読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

05 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 07

宇宙人が必ず「人間的」になってしまう人間の性質を悪用するカルトに注意! 支配層やカルトが素直に実在している(かもしれない)正しい宇宙人像を流すわけないでしょ! 

【目次】
①人間がXを宇宙人とみなす条件
②区別できるか問題
資料の要約
資料

……

人間がXを宇宙人とみなす条件

人間は自然現象そのままを神々としてを崇めるのではなく、自然現象を擬人化してから神々として崇めます。
人間は擬人化により物事を理解するので、宇宙人も「人間的」になってしまいます
神や宇宙生命体の姿をイメージすると、思わず人型になってしまうのは当然。
地球の重力に縛られた人型宇宙人は、そもそも人間的でないと宇宙人だとみなさないという、人間の精神構造に沿っています。
人間の心理構造に基づく理解を遙かに超えた宇宙人は、そもそも認識されないか、人間の認識では自然現象に見えます
宇宙人がもしプラズマなどの、人型でもなく霊的存在でもない自然現象なら単なる鬼火などと解釈されておわりです。
あと、宇宙人が霊体で肉体がないなら別に悪霊や善霊や仏や天使でもいいです。
いやそれが宇宙人そのものかも?

その際に前提されていることは、
ゴッド=宇宙人説の前提と同様に、
宇宙人が
「人間的な意志を持ち」
「人間が知的だとみなせる」
「生命体」であること。

地球外のものが地球上のものに影響しているのは当然ですが、
地球外から来た
「人間的な意志を持つ」存在が影響しているか否かが宇宙人説の争点です。

「『人間が意志とみなすもの』を持つ宇宙人が人類を創造したのではなく、
『宇宙人が意志とみなすもの』を持つ宇宙人が人類を創造した。
だから創造主たる宇宙人の精神構造が人類に継承された。
順番が逆」
という解釈が可能ですけどね。

ずっとできるまで長い期間放っておいたら、人間的意志を持つ地球外生命体の干渉なしで、半獣半人(半人半獣)の超古代人が地球に誕生した。

生まれるまでずっと放っておいたので、確率が低すぎるという反論は無効。
できるまで放っておいたのだから、偶然とも必然とも言える。
すでにできてしまった後から考えるから、誕生する確率を飛躍的に上げる知的生命体の意志による干渉があったに違いないと思ってしまうだけ


超古代人には、動物の頭部と人間の身体を持つ獣人(半獣半人)と、
人間の頭部と動物の身体を持つ半獣人(半人半獣)がいた。
彼らは死刑囚や、猿などを改造して奴隷、つまり現在の人類を創造した。
今の人間に牙などの強力な武器がないのは、創造主に逆らえないようにするため。
知能を与えたのは、ある程度複雑な命令を理解させるため。

神話や壁画に登場する獣人は、動物の擬人化や、ある個人の性格を獣の頭で表現したものもあるが、実在した超古代人をそのまま描いたものも含まれている


『超古代人が意志とみなすもの』を持つ超古代人が人類を創造した。
だから創造主たる超古代人の精神構造が人類に継承された。
順番が逆。
超古代人が宇宙人と交流していたかは不明」
という解釈も可能ですけどね。

私は、宇宙人「の実在」については二の次で、
宇宙人がいる「という思想がいかに人間を操ることに利用」されているかに注目しています。

そもそも宇宙人カルトが流す宇宙人像は、上層部が知っているかもしれない実在する(かもしれない)宇宙人像を少なくとも末端信者にはそのまま教えないのでは?
洗脳ツール用に加工されているのでは?

という疑念もありますし。

宇宙人説と、聖書原理主義・白人至上主義・アーリア主義は密接にリンクしています。
チベットという名前が含まれるカルトを運営していた人が出した本が今のスピ系宇宙人論の元ネタになっている可能性が高いです。
スピリチュアルの元祖である北欧貴族のスウェーデンボルグ(スヴェーデンボリ)も宇宙人について言及しています。
北欧はアーリア主義者が大好きな金髪碧眼が多いことで有名です。
宇宙人論者はまずはスウェーデンボルグなどの宇宙人思想の流れを検討すべきです。
スウェーデンボルグ(スヴェーデンボリ)の思想は神智学、スピリチュアル、ニューエイジ、ニューソート(生長の家に影響とは驚き)など、進化論やインドの輪廻思想を取り入れて更に凶悪化した新キリスト教の根幹
です。

人型の宇宙人は聖書神話を維持するのに非常に都合がよいことに警戒してください。
目撃される宇宙人に、完全な球形だったり、頭部がない触手うねうねが全然出てこないことが不自然ですし。
支配層が流す宇宙人像が、「とにかくエイリアンは人型!」と洗脳する意図が感じられる
のです。
エイリアンが人型だと、人間は神(エイリアン)と同じ姿という聖書神話を維持できます。
シュメール神話云々は後付けでまずは聖書神話の維持という都合が最優先
でしょう。
つまり、宇宙人こそが神にして創造主。
「だから聖書は正しい」と誘導していたら偽りです。

「聖書のユダヤ教徒は宇宙人だ!
だから地球に物証がなくて当然!
聖書は真実!」
とほざくカルトって既にありそう。

また、
反知性主義=考えるな! に誘導するものも偽りです。

キリスト教の中核である反知性主義をそのまま継承した、
新キリスト教=スピリチュアル、神智学、ニューエイジなど、
論理的思考を否定し、
非論理をひたすら崇める(反知性主義)
ように誘導するものも偽り
です。
非論理はあくまで真理探究の技術の一つであり、それ自体を崇めさせるものは偽りということです。

そもそも疑って検証することを否定する奴が真理探究なんてほざいてんじゃねーよ
コピー機が「これは真理!」なんて言っていたら笑ってしまいます(笑)

なお、論理(的思考)も非論理と同様に、便利な道具として扱うべきであり、論理という道具自体を信仰したら理性狂・合理主義狂儲になってしまいますので注意。

非論理「という道具」自体を信仰させるのがスピリチュアル=反知性主義(キリスト教の中核)
論理という嘘を見破る武器「自体を信仰」させるのが理性教・合理性至上主義

……

②区別できるか問題
カントは、人間のものごとのとらえ方には、習慣によって作られた信念ではなくて、それ以外ではありえないような型があると考えました。
ものごとのとらえ方の基本的な枠組みをカテゴリー(範疇)と言います。
カテゴリーとは
「ものの量」
「ものの性質」
「ものとものとの関係」
「もののありよう」
のことです。
人間はカテゴリー(=認識の大前提)を外れたものは認識できません。
ものごとをとらえるとき、すでに必ずカテゴリー(=認識の根源)に従っているからです。
「まず」カテゴリー「によって」ものごとがとらえられ、「そこから」あなたの認識が「はじまる」のです。

カテゴリーに引っかからない地球外存在は「人間にとっては存在しません」。
カテゴリーに引っかかった地球外存在であっても、
・単なる自然現象、
・人間が持つような知性がない生命体、
・人間が生物とみなさないもの、
は宇宙人とはみなされません。

おそらく、カテゴリーに縛られた人間
(カテゴリーがないとそもそも人間ではありません)
特有の問題が、
「区別できるか問題」
すなわち、
「言葉やイメージで違いを理解することはできるけど、
実際に区別することができない、という人間の認識の限界に由来する問題」

です。

例えば、

実際にその姿なのか、単に擬人化しただけか

・仮想世界装置による覚めない夢か、現実か

・臨死体験は死んでいないので死にかけの状態の夢なのか、
本当に死後の世界に行ったのか
(死んでいないのに行ける?)

・タイムマシンで百年前に自分が行ったのか、
タイムマシンにより周囲が百年前と同じ状態に変化したのか、

・他人は心がある人間か
哲学的ゾンビ
(=言動も見た目も心がある人間とまったく同じに見えるが実際は心がないロボット)か

人間に化けた宇宙人か、宇宙人に変装した地球人か

などです。
今回問題となるのは最後の例。

「地球人にそっくりな宇宙人と、宇宙人を名乗るただの地球人を区別できるのか」、
という問題です。
「違いは認識できるが、実際には区別できない」という人間の認識の制約により生じる問題です。

「宇宙人と名乗る見た目がどう見ても人間である宇宙人」

「宇宙人と名乗る宇宙人っぽく変装している地球人」
の区別です。
(最初の例の「実際にその姿なのか、単に擬人化しただけか」と似た問題)


スピ系の人によると宇宙人はシェイプシフト(変身)できるんですよね?
どうやって判定するのですか?

シェイプシフトは人型限定なのですか?

宇宙人が陰謀の黒幕なら、人型以外に化けるほうが隠れられますよね?

UFOを見たら「人型の」宇宙人が「乗っている」以外の発想が浮かばない人は洗脳されているか、頭がかたすぎます。
UFO自体が宇宙人では?
人間製の無人機では?
区別できるの?
確実に言えるのは
「何かが空を飛んでいる」ってことだけでは?

などのさまざま可能性を挙げたうえで
どれが正しいかを区別(判定)できるのでしょうか?

だから私は断定できないことに対しては
「無記」=「現時点ではわからないので断定しない」
という二元論=二択の罠にひっかからない姿勢をとっています


欧州貴族の特殊な血統信仰と人種差別と選民思想は、
ネアンデルタール人の血脈を維持するためなのか、
RHマイナスや金髪碧眼で白い肌(白人種)の血筋を維持するためなのか、
ファンタジーのエルフやドワーフみたいに人間と混血可能な亜人種の血筋を維持するためなのか、
爬虫類宇宙人の血筋を維持するためなのか、
他の理由なのか、
区別がつきません


まあ、
超古代人
=宇宙人(ハーフ含む)
=金髪碧眼白い肌のネアンデルタール人
(≒金髪碧眼の白人が多い北欧の伝説のエルフやドワーフ)
かもしれませんけど。

「白人」の定義すらいい加減であることからわかるように、人種だって観念です。
アーリア人は実在しない言語学の観念
ですけどね。

間違いなく言えるのは、
支配層は「自分ら支配層は、お前ら奴隷とは『違う種族』だ」「という思想」
に基づき動いていること。
「本当に」別の種族や生物(宇宙人など)であるかどうかは不明です


思想「自体の真偽」と、その思想「を利用して大衆を操る」ことは別です。
「思想自体が正しいかどうか」の議論と
「思想という人間を操る道具をいかに支配層が悪用しているか」の議論
の違いは大きい
です。

ちなみに、「思想という人間を操る道具をいかに支配層が悪用しているか」という話をしているのに、
文脈を無視して「思想自体が正しいかどうか」の議論にすり替えてくるのが工作員(無自覚含む)の特徴
ですので覚えておいて下さい。
文脈無視ってそもそも会話する気がないよね?
布教だよね?

人類を創造したのが宇宙人だろうが、宇宙人でなかろうが、
人類を創造したのが宇宙人である「という思想」が人にどう影響しているのかは判ります
からね。

なお、上述の例には二分法の詭弁が含まれている可能性がありますのでご注意!

まあ、私は宇宙人の実在に対しては無記ですのでコメントで嚙みつくのはやめくださいね。

前々回の記事
【大前提と資料編】支配層が正しい宇宙人像を流すわけがないので、宇宙人支配者説を検討しつつ修正。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-87.html
で述べた通り、立証責任は現状(通念、定説)を変更する側が負うので、宇宙人支配者説
の立証責任は主張する側にあることもお忘れなく。

「宇宙人が存在し「ない」と証明しろ!
できないだろ?
だから宇宙人は存在する!」
という詭弁は受け付けませんのであしからず。

私は宇宙人説の矛盾点を突いたり、宇宙人思想が悪用されていることを指摘しているだけで、宇宙人の実在に対しては否定も肯定もしない「無記」だということをお忘れなく。
反証できない、あるいは反証しにくいことは、疑ってかからないとカルトに絡めとられますから警戒しないとね


……

【引用資料の要約】

・宇宙人がもしプラズマなどの、人型でもなく霊的存在でもない自然現象のようなものなら許容されるのか。
宇宙人という概念には聖書神話的な人間中心主義がある可能性。

・人間は自然現象そのままを神々を崇めるのではなく、自然現象を擬人化してから神々として崇める。
地球の重力に縛られた人型宇宙人は人間の精神構造に沿っている。
人間の心理構造でも理解を遙かに超えた宇宙人は、人間の認識では自然現象に見える可能性。

・宇宙人は、地球人という低レベルな存在に理解できないほど凄い存在だから、金髪碧眼の白人にシェイプシフト(変身)して地球人にわかりやすい姿になっている、というのは詭弁。
地球人そっくりに変身しているのなら、宇宙人ではないかもしれない。

(「地球人にそっくりな宇宙人と、宇宙人を名乗るただの地球人を区別できるのか」、という問題です。
違いは認識出るが、実際には区別できない」ことは人間の認識の制約上、たくさんあります)

・今の地球人の技術では、目の前に現れた金髪碧眼の白い宇宙人なのか、単なる白人の地球人なのか判別できない。
宇宙人視点だと地球の科学はレベルが低すぎるそうだが、もしその「低レベルの科学的認識」で宇宙人の存在を立証するには物証がないと困る。

・宇宙人論はレトリックの分析の練習問題にも使える。矛盾点をつつくことで議論に強くなる。

・欧州貴族の信仰する特殊な血脈がネアンデルタール人の血脈である可能性。
ファンタジーのエルフやドワーフみたいに人間と混血可能な亜人種の可能性。

・引用「ネアンデルタール人からの混入遺伝子は、現生人類の皮膚、爪、髪形成などの繁殖に重要でない遺伝子部分に細分化されて多く残っており、白っぽい皮 膚、金髪や赤毛、青い目などはネアンデルタール人から受け継いだ可能性が高いとしている」
が宇宙人起源説の元ネタの可能性。

・現人類に比べ、ネアンデルタール人の特徴は圧倒的な劣勢遺伝で混血を繰り返してたら特徴が消えてしまうから差別をしている可能性。
もしネアンデルタール人が、肉体的な現実的感覚より、形而上の観念的な感覚が発達してたとしたら、そういった特殊な血脈の子孫が宗教を捏造しまくっている可能性。
イスラーム世界でも、形而上の観念を発達させたのはアラブ系よりイラン系などのアーリア系(笑)が断然に多い。

・「言葉はモノの名前ではない」
言葉は、人間がモノ「に対するイメージ」につけられた名前。
言葉はそのモノ自身のことではない。
イメージの分類に使われる区分けの道具の一つが「神」。
だから、多神教だった。
一神教はより多くの人々から資産を巻きあげるための詐欺。

・人間は嘘を信じないと心の平静を保てないカモ。

・宇宙人説と、聖書原理主義・白人至上主義・アーリア主義は密接にリンクしている。
科学思想により聖書神話が揺らいだ。観測技術の発展で雲の上には天国も天使もないことがわかる。
ブラバッキー夫人の神智学がチベットのマハトマをプロデュース。
マハトマは人類よりはるかに進化した存在でチベットあたりに引きこもって人類を指導しているという設定。
未開の地だったチベットに西洋人が入れるようになると、チベット人が特別でも何でもないことが判明。
高次の存在が住んでいる場所が、チベットから宇宙に移動。
ある思想が崩壊するとすぐさま別の思想が用意される懇切丁寧な、きめ細かいサービスのような展開。

・宇宙人論が本格的に登場する前は、チベットの下にあるシャンバラや地底人がメインだった。
漠然としていた宇宙人論がいきなり明確になるのが1950年代。
アダムスキーという、チベットという名前が含まれるカルトを運営していた人が出した本が恐らく今のスピ系宇宙人論の原型。
1960年代はアポロ計画でわかるように、アメリカでは宇宙開発が大ブームとなり、その大ブームに乗ってアダムスキーのUFO本も大ブームになる。
アポロ計画がなかったら、今のスピリチュアル系宇宙人論はここまでメジャーになることはなかっただろう。
チベット系カルトをやっていたアダムスキーからUFOと宇宙人の話が出て来る。
宇宙人論と、チベットのマハトマ論はダイレクトに繋がっている。
宇宙人論は非宗教的であることになっているが、アダムスキーの本を検索すると宗教書ばかりが出てきたので、UFOと宇宙人論もカルトである可能性。
アダムスキーの「地球人が一丸となって宇宙に目を向けよ」という本は、アイアンマウンテンレポートを彷彿とさせる。

ヴァン・アレン帯を抜けられないのアポロが「有人では」月に行けません。
アイアンマウンテン報告には、外部の危険を演出して大衆をまとめて操作する手法
が書かれています)

・リチャード・コシミズは反米なのに追っていることは統一教会の息がかかったキリスト教原理主義と同じ言い分。ユダヤ叩きは宗教教義のためにそうしているのであって、事実と関係ない可能性。

コシミズは欧州系っぽいのにアメリカの白人至上主義的であるのは、親分が左右の胴体に近い生長の家だからでしょうね。
①天皇絶対(天皇擁護)
②万教帰一(ワンワールド推進用の東アジア共同体礼讃)
という生長の家の教義に忠実
なコシミズ。

創価とキリスト教と南朝偽天皇の関係は絶対に突っ込まないコシミズ。
聖教=キリスト教新聞。
キリスト教と相性が良い日蓮思想。

統一教会とスウェーデンボルグ思想の関係は絶対に突っ込まないコシミズ。
スウェーデンボルグ思想は生長の家と大本教の根っこ
でもあるからね。

た⌘し ‏@meets_tak 1月24日
以下、島田裕巳著『創価学会』(新潮新書)より引用。第一章 なぜ創価学会が生まれたのか (P29)から。 pic.twitter.com/lviTxsGBtf

しかし、牧口の場合、宗教として元々親しんでいたのは、日蓮正宗ではなかったし、仏教でもなかった。北海道尋常師範学校は札幌にあったが、札幌には、内村鑑三や新渡戸稲造といったキリスト者を生んだ札幌農学校があり、キリスト教プロテスタントの伝道の拠点であった。

牧口自身、「苦学力行の青年期に敬愛し親近した師友は、大概基督(キリスト)教徒であった」(『創価教育学体系楩概』
)と述べている。 (引用は以上)


子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi
@meets_tak 創価学会の母胎は
#大日本皇道立教会=キリスト教製の偽天皇系組織。
#sagegroup=紐付き陰謀論者の巣窟の母胎も大日本皇道立教会。
創価の表層を叩かせるのは、偽皇室とキリスト教が陰謀論業界のボスであり、創価とsagegroupを作った黒幕なのを隠す為


小沢も大本教系。
創価がキリスト教製なのを隠す為に、初代と二代目ボス、創価の母体の大日本皇道立教会を避けるRK。
隠れキリシタン?
自民党=ワールドメイト+生長の家+神道政治連盟
民主党=ワールドメイト+生長の家+スピリチュアル


bcxxx ‏@bcxxx
宮沢賢治はスウェーデンボルグ主義の影響強いんじゃないかと思います。スウェーデンボルグはスピリチュアリズム(心霊主義)の元祖になったイタコ体質の人で、キリスト教から派生したニューエイジの元祖でもある。エコ、イルカ、ヒッピー、宮沢賢治、統一教会、宗教右翼。このへん土台は同じ。

あ、大本教はスウェーデンボルグ主義の日本版解釈です。それが日本の宗教右翼の元祖になる。で、統一教会も別口でスウェーデンボルグの影響受けてる
。こっちも宗教右翼になる。宮沢賢治も右翼でしょ。ヒッピー的・農村回帰的・エコロジー的右翼。

統一教会の教祖、文鮮明の師匠にあたるのがちょっとカルトっぽい韓国のキリスト教会の牧師なんですが、この人もスウェーデンボルグ研究者。統一教会は大本 教にも影響受けてるんで、二十三重に。あとマルチとかの「思考は実現する」系の自己啓発思想もスウェーデンボルグの流れ

東邪西毒 ‏@whokilledxxxxx 3月16日
田中智學が考案した世界連邦構想(八紘一宇)が大東亜戦争の理論的根拠になったんは事実やが、八紘一宇は日蓮上人を頂点とする国體での世界統一だし、また同化主義の危険性の指摘や死刑廃止を訴えた先駆者でもある。彼により創設された宗教右派団体の國柱會の理念を否定するなら宮澤賢治も否定するべき

bcxxx ‏@bcxxx 3月16日
.@whokilledxxxxx 私、宮沢賢治もその側面は否定してます。スウェーデンボルグ主義者で元祖スピだし。

bcxxx ‏@bcxxx 3月16日
ついでに言うとスウェーデンボルグ主義は大本教にも統一教会にも影響与えてるから、日本の宗教右翼のルーツの一つなんだよな。それと、スピってる現代のふんどし野郎がすぐヘイト陰謀論に飛びつくのは、無関係じゃないんだよ。

統一教会は韓国軍政と同じく、日本帝国の鬼っ子ですからね。

大本教の影響は直接あったのかな?スウェーデンボルグの影響を受けているのは間違いないのだが。何にせよ宮沢賢治も統一教会も日本の戦後宗教右翼も、同じ源流から生まれた。)

・宇宙人は人型で肉体があるからプレミアがつく。
プラズマなら単なる鬼火、自然現象でおわり。肉体がないなら仏や天使でもいい。

・儀式をすると意識に切り替えが容易にできる。
神秘体験しやすい血族がいる可能性。
「自分らはホモ・サピエンスあるいは有色人種とは違う。あいつらは単なる動物だから殺してもいいし、徹底的に自分らが管理しないといけない」
という意識があれば残虐なことが平気でできる。
おそらくナチスや優生学はそういった感覚から生まれた。

・最近やたら日本バンザイ番組が多いのは、日本人は優秀だから侵略してOKという大義名分を作る為だろう。
プロパンガンダによって半島人と中国人を見下しはじめたのであって、幕末までは知識人は中国の古典を学び漢文の読み書きができ、中国をとても尊敬していた。
神道カルトによる「日本は神の民」という洗脳工作は、日本による海外侵略と植民地支配と連動していた。

・「人種」という観念は怪しい。
違うのは人種ではなく、宗教や文化や風土や言語なのでは?
ナチスや英米の連中は、ヨーロッパのキリスト教徒で同じ白人でもラテン系やスラヴ系も白人とは認めてなかった。
イタリアやスペインなんかは、アラブ系と混血してる人が多いので認めない理由は判るが、ドイツやイギリスより白いスラヴ系を白人と認めないのが分からない。
スラヴ系は映像で見るとアングロサクソンより真っ白で金髪率が異常に高い。
「白人」の定義もいい加減なので、血筋やら人種だって観念でいいだろう。
爬虫類宇宙人の血筋だって、アーリア人(笑)だって、実在するか不明。
アーリア人(笑)は実在しない言語学の観念。

・ナチスが、スポンサーであるバチカンの超古代の科学調査隊である可能性。
キリスト教はアレクサンドリア大図書館の破壊など、世界中にある過去の文明のヒントとなるものを意図的に破壊している。
超古代文明に繋がるかもしれないネタが出て来ると宣教師が破壊する。
恐らく、古代の智慧を独占するためにやっている。

・神や宇宙生命体の姿をイメージすると、思わず人型になってしまうのは当然。
人間の思考形態に当てはめないと思考すらできないから。
カテゴリー(=認識の大前提)を外れた宇宙存在とは交流不可。
正確には、存在自体を認識しないから交流以前の問題。
カテゴリーのことを相手に伝えることは不可能。
カテゴリーは頭の中や心の中にあるものではなく、「実際に活動しているその活動の中に“示されている”形式」。
活動中に意識するなんてありえない。意識しようがない。
「まず」カテゴリー「によって」ものごとがとらえられ、「そこからすべてがはじまる」。

・人格神は全能ではありえない。
人間化=不完全化され、人間が解釈できて人間の理解の範囲のことだけができる、
宗教家の操り人形だから。
「全知全能」という記述すらも人間の理解の範囲内にある。
そもそも物事の誕生の根源があるとすれば、それは創造神ではなく、「変化」それ自体である。
Aが存在し「ない」状態から、
Aが存在「する」状態への「変化」がなければ何も誕生することができない。
「変化」がなければ創造神は何もなすことができない。
その創造神に人格があるとされていることも奇妙だ。
人格がない状態のときには既に変化は存在していた。
つまり、創造の根源は存在していた。
したがって、意志によって初めて創造が行われたとするのは誤り。
その「意志」が誕生するための「変化」こそが創造の源泉なのだから。
仏教ではこの「変化」を
“諸行無常”
と呼んでいる。
無論、人格はないので、解釈者=宗教家が支配に利用することができないようにしている点が重要。
万物の根源が「人格と意志ある」存在だという宗教家の主張は嘘。
人格と意志が誕生する為の前提=変化が根源。

・擬人化して人間の認識、言語をあてはめて物事を理解するのが人間。そして人は擬人化ならぬ「擬私化」して他者などを理解する。

・ある日、神から心を与えられたロボットが「今日からぼくは心があるんだぞ」と言うはずがない。そのとき与えられた心は、その内側から見れば「そのとき与えられた心」ではない。「はじめからずっと存在していた心」。
この変化は、他人たちにも自分自身にも、だれにも知られることはない。だれにとっても変化ではない。それでもこれが変化だといえるとすれば、それはこれが神による変化だからであり、まさにこのような変化を与えることこそ、神にふさわしい業である。
このロボットは、心を付与されるだけではなく、私になるのだとしよう。そこに私に識別可能なはっきりした変化が起こっているだろうか。
神が昨夜、私に心をあたえてくれたのだとしても、私はそれを知ることができない。だから、それは<私に>起こった変化ではない。むしろ神が、そして神だけが起こしうるある変化によって、私ははじめて誕生したのである。それまでもずっと存在しつづけてきたとの確信とともに。
これはいわば開闢である。しかし、この開闢は、実際に「それまでもずっと存在しつづけてきたこと」と<だれにも>区別がつかない。

・「私」を着脱する能力者が「ある人の私」を剥奪して、
哲学的ゾンビ
(=言動も見た目も心がある人間とまったく同じ見えるが実際は心がないロボット)
になったとしても、その人以外の人にとっては何の変化もないし、その変化を感じる「その人の私」はもはや存在しない。つまり、実質「何も起こらない」。

・1970年に自分がタイムトラベルするとしたら、そのときその瞬間に起きた出来事は
①「自分が1970年に行った」
②「自分の周りの世界が全て復元された」
のか
(区別できない)

・「人生の内側には、たくさんの意味づけができるし、生きがいはある。
でも、人生の全体を、つまり人生が存在したことを、まるごと外から意味づけるものなんて、ありえない。そんなものがありえないってことこそが、それをほんものの奇跡にしている。
人生の内部のさまざまな行為や出来事に意味を与えるのと同じように、自分の存在そのものにも意味を与えてしまったら、人生の深い味わいの大半は失われてしまう。
ぼくらは意味づけの病に陥っている」

「でも、もしかしたら、ぼくの存在には神さまの計り知れない意志が働いているのかもしれない」

「もしそうだとすれば、そんなことは絶対に考えられない。
自分を産み出している培養器の中の脳について考えられないのと同じ意味で、ほんとうに存在する神については決して考えることができない。それについて考えたり語ったりすることさえ、絶対にできない。だから、そういうことが分かるとか、知っているとか言う人は、絶対に信じちゃいけない」

思考は言語でなされるので、言語の限界が思考の限界。
「自分を生み出している培養液の脳」について考えたとしても、
その「自分を生み出している培養液の脳」は自分の言語でなされる思考の枠内なので、
決してその外にあるかもしれない「自分を生み出している培養液の脳」自体を考えることはできません。
「」内を神などに変えても同じ。
非言語の体験でも感じることはできません。
自分の理解力、認識、知覚の枠内を出られません。
その存在「の想定」をあなたの思考「の中に出現させているだけ」で、絶対にあなたの思考の外の存在には至れません


言葉はモノそれ自体ではないし、
認識もモノそれ自体ではない


人生全体を意味づける神を信じなさいとか、あなたの人生の意味は~だ!
とか言う人はできっこないことをできると言っているので詐欺師かあまり考える力がないかそれ以外の何かでしょうね。
枠外に出る方法はあると思いますよ。
でも、言語や認識の枠外に出たら個人としてのあなたは死ぬか人ならざる何かになるかでしょうね。
枠外を出た人が、人生全体を意味づける神を信じなさいとか、あなたの人生の意味は~だ!
と言わないでしょうし


・ニヒリズム
はすべては無意味だ、という思想では「ない」。
むしろ逆。ニヒリズムは、すべてには意味「しかない」という考え。
自分は何のために生まれてきたという問いこそが虚無的(ニヒル)な問い。
もし何かひとつの全体的な意味づけの中に一生涯没入して生きる人がいるとしたら、それこそがむなしい、ニヒリストそのもの。
若いころは自分の素質や能力が自分自身の人生を決めていくような感じを持っている。
でも、それは錯覚。ほんとうは、思いもよらない偶然が人生を決定してしまう。
幸福な偶然も不幸な偶然も、幸福でも不幸でもない偶然もある。
文字通り偶然なので、何の根拠も意味もない。
でも、そういう意味のないことがたまたま起こったってことには意味がある。
その意味のなさこそをよくよく味わわないと。そこでこそ、全宇宙の存在の奇跡と君の存在の奇跡が出会う。
そういう偶然を味わうためにこそ、一回かぎりこの世に生まれてきたとさえ言える。

・新聞やテレビや、学者や評論家を、絶対に信用しちゃだめ。世の中で通用するってことは、ほんとうに大事なことはぜんぶ『はしょって』あるってことの証拠。
哲学から学べるような一般論は、自分に固有の体験の場で鍛えられてはじめてほんものの知識になる。

捏造云々以前に『はしょって』いる=思考過程をあまり説明しない、ことが問題。
疑問をもってあれこれ考えてウロウロする過程なしに、いきなり答えを押しつけ、疑うことを許さないことを、宗教といいます


・こころや意識のないロボットを人間の仲間に入れて人間扱いしさえすればそのとたんにロボットにも心や意識が生じる。ロボットと同じく人間もいくら解剖しても心も意識も見つからない。人間は人間に似たものしか心あるものとみなさない。

(宇宙人が「人間的」である理由です。
ゴッド=宇宙人説の大前提は、
宇宙人が「人間的な意志を持つ」
「人間が知的だとみなす」
「生命体」であること

だから「重力に縛られた」
「頭部が上にあり」
「足が下にある」
「二足歩行する」
「液体を固体で覆った肉体を持ち」
「音声で情報伝達する」
人型が想定されます。

もっと柔軟に考えろよと思う。
カルト信者は思考がテンプレ化してて、UFO見たら「人型の」宇宙人が「乗っている」以外の発想が浮かばない(笑)
UFO自体が宇宙人じゃないの?
人間製の無人機かもよ?
区別できるの?
確実に言えるのは
「何かが空を飛んでいる」ってことだけでは?


・夢=心の中にあって外界に存在しないもの。

・カントは、人間のものごとのとらえ方には、習慣によって作られた信念ではなくて、それ以外ではありえないような型みたいなものがあると考えた。
ものごとのとらえ方の基本的な枠組みみたいなものをカテゴリー(範疇)と言う。
「因果性」や、「ものとその性質」というとらえ方もカテゴリー。
ものごとをとらえるとき、すでに必ずカテゴリーを使っている。
さまざまな感覚的経験にカテゴリーが適用されることによって、はじめて、それが【客観的な現実】として認められることになる。

(子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi
『ボクと魔王』の黒幕は「分類」の力で設定と役割を強制的に与え支配。
分類を外れたものだけが抗え、「~として反応せよ」など支配者の命令が見える

真実の寓話の分類が笑い話
旧約は人が生物に名付けの呪術を施す。
差別や病名は言語=分類術で誕生


猫太
「魔法(魔術)=理系+文系の総合学問」と書かれてますけど、古代の哲学というモノがゲームの魔道師の知識体系そのまんまなんです。博物学とも言うのでしょうか。欧米の博物館が何でも集めるのは魔道師の陰謀”
”知識と智慧と意思の三位一体の話良かったです。”
文系と理系で分類し分割支配


”リベラルアーツというか、百科全書的な知識、なんでもかんでも集める博物学(戦利品博物館の大英博物館)などは、魔道師の知識の体系を現してると思うのですよ。古代の哲学が文系と理系をわけない統合的な学問なのはそのため。アレクサンドリア図書館的な姿勢ですね。”
分野に分けると総合力を失う


”私はずっと哲学と魔法(テクニカルな呪術や人を支配する人文科学なども含め全部)は一緒だと思ってました。ソークラテースのような古代ギリシアの哲学者たちは魔法使いのアーキタイプだと思っております。実際、プラトンはマギの教えを受けたという伝承があります。”
インドとイランは魔法使いの国

紐付き陰謀論者が「これは真実!」と言ってから話すことは核心部分が虚偽
フィクションは「今から言うことは嘘」と言ってから話すので殆ど本当
洗脳された因囚が馬鹿にするものは真実を告げる
私は因囚が馬鹿にするものが好きです。SAGEに注目。

猫太
”今の大人って本当に本質を見抜く目がない、子供の物語の背後の話がわかる教養がない、西洋の本質を何もわかってない大人が多いのは由々しき事です よ。大人のための西洋入門とかやらねばねー”
”オウムはアテーナーのシンボルでもありますな”
ボクと魔王の黒幕がアリストテレスのカテゴリー論

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya
アリストテレスが開発したカテゴリー論というモノは凄くて、モノの名前のラベルを貼り変えるだけで人は同じものだと認識できない。いい例を出せばハリポタだな。ハリポタでは魔法族は科学を使わず、科学を使うのは普通の人間のみ。でも、魔法も科学もそのラベルを外してみたら中身は同じもんだよ

アリストテレスのカテゴリー論で思い出したんだけど、旧約聖書でアダムはエデンの園でモノに名前をつけまくるんだけど、もしもだよ、旧約聖書がアレクサン ドリアで捏造されたならば、ここにはアリストテレスのペリパトス派の本拠地があった。聖書捏造の過程でアリストテレスの影響ってあるんだろうか?

かまど ‏@kamadoi 9月11日
僕魔の分類世界に住んでいた人々、外の世界の人々、どちらから見てもどちらの世界も、無いと思っていた(無いという認識すらなかった)場所に突然現れた世界なのかなあ

影絵劇場@FE白2周 ‏@Kage_e_Geki_jou 9月11日
@kamadoi 外の世界の住人は分類に支配されていない筈なので、外の世界から見た時、分類支配されていたボクと魔王世界がどう認識されていたのか非常に興味深いですねえ

かまど ‏@kamadoi 9月11日
@Kage_e_Geki_jou 分類の力を作用していたのが人によるか街(国)によるかですかねえ。管理下にある世界全体に、存在していないという分類をかけてそれによって外の世界から切り離していたとか。

2014/09/04【フィクションこそが真実を伝える】
ソニー『ボクと魔王』。
分類(強制設定。レッテル張り)と二元論による操作技術。
誤訳による情報操作。
時計と暦は時間による奴隷生活管理術。
○の中に△(拝火教ナルトの暁、『恐怖の谷』ホームズ)も、△の中に○も魔法陣

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-32.html

『ボクと魔王』は今も実況プレイ動画があがるほどに根強い人気があるので、内容の良さは本物と言えます。
超オススメ)

・論理的な正しさは、前提や結論の事実的な正しさとは関係ない。
二つの前提が「もし」正しい「としたら」、結論も「どうしても」正しく「なくちゃいけない」っていえるかどうか、これがポイント。
最初の方の推論は前提も結論も事実的には間違っているけど、もし二つの前提が正しかったら、結論は「どうしたって」正しくなっちゃうから正しい推論。
内容的には間違っていてもいい。論理的な道筋の正しさは、個々の内容が現実と合っているかどうかとは関係ない。
ある議論が正しいかどうかを問われると前提や結論が現実と一致しているって意味で正しいかどうかをついつい考えたくなる。
でもそういうことは論理的推論そのものの正しさとは関係ない。
今でも科学者や評論家の中にもこのことが良く分かってない人が結構いるから注意した方がいい。

論理とは事実的な正しさとは無関係に、前提が正しければそうなってしまう構造、手続き。
論理的=正しい、では「ない」ことに注意!
あくまで便利な道具として扱うべきであって、論理という道具自体を信仰したら理性狂・合理主義狂儲になってしまいます。
非論理=反知性主義という道具自体を信仰させるのはスピリチュアル。
論理的な文章や論理的な思考が何を教えるには、実際にその文章や思考を示さないといけません。


・「時間が急に止まっちゃうとか、逆流しちゃうとか、それからタイムトラベルなんてことも絶対不可能。
考えることもできないことは、起こることもありえない。
考えられるかぎりのどんなにへんてこなことが起こったって、ぼくらはそれが時間が止まったなんてみなさないから時間は止まらない。
「でもぼくらにはわからなくても、ひょっとしたら、いつか時間が止まったり終わったりすることがありうるかもしれない」なんてことは、最も根本的な意味で「ありえない」。
ぼくらはぼくらの知っているこの時間空間しか知ることはできない。
だから、そういう意味で、タイムマシンに乗って過去へ戻るなんてことはありえない。
もしぼくらが「これから」タイムマシンに乗ってどこかへ行くなら、行きついた世界がどんなにむかしの世界であろうと、それは出発時から見て未来の出来事。
どういうわけか未来の中身が過去と瓜二つだったってだけのこと。
「いまから」ぼくらが過去へ戻るなんてことは論理的にありえない。
百年前に自分が行ったのか、
周囲が百年前と同じ状態に変化したのか、
区別はつきません



……

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya
うちゅー人がもしプラズマだったら、プラズマは超高温なので近づいただけでニャンゲンは消し炭になるんだけど、もし人型じゃなくてでも霊的存在でもなくて、自然現象のよーなうちゅー人だったら許容できるだろうか?うちゅー人ってどうも、聖書神話的なニャンゲン中心主義があるようなキガスル。

恐らくニャンゲンの心理構造って、自然現象そのままの姿をニャンゲンを作ったうちゅー人とかいって崇拝できないと思う。雷をユピテルに喩えたように、必ず 神話では自然現象の擬人化が行われるんだよね。で、うちゅー人なのに地球の重力に縛られたヒト型うちゅー人はニャンゲンの精神構造に沿ってる。

自然現象を擬人化する事でしか理解できないニャンゲンの精神構造があるとしたら、もし本当に地球の重力に縛られないうちゅー人がいたとするならば、ニャン ゲンの心理構造での理解を完璧に超えた存在がいるかも知れない。で、それはニャンゲンの認識では自然現象に見えるかもしれないのがミソなんだよ。

まあ、それに対する詭弁的反論として、うちゅー人は低レベルの地球人には理解できないほど俺SUGEEEな存在だから、金髪碧眼の白い人にシェイプシフト してわかりやすい姿になって地球人の未来を心配してやってんだぜ?と言われるけど、じゃあそれだとうちゅー人じゃないかも知れないじゃん。

何はともあれ、今の地球人の技術では、その目の前に現れた金髪碧眼の白いうちゅー人なのか、単なる白人のおねえさんなのか判別がつかない。うちゅー人目線 で言えば、地球の科学はレベルが低すぎるとの事だけど、もしその「低レベルの科学的認識」でうちゅー人を成立させるには物証がないと困
るよね。

とまあ、うちゅー人はいるかいないかわかんないけど(ぬこたさんの直感ではいない気が)うちゅー人論に関するお話ってレトリックの分析の練習問題にも使え ますよね?うちゅー人に対する矛盾点をつつくことで議論に強くなります。でおいらが望むのはうちゅー人の超科学技術で福島の綺麗にして欲しいな?

うちゅー人さんも、自分らは俺SUGEEEな超科学技術持ってわざわざ地球に出張してんだからさ、「地球の科学技術はレベルが低い」と揶揄する暇があった ら、せめて福島とその周辺の放射能汚染くらい綺麗にしてもいいだろ?それをせずに見下すだけってなんか冷やかしに来るDQNとあまり違わないよな


おっはよー。ねこねこさんの記事読んでる。いつも取り上げてくれてTHX。欧州貴族の血筋信仰なんだけど、特殊な血脈ってネアンデルタール人の子孫でございますって言えばいいんでね?ファンタジーのエルフやドワーフみたいにニャンゲンと混血可能な亜人種という話なら別に驚かんし?

引用「ネアンデルタール人からの混入遺伝子は、現生人類の皮膚、爪、髪形成などの繁殖に重要でない遺伝子部分に細分化されて多く残っており、白っぽい皮 膚、金髪や赤毛、青い目などはネアンデルタール人から受け継いだ可能性が高いとしている」←これは面白いな。うちゅー人起源説の元ネタになる。

ネアンデルタール人は一時期栄えてたけど、環境の変化で滅びに向かったというワケね。何が原因で現人類が派生したのかは不明だけど、現人類に比べたらネア ンデルタール人の特徴は圧倒的な劣勢遺伝で混血を繰り返してたら特徴が消えてしまう運命だったと。それでマヌ法典みたいなアパルトヘイトをする。

ネアンデルタール人は発掘された骨の構造から、脳みそが今の人類とはかなり違う構造をしたのがわかってる。脳みその容量もちょっとだけ多かったとか。で、 彼らがどんな文明や宗教を築いてたかはまったくわからないんだけどね。もし、そういう人たちが普通に生きてるホモ・サピエンスと違って

肉体的な現実的感覚より、形而上の観念的な感覚が発達してたとしたら、そういった特殊な血脈の連中がやたらと宗教を捏造しまくってるのも理解できるかも知 れないと思うわけだ。イスラーム世界でも、形而上の観念を発達させたのはアラブ系よりイラン系などのアーリア系(笑)が断然に多いんだよ




J・ナナミ ‏@pinkglalem
#言葉はモノの名前ではない。私たちは自然の事象に独自のイメージを持ち、それらを無意識にカテゴライズしている。このカテゴリーの一形態が「言葉」。「神」は、このカテゴリーに過ぎない。だから、多神教だったのだ

#言葉はモノの名前ではない。...であるならば、文化や思想が他とアダプトすることは、ありえないことなんだョ。十人十色と言うけど、ソレが個人から集団に単位が変わったら、途端に整合性が生まれるのかなァ?...ヘンでしょう...?

数が増えれば、百人百色...千人千色に変わるでしょう...

実はこれこそが、古代宗教が多神教だった理由なんだョね。そして、より多くの人々から、資産を巻上げようとしたときに一神教が生まれたワケ。つまり、創造主、造物主とは詐欺なんですョ。...ぶっちゃけ。

あたしは、ナゼ、古代の宗教が多神教で、現代のが一神教なのか?と言う問題について、「神」と言うのが分類用のタームだと考えています。古代には宗教に信仰が無かったと考えているンです。文明の初期の段階において自然は驚異であり、その現象を理解する必要があったワケ。

「#言葉はモノの名前ではない」人は事物に対する自己のイメージのある状態に対して名前をつけたのです。コレが言語。

自己のイメージの名前。そのモノじしんの事ではありません。そのイメージの分類上の棚が「神」と言う言葉なんで
す。

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 5月7日
@pinkglalem 古代において自然(天体・山や海、川、泉など)の擬人化が神なんですよね。自然から切り離して、観念上の「神」を拝めとか詐欺もいいところです。新約聖書の言葉は神ではないですが、言葉を神とすると詐欺連発になりますね。

J・ナナミ ‏@pinkglalem 5月7日
@lakudagoya もともと人間は現実(自然)からかけ離れた存在で、現実を模倣した想像の世界(文明)でしか生きることを許されなかった生き物です。類人猿の奇形児ですから...

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 5月7日
@pinkglalem 確かに。まあ、想像の世界でしか生きれないからこそ、自然の二次元妄想が発展して悪い人がそれで詐欺やるようになったと。

J・ナナミ ‏@pinkglalem 5月7日
@lakudagoya 問題とすべきは、答えが存在しないこと。もともと文明は模倣された“嘘”なんです。いくら進んでも正解はありません。じゃぁ、どこかに“答え”はあるか?...ありません。残念なことに...

だから、詐欺をやってる人たちは嘘のつき放題



帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 5月7日
@pinkglalem そうなんですよ。空なんですもん。嘘つき放題。でもニャンゲンは嘘を信じないと心の平穏を保てないと言う因業な習性を持ってますね。カモ人種です最初から

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya 2015年6月29日
うちゅー人関連の話をまとめると、どうやらうちゅー人絡みのネタの周辺には、聖書原理主義と白人至上主義(+アーリア主義)が密接にリンクしてるのがわかった。そのあたりの系譜について色々と書いてみようと思う。

1) 事の発端は19世紀半ば、科学的世界観が発達する前は欧米人は聖書的世界観を信じてた。雲の上には天使がいて、天の遥か彼方には天国があるというような感 じで。でも観測技術の発展でどこにもそんなものがないとわかると、従来の価値観の崩壊でその時代の悩んでたわけなのね。

2) で、みんあがウジウジ悩んでる中、颯爽とブラバ月子ちゃんのプロデュースで登場したのが、チベットの「マハトマ」さん。人類よりも遥かに進化した存在でチ ベットのあたりに引きこもって人類を指導してるっていう設定な。で、信仰の問題で悩んでた一部のインテリはとりあえず納得?する。

3) とりあえず、聖書的世界観を取るのか?科学的世界観を取るのか?で悩んでた人は、もしかしたら神(のような)存在はチベットのよーな人が及ばない所に引きこもってるという事で安心した?と思うんだけど、問題はそこでは終わりではなかったわけよ。

4) 交通網の発達で、それまでは未開の土地だったチベットに徐々に西洋人が入れるようになるワケ。そしたらチベットが特別でも何でもないというのがわかって来 た。そしたら、マハトマさんの住処がなくなっちゃって、高次な存在が住んでる場所ってのがうちゅーの彼方に移動したみたいなんだ。

5) おっとカンのいい子は気がついたかな?聖書的世界観の崩壊とリンクして、ふって沸いたように高次のうちゅー人論の元ネタになる話が出てきたと。これって、 喫茶店に入るとすぐお冷とケーキセットがついてくるくらい、懇切丁寧すぎるきめ細かいサービスだよね。ほんと、高次の存在って空気読める子

6) で、聖書的世界観の権威の失墜と共にうちゅー人が出てくるという、空気が読めすぎる高次の存在のサービスに、進歩派と呼ばれる人たちは食いついちゃったの。まあうちゅー人論が本格的に出てくるのは1950年代なんだけどそれより前はチベットの地下にあるシャンバラとか地底人がメイン
だった。

7) で、漠然としてたうちゅー人論がいきなり明確になるのが1950年代。ジョージ・アダムスキーという「チベットの高貴なる騎士団」というカルト宗教を運営 してた人が「空飛ぶ円盤同乗記」という本を出して、その本がベストセラーになるの。この本結構凄くて今のスピ系うちゅー人論の原型っぽい。

8) 折りしも1960年代は、アポロ計画でわかるよーに、アメリカではうちゅー開発が大ブームになった。アダムスキーのUFO本もその流れに乗って大ブームに なったわけよ。もしアポロ計画がなかったら、今のスピリチュアル系うちゅー人論はここまでメジャーになる事はなかっただろう
ねぇ。

9) ちょっと待って!うぃきを読んでみると、アダムスキーが運営してた新興宗教が「チベットの高貴な騎士団」だって?しかも、アダムスキーは8歳から12歳ま でチベットに留学してたって言ってるとか。ふーん河口慧海も同時代に留学してるんだけど、結構大変なんだよ?この話本当かね?

10) いやー話が繋がってきましたねー。おいらが最初、高次の存在はうちゅー人ではなくて、チベットにいるマハトマさんだったと。そのマハトマさんを信仰するカ ルト宗教をやってたおっさんからうちゅー人話が出てくるとか、話がダイレクトにピコーン!ですよ。こんなわかりやすい話があるとはね。

11) 間違いない。うちゅー人の話はチベットのマハトマさんからシームレスに繋がってるとわかったよね?で、ヌッポンではうちゅー人の話は非宗教的な話題となっ てるけどさぁ、amazonでアダムスキーの本を検索したらさ、宗教書みたいな本ばかり出てきたんだよ?つまりUFOってカルトだよね?

12) アダムスキーの「地球人よひとつになって宇宙へ目を向けなさい!」って本だけど、この人類が一丸となってうちゅーに目を向けなさいってアイアンマウンテン レポート
を彷彿とさせる気がするのは気のせいでしょか?チベットの話からシームレスにうちゅー人とか何かあるな~とか陰謀論者は考える

13) おっとチベットといえばUFOネタより前に、ナチスがアーリア人(笑)の故郷として探してたネタは有名だよね?ナチズムは極めて白人至上主義が強くて、西 洋の伝統芸能であるユダヤ陰謀論のホロコースト詐欺をやったのは有名だ。で、アメリカのユダヤ陰謀論はナチズムの末裔として続いて行く

14) アイアンマウンテン・レポートで検索していたらこんな論文見つけた。http://cruel.org/books/ironmountain.pdf …この論文によると、アイアンマウンテン・レポートはアメリカの極右の聖典なんだそうな、またユダ金が世界を支配してる本も、この極右の人たちにとってはバイブルなんだそーで。

15) おや?この論文で書かれてる話は主にアメリカの極右派(耶蘇教原理主義だと思う)で言われてる言説だって。これとまったく同じ事がリチャード・コシミズが 唱えてるんだけどコシミズってアメリカ嫌いで独立したいんじゃなかったっけ?それなのにアメリカの耶蘇教原理と同じ事行っちゃってるよ?

16) リチャード・コシミズが唱えてる事は、アメリカでは統一教会の息がかかった耶蘇教原理主義と同じ言い分だ。実はコシミズのユダ公叩きって宗教教義のために そうしてるんであって、事実と関係ないって事じゃない?反米なのに言ってる事はアメリカの宗教原理と同じってやっぱこーさくいんだわ。

17) かねがね、リチャード・コシミズには統一教会疑惑があったけど、こういう思想の背後関係からコシミズが統一教会のこーさくいんだという可能性も浮かび上が るワケ。統一教会というと、壷カルトの勝共なイメージしかないけど、本当は右も左も関係ないのかも?北朝鮮と仲良しだしねー


///

寸止め陰謀論者の話を聞いたり本を読んでも真理の探究の障害になるだけ。
①天皇絶対(天皇擁護)
②万教帰一(ワンワールド推進用の東アジア共同体礼讃)
という生長の家の教義に忠実なコシミズ

教皇派vs天皇派ってキリスト教保守VS新キリスト教派?
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-82.html


カァコ ‏@onigiri3_
@lakudagoya @makeanovel @MomoRaburin ”うちゅー人は電気つーことかな?”面白いです!!肉体を捨てて電波になる?! ....エジソンが屍者の研究してたって話にもつながるような。。

私も全然詳しくないですが、宇宙人の定義が人間に近い形でもなく電波かも?っていうのが面白いなと思いました。一般にはETみたいな情報を流してるけど本当は電波だった、、みたいなのだったら面白いなと。

帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya
@onigiri3_ @makeanovel @MomoRaburin あはは。その可能性あるかもですね。まあ、そうなっちゃったらもううちゅー人自然現象になっちゃいますぞ?うちゅー人はETみたいだからプレミアがつくのですっ!力説
そう、プラズマだったら単なる鬼火で終了ですよ(笑)肉体がなければ仏や天使でもいい
ですしね。

うちゅー人が電波とかそういう存在だったら、うちゅー人単なる自然現象になっちゃうよーな?うちゅー人は大槻教授の言うプラズマだったら、全然ありがたみがないというか、お土産うちに持ってきてくれない可能性高いから。。。ぐすん。

そういえば、関の都市伝説でフランシスコ法王(by イエズス会)がうちゅー人に関するネタを発言してたけど、主にUFOやうちゅー人の目撃証言のあるのは中南米などのカトリックの国が多いよな?で、法王の うちゅー人発言だ。うちゅー人騒動の裏にはイエズス会あたりが一枚噛んでるのではないか?

サイエントロジーもアダムスキーのチベット&UFOカルトもそうだけど、ファンタジーテイストの聖書信仰と違ってSF小説で騙しちゃえみたいな感じ。この手のカルトってさ、なんか教義もシステムもそうなんたけど、レトルト食品やインスタントラーメンで教義を作ってるような偽者感?
を凄く感じる。

コーヒーブレイク レプティリアン脳?
http://lakudanekoneko.blog.fc2.com/blog-entry-16.html
”この前、犬HKの番組で臨死体験の話があってたんだけど、脳科学の研究では人が神秘体験をする時は、脳の一番太古の部分である爬虫類脳が反応するんですって。

おおっ、これってまさかデーヴィッド・アイクの言うレプテリアンの話の真相に近づけるか?と思ったもん。

もしかして爬虫類宇宙人って、この爬虫類脳と関係あるのかな?

アイクが言う爬虫類宇宙人と言われる支配者って、やたらと暴虐で儀式が好きで権力欲が旺盛とある。歴代の中国皇帝とかもそうだし、世界中の支配者たちはアイクの言う爬虫類宇宙人みたいに、暴虐で儀式好きで権力欲が旺盛なのよね。ちゃんとした資料にあたったわけではないので、確定された事実とは言えないけど、爬虫類脳が強く活性化すると人は暴力的で残忍になると聞いた事あるような。

爬虫類脳って、そういった野蛮さだけでなく、神秘体験とも密接に深く繋がってたとしたらどうなるだろうか?

世界中の宗教は、主に神秘体験をした事で啓示を得て生まれてるわけよ。

儀式をすると、意識の切り替えが容易にできるので、場合によっては爬虫類脳にアクセスして神秘体験ができるかもしれない。瞑想と爬虫類脳が活性化する薬物を組み合わせれば確実かな?

となると、アイクが言う爬虫類宇宙人みたいな権力者は、歴史上では権力者であると同時に宗教的権威でもあることが往々にしてあるから、もし爬虫類宇宙人の血筋というものがあるのなら、人間だけでなく哺乳類や爬虫類にもある、爬虫類脳が強くて神秘体験しやすい血族がいるのかもしれない。支配者がやたらと血筋にこだわるのは残虐だけど神秘体験とかしちゃって電波を受信しやすい血筋を守ってるのかもね。もっともこんな血筋があったとしても、生物学的に証明するのは無理に等しいのだけど。

で、儀式好きで残虐で冷酷で権力欲が強いなら、普通の良心がある人を支配するなんてたやすいし、一般人が爬虫類宇宙人みたいな真似をしようと思っても、良心の呵責などで挫折するかキチガイになるかでできないわけよ。

どんな悪行の限りを尽くしたとしても、良心の呵責に耐えられなくならないのってやはり血筋のせいだろうか?サイコパスは欧米では100人にひとり、東洋人ではおよそ1万人にひとりで存在するわけだけど、このサイコパスの割合って何か意味のあるのかね?

白人がインディアンや黒人やアボリジニをいくら殺しても平気だったのって、この血筋のせいがあるのだろうか?

普通の人でも、犬や猫や動物を殺すのと人間を殺すのでは、抵抗感や罪悪感がまるで違うのだけど、もし白人に限らずだけど、そういう血筋の人が「自分らはホモ・サピエンスとは違う」という意識があったとして、黒人やインディアンや下層階級の白人を犬や猫のように捉えてたとしたならば、それはありゆるわけよ。

俺は普通のヌッポン人だからさ、「自分は有色人種とは違う」という感覚がわからないわけよ。でもそういう血脈の人に聞いたらその人たちは、一般のホモ・サピエンスとは違うという感覚を持ってるわけなんですわ


生物学的な事実がどうであれ、そいつらが「自分はホモ・サピエンスと違う」という感覚を体感的に持ってたとしたら、凶行に及ぶのはわけないよね。

科学的な学説やら宗教の教理やらがどうであれ、体感的に「自分たちはホモ・サピエンスと違う。ホモ・サピエンスの一般人は犬や猫と変わりないからいくら殺してもいいし、徹底的に自分らが管理しないといけない」というものがあったとするならば、止める手段なんざ殆どないってわけさ。

おそらくナチスやらの優生学だって、先にそういった感覚があって、時代が時代なので科学的でないと誰も信じないから優生学という科学のフリしてたわけで、最初から別に優秀な白人がいるということを証明しようというわけではないと思う。証明できたらそれこそ世界中の植民地主義に対する大儀名分ができるんだけど。

まあでも、それも作られた観念だと思うんだよね。

最近、やたらと日本万歳番組があってるのってさ、日本人が優秀=世界を支配する大儀名分を作るためじゃないか
って思うのよね。戦前、日本は半島人や中国人に対しても見下してたでしょ?そういう意識だって最初からあったわけじゃない。幕末まで、知識人といったら漢文を書けて、中国の古典を勉強してた。幕末まで中国に対する侮蔑の念なんかまったくなくて、とても尊敬してたんだよね。それが日中戦争の後になって中国に入植すると見下しの感情になってしまうわけなんだよね。これプロパガンダとしか思えないんだけど。

戦前、日本はあちこちに植民地をもってたんだけど、それと連動して、植民地主義の尖兵のような連中の神道カルトが「日本人は神の民」みたいな洗脳工作をやってたんだよね。それって結局、白人は世界でも優れてる民族=それゆえに支配する大儀名分があるとかいってたイギリスの洗脳工作と何一つ変わらないんだよね。

西ヨーロッパのキリスト教(カトリックやプロテスタント)は自然と切り離された感覚を持ってるゆえに、クリスチャンという連中は神父や牧師の言葉で動くロボットがいっぱいいる
んだよね。

だから、日本が戦前マスゴミで中韓に対して見下すようなプロパガンダを、キリスト教教会がやって「有色人種は人間ではない」とか言ってたら、そうやって動かされる人は沢山いるだろうねえ。

そういうわけで、爬虫類脳やらそういう血筋やら優生学やらって、現時点では観念でしかないわけよね。

人種という観念だって怪しいもんだ。日本人だって、DNA的に見たら中国人や半島人と変わらないし、見た目だって見分けがつかないのに、中国や韓国とは違うと感じるわけだから。違うのは、人種じゃなくて宗教や文化や風土や言語が原因かも知れないのに。

このナチスやら英米が言う「人種」ってかなり怪しいんだよね


ナチスやら英米の連中は、ヨーロッパのキリスト教徒で同じ白人でもラテン系やスラヴ系も白人とは認めてなかった。イタリアやスペインなんかは、アラブ系と混血してる人が多いんでわからんでもないけど、ドイツやイギリスより白いスラヴ系を白人と認めないのは正直意味がわからん。スラヴ系、映像で見るとアングロサクソンより真っ白で金髪率が異常に高いわけで。

このような感じで「白人」の定義もいい加減な有様なわけだから、もう血筋やら人種だって観念でいいだろうと


色々な事でさえ、確定された事実なんざ驚くほど少ないってわけでね。

だから爬虫類宇宙人の血筋だって、アーリア人(笑)だって、実在するかどうかわからんわけだ。アーリア人(笑)はあからさまに実在しない言語学の観念なんだけどな(笑)

それでも血筋信仰やら爬虫類脳と神秘体験やらに悶々としてるのが俺ってことさ。”


帰ってきた魔法使いハンターねこた ‏@lakudagoya
ナチスはバチカンの超古代?の科学調査隊だったというねこねこさんの説は面白いな。だってナチスのスポンサーはバチカン。チベットに近づいたのもバチカン様が秘密の情報を奪って秘匿するためだし、聖書的な創造論にあわせてこいつら世界中で前文明の痕跡となるものを意図的に破壊してるからな。

おいらは、超古代文明論はどこまで本当かよくわからないと思うのだけど、もしも科学を発達させるための「文明の種」が保存されてたら、また文明を再現する のは難しくないと思うよ。その「文明の種」というのは、ギリシャ哲学のような科学のもとになる考え方や高度な文明を作るための帝王学とか。

仮にカタストロフで超高度な科学技術が失われたとしても、それを発展させる手法さえ保存しとけば時間はかかるけど、再生させるのは不可能じゃないんだよ。 自然科学の持つ方向性すらきちんとしてればいつかは真理にたどり着くからね。よって、科学文明は今の文明がはじめてというのはインチキだよ


耶蘇教の挙動を見てると、アレクサンドリア大図書館の破壊から始まって、こいつらは世界中にある過去の文明のヒントとなるものを意図的に破壊してるから な。これは南山宏の「沈黙の大陸」に詳しく書いてある。超古代文明に繋がるか?と思うネタが出てくるとみーんな宣教師が破壊してやがる。

こいつらが、どんな目的で前文明の遺物を破壊してるか知らないけど、単に世界は6000年前に創造されたというアホ教義を守るためではなさそうだ。多分、 アレクサンドリア大図書館破壊でやったような古代の智慧を独占するためだろうな。表では科学は悪魔と言っても本心は超強欲なんだよねー




も ‏@gatchim16 2013年9月10日
2009年度阪大国語大問2問4選択肢ア 「ドラえもんは自分の存在理由を消し去るために存在している」 ドラえもん怖すぎワロタ

おーみ ‏@kamakiri_v_g 2012年6月9日
@yuno_rabbit 確か阪大が「ドラえもんはのび太の子孫がのび太に借金させないように未来から送り込んだロボットだから、逆に成功するとその未来ではドラえもんは不要。つまりドラえもんの存在意義は自分の存在意義を消すことにある」って評論を出してたな

Tak Nakamori ‏@psr1509 6月7日
阪大の国語で出たというドラえもんの哲学論の出展はこれか。 永井均「マンガは哲学する」http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4006031831/knowledgephil-22/ref=nosim/ …


永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』を再読したのでメモ。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-64.html
”・“「もしね、もしもだよ、かりに立花由美が生まれてから一度も怒ったことがないとするよ、そしてね、急にいま死んじゃうとするんだ。」
「死んじゃうの!?」
「もしも、だよ。そういう場合、彼女がほんとうは怒りっぽかったっていうことがありうると思う?」
「それ、どういうこと?」
「別に立花由美じゃなくたっていいんだけどさ、ある人が一生怒ったことがなかったんだけど、それはたまたま不当な目にあうとか、そういう怒らなきゃならない状況に出くわさなかっただけで、ほんとうは生涯ずっと怒りっぽい人だったってことがありうるか、っていう問題なんだ。」”p.21

彼女はほんとうは怒りっぽいとか、この部屋は見られていないときは存在しないとか、ぼくたちが培養器の中の脳だとか、そういうことが主張できるためには、ぼくたちが実際に手に入れられるような根拠がなくちゃいけない。

・「生前には認められなかったけど、その人の死後で実はすごく重要な仕事をしていたってことが分かることがある(みなされる、そう評価される)。
そういうことがあるんなら、死んでからもずっと永遠に認められなくたって実はほんとうは凄く重要な仕事をしていたって人がいたっていいと思わない?」
「あまりにも天才的すぎて百年、千年たってもその人の仕事の意味が誰にもわからないってことはありうると思うよ。そのうち人類が死滅しちゃえば、その人は結局、なんでもなかったことになっちゃうけど……」
「結局何でもなかったってことに(原文だと「に」が抜けている。脱字)なるってことは、結局何でもなかったってことなのさ。その人は『ほんとうは』天才だったって主張に、意味を与えることはできないんだよ。」

「誰にも認められなくても確かめられなくてもほんとうは……」という立場は、
実在論といってとても由緒正しい立場。
英語だとリアリズム(realism)といい、「ほんとうは」(really)からきているから
「ほんとうは主義」と訳した方がいいかもしれない。
ぼくらが絶対に知ることができなくてもほんとうはそうだってことがある
、って考えるのが実在論。

「誰にも認められなくても確かめられないなら結局何でもなかったってことなので、『ほんとうは』天才だったって主張に、意味を与えることはできない」
という立場が、
反実在論とか非実在論とか呼ばれる立場。
哲学に関する様々な対立の根底にはたいていこの実在論と反実在論の対立がある


・今見えているものが実在しているかどうかは疑えるが、見ていると「思っている」ことは疑えない。主観体験の見え=私は見えていると思っている、は疑えない。
触れている「と感じている」、ということも疑えない。

・幻覚なんてものはめったにない。だから見えたらもうあるって思い込んでいい。もっと強く言えば、ものを見るってことは、見た通りにあるって思い込むこと。
だから、見えたのにそれがあるって思わないで、ないかもしれないなんて言う人がいたら、そんな人の方がそう言うための根拠を示す必要があるんだよ
。特に根拠もないのに、見えたのにないかもしれないって言う人は、もうそれだけで懐疑論者だよ。
懐疑論者は用心深いように見えるけど、実はそうじゃなくて、けんかっぱやいんだよ。おまえはそう決めてかかってるけど根拠がないじゃないかって、すぐに食ってかかってくるんだ。
そう言われてみると、こっちもよく考えたた(「た」が一つ多い。言っておきますが、“”でくくっていない箇所は原文とまったく同じではありません)うえで決めたわけでもないから、困っちゃうわけさ。でも実はものごとにはそれぞれものによって勝手に決め込んでいい方向、決めこまなくちゃいけない方向っていうのがあるのさ。それを疑うことに意味が出て来るのは、よほど特別の事情がある場合だけ。
いったん売られたけんかを買っちゃったら何か根拠づけが必要だから懐疑論者の勝ちははっきりしているんだけど、そもそも売られたけんかは買っちゃいけないんだよ。挑戦をうけつけない限りは、こっちの勝ちが決まってる。懐疑論者がけんかを売ってきたらね、おまえのその挑戦自体がまとはずれなんだ、と言い続ければいいのさ。そうすれば勝負はこちらの勝ち

(…)
ぼくたちがこころや意識のないロボットをぼくたちの仲間に入れてぼくたち扱いしさえすればそのとたんにロボットにも心や意識が生じる。人間もいくら解剖しても心も意識も見つからない。ぼくたちは人間と、それに似たものしか心あるものとみなさない。

性質がまったく同じものが二つありうるのは、時間と空間ってものがあるからなんだよ。時間と空間が無い可能世界ってものを想定するとね、そこでは性質がまったく同じものは個数としても同じもの、つまり一個のものになっちゃうんだよ。つまり全性質が同じであるってことと、個数が一個であるってことが、区別できなくなっちゃうんだ。
そもそも、そういう世界では、一個、二個って数えられるような物ってものが考えられなくなっちゃうからね。二つのボールの区別は、時空的な連続性が重要


・バークリー「何かが存在するとは知覚されているってことにほかならない」
ヒューム「因果の概念は習慣によって作られた我々の信念でしかない」
因果関係そのものは想定されるだけで見えない。

夢=心の中にあって外界に存在しないもの

カントは、
“ぼくらのものごとのとらえ方にはね、習慣によって作られた信念なんかじゃなくて、それ以外ではありえないような型みたいなものがあるって考えたんだ。そういう、ものごとのとらえ方の基本的な枠組みみたいなのをカテゴリーって言うんだけどね。日本語で言えば範疇だな。因果性のほか、まえから使っている『ものとその性質』なんていうとらえ方もカテゴリーなんだ。ぼくらは、ものごとをとらえるとき、すでに必ずカテゴリーを使ってる
んだ。
カテゴリーのくわしい話はまたにするとして、とにかく、さまざまな感覚的経験にカテゴリーが適用されることによって、はじめて、それが【客観的な現実】として認められることになるんだよ。カントは『視霊者の夢』って変な本を書いてるんだけど、これはね、スウェーデンボルグっていう当時流行の視霊者、つまり霊を見たと称するやつなんだけど、まあ霊媒みたいなもんだな、そいつの言ってることがほんとうかってことを考えた本なんだけどね。結論を言うとね、どんなにありありと見えたとしても、それはありえないこと、つまり『夢』にすぎないんだ。つまり、客観的な実在と対応してないんだよ。なぜかっていえば、要するに因果性のようなカテゴリーが適用されないからなんだな。まあ、カントに言わせれば、猫と話をするなんてことも、ありえないことだ、だからやっぱり『夢』でしかないってことになるかもね。
カテゴリーが適用されることによって、対象は客観的なものになるって言ったけど、そこには統覚っていうはたらきが必要なんだ。統覚っていうのはね、自分が知覚したり経験したりするさまざまなものごとを、カテゴリーに従って秩序づけるはたらきだ〔原文ママ〕なんだけど、それをするのが自我のはたらきなんだ。カントはね、デカルトの『私は考える』っていうあの原理を統覚作用として読み変えたんだ。カントによれば、『考える』っていうことはカテゴリーを適用するってことだからね。
カテゴリーがぼくらがものごとを理解する枠組みだとすると、時間空間はぼくらがものごとを感覚する枠組み
なんだけど、その話はまたにしよう。とにかく、カントのこういう考え方はね、バークリーたちみたいに、現実を夢だって言って心の中で起こる夢にしちゃうんじゃなくてね、逆に、時間空間とカテゴリーで、まず心の中で起こる夢みたいなものを考えておいて、客観的な現実全体が実はその中にあら【ねばならない】んだって言う、ってやり方なんだよ。”p.105-107
※〔原文ママ〕も【】も原文にはなく、【】内一文字一文字に傍点。

国家神道=新キリスト教
=平田篤胤思想+現人神思想+ #スウェーデンボルグ 思想。
スウェーデンの貴族スウェーデンボルグの思想が神智学、スピリチュアル、ニューエイジ、宇宙人説、出口王仁三郎の霊界物語、大本教系(主要政党を支配)、大本教系の日月神示の元ネタです。

平塚らいてう(姉が #大本教 信者)が寄稿記事で『霊界物語』と #スウェーデンボルグ の関係を指摘しています。
大本教系の日月神示は和風スウェーデンボルグ。
丸に十字を掲げる大本教の出口王仁三郎の #日ユ同祖論デマ



1766年 - 『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』
Träume eines Geistersehers, erläutert durch Träume der Metaphysik

“1766年、『視霊者の夢』を出版[注釈 3][6]。カントはエマヌエル・スヴェーデンボリについてこう述べている[7]。
「別の世界とは別の場所ではなく、別種の直感にすぎないのである。-(中略)-別の世界についての以上の見解は論証することはできないが、理性の必然的な仮説である。スウェーデンボルクの考え方はこの点において非常に崇高なものである。-(中略)-スウェーデンボルクが主張したように、私は、〔身体から〕分離した心と、私の心の共同体を、すでにこの世界で、ある程度は直感することはできるのであろうか。-(中略)-。私はこの世界と別の世界を同時に往することはできない。-(中略)-。来世についての予見はわれわれに鎖されている。」

イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88#.E7.94.9F.E6.B6.AF

“スヴェーデンボリへの反応は当時の知識人の中にも散見され、例えば哲学者イマヌエル・カントは『視霊者の夢』中で彼について多数の批判を試みている。一方で、限定的に「スヴェーデンボリの考え方はこの点において崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である」(K・ ペーリツ編『カントの形而上学講義』から)と評価も下している。”
エマーヌエル・スヴェーデンボーリ(Emanuel Swedenborg, 1688年1月29日 - 1772年3月29日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AA

英知界:理性による思考・観念によって捉えられるもの
現象界:感覚的に経験、物理的に認識できるもの
人間はこの二つの世界にまたがって存在している。
(…)
「人間は動物ではない。
犬は人間である。
それゆえ、犬は動物ではない。」

「魚は水中を泳ぐ。
マグロは水中を泳ぐ。
それゆえ、マグロは魚である。」

前者が論理的に正しい推論で、後者は非論理的な論理的に正しくない推論。

前者を形式化すると
すべてのBはCではない。
すべてのAはBである。
それゆえ、すべてのAはCではない。」
明らかに論理的に正しい推論。

後者は
「すべてのBはCである。
すべてのAはCである。
それゆえ、すべてのAはBである。」
二つの前提ではAとBの関係については何も言っていないんだから、そこからAとBとの関係について推論なんてできるわけがない。明らかに論理的に間違った推論。

論理的な正しさは、前提や結論の事実的な正しさとは関係ないんだ。二つの前提が「もし」正しい「としたら」、結論も「どうしても」正しく「なくちゃいけない」っていえるかどうか、これがポイント。最初の方の推論は前提も結論も事実的には間違っているけど、もし二つの前提が正しかったら、結論は「どうしたって」正しくなっちゃうから正しい推論。
内容的には間違っていてもいい。論理的な道筋の正しさは、個々の内容が現実と合っているかどうかとは関係ない。
ある議論が正しいかどうかを問われると前提や結論が現実と一致しているって意味で正しいかどうかをついつい考えたくなっちゃうね。でもそういうことは論理的推論そのものの正しさとは関係ない。今でも科学者や評論家の中にもこのことが良く分かってない人が結構いるから注意した方がいいよ。

(論理とは事実的な正しさとは無関係に、前提が正しければそうなってしまう構造、手続きであって示されるしかない規則なのでしょうね。論理的な文章とか論理的な思考が何を教えるには、実際にその文章や思考を示さないといけないから。)

(…)
・“ある時点で時間が創られるって話は、ぼくらには理解不可能なんだよ。だって、ある時点で創られたんなら、それよりまえはどうなってたんだ、ってことになるからね。ぼくらの時間概念は、そういう時間の創造とか、時間の開始って問題が考えられるようにはできてない、って言ってもいいな。何かが創られたり始まったりするのは、すべて時間の中でのことなんだ。」
「時間が創られたとすると、それは時間内のある時点で、じゃなくて、なんて言ったらいいのか、時間の外からってことになるんじゃない?」
「なるかもしれないけど、そんなことイメージできる? 時間の外から時間を創るなんて。そもそも時間が始まるってこと自体が、ぼくらには理解しようがない観念じゃないか? ぼくらが理解してる『始まる』とか『創られる』って概念はそもそも時間的な性質を持った概念だからね。それを時間そのものに適用しちゃうことなんかできないのさ。」
「空間も同じかな? 空間を空間の外から創るっていうのはどうかな?」
「そもそもね、空間が創られるまえの状態なんて想像できるかい? 時間は流れているんだけど、空間は存在しない世界なんて、そもそも考えられないだろう?」”p.185-186

空間が無い状態を、何かカラッポなイメージをしても、それは結局は空間を想定してしまっている
空間はどこまで広がっているのかとか、時間はどこから始まってどこまで続いているのか、なんて問いには意味が無い。空間を空間現象だとみなしたり、時間を時間的現象だとみなしてしまうのは錯覚。ぼくらは時間と空間の外に出て対象として眺めることはできない。
だからカントは時間空間はカテゴリーと並ぶ主観の側の形式だと言った。

じゃあ、時間が急に止まっちゃうとか、逆流しちゃうとか、それからタイムトラベルなんてことも絶対不可能ってことになるね。
ぼくらが考えることもできないことは、起こることもありえないさ。要するにね、考えられるかぎりのどんなにへんてこなことが起こったって、ぼくらはそれが時間が止まったなんてみなさないんだからね。だから時間は止まらないのさ。
もうきみは「でもぼくらにはわからなくても、ひょっとしたら、いつか時間が止まったり終わったりすることがありうるかもしれない」なんてことは言わないだろうね。そういうことは最も根本的な意味で「ありえない」ことなんだよ。ぼくらはぼくらの知っているこの時間空間しか知ることはできないんだ。だから、そういう意味で、タイムマシンに乗って過去へ戻るなんてことはありえないさ。もしぼくらが「これから」タイムマシンに乗ってどこかへ行くなら、行きついた世界がどんなにむかしの世界であろうと、それは出発時から見て未来の出来事なんだから。どういうわけか未来の中身が過去と瓜二つだったってだけのことさ。「いまから」ぼくらが過去へ戻るなんてことは論理的にありえないことなんだ。
(百年前に自分が行ったのか、周囲が百年前と同じ状態に変化したのか、区別はつきません)


ある物差しの長さに疑問を持ってその正確な長さを知りたいと思ったら別の物差しが必要。もし物差しが世界に一本しかなかったら、その物差しの正確な長さを計ろうなんて無理な企て。他の全ての者がその物差しで測られるだけで満足しなくちゃならないんじゃないか。
(時間や空間も、たった一つの物差し)

死は体験じゃないんだよ。痛みや悲しみや欲望のように、他人や自分が持つものじゃないんだ。だから死んだ人だって死を体験してはいないさ。臨死体験はありえても、死の体験はありえないんだ。体験する主体そのものが消滅するってことなんだから、まさにその体験がありえないってことこそが、死ってものの根底的な意味なんだよ。
自分が消滅した状態を自分が「思い描く」っていうことは本質的に不可能。

でも自分の消滅するってことの意味を自分が「考える」ことはできる。
死ぬのが嫌なのは、死んでるって状態が嫌なんじゃなくて、もう生きられないってことが嫌なんだよ。だから長生きはいいことだと思うけど。長死に(大昔に死んで今まで長く死んでいること)は別に悪いことだって思わない

“愛ってのはね、どこまでいっても、結局は話なんだ。それに対してね、存在と無は、生と死は、究極的にはね、話じゃないんだよ。それは、現実なんだよ。ただ、受け入れるべき現実なんだよ。」
存在って、ぼくが存在してるってこと?」
「そうさ。それはほんとうの奇跡なんだよ。どんな因果性からも説明できないし、どんな理由や根拠づけも、そこにはおよびえないんだ。『なぜか』そうだったってことから、すべては始まるんだよ。必然も偶然もそのあとの話さ
。“p.203
『』は原文にはなく、原文は『』内の一文字ずつに傍点。

人生に意味を求める人が多いんだけど、あれはまちがいだよ。人生の内側には、もちろんたくさんの意味づけができるし、生きがいはあるさ。でも、人生の全体を、つまりそれが存在したってことを、まるごと外から意味づけるものなんて、ありえないさ。そんなものがありえないってことこそが、それをほんものの奇跡にしているんだからね。そこを誤解しないようにしないとね。人生の内部のさまざまな行為や出来事に意味を与えるのと同じように、自分の存在そのものにも意味を与えてしまったら、人生の深い味わいの大半は失われてしまうんだよ。そもそもね、ぼくらはね、みんな、意味づけの病に陥っているんだ。世の中で何か事件が起こると、新聞やテレビや、学者や評論家が、意味づけ合戦を始めるだろ? あれはもう病気だよ。世の中で起こったことに、意味なんかないのさ。ただ、たまたま起こっただけなんだ。そしてね、表舞台で演じられるああいう意味づけ合戦が、どうしても自分自身に向けられたものとは感じられない『まともな』人々が、かわいそうなことに、自分自身に直接向けられたメッセージを探しに向かうんだよ。でもね、翔太、そんなものはどこにもないんだよ。」
「でも、もしかしたら、ぼくの存在には神さまの計り知れない意志が働いているのかもしれないよ。」
「もしそうだとすれば、そんなことは絶対に考えられないと思うよ。ぼくらはね、自分を産み出している培養器の中の脳について考えられないのと同じ意味で、ほんとうに存在する神については決して考えることができないんだよ。ぼくやきみが生まれてきて、いまここにこうして存在していることには、ひょっとしたら、何か、ぼくらの知らない、ほんとうの意味があるかもしれないよ。でも、もしあるとしても、それがほんとうにほんとうの意味なら、ぼくやきみがそれを知ることはもちろん、それについて考えたり語ったりすることさえ、絶対にできないんだから、こんなふうに言うこともできないんだよ。だから、そういうことが分かるとか、知っているとか言う人は、絶対に信じちゃいけないんだ。」
「でも、もし媒介者がいたらどうなる? そういう超越的な世界とぼくたちが住んでるこの世界とをつなぐような。たとえばイエス・キリストみたいな。」
「もし、それを信じることでこの世界での人生が意味を持つのであれば、そういう話はぜんぶ嘘だって断言できるね。でも、そうでないなら、ひょっとしたら、信じられるかもね。」
「そうでないって?」
「それを信じても、何の意味もないような話なら、ってことさ。たとえば、宇宙は巨人族の庭にあるバケツで、ぼくらは彼らの食料のための餌として備蓄されている虫だ、ってな話なら、信じてもいいさ。それを信じても、自分の人生全体が意味づけられるわけじゃないからね。そうでなくて、人生全体に意味や価値や物語を与えるような話は信じちゃいけないんだ。翔太、きみはニヒリズムって言葉を知っているかい?」
「知ってるよ。すべては無意味だっていう思想でしょ? だから、生きていることなんか意味がないって。」
「むしろ逆だな。ニヒリズムっていうの〔原文ママ。恐らく「は」抜け〕ね、すべてには意味しかないっていう考えのことなんだ。人生は何のためにあるのか、とか、自分は何のために生まれてきたのか、とか、そういう問いこそが虚無的(ニヒル)な問いなんだよ。そして、もし何かひとつの全体的な意味づけの中に一生涯没入して生きる人がいるとしたら、それこそがむなしい、ニヒリストそのものなんだ。」
「でも、宗教って人間を救うためにあるんでしょ? だから、それを信じることによって救われるなら、それでいいんじゃないの?」
「たしかにね、人生の内部での自分の欲望の現実化だけをそのつどの人生の目標として生きていくのもむなしいさ。どんな満足感も慣れれば薄れていって、すぐにまた不満足に変わってしまうからね。だから、そうした全体を意味づける何かが欲しくなる気持ちはわかるよ。特にね、不満足な人、不幸な人はね、まさにそのように不幸であることに、自分が生きているほんとうの意味を見いださざるをえないときがあるからね。それは、やむをえないことさ。
(…)
いま、きみ自身が持っているいろんな素質とか能力とかがあるだろう。若いころはそういうものが自分自身の人生を決めていくような感じを持っている。でも、それは錯覚なんだ。ほんとうは、思いもよらない偶然が君の人生を決定してしまう。幸福な偶然(グッド・ラック)もあれば不幸な偶然(バッド・ラック)もあるさ。幸福でも不幸でもない偶然もたくさんある。そういったことは文字どおりたまたまなのだから、何の根拠も意味もない。でも、そういう意味のないことがたまたま起こったってことには意味があるんだ。その意味のなさこそをよくよく味わわないと。そこでこそ、全宇宙の存在の奇跡と君の存在の奇跡が出会うんだ。そういう偶然を味わうためにこそ、君は一回かぎりこの世に生まれてきたとさえ言える。
(…)
新聞やテレビや、学者や評論家を、絶対に信用しちゃだめだよ。世の中で通用するってことは、ほんとうに大事なことはぜんぶ『はしょって』あるってことの証拠だからね。哲学から学べるような一般論はね、そういう自分に固有の体験の場で鍛えられてはじめてほんものの知識になるんだ
。“p.204-208
『』は原文にはなく、原文は『』内の一文字ずつに傍点。

宗教は人間を支配するためにあります。少なくとも布教熱心な宗教は侵略用。キリスト教が典型例。
その宗教が何人救ったかは数えにくいが、何人殺したかは数えやすい。

私たちは私たちの言語と私たちの理解力、認識、知覚の外に出ることはできません。可能性というのはそのなかでしか考えられません。だから、あなたの人生全体の意味がわかる人はこの世に存在することができません。あなたの人生全体の意味がわかる存在がもしいるならば、その存在は私たちの言語、理解力、認識、知覚の外にいますので、私たちは考えることができません。できるって?
それは錯覚。その存在「の想定」をあなたの思考「の中に出現させているだけ」で、絶対にあなたの思考の外の存在には至れませんから。
だから宗教は、宗教の神はインチキなのです。特に唯一神は大ウソ



“答えが用意されているような問いは、ほんとうの問いじゃないんだ。そういう問いは、答えがないほんとうの問いを問うための練習にすぎないんだよ。問いのまえで茫然とするしかないような問いこそがほんとうの問いなんだよ。”p.209


“哲学することが流行したことなどかつてなく、これからもない。しかし、人間が哲学することをやめたことはかつてなく、これからもない。ただそれだけのことだ。一般の理解に反して、哲学とは主義主張や思想信条のことではない。その正反対である。哲学とはむしろ、主義主張や思想信条を持つことをできるだけ延期するための、延期せざるをえない人のための、自己訓練の方法なのである。少なくとも、本書が思想書として読まれるようなことだけはないようにと、私は願っている。"p.216-217



永井均『マンガは哲学する』。藤子・F・不二雄『藤子・F・不二雄[異色短編集]1 ミノタウロスの皿』・〈異色短編集〉2『気楽に殺ろうよ』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-62.html
”2  異文化との出会い?――藤子・F・不二雄「ミノタウロスの皿」,「サンプルAとB」,「絶滅の島」

異星人が地球人AとB(男女の若いカップル)を観察し母星に報告する話「サンプルAとB」

性行為=“外皮を取り去った両者の体には相違点がある(…)ともあれAとBはその相違点を奇妙な形で利用しあったのである。(…)この行為は相求める両者の欲求の帰結であったらしい。AもBも深い充足感に満たされた”

※相違点利用図=挿入断面図つき。

服って確かに、最外部の皮膚=第二の皮膚だよな


剣による戦い
=“彼等の行動の意味は我われには理解しがたいものであった。上肢に持った金属片を相手の体の中に挿入するのが目的のようである”

食事
=台上の物体にはかつて生命活動をおこなっていたらしい形跡がある。A、A´、A″はこれを身体上部の穴へ押しこみはじめた
(…)
哲学を学ぶほどに哲学をただ研究するだけの人になってしまう。これは歴史学者に似ている。歴史学の真に正しい姿勢とは定説も自説もどうでもいいと思って取り組むことであるが、そんな者はそもそも歴史学者になりはしない、という構造に似ている。となると、アマチュアの重要性は極めて高いと言える。そして同時に、素人の見解、特に素朴で常識的な疑問こそが大事なのだ。専門バカはこの文章読んでも理解できないだろうな。理解できても実践しなけりゃ理解していないのと同じです。
(…)
第四章 時間の謎  

 1  ドラえもんは何のためにいるのか――藤子・F・不二雄『ドラえもん』

のび太のせいで大借金をいまだ払い続けている孫のセワシ君は、「特定意志薄弱児童監視指導員」の肩書きを持つドラえもんをのび太のもとに送り込む。ここまではいい。
では、のび太が借金を子孫まで残すような大失態をやらかす原因が、ドラえもんによって消えたならば、ドラえもんがのび太のもとにいる原因(理由)そのものが消えてしまう。
そう、ドラえもんは、自分自身の存在理由自体を消し去ることが存在理由なのだ!


自分の存在理由を消し去ることがその存在理由である存在! 彼が少しでも内省力のあるロボットなら、ある日そのことに気づいて、「ぼくっていったい何のために存在しているのだろう」という実存の不安に襲われるはずである(実際にはそんなようすはまったく見られない。のび太ほどの思索力もない、能天気なやつなのである)。p.125-126

ドラえもんはのび太ほどの思索力もない、能天気なやつなのかー。
のび太の言うことの方が哲学的な気がする。


蛇足
ドラえもんを送り込んだセワシ君自信は借金から逃れられないんじゃないの?

けいと‏@keitotanner
1970年に自分がタイムトラベルするとしたら、そのときその瞬間に起きた出来事は、「自分が1970年に行った」なのか。それとも、「自分の周りの世界が全て復元された」のか?(「タイムトラベルの
哲学」からかいつまんで引用)
(…)
T・M(タイムマシン)は絶対に
“しられたくない秘密はだれにでもあるもんだ。
個人の情事から、それこそ国家機密にいたるまで。
それがあるうちはT・Mは実用化されないんだよ永久に。“
p.151

タイムマシンが実用化されない理由は技術的問題だけじゃないことを描く。
過去に行って過去の自分に出会っても別に何も起こらないからね。
いや、その過去に行った自分が過去の自分に出会ったという記憶があったら会っていいし、なかったら会っちゃだめ、というのが正しいかな。
ちなみに、過去に行った自分にとっては、過去世界は未来世界だ。過去世界は未来から来た人にとっては新天地にすぎないからね。
あと、侵入者は国家機密側の人だろうね。
(…)
“アンタガ今ヤッテルノハヒョットシテ、
生体ノ組織ニ異物ヲ挿入シコレヲ破壊シヨウトイウココロミデハアリマセンカ。
ナラバムダデス次元がチガウ。”p.231

三次元より上の次元では三次元のようにものとものが衝突することはないから当然、手錠や銃も無駄。高次元から射影で三次元世界に存在しているのがこの兎なのだろうか。うさぎが本来四次元存在なら、この兎のすがたは四次元存在の「断面」=三次元立体、であるが、このようなはなしは別の機会があればすることにする。
ドラえもんの四次元ポケットにあんなにも詰め込めるのは、この「詰め込む」ということ自体が四次元では当て嵌まらないからだ。四次元では三次元のようなものとものの衝突はありえないから


これいじょう子どもをまきこむのはやめてくれ、とパパは頼むが
エッソレハチョットオカシイノデハ……
という大きな兎。
となると、うさヒョンには子どもと大人の区別がついていることになるな。
でも子どものマーちゃんはきょうはくのまさに当事者である。
だって最後の場面で明かされるが、ヒョンヒョローって落ちてきた星(のかけら)こそがヒョンヒョロなのであり、マーちゃんが持っているのだから。
マーちゃんにひょんうさがきょうはく状を送ったのは、そのマーちゃんこそがヒョンヒョロの所有者だからだ。
例えばヒョンヒョロ初版版を要求するならば、ヒョンヒョロ初版版を持っている人に要求するように。
しかし変則ダガヤクソクスルデス。
と言ったように子どものマーちゃんをまきこまないことを約束するでかうさぎ。
もはやヒョンヒョロを渡す機会は失われ、ヒョンヒョロの正体が絶対にわからなくなってしまう。

時間通りにパパが
宝石や札束=石ころと紙クズ、をもってくるがうさぎは激怒。
ヒョンヒョロとは何かと大人たちはきく。

“宇宙最高最大ノ価値アル、アノヒョンヒョロヲ!?
非常識ナ! アマリニモ非常識ナ!!
イーヤ信ジラレナイ!!“p.237

知っているのに知らない振りして誤魔化したと思ったのだろう。
これが兎側の「常識と非常識」だ。
(…)
・サンプルAとB
小森麻美作画。元ネタはロミオとジュリエット。
・語り手は炭素系生物ではない(人間を炭素系生物と表現しているので)。
・p.117“各個体の外観は まちまちで 体の大部分は繊維質の外皮に包まれている。”
外皮=服。
p.117“上肢に持った金属片を 相手の体の中に挿入”
=剣術。

語り手は金属系生物ではないだろう。金属系なら我々の一部などと表現するだろうし。プラズマ生命体かな。

・p.118“彼等は二本の下肢の付根を支点とし 重心の移動によって前進する。”

彼等という表現から語り手は個体の区別がついている生命体であり、全員で一個体=群体ではないことがわかる。

・受光孔(眼)と太陽光で認識。
・大気の振動でコミュニケーションを行う。

・p.120“石と木で構築された巣。巣に共生する他の個体 いずれもAグループ。サンプルAと近似点多し。以下A´と呼ぶ。A´´と呼ぶ。台上の物体には かつて生命活動を おこなっていたらしい形跡がある。A、A´、A´´はこれを身体上部の穴へ押しこみはじめた。”

サンプルA=ロミオ。Aグループ(モンタギュー家陣営)

・p.121“彼等は これを摂取 することによって 身体構成素子を増殖し活動のエネルギー源としているらしい。 数時間後 不要物質の排出が見られた。 摂取→排出孔は 曲りくねった長い管で接続されている。 極論すれば この生物のモデルは 一本のチューブで表わし得るわけだ。 その後の観察によって チューブを満たす行為は彼らの日常生活の 主目的となっていることが明らかにされた。”

・p.122“彼等の目的地は Bグループその他の大群生地であった。これは先刻の激しい反発ぶりからみて不可解というほかはない。
群は上肢をつなぎあい律動ある単調な運動をくり返している。”

手をつないでダンスしている。観察存在には戦いの訓練という概念がないのかもしれない。

・p.124“一つの因子と推定されたのは頭部表面の凹凸である。 他の個体の観察例を集計した結果 凹凸の微妙な差と異変との間に明らかな相関関係が示された。”

美醜=頭部表面の凹凸の微妙な差。
美人=「異変を起しやすい」絵と、不美人=「きわめて起しにくい」絵が描かれている。

・p.125“二個は発振孔を接した。前述した通り発振孔は栄養摂取孔をもかねている。 彼等はこのような時にも栄養摂取欲を失わないのである“
キスの起源は口移しかも。

・p.126“AはBグループ群生地に引き返しBの静止室に接近した。
註:彼等は 生活単位時間の 三分の一を静止状態で過す。このための区画が静止室だ。”
観察存在に睡眠の概念はないのだろう。
・p.128“静止不足”=睡眠不足。
・p.129“A、B両者が恒常的に近接して存在したい”=結婚したい。


・p.130“この儀式には A、B、Xの他に第三者が介在していたようだ。「至高の存在・万能者」などとXは呼んでいた。 そんな高等動物にならぜひ会ってみたいと 手をつくして探査したが ついに発見できなかった。”
儀式=ロミオとジュリエットの内密の結婚式
X=僧ロレンス。
ゴッド=高等動物、ならば探査すれば見つかるはずだという合理的思考。

・p.132“鉄片はa´の中に吸いこまれた。 組織が破壊され搬送液がまきちらされた。 a´は生命活動を停止した。 おどろくべきもろさである。 こんどはAがbの生命活動を停止させたのだ。 前出の規制者(Zと呼ぶ)がきた。 ZはAに対し棲息地を遠く移すことを命じた。 A、Bは永遠に離れて存在することを強いられたわけである。”
語り手は人間よりは死ににくいらしい。

・p.133“Bは受光孔から液体を分泌した。この液体は他の個体の思考波に影響を及ぼすものらしい。Yは影響された。”
涙。

p.134“外皮を取り去った両者の体には相違点がある。 他のあらゆるサンプルについても この相違点は認められた。種族の違いか? それとも単なる個体差か? ともあれAとBはその相違点を奇妙な形で利用しあったのである。 この行為は相求める両者の欲求の帰結であったらしい。AもBも深い充足感に満たされた。 相違点の利用は夜中 飽くことなくくり返された。”

相違点利用図=女性器及びその内部の男性器を示す断面図。
交尾しまくったということ。
=有機物質で構成された先が丸い円柱状のものを、同じく有機物質の壁によって構成された蠕動する窪みに挿入する行為の繰り返し。
充足感という概念などから、観察存在は人間に似通っている(そもそもそうしないと人間が理解できない)。

・p.135“朝をむかえ A、Bは大気振動を交わす。 以下はその大意である。
 ちがう あの大気振動は昼行性飛行小型生物によるものではない。あれは夜行性飛行小型生物のものである。
 事実と相違する。遠距離上方を受光せよ。 分裂していく浮遊水滴集団をふちどる朝の光を ただちにこの位置から移動しなければ 生命活動停止あるのみ。
それもよい 光は衛星からのものと仮説する 大気振動は夜行生物のものと仮説する。 Aも移動したくはない。現状の継続こそ望ましいのだ。
いや朝だ あの不快な大気乱振動は昼行生物のもの。時間を消費せず移動せよ。光量が増大してくる。
Aは長距離移動した。“

ここで中野好夫訳『ロミオとジュリエット』(新潮文庫)の該当箇所が登場する。これは気が狂っていた(虚航船団風)ということはない。
p.135あたりから始まる第三幕 第五場が元ネタ。
p.136”ほら、御覧、あの向うの東の空、別れていく雲の裂目を縁どって、あの意地悪い朝の光を。(中略)往って生命を助かるか、ぐずぐずすれば死があるだけだ。“
観察している存在は昼夜の区別があるところに住んでいるのだろうか。

p.136より観察存在も生命活動停止は一大事であることがわかる。
p.137“恒常的近接生活は 通常 非生命体との間にはおこなわれない。 したがってBは「元生命体貯蔵所」に放置されるはずだ。”
p.138“頭部保護細管”=頭髪。”





永井均の著作三冊:『子どものための哲学対話』・『翔太と猫のインサイトの夏休み』・『私・今・そして神』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-61.html
”クジラは魚である!

“ペネトレ:クジラは魚のように見えるけど、ほんとうは哺乳類で、魚じゃないってはなし、聞いたことある?
ぼく:もちろんあるよ。クジラは、魚のようにえらでじゃなくて肺で呼吸するし、魚のように卵の形で子どもを産むんじゃなくて、クジラの形で産むんだよ。それで、産まれてきた子どもは水中で母乳を飲んで育つんだ。だから、クジラは魚のように見えるけど、ほんとうは哺乳類で、魚類じゃないんだよね?
(…)
ペネトレ:つまり、『そういう点ではクジラはどうしても哺乳類のように思えちゃうけど、肝心な外形や生活環境が魚みたいだから、ほんとうは魚なんだ』って言ったら?”
ぼく:なんで外形や生活環境のほうが肝心なのさ?
ペネトレ:そんなら、なんで内部のしくみのほうが肝心なのさ?
ぼく:だって外形のほうがだいじなら、ほんものと見分けがつかないようなにせもののダイヤモンドは、ほんもののダイヤモンドだ、ってことになっちゃうよ!
ペネトレ:そうなんじゃない? とくに宝石なんて、見かけの美しさこそがいちばん肝心なんだから。内部構造はぜんぜんちがうけど、いちばん肝心な見かけがおなじだから、『ほんとうは』ダイヤモンドなんだ、って言えると思うよ。
ぼく:そんなの、なんかおかしいよ。
ペネトレ:それはきみが科学に洗脳されているからだよ。科学っていうよりもっと根本的な、ある種のものの見かたにだな。見かけや外形の奥にかくれているものこそが、その物のほんとうの姿である
、っていうような。
ぼく:そうじゃないの?
ペネトレ:それは、ひょっとしたら、奥にあるものを知っている人が知らない人たちに対して権力を持つために作り出した作り話だったんじゃないかな? みんな、うまくだまされちゃったのかもしれないよ
ぼく:まさか!
ペネトレ:でも、分類のしかたによってはクジラは魚でもあることは、たしかなことだよ。外形や生活環境よりも内部のしくみを重視するって前提があってはじめて、クジラはほんとうは魚じゃないなんて言えるんだ。じゃあ、なぜ内部のしくみのほうを重視するのかっていえば、それはぼくらがそういう文化の中に生きているから、としかいいようがないんだよ。いつか人間たちが、クジラはやっぱり『ほんとうは』魚だったって思うようになる日がくるかもしれないんだ。“
p.94‐97 ※『』内は原典では太字


科学は、構造や構成要素や因果関係を解析するのが目的ですから、ものの内部が本質だと考えますからね。
むしろクジラが哺乳類ってことは、「教えられなければわからない」ので、
人間の自然な感覚からしたら不自然で、魚だという認識の方が自然でしょう

その教える側の教師や教科書だって、クリスチャンで白人の銀行家(金の支配者)と銀行家を手先として使っている王侯貴族たちが都合よく決めるのですから。

あとダイヤモンドの話ですが、違いが分かる人が存在しなければ、本物も贋物もありませんから。
目利きがいなけりゃみーんなモノホン
ってこった。
厳密にはな、パチモン・ホンモン自体が成立せーへんねんけどな。ナンセンスや。

8 地球は丸くない!

ぼく:地球が丸いってことも、太陽のまわりをまわっているってことも、『発明された』の? 
ペネトレ:そうさ。でも、地球は丸いのに、どうした下のほうにいる人が落ちちゃわないんだと思う?
ぼく:そりゃあ、引力があるからじゃん!
ペネトレ:でも、引力って引っぱる力だろ? そんなものがあるんなら、もっと地面に引っぱられているような感じがするはずじゃないかな? どうして引っぱられて、はりついているような感じがしないんだろうね?
ぼく:たしかに、そんな感じはしないけど……。
ペネトレ:だから、ほんとうは、ぼくらは引っぱられてなんかいないんじゃないかな? 『引っぱられるっていうのは、この地面の上にいて、ひとに腕を引っぱられたりするときの、あの感じについてだけ、言えることなんじゃないかな?
ぼく:じゃあ、引力はないって言うの?
ペネトレ:引力がないだけじゃなくて、地球が丸いっていうのも、ちょっとあやしいな。
ぼく:どうしてさ!?
ペネトレ:丸いっていうのは、この地面の上にある、スイカとかボールとかについてだけ、言えることなんじゃないかな?この地面が球体であるって考えたとたんに、ぼくらは地球というものを、この地面のことじゃなくて、この地面の上のほうにある巨大なボールのようなものだと考えてしまっているんじゃないかな?その証拠に、地球は丸いのに下のほうにいる人が落ちないのは引力があるからだ、なんて考えてしまうだろう?
ぼく:どこがいけないのさ?
ペネトレ:地球には「下のほう」なんてないはずだからだよ。でも、ぼくらは上下のある絵しか描けない。できるって言うんなら、上下のない地球の絵を描いてごらんよ。世界地図だって、地球儀だって、星座早見盤だって、必ず上下がある。それはつまり、地面の上に乗っているってことだよ。だから、ぼくらが住んでいるとされる地球という名前の惑星をふくめて、ほんとうは、すべてのものが、この地面の上にあるんじゃないかな?
ぼく:ペネトレ、それ本気で言ってるの?!!!”p.100‐102
※『』内は原典では太字

物理法則という客観的だとみなされている(この法則の観測は主観的になされる)のですが、結局のところ、人間の肉体的制約や生活様式の前提に縛られます。
肉体的制約とは、左右対称、上下非対称などで、
生活様式の前提とは、重力下で生活(頭は上、足は下)などです。
地球上にいる時、われわれにとっての地球とは地面のことであり、そこから逃れられないのです。
仮に、人間の体が完全な球体だとすれば、文字は左から右へだとか、その逆だとか、縦書きだとか、横書きだとか、という概念が生まれるか?

などなどさまざまな思考実験ができますな。
(…)
ぼくが生まれるために必要なこと(2)

 “ペネトレ:まだ人間のいない世界を考えてみよう。そこで神さまが五人の人間を作るとする。もちろん、それぞれ顔かたちも性格もすべてちがう五人だよ。さて、そのとき、ただたんに五人のちがう人間が作られるだけじゃなくて、その五人のうちに自分というものがふくまれているためには、神さまは、それぞれ個性を持った五個の肉体と精神を作る以外に、なにをしてくれればいいのだろう?
ぼく:自分って、このぼくってこと?
ペネトレ:そうだよ。でも、その世界には、まだ、きみというものは一度もあらわれたことはないんだ。そのとき、神さまがいまのきみのような肉体と精神を作ったとしても、そいつがきみになるかどうかはわからない。どれかひとりがきみであるためには、なにが必要だろう? 神さまは、なにをしてくれればいいんだろう?
ぼく:五人のうちのひとりがぼくであるためには、神さまが五人に、それぞれちがった肉体と精神を与えるだけじゃ、足りないね。それだけじゃ、五人がそれぞれみんな平等に、それぞれの個性を持ったそれぞれの自分である、ってことにしかならないからな。その中のひとりだけが、ぼくであるという特別のありかたをするためには、肉体や精神のもつ個性とはちがったなにかが必要だな。
ペネトレ:しかし……、そのなにかを与える能力が、神さまにあるだろうか?全能の神でも、その能力だけはないんじゃないだろうか?
ぼく:どうして?
ペネトレ:もし、「その五人のうちのひとりがなぜかたまたま自分だったとしても、そんなことはなかったとしても、神さまには、そのちがいを見分けることができない」からだよ。だって、その二つの世界は、五人のうちに自分というものがふくまれているかいないかという点以外は、まったくおなじ世界なんだから
ぼく:見分けることができないんだから、作りわけることもできないってこと?
ペネトレ:神さまにできることは、さまざまな心や体を持ったさまざまな人間を作ることだけなんだ
ぼく:その中にぼくがいるかどうかは、神さまにとっては、なんのちがいもないのか……。つまり、神さまは、ぼくが存在していることを知らないんだ。だから、神さまは、ぼくのような人間を作ることはできても、ぼくというものを作ることはできないのか……。”p.110‐113
※「」内は原典では太字

宗教における死後の世界を「生きている」人間にわかるはずがない。
全部嘘っぱち。
あるいは錯覚。
(…)
主に言語を学べる条件について考える。

実は、『ロボット』とか『人間』とか『黒』とか『痛み』などの言葉の意味を習得しつつある子供には、人間がロボットに見えるとか、黒が白く見えるとか、痛みが眠気に感じられるとかを主張する権利はない。
意味が固定=基準が決定、された後にはじめて事実に関する極端な主張ができるようになるのであって、意味を学びつつある段階では、誰もが凡人。
なぜなら、
間=ロボット、だと認識している人が、
人間がロボットに見える=人間とロボットは一般的には別物である、と言えるはずはない
から。

子供のころから汚水をきれいだと感じて、浄水をきたないと感じる人がいたとすると、その人は『きれい』や『きたない』の言葉の意味を学べない。
なぜなら、私たちは言葉の意味を「実例を通じて学ぶので、最初から多数と判断が一致していないと、そもそも意味を学ぶことはできない」から。
つまり、感じていること、考えていることなどが同じ(あるいは「ほぼ」同じ)だという前提のもとで、はじめて意味を教えたり学んだりすることが可能になる。

例えば、日本語が母国語の人が、マレー語をまったく知らずにマレーシアに行ったとしても、その人は少しずつわかるようになっていくだろう。
なぜなら、なんとなくわかることがあるから。
自分を指差して何かを言ったら自己紹介をしているのだろう、
自分以外を指差して何かを言ったら指差されたものについて何か言っているのだろう、といったことなどだ。

ではなぜ、「何かを指差して何かを言ったら、その言った内容は指差したものに関係しているはずだ」って思うのか?
まさにそこがキモ。
要は、相手がこちらが予想できることをしてくれないと、相手の言葉は絶対に学べないということだ。
そうでないと、相手の話している内容を推測して、自分の言葉(おそらく母国語)にあてはめて理解し学んでいくことはできない。

他にも言語を学ぶ前提はある。
相手が言っていることの意味がわかるようになっていくためには、相手が、(こちら側の基準で)まともでありふれた存在でないといけない。
そうでないと予想すらつかない。
相手がほとんど正しいことを言っていると前提しないとどうしようもない。
皆が真理を語るとは限らないが、相手がこちらの観点から見てたいていは真理を語っている、理のあることを、整合性があることを言っていると前提することが、理解の前提。

つまりは、自分とぜんぜん違う言葉が喋っている人が、「汚水はきれいだけど、浄水はきたない」って意味のことを言うことは「ありえない」ってこと。
それが意味理解の前提なので、ひょっとしたらほんとうはそう思っているかもしれないってことすらない。

相手が自分と同じ信念を持ち、自分が真実とみなすものを真実だとみなす、といった言語以前の形式--人間は言語は違っても、重力下で生き、表皮は固体で、左右対称で、生存のためにはエネルギー摂取が必要で、挨拶し、自己紹介し、などなどといった共通項--
を少なく或る程度はもっていると前提しないと、意味の理解ははじまらない
ってこと。

いや、この「言語以前の形式」以前の形式、
つまり、カントのカテゴリーなどのものさえ共有できていればまだ理解は可能かもしれない。

感性(感覚みたいなもの)的に見出される経験における一般性を支えるのが「悟性」(知性と訳すことあり)である。
悟性的な理解とは、それが何であるかを把握する能力である。
五感で感覚される対象が一般的に何かであることは悟性によって規定される。
悟性固有の形式が、純粋悟性概念=カテゴリー↓

カントのカテゴリー
 ※悟性…感性が与えてくれた対象を、カテゴリー(質、量、関係、様態など)に基づいて判断

①分量
(すべてのものか、
特殊なものか、
それともこのひとつか)

②性質
(これは~である、といえるものか、
これは~でない、といえるものか、
これは非~である、といえるものか)

③他のものとの関係
(いついかなる場合であってもこれは~である、といえるのか、
もし…なら、~である、という条件付きのものか、
これは~か…のどちらかである、といえるのか)

④様相(物事のありよう)
(~であるだろう、といえるのか、
~である、といえるのか、
かならず~でなければならないといえるのか)

別の表現だと
1. 量(単一性、多数性、全体性)
2. 質(実在性、否定性、限界性)
3. 関係(実体性、因果性、相互性)
4. 様態(可能性、現実存在、必然性)


[アリストテレスの10のカテゴリー(範疇)

1実体
主語が何であるか

2量
主語がどれほどの量であるか

3質
主語がどのような質であるか

4関係
主語が他のものとどのような関係にあるか

5場所
主語がどのような場所にあるか

6時
主語がいつあるか

7状況
主語がどのような状況にあるか

8状態(所有)
主語が(物との関係で)どのような状態にあるか

9能動
主語が他のものに対してなにをしているか

10受動
主語が他のものから何を被っているか]

カテゴリーは認識のフィルターのようなもので、カテゴリーに引っかからなければ認識されないので、カテゴリーを外れたものは存在しないとみなされる。

言語の話に戻す。
相手が人以外でも同様。
何やらよくわからない異世界あるいは宇宙空間からやって来たらしきものが、どうやら言葉を話しているようなのだが、何を言っているのか意味がさっぱりわからない存在がいたとする。
では、その存在が言語(らしきもの)を話していると仮定して、そいつの言っていることを推測していくにはどうしたらいいのか。
外国語学習とまったく同じく、私たち基準で合理的に行動していると解釈する場合にしか、彼らが言語を持っているとか、何か考えているとか、みなすことはできない。
人間以外の動物や植物なども同様


よって
言葉は持っていて私たち人間にもその意味もわかるけど、私たち人間と(言語が成立する前提的な意味で)まったく違う考え方をしているものなんて「いない」。
いるかもしれないが私たち人間には決してわからない、なんてことに意味は与えられない。
そして、意味が理解できるようになってはじめて、相手の間違いやこちらの誤解がわかるようになる。
考えや理解の違いを確認するためには、相手がほとんど言葉の意味を間違えず、相手が今まで従ってきた意味体系と同じ体系に従っていると前提しないと成り立たないからだ。

話すたびにまったく違う意味体系に従って喋っていて、なおかつその場にまったく関係ないことしか喋らない存在の言語なんて学びようがないってことです。せいぜい、わめいている、と認識されるのがおちでしょう。


言葉の意味がわかるようになる場合
①相手がまともで言葉が違うだけのとき。
②相手の気が狂っているが、正しく日本語(一例)を使っているとき。

言葉の意味がわかるようにならない場合
(その人が何を信じているかもわからない)
①相手の気が狂っていて、しかも間違った日本語(一例)を使っているとき。
②相手の気が狂っていて、しかも私たちの知らない言葉を使っているとき。


冒頭の引用のような精神病的妄想を持っている人に対して、精神科医やカウンセラーは、普通、相手が言葉の意味自体は誤解していないって前提で接するらしい。
私はナポレオンだ。神がそう言った。
と言ったら、「その人はそういう妄想を持っている」と考える。
言葉自体は受け入れる。
ナポレオンが実は「敵前逃亡の一兵卒」だったり、神が実は「人間」だという可能性は、相手に質問して肯定しない限り、あの有名なナポレオンとみなす。
そうしないと、話が成り立たない



今度は、「色」という概念が存在しない(必要としない)宇宙生命体(生命体の定義も実に曖昧だがここでは議論しない)を仮定する。
私たちがとらえる世界では、物の種類とその色とは対応していない。
しかしもし、物の種類と色が完全に対応している、例えばカラスは絶対に赤いといった風に、と彼らが認識していたら、彼らに「色」なんて概念は存在しない。
また、例えば三角形は絶対に青いと認識していれば、やはり「色」の概念は存在しない。
「形」と「色」が一体となっているとも言える。
つまり、「形」と「色」が一体となった概念が誕生しているはずだ。

我々から見れば、認識の一部が欠けているとみなされる。
が、先に行ったカテゴリーを少なくともある程度は共有していれば、宇宙生命体の言語も学べるのである。

カテゴリーのことを相手に伝えればいいのではないのか。
と言いたい人がいそうである。
カテゴリーは頭の中や心の中にあるものではなく、言葉を使って「実際に活動しているその活動の中に“示されている”形式」。
活動中に意識するなんてありえない。意識しようがない。

絵がどんなものかは言語で伝えられない。
「とにかく見て!」と言って見てもらわないといけない。
見ないとだめだから「示す」しかないように。言葉の限界を示す。
カテゴリー「について言葉で言う」のではなく、
カテゴリー「に従って『赤いリンゴ五つ!』と言う」。
そうすると、
果物屋は、
「まず」『リンゴ』という「実体」のある場所へ行って、
「次に」『赤い』(性質)のを、
「最後に」『五つ』(個数)選ぶ。
この順序は変えられない。
まず個数から初めて、次に性質、最後に実体(=個数や性質の前提)
なんてことは、カテゴリーの中で生きる人間には想像すらできない。
果物屋のこの「必然的な行動形式の中にカテゴリーが示されている」。

そしてこの「カテゴリーに背後はない」。
カテゴリーは動物の必要からできたってことはありえない。
なぜなら、動物とか生物といったとらえる枠組み自体がすでにカテゴリーに依存しているから。
因果関係が逆。
原因と結果を入れ替えてはいけない。
「まず」カテゴリー「によって」ものごとがとらえられ、「そこからすべてがはじまる」。

神や宇宙生命体の姿をイメージすると、思わず人型になってしまうのは当然だということ。人間の思考形態に当てはめないと思考すらできないから。
カテゴリーを外れた宇宙存在とは交流不可。
正確には、存在自体を認識しないから交流以前の問題である。
(…)
人格神は全能ではありえない。
人間化=不完全化され、人間が解釈できて人間の理解の範囲のことだけができる、
宗教家の操り人形だから。
「全知全能」という記述すらも人間の理解の範囲内にある。

そもそも物事の誕生の根源があるとすれば、それは創造神ではなく、「変化」それ自体である。
Aが存在し「ない」状態から、
Aが存在「する」状態への「変化」がなければ何も誕生することができない。
「変化」がなければ創造神は何もなすことができない。
その創造神に人格があるとされていることも奇妙だ。
人格がない状態のときには既に変化は存在していた。
つまり、創造の根源は存在していた。
したがって、意志によって初めて創造が行われたとするのは誤り。
その「意志」が誕生するための「変化」こそが創造の源泉なのだから。
仏教ではこの「変化」を
“諸行無常”
と呼んでいる。

無論、人格はないので、解釈者=宗教家が支配に利用することができないようにしている点が重要である。

万物の根源が「人格と意志ある」存在だという宗教家の主張は嘘だということだ。
人格と意志が誕生する為の前提=変化が根源だ。
創造神を想定するなら最初は無感情だったということだ。
後に感情が誕生して感情的になったといえる。
つまり、創造神が文字通り無慈悲で無感情だったころがあるということだ。
その創造神が一神教の神ならば、感情、人格を持ってからもやっていることは、無慈悲な悪魔そのものである。
悪、悪魔を創り、そのまま悪を滅していないのだから。
そもそもゴッド=善、ということ自体が悪が存在しないと成立しない。
善と悪は同時に生まれたものだ。
一神教は敵=悪を必要とする。
ゴッドとサタンは同業者であり一心同体。
共倒れしない程度に自作自演しているわけだ。
ゴッドが悪魔を創ったとわかる聖書は世界一流布している本であり、安価(時にはタダ)であることが、聖書が偽りであることの証明である。
支配層にとって都合が悪いなら、ここまで流布することはありえず、値段も高額になるはずだからである

(…)
“時間的に表現すれば、すべての始まりであって、時間的位置を持たないはずの開闢の奇跡に、その内部に存在する事物の存在基準が適用され、時間的位置を持たされるということだ。つまり、開闢は、それ以上遡行不可能な単なる奇跡にすぎないのに、そこで開闢したものが「存在する」といえる基準は、対比が持ち込まれて共通項が設定された後で、その共通項の中で決まることになるわけだ。
 〈私〉についていえば、他人と対比されて自己同一性(self-identity)という問題が生じ、それが他人と同じ人物同一性(personal identity)の基準なしには把握できないものとなる、というわけである。
 開闢それ自体が、その内部で後から生じた存在と持続の基準に取り込まれる。そのことによって、われわれの現実が誕生する。だから、現実は最初から作り物であって、まあ最初から嘘みたいなものなのだが、しかし、それこそがわれわれの唯一の現実なのだから、それを認めてやっていかなければならない。この構造こそが、本書全体を通じて私が問題にしたことの根源である。“p.43

“たとえば、五分前に突然できたのか、ちゃんとふつうに継続してきたか、というこの違いのように、われわれの能力によっては原理的に識別できないのに、われわれの知性にはその違いが理解できるようなことがらが存在する。しかしなぜ、われわれの能力によってその違いがけっして識別できないのに、違いがあることが理解はできるのだろうか。
 それは、つまり、われわれが神を信じているからなのである。神の存在を、というよりは神の概念を、つまり、われわれに理解できる全能者という概念を、である。
 言い換えればわれわれは、(違いが)識別できること、(違いを)理解できること、(違いの)理解さえできないこと、の三つを区別しているのだ。重要なのは真ん中である。つまり、識別はできなくても理解はできるという領域を認めること。それによって、われわれはある種の超越性を容認しているのである。”p.47

永井均の神(の概念)
①人間が理解できることのみをなす(なしたことになる)全能者。
②全ての前提たる開闢(開闢後は、レベルが強制的に下げられてしまう=殺されてしまうもの)。
要は、超越的なものは皆が信じています(あるいは思考の前提になっています)よってこと。単なる自然法則と言う人もいそう。人間の語る神など所詮は人間が勝手に設定した人間の能力に縛られた神でしかないということ


“心を与える者は、ぜひとも神(あるいは神のごとき者)でなければならない、ということである。これはきわめて重要な条件なのだ。たとえばロボット工学者は、このロボットに心を与える能力がない。ロボット工学のいかなる進歩を想定しても、原理的にない。ロボットがどんな反応をするようになっても、心が付与されたかなお付与されていないかは、いつまでも謎にとどまるからだ。ここで想定されている意味での心を与えるということが何をすることなのか、ロボット工学はけっして理解することができない。
 だから、五分前世界創造説の場合と同様、人間に識別できない違いなどはないのと同じことだという立場も、十分に成り立つ余地がある。しかし、人間に識別できないという点こそが重要なのだ。もし神というものに固有の仕事があるとすれば、それは世界に人間には識別できない(が理解はできる)変化を与える仕事だからである。自然や人間にもできる土木工事(世界の物的創造)や福祉事業(心の慰め)は本来の神の固有の領分ではありえない
 だから、ロボットのこの変化を理解し、そういうことがありうると思った人は神の概念を信じているのであり、(識別できるかぎりではこのロボットと変わりがないはずの)他人たちに心があると現に信じている人は、神が現に存在していることを、つまり神の実在を、信じているのである!”p.49


“ロボットに心が与えられるケースは他者に起こる変化であり、人間から心が奪われるケースは私に起こる変化であること、それが問題の本質なのである。
だから、後者のケースの本質は、私から心が奪われることにあるのではなく、私が<私でない>者にされることにある。そこで私ではなくなった者がなお心を(もちろん<そいつの>)持っていたとしても、問題の本質に変化はない。それゆえ、前者のケースであっても、ロボットに心が与えられるだけでなく、そのときロボットが<私になる>のだとすれば(それまでその世界に私は存在しなかったとしよう)、そこに識別可能なはっきりした変化が起こったことになるだろう。
それなら、私におけるこのような変化<と同じこと>が他者における変化の場合にも起こっていることを、私が(識別はできなくても)理解はできるのはなぜだろうか。それは、心を与えたり奪ったりするのが神だからであり、かつ私が神(の概念)を信じているからなのである。実際には私の場合にだけ識別できる違いを、他者にもあてはめて理解するとき、この超越を根拠づける存在は神でしかありえない。
この理解可能性が五分前世界創造説などよりも複雑な構造を持つのはここである。私から心が奪われるとは、私が私でない者に、つまり他者にさせられることであった。すると、他者から心が奪われる場合、他者はもともと私ではないのだから、どうしてさらに他者にさせられることなどができようか。<他者の≪私≫>というものを想定しておいて、それが奪われると考えるほかはないだろう。それはしかし、あの「開闢の奇跡」が複数化されるということなのだ。世界の開闢そのものである私とは、世界にひとりしか存在しない本性上の唯一者なのだから、相並ぶ他の私などはありえない。しかし、神によって、そして神によってのみ、そのありえないことが易々と実現されてしまうのだ。
『省察』のデカルトは、方法的懐疑によって「私の存在」の確実さに到達した後、まずはその内部から「神の存在」の証明をしなければならなかった。『省察』を読む者の多くがそこで躓くが、以上のように考えれば、それは理解しがたいことであるどころか、むしろ、それ以外にはありえないほどの必然的な道筋だったはずなのである。
「心」とは、世界を開く「開闢の奇跡」を世界<の内部に>複数個並存させるためにつくられた高度に抽象的な超越概念である。「個人」も同じだ。だれもがロボットに心が与えられる際の変化の意味を理解できるはずだ、と私が言うとき、私はすでにこの超越性に乗ってその内部で発言している。”p.51-52
<>は傍点の代用。

擬人化して人間の認識、言語をあてはめて物事を理解するのが人間。そして人は擬人化ならぬ「擬私化」して他者などを理解する。しかし私と他者とは別次元のごとき隔たりがあり、「私」に擬するなんて不可能なのではないか。それを繋ぎ可能にするのが超越する何か(永井曰く神だが人格神ではなくてもよいように思える。神の概念でも可)。世界に唯一しか存在していない特別な開闢の前提の私が、特別でもない他者と繋げられるのはなぜかということ
(…)
 開闢=神の死、それは原因と結果の逆転。すべての前提である開闢を理解する為には、開闢のおかげで生まれた言語によって開闢のレベルを下げなければそもそも人間に扱えない。どんな高次のものでも、言語表現するためにはレベルを強制的に下げないといない
 文章でも何でもそうだが、筆者の主張あるいは重要だと考えていることは、形をかえて繰り返されることが多い。読書のコツ。読解のコツ。国語問題を解くコツ。

神(開闢)の死=言語による開闢の隠蔽=(人間の言語)世界の誕生。

“ある夜、哀れに思った神さまが、ロボットに心を与えた。あくる朝、意気揚々と学校にあらわれた彼が、友人たちに向かって「今日からぼくは心があるんだぞ」と言ったら、友人たちはどう反応するだろうか、というのが前節の問いであった。
しかし、彼が「今日からぼくは心があるんだぞ」などと言うはずがない。なぜならその夜、神は彼に心そのものをはじめて与えたのだから。それはつまり、それまでの人生の記憶も与えたということだ。だから、そのとき与えられた心は、その内側から見れば「そのとき与えられた心」ではない。「はじめからずっと存在していた心」なのである。それでも、<神は>彼にそれを与えたのだ。
それでも、神はそれを与えた? しかし、いつ? そして、だれに?
いつ、というなら、それはもちろん「その夜」である。この変化は、他人たちにも自分自身にも、だれにも知られることはない。だれにとっても変化ではない。それでもこれが変化だといえるとすれば、それはこれが神による変化だからであり、まさにこのような変化を与えることこそ、神にふさわしい業だからである。――というのが、私の神学上(?)の見解なのであった。そこで、神に敬意を表して、だれにも知られなくとも、やはり変化はあったのだと考えることにしよう。さてしかし、その変化はだれに起こっ
たのだろうか?
 ここで重要なことは、前節の、逆のケースを経由した考察を思い出すことである。逆のケースとは、神が人間から心を奪ってロボットにしてしまうというケースであり、それは私に起こることなのであった。この場合、問題の本質は、私から心が奪われることにあるのではなく、私が私でない者にされることにあることが分かった。この考察を経由して、私はこう書いた。「前者のケースであっても、ロボットに心が与えられるだけではなく、そのときロボットが私になるのだとすれば、そこに識別可能なはっきりした変化が起こったことになるだろう」と。
 では、ロボットは、心を付与されるだけではなく、私になるのだとしよう。そこに私に識別可能なはっきりした変化が起こっているだろうか。
 たしかに私は、昨夜までは心などなかったのかもしれない。しかし、神が昨夜、私に心をあたえてくれたのだとしても、私はそれを知ることができない。だから、それは<私に>起こった変化ではない。むしろ神が、そして神だけが起こしうるある変化によって、私ははじめて誕生したのである。それまでもずっと存在しつづけてきたとの確信とともに。
 つまり、問題は五分前世界創造説の場合とまったく同じなのである。前に使った言葉を使うなら、これはいわば開闢である。しかし、この開闢は、実際に「それまでもずっと存在しつづけてきたこと」と<だれにも>区別がつかない
 五分前世界創造説と対比して、これを昨夜私創造説と呼ぼう。
 さて、そこで一つの問題は、後者が私に起こった変化だといえないなら、同様にして、前者も世界に起こった変化だといえないということにはならないか、というものだ。
 もう一つの問題は、神による私の創造が昨夜一回だけではなく毎晩であることは可能なことだろうか、というものだ。これはもちろん、世界がそのつど五分前につくられているという想定に対応する。“p.57-59 <>は傍点の代用。

“ロボットが私にさせられるとは、ロボットに記憶が与えられることではない。記憶が与えられても、それだけでロボットは私になるとはかぎらない。ロボットが私にさせられるとはまた、ロボットに感情や感覚が与えられることでもない。思考力や想像力が与えられることでもない。記憶も含めて、そういうものがすべて与えられても、ロボットは私になりはしない。せいぜい人間になるにすぎない。私にさせられるとは、世界が私という特異点を持ち、世界がそこから開かれるようになる、ということなのだ。そこから開かれるような世界が、新たに誕生するということなのである。
さて、このように考えたとき、神には〈私〉の着脱能力があるか。これが問題だ。これは、感情や感覚のような心理状態や、記憶や知覚のような表象状態を着脱するような、なまやさしい話ではない。もし神にこの能力があるのだとしたら、それはロボットに心を与えたりする通常の神より高階の神でなければならない。すなわち、開闢の神である。
 通常のオーダーの低い神では、世界の中にそもそも私が存在するかどうか、かりに存在するとして、どれが私であるか、識別する能力がない。神はただすべての人の心をお見通しなだけである。すべての人の心を見通したって、そのうちのどれが私であるかはわからない。識別能力がないのだから、神はもちろん私を創造する能力もない。ある特定の性質をもったある特定の人間を造れるだけである。私が生じるのは神の手の及ばない≪偶然≫である(デカルトの「我」が「欺く神」に対抗できるのはそれゆえである)。
 だからもし、神に私を創造する能力があるとすれば、ふつうの神より高階の神を考えなければならない。心を持った人間が複数存在する世界を(主として物理的に)創造する神という神表象を捨てなければならない。どれが私であるかを含み込んだ世界をつくる神を考えなければならない

さて、私にかんするこの高階の「神の事実」に対応するような、世界にかんする高階の「神の事実」がありうるだろうか。これが問題であった、そしてこれが、これから考えていきたい問題である。
この高階の神なら、実在の過去そのものを作ったり消したりできるかもしれない。なぜなら、どの人間が私であるかを含み込んだ世界をつくる神は、どの時点が今であるかを含み込んだ世界をつくる開闢の神でもあろうから。”p.65-67  ≪≫は本書の傍点の代用。

「私」を着脱する能力者が「ある人の私」を剥奪して、哲学的ゾンビ=永井の言うロボットになったとしても、その人以外の人にとっては何の変化もないし、その変化を感じる「その人の私」はもはや存在しない。つまり、実質なにも起こっていないように思える。
読者などの上位存在だけが認識可能な変化。これこそ魔法である。しかも最上位の。
最も驚くべき点は最上位、否、世界の開闢に関わるのだから位を超越した絶対魔法は、「何も起こらない」のだ!
こんな物語はどうか。
この絶対の魔法による変化が前後でわかる者を探す旅の話だ。
「ずっと……<私>のあるなしを、私の世界の開闢の存在と不在の違いを感じられる存在を、探していた。私にとっては最強にして最高の、他者にとっては最弱で最低どころか無意味の絶対魔法、<私>の着脱を使える術者を」

で、その術者により<私>を持つ存在全員から<私>が抜かれていて、三次元世界に<私>は文字通り存在しないが、高次元に<私>は送られた、というオチ。
<私>が抜かれようが、抜かれまいが、高次元にいようが、三次元にいようが、今の生活が何一つ変化しないことに恐怖を覚えないだろうか?



 開闢後の世界で開闢を操作できるのかな? 
何せ、操作する操作される、操作「前」・操作「後」の区別すらないのが開闢あるいは開闢以前(以前という言葉に意味があるのかな)なのに。
でも言葉は前後関係無しでは絶対に成立しないから言葉ではそもそも議論できない
のでは?
「変化」が根源だと前述したが、その「変化」以前があるかどうかをそもそも議論できないのと同様の問題=言語の限界である。
言葉が通用しない分野ではロゴスの権化たる哲学は無力すぎる。


“デカルトの方法的懐疑では、まずは、これは夢ではないか、と疑い、次に、悪霊に欺かれているのではないか、と疑う。これはいわば、神の位階を上げているわけだ。
 <これ>が夢だとしても、夢の中でも外でも、二たす三は五で、四角形の辺は四つである。夢には、現実ではないことを現実だと思わせる力はあるが、それだけの力しかない。神の能力にあてはめれば、これはかなり位階の低い神だ。デカルトが次に想定する悪霊(欺く神)の位階はもっとずっと高い。悪霊には、たとえば、われわれが四角形の辺を数えるたびごとにまちがって四つであると思い込ませるといったような力があるのだ。これはなかなかすごい力だ。そんな力があるなら、言葉の意味をすべてまちがって理解させるといった力もあるにちがいない。しかし、そんな可能性を「疑う」なんてことがそもそも可能だろうか。その疑いの遂行において使われている言葉の意味がすべてまちがっている可能性を疑うなんてことが。(そもそもこういう場合「まちがっている」とはどういう意味なのだろうか。この点については第3章で考えよう。)
 夢なら覚めることがある。そして、覚めたかどうかがわかる。たとえそれもまた夢だったとしても、少なくともそれ以前に見ていた夢から覚めたことはわかる。で、悪霊の位階が高いことは、まず、悪霊の欺きから覚めたかどうかがわからない、という点にあらわれるだろう。覚めるということの基準そのものを、いやそれどころか「覚める」という概念そのものを(!)、この悪霊が(われわれを欺いて)作り出しているのかもしれないからだ。さらにまた、もしほんとうに覚めたとしても、悪霊の能力があまりにも巨大なら、欺かれて成立していた世界とその外部の世界とに共通するものは、もう何もないだろうから、やはり「覚めた」といえる根拠はないだろう。たとえば、時間というものそのものをそいつが作っているのだとすると、「覚めた」なんて過去形は適用できない、とか。何度も言うけど、これはすごい力だ
とすると、そもそもほんものの神とこういう悪霊との区別は、どこにあるのか。この悪霊は何が悪なのか。もちろん、われわれが知っている善悪や真偽の区別は、この悪霊が作り出しているはずだ。それでも、そいつはほんものの神ではなく、私はそいつに<欺かれ>ているのだ、という認定はどこからなされるのか。さらにもっと位階の高い神の視点からか!
それで思い出したのだが、『創世記』のような神の世界創造の場面の描写を読むといつも疑問に思うことがある。それは、ナレーターは誰なのか、という疑問だ。人類未到の山頂への初登頂の模様を、テレビカメラが山頂から撮影しているといったことにちょっと似ている。もしそれが開闢であるなら、そこにナレーターがいるはずがないじゃないか、とよく思ったものである(私は神を信じているにもかかわらず宗教というものに対する不審の念はとことん深い)
話は逸れたが、欺かれて出来たこの世界の外に本当の世界があるとしても、断絶があまりにも大きくて、私(あるいは私たち)が同一性を保ったまま、その二つの世界を架橋することが不可能ならば、欺かれているという認定には実質内容がなくなる。結局、この世界こそが現実の世界だというほかはなく、悪霊こそが神だということになるだろう。”p.68-70 <>は原文にはなく、原文では傍点。

GODによる世界創造が三人称視点で記述されている=GODの創造を見ている存在がすでにいる。
GODの一人称で記述されていない時点で、創世記はGODがなしたことの記録ではない。一人称という一番厳密な語り方をしない時点で、三人称というより厳密でない=不完全な語りをGODが採用したという、完全ゆえに矛盾だらけな問題が生じる。
三人称視点で記述した文章は「完全」なのだという前提を逆手に取ると、三人称視点が正しいのならGODを見ている何らかの別の存在の視点を認めていることになり、GOD以前あるいはGODと同時にGODに類する存在が生まれていたことになり多神教化する。
ナレーターこそが真の創造神かもしれない(すでに多神教になってしまい一神教破綻)。
創世の物語は文字の読み書きができるエリート層の人間が書きました。識字率は非常に低かったから。てゆうか全知全能のGODなら人間の脳に記憶をインプットすればいいよね。
徹底的に疑って論理を積み上げるが哲学なのに、わざわざ絶対に疑って検証してはならない宗教を信仰するってアホ過ぎますな(身を守るために表向きに表明しているだけである場合は除く)。
 悪魔も異教徒も創ったGODが善であるはずはなく、自作自演で騙す悪魔そのものである。ほんものの神がいるとすれば善悪を超越した人格なき単なる世界全体そのものあるいは世界が誕生する前提そのものであるから、原理的に人間が解釈することなどできないし、ましてや意志など存在しない。人格神は絶対に全能になれない。人間が全能ではないからだ
(…)
“夢を見ているとき、われわれはそれが≪後で思い出される≫ことを意識していない。それは突如として思い出される。かりにもし夢を見ているときに後で思い出されると思っていたとしても、その思いと思い出しとは結びついていない。
現実に生きているとき、われわれはすでにそれが≪後で思い出される≫ことを知っている。思い出される可能性があらかじめ知られていて、それが思い出される。現在は、過去になったときはじめて過去だとわかるのでなく、現在であるその時すでにして必ず過去になることが知られている。つまり、現実の現在は、可能な現在のひとつにすぎないことが、その現場においてあらかじめ知られているわけだ。現在を可能な現在としての過去や未来の視点から位置づける超越論的構造が体験自体に宿っている。
文(命題)は否定できるが、絵(像)は否定できない。否定文(命題)は作れるが、否定絵(像)は描けない。これが言語の本質に属することは、『論理哲学論考』の根本洞察だった。だがそれなら、文は時制変換可能だが、絵はそれが不可能だ、も同じだろう。肯定絵を否定絵に変換する操作と同様、現在絵を過去絵に変換する操作もない。が、肯定文を否定文に変換する操作と同様、現在文を過去文に変換する操作は必ず存在する。言語をもつ存在であるわれわれは、端的な現在を可能な現在の一例として把握できるからだ。そしてそれは、まさにカント的な超越論的構成作用に基づいている。”p.140
時制と同じことは、人称についてもいえるだろう。一枚の人物画はそれ以外の情報なしには自画像であるともないとも分からない。絵は人称を描けないからだ。対して、文は文自体の中に人称情報を繰り込むことができる。つまり私は私自身を、つまり現実の私を、可能な「私」の一例として把握し、「私は」と語り出すことができる。そのことによって、ただそのことによってのみ、過去や未来と同様、他我(他者の「私」)もまた必然的に存在することになるわけである。いわゆる独我論が誤りであることの根拠は、結局はそこにしかありえないだろう。
客観的時制構造と客観的人称構造を構成することによって、今と私をその内部に含んだ(客観的に位置づけた)客観的世界を成立させることができること、人々が「あたりまえ」のように感じているこの事実は、真に驚くべき事件なのである。いいかえれば、カント哲学の洞察の深さはほとんど驚天動地というほかはないのである。もう一つおまけに四字熟語を使うなら、文字どおり空前絶後。”p.141 ≪≫は傍点の代役

「私」や「今」が唯一絶対のもののはずなのに、「他人も『私』や『今』という言葉を使え、しかも意味が了解できる」。
つまり、「私」や「今」が言語化された瞬間に、レベルが一段階下がってしまい、唯一絶対のはずのものが、共有可能で相対的なものになる
。それが成立することは正に奇跡的でスサマジイことである。
(…)
存在論的証明とは、たとえばこんなふうな証明である。「神は定義上完全である。ところで、もし存在しなければ完全さを欠く(完全ならば存在もまたするはず)。ゆえに、神は存在する。」こういう証明である。ん? 何か変だな、と誰でも思うだろう。
 この証明をする(読む)人が神の存在を完璧に信じているほうがおもしろい。まちがいなく存在するはずの≪あの≫神に、この証明は到達しえているだろうか。最後に「ゆえに、存在する」とされた≪その≫神は、現に実在する≪あの≫神だろうか? 論証された「ゆえに、存在する」の「存在」の意味は、現に存在するあの「存在」(つまり現存在)を指せているだろうか?

(ここまでp.175 中略)
 近代に入ると、デカルトが存在論的証明を復活させた。この伝統に対して、またまたカントが決定的な批判をおこなう。その趣旨は、「存在する」をその他の通常の述語と同列に並べることはできないというものである。定義上「立方体で赤くて軽くて小さい生き物」を考えると、それは定義によって立方体で赤くて軽くて小さい。その定義に「存在する」を加えると、それは定義によって存在もするようになる。つまり、それが赤くて小さいことが必然的真理であるのと同様、それが「存在する」こともまた必然的真理となる。しかし、そうなったからといって現実に存在するようになりはしない。それならというので、定義に「現実に」を付け加えて「現実に存在する」と定義してみても、定義上「現実に存在する」ようにはなるが、少しも現実に存在するようにはならない。「夢ではなく十億円持っている」という夢を見た人が、夢ではなく十億円持っていることにはならないように。そこにはつねに決定的な「断絶」(本章第2節)があるのだ。“
p.174-177≪≫は傍点の代役

言葉の世界の恐るべき特殊性。

“「我思うゆえに我あり」もまた、神の存在論的証明が成り立たないのと同じ理由で、成り立たない。
 まちがいなく存在するはずの≪この≫私に、この証明は到達しえているだろうか
。最後に「ゆえに、存在する」とされた≪その≫私は、現に存在する≪この≫私だろうか? 論証された「ゆえに、存在する」の「存在」の意味は、現に存在しているこの「存在」(つまり現存在)を指せているだろうか? 先ほどの神の存在を完璧に信じている人と同じ問題がここでも起きる。

 神・現実・私・今
 私もまた概念と存在(本質と実存)の一致を実現することはできない。
 思うことによって存在が帰結するのは、思っていることが直接明らかな「私」だけであることをいくら強調しても、そのことはどの「私」についても言えるのだから、このコギト命題は結局「ある
人思うゆえにその人あり」という概念的関係に還元されることになる。
(中略)
 神が≪現実に≫存在することを証明するとは、この現実世界に神が存在することを証明することだろう。すると、神が存在しない可能世界もあることになる。このような存在の仕方は、神の本性に反してはいないか。そもそもそうした諸可能世界そのものが神の知性の内部にのみあるのではなかったか。
 現実世界は諸可能世界の内の一つの世界であるにすぎない。ところが逆に、それらの諸可能世界はすべて、現実世界の内部で(そこに現実に存在するものを基にして、それを変容させて)構想されているにすぎないともいえる。だから、われわれはその現実世界の存在を「証明」することはできない。それは必然的に(あらゆる可能世界で成立するという意味での必然性よりももっと根本的な意味で必然的に)前提されるほかはない。すべてはそこから始まるのだ。
神はこの意味での(こういう二重性を持った)現実世界の創造者であるのだから、このことに対応して、同じ二重性を持つことになる。それは現実世界に現に存在するという意味では偶然的存在にすぎないが、同時にそのとこ〈引用者註。「そのこと」の間違いだろう〉によって必然的存在である。すべての可能世界はその内部にあるのだから。(ただし、神はその現実世界を超越したその創造者であるから、現実世界の存在とちがって、神の存在を前提にすることはできない。)“p.178-180

「完全」(=「存在する」という設定)という「設定」がある存在ならなんでもかんでも存在を証明してしまう。しかも、その証明はGOD以外の完全な存在を認めてしまう。そして複数いる完全な存在同士を区別したり不在だと証明はできない。


“言語は開闢を隠蔽する。逆に言えば、世界を開く。人称、時制、様相は、客観的世界の成立に不可欠な要件だが、それは開闢それ自体を隠蔽することによって可能になるのだ。「私の今の言語」――この言い方が、言語の内部ではその人称概念と時制概念に吸収されて理解されることになる。”p.222”
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yomenainickname.blog.fc2.com/tb.php/89-384b08b8
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)