすることに決着する(6)。
ここから皇祖神天照大神を中心として神々と神社を序列化した国家神道の体系が成立してくる。
ところでこうした方向、すなわち上田氏が「神道の一神教化」
と呼ぶような方向は、ある国学者たちがもった神観の影響化に成るものと理解してよいだろうか。
いまここで挙げた大国隆正の「天照大神」観が意味をもったのは、それが国民教化策として要請された国家神道の形成に応えるものとしてである。
宣長の『古事記』から語り出すことばが高く評価されるのも、それが近代日本の皇国的同一性(アイデンティティー)の形成に早く応えるものであったからである
「神道の一神教化」とは近代国家としての日本の要請である。
それは決して神道固有の多神性を忘れ、ゴッドの影響化に「神」の主宰神化を進めた国学的神道者のせいにされることではない。”p.211

国学的神道者のせいだろ!
大国隆正は和風キリスト教徒の平田篤胤の弟子だよ!


国家神道=キリスト教(の異端派)。
(明治以降の)神道=和風キリスト教。

あなたの神道に対するイメージに
①現人神=天皇崇拝
②神道家の天皇が明治以前から信仰している伝統
③天皇は神道用語
の内一つでも入っているなら洗脳されていますよ


初詣イベントなどの娯楽は支配層が用意するもの。
パンとサーカス


子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 5月22日
明治以降に神道に対するイメージを和風キリスト教にすり替えた。
∴明治以降の神道=和風キリスト教。
あなたの神道に対するイメージに
①現人神=天皇崇拝
②神道家の天皇が明治以前から信仰している伝統
③天皇は神道用語
の内一つでも入っているなら洗脳されている。

キリスト教視点では
日本の真の伝統
=仏教
=無神論
=悪魔崇拝。
∴仏教用語だらけの日本語は悪魔の言葉。
仏教国教時代の神社では神仏を区別せず拝んでいた。
明治以降は神社では仏=悪魔を拝むなとなった。
”誠の神様はただ一柱”の大本教
=和風✝も仏教が大嫌い


廃仏毀釈=魔女狩り。
仏教国教時代は仏は神より格上。
仏優位の神仏習合により神を仏化。
神社を寺化。
神仏習合政策は神と仏が対等ではない。
仏教国教時代の天皇は仏教徒で、伊勢神宮に参らなかった。
神道・惟神・天皇・神器は道教用語であり、神道用語ではない


風の子  ‏@makeanovel 5月21日
初詣もインチキだってそこで終わる話じゃなくて、そもそもなぜ神道がでっちあげられた?キリスト教勢力に?なぜ?ザビエルが日本にやってきて、そのあと倒幕やら開国したけど、倒幕をした薩長とかの背後にキリスト教白人勢力が?みたいにつながる話として考えると、うわー!みたいな。。

クリスマスもデタラメ、日本じゃ神道も神社も初詣もデタラメだったってことですよ、みなさーん・・・!!
RT @kitsuchitsuchi 初詣は、神社勢力(和風キリスト教の戦争屋)の資金集めの為に明治中期に成立した創られた伝統。 参詣客が増えたのは鉄道という交通網の発達のお陰

恵方巻なんて超絶アヤシイモノが普及するわけないと思ってたけど、気がついたら市民権得てるでしょ。初詣にほとんどの人があやしまず今日、行ってるで しょ。歴史は簡単に塗り替えられることをしみじみ思う。。って感じ。そして私の祖父母の戦争の記憶も3世代で消失しつつある。。

菊池 ‏@kikuchi_8 8月1日
33)平田派の系譜から大本教が出、各種神道カルトの源流を成している。出口王仁三郎は恐らく平田派の教学の影響も強かったであろう明治期の皇典講究所で学んでいる。また幕末期に平田国学を学んだ本田親徳の鎮魂帰神法の影響を色濃く受けている。平田派と大本系神道カルトはかくして接続している。

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya
出口王仁三郎って、今の國學院(その当時は皇典講究所)で学んでるのに神道は耶蘇教じゃないってよー言えるよねぇ?平田篤胤の影響をモロ受けてるのに、神道は耶蘇教じゃありませんって!平田篤胤、どう見てもカトリックの影響受けてるだろーが!?デウスを神と訳したのも太平天国の漢訳聖書とリンク

天御中主神ナントカってやつ、大本のテバサッキーじゃね?こいつらがさも当たり前のようにTwitterではのさばってて、自らのカルト性に気が付かないとはな(笑)あっ、ここは大本教のお庭か。

天之御中主神ってHNの人がいるけど、それ大本教の神なんだよね。そいつ以外はみんなエンジェルでござると出口王仁三郎が言ってる。これって中国の上帝信仰を和風にしただけだったりして?w)

國學院で教えられる教学が平田篤胤のやつなんだねー。ハングルはヌッポンが作ったニダ!ってやつか。http://mjk.ac/4Bp9sm このリンク先に出てる大嘗祭の細部って、なんかバラモン教みたいだよねぇ?大嘗祭に食いついた折口信夫(国学者)は天皇は秘儀参入者だから偉いみたいな

ネット上でよく見かける、天皇は大嘗祭で秘儀参入を受けたから偉いんだああああ!という話の元ネタって平田篤胤かよ!?折口信夫も共犯者な。天皇は秘儀参入者だから偉くって現人神だから世界を支配する権利があるというレトリックはフリーメイソンがでっち上げたエセ耶蘇教からしか出てこないよね。

引用「復古神道=神道風味モルモン教説: 平田篤胤はイタリア人宣教師マテオ・リッチが書いた中国語のカトリック教理書を剽窃して教義にしたからというのがキリスト教側の研究から立証されています。復古神道はキリスト教の異端であるという説です。」http://mjk.ac/4Bp9sm


モルモン教の飛鳥昭雄が天皇崇拝してる理由ってさ、(戦前の耶蘇教教会の父と子と天皇陛下か?ww)平田篤胤や出口王仁三郎などの成立プロセスがまんまモ ルモン教と同じであることとリンクしてるよねー?恐らく作者が同じだからこそシンパシーがあるのだと思うんだ。そいえば、船井も神社の家の出身

メモメモ。平田篤胤の仏教アンチ→神仙思想とのシンクレティズム→漢訳聖書→太平天国→天皇崇拝と繋がるのか。明治以降から日本を動かしてるロゴスは複雑 怪奇すぎますです。アンチ清王朝の流れからプロテスタントの孫文や明教や弥勒教の連中があぶり出せそうだな。アンチ清王朝は調べる価値あるぞ。

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi
✝の平田篤胤の本教外篇より 本教=和風キリスト教=神道。
平田の弟子の大国隆正も本教を主張。
大国の弟子が 福羽美静(明治天皇の侍講) と玉松操(岩倉具視の腹心)

大本教は大本と名乗り  
 本教を隠す。
大本教系の日月神示の元ネタの一つが
平田篤胤の神字日文伝(神代文字を捏造)。

@lanekota 国学≒蘭学。
天皇家が関わる万葉集は漢字表記(日ユ同祖論は嘘)。
契沖は真言宗僧侶で徳川光圀がスカウト


国学の四大人
荷田春満(伏見稲荷の神官)
賀茂真淵(春満の姪が妻。春満門下)
本居宣長(伊勢出身。真淵門下)
平田篤胤(和風クリスチャン。宣長の没後門人)

猫太“うわーキリスト教くさいですのー”
“みっしょんいんぽっしぶる!キリスト教信者ってニコニコしながら支配する気と見下し感半端ねぇ。
曽野綾子とか。その感覚が日本的でない”

平田篤胤→大国隆正→福羽美静→明治天皇
大国隆正→玉松操→岩倉具視
✝の平田篤胤の本教=和風キリスト教=神道


平田篤胤の復古神道はキリスト教のパクリだと…
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10110021760
“平田篤胤の復古神道はキリスト教のパクリだという話を聞きましたが,これって本当ですか?
宮中祭祀は神道の復古というよりも神道風味のモルモン教みたいなものでしょうか?
(…)
1.はい,パクリです。「天皇陛下」を現人神とする復古神道の教義は江戸時代に平田篤胤がご禁制のカトリック教理書を剽窃してでっち上げた謬説だからです。

2.聖書の三位一体の創造神は「造化三神」として古事記にも記録さているからです。天照大神は末神なので比較対象になり得ません。

3.徳川慶喜はカトリックを革命思想として開国を考えましたが、伊藤博文・大熊重信ら攘夷派はキリスト教を恐れ、儒教も仏教も教派神道でも欧米列強に対抗 できないと考えました。そこで欧米のカトリック神学に古事記の神々を接ぎ木した平田の人造神道に飛びつきました。日本が戦争に勝ったなら貴殿に一理ありま すが、現実は逆になってしまいました。

説明:根拠は「大嘗祭」です。
実は平田篤胤の復古神道、これが皇室祭儀の教学であり、國學院で教える神道教義
になります。

■「天皇」とは何者か?
「大嘗祭」において皇太子は母神「天照大神」と同衾します。同衾により「天皇霊」が皇太子に宿り、初めて「天皇」になる。つまり、天皇の本質は「天皇霊」 にあるという訳です。皇太子は人だから死にます。しかし天皇霊は霊だから不滅です。こうして天皇霊は神武天皇の時代から今日まで「万世一系」続いてきたと いう新教義です。

キリストは何者かを説く教義を「キリスト論」と言いますが、その中に「養子論」という異端の教説があります。それは普通の人間イエスが聖霊を受けたのでキ リストになったという異端です。これを、イエス→皇太子、聖霊→天皇霊、キリスト→天皇と置換し、父なる神→母神天照大神と置換した教義が皇室祭儀
になっ ています。
下記、ⅰ→ⅱですね。

イエス+聖霊=キリスト・・・・・・ⅰ
皇太子+天皇霊=天皇・・・・・・ⅱ

三位一体の神道神:
平田国学では神道神は三位一体になっています^^

①キリスト教:父なる神、子なる神、聖霊なる神
②復古神道:母神天照大神、天皇、天皇霊


キリスト教は、父神、子神、聖霊は、同一本質とされ、その中の誰が一番偉いとは言いません。同様に考えるなら、
平田神道も、母神、子神、天皇霊は、同一本質とされ、みな同格の偉さということになります。

■復古神道=神道風味モルモン教説:
平田篤胤はイタリア人宣教師マテオ・リッチが書いた中国語のカトリック教理書を剽窃して教義にしたからというのがキリスト教側の研究から立証されています。復古神道はキリスト教の異端であるという説です。
モルモン教は父も子も聖霊も元人間なのに神になったと教えます。天照も天皇も天皇霊も元人間ですからキリスト論的には同一構造ですね。
平田国学は神道版モルモン教の異端!不遜にも天皇を反キリスト扱い?
(…)
有名な話です。
http://repository.aichi-edu.ac.jp/dspace/bitstream/10424/135/1/kenj...
平田篤胤以後の後期国学のなかにキリスト教の影響
があることは,日本思想史学の創始者,村岡典嗣の衝
撃的な論稿以来,広く知られている(1)。かつて村岡は,
平田篤胤が『本教外篇』にカトリック教義書を密かに
書き写していたことを暴露し,彼の幽冥観のなかにキ
リスト教の影響があることを論証した。
そればかりか,
幕末にいたると,プロテスタントの漢訳教義書が入っ
てきて,国学者はそれか
らの影響をも受けるように
なった
,と村岡は論じた。”

菊池 ‏@kikuchi_8 1月10日
前 記のアリス・ベイリーのように「世界を一つに」と言う者達には注意が必要である。美辞麗句の裏に隠された暴力性を見抜くべき。よく考えてみて欲しい。「世 界を一つにする」とはそれまでに存在した多様なものは破壊されるということである。一民族一文化が滅んでも大したことではないという発想だ

菊池 ‏@kikuchi_8 1月10日
@iseakira ワールドメイトは大本教の流れだと思います。新興宗教系の「神道」というのは、遡ると大本教に行き着くと思います。さらに遡ると平田派神学で、平田篤胤が 「創造主」という概念を自らの神学に取り込んだことにルーツがあるように思います。その系譜から神道系カルトの流れが。

iseakira ‏@iseakira 1月10日
@kikuchi_8 平田派は普通にカルトですからね。耶蘇書から盗用も分かってますし、本居などのように純神道を志した人物ではなく山師という評価です。維新に与えた影響はありますが、これとて太平天国や東学党のような革命の扇動にカルトが重要な影響えお与えるといったよくある構図かと。

菊池 ‏@kikuchi_8 3月18日
村岡典嗣という学者が平田篤胤神学への耶蘇教の影響を指摘している。國學院大の学長を務めた神道学者も篤胤は早くからキリスト教知識に触れ、「万物の主宰神」という考えを持っていたと指摘しているので「平田篤胤は耶蘇教の影響を受けた」というのは神道学界では一般的な認識ではないかと推測する。

菊池 ‏@kikuchi_8 1月10日
@iseakira はい。村岡典嗣という学者が平田篤胤の思想とキリシタン教学の影響関係を論証しています。私もまったく同じ評価です。宣長先生の神の定義を見ると縄文アニ ミズムを根源とする本来の神道のそれだということが明確ですね。本居派(鈴屋派)は平田派をかなり嫌っていたと聞きます。

@iseakira そう思います。支那の革命期に跋扈してくる白蓮教のような宗教カルト現象に近いものはあると思います。平田派は尊皇攘夷を掲げていますが、その神観に洋夷 的なものが入り込んでいるわけで本当の「攘夷」にはなりえていないどころか、逆に洋夷化していると見ることもできるかと。
……

最後に本居宣長と平田篤胤思想に憑依された神道右翼(中身はプロテスタント寄りのキリスト教の異端派)が嫌がる情報を大量にご紹介します(もうすでに大量だけど)。


道教カテゴリの過去記事のタイトルとリンクだけご紹介

タイトルだけで純粋(笑)な神道家が苦しみだしそうだ……

ツイッターとかで神道家に絡まれたら本記事と道教の過去記事のネタを使って質問したら、どんな反応をするのやら。

陶弘景が道教の一派としての神道を作った(神道はmade in china)
~福永光司『道教思想史研究』 (岩波書店 1987年)~
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-3.html

吉田神社にある道教施設。
道教式の天皇陵。
「大王は神」・「現人神」は「神道」由来ではない


「アイドルは処女」はマリア崇拝。性を管理する耶蘇教
契約神ミトラ=豊聡耳皇子(厩戸皇子)。

神道のお札の元ネタは道教のお札
『混沌からの出発―道教に学ぶ人間学』五木寛之・福永光司 共著
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-25.html

『道教の本―不老不死をめざす仙道呪術の世界 』と主に道教系魔術の資料。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-63.html

日本のキリスト教徒率は1% 首相経験者の13%はキリスト教徒
http://www.news-postseven.com/archives/20120604_113430.html
”キリスト教ブームが日本に初めて到来したのは、敗戦の傷跡癒えぬ昭和20年代だった。そして国のかたちが問われる今、再ブームの兆しである。社会学者の橋爪大三郎氏と大澤真幸氏の対論集『ふしぎなキリスト教』が30万部のベストセラーとなり、各所で“宗教談義”が繰り返される。
 
 とはいえ現代ニッポンのキリスト教、まだ知られていないことは多い。

 キリスト教は東方正教会、カトリック、プロテスタントの3つに大きく分類され、日本のキリスト教徒の数は106万169人(『キリスト教年鑑2012年版』)。対人口比は1%弱。そのなかで特別に信者率の高いのが長崎県で、カトリック信者に限っても、県内人口の4.277%に相当する6万2021人もいる(『日本カトリック司教協議会イヤーブック2012』)。
 
 これは、日本で最初のキリシタン大名・大村純忠が、かのフランシスコ・ザビエルらの結成したイエズス会に長崎を寄進。そのため長崎が日本におけるキリスト教伝道の中心になったという歴史があるためだ。

 実は、日本の首相には意外にクリスチャンが多い。判明しているだけでも、戦前では原敬、戦後では吉田茂、片山哲、鳩山一郎、大平正芳、細川護熙、麻生太郎、鳩山由紀夫。戦前、戦後を通して首相の数は計62人。約13%の割合であり、日本全体の対人口比1%弱に比べるとかなり高い。

 宗教学者の島田裕巳氏が解説する。

「キリスト教が入ってきた時には上流階級の人たちが関心を持った。内村鑑三が勢力を広げた『無教会派』も東大系の教授などの知識人や富裕層で感化された人たちが多かった。こういった歴史もあって政界や財界に信者が多い
のです」

※週刊ポスト2012年6月15日号”


源統隱士 休齋 ‏@minamoto33
神道同様に多神教である道教は、時代によって最高神が入れ替わる歴史がある。その中で北極星を神格化した最高神、「天皇大帝」は唐の時代、日本の君主が天皇を称した頃、不思議と東海を統治する神に格下げされている。別の見方をすると天皇大帝は日本の天皇なのである。

一度は道教の最高神であった天皇大帝(てんおうだいてい)は別名、紫微大帝(しびたいてい)とも太一(たいいつ)とも言うが、不思議な事に伊勢神宮に太一の幡が立てられる祭りがある。これは天照大神(皇室)が太陽神と北極星と双方の性質を帯びている事を示している。

道教の最高神であった天皇大帝は北極星の神格化であり、それは北極星と言う天空を主宰する天帝でした。支那では天に天帝、地に天子である皇帝と言う思想が あるが、天帝である天皇大帝を日本に譲ってしまった為、日本に天帝である天皇、支那に天子である皇帝と言うタブー的構図が出来てしまいました。

陰陽道と道教は朧げに混同されやすい。それは道教の中に陰陽道の要素が取り入れられている為だ。しかし技術であり科学である陰陽道自体は宗教ではない。#陰陽道

道教の『元始上真衆仙記』では盤古真人が元始天王を名乗り、石から流れる水から生まれた太元玉女が太元聖母と名乗りそれと気を通じて天皇、扶桑大帝、東王公、西王母を生み、更に、天皇は地皇を生み、地皇は人皇を生んだとある。この場合の天皇は(てんこう或はてんおう)。#道教 #神道

日本の天皇陛下の『天皇』の語源は道教に於ける元初の三皇(天皇、地皇、人皇)の天皇と、北極星である天皇大帝(天帝)の二種類の語源があるが、伊勢神宮にはしばしば天皇大帝を意味する『太一』の字が見える事から天皇大帝説が強い。#神道 #道教

道教は大陸発祥の固有の宗教とは言ってもその体系は仏教の世界観を参考に作り上げられている。老子の道家思想の隠者的な概念が神仙道の仙人と交わり『道教』と言う輪郭を持ち始めるのは後漢から三国時代。 #道教

空海が唐の青龍寺に入った時、真言七祖の恵果阿闍梨の元には高弟が居たが何故か八祖に空海が選ばれインドから伝わる密教の正統が日本へ来た。その後の唐の 武宗皇帝による道教以外への弾圧を考えると、密教は日本へ正統が行く事で守られたとも言える。マニ教への弾圧は酷かったらしい

吉田兼具さんは仏教に対抗するなら道教みたいな。道教の経典もかなり研究してる。今現在の様に大型書店に行けば何でも揃う便利な時代じゃないだけに、そう言った典籍をどう言ったルートで入手したかも興味深い。

朝廷が唐王朝と対等な「皇(天子)」を名乗り、半島始め四方の夷狄と紛争を抱える唐はそれを黙認してしまった事(中華皇帝と日本天皇)から、唐による道教勧誘が強まった。唐王朝の姓は「李」で老子と同じ事から道教を崇拝すれば「李」姓を崇拝する事に繋がる

天皇大帝は道教でも最高神だったんだけど、何故か唐時代には東方を司る神に格下げされてますね。これって、日本のスメラミコトが君主号として「天皇」を採用し、しかも中華の皇帝しか使えない「皇」の文字を含んだ君主号を唐が暗に了解してしまった事が関係しています。

仏教も仏法だし、神道は神教ではなく神道だし。神教と言うと現在では台湾や華僑の民間道教を指す

度々触れているが、伊奘諾尊の禊ぎ神話はモロに道教の盤古神話が使用されている。しかし、日本人や皇室の起源を神話伝承の些細な要素を理由に朝鮮半島へこじつける界隈は道教の漢人へ起源を求める方向には絶対触れない意図的な偏向がある。

「道家」と言うのも完全に定義するのは難しい。一般的には道家と道教は完全に一致する物ではないと浸透してきている物の「道教」が何かとする場合に六朝時 期に根本経典に依った組織系統を為す宗教と言う面と、必ずしもそこに囚われない面とあり、また道家思想との関わりも一言で表せない。

「天皇」は、道教で言う天の主宰神「天皇大帝」から採った説が有力ではあるが、断言するのは控えている。天の中心である北極星の神格で、太陽を象徴する天照大神よりは記紀両書それぞれにある肇神、天之御中主神や国常立尊が妙見信仰で重ねられている。

飛鳥天武朝辺りに入って来た断片的な道教から、かつては天を司る道教の最高神であった『天皇大帝(てんおうだいてい)』と言う北極星の象徴である神の概念 が日本のスメラミコトの概念に取り込まれ、君主号も『天皇』となり、天皇陛下の宮殿は天皇大帝の宮殿と同じ名称の『太極殿』

神道と中央アジアの宗教が似てるからそっちから伝播されたとか、似てるって言うなら儒教の先祖祭祀や道教の神の方がよほど似てる
訳だが、明らかに違う物である事が判るんだよ。何でも海外起源ハイホーは半島と中央アジアのダブスタで取り敢えず起源を日本じゃない所が第一義

神道と言う語が渡来の仏教に対して日本古来の祭祀や信仰に便宜上付けられた物でもあり、これは日本書紀の用明天皇の所に見られる。惟神道と言う語自体が道教の惟神道教からの借用語。一元的な神道観念は真言宗が両部神道で体系的に取り入れて観念化した面が大きい。

日本の「神道」と言う語も道教からの借用語で、仏教の輸入により仏教に対する日本古来の祭祀、信仰を識別する為に道教にある「惟神道教」の語から「惟神道」の語が採られたとされている。

道(タオ)『惟神道教』。神乍道(かむながらのみち)『惟神道』。道教からの借用語


神道は神乍道(かむながらのみち)と言い、またの表記は惟神道で同じく(かむながらのみち)と訓読する。古いのは神乍道だが、惟神道は道教にある「惟神道教」からの借用表記である。

@isohan0521 脇の甘さではなく寛容ですね。弘法大師が得度する前に誌した三教指帰では、仏門に入る決意として、仏、儒、道教を比較し仏教の優位性を戯曲風に仕上げた物ですが、惟神道は宗教比較の対象としていない点は重要です。しかし決して神道を疎かにした物ではありません。

……
神道って空海=高僧の集合体に宗教扱いされていなかったようです。
道教=神道、
あるいは神道=単なる自然崇拝
だと考えていたのかな


霹靂火 雷公@五行大義卷第一販売中 ‏@HEKIREKIKA_R 2012年4月16日
「平安時代の陰陽師は、仏教徒」という常識は、そんなにも広まってない事なのか? #陰陽

takuhiro (kinosy,歴担) ‏@Kino_see
土御門家は浄土宗西山派(現・西山浄土宗)の檀信徒になります。お墓は仏式、葬式も仏式です。土御門神道になっても仏式・神式両方で行っていたようです。いずれにせよ、陰陽師が自費で自分の為のお寺を建てた記録もありますし、結局陰陽師は仏教徒なんですわ。 #陰陽道

あと寝る前にもうひとつ。陰陽道は宗教じゃないから陰陽師は陰陽道を信仰してるんじゃないよ。陰陽師は仏教徒だからね。実際、安倍氏の墓はお寺にあるよ #陰陽道

高橋圭也☆彡軍配兵法や占い、陰陽師他 ‏@KeiyaTakahashi
昔の日本は仏教以外の術(小道巫術)を使うのを法律の僧尼令で禁じ、これに反すると重罪を科した。だから陰陽道は仏教や密教の経典の中に入り込んだ道教的要素を使うしかなかったのだろう。もしも陰陽師に「それは小道巫術か?」と注意しても「いえ、密教系の術です」と答えれば罪にならなかったはず。

古代の日本で陰陽師に「お前が使っている術は小道巫術(仏教以外の道教などの術)ではないか?」と注意した時、「いえ、これは密教経典のこの部分に出ているものを参考に(または応用)しただけですよ!」と陰陽師が答えれば、「それは仏教の術か。それなら別に法律に違反しないな!」となっただろう。

「安倍晴明が式神を使って様々な霊験を現わした」や「式神は六壬式盤の十二天将」、さらに智徳法師や道摩法師などの僧形の法師陰陽師の話などの陰陽道魔術的な話のネタ元のほとんどが、仏教側の説話や物語などから出ている。だが、実際の陰陽道の中には六壬式盤を使う呪法や式神を呼ぶ法術はない

何度も触れたが、陰陽道(陰陽師)は怨霊や死霊などの霊的障害に関わらなかった(疫鬼や竃神・土公神などの祓いは行った)。現在の陰陽師が怨霊を祓う話は仏教説話などの作り話を後に講談や小説、マンガなどが大げさにしたもので事実ではない。だから、霊能を発揮し、怨霊を祓う陰陽師はいなかった。

歴史的に実在した安倍晴明や陰陽師たちが怨霊や悪霊などを祓い鎮めた、という事実や記録は無い。また、怪異は心霊現象や霊的な災いではなく、陰陽師が悪霊を祓ったという話も昔の仏教説話や後世の物語などで創作された作り話である。当時の習慣として霊的な災いは、密教僧や修験者が祓うのが常
だった。

昔、蛇や鳥などが建物内に侵入した、建物の門前に動物の死骸があった、神社や寺の境内の木が倒れたという日常起こり得ない怪異(けい、もののさとし)などの前兆が発生した際、陰陽道は六壬式占で占いをした。だが、必ずしも陰陽師が祓いをするわけではなく、仏教の読経による祓いという場合もあった。

未だに陰陽道の陰陽は陰陽五行で陰陽五行が起源だ、または日本版道教と考える人は多い。だが、陰陽道では儒教祭祀を行い、平安時代の貴族の日記に陰陽師が3月と9月の朔日に「御燈由祓」という仏教の妙見菩薩へ灯明を捧げられないことへの謝罪の禊祓いを行ったことが書かれており、道教ともいえない

陰陽師は仏教徒!
つまり清明”神社”っておかしいね)

菊池 ‏@kikuchi_8 5月8日
本居派の無記と平田派の形而上学
引用【宣長は「古事記」を絶対視し、そこに書かれていない事柄については沈黙という形をとっていたが、篤胤は前述の様な古事記以外の資料を典拠とし、自らが選定した「古史成文」をもとに「古道」を論じた】http://neutral-neutral.com/archives/4112

だいたい殆どコイツの所為にしておけ。皇国史観の祖「平田篤胤」
http://neutral-neutral.com/archives/4112
”日本の宗教右派や正論、チャンネル桜といった保守論壇が滅茶苦茶な理由(思想的根拠)を辿っていくと、大体がコイツの所為。

Portrait_of_Atsutane_Hirata
要約:日本以外の国々はみんなゴミ

平田篤胤(1776-1843)は秋田は佐竹藩士の四男として生まれ20歳で江戸に出立、松山藩の山鹿流兵学者・平田篤穏の養子となり、この頃より国学への傾倒が始まったという。28歳で本居宣長亡き後の門人となり、一貫して儒教や仏教と習合した神道を排した「日本古来の純粋な神道=後の古神道の原型」の必要性を説き続けたが、その主張というのが実にエキセントリックで大変過激なもの。
たとえば平田は旧約聖書におけるアダムとエヴァはイザナギ・イザナミの神話が誤って伝えられたもので、この二神が最初に創造したオノゴロ島こそ大地の御柱であり、このオノゴロ島を核として生み出された日本こそが世界の中心であるとして、「日本以外の国々はみな潮の沫の凝り固まってなったもの」であり、日本と外国の間には「はじめから尊美美悪の差がある」として、日本以外は「枝の国」と見下しまくっている。
要約:日本の素晴らしさが証明できればパクっても良いんだよ


平田は易学・蘭学・仏教・キリスト教・西欧天文学などを幅広く研究していたが、それらは自分の所説や古伝の正当性を立証するための援用でしかなく、「赤県太古伝(もろこしたいこでん)」においては「わが古伝説の真正をもって、彼が古説の誤りを正し、彼が古伝の精を選びて、わが古伝の闕を補ってもなんの問題もない」と開き直っているほど。篤胤にとって、キリスト教も仏教も神国日本の根源性を証明するためのものでしかない。
その際たるものが、平田が確信をもって自らの古神道的世界観を世に問うた書「霊能真柱(たまのみはしら)」である。


霊の真柱 (岩波文庫)

posted with カエレバ
平田 篤胤,子安 宣邦 岩波書店 1998-11-16
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文化10年に刊行されたこの本は服部中庸による宇宙の成立過程の図解である「三大考」を下敷きにしたものだが、師である本居宣長の弟子達からは師の古道説を逸脱するものとして大問題となった。宣長は「古事記」を絶対視し、そこに書かれていない事柄については沈黙という形をとっていたが、篤胤は前述の様な古事記以外の資料を典拠とし、自らが選定した「古史成文」をもとに「古道」を論じたのである。

で、平田篤胤は何がスゴイのさ?

6433555335_cd9673cff3_o霊能真柱が画期的であった点とは何か。それは神道における魂の行方、すなわち人間は死後どうなるのかという事を明文化した事である。知っての通り、素朴な神祇信仰に基盤を置く神道には仏教の様な形而上学や論理学、倫理学など広範な教学や戒律、行の体系もなく、人間的な知によってはアプローチできない神の道こそがそれまでの神道であった。
だが、こうした神道の在り方は神道固有の世界観を育てる上で最も大きな障害となっていた。対して仏教は神道家が答える事が出来ない死後の世界を含む世界の成り立ちや霊魂の行方について事細かに説明することが出来た。其れゆえに仏教は精神世界の権威となり、神道は仏教に従属せざるをえない状況が生まれたのである。
古代末から中世にかけては仏教と神道の習合まで行われ、神道の密教化まで行われたという。当時の神職も、対抗上、神道の理論化をはかったが、その際に用いられた用語は仏教や儒教、陰陽道などを習合した神仏混淆理論でしかなく、こうした神道(篤胤いわく俗神道)を否定し神道を本来の「神の道」に戻そうとする江戸後期の国学者達から生まれてくる。

篤胤の師にあたり、こうした復古運動の先駆者でもある本居宣長は、死後の行方については人間は死ぬと善人・悪人の区別なく汚れた「夜見の国」に行くだけとして、これ以外に魂の安心はないと説いただけであるが、これを否定したのが篤胤である。日本人としてのアイデンティティを確立するには、死後の霊魂の行方を見定めなければならないとして、死後、人々の魂は大国主の主宰する幽冥界にて裁きを受け、現世に残された親類縁者を見守り続ける
という結論を導き出す。

このような篤胤の主張は、現世主義的である宣長の思想を真っ向から否定し、死後の世界に希望を見出そうとする来世主義的なものであり、それは最早、仏教や儒教とも、そして神道とも違う異質な世界観を有する新たな宗教の創唱でしかなく、これこそが篤胤の画期性なのである。
古神道の誕生

6851375787_01fe553c1f_o以後、篤胤はこの世界観を確固不動のものにするため、海外の神話や古文献が我が国の古伝に由来するものであることの論証につとめ続け、その古代像を補強する神代文字の研究に着手し、さらには神仙界や天狗界なる世界観の探求にのめり込み、こうした学問体系が後に「古神道」の名のもと、「皇国」の根源性や優位性が高らかに唱えられるようになる。
これが篤胤でなければ、それは我が国における比較神話学的精神の芽生えであったのかもしれないが、篤胤にとってこれらはすべて神国日本の根源性を証明する「皇国の学問」でしかない。
篤胤による復古神道の提唱は、幕末期の外圧によるナショナリズムの高揚と連動し、明治維新を推進するイデオロギーとして大きな影響を与える事になる。

やがて篤胤の養嗣子である平田銕胤ら平田派は明治初頭にに新設の神祇官の主流となる。しかし、明治4年に平田派が粛清されるという事件が起きる。この真相は今日も不明だが、結果的にここから誕生したのが国家神道である。
その後、篤胤の霊魂論や幽冥界、神代文字といった文脈は無視される事となり、天皇中心主義だけが強調されることになる。しかし、篤胤の神国思想は戦前においては賛美され、様々な古神道家達の登場を促すことになる。

無論、こうした篤胤の思想は戦後排斥されるのだが、そうした思想が残っている場所がひとつだけある。
それが冒頭で示した日本の宗教右派や正論、チャンネル桜といった保守論壇の連中
だ。

他にもいろいろとあるけど、これ以上は面倒くさいのでそのうち気が向いたらやる。おしまい。”

N.E.U.T.R.A.L ‏@neutral_00001 5月8日
@kikuchi_8 これ書いたらネトウヨの有名人に絡まれましたよw

菊池 ‏@kikuchi_8 5月8日
@neutral_00001 そうでしたか^^;てき面に反応があるということは、もっとも大切な事項だという事だと思います。平田派はネトウヨのみならず、神道系カルト宗教の原点
でもあります。オカルトの批判的考察記事をいつも楽しみに読ませていただいております。

N.E.U.T.R.A.L ‏@neutral_00001 5月8日
@kikuchi_8 そう言っていただけると書いた甲斐があるというものです。というかアイツラって愛国なら何でも良いんでしょうね~

菊池 ‏@kikuchi_8 5月8日
@neutral_00001 神代史派を一番批判していたのは同じ在野右翼の日本浪漫派だった、という記述に感銘を受けました。まさにそうなんですよね。トンデモ愛国思想をきちんと批判する「愛国者」がいないですね。「愛国」みたいに見えたらなんでもいいとう向きが多すぎなような。

ふぎさやか ‏@maomaoshitai 2013年7月24日
平田篤胤はアダムとイヴの神話は、日本のイザナミとイザナギの神話が西洋に伝わったものだと考えていました。どんだけ日本中心なんですかあの人。

平井弘之 ‏@seikazoku_1969 2011年6月24日
ツイ読003〜その伝えは、天つ神がすでに天地をつくりおえて後、土くれを二つまるめて、これを男女の神とし、その男神をアダムといい、女神の名をエバといい、この二人の神で国土を生んだという伝えである。これは皇国の古伝を誤り伝えたものである。〜平田篤胤『霊能真柱』。そ、そうだったのか。。

日本国粋主義の元凶とされている平田国学の「万国の本国」思想
http://higurasi101.hatenablog.com/entry/2014/11/24/192146
”アダムとイブの聖書の話については、こんな具体的な記述がある。

「遥西の極なる国々の古伝に、世の初発、天神既に天地を造了りて後に、土塊を二つ丸めて、これを男女の神と化し、その男神の名を安太牟(アダム)といひ、女神の名を延波(エバ)といへるが、此二人の神して、国土を生りといふ説の存るは、全く、皇国の古伝の訛りと聞えたり」(「霊能真柱」)(「日本思想体系50「平田篤胤 伴信友 大國隆正」岩波書店 1973 p32所収」

ところで、平田篤胤の「万国の本国」論は、篤胤が独自に創り出し主張したのかといえばそうではない。篤胤は、本居宣長の結論から出発したといわれているのだが、「万国の本国」論も、やはり宣長の主張を受け継いでいる。宣長は、「直毘霊」のなかでこう述べている。

皇大御國(スメラオホミクニ)は、掛(カケ)まくも可畏(カシコ)き神御祖(カムミオヤ)天照大御神(アマテラスオホミカミ)の、御生坐(ミアレマセ)る大御國(オホミクニ)にして、萬國に勝(スグ)れたる所由(ユエ)は、先( ヅ)こゝにいちじるし。國という國に、此( ノ)大御神の大御德(オホミメグミ)かゞふらぬ國あらめや。大御神、大御手(オホミテ)に天(アマ)つ璽(シルシ)を捧持(サゝゲモタ)して、御代御代に御(ミ)しるしと傳(ツタ)はり來(キ)つる、三種(ミクサ)の神寶(カムダカラ)は是ぞ。(直毘霊)”

三種の神器は道教由来で、元は二種の神器だったことは無視かい!

take_tk ‏@take_tk 8月30日
靖国神社の招魂の発想が日本の神道とはあまりに違うので調べたら。
招魂社
←福羽美静

(文久2年、3年に桜田門、坂下門事件の犯人の招魂の霊祭、神祇官)
←(大国隆正:宗教の政治的活用)
平田篤胤←キリスト抜きのキリスト教
と繋がっていてびっくりした事がある。 @bilderberg54


クロダオサフネ ‏@kuroda_osafune 2014年1月25日
『津和野は国家神道と深く結びついた町である。「天皇は全世界の正統的支配者だ」と説いた大国隆正は平田篤胤の弟子、脱藩後藩主亀井茲監に招かれ藩校教授となる。その弟子玉松操が岩倉具視に入説し、明治維新を「神武創業への復帰」と性格づけさせたことは有名』


神道の話 補足【20120506】
http://www.mkmogura.com/blog/2012/05/06/1124
“端折った神道の話を一つ。
 
創造神という神が輸入されたのは、明治以降であるという話。

この根拠として、「江戸末期以前の漢文には、神という創造神はなかった」
というのがあり、このことは「神を使い始めた人物」、本人が認めてしまっているのである。
 
 
そう、それこそが「神道」という言葉を作った張本人でもある平田篤胤(ひらたあつたね)である。
 
以前の記事で平田のすべての出版物は、1808年の「本教外篇」、つまり本教=キリスト教から始まっていると説明した。
 
話を短くするために端折ったが、ここに補足しなければならないことがある。
 
可妄書(1803年)
新鬼神論(1805年)
 
この2冊というのを平田は「書いた」ことになっている。
ええ~1808年より前ジャン!!!、まあ、待たれい。説明しよう。
 
この「平田=神道を作り上げたキリスト教の筆頭」のWIKIでも見ると、この本のことは出てるので、誰でも、すぐ気づくので質問があるかな?と思ったが、なかった・・・でも説明する。
この2つの作品は、1808年の平田の最初の出版作品、禁じられたキリスト教の本、テロリストの本「本教外篇」のあとだよ。
 
一般的に平田の処女作と言われる可妄書(1803年)は、本居宣長に出会った年(1803年)に、草稿した(下書きで出来てあった)と、主張してるが、実際に出版をしたのは1820年である。
 
その1803年「会ったことのない師匠!!本居宣長の存在を平田が知った年」→寝ないで書き上げた。だから1803年。
そうなってるわけね。
 
「不眠不休で書き上げた」なんて、わざとらしい形容詞がついてるからこそ、逆に俺のアンテナが反応してしまうが、まあ「神という存在」を出来る限り「昔から存在していたよ」としたいために、年代をごまかしてるわけね。
 
でも、本居宣長を1803年以前の平田は知らなかったわけで、それ以上は遡れなかった。
1803年→不眠不休→すぐ書き上げた。
 
 
実際の出版は1820年です。
まあ、簡単な話です。
 
おっと、年代をすり替えた意味を考える上で、推測の部分が多くなってしまう話なので、この程度で。
では、この作品の中身について、説明しよう。
 
可妄書(1803年・出版は1820年) 平田篤胤
・儒家のいう神道とは、「道の体をあやし(神妙)」とほめている形容詞でしかないもの(145項)を、無理やり神道としている。
 
「儒家=儒教」その中の「神道」という文字が出てきたとき。
「神秘的な道ですよ」の形容詞そのままなわけですが、それを「神道=創造神とのつながり」と誤解したまま、突っ走っている。
少し出てきた儒教=儒家。
当時の神道というものを、「あやしの道=神秘的な道」で使われていたのは間違いない。

江戸初期の儒教のことを、「儒家神道」なんて呼び名になっている。
「神道」というジャンルがあったかのようにあたりまえに振舞う。
林羅山とか、吉川神道(毛利の親戚)もこれ、儒家神道だよね。ただ、アンチ仏教の部分があったってだけ


「神道=創造神と重ねる」なんて、もともとない。神道という言葉が出来たのが、こんな強引過ぎる平田からなんだよ。
 
 
そして、ここで平田は、古事記伝を見ろとしている
可妄書の142項で神道議論もしている。
 
 
「神はこういうもんだ」→「古事記伝を見ろ」
としてるわけね。ソースは古事記伝だと。

この可妄書の中には神道議論がある。昔、「1803年」のこの本ですでに、キリスト教の侵略以前から神道があったとしようとしてる部分もあるわけね。これも年代偽装の意味。実際は、これも1820年以降ですから。
 
 
で言われたとおりに、古事記伝を見ると、本居宣長は125項で5つの神をあげている。(ちなみに梵語の音声当て字は、神=迦微らしい)
 
神は5つあるよ、ということで具体的に本居が上げたのはこれ。
 
1 天地の諸の神たち(これが創造神とも呼べる、でも複数形)
2 やしろ (祭壇)
3 人はさらに云ず(俺の解釈:漢文など用法、精神・とくに言霊を意味する神だと思う)
4 鳥獣木草の類 
5 海山などにかこまれて、徳があって賢いこと
 
 
ちゃんと言われたとおりに見たけど、「創造神=神」ではないでしょ。
本居宣長も、そういう意味で神という言葉をつかったわけではない
のがわかるよね。
(本居は、江戸末期のキリスト教の侵略作戦より前だからね。カトリックの禁書は読んでた奴だけど)

いわゆる創造神と呼べるのは、(1)だが、複数系であるし、「天地を作った神秘的な力」なわけ。
(5)海や山の恩恵、(4)鳥獣木草の類=いろんな動物、「草木にも宿るよ」を含めれば、キリスト教的な一神教、つまり唯一神としての神との意味とは、かけ離れてるでしょ?
 
神道で天皇と重なり合わせるのは、そっち、ありもしなかった「唯一神」なわけで。
 
そして、もう一つの、この時代の平田の本、新鬼神論では、もっと面白い。
 
新鬼神論(平田1805・可妄書のあと・実際の出版年は調べてない1820年以降)
 
この本には、こう書いてある。
 
「漢土の古書ども、天とばかり云ひて・・・・・・」
 
中国の漢文のやつらは、天じゃなくて日本の神典が伝える古意、神(天津神)がいるのに、わかっちゃいねぇな・・・・と言ってるわけ。
 
 
漢文では「天しかでてこない」、ね、彼自身がある意味、認めちゃったわけだ。
 
はい、彼の言う日本の神典、日本特有の文字である神代文字の神字日文伝は、捏造作品
であることは、既に、ばれちゃっていますが・・・。
 
 
ね、面白いでしょ。
天しかない→認めちゃって→「日本の古典を見ろ」と反論→その神代文字の話は、嘘だとばれちゃった。
 
結局、「漢文には天しか出てこない」という主張だけ残った
・・・。
 
笑える話である。
 
 
平田のやったことは復古神道とかよばれるんだけど、その始まりは儒教の神秘的な道を「神道」と無理やりして、開き直った「反論と捏造」で、できてるんだよ。
でも、捏造だとばれてしまったわけで、逆に本居宣長以前には「神という創造神はなかった」って結論だけが残るわけだけど。
そして、こういう風に年代をごまかしたり、捏造を言い張ったりして「常識」はできている、それを覚えといて。
 
年代をごまかす行為、AからBをごまかした年代、つまり「Bのほうが古いとして、BからAにすることも出来るよ」ってこと。
何かの模倣品の年代を、それよりも古いと偽装すれば、こっちがオリジナル!!というの主張が出来てしまう、それと同じ理屈の手法なわけね。
 
平田は本居宣長を知らなかったわけで、で1803年という中途半端な時期まで遡れなかったと。

キリスト教が1813年の「新遺詔書」で神という訳を当てるまでは、日本と中国には創造神の神は輸入されていない。
日本で神という字を使い始めたのはキリスト教徒である

 
神のこと、こういう手法、覚えといて。
では、最後に和歌なんぞを・・・。
 
キリストや 浜の真砂は尽きるとも 世に嘘つきの 胤(たね)は尽きまじ
 
君が代の3番の返歌みたいなものを、あの大泥棒、石川五右衛門が捕まったとき歌ったとされている。(泥棒なのに義賊になってて嘘っぽいけど・・・これも俺の陰謀アンテナが反応するぜい!!でも調べてない)
 
それを替え歌にしてみた。
実際は「石川や・・・盗人・ぬすっとは居なくならないよ」、って歌。”

大本教系の「”ひふみ”しんじ」の元ネタは、
大本教の教典、
聖書、
平田篤胤の神字日文伝、
日文(ひふみ)という神代文字(捏造)。


暴かれた真光日本語版
http://www.enpitu.ne.jp/usr10/bin/day?id=104303&pg=20031124
“『日本国語大辞典』小学館

ひ-ふみ【日文】〔名〕
 漢字の渡来前、日本で使用したと称せられる一種の音節文字。「いろは」に当たる四十七字で、古代の遺物ではなく、近世、ハングルを模してつくられたとされる
* 神字日文伝(1819)上「右の日文四十七字は、行文と有れど真字と見ゆ。此を伝へたる阿比留氏は対馬国のト部と有れば」
〔諸言説〕ヒフミヨイムで始まる文字であるところから〔大言海〕。

あひる-もじ【阿比留文字】〔名〕
 古代、漢字の渡来前にすでに存在していたという神代文字の一つ。日文(ひふみ)と呼ばれる文字の異称。対馬国ト部阿比留氏に伝わったとされるところからいう。諺文(おんもん)に類似する。平田篤胤によって積極的に主張された。

じんだい-もじ【神代文字】〔名〕
 わが国で、漢字渡来以前に用いられたと称される文字。日文(ひふみ)、天名地鎮(あないち)、阿比留(あひる)文字などの種類がある。これらは古代の確実な遺例がなく、かつ、いろはがなの体系を出ないものであって、現今ではすべて後代の仮託のものとする。
 その存在を認める平田篤胤の「神字日文伝(しんじひふみでん)」、それを駁する伴信友の「仮字本末」その他の論がある。神字。神代字。
*国語のため(1895)<上田万年>言語学者としての新井白石「初めに支那文字の沿革を説き、次に日本に神代文字のあったことを説き、仮名といふものは右の二つより発達してきたといふことを示し」
*普請中(1910)<森鴎外>「室の入口を挟んで、聯のやうな物の掛けてあるのを見れば、某大教上の書いた神代文字といふものである」

『広辞苑』 第五版
ひ‐ふみ【日文】
神代文字と称せられるものの一。平田篤胤が「神字日文伝(かんなひふみのつたえ)」に挙げているもので、対馬国の卜部阿比留氏の秘伝というヒフミヨイムナヤコトモチロなどの47音をあらわす表音文字。実は朝鮮のハングルに模して偽作したもの。

じんだい‐もじ【神代文字】
わが国固有の、神代から伝えられたという文字。実は、亀卜の灼兆(しやくちよう)や朝鮮のハングルに擬した偽作。日文(ひふみ)・天名地鎮(あないち)・阿比留文字などの種類がある。江戸時代、その存否について平田篤胤の「神字日文伝(かむなひふみのつたえ)」(存在説)や伴信友の「仮字本末(かなのもとすえ)」(否定説)などの論争があった。神字。

あないち【天名地鎮】
いわゆる神代文字(じんだいもじ)の一。鶴峯戊申(しげのぶ)がその存在を主張したもので、ヒフミヨイムの順に排列した47の表音文字と1、2、3…などの数字とから成る。

じょうだい‐とくしゅかなづかい【上代特殊仮名遣】じやう・・づかひ
奈良時代に、エキケコソトノヒヘミメヨロおよびその濁音、合計20の音節(古事記にはモの仮名も)を2類に書き分けた仮名遣。エはア行・ヤ行の別、他は母音に2種の別があった。エ以外について、甲類・乙類と名づける。江戸後期、本居宣長の指摘を受けて石塚竜麿が実態を明らかにし、明治末期に橋本進吉が別個に研究、竜麿の研究を世に紹介し、上代語研究に一期を画した。

【解説】 平田篤胤は対馬の阿比留家において発見された神代文字を報告した。イロハと同じ四十七文字からなり、配列は「ヒフミヨイム・・・・・・」であった。最初の三文字をとって日文(ヒフミ)と称した。楷書体と草書体の二種があったため、楷書体を阿比留(アヒル)文字、草書体を阿比留草(アヒルクサ)文字とした。
 岡D晃Y氏は「ヒフミ文字やアヒル文字・・・・」とあたかも別の文字のように語っているが、アヒル文字は日文(ヒフミ)に含まれているはず。そしてその日文(ヒフミ)も『広辞苑』において”偽作“と決めつけられている。晃Y氏は『広辞苑』を読んだことがあるのだろうか。

「國語学概論」橋本進吉著 岩波書店1946年初版
原文http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/hasi/hasi8.htm#kigen
所蔵http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN00647153
(…)
【解説】 橋本進吉氏の「國語学概論」は、当初1932年「岩波講座日本文學」として出版され、1946年に「橋本進吉博士著作集」として再刊された。国語国文学における歴史的名著であり、現在、数多くの図書館に収蔵されている。岡D晃Y氏は國學院大學で神道考古学を専攻したのなら、この名著の存在を当然知っているはずである。
<橋本氏の主張>
1) 文字発達の一般原則は、表意文字が最初にでき、次に音節文字ができ、最後に単音文字ができる。日文(ヒフミ)はハングルに似て、単音文字を組み立てて音節を表現しており、わが国に最初にできた原始的文字とは考え難い。
2) 篤胤は日文が古く朝鮮に伝わってハングルができたと称しているが、歴史上は考えられない。
3) 日文はイロハと同じ47字である。奈良朝期は60種、平安朝初期は48種の音節を区別していたはず。
4) 日文を用いて書いた文献がなく、字母表のみが残っている。
5) 結論として、日文はずっと後世に誰かが作ったものであろう。漢字が伝来するまで、我国に固有の文字は無かった


 漢字が伝来するまでに我国に固有の文字が存在したなら、遺跡・古墳から出土した土器・副葬品・瓦・石碑などに文字が書かれたものが出てくるはずだ。岡D晃Y氏は、中国で亀甲や獣骨などに刻まれたのが発見されていると、はっきり述べている。『神代文字』なるものは考古学上証明されていない。また正倉院に数多くの古文書が保存されているが、神代文字で書かれたものは一つもない。もし神代文字の正当性を主張するなら、その学問的根拠を博物館に展示すべきであろう。
 国語・日本史の教科書や、広辞苑にも、「漢字渡来以前には我国に固有の文字は存在せず」と書かれている。S教M光推奨校の立S大学S南高校
では、国語や日本史の授業でどう教えているのだろう。”


韓神と紀元節と古代史の闇
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_dc2a.html
“韓半島と天皇家の関係について、林青梧『「日本書紀」の暗号』講談社(9009)は、驚くべき事実を指摘している。
それは、ある座談の席でのことである。林氏が、紀元節の起源について、次のような意見を述べた。
紀元節の始まりは、後醍醐天皇が、宮中に祀った「韓神」を自ら祭った儀式にある。建武2年2月11日のことで、それは上代における日韓関係の重要性を物語るものだと思われる。紀元節の復活論議は、それを説明した上で行なわれるべきだ。
紀元節といっても、私などは言葉として知っているだけで、体験しているわけではないが、それが現在の「建国記念の日」の祝日の前身であり、『日本書紀』が神武天皇が即位した日を元にして定められた、という程度の認識はある。
しかし、「韓神祭」などというものは、言葉としても知らない。
その座談に居合わせた人の大半もそうだったようだ。「本当か?」と問う人たちの前で、林氏は、その部屋にあった『広辞苑』で調べてみせる。
ところが、その『広辞苑』には、「韓神(カラカミ)」という項目は載っていない。昭和46年5月16日刊の第2版第1刷の『広辞苑』だった。
林 氏の記憶では、確かに収録されているはずの「韓神」がない。林氏は、「からのかみ」が載っていること、さらに「からのかみのまつり」として、「〔韓神祭〕 宮内省内に祀ってあった韓神の祭。古くは二月と十一月とに行なわれたが、中世以後衰え廃絶した」という説明があることを確認する。
しかし、2月11日という肝心な日付に関する記述は欠落している。
林氏の自宅の『広辞苑』では、「からかみ」の項目に、「〔韓神祭〕上代において二月十一日に行なわれた、宮内省の内にまつられてある韓神社の祭。中世以後衰え廃絶した」という説明があり、「からのかみのまつり」という項目はない。
第2版の『広辞苑』において、「からかみ」を消して「からのかみ」の項目を設け、2月11日を消す、という変更が加えられたことになる。
これが第3版では、「からかみ」が復活し、「からのかみ」に同じ、という説明があって、「からのかみ〔韓神〕」には、「朝鮮から渡来した神の意か」が追加され、「からのかみのまつり」の説明は、第2版と同じであった。
林氏は、上記の改変は、「2月11日と韓神の関連を断ち切る」ということだと推論する。
しかし、誰が、どういう判断によってなのか
?”

古書肆 右左見堂(うさみどう) ‏@usami_chudo 8月29日
佐藤信淵『垂統秘録・混同秘策』出品。http://bit.ly/1rDgkqU
江戸後期の経世家による統治論、そして世界征服の書。「まず満州をかるーく征服、台湾・寧波から中国を挟み撃ち。南京に宮城を置き、次は欧州……」って感じ。 pic.twitter.com/aAQU1ucOsX

I AM THAT ‏@amateras1984 2011年9月9日
佐藤信淵 文化12年(1815年) - 平田篤胤に入門。 皇大御国は大地の最初に成れる国にして世界万国の根本なり。故に能く根本を経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、万国の君長皆臣僕と為すべし」と書いて満州、朝鮮、台湾、フィリピンや南洋諸島の領有等を提唱した

岩上安身 ‏@iwakamiyasumi
続き16 国学の平田篤胤門下の佐藤信淵は、「混同秘策」という書物で、朝鮮どころか、満州、支那を征服し、世界を征服すべしと説いていた。「新論」の出る2年前、1823年のことだ。彼は狂人ではない。経済学や農学、医学も修めたマルチな学者である。

征韓論が、尊皇とともに、吉田松陰の中で結びついていたことはよく知られている。しかし松陰の以前にも、朝鮮侵略を唱えた学者はいた。江戸時代の思想家・佐藤信淵は、文政年間に「.宇内混同秘策」の中で、朝鮮のみならず、満州、支那を攻め、南京に皇居を移し、全世界を皇国の郡県とせよ、と書いた。

Fujio Maruyama ‏@maruyama097 2009年8月3日
秋田が、佐幕の奥羽同盟を抜けて、新政府側についたのは、やはり秋田出身の平田篤胤の影響が藩士の中に強かったからという説もある。江戸末、秋田は、安藤昌益、平田篤胤、佐藤信淵と、日本を代表する思想家を輩出している。意外と文化的なところもあったのだ。

甲斐宗運act4 (早川 数秀) ‏@KazuNoSaru 2013年12月27日
平田篤胤の弟子であり、大東亜共栄圏の父ともいわれる農本主義者、佐藤信淵は綾部藩に招かれた。後の大本教と大本にそっくりな九鬼神道の発祥の地。
変形朱子学たる水戸学の会沢正志斎の会沢神道を学んだ本田親徳に、大本教の出口王仁三郎は学んだ


辻田 真佐憲 ‏@reichsneet 2012年8月9日
平田篤胤は、「日本は世界の中心。いずれ外国は日本に臣従して貢ぎ物を持ってくる。あと土器の文様は文字で、古代日本には文字があった」といい、
佐藤信淵は、「世界は日本の神が創ったものなので、日本が征服しておk。日本の食物はうまいので、蛮族はこれを与えただけで喜んで服属する」といった人。

長 高弘 ‏@ChouIsamu 1月23日
平田篤胤の著書の現代語訳をAmazonでポチって、届いた後に、帯を取ってみたら、「幸福の科学出版」となる恐るべき文字列が印刷されてたと言う「事故」を経験した事が
RT @hayakawa2600 平田篤胤、大國隆正、佐藤信淵の三人が、後世のバカに及ぼした影響の凄まじさにたじろぐ

ken ‏@kenkatap 2013年12月9日
心に残った音は「TOKYO!」
【NHK http://nhk.jp/N4Aq5kFe
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC#.E5.9C.B0.E5.90.8D.E3.81.AE.E7.94.B1.E6.9D.A5 …
▼名付け親=明治天皇=1868年
▼中国に東京(ドンジン)
江戸を東京と改称=佐藤信淵(平田篤胤に入門)『混同秘策』に、大久保利通はこれに影響

日本のオカルト「佐藤信淵の狂気・霊的国家統一
http://neutral-neutral.com/archives/901
”佐藤信淵(さとうのぶひろ 1769-1850)は農政経済学を家学とする家系に生まれ16歳の頃に江戸で蘭学、天文、地理などを学ぶ。40歳のときに阿波国家老の顧問となり軍学を講義したが、一方で国学に傾倒し7歳年下で同郷の平田篤胤の弟子となる。これは最新の西欧天文学に通じていた佐藤が天体法則の背後にある根源的な力について思索をめぐらしていたとき平田の著作「霊能真柱」の「産霊」の概念に感銘を受けた事が切欠であるとされている。その後、篤胤との合作といわれる「鎔造化育論」を発表し古神道の霊的理論と産業経済学を組み合わせた特異な思想家としても頭角を現す事となる。
産霊の原理を経世の理念へと発展させる。佐藤によれば天御中主神の神意とは万物を生成し発育せしめそれによって世界を豊穣にし人民を繁栄させることにあるという。この神意を汲み産業の充実と発展をはかることが為政者として生まれたものの義務としている。また産業政策に関しては産業資本の自立的な発展よりも国家主導の産業発展や統制を構想していたとされる。

そして佐藤は平田篤胤の「日本は世界の宗国である」という所説を発展させ、具体的な世界統一のヴィジョンを描いた「宇内混同秘策」を著した。概要はこうである。
四海を海に囲まれ外敵に蹂躙されたことなく気候も温暖で農業に適するという日本列島の置かれた地政学的優位こそ日本が神の国である証拠であるとして、神国日本の天命は万国を統一し世界に「産霊の神教」をひろめることにあり、三百余に分かれた藩を産霊の力によって結合し統一国家へと向かうべきだとした。その第一歩として江戸を皇都にし「東京」と改称する事とし、その後は
東京の郡県としてフィリピン、マリアナ、カロリン群島の経営を通じ南進をはかるべきとし、一方で北方に関しては樺太の占領を説き、その為に一番略取し易いのは支那の満州であると説いた。
その後の明治以降の日本の進路はあたかも佐藤の予言どおりに進んだことは興味深いものがあり、事実日本が富国強兵の道を歩むにつれてその評価は高まり、戦後は逆に侵略主義の元祖とも目されるようになった。

なお、佐藤信淵と平田篤胤は秋田県秋田市にある彌高神社(いやたかじんじゃ)にて祀られている。”

大石凝真素美による言霊学の確立
http://neutral-neutral.com/archives/4158
”鎮魂・帰神・太占の三大霊学といえば、本田親徳の名も挙げられるが、同時に大石凝真素美(1832-1911)も忘れてはならない。
大石凝は、現在の滋賀県甲賀市に生まれ、自らを天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる天神系氏族である大伴氏の末裔と称し、高野山で真言密教、比叡山で天台教学を学んだという。

大石凝の霊学体系の根幹とは言葉には神秘的な力が宿るとされる言霊学だ。
そもそも言霊学というのは近世国学のなかでも特異な一領域を形成したもので、国学は古語の研究から始まった学問だが語音と語義の結合や変化、テオニハの動きなど、日本語の細かな法則や50音図の整合性などに神秘的なイメージを結びつけると言霊学になる。こうした傾向は江戸時代後期から広がりを見せ始め、次第に神秘的な観念論が増大し始め、中村考道・山口志道などの言霊学が形成される。大石凝は祖父である望月幸智を介し中村の言霊学を学び、そこから自説を発展させていった。

大石凝がこうしたオカルティズムに傾倒していった背景には1853年の黒船来航に衝撃を受けた事が切欠とされ、その際に「外国に勝つことが出来るのは、かの元寇のときの様な神風だけである」として、神風を起こすことが出来る神人を求めるために諸国往来をはじめたとされる。また、その過程において、京都で尊皇攘夷の志士らと交流を深めたとされるが、平田篤胤に連なる平田派に関しては強く批判しており、明治三年に平田派の主導で神仏分離令が発せられた際は、同門の木村一助と共に「有名無実の神道を廃して、真神道を吹聴せよ」と扇動し、逮捕されるという事件を起こしている

また、明治23年には伊勢神宮の炎上を予言した内容を記したパンフレットを各所に送付しはじめる。大石凝によれば、伊勢神宮には本来「御見比べの秘密神事」なるものが伝承されていたというが、明治20年の遷宮の際にこれを行わなかったため炎上が起こると主張したのである。

そして明治31年にこの予言が的中してしまった為、当然ながら犯人扱いされ逮捕される。証拠がなかった為、まもなく解放されるが、その後も伊藤博文が暗殺されたのは神宮を蔑ろにした天罰であると吹聴し続けたため、晩年は常時警察の監視下に置かれることとなる。

大石凝が他の古神道家達に与えた影響は大きく、大本教の出口王仁三郎や世界救世教の岡田茂吉らとも交流があったとされ、特に出口王仁三郎とは琵琶湖の沖合約1.5 kmに浮かぶ沖島では「言霊の音韻文字の波紋」なる幻視体験を共有したという。大石凝は神道だけでなく、密教関連の著作もあり「仏説弥勒下生経」「弥勒出現成就経」などを出版。未来の仏である弥勒菩薩の下生の地は大日本国であると断じたもので、メシア信仰の影響があったとされる。その後は「法華経」と「古事記」の密合をはかり、明治40年には唯一仏教団の清水梁山と交流を深めている。その際に水谷清、水野満年、朝倉尚絅という三人の弟子を得ることになり、特に水谷に関しては大石凝霊学を継承。のちに三大皇学として大成させるに至る。”

本田親徳に「日本的狂気」 の源泉をみた。
http://neutral-neutral.com/archives/1990
”本田親徳( 1822~1889 )
鎮魂帰神法は古神道において重要となる行法である。これを確立したのが本田である。
本田は、薩摩藩の典医の長男として生まれ、21歳の時に京都に滞在中に狐憑きの少女に会い憑依状態で和歌を読むのに衝撃を受け霊学研究の志を固めたと言われる。その後、審神・霊縛を修め、鎮魂・帰神・古占の三大霊学を確立し、後々古神道家達の理論的主柱となる。

なお、本田によれば確立ではなく「復興」であるという。
帰神法については「日本書紀」にて神功皇后が神主となり審神者として神意を伺ったという記述から、 鎮魂法についても「令義解」にルーツがあり、本田はこれらの記述に断片的にみられる古代の修法を復興再編し体系化したという。

鎮魂法とは一種の精神集中法であり、 帰神法は神懸かり状態を誘発させ、それをコントロールする技法であり、この2つは連続したものとして捉えれている。
また帰神法には有形・無形があり、外見的に神懸かり状態と判別されるのが有形であり、これが通常とされ無形は外見的に判別しにくい状態だという。

また、本田は既存の神道家達を批判していたいう。その要旨は「幽事を現事とし、神を人とし、あるいは幽を現とし、現を幽とし、あるいは現幽を混同し、あるいは神魔を弁別せず」というものだが、これは神道界だけではなく日本社会の本質を如実に表した言葉ではないだろうか。
「何を馬鹿な事を」と思うかもしれないが、本田の主張とは言わば「空想と現実の世界に明確な線引きを行わないことであるが、それは言い換えれば「正気と狂気の混交」「正常と異常を弁別せず」ということである 。

はからずとも、本田のそうした主張は 後に続く古神道家達による偽史運動や超皇国史観などに現れているとも言えるが、それは戦前のみならず、戦後のオカルトブームやオウム真理教によるテロ事件、昨今のスピリチュアルブームなどに集約されている
と言えるのではないだろうか。”

スピは野狐禅(=単に頭が変になった状態を悟ったと勘違い)を量産するので危険です。
ちゃんとした技術的説明と危険を避けるための注意点なしに、瞑想やチャネリングをするヤバさを自覚してないやつが多すぎる。
意図的に野狐禅を量産して狂人を手駒に使うのがカルトです。

カルトの嘘を見抜く能力を身につけない限り、
他のボッタクリバーでまた酒飲んで酔っ払って迷惑かけるカモのままですよ



三大皇学を完成させた大石凝真素美の弟子、水谷清
http://neutral-neutral.com/archives/4113
”水谷清(1873~1938)は名古屋小学校に奉職していた元教育者で、一年間の休職で名古屋の唯一仏教団を訪れ、そこで法華経の観普賢経を研究していたとされる。その後、知多郡(当時)の篠島にある西方寺に篭り普賢菩薩の観想法を修業していたという。そこで大石凝真素美のもとへ行けという啓示を受け、明治41年、大石凝の弟子となる。
その後、大石凝霊学を「天津金木学」「天津祝詞学」「天津菅曾学」にわけ、これらを「三大皇学」として整理し、特に理解不能とされた「天津金木学」を、古事記の密儀を可視化するツールとして平易なものに変え、密教の観想法で整合化し基礎からの体系化を行い、大石凝霊学の集大成として、全30巻もの「古事記大講」を著す。

また、水谷の知人で大石凝の言霊学を継承した筆墨商・水野満年は幅の広い知識人としても知られ、師説にアカデミズムの古事記解釈を接合、「神聖遺訓として見たる古事記」を著し、昭和14-15年頃に一条実考公爵を会長にに古事記研究会を組織。これには学者以外にも、当時弾圧下にあった大本教の信者達が合流していたとされる。”


これが日本のオカルト・ワールドだ!古神道編 その5
http://neutral-neutral.com/archives/3588/3
”「神日本」創刊一周年記念講演会での陸軍大将山本英輔。当時、軍の高級将校達にも熱烈な古神道シンパが居たという。

8542015-02-17-9

「敬神尊皇報国」をスローガンに宣教活動を行う大本教の信者達。

4512015-02-17-9

大本教の青年組織「昭和青年会」非常時を背景に強固な組織を目指し発足したという。”

※引用元の画像は省略したのであしからず。

N.E.U.T.R.A.L
@neutral_00001さんの
のカルト・オカルトの歴史の項目の記事
http://neutral-neutral.com/archives/category/occult
が実に興味深い


子安宣邦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E5%AE%89%E5%AE%A3%E9%82%A6
”妻はシュタイナー教育研究の子安美知子。娘はエッセイスト・ミュージシャンの子安文。”

2010/05/29 本居宣長の近代性(3)子安宣邦「本居宣長」
http://d.hatena.ne.jp/yagian/20100529
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