読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

03 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 05

『霊操』と『ニューエイジについてのキリスト教的考察』。後者が前者叩きに感じるのはイエズス会が異端寄りだから! 

イエズス会を叩く人の主張に対して注目すべきところ。
カトリックの教義の根幹を叩いているか。
イエズス会がカトリックのうち異端派寄りだと叩いているか。
要は、キリスト教の教義をきちんと叩いているか。
キリスト教思想と神学自体を真っ向から批判せずに、
悪魔、悪魔崇拝、ユダヤ、イルミナティ、メーソンなどと言っているなら、
カトリックとカトリックが迫害したキリスト教の異端派という言葉を隠す為
またはデマの情報源のコピペ。
カトリック内にもイエズス会を叩く派閥があることに注意。
エキュメニカル賛成派と反対派、同性愛や中絶や女性聖職者への態度などね。
私はカトリックの根幹どころか、
西洋思想の根幹である実体(=永久不変の何か)思想と
実在論(本当は~真実の~見えない実体が世界の根源うんぬん)を否定している。
私は反実在論。
仏教が反実在論で、私は仏教「寄り」なので当然。


↓剣のザインは7。釘のヴァヴが6。
  キリストの受難の象徴=3本の釘は数秘術だと666なのは慧眼




ヘブライ語/ヘブライ文字 [ 魔術入門 ]
http://magic.dancing-doll.com/magic/hebrew-alphabet.html
をどうぞ。

なえなつ‏ @japan19890108 4月2日
バスク人怪しすぎ
イグナチオとザビエルの出身部族
さらにケルト文化がありスペインとフランスをまたいだ
国に帰属していない
さらに紀元前からフェニキア人と交流があり
海賊や傭兵として活躍している
ローマが進出してくると協力関係になり
戦士としてローマ軍に参加したそうな



素晴らしい要約をどうぞ。
フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 9月19日
バチカンの護教書だけど これが良く書けてて勉強に なった。
マニアックなキリスト教書専門店 にしか売ってないのが残念だけど、 一応Amazonとかでも取り扱って るみたい。 pic.twitter.com/14CUqnVXyg
(『ニューエイジについてのキリスト教的考察』教皇庁文化評議会)

この本に拠ると、ニューエイジ カルトの本拠地はカリフォルニアの エサレン、
スコットランドの フィンドホーンとスイスの モンテ ヴェリタスという所らしい。

で、ニューエイジの語源は 一般的にはアリス ベイリーだと 言われてるけど、バチカンは 元々メイソン用語だと述べている。
で、これを一気に広めたのが 部落派月子ちゃんと言うのが バチカンの認識らしい。

ともかくバチカンがやたらと
敵視してるのが部落派月子と
有栖部恵理、捨体無の神智学系列 の人脈の様だ。
また、イエズス会の中にも 神智学人脈の工作員が 潜入していると書いてあるw

この本はニューエイジ教と カトリックの教義の比較も してるんだけど、キリスト教って 妙に中国の儒教に似ている様な 気が……
「イエス」とか「神」の部分を
「君」とか「王」に換えれば まんま儒教なんだが……

案外、孔子がイエスのモデル なのかも。
ローマの猿共に優しく儒教を 解説するために多少、
アーリア宗教要素で脚色した 感じか。

最初は東洋思想の中では 仏教の浄土教系がキリスト教に
一番近いと思ってたんだけど、 これ多分、儒教の方が近い。

となると、 やはり徳川イエス君が MAGE政府に憎悪されたのも これが要因かw
フェイド大帝的には神道は キリスト教よりもニューエイジ教 (つまりグノーシス主義)の 方に近いと考えている。

あ、後、バチカンが言うには 日本の宗教の中ではジョブズの 好きな禅宗にニューエイジ工作員 が沢山潜入してるから気を付けろ ってさ。
カトリックの強いおフレンチで 政府認定カルトの中に禅仏教 が入ってたのは多分これが 理由だな。

RAPT君の執着するトヨタの 経営手法も基本的に曹洞宗の 永平寺の運営システムの パクリだしなw

初めてキリスト教書専門店に 行ったついでにさっきの本買った んだけど、(本当は「聖ベネディクト の戒律」と「キリスト教神秘主義 著作全集」を探してたんだけど 無かった) 韓国人の書いた本が異様に 多かったけど、どうも福音主義系 の本屋だったみたい……

面白かったのが泉パウロが 普通にキリスト教の本も 書いてた事と、ケリー篠沢先生の 作品が聖書マンガ以外にも 沢山あるという事が発見出来た のが収穫だったw

取り敢えずせっかくだから 福音主義派の異端折伏マニュアル みたいなやつを何冊か買って来た。

立ち読みした時は余りにも 下らなくて、ゲットして いなかったスウェーデンボリ の著書も買ってきたから、 一度真剣に読んでみますわ……

さっきのバチカンの本には 霊媒系の元ネタはスウェーデンボリ
で、部落派月子もこっから パクったと書いてあった。
日本の新興宗教で同じ様な 霊媒による宣託やってる所も
スウェーデンボリがルーツだと 分析してる。

つまりバチカンの調査だと 日本のカルトの霊媒技術は
恐山のイタコみたいな土着信仰 からの派生じゃないと判断してる 事が重要。


あ、後、バチカンが言うには 最近流行りの適職診断の
エニアグラムとかの類型に 層別してやる心理テストは
カバラ系カルトが元だから 気を付けろってさ。

なんかバチカンはスイスの モンテ ヴェリタで開かれた 統一宗教の国際会議の出席者 名簿が興味深いと書いている けど、誰とまでは書いてない。 どーも、調べると黄金の夜明け団 やOTOのロイスとかが集まってた っぽいな。 いわゆる魔術結社系ってやつね。


∸―
『霊操』、岩波文庫



カトリックの翻訳者が冒頭当たりで禅との類似点を騙っているが、
禅=仏教はカトリックの根本を否定しているから表面的。
愛着をなくすことが重要だと書いてあるが、信仰と祈り自体がそもそも愛着がないと成り立たないということは無視。
仏教では愛着=執着=悪。
愛着を無くすことを徹底するとカトリックを否定するしかない
から仕方ないか。


・p.27あたりから
イグナチオは1491年スペインのアスペチア地方のロヨラ城でバスコ貴族の末子(男八人、女五人の十三人兄弟)として生まれた。
ロヨラ城は今も残っている。
イグナチオはバスコ気質(集中力と内省的、控えめで毅然とした態度、自己の下した決定を確固として守り通す意志)を持っていた。
16歳のとき騎士として教育を受けるために1507年アレバロの城主ドン・ホアン・ベラスケスのもとへ送られ、宮廷で小姓として王に仕えた。騎士的精神はロヨラの生涯を貫くバックボーンとなった。ロヨラは高貴な貴婦人に仕えることを夢見ていた。
ロヨラはパリ大学で人文学・哲学・神学を学び、哲学修士の学位をえた。そのあいだ、ファーベルやフランシスコ・ザベリオ(ザビエル?)などに霊操を授け、その経験から『霊操』の草稿をより具体的な場面に応用可能なものに仕上げた。
イエズス会を創立し若い会員を養成するときラテン語・ギリシャ語とギリシャ・ローマ文学の徹底した勉学を義務付け、そのうえで神学・哲学の研究をさせる。その後イエズス会のコレジウムが全ヨーロッパに広がり、この教育方針が受け継がれ(16世末には200校を超えた)、西洋近代教育史に絶大な影響を与えた。

バスク貴族でお城に住むのはユダヤ教徒だと不可能。どこがユダヤですか?

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 11月20日
ユダヤの定義ができないユダヤ陰謀論者は
自分で何を言っているか分からないorわざと布教
キリスト教徒もユダヤ教徒も【ユダヤ】
=金融特権の所有者になれたのは歴史的事実
×偽ユダヤ ×ユダ金
○【ユダヤ】業の白人

ローレライ ‏@rolelei 2015年3月4日
ユダヤ人の定義
①ユダヤ人が母←Xの定義にXは使えない
②ユダヤ教徒←宗教で民族は定義不可
考古学的証拠もなく、ヘロドトスも言及していないので聖書のユダヤ人は実在せず遺伝子も子孫も実在しません。ユダヤ教徒は実在。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/?mode=m&no=67&cr=2917189433b4f915c4a1c210e2af4bbb …読めないニックネームさん

子子子子子@kitsuchitsuchi
ユダヤ=囮がキリスト教製なので黒幕はキリスト教。
今の金融ユダヤ(中身耶蘇教)は元別民族。
「ユダヤ」=金融特権なので別民族が「ユダヤ」になりたがった。テンプル騎士団やロンバルディア人など金融をやる白人クリスチャン=「金融ユダヤ」業のクリスチャンが誕生。


”証拠のひとつ
なぜ自称ユダヤ人はカギ鼻や白人だったりするのか? 中東の民族なら黄色人種でないのか?
答え>彼らは"自称"ユダヤです”
【ユダヤ】になると金融特権が得られるのでユダヤ教徒以外も【ユダヤ】になった。
×ユダヤ教徒
×偽ユダヤ
×ユダ金
○【ユダヤ】業の白人✝


ねこた ‏@lakudagoya
恐れ入ったぜ。イスラームの捏造(成立)を語るのに東方教会の影響を知らないとは。 イスラームは神学の部分で言えばカソリックよりも東方教会に近いんだよね。 むしろユダヤ教のエントリーモデルと言ったほうがいいと思うけど。 だからカソリック捏造説はおかしいなといつも思ってる。

むしろイスラームに影響を与えたのはネストリウス派などのキリスト教異端じゃないのかなぁ? 東方教会とムハンマドの話はイスラームの研究書でもよく引き合いに出されるのだけど、ユダヤ教エントリーモデルの部分は除いて、一元論っぽい思想はとても西方教会の神学の思想じゃないのかなぁ?とか。

まぁ、中東に叩き出されたキリスト教異端の連中を正統派の別働隊と言っちゃえば成り立たないレトリックではないが。 三位一体をフルボッコにしてる預言者ムハンマドさんの思考回路はキリスト教で言えばネストリウス派なのかなぁ? このあたりの関係はマジでよーわからん。要検証だな。

@jackiemopsy @makeanovel あなたは隠れユダヤ隠れユダヤ言いますけど、ユダヤ人の定義すらできないでしょ?イエズス会のロヨラは貴族だと知りませんか?ユダヤ教徒は貴族になれるんですかね?隠れユダヤの定義がはっきりしないのに、隠れユダヤの陰謀で主婦を騙し放題ですか

ユダヤ陰謀論で絶対触れられないのはイスラム世界からの資金の流れだ。 スーフィズムだかカバリストだとか近い位置にいて思想も似通ってたキリスト教異端にそいつらの資金が流れ込んだ可能性がある。 カタリ派とか見てみな? こいつらイスラーム世界とガッチリツルんでた。

更に言えばカタリ派に影響を与えたボゴミール派はスラブの山中で15世紀まで存続したけど、オスマン・トルコに攻め入られたらイスラームに集団改宗してる。ボスニア・ヘルツェゴビナとかのムスリムはそいつらの子孫。 おっと、オスマン・トルコの成立を助けたのはヴェネチアだよ。
くっさいなー。

中世ヨーロッパでは、異端というものは常にオリエント世界からやってくる毒のようなイメージだった。 実際に各種異端はヨーロッパ内部よりも外部の影響があるもんな。 フランスやスペインの地中海沿岸やイタリアのロンバルディアまで異端のネットワークはボゴミール派から影響受けていた。
スーフィーを見て不思議だと思うのはムスリムなのに、宗教にこだわらないんだよ。 ルーミーという有名なイスラーム神秘主義の人がいるけど、キリスト教徒だろうがゾロアスター教徒だろうが、多神教徒(カーフィル)だろうが来なさい来なさいと言ってる。 ここのあたりに秘密があるんじゃね?

ユダヤ陰謀論の人はあまりキリスト教異端とユダヤとイスラームの仲良し関係は触れたがらない
傾向にあるけど、中世イスラームってヨーロッパに比べたら超経済大国じゃん。 国力がバブル時代の日本と自転車乗ってた時代の中国くらいは差がある。 そうなると資金投資されるとしたらどうなるって話。

そうなると、アメリカとつるむ事で成金国家になったサウジアラビアやUAEのようにイスラーム勢力とつるんだ勢力がキリスト教社会で大きな影響力持つじゃん。 で、問題点があるとすれば、イスラーム勢力はいつもバチカンに投資するの嫌がったって話なんだよ。そこが陰謀論の争点でね。

となると、江戸幕府の支配してた日本なのにイギリスに支援してもらって倒幕しちゃった薩長土肥みたいに、バチカンとしては当然面白くないよね? シチリアのフリードリヒ二世やカタリ派などやつらはいつだってバチカンの不満分子に投資しやがる。 となると生まれるのがユダヤ陰謀論だよ。

ユダヤがバチカンを潰して世界支配を企んでるという陰謀論は、ユダヤを通じてバチカンの不満分子に投資してバチカンの一極支配を崩そうとしてる中東の銀行家が許せないと言いたいんだよ。 でもなぜかそこは叩けないポイントだから、ユダヤがバチカンを内部から操って世界支配みたいな話になるかと。

イエズス会の創設者の貴族の出て元騎士で従軍してたロヨラがユダヤってデマも、ロヨラが関わってたアルンブラドス派などの異端がユダヤを通じて中東から資金援助貰ってたというオチでね? 隠れユダヤ云々の論争の背景には、本人がユダヤというよりユダヤとツルんだ異端のネットワークがあるんでは?

大体、ユダヤ人は教会法で金融業と古物商以外の商売が禁じられてる(商館持つのもダメ)のに、キリスト教徒の貴族階級やそれに類する人しかなれない騎士にユダヤ人がなれるわけねーじゃん。 ロヨラの実家は城も残ってる貴族でユダヤ人の土地取り上げたりしてなかったですか? 隠れユダヤが貴族?

○○は実は隠れユダヤ人でっていう話、ユダヤ教の習慣も信仰も捨てたユダヤ教徒が隠れユダヤってのはおかしいぞ? それなら、隠れムスリムはどうなる?ムスリムなのにあの宗教キチのイザベラ女王様に強制改宗させられたムスリムがクリスチャン化してるのにムスリムとか言えるわけ?



・p.221あたりから
第三の方法 律動による祈り

〔解説〕
この祈り方は東洋的。
ヨーガでは呼吸のリズムとともにマントラを唱える。
禅宗では呼吸と共に数行観(息の数を数える)や無字の公案(吐く息とともにムーを唱える)を行ずる。これらの東洋的瞑想は心身を一致させ、自我の呪縛から脱却し、智慧に達する優れた方法である。

そこで東洋的瞑想方法をこの第三の祈りに取り入れることでより卓越した祈りとなるだろう。
ところでこの祈り方は東洋的瞑想と比べると、次の点で相違する。
後者が一つの短く言葉を繰り返し、一つの言葉を無心で一心不乱に唱える。対して
前者は一呼吸に一つの言葉を唱え、次の呼吸で別の言葉を唱え、一つの言葉を唱える間、その言葉の意味に注意を向けたり、祈りを捧げる方に注目するなどする。
ロヨラが強調するように祈るときには意志を使って祈りを捧げる方に対して深い尊敬の念を保っていなければならない。

〔本文〕
祈りの第三の方法は、息を吐くごとに、あるいは吸うごとに、「主の祈り」か、他の祈りの一つの言葉を唱えながら、心で祈る方法である。だから、息の吸い始めから吐き終わるまでの間に、ただ一つの言葉を唱え、一呼吸から他の呼吸へと時間が流れる間、その言葉の意味、あるいは祈りを捧げる御方、あるいは自分自身の低劣さ、あるいは相手の高貴さと自分の低劣さの差異に注意を集中する。そして。「主の祈り」の残りの部分の言葉も同じ形式と規則を使って祈る。他の祈り、「天使祝詞」、「アニマ・クリスティ」「使徒信経」、「サルヴェ・レジィナ」は普通の通りに唱える

(これ繰り返したら精神病になるだろ)


ーーー
『ニューエイジについてのキリスト教的考察』
教皇庁文化評議会 /教皇庁諸宗教対話評議会 出版社: カトリック中央協議会 2007/4 原書2003/2

ブラヴァツキーの神智学協会やシュタイナーの人智学協会を一つの源流とするニューエイジ思想を批判した教会公文書の邦訳で、
原文はネットで無料。


・ニューエイジという名称は、フランス革命とアメリカ独立革命の時代に、薔薇十字団とフリーメーソンによって用いられるようになったようです。
ニューエイジとは西洋のエゾテリスム(秘教主義)の現代版。
エゾテリスム(秘教主義)はキリスト教初期の時代に生まれたグノーシス主義の諸グループにまでさかのぼる。
ヨーロッパでは宗教改革の時代に盛んになった。
エゾテリスムは自然科学の世界観と並行して成長し、十八・十九世紀を通じて合理的に意味づけられました。
エゾテリスムの特徴は
①次第に人格神を否定
②他の霊的存在を重視
するようになったこと。

こうした霊的存在は伝統的キリスト教では神と人間の仲介者としてしばしば表象されるが改変された。
ニューエイジを発展させたのはダーウィンの進化論。
ニューエイジ=教会が異端とみなした見解の要約。

ヨハネ・パウロ二世
「ニューエイジと呼ばれる衣をまもった古代のグノーシス思想の再来という問題
があります。
これが宗教の刷新をもたらす、などと錯覚してはなりません。
これはグノーシス主義の新しい実践法にすぎません。
グノーシス主義とは、神についての深い知識をもっているという名目で神のことばを覆し、単に人間的なことばに置きかえることに終わるだけの精神的姿勢のことです。
グノーシス主義は一度もキリスト教の領域から離れ去ったことはありません。
それどころか、つねにキリスト教とともに生き続けており、時にはそれぞれの時代の哲学的思潮の形をとり、より多くの場合は、公然とではなくても、実質的にキリスト教の本質と対立する、宗教的、また疑似主教的形態をとりながら存続しているのです。」
(6)
教皇ヨハネ・パウロ二世『希望の扉を開く』曾野綾子・三浦朱門訳、同朋舎出版、1996年、107頁。

(訳者がゴミクズ。

原発もABも要らん ‏@bye2NUKES 2015年9月13日
@catbsky 麻生さん、石破さんもクリスチャンだし、あのとんでもないウヨクのレイシストの曾野綾子さんもカトリック。男は強姦できるくらい元気がなくちゃと言った旦那の三浦朱門も。そうやってくくりたがる気持ちはわかるが、クリスチャン=左翼っていう短絡思考、なんとかならんかな。

ねこた ‏@lakudagoya 2015年4月28日
@izimo_ssp なんか曽野綾子もですけど、クリスチャン以外は人間でないと思ってそうな名誉白人。カトリックにとっては労働は人間に与えられた罰ですからねぇ。前にカレイドスコープに叩かれましたが、彼らは仏教徒は人間でないと思ってそうですね。クリスチャンって思想に憑依されたロボでふ)


・グノーシス主義、ニューエイジ思想が入っている一例がエニアグラム。
エニアグラムは九つの類型による性格分析方法。
これを霊的成長の手段として使用した場合、キリスト教信仰の教えと生活をあいまいなものにしてしまう。

現在のうお座の時代は第三千年期のはじめに水瓶座の新しい時代
=ニューエイジにとってかわられる。
(14)
この語はすでにThe New Age Magazineという表題に用いられている。
この雑誌は1900年以降、
the Ancient Accepted Scottish Masonic Rite in the southern jurisdiction of the United States of Americaによって出版された

(スコティッシュ・ライトがニューエイジ本を出していることが重要。
イングランド系ではなくスコットランド系。
エジプトとスコットランドのつながりがあるという説は、
新時代=ニューエイジの神をエジプトの太陽神ホルスとしたクロウリー
とつながる。

ねこた ‏@lakudagoya
海洋民族にとっては北極星って大事だもんな。
レプティリアン=竜座のα星。
バイキングは航海をするときに壊血病対策として松脂を塗り込んだパンを持参してた。しかしカヌーでの航海は嵐にあったらすぐ沈没するし、あんな太平洋を補給もなしで航海するとかそのモチベーションが不明なんですわ。

ローマ人と混血して「消えた」エトルリア人。ローマと戦って「消えた」フェニキア人。 たんぽぽさんの言うように、フェニキアはヘルメスのように姿を隠す帽子を持ってるくさい。 なぜにやつらはあれだけ古代から多大な影響力を持って消えるのか? 国家という肉体を捨てたのだよね。



(魔王アモン ‏@mryensrh11 8月7日
すこっちらんどの名前の由来は エジプトのスコタ朝 ・・・って昔私がつぶやいたんだよね そしたら先生が、お、よく知ってるねって 返事して それがガチKGBと先生の出会いだった https://twitter.com/lakudagoya/status/761685022063546368 …)
ユダヤ黒幕論もユダヤをフェニキアと読み替えるなら深い考察ができる。
その場合ケルトやエジプトとの絡みも追加で。 もしかしたら、ローマ帝国はフェニキア人の復讐によって知的伝統が破壊されバラバラになっていくのを仕方なく国を守るために西を切り捨てて遷都したのではないのか?

東ローマは、わざと金銀財宝を蛮族に贈って西を襲わせるようにしてたりさ。
西ローマの崩壊はゲルマン人のせいにされるけど実は違うんでね?
もしかしたら、ローマ帝国という国体を守るためにわざと西ローマを犠牲にしたんではないのか? それくらいフェニキア人の陰謀その他がヤバかった事だろ?

もちろん、テトラルキアなどで内戦状態になったローマを立て直すために宗教統一したい勢力はいたさ。 でも国体を守りたいという勢力もいたはずだよ。
で、東ローマではユダヤ人が教育や金融の仕事につくことを禁止してた。
この政策見るとさ、東の連中はずっとフェニキア人と戦ってたはず。

で、西ローマ帝国の崩壊で何が起こったかと言うと。
ヴェネチアやフィレンツェなどの都市国家やバチカンを除いた特権階級以外、ローマの知的伝統を受け継ぐのがいなくなったって事だよ。
フェニキア人の大勝利じゃねーか!
で、東ローマでは知的伝統を捨てて馬鹿になる事はなかったわけで。

東ローマは西側を切り捨てる事で危機を乗り越えて1000年繁栄する事に成功したわけか。 東ローマはなかなかしたたかな国家だなと。
西ローマ帝国と東ローマ帝国は、どっちが栄えてたのですか?
- Yahoo!知恵袋 http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q11144849496 …

魔王アモン ‏@mryensrh11 8月8日
http://www.bibliotecapleyades.net/ciencia/ciencia_suppressedearthhistory02.htm …
すこっちらんどはエジプトとどうつながるの?
(英語)
ふーん。アクエンアテンが出てくるから 前半だけテケトー訳してみる


ねこた ‏@lakudagoya 8月8日
ねこたさんが魔王アモンをリツイートしました
すげぇ!メリトアテンの子孫がスコッチとかびっくらかいた。翻訳おつ!KGBはいい仕事してますね! RT
魔王アモン ‏@mryensrh11
テケトー訳 Read: http://tl.gd/n_1sovstc
“Scotichronicon(すこっち歴代誌?)という中世の文献がある。
これは1435年にWalter Bowerというニート、いや、僧侶が書いた。
その中にすこっちらんどの起源の伝説が書いてある。

昔昔、ファラオの娘のスコタちゃん、通称スコちゃんが
旦那のゲイテロス君と一緒にエジプトを出て行きました。
勿論部下も引き連れて。
これはエジプトに災厄が訪れると聞いたから
カミサマに導かれて出発したのでした。

すこっち歴代誌には出て行った後どうなったかも書いてある。
このエジプト人どもは現在のすこっちらんどに到着した。
しかしエジプト人どもはジモティにボコられて
アイルランドに逃げ込んだ。
そこではジモティと和んで王様になり
すこっちらんどに反撃。
そしてすこっちらんどを支配し
国名を「すこちゃんらんど」改め「すこっちらんど」にしたそうな。

このテの話は中世には多い。
古代のXXガー、今のXXの起源ガーみたいな話である。
例えばHistoria Brittonum(ブリタニア史、とでも訳しておこうか)
によると、ブリテンの語源はブルータスである
(ブルータスよ、お前もかの、あのブルータスね)
同じHistoria Brittonumはヨーロッパの民族
(フランク族とかね)はノアの息子につながると主張していたりもする。

では、すこちゃんらんど伝説はどの程度事実なんだろうか?
まず「すこた」という名前がエジプトの名前ではない件。
これは翻訳のせいでおかしくなっただけなのか?
Walter Bowerは、すこちゃんのパパンがAchencresと書いている。
歴史家のManethoは紀元前300年ごろに
AchencresとはAkhenaten(アクエンアテンつまりアメンホテプ4世)
のギリシア語読みだと書いている。

アクエンアテンは紀元前1350年頃にエジプトを支配した。
そして政治的、宗教的な改革を断行した。
例えば首都を今日のアマルナに移した。
宗教をアテンを崇拝する一神教に変えた。
このアクエンアテンには6人の娘がいたが
そのうち5人はエジプトで死んだ。
長女のMeritatenのみがエジプトの歴史から姿を消している。

ではMeritatenが、すこちゃんなんだろうか?

アクエンアテン時代のエジプトは苦境にあった。
アクエンアテンの死後エジプトは政治的に混乱期に入る。
アクエンアテンの後に続く王は長くエジプトを治められなかった。
(その中にはツタンカーメンも含まれる)
紀元前1320年頃ホルエムヘブがエジプトの王となった。
ホルエムヘブはアクエンアテンが嫌いだったらしい。
アクエンアテンに関連するものは潰しまくった。
これはつまりアクエンアテンの娘なら
ボヤボヤしてたらヤバスという事になる。
エジプト脱出をする動機は十分にある。”

ねこた ‏@lakudagoya
@mryensrh11 スコタの翻訳おつ。スコッチがメリトアテンの子孫だとはびっくらこきました。
0:24 - 2016年8月9日
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1. 魔王アモン ‏@mryensrh11 8月8日 福島 大熊町
@lakudagoya んー。まだ確定じゃないですけだね。 でもまあ、面白いのは面白いし ドサクサでモーセをナイル川から 拾ったのが、すこちゃんだったりしたら 面白いんですけどね

魔王アモン ‏@mryensrh11 8月8日
Summary and conclusionも訳してみた Read: http://tl.gd/n_1sovsuq

“Summary and conclusionも訳してみた
________________________________________
考古学的に発見された出土品等から考えて
アイルランド、ブリテン、スペイン、エジプトあたりまで
青銅器時代には交易のルートがあった可能性はある。
Ferriby(おげれつ東海岸ね)で発見された船は
地中海東部(エジプトを含む)から直接来ていた可能性がある。
しかし、これが、すこちゃんの大冒険にまでつながるのか?
断定しちゃっていいのか?というと話は別だ。

例えばWalter Bowerの、すこっち歴代誌も妙な所がある。
例えば「エジプトに疫病が流行るからと聞いてすこちゃんは脱出した」
と書いてある。
しかし、すこちゃんがエジプト史から姿を消す前のアマルナで
「病気大流行マジヤバス」という記録が残されているのはなぜなんだぜ?
しかもドイツの川としてセーヌ川が出てくるのはなぜなんだぜ?
セーヌ川はフランスの川じゃないのかと小一時間(ry“


燈火 ‏@to_moshibi 8月7日

ヴァイキングの南下は怪しそうですね。イスラム世界にまで進出していますし、しかもノルマンディー公国の成立など欧州地域の秩序にも影響を与えています。

あとは北アメリカやアイスランドにも入植しています。

7世紀にイスラム勢力は地中海に進出しますが、そもそも海軍を元々持たなかった彼らがどうやって地中海に進出できたのか気になります。後の話ですが、世界最強だったモンゴルですらも海軍は南宋の残党や高麗等を利用しています。 なのでイスラム勢力に肩入れした面々がいても不思議ではありません。

魔王アモン ‏@mryensrh11 8月7日
イベリア半島上陸は海軍無しじゃどうにもなんねえな

魔王アモン ‏@mryensrh11 8月8日
RT> >樹高は30メートル以上に達する。
>材質はたいへん硬く、かつ腐りにくい。
>このため、船材やマストには最適だった。 ふーん。 レバノン杉の話ね
そういや、レバノンってフェニキア系の土地で フェニキアのカミサマなポセイドンの聖樹は松じゃん? アイヤーwwww

何がアイヤーかわかったかな?
レバノンスギって 名前はスギだけど松なんだよ? アイヤーww で、中の人がポセイドンじゃね? って疑惑のあるヤハウェくんの神殿は レバノンスギ、つまり松で作られた アイヤーwww

つまりフェニキア&ポセイドンは松が好き
ユダヤ&ヤハウェも松が好き
ねえ、なんで?なんで君たちそんなに 息が合うのかなあ? ねえ?

フェニキアっていつごろから あそこにいたんだろうね
ヤツらが海洋民族として暴れる バックボーンのひとつが 船に使いやすいマツ=レバノンスギだったりするのかな?


ねこた ‏@lakudagoya 8月8日
アモンたんのスコタの話なのだけど、これがもし本当ならば、スコッチとおフレンチとエジプトの関係がわかってさ。 ケルト・フェニキア・エジプトの陰謀論を証明できるかも知れんね。 スコッチとおフレンチは歴史的に仲良しだし、海を嫌った古代エジプト文明の航海の話はフェニキア絡みかも?

ぐだトマト ‏@pteras14 8月8日
@lakudagoya その伝説もう一つバリエーションが あって、
もう一つの方はバベルの塔の 町のニウル王の子で、エジプトで ファラオの娘と結婚、アイルランドに 上陸してバベル崩壊後の72言語を 組み合わせてゲール語発明って パターン。
両方のパターンに共通するのは 何れも自分はスキタイ出身だと 言い張ってる事。 スキタイは髑髏杯のご先祖様で アングロサクソン共が自分達の ご先祖様と言い張ってる極悪 非道の連中ね。

スコタ王女じゃなくて旦那の方の話。 スキタイランド→スコットランド?w


アルマナ文書読む限りだと アラム語だかヒッタイト語だか なんかでバビロンの方に手紙を 出してるんで、当時のエジプトと 中東の間で貿易ルートがあったのは 確かそうなので、あながちバベルの 王子説も可能性あるかも。
あ、アマルナ文書の間違いw アッカド語ですねw

ねこた ‏@lakudagoya 8月8日
とまーてさんありがとう! 前に船長がギリシャ語よりゲール語やゴイデル語が古いよーんと言ってたのだけどとまーてさんの教えてくれたネタをもとに語ってたものだったの!? スコッチに影響与えたのがスキタイだとかバビロンだとかメリトアテンだとかぶっ飛び方がパネェわ! ロスリン礼拝堂!

ねこた ‏@lakudagoya 8月8日

タブー無用の陰謀論者としてはチャンピオン目指したいところだ。

大御所の陰謀論者はみんな金に買われてるフェニキア人の奴隷どもだ。
2件のリツイート 4 いいね
魔王アモンさんへの返信
ねこた ‏@lakudagoya 8月8日

@mryensrh11 うむ。そやな。女の世界はいつもああいうのがマジョリティに見えて噛みつきたくなる衝動との戦いだった。心配かけましたの。
0件のリツイート 0 いいね
ねこた ‏@lakudagoya 8月8日

ねこたさんが魔王アモンをリツイートしました

ラーの鏡照射!
「み、みたな〜」というドラクエ3を思い出す今日この頃w RT

ねこたさんが追加
魔王アモン @mryensrh11
何がアイヤーかわかったかな?
レバノンスギって
名前はスギだけど松なんだよ?…
0件のリツイート 0 いいね
ねこた ‏@lakudagoya 8月8日

ねこたさんが魔王アモンをリツイートしました

ほい、バイキングの壊血病にならない松脂入りのパン! RT

ねこたさんが追加
魔王アモン @mryensrh11
つまりフェニキア&ポセイドンは松が好き
ユダヤ&ヤハウェも松が好き

ねえ、なんで?なんで君たちそんなに…
0件のリツイート 0 いいね)

PONTIFICAL COUNCIL FOR CULTURE
PONTIFICAL COUNCIL FOR INTERRELIGIOUS DIALOGUE
JESUS CHRIST
THE BEARER OF THE WATER OF LIFE
A Christian reflection
on the “New Age”
http://www.vatican.va/roman_curia/pontifical_councils/interelg/documents/rc_pc_interelg_doc_20030203_new-age_en.html
ってコレ英語だとただでネットで読めるのね

“2.1. What is new about New Age?
For many people, the term New Age clearly refers to a momentous turning-point in history. According to astrologers, we live in the Age of Pisces, which has been dominated by Christianity. But the current age of Pisces is due to be replaced by the New Age of Aquarius early in the third Millennium.(14) The Age of Aquarius has such a high profile in the New Age movement largely because of the influence of theosophy, spiritualism and anthroposophy, and their esoteric antecedents.“

(14)The term was already in use in the title of The New Age Magazine, which was being published by the Ancient Accepted Scottish Masonic Rite in the southern jurisdiction of the United States of America as early as 1900 Cf. M. York, “The New Age Movement in Great Britain”, in Syzygy. Journal of Alternative Religion and Culture, 1: 2-3 (1992), Stanford CA, p. 156, note 6. The exact timing and nature of the change to the New Age are interpreted variously by different authors; estimates of timing range from 1967 to 2376. ”


・ニューエイジが示す転換
(1)ニュートンの機械論的物理学から量子力学への転換。
(2)近代的な理性重視から感性、感情、経験への転換
(しばしば「左脳」の合理的思考から「右脳」の直感的思考への転換)
(3)個人と社会における、男性支配と父権性から女性性重視への転換。

・ニューエイジには善悪の区別はなく、人間の行為は覚醒の結果か、無知の結果。
人は罪を定められることはなく、ゆるしも不要。
悪の存在への信仰から生まれるのは否定的な気持ちと怖れだけ。否定的な気持ちを解決するのは愛。

ニューエイジは東洋的表現を西洋的用語で述べる。
生まれ変わりは元来ヒンドゥー教の転生思想の一部。
生まれ変わりはアートマン=個人の神的な核(個我〔ジーヴァ〕)に基づいて行われる。
アートマンは輪廻の繰り返しの循環のうちに身体から身体へと渡り歩く。より上位の世界に生まれ変わること、あるいは生まれ変わる必要から解放されることを人々は希望する。
仏教では身体から身体へとさまようのは魂ではなく、意識の連続(心相続)と考えられる。
現世は終わりなく移ろう宇宙の過程の中に組み込まれている。この過程には神々でさえも含まれる。
西洋ではレッシングの時代から生まれ変わりがはるかに楽観的なしかたで、学習による個人の段階的な完成の過程として理解されてきた。
スピリチュアリズム、神智学、人智学、ニューエイジは皆、生まれ変わりを、魂がより完全な状態へと進歩すること、宇宙の進化への参加と考える。死とは別の肉体へと魂が移ることにすぎない。
この終末観はキリスト教の神の裁きに関する教えが答えられなかった問題に答えるものとされ、地獄の概念を不要にする。
魂が新しい身体と合一すると、これからの人生への予見が与えられる。夢や瞑想で前世を知ることができる。

「仏教では身体から身体へとさまようのは魂ではなく、意識の連続(心相続)と考えられる。」
は間違い。
仏教の輪廻に「主体」は存在しない


ブッダ「女性と目も合わせないニートになれ!」
『だから仏教は面白い!』『仏教思想のゼロポイント』『阿頼耶識の発見』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-154.html
”・カルマ(業)
=(ある種の潜在的な余力、ポテンシャルを持つので必ず結果をもたらす)行為
=後に結果をもたらす働き。

やったら終わりではなく残されたポテンシャルが後に必ず結果をもたらすのが業。
輪廻思想と合わさり、蓄積された潜勢力に縛られているのが衆生。
生まれ変わるので別の個体性(前世が幼虫なら今回はさなぎで来世はガのように)をもつが、カルマは前世から引き継がれる。しかし全体を俯瞰すると同じ虫だともみなせる。
無我なのに輪廻するのではなく、無我=実体我がないからこそ輪廻する。

輪廻に主体はない。何が輪廻するのかという質問はおかしい。カテゴリーエラー。
個体存在の固定的な核、実体的な魂を想定し、その魂が次々と器としての進退を乗り換えながら存在を保っていくというイメージは間違い。
後に結果をもたらす業が現象を引き起こし、それが更なる業の条件となり次に新しい結果を生むことをひたすら続いているプロセスを輪廻といういう。

(バラモン教もバラモン教がモデルのスピも「本体」がある輪廻)
”)

・ニューエイジは全体性を探求し、二元論を克服を追及。
二元分離は覚醒前の過去が生み出した不健全なもの。創造主と被造物の根本的な違い、人間と自然、精神と物質、これらは誤りと考える。これら二元論は西欧文明のユダヤ・キリスト教的起源に基づくとしばしばみなされるが、正確には二元論はグノーシス主義、特にマニ教と関連づけるべき。
科学革命と近代合理主義精神は、とくにものごとを細分化する傾向のゆえに避難される。有機的な全体を機械的構造として扱うから。
ホリズム(全体論主義)はニューエイジの基本要素で、グローバルなネットワークに従わなければならない意識を生んだ。
意識変革、環境保護思想運動、大地の女神ガイア信仰、緑の党。
大地を管理する主体は人類全体だが大地を責任をもって管理するのに必要な調和と理解はグローバルな管理でないといけない。

(大地を管理するのは人間って聖書思想じゃねーか) 

・ニューエイジの根本には汎神論がある。
汎神論が含まれるのでカトリックはニューエイジに積極的な評価を与えない。
キリスト教「人間は本質的に被造物であり、永久に変わることなく被造物にとどまります。ですから、人間の自己が神的な自我に吸収されることは決してありえません」

・十九世紀のエゾテリスムを形成したブラヴァッキーの中心となる主張は女性解放であり、一神教の男性的神への批判も含んでいた。引き継いだのがフェミニスト運動の先駆者であるアニー・ベザント。ウィッカや女性の霊性は父権的キリスト教に対する闘争を続けている。
マリリン・ファーガソンいわく、みずがめ座の時代の先駆者として意識拡張と自己超越経験による変容という未来像の発端を作った人々が、ウィリアム・ジェームズとユング。
ユング思想の中心にあるのが太陽崇拝。太陽すなわち神は個人の内なる生命エネルギー(リビドー)。
これがユングのいう内なる神=すべての人間のうちにある本質的な神性。

ファーガソンがほかにアクエリアン革命家に対して彼らが影響を受けた思想家をたずねたところ、頻度の多い順に以下の通り。
ピエール・テイヤール・ド・シャルダン、
ユング、
マズローカール・ロジャース、
ハクスリー、
アサジオリ、
クリシュナムルティ。

多くあげられた他の人は、パウル・ティリッヒ、
ヘルマン・ヘッセ、ホワイトヘッド、ブーバー、
ルース・ベネディクト、
ミード、グレゴリー・ベイトソン、
タルタン・トゥルク、
アラン・ワッツ、オーロビンド、ムクタナンダ、
鈴木大拙、
トマス・マートン、ウィリス・ハルマン、ボールディング、
エーリッヒ・フロム、マクルーハン、
バックミンスター・フラー、スピ―ゲルバーグ、
コルチブスキ、フェルスター、ジョン・リリー、エルハルト、
イチャーソ、マハリシ・マヘッシ・ヨギ、
パース、プリブラム、
ガードナー・マーフィー、
アインシュタインである。


・スピリチュアリティと心理学の交差はヒューマン・ポテンシャル運動に強く見られる。ヒューマン・ポテンシャル運動は1960年代末にかけてカリフォルニアのエサレン研究所で発展した。
自分の潜在能力を実現するために人は自分の自我、エゴを乗り越えないといけない。それは深いところで神(自己であるところの神)となるためである。

ニューエイジの最初の原動力であった、ある意味で今でも原動力となっている二つの中心地が
スコットランド北東部のフィンドホーンの菜園コミュニティと、
米国カリフォルニア州ビッグスールのエサレンのヒューマンポテンシャル開発センター。

ニューエイジというゆるやかな集合体の共通点
①宇宙は有機的な全体
②宇宙はエネルギー=神的魂、霊によって動く
③霊的存在の介在への信仰
④見えない高次元に上昇し、死を超えて自分の人生を統御可能
⑤歴史以前の、全宗教と文化を超えた永遠の知識がある
⑥覚醒した師に従う

ニューエイジ思想は、キリスト教は真の意味での人間性の完全な発現を妨げてきたというニーチェ思想と一致。
ニューエイジは
人間が完全なものとなりうると考える。この完成とは、自分自身で作りだせ、
獲得できる価値の序列に従い、自己実現を行うことを指す。自己は自己創造者だといえる。
サタンは慣習や規則への反抗の象徴。
ディープ・エコロジーの生命を中心とする主張は聖書の人間観を否定する。
聖書では人間は世界の中心。人間は質的な意味で他の生き物より優れているとみなされる。環境保護は人間を軽視するとはいえ、同様の傾向は現代の法律と教育でも極めて顕著。同じようなエソテリックな文化を基盤としているのが、人工計画政策や遺伝子操作の実験の背後にある思想。

・古典的なニューエイジでは人間は神的ば花火とともに生まれるとし、古代グノーシス主義を思い起こされる。
なので人間は本質的に神的だと考える。人間は神とともに創造する。啓示や救いは必要ない。外部からもたらされるから。自分の中でひそかに行われる救い(自己救済)を経験するだけで十分。
魂の生まれ変わりは罰としての浄化を意味する輪廻ではなく、潜在能力の完全な開発に向けた段階的上昇。

・ニューエイジは、ユダヤ・キリスト教に毒されていない、東洋宗教とキリスト教以前の宗教を重視する。
ニューエイジの神は宇宙の統一をもたらす非人格的エネルギー。万物は一。一元論的、汎神論的な統一。
ニューエイジのキリストとは、自分が神的なものであると認識し宇宙の師と自称できる意識状態に達した人に与えられる呼び名。ナザレのイエスは唯一のキリストではない。ブッダやその他の人に見られるようなキリスト的性格があらわれた多くのうちの一人にすぎない。

釈迦の思想を否定するニューエイジ、ニューエイジを否定する釈迦

・照応の体系は明らかに伝統的エゾテリスムに由来するが、スウェーデンボルグに従う人にとって新しい意味を持つ。伝統的エゾテリスムではあらゆる自然の要素は自らのうちに神的生命を持つのに対して、
スウェーデンぼルにとっては自然は生きた霊的世界の死んだ反映にすぎない。
ブラヴァッキーは照応を否定した。ユングは照応に基づくエソテリックな世界観のために因果律をはっきりと相対化した。

・ニューエイジの重要な擁護者であるデイヴィッド・スパングラー(David Spangler 1945-)は、ニューエイジの問題の一つは、「自分の完全な人生を積極的に造り上げるのでなく、新しい時代(ニューエイジ)の到来を待つことを口実にし て、無力感と無責任にひそかに身をゆだねること」だと指摘

・ニューエイジ思想はビジネスの世界に広く見られる理念と一致する。
ニューエイジ「運動」は市場原理に完全に適応しました。そして、ニューエイジがこのように広まった一つの理由は、それが経済的に 魅力的な商品だったこと。
少なくともある文化において、ニューエイジは市場原理を宗教現象に適用することによって造られた商品の名称。
人々の霊的欲求から利益を得ることがつねに図られている。現代経済における他の諸要素と同様、ニューエイジも、マス・メディアの情報によって造られ、はぐくまれるグローバルな現象の一つ。

 ・ニューエイジが大流行したのは、それが信仰、セラピー、実践をゆるやかに組み合わせたものだから。こうした諸要素は、しばしば、それらがもっているかもしれない対立や矛盾とかかわりなしに、好きなように選択され、組み合わされる。
けれども、これがまさに「右脳」の直感的思考に自覚的に基づく世界観から期待されていること。
だからこそ、ニューエイジの諸思想の根本的な性格を発見 し、認識することが重要なのです。しばしば、ニューエイジが示すものは、いかなる宗教に帰属することでもなく、ただ「スピリチュアル」だといわれる。けれどもそこには、多くの「消費者」が考える以上に、特定の東洋宗教との密接なつながりが見られる。このことは、だれかが「祈り」の集いへの入会を選択す際にとくに重要。しかしそれは、企業経営にとっても深刻な問題。生活と労働の中で瞑想を行い、精神拡張技術を用いることを労働者に求める企業が増加している。

・ヒューマン・ポテンシャル運動の創立は1960年代エサレン。個人の変革のためのさまざまな技術は企業の経営訓練計画の中でますます用いられるようになった。トランスパーソナル技術、内的・霊適格性のための運動、組織発展と組織変革、これらはみな非宗教的な形で行われるが、実際には企業の労働者を個人の自由が問題視される状況の中で異質なスピリチュアリティに服従させることができる。


(京セラのCSIS稲盛が大好きな生長の家=和風ニューソートかな?
資本主義を批判するくせに資本主義カルトの骨格の一部なのがニューエイジ=新キリスト教)

エサレン・ソヴィエト・アメリカ研究所はソヴィエト政府と協力して健康推進計画を進めた。

・ニューソートは十九世紀に米国で創始された宗教運動。起源は観念論だが、ニューソートは観念論の大衆的な形態である。神は完全な善であり、悪は幻想にすぎないとされる。人の精神は生涯の出来事を引き起こす原因なので、人は究極的には自分の状況のあらゆる側面について責任をとらなければならない。


・ニューエイジのキリスト
①人格的・歴史的イエスと、永遠で非人格的宇宙的キリストは別
②イエスは唯一のキリストではない

③キリストであるイエスが苦しみをうけうるという考えを排除するため
、イエスの十字架上の死は否定されるか再解釈される

④外典文書(新グノーシス主義の福音書など)を聖書聖典に見られないイエスの生涯をし知るための真正な源泉資料と考える。
霊や太古の導師によってまたはアカシャ年代記によって知ることのできるイエスに関するほかの啓示が、ニューエイジのキリスト論の基盤。
⑤聖書テキストにエソテリックな解釈を加える。それはエソテリックな本質に近づくことを妨げる、公的宗教としてのキリスト教を清めるため

・自己完成、自己実現、自己救済、ニューエイジはペラギウス主義的。


・ニューエイジ思想の要約
①あらゆる生命、存在は霊、不可知の存在、さまざまな文化でさまざまな名によって知られる至高の意識の現れ
②あらゆる存在と目的と運動は愛、知恵、覚醒を完全に現すこと
③あらゆる宗教は同じ内的現実の表現
④科学や五感で知覚するあらゆる生命は、見えない内的原因としての現実の外皮にすぎない

⑤人間は外的・時間的人格と、さまざまな次元を持つ内的存在(魂、高次の自己)の両面を持つ
⑥外的人格を限界を持ち、愛に向う
⑦内的存在が生まれ変わるのは外的人格の波動と愛を一致させるため
⑧生まれ変わった魂は自分の霊的な道を自由に選べる

⑨霊的な師はその魂が生まれ変わる必要から解放され、限界なき愛と知恵と覚醒を述べる人々である
⑩あらゆる生命は互いに関連付けられたエネルギーであり、霊とこれらのエネルギーとともに働いて現実をともに創造する
⑪すべての生命と環境と自己に共同責任を持つ

⑫この時代において地球と人間の進化はわれわれが個人意識と集団意識における根本的な霊的変化を経験するに至った。
 だからわれわれは新しい時代、ニューエイジについて語る。新しい意識は人が宇宙的な愛のエネルギーと呼ぶものが継続的に受肉した結果である

⑬すべての生命の生き生きとしたつながりに関するこのような新しい意識と理解は完全に新しい地球的文化の展開過程の内にわれわれがあることを意味する。

補足
①世界は高次の、より包括的な神的本性のあらわれ。
②人間の内面には高次の神的自己が隠れている。この神的自己は高次のより包括的な神的本性の現れ
③この高次の本性は覚醒し、個人の日常生活の中心となることができる
④この覚醒が一人ひとりの個人的生命が存在する理由

スパングラ―曰くニューエイジは
①ホリスティック
(グローバル化する。なぜなら唯一の現実・エネルギーが存在するだけだから)

②環境保護的
(ガイアとしての地球が我々の母。人は地球の中枢神経系の神経)

両性具有的
(虹と陰陽はニューエイジの象徴。男性と女性の相補性)


④神秘的
(聖なるものはあらゆるもの、もっとも日常的なものの中に見出される)

⑤地球的
(人間は自己の文化に属すると同時に、普遍的な次元へと開かれたものでなければならない。それは愛とあわれみと平和、さらには世界政府の樹立を推進できるようになるため)

(世界政府が目的なのが露骨)

・ホリズムが避難するのはニュートンとデカルト

ニューエイジの両性具有とは両性の身体的特徴ではなくすべての人に男性的要素と女性的要素があることを自覚すること。
両性具有はアニムスとアニマの調和がとれた状態。


・十九世紀のスピリチュアルはニューエイジに流れ込んだ思潮の一つと考えられる。スウェーデンボルグとメスメルの思想を背景に発展し、新たな種類の宗教となった。スピリチュアルは霊媒であるブラバッキ―の神智学に大きな影響を与えた。ただし神智学協会では最近死んだ人との接触ではなく、はるか昔の霊的存在との接触が重視される。アラン・カルデックはアフロブラジリアン宗教においてスピリチュリズムの普及に影響を与えた。日本の新宗教運動の一部にもスピリチュアリズムの要素が見られる。

・フィンドホーン共同体は1965年に設立されニューエイジの中心思想を体現するものと考えらえた。それはモデルとなり、ロンドンのオルターナティヴス、エサレン、ニューヨークのオープンセンター、およびオメガ研究所である。

・モンテ・ヴェリタはスイス、のユートピア共同体。
十九世紀末以来、欧米の対抗文化の代表者が集まる。
1933年以来、エラノス会議が毎年ここで開催されニューエイジの指導者たちを集めた。エラノス年報はエラノス会議の意図は統一的な世界宗教を作り出すことだとはっきり示している。多年にわたりモンテ・ヴェリタスに集まった人々の名簿は興味深い。

・「訳者あとがき」にあるニューエイジに関係した運動一覧。
・ヒューマン・ポテンシャル運動
(自己啓発セミナー)

・トランスパーソナル心理学
・ニューサイエンス、ニューエイジ・サイエンス
・ネオ・ペイガニズム
・フェミニスト霊性運動
・ディープ・エコロジー
・ホリスティック医療運動

・マクロビオティック
(創始者が世界政府賛同者)

・超越瞑想
・神智学協会
・人智学協会
・クリシュナムルティ・ファウンデーション
・ラジニーシ運動
・グルジェフ・ファウンデーション
・仏教的瞑想・共同体
・レイキ
・気功・合気道
・UFOカルト

・ニューエイジの特徴は、伝統的宗教のようにはっきりとした教団の形をとらず、参加形態が個人的であるところ。

∸――

役に立ちそうな資料
AとBの同一視を探すときは"A B"、"A as B"、"A or B"、"A that is B"、"A aka B"、"A i.e. B"、"A with B"みたいな絶対検索をします。
それでも見つからない場合は、AとBを入れ替えて"B A"、"B as A"~と検索すると良さげです。唯一神と天皇の同一視なんていう習合もこれで知りました(たぶん God≒king of kings≒emperor という類推かと)。
日本語で探すなら"A(B)"、"AとしてのB"、"AあるいはB"、といった感じで。
絶対検索がいつもバチっと当てはまるとは限らないですが、Googleならサジェストでかなり近い資料が見つかります。

http://ch.nicovideo.jp/y_noseru/blomaga/ar1023793


子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 5月18日
”宇宙人はグノーシス派のように肉体嫌い? ・スピ(リチュアル)系の宇宙人=白人説 を主張するアングロサクソン系の白人は、人類はアフリカの黒人が起源であるという説が嫌なだけでは? 北欧は金髪碧眼が多い。アイクの理論だと金髪碧眼の白人は宇宙人であるレプティリアンに憑依されやすい。
北欧貴族にしてスピの源流であるスウェーデンボルグは宇宙人が存在すると述べた。 UFOコンタクティーが遭遇する宇宙人がノルディック(その名のとおり北欧系の金髪碧眼)と呼ばれたりする。” 黒幕は自分たちの思想、見た目、文化を善だと洗脳する。 北欧黒幕説と、キリスト教>ユダヤ教の根拠。

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 5月20日
宇宙人に「選ばれた」のではなく、宇宙人を「呼び寄せて憑依させて活用した」から支配層になれた可能性…人間的な意味での「意志」はないのでは?… エイリアン=地球外からの自然現象説…
エイリアン=憑依させると強力な力が得られる存在。 エイリアンに人間的意志があるかどうかが分かれ目…


「何が良い印象を与えているか=尊厳の流れ」こそが最重要
善とみなしているものは攻撃しにくいからね


❁憂夏ちの幵マスコミ住所†検索
✡ ‏@udx 11月27日
モヒカンは、ネイティブアメリカンの英雄の髪型なのに、悪人の象徴みたいになってしまっている。洗脳だ。
本当の悪は侵略者であり虐殺者である今のアメリカ人たちだというのは少し考えればわかる。その少しも考えさせないのが、ハリウッドを主とするメディアの洗脳だ。

インディアンの豆知識bot ‏@indian_didUknow 8月14日
【モヒカン刈り】ちょっと昔のパンクファッションでお馴染みの、中央の髪を残して回りを剃る髪型は、一部のインディアンの部族が、狩りの際弓を射るのに邪魔にならないように頭の側面を剃った事が原型です。

(日本だと北斗の拳のせいだろうなあ)


ネズミさん ‏@Nezmi_san 2014年7月27日
「AEON」と言うと、日本では「あれね?」となるが、 古代ギリシア語の「時代」という意味だが、 グノーシス主義の創作神話では、この神の至高者の下の存在をアイオーンと呼ぶ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%B3 …

カトリック教会が出している『ニューエイジについてのキリスト教的考察』では
(それ自体は反宇宙論・反創造主、という思想でも無いにも関わらず)ニューエイジ思想が「現代のグノーシス主義」と位置づけられ、警戒されている。http://dic.pixiv.net/a/%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9%E4%B8%BB%E7%BE%A9 …

つまりはグノーシスから見ると天地創造のヤハウェより高次元の神が存在すると考える。
天地創造をしたこの世が悪に満ちている理由付けである。作った神より至高の神が存在するとする。ギリシャのイデア論に近いだろう。 http://sp.okwave.jp/qa/q142917.html

ねこた ‏@lakudagoya 5月5日
新プラトン主義が御用学派なのは分断統治のツールを担保する階層構造を肯定してるから。
といっても、霊的階級社会じゃないのがミソだが。

単にプロティノスの思想だけなら、ある種の神秘主義的な認識論だけど、耶蘇教の天使の階級に取り入れられて、曽野綾子のような階級社会肯定思想になった。

曽野綾子が「貧乏人は実直な精神を養ってればいい」みたいな事言ったのは、カトリックの天使の階級論をベースとしたの天上位階論を具現化したバチカンのトップダウン階級社会の思考から生まれている。
カトリックの神学思想では、階級社会は宇宙の自然状態での状態と聞いたけど本当かなぁ?

新プラトン主義のミソなとこは、オリジナルの流出元に近いところほど純粋でそこから離れると不完全になってダメになるという思想。
だから、アウグスティヌスなどは新プラトン主義の理論を使って欠如してるが故に悪が生まれると誤魔化した。
西洋の神秘主義の根底は新プラトン主義だよ。

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2014年7月19日
@lanekota 国学≒蘭学。
天皇家が関わる万葉集は漢字表記(日ユ同祖論は嘘)。
契沖は真言宗僧侶で徳川光圀がスカウト。
国学の四大人 荷田春満(伏見稲荷の神官)
賀茂真淵(春満の姪が妻。春満門下)
本居宣長(伊勢出身。真淵門下)
平田篤胤(和風クリスチャン。宣長の没後門人)

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2015年2月11日
猫太“うわーキリスト教くさいですのー”
“みっしょんいんぽっしぶる!キリスト教信者ってニコニコしながら支配する気と見下し感半端ねぇ。曽野綾子とか。その感覚が日本的でない”
平田篤胤→大国隆正→福羽美静→明治天皇
大国隆正→玉松操→岩倉具視
✝の平田篤胤の本教=和風キリスト教=神道

アイオーンαἰών
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%B3
“1966年の「グノーシス主義の起源に関する国際学会」等の定義によれば、グノーシス主義は、以下の点をふまえた神話を創作することが一般であると考えられている。
1. 反宇宙的二元論: この世界は悪であり、この世界を創造した劣悪な神とは別に、善なる「至高者」が存在する。
2. 人間内部に存在する「神的火花」「本来的自己」への確信: 人間は、劣悪な造物主に創造されたが、人間の内部には至高者に由来する要素が閉じこめられている。
3. 人間に「本来的自己」を認識させる啓示者・救済者の存在: 以上のことを知らない人間に対して、至高者の下からそれを知らせる使いがやって来て、認識を促す。
この「至高者」の下には、至高者に由来する諸の神的存在があり、グノーシス主義の創作神話では、この神的存在を「アイオーン」と呼ぶ。
• キリスト教グノーシス主義
キリスト教グノーシス主義では、人間に「本来的自己」を認識させる啓示者・救済者とは、もちろん「イエス」であり、イエスは「父なる神」(=至高者)の下から派遣され、旧約聖書の創造神(=劣悪なる造物主)の束縛から人間を解放するため、「本来的自己の認識」を説く福音をもたらしたという神話を持つ(神話の詳細は、グノーシス各派により異なる。)。
キリスト教グノーシス主義は、異端であるとして、正統派・主流は教会から反駁されてきた。
紀元2世紀のリヨン司教であったエイレナイオスや、3世紀のローマ司祭であったヒッポリュトスなど反駁書を記している。ヒッポリュトスは、グノーシス主義の教義や神話などが、ギリシア神話やプラトンの思想や、その他、諸々の素材を元に創作したものであるという説を唱え、「アイオーン」という用語もまた、ギリシア神話やプラトーンの著作から借用したものだと述べた。
このように、伝統的には、グノーシス主義は、諸宗教の要素が混淆したシンクレティズム宗教に過ぎないと考えられていたが、とくにナグ・ハマディ写本の発見により、非キリスト教グノーシス主義の存在が知られるようになり、現在では、グノーシス主義を、単なる混淆宗教、とりわけキリスト教にギリシア哲学や東方の諸宗教の要素を加えただけの異端説として論ずる学者は少ない。
以下に、グノーシス神話における諸の「アイオーン」について概説する。

グノーシス主義におけるアイオーンは、高次の霊または霊的な階梯圏域で、アイオーンこそは「真の神」で、ユダヤ教やキリスト教などが信仰している神は、「偽の神」である。またアイオーンは複数が存在し、プレーローマと呼ばれる超永遠世界にあって、男性アイオーンと女性アイオーンが対になって「両性具有」状態を実現している。
紀元2世紀の大ウァレンティノスと呼ばれるグノーシスの思想家の高弟であるプトレマイオスの説では、プレーローマには、男女を一対として、四対、合計八体の至高アイオーンが存在するとされる。それらは、オグドアス(8個の集まり)とも呼ばれ、次のようなアイオーンで構成される。
• プロパトール - 伴侶:エンノイア(思考)
• ヌース -伴侶:アレーテイア(真理)
• ロゴス - 伴侶:ゾーエー(生命)
• アントローポス - 伴侶:エクレシア(教会)
伴侶は女性アイオーンである。アイオーンの筆頭に来るのは「プロパトール」であるが、この名は「先在の父」とも訳され、超越性の更に超越性にあると される。プロパトールとは何かは、人間は無論のこと至高アイオーンであるオグドアスのアイオーンもまた、それを知ることはなかったとされる。プロパトール は、ビュトス(深淵)の名でも呼ばれる。またオグドアスはプレーローマの中心であるが、そのなかにあって更に上位の四アイオーンは、テトラクテュス(4個の集まり)と称する。
グノーシス主義では、新プラトン主義のプロティノスの考えを取り入れ、「流出説」を提唱した。ウァレンティノス派では、原初、先在の父(プロパトール)が唯一存在し、プロパトールは流出によって諸アイオーンを創造したとされる。
ソピアー神話
グノーシス主義においてはまた、アイオーン・ソピアーの失墜とその回復、分身の地上への落下の物語が記されている。グノーシス文献『この世の起源について』などにおいては、この世界がいかにしてデーミウルゴスによって創造され、人間の悲惨の運命が始まったのかを神話の形において説話している。
アイオーン・ソピアーはプレーローマにおける最低次のアイオーンであったが、知られざる先在の父(プロパトール)を理解したいと云う欲望に取り付かれた。彼女はこの欲望の故にプレーローマより落下し、分身アカモートを生み出し、アカモートは造物主デーミウルゴスを生み出した。デーミウルゴスはかくて、この世と人間を創造するのである。
ソピアーの娘・バルベーローはグノーシス主義バルベーロー派において地上の人間を救うとされているが、キリスト教では悪魔とされている。
ソピアーの救済、従って人類の救済と関連して、イエス・キリストもグノーシス神話においてはアイオーンと考えられた。”

イグナチオ・デ・ロヨラ
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/shinpi/royora.htm
“W・E・バトラーは、その著書の中で「魔術的イメージ」の概念を西洋に持ち込んだ功労者として、心理学者のユングとイエズス会の創始者イグナチオ・デ・ロヨラの二人を挙げている。

 ロヨラの基本的な立場は、「人間中心」の考え方であり、修行者は内面に向かい、自己認識を通じて神なり一者なりを認識するということである。これは、まず神あるいは一者を通じて自己認識を求める「神中心」の修行法と比較される。

 この修行は4週間に配分されて行われるが、それを読むと、この書では驚くほど具体的に瞑想の方法、イメージについて解説が成されていることが分かるであろう。
 イエズス会修道士達は、この書に基づいて修行をしたのである。

 ロヨラの生涯は波乱に満ちている。
 彼は1491年、スペインの少数民族バスク人の貴族の息子として生まれた。ロヨラ家はその歴史は12世紀にまで遡る名門であり、彼は13人兄弟の末っ子として生まれた。冒険好きで、だいぶ血の気の多い家系らしく、彼の三人の兄も遠い異国の地で軍人として戦死している。
 彼は幼いうちに母親を失った。そんな中、彼は学問よりも剣術を好む少年だったらしい。父親と父親の親友であるホアン・ベラスケスという貴族から教育を受けたが、父もその親友もロヨラが若いうちに死去してしまう。
 これを機に彼は単身ナバルラ国へと行き、そこで軍人として仕えることになる。この時の彼の生活は、かなり奔放なものだったらしい。
 1521年の従軍体験が、彼の生涯に大きな影響を及ぼす。
 この時、カスチリヤ国の内乱を鎮圧するためにナバルラ軍が出動したが、当時イスパニアと対立していたフランス軍が1万2千の大軍でもって、これに介入してきたのである。要するに、内乱に乗じて、フランスがナバルラを侵略してきたわけである。
 圧倒的な戦力の差により、ナバルラ軍は成すすべも無く蹴散らされ、ロヨラ達の篭るパンプローナ市の要塞は、フランス軍によって包囲されてしまう。
 この時、ナバルラの指揮官達は降伏を考えていたが、ロヨラは徹底抗戦を主張した。その結果、彼らは要塞に立て篭もって抵抗を続けた。ついにフランス軍は要塞に総攻撃をかけ、要塞は陥落してしまう。この時、ロヨラは右足の関節の下に生涯に渡る深刻なダメージを受け、左足にも重傷を負ってしまう。
 しかし、フランス軍は、彼の勇猛果敢さに敬意を表し、彼を丁重に扱い、手厚い看護を与え、さらに故郷のロヨラ城にまで送り届けてくれたのである。
 彼は1年間の闘病生活を送るが、この時、退屈を紛らわすために読んだ神学書がきっかけで、宗教者の道を進む決心をする。
 この闘病生活の時、彼は幻視体験をし、聖母マリヤの訪問を受けた。
 1521年、彼は兄の反対を押し切って城を出る。
 そして、たった一人で旅を続け、フランス人司祭のもとを訪れ、告白を行い、全財産を教会と貧民に寄付し、修道士となる。1522年31歳の時のことである。
 同年、彼はマレンサ地方の慈善病院に身を寄せる。ここで彼は、ドミニコ会の修道士達の指導のもと、すすんでみすぼらしい格好をし、苦行にあけくれた。彼の支持者は、既にこの頃から集まり始めていた。彼の支持者には女性が多かったらしい。だが、この4ヶ月に渡る苦行も彼を満足させることはできず、町外れの小聖堂に篭り、無茶な断食修行の結果、餓死寸前のところを救助されるという騒ぎを起こす。
 その後も彼は、無茶な断食修行を敢行しようとしたため、先輩修道士達は彼を厳しく説得しなければならなかった。ひとえに、彼の戦闘的な性格を物語るエピソードであろう。
 だが、これをきっかけに彼は、常識を身に付けた。無茶な断食はやめ、かつては風呂にも入らずみすぼらしい格好を好んだところを、普通に質素で清潔な服装をするようになった。
 彼が「霊操」の元となる原稿の執筆を開始したのも、この頃のことらしい。
 1523年に彼は聖地巡礼に出発する。しかし、この時の地中海の情勢は最悪で、キリスト教徒を迫害するトルコ軍や海賊がウロウロしている状況だった。それでも、ロヨラは嫌がる船員達を無理矢理説得して、エルサレムへと出かける。そして、船上で船員達と大喧嘩を引き起こし、殺されかねない騒ぎにまで発展したが、どうにか無事にこれも切り抜け、念願の巡礼を果たす。
 そして今度は地元のイスラム教徒たちをキリスト教に改宗させようという無茶を計画するが、仲間たちに説得されて、これも諦め、翌1524年に帰還する。本当に血の気の多い修道士である。
 しかし、この時イタリアも荒廃していた。フランス軍と神聖ローマ帝国軍の領地の奪い合いで、イタリヤの治安は最悪。ロヨラは、そんな戦場の中をほとんど丸腰に近い状態で強行突破しようとした。途中、神聖ローマ軍やフランス軍に拘束され、拷問され、殺されかけたが、偶然彼を捉えた軍人の中にバスク人がいたため、彼の好意によって釈放され、なんとか無事にスペインへとたどり着いた。本当に無茶な修道士である。
 その後の彼は、バルセロナ、アルカラ、サラマランカを渡り歩き、学問三昧の毎日を送る。少年時代に勉強をサボったツケを払わされ、ラテン語などは子供たちに混じって勉強したらしい。
 だが、彼の情熱と勉強熱心さは教師達を驚嘆させた。
 この時、彼は自分の息子ほどにも歳の離れた少年修道士達を同志とし、五人からなるグループを結成し、学問と修行に励んだ。
 だが、ここで彼の戦闘的な性格が災いする。1526年にアルカラの異端審問所に睨まれ、2回に渡る逮捕を受け、投獄すらされる。しかし、幸いなことに宗教裁判所の判決は無罪であり、釈放された。だが、厳しい監視を受けることになる。
 さらに、サラマンカに移るが、そこでも警戒され、地元のドミニコ会に拉致同然のやり方で、修道院に監禁される。
この時、所持していた「霊操」の原稿が彼らに見つかり、神学者たちはこれを読んで、彼に理解を示し、解放された。
 これ以上、若い同志たちに迷惑をかけるべきではないと判断した彼は、仲間たちと別れ、単身パリに向かう。1528年のことである。
 ここで彼は、若い学生達に混じって、40の手習いを敢行する。普通の学校ではつまらん、ということで、過酷なスパルタ教育で有名なモンテーギュ学寮を選んで入る辺りは実に彼らしい。パリ大学に入学し、1535年に至るまで学問を続けた。
 学問と併行して、彼は新たな修道会の準備をも進めていたが、これには挫折が付きまとう。最初の別れた仲間たちとは、いつしか溝が出来てしまい疎遠となってしまう。その後も三人の貴族を同志とするが、彼らの友人・親族の猛反対により失敗。しかし、3回目には、強力な同志を獲得する。
 ピエール・ルフェーザルと、かのフランシスコ・ザビエルである。当時、優等生だったザビエルは、最初はロヨラと対立していたが、やがて彼の人格に惹かれ、強力な同志となる。その後も、さらに四人の青年を同志として獲得し、1534年に彼らはパリのモンマルトルの聖ディオニシオ聖堂で請願を立てた。これこそが、イエズス修道会の始まりである。
 1536年には、さらに三人の同志が加わり十人となる。
 1537年に彼らは聖地巡礼を志す。この時、さすがにロヨラも慎重に行動するようになっていた。彼はローマ教皇のパウルス3世に謁見し、自分らの立場や思想を説明し、教皇を味方につけたのである。
 聖地に向かうまでの間、彼らはそれぞれに宣教活動を行っていたが、この時に「イエズス会」を名乗ったらしい。彼が、ルターやカルヴァンの猛威に対抗するためのカトリック内部の対抗宗教改革について考え始めたのこの頃らしい。
 やがて、地中海の治安は悪くなる一方で、彼らは聖地巡礼を中止せざるを得なくなる。
 その代わり、着々と新しい修道会の設立の準備を進めていた。
 そして、ついに1540年にイエズス会は、ローマ教皇パウルス3世にによって公認され、正式な修道会となる。このとき、修道会は60人の定員にすべし、という条件がつけられたが、この制限も1944年には解除された。そして1550年には、正式な会則も決まり、活動を開始する。
 彼は1556年に、永眠した。

 それはともかくも、我々は彼の著書「霊操」に注目すべきであろう。
 この著書は1520年代から書き始められたらしいが、当初は稚拙な内容だったらしい。これが1540年以降から大幅な改訂が行われた後に出版された。
 この書が、イエズス会の修道士達の修行の手引書とされたことは言うまでもないことであろう。
 この書においては、瞑想の方法が見事なまでに体系化されている。
 瞑想は4週間に分けて行われる。
 第一週は罪の認知と懺悔、
第二週はキリストの救済活動の観想、
第三週はキリストの受難の観想、
そして第四週はキリストの復活の観想である。
 ここで注目すべきは、従来のキリスト教神秘主義の瞑想者達は、静寂の中に神を観想し、賛美し、祈ることによって神との合一をはかった。すなわち、まず神を観想し、神を通じて一者を認識しようとしていた。つまり「神中心」の瞑想なのだ。
 これに対し、「霊操」では、瞑想者はキリストがどのように神の意志を実行し、模範を示されたのかを観想し、自分はどのようにしてキリストに従って神の意志を実行しなければならないか、というのを観想するのである。そして、瞑想者は自分個人に対する神の意志を知り、人類のための指名を実行することにより、キリスト教的な「真の自己」を覚醒させることにある。
 言い換えるなら、瞑想者は内面に向かい、自己認識を通じて神なり一者なりを認識するということであり、「人間中心」の瞑想なのである。
 この「霊操」の中で語られる、神との直接対話は、極めて実践的である。その瞑想方法は、インドのヨーガとの共通点もよく指摘され(一呼吸ごとに聖句を唱え、姿勢についても規定され、具体的なイメージを視覚化させられる等)、さらには秘教結社のイニシエーション同等の試練が課せられることでも注目すべきであろう。



「霊操」 イグナチオ・デ・ロヨラ 岩波文庫
「フランス ルネサンスの人々」 渡辺一夫 白水社
「キリスト教神秘思想史・3」 ルイ・コニュ 平凡社
「世界神秘学事典」 荒俣宏篇 平河出版社
「魔法入門」 W・E・バトラー 出帆新社”

偽ディオニシオス
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/shinpi/delonisiosu.htm
”ディオニシオス・アレオパギテースによって書かれたという所謂ディオニシオス文書としては、「天使位階論」、「教会位階論」、「神名論」、「神秘神学」、「書簡集」などが知られている。
 6世紀前半頃から、司祭ディオニシオスの著書と称する一連の文書が出回りだした。
 このディオニシオスとは何者か? ヨーロッパでは、長らくこの人物は聖パウロがアテナイで改宗させたという裁判官ディオニシオスであると信じられて来た。この説への疑問は早くも7世紀には出始め、ルネサンス期にも多く指摘されたが、結論が出たのは19世紀に入ってからである。詳細な書誌学的研究の結果から、成立は6世紀頃であると証明された。
 と言うのも、この書の思想はギリシャの新プラトン主義者として知られたプロクロスに依存しており、プロクロスが没したのが485年であり、彼の著書が公の場に現れたのが531年であるから、この頃に書かれたと推測されるのである。
 ディオニシオスが生きた使徒時代より、ずっと後世の成立である。
 それで、この一連の著書には、「偽」の文字が冠せられるようになったのである。

 とはいうものの、この神学書がキリスト教神学に与えた影響は計り知れない。
 6~7世紀の公会議において、これらの文書は真正な物の認定され、カトリック、東方正教会の両方で重要視されたのである。
 そして、何よりも、この著書は新プラトン主義の産物であり、著者はユダヤ教にも通じた神秘主義者であったことは間違いない。
 それゆえに、この本はキリスト教神学に新プラトン主義が流れ込む最大の原因ともなった。
 キリスト教神秘主義の成立において、この書の役割は凄まじい。
 さらに、彼の著書は、後のキリスト教カバラにも大きな影響を与えている。

 この書の登場は6世紀であるが、この時代、ユスティニアヌス帝がアテナイのアカデメイアを閉鎖させた年である。キリスト教の専横によって、ギリシャ哲学が潰された時代であるが、こうした新プラトン主義が、形を変えてキリスト教神学に潜り込むことによって生き延びた。
 この偽ディオニシオス文書は、そんな役割を果たした書でもあったのである。
 ともあれ、この書の著者は、間違いなくギリシャ哲学とユダヤ・キリスト教神学の両立を望んでいたことは間違い無いであろう。

 「天上位階論」においては、天使の階級が語られる。
 まず、神の被造物は3段階に分けられる。天使、人間、事物である。これらには、それぞれ位階が存在する。例えば、「人間」の位階は「教会の位階」であり、事物の位階は「律法の位階」である。


 偽ディオニシオスは言う。人間の魂は、まず感覚によって「律法の位階」を捉えることができる。次に「教会の位階」は、感覚と知性によって捉えることができる。最後の「天使」の位階は、知性によって捉えることができる。こうして、人間の魂は、これらの位階を捉え、理解することによって上昇し、神性の根源へと向かうべきであると言う。
 こうした天使の位階論と神への合一の思想が、キリスト教神秘主義の中で発展し、後世のキリスト教カバラに結実することは、言うまでもない。

 神は全てのものであると同時に、いかなるものでもない。すなわち神はあらゆる存在と非存在を超越している。ゆえに、神は我々の「知」を越えており、我々は神を知ることは出来ない。
 だから、我々は「神を知ることが出来ない」ことを知ることによって「無知」を得る。この「無知」は、実はあらゆる「知」を超えており、「神」のような超存在は、「無知」という体験から露になった現実である。
 すなわち、神は無知でもってのみ知ることのできる存在なのだという。
 神は我々の受容能力に応じて、自らを開示し示す。こうした開示の中でも最高のものが、この「無知」を得て、「神の闇」に入ることである。この「闇」は光の欠如のことではなく、あらゆるものを超えた状態のことを指す。
 我々はまずは最初に「知」によって上昇し、やがて「知」を超えた「無知」によって知ることの出来ない神と「合一」する。
 これがディオニシオスの「神との合一」であった。

 このディオニシオス文書は、しばらくギリシャ語のまま東方正教会に置かれ、西ヨーロッパでは忘れられていた。それが827年頃にビザンチン帝国がフランスに贈った。
 そして830年にラテン語に訳されたが、これは注目を集めなかった。
 しかし、860年にスコートゥス・エリウゲナによる新たなラテン語訳と注釈によって、やっと広く知られるようになる。
 そして、1167年にヨハネス・サラセヌスによるラテン語訳が決定的になった。アルベルトゥス・マグヌスやトマス・アキナスも、この訳に基づいて仕事を行った。



「キリスト教神秘主義著作集・1 ギリシャ教父」 谷降一郎・熊田陽一郎訳 教文館
「中世思想原典集成・3 後期ギリシャ教父・ビザンティン思想」 上智大学中世思想研究所 編・訳 平凡社”

ちょっと立ち止まって考えてみよう σ( ̄、 ̄=) 愚者の侃々諤々 (´▽`)ノ
http://blog.goo.ne.jp/watapi_1968/e/4f2604ce4e7b58086c53eefdb92ef25b

イエス・キリストは本当に十字架に釘づけにされたのか?真実を検証する
http://karapaia.com/archives/52214521.html

よーすけ‏ @yoshimichi0409 3 時間3 時間前
ユダヤ教徒の解放により近代においては、人種や民族・宗教問わず金融資本の所有者には成れた。マルクスの「ユダヤ人問題について」等でユダヤ的とは何もユダヤ教徒の有り様を指してる訳ではない。金融屋的メンタリティーを指すものとして使われている。正統派ユダヤは寧ろ金融屋には批判的! https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/800279934677630976 …
子子子子子@4記事更新‏ @kitsuchitsuchi 2016年11月20日
ユダヤの定義ができないユダヤ陰謀論者は
自分で何を言っているか分からないorわざと布教
キリスト教徒もユダヤ教徒も【ユダヤ】=金融特権の所有者になれたのは歴史的事実
×偽ユダヤ ×ユダ金
○【ユダヤ】業の白人
https://twitter.com/rolelei/status/573031855684902912 …
@kikuchi_8

子子子子子@4記事更新さんが追加
ローレライ @rolelei
ユダヤ人の定義①ユダヤ人が母←Xの定義にXは使えない②ユダヤ教徒←宗教で民族は定義不可考古学的証拠もなく、ヘロドトスも言及していないので聖書のユダヤ人は実在せず遺伝子も子孫も実在しません。ユダヤ教徒は実在。http://yomenainickname.blog.fc2.com/?mode=m&no=67&cr=2917189433b4f915c4a1c210e2af4bbb …読めないニックネ…

【ネタバレ注意】knznymmmyのガンダマニア入門8
http://codetripleseven.blogspot.jp/2016/03/knznymmmy8.html
”さて、十字架の形だ。バカボンのパパも後生大事に握ってるように
十字架は十字型というのが基本。
しかし十字架の具体的な形は聖書にも出てこない。
それどころかキリストが処刑された十字架は
本当はT字型、或いは単なる杭という説
がある。参考1 参考2

ヨハネ伝20章25節にはこう書いてある。
他の弟子たちが、彼に「私たちは主にお目にかかった」と言うと、
トマスは彼らに言った、「私は、その手に釘跡を見、
私の指をその釘跡にさし入れ、
また、私の手をその脇にさし入れてみなければ、決して信じない」
参考で私が持っているギリシア語対訳聖書。
ここから判断すると手が釘で打たれた事になる。
一本の杭よりT字か十字の方が可能性が高いようにも思える。
但し、ヨハネ伝は一番最後に書かれたと言われる。
また捏造・脚色が一番多いとも言われる。
特にこのトマスのエピソードはヨハネ伝にしか出てこない。
だから後世の捏造の可能性が高い。
それからロンギヌスの槍もヨハネ伝のみ。だからこれも怪しい。
逆に一番古い形を残していると言われるのはマルコ伝。

そもそも十字架刑で処刑をする時に手を釘で打っても
人間の体重は支えきれないと言われる。参考HP1 HP2
手の平が体重に耐え切れず引きちぎられてしまうらしい。
そこで仮に手に釘を打つとしたら前腕部に打つ。
これなら前腕部の骨があるから引っかかる。
よって「聖痕」と称して手の平の出血やアザを
得意気に見せるのは詐欺かキチガイ。

若しくはエヴァ旧劇場版のシンジ君。
でなければリリス。ヒントは催眠術。特に自己催眠。
そもそもキリストが釘で打たれたと示唆しているのは
先程のヨハネ伝20章のみ。
福音書でキリストが十字架にかかる場面は
マタイ伝27章、マルコ伝15章、ルカ伝23章、ヨハネ伝19章。
これら全てに関して「釘」は出てこない
先程の「仮に打つとしたら前腕部」の話と合わせて非常にウソ臭い。
よって十字、T字どころかただの棒という可能性含めて以下検証。

聖書の中で十字架という言葉が初出するのはマタイ伝10章38節
また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者は
わたしにふさわしくない。

キリストの処刑と関連した文脈でならマタイ伝27章22節、
マルコ伝15章13節、ルカ伝23章21節、ヨハネ伝19章6節、
その他多数。
原典=ギリシア語だとこんな感じ。ソースはここ
使われている単語はどの福音書でも基本的に同じ。
コレはマルコ伝15章13節。
私が持っているギリシア語聖書だとこう。
さて、この単語が示す形は?と思いつつググっていたら
面白いHP発見。リンク。

軽くダイジェストすると
ラテン十字架(普通の十字架)は
6世紀まではキリスト教美術に出てこない。
初期キリスト教のシンボルは十字架ではなく「よき羊飼い」の像。
初期のキリスト教徒は、むしろラテン十字架をdisりまくり。
例えば3世紀の神父ミヌキウス・フェリクス。

キリスト教以前の古代ではこのラテン十字架は異教のシンボル。
十字架=男性性器。円や楕円=女性性器。
つまり一緒にすると聖婚=ケルト十字。
ついでだ。書いてしまえ。これも似たような象意だろ?
薔薇の花が女性器を示す。ハチは針があるから男性器。
もちろんこの薔薇十字につながる話題でもある。
ケルト十字はエジプトの護符でもあり、
ヒンズー教にもある。(勿論、丸に十字=ヤ♥ツ♥ら♥)
コロンブス以前のアメリカ美術でも十字架は神の愛と死を表す。
イシス崇拝では、イシスが手に十字架とハスの種子の入れ物を持つ。
これも男性生殖器と女性生殖器。
イシスの夫=サラピスはプトレマイオス王に化身した。
ダミエッタ・ストーンには、「救世主プトレマイオス」
という文字に続いて十字架が書かれていた。
十字架がいつキリスト教のシンボルになったのか詳細は不明。
一時期はラテン十字架ではなく、
T字型の十字架がキリストの象徴だった事もある。
このT字型の元ネタはドルイド=ケルトの可能性がある。
現在このタウ十字はラテン十字架に取って代わられたので
一般に、聖ピリポが掛けられた十字架であるとされる。


fate grand orderおもろセリフまとめ1
http://codetripleseven.blogspot.jp/2016/12/fate-grand-order.html
”まず、アーサー王はケルト人の王様だ。しかも6世紀。
勿論、ケルトだドルイドだと言えば
ねこた先生もキリスト教の元ネタじゃないのか?と
大注目の重要ポイントである。
アイヤー(笑

ついでにキリスト教美術には元々十字架なんか登場しなかった。
いや、そもそも美術に限らず、
刑罰としての十字架そのものが存在しなかったのでは?
というのは過去記事で私が仮説をぶち上げている。

それが急に十字架は神の愛がどうだの、神聖だのありがたいだの
意味不明な猛プッシュを受けだしたのがまさに6世紀。
アイヤー(笑

せんせえ、何でアーサー王の時代と一致するんですか?
せんせえ、ついでにケルト十字って何ですか?
せんせえ、ついでにイシス崇拝って何ですか?
せんせえ、「ケルト」十字がエジプトにもあるのはなぜですか?
せんせえ、「すこちゃんランド」とか
けしからんツイッターしてる人がいるのはなぜですか?
せんせえ、ついでにアトン信仰って何ですか?
せんせえ、ついでにアマルナ革命って何ですか?
せんせえ、ついでにアメンホテプ4世って誰ですか?


キリスト教のパクリや経歴詐称がバレるから
そういう質問をしてはいけません(笑”

knznymmmyのラテン語ペラペラプロジェクト8
http://codetripleseven.blogspot.jp/2016/07/knznymmmy8_34.html
”注目点は"cruce" これはcrux=十字架の奪格単数。
キリスト教徒が大好きなあの十字架だ。
例えばcruceで画像検索しても十字架が大量にヒットする。
しかもキリストの処刑のシーンにもこの単語は出てくる。
例えばマルコ伝15章30節。私の持っているウルガタでは
salvum fac temet ipsum descendens de cruce

口語訳だと「十字架からおりてきて自分を救え」
よってcruceが十字架なのは確定。

それなのに創世記40-19で
「十字架」という訳を採用しているのは
ウルガタとエルサレム聖書のみ。他は全て「樹」だ。

エルサレム聖書ではgibetと書いてある。
本来、フランス語で十字架は一般的にla croix
gibetとは何か確認してみた。
私の持っている辞書では「絞首台 磔柱」と書いてある。
そして例として「gibet du christ キリストの十字架」
とも書いてある。私が持っている辞書は
旺文社のプチロワイヤル仏和辞典第4版。
一応googleの画像検索してみた。
画像検索の結果から判断すると絞首刑の台を第一に意味するようだ。
あれ?じゃあ gibet du christ はキリストの十字架じゃなくて
キリストの絞首刑では?
le pendu乙!タロット乙! オーディン乙!

一般的な認識では樹木と十字架は別物のはずだ。
原典のBHSはどうだろうと見てみると「木」だ。
עץ
これ(↑)がBHSの中の「樹・木」だ。
本当にコレが樹木なのか不安なら
コピペしてgoogle画像検索すればいい。
ものすごい数の樹木が出てくる。
しかも創世記3章でも同じ単語は出てくる。
アダムとエヴァが「園の中央の木」の実を食べた場面だ。
ウソだと思うのならここでも見てくればいい。
英語の対訳付きのBHSだ。
だからBHSが「木」と書いているのは確定。

ではウルガタの「十字架」は誤訳なのか?というと
私の解釈ではこの箇所に関しては全部の訳が正解。
誤訳は無い。

しかし、樹木と十字架は別物では?
というのは現代人の浅はかな考え。
樹木と十字架は別物ではない。同じものだ。

過去記事でも既に書いた事だが
キリスト教美術では6世紀まで十字架が出てこない。
むしろ、初期の教父は十字架は異教のシンボルだと言って
disりまくった。
ウルガタが書かれたのは 新約は383年。旧約は405年。
まだ十字架が神聖視される以前だ。
そもそも十字架があのプラスの形で
しかも釘で打ち付けるというのは物理的にあり得ない。
人間の体重を支えきれずに手が裂けてしまう。
だからミトラ教みたいなTの字、
いやむしろ、ただの一本柱の方が可能性は高い。
しかし一本柱にしても人間ひとりの全体重を支える訳だ。
地面を掘り返して柱を立てるのは面倒。
樹木があれば樹木を使う方が手っ取り早い。

そしてこの創世記40章19節のせいで
一本柱どころか樹木では?という可能性が更に上昇する。
元々cruxはただの樹木という意味だった(ウルガタ時代)が
後付けで「十字架」「例のプラスマーク」に改竄された疑惑だ。
しかもそのプラスマークの元ネタが異教。

しかもその一本柱or樹木でどう処刑する?という問題が残る。
一本柱だとしても人間の全体重を支えられるほどの釘があるのか?
という問題が残る。
やはり絞首刑の方が簡単・確実ではないのか?
やはり北欧神話のオーディンにつながってきた。
オーディンはユグドラシルの樹で首を吊った。
これがキリスト教の十字架と妙な一致をすると過去記事で書いた。
そして今回のgibetは「十字架」であると同時に
「絞首刑の台」でもある。
十字架はそもそも絞首刑だったのでは?
形も全然十字じゃなくて、ただの樹だったのでは?という疑惑。
絞首刑、首吊り、オーディン、十字架、キリスト。
全部つながってしまう可能性が更に上がってきた。
いやあフランス語勉強しておいてよかった。
意外な所にオーディンの突破口があるもんだ。
くさい。猛烈にくさい。これはマルセイユタロット。
これはライダーウェイトタロット
あれ・・・!! Tの字じゃないか!とことん臭い。


聖書はプトレマイオス朝のエジプトで書かれたという疑惑がある。
プトレマイオス朝のエジプトは紀元前306年〜紀元前30年。

一般には、ちょうど同じ紀元前3世紀から紀元前1世紀頃に
ヘレニストユダヤの増加に伴い、ヘブライ語の旧約聖書が
ギリシア語に翻訳されたと言われる。
これがセプチュアギンタ=七十人訳。略称LXX

ヘレニストユダヤとはユダヤ人だがヘブライ語ではなく
ギリシア語を話す人々。

また、紀元前の話なのだからキリスト以前の話だ。
だから当時は新約聖書は無い。

私(や、ねこた先生その他)が考えているのは
「既に存在したヘブライ語の旧約聖書」が
実は存在しなかったのでは?という疑惑だ。

いや、完全にゼロとまでは言わない。
過去記事でも、私自身、旧約聖書は古代クソラエルの
南北朝時代に書き始められたと推測している。
勿論、聖書のパクリ元の書物となればそれよりも更に以前だ。
「書き始めた」だけで、全然未完成だった旧約聖書が
プトレマイオス朝で大幅に加筆、書き換えされた。
それが修正というレベルでは済まない程、大規模だったので
「旧約聖書はプトレマイオス朝で書かれた」と言えるのでは?
という問題提起だ。
勿論、大規模とは具体的にどの程度大規模なのか?
具体的にどことどこがプトレマイオス朝で加筆された部分か?
それは今後の課題でもある。しかし既に判明している内容もある。

ひとつは「パロ」 新共同訳での「ファラオ」
これは先生が鋭い事を書いていた。多少省略しながらコピペ。
リンク1 リンク2 リンク3 リンク4

ねこたさんは、旧約聖書は紀元前3世紀頃の
プトレマイオス朝時代に成立したと考えてるの。
大人の世界の聖書学では紀元前6世紀頃に口伝のものを
文字にしたとか言われてるけどありゃ嘘ですな。
旧約聖書の出エジプト記を見ると、ファラオのことを
「パロ」って書いてあるでそ?
(中略)
プトレマイオス朝以前の成立はありえないかと。
ファラオ(大きな家)ってギリシャ語だからね。
エジプト語では「ベル・アア」って言うの。
もしヘブライ語の最古の写本にベル・アアと書いてなければ、
プトレマイオス朝の可能性が出てくるよ。
ねこたさんはね、大人の世界の聖書学では、
ギリシャ語の70人訳のセプトゥアギンタが紀元前70年に
成立したらしいけど、
ヘブライ語聖書の編纂とギリシャ語聖書の成立は
あまり間をあかないで成立したと思う。
プトレマイオス朝が臭いな。

では問題のBHSを見てみる。
パロ、若しくはファラオとしか読めない単語が出てくる。
参考→リンク
出エジプト1章11節のパロ。どう頑張ってもベルアアではない。

ベルアア=エジプト語=大きな屋敷。
これが本来のエジプトでの王様の呼称。
(バアルゼブブも高き屋敷の主というのをお忘れなく♥)
日本語でも「殿様」の「殿」は「御殿」の「殿」だ。
「お宅」は「あなた、お前」を意味するが「宅=家」だ。
(キモヲタの、そっちのオタクはここ20、30年の話だ)
それと少し似ている。

ベルアアではなくてパロ。
或いはパロのギリシア語読みであるファラオ。
これが当然のように出てくるのは怪しいという先生の指摘だ。
プトレマイオス朝はヘレニズム文化=ギリシア文化系だった。
聖書がプトレマイオス朝で書かれたのならギリシア的な
表現や単語が出てきても、むしろ当然という指摘だ。

「パロ」が出てくるのは出エジプトだけではない。
日本聖書協会HPで聖書の全文検索ができる。
「パロ」は旧約限定でも100回以上出てくる。
創世記、出エジプト記、申命記、サムエル記上、
列王紀上・下、歴代志上・下、エズラ記、ネヘミヤ記
詩篇、雅歌、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書にヒットあり。
これだけヒットすれば、かなりの規模の改竄。加筆。
勿論、「パロ」だけが怪しい訳ではない。
怪しい箇所は他にもある。
例えばラクダの飼育が始まったのはいつだ?という問題。
参考→読めないニックネーム
地中海東岸地域でラクダが家畜化されたのは
紀元前10世紀では?と学術的に推測される。
参考→リンク(ナショナルジオグラフィック日本語版)
しかし聖書の中でラクダの初出は創世記12章。
アブラハムの時代だ。
アブラハムは従来の通説では紀元前20世紀頃の人物。
あやしい。実にあやしい。千年以上水増しされている疑惑。

しかもセプチュアギンタの書かれた時代は
3度のポエニ戦争が起きた時代と重なる。
(紀元前264-241、紀元前219-201、紀元前149-146)
そしてポエニ戦争=フェニキア=ユダヤの正体。
あやしい。ユダヤという捏造民族が出て来る丁度その頃に
そのユダヤ人の経典が絶賛執筆中だった疑惑。
しかもその計画立案、指揮命令者のローマを陰で操るギリシア?
(ローマは元々後進国でギリシアの植民地云々の話を思い出せ!)
聖書の中にもこれ本当はギリシア哲学視点で読まないと
意味不明じゃないのか?という箇所はある。
たとえばヨハネ伝1章。ロゴスはテオスとかあのへん。

先生は鍵を握るのはストア派、ネオプラトニズム、ドルイド
あたりでは?と推測中。
そのへんはまだまだ私自身素人。今後の課題。
しかしネオプラトニズムと言えばプロティノスが創始者。
こいつは紀元後3世紀のエジプトの人物。まーたエジプトか!
プラトンは紀元前427〜347。プトレマイオス朝登場の少し前だ。
プラトンが爺さんになった頃アレクサンドロス大王が生まれている。
そしてこのアレ君の帝国が分裂してプトレマイオス朝ができた。

プトレマイオス朝はアウグストゥスによって潰された。

これだって証拠隠滅を兼ねていたのではないか?
情報漏洩を防ぐために遠い異国に発注して、
用事が済めば口封じと証拠隠滅かねて
「もう貴様に用はない」
アウグストゥスはローマ帝国初代皇帝でカエサルの息子。
厳密にはカエサルの姪の息子。カエサルは厳密には養父。
直接の親子関係は無い。

アウグストゥスがプトレマイオス朝を潰す以前から
ローマ帝国とプトレマイオス朝の間には色々と交流があった。
例えばエジプト起源のイシス教がローマで流行。
或いは絶世の美女として有名なクレオパトラは
プトレマイオス朝のファラオでしかもカエサルの愛人


イシス教はここ(あほー知恵袋)がなかなか鋭い。
簡単にダイジェストしてみる。

イシス教は紀元前86年にローマへ流入。ローマ帝国で大流行。
イシスはローマ在来の神々と同一視された。
例えば、ミネルヴァ女神やアフロディーテ女神。
(注:ミネルヴァ=や♥つ♥ら♥)
イシス教が流行した理由はいくつかある。
まず、エジプトは神秘的な国と見られていた事。
そして「密儀」「秘密の儀式」がウケた。
(注:ミトラ教も非公開主義だった件)
また、従来のローマの宗教と違い
イシスの儀式に女性も参加できた。だから女にウケた。
(注:キリスト教も昔は女の宗教と叩かれた)
そしてイシス教は個人主義な側面があった。
ローマの従来の宗教は家長に依存していた。
パパンが司祭でパパンが偉かった。
(注:聖書にこういう一節がある。
「私よりも父または母を愛する者は、私にふさわしくない」
マタイ伝10-37)
勿論、キリスト教の聖母マリアの元ネタのひとつはイシス教。


ふーむ。実に臭い。エジプト要素がウケるのを見た支配者層は
二匹目のドジョウを狙ってプトレマイオス朝エジプトに
下請けでキリスト教を発注した(?)
いや、ミトラ教の記事で書いたように
そもそもイシス教もミトラ教もキリスト教も
全部世界宗教を作るための試行錯誤テストケースだった(?)”

Cross(十字架)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/cross.html
”ラテン十字架(パッションクロスとも言う)が今ではキリスト教の主要なシンボルとなっているが、6世紀まではキリスト教美術には現れていなかった[1]。キリスト教の時代より遥か昔においては、この十字架は、ヨーロッパや西アジアにおいては、異教のシンボルであった[2]。初期キリスト教徒たちは、それが異教のものであったために、排斥さえした。3世紀のキリスト教会の神父であったミヌキウス・フェリクスは、キリスト教徒たちがラテン十字架を崇拝することに憤慨して、次のように言った。「お前たち、それでは異教徒ではないか。木の十字架を崇拝するなんて、それはまさに異教徒のすることだ……お前たちの記章や旗や標識と言えばただぴかぴかの美しい十字架だけではないか。そしてお前たちの勝利の記念品はただの十字架だけではなく、その上に人間を乗せている」[3]。

 太古の昔から、十字架に人形を吊したものが畑に立てられて、穀物を守った。現代でも見られる案山子はこうした生贄呪術(その人形はその血が大地を実り豊かにすると考えられた聖王を表すものであった)の名残りである。実際には案山子を立ててもカラスを脅すことはない、と農夫たちは皆知っていても、その人形が棄てられることは決してなかった[4]。

 十字架はまた男性のシンボルでもあり、男根を表す「生命の樹」であった。そのため、女性性器を表す円、または楕円形と一緒の形になる(聖婚を表す)ことも多かった。男性を表す十字形と女性を表す球体が一緒になると、それはエジプトの「護符ネフェル」、すなわち至福の護符(性的調和の護符)となった[5]。

cross_latin.gif いわゆるケルトの十字架は腕木のところに輪が交叉しているものであるが、それは、ヒンズー教徒にキアクラKakraとして知られている性的一致を表す男根と女陰のしるしに相当するものであった[6]。古代のケルト十字架で今なお存在しているものもあるが、それらは明らかに男根的要素を示している。その先端に尿道がリアルについているものさえある[7]。

 コロンブス以前の南北アメリカ大陸の美術を見ると、そこでも十字架は神の愛と死を表していた。救世主が自分の十字架をかついでおり、それはキリスト教のそれと全くよく似た像であった[8]。

 十字架がいつキリスト教と結びついたか、正確なところは誰も知らない。イエスの初期の像を見ると、それは十字に乗っているイエスではなく、仔ヒツジを連れているウシル〔オシーリス〕のような、また。ヘルメースのような「よき羊飼い」の姿であった。cross_latin.gif後世になると、さまざまな十字架がキリスト教のシンボルとして用いられることになった。ギリシア十字架と言われる縦横同じ長さの十字架もあれば、X型の聖アンデレの十字架、かぎ十字架、グノーシス派のマルタ十字架、太陽十字架(ヴォータンの十字架)、取っ手のついた十字架(エジプトの輪つき型十字形ankhが発展したものウェヌス〔ヴィーナス〕の十字架とも言われる)などいろいろあった[9]。

 ギリシア人は、この十字架は「クリストスやサラーピス崇拝にはよく使われた」[10]と言った。アセト〔イーシス〕崇拝の銘板を見ると、アセト〔イーシス〕の姿は一方の手に十字架を、もう一方の手にはハスの種子を入れる容器を持った姿で描かれている。それらは男性生殖器と女性生殖器を表すものであった[11]。アセト〔イーシス〕の夫であったサラーピスはプトレマイオス王に化身した。ダミエッタ・ストーンには、「救世主プトレマイオス」という文字に続いて十字架があった。敬虔なるキリスト教徒の学者たちが、この文字はやがてキリストが現れることを現実に予言したものであると主張したことがあった[12]。

cross_latin.gif ラテン十字架ではなくて、頭のないT字型の十字架をキリストのエンブレムとした時期があった。異教徒であったドルイドから借りてきたものであったのかもしれない。彼らはオークの木の枝を払って、2本の大きな枝を先端につけ、それで人間の腕を表したT字型十字架を作った。これがタウThau(神)であった[13]。

 T字型十字架は聖なる日のしるしであった。聖なる日とは十字架発見の日であった。それは、エルサレムにあったアプロディーテーの神殿の地下聖堂で、コンスタンティヌス1世の母親であるヘレナが、イエスが掛けられた本当の十字架を発見したことを祝う日であった[14]。

 ラテン十字架に取って代わられたのちは、一般に、T字型十字架は聖ピリポが掛けられた十字架であるとされた。ピリポはプリュギアでT字型十字架に掛けられたと考えられている。彼はそこでドラゴンの姿をした神マルスを退治しようとした[15]。このことはT字型十字架が五月祭の日のしるしであったことを意味する。それというのも、キリスト教会はその日を聖ピリポの日としたからである。そしてドルイド教のタウThauが五月柱と混同されることになった。”

ーーー

お読みくださり感謝しますわ!

イスラム圏でのメーソン禁止についての英語版ウィキの要約と『グノーシスの神話』 

カトリックは教会法(≒教義)でメーソン入会禁止。
初期メイソンはユダヤ教徒入会禁止。
ほとんどのイスラム圏ではメーソン自体が禁止。
必然的にメーソンはプロテスタントだらけになる。
メーソンがイスラム圏で禁止なのはイスラムをプロテスタント化させる秘密部隊だからでしょう。

英語版ウィキの反メーソンの項目の要約。
誤訳があったら教えてください。

カトリックの12世(ローマ教皇)が、フリーメイソンを排斥する初めての教皇文書「イン・エミネンティ」(1738年)が発令すると、
オスマン帝国のスルタンであるマフムト1世もメーソンを違法にし、メイソンを無神論とみなす。
フランス系の大東社の反教会と無神論傾向が強まるとでさらにメーソンへの圧力が強まる。
第一次大戦後、イギリスの影響下でイラクにいくつかロッジができる。
が、1958年のクーデターでイラクは王政から共和制に移行すると、メイソン許可証が無効となり、その後の法律で禁止。
イラクのサダム・フセインがメーソン含むすべてのシオニスト団体への弾圧強化。

イスラム圏での反メーソン陰謀論は、反ユダヤ主義と反シオニズムと強く結びついている。
ダジャル(イスラムの偽救世主)と結びつけられることもある。
イスラム教徒の中には、メーソンがユダヤ教徒を支援し、目的の一つがエルサレムにソロモン神殿を再建し、アル=アクサー・モスクを破壊することにあると考えるものがいる。
ハマースはメーソンだけでなくロータリークラブも類似団体も禁止。
イスラム教徒が多い国の多くがメーソン系組織の設立を禁止。
イスラム圏でメーソンロッジがあるのは、
トルコ、モロッコ、レバノン、マレーシア。
トルコとモロッコにはグランドロッジがある。
レバノンとマレーシアにはグランドロッジの保証の元で地方グランドロッジ(District Grand Lodges)がある。

(ハマースは、イスラーム主義を掲げるパレスチナの政党でスンニ派原理主義。
ムスリム同胞団のパレスチナ支部を母体として創設。

イスラム圏のメーソン陰謀論もキリスト教圏のユダヤ陰謀論と同じ設計図。用語を少し入れ替えるだけ。
広まるきっかけの本がありそうだけどアラビア語が読めないから断念。
ローマ教皇が出したメーソン叩き文書の劣化コピーっぽいけど。

第一次世界大戦後のオスマン帝国の解体により、3つの州(副地区)から成るオスマン領イラクはイギリスの支配下に置かれイギリス委任統治領メソポタミア(British Mandate of Mesopotamia)となった歴史があり、英国系メーソンロッジができた。
共和制になったイラクがメイソン禁止して、フセインがさらに強化。
イラクが徹底的に攻撃された理由の一つ。
イラクの英米系WASPロッジを潰したことへの復讐。

モロッコは元フランスの植民地。
現在のレバノンから到来したフェニキア人が現在のチュニジアあたりにカルタゴを建設し、モロッコ沿岸部にも港湾都市を築いたからメーソンが超必死なのかも。

トルコがメーソンOKなのは当然。
トルコ建国の父ケマルがメーソン=新キリスト教だから。
彼がトルコを脱イスラーム化しキリスト教化させた。

レバノンではキリスト教マロン派(マロン典礼カトリック教会)が先祖がフェニキア人だと主張しているのが気になる。
マロン派はフランスと密接で、レバノン大統領はマロン派から選ばれる習慣らしい。
日産ゴーンがマロン派ということは彼はフェニキア人の子孫かつ教義がカトリック。
教会用語や祈祷書が古シリア語やアラビア語。バチカンから独立していることが重要。

マレーシアは華僑関係だろうね。
日本は東アジアなのに華僑系の陰謀情報が少ないのが露骨だね。

レオ13世は『フマヌム・ゲヌス』にて、メーソンが下位メンバーにすら上層部の情報を教えないことを非難し、マニ教と同じシステムだと非難。
わざわざマニ教という固有名詞をだした理由は本記事後半の記事でよくわかるでしょう。
でも、カトリックも下位メンバー=信者には上層部がやっていることを教えないよね。
真のトップの名簿も明かしていないよね。
ローマ法王はあくまで看板。
そもそもメーソンがカトリックの支配システムを取り入れているからね。

英語が読めないと本当に損だなあ。
日本語訳されていない英語文を読めるようにあがくのが一番手っ取り早く英語力がつくよ。
知らない単語はドラッグして検索し、画像検索もして映像とともに意味を記憶する。

フェイド大帝 @FeydoTaitei15年6月25日
@lakudagoya
メイソン嫌いの法王レオ13世に
よるとメイソンもマニ教も
秘密主義で例えば組織のトップの
名簿を一般公表しない事が気に
食わなかったらしい。
http://w2.vatican.va/content/leo-xiii/en/encyclicals/documents/hf_l-xiii_enc_18840420_humanum-genus.html)

カトリックはメーソンはマニ教を真似ていると指摘して禁止
しているので当然マニ教が警戒された理由も知っておくべきなので↓読書メモも載せておく。

∸――

『グノーシスの神話』(大貫隆):講談社学術文庫


・グノーシス主義
=①人間の本質は至高の神の一部であり、その本質を絶対的に超える存在はない。
②ただし現実の人間は居場所を間違っている。本来の場所へ立ち帰らねばならない。
③このことの「覚知」(「認識」、ギリシア語でグノーシス)こそがその立ち帰りの途を開く。
 =人間即神也。
神々の頂点の至高神が実は本来の人間の別名であることを見抜かないといけない。


・グノーシス神話は大まかに三タイプある

①ナグ・ハマディ文書
主として初期ユダヤ教の影響下。
人間(至高神)は旧約聖書の神をはるかに超越している。代わりに間違った居場所
への人間の墜落の原因も、究極的には人間自身の内面の破れに求められる。

②マニ教
ゾロアスター教に根差している。人間が間違った居場所に拘束されているのは、太古における光と闇の戦闘の結果である。

③マンダ教
両者の混合

・グノーシス主義は初期ユダヤ教の周縁に、原始キリスト教とほぼ同じ頃に現れ、やがてキリスト教と接触するに及んで、最大の異端とされた。なぜなら本来の人間は至高神の一部であり、現実の人間は居場所を間違えていて、それゆえ自分の本質を認識=グノーシスして本来の場所へ立ち帰らねばならない、という思想だからである。

旧約でわかるように、主ヤハウェは創造神であり唯一神であり、被造物たる人間はあまりにも創造主と比べて卑小である。人は人であり神には絶対になりえない。神と人間の間の不可逆・非対称の関係こそが旧約聖書の創造信仰の核心。

ストア派のクレアンテース『ゼウス賛歌』(ストバイオス『詞華集』に収録)を引用する。
クレアンテースは、紀元前四世紀にキティオン(キプロス島)のゼノンによってアテネで始められたストア派の二代目学頭を務め、ゼノンの体系に宗教的色調を添えた人である。

“その雷鳴をもってあなたは世界を導き、万物の中にあまねくロゴスをゆきわたらせ

自ら天の大小の光と混じり合う。
ロゴスをもってあなたは万物のかくも偉大な王であられる。
〔…〕
あなたには敵対するものも友となる。
そのようにしてあなたは善きものを悪しきものに結び、あらゆるものを一つに調和させ
ただ一つロゴスを万物の上に永久に在る
ものとされた。”p.22-23

ストア派ではゼウスは決して旧約聖書のような超越神ではない。
実質上は宇宙万物に内在かつ遍在し、すべての事物を導くロゴス、つまり万物の理法と同一である。
この理法は世界の中に現れる悪をも善きものに結びつけ、あらゆるものを一つに調和させる力である。
まさしくストアの予定調和説である。
ストア派はこの理法・ロゴスが大宇宙の中では恒星天(地上から数えて第八天)にもっとも濃密に宿っていると考えた。そこから地上に向かって七つの天を下降するにつれて、その遍在の濃度は薄くなってゆく。地上では人間種族がそれに最も多く与っている。
さらに小宇宙として個々の人間の内部でも魂が八つの部分からなり、その全体を統括する第八の指導的部分
にロゴスが宿る。
こうしてストアでは宇宙万物と人間がマクロコスモスとミクロコスモスとして大小の同心円として対応する。


『マンダ教祈禱集』第九十四篇、私訳

“幸いなるかな、幸いなるかな、魂よ、
  汝は今この世を立ち去れり。
汝は立ち去れり、滅びと
  汝が住みし悪臭のからだ、
悪しき者たちの住まい、
  もろもろの罪に溢れたこの場所を。
闇の世界、
  憎しみと妬みと不和の世界を、
惑星たちの住むこの住まいを。

彼らは苦しみと破壊をもたらす。
彼らは苦しみと破壊をもたらし、
日々、試練を引き起こす。

立ち上がれ、立ち上がれ、魂よ、
昇り行け、汝がかつて在りし地へ。
昇り行け、汝がかつて在りし地へ、
そこから汝がこの地に植えられた地へ。
そこから汝が植えられた地へ、
ウトラ(神々)たちの間の汝の良き住まいへ。
起き上がれ、汝の栄光の衣を身にまとい、
戴くべし、汝の活ける冠を。
座すべし、汝の栄光の玉座に。
「いのち」が光の地に備えし玉座
に。
昇り行きて住まうべし、
汝の兄弟、ウトラたちの間なる住まいに。
汝が学びしごとく、
汝のいにしえの故郷をさきわい、
汝を養いしこの家の地を
呪うべし。
汝がこの地に在りし年々は、
「七人」が汝の敵なりき。
「七人」が汝の敵、
「十二人」が汝を迫害する者なりき

しかれども「いのち」はいと高く、勝利に満つ、
勝利に満つ、この地から去りしこの者も。“
p.26-28
 
「七人」=七惑星(太陽含む)
「十二人」=黄道十二宮
人間は自分が肉体と魂、すなわち本来の自己に分裂していること、
本来の自己の居場所がこの世界にないことを発見し、この世への絶対的違和感の中で本来の自己がそれらを無限に超越する価値であると信じるのがグノーシス主義。
惑星を創造した神は真の神ではない。グノーシス主義は人間の本来の自己を端的に神だと宣言する。
グノーシスのマンダ教では、死者の魂が目に見える宇宙のかなたの光の地にいるウトラと兄弟であり彼らの間の至高神「いのち」のもとに用意された玉座に座ると表現しており、
魂と至高神は同質であり、人=神である。

・①イラン・マニ教型(東方型)
人間の真の自己の隠喩としての光、対立原理の闇をはじめから設定し、互いに対立させ、二つの原理が混合しあう事件を考える。宇宙生成以前に起きたその事件により光の一部が闇の中に失われた。光の側は失われた部分を取り返そうとし、闇の側はそうはさせまいとする。
目に見える宇宙万物と人間の肉体は、戦略的に創造される。人間の救済は闇の中に捕縛された光の部分の濾過回収がどこまで成功するかにかかっている。

②シリア・エジプト型(西方型)
光そのものの中に一つの「破れ」が生じて、それが原因となってやがて闇の領域に造物神が生成する。造物主によって目に見える宇宙万物が創造され、その中に人間が「心魂」と肉体からなるものとして造られる。その心魂的および肉体的人間の中に光の部分が至上の原理として宿ることとなったのは、その破れを修復しようとする光の勢力が造物神の知らぬ間にそれを注入したことによる。個々人の救済は、このことを認識し、ふさわしく生き、肉体の死後、造物主の支配する領域を突破して、そのかなたの光の世界へ回帰することにある。
この方は後2世紀の半ばのアレクサンドリアに成立したヴァレンティノス派を筆頭に、パレスティナ・シリアにも展開したさまざまなグノーシス主義グループの神話によって代表される。ナグ・ハマディ文書の大半がこの型。

・マンダ教の洗礼の儀式はヨルダンと呼ばれている。

エイレナイオスは『異端反駁』にて使徒行伝にて「魔術師あるいは大能と呼ばれる神の力」と言われているシモンを、あらゆるグノーシス主義の始祖と断定している。シモンの名を継いだシモン派が文献に記録されたグノーシス主義教派としては最古の一つであることは間違いなく、しかもその震源地サマリアはユダヤ教の伝統が異教とまじりあった場所。
シモン派のものという『大いなる宣教』によるとシモン派がシモンを神格化し、シモンから流出した女性的存在エンノイアをめぐる救済神話を創造していたことがわかる。


・キリスト教との接触が明確なグノーシス主義をキリスト教的グノーシス主義と呼ぶ。その最も早い時期の小アジア出身のケリントス曰く、天的なキリストが人間イエスと洗礼時に合体し、イエスの十字架上の刑死の前に離脱したという説(仮現論)を唱えたという。

・二世紀の中葉以降になると本格的な体系を備えたグノーシス主義が登場。その一つがバルべーロー・グノーシス主義でバルべーロー(Barbelo)(原意不明)を救済神話の最上位に近い位置に置く教派で『ヨハネのアポクリュフォン』が代表的。

・自分たちをアダムの第三子セツ(邦訳「セト」)の子孫と考えるセツ派がある。

創世記三章の堕罪物語の蛇(ギリシア語でオフィス)に救済論上重要な役割を与えるオフィス派がある。が同じ特徴を持つナハシュ派(ナハシュはヘブル語で蛇)、ペラータイ派(宿命の鎖を「超克する者たち」の意)、セツ派があるとヒッポリュトスが指摘。

・二世紀中葉は自覚的にキリスト教にかかわりつつ自己形成をとげたキリスト教グノーシス主義者が登場し、最初の人がバシリデース。
バシリデースの神話は
①エイレナイオス曰く、
後述のヴァレンティノス派と同じく神論、宇宙生成論、人間生成論を上方から下方へ垂直的に展開するタイプのものである。

②ヒッポリュトス曰く
「存在しない神」がはるか下方に置いた「世界種子」すなわちやがて生成するべき万物を潜在的に内包した種子から、宇宙万物の創生、人間の種族の分解を極めて体系的に物語る。

バシリデースに少し遅れて登場したヴァレンティノスはキリスト教史上最大のグノーシス主義者、したがって正統主義教会にとって最大の異端者と呼ばれた。
神々で充満する領域(ギリシア語でプレーローマ)、その下の中間界、さらに下の最下位の物質と暗黒の闇の世界のすべてを上位のものが下位のものを流出するという流出原理にもとづいて導出する主義一貫した体系。

・三世紀にグノーシス主義の集大成として花開いたマニ教の背後には善悪の絶対的二元対立から始まるゾロアスター教の伝統が隠れている。西は北アフリカを中心に地中海世界を席巻し、東はシルクロードを通り中央アジアと中国内陸まで達した。ウィグル王国では763年国教になっている。


(ゾロアスター教はマニ教を完全否定する思想なので注意。

⓵「事実と意見を区別」
②「思う、感じる、感情表現の禁止」
を守れば論理的文章がすぐ書ける!←そんなことより 「丸に十字」「人型の十字架」「エプロン」のマンダ教だ! 青木健『古代オリエントの宗教』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-115.html
”マニが24歳のときにペルシア皇帝への献呈を前提として執筆したパフラヴィー語文献『シャーブフラガーン』の中では、マーニー教の最高神格「光の父」が時間の神ズルヴァーンに、
原人が善の神オフルマズドに、
闇の王が悪の神アフレマンに改称され、外見上はイラン系宗教に見えるように粉飾されている。
こうも簡単に置換されてしまう事実は、マニ教では「構造」が重要であり、布教のためならイエス論ですら代替可能であるというマニ教理解に一定の根拠を与えている。

(マニ教が布教したいのは
①イエスの絶対性
②グノーシス主義の二つであり、
②グノーシス主義が最優先事項なのでしょう。
「グノーシス主義=二神論=実質的多神教」こそが真のキリスト教であり、
「悪魔を産んだくせに最善(笑)の唯一神」教は、真のキリスト教ではないと考えていたということです。


ねこた(ツイッター閉店中) ‏@lakudagoya 2015年5月3日
みんあさ、イルミちゃん調べたかったら、マニ教のグノーシスも調べてね。「マミさんは真のキリスト教に目覚めたようです」 で検索してみて。これ青木健の「マニ教」という本を買わなくてもいいくらい内容が充実してる。マニ教の恐ろしさは、既存の宗教に寄生して神話を換骨奪胎して乗っ取る作戦だから

ねこた(ツイッター閉店中) ‏@lakudagoya 2015年5月2日
「マミさんは真のキリスト教に目覚めたようです」が面白かった!マニ教の本買わなくても内容がわかるよ。http://oyoguyaruo.blog72.fc2.com/blog-entry-4797.html ”

ダビデの星がユダヤだけのシンボルになったのは十七世紀からでキリスト教が決めた(ユダヤではない)ので日ユ同祖論(キリスト教製品)に使えない。マニ教の概要(山本由美子『マニ教とゾロアスター教』 など)、ダイアン・フォーチュン『神秘のカバラー』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-35.html
” マニ教(マーニー教。摩尼教、明教、二宗教)
三世紀のマニ(マーニー)がササン朝ペルシアにて創始。
中核は善悪二元論(拝火教+グノーシス主義)。
物質・肉体=悪。
霊魂・精神=善。
菜食主義(肉食禁止)と飲酒禁止。
一日一食。週一度に断食。
動物を殺すことも、植物の根を抜くことも禁止。
食べて良い代表的なものは果物であり、透き通った野菜。
きゅうりやメロンは最も良いとされた。
(衰弱死しそうなんですけど)
白い衣服を着る。
現世否定。性欲否定。
性欲否定は神話の表現にも表れていて、光=善の側は産むとか生まれるという言葉が使われず、「呼び出す」という言葉を使います。
(苦しいですね。性欲否定の宗教の致命的な問題点は、生殖しないと信者がどんどん減ってしまうというものがあります。まあ、だから積極的に広めまくったのでしょう。子宝沢山は惡なのですから)
信者減少対策として、マニ教は、平信徒(聴聞者)と選ばれた者(アルダワーン=義者=拝火教で善をおこなった信者を呼ぶ言葉)に分けました。
聴聞者はそれほど強く戒律を守らなくて良く、結婚も子づくりも許されるとし、生産活動をして選ばれた者を支える役割にしました。戒律を厳密に守ると生産活動が不可能になりますからね。
アルダワーンには女性もなれます。布教師にもなれます。しかしマニ教神話は男性優位っぽいです。でもグノーシスは女性優位なんですよね。

マニ教の神話は色々混ざっています。長いので面白そうなところだけピックアップします。
・はじめに光明の父もしくは偉大な父(ズルワーン=時間)と呼ばれる存在が光の王国にあり、光の王国は上・東・北・西の方位にあり、光の五元素(光、風、火、水、エーテル)をその実体としていた。
闇の王国は下・南にあり、光の五元素に対応する五つの闇の元素からなっていた。
(はじめが父なので、男性優位思想。グノーシスは女性優位なのにね。
しかし神話に反して、女性が「選ばれた人(アルダワーン)」になることはタブーではなく、女性の布教師も珍しくはありませんでした。
ゾロアスター教ズルワーン主義=拝時教、の影響って凄いですね。
南になにか恨みでもあるのでしょうか。理由が知りたいです。
時間=変化の前提が始まりとは哲学的に感心しました。
時間=時計・天体の動きの周期・暦は農業用だったのに今や奴隷を長く働かせる為の道具になっております)

・光明の父(偉大な父ズルワーン=時間)が、生命の母を「呼び出した」(産むが使えないので)。
この生命の母が最初の人である原人オフルミズド(アフラ・マズダーの中世ペルシア語形)を呼び出した。(処女懐胎以上にファンタジーですな)
・光明の父は、生ける霊(ミフルヤズド)も呼び出した。
ミフルは契約の神ミスラの中世ペルシア形で、このころは太陽神と同一化されるようになった。ミフルヤズド(ミスラ神)は、インドにおけるミトラ神、ギリシャ・ローマにおけるミトラス神に相当する。仏教における弥勒菩薩(マイトレーヤ)もまたミスラ(ミトラ)に由来するともいわれている。
ミトラ=密特拉〔中国語〕の漢字表記の頭は「密」なんですよね。密教にもミトラの要素あるし。
マニ教においては光明神としての性格が強調され、太陽と同一視された。ソグド語で日曜日の事もミールと呼ぶようになった)

・この世界は倒された闇の悪魔たちの屍体から創られた。悪魔からはぎ取られた皮から十天が創られ、骨が山となり、身体や排泄物は大地となった。闇のアルコーン(執政官。高位の悪魔)たちは鎖で空に繋ぎとめられた。
汚されていない光の元素から太陽と月が創られた。
少し汚されたものから星が創られた。

(マニ教では、十層の天と八層の大地からなるという宇宙観。なんと日本でマニ教の宇宙図が見つかりました)

闇は、虜にした光の元素を取り戻されないように、物質がすべての悪魔を飲み込み統合して一つの大悪魔を創った。同様に女の悪魔たちも一つの大悪魔となった。その男女の大悪魔によって、憧れの的である第三の使者(光明の父が呼びだした)に似せてアダムとイブが創られた。ゆえに、アダムとイブは闇の創造物でありながら、大量の光の要素を持っていることになる。
自分が光の要素を持っていることを知らないアダムに、自らの光の本質存在を知らせるために、第三の使者の化身であるイエスが送られ、アダムにグノーシス(知識)を与えて覚醒させる。覚醒したアダムは自らの内なる光の本質を救うために物質の連鎖を断ち切ろうと禁欲を誓う。
しかし、アダムよりは少ないがやはり光の本質を持つイブはグノーシスをイエスから与えられなかった。
その理由を理解できず、アルコーンと交わってカインとアベルを産む。
嫉妬に駆られたアダムは、自らを抑えきれずイブと交わり、セトが生まれた。
かくして、人間の生命の営みが始まった。
(男尊女卑)


・この世界は物質である限り、闇のアフリマンの支配下にある。しかしグノーシスを得た人が少しでも光の元素を救いだそうとするので、戦いは続いている。
囚われの光の粒子は、閉じ込めている物質が壊されると解放される。それはまず光の柱を通って月に集められ、月が満ちると太陽に移され、その後に新しい天国に呼び集められる。
(囚われた光の粒子の経路は光の柱→月→太陽→新しい天国

・いずれ光と闇の最終戦争が起き、イエスが正邪を分ける判事としてあらわれる。世界の終わりには神が支えることをやめるので天地は崩れ落ち、1468年間も続く大火によって全て物質的なものは消滅する。イエスは光の王国と合体した新しい天国に戻り、二つの原理はもはや混じり合うことはない。

・「白衣白冠の徒」
といわれた東方のマニ教(明教)は、景教(ネストリウス派キリスト教)・祆教(ゾロアスター教)とともに、三夷教ないし三夷寺と呼ばれた。

キリスト教の異端派がマニ教の変形である例はいくつかある。
アルメニアから始まって、黒海沿岸に広まったパウロ派は、使徒パウロの書簡を重んじる二元論的世界観を持っていた。

ブルガリアに発してコンスタンティノープルにも根拠地を置いたボゴミール派は、サタンによる創造神話や旧約聖書の否定など特徴的な教義が、異端審問の記録により信仰内容が良く知られている。ボゴミール派がブルガリアとビザンツ帝国で栄えたのは九世紀から十二世紀までである。

特にマニ教的だったのが十一世紀から十三世紀に北イタリアから南フランスにかけて受け入れられたカタリ派であるが、フランス統一をはかる北フランスのカトリックの王家により弾圧された。地中海沿岸の南フランスに栄えたのがカタリ派である。
信者自身はマニ教との繋がりを認めてはいないが、宇宙の創造に悪魔が介入していることを認めたり、酒や女の快楽を否定し、結婚をよしとせず、水による洗礼を行わないように、非常にマニ教的である。女性の地位も高い。注意しないといけないのはマニ教だと非難したのはカトリック側であることだ。

(マニ教を守るためかもしれません。マニ教勢力の存在を明確に認めると狙われるから)

マーニーは珍しいことに、自分で教典を書き、バビロニアを中心に教団を形成した預言者。
マニ教団勢力は、サーサーン朝(ササン朝。ペルシャ=イランの拝火教国家)に迫害されるほどに勢力が強かった。
本拠地はバビロンだったが、マニ教が目覚ましい発展を遂げたのはまずローマ帝国領のシリアやエジプト、その他の地中海沿岸地方であった。
エジプトではアレクサンドリア(錬金術=科学の聖地)を中心に発展したことは、元マニ教徒のキリスト教の教父アウグスティヌスが記している。
アウグスティヌスの母はクリスチャンだったが、彼はカルタゴでマニ教に出会って信者(聴聞者)となった。
(アウグスティヌスがマニ教の影響からキリスト教の二元論を強化したと思います。善悪の戦いの強調の源流は拝火教ですけどね)
当時のアレクサンドリアやカルタゴでは様々な宗教の間で公開討論会のようなものが行われ、自己の宗教の優位性を論理的に主張することが普通に行われていて、一種の娯楽だったらしい。折衷主義のマニ教はどのような論点も自己のものとして取り入れることができるので、非常に論争しにくい相手だったであろう。

(何でも信じているか、何も信じていないか、どちらも最強なんですよね。
三世紀から千年以上もユーラシアの西はスペイン、東は中国福建省の泉州にまで広がったが、現在では消え失せしまっている世界宗教。実は中国では生き残っています。
そして現在の統一宗教=イルミナティ教のモデルでしょう。)


預言者マニ(マーニー)は自分で経典を書いた。
予言者が自ら教義書を書いたのは、マニが史上初であろうことは先述したが、マニが主として経典にアラム語を用いたのには、当時の中東世界の共通語として広く意思疎通に用いられていたからであろう。
彼は速やかに経典を各地の言語に翻訳させたが、その際、彼は自身の教義の厳密な訳出よりは各地に伝わる在来の信仰や用語を利用して、入信者が理解しやすいように、自由に翻訳することを勧めた。場合によっては馴染みやすい信仰への翻案すら認め、このことは異民族や遠隔地の布教に有効であった。
マニ教は他の宗教と論戦しながら改宗を勧めていったのだが、相手の宗教を否定せずにむしろ積極的にその宗教独自の概念や神話を取り込んで、違ったものに作り変えてしまうことにひいでていたので大変議論がしにくかった。特有の概念や神の名を異なる脈絡で言及するので強い違和感を与えるものの反論しにくかったはず。
(改良版を売る戦術ですね。マニ教は実は君らの宗教の改良版に過ぎない戦法)

しかし、各地ごとに布教目的で柔軟に用語や教義を変相させていったため、普遍的な世界宗教へと発展した反面、教義の一貫性は必ずしも保持されなかった。

(だから消えても影響が残りまくったのがマニ教。道教みたいですね。神道・天皇・神器は道教用語であり日本由来ではないのです。全部中国産。年号だって漢文から。どこにヘブライ語があるの?)

中国(唐)にマニ教が伝わったのは七世紀。694年、マニ教の教師(佛多誕)ミフル・オフルミズドが、はじめて唐の宮廷を訪れ、則天武后と会見してマニ教の信仰を説いて布教が許された。マニ教はバビロニアの優れた天文学と暦の知識を持っていて、暦の改定を進めていた当時の唐には魅力的だった。
八世紀、758年の安禄山の乱において、弱体化していた唐朝を支援して乱の鎮定に尽力したウイグル王ヤブグ汗(ウイグル族は中央アジアのトルコ系部族)がマニ教に改宗し、ウイグルの国教とした。768年にはウイグル人のために長安にマニ教寺院大雲光明
寺が建てられた。
マニ教の教義はすでに各地で仏教や、ゾロアスター教、キリスト教の教義との混淆を深めていたが、この時期になると、さらに中国独自の宗教である道教の教義とも同一化されるようになった。
マーニーは道教の始祖老子の生まれ変わりとみなされたりした。
マニ教の後ろ盾となっていたウイグル汗が840年に、キルギスに敗れ、ウイグルの領土が高昌(ホッチョ)とその周辺地域に限られるようになると、中国各地でウイグルにたいする反感が吹き出し、ウイグル人の巣窟とみなされた各地のマニ教寺院が破壊された。
842年から4年間続いた武宗(道教重視)による「会昌の弾圧」は、マニ教のみでなく、拝火教、キリスト教、仏教をも含むすべての外来宗教を弾圧したものであったが、マニ教の受けた打撃は大きかった。
 仏教では、寺院4600寺が廃され僧尼26万5千人が還俗させられたので、「会昌の法難」と称している。
福建の泉州に逃れたマニ教徒はこの地で秘密結社のような組織になったという。
マニ教経典は、一見仏教の典籍の一つのようにされ、一部のマニ教徒は道教の一派のように振舞っていたこともある。キリスト教の一派とみなされたことも多く、マルコ・ポーロが泉州であったと述べている「キリスト教徒」はじつはマニ教徒だったといわれる。結局、中国のマニ教徒は十五世紀くらいには姿を消し、これによってマニ教は事実上消滅した。
と思われたが↓
“元を倒した新たな王朝を築いた朱元璋が新王朝の国号を「明朝」としたのも、元朝打倒の原動力になった明教にあやかってのこと

出典中国におけるマニ教
マニ教は843年に唐の武宗によって禁止された後も「明教」と呼ばれ流布しつづけた。”
“中国・福建省でマニ教の寺院が複数現存していることが近年確認されている”
“何百年前に滅んだはずのマニ教が、中国では細々と生き残っていて、寺もあれば信者もいて、毎年マニの生誕祭が開かれている”
“御本尊の摩尼光仏”
【歴史】マニ教 ー消えた世界宗教の謎ー
http://matome.naver.jp/odai/2134904705662315701”)


グノーシス主義は農村部よりは都市部の現象。ヘレニズム時代の地中海とオリエント世界では、思想と宗教の統合はとりわけ都市部で顕著だった。アレクサンドリアはその典型。都市部では人間は個別化され、伝統的基盤から乖離し、社会的方向性と自己同一性の喪失の危機に面していた。この危機は強大なローマ帝国の支配の中に併合されて政治的な禁治産宣言を下された東方地中海世界の諸民族、とりわけ都市の知識層の場合に深刻であった。グノーシス主義は知識層を主要な担い手とするプロテストなのである。
ナグ・ハマディ文書で明らかになったように、グノーシス主義者の自己呼称の一つが「王なき世代」。

(グノーシス主義は都市のインテリ向け。カトリックに反抗する者、プロテスタントの先祖。プロテスタントもグノーシス否定ですけど。教義的には異端派のほうがプロテストしていますよね)



・『ヨハネのアポクリュフォン』、二世紀前半、バルべーロー(Barbelo)派、セツ派


(神話1 『ヨハネのアポクリュフォン』
http://gnosticthinking.nobody.jp/gnosismyth001.html
“『ナグ・ハマディ文書』より

 世界の始源には、至高神だけが存在する。至高神はあらゆる事物に先立つ絶対的な始源であり、絶対的な超越者である。それを限定的な、あるいは実定的な属性によって形容することは不可能であり、ゆえに「否定神学」的な叙述方法が導入される。『ヨハネのアポクリュフォン』によれば至高神とは、見えざる霊、不滅性の中に在る者、いかなる視力でも見つめることのできない純粋なる光の中に在る者、欠乏を知らない者、あらゆる者に先立つ者、断定し難い者、記述し難い者、身体的でも非身体的でもない者、大きくも小さくもない者、等々…
至高神の分身=「最初の人間」
であるバルベーローの発出

 至高神は「霊の泉」に映る自己の姿を注視することによって、最初の思考であり、自己の鏡像=似像である「バルベーロー」を発出する。至高神自身が非限定的で不可視の存在であるのに対し、その似像であるバルベーローは限定と形相を有する。バルベーローとは、至高神が自己観照によって生み出す最初の理念、最初の「アイオーン(永劫性)」なのである。その光景は以下のように描かれている。

霊の泉が、光の活ける水から流れ出た。そして彼は、全てのアイオーンとあらゆる世界を準備した。彼は自分を取り巻く純粋なる光の水の中に彼自身の像を見ることにより、それを把握した。すると彼の「思考(エンノイア)」が活発になって現れ出た。[······]これがすなわち万物の完全なる「プロノイア(予見)」、光、光の似像、見えざる者の影像である。それは完全なる力、バルベーロー、栄光の完全なるアイオーンである。彼女は彼を誉め讃えた。彼女は彼によって現れたからである。そして彼女は彼を思考する。彼女は最初の「思考」、彼の映像である。彼女は最初の人間となったのである。

…プレーローマ界の創造

 こうして誕生したバルベーローは、至高神の承認を得ることにより、「第一の認識」を始めとする種々のアイオーンを次々に発出する。このようなバルベーローの働きを通して、神的な完全性に満たされた世界、「プレーローマ(充溢)」界が創造されるのである。各アイオーンは「不滅性」「真理」「叡知」「言葉」「賢明」「愛」等という実定的属性を指示する名が与えられている。それらは、プラトン哲学の概念でいう「 イデア」に相当する、完全で永遠なる存在者なのである。それぞれのアイオーンは、男女の「対(シュジュギア)」を構成するものとして配置されている。

ソフィアの過失

 プレーローマ界を構成する上述の神々の中で、「ソフィア(知恵)」と呼ばれるアイオーンは、その世界の最下層に位置する女性の神格であった。ソフィアは、自らもまた至高神の似像性を有する一つのアイオーンであるという理由によって、至高神と同じように自分自身の影像を発出したいと願う。

さて、われわれの仲間なる姉妹、すなわち「知恵」は──彼女(もまた)一つのアイオーンであったので──自分の内からある考えを抱くに至った。彼女は霊の考えと「第一の認識」によって自分の中から自分の影像を出現させたいと欲した。彼女のこの考えは無為のままではいなかった。そして彼女の業が不完全な形で現れ出た。その外貌には形がなかった。というのも、彼女は彼女の伴侶なしに(それを)造り出したからである。それには母親の姿に似た形がなかった。

至高神や他の神々の同意と承認を得ずに行われたその行為は、ソフィアの身に大きな悲劇をもたらす。彼女が流産したものは神的存在者にそぐわないその奇怪な姿を露わにし、蛇とライオンの外貌を呈したのである。ソフィアは自らが生み出したその存在を他のアイオーンたちに見られることを恐れ、これをプレーローマ界の外部に投げ捨てる。そして彼に玉座を与え、「ヤルダバオート」と名づけた。


可視的世界の創造

 プレーローマ界から放逐されたヤルダバオートは、自らの出生の由来を知ることのないまま、自らの住まう世界、すなわち可視的世界の創造に着手する。最初に創造されるのは、恒星天や惑星天の星々と同一視される「アルコーン(支配者)」たちである。ヤルダバオートはソフィアから継承していた力の働きによって、無知の裡にプレーローマ界の似像としての可視的世界を創造する。

さて、彼はこれらすべてのものを、すでに成立している第一のアイオーンの像に従って、整えた。それは彼らを不朽の型に倣って造り出すためであった。彼が不朽なる者たちを見たからではなく、むしろ彼の中に在る力──それは彼が彼の母親から受け取っていたものである──が彼の中に美しき秩序の像を生み出したからである。

 ヤルダバオートは、旧約聖書の造物主ヤハウェと同一視されている。ヤルダバオートは世界の創造が自らの力のみによって為されたと過信し、アルコーンたちに自己の唯一性を宣言する。「私こそは妬む神である。私の他に神はない」

人間の創造

 無知と傲慢に満ちたヤルダバオートの言葉に対し、プレーローマ界の創造者であるバルベーローは「人間と人間の子が存在する」と答えて反駁すると同時に、自らの形象を可視的世界の水面に現出させる。ヤルダバオートとアルコーンたちは、水の中に映ったバルベーローの影像を目にして驚愕する。彼らは、「われわれは神の像と外見に従って人間を造ろう。彼の像がわれわれにとって光となるために」と語りあい、バルベーローの立像を模することによって人間の(心魂的)身体を創造する。

 こうして造り上げられた最初の人間は、「アダム」と名づけられる。しかし彼は徒に地面を這うばかりで、立ち上がることができない。これを見たプレーローマ界の諸力は、ヤルダバオートに対し、ソフィアに由来する力であるその霊=息(プネウマ)をアダムに吹き込むようにそそのかす。それは、ヤルダバオートが不当にも保持しているその霊力を奪還するための計画を意味するのである。ヤルダバオートから息を吹き込まれたアダムは力を得て立ち上がるが、ヤルダバオートはそれを喪失する。さらに、霊の力を得て光り輝き始めたアダムを目にして、アルコーンたちは激しい嫉妬の感情に駆られ、彼を物質世界の底部にある「エデンの園」に幽閉する。

「生命の霊」と「模倣の霊」の対立

 『ヨハネのアポクリュフォン』における以下の物語では、エデンの園に続く『創世記』の幾つかの場面が、これまでに描かれたその二元的世界観を背景に解釈される。その記述は幾分断片的であり、しばしば物語の筋道が前後しているが、そこではプレーローマ界が人間を救済するために派遣する「生命の霊」と、可視的世界の支配者がその姿を模して生み出す「模倣の霊」の対抗関係が、物語構成の基軸的な役割を果たしている。

 バルベーローは、エデンの園に幽閉されたアダムと彼に吹き込まれた霊の存在を憐れみ、これに救助者を差し向ける。それは「善なる、憐れみに富む霊」であり、「光のエピノイア」、あるいは「ゾーエー(生命)」や「生命の霊」と呼ばれる。ヤルダバオートはアダムを眠らせ、彼のもとに到来した「生命の霊」を抜き取ることにより、自らが失った力を回復しようとする。しかし「生命の霊」はその手から逃れてアダムから離れたため、ヤルダバオートは「生命の霊」を捕縛するために、その姿を模することによって、物質的な「つくり物」である女性の身体を造り出す。「生命の霊」はこの身体に降り立ち、ゆえに彼女は「生命」=エヴァと称されるようになるのである。

 アダムの側に立っている若い女の姿を目にして、ヤルダバオートの心は「愚かな思い」、すなわち性欲によって満たされる。ヤルダバオートは彼女を凌辱するが、その企みを事前に察知したプロノイアによって彼女からはすでに生命が抜き取られていたため、彼はエヴァの肉体のみと交わったのであり、それによって新たな「肉体の像」、カインとアベルが生み出される。そしてアルコーンたちは彼らに、「生命の霊」を模倣して造り上げた「忌むべき霊」、「模倣の霊」を分与する。彼らは「暗闇の無知」、「身体のこしらえ物の洞窟」と呼ばれる物質的身体の持ち主であり、さらには彼らを支配する「模倣の霊」が常に激しい性欲を惹起するので、悪しき交接に絶え間なく駆り立てられ、洞窟内の映像に等しいその幻影的な肉体を徒に増殖させ続けるのである。こうして地に満ちた者たちは、カインとアベルの種族と呼ばれる。これに対し、バルベーローによって最初に産み出されたアイオーンである「第一の認識」の模像をアダムがを知解することによって、セツが誕生する。セツの子孫たちは、プレーローマ界に存在する原型の忠実な模倣によって誕生した、祝福されるべき種族である。

終末

 人間に求められるのは、「模倣の霊」による支配と影響から離れ、「生命の霊」による教導に従って生きることである。世界の終極においては、プレーローマ界の創造者であるプロノイア=バルベーローが到来し、可視的世界の闇を照明することによって、ヤルダバオートたちが作り上げた宿命の鎖を粉砕するとされている。

[出典]『ナグ・ハマディ文書Ⅰ 救済神話』
荒井献・大貫隆・小林稔・筒井賢治訳、岩波書店、1997年“)


・『三部の教え』 3~4世紀、ヴァレンティノス派

(神話4 『三部の教え』
http://gnosticthinking.nobody.jp/gnosismyth004.html
” 『ナグ・ハマディ文書』より
■1.唯一なる父について

 万物の根源である父は、彼自身の他にはまだ何も存在しないときから、すでに存在した。他の誰かによって生み出されたものではない彼こそが、本来の意味で父であり、神なのである。この神は、「知りえざる者、いかなる思考によっても知解しえざる者、いかなる物によっても見られえざる者、いかなる言葉によっても語りえざる者、いかなる手によっても触りえざる者」であり、自分自身を思考する者とされる。ただ一人唯一なる者である父は、「幹と枝と実をそなえた根のような仕方で存在する」のである。

■2.御子と教会

 「父」なる至高神と共に始源的存在者に数えられるのは、「御子」と「教会」である。御子は父によって最初に生み出された者であり、彼に先立つものが誰もいない「独り子」であって、神と共に永遠に共存する。また教会は、これ以降の無数のアイオーンたちを生み出し、それによって形成されるものである。

■3.アイオーンたち

 父は、自らは減少することなく、その思考によって次々にアイオーンたちを生み出す。また、父はアイオーンたちについて知悉していたが、アイオーンたちは父を知らなかった。「父はアイオーンたちを思考として生み出し、種子の状態に置いた」のであって、彼らは「胎児」として必要なものを十分備えていたが、自分自身が何に由来するか、永遠に存在する者とは何か、を知らなかった。そして御子は、アイオーンたちに対して父の存在を啓示した。なぜなら、「アイオーンたちには御子を見ることが可能であり、彼らが御子について知ることも語ることも可能」だったからである。

■4.ロゴスの過失

 アイオーンたちは、把握不可能な父について沈黙を守っていたが、アイオーンの最後の一人であるロゴスは、父の知解不可能性を敢えて把握し、これを賛美したいと考えた。ロゴスは思い上がりと過剰な愛によって、父に向かって突き進んだ。しかし、父は彼から離れ、境界を固くした。そしてロゴスは、「確固たるものとして手に入れようと欲したものを、かえって影と映像と模写として生み出してしまった。なぜなら、彼は光の輝きに耐えることができず、下にある深淵の方を眺めてしまい、心を二つに分けてしまったからである」。こうしてロゴスは二つに分裂したのだった。とはいえ、これらの出来事は、完全に否定的なものとして評価されてはいない。何よりもそれはロゴスの「善き意図」によって行なわれたものであり、しかもその出来事は父の経綸によって予め定められていたことが強調される。

 分裂したロゴスのうち、完全である部分は、プレーローマ界に帰昇して行った。他方、思い上がった考えから生じた欠乏を抱えたロゴスは、プレーローマ界の外に留まった。そして、このロゴスの考えによって、不従順で覇権を好む多くの者が現れてきた。彼らはプレーローマと似ているが、その模写、映像、影、幻想に他ならず、理性と光を欠いている。しかし彼らは自分たち自身について、自分たち自身によって存在しており、始源を持たない者たちなのだと考えた。

■5.ロゴスの回心

 ロゴスは、これらの不従順な者たちのが発生する原因となったが、自分自身は一層の錯乱の中にあり続けていた。彼が見たのは、完全ではなく欠乏、一致の代わりに分裂、安定の代わりに混乱、安息の代わりに争乱であった。また、ロゴスは無力な者となっていたので、これらの者たちを滅ぼすこともできなかった。

 しかしロゴスは、別の意見と別の考えに立ち帰った。これがロゴスの「悔い改め」(回心)であり、それは不従順な者たちを裁いて破滅させ、破滅に抵抗して戦う者たちには、怒りが彼らの後を追いかけたのだった。ロゴスは回心した後に、真に存在する者たちを想起し、上なるロゴスのための祈りを続けた。彼の祈りと想起は無為のままではなく、数多くの力(=心魂的な者たち)となった。そしてそれらの力は、模写に属する者たち(=物質的な者たち)よりははるかに善く、大きかったが、プレーローマ界に住まう先在の者たちと同等ではなかった。ロゴスは祈った後に自分を善き者に向け、心魂的な者たちに、栄光に満ちた先在者を探し、これを祈る性向を植えつけたのだった。

 物質的な者たちは、自分たちは初めなき者たちであると考え、思い上がって行動し、覇権を好んだ。このようにして、物質的な者たちと心魂的な者たちの二つの秩序は、互いに争ったのだった。

■6.救い主の流出

 プレーローマ界に帰昇した上なるロゴスは、欠乏の中にいる下なるロゴスのことを思い出し、彼のために執り成しをしたいと考えた。ロゴスがアイオーンたちに祈ると、彼らは下なるロゴスを助けることに同意した。アイオーンたちの申し出に父も同意し、彼らはそれによって一つの「実」を生み出した。この者は、「救い主」、「キリスト」、「定められた者たちの光」と呼ばれた。また、アイオーンたちも自分たち自身の力を生み出し、それらは救い主にとって、王に従う軍勢のようになった。

 救い主は、下なるロゴスの前に現れた。彼は完全なる光を輝かせ、上なる世界について教えて、言葉に尽くし難い喜びの中で彼を完全な者とした。そしてロゴスに、自分に対して不従順な者たちを分離して、投げ捨てる権威を与えたのだった。救い主は、稲妻のような光の姿で出現したが、心魂的な者たちは救い主の啓示を歓迎し、彼を拝んだ。それに対して模写に属する者たち(=物質的な者たち)は、この光をひどく恐れた。そして彼らは、「外の闇」、「カオス」、「深淵」と呼ばれる無知の穴の中に落ち込んでしまい、闇の上を支配する者となった。

■7.ロゴスのプレーローマと経綸

 救い主によって完全な者とされたロゴスは、上なるプレーローマの模像を創造する。ロゴスは自分の堅固さを取り戻し、「アイオーン」、「場所」、「救いの会堂」、「花嫁」、「王国」等と呼ばれるようになった。また、彼が創造したプレーローマにも、御子と教会が備えられた。ロゴスのプレーローマは心魂的な者の秩序と物質的な者の秩序の上に位置し、存在する事物のすべてに対する経綸を委ねられた。

 ロゴスは自らのプレーローマを純粋に保つと、その下にある二つの秩序を整えた。すなわち、心魂的な者たちを右に、物質的な者たちを左に配した。またロゴスは、経綸にしたがって、すべての天使たちやアルコーンたちに、それぞれの種族や役割、位階を与えたのだった。

■8.デミウルゴスの創造

 ロゴスは、すべてのアルコーンたちの上に一人のアルコーンを置いた。彼は、「父」、「神」、「造物主」、「王」、「裁き人」等と呼ばれた。ロゴスは彼を手のように用いて、下の領域に働きかけ、これを整えた。デミウルゴスが口にした言葉は直ちに実現されたが、彼はそれがロゴスに導かれていることを知らず、自分一人で成し遂げたと考えて喜んだ。デミウルゴスは、自分に従う者には安息を、自分を信じない者には刑罰を定め、楽園や王国、また彼を助ける働き手たちを創造した。それらは、プレーローマ界の形に倣ったものであった。またデミウルゴスは、物質世界を「霊的な秩序」、「心魂的な秩序」「奴隷の秩序」の三層構造に整えた。

■9.人間の創造

 デミウルゴスは物質世界を創造した後、最後に人間を創造した。そして人間についても、ロゴスが目には見えない仕方で造物神と天使たちを動かし、人間を完成させたのだった。ロゴスは、自らの形(=霊的本質)を人間に与えた。しかし、それはデミウルゴスの口を通して与えられたために、デミウルゴスは自らが与えたものだと考えたのだった。また、デミウルゴスは人間に魂を、「左の者たち(=物質的な者たち)」は物質を与えた。

 このような人間の三区分から、楽園に生えている三種類の木々が区別される。すなわち、「生命の木」は霊的要素、「善悪を知る木」は心魂的要素、「その他の木」は物質的要素である。人間は最初、悪しき「その他の木」から取って食べていたが、邪悪で狡猾な蛇にそそのかされて「善悪を知る木」から取って食べ、デミウルゴスの定めた禁忌を破ることによって楽園から追放された。しかし、この悲劇的出来事もまた神の摂理によるものであって、人間があらゆる無知と動揺を経験した後に、永遠の生命と善なるものの贈与に与るためであった。

■10.哲学・神学の多様性

 世界に存在する二つの秩序(心魂的秩序と物質的秩序)が互いに競い合ったために、さまざまな哲学が説かれることになった。その中でも特に、「被造物の運動の恒常性とその調和に目を凝らす者たち」(=ストア派)や、現に存在する事物は「それ自体で在るものなのだ」と言う者たち(=エピクロス派)は、現に存在する事物の原因を知ることが出来ずにきた、として批判されている。ヘブライ人の中で義人や預言者たちは、幻想や模写によって覆われた思考によってではなく、彼の内側で働いている力に従って語った。しかし、彼らが語った言葉は多くの宗派によって改変して受け入れられ、解釈されることによって、多くの異端を生み出したのだった。しかし預言者たちは、救い主の宣教を受けることによって、救い主が受肉してこの世に到来すること、彼がロゴスに由来する生まれざる者であること、苦難を受ける者ではないことを教えた。

■11.救い主の到来

 救い主は霊的なロゴスに由来する者であったが、からだと心魂をもった幼子として孕まれ、この世に到来した。また、救い主と共に、霊的本質に由来する同伴者たちが到来した。彼らは別の経綸を委ねられており、使徒や福音宣教者となった。救い主であるイエス・キリストは、「約束の種子」を有している人々に対して、その種子が由来する場所へ再び帰っていくという教えを啓示したのだった。

■12.三種類の人類とそれぞれの運命

 救い主の到来は、人間に存在する三種類の種族を明らかにした。まず霊的な種族は、救い主が出現したとき、直ちに彼のもとに走り寄り、認識を授けられた。心魂的な種族は認識を授けられることをためらい、むしろ声によって教えを受け、やがて来るべきことへの保証を受けたのだった。物質的な種族にとって、光である救い主の到来は自らの滅びを意味し、これから身を隠そうとした。霊的な種族は完全な救いに、物質的な種族は完全な滅びに定められているが、心魂的種族はそれらの中央にあって二重の定めを受けており、見捨てられる方か、善なるものの方へかに、定められた脱出をすることになっている。

■13.洗礼と救いの道

 霊的な者たちが物質世界へ生まれ出たのは、無知と苦しみを彼らに経験させ、その中で彼らを訓練するためであったとされる。また、救いを必要とするのは人間たちだけではなく、天使たちや模像たち、プレーローマ、そしてそれらを救うキリスト自身も救いを必要としているのである。救いとは「終わりが始めと同じようになる」ことを意味し、救いに与るためには、父、御子、聖霊に対する信仰告白である洗礼を受ける必要がある。それらの洗礼はまた、「沈黙」、「新婦の部屋」、「永遠の生命」等と呼ばれている。こうして、キリストの中にある御国を告白するならば、不同性と変転の世界から脱出し、「男も女もなく、奴隷も自由人もなく、割礼も無割礼もなく、天使も人間もなく、キリストがすべてにおけるすべてとなる」のである。

[出典]『ナグ・ハマディ文書Ⅱ 福音書』
荒井献・大貫隆・小林稔・筒井賢治訳、岩波書店、1998年 ”)


バシリデース派の「存在しない神」はアリストテレスの「思惟の思惟」を神話的に翻案したものだとヒッポリュトスが指摘。
否定神学はグノーシスの専売特許ではなく、まとまった形で読める最も早いものは、アリストテレスの学院(ペリパトス学派)ではなく、むしろプラトンの学統(中期プラトン主義)に属する。
グノーシスと中期プラトン主義の際立った違いは、グノーシスでは多くの場合男性神と女性神の「対」関係で擬人化された神的存在が生成していくこと。


プトレマイオス派曰く、不可視で名付けられぬ高みには完全なアイオーンが先住した、これをプロアルケ―(原初)とも、プロパトール(原父)とも、ビュトス(深淵)とも呼ぶ。それは把握不可能で不可視、永続的で生まれざるもので、無限の世で大いなる静寂と静穏のうちにあり、彼ビュトスとともにエンノイア(思考)もあってこれをカリス(恩寵)ともシゲー(沈黙)とも名付ける。
ピュトス(深淵。=原初=原父)は万物の初めを自分から流出しようと考えた。
そして流出を、自身と共に存在するシゲー(沈黙。=思考=恩寵)に種子を胎(たい)の中に置くようにして置いた。
シゲーはその種子を受けて妊娠し、ヌース(叡知)を産んだ。彼は自分を流出したものと似ており、等しく彼だけが父の偉大さを捉えるのであった。
このヌースはモノゲネース(独り子)ともパテール(父)とも万物のアルケ―(初め)とも呼ぶ。
この彼ヌースとともにアレーテイア(真理)が流出された。
以上が第一の最初に生まれた、ピタゴラスのいうテトラクテュス(四個組)であり彼等は万物の根と呼ぶ。
モノゲネース(独り子。=叡知=父=初め)は自分が流出された目的を知覚して、自分でもロゴスとゾーエー(生命)を、すなわちこの後にくるもの全ての父であり全プレーローマの初めであり、形成でもあるものを流出したという。
ロゴスとゾーエーから対の形で、
アントローポス(人間)とエクレーシア(教会)が流出される。
これが最初に生まれたオグドアス(八個組)、万物の根と実体であるが、これらは彼の間では、ビュトスとヌースとロゴスとアントローポスという四つの男性名詞の名称で呼ばれるが、それらの各々はそれぞれの対の女性名詞が示すように「男女(おめ)」(アンドロギュノス=両性具有)である。

プトレマイオス派は神々の名前はギリシア語の男性名詞と女性名詞であり、男女の名刺を対として述べられる。

本書の図では例外なく左の項が男性名詞、右の項が女性名詞。

四個組
ピュトス=エンノイア
ヌース=アレーテイア

ロゴス=ゾーエー
アントローポス=エクレーシア
を加えて八個組。

上位の四組(オグドアス=八個組)については「対」といってもそれぞれ同一の両性具有の神的存在の二つの側面である点で、それ以下の対を構成するアイオーンが性差で分かれているのとは区別される。両性具有は神が神である度合いが高いこと、反対に男性か女性かで限られているなら神の度合いが低いことを意味している。



(両性具有が最上位だから同性愛肯定。
気になるのですが、女性名詞と男性名詞の概念って古代からあったのでしょうか?)


・『ヨハネのアポクリュフォン』では、至高神とバルべーロー(プロノイア、思考)は両性具有、それ以外の神々には性差がある

・『古事記』冒頭の神々の系譜において、神世七代の内の下位の十神は男性神と女性神(妹に注意)の対を構成する。合計七柱の神は独り神であり身を隠した神である。さらにそのうちの上位五柱の神は別天つ神。
グノーシス神話との決定的な違いは、『古事記』の神々の生成は、「天地がはじめて天地となっ」た後、その天地の間に生成する。しかしグノーシスでは世界の創造のはるか以前。
(『古事記』を和風聖書に改ざんする神道カルトに注意)



・生成し終わった神々の世界より下の世界はどう生じるか。
ナグ・ハマディ文書の多くで神々の世界の最下位に位置するソフィア(知恵)と彼女が犯す過失が存在する。
ソフィアの過失は分を超えて知られざる父(至高神)を知りたいと欲したことに起因する。彼女は知りたいは知的な意味に限られず、濃厚に性的なニュアンスを含めて物語られる。ソフィアは明確に女性原理であり、描かれる過失は女性神が男性的伴侶の同意なしに抱いた欲求に他ならない。
『ヨハネのアポクリュフォン』
ではソフィアは彼女の内にある情欲のゆえに流出する。
しかし、プトレマイオスを含むヴァレンティノス派の周辺で著わされたと思われる『三部の教え』では過失はプレーローマ界に存在する神々の中で最下位・最小のアイオーンである男性神ロゴスに帰されている。

(ロゴスが下位なんて正統派キリスト教には許せない教え)

中期プラトン主義では下方の可視的世界は神の独り子、最良の制作物であって老いることがない。
がグノーシスでは可視的世界は、ソフィアまたはロゴスの過失の結果生じるので、必然的に神的領域から断絶された悪の領域として描かれる。
過失から無知蒙昧な、流産による異形の子として描かれる造物神が生まれ可視的世界を創造する。


・造物神ヤルダバオート(異形の獣の姿)が創造する世界は光の世界を除外し、その下に位置する領域。天文学的には恒星天(第八天)から七層の惑星天を経て地上までの宇宙空間。恒星天の円周は黄道十二宮(獣帯)に分割され、その十二が惑星の七と組み合わされて言及される。擬人化されて、造物主に仕えるアルコーンあるいは天使と考えられている。
超越的な光の世界、その下に造物主が創造し支配する世界、さらにその下に地上世界あるいは混沌の領域という大きな三層構造で表象されることが多い。

・造物神は現実の人間の創造に着手する。きっかけは超越的な光の世界の側から与えられる。自分独りが神だと思いあがっている造物主(人間の姿ではなく獣の姿)の目の前に光の世界から人間の姿が啓示される。その人間が光の世界のどの神かは一律でない。至高神だったり光の世界の原型アダム(光のアダマス)だったりする。
人間という名の神が自分の姿すなわち人間の姿を造物主の前に現し、それを見た造物主が配下の諸力(アルコーンたち)を集めてその形にならって人間を創造し、彼らに現れた人間をその中に閉じ込めようと試みる。
バルべーロー
バルべーロー(Barbelo)バルべーロー(Barbelo)


・どのグノーシス神話も光の世界の中に「人間」と呼ばれる神的存在が布置される。
「人間」という名の神が自分の姿、つまり人間の姿を造物神の目の前に現す。造物主はこれを見て配下の諸力(アルコーンたち)を集めて、その形にならって人間を創造し、「人間」をその中に閉じ込めようとする。
これは旧約の「われらの像(かたち)」に似せて人間が創造された記述のパロディ。

愚かな造物主と配下により造られるのが肉体的な人間ではなく、その一歩手前の「心魂的人間」(心魂は魂と実質同じ)である。造物主と配下が力の限りを出してもその心魂的人間は動かない。
造物主らの知らぬ間に、心魂的人間に霊的な力が吹き込まれる。その瞬間に心魂的人間は立ち上がり、造物主とその配下をしのぐ存在となる。
創世記の「命の息」は「魂」とも訳せる。
人間が造物主をしのぐ存在となったことに気づいた造物主は、その人間アダムをとらえ、闇の領域にある「楽園」に監禁し、「毛皮の衣」=肉体を着せる。

「光の世界から吹き込まれた霊>(心)魂>肉体」

・悪なる造物主は人間を最初の男女に分割し、生殖行為を教える。人間の個体数を増やすことで霊的本質を拡散させ、その回収を困難にするため。
対抗して光の世界は啓示者をアダムとエバに派遣する。
好んで創世記のいわゆる堕罪物語の蛇と関連させて物語られることが多い。
旧約のヤハウェは妬み深い嘘つきに貶められる
キリスト教グノーシスでは重要な啓示者の一人としてイエス・キリストが登場する。

・仮現論(ドケディズム)
=イエスの十字架上の苦難の刑死は、ただ人間の目に苦難と見えただけで、神的存在としてのキリストの本質を損なう出来事ではないとする思想。
すべてのグノーシスが仮現論を採用しているわけではない。

肉体=悪がないのに肉体的に苦しむわけないって解釈)

・ナグ・ハマディ文書を含むグノーシス主義神話を初めて語りだし、その後さまざまな変容を加えながら伝承していったグノーシス主義グループの大半は、
後2世紀前半から4世紀前半の間に生きている。

悪なる造物主とその配下の目をかいくぐって「霊的種子」が最初の人間から現在まで絶えることなく続いているというのである。この種子あるいは種族に対する呼び方が実はそのまま当該グループの自己呼称だと考えてよい。それは「王なき世代」「王なき完全なる種族」「揺らぐことのない種族」「セツの種族」「シェームの種族」などである。

・ストア派のいわゆる世界周期説。世界が一定の周期(世界周年、一説によれば6000年)で更新(アポカタスタシス)されるという考えがある。

グノーシス主義神話では周期の考えは破棄され、一度限りの終末とされる。

・真っ先に求められるのは啓示に応答しながら真の自分自身を認識することである。
キリスト教的グノーシスではこの認識がそのまま「霊的復活」であり、
正統主義信仰がいう「肉体の
復活」、
あるいはギリシア的信仰のいう「魂の父子」説と対置される。

・古代の反異端論者たちはグノーシス主義を好んで性的アナーキストとして描いた。
がどこまで事実を伝えているか疑わしい。
少なくともナグ・ハマディ文書についてみる限り、性交はもちろん性欲そのものを悪魔視する禁欲主義が圧倒的に目立っている。

・グノーシス主義者たちも共同集会の場では説教と並んで様々な礼典(サクラメント)を行った。例えばヴァレンティノス派については、詳しい実態は不詳とはいえ、洗礼、塗油、聖餐、
「解放(アポリュトローシス)」、「新婦の部屋」の五つが知られている(最後の二つは臨終儀礼の一種とする説が有力)。
特に水による洗礼はヴァレンティノス派の枠を超えてかなり広範囲の文書に確認される。
「五つの封印」という表現がある。
封印は洗礼を受ける人間を保存用の大きな甕に喩え、洗礼によって与えられる聖霊が揮発して逃げ出さないようにフタをして封印する、それが洗礼であるという比喩表現であり、正統主義教会の側でも定型表現となっていたものである。

・グノーシスの個人的終末論。
グノーシスの個々人の運命は、可視的宇宙の終末が訪れる以前に、個々人の肉体の死後に分かれ始まると考えられているのだと思われる。
まだ地上の生にあっても真の自己認識に達すればその瞬間が霊的復活である。

・マンダ教徒は都市部では金銀細工を生業にしている者が多い。
マンダとはセム語系言語であるマンダ語で「知識」「認識」。
マンダ教徒は「マンダ―ヤー」と自称する。
周辺のイスラム教徒はマンダ教徒を「洗礼者たち」や「洗礼者ヨハネの弟子」と呼ぶ。マンダ教徒も日常的にはアラビア語を使っているが、宗教的文書はすべてマンダ語である。

マンダ教の中心教義。
魂は光の世界に起源をもつ。
肉体は闇の世界に由来する。
天界の光の水は地上では「活ける水」=水となって流れているので、その流水による洗礼を何度も行う。受洗者は三度、流水に身を浸す。
儀礼を遵守し教えを守って生きれば、死後魂は光の世界に変えることが出来る。
洗礼は、キリスト教のような一回限りの入信儀礼ではなく、いわば、生きているうちから行われる葬送儀礼なのである。
平和的な宗教だが、迫害されてきた少数派なので、ユダヤ教やキリスト教を激しく敵視する。
流水を使わないキリスト教の洗礼(滴礼)は「切り取られた水」で行われる「恥の洗礼」
とみなす。

・教典『ギンザー(財宝)』に登場する光の使者の一人が、アノシュ(エノシュ)。
マンダ教徒間の口頭伝承では、洗礼者ヨハネにアルファベットを教えている。

やがて、闇の世界の女性の悪霊ルーハ―(ヘブル語のルーアッハ「「息」あるいは
風」)が建てる地上のエルサレムでユダヤ人が自分の弟子を迫害し、殺すのを見て憤激する(『ギンザ―』右の部)

闇の世界のボスは「闇の王」のほか、「ウル」Urとも呼ばれる。ウルはおそらく「光」を意味するヘブル語「オール」の転用と思われる。旧約聖書では積極的な意味で神に関係づけられている単語が、マンダ教では悪の原理とされる。
同じことは、闇の世界で最も影響力の強い女性的存在「ルーハ―」についてもいえる。
旧約でのその等価語ルーアッハは息、風と並んで神の霊をも意味している。

聖書の聖霊は悪霊だから、鳩は悪鳥
×ルーハ ×ルーフ
○ルーアフ 「ル」-アフ。「ア」が必要。
(ルアハ=霊=風。
spirit or wind。
「霊 or 風」の「ルアハ」は
ルーハとは読まない)


・マニ教では、マニ教徒が「敬虔なる業」によって地上世界で回収した光は、彼らの礼拝の場で捧げられる賛美の歌にのせて、月に送られる。月はそれを受けて次第に満ちてゆき、満月(満杯)になるたと太陽に手渡して、自らは欠けていく

・マニ教の終末論では、光の回収、原人の再臨、楽園と奈落、世界大火、が訪れる。

・太陽は炎熱の悪魔とまじりあってしまっている光を、
月は寒冷の悪魔と混じりあってしまっている光を、
讃美の柱に沿って純粋に抽出しする。
そのようにして抽出された光が、高らかに飛翔する賛美の歌、賛歌、清らかな言葉、敬虔なる業と共に高みへと昇ってゆく。
月が光を太陽に手渡し、太陽は自分の上なる賛美の世界の光に手渡す。
渡された光の部分は、その賛美の世界の中を昇って、ついに至高の純粋なる光に到達する。
太陽と月はこのようにすることを止めない。
闇とあまりにも深く結合してしまったためにもはや分離することが出来ないような部分しか残らなくなる時までは。
分離不能のものだけが残されたとき、八つの大地を担う天使が立ち上がり、もう一人の天使ももろもろの天を引きずる業から手を引く。
結果、至高のものが最下位のものとまじりあい、火が激しく吹きだして、混乱した事物の中で燃え盛り、それらの中になお残っている光が解き放たれるときまで、燃え尽きることはない。
この火災は1468年続くが、この定めの期間が終わり、
フマーマ(闇の霊が、光が解放されたこと、天使、軍勢、衛士たちが帰昇してゆくこと)に気づくとき、彼女(闇の霊)はその戦いのさまを見て意気阻喪し、軍勢たちが彼女を取り囲むので、彼女のために用意された墓の中へ逃げ込んでゆく。
それから彼(光の世界の王)はこの墓をこの世界と同じほどの大きさの石で封鎖して、彼女をその中に閉じ込める。そうして光は再び元のように、闇とそれによってもたらされる害悪の危険を免れる。

・オウム真理教の思想系譜は、精神世界、ニューエイジ運動と密接に関連するものとされる。

宗教学者の島薗進による、

ニューエイジの信念体系まとめ
①自己変容あるいは霊性的覚醒の体験による自己実現
②宇宙や自然の聖性の認識、またその聖性と自分の本来的自己が一体であることの認識
③合理的・分析的意識を抑制し、神秘体験や超常的意識に開かれた感性
④自己変容は癒しと環境の変化をもたらす

⑤人間の魂は死後に輪廻転生し、カルマを受け継ぎながらこの世に再生する
⑥霊性と科学は全体論的な知に統合できる
⑦思考が現実を変える
⑧ある程度の数の個人の自己変容や霊性の覚醒が達成されると、人類全体の意識が新しいレベルに進化する


⑨現代こそそのような意識進化が新時代(ニューエイジ)--占星術用語ではうお座の時代から水瓶座の時代――へ移行しようとしている時代である。

ニューエジはこれらに基づきチャネリングという、何らかの超常的存在が人間を媒介項(チャネル=経路)としてメッセージを受け取ることを行う。
超越存在には様々な名がつけられているが、
1963のジェーン・ロバーツの例(後のニューエイジのチャネリングのモデルケースとなった)では、
「セス」という名前だった。語録集が何冊も出版された。
ニューエイジとグノーシスが最も接近するのはこのあたり。
セスは、旧約の創世記でアダムとエバの第三子として生まれて来る「セツ
」(セト)のことに違いないと思われる。
このセツがナグ・ハマディ文書で重要な役割を果たしている。
『ギンザ―』の「シティル」はセツであり、
マニ教神話の「シャーティール」の名のもとにその由来はこの世の支配者には隠された「よそからのもの」言われている。
すなわち、地上での異種族(アロゲネース=いわゆるエイリアン)であるマニ教徒の祖先とされているわけである。
セツにこのような重要な役割を与える思想運動は著者が知る限りグノーシス主義以外には存在しない。

(超越存在なら、超越存在から本当に来たのか、脳が勝手に想定した超越存在から来たのか、区別できないので、勝手な妄想じゃねーのwwっていうとめちゃくちゃ嫌がられるよ。

真の超越存在については絶対に考えることができない。言語とイメージと認識の限界が思考の限界。考えられるように錯覚しているだけ。
言語で表現された時点でもはや人間レベルの存在。人間がつながれた時点で人間に認識されるまで落とされたレベルの存在。
脳内超越世界の想定=超越世界であり小宇宙と大宇宙は一致するのだくらいは反論してほしいよね。
反論になっていないけど)

・チャネラーを媒介するメッセージにも著しくグノーシス主義的文言が頻出。
以下の六点が含まれる
①人間は神である。人間は自分自身のリアリティーを創造する。
神は遍在し、人そのものが神の性格を分有するという汎神論的世界観

②人それぞれが神なのであるから、キリストのような外部の救いの力に頼る必要はない。
自らを探求し自らを知自らを助けることによってのみ、神的なもの霊的なものを知り、そうしたものへ近づいていくことができる

③自らを愛し、他者を愛し、すべてを受け容れる愛がなければならにあ

④死は存在しない。死は幻想。死と呼ばれるものは、より高いレベルへの移行であり、将来はたぶんまた地上に生まれ変わる

⑤人間の最も霊的かつ知的な部分である「大いなる自己」は日常的な自我を超えている。
それは
「上位自己」  「オーバーソウル(上霊)」
「超意識」 「アートマン」 
「キリスト意識」
「内なる神」  「神性自己」とも呼ばれる。

⑥人が生まれる前から、それぞれの「大いなる自己」を補佐し、より高次の目標に向かって歩むのを助ける指導霊が選ばれいる

この六点の殆どが「人間即神也」を本質とするグノーシス主義の教説と大きく重なり合う。
「大いなる自己」を霊として、肉体および心から区別する三分法的な人間観も多くのグノーシス主義派の人間論と共通する。

(「高次への移行」とか「進化」「進歩」とかは洗脳ワード。できないやつはダメだとレッテルを張るための選民思想に都合が良すぎる。上昇大好きなくせに実際は下降し続けて地獄行きの奴ならたくさんいる)


・著者いわく、チャネリングにあらわれるニューエイジ的世界観はグノーシス主義ではない。
グノーシスは世界を巨悪とみて、それを拒否あるいは逃避して生きようとする。
他方、新霊性運動あるいはニューエイジでは、すべてを受け容れる愛にみられるように、世界は調和的とみる。。
ニューエイジ運動の世界観では、目に見える宇宙的世界(コスモス)の中ではすべてが調和的に完結しうるのであり、その外部でしか解決できないような悪は不在。
その点では、ニューエイジはストア哲学の世界観のほうに本質的に似ている。

ストア派は古代グノーシスの対極。
ニューエイジのいう人間がそれぞれ分有する神性の観念はストアの言うロゴスに対応し、
カルマの法則もストアのいう宇宙の理法(摂理)に含まれるといえよう。ストアもまた宗教と倫理と科学(自然学、心理学)を統合した「科学=宗教複合的な世界観」である。
巨悪を不在とし、個人的な悪も調和的に解釈するイデオロギー。
個々人の災いも、万物を貫く理法=ロゴスあるいは自然と一致して生きるための訓練であり、やがては全体の善に仕えるものとなるはずである。
ストアも調和的思想体系である点でニューエイジと同じ。
ニューエイジはストイックで内向的。
ニューエイジではグノーシスは擬態的に見出されるに過ぎない。
(ニューエイジ
=グノーシス+ストア派。
弁神論=善の唯一神が悪を創った矛盾に対する言い訳 
の都合から、悪については調和的にした。矛盾を少なくするため。
あとグノーシスの悪観念だと広まりにくい)

・グノーシス主義は究極的には絶対的人間中心主義。

人間の本来の自己は神話のいう至高神からの流出としてそのまま神である。
その意味で人間の本来の自己を超越するものは何もない。
他方で可視的な宇宙万物は、その中に拡散され監禁されている光の部分が一定のところまで回収され終れば、その時点で終末を迎える。
プトレマイオス(ヴァレンティノス)派の神話はこれを「世界焼尽」として描く。
マニ教神話では千四百六十八年続く「世界大火」の後、闇は「用意された墓の中へ逃げ込んでゆく」が、その墓は「この世界と同じほどの大きさの石で封鎖」される。
シェームの釈義でも世界は「暗黒の塊と化するだろう」
と言われる。
これらすべては人間の本来の自己が現実の世界を無限に超越する価値であり、現実の世界に最後まで居場所を持たないのだ、とういグノーシス主義者の自己理解を神話に投影したものに他ならない。
この意味でグノーシスは世界も超越もない独我論の体系なのである。
ブルーメンベルクは神を「自己自身を思惟する思惟」あるいは「不動の動者」とみなした 中世スコラ学を「神学的絶対主義」と呼んだ。
この言い方に倣うなら、
至高神を「自分自身を通して自分を観る」者
あるいは「不変不動の者」とみなすグノーシス主義は、至高神が実は人間の本来の自己の別目にすぎないのであるから「絶対的人間中心主義」と呼ばれてしかるべきもの。
グノーシスが絶対人間中心主義で独我論で行く限り、現実世界は課題であることを止めてしまう。世界は本来の自己の仮の宿りであり、本来の自己という光の断片が回収されるべき舞台ではあっても救済対象にはならない。

∸――
補足資料

フリーメーソンとカトリック
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/mason/antimason.htm
”「フリーメーソン悪魔崇拝結社説」のもとともなったカトリックとの対立について述べてみたい。

 フリーメーソンとカトリック教会の関係は非常に良くない。いや、対立関係、戦争状態にあると言っても良い。なにしろ、17回にもおよぶ破門宣告、200回以上にわたる警告や干渉を受けて来た。こうした攻撃は、書類の手続き上は主に「フランス大東社」を対象にしたものだったが、間接的には全てのフリーメーソンを意識して出されたものである。
 それでいて、フリーメーソンには多くのカトリック信徒が参入していたし、中にはバチカンの高位聖職者が参入していることすらあった。さらに、多くの平の聖職者は、教皇庁の反フリーメーソン活動には無関心で、両者間に対立があることすら知らない者も多い。一方、フリーメーソンの平の会員は、バチカンや教皇と対立することは望んでいない。
 この問題は、複雑でややこしい。

 教皇庁が最初に行った反フリーメーソンの行動は、教皇クレメンス12世によって1738年に出された破門令である。
 
 なぜ、破門か? 一つはその「秘密性」にあるという。これは、懺悔などの時に、神の前では全てを打ち明け、秘密は一切持たない、という重要な教義と矛盾する、という。すなわち神に対して全てを告白するという「告白の秘蹟」を、事実上無効にしてしまうからだという。
 この「秘密性」に対する批判が、カトリックの反フリーメーソンの最大の論拠とされることになる。
 「もし、悪事を企んでいるので無かったのなら、どうして会を秘密にする必要があろうか?」と言うわけである。
 さらに、あらゆる宗教に対して寛容な態度も問題にされた。プロテスタントも、異教徒も、(フランス大東社に至っては)無神論さえ受け入れるその態度は、カトリックの純潔を汚すという。すなわち、「アンダーソン憲章」にある理神論の思想が、異端とされたわけである。
 その他にも、イニシエーションで行われる、シンボリックな舞台設定が、異教的、黒魔術的に見えたというのも大きい。

 このクレメンス12世の最初の破門令は、かなり厳しいものである。
 フリーメーソンの会員は、聖体拝領などの秘蹟は、一切受けることは出来ない。さらに、異端審問所に、世俗の警察権力と強力して、彼らを逮捕し、追放・処刑を行え!! というものだ。
 しかし、時代は18世紀である。これが中世だったら、恐ろしい結果を引き起こしただろう。だがこの当時は、啓蒙思想が広まり、インテリを自称する者達は堂々と無神論者を気取っていた。ルターやカルヴァンの登場によってカトリックの堕落ぶりが暴露され、教皇庁は対抗宗教改革で、やっと威厳と信頼を取り戻したばかり……という状況である。
 プロテスタント諸国は、もちろんこの破門令を無視した。
 カトリック諸国では、フランス、ポーランド、フィレンツェ、ウィーン、リスボンなどが禁止令を出し、スェーデンに至っては「メーソンは死刑」と言う法令まで出した。
 しかし、これらの禁止令は、バチカンへの外交辞令的な代物で、これらの国の警察機構は、やる気は殆ど無かった。
 だいたい、メーソンの会員は政財界のお偉方ばかりである。どうして、厳しい取締りなんぞ出来よう。
 もっとも、教皇領では、厳しい取締りが行われはしたが。


 次の教皇ベネディクト14世は、前教皇が出した破門令が全然効き目が無かったことに苛立ち、あらたな教書を出す。1751年のことである。この破門令は、さらに厳しさが増し、各国の世俗権力にフリーメーソン弾圧を行うよう、強く要求している。
 さらに、彼は「教会法」の中に、メーソンを禁止する条項を書き加えた。これにより、反フリーメーソンの態度は、正式なカトリックの教義となった(こうした条項は現代もなお残っている)。
 いわゆる「第2335条」である。「教会、または合法的な国家機関に対抗して活動するメーソン派または他の結社の名を使う者は、破門の罰に処せられる」


 これを受けて悪名高きスペインの異端審問所が動き出す。
 そして、民間にフリーメーソンは「悪魔のシナゴーク」である、と主張するパンフや本が出回り出すのも、ちょうどこの時期である。
 内容は、魔女裁判やユダヤ人迫害と大同小異の代物で、「メーソン会員は、この世の快楽と引き換えに悪魔に魂を売る儀式を行ってる」というようなものだ。これは、教養の無い者によって書かれたものらしく、文章も稚拙で中身も支離滅裂、矛盾とデマに満ちている。しかし、これは一般の民衆には、それなりの影響力を与えた。
 今もなお生きている、フリーメーソンを悪魔と結びつける考えは、カトリックの教書ではなく、こうした作者不詳の無責任な中傷パンフに端を発している。

 とは言うものの、この破門令も、メーソンのイメージダウンにはそこそこの効力を発揮したものの、さほど大きなダメージにはならなかった。
 それどころか、フランスではナポレオンの援助もあって、フリーメーソンの勢いは増すばかりであった。
 そこで、ピオ7世は、またもや破門令を1814年に出す。文面も威厳に満ちた厳しいものから、単なる口汚い罵詈罵倒に変わって行く。……いわく「地獄の集会の殺人的発展と陰謀」。

 この破門宣告の教書では、フリーメーソンをイルミナティやカルボナリ党と混同し、カリオストロによって始められたエジプト儀礼なども引き合いに出して、非難している。
 しかし、スペインやイタリアの一部を除いて効き目は殆ど無かった。いらつくピオ7世は1821年にも同様な命令を出すが、事態は変わらなかった。
 それに続く教皇たちも、次々にフリーメーソンを破門する教書を出す。特にピオ9世はことさら熱心で、実に7回も反メーソンの教書を出している。当時、政教分離を唱える啓蒙思想が凄まじい速度でヨーロッパを席捲していたわけだが、ピオ9世はこれと激しく戦っていた。当時のメーソンは、この啓蒙思想と強く結びついていた。それゆえの必然的結果といえよう。
 なお、ピオ9世が、教皇に即位する前はメーソン会員だったという説があるが、歴史家の多くは、彼の政敵による中傷だというのが、定説である。
 このピオ9世の活動も、やはり大きな効果は無かった。
 もう、破門の脅しで政治を左右できるような時代は終わっていたのである。

 さて、こうした反メーソン活動は、大局においては功を奏さなかった。
 しかし、散発的、一時的には大きな盛り上がりを見せることもあった。

 さすがに20世紀に入ると、メーソンとバチカンとの間に、対話が持たれるようになった。
 メーソンからもカトリックからも、和解を探る動きが出始める。
 ピオ13世は、対話に対しては冷淡であった。
 だが、ヨハネス23世による第二回バチカン公会議は、大きな希望であった。これはカトリックの教義を近代化させた大事件である。他宗教との共存を謡い、異端審問を否定し、民主主義を支持し、人種差別に反対し、有色人種の枢機卿を多く生み出すきっかけとなったこの会議は、実は親フリーメーソン派の聖職者たちの働きによる所が大きい。
 こうしてメーソンとカトリックの和解は、可能だろうと思われた。
 しかし、ここで悪い偶然が重なる。
 イタリアでかのP2事件が発覚(後に詳述する)。
 さらに、カトリックの近代化を推し進めてきた革新派のヨハネス23世が、在位わずか30日で謎の急死を遂げる。
 そして、現教皇ヨハネ・パウロ2世が就任する。彼は革新的な部分と保守的な部分が同居した複雑な思想を持った教皇である。バチカン公会議を尊重し、他宗教の指導者達と親しく交流し、禁書制度を廃止し、ダーウィンの進化論に一定の理解を示す一方で、同性愛者の権利を認めず、共産主義を敵視し、メーソンに対しても頑なな態度を示している。
 1983年、ベネディクト14世によって定められた反メーソンの教会法2335条を廃止したが、同趣旨の教会法1328条を作った。そして、同年「これまでのメイソン破門に変更はない」との声明も出している。
 その後も、親メーソン派の大司教が破門されたり、極端な反メーソン派の聖職者も左遷されるなど、トラブルは今も続いている

 現代、多数派の神学者達はフリーメーソンの「相対主義的な思想」は、カトリックの教義と対立する、という意見を持っているようである。その一方で、反フリーメーソンは時代遅れも甚だしいと考える勢力もある。
 思うに、和解への努力は、これからも続けられるだろう。

 そして、それとは全く無関係なところで、「フリーメーソン悪魔結社説」の本も出続けることであろう。


「ローマ教皇とフリーメーソン」 ダットレイ・ライト 三交社
「フリーメーソンリー」 湯浅慎一 中公新書
「秘密結社の手帳」 澁澤龍彦 河出文庫



グノーシスの神話
http://www.ne.jp/asahi/village/good/gnosis.htm



ボゴミール派
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/gnousisu/bogomiiru.htm
”ボゴミール派もまたグノーシスの神話を含んでいる。
 そして、それはカタリ派がカソリックを悩ませたように、このボゴミール派は東方正教会を悩ませた巨大な異端派であった。
 それは実に500年以上も続き、一時期にはブルガリアを中心に東ヨーロッパのみならず、イタリアやフランスにまでも影響を及ぼす大勢力となった。

 ボゴミール派の成立には、まずパウロ派と呼ばれる異端派がある。これはキリストの神性を否定した派であり、彼らはイエスは30歳のときにパプテスマを受けたときに神の養子となったという「キリスト養子説」を取っていた。当然の如く三位一体説は否定しており、その代わりマニ教やマルキオン派からの強い影響が見られ、いわゆる善悪二元論を取っていた。
 しかし、彼らのこの「養子説」は、グノーシス派のキリストを純粋な霊的存在と見なす考えとは対立する思想であった。
 彼らはキリストがマリヤの受胎を通じて、敢て肉体を持って生まれたとし、むしろマニ教の影響が強い。
 そのため、この派は、当時マニ教と混同された。東方正教会の記録に「マニ教」とあるのは、実はこのパウロ派を指していることも多い。
 パウロ派もグノーシスの教義を断片的に含んではいたが、これはマニ教を経由してのことのようである。
 パウロ派の成立は未だにはっきりしていない。おそらくその起源は7世紀頃まで遡る。そして、東ヨーロッパの様々な教派の思想を取り込んで発展し、8~9世紀頃には国家を造るまでになったが、この国も結局ビザンチン帝国によって滅ぼされた。
 そして、彼らはその後も熱心に布教を続け、存続する。
 パウロ派の一部は8世紀の初頭にビザンチン皇帝によってトラキア地方の辺境守備隊として移住させられた集団がおり、これがボゴミール派の祖であるというのが有力な説である。


 彼らは、マニ教やマルキオン派の影響だけではなく、さらに東方正教会で起こった聖像破壊運動を取り込み発展した。聖像破壊運動は偶像崇拝を否定する動きから生じた運動で、8~9世紀の約100年間続く運動である。これは東ローマ皇帝の聖像破壊の勅令によって行われ、レオン3世の治世とテオフィロス帝の治世の2回のピークがある。
 レオン3世は724年頃に聖像崇拝への批判を始め、730年に全ての聖像の破壊を命ずる勅令を出している。いわゆる第1次聖像破壊運動の始まりである。

 彼の息子のコンスタンティノス5世もこの運動を継続したが、孫のレオン4世の頃から運動は下火になり、コンスタンティノス6世と摂政のイレーネ皇后の時代になると運動は中断される。実権を握ったイレーネが聖像擁護派だったためである。780年年代のことである。
 しかし、814年にレオン5世が即位すると、聖像破壊運動は再開される。ここからが第2次聖像破壊運動の開始である。レオン5世が暗殺されミイカエル2世が即位すると一時期下火になるものの、829年にテオフィロス帝が即位すると、再び聖像破壊運動がピークとなる。
 だが結局、この運動は、聖職者達の強い抵抗と聖像擁護派の巻き返しによって、842年のテオフィロス帝の死をもって終焉した。
 文字通り、偶像崇拝は「聖書」の禁ずる行為であるとして、十字架や聖画、聖像が破壊された
 しかし、この運動は極めて暴力的になり、修道院を破壊し、反対する聖職者達を大勢殺戮した。当然の如くローマ教皇との深刻な対立をも引き起こした。
(この運動が起こった原因については、歴史学者たちの間でも議論があり、はっきりとした結論は出ていない。一つはイスラム圏と接していたがゆえに、イスラムの偶像否定の影響を受けたという説。破壊派に政治家や軍人が多く、聖像擁護派に聖職者が多かったことから、政治権力と宗教権力の抗争といった説もある。)
 ともあれ、この運動はボゴミール派にも強い影響を与えた。
 ボゴミール派は、聖像を認めず、十字架に至ってはキリストを殺害した処刑具であり、こんな物を崇拝するのはもっての他と断じたのである。


 ボゴミール派の開祖は、その名の通りボゴミールという村の司祭であったといわれる。930年頃のことである。ただ、これはボゴミールの0からの発明ではなく、もともとあった運動を発展させた有力な指導者と見られている。
 ボゴミール派の大きな特徴は、その創世神話にある。
 彼らによると、神には二人の息子がおり、一人はキリスト、もう一人はサタナエルという天使である。 このサタナエルは「旧約聖書」の神と同一であり、もちろん真の神ではない。サタナエルは、真の神の同意を得た上で、物質世界を創造したという。サタナエルは暴君であり、邪悪な存在である。
 真の神は天界と天使たちを創造した。サタナエルもこのときに創造された。しかし、思い上がったサタナエルは神に反逆し、堕天する。
 堕天したサタナエルは、混沌とした大地を整備して、地(物質世界)を創造した。これは真の神の許可を得たうえでのことだったという。
 サタナエルは土から人間を創造しようとしたが失敗した。そこで、サタナエルは真の神に協力を仰ぐ。
 真の神は、いずれ人間を自分に返還することを条件に、これに協力する。真の神は魂を創造し、サタナエルの土人形(肉体)に、これを吹き込むことによって人間を創造した。
 サタナエルは暴君となって、過酷な支配を行い、この真の神の子でもある人間たちを苛め抜く。「旧約聖書」にある流血沙汰、ノアの洪水などがそうであるという。

 そこで、真の神はキリストを派遣して、人間を救済する。
 イエスは神的な存在であったが、マリヤを通じて仮の肉体をまとった。しかし、本来イエスは非物質的な存在であり、あくまで「肉体のようなもの」をまとっていただけだったという。
 イエスは福音を説き、「言葉」である「聖霊」を人々に浸透させた。
 サタナエルはこれを妨害する。十字架にかけられたのも、サタナエルの計略だったが、もともと本当の肉体を持たないイエスにとっては、意味のないことであった。
 イエスは仮に
死ぬと、すぐに復活し、サタナエルを鎖で縛り、地獄に投げ込んだ。この時点で、サタナエルは「エル」を失いサタナ(悪魔)に堕す。
 任務を終えたイエスは天界に戻ると、自分の内に入った「聖霊」と共に、「父」と一体化する。これで、「三位一体」という一時的にバラバラになっていた状態を終え、一つの神に戻った。
 しかし、サタナは地獄から逃亡することに成功し、再び地上を支配するようになった……という。

 だが人間は、このサタナの手から逃れることは充分可能である。それはボゴミール派の説くイエスの教えを受け入れることであるという。

 したがって、物質たるこの世はサタナエルによって支配されている邪悪な世界である。この世に貧困や戦乱や病気といった災厄に満ちているのも、邪悪なサタナエルによって造られ、支配を受けているからに他ならない。
 東方正教会や皇帝などは、サタナエルの手先であり、邪悪な存在である。
 これは重要だ。ボゴミール派は、とかく皇帝や教会などの権力をサタナエルに属するものとして嫌悪した。
当時、封建社会において搾取の対象にされ、悲惨な生活を強いられた農奴たちが、重税を取って贅沢三昧に遊び暮らす皇帝や貴族、聖職者たちへの一種の階級闘争として、このボゴミール派を奉じたのだ、という説を、ブルガリアの歴史学者たちは支持しているからだ。
(実際、ディミータル・アンゲロフ等の研究者はエンゲルスを引用しながら、この説を主張する。旧共産圏のブルガリアの学者だからなのであろうか?)

 ボゴミール派は、とにかく正統派(?)の東方正教会派の教義を否定した。
 まず、彼らはサタナエルの作品である「旧約聖書」を聖典とは認めなかった。モーセなどはサタナエルの手先であるという。
 さらに彼らは、十字架も聖像も偶像崇拝であるとして、これを認めなかった。
 ミサなどの東方正教会の宗教儀式は全く無意味であり、唯一正統な祈りは「主の祈り」だけである。
 聖餐式のパンとワインは、もちろんキリストの肉でも血でもなくただの食品であるという。
 洗礼についても、堕落した正教会の聖職者が自由意志のまだ無い幼児に洗礼をほどこすのは無意味であるとし、成人してから自分の自由意志で受ける、いわゆる「再洗礼」を行った。
 懺悔に関しても堕落した正教会の聖職者に行っても意味はなく、彼らはお互いの仲間どうしで懺悔した。
 金や富はサタナエルのものであり、したがって金持ちは救われない。信徒は貧しくあるべきと考え、粗末な衣服のみを着るべしとされた。さらに肉食や酒は禁止であり、婚姻も避けるべきこととされた。
 だが、こうした厳しい戒律を全て守るのは、普通の農奴には難しく、「完全者」と呼ばれる一部のコアな信徒がこれを行った。「完全者」には、元正教会の下級聖職者出身者が多く、彼らがボゴミール派の聖職、宣教師となった。


 ボゴミール派は、大きく2派に大別される。
 一つはサタナエルは真の神の被造物であり天使に過ぎず、最後の審判の日に地獄に投げ込まれる悪魔であるとする穏健二元論派である。彼らは、サタナエルは神の罰を受けて堕天し、「エル」を失いサタナ(悪魔)になったと考える。
 この穏健二元論派は、初期のボゴミール派の主流派であり、ブルガリアを中心に広まっていた。
 もう一つは、サタナエルは真の神と同等の力を持ち、両者の対立は未来永劫続くと考える絶対二元論者である。これは時代が下がると徐々に力を増してゆく。マケドニア地方に置かれたボゴミール派のドラゴヴィツァ教会が、その中心であった。
 この絶対二元論派は、東方正教会や権力者たちを激しく批判し、対立した。
 両派は、同じ境遇にあり、二元論以外の教義では一致が多かったので、互いに容認しあう関係にあったらしい。
 ただ、宣教活動は絶対二元論者のほうが熱心であり、彼らはイタリアやフランスにまで遠征した。
 それによって、ボゴミール派は、かのカタリ派に大きな影響を与えることになるのである。

 当然の如く、ボゴミール派は、東方正教会からもブルガリア帝国やビザンチン帝国からも激しい迫害
を受けた。
 12世紀に起こったボゴミール派説教師バシレイオスの壮絶な殉教事件も、そうした最中に起こっている。
(逮捕されたボゴミール派信徒達の前に、火刑台と十字架が置かれた。ボゴミール派の教えを捨てて東方正教会に戻る者は十字架へ、あくまでボゴミールの教えに固執するなら火刑台へ行くべしと言われる。数人の信徒は火炙りの恐怖に耐え切れず十字架に駆け寄る。彼らは戒めを解かれ、その場で釈放された。しかし、バシレイオスはそれを見ても己の信念を曲げず火刑台に進み、そのまま火炙りにされて殉教した)

 ブルガリアがビザンチン帝国の侵略を受け、帝国に併合されると、彼らはレジスタンス運動とも結びついたらしい。
 そのため、ビザンチン帝国の支配下でも激しい迫害を受けたが、彼らは衰えることはなく、かえって活動を活発化させた。彼らは逆にビザンチンの帝国領の各地で宣教を行い、その勢力はコンスタンチノープルにまでおよぶことになる。
 やがてブルガリアがビザンチンの支配を脱した後も、彼らは活動を活発に行っていた。

 しかし、14世紀頃から衰退が始まる。そして、オスマン・トルコの侵略を受け、イスラムの支配下に入ると、ボゴミール派は事実上消滅してしまった。
 彼らの大半はイスラム教に改宗してしまったという。

 あれほどの迫害を生き延びた彼らが、なぜあっさりとイスラムの前に敗北してしまったのか。その理由はよくは分からない。
 ある学者は、ボゴミール派の教義そのものが階級闘争の目的から離れて、抑圧されていた庶民の人気を失い、さらにイスラム教は、彼らがこれまで戦って来た相手(東方正教会など)とあまりに異なった相手だったので、それと戦う理論武装がなかたったためではないかと推測している。

 ボゴミール派は、こうして消滅したが、彼らの教義はブルガイリアの民間伝承の中で行き続ける。
 そして、その教義の一部は西ヨーロッパのカタリ派にバトン・タッチされ、グノーシスの教義の残滓は、さらにしばらく継承されてゆくことになるのである。


「異端の宗派ボゴミール」 ディミータル・アンゲロフ著 寺島憲冶訳 恒文社
「異端事典」 C・S・クリフトン著 田中雅志訳 三交社
「聖像画論争とイスラーム」 若林啓史著 知泉書館”



HUMANUM GENUS
ENCYCLICAL OF POPE LEO XIII
ON FREEMASONRY
http://w2.vatican.va/content/leo-xiii/en/encyclicals/documents/hf_l-xiii_enc_18840420_humanum-genus.html
"9. There are several organized bodies which, though differing in name, in ceremonial, in form and origin, are nevertheless so bound together by community of purpose and by the similarity of their main opinions, as to make in fact one thing with the sect of the Freemasons, which is a kind of center whence they all go forth, and whither they all return. Now, these no longer show a desire to remain concealed; for they hold their meetings in the daylight and before the public eye, and publish their own newspaper organs; and yet, when thoroughly understood, they are found still to retain the nature and the habits of secret societies. There are many things like mysteries which it is the fixed rule to hide with extreme care, not only from strangers, but from very many members, also; such as their secret and final designs, the names of the chief leaders, and certain secret and inner meetings, as well as their decisions, and the ways and means of carrying them out. This is, no doubt, the object of the manifold difference among the members as to right, office, and privilege, of the received distinction of orders and grades, and of that severe discipline which is maintained.

Candidates are generally commanded to promise - nay, with a special oath, to swear - that they will never, to any person, at any time or in any way, make known the members, the passes, or the subjects discussed. Thus, with a fraudulent external appearance, and with a style of simulation which is always the same, the Freemasons, like the Manichees of old, strive, as far as possible, to conceal themselves, and to admit no witnesses but their own members. As a convenient manner of concealment, they assume the character of literary men and scholars associated for purposes of learning. They speak of their zeal for a more cultured refinement, and of their love for the poor; and they declare their one wish to be the amelioration of the condition of the masses, and to share with the largest possible number all the benefits of civil life. Were these purposes aimed at in real truth, they are by no means the whole of their object. Moreover, to be enrolled, it is necessary that the candidates promise and undertake to be thenceforward strictly obedient to their leaders and masters with the utmost submission and fidelity, and to be in readiness to do their bidding upon the slightest expression of their will; or, if disobedient, to submit to the direst penalties and death itself. As a fact, if any are judged to have betrayed the doings of the sect or to have resisted commands given, punishment is inflicted on them not infrequently, and with so much audacity and dexterity that the assassin very often escapes the detection and penalty of his crime.")

"Iraqi Baathist anti-Masonry

In 1980, the Iraqi legal and penal code was changed by Saddam Hussein and the ruling Ba'ath Party, thereby making it a felony to "promote or acclaim Zionist principles, including freemasonry, or who associate [themselves] with Zionist organizations."[18]

Muslim anti-Masonry
Further information: Iraqi Baathist Anti-Masonry and The Covenant of Hamas

Many Islamic anti-Masonic arguments are closely tied to both Anti-Semitism and Anti-Zionism, though other criticisms are made such as linking Freemasonry to Dajjal.[39] Some Muslim anti-Masons argue that Freemasonry promotes the interests of the Jews around the world and that one of its aims is to rebuild the Temple of Solomon in Jerusalem after destroying the Al-Aqsa Mosque.[40] In article 28 of its Covenant, Hamas states that Freemasonry, Rotary, and other similar groups "work in the interest of Zionism and according to its instructions...."[41] Many countries with a significant Muslim population do not allow Masonic establishments within their jurisdictions. However, countries such as Turkey and Morocco have established Grand Lodges[42] while in countries such as Malaysia[43] and Lebanon,[44] there are District Grand Lodges operating under a warrant from an established Grand Lodge.

https://en.wikipedia.org/wiki/Anti-Masonry

” Islamic world
After the condemnation of Freemasonry by Clement XII in 1738, Sultan Mahmud I followed suit outlawing the organization and since that time Freemasonry was equated with atheism in the Ottoman Empire and the broader Islamic world.[36] The opposition in the Islamic world has been reinforced by the anticlerical and atheistic slant of the Grand Orient of France.[36]
On July 15, 1978, the Islamic Jurisdictional College—one of the most influential entities that interpret Sharia, or Islamic law—issued an opinion that deemed Freemasonry to be "dangerous" and "clandestine".[36]
After World War I, while under the British Mandate, Iraq used to have several lodges. This all changed with the 14 July Revolution in 1958, however, with the abolition of the Hashemite Monarchy and Iraq's declaration as a republic. The licences permitting lodges to meet were rescinded, and later, laws were introduced banning any further meetings. This position was later reinforced under Saddam Hussein the death penalty was "prescribed" for those who "promote or acclaim Zionist principles, including freemasonry, or who associate [themselves] with Zionist organizations".[37]
Freemasonry is illegal in all Arab countries except Lebanon and Morocco.[36]

https://en.wikipedia.org/wiki/Suppression_of_Freemasonry#Islamic_world
This page was last modified on 8 April 2017, at 01:24.

”Islam and Freemasonry

Many Islamic anti-Masonic arguments are closely tied to both antisemitism and Anti-Zionism, though other criticisms are made such as linking Freemasonry to al-Masih ad-Dajjal (the false Messiah).[100][101] Some Muslim anti-Masons argue that Freemasonry promotes the interests of the Jews around the world and that one of its aims is to destroy the Al-Aqsa Mosque in order to rebuild the Temple of Solomon in Jerusalem.[102] In article 28 of its Covenant, Hamas states that Freemasonry, Rotary, and other similar groups "work in the interest of Zionism and according to its instructions ..."[103]

Many countries with a significant Muslim population do not allow Masonic establishments within their jurisdictions. However, countries such as Turkey and Morocco have established Grand Lodges,[104] while in countries such as Malaysia[105][106] and Lebanon[107] there are District Grand Lodges operating under a warrant from an established Grand Lodge.

In Pakistan in 1972, Zulfiqar Ali Bhutto, then Prime Minister of Pakistan, placed a ban on Freemasonry. Lodge buildings were confiscated by the government.[108]

Masonic lodges existed in Iraq as early as 1917, when the first lodge under the United Grand Lodge of England (UGLE) was opened. Nine lodges under UGLE existed by the 1950s, and a Scottish lodge was formed in 1923. However, the position changed following the revolution, and all lodges were forced to close in 1965.[109] This position was later reinforced under Saddam Hussein; the death penalty was "prescribed" for those who "promote or acclaim Zionist principles, including freemasonry, or who associate [themselves] with Zionist organisations."[100]

https://en.wikipedia.org/wiki/Freemasonry#Islam_and_Freemasonry

ken‏ @kenkatap
トルコ革命・建国の父=ムスタファ・ケマル http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%86%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%82%AF … ▼出身=オスマン帝国領マケドニア(現ギリシャ領テッサロニキ) https://twitter.com/kenkatap/status/423670925075021824 …
▼ナポリロッジでフリーメーソン入会 https://twitter.com/kenkatap/status/265476797423030272 …
ケマル大統領時代=欧化政策を断行 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%86%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%82%AF#.E5.A4.A7.E7.B5.B1.E9.A0.98.E6.99.82.E4.BB.A3 …
▼脱イスラム国家化 ▼1928年、憲法からイスラムを国教と定める条文を削除
▼アラビア文字を廃止、ラテン文字に改める文字改革を断行
▼1932年、スターリンが巨額の融資
▼ターバンやトルコ帽着用を禁止

ソ連の後ろにフリーメーソン 【http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=fZabmJyqRMM#t=411s … ▼現在もロシアマフィアはアメリカと深いつながりがある▼孫文=サンフランシスコのロッジで入会
▼トルコ建国の父ムスタファ・ケマル=ナポリのロッジで入会
▼このロッジはマケドニアに真実が再び与えられたという名を持つ

アラブ人=レバノンのキリスト教マロン派は古代フェニキアの子孫としての民族意識が強い https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E4%BA%BA …
▼レバノンのキリスト教マロン派 https://twitter.com/kenkatap/status/640754282417909760 …
▼アラブと欧米の言語や商慣行を知るため、有力商人輩出
▼ゴーンが有名

相原たくや‏ @aiharatakuya 2015年1月16日
エジプトのコプト教徒、レバノンのマロン派キリスト教徒にはアラブ民族としての民族感情は存在しない。
コプト教徒は自らを古代エジプト人の末裔と見なし、
レバノンのマロン派キリスト教徒は自らを古代フェニキア人の末裔であると誇る。

chiaki‏ @snieg 2011年2月10日
2月9日は,レバノンでは聖マロンの日で祝日でした.聖マロンというのは,4世紀頃の修道士でマロン派(東方典礼カトリック教会の一派)の始祖とのことです.レバノンはマロン派のキリスト教徒が人口の1/3くらいを占めているようです.カルロス・ゴーン氏は,レバノン系でマロン派なんだそうです.


閉店です ‏@lakudagoya 2015年11月23日
そもそもユダヤとは何か?という事をやらないと日ユ同祖論やる意味ないかと。イスラエルの10支族?カナン人と同じ多神教を信じててユダヤの選民でござる?ヤハウェ様を裏切ったのに?カナン人と同じ信仰をしてたイスラエルの10支族とやらは、周囲の現地人とどう区別をつければいいのでしょう?

ローマの宗教史を扱った「神々のあふるる世界」さ。エジプトの神官の生活について史料をベースに色々語ってるけどさ、蹄の割れた獣は食べませんとか、割礼もそうだけど、色々な意味でユダヤ教ってエジプトの貴族の宗教臭いんだぜ?これモグラ君が言い出した事だけど、大当たりだったと思うんだ。

ユダヤ教のウリジナル in 古代エジプト
1 十戒(死者の書に書いてある42の戒律が元ネタw)
2 レビ記の食物規定(エジプトの神官の戒律が元ネタw)
3 割礼(神官の通過儀礼w)
4 経典の宗教(読み書きできるのは神官と貴族だけw) おおっ!こんなにも香ばしいネタがざくざくとw


子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2014年7月22日
@wayofthewind 「読売の黒子役」竹井博友が徳間書店(陰謀モノ)と致知出版社を事実上創業。(格物)致知出版社は「昭和最大の黒幕」安岡正篤、五木寛之、稲盛和夫の本がベストセラー(笑)。道教学者の福永光司と五木の共著等道教資料更新http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-25.html

飯田泰之 ‏@iida_yasuyuki 2011年3月24日
ほぉ徳間氏ってそういうこともやってたんだ.というよりも「アサヒ芸能」が徳間書店の母体であることにびっくり http://ja.wikipedia.org/wiki/竹井博友 @pokopen_pokopen 徳間康快氏


https://twitter.com/lakudagoya/status/770087111412310018
ねこた(ニート勇者Lv.1 実は遊び人) ‏@lakudagoya 11 時間11 時間前
リシャール・コシミズさ、中東では異端審問やらないってわかんないのか? 隠れナントカだろうがイスラム法を守って礼拝や断食や喜捨をやってたらその人らはムスリムとしてカウントされるんだよ? 税金さえ払えば放題プレイが理解できんの? http://s.webry.info/sp/richardkoshimizu.at.webry.info/201511/article_227.html …

ボゴミール派などのキリスト教異端がオスマン・トルコが攻めてきたらイスラームに集団改宗したのは、気にしない遊牧民&異端審問やらないのが元耶蘇異端派にとっては居心地が良すぎたんでないかな? このように、いつだって耶蘇異端の一部はムスリムやユダヤと仲良しなんでそれがユダヤ陰謀論だよ!

恐らくユダヤ陰謀論の正体は 「ローマ・カソリックの体制を脅かす異端とイスラム資本」の事だよ。 マリの王様がメッカ巡礼で気前よく金をばらまいたおかげで、カイロの金相場が10年戻らなかったという逸話があるんだけど、よーく考えてみてよ、これをヨーロッパに投資したらどうなるかな?w

ちなみにアシュケナージはゲルマン人(イデッシュ語はゲルマン系言語=印欧語)かスラヴ人でサウジアラビアの王族はイラクのドンメーというユダヤ教徒なんですが。 本当のユダヤ人(笑)ってイスラム教徒のパレスチナ人の事ですか?w

なるほど!ビザンツ帝国時代の下級聖職者や貧しい農民が異端にかぶれてオスマン・トルコが来たらイスラームに集団改宗したのも、キリスト教徒であっても出世のチャンスが開かせてたイスラム社会などにシンパシーがあったからですか。 RT
ねこた(ニート勇者Lv.1 実は遊び人)さんが追加
よーすけ @yoshimichi0409
かつてイスラム世界に多くの異端キリスト教徒やユダヤ教徒が身を寄せたのは、カトリックが行う異端審問から逃れる為だった。ムスリムは快く受け入れ差別もせず才能ある者は要職にも就かせた。そういう中でムスリムに集団改宗するのも無理はない。 https://twitter.com/lakudagoya/status/770088931039805440 …

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お読みくださり感謝と書かなかった場合は読者が減るのだろうか?

フェニキアの一部がエトルリアとユダヤ疑惑『ラテン語の世界』。 イマの目は太陽!東からくる救世主 =太陽 ! 『原典訳 アヴェスター』 

イスラムは原則メーソン入会禁止!∵耶蘇(詳細は次)。

最上位天使セラフィムの画像↓が気色悪すぎ!気色悪くないほうはこの後すぐ!

偽ディオニュシオスの天上位階論によれば、セラフィムという名前は火を発するもの、熱するものなのだそう。神に対する不変で永遠の運動の熱、あふれる沸騰、下位のものを沸騰させ再び燃え立たせ、また完全に焼却し浄化するものなんだそうです(@_@;) 真っ赤で熱そう!


↓プロフィールが真言密教僧!
北川 宥智 ‏@OshoUFO 2010年11月25日
空海の持ち帰った書物に景教関連の物は一冊。しかも大乗経典の共同翻訳のみ。空海の著作には景教の影響は全く見当たりません。なぜでしょうね。むしろ彼は善悪の景教的発想を否定していますよRT @sinjidai: 博覧強記で手当たりしだい勉強していた空海がこ学ばなかったはずはありません。

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『ラテン語の世界』


・古代ローマ人の個人名は数が乏しく、せいぜい20ほどしかなかった。
イニシャルさえ記しておけば名前が判断できるほど。
女性専用に用意された個人名は存在していなかった。女性には自分の生家の氏族名の語尾を女性用に-aと変えただけの単純な名前が与えられるばかりだった。ローマの歴史で女性が登場するときは誰のことを指しているのかをきちんと把握することがとても難しい。

女性が黒幕だと完全に陰に隠れられる制度。

おねショタおじさん ‏@douteimaturi
あー言っとくけど、金貸しや政商、役人、政治家等名前が世の中に出てくる連中は周辺だからな 本当の中心にいるやつは名前が何個も持っていたり、
名前を調べられてもそいつが何者なのか全くわからない奴や
表上重要視されない存在や
固有名詞を持たない存在が世界の軸にいて、何かしているのを忘れるな

情報は単独で存在しない
人は過去に縛られて生きている
過去にあって消滅されたとされる集団や知識は条件さえあえば再興する
定義が曖昧、定義を決めないで物事を言うやつは絶対に信用も信頼もしない
全ての意見や思想は主観でしかなく、客観性というのは数と暴力で出来ている これが陰謀論の基本



アルファベットを世界中に広めたのはローマ人だが、
縁の下の力持ち的な役割を果たした別民族がエトルリア人。
イタリアの首都ローマ市を流れるテベレ河を境として、
その北側からアルノー河(フィレンツェ市を流れる河)にいたる広い地域に紀元前9世紀ころその存在を示しはじめ、
紀元前7世紀ころから紀元前4世紀ころまで繁栄していたのがエトルリア人。
エトルリア人は統一王国を形成していたのではなく、文化的共通性を通じ連合を形成していた都市国家。
エトルリア人はローマ人よりも早くギリシア文化と接触し、
自身も高度な文化生活を営み、交易を盛んにして地中海一帯に勢力範囲を広げていたことは考古学資料とギリシア人の文献からよく見て取れる。
ローマ人の伝承ではローマ人は紀元前7世紀終わりから紀元前6世紀終わりまではエトルリア人の王の支配下にあった。
そしてついに最後の王を追放し共和制を樹立したことになっている。
ローマ人はエトルリア文化から多くのものを摂取したことは確かで文字も貴重な遺産の一つ。


ローマという地名がエトルリア語の「川」rumonからきているらしい。
ローマ伝承では初代王ロムルスからきているとしているが。
エトルリアは彼らの勢力範囲全体を表す名称で、エトルリア民族についてはローマ人はトゥスキーとも読んでいた。
現在フィレンツェ市を含む一帯をトスカナ地方と呼ぶのは、「エトルリア人の土地」という名称
が残ったもの。

エトルリアは高度な文明を誇っていたが、遺跡、遺物の数が限られており言語と文明がラテン語に及ぼした影響を考えると不自然なほどにわずかしか資料が残っていない。資料から判断されるエトルリア語が周囲のどの言語とも完全に異なっている。
明らかにエトルリア人は周囲のどの民族とも異なった出自。エトルリアの独自性は紀元前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスによって言及されているようにすでに古代でも関心を呼ぶ事柄。
民族系統は現在も明らかになっていない。
エトルリア語の解読作業は進んでいるが資料が乏しい。
エトルリア語文字資料はラテン語のそれよりも早く紀元前7世紀には表れているのに少しでも長い文が書かれたあるいは彫刻された資料、詩、戯曲のごとき文化学類が断片一つ残されていない。
エトルリアが文書を作らなかたっとは考えられない。
遺物から見て文字がエトルリアにとって非常に重要な意味を持っていたことがわかるから、ある学者は「文字の民」と呼んでいるほどである。
そしてそのエトルリア文字をローマ人は伝えた。
ローマ人はエトルリア人に一時支配され文化的に多く影響を蒙りながらもラテン語を捨てることなく、エトルリアの支配者を追放して独立を勝ち取ったのみならず、エトルリア文化に属するものを必ずや意識的に破壊しつくしたのである。
エトルリア人は自身の文化を捨て言語を忘れはて紀元前1世紀にはローマ人に吸収された。
ただエトルリア人の家系だと自覚する人はいた。

現在、文化事業へ企業がする後援活動を日本でもフランス語「メセナ」【mécénat】と言うが、
由来はホラティウスをはじめとする詩人たちのパトロンであったことで後世にまで名を残した紀元前1世紀の大富豪マエケナスの名前からきておりそのマエケナスはエトルリア人である。

現在知られているエトルリア語の単語数は250程度。解読も完全ではない。
現在の資料でのエトルリア語とラテン語の類似はギリシア語がラテン語に入る際のエトルリア語の仲介者的役割を示しているというのが真実らしい。

・ローマにギリシア演劇をもたらしたのはエトルリア人。

(見つかっても隠蔽されそうなんだけど。
フェニキア人の一部がエトルリア人なのでは?


魔王アモン ‏@mryensrh11 8月7日
違法な業者とかがよくやる古典的な手口でさ 名前だけ変えて別会社のフリして 営業続けるってよくある話だよね 「ええ、アテクシたちはAですけど? は?B?なんですかそれは?」っていうの さーて、これはフェニキアがユダヤを名乗った時の手口でもあるんだが それ「だけ」か?

閉店です ‏@lakudagoya 8月7日
@mryensrh11 それ何万社もある派遣屋みたいやね。 で、ラテン人がアルファベットを使うようになったのはエトルリアの影響なんだとか。出典「ラテン語のしくみ」 エトルリアあんま資料ないですけど、部族社会のローマくらいから古くいるけど、ローマと混血して消えました。


対馬譲治 ‏@TongetsuP 3月29日
エトルリア語の新たな史料が見つかったぽい。 Text in lost language may reveal god or goddess worshipped by Etruscans at ancient temple
http://phys.org/news/2016-03-text-lost-language-reveal-god.html

ういちゃん ‏@884uichi 10月3日
メセナ〖mécénat〗〔文芸を庇護した古代ローマの政治家マエケナス(Maecenas)の名にちなむ〕 企業が行う文化・芸術活動に対する資金支援。 #daijirin

ガイウス・キルニウス・マエケナス(ラテン語: Gaius Cilnius Maecenas
“クィントゥス・ホラティウス・フラックスは自らが最初に制作したオード(頌歌)の巻頭に、マエケナスに対する宛名の欄に「王族の子孫」(ラテン語: atavis edite regibus)と記した。”
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%A8%E3%82%B1%E3%83%8A%E3%82%B9


紀元前1世紀中頃にはカエサルの討伐によってガリア、現在のフランスの地がほぼすべて平定され、シリア、エジプトもローマ領となる。
キリスト紀元後の帝政時代になると領土拡大はさらに進む。
ローマ帝国の版図が最大だったのは紀元100年頃、トラヤヌス帝の治世下。 
ローマ市民や退役軍人が各地に入植を開始し、海外領土の植民地化も進んだ。
各地には学校が作られ教育はラテン語でなされたので、イタリア半島以外の土地の人々にもラテン語が母語となる現象が徐々に起こった。
ガリアではイベリア半島(バスク地方を除いて完全にラテン語化)と並んで特に多くの学校が創られた。ガリア上流層は好んでその子弟にラテン語を学ばせた。多くのガリア人がローマ軍へ編入されたので、母語のラテン語への転換が都市部から起こって言った模様である。
ただしガリア人が本来のケルト系の言語を捨て去るには数世紀かかり、話されなくなったのは6世紀頃らしい。

(バスク人脈怪しすぎ)

・ローマ人は地中海を、我らの海mare nostrumと呼んだが、西部の状況とは反対に、地中海東半分においてはラテン語は遅々として進まなかった。
ギリシア語の文化的威信のせいである。
ギリシア本土においてはラテン語は民衆の第一言語として広まるどころかギリシア語に押されて、行政の為の言語にもならなかった。
ローマ人にとってギリシア語の習得は必須の教養であり、よく言われるように、軍事的、政治的にギリシアを征服したローマは、文化的にギリシアに征服された。

・北アフリカでラテン語が出会った主要言語はコプト語とカルタゴ語である。ともにセム語族。
コプト語は古代エジプト語の末裔で基本的にはギリシア文字で書かれている。
ローマと接触した時のエジプトはプトレマイオス王朝の支配下にあった。
始祖プトレマイオスはアレクサンドロス王の武将で、アレクサンドロスの築いた大帝国が彼の死後瓦解した後、エジプトを受け継いで支配することとなった。
であるから、子孫であるクレオパトラ女王は人種としてはマケドニア人
であるが、文化的にはエジプトに同化していた。
多くの言語に通じていた彼女の使える言語の一つは当然臣民の言語であるコプト語であったはず。
エジプトはクレオパトラの前30年の死の後ローマ領となったのでラテン語化が始まるもコプト語は死に絶えなかった。
コプト語はキリスト教信者の為の言語となりエジプトがイスラム教徒に占領されたはつか後、10世紀になってもエジプトのキリスト教信者により細々と使われていた。

カルタゴはかなりラテン語化された。帝政期には何人かの文人を出しているし、キリスト教期になってラテン語で著作した初期の教父たちの多くはアフリカ出身。
カルタゴ語も死に絶えなかった。アウグスティヌス(354~430)の時代になってもカルタゴ語が十分に残って機能していたことがわかっている。
アウグスティヌスはヌミディア、現在のアルジェリアの生まれであるが生まれついてのラテン語話者。しかし彼はカルタゴ語の多少の知識も持っていた様子で、またそれがキリスト教信者の間で使われていることに著作で言及している。のみならず同じセム語族に属するヘブライ語とカルタゴ語との類似性にも気づいており、カルタゴ語を軽視する様子はうかがえない。
アウグスティヌスは異教徒時代に私生児を設けているのだが、その母はカルタゴ話者であったらしいと考えられている。
というのも、息子である少年の名前がAdeodatus。ラテン語らしくないラテン語。
a-deo-datus神から授けられた男 としか解釈できないが、ラテン語にはこのような複合語の伝統はなく、別言語から影響を受けたcalque(借用翻訳)でしかありえない。それはカルタゴ語の名称の構造から容易に説明できる。


北アフリカのカルタゴはフェニキア・バアル系だから怪しいな。
アウグスティヌスなんて元マニ教儲かつフェニキア系だぞ


ストアは哲学とはヘレニズム時代に生じた新しい思潮の一つ。ヘレニズム時代のギリシア哲学諸派はプラトンの時代とは異なり、目的を真理の発見というよりは幸福の獲得、正しい生き方の模索としていた。
同時代に生じたもう思潮の一つであるエピクロス主義が、魂に苦悩がなく肉体に苦痛がないことが浄福なる生の初めであるとした。
対して、ストア派ではむしろ魂に緊張を敷いて厳格なる倫理的生活を追及することに重きを置いていた。ストイックはストア派派生の言葉。
ギリシア哲学は紀元前2世紀にはローマに流入してきたが主に歓迎されたのはストア派とエピクロス派である。もう一つのヘレニズム思潮であった懐疑主義はローマ人には大きな影響は与えなかった。

ストア派はエピクロス派と異なり、現実生活への積極的参加を拒まない。
ストア派は恐怖、欲望、快楽、苦の4種のパトス(人を揺り動かす強烈な感情)
から脱することを賢者の徳とする。

しかし、セネカの悲劇に見られるものは、ギリシア悲劇にあった恐怖、苦といった要素のことさらな誇張である。
また、死者の霊を好んで舞台上に登場させることも自然学を重んじたストア的態度に反すると言わざるをえない

(セネカはストアの正統派ではない疑惑。

ラテン語系の本を読んでいるとギリシア思想の説明が入ったりするのが面白い)

・アイデンティティーは筆者流に訳すなら「自己認識像」。
identityの意味は動詞identifyとセットにすると理解しやすい。
この動詞は「ある未知のものがあったとき、それが既知の何と同一であるかを規定すること」という意味。規定された結果、つまり認識された真の正体がidentity。

・『日葡辞書』はキリスト教宣教師によって編まれ1603年に刊行された日本語―ポルトガル語が辞書でありローマ字辞表なので発音が正確にわかる。当時の蝶はチョゥChôで、今日はケゥQeôとQiôとキョゥの二通りの発音があったことがわかる。

(『日葡辞書』(にっぽじしょ、葡: Vocabulário da Língua do Japão)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%91%A1%E8%BE%9E%E6%9B%B8

・詩集『カルミナ・ブラーナ』写本1ページ目にある挿絵が、大きな輪rotaの中心にいてそれを操っている運の女神Fortunaを描くもの。
大きな輪は時計回りに回るらしく、輪の真上には今現在ときめくもの、右下(輪の右)には運から転落したもの、真下には運に縁なき者、左下(輪の左)にはこれから運に登らんとするものが描かれている。

・古代ローマの料理
当時の料理本でも牛を扱ったものは2つしかない。牛は農耕のための貴重な戦力だったため、食べられることはあまりなかった。
豚は子宮、乳房、皮、フィレ、尾、肝臓、肺、足などありとあらゆる部位が食べられた。


(ローマでは豚は普通に食べられていたことが重要。
ローマの敵が豚を食べないユダヤ教徒。
キリスト教徒は豚を食べてOK。
耶蘇はユダヤ教の後継者に偽装したユダヤ教破壊部隊。
耶蘇でも豚は善なるものではないことに注意。
他にも解釈できる。
レギオン(=ローマ軍=悪霊)を豚に憑依させて溺死
より、
イエス(羊飼い)>ローマ軍(羊の群れ=レギオン)
を意味してもいる。
プレ耶蘇のミトラス教信者にローマの軍人が多かったことから、
思想>軍人(個人)
という意味も引き出せる。後述の補足資料もどうぞ)

・アルファベットと呼ばれるラテン文字はイタリア半島の先住民族エトルリア人が使っていた文字が元。
エトルリア文字はギリシア文字が元。
ギリシア文字はフェニキア文字が元。
フェニキア人は現在のシリアあたりに定住していた。フェニキア語を話す彼らは地中海一帯を海上貿易を行いながら様々な民族と接触し、フェニキア文字はギリシア文字やヘブライ文字、さらにはアラビア文字の起源となっていた。
フェニキア文字は中国の漢字のようにもともと象形文字だったと推測されていて筆頭の文字は牛の顔と考えられている。


(フェニキア文字→ギリシア文字→エトルリア文字→ラテン文字。

おねしょた兄貴
“矢張り、全ての芸術には隠された秘術が入っているし。
全ての祝祭日に行われる行為は全て呪術な要素が入っている。
どうあがいても人は呪術から逃れられないし、
自覚的に離れたとしてもそれ自体がまた呪術としての行為なのである。”


恐らく↑の『ラテン語のしくみ』p.31に対して。

フェニキア文字に丸に十字の文字があり、ギリシア語のθってものすごく重要だぞ。
Θ, θ(古: テータ、現: シータ、希: θῆτα, 英: theta)は、ギリシア文字の第 8 字母。数価は 9。
Theta (uppercase Θ or ϴ, lowercase θor ϑis the eighth letter of the Greek alphabet, derived from the Phoenician letter Teth . In the system of Greek numerals it has a value of 9.
https://en.wikipedia.org/wiki/Theta

In its archaic form, θ was written as a cross within a circle (as in the Etruscan or ), and later, as a line or point within a circle ( or ). Archaic crossed forms of theta are seen in the wheel letters of Linear A and Linear B.

θ (θάνατος, death) in a mosaic
In ancient times, Tau was used as a symbol for life or resurrection, whereas the eighth letter of the Greek alphabet, theta, was considered the symbol of death.
According to Porphyry of Tyros, the Egyptians used an X within a circle as a symbol of the soul; having a value of nine, it was used as a symbol for Ennead.

※ennead: 9人組, 9つからなるセット, 9番, 9番の
※The Ennead (Ancient Greek: ἐννεάς, meaning "group of nine") was a group of nine deities in Egyptian mythology.
=エジプト九柱の神々
Ennead(ギリシア語で9の意味))
エネアド:
• アトゥム(Atum)
• シュー(Shu)
• テフヌト(Tefnut)
• ゲブ(Geb)
• ヌト(Nuit)
• オシリス(Osiris)
• イシス(Isis)
• セト(Set)
• ネフティス(Nephthys)
一部、ラー、トト、大ホルス、アメン=ラー、ホルスなどが入れ替わることあり。

Johannes Lydus says that the Egyptians used a symbol for Kosmos in the form of theta, with a fiery circle representing the world, and a snake spanning the middle representing Agathos Daimon (literally: good spirit).
The Egyptians also used the symbol of a point within a circle ( , the sun disc) to represent the sun, which might be a possible origin of its use as the Sun's astrological glyph. It is worthwhile to note that θῆτα (theta) has the same numerical value in isopsephy as Ηλιος (Helios): 318.

Teth
https://en.wikipedia.org/wiki/Teth
Teth, also written as Ṭēth or Tet, is the ninth letter of the Semitic abjads, including Phoenician Ṭēt , Hebrew Ṭēt ט‎, Aramaic Ṭēth , Syriac Ṭēṯ ܛ, and Arabic Ṭāʾ ط. It is 16th in modern Arabic order. The Persian Ța is pronounced as a hard "t" sound and is the 19th letter in the modern Persian alphabet. The Phoenician letter also gave rise to the Greek theta (Θ), originally an aspirated voiceless alveolar stop but now used for the voiceless dental fricative.
The sound value of Teth is /tˤ/, one of the Semitic emphatic consonants.
Position in alphabet 9
Numerical value 9
Origins
The Phoenician letter name ṭēth means "wheel", but the letter possibly (according to Brian Colless) continues a Middle Bronze Age glyph named ṭab "good", Tav in Aramaic and Tov טוב‎ in Hebrew, ṭayyib طَيّب in modern Arabic, based on the nfr "good" hieroglyph
Jewish scripture books about the "holy letters" from the 10th century and on discuss the connection or origin of the letter Teth with the word Tov,[1] and the Bible uses the word 'Tov' in alphabetic chapters to depict the letter.

In Modern Hebrew, Tet represents a voiceless alveolar plosive /t/, although this can be pharyngealized to produce [tˤ] in traditional Temani and Sephardi pronunciation.
In gematria, Tet represents the number nine. When followed by an apostrophe, it means 9,000. The most common example of this usage is in the numbers of the Hebrew years (e.g., ט'תשנד‎ in numbers would be the date 9754).
As well, in gematria, the number 15 is written with Tet and Vav, (9+6) to avoid the normal construction Yud and Hei (10+5) which spells a name of God. Similarly, 16 is written with Tet and Zayin (9+7) instead of Yud and Vav (10+6) to avoid spelling part of the Tetragrammaton.
Tet is also one of the seven letters which receive special crowns (called tagin) when written in a Sefer Torah. See Shin, Ayin, Gimmel, Nun, Zayin, and Tzadi.
Similar symbols
A symbol similar to the Phoenician teth is used for the tensor product, as , but this is presumably an independent development, by modification of the multiplication sign ×. The Hebrew ט is also visually similar to the letter Ʋ.)

これ凄いね。例えば、この対照表を使うとクルアーンの第二章の雌牛章の始まりが何故الم と唱えるかがわかる。
要は「雌牛 杖 水」の三つを指すわけで「雌牛」というのは大体、地母や大地などの繁殖や繁栄を指しまた犠牲として捧げられるものとしては人間の子供に次ぐ犠牲であった。

ラームは杖。これは大体、導く者や宗教指導者、知恵あるものや老人などを表す。
また、ミームは水。水は色々あるけど、全ての生物にとって必要なものであり。世界の生産者という見方もできる。
多分、この三つの単語はモーセを指ししめていて、つまり預言者とその契約を指しているのではないかと思う。

まあ、色々な解釈はできるよ。
雌牛を生贄に捧げう宗教指導者とも見れるし、金で作られた雌牛の破壊と浄化を命令するモーセとそれを川に流すとか、ただ確実に言えるのは預言者の章であるということ。預言者を犠牲の最たるである、雌牛と見る視点もあると思う。)

∸――
伊藤 義教『原典訳 アヴェスター』

・p.19
”さて、御身を、マズダーよ、わたくしが、始元(はじめ)にして終末(おわり)にましますと、〔わが〕心をもってみとめ奉り、”
(アルファにしてオメガの元ネタ)

・天が石でできているという思想はインド・イラン的なもの。

・p.43
“天則が象(かたち)をそなえ、寿命をもって力あるものとなりますように。”
あたりの行は、現世に人が天則に従って活動するように、との希望を述べたもの。
“天則が象(かたち)をそなえ”
とはゾロアストラ教にとく第三サオシュヤントの本名「アストワス・ウルタ」「象(かたち)をそなえた天則」と同じであることも興味深い。

・フラワシ:それぞれの守護霊として各自の持つ一種の精霊。
義者の魂は義者の逝世後、そのフラワシと合体するともいわれている。
その点においてフラワシは義者の在天のダエーナーとも言いうる。

・p.79
“聖マズダー・アフラがアシャを通して意思をもって創成し給うた天眼”
天眼(てんげん)
=アフラ・マズダーの創造した観見的霊能。
ハオマを牛乳と混ぜて摂取すると神力と天眼に優れたものとなる。


(天の目。あの△目玉の元ネタはインド・イランの拝火壇だろうから重要。
目そのものではなく見る能力だけど。
ハオマを摂取すると「酔力」が得られる。ハオマは麻薬や酒っぽい。
酔拳?
イスラム教は酒を禁止。イスラム教はゾロアスター教では善のものを悪としていることが割とあるからやはりゾロアスター教駆逐用だね。
拝火教では断食も猫も悪。イスラムでは断食は義務で猫は善。
拝火教では犬は善で飲酒OK。イスラームでは犬は悪で飲酒NG)

・p.91
“ついで、このようにわれらは崇める、善き男〔神〕たちと善き女〔神〕たち、すなわち
永遠に生き永遠に栄え給うスプンタ・アムシャたちを。その男〔神〕たちはウォフ・マナフとともに住してましまし、またその女〔神〕たちもそのとおりにましますもの。”

について。アムシャ・スプンタたちを男女に分けると、女性に入るのはアールマティ、ハルワタート、アムルタートの三座であるが、ここではウォフ・マナフはこの三座とも合して一団をなしていることになる。

・p.96
“ウォルカシャ海の中にいる義者たる驢馬をわれらは崇める。ウォルカシャ海をわれらは崇める。“
の、
ウォルカシャ海:世界を取り巻くと考えられていたオケアノス。
「義者たる驢馬」とは海央にすむ三脚六眼双耳九鼻一角の巨獣、義者的奇蹟を現ずる。

・p.102
“北の方処から
北のもろもろの方処から
魔(ダエーワ)中の魔にして多殺の
アンラ・マンユは弄(はし)り来たった。“

(ユダヤ・カバラでは悪は北からくるらしい。
ユダヤ・カバラが取り入れたのかも。
北によく攻めてくる民族がいたんでしょう。
インドでは北枕は縁起がいい。
だから釈迦は北枕。縁起が悪いのは日本の勝手な解釈。
インドイランで北の善悪が逆転。またか。)

・p.110
わたくしは呼びおろします、広い牧地をもち、よく武装せるミスラ〔神〕--
武装者のなかで栄光をもつこと第一、
武装者のなかで勝利を博すること第一なるその方を。



・アサルワン、アースラワン:祭司聖職者。

・最近親婚=父娘、母子、兄弟姉妹間の通婚。
(恐らく血統維持のため。
わざと奇形的存在を作ってその中に有用な天才が含まれやすくしたシステムかも。

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi
頭蓋骨を変形させることで中身の脳も変形させる脳改造手術かも。天才を人工的に増やす秘術。
秘教集団は間違いなく、天才を生む手法探しの為に多様な人体実験をしているはず。
物理的変形実験は当然しているでしょう。


魔術師は肌の露出が少ないし室内にいますよね。近親婚を繰り返すと異常が出易いことを利用して、
異常=天才や、
道徳が理解できない者=暗殺担当を作ったりする。
虚弱者を生贄にすることで、天才と暗殺者を召喚する儀式が近親婚。身内だと操り易いし。


猫太”奇形や虚弱を切り捨てる事で、サイコパスや天才を作るのですね。エリザベート・バートリみたいな地に飢えたキチガイを作ると。ある意味クローンよりえげつない”
”アーリア人にありがちな最近親婚を調べてました。ゾロアスター教には不思議な習慣があるなと思いましたよ。”
人間を品種改良。

猫太”ウクライナとか美人ありえないほど多いのは人為的にペットの純血種を作るようにした形跡を感じますよ。特にアーリア人について気になります。架空の観念やけど、家畜文化があるとこは人間ブリーダーも盛ん”
”それは臓器移植の抵抗のなさにも繋がる”
肉体軽視の思想は殺人の正当化に繋がる。


・悪意で謎をかけ、答えられなければ加害するのは、イランで古くから行われた。

・p.105“
カンス海から
東の方処から
東のもろもろの方処から
勝利者サオシュヤントが生まれ出る
ために。」“

カンス海:東イランの神話的な海の名。ハムン湖に比定される。
「カンス海から、東の方処から」とは「東の方処なるカンス海から」の謂。
ゾロアストラ教伝承によると、ゾロアストラの精液は九万九千九百九十九柱のフラワシによってこの海中に守護され、終末の三つの千年紀のそれぞれにひとりずつのサオシュヤントが生まれてくるといわれている。ここのサオシュヤントは最後に出現するものを指す。
(精子バンク。処女懐胎の理由。
救世主は東からくるってことは救世主=太陽神的存在。
どこまで盗作するのかキリスト教は。


・バルスマン:神をまつるのに用いる祭具の一で、聖枝の束であるが、神に供犠する際にはそれが「拡げられた」ことに注目したい。サンスクリット語barhisもこの点は同様。

・p.121-122
“わたくしは呼びおろします、アフラ所造のウルスラグナを――
そは栄光を帯び、マズダーの所造にかかるもの。
わたくしは呼びおろします、ティシュトルヤ星を――
そは財宝を有し、栄光を有し、
黄金の角ある牛の体
をそなえているもの。”

・ウルスラグナ:イランではヴェーダの軍神インドラは魔とされ(“魔インドラ”と本書で訳されている)、
代わってこの神がインドラとヴァ―ユ神との性格を吸収して信仰された。
このウルスラグナ神の十化身は有名で、正倉院のローケツ屏風にはそれが(一部は隠し絵風に)描かれている。
ティシュトルヤ:シリウス星。雨を起こし雨を降らす神格としての彼は高名。
(シリウスが黄金の角ある牛の体で、雨を降らすってバアル属性)


・栄光は正統な権威を表示するシンボルで、図像学的には光輪(光背)、その他で表現される。

・p.143
“そこでザラスシュトラは〔こう〕言った「ハオマに頂礼あれ。
人間としてだれが、御身を、ハオマよ、最初に
有象世界のために搾ったのですか。
どんな恩典が、彼のもとに、来たのですか。」
すると、わたし(ザラスシュトラ)に、彼は〔こう〕答えた――
義者にしてドゥーラオシャなるハオマがです
「人間としてウィーワフワントがわたしを最初に
有象世界のために搾ったのです。
この報応が彼にゆるされたのです。
この恩典が彼のもとに来たのです。
すなわち、彼に息子が生まれたのです。
それは群畜の主・王イマ
生を享(う)けたものどものうちで栄光第一のもの、
人間のうちにあって、太陽を眼とするものです。“
(その後、イマの治世には
寒さも暑さも老衰も死も妬みもなく父も子も十五歳の姿だったという記述が続く)

・ウィーワフワントVīvahvantの子イマYimaは
ヴェーダのVivasvantの子Yama。

理想の群畜の主・王イマの目は太陽!
イマ=ヤマ=閻魔。


閉店です ‏@lakudagoya
クロノスは確か黄金時代を支配した王でペルシアではイマもしくはズルワーンと言いました。
大本教はそのイマ=閻魔こそ国之常立神だと主張してますが、それは簒奪ですか?
ゼウスはポセイドニアというアトランティスの都市を滅ぼすために神々と話し合う所でクリティアスは終わってます。

グラハム・ハンコックネタで一番ウケたのは、ユダヤのノアの箱舟のお話がペルシャのイマ(閻魔)さんの話のパクリだったってこと。 おっとこれは、ユダヤなどのセム系とアーリアの二重構造がよくわかる話。 実際タルムード見ても、ペルシャのパクリ露骨に多いような気がするのは気のせいですか?w

大本教では、国常立尊が閻魔だったんだって~ そして三千世界の立替をするんだって~ おや?ゾロアスター教の神話でイマ(閻魔)というと、黄金時代を支配してた王様で、アフラ・マズダーから地下世界にノアの箱舟つーかノルウェーの種子保管庫みたいなの作れと命令された人じゃまいか。

で、ノアの箱舟の話はバビロニアのウトナピシュティムのパクリなのは有名だけど、イマ(閻魔)の話のパクリなのは隠すよね。 それがさ、このイマの話がやばいの箱舟の代わりに地下施設作れと命令されるんだけど、その条件が「人間や家畜の中で優れた健康的な種」を選べってあら優生学な事言ってるの

国常立尊が閻魔(イマ)で三全世界の立替をするって事は、またクロノスが支配する黄金時代作りたいんでしょう?(笑)
イマも黄金時代を支配した王様だもの。
あれぇー?出口王仁三郎っていつからペルシャ神話に詳しくなったのぉ? しかも閻魔との関係まで調べてるし。不思議だなぁー

もしかしたら、インドのヴェーダ神話と根を同じくするゾロアスター教の神話って古いネタがあるかも知れない。 ノアの箱舟の中に消して消えない明かりがあるのは(これがゾーハルだよ!)ペルシャ神話もあるんだよね。
で、イエスは良き羊飼いと言われたけどイマも「良き羊飼い」ってさ。あれぇ?


閻魔(イマ)の話ならこれが一番詳しかったと思う ジョン・R. ヒネルズ の ペルシア神話 を Amazon でチェック! http://amzn.to/2dTByf2 @さんから)

p.145
“勇武の家門の出・スラエータオナです。
その彼はダハーカ竜を討ったが、
これは三口あり、三頭あり、
六眼あり、千術あり、
いとも強く、魔性のドゥルジにして
庶類には邪悪な不義者

――このいとも強きこと第一なるドゥルジ“
スラエータオナの竜ダハーカ討伐はインドの ヴリトラ討伐のイラン版の一つ。
イランのヴリトラともいうべきダハーカ竜はクリンタ城にいた暴君とされるが、ダハーカと、アレクサンドロス大王と、トゥラン(ツラン)のフランラスヤンとの三人はゾロアストラ伝承では三大暴君として怨憎の的となっている。
紀元前330年にアレクサンダー大王はペルセポリス王宮を焼いた。

・p.167
“真に義者たる三者
牛と馬とハオマ”
(牛と馬とハオマは善。
アヴェスター では牛は何度も崇め奉る個所が登場する。インドでもイランでも牛は神聖)

ヤシュト(頌神攘災招福書)に登場する軍神ワユVayuは軍神として死神であり、
その反面に豊穣の神でもある。死と生を授ける運命神として善悪二面を有す

自然現象面から見ると、虚空における大気の流動、つまり風がワユであり、その意味は風神であるが、宇宙神の気息とみなされ、その意味で世界を活動させる衝動的原理と考えられた。

・ゾ教=拝火教の略称では
ミスラ神を中心にスラオシャとアシの二神が脇侍して三神を形成。
インドのミトラ――アルヤマン――バガの神に対応。

・ゾロアストラの教義を伝える一等資料がガーサー。
ガーサーによれば、アシャ「天則」は主神によって創造された理法、法則であり、正しい秩序であるが、
逆に主神はこの法則によって自身を律するから、彼は、この天則に従う民と同じく義者なのである。
この法は此界ならびに他界における、すべての法世界を律し、最終かつ永遠なる法をも包摂する。この法に従って生活するものは真理に従って生活するものとされる。
アシャは天則であり真であり義であり法であって、ゾロアストラの教義の中核をなす概念としてガーサーには一六二回以上も登場する。
「よき天則」「最勝のよき天則」とも表現されるアシャ天則の
対極はドゥルジと呼ばれしばしば擬人化される。
なおアシャはほとんど擬人化されない。
ドゥルジは虚偽であり不義であり非法でありそれに従うものは不義者であり、
「破壊霊」アンラ・マンユの下す法や命令である。
因みに、アシャとドゥルジは
ヴェーダのリタとドゥルフと対応。

・アムシャ・スプンタは不死者にして聖なるもの。
スプンタ・アムシャは聖なる不死者。
※アフラ・マズダーも聖なる不死者に含まれる

・信者のうける苦楽の果であるが、これを感受する主体は各自の持つダエーナー(我)であり、ルワン(魂)である。
両者は同一でないとしても、その関係は不離らしい。
ダエーナーは人間から可見的要素を捨象してもなお個性として残存する不可見の要素、人の別身として存在しうる要素である。
人間の霊質として神はまずこれを創造したとあるとおり、人間が教化をうけたり誘惑をうけたりする主体はこれであるから、ゾロアストラは、しばしばダエーナーに言い聞かせるというような言葉を用いている。
これに対し神々にダエーナーはそのまま「教法」として展開する。

ダエーナー、デーンは宗教一般の意味でも用いられるようになった。
本書では我という意味でのダーエナーはカタカナのダエーナーと書き、
教法ならダエーナーのルビ付きである。
ダエーナーは不滅と考えられていた。
対して、気息とともに滅するものはウシュターナ(命数、寿命)といわれる。
苦果を受けるか楽果を受けるかは各人の自由な「選取、えらび」によって決定される。
人間は善か悪かの二者択一の前に立たされ善悪等混はゾロアストラの教義ではありえない。
人間のウシュターナ(命数、寿命)が尽きて肉体と、我・魂の分離が起こる。
(魂ルワンはルフ、ルアハだな)

・ゾ教ではゾロアストラの千年紀の後、三つの千年紀が続き、各千年紀にサオシュヤントが一人ずつ出現するとされ、その最後のサオシュヤントの千年紀に復活・総審判・世の建直し
が行われるとする。

・唐の徳宗の時代、九世紀初頭、空海が長安の青龍寺で学んでいたころ、この都のあちこちに祆教(ゾロアスター教の寺)があり、喇嘛廟あり、摩尼寺があった。

(天則など、本書の翻訳は本当に独特の訳語を使っているので、独自の文体を獲得したい方はとりいれてはいかが?
独特すぎて元ネタが特定されるけどね!
ペルシャ系なら結社が優遇してくれるぞ!

ラノベで兄妹の近親相姦的恋愛が描かれることが割とあるけど、これってゾロアスター教の教義だと兄と妹の近親婚は絶対善だからね。
奴らペルシャ大好きでしょ?
上位結社は密教やシーア派内スーフィズム肯定派を新キリスト教より優遇するし。)

∸――

補足資料

マルコによる福音書(口語訳) - Wikisource 5:1~5:20
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)
“こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスを迎えた。
この人は墓場をすみかとしており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けなかった。
彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。
そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。
ところが、この人がイエスを遠くから見て、走り寄って拝し、
大声で叫んで言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。
それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。
また彼に、「なんという名前か」と尋ねられると、「レギオンと言います。大ぜいなのですから」と答えた。
そして、自分たちをこの土地から追い出さないようにと、しきりに願いつづけた。
さて、そこの山の中腹に、豚の大群が飼ってあった。
霊はイエスに願って言った、「わたしどもを、豚にはいらせてください。その中へ送ってください」。
イエスがお許しになったので、けがれた霊どもは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れは二千匹ばかりであったが、がけから海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった。
豚を飼う者たちが逃げ出して、町や村にふれまわったので、人々は何事が起ったのかと見にきた。
そして、イエスのところにきて、悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギオンを宿していた者であるのを見て、恐れた。
また、それを見た人たちは、悪霊につかれた人の身に起った事と豚のこととを、彼らに話して聞かせた。
そこで、人々はイエスに、この地方から出て行っていただきたいと、頼みはじめた。
イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供をしたいと願い出た。
しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。

そこで、彼は立ち去り、そして自分にイエスがしてくださったことを、ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ出したので、人々はみな驚き怪しんだ。”

悪魔全書‏ @DDS_complete 2015年4月18日
【レギオン】 新約聖書に登場する悪霊。 軍団という意味であり、古代ローマ帝国の最大編成単位の呼称であった。 レギオンは一人の男に憑りつき、昼夜問わず墓場や山で叫び、石で自分を傷つけた。イエスに名を問われると「俺はレギオン」と答え近くの二千頭あまりの豚に憑りつき崖から飛び降りた。


フェイド大帝 @FeydoTaitei
15年5月2日
あの豚を飼ってる村の話は、そもそも
豚肉を食べちゃいけないユダヤ教で、
なぜ豚を飼っていたのかという所なんだと。

ぐだトマト‏ @pteras14 2016年6月16日
猪八戒の八戒って仏教の八戒を 1日で全て破ったって意味だからね ……と言おうと思ったら、wikiから この項目削除された様な気が… 昔は載ってた気がするんだが。 「ダビデは十戒を1日で全部破る」 という危険な暗喩として 型月が使ったんだと思うが… #FateGO #FGO

しかも豚ってキリスト教でも、 イスラームでもユダヤ教でも 良いイメージではないからね。
元はローマ人が豚肉を好んで食べた 事から、豚を飼ってローマ人に高く 売り付けたのが不道徳というのが 新約でイエスが豚に悪霊を封じて、 崖から飛び降りさせて在庫処分させた エピソードの意義ね。 レギオンの話の事ね。



神様紹介bot(神ボ)‏ @myth_god_bot 2月4日
《ヴァジュラヴァラーヒー/仏教神話》チベットとネパールの仏教で重要な神格とされている。「金剛の雌豚」を意味する名称からも分かるように、豚の頭をしている。稲妻の矢と頭蓋骨と棍棒を持っているとされている。

ドイツ語メール例文集&格言集‏ @dt_reibunshu 2016年6月1日
聖なるものを犬に与えてはいけません。豚の前に真珠を投げてはなりません。(新約聖書・マタイ伝) Gebt nicht das Heilige den Hunden; werft auch nicht eure Perlen vor die Schweine.

Microsoft Wordでウムラウト(ä,ü,ö)とエスツェット(ß)を入力する方法:[Ctrl]と[*]同時入力後に[a,o,u]→ä,ü,ö(大文字の場合 [Shift]+[a,u,o]), [Ctrl][Shift][&(6)]同時入力後に[S]→ß

映画やドラマの陰陽師、指導多し☆高橋圭也‏ @Keiya_Takahashi 2015年11月28日
東洋大学の中国哲学科在学中、台湾の知合いの道士から「キョンシーは地方で死んだ人の遺体を生まれ故郷まで帰すため、道士が術を施して死後硬直した死者の身体に豚の魂を入れ、術の力で遺体を歩かせて帰したもの」と聞いたことがあった。その後、キョンシーがブームの頃にそれと同じ話が本に出ていた。


ネズミさん ‏@Nezmi_san
(続)古代ローマの戦術は敵ガリアとは違ってフォーメーションで攻め、戦術で勝つことを徹底的に行っていた。当然サラリーや年金もキッチリ決まっていた。脳の中でもそう動くように訓練し、恐怖に打ち勝つ洗脳が必要なのだ。自衛官はまず洗脳し肉体を鍛える。サムライが頭を剃ったのもその流れだ。

年金とは古代ローマより市民への戦役等への報酬である。20年近く戦い生き残れば奴隷でも市民になれ、年金の生活保証の為命をなげうちガリアと戦った。今は仕事で国に尽くした20年で貰える話となった。国の根幹をなすシステムとしてイルミナティは復活させた。それを潰すんだから意図がある。

その根っこは全て「仕事=金」、その仕組みをコントロールされると、故郷を捨て、都会暮らしで、用済み後に「なけなしの年金(65からw、15年で計算してみw)」ポイ捨て。古代ローマの兵役と年金も家族を都市に住まわせる代わりに払われた。

その領土拡大を図ったローマは没落した。地方が潤ったからだ(金持ちは移動)。没落と同時に老兵の年金はパァ、計画的倒産。

ねこた‏@lakudagoya 2015年4月8日
@Nezmi_san 敵の本体は「誰でも作れるローマ帝国」ですからな。大日本帝国やらイスラーム帝国やら手を変え品を替え何回でも

ネズミさん ‏@Nezmi_san
年金は古代ローマからあって、戦争に行く代わりに都市に住めた。大航海時代から今の年金はエリザベス女王軍の年金だった訳。「命と引き換え」だった。これ、実は味方含めて「死人の金」が回っただけだね?「誰かが死ぬ事を前提とした賞金ゲーム」だった訳。

今の年金も一緒なわけだ。早く死ぬやつから金を回す、戦場で死人の金品を漁った○○○がそのまま銀行となる。古代から「全く同じ構造」なんだよ。

その仕組みは脈々と有り、人口ピラミッドが問題じゃない、仕組みが問題で、これがまた「死人」を求めて「戦争を繰り返す」訳。だから、戦場で死んで欲しいのは若者なわけだ。

「人の不幸は蜜の味」これは動物の縄張りと同じで他が居なくなれば嬉しい訳。だが、この仕組みは「中間搾取」するやつらだけが潤うわけね?

{野蛮人は野蛮人}である。そもそも古代ローマで市民権(権利)を得るのは{長期兵役}についたものだ。奴隷への永遠の報酬である。仮に敵のガリア人(当時野蛮人、蛮族)であっても協力すれば市民になれた。{生まれながらの権利}とは{生まれながらに奴隷}と同じである。

支配階級は昔からそのスキームを実行している。{年金}も古代ローマでも{長期兵役=生き残ったもの}へ支払われた(死んだ者からはぎ取っているわけだが。)同様に米国の年金もエリザベス女王の管理下のものだった。

今の{年金制度}は25年働くと貰えるものだ。古代ローマと「全く同じ」である。奴隷解放が市民権である。ところが、その額をGPIFだのにつぎ込む事態(それも支配層の金融へ)が、詐欺である。

市民は権利が与えられている「だけ」であって、基本は支配層からして「敵」なんである。なぜ全部大文字なのか?キャピタル=頭=資本なんである。 「頭に付属する賜物(恵み=労役)」これが「個人:パーソン」の正体。 (この英語読めばわかる) http://humansarefree.com/2015/07/heres-why-your-legal-name-is-written-in.html …

人間は{家畜を買い、犬を飼い、飼いならし}て自分の為に使った。支配層もパーソン(個人)についてやることは「一緒」である。{野生の動物}は平気で敵として殺す。これが{人}なら一緒である。戦争では敵国の人は「パーソン」じゃないから撃ち殺す。実に単純なロジックである。
古代ローマでも、戦国時代でも、その当時は「財産」を戦役に着けて行った。兵士が死ぬとその装飾品を分配し、整理する「人間」が大昔から存在する。この人間たちは「兵役で死ぬことはない」この人間たちがローマに富をもたらした。

古代ローマにおいて「兵役の義務」に対して「ローマ市民権と年金」が与えられていた。共和制といいながら、もともとの有力者、金持ちは「別格」だ。「25年の兵役」を終えたら奴隷でも「ローマ市民となり年金がもらえる」訳だが、「大抵の兵士は死ぬ」のである。実は「死人の金」で戦争が回っていた。

「25年」も生きていられる「老兵」はほとんどいない。古代ローマも「詐欺システム」であった。しかも「戦争に次ぐ戦争」で領地拡大するが、その金は「占領した地域への投資」に消えるのだ。今の年金制度も同じである。「領地拡大が止まったと同時に」、ローマはこのシステムが崩壊した。


実は米国の年金制度は未だに「エリザベス女王」が管理している。年金制度は「軍隊の年金」という構図は変わっていない。「戦争」とは領地拡大と同時に、兵士が「戦争で死ぬ」ことで「その金を奪い」、領地拡大の肥やしにするシステムである。「年金制度と死」は表裏一体の詐欺システムである。

古代ローマにおいて奴隷解放、「ローマ市民権」ただし「25年の戦役・労役」において、軍隊は「占領地の復興・再構築」もあった。ローマのシステムに蛮族を従わせるのだ。蛮族も奴隷となり、その地域のローマ市民になるため領地拡大に励む。25年という年月は今の年金制度とほぼ同じである。
発展途上国も次々に年金制度は導入される。ローマ奴隷のモチベーションである、「25年の労役を経たらローマ市民になれる」である。ローマ市民とは「都市部に住み、年金生活」という「パラダイス」である。「アリーナ・見せ物」夢を見させる理由は、奴隷の効果的な労役を促す為だ。

その「モチベーション」は先進国が発展途上国を全て支配下に置いたとき「崩壊」する。これは「映画マトリックス」同様に「何度も何度も繰り返す」のである。そのギャップが埋まる(先進国=途上国)のは2025年とされる。アフリカが最後の楽園である。先進国は早々に「崩壊させたい」のが奴らの意図

古代中国の「漢民族」と言うのは「民族」ではなく「都市部の人間」である。モンゴルの蛮族が農奴(麦作)を作る事で「都市部に住む人々」を実現させた。古代ローマと「何ら変わっていないシステム」である。蛮族がローマを度々侵略、結果的にローマ人になった。この構図は中国でも一緒だ。

中国でローマ人とは漢民族である。漢民族は度重なる「蛮族侵略」で体制は変わり、混血しても「都市部システム」は変わっていないのである。ローマが崩壊したのは「北の勢力」によるものだった。今では「ロシア」であろう。ともかく、発展途上国が無くなった時、世界は再び崩壊する。(バカボン野郎!)




この本、旧約聖書の書かれた感覚がよくわかるというか、日ユ同祖論の聖書解釈が全然ユダヤ的じゃないかよくわかる本。 おいらが読んだ聖書の解説書の中ではピカイチの内容だと思う。 流石「新共同訳」の訳者の書いた本だわと納得の内容。 これマジでいいよ。図書館で探してみてね。

ねこた‏ @lakudagoya
陰謀論の本を買うならその金で新共同訳聖書買ったほうが有益よねー

「ボクたちが聖書について知りたかったこと」で新共同訳の訳者が書いてるのだけど、全能なる神が世界を作ったっていうのは、その辺に生えてる木までも意図をもって植えられてるもので、自然と言ってもありのままの放置される「自然」なんて日本人の感覚はないって言ってたのが印象的だった。


一般の日本人はこの「コスモス」という宇宙論が皮膚感覚でわからないから女の世界で衝突するのじゃまいか。 カソリックなどでは、このコスモス論を拡大解釈して偽ディオニュシオス天使の階級論に結びつけて、自然状態で階級社会があるのが真理!みたいな発想だと聞いたことあるけど本当?

(『聖書』の正典を読む限り、天使に位階の記述はない。
つまり天使の階級は二次創作。
天界に階級があるから人間界も階級があって当然という御用神学。

位階(ヒエラルキア)の根拠が偽ディオニュシオス(5-6世紀ごろのおそらくシリアの神学者)の『教会位階論』。
ネオプラトニズムの強い影響があるので、当然、一者からの流出論=階級制に非常に都合がいい。
教会の位階も定めている。
彼の天使階級の最上位の名前を使った終わりのセラフって漫画がアニメにもなっている。セラフ=セラフィムが燃えているのが重要っぽい。
なお、13世紀に『神学大全』のトマス・アクィナスが『天上位階論』を改悪した。同人本と聖典をきちんと区別しないのも耶蘇の特徴の一つ。

神様紹介bot(神ボ)‏ @myth_god_bot 2016年10月28日
《セラフ/ユダヤ・キリスト教神話》熾天使。偽ディオニュシオスによる天使の九階級で最高位の階級の天使達。神に最も近い位置にいて、神とその創造物に対し完全な理解をしており、それゆえに神に対する愛で体が燃えているため、「燃えるもの」と呼ばれる。)

原始仏教はカウンセリング術。現世利益を言わない宗教が多いのは、現世利益で幸せになると儲からないから。
『仏教、本当の教え - インド、中国、日本の理解と誤解 』・『原始仏典』・『ブッダの真理のことば・感興のことば』。あと、生き残るために他の宗教に偽装した宗教や、キリスト教が作った「ユダヤという身代わりの生贄」やズルワーンについてなど。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-9.html
” ・北枕=頭を北に向ける
はインドでは最も良い寝方。
員では北に理想国があり、南には死に関する国があると考えられている。
『涅槃経』に釈尊が亡くなられるシーンがあり、北に頭を向けている。
北に頭を向けて死んだ釈尊の場面を読んだ日本人が、北は縁起が悪いと勘違いして生まれたのが北枕。
ちなみに、中国に北枕という言葉自体がない。
「肩こり」は夏目漱石が作り出した病気。造語病。
そういえば、新たな病名を公表すると、その病気の人が「発生」「出現」するから、製薬会社や病院とかが結託してるんだってね。


・日本では蓮の花を持参すると怒られるが、インドでは最もめでたい華なので多くの人が持参する。


・祇園という地名はサンスクリットから来ている。
祗園は祇園精舎の略。
ZION、ジオン、ユダヤなんて関係ないからね。日ユ同祖論って詐欺だからね。
ちなみに、
祗園って、花街(かがい、はなまち)=芸妓屋、遊女屋が集まっている区域を指す名称だからね。(…)本来の仏教では、国王を泥棒と同列に見ていて、あまり尊敬していない。泥棒は非合法に人の物を持って行ってしまう。国王は税金という形で合法的に人の物を持って行ってしまう。人の物を取り上げるという意味で、両者は共通しているからである。
国王だから統治するのではなく、たまたま統治者を選んだら国王だったという発想である。”


高居 ‏@m_m_expensive 2016年12月30日
、浄土真宗では親鸞が「日の吉凶を選ぶことはよくない」と和讃で説いたため、迷信、俗信一般を否定しており、特にタブーとされている。仏教においては本質的に因果関係によって物事が決まり、六曜が直接原因として物事を左右することはない。


illustrator いとう良一 ‏@ryo_town 2016年11月11日
あ、そうなんだ^^; 仏滅や大安等の六曜は、中国の陰陽道の暦占いが伝わったもので、古代から戦争や賭事を占うために使われた俗信。仏教はもちろん神道とも全く無関係。 と。 仏教に関係あるのかと思ってた。

糞袋 ‏@kusobukuro01 1月3日
>ブッダは<穢れ>なんて迷信だ、と教えているはずです! ⇧本当これ。日本の仏教がこの教えをきちんと受け継いでいれば、被差別部落問題はもう少し違った展開になっていただろうに。 https://twitter.com/nagabodhi/status/816074546830684160 …
高山龍智 ‏@nagabodhi 1月3日
在日インド仏教徒を某名刹へ連れて行ったとき、お清めの手水場で一悶着あった。「ブッダは<穢れ>なんて迷信だ、と教えているはずです!僕らはヒンドゥー教で穢れた生き物と呼ばれてきた。だから仏教に改宗したんですよ!」。彼らは祖父の代まで「人類」と見なされていなかったのだ。

gryphonjapan ‏@gryphonjapan 1月3日
既に指摘あるけそ、まあ穢れを水で清めるなぞ迷信…つか仏教とは別の宗教概念だろうけど、手や体をこまめに洗うと穢れが落ちる、という”迷信”が、たぶんどこの宗教よりも(医学的な意味で)命を救ったのだろうから皮肉だ。 https://twitter.com/nagabodhi/status/816074546830684160 … @nagabodhi

閉店です ‏@lakudagoya 2015年10月1日
フェイド大帝おすすめの「インド宇宙論大全」は凄くいい本だ。この人インドのみならずアーリア系の言語や神話に詳しい。ギリシャ語のアンゲロス(天使)の語源がインドの火の神アンギラスなのはやられた!コーランには天使は火から作られたとあるのよね。アーリアの陰謀やべぇ!
閉店です ‏@lakudagoya 2015年5月6日
一説にはパラダイスの語源は、パリダイサ(壁に囲まれた庭)だと言われてる。このパリダイサってのがペルシア語由来なんですわ。ペルシア庭園がルーツかどうか不明だが、このイラン的なこの世のものでない天国を求める感性が後の耶蘇教に取り入れられたならば面白いと思うぞ。

インド・イランはアラブやユダヤと違って現実的な感覚よりも、形而上的な感覚が強いんだよね。だから哲学や宗教が発展してる。ある意味妄想力が強いとも言う。ペルシア絨毯の繊細さとか、ペルシア庭園とか、イスファハンのモスクとか見たら如何にイランが現実離れした美的感覚を持ってるかわかるだろう


閉店です ‏@lakudagoya 2015年4月28日
こーさくいんの言動すら思考の材料に使い、こーさくいんすら仲間にする、誰も敵を作らない事こそ、賢者の条件と言える。ツイッターはその思考実験の場としてはこの上ないパラダイス(パリダイサ。壁に囲まれた庭園で、小宇宙の事)だよ。



閉店です ‏@lakudagoya 2015年5月3日
@kikuchi_8 @bakkajyane_www 神道系の人たちの仏教に対する憎しみは凄いですね。天皇家が仏教にすがってたのにそれを完全に無視した歴史を捏造してます。八咫烏も本当は仏教徒でないといけないですね(笑)空海の話さえなかったことにされますね。


閉店です ‏@lakudagoya 2016年8月8日
日本の文化を作ってきたのは一貫して仏教界だもの。 だから仏教界は中世の歴史も豊富に持ってるから超古代文明のウリナラファンタジーに走る理由もない。 自前の学問も倫理観も美術も何もかも持ってるから西洋の学芸に依存してウリナラマンセーする必要がない。 強者の余裕がそこにある。
閉店です ‏@lakudagoya 2016年8月8日
日本で比叡山などの仏教界に比べてちょー冷遇されてた神道勢力が権力を求めるのって、あれだ、映画アレクサンドリアで貧民を扇動して図書館を焼き討ちにするのに凄くそっくり。それが日本では廃仏毀釈と言うのだけどな。 元から貴族じゃないから超古代を持ち出さないといけないようになる。


閉店です ‏@lakudagoya 2015年6月10日
だって天皇家は仏教にハマちゃったんだよね。空海に超能力で病気を直してもらった事をきっかけに、仏教を優遇しまくる。で、天武天皇が肉食禁止したり、本地垂迹説で仏は神より偉いとか言い出した。そこで困ったのが景教徒だと思うんだよ。だって西域出身の渡来人は肉食禁止されたら困るじゃん。
ダイレクトにアチラ側紐付き金玉親父だってたまにはいい事言うんだけど、正統派は少数の異端派に真実を持たせてコントロールしたと言ってた。それ大当たりだろうな。正統派が隠したい事実を異端派に持たせて表では迫害するフリをして知識を独占させる。日本に来た侵略者たちはそいつらだったって事だ。

↓プロフィールが真言密教僧!
北川 宥智 ‏@OshoUFO 2010年11月25日
空海の持ち帰った書物に景教関連の物は一冊。しかも大乗経典の共同翻訳のみ。空海の著作には景教の影響は全く見当たりません。なぜでしょうね。むしろ彼は善悪の景教的発想を否定していますよRT @sinjidai: 博覧強記で手当たりしだい勉強していた空海がこ学ばなかったはずはありません。

ぐだトマト ‏@pteras14 1月4日
アガルタぐらいマニアックでも 何でもないだろ。 ナチスの密教結社の緑龍会が本当は 青龍会の誤訳で空海が中国で修行 した寺の名前から来てるとかなら まだしも。 #FGO #FateGO

フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 9月17日
フェイド大帝が調べたところ、 旧ナチスのハウスホーファーの 「緑龍会」はどーも誤訳らしい。 実は正しくは「青龍会」くさい。 青と緑を間違えたんだね。

これの何が重要かと言うと、 旧ナチスとチベットの関係。 チベットのオカルトと言えば チベット密教。 日本で密教と言えば空海の 真言密教。天台宗の台密。

で、この空海が密教を習った 唐(中国)の寺の名前が、 「青龍寺」

(緑龍会=真言密教の一派ならあって当然ですね。「龍」からして東洋系)


フェイド大帝 ‏@FeydoTaitei 7月29日
奈良の大仏時代の菩提僊那という バラモン僧が重要そう。 コイツが華厳経とインド呪術を 日本に齎したらしい。

聖武の娘の孝謙天皇という 女の天皇がかなり怪しい。 こいつは重祚して称徳天皇、所謂 道鏡事件の時の天皇。 この女の怪しい所は、自分に反抗した 連中に呪いのあだ名を付けたり、 百万塔陀羅尼みたいな密教系の呪術が 大好き
な所。

陀羅尼ってのはいわゆる「真言」って やつなんだ。 マントラってやつね。 だけど密教系は空海の遣唐使帰還後に 入ってくるはずなんだ。 孝謙の寵愛してた道鏡は法相宗。 西遊記の三蔵法師の玄奘が興した やつで、これはガチ哲学系なんだ。 呪術とかやらない。

となると孝謙がどこでタントラ仏教呪術 を学んだかが肝になって来るんだが、 そこで怪しいのが菩提僊那
という事に なってくる。 菩提僊那の持って来た華厳経ってのは 一番カバラ思想に近くて、ネオプラトニズム に近い教義なんだ。 成立時期もカバラと重なる。

しかも孝謙は法華寺という寺と 関係あるし、母親は藤原家の光明子。 名前もイルミちっくだろう?w 法華経の天台宗と華厳経の華厳宗ってのは セットの仏教だから(本場の中国でって 意味
だぞ?)、最澄の遣唐使からってのは また怪しい話になる。

呪術家の卑弥呼に、呪術好きの 聖徳太子。称徳天皇(孝謙ね)は 読み方も一緒
だw この天皇娘にはもっと秘密が ありそうだw

summer ‏@kuchitarow 4月26日
和気清麻呂を和気穢麻呂(キタナマロ)に改名させた孝謙天皇の家庭教師は吉備真備


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熊田陽一郎 「ディオニュシオス・アレオパギテース」『新プラトン主義を学ぶ人のために』 水地宗明・山口義久・堀江聡編、世界思想社、2014年。
イエズス会 『邦訳日葡辞書』 土井忠生・森田武・長南実 編訳、岩波書店、1980年(原著1603年)。
ジョン・R. ヒネルズ の ペルシア神話

「インド宇宙論大全」は


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お読みくださり心底感謝

工事中 陰謀r追及者の基礎教養としてのカントに必要な量を確保した必要なことはほぼ書いたよ。過去のカント読書メモで見つかったやつ乗せ説く『視霊者の夢』『永遠平和』『純粋理性批判』『実践理性批判』「心が折れそうな時は大体寝不足」「機嫌が悪い時は大体空腹」 

”本書のうち、「啓蒙とは何か」は20ページにも満たないが、じっくりと味わう価値がある。冒頭部分をあげておこう。

中山元訳「啓蒙とは何か」冒頭部分
 啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができ ないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなの だ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうべきものがあるとすれば、それは「知る 勇気をもて」だ。すなわち、「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。(中山元訳、光文社古典新訳文庫、10ページ)

 カントは18世紀の哲学者であり、「啓蒙とは何か」が書かれたのは1784年というから、220年以上前である。だが、この冒頭部分を読んだだけで、い まの時代にいまの人にまさに必要なことが書かれていると感じられるのではないだろうか。このすぐ後でカントは、「ほとんどの人間は、……死ぬまで他人の指 示を仰ぎたいと思っているのである。……というのも、未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ」(中山訳、11ページ)とも指摘して いる。ずしりと心に響く言葉ではないだろうか。そして、「自分の理性を使う勇気をもて」という呼びかけは、まさにいまの人に向けられたものだと感じる。”
http://www.honyaku-tsushin.net/koten/bn/Kant.html
翻訳批評 山岡洋一 古典新訳文庫の出発にふわさしい名著名訳
中山元訳『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』



カントは『実践理性批判』(1788年。64歳)では、キリスト教という宗教ではなく、人間に普遍的な理性と道徳的な原理に基づく「理性宗教」だけを容認していたが、
『たんなる理性の限界内における宗教』(1793年。69歳)ではキリスト教(非理性宗教)のうちにも理性宗教と一致する部分があることを説いている。

だからゴッドの代替物を崇めさせていて骨格がキリスト教のままだから単なる新キリスト教。科学容認、啓蒙主義、理性主義なのに反知性主義が混ざるのが耶蘇。
そんなに理性主義でうまくいく一神教がいいならイスラームっていう成功例があるじゃん。
“他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができ ない”
ことを脱しないといけないんだから、何かの指示を受けないとダメってのはたださねばならない状態じゃん。
この他人が人ではなく神ならOKってか?
結局自律じゃないじゃん。
カントは上記の引用に続いて、他人の指示を受ける楽から抜けられない人がほとんどって言っているので、結局は大半の人々は指示を与えるもの=神が必要って認めてる。
不滅の霊魂も神の存在とセットで要請している。
カントは統治のために何が必要かを書いているともいえる。要請。


実践理性批判のこの箇所が重要。ここだけ二回ぐらい読んだらこの記事はもういいよ。これがカントの道徳と統治の基盤。
永遠平和のためにもこれが前提と言っていい。
結局世界共和国もこの思想が浸透していることが前提だよ。
カントの理想って「神が命じる義務の地獄」なんじゃねーの?

“道徳法則はそれだけでは、〔その法則を遵守する者に〕幸福を『約束しない』。自然の秩序一般の概念から考えるかぎり、道徳法則を遵守することと幸福になることのあいだには、必然的な結びつきは存在しないからである。
そのためキリスト教の道徳論は、最高善の第二の不可欠な構成要素である幸福〔との結びつき〕の欠如を埋めるために、『神の国』の概念を提示している。神の国とは理性的な存在者が道徳法則に全身全霊をもって身を捧げる世界である。この神の国では派生的な最高善を可能にする神聖な創造主の力によって、自然と道徳が、それぞれ単独では無縁なものである調和を獲得するのである

このようにして道徳法則は、純粋実践理性の客体であり究極目的でもある最高善の概念を通じて、『宗教』へと到達するのである。これは『あらゆる義務を制裁としてではなく、神の命令として認識する』ようになること、すなわち『ある他者の恣意的で、それ自体が偶然的な指示』として認識するのではなく、みずからの自由な意志それ自体の本質的な『法則』として認識するようになることである。

このようにして道徳法則は、純粋実践理性の客体であり究極目的でもある最高善の概念を通じて、『宗教』へと到達するのである。これは『あらゆる義務を制裁としてではなく、神の命令として認識する』ようになること、すなわち『ある他者の恣意的で、それ自体が偶然的な指示』として認識するのではなく、みずからの自由な意志それ自体の本質的な『法則』として認識するようになることである。“

だから道徳とはそもそも、いかにしてわたしたちがみずからを幸福に『するか』という教えではなく、いかにしてわたしたちが幸福に『値する』ようになるべきかという教えである。これに宗教が加わると、その場合は、わたしたちが幸福になるに値しなくならないように留意すればするほど、徳に応じた幸福にいつか与るのではないかという希望が生まれるのである。

霊魂の不滅の要請
 しかしこの無限の進歩が可能となるのは、同一の理性的な存在者の『現存』と人格性が『無限に』つづくと想定する場合にかぎられるのであり、これが霊魂の不滅と呼ばれるのである。だから実践的には霊魂が不滅であるという想定のもとでしか、最高善は可能ではない。したがって霊魂の不滅は、道徳法則と分かちがたく結びついたものとして、純粋実践理性が『要請』するものである。“


ここらへんのまとめはまた書き直すけど、今の段階でも統治形態考えるうえで超重要だと思う。
プラトンの国家とアリストテレスの政治学は重要だけどちゃんと登用と中東の統治論も大事だからね。シーア派のホメイニ、スンニ派のア名前忘れた、孔子も牛孫子君主論完全教祖マニュアル。中国史はいろいろな支配体制の宝庫だかr長寿用。弱った理由倒れた理由ももちろん重要。それこそが祖sの統治形態脆弱性だから。

「心が折れそうな時は大体寝不足」「機嫌が悪い時は大体空腹」 散逸した読書メモ見つかったやつ乗せ説く カント哲学を応用していろいろ考えたのって陰謀追及h差ってモグラさんしか見つからないんだけど  
非報 純粋理性批判と永遠平和のためのメモが見つからない インy9うお見つかったやつあるけどその翻訳から甕持ってないからダメじゃねえか

教訓
メモには書名をきちんと書くこと!
著者名もできれば核こと!

批判書のメモが発掘されたぞーなんか適当なファイル飛来的^ワード検索したら出たぞー
店名ならぬ天命だなーーーー
そういやフランス系結社はカント好きらしいねえ
だってカントはスウェーデンボルグ(スピリチュアル結社の教祖)に対して
“霊界は空想家がでっちあげた楽園である。”
って批判しているからね。
啓蒙主義(理性崇拝の新✝)vsスピリチュアル(反知性主義の新✝)

私?
カントも批判するよ。カントの道徳も世界共和国もキリスト教が究極の担保だもんね。
結局耶蘇かよ。


∸―
哲学書を読むコツ

・作者が何を目的に書いたか知る
・基本用語をわかりやすく言い換えている解説を探す
・哲学書は翻訳が複数あるなら比較している人の意見を読む。

翻訳どころか改悪のやつもある。
カントは光文社が新しいから読みやすい(日本語になっているという意味)。
が一番素晴らしいのは世界の古典つまみ食い訳(後述)。

『永遠平和のために』ならいきなり読んでも大丈夫だろうし読者が最も興味があるだろうから、二番目にのせておく。

メモが見つからないけどな!
一番目は一番笑える『視霊者の夢』。

∸―
カントのいう人間が守るべきルール(善い意志へ向かわせる道徳律)は個人の欲求(欲望)が絡んではダメで、
全ての構成員にとって普遍的なルールでないといけない。
論理思考で普遍的な道徳ルールを作ろうとしているが、人間にできるのだろうか。      人間はどうしても主観(欲求)が絡まざるを得ないからこの利己主義が結果的に利他主義に変換されるシステムしないとうまくいかないと私は考える。
啓蒙主義系の哲学者カントはは「大衆は馬鹿。でも改善できる!導き手が必要!」という結論なので、一番強力な導き=強制力=キリスト教を究極の道徳の源泉にした。
カントら一神教的発想の人からしたら東洋の絶対的超越者を前提としない道徳は考えられないのだろう。
儒教、道教、仏教、神道(天皇崇拝がない、単なる自然崇拝)は人間が神になれる思想。
神だけでなく霊魂の不滅も「要請」したカントからすれば、不滅の霊魂を完全否定する仏教は特に理解できない対象だろう。


カントの道徳の究極の担保は善なる絶対存在であると、という啓蒙主義系キリスト教思想を明言しているので、カントの永遠平和って全員が少なくとも一神教信者でないと実現しないと考えていた疑惑が出る。


“自分の好き嫌いを抑えて実行しなければならない義務があるということを明確に意識するとき、人々は自由というものを意識するようになる”
(『純粋理性批判』世界の古典つまみ食い訳)
カントの自由は義務ありきだから不自由。確かに不自由だと自由を意識できる。
自由の定義って、自由な状態にあるときは自分が自由だと自覚できないってことなんじゃないかな。でもAの定義にA入れたら定義にならないしなあ。


カントのいう時間と空間は現象が起こる出現条件・環境で「人間の主観側」。
時間と空間は人間の中だけに存在する。
時間と空間は現象をとらえる人間の主観の中にある。
時間と空間は直感の形式=現象を感覚するため大前提条件。
インド哲学の影響かもね。
啓蒙主義系結社経由?

―――


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こう言い換えるだけでだいぶマシになる用語集

純粋=経験によらない。
先天的=経験によらない。
表象する
=心にイメージを描く、心の中に思い描く、心の中にとらえる。

表象
=心の中にとらえたもの。心に思い浮かべる外界の像(イメージ)。


直観(Intuition)
=推論や論理的思考なしでなされる直接的な認識
=「いちいち考えなくても感覚的にいきなりすぐ判る」
=推論(inference, reasoning)や理性の使用などの、意識的な論理的プロセスなしで即座に知り、認識する能力。

感覚とは関係のないもの(超越的な意味で)
=「純粋~」

「純粋直観」
=純粋     +直観
=感覚より上位の+論理的思考なしでなされる直接的な認識
=感覚より上位で思考なしに即座に得られる直接的認識

ラテン語a priori(アプリオリ)
=先天的、経験によらずに、経験に基づかずに、経験なしで、先験的

=心の中に思い描くこと
=表象
=心の中にとらえる、心の中にとらえたもの。

純粋理性
=経験によらない理性、後天的要素を除いた認識能力の全体。

理論理性
=(道徳的能力たる実践理性に対し理論的能力すなわち)認識能力

実践理性
=経験によらない道徳原理によって意志を規定する理性。

格率
=個人が主観的に行為するときの規則。
普遍的道徳法則とは異なる。


英知界:理性による思考・観念によって捉えられるもの
現象界:感覚的に経験、物理的に認識できるもの
人間はこの二つの世界にまたがって存在している。

『悟性』=understanding

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∸――
『視霊者の夢』


カントがスウェーデンボルグに対して書いた『視霊者の夢』をぜひ。
別の世界についての以上の見解は論証することはできないが、理性の必然的な仮説である。
スウェーデンボルクの考え方はこの点において非常に崇高なものである。byカント
要は、カント「スウェーデンボルグのスピ思想は論証できない。仮説としてはあり」。
啓蒙主義系結社とスピ系結社の対立というか水と油。

発掘されたメモ
スヴェーデンボリ(スウェーデンボルグ)は偉大な発明家であり科学者であった。
1688年スウェーデンのストックホルムで、ルター派の牧師の息子として生まれ、幼少時からすでにかなり神秘的傾向を持っていたらしい。
数学や鉱物学を学び、ウプサラ大学を卒業したあとは長い間スウェーデンの鉱山局の技師をつとめた後で(1719年)貴族に叙せられ貴族院議員となった。製塩機・潜水艇・飛行機まで発案したといわれる。
スヴェーデンボリを世界的に有名にしたのは霊界との交流の記録
であった。
1740年頃から神秘的著作を公にした。
死去した場所は1772年滞留中のロンドンにおいてであり、死後も評判が高まるばかりであった。死後136年を経た1908年になってから母国スウェーデンの学士院が、国王に依頼して軍艦を仕立て、ロンドン郊外に葬られていたスウェーデンボルグの遺体を引き取りにいったほどである。
スウェーデンボルグ信奉者は特にスウェーデン、北アメリカ、イギリスに多く、
1893年にはイギリスだけでも80を超すスヴェーデンボリ信奉者団体があった。
また1910年ロンドンで開かれた国際スヴェーデンボリ会議には、世界中の学者、宗教家など400人が出席し、それぞれ20の専門部会に分かれて、スヴェーデンボリの学殖を20世紀の学問水準に立って討議、検討した。
アメリカの哲人エマーソンや、ヘレン・ケラーがスウェーデンボルグ思想の信奉者だった。

(小物の霊能者ではないことに注意。だから私が重視しているのです。欧州貴族のエキュメニズム側、特に北欧系の中核思想ですから)


・スヴェーデンボリいわく、霊界には太陽があり、これから発する霊流を受けて霊たちは生きている。
したがって、霊流が受けられなくなるように、人(霊)の背後に立つことは霊界ではもっとも非礼の行為とされている。

霊界には三つの世界があり、霊の人格の高さごとに上中下に別れている。
上世界に住む霊は、霊の心の窓が最も広く開け、
中世界はこれに次ぎ、下世界は中より劣る。

(なんか表現が物質的すぎないか?)

また霊界の西の地平線の上に一人の巨人が姿を現すことがある。巨人はやがて大きな腕を霊界全体に渡って振り回し、また額から強烈な光のようなものを全霊界に向けて放つ。そうすると、霊界を侵略し崩壊させようとする凶霊たちは物凄い叫び声をあげて地の中へ落下していく。

霊的な事柄は我々の経験をはるかにこえている。したがって超越的な認識不可能の事柄については、もっぱら「わたしは知らない」と答えなければならない、とカントは言う。
だがカントは霊的事物が経験的概念ではないからといって、その可能性までも全否定していはいない。性急な断定は避けた。
もっともカントの言う霊界は、叡知界とも呼ばれるプラトン的なイデアの世界である。道徳的な原動力もこれに準拠している。人間は時には利己的な傾向の為に圧倒されることがあっても、その本性のどこかに公共的な道徳的原動力が支配
している。こうして人間は極めてひそかな動機のなかでも、普遍的意志の規則に依存している。
これが霊的な法則であり、それにしたがってあらゆる思考者の間に、道徳的統一と組織体制が成立する。そして普遍的意志と合致するように、人間の意志を強制する心情がいわゆる「道徳的感情」にほかならないとカントは説く。
カントの霊界は抽象的な観念の世界である。

・負傷して頭脳の大部分が失われても、生きていて、思考能力も失われていない事例がある。魂の所在地を頭脳内だけではなく他の所在地にするなどいろいろある。

・冒頭p.21“霊界は空想家がでっちあげた楽園である。
(いきなり結論を述べたぞ)

・カントの結論。
人間の理性ではあの世(霊界)のことは判らない(対応できない。扱えない)。
あの世(霊界)に行きたい人が実際にあの世に行くまで(死ぬまで)じっくり待つのが一番(だからあれこれ考えても仕方がない)。
死後にあの世(霊界)でいかなる扱いを受けるか(天国や地獄など)は、今生きているこの世での言動にかかっている。
だから自分のこの世の幸福の心配をしよう。この世の現実の生活に取り組もう(霊について考えるのはもうやめよう)。


(記事主が勝手に内心を推測。
霊とか霊界なんて認識【フィルター】の前提となる鋳型・形式=カテゴリーにちゃんと従ってくれないし、非理性の権化だから哲学で扱うなんて無理なんだよ!)

“人間の理性もわれわれにあの世の秘密をかくしているあの高い雲を、眼前から取り払うことができるほど高揚することはない。さらに熱烈にあの世を渇望する好奇心旺盛な人々に対しては【彼らがあの世に行くまで、じっくり待つことに甘んじるならば】、それがいちばん得策だという、単純だけれども、きわめて自然な回答を与えることができよう。そうはいうもののあの世におけるわれわれの運命は、おそらくわれわれがこの世におけるおのれの立場をいかに保ってゆくかということにかかっているらしく思われることからしても、私は本論文をかのヴォルテールがあの誠実なカンディードに、多くの無駄な学問論争のあと最後に言わせた 『われわれはおのれの幸福の心配をしよう。庭に行って働こうではないか』という言葉をもって閉じることにする。”p.128
※【】は原文の傍点の代役。
※※ヴォルテールの原書では“しかしとにかくわが畑を耕す必要がある”。


・カントの道徳論(引用はこのあとすぐ!)。
利己心(欲。本能)に逆らう、犠牲を要求する道徳的強制力が義務と善意。
義務は善意よりも強い強制力を持つ(つまりより不自由になる)。
道徳(的強制力。義務と善意)は心からなくなることはない。
道徳的強制力は【一般意志】(多数の人間の共通意志)に拘束されていることを示す。
この【一般意志】の法則に拘束されていることを源泉として、すべての思考する存在のなかに【道徳的統一】と、ひたすら霊的な法則に従う組織的な状態が生まれる。
自分の意志を一般意志と一致させる強制力=道徳的な感情。
(ここでニュートンの、全ての物質に働く重力と引力に言及。物質相互の一般的活動の真の結果=引力。)

道徳的な感情を発生させる原因は、霊的存在をたがいに交流させあう真に活動的な力ではないか?
そうなると道徳的感情とは、個人の意志が一般意志に【まさにその通りだと感じられるように拘束】されていること。
かつ、道徳的感情=非物質的世界に道徳的統一を獲得させる上で必要なもの。
また、道徳的感情は自然かつ一般的な相互作用で生まれる。

(突拍子もなくニュートンの重力と引力の話が挿入されていることに着目。
重力や引力は人間の自覚なしに働く。
一般意志も同様に、本人の自覚なしに影響を及ぼす。

錯覚 自分で決めた
実際 一般意志が決めた

道徳的感情は、個人の心から生じる力ではなくて別の真の力により生じることを言いたいのではないのだろうか。
真の力が何なのか読み直してもよく分かりません。
カント自身も突き止められていないのかもしれません。
カント哲学完成前の著作ですし。
カントは道徳的な感情=義務と善意が生まれる原因、どこから来るのかまだ断定していない。
道徳法則を神秘的なもの=経験を超えたものだと考えていたのでしょう。
カントは義務感は生まれつきであり、経験ではじめて生じるのではないと考えたそうです。
経験は人によって違うから「私は義務感が生じるような経験をしたことがありません」と言われかねない。
義務を普遍化、万人に当てはまるとするなら生まれつき備わっているにするしかありませんからね。

私の考えだと、霊的存在を動かせるのだから、「真に活動的な力」とは霊的な力のはず。霊的なら非理性に属する。非理性といえば感情。でもその感情は生まれつきか生まれた後の経験で生まれるのか。両者の混合でしょうね。二元論の罠に注意。
どちらでもないから選択しない・
どちらでもないから新たな選択肢を見つけてそれを選択
・両方という選択肢をお忘れなく。生まれつき器の原形があって、それを経験で改良していくんじゃないの?

道徳的感情
=個人意志を一般意志と一致させる強制力
=個人の意志が一般意志に【まさにその通りだと感じられるように拘束】されていること。

=非物質的世界(霊界。霊)に道徳的統一を獲得させる上で必要な自然にしてかつ一般的な相互作用の所産。
(霊界にも義務と善意による拘束を及ぼそうということね。

殺人は悪だと自分で考えて結論したと思い込まされているだけ。
実際は一般意志に自分は拘束されていて、自分では殺人は悪だと決めてはおらず、一般意志の決定を吹き込まれただけ。自分で決めたと錯覚しているだけ。
あれ、カントにとって道徳的感情=善だよね?
自分で決めたと錯覚させる=善、になるよね?

なるほど、これが支配層が採用する思想か。
秘密投票である限り不正そのものでしかない選挙とかね。
秘密投票である限り不正でない選挙はありえない。
不正=秘密選挙。不正をする為に秘密選挙制度を作った。
記名投票にして票を移動できなくしつつ、投票に責任を持たせるようにしないと駄目。
圧力云々で反論したそうな人がいそうなので、
「その圧力がかかる異常過ぎる世界を変えるのにあなたは何のリスクをも負わないのですか?」と言っておく。
あるいは投票率0%=全員落選にするか。
支持者なし、全員落選という選択肢がない時点で茶番だと気づけよな)

  “われわれの外にいる他人の意志のなかにあって、われわれを動かしてゆく力がある。そのことから、利己心にさからって、われわれを駆り立てる道徳的な推進力が発生する。そのうちより強い法則が義務の法則、より弱い法則が善意の法則である。その
いずれもがわれわれに多くの犠牲を要求する。時にはこの両者は、利己的な傾向によって圧倒されることはあっても、これらが現にあることを示す心の動きは人間の性質のなかでけっしてなくなったりしない。これを通じてわれわれは、もっとも深奥な動機のなかで、【一般意志】の法則に拘束されていることがわかる。そしてこれを源泉として、すべての思考する存在のなかに【道徳的統一】と、ひたすら霊的な法則に従う組織的な状態が生まれる。このようにわれわれの意志を一般意志と一致させるようなわれわれのなかに感じられた強制を【道徳的な感情】と名づけようとするならば、これについては、われわれはおのれのなかに現に起こっている現象を、その原因をつまびらかにすることなしに語っているにすぎない。ところで、ニュートン〔イギリスの物理学者。一六四二-一七二七・訳註〕は、たがいに近よろうとするすべての物質の力に関する確実な法則を重力の法則と名づけた。だが彼はおのれの数学的証明を重力の原因をめぐって起こるかもしれない哲学的論争に妙な具合に関与させたくなかった。それにもかかわらず、彼は重力を物質的相互の一般的活動の真の結果として取扱うことをためらわず、したがってこれに【引力】という名を与えた。
ところで思考する存在のなかの道徳的衝動という現象は、霊的存在をたがいに交流させあう真に活動的な力の結果と考えることはできないであろうか? そうなると道徳的感情とは個人の意志が一般意志に【まさにその通りだと感じられるように拘束】されていることであり、非物質的世界に道徳的統一を獲得させる上で必要な自然にしてかつ一般的な相互作用の所産ということになるだろう。”p.55-56
※【】は原文の傍点の代役。

“そうはいうものの死んでしまえばすべてが終わりだとの考えに耐えられず、持ち前のけだかい人情に基づいて未来に希望をつないでいないようなすぐれた魂の持ち主はけっしていなかった。したがってあの世への期待はすぐれた性質を持つ魂の感覚によるものだとする方が、逆に良い行為は、実はあの世への期待があるからだとするよりも、人間の性質と、道徳の純粋さにずっと適しているように思われる。”p.127

※一般意志(仏語:Volonté générale、英語:General will)
=社会の全ての人に共有される意志。
最低にして最低の人間クズ野郎ルソーの概念。
(発言者がクズなのと内容の正しさは一致するとは限らないけど言わせておくれ)

カントは規則正しい生活習慣で知られ、決まった道筋を決まった時間に散歩した。あまりに時間が正確なので、散歩の通り道にある家では、カントの姿を見て時計の狂いを直したらしい。ある日いつもの時間にカントが散歩に出てこないので、周囲の人々はなにかあったのかと騒ぎになった。実はその日、カントは鬼畜ルソーの「エミール」を読みふけりいつもの散歩を忘れてしまったのであった。



永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』を再読したのでメモ。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-64.html
“・バークリー「何かが存在するとは知覚されているってことにほかならない」
ヒューム「因果の概念は習慣によって作られた我々の信念でしかない」
因果関係そのものは想定されるだけで見えない。

・夢=心の中にあって外界に存在しないもの

カントは、
“ぼくらのものごとのとらえ方にはね、習慣によって作られた信念なんかじゃなくて、それ以外ではありえないような型みたいなものがあるって考えたんだ。そういう、ものごとのとらえ方の基本的な枠組みみたいなのをカテゴリーって言う
んだけどね。日本語で言えば範疇だな。
因果性のほか、まえから使っている『ものとその性質』なんていうとらえ方もカテゴリーなんだ。
ぼくらは、ものごとをとらえるとき、すでに必ずカテゴリーを使ってるんだ。
カテゴリーのくわしい話はまたにするとして、とにかく、さまざまな感覚的経験にカテゴリーが適用されることによって、はじめて、それが【客観的な現実】として認められることになるんだよ。
カントは『視霊者の夢』って変な本を書いてるんだけど、これはね、スウェーデンボルグっていう当時流行の視霊者、つまり霊を見たと称するやつなんだけど、まあ霊媒みたいなもんだな、そいつの言ってることがほんとうかってことを考えた本なんだけどね。結論を言うとね、どんなにありありと見えたとしても、それはありえないこと、つまり『夢』にすぎないんだ。つまり、客観的な実在と対応してないんだよ。なぜかっていえば、要するに因果性のようなカテゴリーが適用されないからなんだな。まあ、カントに言わせれば、猫と話をするなんてことも、ありえないことだ、だからやっぱり『夢』でしかないってことになるかもね。

カテゴリーが適用されることによって、対象は客観的なものになるって言ったけど、そこには統覚っていうはたらきが必要なんだ。統覚っていうのはね、自分が知覚したり経験したりするさまざまなものごとを、カテゴリーに従って秩序づけるはたらきだ〔原文ママ〕なんだけど、それをするのが自我のはたらきなんだ。カントはね、デカルトの『私は考える』っていうあの原理を統覚作用として読み変えたんだ。カントによれば、『考える』っていうことはカテゴリーを適用するってことだからね。
カテゴリーがぼくらがものごとを理解する枠組み
だとすると、
時間空間はぼくらがものごとを感覚する枠組みなんだけど、その話はまたにしよう。
とにかく、カントのこういう考え方はね、バークリーたちみたいに、現実を夢だって言って心の中で起こる夢にしちゃうんじゃなくてね、逆に、時間空間とカテゴリーで、まず心の中で起こる夢みたいなものを考えておいて、客観的な現実全体が実はその中にあら【ねばならない】んだって言う、ってやり方なんだよ。”p.105-107
※〔原文ママ〕も【】も原文にはなく、【】内一文字一文字に傍点。

国家神道=新キリスト教
=平田篤胤思想+現人神思想+ #スウェーデンボルグ 思想。
スウェーデンの貴族スウェーデンボルグの思想が神智学、スピリチュアル、ニューエイジ、宇宙人説、出口王仁三郎の霊界物語、大本教系(主要政党を支配)、大本教系の日月神示の元ネタです。

平塚らいてう(姉が #大本教 信者)が寄稿記事で『霊界物語』と #スウェーデンボルグ の関係を指摘しています。
大本教系の日月神示は和風スウェーデンボルグ。
丸に十字を掲げる大本教の出口王仁三郎の #日ユ同祖論デマ


1766年 - 『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』
Träume eines Geistersehers, erläutert durch Träume der Metaphysik

“1766年、『視霊者の夢』を出版[注釈 3][6]。カントはエマヌエル・スヴェーデンボリについてこう述べている[7]。
「別の世界とは別の場所ではなく、別種の直感にすぎないのである。-(中略)-別の世界についての以上の見解は論証することはできないが、理性の必然的な仮説である。スウェーデンボルクの考え方はこの点において非常に崇高なものである。-(中略)-スウェーデンボルクが主張したように、私は、〔身体から〕分離した心と、私の心の共同体を、すでにこの世界で、ある程度は直感することはできるのであろうか。-(中略)-。私はこの世界と別の世界を同時に往することはできない。-(中略)-。来世についての予見はわれわれに鎖されている。」

イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88#.E7.94.9F.E6.B6.AF

“スヴェーデンボリへの反応は当時の知識人の中にも散見され、例えば哲学者イマヌエル・カントは『視霊者の夢』中で彼について多数の批判を試みている。一方で、限定的に「スヴェーデンボリの考え方はこの点において崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である」(K・ ペーリツ編『カントの形而上学講義』から)と評価も下している。”
エマーヌエル・スヴェーデンボーリ(Emanuel Swedenborg, 1688年1月29日 - 1772年3月29日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AA

∸―
 
『永遠平和のために』

どの翻訳かわからない

・カントは『実践理性批判』(1788年。64歳)では、キリスト教という宗教ではなく、人間に普遍的な理性と道徳的な原理に基づく「理性宗教」だけを容認していたが、
『たんなる理性の限界内における宗教』(1793年。69歳)ではキリスト教(非理性宗教)のうちにも理性宗教と一致する部分があることを説いている。



“ところで他国との関係のもとにある国家が、法の定められていない状態、戦争だけが支配する状態から抜けだすには、理性的に考えるかぎり、次の方法しか残されていないのである。すなわち国家も個々の人間と同じように、法の定めにしたがわない未開な状態における自由を放棄して、公的な強制法に服し、つねに大きくなりながら、ついには地上のすべての民族を含むようになる『国際国家』を設立するほかに道はないのである。
しかしこうした国家は、彼らなりに国際法の理念に基づいて、このことを決して望まず、それを一般的には(イン・テシ)正しいと認めながらも、個々の場合には(イン・ヒュポテシ)否認するのである。だからすべてのものが失われてしまわないためには、『一つの世界共和国』という積極的な理念の代用として、『消極的な』理念が必要となるのである。この消極的な理念が、たえず拡大しつづける持続的な『連合』という理念なのであり、この連合が戦争を防ぎ、法を嫌う好戦的な傾向の流れを抑制するのである。”p.183
『』は原文の傍点の代役。()はルビの代役。以下の引用も同様。

“中国(ヒナ)と日本(ニポン)は、外国からの客を一度はうけいれてみた。しかし後に中国は来航は認めても入国は認めなくなった。日本は来航すら、ヨーロッパのオランダに認めるだけで、来航したオランダ人をまるで捕虜のように扱って、自国の民の共同体から切り離したのだが、これは賢明なことだったのである。”p.187

“秘密条項が適切なものと判断されるのは、次のような場合だけである。すなわち「『戦争にそなえて武装している諸国は、公の平和をもたらすことのできる条件について哲学者が示す原則を、忠告としてうけいれるべきである』」。”p.211

“だからといって国家は、国家の権力の代表者である法律家の言葉よりも、哲学者の示す原則を優先すべきだというわけではない。ただ哲学者の言葉に『耳を傾けよ』というだけのことである。”p.212

“国王が哲学者となったり、哲学者が王となったりするのは、期待すべきことでも、望ましいことでもない。権力を所有すると、理性の自由な判断の行使が損なわれるのは避けられないことだからだ。しかし王者が、またはみずから平等な原則のもとにしたがう王者的な民族が、哲学者という階級を消滅させず、また沈黙させずに、公に議論するのを許すことは、それぞれの職務を明確にするためにも不可欠のことなのである。哲学者という階級は、徒党を組んだり、秘密結社を設立したりすることができない性格をそなえているので、『プロパガンダ』による誹謗の疑いをかける必要はないのである。”p.213

平等な原則にしたがわないから王者的なのですよ。




国際政治学たん @Morgenthau0217 · 2013年12月22日
戦争の勃発を阻止し、国際平和を達成しようという構想は古くから度々提起されてきて、それは以下の6つのタイプに分類されるわ。
①世界政府の実現による平和
②国際法を通じての平和
③民主主義の普及による平和
④自由貿易を通じての平和
⑤紛争の平和的解決による平和
⑥力の均衡による平和
カントが『永遠平和のために』で着目したのは、③と④、そして諸国家からなる自由な連合(⑤が近いかな)。
①の世界政府の実現を夢想したのは、サンピエールが有名。
また、アクィナスやダンテも、その著作の中で全人類を包摂する世界帝国について語っているわ。

自殺を考えてしまう存在@8th day ‏@feelsosuicidal 2013年11月7日
カントの言う国際連盟は唯一つの巨大な国家とは違うのでしょうか?諸国家によって分割されているのが望ましいのは「歴史の途中」に思えますが @Morgenthau0217: (…)世界が諸国家によって分割されている状態の方が、唯一つの巨大な国家によって統合されてしまうより望ましい(…)

国際政治学たん ‏@Morgenthau0217 2013年11月7日
@feelsosuicidal 良い質問だと思うわ。カントは、個々の国家は内部に法秩序を有しているが、個々の国家からなる国際関係は非法律的無秩序な状態だと見なしており、ホッブズに近かったの。
その状態は現実に戦争が起きてなくても「戦争状態」と呼ばれ、これを脱却するために「国際連盟」の設立を唱えたのね。
しかも、その連盟は主権的権力を含まない、つまり連邦ではなく連合的な組織にすべきだと考えたの。
どうして連邦ではなく連合にすべきなのか。連合とは、そこに加盟する国々が、それぞれの国家主権を保持したままの国際組織ね。
それに対して連邦とは、各国の主権を統合した、国家よりも上位の権力機構。確かにこのような連邦(いわば、世界共和国のようなもの)という理念は連合よりはるかに進んだ理念だけど、やはり現実性を欠くわ。さらにカントは、帝国的統治というものが、版図が拡がれば拡がるほど法の及ぶ力が弱くなるということも言及しているわ。そういうわけで、彼は「一つの世界共和国という積極的理念の代わりに、戦争を防止し、持続しながら絶えず拡大する連合という消極的な代替物のみが、法を嫌う好戦的な傾向の流れを阻止できる」と主張したのよ。


中尾 綾 ‏@ayajet128 2月24日
@kikuchi_8 @wayofthewind トム・ヨークのパートナーがダンテのアートを研究してたvia naoshiy: 自衛はロック、ルソー、カント、ヘーゲルがそれぞれ論じた公共哲学の伝統的なテーマであり、世界政府をつくって軍隊の一元化を唱えたのはダンテであった。"

菊池 ‏@kikuchi_8 2月24日
@ayajet128 @wayofthewind なるほど、ダンテは世界政府主義者だったのですね。社会契約論は大東社の啓蒙主義者・革命家の重要な教義の一つですね。カントは「永遠平和のために」という著書で世界連邦みたいなアイデアを出しています。ヘーゲル弁証法は秘密力の得意技ですね。



ねこた‏ @lakudagoya
例えば、本来の意味のNWOを考えるならば(ストア学派による理想を追求するならば)結局的にはイスラーム主義に行き着くわけ。

少なくとも、中世の時点でその理想達成してる。

じゃ、今やってるNWOって何なの?と考えたら、あれは単なるカントなどの思想を悪用した悪政に過ぎないと。
確かにやつらの考えるNWOのさ、SF映画のような世界中の人を狭いところに閉じ込めて徹底的なカースト制度を引くというやつらの目標なんざ、ストア学派やカントの理想の欠片すらねーもん。

あれをNWOとか言ってビビってちゃダメなんだ。

あれは単なる悪政であって、理念無視だから。

カルトの教義にまみれてても、アニメやゲームは教養主義ってスタンスは捨ててはいけないみたいだなw

Fate GOは相当にイギリス系の思想のやつ出るね。

フランス系はやたらとカントが好き。

で、英米系メイソンはフリードリヒ大王などのドイツ系啓蒙主義が嫌いだという法則w

カントの本は少しだけ読んだけど、これストア学派のパクリではなくてオマージュ認定してもいいのでね?

ちゃんと消化してるからオマージュだよ。

二次創作としては完成度高い同人。

単なるコピペではないから。

で、今の世界連邦はみんなカントのコピペだね。陰謀の中核。
世界連邦だってストア学派やカントなどのコピペだしな。

カントの本借りてきたよ。

世界連邦にカントが抜けてたのは痛恨の極みであった。

驚くほど大本教がカントのコピペでワロス

神道カルトの思想の多くはカントが元ネタかよ。西欧かぶれの馬鹿はさっさと死んでほしいわ。



ーーー
応用例

カント哲学と事務のおばちゃんの哲学【20101004】
http://www.mkmogura.com/blog/2010/10/04/962
“たぶん、この話をそのまま哲学のレポートにしたら赤点を食らうだろう。
自分の頭と要素で組み立てられない文系教授には、理解できない話。
 
 
カントの自由とは何か?
 
まず、基本的にヒューム哲学、懐疑的経験論をカントは継承してる。
何度も言うが、「懐疑的経験論=大衆は馬鹿」である。
だから、理性(理念)として(社会構築に必要な要素)として、カントは「神・魂の不滅・自由」を提唱した。
 
まあ、形而上学的な「神」という概念で「大衆は馬鹿」→だから「大衆を騙そう=正しい規律へ誘導しよう」
という話である。
 
 
この全体図が見えてれば以下のこと、全てが説明つく。
 
・人間は生まれながらに自由である(神を必要としてるのになんで?)
・自律(自由)と外律(不自由) 何で分けなきゃならないの?
・義務論という帰結。
 
 
カントの自由の定義を砕いて言うとどういうことか。
 
世の中に欲望がいっぱいある、欲望から切り離し、どんな他人も「手段=人間扱いしない」なんてことをしちゃダメだよ。
で、全部、自分で考えて(他人に影響されちゃダメだよ)
欲望という本能ではなく人間的理性(ここは道徳という意味が入る)で律した中、理性(社会構築の要素)に普遍的な道徳的法則を追いかける時にかぎって、人は自由である。
 
 
つまり、
自分だけで出した考えと方法で(自律)
他人を物扱いしない(道徳的)
 
そういう要素を組み立てると、「カントは自由なんてない」
と言っているのだ。
 
 
今日も、おじいちゃん入れ歯が吹っ飛ぶほどの衝撃的な帰結だ。
 
 
人間は周囲に影響される=自律はない、
本能も捨てられない=絶滅か?、
普遍的な道徳的法則を追いかける=なんで、そんなめんどくさい事しなきゃならないの?=利己主義の原則。
 
どこに自律があって、自由があるのか。
なら、自由なんてないじゃないか?ってこと。
 
 
どこの哲学の教科書にも書いてないコトを教えてあげよう。
 
カントの自由とは、「人間は生まれながらにして、理性(社会構築の要素)に道徳的で普遍な法則を探さなきゃならない使命がある」ということ。
 
全体図を考えれば思想はわかる。
「他律=周りから影響される事、欲望」これらに左右される人は、ヒューム的懐疑的経験論の「大衆は馬鹿」の、馬鹿なわけよ。
つまり、馬鹿は「神とか不死」で操ってるから、「言う事をきいてなさい=不自由でなきゃダメ」という帰結。
 
 
人間はもとから理性に道徳的規律を持っていなきゃダメ。
=人間は生まれながらにして自由である。
※つまり、神で規定される戒律より、自由(理性を追う義務)が優先。
カントにとっての「神」は馬鹿を操るツールなんだから当然である。
 
そして「生まれながら自由である=義務を背負っている」は、カントの自由が、道徳的普遍な法則を探さなきゃならない使命という意味なら、「自由などない」というのは、当然の事である。
 
 
彼の自由は義務なのだ。
だから厳密に言えば、カントの思想に自由などない。
よってカントは「義務論
という帰結につながった」わけね。
 
つまり、批判哲学。そこから義務という答え=生まれながら自由(義務という使命)があると答えを出した。自由と義務をカントはすり替えた。
だから神の規律よりも、自由が優先なわけ。
 
カントは懐疑的経験論から「大衆は馬鹿であること」を意識していた。
「外律=馬鹿な大衆=不自由」
「自律=(理性=自由という義務を背負う者)=欲望を捨てられる道徳的な者=そのものは自由(本来の自由の意味=制限がない行動)である」
 
・自由という権利を持たない馬鹿=神に騙されてろ!!
・自由の使命を知ってる者=理性(社会的構築の要素)に道徳的法則を探し求めろ。自由、何も束縛されずに追いかけろという意味もある。
 
 
 
だれかが社会に規律を持たさなきゃならない。
 
過去の哲学は、そういう現実に沿って存在してる。
哲学も「必要だから」生まれたわけであって。
 
文系の大学教授なんかは、そういう「実務」であることを忘れている。
言い換えるなら、もし「大学運営に必要な理性」という質問に答えられるのは実務を意識した者ばかりだろう。
つまり本当の意味で哲学を教わるなら、文型の教授よりも事務のおばちゃんにでも聞いたほうがいいだろう。その大学に、何が必要で、何が不必要か答えられる=よっぽど有能だ。

 
変な理屈こねたり、馬鹿なサイト見てる前に、「おまんまの分を稼ぎなさい」、これが哲学である(号泣)。
 
 
カントはあたりまえだが、神が形而上的なもの=何もしてくれないを知っている。あくまでも、それをどう使うか?である。それも実務の話だ。
 
だから、自由の使命を知ってる者を、ヒューム的な「馬鹿な大衆」と切り分けて、「規律を作る人」として、その人間だけは本来の自由に近い権利を与えるべき、そして、他の欲望に振り回される愚民どもには自由はないと提唱したわけ。
 
世界で一番干渉的な「神を必要」としたのに、自由には「自律が必要=他者に全く影響されない事」
 
最大の干渉の要素と、究極の不干渉を同時に求める。

カントのこの部分に、間違いはないわけである。
 
この二律背反ともいえるので構成されてるカントの思想は、彼が2枚舌であるわけでも、嘘つきでもなく「実務的に」、「どう必要だったか?」を考えれば簡単なことである。
それなのに文系の教授で、このことに答えられる人間はたぶん少ない・・・だからレポートにこんな事を書いたら、赤点を食らうわけだが。
 
 
今に当てはめてもわかる。
 
神はあくまでも馬鹿を騙すツールである。
これは、今も続く。キリスト教、スピリチュアル、地球温暖化詐欺、アイアンマウンテンレポート、全てに共通する話だ。
「大衆=外律」欲望や周りに振り回される者でしょ?
馬鹿を騙す仕掛け人、ビルダーバーグの上の人だけ「自由=なんでもよし」ということ。これもイルミナティが支持するヒューム、同じくカントの思想だ。
イルミナティ、ビルダーバーグと中央銀行の支配の上の人達がカントを否定した部分は、あくまでもキリスト教での神学を理念として継承してしまった部分だけである。
 
懐疑的経験論からの選民思想を知ってれば、誰でもカントの自由の意味がわかる。
カントのはまだマシなほうだけど。
 
カントの哲学の話では、選民思想=「規律を作る特別な人」に切り分けられた部分でない限り、カントの自由=義務と置き換えられる。



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作者の目的と、基本用語のわかりやすい言い換え


知性には限界があると言ったカント
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/intro_kant_intro.html
”形而上学とはどういう学問か。それは哲学の中で、神の存在とか、死後の世界とか、宇宙の始まりとか、非常に難しい問題を扱う分野である。古来、こ れらの問題に様々な天才たちが挑んできた。例えば古代ギリシャの有名なプラトンもこの問題に答えを出したと信じた一人である。

 しかし、カントは、序論の中で、こうした天才哲学者たちのやり方を手厳しく批判している。それは簡単に言うと、彼らは理性には何が出来るか何が出来ない かをよく確認もせずに、理性を使って闇雲にこうした問題を解こうとした。だから、独りよがりの独断論ばかりにになってしまった、とカントは言うのである。

 そして、カントは、理性にも知性にもそんなことをする能力はないと結論づける。これまでの哲学者は、何でも分析していけば、つまり、理屈をこねていれば、説明ができるという迷信に囚われていたのである。

 実は、人間の能力は理屈だけではない。人間にはもう一つ、感性という重要な能力がある。人間は、この感性の直観というものを使って、新たな概念を見つけ 出してくる。そして、既成概念に新たな概念を付け加えるのである。そうやって、人間は知識の範囲を広げてきたのである。それを彼は総合と呼んだ。

 ところが、プラトンは知性の拠り所が感性であることに気付かなかった。彼は、むしろ感性が知性を邪魔だてしていると考えて、感性の世界を捨て去って、イデアの世界に旅立っていった。しかし、感性という足場を失った知性はどこにも到達できるはずがなかったのだ。


 しかし、そんな難しい問題でなくても、分析の力の限界を教える例はごく身近にある。数学の分野は一見すべてが分析によって出来ているように思われるが実 はそうではない。幾何学は明らかに感性の産物だが、ごく単純な足し算でさえも、分析によって答えを導き出すことはできないのだ。

 カントは7+5=12という足し算を例にあげて説明してみせる。7+5の答えが12であることは、どう理屈をこね回しても出てこない。七と五の和という概念は、あくまで七と五の和でしかなく、そのなかに十二という数字は含まれてはいない。

 分析するということは既存の概念のなかに含まれているものを引き出すことに他ならない。だから、含まれてはいないものを分析によって取り出すことはできないのだ。

 では、十二という答えを人はどうやって手に入れるか。それは感性による直観によって手に入れる。

 感性による直観とは何か。たとえば物の形を見てそれが丸いとか四角いとかを人は一瞬にして理解する。そこにはどんな推論も判断も理屈も入り込む余地がない。それが直観であって、足し算の答えも人は直観よって手に入れるのである。

 人が日常何かの問題を抱えていて、それに答えを出さねばならない場合、大抵は、問題の中にすでに答えがあるものだ。だから、問題が何かを分析して明確化した段階で、答えが得られることがよくある。

 しかし、問題の中に答えが隠れていない場合がある。足し算がこの例であって、そういう場合には分析だけではだめで、感性の助けを借りるしかない
とカントは言うのである。

 こうして、カントは感性の重要さを主張する。しかし、感性といえば人間が直接五感で体験したことだけを意味しそうだが、そうではない。経験に頼らない直観があるとカントはいう。

 経験は多くのことを教えてくれるが、経験による知識には確実性がない。「だいたいそうなる」ということは経験によって分かっても、「必ずそうなる」ということは経験だけによっては分からないからである。

 とくに経験に頼らずに答えを導き出す必要がある数学では「だいたいそうなる」という程度のことではだめなのだ。

 しかし、ヒュームという哲学者は経験に頼らずに総合的判断を導き出すことはできないと言って、形而上学を否定してしまった。しかし、数学にはそれが出来ることを幾何学の存在がすでに証明している。

 どうして形而上学には数学に出来ることが出来ないだろうか。そこでカントは形而上学でも数学と同じことができるかどうかを検証しようとしたのだ。(この『純粋理性批判』という本はそのことをやって見せた本であって、形而上学そのものではない)

 カントは問題を一つの文章に要約している。それは「経験によらない総合的な判断はどのようにして可能か」という問いである。

 それを彼は個別の学問ごとに考えていく。つまり、「純粋数学はどのようにして可能か」「純粋な自然科学はどのようにして可能か」(ここで純粋とは「経験によらない」という意味である)

 そして、数学と自然科学は可能だが、これまでの考え方では形而上学は不可能だと結論づける。つまり、神とか霊魂とかは、感性に基づく知性の働きでは解明できないのだ。

 では、どうして数学には経験に頼らない総合的判断が出来てきたのかといえば、それは経験に頼らない直観がもともと人間の感性に備わっているからだと、カントはいう。それがカントが「感性論」の中で扱っている空間と時間である。

 人には知性と感性がある。そして、情報を受け取るのが感性であり、感性が受け取ったものを処理するのが知性である。また、この感性によって受け取るものが現象である。そして、現象によって人間の世界は組み立てられる。

 では、この現象というものを人間の感性は何を基準にして受け取るのか。その受け取り方をきめるものは何か。それが空間と時間だとカントはいうのである。 そして、人間が情報を受け取るために必要なものは、この二つだけで、この二つのものを人間は生まれながらにして持っているという。

 逆に言えば、空間と時間はどこか別の所にあるものではなく、人間自身の中にあるものなのである。だから、例えば時計は時間を視覚化したものにすぎず、時計が時を作っているわけではない。

 普通なら、時間とか空間とかいうものは、人間の外に人間とは独立してあるものだと考えるものだろう。しかし、そうではなくて時間と空間の原因は人間の側にある
というのがカントの新しさである。

 そして、これがカントが自ら名付けた有名なコペルニクス的転回である。

 「コペルニクスは、天体の運行を説明するのに、天体が観察者の周りを回っていると考えるとうまく行かないので、天体は動かないものと考えて観察者にその周りを回らせたらうまく行かないか試した」(第二版への序文より)

 そして、「もし我々の直観が対象の特性に一致せねばならないとすると、どうすれば経験によらずに対象について何かを知ることができるか、私には分からな い。しかし、もし(感覚の対象としての)対象の方が我々の直観能力の特性に一致せねばならないとするなら、経験によらずに対象を認識できるかもしれないと わたしは思う」(同上)

 対象の本当の姿を知りたければ、対象に直接出会うこと以外には対象を本当に知る方法はない。それには、どうしても経験が必要になる。しかし、自分が知り たいように知るだけなら、つまり、基準が最初から人間の側にあるなら、直接対象に出会う必要はなく、経験に頼る必要もなくなる。

 その基準が数学の場合は空間と時間だというのである。そして、このように自分の側に基準を置いて知ったものは、どこまでも自分が見たいように見て、知りたいように知ったことに過ぎないのだ。

 言い方を変えれば、人間が見ているものは、見たいように見ているだけのもので、単なる一つの現われ、すなわち現象にすぎない。対象の本当の姿つまり「物それ自体」は人間には見えないし、知ることは出来ないのである。

 実際、空間と時間についての我々の日常的な考え方は、ユークリッド幾何学を含めて、地球や宇宙の規模になると途端に当てはまらなくなってしまう。これは誰でも知っていることである。

 しかし、「神」という概念とこの「現象」という概念ほど激しく矛盾するものはない。何と言っても「神」はすべての原因でなければならない。ところが「現 象」の原因は人間にあるのだ。もし、「神」が人間の知ることが出来る「現象」なら、それはもはや「神」ではなくなってしまうだろう。

 ごく簡単に言えば、こうしてカントは、「神のことは考えることはできても知ることはできない」と結論づけた。そこから彼は「神の存在を否定した哲学者」として、一般に知られるようになったのである。

 そして、神の存在を合理的に証明することは出来ない
ということを示したこの本は、子供の頃から神の存在に疑いを抱いていた上記のモームにとっては大きな救いとなったというわけである。

 この本が一読に値する本であることに間違いはない。

 しかし、この本が読みにくい本であることは間違いない。カントは自分でも認めているようにかなりの悪文家である。同じことをくどくどと何度も何度も繰り 返して述べ立てる。こう言えばどうだ、ああ言えばどうだ、これでもか、これならどうだ、これでも分からないのか、もう分かるだろうといった調子である。そ うやっているうちに自分で何を言っているか分からなくなってしまっている所もあるという人もいるくらいである。

 カントは哲学者だから、さぞ用語の選択にも厳密だろうと思うかもしれないが、そうではない(注)。言葉足らずの表現もたくさんあって、読者の方で文脈か ら内容を忖度(そんたく)して読んでやる必要がある。だから、これを直訳などしたら訳の分からないものになることは必定だ。

(注)例えば、Grundsatz と Prinzipは厳密に区別されていないようである。それは、「感性論」で空間の原理にはPrinzip、時間の原理にはGrundsatzが使われていることから も分 かる。これを従来のように区別して訳すと、空間については原理だけが、時間については原則だけが語られていることになってしまう。なお参考のために、原理 あるいは原則と訳した個所には、もとのドイツ語を()内に入れて示した。従来道理に訳した方が意味が通り易いかどうか、確認されたい。

 カントは一度書いた文章を何度も書き直すのだが、分かりやすくするために挿入したところが、前後の文章とぴったり適合していなくて、よけいに分かりにくくなっているところもある。だから、コンマでつないだ長い文章は、挿入部分を無視して読む方が分かりやすかったりする。

 第一版では「総合(Synthesis)」といっていたくせに、第二版で 書き換えた部分ではそれを「結合(Verbindung)」と言ったりもしている。こういうのはしょっちゅうで慣れるしかない。ところが硬い翻訳書になる と、いやそれはカントが意図してやったことに違いないと、別々の物を指してるかのように訳してしまう。だから、よけいに意味が分からなくなる。

 同じ名詞に、中性形と女性形のものがあるのはドイツ語ではよくあるが、それを区別なく使ったりもする。また、ある名詞を中性形で使っておいて、それを女性形の代名詞で受けたりもする。

 同じ事を同じ言葉で何度も表現しないという古代から続く美文の原則はカントにもあてはまるのである。


 それでも、日本語で読みたい人は、河出書房新社から出ている高峯一愚の訳を試すとよい。これはかなり普通の日本語になっている。関係代名詞の処理もス ムーズに行っている。その次によいのが、天野貞祐の訳であろう。しかし、いずれも絶版になっているから図書館で借りるか古本屋で探すしかない。

 いっぽう、岩波書店の新しい「カント全集」の中の「純粋理性批判」の訳は、原文のわかりにくさ曖昧さをそのまま日本語に反映した訳となっている。この本は、本文の校訂と注釈が詳しい。その面での利用に限るのが賢明だろう。

 ところで、この本の中には純粋であるとか先天的であるとかいう言葉がしきりに繰り返して登場する。これは原文では、ラテン語でa priori(アプリオリ)と言い表されている。しかしこれは、先天的な才能などという言い方にでてくるのとは違って、「経験に依らずに」と言う意味で、極めて科学的な意味を持っている。

 経験に依らないと言うことは、現代科学においても重要な考え方である。何かの研究をコンピュータを使って「経験に依らずに」数学的に行うというようなことは、日常茶飯事である。

 この考え方を、哲学の分野に持ち込んだという意味で『純粋理性批判』は画期的な書物なのである。

注: この本の中に頻繁に登場する「Vorstellung(表象)」 「vorstellen(表象する)」という言葉は、心の中に思い描くことである。ただし、「表象」という言葉は一般には使われない意味不明の言葉なの で、わたしの訳の中では、「心の中にとらえる」「心の中にとらえたもの」という感じで訳されている。”


∸――
『純粋理性批判』

カント「純粋理性批判」第二版のまえがき
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/pure-critique-preface2.html
“ 「空間と時間は感性による直観の形式にすぎない。つまり、空間と時間は対象となるものが現象として存在するための条件にすぎない。さらに、我々が持って いる様々なカテゴリー、つまり対象の認識に必要な要素には、必ずそれらに対応する直観が存在する。したがって、我々は何であれ『感性による直観の対象』つ まり『現象』として認識できるだけであって、対象を物それ自体として認識することはできない」これらは全て「批判」の「分析論」の部分で証明されている。

 したがって、理論理性によって認識できるのは経験の対象だけに限られているということになる。しかし、ここで忘れてはならないのは、我々は対象を物それ 自体として認識できないけれども、物それ自体としての対象を考えることはできるということである(原注)。さもなければ、「現象として現れる本体となるも のが無いのに現象が存在する」という不合理なことになってしまうだろう。
原注 対象を認識するには、対象が存在する可能性を証明できなければならない。それが現実に存在することを経験するか、経験によらずに理性の力で証明するかのいずれかが必要である。

 それに対して、我々は自分が自己矛盾に陥らない限り、つまり、その概念を心の中に描けさえすれば、自分の好きなものの存在を考えることは出来る。自分が考えたものに対応するものが現実に存在するかどうかは、その可能性さえも一切気にする必要はない。

 しかし、もしその概念に客観的な有効性を与えたければ、我々が自己矛盾に陥らないというだけでは足りない。それだけでは、論理的可能性は得られても、現 実的な可能性は得られないからである。しかしながら、これを補うものは、理論的な認識の源泉に求める必要はない。それは実践的な認識の源泉に求めることも できるからである。
(…)
さて、わたしは自分の精神を物それ自体の観点から見た場合には、経験を通じた観察によってであろうと理論理性によってであろうと、それを認識できない。 したがって、わたしは、経験の世界の出来事の究極の原因と見なされるような絶対的存在の特性としての自由を認識することはできない。なぜなら、そもそも時 間の制約のもとになく独立して存在するそのような存在をわたしは認識できないからである。というのは、そのようなものを認識するにも、そのようなものは直 観できないために概念として把握できないからである。

 しかしながら、わたしは自由を考えることはできる。つまり、自由を思い浮かべることはそれ自体何の矛盾も含んでいない
のである。ただしそのためには、我 々が「批判」で述べる二つの把握方法、つまり感性による把握(現象の把握)と知性による把握(物それ自体の把握)をしっかり区別して、純粋なカテゴリーも そこから導かれる諸々の原則(Grundsätze)も感性の対象にしか適用できないことを忘れてはならない。

 ところで、道徳は、我々の意志の特徴として、(厳密な意味での)意志の自由の存在を前提としていると仮定してみよう、つまり、自由を前提としなければ不 可能であるような実践的な原則(Grundsätze)が先天的に理性の中に存在すると仮定するのである。しかし、それなのに、もし自由を考えることはで きないと理論理性によってすでに証明されているとするなら矛盾が発生する。つまり、この仮定はくずれて、道徳は自由意志を前提にできなくなる。

 すると、自由と、それと同時に 道徳(自由の前提条件がくずれた以上、道徳を否定しても矛盾には陥らないから)は、因果の連鎖という自然のメカニズムの支配を認めて退場することになるだろう。

 しかし、実際には、道徳が成立するためには、自由は認識される必要はない。自由が自己矛盾に陥ることなく、思考の対象となりうるだけでよいのである。自由意志に基ずく行為は、別の観点から見ると因果の連鎖という自然のメカニズムに従うだけのことである。

 こうして、道徳の教えと自然に関する学問は両立するのである。ただしそのためには、物それ自体を我々は知ることはできないということ、我々が理論的に知ることができるのは物の現象だけであるということを「批判」を通じて学んでおく必要がある。

 純粋理性に対する「批判」の原則(Grundsätze)が積極的な価値を持つことをここまで説明してきたが、それは霊魂の単一性の議論や神の概念についても当てはまる。ここではそれらについての議論はスペースの都合で省略する。

 要するに、わたしが純粋理性を実践的に使用するために「神」と「意志の自由」と「霊魂の不滅」を想定できるのは、理論理性から分不相応な認識能力を取り去った場合だけなのである。

 なぜなら、理論理性が経験を越えたものを認識するには、実際には経験の対象にしか適用できない原則(Grundsätze)を使わざるを得ないが、この 原則はもし経験の対象となり得ないものに適用されると、それを経験の対象つまり現象(超常現象)に変えてしまうのが常だからである。そして、純粋理性を実 践的に使用することを不可能にしてしまうのである。

 そこで、わたしは信仰の余地を残すためには認識を否定しなければならなかった。実際には、純粋理性の限界を見極めることなしに形而上学を研究することが 可能だという独断的(独善的)傾向こそが、道徳を否定する一切の不信仰の真の原因である。そして、この不信仰は常に非常に独断的(独善的)なものである。
(…)
わたしは頑固な独断論者たちに一度聞いてみたいと思っている。霊魂は死後も存在し続けることを霊魂の単一性から証明したと言い、自然のメカニズムに対す る意志の自由の可能性を、主観的必然と客観的実際的必然という無意味でややこしい区別を設ければ証明できると言い、神の存在は最も実在的なものの概念(変 化するものは偶然存在するものであるが、動きの始まりをなすものは必然の存在であるという考え方)から推測できると言われているが、そのような主張が学者 たちのもとを離れて、大衆の心に到達して、少しでも彼らの考えに影響したことがあるだろうかと。

 そのようなことは一度も起こったことはないし、起こるはずがないのである。なぜなら、彼らの主張は大衆が理解するにはあまりにもややこしすぎるからである。


 例えば、一番目について言うなら、限りある人生に満足できない(例えば自分の全才能を開花するには人生は短すぎる)という誰にでも共通して見られる自然な傾向のために、人々はあの世を思い描くのであり、

 二番目について言うなら、自分の好き嫌いを抑えて実行しなければならない義務があるということを明確に意識するとき、人々は自由というものを意識するようになるのであり、

 三番目について言うなら、自然の至るところに現れているすばらしい美と摂理を見るとき、人々はこの世界の偉大な創始者の存在を信じるようになるのである。
 このように合理的な考え方に基ずくものだけが、大衆のあいだに影響力を持つのであって、このような考え方はこれからも決して失われることはないし、それどころか、ますます大きな信頼を得ることだろう。

 なぜなら、これからの学者は、人類全体に関わる問題に関して、もはや大衆(最も尊重すべき存在である)が容易に到達できるレベルよりも高尚でややこしい 議論で相手を煙に巻くべきではなく、誰にでも理解し安く、道徳的な観点から見てもふさわしい根拠を研究すべきであることを、この「批判」を通じて学ぶから
である。

 つまり、純粋理性の領域の変化によって影響をこうむるのは、人類全体に関わる真理を自分たちだけが発見して管理していると思い上がっている学者たちだけ なのである。彼らは、大衆にはそれを使うことを許しても、肝腎のことは誰にも理解できないようにしているが、実のところは「自分たちも分からないものを自 分だけが知っているような顔をしている(ホラティウス『書簡詩』2.1.87)」だけなのだ。




カント『純粋理性批判』序論
(第二版)
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/pure-critique-introduction.html
判断だけでなく、概念そのものの中にも先天的な起源を持つものがあることは示しておこう。たとえば、諸君が経験を通じてもっている「物体」の概 念から、色や硬さや柔らかさ、重み、不可侵性など、あらゆる経験的な要素を一つ一つ取り除いてみたまえ。しかし、物体が占めていた「空間」は物体そのもの が消え去ったあとでも残る。諸君はそれを取り除くことはできないのである。

 このように、形のあるなしにかかわらず、諸君が何かの対象について経験を通じて持っている概念から、経験によって学んだあらゆる性質を取り除いても、 (実体の概念の方が一般的な対象の概念よりも多くの性質を含んでいるにもかかわらず)諸君がその対象を実体であると見なせるような性質、あるいはその対象 がなんらかの実体に属していると考えさせるような性質を取り除くことはできない。
(…)
数学は、我々が経験から離れて先天的な認識の世界でどれほどうまくやれるかを示す輝かしい先例である。数学は直観でとらえられる限りはどんな対象でもど んな知識でも相手にすることができる。ところが、「直観でとらえられる限り」という条件を我々は忘れがちである。なぜなら、数学における直観は経験によら なくても与えられることから、直観が単なる純粋な概念と混同されてしまい、概念だけが扱われているように思われるからである。

 こうして数学によって理性の力の大きさが証明されてしまうと、認識の拡大への欲求はとどまるところを知らない。まるで軽やかな鳩が空気の中を抵抗なく自由に飛び回れるようになると、真空の中ならもっと楽に飛べるのではと想像するようなものである。

 このようにして、プラトンは、知性の活動範囲を制限している感覚の世界を捨てて、理念(イデア)の翼に乗って、純粋な知性という真空の中に飛び出して いったのである。彼には、自分の拠り所とし、自分の支えとし、知性を働かせるための足場とすべきものがなかったから、いくらがんばっても前へ進むことはで きなかった。しかし、自分ではそれには気づかなかったのである。“


『純粋理性批判』 感性論
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/transcendential-element.html
“人がものを知るやり方は判断や推理などいろいろあるが、直接的にものを知るときには直観を使う。ものを考えるときは人はいつも直観に頼るものだ。しか し、直観するためにはその前にその対象を手に入れなければいけない。しかし、神様でもない限り、人が対象を手に入れるには、対象のほうが人の心を触発しな いといけない。

 この対象の触発に応じて、そのイメージを受け取る能力を感性という。つまり、感性によって人は対象を手に入れるのである。ということは、感性のおかげで人は物を直観できるということになる。

 いっぽう、手に入れた対象について考えるのは知性の仕事である。知性が理解するのである。しかし、物を考えるということは、直接にしろ、あるいは何かの 目印を介して間接的にしろ、結局は直観、そして人間の場合は感性のお世話になるしかない。ほかの手段では対象は手に入らないからである。

 そして、その対象が外から感性を触発した結果が感覚である。直観のうちでこの感覚を通して対象とつながっているものを、経験による直観という。この経験による直観の対象で、まだわけの分からないものを現象という。

 しかし、現象を分析してみると、その中には感覚だけでは説明できない要素も含まれている。だから、現象のうちで感覚とつながりがあるものを、わたしは現象の素材と呼び、この乱雑ににあらわれる現象に整理をつけるものを現象の形式と呼ぶことにする。

 様々に受け取った感覚に何らかの形式を与えて整理をつけるものは、感覚自身ではあり得ない。だから、現象の素材は経験によってしか与えられないのに対し て、現象の形式は心の中にその全部が先天的に用意されていないといけない。だから、現象の形式は感覚とは区別して考えることができる。

 わたしは、あらゆる概念のうちで感覚とは関係のないものを(超越的な意味で)「純粋な何々」と呼ぶことにする。すると、感性による直観の純粋な形式が、 さまざまな現象に整理をつけるものとして、先天的に心の中に見いだされることになるだろう。この感性の純粋な形式はまた純粋な直観と呼ばれることもある。

 例えば、物体の概念から、それについて知性が考えること、物質とか、引力とか、分割可能とか、そういうものを取り除いてみよう。次に、感覚で捕らえられ るようなこと、中身が詰まっているとか、表面が硬いとか、何かの色をしているとか、そういうものを取り除いてみよう。こういった経験によって直観的に知る ことのできる要素を取り去っても、なおも残るものがある。それは、物体の持っている大きさと形である。これが純粋な直観なのである。この純粋な直観が働く には、感覚の対象が外部に現実に存在する必要はない。純粋な直観は感性の形式として心の中に先天的に存在するものである。
(…)
人の心には外向きと内向きの二つの感覚があって、我々は外向きの感覚によって対象を外側の空間の中に把握する。対象の形や大きさ、対象の相互の関係は空間の中で決定されるのである。

 それに対して、内向きの感覚は、心が自分自身の存在と内面の状態を直観するものである。この感覚は確かに魂それ自体を一個の対象として直観できないが、 この感覚は一種の形式であって、これによって人は内面の状態を直観することができる。その結果、心の内側で決定されることはすべて時間との関係で把握され る。

 我々は時間を自分の外側にあるものとして直観することはできない。同様に、空間を我々の内側にあるものとして直観することはできない。

 では、空間と時間とは一体なんだろう。それは現実に存在するものだろうか。それとも、単に物が存在するための条件、つまり物と物との関係を意味するだけのもので、物それ自体が直観されることはないが、物それ自体に属しているものだろうか。

 それとも、空間と時間は単なる直観の形式にすぎないのだろうか。つまり、それらは我々の心の主観的な特性にすぎず、我々の心がなくなればそれらによっては何も決定できなくなるようなものだろうか。

 このような問いに答えるために、まず最初に、空間の概念についてよく考えてみよう(expositio)。よく考えると言っても、空間概念をはっきりさ せておこうというだけで、網羅的に説明しようというわけではない。また、「形而上学的に」と言うのは、空間概念を経験によらずに与えられた概念としてに考 えていくという意味である。

(1) 空間とは、経験によって外部から得た概念ではない。なぜなら、空間というものがまずないことには、感覚でとらえたものを自分の外にある何かのも の、つまり、自分がいる場所とはちがう場所にある何かのものと関連づけたり、この感じたものがバラバラであるとかいっしょにあるとか、別々の場所の別々の ものとしてとらえることができないからである。

 したがって、空間というものは、経験を通じて外部の現象同士の関係から借りてくることはできない。それどころか、この外部の経験は空間というものが先にあって始めて可能になるのである。

(2) 空間とは、経験によらないものであって、外部の物を直観するためには欠かせないものである。我々は空間が存在しない状態を想像することはできな い。ただ、空間の中に物が何もない状態を考えることはできる。そうすると、空間とは、様々な現象に依存したものではなく、様々な現象が存在するための条件 ということになる。つまり、空間とは経験によらないものであって、外部の現象にとって無くてはならないものなのである。

(3) 空間とは、物と物との関係を理解して手に入れるいわゆる一般的な概念ではない。空間とは純粋な直観である。なぜなら、第一に、我々はただ一つの空 間しか思い浮かべることができないし、複数の空間について言及するときも、それは一つの空間の部分について言っているだけだからである。

 第二に、この部分的な空間も、全てを包み込む一つの空間に先立って存在するものではなく、また、部分的な空間が寄り集まって全体の空間ができているのでもない。その逆に、部分的な空間は全体の空間の中にあるものと考えられる。

 空間とは、本質的に一個のものなのである。その中にある複数の空間も、複数の空間についての一般的な概念も、全体の空間をいわば柵で区切っただけのもの なのである。ということは、空間に関するあらゆる概念は、経験によらない一つの先天的な直観に基づいているということになる。

 したがって、あらゆる幾何の定理、例えば、三角形の二辺の和は他の一辺より長いという幾何の定理は、直線とか三角とかいう一般的な概念から導き出すことはできない。それは、経験によらない直観によって導き出すしかなく、その結果に疑いをはさむ余地は全くないのである。

(4) 空間は無限の大きさがあると考えられる。ところで、一般に概念というものを考えてみると、それは無限に存在する多様なものの共通の特徴としてそれらに含まれているとともに、その無限のものを自分自身の下に含んでいる。しかし、自分自身の中に無 限のものを含んでいるような概念を考えることは出来ない。ところが、空間とはまさにそのようなものだと考えられる。空間をどれほど小さく分割していって も、分割されたものは必ずその内側に存在するからである。したがって、空間はもともと概念ではなく、経験によらない直観だということになる
(…)
(1) 時間は、経験から引き出される概念ではない。なぜなら、物が同時に起こるとか続いて起こるとかいうことを理解するためには、その前に時間の概念が 経験に先立って我々の心の中になければならないからである。時間というものがまずあると考えてはじめて、我々はいくつかのものが同時に現れたとか、時間を 変えて現れたとか言うことができる。

(2) 時間は必然的なものであって、あらゆる直観の基礎となるものである。我々は現象抜きに時間だけを考えることはできても、どのような現象も時間抜きに考えることはできない。したがって、時間は経験に先立って我々の心に備わっているものである。

 どのような現象も時間の中でのみ実在性を持つことができる。現象は消えて無くなることはあるが、時間が消えて無くなることはない。現象が現れるためには時間は無くてはならないものである。

(3) このように時間が経験に先立つ必然的なものであることに基づいて、時間に関する公理も自明の原理(Grundsätze)も成り立っている。例え ば、時間には一つの次元しかないという原理がそうである。つまり、別々の時間は同時にではなく相前後して存在している(それに対して、別々の空間は時間的 に相前後してではなく同時に存在している) というこの原理(Grundsätze)は、決して経験から引き出すことはできない。

 なぜなら、経験は厳密な普遍性も例外のない確実さも与えることがないからである。普通の経験からはことの真否を知ることはできても、ことの必然を知るこ とはできない。だから、時間に関するこのような原理(Grundsätze)は我々にとってはいわば規則(Regeln)のようなもので、この規則のもと で我々は様々な経験をすることができる。だから、我々は何かを経験する前にこの規則を学ぶのであって、経験を通じてこの規則を学ぶのではない。

(4) 時間とは人が理解して手に入れる一般的概念ではなく、感性による直観の純粋な形式である。様々な時間はたった一つの時間の部分でしかない。そして、たった一つの対象を通じて得ることのできるものは概念ではなく直観である。

 また「別々の時間は同時に存在することはできない」という命題は、一般的な概念から引き出すことはできない。これは総合的な命題であって、概念だけから生まれるものではない。それは時間の直観によって直接手に入れるものである。

(5) 時間が無限であるということは、言い換えれば、我々にとって意味のある長さの時間は、根底に存在する一つの時間を区切ることによってのみ可能になるということである。したがって、元々の時間は区切られていないものでなければならない。

 しかし、ある対象の個々の部分はその全体を区切ることによってしかとらえることができないということは、その対象の全体像は概念によって表されることはなく(なぜなら概念は部分を表すだけだから)直接的な直観に基づかねばならない。
§5
時間概念を超越的な観点から考える

 ここでは、変化の概念と(位置の変化から生まれる)運動の概念も時間というものがあってはじめて可能であることを付け加えることができる。そして、もし この時間というものが先天的な直観(この場合は内向き)でない場合には、どのような概念によっても変化の可能性を理解することは不可能である。

 なぜなら、変化するということは、例えば、同じものがある場所に存在していて次に同じ場所にはもう存在していないということで、同じ対象について矛盾す る正反対の記述を組み合わせることだからである。同じものに対して、二つの矛盾する正反対の記述が相前後して現れるということは時間の中でだけ可能であ る。

 こうして、広い意味での力学──これは我々にとって大きな収穫である──が教える経験によらない多くの総合的な認識は、我々の時間概念によってはじめて可能となるのである。
§6
これまで分かったことから導かれる結論

(a) 時間は単独に存在するものではないし、物の客観的な性質として物に属しているものでもない。したがって、物に対する直観から主観的条件を取り除くなら、時間は消えてしまう。

 もし時間が単独で存在するものなら、時間は現実に対象物がなくても現実に存在するものになってしまう。また、もし時間が物に属している性質であり順序で あるなら、対象となるものの条件として対象より先行するものではあり得ず、総合的な命題を通じて経験によらずに時間を認識したり直観したりすることはでき なくなる。

 その反対に、時間が総合的命題を通じて経験によらずに直観できるのは、時間が主観的な条件にほかならず、我々のあらゆる直観がこの条件のもとで可能とな る場合である。なぜなら、その場合、この内向きの直観の形式(時間)は対象が存在する前に経験によらずに存在すると思われるからである。

(b) 時間とは内向きの感覚の形式である。つまり、時間とは自分自身と自分の内面に対する直観の形式である。というのは、時間は外側の現象の性質とはな り得ないからである。つまり、時間は物の形とか位置とかには関係がない。むしろ、時間は我々が心の内側でとらえた物同士の関係を決めるのである。

 この内向きの直観は形がないために、我々はこの欠点を補うために時間を線にたとえようとする。つまり、時間の経過を永遠に続く一本の線と考えるのであ る。そして、その線の上に様々な物が一列に並ぶ。したがって時間は一次元だということになる。我々は時間のあらゆる特徴を直線の特徴から類推して考える。 ただ一つその例外は、直線の各部分は同時に存在するのに対して、時間の各部分は同時ではなく相前後していることである。

 時間が直線との類似でとらえられるということは、時間の各部分の関係は外向きの直観(つまり空間)を使って表現されるということである。ここからも、時間とはそれ自身が直観であることが分かる。

(c) 時間は全ての現象の形式であり、あらゆる現象の先天的な条件である。空間は全ての外向きの直観の純粋な形式であって、外側の現象だけの先天的な条件である。

 それに対して、我々が受け取るイメージは、それが外側のものを対象にしようと内側のものを対象にしようと、それ自体としてはそれらは我々の心の 中を明らかにするものだから、我々の心の中の状態と結び付いている。しかし、この心の中の状態は内向きの直観の形式という条件の下にある。ということはつ まり、それは時間と結び付いている。したがって、時間はあらゆる現象の先天的な条件だということになる。だから、時間は心の中に現れるあらゆる現象の直接 の条件であるとともに、外側に現れる現象の間接的な条件だと言える。

 もしもわたしが、「外側の全ての現象は空間の中にあり、空間との関係にしたがって経験によらずに把握できる」と、経験によらずに言うことができるのな ら、わたしはこれまで明らかになった内向きの感覚の本質から、「全ての現象、すなわち感覚の全ての対象は時間の中にあり、必然的に時間との関係の中にあ る」と完全に普遍的に言うことができる。

 ものを思い描く我々の能力の中の外向きの直観は、内向きに自己を直観するやり方を使って行われるが、もしこのやり方を捨てて、対象をそれ自体としてとらえるなら、時間は無くなってしまうだろう。

 時間は現象に関してだけ客観的な有効性を持つ。なぜなら、現象とはすでに我々が感覚の対象としてとらえているものだからである。だから、もし我々が我々 に特有の認識形態である直観という感性の要素を放棄して、物それ自体について語り始めるやいなや、時間はもはや客観的なものではなくなってしまう。

 したがって、時間とは我々(人間の側)の直観の主観的な条件であって(だから直観は常に感性によって機能する、つまり対象に触発されたときだけ機能する)、主観の外側で単独に存在するものではない。

 時間はこのように主観的なものであるが、それにもかかわらず、全ての現象に関する限り、つまり我々が経験する対象に関する限り、時間は必然的に客観的なものである。


 我々は全てのものが時間の中に存在すると言うことはできない。なぜなら、このように物それ自体について理解しようとするとき、我々は物に対するあらゆる直観を放棄しているからである。ところが、直観こそは時間が対象と関わりを持つための本質的な条件なのである。

 だからもし、物についての理解にこの条件を付け加えて、全てのものは現象として(すなわち感性による直観の対象として)時間の中に存在すると言うならば、この基本命題はまさしく客観的な有効性および経験によらない普遍性を持っている。

 したがって、我々が言おうとしていることは、時間は経験の世界で実在性を持つということである。つまり、時間は我々の感覚に与えられる全ての対象に関し て客観的な有効性を持っているのである。そして我々の直観はつねに感性によるものであるから、時間という条件に合わないような対象は決して経験することは できない。

   逆に、時間は決して絶対的な実在性を持ってはいないと我々は主張する。もしそんな実在性があるなら、時間は、我々の感性による直観の形式とは無関係に、絶対的に物の存在条件や性質になってしまうだろう。

 このような特性は物それ自体に属するものであって、我々の感覚によっては決してとらえることはできない。そして、これこそが超越的な観点から見た時間の観念性である。つまり、我々が感性による直観という主観的な条件を放棄すれば、時間は無に帰するのである。

 そして、時間は直接(我々の直観とは無関係に)対象の実質や属性となることはできない。しかしながら、時間のこの観念性と空間の観念性を、感覚からの類 推によって説明する過ちを犯してはならない。そういうことをする人たちは、感覚によってとらえられる現象には対象についての実在性があると当然のことのよ うに考えているからである。

 しかし、時間の場合には、そのような対象についての実在性は存在しない。もしあるとすれば、それは対象が単なる現象と見なされる場合だけであり、結局そ の実在性は経験的なものでしかないということになる。この点については、読者は前節(空間について)の最後に(バラについて)述べたことを参照されたい。
§7
解説

 時間は経験の世界では実在性を持つが、絶対的な実在性や超越的な観点から見た実在性は持たないとするわたしの説に対して、学者たちからいっせいに反論が 上がっていると聞いた。だから、このような考え方に不慣れな一般の読者が同様の反論を抱くことは充分考えられる。この反論とは、次のようなものである。

 変化というものは現実的なものである。たとえ我々の外側の現象とその変化を否定しても、我々自身が変化することからこれは明白である。ところで変化は時間の中でのみ起こることができる。したがって、時間もまた現実的なものである。

 この反論に答えるのは難しいことではない。この議論自体は何も間違ってはいない。確かに時間は現実的なものである。つまり、時間は内向きの直観の現実的 な形式である。確かに、わたしは現実に時間を思い描くことが出来るし、自分が時間のなかで規定された存在であることを理解している。ということは、時間は 内面的な経験に関して主観的な実在性をもっているということである。だから、時間は対象として現実的なものではなく、わたし自身という対象を把握する方法 として、現実的なのである。

 もし感性のこの前提条件なしにわたしが自分自身を直観したり、他の存在がわたしを直観したりできるなら、いま我々が自分自身の変化と考えている特徴を見ても、決してそこに時間やそれにともなう変化が認識されることはないだろう。

 このように、時間に対して認められるのは、経験の世界における実在性だけなのである。しかも、時間は我々のあらゆる経験の条件でしかない。しかし、これ まで述べたように、時間には絶対的な実在性はない。時間とは我々の内向きの直観の形式以外の何ものでもないのである(原注)。

 だから、もし時間から感性という特殊な条件を取り去るなら、時間の概念もまた消え去るのである。時間は対象そのものの中にあるものではなく、それを直観する我々の主観の中にあるものにすぎないのである。
原注 「わたしは時間の中に存在し続けていると思う」と言うことはできる。しかし、それは、わたしが自分自身を時間の連続の中にあるものとして、つまり、 自分自身を内向きの感覚の形式に合致するものとして意識しているということに過ぎないのである。したがって、時間とはそれ自体で存在する何かではないし、 物の中にある客観的な性質でもない。

 ところで、中でも空間の観念性に対する明確な反論さえ出せない人たちからこのような反論がいっせいにわき上がったのは、次のような理由からである。

 彼らも、空間の絶対的な実在性を明確に証明できるとは思っていない。なぜなら、彼らの頭には観念論があって、内向きの感覚がとらえる対象(自分自身と自 分の状態)の実在性は我々の意識によって明白だが、外側の対象の実在性は厳密には証明できないと考えているからである。彼らは、内側の対象は明確に現実的 だと思っていても、外側の対象は幻に過ぎないかもしれないと思っているのである。

 ところが、人間がとらえる空間も時間もその実在性は否定されないにも関わらず、空間と時間が単なる現象でしかない、とは彼らには思いもよらないことだっ た。しかも、この現象については常に二つの面があって、一方では、対象が直接観察される(=直観)が(ここではそれをどのようにして直観するかは問わな い。そのために、それがどんなものであるかは不明である)、他方では、この対象に対する直観の形式が問題となる。この直観の形式は、この対象の現れに現実 的かつ必然的に合致するものではあるが、対象自身の中にではなく、現象をとらえる人間の主観の中に求められなければならない。

 以上のようなわけで、空間と時間は、経験によらずに様々な総合的認識を引き出す、認識の二つの源なのである。純粋数学、特に空間に関する知識は、この輝 かしい実例である。空間と時間の二つは両者あわせて、感性によるあらゆる直観の純粋な形式であり、経験によらない総合的な定理を可能にするものである。

 しかし、この経験によらない認識の源泉つまり空間と時間は、単に我々の感性が働くための条件に過ぎないものであり、まさにこの事実によって制限されてい る。なぜなら、空間と時間は、現象として観察されない対象には適用できず、物をそれ自体として示すことができないからである。空間と時間が有効なのはこの 範囲だけである。もし我々がこの範囲を逸脱したりすれば、もはや時間も空間も客観的に利用することは出来なくなるだろう。

 しかしながら、空間と時間の実在性をこのようなものであるからといっても、それによって経験に基づく認識の正確さはいささかも損なわれることはない。経 験に基づく認識の正確さに対する確信は、この二つの形式が物それ自体に関わるものであろうと、それらの物に対する我々の直観に必然的に関わるものあろうと 揺らぐことはないのである。

 一方、空間と時間に絶対的な実在性があると主張する人たちは、それらを独立したものと見るか、物に属するものと見るかの違いはあるが、我々の一般的な経験の原則(Prinzipien)と矛盾せざるを得ない。

 なぜなら、もし第一の立場(これは主に自然を数学的に研究する人たちの意見である)に従うなら、空間と時間という二つの永遠で果てしなく、しかも独立し ていながら、現実には何もないのに、現実に存在するあらゆるものを内に含むためだけに存在する、そんな不合理なものがあると認めなければならなくなる。

 もし第二の立場(自然を形而上的に研究する一部の人たちの意見である)に立って、空間と時間とは現象相互の関係(空間の場合は並存であり、時間の場合は 継起である)であって、経験から引き出され、それ自体としては混乱したものであると考えるならば、彼らは、先天的な数学上の定理が現実のもの(例えば空 間)に実際にあてはまることを否定しなければならなくなる。あるいは少なくとも、それらの定理が例外なく正確なものだということを否定せざるを得ないだろ う。

 なぜなら、このような正確さは決して経験から後天的に得られるものではないからである。実際、このような見方によれば、空間と時間という先天的な概念 は、想像の産物でしかない。しかし、想像といっても現実にはその材料は経験に求めるしかない。しかも、経験から引き出された現象の相互関係から想像力が作 り出すものは、この関係の一般的な要素を含みはするが、想像力は元々この関係が持っている経験という制約を離れては存在できないものである。

 第一の立場に立つ学者たちは、次の点で有利な立場にある。彼らの理論では現象の領域で数学の定理が生まれる可能性があるからである。しかし、彼らがこの領域を越えて認識の幅を広げようとするときには、この空間と時間が制約となって彼らの前に立ちはだかる。

 この点では、第二の立場が有利である。この立場に立てば、対象を現象としてではなく単に知性によって判断しようとするので、空間も時間も障害とはならな いのである。しかし、彼らには真の直観、客観的に有効性を持つ先天的直観という手段がないから、経験によらない数学的認識の可能性を説明できないし、経験 から得た命題を数学の知識と厳密に一致させることもできない。

 空間と時間というこの二つの根本的な感性の形式がもつ真の特徴について我々がうち立てた理論に従えば、このような困難に直面する心配はない。

 最後に言っておくべきことは、この「超越的な感性論」が扱う要素は、空間と時間の二つだけで、それ以外にはないということである。このことは、感性に属 する他の概念、例えば空間と時間の両方を合わせた運動の概念さえも、経験の世界に属するものであることから明らかである。

 というのは、運動という以上は、何か動くものが知覚されねばならない。空間それ自体は動くものではないからである。つまり、動くものとは経験を通じて空間の中に見出されるもの、つまり経験的なものでなければならない。

 これと同じ意味で、「超越的な感性論」では変化の概念は先天的要素の中には含まれない。時間それ自体は変化するものではない。時間の中にあるものが変化 するのである。したがって、変化の概念が生まれるためには、まず存在するものが知覚され、次にそれが相前後して明確化される様子が知覚されなければならな い。つまり、それは経験されなければなければならないのである。
§8
超越的な感性論について全体的な注

I まず最初に読者の誤解を防ぐために、できるだけ分かりやすく感性による認識についての我々の考えを説明しようと思う。

 我々が言おうとしたことは、我々の全ての直観は現象に対するものだと言うことである。我々が直観するものは物それ自体としては我々が直観する対象と同じ ではない。我々が直観するものの相互関係も、それ自体としては、我々の前に現象として現れているのと同じではないのである。

 したがって、もし我々の主観がなくなったら、いや単に我々の感覚から主観的な性格がなくなっただけでも、空間と時間の中の対象の性格も対象の相互関係 も、いや空間と時間それ自体も、すべて消えてなくなるのである。それらは現象としては単独で存在することはできない。それらは我々の中だけに存在すること ができる。

 対象は、物それ自体としては、つまり我々の感性が対象に触発される能力を抜きにしては、我々には全く分からないものなのである。我々に分かるのは、我々 に固有の認識方法だけである。この認識方法は、人間なら全員が持っているものであるが、他の全ての存在が持っているとは限らない。

 我々に関係があるのはこの認識方法だけである。空間と時間はこの認識方法の純粋な形式であって、感覚はその素材なのである。

 我々は、先天的につまり実際のあらゆる知覚より前に、前者(形式)だけは認識できる。そのためを我々はこれを純粋直観と呼ぶ。一方、後者(素材)は我々の認識の内で後天的認識あるいは経験による直観と呼ばれるものをもたらすものである。

 前者は、我々が受け取る感覚がどんなものかに関わらず、例外なく我々の感性に依存する。一方、後者は非常に様々なものであり得る。

 たとえ我々の持つこの直観を最高に明晰なものに高めたとしても、我々はそれによって対象それ自体の特性に近づくことはできない。というのは、我々はせい ぜい我々に固有の直観の方法、つまり感性をよく知ることができるだけである。しかも、この感性が空間と時間という我々の主観に根本的に依存している条件の 下にあることに変わりはない。

 我々に与えられるのは現象だけであり、対象が物それ自体として何であるかは、現象に対する最も洗練された認識能力をもってしても、我々は決してそれを知ることはできないのである。

 したがって、「我々の感性がとらえるのは対象となる物の混乱したイメージにすぎないが、そこには物それ自体に属しているものだけが含まれており、我々に ははっきりと見分けることのできない目印や中途半端なイメージで覆われている」という考え方は、感性と現象の概念を歪曲するものである。そのような考え方 は、感性と現象に関するこれまでの研究を無に帰してしまうだろう。

 そもそも、イメージが明瞭であるか明瞭でないかは単に論理的なことでしかなく、その内容とは関係がない。例えば、「正義」に対する常識的な概念の中に は、緻密な思索によってこの概念から引き出されるものはすでに全て含まれている。ただ、日常的な用法にはこの概念に含まれる様々なイメージははっきりと意 識されてはいない。

 しかし、だからといって「正義」についての常識的な概念には、感性がとらえた単なる現象しか含まれていないと言うことはできない。なぜなら、「正義」は 決して現象とはなりえないからである。それは頭の中にある一つの概念であって、人の行動の道徳的な特徴を表している。しかも、この特徴は行動の外見的な現 象ではなく行動それ自体に属している。

 一方、例えば、直観がとらえる「物体」のイメージは、物それ自体に属するようなものは何も含んでいない。それは何かのものの現象であり、同時にそれは、 我々がその何かによって触発されるされ方を表わしている。そして、この我々の認識能力の中の感受性の部分を我々は感性と呼んでいるのである。たとえその現 象が我々にとって完璧に明瞭なものであったとしても、そのようにして得た知識は物それ自体の知識とは全く違うものであることに変わりはない。

 ライプニッツとヴォルフの哲学は、感性と知性の違いは単なる論理的なものとして扱っている。そのために、我々がもっている認識の特性と起源に対する研究に全く間違った方向付けをしてしまった。

 しかし、感性と知性の違いが超越的なものであることは明白である。それは認識が明瞭であるか明瞭でないかという単なる形式的な違いではない。それは、感 性と知性の両者の起源と内容の違いである。したがって、感性は物それ自体の本質を混乱した状態で認識するどころか、全く認識することができないのである。

 もし我々の主観的な特性を放棄すれば、我々はイメージとしてとらえた対象にも、感性による直観がその対象に与えた特性にも、もはやまったく出会うことはできなくなる。なぜなら、我々のこの主観的な特性こそが、現象としての対象の形式を決定するからである。

 そのほかにも、我々はよく現象に区別を設けて、直観の中に元々含まれていて全ての人間に同じように現れる現象(例えば形)と、たまたま直観にとらえられ はするが感性一般に当てはまるものではなく、単に特定の見方や様々な感覚に特有の構造にとってだけ有効な現象(例えば色)は異なるものであると言ったりす る。そして、前者のタイプの認識は物それ自体を表わす認識であるのに対して、後者は単なる現象であると言ったりする。

 しかしながら、この区別は単に経験的な観点から見た区別であるに過ぎない。我々がもし(一般によく見られるように)この経験的な区別の段階にとどまっ て、経験を通じて直観したものを(それにふさわしく)単なる現象(そこからは物それ自体に属するものは何も見いだされない)としてもう一度扱おうとしない かぎり、我々は現象を超越的な観点から区別することは永遠にできないだろう。

 そうなると、我々は感覚の世界ではどれほど深く対象を調べても、現象しか相手にすることがないにも関わらず、物それ自体を認識できると思ってしまうだろう。


 そこで、空間と時間はそれ自体として客観的なものであって、様々な物がそれ自体として存在するための条件であると仮定してみよう。まず、この両者に関し て経験によらずに例外のない必然性をもつ総合的命題がたくさん存在することは明らかである。特に空間についてはそうであろう。したがって、ここでは空間を 例にとって考察を進めよう。

 幾何学の様々な定理は経験によらない総合的命題であって例外のない必然性を備えているから、そこでわたしは諸君に問いたい。「諸君はそのような命題をど のようにして手に入れるのか、つまり、そのような完全な必然性を備え、例外なく有効な真理に到達するには、我々の知性は何を拠り所にしているのか」と。そ れは概念かさもなければ直観以外にはないだろう。

 ところで概念も直観も経験によらないものか経験によるものかの二種類である。しかし、後者、つまり経験による概念にしろそのもとになる経験による直観に しろ、そのような概念も直観も経験によらない総合的な定理を生み出すことはできない。それらが生み出せるのは単なる経験による総合的命題だけである。それ は経験に基づくものであるために、どの幾何学の定理も持っているような必然性も絶対的な普遍性も備えていない。

 したがって、そのような認識に到達するのは、経験によらない概念か直観のいずれかによることになるが、そのどちらをとるべきかは明らかである。なぜなら、概念だけから得られるのは分析的命題であって総合的命題ではないからである。

 例えば「二本の直線は空間を囲むことはできず、それだけでは図形を描くことはできない」という命題を取り上げてみたまえ。そして、直線という概念と数字 の二という概念からこの命題を導けるかどうかやってみればよい。また、例えば「三本の直線があるときはじめて図形を描くことが可能となる」という命題を、 同様にしてそこに含まれる概念だけから導けるかどうかやってみればよい。そのような努力は全て無駄であろう。

 そして、そのためには直観に頼るしかないことが分かるだろう。それは幾何学がいつもしていることなのである。したがって、諸君は直観によって対象を手に 入れるということになる。ではそれはどのような直観であろうか。経験によらない純粋な直観であろうか、それとも、経験による直観であろうか。もし後者であ るとすれば、普遍的な有効性を持つ定理も、例外のない必然性を持つ定理も、決してそこから生まれることはないだろう。なぜなら、経験によってはそのような ものは決して生まれないからである。

 したがって、諸君は経験によらずに直観によって対象を手に入れなければならない。そして、直観に基づいて総合的な命題を引き出さなければならないのである。

 ではもし、この経験によらずに直観する能力が諸君の中になく、また、形式の面から見ればこの主観的条件が、同時にこの(外向きの)直観の対象が存在する ためには欠かせない普遍的で先天的な条件ではなく、さらに、この対象(三角形)が諸君の主観とは別個にそれ自体で存在するものだとすれば、諸君の側で三角 形を形作るために必然的な主観的条件が、三角形本体にとっても必然的に当てはまると、どうして諸君は言えるだろうか。

 というのは、経験によらずに直観する能力がなければ、諸君がすでに持っている三本の線という概念に、図形という新しい概念を付け加えることは出来ないか らである。ところが、この新しい概念は対象(三角形)の中に必然的に(経験によらない直観によって)見出さねばならないものなのである。なぜなら、その対 象(三角形)は諸君の認識以前に(経験する前に)与えられているものであって、諸君の認識によって与えられるものではないからである。

 さらに、空間(時間も同様である)は諸君の直観の単なる形式であり、諸君が経験によらずに外側のものを対象として把握するための唯一の条件であって、こ の主観的な条件を欠いては外側のものは無に帰してしまう。だから、もし空間がそういうものでないとするなら、諸君は外側のものについて経験によらない総合 的認識を得ることは全くできないだろう。

 したがって、空間と時間とは、我々の内外のあらゆる経験の必然的な条件であり、我々の全ての直観の主観的な条件でしかない。そして、これらの条件のもと では、全ての対象は現象でしかなく、諸君の主観とは別個に与えられる物ではない。これらのことは単に可能なことやありそうなことではなく疑いもなく確かな ことなのである。

 またそれゆえに、現象の形式については経験によらずに多くのことを言えるけれども、この現象の下にあるかもしれない「物それ自体」については何も言うことができないのである。

II 内向きと外向きの両方の感覚の観念性、つまり感覚の対象は単なる現象でしかないという意味で観念的なものであるというこの理論の正しさに確証が欲し ければ、次のことに注目すればよい。すなわち、我々の知識の中で直観に属するもの──喜びや苦しみなどの感情や意志などはそもそも知識ではないからここに は含まない──は単なる関係しか含んでいないということである。それは、直観のなかの様々な位置(広がり)であり、位置の間の変化(運動)であり、その変 化を規定する様々な法則(動力)である。

 その位置に現に存在するものは直観できないし、位置の変化以外に物そのものに起こっていることも直観ではとらえられない。つまり、物それ自体は単なる関 係からは知ることはできない。つまり、外向きの感覚は関係以外のものは何も教えないから、この感覚は対象と主観との関係をとらえることができるだけで、対 象それ自体の内側までとらえることはできないと考えるべきである。

 これは内向きの直観についても同様にあてはまる。それは、もともと内向きの感覚の材料を作っているのは外向きの感覚がとらえたものであり、それで我々は 自分の心を満たしているからだけではない。我々はこの外向きの感覚がとらえたものを時間の中に置き、このとらえたものを経験の中で意識するのに時間を前提 とし、このとらえたものを心に抱く方法の形式的条件として時間を基礎としている。そして、まさにその時間の中身は、相前後して存在する関係と、同時に存在 する関係と、相前後しながら同時に存在する(永遠に存在する)関係だけなのである。

 さて、我々が何かを考えるという行為の前に何かをとらえることができるのは直観である。その直観がもし関係しか含んでいないとすれば、それは直観の形式だということになる。

 この形式は心の内側に何も置かれない限りは何も含んでいない。ということは、この形式は、心が内側に何かをとらえる自らの行為によって自分自身が触発さ れるされ方に他ならない。つまり、直観の形式とは心が自分自身によって触発されるされ方であり、形式の面から見れば内向きの感覚である。

 これまでのところでは、感覚によって把握されるものは、すべてが常に単なる現象である。そして、我々が内向きの感覚の存在を認める以上は、内向きの感覚の対象である主観もまた、単なる現象としてこの感覚によって把握されることになる。

 これは、仮に我々の直観が(感覚を介さない)主観による自発的な行為であって知的なものであるとすれば、我々の主観が自分自身について判断するものとは大違いであろう。

 この理論で一番難しいところは、主観はいかにして内向きに自分自身を直観するかということである。しかし、これはどの理論でも簡単ではない。

 自己意識(統覚)は「わたし」という単なるイメージである。そして、様々なものがこの自己意識によって自発的に(感覚を介さないで)主観の中に与えられるのなら、内向きの直観は知的な(知性の働きによる)ものということになるだろう。

 しかし、人間の場合、自己意識が生まれるには、主観の中にあらかじめ与えられている多様なものが心の中で知覚される必要がある。そして、この多様なものが自発的でなく心の中に与えられる方法こそ、知的直観と区別して、感性と呼ばれなければならない。

 もし自己意識の能力とは心の中にあるものを把握することなら、心の中にあるものがこの能力を触発しなければならない。自己意識の能力はそうすることによってのみ自分自身を直観できるだろう。

 しかし、この直観の形式は心の中にあらかじめ存在するものであって、それが、心の中で多様なものが共存する仕方を、時間のイメージによって(相前後や同 時にあると)決定するのである。というのは、心は自分自身を自発的に直接把握するのではなく、心が内側から触発されるのに応じて自分自身を直観するからで ある。したがって、それは、心のありようを表わしているのではなく、心が自分自身にどう見えるかを表わしているのである。

III 我々が空間と時間の中で直観するという場合、それが外側の対象に対する直観であろうと、我々の心による自分自身の直観であろうと、我々は対象が我 々の感覚を触発する仕方で、すなわち、それらが現象として現れる仕方で、把握するのである。しかし、だからといって、これらの対象が単なる幻想にすぎない という意味ではない。

 というのは、人は常に、現象の中に対象もそれに属する特性も現実に存在していると考えるからである。しかし、与えられた対象と我々の主観との間の関係で は、対象の特性は我々の主観によって直観されるその仕方に依存しているため、現象として我々に現れたものと、物それ自体としての対象とは、はっきり区別し なければならない。

 わたしは空間と時間が物体の存在の条件であり、わたしの魂の存在の条件となっていると考えており、空間と時間の性質は対象それ自体ではなく、わたしの直 観の仕方に依存していると考えている。しかし、わたしがこう言ったからといって、物体は単にわたしの外側に存在するように見えるだけであるとか、わたしの 魂はわたしの自意識の中に存在するように思えるだけだと言っているわけではない。

 現象と見なすべきものからわたしがもし単なる幻想を作り出しているのなら、それはわたしが間違っていることになるだろう(原注)。しかし、我々の感性に よる直観は全て観念的なものであるという我々の理論からはそんなことは起こらない。しかし、もし我々が感性による直観の形式には対象についての実在性があ るなどと言い出したら、その時こそ全てが単なる幻想に転じるのを我々は防ぐことができないだろう。

 というのは、もし空間と時間は物それ自体の特性であるに違いないと考え、それ自体にも実体がなく、実体のあるものの中に現実に属するわけでもないこの二 つの無限のものが存在しなければならないだけでなく、これらは全てのものが存在するための条件でもあり、さらには、存在するものを全て取り除いてもそのあ とに存在し続けなければならない、という不合理なことを我々が考えているとするなら、物体を単なる幻想におとしめたあの善良なバークレーを我々は非難でき ないだろう。



 現象とは、対象と密接に結び付いているが、対象それ自体の中ではなく、常に我々の主観との関係の中に見いだすべきものである。したがって、空間と時間のなかでとらえたことを、そのままの形で感覚の対象に当てはめてもそれは間違いではない。

 それに対して、もしわたしが、対象と主観とのある種の関係を忘れて、自分の判断をその関係の中に限定することをやめて、物それ自体としてのバラが赤いと 言ったり、土星に取っ手があると言ったり、物それ自体としての外部の物体に大きさがあると言ったりしたなら、その途端に幻想が生み出されているのである。

IV 自然神学においては我々は、我々の直観によっては決してとらえることができないばかりか、感覚による直観によっては神自身にとってもとらえることが できないような対象(神)を考えている。そして、我々は神自身が持っているあらゆる直観から注意深く空間と時間の条件を取り去っている。知性には常に限界 がある以上、神が持っている認識能力は全て直観でなければならないからである。

 しかしながら、もし我々があらかじめ、空間と時間は物それ自体の形式であり、様々なものが存在するための条件であって、そこに含まれるものを取り除いて も無くならないようなものと考えているとしたら、我々は神の直観から空間と時間の条件を取り除くようなことをしてどうして正しいと言えるだろうか。なぜな ら、もし空間と時間が全ての存在の条件なら、この二つは神が存在するための条件でもあるはずだからである。

 ということは、もし空間と時間をあらゆるものの客観的な形式としないとすれば、空間と時間を我々の内向きと外向きの直観が持っている主観的な形式と考えるしかないということである。

 そして、この直観は本来の直観つまり対象の存在をもたらすような直観ではなく(そのような直観は、我々の知る限りでは、原存在(神)しか持っていな い)、対象の存在に依存したものであり、イメージを受け取る主観の能力が対象に触発されてはじめて可能となるものである。したがって、この直観は感性によ る直観と呼ばれるのである。

 空間と時間の中におけるこの直観の仕方は、人間の感性だけが持っているものであるとは限らない。思考力のある生き物ならどれでもきっと人間と同じ能力を持っているに違いない。しかし、これが実際にそうであるかどうかを我々は断定することができない。

 しかし、感性のこの直観の仕方は、たとえ人間以外にも当てはまるものだとしても、だからといって感性による直観でなくなるわけではない。なぜなら、この直観は他に起源を持つ(intuitus derivativus)ものであって、決して本来の直観(intuitus originarius)ではない、つまり、この直観は知的な直観ではないからである。

 そのような知的直観を持っているのは、上に述べた理由から、原存在(神)だけだと思われる。それに対して、与えられた対象との関係のなかで直観によって 自分の存在を明らかにし、自分の直観だけでなく自分の存在さえも他のものに依存しているような者が、知的直観を持っているとは思えないのである。ただし、 この説明の(§8)は我々の『感性論』の解説であって、証明と取るべきではない。



• 『純粋理性批判』 概念の分析論

http://www.geocities.jp/hgonzaemon/transcendential-logic.html
“我々の心の感受性つまり心が触発されてイメージを受け取る能力を感性と呼ぶなら、それに対して、イメージを自らもたらす能力つまり自発的な認識能力こそが知性である。

 我々の本性からして、直観は感性によるものでしかありえない。ということは、直観には我々が対象によって触発される仕方だけが含まれているのである。それに対して、感性による直観の対象について考える能力が知性なのである。

 これらの特性は互いにどちらがどちらよりすぐれているということはない。感性なしには対象は与えられないし、知性なしに対象について考えることはできない。中身のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である。

 だから、概念は感性によるものでなくてはならない。つまり、直観による対象を概念に付け加えねばならないし、直観を知性的にしなくてはならない。つまり、直観を概念に従わせねばならないのである。

 この二つの能力はその役割を交換することはできない。知性は何も直観できないし、感性は何も考えることはできない。この二つが一つに結び付くことによっ てはじめて認識が生まれるのである。しかし、だからといってこの二つの役割を混同してはならない。この両者を注意深く分離し区別することには、大きな理由 がある。そのために、我々は、普遍的な感性の法則の研究つまり「感性論」と知性の法則の研究つまり「論理学」を別々に扱うのである
(…)
われわれはこの純粋な知性の概念を、アリストテレスにならってカテゴリーと名付けることにする。なぜなら、われわれの目的は元来アリストテレスの目的と同じものだからである。もっとも、彼の作ったカテゴリーは、われわれのものとは全く違っているが。

カテゴリー表
I 量の概念
単一
多数
総数

II 質の概念
現実
否定
制限

III 関係の概念
従属と自立(実体と付随)
因果と依存(原因と結果)
共同(能動と受動の相互作用)

IV 様態の概念
可能性と不可能性
存在と非存在
必然と偶然

これが全ての総合の基本的な純粋概念の一覧である。これらの概念は知性が先天的に持っているものである。そして、このような純粋な概念をもっている知性 だけが純粋な知性なのである。というのは、知性はこれらの概念だけによって直観のなかの多様なものを介して何かを理解できるからである。つまり、知性はた だこれらの概念によって直観の対象について考えることが出来るのである。


 これらの分類は、判断する能力(思考する能力と同じである)という共通の原理(Prinzip)から体系的に生まれたものである。このような分類は、いきあたりばったりの 運任せに純粋概念を探索しても生まれるものではない。そんなやり方では、全部集まったかどうか決して確信が持てない。なぜなら、それは帰納法だけで分類す ることだからである。それに、このやり方では、純粋な知性にどうしてこの概念は属するがあの概念は属さないのかが決して分からないのである。

 このような基本概念の探索は、まさにアリストテレスのような才知の優れた人間にふさわしいことであった。しかしながら、彼は何の原理(Prinzipium)もなしに思いつくま まに集めていき、まず10個見つけて、それをカテゴリー(範疇[はんちゅう])と名付けたのである。のちに彼はもう五つ見つけたと思って、それを第二範疇 と名付けて、最初のものに付け加えた。

 それでも彼の表は完全ではなかった。その上、その中には純粋な感性の要素がいくつか(時、所、位置、先、同時)と、運動のように知性の基本概念には決し て属さない経験的な概念も含まれている。さらに、派生的な概念(能動、受動)もこの基本概念の中に数えられている。一方、基本概念のいくつかがまったく欠 落しているのである。

 派生概念についてさらに言うなら、それは純粋な知性の持つ真の基礎的概念であるカテゴリーから同じく純粋な派生概念が生まれるものであり、超越的な哲学 の完全な体系においては決して無視されてはならないものである。しかし、それらについては批判的な試みに過ぎないこの本の中では一言言及するだけで充分で ある。

 この純粋な知性の派生概念には(Pradikamente つまりカテゴリーと対比して)純粋知性の属性(Pradikabilien)と呼ぶことにする。基本的で本質的な概念があるなら、派生的で従属的な概念をそれに付け加えるのはたやすいことであり、そうすれば純粋概念の完全な系統図を描くことが出来る。

 第一に、知性がもつ概念を四つに分類したこの表は、二つのグループに分けることが出来る。一つ目は直観(純粋な直観と経験的直観の両方)の対象に向けられたものであり、二つ目はこの対象の存在(対象の相互関係か、対象と知性との関係)に向けられたものである。

 この一つ目のグループを数学的カテゴリーのグループ、二つ目のグループを動的カテゴリーのグループと名付けよう。二つ目のグループでは概念が対になっているのに対して、一つ目のグループではそうなっていない。この違いの原因は知性の本質にあるはずである。

 この表について言えることの第二は、それぞれの分類にはどれも同じく三つのカテゴリーが含まれていることである。これは概念によって先天的に分類する場合には必ず二つに分かれることを考えれば、興味深い事実である。

 その他に、どの分類でも三つ目のカテゴリーは一つ目のカテゴリーと二つ目のカテゴリーを組み合わせて出来ているということも注目に値する。たとえば、総 数(全体)とは多数のものを一つのものと見ることに他ならない。また、制限とは現実と否定とを結び付けたものに他ならない。さらに、共同とは、ある実体と 別の実体の間の相互の因果関係のことである。そして最後に、必然性とは可能性によって与えられた実存のことに他ならない。

 しかし、だからといって、三つ目のカテゴリーが純粋な知性の単なる派生概念であって、基本概念ではないと考えてはならない。というのは、第三の概念を産 み出すために第一と第二を結び付けることは、知性の特別な活動を必要とするからであり、その活動は第一の概念と第二の概念を産み出すための活動とは別物だ からである。

 したがって、例えば、ある数の概念(総数のカテゴリーに属する)は、単一の概念と多数の概念からだけで生まれてくるわけではない(たとえば無限は単一と 多数では説明できない)。あるいはまた、原因の概念と実体の概念を結び付けても、必ずしもそこから影響の概念が生まれて、ある実体が別の実体の何かの原因 となれることが理解できるとは限らない。だから、影響の概念が生まれるためには、特別な知性の活動が必要なことは明らかである。これはほかの場合でも同様 である。

 上記の表について言える第三のことは、唯一、三つ目の分類の「共同」のカテゴリーだけは、知性の論理的活動の一覧表の中の対応する「選択的な判断」と一致している度合いが、他の場合よりも少ないように見えることである。

 「共同」のカテゴリーが「選択的判断」と一致していることを確かめるには、次のことに注目すればよい。つまり、あらゆる選択的判断においては、その判断 に含まれるすべての選択肢を全部合わせた領域が一つの全体であり、選択的判断とはこの全体が部分(従属的概念)に分かれたものと見なされるということであ る。

 そしてある判断が他の判断に含まれることはないから、それらは互いに並列関係になることはあっても従属関係にはなることはない。その結果、それらは序列 の場合のように一方向に影響を与えることはなく、集合体の場合のように相互に影響し合う(選択肢の一つが選ばれた場合には、他の選択肢は排除される)と考 えられる。

 様々な物が集まって出来る一つの全体についても、同様の結びつきを考えることが出来る。というのは、「結果」としてのある物が、その存在の「原因」とし ての別の物に従属するのではなく、両者は並列関係にあって、相互にそして同時に、それぞれが原因として他の物に影響を与えるのである。(例えば、物体の各 部分は相互に引きあっており、反発しあっている)

 この結びつきは、単なる原因と結果(根拠と結論)の関係に見られる結びつきとは全く異なっている。後者の場合には、結果の方が反対に原因に対して影響を 与えることはないから、結果が原因と一緒になって一つの全体を形づくることはない(例えば、世界の創造者が世界と一緒になって全体を形作ることはない)。

 知性は、部分的な概念を一つに合わせた領域を思い描くときには、ある物が分割可能であると考えるのと同じ振舞いをする。そして、前者の場合に、部分的な 概念のそれぞれが互いに排除しあいながらも一つの領域に結ばれているように、後者の場合も、分割された部分のそれぞれが他の部分から独立して存在している が、しかもなお一つの全体の中で結ばれているのである。”




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カント『実践理性批判』中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2013


義務=強制力=道徳法則への服従
=嫌々でもやれと命じる=不自由。
義務=神の命令=法則。
掟の哲学。

”最高善の第一の、そしてもっとも主要な部分である『道徳性』を必然的に完成するという課題である。この課題は永遠のうちにおいてしか十分に実現されないものであるから、〔人間の霊魂の〕『不死』が要請されるようになったのである。この法則はさらに、これまでと同じようにまったく偏向のない理性に基づいた公平な形で、最高善の第二の要素、すなわち道徳性にふさわしい『幸福』を実現することを可能にするものでなければならない。そのためには、この〔幸福という〕結果をもたらすにふさわしい十全な原因が現実存在することを前提にしなければならない。そこで純粋理性の道徳的な法則を定めることと必然的に結びついたわたしたちの意志の客体である最高善が可能となるための必然的な条件として、『神の現実存在』を要請しなければならない。わたしたちはこのつながりについて納得のできるように説明しなければならない。
p.151 第二巻
カント『実践理性批判』中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2013
※『』は原文にはなく、傍点の代役

道徳法則はそれだけでは、〔その法則を遵守する者に〕幸福を『約束しない』。自然の秩序一般の概念から考えるかぎり、道徳法則を遵守することと幸福になることのあいだには、必然的な結びつきは存在しないからである。
そのためキリスト教の道徳論は、最高善の第二の不可欠な構成要素である幸福〔との結びつき〕の欠如を埋めるために、『神の国』の概念を提示している。神の国とは理性的な存在者が道徳法則に全身全霊をもって身を捧げる世界である。この神の国では派生的な最高善を可能にする神聖な創造主の力によって、自然と道徳が、それぞれ単独では無縁なものである調和を獲得するのである。
”p.159-160
 第二巻
カント『実践理性批判』中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2013
※『』は原文にはなく、傍点の代役


自己犠牲はキリスト教の特徴。わざわざ殉教者という言葉があるほどに自己犠牲賛美。でも支配層は自己犠牲をしませんよ。奴隷限定の自己犠牲。


“ このようにして道徳法則は、純粋実践理性の客体であり究極目的でもある最高善の概念を通じて、『宗教』へと到達するのである。これは『あらゆる義務を制裁としてではなく、神の命令として認識する』ようになること、すなわち『ある他者の恣意的で、それ自体が偶然的な指示』として認識するのではなく、みずからの自由な意志それ自体の本質的な『法則』として認識するようになることである。”p.164
 第二巻
カント『実践理性批判』中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2013
※『』は原文にはなく、傍点の代役


だから道徳とはそもそも、いかにしてわたしたちがみずからを幸福に『するか』という教えではなく、いかにしてわたしたちが幸福に『値する』ようになるべきかという教えである。これに宗教が加わると、その場合は、わたしたちが幸福になるに値しなくならないように留意すればするほど、徳に応じた幸福にいつか与るのではないかという希望が生まれるのである。”p.165-166
 第二巻
カント『実践理性批判』中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2013
※『』は原文にはなく、傍点の代役


“世界のうちで最高善を実現することは、道徳法則によって規定されうる意志の必然的な客体である。しかしこの意志にとっては、その心構えが道徳法則に『完全にふさわしいものとなること』が。最高善を実現するための最上の条件である。だから〔道徳法則に完全に〕ふさわしくなることは、その客体と同じように可能でなければならない。この〔道徳法則に完全に〕ふさわしくなることは、〔最高善という〕客体を促進せよという同じ命令のうちに含まれているからである。
 しかし意志が道徳法則に完全にふさわしいものとなっていることは、『神聖性』であり、これは感性界に属するいかなる理性的な存在者にとっても、その現実存在のいかなる時点においても所有できない完全性を意味するのである。しかしこの〔道徳法則への〕ふさわしさは実践的には必然的に求められるものであるから、〔道徳法則への〕完全なふさわしさへの『無限につづく進歩』のうちにしか、みいだすことができない。そして純粋実践理性の原理によればこのような実践的な進歩を、わたしたちの意志の実在する客体として想定することは、必然的なことである。

177 霊魂の不滅の要請
 しかしこの無限の進歩が可能となるのは、同一の理性的な存在者の『現存』と人格性が『無限に』つづくと想定する場合にかぎられるのであり、これが霊魂の不滅と呼ばれるのである。だから実践的には霊魂が不滅であるという想定のもとでしか、最高善は可能ではない。したがって霊魂の不滅は、道徳法則と分かちがたく結びついたものとして、純粋実践理性が『要請』するものである。
ここで要請というのは、『理論的な』命題でありながら、しかもアプリオリに無条件で妥当する『実践的な』法則と分かちがたくむすびついているため、証明することができない命題のことである。”
p.145-146 第二巻
カント『実践理性批判』中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2013
※『』は原文にはなく、傍点の代役


時間とはわたしたちの感性的な直観のたんなる形式にすぎず、感性界に属する者としての主体が、像や観念を思い描くときにとらざるをえない固有の思い描き方にすぎないということである。”
p.90第二巻
カント『実践理性批判』中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2013



“道徳律は世界における最高にして可能な善をわたくしのすべての行為の最終的な対象とすることを命ずる。けれどもわたくしは、わたくしの意志と神聖で善良な世界創造者の意志との一致によるよりほかに、この最高善の実現を望むことはできない。そして、最大限度の道徳的(被造物において可能な)完全と最大の幸福とが、その中でぴったりと釣合いをとって結ばれていることを表象させる全体の概念としての最高善の概念の中には、『わたくし自身の幸福』が同時に含まれているけれども、最高善を助成するために示される意志の規定根拠は幸福ではなく、道徳律(これは無制限にわたくしが幸福を求めるのを制約に基づいてむしろ厳しく制限する)である。
それゆえ、道徳とても本来は、いかにしてわれわれが自分を幸福に『す』べきかではなく、いかにしてわれわれが幸福に『値いす』るものとなるべきかという教えである。宗教がこれに加わってくるとき初めて、われわれが幸福に値いしなくはないように思いめぐらした程度に、いつかは幸福に与かるだろうという希望も入りこんできたのである。
或るひとが或ることもしくは或る状態をもつに『値いする』のは、そのようにもっているということが最高善と一致する場合のことである。ここでかんたんに知りうることであるが、すべてが値いするということは道徳的態度に関係する。というのは、この態度は最高善の概念にあっては、ほかのもの(この状態についているところの)つまり幸福に与かることの条件となるからである。そこでこの点からいって、道徳そのものは幸福の教えつまり、幸福に与かるための教えとされてはならないということになる。”p.110-111、カント『実践理性批判』樫山欽四郎 訳、『世界の大思想』第一六巻、河出書房新社
※『』は原文にはなく原文の傍点の代用。





∸―


カントの言う『英知界』『現象界』の意味
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1385377388?fr=pc_tw_share_q”
“まあ[現象界]てのは、簡単に言えば

我々人間が[理解出来る]又は[認識出来る]という《範囲》の事だな

カントの言う《理性》てのは、非常におおざっぱに言うと

《時空認識と、その認識のカテゴリーの当て嵌め》にある

まあ要するに、人間が認識出来るのは、結局全てが《時空》な訳なんだよ

この時空認識を、人間は先天的能力に当て嵌めて、様々に構築し、対象をカテゴリー分けしていくんだな

ま、簡単に言えば

《空を飛ぶ渡り鳥の群れ》が、綺麗な三角形を形成して飛んでいる[現象]を見た際に

我々の能力は《三角形が空間を移動している》と、認識出来る力を保有しているのだが

この《三角形を三角形と認識出来る》また《それが時間と共に、空間を移動している》と認識する事そのものが

まさに悟性、つまり《カテゴリーに当て嵌めている》という訳だ

つまり、我々人間は、世の中を理解する事が可能な《認識能力の範囲内》が、その時空認識と悟性による構築の範囲内であるとしたんだな


だから当然、我々は《想像》や《経験や知識》も、その能力基盤上にしか成り立たないのも、またしかりな訳だ

ま、つまり《英知界》てのは、その認識能力が《働きかけられない範囲》を指す事になる

例えば《人格》とか《信仰》とかなんかは分かり易いと言える

[あの人は人格者だ]
[彼の信仰心は素晴らしい]

まあ、良く聞く台詞だが、解るとは思うが、これらはもはや

《目にも見えない》し《音もしない》し、どうした所で《表現が出来ない》という訳だ

つまり時空認識やカテゴリーの範囲内に現れないという性格を持っている

だが間違いなく《人格》や《信仰》という事実は、そこに《在る》訳で、これは疑いようがないんだな

こういった、経験や理論を越えた物を、少なからず人間は保有出来る部分がある

《認識出来ない》のにも関わらず《在る》

これをカントは《人間は現象界に属しながらも、英知界に棲む》とした

その英知界が、いかに構築され、理論的に理解する事などは、人間には不可能であるんだな

何故なら、我々は《認識した事は、全て現象界》になってしまうからな訳だな”

∸―

野原燐 ‏@noharra 5月31日
「カ ントは自由・魂の不死・神の現存在を「実践理性の要請」とすることで、人間の認識を超越した事柄に「理性的に」アプローチする道を示した。…宗教的な事柄 に合理性、すなわち理性的であることを要求するということは、それが個々人の恣意的な趣味判断や好みであることを許さないということである。


苫野一徳 ‏@ittokutomano 2013年8月22日
カントの与えた答えは、「神の要請」。認識論的には神の存在は決して証明できないが、「最高善」の可能性を求めるのであれば、神の存在を想定する以外にない、と。

イシカワ トモヤ ‏@Ishikawa_Tomoya 2013年3月16日
自 由意志などない、にもかかわらず自由意思はある(と「見なす」)。自由は義務(カント)、ということは、人間は自由(であること)の責任から逃れられな い、つまりは人間は本質的に自由であるということを認め引き受けなければならない、自由という刑に処せられている(サルトル)ということなのかな

ライト@不安定 ‏@raitonshine 2012年11月9日
カントは「義務に基づいて行為できること」を「自由」と呼ぶが、それは「義務に縛られることができる自由」でもある。それは人間を抑圧から解放しない。自ら抑圧される自由。ある意味では(というか普通の意味では)とても不自由


筆硯独語(HikkenDokugo) ‏@HikkenDokugo 2013年7月1日
カ ントにおいては、「魂の不死」と「神の存在」は要請される。この二つは、どーしても、立脚地、前提としてないと、どうしようもない。そもそも理性とか認識 とか世界に意味を見るとかが成り立っていないはずである。なんだけども、同時に、カントは、「神は、全知全能で、神は、すべて、ただ一つの例外

筆硯独語(HikkenDokugo) ‏@HikkenDokugo 2013年6月30日
言い換えると、カントは、「神は全知全能で、神はすべてである、たった一つの例外を除いて…神は存在はしてはいない」と言ったとも解釈可能。

筆硯独語(HikkenDokugo) ‏@HikkenDokugo 2013年7月1日
@HikkenDokugo ここからカント『実践理性批判』における「魂の不死」と「神の存在」の二つの要請が出てくる。(『実践理性批判』において本来の意味での要請とは、魂の不死と神の存在の二つだけ。『実践理性批判』において、「自由」は、本来の意味での要請ではない。)

ライト@不安定 ‏@raitonshine 2013年6月2日
こっ からは僕の解釈やが、「カントは善と幸福の一致のために神(キリスト教的神)が要請されると考えた」のではなく、「善と幸福を一致させるために要請される ものをカントは神と呼んだ」と考えた方がスマートだと思うんだよね。そう考えると弁証論は神学というよりも政治学、社会学の領域になる

二荒山碑文 ‏@FUTARASAN 2013年1月30日
【好きな言葉7】「人間は、理性的である故に自由であり、自由である故に道徳的である。その道徳性は最高善、つまり霊魂の不死と神の存在を要請する」(カント)

田蛙澄 ‏@taatooru 2013年1月29日
カントやフィヒテは神を理論理性で証明することを避け、神を実践理性によって要請しようとした。しかし、ショーペンハウアーはそこで神なしに倫理が成り立つことを提示した。無神論の認識から倫理への進展。

もするさ ‏@CLONE_P0806 11月28日
文学者や思想家にはクズエピや畜生エピに事欠かない人が多いよ。マルクスの話聞いてむしろエンゲルスの男気に惚れちゃうくらいにマルクスはクズだったし、ルソーなんて私生児振りまいた畜生畜生アンド畜生。

SCHEMA EXPERIE @SCHEMAeXPeRiExi · 9月7日
私たちが風景や絵画や音楽などに接したとき、時間と空間という形式を持つ直感能力で情報(感覚的知覚:印象)を捉えます。 これがカントの言う『感性』です。次に、いろいろな感覚的知覚を分類・整理してイメージを構築します。 このような論理的能力を『悟性』と呼んでいます。

森の中の詩人‏@morinosijin2011年5月31日
「また前者が感性の形式(空間・時間)によって成り立つ世界であることから、『感性界』と呼ばれるのに対して、後者は、それらの形式から解放されている、あるいは超えているという意味で、『英知界』とも呼ばれる。」(石川文康;カント入門)(補足:現象→現象体・感性界、物自体→可想体・英知界)

山田大輔‏@YA_DA1月4日
Wikipediaのカント「視霊者の夢」の解説が腑に落ちん。 「ウソかホントかわからんが、少なくてもこの世のことではないからどうでもいいんじゃねえの? 重要なのは、この世の中のことだろ?」って結論だと思うんだが。

11uk3w‏@11uk3w9月28日
カントもまた『視霊者の夢』のなかで私達の精神や魂が脳味噌にのみ宿る、というのはおおきな誤解である、現に頭部の一部を切除されても問題なく悟性を働かしている人間がいるのだから(逆に臓器の一部を切除して人格が変わった例も存在する)脳への信仰を改めるべきではないかということを書いていた。

京都大学哲学研究会‏@kyototekken7月14日
あれ、でも理性の限界を超えてることについてはわからないって純粋理性批判のオチと同じじゃね?この思想に哲学的な装いと無駄な文章力とを付け足すことで視霊者の夢ができたように、それをもっと大掛かりにしたらできたのが純理なんじゃね?みたいな話を例会後した


苫野一徳 ‏@ittokutomano 2月23日
もっ とも、ソクラテスには、あえてすっとぼけて「無知」を装ってる感もあったり、「一緒に探求したい」とか言いながら、実は誘導尋問ぽいことをしていたり、ソ フィストの詭弁を批判しながらも、実は自分が一番詭弁を弄していたり、とかいうところもあって…でもそこが憎めなかったりもするんですが、笑

原田 忠男‏ @harapion 2016年10月8日
スウェーデンボルグに関してはイヌマエル・カントによる論評がある。『視霊者の夢』(講談社学術文庫)。『純粋理性批判』と同様、心霊は人間の認識能力を超えているいうものである。「この種の人々を焼き殺すことが必要であると思われたが、いまでは彼らの腸内を下剤で浄化するだけで十分であろう」

大田俊寛 ‏@t_ota 2010年6月24日
● ニコニコ動画で、脳機能学者の苫米地英人と、参議院議員の藤末健三の対談を見る。 http://bit.ly/9tAFWV テンションの高い、熱のこもった対談。前半の通信法制をめぐる具体的な議論は興味深く、肯かされる点も多いが、徐々に話は怪しげな方向に向かってゆく。

● 以前にこのツイッターで、政治家や企業経営者が「成功哲学」というオカルト思想に感染しやすいと述べたことがあるが、この二人がたどり着くのも、典型的な 成功哲学。成功哲学は、アメリカのニューエイジ思想に端を発し、世界的に流行した後に衰退したが、このような形でいまだに残存している。

●その世界観の前提となるのは、精神的次元と物質的次元が究極的には一致するというもの。そこから、科学と宗教はいずれ一つになる、あるいは、意志の力によって現実を変えられる、という主張が出てくる。

●精神的次元と物質的次元が相互にどのような関係にあるのかということは、理系と文系を問わず、おそらくすべての研究者が直接・間接に関わっている問題である。そして、この問題について一つの典型的な見解を示したのが、哲学者のカントであると思われる。

●カントは、精神的次元(実践理性の領域)と物質的次元(理論理性の領域)は、多様な仕方で相互干渉しながらも、究極的には重なり合わないという二元論を 説いた。私を含め近代の学者たちは、カントの前提を踏まえた上で、その二領域が相互にどのような関係を持つかを研究している(はず)。

●ところが、慎重さを欠く一部の研究者は、自身のきわめて狭隘な知見や経験から、「精神と物質は同じだ!」「意志の力によって世界は変えられる!」とい う、安直な結論に飛びつく。そして、いつかは自分の意志の通りに世界を変えることができるはずだという、甘美でパラノイア的な幻想に耽溺する。

●この対談を見ると、成功哲学がどのような仕方でリアリティを獲得するのかを実感することができる。また、市民に求められているのは、政治家を個々の政策 レベルで判断すると同時に、各政治家が奥底で抱えている世界観や幻想のレベルでも判断することであると感じた。難しいことだが・・・。(終)

倫理教科Bot ‏@bzliker10315 14 時間14 時間前
カント理論

理論理性=因果関係によって成り立つ自然界の事物を対象とした理性

実践理性=自ら法則を立てて意志に命令を下す理性

認識の対象は主観が有する先験的な枠組み=カテゴリーによって構成される という認識上のコペルニクス的転回論 #カント

猿元 ‏@sarumoto 2009年10月21日
『カント 信じるための哲学』の1章を読んだ。
近代哲学を「客観世界はあるよ」説(合理論)と、
「そんなものは人それぞれの主観にすぎないよ」説(経験論)で整理して、そこからカントの理論理性批判と実践理性批判の話に持っていくわけね。たしかにセカイ系も、こう料理するとわかりやすいかもね。

﨟毬蛾子 ‏@rokyugashi 3月16日
で、カントの世界共和国ってひょっとして、八紘一宇のこと?

自殺を考えてしまう存在@8th day ‏@feelsosuicidal 2013年11月7日
カントの言う国際連盟は唯一つの巨大な国家とは違うのでしょうか?諸国家によって分割されているのが望ましいのは「歴史の途中」に思えますが @Morgenthau0217: (…)世界が諸国家によって分割されている状態の方が、唯一つの巨大な国家によって統合されてしまうより望ましい(…)

国際政治学たん ‏@Morgenthau0217 2013年11月7日
@feelsosuicidal 良い質問だと思うわ。カントは、個々の国家は内部に法秩序を有しているが、個々の国家からなる国際関係は非法律的無秩序な状態だと見なしており、ホッブズに近かったの。その状態は現実に戦争が起きてなくても「戦争状態」と呼ばれ、これを脱却するために「国際連盟」の設立を唱えたのね。しかも、その連盟は主権的権力を含まない、つまり連邦ではなく連合的な組織にすべきだと考えたの。どうして連邦ではなく連合にすべきなのか。連合とは、そこに加盟する国々が、それぞれの国家主権を保持したままの国際組織ね。それに対して連邦とは、各国の主権を統合した、国家よりも上位の権力機構。確かにこのような連邦(いわば、世界共和国のようなもの)という理念は連合よりはるかに進んだ理念だけど、やはり現実性を欠くわ。さらにカントは、帝国的統治というものが、版図が拡がれば拡がるほど法の及ぶ力が弱くなるということも言及しているわ。そういうわけで、彼は「一つの世界共和国という積極的理念の代わりに、戦争を防止し、持続しながら絶えず拡大する連合という消極的な代替物のみが、法を嫌う好戦的な傾向の流れを阻止できる」と主張したのよ。

(拡大しきったらワンワールドじゃないか。)


無碍の一道@四苦八苦(ネトムヨ党) @mugenoichidou • 2010年3月22日
ス ウェーデンボルグ(諸説あり)、エドガーケイシー、シュタイナー、アランカルディック等のスピリチュアリズム、黒住宗忠中山みき出口王仁 三郎谷口雅春高橋信次等の新宗教、ニューエイジの人々、宇宙人からのチャネリングもみんな「輪廻転生」を説いている不思議。

(輪廻思想とキリスト教を融合させた神智学の影響。
スウェーデンボルグは輪廻否定ですが、輪廻転生に見える現象=霊が憑依して霊が話す、はあるとします。)


AK @ho_ro • 3月13日
“いきなりですが、イサク・ルリア(1534-72)について書きます。 彼は輪廻転生やグノーシス(キリスト教の教義から見ると明らかな異端思想です)を好んだ人物です。 カバラは「ゾハール」という書において、一応の集大成をみたと1500年頃までは考えられていました。”)

金田一 孝宜 ‏@sisimaruONE 2013年8月23日
アポフェニアと脳の錯覚〕 「私たちの心は世界を組織化されたものと見るように設計されていると言われています」…中略…「どれほど優れた科学教育を受けたとしても信仰や神秘主義、超自然主義を捨て去ることは難しいと脳科学者たちは力説します」 http://geocities.yahoo.co.jp/gl/mrdk3dog_s/comment/20120915/1347692727 …




目的の国‏ @mokutekinokuni 2015年2月25日
東アジア共同体=大東亜共栄圏
世界共和国=八紘一宇

中尾 綾‏ @ayajet128 2015年2月24日
@kikuchi_8 @wayofthewind トム・ヨークのパートナーがダンテのアートを研究してたvia naoshiy: 自衛はロック、ルソー、カント、ヘーゲルがそれぞれ論じた公共哲学の伝統的なテーマであり、世界政府をつくって軍隊の一元化を唱えたのはダンテであった。"

菊池‏ @kikuchi_8 2015年2月24日
@ayajet128 @wayofthewind なるほど、ダンテは世界政府主義者だったのですね。社会契約論は大東社の啓蒙主義者・革命家の重要な教義の一つですね。カントは「永遠平和のために」という著書で世界連邦みたいなアイデアを出しています。ヘーゲル弁証法は秘密力の得意技ですね。

U‏ @wayofthewind 2015年2月17日
子子子子子さんが「カントと国連と世界政府」について興味深いリツィートを展開中。 軍事ですらも哲学によって統べられるという点に着目したい。 https://twitter.com/kitsuchitsuchi

よーすけ‏ @yoshimichi0409 3月23日
よーすけさんがねこたをリツイートしました
カントの『永遠平和のために』で展開されてる思想は、国連憲章の基になった事でも有名。EU=欧州連合もこの理念を抜きにあり得ない。世界連邦運動やトロツキーの世界革命論などはこのヴァリエーションと捉えるべき。大本教がカントに似てるのも明治期に影響を彼らが受けた証拠と言える。
よーすけさんが追加

ねこた @lakudagoya
世界連邦だってストア学派やカントなどのコピペだしな。 カントの本借りてきたよ。…
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Hiroyasu Misawa‏ @B_March 2016年8月9日
100分で名著 カント:永遠平和のために わ、驚いた。カントはすでに世界統一国家(グローバリズム)と、平和連合(国連ですね)を比較して、 画一的、強圧的になるグローバリズムより、いざこざは絶えなくても大戦争にならない国連の方が良いと考えていたのだそうだ 哲学は侮れない…


純粋理性のアンチノミー
http://omg05.exblog.jp/17423213

カントのアンチノミー(二律背反)
http://philosophy.hix05.com/Kant/kant113.antinomy.html



菊池 ‏@kikuchi_8 2012年5月9日
17) 鈴木氏の神道批判を読んだとき基督教宣教師の神道批判の物言いとそっくりだと感じたものだ。禅を神秘主義だとする鈴木大拙氏は、はっきり言って、同じよう にスウェーデンボルグに影響を受けていた、西洋的一神教的な終末思想に神道的粉飾を施した出口王仁三郎や浅野和三郎と同類だと思う。


prometheus@prometheus2054 ·
コロンビア大のコアカリキュラム①(文理問わず全員履修)
プラトン『国家』
アリストテレス『ニコマコス倫理学』、『政治学』
聖書(旧約、新約)
アウグスティヌス『神の国』
コーラン、
マキャヴェリ『君主論』『政略論』
デカルト『省察』
ホッブス『リヴァイアサン』
ロック『統治二論』

コロンビア大のコアカリキュラム① 後期課題図書。
ルソー『社会契約論』、『人間不平等起原論』
スミス『国富論』 ヒューム『道徳原理研究』
カント『道徳形而上学原論』
アメリカ独立革命関連文書
フランス革命関連文書
バーク『フランス革命の省察』
続く

コロンビア大コアカリキュラム①その2
ウルストンクラフト『女性の権利の擁護』
トクヴィル『アメリカの民主主義』
ヘーゲル『歴史哲学講義』
ミル『自由論』
マルクス、
ダーウィン『種の起原』
ニーチェ『道徳の系譜』
デュボイス『黒人の魂』
フロイト『精神分析入門』
ウルフ『三ギニー』

コロンビア大学のコア・カリキュラム2より(1年生の必修科目の課題図書)
ホメロス『イリアス』、『オデュッセイア』、
『ギルガメシュ叙事詩』
ヘロドトス『歴史』
アイスキュロス『オレステイア』
ソフォクレス『オイディプス王』
エウリピデス『メディア』
トゥキディデス『戦史』 続く

コロンビア大学のコア・カリキュラム2より(1年生の必修科目の課題図書)その2
アリストファネス『女の平和』
プラトン『饗宴』
創世記、ヨブ記、ルカ書、ヨハネ書。
これは前期のみ。続いて後期へ

コロンビア大学のコア・カリキュラム2より(1年生の必修科目の課題図書:後期)その3
ウェルギリウス『アエネーイス』
オウィディウス『変身物語』
アウグスティヌス『告白』
ダンテ『神曲』
ボッカチオ『デカメロン』
モンテーニュ『エセー』
シェイクスピア『リア王』
続く

コロンビア大学のコア・カリキュラム2より(1年生の必修科目の課題図書:後期)その4
セルバンテス『ドン・キホーテ』
オースティン『高慢と偏見』
ドストエフスキー『罪と罰』
ウルフ『灯台へ』
いや~恐れ入るわw これを文理問わず必修科目の課題図書となっている。


• 池内紀訳 『永遠平和のために』 集英社
• 中山元訳 『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』 光文社古典新訳文庫
• 宇都宮芳明訳 『永遠平和のために』 岩波文庫



お読みくださり感謝!
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蒲公英たんぽぽブログの一部を復元。補足情報も。 

オルフェウス教とストア派の重要情報集。『オルフェウス教』『世界の名著13』(『スキピオの夢』)『』『』『』『』『』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-146.html
に多少追加。















ディオニュソスの親子関係比較
関係一般神話オルフェウス教神話
ゼウスゼウス
セメレ(人間)ペルセフォネor
デメテルor
レイア


↑記事名の上で右クリックしてリンク先を名前を付けて保存お願いします。
都合の悪い情報を完全に消すことはできないことの証明の一つがこの記事である。
散逸、消滅、絶滅したかと思われたが思わぬところで発見ってやつね。
マニ教資料かな?
タンポポ記事をのせると記事内容が勝手に変わると言う噂がある。


”ヘルメスはあらゆる神々や人間と交わりを持つ神。
人を益すること少なく、闇垂れこめる夜の続く限り、
果てしなく人間の族を騙し続ける神である

ホメーロスの諸神讃歌 ちくま学芸書房から引用”



ヘルメースの姿は、時代によってその描かれ方が異なるが、古典期以降は、ペタソスと呼ばれる旅行用の鍔広の帽子をかぶり、「ケーリュケイオン」と呼ばれる使者の杖をたずさえ、足には翼の生えた鞋を履いた若々しい美青年の姿であらわされるのが常であった。(「ホメーロスの諸神讃歌」P274-275、「ヘルメース讚歌」解題)

テラッコッタのマーキュリー像が安置されていた。片脚で立ち、両足首には羽根が生えていて、おきまりの蛇杖を片手にしている。(新潮文庫「八点鐘」P353)

そして確かに幸運をもたらす神としての属性がある。

ヘルメースを讃め歌え、ムーサよ、ゼウスとマイアの御子、
キューレネーと羊多いアルカディアを統べる神、
幸運もたらす御使者を。(「ホメーロスの諸神讃歌」P215、「ヘルメース讚歌」)

メルクリウスの名で、彼は幸運の使者として多くの文学作品に登場する。その役柄上、キリスト教の大天使ガブリエルやミカエルと混同されることもある。(「図説ギリシア・ローマ神話文化事典」P204)

しかし、このヘルメースはとんでもない神様で、生まれたその日に盗みを働いたというエピソードを持つのだ。

その時かのニンフが産んだのは、策略に富み、奸智に長け、
盗人にして牛を追う者、夢をもたらし、夜陰をうかがい、門口を見張る神であった。
この神はさっそくに、不死なる神々の間で聞こえも高い所業を顕わすこととなった。
暁時に生れ落ちると、昼間にははや竪琴をかき鳴らし、
日暮れには遠矢射るアポローンの牛を盗んだのだ。(「ホメーロスの諸神讃歌」P216、「ヘルメース讚歌」)

牛を盗んだ後、何か悪いことをやってきたに違いないと母親に咎められると、悪びれずに言い返す。

「母上、どうしてそんな言葉でわたしをお咎めになるのです。
(略)
父上がお許しにならないとなら、それならばなることができますから、
ひとつ盗賊の頭目になるようにでもしましょう。(略)」(「ホメーロスの諸神讃歌」P224-225、「ヘルメース讚歌」)

なんという赤子(笑)

このように、ユーモアのある形で語られるのだが、最後のあたりでマイナスのイメージが強調される(この部分は後代に足されたものらしい)。

ヘルメースはあらゆる人間や神々との交わりもつ神。
人を益すること少なく、闇垂れこめる夜の続くかぎり、
果てしなく人間の族を騙し続ける神である。(「ホメーロスの諸神讃歌」P250、「ヘルメース讚歌」)


ヘルメースは盗賊なのだ。ローマ神話のメルクリウスはそもそも「商売」という言葉と同じ語源を持つ商業の神だったが、ヘルメースの神話がそのまま適用された。「レ・ミゼラブル」ではメルクリウスが盗賊の代名詞として使われている。

このような社交界は、オリンポスの山である。メルクリウス神もゲメネ公もそこに一緒に住んでいる。盗賊でも、神ならば、そこに入ることが許されるのである。(「レ・ミゼラブル」3巻P55)

メルキュール骨董店の店主は幸運の神としてメルキュール像を大切にしていた。あるいは盗んだ疚しさから守ってもらおうとしたのかもしれない。しかし、相手が相手、正体が泥棒であってみれば、かなうわけがない。アルセーヌ・ルパンの守護神でもあるのだから。


ちなみに、ヘルメースは牛を盗むときある悪知恵を働かせている。盗んだ牛をそのまま歩かせるようなことはしなかった。

そして足跡の向きを逆にさせ、砂地のあたりでかなたこなたと追いまわした。
策略を用いるのにもぬかりなく、蹄の向きが逆になるように、
前足が後ろに後足が前になるよう歩かせ、じぶんはそれと向き合って歩いた。(「ホメーロスの諸神讃歌」P219、「ヘルメース讚歌」)”
http://realize.txt-nifty.com/blog/2011/07/post-6214.html
盗人神ヘルメース - メルキュール骨董店(12-8)

”そこで一匹の亀を見つけたが、これは大層な宝を手に入れたというもの、
ヘルメースこそが、最初に亀を歌奏でる具としたのだから。

(略)

葦の茎をそれぞれ程よい長さに切ると、
亀の甲羅を差し貫いてしっかり取りつけた。
その上から巧みをこらして牛の皮を張りまわし、
腕木を造りつけ、横木を渡して固くとめ、
よく鳴り響く羊腸の弦を七本そろえて張った。
さて、神はこうして愛らしい玩具を仕上げると、
それを手にとって、撥で弦を順番に試してみた。
すると竪琴は神の手の下で、驚嘆すべき音を立てた。





ぶろぐったー 仏教記事完成した四
ブッダ「女性と目も合わせないニートになれ!」『だから仏教は面白い!』『仏教思想のゼロポイント』『阿頼耶識の発見』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-154.html



連続更新はしばらくないよたぶん


いやーおすす絵本ツイッターで紹介したけどまだ記事書いてないや仏教入門最初は此れって本音。見つけたよん。
私はキリスト教が最終黒幕なんて言ってないよ。
神学とシステムと言っている。運営は一神教的多神教の秘教集団だろうね。
正体は知らない。キリスト教だった表だよ範囲としては。猫田さんが追っているあたりことが陰謀だよ。だって焚書とか交渉伝達だから文献が残らない残さないんだもん。
エトルリア、ケルト、フェニキア、インド、ペルシャの文章資料検索してみたらよくわかるよ。驚きの焚書くささ。エトルリアが一番気になるね。どう見てもローマが意図的に焼いているし。進撃の巨人のエルディア人のモデルだ老死ユダヤじゃ墓場―。というかk訴因劇のユダヤってフェニキア人だろ。あの罰点マークってフェニキア文字に出て来るじゃん。
エトルリア文字に完全に世界連邦と同じ形の文字があって草不可避。
エトルリアがローマにギリシア文化を流入させたとあり草不可避。
なのにエトルリアの文学派の情報ゼロに焚書されたア間違いないと言う断定不可避。
文か文明が発達して文学が生まれないなんてありえない。

“エトルリア(ラテン語: Etruria)は、紀元前8世紀から紀元前1世紀ごろにイタリア半島中部にあった都市国家群。ギリシャ語ではティレニア (Τυρρηνία Tyrrhenia)。
各都市国家は宗教・言語などの面で共通点があり、統一国家を形成することはなかったものの、12都市連盟と呼ばれゆるやかな連合を形成し、祭司・軍事で協力することもあった。
古代ギリシアとは異なる独自の文化を持っていた。当時としては高い建築技術を持ち、その技術は都市国家ローマの建設にも活かされた。王政ローマの7人の王の最後の3人はエトルリア系である。
鉄を輸出し古代ギリシアの国家と貿易を行っていた。
夫婦と思われる男女の横たわる石像が残っており、男女平等の考えを持つ稀な民族だった[1][2]。

これウァ猫田さんが飛びついそうなネタが

当然英語記事と比較ね。情報量が違い過ぎる。
https://en.wikipedia.org/wiki/Etruria のSee also
も必読。




palomino3rd‏ @palomino3rd 2014年1月23日
『エトルリア』を日本語wikiと英語wikiで見比べると、情報量の違いに笑いますよw 『四大文明』という用語が現役という現状はグローバル化の時代に<コ:三がなものかーと。<コ:三 @20miglia
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たんぽぽさんが書いている下院の額マークが十字ってどこから出たネタなのか。
聖書には書いてないはず。
進撃の巨人のエルディアマークもこの拾時だろうね。
海の民エトルリアフェニキアやし過ぎ。

海の民 - 世界史の窓
http://www.y-history.net/appendix/wh0101-058.html
前1200年頃、東地中海上で活動した系統不明の民族。ヒッタイト、ミケーネ文明を衰退に追いこみ、エジプト新王国にも侵入するなど、西アジアに大きな変動をもたらした。
 紀元前1200年頃、東地中海で活動した民族であるが、その系統や実体は不明である。さまざまな名称をもつ民族からなる集団であったようで、原住地は小アジア西海岸とエーゲ海諸島という説が強い。
英語で Sea Peoples といわれるので、直訳して「海の民」あるいは「海の民族」と言われている。彼らが移動を開始した理由は不明であるが、飢饉が原因で豊かな土地をめざして移住を企てたものであるらしい。 → エジプトでの海の民

(引用)考古学上の知見によれば、東はメソポタミアから、西はイタリア、フランス、さらにバルト海沿岸地方にまで、この時期に移動と混乱の跡が認められるという。そのなかで、「海の民」は、東地中海を舞台に神出鬼没の活躍をくりひろげる。彼らの攻撃の対象となったのが、ヒッタイト、シリア、エジプトと並んで当時繁栄の余光を保っていたギリシア人の諸王国であった。「海の民」は北方からこれらを襲い、重要な拠点をつぎつぎに攻め落としていく。しかし彼らは、略奪し、火を放って破壊のかぎりをつくしたものの、侵入地に定着し、そこで新しい天地を切り拓いていくという地道な生き方を選ばなかった。彗星のごとくきたり、去っていく――のこるは破壊の跡だけである。<伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』初版1976 講談社学術文庫版 2004 p.77-78>

ヒッタイトとエジプトに侵攻
 彼らはシリア、パレスチナに上陸してヒッタイトと争い、そのためヒッタイトは滅亡したらしく、さらにエジプト(新王国)に侵入した。エジプトの壁画と碑文にその損害が記録されている。海の民の活動によってヒッタイトとエジプトというオリエントの二大勢力の動揺は、次の前12世紀のオリエント世界全体の動乱の始まりを示すものであった。

ギリシアへの侵入
 また最近では、ギリシアのミケーネ文明が急速に衰退し、暗黒時代という混乱期となったのも海の民の侵攻が原因とされている。しかし「海の民」はギリシアに定住することなく、その後の前1100年ごろにギリシア人の中の西方方言群に属するドーリア人が南下して定住したと考えられている。<伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』初版1976 講談社学術文庫版 2004 p.75-86>

パレスティナの地名の起源
 なお、海の民の一部のフィリスティア人がシリア沿岸南部に上陸した。彼らがペリシテ人と言われるようになり、地中海東岸の現在のガザ地区に定住し、内陸にも進出してセム系民族のヘブライ人と対立するが、彼らが支配した地域をその名からパレスチナというようになる。前11世紀の終わりにはヘブライ人がペリシテ人を抑えてヘブライ王国を建設する。

エジプト新王朝と海の民

地中海東岸の内陸に進出した海の民は、新王国時代のエジプトのラメセス3世などとも戦った。新王国は海の民を撃退したと考えられている。
 「海の民」の存在とその活動を伝える史料はエジプトにある。一つは前13世紀末、新王国第19王朝のファラオ、メルエンプタハの戦勝記念碑と、前12世紀初頭の第20王朝ファラオのラメセス3世の残したテーベの神殿の碑文である。今までは海の民はよくわからない存在であったが、その実態が徐々に明らかになってきている。最近の知見をまとめれば次のようになる。<大城道則『古代エジプト文明ー世界史の源流』2012 講談社選書メティエ p.142-161>

海の民とは

(引用)紀元前13世紀末から紀元前12世紀初頭も掛けて、東地中海沿岸地域に侵攻し、破壊・略奪を行ったとされる彼らは、バルカン半島からエーゲ海を経由して、アナトリア、そして最終的には、北アフリカに位置するエジプトのナイルデルタ地域にまで到達したことが知られている。単一の民族ではなく、複数の異民族によって構成された混成集団であったと考えられている彼ら「海の民」は・・・ヒッタイトやギリシアのエーゲ諸王国を滅ぼすなどなど強い力を保持していたとされているのである。・・・しかしながら、東地中海地域の名だたる国家を滅亡・崩壊へと導いた彼ら「海の民」ではあったが、エジプトでは敗北した。・・・「海の民」は、実態の把握ができない集団ではあったが、歴史上、確かに存在した。そしてそのことは古代エジプト史が証明しているのである。<大城道則『古代エジプト文明ー世界史の源流』2012 講談社選書メティエ p.142-143>

メルエンプタハの戦勝記念碑 メルエンプタハは紀元前13世紀末、新王国第19王朝のファラオ。その戦勝記念碑はカイロのエジプト博物館に所蔵され、王の勝利を称える文の最後に彼が戦って勝利をおさめた都市名や民族名が記されている。その民族こそ、「海の民」の先駆けであると考えられている。またこの碑文には治世5年目に西方から攻め込んできたリビア人を撃退し9300人を殺害したとでてくる。もう一つ注目すべき点は、文中に「イスラエル」と読むことができる文字列が民族名を示す文字が付されて記されていることで、これが史料上、民族名としてイスラエル人が登場する最古の例である。
ラメセス3世の神殿碑文 エジプト新王国最盛期の偉大なラメセス2世の名を継承した、第20王朝のファラオで前12世紀初頭。この時代は異民族の侵攻が相次ぎ、ふたたい西方からのリビア人の侵攻もあった。治世8年、我我が「海の民」と呼んでいる集団が襲来した。彼らは、西方からアナトリア、シリア・パレスチナを通り、ヒッタイト、カルケミシュ、ウガリットなどに致命的なダメージを与えながら、海路・陸路を併用してナイルデルタ地帯に南下してきた。彼らの中には、シェルデン(サルディニア)、シェクレシュ(シチリア人)、エクウェシュ(アカイア人)、トゥレシュ(エトルリア人)、リュキアからのルッカ、ペルシェト(旧約聖書に登場するペリシテ人、後にパレスティナに定住する)などが含まれていた。ラメセス3世の葬祭殿を核とした神殿複合体であるテーベのメディネト・ハブの碑文の最後に「海の」という形容詞がつくために、我々は「海の民」という言葉を使用しているが、実際のところこの言葉が的確に彼らを表現しているかどうかは疑問がある。
 ラメセス3世のエジプト陸軍は陸路侵攻してきた海の民を撃退し、海軍も水際でその上陸を阻止した。このテーベのメディネト・ハブのラメセス3世葬祭殿第一塔門外側には敵を打ちすえている王の場面、北壁の装飾には「海の民」との戦いの場面が描かれている。

リビア人のエジプト移民
 エジプト新王国のラメセス3世は、「海の民」を撃退することに成功したが、治世11年になると、再びリビア人の移住活動が活発化した。彼らの行動は、彼らを描いたレリーフには女性や子供、荷車に載せた家財道具、あるいは家畜なども見られ、まさに移住・移民であり、彼らから見れば暴力を伴う侵略・侵攻ではなかった。純粋な移民であったか、あるいは何らかの原因で故郷を離れた一種の難民であったのだろう。

Episode 古代エジプトの移民問題
 エジプトに入ろうとしたリビアへのラメセス3世の対応は厳しかった。彼はメシュウェシュの首長をはじめとして、数多くのリビア人を捕らえ、捕虜としたのである。2175人を殺害し、さらに2052人を捕虜とした。
 しかし皮肉にも、戦争捕虜となった者たちはナイルデルタに定住し、ウシ、ヒツジ、ヤギをともなう半遊牧生活と青銅製の剣やチャリオット(馬車)を保持した高い文化をもっており、エジプトの社会構造の中で次第にエジプト社会内で影響力をもつ集団となり、第22王朝と第23王朝はエジプトの王権を手にいれ、リビア朝期ともいわれる時代を現出している。<大城道則『古代エジプト文明ー世界史の源流』2012 講談社選書メティエ p.150-153>
古代エジプトのトランプ?  ラメセス3世の移民排斥は、2016年のアメリカ合衆国大統領選挙でのトランプ候補のメキシコ移民排除、長城建設という公約を思い出させる。このリビア人も、移民か難民かわからないが、武力侵攻したわけでは無いものの、エジプト王から激しい反撃を喰らった。古代エジプトでも移民問題が権力を脅かしていたわけだが、結局はリビア人のエジプト定住の動きは止められなかったという上記の説明は、今後のアメリカの移民問題も示唆しているのかもしれない。はたしてトランプは古代エジプトのラメセス3世と同じだろうか。(2017.1.2記)

※海の民の活動<伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』p.76> の画像は省略。


ここら辺また消えそうだけどたぶん清書して新たな記事になるよたぶん。


長文を何日も連続して出せる場合もあるので注意。書き溜めたのを手直しして出すだけならラクダ。
でも何カ月も連続は私も無理。
あと私は画像あまり使わないから書くのが早い。
文章だけだと画像ふんだんより早い。
動画だともっと手間がかかる、
プロ工作員でもない人で良く更新している人って文章主体の人が多い気がするr、
だって一番楽だもん。


ぶろぐったー
スキピオの目の記事は正解の名著版の翻訳も読んだのでそこに加筆しました超重要個所見のがしてたぞかなり前の読書メモをふと発見すると記事成ったりすると言うか読書メモとり過ぎて存在忘れている奴もあるからなあ私が連続で突如記事上げだしたら発掘したと思ってくれメモ大抵は塊だ
私は読書メモをためすぎてどっかいったのがたくさんある。カントの三批判と永遠平和のためには発掘した。復元しなきゃ。もう使っている言葉というか適切な言葉が考古学化してて牧草地草ロトム。
これは何年前のだろうかってのが普通に出て来るからね。
存在忘れていてふとした拍子に思い出したのもあるし。
ああ今思い出したぞ、マッキントッシュの薔薇十字団研究所も目盛ったけど読解ったぞ。ワード検索するにはその本おt区有の言葉でないといけないからまた読まないと。
猫田さんが閉演平和のために取り上げていてそれで確かめもあったなあだし。
優目陰謀論者が長い記事を毎日とか日に何本もと蚊帳しすぎでしょ。
いくつも記事をためている可能性もある。
でも時事ネタでそれは難しいのでは?
というか時事ネタにやたら食いつく食い尽くされるのってその時点で工作員疑惑だよ。時事ネタの源泉までたどるなら別だけど。
結局思想だよ。思想が認識を創るから。そこから具体的組織が生まれ個人が形成される。だから思想や哲学に弱い時点でお察し。囮に食いついて終るよ。





ブログったー そのうち移動するかもね
シンボルを学べといいますが、文字もシンボルですからね。
文字、特に表意文字の漢字はとてつもなく強力なので、せっかく漢字圏に生まれたのだから、漢籍を読んで道教と密教と仏教を学びましょう。
せめて平家物語の冒頭と、方丈記の冒頭と、徒然草の冒頭は暗唱できるように。
三つとも仏教が中核。
仏教文学はあっても神道文学はないからね。
仏像と天照の像の数の差を述べよ。
日本語と英語以外の言語を学びましょう。
読める言語が増えれば増えるほどに新たな言語を学習しやすくなり、読める文章も増える。
そして外国語学習はその外国語人格を脳内に召喚する召喚魔法。
英語人格はやたらとはっきり言うし毒舌になりがち。
日本語と比べてね。
ドイツ語は音読したくなる言語。本当に歌=呪文詠唱に向いている。
入門レベルでも勉強しておくと役に立つ。
文字と単語が読めるようになるだけでも全然違う。
はじめてのラテン語読んだらストア派思想の解説が出てきたりとにかくいろいろな出会いができる。
ストア派って当時の常識なんだねえ。
そりゃ無視しちゃいけないね。


グノーシスを論じるなら是非ナグハマディ文書。「グノーシスの変容」もナグハマディに入ってないアスクレピオスの翻訳などがありというか過去記事にある。

日本雛形論ならぬエジプト雛形論の全訳が読めるのがこれで、「タリズマン」にも訳が載ってますがこっちが訳としては読みやすい

恐らくマニ教もどきのやつらはグノーシスも乗っ取ってる。マニ教型グノーシスだけでなう、プトレマイオス型などの流出論タイプもあるけどまずは中核だけ学んでおくれ。

紙の本でしかない貴重情報ってたくさんあるのに紙の本を読みたがらない陰謀追及者っていますよね。改ざん可能性なんてネットにも紙の本にもあるのにネット情報ばかり使うって駄目。

マニ教型グノーシスのほうがステルスなのでより警戒しております。
マニ教の本体はグノーシスという「構造」。だから要素はいくらでも変えてもいい。
だからわかりやすい流出説詐欺と違って「Xに見えないX」を作りやすい。

ブログったー
ワンピース今やっている話がかなり面白い。
ビッグマムはギリシアおフレンチ陣営だよ。
だから英米系ナチスアーリア主義マルタ王国混ざっているらしきのジェルマ88はいるひっとらーと婚姻関係結ぶと見せかけて暗殺する気。
子供産みまくりで女性社会のビッグマムは巨人。
ゼウスとプロメテウスを従えているしナポレオンも従えている。
ガイア(ゼウスの祖母)、レア(ゼウスの母)、牝牛の眼をしたヘラ(ゼウスの正妻)あたりかねえもっと特定したい。
でも巨人族ぎらっていことはオリュンポス側かねえ。
この巨人族とはティターンかな。

おフレンチ系で女系だから和スプ英米系の男尊女卑系代表の主人公の敵。
マムのヒス女っぷりがヘラ。
ヘラとゼウスとの間に、エイレイテュイア、アレス、へべ。ヘパイストスはヘラの子ですが、ゼウスとの間の子か、ヘラが一人でもうけた子かについては異伝があり。
ガイアとレアは文句なく子沢山だけどヘラはそれほどでもないんだよね。
ヘラはゼウスを尻に敷くほどじゃないし。
結局ゼウスは浮気しまくるし。
ギリシアがのっとった地域の女神とゼウスを結婚させる神話を創って潜在意識レベルで支配してきた歴史の結果がゼウスの浮気性で所。
母系社会の否定。
やりたいことやれることやるべきことの三つありやるべきことを最優先にやること。
の法則にしたがうと
ホメーロス『ホメーロスの諸神讃歌』沓掛良彦訳、ちくま学芸文庫(2004年)
を読むのが重要かねえ。

マムが従えるプロメテウスが太陽。フランスは太陽。太陽を従える女。アポロンではなく人間に火を与え、パンドラ攻撃を人類が食らうきっかけのプロメテウスなのは意図的だろうね。
マムはパンドラ要素あるもんな
ソルソル魂操作というか魂入れる準尿変えるとかやばすぎだろ。
魂が寿命と関係あるって思想。
月光もリアの影も魂みたいなもんか。影が本体なのか。
幹部が全員身内って藤原だな
マムが崇めるマザーカルメルがカトリックだからおフレンチカトリック側のビッグマムで女神信仰マリア集配派罰だな。
マムは一人称が俺。両性具有要素。
マムのマザーってことはマムはガイアではない。レアかヘラ。
カルメル修道会の元ネタのカルメル山ではヤハウェ側のエリヤがバアル神官ぶっ殺したとこ。アンチバアルの象徴 が主人公の敵
カトリック フランス ギリシアローマ(浅黒い肌) 女性優位女系社会 アンチバアル ヤハウェ(人身御供禁止) 生殖肯定
が敵
これらの要素を逆転すると
プロテスタント 英米 ギリシアローマ(白い金髪に改ざん+アーリア妄想) 男尊女卑 聖書否定 ミトラ バアル (人身御供大好き)
見事にWASP原理主義で主人公側ですねありがとうございました。


Yuki Kabaya‏ @yukikabaya 2011年3月30日
【61】カルメル山→預言者エリヤがバアルの預言者とたった1人で戦った場所。山頂から見渡す景色は絶景。遥か向こうまで平野が広がり、地中海が目の高さに位置する。エリヤはこの麓に流れるキシション川が血で染まるほどに、バアルの預言者を打ち滅ぼしたという。#Israel

カルメル、カーメル(Carmel)は、ヘブライ語と英語の地名
• カルメル山 Mount Carmel - イスラエルの山
o 上にちなむカルメル会



カルメル山は旧約聖書の『列王記上』で預言者エリヤがバアルの預言者たちと対決し、勝利したことで知られる山である。

マザー・カルメル教会にいそうな格好してるね。マムの育ての親っぽいがどうだろう。「おれ達のマザー」「この世の光」全人類の母グレートマザーのことだったりしてなあ #wj18 ワンピ




ken‏ @kenkatap 2015年3月27日
返信先: @kenkatapさん
世界平和のため祈り、聖テレジア生誕500年記念に 【バチカン放送局 http://ja.radiovaticana.va/news/1132414 ▼聖テレジア=カルメル修道会改革者 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%AB%E4%BC%9A … ▼仏革命などで反カトリック的風潮が強まり大打撃を受けたが、現代も世界中に修道院が存続

โยชิทากะ..⋆✩⃛⁎*‏ @mercicat 2012年4月23日
カトリックの観想修道会といえば。。トラピスト会やカルメル修道会などがあるが。。ハッキリ言って、此の世、またはあの世の者達や天使達のために日々刻々、祈りを捧げつゝ、其れを己のマリアに捧げるのみのための生業とする。。其の様な生活をし得る者は、ある意味神に拾われた者のみだと想う。。

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ねこた‏ @lakudagoya 2015年6月15日

本当に良心のある陰謀論者なら、自分のお客さんがカモにならないように偽陰謀論を見抜けるための最低限、哲学・論理学・心理学・歴史(西洋史)・宗教などを学べと言うよ。特に心理学は重要で、これが大抵の偽陰謀論は撃退できる。それをしないって結局、お客さんがカモのままいて欲しいって事でしょ?

おいらはね、ギリシア哲学を批判できない陰謀論者に意味はないと言ってきた。ギリシア哲学こそがアブラハムの宗教の屋台骨であり偽陰謀論者の騙しのツールの根源だからだっ!だから、陰謀論者でギリシア哲学を叩いてる人は本当に少ないの。太田龍さんとたんぽぽさんくらいだよ?他に誰がいる?



クリスチャン陰謀論者は、悪魔崇拝とか言って古代異教(ローマやエジプトの宗教とか)をフルボッコにしてるけどさぁ同じく古代異教がルーツのギリシア哲学についてはフルボッコにするどころか一ミリも触れようともしないのはどーしてよ?これってアウグスティヌスが護教のために哲学しろと言ったから?


RAPTがファビョったリアクションで面白かったのはRAPTの二元論的思考を見てコメント欄に、善悪二元論はゾロアスター教が起源でしょ?と書いた人がいて、RAPTがそいつをこーさくいん認定してた事だっけ?神学もそーだけどさぁ自分がしがみついてる思想の由来が悪魔崇拝だって認識したら?w
陰謀論もそーなんだけど、フェミニズム批判やってる連中はどうも耶蘇教臭い臭いがするんだよね。結論ありきの議論とか、物凄いドグマを感じる。これって右も左も耶蘇教ってことなのよね?ネットの世界ではさ。フェミ叩きって聖書原理主義の耶蘇教福音派なんだよね?

ねこた‏ @lakudagoya 2015年6月26日
返信先: @alo353さん

@alo353 @beebeedj13 ほんと、24時間体制で監視とかキモチワルイですよね。前にたんぽぽさんという真相に迫ったブログを書かれる人が、文字書き換えられたりそういう細工されると言ってましたね。普通に生きていて追跡や待ち伏せをされるとは精神的に参ってしまいそうですね。

ねこた‏ @lakudagoya 2015年7月15日

ぬこたさんの陰謀論って結構地味なんだよね。ウケないよね。ギリシャ哲学を叩けない陰謀論者に価値なし!と言ったのぬこたさんがほぼ最初だと思うけど(一番最初はたんぽぽさんだけど)なんで紐付きどもはギリシャ哲学を叩かないんだ!?アウグスティヌスの護教のために哲学を利用しろっつー陰謀か?

ねこた‏ @lakudagoya 2015年10月7日
返信先: @lakudagoyaさん

陰謀論やるなら心理学を学べと言った良心的な陰謀論者はおいらだけなのかお?陰謀論やるならギリシャの古典を読もうね♪と言ったのはたんぽぽさんだけどさ、何で大御所の陰謀論者はお客様に哲学と論理学と修辞学と歴史と心理学や文化人類学などの人文科学をやれ!とたきつけた陰謀論者いないのは何で?

ねこた‏ @lakudagoya 2016年7月30日

怒りで戦争に駆り出すのは、ホメロスの「イリアス」に描かれてる。

尖閣の問題とか見てると、欧米のエリート様の思考が如何にこういった西洋古典から生まれてるのかよくわかる。

と言ったのはたんぽぽさんね。

このヘレネって実はキプロスなどの島の領有権で、尖閣もそれじゃね?って話。

ねこた‏ @lakudagoya 2016年8月7日

ローマ人と混血して「消えた」エトルリア人。ローマと戦って「消えた」フェニキア人。

たんぽぽさんの言うように、フェニキアはヘルメスのように姿を隠す帽子を持ってるくさい。

なぜにやつらはあれだけ古代から多大な影響力を持って消えるのか?

国家という肉体を捨てたのだよね。

ねこた‏ @lakudagoya 2016年8月13日

ホメロスの「イリアス」は、ヘレネを誘拐した事で始まったけど、たんぽぽさんはこれは王女の誘拐ではなくキプロス島の島の領有権ではないか?と言ってた。

もしそうだとしたら、制海権の話で理解できる。

この思考は尖閣などで問題起こす事で戦争に持っていく事に使われてるのでは?と言ってた。

ねこた‏ @lakudagoya 2016年8月19日

日本の上級国民様の謎の恐ろしい思想はどこから来るのか?と考えてたら、大抵欧米の思想を研究したらわかんだよね。

日本の邪悪なるものは殆ど欧米から来てる。

ネットから消えた「戦争はなぜ起きるのか?」のたんぽぽさんはさ、人間の間引きの思想が死と再生の古代密儀にあると言ってたんだ。


このたんぽぽ説はさ、説得力あると思うよ。 

常にやつらはあちこちで文明をスクラップ&ビルドしてきた。

だから日本の上級国民様の思想の根源を知るには、キリスト教以前の古代密儀宗教の知識が必要だと思うんだ。

そうしたならば、気持ち悪い思想の正体もクリアにわかると思うの!

ねこた‏ @lakudagoya 2016年10月15日

ただね、大本教などの洗脳に囚われないで独自の陰謀論やってた勤め人の人はとてもイレギュラーな存在だった。

ちょっと前なら某大帝とか。たんぽぽさんみたいなね。

今でこそ大本教の洗脳対策ができるようになったけど、その昔はそこまでたどり着く事はとても難しかったんだよ。

ねこた‏ @lakudagoya 2016年10月15日

だから、大本教系の洗脳に囚われずに独自の陰謀論やってたたんぽぽさんとか、某大帝とかは貴重な存在だったんだよ。

陰謀論の嘘を見抜けるのが前提だからもちろんそれなりに沢山本を読んで考察しててその歴史が長いわけ。

でもね、そんな人を見渡せばどれくらいいるか?ってくらいイレギュラー。

ねこた‏ @lakudagoya 2016年10月15日

過去にそんな感じでちょっとのミスで潰れて消えていった陰謀論者は沢山いたよ。

そんなのを繰り返してたから工作員しか残らないのだよ。

たんぽぽさんもさ、凄く頑張ってたんだよ。応援してたんだよ。

でも就職先が創価だったりさ、リアルが多難でやめちゃったんだ。

ねこた‏ @lakudagoya 2016年10月15日

悪の魔導師陰謀論は、たんぽぽさんもやってたんだけど(たんぽぽさんがオリジナルかな?)

悪の魔導師陰謀技術論やりだしたのはおいらがはじめてから。

あとイスラームの視点を使った陰謀論もおいらが初めてかな?

シーア派に言及してるのもおいらが初めてだったかな?

ねこた‏ @lakudagoya 3月7日

なんというか、おいらがユダヤ系の人から聞いたカバラ(オリジナル)の話は、凄く密教ちっくなんだなー

なんというか、密教的な解釈が聖書解釈にハマってて感動したで。

だから、サージ船長さんが、やつらは密教勢力だって言うのもわかるのよ。

だってアブラハムの宗教の秘教は密教だもの。
ユダヤ教のカバラ、耶蘇教神秘主義、イスラームの秘教や神秘主義はみーんな密教ちっくな教義だね。 だから、密教という言葉は適切でないかも知れないが、密教であるのは間違いないよ。 男性原理と女性原理みたいなポケモンサン&ムーンかよ!みたいなネタがあまりにも多すぎる。

そもそも大乗仏教ってのが、バラモン教が仏教を背乗りしたものだしね。 原始仏教からしたら、密教なんてとんでもないものだろう。 たんぽぽさんも原始仏教派だったな。 あとゾロアスターも密教みたいなもんだ。まんま密教だ。 密教の要素でそれらを見ていくとわかるわけ。












∸――
蒲公英たんぽぽブログの一部を復元。
猫田さんがすごいって言っているのきにになる人たちのために。
フェニキア重要。
一応本を一冊出している人。同祖論っぽい個所があるからだろうね。
でもフェニキア同祖論だからね。
蒲公英(がまこうえい)『戦争の真実 死と再生の魔術』



たんぽぽさんはスゴいいなあ。
突っ込みどころはもちろんある。
キリスト教も古代宗教もギリシア哲学も叩いているが、
耶蘇の商品であるユダヤ陰謀論の影響からは抜け出せていないので注意。
語源を精査しない、ダジャレ的言語同祖論にも注意。

たんぽぽさん「ヘロドトスの歴史は私の愛読書で、私はプラトンの哲学書などよりはるかに価値があると思っている。
この本はギリシャとペルシャが戦ったペルシャ戦争から始まるのだが、戦争だけではなく、古代の人々の暮らしぶりなども書かれていて、今読んでも本当に面白い。
歴史好きにはたまらない1冊である。

見所はたくさんあるのだが、そのうちギザの大ピラミッドに関する記述は非常に興味を引くところだ。
ヘロドトスはエジプトを旅し、地元の神官や民衆から話を聞いた上でこのように書き残している。

エジプトではランプシニトス王の時代までは、申し分のない政治が行われ、エジプトの国は大いに栄えたが、彼の後にエジプト王となったケオプスは、国民を世にも悲惨な状態に陥れた、と祭司たちは語っていた。
この王は先ずすべての神殿を閉鎖し、国民が生贄を捧げる事を禁止じ、つづいてはエジプト全国民を強制的に自分のために働かせたという。
アラビアの山中にある石切場から石をナイルまで運搬する役を負わされた者もあれば、舟で川を越え対岸に運ばれた石を受け取り、いわゆるリビア山脈まで曳いてゆく仕事を命ぜられた者たちもあった。常に十万人もの人間が、三ヶ月交代で労役に服したのである。
―中略―
このケオプスの治世は五十年に及び、彼の死後はその弟ケプレンが王位を継いだという。
―中略―
ケプレンの在位は五十六年に及んだという。
エジプト人はこの百六年という年数を数えて、この期間エジプト国民は言語に絶した苦難に沈み、神殿も長期にわたって開かれなかったといっているのである。
エジプト人は憎しみの念からこれらの王の名を口にしたがらない。
ピラミッドを呼ぶのですら、ピリティスという当時そのあたりで家畜を飼っていた牧夫の名を附けて呼んでいる位である。
ヘロドトス「歴史」岩波文庫より引用

ヘロドトスの記述から、数多くのことが読み取れる。
最近日本では、ピラミッド作りは当時の公共事業だったなどと、またぞろ新手の歴史捏造をはかる人々が登場しているが、ピラミッド作りは、やはり国民を奴隷労働させて作らせたものだった。」

ヘロドトスの歴史にはユダヤ教徒がぜんぜん登場せず、フェニキア人がやたらと出て来ることが極めて重要。
ユダヤ教徒がほんとうに実在していなかったか、超マイナーだったかでしょうね。
どちらにせよ旧約の中身はほとんどが捏造ってこと。

∸―
引用本文復元

ねこた‏ @lakudagoya 2016年7月25日

ふーむ、キリスト教に三位一体論を導入したテルトゥリアヌスは反ローマの活動家で、反ローマの活動の拠点として教会を利用してたのか。

これ、たんぽぽさんのブログの引用ね。2009年の頃の段階でこの考察をしてるのは凄い人やね。

http://blogs.yahoo.co.jp/tydm1543/21381810.html …
"フェニキア人は古代世界最大の金持ちであった。
そしてもし金がなくとも、
彼らの技術によって金はいくらでも生み出せるのだった。

振り返り、私たちの国「日本」はどうだろうか?
戦争に負けたというが、
またしても「ブリーチ」を求めらている。

他国の宗教に染められてはいないだろうか?

テルトゥリアヌスが言うように、
行政機関、学園、軍隊は大丈夫であろうか?
はなはだ疑問である。
戦争を忘れた日本は、
唄を忘れたカナリヤのようなもの、
そんな日本は「今一度、洗濯され」
ふたたび戦争が出来る国家へと向かわされるだろう。
でなければ消滅させられるだけだ。
・・・今の日本が歴史上のカルタゴに重なるところが大いにあるという記事です。
過去の教訓を活かすも殺すも今の日本人です。

「日本を今一度洗濯いたし申し候」 なぜ破壊されるのか2
ローマに滅ぼされた古代の大商業国家カルタゴ、
そのカルタゴがあったチュニジアから、
2011年における破壊の口火となったジャスミン革命が起こったのも無縁ではあるまい。


ただ今回はそのことには触れない。
前に書いたかもしれないが、
あまり知られていない、興味深い事柄について書き留めておく。

まず、カルタゴは滅びたが、
滅びたカルタゴの怨霊がローマを滅ぼしたということ。

ローマに追い詰められたカルタゴが生んだ最後の英雄、
ハンニバルはスペインで暮らし、
ケルト人やガリア人と行動をともにした。

戦争の天才というより、
鬼神となってローマと戦ったハンニバルは、
ポエニ戦争中に片目を失う。

彼は死後、北欧神話における隻眼の死と戦争の神、オーディン・ウオーダンと呼ばれるようになった。
カルタゴを滅ぼされたフェニキア人は地中海を逃れ、
ガリア(フランス)やゲルマーニア(ドイツ)、そして北欧にまで落ち延びていった。
「臥薪嘗胆」「捲土重来」とは、
まさに彼らのためにある言葉であった。

フェニキア人が作っていた巨大な竜骨船は、
のちにバイキングに受け継がれることになる。

やがて神となったオーディンに急かされるよう、
ゲルマン人たちはローマを襲い、自分たちの国を建国した。

その新しいゲルマン人たちが信仰していたのがキリスト教であった。

キリスト教といえばローマの国教のはずだが、
なぜ敵であるがゲルマン人もキリスト教を信仰していたのか。



その答えのヒントも、
ヘルムの「フェニキア人」にちらっと出ている。

のち、ローマがすでに広汎にキリスト教化されてから、
もう一度、ゼノンと同じように厳しい精神的な立場に立つ人がふたり現れた。

それはテルトゥリアヌスとアウグスティヌスで、
二人とも教父であり、二人ともカルタゴ人であった。



二人のうち、テルトゥリアヌスの方が華やかで荒々しく、過激であった。
つまり、いかにもバールの神官らしい原初的な狂信家であって、
その上「ラテン語著作家のうちで最も難解な著作家」であった。

軍人の息子として生まれた彼は、
教会の長老となったが、教会の組織を、
とりわけ反ローマの地下活動と解していたふしがある。

「われわれは昨日の人間である」と、彼はたとえば書いている。
「しかしわれわれはすでに全世界に浸透した。都市、居住地区、宮殿、行政機関、学園、いや軍隊にまでも」。

そしてまた、迫害する相手に、
「われわれを苦しめ、虐待し、断罪し、踏みにじるがよい。
君たちの悪意はわれわれの無実の証拠なのだから」




私は長い間、イエス・キリストとは、
古代フェニキア王国を神話化したものである
と主張してきた。

ヘルムの「フェニキア人」もそのことの証のひとつとなるだろう。


敵を滅ぼすための戦争は正面作戦だけではない。

フェニキア王国を神格化したヘルメス神は、
姿を消す帽子を持っていた。
オーディン・ウオーダンもまた同じである。

彼らは敵の背後に回り、
敵を倒すために未開民族を育てることができた。
フェニキアには古代のあらゆる技術、
そして並外れた航海知識が備わっていた。

紀元前6世紀にはアフリカを一周していたし、
アメリカ大陸にも行っていただろう。
その事業をバイキングやコロンブスが受け継いだのである。

また、他国に新しい宗教を送り込んで、
国民を信徒として取り入れるという手法は、
敵国を倒す場合や、領土拡張を狙う場合に多用されていた。

宗教が政治の重要な決め事の柱となっていたのだから、
敵を自国の宗教に染めてしまえば、
それはもう国を乗っ取ることと同じであった。

カルタゴ人はローマに滅ぼされた時、5万人が捕虜となった、
だがシーザーの時代になって、カルタゴは復興を果たしていたのである。

このようなわけでキリスト教が成立し、
そして「打倒ローマ」を目指して猛烈な布教が行われたのは当然のことだった。

フェニキア人は古代世界最大の金持ちであった。
そしてもし金がなくとも、
彼らの技術によって金はいくらでも生み出せるのだった。



振り返り、私たちの国「日本」はどうだろうか?
戦争に負けたというが、
またしても「ブリーチ」を求めらている。

他国の宗教に染められてはいないだろうか?

テルトゥリアヌスが言うように、
行政機関、学園、軍隊は大丈夫であろうか?
はなはだ疑問である。



さて、前置きが長くなったが

彼らはなぜ悪霊がこの世を支配していると信じていたのだろうか、
なぜ、オリエント全域に渡り、
このような神が篤く信じられていたのだろうか。


「幸いなるかな、台地に住まう人間の中でこの密儀を目にした者よ」と、
「デメーテルへのホメロス讃歌」の著者は詠じている。
「しかし参入を許されず、祭儀にあずかれぬ者は、死してのち、
闇覆う冥界で同じ定めにあずかるべくもない」


デメテルの娘のコレ(ペルセポネ)は、ニューサの野で花を摘んでいたとき、
冥界のプルート(ハデス)によって連れ去られた。


中略

まばゆい光の中で挙行されたことがわかっている。
多くの古代作家は、アナクトロンという小さな建造物の中で焚かれた火について語っており、
屋根の穴から出た炎と煙は、遠方からも見えたとしている。

ハドリアヌス体期のパピルスでは、ヘラクレスが祭祀に次のように述べている。
「私は昔 密儀にあずかった。・・・・炎を そしてコレを見た」
アテナイのアポロにドロスよれば、最高祭祀はコレを呼び出すときに青銅の銅鑼を鳴らしたという。
文脈から考えて、これは死者の王国が開かれたことを意味していただろう。

ミルチア・エリアーデ 「世界宗教史2」ちくま学芸文庫より、ところどころ抜書きさせていただきました




信者たちは、ふたりの女神の来臨によって信仰を確信したという。
エリアーデが書いているように、
炎の中で冥界の扉が開き、
女神が現れる。

「・・・・炎を そしてコレを見た」
とヘラクレスは言っている。

参入者は、女神の子供とされた、
つまり彼は人間から神となったのだ。

ただし、デメテルの密儀にあるように、
人間のままでの不死化には至っていないと考えられている。
彼らは死後の世界の幸福を約束されることで満足した。
これらの秘儀を自分の目で見ることによってそのことを確信したのだった。


ただ、それならばなぜ、
中東におけるこれらの女神の儀式において、
いきにえが捧げられたのか?
という謎は残る。
エレウシスでは、もっぱら豚が犠牲となったが)

これらの犠牲者は、
デメテルの儀式におけるデモポンと同じように、
「火の中で焼かれて」死んでいったのである。

神々とは死者の霊である。

燃やされて死んでいった人間の霊魂は、
はたしてどの神のもとへといったのだろうか?


キリスト教はこうした生贄の儀式を行わなかった。
いや、テュロスもカルタゴも護れなかった神への祭儀を捨ててもおかしくはなかった。

ただ、いつも言うようだが、
なぜか彼らはバールの名を今でも受け継いでいる。

ローマ帝国に布教する以上、
人身供犠を持つ宗教は受け入れられなかったであろう。
そのために供犠は姿を消した。

しかし、バールの信仰は続いていた。
供犠は形を変えて行われるようになった。
それが戦争である。

要は人間の血が流れ、その命が奪われ、
炎の中で人間が焼かれてゆくのは、
何もトペテでなくとも構わないということに、
彼らは気づいたのだ。



古代フェニキアの生贄の祭壇であるトペテには
「MLK」の文字が刻まれていた。

モロクと解釈されているが、
これは明らかにメルカルト、つまりバール=メルカルト、
すなわちヘラクレスの名が刻まれていた。

地中海世界を大戦争に巻き込み、
多数の国を破壊し、人間を殺した最大の英雄を慰めるため、
数え切れないほどの子供たちの命が捧げられたのである。

そのヘラクレス、メルクの名受け継いだものこそ、
現代のアメリカなのである。


戦争を忘れた日本は、
唄を忘れたカナリヤのようなもの、
そんな日本は「今一度、洗濯され」
ふたたび戦争が出来る国家へと向かわされるだろう。
でなければ消滅させられるだけだ。


枝野は、尖閣列島の問題で、
「あらゆる犠牲を払ってでも、自衛権を行使する」といった。

人間も住んでいない僅かな岩礁によって、
日本人はふたたび戦争に巻き込まれるわけだ。

デメーテルが言った、
「迫りくる良き定めも、悪しき定めも分からぬ者どもよ!」
という言葉の意味がここにあるのである。

尖閣を守るために、
国がなくなっても良いかどうか、
日本人はまったく考えていない。

そんな小島はどうでも良い。

沖縄から北海道まできちんと護られればそれでよいではないか。


フェニキア人は今で言えば魔術を使って冥界に住まう霊を呼び出していたと考えられる。
その仕事を、後にユダヤ教徒が受け継いでいった。
それがユダヤ魔術カバラの正体である。

小密儀では、イメージでしか見ることができない女神が、
大密儀では奥儀には来臨するわけだ。

それがトリックであるか、
それとも本物の霊であるかは、
密儀の参入者ならばしっているはずだ。

人間が触れてはいけない、
闇の世界がそこにある。

人は誰でもいつかは死ぬ。
悪いことをしなければ人間は成仏するはずだ。

ただ、多くの人が心に小さな傷を持っている場合が多い、
宗教はそれを狙って勧誘をかけてくる。

小さな罪があったとしても、
よい行いの方が多ければ気にすることはない。

そして悪行の多かった人は、
今後は善行に務めることだ。

最後に、死ぬまで悪事を繰り返していた人間は、
泥沼の中でのた打ち回ることだろう。

なにせ、肉体はなく、魂だけが残るのだから。
それは精神に染められているはずなのだから。"


”完璧に無垢で高い知性を持つ男の子が最も申し分のない、最適な生贄である。
――クロウリー

(香を用いる)よりも危険であるが、血の供犠はより効果的である。ほぼ全ての目的(達成)の為には人間の生贄が最適である。
――クロウリー

最も重要な魔術の事業がある。それは新時代の秘儀参入である。
言葉を告げることが必要な時が来れば、地球全体が血に浸されなければならない。
テレマの法を受け入れる準備を整える前には、大戦争がなされなければならない。
この血の犠牲こそが、ホルスが宣言する世界規模の式典において決定的に重要な核心である。
ホルスとは、新時代の神として、戴冠し征服する子である。
――クロウリー

“魔術(魔法)とは
「戦争(死と再生の儀式)で人間を間引きし世界を更新する術」(たんぽぽ)
「神(支配者)が思うままに家畜(人間)と自然を管理し支配する為の秘密の智識と操作技術」(ねここねこ)
「思うままに意識の中に変革をひきおこす技術」(フォーチュンとバトラー)”

※私が引用を多用するのは、オリジナリティ(独創性)は他者からの引用の組み合わせ方とそれに対する解釈にしかない
と考えているからです。
もう一つは、私が引用するものは大抵が突然消されてもおかしくないものなので、保存の為でもあります。私の記事も保存を推奨します。
(先ほどの一文に短縮したのが、引用の組み合わせとそれに対する解釈=オリジナリティあるいは私の考え、の実例)

(ねこたさんのブログ〔特に「陰謀論者宗派リスト」〕と、
たんぽぽブログ「戦争はなぜ起きるのか」が消えたのは痛いです)
二人の素晴らしい記事の一部は、私の過去記事
多くの陰謀論者が無視する点を盛り込んで陰謀論者チェックリストを作りました~はじめにお読みください①
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-1.html

(◞≼◎≽◟)☝投稿日時に注目。下中弥三郎。世界一ユダヤを迫害してきたバチカンはナチスを支援し、ユダヤ陰謀論でユダヤに押しつけてキリスト教が責任逃れ。クリスチャンが糾弾するイルミナティの悪魔の儀式とは労働運動と万博(=科学研究の集大成)http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-7.html
にあります。

たんぽぽ(蒲公英)さんについては著作『戦争の真実―死と再生の魔術』(蒲 公英。がま こうえい 名義)を推奨しておきます。
“著者からのコメント
アメリカ同時多発テロから始まった新たな世界戦争。
テロはなぜ起こり、戦争が開始されたのか。
ブッシュ家とラディン家との不思議な協力関係。
その謎の答えは、
古代から受け継がれた「破壊と再生」という宗教哲学にある。
神に代わって人間が神となり、
世界の人口を調整するため、
つまり人間を間引きするために、
戦争は宗教と哲学によって正当化されてきた。
ブッシュの戦争もまた、
人類を間引きして世界を再生させようとする、
死と再生の儀式
にほかならない。”
http://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E2%80%95%E6%AD%BB%E3%81%A8%E5%86%8D%E7%94%9F%E3%81%AE%E9%AD%94%E8%A1%93-%E8%92%B2-%E5%85%AC%E8%8B%B1/dp/4286001784

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-30.html
トヨタの本拠地の豊田市は魔術都市。豊田市章は「クロウリーの六芒星」。
トヨタ=欧州王侯貴族路線(Jロック+ニューエイジ+万博+クロウリー+フランス・スコットランド系メーソン=グラントリアン系)。
もののけ姫のシシ神様(=人間+フンババ+鹿神ケルヌンノス+ヤギ)殺しは死と再生の魔術の儀式。
ガンダムのシャアはペルシャ王で赤い肌のフェニキア的巨人を操る。
アレイスター クロウリー, Aleister Crowley(新装版)『魔術 - 理論と実践』島 弘之, 江口 之隆, 植松 靖夫訳、国書刊行会、1997年


”2011年05月01日 メーデー 魔女と魔王の祝祭  戦争はなぜ起きるのか たんぽぽ日記 戦争のない世界へ
http://blogs.dion.ne.jp/tanpopo0817/archives/10118667.html
“今日はメーデー、
西洋では魔王と魔女の祝日とされている。
イギリスでは「ベルテーンの祝祭」と呼ばれた。
ベルテーンとは、ベル神、つまりバール神の輝く火という意味がある。


ベルテーンの祝祭に関しては、
拙書「戦争の真実 死と再生の魔術」に少し書いてある。

オーダーは秩序を意味すると共に、「騎士団」をも意味する言葉である。
しかし、テンプル騎士団の繁栄は、やはり騎士達に堕落をもたらす結果を生んだ。

明けの明星のように光り輝いた「清貧(?)な騎士たち」も、
一瞬にして奈落の底に落とされるのである。
まさに「奢れる者も久しからず、ただ春の世の夢の如し」であった。

テンプル騎士団は、なぜかローマ教皇以外のいかなる権力者にも従わなくともよいという特権を得た。
また建築者集団であった初期のフリーメイソンのように、
教会に収める十分の一税さえ免除された。

現在も世界財閥を初めとする外資系企業群は、
タックスヘイブンと呼ばれる租税回避地を使って巧みに税金を逃れている。
お金持ちが国に金を払わない方法は昔から存在したようだ。

イベリア半島を始め。
ヨーロッパの中心部を除く半分近くの土地が、
テンプル騎士団領とされていたのである。

彼らの領地に線を引くと、ほぼ現在の「EU]25カ国にまたがる領域となる。

拡大EUは5月1日に発足したが、
その記念日は秘密結社が最も神聖視する「5月1日」となった。

それは「メイデー」と呼ばれる、魔女と魔王の祝日である。

今では「労働祭」と呼ばれるメイデーは、もともとは女神メイの祝日である。

5月は、メイとその息子であるベル神(バール神)に捧げられ、
そのメイディの前夜祭として4月30日の夜から、
ケルト人の4大祭りである「ベルテーン祝祭」がおこなわれていた。
現在では5月祭と呼ばれている。

この日、男女はメイポールに結ばれた赤い紐につかまってグルグルと回りながら、
森へ行って一夜を共にする。
また、この日に5月の女王(メイクイーン)も選ばれた。

メイは、ローマ神話ではマイアと呼ばれる月の女神で、
魔女とされ、その息子がヘルメス=トートであることはすでに述べたとおりだ。

このように、神々の名は地方によって名前が変わる。

なぜ、19世紀になって労働祭とされたかについては、
はっきりとしたことは言えないが、
ひとつだけ思いつくことを述べるとしたら、
古代シュメールの神話である。

人間は神々の衣服や食事の世話をするために創られたという伝説が残っているのだ。
つまり、神々のために労働することが人間の務めとされてきた。


-引用終わり-



つまり何が言いたかったかというと、
EUとはテンプル騎士団が現代に蘇った姿であるということ。

また、メイは現代の世界でも深く信仰されている女神である。

フリーメイソンとは、
この女神メイの息子という意味であり、
フリー(自由)・メイ(女神)・ソン(息子)となり、
自由の女神の息子であるということが分かるだろう。
私が書くまで、
このことを明らかにした本を読んだことはない。


ゆえに彼らが建国したアメリカ合衆国に、
その象徴として自由の女神を建立したのだ。
しかも先にメイソンが革命を実行したフランスから贈られたわけだ。

アメリカとは、その女神の元に魂を統一させた国家であるということは、
ブログの始まりの頃に書いたはず。

アメリカは、マイアの息子として世界を荒らし回る荒ぶる神メレク、
そして救世主と呼ばれたバール神であり。
それは古代ギリシャではヘラクレスと呼ばれ、
キリスト教ではイエスと呼ばれている。

老朽化した世界を破壊して復活させる救世主である。
救いとは破壊を意味する。
その証明としてキリストはこう言っている、
「私が来たのは平和をもたらすためだと思ってはなりません。
私は剣をもたらすためにきたのです」
-新約聖書より-


救世主は人間に平和をもたらす神ではない。
戦争、病、天災、あらゆる災いをもって、
人類を間引きする神である。

※追伸:海賊や航海士たちが、緊急の際に使った「メーデー、メーデー、メーデー」という緊急信号が、この女神から採られたということも分かることだろう。””http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-7.html

魔法使いハンターねこた@lanekotaさんの過去記事とツイートと取材音声(ICレコーダー録音 文字起こし有り)発掘。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-72.html





科学という魔術 たんぽぽ日記 2011年06月23日
http://blogs.dion.ne.jp/tanpopo0817/archives/10210957.html
”1週間ぶりにブログを開きました。この間はパソコンの前に座ることさえありませんでした。年明け早くからの国際情勢の悪化や、3.11震災・原発事故の問題などに力が入りすぎて疲れきっていたのでしょう。(ブログだけやっているわけでないので) 正直、体はまだぐったりしています。(しかも、放射能の影響か突然、血圧や脈拍が高くなり、手や指がパンパンにむくれています。 事故後たった1週間で、ジェット気流にに乗った放射能がヨーロッパまで到達していたというのですから、北海道にも翌日位には来ていたのでしょう。 これらからも食品や飲料、そして空気によって我々はどんどん被爆をしていきます。ですが、政府の対策は変わりそうにもありません。

菅と民主党のあざとさにも呆れ果てました。

国民の被爆を防ごうという姿勢は全く見えず、自治体や住民に突き動かされて、渋々言われたことだけやっています。ただ、孫の事業の肩入れだけには非常に熱心で、この法案が通らなければ辞めないとまで言っています。

先日、札幌のススキノを中心に非常に数多くのビルを所有している経営者がなくなりましたが、その人も韓国籍でした。札幌には、こうした在日系のビルオーナーが多数在住しています。

不動産が真の資産であることは言うまでもありません。在日の人々が数多くのビルを所有し、その中に店子として日本人が間借りしているわけです。これでは誰の国かわからなくなってしまいますよね。在日系の孫が日本の電力事業を支配するようになれば、これと同じことが起こります。

今回の国会の期間延長では、共産党やみんなの党が賛成しました。

菅政権になってから、共産党はまるで与党のように菅の一大事には助け舟を出しています。菅政権と共産党の繋がりの深さを感じさせます。

また、みんなの党も在日系の気配を漂わせています。代表である渡辺喜美の父親だった渡辺美智雄の秘書から国会議員になった新井将敬の旧姓は朴景在(パク・キョンジェ)。ホテルで、中川一郎と同じく首吊りしたいとなって発見された。(中川は明らかに他殺だったが)

朝鮮人であった人が国会議員の秘書となり、やがて本人が国会に上がってゆく。こうしたことが日常的に行われているとしたら・・・

私は渡辺美智雄が札幌にきた時、サービスを担当したことがある。同じ青嵐会でも中川一郎とは違って、あいそっけのない親父だった。

札幌で手広く病院を経営している某理事長が、この渡辺美智雄のおかげで立派な施設が立てられたと自慢していた。補助金や助成金がこうした私的な関係によって動かされるものであるならば、孫や菅の目的もまた同じではないのかと疑いたくなるのも当然だ。

日本人の税金を使って新規電力事業を起こし、さらに食いっぱぐれのないように、発電した電気の総量買取さえも法律で義務付けるという、孫にはまったく損がない、至れり尽くせりの内容である。「100億」出しても喉から手が出るほど決めてもらいたい法案であろう。


対するメディアは、官房機密費がばら撒かれているせいなのか、どうか知らんがオール孫の味方である。唯一真実を暴き出しているのが週刊誌で、亀井静香も先日そのことを認めていた。とんでもない連中に国が支配されているのに叩きもしない大手新聞社の情報は、週刊誌やネットより価値が低い。

田中宇が言うように、正しい記事を書いても、校訂されている内にムラサキウニがバフンウニになってしまうのだった。

この1週間は仕事や家事にいそしみ、また疲れた体を癒すために寝ていた。ただ、合間を縫って最近読んでいなかった宗教書、それも魔術系の本を読み返していた。

私はフリーメイソンが世界を支配しているとはもう思っていない。メイソンの大きな役割は20世紀までに終わり、新しい様々な団体が次々と活動している。どのような組織も大きな目的を果たすとタガが緩んでしまう。また日本のようにメイソンがまったく未発達な国では、密教という形で信者を集めている。


これらは黒魔術の類であって、ある神に自分の魂を捧げ、一体化してしまうものだが、メイソンのように一生、または死んだ後も永遠に脱会が不可能とされているのはそのためである。

私は魔術によって冥界の神と一緒になるのは御免だ。人間、生きているうちから死者の世界と交信を図るとろくな死に方をしないらしい。

日本では三島由紀夫の事件が有名だが、哲学や宗教を突き詰めると人間は死を求めるようになる。生きることよりも、死を重視しているのだからどうしようもない。

これこそ魔術が呪われた術とされている所以で、賢い貴方はそのような穢れた技には近寄らないほうがよい。

人間、黙っていても死ねば冥界に行く。生きているうちからそんなところに行く必要はない。

催眠術もこうした魔術から生まれたのだろうということは想像に難くない。

死者を呼び醒まして利用しようなどと、考えること自体がまともではない。


事実、黒魔術にかけられ、日本は存亡の危機に立っている。 

近代科学は、この忌まわしい黒魔術から生まれたのである。科学は魔術が産み落とした鬼っ子である。

魔法使いや魔女が実験室で薬を混ぜ合わせているのは伊達ではない。科学者たちも同じように実験を繰り返してきた。

そして核兵器に呪いがかけられているということも、日本人なら理解できるであろう。


それはけっして友好的で、平和的な知識によって生み出されたものではない。

特に、日本人を殺し、破壊するために作られたのである。そうした目的を宗教的に言うと「呪い」となる。


※追伸:隣の韓国では、戦前日本が強制連行した朝鮮人に対する調査を行うことを表明しました。これは日本人やマスコミが大騒ぎしている拉致問題をはるかに超える問題です。また、福島原発事故による放射能汚染の補償費を、世界中から求められる可能性も出てきました。

1500年間続いてきた日本国に最大の危機が訪れています。それがザビエルやペリーがやってきた時代から日本にかけられた呪い、「西洋魔術」の恐ろしさです。

その呪いは世界中に拡散し、地上が大混乱を起こしているわけです。

でも私は非常に疲れています。ですから今後も、ブログを書くペースは1週間おきになるかもしれません。


死と再生 2011年06月24日
http://blogs.dion.ne.jp/tanpopo0817/archives/10212321.html

菅首相は、「この顔を見たくないなら、(再生エネルギー)法案を通せ」とまで言った。それが被災者を救う補正予算ではなく、孫正義の新事業であるところに、日本人の悲しい運命を感じる。

また菅は、「脱原発」を旗印に、解散総選挙に打って出て、郵政解散の二匹目のドジョウを狙っているという。

郵政解散で小泉自民党は勝利したが、何か日本人に良い事が一つかあっただろうか?

それどころか、いまや郵政は赤字続きの不良企業となりはて、下手すると預金や保険もろともぶっ飛ぶ可能性さえ出てきた。

菅による「脱原発解散」でも似たようなことが起きるだろう。つまり、日本人が運営してきた安定企業をひとつづつ潰すための作業なのだ。(JRも含めて)

日本国はいま、徹底的な解体による死を求められている。それは新たなる時代の幕開けのためであると説明されている。だが、新たなる時代のために破壊が行われる理由は知らされない。私のような人間が片隅で警告を発しているだけである。

解体されているのは日本だけではない、世界がフランス革命の時のような事態に陥っている。


「薔薇十字団の名声」の著者はヨーロッパの全知識層に向けて、この兄弟団に加わるように呼びかけている。その目的は知の改革を成し遂げること、言いかえれば、西洋世界の更新を加速することにあった。 世界宗教史6 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫より


結果、西洋では貴族による封建主主義が崩壊し、新たな支配階級による民主主義?政治が開始された。(実際には、大衆は決まった範囲の人間から政治家を選んでいるだけ)

メイソンや知識層らによって時の体制がひっくり返されたわけだが、今もそれと同じことが求められている。

私は、大衆にもその目的が公開され、平和的な手法によって事が運ばれるならば、今度のことも黙って見過ごしたであろう。

けれども、21世紀が始まった途端の戦争、中東イスラム世界の崩壊、それに続く日本発の原発事故など、世界の指導者たちが行っている政治は、古代に起きていた「犠牲を求める神」への捧げ物としての戦争や天災と何も変わりがない。

つまり、古代に行われていた魔術的な政治が、現代世界において復活しているのだ。


フリーメイソンら秘密宗教の信仰者たちも、入社式において「死と再生」を経験する。なぜそのようなことをするかと言うと、


「神の王国に入らんとするする者はまず、その体ごと母の内に入り、そこで死なねばならない」 この母とは第一質量、混沌たる集魂、の深淵ことである。



「汝は死せる石塊から活ける賢者の石に変容すべし」とドルトンは書いている。ギヒテルによれば、「我々はこの再生によって、単に新たな魂を受け取るだけではない。新たなる体をも受け取るのである。この体は神の御言から、あるいは天井の叡智なる乙女から採られたものである」
  世界宗教史6 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫より


これだけ見れば、たいへん高尚な目的であるように思われるが、そのために多くの人間が死んでいったことを思い合わせれば、けっして彼らの目的が、人道に適った正しい道ではないことが明らかになる。

人間の生命ではなく、魂に関心を持つと言われている神と、その神を取り巻く集団による世界政治が、新たな展開を迎えている。

肉体から、神のかけらであるとされる魂を取り出す作業が繰り広げられている。


※追伸:個人的な報告ですが、仕事が変わることになり、近いうちに別の町に転居することがほぼ決まりました。(早ければ1週間後)問題はネットのない環境に置かれるかもしれないということ、あまり休みがなく、帰宅時間も夜の11時くらいになると聞いています。 新しい職場に馴れるため、また体調から考えてブログの配信は難しくなりそうです。場合によっては長期のお休み、または停止に追い込まれるかも。 来週に入れば住居探しなどの準備に追われると思いますので、日曜日までに何回か配信したいと考えています。時間さえ許せば。


原発事故が一日も早く収束し、平穏な日々が戻ってくるよう、心から願っています。”

物資(肉体)から魂を開放せよ! 戦争  フリーメイソンの哲学 たんぽぽ日記 2012年10月08日
http://blogs.dion.ne.jp/tanpopo0817/archives/10941234.html
”マンリー・パーマー・ホール著「フリーメイソンの失われた鍵」人文書院より


すべての生きているももの成長する過程には、自分が囚人であることを自覚する時期がある。

その永遠の「囚人」とは、物資という暗い石壁の中に生まれた「生命」である。


「生命」-すべての生けるものの心臓の中にある脅威の胚、陰気な部屋の中の聖なる「囚人」、「建築者の棟梁」が物資という墓の中に置いたものーを中心にして、「聖墓」という素晴らしい伝説が作られた。


物資は墓場である。それは、鼓動する「零」のエネルギーにまだ目覚めていない、物資の死せる壁である。


このロッジは、牢獄の壁が取り除かれることを思い、「光の神々」と一体化しようとする人々に捧げられている。


この「聖墓」あるには墓が実際には否定と結晶化ー物資ーであることを知るメーソンはほとんどいない。この物資の中に「生命の霊」が封印され、個人が成長して輝く金の壁を与え、石を窓に変えるため、それは暗闇の中にある。ー人間は高次の理解力によって、「父の家」の建築者であり、賛美者であるエネルギーと力を解放しなければならない。

プラトンは、肉体が魂の墓であると述べるとき、その解答も暗に示している。肉体の内にある魂は、開放される時を待っている。

非理性的な形から理性部分が開放されて自由を得るのは、二つの方法のうちのひとつによってである。無知な者は必然によって開放され、賢者は選択によって開放される。

以上のように、フリーメイソンと哲学は人間の生命である肉体を呪い、肉体から霊を分離する作業に勤しむ者たちである。メーソンはイギリスで生まれ、(仏独伊等欧州でも発展し)アメリカで巨大化した。

世界にとって非常にやっかいなことは、このメーソンたちが、自分たちの魂の開放に務めればよいものを、自分たちの魂を肉体からは開放せず、他人(非メイソン)の魂の開放作業に没頭していることだ。

彼らは、自分たちは賢者で自力で解脱でできるとし、我々大衆は自力で解脱できないので、彼らが起こす「戦争」という必然の力によって、強引に他人の肉体から魂を開放させてきたのである。

私はこう思う。

つまり、メイソンが「魂の開放」こそ人間が目指すべき途としているのは建前であり、実は自分たちの命は守りつつ、他人を殺害するための尤もな口実を見出した集団であるのだと。

人間が寿命に満たないのに自ら納得して死ぬ、または人間に人殺しをさせるためには、このいかにも尤もらしい口実が必要なのである。


「尖閣諸島を守れ!」「君が代を歌い、愛国心に目覚めよ!」「愛する人々を中国から守れ!」「北朝鮮に誘拐された人々を救い出せ!」


メイソンリーらが目指す肉体からの魂の開放作業には、国民が逃れられそうにもない、こうした尤もらしい「戦争動機」が必要である。

その口実を見出すことこそがメイソンの仕事であり、「フリーメイソンの失われた鍵」すなわち、人間を騙す悪魔の言葉である「魔術の呪文」を見出すことである。



彼らの思想では、世界は言葉によって創造されたのである。
そして今、日本人がその言葉によって「戦争」に赴こうとしている。

橋下徹、石原慎太郎、安倍晋三、石破茂、どれもこれも、言葉によって日本人を死地に赴かせる、メイソンの理想とされる、魂を開放する作業に勤しむ冷酷な戦争哲学者である。 

人間の肉体を悪であるとすえるメイソンが、生命を呪い、他人の命を敬わないことは明白ではないか。


真のフリーメイソン体系は秘教的であり、この世のものではない



マンリー・パーマー・ホール著「フリーメイソンの失われた鍵」人文書院より


我々はこの世に生きている。生命とは素晴らしいものだと教わってきた。

だが、世界を舞台に戦争を引き起こす者どもは、この世を、あの世に変える作業こそ最も貴いものだとしている。

悪魔以外にいったい誰がこのような教えを垂れるであろうか?

悪魔は人間との契約を求める。神は人間に見返りを求めない。

だが、聖書の神は人間に契約を求め、彼の意思に逆らえば信徒でも殺してしまう。そのような存在を、世界は、なぜ神と信じているのか?

悪魔を神と認めさせるほどの力、黒を白だと思い込ませるほどの力と騙しのテクニックを、ユダヤ教やキリスト教、そしてフリーメイソンは「言葉=鍵」によって体系化したきたのだ。

橋下総理が「戦争だ!」と言えば、日本と中国の戦争が開始されるだろう。

このように言葉とは、逃れられない、取り消しのつかない効力を、悪魔の力を秘めている。

その効力を世界で最も良く知る存在がフリーメイソンなのだ。メイソンは肉体を魂の墓であるとする。

だが、普通の人間は魂の墓は墓地にあり、肉体が生命の器であることを知っている。

その人間界の常識とまったく正反対に位置するもの、冥界の使者ヘルメス、それがメイソンリーであり、世界の政治家達なのである。


ヘルメスはあらゆる人間や神々と交わりを持つ神、人を益すること少なく、闇垂れ込める夜の続く限り、果てしなく人間の族を騙し続ける神である。

「ホメロスの諸紳讃歌」ちくま学芸文庫より


ヘルメスこそ最高神ゼウスの命を受け、今の日本人の脇で三日月刀を構えて首を刎ねようとしている死神である。
(日本のテレビによく登場する金髪のユダヤ人に受肉し、日本の死を確実にするために働いている)



メイソンはヘルメスを最も尊敬する神であるとしている。それは言葉によって人間を騙し、冥界へと運び去る魔術の、「竪琴引き」の創始者であるからだ。

古代ギリシャでオデュッセウスの戦争と冒険が竪琴引きによって、美化され、語り継がれたように
、尖閣戦争も中国と世界にとって、東洋の悪魔である「日本退治」の美しい物語として、正義が悪を倒した現代の大叙事詩として語り継がれてゆくのだ。

島を奪い、退治されるべき鬼こそ、われわれ日本人なのである。

だが、日本人は自分の仕出かした罪を認めず、実は自分が鬼であるのに、竹島の韓国人や、尖閣の中国人を鬼とし、橋下や安倍が自衛隊を出動させ、鬼退治に出かけると嘯いている。

評価(正義と悪)は自分(日本人)が決めるものではなく、他人(世界の人々)が決めるものであるのに・・・”

たんぽぽメモリアル 戦争はなぜ起きるのか
http://lakudanekoneko.at.webry.info/201506/article_3.html
「戦争はなぜ起きるのか?」のたんぽぽさんのメモリアル記事です。皆さんの勉強になるのでご紹介いたします。
もしこのブログで引用掲載するという事が不適切であれば、起き場所を考えます。

はじめまして蒲公英です。
札幌市に住むサラリーマンで、2年前に「戦争の真実 死と再生の魔術」という本を出版しました。
ブログは初めてなので使い方がよくわかりませんが、
本の内容同様、世界から戦争がなくなる日がやって来ることを信じて書き込みをしたいと思っております。
内容としては自分の本からの出典の他に、
本にならなかった1000ページほどの原稿、
また自分が所有している資料から、
あまり皆さんに知られていない世界の本当の姿について明らかにしていきたいと考えております。
初回は「なぜ戦争は起きるのか?」という主テーマについて、歴史をさかのぼってお伝えしていきます。

戦争とは人殺し、つまり殺人です。
人類最初の殺人は、聖書の中ではイブの息子カインによる
弟アベルの殺害とされています。
なぜアダムの息子と呼ばないかと言うと、
カインはイブを誘惑した蛇(サタン)の子とされているからです。このことは少し後で説明を加えます。
成長したアベルは羊を生贄にして神に捧げ、
カインは作物を供えました。
ところが神ヤーウエは、カインの供え物が気に入らず受け取りません。
怒ったカインは弟アベルを殺してしまいます。
ここで重大な問題が起こりました。
神ヤーウエはカインを弟殺害の罪で追放する一方、
カインの保護を約束します。
ヤーウエは、「それならば、カインを殺す者はだれでも、七倍の復讐を受けるであろう」とカインに言われた。聖書・創世記(フランシスコ会聖書研究所訳)

神は約束の証として、カインの額に×印の刺青を刻みました。
この印は現代ではハリーポッターという仮想の少年の額に刻まれ、思想として受け継がれています。
×印は十字架が回転した、つまり動き出した事を意味します。(ヒトラーのハーケンクロイツや、三島由紀夫の小説の題名卍も同じ意味を持っています)

映画の中でハリーは蛇と会話していますが、それはハリーはカインの末裔、つまり蛇(サタン)の末裔として表現されているからなのです。
聖書の蛇がサタンであるという考え方は、ミルトンが「失楽園」の中で証明しています。

またカインが作物を作るというのも、ローマの農耕神と言われたサトゥルヌス、またの名はサタンを感じさせます。
サトゥルヌスとは古代ローマでの呼び名で、
彼の本当の名はギリシャではクロノス、
そしてフェニキアではイスラエルと呼ばれていました。
クロノスはゼウスの父で、ゼウスに先立って世界を支配していましたが、ゼウスによって奈落の底に落とされました。

神イスラエル、つまり現代の中東に2000年振りに復活し、イスラム国家を敵に回してアメリカと共に戦っている、あのイスラエルの古代の姿が、クロノスやサトゥルヌス(サタン)と呼ばれた神なのです。

ところで神に守られたカインは、額に彫られた刺青の恐さも手伝って、誰も彼に害を加える者はいませんでした。(現代のヤクザと同じ、カインはヤクザの始祖かも)そうこうしているうちにカインは世界で始めてとも言われる都市国家を建設し、
その子供たちも、音楽家や鍛冶師などの開祖つまり、家元や親方として勢力を広げ,
ついにカインは世界文明の始祖と呼ばれる存在にまでなっていきます。

ここでわかる事は、カインはアベル殺しの罪を神に問われたのではなく、アベルを神の生贄として捧げたことで、神の歓心を買ったということです。
なぜなら聖書の神は、アベルが羊を生贄として捧げたことでもわかるように、作物の捧げ物では喜ばぬ神だからです。
聖書でヤーウエは、すべての初子を生贄として捧げよと命令しています。


聖書において神はすべての存在を創造したのであって、
それは良い人間だけではなく、悪も創造したということを意味します。
聖書の神にとっては悪も必要性があるのです。
人間の殺人者だけではなく、鮫やライオン、毒蛇や病気、悪魔でさえも神が創ったということです。
ではなぜ神は善だけではなく悪も創ったのでしょうか?

その辺りが、私が最も深く追求してきたテーマです。
なぜなら、この神が悪を許したという故事を今でも利用し、秘密の教えの根拠として、
現代でも世界を動かすエリートたちが戦争を起しているからです。
「人間を殺すことは神に許された、というより神に祝福された行為であり、勝者となれば殺した相手の財産を所有することが許される」と。

現代のイラクやアフガニスタンの戦争で、
アメリカは石油や天然ガスの膨大な利権を手に入れました。
その上で彼らは値段を吊り上げています。
イラクでは65万人の死者が出ているという報告もあります。

なぜ聖書の神は人殺しを許すのでしょうか?
そのことについては、ギリシャ神話がもっとも判り易く伝えています。
主神ゼウスは「人間が増えすぎた、戦争を起して人間を
減らしてしまおう」という理由でトロイア戦争を起こしました。
聖書におけるノアの箱舟伝説もこれとまったく同じ意味を持っています。

トロイア戦争の英雄オデュッセウスは、戦争後も地中海を転戦し、部下の全員を失い、自分ひとり戦利品を持って帰ってきました。(第二次世界大戦において、国民が貧困のどん底にある中、児玉誉士夫は莫大な隠匿物を日本に持ち帰り、戦後日本のフィクサーとなった)
そのオデュッセウスが、最高神ゼウスに並ぶ智恵者であるとして、大叙事詩「オデュッセイア」に語り継がれています。

オデュッセイアはイリアスと並び、欧米のエリートたちが読まなければならない本とされています。
オデュッセウスの行い、戦争でトロイアを滅ぼし、
さらには味方まで全滅させる事こそが、主神ゼウスの願いであり、その功績により、オデュッセウスは神に等しい人間として、現代世界でも最高の英雄として称えられているのです。
オデュッセウスは神に代わって地中海世界を徹底的に破壊し、秘密の「死と再生の儀式」を執行した、世界を増殖による破綻という絶滅から救った救世主、つまりキリストの一人となったのでした。

私は、彼こそ歴史の謎に包まれた、海の民の首領だったのではないかと考えています。
そしてこの古代の至高の叡智の真相は、地球上の一般庶民には絶対に隠さなければならない政治上の最高の秘密として、ごく一部の人間たちの間で語り告がれてきました。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・また秘密結社などがこの古代の思想を受け継いできました。
それが聖書の教えの真髄でもあります。

現代のアメリカが世界各地で戦争を起こす事も、
戦争を起さなければ、人間がどんどん増殖して世界は滅びてしまうという、この古代の教えに基いて行われており、
こうした思想は哲学と呼ばれ、戦争は神の作業を手伝う正しい行いとされてきました。
哲学とは、この世をいかに生きるかではなく、あの世にいかに留まるかをテーマとしています。
つまりいかに死に、いかにあの世に行くか、
それが哲学の教えなのです。
その教えに神秘的なベールをかけた時、宗教と呼ばれるものになるでしょう。


こうした思想が世界的な宗教、そして政治・経済・学問の本質であり続ける限り、世界から戦争がなくなる日はやってきません。
なにせ神さまと政府が結託して、殺人である戦争を奨励しているのですから。
アメリカが1万発も所有している核兵器は、人間を殺すために造られたのです。

旧約聖書は侵略戦争による、古代イスラエル=ユダヤ人の興亡をテーマにした歴史物語です。
聖書の中で戦争は正当化され、神ヤーウエ自ら戦闘を指揮しています。

主はヨシュアに言われた。「恐れてはならない。おののいてはならない。全軍隊を引き連れてアイに攻め上りなさい。アイの王も民も町も周辺の土地もあなたの 手に渡す。エリコとその王にしたように、アイとその王にしなさい。ただし、分捕り物と家畜は自分たちのために奪ってもよい。あなたは、町を裏手からうかが うように伏兵を置け。」旧約聖書 ヨシュア記 アイの滅亡 日本聖書教会より

7000年もの昔から栄えたエリコの町は、ごく一部の裏切り者とユダヤ人によって全滅させられました。


聖書の中には、命の木、つまり人間がいつまでも生き続けるための秘密の知識が隠されています。
アダムとイブは善悪の知識の木の実を食べ、つまり法律を知り、国家を知ります。しかし宗教と違って国家は戦争によって滅ぼされてしまうもの、つまり死すべき者となってしまったわけです。
それとは対照的に、命の木である宗教は国家がなくなっても滅びさることはありません。

その証として、ローマによって滅ぼされた古代国家ユダヤから派生したキリスト教が、その数世紀後にはヨーロッパを席巻してしまい、挙句の果てにはアメリカ大陸まで占領してしまいました。
キリスト教の発展の礎となったローマ帝国が滅び去ろうと、フランス革命が起きようと、キリスト教は生き続けます。
宗教にとって国家の興亡は、蛇が古い皮を脱ぎすてて新しく生まれ変わることと同じことなのです。
(神や英雄が冥界に下降して地上に戻る黄泉返り、つまり死と再生の儀式は、国家の戦争、その死と再生を意味します)
聖書の神は、蛇を使ってわざと人間に善悪の知識の木の実だけたべさせたのではないでしょうか?
人間の世界に戦争を起し、定期的に間引きを行い、行き詰まった世界を更新するために。
より大きな戦争を起すためには、より大きな国家が必要なりますから。

他民族をいかに騙して殺し、その資産を奪うか、
その手法を説くのが「聖書」です。

この古代からの恐るべき教科書が、ユダヤ民族によって受け継がれてきました。
その教えが世界中に行き渡った事実こそ、ユダヤ人の力量を物語るものです。
こうした主張は私だけではなく、ユダヤ人の大哲学者スピノザも認めています。

イスラエルから登場した神の子キリストは、ついには
聖書の預言の通り世界を支配してしまいました。
また西洋の政治家や実業家達は、(私たち日本人も)
コロンブスを偉大な英雄として扱っています。
しかし彼もオデュッセウスと同じように、アメリカを侵略し、金の略奪と奴隷貿易を始めた海賊の一人にすぎません。
そしてブッシュ大統領も、現代のオデュッセウスとして歴史に名を残したと言えるでしょう。

平成20年8月17日

※追伸
私は神が悪魔を創造したと書いていますが、それは聖書などの考え方によるもので、正しいとは考えていません。
神とは、肉体を持たない精神的な存在、つまり霊と考えられており、霊には人間界と同じように、良い霊もいれば、悪い霊もいる、そう考えているからです。
これはただの想像ではなく、私の経験から感じたことですが。


たんぽぽメモリアル 2 アメリカの意味
http://lakudanekoneko.at.webry.info/201506/article_4.html
たんぽぽさんメモリアル記事です。
皆さんの勉強になるので掲載しております。もし掲載が不適切であれば取りやめますのでご連絡くださいませ。

アメリカという国の名は、アメリゴ・ベスプッチなる人物に由来すると言われています。
けれど、私はその本当の意味を知っています。
よく陰謀史観などと言われますが、アメリカ合衆国を建国したのはフリーメイソンという結社員によるものであることはやっと知られてきました。
実際、ワシントンやフランクリンがメイソンなので、陰謀というよりもこれはもう歴史的事実として認定されるべき出来事だと言えます。
(そろそろ教科書にもメイソンという言葉を載せてみては)

世界史とは戦争による政権交代によって刻まれてきたもので、年表をみればわかるように、ローマやイスラム、元やイギリスなど世界地図を戦争で塗り替えたとき歴史は刻まれてきました。
イギリスは侵略戦争によって、世界の半分の陸地を支配しました。その国々は現在でもイギリス連邦としてエリザベス女王を国家元首としています。
戦争では、相手国に対して陰謀を仕掛けることが当たり前で、いかに上手く陰謀を行うかを作戦と読んでいます。
たとえば、アメリカは原爆を今作っていますよ、そして8月6日と9日に広島と長崎に落としますよなどと教えてくれたでしょうか?
それは最高の機密とされ、すべて秘密裏に実行された、陰謀の最たるものでした。
(陰謀とは隠されたハカリゴトと読む)
実際、アメリカのペンタゴンやCIAは、アフガンやイラクの敵をいかに効率的に殺すかいつも作戦を練っていて、
それが彼らの仕事であり、現実というものです。


こうした事実を捻じ曲げようとする人間が世界に陰謀などないと言ってますが、事実はまったく違います。
世界にはかつてなかったほど、数多くの陰謀が仕掛けられているのです。

その代表がアメリカ同時多発テロ事件で、日本では拉致事件や毒入りりギョーザ事件など、戦争のための下準備と言える事件が世界各地で起こっています。
こうした事件がきっかけとなり、歴史上の戦争が起きました。
たとえば先日採りあげたトロイの戦争も、ヘレネというたった一人の女性の誘拐が発端でした。
そのために地中海世界全体の地図が塗り変わるほどの戦争が起こってしまったのです。
北朝鮮による拉致事件はこの故事に倣ったものです。
神ゼウスは、パリスを使ってヘレネを誘拐させ、戦争を起し、人間を減らして世界の再生を謀ったとされています。
これは最も高度な政治的テクニックであり、古代世界から受け継がれた、最高の叡智であるとされてきました。


9.11テロ事件はどうでしょうか。
アメリカ政府の関与が数多くの本で明かされてきましたが、マスコミはほとんど目を瞑ったままです。
「アメリカ政府がテロ事件に関与した」とテレビ局が放送したのは、たった一回しか記憶にありません。
戦後の日本はアメリカの主導によって国が再編されたので、当然の成り行きだとも言えます。
日本の民間テレビ局も、アメリカ政府の力によって作り上げられたことは、有馬哲夫氏の「日本テレビとCIA 発掘された正力ファイル」で明らかにされています。

正力氏はアメリカだけではなく、右翼の大物児玉誉士夫氏、三代目山口組組長田岡一雄氏らと協力し、街頭テレビで力道山を起用して、プロレスブームを演出しました。
力道山は日本の英雄ではなく、韓国から来た英雄でしたが、当時のマスコミは知っていながらまったく報道しませんでした。マスコミはこうしてヒーローを作り上げる事ができるのです。その造られたヒーローに国民は酔いしれます。
児玉誉士夫氏は自民党を作るためにお金(ダイヤモンドや金塊など)を出しました。(正確に言えば、そのお金は日本国民の財産で、児玉が勝手に流用したのだが)
こうした事実関係を日本人はあまりにも知らなさすぎます。
そして知らないのにアメリカや世界には陰謀などないと言っている日本は、今のままでは韓国や北朝鮮、中国の植民地とされてしまうでしょう。
世界には今、陰謀の花が満開に咲き乱れ、戦争という風によって散る時期を舞っています。
その花は特攻隊のボタンに刻まれた、桜の花びらと同じ意味を持つのです。

平成20年8月19日 蒲公英



たんぽぽメモリアル 3 アメリカの意味2 自由の女神の息子たち
http://lakudanekoneko.at.webry.info/201506/article_5.html

たんぽぽブログのメモリアル記事です。皆さんの参考になると思い掲載してます。
もし不適切であれば掲載を取りやめますので、ご一報くださいませ。

前回はアメリカの意味と言うテーマで書き出しましたが、
書いているうちについ話がそれて、結論を書かないまま疲れて眠ってしまいました。
今日も仕事でかなり疲れ気味なのですが、先日中途半端に終わってしまったので、アメリカという国名が持つ意味だけでも書いておきたいと思います。

初回にアメリカという国はワシントンなどのフリーメイソンたちが建国したことは述べました。
アメリカ建国にメイソンたちが関わった事は、メイソンが書いた文献からも明らかなので、今さら否定されることもないでしょう。
アメリカ建国100年を祝って、フランス革命を指導したフランスメイソンの後継者たちから、ニューヨークの自由の女神像がアメリカに贈られました。
この事実もすでに知れ渡っております。

さて、私の本にはすでに書いたことなのですが、フランスメイソンたちがなぜ自由の女神を贈ったのか、そこにアメリカという国名についての謎を解く鍵があります。
ドラクロアが描いたフランス革命の絵画、「民衆を導く自由の女神」は教科書にも採りあげられるほど日本でも有名です。実はメイソンにとって、自由の女神こそ革命の精神的指導者、もっと言えば彼らの真の神なのです。
ただし、多くのメイソンたちは表向きはプロテスタントとしてキリスト教を信仰し、ローマカトリックと対立してきました。それが宗教戦争と呼ばれている歴史 的事件の正体です。フリーメイソンはカトリックと長年にわたり戦争状態にあり、このことによりカトリックからメイソンは破門されました。 その対立は現代 でも完全に解消されたわけではありません。
彼らはキリスト教における、隠れキリシタンならぬ、隠れ女神教徒であると言えるでしょう。

もしメイソンたちが真のキリスト教徒であるならば、彼らはアメリカ独立100年を記念し、ニューヨークにキリストの像を建てたでしょう。
けれど、そのフリーメイソンという名前、そして彼らの女神に対する熱い思いが、女神像となって結実したのでした。


キリスト教に対する自由を求める戦いの象徴として。
フリーメイソンという名前は、通常「自由な石工」に由来するとされ、どの文献を読んでもそう書いてあります。
けれど、その本当の意味は、フリー(自由)・メイ(5月の女神=ローマ神話の女神マイア)・ソン(息子)、合わせて、「自由の女神の息子」という意味になります。

この自由と言う言葉には、信仰の自由という意味も含まれています。キリスト教一色に染め上げられた中世のヨーロッパにおいて、ユダヤ教徒やフリーメイソンたちが、ローマカトリックに対して立ち向かっていきました。
その宗教だけではなく、政治的支配を覆す為に戦った歴史の最たる出来事が、アメリカの独立、そしてフランス革命として結実していったのです。
なぜならキリスト教徒でなければ異端審問制度によって魔女狩りに遭い、火あぶりにされた上に、財産はすべて没収されるという恐るべき時代だったのですから。 
カトリックは神の教えよりも、十字軍や魔女狩りなど、教会の利権となる事業を起しては庶民を抑圧していました。
それはキリスト教が持つ、表向きとはまったく違う別の顔なのです。

メイソンの神メイ、彼女は大地の女神として古代から中近東やヨーロッパ、そして日本でも信仰されてきた、キリストよりもはるかに古く、もっとも熱狂的に信仰された神のひとりでした。
その名前は数えきれないほどあり、一例を挙げると、ガイア・アシュラ・イシス・デメーテル・アフロディーテ・ビーナス・マイア・カーリー、そしてキリスト教においてはマリアがその女神にあたるとされてきました。

フリーメイソンの書物では、ヘルメスというギリシャ神話に登場する旅人と盗賊と智恵の神が登場し、非常にメイソンの尊敬を集めています。彼こそ女神メイ、またの名をマイアの息子で、ゼウスとマイアの子と呼ばれる神でした。(ヘルメスはマリアの息子、すなわち救世主)
ヘルメスは恐るべき男で、生まれるとすぐに神アポロンの牛を盗みだしました。それをアポロンが見つけ出し、ヘルメスを問い詰めます。ところがヘルメスは何 食わぬ顔でとぼけきってしまうのです。悪智恵にかけては天下一品、そのたぐいなれな才能をゼウスに見込まれ、彼は天界と地上、そして地上と冥界のメッセン ジャーという大役を任せられます。
この決定が人間に不幸を招きました。
なぜならヘルメスは、仏教で言えば観音菩薩の役割をゼウスに与えられたからです。
すなわち迷える人間の霊を冥界へと運ぶ役割を仰せつかったのでした。
ヘルメスについて、ギリシャの大叙事詩家ホメロスはこう評しています。

「ヘルメスはあらゆる神々や人間と交わりを持つ神。人を益すること少なく、闇垂れこめる夜の続く限り、果てしなく人間の族を騙し続ける神である」
ホメーロスの諸神讃歌 ちくま学芸文庫から引用


このような神が人間界を支配することになった時から、人間の不幸は始まったのでした。
彼はアポロンから民を牧する黄金の杖を譲り受け、人間世界の政治を動かす神として君臨してしまったのです。
そして彼はオデュッセウスのように、言葉巧みに人間を戦争へと誘い、その魂を冥界へと導いてゆくのでした。
それが最高神から任された仕事だったのですから。
彼はトロイ戦争の原因となった、黄金のリンゴ(ミロのビーナスの失われた手に握られていた、禁断の善悪の実)を戦争の主犯パリスに渡し、トロイア戦争の原因を作りました。

このような神を、メイソンたちは最も智恵ある神として尊敬し信仰しています。
いや信仰すると言うより、彼ら自身が女神メイの息子(ヘルメス)となるべくメイソンという名を選んだのでした。

そしてやっと結論ですが。
女神メイはメリーとも呼ばれており、
ア(ひとつの)メリー(女神)カー(魂)、メイの下にひとつに集まった魂。つまり「自由の女神の名の下に結集した精神的国家」、これがアメリカという国名の秘密です。
自由の女神がなぜニューヨークに建立され、アメリカのシンボルとされているか、おわかりいただけましたか。
アメリカという国は、国民は知らなくとも、自由の女神を信仰する、ひとつの宗教国家として建国されたのです。
(世界を破壊する破壊神、すなわち救世主メレクも参考にしてください、a merek ca)

※追伸 エジソンは意味もなく、蓄音機に「メリーさんの羊」を録音した訳ではありません。
メリー(女神)の羊(国民)とは、アメリカ市民に違いありませんから。
彼らはメリーさんとその息子の巧みな言葉と企みに導かれ、世界中どこでも戦うために旅立たなければなりません。その手に黄金のリンゴを持って。
最近日本に渡されたリンゴには、こんな文字が刻まれているはずです。
「拉致・竹島・毒入りギョーザ・尖閣列島」などと、
それは古代の大地の女神イブからアダムに贈られた、愛と美の結晶とされる、最も神秘的で、最も恐るべきべきギフトなのです。

「おまえは園にあるどの木の実を食べてもよい。しかし善悪の知識の木の実は食べてはならない。それを食べると、必ず死ぬであろう」 旧約聖書 創世記 フランシスコ会聖書研究所訳注より
"

("・ヘルメス(英語、マーキュリー。ラテン語、メルクリウス)
伝令、旅人、交渉、
発明(度量衡、数、さいころ、交易)、
富、幸運、商売、賭博、牧畜、占術、詐欺、冥界の先導、
魔術(のちに錬金術)の神で、盗賊の守護者。

・貴族の前では忠実な伝令(おとなしい便利屋)、
庶民の間ではお貴族様を手玉に取る商売人、ずるがしこい詐欺師、詐欺と盗賊の神。
ヘルメスは庶民の理想像。

・ヘルメスは伝令の格好をした若い金髪の少年として表現される。ひげ面のおっさんで描かれることもある。

・ヘルメス柱という旅人を守護するヘルメスが地蔵のように道に置かれている。
古代ギリシャにおけるお地蔵さん的存在で、道端によくおかれているのがヘルメス柱。
ヘルメス柱は四角い石柱にひげ面のヘルメスの頭部、勃起した男根がついているもの。

・シンボル
翼のあるサンダル、
旅人の帽子(時に有翼)、
羊を背負っている、
旅行用の短いマント、
財布、
シュリンクス(笛)、
数字の4
(ヘルメスの聖数。古代ギリシャではヘルメスにかかわる4はラッキーナンバー。ヘルメスの誕生日は月の4日)、
水星、
亀、ツル、タカ、野ウサギ、ヤギ、羊、雄鶏、
クロッカス(サフラン)、木イチゴ、イチジク、クルミ、キュウリ、
伝令杖
(ケリュケイオン。ケリュケス〔伝令〕の杖。二匹の蛇が絡まった杖。

ヘルメスのものは天界から冥界まで自由に行き来することができた。
後の時代には錬金術のシンボルとなる)など。

・『光明神にして疫病の神にして医術の神であり、「人間によって一番幸せなことは死ぬことだ」といったアポロン』
の牛を生まれてすぐに盗んだのがヘルメス。
古代ギリシャでは牛を盗むことは罪ではなく、むしろ手柄だと考えられることが多かった。
古代ギリシャでは、道に落ちているしサイフや金品はヘルメスからの恵みだと考えられた。そのため拾得物のことを「ヘルマイオン(ヘルメスのもの)」という。

・冥界の王にして、冥界の裁判所のトップにして、呪術・富・鉱物・宝石・豊穣・死者の埋葬・葬礼をつかさどり、死者に敬意を払わないものを罰するハデス(英語プルート。ラテン語プルトン)のシンボル。

隠れ兜(かぶると姿を消せる皮でできている)、
王笏、玉座、果樹園、冥界の鍵、
豊穣の角(コルンコピア。絵を見るに両手でかかえるほど大きい)、
糸杉、ミント、白ポプラ、アスポデロス(不死の花)、水仙、ザクロ、
メンフクロウ/ミミズク(縁起の悪い鳥でハデスの使者といわれる)、
ケルベロス。

ハデスの名は直接口にするのは縁起が悪いので避けられた。
そのためハデスの別名は縁起の悪さを感じさせないポジティブなものが多い。
プルトン(富める者)、アイドネウス(見えざる者)など。

ハデスは基本的には生殖能力のない男神だと考えられているが、本流ではないギリシャ神話(オルフェウス神話)では子供を持っているときがある。"
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-116.html
ギリシャ神話に最適な入門書 『古代ギリシャのリアル』に学ぶ、面白くてわかりやすい入門書の書き方。 )


たんぽぽメモリアル 4 禁断の果実、黄金のリンゴ アメリ同時多発テロ事件 自由の女神からの贈り物
http://lakudanekoneko.at.webry.info/201506/article_6.html

たんぽぽさんメモリアル記事です。
皆さんの勉強になるので掲載しております。もし掲載が不適切であれば取りやめますのでご連絡くださいませ。

こんばんは蒲公英です。
前回までは戦争はなぜ起きるのかというテーマについて、
その根本思想となる、宗教哲学的な神秘思想に関する問題を採りあげてみました。

地球の人口は近い将来80億人を超えると言われています。
人間に限らずどのような生物も増殖し続ければ、必ず滅びの時はやってくる、
それはひとつの真理であることは確かです。
聖書やギリシャ神話では創造主である神が、人間の増殖によって老朽化した世界を、一度完全に破壊して立て直すために洪水や戦争を起したのでした。

破壊によって世界は生まれ変わり、原初の楽園状態を取り戻す。これは「死と再生の儀式」という秘中の秘として、古代宗教から受け継がれた密教の教えの核心 です。すべての宗教には一般信者向けの公教と、上層部だけが知る密教があり、密教はユダヤ・キリスト・イスラムだけではなく仏教にさえ存在し、
その奥義が一般信者に知らされることはありません。けっして他言しないという誓約がなければ、伝えられることのない教えなのです。

キリスト教徒たちはこの教えに基いてアメリカ大陸などを侵略し、先住民を異教徒として殺戮し、代わりに黒人を奴隷として使役し、植民地から莫大な利益を上げていました。
それが宗教の真の姿でなのです。
宗教にも本音と建前があるということです。


秘密結社もまた、この古代の真理を追い求めてきました。
フリーメイソンの入社式もこの死と再生の儀式を表現したものです。
実際、戦後の日本でも復興景気や、朝鮮戦争やベトナム戦争による特需景気が起こり、自国や他国の国民の犠牲によって日本経済は再生していったのでした。
ここになぜ戦争が起こるのかという問題の核心があります。


アメリカ同時多発テロ事件においても同じことが言えますが、特にこの出来事が恐ろしいのは、事件を口実に世界中を巻き込んでゆく戦争が起きてしまったからです。
ブッシュはアメリカの対テロ戦争をグローバルウォーと位置付けています。
けれど、アメリカ同時多発テロ事件は、第三次世界大戦のきっかけとして行われたにしてはお粗末でした。アメリカ政府は数多くのミスを犯しています。
ブッシュ政権が犯したミスのおかげで、私たち市民も助かる見込みがでてきました。
今日はネットでも数多く採りあげられておりますが、アメリカ同時多発テロ事件に関する真実を採りあげていきたいと思います。
おそらく一日では間に合いませんので、何日かかけて書き足してゆくことになると思います。

2001年9月11日
アメリカ同時多発テロ事件が起きた時、
私は居間のソファーに眠っていました。
だいたいの夜の10時過ぎだったと思いますが、胸騒ぎがしてはっと起き上がると、不思議とテレビのスイッチを入れていました.
テレビに高いビルが映ったと思ったそのすぐ後、一機の飛行機がそのビルに飛び込んでいきました。
アメリカ同時多発テロ寺事件が起こったまさにその時でした。
ねぼけ眼で映画でもやっているのかとぼんやり考えていたら、「パールハーバー、パールハバー・・」と言うアナウンサーの声が聞こえ、そして日本語の解説が始まりました。それは「アメリカが攻撃を受けている」といった内容でした。
私は以前から恐れていた出来事がついに起こってしまった、世界はこれで本格的な戦争に巻き込まれてゆくだろうという事を確信しました。
なぜなら西洋思想の根本である聖書において約束されている出来事こそ、世界を破壊し尽くす戦争であるからです。
そしてこうなる前にもっと早く行動を起しておくべきだったと後悔したのでした。
聖書において主とキリストが行うとされている、人類への殺戮行為を黙示録からほんの一部だけ抜粋しておきます。
あとは、皆さんがご自分で読んで確かめてください。

第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火が現れ、地上に投げられた。
第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。すると、海の中にいた、命あるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。―中略―
第六の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は神の御座にある金の祭壇の四隅からでる声を聞いた。その声がラッパを持っている第六の使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」
すると、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放たれた。新約聖書・ヨハネの黙示録 日本聖書刊行会より


この定められた時こそ、巻物の中に封印されていた神の秘密の計画を実行する時で、現代ではアメリカ同時多発テロ事件こそが、神の計画の始まりと考えられます。
それはノアの箱舟伝説として世界中に知られてきましたが、その真の意味が明かされることはありませんでした。
聖書の神はその後も次々と地球を破壊し、人類を殺しつづけ、人類の殺戮が終わった時、高らかに宣言します。


「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」
「ハレルヤ。救い、栄光、力は、我らの神のもの。」
「見よ。私はすべて新しくする。」新約聖書・ヨハネの黙示録 日本聖書刊行会より

世界を破壊し尽くして地上を再生させる、死と再生の魔術(錬金術)を完成させた時、主イスラエルとキリストが、永遠に世界を支配する王となるとされています。
復活の「賢者の石」とは、この破壊によって得られる再生を象徴する赤い玉であり、人間の血と霊を凝縮した、呪われた石なのでした。
対テロ戦争による殺戮により、流れ出た血によって大地が赤く染まる時、地球そのものが真っ赤なリンゴのような賢者の石となり、地獄から這い出た神クロノス(イスラエル)がそのリンゴを握り締めるのです。

アメリカ同時多発テロ事件の記録
起きてしまった事を取り消す事はできません。
一度口からでた言葉が二度と口の中に戻らないように。
しかしいくらアメリカ政府に世界的な権力が集中しているとは言え、現代の世界市民の目は節穴ばかりではありません。
アメリカ同時多発テロ事件に関し、アメリカ政府の関与、及び証拠隠滅を伝える数多くの書物が書かれ、こちらは少なすぎますが一部報道もされてきました。
そのおもな出来事を書き込んでいきたいと思います。
まず初めに、ビンラディンとアルカイダなる組織はアメリカ政府によって組織されたということです。

ビン・ラディンのファイル
1957年サウジアラビア・リヤドに生まれる。
父ムハンマド・ビンラディン、サウジアラビアのゼネコンで富豪、母はレバノン出身のユダヤ人であるという情報がある。
ユダヤ人は母親さえユダヤ教徒であるならばユダヤ人であると考えられており、よってビン・ラディンも、実はユダヤ人である可能性が高い。
そのビンラディンが「ユダヤ人と十字軍に対するジハードを促す世界イスラム戦線」を訴えている。
以前も少し触れたが、ユダヤ人は13歳になると掟の子としてユダヤ教の教えを貫いていなかければならない。
たとえば異教徒が注いだワインを口にしてはならないという教えがあり、守られなければならないものとされている。そのような決まりが600以上もあり、その教えを守らなければ破門され、ユダヤ人の社会では生きてはいけない。おそるべき規則に縛られた法規社会だと言える。

そのユダヤ人の国イスラエル(クロノス)とアメリカは、双子の国家と呼ばれ。
アメリカの歴代大統領はイスラエルを訪問し、その聖地[嘆きの壁」に手をついて祈りを捧げ、イスラエルと運命を共にすることを誓います。
ブッシュも大統領になる前に嘆きの壁を訪れ、最も敬虔なユダヤ教徒が被る「キッパー」という帽子を被ってイスラエルに祈りを捧げました。
その祈りによってブッシュはユダヤ人指導者たちに認知され、アメリカ大統領となることができたのでした。
「アメリカはイスラエルの植民地なのではないか」とさえ言われています。
アメリカが国家を犠牲にして必死に守っているのがイスラエルなのでした。
そしてイスラエルはアメリカの武器や資金援助により、周辺諸国の敵をことごとく打ち破り、軍事大国への道を突き進んでいます。
国際的に認められていない核兵器を大量に保有しています。
昨年核爆弾をシリアに落としたという恐るべき情報があり、それはシリアの核施設を破壊するためだったと言われています。
イラク、アフガニスタン、シリアやイランなどの国々は、イスラエルの歴史上の敵国として滅ぼされる運命にあるのです。
彼らはかつてイスラエルに敵対し、特にイラク(バビロニア)はユダヤ人を奴隷としてバクダットに連れていきました。
今、イラクでその報復が行われています。
イスラエルの情報機関、モサドのガイドによって、アメリカ兵がイラク人を殺しています。
これらの国家が滅び弱体化すれば、そこに巨大軍事国家「クロノス」が数千年の時を超えて蘇ることになるでしょう。クロノスが奈落の底から神として復活するには、敵対する周辺国は徹底的に破壊しなければなりません。
今アメリカはそのために中東で戦っています。

アフガニスタンは旧ソ連の隣の国で、親ソ政権が成立していました。
その影響力を守る為にソ連が軍事介入したとき、アメリカは自国の兵によらず、CIAの秘密工作によってイスラム教徒の義勇軍を組織しソ連と戦わせます。
その為にイスラム戦士を世界中から募集したのですが、アメリカ人が兵を募集してもイスラムの精神に反するし、胡散臭い、そこで白羽の矢がたったのが、自称イスラム教徒のビンラディンでした。
彼はCIAに代わってイスラム教徒の兵士を募集して面接し、アメリカやパキスタンなどで軍事訓練を施してはアフガニスタンに送り込み、ソ連軍と戦わせました。その時彼がイスラム聖戦士を面接した事務所は「アルカイダ」と呼ばれていました。
アルカイダとはビンラディンという皮を被った、アメリカ政府によるイスラム戦士を徴兵するための拠点でした。
ビンラディンとCIAが(アメリカ政府)育て上げたイスラム戦士たちが、今アメリカ政府によってイスラムテロリストと呼ばれています。
しかし彼らが学んだ軍事施設や教科書には、USAの刻印がしっかり刻まれていたのでした。



たんぽぽメモリアル 5 現代の英雄、ビンラディンとブッシュ
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たんぽぽさんメモリアル記事です。
皆さんの勉強になるので掲載しております。もし掲載が不適切であれば取りやめますのでご連絡くださいませ。
ビンラディンはアメリカ政府に協力し、
世界から集めたイスラム教徒を兵隊としてアフガニスタンに送りこみました。
CIAにおける彼のコードネームはティム・オスマンで、
彼は歴史を代表する秘密工作員として、世界史に名を残しました。
おそらく、彼らの歴史の中で永く英雄として語り継がれるでしょう。
歴史上、英雄とは人の命を助けた人物ではなく、いかに数多くの人間を戦争で殺したかが、英雄の称号を受ける基準となっています。
古代の世界ではヘラクレスやアキレウス、オデュッセウスなどになりますが、有史時代の人物としては、アレクサンドロス(アレクサンダー大王)やチンギスハーンなどが挙げられます。
いずれも侵略戦争で他民族を大量に殺戮して滅ぼし、支配地を広げていきました。
歴史の教科書でも、こうした人物が英雄として扱われています。
私も彼らの事を学びましたが、その行いが悪い事だったとはひと言も教えられませんでした。
「100万人の人間を殺すこと」これが英雄の条件であるという話もあります。

そうした意味では、ブッシュ大統領もおおよそ英雄の条件を満たしたのではないかと思われます。
ご存知の方も多いと思われますが、アメリカのジョンズ・ポプキンス大学の調査で、2006年夏の時点におけるイラク戦争のイラク人の死者が65万人を超えました。
この情報はイギリスやアメリカのメディアでは紹介され、さすがのアメリカ人も驚いたようです。
ブッシュは65万人も殺しておいて、それを正義であると豪語しています。

ブッシュはついに歴史上の英雄の仲間入りを果たしました。彼が英雄になるために、絶対的に必要とされた敵役がビンラディンだったわけです。
力道山の話に触れましたが、戦後の日本人は力道山がアメリカの悪役プロレスラーを倒す姿を見て熱狂したのでした。
ウルトラマンや水戸黄門に悪役が出てこないのでは、誰も興奮しないし、見るのをやめてしまうでしょう。
世界の政治も同じです。
悪役がいなければ政治の演出は成り立ちません。
ビンラディンやヒトラーのような悪役がいてこそ、国民も戦争をやむ終えないと思い込んでしまうのです。
それは死と再生の儀式に関わる古代の叡智の一部です
ヒトラーは演劇の勉強をするために、オペラを好んで見ていました。
それが彼が政治家となって花開いたわけです。
現代政治とはある意味お芝居なのですから。
小泉首相もヒトラーと同じくオペラを好んで見ていました。

作家の猪瀬直樹氏が小泉元首相と会食した時、小泉氏が福田恆存氏の言葉を引用したという記事が週間ポストに載っています。(週間ポスト平成19年7月27号)その言葉とは、
「民主主義とは、為政者の側が最も大事なことをかくすために詰まらぬ事を隠さぬようにする政治制度である」日本への遺言 福田恆存語録 文集文庫
この民衆に知らされぬ最も大事なことに、現代政治の恐るべき理論が隠されています。
実はそちらの方が世界の真実で、プラトンが「国家」で述べているように、私たちが見ている政治は、実際の政治の影にすぎません。

政治のトリックで使われるのは、人物とは限りません。
何度もお話しているように、拉致誘拐や領土問題、毒入りギョーザなどは常套手段で、戦争だけではなく、
食料や医療分野にまでその手は伸びています。
病気や食糧不足で人間が死んでも、戦争と違ってあまり非難されることもありませんから。
戦争は今はイラクで行われていますが、日本にもその影が忍び寄っています。マスコミが北朝鮮や中国、韓国との仲を引き裂こうとやっきになって報道していま すし、また相手国は、日本にひどい目に会わされたにも関わらず、反省もしていない日本人に対し、近い将来必ず仕返しをしてやろうと待ち構えています。
中国人の7割が、日本と戦争をしてもよいと考えており、
それこそ戦争を追い求める人々の思惑だったのです。
古代の叡智、死と再生の魔術の奥義のひとつ
戦争は報復という人間の心理によって、新たな戦争を呼び起すものなのです。

ビンラディンに関連する出来事をもう少し書き込みましょう。その前に休憩を頂き散歩してきます。


たんぽぽメモリアル 6 現代の英雄2
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英雄とはどのような存在であるかについて、教科書とは違う本当の視点から書いてみました。
トロイア戦争における英雄ではアキレウスが有名です。けれどアキレウスはパリスの矢によって殺されてしまいます。
彼は庶民受けする悲劇の英雄として流布されていますが、以前も述べたように、エリート達の尊敬を受けている、真の英雄はオデュッセウスの方なのです。
「死んで花実が咲くものか」とは真理です。
アキレウスも、
―世を去った死人全員の王となって君臨するよりも、むしろ地上にあって、どこかの、土地の割り当ても受けられず、資産も乏しい男にでも傭われて仕えたい気持ちだ― 「オデュッセイア」ホメロス 岩波文庫

とオデュッセイアの中で言っています。
死者の国は天国というよりも、生きがいも夢もない世界なのでしょう。
けれどピュタゴラスなどの哲学者たちは、「死こそ生」と言う主張を繰り返してきました。
彼らの言葉は人を騙し、人間を黄泉の世界へと誘う魔法の呪文です。
その言葉に唆されて国民は戦争へと出向き、死と再生の秘法の術中に陥るのです。
そして生き延びた彼らは、モナリザの謎の微笑みを浮かべるのでした。
「長靴を履いた猫」の智恵と同じです。
死んでしまった人間の財産をすべて手にする事ができるのですから。

アキレウスとは違い、オデュッセウスは誰よりもずる賢く生き延びて戦利品を独り占めしました。
そのずる賢さこそ、神秘主義の英雄神ヘルメスが持つ、叡智の象徴とされています。
オデュッセウスは神ヘルメスの正体なのかもしれません。徳川家康が日光東照宮で神として奉られているように、こうした英雄たち、またその国家や王などが神として崇められてきました。


さて、ブッシュとビンラディンですが、アメリカ政府は9.11テロよりはるかに前からビンラディンをテロリストとして名指しし、捕らえようとしてきたと言っています。
けれどビンラディンはアメリカ政府によって守られてきたのでした。
彼が持病の腎臓病で透析を受け続けていたのは、アメリカ国籍の病院でした。
そこにCIAのスタッフや、サウジアラビアの王子が見舞いに訪れたことも報道されています。
サウジアラビアはビンラディンの国籍を剥奪したとされていますが、それは建前上のことなのです。
サウジアラビアはビンラディンに対し、資金を提供しているとされています。
彼はラディン家からも勘当されている事になっていますが、ラディンの姉は否定しているので、それも政治的な思惑によるのです。
その見返りと言ってはなんですが、ラディン家はブッシュ親子の経営する会社に対して、多額の投資を行ってきました。

ブッシュとラディンのレインボーブリッジ作戦
いまやカーライルと言えば、アメリカきってのインサイダー企業として勇名を馳せるまでになりました。
ブッシュは親子そろってこの企業のために働いてきました。
カーライルは企業を買収して稼ぐハゲタカファンドグループで、軍事産業を中心に勢力を広げ、テロ戦争によって莫大な利益を上げています。
設立してわずか20年も経たないうちに、アメリカを代表する投資会社に成長しました。
それもブッシュ親子による戦争の賜物です。
9.11テロの当日、ブッシュ父元大統領は、彼が所属するカーライルグループの投資説明会にオサマビンラディンの兄を招いていました。
現ブッシュ大統領自身も、このカーライルグループの役員を勤めてきました。
この企業にビンラディン家は多額の資金を預け、資産運用を図ってきたのです。
カーライルは戦争が起これば、莫大な利益を手に入れることができる仕組みになっています。
今回の戦争でも、武器の販売、そして基地の建設や人材の派遣によって莫大な売上げを上げています。
アメリカの軍隊は、今や派遣社員が中心となっています。
日本で騒がれている日雇い派遣にも問題がありますが、アメリカの方はもっと恐るべきシステムによって運営されています。
元グリーンベレーの殺人スペシャリスト、作戦の企画立案、兵隊の訓練、食事のサービスからクリーニングに至るまで、ブッシュ親子のカラーイルグループなどが手分けして受注し、人材派遣を行っています。
彼らは戦争からありとあらゆる儲け先を見つけ出しては、
イラク人やアフガニスタンの人々の命をお金に変えています。
そして集まったお金で兵器を作っては、また世界の新たな土地へ戦争に出かけどんどん成長していく、それがブッシュ親子のカーライルグループです。
日本でもまだわずかですが、カーライルに買収された企業があります。
彼らは日本人の資産も当然狙っています。
なぜなら彼らの狙いは、世界中の富を集めて、金と武力によって世界を従わせることなのですから。
それが彼らの目的とされている、人間の増殖による破滅から世界を救う、神から託された使命だと信じようとしています。

このカーライルグループの経営陣が、アメリカ元大統領、元国務長官、元国防長官などの幹部達です。
日本に例えると元総理大臣と元外務大臣、元防衛庁長官らが全員揃って軍事会社を経営していることになります。
アメリカとは、世界で最も現実主義の国家です。
軍事産業から役員達がアメリカ政府に出向し、アメリカという国を営利のために利用する。
軍事産業の為に戦争を定期的に行う。
それがアメリカ合衆国の姿で、今に始まったことではなく、ワシントンやフランクリンの最初の時からあたりまえのように行われてきました。

ブッシュ家とラディン家は強力なビジネスパート―ナーであり、この強固な関係から今回のアメリカ同時多発テロ事件の発想が生まれたとものと考えています。
続く


たんぽぽメモリアル 7 黄金のリンゴ作戦 次の標的はシリアか
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たんぽぽさんメモリアル記事です。
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今日の新聞にシリアとイスラエルの対立が深刻化しているという記事が載りました。
前に書いたように、これは今に始まったことではなく、
イスラエルの当面の敵こそアフガニスタン、イラク、シリア、イランなのです。
すでにアフガンとイラクは、イスラエルの兄弟国家アメリカが踏みにじり、彼らの目的どおりに無政府状態(ユダヤ思想で言うアナ―キーな世界)に陥りました。

となると次に狙われるのはシリアとイランでしょう。
これらの国をイラクと同じ無政府状態に追い込めば、イスラエルの周辺に敵対する国家はなくなり、それらの敵国をやすやすと手に入れることも可能となります。
そのきっかけとして、今回のグルジア紛争が利用されており、これも「黄金のリンゴ作戦」の一環であると考えられます。
記事にも出ていましたが、イスラエルは世界の各地に武器の売却を行っています。
そうした行いは歴史的に「死の商人」と呼ばれてきました。
アメリカと絶縁状態にある国にも、イスラエルが介在し、アメリカ製の武器の売却を行ってきました。
またアメリカがイスラエルを守るために贈った武器を横流して、売っています。

たとえば、イラン・イラク戦争において、アメリカと敵対関係にあったイランにイスラエルが武器を売却しました。
なぜイスラエルは自らの敵である、イランに武器を売ったのでしょうか?
その答えを、イスラエルには住んではいませんが、ユダヤ人である元アメリカ国務長官のキッシンジャー氏が明らかにしてくれました。
キッシンジャーはこう言っています。
「両方とも滅びてくれれば良かった。」と
それがイスラエル、そしてアメリカに住むユダヤエリートたちの目的でした。
けれど両国とも彼らの思惑どおりには滅びなかった。
(滅びなかったとは言え、敵国同士を戦わせて弱体化することはできた)
その時残された仕事を、今彼らはやっているわけです。

他国を滅ぼそうとしている恐るべきこの男、キッシンジャーこそあの魔神、現代のヘルメスであると言えるでしょう。
キッシンジャーはニクソン政権において、ニクソンを差し置いて大統領より大胆に振舞っていました。
彼は中国を訪問し、戦後の日本に肩入れして後悔しているとも述べています。
キッシンジャーが訪問した後、中国は急速な成長を遂げました。
アジアのエンジンが日本から中国へと載り代わった瞬間だったと言えるかもしれません。
この恐るべき人物は現在もアメリカ政府に対して穏然たる影響力を保持していると言われています。
アメリカ、そして世界を動かすユダヤ人エリートを代表するひとりです。
彼はユダヤ人を代表し、アメリカをして、イスラエルの国益のために利用しているのでした。

「尻尾(ユダヤ)が犬(アメリカ)を振り回す」という本もありますが、私の考えは少し違っています。
彼らは、自分達こそアメリカの、そして世界の頭脳だと考えているはずです。
彼らはただ単に政治経済だけを動かしているだけではありません。
世界で数えられないほどの人々が、ユダヤ教から派生したキリスト教とイスラム教を信仰し、ユダヤ教の聖典と呼ばれている「旧約聖書」を信じているのです。
そう考えると、彼らはディズニー映画にある、「レミーのおいしいレストラン」の主役、あのネズミのような存在であると言えるのではないでしょうか。(隠された本当の頭脳)
なぜなら、かつて彼らの祖先は、ネズミと豚を神の化身として信仰していました。
そしてハリウッドを作ったのは彼らなのでした。
彼らは豚を食べてはいけない事になっていますが(タブー)、それは豚を軽蔑していたわけではなく、神聖視していたからなのです。

豚は神アドナイやアッティスの化身とされていました。
ユダヤ・キリスト教が唱える祈りの言葉「アーメン」とは、この神アドナイ(主)、メレク(悲しみの王)にナメン(帰依する)という言葉をユダヤ暗号術ノタリコンによって省略したものです。
(アドナイ・メレク・ナメン=アーメン)

アドナイは古代フェニキアの王子で、彼らと世界中のキリスト教徒が信仰している神が、古代フェニキアの王子であることがこの言葉からわかります。
そしてメレクは古代ユダヤの王で、戦争を起し、子供を持つ母親たちに悲しみを巻き起こしたとされ、「悲しみの王」と呼ばれ、後に悪魔とされました。
アメンとは神と悪魔の両方を称える言葉なのでした。
それは、神はもうひとつの顔、つまり悪魔でもあるという恐るべき思想の上に成り立っています。
(善と悪の二元論)
悲しみの王メレクはまた、古代フェニキアでもメルカルト(救世主)と呼ばれ、厚く信仰されていました。
彼はその他にもメルクリウスやマーキュリーなどと呼ばれました。
メルクリウスの名は、現在では「メリークリスマス」としてよく知られています。
古代の救世主の多くは太陽神で、太陽が最も弱まる冬至(クリスマス)に一度死んで、復活する神なのでした。
その古代からの神話を、キリストを創った人間が後で拝借したのでした。
私はこの神メルクリウスこそ、あの有名な英雄「ヘラクレス」であると考えています。
彼は神話の中で世界各地に旅たち、他の誰も真似できないような使命をやり遂げました。
その行いは、オデュッセウスやアレクサンドロスに通ずるものです。
すなわちヘラクレスの12の功業とは、古代の世界戦争のことでしょう。
ヘラクレスも、ゼウスに代わって世界中を戦争に巻き込み、復活の死と再生の儀式を執行した救世主だったと考えられます。
ゆえに彼は古代世界の英雄となり、神の一人として迎えられたのでしょう。

古代フェニキア王国は、ユダヤ人のイスラエルとブラザーシップを結び、黄金時代を築きました。
現代の国際金融及び貿易などを支配するユダヤ人の叡智は、この時代の世界貿易を支配していたフェニキア王国からもたらされたものなのです。

それを彼らはタルムードなる巻物に書き付けて、数千年間も守り続けてきたのでした。
中国の「虎の巻」や日本の忍者の巻物も、このタルムードから生まれたのだと私は考えています。
なぜなら、ユダヤ神秘主義「カバラ」こそ、悪魔を降臨させる呼び出しの呪文、すべての魔法の源であるからです。
ユダヤ人の神殿の至聖所は「デビール(デビル)」と呼ばれ、
そこに降臨するダイモ―ン(デーモン)は、神と呼ばれる存在になりました。


追伸 アフガニスタンでペシャワ―ル会の伊藤和也さんが殺されました。
タリバンの残存勢力が殺害したということですが、
アフガニスタンの人にとって、そして日本人にとっても本当に残念な事件です。
けれども、ペシャワ―ル会の代表である中村哲氏はかつてテレビ番組でこう言っていました。
「タリバンほど、血の匂いがしない政権はなかった」と。
アフガニスタンで長年医療活動や井戸掘りを行ってきた中村氏が見てきた中で、タリバンの政権時代ほど、アフガニスタンが安定していた時期はなかったということでしょう。そのタリバン政権を崩壊させた時、この国は無法状態に逆戻りしてしまったのでした。
大国アメリカやソ連、そしてイスラエルの思惑によって、
数え切れないほどの国民たちが極貧の生活を送り、
病院もなければ、食料や、水さえろくに飲めない状態にあるのです。
そしてこの戦争によって中東の石油利権は欧米の石油資本の手に渡り、石油の価格を吊り上げ、
かつてないほどの莫大な利益を上げた彼らは、アフガニスタンやイラクの人々には想像もつかないような贅沢な暮らしを送っています。
エクソンモービルの1社の年間利益は4兆円にも上ります。
当然幹部達は高額な報酬を受け取っています。
その石油はイラクから掘られたもので、利益を受けるべき人々はイラク人なのに、彼らはガソリンさえ並んで買わなければならなくなったのです。
そして私たちは高い石油を買わせられているわけです。
私たちが汗水働いて稼いだお金は、地球のブラックホールに鎮座する救世主の元へと吸い込まれてゆくのでした。


たんぽぽメモリアル 8 サライ
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今日はブログは休むつもりだったが、家に帰ると丁度24時間テレビのエンディングで「サライ」が歌われていたので、サライについて少しだけ書くことにした。

いったいテレビを見ている人は、サライという言葉が何を意味するのかを知って、あの歌を歌っているのだろうか?
日本語で一般的に使われる言葉で、サライという言葉は浮かんでこない。
強いて言えばおさらいぐらいのものだろう。
そして確かにこのおさらいという言葉こそ、日本語でサライと関係している数少ない言葉のひとつではないかと思われる。
サライとは旧約聖書に登場する、ユダヤ民族の大族長(始祖)アブラハムの妻の名前である。

このサライは、後に神から新たに「サラ」という名を与えられる。
ユダヤ人の女性にはサラという名が多くつけられている。
特に映画界はユダヤ人の牙城なので、たとえば映画「ターミネ―ター」の女性主人公の名はサラ・コナーだった。
また、聖書に登場する女性師子デボラもユダヤ人特有の名前で、「ワンス・アポンナ・タイム・イン・アメリカ」の
ヒロインはデボラだった。
(映画界に限らず、マスメディアはユダヤ人が最も力を持つ分野のひとつ)
このようにユダヤ人は現在でも古代の始祖たちの名前を使用しており、「名づけ」は掟の子として生きるユダヤ人にとって非常に重要な意味を持っている。

ではなぜ日本人が「サライの空」に帰らなければならないのか?
今日の本題だが、私はすでにその答えをブログの中に書いている。
サライはユダヤ人の始祖、大いなる聖母であり、大地の女神、つまり聖書のイブである。
そのイブが実在した原初の楽園、エデンに帰る事、
それは、日本人が七つボタンの桜吹雪となって散る時であろう。
原初の楽園に帰る事こそ、「大いなる秘法」と呼ばれる死と再生の儀式の目的である。
「桜吹雪のサライの空に、いつか帰る、きっと帰るから」
と歌われるサライは、大聖母サライに捧げられた、現代の讃美歌であると考えている。


たんぽぽメモリアル 9 ピラミッド 消えゆく真相
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なかなか寝付けないので、もうひとつ気になっていたテーマを書いてみることにした。
ヘロドトスの歴史は私の愛読書で、私はプラトンの哲学書などよりはるかに価値があると思っている。
この本はギリシャとペルシャが戦ったペルシャ戦争から始まるのだが、戦争だけではなく、古代の人々の暮らしぶりなども書かれていて、今読んでも本当に面白い。
歴史好きにはたまらない1冊である。


見所はたくさんあるのだが、そのうちギザの大ピラミッドに関する記述は非常に興味を引くところだ。
ヘロドトスはエジプトを旅し、地元の神官や民衆から話を聞いた上でこのように書き残している。

エジプトではランプシニトス王の時代までは、申し分のない政治が行われ、エジプトの国は大いに栄えたが、彼の後にエジプト王となったケオプスは、国民を世にも悲惨な状態に陥れた、と祭司たちは語っていた。
この王は先ずすべての神殿を閉鎖し、国民が生贄を捧げる事を禁止じ、つづいてはエジプト全国民を強制的に自分のために働かせたという。
アラビアの山中にある石切場から石をナイルまで運搬する役を負わされた者もあれば、舟で川を越え対岸に運ばれた石を受け取り、いわゆるリビア山脈まで曳いてゆく仕事を命ぜられた者たちもあった。常に十万人もの人間が、三ヶ月交代で労役に服したのである。

―中略―
このケオプスの治世は五十年に及び、彼の死後はその弟ケプレンが王位を継いだという。
―中略―
ケプレンの在位は五十六年に及んだという。
エジプト人はこの百六年という年数を数えて、この期間エジプト国民は言語に絶した苦難に沈み、神殿も長期にわたって開かれなかったといっているのである。
エジプト人は憎しみの念からこれらの王の名を口にしたがらない。
ピラミッドを呼ぶのですら、ピリティスという当時そのあたりで家畜を飼っていた牧夫の名を附けて呼んでいる位である。

ヘロドトス「歴史」岩波文庫より引用


このヘロドトスの記述から、数多くのことが読み取れる。
最近日本では、ピラミッド作りは当時の公共事業だったなどと、またぞろ新手の歴史捏造をはかる人々が登場しているが、ピラミッド作りは、やはり国民を奴隷労働させて作らせたものだった。
そして大ピラミッドを作らせた王が、他国から侵入した遊牧民ピリティス、すなわち歴史上のヒクソスの王であったことも読み取れる。
ピラミッドとは、このピリティスから採られた言葉ではないかとも考えられる。
彼らは外国から来た侵入者だからこそ、国民に対して残虐な行為ができたのだ。
キリスト教徒たちがアメリカ先住民を殺して、アフリカの人々を奴隷化したように。

聖書にはそうした恐るべき知恵も書き込まれている。

自由民だったエジプト国民を始めて奴隷化に成功したのは、聖書に登場するユダヤ人ヤコブ(後に神からイスラエルの名を与えられる)の息子、ヨセフである。
彼はヒクソス王の夢を実現する為、豊作と飢饉を利用して、エジプト国民の資産を奪いとり、全国民を奴隷化した。当時のエジプトは世界最高の富裕国である。
(高度成長の後、長期の不況が訪れているどこかの国もエジプトに少しづつ似てきた。またホワイトハウスの背後に聳え立つオベリスクは、現代のアメリカがかつてのエジプト状態であることを主張している)
侵略王の夢をヨセフは実現させた。
その功績により彼の家族もエジプトに招かれ、支配層となったユダヤ人はどんどん増えていった。

大ピラミッドの持ち主はクフ王ではなく、実は侵入者ヒクソスとユダヤ人のエジプト宰相ヨセフの時代に作られたものではないかという事が見えてくる。
その事実を消し去る為、ピラミッドは公共事業などという作り話がテレビで放映されてしまう。
また、エジプトの神殿を閉鎖したエジプト王といえば、これもテレビを賑わしているアクエンアテン王である。

大ピラミッドは紀元前2500年頃に作られたのではなく、紀元前1500年前後に作られたのではないかという疑いが濃厚だ。(もっとずっと後の事かもしれないが)
現在テレビに出てくる歴史学者たちは、エジプトを「ナイルの賜物」とか、「ピラミッドは上から完成した」などという時にはヘロドトスの記述を利用するが、いざピラミッドの完成時期のことになるとヘロドトスは間違っていると言う。
まったく自分達に都合の良い部分ばかりを利用している。
現代の学者たちよりも、2500年もの昔にすばらしい大書を書き残したヘロドトスの記述を私は信じる。
現代まで伝えられた貴重な歴史の真実がある。
まさに歴史に残る最高の傑作である。



たんぽぽメモリアル 10 福田退陣、見えぬものこそ
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今日こそブログは休みと思っていたら、またしても問題が起きた。
福田首相が政権を投げ出した。
安倍氏と二代続いてである。

この問題は非常にデリケートな国内問題が絡んでいるので、私は自分の著書でもあえて省いた。
けれどもう避けては通れないほど重大な局面を迎えている。
始めたばかりのブログに問題が起きるかも知れないので、
結論だけは言っておこう。
現在の政権で主導権を握っているのは公明党、
そして創価学会であると。
安倍政権の崩壊前夜、安倍首相のお母さんが、創価学会のライバルである真如苑の信者であるという記事が週刊誌に載った。彼らにとっては「敵」である。
またそれ以前、民主党の小沢代表が池田大作に面会を求めたという情報も流れていた。
野党より厳しい公明党からの圧力、定額減税の実施、国会の招集時期や解散まで、公明党の思惑によって進んでゆく政局。
福田氏は総理大臣でありながら、まったく自分の意見が通らず、嫌気がさしたのだろう。

以前私は創価学会の会員から、「学会は昔、政府から迫害を受けた。(その流れを汲む)自民党政権を内部から壊す」と言う言葉を聞いた。
彼らは、戦前に創価学会が受けた迫害の恩讐を、現在の自民党政権を破壊することで報復しようとしている。
また、北海道警察の裏金問題を始め、こうした出来事を内部から告発しているのは学会員であるとも言っていた。
それは、日本の膿をすべて出し尽くすという彼らの計画であるらしい。

彼らは仏教徒でありながら、「敵」という言葉を多用する。
いつも他宗派から、いかに信者を引き抜くかを相談している。
そして、その言葉とは裏腹に「生きとし、生ける物すべてのために」などと言う。
自分の言葉の矛盾に気付いていない。
生ける物すべてのためを思うのであれば、この世に敵など
いるはずもない。
敵もまた生ける物であるはずだ。

他人を「折伏」して学会に加入させ、財務と称して金を集める。それが学会員の使命だ。
すでに10兆円を超える資産を持ち。
ヨーロッパには「池田城」まで存在する。

現在の自民党の国会議員たちは、創価学会から選挙協力を受けており、いまや学会の支援がなければ当選すらおぼつかない状況にある。
その学会がもし小沢民主党につけば、簡単に政権交代が起きてしまうだろう。
民主党もマスコミも、ここぞとばかりに政権交代を訴えている。
小沢代表には健康上の理由もあり、あまり時間がない。
彼は今度の総選挙が最後のチャンスだと考えているようだ。
元々新進党などで、小沢氏と学会は力を合わせてやってきた。
与党と野党でも、裏では通じている。

今回の福田退陣で、総理の資質には問題がある麻生氏が一時的には政権を握るかも知れない。
しかしその後に待っているのは、政権交代による日本の方向変換ではないかと思われる。
小沢氏が総理になれば、アメリカへの戦争協力は今以上に活発に行われる可能性が高い。

日本は憲法で政教分離が謳われているにも関わらず、学会は公明党と一体となって、日本の政治に重大な影響を与えている。
ではなぜ政教分離の原則が法律に定められるようになったのだろうか。

それは現在、世界で起こっている戦争、そして歴史上の戦争を振り返れば明らかだ。
戦前の国家神道、イスラム原理主義、十字軍、キリスト教の対立による宗教戦争、そして昨日私が書いたペルシャ戦争も、ペルシャの祭司マギたちによる国家戦争への誘導という、宗教の隠された本質が現実となって現れたものだった。
宗教は人を洗脳し、民衆を熱狂させ、戦争へと導いてゆく。
この短いブログの中ですでに何度も書いてきた、あの哲学的思考こそ、宗教の核心であるからだ。

仏教と言っても、釈迦の時代の仏教とは似ても似つかない、仏教のお化けのような宗派は数多く存在する。
特に密教は、仏教ではなくすべての世界宗教に共通する教えである。釈迦は呪文や魔法など説いていない。
むしろそうした行いを否定していたのだった。
オウム真理教もそうした密教の流れのひとつだ。
最も密教の本質が現れた宗派だった。
そしてオウムは、現在もアーレフ(ユダヤ人の言葉、ヘブライ語で「始まり」を意味する)
として生き残る事を許されている。
あれほどの重大犯罪を犯しながら、なぜ解散させられないのか、また麻原の死刑はいつになったら執行されるのか、
政治と宗教、そして裏社会の繋がりは、国民の知られないところで恐るべき癒着を生みだしている。
私は知人の僧侶から、このような言葉を聞いた事がある。
「俺たちは、彼ら(暴力団)とお友達だからな」
お友達とは、ヤクザの間では同業者を意味する言葉だ。
お寺と葬儀会社を経営する暴力団とは、深いつながりがある。


日韓関係を韓日関係と呼ぶ不思議な日本人、(なぜなら両親は在日朝鮮人であるらしい)池田大作氏の率いる創価学会は、いまや日本の運命を左右する存在となった。
その池田氏はかつて、「私は日本の国主である」と述べている。
日本を代表する権力者となった彼の姿の向こうに、かの国の人々の姿が見え隠れしている。


たんぽぽメモリアル 11 西の魔女、最後の秘法
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せっかく始めたブログだが、なかなか書き込みする時間がなく非常に残念だ。
今日は、今なぜ世界で戦争が行われているのかについて少しだけ書くことにした。
西洋の魔女=自由の女神、国家アメリカはその散り際に恐るべき魔法を世界にかけた。
それがアメリカ同時多発テロ事件である。
この事件に関する重要な事実を簡潔にまとめておく。

その1
テロ事件当日、アメリカ政府により、民間機がハイジャックされたという設定で軍事訓練が行われていた。

その2
ペンタゴンやワールドテレードセンタービルに突入した飛行機は旅客機ではなく、
アメリカ政府が開発したGPSによる無人飛行機「グローバルホーク」。

その3
ワールドトレードセンターには高性能爆弾が仕掛けられていて、飛行機の衝突前から起きた爆破により、ビルは崩れ落ちた。(ビルの警備員や消防士による多数の証言による)

その4
ペンシルベニア州に墜落したユナイテッド93便は、チェイニ―副大統領の命令により、アメリカ空軍に所属するF16戦闘機が撃墜した。パイロットはリック・ギブニ―

その5
テロ事件直後、チェイニ―副大統領の命令により、ビンラディンの親族がアメリカ政府の特別チャーター便で、アメリカからサウジアラビアに飛び立った。

その6
アメリカ国民は、日本人と違って多くの情報を与えられており、ブッシュに上手くやられたと言っている。
そしてブッシュはアメリ史上最も嫌悪され、最も不名誉な大統領とされている。

その7
ブッシュとビン・ラディンだけがブラザーであったわけではない。
サダム・フセインや亡くなったアラファトもブラザーだった。貧しいパレスティナ難民の代表であるはずのアラファトの個人資産は、世界第6位だった。

テレビ局に代表される、マスコミから流れ出る情報は、ヒトラーが好んだオペラと同じように国民を酔わせ、世界を戦争へと導く、それは死と再生の魔法の呪文なのだから。
世界は戦争という悲劇、そして戦争の後に行われる弔いのための祭典、「オリンピック」という、古代ギリシャの古典的な政治手法により現代も動かされている。
この政治的な智恵は、「イーリアス」に現されている。
だから西洋のエリートたちはイーリアスを読まなければならないのだ。


西の魔女アメリカはその散り際に、世界に魔法をかけた。
かつての東洋の魔女、日本のように。
その魔法は生まれ変った西の魔女(ビーナスの誕生)EUへと受け継がれ、永遠に繰り返されてゆくものとされている。
人類が生き続ける限り。

たんぽぽメモリアル 12 オデュッセウスの魔法
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さて、9月に入ってやっと1ケ月ぶりの全休が取れそうなので、今日はブログを書くことにした。
今日の新聞には、ブッシュが米国金融機関の不良債権の買取に、75兆円もの国家予算を投入するという記事が出ている。

すでにブッシュ政権は、年50兆円以上とも伝えられる戦争費用を国民に押し付けている。
そしてさらに75兆円もの国民の資産を騙し取ろうとしているのだ。
なぜならブッシュなどの閣僚達は、こうした金融機関から多額の政治資金を受けており、仲間の救済のために、国家予算を横領しようと目論んでいる。
さらに恐るべき事に、財務長官が決定した金融機関への資金投入は、裁判によっても覆されない。
つまりブッシュ達が好き勝手に75兆円を使っても、訴えることもできないというおまけつきである。
まるで、中世の王様が行っていた御伽噺の政治の世界である。

ブッシュは出鱈目な不正会計によって、アメリカ国民や世界中の金融機関を騙して急成長したエンロン社から複数の閣僚を入閣させ、アメリカの政治を動かしてきた。
そのエンロンに不正会計やらせたのが、アメリカの5大会計監査会社である。
これらの監査会社は、世界をリードする会計企業として、アメリカだけではなく、世界中にアメリカ方式の会計基準を導入させるために動いてきた。
その5大会計事務所のすべてが、企業の負債を子会社などに飛ばし、優良企業であるかのように見せかける、不正会計を指導していたのだった。

もはやアメリカは、ブッシュ政権を筆頭に、腐敗が国家の隅々まで行き渡り、手遅れの状態であると言える。
国民がブッシュ政権に対しデモ活動を行っても、テロを口実に逮捕されてしまう。
アメリカは古代のローマ帝国のような、民主主義など存在しない、落下寸前の腐ったリンゴになった。

嘘で固めたオデュッセウスの魔法の言葉は、政治、武力、そしてマスコミによる宣伝という三位一体の権力により、国民が批判することもできない、悪辣な政治を可能にしてしまった。
先日書き込みしたように、またしても世界中の市民のお金がバーミューダ海域へと消えてゆく。
古代世界から受け継がれ、隠されてきた悪魔的な政治手法、その典型とも言うべきアメリカの現代政治である。


たんぽぽメモリアル 13 バール 隠された神
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ここのところ最近の出来事ついて書いてきたので、
今日は聖書の神の正体について書いてみたい。

新約聖書にはイエスというキリスト(救世主)が登場する。
けれどイエスは神ではなく、唯一存在する神、その子供とされている。
ユダヤ、キリスト、イスラム教では、神はただ一人しかいないと主張されており、それが父なる神である。
キリストの母マリアは聖書では人間扱いされている(真相は大地の女神を借用したもの)。けれど肝心の父なる神の名前は出てこない。
旧約聖書においても、というよりユダヤ教の世界でも、
父なる神の真の名は明かされず。
それは口にしてはいけない秘密の名前とされている。

実際、旧約聖書にはエロヒム、またはエル・シャダイやエル・ロイなど複数の神の名が登場してくるが、どれも父なる神の名前とは思われず、神の名は聖なる四文字YHWH(ヤハウエ)という仮の名でしか知らされない。なぜか?
理由はただひとつ、神の正体が知られてはまずいからだ。

たとえば魔術書の中に、旧約聖書に登場するエロヒムが登場する。
「エロイム・エッサイム、我は求め訴えたり」
この有名な呪文は、神エロヒムに対し、魔導師が何らかの願いを訴える、あるいは神に命令する言葉である。
つまり名前を知られる事は神にとって、人間に使役される事を意味する。
もし神の名がすべての人に知れたら、誰でも彼らの神に命令をするようになってしまうかもしれない。
だから彼らは自分だけの神の価値が、門外漢の世界で下がらないように、名前を知りながら伏せているのだ。
もっと言えば、その神に命令することができるのは、自分たちだけですよ
という事だ。
しかし、魔術を依頼するのは神ではなく、悪魔と呼ばれる存在であるはずで、ここに神と悪魔が一体であるとする密教の二元論が垣間見える。悪魔を呼び出す魔術とされる、ユダヤ教神秘主義カバラの隠された秘密がある。

ではエロヒムが聖書の神なのか、
確かにエロヒムは神であると考えられる、けれどエロヒムとは、神々を意味する言葉であるとされ、唯一の神とは考えられない。
つまりユダヤ教を始めとする一神教は、神は一人しかいないと口では言いながら、実は複数の神の存在を認めているのだ。
それは聖書の人間創造の記述からも理解できる。

次に、神は、「われわれにかたどり、われわれに似せて人を造ろう。そして人に、海の魚、空の鳥、家畜、野のすべての獣、地を這うすべてのものを治めさせよう」と言われた。
旧約聖書 創世記 フランシスコ会聖書研究所訳注より引用


人間がまだ一人も生まれていないはずのこの時に、神の言葉をいったい誰が聞き、文字もないのに誰が記録したのか、まったくもって信用のできない一文である。
はっきり言えばユダヤ民族が自分たちの歴史上の出来事に、以前から伝えられていた創生神話を借用して作られたのが聖書で、国を失ったユダヤの人々の連帯を 保つという目的があった。すなわちすべて彼らの歴史であるわけではないし、もちろん聖書が主張するように、地球は6000年前に、7日間でできたはずもな い。

それにしても、なぜ彼らは唯一の神しかいないと主張するのか、
それはあくまで自分たちの神が最も力のある神であり、そしてキリスト教が行ってきたように、他国に出かけて、他の神の存在を決し去っていくための口実であろう。

さて興味深いのは、旧約聖書に登場するフェニキアの神、バールの存在である。
バールはイスラエル(ユダヤ人)のヤーウエ神官にとって、強力なライバルであり、敵とされている。
なぜなら特に分裂後の北王国イスラエルでは、バールが熱狂的に信仰されており、ヤハウエ崇拝が廃れてしまう恐れがあった。
そこで聖書では、預言者エリヤという人物がバール神官団と対決し、エリヤが勝利を得、バールの神官450人を皆殺しにしたことになっている。
(たかが火起こし対決で、450人も殺してよいものか?)
それほどまでバールは、聖書において憎まれた神とされている。

ところが、ユダヤ問題の書籍を多数書いている宗教研究家、ユースタス・マリンズ氏は、ベリアルという悪魔を意味する名前が、実は「ヤハウエはバールなり」という意味であると主張している。
この作家は、日本でも多数の書籍が販売されており、いわゆる陰謀史観家の間では有名だが、白人優位の人種差別思想があまりにも強い為、私は好きではない。

ではなぜマリンズ氏の主張を書いたのかと言えば、
この件に関して、マリンズ氏の主張は正しいと考えられるからだ。

以前私はブログの中で、ユダヤ人や古代フェニキア人は、名づけを非常に重要視するという事を述べた。
それは古代から現代まで続いており、
バールの名は、古代フェニキア人の代表的な名前であった。たとえばポエニ戦争でローマ軍と戦った、古代フェニキアの都市、カルタゴのハンニバルが有名だ。
その後、フェニキア人は消滅したとされているので、そのバールの名をユダヤ人が受け継いできた。

歴史上有名なところでは、クリストバル・コロン、つまりコロンブス、最近ではネオコンを代表する人物で、アメリカをイラク戦争へと導き、暗黒の王子と呼ばれているアメリカ政府のリチャード・パール氏などである。
実はビル・クリントンもバールの名を受け継いでいると考えられる。

神バールは、ベルやパール、ブルなど、様々な言葉に変化して、古代のユダヤ人、そしてフェニキア人の末裔と考えられるローマカトリックの中に脈々と生き続けている。
名づけ親「ゴット・ファーザー」はギャングの世界ではなく、ユダヤ人の重要な無形文化として受け継がれてきた。
(確かにアメリカマフィアの元締めはユダヤ人だが)

いまやバールは、その姿をベル(鐘)に変えて、世界中の教会や寺院において奉られ、世界で最も信仰される神となった。
またバールの御祭り、カーニバルやフェスティバルもいまや世界中で行われるようになった。
カーニバルとは謝肉祭で、古代フェニキアでは、人間の子供が焼く尽くす(ホロコースト)生贄として捧げられた。
バールは人間の生贄を求める恐るべき神であり、
その点、やはり生贄を求める聖書の神と共通する。
以前も書いたが、「すべての初子を捧げよ」
(当然、人間も含む)とは、聖書の神、ヤーウエの言葉である。
だから神のひとり子であるイエスでさえ、バールへの生贄として捧げられたのだった。
ユダヤ・フェニキア人が聖書と共に船出して、世界にかけた魔法は、今や数千年の時を経て、世界中の人々を網にかけてしまった。
祇園精舎の鐘の声の正体が、実は古代フェニキアの神であると知ったら、平家物語の作者だけではなく、一休さんもさぞ驚くことだろう。


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たんぽぽメモリアル 14 いにしえ
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いにしえと言う日本語がある。
私が高校生の頃、同じ曲名の歌が流行っていた。
そのいにしえを漢字で書くと「古」となる。
いにしえには「昔の決まり」と言う意味があり。
これは英語のイニシエーションに由来すると考えられる。

イニシエーション、ときどき耳にする言葉だが、
日本では特にオウム真理教が問題になった頃よく使われた言葉だ。
イニシエーションを日本語に訳すと「参入儀礼」となり、もっと簡単に言えば入社式である。
参入儀礼とは、密儀宗教や秘密結社に加入する新人に対して行われる儀式で、オウムに限らず、世界中の秘密団体が現在も行っている。
なぜなら、世界中の密儀宗教と秘密結社は、その起源と目的が同一であるからだ。
そしてこの密儀参入者こそ、まさに「イニシエ」と呼ばれている。
古代に定められた古い決まりに従って生きる人々と言う意味で、日本語の古い決まりと同意義であることがわかる。

世界最大の秘密結社フリーメイソンを例に上げると、
その儀式は古代エジプトのオシリス=イシス密儀や、ペルシャのミトラ密儀、ギリシャのエレウシス密儀等に起源を持つ。
その古代からの秘密儀式が、日本にも伝わっていにしえという言葉になったと考えられる。
メイソンの目的は、古代ユダヤの王ソロモンの神殿を現代に復活させる事とされている。
つまり、古代ユダヤ(イスラエル)王国の栄華を、現代の世界に再生させることである。
そのために世界中のエリートたちが協力し、秘密の作戦を展開してきたことを思えば、ユダヤ共同体の力は、恐るべきものがある。

イニシエーションとは、私たち一般人には薄気味悪い言葉だが、彼ら秘密結社員にとっては、最も重要な儀式である。
また、日本の暴力団や、海外のマフィアにおいてもイニシエーションが行われる。
暴力団もまたひとつの秘密結社である。
ゆえにメイソンなどの結社員は互いを「ブラザー」と呼び合い、日本のヤクザも「兄弟」と呼び合う。
メイソンは日本のヤクザと同様に、「親の血を引く兄弟よりも、堅い契りのブラザー(義兄弟)」を優先しなくてはならないのであり、結社の秘密は妻子に話す事も許されない。
知られてはならない秘密と歴史を持っているからだ。

エレウシス派の哲学者たちにとって、物質世界に誕生することは言葉の全き意味において死であった。
唯一真の誕生とは人間の霊的魂が自分の肉体という子宮から出ることによって行われる誕生であった。
―アドニスの密儀では、新改宗者は、神の象徴的な死を体験し、そして、祭祀たちによって蘇らされ
アドニスの受難によって可能となった贖罪という至福の境地へ入っていった。

マンリー・P・ホール 古代の密儀 人文書院より


これはフリーメイン32階級のマンリー・P・ホール氏が書いた書物からの引用だが、
参入者は入社式において、「一度仮想の死を体験し蘇る」ことにより、真実の家族の絆を断ち、結社の仲間として迎えられる。
もしその掟を破れば、死をもって贖う事が入社式(イニシエーション)で伝えられる。
首を掻き切る動作をもって

しかも一度入社したら、二度と抜けることができないとされ、その束縛は永遠に続くという。
つまり死んでもメイソンから抜けられない事になっている。
けれどフリーメイソンは、「自由・平等・友愛」をスローガンとして掲げている。
ところが自由な発言もできなければ、ヤクザと同じく自由な脱会も許されず、33階級というとてつもない階級制度まで存在する。
彼らのスローガンは、組織の目的を遂行されるための標語に過ぎないであろう。
事実、イギリスの王族やアメリカは大統領はすぐに33階級に昇進するが、一般人は徒弟(見習)から始まる。

この世の生を死であるとし、死をもって生とする秘密結社や密教の恐るべき教えは、死と再生の儀式として、現代社会の戦争を正当化する根幹となっている。
その恐るべき教えを、宗教のようにオブラートをかけてではなく、はっきりと示してきたのがピュタゴラスやプラトンなどの哲学者たちだった。
戦争を徳であるとし、死こそ生であるとする哲学の教えに数え切れないほどの人間が騙され、戦場で殺しあってきた。
死こそ生、人殺しも徳であると信じ込まされて。



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たんぽぽメモリアル 15 恋心 eros
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相川七瀬の「恋心」は私の好きな曲のひとつだが、今夜は別の恋心について書きたい。
今夜の恋心はギリシャの愛の神エロスについてである。

エロスは原初から存在した神とも、また争いの神アレスと美の女神アフロディーテ(ヴィーナス)の子供とも伝えられている。
ローマでは恋心を操るキュービットとされ、例の子供天使の姿となったが、元はひげをはやした男の姿だった。

私は愛の神エロスとは、実は英雄の事だと考えている。
なぜならそのスペル「eros」は、英雄を意味する「hero]
に繋がるからだ。
有名ブランド、エルメスもそうだが、このような場合hは発音しない。
hを発音しないでheroを読むと、エロつまり神エロスとなる。
そして英雄とは、私がブログのはじめの頃に書いたように,
ヘラクレスやアキレウス、アレクサンドロスなど、戦争によって数多くの人間を殺した戦士や策士に与えられる称号である。

ギリシャ神話に登場する愛の神エロスは、実は英雄ヒーローを意味する言葉だった。
すなわち神話における愛エロスとは、愛の女神、自由の女神、そして大地の女神に数多くの人間の命を捧げる事を意味する。
大地は、古代よりすべてを生み出す存在である女神とされてきた。
ギリシャ神話の大地の女神ガイアの復活は、日本のテレビ局もさかんに訴えている。

女神は自らの血を乳に変え英雄=救世主に与える。
(キリスト教の聖母子像の原型)
そして英雄達はその母である大地に、人間の血を流す事で返礼するのだった。
血は地であり、古代社会では肉は人間のものであり、血は神の持ち物であるとされた。
それゆえ、古代イスラエルを始めとする神殿において、生きた羊が生贄とされ、その生き血を神に捧げていたのである。



たんぽぽメモリアル 16 蜘蛛の糸
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国際投機筋が仕掛けた金融戦争が世界経済を破壊した。
日経平均株価はついに7000円台を割り、昭和57年のレベルまで落ちた。
もっとも、世界の株価はこうした投機筋によって高値を保っていたのであり、本来の価値をはるかに上回って取引されてきた。
ライブドアなどのたいして実力もない企業が、高額な株価をつけられ、株の交換よってテレビ局まで乗っ取ろうとした事件を思い起こせば、国際投機筋が力を合わせて世界的な株バブルを生み出していたことが理解できるだろう。
それも各国政府の方針によるものである。

かつて日本では、銀行に預金すると3%から7%もの金利を受け取る事ができた。
この安定した金利と経済成長によって日本人は安定した生活を送っていた。
ところが、政府の方針により銀行預金の金利はなくなり、
株式等、本来は金持ちのマネーゲームに使われる金融商品に手を出さざるをえなくなった。
そしてこの株式を始めとする金融のメルトダウンである。
これらの出来事が、国際的な組織による計画的な犯行であることを国民は知らない。

「相手を弱くしたいなら、まず強くせよ」
「貧しくしたいなら、まず豊かにせよ」
これは古代から使われてきた格言である。

ユダヤ人ヨセフは、この手法を使って古代エジプト人の財産をすべて奪い、古代エジプト人を奴隷化したのだった。

日本人を弱くする為に、彼らは一度日本を強くした。
日本がのぼせ上がって近隣諸国を侵略したところで欧米諸国は協調して叩いた。
日本の侵略により、世界中を侵略してきた海賊国家のイギリス政府が正義の味方になりすますことができた。
弱くなった日本をさらに骨抜きにするため、今度は経済的に豊かにし、日本人が贅沢にどっぷり浸かり、株などに金が集まったところで株価を崩壊させ、下げ止まったところで買い戻し、日本人の財産を奪う。
非常に古典的な国家破壊方法である。

だいたい株式などと言うもの自体、世界金融を動かす、ユダヤ人金融家たちが生み出した物なのだから、
日本人に太刀打ちできるわけがないのだ。
株を知らない日本人が、株式に手を出す事自体が間違っている。
株など経営者と金持ちに扱わせておけばよい。
今後庶民は、株で儲けようなどと思わないことだ。
世界中に張り巡らされた、国際金融の蜘蛛の糸は、日本だけではなく、世界中を網に掛け、市民の生命と財産を奪おうとしている。
その計画にIMFなどの国際機関も協力している。
なぜなら、こうした国際機関は彼らが動かしているからだ。

日本はこれから長いトンネルを潜り抜けることになる。
それも死と再生の儀式の一環である。
映画「千と千尋の神隠し」も、こうした神秘思想にまつわる話を描いている。


韓国では、従軍慰安婦に対する保証と謝罪を求める国会決議がなされた。
それは、昨年アメリカ議会が日本に対して求めたからでもある。
アメリカ政府は真の日本の守り手ではない。
日本と韓国、北朝鮮や中国との戦争によって、日本という国家が一度消滅した時、彼らの真の目的が達成されるのである。
そのために彼らは明治維新以来、日本国民を骨抜きにするために蜘蛛の巣のように計画を張り巡らせてきたのだ。



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たんぽぽメモリアル 17 休憩室 ダビデの星
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管理人注:ダビデの星がユダヤのシンボルになったのは17世紀からです。イエズス会が決めました。

狂牛病から始めた「輸入食物の恐怖」だが、
まだ長くかかりそうなので、ここでちょっと休憩として
ミニ知識を書き込んでおく。

ユダヤ国際金融資本問題を語れば、すぐに陰謀論者であるとされてしまうのは、日本でもアメリカでも同じだが。
第二次世界大戦後、日本の神道の頂点にある明治神宮にユダヤ人の国、イスラエルの国旗に描かれているダビデの星が刻まれた。
その意味は、日本がアメリカに負けたのではなく、事実上ユダヤ国際ネットワークに負けた事を意味する。

そして私は今ブログの中で食品問題を書いているわけだが、かつて私は数多くの食品会社を訪れたことがある。
その中でインスタント食品を作る国内最大手のメーカーに
行ったとき、社員食堂にその会社が作っているカップラーメンの販売機がないので、なぜラーメンの販売機をおかないのか聞いてみた。
すると担当者から答えは返ってこず、ただ気まずそうな顔をしただけだった。
その時はあまり体によくないからかな?と軽く考えていたのだが、その後そのメーカーに粉を納入している会社のマークを見て驚いた。
なんと日本の会社の社章にダビデの星が刻まれていた。
その後注意深く見てきたところ、その会社だけではなく、
古くから創業されてきた食品メーカーに複数のダビデ星が見つかった。

さらに食品会社だけではなく、数え切れないほどの学校の教章、そして私が生まれた小樽市を含めた自治体にも使われていた。
ダビデの星は、悪魔を呼び出す魔方陣に描かれる紋章でもある。
ユダヤ民族の象徴でもあるダビデの星は、今や日本の至る所で、日本という国がどういう立場にあるかを私たちに主張している。
そして日本は、アメリカを動かすユダヤエリートたちの意のままに教育され、利用されている。
また、本家本元のアメリカ国民でさえ同じ状態に置かれているのだった。




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たんぽぽメモリアル 18 休憩室その2 アーク
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アークと言っても知っている人はまだ少ないと思う。
アークとはユダヤ人の神殿に奉られていた神との「契約の箱」の事である。
この契約の箱には、有名なモーゼの十戒が刻まれた石版が入っていたとされる。
ところがこのアークが持ち出された時、その威力によって人々に得たいの知れない腫れ物が出来たと聖書には書かれている。

私はこの契約の箱の中に入っていた石が、放射線を発するウラニウムだったのではないかと考えている。
そのために放射能によって人々が被爆したのであろう。
広島に落とされた原子爆弾を開発したのも、ユダヤ人の大学者アインシュタインを初めとするユダヤ人エリート学者とアメリカ政府だった。

実は私は契約の箱アークが、日本語の「悪」の語源であるのではないかと疑っている。
以前も書いたようにユダヤ人の神殿の中枢である至聖所はデービル(デビル)と呼ばれ、そこにはダイモ―ン(デーモン)呼ばれた神が降臨した。
なぜなら、聖書に登場する物質世界を創造した造物主は、プラトンが言うように、悪しき神とされてきたからなのだった。
そしてダビデの星と同じくアークの名も、企業名を始め、数多くの名称に使われている。


たんぽぽメモリアル 19 日本の裏側
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今回は昭和天皇とマッカーサーについて書く予定だったが、度重なる嫌がらせコメントのためにやむなく前回の書き込みを削除した。
度々猥褻なコメントやブランド品の宣伝の書き込みに悩んできた、残念だが今後コメントを受付けないことにした。

ブランド品について言えば、偽ブランドを日本で販売しているのは暴力団である。法治国家の日本でなぜ暴力団がはびこっているのか、一般の人々には知られていないが、実は深い訳がある。
たとえば、自民党所属で、今でもテレビに偉そうに登場する浜田幸一は稲川会の幹部である。
浜田は、稲川会二代目の石井総長の舎弟で、石井総長によって自民党に送り込まれた。
ヤクザが国会議員となって日本の政治を動かしていたのである。その事実をテレビ局は知りながら、浜田を政界のご意見番として扱ってきた。
ヤクザの姉御である細木数子をレギュラーとして扱ってきたのもテレビ局である。
ではなぜ政党やテレビ局は暴力団を大切に扱うのか?
そこに日本の隠された真実の姿がある。

稲川会の初代稲川聖城の後ろ盾は、先日今期限りで政界を引退する事を表明した、河野洋平衆議院議長の父、自民党の実力者河野一郎だった、河野は稲川だけではなく、山口組三代目、田岡一雄をも支援していた。
田岡は神戸に甲陽運輸を創設し、神戸港の船内荷役を支配、さらに全国港湾荷役振興協会の副会長に納まった。
その全港振の顧問を河野が勤めた。
構内荷役は古来ヤクザの資金源だった。
小泉純一郎の祖父、小泉又次郎も横須賀の船内荷役を
支配した小泉組組長だった。
その孫の小泉純一郎の選対事務局長を10期に亘って勤めたのも稲川会二代目会長石井進の兄弟分、自民党県議会議員の竹内清だった。
石井―浜田―竹内―小泉と日本の政治支配の構図が見えてくる。

また山口組の田岡一雄は、西日本の芸能、スポーツ興行を支配した。(今でも山口組が支配している)
田岡は神戸芸能社を創設し、美空ひばりを始めとする芸能人を抱えて大儲けした。
西日本でコンサートを開くには、田岡の所に挨拶に行かなければならなかった。
そして田岡は、テレビブームを生み出す為、日本テレビの正力松太郎に協力し、韓国出身のプロレスラー力道山を大々的に売り出した。
このプロレス協会の会長が、右翼で日本のフィクサーと呼ばれた児玉誉士夫で、副会長が山口組の田岡一雄と、同じく暴力団の東声会会長町井久之(力道山と同じ在日韓国人)だった。
日本の暴力団には、差別を受けた在日韓国や朝鮮人が多く、彼らのつながりが、北朝鮮から覚せい剤や偽ブランドを密輸入する原動力となっていると考えられる。
そして密輸の荷役を運ぶ為に、山口組や稲川会が港湾の荷役を支配しているのだった。
その後押しを日本の政治家やテレビ局が行ってきた。
また街宣車で街に繰り出し、日本の国家主義を標榜する右翼の多くが暴力団であり、その母体には朝鮮出身の組長が数多い。

今でも暴力団系の芸能プロダクションは数多く存在し、そして芸能界には朝鮮系のスターが数多く活躍している。
彼らがいなければ紅白歌合戦はできないといわれているくらいだ。
在日である事を告白した、和田あきこや錦あきらだけではなく、私たちが驚くほどの数の芸能人が在日の人々なのだ。
そして彼らが所属するプロダクションと興行を支配する暴力団もまた、彼らの同胞によって動かされてきた。
その彼らをテレビ局は日本のスターとして扱ってきた、田岡や児玉に始まる、闇社会との繋がりによって。

私は、日本の過去の戦争によって苦しめられた在日朝鮮人の人々を苦しめたいのではない。
むしろ、日本の過去の戦争の行いをひどく苦しんでいる。
なぜあのような戦争を日本が起したのか、徳川幕府時代の
平和主義を貫いたなら、このような悲しい歴史は生まれなかった。
欧米主義を学んだ、明治政府によって始められた日本の侵略戦争が、非道の行いだった事を知っている。

けれど、世界の歴史を省みると、侵略した国がやがて逆に侵略された側によって支配されるという構図が見えてくる。
それこそ、私達日本人、そして韓国や北朝鮮、中国の一般市民が知らない、そして高度な政治的思惑によって隠された、過去の戦争による、戦争の再生産と言う、「死と再生の儀式」の核心なのだ。

ペルシャ戦争で侵略されたギリシャから、アレクサンダーが逆にペルシャを占領してしまったように、古代から連綿と続く、哲学と宗教、そして国際政治の本質なのである。



中世長崎の基礎的研究
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外山 幹夫



たんぽぽメモリアル 20 呪術 呪われた日本
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私は古代から続く「死と再生の儀式」について何度も述べてきた。
20世紀最大の宗教学者、ミルチア・エリアーデはこう言っている。

新生を保証するために種子の「死」を要求する神秘である。こうして保証された新生は、驚嘆すべき増殖によってあらわされるためにいっそうみごとである。
世界宗教史 ちくま学芸文庫より


この神秘的な儀式についての最も有名な出来事が、「ノアの箱舟伝説」であり、ノアの一家以外すべて滅んでしまった地上では、神から祝福されたノア一族だけが増殖を許された。
それはつまり、たとえそれが戦争であっても、生き残った人間だけが子孫を残す事を許されるという現実を意味している。

洪水神話はきわめてひろい範囲にみられるが、本質的には同じシンボリズムを共有する。それは堕落した世界と人間を再創造するために、すなわち原初の完全さに復帰させるために、徹底的に破壊しなければならないということである。
ミルチア・エリアーデ 世界宗教史


この理により、ノアの子孫とされる聖書の民ユダヤ人は、政治の実権を握る事にこだわった。
なぜなら政治的主導権を握る事こそ、民族が生き残る最高の術であることを、聖書の教えによって叩き込まれるからだ。
現在、アメリカの政治を動かしているのはユダヤエリートたちである。
そして、この神秘的な儀式について分かり易く述べるとしたら、それは「呪い」という言葉になるだろう。

前回私は、日本による過去の侵略が、将来の新たな戦争を招く原因となると言う意味の書き込みをした。
それこそが日本にかけられた呪いの、そして古代から続く呪術と呼ばれるものである。

古代イスラエル(ユダヤ)王国の神殿では、日々彼らの神に対して生贄が捧げられていた。
なぜ彼らは生きてもいない神に生贄を捧げるのか、
それは彼らの敵に対し、呪いをかけるためである。

たとえば、生きた羊を殺して神に捧げる時、神に対し「我らの願いをかなえたまえ」と要求する。
日本の戦国時代のような彼らの歴史の中で、その願いとは自国を守るために、敵対する国が滅ぼされるように祈る事であり、当然それは相手を呪う事だった。
生命の犠牲を要求する聖書の神に対し、我われではなく、彼らを呪い滅ぼしたまえと祈ることだった。

けれど、相手の死を要求するからには、いずれその災いが自らに帰ってくるという現実もあった。
生贄を要求するのは、聖書では神と呼ばれてはいるが、別名悪魔とも呼ばれる存在であり、悪魔は嘆願者をいずれは殺してしまうからだ。
イエス・キリストも神に見放され、生贄として捧げられた。
それは再生(復活)を果たすために、一度死ねという聖書の教えである。

古代の儀式では、生贄に捧げられる者と捧げた者が入れ替わるという出来事が起きた。
つまり第二次世界大戦において、中国や韓国、北朝鮮を侵略し、その国の人々を悪しき神に捧げた日本人が、
今度は逆に、同じ神への犠牲となる事が求められているのである。
今、経済的、道徳的に堕落しきった日本の徹底的な破壊が求められている。
そのために、北朝鮮や中国への敵対報道はいつまでも続けられるであろう。
彼らの堪忍袋の緒が切れて、日本がかの神への犠牲となるまでは。
それが欧米の宗教、哲学、政治に隠された神秘主義の本質、死と再生の儀式の目的である限り。


たんぽぽメモリアル 21 聖書の名前
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ブログを書く時間がない日々が続き残念だ。
だから今日はちょっとだけ書き込みしたい。

欧米では聖書をバイブルと読んでいる。
なぜバイブルと呼ぶのかについては、パピルスから採られたとか、古代都市ビブロスに由来するとか言われているが、このうち古代フェニキアのビブロスに由来するというのはある意味近い。
実は以前にも書いた神、バールと大地の女神イブの合成語であるというのが真相だ。
バールの間にイブを挿入するとバイブルとなる。
聖書の民、ユダヤ人神秘主義カバラによる合成語であろう。
バールは聖書の神であり、イブと契りを交わした結果生まれたカインが世界で始めての都市国家を築いた。

世界は聖書と言う書物によって動かされてきた。
バールとイブの子孫によって。




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たんぽぽメモリアル 22 鬼太郎 一つ目の伝説
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今日は早く帰れたので、少し遊び心を持って書き込みをしたい。

漫画「ゲゲゲの鬼太郎」では、主人公の鬼太郎はひとつ
目で、目玉の親父もひとつ目である。なぜか?
ひとつ目と言えば、日本ではひとつ目小僧が有名だが、
欧米では少し違う。
たとえば、ヨーロッパの戦争の神オーディンはひとつ目だった。
そして私が何度も書き込みをしているフリーメイソンのトレードマークもひとつ目である。

古代エジプトの神話では、王オシリスは兄弟のセト(龍)に殺され、王権を奪われた。
その王権をオシリスの息子ホルスが奪還する。
この物語は、日本ではジャングル大帝レオとして劇画化され、アメリカでもライオンキングとして映画化された、古典的な神話でもある。

ホルスは父オシリスに片目を捧げて、オシリスが冥界からこの世の出来事を監視できるようにした。
ホルスと父オシリスはふたつの目を分け合った親子である。そして現世と来世のふたつの世界を支配した。

フリーメイソンのひとつ目は、映画やテレビなど至る所で、毎日何度も目にすることが出来る。
その「すべてを見通す目」と呼ばれる、あのひとつ目の意味は、古代社会よりはるかに発展し、人工衛星やエシュロンへと発展した。
世界を見守り調整する、あのひとつ目である。

日本の神話では、桃太郎の鬼退治に少し関係がある。
桃太郎(彦五十狭芹彦命)は、百済からやって来た侵略者温羅(ウラ)を退治するため、吉備の国へ向かった。
激しい戦いの末、温羅は桃太郎に敗れ首を撥ねられる。
(温羅と桃太郎の戦いが、エジプトのホルスとセトの戦いの模様にそっくりなのには笑ってしまうが)
戦いに敗れ、首を撥ねられた温羅の片目は、桃太郎をウラんで睨み付けた。
私は、ここから「ウラ目しや」という言葉が生まれたのではないかと考えている。
その後も温羅の首は怨霊となって大声を発する為、
やがて温羅の首を奉って、慰霊祭がとり行われるようになった。
吉備津神社に今でも伝わる、鳴釜の神事はこうして始まったのだった。

アニメの世界は、神秘主義の思想を伝えるための好材料となっている。




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たんぽぽメモリアル 23 プラトン 冥界への案内人
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これほど国際社会や学問、政治経済が発展した21世紀になっても、戦争や飢餓、貧困はなくならない。
その一方で、欧米人の一部は、世界中の富と権力を握り、世界を我が物顔で動かしている。
ブッシュが最も良い例だ。
彼はアフガニスタンやイラク国民だけではなく、多くのアメリカ人も戦場に追いやリ殺してきた。
イラク戦争の死者も、公式的に15万人であることが知られてきた。(実際にはもっと大勢の人間が殺されている)
そのイラクを破壊する為の戦争に、日本の自衛隊が協力させられた。

哲学がこうした政治・宗教そして経済の根幹の思想であることも何度も述べてきた。
今日は、皆さんにあまり馴染みがない、プラトンの哲学思想を少しお伝えしたい。

私は著書「戦争の真実」の中で、プラトンの「プロタゴラス」について少し書き込んだ。
プラトンの戦争に対する思想が書かれた本だが、
この中でプラトンは、「戦争に行く事は徳である」と述べている。
「戦争に行くのが徳であるのに、それを嫌がるのは臆病者だ」とも主張している。

私はプラトンのこうした主張が、現代でも戦争によって稼ぐ、アメリカの軍事産業によって利用され、ブッシュのような人間を大統領に仕立て上げている事を知っている。

プラトンの書物にプラトン自身は登場しない。
ソクラテスやその仲間が集って対話(問答)を繰り返し、ソクラテスこそ最高の知識人あるかのように持ってゆくのがプラトンの著書の特徴なのだが、
私はこれらの書物が、プラトンによる創作劇であると確信している。
なぜなら、プラトンはその場に居ず、その場に居合わせた登場者がソクラテスと仲間達が何を議論していたかを長々と語るのだが、誰もこのような長話を記憶する事などできないであろう。
なにせ1冊の分厚い本が出来上がるほどの量である。

つまりプラトンは自分の思想を、ソクラテスとその仲間に語らせることにより、世間の非難を逃れようとしたのだった。
なぜなら、ソクラテスが処刑されたように、彼らの哲学は当時でも危険思想とされていたからだ。
現在の日本で言えば右翼思想にあたる。

実はプラトンという名前には特別な意味がある。
それはギリシャ神話に登場する地獄の神、プルートンから採られたものだ。
プルートンは冥界を支配する死と再生の神であり、大地の女神の伴侶でもある。
この地獄の王の名を、プラトンは自ら背負ったのだった。
(名づけは彼らにとって重要な意味を持つ)
そして2500年経った現在でも、プルートンの哲学思想による死と再生の儀式は執行されている。
彼らが人徳であると訴える、戦争という人的な大災害によって。



たんぽぽメモリアル 24 哲学とは何か
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前回私はプラトンが地獄の神の名を受け継いでいる事を明かした。
そこで今回は、哲学とは何かについて書いてみたい。

プラトンの著書「パイドン」は、師ソクラテスが処刑された当日の会話を記録したものとされている。
その中でソクラテス(プラトン)自身が死に直面し、哲学とは何かについて語っている。
いくつか例を上げよう。

本当に哲学にたずさわっている限りの人々は、ただひたすらに死ぬ事、そして死んだ状態にあること、以外のなにごとをも実践しないのだが、このことに恐らくは他の人々は気づいていないのだ―

哲学者の魂は肉体を最高度に侮蔑し、肉体から逃亡し、まったく自分自身にだけに成ろうと努力するのではないかー

哲学者の仕事とは、魂を肉体から解放し、分離する事である―

正しく哲学している人々は死ぬ事の練習をしているのだ―

「パイドン」プラトン著 岩波文庫より


つまり哲学とは、人間の生命を賛美するのではなく、肉体の誕生と言う命そのものを憎み、自らの生命活動のさえも停止させ、その実例によって、他人さえも死に引きずり込むという恐るべき学問なのである。
哲学が戦争を賛美するもの、人間社会をそのものを破壊してしまおうという、哲学の恐るべき奥義にあるとみる。
その理想の先に見えるのは、聖書でイエスが語っている、あらゆる国民の死、人間社会の消滅である。

その時こそ、地上に降り立った冥界の神プルートン(プラトン)が歓喜に打ち震えながら、地獄の大釜の蓋を開けて待っているのだった。
なぜなら、その神こそサトウルヌス(サタン)に他ならならず、人間社会に哲学思想を吹き込んだのも彼に他ならないからだ。
その思想を秘密結社員などの神秘主義者たちは、「神の偉大な計画」と呼び、自らその計画を推進する役割を買ってでている。
いずれ自らとそのすべての子孫も、かの神の生贄に捧げられるとも知らずに





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たんぽぽメモリアル 25 休憩室 ツタンカーメンの秘密
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今日もまたテレビ局はツタンカーメンのマスクを写し出し、いかにも彼とその宝が歴史上の信実であるかのように報道している。
けれど私は、ツタンカーメンのマスクが作り話ではないかと考えている。
(同時代の遺産と比較し、あまりにも豪華で、新しすぎる)

また、ツタンカーメンの墓を発掘したハワード・カーターに資金を提供していたのが、世界経済と政治を動かすロスチャイルド財閥だったからだ。

現代ユダヤ人の神とも呼ばれるロスチャイルドは、金と政治と武力によって、2000年もの時を超えて国家イスラエルを中東に再興した、世界で最も力のある閨閥である。
アンタッチャブルとは、彼らのために作られた言葉である。(なぜなら、世界の映画界とマスコミはユダヤ世界資本の牙城)

その一族はイギリスの世界支配時代を支え、イングランド銀行、ロンドンロスチャイルド銀行を始め、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、スイスなど、世界中枢の銀行を押さえる現代社会のヘルメスである。

ツタンカーメン王の歴史的秘密は、古代エジプトを荒らしたヒクソス、つまりヒッタイトやユダヤ人の侵略王だったのではないかという事だ。
マスコミはその名の由来さえ明らかにしないが、彼の名は、トート(盗賊の神ヘルメスの別名)にアンク(繋ぐの意)、そしてユダヤ人の聖書の神アメン、トート・アンク・アメンである。
すなわち、トート=アメンとなる。
ツタンカーメンとは、ユダヤ人の神であり、王の意を表す。
古代ユダヤ社会では、王こそ神の顕現であるとされていた。

現在の世界経済を揺るがしているヘッジ・ファンドグループの親玉であるユダヤ人ジョージ・ソロスは、第二次世界大戦の時にヒットラーの手下となって仲間のユダヤ人の財産を没収する仕事をしていたと告白しているが、ソロスを使用しているのもロスチャイルドである。

生みの親がユダヤ人ではないかと疑われているヒトラーの歴史的な必要性、600万ユダヤ同胞の死によって再生を得た現代国家イスラエル、その死と再生の物語は、現代のマスコミではけっして明らかにされることはない、歴史上の最大の秘密である。
英雄そして救世主とは、けっして善人ではなく、
同様に欧米政治もけっして善ではない、
むしろ善の仮面を被った悪魔である。


たんぽぽメモリアル 26 バラク・オバマとは誰か?
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注目していたアメリカ大統領選挙も終わり、何か書かなければならないと思いながら時間が過ぎてしまった。
なぜか何も書きたくないとい倦怠感と、湧き出る熱情もないままに過ごしてきた。
その理由は、これで本当にアメリカ、そして世界が変わるだろうかということなのだろう。

バラク・オバマ、確かにアメリカ初めての黒人系大統領が誕生した。アメリカは少し変わったように見える。
彼の光が、アメリカ発の経済と戦争による破綻を迎える世界に希望を投げかけているように見える。

けれどオバマは世界を変えられるだろうか。
彼は世界の経済を立て直し、ブッシュの起した戦争と言う
無秩序から立て直すことが出来るだろうか。

私の答えは「NO」である。

バラク・フセイン・オバマ・ジュニア、彼の本名である。
その名前にフセインが入っていることを共和党のマケイン陣営から攻撃されてもいたようだ。
私はフセインの名前に関しては気にしていない。
もしサダムの親戚などと言い出せば、笑われるだけだろうから。
彼の名前に関して言えば、バール名のバラクぐらいしか思い当たる事はない。

父がケニヤ出身の黒人バラク・オバマ・シニアで、母親はカンザス出身の白人アン・ダンハムとされている。
両親が離婚した後、母親の再婚でインドネシアに渡り、その後母親の実家であるハワイで育った。
彼の境遇を見れば、黒人系でさぞ辛い思いをしてきたのだろうと思ってしまうだろう。

けれどカンザス州出身の労働者の出であるとされるオバマは、なぜかハワイで最もお金がかかるエリート学校を卒業し、その後もハーバード大学にまで進学している。
彼の育ての親である祖母、マデリン・ダンハムが投票日の前日に亡くなり、さすがのオバマも涙した。
「彼女は、一家の中心的存在だった」とオバマは語っている。
祖母ダンハムは、実はハワイ銀行の副頭取だったと言われている。
オバマ家は実は貧しく暮らす労働者の出ではなく、アメリカンエリート集団である、エスタブリッシュメントの出身だと言える。
祖母の名ダンハムは、イスラエル(ユダヤ)民族の代表的な氏名のひとつ、ダンと、そしてユダヤ人の旧約聖書に登場するノアの子供ハムから採られた名である。
そして欧米の金融機関もまたユダヤ国際資本家たちの牙城だ。
名づけは、バルミツバ(バールの掟の子)として生きるユダヤ人にとって最も重要な儀式でもある。

また、オバマのケニアに住む父方の祖母の名はサラ・オバマ、サライの所で書いたが、サラとは、ユダヤ民族の大聖母の名である。
ちなみにその時に書き漏らしたが、サラの名は、競走馬の中にしっかりと刻まれている。
優秀な競走馬であるサラブレッドとは、サラの血を引くものを意味する。
また、サラブレッドより劣るアラブレッドとは、サラの夫のもう一人の妻(聖書によるとはしため)であるハガルの子、アラブ人を意味するであろう。
それはアラブ人より、ユダヤ人のほうが優秀だと言う、彼らの主張なのである。
(一方のアラブ人、つまりイスラム教徒たちは、ハガルの方を正妻としている)
いずれにしても、競馬会を作ったのがユダヤ金融家たちだったことが伺われる。

オバマは今年の夏、ヨーロッパを経由してイスラエルへ向かった。
その理由は、アメリカの、そして世界の政財界を動かすユダヤ人同胞の認知を得るためだったであろう。
現大統領のブッシュも、大統領に選ばれる前にイスラエルを訪れ、イスラエルに忠誠を誓った。

そのオバマ大統領の首席補佐官に選ばれたのが、イスラエルからやってきたユダヤ人のラーム・エマニュエル(エルは聖書に登場する神で、エマニュエルは救世主を意味する名)である。
ユダヤ人、ヘンリーキッシンジャーがニクソン政権の大統領補佐官として、大統領さえ動かしていたが、オバマも同じくエマニュエルに動かされる事になるのではないだろうか。
仮にオバマがエマニュエルの意に添わないときは、ニクソンやケネディと同様の運命を辿る可能性もある。
エマニュエルの兄は医師で、弟はハリウッドの代理人と言う、典型的なユダヤ家系でもある。

最近まで私のようなイスラエル(ユダヤ)批判が世界的に肯定されることはなかった。
ヒトラーのユダヤ人大虐殺の後、ユダヤ人を批判することは「反ユダヤ主義者」として、世界的に無視され、あるいは社会的に抹殺されてきた。(特にアメリカでは)

昨秋、ハーヴァード大学教授のスティーブン・ウォルトとシカゴ大学教授のジョン・ミアシャイマーによって「イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策」(講談社)が出版され、
やっとイスラエル(ユダヤ)人問題が、少しだけ討論されるようになった。
それでも、今までまったくのタブーとされてきたユダヤ人問題がほんの少しとは言え認知されたことは、画期的な出来事だったと言える。
この本の訳者である副島隆彦氏によれば、二人は国際政治学の世界的権威である。
この本から私が長年心配してきた点について、少し引用したい。

大統領選挙が行われる年には決って見られる光景だが、2008年も、大統領の椅子を狙う候補者たちは「私はある国と個人的に深いつながりがある」と宣言するだろう。
その外国とはイスラエルのことである。それに加えて彼らは、米国がイスラエルへのゆるぎない支援をするという決意ものべるだろう。どの候補者も、イスラエルが直面している多くの脅威を正しく理解していることを強調する。
自分が大統領に当選したらという前提で、米国はどのような状況になってもイスラエルの利益を守ることを堅く約束するだろう。イスラエルを批判する候補者は誰もいない。
また中東地域において米国はより公平な政策を採るべきだ、と提案する候補者もいないだろう。そんなことをしようものなら、大統領選挙からたちまち脱落してしまうからだ。
―中間省略―
ヘルズリヤ会議と言う場で、四人のアメリカ合衆国大統領選挙候補者たちが講演を行った。この会議は安全保障問題を話し合うことを目的とし、毎年イスラエルで開催されている会議だが、ジョシュア・ミトニックは「ジュ―イッシュ・ウイーク」紙の記事で次のように書いている。
「彼ら四人は、誰がユダヤ国家を守ることができるかについて競っているかのように見えた」


マケインはその一人であったが、彼は最終的に落選した。
彼はユダヤ系ではなかったのであろう。
バラク・オバマは別の機会にイスラエル(ユダヤ人)を賞賛し、親イスラエルの方針に変わりはないことを述べた。
イスラエル(ユダヤ)人は、今やアメリカという世界最大の超大国の大統領選挙に重大な影響及ぼし、アメリカの武力によって中東におけるイスラエルの敵国を滅ぼしている。

私は、オバマ登場には特別の意味を感じている。
国際テロリストと言う口実により、世界戦争のチャンスが訪れた現在、
アメリカの福音派などの右翼的キリスト教徒とユダヤ(イスラエル)教徒が手を結び、聖書のヨハネの黙示禄の実現を謀ろうとしていると言われている。
新約聖書ヨハネの黙示録にはこう書かれている。

また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい」というのを私は聞いた。 私は、見た。 見よ。  白い馬であった。それに乗っている者はを持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。

小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、「来なさい」と言うのを聞いた。すると、別の、火のように赤い馬が出てきた。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取る事が許された。人々が互いに殺しあうようになるためである。また、彼に大きな剣が与えられた。

小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が「来なさい」と言うのを聞いた。私は、見た。見よ。黒い馬であった。これに乗っている者は量りを手に 持っていた。すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は1デナリ。大麦三枡も1デナリ。オリーブオイル とぶどう酒に害を与えてはいけない」

小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい」と言うのを聞いた。私は、見た。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死 と言い、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権利が与えられた。 新約聖書 日本聖書刊行会


以上がキリストから四人の騎士に与えられた人類殺害の権利だが、アメリカ政府はこうした聖書の教えに乗っ取って世界を侵略し、食料を汚染し、病気さえ生み出していると考えられる。
仮にブッシュを第二の赤い馬の騎士とするなら、
バラク・オバマとは、このヨハネの黙示録に登場する、黒い馬に乗った第三の騎士ではないだろうか。


たんぽぽメモリアル 27 壊れゆく世界
http://lakudanekoneko.at.webry.info/201506/article_29.html
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インドではテロ事件、タイでは反政府派による転覆運動、
そしてソマリアの海賊、世界はユダヤ神秘主義におけるアナ―キーな時代へと急速に向かっている。

アメリカ・ブッシュ政府は国際的に核兵器の保有が認められていないインドに対し、単独で核兵器の存在を認めた。
そのインドに対しテロ活動を行っているパキスタンへ軍事援助を行ってきたのもアメリカ政府だった。
そしてパキスタンも核兵器を保有している。
次の核戦争はこの両国の間で起こる可能性が高い。
欧米政府は、自国で核戦争が送ることを望んでいない。
しかし核兵器は拡散させたい。
そこで白羽の矢が立ったのがこの両国だったのだろう。

タイの政変に関して言えば、いくら選挙違反が行われたとはいえ、政府を組織している政党を解党させれば無秩序状態が生まれ、現在よりもっと恐ろしい事態が起きる事になるであろうという事だ。
それを敢えて裁判所、つまり国家が主導している。
タイの国王は、実はタイ人ではなく、中国系の人であることが知られているが、自国の民衆の生活を鑑みない最高指導者が、タイ人を救えるのだろうか?

ソマリアもアメリカ政府が破壊した。現在も無政府状態が続いている。
アフガニスタン、イラク、ソマリア、パキスタン、インド、タイ、
それらの政府が無法状態となっていったのは、アメリカ政府の影なる支援があったからこそだ。

バラク・オバマの政権人事がほぼ決った。
その主要メンバーは、現ブッシュ政権、旧クリントン政権のメンバーによって固められている。
私は以前オバマでアメリカが変わるのかと書いたが、
まさしく何も変わりのない、今まで通りのアメリカ政府となった。「チェンジ」とは掛け声だけである。

世界各地の無政府状態はこれからもっと広められてゆくだろう。
そして日本にも上陸するだろう。
なぜなら、日本の親分であるアメリカが、今やまともな政治が行われない、半無政府状態であるからだ。
(麻生の発言もこうした世界の潮流の中にあるのかも知れない)
世界は破滅へと向かっている。
聖書の「掟」に則って。


たんぽぽメモリアル 28 壊れゆく世界Ⅱ
http://lakudanekoneko.at.webry.info/201506/article_30.html
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アメリカ式でたらめ経営が破綻した結果、世界的な不況が始まり、労働者の解雇が相次いでいる。
特に派遣労働者の問題は深刻だ。

先日私が知り合った人は、30年間勤めた会社を退職し、受け取った退職金でアパートを購入した。
けれど派遣社員に退職金はない。

今や派遣労働者を含めた非正規雇用者は30%を超える。
なぜここまで不安定な非正規雇用が広がったのか?
その理由は、日本政府が派遣社員の拡大を図ったからだ。
労働者派遣法は、この10年間に何度も改正?され、
以前は禁止されていた工場など、期間工の派遣まで認められるようになった。
前にも書いたように、自動車産業など工場におけるこうした労働者は、請負という偽装派遣によって行われていた。
つまり、日本を代表する大企業たちが、違法な人材派遣を行っていた。
そして労働者を供給する側の請負会社は、暴力団の組長などがオーナーだった。
ピンはねされた莫大な労働者の賃金が、暴力団の資金源になってきた。
現代版の「野麦峠」である。

それに対し政府は、こうした違法行為を罰するどころか、
偽装請負を合法化するため、単純労働の合法化に踏み切った。
つまり、国家が現在の不安定な雇用制度を作り上げてきたのだ。
それは誰の為だろうか?
誰が儲け、誰が苦しんでいるのか、その答えは明らかだ。
小泉政権など、自由民主党、そして公明党に重大な責任がある。
彼らが本当は国民生活を省みない事の現れである。

私も派遣社員から正社員になり、その会社を退職した後、生活のために派遣会社の営業を勤めた。
そこで感じた事は、以前私が置かれていた立場、つまり社員と同じ仕事をしながらも、安い給与、不安定な休み、そして健康保険にも加入できない、さらに非社員と言う人格差別を受けた人たちの姿だった。
私は自分の経験から、自然と派遣社員たちが正社員になれる、紹介派遣に力を入れるようになった。
それは私が歩んできた道でもあった。

派遣会社は企業の契約を得るため、「社員を採用するより、派遣社員を採用した方が、(万が一景気が後退した時)雇用調整が簡単にできますよ」などと企業に売り込みを謀る。
つまり、「景気が悪くなった時、派遣社員なら簡単に首にできますよ」という事だ。
そして今、その時がきた。
派遣会社に言われていたように、企業は派遣社員を斬りだした。
まさに派遣会社と企業、そして政府の思惑どおりの展開になっているのだ。

アメリカ発の経済破綻がなぜ起きたのかと言えば、いつかは破綻する金融商品を売り出していたからで、私はこうした政策が、意図的に行われてきたと確信している。
それはまた、戦争とは違った世界の破壊方法であり、
職を失い、路頭に迷った人々が、今世界中の街に溢れ出そうとしている。
そんな肝心な時に、麻生政権は無能力をさらけ出し、なんの手も打てずにいる。
彼らは、麻生に能力がないのを知っていてわざとこういった時期に首相に選んだのかもしれないし、麻生が野党や国民をわざと怒らせて、混乱を助長しているのかも知れない。
いずれにせよ、アナ―キーな世界へと進行しつつあるわけだ。

ブッシュ親子は、共に「ニューワールドオーダー」と言う言葉を述べてきた。
現在の世界秩序を破壊して、新しい世界秩序を構築すると言う意味だが、そのためにブッシュ親子は戦争を起し、世界経済を破綻させるような経済政策を行ってきたのだ。

人間が増えすぎ、老朽化した世界を建て直すため、
世界は一度、徹底的に破壊されねばならないと考えられており、
現在の戦争、経済破壊、食料問題、医療や病気でさえ、
新しい世界秩序を作り上げるための一環であるということを知ったとき、世界のすべてが見えてくる。

そして何が悪で、何が正義か、何を壊して、何を守らなければならないかも見えてくるだろう。
新しければ良いと言うものではない。
古きものの中にこそ、現在の世界的危機を乗り越えるための答えが隠されているはずだ。




中高年ブラック派遣 人材派遣業界の闇 (講談社現代新書)
講談社
中沢 彰吾



たんぽぽメモリアル 29 混沌の時代の神々
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混沌へと向かう時代の影に見え隠れする人々と神の姿。
世界が老朽化した時、世界を破壊する龍が現れる事は、
世界中の神話で語られている。

たとえば日本では須佐之男命が、混沌の象徴である八岐大蛇=龍を退治して秩序を取り戻し、建国の礎となった英雄神であると言える。
その意志は大国主命に受け継がれたはずだった。
しかし秩序をもたらしたはずの八雲王国が、今度は逆に滅ぼされる。
大国主命は大和朝廷に敗れて殺された。
それは、栄華を誇った勝者がやがて衰退し、混沌時代の龍となるという、つまり生贄を捧げた者が、やがて生贄になるという秘教の死と再生の教えを現している。

そして大国主命は大穴牟遅神となり、現在でも冥界を司る日本の大神として奉られている
古代ギリシャのデルフォイの神殿において、龍が神殿を守っていたように。
デルフォイの神殿には地下室があったと言われている。
その地下から冥界の神の神託を巫女が伝えていたのだ。

「八雲立つ 八雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」とは、大国主が詠んだとされる日本で最初の和歌と言われているが、私はこの歌が大国主の辞世ではないかと考えている。
―建国の歌かもしれないが―
戦国のように、八雲(八=多くの意、雲は蜘蛛=先住民族の意)の小国が林立する中、須佐之男の意志を受け継ぎ、八雲を倒し、一族を守る出雲王国を築き上げた大国主だった。
その八雲たちが八岐大蛇として表現されたのであろう。
しかし、その国家が新たなる支配者に滅ぼされてしまった。
大国主が処刑されるあたり、その心境を詠んだとすれば、
この和歌の本当の意味も理解できるであろう。
そしてその例に倣い、後の大和朝廷の天皇たちも辞世の句を残すようになったと考えられる。
(大陸から渡ってきた新たな支配者たちの慣習でもあっただろう)
 
聖書においても、混沌の時代に七つの頭を持った龍が現れ世界を破壊する。
聖書でその龍(サタン)は、一定の期間解き放たれて世界を破壊しなければならないものとされている。

私が聖書の核心を、破壊による混沌と、秩序回復による繁栄を繰り返す、死と再生という古代の秘儀を模倣したものだという根拠である。
それはキリスト教によって初めて明かされた世界を維持する手法ではない。
キリスト以前のギリシャ神話においてすでに明らかにされている。
中東においても、キリスト以前の神バールが龍を破って混沌の時代に秩序をもたらした神であるとされてきた。
バールこそ、イエス・キリストの雛型である。
そして二つの世界大戦後に世界に秩序をもたらしたはずのアメリカが暴走を始めた。
それは、かつての日本に秩序をもたらした八雲王国が滅び去ったように、
地中海世界に秩序をもたらしたとされるローマ帝国も滅びていったように、弱体し秩序をもたらす事のできなくなった国家が、龍となって暴れ出す聖書の預言に基く神話の再現なのだった。
―続く―


たんぽぽメモリアル 30 壊れゆく世界Ⅲ
http://lakudanekoneko.at.webry.info/201506/article_32.html
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師走のあわただしさに会社の引越しも手伝って、今月はブログを書く機会が少なかった。
今日の朝日新聞には、私が今まで取り扱ってきたテーマがいくつも載っている。
サブプライムローンに端を発した外資の日本市場からの資金引揚げ。
その煽りを受けて、不動産関係を中心に日本の会社がバタバタと倒産している。
所詮彼らは日本人の会社のためではなく、自己の利益のために活動しているので、日本の企業がどうなろうとお構いなしなのだ。
他人を騙して資産を奪う事が彼らの目的であるのだから、サブプライムのような問題が起きる。

ナスダック会長バーナード・マードフ氏による詐欺事件もさらに広がりを見せている。
ヘッジファンドが、実体のないネズミ溝方式で他人の金を集めていたマードフに金を委託していた。
関係者が不審死を遂げてもいる。
そういう事件はアメリカではよく起きる。
アメリカ証券取引委員会は、マードフが不正な運用を行っていたのを知っていながら放置していた。
アメリカという国の幹部達は、詐欺師の片棒を担いでいる。
こうした怪しい投資を、アメリカだけではなく日本政府が勧めてきたことは、投資会社と政治の結託を窺わせる。
新銀行東京の例を見ても明らかだろう。
公明党などの都議が不正な融資を助長し、暴力団も新銀行東京を利用し多額の利益を上げている。
都民の税金が暴力団の資金にされてしまった。

また、イスラエルではパレスチナ人自治区のガザに対する大規模な空爆が行われた。
警察署を含めた攻撃で、約200名が死亡している。
イスラエルはパレスチナ人に対するジェノサイドを本格化してきた。
自身がヒトラーによってジェノサイドされた経験を持つ、イスラエルのユダヤ人たちが、今度はパレスチナに住むアラブ人たちの抹殺を図っている。
けれど世界の各国は、米英を牛耳るユダヤ人の手前何も言えないでいる。
パレスチナ人が檻の中に閉じ込められようと、食料や水さえろくに与えられなくとも、病院にも行けず、外出も許されず、殺されようとも、世界はユダヤ人国家に遠慮して、
見て見ぬふりをしている。
このままではイスラエルはさらに増長してパレスチナ人をホロコーストしてしまうだろう。
かつて自分たちがされたように。

汚染米の問題も出ている。
汚染米事件が発覚したころ、農水省の幹部は自分たちには責任はないと言っていた。
ところが農水省が食用販売を推進していた事がばれると、
大臣や幹部が辞任した。
農水省は再発を防止することを確約した。
ところが今月に入っても毒入り事故米が流通していた。
それも何の検査も行われずに。
アレルギーに悩む私には、本当に頭にくる問題だが、
事故米事件は、食料問題に潜むほんの一片にすぎない。
事前にも指摘したように、遺伝子組み替え作物や、欧米の肉類が感染しているプリオンや放射能による汚染の問題は、いずれ日本国民の生命を奪ってゆくであろう。
しかし日本政府は適切な処置を怠っている。
大問題となってからでなければ、彼らはこれらの食物の輸入を禁止しないであろう。
それどころか自ら遺伝子組み替え作物を作り始めている。
欧米で騒がれていたのに、狂牛病問題も発覚するまで10年間も放置されていた。

新銀行東京だけではなく、三菱東京UFJも暴力団と結託して稼いでいた不動産会社に地上げ資金を提供していた。
しかも地上げで稼いだ利益を、その不動産会社の社長と暴力団の組長が共同して購入?した宗教法人に移していた。
宗教法人が課税されない事を利用した詐欺事件である。
暴力団が宗教法人を買い取り、企業舎弟を利用して、地上げで資金を稼ぐ。
その元手は国民が汗水働いて貯めた、大切な預金であるはずだ。
こんな事件は日本中で、そしてアメリカでも山ほど埋もれているに違いない。
稲川会の最高幹部も宗教法人を買っているそうだ。

公明党の支持母体である創価学会は様々な暴力団と関係がある。
稲川会二代目会長の石井進、そして石井の兄弟分だった山口組NO.2の山本健一若頭も創価学会会員だった。
彼らは創価学会を通じて兄弟分になったのでは。
興味深いのは、稲川会の創設者である稲川聖城と、創価学会二代目会長の戸田城聖の名前である。
「聖城」と「城聖」、ユダヤ暗号術テムラーを使えば、二人の名前は同じものと判断されるだろう。
もちろん二人は同一人物ではないが。
創価学会の中核事業のひとつである墓苑事業で、富士宮市に墓苑を建設する際に、反対派を襲撃して黙らせたのも山口組幹部の後藤組長だった。
その後藤組長の誕生日に、細川たかしらが出席していたのは先日ブログに書いたとおり。
創価学会には数多くの芸能人が入会している。
そして芸能プロダクションの多くは、興行を仕切る暴力団が経営している。

暴力団、宗教法人、芸能界、そして政治とマスコミは密接な繋がりを持っている。
政治家の息子が芸能界に入るのも、そうした繋がりを利用してのことだろう。
新銀行東京の不正融資事件は、こうした暴力団と宗教法人、政治家とのつながりから起きているのではないか。
そして石原慎太郎は、実態が暴力団である右翼を、「立派な右翼」と持ち上げているのだった。







∸――
世界宗教史6 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫より
マンリー・パーマー・ホール著「フリーメイソンの失われた鍵」人文書院より

プラトンの「プロタゴラス」
パイドン


ホメーロス「ヘルメース讃歌 (ΕΙΣ ΕΡΜΗΝ)」読解 (ヘルメースの属性に関する部分)
http://yeblog.cocolog-nifty.com/nouse/2007/04/post_bb54.html

マンリー・パーマー・ホール著「フリーメイソンの失われた鍵」人文書院より

海からやってくる商業民族を
ギリシア人はフェニキア人と呼び、ローマ人はポエニ人と呼んだが
どちらも「紫の、もしくは紅の人」の意で
その由来は彼らが得意とする貝染めの紅紫色だと
ゲルハルト・ヘルムの著書『フェニキア人―古代海洋民族の謎』を読んで知った

ナショナル ジオグラフィック [DVDブック] ビジュアル保存版 古代ギリシャ フェニキア 地中海に生まれた文明の興亡 (ナショナルジオグラフィック DVD BOOK)

ユーフラテス河上流域で遊牧生活を送ってたヘブライ人は
カナンの地(現パレスチナ)に暮らす彼らをカナン人と呼んだが
ヘブライ人は神にカナンの地を与えられたので
先住のカナン人を追い出して、カナンの地を侵略した。(´д`;)ギャボ

追われたカナン人は移住を余儀なくされ
地中海東岸(現レバノン海岸)に開港都市を築き
海上交易によって栄え
紀元前12~11世紀頃にはシドンやティルスが最も繁栄した

但し、ビブロスだけはエジプト神話にも登場してるので
古くから都市国家があったのかもしれナイし
逆にアフリカ大陸の北岸(現チュニジア)にカルタゴを興したのは
紀元前9世紀よりは後(※)だと考えられてるるる~
※便宜上、カルタゴの建国については紀元前814年とされてるが裏付けはナイ

とりあえずウェルギリウスの『アエネーイス』では
カルタゴの初代女王だったディドが
トロイ王家の唯一人の生存者アエネーアースを歓待するが
これはおかしな話なのだ
なんせディドは紀元前9世紀より後の人だが
トロイ戦争が起きたのは紀元前12世紀頃なのだからヽ(゚∀。)ノ

ウェルギリウスがなぜ2人を同時代人に設定したのかは
フェニキア人の都市ビブロスがエジプト神話に出てくるコトから
古代ギリシアの歴史家がカルタゴも同じくらい古いと考えてたようで
そんな資料を用いたであろうウェルギリウスには
史実として信じられてたからなのだ!

そもそも『アエネーイス』は
『イリアス』や『オデュッセイア』以上に明らかなフィクションで
言い方は悪いがローマ帝国が捏造した歴史書なのだ。(゚д゚lll)ギャボ

これはオウィディウスの『変身物語』然りで
どちらも文学作品として(の価値はまた別問題で)秀逸である事実は否めナイが
史実ではなく、神話と伝承をベースにした再話なのだ!!
だからウェルギリウスがこれを焼却するよう遺言したのは
政治に利用された感が拭いきれなかったからなのではと思われ

フェニキア人はアルファベット(の基)を発明したが
自らの民族の歴史を書きとめたりはしなかったので
史実としては古代ギリシアの文献に断片的に残ってる記述とか
他民族の手によるモノばかりであるるる~

例えば、紀元前3世紀のアレクサンドロス大王のティルス攻めは
東征に随行した書記官によって記された

それにしても『フェニキア人』はこのティルス攻めの詳細から始まってて
町を破壊しつくして、2,000人を磔にした、とあり
東征中にアレクサンドロスが最も冷酷無比な処置をしたのが
このティルスに対してなのは明白だ・・・バタリ ゙〓■●゙

先住の地を追われたり、開港都市を築けば惨滅されたり
酷い扱いを受け過ぎな民族で憐憫の情が湧いてしまうのもあるし
商売のセンスもあるがクリエイティヴな民族でもあり
謎の部分が多いのもまた魅力的なのだが
だから英雄としてハンニバルの名が挙がるのは嬉しく思う

ハンニバルはローマ軍とのポエニ戦争でのカルタゴの将軍で
カルタゴ・ノヴァ(現スペインに位置する)から
まさかのアルプス越えを行ってローマ軍に圧勝した際の指揮官だ!

ポエニ戦争ではカルタゴが新興勢力のローマと
シケリア(現シチリア島)を奪い合って3度に渡って戦い(※)
スキピオによって最終的にはローマが勝利を収めたが
カンネー(カンナエ)の戦いでハンニバルの得た勝利には胸がすく!!
※長くなるので今回は端折るが、この戦争でローマがシケリアを獲得した意義は大きかった
上に挙げたような日本語のホメロスの全訳があれば良いのだが、実はそんなもの は存在しない。残念ながらここで紹介した翻訳はこれだけしかないのだ。ホメロスの和訳の全訳はいろいろあるのだが、残念ながらこれほど読みやすくはない。 普通に楽しく読めるものは、子供向きに書き直したものしかない(岩波書店から出ているのピカードの『ホメーロスのイーリアス物語』。『オデュッセイア』の 場合も同様で、高津春繁の『オデュッセイア』(筑摩)はこなれた訳だが、日本語がとても古い。ゼウスが女神アテネのことを「姫」と呼ぶのだ。松平千秋の新 しい岩波文庫版にも「姫」が出てくる)

 大人向きのものは、原作にはどんなギリシャ語の単語が使われているかを伝えることに熱心なものばかりである。しかもそうやってギリシア語の単語に 対応する日本語の単語を一つ一つくっつけて直訳していくので、全体の意味としては間違っているということがしばしば起こる。しかし、学者が訳すとどうして もそうなってしまうらしい。(一例を挙げると、上の「曙光がさしはじめるのに気づくと」の個所は岩波文庫では「曙の光を見逃すことはなく」と原文の単語の 通りに直訳されているが、そのために「必ず曙の光を見て」つまりアキレスがいつも朝まで眠れずにいたという真の意味を表現しそこねている。この「見逃さな い」は昔の呉茂一、田中秀央の訳も犯している過ちである)

 しかし、全訳ではなく必要な部分だけをかい摘んで日本語の物語にしてあるものとしては、『世界神話伝説体系』(名著普及会)の中の『ギリシア・ローマの神話伝説(Ⅲ)』が図書館などにあってなかなか読みやすい。またブルフィンチの『ギリシア・ローマ神話』(岩波文庫)の中にもかなり詳しい要約がある。

 また、英訳なら沢山あって、その中にはかなり分かりやすいものが存在する。どうしてこれらの英訳から日本語に訳してくれないのかと思うほどであ る。ギリシア語から訳すにしても、せめて自分の訳をすぐれた英訳と読み合わせて、間違いを訂正することぐらいはしてもらいたいものだ。(上に挙げた過ちも この過程で訂正されたはずである。なぜなら他の英訳は全てこのような間違いを免れているから)

 しかし、とにかくホメロスの作品は、上の文に垣間見れるように、読んでおもしろく、感動的な作品である。ペンギンから出ている訳ならそれが分か る。有名なロバート・フィッツジェラルドの訳もあるが日本人には難しい。もちろんドイツ語やフランス語の訳でもよい。日本で手に入る程度のものなら、そこ まで来る段階で選別されているので、悪いものはないはずである。逆に、日本語の訳の場合は、数がないので選別も何もなく世に出てくるので、良いものがない 道理だ。(もちろんペンギンの英訳でもあまり良くないものも中にはある。例えばタキトスの『歴史』など)

 ところで、今回ここに掲示した訳はこれまでの時代劇調の翻訳とは違った、現代の日本語で訳そうとする試みである。実際その方がやさしいに違いない。

 また、この訳では、単語を直訳したものをくっつけてそれでおしまいとしたり、その上にどんどん言葉を足して日本語らしさを出していったりするやり 方ではなく、まず直訳は作るものの、そこから言葉を削っていくか、それでは原文の意味を表せないときには、別の日本語に置き代えていくやり方を試みた。 (使用したテキストはオックスフォー大学とハーバード大学の各出版局から出ている古代ギリシア語のもので、いわゆるOCTと英語の対訳付きのLoeb叢書 であるが、マクミラン社の注釈と、英独仏語の翻訳で誤訳の無きを期した。)

 ところで、ギリシャ人は自分のことをギリシャ人とは呼ばず、ヘレネス人と呼んでいるが、昔はアカイア人とかダナオイ勢とか呼んだ。これは日本人 が、自分のことをジャパニーズと呼ばないのと同じだ。またトロイのことをイリオスとも呼び、これが物語の題となった。これに気を付けて、わたしの訳をギリ シア語を知らずに読めるものか試して欲しい。

僭主独裁政治は、民主主義から生まれる|プラトン『国家』
http://kotoyumin.com/politeia89kan-1085


『トゥスクルムの別荘での対話』 である。

 この本は、話の進行がQ&A形式で書かれており、一般の人がよくする質問に答える形になっている。(原文には区別は無いが、この訳では、 甲が質問をして乙が答えることにした)哲学書といってもキケロのものは、これにしろ、有名な『義務について』にしろ、どれもあっさりとくだけた調子で書か れており、厳格さを追求するいわゆる論文調とは違っている。

 この本の言わんとするところは、死は恐れる必要が無い。苦痛は必ず耐えることが出来る。悲しみは必ずいやされる。道徳的に正しい生き方をしていれば、人は必ず幸福になれる、ということである。とかく抽象的になりがちな話題を様々な実例でかみ砕いて教えてくれる。

 第一巻のなかでは、人は死ぬと星に成るという極めてロマンチックな考えを、哲学の立場から厳密に立証してみせるところが圧巻である。当時の哲学では、流れ星は人の魂が肉体から抜け出て飛び出していくところなのである。

 この本を読めばプラトンを読まなくていい。プラトンに書いてあることが分かってしまう。そういう便利さをしっかりそなえている。 彼はこれまでの弁論活動で若き日にギリシャから学んだ哲学を糧としてきた。今度は、逆にこれまでに身に付けた弁論術を使って哲学の諸説を論じるのである。

 これはつまるところ、人間賛歌なのである。人間とはかくもすばらしきものである。人生はすばらしい。その全てがすばらしい。死さえもすばらしい。痛みさえも・・・。

 ただ一つ、無神論者の多い日本人にとって理解しにくいのは、彼が究極の答え、全ての問いの答えとして神を出してくることであろう。人間のすばらし さは神に由来するのだという言葉は、神の存在を信じない人間には、意味不明であろう。また、現代の唯物論的な世界観の中で、つまり、すべてのことは物に よって説明できるという世界観のもとでは、これは詩的表現でしかない。

 ところで、これを書いている男キケロは人生の全てを失ったと思っている男である。彼は人生に絶望している。その男が自分に向かって繰り返し、繰り 返し、死は恐ろしいものではない、死は不幸な出来事ではない、死は良いことなのだ、死は人を幸福にしてくれるものなのだと、言い続けるのである。

 彼は、これを書いた次の年に政敵によって殺される。自分が殺されることを彼は知っていたのである。

 ところで、キケロはプラトンを敬愛していた。だから彼は、プラトンの作品をラテン語に翻訳したりしている。その一部はこの 『トゥスクルムの別荘での対話』 にも入っている。この本を読めばプラトンは読まなくてもいいというのは、そういう意味だ。この作品を読むことによってプラトンの素晴らしさを知ることが出来る。

 たとえば、プラトンにはつぎのような素晴らしい文章があるが、それを原作を読んでも分からなかったわたしのような人でも、この作品を通じて理解することが出来る。

 「永久に動いているものは永久の存在である。しかし、ほかのものを動かしたりほかのものに動かされたりしているものは、その動きをやめるときに、 必然的に生きることをやめる。ただ自分自身を動かしているものだけは、けっして動くことをやめない。自分が自分自身によって見捨てられることはないからで ある。それどころか、自分自身を動かしているものは、動いているほかのものの動力源となったり、ほかのものの動きの始まりとなるのである」

 プラトンとはこんな文章を書く人なのである。まさに名文である。感動的ですらある。そして、この名文の意味は、このキケロの文章の中に入ることで、凡人のわれわれにも親しみやすいものになっている。これだけでも、死の直前のキケロの努力は意味があったと言える。 この翻訳を作ったわたしにとっての最大の収穫は、おそらくこのプラトンの素晴らしさを教えられたことだろうと思う。

 なお、この翻訳にあたって、Loeb叢書の英訳とTusculum叢書の独訳を参考にした。

 キケロの和訳の市販書で読みやすいものとしては、『老年の豊かさについて』(八木誠一・八木綾子訳 法蔵館)が推薦できる。この本に含まれている人名の解説をちゃんと参考にして本文を読めば、誰でも最後まで読み通すことが出来ると思う。

 この本は、老年についての本と言うよりは、老年になっても活躍したギリシャ・ローマの偉人たちを紹介した本ということができる。けっして表題から 想像されるような辛気くさい内容の本ではない。むしろ訳者が巻末に付けた『わたしの老年論』のほうが、まさに老年論らしくうっとうしい内容となっている。

 この本で語り手のカトーを通じてキケロが展開している議論自体は、上に紹介したものとほとんど同じであまり目新しいものはない。しかし、そこで挙げられている個々の偉人たちのエピソードの後ろに隠れているすばらしい物語を知っていれば、とても楽しく読める本である。 「人名・地名解説」がもっと詳しければと悔やまれる。

 なお、岩波文庫の『義務について』(泉井久之助訳)は、とても流暢な日本語に訳されているが、どういう意味かわからない文章も多い。また、同じ岩 波書店から出ている『キケロー選集』第9巻(6400円!)にも『義務について』(高橋宏幸訳)と『老年論』(中務哲朗訳)が入っているが、私見では日本 語のレベルも訳の正確さも泉井氏の訳よりはかなりレベルが下がる。いずれも一般の読者にはおすすめしない。

人は死んで星になると信じたキケロ
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/intro_cicero_intro.html

楽しいホメロス
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/intro_homer_intro.html
→『イリアス』第一巻
→『オデッセー』第一巻


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